chats
sequence | footnote
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3.16k
| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"社の自動車を用意してきましたが、これからモミヂへ行って、一パイのんで、ねむる、というのは、どうですか",
"明日の朝九時までに必ず行きますよ",
"本因坊、呉清源両氏も夜の七時までに集るのですから、あなたも",
"オレは観戦記を書くだけだ。明朝の九時までに行けばタクサンだ"
],
[
"マダムのお嬢さんは、いくつ",
"十九です",
"ホントかい?",
"いまのお嬢さん方はこれが普通でしょう"
],
[
"そうですわね。オカミサンがこしらえておおきになったんですわね。ずいぶん気のつくオカミですから",
"光栄です"
],
[
"これ、いただいて帰っていいでしょうか。記念に持って帰りたいのですけど",
"ええ、どうぞ",
"光栄ですねえ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第二〇号」
1951(昭和26)年3月5日発行
初出:「別冊文藝春秋 第二〇号」
1951(昭和26)年3月5日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045911",
"作品名": "九段",
"作品名読み": "くだん",
"ソート用読み": "くたん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「別冊文藝春秋 第二〇号」1951(昭和26)年3月5日",
"分類番号": "NDC 796",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-03-27T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45911.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 11",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年12月20日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年12月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年12月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "別冊文藝春秋 第二〇号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年3月5日",
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"底本出版社名2": "",
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"入力者": "tatsuki",
"校正者": "noriko saito",
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"テキストファイル最終更新日": "2009-03-17T00:00:00",
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"テキストファイル修正回数": "0",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"今晩は。はぢめてお目にかかりましたね",
"今晩は。はぢめてお目にかかりました",
"龍然は留守でせう――?",
"今夜は帰るまいと思ひます。御存知ですか?",
"出掛けるとき、さう教へに来ましたから――"
],
[
"龍然は妾をずい分可愛がつてゐますわ",
"さうですね。そのやうに見えますね。僕は友達といふのは名ばかりで、ろくすつぽ話もしたことがないのですし、同じ寺に寝起きしてゐても二三日顔を合はさずに暮すことさへよくあるくらいですから、あの男に就ては実際のところ何も知つてゐないのです",
"龍然は、でも、あんまり悧巧な男ではありませんわね。冷たくて冷たくて、時々ぼんやり何か考へごとをしてゐてやり切れないのです。妾を可愛がるのもいいけれど、とにかくさういふ気持を自分で反省するとき淋しい自己嫌悪を感じるのは苦痛だから、可愛くても可愛いいというふうに思ふのは厭だ厭だと言ふのですわ。それでゐて気狂ひのやうに劇しく妾を抱くのです。龍然の淋しい気持は妾にも大概分りますけれど、表へ出す冷たさが妾にはあき足らないのです。龍然は莫迦野郎ですわね。龍然はほんとうに莫迦野郎ですから、妾は別れる気持になりました――",
"ははあ……それは今朝のことですか――?",
"いいえ、ずつと昔からですわ。でも、ほんとうに決めたのはたつた今しがたなんですわ。村に女衒が来てゐるのです。三月と盆は女衒の書き入れ時ですから。妾はずつと昔にも一度女衒に連れられて村を出たことがありました。お分りですか? 凡太さん……妾は今も女衒と一緒に寝てきました。あははははは……嘘嘘嘘、一緒に酒をのんできただけ……"
],
[
"女衒は上玉だつて大悦びでしたわ。妾はそれを教へてあげに此処へ来たのです――",
"僕にですか――?",
"さう。誰にだつて教へてやりたいから、あなたにも教へてやりに"
],
[
"踊りの太鼓がきこえますわね……",
"さう、トントントトトトトントン……と、はあ、きこえる",
"行つてみませうか"
],
[
"さよなら……",
"さよなら",
"――あいつ、さつきお話した女衒……",
"女衒?――"
],
[
"――実際大きな建物といふ奴は不思議な迫力を持つものでね。僕なんぞもこのガランとした寺にぢつと坐つてゐると、その男と同じやうな漠然とした不安を、やはりしみじみ思ひ当ることが時々あるやうだね。単に建物だとかその暗い壁だとか、そんな物に変にがつちりした存在を感じて敗北を噛みしめるばかりではない、自分が現に存在し、又寺の一隅に坐つてゐることに対して無意味を痛感し、痛感するばかりでなく、そのことがすでに又無意味に思はれる程何かがつかりした倦怠を感じ、それと一緒に自分の存在がいつぺんに信じられなくなつてくる。それが、自分の心の中でさう思ひ当るばかりでない、自分よりももつと強烈な生命力を持つこの建物の意志の中に、妙にみぢめに比較されてさういふ倦怠の気配を感得するから、実に実にやり切れない心細さに襲はれてしまふ……",
"それはさうだらうね。君の場合には棲む場所が直接この強烈な建築だから、だからつまり建築を対象にしてさう感じてしまふのだらうけど、僕の生活には建築なんぞ大した関係を持たないから、何か漠然とした一つの全体を対象として……"
],
[
"いつたい、君が大いに啖呵を切つたといふのは、ほんとうの話かね?",
"それはほんとうの話さ。一座の連中をすつかり慄へ上らして来たよ。尤も腹の中では、僕は大いにいたづらな気持だつたがね……"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青い馬 第三号」岩波書店
1931(昭和6)年7月3日発行
初出:「青い馬 第三号」岩波書店
1931(昭和6)年7月3日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045795",
"作品名": "黒谷村",
"作品名読み": "くろたにむら",
"ソート用読み": "くろたにむら",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「青い馬 第三号」岩波書店、1931(昭和6)年7月3日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-05-04T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45795.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 01",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "青い馬 第三号",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年7月3日",
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"底本出版社名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "3"
} |
[
[
"起きたまへ、君は……",
"…………"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若草 第八巻第四号」
1932(昭和7)年4月1日発行
初出:「若草 第八巻第四号」
1932(昭和7)年4月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
※「群集」と「群衆」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045802",
"作品名": "群集の人",
"作品名読み": "ぐんしゅうのひと",
"ソート用読み": "くんしゆうのひと",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「若草 第八巻第四号」1932(昭和7)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-05-10T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45802.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 01",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "若草 第八巻第四号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年4月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "伊藤時也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45802_ruby_38013.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "3",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45802_38834.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "3"
} |
[
[
"しまッた! 対局はすんだのかい",
"いいえ",
"じゃア、どうしたわけだ",
"ちょッと息ぬきです"
],
[
"本当に対局中なのかい?",
"ええ。夜中ぢかくまでかかりそうです",
"そうだろうな。立会人の小川八段がそんなふうに教えてくれたから安心して釣りにきたわけだが、しかし、キミもずぶといもんだなア。もっとも釣りをしながら、観戦記事が歩いてきてくれるんだから、ボクの方はこれに越したことはないがね",
"アレ。まだ一匹もつれてないや",
"まだ糸をたれたばかりだよ",
"ハッハ。腕前のせいでしょう"
],
[
"二十円かして下さい。実はお金をもたずにサイダーをのんじゃって",
"そうかい。サイダーの附け馬というのは珍しいな"
],
[
"あこぎな附け馬だね。本当にセーターを持ってっちゃったよ。サイダーなんてものには酒ほどの人情もないらしいな",
"そうなんですよ。あの娘には、ちょッとフシギなところがあります",
"そうかねえ。物を知らない田舎娘ッて、あんなものじゃないかね",
"今の様子はそうですがね。一瞬間、ボクは幻を見ました。桂馬を見たんです。いえ、気のせいじゃない。ハッキリと見たんです。四五の桂です"
],
[
"どこへ行ったかわかりませんか",
"知んねえね"
],
[
"えゝ。それなんです。その四五桂を読んでるのですよ。ボクがとッさに四五桂と読んだのは気のせいではありません。瞬間ですが、ボクはその顔を読み切ったのです。絶対なんです。盤面を読み切った感じ、それですよ。ボクの盤面の四五桂は錯覚でしたが、娘の顔に読み切った四五桂は錯覚ではありません",
"すると娘は将棋の神様かね",
"そういう意味じゃアないんです。将棋とは関係なしにですよ。ですから、あの四五桂が将棋以外の何を意味しているかと考えているのです",
"キミの四五桂に当るものが娘の何に当るかという意味だね",
"そうですね。ボクの四五桂は錯覚でしたが、錯覚でない四五桂の場合ですね。それと娘との関係です。感じというヤツですけど、きっと何かがあるのです。ね。戻ってみましょう。何か感じることがあるかも知れません",
"対局中の異常心理のせいだよ",
"いえ、それと関係ないですよ。それでしたら、今までに同じようなことがなければならないでしょう。あのときボクは対局を忘れきっていたんです。娘の顔が対局を思い出させたのではなくて、対局中であるために娘の感じ、瞬間的なある感じを読み切ることができたんだと思いますよ。錯覚でないことはたしかです"
],
[
"何か変ったものを見たのかい",
"いいえ。特に変ったこともありません。ですが、この家の内部はいわば盤面のようなものですからね。やはり盤面に向ってみないと。ボクら頭の中に自分の盤面はあるんですけど、勝負はやはり本物の盤面を睨んだ上でないとできないものです。そう云えば、土間をはいって右下隅に棚があって概ね何も乗っかっていないんですが、サイダーの空ビンだけが一隅にかたまっていて中味のつまってるのが中に二三本まじってたんです。そんなのが妙に印象にのこっているので、ジッと盤面を、つまり屋内を睨んでみると何か関聯がわかってくるかも知れないように思われるんですね。どこかしらに関聯がでているはずだと思うんです",
"しかしキミが娘の顔に四五桂を見たのはサイダーをのみ終ってから金をもたないのに気がついて借金を申しいれた時だそうじゃないか。第一感が働くのは娘をはじめて見た瞬間でなければならないように思われるんだがね",
"それもあるかも知れませんが、たとえば将棋の場合、序盤に第一感の働く余地がないようなことも思い合わせてみることができやしませんか。急所へきてはじめて第一感があるのでしょう"
],
[
"あの茶店に二十ぐらいの娘がいますね",
"あの出戻りかい。もう二十四五だろう",
"色の黒い、畑の匂いのプン〳〵するような娘ですよ",
"アヽ、色が大そう黒いな。畑の匂いだって? とんでもない。色の黒いのは地色だよ。あの出戻りは野良へでたことなんてありやしない。ヨメ入り先から逃げだしたのも野良仕事がキライだからだ",
"茶店だけで暮しがたつんですか",
"バカな",
"お金持なんですか",
"あれッぽちの畑じゃア食うや食わずだな。もっとも、出戻りはミコだ",
"ミコとは?",
"神社で踊る女だよ。占いも見るな。三年さきに死んだオフクロは占いをよく見たが、あの出戻りもマネゴトはしている",
"家族はいないんですか",
"父親は二人ぐらしだ。男の兄弟もいたのだが、あれッぽちの畑じゃア仕様がないから町へでて何かやってるようだ。山の上に離れていることだから、あのウチのことは村の者もよく知らないが、なんでも父親は四五日前から寝こんでいるということだった",
"大病ですか",
"知らねえ"
],
[
"また戻ってみたくなりましたねえ",
"病人のことでかい?",
"それなんです。生きてる病人なら、どんどん戸を叩けば返事ぐらいするでしょう",
"ずいぶん叩いたじゃないか",
"だからですよ。あの戸締まりした家の中にたとえ重病人にしろ、生きた人間がいるのでしょうか",
"死んでると云うのかい?",
"まアね。死んでるというよりも、むしろ、殺されてやしませんか。四五桂は、それじゃないかと、いまひょッと、ね",
"キミは踏みこんでみるつもりかい? よその土地からきた赤の他人のキミが",
"二十円の借金返しに踏みこんじゃア変ですか。セーターを取り返すべく戸をこじあけて侵入せりは、たしかに名折れだなア。ハッハッハ"
],
[
"実はね、おききしたいことがあるのだが、例の和服に袴をはいた若い先生がその後ここへ来なかったかね",
"そんな奴は来ないよ"
],
[
"来たと思うんだが……",
"来ないと云ったら来ないんだ。逆らうわけでもあるのかい。いまごろセーターをとりに来たってありやしないよ。あきらめて、早くおかえり。かえれよ",
"それは失礼した。いくらだね",
"茶代もいれて三十円",
"十円の値上げだな",
"二度とくるな"
],
[
"その対局はいつでしたか",
"昨年十月の六七日です",
"さっそく調査して御返事しましょう"
],
[
"茶店のオヤジサンは対局の翌日病死しておりますね",
"他殺ではないのですか",
"いえ、明らかに病死です。医者の証明がありますから。その医者は警察医でもありますから、まちがいはありません。娘が病気の父親を大八車につんで、まだ夜明け前に医者へ連れてきたそうです。そのときはまだ息があったそうですが、病院へかつぎこまれて五分か十分で死んだそうです。つまり、あなたが御覧になった戸締りの家は、その留守中に当るわけです。十月八日の出来事ですから。次に木戸六段の件ですが、茶店の娘は現在若い男と同棲しているそうです。この男の姓名はどこへ問い合わせても不明でしたが、この土地の者でないことは確実です。木戸六段と関係があるかどうかは知りませんが、同棲はオヤジサンの死後の出来事で、ちょッとインテリ風、都会風の二十一二の青年だというのです。もっとも、この人物が将棋をさしたかどうか誰も知っておりませんがともかく茶店の娘と若い男との交渉でいままでに私の方に判明したのは以上のことだけです"
],
[
"きのうお見えの噂をうけたまわっておりましたよ。よくわかりましたね",
"キミの奥方のカンバセにボクも四五桂を読んだのでね。もしやという不安がわいたのさ。御達者で何よりだ",
"もう世をすてました。お目にかかっても、何も申上げる言葉がないんですが",
"しかし、四五桂から同棲のコースは、ありうるとは思ったが、意外であったね。文士にとっても、やや意外だね",
"そうですか。ボクにはそれほどのこともないのですが。ボクは盤面の四五桂に錯覚し、次の対局ではペシャンコでしたが、ここの四五桂には錯覚がありませんでした。盤面に見切りをつけるのは当然じゃありませんか。ここに故郷を見出すのも当然なんです。むしろ宿命的ですよ。きわめて素直なコースです",
"しかし、オヤジサンの死は病死だというじゃないか",
"むろん、病死です。しかし、なんしろ、この山上から病人を大八車につんで降すんですから、病人をガンジガラメに車にしばりつけましてね。ガッタンゴットン荒れ放題にひきずり降すんでしょう。ま、手心次第というものですね。闇夜のことだし。病死は絶対なんですがね",
"なるほど。で、怖くないのかね",
"何がですか。人生は怖いものばかりですよ。こゝに限って何が怖いことがあるものですか。素直にかえった人間は子供なんです。彼の目に見えるものは全てが母親のやさしさだけです。ボクはふるさとに住んでるのです。ほら、母親がでてきました。母親は子供が心配なんです。叱りたくなるんですね。で、ボクは叱られないように沈黙しましょう"
],
[
"将棋ファンの中にはキミの消息を知りたいと思っている人も少からぬ数だ。と思うが、いつか棋界に復活する気持はあるだろうか",
"それについてお答えするよりも、ボクがこの地に生きながらえていることを忘れていただきたいということがボクの唯一の希望なんですがね",
"その御希望にはそうつもりだが人の心は変りやすいものだから、心変りにも素直に順応したまえ。ふるさとが一ツとは限らないさ"
],
[
"先祖代々の商売だから小さい時から仕込まれてね。三ツの時からミコの踊りも神前の礼儀も仕込まれたものさ。占いには威厳がいるし、ニワサの術も親代々。タダモノにはできないよ",
"ニワサの術とは?",
"いまの都会の者には云ってみても信用できまいよ。正しいことが田舎にはいくらか残っているものさ。いまどきの都会の人間は虫ケラにも劣っているね"
],
[
"虫ケラどもが!",
"田舎にも虫ケラが多いじゃないか",
"日本中、虫ケラだらけさ"
],
[
"まったくですよ。彼女は第一印象や尊大な外観とは反対に、凄みや妖怪的なところは実際はないのですよ。彼女が病気のオヤジサンを大八車に荒ナワでしばりつけて坂道を大いに荒っぽく手心しながらガッタンゴットンひきずり降したことだって、要するにただ運動ですね。たとえばアリが物を運ぶ運動。そして病人は居ない方がよいという、これも単に精神上の運動ですよ、女王蜂がオス蜂を殺すような運動です。そこに罪悪はありませんが、翳はあります。人間が見れば女王蜂の殺人運動にも翳は見るものなんですね。ボクはその翳を見たのです。それが四五桂だったんですね。この四五桂に錯覚しなかったのは、せめてもボクの誇りなんです。ボクが盤の生活よりもこの生活に真実を見出していることを察していただけるでしょう。もっとも彼女の目から見れば、ボクの見出した真実がまだ何程のものでもないことは、これも当然ですがね",
"キミは彼女、彼女ッて、そんな云い方をしていいのかい",
"それはいいですとも。表現は何ほどのものでもありません。ボクにふさわしい表現しかできないのは当然ですから",
"つまり実体は女房なんだろうね",
"肉体は何ほどでもないですよ。肉体的に女房であることは確かですが、ボクにはむしろ母親であり、祖母ですね。母親であり、女房であり、また処女ですよ",
"しかし、キミは肉体的にはハッキリ亭主なんだろうね。くどいようだが、ハッキリ云っておくれ。オレは都会の虫ケラだから、こういうことはハッキリ云ってもらわないと迷うんだよ",
"それはハッキリ亭主ですとも。しかし、肉体上の関係は、精神的な関係とはツナガリがないものですよ",
"そういうものかね",
"そういうものです",
"彼女だけについてはね。オレもそんな気がしてきたからね。まったく先祖の大婆サンに会ってるような気がしてきたからさ。しかしどうも、変な世界があるものだね。あの振袖まで先祖の大婆サンの衣裳のように見えてきたから奇妙じゃないか",
"あなたはさすがに物分りがよろしいです"
],
[
"たんとおあがり",
"うむ、これはうまい!"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第八巻第一六号」
1954(昭和29)年12月1日発行
初出:「小説新潮 第八巻第一六号」
1954(昭和29)年12月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043248",
"作品名": "桂馬の幻想",
"作品名読み": "けいまのげんそう",
"ソート用読み": "けいまのけんそう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小説新潮 第八巻第一六号」1954(昭和29)年12月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-11-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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"生年月日": "1906-10-20",
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"底本名1": "坂口安吾全集 15",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
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"入力に使用した版1": "1999(平成11)年10月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年10月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "小説新潮 第八巻第一六号",
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} |
[
[
"一泳ぎしてくるぞ",
"それに限りますな。それまでに昼食の用意を致させましょう"
],
[
"あなた方は何者だね",
"PTAの婦人連盟らがね"
],
[
"キサマのウチは客人にタニシを食わせるのか",
"バカ云いなれ。それタニシらかね。バイらがね",
"バイとは、なんだ",
"バイらて",
"きっとタニシでないか",
"タニシが海にいるかね",
"これが海の貝か",
"食べてみなれ"
],
[
"大きな皿に山盛りバイを持って参れ",
"ハイ"
],
[
"もっと大きな皿にもっと山盛りにもってこい",
"キサマ、本当にうまいのか",
"うまいですとも。見直しましたよ。あなたも相当な食通だ。海底にも海底の山川草木があるものですが、その全ての精気がこもってますな。これは少くとも七十五尋以上の深海に生育していますよ"
],
[
"オイ。オマエのウチにイケ花をいけるような大きな皿があるだろう。その皿に、山盛り、バイをつみあげてこい",
"樽ごと持ってきてやろかね",
"なるほど。それも、いいな",
"目の色が変ってるわ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第三五号」
1953(昭和28)年8月28日発行
初出:「別冊文藝春秋 第三五号」
1953(昭和28)年8月28日発行
入力:tatsuki
校正:藤原朔也
2008年4月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042952",
"作品名": "決戦川中島 上杉謙信の巻",
"作品名読み": "けっせんかわなかじま うえすぎけんしんのまき",
"ソート用読み": "けつせんかわなかしまうえすきけんしんのまき",
"副題": "――越後守安吾将軍の奮戦記――",
"副題読み": "――えちごのかみあんごしょうぐんのふんせんき――",
"原題": "",
"初出": "「別冊文藝春秋 第三五号」1953(昭和28)年8月28日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-05-31T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
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"生年月日": "1906-10-20",
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"底本名1": "坂口安吾全集 14",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年6月20日",
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} |
[
[
"貴様、オレのついだ酒うけないのか。無礼な奴だ",
"何が無礼だ。オレはこんなカラ騒ぎの席にゐたくないから引きあげるのだ。約束を果してくる用件もあるからな"
],
[
"君はどうする。当がないのだつたら、オレと一しよに星野のうちへ来ないか",
"オレが星野のうちへ行つても仕方がなからう。このへんをぶらぶら歩いてみよう。妙になんとなく歩いてゐたいのだから",
"さうかい。なんとなく君にも来てもらひたい気持なんだが、ぢやア、仕方がない"
],
[
"おい、くることができないのか。一しよにくる気持にならないかな",
"ならないな、別に当もないけれども、今夜はもう今夜きりぢやないか。思ふやうにしてみるほかに仕方がない",
"さうか"
],
[
"イノチがもうかつたぞ。お前ら、どうする。これから、どうするんぢや、オレは知らんぞ。日本中がみんな捕虜かいな。わけが分らん。基地へ問ひ合せても返事がないから、明日基地へ帰るんぢや。そのつもりにしとけ",
"勝手に帰るんですか",
"蜂の巣をついたやうなものぢやないか。もう血迷つてるんだ。こんなところに命令まつてたら、永久の島流しぢや。向ふぢや死んだつもりにウッチャらかしだらう"
],
[
"勝手に帰つちや、ぐあいの悪いことになるだらうぜ",
"どうせ、負け戦だ。咎められたら、基地へ問ひ合しても返事がないから、隊長が単独行動を許したと言や、すむだらう。後々のことはもう問題ぢやないんだ。オレは是が非でも帰る"
],
[
"童貞なんて、嘘でせう。あなたぐらゐ、スレッカラシの男はないわ",
"童貞なんか、何ですか。僕が今まで女を知らなかつたのは、童貞なんかにこだはつてゐたわけぢやないのです。僕は何より女が欲しかつたのですが、自分の意志で人生をどうすることもできない戦争の人形にすぎないのだから、一番欲しいものを抑へつけて、せめて自尊心を満足させてゐたゞけですよ"
],
[
"一生秘密にしてゐられる?",
"むろんだわ",
"こんな秘密をいくつも、いくつも、つくりたいと思つてゐるの?"
],
[
"今ごろはあのろくでなしは血まみれにヒックリかへつてゐることでせう",
"一人に三人ですものね。でも、妙信さんはオセッカイではないかしら。あの方の知らないことだわ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「社会 第二巻第九号」
1947(昭和22)年11月1日発行
初出:「社会 第二巻第九号」
1947(昭和22)年11月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年8月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042880",
"作品名": "決闘",
"作品名読み": "けっとう",
"ソート用読み": "けつとう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「社会 第二巻第九号」1947(昭和22)年11月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2009-08-28T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-15T00:00:00",
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"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
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"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 05",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年6月20日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年6月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年6月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "社会 第二巻第九号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1947(昭和22)年11月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"校正者": "深津辰男・美智子",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-08-09T00:00:00",
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} |
[
[
"なア、オイ、雑誌の編輯の方は、どうだい? 例のマニ教の訪問記だよ。この人なら、もぐりこめやしないか。おい、みろよ、モーニング、ヒゲもあら。使えるじゃないか",
"なーる"
],
[
"そんなヨレ〳〵のワイシャツじゃア、新円階級に見えるものか。オイ、シャツは。シャツだって、どういうハズミで人目にさらす場合がないとも限らないさ。なんだい、ツギハギだらけじゃないか。そんなんじゃア、サルマタだって、大方、きまってらアな。吋をはかって、一揃い、女の子に買ってこらせろ。オット、待て。帽子を見せろ。アレアレ、キミ、何十年かぶったの。帽子から、サルマタから、靴。何から何までじゃないか",
"アッハッハ。正宗クン。キミは幸運児だよ。入社みやげに、身の廻り一揃い、たゞで買ってもらえるなんてね。運がいゝや"
],
[
"会社を一足でたら、外は敵地だと思わなきゃいけないからね。いゝかい。間宮クンは秘書だから、醤油ダルとその包みを持ちたまえ",
"フツカヨイのオレにムリだよ。秘書は箱根へついてからでタクサンだ",
"いけないよ"
],
[
"ちょッと、教祖にお目通りを願いたいと思いまして",
"不敬であるぞウ"
],
[
"マニ妙光。マニ妙光。マニ妙光",
"コウーラッ"
],
[
"ハイ、五十二歳でございます",
"商売は繁昌しているか",
"ハイ。おかげさまで、どうやら繁昌いたしております",
"お父さんは慾が深すぎるんですよ"
],
[
"ボクら、若い者でしょう。遊ぶことは考えるけど、信心なんか、ほんとはないのが本当でしょう。でもね、オヤジがこんな風だから、つきあわなきゃ勘当されますよ。ですからね、ボクらは神様にお目にかかって、どんな人だろうなんて、そんなことしか、考えられないですよ。ねえ",
"軽々しく神の御名をよんでは不敬である。凡人が神にお会いできるなぞと考えては不敬千万である"
],
[
"信徒が神様にお目通りできるまでには、何段となく魂の苦行がいるぞ。御直身と申して、神様につぐ直の身変りの御方。この御方にお目通りするまでにも、何段となく苦行がいる。お前らはイブキをうけ、ミソギをうけたから、信徒として、許してつかわす。毎日通ううちに、身の清浄が神意にとゞいたら、御直身がお目通りを許して下さるだろう。神様のお目通りなぞは二年三年かなわぬものと思うがよい。今日は立ち帰って、明日出直して参れ。ミソいでつかわすぞ",
"それじゃア、神示は却々いただけないのですか"
],
[
"オヤジはね、ガンコだから、信心となると、何月何年でも箱根に泊りこむ意気込みなんですからね。ボクら、それが困るよ、なア。第一、会社だって、困らア。なア、雲隠君。もっとも、キミたちが会社と箱根を往復してりゃ、すむかも知れないけど、ボクはこんな山奥に何ヵ月もいたくないですよ",
"会社の方は、なんとかするよ"
],
[
"常務のガンコ信心ときちゃ、会社だって、諦めてるんだからな。箱根なら箱根、一ツ処に長持ちしてくれりゃ、ボクら、かえって仕事がしいいや。間宮さんにノブちゃんにボクと秘書が三人も居るんだもの、会社のレンラクは、わけないよ",
"アア、ほんと、その通り"
],
[
"常務の身の廻りはボクがいるから大丈夫だ。ボクは常務と一緒にノンビリ温泉につかっているから、レンラクはもっぱら若い者がやってくれよ。そのたんびにウイスキーを忘れず運んでくることだよ",
"チェッ。のんびりしてやがら"
],
[
"正宗はどこの宿に泊っているか",
"ハイ。明暗荘でございます"
],
[
"正宗の子息と娘は何歳であるか",
"ハイ。エエと、知らぬ顔の、左様でござります、半平は二十五、ツル子は二十一に相成りまする",
"当分、毎日くるがよい。魂をみそいでつかわすぞ",
"ハハッ"
],
[
"ほらね。あれだからね。オヤジは信心とくると、理性を忘れて、からだらしがないからねえ。平伏するばッかりなんだよ。毎日おいで、と云われたら、何時ごろ来たらよろしいですか、と訊くのが自然の理知というものだね。オヤジは神様の前へでると、てんで、なってやしないねえ。これで、よく、会社の重役がつとまるもんだよ",
"だからさ。キミがそんなに云っちゃアいけないよ。そこは、ちゃんと秘書というものがついてるのだからさ"
],
[
"朝夕のオツトメには、まだ加わることはできない。朝の十一時ごろ来てみるがよい。場合によっては神膳のお下りをいたゞくことができるから、人数だけの昼食の米をお返しに捧げなければならないぞ",
"ハイ"
],
[
"半平の奴、ひどすぎるじゃないか。なにも女の子を隠しだてすることはないよ。なア、坊介、そうだろう。ツルちゃんが好きなら好きでいゝけどよ、ノブちゃんまで一緒につれだして隠すことはないよ。なア",
"うるせえな。なん百ぺん言ってやがんだい。やくんじゃないよ"
],
[
"チェッ。女房ぐらい、もったって、威張るんじゃねえや。落着いたって、偉いことにならねえや。半平の奴、ツルちゃんと仮の兄妹だなんて、鼻の下をのばしていやがら",
"よさねえかよ。やきもちやきめ",
"チェッ。お前も三十面さげて、あさましい野郎じゃないかよ。秘書なんかにされて腹が立たないかッてんだ。どこの国に三人も秘書をつれてブラブラしている重役がいるかッてんだ。秘書だったら秘書同志じゃないか。婦人秘書をこッちへ渡しゃいゝじゃないか。独占てえ法はねえや。アン畜生、ヤキモチやいてやがんだ、なア",
"うるせえな。ヤキモチやいてんの、お前じゃないか",
"チェッ。お前は目があっても節孔同然だよ。半平の奴、ふてえ野郎じゃないか。明日東京へ戻って指令を待て、なんて、尤もらしいことオレに言ってやがるよ。なんとかして、オレをツルちゃんから遠ざけようてえコンタンなんだ。働かすだけ働かしやがって、なめてやがるよ、なア",
"うるせえなア。お前はヤミ屋の仕事に打ちこんで月給もらッてりゃいいんだよ。オレは写真を撮りゃいゝんだ。女の子の一人二人よろしくやるだけの腕がなくッて、ヤミ屋がきいて呆れらア",
"チェッ。見ていやがれ。東京へ帰れッたッて帰るもんかよ。半平の野郎め、ギョッと言わせてくれるから",
"アッハッハ。勝手にしやがれ。しかし、仕事を忘れるな"
],
[
"よけいなことを言うんじゃないよ。ボクが女中に云ってくるから、キミはサルマタを買ってきなさい",
"よせやい。朝ッパラからサルマタ売ってる店があるもんじゃねえや",
"いけないよ。秘書ともあろうものが、ワガママは許されないよ。ヤミの天才で名をうった雲隠才蔵ともあろうものが、朝の八時にサルマタが買えなくってどうするのさ。宮ノ下でも、小田原でも、どこまででも行って、買って戻ってきたまえ。我々は職務を果しましょうよ。ねえ、そうでしょう"
],
[
"オイ、才蔵。オレの肩をもめよ。ボンヤリしてたって面白くもなかろう。お前の手でも我慢してやるから、若いうちはコマメにやりなよ",
"よせやい",
"ボンヤリ睨めっこしてるよりも、一方が後へ廻って肩をもむのが時にかなっているッてことが分らないかな。だから、淑女にもてない",
"うるせえな"
],
[
"長年邪神について、邪念が髄に及んでいるから、正宗のカラダに様々の障碍が宿っているのに不思議はない。マニ妙光様は宇宙の全てゞあるから、この教えにもとづいて魂をミソイだならば、寝小便などは苦もなく治ってしまう。まだマニ妙光様直々のオサトシをうけるわけにはいかぬが、別室で浄めてつかわすから、正宗だけ、ついて参るがよい",
"ボクたちも浄めて下さいな。お父さんと同じようにしてもらわなくッちゃア、あとあと親孝行にサシツカエがあるんですよ。なんてッたって、たゞもう、モーローと平伏ばかりしているでしょう。別室で一人になったりなんかすると、益々あがッちゃって、目も見えず、耳もきこえなくなるんですよ。とても心配で、ほッとかれやしないよ、ねえ",
"アア、ホント。常務が浄まる時にボクたちも浄まッとかないと、なんだ、不敬者だの、汚らわしいのと、うるさいからな"
],
[
"だから、言わないことじゃない。目もくらみ、耳もきこえやしないんだからね。心臓マヒでも起されちゃア、第一、失業問題だからね。ごらんの通りですから、ボクたちも一しょに、至らない者ですが、ついでに浄まらせて下さいな",
"まったくだね。お父さん、会社じゃア相当パリパリしてるんだけど、神様の前じゃア、カラだらしがないねえ。このたよりない様子じゃア、子供として、見棄てちゃ、いられないね。一しょに浄まらしていたゞきたいですねえ。いゝでしょう。たのみます"
],
[
"どうも、いけねえ。フツカヨイに、下痢をやッちゃったい。腹がキリキリ痛んで、いけねえ",
"薬、あるかい",
"ま、待ってくれ。ちょッと、寝かしてくれよ。ムム、痛え。ウーム。盲腸じゃねえかな。ムムム",
"こりゃ大変なことになりやがったね。あんまり、のむから、いけないよ。アレ、エビみたいに曲っちゃッてピクピクやってるよ。才蔵クン。キミ、抑えてやんないか。ノブちゃん、さすッておやり",
"やい、しッかりしろい。コン畜生"
],
[
"ムム、いけねえ。こゝで息をひきとるかも知れねえや。ウーム。痛い。あとあとは、よろしくたのむ。ムムム",
"キミだけ帰って、医者へ行ったら",
"とても、歩けやしないよ。ムム"
],
[
"正宗の奴、ないていたぜ。オケラみたいな手つきで、人垣をわけて出ようたって、ムリだよ、なア。頭で突きとばして出りゃ良かったのさ。なんべん泣いたか知れないねえ。ヒイヒイヒイなんて、むせび泣いていやがんだもの。泣いたり、オネショもたれたり、ずいぶん水気の多いジイサンなんだね",
"アア、まずまず、オレの仕事はすみました。これから東京へ帰って、現像がオタノシミだよ。ツルちゃん。ビールビンに二本ばかり酒をつめてもらってきておくれ。汽車の中で飲みながら帰るからね。それから、ツルちゃんは護身用に一しょにきておくれ。オレのカラダはかまわないけど、ライカが紛失しちゃ、それまでだからな"
],
[
"ウン。じゃア、まア、ボクたち、一しょに帰ろうよ。ボクたちも、さっそく記事をつくらなきゃア、いけないからね。才蔵クンだけ残って、正宗クンを連れて帰っておくれよ、ね",
"おい、よせよ。オレひとり残るなんて、そんなの、ないよ",
"だって、ボクたち、記事をかいて雑誌をつくらなきゃ、いけないからさ。一足先にきて仕度してくれたキミだから、あとの始末もつけてくれるのがキミのツトメなんだよ。悪く思うなよ",
"よせやい。一人ションボリ居残って、あんなネションベンジジイを待ってる手があるもんか。そうじゃないか。ねえ、ノブちゃん",
"だって、可哀そうよ。魂をぬかれちゃって。戻ってきて、誰かいてやんなきゃ",
"だからさ。オレひとりッてのが、おかしいじゃないか",
"よせやい。テメエひとりでタクサンだい。二人ッて柄じゃねえや。あのジイサン、神殿でネションベンたれて、魂をぬきあげられて帰ってくるに相違ないから、いたわってやんなよ"
],
[
"ボク雲隠才蔵ですが、で、あなたは?",
"ほかのお方は、どうなさいましたか",
"報告のため東京へ戻りまして、今はボク一人ですが、何か御用ですか",
"アタシはこういう者ですが"
],
[
"石川組と仰有いますと",
"実は社長からの使いの者でざんすが、こゝに社長の名刺を持参してざんす"
],
[
"で、御用件は?",
"そこのタチバナ屋が社長の常宿なんですが、ちょっと御足労ねがいたいので。話は社長から直々あるだろうと存じやす"
],
[
"話というのは、ほかでもないが、お前のとこの正宗常務だなア。オレが助けてやろうと思うとるが、あのままでは、一週間で狂い死んでしまうぞ。支離メツレツじゃ。今朝などは、もう、ひどい。寝小便はたれる。着物にクソをつけて歩いておる。やつれ果てゝ、二目と見られたものではないぞ。秘書たる者が温泉につかって酒をのんでる時ではないぞ",
"ヘエ。アイスミマセン",
"今朝オレが帰る時にマニ教の内務大臣から話があって、明暗荘に秘書の者がおるから伝言せよと言うのだな。百万円耳をそろえて献上すると正宗の身柄を引渡してつかわすと言うとる",
"ハ、百万円",
"ウム"
],
[
"天草鉱業はどこに鉱山をもっとるか",
"エエ。常磐に炭坑三ツ。常磐では指折の優秀炭質を誇っております。七千五百から八千カロリー。八千五百ぐらいまでありますんで、一噸いくらだったかな。一貨車いくらでもとめるのが御徳用で",
"天草製材はどこに工場を持っとるか",
"エエ。秋田でござんす。そもそもこれが、わが社社長の実家でして、社長は当年二十五歳、ボクと同年の大学生で、天草次郎とおっしゃるニューフェースで",
"オヤジが追放くったのか",
"とんでもない。当商事に於きましては、社長のほかに業務部長の織田光秀、編輯長の白河半平、重役陣の三羽ガラスがいずれも大学生でござんす。エエ。ボクも近々重役になります。戦前派は無能でいけません",
"製材所が秋田じゃア都合が悪いな。しかし新興商事会社はヤミ屋にきまっとるから、扱えないという品物があっちゃア名折れだ。実はな、オレが商用で箱根へくるのは建築用材の買いつけだ。すでに一年半にわたって用材を伐りだしとる。進駐軍関係の用材であるから、輸送も優先的、伐採が輸送に追われるほどスピーディに動いておる。運賃も人件費も格安であるから、オレの材木は安いぞ。三千万円ほど譲ってやるから、手金を持ってくるがよい。社長をつれてくるのがよいな"
],
[
"サルトル。自動車をよべ",
"ヘエ。用意してござんす"
],
[
"商売はそんなものさ。売りがあせる時は買い手のチャンスだよ。こういう時に買い手の目が利くと大モウケができるのさ",
"だって雲をつかむような取引きじゃアないか。バカにされたとしか思われねえや",
"キミの社長が製材所の倅なら雲をつかむような取引きはしないさ。見ていたまえ。目の利く買い手にはチャンスだよ。アタシに金があればこのチャンスは逃さない",
"ひとりぎめにチャンスたって、なんにもならねえや。露天商人はみんなそんなこと言ってらア"
],
[
"キミは何の御用で東京へ行くんだい。オレを送りとゞける役目かい",
"マア、それもあるが、アタシは社長夫人を箱根へ案内する役目さ"
],
[
"キミは材木、いくらで買う",
"マア、三十万ですね"
],
[
"ボクたちは毎月一回東京をはなれて食焔会というものをやってるが、大いに食い、気焔をあげる会だね。疲れが直るな、明日の晩、小田原でやろうじゃないか。明日の夕方、底倉へ電話でお伝えするが、石川さんに差しつかえなかったら、遊びにでむいていたゞきたい",
"ヘエ"
],
[
"サルトルさんて、ニコヤカなアンチャンだね。ゼンゼン喋らねえなア。あれで渉外部長かねえ。ハハア、英語で喋りまくろうてんで、日本語を控えているのだねえ",
"小田原の奇流閣へ電話をかけておけ。この四人に、婦人社員五六人。明日一時ごろ出発だ。団子山に今夜のうちに料理の支度をさせておけよ"
],
[
"いけねえ。オレも行くのかな",
"あたりまえだ",
"寝ションベンジジイは半平の係りだから、オレはもう知らねえや",
"ハッハッハ"
],
[
"こちらが天草社長。こちらが? 織田光秀さん。そちらは? 白河半平さんだね",
"ザックバランにやりましょうよ。ハハハ。礼儀はダメなんだ。ボクらアプレゲールは祖国なみに廃墟に生れた人間ですからね。石川さん、お料理ができるまで、将棋やろうか",
"それは、いゝ"
],
[
"明朝八時半にここへ迎えの車をよこすから、山を見廻って、箱根で中食としようじゃないか",
"八時半じゃ、おそいな"
],
[
"ボクらはたいがい七時ごろには仕事にかかる習慣で、朝ボンヤリしているほど一日が面白くなくなることはないな。旅先では、ことにそうだね。早く目がさめるからな。六時には起きて顔を洗うから、七時半前に底倉へつくだろう。自動車はボクらのがありますよ",
"それは好都合だ。オレも朝は早い。五時には起きて、冷水をあびて、それから三十分静坐して精神を統一する。これによって、一日が充実し、平静なんだな。朝寝はいかん。早朝より充実して仕事にかゝるのはビジネスの正道だ。さすがに天草君は理を心得ておる。アッパレなものだ。どんなに早くともいゝから来たまえ"
],
[
"正宗君のことは心得とるから、諸君らの望む時に助けだしてあげる",
"あの人は好きでやってるのですから、当分ほッといた方がいゝのですよ"
],
[
"そんなことがあるものか。半死半生だぞ。寝小便をたれ、クソもたれながして、ウワゴトをわめいて泣いとるぞ。まさしく狂死の寸前だぞ",
"いえ、あれでいゝんですよ。あれが趣味にかなっているんだなア。ほら、首ククリは小便やクソをたれて、ずいぶんムゴタラシク苦悶するけど、本当は生涯のたのしいことを一時にドッとパノラマに見て、あの時ほど幸福な瞬間はないんだってね。正宗君も今が一番幸福な時なんだねえ"
],
[
"お前らも、何か、アプレゲールか。笑わせるな。アプレゲールは喉がつぶれているワケじゃアねえだろう。サルトル。なんとか返事をしたら、どうだ",
"ヘエ",
"ヘエだけか",
"マ、なんですな。一口にアプレゲールと申しましても、人間は色々でざんすな",
"当りまえだ",
"まったく、そうでざんす"
],
[
"オヌシの返事をきこうじゃないか。驚異的な安値が納得できないかな",
"マア、損はないかも知れないね"
],
[
"オレは商売になると思うが、光秀の考えはどうだい",
"そうだなア。金庫をあずかるボクとしちゃア、どう返事をしていゝか分らないが、マア、山師とか水商売じみた取引きはやって貰わない方が安心ですね。もっともボクは材木のことは知らないから、この取引きの実際の評価はできませんがね",
"ボクも材木のことは知らないけど、相場よりも安ければ買っていゝわけだね。今後の値下りがなければね。何商品でも、そうだろうねえ。そうじゃないの"
],
[
"じゃア、当分は芝浦の敷地へ材木をつんでもらうか。才蔵。芝浦の敷地の所番地と地図を書いておけ",
"ヘエ"
],
[
"よかろう。話がきまって、結構だ。熊蔵、契約書の用意をしろ。それから手金のことは、昨日才蔵に伝えた通りだが、残金は毎月四百五十万円ずつ、四ヵ月間で支払ってもらう",
"それはムリですよ。ねえ"
],
[
"契約書なんて、いけませんよ。ボクらレッキとした商事会社ですけど、仕事の性質上、ボクらの商法は結局ヤミ取引きでしょう。ボクらはヤミを一つの信用として扱っていますよ。ボクらにとっては合法的なことは罪悪なんです。合法的なことは、我々の世代に於ては、卑屈で、又、卑怯者のやることですね。ボクらは合法的な卑屈さを排して、相互の人格を尊重し合うところから出発しているのです。アプレゲールなんですよ。わかるでしょう",
"止せよ。お前の屁理窟はキリがなくッて、やりきれねえ"
],
[
"ナニ、現物引換えだと。それぐらいなら、一区劃いくらで売るものか。相場なみだが、それでいゝのか",
"相場なみなら、わざ〳〵ここで買うまでもないことだね。六万五千石、三千万円という話だったが、六万石三千万円の割合なら、何万石一時に着いても現金で買いとるね",
"バカな。まとめて買い、手金を打つと仮定して、格安に割引してあるのが分らんか。六万石三千万円の割合なら、日本国中の製材所が買いに殺到してくるぞ",
"どうせ、こんなことだろうと思ったな。まア、食焔会の消化薬だと思えばよかろう。オレたちは約束の時間があるから、アレレ、急がないと遅れてしまう。才蔵。お前は明暗荘へ戻って正宗の出るのを待っとれ、近日中に出るように、はからってやる",
"アレッ。社長。いけねえ。いけませんよ"
],
[
"エエ、つかぬことを伺いますが、いくらの値段で買いますか。四万石三千万円の割合はいかゞで。いけません。ハア。四万五千石三千万円。いゝ値ですな。ハア。いけませんか。五万石三千万円。これじゃア、元も子もない。ハア、これならよろしい?",
"よろしい"
],
[
"青二才に値切り倒されて、ふざけるな。貴様ア、それでいいつもりなら、オレに顔の立つようにやってみろ。顔をつぶしやがったら、そのまゝじゃアおかねえぞ",
"ヘエ。顔でざんすか。これは、どうも、いけねえな。顔はつぶれるかも知れませんねえ"
],
[
"ショウバイはすべからく金銭の問題で、顔なんざ二ツ三ツつぶしておいた方が気楽なんだがなア。もうけりゃ、いゝじゃありませんか",
"よろし。その言葉を忘れるな。顔の立つだけ、もうけてこい",
"ヘエ。もうけてきやす"
],
[
"サルトル。キサマ、さっき大きなことを云ったが、オレの欲しいのは材木の売ったり買ったりじゃアないぞ。売ったり買ったりぐらいなら、マーケットのアロハでもできるんだ。手金だけ、もらってこい。それがオレのビジネスだ",
"へえ。アタシはハナから材木なんぞ扱いませんので。材木の話をいたしましたのは、あの場の顔つなぎだけのことで"
],
[
"ふうむ。ふてえ奴だ",
"いえ"
],
[
"雲さんや。主人持ちは、つらいねえ。どうだい。一旗あげたいと思わないか",
"チェッ。おだてるない。お前みたいな忠勤ヅラはアイソがつきてるんだ。今さら、つきあえるかい",
"そこが主人持ちのあさましいところだよ。オヌシもポツネンと山奥の宿へおいてけぼりで、なんとなくパッとしないな",
"胸に一物あってのことよ。忠勤ヅラは見ていられねえや",
"さあ。そこだよ。どうだい、兄弟。ここんところで、石川組と天草商事を手玉にとってみようじゃないか",
"兄弟だって云やがらア。薄気味のわるい野郎じゃないか",
"アッハッハ。ノガミの浮浪者が、こんな出会いで集団強盗をくみやがるのさ。しかし、河内山もこんなものだろうよ。ところが、アタシの考えは、もっと大きい"
],
[
"どうだい。ちょッとシャレていると思わないかい。雲さんや",
"よせやい。箱根で雲さんなんて、雲助みたいで、よくねえや",
"このあとには、オマケの余興があるのだよ。正宗菊松をオトリに、マニ教をたぶらかす手がある。お金をほしがる亡者ほど、お金をせしめ易いものだな。これが金の報いだな",
"石川長範はウスノロかも知れないが、天草次郎は一筋縄じゃいかねえや",
"ハハハア"
],
[
"じゃア、それで、いってみようじゃないか。オレは退屈しているんだ",
"明日、むかえにくるぜ"
],
[
"才蔵いくつになる",
"へえ。サルトルと同じ二十五で",
"キサマ、戦争に行ってきたか",
"エ、北支に一年おりました。鉄砲は一発もうちませんが、豚のマルヤキを三度手がけましたんで",
"キサマ、コックか",
"いえ。なんでもやりますんで。主計をやっておりましたが、クツ下、カンヅメ、石ケン、タオル、これを中国人にワタシが売ります。密売じゃないんでして、ええ、軍の代表なんで。中国人相手のセリ売りにかけてはワタシの右にでる日本人はございません。へえ",
"ペラペラと喋る奴だ。キサマ、ヘソに風がぬけてるのと違うか。石川組は男の働くところだぞ。力をためしてやる。腕相撲をやるから、かかってこい",
"それはいけません。ワタシは頭で働きますんで",
"生意気云うな。人間は智勇兼備でなければならんぞ。キサマらは民主主義をはきちがえとる。平和こそ力の時代である。法隆寺を見よ。奈良の大仏を見よ。あれぞ平和の産物である。雄大にして百万の労力がこもっとる。石川組は平和のシンボルをつくることを使命とするぞ。心身ともに筋金の通らん奴は平和日本の害虫であるぞ",
"エエ、適材適所と申しまして、害虫も使いようでざんす"
],
[
"雲さん、雲さんて、心やすく云うない。実物を見てるワケじゃアねえんだから、サルトルを信用してるワケじゃアないけれど、富士山麓にアヘンの秘密工場があったこと、終戦のドサクサに多量のアヘンが姿を消して勝手に処分されたこと、一部分があの山林に埋められたという噂があるのはホントでさア。終戦後一年二年のあいだ、むかし工場にいたらしい人物が時々人目を忍んで捜査にきて、みんな手ブラで帰ったと女中なんかも噂しているからさ。噂だけはあるんだよ。だから実物を見せてもらえば分るだろう",
"なぜキミ見せてもらわなかったの",
"人が見たら蛙になれ。タダで見るわけには参りません"
],
[
"これは、いさゝか、犯罪的、ギャング的ですね。リンドバーグの子供をさらって、ひきかえにお金をもってらッしゃいと言うでしょう。それと似ていますね",
"そうなりますかなア",
"そうなるんですよ。アハハ。あなたはギャングじゃないけれど、お金と物品とひきかえる手段において、同一の手口以外の方法がないワケでしょう",
"なるほど",
"いわばボクたちはサルトルさんの強迫状をうけとって、アハハ、いわばですよ。悪くとらないで下さいね。指定の日時に指定の場所へお金を持ってくワケでしょう",
"これは恐れいりましたな。では、こう致しましょう。指定の日時は天草商事さんに一任いたしやすから、お好きの時日に突如としてお越しになっては。アタシの方はアタシひとりの都合ですから、いつでも都合がつけられます。これならば御満足と存じますが",
"ハハア。なるほど。ボクの方から突如として押しかけるか",
"さよう。何百人でいらしてもよろしい。アタシは常に一人でざんす。一人でなくてはアタシの方は不都合ですからな。アタシは天草商事さんを信用致すワケではございませんが、運命を信じております。アヘンのカンとひきかえにアタシのナキガラが穴ボコへ埋められても仕方がない。かくなる上は運命でござんす。アタシひとりの生涯に春はとざされているか、風雲録は一か八かでござんすな。アタシは誰もうらみません。また必要以上の要心もいたしません",
"えらい!"
],
[
"なんでしたら、アタシの身辺に雲さんでも、ほかの方でもかまいませんが、目附の方をつけておけば御安心ですな。お好きの時日に急襲あそばす。アタシの素振りにヘンテコなところがあれば、ハハア奴め何か企んでるな、とわかる",
"益々えらい! アッパレなスポーツマンシップだなア。握手しましょう"
],
[
"いえ、タネも仕掛も至ってカンタンでざんす。材木を買うにつき再調査に見えたとふれこめばよろしい。あの現場ではアタシが社長代理で見廻る例でざんすから、お客さんを案内するのもアタシの役目のうちでござんす。皆さんはトラックをのりつける。アヘンのカンをトラックにつんで、その上に材木を乗っけて戻れば東海道はOKですな",
"いくらなの"
],
[
"二千万",
"お前さん、正気かい。二千万の現金といえばダットサン一山だぜ。こっちから持ってくぐらいのことはオレたちワケなくやってみせるが、お前さんがそれを一人で受け取って処分がつくかい",
"それは、もう、実に、いとも、カンタンに"
],
[
"箱根くんだりへ一山の金をつんで御足労な。アヘンがあるなら、持ってこい。買ってやるから。一山でも、一包みでも、持ってきたら、買ってやらア。才蔵め、ドジな取引に首を突っこみやがる。もう一っぺん、箱根へ戻れ",
"まアさ。そう云うもんじゃないですよ。じゃア、ちょッと、サルトルさん。あなた別室で待ってらッしゃい。社長は短気だからね。気持をなだめて、あなたの顔も立つように話してあげるからね"
],
[
"ともかく雲さんの話をきこうじゃありませんか。アハハ。雲さんときやがら。箱根の雲さん",
"やい。よせやい",
"怒るなよ。酒手をだすから。ともかく、雲さんの話をきいて、考えてみましょうよ。敵の話がホントなら耳よりの取引だからね。雲さんは彼氏が信用できるかい",
"そんなこと知らねえや。ホントなら耳よりの話だから持ってきたゞけじゃないか",
"しかし、ホントらしいヨリドコロがなくて持ってきたら、無思慮じゃないかい",
"ヨリドコロはさッき言ったじゃないか。アヘンがうめられていることはホントらしい噂があるのさ。サルトルは曲者だけど、とにかく、一人でやってる仕事だからな。嘘なら一人じゃやれねえや。この取引にしくじると、石川組もしくじるし、石川組のことだからアヘンもまきあげられて、イノチだって危いかも知れねえや。それを覚悟で、たった一人でやってやがる仕事だから、嘘じゃアなかろうと思われるフシがあるじゃないか",
"なるほどね"
],
[
"ホントなら話が大きいぜ。それに相手が一人だから、秘密保持の上にも、取引としてはこの上もなく安全だね。ボクが思うには、ここは、ひとつ、スパイを使ってみようよ",
"スパイたって、スパイの使いようがないじゃないか。相手が一人で、おまけにノコノコこっちへ出むいているんじゃないか",
"だからさ。だからだよ"
],
[
"今夜、社の寮で、サルトル氏の歓迎会をひらくんだよ。酔わせておいて泊らせて、よりぬきの美女を介抱役につけるんだよ。惚れたと見せて安心させて、秘密をさぐるんだね",
"酔わなかったら、こまるじゃないか",
"催眠薬かなんかブッこんで痺れさしちゃえばワケないよ",
"誰をスパイにつけるんだい",
"近藤ツル子"
],
[
"一夜に探れなかったら、どうなるんだ",
"場合によっては、三日でも一週間でも、サルトル氏とともに箱根へやってもいいと思うよ",
"フン、そうかい。サルトル氏の毒牙にかかってもいゝわけか"
],
[
"ビジネスだよ。ボクにとっても、また、彼女にとっても。彼女がビジネスをいかに解するかの問題によって解決するね。彼女はたぶん身をまもることを知っているし、同時にビジネスを完うすることも知っているね。なぜなら彼女はボクと同じぐらい頭脳優秀だからさ",
"チェッ。よしやがれ。オレは反対だい"
],
[
"スパイなんてのはスレッカラシのやることだい。ツルちゃんが頭脳優秀だって、惚れたフリだの、そんなことができるもんか。商売女と違うんだ",
"できますとも。雲さんよ"
],
[
"由来女というものは魔物なんだよ。いかに楚々たる処女といえども、生れながらにして性愛の技術を心得ているものさ。嘘と思ったら八ツぐらいの小学一年生を一週間観察してごらんなさい。男の子はてんでギゴチないけど、女は天性の社交術と自然の媚態を与えられていることが分るからさ。雲さんも恋に盲いてビジネスを忘れてはいけないね。また、恋人をいたわることは、恋人を信頼することよりも劣っているのだよ",
"チェッ。半可通をふりまわして、あとで目の玉をまわしたって追っつかねえや"
],
[
"ダメよ。とても一人じゃできないわ。じゃア、ノブちゃんと二人で",
"いけないよ。二人組のスパイなんて、おかしくって。スパイは一人に限るものさ。女が二人で組んでごらん。たちまち見破られるにきまってらア。第一、友達が居てくれると思う安心が、すでに心のユルミで、スパイとしては失格なんだよ。人の秘密をきゝだすことは遊びじゃないよ。ねえ、わかるでしょう。二人で組むのは遊びですよ。いまツルちゃんに頼んでいるのは、もっと厳粛な人生ですよ。ビジネスだよ。処女の羞いやタシナミをある点まで犠牲にすることを要求された社命の仕事なんだよ。ツルちゃん以外にはやれない難物の仕事なんだよ。だから、覚悟をきめて、やってくれたまえね"
],
[
"アッ、いけねえ。ベッ、ベッ、ベッ",
"アラ、どうしたの",
"どうもこうもあるもんか。こんな小便くさい催眠薬があるもんか",
"これ、催眠薬なの",
"アドルムてんだよ。ちかごろ文士が中毒を起していやがる奴よ。よッぽどヒデエ薬らしいが、こんなクサイ薬をのむとは文士てえ奴は物の味のわからねえ野郎どもだ。これじゃアカクテルへ入れて飲ませたって、わかっちまわア。ほかの催眠薬を買ってきなよ"
],
[
"アラ、そんな。おあやまりになること、ないんですわ",
"ハ。イヤ。まことにザンキにたえません",
"なにをザンキしていらっしゃるんですか",
"まことに、どうも、シンラツなお言葉で。実は、なんにも記憶がありませんので、ザンキいたしております。以後心掛けを改めますから、なにとぞゴカンベン下さい",
"じゃア記憶のないときザンキにたえないことを時々なさるのね",
"まことに面目ありません。今後厳重に心を改めます",
"えゝ、改心なさらなければいけませんわ",
"ハア、御訓戒身にしみて忘れません"
],
[
"でも、あやまること、ありませんわ。私、接待の当番にあたって、これが社用ですから、あれぐらいのこと、我慢しなければいけませんのよ",
"あれぐらいッて、どんなことですか",
"昨夜のようなことですわ"
],
[
"失礼ですが、あなたは酒席のサービスが御専門で",
"マア、失礼な。婦人社員が順番に当るのよ。こうしなければクビですから、余儀なくやってることですわ",
"これはお見それ致しました。田舎者がとつぜん竜宮へまよいこんだようなもので、タエにして奇なる光景に目をうばわれて驚きのあまり申上げたゞけのことで、けっしてあなたの人格を傷けようとの下心ではございません",
"田舎者だなんて、ウソおっしゃい。諸所方々でザンキしていらっしゃるじゃありませんか。大方コルサコフ病でしょう",
"これは恐れいりました。しかしアタクシもまことに幸運にめぐまれました。選りに選って、あなたのように麗しく気高いお方の順番に当るなどとは身にあまる光栄で、一生の語り草であります",
"お上手、おっしゃるわね。でも、私だって、あなたの順番にまわって、うれしいわ。なぜって、ウチのお客様、たいがいイヤらしいヤミ屋ですもの"
],
[
"お酒、ちょうだい。あなたも、いかゞ。サカモリしましょうよ",
"あなた、お酒のむんですか",
"えゝ、のむわよ。一升ぐらい。でも、洋酒の方がいゝわね。ジンがいいわ"
],
[
"あなた、そんなに召しあがっていいのですか",
"ヘイチャラよ。こんなもの、一瓶や二瓶ぐらい。さア、飲みっこしましょうよ。私が一パイのんだら、あなた三バイ召しあがれ",
"ハア。アタクシは三バイでも五ハイでも飲みますが"
],
[
"サルトルさん、箱根の裏山に阿片を埋めてらっしゃるって、ほんと?",
"これは驚きましたな。どうして、そんなことを御存知ですか"
],
[
"みなさん知ってますわよ。そんな話に驚いてたら、この会社に勤まらないわ。ウチじゃア、帝銀事件ぐらいじゃ、驚く人はあんまりいないわね。マル公で売ったり買ったりする話だと、おどろくわ",
"なるほど。聞きしにまさる新興財閥ですな",
"男の方って、羨しいわね。密林へ阿片を埋めたりなんかして、ギャング映画ね。サルトルさん、ギャングでしょう",
"これは恐れいりました。アタクシはシガないヤミ屋で、ギャングなどというレッキとしたものではございません",
"ウソついちゃ、いや。白状なさいな。私、そんな人、好きなのよ",
"これは、どうも、お目鏡にはずれまして、恐縮の至りです",
"そんなんじゃ、ダメよ。ウチの社長や専務たち、機関銃ぐらい忍ばせてくわよ。いゝんですか。サルトルさん",
"それは困りましたな。アタクシはもう根ッからの平和主義者で",
"ウソおっしゃい!",
"なぜでしょう",
"顔色ひとつ変らないじゃありませんか。雲隠さんぐらいのチンピラなら、機関銃ときいて、血相変えて跳び上るにきまってるわ。あなたは相当の曲者よ",
"それはまア機関銃にもいろいろとありまして、あなたのお言葉に現れた機関銃でしたら、雀も落ちませんし、アタクシも顔色を変えません",
"あなたは分って下さらないのね。ウチの社長や重役は、それはとても悪者なのよ。密林で取引してごらんなさい。殺されるのはサルトルさん、あなたよ",
"殺されるのは、いけませんな。これはどうも、こまったな",
"それごらんなさい。怖しいでしょう。ですから、本当のことを、おっしゃいな。サルトルさんも、大方、だますツモリでいらしたんでしょう。阿片なんか埋めてないんでしょう。おねがいですから、白状してよ。私が力になってあげますから",
"あなたのお力添えをいたゞくなどとは身にあまる果報ですが、残念ながらアタクシはシガないヤミ屋で、物を売ってお金をもうけるだけのヤボな男にすぎません。とても映画なみには出来ませんので",
"じゃア、阿片を売ったら、ずいぶん、もうかるでしょう",
"それはまア私の見込み通りの取引ができますなら、相当のモウケがあるはずですが、新興財閥はどちら様もガッチリ無類で、思うようにモウケさせてはいたゞけません",
"私がお役に立ってあげたら、あなたのところで私を使って下さる?",
"アタクシのところと申しましても、アタクシはシガないヤミ屋で",
"阿片を売って二千万もうかれば立派な会社がつくれるではありませんか",
"まさにその時こそはアタクシも一国一城のアルジですな。おっしゃるまでもなく、その時こそはサルトル商会の一つや二つひらきたいものです",
"すごいわね。私がお手伝いしてさしあげれば成功するかも知れないのよ。いゝえ、きっと成功するわ。ですから、サルトルさん、私を重役にしてちょうだいな。資本金二千万円か。財閥というワケにはいかないわね。でも重役なら悪くないな。平社員じゃイヤよ。私の力でかならず成功させてあげますから",
"これは有りがたきシアワセです。それはもう一国一城のアルジとなりました上は、重役はおろか、わが社の女神としておむかえし、犬馬の労をつくさせていたゞきます",
"あなたは冗談なのね。笑ってらっしゃるわね。どうしてマジメにきいて下さらないのよ。私、シンケンなんです。天草商事なんて、大キライ。こんなところに働くのはイヤなんです。私の言うことマジメにきいてちょうだい。そのかわり、私も本当のことを言いますわ"
],
[
"そうですか。あなたがそこまで打ちあけて下さる上は、アタクシも何を隠しましょう。御明察の通り、阿片などは富士山から箱根山をみんなヒックリかえしても、一グラムも出てきません",
"アラ、そんなこと、なんでもないわ。天草商事なんて悪徳会社はウンとだましてお金をまきあげてやるがいゝわ。とても悪漢よ、この会社は。私がお手伝いして二千万円まきあげてやるわ"
],
[
"アラ、そんなこと、なさらないわ",
"じゃア、どうしたのさ。どうかしなければ、判断のしようがないもの、そこをハッキリ云って下さいよ。ねえ、ツルちゃん",
"どんなことって、言葉だけではハッキリわかるはずありませんわ。でも、私には埋めた阿片見せて下さるって仰有ったわ。私、箱根へ行って、見てきます",
"なるほど。しかしツルちゃん、あなた阿片見たことあるの",
"いゝえ",
"それじゃア、なんにもならないや。誰か阿片の識別できる人を連れてくように頼んでくれなくちゃア",
"あからさまに、そうは言えないわ。サルトルさんは、私が好奇心で見たがってると思ってらっしゃるでしょう。識別なんてことを云えば、見破られてしまうわ",
"なるほど。そうだな",
"雲隠さんでしたら、今までの行きがかりで、変じゃないから、一しょに見せて下さるように頼んであげていゝと思うわ",
"それだ。それに限るが、雲さんや。キミ、阿片見たことある?",
"見たことあるかッて、バカにするない。雲隠大人といえば、中国じゃア鳴らした顔だい。阿片ぐらい知らなくって、どうするものか。黒砂糖みたいなもんだよ",
"フン、そうかい。こいつは都合がいゝや。じゃア、ツルちゃん、サルトルをうまくまるめて、二人で見とどけて下さいね"
],
[
"私、おねがいがあるのよ。箱根へ行ったら助けていたゞきたい人があるの。今マニ教にカンキンされているんですけど",
"ハヽア。なるほど。寝小便の重役ですな",
"えゝ、そうよ。でも重役というのは、ウソなのよ"
],
[
"天草商事のチンピラときたら、それはとても残酷な悪漢なのよ。あれほど利用しておきながら、助けてあげる計画などは相談したこともないのよ",
"なるほど。きけばきくほど、骨の髄からの新興財閥ですな",
"あんな悪者たち、いけないわ。私たちは善人だけの会社をつくりましょうよ。そして、正宗さんを本当の重役にしてあげましょうよ。心の正しい、お人好しなのよ",
"しかし我々の計画は善良なものではありませんな",
"そんなことなくってよ。はじめてお金をもうける時は、どんなことをしてもいゝのよ。お金ができてから、紳士になるのよ。それが当然なのよ"
],
[
"イヤ、どうも。敵もさるもの。一筋縄では手に負えぬ曲者です。アタクシも社長に広言をはいた手前がありますから、かくなる上は討死の覚悟で一戦を交えることに致します。いさゝか戦闘は長びきますが、当分の間、アタクシをこの仕事に専念させていたゞきたいので、一向に華々しい戦果もあげえず、ムダに時間のみ費して恐縮ですが、アタクシも後へひくわけには参りません。戦果なき時は、いさぎよく責任をとりますから、ここはアタクシに一任していたゞきたく存じます",
"よろしい。キサマを見込んで一任するが、立派にやってみい。オレは東京へひきあげるから、後はまかせる。しかしキサマ、すごい美形をつれてきたそうだな",
"ハア。あれなる美形は敵の間者で",
"間者?",
"シッ。声が高い。アタクシの眼力に狂いはありません。敵の策にのると見せて、当地へつれて参りましたが、間者というものは、これを見破っている限り、これぐらい調法な通信機関はありませんな。こちらで、こう敵方へ知らせたいと思うことを、ちゃんと敵方へ報告してくれます",
"ミイラとりがミイラになるなよ。キサマの相には、女に甘いところがある。見るに堪えないところがあるぞ",
"ハハッ。相すみません。充分自戒しておりますから、御安心のほどを"
],
[
"ナニ、正宗のことについて、話があるとな",
"ハッ。実は社長に後事を託されまして、命によって伺いましたが、天草商事も左前の様子で、身代金がととのわず、社長も間に立って困却しております",
"イヤ、それはイカン。身代金というものは神示によって告げられたもので、神の御心である。神の御心であるから、俗界と違って、ビタ一文、まけるわけには参らぬ。左様な不敬は相成らぬぞ",
"それはもう重々心得ておりますが、俗に無い袖はふれぬ、と申しまして、神界と俗界の結びつきは、まことに、むつかしゅうございますな",
"しかし正宗には当方も困却しているぞ。匆々に身代金をたずさえて引きとってくれなければ、当方も迷惑である",
"ハハア。例の寝小便ですな",
"イヤ、そのような生易しいものではない。正宗が神の術を使いよるので、こまる",
"神の術と申しますと?",
"魂を抜きよるので困っておる",
"なるほど。魂がモヌケのカラというわけですな。抜いてやりたくても、アトがないというわけで。なるほど、神様もお困りでしょう",
"そうではないぞ。正宗が人の魂をぬきよるのじゃ。若い者も、ミコも、みんな抜かれよる。よう抜かれるので、気味がわるい。参籠の信徒も抜かれる。神様の魂もぬいてくれるぞと喚きおってダダをこねよるから、これには閉口いたしておる"
],
[
"奇妙なことがあるものですな。神様の術を盗みましたかな",
"あるいは神様の分身であるかも知れぬが、荒ぶる神で、和魂というものが生じていないから、扱いに困却いたしておる",
"和魂を生じますと、ノレンをわけるというわけで",
"それはその時のことであるが、信徒の病気もよう治しよるので、ウチのミコも若い者も信徒も、一様に正宗を信仰しよるので困っておる",
"病気も治しますか",
"人の病気はよう治しよる。自分の寝小便は治しよらんから不思議であるな。あんまり術がよう利きよるので、薄気味わるうて、かなわんわ。お前の方で尽力して、匆々正宗をひきとるようにしてくれぬと、マニ教の統率が乱れて、まことに迷惑千万である",
"それはお困りのことゝ拝察いたしますが、それでは匆々に追放あそばしてはいかゞで",
"神慮によって定められた身代金であるから、そうは参らぬ。正宗を放逐したいのは山々であるが、彼によって幾重にも迷惑いたしておるから、益々取り立ては厳重であるぞ",
"正宗さんのお部屋はどちらで?",
"一室にカンキン致してある。奴メがオツトメの座へ現れよると、一同の魂をぬきよるので、こまる。守衛をつけてカンキンしても、守衛の魂をぬいて出て来よるので都合が悪いな。やむえず大工をよんで座敷牢をこしらえたが、このために五万円かかっているから、これも天草商事から取り立ててもらわねばならぬぞ。しかし奴メは座敷牢の格子越しに術を施しよるので、まことにどうも扱いに困却しているな",
"それはお困りのことですな。相済みませんが、アタクシに対面させていたゞけませんか",
"さしひかえた方がよいぞ",
"一目見せていたゞかなければ、社長に報告ができません。又、天草商事から身代金をととのえて迎えに来ました折に、みんな魂をぬかれたとなっては由々しい大事で、箱根の山が降りられません。ぜひとも対面を許していただきたく存じます"
],
[
"天草商事だと?",
"ハッ。イヤ。アタクシは天草商事の者ではございません。石川組のサルトル・サスケと申します青二才で。お見知りおきの程、ねがいあげます",
"キサマ、なんの用できたか",
"ハッ。社長の命によりましてな。実は、御存知かと思いますが、石川組の社長はマニ教の大の信者でありまして、当神殿に参籠のみぎりコチラサンをお見かけ致したと申しております。それでまア、正宗常務ともあろう御方がカンキンのウキメを見ておられるのはお気の毒であるから、アタクシに命じまして、アタクシは目下、天草商事と掛け合いまして、コチラサンの救出運動につとめております。なにがさて、マニ教から百万円の身代金を要求いたしておりますので、思うようにはかどりませず、長らく御不自由をおかけ致しまして、まことに申訳ございません"
],
[
"オイ。オレを天草商事へつれて行け。早くせえ",
"ハッ。たゞ今すぐにはできませんが、追々、そのように、とりはからいます",
"早く、せえ! コラ!",
"ハ"
],
[
"さて、雲さんや。雲隠大人の眼力をもって、よッく、ごらん。これなる物質は何物なりや。そのものズバリ。いかが",
"ウーム"
],
[
"みんなホンモノの阿片じゃないか。エ、オイ、おどかしやがる",
"ハッハッハ。嘘だと思っていらっしゃるから、いけません。サルトルの一言、常に天地神明にちかって偽りなし",
"雲隠さん!"
],
[
"ほかのカンも調べてみなければ、ダメよ",
"ウン。しかし、この一カンだけでも莫大な財宝だ。なんだか、夢みたいな話だよ。薄気味がわるくて仕様がねえや"
],
[
"どうも、いけねえ。ワシア、負けた。よう、言わんわ。大泥棒め。凄い物を掘りあてやがったな。証拠物件。見せなきゃいけないから、一とつまみ、もらってくぜ",
"オットット。そうは、あげられない。これだけで、タクサン"
],
[
"今晩のうちに、場所を変えておかなきゃいけない。天草商事さんは紳士でいらッしゃるから",
"バカ言え。キミみたいな大泥棒とは素性がちがってらア",
"大泥棒はないでしょう。イントク物資をテキハツしたにすぎんですな",
"うまいことを、やりやがったな。イマイマしい野郎じゃないか",
"ハッハッハ。やくべからず。駅まで自動車で送ってあげるから、早いとこ、東京へ帰っておくれ。どうも箱根においとくと、あぶない"
],
[
"一しょに箱根へ戻らないか。一カン盗んで帰ろうよ。これから自動車で急行するんだ",
"いけないわ。そんなこと",
"バカだなア。キミは。土の中に埋められている阿片は誰にも所有権がないのさ。それを持って帰って所持している者に所有権が生じるだけさ",
"あなた一人で掘りだしてらッしゃい",
"それは掘りだすのはボク一人だけでやるさ。ツルちゃんは旅館で待っといで。ね。ボクはたちまち大ブルジョアだぜ。だから、ツルちゃん。ボクと結婚してくれよ"
],
[
"泥棒してお金持になりさえすれば、私が結婚するものと仰有るのね。ずいぶん侮辱なさるわね",
"チェッ。ダイヤモンドに目がくらむのは貫一お宮の昔からの話だぜ。美人にはブルジョアを選ぶ力があるのさ。お金と結婚することは女の名誉だい。頭が古いぜ",
"お金と結婚なんかするものですか",
"チェッ。キゲンなおしてくれよ。とにかく降りて、ゆっくり話し合おうじゃないか",
"社用はどうするのよ。義務を果すことを知らない人はキライ",
"バカだなア。社へ帰って報告してみろよ。天草商事ともあるものが、金を払って土の中の阿片を買うものか。土の中のものは掘りだして持って来たものに所有権があることを、たちまち実行してみせてくれるだけの話さ。どうせ人がやるものなら、こッちが先にやるのが利巧さ。社の方へは、ニセモノの阿片だったと報告しておきゃ、いいんだよ"
],
[
"人を悪事に誘うのは、よしてよ。一人で、はやく引返して、ブルジョアになりなさいな。私、社へありのまま報告します",
"チェッ。つまらねえの。そんなのないや",
"ないこと、ないでしょう。一足先に、ブルジョアになれてよ。早く、ひっかえしたがいいわ。さア、はやく",
"ツルちゃんが不賛成なら、ボクも、よすよ",
"私のせいにすることないでしょう"
],
[
"明日の午ごろ、小田原の例のところへサルトルを案内しろよ。そこで商談するからと云って。二時ごろまで、ひきとめといたら、いいだろう。それまでには、阿片を掘って、帰れるだろう",
"そんなの、ないや"
],
[
"八時か九時まで、ひきとめとくだけでタクサンだよ。あんな遠い山林の奥まで、夜中に行く奴、居やしねえや。埋めかえるなら、今日の昼のうちに、早いとこ、やってらア。ツルちゃん、タチバナ屋へ泊らずに、ほかへ宿をとりな。明暗荘がいゝや",
"サルトルさんは、紳士よ"
],
[
"アッハッハ。さては、雲さんや。ツルちゃんを口説いたね。いけないよ。ねえ。重大なる社用に際して、軽挙盲動は、つつしまなきゃアね。サルトル氏を見習えよ",
"バカ云うんじゃないや。ツルちゃんは、知らないのさ。サルトルは、ただの鼠じゃないぜ。阿片はホンモノだったけど、信用できる男じゃないんだ"
],
[
"アッハッハ。そんなことだろうと思って、もう、イタズラしておきました",
"なにを、なさったの",
"明日、お歴々、あそこを掘ると、アッと驚きます。慾深い人が穴を掘って、よかったタメシはありません。どうしても、私のところへ、智恵を借用に来なければならなくなります"
],
[
"サルトルさん。もう、悪事は、よして",
"エッ。悪事?",
"ええ、悪事よ。今、なさっていること、悪事よ。人をだまして、お金をもうけては、いけないわ。そんな二千万円よりも、二千円のサラリーがどれくらい尊いか知れないわ",
"それは、仰有る通りです",
"天草商事の悪者たち、二千万どころか、二千円だって、支払うものですか。泥棒ですもの",
"まさに御説の通りですとも。それゆえ、雄心ボツボツ。支払う筈のない旦那方に、必ずや支払わせてみせるというタノシミが生れてくるのですな",
"そんなの、ヤセ我慢の屁理窟よ。悪者をこらしめるのは結構ですけど、こらしめるだけでタクサンだわ。お金もうけをそれに結びつけるなんて、卑怯な考え方よ。たぶん、高利貸の思想よ",
"なるほど",
"あなたは、もっと、立派な方です。正しい方法で、成功できるお方なのよ。同じ努力ではありませんか。ギャングのスリルを愛すなんて、よこしまな人生よ"
],
[
"御訓戒、身にしみて忘れません。サラリーマンでも土方でも、御指図通り、なんでも、やります",
"うれしいわ"
],
[
"ハ。こらしめるというと?",
"悪漢はとッちめてやる必要があるのよ。つけ上らせちゃいけないわ。名案、考えてちょうだい。あなたには、あの悪者たちをこらしめる力が具ってるのよ",
"そうですかな。お金をまきあげちゃアいけないルールですな",
"そうよ。腕力も、いけなくってよ",
"新ルールは、むつかしい。エエと。御期待に添わずんば、あるべからず"
],
[
"オイ。シッカリしろ。まだ見当がつかないのか",
"よせやい。いつもと別の方向から忍びこんできたんだもの、カンタンに見当がつかねえや。第一、サルトルを甘く見ちゃ、いけないよ。ツルちゃんを張りこませたって、どうなるものか。埋めかえなら、早いとこ、昨日の昼うちに、やらかしてるよ。アイツのすばやいッたら、ありゃしねえや",
"アッハッハ。ツルちゃんが心配で、目がくらんでやがら。仁丹でも、やろうか",
"よけいなお世話だ"
],
[
"雲さんよ。ほってくれよ",
"バカにするない。オレは案内人だい。半平、自分で、ほりやがれ",
"ハッハッハ。雲さんゴキゲンナナメだね"
],
[
"もっと掘れ。ワンワン",
"ウーム"
],
[
"チキショウメ。してやられたか。しかし、そうだろうな。これぐらいのサテツは覚悟してなきゃアいけないよ。品物が品物だもの。サルトルさんもムザとは渡すまいさ。戦意ボツボツ。戦いは、これからさ",
"もっと掘れ、とあるから、まア、掘ってみろ。敵の策は見とどけておけ",
"ウン、そうだ"
],
[
"よろしい。しからば、いよいよ、小田原合戦だよ。ツルちゃんが待ってるだろう。雲さんや、ツルちゃんに、じき、あえるぜ",
"よしやがれ。あいたいのは、テメエじゃないか"
],
[
"ハイ、映画見物におでかけです",
"なるほど。ボンヤリ待ってもいられないだろうな"
],
[
"ヤ。まことに本日は遠路のところ御足労で。社長はじめ重役陣、直々の御来臨、光栄この上もありません。わりに、早いお着きで、恐れいりました",
"アッハッハ。サルトル君は月並なシャレが好きですね。しかし、あなた、動物学上、ガマはガマ、カエルはカエルでしょう",
"イヤ、恐れいりました。無学者で、いつも恥をかいております",
"しかし風流を好む精神は見上げたものですよ。バクダンを仕掛けておくとか、人糞を埋めておくとか、えてしてやりがちなものだけど、あなたは風流ですねえ。しかしボクでしたら、一もとの山吹をいれてね。花はさけども、実の一つだになし。山吹の里の故事かなんか、もじりたいところですね。ガマはちょッと、グロテスクではないでしょうか",
"ヤ。まったく赤面の至りです。以後は深く気をつけることに致します",
"ここ掘れワンワンだから、灰を入れておくのも面白かったかも知れませんね。しかし、蛇や毒虫のはいったツヅラを埋めておかれなくて、助かりましたね",
"とても、そこまでは手が廻りません。蛇も毒虫もキライでして、とてもツヅラにつめる勇気がありません。ガマ一匹が精一パイのところで",
"では、サルトル君。一場の茶番を終りましたから、改めて商談にはいりましょうよ"
],
[
"ボクの方は第一回目の宝探しに負けましたから、今度はサルトル君の提案に応じましょう。阿片と金を交換する場所と時日について、あなたの条件をきかせて下さい",
"そう仰有っていただきますと、恐縮いたすばかりです。先日も申上げました通り、私は宿命論者でありまして、この仕事は私ひとり、相棒がおりません。多勢に無勢ということがありますから、どんな条件をだしましたところで、してやられる時は、してやられます。まア、人が見たらガマにするぐらいのことはできますが、皆さんがこうと覚悟をきめられた上は、私がガマにされるだけの話でざんすな。これを宿命と申しまして、この危険を承知の上で、相棒なしに乗りかけた仕事ですから、余儀ない宿命であるならば、ガマになって果てましょう。二千万円か、ガマか、私のようなガサツ者には手頃な宿命でざんすな。もう、もう、決して、どなたも恨みはいたしません"
],
[
"ハハア。なるほど。あなたはイサギヨイ方ですねえ。しかし、ボクらも宝探しはやりましたけど、風流のタシナミもありますから、さっきもお話しましたように古歌の志を忘れませんよ。もっとも和歌に秀でた武人もいますが、ボクらは戦争はもうタクサンですから、憲法の定むる通り、戦争ホウキですよ。あなたの方で交換の場所と時日を示して下さい。若干の平和攻勢はいたしますが",
"平和攻勢と仰有いますと",
"つまりですね。ネギルとか、分割払いとか、そういう商取引上の慣例による攻勢ですね。これは仕方がありませんね",
"なるほど、よく分りました。私は宿命論者ですから、一度きまった宿命を変える意志を所持しておりません。それで、先日お約束申し上げました通り、皆様方のお好きな時日に、ホンモノの阿片を埋めた地点に於きまして、取引する気持に変りはございません。皆様方の平和攻勢の方をうかがわせていただきましょう",
"千万で、いかが"
],
[
"宿命は、変えられません。二千万か、ガマか",
"なるほど、宿命論をお見それして、すみませんでしたね。それでは、二千万として、分割払い",
"分割払いと申さずに、分割売りと申すことに致しましょう。正確に金額の分量ずつ販売いたしますのが当店の方針でざんす",
"お堅い商法で、結構です。それでは、さっそく、本日、十万円だけ、いただきましょう。あんまり少額で失礼ですが、よろしいですね",
"それは、もう、いったんお約束の上は、万事宿命でざんして、十万円でも、本日さッそくでも、イヤとは申しません。これから出かけますと、いくらか暗くなりますが、これも宿命、ツユいといは致しません。では、さッそく出発いたすことにしましょう"
],
[
"私は?",
"そうだなあ。紅一点まじる方が風流で、サルトル君も安心なさるでしょうね"
],
[
"イヤ、イヤ。夕闇の山林中の秘密の取引に、可憐なお嬢さんをおつれ致すのは、かえって風流ではありません。お嬢さんは箱根の旅館で待っていただくことに致しましょう",
"じゃア、ツルちゃんは、ここで待ってるのがいゝや。箱根まで行くこと、あるもんか"
],
[
"どうも、お手数をおかけ致しまして、ありがたきシアワセに存じます。天草商事のお客様方をお連れ致してございます",
"まことに御苦労であった"
],
[
"どうです。なんとか苦面して、三百万円、届けては。わが社も左り前だが、マニ教探訪記で大いに雑誌をうり、つづいて、社長一行監禁ルポルタージュを連載する。半年もつから、三百万円もうけるのはワケがないでしょう",
"それはワケなくもうけますな。ころんだ以上、タダは起きない社長ですからな。しかしですな。人のフトコロからもうけてくれる分には差支えがないのですが、三百万円損したから社員の給料一年間半額などとね。やりかねませんな",
"なるほど"
],
[
"オイ、どうした。君、ひとりか",
"どうした、なんて、落付いてちゃ、いけませんよ。みんな取り殺されてしまうじゃないか。いくらハゲ頭ばッかり残ったって、智恵がないッたら、ありゃしない",
"とんでもないことを言うな。毎日使者を差向けているぞ。今日も一人行ってるはずだ",
"チェッ。毎日使者を差向けて、毎日追い返されてりゃ、世話はねえや。一時間のうちに百万円つくってくれよ。すぐ届けなきゃ、三人命の瀬戸際だから",
"百万円でいいのか",
"チェッ。大きなこと、言ってやがら。いくら命の瀬戸際だって、商魂を忘れちゃ実業家じゃないよ。息をひきとる瞬間まで値切ることを忘れないのが商人魂というものだよ。ダテにハゲ頭光らせて、みッともないッたら、ありゃしねえ。大至急、百万円、つくってくれよ"
],
[
"百万円といえば一荷物だが、これをリュックにつめて行くかね",
"バカ云っちゃ、いけないよ。かつぎ屋じゃあるまいし。紳士の体面にかかわらア。トランクにつめてくれよ。一個じゃ重いから、二個にしてくれ"
],
[
"ボクを東京へやって下さい。こちらの条件をきかせて下さい。かならず御満足のいくようにはからいます",
"よせ!"
],
[
"不敬者め。神の怒りの程が肝に銘じおったか",
"ハイ。深く肝に銘じました。あとの三人はまだ肝に銘じないようですが、あんな不逞のヤカラと同列にされては困ります。こんな苦しみをするぐらいなら、財産半分なくした方がマシです。どんな条件でも果しますから、東京へやって下さいな",
"本日中に五百万円もってくるか",
"五百万円ぐらい、わが社の一日の利益にすぎません。こちらの取引銀行は?",
"コラ! キサマ、デタラメ云うな。毎日のように社員が日参しおって、同じ返事をきいて帰りながら、すでに一週間もすぎるのに、一文の金を持参したこともないではないか",
"それは当り前です。なぜって、わが社の幹部全員がここに監禁されていますから、あとに残された連中は金を動かすことができません。ボクが帰れば五百万でも一億でも平チャラです。使者の社員も、かならず、そう申し上げていることと思いますが",
"キサマ一人で、マチガイなく、できるか",
"できますとも。二人三人の人手のかかる仕事ではありません。第一、ほかの三人が不逞の心を改めるまで待っていたら、皆さんもシビレがきれてしまいます。あの三人のガンコなことときたら、話になりません",
"今日中に戻ってくるな",
"戻ってきますとも。五百万円ぐらいには代えられません。あの三人が居ないと、社の仕事にさしつかえます。仕事にさしつかえると、一日五百万円ぐらいずつ、穴をあけますから"
],
[
"よろし。今日中に、きっと、マチガイないな",
"そんなの、云うまでもないです。しかし、五百万円もってきたら、きっと、あとの三人を釈放してくれますね。嘘つかれたんじゃ、ボクは世間の信用を失って、失脚しなきゃなりません",
"だまれ! 神の使者が嘘をついてたまるか。即刻立ち帰って、五百万円持参せえ",
"ハイ"
],
[
"御神示を復唱してみい",
"ハッ。天草商事の全社屋、全事業、全財産を差しあげてお許しを乞いましたところ、おききゆるし下され、東京へ遷座し、かしこくも天草商事本社を神殿として御使用下さる由申渡されました。社の事業、全財産のみならず、私物一切奉納して、奉公いたします。皆様の宿舎には、社の寮、私の私宅、全部提供いたします",
"コウーラッ!"
],
[
"東京へ御遷座の由、おめでたき儀で、慶賀の至りに存じあげます",
"イヤ、これもお前の働きによるところであるから、過分に思うぞ。石川長範は健在であるか",
"ハ。実はワタクシ石川組を円満退社いたしまして、その後は石川社長にも御無沙汰いたしております。本日参上いたしましたのは余の儀ではありませんが、御遷座に当って、かの正宗菊松をお下げ渡し願いたいと存じますが",
"ヤ。あの男ならば、もはや用はない。当方も処置に困っていたところであるから、遠慮なく連れて行くがよい",
"これは有りがたきシアワセに存じあげます。御遷座の上は、ワタクシも東京におりまするから、御用の折は遠慮なく申しつけて下さいますよう。フツツカながら、犬馬の労をいといません",
"ウム。信徒に非ずとはいえ、お前の志のよいところは神意にかのうている。時々遊びにくるがよい",
"ハハッ。ありがたきシアワセに存じ上げ奉ります"
],
[
"なア、オイ。ウチの社長のような、ガッチリズムの冷血動物がマニ教になったかねえ。わが社をそッくり奉納したには困ったな。我々は神の下僕だとよ",
"笑ってちゃ、いけないよ。神の下僕、信徒ときたからには、月給は払わないぜ",
"なるほど",
"雲隠の奴に百万円だまされて、キミもたしか、貯金をおろしたようだが",
"ワッ。いけねえ。オイ、ふざけるな。かえせ",
"オレに返せたって、ムリだよ",
"ウーム"
],
[
"いったい、どうして?",
"あら、おめざめ",
"イヤ、ここは、どこだ?"
],
[
"わからないなア。ここはどこだ? お前は、いつ、来たのだ?",
"アラ、前に話してあげたじゃありませんか。それに、おめざめのたびに、毎日、たのしく話し合っていたじゃありませんか。覚えてらッしゃらないのですか",
"全然、覚えがないね。ええと、そうだ。わかった!"
],
[
"ここは箱根だ! 箱根の底倉だ! しかし、まてよ。あの旅館は、たしか、明暗荘と云ったな。あそこには、ベッドはなかったぞ。ああ、分った。ボクは病気をしたのだね。ここは箱根の病院だ。昨日まで、箱根にいたのだから。しかしもっと眠ったかな。二日ぐらい眠ったのかね",
"まア本当におめざめね、そして、昨日までのことは、御存知ないのね"
],
[
"あなたは本当に全快なさったわ。先生の仰有った通りだわ。本当に眠りからさめた時はキレイに全快していますッて。あなたは一ヵ月の余も眠りつゞけていらしたのよ",
"そんな、バカな",
"イイエ、本当です。病院の先生が、薬で眠らせて下さったのです。持続睡眠療法と云いましてね。ズルフォナールという強い催眠薬を毎日ドッサリのませて、昏々とねむらせて下さったのです。その期間に、食事もとるし、便もとり、時には話も交すことがあっても、夢うつつで記憶にないということを先生も仰有ってましたが、時々あたりまえに話をなさるので、マサカと思っていました。しばらく前に服薬を中止して、葡萄糖の注射で眠りをさましていましたから、今日、明日ごろ、正気にかえると先生のお話でしたが、本当に全快なさったのよ",
"信じられん。ここは箱根だろう",
"イイエ。東京です",
"嘘だろう。ちょッと、今日の新聞を見せたまえ"
],
[
"どうも、わからん。一ヵ月半。いや、二ヵ月ちかくも",
"そうですよ。その間中、ねてらしたのよ。そして全快なさったのよ",
"全快って、いったい、何が?",
"今はおききにならないで。そんなこと、なんでもありませんのよ",
"しかし、お前たちは、どうして、ここに来たのだ。そして、どこに泊っているのだ。お金は、どうしている?"
],
[
"親切に、報らせて、呼びよせて下さった方は、この部屋にいらっしゃいます。あなたは、もう、貧乏ではありません。巷談社の重役です。莫大な月給をいただいています。私がいただいて貯金してある賞与だけでも、三十何万円とあります",
"巷談社?",
"ええ",
"重役だって? ボクが? あれは一時のカラクリだ。そして、あれは、天草商事だ。アア、みんな思いだしたぞ。ボクはマニ教の神殿へ監禁された……",
"そうですよ。天草商事はつぶれました。そして、マニ教から、あなたを救いだして下さった方が、新しい会社を起して、それが巷談社です。ツル子さん、いらして"
],
[
"すみませんでした。お恨みをうけるのが、当然ですわ。私たち、自分の功名にあせって、一人のお方に悲しい思いをかけることを忘れていました。それが地獄の責苦よりも悲しい苦痛だということを……",
"ツル子さん。よして! あなたは天使です。どうして、あなたが、悪いものですか。逃げおくれた正宗の運が悪るかったのです。もう、こんな話は、よしましょうね。お父さんが退院して、元気が恢復してから、笑い話に思い出を語り合う時がきますわ。それまでは、何を思いだしても、いけませんのよ。あなた、ツル子さんに、お礼、仰有ってちょうだい。私たちの一家を助けて下さったのです。あなたを救いだして、重役にして下さったのも、このお嬢さんですよ"
],
[
"そうですか。どうも、ボクには、よく分らないが、巷談社の社長の方は、天草商事の方ですかな",
"イイエ。サルトル・サスケさん",
"サルトル・サスケ? 雲隠才蔵とちがいますか",
"イイエ。天草商事に関係のない方です"
],
[
"サルトルさんは、私のフィアンセです",
"ツル子さんも、巷談社の重役ですのよ。あなたが専務。こちらが常務。ワケは、いずれ、ゆっくり話しますから、一度アリガトウ、と仰有い。今日があなたの新しい人生よ。そして、すこし、休みましょう。全快はしても、催眠薬の影響で、身体が衰弱しているから、それが恢復するまでに、あと一ヵ月ぐらい静養しなければならないのよ",
"そうか。そうか。心配をかけて、すまなかった。そう云えばわかったような気がする。ボクが愚かで、意気地なしだから、いろいろ御迷惑をかけお世話になったに、きまっている。たしかに、そうにちがいない",
"いいえ、そんな",
"イヤ、ツル子さん。わかっています。あなたは、たしかに、心の正しいお方だ。お世話になって、すみませんでした"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部 第一巻第八号~第二巻第三号」
1949(昭和24)年8月1日発行~1950(昭和25)年3月1日発行
初出:「講談倶楽部 第一巻第八号~第二巻第三号」
1949(昭和24)年8月1日発行~1950(昭和25)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:狩野宏樹
2009年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043162",
"作品名": "現代忍術伝",
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"あんまり美しすぎて誰も口説いてくれないといふ麗人の場合があるさうだけど、信ちやんなんかも、その口かい? でも、ずゐぶん、口説かれたことだらうね。どんな風な口説き方がお気に召すのか、参考までに教へてくれないかね",
"プレゼントするのよ。古今東西",
"あゝ、なるほど。すると、うれしい?"
],
[
"そんな素敵な妖婦が日本にゐますかね。え? どうも、信じられない",
"いえ、本当よ。すくなくとも、二十人ちかい情夫があるわ。そして、信子さんは、どの一人も愛してはゐないのよ。あの人は愛す心を持たないのだわ。先天的に冷酷無情なのよ。生れつきの高等淫売よ、口説いたつて、感じないわよ。谷村さん",
"でも、それだつたら、口説きがひがあるぢやないか。え、谷村さん。面白いね。ぜひとも自爆するのだよ"
],
[
"信ちやんのやうな人でも香水などがつけてみたいの? 生地の魅力に自信がもてないのかしら",
"あなたはいつもだしぬけに意地のわるい今日はを仰有るのね。ふと私をからかつてやりたくなつたのでせう。今朝、目のさめたとたんに"
],
[
"信ちやんはなぜ飲まないの",
"私は欲しくないのですもの",
"理由は簡単明瞭か。いつでもかい?"
],
[
"いつでも喉のかわかない人がある?",
"もし有るとすれば、信ちやんだらうと思つたのさ",
"このお部屋ではどなたにもお茶を差上げたことがなかつたのよ。私もこのお部屋では、真夏にアイスウォーターを飲むことがあるだけ",
"なぜ僕にだけお茶を飲ましてくれるの",
"あなたはお喋りすぎるから"
],
[
"あなたは謎々の名人ね",
"なぜ",
"愛されるばかりで、愛さない者は誰? 信子。冷めたくて、人を迷はす機械は誰? 信子。永遠に真実を言はない人は誰? 信子"
],
[
"あなたの謎々は私が必ず悪い女でなければいけないのね",
"あべこべだ。僕は讃美してゐるのだよ",
"だから、悪い女を、でせう",
"悪いといふ言葉を使つた筈はないぜ。僕には善悪の観念はないのだから。たゞ、冷めたいといふこと、孤独といふこと、犠牲者といふこと、犯罪者といふこと"
],
[
"そんな讃美があつて?",
"信ちやんにだけは、さ。信ちやんだけが、この讃美に価する特別の人だからさ。ほかの人に言つたら怒られるが、それはその人が讃美に価するものを持たないから",
"あなたは私が怒らないと思つてる?"
],
[
"思つてゐる。信じてゐるよ",
"あなたは、私の絵が平々凡々で常識的だと仰有つたでせう。もしもそれが私の本当の心だつたら?",
"芸術は作者の心を裏切ることがないかも知れぬが、信ちやんの絵は芸術ではないのだからさ。お嬢さんの手習ひだから"
],
[
"あなたは驚くべき夢想家よ。でも、面白い夢想家だわ。無邪気な夢想家かも知れないわ。私を辱しめる罪を見逃してあげればのことよ。でも善良に買ひかぶられて取りすまさなければならないよりも、不良に見立てられてその気になつてあげるのも面白いわ。私は遊ぶことは好きですもの",
"それなんだよ、信ちやん。僕がさつきから頻りに言つてゐることは",
"まア、お待ちなさい。あなたのお喋りは"
],
[
"冬の風は、あなたに悪いのでせう",
"すぐにも命にかゝはることはないだらうと思ふけれどもね",
"なぜ、窓をとぢてと仰有らないの",
"信ちやんがそれを好まないからさ",
"あなたの命にかゝはつても"
],
[
"信ちやん。胸のお乳を見せておくれ、こんな細い、丸い、腰の美しさがあるなんて、今日まで考へてもゐなかつたから。僕は信ちやんのからだを、みんな見たい",
"えゝ、見て"
],
[
"信ちやん。僕は今度は君の衣服をつけた姿が怖い。今日も、これから、君の衣服をつけた姿を見るのだと思ふと",
"だつて、いつまでも、かうしてゐられないわ",
"僕はもう君の裸体を見てゐる時しか、安心できなくなるだらう。切ないことだ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四四巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
初出:「新潮 第四四巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
※表題は底本では、「恋をしに行く[#1段階小さな文字](「女体」につゞく)[#小さな文字終わり]」となっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月12日作成
2019年5月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042908",
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[
"何が大変だ",
"ウチの吾吉の野郎が女に惚れやがったんですよ。その女というのが、お寺の裏のお尻をヒッパタかれたあのパンスケじゃありませんか。情けないことになりやがったもんですよ。私もね、吾吉の野郎のお尻をヒッパタいてくれようかと思いましたけどネ。マア、和尚さんにたのんで、あの野郎に説教していただこうと、こう思いましてネ",
"あの女なら、悪いことはなかろう。キリョウはいゝし、色ッぽいな。すこし頭が足りないようだが、その方が面白くて、アキがこないものだ",
"よして下さいよ。私ゃ、パンスケはキライですよ。いくらなんでも",
"クラシが立たなくては仕方がない。パンスケ、遊女と云って区別をすることはないものだ。吾吉にはそれぐらいで、ちょうど、よいな",
"ウチの宿六とおんなじようなことを言わないで下さいよ。男ッて、どうして、こうなんだろうね。女は身持ちがキレイでなくちゃアいけませんやね。ウチノ宿六の野郎もパンスケだっていゝじゃないか、クラシが立たなくちゃアほかに仕方があるめえ、なんて、アン畜生め、いゝ年してパンスケ買いたいに違いないんだから。覚えていやがれ。和尚さんも、大方、そうでしょうネ。まったく、呆れて物が言えないよ",
"だから拙僧に頼んでもムダだ。私だったら二人を一緒にしてしまうから、そう思いなさい。罪なんだ",
"なにが罪ですか。いゝ加減にしやがれ。オタンコナスめ。けれども、ねえ。お頼みしますよ。吾吉の野郎をよこしますから、本堂かなんかへ引きすえて、仏様の前でコンコンと説教して下さいな"
],
[
"お前、裏の女の子と交ったかな",
"ハ。すみません",
"夫婦約束をしたのだな",
"イエ。それがどうも、女がイヤだと申しまして、私は気違いになりそうでございます。私があの女にツギこんだお金だけが、もう三十万からになっておりますんで。いッそ、あのアマを叩き斬って、死んでくれようか、と",
"コレコレ、物騒なことを言うもんじゃないよ。ハハア。してみると、お前さん、女を金で買ってみたワケだな",
"そうでござんす。お尻をヒッパタかれたパンスケだと申しますから、あんなに可愛らしくッて、ウブらしいのに、金さえ出しゃ物になる女だな、とこう思いまして、取引してみたら、案の定でさア。けれども知ってみると冷めたくって、情があって、こう、とりのぼせまして、エッヘ。どうも、すみません。頭のシンにからみこんで、寝た間も忘れられたもんじゃ、ないんです。よろしく一つ、御賢察願いまして、仏力をもちまして、おとりもちを願い上げます",
"バカにしちゃア口上がうまいじゃないか。冷めたくって、情があってか。なるほど。ひとつ、仏力によって、とりもって進ぜよう"
],
[
"実はな、漬物屋の倅にたのまれてきたが、あれはお前にゾッコン惚れているそうだ。お前がよければ結婚したいと云っているが、そちらの都合はどうだね",
"こちらは、都合がわるい",
"イヤにハッキリ物を言う子だね。お前さんは不都合かい",
"私もお父さんにお尻をヒッパタかれて、そのせいでお父さんが寿命をちゞめたからには、意地でもパンパンで一生を通さなければなりません。通してみせます",
"これは、ちかごろ、勇ましいことをきいたものだ。武士は額の傷を恥じる。支那で面子というな。顔が立つ立たないとは昔からきいているが、当世の女流はお尻で顔を立てるのかい",
"そんなことは知りませんが、弟や妹を養って行かなければなりませんから、ショーバイはやめられません。まして御近所の人たちはパンスケ、パンスケって、人の顔をジロジロ睨むんですから、こんな意地の悪い人たちのところへお嫁入りなんてできません",
"それは、もっともだ。しかし、吾吉と結婚したくないのは、吾吉がキライのせいではなくて、お前さんの意地のせいだね",
"いゝえ。吾吉もキライですよ。好きならタダでも遊んでやります。キライだから、お小遣いだの買い物だのとセビッてやったんじゃありませんか。あの人ッたら、お前に三十万もつぎこんだんだから結婚しておくれ、なんて、イヤな言い方ッたら、ありゃしないわ",
"なるほど。一々、もっともだ。漬物屋へお嫁に行っても、お前さんたち家族は不幸せになるばかりだし、先方も大いに不幸せになることだろう。万事拙僧が見とゞけたから、パンパンに精をいれてはげむがよい"
],
[
"畜生。あのアマ、そんなことをぬかしたんですか。カンベンならねえ",
"ダメだよ。血相かえてみたって、話がまとまるワケはない。あの子はヒッパタかれたお尻に意地を立てゝいるんだから、お前なんかと心得が違う。いさぎよく諦めなさい",
"エッヘッヘ。私もムリなことはキライなんですが、どうも、怪しからんことになりやがったもんですよ。あん畜生め。叩ッ斬ってキザンでやらなくとも、せめて坊主にしてやりてえ"
],
[
"まったく、和尚さん、呆れかえった唐変木ですよ。三十万ソノ子にとられたなんてウワゴト云ってやがったんですが、この野郎、何をぬかしやがるかと思っていたんですがね。まさかに、泥棒して貢いでいるとは気がつきませんでしたよ。あげくにソノ子と手に手をとって逐電しやがったんでしょう。バカな野郎でございます",
"吾吉はヤケクソでやったのさ。ソノ子と一緒ではあるまいな。あの子吾吉には鼻をひッかけないはずだよ",
"ヘエ、仰有いましたね。悟ったようなことを言いやがんない。このオタンコナスめ。けれども、和尚さん。私ゃ、どうしたら、いゝでしょうねえ",
"当人の行方が分らないのだから、ここで気をもんでも仕方がない。お前さんも女だてらにポンポン云うばッかりで思慮がないから、ロクな子供が育たない",
"へえ、悪うござんしたね。蛸坊主め、気どっていやがら。だけど、和尚さん、八卦かなんか立てゝ下さいな。あの野郎の襟クビふんづかまえて、蹴ッぽらかしてくれるから"
],
[
"和尚さん。すみませんけど、あの野郎、まだ成仏ができないようですから、お経をあげて引導わたしてやって下さいな。夜中になると、骨壺がカタコト鳴りやがって、うるさくッて仕様がないんですよ",
"気のせいだよ。お前さんも神経衰弱になったんだろう。オカミサンに限って、あの病気にかからないと思っていたが、世の中は一寸先がわからないものだ",
"バカにしちゃ、いけないよ。あんなバカ野郎が一束クビをくゝりやがったって、私が神経衰弱なんかになるもんかね。和尚さんがお経を切りすてるから、あの野郎が成仏できないのよ",
"ちかごろは物覚えがわるくなってな。お経などゝいうものは、切りすてるほど味のでるものだ。いずれヒマの折にお経をつぎたしてあげるから、ゆっくり亡魂と語り合うのがよろしかろう",
"ふざけやがんな。オタンコナスめ"
],
[
"和尚さん。呆れかえって物が云えないやね。本当に亡魂がでゝきやがったんですよ",
"珍しいな。何か言ったか",
"そんなんじゃないんですよ。骨壺がガタガタ云うのもおかしいでしょう。廿日鼠かなんかいるんじゃないかと思いましてね。骨壺をあけて、調べてみたんですよ。新聞紙の上へザラザラぶちまけて掻き廻したんですが、変ったこともありませんやね。そのうち、なんの気なしに、歯のところを拾いあげたと思いなさい。あの野郎の前歯に数字が書いてあるんでさア。三十とね。私ゃ横文字が読めませんから分りませんが、宿六の野郎が生意気に横文字なんか読みやがって、三十だてえことなんです。呆れかえるじゃアありませんか。あの野郎、パンスケにふんだくられた三十万円の恨みが忘れかねているんですよ",
"どれ、その歯を見せてごらん"
],
[
"どうも、見当がつきませんな。私は死人の歯を治療したことがありませんから、なんとも云えませんが、これはたゞの偶然で、なんでもないことじゃありますまいか",
"このホトケはクビをくゝって自殺したのですが、死ぬ前に、歯にアブリダシで字を書いておいたら、骨になってから、こうなるのと違いますか",
"さア、どうでしょう。歯にアブリダシを書いた話はきいたことがありませんが、口の中は濡れているのが普通ですから、アブリダシを書いても流れて消えて失くなりはしませんか。これは何かの偶然でしょう。私は骨になった歯など見たことがないのですが、シサイに見たら、こんなのは例が多いのかも知れませんな",
"しかし、アブリダシということも考えられるでしょうな",
"和尚さん。バカバカしいじゃありませんか。子供じゃアあるまいし、頭をまるめたいい年寄が、アブリダシ、アブリダシって、ナニ云ってやがんだい。吾吉のバカ野郎の恨みがこもって、ここへ現れているんだよ。お経をケンヤクしやがるから、こんなことにならアね。どうもね、骨壺の騒ぎ方が、ひとかたならないと思いましたよ",
"よし、よし。それなら、骨壺を預りましょう。本堂へかざって、三七日ほど、ねんごろに読経してあげよう"
],
[
"実はな。お前の留守中に吾吉がクビをくくって死んだよ",
"そうですってね。死神に憑かれたんでしょう。そんな男、たくさん、いてよ",
"漬物屋のオカミサンが怒鳴りこみやしなかったかい",
"まだ来ませんけど、今さら、仕様がないじゃありませんか",
"それもそうだが、吾吉はお前に使った三十万円が心残りだそうでな。骨壺が深夜になるとガタガタ騒ぐ。おかしいというので、あけて調べてみると、前歯に三十という字が浮きでゝいるのだよ。三十万円で浮かばれないというワケだ。それ、そこにあるのが吾吉の骨だから、拝んでやりなさい。回向になるよ",
"私はイヤです。拝むなんて"
],
[
"おとなしく死んだんなら拝んでもやりますけど、私に恨みを残して死んだなんて、ケチな根性たらありゃしないわ。それなら、私も憎みかえしてやります。私はお父さんにお尻をぶたれた時から、世の中を敵だと思っていますから、吾吉の幽霊なんか、なんでもないわ",
"気の強い娘だよ。これほどの娘とは知らなかったね"
],
[
"いゝ度胸だ。お前は好きな人がいるのかい",
"大きなお世話だわ",
"お世話でもあろうが、教えてもらいたいね。当世の女流はわけが分らないから、指南を仰ぎたいのだよ。ワシもダイコクを三人もとりかえたり、その又昔はコツやナカへ繁々と通ったものだが、当世の女流はわからん",
"私のお尻をぶちながら死ぬなんて、卑怯でしょう。吾吉だって、同じように卑怯なのよ。男はみんな卑怯だと思っていゝわ。私は、男なんか、憎むだけよ。みんなウスバカに見えるだけよ",
"なるほど。そんなものかな。そういえば、たしかに、男はウスバカだよ。とんだヤブヘビとは、このことだ。しかし、吾吉は、お前を叩き斬ッてきざんでやりたいが、そうもいかないから、せめて坊主にしてくれたいと恨んでいたから用心するがいゝ。亡魂は根気のいゝものだ。坊主をしていると、よく分る。三代まではタタラないが、一代だけは根気よく狙いをつけているものだよ"
],
[
"吾吉とアナタじゃ違うわ。アナタは好きよ",
"そうか"
],
[
"しかし、みんな打ちあけると、キミはボクがキライになるんじゃないのかな",
"そんなことないわ。私、男の人が好きになったのはアナタがはじめてだわ。だから、すてないでね"
],
[
"じゃア、思いきって、言ってやれ。もう、思いきって、言ってしまうほかに手がなくなったんだ。ボクは今日にも自殺するほかには手がなくなったんだ",
"アラ、そんなこと、ある筈ないじゃないの",
"キミには、わからないことさ。ボクは吾吉氏と同じ境遇なんだよ。わかったかい。出張なんて、デタラメさ。会社の金を使いこんで逃げ廻っていたんだよ。盗んだ金も、なくなったんだ。ボクは強盗して生きのびるほどの度胸はないから、死ぬよりほかに仕方がない。旅先でも、死場所を探していたのだが、ズルズル東京へ戻ってきてしまったのさ。ただキミが一緒に死んでくれるかどうか、それが不安で、今まで生きてきたゞけだよ",
"私だって、アナタが死んでしまえば、生きているハリアイがないわ"
],
[
"そんなこと言うのは、アナタに愛情がないせいよ。もう、ほかのことは忘れて、死ぬことばかり考えましょうよ",
"そうか。そうだ。キミはきっと聖処女なんだ"
],
[
"行儀がいゝねえ。このマグロは、自分をひいてくれた汽車に、御苦労様てんで、挨拶しようてえ心意気なんだな。ユイショある血筋の若ザムライかも知れないよ",
"ハテナ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物」
1949(昭和24)年9月1日発行
初出:「オール読物」
1949(昭和24)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043167",
"作品名": "行雲流水",
"作品名読み": "こううんりゅうすい",
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"初出": "「オール読物」1949(昭和24)年9月1日",
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[
"コーダンの坂口さん? そうでしょう",
"……",
"そうでしょう? そう言ったわ。坂口さんね?",
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"じゃア、いッしょに、きてよ。待ってるのよ",
"あなたは誰ですか",
"××館よ。お客さんにたのまれたからさ。あの人よんでおいで、コーダンの坂口さんだからッてさ",
"お客さんて、誰?",
"知らないわ。来てみれば、分るでしょう",
"女?",
"ウフ"
],
[
"待ってるわよ。そう言ったじゃないの!",
"女?",
"まだ言ってるわね"
],
[
"ぼくは罪なことのできない性分だから、予想屋じゃ客がつかないだろうよ。ぼくは、こう言うな。穴をねらッちゃいかん。レースを全部買うな。分らん時は、おりることよ",
"戦争で負傷したのかい?"
],
[
"御商売は?",
"巷談師です",
"ハ。講釈のお方?",
"イエ、巷談師",
"アッ。コーダンシ。これはお珍しい。ウーム、なるほど"
],
[
"ハアン。バカ。笑われたろう",
"笑われもしなかったな",
"オメデタイよ。お前さんは",
"そうかな",
"巷談師ッたって通じるかよ。人は好男子にとるにきまっとるじゃないか。日本語には、それだけしかないんだよ。覚えておけ",
"そうか",
"今さらシマッタと思ったって、手おくれだよ。バカを顔にぶらさげて歩いてら。アハハ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第一七号」
1950(昭和25)年8月3日発行
初出:「別冊文藝春秋 第一七号」
1950(昭和25)年8月3日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043194",
"作品名": "巷談師",
"作品名読み": "こうだんし",
"ソート用読み": "こうたんし",
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"初出": "「別冊文藝春秋 第一七号」1950(昭和25)年8月3日発行",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
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"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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"テキストファイル最終更新日": "2006-03-24T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-03-24T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"明日、あたしは東京へ帰るの……",
"もう、一人でも仕上げることが出来ます"
],
[
"もう、お別れね。明日は東京へ帰るの……",
"もう一人でも仕上げることが出来ます"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「都新聞 第一六二一二~一六二一三号」
1933(昭和8)年1月8日~1月9日
初出:「都新聞 第一六二一二~一六二一三号」
1933(昭和8)年1月8日~1月9日
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045806",
"作品名": "傲慢な眼",
"作品名読み": "ごうまんなめ",
"ソート用読み": "こうまんなめ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「都新聞 第一六二一二~一六二一三号」1933(昭和8)年1月8日~1月9日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-06-07T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
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"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 01",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "都新聞 第一六二一二~一六二一三号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1933(昭和8)年1月8日~1月9日",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"あの人をお呼びになつたら何うですか",
"いや、今度は見舞に来たんだから。この町をしきりに見たがつてはゐたけれど……",
"それでは呼んだら可いでせう。又といふ機会もないでせうから"
],
[
"……都合がついたら遣つてこないか",
"えゝ行くわ"
]
] | 底本:「坂口安吾選集 第十巻エッセイ1」講談社
1982(昭和57)年8月12日第1刷発行
底本の親本:「欲望について」白桃書房
1947(昭和22)年11月
初出:「作品 第六巻第五号」
1935(昭和10)年5月1日発行
※「気持ち」と「気持」の混在は、底本通りです。
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:富田晶子
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045738",
"作品名": "枯淡の風格を排す",
"作品名読み": "こたんのふうかくをはいす",
"ソート用読み": "こたんのふうかくをはいす",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「作品 第六巻第五号」1935(昭和10)年5月1日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-11-25T00:00:00",
"最終更新日": "2016-09-09T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45738.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾選集 第十巻エッセイ1",
"底本出版社名1": "講談社",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年8月12日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年8月12日第1刷",
"校正に使用した版1": "1982(昭和57)年8月12日第1刷",
"底本の親本名1": "欲望について",
"底本の親本出版社名1": "白桃書房",
"底本の親本初版発行年1": "1947(昭和22)年11月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "高田農業高校生産技術科流通経済コース",
"校正者": "富田晶子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45738_ruby_60095.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2016-09-09T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45738_60141.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-09-09T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"いつ行く?",
"すぐ、これから"
],
[
"気軽に一言さよならを言ふつもりだつたんだが、大江の言ふ通り、会はない方が良かつたのだ。どうせ最後だ。二度と君と会ふ筈はないのだから、暗い時間を出来るだけ少くしなければならない筈だつたのに",
"分つてるのよ。二度と会へないと思ふし、会はないつもりでゐるけど、別れる時ぐらゐ甘いことを一言だけ言つて。また、会はうつて、一言だけ言つてよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第五巻第一号」大観堂
1941(昭和16)年12月28日発行
初出:「現代文学 第五巻第一号」大観堂
1941(昭和16)年12月28日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045867",
"作品名": "古都",
"作品名読み": "こと",
"ソート用読み": "こと",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「現代文学 第五巻第一号」大観堂、1941(昭和16)年12月28日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-11-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45867.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 03",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年3月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "現代文学 第五巻第一号",
"底本の親本出版社名1": "大観堂",
"底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年12月28日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45867_ruby_33221.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2008-10-15T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45867_33233.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-10-15T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"いいかい。お前の目に見える山という山、木という木、谷という谷、その谷からわく雲まで、みんな俺のものなんだぜ",
"早く歩いておくれ。私はこんな岩コブだらけの崖の下にいたくないのだから",
"よし、よし。今にうちにつくと飛びきりの御馳走をこしらえてやるよ",
"お前はもっと急げないのかえ。走っておくれ",
"なかなかこの坂道は俺が一人でもそうは駈けられない難所だよ",
"お前も見かけによらない意気地なしだねえ。私としたことが、とんだ甲斐性なしの女房になってしまった。ああ、ああ。これから何をたよりに暮したらいいのだろう",
"なにを馬鹿な。これぐらいの坂道が",
"アア、もどかしいねえ。お前はもう疲れたのかえ",
"馬鹿なことを。この坂道をつきぬけると、鹿もかなわぬように走ってみせるから",
"でもお前の息は苦しそうだよ。顔色が青いじゃないか",
"なんでも物事の始めのうちはそういうものさ。今に勢いのはずみがつけば、お前が背中で目を廻すぐらい速く走るよ"
],
[
"この山女は何なのよ",
"これは俺の昔の女房なんだよ"
],
[
"まア、これがお前の女房かえ",
"それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね",
"あの女を斬り殺しておくれ"
],
[
"だって、お前、殺さなくっとも、女中だと思えばいいじゃないか",
"お前は私の亭主を殺したくせに、自分の女房が殺せないのかえ。お前はそれでも私を女房にするつもりなのかえ"
],
[
"いいのよ。この女だけは。これは私が女中に使うから",
"ついでだから、やってしまうよ",
"バカだね。私が殺さないでおくれと言うのだよ",
"アア、そうか。ほんとだ"
],
[
"毎日こんなものを私に食えというのかえ",
"だって、飛び切りの御馳走なんだぜ。お前がここへくるまでは、十日に一度ぐらいしかこれだけのものは食わなかったものだ",
"お前は山男だからそれでいいのだろうさ。私の喉は通らないよ。こんな淋しい山奥で、夜の夜長にきくものと云えば梟の声ばかり、せめて食べる物でも都に劣らぬおいしい物が食べられないものかねえ。都の風がどんなものか。その都の風をせきとめられた私の思いのせつなさがどんなものか、お前には察しることも出来ないのだね。お前は私から都の風をもぎとって、その代りにお前の呉れた物といえば鴉や梟の鳴く声ばかり。お前はそれを羞かしいとも、むごたらしいとも思わないのだよ"
],
[
"お前がいじってはいけないよ。なぜ毎日きまったように手をだすのだろうね",
"不思議なものだなア",
"何が不思議なのさ",
"何がってこともないけどさ"
],
[
"都には牙のある人間がいるかい",
"弓をもったサムライがいるよ",
"ハッハッハ。弓なら俺は谷の向うの雀の子でも落すのだからな。都には刀が折れてしまうような皮の堅い人間はいないだろう",
"鎧をきたサムライがいるよ",
"鎧は刀が折れるのか",
"折れるよ",
"俺は熊も猪も組み伏せてしまうのだからな",
"お前が本当に強い男なら、私を都へ連れて行っておくれ。お前の力で、私の欲しい物、都の粋を私の身の廻りへ飾っておくれ。そして私にシンから楽しい思いを授けてくれることができるなら、お前は本当に強い男なのさ",
"わけのないことだ"
],
[
"それでも約束があるからね",
"お前がかえ。この山奥に約束した誰がいるのさ",
"それは誰もいないけれども、ね。けれども、約束があるのだよ",
"それはマア珍しいことがあるものだねえ。誰もいなくって誰と約束するのだえ"
],
[
"桜の花が咲くのだよ",
"桜の花と約束したのかえ",
"桜の花が咲くから、それを見てから出掛けなければならないのだよ",
"どういうわけで",
"桜の森の下へ行ってみなければならないからだよ",
"だから、なぜ行って見なければならないのよ",
"花が咲くからだよ",
"花が咲くから、なぜさ",
"花の下は冷めたい風がはりつめているからだよ",
"花の下にかえ",
"花の下は涯がないからだよ",
"花の下がかえ"
],
[
"私も花の下へ連れて行っておくれ",
"それは、だめだ"
],
[
"都ではお喋りができるから退屈しないよ。私は山は退屈で嫌いさ",
"お前はお喋りが退屈でないのか",
"あたりまえさ。誰だって喋っていれば退屈しないものだよ",
"俺は喋れば喋るほど退屈するのになあ",
"お前は喋らないから退屈なのさ",
"そんなことがあるものか。喋ると退屈するから喋らないのだ",
"でも喋ってごらんよ。きっと退屈を忘れるから",
"何を",
"何でも喋りたいことをさ",
"喋りたいことなんかあるものか"
],
[
"おやおや。お前も臆病風に吹かれたの。お前もただの弱虫ね",
"そんな弱虫じゃないのだ",
"じゃ、何さ",
"キリがないから厭になったのさ",
"あら、おかしいね。なんでもキリがないものよ。毎日毎日ごはんを食べて、キリがないじゃないか。毎日毎日ねむって、キリがないじゃないか",
"それと違うのだ",
"どんな風に違うのよ"
],
[
"俺は山へ帰ることにしたよ",
"私を残してかえ。そんなむごたらしいことがどうしてお前の心に棲むようになったのだろう"
],
[
"お前はいつからそんな薄情者になったのよ",
"だからさ。俺は都がきらいなんだ",
"私という者がいてもかえ",
"俺は都に住んでいたくないだけなんだ",
"でも、私がいるじゃないか。お前は私が嫌いになったのかえ。私はお前のいない留守はお前のことばかり考えていたのだよ"
],
[
"だってお前は都でなきゃ住むことができないのだろう。俺は山でなきゃ住んでいられないのだ",
"私はお前と一緒でなきゃ生きていられないのだよ。私の思いがお前には分らないのかねえ",
"でも俺は山でなきゃ住んでいられないのだぜ",
"だから、お前が山へ帰るなら、私も一緒に山へ帰るよ。私はたとえ一日でもお前と離れて生きていられないのだもの"
],
[
"でもお前は山で暮せるかえ",
"お前と一緒ならどこででも暮すことができるよ",
"山にはお前の欲しがるような首がないのだぜ",
"お前と首と、どっちか一つを選ばなければならないなら、私は首をあきらめるよ"
],
[
"背負っておくれ。こんな道のない山坂は私は歩くことができないよ",
"ああ、いいとも"
],
[
"ほら、見えるだろう。あれがみんな俺の山だ。谷も木も鳥も雲まで俺の山さ。山はいいなあ。走ってみたくなるじゃないか。都ではそんなことはなかったからな",
"始めての日はオンブしてお前を走らせたものだったわね",
"ほんとだ。ずいぶん疲れて、目がまわったものさ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「いづこへ」真光社
1947(昭和22)年5月15日発行
初出:「肉体 第一巻第一号」暁社
1947(昭和22)年6月15日発行
入力:砂場清隆
校正:高柳典子
2006年1月11日作成
2011年5月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042618",
"作品名": "桜の森の満開の下",
"作品名読み": "さくらのもりのまんかいのした",
"ソート用読み": "さくらのもりのまんかいのした",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「肉体 第一巻第一号」暁社、1947(昭和22)年6月15日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-03-03T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-14T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42618.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集5",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年4月24日",
"入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月24日第1刷",
"校正に使用した版1": "2001(平成13)年5月30日第5刷",
"底本の親本名1": "いづこへ",
"底本の親本出版社名1": "真光社",
"底本の親本初版発行年1": "1947(昭和22)年5月15日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "砂場清隆",
"校正者": "高柳典子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_ruby_21052.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2011-05-22T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42618_21410.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-22T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"なんの御用?",
"ボクは一年ほど前に密輸船という原稿を送っておいた夏川左近という漁師ですが、社長か誰かに会えませんか",
"キミ原稿書いたの?",
"そうだよ",
"いま、何してんの?",
"漁師だよ",
"フーン。漁師か。なんて原稿だっけ",
"密輸船",
"ア、そうか。テキは海賊だな"
],
[
"原稿さがしてましたので、お待たせいたしました。私、読んだ記憶があるんですけど、いまちょッと見当りませんのでね。お待ち下されば、さがしますけど",
"そうですね。せっかく書いたんだから、さがしていただいて持って帰りましょうか",
"では、どうぞ、上ってお待ち下さいませ"
],
[
"それ書いたのは有名な強盗なんだ。キミの密輸船くらいじゃアね",
"なるほど。上には上がありますね",
"キミもしかし相当な悪事を重ねたね",
"悪事ではありません。海はボクラの家というだけです",
"キミはいくつだい",
"満二十八",
"海軍出身かい",
"予科練です。父母が戦災で死にましたので、終戦のとき、同じような仲間と徴用の漁船で逃げだしたまま密輸やりだしたんです",
"いまは?",
"網元の家にゴロ〳〵して、漁師ですよ"
],
[
"キミの原稿を本にするわけにはいかないが、どうだい、ここで働いてみないか",
"あなたは誰ですか",
"社長さ。大竜出版社社長吉野大竜"
],
[
"オカの勤めは経験がありませんからダメですね",
"キミなら勤まるんだ。実はね。打ち開けて云うと、社員がみんな逃げたんだ。買収されたんだな。わが社は最近政界官界財界の裏面をバクロしたバクダン的手記を出版することになったのでね。社員が居なくちゃア手も足もでないんだ。うっかりボクが使い走りにでるとぶん殴られる怖れがあるし",
"誰がぶん殴るんですか",
"政界官界財界のボスのコブンだな",
"社員ならぶん殴られないのですか",
"そうでもないらしいがね。先方の言うことをきかないと、やられるかも知れないね。しかし、キミなら顔を知られていないから当分は大丈夫だよ",
"オカは物騒だなア",
"キミみたいな人がそんなことを云うもんじゃないよ。ホレ、この通り。たのむ!"
],
[
"そうですね。ちょうどヒマだから、その本ができるまで、つきあいましょうか",
"ありがたい!"
],
[
"毎晩の宿直にボク音をあげたよ。今夜からウチへ帰って手足をのばして寝られるよ",
"キミは今夜から店へ泊りこんでくれ。仕事は明日からだ。夏川左近氏の入社を祝い、晩メシはスキ焼といこう"
],
[
"バクダン投げこまれても知らないわよ",
"そんなに狙われてますか",
"社員がみんなやめるほどですものタダゴトじゃアないわ",
"ボクが入社して迷惑なんですか",
"迷惑のはず、ないわ。ぶん殴られてカタワにならないでね"
],
[
"ぶん殴られずに来たらしいな。まア、はいれ",
"社長にお目にかかりたいのですが",
"オレが社長だよ。アッ! キミは夏川左近じゃないか",
"エ? あなたは?",
"忘れたかい",
"いえ、インクだらけで見当がつきませんよ。ア。なんだ。氏家少尉殿ですか",
"キミが大竜出版の社員かね",
"今日からそうなんです。実はこれこれの次第でにわかにそうなったのです。しかし、氏家さんが印刷屋とは知りませんでしたね",
"終戦のとき基地に不要の印刷機械が三台あったのを貰ってきて商売をはじめたら何となくモノになっちゃったんだよ",
"ハハア。ボクらの密輸船と同じ式の印刷会社ですか",
"キミが大竜出版の社員ならオレも考え直さなくちゃアなるまい。もともとこの出版にはインチキがあるとオレは睨んでるんでね。大竜出版は知らないらしいが、著者の住田嘉久馬がインチキなのだ。結局高い値で売りつける肚だね。出版に至らぬうちに立消えになるものとオレは睨んでいるのさ",
"それではバカバカしいですね",
"その通り。立消えになればオレは金がもらえないし、たぶん大竜出版も一文もとれないだろうと思うんだ",
"やるだけ損ですね",
"しかしキミが大竜出版の社員なら、やろうじゃないか"
],
[
"社員というほどレッキとしたものじゃアないんですがねえ。無理していただくと、どうも、こまるな",
"キミならぶん殴られても平気らしいから引きうけるのさ。住田嘉久馬が金を払わなかったら、キミとオレで出版して密輸船へずらかるんだな",
"なるほど"
],
[
"裏から来るんだよ。ほんとに、まア、礼儀を知らない。用がすんだら、さっさとおかえり",
"待ってますから、至急やっていただいて下さい",
"校正なんぞいつごらんになるか分るかね。電話をかけて知らせるから取りにおいで。裏口から来るんだよ"
],
[
"お久しぶりね、吉田さん",
"人ちがいですよ",
"黙って! お友だちのフリをして。おねがい",
"ボクは金を持たないよ",
"ね。おねがいですから、お友だちのフリをして。私、追われてるんです",
"キミはカンちがいしてるんだ。追われてるとすればボクだぜ。さては",
"ちがうッたら。私が追われてるのよ。ワケがあるのよ。ワケはあとでお話しするわ。おねがいだから、お友だちのフリをして。私のウチまで送ってちょうだい"
],
[
"ほかの吉田さんをつかめばよいのに、なんだってボクをつかまえたんだろうね",
"ブツブツ云わないでよ",
"云いたくなるワケがあるんだよ。ボクの方にもね"
],
[
"ちょッと食べる物つくってきますから、待ってらッしゃいね",
"ボクは食事すみました",
"でも何かつきあってね。私、おなかペコペコなのよ。食べてからでなければお話もできないわ"
],
[
"キミは何者だね",
"キミは何者だ",
"云うまでもない。当家のアルジだ",
"ボクは当家の娘にたのまれて、ここまで送ってきた者だ",
"当家の娘はここにいる"
],
[
"申訳ありません。若い女の電話にだまされまして、それに迎えの自動車が来たものですから、つい電話を信用しておびきだされてしまいました",
"どんな電話だ",
"旦那様方のお車が衝突して皆さんケガをなさったから全員至急有楽町まで来いというお電話でして、有楽町で降されまして、どこできいても衝突のあった様子がありませんので、さてはとさとりまして"
],
[
"あなた方、門のクグリ戸をあけて入ってきましたね",
"当り前だ",
"クグリ戸があいたんですね",
"あかなければ入れない",
"してみると、女は逃げましたね。ボクらがクグリ戸から入ったとき、女はカンヌキをかけたんですから。仕方がない。警察へ電話をかけてボクをつかまえて下さい"
],
[
"あんまりバカバカしい話で二度とは云う気がしませんよ。警察でまとめて申しましょう",
"警察には知らせておらぬ。その女に心当りがあるからだ"
],
[
"キミはその女の顔を覚えているね",
"覚えていますとも",
"二十一二の美人だろう",
"ま、そうですが、泥棒ならどうしてボクをつれてきたのでしょうね",
"それは賊の正体を知らせるためさ。賊が誰かと分れば警察に知らせないのを知っているからだ"
],
[
"あなたが吉田サンですか",
"なぜだ",
"ボクに吉田サンと呼びかけましたよ、その女が",
"キミがイギリス人ならミスター・チャーチルと呼びかけたかも知れないさ"
],
[
"キミを男と見こんでタノミがあるが、この女賊に盗まれた物を取り返してもらいたい",
"理由が分れば取り返すかも知れませんが、ボクは警察へつきだされて話がわかってキレイになるのが何よりですね",
"キミは現在の東京が往年の上海だということを知らないようだね。世界の各国から腕ききのスパイが寄り集っているのだ。不幸にしてキミが片棒かついだ盗難の品はそれに関係があるものだ。すでにその品物は女賊の手からある人物の手に移っているだろう。その人物が各国のスパイと取り引きをはじめる。外国の手に移ってしまえばそれまでだ。その人物の手もとにあるうちに取り返さなければならないのだ。これがキミの役目だね"
],
[
"要するにその仕事は泥棒らしいね",
"取り返すのだ",
"泥棒にはちがいないでしょう。泥棒しないで取り返せるのは警察だけだから、そこへまかせなさい",
"警察へまかせられるならキミに頼みはしない。知られてはこまるのだ。この盗難を知っているのはキミだけだから、あえてこの役目をキミに果してもらうのだが、キミを脅迫したくはないが、キミの返答次第では命をもらう必要も生じるかも知れない。つまり、それほど重大な秘密なのだよ"
],
[
"どの程度の泥棒ですか",
"あるいはバクダンを仕掛けて金庫を爆破する必要があるかも知れないね"
],
[
"金庫を爆破すれば、ボクがつかまるでしょうが",
"そこを適当にやるのだ。キミの身体なら、できそうだ。殺してはこまるが、二三人適当に眠らせる必要はあるだろう",
"天下のお尋ね者だね",
"万一の場合の用意はぬかりがない。キミの生涯の安全はまちがいなく保障する",
"どんな風に保障しますか",
"キミが承諾してくれれば、その方法を指示する",
"ついでに女の住所姓名を教えて下さい。腹の虫がおさまらないから",
"それだけは教えられない。また恐らく誰もそれを突きとめることはできないだろう",
"それほど神秘的ですか。あのマタハリが。なアに、ボクが突きとめて見せますよ。ツラの皮をひンむいてやろう",
"キミの見ることのできない世界がこの東京にはあるのだね",
"その文句が気に入ったね。よろしい。しからば彼女の盗んだ品を盗み返してあげましょう"
],
[
"本当かい? その話。信じられないや",
"私も信じられないわ",
"信じてくれない方がいいね。ボク自身も信じたくないんだよ。バカバカしい話だからね",
"そのアルジの本名はなんてのさ",
"要するに神奈川氏だな。帰るとき表札を探したが、でていないね。白雲荘という看板のようなのが門にぶらさがっていたよ"
],
[
"白雲荘は実在したわ。昨夜のこと、もっとよく教えてちょうだい。近所の話ではふだんは人の住まない別荘なのよ。ところが私が門前にいたとき、緑の高級車が横づけになって美しい女の人がクグリ戸をあけて邸内へ消えたのよ。あなたの女スパイッてどんな人? 五尺二三寸のスラリとした人じゃない? 女優のように美しい人",
"五尺二三寸のスラリとした人か。ま、そんなふうだな。女優のような美しい人か。ま、そんなところかな",
"おかしいじゃないの。その人が白昼自動車でのりつけるなんて。ね、だから私はこう思うのよ。その女賊って人があの別荘の本当の主人じゃないのかしら。その人があなたに云ったように。そしてドヤ〳〵のりこんできた人たちがその人の敵じゃないのかしら",
"ウーム。それは思いつかなかったなア。なるほど、それもあるかも知れないが、しかしだね、彼女がクグリ戸にかけたカンヌキが外れていて一同がそこから悠々乱入したのはどういうわけだろう。その前に彼女がそこから逃げている証拠に相違ないと思われるが",
"そこが変ねえ。じゃア彼女が白昼堂々と自動車を乗りつけたのは?",
"それを彼女ときめちゃうから変なんだ。彼女かどうか知りもしないで"
],
[
"自動車のナンバー調べる方法ないかしら。どこかで見たような顔だわ。どうしても思いだせない。夏川さん、似てる人、思いつかない?",
"映画を見たこともないから",
"ねえ、夏川さん。スパイ事件が警察に知られてこまるのは盗まれた物が秘密の物だからでしょう。犯人が女賊でなくとも届けることができないはずよ。してみれば、夏川さんがまきこまれる意味はなくなると思うのよ",
"それが何よりフシギだね。ボクにもそれが頭にからみついて放れないが、あの女をとっちめてやるには、この事件にまきこまれてみるより仕様がないからね",
"第一だね。ふだん留守がちの別荘にそんな国宝的な秘密の品をおくのはおかしいね。ボクの推理によれば、これには深刻なるカラクリが隠されてるね"
],
[
"だからさ。ボクの意見としては、夏川さんが女に仕返しするんだったら、白雲荘を監視する方が近道らしいや",
"ま、いいさ。まかしておきたまえ。ボクに爆破させるのが誰の金庫でどんな品物だか、それを見とどけるのが何よりの近道だよ"
],
[
"二十ぐらいの娘が一人で来ていなかった?",
"お見かけしませんでした",
"二十分ぐらい前にいたはずだが",
"お見かけしませんでしたよ",
"そうかい"
],
[
"グズグズしてちゃアいけないよ。葉子さんが誘拐されちゃったじゃないか",
"誰に?",
"例の女だよ。例の緑の自動車へ葉子さんを乗っけて行っちゃったんだ",
"追わなかったのか",
"聞き覚えのナンバーの緑の車を見てハッとした瞬間なんだよ。葉子さんが女に押しこまれて走りだしたんだよ。しかしね。ボクの親友の円タク運チャン、ミスター三郎が追跡しているから、行先はやがて分るよ"
],
[
"あなたは、どなたなの?",
"白雲荘の女主人よ。女スパイなんかじゃないわよ"
],
[
"夏川さんは白雲荘にいらッしゃるのですか",
"いいえ。白雲荘で悪者のタクラミをくつがえす計略をねるんですけど……変ね。追跡の自動車、ずいぶん接近してきたわ"
],
[
"どうして夏川さんや私の名まで知ってらッしゃるんですの?",
"知るわけがあるんです。いまに分りますよ。私はあなた方の味方よ"
],
[
"私の見知りの人たちですわ。あなたの運転手とめてちょうだい",
"あら、そうなの。大丈夫よ。私の運転手、平和主義者だから。どうなさる。あなた、あの車で帰りたい?"
],
[
"夏川さんは白雲荘にいらッしゃるんじゃないんですもの。夏川さんのいらッしゃるのは、どこなんですか。そこへ行きたいのです",
"そこは女だけでは行けないところです。危険な場所よ。でも、いいわ。あなたはあの車で帰りなさい。夏川さんは私がきっと助けだしてあげますから。まだ四時間半ほど間があるから、安心してらッしゃい。そしてね、どんな場合でも私を疑らないようにね。あなた方の本当の味方は私だけよ"
],
[
"ケンカ腰ですよ。ずいぶん礼儀知らずの連中で、こッちを誘拐犯人扱いしてるんですよ",
"もう、いいのよ。葉子さんがよく説明してくださるでしょうから。じゃ葉子さん、ゴキゲンよう。安心してらッしゃいね"
],
[
"あの車、私たちの味方なのよ",
"そうかねえ。もっとも、こちとらは何が何やら話の筋道がまだ飲みこめねえ最中なんだがね。タコスケの奴、せきたてるばッかりで、何が何やら分りゃしねえや",
"タコスケさん、どうしたの?",
"銀座にはりこんでる模様ですよ。奴は生れつきタンテイのマネが好きなんだ。むやみに張りきって仕様がないよ。ガソリン代の貸しだって去年から六千円もあるんだぜ",
"女の人のお顔みた?",
"チラッとね",
"どこかで見たような気がしない? 映画女優かなんかに",
"そうだねえ。なんとなく、そんな顔だね",
"タコスケさん、どこで待ってるッて云ったんですか",
"大竜出版で落ち合う約束でね。落ち合えなくとも黒板でレンラクの約束さ。奴はそのへんのこと、キチンキチンしてやがるよ。ああ張りきられちゃアかなわねえや"
],
[
"葉子の話とは食いちがうようだが、その女こそ敵の親分的存在かも知れないね。葉子が女に連れ去られるについてはボクが時間におくれる必要があるだろう。マスターの奴、七時四十五分までボクに留守番させたのは女の方とレンラクがあってのことにきまってる。銀座のキャバレーなんてのは白雲荘的な伏魔殿と密接なレンラクがあるのが当然なんだ。ボクだって仲間にたのまれて、それに似たことは、やりつけてるんだよ。第一、左近クンの話の様子では昨夜の女が白雲荘へ行けるはずはないじゃないか。白雲荘の女主人なんて大ウソだ。あるいは女主人かも知れないが、彼女が女主人なら、昨夜白雲荘のアルジを自称した連中とグルでなければ話が合わないよ。女の顔をボクが見れば化けの皮をはいでやることができるかも知れないが、しかしだね、ウチのマスターをうごかすことができるような組織だと、とてもボクくらいじゃ歯がたたない相手らしいね。そしてタクラミの根が意外に深く大きいらしいよ。左近クンに金庫を爆破させて盗み取ろうとした物はよほど重大な何物かだね。タコスケがあんな慌てて駈けこまなければ千葉ウジが相当に具体的な何かを左近クンにもらしたかも知れないが、事情が事情だからタコスケを咎めるわけにもいかないがね",
"チェッ! 誰より血相変えたのはお前じゃないか"
],
[
"貴公は海の底しか知らねえらしいな。神奈川ウジなる人物が貴公に名言を説いてるではないか。東京は往年の上海だ、とね。まさにこれが真実なんだ。ボクなんぞはまさに上海のチンピラさ。白雲荘へ乗りこんだが最後、キミの足跡はそこで永遠に消えてしまうのさ。夏川左近なんて漁師が東京のマンナカで消えてなくなったって誰も騒ぐはずはないね",
"東京はそんなところかね",
"東京が昔の上海だと知ってる者だけがその恐しさも身にしみて知ってるのさ。ボクの言葉を信用したまえ。とにかく今は味方だよ",
"分りました。まもりますよ、お言葉を。まるで東京は戦場だね。ボクはもう戦争には行きたくないからな"
],
[
"今度のことは全くボクから生じたことだから、皆さんに迷惑が及ばないようにどんなことでもしたいと思っていますが、その方法にはどんなことがよろしいかね",
"そのことは相手の出方を見る以外に仕方がない問題だね",
"しかし葉子さんが再び誘拐されでもすると万事手おくれになりゃしませんか"
],
[
"この人だわ! あんまり手近かなところだし、それにいつも和服の写真でしょう。だから分らなかったのよ!",
"手近かなところッて、近所の人?"
],
[
"キミが東京にいると、困ったことになるんだよ。ボクは脅迫されてるんだ。キミを海へ帰しゃいいんだよ。さもないと、次から次へもっと困ったことを脅迫されるのでね。妹の身にも危険が及ぶかも知れない。キミさえ東京から立ち去れば、万事すむんだよ",
"ワケがわからないね",
"ワケなんかわかってくれない方がいいんだよ。ボクにもワケはわからないが、この命令はのッぴきならぬものなんだ",
"誰の命令?",
"誰のだか分らないよ。だが、その命令をボクに中継するのはボクのキャバレーのマスターだ。つまりボクはこの事件にかかりあったためにこの脅迫や命令に従わざるを得ないことだけハッキリしてるんだ。それがボクらの世界の掟だね。キミが穏便に立ち去ってくれればボクも助かるし、結局この店や妹のためにもなるのさ。ここに旅費があるから。この通り、たのむ"
],
[
"タノミをきいてあげたいが、ここの社長にも同じようにたのまれたのでね。引受けた以上はボクの一存ではどうにもならないね",
"キミが東京から立ち去るのが社長のためにもなるのだよ。それを理解してくれたまえ",
"ボクが理解する必要はない。社長が理解してくれさえすればね",
"社長が了解すれば海へ戻るね",
"むろん、戻る。しかし、キミが社長を脅迫しての了解なら、海へ戻ることはできなかろうよ",
"ひどい侮辱だなア。それも仕方がないが、妹の味方の人々に悪いことをしたくないのがボクの一念なんだ。じゃア、明日の正午に、東京駅の八重洲口で待ってるぜ",
"いまからその返事はできないね",
"きっとキミもきてくれると思うよ。ボクの気持にもなってくれたまえ。妹の身にもしものことがあってはと心配でたまらないのだ"
],
[
"ジャンパー姿の若者とはキミらしいぜ。え? キミは得体の知れない悪漢一味からも、警察からも、思いがけない理由で追及されているのだ。世の中って、こんなものさ。キミの潔白はキミが信じることができるだけのものだぜ",
"大石弁造はボクに金庫の爆破を押しつけた人だね。そして、たぶんキミを脅迫している張本人だろう",
"どういうワケで?",
"白雲荘の主人らしいからだ",
"どうして?",
"玉子のダンナだからさ",
"キミは新聞を読んだことがないらしいな。大石弁造は三週間も前から拘留されているのだよ。それに、白雲荘の持主が誰にしろ、その当人がキミに顔を見せるはずはなかろうさ。白雲荘の主人と名乗った人物は、キミが再びめぐり会うことができないような名もない陰の人物だね。それが裏街道の常識だよ。張本の大物がキミに顔をさらすことはありえないものさ"
],
[
"ボクらが出るのを待ちかまえて彼氏が店内へはいるのを見のがすようなタコスケ探偵じゃないからね。暗闇でアリの這うのも見のがさないという原子眼だ",
"なんの話?"
],
[
"海へ帰れとたのまれたのですよ",
"脅迫なのね",
"気の毒なほどうちしおれてのタノミなのです。脅迫されてるのはあの人の方ですね。誰とも分らぬ人物に、ボクを海へ帰せという命令をうけてきたのです。キャバレーのマスターの中継でね。もう組みが終っていることだし、ボクが今さらいなくとも本の発行にさしつかえがないような時になって、妙な話ですよ。もともと一介の漁師ですもの、ボクにはなんの力もありません。ボクの存在が誰かの邪魔になるような大それたものでないことはハッキリしているはずですが、人生とは当人には思いがけないものだというのがあの人の説です。その一例がこの記事だということですが、なるほど、思いがけないことは確かです"
],
[
"玉子の居所を知ってるということが夏川さん敬遠の理由ではない。なぜならば、葉子さんもタコスケ氏もそれを知っているからである。特にタコスケ氏のタンテイ眼をあなどるのはワケがわからないな。してみるとタカの知れた敵だね。それで夏川さんは、なんと返事したんですか",
"明日の十二時に東京駅の八重洲口で待ってるそうだ。社長が海へ戻ってよろしいと承知すれば戻るよ",
"なぜさ",
"ボクが東京から立ち去らなければ、あの人は次から次へとさらに困ったことを脅迫されるそうだ。そのあげく社長や葉子さんの身にも危険が迫るそうだよ",
"敵もボクには手がだせないらしいね",
"私のことなら平気だわ"
],
[
"だってね。私たち、他人から危害をうける覚えが身にないんですもの。私は誰も怖れないわ",
"危害をうける理由は一ツあるね。つまり今回の出版さ。敵は夏川さんを買いかぶっているらしいよ。つまりさ。夏川さんをこの出版に絶対必要の用心棒ぐらいにふんでるらしいや。トンマな奴なんだね",
"出版は私たちの職業ですもの。人を怖れることはないわ。途中でよして海へ帰るなんて反対だわ",
"夏川左近もヤキがまわったらしいよ。ボクがヤキをいれてやるから、一ヵ月ほどボクに見習って修業しな",
"海の男はシケを怖れないが、オカが怖ろしいのだよ。甚だオカは物騒だ。キミたちの生一本なのも尊いが、怖ろしいものを怖れることも大切だよ。社長がボクに用がないというなら、ボクはよろこんで東京を逃げだしたいや"
],
[
"まだ葉子さんもタコスケも来ていませんよ",
"どうせ二人は留守番だ",
"西江洋次郎という葉子さんの兄さんが訪問しませんでしたか",
"アア、来たとも。その男だよ、オレを怒らせたのは。タンカをきってやったんだ。やせても枯れても吉野大竜、ギャングの脅迫で仕事をやめるようなチンピラじゃアねえや、とな",
"そんなに偉いんですか",
"偉いとも。はばかりながら密輸船のアンチャンを失望させるような吉野大竜ではないね"
],
[
"ちょうどよいところへ来てくれましたね。実はボクの方からお訪ねするつもりでいたのですがね。実はね。今朝はやばやと妙な女が来ましてね。ジャンパーを着て、こんな男がここにいないか訊くんですが、それがつまり、夏川君、キミらしいんだ。変だと思ったからそんな男はいないと追い返したんだが……",
"二十二三の美人で、洋装……",
"イヤ、そうじゃない。顔も洗わずにとびだしてきたような三十ぐらいの薄汚い女なのだ。なんの用だときくと、この新聞を見せてね、このジャンパーの男を探してるんです、玉子さんの家の者だと云うんだね"
],
[
"キミ、こんなことをしたのかい。住田嘉久馬にでも頼まれて荒仕事をやったのかとボクもつい思ったのだが",
"話がアベコベなんですよ。実はこれこれで逆にボクが白雲荘というところへ連れこまれたのです。そのあげくに――"
],
[
"玉子がキミを知るはずがないじゃないか",
"その通りです",
"しかし、たしかに知ってるね。そして玉子以外の人々も知っている。なぜなら、今朝ボクのところへ現れた女もキミを知ってるはずだからだ。してみれば、キミがこの出版にかかりあってる人物と承知の上の企みだね",
"そういうことになるようですね",
"キミはまた何だって金庫爆破にノコノコでかけたのだい?",
"爆破するかしないかは誰の金庫か見とどけた上できめるつもりでした。あるいは金庫の代りに千葉ウジをなぐり倒して戻ることも考えていました。もっとも、ピストルかなんか突きつけられて否応なしに爆破させられたかも知れませんがね。その時まかせのつもりでした",
"ボクも今朝までは別のふうに考えていたのさ。つまり住田がなかなか再校をださないのは、取引きしてるからだと思っていたのだ。それを高く売りつけて出版を中止するとね。もっともボクの方へちゃんと勘定を払ってくれればボクもそれ以上固執することはないわけだがね。しかし、今朝方の女のことや、キミの話をきいてみると、住田以外の誰かが、住田ぬきでこの出版を挫折させようと暗躍しているようなフシがあるね。すくなくともその人物が住田でないことは確実だ",
"しかし住田が再校をださないばかりか、この大竜に会ってくれようともしないのはフシギだねえ。この大竜は住田に男と見こまれて出版を托されたのだぜ。はばかりながらオレも住田を男と見こんで引きうけてやった人物だ。たがいにタダモノならずと相許している二人じゃないか。してみると、住田の行方不明と玉子の行方不明はいずれも真実で、誰かの魔手がのびているのかも知れない",
"今の世にはそんなこともあるかも知れないが、しかし、住田や玉子をかどわかして隠すというのは確実な犯罪で、容疑としての疑獄よりも不利だから、利口者がやることだとは思われないようですね。密輸船あがりの夏川君に金庫を破らせて日陰者にするのとはワケがちがうようです",
"さにあらずだ。キミは単純すぎるよ。今の世はそんなものではない",
"ですが、住田や玉子をかどわかす荒業ができるぐらいなら、ボクを海へ帰らせるのにペコペコすることはなさそうですよ",
"ザコを殺して大罪を犯すのは愚の骨頂だぜ。ザコはザコらしくペコペコするだけで追い出せるなら、うまいものじゃないか",
"なるほど",
"ま、余計なセンギはどうでもいいや。吉野大竜は出版屋だ。他日三十六階の大出版ビルを建設するこの大竜、問答無益だ。それ、我々の手で校了にして、紙型をとって、刷りあげちまえ。男と男の約束だ。大竜よくやったと住田嘉久馬がいずれオレの手を押しいただいて礼を云うぜ。わかっとる"
],
[
"ボクの怖れていたことが、とうとう来ちゃったんだ。だから夏川君に素直に海へ帰ってくれと云ったじゃないか。夏川君がせっかく帰る気持になってくれたそうだのに、バカ大竜の大阿呆の大トンマのホラ吹き野郎が悪いのだ。葉子を返せ",
"吉野大竜は逃げも隠れもしない。なんたるボケナスだ、タコスケめ。わが社の浮沈をかけたこの日この時、パチンコとは何たることだ。だがなア。変ではないか。玉子はかどわかされて行方不明のはずであるが",
"行方不明というだけですよ。かどわかされてときめるのは考えものですね。かどわかした犯人がボクだときめてる慌て者もいるほどだから",
"どうも、それでは話があわない。住田と玉子は同一人物にかどわかされたに相違ない",
"アナタが話を合せないだけですよ",
"ねぼけるな、バカ大竜。葉子が緑の自動車にさらわれたという事実が目の前にあるんじゃないか。妹を返せ",
"待て、待て。吉野大竜は静かに考えてみるぞ。エエと。その自動車の女が玉子だという証拠があるか",
"トンマだな。キサマ。葉子が緑の自動車でかどわかされた事実があるのだ。自動車の女が玉子でなければ葉子をつれだすことはできないはずだ",
"ちょいとドライブということもある",
"バカ",
"吉野大竜は静かに考える。たぶん夕食をたべて戻ってくるかも知れんぞ。あの娘をさらっても一文の得にもならんではないか",
"ボクを脅迫することができるし、その脅迫に絶対服従させることができる。バカ大竜の首をチョン切ってこいと云われればそのトンマ首をチョン切ることは絶対だ。よく覚えておけ",
"してみると、そこにおいて、だ。キミがワガハイを脅迫するために玉子を使って葉子をかどわかしたという推定もできるぞ。ウム。それもある"
],
[
"キミは東京を立ち去ってくれ。葉子の行方を探したってムダなんだ。奴らの仕業は腕ききの名探偵や刑事でも嗅ぎつけるには骨の折れるものなのだ。キミが東京を立ち去れば自然に葉子は戻ってくる。キミがいま去れば今夜のうちに戻るだろう。キミがいるうちは葉子も戻らないし、ボクも脅迫されるばかりなのだ。な。たのむ",
"ああ、いいとも。キミは立派な兄さんだ。キミの云う通りにしよう。しかしだね"
],
[
"まず葉子さんを返すようにはからってくれたまえ。そして葉子さんの帰宅を見とどければ、ボクはその場から東京駅へ行こう",
"こまるなア。キミは彼らを知らなすぎるよ。いったん彼らが行動にうつった以上は、五分五分じゃア取引きはむずかしいよ。キミの立ち去るのが先でなければオイソレと葉子を返してくれないね",
"ボクの在京が誰にそれほど邪魔なのだろうね。ボクが立ち去れば葉子さんが返されるというワケが分らないから、キミの言葉だけじゃ信じられないのだよ。葉子さんが戻るまではボクは東京を立ち去るわけにいかないよ。キミでダメなら、ボクは自分で必ず葉子さんを探しだして取り戻す。それまでは海へ戻らない",
"とにかく葉子が戻ればキミが立ち去ることは確かだね",
"その場から東京駅へ行こう",
"とにかくマスターにたのんでみよう"
],
[
"妹をさらうなんて卑怯じゃありませんか。夏川左近を東京から追いだすためにボクは今日も一日奔走してたんですよ。それにも拘らず葉子をさらうとは何事ですか。葉子を返してもらいましょう",
"立ち話は落付かないよ。イスにかけたまえ。キミはビールか。ウィスキーかい"
],
[
"ボクは今朝も朝っぱらから女房を叩き起しましてね。氏家印刷へジャンパーの男をさがしているようなフリをさせて行かせたのですよ。夏川左近は根が素直な荒海育ちの男ですから、納得できればおとなしく東京を出て行くのです。ただ奴を納得させることができないでしょう。仕方がないから、いろいろ手をうっているのです。女房の奴、朝ッぱらから叩き起されて大立腹でしたが、手を合さんばかりに頼みこんで変な芝居をさせてみたり、ボクもまさに必死ですよ。これだけボクがやってるのに、頃合を見はからって夏川を口説き直しに出かけてみれば、葉子がさらわれたあとじゃありませんか。どこへ隠したんですか。たった一人のボクの可愛い妹ですよ。返してもらいましょう",
"人ぎきのわるいことを云うなア。ボクがさらッたんじゃあるまいに、キミもまた逆上しすぎてるな",
"逆上しますとも!",
"ボクはただある人のいいつけでキミにイヤなことを伝える役をしているだけで、元はと云えばキミがこんな変な事件にかかりあったりしたからだ。おかげでボクまでまきこまれて、その上キミに怒鳴られちゃアあわないよ。ね。キミが今日の午前中にという約束通りにやれなかったから、こういう結果になったらしいが、それをボクのせいにしたって仕様がないよ",
"約束と云ったって、無理なことを一方的に押しつけておいて、ちょッと時間がおくれたからって妹をさらわれちゃア堪りませんよ",
"しかし、それはこまったねえ",
"元々無理なんです。夏川左近を納得させる理由がないのに納得ずくでおとなしく退散させろと云うんでしょう。ちょッとは時間がかかりますよ。しかし夏川はおとなしく退散しようと腹をきめたところまできていたのです。そこへ葉子をさらったものですから、葉子が無事に戻るまでは東京を立ち去らないと怒りだした始末です。ヤブヘビじゃアありませんか",
"しかしだね。キミがボクに何と云っても今さら仕方がないんだよ。ボクはただ今日の午前中までにという命令を伝えるように言いつかっただけなんだ。したがって、キミもまたその命令にしたがわざるを得ないだけで、命令通りにいかなかった場合のことは、その責任がボクにないことだけは明かじゃないか。そのへんを考えて、言葉おだやかに話をしてくれたまえよ",
"夏川は葉子が無事に戻ればその場から東京駅へ行くと云っているのです。葉子さえさらわれなければ、彼は自発的におとなしく東京を立ち去る腹になったところなんですよ。今ごろは汽車で東海道を走っていたはずなんですよ。はやく葉子を返していただいて、さっさと奴を退散させるに限りますよ",
"なぜおとなしく夏川を退散させる必要があるのかということはボクも知らないしキミも知らないのだから、当事者がキミの考えに同意するかどうかはキミもボクも推量はできないが、ま、キミの意見を伝えるだけは伝えましょう。おってキミにその返事を伝えるから",
"とんだことにまきこまれてボクは閉口しきっていますよ。早くケリをつけていただいて、忘れさせていただきたいものですね",
"お気の毒だが、ボクの意志ではないんだから、どうにも仕様がないよ。ま、さっそくキミの意見を先方へレンラクするから、店で働いて返事を待っていたまえ"
],
[
"大変なのよ。今朝私が訪ねて行った印刷屋のオヤジが来てるのよ。まさか嗅ぎつけてきたわけじゃアないでしょうね",
"嗅ぎつけるはずはないが、しかし妙な暗合だな。キミは顔を見られなかったろうな",
"それは大丈夫。それに、ちょッと見たぐらいじゃ気がつかないわよ。今朝は着物だし髪もモジャ〳〵でお化粧もしていなかったんだもの",
"キミはその席へ近づかないようにしたまえ"
],
[
"こまるじゃないか。夏川君。キミは敵の顔を知らないが、敵はキミを知ってるばかりじゃなく、この店の常連の中にその敵がたしかにいるに相違ないのだ。第一、ボクはいま葉子のことでマスターに談判して敵にレンラクをたのんだところだよ。東京を立ち去るはずのキミが敵の本拠かも知れない場所へノコノコ現れちゃアこまるじゃないか",
"近々東京を立ち去ることになったから、一ぺんぐらい銀座の風にも当りたくて来たのだよ。キミの店ならまさかの時の財布の心配もいらないからと友人を案内したわけさ",
"なるほど、そういうワケなら尤もだが、敵にはそれが分らないから、変にかんぐられるとこまるんだよ。ともかくここをでよう。ボクが静かな店へ案内するから"
],
[
"例のメモの印刷をボクが引きうけたのはよその印刷屋が引きうけてくれないからと泣きつかれて柄になくオトコギをだしての仕儀だが、ボクのところには脅迫などは一度もなくてキミだけが妙な変事に見舞われ通しというのはフシギなメグリアワセだね。ボクが今日にわかにキミのあとを追うようにして訪問したのはキミの離京の名残りを惜しむためではなくて、キミのメグリアワセがあまりフシギだから、大竜出版社そのものに何かイワクがあるのじゃないかと見届けてみたくなったせいだ。しかし、一見したところ、大竜出版社は平凡なただの出版社にすぎないようだね。キミに東京を立ち去れという誰かの策謀は、もしやキミと葉子さんの恋愛関係というようなものが原因ではないのかね",
"そんな心当りはありませんね",
"キミは何者が何事のために策しているのか、その真相を突きとめたいと思わないのか",
"思いませんね。完全に。なぜなら、東京を立ち去るべきだからです。一度はトコトンまで突きとめてみたいような気持になりましたが、いまでは謎の女の正体が玉子と分ったことまで余計なことだと思っています。立ち去る方がよいなら、ただ立ち去ればよいのです。海へ戻れば海の風が吹いてるだけです。それがボクのふるさとだし、またボクの一生の全部ですよ。ボクは葉子さんという可愛い娘のために一切の謎のセンギをやめましたし、また東京を立ち去りますが、それが同時に葉子さんに捧げる愛情の全部なのです。葉子さんのために去り、そして悔いはありません。波の呼ぶ声がきこえています。ボクが本当に恋することができるのは、それだけということが分っているからです。誰からも、また何物からも、最後にはボクは必ず海へ戻らなければならないでしょう。完全にボクの物だと云いきれるのは海だけですよ"
],
[
"都合がわるくはないけれど、早い方がよろしいわね",
"御都合がわるくなければ待っていただきたいわ",
"なるべく早い方がよい都合なのよ",
"その程度の都合なら待っていただこうかしら",
"意地わるねえ。からかったりして。いますぐに、つきあって下さるつもりでしょう"
],
[
"無人の際に泥棒が盗んでいくと、アナタが疑られるわね",
"それだけは大丈夫よ。信用が特別なんですもの"
],
[
"私はアナタの味方ですと以前あれほど云ったのに信用して下さらないようね",
"そうよ",
"どうして?",
"私の疑問に答えて下さる?",
"答えてよろしい範囲でね",
"夏川さんを白雲荘へつれこんで姿を消したのは?",
"どのみち夏川さんは狙われてたんですもの、私がその中間にたつ方が安全の保障になったから。さもなければ、もっと危険よ",
"金庫を爆破に行くことよりも?",
"そう。ですから、それを妨げようとしたでしょう",
"それを妨げたのはタコスケたちだわ。私を白雲荘へつれだして妨げられる?",
"ええ",
"具体的に答えて",
"いまは云えないワケがあるのよ",
"それでも信用しなさいと仰有るの?",
"信用して下さらなければ仕方がないと思うけど、私はアナタが疑り深いと思うのよ",
"夏川さんが東京を立ち去らなければならないワケは話して下さると仰有ったわね",
"全然疑り深いんですもの。すこし休ませてね"
],
[
"ここがアナタの寝室よ。その小部屋にはこのオバサンがいますから、用があったらいいつけなさい。進駐軍に接収されてたから、こんなグアイにムリヤリ洋室に改造して座敷の一ツを浴室にしちゃったんですって",
"私の寝室ッて、どういう意味?",
"泊っていただくことになるかも知れないから。安心してらッしゃい。私はアナタの味方よ。もう私の名は御存知ね",
"玉子さんでしょう",
"ワケがあってのことですから、辛抱してちょうだい。決して悪いようにはしませんから。ですが、この部屋から出ないようにね",
"どうして?",
"それをきかないで辛抱して下さることよ。私がアナタの味方だということを信じて",
"信じていないわ",
"こまった人ね。あなたが疑り深くって追及がきびしいから、頭痛がしちゃった",
"頭痛がするのに、やさしい表情とおだやかな眼とでいつも微笑してらッしゃるから信用できなくなるのよ。どうして無理なさるの"
],
[
"ふだんお脈を拝見しておれば特別に手当ての仕様もあるのですが、奥さまはゼンソクがおありですか",
"いいえ",
"とにかく強心剤をうちつづけましょう。発作がおさまってしまえば安心だと思いますが"
],
[
"落付いてきたね",
"ハ。どうやら。これだけ打って落付かなくてはちょッと重大ですが"
],
[
"お部屋をうつしてよろしゅうございますか",
"とんでもない。絶対安静です。看護婦をつけた方が安心でしょうね。一人さがしてあげましょうか",
"ダンナさまに伺ってあとでお願い致すかも知れませんが",
"イヤ、看護婦は当節めったに見つからないから、つけない方が私も世話がなくて楽だが、しかしこの容態ではあなた方の附添では心もとない。とにかく、絶対安静。これが第一です"
],
[
"自業自得ね。罰が当ったのよ",
"なんの罰?",
"数々の悪業の罰",
"アナタがスパイだということでしょう",
"スパイ? 私が"
],
[
"そうそ。白雲荘の連中が夏川さんにそう云ったのね。まさかスパイじゃないわ",
"じゃア、どんな悪業の罰?",
"たとえばアナタをここへつれてきた罰。自慢のできる目的でつれてきたワケじゃないのよ",
"どんな目的?",
"そこまでは云えないわ",
"アナタは住田さんの奥さん?",
"まア、そうね。オメカケというのが正しい表現らしいけど",
"住田さんをスパイしてるんじゃないの?",
"なんのために?",
"私がそれをおききしたいのよ",
"日陰者のオメカケだから住田に愛情なんかもたないけど、スパイでないのも確かよ。天罰をうけてザンゲしたくなっちゃったけど、夏川さんにお詫びしてちょうだいね。夏川さんが爆破するはずの金庫はこの家の中にあるのよ。そしてね。爆破しての帰り道、たぶん夏川さんはこの庭で十何頭の猛犬に噛み殺されたはずなのよ"
],
[
"あなたの知らない人の別荘よ。でも、本当の持主は、ここの主人と同じ人よ",
"住田さん?"
],
[
"お嬢さま。お帰りの車が待っております",
"ハイ",
"そして、夏川さんと申す方に必ず東京を立ち去るようにとすすめてあげて下さいね",
"どなたからの御伝言?"
],
[
"苦は楽のタネ。ねえ、キミ。人の苦労に報いはあるものだ。キミも今回は思いがけないことで辛い思いをしたろうが、どうやら良き報いが訪れたらしいぜ",
"妹が無事戻ればほかに文句はありませんよ",
"そのことは云うまでもなしさ。あと三十分ぐらいで妹さんは勤め先へ戻るそうだ。まずは乾杯"
],
[
"お互いに今回は苦労したな。ボクだって何が何やら分らないが、さる人物とキミとの中間に立たされて辛い思いに変りはなかったよ。ところで例の夏川左近だが、その方は確実だろうな",
"無論ですよ。葉子が戻れば奴は海へ戻りますよ。奴の約束はヤクザの仁義以上に信用できますから",
"それはたのもしいな。ところで夏川左近が海へ戻ったあとで、キミにしてもらいたい仕事が一ツあるのだが",
"それは約束がちがいますよ。ボクの仕事は夏川左近を追ッぱらうので終りのはずだ。どこのオエラ方の命令か知りませんが、三下だって怒る時はありますぜ",
"まアま。カンちがいしちゃいけないな。苦は楽のタネ。よき報いの訪れとは、このことだよ。この仕事には莫大の報いがある。おまけに単なる商談だよ。夏川左近を追ッぱらったあとでだね、大竜出版と氏家印刷の払いをすましてバクダン・メモの出版を中止させるのがキミの仕事だ。ネ。単なる商談さ。値切ったぶんはキミのモウケになるぜ",
"だってボクが依頼した出版でもないのに、そんなことできますか",
"そこは適当にやりたまえ。住田嘉久馬氏にたのまれたと云うんだね",
"委任状は?",
"そういうものが必要かなア。ねえ、キミ。商談ですよ。しかも、現金の支払いですよ。先方は現ナマをちょうだいするのだ。そのほかに、何がいりますか",
"それが良き報いですかね",
"当り前さ。キミの腕次第で、モウケはお気に召すままだ。キミの労苦をねぎらうためにキミに与えられた仕事だぜ。失礼な申し様だが、本来ならこれは紳士の仕事だね。軍人で申せば大佐以上、あるいは、代議士、社長。こういう紳士の役割だ",
"ボクは紳士じゃないから、しくじるかも知れませんぜ。その節、文句を云っても知らねえから",
"しくじることはありませんよ。人に現ナマを与えるのだもの。これぐらい人によろこばれる仕事はない"
],
[
"とにかく、やってみましょう",
"無論のことさ。しかし、おことわりしておくが、この仕事は夏川左近が東京を立ち去ってからだぜ。それまでは絶対にこの話をきりだしちゃアいけません",
"わかりました",
"じゃア、まず海から来た男を海へ帰らせてきたまえ。キミの妹さんがそろそろ大竜出版へ戻ってくるころだ。彼女がどこへ行っていたか、それを知りたがるのは原子力の秘密を知りたがるのと同じぐらい危険なことだな。キミばかりじゃなく、夏川氏も、その他の何者もだ。分るだろうね",
"葉子が無事で戻りゃアほかは知ったことじゃアありませんよ"
],
[
"夏川左近氏はまだ戻らないのか",
"名残の一夜だからね。察しておやりよ",
"葉子は?",
"それを訊きたいのは、こッちだね",
"ちかごろのガキは脳膜炎をわずらッた奴にかぎってマセた口をききやがる。健全な頭でなくちゃア仁義礼智信はわきまえられないものだ"
],
[
"葉子さん! どうしたんですか!",
"夏川さんは?",
"あす海へ帰るので、氏家さんと名残りの酒をのみにでかけましたよ",
"あす海へ?",
"そうですよ。葉子さんが今晩かあすの朝には無事に戻ってくることがだいたい見当がついたからです。葉子さんの戻り次第海へ帰るという約束で、この洋次郎クンがユーカイ犯人と即時釈放の交渉をすることになったからですよ",
"じゃア、そのせいね"
],
[
"社長はいるかい?",
"夜間は休業だい",
"おそれいった。当店の然るべき人物に会いたいのだがね",
"このお嬢さんとボクが当店の然るべき人物だよ",
"特にキミが大物だな。一見して分るぜ。オレはこういう者だ。以後お見知りおきを願っとくよ"
],
[
"そうかい。太平洋の記者なら歓迎するぜ",
"サンキュー。一目見たときからキミのただならぬ人物は見ぬいたんだ。お茶をのましてくれねえかな。出がけにマーケットでショーチューを二杯キュッとのむ悪癖があってノドがかわいてこまるんだ。ウーム。うまい!"
],
[
"時に、バクダン・メモの出版はどうなってるね?",
"今日校了だよ。二三週間で街へでるよ",
"そうはいかないだろう",
"なぜさ",
"住田嘉久馬が雲がくれじゃ検印がもらえないだろ",
"さすがに知ってやがんな、新聞社は。それでこッちは困ってんだよ。校了だって戻ってこないから、こッちで勝手に校了にしちゃったんだ。なるほど検印がもらえないという心配もあるわけだね",
"大ありナゴヤだよ。とても検印はとれねえぜ",
"チェッ! アッサリ云うない",
"住田のいる場所を知らなければとれッこない",
"さてはそれをさぐりにきたな",
"オッ! 相当の眼力だ。住田とレンラクはないんだね",
"ないから困ってんだよ",
"これは明日の早版の朝刊だ。東京の朝刊にはもっと尾ヒレがつくはずだがね。住田の野郎どこへ雲がくれしやがったんだろ"
],
[
"この記事じゃアここの三四行が一番カンジンなんだ。いいかい。住田の雲がくれの裏には大金の動いた形跡がある、というんだな。その金額は一億五千万円と云われている。な。住田がその金を受け取ったんだ",
"畜生! メモの出版を一億五千万円で売りやがったな!",
"バカ云うな。こんなメモ、組んだだけじゃアたかだか十万ぐらいの損害じゃないか。メモの内容はすでに然るべき筋には全部知れ渡っているんだよ。この出版を怖がってるような連中は天下に一人もいやしないよ",
"だって、ほかに何も怖れる物はないじゃないか",
"この出版を怖れるとすればヨロンへの影響ぐらいのものさ。だから各紙だってせいぜいその意味でしか取りあげていなかったのさ。一億五千万円の値打のあるのはメモの中に暗示されてる一物だよ。大石弁造と玉子だけが知ってたという一尺八寸の仏像の中の秘密書類。この汚職事件の唯一の物的証拠だよ。この一物が紛失すれば、小菅の大物全部が無罪放免なんだよ。メモの出版がもしも世論を喚起するとすれば、この一物がどうなったかという一点に於てだ。メモの出版が多少怖れられるのもその理由によってだけなのさ"
],
[
"ところがだな。この一億五千万はまだ住田の手に渡っていないらしいんだ。なぜなら、金が渡れば、例の品物は敵方の手中に移るわけだ。これが敵方、つまり汚職方だな。そッちの手に移れば、汚職方や政府筋や検察庁方面に新しい動きが起るわけだ。それがまだ起っていないんだよ。もう一ツ、たぶんその節はキミの社へ出版を中止するようにと住田から云ってくるはずなんだ。つまりだな。金銭授受を感知するには、キミの社に張りこんでるのも一法なんだよ。オレのテレビアンテナさ。どうだい、事情が分ったかい",
"ウーム",
"わが社があすの朝刊に一億五千万の動きをほのめかすのも彼らに実行をいそがせる手段なんだよ。他社の奴が慌ててここへ駈けつけるかも知れないが、奴らには白ッぱくれて、住田から出版中止の使いが来たら、太平洋新聞へだけ知らせてもらいたいね",
"いいとも",
"ありがてえな。さすがにオレの見こんだ人物だ。キミは将来大物になるぜ",
"お茶のみなよ"
],
[
"ねえ、夏川さん。ボクたち相談をきめたんだけど、ボクと葉子さんが夏川さんを海まで送って行きますよ",
"それはいいね。漁師町は魚くさいのが玉にキズだが、いいものだよ。二三日滞在して東京の垢を落すんだな",
"ノンキなことを云ってるよ。ボクたちは夏川さんの護衛なんだぜ。ボクがついてりゃ大丈夫だが、さもないと道中が危険なのさ。この人は何も知らねえな"
],
[
"住田嘉久馬氏雲がくれ、とあるだろ。ところでだね。重大なのはこの三四行なんだぜ。住田氏雲がくれの裏面には一億五千万の大金が動いた形跡があるというのさ。つまり住田が一億五千万の金をもらって雲がくれしたというわけさ。住田の行方は太平洋新聞が必死に追っかけているのだよ。ところがだよ。葉子さんが玉子にユーカイされて連れこまれたのが住田の隠れ家ですよ。葉子さんは住田の顔も見てきたのですよ",
"住田がユーカイしたってわけかい",
"そうなんだよ。夏川さんを白雲荘へ連れこんで、金庫を爆破しなければならないようなハメにさせたのも住田ですよ。それがいま分ったのさ。いいですか。夏川さんが爆破するはずだった金庫はその住田の隠れ家の金庫ですよ。それを爆破して夏川さんが何物かを盗んで逃げる。ところがその隠れ家には十数頭の猛犬がいるんです。夏川さんが逃げる時にその猛犬がワッと襲いかかって夏川さんを噛み殺してしまうんですよ。そして盗まれた何物かはそこから行方不明になってしまう。こういう手筈だったんです。そしてその紛失した何物かは改めて住田から汚職の容疑者の手に渡る。一億五千万の代金引き換えにね",
"どうしてボクに盗ませるのだね",
"だってバクダン・メモで公表したから住田の手に秘密書類の握られてるのが世間に知れ渡っているでしょう。それを単にヤミからヤミに葬れば、世間の疑惑がさっそく住田に集るじゃありませんか。さては金をもらって売り渡したなと感づかれるにきまってるからね。それを誰かに盗ませる。盗んだ男が殺されてしまえば、秘密書類が紛失しても共犯者が持って逃げたと思わせることができるでしょう。しかもだね。盗んで殺された犯人が夏川さんなら大竜出版の新入社員で一応住田の秘密に通じている筋も通るばかりでなく、夏川さんの身許がアイマイで共犯の見当だってつきやしませんよ。案外ボクなんぞが共犯に疑われるかも知れないね。あるいは夏川さんが汚職の容疑者の手先で、その目的のために社員となって大竜出版に入社したと解釈されるかも知れないでしょう。なんしろ天下に身寄りのない風来坊だから、タンテイだの新聞記者がどんな解釈でもつけますよ。とにかく金庫爆破の犯人としては天下に夏川さんぐらい適当な人物はいなかったわけだね。大竜出版の唯一のしかも新入りの社員で、素性がハッキリしないんだからね。名タンテイ・タコスケの原子眼は見透しですよ",
"そこまで分るはずはなさそうだな",
"わかるはずがあるんです。悪いことはできないものさ。葉子さんをユーカイした玉子が住田の隠れ家へ到着するとにわかに急病になって倒れたんです。医者が二三十本もカンフルをうって持ち直したそうですが、看病の葉子さんに玉子が告白したんです。天罰とみて怖れたんだそうですよ。夏川さんに爆破させるはずの金庫はこの隠れ家の金庫で、爆破のあとで犬に噛み殺させる手筈だったということをね。そして白雲荘も住田の身内の別荘だと教えてくれたそうです。してみれば一目リョウゼンですよ。金庫爆破の張本人は住田その人さ。夏川さんが大竜出版の新入社員と知ってるのは住田だけですからね。そして玉子は実は住田の二号なんです。してみればこの筋書を書いた者は住田以外にありッこないのが判明するじゃありませんか。夏川さんにインネンをつけて金庫爆破を余儀なくさせるために玉子があなたを白雲荘へ誘いこんだと分るでしょう。いわば玉子は夏川さんを殺す計画の執行人ですからね。急病に倒れて天罰を怖れたのは無理もないです。彼女もまたかよわき女だからね",
"その隠れ家はどこだい",
"東村山らしいですよ。丘の上の一軒家で、下に貯水池が見えるそうです",
"それにしてもボクを海へ帰したがるわけが分らないね",
"神奈川氏や千葉氏の顔を知ってるから、東京をうろつかせちゃアうるさいと思うのは当り前さ。生かしておいちゃア危いと思ってるかも知れないよ。だからボクと葉子さんが護衛して無事海まで送りとどけてあげるんですよ",
"それは大いに心強いな",
"そうですとも。さすがに太平洋新聞は目が高いや。一目でボクを見ぬいたからね"
],
[
"明日は海へ戻るのだから、今夜は早寝しようよ。キミたちも帰ってやすんでくれたまえ。護衛の名タンテイが寝不足じゃア心細いからね",
"そうだね。九時ごろ迎えにくるからね。おやすみ"
],
[
"裏口に呼鈴があるから、それを押して人が出て来てからでなくちゃア危くてはいれないぜ",
"ボクは犬の訓練に行くんですから心配ありませんよ"
],
[
"あの、どなたさまですか",
"奥さんの使い走りしている夏川という者です。取りついでいただく必要はないのですよ。ただ病室へ案内していただくだけで分りますから"
],
[
"もう分りました。あなたは退って下さい",
"そうですか"
],
[
"今日は。玉子さん。夏川左近です",
"アッ!"
],
[
"よく分ります。では、みんな御存知なんですね",
"あなたが葉子さんに告白した言葉と今朝の太平洋新聞の記事とを合せて、どうやら分ったのです",
"私も分っていただきたかった。今では、そう思っています。葉子さんに中途ハンパな告白しかできなかったことを今では後悔しているのです。私はあなたを殺す仕事の手びき役をしましたし、葉子さんを苦しめました。なおその上に大石弁造への復讐心から秘密書類を奪って住田に渡し、この騒動の元をつくったのも私です。秘密書類はまだ金庫の中にあります。今日の午後、一億五千万円と交換の手筈になっていますが、私は今ではその書類が再び大石一味の手に戻ることも、住田の手にとどまることも欲してはおりません。住田らの卑怯な約束通り、あなたの手に渡り、正しい扱いをうけて天下に公表されることを祈っております。せめてもの罪ほろぼしにお手伝いさせて下さい。私がお手伝いしなければ金庫は開きません。住田はどんなゴーモンをうけても金庫の開け方を口走るはずはないのです"
],
[
"住田の部屋はどこですか",
"二階のちょうどこの反対の側に当る突き当りです",
"住田とあなたのほかには女中三名だけですか",
"ほかに犬が十六頭。とても泥棒ははいれません。この犬を怖れずに邸内へ侵入できる人は自分の正しさに自信のある人だけですわ。私はビックリしました。しかし、それに気がついて、あなたを信じもしましたし、尊敬もしました。女中は私がこの部屋へ呼び集めて、あなたのお仕事が終るまで外へだしません。金庫をあける時に私を呼びにいらして下さい"
],
[
"この部屋にカギをかけていらして下さい",
"ありがとう"
],
[
"これが秘密書類です。これだけが汚職事件の物的証拠だそうです。あなたはこれをどうなさる?",
"ハッキリした当てはありませんが、いまの世相では国民の友達は新聞だけのようですから、太平洋新聞へとどけようかと思っています",
"それがよろしいわ。では私についてらッしゃい。犬をなだめますから。あなたが新聞社へおつきのころまで、この家の者は一歩も外へ出させません"
],
[
"御無事にね",
"ありがとう"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部 第六巻第九号~第一一号」
1954(昭和29)年7月1日~9月1日
初出:「講談倶楽部 第六巻第九号~第一一号」
1954(昭和29)年7月1日~9月1日
※「甚しく」と「甚だしく」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:北川松生
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "さこんのいかり",
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"怖いものか。生きてゐるより、よつぽど無邪気に見えるぢやないか",
"ほんとうに、さうね……"
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] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「東洋大学新聞 第一〇一号」東洋大学新聞学会
1933(昭和8)年4月30日発行
初出:「東洋大学新聞 第一〇一号」東洋大学新聞学会
1933(昭和8)年4月30日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045808",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"それじゃない。その下の人だよ",
"僕の妹はひとりしかないのだ"
],
[
"あっはっは。今でもそんな齢に見えますか。もう三十ぐらいです",
"わあ。驚いたなあ",
"あら、羨しい。ずいぶん得な方ですわね"
]
] | 底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波書店、岩波文庫
2008(平成20)年11月14日第1刷発行
2013(平成25)年1月25日第3刷発行
底本の親本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
初出:「若草 第一六巻第四号」
1940(昭和15)年4月1日
入力:Nana ohbe
校正:酒井裕二
2015年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "056801",
"作品名": "篠笹の陰の顔",
"作品名読み": "しのざさのかげのかお",
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"初出": "「若草 第一六巻第四号」1940(昭和15)年4月1日",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2015-07-15T00:00:00",
"最終更新日": "2015-05-24T00:00:00",
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"姓読み": "さかぐち",
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"底本名1": "風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
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[
[
"それぢやない。その下の人だよ",
"僕の妹はひとりしかないのだ"
],
[
"あつはつは。今でもそんな齢に見えますか。もう三十ぐらゐです",
"わあ。驚いたなあ",
"あら、羨しい。ずゐぶん得な方ですわね"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若草 第一六巻第四号」
1940(昭和15)年4月1日発行
初出:「若草 第一六巻第四号」
1940(昭和15)年4月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045852",
"作品名": "篠笹の陰の顔",
"作品名読み": "しのざさのかげのかお",
"ソート用読み": "しのささのかけのかお",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「若草 第一六巻第四号」1940(昭和15)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-10-29T00:00:00",
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"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
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"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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"底本出版社名1": "筑摩書房",
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"校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "若草 第一六巻第四号",
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} |
[
[
"明治時代にそんなものを出版したこともあつたさうですけど",
"いゝえ、昭和四年です。現に、下の門番も知つてゐますよ",
"それは何かの間違ひでせう"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第八号」大観堂
1941(昭和16)年9月25日発行
初出:「現代文学 第四巻第八号」大観堂
1941(昭和16)年9月25日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045863",
"作品名": "島原の乱雑記",
"作品名読み": "しまばらのらんざっき",
"ソート用読み": "しまはらのらんさつき",
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"副題読み": "",
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"初出": "「現代文学 第四巻第八号」大観堂、1941(昭和16)年9月25日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-11-06T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45863.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 03",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年3月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "現代文学 第四巻第八号",
"底本の親本出版社名1": "大観堂",
"底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年9月25日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"校正に使用した版2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "noriko saito",
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"テキストファイル最終更新日": "2008-10-15T00:00:00",
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} |
[
[
"あ、あの子は、ちょッと、シャンだ。あれをやろう",
"よせよ。あれもヒヤカシだよ",
"ウソですよ。素人娘ですよ"
],
[
"オイ、あの女は、横浜で焼けだされて、厚木の近所の農村へ疎開してると云ったろう",
"アレ、僕たちの話、立聞きしましたね",
"別の男とやってるのを聞いてたんだよ。いゝかい、あの女と、あの女と、あの女と、あの女、四人のちょッとした女はみんな一味だよ。あそこにいるオバサンを軍師にして、ヒヤカシに来ているのだ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「サロン 第三巻第七号」
1948(昭和23)年7月1日発行
初出:「サロン 第三巻第七号」
1948(昭和23)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042843",
"作品名": "集団見合",
"作品名読み": "しゅうだんみあい",
"ソート用読み": "しゆうたんみあい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「サロン 第三巻第七号」1948(昭和23)年7月1日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-08-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42843.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 06",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月22日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "サロン 第三巻第七号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1948(昭和23)年7月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "小林繁雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42843_ruby_27441.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-07-24T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42843_27736.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-07-24T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"よろしく、お願いしやす。あたしゃ、御覧の通りの者なんで、清元と義太夫をちょいとやったゞけの無学文盲、当世風にゃカラつきあいの無い方なんで、先日も若い妓が、エッヘッヘ、ダンスをやりましょうなんて、御時世だからオジサンも覚えといて損はないわヨ、なんてネ、五六ぺんお座敷をぶらぶらと、然し、こうふとっちゃ、ビヤ樽みてえなものだから、ムリでさア。失礼ですが、ダンスなども、おやりでしょうな",
"えゝ、会社のオヒル休みにダンスのお稽古、みなさん、やるんですの。そのうちパーテーやるそうですけど、私あんまり趣味がないからヘタですわ",
"私の女房子供は戦災で焼け死んじゃったんですが、御主人は戦死なさったそうで",
"えゝ、とてもいゝ主人で可愛がってくれましたけど、全然ムッツリ黙り屋さんで、可愛がることしか知らない人なんですもの。毎日、満足で、たのしかったわ。あなたは年増の芸者や若い芸者や、たくさんオメカケがおありなんでしょう。たのしいわね。男の方は、うらやましいわ。うちの主人もよく遊んだ人ですけど、私も、時々、主人に遊びに行ってきて貰ったんですの",
"へえ、それは又、御奇特なことで。なぜでしょうかな"
],
[
"今夜のこと、オバさんに話しちゃ、いやよ",
"いゝじゃないか。どうせ一緒になるんだから",
"見合いの日にそんなこと、おかしいから、言っちゃ、いや。そんな人、きらいだわ",
"そうか、わるかった。それじゃア、誰にも言いやしないよ"
],
[
"あすからでも、いゝや。式はあと廻しにして、すぐ来てくれてもいゝんだから。なんなら、二三日うちにだって、お祭みてえな式をあげるぐらい、わけのないことだから",
"結婚なんか、どうだって、いゝじゃないの。このまゝ、こうして、時々あうだけで、いゝじゃなくって"
],
[
"だってネ、夫が戦死して結婚するなんて、なんだか助平たらしくて、いやだわ。私、夫が出征してから、今まで。ねえ、だから、もう、ちょッと、ゆっくり、待とうよ。そんなに、いそいで、結婚なんて、言わなくっともいゝじゃないかと思うわ",
"そうかなア。それじゃア、なにかい、オメカケの方がいゝというのかい",
"いゝえ、うちに子供もいるし、間借りだから、うちへ来て貰っちゃ、こまるわ。会社の名刺あげといたでしょう。四時ぐらいまでいるから、電話をかけてね。でも、一週間ぐらいのうちに、私の方から、お邪魔に上るわ。それまで、待ってちょうだい。分ったでしょう",
"なるほど、そうかい。それじゃあ、気永に待つことにしよう。一週間ぐらいのうちに、待ってるぜ。四時から五時半まではウチにいるし、そのあとだったら、屋台にいるから、屋台の場所は分ったね",
"えゝ、じゃア、またネ。四五日うち、二三日のうちに、お伺いするかも知れないわ"
],
[
"私のことなんか、もう忘れてらっしゃると思ってたわ。あなたはずいぶん道楽なさったのでしょう。私なんか、つまらない女ですもの",
"とんでもない。忘れるどころの段じゃないね。私はもうこの一週間ほど落付きのない思いをしたのは、五十年、はじめてのことさ。それでもビヤ樽にへり目の見えないところをみると、よくよく因果にふとったものだな"
],
[
"こんなこと、恥をかゝせるみたいなものだが、事務員して二人の子供を育てちゃア、大変なことさね。気を悪くしないで、納めてもらいたい",
"そんな心配いらないわ"
],
[
"私の気持だけだから、私にも恥をかゝせないで、納めて下さいよ",
"私、男の人からお金もらったりすること、きらいよ。働いてると、時々、そんなことする人あるけど",
"だって、お前、私の場合は、もう他人じゃないんだから",
"だって、淫売みたいだから、いやだわ。お金に買われたみたい、いやだもの。私、ノンビリしていたいのよ。だから、もう、結婚なんて、考えたくないの",
"だって、見合いをしようという気持を起したじゃアないか",
"あれは気持の間違いですもの。それに公報はきたけれど、公報のあとに本人が復員することも屡々あるそうですもの。だから、夫を待ってるわ",
"それは済まなかったなア。それでも公報はきたことだから、一度、こうなっても、まんざら御主人に顔向けがならねえというワケでもないぜ。だから私も結婚は、あきらめるから、まア、然し、これは、納めて下さいよ。結婚は別として、時々は遊んでくれても、いいじゃないか。金で買うわけじゃアないんだぜ。当節はレッキとした官員さんでも暮し向きが楽じゃないそうだから、ましてお前、女手一つじゃ大変だアな。私の気持だけなんだから"
],
[
"今晩はともかく一時間でいゝから、うちへ遊びにきておくれ",
"一時間だけね。でも、もう、あんなことしないでね。死んだ主人のこと考えると、可哀そうだから。とても可愛がってくれたんですもの",
"あゝ、いゝとも"
],
[
"こんど、いつ会ってくれるね",
"私は水曜日だけがヒマなのよ。あとの日は、洋裁の学校へ通ったり、残業の日だから。オバサンに知られるのイヤだから、会社へ電話ちょうだい。オバサンに羞しいから、今夜のことも言っちゃイヤよ",
"言うまでもねえやな。それじゃア、待つ身はつらいから、約束の日をきめるのはやめにして、私は電話をかけるよ。一週間に一度ぐらいはいゝだろう",
"うん、でもネ、やっぱり主人に悪いと思うから、あんなこと、もう、したくないのよ",
"マアサ、拝むから、旦那の帰還まで、つきあっておくれ",
"えゝ、その代り、誰にも言っちゃ、いけなくってよ"
],
[
"私、今日、オヒルをたべなかったから、オナカがへったのよ",
"うちで御馳走こしらえてやるぜ"
],
[
"会社にゴタゴタがあって、ちかごろみんな仕事に手がつかないのよ。私の部の部長と課長も大阪支店と札幌支店へ左センされるでしょう。私、もう、会社やめるかも知れないわ",
"やめたら、食うに困るだろう",
"あら"
],
[
"独身生活もノンビリと面白いでしょう。二号だの三号のところへ時々通うなんて、いゝわねえ。二号さんと三号さんと、どっちが可愛いゝの",
"同じようなものさ",
"でもよ、少しは違うでしょう。若い方? 年増の方? 私も若くなりたいわ。二十七八になりたいわね。そのころは、私たち幸福だったのよ。主人がとてもいゝ人だから。私、今日は、ねむいわ。すこし、ねむって、いゝでしょう。おフトンは、こゝね"
],
[
"お前はなにかえ、死んだ亭主と幸福だったてえけど、どんな風に幸福だったんだ",
"毎日、幸福だったわ",
"毎日、なんだな、あんなこと、やってたというのだろう",
"そら、そうよ。毎日々々よ"
],
[
"今夜は帰らないのかえ。いつもにくらべておそいようだぜ",
"私、今夜はこゝへ廻るつもりで、うちのこと頼んできたから、いゝわ。でも、おそくなるから、もう帰るわ",
"あゝ、物騒だから、おそくならない方がいいぜ",
"時々遊びにくるわ。又、二三日うちにね",
"あゝ、おいで",
"こんど二号さんや三号さんに紹介してちょうだいよ",
"ふん",
"私にオデン屋をやらないかなんて言った人があったけど、その人、ほかに野心があるらしいから、ことわったことがあったわ",
"二号になれというのだな",
"二号じゃないわ。奥さんよ",
"じゃア、野心でもないじゃないか",
"だって奥さんになれと言わずに、オデン屋をやるといゝって言うから、へんよ",
"いゝじゃないか",
"でも、私、その人、好きじゃないのよ",
"じゃ、勝手にするさ",
"そうよ。だから、おかしくないでしょう"
],
[
"近頃はノベツ喉をかわかしているじゃないか。会社をやめたのかい",
"うん。内部にゴタゴタが起きて、閥やら党派やら、共産党やらね。うるさいから、やめたわ。これから、どうして暮そうかと思って、私、洋裁まだヘタだから独立できないし",
"それはそうだろうさ。それとも、課長は、よっぽど洋裁がうまかったかい",
"課長は洋裁知らないわ",
"じゃお前だって、てんで洋裁はできなかろうぜ"
],
[
"私ね。女学校の頃から習ったから、相当うまいわ。自分の洋装、みんな自分で仕上げるのよ",
"どうだい。会社をやめたら、私と一緒になるかい"
],
[
"そうね。でも、あんた、気持のむつかしい人じゃない。私の主人、とてもやさしい、物分りのいゝ人だったわ",
"洋裁の日は何曜日なんだい",
"月水金だけど、もう行かないのよ。以前は月金で水はなかったけどね",
"やれやれ、月水金は洋裁の課長さん、土日は部長さん、火木は伊東さん、それじゃお前、七日のうち、七日ながらノべツじゃないか。お前の御主人は何かえ、ノベツ女房が課長さんや部長さんや伊東さんとアイビキしても怒らないような人だったかい"
],
[
"未亡人なんて、色々噂をたてられて、つまらないわ。自分がモノにしようと思ってモノにならないと、復讐から、言いふらすのよ",
"モノにした人が言ってることだから、間違いなしさ",
"じゃア、もう帰るわ"
],
[
"あの人はお寺の坊さんと一緒になったよ。お寺の門に洋裁の看板もぶらさげたよ。シッカリ者さ",
"洋裁なんて、腕がねえ筈だがな",
"ミシンが一台ありゃ、誰にでも、出来らあね。お前みたいな野郎でも庖丁がありゃ料理屋ができるじゃないか。ちかごろはお経を稽古してらアね。そのうち坊主の資格をとって、おとむらいに出てくるそうだよ。お前が死ぬころは、あの人のお経が間に合うかも知れないから、頼んでおいてやるよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第三巻第一号」
1948(昭和23)年1月1日発行
初出:「オール読物 第三巻第一号」
1948(昭和23)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「霞ヶ浦」は小振りに、「一ヶ月」は大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年2月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042813",
"作品名": "出家物語",
"作品名読み": "しゅっけものがたり",
"ソート用読み": "しゆつけものかたり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物 第三巻第一号」1948(昭和23)年1月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-03-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42813.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 06",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月22日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "オール読物 第三巻第一号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1948(昭和23)年1月1日",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "小林繁雄",
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} |
[
[
"神田さんへいらッしゃるんでしょう",
"ハ?",
"神田さんはここを曲って丘の上ですよ",
"ハア。存じております",
"そうですか。どうも、失礼"
],
[
"原稿できてますか",
"ええ、できてます。ここにあるわ"
],
[
"先生、シャワーが好きですね",
"そうなのよ。真冬でもやるんですよ。それで皮膚が若々しいのかしら"
],
[
"あなた、電車で、美しいお嬢さん見かけなかった?",
"アッ。それだ。見ましたとも。神社のところまで一しょでしたよ。あの人、誰ですか",
"安川久子さん",
"やっぱりね。すごい美人ですね",
"ええ"
],
[
"イエ、なんでもないのよ。ただ先生が待ちかねて、きくものですから。お見えになったら居間へお通ししろッて。湯上りの素ッ裸でせきこんでるわよ",
"ストリップですな",
"ひどいわね"
],
[
"男ッて、横暴ね",
"どうしてですか",
"美人を隣室へ呼びこんどいて、お前、ちょッと散歩してこいだって",
"先生なら大丈夫ですよ",
"なにが先生ならなのよ。日本一の助平よ、あの先生は",
"フーン",
"何がフーンさ。さ、出ましょうよ。不潔だわ、ここの空気。淫風うずまいてるわね"
],
[
"私も一しょに銀座へ遊びに行こうかな",
"僕はまッすぐ銀座へでるんじゃないんですよ。これから挿絵の先生のところをまわって、それからです"
],
[
"今ごろまでどこをうろついてたんだ?",
"よせやい。小説原稿と挿絵をまわって、休むヒマもありやしない",
"お前まさか神田兵太郎を殺しやしまいな",
"おどかすない",
"神田兵太郎が自殺したんだ。しかし、他殺の疑いもあるらしい。とにかく、貴公、ちょッと、姿を消してくれ",
"なぜ?",
"こッちの用がすむまで他社に貴公を渡したくないからさ。神田兵太郎が死んだのは、貴公があのウチにいた前後なんだ。もしも他殺なら、貴公は容疑者のナンバーワンだよ",
"オレのいたのは正午だよ。神田先生はシャワーを浴びてピンピンしてたよ",
"待て、待て。白状するなら、こっちの部屋で……"
],
[
"安川さんは?",
"さア?",
"まだお帰りにならないのかしら?",
"僕はズッとここでマキ割りしてたもんで、家の中のことは知らないのですが……"
],
[
"はい。どうぞ",
"アラ。安川さん、お一人?",
"ええ",
"先生は?",
"どうなさったんでしょうか。今までお待ちしてたんですけど……",
"原稿書いてらッしゃるのかしら?",
"さア? 私まだお目にかかっていないんですの",
"さっきから?",
"ええ"
],
[
"私が居間にいる間、隣の寝室に特別の物音は起らなかったように思います",
"ズッと部屋を動かなかったのですね",
"いいえ、二度部屋をでました",
"なぜ?",
"電話が鳴ったからです。どなたもお出にならないので、私がでてみましたが、時間がたったせいですか、私がでた時には切れていました",
"いつごろですか",
"私が来て間もなく、十二時五分か十分ごろかと思います",
"そのとき邸内に誰もいませんでしたか",
"どなたの姿も見かけませんでした",
"何分ぐらい部屋をはなれていたのですか",
"ちょッとの間です。電話機をガチャ〳〵やってみて、切れてるのが分るまでの時間だけです",
"そのときピストルの音をききませんでしたか",
"気がつきませんでした。ラジオが鳴っていましたので、きこえなかったのかも知れません",
"ラジオのスイッチを入れたのはあなたですか",
"いいえ。私が来たときから鳴っていました"
],
[
"僕は先生の弟子で、書生で、下男にすぎませんよ。その他のことは知りませんね。え? 愛人? 先生の愛人ならアケミさんでしょう。え? 安川久子さんと先生との関係ですか。そんなこと知るもんですか。僕には、神田先生の私生活は興味がなかったです",
"ピストルの音を知らなかったのかい?",
"知ってりゃ何とかしますよ。書生の勤務に於ては忠実な方ですからね",
"自殺の原因に心当りは?",
"ありませんね。そもそも文士には自殺的文士と自殺的でない文士と二種類あって、自殺的でない文士というものは人間の中で一番自殺に縁がない人間ですよ",
"殺される原因の心当りは?",
"僕が先生を殺す原因なら心当りがありませんよ。他人のことは知りませんね",
"君とアケミさんの関係は?"
],
[
"もしも僕たちが良い仲なら、先生の生存が何より必要さ。なぜなら、僕たちが同じ屋根の下に暮せるのは先生のおかげだからさ。僕のように生活力のない人間が、先生なしでアケミさんと同じ屋根の下で暮せやしないよ。アケミさんの顔を一目みれば分りそうなものだがなア",
"それで結局、良い仲なのかい?",
"僕がウンと云えば日本中の人を思いこませることができるらしいね"
],
[
"神田さんへいらッしゃるのですか",
"ええ",
"一しょに参りましょう",
"おかまいなく"
],
[
"ハンドバッグを胸にだいてボンヤリ立ち止っていたと云ったんだ。中をあけて思いつめてのぞいてたなんて云いやしないよ",
"素人は黙ってろ",
"よせやい。オレだって昔は三年も社会部のメシを食ってるんだ。十五ひく三の十二分で神田先生が殺せるかてんだ。正午カッキリまで先生が生きてたことはオレが証明できるんだ",
"その十二分間に彼女が殺したとは誰も云ってやしないよ。彼女は何をしていたかてんだ――どうだい",
"十二分ぐらいは何をしても過ぎちまわア",
"坂の下にパチンコ屋も喫茶店もなくてもかい。畑だけしかないところで、十二分間も何をして過す",
"よーし。オレがいまに彼女の無罪を証明するから、待ってやがれ。ついでに犯人も突きとめてみせるから"
],
[
"私が神社の前にたたずんでいましたのは、そこで待っておれという先生のお言葉だったからです",
"いつ命令をうけましたか",
"その前日、午後二時ごろ、先生から社へお電話がありましたのです。渡すものがあるから、正午ごろ神社の前で待っておれと申されました",
"なぜ正午まで待たなかったのですか",
"先生のお宅がすぐ近いのに、そんなところに待ってるのが不安になったからです。コソコソと人に隠れるようなことがしていけないように思われて、正午ちかくなってから、なんとなく先生のお宅まで行ってしまったのです",
"渡すもの、とは何ですか",
"たぶん原稿だろうと思いました。それしか考えられませんから"
],
[
"神社の前で待っておれと云ったのは神田先生本人の電話かね",
"神田先生御自身です。マチガイありません"
],
[
"まア、かけたまえ。君の来訪に備えて東京の全紙から事件のスクラップをとっておいたが、云い合わしたように報道に欠けてるところがあるね。特に君の新聞がひどいや。君の証言がよほど確実だと思いこんでるらしいな",
"当り前じゃないか、この目で実地に見たことだもの"
],
[
"どの新聞にも欠けているのは、君が神田家へ到着するまでの出来事に関する調査だね",
"オレの到着前のことは無用さ。オレが立去る瞬間まで神田兵太郎氏は生きていたのだから",
"イヤ、イヤ。彼の生死にかかわらず、神田家に異常が起ってからのことは漏れなく調査されなければならない",
"異常とは?",
"たとえばラジオ。そのまた先には女中への手紙。そのまた先には神田氏から久子さんへの電話。それは事件の前日午後二時だから、すくなくとも、その時刻までさかのぼって、それ以後の各人の動勢をメンミツに調査しなければならないのさ",
"ずいぶんヒマな探偵だな",
"書生の木曾が当日どこへ買いだしにでかけたかそのアリバイの裏づけ調査を行ってる新聞も一紙しか見当らないぜ。それによると、木曾はFから約七哩のQ駅のマーケットまで洋モク洋酒その他を買いにでかけているのさ。彼がフィルムを買った写真屋はこう証言してるね。木曾さんが見えられたのは十一時前後でしたろう。現像したフィルムと新しいのとをポケットへねじこみ四五分ムダ話ののち自転車で立去りましたよ、とね。QとFの距離は自転車で三四十分だね。もっとも競輪選手なら二十分以内でぶッとばすことができるかも知れないが、一番普通に考えて木曾が当然の時刻にQで買物していることは彼自身の証言通りと考えていいね",
"木曾の行動で疑問なのは坂で僕らとすれちがってからの何分間だ",
"それは各紙がもれなく論じていることさ。僕は目下各紙の調査もれを考案中で――もっとも、各紙の調査もれは君の調査もれでもあろうから、君に訊いても要領を得ないだろうね。君がF駅へ下車した十一時三十五分以後のことを語ってくれたまえ",
"神社の前で安川久子と言葉を交した以外には道で特別のことはない",
"神田邸では?",
"呼鈴を押すとアケミさんが現れて広間へ通してくれた。アケミさんはマントルピースの上から原稿をとってくれて、サンドウィッチとコーヒーを持ってきてくれたから、二人でそれを食って……",
"アケミさんも?",
"左様。それが毎日の例なんだ。神田氏の食事の時間は不規則でずれてるから、アケミさんはオレを待ってて一しょにサンドウィッチとコーヒーをとる。いつもなら女中が運んでくるが、その日はアケミさん自身が運んでくれて差向いでいただいた。十分間ぐらいして、サンドウィッチをほぼ平らげたころに、浴室の神田氏がタオルと怒鳴ったので、アケミさんは座を立った",
"それまでは君と一しょだね",
"左様。台所へサンドウィッチを取りに立ってくれた以外はね。さて神田氏はシャワーをとめてアケミさんからタオルをうけとってくるまって……",
"見ていたのかい",
"バカ。よその浴室をのぞく奴があるかい。神田氏は口笛ふいて寝室へかけこみ、アケミさんは広間へ戻ってきた。そのときアケミさんはうかない顔で、先生が待ちかねてるが、電車で安川さんと一しょじゃなかったかと訊いたんだ。さてはあの美女が安川嬢かと思うところへ安川嬢が到着したのさ。アケミさんが安川嬢を居間へ通す。とたんに寝室の先生が大声でアケミさんを呼んだからアケミさんはドアから首だけ差しこんで",
"ドアから首だけだね",
"左様。先生がアケミさんに散歩してこいと云った",
"ひどいことを云うね。それを君もきいたんだね",
"その声は低かったから、オレにはよくききとれなかったが、アケミさんがバタンとドアをしめて怒って戻ってきて、オレをうながして外へでたのさ。すると正午のサイレンさ",
"つまり君は神田先生には会わないのだね",
"百日のうち拝顔の栄に浴したのは三十日ぐらいのものさ。彼氏は名題の交際ギライでね",
"君がチゴサンてわけではなかったのかい",
"よせやい",
"ねえ。君。各紙は神田兵太郎氏の性生活を面白おかしく書き立てているが、実はみんな想像にすぎない。そして神田氏が浪費家で一文の貯えもないことを当然だと思っているらしいが、神田氏の食生活や性生活は門外漢には神秘的かも知れないが、一千万円の年収がそっくり出てしまうほど金のかかる生活だろうか。彼氏がケチなのも名高いのに、一文の貯蓄もないのは変じゃないか",
"道楽者の生活はそんなものさ",
"ところが安川久子嬢は云ってるぜ。先生から私的なお話をうけたのは事件前日の電話だけだとね。各紙の躍起の調査の結果も、彼女の私生活から蔭の生活をあばくことに成功していない。一方毛利アケミも他に愛人はいないようだと云っているぜ",
"浮気は人に知られずに行うものさ。特に女房にはね",
"君たちは何よりも重大なことを見落しているのだよ。安川久子嬢は洗えば洗うほど可憐なお嬢さんの正体がハッキリでてくるばかりじゃないか。その久子嬢をなぜ全面的に信じようとしないのだろう? その原因の大きな一ツは君の存在さ。君自身は気づかないらしいが、安川久子嬢が犯人らしいと各新聞社に思われている最大の根拠は、矢部文作という新聞記者が十一時四十五分から十二時までの動かしがたい証言をしているからなんだよ",
"それは重々認めているよ。オレが神社の前で佇んでいた彼女のこと云ったばかりに",
"イヤ、それじゃない。君が神田家へ到着してから、つまり十一時四十五分から正午までだ。君は神田氏を見たわけじゃない。しかし、君も、そして人々も、君が神田氏を見たものと思いこんでいるのさ",
"神田氏はたしかに生きていたよ。その声をハッキリきいてる",
"然り。然り。君は声をきいてる。また口笛と、シャワーの音をね。ところが安川久子嬢はピストルの音をきかないと云いはるのだ。その日の異常は全てが音だぜ。ラジオも音だ。視覚については異常は起っていないのだ。そして、もし安川嬢を全面的に信頼するとすれば、どういう結論が現れると思うかね。即ち、いかにラジオの雑音があったにしても、隣室のピストルの音をききもらす筈がないということだ。彼女は広間の電話の音すらも聞きのがしていない。その彼女がいかなる瞬間といえども隣室のピストルの音を聞き逃すことがあるものか。さすれば結論は明瞭じゃないか。ピストルは彼女が神田家に到着後に発射されたものではないということだ",
"オレが広間にいる間にもピストルの音なんぞ聞きやしないよ",
"然りとすればピストルはそのまた前に発射されたにきまってるさ",
"しかし、アケミさんは神田氏と話を交しているじゃないか",
"死人と話のできる人が犯人にきまってるのさ。ちかごろはテープレコーダーというものが津々浦々に悪流行をきわめているのでね。ラジオの雑音でごまかすと、テープレコーダーで肉声の代りをつとめさせるのはむずかしいことではなくなったよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第七巻第一〇号」
1953(昭和28)年8月1日発行
初出:「小説新潮 第七巻第一〇号」
1953(昭和28)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042951",
"作品名": "正午の殺人",
"作品名読み": "しょうごのさつじん",
"ソート用読み": "しようこのさつしん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小説新潮 第七巻第一〇号」1953(昭和28)年8月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-08-11T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42951.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 14",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年6月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年6月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年6月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "小説新潮 第七巻第一〇号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1953(昭和28)年8月1日",
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"入力者": "tatsuki",
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"テキストファイル最終更新日": "2009-07-16T00:00:00",
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} |
[
[
"僕の近所に塚田正夫と表札のでた家ができてね。六畳と三畳二間ぐらゐのバラックだから、名人の新邸宅とは思はなかつたが、同じ姓名があるものだと驚いたよ",
"案外、かこつてゐるのかも知れないぜ"
],
[
"第三局は驚くべき闘志だつた。負けて駒を投じてからも、闘志満々、あとの二局を見てゐろ、といふ凄い気魄がこもつてゐた。今までの木村ぢやない。驚くべき気魄だ",
"今までの木村ぢやない"
],
[
"どうです。君の予想は。どつちが勝ちますか",
"木村ですね"
],
[
"坂口さん、今、木村前名人がフラフラと便所へ行つてますがね。ひとつ、前名人にもゼドリンを飲ませてくれませんか",
"疲れてゐますか",
"えゝ、なんだか、影みたいにフワフワと歩いて、ちよッと痛々しいですよ",
"さうですか。ぢやア、飲ませませう"
],
[
"これのむと、ほんとに、ねむくないのですか",
"さうです。だけど、君や藤沢君の顔を見ると、ちッとも疲れたやうぢやないね。対局になると、やつぱり、疲れるの?",
"ええ、十二時前後から、頭脳がにぶつて、イヤになります"
],
[
"無筋の手ッて、どういふことですか",
"つまりですな。相手の読む筈がない手です。手を読むといふのは、要するに、筋を読んでゐるんです。こんな手は、決して相手が読む筈のない手なんですよ",
"時間ぎれを狙うてるんや"
],
[
"塚田名人、どうか、しとる。魔がさしたんぢや。負ける時は仕方のないもんぢや。それにしても、ひどい手ぢやなア",
"なぜですか"
],
[
"木村と塚田、どつちの勝つた方が、君にありがたいの?",
"さア?",
"升田は木村が勝つたので、ハリキッてゐるらしいが、君は塚田が勝つた方がうれしいんぢやないかね",
"さうでもないです。別に僕には、どつちがどうといふ区別はないです"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊文藝春秋 第一二号」
1949(昭和24)年8月20日発行
初出:「別冊文藝春秋 第一二号」
1949(昭和24)年8月20日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:土井 亨
2006年7月11日作成
2009年6月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043166",
"作品名": "勝負師",
"作品名読み": "しょうぶし",
"ソート用読み": "しようふし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「別冊文藝春秋 第一二号」1949(昭和24)年8月20日",
"分類番号": "NDC 914 796",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-09-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43166.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 08",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年9月20日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年9月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年9月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "別冊文藝春秋 第一二号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1949(昭和24)年8月20日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "土井亨",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43166_ruby_22208.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2009-06-20T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/43166_23712.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-06-20T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"どうだい、アヤちゃん。あなたと私の即製コンビで、お手伝いをしようじゃないか",
"あんた、できる?",
"やってみなきゃア分らないやね。然し、なんとか、なるでしょう。お客さん方も幕を睨んでいるよりはマシだろう。まさか舞台へとび上ってヒッパタキにくることもなかろうさ"
],
[
"衣子夫人の信望を一身に担っている博士に説得できないことが、私なんかに出来ませんや。私なんか親類縁者というわけで出入りはしているものゝ、親身にたよられているわけじゃアなし、第一、それだけすゝんでいる話を、今まで相談もうけたことがないのだから",
"そこが君、私が信望を担っているといったところで、私が当事者だから、私には説得力の最後の鍵が欠けているのさ。あれで、君、君の世間智というものは、衣子さんに案外強く信頼されているんだぜ。女というものは妙なところに不正直で、これは自信がないせいだと思うんだがネ、ひどく親しく接触しているくせに、その人を疑ったり蔑んでいたり、疎々しくふるまう相手を、内々高く買っていたり、君の場合などがそうで、案外高く信頼されているのだよ"
],
[
"すると夏川ヤス子夫人は三船君の特別秘書というわけだね",
"御冗談仰言っては困ります。そんなことを申上げては、あの御方は柳眉を逆立てゝ退社あそばすです",
"然し、君、社長と美人社員なら、先ず、そんなところだろう。なんにしても、本来、筋のよからぬ会社のことだからな",
"まア、まア、おやき遊ばすな。あなた方、病院内の生活はいざしらず、ヤミ屋の仁義は御婦人を手ごめに致さぬところにあるものです。かの御婦人は、我々の仁義を諒とせられて、目下、下情を御視察中のけなげなる美丈夫というものですよ",
"然し、思召しはあるだろう",
"それは、あなた、木石ならぬ我が身です",
"アッハッハ"
],
[
"これは面白い。ヤミ屋にくらべると、私らはヤボかも知れん。君らが物質的である以上に、私らはフィジカルだからな。私は君の会社へ遊びに行くよ。夏川夫人に御交際を仰ぎにさ。よろしく頼むぜ。敗戦このかた身辺ラクバクたるもので、とんと麗人の友情に飢えているから、千里の道を遠しとせずさ",
"先生のような強敵が現れちゃア、これは困るな。御手やわらかに"
],
[
"ハハア。情熱というものは、探すものですか。失われた青春てえと、なんですかな、どこかへオッコトしていらせられたわけですか。青春てえものは、ふところのガマ口みたいのものなのかな",
"空白な世代ということですよ。戦争のおかげで、我々の青春は空白なのですね",
"なにが空白なものですか。恋の代りに、戦争をしていたゞけじゃないですか。昔の書生は恋も戦争もせず、下宿の万年床にひっくりかえってボンヤリ暮していたゞけさ。空白な世代などという人間の頭だけが空白なのでしょう",
"世代の距りですよ"
],
[
"三船さん、オセッカイはよして下さい。あなたはガサツすぎますよ。騒々しいのよ。よその家庭へガサツを持ちこんで、迷惑をお気づきになることも出来ないのね",
"これは失礼いたしました。然し、これは犬馬の労というものですよ。ガサツは生れつきだから仕方がないけど、マゴコロを買っていたゞかなくちゃア",
"マゴコロは押売りするものじゃありません"
],
[
"それは、あなた、話というものは、ピントが合わなきゃ、仕様がない。ヤス子さんは、奥さんとはピントが合わないかも知れないけれども、ピントの合う人にとっては、あんな可愛げのある御婦人もメッタにありゃしませんよ",
"三船さんはピントが合うつもり? でも、ヤス子さんは、ピントが合わなくて、お困りの御様子ね"
],
[
"オヨシちゃん。私を暫時、女中部屋で休ませて下さいな",
"アラ、そんな"
],
[
"いかなるテンマツとなりましたか",
"どんなテンマツがお気に召すのですか"
],
[
"当家と大浦家の仲たがいが、血の雨でも降ることになったら、御満足なんですか。ゴセッカイに、チョロ〳〵、なに企んでいるのです",
"チョロ〳〵何を企むったって、屋根裏の鼠がひそかにカキモチを狙うんじゃあるまいし、それは、奥さん、あんまりですよ。私だって、一人前の男、四十歳、多少の分別はありますよ。失礼ながら温室育ちの奥さんに比べりゃ、数等世情に通じているからこそ、見るに見かねて、いえ、やむにやまれぬオセッカイ。ほんとですとも。毒殺ぐらい覚悟の上で、いえ、失言ではありません。坊主と医者てえものは気が許せませんや。年中扱いなれていやがるから、トンマな赤鬼よりも冷静なもんですよ。私は何も企みません。大浦一家が何事か企んでいると申上げているにすぎません。私の場合は必死の善意あるのみです"
],
[
"いゝえ、然し一人前の男だなんて、とんでもないことですよ。大学の副手の手当なんて、配給のタバコを買うにも足りないのです。全然、生活無能者なんです",
"ですから生活できるだけの持参金は持たせてやりますし、又、月々の面倒も見るぐらいのことは致しますと申したではありませんか。無能力のバカには、それでも、多すぎますぐらいでしょう。全財産の半分とは、あなた方兄弟の肚の中は盗人根性というものです"
],
[
"あなた、裏口営業というものに私をつれて行ってちょうだいよ。私、まだ、インフレの裏側とやら、浮浪児もパンパンも裏口営業も見たことがないわ",
"何を言ってますか。当病院がインフレ街道の一親分じゃありませんか"
],
[
"三船さん、ダメ",
"だって、あなた、今さら、そんな"
],
[
"あなた、酔ってるのね",
"いゝえ、酔ってはおりません。私はひどく冷静なんです",
"私は酔ってる。ヨッパライよ。けれども、頭はハッキリしたわ。あなた、約束してくれる。旅行に行っちゃダメよ。私を一人にしちゃダメよ",
"えゝ、えゝ、御命令には断じて服従します。行きませんとも"
],
[
"私のことは私の責任で致しますことですから、欠席は無用と存じますけど",
"いえ、そこが私のお願いなんです。これは社長の命令ではありません。お願い、つまりですな、私は大浦先生が憎らしいから、ひとつ、裏をかいてやろうというわけです",
"私は大浦先生を憎らしいとは思いません"
],
[
"だって、憎たらしいじゃありませんか。美代子さんの捜査だなんて、心にもないことを云って、卑怯ですよ",
"あの場合、それが自然ではないでしょうか。つまらぬことを、わざわざ正直に申す方が、私には異様に思われます",
"これは参った。まさしく仰せの通りです。それは実は私のかねての持論の筈だが、私はまったく、持論を裏切る、小人物の悲しさというものですよ"
],
[
"私は肉体にこだわるものではありません。終戦後、様々な幻滅から、私の考えも変りましたが、然し、理想をすてたわけではありません。肉体の純潔などゝいうことよりも、もっと大切な何かゞある。そういう意味で、私はもはや肉体の純潔などに縛られようとは思わなくなっているのです。然し、肉体を軽々しく扱うつもりはありませず、肉慾的な快楽のみで恋をする気もありませぬ。社長はよく仰有いますね。恋は一時のもの、一時的な病的心理にすぎないのだから、と。それは私も同感致しておりますのです。然し、恋の病的状態のすぎ去ったあと、肉体だけが残るわけではありますまい。私は恋を思うとき、上高地でみた大正池と穂高の景色を思いだすのでございます。自然があのように静かで爽やかであるように、人の心も静かで爽やかで有り得ない筈はない、人の心に住む恋心とても、あのように澄んだもので有り得ないことはなかろうと、女心の感傷かも知れませぬ、けれども、私の願いなのです。夢なのです。私は現実に夢をもとめてはおりませぬけれども、その夢に似せて行きたいとは思います。私は肉体や、その遊びを軽蔑いたしてはおりませぬ。肉体を弄ぶことも、捨てることも怖れてはおりませぬ。たゞその代償をもとめています。それの代りに、ほかに高まる何かゞ欲しいと思います。女の心は、殿方の心によって高まる以外に仕方がないとも思います。私の心を高めて下さる殿方ならば、私はどなたに身をおまかせ致しても悔いませぬ",
"そうですか。すると、お言葉の意味は、私はつまり、あなたの心を高める男ではないというわけですね",
"いゝえ、今までの浅いおつきあいでは、わかりかねるというだけの意味です"
],
[
"あの病院、僕がやめたら成立ちゃしないだろう。先方も、今さら後悔しても、行きがゝりの勢い、内々困っているのだろうから、三船君、君が行って、こだわらなくともよいから、安心させてやりたまえ",
"そうですか。先生の意志はお伝えしてもよろしいけれども、然し、どうも、実は、なんです、衣子さんから私が依頼をうけたこともあるのです",
"なんだい。じゃア、もう、先方から、僕に復帰してくれるように、君にたのんできたのかい",
"とんでもない。実はA大の久保博士ですなア。あの方は天下に先生と並び立つ隠れもないその道の大家、名医ですが、あの方に後任をたのんでくれとのことで、四五日まえ、ハッキリ話がきまって、今日あたりはもう出張診療されている筈なんですな。この先生を口説き落すには、私もずいぶん骨を折りましたよ"
],
[
"君は、その依頼をうけて、僕に復帰をたのむ方がいゝというようなことを、言ってやらなかったのか",
"それは、もう、如才なく、申上げたものですとも。けれども、衣子さんが受付けやしませんや。物凄い見幕で、私の方が叱りとばされる始末ですもの"
],
[
"ヤス子さん、あなたは恋愛したいと思いますか?",
"えゝ"
],
[
"どんな人と?",
"一番偉い、立派な方",
"有名な人がお好きですか",
"有名な方は、ともかく才能ある方でしょう。女は有名が好きですわ。すべての方に好かれる人を、自分のものにしたがるのですわ",
"なんだか、あてつけられているようだな"
],
[
"なんですって、三船さん。あなたは美代子の恥を表向きにさせたいのですか",
"そんなバカな。然し、あなた、これだけナメられて、それでいゝのですか。種則はユスリだと云い、院長は美代子なんてパンパンじゃないか、というゴセンタクですよ。慰藉料だって請求できるんだとは、これは先刻、あなたの口からでた御意見ではありませんか"
],
[
"慰藉料だって請求できる立場にあると申しましたが、慰藉料を請求すると私がいつ申しましたか。三船さん。あなたはワガママですよ。それに、なさることが卑劣ですよ。あなたのカケアイはなんですか。先方にユスリだのパンパンなどゝ言いくるめられて、ひき下ってきて、それはあなたの責任ではありませんか。御自分が勝つべきカケアイに言いくるめられて、そのハライセに、美代子の恥をさらさせてまで仇をとって、と、それはあなたが、ワガママ、卑劣ではありませんか",
"卑劣とは、何事ですか"
],
[
"何が当家ですか。当家の娘が、笑わせるよ。まさしく、パンパンじゃないか。大浦種則みたいなウスノロにだまされて、家出をして、金品をまきあげられて、別の男と関係ができて、まさしくパンパンさ。病気になって、追んだされなきゃア、半年あとには、立派にパンパンになって、どこかの辻にたゝずんでいたに極ってらア",
"お帰り下さい。出て行きなさい。そして、もう、二度と当家のシキイをまたいではいけません。ヤミ屋、サギ師、イカサマ師のブンザイで、上流家庭へ立入るなどゝ、身の程も知らず、さがりなさい。出て行きなさい"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:前半「文藝春秋 第二六巻第四号」
1948(昭和23)年4月1日発行
後半「別冊文藝春秋 第六輯」
1948(昭和23)年4月1日発行
初出:前半「文藝春秋 第二六巻第四号」
1948(昭和23)年4月1日発行
後半「別冊文藝春秋 第六輯」
1948(昭和23)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名": "ジロリの女",
"作品名読み": "ジロリのおんな",
"ソート用読み": "しろりのおんな",
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"初出": "前半「文藝春秋 第二六巻第四号」1948(昭和23)年4月1日、後半「別冊文藝春秋 第六輯」1948(昭和23)年4月1日",
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[
[
"これはウンといふ字だね?",
"え?",
"ウンといふ字ぢやないのか?"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第一〇号」大観堂
1941(昭和16)年11月30日発行
初出:「現代文学 第四巻第一〇号」大観堂
1941(昭和16)年11月30日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年9月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"三四尺ぐらゐの下から出たべい",
"さう〳〵。四尺ぐらゐの所よ",
"今度あつたらよ。手で丁寧に掘りだすだよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
初出:「文芸 第一〇巻第六号」
1942(昭和17)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:富田倫生
2008年4月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "045872",
"作品名": "真珠",
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[
[
"強いですね",
"何がです",
"あなたは酔わないですね"
],
[
"ずいぶん苦しそうですね",
"いいえ!"
],
[
"今後も空の旅を利用なさいますか",
"こう苦しくては、ちょッと……"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二六五九六号」
1951(昭和26)年1月3日
初出:「読売新聞 第二六五九六号」
1951(昭和26)年1月3日
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045896",
"作品名": "新春・日本の空を飛ぶ",
"作品名読み": "しんしゅん・にほんのそらをとぶ",
"ソート用読み": "しんしゆんにほんのそらをとふ",
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"初出": "「読売新聞 第二六五九六号」1951(昭和26)年1月3日",
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"底本出版社名1": "筑摩書房",
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[
[
"ウーム。今日の女杉女史は本当に泣いとる。手を合せて拝んでるようだなア。ウアー。面白えもんだなア",
"あんなメソメソしたのキライよ。大山ハデ子女史に限るわよ。ズバリそのもの",
"ウン。そうそ。あれも時に面白い。活溌だなア。歯ぎれのいいとこに色気がある。どんな顔してる先生だろう",
"変な読み方してるわね"
],
[
"転業しなきゃア、もうやってけないよ",
"資本がねえや",
"だからさ。日に三百も五百も売れてたころに貯金しときゃアいいのに、文章の書き方、手紙の書き方、字引き、性の秘密なんて変テコな本ばかり買いこんでさ。もう人生案内はやめとくれ。ニコヨンにでもなって、せっせと稼いどくれ",
"ウーム。ニコヨンか。大繁昌の中華料理店が不景気でつぶれて死ぬかニコヨンになるか。妻子は飢えに泣く。これはいけるな",
"なに云ってるのよ。ボケナスめ!"
],
[
"なア、お竹。物は相談だが、お前、新聞配達にならねえか",
"あれは子供のアルバイトだよ。いくらにもなりゃしないよ",
"それじゃア、ウチのガキを",
"まだ六ツじゃないか",
"六ツじゃいけねえかなア。それじゃア……"
],
[
"新聞配達は子供のアルバイトだよ",
"大人の配達だって、ないわけじゃアなかろう",
"東京のように広い区域があってだな。どこのウチも新聞をよんで、新規に別の新聞も読みたいような心得の人間がウジャ〳〵いるところには大人の配達もいるかも知らねえ。オレんところなんざア、できれば犬に配達させたいと思ってるんだ",
"いいんだよ。つまりオレを大人と思うからいけねえ。オレを子供と思いなよ",
"給料をきいておどろくな。一時間が十円、三十分以下は切りすてだから、朝晩二十円ずつだぜ。田舎のガキにしちゃア高給だが、やっぱり志願者は少い方だ",
"一日四十円か。一ヵ月が千二百円。アブレないから確実だなア。どうだろうね。オレは日に十五時間配達するから百五十円ずつくれねえかなア",
"朝晩の定まった時間内にキチンと配達するから新聞てえんだ",
"どうも、こまったな。じゃア、こうしよう。夜の八時に毎日ここへくるから、諸新聞を読ましてもらいてえな",
"オレの店は新聞を売る店だ。タダで新聞を読まれちゃ商売にならねえや。タダで見せてくれるウチを探してよめ"
],
[
"なア、お竹。物は相談だが、お前、料理店へ奉公しねえかなア。ハリ紙を見たから聞いてみたんだが、これは一流の料理店だ。何百人も宴会できる大広間からコヂンマリした四畳半まで何十と部屋のある大店だ。通いでも住み込みでも三度の食事は店でたべて衣裳ももらって給料は五千円。ほかにチップがあるから一万円ぐらいになるそうだ。とにかく人間は貧乏じゃアいけねえ。金をもうける工夫をして、そのまた上にも工夫をして着々ともうけなくちゃアいけねえな。そうだろう",
"子供の世話を見ることができないじゃないか",
"それはオレがみるとしよう",
"じゃアお前さんは働かないつもりかい",
"イヤ。そうじゃない。子供の面倒を見ながら内職をやる。お前の内職は、なんだ",
"目の前でやってるじゃないか。針仕事だよ",
"そういうこまかいものはいけない。オレの考えでは、子供をつれて川なぞへ行って、魚をつる。ヤマメやアユならいい金になる。雨がふっても、アブレるときまったものではない",
"私が働いて一万円になる口があるなら結構な話だけどさ。大の男がウチでブラブラして子供の食べ物や小便の面倒まで見るのはあさましい図だよ。ニコヨンでもお前さんが働いてる方が世間の人にもテイサイがいいよ",
"お前が働いてなにがしの資本ができてしかる後にオレが商売でもはじめるようになればテイサイは立派なものだ。テイサイてえものは後々の物だよ。今はテイサイなんぞ云ってられやしないよ。なんでもいいから、もうけることをやらなくちゃアいけない",
"先様で使ってくれるなら働かないものでもないよ。私だって貧乏はウンザリしてるよ",
"それでなくちゃアいけねえ。これを人生案内てえんだ。人生のこういう時にはこういうものだということを、天下にオレぐらい深く心得ている人物はめッたにいやしない。ずッとそれを研究してきたカイがあった。オレが人生案内してやるから親舟にのった気持でオレにまかしときゃアいいんだよ"
],
[
"ヤイ、間男しやがったな。亭主の顔に泥をぬるとは何事だ",
"泥がぬれたらぬたくッてやりたいよ。どれぐらい人助けになるか分りゃしない。お前の顔を見ると胸騒ぎがしたり虫がおきるという人がたくさんいるんだよ。私はね、広い世間へでてみて、お前のようなバカな男がこの世に二人といないことが分ったんだよ。私は今までだまされていたんだ。畜生め! 人間のフリをしやがって。お前なんか人間じゃアねえや。雑種の犬か青大将とつきあって義理立てしてもらえやいいんだ。出来そこないのズクニューめ。他のオタマジャクシだってオカへあがってジャンパーを着るとお前より立派に見えらア。間男なんて聞いた風なことを云うない。人間のフリをするない。さッさと正体現してドブの中へもぐってしまえ",
"キサマ、オレをミミズとまちがえてやがるな。ミミズが兵隊になって支那へ戦争にでかけられると思うか。ミミズに支那ソバが造れるはずはねえや。こうしてくれる",
"ぶったな。もうお前なんかの顔を二度と見るものか"
],
[
"先日は手荒なことをして、まことにすまない。二人も子がある仲で子供をおいてお前にでてゆかれてはオレも死んでしまうほかに仕様がない。どうか戻ってくれ",
"お前さんがそんな風だから私はイヤなんだ。子供を三人も四人もかかえながら働いて子供を育てている後家さんだってタクサンいるよ。男なら尚さらのことじゃないか。子供をかかえてやって行けないから死ぬばかりだというのは肺病で寝たきりの病人やなんかの云うことだよ。お前さんのように五体健全で、働けないとはどういうわけだね。女房子供を養うのが男のツトメじゃないか。人生案内なんてえ妙テコリンなものに凝って働くことを忘れているような妙チキリンな人とじゃとても一しょに暮せないよ",
"今まで暮していたじゃないか",
"広い世間を知らなかったからだよ。私はもうお前さんの顔を一目見ただけでゾッとするんだから。とても同類の人間とは思われなくなッちゃッたんだから仕方がないよ。子供をかかえてとは何事だい。子供は男の働きで育てるのが当り前だよ。子供も育てられないなら、どうか子供だけは引きとって別れてくれと頼むがいいや",
"女とちがって男にはそうカンタンに口がないよ",
"なんでもするつもりなら必ずあるよ。ないと思うのはお前さんが怠け者だからよ。そこに気がつかないようだから、お前さんはタタミの上に住める身分じゃないんだよ。ドブの中へ消えちまう方が身にあってるのさ",
"よっぽどミミズと思いてえらしいけど、実はオレはこう見えてもシンからの人間なんだ。先祖代々人間だ",
"当り前じゃないか",
"それを知ってたら戻ってもらいたい。ホレ、この通り手をついてたのむ。今後は亭主風は吹かせない。お前が毎晩帰ってくると熱い湯をわかしておいて背中や手足をふいてやって、夏のうちはお前がねるまでウチワであおいでやる",
"お前さんは自分が働こうという気持がまだ起きないのだね。私はウチワや蒸しタオルと同居したくて生れてきたワケじゃアないからね",
"分らねえ人だね。そのウチワを動かすのや蒸しタオルをしぼるのがオレという人間だから、ここが人間の値打なんだ。一生ケンメイにそういう値打のあることをやるから戻ってくれとこういうワケだ。分ったろう",
"人間の値打は働いて女房子供を安楽に養うことだよ。ミミズはさッさと戻んな。もう二度と来ないでおくれ"
],
[
"イヤ、お竹さんの云うのは尤も千万だ。キミの方がどうしてもよろしくない。働いて妻子を養わなくちゃア男じゃない",
"いまは失業時代で口がないから仕方がない",
"そのこともお竹さんからきいたが、キミはニコヨンをやってたそうじゃないか。しかるに人生案内を読んだり書いたりしたいばかりにニコヨンをやめてお竹さんを働きにだしたのだそうじゃないか",
"ニコヨンの収入よりもお竹の収入の方が多いから、収入の多い方をとって入れ代ったわけだ。オレが怠け者のせいではない。オレがお竹の身代りとなってお竹の仕事をしてお竹の収入を稼ぐことができるなら喜んでそうするが、身代りがきかないから仕方がない",
"お竹さんだけを働かせないで、キミはキミで働いていたなら、こうはならなかったろうな。身からでたサビだ。心を入れかえて、今後は働いて子供を育てて、お竹さんにその働きを見せて戻ってもらうがよい",
"それまでお竹に間男させておくのかねえ",
"さ。そこだな。そこがかねての人生案内だ。今度こそはキミのホンモノの身の上をありのままに書いて、人生案内へ解答を乞うべきだ。しかしその前に大切なのは、ともかくキミが明日から働いて、人生案内はそのヒマをみて書くようにしなければならぬということだ。オレも人生案内のその解答をたのしみに待ってるぜ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 第三〇巻第一一号」
1954(昭和29)年9月1日発行
初出:「キング 第三〇巻第一一号」
1954(昭和29)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:土井 亨
2006年7月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"著作権法にふれていると思うかね",
"むろん、そうだろう",
"ところがそうじゃないんだ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二六二四八号」
1948(昭和23)年11月1日
初出:「読売新聞 第二六二四八号」
1948(昭和23)年11月1日
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"御家族に心霊術にお凝りの方でもいらしてお困りというわけですか",
"ま、そうです。父が戦死した息子――私たちの兄さんですが、その霊に会いたいと申しまして、心霊術の結果によってはビルマへ行きかねないのです",
"ビルマで戦死なさったのですね",
"いいえ、戦死せずに生き残ったと父は信じているのです。なぜなら一ヶ月ほど前に兄の幽霊が現れてビルマで土人の女と結婚して子供が二人あるからよろしくたのむと父に申したそうです。マラリヤでこんなに痩せたなぞ申しました由で、たぶん幽霊が現れたとき死んだに相違ないから、孫をひきとりにビルマへ行きたい、それについては兄の霊をよんで土地の名や女の名を知りたいと申すのです",
"そうでしたか。しかし、心霊術はともかくとして、死ぬまぎわに霊魂の作用がはたらく例は往々実際にあるようですね。ですからお兄さんが一ヶ月前まで生きてビルマに土着しておられたのは本当かも知れませんよ",
"そうかも知れません。ですが、いまわのまぎわに知らせにでるぐらいなら、この九年間に手紙の一本ぐらいくれそうなものです。たぶん父の夢ではないかと思うのですが",
"なるほど。あるいは気のせいかも知れませんな。しかし、そういう理由からでしたら、息子の霊に会いたい、土地の名や女の名を知りたい、孫をひきとりたい、このお志はお気の毒じゃアありませんか。お父さまの気のすむように、そッとしておいておあげになっては"
],
[
"世間の人情はそんなものかも知れませんが、私たちの一族ではバカらしいだけなんです。子供たちを生みッ放しでろくにわが子らしいイタワリも見せてくれたことのない父が、ビルマのアイノコの孫に限ってひきとりたいなぞというのが滑稽なんです。イヤガラセなんでしょう。本心なら狂気の沙汰です。それともビルマのアイノコならライオンか山猫なみに育てるにもお金がかからず、気の向くままに放りだすこともできるからとでも考えているのでしょうか。ともかく私たちにとっては不愉快な出来事なんです",
"失礼ですが、お父様と仰有る方は?",
"高利貸の後閑仙七です。血も涙もないので名高い父ですが、わが子に対してもそうなんですよ",
"すると千石旅館の番頭の一寸法師の辰さんはあなた方の弟さんですか",
"いいえ、兄さんなんです。あれが次兄で、戦死したのが長男なんです。私たち二人は嫁いでますから働く必要もないのですが、一寸法師の兄はあのように旅館の客ひき番頭ですし、末の妹はファッションモデルをやっております"
],
[
"父からビタ一文だって当てにしている私たちじゃないんですけど、そのコンタンがシャクなんですよ。イヤガラセに心霊術のカラクリをあばいて鼻をあかしてやりたいのです。むろん父が兄の霊に会うという日は父ひとりで私たちが会うことはできないのですが、それだけでは私たち四人の兄妹が納得できませんと申しましてね。他に一日私たち兄妹主催の実験会を開いて父にも出席してもらうことを許可してもらったのです。むろんそのための費用やら余分の滞在費は当方持ちにきまってますが、心霊術師の旅費と大道具の運賃まで半分当方持ちという高利の条件でしてね。父との商談ですからそれぐらいは覚悟の上で、父の鼻をあかしてやるためならそれぐらいの金はだしてあげようと私や妹の主人たちも大へん乗気なのです。先生への謝礼も充分に致すつもりですから、ぜひぜひ出席願って心霊術のカラクリをあばいていただきたいのです",
"左様ですか。それでお話は判りました。私も心霊術の実験にはだいぶひやかしがてらでかけまして、あの奇術師の奴が来てるんじゃア今日の実験は中止だなぞときらわれるようになったものですが、大和の吉田八十松には幸いまだ顔を見知られておりません。日本一かどうかは存じませんが大そう評判の術師ですね。よろしゅうございます。お言葉のように私が出むきましてカラクリをあばき、また直後に私が同じことをしてお目にかけますが、さとられると吉田八十松が実演を致しませんから奇術師の伊勢崎九太夫が来てるなぞということは気配にもおだしにならぬように。心霊術に凝ってる誰それというように、よいカゲンに仰有っておいて下さいまし"
],
[
"失礼ですが、皆さんは一ツ腹の御兄妹でいらッしゃいますか",
"一ツ腹に見えないのですか",
"四人の方々それぞれお顔に似たところがございませんのでね",
"よくよく似てないらしいですね。皆さんがそのように仰有るのですよ。ですが一ツ腹の兄妹なんです。似てないのは顔だけじゃありません。心も性格も全然別々なんですよ。至って仲も良くないのです。四人に一ツ共通なのは父を憎んでいることだけです"
],
[
"このたびはとんだお世話に相成ります。実は今朝早朝の銀河で心霊術の先生が到着いたしましてね。相談の結果、兄貴の霊をよぶ方を後廻しにいたしまして、今晩八時半から実験会の方を催します。どうぞ、よろしくお願い致します",
"左様ですか。承知しましたが、場所は?",
"父の邸で",
"それは珍しいことです。同好家の邸内ならとにかく、見知らぬ依頼者の実験に応じる時はたいがい旅館でやるものですが。運びこんだ大道具が大変でしたろう",
"それは大そうな荷物です。丸通便の宅送で相当な大荷物が一ツ。駅どめの荷物ときてはこれに輪をかけた大荷物で、おまけに当人自身が大トランク二ツぶらさげてきました。ただいまこれを開いて人を遠ざけ、自分一人でせっせと会場の準備を致しておりますが、宅送便の方がちょッとおくれて、ヒルすぎに到着いたしましたんで、オヤジと何やらモンチャクを起しておりました。この荷物は今日は使わないようです。これがいわゆる降霊術の七ツ道具かも知れません",
"そのために霊の対面が後廻しになったのですか",
"立ち入ったことは判りませんが、だいぶ父と相談いたしておったようです。父も大そう乗気でして、いつも熱海には土曜の夕方に来て月曜の朝に東京へ戻って、月曜からは東京泊りの習慣ですが、今回に限って木曜の夜こちらへ来て金土と出勤もせずに熱海泊りです。忙しい人間なんですが、よくよくでなくちゃアこんなことはありません。母が死んだ翌日ももう東京へでかけたんですからね。よほどの期待があるんですよ。いえ、何かただならぬコンタンがあるんですよ。さもなくちゃアこんな例外がある道理がありません。ぼくもね、ビルマから変な奴に乗りこまれちゃア先が真ッ暗になッちまうもんですから、旦那だけが頼みの綱で。どうか、まア、よろしくお頼みいたします"
],
[
"たしか中支の奥でお目にかかりましたなア。私は奇術の慰問にでかけたんですが、慰問のはじまる前に討伐におでかけでした。その名も高い鬼少尉と承りましたが",
"いえ、とんでもない。ぼくは内地の部隊にゴロゴロしてたんです"
],
[
"いいえ、このジュウタンは当家のものです。暗幕と箱とイスとテーブルの上の物品とが術師の物です",
"テーブルは?",
"あれも当家の物です"
],
[
"ウム",
"ウーン"
],
[
"オレは勤め人だぜ。熱海へ足どめしてくだらないことをさせて、だいたい警察のやり方がなってやしねえや。最新の科学を利用してテキパキと物的証拠がつかめねえのかやい。銭形平次時代みたいな実演会なぞ今どきやるとは何事だ",
"ま、キミ、我慢して今晩だけつきあってくれたまえ。明日からは自由だから"
],
[
"あなた方、どうしてそこいらに立ってなさるんです。それじゃア実演ができません。とっとと引きとっていただきたいね",
"警官が立ち合わなくちゃア実演の意味をなさんのでな",
"そんなにたくさんアチコチにいちゃア邪魔で仕様がない",
"この警官たちが皆さんの代りに被害者の方へ歩いたり、その気配をききとめたりする役目なのだから仕方がないよ",
"しかし、あなた、私の方の側にいちゃア、鉄丸を投げたり、ガラガラを投げたり、いろいろなものを上へ投げたり振り廻したりするのだから、それじゃアとうてい実演するわけにいきません",
"それはもッともだ。そっち側の警官は不要なのだから、邪魔にならない隅の方へ、その床の間のあたりへ集まるがよい"
],
[
"ヤ、皆さん、まことに御苦労さまでした。さぞイヤな思いをなさッたでしょうが、もう今夜限りで足どめは致しません。東京の方は東京へ、大和の吉田さんは大和へ、それぞれ遠慮なくお帰り下さい。現場の幕や道具類は用がありませんから御随意に荷造りして下さい。ただジュウタンだけは血がついておって証拠品ですから暫時警察でお預りいたします",
"ジュウタンとテーブルだけは御当家のものです",
"そうですか。それではなおさら都合がよい。奥に二個荷造りしたままの荷物がありますが、あれは吉田さんお使いにならなかったのですか",
"あれは特定の霊をよびだす時の道具立てでして、実は翌る晩に用いることになっていたのですが、その用がなくなったわけです",
"道具立てがなくちゃア幽霊はでませんかな。心霊術の幽霊はホンモノよりも芝居の幽霊に似ているようですな",
"ま、そんなわけです",
"では、失礼"
],
[
"あの暗闇じゃアお父さまにも犯人は判りますまい。それに私が犯人を知らない限り幽霊も犯人を知らない規定になっておりまして、ま、あなた方には白状しておきますが、さっきの署長の言葉の通り、ホンモノよりも芝居の幽霊に似すぎているんですな。とても伊勢崎さんにお目にかけられるような芸ではありません。それに、こう申しては失礼のようですが、この八名の中に一名の真犯人がいることだけは確かでして、どなたがそれとは分りませんが、私としましても幽霊の術を見せてあげるような気分にはなれませんでな",
"当然。当然。だいたいこんな晩に幽霊をよぶ術をやろうなどとは不謹慎千万だ"
],
[
"こんな晩て、どんな晩なのさ。たかがオヤジが殺されたぐらい。セイセイして当分結構な晩じゃないの",
"そうかも知れないわね。私もそう悪い気持じゃないわ"
],
[
"ハア。そういう真剣な呻き声もあったんですか",
"そうなんですよ。私の心霊作用が犯人さんにのりうつッてね。つまり私は共犯かな",
"やめとけ!"
],
[
"天下一品の兄貴だよ。とても肩身がひろくッてね。熱海の駅で客ひきしてる一寸法師の妹を知らねえかア。時々タンカをきってやるのさ。私の坊やフレンドにね",
"ヤイ、帰れえ! みんな帰れえ!",
"お前がでてけえ!",
"ヤイ、糸子!",
"なんだい、ジダンダふんだって一メートルじゃアはえないや。クビをくくるにはカモイが高すぎるし、いい身分だなア",
"ウーム!"
],
[
"ゆうべはウンザリして逃げたんですか",
"イエ、とんでもない。むしろあなたの一族にはじめて好意をもったのですよ。あなた方四人の兄妹にね"
],
[
"私もオジサンが好きになったわ。以心伝心ね。タデ食う虫も好き好きかな。勝美姉さんたらあんな人殺しが好きになるんだもの。私はね、今日は重大な報告に来たんです。吉田八十松ッてイヤらしいわね。ゆうべ私の寝室へ忍びこんできてね、私が蹴とばしてやったら、女中部屋へ行ったんです。その騒ぎ声に一メートルの先生が目をさましてね。彼氏フンゼンとふるいたつと凄い力でしょう。腕の太さだったらお相撲ぐらいあるんですからね。八十松をノックアウトしちゃッて小気味よかったわよ。なんしろストレートパンチがオナカから下の方だけにしか命中しないんですから心霊術の先生もたまらないわよ",
"生命に別状はなかったわけですね",
"それはもう熟練してるから。宿屋の番頭は酔っ払いを適当に殴る限度を心得るのが重大な職業技術の一ツなんですッてね。ええと、重大な報告というのは、それじゃアなかったんですけど、女中のミネチャンがね、そんなことがあったんで思いだしたらしいんですが、どうもね、あの開けずの荷物が変なんですよ。あの荷物だけ直接ウチへ送りこまれたらしいんですね。ミネチャンから知らせを聞いて八十松クンが荷を受けとった時にね、どうも変だな、なんの荷物だろうと云ってとてもフシギがってたんですって。ともかく開けてみようてんでミネチャンに庖丁を持ってこさして今や開けようというところへ父が血相変えて出て来たんですってね。待て! それはオレのだ! と云って凄い見幕で怒鳴ったんですッてさ。怒っても凄い見幕を人に見せるような素直な父じゃアないんですよ。もっと陰険な父なんです。ところがその時はもの凄い見幕で怒ってね、庖丁をとりあげて投げすてたそうです。八十松クンはその見幕におどろきながらも、ですがこれは私名宛の荷物なんですからと答えると、誰の名宛でもその荷物は私の荷物だと父はキッパリ断定して人をよんで奥の部屋へ運ばせてしまったのだそうです",
"それは奇妙ですね",
"奇妙でしょう。もっと奇妙なことがあるんです。今朝八時ごろ八十松クンは車をよんでその荷物だけ駅へ持って行って送りだしたんです。眼がさめると食事もせずにいきなりですよ。例の実演場の方はまだそのままなんです。食事を食べ終えてからポツポツ取り片づけにかかってるんですよ。どうしてみんな出来上ってから一しょに運ばないのかと思ってね、なにかワケがありそうだからオジサンに報告に来たのです",
"それはすばらしい報告かも知れないね。とびきりのね。ウーム。そうか忘れていたね。なぜ後閑仙七氏がビルマの孫をひきとることを思いたったか。その謎だ。待てよ"
],
[
"糸子サン、ちょッと待って下さい。しばらく、考えるから。しかし、いそいで考えるよ。急がなければ追いつけないのでね。その間に糸子サンに警察署へ行ってもらうか。至急その荷物の発送を押さえてくれとね。ワケは考えをまとめた上で話します。間違っているかも知れないが……イヤ、イヤ、必ず当っているはずだ。糸子サン、急いで、急いで",
"ハイ、ハイ"
],
[
"あなた方は四人そろってなぜ父がビルマの孫をよぶことを思いたったか、その本当のコンタンが知りたいと云ってましたね。すくなくとも実演のはじまるまでは、それがあなた方の最大の関心事であったはずです。ところがね。殺人事件が起ると、これをバッタリ忘れてしまった。無理からぬことさ。当の本人が殺されてしまえばそのコンタンも殺されたも同然で、もはや問題ではなくなったわけだ。私とても同じこと、そのことは、今朝糸子サンから荷物の話をきくまでフッツリ思いだしたことがなかったわけだ。ところが糸子サンの報告をきいてピンときましたね。たぶんビルマの孫の秘密がそのへんにあるんじゃないかとね。それから考えてみた。するといろいろのことがみんなそれに結びつけるとスッキリと説明がつくのですよ。まず第一に、後閑サンはいつも土曜の夕方にきて月曜の朝東京へ戻るのに、今度に限って木曜の夕方にきて金、土と外出もしないということですね。土、日ときまった心霊術の実演会を待つのに木曜から来ている必要はありませんや。いかにハリキッたにしても、子供でもそんなことはやりッこありません。つまり荷物を待つためだ。吉田八十松宛にくる荷物だから八十松に知られぬうちに処分したい。それで待ちに待ってたのですよ。第二には、八十松の荷物は駅止めでついています。しかるに他の一個は宅送で後閑仙七方吉田八十松、発送人も八十松です。同一人の送ったものが一ツは宅送、一ツは駅止め、これが変だ。その謎をキレイに解いてくれるのが糸子サンの報告です。それはオレの荷物だと叫んで後閑サンが凄い見幕で走ってきたと云いますし、八十松は荷物を受け取ったとき、何の荷だろうとフシギがっていたというではありませんか。フシギがるわけですよ。自分の荷物じゃないんだものね",
"それじゃア父の荷物なんですね",
"むろんですとも、つまりこの荷物を大和から熱海へ送りこむのがビルマの孫の秘密だったわけです、この大荷物を怪しまれずに熱海へ到着させるにはどうすればよいか、熱海駅でよりも大和からの発送が問題なんです。大和から大荷物を送ると怪しまれる理由があったのですから。そこで考えたのは、怪しまれずに大荷物を動かす方法。これがビルマの孫の秘密なのです。心霊術師は出張ごとに大荷物を動かすのが普通なのですから、しかも大和には吉田八十松という評判の心霊術師がいます。このことを知るに及んで後閑サンは大喜びしたのでしょうね。そこでさっそく心霊術師を呼び寄せるべき理由をあれこれと考えて、まず戦死したはずの長男が幽霊になって出てきたと云いふらしたのです。幽霊といろいろの話をしたが孫の名と女の名と、住所だけききもらした。そこで心霊術師にたのんで霊のお告げを示してもらう必要があると云って、ついに心霊術師をよびよせる段どりまで漕ぎつけたわけです。大和の吉田八十松と手紙で往復して日取りも定まった。そこで後閑サンは大和へ急行して例の大荷物を造り、大和の吉田八十松より熱海の吉田八十松宛に発送したわけです。吉田八十松の大荷物ならあの地方では誰に怪しまれる心配もありません。宅送ですから駅止めよりもおくれて、ずッと前にだしたのが土曜の午ごろ、吉田八十松が熱海へ来てから着いてしまった。これは失敗でした。しかし荷物はとにかく到着し、凄い見幕で八十松を怒りつけて荷物をまきあげ奥の部屋へ運びこんだのですから、ビルマの孫の一件はそれで役がすんだわけです。ですから、ビルマの孫の一件の方を後廻しにして、実験会の方を先にやるようなノンビリした気持になったわけで、ビルマの一件に重大な意味があるなら何をおいてもビルマのお告げの方を先にすべきではありませんか。そのお告げを後廻しにしたというのは、もうその一件が役割を果してしまったからですよ。後閑サンは至極ノンビリしてしまって、実験会のたのしみの方を先にした始末ですが、そこに容易ならぬ大敵が生れていたことを知らずにいたのですね",
"八十松がなぜ父を殺したんですか"
],
[
"それはね。吉田八十松は品性下劣な人物なんだね。彼は後閑サンに凄い見幕で怒られて荷物をまきあげられてから、いろいろ考えてみたのだろう。自分が送った荷物でないのは確かだし宅送という方法からみても自宅の者が送った荷物とも思われない。また自宅の者が送る理由もないのだね。すると確かにあの荷物は後閑氏のものだ。しかも後閑氏は自分の名で送らずに、吉田八十松から吉田八十松宛に送っている。そこには深いシサイがあるはずだ。悪智恵のはたらく奴だからおおよその見当はついたんだね。すくなくとも本人の名では送れない何物かだ。心霊術師は人に怪しまれずに大道具を発送できるから、そこを狙ってのカラクリだ。その内容は天下に高名な高利貸しの秘密の荷物であるから素姓のよからぬもので高価なものに相違ない。かくも苦心して送り届けている以上、よほど重大な何かが詰めこまれているに相違ない。こう断定したのだろうね。彼は奥へ運ばれた荷物がまだ開けられずそのままになっているのを見届けたから、これをまきあげようと考えたのだ。その方法は簡単だ。後閑サンを殺してしまえばよろしいのだ。かほどの秘密の品だから多くの人が荷物のことを知っているはずはない。表向きは立派に吉田八十松から吉田八十松へ送った荷物なのだから、後閑サンを殺してしまえば、あとは簡単だ。明日の実験に用いるための道具がはいっているのだが、もうその用がなくなったからと持ちだして、駅から送りだしてしまえばすむのさ。そこでこの日の実験はもっぱら後閑サンを殺すための都合だけで道具立てをしたのだね。下へジュウタンを二重にしいた。跫音を殺すためだ。彼の持参のレコードのうち最も音の高いユーモレスクの曲を選んだり、鉄丸とガラガラを仕掛けたり、後閑サンにレコード係りをたのんだりね。殺しの準備は満点だ。奴めは自由に歩きまわることができるし、後閑サンの近くに来ていながら鉄丸とガラガラを中央へんへ落して自分の位置をごまかすことが完全にできるのだから後閑サンも助からない。ガラガラが鳴りだす。レコードの音を目当てに後閑サンの後へまわり、気配によって充分に狙い定めて一突きに刺し殺した。八十松だけはガラガラが長く鳴りつづくことを知ってるのだから狙い定めて仕事を果すだけの落着きもあったわけだね。死体のかたわらへサヤを落して、あとは手なれた暗闇の曲芸をやればよかったのだ。かほどの八十松もこの成功になれてか、糸子サンと女中を襲って殴られたり、また例の荷物を発送するのを急いだりして、怪しまれるようなへマをやってしまった。このへマがなければ奴はつかまらなかったね。身替りにつかまるのは辰男君だったかも知れないよ。危いところさ。私も一時は辰男君以外に犯人はないように思ったことがあるほどなんだから",
"で、荷物の内容は何だったんです",
"さ、それなんだよ。終戦の前後に後閑サンは大和にいたらしいね",
"ええ、京都奈良が焼け残っていましたからあちらで商売していました",
"大和で盗みだした支那の古仏だそうだ。誰かが支那から持ち帰った逸品でね、支那でも国宝中の国宝というべき絶品だそうだよ。それがね。頭や、首輪や腕輪や目やオッパイや足輪なぞに古今無類の宝石をはめこんでいて、時価何十億か見当もつかないものだそうだ。等身大六尺ぐらいの仏像だったんだよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊小説新潮 第八巻第一四号(創作二十二人集)」
1954(昭和29)年10月15日発行
初出:「別冊小説新潮 第八巻第一四号(創作二十二人集)」
1954(昭和29)年10月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※図版は、底本のものを模して、かきおこしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2010年2月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043247",
"作品名": "心霊殺人事件",
"作品名読み": "しんれいさつじんじけん",
"ソート用読み": "しんれいさつしんしけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「別冊小説新潮 第八巻第一四号(創作二十二人集)」1954(昭和29)年10月15日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-03-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43247.html",
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"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
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"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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"底本名1": "坂口安吾全集 15",
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"底本初版発行年1": "1999(平成11)年10月20日",
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} |
[
[
"なぜ、俺の負けだ",
"勝つつもりなら、鞘を水中へ捨てる筈はなかろう"
]
] | 底本:「坂口安吾全集14」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年6月26日第1刷発行
1993(平成5)年3月10日第2刷発行
底本の親本:「日本文化私観」文体社
1943(昭和18)年12月5日発行
初出:「文学界 第九巻第十一号、第十二号」
1942(昭和17)年11月1日、12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:宮元淳一
2006年1月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "042624",
"作品名": "青春論",
"作品名読み": "せいしゅんろん",
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"初出": "「文学界 第九巻第十一号、第十二号」1942(昭和17)年11月1日、12月1日発行",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2006-02-27T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集14",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年6月26日",
"入力に使用した版1": "1993(平成5)年3月10日第2刷",
"校正に使用した版1": "1990(平成2)年6月26日第1刷",
"底本の親本名1": "日本文化私観",
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} |
[
[
"どちらへ!",
"わッ! これは〳〵!"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「紀元 第三巻第三号」
1935(昭和10)年3月1日発行
初出:「紀元 第三巻第三号」
1935(昭和10)年3月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "045829",
"作品名": "清太は百年語るべし",
"作品名読み": "せいたはひゃくねんかたるべし",
"ソート用読み": "せいたはひやくねんかたるへし",
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"副題読み": "",
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"初出": "「紀元 第三巻第三号」1935(昭和10)年3月1日",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2009-05-26T00:00:00",
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"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
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"姓ローマ字": "Sakaguchi",
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"没年月日": "1955-02-17",
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"底本名1": "坂口安吾全集 01",
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"底本の親本名1": "紀元 第三巻第三号",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"ああ私は、私は何時も、一日中、毎日毎日毎日毎日、静かに、ヂッと、考へてゐるのですよ。私を静かにしておいて下さいと言ふのに……",
"戸張さん、戸張さん……",
"ああ、騒がしい。ああ、騒がしい。私は、私は――ああ、もう間もなく死んで行く人間ですから……",
"ああ、戸張さん、戸張さん、私は……"
],
[
"ああ、騒がしい奴だ。貴様は実に、鼻持のならない奴だ、ああ、貴様は……",
"ア、ア、ア、不潔だ、不潔だ――"
],
[
"出て行け! お前は出て行つてくれ! お前を見ると胸がむかむかしてしまふ。苛々する。ア、ア、お前は俺を殺すのか――",
"ああ、騒がしい。ああ、騒がしい……",
"ア、ア、俺は自殺する。俺は自殺してしまふ……",
"うるさい、ああ、うるさい。実に、騒がしい奴だ、ああ、俺は間もなく死んで行く人間なんだぞ――ああ、俺は……",
"ああ、堪えられない。実に不愉快だ。俺は生きてゐられない。アア、全く暗闇だ……"
],
[
"私はもう直き死ぬのだ……",
"来年の此の季節は、もう決して二度と見られない私なのだ……",
"死んで行く人間の気持が、貴女なぞに分つて堪るものでない……"
],
[
"さようなら。では御大事に、ね。近いうちに、きつと全快なさいますわ",
"あ、あなたも、あなたも――"
],
[
"出て行け! お前は、出て行け! 不愉快だ! 鼻持ならない厭な奴だ!",
"ああ、騒がしい奴だ。ああ、実に、騒がしい奴だ、騒がしい、騒がしい……",
"黙れ! w ― w ― w ― w ― w ……ああ、俺は堪えられない。貴様は不愉快だ、wachchchchch ……"
],
[
"貴方こそ、お戻りなさるといい。貴方のお部屋へ――",
"ああ、騒がしい。ああ、騒がしいぞ。ああ、ああ、君なぞに、死んで行く人間の気持が分つて堪まるものでない。ああ、俺は、もう長く生きてゐない人間だから……"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一〇年第二号」
1932(昭和7)年2月1日発行
初出:「文藝春秋 第一〇年第二号」
1932(昭和7)年2月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045800",
"作品名": "蝉",
"作品名読み": "せみ",
"ソート用読み": "せみ",
"副題": "――あるミザントロープの話――",
"副題読み": "――あるミザントロープのはなし――",
"原題": "",
"初出": "「文藝春秋 第一〇年第二号」1932(昭和7)年2月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-05-10T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45800.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 01",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "文藝春秋 第一〇年二号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年2月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "伊藤時也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45800_ruby_38012.zip",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "3"
} |
[
[
"立候補ははじめてですか",
"そうです",
"どうして今まで立候補なさらなかったのですか",
"それはですね。要するに、これはワタクシの道楽です。ちょッとした小金もできた。それがそもそも道楽の元です。金あっての道楽でしょう。御近所の方々もそれを心配して下さるのですが、ワタクシはハッキリ申上げています。道楽ですから、かまいません。かまって下さるな。ワタクシに本望をとげさせて下さい、と",
"本望と申しますと?",
"道楽です。道楽の本望"
],
[
"無所属でお立ちですが、支持するとすれば、どの政党ですか",
"自由党でしょうな。思想はだいたい共通しております。しかし、もっと中小商工業者をいたわり育成すべきです。それはワタクシの甚だしく不満とするところでありまして、またワタクシの云わんとするところも……"
],
[
"崇拝する人は?",
"崇拝する人?……",
"または崇拝する先輩。政治的先輩"
],
[
"その本はどなたが読むのですか",
"これ? ア、これはワタクシです"
],
[
"面白いですか?",
"面白いです。笑うべき本です",
"おかしいのですか",
"おかしいですとも。これなぞは難解です"
],
[
"学歴は?",
"中学校中退です。ワタクシは、本はよく読んだものです。しかし、近年は読みません",
"読んでるじゃありませんか"
],
[
"裏に何かがあるッて、何がある積りだい?",
"たとえば、あるいは密輸。あるいは国際スパイ……",
"なア、カンスケ君。選挙は特に人目をひくものだ。それに監視がある。選挙違反という監視だ。その監視の目は選挙違反だけしか見えないわけじゃないぜ。わざわざ監視のきびしい選挙を利用する犯罪者がいると思うか。しかし、まア、貴公が大志をかためた以上は、これも勉強だ。やってみろ"
],
[
"ネエ、チョイト。遊んで行かない?",
"いま、仕事だよ",
"何してんのさ。ギャングかい? アンタァ",
"アイビキだよ",
"ワタシというものがありながら。さア、承知しないよ"
],
[
"よーし。心配するな。オレが引受けた",
"ときに、ここは何区だね"
],
[
"昨日は御主人は酔って御帰館でしたな",
"ええ。ふだんは飲まない人ですのに",
"ハハア。ふだんは飲まないのですか",
"選挙の前ごろから時々飲むようになったんですよ。でも、あんなに酔ったことはありません",
"なぜでしょう?",
"分りませんわ。選挙がいけないんじゃないですか。立候補なんてねえ",
"奥さんは立候補反対ですか。よそではそうではないようですが",
"それは当選なさるようなお宅は別ですわ。ウチは大金を使うだけのことですもの、バカバカしいわ。ヤケ酒のみのみ選挙にでるなんて変テコですわよ",
"ヤケ酒ですか、あれは?",
"そうでしょうよ。私だって、ヤケ酒が飲みたくなるわ",
"なぜ立候補したのでしょう?",
"それは私が知りたいのよ",
"なにか仰有ることはあるでしょう。特にヤケ酒に酔ッ払ッたりしたときには",
"絶対に云いませんよ。こうと心をきめたら、おとなしいに似合わず、何が何でもガンコなんですから。なにかワケがあるんでしょうが、私にも打ち開けてくれないのです"
],
[
"御心配なことですね。ですが三高さんも必死の思いでしょうから、できるだけ慰め励ましてあげるようになさることですな",
"私もそのつもりにしてるんですよ。そして、せめて一票でも多いようにと、蔭ながらね",
"ゲッ。いけませんよ。あなたが蔭ながら運動すると選挙違反ですよ"
],
[
"なんでケンカになったんだ",
"それが分らないんですが、大方サクラの奴が仕事に忠実でないから、横ッ面を張られたのでしょうな。酔えば張りたくなるような奴なんですよ",
"それじゃア何から何まで変なところはないじゃないか",
"女房にも立候補の秘密をあかしてなくともですか",
"バカ。秘密がないからだ",
"ナルホド",
"しかし、記事にはなるかも知れんな。花見酒の候補者。書いてみろ",
"よして下さいよ。そんなの書くために一日棒にふりやしないよ。今に見てやがれ",
"アレ。まだ諦めないのか",
"諦められないとも。こうと睨んだ稲荷カンスケの第六感、はずれたタメシは――",
"大ありだ"
],
[
"選挙で従業員がへったじゃないか",
"へりやしないよ。元のままだ",
"四十がらみの人相のわるいのが居ないじゃないか",
"四十がらみ? それはここの大将だろう",
"大将じゃないよ",
"四十がらみの職人なんて居るかい。ずッと若いのばかりだ",
"選挙のときに居たじゃないか",
"選挙のときは休業よ",
"選挙の仕事をしていたぜ",
"選挙の時にはいろんなのが手伝いにくらアな",
"花見の演説のときサクラの男がいたろう",
"知らねえよ、そんなの。選挙の話なんぞはクソ面白くもねえ。よしてくれ"
],
[
"選挙のとき、三高さんの運動員の一人に貸してあげた物があるんだけど、その人、居ませんかね",
"運動員なら全部居る筈ですわ。従業員ですから",
"ところが居ませんよ",
"そんな筈ないわ。やめた人ないもの",
"四十がらみの男ですよ。ボクがはじめてお宅へ行ったとき取次にでた男なんです",
"そんな人いたかしら?",
"いましたよ。キチガイじみた高笑いをした男がいたじゃありませんか",
"そう、そう。江村さんね。あの人は従業員じゃありませんよ。ウチの者じゃないのよ。選挙の運動員でもないわ。たまに来て手伝ったことはありますけど、お金を盗んで、それッきり来ないわ",
"お宅のお金を盗んだのですか",
"ええ。選挙費用を十万ほどね。選挙のことだし、今さら外聞がわるいから表沙汰にもしないのよ。ひどい人",
"いつごろ盗んだのですか",
"ハッキリ覚えていませんわ。あの人なら貸したが最後、返さないわよ、ウチでなんとかするでしょうから、主人に云ってみて下さいな",
"それほどの物じゃないんですよ、ただ奥さんの顔を見たから、ちょッときいてみる気になっただけさ。あの人は、いったい何者ですか。人相のわるい男でしたね",
"むかしの知り合いらしいわ。私たちの結婚前のね。どんな知り合いかよく知りませんが、よくない人よ。私の知らない頃の主人の友達なんて、なんだか気が許せない気がしてイヤなものですわ。主人まで気が許せなく見えるんですものね、その人のおかげで",
"そんなにイヤな奴でしたかね",
"私のカンなのよ。でも、ウチの者は、従業員たちも、みんな江村さんを嫌ってたわ。主人をそそのかして立候補させたのも江村さんだろうッて",
"だって、選挙の参謀でも事務長でもなかったのでしょう",
"それは悪い人は表へ出たがらないもの上。結局お金をチョロまかして逃げちゃったわ",
"だって、たった十万でしょう",
"大金じゃありませんか",
"選挙費用のうちじゃ目クサレ金ですよ。お宅だって、百万や二百万は使ったでしょう"
],
[
"別に貸した物が欲しいわけじゃありませんが、一度御主人にお目にかからせて頂くかな",
"そうなさいな。人のしたことでも、カカリアイのあることならキチンとしてくれる人ですよ"
],
[
"イエ、それはもういいんです。それどころか、あなたこそ大変な被害をなさったそうですね",
"イヤ。これも選挙費用のうちですよ。そう思えば、問題はありません。もう選挙のことは思いだすのもイヤです"
],
[
"変な本、ない方がいいわ。ふだん読みもしない本",
"選挙の時だけ読んだんですか",
"選挙前から凝りだしたんですけど、自殺した人の小説本ですッてね。面白くもない。でも、あの本だけは、私もあとで読んでみたかったわ。アア無情",
"アア無情?",
"ジャンバルジャンですよ。私も結婚前から、話にはきいていた本ですもの"
],
[
"北村透谷ぐらい読んでおけよ。三人そろッて自殺した文士だと知っていれば、君の注意はもっと強く働いていたろう。自殺した文士はそのほかにもいる。近いところでは牧野信一、田中英光。しかし、その本は彼の手もとになかった。たぶん、本屋にでていなくて、手にはいらなかったせいだろう。北村から太宰まで知ってたからには、ほかの自殺文士の名はみんな知ってた筈だからさ。なぜなら、何らかの理由が起るまでは、彼は自殺文士の名前なぞ一ツも知らなかった。彼が文学を知らない証拠には、太宰の本を笑うべき本、おかしい本だと云っている。したがって文学的コースを辿って読むに至った本ではなくて、ある理由から一まとめに知った名だね。さすればその一まとめの意味は明らかだろう。曰く、自殺さ。たぶん、彼自身が自殺したいような気持になって、自殺文士の書物を読みたい気持になったんじゃないかね",
"知ったかぶりのセンサクはよせ",
"失礼。君の新聞記者のカンは正確に的をついていたのだよ。君の矢は命中していたが、不幸にして、君には的が見えないのだ。達人の手裏剣がクラヤミの中の見えない敵を倒しているようなものだ。水ギワ立った手のうちなんだね。ところがボクは笑止にも的を見分ける術だけは心得ているらしいな。自殺文士の本に何らかの読む理由があったように、ああ無情も読む理由があったのは云うまでもないね。そして、君の疑いは正確だった。泣きながらアア無情と喚いたとき、三高はその秘密をさらけだしているじゃないか",
"ウソッパチ云いなさんな。ああ無情と云ってるだけじゃないか",
"放さないでくれ、ああ無情と云ってますよ"
],
[
"それが、どうしたのさ",
"自分のメモを思いだしてごらんよ。三高氏は手足をバタバタやりながら、放さないでくれと云ったのさ。その喚きは、ちょッと不合理でしょう。放してもらいたくない気持なら、しがみつく筈ですよ。ところが、手足をバタバタやって人の肩から外れたいような動作をしているのはナゼですか",
"オレの耳、オレの速記は正確そのものだ",
"ワタクシの耳、ワタクシの速記でしょう。紳士はふだんのタシナミを失ってはいけません",
"メモを返せ",
"あなたのメモは正確そのものですよ。ただ、音の解釈がちがったのです。手を放さないでくれの意味ではなくて、何かの秘密を話さないでくれ、アア無情、アア……こう解釈しなければならなかったのです"
],
[
"まだ早い。落ちついて。落ちついて。三高氏はそもそも選挙演説のヘキ頭から、自分がジャンバルジャンであることを語っているのです。それ、メモをごらんなさい。よろしいですか。ワタクシはこのたび立候補いたしました三高吉太郎。三高吉太郎でございます。よーく、この顔をごらん下さい。これが三高吉太郎であります。とね。つまり、三高吉太郎という顔のほかにも、誰かの顔であることを悲痛にも叫んでいるのですよ。その誰かとは、ジャンバルジャン。即ち、マドレーヌ市長の前身たるジャンバルジャン。つまり三高吉太郎氏の前身たる何者かですよ。それはたぶん懲役人かも知れません。ジャンバルジャンのように、脱獄者かも知れません。そして、たぶん、そのときの相棒が江村という人相のわるい男なのでしょう",
"なんのために、叫ぶのさ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第七巻第八号」
1953(昭和28)年6月1日発行
初出:「小説新潮 第七巻第八号」
1953(昭和28)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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],
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"あの女は金のいらないだるまですぜ。あの女がたった一人いるおかげで、この村の若者や親爺どもは、だいぶ不自由をしのぎいいし金もかからないと喜んでいますよ。あの女の不身持ちが普通のものじゃないことは、お分りだろうと思いますよ。結婚という名目であの身体が独占できると思いますか? 況んやあいつの精神が? 野獣にも精神があるというならあの女にも精神はあるでしょうが、仏力で野獣が済度できますかな。五十円の結納金。十円の扶助料。きいただけでも莫迦々々しい!",
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]
] | 底本:「桜の森の満開の下」講談社文芸文庫、講談社
1989(平成元)年4月10日第1刷発行
2015(平成27)年4月15日第47刷発行
底本の親本:「坂口安吾選集第六巻」講談社
1982(昭和57)年5月刊
初出:「作品 第七巻第三号」
1936(昭和11)年3月1日
入力:日根敏晶
校正:noriko saito
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"ここへ暫く泊るの?",
"明日から温泉へ泊るのだ",
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],
[
"あの女は金のいらないだるまですぜ。あの女がたつた一人ゐるおかげで、この村の若者や親爺どもは、だいぶ不自由もしのぎいいし金もかからないと喜んでゐますよ。あの女の不身持が普通のものぢやないことは、お分りだらうと思ひますよ。結婚といふ名目であの身体が独占できると思ひますか? 況んやあいつの精神が? 野獣にも精神があるといふならあの女にも精神はあるでせうが、仏力で野獣が済度できますかな。五十円の結納金。十円の扶助料。きいただけでも莫迦々々しい!",
"獣が獣に惚れたんですよ。私だつて貴方の想像もつかない獣ですよ。とにかく獣の方式でここをひとつやりとげてみやうと思つたわけですな。やらない先に後悔してはいけなからうと思ふのですよ",
"禅問答のやうに仰有らないで下さいよ! 五十円の結納金なら明らかに人間の方式ですぜ。獣の方式なら今迄通り山の畑でお綱とねる方がいいでせう。さうして、それ以上の名案は絶対にみつかりつこありませんや。全くですよ! 仰有る通り獣になりなさい、獣に。人間にならうなんて飛んでもない考へ違ひだ! さうして今迄通りの交渉で満足することが第一です"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第七巻第三号」
1936(昭和11)年3月1日発行
初出:「作品 第七巻第三号」
1936(昭和11)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:今井忠夫
2005年12月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "042978",
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"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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[
[
"戦争がすむと、あたしを追ひだすの?",
"俺が追ひだすのぢやなからうさ。戦争が厭応なしに追ひだしてしまふだらうな。命だつて、この頃の空襲の様子ぢや、あまり長持ちもしないやうな形勢だぜ",
"あたし近頃人間が変つたやうな気がするのよ。奥様ぐらしが板についてきたわ。たのしいのよ"
],
[
"僕らも逃げるとするかね",
"えゝ、でも"
],
[
"消せるだけ、消してちやうだい。あなた、死ぬの、こはい?",
"死にたくないよ。例のガラ〳〵落ちてくるとき、心臓がとまりさうだね",
"私もさうなのよ。でも、あなた"
],
[
"よろしい。君のために、がんばるぜ、まつたく、君のために、さ",
"えゝ。でも、無理をしないで。気をつけて",
"ちよつと、矛盾してゐるぜ"
],
[
"もつと、抱いて。あなた。もつと、強く。もつと、もつとよ",
"さうは力がなくなつたんだよ",
"でも、もつとよ、あなた、私、あなたを愛しているわ、私、わかつたわ。でも、私のからだ、どうして、だめなのでせう"
],
[
"戦争が終つたんだぜ",
"さういふ意味なの?"
],
[
"あつけなく済んだね。俺も愈々やられる時が近づいたと本当に覚悟しかけてゐたのだつたよ。生きて戦争を終つた君の御感想はどうです",
"馬鹿々々しかつたわね"
],
[
"ほんとに戦争が終つたの?",
"ほんとうさ",
"さうかしら"
],
[
"温泉へ行きませうよ",
"歩けなくちや、仕様もない",
"日本はどうなるのでせう",
"そんなこと、俺に分るものかね",
"どうなつても構はないわね。どうせ焼け野だもの。おいしい紅茶、いかが",
"欲しいね"
],
[
"飲ましてあげるから、ねてゐてちやうだい。ハイ、めしあがれ",
"いやだよ、そんな。子供みたいに匙に半分づゝシャぶつてゐられるものか",
"かうして飲んで下さらなければ、あげないから。ほんとに、捨てちやうから",
"つまらぬことを思ひつくものぢやないか",
"病気で、おまけに戦争に負けたから、うんと可愛がつてあげるのよ。可愛がられて、おいや"
],
[
"今度はあなたが私に飲ましてちやうだいよ。ねえ、起きて、ほら",
"いやだよ。寝たり起きたり",
"でもよ、おねがひだから、ほら、あなたの口からよ"
],
[
"ねえ、あなた。この紅茶に青酸加里がはいつてゐたら、私達、もう死んだわね",
"いやなことを言はないでくれ",
"大丈夫よ。入れないから。私ね、死ぬときの真似がしてみたかつたのよ",
"東条大将は死ぬだらうが、君までが死ぬ必要もなからうよ",
"あなた、空襲の火を消した夜のこと、覚えてゐる?",
"うん",
"私、ほんとは、いつしよに焼かれて死にたいと思つてゐたのよ。でも、無我夢中で火を消しちやつたのよ。まゝならないものね。死にたくない人が何万人も死んでゐるのに。私、生きてゐて、何の希望もないわ。眠る時には、目が覚めないでくれゝばいゝのに、と思ふのよ"
],
[
"あなたは私を可愛がつて下さつたわね",
"君は可愛がられたと思ふのかい?",
"えゝ、とてもよ"
],
[
"いつまでも、このまゝでゐたいね",
"本当にさう思ふの",
"君はどう思つてゐるの?",
"私は死んだ方がいゝのよ"
],
[
"あなたは卑怯よ。御自分が汚くてゐて、高くなりたいの、脱けだしたいの、それは卑怯よ。なぜ、汚くないと考へるやうにしないのよ。そして私を汚くない綺麗な女にしてくれようとしないのよ。私は親に女郎に売られて男のオモチャになつてきたわ。私はそんな女ですから、遊びは好きです。汚いなどと思はないのよ。私はよくない女です。けれども、良くなりたいと願つてゐるわ。なぜ、あなたが私を良くしようとしてくれないのよ。あなたは私を良い女にしようとせずに、どうして一人だけ脱けだしたいと思ふのよ。あなたは私を汚いものときめてゐます。私の過去を軽蔑してゐるのです",
"君の過去を軽蔑してはゐないよ。僕はたゞ思ふのだ。君と僕との結びつきの始まりが軽卒で、良くなかつたのだとね。僕たちは夫婦にならうとしてゐなかつた。それが二人の心の型をきめてゐるのではないか"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「新生 臨時増刊号第一輯」
1946(昭和21)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042900",
"作品名": "戦争と一人の女",
"作品名読み": "せんそうとひとりのおんな",
"ソート用読み": "せんそうとひとりのおんな",
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"初出": "「新生 臨時増刊号第一輯」1946(昭和21)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-07-11T00:00:00",
"最終更新日": "2021-10-14T00:00:00",
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"人物ID": "001095",
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"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 04",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月22日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年5月22日",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年5月22日",
"底本の親本名1": "新生 臨時増刊号第一輯",
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"底本の親本初版発行年1": "1946(昭和21)年10月1日",
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} |
[
[
"死ぬにも便利だし綺麗な場所は方々にあるよ。全く気がきかないね、自分だつて臭くつて窮屈だらうにね",
"いいよ〳〵、お姉さんには分らないよ"
],
[
"会つてどうするのさ",
"どうするつて、会ふだけでいいのよ",
"首をくくられて、惚れたんかね。あんたも相当ないかものぐひだよ。結婚しませうつて言ふつもりなの?",
"ううん"
],
[
"今迄と違つた気持で会つてみたいのよ。だつて、今迄はあんまりあたしが何も考へてゐなかつたわ。だから、考へながら会つてみたいのよ",
"あんたも相当にしよつてるよ。あんな自殺は、あんた一人のせゐぢやありませんからね。藪さんの自殺なんて、八幡の藪知らずでリュウマチの貉が迷つてゐるやうなもんですよ。しよつちう気まぐれなんだからね。お前さん一人が迷はせてるんと思ふと、大変なまちがひなんですよ",
"それでもいいのよ。会つてみれば分ることぢやないの",
"さういふもんですかね! 勝手にしなさいよ!"
],
[
"昨日の今日だもの、藪さんだつて疲れたでせうよ。熱くらゐだして、今時分はうん〳〵唸つてるかもしれないよ",
"病気ならあたし看病に行くわよ……"
],
[
"君は夜道の街燈なんだよ。一途に何かを照さうとしてゐる、なるほどうるんでぼんやりと光芒をさしのばす。然し結局君を包む夜の方が文句なしに遥かで大きい。君を見るたびに街燈の青ざめた悲しさを思ひだすのだ",
"俺は生きたいために死にたいと思はない。自殺は悪徳だと思つてゐる。俺の朦朧とした退屈きはまる時間の中でも、実感をもつて自殺を思ひだしたことは三十年の生涯に恐らく一度もなかつたのだ"
],
[
"帰つてくるよ",
"いいのよ! いいのよ! 帰つてこなくつともいいのよ!"
],
[
"お兄さんをとめて下さい。悪い結果になることが分つてるんです。普通の状態ぢやないんです。今がいつと危険な時なんです。お願ひですから、行かせないで下さい!",
"大丈夫なんだよ。心配はいらないのだ"
],
[
"この部屋で首でもくくられたら、こつちがやりきれやしないよ! うちぢや暫く藪さんを泊めませんからね! 真夜中でも嵐の晩でも帰しちやうよ",
"そんなに度々やれるもんぢやないよ。もう死ねないんだ。俺の自殺なんて全くだらしがないことなんだ。俺は意気地がないのだよ"
],
[
"ほんとに藪さんに会ひたかつたわ! 今くるか、今くるかと待つてゐたのよ。たうとう泣いちやつたわ",
"ところが俺の方ぢや、君の倍くらゐ会ひたいと思つてゐたのだ",
"ぢや、なぜ一人でこなかつたの?",
"会ひたいことと、会ひに行くことは、まるつきり別のことだよ。ほんとに会ひたいと思ふ人には、会はなくとも会つてゐるのだ。いや、会はない方が、その人のほんとの姿に会つてゐることになるんだよ。顔を見なけりや会つたことにならない人は、心から欲しかつた人ぢやないのだ",
"だつて、あたしの方ぢや藪さんの顔を見なけりや会つた気持になれないわ",
"さうなんだ。だから俺がこうしてのこ〳〵やつてくる。さうすると――さうだ、会つてみたつて君はたいして面白くもなんともないぢやないか。君は俺を好いてるわけでもなんでもないんだ。それでいいんだよ。だけど、俺がここへ来たのは、君の顔を見たい気持が多かつたのさ",
"さうよ、さうよ。あたしは藪さんが好きなわけぢやないのよ。だけど――藪さんはよく分つてゐるわ! さうよ。ほんとに完全に好きぢやないわ。藪さんがあたしのハズだなんて、考へただけでも笑ひたいことなんだわ"
],
[
"でも、ほんとに藪さんはよく分つてゐるわ! あたしね、藪さんが来てくれないつて、わあん〳〵泣きだしちやつたのよ。そりや、ほんとよ! 藪さんの来てくれないのが確かに淋しかつたのよ。だけど藪さんが好きなわけぢやなかつたの。でも藪さんがやつてきたら、しよつちうあたしを好いてるやうに仕向けやうと考へてゐたわ。相当のことを考へてゐたのよ",
"さうさ。そんなことは白状しなくつたつて分つてゐますよ。子供のくせに一人前の女ぶつて、今からそんな風ぢや、困りもんですよ。だけどすつかり白状するところは、あんたもすこし可笑しいよ",
"さうなのよ……"
],
[
"ちやうどこんな愉快な会話、たのしい一夜を想像しながら遊びに来たのだよ。すると、そつくり想像のとほりなのだ。まるで思ひのこすことがないくらゐ、気持がはればれしてしまつたのだ。これで気持よく家へ帰つて休むことができるんだよ",
"藪さん、泊つてもいいわよ。さつきはちよつとおどかしただけよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第六巻第四号」
1935(昭和10)年4月1日発行
初出:「作品 第六巻第四号」
1935(昭和10)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月19日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045830",
"作品名": "蒼茫夢",
"作品名読み": "そうぼうむ",
"ソート用読み": "そうほうむ",
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"原題": "",
"初出": "「作品 第六巻第四号」1935(昭和10)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-06-11T00:00:00",
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"役割フラグ": "著者",
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"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
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[
[
"コレ、コレ、箱王。まさかキサマではあるまいな、この桜を切ったのは",
"イイエ。ボクです。工藤祐経に見えたので、うっかり切ってしまいました",
"ウーム。見事な腕前。驚き入った",
"怒らないのですか"
],
[
"キサマ、坊主の身でありながら、鳥獣を殺して食うとは何事だ",
"イエ、ありがたい経文を唱え、引導をわたして食べますから、成仏ができてありがたいと云って鳥獣がオナカの中で手をついて礼をのべております"
],
[
"箱王ではないか。夜中にどうした",
"明日頭を丸めて坊主にするというものですから逃げてきました。坊主になっては父の仇も討てませんからね。坊主になる代りに元服したいと思うのですが",
"それがよい。では即刻鎌倉へ参り北条どのにお願いして烏帽子親になっていただこう"
],
[
"明日ここを出ようじゃないか",
"こんなに待遇のよいうちを急にでる必要はないね。半年一年、ゆるりと滞在しようじゃないか",
"そんなに長居してはオレの命がなくなってしまう。実はこれこれの事情で、どうにも滞在ができなくなった",
"そういう事情なら仕方がないね"
],
[
"片貝という侍女、絶世の美人とは思わないかい",
"仰有る通りのようで",
"お前もいつまでも独身でいるわけにはいかないが、あれほど美人なら女房にもって恥になることはない。結婚しなさい",
"ハア"
],
[
"結婚と申しても主人の義澄は許してくれないにきまっているから、主人の留守を幸い、日を選び、手筈をきめて駈落ちしなさい。あとは私がよろしきようにして、曾我の姉にもレンラクするから",
"ハア"
],
[
"オイ、今夜、夜逃げしよう",
"またかい。うまい物をタラフクたべさせてくれるのに、夜逃げはしたくないね",
"実はこれこれの事情だ",
"フーン。またね。仕方がない"
],
[
"さっそく駈落ちしやがったぜ。追跡だ",
"それ"
],
[
"主人の寵愛の女と駈落ちとは怪しからん",
"駈落ちは致さん。ごらんの通り兄弟二人だけだ",
"どこかに隠しているのだろう。女を奪われては家来の面目がたたないから、尋常に勝負しよう",
"拙者はある事情があって命を大事にしなければならないから、平に御容赦ありたい"
],
[
"十郎どのだな。その大男は誰だ",
"弟の五郎です",
"貴公、拙者の女房と怪しい関係があるということを教えてきたものがあるが、まことに卑怯ではないか。尋常に勝負しよう",
"拙者はある事情によって命が大事でござるから、お怒りの段恐縮ですが、平に御容赦ありたい",
"なんの事情か知らないが、こッちの事情の方がお前の事情よりも一大事だ。女房と怪しい関係のある奴を見逃しておけるものか",
"いずれ後日とくとお話し致したい。本日は何とぞ見逃していただきたく、かように頭を下げてお願い致す"
],
[
"仇討までは大切な命。つまらぬ事を起してはならぬと云うのに",
"分った。よく、分ったよ。しかし、こまったね。居候の当がなくなったね。平六の女房も三浦の叔母もずいぶんうまい物をタラフク食べさせてくれたが、目にチラついてこまる"
],
[
"大磯に当があるから、心配するな",
"うまいゴチソーがあるかね",
"大丈夫だ。料理屋だから",
"それは心強いな。しかし、兄貴は意外なところに味方があるんだね",
"そこの一人娘がオレの恋人だ",
"またか"
],
[
"この虎という女だけはオレが心から愛しているのだから、お前も今度は夜逃げをしなくとも大丈夫だ",
"そうかも知れないね。いつも女が後になってオレに知れるが、今度は先に知れたからね",
"客席にでるのが辛いから早く結婚してくれと実は目下せがまれてな",
"もう分ったよ",
"どうもお前は木石でいかんな"
],
[
"どうしたのよ、十郎さん。ちッとも姿を見せないで。お嬢さんがヒステリーで大変ですよ。実はね、今もお嬢さんが悪侍と大ゲンカしてるんですよ",
"侍とケンカ?",
"ええ、そうなんです。身分の低い侍ですが大そう腕ッ節の強い奴らでしてね。その親分格は黒犬の権太という奴ですが、ちかごろこの宿を軒なみに荒してるんです。今日はウチへ来ましてね、無理に上ろうとするところへお嬢さんがヌッと現れたんです。フトコロ手かなんかで悪侍をハッタと睨んでね。ウチへ上ってお酒をのむなら私をスッパリ斬り殺して上っておくれ、私が息をしているうちは一歩だって入れないよ、とあのお嬢さんがタンカをきっちゃったんですよ。それというのも、十郎さんがあんまり姿を見せないから、すっかり気が立ってるんですよ",
"それから、どうした?",
"どうしたも、ありませんよ。お嬢さんが悪侍を八人も相手に、結局どうにもならないのは分りきってるじゃありませんか。私はすぐ裏からとびだして、馬七だの蛸八だの芋十なぞの地廻り連に助勢をたのんだんです。今日はオフクロの命日だなんて、誰一人きてくれやしませんよ。みんな、やられてるんです。地廻りのグレン隊じゃ歯が立たないんですよ。私、どうしようかと思ってね。ほんとに天の助けだわ。十郎さんに急場を救っていただいてお嬢さんの胸のつかえを取り去ってあげさせようという天の配剤、それでたぶん天がお嬢さんにタンカをきらせたんですよ。早く、なんとかしてあげて下さい",
"拙者は事情あって一命を大切にいたさなければならない身、かりそめにも暴漢ごときと事を起すわけにはまいらぬ",
"何が、拙者だ。オタンコナス。二世を誓った愛人が悪漢相手に苦しんでるというのに、事情あって、一命。ヘン。愛より深い事情があるか。唐変木",
"よく口のまわる女だ。しかし、心配なことではあるな",
"当り前じゃないか。やい、男なら、何とかしろ。さもないと、私がタダじゃアおかないよ。女と思って見くびるな。向う脛をかッ払うぞ",
"まて、まて。その方と事を起すのは好まぬ。事情あって、拙者は一命を大切に……",
"オタンコナスめ"
],
[
"ム。痛い。ウーム、この野郎、なんてい馬鹿力だ。よせやい。動けねえや。痛いよ",
"オレは事情あって事を起すのが好きだな。オレをお前のウチへ案内しろ",
"コレ。五郎。一命を大切に……",
"一命を大切にしてるよ。ただ、事を起すだけだよ。早く、案内しろ。悪侍を退散させてから居候になるつもりだから、毎日うまい物を山盛りくわせるのを忘れるな",
"お前さんは誰だい",
"箱根の天狗だ",
"よーし。気に入った。さア、おいで",
"コラ、待て。五郎。一命を",
"大切にするよ"
],
[
"オーイ。コラ、コラ。蛸の足",
"なんだと"
],
[
"蛸の足とは、なんだ",
"八人だから、蛸の足だ",
"なるほど",
"オレは当家の居候だ。オレに断りなく上ってはこまるな",
"断って上るが、よいか",
"オレはよいが、オレの手に持つものに、きいてみろ",
"手に何も持たんじゃないか",
"いま、もつぞオ"
],
[
"オ。松の木に相談するのか。面白いな",
"いまにもっと面白くなるから待ってろ。アリャ、リャ、リャ、リャ……"
],
[
"居候なんて、とんでもない。大切なお客様ですよ。いえ、お店のお客様よりも大切にいたしますよ。何百年でもいて下さい。ねえ、虎や",
"ええ。その大きい立派なお方は命の恩人。大切にいたしますが、連れの痩せッぽちは、追んだして、塩をまいてちょうだい"
],
[
"五郎がここへ居候ときまれば安心だから、五郎を置いてく代りに、お前をつれて曾我へ帰るが、どうだ。まだ母に打ちあけていないからすぐ結婚というわけにはいかないが、しばらく二人だけで楽しく暮そうじゃないか",
"ほんと! 二人だけになれるのね",
"そうだとも",
"うれしい。カンベンしてあげるわ"
],
[
"ねえ、アンタ。ここをどこだと思うんだい。特飲だよ。遊ぶ女がいるんだよ。料理ばかり食ってないで、たまには女にも手をつけなよ",
"女は、うまいか",
"それは、うまいよ",
"サシミにするのか。塩焼きにするのか",
"チェッ。バカだよ、このデブチンは。ほんとに女を食うつもりらしいね"
],
[
"ねえ、五郎さん。たのみますよ。また悪侍の一味の奴が上りこんで",
"オレは事情があって一命が",
"よしてくれよ。こッちは真剣なんだから",
"イノシシを食わせるか",
"ああ、いいとも。二匹でも三匹でもゴチソーするよ。ついでに庭の松の木の場所をかえようと思ってるんだが、ちょッとひッこぬいてくんなよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 第三〇巻第六号」
1954(昭和29)年5月1日発行
初出:「キング 第三〇巻第六号」
1954(昭和29)年5月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042967",
"作品名": "曽我の暴れん坊",
"作品名読み": "そがのあばれんぼう",
"ソート用読み": "そかのあはれんほう",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「キング 第三〇巻第六号」1954(昭和29)年5月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-05-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 14",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年6月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年6月20日初版第1刷",
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"底本の親本名1": "キング 第三〇巻第六号",
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[
[
"私に下さるんでせうね",
"とんでもねえ"
],
[
"おとゝいおいで",
"この野郎"
],
[
"もうすこし、待ちませうよ。あなた、死ぬの、こはい?",
"死ぬのは厭だね。さつきから、爆弾がガラ〳〵落ちてくるたびに、心臓がとまりさうだね",
"私もさう。私は、もつと、ひどいのよ。でもよ、私、人と一しよに逃げたくないのよ"
],
[
"そんなことまで知りませんよ。私達が焼けだされたら、あなたは泊めてくれますか",
"それは泊めてやらないがね"
],
[
"私はあなたみたいに私のからだを犬ころのやうに可愛がる人はもう厭よ。まぢめな恋をするのよ",
"まぢめとは、どういふことだえ?",
"上品といふことよ",
"上品か。つまり、精神的といふことだね"
],
[
"俺はどこか南洋の島へでも働きに連れて行かれて、土人の女を口説いたゞけでも鞭でもつて息の根のとまるほど殴りつけられるだらうな",
"だから、あなたも、土人の娘と精神的な恋をするのよ",
"なるほど。まさか人魚を口説くわけにも行くまいからな"
],
[
"私はあなたの思ひ通りの可愛いゝ女房になつてあげるわ。私がどんな風なら、もつと可愛いゝと思ふのよ",
"さうだな。でも、マア、今までのまゝで、いゝよ",
"でもよ。教へてちやうだいよ。あなたの理想の女はどんな風なのよ",
"ねえ、君"
],
[
"戦争中は可愛がつてあげたから、今度はうんと困らしてあげるわね",
"いよいよ浮気を始めるのかね",
"もう戦争がなくなつたから、私がバクダンになるよりほかに手がないのよ",
"原子バクダンか",
"五百封度ぐらゐの小型よ",
"ふむ。さすがに己れを知つてゐる"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「サロン 第一巻第三号」
1946(昭和21)年11月1日発行
初出:「サロン 第一巻第三号」
1946(昭和21)年11月1日発行
入力:tatsuki
校正:宮元淳一
2006年5月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042904",
"作品名": "続戦争と一人の女",
"作品名読み": "ぞくせんそうとひとりのおんな",
"ソート用読み": "そくせんそうとひとりのおんな",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「サロン 第一巻第三号」1946(昭和21)年11月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-06-26T00:00:00",
"最終更新日": "2021-11-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42904.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 04",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月22日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年5月22日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年5月22日初版第1刷",
"底本の親本名1": "サロン 第一巻第三号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1946(昭和21)年11月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "宮元淳一",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42904_ruby_23076.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2006-05-05T00:00:00",
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} |
[
[
"このゴクツブシめ。時世というものを考えてみやがれ。配給というものがあって、政府、国民、一身同体、敗戦の苦しみてえことを知らねえのか。バチアタリめ",
"アレ。心得ているクセにムリなこといってるよ。配給じゃ生きられねえから、ここの商売がもってるくせに、いけねえなア。キマリの悪い思いをさせるよ"
],
[
"あなたは知らねえよ。ボクは退歩主義者なんだ。文明というものは、結局、退歩することですよ。つまり、みんなパンパンになる。みんなアイノコになる、ねえ、そうでしょう。わからねえのかな。結局、みんな、アイノコにならなきゃいけないじゃないですか。日本とかマレーの土人がヨーロッパに近づくというのは、失礼ですが、マチガイなんだと思わねえかな。ヨーロッパが日本やマレーに近づくことが文明ですよ。だって、下から上がるのは元々ムリじゃないか。上から下へ落ちるほかに手はねえや。だからボクだって、覚悟をきめて百姓のお聟さんになって、ボクは下ったツモリだったけど、これがマチガイですよ。だから、また、下らなきゃいけない。狸劇団へ身をやつす。退歩主義、必死の思いですよ。たのみます",
"ふざけるない",
"ふざけちゃいないよ。なんでも、やるからね。役者でも、道具方でも、ハヤシ方でも、選り好みはしないよ。あんなもの、ちょッと稽古すりゃ出来るだろう。なんなら、あなたの書生でもいゝよ。メシを食わして寝かしてくれりゃ、なんでも、やらア。この小屋の火の番やろうか。ちゃんとフトン持ってきたから、舞台のマンナカへ寝かしてくれりゃ、なんでもないじゃないか",
"ふうん"
],
[
"テメエは役者は見込みがないから、道具方の下働きなら使ってやる。然し、テメエのような大メシ食らいはウチへ置けねえから、今日かぎり、ほかへネグラをさがしなよ",
"そんなのムリだい",
"なにがムリだい。配給もないくせに一升メシを食らいやがって、こっちが持たねえよ。上野の地下道へ行きゃ、なんとかならアな、退歩しろよ",
"いけないよ。地下道に米は落っこってやしないじゃないか",
"テメエの食い分はテメエでなんとかしやがれ。そこまで人が知るもんか"
],
[
"オイ、一晩、とめてくれ",
"いけねえよ。泊ることは差支えないが、泊めっぱなしというわけに行かないからな。お前は図々しいから、メシを盗んで食うだろう。それがあるから、いけないよ",
"それは腹がへりゃ仕方がないから、盗むかも知れないが、一晩のことじゃないか",
"一晩だって、お前の胃袋は底なしだからそうはいかない。ほかへ当ってみな"
],
[
"よせよ。威張るない。オレだって、こんなこと、したくないよ。だけどさ。時世時節だから、君たちに狙いをつけるんだ。そうじゃないか。オメカケだのパン助だのと、女には内職できるけど、男はそうはいかねえよ。女の天下だから、あがめているんだ。有難く思いなよ",
"なにいってやんだい。甲斐性なしは男の屑さね。トンチキめ"
],
[
"なんだい。ひでえな。ゲラ〳〵笑っていたくせに、感謝のマゴコロをヒレキすれば、つきとばすなんて、面白くないよ。オレだって、あんなことはしたくないよ。然し、あのほかに、やるとすりゃ、泥棒か人殺しじゃないか。男だって、パン助もやりたくなろうじゃないか",
"バカ野郎。舞台の上からチョイトなんてパン助いるかい",
"あんなこといってらア。天下の往来の方が、なお、よくねえよ",
"クビだア。出て行け",
"慌てるなよ。こっちの都合だってあるじゃないか。クビは仕方がないけど、出て行けはないでしょう。営業妨害はいけねえよ"
],
[
"ダメだよ。ちゃんとオフレが来ているよ。ヘッヘッヘ",
"エッヘッヘ"
],
[
"いけねえよ。オヌシを上げちゃアいけないてえオフレがでゝるよ",
"冗談じゃないよ。荷物が置いてあるじゃないか",
"エッヘッヘ。オヌシが着たきり雀だてえことは、この小屋で誰知らぬ者もないわさ"
],
[
"オイ、よせよ。蹴らなくッたっていいじゃないか。今起きるよ",
"邪魔だから、消えて失せろい"
],
[
"なア、熊さん。ホーバイのヨシミじゃないか。センベツ包んでくんないか",
"よしやがれ。消えて失せろといったら、分らねえのか"
],
[
"おい、よせよ。冗談じゃないか",
"なめたマネしやがると、たゞはおかねえぞ"
],
[
"おい、かんべんしろよ。メシを炊いて食ったゞけで、泥棒したわけじゃアないからな。もっとも、これから、チョイとやるツモリのところだったけど、まだゞから、かんべんしてくれよ。誰だって、知らないウチへ泥棒に忍びこむのは、気心が知れなくッて、第一勝手が分らなくって、薄気味が悪いじゃないか。そこんとこを察してくれなくちゃアいけないよ。手荒なことや、ムリなことは、したかないよ",
"いゝ加減にしやがれ"
],
[
"アッ、そうだ。オレは退職手当を貰わなきゃ、いけないよ。誰だって、クビをきられる時は、退職手当というものがあらアな。きまってるよ。エッヘッヘ。よせよ。ごまかしちゃア、いけないよ",
"バカも休み休みいいやがれ。退職手当というものはレッキとした正社員の貰うことだ。テメエなんざ、臨時雇いか見習いみたいなもんじゃないか。それに、千円の前借りがあるじゃないか。それを見逃してやるだけでも、有り難いと思いやがれ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「月刊読売 夏期臨時増刊号」
1949(昭和24)年7月20日発行
初出:「月刊読売 夏期臨時増刊号」
1949(昭和24)年7月20日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043161",
"作品名": "退歩主義者",
"作品名読み": "たいほしゅぎしゃ",
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"初出": "「月刊読売 夏期臨時増刊号」1949(昭和24)年7月20日",
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[
[
"ヤイ安吾、貴様、けしからんぞ",
"なぜ",
"銀座を歩いていたろう。ヤイ、安吾、僕がうしろから背中をたたいたら、新田潤じゃそうじゃないか。恥をかいた。よく似とる。けしからんぞ、こら"
],
[
"ヤイ、河童",
"変なことを言うな。お前の顔がオレに映って見えるんじゃないのか",
"なんでい、河童"
],
[
"誰に?",
"ハア、実は、僕の郷里の乞食ですけど"
],
[
"どこんとこが似ていた?",
"どこといって瓜二つですけど、なんとなく大望をいだく様子がソックリですね"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「アサヒグラフ 第四八巻第三号」
1947(昭和22)年7月16日発行
初出:「アサヒグラフ 第四八巻第三号」
1947(昭和22)年7月16日発行
※初出時の表題は「自画像展覧会(その十七)」です。
入力:tatsuki
校正:藤原朔也
2008年5月10日作成
2016年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042870",
"作品名": "大望をいだく河童",
"作品名読み": "たいもうをいだくかっぱ",
"ソート用読み": "たいもうをいたくかつは",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「アサヒグラフ 第四八巻第三号」1947(昭和22)年7月16日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-06-04T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-15T00:00:00",
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"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 05",
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"底本初版発行年1": "1998(平成10)年6月20日",
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"校正に使用した版1": "1998(平成10)年6月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "アサヒグラフ 第四八巻第三号",
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} |
[
[
"ぢや、さよなら。行つて来るぜ",
"行つといで、さよなら"
],
[
"おいおい、君は何処へ行くんだい?――",
"…………",
"ど、ど、どうしたのさ、君は?――",
"ア、君と一緒に散歩したいと思つてね、追つかけて来たのだ。淋しくてね……",
"ウウ、さうか。でも良く分つたもんだね、僕の此方へ来たことが――",
"それあ遮る物も見えない畑だもの、四ツ角から君の姿は丸見えなんだよ"
],
[
"厭んなつちまふ! 暗い暗い、真つ暗だ! みじめすぎる! ほつと息を吐いてみたい、生きてゐるうちに! 死んでからぢや、つまんない。僕は死にたくないからね、どんなに悲惨な生き方をしても、ね……",
"勤めに行かないの? 今日は――",
"十二時から――。君は? 仕事を探しに行かないの?……",
"ウン、仕事はね……"
],
[
"畑へ仕事を探しに来る奴もないからね……",
"フフフフフフ",
"白状しちまふとね――"
],
[
"オ、オ、俺達は余りにも悲惨だ……",
"ね、ね、だから君、何時まで君が泊つてゐても、迷惑なんかしやしないよ……"
],
[
"アハアハアハ、アハハハハハッハッ! 冗談だよ。驚かなくつてもいいんだよ。僕と一緒に遊ばないか……",
"チェッ!"
],
[
"御主人は御在宅ですか?",
"ただ今生憎用向きで、朝早く出ましたきり留守なんでございますけど――今日は夕方まで帰るまいと思はれますが、何か……",
"さうでしたか。では又、いづれ改めて参ることに致します",
"あの……どちら様でございませうか?",
"古い友達です。極く古い、昔の友達で、エエ、左様、名前は、モミハラ・ダフ、樅原駄夫といふ者です。丁度この近くまで用向きがあつて来たものですからお寄りしてみたのですが……いづれ又お目にかかる折もありませうから……"
],
[
"――まあ、大変な嵐ですこと、ねえ……",
"ええ。それでも割りに漏らないぢやありませんか。ことに二階なんかはね。僕は昔、家の中で傘をさした覚えがある……",
"ほんたうにクサクサしますわね。ねえ、モミハラさん。いつそ死んだら、ずゐぶんせいせいするでせうねえ",
"そら、つまんないや。僕の友達でね、一人自殺しそこなつた奴があるんですけどね、そいつはね、死んだら何んにも分らなかつたんだつて。だから死ぬのはつまらないつて、さう言つてた。そら、さうだらうな……",
"あんな生意気な奴つたら、ありやしませんねえ、子の身分として親を打つたり蹴つたりしてねえ。今朝もいきなりあたしの此処を(顳顬のあたりをおさへて)ピシリーッつてね。それあ幾度も――もう血相をすつかり変へて、おお! こはい。――ねえ、モミハラさん。あいつ又狂つたんぢやありませんかしら? 額のここがグッと吊つてたでしよ。近頃……眼の色が濁りを帯びて底光りがして、腰の付根が斯うフラフラとしてねえ、変ですわね……",
"そら違わア。気狂ひつて、もつと人相が鋭く変るものですよ。あれア風邪で熱の高いせゐなんですよ。だから気持だつて幾分並みぢやアないんですさ。――それに、貴方も矢張り悪いよ。あなたは与里の気持を察してやらないから悪い。たとへば与里が多次郎や総江さんを叱つてるでしよ。するとはたの貴女までいい気になつて総江さんや多次郎を遣込めようとしたりする。――いつたい家庭の喧嘩つてものは静かな平和が欲しいからやり出すことで、現にね、喧嘩をしてガンガン喚いてゐる奴が一番それを痛切に欲しがつてゐるんだ。だから貴女がとりなしてやれア与里だつて喜ぶものを、貴女ときたひには、憎しみ一方でいい気になつて人の喧嘩に輪をかけるんだ。そん時の貴女の態度といふものは、見てゐても、あんな憎々しいものつたらないよ!……",
"あいつはね――ほら、四五年前の春さきに狂つたでしよ。自動車に、毎日毎日乗り廻してあんなにすつかり重役のつもりになつたりなんかして……あの頃のことでしたよ。いきなりあたしを押し倒してねえ、馬乗りになつて、二度――さう、一度は昼、一度は夜中のことでしたけど、ねえ、モミハラさん、あいつッたら目の色を変へて、かう額をグッと吊りあげて、頬がすつかり斯う落ちてねえ、いきなりあたしをギュウッと絞め殺さうとしたんですわよ……",
"それア、いたづらですよ。人間てものは腹の中と表とはまるで違ふものだから。――",
"腹では愛して、表では殺して――へえ、殺されるのにいくらか違ひがあるんですかしら……?",
"ちげえねえ。全くだよ! お前さんはいい頭だよ! 何だい、あああ、俺も死にたくなつたよう!",
"おお、寒い。まあ、ここから冷い風がはいる……",
"チェッ!"
],
[
"あいつはねえ、気が狂れると腰から上を斯う、フラフラふらふらとさせてね、両手をダラリと斯んな風に持て扱ひに苦しみ乍ら、肩から下へダランダランと振り動かして――それはそれは莫迦らしいことばかり喋るんですよ。――",
"もういいぢやありませんか! 第一与里はもうこれから先狂ふ心配はないやうだし、貴女さへ温い心を忘れなきや、この一家は何時に限らず幸福な団欒が営めるわけなんだのに",
"――そしてねえ、あいつときたら、俺は世界で一番偉い哲学者だとか、一番偉い予言者だとか大威張りでねえ。世界中の女はねえ、フフン、みんな俺の自由になるんだ――ですつてさ……",
"チェッ!"
],
[
"分つた分つた分つた! もう分つた! 貴女はもう、ぶたれた分だけ悪口を言ひ返したよ!",
"――今日といふ今日はほんたうに、それはそれは腹が立つて……",
"分つたつたら! 今日に限つたことぢやアないんだから!",
"こんな暮しをつづけてまで、生き永らへてもつまらない話ですもの、ねえ。あたしだつて自殺の出来ないことも……フフフフ、ねえ、モミハラさん。いい年寄りがあんまり恰好の宜いものぢやありませんけど、首縊りでもするぶんには――縁側へでも扱帯を掛けてぶら下がるぶんには、ねえ……",
"なんでい。つまんねえや。そんな話はね。ちつとも面白かねえや。それに――",
"あいつの鼻先へぼんやりとね。ダランとブラ下がつてブラブラぶらぶらとネ――フフ",
"チェッ!"
],
[
"――またあたいの陰口を言つてたんだろ。もうろくたかりめ!",
"嘘だい! お前さんの美徳に就いて褒めてたんだよ。見上げた人だよ! お前さんは!",
"うるせえ! 黙つてろ! 居候め! こくつぶし! 出て失せろ!",
"あああ、また、ヒステリイ、ねえ――",
"何だと!……もうろくたかり! お前は気狂ひを生んだ親ぢやないか!――",
"よせよ――"
],
[
"お前さんは仕事を見付ける当があるの?",
"あるさ。今日なんざ、重役に会ふんだぜ。三井銀行のね",
"チェッ! 笑ひ事ぢやアないんだからね。ほんたうに早く仕事を見付けるといいね。そして此処を出て行つてくれると助かるんだよ。お前さんが一人ゐると、ずゐぶん暮しがかかるからネ……",
"ウン、さうだろ……",
"でもね、お前さんが家にゐたつて邪魔ぢやアないんだよ。淋しくないし、みんなとても悦んでるんだから――ほんと。だからお前さんが仕事を見つけて、いくらでもいいから口前を出して、此処から通ふやうになつたら、それアいいね",
"さうださうだ、全くだア! 今にさうなるよ。なんでも月に五へんくらゐ、円タクに乗つて帰つて来ようか! さうなると、第一に、いくらヒステリイの時だつて、ダフダフなんて呼び捨てにする人はゐなくなるだろ"
],
[
"お前さんは口が悪いね。女と口をきくときには、特別と、変な工合にぞんざいですれてゐるよ。悪い女と遊びすぎたせゐだろ……",
"さうさ。昔は不良少年だつたんだい",
"アハハハハハハ"
],
[
"何だい? 何の話をしてたんだい?――",
"いいんだよ! チェッ! うるさい女だ",
"何言つてやんだい! 又あたいの陰口だろ",
"お前さんは偉い女だよ――"
],
[
"ほんたうに今日、重役に会ふのかい?――",
"バカ言つてら。玄関番にも会ひやしねえや",
"それでも――いい仕事を探しておいでよ。何処に口があることかも知れないから……",
"俺は遊びに出掛けるんだい! 俺はね、仕事を探すなんて、そんなシミッタレた事は大嫌ひなんだよ。此処へ来てから、まだ一つぺんだつて仕事なんか探したためしはないんだよ。仕事を探すくらゐなら遠慮なしに乞食にならい――",
"何んだと! もう一つぺん言つてみろ!",
"俺はね、此処へ居候を初めてから、まだ一つぺんだつて仕事を探すやうなアハレな行ひはいたしません、てんだ",
"……ぢやア、てめえは、これから先どうして暮さうてんだ――",
"ここの二階で往生するのさ。なんと哀れな身の上ぢやないか!",
"馬鹿野郎! 嘘つきの大かたり!"
],
[
"DAFの馬鹿ア! DAFの馬鹿野郎! トンガラシ! 戻つてくると承知しねえぞ!",
"ワアイ、ふぉっくす!"
],
[
"DAFの馬鹿野郎! DAFの馬鹿野郎!",
"ふぉっくす――"
],
[
"何だい、お前か。DAFだらう――?",
"俺だい――",
"チェッ! てめえ――DAFの馬鹿野郎! 平気な顔で帰られた義理か!"
],
[
"ヤイッ――",
"ウ。参つた――参つたよ。御免々々。一日ブスブス怒つてゐたのかい",
"嘘つき! 恩知らず! 何だい、お前はニヤニヤ笑つてるんぢやないか!",
"ウ――。これはね、仕方がないんだよ――"
],
[
"ねえ、駄夫さん。お前さんは本当に頼みにならない人だよ。それア、何かのハヅミだつたりフザケた気持だつたりして、つい悪いことも言ひ過ぎたかも知れないけれど、まだ本気でお前さんを邪魔者扱ひにしたことなんか一度だつて有りアしないし……それどころか、心の中ではどうぞ駄夫さんにいい職が見附かる様にと、どんなに毎日気を揉んでゐるか知れないんだよ。それだのに、お前さんといふ人は人を茶化してばかりゐて、人の心といふものがコレッパカシも分らない人なんだから……",
"分つてゐるよ。分つてるんだよ……",
"いいえ、分りやしないんだよ。まるであたいがお前さんを追ん出すことばかり考へてゐる悪魔のやうに思ひ込んでゐるんだから……",
"そんなことはないさ。僕の方こそ、大概のことはアベコベに顔に出さうとしてゐるから間違へられることはあつても、あんたを誤解したことなんか無い――それどころか、ずゐぶん感謝してゐるんだ……",
"どうだか分るもんか。心にあることは顔に表れるつて言ふんだもの。お前さんといふ人は、ほんとうに……",
"ああ悪るかつたよ。ほんとうに悪るかつたよ――"
],
[
"ねえ、駄夫さん。もつとあたいを信頼しておくれな。お互にどん底暮しをしてゐる同志なんだもの、恥も外聞もいらないわけなんだし、物質でどうこうつてわけにはお互に何も出来ない貧乏者の集りだから、せめて気持は温くありたいもんだねえ。あたいがこんなに駄夫さんの将来のことを気に病んでゐるといふのに、ほんとうにお前さんは頼みにならない人……",
"参つたよ。もうスッカリ参つた",
"これからあたいを信頼するね",
"ああ、スッカリ信頼するよ――"
],
[
"ああ、僕も、何んとか身のふりかたをつける必要を痛感したね。又、放浪に出ようかしら",
"アアア、それだから、アアア、ほんとうにお前さんは頼りにならないといふの。何も面当がましく出る出るつて言ふ必要もないだらうに。行先もない宿無しが、何で簡単に出られるものか",
"ああ、悪るかつたよ。――しかしね、それは、出て出られないこともないさ",
"フン。夢といふものはネ、野タレ死をすることだつて綺麗に見えるものさ",
"アハハハハ。やられたわい――"
],
[
"どうしたの? お母さんも坊やも見えないやうだね――?",
"ウン、一寸出掛けたの",
"へえ、珍らしいんだね。二人でかい",
"ウウン、四人でさ――",
"フウ。誰と誰?",
"それがねえ――",
"ウン――",
"――ねえ、駄夫さん……"
],
[
"どうしたの?",
"あいつが来たんだよウ……",
"アイツつて――ア、兄さんだね?"
],
[
"あたいはほんとうに不幸者だよ。あたいはもう虐められ通しなんだヨウ駄夫さん、あたいの力になつて呉れるねえ――",
"ああ、ああ、それはなるとも。いつたい、どうしたといふんだい?――"
],
[
"あいつはきつと何か悪いことをして逃げてきたんだよ。懲役ものかも知れやしない。あんな油断の出来ない奴つたらあるもんかね",
"ウン、それ程のこともあるまいよ",
"いえいえ、分るもんかね。やりかねない奴なんだよ。まるであたいのことなんか甜めきつてゐるんだから……",
"いつたい、何処へ出掛けたんだい、みんな?――",
"散歩だつてさ。チェッ! (と首を縮めて憎々しげに舌を鳴らし――)家庭円満なことさ。あたいは他人だと言ふんだらう。もうろくたかりめ! 憎らしいたらありやしないよ。デレデレしやがつて、あたい一人を継子いぢめにしようてんだもの……",
"そんなことはないさ。それは本当の母と子だから、たまに会つて仲の悪い筈はないよ",
"だつて、だつてさ。――現在自分を見棄てて逃げたやうな子供ぢやないか。さんざん苦労をかけて親不孝を重ねて家出をした子供に、たまに会ふからつて、目の色変えてチヤホヤする婆あがあるもんかい! 弟の与里へ対して、そんな事は出来ない義理だよ。こんな血の出るやうな暮しに婆あ一人を養ふつたつて容易なことぢやあ無いやね。それを当り前のやうにのさばり返つて、毎日々々イライラした面ばかりしやがつてさ。おまけに、畜生! そんな踏みつけた真似をされて、こちとらは黙つてゐられるかい!……",
"それは婆さんも良くないよ。しかし、お前さんも、まあ……",
"あああ、あたいはほんとうに虐げられた人だよ。駄夫さん。あたいはこれから先、どうなるんだらう。あいつ夫婦は此処へ居候しやうてんだつて。あたいの力で追ん出すわけにも行かないことだし、結局あたい一人が虐められる役割なんだよ。その又女が、生意気な気位の高い奴さ。あああ、あたいはみんなにお世辞を使つて、ペコペコ頭を下げて、女中みたいに扱はれる運命さ",
"俺の同僚が二人ふえたわけか――",
"夜逃げをしてきたんだつて。夜逃げもないものさ。荷物なんか、何一つ有らしないんだからね――"
],
[
"あんたは?……御飯を食べないのか。総江さんは?――",
"…………"
],
[
"やあ、暫くだね……",
"やあ――",
"覚えてゐる……",
"ウン――",
"ずゐぶん変つたね",
"さうかい"
],
[
"でも、まだ、いいぢやないか。久し振りで会へたんだから。お茶菓子があるんだよ。ア、奥さん、相済みませんけど、お茶を……",
"ウン。でもこれから、毎日会へるんだから。僕は夜分に勉強をしなければならないんだから",
"餅菓子を買つてきたんだよ。ほら……"
],
[
"下へ来ない?",
"ウン。でも今、書き物をしてゐるから――",
"小説?――",
"違ふよ。俺は本来絵描きだよ",
"アア、ピクチュアか。秋に滅法忙しい商売だね",
"ワア ワア ワアワアッハッハ。ピクチュアだ。ウン。秋に滅法忙しい商売だ",
"こんど、暇があつたら俺の肖像をかいとくれよ",
"ただぢやあいやだよ。十円出せ"
],
[
"下りないんだよ、この人は。モミハラ君、下へ行かうよ",
"ああ、ああ。今に行くから。一区切りつくと直ぐに行くから――",
"ぢやア、きつとね。待つてるから……"
],
[
"おうい。樅原一本やられたよ、全然絵描きだと思ひ込んだね。うまく担がれたよ。君もまるで変つたもんだね。すつかり肝胆相照したよ。降りておいで。よう。降りて来ないか――",
"駄夫さあん。降りておいで。ワアハハ ワアハハ―― ほんとうに、あの駄夫さんは、気さくい面白い人なんだよ。おいでよ。駄夫さんつたら――"
],
[
"よう、降りておいで。まだお茶菓子があるんだから――",
"残り物は食ひたくねえや",
"チェッ! 別の新しい包みだぞ",
"豆かなんかだらう",
"甘く見たね。おいしくはございませんが羊羹です、と――"
],
[
"いてえよ。行くから、止せ",
"ワアッハッハ ワアッハッハ おいでよ。おいでよ"
],
[
"駄夫さん。初対面の人と挨拶もろくすつぽしないうちに引つ込むなんて、ひどいね。ねえ玄也さん。駄夫さんと玄也さんはきつとつきあへるよ。とても良く性格が似てるんだから。今夜はうんとお喋りしようね",
"さうだよモミハラは子供の頃から面白い奴だつたよ",
"お前は面白くなかつたね",
"やられた!",
"この人は口が悪いんだよ。だけどシンはとてもいい人なんだから、玄也さんも誤解しては困るんだよ。それア腹は綺麗な人、なんだから――さうだらう、ねえ、駄夫さん……",
"それア一目でチャンと分るよ。誤解なんかするこたアないよ。これでも人間を見る目は肥えてゐるんだから……"
],
[
"星があつたか?――",
"ウン……"
],
[
"あいつ達――ねむつた?――",
"ああ、ねたよ"
],
[
"まだ、夜は明けないか?――",
"もうぢき明ける。どうだ? いくらか気分はいいのか?――",
"ああ、ずつといい。だが、まだ、とても苦しいのだ。早く夜が明ければいいが……"
],
[
"憚り乍ら今朝はオマンマがおそいよ。なんしろ珍客が朝の御散歩におでましだからね。腹がへつても我慢しな。こちとらのせいぢやねえやな。面白くもねえ――",
"黙つて為るだけの仕事をしろよ……"
],
[
"駄夫さん、お腹はどう? へつた? なんならさきに食べてもいいよ。もう仕度は出来てゐるんだから――",
"ああ、ありがとう。でも、みんなと一緒にすることにしやう",
"さう。――ほんとうに、今朝はいいお天気だね"
],
[
"三人だけで先に御飯にしやうかね――",
"ま、みんな帰るのをまつて一緒にしようよ"
],
[
"お仕度は出来たの? 伯父さんへ行くのですから。欠勤のお届けに、ね",
"ああ、このままでいいかしら?――"
],
[
"なにも二人で出掛けることはないのに――",
"この人の職を頼むのですよ"
],
[
"ぢや、行つていいけど。……しかし僕は、必ずしも欠勤するとは限りませんよ。気分さへ良ければ、夕方からでも僕は出勤する心算なんだから。僕のことならおせつかいは止して貰ひたいね……",
"今日は休んだ方がいいよ。先刻はそう決めたんぢやないか。悪いことは言はないから――"
],
[
"俺はいいよ。俺はなにも今日職を頼まなくつてもいいんだよ。でも、僕としては挨拶にだけは行きたいけど――義理だからね",
"兄さんのことではないよ。僕は僕として欠勤したくないんだ。別に僕は兄さんに当てつけて言つてるわけぢやないんだから。僕は僕自身の立場として――"
],
[
"別に君に悪いやうに計らう心算があるのぢやないし、さう悪人に考へなくてもいいんぢやないかと思ふね。それア僕は家を出奔したり長い間音信不通でゐたりした無頼漢でね、大した親不孝者には違ひないけれどね、ま、刑務所の御厄介にならなかつたやうなもんですとね、兄弟なんかは他人より信用の出来ないものかね。さうお互に憎んだり騙しあつたりするものかね。君の哲学はさうらしいけど、僕は別にさうひどいものだとは考へないがね",
"僕はね、兄弟なんて形式に何の値打もおかないよ。僕に必要なのは温い思ひ遣りだけなんだから。兄弟なんざ何のたしにもならないね",
"それあ君の苦労が足りないからだね。斯う言つちや悪いけど君は夢想家で世の中のことは知らないからね。世の中に温いものなんざ凡そありやしないよ。結局形式だけだけど、血族つてものは、そこの絆がいつと確実に信頼できるんだよ――",
"さういふ目論見で僕を頼つてきたのなら出て行つて貰いたいね。僕は港や掃溜ぢやねえや。兄さんの反吐を始末するのに僕が生きてる次第ぢやないんだから。僕の家庭は神聖なものなんだ。第一発狂した廃人なんだから人に頼られる柄ぢやあねえや"
],
[
"だつて俺は、だから僕は、今朝もくれぐれもお願ひしたやうに、決して君に御迷惑をかけるやうなことはしないと――これ迄のことだつてあんなに幾重にもお詫びしたんぢやないか。それあ僕の悪るかつたことだから、幾度だつてお詫びをしても構はないけど、それは済んでることぢやないか。ききわけがないぢやないか……",
"僕はなにも兄さんのお詫びがききたいわけぢやないんだ",
"困つたね。さう搦まれたつて――僕は全く困るよ。あんまりききわけが無さすぎるよ……"
],
[
"お母さんは怪しからんよ。ヨッちやんがあんなふうに言つてゐるのに、わざわざ風波を立てるやうな、同情のない言ひ草をするこたあないぢやありませんか",
"まアいいぢやないか。君は兎に角行つておいでよ。お母さんに逆らうことも、ないぢや、アリマセンカ――",
"うるさいよ。なにも君が口を出すこたアないぢやないか"
],
[
"君もどうせ出掛けるんだらう。一緒にそのへんまで行かない?……",
"俺の出掛けるにはまだ早すぎるよ",
"さう……"
],
[
"モミハラさん。ちよつと下へ来ていただけませんでせうか?――",
"あ――"
],
[
"済まないね。先刻は失礼。あのねえ、とにかく挨拶にだけ、行つてくるからね、すまないけど、君からヨッちやんに宜しく言つといてくれないか。義理が悪いんだよ。これから先は伯父さんに頼るより仕方のない立場なんだからね。顔を出しとかないと悪いもんだからね――",
"うん、行つてきたまへ",
"ああ、ありがと、君には済まないね。どうぞヨッちやんに宜しく執成しておくれよ、ね。済まないね。……なんなら、君も来ないか? 一緒に職を頼んであげるから……",
"なんだい。俺は二階の用を頼まれたんぢやないのか?",
"だけどさ。なんなら、おいでと言ふんだよ。案外世話をしてもらへるかも知れないから……",
"俺は、まともな働きは出来ないタチなんでね。ま、よさう",
"さう、ぢや――"
],
[
"ぢや、行つてくるからね。ヨッちやんには何分宜しく言つといてね。君の職もきいてきてあげるから",
"いいんだよ、俺は。さういふ所で働くのは嫌ひなんだよ。君と並んで働くなんざ、およそ面白くないからね",
"ぢや、宜しく頼むよ、ね"
],
[
"……お前も一緒に来ないか。その方がきつと都合がいいよ。伯父さんと会つとけば、伯父さんもお前のことを心配してくれる手掛りを今日にももつわけだし、いろいろ心配してくれるに違ひないんだから……",
"あたしはいや――"
],
[
"どうせ今後伯父さんの厄介にならなきやならないとすれば、一度は会はなきやならないんだからね、ね――",
"いいんですつたら。貴方は行つてらつしやいよ。お母さんがお待兼よ",
"だから一緒に行つた方がいいぢやないかと言ふんだよ、俺は――"
],
[
"お前さんは誰? 何の用?――",
"名前は言つても初まらないんですが。御主人にお目に掛れば分るんですが――",
"とうさんは留守だよ"
],
[
"店へ行つたら会へますか? 僕は何か働かして貰ひたいんだが……",
"知りやしない、何処へ行つたか――"
],
[
"ぢや、さよなら",
"…………"
],
[
"先日おでん屋で逢つた者ですが――",
"あん"
],
[
"イカサマ物ぢやあるまいね",
"いつぺん読んでごらん"
],
[
"俺はもう生きてゐられない……",
"ぢやあ、オダブツか",
"モミハラ!"
],
[
"俺を助けておくれ。お前の運命も悲惨だけど、俺も惨めなんだよ――",
"いいよ、いいよ、兄さん。力を出しなさい。お互に力を出して助け合ほうね"
],
[
"斯んなものを書きさうな人はたしか住んでゐなかつたと思ふが。……隣には鼻髯を蓄へた中年の人物が奥さんと二人で住んでゐてね、斯んなものを作りさうな人達ぢやなかつたね――",
"さうさう。あの人は大変お髯を大切にしてゐたよ。立派な体格で陸軍大将のやうだつたね。無口で挨拶もろくすつぽ出来ないほどはにかみやだつたけど……"
],
[
"駄夫さん、どうしたの? いつたい?……",
"…………",
"もうねたの? 駄夫さん?……"
],
[
"今日一日探したの?……",
"うん。心当りには何処にも手掛りがないんだ――"
],
[
"俺は世界で一番愛してゐた女にも棄てられたんだ……",
"兄さん、これからだよ。元気を出しなさい……"
],
[
"兄さんも愈々発狂するんぢやないかね。野越家の最後の発狂だね。これで丁度、僕の家族は完全に気違ひ揃ひになるわけだよ。愛嬌のある一家族だね",
"あの人は大丈夫だと僕は思ふが――",
"危いね。人相もすつかり変つてゐるし、この四五日は動作も始終そわそわして、身体全体が落付かないやうだから。僕自身、又、いつ再発するか知れやしないし……"
],
[
"ああ。いづれ又、きつと訪ねるよ",
"しかしね――"
],
[
"では、もう君に会へないね……",
"ああ、君の健康を祈る――"
],
[
"君。きつと又訪ねて来て呉れ給へね",
"きつと!"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「黒谷村」
1935(昭和10)年6月25日
初出:一~三「文科 第一輯」春陽堂
1931(昭和6)年10月1日発行
四「文科 第二輯」春陽堂
1931(昭和6)年11月1日発行
五「文科 第三輯」春陽堂
1931(昭和6)年12月25日発行
六「文科 第四輯」春陽堂
1932(昭和7)年3月3日発行
七~九「黒谷村」
1935(昭和10)年6月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月27日作成
2019年12月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"先生、マコ、あります",
"イヤ、タクサンです。ゴカンベン",
"不思議だなア、先生は"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第三巻第八号」
1948(昭和23)年8月1日発行
初出:「オール読物 第三巻第八号」
1948(昭和23)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年3月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043137",
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"これがあたしの息子です",
"いやどうも大へん似て居りますね"
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] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「三田文学 第九巻第三号」三田文学会
1934(昭和9)年3月1日発行
初出:「三田文学 第九巻第三号」三田文学会
1934(昭和9)年3月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月30日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045816",
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"莫迦野郎! お前なんぞに男の気持がわかるものか。そんなことは男同志の間柄ぢや平気なことなんだ。生意気に水を差すやうなことをして、このお多福めえ、気に入らねえけつたいな女詩人だと言つたら……",
"ごめん〳〵"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一一年二号」
1933(昭和8)年2月1日発行
初出:「文藝春秋 第一一年二号」
1933(昭和8)年2月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月19日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045807",
"作品名": "小さな部屋",
"作品名読み": "ちいさなへや",
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"底本名1": "坂口安吾全集 01",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
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"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "文藝春秋 第一一年二号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1933(昭和8)年2月1日",
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[
[
"御承知の如くに終戦後はがらりと世相が変りまして、この山里でも都会なみにかれこれと理窟を申したがる人物もおりますので、毎日定刻の御出勤だけは御面倒でもお願い致したいのです。役場で終日碁をうたれるのは、それは誰に遠慮もいらぬことです",
"いや。私は碁ばかりでなく一切趣味のない男で、植木や畑いじりぐらいの楽しみがせいぜいだね。そんな私だから、それが日課ときまれば毎日定刻の出勤は苦になるどころか、身体にもよろしかろう"
],
[
"退屈したから電話かけちゃったわ。日直なんですよ。ほかに用もないし、たばこもつきちゃったから、吸いがらを拾って吸って、中学校の職員室の火鉢もひッかきまわしてきたんです。たかるにも誰もいないし、カモがこないかなと考えてるうち、ふッとあなたに電話しちゃッたわけね。村長さん。ごきげんいかが? 役場は面白いですか",
"吸いがらを吸う?",
"そう。きせるで吸うのよ",
"ははあ。ふだんきせるを腰にぶらさげておいでかな",
"まさか。男の先生の抽出しから見つけてきたのよ。あなたたばこ持ってる?"
],
[
"予想通り、甘いわね。たかりすぎたせいか、よその村の人でないとたばこをくれなくなったわ",
"そんなにたばこがお好きか",
"馬鹿云うわね。ほかに何かすることがあると思うの",
"読書したまえ。教育者には読書が必要だね",
"小学校の先生に必要なのは腕ッ節だけよ。次に、教育者の自覚としては物々交換ということかな。与える者は取るべし。あなたには何も与えないけど、この村の物はたいがい貰っていいような気持にさせられるわね。たばこなんかお金をだして買うものだとは思えないわ。みんなただみたい",
"あなたはお金で何を買うね",
"買うほどのお金もくれないくせに。ほら。ごらんなさいよ。これが二十五歳の未婚の女性の服装よ。胸にも、腕にも、スカートにもつぎはぎがあるでしょう。胸と腕のは子供がナイフで斬りつけたのよ。私だってナイロンの靴下がはきたいけど、ほら、この靴下。敗残兵の靴下よりも貧弱だわね",
"さほどにも見えない。この村では華美の方だね。スカートの代りにもんぺを用いれば靴下はいらない。カスリの着物は綻びもつぎはぎも目立たないものだが、その洋服ではいもりがはらわたをだしたようだ",
"うまいわね。この村の男は東京の新聞よりも表現がうまいわよ。女のあらを探すときにはね。女をやッつけるのが村の男の一生の仕事らしいや"
],
[
"この村では村長と女教員とが差し向いで話をしてはいけませんかね",
"あれにたばこをやりましたね。たばこを一個",
"なくて困っていたから、あげたのさ",
"いつもなくて困っていますよ。いつもやったらどうですか。村長ともあろう人が。あの堕胎先生に",
"堕胎先生とは?",
"堕胎した先生だからさ。村の者はそうよんでますよ。誰も名前をよびません。子供まで蔭で云ってますぜ。たばこ一個で身をまかせかねない淫売以下の淫奔女です。あれがこの村では先生ですから、小学校は伏魔殿です",
"伏魔殿? 宮殿かな。あれが。魔王は誰だね",
"元海軍大佐ぐらいじゃ魔王にもなれませんや。戦争にも行けないような海軍大佐じゃアね。何をやっても、たいしたことはない"
],
[
"私が小学校へ行ったことが、それほど君の気にさわる理由が分らない。君は婦人にたばこを与えた男が悪人だと考えるような変った習慣があるのだね",
"まア、そうですな。村長が村で名題のあばずれに呼びだされてたばこを与えに出かけるのと同じぐらい変った習慣ですよ",
"時に、小学校のバラック校舎には床が張ってないそうな。ガラスも大半われているが、あれを何とかできないものかね",
"よくもそんなことが云えましたね"
],
[
"まず村費をごらんなさい。いくらの収入があって、いくらの支出があったか。次に小学校新築の特別収入。いくらありますか。そしてバラックにいくらかかったか。まだ約半額は未払いです。次に私が村費をいかように使っているか。私の出張費を調べなさい。就任以来七年間、私は出張手当も辞退しています。手弁当です。毒消し売りの泊るはたごに泊りこんで、諸々方々を拝み倒して、あれだけのバラックがともかくでき上ったのですぞ。この私に、おくめんもなく、羞しいとは思いませんか。よくも、あなた、何一ツ苦心したこともないくせに、云えたものですね",
"貴意はよく分りました。御説の如くに書類を拝見して私の意見をのべましょうが、君はいささか亢奮しすぎている。私の言葉を一々誤解して聞きとっているように思う。互いに冷静を欠くことなく、よく話し合い、心を合せて村のために働きましょう"
],
[
"村長無用!",
"村政に口をだすな!",
"約束を忘れたか!"
],
[
"貴公は先日数年来の決算書類を余に提示して逆さに振っても根太板一枚でないことを強弁したばかりであるが、あれは一時の偽りだね。本日の挙は甚だ不合理ではないか",
"はッはッは。今日のことでは一文も村費は使っていませんぜ。これぐらいは、まだ序の口さ。あのあばずれやその同類を村から叩きだすためなら、根作なぞは自慢の馬を売ってもよいと云ってるぐらいさ",
"鹿の頭がなくなってよろしかろう",
"不謹慎な!"
],
[
"村長はまことに不謹慎だ。お前さんが馬を売れば、鹿の頭がなくなってよろしかろうと云っている",
"ヤ。そのことで来たのだが、今日の費用は俺が馬を売って調達するとは、いったい村長は何を根拠にそんな阿呆なことを云うとるのか。俺がいつそのようなことを云うたか。村長は俺の馬がそんなに憎いのか。俺の馬を売らせたいのか"
],
[
"今日はどこへ行っても睨まれるばかりさ",
"私のはたばこがきれてるせい"
],
[
"そんなに困っているように見える?",
"困っているように見受けられるが",
"やせ我慢はよした方がいいかな。でも、もっと困ったことだって、十回や二十回にきかなかったわよ。今まで生きてくるのに。今日なんか、私がこうしてぼんやりしてると、誰かがきて、みんなしてくれて、たばこもくれる人があるし、なんでもない方よ",
"やせ我慢じゃないかね",
"そうでもないらしいわ。私はね。むしろ羽生助役に感謝してるんです。土間の藁にもぐりこんで眠ることを教えてくれたから。ふとんだのたたみなんて、たたんで押入へ片づけることができたり、掃いたりするのに便利なだけだ。私がゆうべたたみの上のふとんにねたか、土間の藁にもぐりこんでねたか、誰に分るものですか。私でなくて、王様の場合だって、そうですよ。王様がふとんをひッかぶってねていたり、お尻だけだして便所にしゃがんでいたりするの、おかしいわよ。土と藁の中から目をさまして這い出してくる方が、よっぽど王様らしいや",
"私も自棄を起した覚えはあるが、結局熱湯はやけどするばかりで、飲むことも浴びることもできないのだね。生きるためにはぬるま湯に限るものだ。無為無能と観ずればたたみの上で平凡に夢が結べる",
"おじさま。お子さまは?",
"嫁に行ったよ。死んだ男もいる",
"この前、いつ、使ったのかな。おじさまなんて言葉。甘えたくなったのかしら。人をだます力が欲しいや",
"私の家へきて、休養しなさい",
"駄目なんです",
"なぜだね",
"土と藁の中から目をさまさなければいけないから。時々、たばこいただきに行きますわ。藁の中で見た夢、話してあげましょう。おばさまに、よろしく"
],
[
"放っておきなさい。悲しいかな。私たちにはあの娘の行うことを無理にひきとめるだけの位がない",
"こんなことに位なんかがいりますか",
"左様。私は百姓の倅に生れ、半生軍人であったが、藁にもぐって寝ることを志すような勇気ある決断を選ぶことを知らなかった。あの娘に忠告するのは、私の身にあまることだと思うよ"
],
[
"俺も村長に一言注意しておきたいが、そういつまでも俺は無能の村長であるとおさまってもらってはこまる。御承知の如くに村の財政は予算難であるが、予算が足りなければ根作の馬を売って不足を補えばよいなぞとは、無能どころか、ワンマン、暴君である。無能を売り物にして難局に当ることを避けるのは卑怯だが、どうだ。俺が一つやってやろうという気をそろそろ起してはどうだ。足りない予算は俺がつくろう、思いきって自腹を切ってやろうじゃないかという気持をそろそろ起してはどうだ。仕事に身を入れれば、人間は自然にその心を起すものだが、軍人は村長になっても自腹が切れないか",
"そうだ。そうだ。自腹をきって金をつくってこい!"
],
[
"君はその犯人が放火の現場を見たのですか",
"見てはおりませんが、諸般の状況で彼が犯人であることに間違ありません。犯人は根作ですよ"
],
[
"昨年、小学校の怪火に先立って火事が三度もつづいたのは御記憶のことと思います。いずれも火の不始末からの失火ですが、この村に三度も火事がつづくなどとは、曾てない異常な出来事です。当時村の消防団長だったのが根作ですが、そこで彼が先頭に立って、防火週間というものをやりました。戦争中でも防空演習をやらなかった村なんですが、こう火事ばやりでは実戦的にやらなくちゃア、まさかの役に立たないからというので、バケツリレーを戦時の東京と同じように村民総出で一週間つづけましたね。あなたもバケツリレーに参加されたようですが、村民の大部分は渋々ながらも参加したようなわけです。ところが、小学校の教員の大半の者がとうとう一日も姿を見せなかったのです。彼らの云い分によると、バケツリレーというものは、空襲の場合なぞに限られるもので、みんなが支度をととのえて火事の起るのを待ちかまえている時に限って役に立つかも知れないが、平時の火事にはリレーするほど火事にそなえて人がかたまっている筈はない。早い話が小学校に深夜の火事があった場合、その近所には民家が一軒もないのだからバケツリレーはできない相談だ。それだけの人数が集る時には消防が到着している筈で、もしも消防が到着せずにバケツリレーで消す必要があるとすれば、そんな消防団こそ大訓練をやって魂のすげかえをしなければならないと云うのです。小学校には宿直という者がおって常時火の用心を心がけているから、今さらバケツリレーなどに参加の必要はないと云って、根作がいかに談じこんでも防火週間に協力してくれなかったのです。村民の大半もイヤイヤながらバケツリレーに駆りだされていたのですから、学校の先生の云い分が尤もだと云って、根作の評判の方が悪かったのです。根作はそれを根に持ったのです。彼は小学校の校長と、こんな風に言い合いました。(小学校から火事がでれば宿直の者がきっと消すか)(宿直は消防じゃないから火事を消すことはできないが、火事がでないように厳重に見まわりを行っているから、学校から火事がでる心配はない)私はそのとき一しょにそこにいましたが、根作はこう云われて、返す言葉もなく無念の唇をかんでいたのです。無念のあまり、彼は小学校に放火しました",
"誰かそれを見た人がいるのかね",
"誰も見たわけではありませんが、彼の放火に間違ないのです。その晩宿直の教員が宿直室をぬけだしてだるま宿で一ぱいやって酔っ払ってしまったのです。そのとき隣り座敷に飲んでたのが根作です。根作は宿直の教員がへべれけになって学校へ戻ったのを知ってだるま宿を立ち去りました。宿直の教員は校内の見廻りを忘れてぐっすりねこんでしまったのですが、約三時間後にふと目をさました時には校内は火の海だったのです。彼は見廻りは怠りましたが、火の気のあるべき筈のない校舎の方から火事が起ったことは明かなんです。怪火の原因はいまだに不明とされていますが、根作の放火は間違のない事実ですよ",
"かりにも消防団長が放火することもあるまい。彼は特に熱心な団長だったそうだね",
"熱心のあまりです。戦争を裏切る者は軍人ですよ。私も多少兵隊のめしを食っていますから、軍人が威張り屋で人一倍嫉妬心の強いことが身にしみています。奴らが一番願っているのは、国のことではなくて、自分の成功と、他人の失敗なんです。もっとも、軍人だけに限りませんや。すべて各界に於ける最大の裏切りは、その道の者が行うのですよ。何事によらず、そうですとも"
],
[
"学校の修繕かね",
"なーに。これは私のものだから、傷まないうちに取返すんですよ",
"君がそんなことをする人かね",
"へ。自分のものを取返すのが変ですか",
"君は手弁当で村のために献身する人ではないか。別して、学校再建のためには人知れず孤軍奮闘している人だ。学校再建のためにすでに相当の私財をそそいでいる筈ではなかったかね。この床板に限って取返すとはわけが分らないじゃないか",
"手弁当でやりましたとも。しかし、人間はいつまでも同じことやると限ったものじゃないですよ。子供をなだめるような言い方は、失敬千万ですぜ。それとも、今まで手弁当でやったから、私の財産はみんな学校へやっちまえと仰有るのですか。きいた風な口をきく代りに、あなたがやって下さいよ。私はもうこりごりですよ。そこは邪魔だから、向うへ行ってもらいましょう"
],
[
"御多用中相済まぬが、ひとつ商談に乗っていただきたい。私が私財で宿直室に床を張りたいと思うが、適当な値で板をゆずっていただけまいか",
"私も元をとるつもりだから、値は特に安くはできませんが、それでよろしければゆずりますとも"
],
[
"心やすだてに無断で作業をはじめて相済まない。日暮れまでに床を張りたいと思い立ったのでね",
"誰にたのまれてですか",
"たのまれたわけではないが、あなたがたばこと同じように喜んで受けてくれると思ったのでね",
"たばこと同じにですって! たばこと何が"
],
[
"だまれ! 人非人。貴様であろう。この学校に放火したのは。貴様がこの村の全ての不幸の元兇だぞ",
"私が放火したと仰有るのですか",
"人の不幸をたのしむために床板をはぐことを発案したのは貴様ではないか。貴様のほかに村の学校を燃す奴がいるか",
"これは面白い"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「群像 第八巻第六号」
1953(昭和28)年6月1日発行
初出:「群像 第八巻第六号」
1953(昭和28)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:狩野宏樹
2010年2月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042949",
"作品名": "中庸",
"作品名読み": "ちゅうよう",
"ソート用読み": "ちゆうよう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「群像 第八巻第六号」1953(昭和28)年6月1日",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-03-09T00:00:00",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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"底本初版発行年1": "1999(平成11)年6月20日",
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[
[
"何しにきた",
"カミソリが錆びちゃア気の毒だと思ってな。ハサミの使い方を忘れました、なんてえことになると町内の恥だ。なア。毎月の例によって、本日は定休日だから、オレの頭を持ってきてやった",
"オレはヘタだよ",
"承知の上だ",
"料金が高いぜ",
"承知の上だよ。人助けのためだ",
"ちょいとばかし血がでるぜ",
"そいつはよくねえ。オレなんざア、ここ三十年、魚のウロコを剃るのにこれッぱかしも魚の肌に傷をつけたことがなかったな。カミソリなんてえものは魚屋の庖丁にくらべれば元々器用に扱うようにできてるものだ。オッ。姐チャン。お前の方が手ざわりも柔かいし、カミソリの当りも柔かくッていいや。たのむぜ"
],
[
"よせ! やッちゃいけねえ",
"旦那がやりますか",
"やるもんかい。ヤイ、唐変木。そのデコボコ頭はウチのカミソリに合わねえから、よそへ行ってくれ",
"オッ。乙なことを云うじゃないか。源次にしては上出来だ",
"テメエの面ア見るとヒゲの代りに鼻をそいでやりたくなッちまわア。鼻は大事だ。足もとの明るいうちに消えちまえ。今日限り隣のツキアイも断つから、そう思え",
"そいつは、よくねえ。残り物の腐った魚の始末のつけ場がなくならア",
"なア。よく、きけ。キサマの口の悪いのはかねて承知だが、云っていいことと、悪いこととあるぞ。ウチの正坊の将棋がモノにならねえと云ったな",
"オウ、云ったとも。云ったが、どうした"
],
[
"お前に将棋がわかるかよ",
"わかるとも。源床の鼻たれ小僧が天才だと。笑わせるな。町内の縁台将棋の野郎どもを負かしたぐらいが、何が天才だ",
"町内じゃないや。人口十万のこの市に将棋の会所といえば一軒しかねえ。十万人の中の腕の立つ人が一人のこらずここに集ってきて将棋をさすのだ。縁台将棋とモノがちがうぞ。正坊はな。この会所で五本の指に折られる一人だ",
"そこが親馬鹿てえものだ。碁将棋の天才なんてえものは、紺ガスリをきて鼻をたらしているころから、広い日本で百人の一人ぐらいに腕が立たなくちゃアいけないものだ。この市の人間はただの十万じ々ないか。十万人で五本の指。ハ。八千万じゃア、指が足りなすぎらア。八千万、割ることのオ十万、と。エエト。ソロバンはねえかな。八千万割ることのオ十万。八なアリ。マルなアリ。またマルなアリ。また、マル、マル、マル。いけねえ。エエト"
],
[
"八千万割ることの十万で八百じゃないか。そのまた五倍で、五八の四千人。ざまアみやがれ",
"十四の子供だい。たった十四で四千人に一人なら立派な天才というものだ。なア。お前ンとこの長助はどうだ。ゆくゆくは職業野球の花形だと。笑わせるな。親馬鹿にて候とテメエの顔に書いてあらア。学業もろくにやらねえでとッぷり日の暮れるまでタマ投げの稽古をしやがって、それで、どうだ。全国大会の地区予選の県の大会のそのまた予選の市の大会に、そのまた劈頭の第一予選に乱射乱撃、コテンコテンじゃないか。町内の学校だ。寄附をだして応援にでかけて、目も当てられやしねえ。親馬鹿の目がさめないのがフシギだな",
"野球は一人でやるもんじゃねえや。雑魚が八人もついてりゃ、バックのエラーで負けるのは仕方がねえ。長助は中学二年生だ。二年ながらも全校の主戦投手じゃないか。その上に三年生というものがありながら、長助のピッチングにかなう者が全校に一人もいねえな",
"全校たって女もいれてただの四五百じゃないか。このせまい町内だけをチラッと見ても、ブリキ屋の倅、菓子屋の次男坊、医者の子供、フロ屋の三平、ソバ屋の米友、鉄工所のデブ、銀行の給仕、もう、指の数が足りねえや。長助なんぞの及びもつかない凄いタマを投げる奴は、くさるほどいらア",
"フロ屋の三平、三助じゃないか。ソバ屋の米友は出前持だ。鉄工所のデブは職工じゃないか。みんないい若い者だ。大人じゃないか",
"大人が、どうした。天才てえものは、鼻たれ小僧のうちから、広い日本で四千人に一人でなくちゃアいけねえものだ。長助のヘロヘロダマにまさるタマを投げる者なら、人口ただの十万のこの市だけでも四千人ぐらいはズラリとガンクビが揃ってらア。八千万の日本中で何億何万何千何番目になるか、とても勘定ができやしねえ",
"へ。いまだにカケ算ワリ算も満足にできねえな。お前は小学校の時から算術ができなかったなア。どうだ。九九は覚えてるか。な。碁将棋は数学のものだ。お前の子供じゃア、とてもモノになる筈がねえや",
"お前はどうだ。鉄棒にぶら下ると、ぶら下りッぱなしだったなア。牛肉屋の牛じゃアあるまいし、それでも今日テンビン棒が一人前に担げるようになったのはお天道サマのお慈悲だなア。その倅が、クラゲの運動会じゃアあるまいし、職業野球の花形選手になれるかよ。草野球のタマ拾いがいいところだ",
"今に見てやがれ。十年の後には何のナニガシと天下にうたわれる花形選手にしてみせるから",
"十年の後にはウチの正坊は天下の将棋の名人だ。オイ。野郎の背中に塩をぶちまいて追ッ払っちまえ。縁起でもねえ"
],
[
"子供が野球の練習に精をだすのは将来のためだからいいけどさ。お前さんが仕事をうッちゃらかして子供の野球につきあっちゃ困るじゃないか。おサシミの出前を届けに行って、三時間も帰りゃしない。小僧が二人もいるのに、お前さんが出前を届けるこたアないよ。明日からは出前にでちゃいけないよ",
"そうはいかないよ。来年度の新チームを編成したばかりだ。次週の土曜から新チームの県大会の予選がはじまるんだよ。長助の左腕からくりだす豪球が、ここんとこコントロールが乱れているから、ミッチリ落着いた練習をさせなくちゃアいけねえ",
"お前さんが長靴をはいて、自転車に片足つッかけて、オカモチをぶらさげて垣根の外から首を突きのばしているから、落着いてタマが投げられやしないッて長助がこぼしているよ。お前さんが野球の名人で長助に手ほどきしなきゃアならないというなら話は分るけど、五間とタマを投げることもできないくせにさ。オカモチぶらさげて、自転車に片足つッかけて、電柱にもたれてさ。三時間も垣根の外から首を突きだしてるバカはいないよ",
"うるせえな。隣の源次をみろよ。紋付をこしらえたよ。結婚式も借着の紋付ですました野郎が、新調の紋付をきて、商売を休んで、鼻たれ小僧の手をひいて、静々と将棋大会へでかけやがったじゃないか。それで負けて帰りやがった。ざまアみやがれ。オレが三時間ぐらい突っ立ってるのは何でもねえ"
],
[
"将棋なんてえものは大人も子供も変りなくできるものだ。将棋盤を頭上に持ち上げて我慢くらべをするワケじゃアないからな。野球は、そうはいかねえや。まず身体ができなくちゃアいけねえ。巨人軍の川上という岩のように立派な身体の選手が、力が足りない、もっと力が欲しいと嘆いてる始末じゃないか。まず第一に長助の背丈を延ばして、ふとらせなくちゃアいけない。滋養の物を三度三度食べさせて、毎日欠かさず風呂へ入れて――",
"ふやかすツモリかい",
"バカヤローめ。草木も水をかければ生長が早い。根が四ツ足のケダモノでも、水中にいるからクジラもカバも図体がひと廻りちがってらア。水てえものは、ふとるものだ。いかに商売とはいえ魚だけ食べさせてちゃァ、大選手の身体はできない。牛肉とモツとタマゴを欠かさず食べさせなくちゃアいけない。床屋の鼻たれ小僧に負けちゃア、御先祖様に顔向けができない"
],
[
"隣の魚屋はとうとう頭へきましたよ。そう云えば、小学校の時から、どうも、おかしいな、と思うことがありましたよ",
"小学校が一しょかい",
"ええ、そうですとも。魚屋の金公といえば泣虫の弱虫で有名なものでしたよ。寝小便をたれるヘキがありましてね。奴めの亡くなった両親が、それは心配したものですよ。それやこれやで益々泣虫になったんですな。それが、あなた、大人になったらガラリと変りやがって、一ぱし魚屋らしくタンカなぞも切るばかりじゃなく、変に威勢がよくなりやがったんですよ。やっぱり脳天から出ていたんですな。二三年前から子供の野球に熱を入れたあげく、とうとうホンモノになりましたよ。朝はくらいうちから自転車にのって、犬と同じように子供をひいて走りまわる。夜は裏の庭で子供にマキ割りをやらせてますよ。自分は横に突っ立って、腕組みをしながら、ジイーッと見てますよ。物を云わないね。真剣勝負の立会人だと思やマチガイなしでさア。雨が降っても欠かしたことがないから、裏の庭はマキの山でいっぱいでさア。あのマキを何に使うつもりだろうね",
"内職じゃアないのか",
"冗談じゃアないよ。魚屋がついでにスシを商うとか、夏は氷を商うぐらいの内職はするでしょうが、マキ屋を内職にすることはないよ。マキ割りの横に腕組みをしてジイーッと立ってる姿を見てごらんなさい。生きながら幽霊の執念がこもってまさア。凄いの、なんの。見てるだけでゾオーッとしますよ。にわかに逆上して、マキ割りをふりかぶって、一家殺しをやらなきゃアいいがね",
"フーン。穏やかじゃないね",
"ええ、も、穏やかじゃありません。ワタシャ心配でね。ついでにこッちへ踏みこまれちゃ目も当てられない。猛犬をゆずりたがってるような人はいませんかなア"
],
[
"お前は将棋が強いんだってね",
"それで身を持ちくずしたこともありましてね。賭け将棋に凝って、もうけるよりも、損をしました",
"それじゃアよほど強かろう。どうだい。あの床屋の鼻たれは、いくらか強いか",
"子供にしちゃア指しますが、私もあの年頃にはあのぐらいに指しましたよ",
"へえ、そうか。すると、子供であの鼻たれを負かす者も珍しくないな",
"そうですとも。あれよりも二三年下、小学校の五六年であれを負かすのも珍しくはありませんな。東京の将棋の会所には、同年配ぐらいで二枚落してあの子を負かすのが一人や二人はいるものですよ",
"そいつは耳よりの話だな。それじゃア、こうしようじゃないか。このマキを元値の二割引きで売ってやるから、東京で将棋の豆天才を探してもらいたいな。床屋の鼻たれよりも二三年下で、あの鼻たれをグウの音もでないほど打ち負かすことのできる滅法強い子供をな。しかし、なんだな。見たところは甚だ貧弱で、脳膜炎をわずらったことがあるようなナサケないガキがいいなア。この町へつれてきて、大勢の見物人の前で床屋の鼻たれと試合をさせて、ぶち負かしてやるんだから",
"それじゃア二割引きでマキを売って下さいますか。ありがたいね。モウケ仕事ですから、それでは東京へ参って、お言葉通りの豆天才を探して参りましょう。しかし、ねえ。脳膜炎をわずらったことがあるようなのが居るといいけど、こればッかりは請合えないね。ま、できるだけ貧弱そうなのを物色してつれて参りますから、マキの方は何とぞ宜しくお願い致します"
],
[
"それはまた大へんなガキだね",
"しかし、滅法強いそうだぜ。賭け将棋の商売人をカモにしていたそうだからね",
"呆れたガキだ",
"ここできくと、わかるそうだ"
],
[
"あっちへ行けよ",
"変った物をこしらえてるな",
"うるせえや",
"お前のところに将棋盤はあるか",
"…………",
"三十円賭けてやろうじゃないか",
"ほんとか?",
"むろんだ",
"ヘッヘ"
],
[
"ありがてえ。はやくそのガキを一目見たいね。つれて帰ってくればよかったのに",
"イエ、それがね。つれて帰れば私のウチへ泊めなくちゃアならないでしょう。私ゃあのガキと同居するのはマッピラですよ。カッパライを働くためにこの世に現れた虫のような薄気味わるい小僧なんですよ。旦那のウチへ泊めるなら、私ゃいつでもつれてきますがね",
"それはいけないよ",
"そうでしょう。ですから今度の日曜の一番で立って、つれてきます。その手筈をたててきましたから。ヒル前には戻れますから、対局は午後からということにして、もっとも、東京行きの終電事に間に合うように指し終らなくッちゃアね。私ゃあのガキをウチへ泊めるぐらいなら、ホンモノのメメズと一しょにドブへねる方がマシだよ"
],
[
"オ。源的。そッぽを向いちゃアいけねえや。今日は話の筋があってきたんだ。オレの頭が狂っているか、お前の頭が狂っているか、実地にためしてみようじゃないか。オレが東京からガキを一匹つれてくるから、正坊と将棋をやらせてみようじゃないか。そのガキは正坊よりも二ツ年下だが、ガキの方が角をひくと云ってるぜ",
"二ツ下といえば、小学校の六年だな",
"そうだとも。もっとも、学校とは縁が切れている。脳膜炎をわずらッて、それからこッち、学校には上っていないそうだ",
"正坊に角をひくなら初段だが、小学校の六年生に初段なんているもんかい",
"東京にはザラにいるらしいや。魚河岸の帰りにちょいと見かけたものでな。オレの町には正坊てえ天才がいて、町の大人には手にたつ相手がいなくなって困っているが、ひとつ指しに来ないかと云ったところが、田舎の子供なら、ま、角を落して指してやろう。なんなら二枚落して指してやろうと、こういうわけだ",
"偉い先生の弟子なのか",
"そんなもんじゃないそうだ。しかし、きいてみると、こんなガキは東京では珍しくないそうだな。東京の偉い先生は、このぐらいのガキには見向きもしないそうだぜ。六年生で初段ぐらいじゃ、とてもモノにならないそうだ。三ツ四ツでコマを掘りはじめて、五ツ六ツでバタ〳〵と大人をなで斬りにして、小学校一年の時には初段の腕にならなくちゃアいけないものだそうだなア。中学二年にもなって初段に大ゴマ落してもらうようなのは、将棋の会所の便所の掃除番にも雇ってくれないそうだ。この日曜につれてくるが、角をひいて教えてもらッちゃアどうだな",
"よーし。正坊が勝ったら、キサマ、どうする。ただカンベンして下さいだけじゃアすまないぞ",
"アア、すまないとも。その折はチンドン屋を先頭に立てて、魚屋の金太郎はキチガイでござんす、という旗を立てて、オレが市内を三べん廻って歩かアな",
"よし。承知した。日曜につれてこい"
],
[
"どうも、変だな。長助の評判が立たなくッて、石田なんてえのが県下少年第一の投手なぞとは腑に落ちないな。新聞社が買収されたんじゃねえのか。そんな筈はないじゃないか",
"ところが、そうじゃないらしいですよ。見た人がみんな驚いて云ってますよ"
],
[
"え? なんて云ってる?",
"凄いッてね",
"凄いッて云えば、長助が凄いじゃないか",
"イエ。てんで問題にならない",
"ナニ?",
"イエ。見た人がそう云うんですよ。てんで問題にならないッてね。スピードといい、カーブといい、コントロールといい、ケタがちがうッて。町内の見てきた人がみんなそう云ってますよ。明日は町内の学校はてんで歯がたたないッてね。応援に行っても仕様がないやなんて、みんなそう云ってましたよ",
"誰だ、そんなことを云ったのは。長助にヤキモチやいてる奴だろう",
"受持の先生も、そう云ってましたよ",
"あいつは長助を憎んでいるらしいな。第一、町内の奴らには、投球の微妙なところが分りゃしねえ。長助の左腕からくりだすノビのある重いタマ、打者の手元でキュッとまがる。このタマの凄さは打者でなくちゃア分りゃしねえよ。よーし。明日の試合を見てみやがれ"
],
[
"マゴ〳〵してると一番電車に乗りおくれるじゃないか",
"まだ、早いよ。四時前ですよ",
"オレはなア。今日の午後は長助の野球の方に行かなくちゃアならねえ。野球が終ると大急ぎで駈けつけるが、それまでは将棋の方に顔がだせないから、お前が代理でござんすと云って、よろしくやってくれ",
"それは、ま、よろしくやるのはワケはないが、旦那もせっかくはりこんだくせに、惜しいねえ。マキはたしかに二割引で売って下さるんでしょうね",
"売ってはやるが、メメズ小僧は負けやしまいな",
"負けるもんですか。マキの方さえたしかなら、旦那はどこへでも行ってらッしゃい"
],
[
"正坊はどうした?",
"午まで遊んでくると云って、でかけましたよ",
"フン。落着いてやがるな。それでなくちゃアいけねえ",
"今日は大丈夫かしら",
"大丈夫だとも。正坊の二ツ年下で、角をひいて正坊に勝てるような大それたガキがいてたまるかい。だから正坊にそう云ってやったんだ。お前が勝つにきまってるから、あせっちゃいけない。ただ年下の奴が角をひくんじゃカッとして腹が立つ。腹を立てちゃアいけない。静かな落着いた気持で指しさえすりゃア負ける道理がないんだとな",
"じゃア大丈夫ね",
"むろん、大丈夫だ。金太郎の野郎め。今日こそはカンベンならねえ。チンドン屋を先頭に、金太郎はキチガイでござんすという旗をたてて、市内を三べん廻らせてやる"
],
[
"あいつは超特別の大天才投手だよ。凄いウナリじゃないか",
"スポンジボールだからね",
"なアに別所だって、あんなもんだよ。カーブだって目にもとまらない速さじゃないか",
"どうかしてるな。このオジサンは。オジサンはあの学校の先生かい?"
],
[
"よく打ちやがるなア。あのピッチャーだってうまいんだがなア。あの左腕からくりだす豪球――",
"豪球じゃないや。ヘロ〳〵じゃないか",
"バカ。相手のピッチャーが豪球すぎるから、そう見えるのだ",
"ウソだい。あんなヘナチョコピー、珍らしいよ、なア。クジ運がよかったから準々決勝まで残れたんだい。別の組だったら一回戦で負けてらア。ほら、ごらんよ。石田が降りて、第二投手がでてきたよ。第二投手でもあのヘナチョコの倍も速いや",
"なるほど、速い。そろっているな。超少年級。プロ級じゃないか",
"バカ云ってらア"
],
[
"運がなかったですね。あんな強いのにぶつかっちゃアね",
"イエ。運がよかったんですよ。ここまで来れたのがフシギですよ。一回戦で負けてるのが本当なんですな",
"そんなにみんな強いですかね",
"つまりウチが弱すぎるんでしょうな。ピッチャーがいないんです。こんなのが二年つづけて主戦投手ですからね。左ピッチャーという名ばかりで全然威力がないのですから"
],
[
"もう、すんだのかい?",
"ええ、二時間足らずですんじゃいました",
"どうだった?",
"床屋の子供が三番棒で負けたそうですよ",
"そうだろうな。天下は広大だ。天元堂はどうしたえ?",
"小僧をひきずって停車場へ行きましたよ。この町へ置いといちゃア物騒だとか何とかブツ〳〵云いながらね"
],
[
"バカな夢を見たものだ",
"まったくだ",
"長助もコテン〳〵か。アッハ。おかしくも、なんともねえや",
"本日休業か。損をかけたな",
"お前、いくらつかった?",
"アッハ。おかしくも、なんともねえ"
],
[
"ヤ、旦那。無事、すみましたぜ。角落ちで、見事に三番棒でさア",
"そうだってな",
"マキは運んでいいでしょうね",
"うるせえな。運んでるじゃないか",
"ですから、運んでいいでしょうね",
"早く運んじまえ……"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 第二九巻第一四号」
1953(昭和28)年12月1日発行
初出:「キング 第二九巻第一四号」
1953(昭和28)年12月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042959",
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"作品名読み": "ちょうないのにてんさい",
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"初出": "「キング 第二九巻第一四号」1953(昭和28)年12月1日",
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} |
[
[
"どれくらゐ考へました",
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[
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"二百五十三分。計二百七十三分です",
"ウワ"
],
[
"相撲へ行つたかい",
"ハア?",
"相撲へ行つた",
"いゝえ"
],
[
"先生、相撲のケンリ、どうなつてますか",
"ケンリ? いゝや、ケンリなんて"
],
[
"君、ヌルマユを貰つてきてくれないか",
"ハ?",
"ヌ・ル・マ・ユ。少しね"
],
[
"おい、ひどいぜ。名人が応接間にのびてゐるぜ",
"あゝ、知つてる",
"見ちや、ゐられないな"
],
[
"名人あと十分です",
"ウン"
],
[
"五四歩がいけない。こゝへ金を打つんだつた",
"どこ?",
"こゝ。六四"
],
[
"一戦やりませう",
"アヽ、やりませう"
],
[
"私はショーオーですよ。自分で法律をつくつて、自分がその法律にさばかれて死んだといふショーオーね、私が規則をつくつて、規則に負けた、私は持時間八時間ぢやア、指せないね。読んで読みぬくんだから。私は時間に負けた。ショーオーなんだね",
"ショーオー。僕は学がないからね。字を教へてよ。どんな字かくの?"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「群像 第二巻第八号」
1947(昭和22)年8月1日発行
初出:「群像 第二巻第八号」
1947(昭和22)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、次の箇所では、大振りにつくっています。
「種ヶ島」
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
2016年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042873",
"作品名": "散る日本",
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[
"これはとても駄目だ。もう薬をあげたところで、どうなるものでもない。定命は仕方のないものだから、心静かに往生をとげるがよい。それに就ては、お前さんの婚礼に二斗のお酒が貸してあったが、あれを返さずに死なれては困る。さればといって、見廻したところお前さんのところにはカタにとるような品物もないが、それでは仕方がないから、死んでから牛に生れ変っておいで",
"なんで牛に生れなければなりませんか",
"それは申すまでもない。この容態ではとてもこの世で酒が返せないのだから、牛に生れ変ってきて、八年間働かねばなりませんぞ。それはちゃんとお釈迦様が経文に説いておいでになることで、物をかりて返せないうちに死ぬ時は、牛に生れてきて八年間働かねばならぬと申されてある",
"たった二斗の酒ぐらいに、牛に生れて八年というのはむごいことでございます。どうか、ごかんべん下さいまして",
"いやいや。飛んでもないことを仰有るものではない。ちゃんと経文にあることだから、仕方がないと思わっしゃい。それとも地獄へ落ちて火に焼かれ氷につけられる方がよろしいかの。八年ぐらいは夢のうちにすぎてしまう。経文にあることだから、牛になって八年間は働いてもらわねばならぬ",
"お前さん経文にあることだから仕方がないよ。元々お前さんがだらしがなくて返せなかったのだから、牛に生れ変って返さなければいけないよ",
"そうか。なんという情ないことだろう。こんなことになるぐらいなら、もっと早く働いて返せばよかった"
],
[
"オヤ、和尚さん。こんにちは。いつも和尚さんは顔のツヤがいいね",
"ウム、お互いに、まア、達者でしあわせというものだ。ところで、つかぬことを訊くようだが、お前さんはこの一月ほど、牛がでて、そのなんだな、蹴とばされるような夢をみなかったかな",
"なんの話だね。藪から棒に。和尚さんは人をからかっているよ",
"いや、なに、ただ、牛の夢にうなされたことがないかというのだよ",
"そんなおかしい夢を見る者があるものかね。ほんとに意地の悪いいたずら者だよ、和尚さんは"
]
] | 底本:「桜の森の満開の下」講談社文芸文庫、講談社
1989(平成1)年4月10日発行
2004(平成16)年12月3日第34刷
底本の親本:「坂口安吾選集第六巻」講談社
1982(昭和57)年5月発行
入力:田中敬三
校正:noriko saito
2006年7月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045650",
"作品名": "土の中からの話",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
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"入力に使用した版1": "2004(平成16)年12月3日第34刷",
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"これはとても駄目だ。もう薬をあげたところで、どうなるものでもない。定命は仕方のないものだから、心静かに往生をとげるがよい。それに就ては、お前さんの婚礼に二斗のお酒が貸してあつたが、あれを返さずに死なれては困る。さればといつて、見廻したところお前さんのところにはカタにとるやうな品物もないが、それでは仕方がないから、死んでから牛に生れ変つておいで",
"なんで牛に生れなければなりませんか",
"それは申すまでもない。この容態ではとてもこの世で酒が返せないのだから、牛に生れ変つてきて、八年間働かねばなりませんぞ。それはちやんとお釈迦様が経文に説いておいでになることで、物をかりて返せないうちに死ぬ時は、牛に生れてきて八年間働かねばならぬと申されてある",
"たつた二斗の酒ぐらゐに牛に生れて八年といふのはむごいことでございます。どうか、ごかんべん下さいまして",
"いやいや。飛んでもないことを仰有るものではない。ちやんと経文にあることだから、仕方がないと思はつしやい。それとも地獄へ落ちて火に焼かれ氷につけられる方がよろしいかの。八年ぐらゐは夢のうちにすぎてしまふ。経文にあることだから、牛になつて八年間は働いてもらはねばならぬ",
"お前さん経文にあることだから仕方がないよ。元々お前さんがだらしがなくて返せなかつたのだから、牛に生れ変つて返さなければいけないよ",
"さうか。なんといふ情ないことだらう。こんなことになるぐらゐなら、もつと早く働いて返せばよかつた"
],
[
"オヤ、和尚さん。こんにちは。いつも和尚さんは顔のツヤがいいね",
"ウム、お互ひに、まア、達者でしあはせといふものだ。ところで、つかぬことを訊くやうだが、お前さんはこの一月ほど、牛がでて、そのなんだな、蹴とばされるやうな夢をみなかつたかな",
"なんの話だね。藪から棒に。和尚さんは人をからかつてゐるよ",
"いや、なに、ただ、牛の夢にうなされたことがないかといふのだよ",
"そんなをかしい夢を見る者があるものかね。ほんとに意地の悪いいたづら者だよ、和尚さんは"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「道鏡」八雲書店
1947(昭和22)年10月発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045890",
"作品名": "土の中からの話",
"作品名読み": "つちのなかからのはなし",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2008-11-06T00:00:00",
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"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 03",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年3月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "道鏡",
"底本の親本出版社名1": "八雲書店",
"底本の親本初版発行年1": "1947(昭和22)年10月",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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"校正者": "noriko saito",
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"テキストファイル最終更新日": "2008-10-15T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"投網だって、投げるんじゃないか",
"ヘッヘッヘ。理窟はいけません。未明という時間に関係のある微妙な問題です"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文学界 第三巻第六号」
1949(昭和24)年8月1日発行
初出:「文学界 第三巻第六号」
1949(昭和24)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043165",
"作品名": "釣り師の心境",
"作品名読み": "つりしのしんきょう",
"ソート用読み": "つりしのしんきよう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「文学界 第三巻第六号」1949(昭和24)年8月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-04-03T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43165.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 08",
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"入力に使用した版1": "1998(平成10)年9月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年9月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "文学界 第三巻第六号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1949(昭和24)年8月1日",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"あんた、下の主人を狙っているのね",
"バカ。オレは人を狙うようなグレン隊と違うんだ。ちかごろ物騒だから、用心のために持って歩いてるのだ",
"フン。私も考えていたわ。誰かが下の主人を狙うと思っていたの。どうせここの常連はタダモノじゃアないからね。第一、下の人は握りすぎてるよ。貸し売りせずにこの商売をやりぬくつもりなんですもの。そして、本当にやりぬいてるものね。私にムリにやりぬかせるのよ。そのために、私だって、イヤなお客にも変なサービスしなきゃアならないでしょう、しぼるだけしぼって、握りしめてるんだから、それは狙われるのが当り前よ。誰かが狙わなきゃア、おかしいわよ。でもね。まさか、あんたが最初に狙うとは思わなかったわ。人は見かけによらないわね",
"よせやい。オレは立派な会社勤めがあってよ、まともの収入が月々五万以上もある人間なんだ。終戦後、小さいながらも、自分の家というものを建てている人間なんだぜ。ここへ飲みにくるほかの常連とは、はばかりながら種類がちがってらアな。オレがスパナーを持ってるのは、右平の奴がいつ襲ってきやがるか分りゃしないからさ",
"たのむわよ。下の人を殺らないでよ。イヤな奴だけど、こうして同居して、働いてるんだからね。血の海の中に、腐った魚みたいに目の玉とびだしてさ。なぐり殺されてんの、見たくないわよ。おお、ブルブル",
"おい。ヤなこと言うない",
"だってさ。私、こわいわよ。男は、みんな、こわい。何かのハズミに、思いきったことをやるわね。それはね、お金につまって、狙うのはいいけれど、ちょッとでも顔見知りの人はやらない方がいいわよ。いくらイヤな奴で、握ってるのが分ってるからとはいえ、こうして私がねてる下の人でしょう。私、イヤだよ。ギャアーなんて悲鳴に、目をさましちゃ、やりきれやしないよ。おお、こわいね"
],
[
"ちょッと見てくるわね",
"右平だな",
"ちがうでしょ",
"カンバンにしとけよ",
"ええ、そうするわ"
],
[
"私がこんなところで働くのは、当分身を隠す必要があるからよ。私、狙われてるのよ",
"別れた亭主にだな",
"まアそんなものね",
"じゃア、いつまでも埒があかないじゃないか。一生隠れている気かい",
"誰かが死刑になるまでね。よく知らないけど、そんな話さ",
"亭主は刑務所にいるのか",
"知らないよ"
],
[
"すると、中井が犯人か",
"そうよ。カンバンになってから酔っ払いがきてごてついてる声がしたから、私が降りてッたのよ。酔っ払いじゃなくて、中井さ。泊めてくれって頼むから、私の部屋には泊められないけど、夜明けまでお店にでも寝てるがいいやッて放ったらかして二階へあがっちゃったのさ。私は危いと思ったから、そッと梯子をひいて、屋根裏へ上れないようにしておいたの。案の定ね。中井は下の夫婦を殺してお金を盗んだのよ",
"警察へ云わないのか",
"だってさ、中井が口止めしたからさ。私だって、散々中井にしてやるだけのことはしてやったんだし、今じゃア、好きでもなんでもないんですものね。かばってやる必要ないけど、ねえ、あんた。犯人なんて、誰だっていいじゃないの",
"だって、死刑じゃないか",
"殺された人だっているんだから、誰かが死刑になったって、仕様がないわよ",
"チエッ! ウソついてやがるな。てめえ、共犯だろう",
"人ぎきがわるいわね",
"なに云ってやんだい。じゃア、グズ弁のスパナーが、どうして中井の手に握られてしまったんだ。え? オイ、おかしいじゃないか。誰かが手渡してやらなきゃ、そんなことにはなりッこないぜ、な",
"それは、こうよ。グズ弁が酔っ払ってグデングデンになってスパナーをとりだして弄んでたから、私がとりあげてお店のテーブルの下へおいといたのさ。そんなこと、忘れてたのよ。まさか中井がきて、それを握って人殺しをするとは思わないわよ",
"中井は、どうしてる",
"知らないよ。アイツは恩知らずよ。私が学校を卒業させてやったのにね。私の物をみんな売りとばして、おまけに、恋人つくってさ。だけど、考えてみると、私ゃ、中井に惚れてなかったわね",
"虎の子全部貢いでるんだから惚れてるにきまってらアな",
"ウソだよ。そんなことをしてみたかっただけらしいよ。私ゃ、平気だもの。これからだって、そんなこと、やろうと思えば、なんべんでも、できるよ。私ゃ、中井なんかに復讐したいと思わないよ",
"グズ弁を助けたいとも思わないのか",
"思わないわね。だいたい、あんた、世の中なんて、いい加減でいいのよ。一々キチンキチンやられちゃ、やりきれないわよ。私はね、誰かが下の夫婦を殺しゃいいのに、とバクゼンと思っていたわね。だいたい誰が誰を殺したってかまうこたアありゃしないよ。なんでも商売さ。人殺しの商売もあるし、人殺しをつかまえる商売もあるし、それがあんた、ちがった犯人をつかまえたって、男が入れ代ってるだけじゃないか、そんなこと云ってたら、パンパンなんか、してられるもんか。戦争も、そんなものだわよ。みんな、いい加減だから、それで世の中がまるくいくのさ。へ。グズ弁が犯人で悪かったら、あんた、パンパン屋へ遊びにくるの、およしよ",
"わるかったな",
"ハッハッハア"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 13」筑摩書房
1999(平成11)年2月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第七巻第四号」
1953(昭和28)年3月1日発行
初出:「小説新潮 第七巻第四号」
1953(昭和28)年3月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2010年5月19日作成
2011年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045937",
"作品名": "都会の中の孤島",
"作品名読み": "とかいのなかのことう",
"ソート用読み": "とかいのなかのことう",
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"原題": "",
"初出": "「小説新潮 第七巻第四号」1953(昭和28)年3月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-06-07T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "坂口",
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"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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"底本名1": "坂口安吾全集 13",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年2月20日",
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"底本の親本名1": "小説新潮 第七巻第四号",
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} |
[
[
"死花つて、何をするつもり",
"…………"
],
[
"私のことなら、かまはないわ。文なしになつたつて、私は、平気よ",
"馬鹿"
],
[
"パパが下手くそな洒落を言ふから、もう、鶯も、啼いてくれない",
"アッハッハ。鶯も、啼かしやんせぬかい"
],
[
"なんだい。え? バスが来たのぢやないのか",
"いゝえ。この寒さに居眠りして、風をひくぢやありませんか。志田さんの御家族は、幾人。お子さんが、四人、五人?",
"さて。志田さんの子供は、と。五人ぐらゐだらう。それが、どうした"
],
[
"言つてごらん! 誰ですか。あなたの好きな人は!",
"ハヽヽヽヽ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「現代文学 第四巻第七号」大観堂
1941(昭和16)年8月28日発行
初出:「現代文学 第四巻第七号」大観堂
1941(昭和16)年8月28日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045862",
"作品名": "波子",
"作品名読み": "なみこ",
"ソート用読み": "なみこ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「現代文学 第四巻第七号」大観堂、1941(昭和16)年8月28日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-11-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 03",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年3月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "現代文学 第四巻第七号",
"底本の親本出版社名1": "大観堂",
"底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年8月28日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45862_ruby_33223.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2008-10-15T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45862_33235.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-10-15T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"通りがかりに、警察へ訴えますよという声をきいて、思わずとびこんだんですが、自分が何かお役に立つことがあるでしょうか",
"いえ、なんでもないんです。内輪の人に、親しまぎれに、冗談云ったんですのよ",
"そうですか。自分の耳には冗談のようには聞えませんでしたが……"
],
[
"室内へあげたんなら、怪しい来客じゃないんじゃないの?",
"そうかも知れんな。しかし、やりかけたことだから、様子を見届けよう"
],
[
"あっちの方角へ行くんなら、歩いて行けるところに住居があるのだな。突きとめてやろう",
"ええ、そうしましょう"
],
[
"さとられたかも知れないな。しかし、奴らも電車を利用せずにこれだけ歩くというのはクサいぞ。奴らは急に二手に分れて走りだすかも知れないから、そのときはボストンバッグの奴の方を執念深く追うことにしよう",
"ピストル持ってきた?",
"持ってる"
],
[
"なんですか? 怪しい者じゃないですよ",
"ボストンバッグはどうした?",
"そんなもの持ってやしません"
],
[
"その犬をつないでくれませんか",
"ええ、いま、つなぎますよ",
"ずッと放しておいたんですか",
"ええ、そう。日が暮れると、毎晩放しておくんですよ",
"すると、奴さん、やられてるな"
],
[
"犯人の顔を見たのはお父さんだけですから、すぐ来て下さいッて",
"あの二人が犯人ときまってるのか",
"確証があるらしいわ。ほかに、いろいろ重大なことが判ったらしいの。殺された奈々子は意外の大物らしいんですって。暗黒街の謎の女親分ミス南京",
"本当か"
],
[
"すると比留目奈々子がミス南京だったのか。なるほど、死顔ですらも、思わず身ぶるいが走って抱きつきたくなるような美人だねえ",
"香港から飛行機で送られてくるカンヅメのうち約三分の一が本物の果汁で、他の三分の二が南京虫というわけか",
"犯人がボストンバッグをぶらさげてきた謎が、それで解けるわけだな"
],
[
"自分が思わず立ち止ったとき、奈々子の叫んだ言葉というのは、こうなんです。小包……そんなもの知らないわよ……脅迫するのね。――ざッとこんな意味でしたよ",
"つまり犯人が南京虫の到着を知って取りに来たから、そんな小包はまだ来ていないとゴマカしたのだろう。それがそもそも奈々子の殺された原因さ"
],
[
"この男なら、奈々子のもとに出入りするのを三四度見かけました",
"相棒が一しょでしたね",
"いえ、私の見たのは、いつもこの男一人だけです",
"どういう用件で出入りしていたのですか",
"実はそれが判ったために、次第に奈々子と別れる気持になったのですが、この男は奈々子にモヒを売りこみに来ていたのです。モヒが命の綱ですから、奈々子はこの男なしには生きられない状態だったと云えましょう",
"すると、情夫ですね",
"いいえ。すくなくとも私が旦那のうちは、この男が情夫であった様子はありません。この男なしには奈々子が生きられなかったという意味は、モルヒネが奈々子の命の綱だったという意味なんです。そして私の知る限りでは、二人の関係は純粋な商取引だけのようでした",
"奈々子さんの生活費はどれぐらいかかりましたか",
"私が与えていた定額は毎月五万円、それに何やかやで七八万になったかも知れませんが、奈々子はモヒの費用のために女中も節約していたほどで、いつもピイピイしていましたね"
],
[
"オレのカンが当ったという自信もないなア。何か変だと思うことがあるだけで、何が変だか分らない始末なのだからなア",
"何が変だか、私が云ってみましょうか",
"ウム",
"陳氏の邸内へとびこんだ犯人がなぜ猛犬に襲われなかったかという謎よ。私、陳家のドーベルマンとシェパードのことを調べてみたのよ。警察犬訓練所で一年以上も訓練された飛びきり優秀犬なのよ。そのほか、室内にはボストンテリヤと、ボクサーという小型の猛犬も飼われてるのよ。知らない人はあの邸内に一歩ふみこむこともできないような怖しいところなのよ",
"庭が広いから、一隅で起ったことには、他の一隅にいる犬は気がつくまいよ",
"あるいは、そんなことかも知れないけど……"
],
[
"先夜、この邸内へ逃げこんで行方不明になったある事件の容疑者のことで、助言していただけたらとお伺いしたんですけど、御主人に会わせていただきたいのですが",
"御主人は商用で台湾へ御流行中さ",
"代理のお方は?",
"お嬢さまがいらっしゃるけど、会って下さるかどうか",
"ほかに御家族はいらっしゃらないんですか",
"奥さまも居ないし、男の御子様もいないよ。オスは今のところ犬だけさ",
"お嬢さまにぜひ会って下さるようにお願いしてちょうだいな",
"巡査なんていけ好かないが、まア、女だから、取り次いでやろう"
],
[
"日本語で仰有い。私、日本人と同じぐらい日本語が上手よ。日本で育ったから。あなた、本当に、女のお巡りさん?",
"ええ、そうです",
"まア、可愛いいお巡りさんだこと。男の犯人をつかまえたことあって?",
"いいえ、まだですけど",
"猛犬がうろついてる中国人の邸内へ一人でくるの心配だったでしょう",
"ええ。ですから、お嬢さまにお目にかかって、目がくらんでしまったのですわ",
"お上手ねえ。お答えできる範囲のことはなんでも答えてあげますから、用件を仰有って",
"先夜、この邸内へ逃げこんだまま行方が消えてしまった容疑者のことなんですけど、そのとき庭に放されていたはずのドーベルマンとシェパードが闖入者を見逃した理由が分らないのです"
],
[
"それは本当にフシギなことね。ですけど、知らない人たちが空想するほど、犬は利巧でもなく、鋭敏でもないらしいのね。これは飼い主の感想です",
"御当家へ出入りの男でしたら、犬は闖入者を見逃すでしょうか",
"特別犬と親しければ、ね。ですけど、犬が見逃すほど親しい男といっては、たぶん父のほかにいないでしょうね",
"お父さまはいま日本にいらッしゃらないのでしょう?",
"そう。もう半年もずッと台湾へ行ってるのです。ですが、乱世のことですから、国際人はたいがい神出鬼没らしいわね。ひょッとすると、私の知らないうちに、日本に戻っているのかも知れないわ。もしも父がその闖入者なら、年齢は六十ぐらい、銀髪で五尺五寸ぐらいの優さ男です",
"容疑者の年齢は三十ぐらい、身長は五尺三寸以下ぐらいという話なのです",
"それじゃ、父じゃないわ。身長はとにかく、年齢はいつわれないでしょうから",
"あの晩誰かが邸内に闖入した気配をお気づきになりませんでしたか",
"あなた方が庭を探しまわるまで、特に気づいたことはなかったようです。読書にふけっていましたから",
"私たちが立ち去った後は?",
"さア。それも、ありませんね"
],
[
"たとえ本当にそうだとしても、そうですなんて、誰だって言う筈ないわよ。あなたッたら、まア、どうしてにわかに大胆不敵な質問をなさッたの?",
"それは、その、さッき仰有ったことのせいです。乱世だから、国際人は神出鬼没だって",
"敏感ね、日本の婦警さんは",
"じゃア、やっぱり、そうですか。アラ、ごめんなさい",
"あやまることないわよ。この乱世に他国へ稼ぎに来ている国際人は、どうせそれしか商売がないでしょうね。ですから、あなたのカンは正しいかも知れないけど、密輸品にもピンからキリまであるのです。政府や他の勢力がひそかにそれを奨励しているような密輸だって、あるかも知れないのよ",
"すみません",
"いいのよ。それで、もしも父がそうなら、それから、どうなの?",
"もう、いいんです"
],
[
"また変なことお訊きに伺うかも知れませんけど、会って下さいますか",
"ええ、ええ。何度でも、いらッしゃい。お勤めの御用の時に限らずに、ね",
"ありがとう"
],
[
"心配だから、そッと様子をうかがっていたのさ。首尾はどうだい?",
"ウチへ帰って話すわ"
],
[
"女はそういうものかなア",
"なアぜ?",
"お前のようなシッカリ者でも、ボオーッとなると、そんなになるのかということさ。だってなア。お前はえらい決心で出かけたはずじゃないか。なぜ猛犬が闖入者を襲わなかったかという素敵な疑問から出発してさ",
"素敵な疑問だなんて、お父さんたら、からかってるのね。犬の位置の反対側へ闖入者がとび降りた場合、広い邸内だから、犬も気がつかないだろうッて言ったくせに",
"そうは云ったさ。しかし、そのあとで気がついたのだ。どうやら、お前の疑問は一番急所に近づいているんじゃないかということにね",
"むしろ一番急所を外れていたのよ。あんまり尤もらしいのは、偶然という大事な現実を忘れさせる怖れがあるわ"
],
[
"オレはお前の身が心配で、お前が陳の邸から出てくるまでというもの、この事件のためではなしに、お前の身のために、この事件について考えた。そのために、今まで捉われていて気づかなかった怖しいことに気がついたのさ。お前の話をきいてから、いよいよその確信が深くなった。さ、おいで。オレの確信をたしかめるのだ",
"どこへ行くのです",
"安心おしよ。陳の邸じゃない。警察へ行くのだ。そして、お前に見せたいものがあるのだよ"
],
[
"ここに五十五個の南京虫がある。五十四は奈々子の家からでてきたが、一ツは陳の邸内の犯人がとび降りた地点で拾ったものだ。どれがそれか判るかね",
"判るわ。腕輪のついてるのがそれよ",
"そうだ"
],
[
"特に気のつくことって、なさそうじゃないの",
"では、次に、これだ"
],
[
"そうねえ。時計屋さんはフシギがったでしょうね",
"お前はフシギじゃないのか",
"だって、彼女は持たないから買ったんでしょうね",
"当り前さ。その腕輪は、ホレ、南京虫と一しょに、注射をうった奈々子の左腕に巻かれているじゃないか",
"そうね",
"すると、こッちの南京虫は?"
],
[
"だから、お父さんは、どうだって云うのよ",
"意地をはるのは、よせ"
],
[
"警官らしい態度じゃないぞ。だから、言うまでもなく――お前、ちゃんと知ってるじゃないか。陳の庭内へ逃げこんだのは、男装した女だったに相違ない。犯人が落したのは、盗んだ南京虫ではなく、彼女自身の所持品、彼女の腕につけていた南京虫だったのだ。奈々子の腕には彼女の南京虫がチャンとまかれていたのだから、それ以外には考えられないじゃないか",
"大金持の令嬢が、人を殺して物を盗る必要はないじゃないの",
"オレも、それを考えたのだ。しかし、お前が、それほど陳の令嬢の美貌に眩惑されてしまったから、オレは新しいヒントを得たのだ。ミス南京は絶世の美女だというではないか。どうだ。それで、いくらか、分りかけてきやしないか",
"分りかけてきやしないわ",
"よし、よし。今に、わかる。とにかく、あの邸内へ逃げこんだ男の顔はオレだけが見ているのだからな。いかに黒ずんだドーランをぬたくり眼鏡をかけていても、オレが首実検すれば判ることだ"
],
[
"じゃア、本当にそうでしたの?",
"あら、ちゃんと知ってるから駈けつけて下さったくせに。ミス南京はたしかに私です。そして、奈々子さんを殺した共犯者もたしかに私です。私の父は台湾ではなく香港に居ります。そして、南京虫と麻薬を日本へ輸送していたのです。だんだん密輸ルートが見破られて面倒になったので、新しい方法を考えました。それは麻薬患者を探しだして、麻薬を餌に、密輸の荷物の仮の受取人に仕立てることです。奈々子さんはその受取人の一人だったのです。ところが、あの日、ひそかに荷物をあけて内容を知り、慾に目がくらんで荷物の到着を否定したのです。そのうち麻薬がきれかけて、私の同行者が、時々奈々子さんにそうしてあげたように注射してあげたのですが、彼は奈々子さんの変心によって、新しい密輸ルートの発覚を怖れるあまり、奈々子さんが無自覚のうちに多量の注射をうって殺してしまったのです"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 13」筑摩書房
1999(平成11)年2月20日初版第1刷発行
底本の親本:「キング 第二九巻第五号」
1953(昭和28)年4月1日発行
初出:「キング 第二九巻第五号」
1953(昭和28)年4月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2010年5月19日作成
2011年5月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045938",
"作品名": "南京虫殺人事件",
"作品名読み": "なんきんむしさつじんじけん",
"ソート用読み": "なんきんむしさつしんしけん",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「キング 第二九巻第五号」1953(昭和28)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-06-07T00:00:00",
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"校正に使用した版1": "1999(平成11)年2月20日初版第1刷",
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[
[
"突然の失礼をお許し下さい。読書をさまたげて残念です。しかしボクはアナタを愛していました。そしてボクは突然こうするほかに方法を知らないような男ですから、悪く思わないで下さい",
"痛いわ。よして"
],
[
"キミはこのへんで本と眼鏡に袂別すべきじゃないか。キミの一生にとって、それはどうせ一時期のものにすぎないのじゃないか",
"そんなこと、どうして云えるのよ",
"待ちたまえ。キミ、コンパクト、持ってるね。貸してみたまえ"
],
[
"これがキミの可愛いそして本当の素顔だよ。ね。眼鏡は余計ものなんだ。もう、この眼鏡はかけない方がいいと思うんだ",
"眼鏡だってアクセサリーの一ツだわ",
"キミには有害無益のアクセサリーだよ",
"趣味の問題よ",
"そう。しかし、キミの悪趣味だ",
"本当に、そう思う?"
],
[
"アナタのような悪人、はじめてよ",
"人生を割りきってるだけのことなんだ",
"割りきれる? 人生が?",
"割りきるべきだよ。キミにも割りきることをすすめるね。で、キミの御返事は?",
"強引すぎるわ。私、混乱してるの。あしたここで御返事するわ。いまの時刻に"
],
[
"卒業試験も近づいたし、就職試験の結果はまずいし、とても毎日がつらいんだ",
"アナタなんか、二三年落第した方がいいわよ。学校を卒業してみたって、おぼつかないわよ"
],
[
"変に卑屈だわね。全然三下って感じ。どこにも取柄がないみたいよ",
"つまり、たしかに、三下なんだ",
"赤くなっちゃったじゃないの。いくらか羞しいの? 怒ったの? どッち?",
"習慣的にすぎないです",
"こまった人ね。でも、いいわ。私、三下って、わりと好きなのよ",
"親分は?"
],
[
"アナタは二三年落第した方がいいのよ。学生にはアルバイトってこともあるし、人目も寛大だけど、卒業するとそうはいかないわよ",
"どうせ卒業できないよ",
"そう思うからダメなのよ。こう考えるのよ。永遠の大学生。ステキじゃない",
"永遠の三下と同じ意味だね",
"よく知ってるわね。悪い方、悪い方へ智恵がまわりすぎるのね。人生は表現の問題だわ。明るく生きよ。詩に生きよ",
"永遠の大学生が詩なんだね",
"詩的表現。永遠の三下が現実かも知れないけど、気の持ちようでどうにでもなるもんよ",
"ボクは、しかし、学校を卒業して、就職できて、キミと結婚したいんだ。それが偽らぬボクの気持だけど……",
"はやまるのは身の破滅よ",
"はやまるわけじゃないよ。すでに学校を卒業して就職する時期に来てるんだもの",
"だって、落第するでしょう",
"しないかも知れないよ",
"就職できないでしょう",
"だから、あせっているのさ",
"ムダだわね。私はアナタが学生だから恋したのかも知れないわよ",
"それはキミの本心かい",
"本心て、なにさ",
"ボクを永遠の大学生にしたいのかなア",
"そうよ。それが好きなのよ。でもね。来年もいまの気持とは限らないでしょ。だから、本心って言葉は無理みたいね。いまの心。いまだけよ"
],
[
"ボクのケダモノの手について、お詫びしておきたかったのです。たぶん、お目にかかるのはこれが最後でしょうから、この機会を逃すと、ボクは一生、ケダモノの手に苦しまなければならないのです",
"ケダモノの手?",
"そうです。それがボクの表現です。いえ、ボクの実感なんです。そのために苦しんでいます。その苦しみはいまアナタにお詫びして許していただくことができても消えないかも知れませんが、この機会にお詫びせずにいられなかったのです。ボクはアナタの手を握ったことで苦しんでいます。そのボクの手が毛だらけのケダモノの手に見えるのです。これほど絶望的なことはありません"
],
[
"いつから、そう見えるんですか",
"アナタの手を握った翌日か、翌々日ぐらいからです。ボクは翌日約束の場所――いえ、アナタがケダモノをだますために仰有ったのですが、ボクはその場所へ行きましてアナタの姿が見えないので、それで次第に自分がケダモノにすぎないということに気がついたのですが、しかし、ボクは誰に対しても再びあのような失礼は犯さないつもりです。しかし、アナタの手を握ったケダモノの手はあの時以来、また永遠に消えないのです。こうして、お詫びしても消えないかも知れません",
"目に見えるのですか",
"まさか。ボクは狂人ではないのです。幻視ではありませんよ。ただ思いだすと、すくむのです。絶望するのです",
"狂人ではないと思いこんでいますか",
"むろん、そうです。ボクは平凡な、むしろ無能者にちかい平凡人です。もう悪いことすらできないような無能者なんです。ですから、せめて罪のお詫びだけしておきたかったのです",
"ずいぶん汗がでてますね。駈けたんですか",
"いえ。お詫びしたいために、こんな風に汗がでてくるのです。つまり、それほど、ケダモノの手に苦しんでいるのでしょうね"
],
[
"アナタの手はケダモノの手じゃなかったわ。とても立派な男の手だったのよ。だから私、手クビの痛いのが、とてもうれしかったわ。あくる朝、目がさめてからも、まだ痛いでしょう。うれしかったのよ。うっとりと、手の痛みを味わったのよ",
"許して下さるんですね",
"むろんですとも。もともと怒っていないのですもの。うっとりさせて下さったのですもの、感謝こそすれ、怒るはずないでしょう",
"慰めて下さって、うれしいです",
"アナタ、もっと強く生きなければダメよ。クヨクヨと思いめぐらしたって、人生はひらかれないわ。叩けよ、開かれん、というでしょう。その叩く手がケダモノの手のはずないでしょうね。叩く手は乱暴よ。人生をひらくんですもの。でもケダモノの手じゃないわ、立派な手よ。人間の立派な手",
"御教訓、身にしみます",
"もう本当にお別れね。お身体、御大事になさいね。もうみんな済んだことですから気軽に云えるけど、私あの日、約束の時刻にお待ちしてたのよ。眼鏡を外してアナタをお待ちしてたのよ。アナタの遅れたのがいけないのだわ。縁がなかったのね、でも、それがよかったのよ。もう、みんな、すんだことですもの。もう取り返せないことよ。でもね。手クビの痛さ、忘れないわ。御大事にね"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「別冊小説新潮 第八巻第六号」
1954(昭和29)年4月15日発行
初出:「別冊小説新潮 第八巻第六号」
1954(昭和29)年4月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042966",
"作品名": "握った手",
"作品名読み": "にぎったて",
"ソート用読み": "にきつたて",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「別冊小説新潮 第八巻第六号」1954(昭和29)年4月15日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2009-05-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓読み": "さかぐち",
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"姓ローマ字": "Sakaguchi",
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"底本名1": "坂口安吾全集 14",
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"底本初版発行年1": "1999(平成11)年6月20日",
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[
[
"長野は貴方、貴方が買つてきた素晴らしいゲテ物の、びん、びん……",
"さうです、貧乏徳利でせう。あれは長野でみつけたのです。あの貧乏徳利は長野近在にたくさんころがつてゐるのですよ。僕のみつけたのは桜枝町の古道具屋ですが、善光寺裏の凡そ薄暗い汚い町でしたよ",
"おお善光寺裏!……私は、そこへ行きたかつたのです。あの貧乏徳利は自然人の栄光ある芸術ですよ。ただ専すらに生活が唄つた詩ですよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第一三年第八号」
1935(昭和10)年8月1日発行
初出:「文藝春秋 第一三年第八号」
1935(昭和10)年8月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月30日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045835",
"作品名": "逃げたい心",
"作品名読み": "にげたいこころ",
"ソート用読み": "にけたいこころ",
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"初出": "「文藝春秋 第一三年第八号」1935(昭和10)年8月1日",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-07-08T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
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"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 01",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "文藝春秋 第一三年第八号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1935(昭和10)年8月1日",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"校正に使用した版2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "伊藤時也",
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"テキストファイル最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"お前はもう帰れ!",
"しかし、だつて、先生はうまく歩けないぢやありませんか――",
"帰らんと、落第させるぞ!",
"それあ、ひどい!",
"こいつ――"
],
[
"坂口アンゴウは落第ぢやアよ! わしの辞職に賭けても教授会議で主張するからエエのだアよ! 断じて落第に決つとるウよ! 生涯お前は学生ぢやアよ!",
"そ、それあ、実に横暴だ!",
"こいつ――"
],
[
"セ、センセーイ。しつかりなさい!",
"ZZZZ……",
"セ、センセーイ。しつかりなさい!",
"ZZZZ……ウ、こいつ!"
],
[
"オ、オレを誘惑した蒼白き妖精ぢやアよ! ア、アンゴウが現れとるウよお! 愛するミミ子よ――う。こいつを殺してお呉れえ、よお――う",
"ワアッ!"
],
[
"ダ、ダ、誰が暗殺されたんだア! 又又、ド、何処のお嬢さんが君をそんなにも失恋させて了つたのか!",
"君が最近出席しないために事務所はひどく憤慨してゐるぞ! 僕に代りを勤めろと催促してきかんから、僕は実に迷惑してゐる!",
"ウウウ、それは大いに同情するが、何分僕は斯んなにも煩悶してゐるのだから、もう暫く勘弁してくれ――",
"ソクラテスの故事を知らんか! はた又、広瀬中佐の美談を知らんとは言はさんぞ。国家のためには一命を犠牲にしたではないか。それ故銅像にもなつとる。尊公がクラスへ出んといふ法はない――",
"ムニャ〳〵〳〵〳〵"
],
[
"なに故に永い間休みおつたアか!",
"実は途方もない神経衰弱に苦しめられて煩悶してゐたものですから、つひ……"
],
[
"ワシも長いこと神経衰弱に悩んどるウよ",
"ア、ア。そ、そうでしたか――",
"キミは睡眠がとれるかアね?",
"駄目です! ああ、駄目々々! 実に悲惨なものです。毎夜々々ふやけた白い夜ばかりなんですが! ああ!",
"ワ、ワシも、ワシも、ワシも悲惨――う、ぶるぶるぶるう――ワ、ワシもワシも白い夜ぢやアよ!"
],
[
"博士はもう今日は一滴も呑んではいけませんの――ね、約束しませうよ。博士は三文詩人や落第生みたいな手のつけられない呑んだくれぢやありませんわね……",
"ワ、ワシは手のつけられない呑んだくれぢやアよ"
],
[
"およしなさい! それこそ動けなくなつてしまふわ。奥さんに叱られますよ!",
"ウー、違わあい! それは、嘘ぢやあよ"
],
[
"お、おれの魂がなくなつたあ! お、俺の魂を探して呉れえ! わあわあ悲しい……",
"お、俺の魂を貸してやるから心配するな!"
],
[
"お、俺の魂がなくなつたあ!",
"心配するな! お、俺のを貸してやる!",
"お、俺の魂を貸してやる!",
"お、俺のを……",
"お、俺のを……"
],
[
"シ、心配するな! オ、俺の魂を貸してやる!……",
"アラ変だわよ、お父さんの魂なんて……",
"バ、バカぬかせ!"
],
[
"デ、デ、デキタ!――",
"ワッ!"
],
[
"おお、星の星、樹の樹、空の空!",
"お止しなさい! そして貴方なんか森の奥底へ消えてしまふといいんだわ。あたしは貴方のやうなネヂけた人の魂なんか欲しくありませんからね……",
"ナ、なぜだ?",
"貴方は可哀さうな博士を虐めてばかりゐるぢやありませんか! ごらんなさい! 博士のお身は傷だらけよ。可哀さうな、お気の毒な博士! どんなに苦しんでいらつしやることでせう! ねえ、皆さん。それはみんなアンゴが悪いのですよ――",
"ウ、嘘をつけ! それあ博士のオクサンが少しばかり腕つぷしが強すぎるんだい! オ、俺なんぞの知つたことぢやアないんだぞ!",
"お黙りなさい! あんたが博士を庇つてあげないのが悪いのよ! おほかた不勉強で落第しさうだから、博士のオクサマにおべつか使つて通信簿の点数をゴマカして貰ほうつて言ふんでしよ",
"ウ、嘘だい! こう見えても俺なんざ、秀才の秀才――",
"ウ、うそつき!"
],
[
"しつかりなさい! 博士、ハカセッたら。いいわ、いいわ、博士、きつと仕返しをなさるといいわ。アンゴを落第させちまひなさいよ。ねえ、ねえ、ねえ……",
"さうだ、さうだ、全くだ! あいつを落第させちまへ!",
"チ、畜生! 分つたぞ! 君達はみんな実に卑怯千万だぞ! つまり君達はみんな日頃細君にやつつけられてゐるものだから不当にも博士に同情して僕ばかり憎むものに相違ない。君達は君達の卑劣な鬱憤を何の咎めらるべき筋もない僕によつて晴さうといふのだ。しかも此の気の毒な神経衰弱病者である僕の運命を、君達の卑劣な満足によつて更に救ひ難い悩みへまで推し進めやうとしてゐる。ことに又クララの如きチンピラ娘にあつては実に単なるヒステリイの発作によるセンチメンタリズムによつて僕を憎悪するもので、その軽卒な雷同性たるや実に憎んでもあきたりない!",
"黙れ〳〵〳〵〳〵――"
],
[
"ク、クララよ、おお、星の星の流星――森の樹樹樹、うう、タ、魂、魂々々、おお用意せられたる、タ、タマシヒ……ぢやアよ!",
"まあ嬉しい! あたしどんなに博士の気高い魂を頂きたいと思つてゐたことか知れませんわ! ほんとうに、こんな嬉しい日があたしの思ひ出の中にあつたでせうかしら……",
"タタタタ、魂を……"
],
[
"あたしの夫を返しなさい!",
"ニ、ニヂ博士ですか? ボ、僕が誘惑したわけでは決して……それは、つまり、たまたま毒薬を調合したところの医学博士――",
"言訳をなさると打ちますよ。すぐに博士を連れ戻していらつしやい!",
"僕は、しかし、酒場の娘と喧嘩しちやつたものですから、どうも何だか行きにくいな。それに、第一無駄なんですよ。今のところ博士はすつかりグデグデ酔ひつぶれて、おお、星の星のクララ……",
"そんなことはありません!",
"いいえ、さうです! 第一――",
"いいえ、そんなことはありません!",
"いいえ、さうですとも! 第一それは奥さんもとても美くしい方だけど、酒場のクララと来たひには、それはそれは美――ワアッ! いけねえ!"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第二巻第一〇号」
1931(昭和6)年10月1日発行
初出:「作品 第二巻第一〇号」
1931(昭和6)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
※表題は底本では、「霓《ニジ》博士の廃頽」となっています。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045798",
"作品名": "霓博士の廃頽",
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"初出": "「作品 第二巻第一〇号」1931(昭和6)年10月1日",
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} |
[
[
"どうした? 顔色が悪いな。胃病か女か借金か?",
"数々の煩悶が胸にあつてね、黙つてゐると胸につかへて自殺の発作にかられるのだ。誰かをつかまへて喋りまくらうと思つてゐたが、君に出会つたのは、けだし天祐だな",
"いやなことになつたな",
"十日前の話だが、役所からの帰るさ図らずも霊感の宿るところとなつて、高遠なアナクレオン的冥想の訪れを受け法悦に浸りながら家路を辿つたと思ひたまへ",
"ウム",
"御承知の通り一ヶ月ほど前に先の住所から二三町離れたばかりの今の家へ移つたのだが、高遠な冥想に全霊を傾けてゐるから気がつかない。足は数年間歩き馴れたとほり、極めて自然に昔の住所へ辿りついてゐたんだね。ガラリと戸をあける、上り框へ腰を下して悠々と靴の紐を解いてゐると、背中の方に電燈がついて、どなた? といふ若い娘の声がした――",
"なるほど。そこで娘に惚れたのか。いやな惚れ方をする奴だな",
"先廻りをしてはこまる。聞き覚えのない声にハッと気付いて振向いたが、振向くまでもなくハッと我に帰つた瞬間には、日頃頭の訓練が行き届いてゐるせゐか、さては何か間違ひをやらかしたなといふことがチャンと分つてゐたよ。然しどういふ種類の間違ひをやらかしたかといふことになると、暫く娘の顔を眺めてゐたり、家の具合を観察したり、前後の事情を思ひ出したりしないうちは見当がつかなかつたね。そのうちに事の次第が漸次呑みこめてくると、流石に慌てるやうな無残な振舞ひはしない。騎士道の礼をつくして物静かに事の次第を説明すると風の如くに退出したが、さて我が家へ帰つておもむろに気がつくと、重大な忘れ物をしたことが分つた",
"重大だな。狙ひの一言を言ひ落したといふ奴だらう。名刺でも忘れてくるとよかつたな",
"人聞きの悪いことを言はないでくれ。役所でやりかけの仕事を入れた鞄を忘れてきたのだ",
"そいつは有望な忘れ物だ。それから――",
"取つて来ようと一旦街へでたが、てれくさくて気が進まない。ぶら〳〵してゐるうちに真夜中近くなつた。今更訪れるわけにもいかないし、翌朝だしぬけにおびやかすのも気がひけるから、あれかれと考へたあげく、最も公明正大な方法をもつて堂々と乗りこむことにきめたよ。何月何日何時に鞄を受取りに参上するといふ外交文書に匹敵する正義勇気仁儀をつくした明文をしたためて、翌朝出勤の途次投函したのだ",
"うむ。そこまでは兵法にかなつてをる",
"さて約束の当日がきて、役所の帰りにそこへ寄る予定になつてゐたので、まづ勇気をつけるためかねて行きつけのおでん屋へ立ち寄つた。と、穏やかならぬ発見をしたが、なんだと思ふ?",
"よくある奴だ。てつきり不良少女だよ。娘が男と酒でも呑んでゐたのだらう",
"さうぢやない。鞄がその店にあつたんだ。考へてみると、例の一件の起つた日も、そこで一杯かたむけてゐたのだ。正式の外交文書を発送したあとだから、俺も見るからに歎いたよ。然し打ち悄れてもゐられないから気をとり直して酒を呑むと忽ち満身に力が沸いてきた。早速家へ帰ると始終の仔細をしたためた公明正大な文書を書き上げたのだ。いつ会はないとも限らない近所のことだ、まさかにほつたらかしておくわけにも行かないぢやないか",
"明らかに悪手だな。兵書の説かざるところだよ。婆羅門の秘巻にも(手紙は一度二度目は殿御がお直々)といふ明文が見えてをる",
"すると昨日返事がきたよ。言ひ忘れたがその家は女名前の主人なんだね。ところが手紙は男の手で、書いてあることが癪にさわるね。その内容をかいつまんで言ふと、娘に惚れるのはそちらの心の勝手だが、あんまり遠まはしに奇妙な策略をめぐらしてくれるなといふのだ。そもそもの始まりから他人の家へ無断でのこ〳〵這入りこんでくるなんて、策の斬新奇抜なところは大いに買ふが、安寧秩序をみだし良良なる風俗を害ふ底の人騒がせは許しがたい悪徳であるなぞと途方もないことが書いてあつたよ。文章の様子から見て若い書生の筆らしいが、女名前の主人といひ、その家はてつきり素人下宿と思はれるのだ。してみると愈々てれくさい話になるわけで、なんとかして敵の蒙を啓き身の潔白を立てる方策を講じないことには、うかうかあの界隈を散歩もできない窮地にたちいたつた次第だが、そこで俺は手紙を書いた",
"またか!",
"万事偶然の働いた悪戯で、何等策略もなく第一お前の家のチンピラ娘に惚れるやうな浅慮はしないと一々証拠を列挙して書いたのだが、然しこちらを甜めてかかつた相手に向つて正面から、返答するのも気の利かない話だから、目下頻りに考へ中でまだ手紙は投函しないのだ。君にこれといふ名案はないか?",
"さればさ。正直に兜を脱ぐのが第一だな",
"兜をぬぐとはどうすることだ?",
"改めて、そちらの令嬢に惚れてゐるが貴意如何、と言つてやるんだな",
"莫迦も休み〳〵言つてくれ。惚れてゐるならこんな苦労はしないさ",
"いやさ。万事が惚れたやうに出来てゐる、さういふ時は惚れた気持になることだよ。やれやれ。勿体ない。そまつにするな"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「若草 第一一巻第一〇号」
1935(昭和10)年10月1日発行
初出:「若草 第一一巻第一〇号」
1935(昭和10)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年4月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045839",
"作品名": "西東",
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"ソート用読み": "にしひかし",
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"名読み": "あんご",
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"底本出版社名1": "筑摩書房",
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"底本の親本名1": "若草 第一一巻第一〇号",
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[
[
"あるよ",
"お子さんは",
"一人だけ",
"あなたの奥さんは、とても美人よ。私、わかるわ。ツンとした、とても凄い美人なのよ",
"どうして、分る"
],
[
"ねえ、まだ、東京へ帰るのは厭だな。もう一週間ばかり、つきあわない。私、このへんの酒場で女給になって、稼ぐから",
"チップで宿銭が払えるものか"
]
] | 底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年11月14日第1刷発行
2013(平成25)年1月25日第3刷発行
底本の親本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
初出:「新潮 第四四巻第三号」
1947(昭和22)年3月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:酒井裕二
2015年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056803",
"作品名": "二十七歳",
"作品名読み": "にじゅうしちさい",
"ソート用読み": "にしゆうしちさい",
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"初出": "「新潮 第四四巻第三号」1947(昭和22)年3月1日",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年11月14日 ",
"入力に使用した版1": "2013(平成25)年1月25日第3刷",
"校正に使用した版1": "2013(平成25)年1月25日第3刷",
"底本の親本名1": "坂口安吾全集 05",
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[
[
"あるよ",
"お子さんは",
"一人だけ",
"あなたの奥さんは、とても美人よ。私、わかるわ。ツンとした、とても凄い美人なのよ",
"どうして、分る"
],
[
"ねえ、まだ、東京へ帰るのは厭だな。もう一週間ばかり、つきあはない。私、このへんの酒場で女給になつて、稼ぐから",
"チップで宿銭が払へるものか"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四四巻第三号」
1947(昭和22)年3月1日発行
初出:「新潮 第四四巻第三号」
1947(昭和22)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
2015年8月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042847",
"作品名": "二十七歳",
"作品名読み": "にじゅうしちさい",
"ソート用読み": "にしゆうしちさい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新潮 第四四巻第三号」1947(昭和22)年3月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-06-27T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-15T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42847.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 05",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年6月20日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年6月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年6月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "新潮 第四四巻第三号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1947(昭和22)年3月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "深津辰男・美智子",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42847_ruby_34827.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2015-08-29T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"君、麻薬中毒なんだろう",
"違います。催眠薬の中毒はありましたが、麻薬中毒ではありません",
"おんなじじゃないか"
],
[
"ナルコポンというのは麻薬です。太宰がはじめて中毒の時も、パントポンとナルコポンの中毒だったそうです。僕の病院では重症者の病室がないので、兇暴患者が現われると、ナルコポンで眠らせて松沢へ送るそうです。これはモヒ系統の麻薬です。僕の過飲した睡眠薬は、市販の、どこにもここにもあるというヘンテツもないシロモノです",
"へえ、じゃア、睡眠薬と麻薬は違うの?"
],
[
"いつもお世話になりまして、お礼もできませんで、これは私の寸志でございます。先生もさだめしお苦しいことだろうと拝察致しまして、私もマア、ちょッと、顔がきくようになりましたもんで、どうやら手に入れて参りました",
"なんですか"
],
[
"なんだい? ヒロポンかい?",
"ど、どう致しまして。あれです。先生がお用いになっていた例の、麻薬"
],
[
"麻薬って、君、モヒのことかい",
"そうです。イエス。エッヘッヘ"
],
[
"私自身は、これを用いておりませんが、よく知っているんでございます。中毒して入院する。入院中もぬけだして、ちょッと、用いにおいでになるもんですなア。骨身をけずられるようだてえ話を、マア、私もチョイ〳〵耳にしておりますんで、先生なんざ、愚連隊というものじゃなし、仲間のレンラクもなく、お困りだろうと、エッヘッヘ。そうなんでございます。この精神病院なぞと申しまして、鉄の格子に、扉に錠など物々しくやっておりますが、私共の方では、お茶の子なんでございます。みんなレンラクがありまして、ワケのないことでござんすよ。鉄格子から注射器と薬を差入れてやりゃ、なんのこともありませんや。愚連隊の中毒患者は、病院の中でいかにも神妙に、みんな用いておりますんで。エッヘッヘ。文明でござんす",
"へえ。文明なもんだねえ"
],
[
"君ちゃんは、もう、いません、お風呂へ行った筈ですから、今日はもう来ませんわ",
"どこかへ行けば、会える場所があるんですか",
"それは、お店よ",
"お店?",
"御存知ないんですか。カフェー・ゴンドラと云いましてね、そこの露路の中程にあります。もう、出たころでしょう。でも、まだかも知れないわ"
],
[
"この店に王子君五郎という人がいるときいたんですが、もしや、常連にそういう人がおりませんか",
"君ちゃんでしょう。えゝ、おります"
],
[
"今宵は、ひとつ、ぜひ御案内致したいところがありますんで、エッヘッヘ。いぶせき所ですが、私がお伴致しております限り、先生にインネンを吹っかける奴もありません。その点は御安心を願いまして、人生の下の下なるところを、御見学願います",
"麻薬宿じゃないの。そんなの見ても仕方がないよ",
"どう致しまして。国法にふれる場所じゃアありませんや。エッヘッヘ。先生もいやに麻薬恐怖症ですな。ちょッと、お待ちなすって"
],
[
"ここは君の内職にやってる店と違うのかい",
"どう致しまして。私なんかゞ、何百年稼いだって、こんな店がもてるものですか。ここは、マア、なんと申しますか、ここの主人も先のことは、目下見当がつかないのでしょう。今に料飲再開になる、その折は、という考えもあるでしょうし、何か考えているんでしょうが、今のところは、たゞの旅館、それも、パンパン宿ではないのです。だから、客もありませず、三四、知ってる者が利用する以外は、閑静なもんです"
],
[
"文学の指導たって、芸ごとは身に具わる才能がなければ、いくら努力してみたって、ダメなものですよ。それを見た上でなくちゃア返事のできるものじゃアないね",
"然し、先生、こんなことは、ありませんか。かりにです、かりにですよ。いえ、かりじゃアないかも知れません。天才てえものが気違いだとします。天才てえものは気違いだから、ほかの人の見ることのできないものを見ているでしょう。それがあったら、これはもう、ゆるぎのない天分じゃありませんか"
],
[
"天才だの気違いだのと云ったって、君、僕自身、精神病院で、気違いの生態を見てきたばかりだが、気違いは平凡なものですよ。非常に常識的なものです。むしろ一般の人々よりも常識にとみ、身を慎む、というのが気違い本来の性格かも知れないね。天才も、そうです。見た目に風変りだって、気違いでも天才でもありゃしない。よしんば、ある種の天分があっても、絵の天分と、文学の天分はおのずから違う。絵の天分ある人は、元来色によって物を見ているものだし、文学の天分ある人は、文字の構成によってしか物を把握しないように生れついているもんです。だから、性格が異常だというだけじゃア、文学者の才能があるとは云われないものです",
"然し、先生、今に分ります。分りますとも。先生とヨッちゃんは、たとえば、日月です。男が太陽なら、女はお月様、そういう結び合せの御二方です"
],
[
"君は、じゃア、絵描きの卵でもないのかね",
"まア、それぐらいのことは、私だって、なんとか、かんとか、それも商売よ。でも油絵の二三枚かいたこともあったわよ。あんまり根もないことを云ったんじゃア、この社会じゃア、自分が虚栄だから、人の虚栄を見破るのも敏感なものよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 07」筑摩書房
1998(平成10)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第四巻第七号」
1949(昭和24)年7月1日発行
初出:「オール読物 第四巻第七号」
1949(昭和24)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:砂場清隆
2008年5月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043158",
"作品名": "日月様",
"作品名読み": "にちげつさま",
"ソート用読み": "にちけつさま",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「オール読物 第四巻第七号」1949(昭和24)年7月1日",
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"作品著作権フラグ": "なし",
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[
[
"アレ、変だねエ。だって、お前がそう頼んだんじゃないか",
"からかっちゃ、いけないよ。ワタシはね、怒髪天をついているんだよ。痩せても枯れても、ワタシには千鳥波てえチットばかしは世間に通った名前があるんだぜ。ワタシはね、稽古できたえたこのカラダ、三升や五升のハシタ酒に酔っ払って、言った言葉を度忘れするような唐変木と違うんだ",
"それはアナタ、そう怒っちゃイケませんよ。お前が唐変木じゃアないてえことは、ご近所の評判なんだ。然しねエ、怒っちゃイケねえなア。これにはレッキとしたショウコがあるよ。どこのガキだか知らないけど、お前がお使いをたのんで、書いたものを届けさせたじゃないか。ホラ、見ねえ、こゝにショウコがある。かねて見覚えの金釘流だね。ひとつ、ノレンのこと、腕自慢、江戸前トンカツ、千鳥足、右の如く変更のこと。コイ茶色地に、文字ウス茶そめぬきのこと。どうです",
"ハハア。さては、やりやがったな"
],
[
"さア、いゝかい。こゝへ集まったこの六人は江戸ッ児だよ。下町のお江戸のマンナカに生れて育ったチャキ〳〵なんだ。小学校も一しょ、商業学校も一しょ、竹馬の友、助け助けられ、女房にはナイショのことも六人だけは打ちあけて、持ちつ持たれつの仲じゃないか。それだけの仲なればこそ、ずいぶんイタズラもやってきましたよ。然し、何事も限度があるよ。こんなチッポケな店でも、開店といえばエンギのものだぜ。犯人は男らしく名乗ってもらいましょう。その隅の人",
"エヽヽ、その隅と仰有いますと、長谷川一夫に似た方ですか、上原謙の方ですか",
"ふざけるな。アンコウの目鼻をナマズのカクに刻みこんだそのお前だ",
"エッヘッヘ。主観の相違だねエ。わからない人には、わからないものだ。つきましては、サの字に申しあげますが",
"なんだい、サの字てえのは",
"それはアナタです。この正月に芸者の一隊が遊びに来やがったじゃないか。そんとき、文学芸者の小キンちゃんが文学相撲の五郎ちゃんに対決しようてえので、論戦がありましたよ。小キンちゃんの曰くサルトルはいかゞ、てえ時に、関取なるものが答えたね。ハア、サルトルさん。二三よみましたが、あれは、いけません。そのとき以来、サルトルさんと申せば近隣に鳴りとゞろいております",
"なにを言ってやがる。お前じゃないか。せんだっての小学校の卒業式に演説しやがったのは。これからは、民主々義、即ち文化の時代である。もはや剣術は不要であるから、芸術を友としなければならぬ。剣術も芸術も、ともに術である。ともに術だから、どうしたてんだ。ワケのわからないことを言いやがる。我々は江戸キッスイの町人の子孫であります。我々の祖先も剣術も知らず、芸術を友といたしたのである。そのころもエロであった。然し、諸君よ、エロも芸術でなければならぬ。これぞ今日の我々に課せられた義務であります。バカだよ、お前は",
"エッヘッヘ。古い話はよしましょう。然し、サの字に申上げますが、この犯人はエラ物だね。相撲の店だから、腕自慢、これは筋が通っているよ。江戸前トンカツ、これが、いい。ヤンワリと味があるね。サルトル鮨なんてえ店をはじめやがったら絶交しようなどゝヨリヨリ申し合せておりましたよ。千鳥足、また、これが、いいね。つまらない意地をはるのは江戸ッ子のツラよごしだから、およしなさい。これは犯人なんてモノじゃなくて、然るべき学のある御方があの男も可哀そうだ、世のため人のためてんで、はからって下さったんだ。千鳥波なんて、月並なシコ名にとらわれるのは、いゝ若い者の恥ですよ。千鳥波か、バカバカしいや。墨田川に千鳥がとんでた、お相撲だから錦絵にちなんだのかも知れないが、時代サクゴというものです。アナタだって、ダンスのひとつもおやりのサルトルさんじゃありませんか"
],
[
"このオソバ屋の店は大きすぎら。お客というものは小さなところへゴチャ〳〵つめられると、あそこはハヤルとか、ウマイとか、とっかえひっかえ来るものだ。広々としたところへポツンと置かれちゃア、二度と来やしないよ。店を小さくしなさい",
"できてる店を小さくしろたって、ムリですよ。もぎとるワケにいくものじゃないです",
"バカだよ、お前は。大きい、小さいも、ひとつは感じの問題だ。イス、テーブルをゴチャ〳〵並べるとか、なんとか、たとえばだ、スキマというものが広さを感じさせるのだから、スキマというスキマへクリスマスツリーみたいな植木鉢をつめこむ",
"ハア、ナルホド。では、関取、それをさっそく買ってきていたゞきましょう",
"この野郎、人を運送屋に見たてゝいやがる"
],
[
"ワタシゃガッカリしましたよ。お前という男もこれほどバカとは知らなかったね。なんだいこの文章は。雨は降る、おゝ、あの人よ、なんの寝言だい。二〇・五世紀のさゝやき。二〇・五世紀とは何です",
"今や二十世紀の半分です",
"バカめ。この最後の、かそけくもこそ、ねえ、シンちゃん、あらあらかしこを現代語に飜訳すると、お宅の言葉じゃこうなるというワケですかい",
"わからない人だね。お前は理窟っぽいよ。一々理窟で読んじゃアこのシャレはわかりませんよ。ワタシはね、慎重に考慮して、この文章をあみだしたんだよ。何が何やら、わからないところがネウチなんだよ。理ヅメにできた開店案内などは人様の注意をひきませんよ。第一、お前はこの文章が誰を狙っているか知らないだろう。これは男に宛てた文章じゃないんだ。知性高き学究の徒なんてものはシルコ屋なんかへ来ないものだよ。敵はもっぱら女です。ミーちゃんハーちゃんですよ。こういう珍な文章を読めば、芸者や女事務員や女学生も、あなた同様ころげまわって軽蔑しますよ。テコヘンな店ができたよ、とか、脳タリンスの店だよ、なんてね。ところがです。とかく御婦人というものは、テコヘンなところや、オッチョコチョイの脳タリンスをひやかしてみたくなるものなんです。見ていてごらんなさい、脳タリンスのシルコの味を見てみましょうてんで、千客万来疑いなしですから。これ即ち、深謀遠慮というものです",
"こんな文章しか書けないくせに、虚勢をはるんじゃないよ",
"エッヘッヘ。裸ショウバイの御方にはわかりませんです。ワタシはちょッと心理学を用いましたんです"
],
[
"エッヘッヘ。ワタクシ一身にあつまる魅力による当店の繁昌ですな",
"バカ言え。花柳地へ行ってきいてみろ。ニヤニヤとヤニ下りの、薄気味わるい野郎だと、もっぱら姐さんが言ってらア",
"そこがかねての狙いです。万事、当節は心理学というものだよ。逆へ逆へと押して出るから、こっちへひかれる寸法なんだ"
],
[
"マスターに話があるんですけど、どこか別室できいていたゞけませんでしょうか",
"ハア、ハア、では、どうぞ"
],
[
"私、このお店で働きたいのですけど、使って戴けませんでしょうか",
"それは又、どういうわけでしょうか",
"今は会社に働いていますが、会社の仕事は私の性に合わないのです。こんな仕事が私の性に最もかなっていることを痛感しているのです。このお店の感じが、特に好感がもてたし、それに、趣味の点で、このお店と私とに一致するものがあるんです。古い日本をエキゾチシズムの中で新しく生かして行く点です。それはヤリガイのある、いえ、是非とも、やりとげなければならぬことなんです。とても共鳴するものがありますから、会社のことも捨て、女優のことも捨て、このお店に働いてみたいと思ったのです",
"では、あなたは、女優さんですか",
"いゝえ、然し、女優の試験を受けたんです。映画女優とは限りません。私、声楽家、むしろ、オペラね、是非やりたいと考えたこともあるんですけど、マダム・バタフライ、あれを近代日本女性の性格で表現してみたいと思ったんです",
"で、オペラの方も、試験を受けたんですか",
"いえ、試験は無意味なんです。審査員は無能、旧式ですわね。新時代のうごき、新しいアトモスフェア、知性的新人ですわね、そういった理解はゼロに等しいと思ったんです。でも、然し、陳腐ね。理解せられざる芸術家の嘆き、それは過去のものね。ですから、私、それにこだわらないのです",
"すると、声楽は自信がおありですね。いえ、つまり、流行歌なんかじゃなく、あのソプラノですか、アヽアヽアヽブルブルウ、ふるえてキキキーッと高いの",
"無論",
"ハア、そうですか。それは、然し、惜しいですね。ワタシなどはこれだけの人間ですから、これだけですが、せっかく天分ある御方は、やっぱり、天分を生かした方が"
],
[
"この店に働いていたゞければ、それはワタシの光栄なんですが、然しです、御覧のように当店の性質と致しまして、お客様の九分九厘まで御婦人相手のものですから、給仕人も同性の方よりは男の方がよかろうと、三人の大学生を使っているわけなんです。で、当店では、むしろ御婦人の使用人を遠ざける必要があるわけで、残念ですが、やむを得ない次第です。然しですね。ワタシに一つ心当りがあるのです。ワタシの親友の千鳥波という以前相撲だった男が、この町内で、同じ名のトンカツ屋、つまりトンカツで酒をのむ店をやってるのですが、この男が、目下、美人女給をもとめているのです",
"私、ドリンクの店はキライです",
"いえ、ごもっともです。然し、これにはワケがあるんですよ。千鳥波はまだ独身なんですが",
"失礼ね。私が結婚したいとでも考えてるのかしら。おかしいわ。全然、無理解ね。軽蔑するわね",
"左にあらず、左にあらず。はやまってはイケません。一言たゞ独身であるという事実をお伝えしたにすぎません。話の要点はそんなところにはないのですよ。このトンカツ屋は相撲時代からのヒイキがついておりますから、常連のツブがそろっていて、このへんの飲み屋では、最高級の人種が集っているのですよ。この店へ、毎晩ほとんど九時ごろに必ず現れる三人づれの客があるのです。四十から四十四五の、オーさん、ヤアさん、ツウさんと呼びあっている人品のよい紳士で、一人が商事社の社長、一人が問屋の主人、一人が工場主と表向きは称していますが、実は一人が映画会社の支配人、一人が有名な作曲家、一人がプロジューサーなんですよ"
],
[
"この三人は映画音楽演芸界の最高幹部級のパリパリなんですよ。ニューフェース募集と云っても、こんな時あつまるのは大概は落第品で、彼らは常に街頭に隠れた新人を探しているものです。特に唄のうたえるニューフェース、これこそ彼らの熱烈にもとめてやまぬ珍品ですよ。飲食店のたゞの給仕女になるなんて、天分ある御方が、それは全然つまらないことですよ。いかゞですか。ひとつ、何くわぬ顔、この店の給仕女に身をやつして、チャンスを狙っては",
"そうね。それもちょッとしたスキャンダルね。意味なきにしもあらずね。やってみても悪くないと考えるわね",
"えゝ、そう、そう。先方の御三方がよろこびますよ。世に稀なるもの、即ち天才です。実はです。以前にも一人、その狙いで千鳥波の給仕女に身をやつした婦人がありましたです。この人は天分がなかった。当人も自信がないんですよ。それで、なんです。色仕掛で仕事を運ぼうと企んだわけですが、これこそすでに陳腐です。あの御身分の方々ともなると、色仕掛でスタアを狙うヤツ、これぐらいどこにもこゝにもあるという鼻についたシロモノはないんですよ。食傷して、ウンザリしきっているのです。ですから、真実天分ある者は、率直に天分をヒレキすれば足るのです。むしろ御機嫌などとらない方がよろしいです。ですから、御三方が現れたら、サービスなどほったらかして、何くわぬ顔、唄をうたいなさい。例のソプラノです。変にニコヤカな素振など見せると、いかにも物欲しそうにとられますから、できるだけムッツリと、仏頂ヅラを見せておいて、然し、たくまぬ自然のていで、天分のある限りを御披露あそばすことです"
],
[
"今日は凄い吉報をもってきたぜ。うちへくるお客の一人に上品でチャーミングなお嬢さんがいるんだが、然るべき家柄の人で、まア当節ハヤリの没落名家のお嬢さんだ。目下は事務員をしているが、事務員が性に合わないから、ワタシの店で働きたいと申しこまれたわけだが、ウチは女相手のショウバイだから女給仕は使えない。残念だけれども仕方がない。このトンカツ屋じゃアお嬢さんに気の毒なんだが、知らないウチへとられちゃ尚くやしいから、口説き落して、ウンと云わせたんだ。ドリンクの店はイヤだと云ってたんだぜ。なんしろ目がさめるように美しくって、モダンで、上品で、チャーミングで、パリパリしたところがあって、こんな月並の一杯飲み屋じゃ、可哀そうだが、友情のためには女ばかりをいたわってもいられないから、心を鬼にしてウンと云わせたんだ",
"いやにモッタイづけるない。それだけ御念の入った言葉数で女のマズサの見当がつかあ。手がいるのだから仕方がない。化けものでなきゃ使ってやるから連れてこい",
"一目見て目をまわすなよ。この町内じゃア男のニューフェースといえば誰の目にもワタシと相場がきまっているが、女の方じゃア、花柳地の姐さんをひっくるめても、ニューフェースはこの人だ。趣味もよく、学もある人だから、丁重にしな"
],
[
"アレレ。前頭なんてえものも、引退すると、こんなものかね。どちらの姐御か知りませんが、とんだお見それ致しました。私どもは決してお手向い致しませんから、ごかんべん願います",
"ウムム、畜生、やりやがったな。このスパイの悪党女め",
"これこれ、失礼を言うものじゃない",
"いゝえ、姐御なんてえ気のきいたものじゃアないんで。アッシはこのところ胃袋をチョイと子供にさゝれてもダメなんでさ。然し、見事に、やりやがった。今度こそカンベンならねえ。背骨を折りたたんでソップにしてやる。シン公の野郎からなんと指図をうけてきやがったか、白状しろ",
"えゝ、えゝ、言います。毎晩九時にくる三人づれは、作曲家と映画会社の支配人とプロジューサーで唄の上手なニューフェースを探しているから、唄ってきかせて、とりたてゝいたゞきなさいと指図をうけたわよ。それを信じたことは、それは私の無智だけど、それ故に、それを暴力に訴える、それによってのみしか位置の優位を知り得ない、それはそれによって敗戦をまねいた劣等人種の偏見であるわよ",
"なるほど、わかりました。わかってみれば、罪のないことじゃないか。これは面白い。シャレた趣向でもある。シンちゃんとやらもフザケた御方だ。これを肴にたのしく一夕飲みなさい、というシンちゃんの粋な志であろうさ。そうと分ったら、改めてたのしく飲みましょう",
"それ故に、それを暴力に訴える、それは私の無智だけど、それによって、それは、それ故に、それを、アハハ、シン公のバカ文章に似ていやがら、ウマが合う筈だよ"
],
[
"ウソなのよ。私、小学校も女学校も、声楽なんか、カモばっかりよ。本格のソプラノなんか、一度も唄ってみやしない。流行歌だって満足に唄えないのよ",
"ウムム"
],
[
"然し、あの金切声は真剣そのもの、必死の気魄じゃないか。あれが狂言とは、それは嘘だろう",
"無論、狂言じゃないわ。真剣でもあり、必死でもあったわよ",
"じゃア、できもしない唄をうたって、声楽家になれるつもりでいるのか",
"私は自分の力について考えてみない主義であるのよ。あらゆるチャンスに、おめず、おくせず、試みてみるのよ。全てを人の判断にまかせて、試みによってひらかれた自然の道を歩きつゝ進む主義であるのよ"
],
[
"そこが私のウチよ。どうも、ありがとう",
"そうかい。じゃア、おやすみ。あしたも手伝いに来てくれるね"
],
[
"あのネ、あなたの店、ラジオがないから、私、すきなのよ",
"なぜ",
"私もラジオがきらいなのよ。あんなものをきくと、声楽家だの女優になりたくなるでしょう。これ、無意味なことであるわ。私、さびしくなるのよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説と読物 第三巻第七号」桜菊書院
1948(昭和23)年7月1日発行
初出:「小説と読物 第三巻第七号」桜菊書院
1948(昭和23)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042839",
"作品名": "ニューフェイス",
"作品名読み": "ニューフェイス",
"ソート用読み": "にゆうふえいす",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「小説と読物 第三巻第七号」桜菊書院、1948(昭和23)年7月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-08-22T00:00:00",
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"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 06",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月22日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "小説と読物 第三巻第七号",
"底本の親本出版社名1": "桜菊書院",
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} |
[
[
"はつきり教へてちやうだい。もし先生が芸術家だつたら、先生の言ひなり放題にお金を貸してあげる?",
"僕のやり方が残酷だつたといふ意味かい。僕はもう僕自身に裁かれてゐるよ。そのうへ君が何をつけたすつもりだらう。然し、僕はやりこめはしなかつたのさ。たゞ、反抗したゞけのことさ",
"それでも、先生はやりこめられたでせう。先生のお顔、穴があいたといふ顔ね。人間の顔の穴は卑しいわ"
],
[
"たばこ、おいしい?",
"えゝ",
"何を考へてゐるの?",
"考へることがないからなのよ"
],
[
"奥様に打開けてお話しになりましては? そして御一緒に大木さんをお訪ねになりましては、月賦でゞも支払ふことになさいましては?",
"それがねえ、大木は人情の分る男ではありませんよ。耳をそろへて金を持つてこいと言ふにきまつてゐるのですから"
],
[
"私どもに買ひ戻せる金額ではございません。先生は私どものくらしむきを御存知の筈ではございませんか",
"いゝえ、奥さん。買ひ戻していたゞく上は、女房に事情を明して、品物は必ず奥さんに保管していたゞくですよ。実際の値打は三万を越える品物ですよ。あの大木の奴が一万五千だすのだから、どれだけの値打のものだか推して分るぢやありませんか",
"先生はお金持ね。私どもは三千円のお金なんて、もう何年も見たことがないわ"
],
[
"なぜ? 僕が先生をやりこめたのが、なぜこの馬鹿げた金談の原因になるのかね",
"先生はいやがらせにいらしたのよ。復讐に、こまらしてやれといふ肚なのよ、あなたが先生にみぢめな恥辱をあたへたから、うんとみぢめなふりをして私たちを困らしてやるつもりなのでせう",
"そんなことが有り得るだらうか。第一、僕たちは一向に困りはしないぢやないか",
"でも、人の心理はさうなのよ。みぢめな恥辱を受けるでせう。その復讐には、立派な身分になつて見返してやるか、その見込みがなければ、うんとみぢめになつてみせて困らしてやれといふ気になるのよ。復讐のやけくそよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二四巻第七号」
1946(昭和21)年9月1日発行
初出:「文藝春秋 第二四巻第七号」
1946(昭和21)年9月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年6月12日作成
2014年7月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042894",
"作品名": "女体",
"作品名読み": "にょたい",
"ソート用読み": "によたい",
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"副題読み": "",
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"初出": "「文藝春秋 第二四巻第七号」1946(昭和21)年9月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-07-06T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42894.html",
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"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 04",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月22日初版第1刷",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年5月22日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年5月22日 初版第1刷",
"底本の親本名1": "文藝春秋 第二四巻第七号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1946(昭和21)年9月1日",
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"入力者": "tatsuki",
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[
"ではお掛け下さいませんか。こちらの方は手紙にも申上げておきました同僚のなにがし君です。幸ひ、ほかにお客もありませんし、夜もおそいやうですから、失礼ですが早速用談にうつらせていただきたいと存じますが",
"これはだうも恐入ります。わたくしから左様お願ひ致さうかと存じてをりましたところで。実のところ、席を変へて一献差上げなどしながら充分に御高説拝聴させていただきたいと斯様申上げたい所ではありまするが、生憎のお時間で。いづれ又改めて新宿へなとお供させていただくことに致しまして、本日のところは。おい、泡盛を三つ。それから何か肴を。なに、何でも出来るものでいいが、栄養の豊富なものを三人前"
],
[
"遠路わざ〳〵御足労下さいまして心苦しいほどに存じてをります。失礼ですが、あなたがなにがし商店の御主人でせうか",
"左様。わたくしが経営致してをります。まだ駈出しのことで、とても一流とは参りませんが、爾今宜しく御後援、御助力のほどお願ひ申上げます。御手紙拝読致しました時は、この、何と申しますか、深く感動致しまして、これは容易ならぬ大事であると斯様に考へて店の者にはまだ秘密に致してあります。わたくし実は丁度この一週間ほど前から痔を悪く致しましてな。好物の酒も控へねばならず、歩行にも一寸不自由で、乗物に揺られますのが又苦痛といふわけで、然し今宵は一代の繁栄を決する大事の秋で人まかせには致しかねるところから、かうして出向きましたやうな次第で。充分にお相手もできず、不調法は特にお許しを願つておきます",
"では早速お話致しますが、先程なにがし君とも相談して僕達の考へをまとめたばかりの所ですが、先日差上げた手紙には、予言の場所、方法などに就いては申上げてありませんでしたね",
"なるほど。たしか、そのやうでしたな",
"あの手紙にも申上げてある通り、予言はあなたの御指図に順つて、すぐこの場ででも、また何処ででも出来ますが、霊者にも気組の相違といふものがあつて、気組によつて霊感の感度にも深浅の有ることは疑ひ得ない事実です。哲学者の思索、詩人のインスピレーションでも、その時の気組や調子によつて、思索の結果や作品の出来に深浅上下があることと丁度同じ理窟になります。このやうに申しますと、何か僕の霊感が怪しげなものに聞えますが、さういふ不安は有るべきものではないのです。つまり霊者とは申しましても、人間であつてみれば、その日の調子や気組によつて出来不出来はまぬかれないもので、たとへば気組の劣つた日は、あすの天候を予言するにしましても、さしづめ新聞の天気予報と同じやうに晴雨の別を感じるぐらゐに過ぎないものです。調子も高く気組の張つた時の予言は、何時何分頃にポツ〳〵来て、何時何分頃に霽れまを見るが又何時何分にはドシャ降りになつてしまふ、然し何時何分頃には小やみになつて何時何分に又ドシャ降りにもどるけれども結局何時何分ごろには上つてしまふ、僕自身それまで細かく知りたい意志は微塵もないのに、目のあたりパノラマに向つてゐるやうに次々と勝手に分つてしまふのです。気組の高い日といふものは万事がさうで、もとより株の予言にしても例外なく同じことです",
"成程々々",
"僕は今ここにかうして極めて平凡に日常普通の心持であなたと話してをりますね。勿論このやうな日常普通の心持には、武人が戦場に望むやうな気組といふものがある筈のものではありません。では、このやうな日常普通の心持から予言が出来ないものかと言へば、かうしてお話してゐるやうな手軽さではいきかねるかも知れませんが、もとより霊者にとつて霊力は偶発的ではありませんから、今でも、ちよつと気組を改めて特定の精神状態を誘導することによつて、直ちに霊感を呼ぶことは決して不可能ではありません。然しながらそれは唯一応の霊感で、明日の天候は晴れであるとか雨であるとか、その程度の大ざつぱな予言しか出来る筈がないのです。真に怖るべき予言、よくもここまで分るものだと僕自身驚くやうな高度の霊感は、唯一応の霊感とは全然異質に見えるほど照見無礙玄妙千里を走るが如き概があります。全身全霊ただ電気とでも申しませうか、その時は僕の全部が眺める目、眺める鏡、眺める機械で、同時に僕の全部が又そつくりひとつの動く絵で、即ち次々と展開する未来図のパノラマに外ならぬのです。いはば活動写真を写す技師が僕であり、幕に映る活動写真が僕であり、それを眺める見物人が僕であります。すべてが渾然として一分の隙もなく、唯ひとつの僕といふ霊気、あるひは電気なのですね",
"いかにも〳〵",
"宿縁と申しませうか、このたび縁あつて――仏教では縁といふものに理外の理、宿命的な義理を与へて尠からぬ重要なものに扱つてゐますね。かうしてあなたにお目にかかり膝つき合せて語合ふことが出来まして、又、あなたの御援助によつて一生の大事を決することもできるといふ、これは深い縁であらうと思ふのですが、従而、このたびのことに就いては、自分の気組といふものも普段のものではないのです",
"いかさま。さうでせうとも"
],
[
"なるほど",
"このたびあなたの鴻大無辺な善意によつて御援助を得ることとなり、いはば廃人と申すべき身でありながら万億の富を睨んで一代の興敗を一気に決することができるといふ、下郎変じて一躍大将となりかねない稀有の機会を与へていただくことが出来まして、さて僕のひたすら祈り希ふところは、この感動と気組に最上の気合を与へ、最善の結果を得て鴻恩に報ひたいといふこと、唯これのみであります。もとより先程から幾たびとなく申すやうではありますが、単に一応の霊感を呼びだすだけのことでしたなら、この場所で今すぐにでも結構できることですが、僕の立場と致しましては、このやうな大事の際にそれでは甚しく不本意なことでありますし、また、あなたの立場と致しましても、決して御満足ではなからうと思ふのであります",
"いかさま。これは色々と御高配をいただきまして、わたくし、ただもう感激致してをりますが、御言葉の通り、霊感にも様々と深浅上下の品々がありまするものでしたならば、一世一代の大事の際でもありまするし、深い品、上の位をいただきたいと云ふことが、これはもう掛値なしの人情と申しませう。そこで、霊感を呼びだすに都合の良い気合のかかつた環境、たしかそのやうなお言葉でしたな。わたくし、この哲学といふものに不案内でとんと物分りの悪い方でありまするが、気合のかかつた環境と申しますると、つまりこの下世話におみきあがらぬ神はないなど申しましてな。待てしばし天下とるまで膝枕チョイ〳〵などと、これは官員さんが羽振をきかせた頃の唄で、天下の政治は待合の四畳半できまるものだなどと申してをりますが、これが即ち政治の気合といふもの。霊感の気合の方は下世話の噂にないことで、わたくし共俗人とんと推量致しかねますが、やつぱりこの天下の政治と同じやうな筋でせうかな",
"さて、それが問題なのです。つまりですね。詩人は如何なる時又如何なる環境に於ても詩をつくることが出来るでせう。これは分りきつたことですね。けれども至高のインスピレーションによつて傑作を創りうる時は一生のうちにも数へるほどしかありません。霊感の場合が又これと略同様なものです。即ち、如何なる時又如何なる場合に於ても一応の霊感を呼びだすことは出来ますが、至高の気合によつて高度の霊感を呼びだすことが出来るのは一生のうちにも数へるほどしかありません。且又、詩人のインスピレーションと同じことで、至高の気合がどこに在るかといふことは分る筈がないのです。どこぞこの街角の喫茶店に詩人のインスピレーションが転つてゐるなど言へば、これはをかしな話ではありませんか",
"いかにも",
"然しですね。今度の場合に限つて、このをかしな予想が案外不可能ではないのです。といふのは、予言の対象が明確なうへ、予言の結果が一生の浮沈に関する重大な意味を持ち、従而、僕の気組が異常に高く、触るゝもの全てを切る妖刀の如く冴えてゐて、多くのハズミを要せずに動きだすことが分るからです",
"成程々々",
"然らばその環境条件とは何かと言へば、即ち僕が直接株式市場へ出掛けることに外なりません。触るゝもの全てを切るが如くに冴えてゐるこの高い気組のことですから、直接株式市場の熱気奔騰する雰囲気中に身を置くや否や、全身全霊あげて忽ち火閃となり、霊感の奔流と化して走るだらうといふことが最も容易に想像することが出来るのです",
"ウム〳〵",
"然しながら、生憎ここに重大な障碍に気付かなければならないのですが、既に手紙でくはしくお話致してありますやうに、つとに全快してゐるとは言ひながら表向きは患者として幽閉されてゐる身の上で、僕には白昼公然たる外出の自由がないのです。従而、白昼公然株式市場へ赴くことも出来ません。それゆゑ僕が株式市場へ赴くためには何等かの手段を施さねばならないわけであり、ここに手段といふものが唯二つしかないのです。如何やうに工夫を凝らしてみても、唯二つあるのみであります",
"…………",
"その第一は過激な方法で、即ち直ちにこの場から逃亡して明朝株式市場へ現れるといふ手段なのですが、これはいささか穏当を欠いて種々不都合がともなひ、先づ差当つてなにがし君の首が危いことにもなり、又、僕とても見付かり次第病院へ逆戻りといふわけですし、事の成就を見ないうちに見付かるやうなことがあれば、元の木阿弥といふことになります",
"成程々々",
"そこで第二の方法ですが、要するに可能な手段はこのひとつで、事の成就をはかるためにはこの方法をとる以外には全く仕方がないのです。それはつまり明朝あなたが先づ病院へ訪ねて来て下さるのです。それから院長にお会ひになつて、あなたの職業身分など披瀝されて、責任をもつて僕の引受人となることを声明していただくのですね。肉親でないから不可だといふ話がでるかも知れませんが、その時はつまり、退院後は店員として監督使用するものであるから父兄同然であつて、保護に万全を期するむね断乎主張していただけば面倒はありません。その日直ちに僕は退院することが出来ます。さうして何ひとつ憂なく全霊をあげて予言に集中することが出来るわけです"
],
[
"いや、お話はよく相分りました。実はわたくし、昨夜大きな金の茶釜を丸呑みにした夢を見ましてな。なに、なんのたあいもなく呑みこんでしまつたのですな。これは夢見が良いなどと今朝から喜んでをりましたところで。だん〳〵お話を伺ひますると、わたくしには何から何まで夢のやうな有難いことばかりで、やつぱりこれは正夢であつたなどと、実は先程からこのやうに考へながらお話を伺つてをりました。只今わたくしの店に、左様、丁度何人になりまするかな。いやもう働きのないのがウヂャ〳〵とをりましてな。生憎店をまかせても宜しいやうな、心棒になつてくれる腕達者が一人として見当りません。最近はお蔭様で店の信用が一段とつきまして、でまアここが発展の機会だなどと考へてをりました折柄で、なんとかして眼識もあり修養も積んだ人物を支配人格に迎へたいものだなどと日夜このことばかり悩みぬいてをりました。あなたのやうな霊力もあり修養も積まれた御方に来て働いていただくことが出来るなどとは、まさしく日頃信仰いたしまする棘ぬき地蔵の御利益で、願つてもないことであります。月給なども出来るだけは致しまするが、然しこの月給などといふものはどのみちほんの些細なもので、これは霊感の大小によりまして、その都度配当を差上ることに致さうと斯様考へてをります。で、店へ来て働いていただくに当りまして、この、霊力ある御方を俗人の分際で試験致すなど申上げては、こやつ陽気の加減で少々のぼせが来てゐるやうだなと定めし御心外のことかと存じまするが、なんと申しましてもわたくし共俗人眼識がありませんので、一応試験のやうなことを致さなくては人の値打が分りません。いやはや、思ふだに笑止の次第で、話が逆でありまするが、なんに致せこれが俗人社会の慣例で、かう致さなくては我々人が使へぬといふ生れつき無力無能に出来てをります",
"御尤のことです。就職試験といふわけですね。然し、手紙にも申上げてある筈ですが、僕は学校で経済を学んだこともなく、特に株に就いでは全くの門外漢で、ただ霊感の能力をお貸してこれを活用していただく以外には手腕もなく才能もない男なのです",
"いえ、もとよりそれだけで結構で。経済やら株のことやら齧つてみてもおいそれとお金の儲かるものではありません。この節株や経済に明るい人間など掃溜へ入れてお釣のくるほどありますが、かういふてあひはわたくし共の商売にはカラ役に立たないといふ先生達で。もう私共に多少なりとも霊感の能力がありましたなら、日本中の金気をみんな吸ひとることも易々たるもので、まして六年間御修錬の霊感ときては、アメリカの金気も物の数ではありません。で、この霊感の威力を試験するなど申上げては愈奇怪で、霊の尊厳をわきまへぬ不埒な奴とお腹立でもありませうが、わたくし共俗人かう致さねば宝石も砂利も見分けがつかないといふ愚かな生れで、ただもう面目次第もないことであります。で、甚だ申しかねるところではありまするが、ひとつ、かういふことに致させていただきたいと存じます。つまり、この、先程のお話に一応の霊感といふのがありましたな。あれでもつて、何か二三日先のことを極く大ざつぱに予言していただく。わたくし、その結果を見まして――いや、もう、外れる筈のものではありませんが、ここが俗人の浅間敷いところで、かうして充分納得させていただきましたうへで、早速とる物もとりあへず病院へ駈けつけまして、河馬の先生、イヤ、院長の先生にお目にかかり、直ちに退院していただくことに致しませう。その節は病院の支払など何万円でも充分に用意して参ることに致します",
"お話は良く分りました。勿論、あなたは僕の霊力を御存じないのですから極めて至当な話で、気を悪くする筈はないのです。却つて霊力を納得していただく好機会を得たわけで、喜んでゐる次第ですが、では、何か、明日の天候でも予言しませう",
"さ、それが――"
],
[
"実はわたくし、先日お手紙をいただきました折に、いやもう、これが俗人のなさけないところで、とにかく一応試験といふものをさせていただき、霊力を納得させていただいたうへ、御共力願ふことに致さうと斯様に考へましてな。今宵こちらへ参上致すにも、実はかうして用意して参つたやうなわけであります。これは丁度明日から行はれまするなにがし競馬の登録馬の出馬表で、ここにかう馬の名前が幾つも書いてありますが、この勝馬をひとつづつ予言していただきたいと存じましてな。大変御手数で恐入りますが、この一応の霊感で極く大ざつぱなところを予言していただくにはこれが丁度手頃かと考へましたわけで、そこでかうして用意して参つたやうな次第であります",
"それは好都合でした。二つの一つを予言するのも百の一つを予言するのも、霊感の場合は結局同じ労力です。では、その勝馬をちよつと予言しませう"
],
[
"だうも与太者ぢやアなさゝうなんで。さういふ名前の気違がほんたうに入院してゐますとよ",
"そんな話があるものか",
"然しねエ。ちやんと名簿にさういふ名前があるんでさア。相当古株の気違だつて言つてましたぜ",
"それぢやア、なんだ。与太者が名前をかたつてるんだ。してみるてえと、これはなんだな。与太者といふのは此処の小使か看護人か看護婦の兄とか弟といふ奴に違ひねえ。とにかく真物のキ的にいつぺん会つてみようぢやないか",
"ようがせう。然しねエ、旦那。間違つて入院させられねえやうに気をつけておくんなさいよ"
],
[
"虎八に鮫六",
"ヘエ"
],
[
"なア。虎八に鮫六",
"ヘエ",
"キ的と正気の区別といふものがお前達に分るかな",
"はアてね",
"気違てえものは、泌々修養をつんだものだなア",
"さうかも知れないねエ",
"第一礼儀正しいやな。挨拶の口上なんてえものも、水際立つたものだな",
"全く驚いたものですねエ。だから見ねえ。看護人が挨拶しないのは、あれは気違と区別をつける為ですぜ",
"俺が十六の年だつたな。高等小学校を卒業して、日本橋のいわしやの小僧になつて始めて上京する時のことだ。俺の生れたのは東北の田舎で、うちは水呑百姓だつたな。おふくろが信玄袋を担いで停車場まで送つてくれて、三里もある畑の道をおふくろと二人で歩いたものだ。そのとき、おふくろがかう言つたぜ",
"オヤ。なるほどねエ",
"東京てえところは世智辛いところで、生馬の目を抜くてえところだから、人を見たら泥棒と思へと言ふのだな。泥棒てえものは見たところ愛嬌があつて、目から鼻へ抜けるやうに利巧で、弁説が巧みで、お世辞のいいものだと言つたな",
"田舎の人は律儀で口不調法だといふから、色々と東京を心配しますねエ",
"おふくろてえものはいゝものだなア。なア、運送屋の先生。然し、なんだぜ。流石におふくろほどの人でも、気違てえものが目から鼻へ抜けるほど利巧で、弁説が爽やかで、礼儀正しくて、修養をつんだものだとは知らなかつたんだな。こいつばかりはお釈迦様でも御存知ないや",
"まつたく世の中は宏大でがすねエ",
"虎八に鮫六",
"ヘエ",
"お前達おふくろが有るだらうな",
"ヘエ。たしかひとり、さういふものが有つたやうでしたねエ"
],
[
"一昔前のことだつたな。俺が三十五の年だ。東京で一人前に身を立てゝ、錦を飾るとまではいかねえが、くにへ帰つたと思ひねエ。そのときは何だぜ。東京中の名物といふ名物はみんなトランクへつめたものだつたな。お盆の頃だから、丁度夏の盛りだ。うちへつく。田舎はいつも変つてゐねえな。露天風呂でひと風呂あびる。夕めしだ。するてえと、おふくろが、うまい物は東京で食ひ飽いてることだらうからと言つて、小供の頃俺が大好物だつた雑炊をな、茄子、かぼちや、キャベツ、季節の野菜をごちや煮にしたものだ。これを拵へて祝つてくれたぜ。おふくろは有難いものだなア。大きな茶碗をとりあげて、さて一箸つけようとするてえと、思はず胸がつまつてきてポロリと涙が雑炊の上へこぼれてしまつたものだつたな",
"オヤ。しんみりとしたいい話ですねエ"
],
[
"虎八に鮫六",
"いけないねエ。旦那。百姓に見つかるてえと、鍬でもつて脳天どやされますがねエ",
"俺もくにへ帰つて百姓がしたくなつたぜ。東京は泌々世智辛くて厭だねえ、運送屋の先生。ポロリと涙が雑炊の上へこぼれたものだと思ひねえ。そこで俺は雑炊と一緒に泌々涙を食つたものだ。するてえと、だうだ。不思議にポロリと又ひとしづくこぼれたな",
"いけないねエ、旦那。センチになつちやア"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
1999(平成11)年3月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文化評論 第一巻第一号」甲鳥書林
1940(昭和15)年6月1日発行
初出:「文化評論 第一巻第一号」甲鳥書林
1940(昭和15)年6月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:北川松生
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "045854",
"作品名": "盗まれた手紙の話",
"作品名読み": "ぬすまれたてがみのはなし",
"ソート用読み": "ぬすまれたてかみのはなし",
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"初出": "「文化評論 第一巻第一号」甲鳥書林、1940(昭和15)年6月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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[
[
"オツネサンかい",
"そうです",
"ちょっとそこで待っててね",
"ハイ"
],
[
"あなたのあつかましさにはもう我慢できなくなりました。今までに一千万円はゆすっているのですよ。私ももう六十七にもなりましたから名誉ぐらいどうなってもかまいません。もう絶対にお金はあげませんから私の秘密をふれまわったがいいでしょう。第一、窓の外から夜中に戸を叩いてゆするなぞとは何事ですか。さっさと行きなさい",
"あとで後悔しますよ"
],
[
"とんだところを聞かれましたね。このことはくれぐれも人に話してはいけませんよ",
"ハイ。決して云いません",
"大川さんはおやすみですか",
"ハイ。高イビキでおやすみでした",
"そう"
],
[
"そのオツネサンは今どこにいますか",
"まだグーグーねてますよ",
"もう十時をまわったじゃないか",
"アンマはそれぐらい寝ても毎日毎日疲れきってる商売よ"
],
[
"そんなこと新聞に書かれちゃ大変だよ。まさかそんなことが起るとは知らないからウカツに喋っちゃッたけどさ。もう何を訊かれても答えないわよ",
"答えてくれなきゃ尾ヒレをつけて書くだけさ。君が悪事をしたわけじゃアあるまいし、むしろ君は一躍有名になって日本中に名を知られるぜ。君を悪く云うどころか、すごい名探偵だなぞと人々がもてはやしてくれるぜ",
"どうしても書くつもり",
"それがぼくの商売だもの、これが書かずにいられるものかい",
"それじゃア仕方がないわね"
],
[
"大川という人、君にゆすりらしい話をしたことがあったかい",
"まさか自分はゆすりですッて云う人ないと思うわよ",
"すると君は大川が眠ると部屋をでたんだね。そのとき鍵をかけずにでたわけだろう",
"あたりまえさ",
"大川の隣の部屋には誰が泊っていた?",
"誰も泊ってる様子はなかったけどね",
"ところが隣室と同じようにフトンがしいてあったらしいのだがね",
"それじゃア今井さんかな。大川さんと今井さんはお揃いで東京から来て泊ることが多いんだがね。私はしかしゆすりの男が今井さんだったと云うつもりはないんだよ",
"大川は君に鬼女の面をつけさせてアンマをとるぐらいだから時々みだらな素振りを見せたかい",
"それぐらい用心深い人だから、そんなことしたことないにきまってるよ。そんなことまで尾ヒレをつけられちゃアこまるじゃないか。注意しておくれ",
"ヤ、すまん。君に変な素振りをするようじゃア乃田の奥さんと何かがあっても不思議じゃないと思ったからだよ。つまり隣室のフトンが奥さん用かという意味さ",
"バカバカしい"
],
[
"隣室との間のドアの鍵はふだんかけておくのですか",
"いいえ、私たち洋館のドアの鍵はかけない習慣でした"
],
[
"ずいぶん探偵小説をお持ちですね",
"愛読書です",
"昨夜の十時半ごろですが、ある男が母堂を窓の外からゆすっていたというのですよ。母堂が答えて云われるにはもう一千万円もゆすったあげくまだゆするとはあつかましい。もう名誉もいらないのだからみんなに秘密を云いたてるがよい。ビタ一文もだしませんとね。すると窓の外の男がいまに後悔しますよと云って立ち去ったそうです",
"そんなことを母が云ったんですか",
"いいえ、偶然きいた人がいるのです",
"そうでしょうな。人が邸内で変死した当日にそんなことがあったと自分で云う人間がいたらおかしいです。またそんなことのあった直後に人を殺すのもおかしいでしょう。ましてゆすられてるのを人にきかれているのにね",
"探偵小説の常識というわけですか",
"まアそうです。母も探偵小説はかなり読んでる方ですよ",
"あなたはへんな男が門を通るのを見かけなかったのですか",
"ぼくは九時ごろからパチンコやって、その時刻ごろにはウドン屋でウドンを食べていましたね。この小僧君が小田原の夜学から戻った十一時ごろ偶然道で一しょになって帰ってきたのです。あなたはぼくがそのゆすりだと仰有りたいのかも知れないが、あの母から一千万円もゆすれる腕があれば高利貸しで失敗なぞするはずありませんよ",
"すると母堂からゆするには高利貸し以上の腕が必要だと仰有るわけですね",
"まアそうです。どんな秘密か知りませんが、その秘密をつきとめる以外には手がないと思いますよ。もっともその秘密が軽々しく判明するぐらいならゆすりも成立しないわけですね。特に母の口からはきくことができますまい"
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"お宅には鬼女の能面がいくつもあるのですか",
"そうですね。能面はたくさんありますよ。ウチでは父も母も仕舞い狂ですから能面は実用品です。日本で最優秀というべき面もいくつかあるはずです。鬼女の面も三ツや四ツはあるでしょうね",
"焼死体のあった部屋にも鬼女の面があったそうですね",
"あの別館には高価なものはおかないはずですが、何かそのような物があったかも知れません"
],
[
"他に誰かゆすっていたような様子はありませんでしたか",
"そうですね。株ですった金だけでも何億でしょうから一千万ぐらいは右から左へどうにかなってもハタから分りゃしませんね。ゆすられるような秘密は他人には知ることができないからゆすりの種にもなるわけで、そういう私生活の方面のことは見当がつきませんね",
"息子の浩之介という人はどれぐらいの資金をもらったのですか",
"ちょッとした山林ですよ。時期がよかったからすぐ二三千万の金になったようですが、高利貸しをはじめてからはたちまちダメになる一方でしたね",
"乃田家の財産は現在どのぐらいあるのですか",
"今ではスッカラカンですよ。今度売れた千八百万のほかにはその半分も値のなさそうなのが一ツ二ツで、あとはあの家屋敷だけです。むしろ骨董品にいくらかあるかも知れませんが、実はめぼしい物はもう大方売ってしまったようです。その方にはぼくらはタッチしませんから知りません"
],
[
"家屋敷の抵当があることですから借金返済を催促したようなこともなかったのですが、また、むしろそんなわけですから百万円だけうけとるわけがないように思えましてね。奇妙なことだと思っておりましたのです",
"御主人は今井さんとずッと懇意にしておられたのですか",
"今ではお勤め先もちがっておりますし年齢のひらきもありますので、乃田さま以外のことではあまり交渉もなかったようです"
],
[
"辻さん。ぼくは薄気味わるくってあのウチを逃げだしたんですがね。ぼくの話が役に立ったら就職世話してくれますか",
"新聞社というわけにはいかないかも知れないが、役に立つ話なら今の何倍もいい会社なり商店へ世話するぜ。どんな話だ",
"ゆうべのことなんですよ。夜中の十二時なんです。庭番の爺さんがそっと庭の方へでて行く姿を見たから、怖い物見たさでぼくそッとつけたんですよ。するとね、ぐるッと庭をまわって奥さんの部屋の窓をたたくんです。そしてね、奥さんから何かを受けとって何かをやったんです",
"それで",
"そのとき爺さんは低いつぶれ声で外国語の咒文のようなことを云ったんです。ラウオームオー。そうきこえたんです",
"ラウオームオー",
"そうなんです。長くひっぱる発音でそう云ったんです。たしか、そうきこえましたぜ",
"奥さんは?",
"何も答えません。品物を改めて窓をとじてしまったのです",
"品物の形は?",
"それは分りませんが本か雑誌のようなものでしたね。爺さんの受けとったのもやはりそんなものでしたが、あとで分ったことでしたが、これは札束でした。二百万円です。この日三百万円の火災保険がはいったものですからその一部分です",
"どうしてそれが分った?",
"今朝になって婆さんが堂々と云うんですよ。奥さまから退職手当に二百万円いただいたから郷里へ帰って小さな店をひらこうなんてね。それをきくと浩之介旦那が血相かえて奥さんの部屋へビッコをひきずっていきましたがね。ボンヤリと戻ってきました。奥さんからもたしかに退職手当に与えたものだと云われたのでしょう。ゆすっていたのはアイツか、信じられない、と呻くようにつぶやいて、どこかへ出かけましたのです。でね、ぼくは荷物をまとめて逃げだしてきたんですよ",
"意外きわまる話だね",
"あのウチにはまた何か起りますよ。とても怖しくて居たたまらなくなったんです"
],
[
"やア、新聞屋さん。あの小僧の注進がありましたかい",
"まさにその物ズバリだね。二百万円の退職手当だってね",
"そうなんです。なんしろこちらへ御奉公してかれこれ三十七八年ですからね。よそはそれ以上の退職金をだしますよ",
"そんなことを人の耳に入れなくたっていいじゃないか",
"自慢話ですよ。正式にいただいたものを隠すことはないですよ",
"真夜中に窓の戸をたたいて秘密にいただき物をしてもかい",
"下郎は庭から廻るものと相場がきまったものですよ"
],
[
"オツネサン、この声に聞き覚えがないかい。爺さんと話をしてよく聞きわけておくれ",
"アハハ。私はね、あの晩は九時から十二時まで八百常で将棋をさしてましたよ。オツネサンの聞き覚えのはずがないよ"
],
[
"低くってただ一言のききとれないような声だからね。もう無理ですよ",
"そう、そう。まさに、その通り、オツネサンのきいた男は何と云ったね",
"いまに後悔しますよ、と云うんだけど",
"では私がそれをやってお目にかけよう。低い声で、いまに後悔しますよ、とね"
],
[
"どうも、あの記事は残念でしたね。新聞記者は書きたがる悪癖があっていけませんよ。ああいうことは伏せておいて様子を見るのが賢明です",
"しかしそれを教えにきて下さったのは曰くがあるからでしょう。あれを退職金授受の思い出の茶番にされて泣くにも泣けない気持ですよ",
"それはあなたの名文の罪もあるね。外国語の咒文のようなはひどすぎますよ",
"じゃア何ですか"
],
[
"君が後をつけたことが爺さんに知れたらしいが、それを気づかなかったかね",
"いま考えると婆さんが見ていたのだと思うんです。家の前を通りますから",
"茶番のような受け渡しをやってる時は気づかれていない確信があるのだね",
"そうです。その時は絶対に気附かれていません",
"窓の戸を叩いた音はどれぐらい。かなりの音かね",
"かなりの音です。聞き耳をたててると二三十間さきでも聞きとれる音ですね",
"跫音は?",
"これも忍び足ですが音はわかりました",
"それでは窓をあける音は?",
"これはかなりの音ですよ",
"窓をあけた幅は?",
"四五寸ですね",
"部屋にあかりはついていたね",
"そう明るくはありません。小さな豆電球のスタンドかと思いました",
"奥さんはずッと無言だね",
"そうです",
"ヤ、いろいろ分りました。それから浩之介さんのことですが、事件の晩十一時ごろ道で会って一しょに帰ってきたのは本当ですか",
"それはまちがいありません。熱海銀座と駅から山を降りてくる道のぶつかるところがあるでしょう。ちょうどあのへんを山手の方へ歩きかけていたのです。あのへんから乃田さんの邸まではまだかなりの道です。それで登り坂ですから、ビッコのあの人の足では相当の時間がかかるんですよ",
"火事の時はねていたのかね",
"ええ、消防車がきて叩き起されるまで知らずにいました",
"それでいろいろ分りかけてきたが、そんなことをした理由はなぜだろうね",
"ぼくがですか",
"失敬失敬。むろん君ではない。ある人がだよ。むずかしいことをしているわけがね",
"それは誰のことですか"
],
[
"ここは海沿いで海の音が耳につくから山手の静かな宿をとっておきました。もう仕度もできております",
"海沿いではいけないのですか",
"そうなんです。音に関する実験ですから"
],
[
"こんばんは",
"ちょッとその部屋で待っといで。いますぐ話が終るから",
"ハイ",
"どうも君はいけませんね。今夜はこの静かな部屋でアンマをとって休息したいと思っていたのに、案内もこわず隣室から潜り戸をあけてくるとは。すぐ帰っていただきたいと思いますね",
"それはとんだ失礼をいたしました。そういうこととは知りませんでとんだ失礼を。では、おやすみ",
"おやすみなさい"
],
[
"さア、さア、これで無礼な客が退散しました。オツネサン、おはいり",
"ハイ"
],
[
"オツネさん、いまのお客を知っているかね",
"さア、声だけでは分りませんが、私の知ってる人ですか。この旅館へくる人でね。それじゃア小田原の河上さんでしょう。ナマリで分りますよ",
"あの人は跫音のない人だね。出て行く跫音がきこえたかい"
],
[
"ね、辻さん。私もこんなことだと思いましたよ。せんだって私の一人言を他人の声とカンちがいしたのを見た時からこの実験の結果だけは分っていたんです",
"あら辻さんですか。部屋を出なかったのね。道理で跫音がきこえないはずだ",
"なるほど面白い実験でしたね。しかし益〻わけが分らなくなりました",
"それなんですよ。あの奥さんは能もやれば長唄もやる。声の変化は楽にだせる人です。男の作り声ぐらいは楽なんですね"
],
[
"そうだと思うね。だからお前さんは戸のしまる音はきいても、戸のあく音はきかなかったと思うね。おんなにノロノロと壁づたいに長の廊下を道中してくれば戸のあく音はきこえるはずだが、つまり戸はたぶんお前さんが別館をでる前からあいてたのだ。そしてお前さんを待っていたのだろう。戸がしまれば立ち去る音はきこえなくともどうでもいいように、これを蛇頭にして蛇尾と云うのかも知れないがオツネサンにとっては龍の胴だけあれば思考が満足してるんだね。そこがお前さんのヒガミの少い気立てのよいところだがね",
"私ゃはずかしくなりましたよ"
],
[
"なるほど",
"奥さんは後日に至って爺さんにゆすられることを察していたから天性のお喋りで秘密の保てないオツネにわざとそれを聞かしておいたんだと思いますよ。爺さんのアリバイは十二時までですから奥さんの作り声の件が解決すればアリバイはないわけです。火事は一時四十何分かに発見されているんですからね。つまり奥さんの作り声は容疑者のアリバイをみだす役目も果していたのです",
"その着眼は面白いですね",
"そこで爺さんは大役を果してしかもカバンの百万円には手をつけないような殊勝なことも果しました。その百万円をトリック代として二百万円は当然でしょう。ところが奴め稚気があるから、わざと窓の外から戸をたたいてラウオームオー、つまりカラ証文とイヤガラセを云ったんじゃないですか",
"カラ証文。いいところを見てますね",
"カラ証文の受取りとひきかえに苦りきった奥さんが二百万円渡した。これはたしかに渡さなければならぬ金です。どんなにからかわれてもこの金をやって追いだす以外に手がなかった",
"そうですか。それではもう一度、あなたの支社へ参上してあの小僧に一言きいてみることに致しましょう",
"まさか小僧が犯人ではありますまいね"
],
[
"そうですねえ。ぼくは夜学で夜ふかしして朝が早い方ではありませんし、奥の人たちもみなおそいんです。結局新聞の投げこまれるのが爺さんの窓口からですし、あの夫婦は早起きだからぼくらが起きる前に面白そうな記事は全部暗記しているほどですよ",
"あの邸に辻さんの新聞もはいっていたろうね",
"むろんです。奥さんは株をやってますからたいがいの新聞は目を通していました"
],
[
"これですよ。解決の緒口は。爺さんは事件の翌々日も誰より先に新聞を読んだに相違ないのは毎日の習慣ですから当然考えることができます。あなたがあの朝の記事で報道するまでは警察も他の新聞もオツネのことを忘れていました。過失死か自殺と考え、アンマの話なぞ聞く必要もないと思っていたわけです。だから辻さんだけがその前の日に取材にきても警察がほぼ過失と定めていることだし、犯人もさほど気にしてはいなかったでしょう。特に犯人は一ツのことを知らなかった。死体の部屋にあった能面のことを知りませんでした。あなたもその能面についてきいたでしょうが、興味本位のきき方で、事件と深く関係を結ばせて取材しなかったんじゃないですかね",
"そうですね。そういう訊き方はしなかったようです。被害者が鬼女の面をアンマにかぶせて、もませていたという傍系的な興味を一ツつけ加えるのが楽しみのための取材でしたね",
"そうですよ。ところがあの日の記事を読むとそうではない。一ツ見落してはならぬことが書いてあります。あの日もオツネは鬼女の面をつけてもんだ。もみ終えて面を卓上へおいてドアの鍵をかけずに退出したと書かれている。もしこの能面が邸内のどこかに焼けもせずに在ったとすれば、その所持する人や所持しうる人が犯人であることは明かではありませんか。朝起きは三文の得とはこれですな。庭番の爺さんは誰よりも先にこれを読んだ。そして毎日邸内や庭園内を掃除にまわっていますから、室内や園内のどこに何があるかは誰よりもよく承知です。どこかでそれを見ていたとすれば、そしてそれをまだ人々が新聞をよまぬさきに手に入れたとすれば、これはゆすりの材料になりますよ。二百万円は安いぐらいだ。つまりあの爺さんのゆすりはあなたの記事ができた日にはじまった新商売にすぎなかったわけだ。ほとぼりのさめかけたころ本格的にゆすりはじめて退散したわけですが、彼が奥さんに二百万円とひきかえた品はラウオーモンやカラ証文ともちょッとちがって、羅生門、たぶん羅生門の鬼女の面ではないのですかね"
],
[
"それで多くのことが明かとなりましたが、奥さんが作り声をしたことや能面を持ち帰ったわけは?",
"それにはいろいろな説明がありうると思いますが、探偵小説などを読みますと、特に西洋におきましては、女が悪者にゆすられている場合、絶対にノーコメントで押し通すことができて、またその秘密を知って女を護衛する立派な男なぞが逆にそこをつかれて女と一しょにいたためにアリバイを立証できなくなる例が多いのですね。そこを逆用してノーコメントの手をあみだすつもりだったかも知れませんよ。ちょッとした手だと思いますよ",
"なるほどねえ。新聞もゆすりの件で彼女のノーコメントに一目おいてる傾向がありましたね",
"それなんですよ。次に面の件ですが奥さんは鬼女の面をかぶり顔を隠してやったんじゃないですかね。そしてドアの鍵をかけたり、火をつけたり、またドアの鍵をかけたりして夢中に逃げて、鬼女の面を自分の部屋までつけたまま持ち帰ったのかも知れません。だから爺さんが何かとひきかえに二百万せしめたあの記事が新聞紙上にでなければ、ひょッとするとその能面に再会できたかも知れませんが、もうその見込みはないでしょう。要するにあらゆる物的証拠が失われているわけです"
]
] | 底本:「坂口安吾選集 第八巻小説8」講談社
1982(昭和57)年11月12日第1刷発行
初出:「小説新潮 第九巻第三号」新潮社
1955(昭和30)年2月1日号
入力:高田農業高校生産技術科流通経済コース
校正:小林繁雄
2006年9月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"その人は何かね。怪我をしたのかね",
"いいえ、疲れて、ねているのです",
"矢口国民学校を知っているかね",
"ええ、一休みして、あとから行きます",
"勇気をだしたまえ。これしきのことに"
]
] | 底本:「坂口安吾全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年3月27日第1刷発行
底本の親本:「白痴」中央公論社
1947(昭和22)年5月10日発行
初出:「新潮 第四十三巻第六号」
1946(昭和21)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:砂場清隆
校正:伊藤時也
2005年12月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"年が違いすぎるせいでしょうか?",
"子供が三人もいるせいでしょうか?",
"家業がお気に召さないのですか?",
"私がふとりすぎているせいですか?",
"頭がはげているせいですか?"
],
[
"私はあなたを立派なお方と尊敬いたしておりますが、元々私はワガママなのです。それが原因の全部です。私なんかと結婚なさると、あなたは迷惑なさるばかりよ",
"その迷惑なら一向に差支えありません",
"ワカラズ屋ね。女に甘すぎてはいけませんわ",
"悪いところは順次改めるように致しますが、とにかく、これを御縁に、しばらく交際していただけませんか",
"無い縁と見切る方が、ムダが省けてよ",
"そこをまげて当分御辛抱ねがいます"
],
[
"あなた、結婚の意志がないんなら、オヤジの呼びだしを拒絶して、当分身を隠した方がいいと思うな。オヤジ、今に大病になるよ。殺人が犯罪なら、人を大病にするのも犯罪だと思うがなア",
"脅迫するわね",
"オヤジを大病にして面白がっているのなら、悪魔派だね。その趣味もわかるけど",
"そんな悪趣味じゃないわよ",
"とにかく、オヤジはダラシがないねえ。ボクだって、もしボクが女なら、あの人物の求婚は拒絶すると思うな。この際ハッキリ拒絶した方がオヤジのためにも良いですね",
"本当? じゃアあなた私が拒絶したあとの責任もって下さる?",
"そんな責任もてないですよ。責任は責任、それは各人ハッキリしなければいけません",
"ずるいわね",
"じゃア、一思いに結婚して下さいな。ボクは本当はその方を望んでいるんですけど、あなたに悪いと思ったから、遠慮してたんですよ",
"結婚すれば、私あなたの母親よ。あなたのようなナレナレしい倅なんて、変だわね",
"それは違いますよ。あなたはオヤジのオヨメサンにすぎないです。ボクの母親では絶対にありません",
"わりきれてるわね",
"それじゃアあなたは、オヤジと結婚する意志がなきにしも非ずですね",
"八分二分ぐらいね。二分の方よ",
"それじゃア脈があるよ。ボクらは一分、むしろ零コンマ一分ですらも、脈のある方に数えるからな。では、もっと、ロマンチックにやるべきだなア。気分をだすべきですよ。オヤジはそれが出来ないのですね。ボクがオヤジに代ってプランをたてましょう。人跡まれな山中へ旅行しましょうよ。あるいは、むしろ、学術的な旅行がロマンチックかも知れないな。オヤジは考古学に趣味があるから、発掘旅行にでもでかけたら、あなたもオヤジを見直すかも知れないな",
"考古学? 探険するのね?",
"そうかも知れない",
"面白いわね",
"じゃア、それにしましょう"
],
[
"両白いことがありますよ。お父さんは都会で初音サンとつきあってると、今にキチガイになりますから、静かな大自然の中へ原始的な旅行なさるべきですね。初音サンも一しょに行って下さるそうですから、考古学の発掘旅行をやりましょう。そして、ボクたちに考古学を教えて下さい",
"考古学? 私がかい。そんなの知らないよ",
"アレ。知ってるよ。以前、土器のカケラみたいなもの、拾って喜んでいたくせに",
"見よう見マネでいくらか興味を持ったことがあるだけだよ",
"それだけあればタクサンですよ。さッそく旅行の目的地をきめて下さい。あまり遠くなくて、しかし、原始的な大自然の中の、しかも温泉があれば何よりですね"
],
[
"温泉旅館は必ずあるんでしょうね",
"そのあたりには霊泉が散在していて、各々旅館はあるらしいよ。ただ、自炊客を主とす、と書かれている",
"それじゃア、ウィスキーや御馳走をウンと持ちこみましょう。ロマンチックにやりましょう。ウンと気分をだして下さい"
],
[
"今日はバスが運転中止でしてね。雨が降るとバスが通れなくなるんですよ。だからハイヤーもムリなんですがね",
"せっかく東京から学術調査に来たんだからムリしたまえよ。こちらは考古学の大先生、この御婦人が助手で、ボクがチンピラ弟子のカバン持ちさ"
],
[
"二三丈の大蛇かムカデでも現れそうな道だね。こんな大荷物を背負ってくるんじゃなかったなア。すこし分散しましょうか",
"カバン持ちの義務だから、ダメよ"
],
[
"オ! 電燈がついてる! 自家発電だ",
"ア! 一組のお客がいるわ!"
],
[
"なかなか美人の娘じゃないですか。ヒナには稀な",
"近くで見ると、どうかしら",
"遠望に限るのかな。油絵だね"
],
[
"やア、ジイサン、出てらア。珍しいな。山じゃアなかったのかい。オイラはまた、誰もお客さんを迎えてやる人がないと思って、出迎えにでてきただよ",
"アッハッハア。ジイサン、旅館の主人でねえか。コンチハしなくては、いかんべい。ただ突ッ立ッてるだけでは、いかねえな"
],
[
"なんで、来なすッたね",
"石器やホラ穴を見学いたしにな",
"その袋、ワラジかね?"
],
[
"石器のあるところも、ホラ穴のあるところも、ただでは行かれないところだね。キャハンにワラジばきでなければダメだね。靴はダメだ。洋服も、二三べんはころんで泥だらけになるのを覚悟に着古したのを着ていくのが何よりだね",
"いま私たちが来たような道かね",
"阿呆な。あれは立派な道さ。ホラ穴や石器へ行くには道がない。手を外したり足をすべらせると、谷底へ落ちて死んでしまうところだ",
"いったい、行けるのかね",
"今まで落ちて死んだ人もいないから、お前様方も、大丈夫だろ。オレは山の仕事があるから案内はできないが、この山のことなら何から何まで知っている年寄りを案内人に頼んであげよう",
"ありがとう",
"ここは鉱泉で、ワカシ湯だから、入浴は朝の七時から夜の九時までだが、日中はあの滝にうたれた方がよい"
],
[
"この旅館は全然原始人の経営ですね",
"それにしては、自家発電もあるし、ワカシ湯もあるし、進取の気象に富んでるじゃないか",
"それでいて、滝にうたせようッて気持が分らないわね",
"そこが本能のアサマシサですよ。自家発電のかたわら、石器も用いているかも知れないねえ"
],
[
"私が行ったらね、彼女はもう着物きてるところだったわ。変に私を見つめるのよ。そしてね、お姉えチャン美人ねえハイチャ、だって。バカにしてるわよ",
"初音サンの態度が悪いからさ。物見高い気持を利巧な彼女に見破られたのさ",
"なにが物見高いのよ",
"まア、止しなさい。私も一風呂あびてこよう"
],
[
"とびぬけて利巧な娘だなんて、笑わせるじゃないか。不良少女だよ",
"そんなこと、あるもんですか。ボクは彼女と話を交したから分ります",
"バカな",
"お父さんは何を見てきたのです?",
"オレが見たのは裸体じゃないから、お前のように目がくらみゃしないのさ"
],
[
"これ食べて下さいとさ。それから、兄さんだけお茶一しょに飲みましょう、だとさ。おいでよ",
"そうかい。待ってよ"
],
[
"モッタイないから、ジャガ芋返しなさい",
"もらッたものは、私の物よ。犬にやっても鶏にやっても、かまやしないでしょう。アッ、そう、そう。あなたにいいものあげるわよ"
],
[
"どう? おいしいでしょう?",
"センベの方が、うめえな",
"これ、桃よ。おいしいでしょう",
"オレのウチの桃はもッとうめえ",
"オウチはどこ?",
"オレが云うても、おめえ知るめえ",
"理窟ッぽいわね。あなたの村の人たち、みんな、そう?",
"オレの村の者は、頭がいいな",
"あんた、ちッとも可愛くないわね",
"東京の者は、こんなもの食べてるのか",
"そうよ。もっと、もっと、おいしいもの食べてるわよ。オセンベだのシャガ芋の蒸したのなんか食べないわよ",
"モンジャ焼知らねえだろ",
"知らないわね",
"うめえぞ。東京の奴らに食べさせてえな",
"あんた、コーヒー好き?",
"アメリカ物はきれえだよ",
"コーヒーはアメリカ物じゃないわよ",
"きッとか",
"そうよ",
"じゃアどこの物だ",
"モカ。ジャバ。ブラジル",
"ブラジルかア。フン",
"ブラジルだけ、知ってたらしいわね",
"ジャバも知ってるよ。リオグランデデルノルデ、知ってるか。知らねえだろ",
"生意気な子ね。あんた、日本の子? アイノコでしょう",
"オレの村は日本一の村だ",
"もう、いいから、帰ってちょうだい"
],
[
"田舎の子供ッて、みんなあんなかしら",
"まさかねえ",
"世間知らずのくせに、全然負けぎらいね。自分の村が日本の中心だと思ってるらしいわね。にくらしい",
"世間知らずと思えば腹も立ちませんよ",
"腹が立つわ。あれは、ほんとにあるのかしら。リオ、何とか、ノル、デル、ノル",
"リオグランデデルノルデ。アメリカとメキシコ国境を流れてる河の名ですよ",
"あら、そうお。アパッチくさい名だと思った。あなたまで変なこと知ってるわね"
],
[
"散歩しましょうよ",
"ハイ。そうしましょう"
],
[
"ワラジと下駄のアイノコだなア。歩くうちに切れそうだ",
"気をつけて歩きましょうね"
],
[
"シッカリして下さいよ。相すみません。あなたを殺すところだった。下駄の鼻緒が切れちゃって、よろけたのです。でも、よかった。アア、ビックリした",
"抱きしめて。手を放しちゃダメ。目がまわる。自分で支えられないわ",
"もう大丈夫だから、シッカリして下さい",
"ええ、でも、そう、にわかに元に戻らないわ",
"ジッと目をつぶッてらッしゃい",
"ええ。耳鳴りがしてるのよ"
],
[
"もう、いいわ。放してちょうだい",
"ほんとに、大丈夫ですか",
"ありがと。もう、いいのよ"
],
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"どうかしたんですか",
"下駄が片ッ方見えなくなりましてねえ。先祖代々履き古してきた家宝の下駄らしいから探してるんですが……",
"探さなくッたッて分るじゃありませんか。たった一枚の板の上ですもの。そこになければ谷底へ落ッこッたのよ",
"どうも、そうらしいですな"
],
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"ボクたちが来るまでは、もっと汚なかったんですッてさ。あのバアサンが堪りかねて、汚い物を始末して、とにかく今のようにしてくれたんだそうですよ。バアサンの孫娘の人、例の美人ね、オ花チャンと云うんですよ。あの人が便所へ行こうとしないから決死の思いで、あそこまでキレイにしたんだそうですよ",
"あれで掃除したの?",
"そうですッてさ。あれ以上はどうにもならないそうですよ。それでね。オ花チャンは今でも便所へ行かないそうですよ",
"どうしてるの?",
"谷底へ降りて、滝にうたれて用をたしてくるらしいですね",
"夜は?",
"夜もそうらしいですよ。バアサンと二人で、ゆうべもおそくなって外へ出て行きましたよ",
"呆れたわね",
"娘らしく、潔癖で、可愛いいですよ",
"潔癖でなくて、悪かったわね"
],
[
"いいわよ、泥んこになったッて",
"それじゃ、ワラジだけ穿きなさい"
],
[
"アッ! 滝壺に人が。ヤ、例の娘だ",
"アハハ。あの娘は滝壺へ用たしに行くだよ"
],
[
"ヤ、大変だ",
"消えたままね",
"ヤ、一夫じゃないか",
"そうよ。一夫サン、シッカリ"
],
[
"アッ! でてきたわ。娘も一しょよ。抱き合って、滝にうたれているわ",
"ウウム"
],
[
"ウウム。キレイだ",
"キレイね",
"大自然だなア",
"そうよ。大自然だわねえ",
"よく生きていたなア",
"ナアニ、なんでもねえだよ"
],
[
"あの娘は死にッこねえだよ。滝のうしろに水の当らねえ隙間があるだよ。そこへ行って、用たしてるだよ",
"なアンだ。用たしに行ったの",
"そうだとも。タシナミのいい娘でなア。日本一の便所見つけただよ"
],
[
"あなた、そんなにお疲れになったの",
"この巨体、この、二十三貫五百……"
],
[
"もう、ちょッと行ってみたいわ。行っていいこと",
"行ってらッしゃい"
],
[
"まッくらで、淋しかったでしょう",
"ここでこのままミイラになりそうな気持でしたよ",
"これが本当のクラヤミね。そして、クラヤミがこんな生命力にあふれているなんて、すばらしいわ。人間の死後がこうかしら。私ね。ふッと運命ということを考えたわよ"
],
[
"どんなもんでしょうね。ワタシのウチは村で一番の旧家だが、あなたの息子とウチの孫娘と、良縁でなかんべかね",
"ヘエ。縁談ですか",
"そうですとも。お互いにまア因果なことで、孫娘もキリョウは日本に一か二か、世が世ならミス・ニッポンですわ。分裂症でねえ。一度は東京の病院へ入院しましたが、治りませんねえ。もう結婚はあきらめていましたが、ここでお宅サマの息子にめぐりあうとは、神様はあるものですわ。ナニ、お互い病人同志なら、ちょうど、よかろ。孫娘もお宅サマの息子が気に入った様子だし、お宅サマの息子はもう孫娘に首ッタケでね",
"ウチの倅は大学生ですよ",
"孫娘も女学校に通ってましたがね。あの病気では、どうせ学校はムダですわ",
"まだ通ってますよ",
"早いとこ、やめた方が得でなかんべか",
"私の倅はキチガイに見えますか",
"孫娘も見えなかろうがね。発作の起きた時でなければ分りましねえ",
"倅は病人ではありませんよ",
"気取ることなかんべ。内輪同志ですわ。それに、あなた、二人はもう出来てるかも知れねえだよ。いずれまた、ゆっくりお話いたすべい"
],
[
"明日の日程は、どうすべね",
"疲れすぎたから、明日は休みたいが",
"そうだ。そうだ。急いでやることはねえ",
"時にジイサン。お隣りの娘は精神病だそうだね",
"当り前さね。今さら気がつくことはなかんべ",
"なぜ",
"この温泉へ家族づれで来る客のうち一人はキ印さね。大昔からキ印の温泉さ。滝にうたれているのがみんなキ印さ。真人間は滝の裏に便所見つけねえだよ",
"なるほど、そうか",
"お宅サマの倅も気の毒になア。ま、ゆっくり養生しなさい"
],
[
"お前、あの娘と肉体の関係ができたわけじゃあるまいな",
"バカにしちゃいけませんよ。ですが、彼女はいいですよ。純で、利巧で、また野性的ですよ。好きですね",
"本当に肉体の関係はないのか",
"イヤだなア。なぜですか",
"今朝滝壺で抱き合っていたじゃないか",
"あの時はおどろいたんです。彼女の姿が滝にのまれて消えたので、ボク滝の下をくぐったのですよ。ヒョイと滝の裏へでると、彼女がいるんです。いきなりボクに抱きついたんですよ。滝の精かと思いましたよ。抱きついて放さないんですね。シャニムニ抱きついたまま滝の真下へ押しこまれちゃいましたよ。妖精そのものの可憐さ、そして野性そのものですね",
"バカな。娘は用をたしてたんだよ。そこへお前が現れたから、ビックリして、シャニムニ滝の中へ押しこんだのだ",
"変った推理をしましたね。嫉いてるね、お父さん",
"お前、下へ行って、木ノ葉天狗かお握りサンにきいておいで。ここが何病にきく温泉で、滝にうたれるのが何者かということをね。そして娘が何者であるか、また念のため、お前自身が何者であるかということもね。その間に私たちは荷造りしているよ。日のあるうちに退散だ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部 第五巻第四号」
1953(昭和28)年11月10日発行
初出:「講談倶楽部 第五巻第四号」
1953(昭和28)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年7月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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"初出": "「講談倶楽部 第五巻第四号」1953(昭和28)年11月10日",
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[
[
"どうしたのだ",
"これこれで、犬を噛み殺してきました",
"ケガはないのか",
"さア、どうでしょうか"
],
[
"よろしかろう。拙者もついでに江戸へでて一服いたすことにしよう",
"大先生まで。ヤ、これは、ありがたい"
],
[
"天下無敵は余計物だ。とりなさい",
"その儀ばかりは相成り申さぬ。天下の旗本が習う剣術だから、天下無敵。この江戸に限ってただの法神流では旗本の顔がつぶれるから、まげて我慢ねがいたい"
],
[
"何者がどういう遺恨で斬りかかったのであろうかなア",
"それは先生が御存知ないだけで、当然こんなことがあるだろうと世間では噂していたほどですよ。江戸の剣術使いは負けた恨みでみんなが先生に一太刀ずつ浴びせたがっているそうですよ",
"それは物騒だな。江戸というところも案外なところだ。教えを乞うほどの大先生がいるかと思ったに、まるでもう子供のような剣術使いばかりでアキアキした。その上恨まれては話にならない。オレはもう村へ帰ろうと思う",
"そうなさいまし。江戸のお弟子はダラシのないのばかりだから、私たち二人でけっこう務まりますから",
"その通りだ。江戸の剣術師範ならお前らで充分だな。それではよろしく頼むぞ"
],
[
"ウーム。残念千万だ。憎ッくい奴は房吉。是が非でも奴めを打ち倒さなくては気がすまないが、オレ一人ではダメらしいから、江戸の大先生に御援助をたのもう",
"それがよろしゅうございます。大先生にたのんで打ち殺してもらいましょう"
],
[
"法神流の房吉か",
"ヘエ、左様で",
"それは容易ならぬ相手だぞ。拙者は試合を致さなかったが、彼に立ち向って勝った者は江戸にはおらぬ",
"それは本当の話で",
"ま。仕方がない。伊之吉の頼みとあれば聞き入れてつかわすが、薗原村に鉄砲はあるか",
"それはもう山中は野良同様に猟が商売ですから、鉄砲はどこの家にもあります",
"それならば安心だ"
],
[
"どこの温泉だ",
"それが私どもには分りません。先生は山中がわが家同然、今日は東にあるかと思えば明日は西にいるという御方で、しかもこの山中いたるところ温泉だらけですから",
"仕方がない。帰宅次第、伊之吉方へ出頭せしめよ。命にたがうと、斬りこむぞ"
],
[
"その方は房吉だな",
"左様です",
"余は江戸浅草に道場をひらく神道一心流の山崎孫七郎だ。門弟中沢伊之吉が大そう世話になったげな。一手勝負を所望いたす",
"いえ、めっそうな。私は未熟者。どうぞゴカンベン下さいまし",
"江戸表に於ての評判も心得ておる。ただの百姓とは思わぬ。その方の高名を慕って、わざわざ出向いて参った。用意いたせ"
],
[
"武芸者が勝負を所望するにフシギはございませんが、ごらんのように相手はただいま湯治から帰宅の途中。おまけに女房まで連れております。いろいろ申し残すこともありましょう。後々までの語り草にも、日を定めてやりましたなら、一そうよろしいようで",
"房吉は逃げはすまいな",
"はばかりながら法神大先生の没後、法神流何千の門弟を束ねる房吉先生です。定法通りの申込みをうけた立合いに逃げをうつようでは、第一法神流の名が立ちません。私も法神流の末席を汚す一人、流派の名にかけても、立ち合っていただきます"
],
[
"茶店の主人の申す通り、定法にのっとり、日時を定めての上ならば御所望通り試合に及びましょう。明日はいかがでしょうか",
"しからば明日夜分の八時と定めよう。中沢伊之吉の邸内に於て試合いたそう",
"承知しました",
"そうときまって結構でした。私のような者の言葉をききいれて下さいましたお礼に、皆様に一杯差上げたいと存じますが、房吉先生は一足先におひきとり下さいまし"
],
[
"法神流の名も大切だが、狂犬のようなものを相手に無益に立ち向うこともない。ここは一時身を隠して、彼らの退散を待つ方がよい",
"せっかくですが、今度だけは腹をきめました。何もいって下さるな"
],
[
"私の村からお前さんのような悪者がでては、私はもう世間様に顔向けできない気持だね。そんな奴がのさばるぐらいなら私はさっさと死にたいから、私の首を斬っておくれ",
"そんな薄汚い首と引き換えにこッちの首が落ちては勘定が合わないね。しかし、せっかくの頼みだから、お尻でも斬って進ぜようか",
"なんという失礼な奴だ",
"アッハッハ。剣と剣の勝負、あなた方が余計な口だしは慎しんでいただきたい"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 15」筑摩書房
1999(平成11)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「週刊朝日別冊 第三号」
1954(昭和29)年8月10日発行
初出:「週刊朝日別冊 第三号」
1954(昭和29)年8月10日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年9月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "はなさけるいし",
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[
[
"てれるから変なのだよ。気取つてごらん。ねえ、胸をそらして威張るのよ",
"やだなあ。小学校の時から胸をそらした覚えがないんだよ、オレは"
],
[
"おれは帰るよ",
"うん、まつて。送つて行くから"
],
[
"ふうん。あいつは性慾がないのかな、虚弱だと、色情もないものかなあ。オレには信じられん。でも、お前だつて、ちよつと、しなだれかゝつて手を握られたりすると、内心は放したくないのだらう",
"さうぢやないのよ。いやらしいと思ふときは、どんな好きな人とでも、いやなものよ",
"ふうん"
],
[
"ミン平さんは私を養つて行けるかしら?",
"ダメだらう"
],
[
"私は結局浮気なんかできないたちよ。あなたを裏切る度胸がないのよ",
"ふうん"
],
[
"なぜ、鍵をかけたのよ。コソドロみたいな、三下奴みたいな、口説き方はしないでよ。あなたみたいな青二才にナメられた口説かれ方がされたくて、つきあつてゐるのぢやないわよ。鍵をあけて、ちやうだい。そして、私の下駄をキチンとそろへて、私を送りだしてちやうだい",
"うん。いづれは、あけてやる"
],
[
"とく! どいて。ひどいぢやないの",
"ぢや、とけ",
"だつて、見てゐる前ぢや、とけないわよ。電気を消して",
"電気か。ふん。消してやる。然し、帯だけとけ"
],
[
"よし。上の着物を一枚ぬげ",
"卑怯ぢやないの、男らしく、約束をまもつてよ"
],
[
"オレはさつき、暗いうちに、クビをかき切つて死なうかと思つてたんだ。然し、奥さんをねせておいて、悪趣味な芝居気も気がさしたからな。まつたく、悪夢だつた",
"ぢや、もう死なないの",
"どうだか、分らん。だが、芝居気は、もうない。オレの死ぬのは自然なんだ。もう生きてもゐたくなくなつただけだから"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「青鬼の褌を洗ふ女」山根書店
1947(昭和22)年12月刊行
初出:「サンデー毎日 臨時増刊号」
1947(昭和22)年5月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
2019年12月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042856",
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"作品名読み": "はなび",
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[
[
"外へ泊るといつても、今日は、それほどの持ち合せもないのでね",
"そんなこと、かまやしませんわよ",
"さうかい。上野も近いしね。浮浪児の仲間入りをするか"
],
[
"やつぱり、私は、ともかく、うちへ行かう",
"おや、里心がつきましたか",
"居所がつきとめられたうへは仕方がないさ。こつちの気持を母に打ちあけて、肚をきめるのはそれからさ"
],
[
"お母さんに男があつちやアいけないのかい",
"だつて、をかしいわよ",
"何が?",
"ねえ、オヂサン"
],
[
"よしてよ。もう、そんなこと、言ふものぢやアないわ",
"だつて、どうせ誰かと泊りに行くのだらう",
"でも、オヂサンとは、だめよ。もう、そんなこと、言つちやいやよ",
"なぜ、だめなんだ",
"なぜでも"
],
[
"オヂサン。お母さんと関係しちやいやよ",
"だからさ。君と泊りに行かうといふのぢやないか"
],
[
"ナアさん。いつそ、あたくしにまかせていたゞけませんか",
"まかせるつて、何をさ",
"あたくし、心当りの家がありますのよ。いゝえ、懇意な家ですから至つて気のおけないところなのです。荷物はあとで、あたくしが運びますから",
"まア差し当つて、そこまで考へることはないぢやないか",
"でも、ナアさん。差し当つて、行くところが",
"だからさ。今夜は浮浪児だよ。ともかく一杯、のみたいね",
"えゝ、ですから、御酒はあたくしの心当りの家で",
"いゝよ、いゝよ。酒ぐらゐはどこででも飲めるのだから"
],
[
"ヒロさん。君はおふくろが生きてゐるのかい",
"いゝえ。あたくしは木の股から生れましたのです"
],
[
"あゝ、さうか、街のにいさんか",
"ヘッヘ。おてまはとらせませんよ。ちよつと焼跡の方へ来ていたゞきませう",
"あゝ、いゝとも。なんでもやらあ"
],
[
"ヒロさん。風をひいたやうぢやないか",
"えゝ、ナアさん"
],
[
"いかゞですか。お身体にさはりやしませんでしたか",
"私もいくらか風をひいたかも知れない。それにしても、私たちは、どうしてハダカなんだらう?",
"あら、ナアさん。あまりですわよ。御存知ないのですか",
"いや、なるほど。あゝさう〳〵。なるほどね、思ひだしたよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「人間 第二巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
初出:「人間 第二巻第一号」
1947(昭和22)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042912",
"作品名": "母の上京",
"作品名読み": "ははのじょうきょう",
"ソート用読み": "ははのしようきよう",
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"初出": "「人間 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2007-01-17T00:00:00",
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"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 04",
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[
[
"久々に会つて、人の悪い洒落を言ふものぢやアないよ。その悪洒落は、深刻といふよりも、残酷だ",
"まアまア、話をみんなきいてからにしてくれたまへ。君でなければならないワケがあるんだから",
"どんなワケがあつたつて、それはダメだよ。娘が恋をしたなら、親のあなた方がさばきなさい",
"だからまづ話をみんなきゝなさい。娘は恋をしたのではないよ。これから恋をするのだよ",
"先生は本当に慌て者ね。小説も慌てながら書いてらつしやるんぢやありませんか"
],
[
"主人がふだんだらしないからこんなことになるんですのよ。おなかゞへつた、ごはんがタラフクたべたい、肉がたべたい、お魚がたべたい、お酒がのみたい、タバコがのみたい、一日中ブツブツこぼし通しなんですもの、だからあの子だつて見てゐられなくなるんですよ",
"アッハッハ。自然に腹の底から出てくる言葉だから仕方がない。見てくれたまへ。こんなに痩せてしまつたぜ"
],
[
"うむ。優秀な娘ぢやないか。アッパレなものだな。マリマリ御夫婦の娘にしては出来すぎてゐる。うらやましい",
"それなんですよ。先生"
],
[
"うちのチンピラは先生の愛読者なんですのよ。私共が説諭を加へますとね、石頭だから新時代が分らないと申しますのよ。タイタイ先生ならそんなふうに仰有る筈ないから、行つてお話うかゞつてちやうだいなんて、ほんとに先生、あさましい作家におなりですことねえ",
"アッハッハ",
"なんですか、あなた。お世辞にも笑つてあげることありませんのよ。それでもあなたは飲み代かせぎに春画を書かうなんて思ひつかないだけ見どころがあるのよ。これを清貧と申しますのよ。ねえ先生。うちのチンピラは、どんなにダラクしても、先生がついてるからいゝんですつて。先生は道徳でも法律でも釈迦でもキリストでも、昔のものなら何でもやりこめる力がおありなんだから、先生の仰有ることを信用してれば、今にコチコチの石頭はみんな懲役につれて行かれて、ダラクした天使だけの楽園がくるのだなんて、先生、そんなあさましいことを、どこへお書きになつたんですか。頼みもしないのに自分の勝手で子供をこしらへて、子供が大きくなつてからあゝしちやいけないかうしちやいけないなんて、子供をこしらへる前後のことを考へたら羞しくなりませんか、なんて、先生、よくまアそんなあさましい入れ智恵をなさつたものねえ",
"それは見上げたものだ。真理ぢやないですか。そこであなたはどういふ言葉で答へましたか",
"どういふ言葉もあるものですか。夫婦だのパパだのママだのと偉さうな顔をせずに、よそのオヂサンやオバサンたちと恋愛でもしてみたらいゝのに、だとか、離婚したこともないくせに一人前の顔をするなんてバカバカしいや、だなんて、先生の御本にはちやんとさう書いてあるんだなんて申しましたよ。女房よりはオメカケの方がはるかに高い生き方だなんて、先生、よくまアそんな",
"分りました。思想に於て拙者の高弟といふわけですな。実践の事実に就ておきかせ下さい",
"その方面がどういふものだか、僕らには分らないんでね。たゞ娘の宣言によると、これから恋愛をはじめるさうでね、してみると、まだ恋愛はしてゐないといふことになる。そこで君にお願ひに上つたわけで",
"お願ひだなんて、あなたは勝手なお喋りはよして下さい。私はお願ひなんて致しませんのよ。私は先生に要求しますのよ。先生、うちのチンピラを昔の娘にかへしてちようだい。断じて。絶対に。私は承知しませんよ",
"それは無理ですな。時間はこれをかへすあたはず、です",
"時間ではありませんよ。娘ですよ",
"その方でしたら、こゝにもう一人お生みになつて、理想的に育て直すことですな。失敗作はやむを得ん、これに手を入れてみてもタカが知れてゐるので、全然新しくやり直す、いや、別個の作にとりかゝる、これが文学の方法です",
"文学ではありませんよ。娘ですよ。私みたいなお婆さんに子供が生れるものですか",
"よろしい。しからば拙者があなたの失敗作に筆を加へることに致しませう。しかし、おことはりしておきますが、私は私の文学を偽ることはできないのだから、あなたがかうして欲しいといふ筆の入れ方は私にはできない。私のやり方は、あくまで、私の作品として間違つた点だけ直す。私の思想を曲解してゐる点だけ直す。そのために、あなたの期待とあべこべの結果になつて、あなたの判断では今よりもひどいダラクと思はれる方向へ行くかも知れぬ。それを覚悟の上なら、拙者が存分に筆を入れませう",
"そんなバカなことがあるものですか。あなたの思想は全部ろくでもないのですから、全部けづつて昔の娘にかへして下さい。つまりあなたは娘に会つて、タイタイ先生の思想は邪教だから気狂ひ以外はマネちやいけないと教へて下さらなければいけませんよ。断じて、絶対、あくまで",
"璽光様ですか。あれは偉大なるものだ。僕は遠く及ばんです。双葉山は璽光内閣の厚生大臣ださうですが、僕などは文部省の風教課とか何とかいふ小役人にすぎないので",
"まア君、一度娘に会つて君独自の観察で娘の生態を見きはめてくれたまへ。さすれば、おのづから君の結論も生れてくるわけだ。その結論に期待してゐるわけだから"
],
[
"アラア! タイタイ大先生! まア嬉しい! どうしてこゝが分つたの。パパとママが行つたんでせう。そして、先生、パパとママにお説教して下すつた?",
"イヤイヤ。お説教されたんだ",
"あらゴケンソンね、大先生。私は先生のファンなのよ。弟子入りしようと思つたけど、女流作家になるのは嫌ひなんですもの。私ね、女流作家と男のお医者がきらひなのよ。あら、忘れちやつた。マダム、この方、タイタイ大先生よ",
"まア。こんなむさぐるしいところへ",
"イヤイヤ。大変明快でよろしいです",
"先生、ウヰスキー召上る",
"イヤイヤ。カストリ焼酎",
"あら名声にかゝわつてよ。私のお友達つたらタイタイ大先生はとてもスマートな青年紳士と思ひこんでゐるんですもの。私もほんとのことは教へてやらずに思ひこませておくのよ。だからウヰスキー召上れ",
"イヤイヤ。カストリ焼酎"
],
[
"なんだつて本当のことを言はないのだね。その方が両親は安心するのに",
"あら先生のお説ぢやなくつて。本当のことはくだらないつて。さうよ。本当のことなんて、みぢめだつて、先生書いてらしたぢやありませんか。その流儀よ、私も。嘘つて、悪いことぢやないんですもの。あら、マダム、マダムにも嘘ついてたけど、ごめんなさいね。お父さんが病気で働く人がゐないんだなんて、でも本当は病人みたいなものよ、昔をなつかしむばかりで、今を咒ふばかりで、今の中に生きることを知らない人は病人よ",
"うむ。当つてゐる",
"さうでせう。先生の流儀はみんな暗記してるんですもの。私は貧乏がきらひなのよ。パパもママもその流儀のくせに、没落階級つて、ひねくれて、すねるばかりで、みぢめなものなのね。自分の流儀を忘れてしまつて、ブツブツ不平をこぼすことしか知らないのですもの。だからタイタイ大先生からウンと御説教していたゞくといゝのよ。して下すつたでせう、先生のことですもの",
"ところがダメなんだよ。あべこべにやられてしまつて。実は君、タイタイ大先生ともあらうものが羞しい話だけれども、こゝに一大強敵があつてね、女房といふ傲慢無智な階級に対しては、なんとしても敵し難い。煮ても焼いても食へないといふのは、あの連中だ。物の理はもうあの連中の耳にはとゞかないんだね。いかなる悪漢も改悛の余地はある。しかし、女房はもはやない。だからタイタイ大先生はコン棒をぶらさげてエロ文学ボクメツに乗りこんでくる暴力団はまだしも怖れないけれども、女房はダメだ! たつた一人でも怖しい。敵しがたい。常に無慙に敗れ去り、いまだに勝つたこともなく、死に致るまで、勝つ見込みもない",
"よく分るのよ、先生。でも、先生は男でせう。どう間違つてもあんな化け猫になる筈ないから安心ですもの。私たちときたら、うつかりすると自分が化け猫になつちやうのですもの。私たち、さう自信があるわけでもないでせう、とてもなりさうな気がするのよ。その不安、嫌悪、憎悪といふのね、これも先生のお言葉よ、察してちやうだい。悪戦苦闘してゐるのよ",
"まことに同憂の至だ。時に先刻からお客が一向に現れないが、いつもカンサンかね"
],
[
"君は八百円も持つてゐたさうだね",
"あら、ほんとは千三四百円あつたのよ。自分で使つちやつたのよ。始めはきまりが悪かつたけど、だつて、さうですもの、こつちで何もあげないのに、あら、ほんとよ、セップンぐらゐさせてあげないといけないのかと思つちやつて、マッカになつちやつたんですもの",
"あらまア、あのときは、それでマッカになつたのね",
"えゝ、まア、そんなものなのよ"
],
[
"そのお客は若い人かい",
"四人ゐるのよ、私にチップをおいてく人はね。一人は、おぢいさん。一人は、やつぱり、おぢいさんだ。次の一人は、帽子屋だけど、これもおぢいさんね。みんな先生ぐらゐの年配ね。あら、先生、ごめんなさい。おぢいさんぢやなくつて、オヂサンだ。だけど、私は若い人よりオヂサンたちが好きなんですもの。それに酔つ払ひが好き。なぜなら酔つ払ひは怖くないもの。酔はない男はとても怖いわ",
"あら、あなたはそんなことを云つて、いつといゝ人をごまかしてゐるのね。ずるいわ。それもタイタイ先生の流儀?",
"まア、お待ちなさい。順に述べて行くのですから"
],
[
"三人のオヂサンのほかに、もう一人チップを下さるお客様は、これがどうも、来てくれないかな、説明ができないのですもの。タイタイ先生に見ていたゞきたいわ",
"それなんだね。君がこれから余は恋をするであらうと言つてパパママに宣言したといふ対象は?",
"えゝ。でもその方一人ぢやないのよ。私、恋をするとき一人だけぢやイヤなんですもの。三四人、一緒にやりだすつもりなのよ。一人ぢや物足りないでせう。でもまだ今のところ、その方と、そのほかに一人。二人だけでせう。あと二三人手頃なのが揃つてから、やりだすのよ",
"大いによろしい。双手をあげて賛成だな",
"さすがだなア、タイタイ大先生は!"
],
[
"時々くるお客さんがくれたのよ。神代から伝はる貴重な名薬ですつてさ",
"ほゝう",
"エモリの黒焼よ",
"エモリの黒焼か。これが",
"飲んでみる?",
"イヤイヤ。これは、たしか、飲むものではなかつた筈だ。何食はぬ顔で相手の後姿か何かへふりかける筈のものだ。惚れない人を惚れさせる薬だから、飲ませるチャンスはないのだよ",
"飲ませれば、尚きくでせう",
"四五人取揃へたあかつきに、これを飲ませるつもりかい",
"さうぢやなくつてよ。その一人一人から、私の方が飲ませてもらうのよ。なんとかならないかしら。今のところ、自信がないのですもの。先日、駅まで送らせて、手を握らせてみたのだけど、気持のわるいものなのね。なんとなく、うるさくなるばかりなんですもの。むかむかしちやつて、横ッ面をヒッパタきたくなつちやうのですもの",
"それでは、かへる"
],
[
"さすがに大先生は気前がいゝのね。困つちやつたな。私、先生にエロサービスしようかなア",
"エロサービスは大先生の趣味ではない"
],
[
"エロサービスはもつぱら愛情によつてなすべきものだ。これを金額に応じてなすべきものではない。これはすでに亡びたる昔日の道徳にすぎない。もとよりマノン・レスコオが恋人であるタイタイ大先生の見解によれば、エロサービスは金額に応じてなさるべきものである。しかしかゝるエロサービスは当人が天来の技術者であり芸術家であるときに成りたつのであつて、文学に於けるが如く、エロサービスに於ても、天分なきもの、又、天分の開花なきものが、この道にたづさわつてはいけないものだ",
"私、先生のガマ口の中味を横目でにらんぢやつたのよ。さすがにお金持なのね。をいしいもの、御馳走してちやうだいよ",
"よろしい。支度をして出てきなさい",
"アラ、うれしい"
],
[
"時々こんなことをやるのかい",
"大先生だけよ",
"それにしては、なれたものだ",
"天才があるのよ。分らないのかなア、先生は"
],
[
"先生、エロサービスの酒場へ行きませうよ。凄いお店の名前、三軒きいて暗記してゐるのよ",
"お待ちなさい。エロサービスは大先生の好むところだけれども、エロサービスにも色々とある。天分あるもの、技術の修練高きもの、天分ありながら未熟なるもの、ボンクラなるもの、その他、無数の差別段階があるなかで、大先生のお気に召すエロサービスはめつたにない。大先生ほどの進歩的な時代感覚の所有者になると、大先生はもはや物によろこぶといふことがない。満足することがない。たのしむことがない。大先生がこれぞ最上の妙味と称して珍重するものは、退屈しないといふことなんだな。君はさつき大先生にセップンしたが、セップンも一つの方法としてはよろしいが、セップンそれ自体がエロサービスだといふ観念は浅薄通俗、大先生の学説以前のものだ。大先生はエロサービスも好きだけれども、一人でねころんだり、旅行に行つたりするのも好きだ。さういふ時には一人といふものゝなかにも、なつかしいエロサービスがあるのだね。ほんとのエロサービスとはさういふもので、存在自体をむやみにひけらかすよりも、邪魔にならないといふこと、更に極上のものは退屈させないといふことだ。分りましたか",
"先生"
],
[
"君のお店まで送つてあげるから別れよう",
"えゝ"
],
[
"先生も案外ウブなのね",
"学説に反したかね",
"反した方がいゝのよ、あんな学説。私、ほんとはダラク、きらひよ。先生も、ダラクしちや、いやよ",
"よろしい。しない",
"まア、うれしい"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
初出:「オール読物 第二巻第六号」
1947(昭和22)年6月1日発行
※底本のテキストは、著者の直筆原稿によります。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年4月20日作成
2016年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042863",
"作品名": "破門",
"作品名読み": "はもん",
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"初出": "「オール読物 第二巻第六号」1947(昭和22)年6月1日",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2009-06-19T00:00:00",
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"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
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"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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"底本名1": "坂口安吾全集 05",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
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[
[
"殺人の行われた日の夕刻あの部落を通りすぎるのを見たという者があるが",
"それはデマだ",
"何人も証人があるが"
],
[
"あの部落のも一ツ奥の落合というところに急病人があって往診に行った",
"帰宅したのは何時ごろか",
"夕食をよばれてから辞去したが、おそくとも八時半ごろには帰ったと思う",
"兇行はその日の夕刻から夜半までの間と発表されているが"
],
[
"翌朝兇行の現場へ行ったか",
"里村巡査に頼まれたから行った。村で唯一人の医師として当然のことだ",
"現場に唯一人で居たことがあったか",
"里村巡査が電話して戻るまで、彼の依頼によって一人で残った",
"そのとき何か拾ってポケットへ入れたそうだが",
"デマも甚しい",
"多くの証人がそれを見ている",
"証人の名を言いたまえ",
"多くの少年がそれを見ている",
"それはまちがっている。自分がしたのは着物をもってきて屍体にかぶせたことだ。そのとき着物の間から何か落ちたから、手にとってみるとトランプのハートのクインであった。自分はそれを片隅へ投げすてた。それを誤解したのであろう",
"それを捜査本部へ通告したか",
"通告しない",
"なぜか",
"重要なことではないと思った",
"勝手に屍体に着物をかぶせたり、落ちたトランプを投げすてたりして、現場の様子を変えたことが重要だと思わないのか"
],
[
"もっとも、あなたが手記を書いてくれれば、お見せしますがね",
"なんの手記です",
"つまり、それ、アンタのアレをやったときの手記さね"
],
[
"この投書の主は花井訓導。あげられている証人が全部子供たちなのは、彼が子供に接する職業のせいです。そして、殺人犯人はこの花井です",
"なぜ?"
],
[
"それだけでは花井が犯人の証拠にはならないよ。その程度のことに比べれば、アンタとトランプの関係の方が抜きさしならぬ犯人の証拠さ",
"花井がサヨの情夫だったという証拠がありますよ",
"え? 本当かい?"
],
[
"その乗客はアンタの村の人?",
"いいえ。よその村の者らしいが、その顔は覚えてます",
"どんな男?",
"農夫ともヤミ屋ともつかない四十ガラミの男です。かなり大きな荷物をぶらさげてこの町の目貫通りで降りましたよ",
"ヤミ百姓だな。それなら今日のバスで戻るに相違ない。よし一しょに行こう"
],
[
"とうとうシッポを現しましたね、人見さんは。この人はサヨと情交があったんです",
"え?"
],
[
"僕とサヨが? 何が証拠です?",
"サヨの良人は死ぬ前一月以上もあなたに診てもらっていたでしょう",
"そうです"
],
[
"僕、お宅までお送りします",
"いいえ。おかまい下さらないで"
],
[
"僕は混乱しています。疲れています。どうか三日間休息させて下さい。どうしていいか分らないのです。僕の言葉を考えさせて下さい。何を答えていいか分らないのです。その答を探すことができないのです。混乱しているのです。僕は休息が欲しい。さもないと、死にそうです",
"よろしい。混乱がしずまるまで休息をなさるがよい。あなたの部屋に看護人をつけておきますから、安心して眠りなさい",
"うちに看護婦もおりますから",
"ですが看護人の方が用心にもよろしいでしょう"
],
[
"ちょッとこのトランプのことですが、これはお宅のですか",
"いいえ。僕のところにトランプはなかったと思います"
],
[
"そうです。ハートのクインです。何かお心当りがあるようですね",
"いえ、つまらないことなんです"
],
[
"子供の詩を思いだしたのです。仁吉という子の六年の時の詩だったと思いますが、校友雑誌にのった詩があるのです。その題がたしかハートのクイン",
"覚えてらッしゃいましたら、おきかせ下さい",
"覚えてはおりませんが、雑誌は家にありますから、お見せしましょうか"
],
[
"なぜ盗んだのか",
"これはオレのだ",
"ウソをつくと許さんぞ",
"オレのだ。オレがいつもフトコロへ入れていたものだ",
"お前の云うことが本当だという証拠があるか"
],
[
"お前がいつもそれをフトコロに入れていたことを見て知ってる者がいるか",
"誰にも見られないように用心して隠していたから、誰にも見られたことがない",
"なぜ見られないように隠したのか",
"オレの大事なお守りだから誰にも見せたくなかったのだ",
"どうして大事なお守りなのか"
],
[
"お前がみんな正直に言ってくれれば、おいしい弁当を食べさせてやる。たとえ人の物を盗んだのでも、正直に云えば許してやるし、弁当もまちがいなく食べさせてやるぞ。どうして大事なお守りなのか、それをみんな教えておくれ",
"オレはトランプがほしくてたまらなかった。町の本屋の店にちょうど人が居ないときトランプの箱が目についたから盗んだ。一箱ごと持ってると人にさとられるから、一番好きな札を一枚のこして、あとは川の中へすてた",
"なぜハートのクインが好きか",
"なぜだか知らないが、一番好きだった。そしてオレのお守りにした",
"肌身はなさず持っていたか",
"肌身はなさず持っていた",
"これを失くしたのはいつか",
"なくしたのではない。サヨが死ぬ前に抱かしてくれと云ったから、貸して抱かせてやったのだ。サヨは抱いてポロポロ泣いた",
"サヨが死ぬのを知っていたのか",
"オレが殺したのだ",
"なぜ殺したか"
],
[
"お前はウソをついているのだろう",
"ウソをついているのではない。サヨを殺したから、オレを殺してくれ。オレは死にたい",
"お前は弁当が食べたいのだろう"
],
[
"さっきサヨを殺したと云ったが、あれはウソだろう",
"本当だ",
"お前はサヨと口をきいたことがあるのか",
"サヨはオレに親切だった",
"なぜ親切だったのか",
"オレがサヨの小屋へ食べ物を盗みに行ったら、サヨに見つけられて、逃げるところを後から突きとばされて押えつけられた。なぜ泥棒にきたかと訊いたから、泥棒しないと御飯が食べられないからだとワケを話した。するとサヨはポロポロ泣いて、すまなかった、すまなかった、と言ってオレを抱いた。その日からサヨはオレに親切だった。食べるものがないときはいつでも来いと云った",
"それはいつごろか",
"サヨの死ぬ一月ぐらい前だった",
"お前は時々食べ物をもらいにサヨのところへ行ったのか",
"時々行った。サヨはオレが行くとよろこんで、あれもこれもタラフク食えとすすめた",
"サヨが死んだ日のことを云ってごらん",
"サヨはオレの顔を見ると、お前の来るのを待っていたと云った。そしてこの前見せてくれたハートのクインのお守りをオレに貸して抱かせてくれと云った。それを手渡してやるとサヨは自分の肌につけてポロポロ泣いて、お前に殺してもらうために刃物を用意しておいたと白木のサヤの短刀をとりだして見せた。どうして死にたくなったのかと訊いたら、お前に会ったからだと云った。そしてお前に殺してもらえれば本望だと云ってポロポロ泣いた",
"なぜ本望だか、お前に分るか",
"そんなことは分らないが、サヨの言葉はみんな本当にきまっている",
"サヨが殺してくれとたのんだから、その短刀で突いたのか",
"サヨはオレに短刀を持たせてハダカになった。この腹がいとしくて、いとしくてたまらないから、この腹を突きさいて殺してくれと云った。そして、お前も生きていると、大人になって、大人はみんな悪者だから、そうなる前になるべくお前も死ぬ方がよいと言った",
"お前はなんと返事をしたか",
"返事なんかしない。サヨはオレの返事をきいたのではないから。サヨはオレが大人になる前になるべく死んだ方がよいと教えてくれただけだ。サヨはこの腹がいとしい、いとしいと何べんも云って、なんとも云えない優しい笑顔で自分の腹をさすって見ていた。ヘソのところへ短刀を力いっぱい突きさして、下の方へ引き下せるだけ引き下して腹をさいてくれと云った",
"サヨはねてヘソを指さしたのか",
"立っていた。立ったまま突きさせと云って、オレの手を押えて自分で短刀の位置を定めた。さア、突いておくれと云って、目をとじた",
"その前に、お前に頬ズリをしなかったか",
"そんなことはしない。サヨはいつもオレの目を見ていたし、オレはいつもサヨの目を見ていた。ハダカになってからは、サヨの目はいつも神サマの目のように笑っていた",
"神サマの目を見たことがあるか",
"サヨの目を見ている間、そう思って見ていた。その目が開いているとオレが突けないと思ったのか、さア突いておくれ、と云って目をとじたが、それは一そう神々しく見えた",
"サヨは目をとじて蒼ざめた顔をしたか",
"目をとじたら、一そう神々しい笑顔に見えた。オレはサヨに云われた通り力いっぱいヘソを刺して、それから下へ引いた",
"サヨは悲鳴をあげたろう",
"一度も悲鳴なんかあげない。突き刺したとき、かすかにウッとうめいて、オレが短刀を引き下して抜いてから、よろめいてドスンと倒れた。しばらく苦しんでもがいたが、一度も叫ばなかった。サヨは苦しみながらオレに云った。仁吉は男だ、我慢しろと云った",
"それはどういう意味か",
"痛いのはしばらくだ、じき楽になるから、とまたサヨはオレに云った。そして、しばらくたつと、サヨは本当に楽になって、笑いをうかべた",
"そして何か云ったか",
"その笑い顔が挨拶の言葉だということがオレには分った。そしてサヨは死んだ",
"なぜサヨが殺されているとウソをついて届けたのか",
"サヨがそうしろと教えて死んだからだ。オレは一人で誰にも見せずに穴を掘って埋めると云ったが、そんなことはするなとサヨは云った。生涯生き恥をさらしたから、ハダカの死に姿をさらして死に恥もかきたい、と云った。みんなにハダカ姿を見せたいと云った",
"罪ほろぼしに死に恥をかきたいと云ったのだな",
"ハダカで死にたい、ハダカがいとしい、ハダカを見せたい、とその後で云った",
"お前はサヨを殺したことを後悔しているか",
"サヨは喜んで死んだ。最後にサヨの喜ぶことがしてやれたからオレはうれしい。だからオレはもう死にたいと思う"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 13」筑摩書房
1999(平成11)年2月20日初版第1刷発行
底本の親本:「群像 第八巻第一号」
1953(昭和28)年1月1日発行
初出:「群像 第八巻第一号」
1953(昭和28)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2010年5月19日作成
2011年5月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045934",
"作品名": "犯人",
"作品名読み": "はんにん",
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[
[
"ヤイ、今だつて、会社の帰りに遊んでゐやがるんだらう",
"イヽーダ。知りもしないくせに",
"ヤア坊が言つてたぞ、横浜公園をフラ〳〵してゐやがつたさうぢやないか",
"あんな奴、知つてるもんか"
],
[
"ヤイ、てめえたち、吉原病院で一人として金を払つたためしのないのは、この土地のてめえらばかりださうぢやないか。握つてゐやがるくせに、病気を治してもらつたお金ぐらゐは払つてきやがれ、大恩人ぢやねえか",
"恩にはきるけどね。ほんとに有難いと思つてゐるよ、だけど、払はなくともいゝといふものを払つたらバカぢやないの"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 05」筑摩書房
1998(平成10)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第二巻第八号」
1947(昭和22)年10月1日発行
初出:「オール読物 第二巻第八号」
1947(昭和22)年10月1日発行
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2009年1月26日作成
2016年4月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042876",
"作品名": "パンパンガール",
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[
[
"ほんとか。暁葉子が来てるって?",
"なんで、嘘つかんならんですか",
"なんだって、君は又、暁葉子を追っかけ廻すんだ。くどすぎるぜ",
"商売ですよ。察しがついてらッしゃるくせに。会わして下さい。たのみますよ",
"ま、待ってろ。門衛君。この男を火鉢に当らせといてくれたまえ。勝手に撮影所の中を歩かせないようにな。たのむぜ"
],
[
"暁葉子と小糸ミノリがお目にかかりたいと待ってますが",
"フン。やっぱり、本当か。つれてこいよ"
],
[
"バカめ。これからという大事なところで、一ヵ月も、どこをウロついて来たんだ。返事によっては、許さんぞ",
"すみません"
],
[
"言い訳は申しません。私、家出して、恋をしていました",
"オイ。オイ。ノッケから、いい加減にしろよ",
"ホントなんです。せめて部長に打開けて、と思いつづけていましたが、かえって御迷惑をおかけしては、と控えていたのです",
"ふうン。誰だ、相手は?"
],
[
"私の芸に未来があるでしょうか。どんな辛い勉強もします",
"それが、どうしたというんだ",
"十年かかってスターになれるなら、そのときの出演料を三百万円かしていただきたいのです"
],
[
"葉子さんの愛人はチェスターの大鹿投手なんです",
"やっぱり、そうか",
"家出なさった時から、私、相談をうけて、かくまってあげたり、岩矢天狗さんと交渉したりしたのですが、天狗さんは、手切れ金、三百万円だせ、と仰有るのです。大鹿さんは、昨日、関西へ戻りました。三百万円で身売りする球団を探しに。葉子さんは反対なさったのです。一昨日は一日云い争っていらしたようです。そして、大鹿さんに選手としての名誉を汚させるぐらいならと、社へ借金にいらしたのです。葉子さんのフビンな気持も察してあげて下さい",
"ふむ。大それたことを、ぬかしよる"
],
[
"オイ、ちょッとした話があるんだが",
"なんだい",
"実はこれこれだ"
],
[
"しかしですね。あれが加入すれば必ず優勝しますよ。優勝すれば、安いものです。とにかく、大鹿は三百万の金がいる。三百万必要だから動くんですよ。さもなきゃ絶対動かん選手なんだから、相場を度外視して、三百万そろえて下さい",
"じゃア、こうしよう。とにかく、三百万、そろえれば、いいのだろう。大鹿に百万。暁葉子の出演料の前貸しとして二百万。これで当ってみたまえ。暁葉子の二百万も例外だが、いずれ、返る金だから、あきらめるよ",
"そうですか。じゃ、それで当ってみましょう"
],
[
"実は、暁葉子が昨日社へ現れて、出演料三百万前借させてくれと云うのだな。君が三百万で身売りするのが見るに忍びんというわけだ。しかし、スターならいざ知らず、海のものとも山のものともつかないニューフェイスに、三百万はおろか、三十万でも社で渋るのが当然なわけだ。けれども、君とコミにして、君たちに必要な三百万、耳をそろえようというのだが、どうだろう。君の契約金百万、葉子への前貸し二百万という内訳だ。君の百万という契約金は少い額だとは思わないが",
"御厚意は感謝します。少いどころか、新人のボクに百万の契約金は有難すぎるお話ですが、しかし、ボクもムリと承知で、三百万で身売り先を探しているのです。葉子さんに迷惑かけては、男が立ちません。どんな不利な条件で、たとえば、一生球団にしばられてもかまいませんから、三百万の契約金が欲しいんです",
"なるほど、そうか。君がその覚悟なら、又、話は別だ。それでは、君の意向を社長につたえて、相談の上、返事するから、待っていてくれたまえ。君は、すでに、よその球団へ口をかけていたのか",
"いえ、まだ、どこといって、球団を指定していやしませんが、元夕刊スポーツの婦人記者の上野光子が、関西方面で、フリーの女スカウトの看板をあげてるんです。どこの球団にも所属せず、顔を利用して、ワタリをつけるというわけです。昨夜、上野光子に会って、希望をつたえたのです",
"ふウン。悪いのに、たのんだなア"
],
[
"光子はこの隠れ家を知っているのだね",
"いえ、この家は葉子さん以外は誰も知りません。上野光子とは外でレンラクしているのです",
"そうかい。それは、よかった。光子がカクサクしても、三百万という大金はどこの球団もださないと思うが、かりに、その口があったにしても保留しておいてくれ。すぐ返事をもってくるから",
"ハ。では、お待ちしています。葉子さんに、心配するな、と伝えて下さい",
"よし、心得た"
],
[
"ヤア、御盛大だね。商用かい",
"あら、煙山さんこそ。誰をひッこぬきにいらしたの? 大鹿投手?",
"え? 大鹿が動くんかい?",
"しらッぱくれて。あなたの社の暁葉子と大鹿さんのロマンス、ちょッと教えてよ",
"え? なんだって? 初耳だな。君は、どこから、きいてきたのだ",
"そんなに、しらッぱくれるなら、きかなくッとも、いいですよ"
],
[
"なアに。専売新聞や、桜映画にしたところで、新人投手に三百万だすかい。いいところ、百万だ。ただの五十万でも、ほかの選手から文句がでるだろうぜ",
"しかし、契約の条件によりけりですよ",
"だからさ。最も有利な条件で百万どまりにきまッとる",
"いや、専売新聞に欲しいのは投手です。これは油断ができません。我々に欲しいのも第一に投手。次に三番四番が足りない。もしラッキーストライクに大鹿が加入して、三番にピースの国府一塁手、四番にキャメルの桃山外野手がとれたら、攻守ともに百万ドル。優勝絶対です",
"それは優勝絶対にきまっとる。国府と桃山がとれるかい",
"必ず、とってみせます。百万ずつで、とってみせます。それを条件に、大鹿に三百万、やって下さい。私もスカウトをやるからには、絶対とれないという大鹿をとりたいのですよ。上野光子に負けたくありませんな",
"まア、君、国府と桃山をとってからの話にしようじゃないか。百万ずつで二人がとれたら、大鹿のことも考えてみよう。三人そろえば、優勝絶対だから",
"じゃ、当ってみます。二人がウンと云ったら、大鹿はキットですね",
"まア、二人のウンを先にきかせてくれ",
"よろしい。三日あとに吉報もってきます"
],
[
"ヤア、どうも返事がおくれて失礼した。実はコレコレで、国府と桃山の参加を条件に、その時は君にも三百万出そうと云う。どうやら国府と桃山には成功したから、よろこんでくれ。すぐ取って返して、三百万そろえてくるから",
"そうですか。実はちょッと、間の悪いことができたんです",
"どんなことが",
"実は岩矢天狗に二十日に三百万払うという約束をむすんだのです。二十日がせまっているのに、煙山さんから返事はこず、せっぱつまった気持のところへ、昨日、上野光子とレンラクがついたものですから、専売新聞か桜映画へたのんでくれ、どんな不利な条件でも、三百万になればいい、とたのんだのです",
"それは、まずいな。上野光子の返事は?",
"十九日の正午に料理屋で会うことになっています。きっと、成功してみせる、と云いきったのです",
"それは困ったな。今日は十七日だね。十八日朝ついて、夜行で発って、十九日朝ついて、上野光子をだしぬくことはできるが、そうまでする必要はあるまい。私の方は確実なのだ。夜汽車で金を運ぶのは危険だから、十九日の朝たって夕方つく。私の方はハッキリしているのだから、上野光子がどうあろうとも、キッパリ拒絶してくれないか。さもなければ、上野をスッポカして会わないようにしてもらいたい",
"ハア。確実なら、そうします",
"むろん、確実だ。二十日に岩矢天狗に金を払うのは、どこだ",
"岩矢天狗が京都にくることになっています。葉子さんも、十九日の夜、こッちへ着くことになっています",
"そうかい。それなら、十九日中に間に合えばいいわけだ。かならず、約束を守るから、君も守ってくれ。暁葉子のためにも、わが社第一と考えてくれよ",
"ハ。わかりました"
],
[
"よろしい。約束通り、大鹿をとろう。今日の夕方までに五百万そろえておくよ",
"そうですか。カバンを持って、うけとりに来ますよ",
"君は今夜たつのかい",
"いえ、明朝たちます。夜汽車に金を運ぶのは危険ですし、上野光子にぶつかっても、まずいでしょう。朝の急行の一番早いの、七時三十分にたちます。九時発の特急ツバメが、おそく発車して早くアチラへ着くのですが、特急は知った顔に会いますから、わざと七時三十分にたちます",
"よかろう"
],
[
"君も明日、京都へ行くそうじゃないか",
"ええ",
"あんまり、目立たないようにしてくれよ。何時の汽車だね",
"午後一時、東京発。京都へは夜の十一時ちかくに着くはずなんです。岩矢と約束があるのです。汽車のなかで岩矢と二人だけの話をつけるつもりなのです",
"それは大鹿君が知っているのかね",
"いいえ"
],
[
"ずいぶん危険な話じゃないか。私が京都駅へ出迎えてあげようか",
"いいえ、危険はありません。身をまもる方法を知っていますから",
"そうかね。まア、気をつけてくれたまえ"
],
[
"変な電話ですぜ。これこれです",
"ふウン。部長に知らせろ"
],
[
"実はな。大鹿のことでは、上野光子が引ッこぬきの話をもちこんでるんだ。上野光子は今夜の夜行で、京都へ行く筈だが、この引ッこぬきは金額の上で折合わなかったから、失敗するかも知れん。煙山がでかけるとすれば、これも大鹿ひきぬきだ。こッちが引ッこぬきに失敗したら、暁葉子のロマンスを素ッぱぬいてやれ。煙山をつけでみろ。そして、大鹿の愛の巣を突きとめておけ。煙山をつけて行けば、自然にわかるだろう。わかったな",
"ハ"
],
[
"いえ、もう、その話は、いいですよ。どうも、お世話さまでした",
"アラ。アッサリしてるわね。やっぱり、ラッキーストライクがいいのね。暁葉子さんのいるところが",
"いえ、そんな話はありませんよ",
"ウソ仰有い。今夜、煙山クンがこッちへ来るでしょう",
"そんな話、知らないですね"
],
[
"あなた、専売新聞のネービーカット軍に移籍しなさい。お約束の三百万、だします。専売から、百万。私から、二百万。私の全財産ですわ。どう?",
"もう、お金の必要がなくなったんです",
"なに云ってんのさ。なぜ、あなたが三百万円欲しかったか、私はチャンと突きとめてますよ。誰から、きいたと思う? 岩矢天狗氏よ。あす二十日でしょう。彼氏、京都へ、暁葉子の手切金、うけとりに来る筈よ。三百万、払える?",
"えゝ、ま、なんとかなります",
"甘チャンね。煙山クン、お金なんか、持ってきやしないのよ。持ってくるのは百万だけよ。それで、なんとかなるの?"
],
[
"たとえ岩矢天狗のようなヨタモノ相手でも、人の奥さんとネンゴロになって、損害バイショウが払えなかったら、男がすたるわよ。野球選手の恥サラシじゃないの。私が二百万だしますから、岩矢天狗に、札束叩きつけてやってよ",
"あなたから、お金をもらうイワレはありませんよ",
"イワレはなくったって、お金が払えなかったら、どうするのよ",
"なんとかします。ボクは覚悟しました",
"なんの覚悟よ"
],
[
"そのときは、たぶん、死にますよ",
"バカね"
],
[
"なんですって?",
"ボクは暁葉子さんと結婚したいのです。そのために、こんなに苦しい思いをしているのです",
"フン。結婚できないわよ。岩矢天狗に三百万円、払えないもの",
"その時の覚悟はきめていますよ。どなたのお世話にもなりません。自分一人で解決します。色々と面倒なことお願いして、すみませんでした。失礼します",
"お待ち!",
"いえ、ボクの気持をみださないで下さい"
],
[
"さっきは、よくも、捨てゼリフを残して逃げたな。ヤイ、お光",
"なによ。天下の往来で",
"フン。どこだって、かまうもんか。キサマ、ほんとに大鹿と結婚するのか",
"フフ",
"オイ。もし、結婚するなら、キサマか、大鹿か、どっちか一方、殺してやる",
"すごいわね",
"なア、オイ、ウソだと云え",
"さア、どうだか。今のところ、ハッキリしないから。二三日うちに分るわよ。大鹿さんと結婚するか、しないかが",
"大鹿はどこに住んでる",
"私もそれが知りたいのよ",
"フン。隠すな。痛い目をみたいか",
"隠すもんですか。私も探しているのだもの。あんた、探せたら、探してよ",
"よし、探してみせる。ついてこい",
"どっちよ",
"だいたい見当がついてるんだ。大鹿が、嵐山の終点で下車するという噂があるんだ",
"あそこから、又、清滝行の電車だってあるじゃないの",
"なんでも、いゝや。意地で探してみせるから。オレが大鹿と膝ヅメ談判して、奴が手をひくと云ったら、お光はオレと結婚するな",
"さア、どうだか。大鹿さんと結婚しないったって、あんたと結婚するとは限らないわよ",
"そうは云わせぬ",
"じゃア、どう言わすの",
"とにかく、大鹿の隠れ家を突きとめてみせるから、ついてこい"
],
[
"ヤ、来た、来た",
"どれだい。煙山は?",
"ヤに大きなカバン二つぶらさげてやがら。あの男ですよ",
"あの鳥打帽かい?",
"そうです"
],
[
"ハテナ。一等車かな。それとも一番前の二等車かな。モク介、見てこいや",
"ヘエ"
],
[
"イヤハヤ。敵はさるもの、驚きましたわい",
"なにを感心しとる",
"一等車にはいませんわ。一番前の二等車にも、いませんが。なんぞ、はからん三等車の隅に、マスクをかけて顔をかくしていやがるよ。さッきの服装を見とったから、見破りましたが、煙山氏、お忍び旅行ですぜ。曰くありですな。察するに、二ツのトランクは、札束だ",
"今にして、ようやく、気がついたか",
"気がもめるね",
"煙山だって、自分の金じゃないのさ",
"なるほど。あさましきはサラリーマンだね。しかし、煙山氏の月給袋は、だいぶ、コチトラより重たいだろうなア"
],
[
"モク介。煙山の車へ行って、見張ってろよ",
"ヘエ"
],
[
"煙山の姿が、見えないですよ",
"便所か",
"煙山の坐ってた近所の人にきいてみたが、みんな知らないってさ。それから一応、アミダナを見て歩きましたが、あのトランクらしきものは二ツとも無くなってますな。コチトラ、自慢じゃないが、トランクに札束あり、と見破ってこのかたツラツラ目に沁みこませておきましたんで、見忘れないツモリですわ"
],
[
"実に要心深い奴だ。しょッちゅう座席を変えてやがんですよ。こうなったら、にがさねえ。コチトラ、ここで見張りますよ",
"よし。オレも見張るよ"
],
[
"いよいよ出でて、いよいよ奇、やりおる、やりおる",
"怪物の名にそむきませんなア。敵ながら、アッパレな奴ッちゃ。これで札束がだいぶ減りおったろう"
],
[
"モク介。この契約金、いくらと思う",
"罪なこと考えさせる手はねエですわ"
],
[
"なるほどねえ。ちゃんと諸事片づけて、大鹿の隠れ家へか。敵は順を考えとる。コチトラの追跡、知ってやせんですか",
"そうかも知れん。汽車の中から、ちゃんと見抜きおったかな",
"どうも、いけませんわ。札束のヘリメにしたがって、コチトラの腹がへるらしい。はやくヤケ酒がのみたいな"
],
[
"さては、ここが大鹿の隠れ家かな。よろし、こうなったら、オイラも泊りこんでやれ",
"よか、よか"
],
[
"おいでやす",
"お部屋ありますか",
"お部屋どすか。あいにくどすなア。満員どすわ",
"今、一人、はいったでしょう",
"ハア、予約してはりましたんや",
"ズッと長く泊ってる人が一人いるでしょう",
"どないなお人どすねん",
"六尺ぐらいの大きい男",
"知りまへんなア",
"今、はいった人の知り合いの若い大男",
"知りまへんなア"
],
[
"アッ。ここに、ウドン屋があらア。一杯のんで、きいてみようや",
"それあるかな"
],
[
"オッサン、野球、見ないかね",
"野球やったら、メシよりも好ッきやね",
"チェスターの大鹿投手、知ってるかい",
"スモークピッチャーや。ヒイキしてまんね",
"その大男や。前の旅館に泊っとらんか、そういう人物は"
],
[
"ままよ。当ってくだけろ。いっそ、煙山に面会を申込もうや。相手が、どう出るか、やぶれかぶれさ",
"がってん"
],
[
"さっきの煙山さんに会いたいが",
"ハア。煙山はん、御散歩におでかけどすわ",
"ヤヤ"
],
[
"どんな姿。宿のドテラ",
"いえ、洋服どした",
"さては、カバンをぶらさげて!"
],
[
"いえ、カバンは置いてかはりましたんや。散歩どすよってなア",
"フーム。奇々怪々"
],
[
"そう、そう。あなた方の代りに、別の迎えが行ってますよ",
"誰が?",
"ちょうど、五時半ごろでしたかネ。上野光子女史が現れて、大鹿と懇談したけれど、本社が金を出し渋るから、契約がまとまらない、と云うのですね。クサリきっていましたよ。それで、こんな電話があったが、大鹿問題に関係があるんじゃないかというと、大有りだ、これで脈があると云って、とびだしましたよ。停車場で、二人をつかまえて、話し合えば、なんとかなる見込みがあると言って、にわかに元気をとりもどしたようです",
"ハア。そうかい。こッちは一向に元気がもどらねえや"
],
[
"アッ。暁さん。どうしたんですか",
"大鹿さんが、殺されています",
"エッ。あなたは、どうかなさったんですか。どこか、おケガを",
"いいえ、私、気を失って、倒れてしまったのです。今まで気を失っていました。はやく、警察を"
],
[
"ハテナ。誰か屍体につまずいたのかな。ここに血にぬれた手型がある。あなたは、つまずきやしなかったでしょうね",
"私はつまずきません。すぐ灯をつけましたから",
"なるほど。女の掌ではないようだ。被害者の掌よりは、小さいが"
],
[
"暁さんは、タバコ、吸いますか",
"いいえ。大鹿さんも、タバコはお吸いになりません",
"なるほど。だから、灰皿の代りに、ドンブリを使っているのだな。しかし、たしかに、少くとも一人の男と、一人の女がタバコを吸っている。男が、一本。女が、二本"
],
[
"私は犯人を知っています。あの人に相違ありません",
"あなたは見たのですか",
"いいえ。私と一しょに、東京から来たのです。私の良人の岩矢天狗です",
"一しょに、ここまで来たのですか",
"いいえ、京都駅まで、一しょでした。私は岩矢と離婚して、大鹿さんと結婚することになっていました。大鹿さんは私の手切れ金として岩矢に三百万円渡すことになっていました。明日の正午に受取ることになっていましたが、岩矢は明日の午後三時にある人に支払いする必要があって、今夜のうちに、金が欲しいと言いだしたのです。私は今日の夕方、煙山さんが大鹿さんに三百万円渡したことを知ってますし、岩矢の態度には変ったところがなく、彼の欲しいのは金だけで、ほかに含むところがない様子を見てとりましたから、それでは、今夜のうちに大鹿さんからお金をいただきなさい、いっしょに隠れ家へ行きましょう、と、なんの気なしに、隠れ家も教えました。青嵐寺の隣のアトリエと云えば、すぐ、のみこめる筈です。青嵐寺は有名な寺ですし、隣家は一軒しかありません。私は、できるだけ早く手切金を渡して、ツナガリを断ちたい気持がイッパイですから、まさかに、こんなことになろうとは思わず、教えてしまったのです",
"なるほど。お二人は、一しょにここへ来たのじゃないのですか",
"一しょに来るはずでした。京都駅へ降りて、改札をでると、私をよびとめた人がありました。見知らぬ女の方ですが、上野光子というプロ野球のスカウトですと自己紹介なさったのです。私たちが立話をしているうちに、イライラしていた岩矢は、いつのまにか、姿が消えていました。私は彼の急ぐ理由を知っていました。明日の三時までに横浜に戻るには、零時三十二分発の東京行以外にありません。それが最終列車です。私たちが京都駅へ着いたのは午後十時四十七分で、一時間と四十五分しか、間の時間がないのです。自動車で往復してギリギリで、ほとんど余裕がありません。岩矢の姿が見えないので、アッと、後を追おうとすると、上野さんが私の腕をつかんで引き留めました。行かせてくれないのです。私はしかし岩矢の急ぐ理由が、ただ汽車の時間のためだと信じていましたので、大きな不安はもちませんでした。そして、上野さんの命のまま、駅にちかい喫茶店へはいりました",
"何か話があったのですか",
"上野さんは、私に、大鹿さんとの結婚をやめなさい、と仰有るのです。大鹿さんはチェスター軍の灰村カントクに義理もあり、チェスターとの契約に特殊事情もあるので、お金に目がくらんで他の球団へ移籍すると、聯盟の問題になり、出場停止はおろか、プロ球界から葬られてしまうと仰有るのです。恋愛のために大鹿さんが野球界から捨て去られてしまうのを見るに忍びないから、忠告にきたと仰有るのです。でも、私は、大鹿さんから、うかがって、知っていました。大鹿さんは灰村カントクに育てゝいただいた義理はありますが、チェスターとの契約は一シーズンだけで、今度のシーズンの契約は、まだ取極めていなかったのです。私はそれを主張して、上野さんと争論になりましたが、果しがないので、立上りました。そんなことで、二三十分、費したでしょう。そして私は自動車を拾って、ここへ一人できたのでした",
"この隠れ家を知ってるのは誰々ですか",
"二人のほかに、私が教えてあげたのは、煙山さんと、岩矢だけ、あとは心当りがありません"
],
[
"今夜九時ごろでした。一服さんがウチの玄関へきて、ここに大鹿さんが泊ってるだろうと仰有るのです。私がアトリエへ案内してあげました",
"一服って、どんな人だね",
"ピースの左腕剛球投手、一服さんですよ",
"アッ。そうか。そして、そのほかに、訪問客はなかったのですか",
"それは分りません。一服さんは、ウチへきてお訊きになったから、分ったのです。さもなければ、かなり離れていますし、木立にさえぎられていますので、アトリエの様子は分らないのです。それに冬は、日が暮れると、雨戸をしめてしまいますから",
"何か変った物音をききませんでしたか",
"何もききません。よく睡っていましたから"
],
[
"君は昨夜、大鹿君のところへ行きましたね",
"ええ。お午すぎ、一時ごろから、夜の九時ごろまで探してとうとう彼の隠れ家を突きとめたんですからね",
"夕飯もたべないで",
"それは食べましたよ",
"どうして、そうまでムリして探す必要があったんですか",
"一時も早く解決したい問題があったんです。ボクは上野光子にプロポーズしたんですが、お光は大鹿と結婚したいと云うんです。そこで大鹿の本心をきく必要があったんです",
"大鹿君の返事はどうでした",
"簡単ですよ。大鹿はほかの女と結婚する筈だと云うんです。お光には拒絶したと断言しました。今後お光から手をひくかと訊くと、ひくも、ひかないも、ほかの女と結婚するのに、お光とかかりあっていられる筈がないと云うので、話は簡単明快ですよ。ボクは安心して、すぐ、ひきあげました",
"それは何時ごろです",
"そうですね。九時ごろ訪ねたんですから、まア、二十分ぐらい話を交して、すぐ帰りましたな。新京極で祝杯をあげて、帰って寝ました",
"君は、大鹿君のところでタバコを吸いましたか",
"どうだったかな。ああ、そうだ。吸いました。灰皿かせ、と云うと、ドンブリ持ってきましたよ。奴、タバコを吸わないらしいです",
"そのドンブリは、誰かの吸いがらがはいっていましたか",
"いいえ、洗ったドンブリです。何もはいってやしません",
"ヤ、どうも、ありがとう。ああ、ちょッと。大鹿君はラッキーストライクへ移籍の話をしませんでしたか",
"いいえ、そんな話はききません。ただ金のいることがあって、お光にトレードを頼んだと云っていました。そのためにお光と会うだけで、結婚の話などはないという言い訳なんです",
"どうも、早朝から、御足労でした、もう、ちょッと、待っててください"
],
[
"立派なおからだだな。何寸ぐらいおありです",
"一メートル六六。体重は五十七キロ",
"五十七キロ。まさに、ボクと同じだ。ところで、大鹿君からトレードの依頼があったそうですが、その話は、どんな風になっていますか",
"契約が成立したならお話できますが、私のは未成立ですから、公表できません。球団の秘密なのです",
"しかし、大鹿君が移籍すると聯盟の規約にふれて球界から追放されるから、結婚から手をひけと暁葉子さんを脅迫なさったそうですが",
"脅迫なんか、するもんですか。暁葉子こそ、曲者なんです。あれはツツモタセです。岩矢天狗と共謀して、三百万円まきあげるための仕事なのです",
"ホホウ。なぜ、そんなこと知ってますか",
"私は駅の改札口で二人の着くのを待ってたのです。二人は改札口から出てきましたが、岩矢天狗が葉子にこう言ったのです。オレは今夜、さむい夜汽車にゆられて帰るが、同じ時間に女房が男とイチャついていると思うと、なさけねえな、と。すると葉子が、三百万円なら大モウケよ、とナレナレしいものでした。私はムラムラ癪にさわったのです",
"なるほど。それだけですか",
"それで充分じゃありませんか",
"あなたは煙山氏に会いませんでしたか",
"会いません",
"大鹿君に会ったのは何時ですか",
"正午から三十分ぐらい",
"いいえ、昨夜の訪問時刻をおききしているのです"
],
[
"九時半ぐらいでしょうよ。何の用もなかったのよ。ただ、河原町四条の喫茶店で、中学生が大鹿さんの話をしていたのです。青嵐寺の隣のアトリエにいると話しているのを小耳にはさんだので、何の用もなく、ブラブラ、行ってみる気になっただけ",
"そのとき、一服君に会いませんでしたか",
"アトリエにちかいところで、すれ違いました。私は自動車でしたが、彼は歩いてました。私は目をそらして、素知らぬ顔で通過しました",
"一服君はあなたに気づいたのですか",
"存じません。私はとッさに目をそらしたから",
"それから",
"アトリエはすぐ分りました。大鹿さんは私を見ると、今、一服氏が帰ったばかりだと言いましたよ。私は彼をひやかしてやりました。葉子夫人が来るから、ソワソワ、落着かないでしょうねッて",
"彼は、葉子さんと岩矢氏が一しょの汽車で、十時四十七分に着くことを知ってますか",
"私がそれを言ってやりました。一しょに来るなんて、変テコねッて。そして、専売新聞の記者が駅に待ち伏せているッて言ってやったら、ギョッとしたわね。でも、到着の時間は教えてやりませんでした。なぜなら、私が出迎える必要がありましたからね。そして、もう着いたころよ、とごまかしておいたんです",
"ラッキーストライクと契約を結んだ話をしませんでしたか",
"私は訊いてみましたが、彼は言葉をにごして、返答しなかったのです。しかし、私には分りました。彼の態度に落着いた安心がみなぎっていたので、契約に成功したな、と分ったのです。昼、会った時は、心痛のために、混乱していたのですから",
"そして、何時ごろ、そこを出たのですか",
"十分か二十分、居所が分ったツイデに、ちょッと冷やかしに寄っただけよ。十分か二十分ぐらい。表に車を待たせておいたのですから",
"あなたはタバコを吸いましたね",
"もちろん。私はタバコなしに十分間空気を吸っていられませんよ"
],
[
"あなたは、ワザワザ京都にアパートをお借りなんですか",
"プロ野球の関係者は、たいがい、そうです。しょッちゅう東西を往復しますから。一々旅館へ泊るより、アパートを借りとく方が便利なんです。スカウトなんて、人目を忍んで仕事を運ぶ必要がありますから、たいがい人に知れないアジトを持っているものです。煙山氏ぐらいのラツワン家なら、アジトの三ツ四ツ用意があるにきまっています",
"あなたは一ツですか",
"ええ、一ツ。カケダシですから",
"あなたは煙山氏のアジトを知ってますか",
"いいえ。それを人に知られるような煙山クンではありませんね",
"すると、あなたが大鹿君のもとを立ち去る時は彼氏ピンピンしていましたね",
"私が殺したとでも仰有るのですか",
"いいえ、何か怪しいことにお気付きではなかったかと、おききしているのですよ",
"何一つ変ったことには気付きませんでしたね。私は車で駅へ走りました。駅で暁葉子氏をつかまえるまで、誰にも会いません。自動車の運転手を探して訊いてごらんになると、分るでしょう",
"なるほど、ハッキリした証人がいるわけですね。どんな運転手ですか",
"私は覚えていませんが、先方は覚えているでしょう。昨夜の話ですから",
"そうですとも。すると、十時ちかくまで、大鹿君は生きていたのですね",
"そうです",
"や、どうも御苦労さま。もう、ちょッと、調べがすむまで、待ってて下さい"
],
[
"大事件が起りましたよ。大鹿投手が昨夜殺されたのです。支局長は捜査本部へつめかけていますよ",
"アレレ。予期せざる怪事件。犯人は誰だ",
"まだ分りゃしませんよ。怨恨、物盗り、諸説フンプンでさ。支局長からの電話では、ラッキーストライクから受けとった三百万円が紛失しとるそうです",
"嘘つけ!",
"アレ! なんたる暴言",
"ソモソモ我等こと二名の弥次喜多はだな。東京のビンワンなる記者であるぞ。コチトラは朝の七時半から夜の九時半すぎまで、煙山を追っかけてきたんや。彼の足跡あまねくこれを知っとる",
"コレコレ。あんまり、大きいことを言うな"
],
[
"いえ、あまねく、知っとるですわ。煙山は夜の九時半までは確実に大鹿に会うとらん。九時半までは、三百万円は煙山のカバンの中にあり、九時半すぎは、旅館においてあったのです。大鹿は、何時に殺された?",
"夜の九時から十二時の間",
"ソレ、みろ",
"オイオイ、モク介。あわてるな。われらも渦中の人物や。考えてみろ。我等こと何故に煙山を追っかけたか、これ、怪人物の電話によるものである。これは、イカン。何者か、我等ことを笑うとる陰の人物がおるわ。捜査本部へ出頭じゃ"
],
[
"すると、あなた方は東京からズッと京都まで煙山氏を尾行してきたのですね",
"仰せの通りで"
],
[
"すると、大阪へ降りて、桃山、国府両選手を訪ねて、あとはマッスグ京都へ、ね。全然大鹿に会う時間はないワケですね。九時半ごろまで",
"左様で。しかし、ですな。我等ことがウドンをくい、酒をのんどるヒマに、煙山は散歩にでてしもうたですわ。しかし、カバンは、持って出ませんということで",
"しかし、九時半に上野光子が大鹿を訪ねていますが、そのときは契約を交したあとらしく、安心しきっていたそうですな",
"アレマ",
"無名の怪人物からの電話で尾行を命令したのですな",
"イヤ、煙山の出発の時間を知らせて来たのですわ",
"そこが、ちょッと、面白いですな",
"変な電話がチョイ〳〵かかってくるもんですわ、新聞社ちゅうトコは。たいがいインチキ電話ですが、今度ばかりは、煙山の出発時刻から、ズバリそのもの。東京のフリダシから京都の上りまで、チャント双六ができてますわ。やっぱり、正月のせいかな",
"まったく、妙ですな。尾行の様子をくわしく話して下さい"
],
[
"ホレ。鳥打と黒っぽいマフラーはここにあります。私らはなるべく人目を避けねばならぬ商売だから、いろいろ要心しますな",
"なるほど。上野光子さんも、そう申しておられましたよ",
"彼も女子ながら、相当、やります",
"あなたは昨日、契約金と契約書を持って、上方へ乗りこんでいらしたのですね",
"その通りです",
"大鹿選手と契約を結ばれたのは、何時ごろですか",
"イヤ。それが奇妙なのですよ。汽車が米原へつくと、大鹿が乗りこんできたのです。どうして、この汽車に乗ってることが分ったか、ときいてみますと、そうと知ってたわけではないが、とてもジッと京都に待ってられない不安におそわれ、フラフラと米原まで、急行を迎えに出たというんですね。米原京都間は急行はノンストップです。それで、上野光子とのイキサツなども車中で話してくれましたが、イヤ、心配するな、安心しろ、というわけで、汽車の中で、契約書を交して、三百万渡してやりました。新しい千円札は、こういう時に便利で、三百万といったって、あっちこっちのポケットへねじこめますね",
"ハテナ。その契約書は、墨で署名してありましたが",
"その通りです、ごらんなさい"
],
[
"野球の選手なんてものは、スズリだの毛筆だの、まア、持ってないのが多いもんです。ですから、私は、ちゃんとブラ下げて歩いています",
"さすがに細心なものですな。ところで、あなたは、東京から尾行した者があることを御存知でしたか",
"いいえ、それは知りませんでした。しかし、私の職業柄、常に尾行する者あるを予期して、行動しております",
"なるほど、それで分りました。ところで、あなたの東京発の時間を、誰か知っていたでしょうか",
"そうですなア。社内では、マア、社長。それから、誰でしょう。そう、たくさんの人が、知ってる筈はありません。たいがいなら、九時の特急と思うでしょう。一時間半おそく出発して、京都へつくのが一時間四十分ぐらい早いのですから。しかし、特急は知った顔に会うことが多いので、私はめったに利用しません",
"実はですな。御出発の前夜、専売新聞へ、あなたの出発時刻を知らせた電話があったのです。むろん無名の人物からです。さッき奇声を発したのが、尾行の記者ですよ",
"ハハア。それは妙ですなア。私の出発時刻をね。誰だろう。暁葉子は知っていたかも知れんが、そんなことをする筈はない",
"あなたの関西旅行の用向きはもう終ったのですか",
"その通りです。妙なことで、大鹿との契約が早くすんだので、京都へ泊らなくとも良かったのですが、旅館の予約をとっておきましたから、ゆっくり休憩のツモリでな。この十日間に、三度も関西を往復したのですから",
"京都では、いつも、あの宿ですか",
"いいえ。今度の三回だけです。私は、きまった宿にはメッタに泊りません。それに、京都よりも、大阪、神戸、南海沿線などの方に用向きが多いのですよ",
"宿へついてから、散歩されたそうですが",
"そうです。ミヤゲモノを買いにでました。そんなことは殆どしないタチですし、するヒマもないのですが、この日は久しぶりでユックリする気持がうごいて、ミヤゲなども買う気持になったんですな。最後に、こんなものを買いました。京紅、匂袋、女物の扇子、みんな女のミヤゲです。アハハ"
],
[
"いつごろ散歩からお帰りでしたか",
"そうですなア、四条から三条、それから祇園の方までブラブラと、あれこれ見て廻って、又、新京極へ戻って、ちょッと寝酒をのんで、宿へ帰ったのは十二時半ごろでしたかなア。一時ちかかったかも知れません",
"どうも、御苦労さまでした。もう、ちょッと、みんなの取調べの目鼻がつくまで、待っていて下さい"
],
[
"よし、まア、待ってろ。運転手にきけばわかることだ。どんな運転手だ",
"そっちで勝手に探すがいいや",
"ウン、そうするよ。あッちで、休んでいてくれ"
],
[
"君は大鹿君のところから帰るとき、上野光子さんの自動車とすれ違ったそうだネ",
"イエ、知りません",
"しかし、自動車とすれ違ったろう",
"さア、どうですか、覚えがありませんよ",
"だって、あんな淋しい道に、かなり、おそい時刻だもの、印象に残りそうなものじゃないか",
"でも、考えごとをしていたせいでしょう",
"そうかい。どうも、ありがとう"
],
[
"すまんが、各署へ、応援をたのんでくれ。印象が稀薄になると、困るんだな。今日中に探しだすのだ",
"何をですか",
"自動車だ",
"自動車は、もう、探しにだしています。岩矢天狗と上野光子をのせて嵐山を往復した自動車、二台",
"イヤ、それじゃない。片道だけしか行かなかった自動車なんだ。嵐山まで、片道人を運んだ自動車、みんな探してつれてこいよ",
"全部ですか",
"全部。起点は、どこからでもいい。ただし、昨日の夕方の五時ごろから、嵐山まで人を運んだ自動車。そして、男を運んだ自動車だけでいい。又、乗客が一人よりも多いのは、よばなくともよい。夕方五時から深夜の十二時ごろまで、一人の男をのせて嵐山へ走った自動車、全部よぶのだ"
],
[
"東京の新聞記者が、うるさくて困るんですがな。オレたちを、監禁するとは何事だ。出せ、と怒鳴りましてね。暴れるわ、騒ぐわ、手に負えまへんわ",
"アッ。そうか。あれも道場へ押しこめたのかい。あれは、いいのだ。出してやってくれ。それから、ここへ連れてきてくれよ"
],
[
"ふてえぞ。京都の警察は",
"まア、まア。カンベンしてくれ",
"よせやい。我等こと、捜査のヒントを与えてやろうと天壌無窮の慈善的精神によってフツカヨイだというのに、こういう俗界へ降臨してやったんだぞ。アン、コラ",
"すまん、すまん。フツカヨイの薬をベンショウするから、キゲンをなおしてくれよ。ちょうどお午だ。ベントウをたべてってくれ"
],
[
"ねえ、居古井さん。我等こと、多少の尽力を惜しまなかったんだから、そちらも、ちょッと、もらしてくれまへんどすか、ほかの新聞にもらさんことをネ",
"それは、キミ、もらすも、もらさんも、あるもんか。君らの尾行記は、うけるぜ",
"おだてなさんな",
"ときに昨日の朝の七時三十分だったネ。君らが煙山さんの姿を最初見つけたとき、彼の服装はどうだった",
"今日のと同じさ。シャッポとマフラーが違うだけだ",
"マスクは?",
"そのときは、かけてなかったネ。マスクかけて、マフラーにうずまッてたんじゃ、見分けがつかねえや。コチトラ、二度見かけただけの顔だから",
"そうかい。よく分ったな",
"からかいなさんな。第一ヒントを、ひとつ、たのむ",
"アッハッハ。第一ヒントは、君から、もらったんだよ",
"いけねえな。じゃア、第二ヒントは?",
"第二ヒントは、上野光子が与えてくれたね",
"どんなヒントさ",
"まア、待ってくれ。今日中に、必ず、わかる。犯人をあげてみせるよ。まア、君に、第三ヒントだけ与えておこう。いいかい、血しぶきが壁にとび散ってるんだから、犯人は全身に血をかぶったろうと思うよ。ところが、葉子のほかに、衣服が血まみれという人物がいない。岩矢天狗の衣服に血液は附着しているが、血を浴びたという性質のものではないね。しかし、犯人の衣服は血しぶきを浴びている筈なんだ。そして、誰の部屋からも、血しぶきの衣服は出てこないのさ。これが第三ヒントだよ",
"全然わからんですわ",
"ま、君たち、尾行記でも書いていたまえ。吉報がきたら、最初に知らせてあげる"
],
[
"いいかね。汽車の中で、マスクをかけ、マフラーに顔をうずめ、時々席を変えたり、帽子やマフラーをとりかえて変装するという煙山が、寒気のきびしい早朝の外気の中を、汽車にのりこむまでマスクもかけず、顔をさらして駅の構内を歩いてきたことを考えると、まずこの事件の謎の一角がとけるのだよ。なぜ顔をムキだして歩いて来たか。ある人に顔を見せる必要があったからさ。ある人とは、君たちなんだよ。ここまで分れば、電話の謎がとけるだろう。電話をかけたのは煙山自身だ。彼はキミたちに尾行される必要があったのだ。なぜなら、七時三十分発の汽車にのったと見せかけるために",
"じゃア、乗らなかったんですか",
"乗りました。しばらくはネ。恐らく熱海か静岡あたりで下車して、あとから来た特急ツバメに乗りかえたのだろう。なぜなら、京都へ君たちよりも一足早く到着する必要があった。ツバメは一時間半もおそく出発するが、京都に着くまでには追いぬいて、約一時間四十分も逆にひらいてしまうだろう。この一時間四十分に仕事をする必要があったのさ。京都へつくと、彼は車をいそがせて、大鹿のアトリエにかけつけ、三百万円を渡して、契約書を交した。なぜ、こうする必要があるかというと、お金を渡し、契約書を交してからでないと、大鹿を殺しても、三百万円を奪うことができないからだ。ところが煙山は君らに尾行させている。尾行をつけて大鹿の隠れ家へのりこむことはできないのさ。なぜなら、君らは元々大鹿の行方に最も執着をもっているのだから、隠れ家が分ると、記者の本領を発揮して、さっそく乗りこんで、ロマンスの一件など根掘り葉掘り訊問するだろうからね。ところが犯行の時間は、午後十一時三十分ぐらいまでしか許されていない。なぜなら、葉子と岩矢天狗が十時四十七分には京都について、だいたい十一時半前後には嵐山まで来るからだ。君らにネバられては、チャンスを失ってしまうのだ。そこで、一足先に、君たちにかくれて金を渡して契約書をとっておかねばならないので、特急ツバメに乗りかえて、一時間四十分の差を利用して、嵐山の大鹿の隠れ家まで往復してきた。そして、それをゴマカス方法としては、大鹿が米原まで出迎えて、車中で契約書を交したという計略を用意しておいたのだ。ところがさ。あいにく契約書の署名がハッキリした楷書でね、停車中でなければ決して書けない書体だったのさ。米原に停車中には、先ず、署名の時間はない。なぜなら、大鹿が煙山を探す時間、一通りの事情を説明し聴取する時間が必要な筈で、ノッケから契約書を突きだすことは有り得ないからだ。ところがだね。米原を出発すると、あとは京都までノンストップなんだよ。私はこれに気がついた時、思わず笑ったね。快心の笑という奴さ、そして、ほぼ事件の全貌をとくことができた。第二ヒントは、上野光子が与えてくれたのだが、光子がアパートをアジトにしているように、煙山にもアジトがあるに相違ないということだ。すると第三ヒントの謎がとける。血だらけの着物がそのアジトに隠されているのだ。奪われた三百万円もアジトにあるのだ。散歩のフリして旅館から出た煙山は先ずアジトへ走り、衣服を着かえて、さらに嵐山へ急行した。着代えの衣類も持って行ったかも知れぬ。アトリエへつくや、出迎えた大鹿が、ふりむくところを、いきなり一刺し、メッタヤタラに突き刺して、それから、顔や手の血を洗い、金を奪い、衣服も着代えて、アジトへ戻った。そこで、更に、元の服装に着代えて、かねて買っておいたミヤゲの品々を持って、途中で新京極で一パイのんで、旅館へ戻ったのだ。取調べがすみ、容疑をまぬがれてから、三百万円と血だらけの衣類を、例のカラッポのカバンにつめて、東京へ持ち帰って処分するツモリだったのだろうよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部 第二巻第五号」
1950(昭和25)年4月10日発行
初出:「講談倶楽部 第二巻第五号」
1950(昭和25)年4月10日発行
※底本は表題に「投手《ピッチャー》殺人事件」とルビをふっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043190",
"作品名": "投手殺人事件",
"作品名読み": "ピッチャーさつじんじけん",
"ソート用読み": "ひつちやあさつしんしけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部 第二巻第五号」1950(昭和25)年4月10日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-06-11T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43190.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
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"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
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"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年10月20日",
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"じゃア、美津子、オレは当分、小田原の家へは帰らないぜ。用があったら、サクラ拳闘倶楽部へ電話かけてくれよ。あそこに居なくっても連絡つくところに居るから",
"あら、定夫兄さん、用心棒みたいな兄さんが居てくれなくちゃ、それこそ私たちが困るばかりじゃありませんか",
"冗談云っちゃアいけないよ。ボクシングのバンタム新人王だの何だの云ったって、丹下左膳現代版に太刀打ちできるもんかいな。お前さんも早いとこ家出して、友達のうちかなんかへ当分ころがりこむことだな。さもないと――"
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"定夫兄さん。変なこと仰有るものじゃア、ないわよ。戦争中に大兄さんと坊やを殺した犯人は安彦兄さんではありません。今度、もしもウチに殺人事件が起ったとすれば、安彦兄さんは犯人ではなく、むしろ、被害者の筈です。私は、それが、怖いのよ",
"バカな。安彦兄さんが殺ったんだ。一週間目に運よく赤紙がきた。そして死んだと思ったら、丹下左膳になって、生きて帰ってきたんだ。だいたい考えて見りゃ分るじゃないか。安彦兄さんの出征中は、家には、何事もなかったじゃないか。してみりゃ、安彦兄さんでなくって、誰が人を殺すものか。丹下左膳が被害者になるなんて、バカな。ねぼけたことを言うもんじゃないぜ",
"いゝえ、ねぼけているのか、とぼけているのか知らないけど、それは定夫兄さんのことよ。安彦兄さんは、必ず殺されてしまいます",
"なぜだ。そして、誰が殺すのだ",
"誰だか、知りません。然し、大兄さんと坊やを殺した犯人が殺すのです",
"なぜ",
"なぜなら、安彦兄さんは、その犯人を知っているからです"
],
[
"失礼ですが、お嬢さん。安彦兄さんが犯人を知っていると仰有るのには、証拠があるのですか",
"ございます。ハッキリとした証拠が"
],
[
"安彦兄さんに召集令の参りましたのは、昭和十七年の一月末、ちょうど大兄さんと坊やが殺された日から一週間目でございました。警察では、安彦兄さんも犯人の一人として疑っていたかも知れません。けれども、当時の状況として、家内中の殆ど全員が容疑者らしい不利な条件をもっていました。そのくせ、誰一人確たる証拠もありませんので、警察でも、安彦兄さんの出征をひきとめる確信がなかったのだろうと思います。出征の前夜に、安彦兄さんは遺品として、先程御鑑定を願いました手型と、もう一つ、ひそかに私をよび寄せて、一冊の日記帳を手渡しました。昭和十七年度の日記帳でございます。自分が戦死の暁に中をあけてみるように、と言い含めまして、包み紙のようなもので、幾重にも、ていねいに、堅く包んで、封印されておりました。この包み紙の表に、マルコ伝第八章二四という謎の一行が、大きく、ハッキリ書いてありました",
"マルコ伝第八章二四……"
],
[
"お嬢さんは、日記をあけてごらんになりましたか",
"それをあけて、見ておれば、今さら、こんな不安な思いに悩む筈はございません"
],
[
"先程も申しあげました通り、遺品の手型はカトリック大辞典にはさんでおきましたが、日記帳の包みは、事重大と思いまして、特に私の机のヒキダシへ隠しておきました。ところが昭和十九年末、空襲の気配も近づきまして、荷物だけ田舎へ疎開という時に、机のヒキダシをしらべますと、この日記帳の包みだけがなくなっておりました",
"日記帳の話を誰に洩らされたのですか",
"私は誰にも洩らしません。又、兄さんも洩らしたようには思われません。なぜなら、私だけよびよせて、ひそかに托したのですから。けれども、一つ思い当りますのは、その晩は出征前夜で、兄さんは酔っ払っておりましたので、内密話のくせに、声が高かったこと、もう一つ、兄さんが、毎日、日記をコクメイにつけていたということは、家内中誰知らぬ者がなかったのです",
"何とか伝の何章とかいう文句は、なんの咒いの文句だい?"
],
[
"人を見る、それは樹の如きものの歩くが見ゆ。という文句なんですがね。さアてね。余は犯人の姿を見たという謎ですか、どうか。それ以外に、考えようがないのかも知れませんな",
"フン"
],
[
"よし、じゃア、オレの見ている前で、今、汲んでみろ。汲めなかったら、キサマ、どうする",
"クビをやる"
],
[
"キサマは、ケツを、手の指でふいたな",
"なアに、いつものことですさ。この物の不自由な時に、そうでなくたって、手の指は、そのために使うためにあるものだアね"
],
[
"倉田定夫君でしたら、今、東京におりますよ。今夜は東京泊りだそうです。なぜかと申しますと、夕方五時半ごろ、僕は定夫君と会いましてね、定夫君は当分東京へ泊るつもりだと申しておられましたよ。サクラ拳闘クラブへお問い合せになると、なんとか返事がきかれるでしょう",
"失礼ですけど、定夫さんのお友達の方でいらっしゃいますか",
"えゝ、まア、拳闘仲間ではありませんがね",
"お住居は小田原?",
"いゝえ、僕たちは東京の者です"
],
[
"私は定夫さんがこちらにいらっしゃることを当にして来たのです。今夜は、いらっしゃる筈なんですけど。約束していた筈なんですのに。もしや、あなた方のおきゝ違いじゃありませんこと?",
"さアてネ、僕の耳にした言葉に関する限りは、きゝ違いはありません。然し、定夫君が胸の思いと別なことを僕の耳にきかせたのかも知れませんが、然し、あの瞬間に、たぶん定夫君は、あなたとの約束を忘れていたんでしょうな"
],
[
"じゃア、駅でお待ちしても、ムダですわね",
"さア、そこまでは分りませんが。なにしろ、どうも、定夫君があなたとの約束を思いだして、それから、どういう処置をとるか、これは僕には分りませんや。思いだして、駈けつけてくれりゃ、いゝんですがね",
"これから東京へ戻ったって、私の家へ帰るには、私電がなくなっていますわ。すみませんけど、御存知の旅館へ紹介していたゞけませんかしら",
"僕が又、小田原は土地不案内でしてね"
],
[
"あの事件について、君の方に、何か、きゝこみでもあったのですか",
"いえ、きゝこみというほどのものはありませんが、たゞ、昨日の暮方ですが、ビルマで戦死した筈の倉田安彦という次男坊が、生きて戻ってきたのです。片手、片足、失明、オシ、という現代版丹下左膳となりましてね。御存じですか",
"いや、知りません。然し……"
],
[
"犯人を知っているって? 安彦氏が。ほんとですか。犯人は誰です?",
"それが、まだ、分らないのですよ"
],
[
"安彦君が犯人を見ているとすれば、或いは、そうかも知れないのです。なぜなら、あの家族の大多数は、あの時刻にアリバイがなかったのです。いずれ、くわしいことは、調書を見てからお話しますが、私の記憶では、あの家族の男の全員にアリバイがなかった。重吉という下男父子にも安彦君にも、その他の全員にアリバイがなかった筈です。然し、どうも、気にかゝる暗合だね。もし安彦君が犯人を見ており、それを又犯人が知っているとすれば、いったい、どうなる? 今夜にでも",
"左様、今夜"
],
[
"あの一家は、まことに複雑な一家でね。この町では、色々の悪い噂があるのです。あなた方は、町の人々が、誰を犯人と噂していると思いますか。ねえ、巨勢君?",
"さア、町の噂でしたらねえ"
],
[
"町の噂だったら、蛸の重吉先生か、その倅じゃありませんか",
"とんでもない"
],
[
"さすがの巨勢大探偵でも、この一族の内面生活が分らなければ、そう答えるのもムリがないのです。町の人々は、父親の由之氏が犯人だと思うもの、その共犯が娘聟の滝沢だと思うもの、乃至、由之氏の意をうけて滝沢がやったと思うもの、だいたい、この三ツ。要するに、主たる者は父親の由之氏ですよ。なぜならば、長男公一の妻女由子、目下は由之氏の夫人が妾のようなものですからね。この関係が、公一君の生前から有ったことは、町では相当知られていたのですよ",
"由之氏の正夫人は?",
"とっくに死んでいます。バアの女将や芸者などを妾にしていたこともあるし、今もそうかも知れませんが、その方面では、今でも壮者をしのぐものです。尤も、腕力の方も、今でも相当の猛者ですがね"
],
[
"いったい、ほかの家族は、どうしたというのだね。まるで、アキ家か、さもなければ、人殺しぐらい、なんでもない、というワケなのかい",
"それで困っていたのです"
],
[
"君は爆風のことを考えているのだね",
"えゝ、まア、そうです。一米半以内だったら、ガラスが破れると思いますが。もっとも、このガラスは、厚い。それにしても、爆発の力はうける筈だ",
"それは実地にたしかめてみれば結論はでるだろう。あした、ピストルを窓の外からブッ放してみることさ"
],
[
"警察へ電話で報せたのはお前だそうだね",
"はい"
],
[
"屍体を発見したのも、お前かね",
"いゝえ、私はウトウトねむりかけておりましたので、お母さんに起されるまで何も知りませんでした。それに私の部屋は離れておりますので、物音がきこえなかったのだろうと思います",
"グッスリねむっていたのではないのだね",
"妙に寝つかれなかったのでございます。それでもウトウトしたと見えまして、お母さんに揺り起されるまで、何も知りません。気がついた時は、お母さんが私に縋りついていました。お母さんは私に縋りついたまゝ、しばらく何も申しません。腰がぬけて、声もでなかった様子でした。ですから、私がお母さんから事情をきいて、起久子様の部屋へ参り、様子を見とゞけて警察へ電話をかけるまでには、相当時間が過ぎております",
"どれぐらいの時間だね",
"よく分りませんが、十分ちかい時間はたゞなんとなくウロウロしておりましたようです",
"お前は時計を見なかったかね",
"時計を見たのは、警察へ電話をかけて、着代えをしてからでございました。十一時二三分前でございました"
],
[
"手に血のついたのが怖しかったのかね",
"手にも袖口にも血がつきました。私は警察に疑られるのが怖しかったのです"
],
[
"お前のお父さんは、どこへ出掛けたのか知らないかね",
"知りません"
],
[
"お前の兄さんは何時ごろに家をでたかね",
"兄さんは夜釣りに出かけました。それが兄さんの仕事ですから。出掛けたのは七時ごろです。夜明け方まで帰りません"
],
[
"何も心配することはないのだよ。見た通り、きいた通り、語ってくれゝばいゝのさ。お前の主人はどこへ出掛けたね?",
"たぶんカストリでもひッかけに出掛けたのでしょう。毎晩よッぱらって、おそく帰ります",
"そうそう。蛸のように赤く酔っ払っている重吉といえば、十年さきからの名物男だものな。そして、何時ごろ出掛けたね?"
],
[
"八時ごろでしたかね。私は、あの人が何をしようと、あんまり注意していませんから、よく知りません。あの人のやること為すこと一々気にかけて、生きていられるものじゃありませんよ",
"久七は何時ごろ出かけたかね",
"あれは夕飯をたべると夜釣りにでました。私はお勝手の仕事をしていましたから一々こまかいことは知りません。皆さまの御食事が終って、あと片づけをして、私が一服したのは九時ごろでございましょう。もう、久七もウチの人もとっくに出掛けて姿が見えませんでした",
"それからお前はねむったかね",
"こんな晩に、ねむれるものじゃアございませんよ。あの方が、あんな姿でお帰りになりましてね。いッそ戦死なさりゃ、よかッたんでございましょうよ。私はウチの人にも申しました。あの方が帰って来たら、たゞでは済むまい、用心しな、とね。ほんとに、そうじゃございませんか。さッそくポンポンやりました。桑原々々。私はしばらく耳にフタをして、神仏に祈っておりましたネ。私は然し、殺された方が起久子様だろうとは、夢にも思っていませんでした",
"誰が殺されたと思ったかね",
"それは旦那様と思うのが当然じゃございませんか。あの方は、若旦那様親子を殺したのでございます。その次に旦那様を殺すツモリでおいでゞしたが、赤紙が来たので、思いとゞまったゞけでございましょう。思えば、あの方も気の毒でございます。由子様は安彦様が恋いこがれた初恋の方でございます。若旦那様は兄の権力で強奪なさったようなものでございますよ。由子様は強慾な方でございます。次男坊よりも長男坊、その長男坊も結婚してみりゃ、旦那様にうとまれて、いつになったら良い目が見られるか知れたものではございません。そこで旦那様と良い仲におなりでした。それが、あなた、若旦那様存命中の出来事、ハイ、戦争このかた人間はハデになりました。安彦様にしてみれば、どいつも、こいつも、叩き殺したくなろうじゃございませんか。気の毒な御方でございます"
],
[
"お前が銃声をきいたのは何時だね",
"何時ごろだか、私は時計を見たいとも思いませんから存じませんよ",
"銃声をきくと、お前はすぐ立上って見届けに行ったのかね",
"どう致しまして。私は神仏に十分ぐらいも祈っていました。どうか、ほかの誰かゞ音をきゝつけて叫んでくれるとよいと思いましてね。私はそんなものを見届けるなんてイヤでございますよ。けれども、いつまで経ってもシンとして、物音一つ起りません。ハイ、銃声は、ポンポンと三ツ四ツ起ったようでございますが、大きな音でございました。けれども、叫び声も起りませんし、そのまゝ何一つ気配もなく、静まりかえっているのでございます。そこで、ソラ耳かしら、と思いました。気を取り直して旦那様のお部屋の方へ行って見たのでございます。旦那様のお部屋は電燈が消えておりますが、滝沢様のお部屋はアカアカと電燈がついております。扉の上にガラスの小窓がありますので分るのでございますよ。そこで、滝沢様の扉をノックして、はいってみますと、あの有り様でございます",
"それから、警察へ電話したのだね",
"いゝえ、私は、もう、とりみだしまして、どうしてよいやら途方にくれてしまいました。自分の部屋へ戻って、何分間か、ふるえておりましたよ。これではいけないと思いつきまして、スミ子を起しに行きましたが、安彦様にバッタリ会いはしないかと、気もテンドウしておりました"
],
[
"お前は誰かの姿を見なかったかね",
"どう致しまして。たとえ誰が居たにしても、私はそれを見ないように努めたでございましょうよ",
"安彦君は、片足、片手だというじゃないか。そんな人が、人殺しに出かけられると思うかね",
"そこは義足というものがございます。安彦様にしてみれば、腹も立つだろうと思います。旦那様は昨日チラと一目見たきり、それ以後は、食事の折にも、安彦様を食堂へおよびにならず、モト、あの丹下左膳は手足が不自由だろうから、部屋へ食事を運んで食べさせてやれ。食堂へつれてくるな、という御命令でございます。お国のためにカタワになって、家へ帰れば親兄弟からむごい仕打をうけて、よくよく哀れな御方でございますよ。それで私が今夜も申上げました。御腹も立つでしょうが、ジッと我慢あそばせ、短気は損気と申しますよ、とね。こんなことになるぐらいなら、あの方のお部屋の外からカギをかけて、押しこめておいた方がよろしゅうございました",
"イヤ、御苦労さん。また、あとで訊くことがあるかも知れないが、部屋へさがって休息しなさい"
],
[
"ほかの人たちは、起して、待たせてあるだろうね。安彦君をつれてきてくれたまえ",
"ハア。命じておきましたから、すぐ連れさせましょう"
],
[
"催眠薬を多量に服用しているのですよ。すぐ病院へ運んで処置をして、間に合ってくれゝばよいが、手おくれになるかも知れません",
"安彦は死んでいるのですね",
"これは死後三時間ぐらい経過しているかも知れません。口のまわりに汚物をちょッと吐いていますが、食後まもなく殺されたようです。解剖すれば、ハッキリしたことが分ります",
"犯行は起久子以前ですね",
"一時間ぐらい早く殺されているように見受けられます",
"それでは、倉田由之、由子をみていたゞきましょう。こっちは美津子ほどひどくはない様子だが"
],
[
"頭が痛くはありませんか",
"重い感じが致します",
"眠りたりないようですね。起きていられますか",
"起きていられないこともありません",
"何時ごろ食事をなさったのですか",
"八時半ごろ終ったように思います。父はすぐ眠りましたし、私も九時の鳩時計をきいた時にはウトウト致しておりました"
],
[
"倉田さん",
"ナニ"
],
[
"倉田さん、あなたは催眠薬をのんだのを覚えていますか",
"ワシは催眠薬などは用いたことがない。ねむる薬は酒だけでタクサンだね",
"ところが催眠薬をのんでいるのですよ。誰かに飲まされているのです。さもなければ、あなたのような武術家が、こんなにダラシなく眠たがる筈がないでしょう。そんな気が致しませんか",
"なるほど。そういえば、ねむすぎるようです"
],
[
"ワシは五合ほどの定量をのんだゞけだが、こう、ねむたいのは、まるで、一升以上の度を超した時のようだ",
"ちょッと診察させていたゞきましょう",
"君たちは、ワシを診察するために来たワケではなかろう"
],
[
"倉田さん。しばらくですね。あなたは、自宅に殺人事件の起ったことを、まだ御存知ないようですな",
"殺人?"
],
[
"とにかく、ねむらせて下さい。大矢さん。ワシはねむらなければ、どうにもならない",
"えゝ、もう朝まではお邪魔いたしませんから、ともかく、診察をうけて下さい"
],
[
"今晩の食事は由之氏、あなた、美津子さんの三人だけですか",
"いゝえ、はじめは、滝沢さん御夫婦も御一緒でしたが八時から社用がありますとかで、七時半ごろ早めに食事をおえてお出掛けになりました。起久子さんは子供をねかすために、これもそのまゝお部屋へ引っこんで、それからは三人だけが残りました",
"召上り物は同じ物ですか",
"左様です。たゞ父だけは酒をのみますので、ウニとか、シオカラとか、私どものいたゞかない物を好んで食べます。私どもの夕食は、七時から八時半ごろまで、これは父の酒が長くかゝるせいなのです",
"安彦さんの夕食は?",
"これも同じお献立だろうと思いますが、たしかなことは存じません",
"あとに残った三人の方が、特に召上った物はありませんでしたか",
"そういえば、食後に三人だけココアを飲みましたが、砂糖がいつもに比べて利かないように思いました。いつもに比べて余計いれて、それでも、いつもほど甘くはなかったようでした。美津子さんは甘くないと仰有って、ずいぶんお入れになりましたが、父も酒のみのくせに甘い物が好きですので、私が入れて差上げたものに、自分で一匙たしたように覚えております",
"そのお砂糖をひとつ見せていたゞきましょう"
],
[
"そう、そう。さっきのお嬢さんの部屋のテーブルの上に、何か飲み物があったっけ。殆ど飲みほしてあったがたしか、ココアかコーヒーのようでしたよ",
"あゝ、そうです、ココアです"
],
[
"美津子さんは一杯目をのんでから、お部屋へ行く時、もう一杯、持ってらしたのです",
"では、どうも、おねむいところを御苦労様でした。また、明日、おきゝしなければならないことがあるでしょうが、今晩はゆっくり休んで下さい。なるべく皆さん別々のお部屋へやすんでいたゞきたいのですが",
"えゝ、どのお部屋でゞも"
],
[
"ねむいところを、気の毒だが、ちょッと、きゝたいことがあってね。この食堂の砂糖壺は、食堂でココアやコーヒーをのむ時だけ使うのかね",
"ハイ、そうですよ。お勝手には、お勝手で使うお砂糖が山ほどありますよ。あちらの砂糖も、台湾の赤ザラもネ",
"この砂糖壺がカラになると、お勝手から補充するワケだね",
"えゝ、まあ、そうです。このお屋敷では、お砂糖ぐらい、方々の戸棚にシコタマありますよ",
"ここへ新たに補充したのは、いつだったね",
"さア、四五日前のことでしょうよ。夕食後に紅茶かココアを召上るぐらいのものですから、あんまり減りは致しません",
"お前が安彦さんに食事を差上げたのは何時ごろだったね",
"七時半ころか、八時ころか、そのぐらいの時刻だろうと思います。私なんかに時刻々々と仰有っても、たいがい、まア、でたらめですから、そう思って下さい",
"そのあとで、お前は安彦さんの部屋へ行かなかったかね",
"参りませんとも。ちゃんと、シビンや便器の用意もしてあげて、でゝきましたからね",
"お前のでゝきたあとで、誰か、安彦さんの部屋へはいった人はなかったかね",
"どなたも見かけませんでしたよ。美津子様が東京からお帰りになったのが、食事がはじまって間のない頃でした。それから、何か、安彦様に間違いないとか、仰有っておいでゞしたが、旦那様は、丹下左膳だの、化け物めが、などゝ仰有って、そんな話に耳をかしたくもないような御様子でした。酒がまずくなる、と仰有いましてね。美津子様も、あれは夜見る人じゃないわネと仰有って、笑っていらした程でした。皆さん、アッサリしたものでございます",
"滝沢さんが会社の用で出かけたのは、美津子さんが東京から帰ってからかね",
"ハイ、そうです。美津子様がお帰りの時は食事をしていらっしゃいましたよ。私は、それから、スミ子にまかせて、安彦様に食事を差上げておりましたから、滝沢様のお出掛けも、ウチの宿六のお出掛けも、一向に見ておりません",
"お前は安彦さんの部屋をでるとき、カギをかけなかったんだね",
"ハイ、そうです。便器もシビンもあることですから、いッそ外からカギをかけちゃえば、よかったと思いますよ",
"この家のカギは、内側からかけて、外側からも開けられるかね",
"それは、あなた、カギですもの、内側からでも、外側からでも、自由自在にあけられます。さもなきゃ、大変じゃありませんか",
"お前は、安彦さんが起久子さんを殺したと云ったね。ところが、起久子さんの殺された一時間も前に、安彦さんが誰かに絞め殺されていたのだよ",
"そんな。それは、嘘でしょう"
],
[
"かなり出ております",
"その女の指紋をとりたまえ"
],
[
"イヤですよ。私はそんな。私は何もしませんよ",
"いゝから、これを指へつけて、おすんだよ"
],
[
"よく見て、誰の物だか、云ってごらん",
"アア"
],
[
"誰の物だね",
"美津子様の用いていらッしゃる品物です。ふだん和服の時に使っていらッしゃる物ですよ",
"美津子さんは、今日は日中はいなかったんだね",
"ハア、そうです。今日は洋装でおでかけでしたから、この腰ヒモはお用いではありません",
"するとお前は、どう考えるね",
"美津子様は東京からお帰りになると、お部屋へあがらず、すぐ食堂でお食事でしたし、誰かゞ、その間に、盗んで使ったのかも知れません。でも、あなた、私が安彦様にお目にかゝった時は、こんな御様子じゃありません。私は、たゞ、お食事を差上げたゞけですよ。私は犯人ではございません",
"然し、お前のほかには、この部屋へはいった者がないと云うじゃないか",
"私は九時までお勝手であと片付けをして、部屋へ戻りましたから、あとは知りません",
"お前は時刻に覚えがないと云いながら、自分のためとなると、大変時刻をハッキリ覚えているようだね",
"ウソですよ。いつも、あとを片付けて自分の部屋で一服するのが、九時ぐらいなんですよ。私は時計なんか見ませんが、あとを片付けて部屋へ帰った時刻だから、たぶん九時だろうと云ったゞけのことですよ",
"ところが、たぶん、その時刻に、安彦さんは殺されたのだよ。考えてごらん。誰かの姿を見なかったかね",
"ほんとに、どなたのお姿も、お見かけ致しませんでした。どなたも、食事がすんでお部屋へ戻られてから、部屋を出た方はございません",
"外からこの家へはいるには、いくつの入口があるね",
"玄関と裏口と、食堂に一ヶ所、出入できる扉がありますが、これは私が食堂を片附けたあとで、必ずカギをしらべてから、電燈を消しております",
"玄関と裏口から、誰かゞ入ってこなかったかね",
"玄関からは、どなたも来た方はございません。でも、定夫様も滝沢様もまだ御帰りではありませんので、カギはかけずにおきました。裏口はスミ子にきいてみなければ分かりませんが、私があの子の部屋へ事件を報せに行ったとき、もう寝ていましたから、誰かゞ外からはいってきても、分らなかったかも知れません",
"イヤ、御苦労。今夜は、もう休んでよろしい。明日は又きくことがあるだろうから、その時は、ハッキリ答えてくれなければいけないよ"
],
[
"アルコールのきれないうちに、ねむらせて下さいな。だん〳〵蛸の色もさめて来ましたぜ",
"睡いところ御苦労で済まんな。腹を立てゝ蛸の屁をかませずに、キゲンよく答えてもらいたい",
"そう言われると、どうも、ムズ〳〵と"
],
[
"お前が今夜、外出したのは何時だったね",
"八時ごろでしょうかな",
"お前はどこで飲むんだね",
"それは旦那、カンベンして下さいな。裏口営業をバラして、ポンユーを裏切るワケにはいきませんな。天プラ御殿ということにして、手を打ちましょうや",
"八時から十一時三十五分まで、ずいぶん何杯も飲むんだろうな",
"エッヘッヘ"
],
[
"お前の留守中に、この家に人殺しがあったことをきいているかね",
"きいても返事をしてくれませんから、何があったか知りませんでしたが、まア、人殺しぐらいだろうと思っていました"
],
[
"どうして人殺しだと思ったのかね",
"昔から人殺しのありつけのうちですからさ",
"お前は、誰が殺されたと思うかね",
"エッヘッヘ"
],
[
"蛸のツカミ屁。私は石頭だから、こうして気合いをかけないと、考えが浮かばないタチなんでさ。まア、旦那そう、じらさないで、殺された人の名をきかせて下さい。石頭をいじめたって仕様がないさね",
"滝沢起久子が殺されたよ",
"ハテネ。起久子さん",
"復員した安彦も殺されたよ",
"ホホウ",
"由之氏、由子さん、美津子さんは催眠薬で眠らされている",
"その三人も死にましたか",
"ハッキリしないが、先ず死なゝいことの方が多いかも知れないよ",
"さて、そう何人も人の名前がでゝくると、こんがらがって、わからないよ"
],
[
"あとの三人が眠っている、か。フム。どこかで、読んだね。ヴァン・ダイン。甲虫殺人事件",
"ホホウ。お前は学があるな"
],
[
"お前は探偵小説を読んでいるのか",
"イヤ、おはずかしい"
],
[
"巡査は何年つとめたね",
"イエ、もう名ばかりのことですから、ほッといて下さいな。植民地でもなきゃ、私が巡査なんか、つとまりますかい",
"甲虫殺人事件かねえ。なるほど、犯人は由之氏かね"
],
[
"お前のオカミサンの説によっても、そうなるらしいね。お前のオカミサンは、人殺しをきいて、テッキリ犯人は安彦君ときめこんだぜ。安彦氏は恋のウラミによって兄を殺し、又、父を殺すコンタンもあったというじゃないか。え?",
"アッハッハ"
],
[
"出征前の安彦君が五尺六寸二分だったとは、お前も物覚えがいゝじゃないか。蛸のツカミ屁で気合いをかける必要どころか、話の泉の物識り博士のようなものだな",
"エッヘッヘ"
],
[
"身長のほかに、安彦らしくないところが、見当らないかね",
"どこと云って、一つとして、安彦さんらしくありませんやね。腕が一本、足が一本。目はつぶれ、耳は半欠けの、アゴが半欠け、鼻まで半欠けでさアね。これじゃア安彦さんでもなければ、どこの誰でもありませんぜ。ねえ、旦那。この復員軍人なら、誰でもないが、誰にでもなれまさアね。たゞ、身長が合いさえすればね"
],
[
"なるほど、うまいことをいうじゃないか。まるで名探偵のようだぜ。ヤ、御苦労。今夜は、もう休んでいゝよ。また、明日、色々とお前の探偵眼のお世話になることだろうから、ゆっくり一眠りしておくれ",
"エッヘッヘ"
],
[
"あの部屋のカギでした",
"やっぱり、そうか。ここへ落ちていたんだな"
],
[
"夜釣りの久七を探しに海上へでたランチが沖で発砲されたそうです。密貿易らしく、倉田組らしい、と報告がありました。久七の夜釣りも、実は密貿易に出動したのではないかと見られるフシがあるそうですが、目下応援隊が出動しましたので、全貌が判明次第報告してくれるそうです。倉田組の事務所が密貿易の本拠らしく、海沢三次郎の姿は見当らないそうですが、これも密貿易に出動しているのではないかと見られるフシがあるそうです。以上、署長からの報告です",
"なるほどね"
],
[
"ここは矢代さんの親戚ですか",
"一面識もない家だよ。なんにも知らないんだからカンベンしてくれたまえ。ネタを仕入れたいのはこッちの方で、顔見知りの警官をさがしているところだよ",
"矢代先生。たのむ。弟子にしてくれ",
"なんだい、キミは",
"弟子にしてくれよ。たのむから。アンタの行くところへオレをつれてってくれよ。病院へかつぎこまれた娘は美人だってね",
"すごい美人だな。ゾッとするほど冴えた顔だよ",
"ワアー、すげえ。部長。毒をのまされた娘は、帝銀事件の何とかさんの何倍もシャンだそうですぜ",
"バカ。帝銀事件は来年起るんだ"
],
[
"ピストルを徹底的に探させるのだ。塀の外周三四百米と庭の中になかったら、部屋の中を、縁の下も天井裏も残るクマなく探すのだ。今のところは、これにまさる手がかりはない。美津子の部屋からは、待ってましたとばかり色々の物が出てきたが、まだピストルだけは出てこないな",
"案外あの部屋から出てきますかな。ひとつ、探させてみましょう"
],
[
"どうして、邸内になさそうなんだい",
"わざわざ自分の部屋へ兇器を持って帰りやしませんや。現場へ落っことして行って悪いという定石もありませんのでな。すると、どうも、バカに、簡単メイリョウになりやがる"
],
[
"犯人は外部かね",
"まア、ピストルが出てこなければね。しかし、遠いところへ、ピストルを隠して戻ってくることが出来るかどうか、まア、ひとつ、これを先生の宿題に、考えてみて下さいな"
],
[
"とにかく犯人は、内部でイタズラをやってるんですからな。美津子さんの部屋の中へ安彦氏の部屋のカギが投げこんであったり、ね",
"あのお嬢さんの容態はどうだね",
"どうやら命をとりとめたそうです。あのお嬢さんが生きかえると、色々のことが分るでしょうな。まア、それまでは、ボクは何も考えないことにしていますよ"
],
[
"どこでつかまえたのだ",
"それが奇妙なところでしてね。我々は倉田組へ張りこんでいたんです。夜釣りの久七もそこへ舟をつけるだろうと見込んでいたんですが、あの野郎、魚市場へ舟をつけて、品物をさばいて、スシ屋の二階で酒をのんで寝ていやがったんです",
"倉田組の様子はどうだい",
"なんの変ったこともありません。倉田組の漁船は今暁はまだ一隻も戻りませんし、滝沢三次郎の行方は相変らず判明しません"
],
[
"倉田組の持船はいつから出払っているのだね",
"責任者の滝沢の行方が知れませんので、ハッキリしたことは分りませんが、だいたい漁船というものは、小さな船でも一ヶ月ぐらい漁にでたまゝ戻らないことがザラですから、小田原の船が東京はおろか銚子の港や石の巻に休んでいたり、八丈島あたりで魚を追っかけていたり、ちょッと突きとめられません。倉田組の持船は二十四隻ありまして、十五トンから四十トンぐらいまでゞすが、カツオ船や棒受け網やキンチャク網や色々とあって、禁漁水域へ密漁にも出かけているように取沙汰されております",
"それでは久七をつれてきたまえ"
],
[
"いけませんや。ちかごろは不漁つゞきでさア。イカが五貫目チョッピリときてやがらア",
"シケでも一晩ザッと千五百円なら、たいしたもんじゃないか",
"笑わしちゃいけませんや",
"どこで釣るんだ",
"早川が不漁ですから、ちかごろは、米神の方へのしてますが、どこへ行っても、いけませんや",
"お前は毎朝七時ごろ戻ってくるそうだな",
"舟をあげるのは五時半か六時ごろですがね。品物の処分をつけてきますから、まア、だいたい、七時ごろ家へ帰ってきますよ",
"今日はどうしておそかったのだ",
"アハハ。おいでなすったな"
],
[
"ボクはうるさいことがキライなんですよ。ここのウチになにかあったと聞きましたから、こいつはイケナイと思いましてね。一晩夜釣りにでゝごらんなさい。わかりますから。夜が明けると、ねむたくって、やりきれませんや。百円の魚を五十円に売っても、はやく眠りたいと思う時があるもんですよ。今朝は無性にねむたくって仕方がないから、ウチへ帰って、かかりあいになって眠りそこねちゃ大変だと思いましてね。隠れ家でようやく寝こんだところを叩き起されちゃ、やりきれませんや",
"マア、怒るな。我々はみんな一晩ねていないし、今朝もねむりやしないのだからな。ここのウチに何かあったということを誰にきいたな",
"なアに、魚市場の方へ漕いでくると、大謀網から戻ってくる若い奴らが教えてくれたんですよ。お巡りさんがボクを探している、とね。おまえのウチに何かあったらしいぜ、と云いやがるから、こいつはイケネエと、そのまま魚市場へ舟をあげて、スシ食ってねちまったんでさア",
"一晩中米神で釣ってたんだな",
"そうですよ",
"何か見なかったか",
"魔法使いじゃありませんぜ。夜の海で何か見える人がいますかい。手もとへあがってくるイカのほかにね",
"船は見なかったか",
"舟の灯は見ましたがね。ゆうべは何バイもでゝいません。ボクの見た灯は、あれで六ツか七ツぐらいかね",
"砲声をきかなかったか",
"そいつは、たしかに、ききましたよ",
"どっちにきこえた",
"早川口の沖あたりかね。そう遠くないように思いましたが、夜の海上は音の走りがすごく良いから、見当がつきませんや。ちょッと振り向いて見ましたが、なんにも見えませんでした",
"それは何時ごろだね",
"夜釣りの漁師が時計をぶらさげてりゃ、日本も一等国でしょうがネエ。まア、一時か二時ごろじゃアありませんでしたか",
"そっちの方角にエンジンの音をきかなかったか",
"それはきいたようですね。何度もききましたよ。あのへんは漁船の通るところですから、別に気にとめてもいませんでしたがね",
"ほかに物音をきかなかったか",
"毎晩きく音のほかには、特別のものをききませんでしたな",
"毎晩きく音とは、どんな音だな",
"まず夜汽車の音。それから大謀のホラ、お寺の鐘。海じゃア、ほかに珍しい音もきかれませんや。時々、海岸の崖を進駐軍の自動車の通るのが見えたり、きこえたりするぐらいかね",
"今朝、夜があけてから、何か海上に変ったことはなかったか",
"気がつきませんでしたね"
],
[
"それは学術的に、なに状態と云うのですか",
"私は臨床的に経験しているだけで、学術語では、ちょッと分りかねますが、神経科に問い合せれば分るでしょう",
"精神的に常人ではないというワケですな",
"まア、そうです。常人ではないと云う方が妥当ではないかという程度でですな。常態か異常か、専門家によっても大いに論議のあるところかも知れませんが、私はその方の専門ではありませんから、なんとも断定はしませんが、まア、異常と見るのが穏当のように思いますな"
],
[
"巨勢君はお嬢さんとオナジミなんだから、キミが一同に代って話してくれたまえ。みんな正直に話していゝですよ",
"そうですか"
],
[
"ボクはこんなことを申上げるのはイヤですがね、お嬢さんが心配していらした通りの事件が起りましたよ。しかし、早すぎましたねえ",
"いゝえ、早すぎやしませんわ。私たちの用心が足らなかったのです"
],
[
"では、お砂糖だったのね。私がこんなになったのは?",
"えゝ"
],
[
"お嬢さんは、ココアを何バイおのみでしたか",
"食堂で一パイ。それから、二階へも一パイ持ってあがりました",
"それも飲みほしましたね"
],
[
"それから、しばらく起きてらッしゃいましたか",
"ハッキリ記憶がありませんの。しばらく起きて、何かしたようにも思えるし、ねむたくなって、すぐねたようにも思えるし",
"ココアを持って二階へあがってからのことを、はじめから思いだして下さい",
"二階へあがって、ハンドバッグから二枚の手型をとりだして、テーブルの上へ並べて、とりとめもなく考えながら、ココアをのんでいたのです。そう。それから、記憶がハッキリしません",
"いつネマキに着替えましたか",
"さア"
],
[
"しばらく、とりとめもなく物思いにふけっていたように思いますが、いつ、ネマキに着替えたかしら",
"お部屋のカギはいつかけましたか",
"お部屋のカギ?"
],
[
"結局、何も得るところがなかったね",
"ハ?"
],
[
"イヤ。得るところは、ありました",
"何が?"
],
[
"美津子さんは、たしかにココアを二ハイのんでいます",
"あたりまえじゃないか。君はのんでいないと思っていたのかい",
"イイエ。ボクはたゞ美津子さんの訊問によって明かになった事実を申上げているだけですよ。それから、美津子さんは、いつネマキに着替えたか、ハッキリ記憶がない。そして、カギをかけて寝たかどうかも記憶がありません。しかし、部屋のカギはかゝっていましたし、美津子さんはネマキに着替えていました",
"フウン。ずいぶん重大なことが明かになったもんだねえ"
],
[
"もう、それだけかい",
"美津子さんは、テーブルの上へ二枚の手型を並べて、ながめながら、物思いにふけっていました",
"なるほど。それだけは初耳だったな"
],
[
"その手型だがねえ。テーブルの上には、もう、なかったねえ",
"もう、どこにも、ないでしょうな",
"どこにも?"
],
[
"どうして、どこにもないんだい",
"ただ、そんな気がするんですよ。安彦氏の部屋のカギだの甲虫殺人事件だのと余計なものが有るぐらいだから、入要のものが無くなっているだろうと差引勘定したまでさア。ボクは算術がすきなんです。アハハ",
"美津子さんがどこかへ蔵ったかも知れんじゃないか",
"そうです。しかし、どこへ蔵ったにしても、なくなる時は、なくなります"
],
[
"結局、巨勢さん。キミだけだね、手型を見たのは",
"そういうことになりましたね。お気の毒さまですが",
"キミは手型について、なにか気付いたことがあるのと違いますか。犯人が手型を盗まねばならぬ理由を",
"イイエ、なにも知りません。たゞ、二つの手型がたしかに同一人の手型であった、ということのほかは、ね",
"矢代さん。あなたも手型を見ましたか"
],
[
"あいにく私は見ませんでしたよ。私が巨勢君の事務所を訪ねたときは、もう用談がすんで、手型は美津子さんのバッグの中にはいってしまった後でした",
"やれやれ。失せ物が、また一つ、ふえやがったか"
],
[
"滝沢は一人だったのか",
"ハ、一人でした",
"何時の汽車だい",
"三時五十分着、下り列車から降りました。東京からの切符を持っていました",
"その列車から降りたのはマチガイないな",
"たしかにマチガイありません。汽車から降りるところを発見したのですから",
"イヤ御苦労"
],
[
"それじゃア、夕食前に滝沢を訊問してみるか。え、三村。どんな男だい。滝沢三次郎は",
"これはシタタカな奴ですよ。泥をはくような先生じゃありませんな。よッぽど確かな証拠をつきつけない限りは、何をきいたってムダでしょうよ。夫ア、ムダに腹をへらすだけがオチですな。もっとも、夕飯がまずくなるかも知れませんや",
"とにかく、よんでこいよ"
],
[
"昨夜は、どこにいましたかね",
"ハア、よんどころない用で、上京しまして、東京に泊りました",
"昨夜、家をでたのは?",
"左様。七時ちょッと過ぎたころでしたかな。美津子さんが帰宅したのが七時ごろ。それから十分程して、私は食事を終りまして、仕度して出かけました",
"すぐ上京したのですか",
"いいえ、一度、事務所へ行きました。私が上京したのは、八時五十五分発上り列車でした",
"ハテナ。あなたが十時ごろ事務所にいたのを見たという人がいるが",
"それは何かのマチガイですな。八時四十分ごろ、私は事務所をでました",
"それを証明する人がいますか",
"さア。自動車か電車にのればよかったのですが、私は歩いて行きましたので、道では知った人に会いませんでした。駅でも知った顔には会いませんでしたが、そう、そう、あの列車が二宮をすぎてから、イヤ、大磯をでゝ、馬入川にかかる頃でしたかな、車中にケンカがありました。しかし、そんなことは、証拠にはなりませんな。車掌が見ていたワケではなし、ヤミ屋らしい男同志のちょッとしたケンカにすぎないのですから",
"しかし、十時前後に、あなたを小田原で見かけた、という人が二人もいるのですが"
],
[
"イヤ、それは何か、錯覚でしょう。こういう面倒が起るのでしたら、駅前の交番へでも挨拶して行くところでしたな",
"東京へついたのは何時ですか",
"私は横浜で下車して、電車に乗換えて桜木町へ行きました。行先を申上げるワケに行かないのが残念ですが、ちょッとした用件で、第三国人に会った、とだけ申しておきましょう。それ以上、申上げるワケにいきません。悪しからずゴカンベン下さい",
"で、横浜へ泊ったのですか",
"いゝえ。横浜で費した時間は一時間ぐらいのものです。用談は三十分とかからなかったのですから。それから、すぐに東京へ、電車で行きましたが、私が下車した駅は申上げられません。京浜の一駅とだけ申しておきましょう。十二時ごろでした。そして、ふたたび第三国人に会い、そこの家へ一泊しました。これ以上申上げられないのが残念です",
"それを仰有っていたゞかないと、あなたに不利なケンギがかかりますが、それでも仰有るわけには行きませんか",
"残念ながら、申上げるワケにいかないのです",
"あなたが仰有れないというのは、まア、密貿易とか禁止品の売買とか、そういった秘密のあばかれるのを怖れてのことゝ思いますが、それによって蒙るケンギは殺人罪ですよ。こッちが、だいぶ重罪ですが",
"単なるケンギにすぎませんから、私は平静です。いずれ無罪がわかるでしょう。真犯人がわかれば、私の潔白は自然に証明されますから。私が昨日の行動をハッキリ申上げられないのは、罪悪によってゞはなく、信義によって、なんです。日本人の信義のために、これは、どうしても申されません",
"しかし、殺人事件とは別に、その点も追求されて、あなたは結局告白せざるを得ないと思いますがね。なぜなら、この家の中からは、禁止品が山のように現れていますし、倉田組の倉庫はまだ開かれませんが、すでに封印されて、一両日中には白日のもとにさらされますよ。その結果は、たぶん軍事裁判、ということになるだろうと思いますが、さすれば、結局、第三国人の住所氏名も追求されるのは当然ですな",
"その時になれば、あるいは申上げるかもしれません。しかし、まだ当分のうちは、申上げるワケにいきませんな。すくなくとも、彼らが日本を去るまでは",
"それは、いつごろですか",
"私が彼らについてお話しする時が、彼らが去った時なのです。それ以外は何も申されません",
"軍事裁判に附されてもですか",
"とにかく、ここは軍事裁判の法廷ではありません",
"あなたは昨夜の夕食にココアをのみましたか",
"いゝえ",
"コーヒーか紅茶は",
"番茶をのんだゞけです。甘いものは、いたゞきません。ゆっくり食事をする時間がなかったのです",
"ふだんは、のみますか",
"のみます。それはこの家の習慣ですから",
"あなたは奥さんと仲が良かったのですか",
"けっして不和ではありません",
"奥さんの実家に住んで、家族の方との折合いはどうでした",
"義父は社長でありますし、社内で最も信任されている私ですから、肉親以上のツナガリです。こう申しては変ですが、本当のお子さん方よりも、私の方が何かにつけて深く結ばれております。したがって、他のお子さん方と私とは、ちょッと気まずいところが有ったかも知れませんが、私さえ我慢すればすむことで、表だって不和なところはありませんでした",
"奥さんに生命保険はかかっておりましたか",
"かかっておりません",
"昭和十七年でしたかな。公一さん親子が轢死されたのは",
"そう。昭和十七年一月。皇軍マレー進撃という、大変景気のよい時でした",
"あなたはアレをどう見ますか。過失死? 自殺? 他殺?",
"それは私の判断することではありませんな。しかし、すくなくとも自殺とは考えられません",
"なぜですか",
"理由がありません",
"ところが、自殺かも知れない。と述べている人があります",
"それはまア、とんでもないことを云う人間は、いつも、いるものですよ",
"倉田由之氏が、そう云っているのですよ",
"まさか!"
],
[
"ところがですな。安彦氏は他殺だというのです。しかもですな。犯人を見て、知っているというのです",
"それはフシギですな"
],
[
"イヤ、どうも、信じられません。犯人を見ているならば、それを言わなかったことがフシギです。私の記憶に誤りがなければ、アレを自殺と称したのは、義父ではなくて、安彦さんだったはずです。私は今、思いだしましたよ",
"あなたは安彦氏の復員について、何か感想はありませんか",
"べつにありません。たゞお気の毒な、と思いましたよ",
"困ったことになったと思いませんでしたか",
"なぜでしょう。べつに困ることがないではありませんか",
"この家には禁制品が山のようにありますな",
"いろいろと仕事の上のツキアイがありまして、仕方なしに買いこんだものです",
"仕方なしにね",
"その通りです。あるいは、又、先方が、そういう品物で支払いをするから我慢しろ、とくるでしょう。これは尚さら、仕方がありません",
"これらは、あなたが買ったのですか",
"私です。倉田組の仕事は云うまでもなく義父がサイハイをふるっていますが、コマゴマしたことは私の一存で処理していますから、あんな物品の売買ぐらいでしたら、義父の耳に入れずに私だけでやるのです",
"あなたの奥さんを恨んでいた人がありますか",
"恨みをうけるようなことをしていたとは思われません",
"あなたの奥さんを殺した人の心当りはありませんか",
"まったく、ございません",
"失礼ですが、あなたの奥さんと親しかった男を御存知ありませんか",
"知らぬは亭主ばかりなり、と云いますから、いたかも知れませんが、私は知りませんでした",
"親しい女友達は?",
"二三交際していた人はいますが、特に親しい友達というものもなかったようです",
"どんな性格の方でしたか",
"倉田家の娘としては、ごく平凡な方でした。さすがにチョット勝気なところはありましたが、あんまりハデなことや交際などもキライな、まア、ちょッと文学少女的でしたよ。今でも、いろいろと、私などには三行も読めないような純文学というものを読んでいました"
],
[
"あれで凄い奴ですよ。政界の黒幕などにレンラクもありましてね。今に大きなことをやらかしますぜ",
"ところで、三村。今夜はひとつ、昭和十七年一月事件の調書をしらべてみたいのだが、君はこれを調べはじめていたそうだな",
"ハア。しらべはじめていました",
"その調書を私に借してくれ",
"さっそく届けます",
"では巨勢さん。矢代さん。今夜は私の家へ泊って下さい。一しょに、昔の書類をしらべて、研究してみようではありませんか",
"それは願ってもないことです"
],
[
"君は他殺ではないと云うのだね",
"いゝえ。自殺かも知れない、と云う意味ですよ",
"なぜ自殺かも知れないのです",
"自殺するような理由があるからです",
"どんな理由が?",
"それは言うことができません。警察の力でしらべて下さい",
"警察の力で、今、君に対して、それをしらべているのだ。ハッキリ答えたまえ",
"弟の僕から言うことのできない意味があるのです。それだけはカンベンして下さい"
],
[
"するとお前はその夕方の五時ごろは家にいなかったのだね",
"ハイ、いません。舟があがるから、五時ごろ魚をとりにこい、と会社の方から電話がありましたので、私がとりに行きました。夕食の仕度がありますから、私がでかけては困るのですが、ウチの宿六もどこへ行ったか姿が見えませんし、久七もスミも見当りませんので、私がでかけました。帰る道に陸橋のところへ来ると、橋のたもとでウチの宿六の野郎が立小便していやがるから、どこをうろついてやんだい、おかげで夕飯の仕度がおくれるじゃないか、この魚をとッとと背負ってきてくれ、と怒鳴りつけてやりましたよ。すると、あなた、宿六の奴メ、バカ云うな、オレは大きな荷物があるんだと云って、電信柱のような大きな材木を足下から担ぎやがったんです。それを道バタへおいて一服して、立小便してやがったんですよ",
"それは何時ごろだね",
"何時だか知りませんが、もうマックラでしたよ。けれども私は懐中電燈を持って出ましたから、人の顔を見わけることができます",
"イヤに要心がいゝな",
"バカにしちゃ、いけませんよ。こんな山奥に住んでりゃ、懐中電燈なしに夜歩きはできませんよ。みんな懐中電燈を持って歩きます",
"ほかに誰かに会わなかったか",
"陸橋をわたって、野球場の方へくると、左の道から、誰かゞくるようでしたが、私たちの物音にかくれたようでした。人殺しがあったと知ってりゃ、追っかけてって懐中電燈つきつけてやるんでしたが、残念なことをしましたよ。そいつが犯人にきまっています",
"左の方の道というと?",
"閑院宮別邸裏を通って、つまり公一さんの殺されたところを通ってくる道ですよ。その男はそっちの方から歩いてきました",
"どうして隠れたのが分ったね",
"あの角に人家があって、灯がもれていましたから、隠れた姿がチラと見えたんですよ。素早い奴で、誰だかまったく分りませんが、男でしたと思います",
"なぜ男とわかったね",
"素早いからですよ。第一女があの道を夜歩きしませんよ",
"お前が家へ戻ったとき、まだ帰宅しなかったのは誰々だね",
"女はみんな家にいました。野郎共は一人もいません。なぜ分るかと申しますと、そのちょッと前に安彦様へ赤紙が来て、皆さん広間へ集って、ワアワア噂していたからですよ。カンジンの野郎共が一人も姿が見えなかったんですよ",
"お前が帰宅したのは何時だね",
"五時半でした。ふだん時間など気にしませんが、夕飯の仕度がおくれるのを気にしていましたから、時計を見ると五時半すぎです"
],
[
"イヤ、女のほかは、と云う方が正しいですよ",
"なぜ",
"とにかくアリバイのない人間は、みんな疑ってみなければ片手落ちというもんですよ。安彦氏にもアリバイはありません",
"由之氏の当時の妾というのは、今、どうしているのでしょう。これが重要な証人になりそうですが"
],
[
"それですよ。その妾が今では由之氏にすてられて、彼を恨んででもいると、大変面白くなりそうだが、しかし、アリバイの証言と云っても五年も昔の出来事では物の役には立ちませんし、犯行をカンづいているとすれば、妾を敵にまわして、ほッとくような倉田先生ではないでしょうな",
"モトは、犯人は倉田由之だと云ってましたな",
"そんなことを口走ったようでしたな。しかし、街の浮説がそうなんですから、そういう浮説に同じやすいモトのような女の云うことは、とりあげても仕方がありません",
"しかしモトの証言で見のがせない特徴が一つありますな"
],
[
"なんだい、それは?",
"先生は小田原にくわしいから、おききしますが、陸橋というのは、どこにありますか。そこは現場から倉田家へ行く途中ですか",
"イヤ、違うね。陸橋はもっと町に近い方で、現場から倉田家へ行くには通らないね",
"すると、蛸重先生がそこに立小便していたことは、彼にとって有利ですな",
"まア、そうだろう"
],
[
"イヤ、巨勢さん。我々は昨日一パイ、ネズミになったり、モグラになったり、ミミズにはなりませんでしたがまず探すべきところはみんな探しました。これ以上はとても探せません。もう、探す必要はないでしょう",
"しかし、物そのものの問題ではありません。あらゆる可能の問題。もしくは、最も小さな痕跡の問題です",
"巨勢さんの探し物はピストルですか。手型ですか。あるいは、そのほかの何物かですか",
"あらゆる物を探さなければなりませんが、当面するところは、ピストルですとも。犯人を決定する最初のカギはこれ以外にありません。この犯人に、たった一ヶ所頭の悪いところがあったとすれば、ピストルを現場へすてて行かなかったことです。たぶん頭が悪かったせいではないでしょう。現場へ置きすてゝはいけない理由があったのでしょう。しかし捜査する我々にとって、犯人が残してくれた乗ずべき隙は、これ以外にはありません。なぜ現場へすてて行かなかったか? ピストルはどこにあるか? ピストルが邸内のどこにもないということが決定的となるだけでも、我々の捜査範囲は明確に一まわり狭められることとなります。すくなくとも、その場合は、犯人は当夜家にいなかった誰かの中の一人であります"
],
[
"君は又、軽業みたいなことをやってるじゃないか。君みたいに身のコナシのやわらかな犯人は居るもんじゃないよ。まア、曲芸の芸人以外には、ね",
"アハハ。探偵商売はいゝ運動になりまさ",
"ヒラリ、ヒラリと、屋根から梢へ、何を探しているのだね",
"ちかごろの探偵小説はこういうことが好きだから仕方がありませんや。トンマな犯人はマにうけて、トンマな仕掛けをやらかしかねませんからさ。ちかごろは捕物帖までこういうことをやらかすから、笑わせますよ。しかし、こういう仕掛けは案外捕物帖の世界かも知れません。これを科学的だと思う方がどうかしていますよ。ハッキリ跡を残すことになるんですからな。これを物質不滅の原則と云いますよ。アハハ",
"何か方法を用いたら、三四百米、放り投げることができないかい",
"それも考えられますが、角度の問題ですよ。ごらんの通り、塀がバカ高くて、おまけに家のすぐ外にバカ大きな喬木の原始林があるんですから、角度が限定されています。上へ投げたんじゃ、いくらも飛びませんし、飛ぶ方向に投げれば、塀か木にぶつかって、下へ落ちます。うまいぐあいに木の梢にとまっていると、コトなんですがね。しかし、方法を用いてピストルを処理した場合はピストルの処理よりも、処理した道具の処理の方が、どれぐらいヤッカイだか知れませんや。探偵小説というものは、こういうカンジンな損得の勘定を忘れているから現実的に又特に心理的にゼロなんです",
"利巧な犯人なら、まず、この邸宅なら、どこへ隠すだろう?",
"ボクよりも利巧な犯人なら、もう、ダメですよ。まアしかし、常識的に、僕の探した順序でしょう。第一に、水。ここは山のテッペンに孤立した邸宅です。水はどこへ落ちるか知れませんが、ピストルですら、土管のかなり遠方へ持ってかれて鎮座しているかも知れません。オ風呂の栓をぬいてごらんになると分りますが、落ちる水の力は凄いものです。しかし、今までのところ、邸内には、ピストルがもぐりこめるだけ大きな水の落口の孔がありません"
],
[
"アンタはあくまでスミ子をダタイさせるというんだな。ダタイしたって、スミ子がもとのカラダになるわけじゃないんだぜ",
"もういいのよ。兄さん。私、あきらめてるのよ。でも、子供だけは生みます",
"お前はだまってろ。女中だって、オモチャと違うんだ。はらましたり、おろさせたり、自由にできると思いこんでる気持が許されないよ。女房にしろとは言わないよ。結婚を要求することができないというんじゃないぜ。君と結婚したって、スミ子は不幸になるだけの話だからのことさ。しかし生れる子供の責任だけはハッキリしてもらおうじゃないか",
"古風なことを言うなよ。どこにだってヒニン薬をうってるぜ。婦人科の医者はダタイが専門のようなものだ。御時世なんだぜ。腹の中の子供なんてものは、たかが精虫のふとったゞけの生物にすぎんじゃないか",
"オイ。もういっぺん言ってみろ"
],
[
"スミ子はニンシンしていたのかい。なるほど。そういえば、定夫に電話をかけた女の話をきいたとき、スミ子の様子が普通じゃなかった。じゃア、ひとつ、定夫をよんでもらうことにしよう",
"オレは逃げも隠れもしないぜ。お前さんたちに言ってやりたいのは、この犯人は倉田家の内部にいないということさ。オレは新聞でよんだだけだが、犯人は誰か、それについては、お前さんたちよりも、オレの方に切実な問題じゃないか。オレみたいな裸稼業の男でも、これについては考えらアな"
],
[
"バカにしなさんな。ボクサーというものは、かりにも、ぶんなぐりッこの商売だぜ。それは人気商売だから女のファンは腐るほどいらアな。しかし、女の子とイチャつきながら、タイトルはとれないぜ。まア、ちょッとトレーニングを見物することさ",
"それにしては、すばやいところ女中に手をつけたもんじゃないか",
"それが、どうしたというんだい"
],
[
"人が後悔していることを、変に言いたてるもんじゃないぜ",
"そうかい。後悔しているとは知らなかったよ。やっぱり良心に咎めたかね",
"バカな。小便くさい小娘なんかを相手にするんじゃなかったということなんだ。お前さんたちには分るまいが、オレはボクシングに精魂かたむけているんだぜ。女というものは性慾を調節してコンジションをととのえる道具にすぎんじゃないか",
"なるほど",
"道具がニンシンしちゃアかなわないよ。こいつは、オレのミスさ",
"十八日の夜おそくアイビキした女も道具かい",
"なんだって?"
],
[
"あの御婦人のアドレスとお名前がききたいね",
"ききたいのはオレの方さ。どんな御婦人だか知らないが、ひとつ拝ませてもらおうじゃないか",
"おい。シラバックレるのは、いゝ加減によそうじゃないか。十八日の夜十時ごろ、小田原駅で誰を待っていたのだい",
"誰も待ってやしないさ。家へ帰るつもりで汽車を降りたが、家へ帰るのがイヤになったというワケさ。丹下左膳がいるからね。まさかその時間に、丹下左膳や起久子姉さんが殺されているとは知らなかったね。虫の知らせという奴だろう。変に胸さわぎがしやがるもんで、サテ東京へ戻ろうか、熱海へのして泊ろうか、ちょッと考えていたのさ",
"そして、どこへ行ったね",
"熱海へ泊ったよ",
"旅館の名は?",
"ナニ、友達のうちさ。オレの先輩だよ。元フェザー級ボクサー、目下共産党員のヤミ屋さ。島田芳次といえば、新興成金で、熱海では売れた顔だよ。七八年前オレにボクシングの手ほどきをしてくれた恩人さ",
"島芳かい。この土地の男じゃないか",
"そうさ。ボクサー兼一パイ飲み屋をやっていたね。ボクシングとビールの味を教えてくれたオレの先生さ。今は熱海でいい顔だぜ。今に共産党から代議士にでるらしいね",
"君も共産党かい",
"共産党じゃファイトマネーの値上げ運動まではやってくれないらしいよ。ボクシングで食えなくなったら、共産党に入党してテキハツをやるかも知れないよ。今のところは自由党さ",
"いつ事件を知ったんだい",
"今朝の新聞さ。島芳が見せてくれたのさ",
"ホホウ。今朝まで島芳のウチにいたのかね",
"左様。十八日の夜中から、昨日今日と三日間ね。一歩も外へでず、さ",
"ラジオでは昨日の正午から放送している筈だが、誰かきいて教えてくれそうなものじゃないか。君のウチの事件だぜ",
"共産党はラジオをきかないらしいよ。俗事を考えないのさ。新聞だけはアカハタのほかにも読むらしいがね",
"倉田さん。先日は失礼しました"
],
[
"ねえ、倉田さん。この御婦人の存在は重大ですぜ。御婦人が当家へ見えられた時、ちょうど、ピストル事件が起った時刻なのです。これは捜査のキメテですから、新聞にも発表してありませんが、この御婦人は犯人を見ています。見てふりむいて立ち去ったのです。なぜでしょう",
"オレにきいても分らないさ。一向に心当りのない女だ。オレは小田原くんだりでアイビキするほど、ヒマじゃないね。その女が警察へ知らせたのかい",
"まア、そうです。電話で知らせて、姿をくらましました",
"奇妙な女だね",
"ヒョッとすると、犯人はこの女かも知れません"
],
[
"オレを訪ねてきた女ならパンチの一つもくれそうなものだがね。益々奇妙な女さ。オレには心当りがないからまア、せいぜい追跡してくれたまえ。早いとこ、つかまえて拝ませてくれよ",
"あなたは安彦さんが公一兄さんを殺した犯人だと仰有いましたね",
"きまってるさ",
"なぜでしょう",
"殺人事件にきまったものを、自殺だなんてね。彼安彦氏はそう言う必要があったんだろう",
"それだけの理由ですか",
"キミ、ボクシングはどう拳を握るか知ってるかい。かならずオヤユビを外へだして握るものさ。素人はオヤユビを内側へ握るが、あれで強くブン殴ってごらんよ。オヤユビが骨折するぜ。オレは見て知っていたんだ。あの夕方、箱根口の方から歩いてきた安彦氏はオヤユビをさすっていたぜ。ネエ、キミ、オレはそのころから、ボクシングを稽古していたから、拳に対しては常に正確冷静な観察者だよ。彼氏、オレと顔を合せると、オヤユビをもむのをやめて何食わぬ顔で、肩をならべて陸橋をわたって家まで来たが、その後も彼はオヤユビがなんでもないようなフリをしていたが、オレの目をごまかすことは不可能さ。彼安彦氏はなぜオヤユビをいためたか",
"さすが。さすが"
],
[
"ナア、キミ。公一氏殺害犯人の安彦氏がなぜ殺されたのだろうな",
"殺した人にきいてくれよ"
],
[
"アダウチというものはね。かならずしも仇をうつことではないさ。アダウタレのタイプがあるんだ。彼氏がカタキでなくてもだね。なんとなく仇を打ちたくならせるような悪役がいるぜ。彼安彦氏、しかりさ。まして、あの丹下左膳のカッコウを見てくれ。オレは一目見て、殺したかったよ。なぜなら、生かしておくと、オレが殺されそうな気がするからだよ。この気持、わからないかい",
"キミはさっき犯人は外部の者だと言ったね",
"起久子姉さんの場合はね。彼安彦氏は、犯人がちがうよ",
"なぜ",
"ただ、オレの六感さ",
"なるほど。イヤ。いずれキミの六感をかりなければならなくなるだろうよ。今日はまア、休んでくれたまえ、時に、ダタイだけは、やめた方がいいぜ。刑法に反するからな。そうなると、キミのような善良な人でも、我々はひッとらえなくちゃならなくなるのさ",
"ダタイなんか、しませんよ。しかし、流産するのさ"
],
[
"皮肉な女さ。千駄ヶ谷四丁目六二五番地というあたりは、たいがい共産党員のすむ部落だそうだ。本部にもちかいんだね",
"案外共産党に関係のある女じゃありませんか。倉田定夫は熱海の元ボクサー共産党員の島田芳次の家にいたと云いましたね"
],
[
"断定はできませんが、あるいは、そうかも知れません。とにかく、彼は大孫を知っている筈です",
"蛸重の足の裏をしらべてみたら分りゃしませんか",
"ホリモノはあるでしょうよ。彼が龍教の狂信者であったことはハッキリしているのですから。しかし、大孫だという証明にはなりません"
],
[
"すると、龍教の密入国は倉田組の持船を利用しているのですな",
"イヤ、そうではありますまい。こういう秘密の航海には、第三国人の持船の方がいくらか便利でしょうから。第七ミユキ丸から降りた朝鮮人が果して龍教の信者でしょうか。貧困に甘んじて姦淫を敵とす、という龍教と倉田組では、ちょッと組合せが妙ですな。今、蛸重をよびにやりましたから、もう来るころです。又、ツカミ屁をかまされますから覚悟して下さい。ツカミ屁の教祖というのがあるもんですかね。大孫は屁の音色によって神示を告げるや否や、至急取調べを乞うという電報をうったら、焼津署が判読できないだろうな。しかし、伊東署の報告には、若干のヒントがふくまれています。当然こうあるべき筈です。第七ミユキ丸から降りた数名のうちに、たぶん滝沢三次郎がいた筈です"
],
[
"四時九分の始発にのると、東京へ何時ごろつきますか",
"七時半ごろです",
"第三国人か。滝沢三次郎氏も、そう言いましたな。第三国人。どうも世話がやけますよ"
],
[
"なんだい。博士は何を考えているのだい。龍教殺人事件かね",
"いえ、ボクの考えているのは、ピストルのことですよ。ピストルはいずこにありや。アハハ。バカの一念という奴ですよ"
],
[
"御足労をかけて済まなかったな。ツカミ屁をかまされるのは覚悟しているが、お手やわらかに頼むぜ",
"イヤア。サイソクは恐れいります"
],
[
"そう仰有られると、今日はやめておきますよ。どうも警察の中というものは、どこへ行っても同じものだ。しかし、なつかしいものじゃないですな。私たちの方じゃ巡査をやめることを、足を洗う、と云いましたが、植民地は柄が悪いせいかね",
"イヤ、そのことだよ。今日はお前に教えてもらいたいことがあるのだよ。お前は孔子様の学説についてウンチクがあるそうじゃないか。万巻の読書をしたという話だぜ",
"アッハッハ。朝鮮で暮すには、孔子様の本を書棚につめておくに限りますよ。この男は孔子を読んでると分ると、便所の汲取人まで態度が変りますぜ。朝鮮人に尊敬されるには、これに限りまさア。このカンドコロが分ると、朝鮮は暮しいいところですぜ。孔子様を尊敬する民族が悪かろう筈はないでしょう",
"なるほど。朝鮮はそんなところかね。龍教の信者だけが孔子様をよむのかと思っていたよ",
"孔子を尊敬する国民である故に、孔子を尊敬する宗教も生れまさア"
],
[
"どうだい。ひとつ、たのみをきいてくれないか",
"旦那、それは、いけません"
],
[
"金大祖の後継者は私ではありませんよ。とんでもないマチガイさね。後継者は誰か、これはある限られた人のほかは誰も知ることができませんや。なぜならその限られた人々は、殺されても、その名を明すことがないからでさア。こればッカリは、ヤボなカマをかけても、ダメ",
"そいつは、すまなかった。どうも、お前の神通力には、勝てないよ"
],
[
"龍教信徒は現在日本に何名ぐらい居るかね",
"サテ、難問だね。教えてあげたいが、そいつは、幹部でなきゃ知る由もありませんやね",
"朝鮮と日本で、八百三十五名の信徒がいるそうじゃないか",
"そうなりますかね。私が京城にいたころは、百人足らずでしたがね",
"日本人の信徒は何名いるね",
"私の知っているのは十人ぐらいかね。知らないのも居るでしょうさ。この道ばかりは分らないさね",
"龍教の五条に、信徒をもって一族とす、とあるそうだが、一族の名や数ぐらい知ってそうなものじゃないか",
"アッハッハ。私の知ってる男に十人ばかり子供をもってるのがいますがね。もう、子供の数も、名前も覚えちゃいませんぜ",
"小田原に信徒が何人いるかね",
"エエとヒイ、フウ、ミイ、と"
],
[
"フウム。どうもね。旦那も罪なお方さ。この石頭に物を考えさせようてんだからさ。合計六名かね。ただし、私の知ってただけの数さ",
"みんな日本人かい",
"そこから先は言われませんや。教団の規約によって、差し止められていまさアね",
"焼津に信徒がたくさん居るそうだね",
"そうなりますかな。まア、方々に住んでいるでしょうよ",
"伊東には何人いるね",
"何人いるのかね。よその土地のことは分りませんや",
"教団の指令はどんな方法で伝えてくるのかね",
"アッハッハ。まア、回覧板としておきましょうや。まわしてチョウダイ、回覧板"
],
[
"信徒は必ずこのホリモノをやるのかい",
"アッハッハ。八千万の日本人の足の裏をしらべなさいよ。龍教信徒の数字がでてきまさアね",
"どこでほるのだい",
"まさか町のホリモノ師へ頼むことはないでしょうね。なんでもないことさ。キリスト教の洗礼みたいなものでさア"
],
[
"全巻の終り。本日はこれまでとゴザイ",
"まア、まてよ"
],
[
"オイ、重吉。龍教は今までに幾つ人を殺してきたのか。え? 朝鮮で何人殺した?",
"いけませんよ。おどかしちゃア。人ぎきが悪いやね。警察の旦那というものは、考えすぎるよ。龍教ぐらい平和を愛する宗教はありませんぜ",
"平和のために殺人を行うことを当然と信じているじゃないか",
"どういたしまして。龍教は身をおさめ、仁を行うだけでさア",
"お前はどんな仁を行ったね",
"アッハッハ。カストリをのみ、カストリ屋のオッサンを喜ばせてやっていますぜ",
"オイ、重吉。隠したって、ダメだぜ",
"隠すより、あらわるるはなし。みんな見あらわして下さいよ。万事、おまかせしますぜ",
"お前の奥方や久七は信徒かね",
"ひっぱってきて、足の裏をしらべなさいよ"
],
[
"そうですか。それじゃア、ひとつ、私が飛びきりのニュースを教えてあげますよ。安彦さんの写真をもって、熱海へいらっしゃい。熱海銀座というところの十字路に傷痍軍人が立ってますから、写真を見せてごらんなさいよ。傷痍軍人が休業だったら、そのへんの商店の人に見せてごらんなさいな。知らないという人間はいませんぜ",
"ホウ"
],
[
"お前は熱海銀座で安彦氏を見たことがあるのだね",
"左様",
"いつ?",
"この春でしたよ。四月か五月頃かね。チラリと一度見ただけだが、あの姿は忘れませんや。たぶん、同じ人間です",
"お前は安彦氏が帰宅した時、それに気付いていたのか",
"まアね。そこで、まア、オセッカイの話ですが、身の丈をしらべてみたんでさア。妙な天一坊さ。この謎は龍教よりも深刻ですぜ。さ、熱海へ走ったり、走ったり。私の知っているのは、これで全部だから、あとは旦那におまかせしますよ"
],
[
"イヤ、ありがとう。そのほかに、お前の知っていることを、みんな話してくれないか",
"ゴアイニクサマ。これだけで全部でさア。私は探偵と違いまさア。この石頭で何ができるものかね。ただ偶然熱海の町で白衣の安彦さんを見かけたことがあったというだけのことさね。じゃア、オイトマしますよ"
],
[
"そうですね。まア、信用していゝのじゃないかと思います。なぜなら、一ヶ月ほど前、というところに、すくなからず、興味をひかれるじゃありませんか。この警察へ、倉田家の昭和十七年の犯人を探せという投書がきはじめたのは、ちょうど一ヶ月ほど前からでしたよ。この二つの暗合は見のがすわけに行きませんよ",
"すると一ヶ月ほど前から、何事か計画をたてていた陰の人物がいるわけですね",
"まア、そうです。すくなくとも、投書の主が実在していることは疑う余地がありません。しかし投書の主が殺人事件を計画しているかどうか不明ですがね。投書狂というのもあるが、何の目的で投書したのだろう。まったく迷わせますな"
],
[
"中学校の五年生というと、まだ延びる時だからな。もう延びないという人もある。まことに微妙な別れ目の期間だよ。こんな報告をもらったオカゲで、こっちは余計迷うばっかりさ",
"もっと上の学校を調べたら"
],
[
"それがダメなんです。こっちも中学時代の身長なんか調べたくないのですが、上の学校は戦災でみんな焼かれて、そういうものはありませんという御返事なんですよ。軍隊は解隊して、後にチリ一つをとどめずという有様ですしね。これぐらい捜査のやりにくい時代はありませんよ",
"あの計器には安彦氏のほかの家族の身長も書きこまれていますが、その人々に真偽を正したら",
"まア、そこですがね。昭和十五年に家族の幾人かが身長をはかったことは事実なんです。しかしそのとき安彦氏が五尺六寸二分あったとは、誰も覚えていませんや。こういう昔の記憶は、突ッつくほど、こんがらかるような方法は、なるべく後廻しにする一手ですよ。昭和十五年の話だから、七年も昔のことですよ。蛸重氏、伊東療養所をたぐらせてくれたのは有難いが、身長六分の短縮、イヤハヤ、まるで我々は彼氏にひきずり廻されていますよ。おまけに龍教ときやがる。泣きたくなりますよ。蛸重に捜査主任を譲った方がいゝらしい"
],
[
"ハ? イヤ、すみません。全然バカの一念ですよ。ボクはこれから、倉田家へピストルをさがしに行ってきます",
"隠し場所が分ったのかい",
"いいえ。五里霧中です。しかし、このピストルは追っかけざるを得ませんや。では、夕方まで失礼します"
],
[
"お嬢さん、警官というものを怖がらないで下さいよ。どうも、怖がられたり、憎まれたり、悲しくなりますよ。ちかごろ流行の言葉の通り、最も従順な公僕と思って下さい。それにしても、もとのお丈夫なお身体になれて、結構でした。二枚の手型がどこにも見当らないのですが、どこか本の中へでも蔵ったのではありませんか",
"いゝえ、そんなことはありません。このテーブルの上へのせて眺めていたのです",
"すると、お嬢さんが昏酔されてから、この部屋へ忍びこんだ者があるわけですな。お嬢さんはカギをかけないと仰有いましたが、カギはかかっていましたし、おまけに安彦さんのお部屋のカギが投げこんでありましたよ。何か忍びこんだ気配が頭に残っておりませんか",
"そんな気配は記憶しておりません",
"お嬢さんは、帰還した安彦さんに御不審をもたれませんでしたか。どこか、ホンモノと違うような……",
"その不審はもちました。どこと云って、何一つ昔の面影がないのですもの。二つの手型を並べて考えこんだのも、そのせいでした。私、疑ったのです。カトリック大辞典の中の手型をすりかえておいた人がいるのではないだろうか、と。今でも、この疑いは、はれません。手型を盗んだ人があると知って、尚のこと疑いを深めております",
"安彦兄さんの身長を記憶しておられませんか",
"記憶しません",
"お嬢さんは銃声をききましたか",
"いいえ",
"実は、安彦さんは、復員してきたばかりではないのですよ。去年の八月には、もう帰国しておりました。伊東の温泉療養所に入院して、この家へ現れた当日まで、そこに居られたのですよ"
],
[
"お嬢さんは熱海にお友達でもいらっしゃいませんか",
"なぜですの",
"熱海へ遊びにいらっしゃることがなかったのですか",
"二三度でかけました。親戚があるのです",
"熱海のどのへんに",
"伊豆山です",
"熱海銀座の方は散歩にでかけられなかったのですか",
"行ったことがあります",
"そのとき、街頭募金の白衣の傷病兵を見かけませんでしたか",
"見たことがありました。募金箱へお金を入れてあげましたから",
"そうですか。それでは時期が違うようですね。いつごろですか",
"今年のお正月のことでした",
"それは残念です。今年の四月末、五月ごろでしたら、あなたは白衣の安彦さんをそこで見ることができたんですよ。安彦さんは毎日街頭募金にでゝいたのです"
],
[
"それではニセモノでしたのね。身許がわかったのですか",
"残念ながら、わかりません。名なしの権兵衛なんです。生国も属した部隊も一切不明です。ただ便宜上、織田秀吉という珍名を名乗っていました",
"身許を知る方法はありませんの",
"全然ないのですよ。ただ出征前の安彦さんの正確な身長が分ると、ニセモノか、ホンモノか、それだけがハッキリ決定するのですよ。人間の身長が縮まることはないからです。いくら行軍々々でもスリきれません"
],
[
"お嬢さんの本箱に甲虫殺人事件がありましたね",
"ええ",
"探偵小説がお好きと見えますね。本格的な推理小説がそろっているので、驚きました",
"私、探偵小説を書いてみたいと思っていました。安彦兄さんも、探偵作家になりたいと言っていたのです",
"ホホウ。なるほど安彦さんが日記の包みにバイブルの文句を示して出征したあたりには、たしかに探偵小説がこもっていますよ。お嬢さんが探偵小説をお好きなら、これほどたのもしいことはありません。お嬢さんの推理をきかせていただきたいのです"
],
[
"私はこう思ったのです。でも、新聞記事を材料にした推理ですから、的外れかも知れません。安彦兄さんはニセモノなんです。手型をすりかえた人がいるのです。こんなことは家族以外にはできません。私たちに催眠薬をのませたのは、その手型を奪い返す必要からではないでしょうか。手型はホンモノと同じ紙質のようでしたが、疑って調べれば、それと分る偽作のあとが有るのではないでしょうか。私は、紙の古さに疑念をいだいていたのです。でも、私の目には、真疑の判断はつけかねました",
"すると、安彦氏のニセモノを仕立てて、それを殺したのはなぜでしょう。死んだ人間を殺す必要はない筈ですからね。生きかえらせて、又、殺す、ずいぶんヤッカイな手数でもあれば、危険な仕事でもありますよ",
"その理由がわかると、犯人が分るのではないでしょうか",
"なるほど",
"私はこうも思いました。昭和十七年の犯人を分らせるためのカラクリ"
],
[
"ハテ、それは、なぜでしょう",
"復員の安彦兄さんをニセモノと知っているのは陰の作者だけですから、昭和十七年の犯人は安彦兄さんをホンモノと思って、どうしても殺さなければなりません。なぜなら、犯行を見られていることを知りましたから。こうして、忘れられた犯人は、新しい殺人犯として捜査されます",
"なるほど、面白い見方です。しかし、それでは、なぜ起久子さんが殺されたのでしょう"
],
[
"足の裏のホリモノ?",
"ええ、そうなんです。まことに奇怪な話ですが、足の裏にタツノオトシゴのようなホリモノをした人物がいなければならないのですよ",
"タツノオトシゴ?",
"ハッハッハ。まったく妙な話ですよ。すくなくとも一人。あるいは、数人",
"人の足の裏なんて、見る機会がありませんもの",
"まったく、そうですよ。それで我々も困っています。さて、それでは昭和十七年のことを思いだしていたゞきたいのですが、当時お嬢さんは、おいくつでしたか",
"十七",
"あの晩のことで、何か変ったことを記憶しておられませんか",
"あの日のことは、かなりハッキリ覚えています。忘れようにも、忘れられない日ですから。公一兄さんが殺された時刻には、女は全部家にいました。男は全部家にいませんでした",
"そう、そう。私もそのことは忘れませんよ。男の方には、言い合したように、揃ってアリバイがありません。アリバイに関する限り、どなたも容疑者の一人ですよ。安彦兄さんは右手のオヤユビに怪我をして戻られたそうですね"
],
[
"そんなことあったかしら、手に怪我をしていたのは、重吉さん久七さんの親子ですわ",
"ホホウ。どんな怪我ですか",
"木を伐って怪我をしたのです。不審の怪我ではなかったと思います",
"そのほかにお気づきのことはありませんでしたか",
"ほかに変ったことは記憶しておりません"
],
[
"どうも退院早々わずらわしいことをお訊きして、すみませんでした。もうちょッと、二三お訊きすることを許して下さい。重吉のところへ、朝鮮人が訪ねてくることはありませんでしたか",
"朝鮮人? さア、重吉さんは朝鮮にいたことがあるそうですから、そんなお友達がいるかも知れませんが、私は見たことがございません",
"スミ子がニンシンしていることを御存じですか",
"薄々、そうではないかと思っていました",
"相手の男を御存じですか",
"定夫兄さん! たぶん"
],
[
"定夫兄さんは冷酷無慙な人なんです。女の人格や貞操など、問題にするような人ではありません。ダタイをすすめるぐらいのことは、あの人としては人間的なことに属していますのよ",
"御当家の殺人事件は、いつも男の方々にアリバイがないので困りますよ。お嬢さん以外に打ち明けて下さる人がないので、おききしますが、当家にピストルはなかったでしょうか",
"たぶん有ったと思いますが。私が幼いころ、たしか父がピストルを所持していました。しかし近年は見かけたことがありません",
"ありがとう。感謝しますよ。それで一つの事実がハッキリしました。現在、当家には、どこにもピストルがありません。イヤ、どうも、長いこと、失礼しました"
],
[
"お嬢さんは均勢のとれた美しいお姿ですね。何かスポーツをなさいましたか",
"ええ、バレーの選手でした。水泳と、スキーも好きです",
"なるほど。女性のスポーツはバレーに限りますよ。ボクのかねての持論なのです。美しき肉体はバレーから。ボクはそれをお嬢さんに証明していただいて、まったく愉快です。どうも、長々失礼しました"
],
[
"どうだい。博士。うるところがありましたかね",
"皆目なし。もっとも、お嬢さんが探偵をやるのには、ホレボレしましたな",
"え、ほんとのことを教えてくれよ。何かありそうなものじゃないか",
"全然なし、ですよ。ボクは相変らず、バカの一念、ピストルで頭がもちきりなんですよ。先生に低脳ぶりを笑われるのは覚悟していますよ"
],
[
"一ヶ月前ごろに、家族に会ったから近々家へ帰る、ともらしたこと、しかし、家族が病院を訪れたこともなく、手紙が来たこともなかった、という点が奇妙ですから、家族に会ったとすれば街で会ったことになる。そこで伊東と熱海のリンタク屋にきいてみましたが、彼らはたゞきまった時間に送り迎えするだけで、附き添っているわけではないから、家族に会ったのを見たことはないそうです。送り迎えの途中に、手紙を投函しなかったか訊きましたが、その事実もありません。ふだんは定期券で、伊東熱海間を往復していましたが、九月十六日は、リンタク屋に、小田原と書いた紙片を見せて、切符を買ってもらったそうです",
"ハテ、定期券ね。安彦君の所持品に、定期券があったかね",
"ありません。彼の荷物はフロシキに包んだ洗面具だけです。そのほかに、チリ紙若干、鉛筆一本",
"小田原駅のタクシーの運転手も、紙片を示されて乗せてきたと言ったが、その紙片はあるかね",
"ありません",
"まア、紙キレぐらいは、仕方がないな。掃除の時にはきだしたかも知れないからな。しかし、定期券がなくなるのはおかしいね。貪慾だというから、捨てることはなかろう。それとも、十六日に期限がきれたから、それをシオに、アルバイトを中止して、実家へ戻ったというわけかね",
"定期券の期限は調べませんでしたが、伊東の駅員も、彼が定期で通っていたことは証言がありました。九月十六日は、あるいは、期限の切れた日かも知れません。なんしろ、毎日のことですから、土地の人はだんだん冷淡になりますし、夏枯れで、温泉客もなく、夏からズッと収入が減っていたそうですから、里心がついたのかも知れません。とにかく、一ヶ月前あたりから、小田原の実家へ帰る、という意志をもらしていたことは、まちがいありません。筆談ですから、印象も強いわけです。実家はどこか、と問うと、オダワラ、と片仮名で書いて示したそうです。左手だけですから、片仮名以外は書きません。ところで、妙なのは、リンタク屋に見せた紙片も、運転手に示した紙片も、ヘタクソな字で、それはまるで左手で書いたような字だそうですが、漢字で書いてあったと云います。特に小田原のタクシーの運転手は、よく記憶していました。小田原、小峰、倉田由之、漢字でこう書いてあったと断言しました",
"チリ紙へ、かね",
"いゝえ、ポケット手帳をちぎったような紙キレだったと云っています",
"安彦君の所持品に手帳はあるかね",
"ありません。チリ紙以外には、いかなる紙もありません。鉛筆だけはありました",
"すると、病院で書いてきたのだね",
"そうかも知れません。しかし今日、実家へ帰るということは、療養所の誰にも打ち明けていません。新聞を読んで療養所の人たちは、薄々察していましたよ。小田原で殺された倉田安彦が、療養所を失踪した織田秀吉だろう、と",
"なるほど"
],
[
"左手で書いたような漢字。それは、誰が証言したのだね",
"タクシーの運転手です。野村という、四十ちかい分別深い男で、私がききもしないのに、左手で書いたような金釘流の、と言っていました",
"たかが紙キレというわけにいかなくなったな。色々と失せ物のある事件だね。すると、安彦君が一ヶ月ほど前に家族の誰かに会っているのは明らかだが、家族の中に、安彦氏に会ったと名乗りをあげた者はいないね。会ったとすれば、誰だろう。そして、その人物は、なぜ、それを黙っているのだろう",
"重吉だけですね。とにかく、熱海で見かけた、と言明したのは。そして、彼は安彦氏を風呂へ入れてやるような、行きとどいたことをしていますな"
],
[
"まったく、お言葉の通りです。美津子の容疑は第一ですが、しかし、重吉の場合にも、もう一皮めくって考える必要があろうと思います。重吉自身が昭和十七年の犯人だったとしたら、……安彦の復員は致命的です。彼は安彦が生きていることを知った。熱海で見かけて、知りました。これを連れ戻って、殺して、次にニセモノを立証してみせる。ニセモノと知ってる重吉は犯人ではあり得ない。ニセモノを殺す必要はありませんから。したがって、又、昭和十七年の犯人も、重吉ではあり得ないと立証されます。なぜなら、現に安彦をホンモノと信じて殺した誰かがいるのだから、その誰かが昭和十七年の犯人でなければならぬ。ニセモノと知っている重吉だけは犯人では有り得ない。……こういう理論が成立します。重吉がこれを計算している場合も想像すべきだろうと思います",
"なるほどね"
],
[
"これといって、捜査の手がかりになるようなものがないのです。ちょッと、ダンサーらしいようなタイプ。ザラですからね。しかし、本人を連行していただければ、真偽の鑑定はつけられます。この女を突きとめるには、サクラ拳闘クラブや友人関係を追求して、彼の身辺を洗って行けば、浮んでくると思いますが、女出入りは二人や二人じゃないでしょうから、そう簡単にもいきますまい",
"イヤ、御説の通りです。さっそく東京へ誰か出かけてもらって、定夫の身辺を洗わせましょう。それから、もう一つ、さきほど申したように、目下の我々に課せられた宿題は、安彦氏の出征当時、すくなくとも成人後の正確な身長を知る方法がないか、ということだ。我と思わん勇士は名乗りでゝくれ"
],
[
"大矢君。この家の出入口に刑事をはりこませるのは止めてくれないかね。要心には、いいかも知れんが、来客に気の毒だ。一々出入りの者に名前を訊問するそうじゃないか、表門と裏門の塀にヤモリみたいにくッついて、根気のいいには感心するが、こッちは阿片窟に住んでいるようなイヤな気持だ",
"それは、どうも、すみませんでした。さッそく止めさせることに致しましょう。なにぶん智恵なし揃いですから、犯人があがるまでは、余計な張り込みをやるやら、四苦八苦ですよ。今日伺いましたのも、まア、その一つで、決して取り調べというのではありません。皆さんに集って、懇談していただこうという趣向です。皆さんがこの事件をどう考えていらッしゃるか、腹蔵ないところを聴かせていただきたいものです"
],
[
"オレたちボクサーだとね。試合のたびに身長と体重をはかるがね。素人は、そうは、いかないね。第一、身長のはかり方を知らないぜ。アゴを突きだす、つまり自然に直立した状態と、アゴをグイとひくのと、五分や六分は、違うものだぜ。身長をはかるとき、その方が高くなると思ってアゴを突きだすのがいるよ。だから、ハカリではかったって、当にはならないものさ",
"なるほど"
],
[
"しかし、安彦兄さんはオレよりは大きいぜ。彼の洋服のお古を利用しているが、大きいね。オレは兄弟中で一番小さいね。バンタムだからな。バンタム、即ち、チャボだからね。もっとも、洋服が大きいのは、主として痩せているせいだ。ボクサーはふとっちゃ、こまるからな。身長は五尺五寸ジャストだよ。身長もたしか兄貴がかなり高いようだったね",
"かなり、と云うと、どれぐらい?",
"それは分らない。見た目の感じだから。見た目には大きく見えるタイプがあるものさ。オレみたいに、年中身長体重の量りッこしていると、感じと実際の相違がわからア"
],
[
"兄弟三人、年齢順にせいが低くなっているようです。私の主人が七寸ちかく、ありました。着物の寸法でわりだしても厳密な身長を知ることはできないでしょうが、でも、参考になりますかしら?",
"そうですなア。六分という微細な問題ですから、厳密には役に立たないと思いますが、安彦さんの着物を仕立てゝいらしたのは、どなたですか",
"それは起久子さんです。私は主人の着物だけ。起久子さんが安彦さんと定夫さんの着物を仕立てゝいらしたのです。あのころは、まだ結婚前でいらしたし、内気な、裁縫などのお好きな方ですから"
],
[
"奥さんは、裁縫なさることによって、御主人の身長を御存知でしたか",
"いゝえ、裁縫は身長を知る必要がありませんわ。私はとうとう主人の正確な身長を知りませんでした",
"写真から身長が分らないかしら?"
],
[
"直立不動の写真なんて、ないわね。でも、アルバム、さがしてみましょうか",
"そうですなア。現存する誰かとの比較。うまく並んで、直立していればいゝが。着物を着ている立像から、着物の寸法がわかることによって、クビから上、足の寸法が割りだせるかなア。まア、参考までに、あとで安彦さんの立像の写真をみんな見せて下さい"
],
[
"打ちあけて申せば、この事件の起る一ヶ月ほど以前から、私共が多少の注意を御当家へ向けなければならないような事情が起っていました。と申しますのは、一ヶ月ほど前から都合三回にわたって、昭和十七年、公一父子殺害の犯人を探せ、という無記名の投書を受けとっていたからです。我々が、これを重視すればよかったのですが、何がさて無能ぞろいですから、一向に腰を上げないうちに、今度の事件が起ってしまったという次第です。この投書と、今度の事件には、たぶん関係があるだろうと思われるフシがあります。なぜなら、安彦さんは一ヶ月ほど以前に伊東温泉療養所の同僚に向って、家族の者に会ったから、近いうちに小田原の生家へ帰る、ということをもらしておられるからです",
"なるほど。それなら、その投書は安彦の奴さ。きまっとる。ヒネクレ者だから、ヒマにまかせて、何か企みおったのだ"
],
[
"や、どうも、まったく、警察官はくだらぬ小事にコセコセと、まことにお聞きづらいことでしょう。しかし、我々といたしましては、こうして人にイヤがられながら一つ一つ追求して行かないと、結論へ辿りつくことができませんので、もう少々、御カンベンねがいます。先日の家宅捜査では見当りませんでしたが、倉田さんは、ピストルを所持しておられたそうですね",
"フン。ピストル"
],
[
"洋行帰りの誰かから貰ってな。二十年も昔の話だ。ワシはピストルなどは要らん男だ。くれたから、もらってやったが、どこかへ抛りこんで、二十年間、思いだしたこともない",
"ヤ、それは分っております。けっして倉田さんを疑っているのではありません。ピストルは何式のものですか",
"ワシは知らん。もらってやった、というだけで、気にとめたこともないから、覚えておらん。きいてみもしなかったよ",
"大きさは覚えていらっしゃいませんか"
],
[
"大きさ? そうさ。ポケット手帳に毛の生えたようなものだ。長さは五六寸、西洋人ならポケットの中で握って射つことができるそうだが、日本人のポケットでは、そうは行かぬかも知れん。ワシは、やってみたことがないから知らん",
"お嬢さんも、そのピストルを見た覚えがおありでしたね",
"ええ。どこで見たか覚えがありませんけど、定夫兄さんも、たしか、知ってらッしゃるでしょう",
"ウン。オレも見たことがある。雀を射ってやろうと思って持ちだして、公一兄に、どやされたことがあるよ。中学二三年生のころの話だろう",
"弾がこめてありましたか",
"あたりまえさ。弾がこめてなきゃ雀が射てるかい",
"イヤ、どうも"
],
[
"左様。左りマキの証拠かね",
"じゃア、右で書いてくれよ",
"アッハッハ"
],
[
"驚いたね。君は、左右両刀使いかね",
"オヤ、オヤア。捜査主任ともあろうお方が変なことを仰有るぞウ"
],
[
"まア、かりに、蔭に事件の作者がいたとしますね。その人物が書いたとすると、理由は云うまでもなく筆蹟を隠すためでしょう。特に男女の性別がなくなる点が重要ではありませんか",
"すると?",
"いきなり飛躍かも知れませんが、蔭の人物は女です"
],
[
"それも重要な一つです。念頭におくことを忘れてはいけません。あらゆる場合を考えてみる必要があります",
"そのほかに、どんな場合がありますか",
"女が犯人であると思わせるための場合"
],
[
"女が犯人で有りうるかって? 君は有りうるのかい。一目瞭然じゃないか、みんな、その時間に家を動いていないのだ。ただ、モトを除いては、ね",
"ハ。御名答。御名答",
"よせよ。からかっちゃ、いけないよ。君は有りうると云うのかい",
"イエ、御名答と申上げているじゃありませんか。正しい言葉を邪推しちゃいけませんや"
],
[
"先生、着眼の妙ですな。文学的に、安彦氏はニセモノ也、とは、御見事、々々々。さすがに、ボクの先生ですよ。もう一つ、文学的なところをおききしたいのですが、なぜ、ニセモノを連れてきたのでしょう",
"それを訊きたいのは、こっちの方だよ"
],
[
"アレ、先生は言の葉の厳密な意味をうけとって下さらないから、こまるよ。文学的な観察を、と、註釈をつけておいたじゃありませんか",
"くだらん理窟はよせよ。文学的観察の可能な場合と、不可能な場合がある。君のきいた場合のことは、探偵的な観察が万事じゃないか",
"イヤ、そう答えて下されば、それで、又、御名答ですよ"
],
[
"ヤア、すまんな。実は、さっき、張込みを止めさせます、と約束したんだが、わざと忘れたフリをして帰ってきたのだ。せめて、君たちに、姿を隠して、さとられないように張りこめと注意してくればよかったのだな。しかし、今じぶん、誰に姿を見られたのだい",
"滝沢三次郎が帰ってきたのです。八時二十分ごろでした",
"ヤ、御苦労、々々々。今日は、もう、帰って、休息したまえ",
"ハ。では、出入者の控えをここに残しておきます"
],
[
"この事件はかかりあったら忘れられませんよ。別して警察医には、色々と思い出もあり、謎もあり、興味は津々。ひとつ、内密話をきかせて下さいよ。長年のツキアイだ、ねえ、大矢さん",
"アッハッハ。ようこそ、いらッしゃい。八雲先生に何を隠すものですか。県庁への報告に隠したことでも、先生には、隠しませんとも。サア、どうぞ",
"ヤア、ありがたい。義理にも、そう言って下さるから、よろこんで警察医をつとめていられる",
"義理にもは、ないでしょう",
"アッハッハ"
],
[
"今朝の新聞で見ましたが、絞殺されたのは、熱海銀座で一週間前まで街頭募金していたそうですね、熱海の話題は今朝からそれで持ちきりですよ",
"ホウ。それは耳よりですな。なにか、キキコミでもありましたか",
"ヤア、失礼。商売気をだされちゃ、話しづらいな。あなた方捜査官とちがって、私のはヤジウマだから、尾ヒレがついていますよ。話題がそれで持ちきりだって、一々きいて廻ったワケじゃない。熱海は年中自殺の一件二件毎日あるところだから、ま、実は、犯罪ぐらいじゃア一向に驚かん町柄ですな。アッハッハ。ただ私の休んだ旅館の女中なども、みんなあの丹下左膳の街頭募金姿を見て知っていましてね、おかげで、町の話題がそれで持ちきり、というワケです。銀座通りのすぐ横丁の『弁天』という料理屋へ食事に行く習慣だったそうですが、毎日くるのだし、傷痍軍人だから、半額にしろ、と筆談でネバッて、イヤがられて、それ以来いい顔をされなくなったという話です。胴巻にギッシリと、大変な札束を肌身はなさず身につけていたそうですよ",
"アッ。ハテナ?"
],
[
"エエと、六百五十五円。五枚が百円札。十円札十五枚、一円札が五枚です",
"案外だなア。三村の報告書でも、稼ぎは莫大だとあったが、莫大といっても、クツミガキほども繁昌していないようだから、タカが知れているのかな。夏枯れで貰いも不足していたというし、遊興の味も覚えたというから、六百五十五円持っているのがフシギかも知れない"
],
[
"イヤ、あいにくですが、まったく捜査行き詰りです。こんな景気の悪い話をおきかせしたくないんですがネ。新聞の筆法だと、捜査陣、焦燥の色濃し、となりますな",
"私は又、相当クッキリと容疑者が浮んでいるものと思っていましたよ。それをきかせてもらうのをタノシミにやって来たのだが"
],
[
"八雲先生はどの点から、容疑者がすでにクッキリ浮んでいると御想像でしたか",
"イヤア、素人考えですよ"
],
[
"あなたのような天才的な名探偵に、はずかしくって、何が言ってあげられますかね。もっともね、私の商売は医者だが、マア、催眠薬の問題ネ、あれは何薬を使っていましたか。報告はありませんか",
"まだ正式にはありませんが、ブロバリン、カルモチン、バルビタール、そのへんのごく有りふれた薬らしいそうです"
],
[
"そうそう。私もそう思いましたよ。砂糖壺にも、二種類ぐらいの催眠薬がはいっていたのじゃないかな。今、仰有った薬だったら、みんな味がないし、むしろ、ちょいと甘味があるぐらいです",
"その催眠薬で、何かお気付きですか"
],
[
"イヤ、それがね。みんな極めて通俗的な催眠薬だということですよ。あの程度の催眠薬なら、むろん劇薬ですが、案外カンタンに薬屋で売るかも知れません。昔はひところカルモチン自殺が流行しましたが、みなさん警察の方だから御承知かも知れませんが、先ず、生きかえりますね。もっとも、これは錠剤の場合です。一応昏睡すると、消化力がなくなるのですかね。一山のんでも、あとは消化していないから、胃洗滌すると、原形で一山吐きだしますよ",
"粉末の場合はどうですか",
"粉末は、ダメかも知れません。これは、死ぬ方が多いかな。私がね、長い医師生活で、カルモチン自殺に成功したのを手がけたのは一例だけです。これは立派に死んでいました。この先生は、カルモチンの錠剤を熱湯で溶かして飲んだんですよ。粉末だと、この場合によほど近くなっているから、これは多いに危険です。あのお嬢さんは、どのぐらい飲んでいましたか",
"事件の翌々日でしたか、院長にお目にかかった時に、二十グラムぐらい、あるいは四五十グラム飲んだかも知れないという話でした。生き返ったのは運がよかったとのことでしたよ",
"それは、たしかに、ひどい。それだけ飲んだら、死ぬのが自然だ。粉末だからな。しかし、ずいぶん、のんだものですね",
"スプーンで、どれぐらいの量ですか"
],
[
"イヤ、私のはね。ティネイに検査したわけではないのですよ。しかし催眠薬は年中手がけていますから、一目見てハッとして、かなりシサイに眺めたのです。素人の見た目には、まるで砂糖と変りません。特にアチラの砂糖とは、ね。しかし、よく見れば分ります。まったくゴッソリ入れてありましたよ。あの砂糖壺の報告はきていませんか",
"砂糖壺とココアの飲み残りは目下検査を依頼中です。検査を依頼しにでかけた刑事の話では、専門の学者が一目見て、これは半分催眠薬みたいなものだ、と云ったそうです。やっぱり、ブロバリンとか、カルモチンとか、そんなものだろう、と一目で断定したそうです。今まで我々が催眠薬について知っていたのは、それだけでした。明日にでも、正確な回答をとりにやりましょう。忙しいから、一週間もしたら、ききにこい、とね。こッちを田舎の警察と見てバカにしきっていますよ。どうも学者さんの官僚臭は苦手です"
],
[
"八雲さんの暗示によれば、一番小量をのんだ由子がクサイというわけかね",
"さア、どうですかね。一番小量だからクサイことは事実でしょう。しかし、この事件には、常に裏がありますよ。又、裏の裏も、その又、裏さえありますぜ。犯人らしく見えるのは、同時に、そう見せかける誰かの作為でもありうる。美津子さんの場合もそうでしょう。ところがその作為を、他の犯人がやっているのかも知れませんし、又本人自身がやっているのかも知れません。まったく、すべて表面だけでは済みませんし、その裏だけでもおさまりません",
"なるほど。しかし、君はこの暗示をどう解釈しているのかね",
"まア、あんまり、こだわらず、当分そッとしておく方がいいですよ。しかし、三人の飲んだ分量が、ちょッと違いすぎますよ。どうも薄気味の悪い話ですよ"
],
[
"あいにく遊山の帰りで、商売用のカバンを持ってきていません。私の家へ電話をかけて、看護婦に、カバンを持って倉田家へ最大急行するように、電話しておいて下さい。警察用のカバンと仰有れば、すぐ分ります",
"そうだ。看護婦さんへ迎えの自動車をやれ"
],
[
"フグの中毒らしいよ",
"アッ"
],
[
"今夜の御馳走はフグでしたか",
"ヘエ、そうです。どうも困ったことになりやがったね。こしらえたのは、この私でさア"
],
[
"ほんとよ。定夫兄さんの召し上ったのは、オサシミだけです。チリ鍋には見向きもなさらなかったのです。それは、いつものことです",
"時々フグを召上るのですか",
"それは、この家の習慣だ。日曜、祭日には、たいがいフグを食っとる。ワシは二十年以前から、そうしないと腹の虫がおさまらない習慣だよ"
],
[
"今まで、一度だって、誰も中毒など起しやせん。見たまえ。今夜だって、定夫のほかは、異状がないじゃないか",
"そこが奇妙なところですな"
],
[
"今夜の夕食を召し上ったのは、どなたですか",
"滝沢さん以外の四人の方が御一緒です"
],
[
"その夕食の終ったところへ帰られたのが滝沢さんです。滝沢さんは、お一人で召し上った筈です。それをシオに私も部屋へ立ちましたし、皆さんも、それぞれお部屋へいらしたようです。時間は、いつものように、八時半ごろ",
"倉田さんが、警察へ電話でお叱りの時は八時半をちょッとすぎていたようですが",
"そうかも知れん。滝沢から、まだ張りこみをやっとることをきいたから、部屋へ引きあげる際に、電話で怒ったのだ。それから部屋へ行った",
"そのとき、定夫さんは食堂にいましたか",
"イヤ、食堂に残っていたのは、ワシと滝沢だけだ。滝沢の食事がはじまると、ワシは立って部屋へひきとったのだ",
"定夫さんの異状を発見したのは?"
],
[
"私はその時まで、お母さんのお部屋で、裁縫していました。ねむくなったので自分の部屋へ戻ろうとすると、廊下に定夫様が倒れていらしたのです。兄と母に急を伝え、すぐ警察へ電話してもらいました",
"見つけると、すぐ電話したのだね",
"ハア、四五分はすぎたかも知れません。兄さんはグウグウねてましたから、起さなければならなかったのです",
"久七は夜釣をやめたのかい",
"ナニ、禁止令がでやがったからさ。会社の連中、気が小さいから、気を廻しているのだよ",
"重吉は珍しく家にいたな",
"アッハッハ。フグの日は、マコで一パイやるのがタノシミでね。存分に珍味をくらい、存分のみ、適度にしびれて、たちまち、ねむる。私はあんたのくる二三分前まで、ねていたよ",
"よし、分った。食堂と台所は一切動かさないように、見張りを立てる。それから、皆さんは、暫時一室に、どこがいゝかな、安彦さんの部屋に集合していただきましょう。ちょッと一応の調べがすむまで、我慢して下さい。それでは美津子さん、あなただけ、こちらへいらして下さい。ちょッと食事中の状況をおききするだけです"
],
[
"食事中に変ったことがありましたか",
"いつもと同じようでした",
"定夫君はオサシミだけ食べて、チリは食べなかったと仰有いましたね。なぜでしょうか",
"スキヤキ以外、鍋類は好かないのです。とても猫舌のせいでしょうか、お酒なども、日本酒はのみません。概して魚肉がキライで、特にオサシミ類は、フグ以外は殆ど食べません。定夫兄さんの食事は面倒で、ボクサーのせいもありますが、いつも、一人、ちがったものを食べております",
"今夜もですか",
"いつもですわ。第一、夕食はいつもオジヤです。猫舌ですから、さましてからたべています。ホーレン草のオシタシは、毎食欠かしたことがありません。茶碗ムシもかならず、たべます。お酒も、ほかの方は日本酒ですが、定夫兄さんはウイスキーとビールです。ウイスキー三杯と、ビール一本です。でも本格的なトレーニングにはいると、アルコールは一切禁止だそうです。もっとも、そのときは、ここには、おりません。東京へ泊りこんでおります。試合前は、いつも、そうです"
],
[
"食堂の今夜の位置は?",
"私たち三人は小さいテーブルにチリ鍋をかこんでいました。定夫兄さんは大テーブルに一人はなれていたのです。オサシミも自分の分だけ小皿にとって、食べていました",
"誰が小皿にとりわけたのですか",
"定夫兄さん自身ですわ。まだ私たちが手をつけないうちに、自分の分だけ、とりわけたのです",
"すると、定夫君の今夜の特別の食べ物は?",
"オジヤと、ホーレン草のオシタシと、茶碗ムシです。それにウイスキーとビール。それだけは、定夫兄さんだけの食べ物です",
"茶碗ムシはフグがはいっていますか",
"いゝえ、今夜は小量の鶏肉だけと思います。モトが私に指図をききにきますから、そう答えておきました"
],
[
"美津子さん。すると、定夫君の飲食物で、残っているのは、ウイスキーだけだね。ウイスキーはどれですか",
"その棚にある手をつけたのが、それです"
],
[
"一本のウイスキーを何日ぐらいで飲みましたかね",
"一週間に一本ぐらいのものですわ。大酒飲みではありません",
"じゃア、このウイスキーに、ともかく封印しておいてくれ"
],
[
"夕食後あなたは何時ごろお部屋へ戻られましたか",
"みなさんと同時に、八時半ごろ立って、部屋へ戻りました",
"それから定夫さんを見ましたか",
"いいえ、それが最後です",
"定夫君はあなたの隣室ですが、何か物音に気づきませんでしたか",
"なんの物音にも気づきませんでした。私は催眠薬の昏睡以来、ズッとよく寝つかれませんので、寝床で本を読んでいました。一度、便所へ立ちましたが、その時は廊下に定夫兄さんの姿はありませんでした",
"ホホウ。それは何時ごろですか",
"九時ごろと思います。寝床につく前ですから。滝沢さんの食事がおそかったので、モトとスミは、まだ台所に働いていました。だから、モトとスミは、私のあとで、廊下を歩いて通った筈です。そのときも、定夫兄さんはまだ廊下に倒れてはいなかったのでしょう",
"なるほど、それは良いことを教えていただきました",
"あなたは、定夫君の中毒を、どう判断しますか。中毒、他殺、自殺?"
],
[
"たぶん、他殺。定夫兄さんは自殺する人ではありません。また、兄さんだけの中毒は、考えられないことですもの。誰よりも中毒する筈のなかったのが定夫兄さんですから",
"ヤ、どうも、ありがとう。皆さんの休憩室へひとまず引きとって下さい"
],
[
"どうも、面倒なことになったよ。行きづまッていたところだから、新事件の発生にホッと一息、一道の光明がさすかと思ったが、益々分らなくなるばかりさ。しかしともかく、今夜の食事の終るまでいなかった滝沢だけは容疑をまぬがれているな",
"まア、そうなりますな",
"じゃア、重吉をよんできてくれ"
],
[
"ヤ、ねむいところ、相すまんな。今日、フグをつくったのは、何時ごろだい",
"何時ごろって、きまってまさア。食べる前さ。時間がたッちゃア、たべられないよ。しかし、私は仕事がテイネイだから、午メシを終ると、もうポツポツかかっていたよ。特にマコの血管をぬくには三時間も時間をかけるからね。自分のイノチが惜しいせいかね。これぐらい時間をかけてテイネイにやれば、マコを食っても、あたりませんさね。フグをつくる時は、順序も時間も、きまっているよ。昨日も、そうさ",
"エッ。昨日だって",
"昨日さ。どうかしましたかい。昨日も今日もフグ食って悪いことはないでしょう",
"そんなに時々食うのかね",
"日曜、祭日、時に土曜日もね。フグ次第さね"
],
[
"ハテそれは、なぜでしょう",
"復員の安彦兄さんをニセモノと知っているのは蔭の作者だけです云々"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 08」筑摩書房
1998(平成10)年9月20日初版第1刷発行
底本の親本:第一章~第四章「座談 第三巻第六号」
1949(昭和24)年8月1日発行
第五章~第七章「座談 第三巻第七号」
1949(昭和24)年9月1日発行
第八章~第十一章「座談 第四巻第一号」
1950(昭和25)年1月1日発行
第十二章~第十五章「座談 第四巻第二号」
1950(昭和25)年2月1日発行
第十六章~第十九章「座談 第四巻第三号」
1950(昭和25)年3月1日発行
初出:第一章~第四章「座談 第三巻第六号」
1949(昭和24)年8月1日発行
第五章~第七章「座談 第三巻第七号」
1949(昭和24)年9月1日発行
第八章~第十一章「座談 第四巻第一号」
1950(昭和25)年1月1日発行
第十二章~第十五章「座談 第四巻第二号」
1950(昭和25)年2月1日発行
第十六章~第十九章「座談 第四巻第三号」
1950(昭和25)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「スミ」と「スミ子」、「モト」と「モト子」の混在は、底本通りです。
※図は、初出からとり、図の文字は新字に改めました。なお、底本の図に従い「1定之と由子」は「1由之と由子」に、「15久七スミ子」は「15久七とスミ子」としました。
※高木彬光が執筆した第二十章以降は、「樹のごときもの歩く」の表題で「宝石」に発表されましたが、著作権を鑑み省略しました。
入力:tatsuki
校正:北川松生
2016年6月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043163",
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"作品名読み": "ふくいんさつじんじけん",
"ソート用読み": "ふくいんさつしんしけん",
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[
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"生憎踊りを知らないのです。ダンスホールへ這入つたのが、生れてこのかたこれが始めての経験なんです",
"東京で何をして暮してきたのだ。お前もやつぱり穴熊の一族か"
],
[
"意地の悪いこと、仰言るものぢやありませんわ。田舎のホールが、おいやですの",
"踊りたいと思つてゐます。然し、ダンスホールをのぞいたことすら、一度もなかつた始末です。昨日のここが、はじめての経験ですから"
],
[
"行つちや、いや。お願ひだから。最後の。可愛がつてくれなくとも、いいの。どんなに冷めたくとも、好きなのだ。もう一生、はなさない……",
"昔から、芝居や、小説にあることだ。とつくに終つてゐなければならないことだと思はないかね。同じ悲劇を、再び繰返す愚を、したくないのだ。すでに喜劇の領分だから"
],
[
"どうして?",
"だつて。然し、編輯長は、ほんとに、知らないのですか",
"なぜ"
],
[
"遠さが欲しいのよ。だきしめてゐたいのだ。遠さを",
"もう一度僕の問ひに答へなさい。あなたはこの葉書を書いてゐるとき(野々宮はそのとき葉書を手にしてゐた)その前後の時間に、やつぱり僕と山へ行くことを考へてゐたのですか"
],
[
"長いこと待つてゐたの?",
"化石するほど。ほら。お墓を台にした塑像のやうに、もう動けない。手をかして"
],
[
"冷めたくないかね",
"さう思つたら起してくれればいいぢやないの。返事もしないで視凝めてゐないで"
],
[
"湯の浜を御存知ですか。山形県にあるのです。鶴岡に近い海岸の温泉ですが、うしろに山をひかえた地形なんですね。伊豆あたりでは月並のことですが、このあたりでは珍らしい地形なのです。山形県とは言ひながら、県境に近いせゐもあつて、新潟の人達が自分達の温泉のやうに遊びに行きます。ちやうど初冬の、この季節のことでしたが、雪の多い年で、この土地も、湯の浜も、毎日降りつづけてゐたのですね",
"湯の浜へ着いた晩のことですが、真夜中になつて、喜楽が一風呂浴びてくるといつて立ち上つたのです。あの人は痩せてゐますが丈の高い人ですから、宿の浴衣が短かすぎて滑稽な形なのですね。タオルをぶらさげて廊下をとんとん消えてゆく跫音がしてゐたのです。客のすくない季節のところへ、雪の降る深夜ですから、あたりの物音は死んでゐるのです。すると喜楽が蒼い顔でたちまち戻つてきたのですが、跫音を殺すやうな歩き方をしてきたくせに、息を切らしてゐるのです。動悸まで、きこえるのですね。どうしたのですかと訊ねてみますと、湯槽の底に死んだ男がねてゐると言ふのです。気味がわるいので早速戻りかけると、廊下を曲つて消えて行つた風のやうな白いものを見てしまつたと言ふのですね。それからは廊下がずるずる無限に延びる感じで歩いても歩いても自分の部屋へ辿りつけない思ひであつたと言ひます。勿論みんな神経だらうとは思ふが、このまま放つとくと魘されて眠れないから、一緒に浴室へ行つてみてくれと言ふのです。勿論湯槽の底に死人が沈んでゐることはなかつたのです。物音の死にきつた深夜で、ガランとした浴室では、神経の太い人でも変な気持になるでせうから、まして疲れた喜楽のことで、その晩は気にもとめてゐなかつたのです。すると翌る朝になつて、新聞を読んでゐると、喜楽の様子が変なんですね。今読んだ裏面の方を読むつもりでせうね。新聞紙を折り返してゐるのですが、折目が気になるものとみえて、元の通りにもどすのです。それから又念を入れて折りなほさうとするのですね。どういふところが気になるのか見てゐる僕に分らないのですが、再三再四くりかえしても満足できないばかりか、益々気にさはる一方と見え、たうとう指で紙を押へてみたり、折目の間へ指を入れて上から入念に押しつぶすやうにしてみたり、急に荒々しく元へもどして折目をごし〳〵こすつたり、見てゐるうちに呼吸がだんだん荒くなつてくるのです。それで漸う前日のことに気がついたのですが、さういへば、湯の浜へくる汽車の中で新聞を読んだときも、やつぱり折目の折り方を気にして、これほどではなかつたのですが、何度もやりなほしてゐたことを思ひだしたのです。その日の夕方になつて、夕刊を読む時になつても、折目の折り方を気にすることは、やつぱり同じことなのです。折目の間へ指を入れて、目で精密に測りながら、上から少しつつ押しつぶしてくる様子が、まるで生きてゐる新聞紙と血みどろの格闘してゐる様子なのです。普通でないことが分るのですね。新聞以外のことではそれほどのこともないので、暫くぶら〳〵してゐるうちに自然に落付くのだらうと、わりと楽観はしてゐたのですが、新聞を読むときばかりは、見てゐる僕がやせるほどやりきれなくなるのです。それで、宿の者に頼んで、喜楽の読む新聞紙ははじめから鋏で二つにちよん切つておいてもらつたのです。この計画が図に当つて楽に新聞が読めるやうになつたのですが、まもなく東京へ帰つた喜楽から手紙がきて、新聞紙を二つにちよん切る手段を教へてもらつたので、神経衰弱が快癒しかけてゐる、だから旅にはでるものだと書いてあつたのです。不思議な強迫観念ですが、短い浴衣をきたあの人が新聞紙と格闘してゐる様子は滑稽なものでしたけど、やりきれない感じのものでもあつたのです"
],
[
"年寄をぢらすのは罪といふものだ。え。卓一さん。はぢらひも時によりけりだ。ここはあんたのはまり役さ。え。きいただけでも嫉けるね。もう二十年若けりや、俺が出陣するところさ。畜生め。蝱蜂とらずの丸損役が俺様だ",
"僕は踊りがきらひなのです"
],
[
"誰にです",
"顔に書いてあるね。頭隠して尻隠さずとはこのことだ(と他巳吉は腹を抱えた)え。ほれ。あのお嬢さんさ。ほら。弁護士の。わかるぢやないか。いよいよ旧悪露顕したね"
],
[
"なんといつたつけな。あの弁護士は。古川さんだね。それそれ。音のでる黒塗りの四角の箱だ。ペアノかね。あの音は、どうも、俺の苦手だ。ペアノをたたくお嬢さんさ。いよいよ先生穴にもぐるばかりだね。悪事千里を走るとはこのことだ",
"与力大寺他巳吉の地獄耳ですかね。どこで仕入れてきたのです",
"ほれ。気になる。気になる。先生消えてなくなりたいね。いい気味だ。うちの孫娘が、なんとか倶楽部といつて、やつぱりその口さ。そのお嬢さんと、つまりおんなじ会員さ。あんたも却々粋な男だ。私はあなたにほの字にれの字。あははは。これは天下の大評判だ"
],
[
"いつごろ東京へ越すのかね?",
"冬の終らないうちに"
],
[
"編輯長。今晩、おひまですか",
"なぜ",
"活動を見に行きませんか"
],
[
"まだ、早いぢやないか",
"食事もしなければならないでせう。実は、六時に待つてゐる人があるのです。M屋に。嘉村さんが待つてゐるのです"
],
[
"私ね。満洲国へ行くのよ",
"いつ",
"二週間ぐらゐのうちに",
"どうして",
"行つてしまふだけよ"
],
[
"…………",
"私ね。入口のところで、あなたの顔を一目みたら、ひとこと怒鳴つて、そしてさつさと帰へらうと思つてゐたのよ",
"何を怒鳴らうと思つてゐたの",
"愛してゐるのよつて。それだけ"
],
[
"おやおや。誰だね。そのあの人といふのは",
"お爺さん。まぢめにきいてよ。私ね。だつて。今がいちばん幸福な時なんだわ。そのくせ幸福ぢやないわ。苦しいのよ。せつないの。不安でそして怖しいわ。ふしあはせな、苦しみの予感だけしか考へることができないのだもの。あの人にすてられる。あの人の愛がさめる。心配や不安や苦痛つて、そんなことではないんだけど。もつと口に言へないやうな、うすぐらくて、そしていつぱい立ちこめてゐて、形のはつきりしないものなの。ね。お爺さん。私だから思ふんだけど、ほんとに愛してゐる人と結婚するといふことが、間違つた考ぢやないかしら。ほんとに愛してゐる人と一緒に暮さうなんて、虫がよすぎる。いつと最後の幸福をほんとに掴んでしまふなんて。私あんまり虫がよすぎたの。それは一生さめることのない夢にして、大切にしまつておかなければいけないことなのよ。お爺さんもさう思ふでせう。思はないかしら。ほんとの幸福になりきらうなんて、間違つた考なの"
],
[
"あの人はあなたを愛してゐて?",
"さて。愛してはゐたらうね",
"あなたに別れて生きて行けるの。死ぬやうなことはないの",
"死ぬやうな人ではないのだ。たとひ死んでも、仕方のないことだからな"
],
[
"私ね。やつぱり新京へ行つてしまふわ。私とても落付けないわ。新潟にゐられないの。ね。行かせてよ。私新京へ行つてもいいでせう",
"そして、いつごろ帰つてくるの"
],
[
"ごめんなさいね。わからないことばかり言つて。私あんまり我儘だわ。こんなに我儘なことばかり言つて。だから、私もう、あなたに厭がられても仕方がないと思ふわ",
"とにかく毎日会つてゐればなんとかなると思ふのだ。落付くところへ落付くと思ふよ。会はないから、不自然な不安や恐怖や苦痛に悩まされ、そして混乱してしまふのだ。君に会つてをりさへすれば不安も恐怖も苦痛もないのだ。まつたくなんといふ苦痛だらう。君の顔を見てゐないと、僕はひとりではゐられなくなる。酒をのまずにゐられない。そしてこれを誇張して言ふと、酒に酔ひ、そして見境ひもなく女を口説かずにゐられないやうな気持になるよ……",
"私だつて、あなたより、もつともつと気違ひになりさうよ"
],
[
"だめ。許して。もうすこし考へさせて",
"どうして"
],
[
"いちばん晩い汽車で新潟へ帰りたいの。あなたはこの土地の方なの",
"いいえ。ずつと山奥ですの。乗物もないところですわ。小学校を卒へた女の半分が女工、残りの大半も女中になつて大概村を離れてしまふやうな荒れきつた村ですわ。どこへ行つたか消息のない人達も年に二三人はありますわね。みんな東京にあこがれてゐますの。私東京から逆に流れてきたんですの。旅館なんかにゐますと、村へ帰つても、もう信用がないんですわ",
"くにへ時々おかへりなの",
"もうまる三年かへつたことがありませんの。近いんですけど。帰つたつてなんの娯しみもありませんもの。今頃は雪の下ですし、夏だつて谷川の響きが毎日々々変哲もなく鳴りつづいてゐるばかりですわ。私もうくにへ帰ると二日ゐてもうんざりしますの",
"思ひださない? いろんなことを"
],
[
"なるべく早く帰つてくるが、待つてゐるわけにいかないかね",
"だめなの"
],
[
"まあなんだね。とにかくあんた、好きな男と一緒にゐるのが何よりだね。謀叛気を起すと、光秀の天下はつまり三日さ。とかく後がよくないものだ。それよりどうだね。今夜はひとつ博奕をでつかくやらないかね。天下を狙ふも博奕のうちさ。してみればあんた花合戦も、いやはやどうも。あはははは。これも大きに謀叛のうちだね",
"茶化すならもう知らない。こんなもの、やぶいてしまふから",
"まあまあまあ短気を起しては困るがね。風流人は花を手折らずといふことがあるね。公園の立札に書いてある通りのものだ。近頃の娘は気が荒いね。昔の娘は花に短冊をぶらさげたものだ。それが青たん赤たんさ。花より団子の青野山などと三十一文字にさら〳〵したためて、男の心をとろかしたものだ",
"お爺さんが一緒にきてくれなければ、私は死んでしまふから。冗談言ふときぢやないのよ。かうしてゐても、死ぬことができるくらゐの時なんだわ。ほかのこと、考へてゐられない。お爺さんにつれなくされると、お爺さんだけ恨みながら死んでしまふわ。私の顔、見てよ。ほら。私の顔、冗談のやうに見える?",
"さて、嬉しいことを、きいたぞ。きいたぞ。とかく色男は苦労の絶えるまもないが、ええ、かうしてゐても、ぢりぢり痩せるね。これはいよいよ真言秘密の護符がいるね。藁人形に釘はうたれる。大蛇の奴に吊鐘はまかれる。色男はとかく浮世が針の山だ。つれなくされると、死んでしまふは、有難いね。いやはや、耳の毒。木石ならぬ身の大敗北だ。なにも、あんた。死ぬほどこがれた男のそばを、離れなくとも、なんとかなりさうなものぢやないかね",
"だつて仕方がないんだもの。私もうあの人の顔を見るのが怖いのよ。幸福が怖ろしいの。ああほんとに厭だ。私落つきたいんだわ。ねえお爺さん。いくらあなたが呑気でも悲しい夢を見ることがあるでせう。たそがれの淋しい道をひとりぼんやり歩いてゐる夢があるでせう。夕凪で、油を流した水のやうに微動もしない空気のなかに私がゐるの。次第に闇が深くなるわ。孤独の淋しさが堪らないほどこみあげてくるのよ。すると向ふに暗らい森陰が現れるの。森の中には魔者がゐたり野獣がゐたり、木の枝に首をくくつた裸かの女がぶらさがつてゐたり。その女を見ると自分だつたり。すると鴉に屍体の眼玉をついばまれてゐる痛さが胸にせつなかつたりするんだわ。そのせつなさが森の中へ行かないうちにありありと分かつてゐるの。だから森へ行きたくないの。逃げだしたいのよ。そのくせどうしても自然にそつちへ歩いてゐるの。行つちやいけない行つちやいけない。絶望して叫ぶんだけど、どうにもなりやしないのよ。声だつてでないんだもの。さうしてずるずる吸はれるやうに歩いていつてしまふんだわ。さういふ夢がよくあるでせう。お爺さんもさういふ夢をみた覚えがあるでせうね。私その夢とちやうど同じ苦しさなの。分かつてゐても、どうにもなりやしないのよ",
"夢は五臓の疲れさ。菩薩も邪婬の夢をみるといふほどのものだ。せいぜいなんだ。夢はいろつぽいものがいいね。俺はもう若い時からせめて夢は数ある中でいちばん色つぽい奴を心がけてゐたものだ"
],
[
"ああ、ああ。なんべん同じことを言ふ人でせう。そんな話が今更なんの役に立つものですか。お爺さんは他人ですもの。私自分のことなのよ。考へることはみんな考へてしまつたわ。もうそんな話は止しませう。支度なんかしなくつたつて、どうせ一週間か十日の旅だもの。着流しで出掛けたつて、ちかごろの旅館は決して不自由させないものよ。私がいつしよにゐるんですもの。どんな我儘でもきいてあげるわ。毎晩按摩もしてあげてよ。私お爺さんの娘か孫のつもりだわ。さあ出掛けませう。もうこれ以上せつない思ひをさせないでね。夕方にならないうちに新潟を離れてしまはなければ、私きつと気違ひになつてしまふわ",
"俺はあんた藪から棒のことだから、いやはや大きに泡を食つたの食はないの竹藪の光秀様とおんなじことだ。半分腰が抜けかけたね。あいたたたた。金の用意も"
],
[
"いやはや、どうも。わはははははは。あんたはどうもさつきから。わはははははは。お気の毒を絵にかいたやうな姿だつたね。わはははははは",
"笑ふだけ笑つたから、生れ変つたやうに新らしい清々した気持になつたでせう。もう駄々をこねちや駄目よ。さあ勇ましく出掛けませう"
],
[
"物分かりのいいお父さんなんて、だけど、結局窮屈ぢやないの",
"閑と金と自由があつても、もてあましてゐる人がゐるよ",
"お父さんがいくら物分かりがよくつたつて、とにかくお父さんだけのことですもの",
"なによ、あんたは。男が欲しいの。街へでかけて探しなさいよ。犬を拾ふより雑作もないから",
"私働いてみたいのだわ。自分で生きてみたいのよ"
],
[
"恋愛の程度によるもの。一概に言へないよ。あのひとなんか、もともと始めから飽いたら別れるつもりなのよ。一生の恋愛なんてもともとあのひと考へてゐないと思ふわ。一人の男ぢや満足できないたちなのよ。しよつちう男を変えてるわ。ひとりの男をつくる時は次の男をみつけるまでのつなぎのつもりよ。男だつて同じことよ。やつぱり代りをみつけるまでのつなぎのつもりさ。あのひとたち別れぎわのうるさい相手は始めから敬遠するから、万事あつさり片付いて、面倒なことめつたにないわ。芝居じみたことが好きだから深刻さうなことを言つたり、小説にでもありさうな愁嘆場を演じることも稀にあるけど、ほんとの気持は平気なのね",
"特別好きな男ができたら――さういふ時もあると思ふが",
"浮気だから仕方がないのよ"
],
[
"勿論それも言へるだらう。面白いのは叔父の左門老人がそこに主点を置いて解釈しやうとしてゐることだ。僕も反対はしなかつた。さう言ひきつてもいいからだ。そのうへ彼は必ずしも自分の説を信じてはゐないからだ。彼はちかごろ唯物的な極論を好んで弄したがる傾向なんだね。実際の気持がその逆でありすぎるせゐもあるのだらう。動機の解釈は結局なんでもかまはないのだ。宇宙的な空とでも言つてよからう。逃げたい心とも言ふことができる。芭蕉の旅も大寺老人の失踪も、詮じつめれば、ひとつ穴の貉だね。動機よりも失踪といふ事実の方が全部だよ",
"僕は然し大寺さんの場合の方が、凡人の生々しさがあるだけに芭蕉の旅よりも、もつと厳しい人間的な悲劇のやうな気がします。けれども僕は苦悩だとか呻吟といふ言葉は使ひたくないのです。僕はただ夢といふ言葉で言ひ表したいのですよ。夢が人間のせつない思ひの全部なのです。この現実はたとひどれほど知性的に生きるにしても、どうしても夢を割り切ることだけはできないのだと"
],
[
"それは僕が今軽率に答ふべき問題ではありませんよ。現在編輯長自身が手を焼いてゐる重大問題ではないのですか",
"いや僕自身の当面の生活態度の問題としてではなく、かりにこれを文学の問題としてだよ。かういふことが言へないかね。まづ第一に、夢のせつなさは必ずしも失踪といふ事実が起らなくとも在るものだといふことを僕は仮定する。そこで第二に、失踪といふ事実によつて、夢のせつなさが解決されたわけでもなく、また問題が終りを告げたわけでもないといふ仮定が生まれる。しかも失踪とか、自殺とか、感動とか、さういふ事件は、その人の生涯の時間の中では極めて短い時間で、その人の人生の大部分は事件ではないのだ。ところが我々の習慣的な思考は、とかく事件に意味をもたせがちなのだ。現に文学すらさうだ。文学の興味の問題ではなく、文学の意味の問題としてもだ。その結果我々の実人生でも意味の転倒がはじまるといふ奇妙なことがありうるのだね。たとへば自殺といふ現象だね。これはひとつの現象で意味ではないのだ。ところが事件に意味をもたせがちな習慣のために、自殺者自身が自殺を意味と混同する。たとへば、ここにある条件があるために自殺といふ現象が生まれてくるといふわけなのだが、ある自殺者は自殺がまるで目的のやうに思ひこんだりする。凡そ目的としての自殺なんて無意味なことだ。必ずしも自殺を目的とするのでなくとも、自殺の条件となつた事柄よりも自殺の方に重きを置くといふ錯倒は甚だ多くの自殺者にありがちだと思はないかね。言ふまでもなく我々にとつて死といふことほど重大な事件はないかも知れない。だから自殺は本人にとつて常に大きな出来事だよ。けれども君、我々がもし自殺しなければならないとすれば、そこには常にそれ相当の事情といふものがあるわけで、我々の問題はその事情だ。自殺自体が問題ではないのだ。事情と自殺を秤にかけても、どつちの方を選ぶべきだといふ答のでるべきものではないよ。尤も稀には、どうしても死ぬよりほかに仕方がないと思へるやうな自殺の場合がないでもないね。芥川龍之介の場合がほぼさういふ自殺の例ではないかと僕は考へてゐるのだ。あの人は自分の生活や生命の滲んだまことの眼、まことの教養といふものを知らなかつた。よそから借りた博識で芸術らしきものを創つてゐたのだね。その博識がまことの教養に敗れたのだ。あの人の自殺はさういふものだと思つてゐる。博識は学校の教室からでも学べるし、十年も努力すれば一かどの博学になれるだらう。然しまことの教養はさうはいかない。何代の血を賭けた伝統とそして誠実一途な自省と又幾分は天分の中からでなければ育たない。芥川龍之介は教養をたてなほさうと足掻いたが、その時はもう彼が足を降さうと努力しても、大地の方がむしろ足から遠のくやうな悲劇的な事態になつてゐたのだと思ふね。つまり伝統や祖国やふるさとや生活の中へ足をつけて立ち直らうと焦つたのだが、その時はもう伝統や生活や祖国の方がまるで彼を棄てるやうにあの人には見えたのだらう。あの人は死ぬ前に漸くボードレエルの伝統が分かり、コクトオやラディゲの伝統が分かつたのだ。言ふまでもなくそれは彼の伝統ではなく、おまけに彼自身は自らの伝統や生活の中に育つた眼すら持たなかつたことに漸く気付いたのだと思ふね。つまり誠実な生活がなかつたのだ。芥川の死後に発表された二三の断片、これは芥川全集の普及版の第九巻にはじめて発表されたものださうだが、それ以前に発表されたものには到底見ることのできない悽惨な然し誠実な敗北のうかがはれるものがあるのだね。ある時ひとりの農民作家が芥川を訪ねてきて自作の原稿を読ませるのだ。芥川が読んでみると一人の農民が生活に困つて生れた赤ん坊を殺すといふ話だが余り暗くてやりきれないのだね。こんな生活が実際在るのかねと芥川がきくと、俺が殺したのだよと農民作家がぶつきらぼうに言ふのだ。芥川が返事に窮してゐると、殺すことは悪いことだとあんたは思ふかねと客が訊く。芥川はまとまつた思想を思ひつくこともできなくなつてしまふのだが、その客が立ち去つてしまふと彼は思はずただひとり捨て去られたやうな寂寥に襲はれて、ふと二階へ登り窓の外を眺めたさうだが、もとより客の姿を眺めるためでもなかつたのかも知れないが、客の姿は木立の向ふの道の上にはもう見えなかつたさうだ。そんな話を書いた断片があるよ。芥川の残した芸術はボードレエルの一行に如かないものかも知れないが、この断片は地上の文章の最大の傑作のひとつだと思つてゐるよ。この断片にうかがはれる彼の寂寥は悲痛きはまるものがあるね。知性の極北にさぐりあてた失意、寂寥といふ気がするのだ。誠実な生活をもたなかつた芥川は、一農民の誠実な、然し平凡な生活にすら完全に敗北を覚えたのだらう。結局彼の敗北は誠実きはまるものだつたのだ。死なざるを得ない極地のものがあると言つていいやうに思へる。恐らく最も悲劇的な自殺のひとつだと僕は信じてゐるのだね。知性のすべてをあげて悪闘し、なほかつ悲痛な敗北のみがあつたのだから、やむを得ないと思ふのだ。貧乏とか、病気とか、失恋とか、誠実な知的内省を賭けない失意感とか敗北感とか寂寥とか、さういふものは自殺の決定的な原因にはならないのだ。それは死ななくとも済むものだよ。単に偶然のきつかけで死ぬにすぎない。芥川の場合はさういふものではなかつたのだ。――ところがだね。前置きが長くなつたが、僕が君に言ひたかつたことは次のやうなことなのだ。芥川龍之介ほど誠実な悪闘の結果自殺をした人ですら、なほかつ自殺に意味を持たせてゐるといふ幼稚な誤りをまぬかれなかつた。――恐らく時代のせゐなのだ。洋の東西を問はず時代の思考がすでに間違つてゐたのだ。ラディゲの作品の序文に彼の死に就いて述べてゐるコクトオですらさうだつた。そして芥川もまた間違つてゐた。然し芥川龍之介は自殺の外貌形態に於て間違つてゐたけれど、その真実の内容に於ては極めて凄絶のものであり、外貌形態の間違ひによつて些かも汚されてはゐないのだ。けれども彼の自殺は一見鼻持ちならぬ安つぽさを漂はし、芝居気たつぷり、衒気いつぱいのものに見える。人々はその外見に顰蹙して彼の死をいい加減に見あやまりがちだが、僕は然し彼の死は日本に稀れな悲劇的な内容をもつたものだと信じざるを得ないのだ。要するに、彼ほど誠実な知的敗北をした人ですら、なほかつ自殺を意味と混同する幼稚な誤りを犯してゐるといふことが、一見莫迦々々しく見えるほど、同時に我々がその誤りを甚だ犯し易いといふことを暗示してゐると思ふのだ。だから、たとへばその逆の場合が稀れにある。たとへば牧野信一の自殺だが、これも亦なかば時代精神のせゐがあると思つてゐるが、彼の自殺には芝居気がない。つまり自殺と意味を混同してゐないのだ。そのために自殺の外貌に凄味があるのだ。その外見を比較して、人々は彼の死の場合の方が芥川の場合より深刻な内容をもつてゐるやうに考へがちだつた。然し牧野信一の失意や寂寥は極北の知性を賭けたものではなく、もつと漠然とした失意感、敗北感、寂寥であつて、孤独、貧乏、病気、女、さういふやうなものだつた。必ずしも死ななくとも良かつたのだ。あの自殺した時間の偶然がなかつたら、現に生きてゐるかも知れない。生きてゐても不思議ではないのであるし、同時に彼の生活態度も文学も、従前通り殆んど変りはしなかつたであらう。然しながら芥川龍之介がもし生きつづけることができたら、それは殆んど奇蹟的な場合だが、彼の文学は一変したに相違ないと僕は信じて疑はない。それだけに芥川の死はいたましく、また僕にとつては惜しいのだ。生前残した芸術のためにではなく、死ななければ残したであらう芸術のためにだよ。――話が思はぬ方向へそれていつたが、つまり僕は思ふのだ。牧野信一の自殺の場合の芝居気のなさが大体暗示してゐるやうに、ちかごろは自殺と意味を混同することがわりと好みに合はなくなつてゐるのだね。つまり時代の感じ方が大人になつてゐるのだよ。感じ方。そして好み――僕は今さういふ言ひ方を用ひたが、僕はその言ひ方が正しいのだと思つてゐる。つまり知的な探究の結果自殺と意味を混同しなくなつたのでなく、いはばひとつの感じの世界で、芝居気たつぷりの事大性が好みに合はなくなつてきただけの話だ。着物の柄と同じやうな、単に好みの進歩だよ。文学にしてもさうだ。平凡人の平凡な日常生活に主題が次第に移つてきた。然しそれも大体に於てやつぱり好みの変化だと言へないこともないと思ふね。知的探究の結果ではないのだ。事実に於て我々の実人生の大部分の時間といふのが、事件ではない。いはゆる事件の意味をなすところの甚だ複雑にして平凡な単調が人生の大部分の時間なのだ。時代の好みが事件を離れて次第に平凡ではあるが複雑な意識内の生活へ向いてきたのは、まづ当然な話だと言へると思ふね",
"さうですね。だいたい我々の感じ方が異常さや衒気に反撥しやすくなつてゐるのは事実ですね。そこで編輯長は、つまり、我々のさういふ好みや感じ方を知的探究の結果のものに直さうといふのですか。そして事件ではなく事件の意味に焦点を置き、その意味の扱ひ方、見方、それを新らしい知的な角度でつくりなほさうといふわけですか",
"さう考へたときもあつた。然し近頃の僕の意見は大体に於てその反対へ傾きかけてゐるのだ。つまり改めて事件へ生活の焦点を据えたいのだ。なるほど我々の事件は一生の時間の中のきはめてわづかな部分しか占めてはゐないよ。然し人生の大部分の時間を占めてゐるものが必ずしも人生ではないね。むしろ事件――いや、ひとつの意志によつて創りだされ、そして意志なくしては在り得なかつた新らたな局面だね。それだけが人生のすべてだといふ風に見たいのだ。意志によつて変化せしめられることなく単に環境に押し流された人生だとか、あるひは又意識の内部に意志の悪闘はあつたけれども意志の表現の不足した人生は、たとひ百年のすべての時間を占めてゐても、結局在つて無きが如きものだと思ひたいのだ。大寺老人の夢のせつなさは失踪しなくともあつたものに違ひないが、僕は然し夢のせつなさや抽象的煩悶だけでは人生にならないのだと思ふ。失踪がそれにからまる抽象的煩悶の全部でそして人生なのだ。行はないといふこともなるほどひとつの意志でありひとつの行為には違ひないが、然し元来行ふことが問題となつたために、はじめて行はないといふ態度が意味をなしてきたわけだ。行はないといふ意志が独立して存在したのでは、意識の内部の生活すらはじまらないと思ふね。決行を強ひるものが現れてから、その反対も現れてくる。そして結局決行することがなかつたら、その意識の内部の生活はいかほど複雑豊富であつたにしても、なかつた昔と同じことで、そこには生活がないやうな気がする。我々の一生に決行を強ひるものは無数にあるね。そのうちの何を選んで決行したかがその人の人生なのだ。つまりだよ。僕のこの見方でいふと、人生とは、意志することによつて創りだされるものだと言はなければならなくなるが、君はこれを奇矯好みの言ひすぎだと思ふかね。然し僕はもつと極端に考へたい気持があるのだ。たとへば我々の性格だ。性格は我々にとつて宿命的なものではない。我々は意志することによつて性格を作り変へることもできるもので、ある人の一生がその性格に負けたとすれば、その人の生活が意志的でなく、知的でなく、そして不誠実であつたのだと言ひたいのだ。恰もこれ意志万能論だね。然し僕がかういふ理窟をこねまはしても、それが僕のなんの役に立つのかとも思つてゐるが……"
],
[
"満洲国に古川さんのお友達でもゐるの?",
"新京に叔父さんとかがゐるんださうです",
"私また当もないのに思ひきつて満洲国へ行つたのかしらと思つたわ",
"そんなこと、実際できるものですか? 女のひとに",
"さうかしら",
"さうかしらつて?",
"あなたはできないと思つてゐる?",
"あなたはできると思つてゐますか。いや、思つてゐるかの問題ではなく、実際断行できるかしらといふ意味なんです",
"深い意味はないでせう。境遇によることだわね。私のやうな身寄のない境遇だつたら、知らない土地へ行つてしまふわ",
"然しですね。意識の内部のことではなく、行動の問題としてですよ。私達はあらゆることを考へることができます。然しそれを行ふことは。――先日編輯長ともその話をしたのですね。編輯長は意志がそして行動が人生のすべてだといふのですよ。私達は然し結局何を行つてゐるでせう。なるほど心には色々と思ひきつたことも考へがちのものですけど、要するに一生を通じて行ひ得たことは、殆んど誰に差し障りもないやうな平凡無難なことばかりではないのでせうか。意識の内部と行動とは自づと世界が違ふやうに思ふのです。行動の世界は意識の世界のやうに万能ではありません。そして私達人間にはその万能でないこと、不自由さ、そして平凡さがまぬかれがたい約束のやうに思へます。僕は時に決断、そして断行が最も重大だとは思ひますが、主として人間実際の行動の不自由さ平凡さを基調とした物の見方、生き方を基本的な態度として用意することも必要だと思ふのですね。常識的だと言へばそれまでです。けれども僕は人間がそもそも常識的な生物だと思ふのですよ。誰しも行動の世界では常識人にすぎないのです。一見非常識に見え、異常人だと言はれる人でも、彼のそして我々の意識の内部に比べたら、彼も矢張り常識人にすぎないのです。意識の内部に比べたら、行動はたかが知れてゐるのですね。そしてさういふ考へ方は、考へ方の基礎として甚だ必要だと思ふのです。我々はその程度には老成することが必要ではないのでせうか",
"だけど結局その人の一生の宿題だけは思ひきつて行つてゐるんぢやないの。まはりくどい手間がかかつてゐるにしても、結局一度は何かの形で思ひきつて行つてしまふのよ。私にはさう思へるわ。私達の身辺をごらんなさい。年中陳腐で平凡で小説的な事件なんかないやうに思へるけど、古川さんは満洲くんだりへ失踪したぢやありませんか。大寺さんの失踪もあるわ。田巻文子さんの駈落にしろ、断髪させたりダンスホールへ通はせたりした田巻さんにしろ、異常でせう。新潟へ落ちのびてきた卓一さんだつて、きつと自棄まぢりに思ひきつてやつちやつたのよ。そして私のお妾志願も案外そんなところでせう。結局みんな自分の一生は退屈で陳腐で平凡だと思ひこんでゐるくせに案外自分の宿命だけの行動は思ひきつて行つてゐるのよ。自分では気付かずに、力いつぱいの生き方をしてゐるのよ。まはりくどい手間をかけたり、散々退屈したりして。そして誰の一生も平凡ぢやないのよ。自分だけの宿命は仕遂げてゐるんですもの。私には意志なんか分からないのよ。自分では意志のつもりでゐる人も、意志の形をかりた不可抗力で、宿命の道を歩かされてゐるやうにしか思へないのよ。とにかく思つてゐることは、何かしらの形で行つてしまつてゐるわ"
],
[
"いくつだね",
"十九",
"三つ以上の割引はなささうだな"
],
[
"ロマンチックな感慨があつたつて、いいぢやないの",
"…………",
"結局ロマンチックぢやないの。教へて頂戴よ。だつて私、ロマンチックな人生が好きなのよ。そのくせロマンチックだとなんだか安つぽいみたいに思ひたがつてしまふのよ。教へて頂戴よ。ロマンチックぢや安つぽいの",
"それも……",
"……気障? どうして? 私頭が悪いのよ。だから教へて頂戴。どうして気障なの",
"退屈なんだよ",
"だからロマンチックな感慨にでも耽りませうつて言ふんですよ。そんなら話がわかるぢやないの",
"…………",
"せつかく寒い思ひをして日本海を眺めに行くんぢやありませんか",
"はしやいでみたつて結局どうにもならないんだよ",
"退屈がつても仕方がないぢやありませんか"
],
[
"あはは",
"笑はないでちようだい。そんな古い手、あなたにも似合はない",
"…………",
"満洲国から便りあつた?"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 02」筑摩書房
1999(平成11)年4月20日初版第1刷発行
初出:「吹雪物語」竹村書房
1938(昭和13)年7月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本のテキストは、函館図書館所蔵の著者原稿によります。
入力:tatsuki
校正:大沢たかお
2013年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "043001",
"作品名": "吹雪物語",
"作品名読み": "ふぶきものがたり",
"ソート用読み": "ふふきものかたり",
"副題": "――夢と知性――",
"副題読み": "――ゆめとちせい――",
"原題": "",
"初出": "「吹雪物語」竹村書房、1938(昭和13)年7月20日",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"名読みソート用": "あんこ",
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"名ローマ字": "Ango",
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[
"毎日ああして放課後の一二時間も枯枝のなかをぶら〳〵してゐるのですよ。椿といふ、あれが先刻お話した赤い疑ひのある訓導です。間違ひの起きないうちに、出来れば二学期の終りに転任させたいものですがね。うまく欠員のある学校がみつかるといいのだが……",
"はつきりした左傾の証拠はあるかね?"
],
[
"怖いものか。生きてゐるより、よつぽど無邪気ぢやないか",
"ほんとうにさうね"
],
[
"君はマルクスを読むかね?",
"読みました",
"それで、感想は?"
],
[
"貴方は何のために僕を呼び寄せたのです。左翼の嫌疑で転任させるためですか?",
"心配することはない……"
],
[
"儂等老人が今更数学を学びだすわけにもゆかないが。君等若い人達は皆ひと通り自然科学の知識があるだらうね。羨しいことだ",
"いいえ、僕はまるで学問のない男です"
],
[
"君は毎日白樺の林を歩くさうだが、ああいふ時に何を考へてゐるのかね?",
"あれはただ同僚に顔を合はせたくないからです。生活を豊富にしない集団に媚びるのは凡そ無意味ですからね。傷をうけるか、人を傷つけるか、そのどちらかです。無意味な集団よりは孤独の方が豊富であたたかいに違ひないのです。僕はなるべく職員室にゐないやうにしてゐるのです。その代り、僕は同僚のひけたあとで仕事をします。誰もゐない部屋、沢山人のゐるべくして誰もゐない部屋、そして、ゐない人々によつて荒らし残された乱雑の中で一人ぼんやり坐つてゐると、はぢめて何かシインとした静かなものが分りかけてくるのですよ。それは意味のあるもの、はつきりしたもの、積極的なものではないのです。たとへば。椿了助……さう言つて、僕の名を呼ぶ幽かな気配が、静かな呟きが、乱雑な部屋のどこからともなく聞えてくるのです。たとへば、投げ捨てられた紙屑の皺の間から。柱時計の裏側から、書籍の頁の間から。さうです。僕はがつかりしたやうに、ほつと溜息をつくのですよ。懐しい自分といふものに、随分久振りでめぐり会つたものだといふ和やかな気持になるのです。母、ふるさと、睡り、揺籃、そんな懐しい一聯の歴史に似た優しい気配が、この和やかな孤独のとき、僕を豊富にするために其の美くしい窓を展らいてくれます。一人とり残された孤独の時は僕がしみじみ懐かしい自分に還へる時間です。僕の一番幸福なときは、その時ですよ"
],
[
"どうしたわけで、また君は左傾の嫌疑なぞを受けたものかね?",
"それは――"
],
[
"その婦人と君は恋仲かね?",
"いいえ、僕が好いてゐるだけです"
],
[
"僕は黙つてゐるのです。そして黙つてゐる方が愉しい苦痛に富んでゐるやうに思はれるのです。僕は自分の醜い容貌や風采や、才能や生活にも自信の持てない男です。併し、人間の感情は、自分とのバランスを飛躍して、勝手に飛び去つてしまふのですね。僕に今必要なのは宗教ですよ。むづかしい、ひねくれた教義は僕にとつて空文に等しいもので問題にならないですが、抑制するといふ悲惨な形式が、僕の唯一の住宅に見えます。あの暗いみぢめな、宗教に本質的な傷ましさが僕にしみじみするのです。僕は最近魚鱗寺の房室へ下宿を移したのです",
"若い生き生きした人でも……"
],
[
"お客様はお帰りになりましたか?",
"ああ、今帰つたところだよ。気分はどうかね? 儂はね……"
],
[
"実はね、東京をたつ時から、自分でも猟についてくる心算で、これを拵へておいたのさ。先生、女学校卒業以来はぢめての洋装だから、今まではにかんで着なかつたんだね",
"今日からは、秋さんも猟に出かけるのかね?",
"ええ!"
],
[
"鳥のおつこちるところが見たいんですわ。濡れた綿のやうな空の奥から、長い頸を下へまつすぐに延して、翼を張りひろげて、驀地に墜落するのですつて。どんなに素敵でせう……",
"はつはつは。猟は鉄砲を打つときの緊張だよ。それから、獲物を探してのそ〳〵ぶらついてゐる時の変に間の抜けたあの一途な気持だ。所詮鉄砲を持たずに猟の壮快を味ふのは無理な話だが……"
],
[
"肉刺をでかして、歩けなくなるんぢやないかね?",
"いいわ、跣足で帰るから!"
],
[
"椿は、どうでしたか? お訪ねしたと言つてゐましたが……",
"一晩面白く話し込んだよ",
"無遠慮な、図々しい男ですからね。乱暴な、困つた奴ですよ"
],
[
"赤沢の学校で、幸ひこの暮に一人欠員があるといふ話ですが……",
"小心な、きまじめな男だよ。あれは君、国家にとつて危険な人物ではないね。尤も、校長先生にとつて、どういふ危険人物か儂には分らないがね――"
],
[
"さういふ悪辣な奴ですよ。あいつが、その女教師と怪しいのです。何をやりだすか見当のつかない無法な男ですからね。間違ひのないうちにと、私は考へてゐたのです。怪しからん奴ですよ。ぜひとも転任させてしまはなければ、私は職責をつくすわけにいきませんから",
"鮫島君は、いくつだね?"
],
[
"ちやうど四十です",
"ほう、若いんだね。まだ青年のうちだね。鮫島君の教育方針では、人間の心にすむ動物はどういふことになるのだね? おさへつけるか、殺すか、それとも秩序の中へ馴らすのかね?"
],
[
"あなたは誤解してゐられるのですよ。椿の言ふことは嘘ですよ。私は恥を持たない教育者であることを、自負できるのですよ",
"儂はね、これはいたづらごとだが、こんなことを考へてみたのだがね。人間の心に棲む動物を勝手気儘に野放しにしてみる。そこで人間は動物になりきれると君は思ふかね。結局成りきれまい。この全てを許された動物共は、先づ自分の思ひ通りに何んでもやりたいと思ふだらうが、結局彼等が最初になし得ることは矢張り約束をつくることではないのかね? 厭々ながら自分の欲望を犠牲にして、他人から受ける圧迫に掣肘を加へやうと試みる。そこで自己防衛の約束ごとから、またシチ面倒な文化が初まるのではないかね? 文化の進歩につれて、個人の快楽は必然的に減少する。そこで動物がなくなるかね? なくならない。僕はなくなるまいと思ふのだがね。儂は文化に興味がない。儂の年齢では、文化それ自身の革命なぞには、もう興を惹かれない。儂には動物の革命騒ぎが直接に正直で面白い。所詮あり得ない無稽のことではあるが、僕らの年齢になると、空想でしか及ばない破壊的な考へが、むやみに面白うなつてね……"
],
[
"諦らめの中には、思ひがけない満足といふ収穫もありますからね。私は、然し、あの椿を憎まずにゐられません。教育者に大切なのは何よりも人格ですよ。一校の平和、ひいては村の平和といふことを考へて下さい。あれは、嘘をつく、卑しい、危険な人物ですからね",
"儂らの文化といふものは、儂らの弱さが自分を護らうとして、結局よけいに自分を苦しめることになつた、いはば墓穴のやうに思はれてね。幸福の量に於て犬と人間を比較するに、儂には寧ろ犬の方がね……"
],
[
"いや、七人も子供があると、これで並大抵ではありませんよ。年頃の娘に男ができてゐるのですが、あなた、嫁がすわけにいきませんからねえ。女は結婚すると他人になりますよ。ねえ、あなた、さうですとも。うちの生計を助けてはくれませんからな……",
"因業な親爺さ。娘は君のくたばるのを待ちかねてゐるぜ",
"ふつふつふ。先の長い者には辛抱して貰はにやなりませんよ。ところがねえ、あなた、あいつ、ずいぶん怒つてゐるよ……"
],
[
"人は形式で判断しますよ。噂ほど不親切なものもありませんからね。女にしろ、第一がさうです。なに、難かしいとは言ふものの、さきは生活の苦労も世間の内幕も心得てゐる職業婦人のことですから、口先で理想の夫だとか何だとか述べたてるほど面倒でもないのですよ。案外内心では気楽な奥様を望んでゐるものです。それも一種の虚栄心のことですから、万事は形式問題ですよ。飾らずに言ひますが、この結婚は貴方よりも金と身分が花婿ですからね。妾の形式ぢや、第一女が承知しませんよ。それに私が困るのです。妾を周旋したことになりますからね。人はさう見るでせう。人は他人の出来事を不親切に弥次半分に取扱ひたがるものですよ。教育者としての私の立場は、それで、おしまひです",
"――分つてゐる"
],
[
"私の怖れるのは教育の尊厳といふことですよ。私の身分は貴方の保証で微動もしません。それはよく分りますよ。併し人の蔭口は教育の尊厳を傷けます。人に人格を疑はれながら、口に教育を説くことは自分にも不愉快ですし、事績もあがりませんからね。心に疚しくないにしろ、一度ひろまつた蔭口には、正当な弁解も役に立たないものですからね",
"わかつてゐる。お礼は沢山さしあげるよ。君に迷惑のかかるやうにはしない。真面目な教育者にね"
],
[
"とにかく、私としては出来るだけのことはやりますよ。併し成否は受けあへませんよ。形式が形式ですからね。併し之はくどいやうですが、事実の上では、あくまで本妻といふことにして頂かねばなりません。内容さへ正当な夫婦なら、私は教育者として、形式はどうあらうとも、恥なく努力できますからね",
"くどいね"
],
[
"母の違つた子供が沢山ゐる。大きい子供は新らしい母親と同じぐらゐの年配になつてゐると言へば、別居の理由は立派に成り立つぢやないか",
"むろんですよ"
],
[
"御精がでるね。大分ためこんだね。借りにくるからね。はつは",
"いやはや……"
],
[
"深雪は困りますの。ほんとに、四五尺のことでしたら、しあわせですぞい",
"どつちみち、五尺や六尺の雪ぢや、すまないのでね"
],
[
"今日は河野君の宿直でしたかね?",
"それがねえ、神山君の筈でしたがねえ、あなた、頭痛がなんだやらで私が代りましたよ。いや、冬の宿直はたまらんですよ。一本つけないことには、これで私なぞ、とても睡れたものでありませんよ、はつはつは"
],
[
"そのお話はお断りしますわ",
"これからが話ですから、ちよつと、かけて下さい"
],
[
"あんた、今日、妙見山を越えてゐたね?",
"石毛さんへ行つたんですよ。どうして、知つてゐるの?",
"スタ〳〵歩いてゐたね。あんた、足が短くて素ばしこいから、時代違ひの飛脚を見るやうな気がしたよ。僕は妙見山の隣山を越えてゐてね、ちやうど杜の中で一服しながら休んでゐたんだけど……"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「桜 五月創刊号~第二号」中西書店
1933(昭和8)年5月1日~7月1日発行
初出:「桜 五月創刊号~第二号」中西書店
1933(昭和8)年5月1日~7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月19日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"コラ、バカ者!",
"このガラスビンは立てることができるのよ"
],
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"治った?",
"ウム。いくらか、治った"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新潮 第四五巻第七号」
1948(昭和23)年7月1日発行
初出:「新潮 第四五巻第七号」
1948(昭和23)年7月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042840",
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"わけを話さないと分ってもらえないが、この月の始めに望月王仁の奴がふらりとやってきた。すると丹後弓彦と内海明がつづいてやって来たのだ。妹の珠緒の奴が誘いの手紙をだしたからで、一夏うちへ泊るという。君だから恥を打開けてお話するが、珠緒の奴、この春、堕胎したのだ。相手が誰ということは全然喋らないから今もって分らないが、ひと月のうち半分ぐらいはフラリと上京してどこに泊ってくるのだか、手のつけようがなくなっていたのだ。御承知の通り望月王仁という奴は、粗暴、傲慢無礼、鼻持ちならぬ奴だが、丹後弓彦の奴がうわべはイギリス型の紳士みたいに叮重で取り澄ましているけれども、こいつが又傲慢、ウヌボレだけで出来上ったような奴で、陰険なヒネクレ者でね。内海明だけは気持のスッキリしたところがあるけれども、例のセムシで姿が醜怪だから、差引なんにもならない。三人もつれて喧嘩ばかりしていやがる。珠緒の奴はそれが面白くて誘いをかけた仕事なんだよ。僕らはやりきれやしない。からんだり、睨みあったり、セムシの奴なんぞは時々立腹して食卓の皿を床に叩きつけたりね、一人の姿を見ると一人がプイと立去るという具合で、僕らのイライラ不愉快になることと云ったら、まったくもうゆっくり本を読むような心の落着きが持てないのだね。そこで誰言うとなく、いっそ昔の顔ぶれ、戦争中疎開に来ていた顔ぶれだね、一堂に会して一夏過そうじゃないか、東京は飲食店が休業だから丁度よかろう、なんてことになった。彼らもそれを望んでいるが、僕らも実は助かる。彼らは退屈まぎらしのつもりだけれども、僕らは奴らだけじゃ息苦しくって、ほかに息ぬきのできる人たち、木ベエにしろ小六にしろ、居てくれた方が助かる。まぎれる。別して君には是非とも来てもらいたいのだ。木ベエも小六も来ることになって、実はあさって一緒に出発することになっているんだがね",
"宇津木さんもか",
"むろん一緒だ。胡蝶さんもくる。その為に一夏舞台を休む事にした程だから"
],
[
"モクベエや小六と違って、僕がまさか君の家へ行ける筈がないじゃないか。御尊父の御機嫌がいくらかまぎれているにしても、僕はそのいくらかでも不快な思いを好んで見たくはないからな。僕はともかく、京子は身ぶるいするだろう。それは出来ない相談だね",
"然しね、まア、もうちょッと我慢して、きいて欲しい。君にだけは、すべてを打ちあけてお話するつもりなのだから。僕の精神上の極めて雰囲気的なお伽話もあるし、それから、いささか通俗的な犯罪実話もある"
],
[
"これは然し、ハイカラな文章じゃないか。ハイカラ以上に、文学的だな",
"この手紙は僕に宛てたもので、犯人を誰とも書いてないけれども、僕に宛てたところをみると、僕を犯人に当てているのかも知れないね。御承知の通り、うちの母は二度目の母で、僕の母が死んだ後お嫁にきて、だから年も僕と三つしか違わない、去年八月九日に四十二で死んだのだ。然し僕がこの母を殺す何の理由があるだろう。この母は元々ゼンソク持ちだった。心臓ゼンソクという奴だ。それが怖いものだから、海老塚というビッコの医者、これは落魄した遠縁の子弟だが、これに学費を給与して内科を学ばせ、五年ほど前、村へ住居を与えて開業させた。山中の無医村で開業するには内科だけじゃいけないので、外科も耳鼻科も眼科も、歯科まで一手に兼ねなければならないから、父などはあまり早くよびよせるのは反対で、全科にわたって一応習得させる時間を与える方が村のためだと云うのを、いいえ、私のためによぶ医者ですから、と云って、卒業後研究室に一年ぐらいいただけで強制的によびよせた。医者の当人が学究肌だから、それが非常に不服であったほどで、こっちへ来てから表面従順ではあったが、ソリが合わなかった。恩を忘れて不親切だと云って、母は医者を怒っていたが、逃げられると困るので、不満があるのも堪えていたようだ。ゼンソクという奴はひどい苦しみ方だから、腹這いにタタミをむしる。まったく母はタタミをむしりながら苦しみ死にを遂げたもので、何本注射をしてもダメだった。これは心臓ゼンソクの普通のことで、特別どうということはない。然し苦悶の様相のうちのたぶん極限のものだろうから、ここへたとえば毒殺という外からの手段が加えられても見分けはつかない。外に出血とか死斑とか、そういうことは別として、苦悶の様相だけでは、ね。然し、出血も死斑も特別なものは何もなく、死んでからは安らかな顔で、もとより毒殺などとは誰一人考えた者もなく、葬ったのだ。そんな噂が私たちの耳にとどいたのは今年になってからだろう。臨終には女中から出入の者まで集っていたのだから、苦悶の様子を見ている。山中の暇な村人だから尾ヒレがついて、そんな話になったのだろうが、ほッてもおけないから海老塚医師にききただしたら、大きな目玉をむいたきり、返事もしなかった。あれはそういう人物で、分りきったことには返事をしないタチなのだ。ビッコで、そういう不具のヒガミからきたような偏屈なところがあって、お喋り嫌いの人づきの悪い男だ。そのうち、食事に家族が集ってる時、珠緒の奴がふいに私に向って、近ごろ村じゃアお兄さんがうちのお母さんを毒殺したんだなんて噂があるそうよ、と大きな声で言いやがった。むろんこれは冗談だ。あいつはそういう人の悪いイタズラをしたがる奴なんだ。人の一番いやがることをね。あいつときたら、あいつはお梶お母さんのたった一人の実子のくせに母親が死んだって悲しむどころか、全く涙ひとつ、こぼしやしないんだからな。叱る人がいなくなって、これで大ッピラに大いに遊べるとハリキッたような始末なのだ。然し、あいつにしたって、こと、いやしくも殺人犯だから、そうバカな冗談も言わないので、実は当時、別に犯人は誰それだというまことしやかな風聞があった。君達も知っている諸井という看護婦、あれのことだ。変に色ッポイ女だからな。たしかに父と関係はあった。君がお京さんとああなって後は別して相当の交情があったことも事実だろう。それで母を殺して後釜を狙ったという、これは如何にも村の噂に手頃の新派悲劇的人間関係じゃないか。農村の噂なんて、みんなこれぐらい月並なものさ。こんな噂があるから、妹の奴、安心してあんなひどい冗談を言いやがった。むろん誰もゾッとなんかしやしない。凄味なんか、ないからね。ゲタゲタみんな笑いだした。然し、僕自身は、やっぱり寝ざめは悪い"
],
[
"僕は然し、実際悪党だから",
"そりゃ分っている。君ぐらいの年になりゃ誰だって悪党だ。あやか夫人にもゾッコン参りすぎている。胡蝶さんにだって、時には口説いてもみたいだろうし、さ。加代子さんは君以外の男は眼中にありゃしないからな。然し、そりゃ、崇高でもなんでもなく、案外近親相姦でもなく、みんな君自身が幻覚している雰囲気で、根は処女の魅力、魔力、それだけじゃないかな。根をつきとめると、実は案外、薄ッペラなものさ。怒ったかね。そうじゃないか。君は実際はあやか夫人の非処女性に圧倒され徹底的に降伏状態にあるんで、ちッとはムホン気も出したいからな。兄と妹、恋愛、大いによろしい。多少はムホン気もだしたがいいさ。発散すりゃ、それでいいんだ。然し実のところ、ほんとにヤッちゃったのかと思って、話の途中じゃちょッと冷や冷やしたね",
"そんな風に言ってくれると、僕も救われるがね。君の言葉が当っているとは思わないが、理窟は止そう。理窟は僕一人だけ信じてりゃいいんだ。君から、そうやって、いたわって貰えれば、僕としては本望なんだからな。それで君にお願いというのは、加代子には友達というものが一人もない。たった一人、お京さんの外には。加代子は毎日お京さんを思いだして、懐かしんでいるのだよ。病気に悪いことを知りながら、一里の山道を歩いて、よくお京さんのところへ遊びに行ったものだからな。叱られても、又、行く。熱をだして寝ついても、起きられるようになると又でかける。脱出して、でかけるのだからな。僕はあのころ、お京さんが加代子を殺す妖婆に見えて、憎んだものだよ。だから君、お京さんに来てもらって、加代子の気持をなだめて貰えぬものだろうか。そういう役割を果し得る人といったら、お京さんの外には金リンザイないのだから、僕がいかにも意気地がなくて申しにくいのだけれども、僕のことをもう諦めて、外に心をまぎらすように仕向けて貰いたいのだ。勿論、僕自身からも、そう仕向ける。然し僕の全力で足りそうもないから、お京さんに助太刀を頼むのだ"
],
[
"そうですか、避暑はいいな。料理も食えるし、酒ものめるか。然し、今晩はダメですよ",
"なぜ",
"つらいな、開き直られちゃ。ちょッとお耳を拝借。ア・イ・ビ・キ。分りましたか",
"博士も亦然りか。どうせ相手はパンパンだろう",
"やいちゃ、ヤボです。先生。明日の夜行で行きます。一足お先きに。あの子もつれて行きたいな",
"つれて来たまえ、遠慮なく",
"ダメ、ダメ。神聖なる処女は虎狼の中へ連れて行くわけに行かないです",
"博士は少女趣味かい。やれやれ。俺はトンマな趣味の奴に憑かれているんだ"
],
[
"矢代先生も歌川さんでしょう。お伴いたしましょう",
"あなたも歌川さんですか",
"ハア、何ですか、招待状が参りましたもんでね。珍らしいことがあるものですよ"
],
[
"ヤア、君はどこへ行くのだい",
"どこへ行くって、こんな安達ヶ原に毛のはえたようなところへ来て、どこへ行きようもないじゃないか。歌川一馬のうちへ行くにきまっているさ。君はそうじゃないのか"
],
[
"君は何か用があるのか",
"バカにするな。あんなヘッポコ詩人に何の用があるものか。ミウケの金はちゃんと貰ってしまったから、とっくに飲みほしてしまったけれども、後をネダルほど零落はしないよ。奴がぜひとも御光来、一夏をお過し下され、酒も料理もあるというから、変なことを言ってくる呆れたオッチョコチョイだと思ったが、酒があるなら、つきあってもよろしかろうじゃないか"
],
[
"ようやく、お目ざめ。もう、みなさん、お酒めしあがってるわ",
"まったくグッスリねむったものだな"
],
[
"僕がフットライトを浴びるのは、ノートルダムの主演の時だけさ。その節は共演をたのむぜ",
"あら、そう。すばらしいことね。この夏、ここでやりましょうよ。人見さん、手頃に脚本書いてちょうだい",
"よろしい。オレが舞台装置をやる。村の衆に興行して、百姓どもの新円をまきあげてやろう",
"ピカ一の舞台装置じゃ百姓のお客は逃げ出すさ。芝居なんざ、止すがいい。これだけ女優が揃っているから、エロダンス、外に何があるものか。ザッと、この通り"
],
[
"おい、よせ。あくどいぞ",
"兄さん、怒るな。まさか、鬼でも、かわいい子を人前でほんとにハダカにするものか。然し、手数がはぶけて、ちょうどツイデだから、ちょッと借りて行くぜ。芝居の方は終ったんだよ。これからは、恋愛という私事に属する演劇だから、見物人はお断りだ"
],
[
"君とゆっくり話を交す暇がなくってね。これは、然し、いったい、どうしたことだろう。僕には、わけが分らない。君はツーリストビュロオの切符を受取ってきたのだろうね",
"そうさ",
"僕の手紙はとどいたね?",
"むろん見たよ。さもなきゃ、来やしないさ。巨勢博士は一緒に来れなかったけど、今夜たつから、あした、くる筈だ",
"巨勢博士?",
"なんだい?",
"巨勢博士がどうしたんだ。誰かそんなことを言ってきたのかい",
"わけが分らないな。君の手紙に巨勢博士をつれてきてくれと書いてあるからさ"
],
[
"この紙は?",
"うちの用箋さ",
"どこに置いてあるのだい",
"さっきの広間の隅のデスクに、これとインクとペンはいつも具えつけてある。むろん封筒もおいてある",
"手紙は誰が投函したのだ",
"君たちの疎開中は郵便局に人手がなかったし、時局が時局で、こっちから投函に一里も歩いたものだけど、今じゃ向うから取りにくる、昔からの習慣なんだ。尤も郵便を配達に来て、ついでに持って帰るのだ。うちへ届ける郵便物のない時だけ、やっぱり配達の時間にわざわざ取りに来てくれるのだ。うちから出す郵便物は玄関に桐の箱が置いてあって、手紙を出す者が勝手に自分で投げこんでおくのだ。だから、手紙をすりかえるチャンスは誰にでもある",
"まア、いいさ。幸い、あした巨勢博士が来るから、誂え向きじゃないか。尤も手紙の犯人が自分で指名しているのだからな。なぜ巨勢博士を呼びやがったかな。この犯人め、巨勢博士を嘗めているなら、大失敗だよ。あいつは全く、その道では、天才なんだから。つまり中途半端な頭なんだよ。犯人を探すに手頃で、それ以上はダメ、そして、それ以上へ行かない組織になってるところが、恐らく異例の才能なんだな",
"じゃア、又、あした",
"そうしたまえ。我々が犯罪をつき廻したって、迷路をさまよい、やたらに犯人を製造するばかりさ。全くもって、小説家にとっちゃ、犯人ならぬ人間は有り得ないから、考えてみたって、全然ムダだ"
],
[
"なんだか気味が悪いわ。私、怖しくなってきたわ。ほんとに何か、怖しいことが起るんじゃないかしら",
"どんな怖しいことが?",
"どんなって、分りゃしないけど。でも、何か、ほんとに起りそうじゃないの",
"そうかな。娼婦宿の犯罪事件か。ピカ一め。娼婦宿とは。然し、まったく、ひどい話さ",
"私、きょう、加代子さんとお話したのよ。まだ、ほんの御挨拶程度のお話だけですけれど、ね。たぶん、予想以上だわ。ほんとうに兄さんを思いつめているようすよ。罪は人間が作ったものですって。人間が勝手にこしらえた観念ですって。自然のままの人間にどこにも罪なんか有る筈がないんだってね、そんなことを私に仰言ったわ",
"恥があるから、罪もあるんだろう",
"あなたの屁理窟なんか、加代子さんの悩みの垢みたいなものよ",
"分った、分った。諸嬢の悩みは深遠そのものだ。さア、ねよう。然しねられるかな"
],
[
"いいえ。眠りすぎちゃって、いまだに、ねむいのよ。山の中は眠いのかしら。ふだん生活が不規則だから、たまに規則的な生活すると、健全みたいで変にたのもしくなるのだけれど",
"悪徳高き淑女は善行を愛するもので、そのタグイですな"
],
[
"それ、それ。やっぱり男の方が余計ねむらなきゃならねえのか。王仁ほどの御体格でも、御疲労は珠緒さんに超えるかね。宇津木さんの小説だよ。絵の方じゃ、そんなエゲツないことは題材にならないから、絵はノーブルなもんだ。文学は汚らしいな",
"起してこよう"
],
[
"なに?",
"王仁さん、殺されている"
],
[
"海老塚さん。調べがすむまで、我々が動いちゃいけないでしょう",
"私は有閑人種じゃないです。患者がつめかけてきています。おんぶされて、未明から三里も山道を歩いたり、ね。殺人なんか。遊戯の果にすぎんです。百姓どもの命なんて虫けらに毛の生えたようなものでも、虫けらよりは貴重ですから。虫けら共の人殺されだ。さよなら。皆さん"
],
[
"これがその偽造の手紙だが、君の眼力にかかっちゃ、真相を見破ることはイト易いことだろう",
"とんでもない。僕なんか、とてもダメだな。へ、こっちが歌川先生の本当の筆蹟ですか。ウハ、おんなじじゃないですか。ウメエなア。本物と見分けがつかねえもの、たいしたもんですね"
],
[
"巨勢さん、いい人いらっしゃるの?",
"え? ハア、おはずかしい次第で",
"つれてらっしゃればよかったのに。電報でよんであげなさいな",
"人見知りをしますんで。十七の可憐な少女ですから",
"あらあら、じゃアまだ、接吻もなさらないのね",
"それが、一度。なんです。彼女はマッカになって、しかし、怒らなかったです。ハア",
"それじゃアもう新婚旅行なさってもよろしいわ。さっそく、およびしましょうよ、ねえ",
"それが、ここのウチじゃア具合が悪いことがあって。洋食の食べ方を知らないものですから。ナイフとフォークを握ったことがなかったもんで、目下練習中なんです"
],
[
"出血がないのは特別の理由があるんじゃないですかな。すでに死んでいたとか、何か",
"解剖をしてみなければハッキリは申せませんが、この場合は俗に心臓タンポンという奴で、心臓へ直角に兇器が打ちこまれたときに、稀に内出血だけで終ることが有りうるのです。然し、解剖の上でなければ、何とも断定は申されません"
],
[
"おやおや、どこを拭いたんだろう。この卓の上かな、机の上かな",
"そんなところでこれだけのゴミがつくものかい。きまってるじゃないか。上衣のあった場所さ",
"ベッドの下ですか",
"のぞいて見ろ",
"ウム、なるほど、たしかに、ここをふき廻した跡があります。しかし、なんだってベッドの下を拭きやがったんだろう。血も水も、一滴もこぼれた跡もありゃしないに"
],
[
"このへんは蚊がいないのか",
"とんでもない。ヤブ蚊の名所ですよ。そこの違い棚に蚊とり線香をいぶす瀬戸物の容器があるでしょう",
"それぐらいのことは知ってる。然し中に線香の灰が残っていないからきいたのだ"
],
[
"何ですか、アタピンというのは?",
"アッハッハ。きこえましたか。本署の名物婦人探偵ですよ。田舎の警察じゃ役不足の掘りだしもので、飯塚文子と申しますがね。ちょッと小生意気な美人で色ッぽくて、なんですな、ちょッと、からかいたくなりますぜ。ところが、ひどい。うッかりからかってオダテたが最後、つけあがること、男という男を鼻息で吹きちらかして尻にしきまくる魂胆なんで、本県じゃア前科十犯の人殺し屋でもチヂミ上るという八丁鼻が、アタピンにかかっちゃ鼻先であしらわれていまさ。その代り、天才的な心眼で、なんでもアタマへピンとくる。見たもの聞いたものアタマへピン。黙って坐ればアタマへピン。尤も八割方外れますけど、時々あたる。推理ぬきの飛躍型、時々あたれば沢山さ。なんでもかんでも頭へピンピンくるのだから、いそがしく賑やかな頭でさア。あなた方のインスピレーションがどんなぐあいのピン助だか知りませんが、アタピンのピン助ぶりはジンソク突入流線型、見事なものですな"
],
[
"こうして打ちとけていただけば、我々も光栄ですな。警察というと偏見的にいきなり敵意で迎えられるのが我々のつらいところで、警察は犯人製造会社じゃありませんや。ところで、せっかく御食事中無粋な話ですが、然し、こういう際には、事件の話題を回避するよりも卒直にそれを話題にとりあげて銘々が腹蔵なく話を交される方が、気持が整理されて、互によろしいのですな。いかがでしょう。軽い座談の気分で、言ってよろしいところまで、気軽に語っていただけませんか。この離れの建物は山中に不似合な洋館ですが、これは鉄筋コンクリですな",
"そうです。ライト式という奴です。建ててから十五年ぐらいになりますか。母屋の方は、百五十年ぐらいになります",
"すると入口の鍵などは極めて精巧なものですな",
"この山奥に鍵をかける家なんて有りませんよ。泥棒の恐怖なんて存在しませんから。もっとも夜間の侵入者はあります。夜這いと申しましてね",
"警部さん。無役な話は止しましょう。犯人は外から来やしませんよ。分りきった話です。そんな風にいたわられるのは、我々の神経には、からかわれると同じ意味にひびくのです"
],
[
"何でもズバズバ思う通り言い切って下さい。文学の仕事がそういうもので、私たちはそのやり方に馴れているのだから、変に持って廻って言われると、こっちはヒネクレて、返事もする気がなくなりますよ",
"いや、矢代さん、あなた方はこの事件に就いてともかく何か知っていらっしゃる。ところが我々はまったく白紙で、これから知らなければならないのです。ですから、あなた方には分りきったことが、我々には分っていない。そこを教えていただかなければならないのですよ。では矢代さんにおききしますが、犯人は外から来やしないと仰言る、そのワケはなぜでしょうか",
"物盗りの仕業でないからですよ。あいつを殺す目的で外から誰かがやってきますか",
"この家の住人以外に望月さんを殺す者が有り得ないというワケは",
"そんなことは知りませんよ。ただ、この家の住人なら、たいがいの連中が望月の息の根をとめたがっていましたよ。外から来るまでもないのだから",
"なるほど。然し、御説の内容だけでは外部から犯人が来なかったという理由にはなりませんな。廊下の出入口からはいって階段を登る、登ったところにあるのが望月さんの部屋だから、先ずそこへはいってみる、目をさましたので殺す",
"兇器の短刀は談話室の棚に飾られていたのだから、犯人は内部の事情に通じた者でしょうな。始めから殺意があって、そこから持ちだしたのでしょう",
"なるほど。然し、それも必ずそうだと断定しうる性質のものじゃありません。短刀はその日もそこに飾られていましたか"
],
[
"昨夜も皆さんはこうして食卓についておられた。それから……",
"それから? いつもでしたら食事のあとはみんなバラバラになるのですが、ゆうべは矢代たち新客が到着したので、隣りの広間でおそくまで飲んだり話したり踊ったりしていましたが",
"兄さん、よして。警部さんは何が知りたいの? いつ、誰が殺したか。それだけでしょう。私が教えてあげますわ。王仁さんと私は一足さきに王仁さんの寝室へひきあげました。何時頃だか覚えていません。私が王仁さんの部屋を去るとき、王仁さんはもう眠っていました。そしてその時はデスクの上に、このライターも、口紅のついた吸いがらもなかったのです。私はタバコを吸いませんから。私は電燈を消して部屋をでました。それから先は、このライターの持主、宇津木秋子先生が話して下さる番ですわ。宇津木先生、どうぞ"
],
[
"王仁さんは眠っていました。イビキをかいてらしたから、まちがいはありません。揺りうごかしても目をさます気配がありませんので、椅子にかけて、タバコを一本吸ったのです",
"そのときフラスコの飲みものを召上りましたか",
"ええ、飲みました。いくらも残っていなかったのです",
"あの飲み物は何ですか",
"ゲンノショウコ。王仁さんは丈夫そうで、胃が悪いのです。お茶の代りに毎日ガブガブ、ゲンノショウコを召上る習慣でした",
"失礼ですが、あなたはちょッとよその部屋へ行かれるにもライターを持ってお出かけですか",
"いつもそうとは限りません。でも、王仁さんはタバコを召上らないのです。私も昨夜はライターを持たずにでかけたのです。するとドアに鍵がかかっていたのです。それで一度は戻ったのですが、考えてみると、おかしいのですわ。王仁さんの鍵は偶然私がお預りしていることに気付いたのです。探してみると、ありました。で、ついでにライターとタバコを持って、思いきって出直したのです",
"嘘おっしゃい! 私は鍵なんか、かけてきやしなかったわ"
],
[
"でも、鍵がかかっていたのですもの",
"ははア。それは奇妙ですな。そして、その鍵はどうしましたか",
"又、私が持って戻りました。お部屋に鍵をかけて。私はワザとライターを置き残してきたのです。王仁さんが目をさまして、私の訪れに気がつくように。そして、誰かが鍵をかけたことにも気がつくように。私もきた、然し、私のほかに鍵をかけ得るどなたかも来た。そのどなたかは王仁さんだけが御存知でしょう。私のダンヒルはその抗議を語るために置き残されてきたのでした",
"嘘です! 大嘘。私が今朝王仁さんの屍体を発見したとき、ドアの鍵はかかっていません。現に鍵を持たない私が、あの部屋へはいって屍体を発見したではありませんか",
"はてさて。ややこしくなりましたな。いったい、このウチは、各々の部屋の鍵が共通ですか",
"いいえ、各々違っています。然し、内からも外からも一つで間に合う鍵なんです",
"すると、望月さんの鍵は宇津木さんが持っていらっしゃる。そのほかにあの部屋の鍵をかけたり外したりできるのはどなたでしょう。同じ鍵を持ってる方は?",
"そうですね。三ツずつ同じ鍵をつくらせたのです。一つは皆さんにお渡ししてありますし、一つは、まとめて、隣の広間のデスクのヒキダシにほうりこんである筈です。もう一束は、たしか金庫にある筈です",
"そのヒキダシを。おい、八丁鼻、ひとつ、君、たしかめてきたまえ"
],
[
"いつですか",
"そうだな。僕は原稿紙を持たずにきたから、原稿紙があるというから、ひっかき廻したんだけど、用箋と封筒ばかりで、原稿紙が却々見つからなくってね。来てまもなくだから、もう一ヶ月以上の昔の話さ。何月何日だか、分りゃしないよ",
"望月さんの部屋と隣室の間にドアがありますが、あのドアの鍵は?",
"部屋の間のドアは鍵をかけたままで、その鍵はお客様方にはお渡してありません。然し、盗まれた鍵束の中にはその鍵も勿論ありました"
],
[
"ああ、丹後弓彦さん。作品はかねて雑誌で拝読致しております。昨夜は何か隣室に変った物音をおききになりませんでしたか",
"毎晩変った物音ばかりきかされていますから、一々気にかけちゃいられませんさ。王仁が死んで、今晩から安眠できるだろうな。愛慾の音と殺人の音と、いったい、どこかに区別がありますか"
],
[
"もしもし、奥さん。失礼ですが、そのスリッパは",
"はア、なんでしょう、このパントウッフル",
"パントウ、はア、なるほど、スリッパじゃアない、お靴ですな。そのお靴はいつもはいていらっしゃいますか",
"ずいぶん悪趣味だと仰言るのでしょう。皆さんにカラカワれるのよ。でも、こんなオモチャみたいな華やかなのが好きなんですもの。外に七足ほど似たような悪趣味な部屋靴があるわ。その日の気分で、あれをはいたり、これをはいたり",
"みんな鈴がついてるのですか",
"鈴のついてるのは、これだけ",
"昨日もそれをおはきでしたか",
"昨日。昨日ね。そう。昨日もはきました。でも、外のも、はきましたわ。なぜですの",
"鈴がひとつとれていますが、いつなくなったか、覚えていらっしゃいませんか",
"そう。この鈴がひとつね、今朝、はくときに気がついたのよ。とんだり、駈けたり、つまずいたり、私はチョコチョコしてるから。でも、このパントウッフルは、私は特別に好きなのよ。可愛いいのよ。ねえ、そうでしょう。そう思うでしょう",
"ハア、いや、まったく。我々はどうも、我々の町じゃア見かけたことがないもんで"
],
[
"今どきハムレットもどきのセリフまわしは止そうじゃないか。ここで出来て、ここで別れりゃ、因果テキメン、首尾一貫してらア。おめでたい話じゃないか",
"だまれ。無頼漢。貴様は貴様の友達にだけ話しかけろ。ここには貴様の友達はおらん",
"何が無頼漢だ。昔の女房を犬呼ばわり、紳士面が呆れらア。元々オレは男友達は嫌いのたちだよ。宇津木さんはさすがだな。女を犬よばわりのハムレットはないからな。女を犬とよぶからにはライオンぐらいの精神力を持つがいいや。思想と生活のトンチンカンなこんな奴が外国文学の紹介なんかしているから、日本はいつまでも田舎なんだよ。ねえ、宇津木さん、そうでしょう。我々はお友達になりましょう。第一、こんな奴と一緒に暮してたんじゃ、いつまでたっても本当の男を描くことができませんよ。我々は本日をもって我々の記念日たらしめようではありませんか",
"あなたのお幾つ目の記念日?"
],
[
"あなたもお人の悪い方。殺人事件の犯人容疑者をからかうなんて",
"アレ、古風なことを言うお方だなア。王仁追悼に我々の接吻をささげるとは、神聖にして純粋なる志というものでさ。生々流転は人生の真相だから、恋人の殺された当日から生々流転。これでなくちゃア"
],
[
"恐れ入りましたな。そんな風に見えますか。これで実は、気も弱く、腕ッ節も全然見かけ倒しなんですよ",
"僕みたいに御婦人のために鉄拳をふるう実力がなくちゃ、恋愛の資格もないのだろうな。時代は益々麗人のために、鉄拳の用意が必要らしいや。どうだい、モクベエ、フランスにもセムシの剣客というのは、ないかい?",
"内海さんは私のために詩集を作って下さるのよ。心病める醜婦のために、という題なんですってさ。いいでしょう。うんと私を讃美するのよ。そうすれば鉄拳の必要はいらないのですもの。からかわれたことがないのですから。その代り、私も陽気なセムシを讃美礼讃してあげるわね"
],
[
"心痛めるだけ余計だよ。僕のは、ただ、醜婦のために歌えるというのさ",
"あら、柄になくテレるわね。二人の時は色んなことを仰言るくせに",
"醜婦が醜男を口説いちゃだめだよ。醜婦は美男のために人知れず胸をこがし、醜男は美女のために悶死するところがネウチなんだよ。僕にくらべりゃ、シラノなんぞは醜男のうちじゃないのだからな。詩も僕よりは巧そうだ。僕には取柄がないな"
],
[
"どれ、僕はひきあげて、今夜は詩でも作るかな。醜婦のために",
"待ちなさい。ちょッと散歩しましょうよ。いや? 厭じゃないでしょう",
"決して希望はしていないね",
"こっちの庭はダメ。ピカ一さんがどこかでビールをラッパのみにしている筈だから。こっちの方から、ブナの杜へでましょうよ"
],
[
"今日はウンと飲んでやるわ",
"もう止しなさいな、珠緒さん。あとで、吐いたり、苦しむから"
],
[
"本当よ、珠緒さん。そんなに飲んじゃ、毒だわ。もうよしなさいね",
"ええ、でもよ。もう、ちょッとだけ、飲まして。だって、私ね。こうして、黙って飲んでいるとね、幻が見えてくるのよ。王仁さんが殺されている幻が。ハッキリとよ。一人の女の人が短刀をふり下すときの表情まで、実に歴々と見えるのよ。たしかに鬼の顔よ。ヤキモチの鬼の顔",
"よしましょう、そんな話。今日はもう、やすみましょう",
"ええ、ごめんなさい"
],
[
"琴路さんに願いなさい",
"ハイ"
],
[
"どうしたのですか?",
"ええ、アイツ私があと片づけしていたら、いきなり"
],
[
"どうだい。目星はついたかい?",
"買い被っちゃいけませんよ。ホルムズ先生じゃあるまいし。全然五里霧中ですよ。ボクは第一、ここのウチは、犯罪よりもエロチシズムの刺戟の方が強すぎますよ。こっちの刺戟と争う方が精一杯でして、東京のアノコの面影を思いだしては気絶をくいとめているようなものでさ",
"ところで、もしや、王仁の殺された現場に、あやか夫人のパントウッフルの鈴が一つ落ちてたんじゃないか",
"御察しの通り、ベッドの下に",
"やれやれ。何たることだ。あやかさんが第一等の容疑者か",
"まさか。猫だって、鈴をぶらさげて鼠をとりに行きませんよ。ところで、この図面ですが、皆様方のお部屋の配置、これは誰の意志ですか。内海さんだけ、階下にいるのは?",
"さて、ネ。それは僕には分らない。一馬にきいてみようじゃないか"
],
[
"さア、どうぞ。あやかは昨夜から、僕のところへ泊りこみさ。土居光一が現れ、怖毛をふるっているわけさ",
"だって普通じゃないのですもの。誰かが何か企らんでいるのがハッキリしているのですもの。今日の事件も企みの一部としたら、いったい、お母様の命日に、何が起るのでしょうか。誰かが鍵を持ってるなんて、ねえ、あなた、ドアを紐でゆわえて。いえ、ハリガネでなきゃ",
"それほど神経質になる事はないよ。巨勢君も来てくれたことだから、犯人の寿命も、長くはなかろうよ",
"巨勢博士が、客人の部屋の配置について、誰の意志が働いたか、知りたいそうだが。内海だけが階下にいるわけは?",
"内海の場合は内海の意志でね。階段の上下が疲れるから、というのだよ。それに便所もすぐ近いから。その外の方々は別に特にどうということもなく、僕が当てズッポウにきめたようなものだが、土居光一だけ、同じ二階に泊めるのはいやだとあやかが云うから、二階にまだ空室もあるけれども、下の日本間へ部屋をあてがったというわけさ",
"私たち、お客様のない時でしたら、この洋館は使わないのよ。母屋の裏屋敷、珠緒さんが寝室に使ってらっしゃるお部屋の二階に当る三間が私たちのお部屋なんです",
"神山東洋という方は、お宅と利害関係がありますか"
],
[
"神山は以前父の秘書だったが、その後、秘書をやめてからも、出入りをつづけているのだけれども、父が弱身を握られていて、たぶんユスラレているのじゃないかと想像できるだけ、父にきいても、深い事情はきかせてくれないから知らないのです。昨年死んだ母が、神山を毛虫のように厭がっていました。嫌い方が尋常一様のものじゃないので、もしや母についての秘密じゃないかと思ったこともあったけれども、みんな僕の想像で、ともかく僕の親父は相当に策略的な政治生活をやっていたから、ユスリの種は相当あるのが当然で、子供の僕が、それをたって訊きただすわけにも行かないから、きいてみたこともなかったのです",
"時々やってくるのですか",
"年に四、五回はくるでしょう。昔父の愛妾だった今の妻君、昔は新橋の芸者でしたがね。いつもそれをつれて堂々とやってきて、我家同然数日泊って行くのですよ。そういえば、昨年母がなくなる二、三日前にもやってきて、偶然臨終にぶつかったのですが、死ぬ前の日、病床の母と人を遠ざけて言い争っていたという事もきいております。だからユスリの種は父だけじゃなしに、母を通して父、そんな風な事もあるのじゃないかと想像した事もあるのですが、これも単に僕だけの想像なんです"
],
[
"下枝さんて小間使の方はとても可愛いい娘よ。十八ですって。琴路さんとうまく行ってるのかしら",
"もう止してくれ。人間どものつながりの話は、もう、たくさんだ"
],
[
"催眠薬は、もしや、ゲンノショウコの中に……",
"そうです。何か御心当りがありますか",
"昨日の朝、変にねむくて頭が重くて。変に思っていましたから。それに……"
],
[
"ゲンノショウコは誰が煎じる習慣でしたか",
"王仁さんは珠緒さんが御招待したお客様ですから、珠緒さんが御自分でおやりになるか女中に命じて作らせるか、いずれかでしたけど、先月の終りからツボ平さんがお客様方専門のコックに来て万事やって下さるようになってからは時々ツボ平のオカミサンも煎じていたようでした。朝と晩、二度煎じる習慣でしたの。王仁さんはお茶もお水も一切召上らず、アルコール以外の液体はゲンノショウコ一点ばりなんですから"
],
[
"ゆうべ、じゃなかった、おとといの夕方か、ゲンノショウコを煎じたのは珠緒さん御直々ね。私もお料理のお手伝いをしていたのよ。コンロが足りなくなったから、ツボ平のオカミサンが珠緒さんのところへゲンノショウコを下していいか訊きに行ったのです。あの方は御自分でやってることに人が勝手に手を入れると御機嫌すこぶるナナメだから、一々お許しを受けにでかけなければならないのよ。すると珠緒さんがオカミサンと一緒にきて火から下して、冷したあとでフラスコへうつしたのです。あのとき、あやか様もいらしたわね",
"ええ、肉パイをこしらえて。私のただ一つの御自慢だから",
"次はウナギの蒲焼ね",
"いや、どうも、我々シモジモには、お話を承っているだけで、ヨダレの始末に苦しみます"
],
[
"お嬢様方お二人、奥様、ツボ平さん御夫婦、五人の外に薬を煎じているあいだに、調理場へどなたか見えた方がありましたか",
"もう一々記憶していないわ。だって調理場は、あれで殿方がとても往復なさるのよ。内海さんは、雪くれないか。毎日ね。雪で足をひやすのよ。変な人。冷めたい水は丹後さん、調理場は冷めたい清水が流れているから。人見さんと王仁さんはビールをとりにいらっしゃるし、一馬兄さままで何かかにかで時々いらっしゃるわね。あの日は宇津木さんもいらしたわ",
"ええ、ズッといたのよ。あの日はオソバを打ったでしょう。それを見学して、それから何やかやお手伝いして。私は珠緒さんがゲンノショウコをコンロから下しにいらした時も、居合せましたわ",
"で、ゲンノショウコはズッと調理場にあったのですね",
"珠緒さんが清水の落ち口で冷して、フラスコへうつして王仁さんのお部屋へ持ってらしたのよ。珠緒さん以外はどなたも触れる余地がなかった筈ですわ"
],
[
"いいえ、催眠薬で眠らせて短刀で刺したのでしょう。ゲンノショウコに投入された催眠薬をまとめて一飲みにすると致死量ぐらいになるでしょうが、宇津木さんも飲まれたし、お嬢さんも飲まれたらしいようですから、望月さんの飲んだのは全体の三分の二ぐらい、それによって死ぬという分量ではありませんでした",
"催眠薬で殺せばいいのに、どうして二重の手間をかけたんでしょうね。そこに何か意味があるのじゃありませんか。それに警部さんは催眠薬で眠らせて刺したと仰言るけれども、眠らせたのと刺したのが別人の仕業でないとは言えないでしょう。それとも、同一人の仕業だという証拠があがっているのですか",
"ごもっともな疑問です。同一人の仕業かどうか、なぜ催眠薬で殺さなかったか、我々にとっても不明であります。ただ分っているのは、望月さんは何人かによって催眠薬を投入されたゲンノショウコを飲まされたことと、睡眠中に刺し殺されたということの二つの事実だけ、そしてもしもこの二つが同一人の仕業なら、犯人は催眠薬の致死量を知らなかったか、知っていたとすれば催眠薬は殺す目的でなしに眠らせる目的に用いたらしいということ、殺す目的にしては、分量がやや少なすぎるという事実です"
],
[
"そうですね。あるいはそんな軽い意味のイタズラかも知れません。然し催眠薬はフラスコへ投入されたものではなく、煎じつつあるヤカンの中に投入せられたもので、それは今朝、ハキダメに残っていた煎じたカスの葉ッパを調べた結果、明らかとなりました",
"あの日の調理場はオソバを打つやら賑やかでしたから"
],
[
"そうよ、大変な騒ぎだったわ。だけどゲンノショウコの電気コンロは扉に近い隅のところですし、私たちが騒いでいたのは窓のところで離れているのですもの、あっちの隅には用がないから、誰も近づきやしませんわ。あっちの方にはあやか様が肉パイをこしらえていらしただけ、ゲンノショウコの香りがお嫌いだからブツブツこぼしていらしたわね",
"ええ、私コウヤクだの煎じ薬だの古風なものは大嫌い、イヤな匂い、マッコーくさいんですもの",
"あの日じゃないの、窓の外でピカ一さんが大蛇をつかまえたのは",
"大蛇?",
"一間ぐらいの青大将にすぎないのよ。ニワトリのんでる、腹をさいて晩メシのオカズを出してやるから庖丁もってこい、なんて、宇津木さんたら物好きね、あんなもの見に行らっしゃるのだもの、私は蛇きらい、見るのもイヤだというのに",
"私は蛇、怖いけれど、怖いもの見たさ、惹きつけられるのよ",
"ツボ平さんたちもとびだして行ったわ。オヤジさんなんか、窓からとび降りて",
"珠緒さんは蛇を平気でつかんでブラ下げるね"
],
[
"そうお、そんなんが好きなの。トランク一つブラ下げる力もないセムシさんが。私たちは蛇なんか見るのもイヤよ。ねえ、あやか様。私たち二人はピカ一さんなんか振向きもしなかったわ。スサノオのミコトみたいな、そんなの、イヤらしい",
"スサノオのミコトか。なるほどね。奥さんはアマテラス大御神かも知れないけど、千草さんは何だろう",
"オカメのヒョットコよ"
],
[
"ピカ一さん、あんたはやたらに出シャバッて喋りたがるくせに、こんな時には喋ってくれないのかな。スサノオのミコトとなると下界の奴らと話がしたくなくなるわけかな",
"オレは美人以外に話しかけないという戒律をまもる行い正しい紳士だからさ"
],
[
"え、なに?",
"……殺されて……"
],
[
"珠緒さんが死んだ? え?",
"ええ、殺されています",
"毒殺か?",
"さア。また催眠薬でも飲まされてるのだか、それは分りませんけれど、電気のコードでクビをしめ殺されております"
],
[
"このコップは塩水かね",
"ハア。いいえ、真水でございます"
],
[
"お嬢さんは真水でウガイしたかね",
"さあ?"
],
[
"下枝さん。とんだことになりましたね",
"ええ"
],
[
"歌川さんはビックリ取りみだしていられやしませんか",
"いいえ。もう落着いて、いつもと同じ御様子でいらっしゃいます"
],
[
"本日は大変なことでした。思いがけないことで、さぞ御気落ちのことと存じます",
"いやいや"
],
[
"いや、私の取越苦労かも知れぬ。からだがヒマだから、つまらぬことを色々と考えるのじゃろう",
"それを仰言っていただけませんか。案外そんな漠然たるカンがものの急所を射ぬいていることが多いものです",
"まアさ。この話は止しましょう。せっかくお招きしておもてなしも出来ないが、これを記念に納めていただきたい。これは外遊のみぎり北京で手に入れた八大山人の小品じゃが、縹渺たる静寂、これを孤独というのかね、身にしみる魂の深いものがある。それから、京子には、これも私が外遊のみぎり巴里でもとめたネクタイピンですが、ポッと出の田舎ザムライも何がな一つ人の気のつかぬ所へ意外な装飾をぶらさげて見せてくれようと思ってね、これはダイヤだが、十八カラットあるのです。私がこれをノドクビにくッつけて歩いていても、誰もダイヤと思わぬ。ガラス玉だと思っておる。それでまア、そう思わせて、ひそかに溜飲を下げて、無事に日本までブラ下げてきた。私の死んだ女房なども、冗談だと思ってとりあわぬ始末で、私もどこかへ投げこんで忘れていたのが、最近現れてきおったのです"
],
[
"若いころから涙香などを愛読しておったが、外遊の折、つれづれに探偵小説の趣味を覚えたのです。岡倉天心が探偵小説の愛読者で、家族のものが病体をおもんぱかって思うように晩酌をくれないものだから、ドイルなどの探偵小説を一席、半分だけ語ってきかせる。佳境に入ったところで口をつぐんで、それからどうなったのですかときくと、いやいや本日はこれまでと、じらしておいて、どうじゃ、あとが聞きたければモウ一本もってきなさい。ドイルなどは、晩酌用の策戦に、ちょうど手ごろの一席になるね。近ごろの推理小説は、小味で、微妙で、いりくんでいるから、読むには確かに面白いが、晩酌の策戦には適しない",
"私も探偵小説は至って好きな方ですが、どんなものがお好きですか",
"私はイギリスの女流のアガサ・クリスチイというのが好きです。ヴァン・ダインとかクイーンとか、無役に衒学で、いやらしくジラシたり、モッタイぶったりするから、気持よく読みつづけられない。私がむかし丸善へ足を運んだのは、もっぱらこの探偵小説のためで"
],
[
"モシモシ、ちょっと。あなた方、お名前は?",
"なぜ? あなたは何者ですか",
"私は警察の者です。皆さんのお顔を覚えておきたいから、お名前をきいているのです",
"ああ、なるほど"
],
[
"すると、あなたは、アタピン先生!",
"マア、失敬な!"
],
[
"何ですか、あなた方は。分ってますよ。ここへきている男も女も、ロクな人間はいないのだから。文士だの女優だの、ホレタ、ハレタ、イヤらしい。年百年中オカミの手数を煩わして、アゲクの果に、このザマじゃないの",
"イヤ、ゴモットモ。御説の通りです。そこで、どうですか。さっそくアタマへピンスケと来ましたか。犯人はどこのドイツですか",
"おだまり",
"ヤア、失礼失礼"
],
[
"名乗りませんか。失礼な",
"まアさ。あなたのアタピンで私たちの名前ぐらいは当てて下さい。名乗りを脅迫するのは憲法違反だから、アッハッハ"
],
[
"実は君たちにだけ報告しておきたいことがあるんだが、私は昨夜、自分の部屋へ戻ったが、寝つかれないので散歩にでた。時間はハッキリしないが十一時ぐらいじゃなかったかな。京子はもう寝んでいたから、知らなかったと思うが",
"ええ、でもお帰りになったのはウスボンヤリ覚えているわ",
"食堂の戸口から出て、ブナの森へ行くつもりだったが、裏木戸まで行くと気が変って、庭へ廻った。池をまわって、中腹の夢殿のところへ行ったのだ。そこからアズマヤの方へ行くつもりで滝壺の上へでると、下に釣殿が見えて灯がもれている。そのとき一瞬チラリと闇へ消える女の姿が目にうつった。出て行くところは見ていなかったわけだが、たしかに釣殿から出て、御尊父の寝間の外をまわって勝手口の方へ帰る途中の姿だろうと思われるのです。女だとは分ったけれども、誰だかまったく見当がつかない。ところが、しばらくたつと、今度は釣殿から男が出てきた。先ず池の水で手を洗う。これは海老塚医師です。半ソデシャツにズボンをはいていた。ハンケチで手をふいて、庭の山の方へ登りかけたが、ふりむいて、女の消えた方へ去って行った。私の見たのはそれだけだが、私はそれから十分ぐらいそこにいて、戻ってきたから"
],
[
"そう。それじゃア、海老塚さんは昨日も釣殿へ泊ったのだね。近ごろは殆んど毎晩泊ってるんじゃないかな。僕は気にかけた事がないから、村の誰かがウチのどこかへ泊っていても分らない。別に一々主人の許可をうけるというような堅苦しいことはこのウチの習慣にはないことで、主人側と召使側と二つの生活が独立しているのだ。海老塚さんはこのウチでは家族の一員のようなものだから、夜ぶん遊びに来たときは先ず大概は泊って行く。医院まで山道で一里もあるうえビッコだからムリもない。ウチも戦争まえまでは自動車があったが、戦争以来は自動車どころか、村全体に一台の人力車すらもない。海老塚さんは変り者だから、母屋へは寝たがらずに、いつごろからか、釣殿専門に寝泊りするようになったのだ。時々急患がきて、医院から電話のくることがある。ゆうべも何かそんなことがあったのだろう",
"じゃア、八重にきいてみましょうか"
],
[
"諸井さんは医院へ行らっしゃらなかったの?",
"ええ、今日は警察の御用で午ちかくまでかかったうえに、南雲さんが今朝から腹痛で、注射しているのです",
"お由良様が?",
"いいえ、南雲おじいさん",
"ゆうべ、医院に急患がありませんでしたか",
"ございません"
],
[
"じゃア、あなたは医院の用か何かで、ゆうべ海老塚さんに会うようなことはなかったわけですね",
"ある筈がないと思いますが",
"海老塚さんは、ゆうべも釣殿へ泊ったのですか",
"今朝はこのウチにいらっしゃいましたわね。ゆうべのことは存じませんが"
],
[
"もう、御用はよろしゅうございますか",
"ええ、御足労でした。へんな質問で、気を悪くしないで下さい",
"もしや何か、海老塚先生と御婦人との問題でしたら、たぶん、千草さまにおききになると分るでしょう。先生が釣殿へお泊りの夜は、夜中に一度はたいがい釣殿へおでかけになりますから。皆さまは御存知ないかも知れませんが、下の者たちの間では知らない者がございません。千草さまは、コソコソ忍んで行かれるわけではございませんで、かえって何か御名誉の御様子ですから"
],
[
"とりすましたヒネクレ女め、体温まで冷いのじゃないか",
"イヤア、案外モチハダか何かで、ポチャポチャあったかいかも知れませんや"
],
[
"どうだい、博士、誰か容疑者らしいものがあるのかね",
"いいえ、一向に",
"警察の人たちは何か証拠を握ったのじゃありませんか"
],
[
"いえ、一向に。警察の人たち、まったくどうも根気よく調べていますが、益々雲をつかむぐあいだろうと思います。第一、怨恨だか、情痴だか、てんで動機も分りませんや",
"然し、君、風来坊の物盗りの偶然の兇行と違って、ともかく謀殺だろう。しかも、君、非常に微妙な事実の食い違いが現れているじゃないか",
"ハア、それは、何ですか",
"大博士が拙者にきくとは意地が悪いな。まア、笑わずに素人探偵の意見をきいて貰おうか。珠緒さんが王仁の寝室から立ち去ったのが十一時十五分。このとき僕はまだ起きていて、珠緒さんがシャンソンを唄いながら階段を駈け降りて行くのをきいていた。それをキッカケに、時計を見て、電燈を消したのだ。このとき珠緒さんは王仁の部屋に鍵をかけずに去ったという。ところが、それから二時間ほどのち、宇津木秋子女史が王仁の部屋へ行った時には、鍵がかかっていた。鍵をとってきて室内へはいると、王仁はまだ生きていた。イビキをかいて寝ていた。ゆすっても目を覚さなかったというのだな。秋子さんはワザとライターを置き残して、鍵をかけて立ち去った。翌朝、珠緒さんが王仁の屍体を発見した時には、鍵がかかっていなかった。これは、いったい、どういうことを意味していますか。え? 博士",
"ええ、僕も珠緒さんがシャンソンを唄いながら立ち去るときは、まだ起きて、きいていましたよ。それで、先生は、どういうことを意味していると思いますか",
"僕に分るものか。ただ分るのは、犯人は鍵を持っていること。まだ王仁の生きているうちに、一度鍵をしめた。殺してから、鍵をかけずに立ち去った。ねえ、君、宇津木さんが鍵をあけて室内へはいってきたとき、犯人は室内にいたんじゃないかね",
"ええ、たぶん、いましたね"
],
[
"え? 本当かい? 僕のは深い根拠があるわけじゃないんだが。犯人は、どこにいたんだ?",
"ええ、それはまア、宇津木さんの言葉に偽りがなければ、たぶん、そこに居るよりほかに仕方がなかろうと思いますが。王仁さんの寝台の下に。そこ以外には隠れ場所がありませんや。カングリ警部、八丁鼻、ヨミスギ刑事、みなさん、その見込みです。いくらか見込みという奴が立っているのは、まだ、それぐらいのものでしょう"
],
[
"さア。そのナゼに説明を与えてしまうと、犯人にバカされるかも知れません。まだまだ何も仮定してはいけないのです。案外、犯人は、そのとき室内にいなかったかも知れませんや",
"いなかったという仮定が成立する根拠もありますか"
],
[
"ええ。おとといも、ゆうべも",
"そして、歌川先生は暁方の三時まで仕事をしていらしたのですね",
"そうです。然し、おとといのことですよ。ゆうべは、もっと早くねました",
"暁方の三時まで、奥様はズッとやすんでいらしたのでしょうね",
"全然、ねむり通しです",
"やれやれ。すると、ここに、ようやく一人、アリバイの成立つ御方が現れたのです。そのほかの方には、どなたにも犯人でない証拠はない。珠緒さんに至っては、まるでもう、殺されるには誂え向きの特別席に寝ていたようなものですもの。場所と云い、条件と云い、殺してくれと云うようなものでさ。歌川先生のお母様の御命日はいつでしたか"
],
[
"来月の九日。やっぱり、何か、その日、ありますか",
"いえ、でも、分りゃしませんや。あの脅迫状と今度の殺人事件とレンラクがあるのかどうか、まったく見当はつきませんや。王仁さん殺しと珠緒さん殺しが同じ犯人だか、それも分りゃしませんもの。然し、脅迫状については、要心の必要はあるかも知れません"
],
[
"内海さんはムリじゃありませんこと。半みちぐらいあるそうよ。失礼させていただきなさいな",
"ええ、ほんと。私たち女だけ残されると、なんだか、さみしいわね"
],
[
"おい、セムシの先生、オレが押してやるから、大八車にのれよ。棺桶の帰り車だが、エンギをかつぐこともなかろう。老少不定、酔生夢死、まったく、貴公なんぞがこの御老齢まで生き延びるとは造化の妙という奴だ。サア乗ったり、乗ったり",
"妖怪変化は長生きのものさ。遠慮なく乗っけて貰うか"
],
[
"なぜ、この四人の誰かなんだ。え?",
"この四人の中なら、さしずめ、君だろう。なぜ、そんなことを言いだすんだ。だいたい君は、何かにつけて、肚で充分思案を重ねて、カケヒキのあることしか言えない男なんだな。君が、実は、王仁も、珠緒さんも、殺したんじゃないのか",
"だから、四人の誰かが、と言ってるのさ",
"君自身のことだけ、ハッキリ言ったらどうだい。君も作家じゃないか。我々がみんな文学者だから、言葉に責任を持とうじゃないか。探偵じゃないんだからな"
],
[
"どうしたい? 鉱泉宿へ行くんじゃなかったのか",
"ああ。鉱泉宿へ行ったって、仕様がないさ。じゃア、失敬"
],
[
"そうさね。東京もんは抜け目がないから、ワシらのところまで目当にして、買いだしに来たのが、時々あるからね。今の相場を知らないから売らない方がいいさね。昔は知らずに安く売って大損さ。今はもう、いくらも残っていないね",
"でも、探してくれないかね。あれば、むろん、ヤミの相場でゆずって貰うから",
"ヤミの相場をワシら知らんもの。なんでも百倍だから、百倍かネ",
"薬は昔から九層倍さ。食べ物の方は百倍かも知れないが、薬は百倍にもなっていなかろう。然しまア、値段はあとの相談にして、品物を探してくれないかネ"
],
[
"なんの薬だね、カルモチンてのは?",
"ねむり薬さ",
"そんなら、あんた、なんでも三月ほど前に、歌川さんのお客の、南雲さんさ、歌川さんの妹のお由良婆さまさ。あの人が来て、何やかや買って行ったね。そんとき、ねむり薬もあったそうな"
],
[
"鉱泉宿へカルモチンを買いに行ってきたからさ。戦争中、売れ残っていたのを見かけたのだが、あいにく、お由良婆さまに先手をやられたあとさ",
"なるほど、そうか。あの鉱泉宿の残品も、近ごろはかなり知れてしまったからな。手紙で言ってくれれば買っておいてあげたのに。僕は草林寺へ妹の葬儀のことで話しに行ったのに、いくら待っても誰ひとりいない。本堂に腰を下ろして、三十分もぼんやり物思いにふけって来た始末なのさ"
],
[
"なんのこった。和尚さんはここでしたか。僕は又、知らないもので、三十分も本堂に腰かけてガンバッていましたよ",
"まったく詩人などという奴は世事にうとい奴じゃ"
],
[
"仏事のあとは、きまって桑門の方々を招じてオトキを差上げるのが日本古来の習慣じゃよ",
"何か御用か"
],
[
"でも、ラヴレターじゃないわ。やっぱり王仁さんに関係のあることなんですもの。王仁さんみたいなエロ作家にだまされるな、なんて",
"気違いかも知れませんが、筋は通ってますな。王仁さんにやられたあとで私の医院へ傷の手当にきましたよ。ちょッとしたカスリ傷です。そのとき彼は言っとったです。腕力ある者はギャングである、すべて体力とか精力とかいうものは文化的なものじゃない。まア、なんです、病的ですが、当ってもいますよ。その時、こんな話もしました。歌川多門方醜怪なる売女へ、という手紙をだしたというんですね。返事がなかったそうですよ。特に名指さなかったから、たぶん、売女がたくさんいて、みんな譲り合ったんだろうと言ってましたな"
],
[
"千草はいませんか",
"知らんです"
],
[
"千草さんはズッとお見えになりませんわ。食卓にもお見えにならなかったようね。そうでしたわね、海老塚さん",
"ぼく、知らんです",
"あやかさま、千草さん、御存じ? 食卓にいらしたかしら",
"いいえ、お見えじゃなかったわ",
"まア、どうしたのでしょうね。こちらかと思っていましたけど、じゃアどこにいるのかしら"
],
[
"気むずかし屋の名医先生。ちょいと、君、ここへ掛けませんか。ふん、イヤかね。よかろう。君は我々を気違いと解せられる由、ひそかに承っているが、僕の見るところ、気違いはまさしく、君だね",
"ヒヤヒヤ。名言、名言"
],
[
"謹聴謹聴",
"僕は人のスキャンダルをあばきたてるのは、キライなのだが、君の場合だけは、この慎しみを適用したくなくなったね。君は我々文人の私行をヒンセキの御様子だが、君自身は釣殿なるところへ御宿泊で毎晩なにがし嬢とゴジッコンの由じゃないか。又、加代子さんは君の診察がきらいで、立会人がいなければ君の診察はうけないそうだね。そのよって来たるところを権助オ鍋一党の風説から判ずるに、君はお加代さんの手を握ったり、お乳を長くいじってみたりするそうじゃないか。又、ちかごろは、下枝さんという可愛いい小間使いに殊のほか御執心で、胸の病いがあるようだ、とか、どこか内臓に異常があるようだ、とか、頻りに診断を受けさせるようにホノメカシテいる由、以上、当邸内だけで三件、医院の方じゃ何をやらかしていらっしゃるやら、当邸内の三件だけに就いて判断しても、我々文人の人間なみの愛慾にくらべて、いささか異常、陰性、変タイ、と見たのはヒガメかね",
"よし、よし、そこだ"
],
[
"そうです。千草さんはアイビキにおでかけでした",
"なんですって? じゃア、あなたは知っていらしたの"
],
[
"千草さんはアイビキの紙片をお受けとりです。ヒラヒラふり廻してお見せでした。私は読みはしませんが。そして、六時ごろ、おでかけでした",
"どこへ?",
"存じません",
"誰ですか、男の方は?"
],
[
"茶番だらけだ。なアに、殺人だって茶番じゃないか。ここのウチは、元々、ここのウチが茶番そのものなのさ。マジメなツラをしていられるかい。淫売宿と云いたいが、それどころか、まるでもう、性慾のカタマリ、色きちがいの巣じゃないか",
"ウルサイ! ゴロツキ! あんたは東京へお帰り! ただ今、さっさと帰ってちょうだい"
],
[
"ゴロツキ! 犯人!",
"この野郎"
],
[
"ばかに早起きだね、神山さん。ニッカーをはいて御散歩とはオシャレな御方だ",
"私はいつも早起きですよ。冗談じゃない。日中ねむるのはあなた方文士と泥棒ぐらいのものですよ。私は散歩じゃありませんよ。捜査です。千草さんが、昨日の夕方でかけたまま、今もって帰らないのですよ。矢代さん、まったく縁起でもない話だけれども、これじゃアどうも又かと思わざるを得ないでしょうぜ。私ゃ見かけによらず心臓が弱い方なんだから、薄気味わるくって、こんなジャングルみたいな山径を歩くのは、やりきれませんな",
"一通り探したんですか",
"まア大体、人間の通れるような径の上だけはね。三輪神社から三輪池までは歩いてきましたよ"
],
[
"さて、みなさん。こうなっては、もう礼節を重んじてばかりいるワケに行かなくなりましたよ。みなさんを容疑者の中から省くわけに行かない次第となりましたから、虚心タンカイに捜査へ御協力をお願い致す次第です。望月さんの火葬に読経が終って点火して引きあげてから夕食までのアリバイを立証していただく必要がありますが、まず総括的な情況について、巨勢さん、引き揚げた時は何時でしたか",
"それが、どうも、僕は性来ウカツ者ですから、めったに時計なんかのぞくことがないタチなんで、まア、アイビキの時ぐらい"
],
[
"あら、矢代さん、腕時計をつけてらっしゃるじゃありませんか。どうして時間をお訊きになったの",
"きのうは机の上へ置いて出ましたからさ。アタピンさんは、自分の所持品を全部年中身につける主義ですか",
"なんですって、アタピンさんとは失敬な",
"おだまり"
],
[
"先ずですな。土居光一画伯が大八車の後押しをして、この大八車には内海さんがのってましたな、この一行が先発で、若い衆が二人でひきますから、土居先生の後押しもいれて三人、猛烈な速さでグングン谷を上って行きましたな",
"大八車が、なぜ、ありましたか",
"屍体を運んできたのです",
"屍体を運んできて、すぐ戻らなかったのはなぜですか",
"それは都会の人力車や円タクと違いますよ。田舎の若い衆が旦那の家へ手伝いにでて、すぐ帰りゃしませんぜ。薪をつむとか、色々火葬場では人手のいることがタクサンあるじゃありませんか"
],
[
"二人の若い衆はきてるか",
"ハア、昨日の関係者は全部あちらの部屋に呼んであります"
],
[
"内海さんをどこまでお乗せしたかね",
"ハア、お屋敷の裏の山径の上でがす",
"三輪山へ別れ径のところだね",
"ハア、その三十間ほど上手でがす。そこから三十間ほど坂を降ると、別れ径でがす",
"なぜ裏門までお乗せしなかったのだ",
"そこから下り坂になりますで、もう、たくさんだ、おりると仰言ったでがす。下り坂は乗り心持が悪うがすから",
"それに違いはありませんか、土居さん",
"僕は知らないね。僕はとっくに車の後押しはやめたからさ。火葬場からの谷を上りきるまで四五町のところを押しまくってやっただけさ。あれからは、曲りくねっているだけで、コーバイのないただの道だアね。二人の若い衆がただの道をひっぱる車の後押してえのは、ダットサンの後押しとあんまり変らないことだアね",
"車と一緒にいらっしゃらなかったのですか",
"車はすごい速力ですよ。ハズミがついていやがるからさ。ガラガラ曲って忽ち見えなくなったよ。僕が三輪山の別れ径へきた時は、セムシの姿は見えなかったね",
"どなたか内海さんを山で見かけた方はありませんでしたか"
],
[
"土居さんが戻られた時、内海さんは戻っていましたか",
"いいえ、僕が一番さ。内海が二番目、それからあとはもう知らないよ。僕は見張りをしているわけじゃないからな",
"あなたが帰られたときは何時でしたか、分りませんか",
"こいつは難問だ。僕が戻ったとき、初対面の御挨拶を交したのは宇津木さんだが、宇津木さんの方が時間の観念がありそうだな",
"七時ごろ、七時十分前ぐらい、そんなじゃなかったかしら。私も時間の観念がない方だから",
"ほかの方は、皆さん御一緒でしたか",
"私と一馬さんと和尚の一行が一とかたまりにその次です。ほかの方はだいぶおくれたようでしたな"
],
[
"左様。私と丹後と木ベエと小六と巨勢博士が一とかたまりにブラリブラリと論戦を交しながらのたくってきたですよ。谷を登りつめたところで、丹後が別れて鉱泉部落の方へ行きました。これは論戦の気づまりによる一種の抒情的御散歩というところだろうが、つづいて私が、同じ鉱泉部落へ薬を買いに行きました。二町ぐらい進んだところで戻ってくる丹後にすれ違いましたがね。私は鉱泉宿で薬を買って、暗くなって戻ってきた。裏門で一馬にぶつかる、そこへ海老塚先生が哲学的足どりで懐中電燈をピカピカやりながらやってこられた次第です",
"神山さんの御一行は一緒に戻られたのですね",
"左様です。途中で別れた者はおりません。裏門で、和尚さんはいったん寺へ帰られた"
],
[
"そうでした。ですから僕は和尚さんは寺にいるものだと思ったのです。それでいったん戻りましたが、和尚さんに用があって寺へ行った。いくら声をかけても答える者がないので三十分ほど本堂の前に待っていました。あきらめて戻ってくると裏門で矢代に会って、座敷へ来てみると、そこに和尚さんが来ておられたというわけです",
"なるほど分りました。それで歌川さんが草林寺におられる間、誰かに会われましたか",
"あそこは道から引っこんでおりますから、人ッ子一人見かけません。つまり、僕にはアリバイがないわけです",
"丹後さんと矢代さんは各々単独で戻られた。そのほかの人見さん、三宅さん、巨勢さんは御一緒ですね"
],
[
"人見と巨勢さんはブナ林の径へ曲りましたが、僕は裏道を通って、つまり内海の大八車が通ったという道の方を歩いたわけです",
"そのとき内海さんに会われたのですね",
"どう致しまして。全然、人ッ子一人見かけません。あっちの道は山の密林の間ばかり曲りくねって畑も田もないところですから、村の人の往来もなかったです"
],
[
"やア、お待ち致しておりました。お忙しいところお呼びだてして相済まぬ次第です。毎晩欠かさず当家へお見えの由ですが、今晩は急患がありましたか",
"馬鹿馬鹿しい。なぜ毎晩こなければならないのですか"
],
[
"海老塚さんが昨晩当家へ来られた時間は、何時ごろでしたか",
"そんな時間をなぜ覚えておく必要がありますか",
"病院を出られた時間はお分りでしょう",
"私は時計の番人じゃないです。鐘ツキ堂の堂守のほかの人間は一々時計を見て生活するものではないです",
"しかしですな。一般に、我々がよそのウチを訪問する場合には、今は何時何分ごろだから、あそこへ着くと何時になる、そう考えるのが自然だろうと思いますが、海老塚さんは、そうではありませんか",
"もしも、そうでなければ、いよいよ彼は気違いです。海老塚先生。お分りか。警部の言われる通りだよ。人間がよその家へ行くために自分の家をでる時は、必ず時間の意識がなければならぬものさ"
],
[
"勝手に調べだすがいい。探偵はそれが職業さ。私は病人を診るのが職業だから、それについては責任をもつ。ほかのことは知らん",
"矢代さんと歌川さんは裏門で海老塚さんと一緒になられた。矢代さんは例の裏道、大八車の道をこられた。歌川さんは禅寺から来られた。海老塚さんは村の方から来られたのですね。そのときの時間は?",
"まア、だいたい八時ごろでしょう。日がとっぷり暮れたとたんというところだから。そうじゃないかな。このへんの山中じゃ、山にかくれて、日暮れが早いかも知れないな"
],
[
"それから三宅さん。丹後さん。矢代さん。それで全部ですね。御婦人方はどなたかその時間に外出なさいましたか",
"私たちは全部そろって広間にいました。そこの調理場にいた方もありますけれど、たぶん、揃っていたようですわ"
],
[
"揃ってと申しますと、どなたとどなた?",
"私と胡蝶さんはここに、あやかさまは調理場へ行かれたり、私たちのところへ来て話をされたり、神山さんの奥様もそうでした。千草さまはこっちの部屋にはいらっしゃらなかったと思います",
"そこで千草さんを最後に見た方は",
"私"
],
[
"私はあの方が六時ごろ裏門から出て行かれる姿を見ました。そしてその一分前には私に一枚の紙片をお見せになりました",
"その紙片を読みましたか",
"読みました。不美人とセムシのランデブウ仕るべく候、本日、六時半より七時ごろ、三輪神社裏。委細面談の上。内海さんは私に夢中なのよと、千草さんは得意の御様子でした",
"その紙片は私が内海さんに頼まれてお渡ししたのでしたわ"
],
[
"内海さんはトンキョウな方なんですわ。ランデブウと云ったって、ありきたりの意味じゃありませんわ。反語ですのよ。チミモウリョウの密会だなんて仰言ることがお好きなのよ。ただ会いたいということを、チミモウリョウだの不美人とセムシの密会などと仰言るだけですわ。あの方は醜婦にささげる詩とかいうのを本当にイノチをこめて書くつもりでいらしたのですもの。千草さんはその詩のための存在でしたわ。千草さんのために詩をお作りではなかったのですわ",
"なぜ分るんだ。そんなことが"
],
[
"さア、原稿は一応しらべましたが、私はその方の門外漢ですから。巨勢さん、その原稿はありましたか",
"ありました。然し、ただ題名が書いてあっただけのようです"
],
[
"その手のお怪我はどうなさったのですか",
"ゆうべ、山径でころんだのです",
"海老塚さんは脚がお悪い御様子ですが、当家から病院まで、まっすぐ歩いて四時間半は時間がかかりすぎるようですな。昨夜当家をでられたのは九時半でしたね"
],
[
"間の悪いめぐり合せで、昨夜にかぎって急患があった。午前零時半です。病院から当家へ電話がきて、諸井看護婦が釣殿へ海老塚さんを探しに行ったが、居なかった。海老塚さんが帰宅したのはそれから一時間半後の二時だそうですが、その間、海老塚さんは、四時間半かかって帰宅の道を歩きつづけていらしたわけではないでしょうな",
"僕は歩きつづけていたです"
],
[
"ふん。僕は歩きつづけていた。然し、まっすぐ帰宅の道ではないだけのことだ。バカ者ども、ハレンチ漢どもの濁り汚れた空気を払い、僕自身をとりもどすために、やむを得ず不馴れな諸方の裏山道をさまよっていただけのことだ。だから手に怪我もした。フン。ここは犬の宿じゃないですか。フン、バカバカしい",
"だれかに会うとか、人を訪ねて話しを交すとか、そんなことは、なさらなかったのですか",
"フン、この村に僕の訪問に値する何者がいるか、バカバカしい",
"千草さんは昨夜九時半にはもう殺されていたからさ"
],
[
"ありがとうございます。左脚の膝がちょッと痛むだけ。あとはカスリ傷ですの",
"奥様が寝室へ逃げこむ、土居さんが追っかける、扉をたたく、蹴る、土居さんは十二時ごろまで、それをつづけていたのですね"
],
[
"人が近づくと掴みかかったそうですが、一馬さん、そうでしたね",
"わざと近づいたわけではありませんが、僕の寝室へはいるには近づかざるを得ませんから。すると、襟首をつかんで、突きとばされた、その次には蹴とばされた、ようやくそれをスリぬけて、寝室へ逃げこみました。巨勢さんなども掴みかかられた口でしたね",
"僕も寝室が近いもんで。扉から顔をだしてのぞいても、牙をむいて、手をふりあげて、叫びをあげて、突進してきましたね。はじめの一時間ほどでしょう"
],
[
"小便ぐらいに行ったかも知れねえなア。どうも全然記憶がないから",
"イヤ、絶対に扉の前から動きません"
],
[
"犯人は窓からはいったのではないですかな",
"なぜ、そう思いますか",
"土居画伯があそこにガンバッていたんじゃア、よしんば現在土居さんは記憶がないと仰言るにしても、それを当にして人殺しにでかけるワケにゃ行きませんでしょうからな。それとも犯人は酔っ払いの心理を承知の上で悠々と仕事をしたものでしょうかな",
"仰言る通りかも知れません"
],
[
"なるほど、分った。犯人はこの道から先廻りして千草さんを殺したのだ。殺しておいて、別の道からやってくる内海をやりすごして帰ったのだな。いや、いや。内海に会って何くわぬ顔、ごまかして来たかも知れぬ。だから内海を殺したのだろう",
"それでしたら、内海さんもここで殺す方が安全じゃありませんか"
],
[
"諸井看護婦が読まされたというアイビキの紙はあるのかい",
"それを探しているのですが、千草さんの所持品には見当らないのですよ"
],
[
"矢代さんは火葬場から、いっとうおそく、一人で戻っていらっしゃいましたわね",
"御説の通りですよ。ところで、諸井さんは、ずいぶん体格が御立派だなア。失礼だが、小男なみの腕力がおありじゃないかな"
],
[
"着眼の妙という奴ほど、真相を偽り易いものはありませんや。当人がいい気になるだけ、救われがたいもんでさア。ねえ、矢代先生、文学もそうじゃないですか",
"それは政治もそんなものさ。然し、巨勢さん、これは非常にメンミツに計画された犯罪でしょうな。ただ私が疑るのは、内海さんの場合じゃね。土居さんが目を光らせていたという危険の際に、殺さなければならなかった、そこに謎があるのだね。たぶん、あの日でなければならなかった謎があるに相違ない。その謎がとけると、事件の一角に糸口がつく、そんなものじゃありませんかな",
"その謎をどんな風にお考えになっていますか"
],
[
"それはたぶん、内海は犯人を見たからでしょう。然し、千草さんが殺されたという事実については知らないから、まだ犯人を疑ることを知らないのじゃありませんか。だから、その夜のうちに内海の息の根をとめることが是が非でも必要だった",
"危急存亡じゃね。それにしても危い橋を渡ったものじゃ"
],
[
"然し、加代子さん、それは違いますよ。王仁の場合には、あやかさん一人だけがアリバイがあるのです。一馬のベッドにねむっており、一馬は夜明けごろまで書きものをしていたのですから",
"お兄さまはお姉さまをかばっていらっしゃるのですわ。お姉さまに完全にだまされていらっしゃるのですもの"
],
[
"ええ、でも、私、長生きしようとは思わないのですもの",
"それだよ。それがいけないことなんだ。ねえ、京子さん、そうでしょう",
"ええ、ほんとに、早く死ぬなんて、つまらないことですわ。明るい希望をおもちになると、病気なんか、すぐ治るにきまってますわ"
],
[
"海老塚医師は、然し、ちかごろ、困ったものだね。例の論語研究会の奥田利根吉郎という先生が海老塚さんの紹介状を持参して先刻やってきたのだけれど、僕のところの客人方に一度論語を講じたい、自分の方から出張するが、いつが都合がよろしいか、というのだよ。ちょうど八丁鼻の荒広介刑事が来合していたから、頼んで追い返してもらったがね。海老塚さんの紹介状というものがバカバカしいもので、一席講じて貰うのが皆さんのためだ、奥田という人は天才であり聖人である、というような常識はずれの文面だから、頭がどうかしているよ",
"論語の先生は正気なのかい",
"狂信の徒はみんな要するに狂信だから狂人にきまったようなものだろう",
"愛嬌に一席講じて貰うのも面白そうじゃないか。さしずめ丹後の小説なんかに出没しそうな人物だから、先生、大いに面白がって色々おだてたり冷やかしたりすることだろう。人見小六の近作なんかも、終戦以来は変人奇人狂人ばっかり登場させてやがる。戦争このかた狂人が主役を演じる御時世なのかも知れないな",
"ヘソだしレビュウも論語先生も背中合せの萩と月かね。まったくだね。坂口安吾という先生の小説なぞも、ヘソレビュウと論語先生の抱き合せみたいなものじゃないか。実はね、八丁鼻先生が僕たちに何かききたいことがあるのだそうだ"
],
[
"今日はひとつ、文壇の事情についてお話をうかがいたいのですが、望月王仁さんは敵がたくさんあったそうですね",
"どんな敵ですか",
"文学上の敵ですよ。望月さんがなくなられると、どんな方々が喜びますか",
"先ず誰ひとり喜ばぬ者はありませんな。作家仲間に毛嫌いされていましたよ。無礼粗雑な奴ですからな。もとより私も大喜びです",
"文士はみんなヤキモチヤキでしょう"
],
[
"あなたは自信がないんでしょう。才能が足りないからよ。だからヤキモチヤキなのね。あさましい",
"アタマへピンとこないからね。まったく不幸せの至りですよ。私たちは、たしかに頭が悪いんだな",
"望月さんがなくなると、あなたの原稿の売れ口がますのね",
"御説の通りです",
"ところで、矢代さん、文学上の、つまり才能の嫉妬からですな、人を殺すということが考えられますか",
"それは考えられますよ。いろいろの可能性の中でも、そんなことは極めて有りそうなことじゃありませんか。もっとも、古今東西、案外、実際には、そんな殺人は行われていないかも知れません。ひとつには、人を殺したからって、自分の才能がますワケじゃアないからですな。文士の嫉妬は、名声の問題じゃなく、才能の問題だから、殺して自分の才能がどうなるワケでもないとすりゃ、案外、こんな殺人はめったに起らないのが自然かも知れません",
"なるほど、まったくそうかも知れません。何芸によらず、芸の嫉妬で人を殺す、有りそうで、殆どきかないものですからな。なるほど、殺したところで、自分の才能に変りがなけりゃ、殺したところで仕方のないようなものですな。ところで、大変失礼な質問ですが、皆さん、こうして事件の渦中に生活していらっしゃる。それも一度の事件じゃなしに、三日もつづいて、皆様の御知り合いの方々が四人もつづいて殺される。別に岡ッ引根性という奴じゃなくとも、誰しも心に自然に疑り、思い当るようなことがお有りだろうと思いますが、これは私の邪推でしょうか",
"それはまア、誰しもいくらか素人探偵的な気持にならざるを得ないでしょうな",
"いや、ごもっともです。人間の自然の気持が当然そういうものでしょうな。つきましては、あつかましいお願いですが、ひとつ皆さんの秘密の意中をもらしていただきたい。勿論さしさわりのない方法によってですな。たとえば、慰み半分で結構ですが、犯人当ての投票遊びというようなことをやっていただく。私どもが主宰しますと角が立ちますから、これを矢代さんから冗談のように持ちだしていただく。いかがでしょうか、全く冗談半分、慰みでよろしいのですが",
"それは然し、結局つまらぬことですよ。だいたい我々が素人探偵気どりで各々何かとカングルところもあるでしょうが、恐らく、その結果として、誰が犯人だという結論を持ってる者はいないだろうと思いますね。私自身もとよりそうですよ。犯人は誰かときかれたって、とても答える推理の根拠がないですからな",
"もとより、それで結構ですよ。分らぬ人は分らぬという答案でよろしいではありませんか。あるいは又、明確には分らなくとも、誰がくさいとか怪しいとか、漠然と思っている方もあるかも知れません。それぞれ自分勝手の方式で、秘密の疑惑をきかせていただければ有難いことですな",
"私は然しその主宰者はごめんですよ。堂々とあなた方が主宰しておやりなさい。角が立つといったって、元々品のよいことじゃないのですから、あなた方は御自分で責任を持たない法はありませんよ。人を手先に使うなんて益々品が悪くなるばかりのことですよ。アタピンさんの御司会などが、大変面白かろうじゃありませんか",
"仰言いましたわね。品が良いとか、悪いとか、御自分は何ですか。あなたは歌川さんのオメカケとできた人じゃありませんか。おまけにそのオメカケをつれて元の主人のお宅へノコノコ遊びにくる心臓は毛が生えてるどころか、熊の毛皮でできてるようなもんじゃないの。それで自分は品がよいとでも思っているなら、警察のやることなんかは、神様の審判のようなもんじゃないの。身の程を知るがいいよ"
],
[
"人はパンのためにのみ生きるものではないと申しますが",
"オイオイ、それは論語の言葉じゃないぜ。ノコノコと怖れげもなく現れやがって、和洋セッチュウの安説法てえのがあるかい。気違い猿め。やせても枯れても芸術家は生一本の物自体という奴なんだ。レデーメードと違うんだから、気違い猿は引っこめ。酒の肴にもならねえぞ"
],
[
"論語聖人の御説法なんて、東京じゃアきけないことだね。礼儀などという常識論にこだわることはないさ。礼の常識をわきまえざるところに、この聖人の偉さがあるかも知れないよ。いまだ真価を究めざるうちに、向うみずに追っ払うというのは、芸能人の心構に反するところじゃないか",
"いい加減にしろ。お前は型通りのことしか言えない奴だな。自分の好き嫌いも分らずに、新らしそうな型でばっかり物を言ってやがる。だからお前の文学は、いつまでたってもニセモノなんだ。王仁とお前とじゃアお月様とスッポン以上の開きがあらアな"
],
[
"まったく加代子さんの美しさ静かさ深さに比べると、あやかなどという女は、孔雀の羽をつけた何んとかというアレですよ。失礼ながら、女流流行作家宇津木秋子さんといえども、その魂の在り方、位置の正しさ、魂の悲劇的な深さ、静かさ、それに於て、はたして聖処女加代子さんにまさるところが有るのかなア。いや、失礼、あえて美貌の青鞜詩人を怒らせてまで、加代子さんを讃美する私の純情というものは、われながらアッパレなものじゃないか",
"いえ、ピカ一さんの純情は誰方にもまして私が認めておりますのよ"
],
[
"加代子さんなら、どんなに讃美なさってもよろしいわ。本当に私なんかは女のクズのようなものですから",
"いや、秋子さん、相すみません。あなたの公正寛大な気質に就ては、かねて知りつくしているのですよ。そこに甘えているのですな。寛仁大度、あなたは、まったく、ワタツミのような青鞜詩人でいらせられる",
"こんなとき、せめて内海さんが生きてらっしゃると、何か一言、ピカ一さんをやりこめることを言って下さるのでしょうに、ほんとに、にくらしい方ね"
],
[
"あら、刑事さんでしたの",
"ハア、ちょッとブラブラ何となく警戒致しておるのです"
],
[
"そうですよ。あなた方が寝しずまってからも、私たちはそれとなく警戒致しておりますよ",
"じゃア、今、庭の奥の繁みへ隠れたのも刑事さんかしら。庭の滝の上の方にも、どなたか警戒していらっしゃる?",
"さア、どうですか。別に打ち合せてはおりませんが、八丁鼻でも、いるのかな。いや、八丁鼻はほかの仕事がある筈だが、私がひとつ見廻ってきましょう"
],
[
"今夕、異なる場所に於て同時に二つの殺人が行われましたが",
"二ツ?"
],
[
"でも、想像もつきませんわ。私がプリンをこしらえているあいだ、別に何事もなかったのですもの。その場から離れた覚えもございませんし、怪しいこともございません",
"いつごろですか。プリンを作られたのは",
"四時ごろかと思います。刑事の方がお見えになって矢代さんにお会いしたいと仰言いますので、矢代さんのお部屋へ参りまして、居合していらした加代子さんと御挨拶などして、それから調理場へ行きましたの。先ずプリンを作って冷蔵庫へ入れました",
"奥様、もしや、お砂糖に"
],
[
"プリンに砂糖を用いたほかに、別の料理に用いましたかね",
"夕食の召上り物にはほかに用いておりません"
],
[
"プリンの前に、砂糖を用いたのはいつごろでしたね",
"御昼食の紅茶には用いました。御昼食はサンドウィッチでしたので、二合の牛乳にジカに紅茶とお砂糖を入れて煮ましたが",
"相当多量に用いたわけだね",
"まア、左様です。プリンに用いる分量ぐらいは用いたろうと思いますが",
"歌川さんはそれを全部のみましたか"
],
[
"全部お飲みでした",
"あなたがお給仕したのですね",
"ハイ",
"そのあとに別に異常はなかったのですね",
"ございません",
"紅茶の支度はいつごろでした",
"旦那さまの昼食は十二時半、夜食は八時と定めてありまして、その十分前ぐらいに、いつも下枝さんがお膳をとりに参られますから、間に合うように用意いたしております。ちょうど十二時半十分前に出来たろうと思いますが"
],
[
"手前は、どうも、一向に、へい、注意も致しておりませんで",
"ずッと食堂にいなかったかね",
"へい、昼休みに部屋へ退りまして、手前は、三時ごろまで一服致しておりましたが、女房は後始末に一時半ごろまでは調理場におりましたかと存じます",
"ハイ、皿洗いを致しておりました。神山様の奥様が手伝って下さいまして、お部屋へ退りましたのは、一時半ごろでございます",
"その間に、どなたか調理場へ見えた方があったかネ",
"御昼食のあとは皆様オヒルネをなさいますようで、三時ごろまでは、調理場へお見えの方はめったにございませんです。三時すぎに私どもが調理場へでましてからは、奥様はじめ、宇津木様、矢代様の奥様、丹後様、神山様の奥様、色々お見えになりましたが、砂糖壺に手をふれた方は御一方もございません",
"一時半から三時までは、調理場は無人だったわけですね",
"左様でございます。ただ、二時ごろでしたか、鮎が到来いたしましたそうで、諸井さんが届けて下さいました",
"あなたがそれを受取ったのですね",
"いいえ、冷蔵庫へ入れておきましたからと仰言って、扉の外から口上だけで帰られましたのです。ここでは使用人たちが昼食後ヒルネ致しますのが習慣でして、皆さんそれを心得ておられますので、休息の邪魔にならぬよう行届いた注意を払って下さるのです"
],
[
"あなたはちかごろ病院勤務は廃業ですかね",
"午前八時から十一時半まで。千草さまの事件このかた、お由良さまの病態が悪化致しておりますので、旦那様の御命令でございます"
],
[
"鮎を運ぶのもあなたの仕事のうちですか",
"あの時間に当家で目をさましている使用人は私のほかにはございません",
"そのとき調理場は無人でしたね",
"いいえ、一人、いた方があります"
],
[
"誰でしたか",
"お加代さま"
],
[
"そうかも知れません。そのために、私の言葉が信用されないという馬鹿らしさを",
"お加代さんは何をしていましたか",
"お水をのみにきたのだと仰言ってました。私が冷蔵庫に鮎を入れているうちに、出て行かれたのです。私が調理場をでると、お加代さまは、この広間の椅子にかけて読書しておられました。矢代さんの奥様を訪ねたけれど、おひるねのようだから、と仰言っていました",
"私もこの広間でお加代さまを見かけましたの。二時四十分ごろでしたわ。やっぱり読書していらしたのです"
],
[
"それでは、神山さん、職業柄、あなたは行届いた観察眼をお持ちのようですから、夕食の様子について、おきかせ下さい",
"そうですか。それでは皆さんを代表して、私から申上げましょう"
],
[
"その次のことは、オレに言わせて貰おう。食事の終りに近いころになって、当家の令夫人が京子さんに耳うちして二人そろって食堂を出て行った。まもなく戻ってきて、今度は、矢代君、一馬君、巨勢君を語らって五人で食堂を出て行った。そのあとで、急にゴチャゴチャして、まだ二三人出入があったが、それは僕はよく記憶がない。そのときコーヒーが運ばれていたのだ。警部さん、よくきいて下さいよ。私のコーヒー茶碗だけは目ジルシがあるのだよ。フチがかけているのだ。コーヒー茶碗を一打ほどブッコワしたのは正しくオレだけれども、然し、これだけの大家に、代りがないとは、おかしいじゃないか。一週間ほど前から、あんたがコワしたのだから、これはあんたのよ、と云って、必ずかけたコーヒー茶碗を持ってきやがる。そこにいる女中めが、そう言いおるのでさ。きいてごらんなさい。これには指金がありますよ。計画があってのことだ。その指金が何人であるか、それは言うまでもなく、皆さん、お分りのことでさアね。そして、かねての計画通り、オレの茶碗に青酸加里を入れやがったのでさア。すると、あいにく、加代子さんの茶碗もかけていた。オレの茶碗以上のカケがあるから、それじゃア代えてあげましょうと取りかえたのが、悲劇のもとさ。オレだったら、青酸加里のコーヒーなんか、アタピンじゃないが、ピンときて、すぐ吐きだすね。不死身でさアね。刑事さん、食事の終りごろ、食堂を出入した連中を調べてみりゃ、犯人はでてきまさアね",
"あなたは、なぜ、コーヒー茶碗をとりかえたのですか"
],
[
"あたりまえさ。オレは御婦人のために犬馬の労をつくすことを人生の目的としているのだからさ",
"嘘おっしゃい。あなたが御自分のお茶碗に青酸加里を入れて加代子さんに差上げたのです"
],
[
"ヨミスギは、さっそく、調べてきたのだね",
"ハア、さっそく駈けつけてみましたが、もう人影は見当りませんでした。なにぶん、直線に駈けつけるわけには行かないところで、洋館をひと廻りして、おまけに、庭の径ときては迷路のようなものですからな",
"それは一人じゃ、手に負える筈がないから、仕方があるまい"
],
[
"それで、みなさん、すぐ食堂へ戻られましたか",
"私はついでに用をたして戻りましたが、一馬も巨勢博士も、たぶん、そうだったようだね"
],
[
"三人御一緒に食堂へ戻りましたか",
"一緒に戻る理由も別にありませんからな、別々に戻ったようです",
"奥様と矢代夫人は、先に、一緒に戻られましたか",
"ちょッと調理場をのぞいたり、女中に言葉をかけたりなぞ致しましたけれど、私どもも別に一緒ということを意識致してはおりませんので、京子様が先でしたかも知れません",
"でも殆ど御一緒のようでしたわ。私も坪平のオカミサンに話しかけたりして、ちょッと調理場を眺めていたりしましたから。別になんという理由もなかったのですけれど"
],
[
"そのとき調理場にはコーヒーの用意ができておりましたか",
"用意はできておりました"
],
[
"私たちが戻りますとき、ちょうどコーヒーのお茶碗が広間のそこのテーブルの上に並べられているところでした",
"お茶碗にはコーヒーがつがれていたのですか",
"つがれておりました。お砂糖もミルクも、調理場で入れて、ここへ運んで、並べているところでした"
],
[
"どっちの茶碗が土居さんの専用だね",
"ハイ、そっちです"
],
[
"ほかにカケ目のない茶碗はないのかね",
"ハイ、ございません。戦争中からいくつとなく割りましたまま、新しく買ったことがございませんので"
],
[
"そのほかに二三人、お立ちになった方があるそうですが、どなたでしたか",
"私が立ちましたよ"
],
[
"あなた方もテーブルの上のコーヒー茶碗を見ましたか",
"私が便所から戻るときは、それを食堂へ運んでいる時でしたよ。いくつかはテーブルの上に残っていたかも知れないが、あんまり注意も払いませんでしたから、分りませんね",
"僕が戻る時は、もうコーヒー茶碗はなかったようだな。僕は然し、海老塚医師が、そのときコーヒーのコップを握って飲みながら、調理場から出てきたのを見ました"
],
[
"海老塚さんは食堂にいらっしゃらなかったのですか",
"僕は調理場で食事をしました"
],
[
"警部さん。オレは、もう、イヤになったね。東京へ帰っちゃ、いけないかなア",
"そうですなア。無理におひきとめは出来ませんが、特別の差しさわりがなかったら、もう暫く滞在していただければ、何かと好都合ですが",
"そうですか。別に用はないけれどもね。私は秋の展覧会の作品も、もう描きあげているから、そっちの心配もないのだけれども、イヤだなア、オレは、とにかく、明日から、オレの食べ物は、オレに作らせて貰うぜ",
"いけませんわ。そんな、あなたが、いやらしい。あなたこそ、私たちを毒殺しかねない悪者です"
],
[
"そうですなア、それじゃア、どうでしょう、アタピンを毎日差向けますから、料理に立合わせたら",
"ええ、心得ました。私の目の黒いうちは、大丈夫"
],
[
"片倉清次郎とは、どなたですか",
"一生を当家につかえた番頭ですが、この春から病気になって、休養している者です。もう、七十六の老齢ですから"
],
[
"当家に仕えて何年ほどになりますか",
"私の十六の年ですから、当年七十六、六十年の大昔になりますなア。そのころは当家の財産も時価で十万か十二三万、わずかそれだけの額で、やっぱりその頃から屈指の長者でありました。時世の移りかわり、又、当節の大変動にも驚きますが、敗戦とあれば、これも当然でありましょうか"
],
[
"お加代さんの母親が自殺したということは事実ですか",
"左様です"
],
[
"旦那様の隠し子を海老塚へ養子にひきとらせたとき、この海老塚という仁はまことに温厚な仁で、よく約束をまもって、歌川多門様の種であるということは露ほどももらしませぬ。よって、籍は実子としてありまするから、サギはやる、ユスリはやる、遂には強盗まで働いたほどのタチのよからぬ人物が、死に至るまで歌川多門様の長子であったということを知りませなんだのです。その遺児の玄太郎と晃二のうち、晃二は秀才でもありましたところから、無医村の医者に仕立てるという名目で学費をだしてやりましたが、これとても、孫であるということは、知るよしもありませなんだ。ただ一人、この秘密を知りましたのが、神山東洋という悪者奴でありましたのじゃ",
"それを海老塚医師に教えたのですね"
],
[
"片倉さん、最後にただ一つ、おききしますが、一馬さん、それから亡くなられた珠緒さん、加代子さんのほかに、もはや多門さんの実子は一人も生きておりませぬか",
"ほかには一人も生きた方はおられませぬ。子供のすくないお方でしたじゃ"
],
[
"ねえ、博士、このいくつかの事件は、犯人が別なんじゃないかな。歌川家の家族に関する事件と、千草さんや王仁や内海は、犯人が違っているんじゃないのか。時間的には連続していても、動機も犯人も別な事件が入りまじっていて、結局は不連続殺人事件じゃないのか",
"そうですね。この事件の性格は不連続殺人事件というべきかも知れません。私がこれを後世に記録して残すときには、不連続殺人事件と名づけるかも知れません。なぜなら、犯人自身がそこを狙っているからですよ。つまり、どの事件が犯人の意図であるか、それをゴマカスことに主点が置かれているからでさ。なぜなら、犯人は真実の動機を見出されることが怖しいのですよ。動機が分ることによって、犯人が分るからです",
"じゃア、すべての事件が同一犯人の仕業なのかい"
],
[
"それが分れば、犯人は分りまさアね。だが、恐ろしく計画的な犯罪ですよ。すべてがメンミツに計算されているのでさ。日本に於ける、最も知的な、最も雄大な犯罪なんでしょうな。この犯人は天才でさアね。インテリ型のケチな小細工がてんで黙殺されているところなど、アッパレ千万というものでさ。扉を糸に結んで自然にしまる装置をするとか、密室の殺人を装うとか、そういう小細工は小細工自身がすでに足跡というものでさア。すでに一つの心理を語っているではありませんか。この犯人は、常に心理を語ることを最も怖れつつしんでいまさアね。この怖るべき沈黙性は、犯人が天才の殺人鬼である証拠でしょうな。犯人の真実の動機は何か。どの殺人事件が犯人の真の目的であるか。ともかく事件は犯人の警告通り八月九日に完結するでしょうが、真実目的の犯行が八月九日に完結するとは限りませんや。目的の殺人はとっくに終っているのかも知れませんぜ",
"それなら、なにも、この警戒厳重のさなかに、余分の犯行をつけ加える必要はなかろうじゃないか",
"つまり、真実の動機を隠さなければならないからです。然し、八月九日に何が起るか、これは一つのクライマックスでもあるでしょう。僕は然し思いますな。この犯人は、八月九日の予告をだしたから、必ず八月九日に決行するというバ力みたいに義理堅いトンマじゃありませんぜ。なぜなら、犯人は時に一日に二つの殺人を敢てする、つまり彼氏、常に虚を狙い、虚をつくのです。ひとたび毒殺が行われれば、それに対する警戒が加わる。だから一気に二つの毒殺を敢行して、それで恐らく、彼氏の毒殺プランは終りを告げているに相違ないと思いますよ。恐らく次の犯行は、予期せざる型で行われる。これが、この犯人の性格ですよ。だから、八月九日を馬鹿正直に当てにするのも、考えものかも知れませんや"
],
[
"博士はあのとき居なかったから知らないのだが、私はね、片倉老人が秘密を打ちあける席に居合わせたから見ているのだよ。あのときの一馬の顔というものは、茫然自失、まったく愕然、色を失ったものだった。あの表情はどんな名優でもマネることのできない、つまり心の真相の発露だよ。あの顔は偽ることのできないものだ。こういう真実というものは、嘘発見器よりも確かだぜ",
"そうですかなア。先生方の文学的方法というものは銘々得手勝手の独断的なもので、嘘発見器みたいな正確なものじゃアなさそうだがなア。歌川先生がこのことを本当に今まで知らなかったなんて、すくなくとも神山東洋氏が知るほどのことを、一家の相続人が知らないなんて、おかしいなア。神山東洋氏が知ってなきゃア、納得もできるけれど"
],
[
"そうですなア。然し、なんですよ、それは僕みたいな氏も富もない家庭の出来事なら、仰言るようなものでしょうけど、まったく神山東洋氏のユスリのタネになるのも道理、当家の財産を分配する、そういう事態の起る場合を想像すると、この分配の金額は、とるにも足らないというわけに行かないだろうと思いますが",
"神山東洋が訴訟を起すというなら、そしてそれが正当なものなら、僕はユスリには応じぬ代りに、海老塚には遺産を分配してやりますよ。僕は物質よりも、正義の方の味方をしますよ"
],
[
"あら、巨勢さん、ひどいわ",
"イヤ、奥さん、悪くとらないで下さい。悪くとらないでと云ったって、全く、どうも、失礼を承知の上で、アグラをかいて訊かざるを得ない性質のことなんで。実はねえ、奥さん、あなたは多門さんの愛人だった御方ですから、多門さんからも、その話がなんとなくもれきこえたというようなことが",
"いいえ、ございませんでしたわ、そんなこと"
],
[
"ところで、先生、丹後先生は独身なんですか",
"独身らしいね",
"それで、愛人はいらっしゃらないのですか",
"どうだかなア。あんまり、そんな話は、きかないなア",
"珠緒さんには、丹後先生、相当、なんじゃなかったんですかなア",
"いくらか惚れてはいたろうさ。あいつが何をどの程度に思いこんでいるか、あんな、ひねくれ者のことは、私は考えてみたくはないよ",
"まったく、大作家ともなると、気むずかしくて、つきあいにくいですな"
],
[
"無理に歩いてみましたら、この有様で。年寄は十日前には出来たことが、今日はもう出来なくなっているのですよ",
"あなたは御病気という話でしたが",
"ええ、さいわい今朝は気分がよかったものですから。それに、このオジイサンが、いつになく足腰がしっかりしてきましてね。少し無理かと思いましたが、千草の屍体があったというあたりまで出掛けてみようと、年寄の愚痴ですわねえ。それを承知で、こうしてムキに飛びだしてくるというのも、愚痴のほかに、年寄のせつない思い、さきほども申し上げました通り、今日できることが、明日、明後日には、もう出来なくなる、そういう無常が身にしみているからですよ。今しなければ、もう出来なくなる、とりかえしがつかない、死んでもいいから、思い残すことがないように、四ツ五ツの子供が明日の我慢がないよりも、もっと我慢がなくなるのですよ。あげくに、疲れはてて、この有様ですもの。まだこの春は、鉱泉まで、さのみ疲れずに歩くこともできたのに",
"そうそう。先日も鉱泉宿で、そのお話は承りましたよ。カルモチンを買いに行かれたそうですね",
"カルモチン? いいえ、そんな薬は"
],
[
"こちらは洋館のお客様で、矢代さんと仰言る方、ほら、京子さんと結婚なさった方ですよ",
"ああ、ああ、その御方か"
],
[
"じゃア、喜作じいさんにたのんで、車でも廻させましょう",
"いや、いや、これで、充分、歩けまする"
],
[
"今日こそ鉱泉へはいるわ。つれてって",
"今日は日曜だから、又、混雑するかも知れませんよ",
"あら、日曜なんかで、混雑すること、ありませんのよ。山奥ですもの"
],
[
"珍らしいね。奥さん、御湯治とは",
"あなたも鉱泉? 一しょに行きましょうよ",
"僕は今日は郵便局長のところで碁会があるんだけどね",
"あら、局長さんのお宅はこっちの方じゃないでしょう",
"ええ、だから、つまり、僕は碁は好きではあるが、会となると、嫌いのタチでね。会は常に何の会であっても、雑然たるものだからさ。それで、会場へ向って歩こうとすると、自然に足が反対の方角へ向って歩いてしまうんですよ",
"生れつきのヒネクレ屋なのね。足の向いたついでに、鉱泉宿へ行きましょうよ",
"そう言われると、自然に又、足の方角が"
],
[
"ずいぶんヘンジンね",
"ああいうアマノジャクとはマジメにつきあわぬ方がよろしいです。白いといえば、黒いと言うにきまった奴ですよ"
],
[
"ここは、ずいぶん、田舎にしては、粋なお部屋ね",
"そうなんですよ。はなれのこの部屋だけ、特別なんですよ"
],
[
"あら、ここは庭じゃなくって、道なんですの?",
"こんな山奥には、庭も道も区別がないんでしょうよ。ほら、そこから、谷へ降りる道があるでしょう。あの降りたところに澱みがあって、このへんで屈指の釣場なんだそうですよ。ごらんなさい。私もちゃんと釣竿を買ったんですよ。仕事のあいまに時々窓から降りて、あそこで釣をするのですよ",
"釣れましたの?",
"まだ一匹も釣れません。時間が悪いからですよ。それに、釣道具も、この宿で売ってる最下級の安物だから、アユだのヤマベだのイワナをつるには無理ですよ",
"釣れたら、見せてちょうだいね。じゃア、さよなら"
],
[
"なんですか。脅かしちゃ、いけませんよ。あなた方も疑心暗鬼という奴ですな",
"宇津木秋子さんの姿が見えないのですがね、大人の迷い子は、よその土地じゃ笑い話だけど、ここのウチじゃア、穏かならぬ例ですからな",
"なるほど。いつから、お見えにならないのですか",
"朝の九時ごろ、自分の部屋で仕事中の秋子さんを胡蝶さんが見たというのが、唯一の消息なんですよ。私と土居画伯と巨勢博士はもっぱら撞球の熱戦中でして、他の方々は、一馬さん、丹後さんはF町へ、三宅さん、京子さん、木曾乃はN町へ、矢代さんは?",
"私はあやかさんと鉱泉宿へ。九時ごろ出かけましたよ",
"結局みんな出払ってるんですな。私たち撞球組は有って無きが如きものですからな。いったい、いつごろ、どこへ、おでかけかな"
],
[
"私は九時半か十時ころ、宇津木さまがおでかけのところをお見かけ致しましたよ",
"どこで",
"この広間でございます。ああ、そうそう、ちょッと、調理場でお水をおのみになりましてね、おでかけですか、とお訊きしますと、ええ、ちょッと、散歩よ、と仰言いました。そして、お草履のまま、食堂の方から外へ出て行かれましたようです",
"そして、昼食の時は?",
"そういえば、御昼食の時も、お見かけ致しません。お食事の御用意は致してあるのですから、お帰りになれば、おなかがへったわ、何か食べさして、と言ってらっしゃる筈なのでございます"
],
[
"僕はその前の日にツボ平のオカミさんにたのんで、朝食を早目にしてもらい、七時半前に出発しました。一番バスででかけて、終発で帰ってきたのです",
"その日、奥さんに何か変った様子をお気づきになりませんでしたか",
"僕から見れば、あの女は、しょっちゅう変った様子ですよ。当家へきても部屋は別居しておりますし、つまり、事実上、我々は別離状態にあるわけです。あいつが僕を黙殺して、平然と王仁とあの状態であったことは皆さん御存じの通りですし、だいたい、あの女は、男の肉体なしに三日と生きていられない奴でしたから、あとは皆さんの御想像にまかせますよ。僕とても想像以外に事実を確認しているわけではありませんが、僕と事実上夫婦でないということは、つまり、あの女がほかの男と情交がある明白な証拠みたいなものなんですね",
"すると日常も奥さんと御交際がなかったのですか",
"それはもう、全然、他人よりも疎遠ですよ。つまり交戦状態ですから、他人じゃなしに、敵ですな",
"なるほど。いや、不穏なる国際関係という奴は、身にしみて忘れがたいところです。それで、失礼ですが、和平の意志は御二方になかったのですか",
"ありませんでした。国際関係と違って、これは宿命的なものですよ。国家は永遠かも知れませんが、人間は五十年の命ですから、イヤな奴と和平の必要はないですよ。要するに我々は、すでに離婚しているようなものでした",
"それにしちゃア、君のミレンは女々しかったじゃないか"
],
[
"すると三宅さんは、その日、奥さんがどんな予定をたてていらしたか、そんなことも御存知ないのですね",
"全然知るところがありません",
"三宅さんはN町にお友達でもおありなのですか",
"いいえ、ただ退屈に倦んだから、当もなく出掛けただけで、本屋をひやかすとか、そうそう、買物といえば、雑誌を買ってきましたが、そんなところで僕の顔でも覚えていてくれなければ、全然アリバイはありませんね",
"それにしては、一番バスとは早々の御出発ではありませんか。御当家の皆さん、N町行きは一番バスというような習慣でもあるわけですか"
],
[
"昨日は私もN町へ参りましたが、二番で参りました。私ども、女は、支度や何か、それに歩く足も殿方にくらべて遅うございますから、概して二番で参るようでございます。昨日は京子様と御一緒に参りまして、停留場で看護婦の諸井さんとも御一緒になりました。私どもはN町の大正通りで降りて、京子様に別れ、私は買物を致したりして、又、偶然終発で、京子様と御一緒になり、又、三宅様とも御一緒になりましたのです",
"矢代夫人も御買物ですか",
"いいえ、私、お友達をお訪ねしましたのです。二三年前、この土地に住んでおりましたから、そのころのお友達で、本間という呉服屋の奥様。私昨日はズッとそこにおりました"
],
[
"私はどうも、あなたに物をお訊きするのが苦手だなア。まさか、あなたは、患者たちにも、警官なみに突き放して答えるわけではないでしょうな。あなたは、どちらへ、おでかけでしたか",
"昨日は日曜の休診日で、薬を仕入れに参りました",
"それだけの御用件で終発まではかからないと思いますが、できるだけ、こまかく教えていただきたいものです",
"あとは、ブラブラしていました。こんな山奥から町へでれば、誰しもブラブラ致します",
"いや、ごもっとも。あなたの仰言ることは、いつも、ごもっともで、恐縮です"
],
[
"然し、三宅さん、六時間半ですよ。どこか一ヶ所ぐらい、あなたの顔を先方が見覚えているというような交渉ぐらい有りそうなものじゃありませんか",
"それは常識論ですよ。人間には色々の性癖があるものですから、型通りに行くものじゃアありません。知らない土地というものは、ただ同じような道と家と森と寺の記憶があるばかり、それがどの方角か、どの道の次にどの道があるか、全然意識はバラバラで統一された全景がないものです。僕はそのバラバラの諸方の位置に、散歩をたのしんでいただけで、その間、人間との交渉がなかったとしても、仕方がない。僕はアリバイを意識して生活しているわけじゃアないから。尤も、こんな事件が起っていることを知っていりゃ、ちゃんとアリバイをつくっておいたでしょうがね"
],
[
"ところで、三宅さん、一番バスに、どなたか御存知の方が乗合わしていましたか",
"いいえ、僕はこの村に顔見知りもありませんから、それに僕は、人の顔など見ないタチだから、気がつきませんよ",
"海老塚さんは御一緒ではなかったのですか",
"一緒ではありません"
],
[
"僕は三番です",
"三番は何時ですか"
],
[
"歌川さんはF町へ行かれたのでしたね",
"そうです。F町から又一里ほど山奥の親戚へ行ったのです。始発で出発して終発で帰りましたが、歩行の時間がありますから、午後零時半ごろ親戚へついて、三時すぎにはそこを出発しました",
"なるほど。すると方向は逆ですが、どちらも始発ですから、村の停留場まで三宅さんと御一緒ではなかったのですか",
"F行の始発は三十分ほどおそいから、一緒ではありません。それに、私たちは、F町へ行くときは、N村へでずに、T部落の停留場へでるのです。距離は殆ど同じことで、この家から、だいたい僕の並足で、どちらも、一時間十五分ぐらい、ただし下りの場合ですね",
"T部落と申しますと、どちらの方へでるのですか",
"つまり、ブナの森を通り、鉱泉宿を通りこして九十九折を降りて行くとT部落の停留場へでるのですよ。ここから鉱泉宿まで、半里余り、鉱泉宿からT部落までは、一里まではありませんが、合計して一里半ちかくはあるでしょう",
"ハハア。そんなコースもありましたか"
],
[
"九時ごろ、矢代寸兵氏とあやか夫人とブナの森で別れて、それから山径をグルグル行き当りばったり歩いているうちに、バスの通る道へでましたね。折からバスが来かかったから、手をあげて、とめて、のりこんだ。どれ、時刻表をみせてごらんなさい。なるほど、すると、十時五十分N村発F町行というのがそれでしょう。F町へついて当ズッポウに歩いていたら、ヤナがあって、鮎を食わせるところが見つかったから、鮎を食って、ヒルネをして、帰ってきましたよ",
"相分りました。その方が碁会よりも保健的で、結構ですよ。それで、奥様は、鉱泉宿にズッとおられたのですか",
"いいえ、四五十分遊んで、すぐ戻ってきましたの。三十分ちかく、湯ブネにつかって遊んでました。燃料節約で、とてもぬるい湯ですもの。けれども私がぬるま湯がすきですから、たのしかったのですわ",
"あそこの泉質は何ですか",
"存じませんけど、白く濁っているのです"
],
[
"八重から伝言をうけた下枝さんは、何事だろうかと、さっそく釣殿へ行きました。すると、あなたは、もう聴診器をぶらさげて待っていて、お前はたしかに胸の病いの様子がある。今日は健康診断をしてあげよう、と下枝さんの手をとりました。下枝さんは、あなたの様子がただ事ではないのに恐怖を感じて、いえ、病気ではございません、それに今は、ほかに用がございますから、と答えると、急に飛びかかって押えつけて、コラ、言われた通りにしろ、さもないと、抑えつけても、ハダカにしてしまうぞ、と、やにわに接吻しようとしました",
"デタラメ言うな! 無礼者!"
],
[
"敗北遁走というわけかい",
"いいえ、勝利にいたる道でさア"
],
[
"物的証拠を探しに、です",
"証拠は、ここには、ないのかね",
"ハア、ありません。ただ、犯人は、時間と空間の関係に、ぬきさしならぬ姿を現しているのですがね。それから、心理に於いて。然し、物的証拠がないのですよ。そいつを探しに、でかけるわけでさア",
"じゃア、君は、犯人を知っているのか",
"ハア、それはもう、どうしても、その御仁でなければならないという、こいつはハッキリしたもんでさア。けれども、なんしろ、時間と空間の算式なもんで、こいつは法廷へもちだす証拠にはなりかねますんで、然し、なんでさア、いよいよ証拠がなきゃ、時間と空間の算式だけで、法廷へもちだしまさア。ヤケでさアね。散々なめられちゃって、まったく、くさったな"
],
[
"どこへ行くのだい",
"方々ですよ。天下隈なく、どこまでだって、こうなりゃ、意地とヤケクソで、水の中でも、くぐりまさア"
],
[
"へえ、オレをねらえば殺人鬼か。それは又、とんだデク人形に見立てられて、恐縮だな。加代子さん殺しが目的なら、単純明快か。犯人は誰だい? え、わが悪徳弁護士先生!",
"そいつは分りませんよ。動機は単純明快と申したのです",
"じゃア、宇津木女史や王仁や内海は、どうなるんだい"
],
[
"君の言うようじゃ、まるで私なんか、いつでも階下へ降りて内海を殺せると云ってるようじゃないか。然し、そんなことよりも、問題は、私が便所へ行ったか、それをピカ一が見たか、ということじゃないか",
"まア、まア、矢代さん。これは単なる可能性を論じているにすぎないですよ。あいにく、土居画伯は酔っ払って、当時の記憶はハッキリ致しておらぬ始末で、そこにつけこんで、私は目下、単なる可能性の限界を申上げているのです",
"だからさ。ピカ一の酔っ払っていることをとりあげる以上、丹後の部屋から遠方だけを問題にするのは当らないさ。一馬も、巨勢博士も、便所へ行くことができた筈だ。外へでられなかったのは、あやかさん一人だけじゃないか",
"まったくです。これは私の推理のあやまりでしたな。なるほど、丹後さんを限界においたのは、おかしいですな。一馬さんも、巨勢さんも、便所へ行けない筈はなかった。然しですな。あの晩の状況より推察しまして、一馬さん、巨勢さんなど、近い位置から扉をあけると、土居画伯は噛みつくように怒鳴りつけるにきまってますよ。するとですな、土居画伯は酔っ払って翌日の記憶にないかも知れませんが、私たち、室内の者は、土居画伯の喚き声によって、その状況を知ることができた筈です。然し、廊下の遠い方なら、たぶん、土居画伯は喚かなかったに相違ない"
],
[
"神山君の話の様子では、犯人は、歌川家の遺産問題ときまったようじゃないか。王仁や内海や宇津木さんの場合はどうなるのかね。歌川家の遺産問題が犯罪の動機とすれば、ここに十一名出席しているが、犯人たるべき人物は、幾人もおらぬ。殆んど、きまっているようなものではないか",
"それはですな。この幾つかの犯罪が、みんな同一の犯人によるか、別の犯人によって行われているか、これはにわかに断定できないことですよ。同一の犯人かも知れません。別の犯人がいるかも知れません。場合によっては、幾つかの別々の犯人によって、各々バラバラに、事件が構成されているのかも知れません。然し、その問題に就いての考察は後まわしにして、次に、宇津木殺しの場合を見ようじゃありませんか"
],
[
"僕は君、ブナの森からブラリブラリと、十時五十分のバスにはちゃんと街道へでて、乗りこんでいるぜ",
"けれども、失礼ですが、丹後先生、先生のブラリブラリは、全然御時間の観念がお有りではないようですからな。先生はたしか時計をお持ちでないようですが、拝察するに、ここ十年か十五年間、先生は時計を所持なさらずに、生活していらっしゃるんじゃありませんか。先生は十時五十分のおつもりで、十二時二十分のバスかも知れませんぜ。実は証拠があるんでさア。この村の者で、十二時二十分のバスに先生と乗り合した者がいて、あとは先生の仰言る通り、街道のマンナカに手をふりあげて乗りこんでいらした、それは先生の仰言る通りだと申していますよ。これは、もとより、カングリ警部もちゃんと知ってることなんですよ。あのカングリ先生が我々を取り調べにくる時は、実はもう、我々の答える以上に調べた上で、顔つきかなんか、見にくるだけのことなんです。相当の曲者ですよ"
],
[
"神山君は、四ツの事件の共通の容疑者をあげて、矢代と三宅だけが全部の犯罪に共通しており、最も主要な犯罪と見られる歌川家の財産関係の犯罪の容疑者たるべき人物が、姿を現していないと云ったね。然し、君、共犯者ということがあるよ。単独では共通していなくとも、二人乃至数人で、共通している場合が有りうるじゃないか。だいたい、半月あまりの短時日に七人もの人間がバタバタ殺され、それが警官の警戒厳重のさなかなのだからな。共犯者なしに、出来ることじゃアないね",
"ごもっともです"
],
[
"又、昨日は大変なことで",
"やア、知っていますか",
"昨日は警察の方が二度もここへ見えられまして",
"やれやれ"
],
[
"何を、汝ら、ねぼけるか。そこにおる、彼、三宅木ベエこそ、世を偽る、偽善者であるぞ。汝ら、無礼者",
"イヤ海老塚さん。警察は、偽善者をどうすることもできないのです。それは、お釈迦様やキリストの領分でして"
],
[
"イヤ、もう、無茶ですよ。今夕、病院が終ると、先生、病院の鍵をかけ、諸井看護婦を裸に縛りあげて、焼火箸と、外科のメスだの鋏だの取そろえましてね、驚くべき拷問をはじめたのですね。その結果、つまり、偽善者、三宅木ベエ、という件りを白状させて、ここへ乗りこんで来たわけですよ。私たちは近所の人から悲鳴の密告をうけて、海老塚医院へ駈けつけたのですが、まさしく、狂人のふるまいです。目も当てられぬ惨状ですよ。肉はこげ、一面に血はあふれ、毛髪は掴みとられ、何がさて、医者が犯人じゃア、手当の仕様もないでしょう。それでも仕合せにヨミスギが看護卒か何かいくらか医者の心得がありまして、兵隊流に荒っぽく何とかやっておりますが、命をとりとめれば、よろしい方ですよ",
"すると、今までの事件も、彼が犯人ではありませんか"
],
[
"ヤア、御苦労さまです。でも、もう、いいのじゃないかな",
"ハア、何ですか",
"いえ。海老塚さんは、留置されているのでしょう",
"ええ、そうです",
"こんなに警戒して下さらなくとも、もう、よかろうと思いますが",
"ハア、ともかく警部の命令で、八月九日までは、こう致すことになっております"
],
[
"そうですなア。まったく、あの看護婦は、大犯罪者的でしたなア。第一、目が、ちょッと、こう、三白眼で、ジッと見つめられると、凄味がありましたよ。ところで、事件は、実際、八月九日に起るものですか",
"それがハッキリ分ってくれれば、こっちはシメタものですが、何がさて、我々は、海老塚先生のような神通力や心眼がありませんので、残念です。神山さんは、甚だメンミツに捜査に当っておられるそうですが、あなたの心眼では、いかがです。ひとつ、遠慮なく、御意見をきかせていただけませんか",
"私がひとつ、警部におききしたいのは、解剖の結果の、兇行の推定時間ですな。あれは絶対のものですか",
"そうですね。まず、ほぼ確実とは思われますが、絶対とは申されません。幸い、今度の場合は、七件ながら、早々に屍体が発見されておりまして、最もおそいのが、宇津木さんの死後二十時間、そのために、推定時間はほぼ確実とは思われますが、我々とても、それを絶対としているわけではありません",
"千草さんの目隠しというのは、どんな風になっていたのですか",
"あれはですな。これは千草さんの持物の濃紺のフロシキですが、これを二つに折りまして、つまり三角巾型に折りまして、額から後へまわして結んであります。つまり顔の前面に三角巾がダラリと胸の方まで垂れておるわけです。ですから、胸にたれたフロシキごと、その上から縄でクビをしめて殺したものです",
"すると、なんですか。犯人とは非常に仲のよい間柄で、カクレンボでもしようというわけで、メカクシをした、そこをクビをしめた、そんな風な想像も、してよろしい余地があるわけですな",
"御説の通りです。ともかく合意の上で、自ら目隠しをしたと見るべきかも知れませんな"
],
[
"まさか、あなた、年頃のお嬢さんが、わざわざ三輪山へでかけて、カクレンボをしますかね",
"イヤイヤ、ヤリかねない。左にあらず"
],
[
"イヤ、まったくです。芸術家の直観や空想は、時として、神通力をあらわすことがありますからな。あるいは、そんなところが、真相かも知れませんよ。それでは、皆さんの芸術的神通力を拝借いたす意味で、ひとつ打ちあけて申上げますが、第一回目の事件、望月王仁さんの事件に、屍体の寝台の下に、あやか夫人の部屋靴の鈴が一つ、ころがっていたのですよ。これは、皆さんの神通力で、どういうことになりますか",
"いや、それだ。まさしく、君、警部、それですよ。そうこなければならぬ。すべては、明白じゃないか"
],
[
"私は、当家へとついで以来、望月さんのいらした部屋へは、まだ一度も、はいったことがございません",
"ウム。さすがに、このキツネも、見上げた奴さ"
],
[
"そいつは、奇妙な謎ですな。すると、犯人は、故意に、あやか夫人の鈴を置きのこして行ったわけですか",
"そうですなア。鈴も鈴ですが、なんのために寝台の下をふいたものやら、いかがですか、皆さんの神通力は"
],
[
"それでは、もう一つ、これは神通力ではありません。皆様の助言が欲しいのですが、ちょッと、失礼な問題ですが、場合が場合ですから、これを最もマジメな意味で、御協力を願いたいのです。実は、皆さん御承知の通り、この事件には再々アイビキが現れて、まるで、それが特徴のようですが、宇津木秋子さんが三輪山へ行かれたのも、アイビキのためではないかと推察される根拠があります。もしアイビキのためとすれば、相手の方はどなたですか。この席でなくとも、よろしいのです。どなたか、我々に助言をよせていただければ幸いです",
"そりゃア、まア、そんなものだろう。あの人が、ムダに山や森を歩きやしないさ。然しそれは何も失礼なことじゃない。警部君は、人間性というものの崇高なる実相を認識されておらんのだね。宇津木さんは、淑徳も高く、又、愛慾もいと深き、まことに愛すべく尊敬すべき御婦人でしたよ。あのような多情多恨なる麗人を殺すとは、まことに憎むべき犯人だ。ああいう御婦人は、然し、アイビキの当人には殺される筈がありませんよ。なぜなら、時間がちょッとたつうちに、必ず、次の男にお移り遊ばす性質で、こいつ執念深い、うるさくつきまとう奴だ、悪女の深情け、そういうところもチョットあるけれど、うわべだけです。実際は、邪魔な女じゃないからな"
],
[
"土居画伯は、さすがなもんですなァ。御自分の心境ばかりを、もっぱら、述べていらっしゃる。然し、あなた、男が女を殺すのは、悪女の深情け、執念深い奴、そういう意味とばかりは限りませんや。こっちが惚れているけれども、女の方が逃げて行く。それ、土居画伯も仰言った、時間がちょッと流れるうちには隣りの男に移って行く、つまり、それ又殺される大条件じゃありませんか。そっちのせいで殺される方が、よっぽど世間には有りふれてまさアね。土居先生は、まったく、ひどい人ですな。もっぱら、御自分の心境だけしか、分らないとは",
"いえ、なにさ、オレの言うのは、アイビキの当人が、だから、殺しやしないと言うのさ",
"すると、土居先生が、アイビキの当人かも知れないぜ、これは"
],
[
"然し、なんだって、又、アイビキに、山だの森へでかけるのかね、男のお部屋へ御出張あれば、よろしいものを",
"それが、それ、ちかごろは警戒厳重で、刑事の方が張りこんでたんじゃ、ハア、ちょッと、あの方の部屋へ。そうも言えませんからな。まったく、罪なことですよ。然し、ほんとうに、アイビキにでかけられたのですか。いったい、その根拠は確実ですか"
],
[
"実はですな、宇津木さんのハンドバッグから、アイビキのためにのみ使用せられる性質の品物が、数種あらわれてきたのですな。それとも、宇津木さんのようなお方は、年中、そのようなものをケイタイしておられるものですか",
"それこそ、淑女のタシナミさ。昔から言ってらアね。シキイをまたげば、七人の敵あり。天下に、これほど、大切なタシナミはないのさ。警部はまったく人間性を劣情でしか理解できないのだなア",
"イヤ、どうも、恐縮です"
],
[
"オレによこせ",
"何をするのよ",
"オレが毒見をしてやる"
],
[
"バカぬかせ。オレには女房があるのだぞ",
"なによ。女房ぐらいあったってヘイチャラじゃないの。私も女房になってあげるよ。オメカケはキライだからね。女房が二人でいいじゃないか。あんたの半分、私が可愛がってあげるよ。みんなじゃ、つけあがって仕様がないよ",
"そんなの、あるかい",
"バカだね、あんたは。恋愛なんて半分ぐらいずつでちょうど手頃のものなのよ。だから、四丁鼻だけ可愛がってあげよう",
"ふうむ、そうか",
"うれしいだろう。ねエ、ちょいと"
],
[
"今夜は、素敵じゃないの。この秋に、東京のフグ料理で結婚式をあげようよ。あんた、貯金、もってる",
"恥をかかせるもんじゃないよ",
"うん、よしよし、フグぐらい、私がたべさしてあげるよ"
],
[
"あなた方、いつ、いらしたの",
"今きたばかりですよ。室内からの物音に、外から梯子をかけて、窓を叩きわって、窓の鍵を外して、とびこんできたのです。何事があったのですか"
],
[
"電燈がついていましたか",
"いいえ、私たちが飛びこんできて、つけたのです"
],
[
"なるほど。死んでくれ、もう僕はダメなんだから。なるほど。警察の手が廻ったから、もうダメ、そういう風に申されたのですね",
"いいえ、ちがいます"
],
[
"あなたは気絶なさったから、よかったのです。抵抗をつづけていたら、ふたたび生きかえることはできなかったでしょう。あなたが死んだものとみて、御主人は覚悟の自殺をされたのです",
"なぜですか",
"お気の毒ですが、これまでの惨劇はすべて御主人が犯人でした。我々には分っていたのです。ただ、物的証拠がなかったために、逮捕ができなかったのでした",
"ちがいます"
],
[
"私は存じております。昨夜、私どもが食堂へ参ります時には、柱のハリ紙はなかったのです。そのとき私は何気なく柱を見た覚えがありますから、間違いはございません。そして主人は一しょに食堂へはいりまして、食事の終るまで一歩も席を離れたことはございません",
"ごもっともです"
],
[
"やア、巨勢さん、お帰りですか。一足おくれましたな。お留守のうちに、悲劇はついに終りましたよ",
"終った? すると、歌川先生が殺されましたか",
"いや、歌川一馬氏は、自殺しました"
],
[
"畜生め! もう、逃さない。ああ、然し、手おくれだった! 然し、仕方がなかったのです。今さら面目もありませんが、ツラの皮だけはヒンむいてやります",
"誰のツラの皮をヒンむくのですか",
"犯人の、です",
"歌川一馬氏は自殺しましたよ"
],
[
"歌川先生は、毒薬でなくなられたのですね",
"左様、青酸加里です",
"遺書はありますか",
"いいえ、然し、何か、一晩中、書いては消し、書いては消したものがあります。ひどく消しつぶして判読できませんが、あるいは遺書をかくつもりだったかも知れません。目下、鑑識に廻してあります"
],
[
"我々カンヅメ組では先程から流言横行、大いに悩まされていたところですが、一馬さんは、自殺、他殺、ひとつ、ハッキリ、して下さいよ",
"それは申すまでもなく他殺です",
"ハハア。これは奇怪。して、犯人は?"
],
[
"神山さん。あなたは正確な観察眼で、先日、犯人の推定、可能性の推定をされましたが、あの第四回目、内海殺しの状況に就いて、も一度、くりかえして下さいませんか",
"左様ですか。あの晩、左様、土居画伯があやか夫人の扉の前で喚いていられる、それからの可能性の問題ですか",
"いいえ、その前に、先ず我々が食事を終えて広間にいました。九時何分ごろでしたか、お由良婆さまが諸井看護婦と一しょにこられて、千草さんの行方が知れないと申されましたね。すると諸井看護婦が意外なことを言いだしました。千草さんはアイビキに行ったというのですね。なぜそれを知っているかとならば、千草さんが男からのアイビキの紙片を見せた、その紙片はあやか夫人が男にたのまれて千草さんに渡したもので、その紙片に書かれていた男の名前も読んだ、というのですね。その男は誰ですか、ときくと、それは申し上げられませんという返答でした。そして、それから……"
],
[
"そのあと、すぐさま、先ず海老塚先生がだしぬけにバカヤローと叫んで引きあげて行きましたが、すると今度は土居画伯とあやか夫人の凄惨なる死闘が開始せられることとなりましたのです",
"その死闘の原因は?",
"それがハッキリしないので私のメモにもないのですが、要するに、たぶん、つまらぬキッカケで"
],
[
"まったく、そうでしたな。土居画伯の虫の居どころのせいですか、土居先生、いささか酒乱の兆ありですな。突如としてあやか夫人にとびかかってフリ廻した。あやか夫人の衣服がビリビリさける始末でしたな。ようやく私たちが割ってはいって、わける。すると又、わけられながら御両名がわめき合う。アッと思うと、土居先生、すでに猛然とあやか夫人を追跡しており、食堂から、庭の暗闇へ、あやか夫人を追って行った。これを又我々が追跡して、松の木の陰にあやか夫人を打擲している土居画伯をとって押えて、引き分けたですが、これで一段落と思うとさにあらず、三たび猛然、あやか夫人は一目散に、幸い自分の寝室へ逃げこんで鍵をかけることができた。それから近づく者に掴みかかって、土居先生が十二時半すぎるころまで、あやか夫人の寝室の前に喚きつづけておられたわけです。その時間に内海殺しが行われ、喚きつづけた土居先生をはじめ、二階の居住者にはアリバイが成り立つ、なぜなら土居先生の眼をごまかして、階下へ下りることができないから、という次第です。然し土居先生は泥酔しておられて、このテンマツに記憶がないそうですから、何者かが階下へ降りて内海さんを殺すことができたかも知れない。ここが、大いに微妙です",
"確実に犯行の不可能な人は誰でしょう?",
"それは、あやか夫人、土居画伯、御両名にきまっていますよ"
],
[
"先ほどもおききしましたが、内海殺しの最も不可能な方々は?",
"あやか夫人、土居画伯"
],
[
"ヌキサシならぬ足跡は、いずれ順を迫うて説明いたします。先ず、第一回の犯行から、順にしたがってお話いたすことにしますが、恐らく土居先生とあやか夫人は、歌川一馬氏があやか夫人と再会されて激しい恋慕を寄せられるや、歌川家が当代稀れな資産家であることを知り、計画的に離婚して、あやか夫人を一馬先生にめあわせた、つまり殺人計画は、結婚以前に予定せられていたものであります。土居先生はことさらあやか夫人と喧嘩別れをして、執拗に手切金まで、まきあげた。それだけアクドク不和の種をつくることも、この計画の実行に最も必要な道具立ての一つでありましたのです",
"バカバカしい。大先生の手にかかると、仲の悪いことまでが、共犯の証拠になるのかい。ハッキリした証拠を云って貰おうじゃないか"
],
[
"さて、ゲンノショウコが煎じられていたとき、調理場ではオソバを打っていましたので、ツボ平御夫妻をはじめ、見学の宇津木秋子さんなど、それに、千草さんとあやか夫人がおられた時です。あやか夫人のみは一人離れて肉パイをつくっておられ、そこはゲンノショウコの煎じられつつある近所であり、他の一団の人々はその反対の離れた場所におられたのです。そのとき、かねての計画通り、土居画伯が一間ほどの青大将をブラ下げて、食堂の窓の下を通られ、ニワトリをのんだ大蛇を退治た、腹をさいて晩メシのオカズを出してやろうと仰有りながら賑やかに登場致されたのです。計画は図に当り一同は窓から首をだして眺める、蛇ずきのツボ平さんは、窓からとび下りて行くという協力ぶりで、あやか夫人が眠り薬を入れるチャンスが構成されたわけでしたが、ここに一人、千草さんというアマノジャクが存在し、土居先生の熱演にフンと鼻もひっかけないお嬢さんが現れたために、この計画は深刻きわまる破綻をもたらす結果となった。つまり、ひいては千草殺し、つづいて内海殺しというセッパづまった犯行をつづけざるを得なくなったのであります",
"千草さんが眠り薬投入の現場を見ていた次第ですかな"
],
[
"御承知のごとく、その夜、あやか夫人は一馬先生と一室に寝ておられました。おまけに一馬先生は午前三時ごろまで、机に向っておられた。愛妻はその間ズッと目の前に寝ており、つまり、当夜アリバイのある唯一の人はあやか夫人でありました。もとより、このアリバイは夫と妻との関係にある人の証言でありますから、警察当局はこれを疑るかも知れず、その意味に於てこのアリバイは必ずしも成立は致しません。然し、天地にただ一人、一馬先生その人だけは、あやか夫人の歴然たるアリバイを信じて疑うことが有り得ぬのです。しかも一方に、王仁さんの部屋にあやか夫人の鈴がある。しかも、キレイに拭かれた場所におかれてあります。さすれば以前から在ったものではなくて、犯人の作意によって、おかれたものであることはタシカです。何者かが、あやか夫人にケンギをかけようとしている。しかも、あやか夫人は、絶対に犯人ではあり得ない。一馬先生にとってのみは、これは疑うべからざる事実であります。即ち、一馬先生にとっては、あらゆる人が犯人として疑わるべき場合にも、あやか夫人のみは犯人では有り得ない。この絶対の信頼が、第一回の犯行に於て、巧妙に設定せられているのです。即ち、これは最終回の準備のため、つまり、一馬先生を自殺と見せかけて、殺す時の用意のためです。なぜなら、一馬先生は、最後に至って、あらゆる人を疑る時も、あやか夫人を信頼し、恐らく、あやか夫人のすすめる飲み物を疑うことなく飲みほすでありましょう。あやか夫人のすすめる青酸加里を、催眠薬と信じて飲むことも有りうるのです。そして、その予定の如く、一馬先生は毒殺せられたのであります",
"どうして、それを一馬さんに忠告してあげなかったのですか"
]
] | 底本:「坂口安吾全集11」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年7月31日第1刷発行
底本の親本:「不連続殺人事件」イヴニングスター社
1948(昭和23)年12月15日発行
初出:「日本小説 第一巻第三号~第二巻第七号」
1947(昭和22)年8月1日発行~1948(昭和23)年8月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「安達《あだち》ヶ|原《はら》」以外は大振りにつくっています。
※屋敷の見取り図の画像と時刻表の画像は、「探偵小説名作全集 坂口安吾・蒼井雄」河出書房、1956(昭和31)年8月31日初版発行からとりました。ただし、「付近一帯の地図の画像」は掲載されていませんでしたので青空文庫で作成しました。
入力:kompass
校正:安里努
2016年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042626",
"作品名": "不連続殺人事件",
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"イエ、寄附なんてえものは、立話に限るようで。さっそくですが",
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"よそと申しますと、アメリカのことで?",
"いえ、もうこの村以外の津々浦々ですよ。ボクら、大学のころ、文化祭でもうけたものです。切符の売上げをタダ飲みしましてね。売上げを半分ぐらいごまかすんです。たのしかったものですよ。文化祭は、そういうものですね",
"入場料をとるんですか",
"当り前ですよ。アナタ、タダでやるつもりですか。呆れましたね。タダでねえ。タダほど人生につまらないものはないですね。ダイヤモンドもタダにすればつまらない石にすぎないですよ。アナタ、文化祭を石にするわけですね",
"それが、ねえ。もともと石なんですよ。素人ノド自慢と、三ツの歌でしょう",
"呆れた。おうかがいしますが、文化とは何ぞや? 農村といえどもですね。かりにも青年団が牛耳る文化祭でしょう。鎮守さまのお祭の余興とはちがうはずでしょう",
"どうも恐れ入りましたね。まさか本職の芸人がこの村へ来てくれるわけもありませんのでね",
"お金次第ですよ。お金をだして芸人をよんで、お金をとって見せる。そして、もうけなさい。文化祭はもうかるものですよ",
"興行は不況だそうじゃありませんか。本職がもうからないのに、素人がもうかるはずはないでしょう",
"素人だから、もうかります。文化祭ですからね。本職は文化祭がやれないので、気の毒なものですよ",
"では、失礼ですが、アナタに文化祭の幹事をやっていただけませんか",
"ええ、やってあげましょう。文化祭らしく、ワッとみなさんに景気をつけてあげましょう。たのしいものですよ。青春ですね"
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"いけません。かりにも、文化祭ですよ。生活を高めるものが、文化です。ボクの意見としては、ジャズバンドと美貌の歌手をつれてきたいと思うのですが、それも純粋な芸人でなしに、大学生のジャズバンドですね",
"アナタの母校ですね",
"そういう関係は意味ないです。大学生のバンドにも本職ハダシのがあって、高給で一流キャバレーへ出演しているのもあるのです。その一流どころをよびましょう。美しい女子大学生の歌手が附属しているバンドを狙いましょう。東都一流の学生バンドと美貌のアルバイト歌手。日劇出演。青春の花形。微風と恋、恍惚のメロディ。こんな、広告、いかが? 三十円の入場料で最低千枚が目標です"
],
[
"売上げをあんまり使いこんじゃいけませんね、と。たしか、そう云ったねえ。アンマリ、と。アンマリか。ちッとはいいのかい?",
"半分は持ってきて下さらなくちゃアと仰有ったわねえ",
"ウウム。そうか。オイ。これだぜ。これを政治的フクミと云うんだ。今の言葉でな。そうか。血筋は争えないもんだなア。さすがに名門の子孫だよ。おそるべき政治的手腕だぜ。バカどころか、バカとみせて、見上げた腕じゃないか",
"政治家ねえ",
"おそれいった"
],
[
"ヤツ子さんの云い分も、もっともだ。どうだい、誇りをもとうじゃないか",
"誇りをもちたいのは山々だが、まだ契約金を受けとっていないから、フトコロの問題なんだ。キミ、たてかえてくれるかい",
"よせやい。そんな金があるぐらいなら、田舎へアルバイトにでるものですか。しかし、帰っちまうと困るから、ヤツ子さんだけ二等の切符買ってあげなさいよ",
"そうだなア。一枚だけなら買えるんだ。仕方がねえ"
],
[
"私は歩いて行きます。どうぞ、お先に",
"無理ですよ。三里もあるそうですから",
"いいえ、歩きます",
"こまるなア。じゃア、ボクも一しょに。キミたち、先に行ってくれたまえ。ボクたち、何か乗物さがして、追いつくから。歌手は真打だ。バンドが先にやってるうちに、静々とのりこむからね",
"よせやい。ほかに乗物はありやしないよ",
"モシ、モシ。発車いたします",
"畜生め。ウーム"
],
[
"乗物をさがして、早く来てくれよ、な",
"ああ、大丈夫"
],
[
"ワガママったら、ありやしないよ。美人を鼻にかけやがって",
"悪く云うなよ。三里もある道歩くなんて意地はるとこ可愛いよなア",
"歌手なんか、いらねえや。バンドの腕を見せてやるんだ",
"そうはいかねえらしいぜ"
],
[
"なア。オレたちのことなんか、サシミのツマほどしか書いてないぜ。馬草村のアンチャンは目が高いやア",
"アドルムのみてえよなア"
],
[
"どうも遠いところ御苦労さまです。皆さんお待ちかねですから、田沼さんは至急会場へいらして下さい。それから小森さんにはファンの方が昼食にお招きしたいとお待ちになっておりますが",
"ずいぶんおくれちゃいましたけど、昼食の時間あるでしょうか",
"ありますとも。では田沼さん。会場はあちらですから"
],
[
"私まだ歌手になって算えるほどしかステージに立たないのですけど、ファンの方って、どんな方?",
"イエ。ボクなんです",
"あら、まア",
"招待をうけていただいて光栄の至りです"
],
[
"あら、大変。もう会場へ行かなくちゃア",
"そうですね。ですが田舎のことですから、ちょッと唄って下さるだけで結構なんですよ。あとはバンドと田沼さんがやって下さるでしょうから",
"そうも行きませんわ",
"唄のあとで、またお目にかかれたらと思うんですが",
"ええ"
],
[
"どうも皆さん御苦労さまです。御夕食でも差上げたいのですが、バスがなくなりますのでね。ごらんのようにテンヤワンヤで、売上げがどうなったやら、会計も行方不明で、今日は精算ができませんので、とりあえず、帰りのバスと汽車賃、バス代二十五円の汽車賃二百七十円、六人分で千七百七十円也。どうぞお納め下さい。謝礼はさっそく精算の上お送りいたします。オヤ、もう最終のバスの時間だ。これに乗りおくれると、大変。急ぎましょう",
"お茶がのみたいね",
"とんでもない。東京とちがいまして、このバスに乗りおくれると狐に化かされてしまいますよ",
"ヤツ子さんは?",
"一足先に帰京されたのかも知れませんね。なんしろテンヤワンヤでして。モシモシ皆さん。本日の主賓、われらの芸術家を先にバスにお乗せ下さい"
],
[
"幹事ではいらッしゃるのね",
"そうなんです",
"井田さんに申上げるの筋違いかも知れませんけど、私はね、この文化祭にバンドマスターの谷さんがなさった契約、不満なんです。バンドの人たちとケンカしたのが、そのためなんですわ。往復の汽車が三等でしょう。私だけ二等で来たのです。素人歌手のくせに生意気だと仰有るかも知れませんけど、学生のアルバイトだからむしろ誇りが持ちたいのね。みじめな思いでドサ廻りまでしたくないのです。この村の方だって、駅ぐらいまで出迎えて下さるのが当然じゃないかと思うんです。これは私だけの意見ですけどね。谷さんは卑屈よ。学生で素人でヘタだからという考えですけど、ヘタで素人で学生のアルバイトだから、せめて汽車は二等車に乗りたいと思うのよ。駅と村の往復もタクシーでやっていただきたかったんですけど、駅にタクシーがないようですから、これは我慢しますわ"
],
[
"実に正当な御意見ですね。むろん二等、むしろ特別二等、もしくは一等車ですよ。さっそく幹事長に伝えて、御満足のいくように取りはからうつもりですが、なにせ百姓連中でしょう。バスの代りには歩くんです。汽車の代りには自転車でしょう。自分がそうですから、汽車の三等だってゼイタクだという考えなんです。汽車の屋根に四等席をつくってやっても、むしろ汽車の下に五等席をつくれと云うにきまっています。そのくせ五等席にも乗りたがらずに、足で間に合わせるのがなお利口だという考えなんです。この連中を説き伏せるのは、竿で星を落すぐらいメンドーかも知れませんが、あなたのためにこの連中と闘うことは、むしろボクのよろこびですね。ボクはとてもうれしいのです",
"うれしいッてことじゃアないと思いますけどね。商用ですからね。純粋な取引でしょう",
"ですから、うれしい。商用のお役に立つことが、とてもうれしいのです。人生は商用につきますから",
"ハア、そうですか",
"特にアナタは女性ですし、あの満員の聴衆を集めたのも主としてアナタの力ですから、他の六名を合わせたぐらいの報酬を要求なさっても当然なんですね。ボクは幹事長にそれを要求しましょう",
"それは無理というものですわ",
"エエ、もうあの連中にとっては全てのことが無理なんです",
"私はね。ただ私だけでも二等運賃をいただいて、谷さんに見せつけてやりたいのです。そのミセシメが必要だと思うんですよ。その程度の誇りを持つべきであるということを",
"むろんですとも。では応接間で待ってて下さい。幹事長をつれて来ますから"
],
[
"実はこれこれで、小森ヤツ子が二等運賃を請求しているが、キミひとつ幹事長の悪役をやってもらいたい",
"おやすいことです。しかし、女性一人ぐらい二等で帰してもいいじゃありませんか",
"いけませんね。彼女は所持金もあるようだから、帰りの三等運賃も差上げなくともよろしいかも知れませんね",
"そこまではボクにはやれそうもありませんが",
"イエ、そのときはボクがやります。では、ひとつ、幹事長",
"ハイ、ハイ。かしこまりました"
],
[
"二等というお話の由ですが、差上げたいのは山々なんですけれども、予算がありましてね。その予算がまた見事に狂いまして、本日の入場者千何百人のうちお金をだして切符を買って正式に入場したのが三十名ぐらいでしょう。三十円が三十枚で、たった九百円か。ウーム。これはまた少なすぎたな。どうにもならねえなア、九百円じゃア",
"それは会場整理の立場にあるアナタ方の責任ですわ",
"それはもう、たしかに我々の責任ですとも。ですから、いっそ自殺しようか、なんてことを云う者もあるし、死ぬにはまだ惜しい命だなんて声もあるし、テンヤワンヤですね。とにかく、どうにもなりません",
"何がどうにもならないのですか。自殺はできるはずよ",
"そういうはずですね。それは改めて研究しますが、二等運賃の方はどうにもならないようなんです",
"遁辞は許しません。あれだけの熱心な聴衆があったのですから、責任はアナタ方にあります。責任をとって下さい。自殺してみせて下さい。見物します",
"こまったな。みんなに相談いたしまして",
"アナタは幹事長でしょう",
"ハア。しかし、当村におきましては幹事長は小学校の級長と同列にありまして、一文のサラリーがあるわけでもなく、したがって責任も負わない規約になっておりまして",
"卑劣です。私はアナタを訴えます。その弁解は法廷でなさい"
],
[
"どういうワケなんですか?",
"ハ? いま申上げましたようなワケです。まことに、どうも、悲痛きわまる次第なんです",
"なんだか、ゾクゾク寒気がするわね",
"そうなんです。この夕頃の時刻は、土中の農作物が一時に空気を吸いこみますために、にわかに冷えます",
"私はまたアナタのせいかと思ったわ",
"感謝します。ありがとう",
"どういう意味?",
"ボクのいつわらぬ心境です",
"変った村ねえ。まるで外国にいるような気持になったわ",
"いいですね。夢をみて下さい。異国の夢。青春の一夜です",
"ワー。助からない",
"小森ヤツ子さん!",
"へんな声をださないで。私もう帰るわよ。でも、覚えてらッしゃい。二等の運賃は忘れないから",
"モシ、モシ",
"たくさんだッたら!",
"念のために申上げたいのですが、最終のバスはとっくにでました。次のバスは明朝まででませんが",
"私の連れの方は?",
"ボクは存じません",
"お連れの方はボクが最終のバスに御案内いたしまして、無事おのせいたしましたんで",
"私にはバスの時間も知らせなかったのね"
],
[
"今日は文化祭で若い衆が飲んでますから、婦人の夜歩きは危いです",
"ほッといて下さいな",
"イエ、どこまでもお伴します"
],
[
"村へ戻って泊るしかないわね",
"むろん、そうですよ",
"アナタ、夜道でも歩けるわね",
"イエ、ボクも全然見えませんが、なんとか歩いてみますから、ボクの背中につかまって下さい",
"不潔だわ。イヤよ",
"そうですか。じゃア帯の端を長く垂らしますから、それを握って、ついて来て下さい"
],
[
"ボクの母が一しょに食事したいそうですが",
"イヤよ。私ね。今夜はとてもお酒のみたいのよ。酔いたいわ。お母さんにナイショでね",
"それは分ってくれますよ。じゃア今夜は乾杯しましょう。うれしいですね"
],
[
"アナタは何なの? 村の大ボスらしいわね",
"外見はそうかも知れませんが、実は使い走りなんです。もうけているのは彼らですよ",
"その一万円、私にちょうだい",
"これは諸雑費の一部にどうしても必要な金なんです",
"私だって、必要よ",
"それなんですが、この深刻な農村不況を見て下さい",
"どこが不況よ。とても景気がいいじゃないの",
"税務署的見方ですね。ボクが裏の雑木林で炭を焼かせているでしょう。東京のアナタ方は四百五十円だの五百円でお買いになるそうですが、ボクが仲買人に売るのは一俵五十五円です。五十円と云うのを五円つりあげるのに数日の論戦が必要でした。ボクは泣かんばかりに訴えたのです",
"もう信じないわよ",
"御案内しましょう。農村の現状をつぶさに見て下さい"
],
[
"村に重要な約束があるのを忘れていました。このバスは東京行きの列車に接続しているはずですから、あまり待たずにお乗りになれますよ。まことにありがとうございました。これで失礼いたします",
"ちょッと!",
"ハ? 汽車はすぐ来ます",
"フーン。アナタ、バス代あるの?",
"ハ。車掌も顔ナジミですから"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第八巻第九号」
1954(昭和29)年6月1日発行
初出:「小説新潮 第八巻第九号」
1954(昭和29)年6月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年9月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"散歩した方が体躯にいいのよ",
"君一人で体躯をよくしたまへ",
"そんなにあたしがうるさいの……"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「今日の詩 第九冊」金星堂
1931(昭和6)年8月1日発行
初出:「今日の詩 第九冊」金星堂
1931(昭和6)年8月1日発行
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年4月8日作成
2016年4月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"なんだい、三文詩人",
"ヘヘイ、さればとよ"
],
[
"時に、丁度よいところへ来てくれたよ。実はね、あんたの処へ使ひの者をださうと思つてゐたところだよ。絵描きの朴水のところで婚礼があるさうでね、あいにく朴水のお母さんが病気ださうでね、料理人が足りないから応援たのむといふわけだが、見廻したところ子供のないのはあんた一人だけだから、直ぐ行つてやつてもらひたいね",
"オヤまあ、どなたの婚礼ですか",
"朴水さ",
"朴水さんは奥さんがお有りでせう",
"あゝ、あの奥さんの婚礼さ",
"あら奇妙ね。あの奥さんなら、もう年頃の娘さんまで有るぢやありませんか",
"それがね。朴水は今まで婚礼を忘れてゐたさうでね。四五年前に思ひ立つたんだとよ",
"ずいぶん長く忘れてゐたのね。よりによつて近頃のやうに物資不足の折にねえ",
"物資不足だから婚礼を思ひ立つたんだよ。かういふ折でもなきや婚礼なんぞは三文の値打もないものさ。とにかく、なんだよ、うちの子供を留守番に廻しておくから、さつそく出かけて下さい。なに、料理なぞは馬の食物でなきや何でもいゝのだからね"
],
[
"どうだい、遅れて行く代り、その酒を一本置いて行つてくれないか",
"そんなずるい手があるものか。それなら三合だけ置いて行かう",
"酒は朴水のところにも用意があるのだから、一升置いて行つてもいゝぢやないか",
"朴水はケチだから、いくらの用意もある筈がないさ。だから、かうして足りない分を用意して来たのぢやないか。酒といふものはみんな寄合つて飲むところに味がある"
],
[
"ぢや、信助のぶんと合せて六合",
"オイ〳〵。もう時間だぜ",
"何か酒を分ける容れ物はないか",
"三平は神経衰弱で永生きはできないのだから一升置いてつてやれ。どうせ俺達がお通夜の酒を飲むことになるのだから",
"容れ物がなければバケツぐらゐあるだらう。掃除ぐらゐはしてゐる筈だから",
"ウーム。バケツは――"
],
[
"ヤア、ゐるな。蛸博士",
"イヤ、信助は出掛けてゐるけど",
"なんだい。三平ぢやないか。之は都合が良い。信助を誘つてどうせ、貴公を訪ねるつもりのところだ。今朝まで大和の柳生の道場に泊つてゐたがね、久しく寺を無人にしておいたから、そろ〳〵甲州へ帰らうと思つて。お経が巧くなつたから、読んできかせてやらう",
"イヤ、たくさんだ。俺が死んだときまで、しまつておいてくれ"
],
[
"オイ、小僧。お前は恋をしてゐるのか。可憐なことだ。こゝへお坐り。お前の悲しみに就て語つてきかせて呉れ。お前はその娘の目が好きなのか。亜麻色の髪の毛だけに恋をして痩せたといふ子供があるのだからな。その娘はお前を見ると今日はを言ふ前にきつと何か意地の悪い仕種を見せるに相違ない。女は生れたときからもう腹黒いものだからな。ところが、そこが、男の気に入るといふわけだ。男はいつも傷だらけだ。靴となり、あの子の足に踏まれたい、か。お前の娘は、年はいくつだね",
"娘なんか、知らないや"
],
[
"へん、ここは酒屋ぢやないや。店を締めるから、どいとくれ",
"ヤイ、コラ。無礼者"
],
[
"お助け下さい。秋水さん",
"お助け下さいとは何事だ。お助け下さいとは、お前が何も悪いことをしないのに、人が鼻先へ刀を突きつけた時に言ふことだ。そもそも拙僧を秋水さんとは不届千万な小僧め。主人の不在のたびに店の品物を盗みだして喫茶店へ通ふとは言語道断な奴だ。天に代つて取り調べてやる。貴様の惚れた娘といふのはいくつになる",
"三十八です",
"三十八の娘があるか",
"いゝえ、嘘ではないです。ア、ア、痛々。お許し下さい。死にます。死にます",
"その店の名はなんといふか",
"オボロといふオデン屋ですよ",
"フーム。オデン屋か。奇怪千万な奴だ。貴様は毎日何本飲んでくるか",
"僕は酒なんか飲まないですよ。焼芋を食べるだけですよ",
"フーム。オデン屋で焼芋を売るのか",
"いゝえ。姐さんが毎日たべるのです",
"いくらで売るか",
"タダですよ。本を持つてくれば幾つでも食べていゝと言ふのです",
"こんなに暗くなるまで焼芋をたべてゐるのか",
"いゝえ。お風呂へ行つてくるから留守番をしろと言ふものですから、それに僕は近頃憂鬱ですから、店へ帰りたくないです",
"あたり前だ。店の本をチョロまかして焼芋を食はされた時には人は誰でも憂鬱になるものだ。アッハッハ。これは面白い。よろしい。その店へ案内しろ。我々は本を差上げて酒を飲もう。お前は本を担いで行け。姐さんはどういふ本が好きか",
"それは純文学ですよ",
"ナニ。純文学か?",
"えゝ。低級な小説は読まないですよ。とても教養が高いです。僕がジッドやヴァレリイを選んでやるから、お前は目が高いと言つてゐるですよ",
"なるほど、お前は目が高い。本屋の小僧には惜しい男だ。アッハッハ。これは耳よりな話があるものだ。オイ、三平、我々は婚礼をやめて、文学オデン屋へ出掛けようや。世の中の片隅には飛んでもない処が在るものだな。オイ、小僧。お前は高級な本を選んで包め"
],
[
"ちつとも薄汚くないぢやないか。さういふ考へだから、お前の小説はいつまでたつても風呂屋のペンキ絵みたいの贋物なんだ。人生の修業をしろ",
"俺は人生の修業はきらひだ。焼芋とヴァレリイの組合せが人生なら、俺は首をくゝつて別の国へ逃げて行かあ。そもそも汝富永秋水は保坂三平を何者と考へるか。余はもと混沌を母とし、風に吹かれて中空をとぶ十粒の塵埃を精霊として生れた博士であるぞよ。書を読めば万事につけて中道を失ひ駄法螺を生涯の衣裳となし、剣を持てば騎士となつておみなごのために戦ふけれども連戦連敗、わが恋の報はれたるためしはない。されば余は常にカラ〳〵と哄笑し、事あるたびに壁となつたり雞の卵となつて身を隠したり、痩せても枯れても焼芋とヴァレリイのカクテルから小僧のニキビを生みだすやうな下品な手品は嫌ひなんだ。エイ、者共、余につゞけ。嵐が近づいて来たぞよ。余は自ら一陣の風となつて宇宙と共に戦ふであらう。小僧よ。鐘を鳴らせ。貝を吹け。戦へ、戦へ"
],
[
"さては喧嘩をしたね",
"ジャコビン党の手先にやられた。あの奴らは暗殺の常習者だから、胸のポケットに毒針まで隠してゐやがる"
],
[
"俺の命は明日の朝まで危いのだ。注射をたのむ",
"どこをやられたね",
"身体中を探してくれ。血管の中も調べてくれ",
"どこで誰にどうされたのだ。見れば酔つ払つてもゐないぢやないか",
"ヤヤヤ"
],
[
"あゝ、余は敗れたり矣! お前はこゝへ先廻りをしてゐたか。敵ながら賢明なるジャコビン党よ。見かけによらぬ強敵だ。吾あやまれり矣! 敵の智謀を見損つてゐたのだ",
"はてね。君は信助君と喧嘩をしたのか",
"嗚呼余は実に彼の女房の女ジャコビン党員に毒殺されたのだ",
"フーム。その毒は飲まされたのか、それとも注射か",
"分らない",
"なぜ",
"気がついたときは部屋のまんなかに倒れてゐた。全身が毒にしびれ、頭が火のやうに焼けてゐる。俺の命も今夜限りだ",
"どれ、お見せ"
],
[
"お前の飲んでゐるのは何か",
"薬用アルコールと風薬のカクテルださうだよ",
"俺にも飲ませろ",
"明日の朝まで命の危い病人がアルコールを飲む手もなからう"
],
[
"エッヘッヘエ。お前は何度ジャコビン党に殴られたか",
"俺はまだ殴られたことがない",
"アッ、さうだ。今夜は朴水の婚礼だ。今頃はみんなお前の店先へ集つて出掛ける時刻ぢやないか。出掛けないと遅れるぞ",
"そんな話はきかないよ。お前は脳震盪を起してボケたのだらう",
"さては、さういふ事の次第かな。然し、待てよ。青眠洞がたしかに廻覧をまはしてよこして、娘が持つてきた筈だが",
"だから、それが幻覚といふものなんだ。第一、朴水の婚礼などが有る筈があるものか"
],
[
"このアルコールには殺気が含まれてゐる。メスの刃のしたゝりだ。スルメによつて、この毒を消すことができる",
"あんたは朴水さんの婚礼に行かないの",
"ヤ、ヤッ。見よ。まさに、それだ! さあ、停車場へ急がねばならぬ。とはいへ電車の時間があるから、おい、今度の発車は何時だ。電車の中のオカヅにはこのスルメが調法だから、之を紙につゝんで",
"駄目だよ。ウチのオカヅがなくなるよ",
"俺のオカヅもなくなるよ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「新女苑 第一〇卷第三号」
1946(昭和21)年3月1日発行
初出:「新女苑 第一〇卷第三号」
1946(昭和21)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年11月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042889",
"作品名": "朴水の婚礼",
"作品名読み": "ぼくすいのこんれい",
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} |
[
[
"その声をきくとウチの者が病気になるからやめてもらいたい",
"それは気の毒だが、下駄をぬぐまでは天下の公道だから誰に気兼もいるまい"
],
[
"コラ! ウチの孫娘をハダカにして絵にかくとは不埒な極道者め!",
"着物をきせて風呂に入れるつもりだろうかこの人は"
],
[
"石の牢屋へ入れてくれるぞ。この山には千年も前に鬼のつくった石の牢屋があるのだぞ。泣いても、どこにも泣き声がきこえんわ",
"怖しい人だわねえ。子供たちが無邪気に絵をかいているだけだというのに"
],
[
"家伝とは何事だ。お前の代までなかったものではないか",
"それが商法商才というものだ",
"モウモウとわきたつ草津の湯とちがって、お前の湯は小さいワカシ湯ではないか。一日にせいぜい一握りの湯渋がとれるだけだ。怪しき物をまぜているな",
"効能があれば、よい"
],
[
"部落の者はお前のおかげで仕事にもさしつかえているが、家宅捜査をやめてくれないかね",
"大泥棒が現れたのは部落全体の責任だから、犯人がでるまで協力するのが当り前だ",
"しかしだね。犯人が部落の者だとは限らない。保久呂湯へ泊っていた七ツの子供までお前のシマの財布のことを知っていたぐらいだから、去年保久呂湯へ泊った客も、オトトシ保久呂湯へ泊った客もみんなシマの財布のことを知っていたに相違ない。その中の悪者が姿を見せずに忍んできて盗んだかも知れないではないか",
"それはだます言葉だ",
"なにがだます言葉だ。保久呂湯へ泊った七ツの子供がちゃんと知っていたことはお前が子供の首をしめあげたのでも歴々としているではないか",
"なおさらだます言葉だ。ところがオレはだまされないぞ。オレの目には犯人が部落の者だということが分っている",
"その証拠を見せてもらいたい",
"盗まれた金はこの部落のどこかにある。金の泣き声がきこえてくる",
"それは証拠ではない。お前は神経衰弱のようだ",
"益々だます気だな",
"とんでもないことだ。理を説いてよく聞きわけてもらいたいという考えだ",
"理ならオレが説いてやろう。オレの盗まれた金のことはオレが誰よりも考えている。部落の者でなければ盗むことができないとオレが知っている。この部落から大盗人をだしたのはお前たちの大責任問題だぞ。今後オレをだまそうとすると承知しないからそう思え"
],
[
"みなによく聞いてもらいたいことがあって集ってもらったが、オレの盗まれた金のことだが、その隠し場所が分った。それは久作がこしらえている石の穴倉のどこかに隠されている。そこでみなに相談して腹をきいてみたいが、久作にあの山をくずしてもらって、穴倉の石を一ツずつ取りのけてもらいたいと思うのだが",
"オレが犯人だというのか",
"イヤ。そうは云わぬ。ただあの穴倉の中にぬりこめられていると分っただけだ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 14」筑摩書房
1999(平成11)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「群像 第九巻第七号」
1954(昭和29)年6月15日発行
初出:「群像 第九巻第七号」
1954(昭和29)年6月15日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2006年9月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "042971",
"作品名": "保久呂天皇",
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[
[
"今、上京しとります",
"ホテル、ですか"
],
[
"卵は半熟が用意してございます。リンゴもおむき致しましょうか",
"えゝ、朝はね"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二五六九二号、第二五六九三号」
1948(昭和23)年7月8日、7月8日
初出:「読売新聞 第二五六九二号、第二五六九三号」
1948(昭和23)年7月8日、7月8日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "042844",
"作品名": "本因坊・呉清源十番碁観戦記",
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"底本名1": "坂口安吾全集 06",
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"底本の親本名1": "読売新聞 第二五六九二号、第二五六九三号",
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} |
[
[
"いま記代子が帰ったところだよ",
"ええ。駅で、お見かけしました",
"どうして一しょに来なかったの?",
"ちょッとほかへ回る用がありましたので"
],
[
"記代子は、君が来ないうちに帰るのだと言って、いそいでいたぜ",
"ハア",
"何かあったのかい?"
],
[
"記代子は君に会いたくないと言っていたのだよ",
"ハア",
"君たち二人の私事に強いてふれたいとも思わないが、同じ社の仲間同士反目しても、つまらん話さ。とりわけぼくに親しい御両氏が睨み合ってたんじゃ、ぼくも助からんからな",
"ええ"
],
[
"君は奥さんがあるのかい",
"は?"
],
[
"君は御両親がなかったのだね",
"ええ。一人ぼっちです。ぼくは棄て子なんです。ぼくの名も、拾って育ててくれた人がつけてくれたのです。養父母は三月十日の空襲で死にました"
],
[
"娘の感覚は特殊なものがあるよ。ねえ、北川君。何かしら嗅ぎつけたことがなければ、君に細君があるなんて疑ぐりやしないぜ。奴め、何を嗅ぎつけたのだろう?",
"はア"
],
[
"べつに秘密にしていたワケじゃないのです。男の友達はみんな知ってることなんですが、女の方には、知られていけなくはありませんが、柄のよいことではありませんから",
"なんだい、それは?",
"ときどき、女たちが遊びにくるのです"
],
[
"女たち、ね",
"ええ。泊りにくるのです",
"女たちがかい",
"ええ。パンパンです"
],
[
"君、パンパンと同棲しているのかい",
"いいえ。ときどき泊りにくるのです。あの子たちは自分の住居がありませんから。間借りしている子もいますが、宿なしの子もいるんです。お客があるときは一しょにホテルへ泊りますが、アブレると眠る家がないのです",
"どうして君のところへ泊りにくるの",
"マーケットで、自然、知りあったのです。ぼくのアパートはマーケットの真裏ですから",
"日本も変ったもんだね",
"ハア"
],
[
"地回りに、なぐられないかい",
"まだそんな経験はありません"
],
[
"先生。いちど遊びにいらして下さい。パンパンたち、御紹介します",
"変った子がいるの?",
"べつに変ってもいませんけど、簡単にイレズミを落すクスリができたら、喜ぶでしょうね。はやまって彫って、新しい恋人ができるたびに後悔してるんです",
"君も恋人かい",
"いいえ"
],
[
"一人だけ、先生が興味をお持ちになるかも知れません。この子のことで、男が三人死んでます。外国人も。殺したのも、殺されたのも、自殺したのもいますが、みんな、ピストル。そして、三ツの場合ともこの子の目の前で行われたのです",
"妖婦なのかい",
"いいえ。無邪気な子です。まだ十九、可愛い顔をしています"
],
[
"オジサン。おしまいですか",
"ヤア。いいゴキゲンですね。オデンにしますか",
"ええ。お酒と。持って帰りたいのです。お客様がありますから。こちら、大庭先生です",
"ヤ。それは、それは。お噂は毎日北川さんからうかがっております"
],
[
"オジサンも、いっしょに、いかが",
"そうですか。じゃ、そうさせていただきましょう"
],
[
"北川さん。こまるよ。あんたは承知で、自分の部屋をパンパン宿にさせておくのかね",
"ハ。すみません。ヤエちゃんが気分が悪いそうですから、苦しかったら、やすんでいるようにと、カギを渡しといたんです",
"気分が悪いッて? 笑わしちゃア、いけないよ。あんたの留守に、お客をくわえこんで商売してるじゃないか"
],
[
"私ゃ、あんたに部屋をかしてるが、パンパンにかしてるんじゃないんだ。パンパン宿にかすんなら、貸し様があらアね",
"北川さんは神様みたいな人ですよ。悪気があってじゃないんだから、カンニンしてあげて下さいな"
],
[
"あんなに言うことないね。このアパートにゃ、パンパンもいるんだ。みんな店をひらいてらアな",
"ぼくの部屋代が滞りがちだからです"
],
[
"ア。カズちゃん。ぼくの部屋に、ヤエちゃんのお客がいるの?",
"いいえ。とっくに、帰させました。兄さん。すみません"
],
[
"私がヤエちゃんに代って兄さんにあやまってあげなければならないと思っていたのに、私がヤエちゃんを叱って、兄さんになだめられる始末じゃないの。変な風にさせるわね、あんたは",
"もう、いいよ",
"よかないわ。二度と再びいたしません、ぐらいのことは云ってもらいたいわね"
],
[
"魔がさしたのよ",
"あんた。自分のことを、そんな風に言うの?",
"ホテルへさそったけど、ショートタイムだからって、言うんです。私、お金がほしかったんです。部屋のない女だと思われたくなかったから"
],
[
"むつかしい本を読んでるなア。女子大学生のアルバイトじやないかって、男に言われなかったかい。二三日中にこのドアを叩くね。北川さんが顔をだすと、アレ、部屋がちがった。失礼ですが、アルバイトの女子大生はどの部屋でしょう",
"オジさん。お酒の支度しましょう",
"アッ。そう、そう"
],
[
"当ったわ。そうだろうと思っていたわ",
"本から目も放さずにかい"
],
[
"オヤ。二時ちかいね。私も帰らなきゃ",
"お疲れでしょう。ザコネなさらない"
],
[
"オジサン。私んとこへ泊ってかない。安くまけとくわ",
"商売熱心な子だね。親類筋を口説いちゃいけないよ。これだからマーケットは物騒だって、ウチのカアチャンが心配するはずだ"
],
[
"そうだね。それじゃ、ルミちゃんとこへ泊ることにしよう",
"うれしい"
],
[
"お部屋があるって、いいわねえ。こんなとこでも、お客ひろえるんだもの",
"すみません。でも、これがはじめてね。兄さんのお友達、お金もってたこと一度もないわ。あべこべにタバコまきあげるわね",
"貯金通帳見せろ、おごれよ、なんてね。兄さんのお友達、哀れだわよ",
"若いのは、ダメだ。お金もってるの泥棒だけ"
],
[
"オジサンに、兄さんに、先生か。男がみんな居るみたいだ",
"弟も、オトウサンもあるわよ",
"そんなの、男じゃないや"
],
[
"いくらだい。宿泊料は",
"半額にまけとくわ。千円"
],
[
"自分の部屋が、アア欲しい、なんて、インチキ云うわね、カズちゃん",
"どうして?",
"その気になれば持てるにきまってるわ、お部屋ぐらいはね。その気持がないのよ",
"宿なしの方が気楽というわけだな",
"兄さんにもたれて、あまえてるのよ",
"北川にかい",
"ええ。今夜は二人しかいなかったけど、ほんとは五人いるの。アブレると、五人泊りこんじゃうわよ",
"なるほど。貧乏するわけだな、五人も面倒みてやるんじゃ",
"そうよ。ほんとはね、カズちゃんたち、時々アブレたって、兄さんの給料の倍ぐらい、稼いでるわね。みんなムダづかいしちゃうから、ダメね。兄さんを当にして、その日の食費もつかっちゃったりしてね。でも、仕方がないわね。甘える人が欲しいんだから。誰だってね"
],
[
"兄さんのドタ靴、ひどいわね。雑巾のような靴下。買ってあげるわけにもいかないし",
"どうして?",
"カズちゃんたちだって、買ってあげたいと思ってるのよ。でも、してあげてはいけないの。誰がきめたわけでもないけどね。この集団の本能的な嗅覚なのよ。誰かが禁を犯すでしょう。この集団はメチャ〳〵。最後の日だわ。兄さんは誰のものでもいけないのよ"
],
[
"ドタ靴の元兇がね?",
"ええ。先生、知らない? その人",
"女ギャングをね。知らないな",
"婦人記者よ"
],
[
"なんて名の人だい",
"姓名は何てッたッけな。私、いちど、見かけただけ。三十一の大年増よ。背が高くって、姿はすばらしいわ。立派な服装してるわ",
"わかった。梶せつ子という人だろう",
"そう、そう。それ"
],
[
"梶せつ子がドタ靴の元兇だってのは、どういうワケだい",
"お金つぎこんでるから",
"どうして?",
"十年前から兄さんが思いつめた人ですって",
"北川がそう言ったのかい",
"いいえ。兄さんのお友達の人。でも、公然たる事実よ。兄さんの顔に書いてあるわ",
"知らなかったな。そんなことが、あるのかなア",
"若い者ッて、年長の人に心の悩みを打ちあけないもんよ"
],
[
"そんなものだわ、人生は。妙なものなのね。私たちだって、男を喜ばすために稼ぐ気持になることもあるわ。好きになッちゃったら、ハタからはミジメなものね",
"君も経験があるのかい",
"私は、ないわ。でもね。男の人をダメにしたことがあったわ。私はね、なんでもないと思ってるうち、そんな風になったの"
],
[
"ぼくにはカバン持ちはいないよ。この北川君とぼくの間には秘密がないのだ。小説を書くこと以外は北川君にやってもらうのだから。北川君にきかれてこまる話なら、ぼくも聞くのはオコトワリだ",
"まあ、君。そういったもんじゃないさ。ねえ"
],
[
"ぼく、別室へ参ります",
"いけないな。ここに居たまえ"
],
[
"君もガンコな人だね。ナイショ話なんてものも風流じゃないか。え?",
"君の態度を軽薄だと思わないのかい? 立候補なんてこと考えるようになると、そんな風になるもんかねえ。今日の話は、君にとっては重大なことのはずだが、君がそんな態度なら、ぼくはオツキアイはおことわりだ"
],
[
"礼子の奴、君に手紙をさしあげたのに返事がないと云って不思議がってるんだ。君の手もとに届かないんじゃないかなんて心配してたぜ",
"いや、もらってる。だがね。文筆商売の人間は筆不精で、実用記事以外書けないから、時候見舞の返事は書けないのだよ"
],
[
"青木夫人礼子さんが別居して鎌倉の実家にいるが、ぼくも鎌倉だから時々会うが、金に困って、気の毒な状態だね。君から、なんとかしてやれないだろうか",
"なんとかッて、どんなことを。そして、何かしなければならないワケが、ぼくにあるのかい"
],
[
"実は青木が、これは又、猛烈な四苦八苦なんだよ。あらゆる事業がおもわしくない",
"手広くやりすぎたのだよ。戦後のバカ景気がいつまで続くわけがないということを、ずいぶん云ったんだが、うけつけようともしないのだから",
"それで、君から、百万ぐらい都合してやれないかね"
],
[
"話の本筋にふれないかね",
"まアさ。ぼくの夢だって、きいてくれよ。数年の苦闘史をね。受難史だよ。仕事は外れる。女房は逃げる。来る時には一とまとめに来やがるからなア。なんど首をくくりたくなったか知れないよ"
],
[
"受難史はいずれ承ることにして、別居のテンマツをきかせたまえ。もっとも、君が語りたくなければ、ぼくの方はこれ幸いで、ききたいと思ってるわけではないがね",
"まアさ。長さんは相変らず堅苦しいね。それで女にもてるんだから。アッハッハッ"
],
[
"だからさ。礼子に会ってやってくれよ",
"なぜ",
"礼子がそれを語る適任者だからさ。ぼくなどの出る幕じゃないよ。礼子が君に語るであろう切々たる胸のうちが、全てを語って余すところなしさ"
],
[
"実は、礼子がくることになってるのだがね",
"ここへかい",
"いや、喫茶店で待ってる。もう来てるだろうよ。会ってやってくれよ",
"どうして君は会わせたがるんだい",
"ジャケンなことを言う人だねえ。会ってやったって、いゝじゃないか"
],
[
"すまん。実に、バカなんだ。ぼくは、ね。女房のことでも悩んだが、しかし、金の悩みにくらべれば、微々たるものさ。女のことで死ぬなんて、まだ花ある人生ですよ。ぼくみたいに、金々々、金ゆえに首くくりを何年何ヶ月思いつめた人間というものは、これはもう首をくくる先に骨の皮の餓鬼なんだ。逆さにふっても鼻血もでないなんて、昔の奴は、無慙なことを、いとカンタンに云いやがるよ",
"書斎へ戻るのが賢明だと思うがな。昔のようにさ。たった五年前の昔だ。礼子さんも事業家からは逃げだしたが、書斎の君のところへは戻るだろうと、ぼくは思うよ",
"まアさ。小人には君子の道を説いても、ムダなものだよ"
],
[
"こちら、北川さん?",
"そうです。在京中は形影相伴う血族ですから、お心置きなく"
],
[
"ここ、カフェーというんでしょうか? バーですか。キャバレーですか",
"バーというんでしょうね。定義は知りませんが、洋酒を最も安直にのませるところです",
"女給さんは?",
"おります"
],
[
"バーの繁昌はお酒の良し悪しですか、女給さんの良し悪しですか",
"そうですね。お酒の良し悪しと答えると女給は怒るだろうな。しかし、女給の良し悪しと答えてもバーテンは腹を立てないだろう。してみると、女給のせいだ。なア、エーさん",
"ヘッ。お酒と女の良し悪しのため。こう言ってくれなきゃ、アタシといえども怒りますよ"
],
[
"北川さんとおッしゃいますわね",
"ええ",
"北川……放二さん?",
"そうです"
],
[
"梶せつ子さん。御遠縁とか、そうでしたわね",
"ええ。血のツナガリはありませんが、親同志が親しかったのです。同窓ですか",
"私の?",
"ええ",
"同級生?",
"え? 同窓ですか",
"フフ"
],
[
"あら。大庭さんまで。同級ときいては下さらないわね。私、そんな婆さんかしら。あの方は、おいくつ?",
"満ですと、二十九です"
],
[
"すると、青木君に新しい恋人ができたので、あなた方は別居されたんですね",
"あら。そんな。青木の恋愛は最近のことですわ。私たちが別居したのは、昨年の早春でしたわ"
],
[
"早晩そんなことも起るでしょうよ。別居しているうちには、ね。しかし、北川君も知らないことを知ってるようじゃ、あなたも青木君が気がかりなんでしょう。元の枝へ急ぐべし。しかし、その恋愛を北川君が知らないようじゃ、あなたの思いすごしでしょう",
"あら。私、よろこんでるんです。青木に新しい恋人ができて",
"青木君からそんな報告がきたんですか。新しい恋人ができたから喜んでくれッて",
"まさか",
"じゃア、大きなお世話じゃありませんか。人の色話はよしましょうよ。もっとも、口惜しい、というのなら、ま、ごもっとも、合槌ぐらいうつ気持にはなれますがね",
"私、ホッとしましたのよ。どなたか見てあげなければ、青木は淋しくって、やってけない人なんです"
],
[
"梶せつ子さんて、どんな方? 物ごとをテキパキ手際よく処理なさる方? そして、それが容姿にあらわれて、スラリと、小牛ぐらいも大きくてユッタリとしたペルシャ犬のような方かしら",
"そうかも知れません。ペルシャ犬は知りませんが",
"義理人情に負けない方。しかし、どっちかと云えば、あたたかい感じ。表面はね。姐御肌、いえ、女社長タイプというのね。あわれみ深いんだわ。恋人をあわれむけど、愛せない方。恋人は愛犬。そして、本物の犬はお嫌いでしょう、その方",
"そうでもありません。ぼくには弱々しい人に見えます。仕事に身を託して、孤独と悲哀をようやくせきとめておられるようです",
"そうでしょうか"
],
[
"あなたとぼくのオツキアイの上で、ぼくの一存で、あなたの生死が左右できるようなイワレがあったでしょうか。かりにも一人の生死にかかわることであれば、ぼくも責任をもちたいとは思いますが、イワレなく責任をもつわけにはいきません。あなたは健全な常識を身につけた方でしたが、かりに立場をかえて、あなたがよその男から、同じことを持ちかけられた場合を考えていただきたいと思います",
"非常識は承知いたしております。ですが、ただ御返事をいただくだけでよろしいのですが、それも御迷惑でしょうか",
"それがですよ。返事の仕様のない場合も、あるものですよ。一方の感情がたかぶりすぎて、非常事態宣言の線を突破しているときには、平時の安眠にふける庶民の魂は、ついて行けないのが自然です。たとえば、です。夜道にオイハギにやられつつある男が、たまたま通りかかった人に、助けをよびかけます。これに対して、よびかけられた方は返事の仕様がありませんよ。余は武術のタシナミもなく、非力であるから、助けたい気持もあるが、兇器をもてるオイハギに立ちむかって汝を助ける力量はないと自覚している。余としては、侠気と生命慾との差引勘定にしたがって、余の行動を決せざるを得ない。よって余は汝を見すてて逃げ去るであろうが、汝これを諒せよ。こう事をわけて返答してもいられませんよ。あなたの場合も、これに類する場合です"
],
[
"おいそがしくてらッしゃるのに、時間をさいていただいて、ありがとうございました。私、青木と会う約束がございますので、失礼させていただきますが、今夕、青木とお会いなさるんでしょうか",
"ええ。その約束はしております",
"でしたら、そのあとでゝも、も一度、お目にかからせていたゞきたいと思いますけど",
"もうお話することもないようですが"
],
[
"じゃア、青木君と三人で",
"ええ、青木となら、かまいません",
"じゃア、ぼくたちの話が終るころ、七時ごろにでも、いらして下さい"
],
[
"ぼくの気持は、きいての通り、あれで全部だよ。君の一存で、自由に捌いてきてくれたまえ",
"お気持だけはお伝えしてきます。ですが、一存で捌きはつけかねますが",
"今夜一夜の間に合せの捌きだよ。あとは、どうなろうと、かまやしないさ。こんなバカバカしい話はもうタクサン"
],
[
"ここの勘定も、実は長平さんを当てにしていたのさ。こうなると、お酒もノドを通らないね",
"ここの勘定ぐらいでしたら、ぼく、おたてかえ致しておきます",
"え? 君、そんなお金持かい",
"大庭先生からお預りしたお金ですけど、事情を申上げれば了解して下さると思います",
"君、どれぐらい、預ってる?"
],
[
"君、お金に困ったことなんか、ないだろう",
"そうでもありません"
],
[
"君、ぼくを嘲笑っているのだろう。金の泥沼に落ちこんだ餓鬼をね",
"そんなことはありません",
"旱魃はちょッとの水じゃ救われないッて、それが、なにさ。金の泥沼は、そんなものじゃないんだよ。金の世界は、その日ぐらしのものさ。一日の当てがありゃ、又、なんとかなる。攻略し、退却し、又、攻略し、まさに絶えざる戦場だよ。まだ、あんたには分らない。分らなくて、しあわせなのさ"
],
[
"ま、一献いきましょう。なに、お会計は心配しなさんな。北川さんが、ひきうけてくれるとさ。こちらの奥さん、ぼくのフトコロにコーヒーをのむ金もないの御存知なのさ。奥さんだって、帰りの電車賃しかないんだからね。ぼくの方じゃ、車代も長平さんからタカルつもりだったんだが、身代りだから、北川さん、覚悟してくれよ",
"大庭さんはお見えにならないんですか",
"あんたほどの麗人の口説も空しく終りけりというわけさ"
],
[
"なア、北川さん。人間は一手狂うと妙なことをやるものさ。この奥さんが大庭君を思いつめて離婚すると云いだす。折しもぼくは八方金づまりで大庭君に救援をもとめようという時さ。二つは別個の行きがかりだが、これが重なると変な話さ。ぼくも考えて、変だと思いましたよ。まるで女房売るから金よこせみたいじゃないか。けれども、そう思いつくと、妙なものさ。変なグアイだから、やりぬけ、やりぬけ、とね。なんとなく悪党らしい血もたかぶるし、負けじ魂もたかぶるしね。いつのまにやら、女房の代金をとる計算にきめているのだ。今だって、そうだぜ。女房はごらんの通りふられてくるし、大庭君は買わないつもりらしいが、ぼくは今でも売りつけるハラさ。是が非でも取引しようというわけさ",
"悪党ぶるのは、よして。私まで気が変になりそうよ。お金の必要なのは分っていますが、誤解をうけるような言い方は慎しむ方がよろしいのです",
"誰が誤解するだろう? どう誤解したって、ぼくの本心より汚く考えようはないじゃないか。ぼくは金の餓鬼なんだ。これが人間のギリ〳〵の最低線さ。借りられるものは、みんな借りまくッてやる。なに、ひッたくるんだ。かたるんだよ。かたるだけ、かたりつくして、残ったのが、大庭君だけさ",
"私も大庭さんにあなたの窮状を訴えてさしあげたいと思っております",
"奥さんや。ぼくたちの心の持ち方は、どうも、変だ。不自然ですよ。本心にピッタリしないところがあると思うな。ぼくたちは味方ぶりすぎやしないか。不当に憐れみたがってるよ。ねえ、奥さんや。ぼくは君を売る。君もぼくを売りたまえ。めいめいが自分だけの血路をひらいて逃げ落ちようや"
],
[
"梶さんから、それらしい話おききですか",
"ぼく三週間ほどお目にかかっていませんので、何もおききしておりません"
],
[
"ですが、あすお会いする約束ですので、そのお話をうけたまわるかも知れません",
"え? 君が、あす、梶さんに会うって?"
],
[
"君は、どうして、あの人と……",
"北川さんと梶さんは、親同志親戚以上に親しくしていらした方"
],
[
"速達をいただいたのです",
"いつ?",
"昨日の午前中でした",
"発信は、どこ?",
"そこまで調べませんでした",
"その速達、見せてくれない?",
"いま持っておりません"
],
[
"社用で大阪へ行ってるはずだ。五日前にたったんだが、まだ二三日は戻らぬ予定ときいていたが",
"たぶん旅先からだろうと思います",
"あす、どこで会うの",
"ぼくの社へ来て下さるのです。いつとは云えないが、夕方までに必ず行くから、外出中は行先を書残して出るように、と。そんな文面からも、旅先からの便りのような気がします"
],
[
"君はぼくを警戒してるね",
"なぜでしょうか",
"君はぼくの信じていたことを信じさせるように努力してるじゃないか。余はナレをスパイと見たり"
],
[
"じゃア、明日一日中、ぼくを君の社へ詰めさせてくれよ。梶さんの訪れを待つために",
"ええ。どうぞ"
],
[
"それから、大庭君にも会わせてもらいたいのだ。是が非でも、たのむよ。拝みます。この通り",
"お気持はおつたえしますが、先生の御返事はぼくには分りかねます",
"大庭君はいつまで東京にいるの",
"あと三四日で、お帰りです",
"なア、北川さん。ぼくは、もう、今夜は君のソバから離れないぜ。君のうちへ泊めてくれたまえ。それがいけなかったら、ぼくの宿へ泊ってくれたまえ。もう、こうなったら、はなすものか。君こそは、わがイノチの綱ですよ。君またワレに憐れみを寄せたまえ"
],
[
"ぼくのアパートでよろしかったら。おかまいはできませんが",
"ありがたい。実に、君は心のやさしい人ですよ。君の善良な魂すらも疑るような、ぼくの泥まみれの根性をあわれんでくれたまえ。ぼくは容赦なく君にあまえるよ。君あるによって今夕の勘定を救われ、君あるによって明日に希望を託し得。いつもギリギリの戦場、最後の線に立てられてさ。敗残兵の自覚がもてないところが哀れでもあり、ミソでもあるというわけらしいな"
],
[
"定宿はありますけれど、そこへお泊りとは限りません",
"定宿はどこですか",
"ぼくの一存で申上げるわけにいかないのです。先生のお仕事をまもるのが、ぼくの任務ですから"
],
[
"大庭さんのお宿おッしゃい!",
"それも受難の宿命かと思いますが"
],
[
"あの奥さんは?",
"いまお帰りになりました",
"君をよびだしたのは、お金を貸してくれというのだろう",
"いゝえ、そんな話はありませんでした",
"え? ほんとかい?"
],
[
"君をよびだして何をたのんだの? 長平さんに会わせてくれろッて?",
"宿をおききでした。お教えできませんでしたけど"
],
[
"こんばんは。兄さん、泊めてね。私だけ、アブレちゃッたのよ",
"私もさ"
],
[
"嘘つきね。いま、お客を送りだしたとこなのよ。ほら、なアさんという人",
"アッ。あの人、まだきてるの?"
],
[
"すごいわねえ。ルミちゃん。あんた、また、殺しちゃうのね。ああ、四人目だ",
"人ぎきの悪いこと言うわね。熱病やみの幻覚だ"
],
[
"だって、あの人、死んだ人の片割れじゃないの。あんなことのあとで、また来るなんて、死神がついてるわよ。ヤミ屋も食えなくなったし、強盗でもやってんだろ",
"幻想がよくつづくわねえ",
"ピストルぶッ放すんなら、私の居ない日にしておくれ"
],
[
"アドルム、おのみ",
"うるさいッ"
],
[
"ルミちゃん。今夜、この方を泊めてあげられる?",
"ええ。どうぞ"
],
[
"昨日も、今日も、か。なんだか、変ね。フジちゃんに悪くないの",
"アタイは浮浪者だもん"
],
[
"あら。兄さんからなの",
"この方のお金、お預りしてるんです",
"そう",
"君の奥さんじゃないんだね"
],
[
"不倫も怖るるところにあらずだがね。ルミちゃんか。よろしく、たのむ。可愛がっておくれ。オレにも死神がついてるのかも知れねえや。しかし、君は美人だなア、ほんとに、奥さんじゃないんだね",
"アイ・アム・パンパン",
"メルベエイヤン!"
],
[
"え? なに? 君、異様な質問を発したようだね。なんだって?",
"アンタノオクサン、カジ・セツコ!"
],
[
"え? なぜ知ってるの。梶せつ子を",
"あんたの方が変だわね。梶せつ子にナイショ、ナイショって、なんのことなの。それがハッキリしなければ、この門は通行止め",
"ハッハ。はからざりけり。とんだシャレだったね。しかし、ぼくはシャレたわけじゃなかったのさ。ぼくのくぐったのは、地獄の門。こんどくぐる門、どこの門。地獄の次の門てのがあるのだろうかと悲しくって呟いたんだが、地獄の次の門てのは、ここのうちに在ったのかね",
"ここすぎて悲しみの門か",
"え? 君はダンテを読んだの",
"喫茶店の広告文さ。門という店のね",
"なるほど。君には人のイノチをとるものが、そなわっているのかも知れないな"
],
[
"跫音に戸籍を問えば、跫音の答えて曰く……それから?",
"ここだけは戸籍のいらないところだろう",
"ここで死んでごらん。警察が私にきくのは、跫音の戸籍だけ。ほかのことは何もきかない",
"なるほどね。わかった。君こそは、全世界の、全人類の、検視人かね。戸籍の総元締めというわけかい",
"エンマ様の出店らしいわね",
"跫音の答えて曰く、か"
],
[
"みんな当らなかったようだわね。あんた、なんなのよ",
"さッき申上げた通りの者さ",
"兄さんの、なんなのよ",
"今日はじめて会った親友さ。梶せつ子に会えるように手引きをたのんだ次第でね",
"どこで会ったの? 飲み屋?",
"街頭でタバコの火をかりて、モシモシあなた梶せつ子さん知ってますか、なんてことはないでしょう",
"じゃア、飲み屋で、酔っ払って、泣いてたのね。あんたぐらいの年配の人、酔っ払うと、ムヤミに大きなことを言ってバカ笑いするもんね。あんたみたいに、メソメソするのは例外よ",
"葬式の跫音なんだな"
],
[
"なんだい。煙を吹いてるんじゃないか。すうもんだぜ、タバコは",
"すうのはキライ。むせるから。ぼんやり考えごとをするとき、タバコふかすのよ",
"一本おくれ",
"あんた、立派なミナリしてるけど、お金ないのね。さっきの二千円も、あんたのお金じゃないでしょう",
"御説の通りさ。礼装乞食というんだな。電車賃まで北川君にオンブしているのさ",
"酔ッ払い!"
],
[
"君たちにとって、兄さんはなんに当る人なんだい",
"私たちは人間の屑というのかも知れないな。でも、あんたたちほど変な世渡りしていないよ。兄さんにタカルような根性だけはないわね。すがっているのよ。屑だもの。すがらずに生きられないわ。兄さんは私たちの大きな大きなママ。心のふるさとよ"
],
[
"許してくれ。兄さんにも、あやまってくれよ。一晩ほッといてもらうと、ぼくも助かるよ。泣いて、泣きあかしたいのだ",
"例外中の例外"
],
[
"退屈しのぎに、いいなあ。よんでこいよ",
"ダメ。ジャーナリストはうるさいから。すぐ評判がたってしまうわ",
"オ。やってる。オバアチャンも飲んでるわ。オ。キュッと一息にやりおったなア。ワア、酔っ払ってる。面白れえな。あのオバアチャンは、どなたかいな",
"呉竹しのぶ",
"ワア、面白れえ。よんでこいよ。あッちへ行こうか",
"いけません。私は面白くないんです。文士だのジャーナリストって、酔っ払うとダラシがなくッて、礼義知らずなのよ",
"オレとおんなじだなア",
"ダメですよ。こちら側へお座んなさいね。ききわけがなくッちゃ、いけないのよ。私のお酌で、お酒めしあがれ"
],
[
"梶さんでいらッしゃいますか",
"ええ。そう。あなたは?",
"私、北川放二さんの代りに、お待ちしていました。大庭記代子でございます",
"ア。あなたなの。大庭先生の姪御さんは",
"ええ。この御手紙に用件が書いてあるそうです。御返事をいたゞいてくるように仰有ってましたの"
],
[
"青木さんには私が帰京したことナイショにしてほしいわ。二三日帰京がおくれるッて電話があったことにして",
"小ッちゃな雑誌社でしょう。応接室も社長室もないんですの。編集も業務も小ッちゃな一室にゴチャまぜ。青木さんの目の前に電話があるんですから、こんな電話がありましたッて、ちょッと云いかねると思います"
],
[
"じゃア、あなたが社へ戻って十分ぐらいすぎたころ、誰かに電話かけさせましょうね。旅先から知らせがきて、放二さんに伝言があったから、と、そう云ってもらったら、よろしいでしょう",
"ええ。じゃア、五時か、五時ちょッとすぎたころ",
"ええ。それでね、青木さんをまいちゃッて、あなたと放二さんとお二人で、マルセイユへきてちょうだい。スペシャルのフランス料理ごちそうするわ"
],
[
"今日は私の記念日なのよ。とても嬉しいことがあったのよ。たぶん、私の生涯の記念日になると思うわ。第一回の記念日に、あなた方と祝杯をあげるのは、因縁ね。きっと、重大な意味があるのよ。お食事のとき、記念日のわけ、話しましょうね。飛びきりのフランス料理たべながら",
"まあ、素敵ね",
"青木さんは、うまくまいてちょうだいね。そんなこと、できそう?",
"ええ、カンタンよ。私たちアベックで散歩したいんですからと云ったら、その場で退散しちゃうでしょう"
],
[
"小説家の大庭長平さんのお部屋へ案内していただきたい",
"大庭さんとおッしゃる方ですか",
"そう。五十がらみのデップリした西郷さんのような大男だよ",
"ちょッと分りかねますが",
"三人づれだよ。はじめ西郷さんが待ってるところへ、美青年と美少女がアベックで訪ねてきたはずさ。しらべてみたまえ"
],
[
"でも、こまるでしょう",
"こまっているのは、いつもの話さ。今さら、こまることはないやね",
"いいえ。こまる、とおッしゃい",
"ハッハ。あなたも貧乏人だから、この心境はわかるはずだがなア。焼石に水ッて云うでしょうがね。アレですよ。今のぼくには、十円から百万円までは同じゼロですよ。貧乏人にとっては、必要とする金額まではゼロなんだね。お金持みたいに、借金を貯金するわけにはいかないらしいよ",
"でも、あるものが、なくなれば、こまるでしょう",
"焼石に水はマイナスの場合にも当てはまるらしいね",
"こまるとおッしゃい。おッしゃらなければダメなんです"
],
[
"あなたは虚勢のために自滅しているのよ。虚勢のために、真実を見ることができないのです",
"ハッハ。それは、あなたも同じことでしょう"
],
[
"それはいけないよ。覚悟ほど人生をあやまらしめるものはないからな",
"あやまるのが人生なのです"
],
[
"あんまり幸福そうですから、不安になるんです",
"幸福すぎちゃアいけないの?",
"それに越したことはないのですけど、マサカの時を考えて、程々にしておくことが大切だろうと思うのです",
"ずいぶんジミだわね。あなた、いくつになったの",
"ぼくは無邪気になれないのです",
"からかわれてるみたいね。坊やにませたことを云われるのは、変なものだわよ"
],
[
"でも私たちから、お願いしてみることはできてよ。お願いもしないうちから、そうときめてしまうのは、弱気すぎやしないこと。私、断然、お願いしてあげるわ",
"素敵だこと。放二さんには、あなたのような明朗なリーダアが必要なのね。さもないとハムレットになりかねないわ。記代子さんが現れて下さったから、大安心よ"
],
[
"ぼくたちには本当のことを教えて下さい。青木さんも金主の一人ではないのでしょうか。共同経営のようにうかがってましたが",
"ちがいます"
],
[
"あの方の話は止しましょう。私がまちがっていたのです。あの方の境遇に同情したことが。事業に同情は禁物なの。心を鬼にしなければいけないのね。忘れたいことを思いださせてはいけませんよ",
"そのために青木さんは自殺なさるかも知れません",
"事業に同情は禁物なのです"
],
[
"ええ。青木さんではないそうです",
"すると、青木の立場はどうなるのだろう",
"たぶんクビだろうと、御自身が仰有ってました",
"御自身て、青木がかい",
"そうです",
"クビになる金主もあるのかね"
],
[
"先生。先入主をおもちになっては、いけないと思います",
"先入主って? どんな?",
"たとえば、梶さんが、俗で、世間師で、性格の強い人だというような",
"むろん、会ってみなければ、わからないさ。正体が知りたいから、会ってみたいのさ"
],
[
"ヤ。いる、いる。こんちは。長平さん",
"ヤ。君か",
"不意打ち、御容赦。天をかけ、地をくぐり、習い覚えた忍術が種切れになるところで、ようやく、つきとめました、ハイ",
"ま、あがりたまえ",
"なんでもないような顔をして、こまった人だね。歓迎はしていないかも知れないが、イマイマしいというお顔には見えないのだからな。意地のわるい人さ"
],
[
"初夏の汗だか、冷汗だか、分らないやね。ときに、ここが、東京の別荘ですか",
"なんでも、いいや",
"妾宅かな"
],
[
"ぼくはね。今夜、梶せつ子に会うよ。まったく、池の中へ石を投げているのだろうよ",
"フン。どこの池にでも石を投げてくる人だよ。ルミ子さんの池にも石を投げてきたんだってね",
"君は素人の山登りなんだな。天候を見て、下山することを忘れているんだ。アッサリ遭難しちゃア、つまらない話だな",
"往生際はわるいらしいがね"
],
[
"梶せつ子に会っても、ムダだな",
"え? なぜ?",
"ふ。そうかい。是が非でもかい"
],
[
"よろしい。梶せつ子に会えるようにしてあげよう",
"え? なんだって?"
],
[
"大阪の事業団体て、だれ?",
"極秘よ。まだ、いえない。御想像にまかせるわ。銀行屋さんでも、紙屋さんでも、印刷屋さんでも、高利貸でも",
"すると、その中のどれでもないわけだ"
],
[
"今からそれじゃア、大成おぼつかないぜ",
"私の雑誌はね。創刊号に七十万刷ります。三号には、百万にして見せるわ。私の欲しいのは、時間だけ。ただ、忙しいの。十分間が一日の休養の全部だわ。これじゃア、大成おぼつかないわね。じやア、失礼させていただくわ。いずれ、又、ゆっくりね"
],
[
"築地の疑雨亭という料亭。待合かしら。古風で、渋くッて、それで堂々としていてね。大庭先生がお好きになりそうなウチなのよ。そこへお連れしてちょうだいな。ここに地図があります",
"ハア",
"大庭先生は、どんな芸者が、お好き",
"わかりません",
"美人で、娼婦型で、虫も殺さぬ顔で悪いことをしているような人?",
"どうでしょうか",
"案外、あたりまえの、つまらない美人がお好きなのね",
"さア。見当がつかないのです",
"芸者遊びはなさらないの",
"なさるでしょうが、ぼくはその方面の先生の生活にタッチしたことはありません",
"放二さんはオバカサンね。先輩に接触したら、裏面の生活を見る方が勉強になるわ",
"ぼくは反対だと思うのです",
"どうして?",
"遊ぶときは、誰でも、同じぐらい利巧で、同じぐらいバカだと思うのです",
"マジメの時は?",
"ぼくは、まだ、人生で何が尊いものだか、わからないのです",
"せいぜい、長生きなさい"
],
[
"大庭先生は短気の方?",
"いいえ。むしろ、寛大です",
"しかし、皮肉家ね",
"いいえ。いたわりの心が特に先生の長所だと思います",
"私のこと、どんな風に考えてらッしゃるらしいの?",
"今のところ白紙だろうと思いますが"
],
[
"ありのままのあなたは、先生の一番近い距離にいる女の方だと思うのですが",
"一番近い距離って、なんのこと",
"魂のふれあう位置です"
],
[
"小さな反撥や身構えはいけないと思います。ほんとうの奥底に通じあう道をはばみます",
"なんのこと?"
],
[
"コニャックは珍しいな。十何年ぶりの再会になるだろう。これを、もらいましょう",
"ハイ",
"時に、ローソクは、どうしたわけですか。今日は東京の停電日ですか",
"いいえ。なんのオモテナシもできませんので、趣向したのですけど、先生のお気に召しますか、どうか。開店二日目の記念日なんです",
"このお店は今まで休業ですか",
"いいえ、私自身の開店記念日。大庭先生を招待させていただくのは、身にあまる光栄でございます"
],
[
"あなたが梶さんでしたか",
"ハイ。どうぞ"
],
[
"いろいろと、そうは、のめないよ",
"これは酔心の生一本だそうですけど",
"ほう。日本酒まで珍しいな"
],
[
"御多忙の先生はアプレゲールの寄席など御立寄りの機会もあるまいと思いまして、よんでみましたが、ガサツで、おきき苦しかったでしょう",
"いいえ。ごらんの通り、抱腹絶倒、戦後これほど笑ったことはありません",
"そうですか。では、ほかに二三用意がございますけど、やらせましょうかしら",
"どうぞ。見せて下さい",
"それじゃア、ちイさん"
],
[
"先生。あとに残ったのは、みんな芸なし猿なんです",
"あら、ひどいわねえ。芸者はあんな柄のわるい、ストリップなんて、できないわよ"
],
[
"アラ、色ッぽいわねえ。お蝶ちゃん",
"旦那ア。やけるわよう",
"あの目。たまらないわねえ。男殺しイ。子供のくせに。すえが思いやられるわよう"
],
[
"そう、そう。夢ちゃんの糸がいいわ",
"ひどいわねえ"
],
[
"ええ。この席には女は一人もおりません",
"え? 洋装の人は髪の毛が本物でしょう",
"ええ。ですけど、男なんです。お蝶ちゃん"
],
[
"お風呂はいかが?",
"それには及びません",
"お寝床もしいてございますから、どうぞ、ごゆっくり"
],
[
"悪趣味の女とお思いでしょう。因果物ばかりお見せして",
"いいえ。たいへん有りがたく思いましたよ。珍らしいものを見せてもらって。ところで、あなたは、どっちのあなた? 裸のお方かな? 暗闇で手を握ったお方?",
"どっちが、おすき?",
"梶せつ子さんは、どっちかな",
"二人ともよ。そして、お好きなほうよ。どっちも私ですもの。先生。手を握りましょうか"
],
[
"どう? 覚えてらッしゃる。おんなじ?",
"わからないね",
"じゃア、こう"
],
[
"でも、先生。不安を感じませんでしたか",
"どうして?",
"私ね。あとで、男娼の手にすりかえさせようかと思ったんです。はじめの計画は、そうだったの。男娼はよろこぶわ。暗闇で先生に頬ずりしてよ。甜めるわよ",
"どうして、そんなことがしたいんです",
"ひどい方"
],
[
"なぜ青木さんに変な名刺もたせてよこしたんです。イタズラッ児。もっと悪意にとったわ。でもね。イタズラッ児の仕業と思って我慢してあげたんです",
"悪意にとっても、かまわんのさ",
"先生は私を悪い女とお思いなんでしょうね",
"そうきめてかかれば、わざわざあなたを見物に来やしないさ",
"私は同情はキライなんです。そして、ジメジメした人情も",
"キライと好きは生涯ハッキリしませんよ"
],
[
"先生は私のどこがお好きなの",
"今日のあなたは一流だよ",
"ヒョッと思いついただけよ"
],
[
"先生は一流ね。なんでも、ヘイチャラなのね。一流でなければダメだわ。青木さんなんか、ダメ",
"一流の人間は三流四流を好むものかも知れないよ",
"じゃア、私は四流のパンパンよ"
],
[
"実はね。梶せつ子の新社へ一介のサラリーマンとして採用してもらいたいんだ。恨みも迷いも、すてたんだ。それを捨てるのに、一週間、かかったんだよ。ねえ、君。考えてみれば、ほかに、オレみたいな老骨を拾ってくれる会社はないじゃないか。誇りなんぞ、持ってやしませんよ。生きるには、食わねばならず、食うには、どこかで拾ってもらわざるを得なくなったからですよ。枝葉末節を語ればキリがないが、荒筋はそれだけさ",
"働くポストは",
"門番でも、事務員でも、編集でも。長と名のつくものを望まないよ。女房に逃げられた男が、ふった情婦の店で働くのに御慈悲の長は所を得ていませんよ。まア、当分、考えることを探すわけさ。もし人生に考える価値のあるものが在ったとしたらね"
],
[
"青木さん。ビール、のませる?",
"やむをえん",
"たびたび、相すみません"
],
[
"もっと、ちょうだい",
"あんまりハデな飲み方をしないでくれよ。お嬢さんがのびちゃうのは、御当人は太平楽かも知れないが、連れの男は、憎まれたり疑られたり、楽じゃないからな"
],
[
"お代り、ちょうだい",
"よせよ。もう、あんたは六パイだ",
"でましょう"
],
[
"もう、お帰り。駅まで送るよ",
"イヤ",
"もう、のめやしないよ",
"話があるのよ",
"じゃア、喫茶店で休むか",
"いいえ。歩きながらが、いいの"
],
[
"なぜ、いじめるのよ。なぜ、意地わるするのよ、毎日",
"え? どんな意地わるしたろうね",
"してるわ。なぜ、放二さんを誘うのよ。毎日、きまったように"
],
[
"お嬢さんや。こまった人だな。あなたの気持はわかるが、ぼくがいたわってあげる気持も察してくれなくちゃアいけませんよ",
"だから、私をいじめてるじゃないの",
"どうして?",
"男は男同志って、そんなことなの?",
"妙なことを云うね",
"放二さんをいたわって、私をいじめてるのよ。私なんかは、いたわる価値がないのね",
"やれやれ。そうか。お嬢さんを説得するには、言葉の厳密な選択と行き届いた表現が必要なんだな。いいかい。記代子さん。ぼくがいたわってあげているのは、あなたと放二君の、御二方だよ。二人の恋人の一方をいたわることは、他の一方をもいたわることにきまってるじゃないか",
"私は、どうなっても、かまわないのね",
"やれやれ。どう云ったら、表現が行き届くことになるのだろう"
],
[
"ここで、休むのよ",
"え?"
],
[
"誰が教えたの?",
"休みましょうッたら"
],
[
"ま、待ってくれ。ぼくの立場を考えてくれよ。修学旅行の女学生が色町をひやかすような気分で、ぼくをオモチャにしてくれるなよ",
"女学生じゃなくッてよ",
"すまん。しかし、な。別れた奥さんがお客さんにサービスするのを見るだけだって悲しいんだ。あれがふられた亭主だなんて、そんな哀れな顔を見たがっちゃ、いけないよ。それに、今日は、持合せがないのさ。別れた奥さんにたかって飲むほど、みじめな思いをしたくないんだ。それぐらいなら、泥棒がマシさ。なア、記代子さん。あんた、ぼくが泥棒なみに生きてきたこと、見て、知ってるじゃないか。しかし、別れた奥さんに、たかりたかアないんだよ"
],
[
"あなた、この店へ来たことがあるね。前に",
"穂積さんと飲むとき、いつも、ここよ"
],
[
"つれてきてあげたの。意気地なしを。入口でふるえてたわ。ほら、蒼ざめてるでしょう",
"ヤ。こんちは。ぼくの昔の奥さん。まさか、ふるえもしないがね。しかし、貧ゆえには、ふるえもするさ。今日は持ち合せがないんでね。まさか昔の奥さんに飲ませてもらいたかないからさ。それで、ふるえましたよ。すると、お嬢さんが、おごるというんでね"
],
[
"明日、うけだしに、くるよ",
"もう、こないで"
],
[
"女がきちゃいけないって、なぜ? 礼子さんだけは、大人だから?",
"まア、そうよ",
"大人って、どういうこと?"
],
[
"たぶん、恋愛の冒険者だから? そうでしょう。旦那様をすてたから? 家庭の殻をとびでたから? そうでしょう",
"そうよ"
],
[
"子供だわ。礼子さんは。十いくつのお姉さんと思われない。女学生のよう",
"あら、そう",
"長平叔父さんのどこがお好きなの? 有名だから? 才能があるから? 芸術家だから? お金持ちだから? 威張ってるから? そのほかに、何か、あって? 平凡。少女趣味ね"
],
[
"いかほどですの",
"ここは、いいの"
],
[
"そんなこと、なんにもならないことよ",
"まア、いいさ。ぼくの昔の奥さんの思うようにさせてあげたまえ",
"そのワケがあるの?",
"物事の本当のワケは誰にも分りゃしないのさ"
],
[
"つまり、ぼくの昔の奥さん、ぼくをあわれんだのさ。たまに会ったんだ。あわれまれてやらなきゃ、昔の奥さんのお顔が立たんじゃないか。今晩だけのことだから、あなたも我慢して、つきあってくれたまえよ",
"あわれんでもらいたいの",
"彼女があわれみたいのさ。だから、あわれまれてあげなきゃいかんじゃないか",
"うそよ"
],
[
"うそだの本当だのと争うほどのことじゃアないやね。あなたのお気にさわったとすれば、ぼくがナイトの作法に未熟だったというだけのことさ",
"うそです。私が礼子さんをやりこめたから、あなたは礼子さんをかばってあげたのよ",
"こまったな。どうも、インネンをつけたがるお方だ。なア。記代子さんや。やりこめるッて、あなた、別にやりこめやしないじゃないか",
"いいえ、やりこめたわ",
"どんなふうに?",
"礼子さんは少女趣味よ",
"それは、たぶん、当っていますよ",
"だから、やりこめたじゃないの"
],
[
"なア。お嬢さんや。ぼくが毎日きまったように放二さんを誘うのはだね。あなたと放二さんが昔のようにむつまじい一対であれかしと願っているからだよ。あなた方は銀座でも人目をひく一対だった。そのような美術品をまもるのは側近の年寄の義務というものさ。ぼくの善意を素直にうけてくれなくちゃアいけませんよ",
"ひどいわ",
"なぜだろうな。ぼくには、あなたの云うことが分らないよ",
"放二さんは知ってるわ。だから、あなたが誘っても、ついてこないわ",
"なぜ、ついてこないの?",
"私にきらわれてること、知ってるから"
],
[
"記代子さんや。長平さんの姪御さんだけのことはあるよ。平凡なお嬢さんのような顔をして、頓狂なカラ騒ぎをやらかす人だ。しかし、とにかく、文学的でありすぎるよ。いかに良き人を思いつめたアゲクにしろさ。痴話喧嘩の果に、ぼくのようなオジイサンを口説くのは、ひどすぎますよ。外国の小説や映画にはありそうだがね。女王だの公爵夫人というようなお方がさ。王様だの公爵と痴話喧嘩のあげくに、奴隷だの黒ン坊に身をまかせて腹イセをするというような話がね。それにしても、ぼくに白羽の矢をたてるというのが、頓狂すぎるというものだ。お嬢さんや。よく、おききよ。あなた方の年頃では、遊びというものを、みんな軽く、同列のものに考えているのだね。しかし、男女の遊びは、別のものですよ。とりかえしがつかないのだからな",
"私は、遊びではないの!"
],
[
"やれやれ。疲れるなア。遊びたい盛りのお嬢さんが退屈して姿を消すまでつきあってあげるのは。なんて、逞しい根気だろう。まさしく、面白ずくの一念だね",
"そう?"
],
[
"まアさ。あなたは昨日から怒りすぎるよ。もっと平静に話しあいましょう",
"あなたが、怒らせるのよ",
"怒らせるつもりで言ってるんじゃないんだがなア",
"いま、なんて云った?",
"……",
"面白ずくって、なによ。そんなふうに、見えて? 私、遊んでやしないわ。離婚して、バアで働いて、礼子さん、甘チャン。文学的すぎるわ。私も、そんなに見えて?"
],
[
"ぼくの昔の奥さんが長平さんにあこがれて離婚したということ、誰にきいたの?",
"そんなことが知りたいの?",
"なるほど。別に知らなくともいいことらしい。だが、ねえ、お嬢さんや。ぼくの昔の奥さんは、たしかに文学的で、少女趣味ですよ。しかし、あなただってさ。文学的なお嬢さんに相違ないと思うんだね。なぜなら、現世に生きる人間というものは、一応常識というものを思考の根抵におかなければいけないものですよ。だが、記代子さんは、限られた小さな現実を全部のものにおきかえているね。思考の根が、常識でなくて、あなたを主役にした劇なんだ。夢なんだよ",
"それでいいと思うわ。じゃア、あなたは誰のために生きているのよ。放二さんのためなの? それとも別れた奥さんのためなの?",
"それは、人生というものは、云うまでもなく自分のためのものさね。しかし、自分の位置、限度というものを心得なければいけませんよ。あなたはツボミのようなお嬢さんだし、ぼくは花ビラの散りかけた老いぼれですよ",
"そんなことが理由になるのは、ほかのことがあるせいね。正直に云えないことがあるからよ",
"なア。記代子さん。もっと打ちとけて、茶のみ話をしようよ",
"イヤ"
],
[
"なア。よく考えてくれよ。ぼくは叔父さんの友だちなんだぜ。叔父さんというものは、あんたのオヤジの兄弟じゃないか。オヤジだの、オヤジの兄弟なんてものは、あなたの友だちと違わアね。ぼくだって、そうなんだ。ぼくは、あなたにとって、甚だ親切な友だちさ。あなたのオヤジや、オヤジの兄弟のようにね。しかし、本当の友だちというものは、こんなに親切ではないものなんだ。たとえば、若い者同志はね。ここのところをカン違いしちゃいけないよ",
"喋るの、よして! こんど喋ったら、駈けだしちゃう",
"こまったな。ちょッとぐらい、喋らなきゃア、歩きようがないじゃないか",
"うるさいッたら!"
],
[
"痛かった?",
"うん",
"なぜ痛そうにしなかったの?",
"しなかったかい?",
"泣くかわりに、笑ってみせたわ。なぜ、指の怪我をしらべてみようとしなかったの?",
"痛すぎて、ボンヤリしたのさ"
],
[
"君、ぼくの指を本当にかみきるツモリじゃなかったの?",
"そうかも知れないわ"
],
[
"ねえ、記代子さん。ぼくたちは毎日たのしい四方山話をしようよ。すると、二人の心が通じあってくるよ",
"ええ"
],
[
"放二さん、いつも帰りがおそいってね",
"ええ。毎晩あたしが店を閉めかけるころにね",
"お酒に酔って?",
"いいえ。ビール一杯で真ッ赤になる人だから、一目で見分けがつくんですが、よくねえなア。とにかく人間、お酒をのんでるうちが花ですぜ。グッタリ疲れきってお帰りでさ。お仕事が忙しいんですッてね",
"ぼくは御覧の通りだがね",
"上ッ方はね",
"冗談云ッちゃアいけませんやね。北川君が上役なのさ。年の功で、月給だけは、ぼくがいただいてるらしいがね",
"ヘッヘ"
],
[
"なア。おッさんや。カストリだのパンパンてものは、妙なものだね。あなた、なんだと思う?",
"へえ。なんでしょう",
"神様ッてものは、ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑ったりするものなんだぜ",
"そんなものですかねえ",
"そんなものなんだよ。すべてが具わったものでもないし、万能でもないのさ。そして、奴らは――奴らッてのは、神様のことだよ。奴ら、ノドがかわいたって、貴族の食卓へ行きやしないよ。カストリとパンパンを買いに行くんだ。ぼくみたいにね",
"ハア。あなた、神様だね",
"まア、そうさ。ノドがかわいてるし、ゲラゲラ笑いたいからね。なア、おッさんや。ぼくが北川放二君を信用しないと云ったら、あんた、怒るかい。だってさ。パンパンが彼を神様だの、ふるさとだのッて云いやがんだ。笑わせるな。ノドがかわいたり、ゲラゲラ笑わない奴、信用できるかッてのさ。甘ったれるな。ハッハ。しかしさ。カストリとパンパンは、甘ったれたところがネウチなんだぜ。笑わせやがら",
"笑いなよ。勝手に",
"お前さんなんかに、可愛がられたくないんだ。パンパンにもよ。バカヤロー。オレはパンパンに軽蔑されにきたんだ"
],
[
"良い年をして、くどいよ。いい加減に、よさねえか",
"だまってろ。チンピラ善人。よって、たかって、甘えてやがら。お前さんたちが甘えるッてことは、甜めるッてことなんだぜ。お前さんたちが甜めてるものが、ホンモノなのさ。そんなことは、お前さんたちには、わからねえやな。オレはこの街の神様に、放二さんにさ。甘えにきたんだ。だから、ツバをひッかけてるのさ。そんなことは、お前さんに、わからねえのさ。チンピラの宿命だからな"
],
[
"なア。放二さんや。あんたが、童貞だか、そうでないか、知らないが、とにかく、あんたは、童貞という規格品ですよ。童貞マリヤのメダイユみたいに、パンパンだの淫乱娘の胸に鎖をつけて吊るされているかも知れないが、あんた自身は、生きている何物なんだろうな。人間はノドがかわくと、水をのむんだ。神様だって、そうなんだぜ。あんたは、ノドがかわいてもジッと我慢するだけじゃないか。それが、どうしたってのさ。え、オイ、規格品。しッかりしろよ。しみッたれるな。可愛がられるなよ。憎まれろよ。だからさ。オレが憎んでやるんだ。なア。あんたには、いくらか、わかるだろうな。オレの愛情というものがさ",
"自分だけ、偉いと思ってやがるな",
"チンピラはだまってろ。オレが偉いと思ってりゃア、こんな子供のところへ甘ったれに来やしないやね。天に向ってツバを吐いてるのだぜ。お前さんなんぞは、ツバは地に吐いてると思ってやがる。それしか知らねえのだからさ。お前なんかに可愛がられちゃ、人間はオシマイなのさ。ひもじいパンパンや学生かなんかに、オデンを一皿めぐんでやって、けっこう善事をはどこしたと満足してやがら。うすぎたないぜ、この町は。しみッたれた人情がしみついてるよ。軽蔑されたいとか、憎まれたいとか、肝心なことは忘れてやがる",
"でろ"
],
[
"そんなことしか、知らねえな。そうだろうと思っていたのさ。なア、おッさんや。お次は、パンパンと、ひッぱたくか。よかろう。やってもらいたいね",
"おのぞみかい"
],
[
"なんだい。あんたかい。ここは、あんたのくるところじゃないぜ。千円札のくるところだ",
"これをお忘れなんです"
],
[
"千円札、目がさめてる?",
"ここは、どこ?",
"私は誰?"
],
[
"誰かの体温がのこっているよ",
"もっとタクサンのこってるのよ。私のからだの中にね",
"君だけだな。ぼくを締めださないのは",
"千円札のあるうちはね",
"そうだっけ。そんなこと、怒鳴ったのを覚えてら。どこかで、ひッぱたかれたッけ",
"そう。八重ちゃんにね",
"ちがう。オデン屋のオヤジだろう",
"八重ちゃんにもよ。覚えていないの?",
"どこで?",
"兄さんのお部屋でさ。私にお客があったから、八重ちゃんに世話してあげたら、お前なら百円札でタクサンだッて喚いたからさ",
"ひッぱたかれたのは、それだけかい",
"あんたが、ひッぱたいたわ",
"誰を?",
"兄さんを"
],
[
"北川君をぶつなんて、妙だな。なぜ、ぶったろう?",
"酔っ払いだからさ",
"何か言ったかい? 女のことかなんか",
"あんた、なぜ、顔をあからめるの?",
"変な観察は、よせ",
"なぜさ。あんたぐらいの年になって、そんなことを言いながら顔をあからめるなんて、スッキリしてないね。救われないから",
"救われたかないんだから、いいやな",
"あんたのことじゃないのよ。救われない顔、見せられる方が因果だから。あんたぐらいの年配の人は、たのもしいような顔をするものさ。公衆衛生だから。街路美化週間なんていうわね",
"で、女のことを、言ったかい",
"誰のことを?",
"おい。ハッキリ、言えよ",
"あんた、シッカリ、しなさいよ"
],
[
"あんたぐらいの年になって、そんなことが気がかりなの? 女のことを言ったか、言わなかったか、なんて",
"おい。割りきったようなことを云うな",
"そう。でもね。その女の人が、気の毒だと思うのよ。年配のオジサンが、こう救われなくちゃアね",
"ま、いいやな。とにかく、女のことを、何か言ったかい?",
"言わなかった"
],
[
"それで、安心した? あわれじゃないの",
"バカな。人間とコンクリートをまちがえちゃアいけないよ。じゃア、失敬。可愛いお嬢さん"
],
[
"君、わざと気をつかってくれたのかい?",
"え?",
"ぼくをビックリさせないために、わざと悠長な話し方をしたのかと訊いているのさ",
"ハッハア"
],
[
"当節、人のことで気をつかっちゃいられませんよ",
"へえ。なぜだい?",
"ハッハア"
],
[
"ですが、人生は、事もなく、また、若干、多忙ですな",
"なんのことだい",
"とにかく、人間というものは人の噂をしたがるものですよ。他人の身の上は多事多端ですな。そして当人だけは、事もなく、わが身に限って何一つ面白いことが起らぬような気でいるものですよ。そのくせ、あらゆる人間が人の話題になるような奇妙な身の上をしているのですな",
"なるほど"
],
[
"すると、君自身の特に最近の実感だね。事もなく、又、多忙をきわめているらしいな",
"多忙を自覚する人と、自覚しない人に分類して、ぼくはやや自覚派に属していますよ",
"君がかねえ。そんなにとぼけてねえ",
"とぼけているのは顔だけですな",
"青木君と記代子の二人はどうですか。自覚派かも知れないな"
],
[
"ひどいねえ",
"なにが?",
"記代子さんは、先生の姪ですよ。まるで赤の他人の話のように",
"へえ。そうかい。ほくが君に訊きたかったのが、それなんだぜ。当人が姪の身の上を他人同様きき流すのは当人の自由なんだぜ。ところが、それをぼくに語ってきかせる君の場合は、世間なみの礼義みたいな気兼ねがありそうなものじゃないか。御愁傷様というような、ね。ぼくの目からは、君の方がトーチカのように見えるんだがね",
"ハッハア"
],
[
"だから、人のことで気をつかっちゃいられないんです。その代り、自分のことじゃア、慟哭しますよ",
"バカに都合がいいんだね。それで安心しているわけじゃアなかろうね"
],
[
"お早う。まだ、十時半よ",
"ぼくは早起きだよ。荷物は?",
"ちょッと散歩にぬけだしてきたのよ。大阪から",
"じゃア、殿様のお供だね"
],
[
"京都の子供ッて、東京の言葉がわからないのかしら?",
"どうして?",
"お手紙とどけてちょうだいッて頼んだんです。なかなか分ってくれないのよ",
"それは君の頼みが奇怪だから、理解できないのさ",
"いいえ。理解しようとするマジメな気持が顔にアリアリ現れているのよ。言葉が通じないらしいわ。京都にも気の短い子がいるのよ。言葉が通じなくッて、モシャクシャしたらしいのね。インデコ、だって。わかる?",
"インデコ?",
"もう、帰ろう、ッてことなの。さッさと逃げて行っちゃったわ"
],
[
"どうして、知ってらッしゃるの?",
"穂積君がきかせてくれたのさ",
"知られぬ先に、処分しようと思っていたのに",
"処分て?"
],
[
"誰にも知られないうちにと思っていたのよ",
"だって、ぼくは叔父じゃないか",
"だから、尚さらのことよ。こんなこと、肉親は知る必要のないことよ",
"そういうもんかね",
"わかってるくせに"
],
[
"記代子さんは見かけによらぬアマノジャクよ。ダタイなさいとすすめても、フンという顔よ。私を嘲けるような薄笑いを浮べるだけなの",
"じゃア、記代子はニンシンしたのかね"
],
[
"私のほかには知られていないと思うけど",
"青木だろうね、男は?"
],
[
"なぜダタイしないのだろうね",
"なぜでしょう",
"よほど、頭がわるいんだろうな",
"平凡な子ほど気違いじみたことをしでかすわ。女の本能が気違いじみているのね",
"静かにさとしたらどうだろう。気が立っているだけじゃないかな",
"そうでもない。私の能力でできるだけの手をつくしてみた。青木さんの子供なんか、生ませたくなかったから"
],
[
"なに、ぼくが上京したからって、人の心をうごかすような力がそなわってるわけじゃなし、新しい希望や打開策が生れる見込みは有りゃしないさ。それでいいと思ってるのさ。色恋の世界には、先輩後輩はなさそうだ。子供はとつぜん大人になるし、大人になったときは、もう同列のものですよ。この道ばかりは、何十年かかったって、ムダはムダ、当人のことは当人だけしか分りゃしない",
"私はそれほど悟れないけど",
"それは、そうさ。ぼくは講壇派、ニセ達人だが、あなたは生活派の達人だ",
"私は常識的に考えているだけ。記代子さんが結婚前に子供を生むなんて、変だから。青木さんの子供なら、なお奇ッ怪でしょう。それだけのことなの。そうオセッカイでもないのよ。ただ目のふれるところで行われているから。目ざわりなのよ"
],
[
"お供はつらいのよ。社でアクセクしてるときは、なんとでもしてお金が欲しいと思うけど、ダメなのね。でも、つとめるのよ。今日までは、おッぽりだして来たことなんかなかったのだけど、ふらふら、とびだしちゃった。もっと娼婦になりきれる方が、立派なんでしょうね",
"そんなことは、クヨクヨ考えることじゃアないね",
"そう。立派だなんて、おかしいわね。誰かに、ほめられたいみたい。でも、そんな気持も、あるのよ",
"社長だものな",
"そうなのよ。社長でなければ、乞食になるのよ。そして、生きてるわ。今日は乞食の方の気持よ。微風の訪れでもなかったの"
],
[
"君は何かぼくに言いたいことがあるのじゃないか。言うだけ、言ってしまえよ",
"言うだけ言ったら、どうするのさ",
"ねむるよ",
"相変らず、自分の都合だけ考えている人だね。なんと言ったら、気がすむのかね。ワタクシが記代子嬢を誘惑しました、と言ったらいいのかい?",
"おい、よせよ。法廷とちがうのだ。だから、なにも、きいてやしないじゃないか。言いたいことだけ、言うがいいや。さもなきゃ、帰りたまえ",
"なア、長さんや。君は、ぼくがどうしたらいいと思う。子供が生れるんだぜ。ぼくは、どうしたら、いいのさ",
"君はどうしたいのだ",
"それが分らないんだよ。なア、長さん。オレをあわれんでくれよ。どうしていいのか、わからん男を。なア。いい年をして"
],
[
"あなた、まだ、本当に、子供なかったの",
"本当になかったよ",
"子供、ほしい?"
],
[
"君は、欲しいのかい?",
"あなたは?"
],
[
"なア、長さんや。恋愛だの、結婚だのッて、太平楽なもんだと思うよ。記代子さんて人は、その太平楽な身分に似合った人なんだね。ところが、ぼくとのことで、そうじゃない立場に落ちたわけだね。それを記代子さんは知ってるんだよ。本能的にね。恋愛だの結婚だのという太平楽なものと戦争状態の立場になってしまったという現実をさ。彼女は襟首をつかまえられているよ。運命というものにね。そして、ただ決意を要求されているんだ。それがあの人の目にでているのさ。ほかにでやしないや。だって、どこにもギリギリの決意なんて、ありゃしないものな。あるのは特攻隊みたいな切なさだけなんだ。それを見るぼくは、うろたえますよ。ねえ。だって、悲しくなるじゃないか",
"気分的なことは、どうだって、いいじゃないか。もっと実際的にさばく手段をさがしたらどうだろうね",
"大人ぶったことを言いなさんな。実際的にさばくッたって、根は気分が心棒じゃないか",
"ほんとかい? とつぜん行動するとき、気分をふりすてるもんじゃないのか。まるで気分と似つかぬことをやるもんじゃないのか。気分屋は、特にそうだぜ",
"それは、まるで、愛情にひきずられるな、というみたいだね。あわれんでも、いとしがっても、ムダなのかな"
],
[
"まア、のめよ",
"そろそろ、帰るとしよう",
"オレがどういう人間であろうと、オレのことが記代子を愛す愛さないの標準になるてえのは、どういうわけだね。君は、まるで落付いていないな",
"だからさ。全然、とりみだしでいるんだよ",
"オレは、まったく、記代子がどうなろうと構わないと思っているよ。君にすてられようと、愛されようと、それで記代子の一生が終るわけではなしね。どっちへどうなろうと、その又次にも、何かがあるものだよ。事がなければ幸せだというわけでもなしさ。亭主が立身しようと、貧乏しようと、そこに女の幸福の鍵があるわけでもなし、さ。幸福の鍵なんてものは、もし有るとすれば、一つしかないものだ。いつも現実の傷を手当てしろ。傷口をできるだけ小さく食いとめ、痛みを早く治せ。それだけの対症療法があるだけさ。君は、何か、手当てについて、考えたり、やってみたり、したかい?"
],
[
"ぼくは野たれ死んでも構わないし、自殺すりゃ、すむことなんだ。記代子さんを助けてやってくれよ。オレなんか、どうなったって、いいんだから。な。たのむよ",
"助かるッて、どうなることなんだい"
],
[
"なに言ってるんだ、君は! 君はハラワタからの悪党だね!",
"君の善意は分るんだよ。ぼくが悪党であることも、まちがいはないね。ただ、泣くのは止した方がいいぜ。涙から結論をかりてくるのも良くない。もっと静かな方がいいぜ。他人のことを処理するように、自分のことだって処理できるものだよ"
],
[
"いや、ダメだ。ぼくは、いつも、それでやられるんだ。君はいかにも、ぼくの心を言い当てたり、それに同感してみせるようなことを言うね。それは易者が妄者の迷いを言い当てるのに良く似ているね。迷いの最大公約数みたいなものを、言いきるわけさ。そして輪をちゞめていくんだ。もっとも、易者との相似は君だけじゃアないがね。日本のインテリ一般の会話のコツかも知れないな。まるで謎々の遊戯みたいなものさね。ねえ。長さんや。易者ごッこはよしましょうや。なア。あなた。ハッキリ、答えてくれたまえよ。ぼくは記代子さんと結婚するぜ。それで、いいのかね",
"ぼくの返答をかりて、やる必要はなかろうさ",
"そうかい。わかった",
"まア、のみたまえ",
"もう、帰るよ",
"乗物がないぜ",
"夏はどこででも野宿ができるものさ",
"記代子も変な子だね。なんだって、君なんかが好きになったんだろうね。変な夢を見る奴さ",
"ふん。夢を、ね",
"ぼくは、ねるぜ。君、勝手にのんで、勝手に、ねたまえ"
],
[
"君はフトンをしかないのか",
"そう。夏はね。たまに、グッスリねむるときだけ、フトンをしくのさ",
"じゃア、失敬するよ",
"そうかい",
"君とねたかアないからな。目がさめて、大坊主のねぼけ顔を見るなんざア、やりきれやしないからな。君は、今日、記代子さんに会ったろうね",
"会わん",
"なぜ",
"ぼくが上京するてんで、会社を休んだそうじゃないか",
"……"
],
[
"じゃア、帰ろう。このウイスキー、くれないかね。夜明けまで、どこかの焼跡でのんでるんだよ",
"もってきたまえ",
"記代子さんもオレみたいなことをやってるんじゃないかね。会社を休んで、行くところなんか、ありゃしないと思うんだがな",
"心配することはないだろう",
"そうかい。じゃア、失敬"
],
[
"むしろ、いっと簡単なことなんです",
"ふ。君はそんな器用な特技があるのかい"
],
[
"では、行って参ります",
"手がかりになりそうなものがあったら、明日、会社へ持ってらしてね。記代子さんが見つかるまでは、会社の仕事はよろしいのです。穂積さんに言ってありますから。記代子さんを探すのが、あなたのお仕事よ"
],
[
"金曜の朝は、いつもの出勤時刻に、おでかけでしたでしょうか",
"ええ、時刻にも態度やその他にも、いつもと違うところはちッともなかったようですよ。朝は忙しいので、特におかまいもしませんでしたけど、御食事中の御様子やなどでも、ね",
"特に親しくしてらした女友だちは?",
"そう。たまにね。遊びにいらした方もあるし、お噂をうかがうこともありましたが……"
],
[
"別に、それまで、変った様子はなかったのでしょうね",
"いえ。毎日変った様子でしたよ"
],
[
"もちろん、皆さん御承知でしょうが、ニンシンなさっていましたからね。いろいろと、そうでしょうね。思い悩んでいらしたんでしょうよ。とにかく、普通じゃなかったですよ",
"どんな風に、でしょうか",
"話の途中に知らんぷりして立っちゃったり、自分で話しかけといてプイと行っちゃったり、そうかと思うと、こっちで話しかけないのに、なアにイなんてね。そして時々高笑いしていましたね。今日は自動車にひかれるところだったなんて仰有ってましたが、そんなことも有ったでしょうよ。あれじゃアね"
],
[
"毎晩おそいですよ",
"幾時ごろですか",
"人の寝しずまるころですよ"
],
[
"こちらのお嬢さんも京都の女学校の御出身ですか",
"どうして?",
"今まで廻ったお友だちが、そうですから",
"克子は疎開前のお友だち。たしか、二年まで、ご一しょでしたわね"
],
[
"ねえ。会社の御用なんて、嘘でしょう",
"いいえ。なぜですか"
],
[
"あなた、記代子さんの行先に心当りはないのですか",
"知らないわ。十日ほど前に、会ったけど、お茶ものまずに別れたわ。最近は、そう親しくしていないのよ"
],
[
"ほかに記代子さんの親しいお友だちは、どなたでしょうか",
"どこを捜したんですの?"
],
[
"家出したんでしょう?",
"ええ",
"なぜ、なんとかして、あげなかったの。無責任な方ね",
"ぼくは、会社の同僚にすぎないのです。あの方の愛人ではありません"
],
[
"嘘つきには、教えてあげない。私、あなたの名、記代子さんにきいたことあるわ",
"ぼくはお友だちにすぎないのです"
],
[
"じゃア、本当なのね。五十ぐらいの人だって。十日ほど前に会ったとき、ダタイのお医者知らないッて、きくんですのよ。教えてあげたの。お友だちにきいて",
"その病院は、どこですか",
"忘れました"
],
[
"その方はもう二ヶ月も前から居ないんです。もっと前になるかしら?",
"メーデーの翌日から",
"そう。忘れ得ぬ夜の出来事"
],
[
"あの人、共産党なのかしら?",
"うそよ。はじめはイタズラだったのよ。笑いながらデモ演説のマネしてたのよ。マダムが叱ってから、怒っちゃって、闘争演説はじめたのよ",
"そうでもないようよ",
"そんなことなくッてよ。ただの酔ッ払ッたアゲクよ。だけど、マスター行状記、バクロ演説、痛快だったわ",
"キッピイにとびかかったのね。あのときのマスター、ゴリラだわね。キッピイのクビ両手でつかんで、ふりまわしたのよ。フロアへ叩きつけちゃったわ",
"そのときサブちゃんが飛びだしたのね。ダブルの上衣グッとぬいでね。見栄をきったわね。ただの一撃。それからは入りみだれて、敵味方わかりゃしないのよ。てんやわんや",
"サブちゃん、凄いのよ。女を狙うと、あれですッて。キッピイ、もう捨てられたって話"
],
[
"今でてらッしゃるホール、わからないでしょうか",
"ええ。それなんですけど"
],
[
"だってねえ。よくないことなの。きかない方がいいわ",
"ぼく、御迷惑はおかけしないと思いますが"
],
[
"お店に、木田敏子さんという方、働いていらッしゃいますか",
"木田敏子? 誰のことかしら。ええ。探してあげるから、遊んでらッしゃいよ。私じゃ、いけないの?"
],
[
"ビール一本、のんでよ。すると、あなたの恋人が出てくるわよ",
"木田敏子さんは、ぼくの知り合いではないのです。どんな方か、お目にかかったこともない方なんです",
"いいわよ。そんなこと。あなた、アプレゲールでしょう。わけの分らないこと、云うもんじゃないわ。ビール一本のんでるうちに、いろんな話ができるじゃないの。その人も、出てくるわよ"
],
[
"ここ、どうして分ったのよ",
"樋口克子さんにおききしたのです。大庭さんのお友だちのみなさんに訊いてまわっているのです。どこにも立ち寄っておられません。ここでおききしてごらんなさい、という樋口さんのお話でした",
"あの人、ここ、知らないわよ",
"ええ。以前いらしたダンスホールで、ここをおききしたのです"
],
[
"お友だちに、ダタイの病院、きいたということ、まちがいないことなのね?",
"まちがいないと思います",
"いつごろのことなの?",
"十日か、二週間ほど前。一度は十日前ぐらいと言い、一度は二週間前ぐらいと言ったのです。確かめて訊きませんでした",
"あんなにダタイはいやだと言っておきながらねえ……"
],
[
"そうね。いらッしゃるたび、テーブルのマッチはきッと持ってお帰りですのよ。あのお店は各テーブルに必ず二ツずつのマッチを置いとく習慣なんです。なんとなく持ち帰って、お使いにならなかったのね",
"使わないマッチを、なぜ持って帰ったのでしょうね"
],
[
"いろんな場合がありうるわ。あの年配のお嬢さんには、どんな突飛なことも、御自分だけの歴とした理由がありうるわ。あのバーでも、あの年配のお嬢さん女給がまとめて三人ぐらい揃うときがあると、バーのシキタリが狂っちゃって、お店全体が狂うんです。それが理窟は合ってるんですよ",
"一回に二ツのマッチですと、一つも使わなかったものとして、十二三回、遊びに行かれたわけですね"
],
[
"私、どちらかと云えば、青木に同情していたのです。ですが、失踪なさッたときいて、記代子さんがお気の毒ですわ",
"奥さんは、記代子さんの失踪を御存知のようでしたね",
"青木にきいたのです"
],
[
"青木さんとご一しょではなかったのですか",
"いいえ。青木と一しょは一回だけ。それから一ヶ月あまりたって、つづけさまに十日ほど、いらしたのです。いつも一人で。で、たいがい、とッつきの長椅子へお坐りなの。私にここへおかけなさいッて、隣へ並んで坐るように命令なさるのよ。そして私が坐りますとね。あなた、おもしろい? つまんないわね、ツて、挨拶代りに仰有る言葉が必ずそれなんですよ。私はほかのテーブルにも回らなければならないでしょう。代りにほかの女給さんが行って話しかけても、ご返事なさったことないの。誰も行く人なくなっちゃったわ。私だって、あの方のテーブルへ行って、たのしいッてこと、ないんですもの。時々、あの方のそばへ行くことがあっても、せいぜい一分間と居たことがなかったんです。いつ、行っても、仰有ることは同じよ。おもしろいの? つまんないでしょ? それだけなのよ。一日に何度でも。私があの方のそばへ行くたびに。そして、ほかの話らしいことはほとんど話し合わなかったわ。その機会はあるんですけどね。一分間ぐらいは、坐っていましたから。二人とも黙りこくッているだけでした。そんな風にして、およそ、三四十分ぐらいね。カクテル一つのみのこして、お帰りでしたの"
],
[
"ノクタンビュールへは、たいがい、幾時ごろ行かれたのでしょう?",
"八時か、八時半ごろでしょうね。ノクタンビュールは九時か九時半ごろ、一時にドッとはやるのよ。まるでお客さん方が申し合せていらッしゃるように。そうなんです。記代子さんのいらッしゃるのは、その前、いつもお客さんが一組か二組のころでしたわ"
],
[
"すると、記代子さんは、皆さんとお友だちになりたくて、遊びに行かれたのでしょうか",
"お友だちになりたいッてわけではないでしょうけど、男のお客さん方のように、バカ騒ぎしたいような気持――女ですから、バカ騒ぎはないでしょうけど、小説などにありますでしょう。気持のふさいだ時や、失恋だの、悩みだのというときに、バーでヤケ酒のむなんてことが。そんなこと、伝説にすぎないようなものですけど、知らない方は、真にうけるかも知れないわ。記代子さんは、まだ子供ですもの、バーッてそんなところかと思ってらッしゃるかも知れなくッてよ。そして、男のお客さん方のように、バーへ行って、気をまぎらしたかったのか知れないわ。バーで、お客さんや私たちのやってることが、つまんないんじゃなくて、同じようなことを、したかったんじゃないかしら。のんで、酔っ払って、お喋りして、乾杯したり、踊ったり……"
],
[
"私、先生にお目にかかりたいわ。いま、上京してらッしゃるんですッてね。でも記代子さんがこんなで御忙しいでしょうし、遊びにきていただけないでしょうね",
"記代子さんのことでお忙しくはありませんが、お仕事でお忙しいと思います。上京中、外出なさることは殆どありません",
"私がお訪ねしてはいけないの?",
"その御返事は、ぼくにはできませんが、宿を知らされた特定の人が訪ねる以外はお会いにならないのが普通です"
],
[
"人相書をまわすんですよ。探ね人。家出娘。二十歳",
"大庭さんのお指図で、北川さんが捜査に当っておられます。あなたのことは、なんのお指図もありませんから、お帰り下さい"
],
[
"投身自殺ッて、とてもスポーツの要領でやるもんですッて。ナムアミダブツ、なんてんじゃないそうだわ",
"どんなふうにやるの?",
"たいがい、助走してくるのよ。エイ、エイ、エイッて、掛け声をかけて助走する人も、あるんですッて。茶店で休んでいた人が、とつぜん駈けだして飛びこむこともあるそうよ。走り幅飛の助走路よりも長そうだわ",
"なるほど。岩にぶつかるのがイヤなんだな。ぼくも、ここで死ぬんなら、助走するな。痛い目を見たくないからね",
"痛い目?"
],
[
"投身は下火になりました。今は、アドルムですね",
"なるほど。めったに投身はないのですか",
"いゝえ。下火といっても、かなり、あるんですよ。三四日前にも泳ぎの達者な学生がとびこんで、助かりましたね"
],
[
"誰か、とびこむ勇士はいないか",
"よし"
],
[
"三日間、どこにいたのですか",
"第一日目は東京に、二日目と三日目は熱海に。そして三日目の夜、つまり昨夜ね。哀れにも悄然と東京へ戻ってきましたよ",
"誰と、ですか",
"二人です。ぼくの影と。ねえ、あなた。影は悲しく生きていますよ。広島のなんとか銀行の石段をごらんなさい。あれは誰の影でもない私の影ですよ。あらゆる悲しい人間の影なんだな。ぼくは原子バクダンを祝福するですよ。なぜなら、も一人の自分を見ることができたから。悲しめる人は、広島で、ありのままの自分を見ることができるですよ。ロダンだって、あんな切ない像を創りやしなかった……",
"熱海の旅館は?",
"実に、見事ですよ、あなたは"
],
[
"アレ、とどいてますか。タキシードは?",
"きております",
"持ってきて下さい"
],
[
"なにごとですか。これは?",
"社員は連日宣伝に総動員ですよ。あなたのように、休んで遊んでいる人はおりません。あなたは、明日から三日間、この服装で、都内の盛り場の辻々でビラをくばるのです。ヒゲのある中年紳士は、あなただけですから。デコレーションを施したトラックに、蓄音機と拡声機をつみこんで、お供させます。あなたは、演説がお上手でしたね。立候補なさるのですものね"
],
[
"どうして笑ってみせなきゃいけないのさ",
"難問だね"
],
[
"二百円、まけてやってよ。仕方がねえや。おい。出ろ。足りないところは、カンベンしてくれるとよ",
"ヤ、アンちゃん。コンバンハ。しかしお前さんが出ることはなかろうぜ。ねえ、アンちゃんや。ぼくの話し相手はジャカルタの観音様さ"
],
[
"あなた、何回でも、来るつもりなのね",
"ええ。お目にかかって、お話をうけたまわるまでは、何回でも"
],
[
"あなたはどういう人なのよ。記代子さんの何よ。ハッキリ言って",
"同じ社の同じ部に机をならべている同僚です",
"それから?",
"同じ仕事をしています",
"それから?",
"それだけです。そして、社長の命令で、記代子さんの行方を捜しているのです"
],
[
"記代子さんの恋人は、青木さんと仰有る年配の方です。ぼくとあの方とは、お友だち以外の関係はありません。ただ、ぼくが大庭長平先生の掛りですから、仕事の上で、特別密接な関係にあるというだけです",
"あなた方は、以前はフィアンセだったのでしょう"
],
[
"ですが、五人目の女の方を御存じではないのですか",
"五人目の女?",
"ええ。先日、そう仰有ったと覚えているのですが",
"五人目か"
],
[
"ゆうべ青木さんが新宿で愚連隊にやられたのさ。記代子さんの友だちの喫茶店でインネンをつけられたんだそうだね。欠勤届を持たせてよこしてね。皮肉な先生さ。タキシードにシルクハットの晴れの日にあいにく美貌に傷をつけまして相すみません。アハハ。あの人は、めぐりあわせまで皮肉に回転するらしいや。しかし、ひどいぜ。鬼瓦みたいな顔さ。喋るのも不自由なのさ。見舞いに行って、気の毒したよ",
"どんなことでインネンつけられたのですか",
"わけがわからんそうだがね。とにかく一撃のもとにノビたんで、かえって良かったんだそうだ。悪酒の酔いは、ノビたぐらいじゃ醒めないそうだぜ"
],
[
"このさきが雲をつかむようなんです",
"いゝえ。ハッキリしています",
"誰でしょうか。五人目の男は?",
"それは問題ではないのです。キッピイが知っています。男の名ではありませんよ。記代子さんの居場所を。あなたはそれを突きとめればよろしいのです。五人目の男のことは、どうだって、かまいません"
],
[
"青木さんの顔の怪我はひどいようにきいたけど。話もよくできないぐらい",
"ええ。腐爛した水屍体のデスマスクに似ていたわ"
],
[
"痛さをこらえれば、話すこともできるの。ポロポロ泣きながら。それを見せにきたんです。腐った顔と、泣きながらしぼりだす声とを、ね",
"そのくせ、私には見せないのよ。出て行け、なんて。キザなんだ、あのジジイ"
],
[
"ちょッとしたスリルか。なにか、イタズラがしてみたいのさ",
"気どってやがら"
],
[
"フン。ヒステリイ",
"チェッ。しょッてやがら、あんたは、美人だよ。麗人でございますよ。美人女給にお似合いですよ。この町内へ二度と戻ってきなさんな",
"どうも相すみません。パンパンアパートの姐御さま",
"よしやがれ。パンパンでわるかったわね"
],
[
"はじめてだから、ダメ",
"はじめてだって、ここはそういうウチじゃないか。はずかしがることはないぜ",
"あんたに会うのが、はじめてだから、ダメなのさ"
],
[
"なアにい?",
"ルミ子"
],
[
"それで、凶暴なの?",
"そうでもないよ。根がヤキモチヤキなのよ。ルミちゃんが可愛いい顔してるから、癪にさわるのよ"
],
[
"エンゼルッて、女性?",
"男も男、凄いのさ。今日は来なかったけど時々くるよ"
],
[
"世話しちゃってから、ヤキモチやいてるのさ",
"惚れてる男に、女を世話するって、そんなの、あるかしら"
],
[
"ルミちゃん、ジュクでパンパンやるのさ。エンゼルの子分が遊びにくらア。そのうちに、なんとかなるよ",
"フン。それぐらいのことだったら、あんたで間に合うよ。やってきな"
],
[
"その気持があれば逃げだせるのに、逃げないとしたら。……世間で思うのと、当人が思うのと、ちがうんじゃないかなア。泥沼から助けられて、迷惑する人もいないかなア。泥沼なんて、心境の問題だ。お金をウントコサもって鬼のように生きている人もいるし、働くよりも乞食がいいという人もいるし",
"男を死なせて、増長してるパンパンもいるし",
"奥さんになりたいパンパンもいるしね",
"フン"
],
[
"それじゃア、愚連隊どころか、立派な商人じゃありませんか",
"私だって、そう思いましたよ。きいてみると、そうでもないねえ。屋敷や花園の敷地だって、焼跡を勝手に拝借したもの、花売りだって因業な商売してるんだそうです。商魂があって、金ができるし、隆々と、いい顔だそうですよ"
],
[
"ぼくは病弱ですから、兵隊にとられなかったのです",
"ぼくは四国にいたのですが、隊長の命令で、花キチガイのオジイサンのところへ調査に行ったことがありました。このジイサンはお花畑の一部分をどうしても野菜畑にしないのです。二段歩ぐらいでしたが、当時二段の畑と言えば、財宝ですよ。土地で大問題となっていたんですが、ジイサン、頑固でどうしても承知しないんです。そのうちに、お花畑の赤い色が敵機を誘導する目標だ、スパイだという密告です。すてておけませんからぼくが調査に行ったんですが、場合によっては、花をひっこぬいて掘りかえしてしまえ、というような命令だったんです。ところがキチガイジイサンのお説教をくらいましてね。コンコンと一時間、アベコベですよ。花にうちこむ愛情は至高なものです。そこで、ぼくは隊長に復命しましたよ。ジイサンがあんまり頑固だから不満の住民からスパイの噂がでただけで、ジイサンの花に対する無垢の愛情は、天を感動せしむるものあり、とですね。あのお花畑はカンベンしてやって下さい、とたのんでやったんです。終戦後、このジイサンに十日間ほどもてなされて、花つくりの要領を教えてもらいました"
],
[
"しかし、このように御返事すべきか、どうか。まだその時期ではないんじゃないか、ということで、あなたを大そうお待たせしましたが、ぼくたちは相談していたのですよ",
"記代予さんは二階にいらッしゃるんですか",
"そうです。そして、この家の主婦ですよ。野中の妻、記代子なんです。ぼくたちは、愛し合っています。ぼくが花を愛すように、記代子も花を愛します。しかし、ぼくたち同志は、花以上に愛しあっているのです。四国のジイサンに面目ない話ですが"
],
[
"そうなることに、フシギはありません。記代子さんは、御元気でしょうか",
"むろん、大変、元気です。そして、毎日、好キゲンですよ。もっとも、あなたの来訪で、ちょッと憂鬱でしたがね。実は、二三日中に、お腹の子をおろすはずです。記代子は、ぼくの子が生みたいのです。そして、ぼくも、記代子とぼくの子が欲しいのです"
],
[
"そうお思いになるのも当然です。利己的な場合のほかに、本当に心配している関係は、有りえないかと思います",
"野中はエンジェルと言うのよ。そして、私の本当のエンジェルだわ。本当に私を心配してくれるのはあの人だけ",
"そうです。恋愛は利己的ですから。そして、青木さんも本当に心配しています"
],
[
"あなた、私の居場所つきとめて、どうするツモリなの?",
"いちど戻ってきて、先生や社長に会っていただきたいのです。ぼくの報告だけでは、納得して下さらないでしょうから。そのとき、御意志に反するようなことは決していたしません。もしも先生方がそのような処置をおとりの際には、ぼくが責任をもって、あなたの意志をまもります"
],
[
"責任をとるッて、どんなこと? できもしないこと、おッしゃるわね。あなたは何も実行したことないじゃないの。あなたは人をだますのが商売でしょう",
"ぼくの誠意が足らなかったのです。努力も足らなかったと思います。ですが、今度は、約束を裏切るようなことは致しません。ここへ戻りたいと仰有るのに、先生方が戻さないと仰有ったら、命に賭けて、おつれ戻しいたします",
"命に賭けて、なんて、そんなに安ッぽく、生意気なことを言うから、人格ゼロなのよ。エンジェルは若い人がそんな軽薄なことを云うと、怒るわ。できもしないこと、言うな、ッて。千万人の若者が戦地で苦労してるとき、たった一人、戦争もできなかったあなたは、そのことだけでも人間失格よ。口はばったいこと、言えない義理よ"
],
[
"ぼくの生涯は至らないことばかりです。目をすましても、いつも曇っていました。精いっぱいやって、それだけでした",
"そう。無能者。あなたはそれよ"
],
[
"私は叔父さまや社長に理解していただく必要はないのです。あなたは、変ね。叔父さまや社長の許しを乞わなければ、何をしてもいけない私だと仰有るようね。叔父さまや社長にそんな権利があるのですか。私に、カリがあるとでも仰有るの?",
"カリではないのです。人生にカリがあることは有りうべきことではないと思います。ただ、心にツナガリのある人々同志は、そのツナガリを尊敬する義務があると思うのです。一般人は博愛や慈悲に身をささげる有徳の行者とはちがいます。人間を愛し、生まれたことを愛する表現としては、ツナガリを尊敬するという義務を果すぐらいで充分なのではないでしょうか",
"理窟屋! 無能力者は、そうなのよ。いつも言葉で考えてるわ。私は、考えるのは、イエスとノオをきめる時だけだわ"
],
[
"あなたに会うべきか否かについて、さっきあれほど相談の時間を要したのだから、今度も、タダではすむまいて",
"あなたは、どう思うのよ。おッしゃいよ。イエス、ノオ、どちらか一つでいいのよ",
"二つ一しょに言ってもいいと思ってるらしいな"
],
[
"下宿の荷物をこちらへ運びましょうか。さしあたって、必要なものがありましたら、なんなりと命じて下さい",
"ええ、こんどいらッしゃる時までに、必要なものを書きだしとくわ"
],
[
"算術みたいにおッしゃるものじゃありません。もっと、ムリヤリ、してあげなければならないものです",
"当人が幸福なら、こッちでムリヤリしてやることは何もないさ",
"第一、何もしてあげなかったら、世間では、大庭長平は鬼のようだ、と言いますよ",
"遠慮なく言ってもらうさ",
"記代子さんのお姿が見えませんが、どうなさいましたか、と訊かれた時に、こまりますよ",
"こまりませんね。エンゼルという屋敷もちの花づくりのアンチャンと結婚して、花を造り、悪銭をもうけて、内助の功を果し、大そう幸福にくらしているそうだ、と答えて、不名誉なところは一つもない",
"勝手におッしゃい。あなたは、もう、京都へお帰りなさるといいわ",
"左様。記代子のことで滞在がのびてしまったが、明日の特急にでも、帰りたいものですよ"
],
[
"あとは私が一存で致します",
"何をなさるつもりですね?",
"何ッて、相手はヨタモノですもの。記代子さんの身にシアワセのはずはありません",
"その考えは軽率すぎるようだ。世渡りと男女のことは別問題ですよ。体面のために古い恋女房を離婚して、新しい恋愛を実現した代議士もあるしね。女房を大事にするヨタモノがいてもフシギではない。男女のことは、誰にも分りゃしません。銘々に独特の型があるものです",
"いいえ、世間体を怖れないヨタモノは、女房への誠意もありません。世間体を怖れない男には、それに相応する女がいて、女房になるものです。記代子さんはそれに相応した女ではありません",
"なに、結構、間に合う場合が多いものさ"
],
[
"話をつけるッて、どんなふうに、でしょうか",
"それはあなたに用のないことです。あとは私が致します。秋口に、あなたが涼しい土地から戻ってきたとき、記代子さんも戻ってきています。ですが、記代子さんは、先からズッとそこにいたのですよ。あなたが、涼しい土地へ旅行していたので、しばらく会えなかっただけなのです"
],
[
"旅行の前に、四五日東京で休養してみるつもりですが、何か御用はありませんか",
"いいえ。ひとつも"
],
[
"ヌキ忘れちゃった。あんた、歯でぬけるでしょう",
"バカ言え。とってこいよ",
"歩くの、ヤだなア。損しちゃった"
],
[
"あんた、レッキとした顔でしょう。ビールぐらい、歯でぬくもんよ。この部屋のお客さまはみんなそうするのよ。前科十二犯のオジサンは堅い物が噛めないほどボロッ歯だけど、ビールの栓は器用にぬいたわね。ヌキがなくッちゃ栓がぬけないようじゃ、悪い事はできないものね。泥棒に忍びこんで、ビールをみつけて、ヌキ探してちゃア、フンヅカマるでしょう",
"オレを泥棒あつかいに、しようッてのか",
"似たようなもんじゃない",
"フ。相当なことを云やアがる。落ちついて、ませたことを云うじゃないか。オレの女になれよ。ジュクでいゝ顔にしてやらアな",
"荒っぽいこと、きらいだもの。パンパンに生れついてるのさ。ノンキでグズな商売が好きなのさ",
"顔がきいて、楽にくらせたら、この上なしだろう",
"威勢のいいのがキライなのさ。威張りたくもなし。パンパンがいっとう楽で、面白いや。泥棒だの、人殺しの実話物きかせてもらッてさ。兄さん、人を殺したこと、ある?",
"フ。それが、どうした",
"私はね、目の前で人が死ぬの、一人で見てたことがあるよ。三べんだか、四へんだかね。たくさんの数じゃないけど、忘れちゃった。いろんなことが、こんがらかるから",
"フ、そんなパンスケがこのへんに居るッて話はきいたことがあったが、それがお前か",
"強殺だの喧嘩傷害だの、すごい人が話きかせてくれるでしょう。案外なもんね。どんなふうに死ぬもんだか、見てる人、ないわね。私はみんな見てたわ。ちょッと見落しても悪いような気持だもの。なんでもないもんよ。呆気なく、死んでるものよ。ほんとかな、と疑ったのもあったわ"
],
[
"返り血をあびて真ッ赤にそまる果し合いのようなものは、オレがやっても、目がくらんだ気持にならアな。ひどく冷静でもあるし、泡もくらってるものよ",
"どんな悪いこと、してきたの? ずいぶん、お金持ちだってことじゃないの。なんで、もうけたのさ"
],
[
"しつこいこと、しちゃダメよ。暑くって。ウチワであおいであげるから、ビールのんで、お帰り",
"約束のお客があるのか",
"お客は道にゴロゴロいるよ",
"ふざけるな。オレと遊ばないというのか",
"お金、ちょうだい。私、お客様と遊ぶのが商売よ"
],
[
"金次第で、どうにでもなるというんだな",
"そうよ",
"どんな男とでも、な"
],
[
"お前は、いくつだ",
"十九",
"フ。どうだい。オレが北川を殺したら、どうする? お前、オレの女になるか"
],
[
"なぜ殺すのさ",
"なに、下駄につかえた石ころをはじくようなものだアな。誰かが、ちょッと、どこかの街角で、あの兄さんを眠らしてくれらア",
"全然、タダのチンピラだ"
],
[
"殺してごらん。私のクビを、しめてごらんよ。人殺し、なんて、叫びたてやしないから。音をたてずに、死んでみせるから、安心して、しめてよ。ちょッとした呻きぐらい、でるかも知れないけど、ウンと言ったわけじゃないから、まちがえないでおくれ",
"フ"
],
[
"卑怯者。ぶって、ごまかすつもり",
"どうしても、死にたいか",
"やってごらん"
],
[
"だれ?",
"私。カズ子よ。ちょッと、いい?",
"ちょッと、待って"
],
[
"ちょッと、心配だから、来てみたのよ。おとなしく帰ったのね",
"うん。とっくに帰ったわ",
"チェッ。じゃア、あッちの部屋へくればいいのに"
],
[
"色男をみると逃がしゃしないんだから。オタノシミのことですよ",
"兄さんは、ねた?",
"いいえ、起きてる"
],
[
"イヤ。こう申上げても、あなたは本当にして下さらないでしょうね。ぼくが悪るかったのです。昨夜、酔っぱらって、とりみだして、あまりと言えば、あまりの醜体です。昔の悪い習慣、三ツ子の魂です。酔っ払うと、昔の悪い男が顔をだすのです。昨夜の醜体はよく記憶していませんが、そのあさましさは、だいたい見当はついています。ぼくはジキル博士一本になりたいのですが、汚れた血は、生涯ついに、ダメですかなア",
"いいえ。ぼくがミレンがましく、友情を信じてくれますかなどゝ、疑ぐりぶかい心をさらけだしたのが、あさましいのです。醜体はぼくなんです。先日から、信頼していただくことばかり考えていたものですから、不覚なグチを申上げてしまったのです。ぼくの存在がお二方のお役に立てば、それだけで満足なんです"
],
[
"記代子さんはどうしていらッしゃいますか。一目御挨拶いたしたいのですが",
"そうですね。ちょッとカゼをひいてねていますが、様子をきいて参りましょう"
],
[
"ぼくは、ただ、お役に立ってうれしいと思っているだけです",
"誰のお役にですか。エンゼルのよ。私はあなたにお役になんか立っていただきたいと思わないのよ",
"おッしゃる通りです。ぼくの言葉が、ぼくの耳にも、まるでお役に立つことを押しつけているようにきこえます。そんな気持ではないつもりなのですが、ぼくの本心が結局それぐらいでしかないのだろうと思います"
],
[
"お邪魔いたしました。では、失礼いたします",
"ヤ。そうですか"
],
[
"君は立派な屋敷をもっているそうだが、屋敷もちは京見物の心得が違うようだね。人の住居が気になるかね",
"いろいろと見聞をひろめ、後日の参考に致そうと思っております。人間、焼跡のバラックでは、恒心がそなわりません。ぼくのバラックでは、庭が花園になっていますが、これは職業上の畑でして、家と職業は分離しなければ、家の落付きはありません。隠居家ということを申しますが、隠居家こそは家の建築の正常な在り方である、これがぼくの意見なのです。なぜかと申しますと、万人が家庭においては隠居である。彼は年若く、生き生きと、かつ多忙に働くが故に、家庭においては特に隠居でありたいと思う。これがぼくの意見です。そして、今後家をつくる時の理想なんです。京都の山手の住宅は、いかにも侘び住居、隠居家の趣きを極度に研究、洗練したもののように拝見いたしました",
"建築に凝ると、調度、書画などに凝るのが自然だが、その方はどうです"
],
[
"失礼ですが、こちらに御秘蔵の書画を、拝見させていただけましょうか",
"ナニ、君の方が風流人さ。この住居は借家。特に書画と名のつくものは、何一つ持たないのさ。君はどんなものが、お好きです",
"ぼくはこの、まだ若僧で、観賞力もないものですから、閑静な隠居家がすきですが、又、華やかな色彩、調度が好きなんです。サビとか、渋いということが分らぬわけではありませんが、どうしても華やかなものに気をひかれる。それで調和いたしません。この矛盾、これは悪いことでしょうか",
"好き好きさ。それだけ自分の好きなものが分っていれば結構さ。好きなようにやるのが道楽だろう。で、君の御用件は、なんですか"
],
[
"ヤイ。寸刻といえども同居に堪えがたいと言いながら、オレにタバコをすすめるとは、いい加減なことを言いやがるな。はばかりながら、若い者には、そんなふざけたことは通用しねえや。寸刻も同居に堪えなかったら、堪えないように、ハッキリしやがれ",
"それなら話はわかる。なんでも、そういうグアイに端的に言うものだ。しかし、ハッキリしないのはお前さんの方だろう。オレはさッきから待っているが、お前さんの本当の結論はまだのようだ。その結論をきくまでにはヒマがかかると思ったから一服すすめたが、お前さんの結論が、さっきの言葉ですんでいるのなら、オレは返事の必要がないから、さッさと帰るがよい"
],
[
"それじゃア、記代子を売ってもよいな",
"バカめ。また同じことをモタモタ言っているのか。それが結論だったら、返事の必要がないから、さッさと帰れと言っているではないか"
],
[
"ここへ、なによ?",
"はいってるんだ",
"なによ。こんなとこ"
],
[
"ダメですよ。娘のあられもない姿を若い男に見せるのは、もってのほかよ。あなたのような仙人は、そろそろ男の口にはいらないから、これが適材適所なのよ",
"ぼくの方が適材適所さ"
],
[
"あなたの一念が、どんな効を奏したことがありましたか。記代子さんの行方を突きとめることもできなかったじゃないの。病院のバリケードを破るぐらいは、誰でもできます。放二さんは人の隙をねらうような猾いことはできませんが、記代子さんの行方を突きとめているのです",
"そして、助けだすことができなかっただけでしょう"
],
[
"君はいつも、仏像みたいに、だまっているなア。なんにも返事をしてくれねえや。しかし、君の人相は、いい人相だ。オレは安心して、なんでも喋っていられるよ。昔から、君は、そうだったよ。だが、あのときに限って、どうして、そうじゃなかったのだろう? え? ねえ、長平さん。オレにだって分ってるよ。決して人に愛されるようなオレの姿ではなかったことがね。しかし、オレは、真剣で、必死だったんだ。そんなことは、手前勝手なことには相違ないが、君だけは、そこを見てくれると思ったんだがなア。教えてくれよ。なぜ、怒ったのさ",
"知らないね。オレはお天気まかせだよ。しかし、真剣、必死というものは、自分ひとりでやるものだよ。だが、そんな話はよそうじゃないか",
"そうか"
],
[
"ぼくはちかごろ、三方損ということを考えていたですよ。ただ今、覆水盆にかえらず、を会得するに至って、三方損の考えが生きたものになりましたね。喧嘩両成敗はあたりまえのことでさア。両成敗、両方損、両名は当事者だから、文句なしに、成敗や損をあきらめるのさ。ところが、ここに、すべて物事には当事者ではない三人目がいて、三成敗や三方損というマキゾエをくらって、ついでに損の片棒だけをかつがされている運のわるい奴がいるものさ。まったくですよ。人生の諸事諸相には、かならずこのトンマな三人目が隅ッこでブウブウ言っているものさ。長平さんにあてつけるわけではないが、いつのまにやら、長平さんと梶せつ子がよろしく両成敗の当事者となっている隅ッこで、いつのまにやら三人目の一方損をひきうけてブウブウ言っているのがワタクシさ。御両氏を両成敗と言っては悪いが、しかし、人生、すべてはいずれ両成敗ですよ。それは分って下さるでしょう。ヒガミではありませんやね。だが、長平さん。オレみたいに、人生の大半を三方損の三人目で暮してきた奴はいないよ。三方損の運命に、甘んじるべきや、否や、これ実に、小生一生の大問題、面壁九年の一大事であったです。しかし、面壁、一週間足らずで、解決したね。三方損。よろしい。ねえ、長平さん。ハッキリ、よろしいのです",
"そう簡単には、いかないだろうよ"
],
[
"ぼくは明朝上京するが、君は、ここにブラブラしていても、かまわないぜ",
"イヤ。ぼくも上京しよう。おもしろいことになりそうだ。君は主として北川君を見舞うらしいが、ぼくは記代子さんを見舞うとしよう。しかし、なア、長さんや。記代子さんが重病で放浪の旅から戻ってきてもビクともしないという心事も分るには分るが、北川君の病床には駈けつける。これも分るには分るが、一考を要するところだろうと思うね。アマノジャクでもあるし、理に偏してもいる"
],
[
"いますぐ入院というわけにはいきませんよ。うごかすと、死期を早めるだけのことです。三四日手当をしてみて、多少力がついたとき、病院へうつすことはできるかも知れませんが、どっちみち、長い命ではありません",
"どれぐらいの命ですか",
"うまくいって、二三週間",
"百に一ツも、望めませんか",
"百パーセントです。ここまできては、奇蹟は考えられません",
"会ったり、話を交したりしない方がよろしいですね",
"そう。ですが、どっちみち助からないイノチですから、親しい方々が心おきなく話を交しておかれることを止めるべきではないと思いますね"
],
[
"先生。奇蹟は、どこにでも、あります。情熱の中にあるのですわ。先生が治してあげようと信じて下されば、奇蹟はあるかも知れないのです",
"そう。ぼくの言いすぎでした。毎日きて、できるだけの手当をつくしますから、安心なさい"
],
[
"ぼくは、ノンビリと、ノンキな気持なんです。すべてに、満足しています",
"そうか。それに越したことはない。ぼくは東京にいるあいだ、ルミ子の部屋に泊っているから、用があったり、話相手が欲しいときには、よびによこしたまえ"
],
[
"先生、ぼくに看護婦をつけて下さるんですッて?",
"そうだよ。なれた者でなくちゃア、寝たきりの病人は扱えないものだよ"
],
[
"先生、童話すきですか",
"そう。すきだね"
],
[
"兄さんも好きなんです。読んでくれッておッしゃるのよ。でもね。読みつづけられなくなってね。時々ね、よむのを止してボンヤリしていることがあるのよ",
"なにを読んだね",
"風の又三郎。兄さんが、それを読んできかせてッて。童話ッて、みんな、あんなに悲しいの",
"そうかも知れない",
"変な悲しさですもの。いらだたしくなるのよ。あれじゃア、助からないわ",
"どんな風に、助からないのかね",
"ほんとに悲しいッてことは、あんなことじゃアないでしょう。私、悲しいときにはね、ウガイをしたり、手を洗ったり、そんなことをして、忘れちゃうのよ。無い時にお金のサイソクされたり、叱られたり、ね。それが悲しいことでしょう。童話と怪談は似ているわ。なんだか、ついて行かれない。いつまでも、からみついてるようで、女々しくッて、イヤなんです",
"子供の時のことを、思いだしたくないことが有るんじゃないのか",
"いゝえ。そうじゃないんです。ウガイをしたり、手を洗ったりして、忘れられないようなことは、私たちの生活にはないのです。童話の中にあるだけなのです",
"なるほど。つまり、余計ものなんだな",
"お金で物を売ったり買ったり、身体を売ったりお金をもらったりでもいいわ。それから、借金したり、お金がなかったり。恋をしたり、しなかったり。私の毎日々々のくらしには、あんな変な悲しいこと、ないんです。童話や怪談は、いけないことだと思うんです。ウソですもの",
"どうも、ぼくには分らないが、パンパンの生活をそッくり書いても、童話になるぜ",
"なるんですか!",
"風の又三郎と同じような童話ができると思うけどね。しかし、君の考えていることが、ぼくには、まだ、分らない。君は、山や川や海の景色をみてキレイだと思わないのか",
"思わないことは、ありません。でも、つまらなくも見えます",
"人間は?",
"人間には善いことと、悪いことがあるでしょう。善いことよりも、悪いことの方が、もっとタクサンあるでしょう。人間は、そうなんです。悪い人間もいます。悪い心もタクラミもあります。童話のように善いことずくめじゃないのです。怪談のように悪いことずくめでもありませんけどね。小説ッて、もっと、人が悪くなくちゃア、いけないと思うんです。あんなに変に悲しい童話、助からないんです"
],
[
"お父さんやお母さんは、いるのかい?",
"ええ。それでパンパンは、おかしい?"
],
[
"生れた家へ帰りたいと思わないかね",
"思いだすことはあるけど、帰りたいとは思わないわね",
"病気になったり、苦しいことがあってもか?",
"ええ。生れた家は、もう無いことにきめたの。私はね。街の女。街の子よ。今日があるだけよ。昨日も、明日もないわ。今のことしか考えない",
"ホウ。立派な覚悟だ",
"先生は?",
"そう見事には、いかないな。昨日のことも、明日のことも、考えるよ",
"私も、そうよ。でも、それじゃアこまるのよ。パンパンには、ね。昨日も、明日も、あると、こまる",
"なるほど",
"私だって、パンパンでなければ、昨日も明日もある方が都合がいいだろうと思うわ。その方が、自然だものね",
"そうかねえ。今のほかに、昨日も、明日もある方が、自然というものかねえ",
"冷やかしちゃア、ダメだわ。そんな風にいわれると、迷ってしまうわ",
"ほう。何を迷うの?",
"だって、誰だって、自分の今のこと、今考えていること、今の生活、信じたいのですもの。今のこと、後悔する日がくるなんてこと、苦しくッて、とても考えられないわ"
],
[
"いつか後悔する日が来そうな気がするのかい? ヤ。そんなことをきいて、わるかったかい",
"いいえ。ヤだなア。先生は。そんなにクヨクヨしそうに見える?",
"そこが、ぼくにも分らないよ",
"先生は、どうなのよ。後悔が、こわい?",
"後悔は、ムダだと思うよ",
"そうなのよ。ですけどね。私は、こう言えると思うわ。後悔する日なんて、もう、来ッこないの。私のところへは、ね。私は、そう信じることができるんです"
],
[
"君は、そんなことに、どうして、こだわるのだろうね",
"これは、おそれいった。こッちがインネンをつけられることになるとは思わなかったね。上京して一週間にもなるんだから、一度ぐらいは見舞ってやりなさいよ",
"そういうもんかね。上京と云ったって、こゝと病院には距離があるよ。京都から病院までの距離と、こゝから病院までの距離と、距離があるということじゃア、おんなじことじゃないのか。記代子の病室へ行く必要があれば、京都からでかけるさ。上京したから、ついでに用のないところへ行く必要があると、君は考えているのかね",
"益々おそれいりましたね。人生には、ツイデ、ということが、ないんですかい"
],
[
"ツイデ、ッてことは、たのしいわね",
"ホレ、ごらん。この可愛いいお嬢さんが、証明してくれましたよ。ねえ、可愛いらしいお嬢さん。しかし、ツイデは、たのしいかねえ",
"用たしに行くでしょう。ツイデに、このへん、ぶらついてみましょうと思うわね。たのしいわ",
"ずいぶんジミなお嬢さんだね。そんなのが、たのしいかねえ。ほんとに",
"先生は、腰をあげるのがオックウなんでしょう。私は、そう。腰をあげなきゃならないと思うと、たいがいのことは、その値打も魅力もないように見えてしまうわね",
"意気投合していらせられるか"
],
[
"パンパン宿というものは、威儀を正して坐っていられない気分になるものらしいや。御免蒙って、失敬しますぜ。ところで、長さんや。重ねて、おききしますが、記代子さんの病室を見舞う必要はないのですか",
"先方が会いたがってもいなかろうよ",
"なるほど。しかし、なんとか、してあげる必要はないかねえ",
"君自身が何かの必要を痛感しているらしいな。ぼくに何をやらせようというのかね",
"君自身には、ないのか",
"ない。記代子がぼくを必要とするまでは。どうも、君は、妙にひねくれて、考えているね",
"そうかい"
],
[
"貧乏人のヒガミというものは怖しいやね。ねえ、長さんや。貧乏人はあなたのことをこう言うよ。大庭長平という人物は高利貸しと同じ性質の利己主義者にすぎない、とね。誰から何をしてもらう必要のない人間が、誰に何もしてやらないぐらい簡単なことはないやね。それを一ぱし尤もらしく筋を立ててみせる学の心得があるだけ、隣人の心を傷つけ、害毒を流す悪者である、とね。単純明快に、あなたは悪者であるですよ",
"そう。悪者というのかも知れないわね"
],
[
"そう。彼は悪者以外の何者でもありませんよ。しかし、ルミちゃんや。悪者の定義を甘やかしちゃいけませんぜ。何故に彼は悪者であるですか",
"利己主義ということは悪者ッてことじゃないでしょう",
"ア。そうですか",
"隣人に冷めたいことも、悪者ッてことにならないわ",
"そのほかにも悪者がいるのかねえ",
"私はね。沙漠へ棄てられた夢をみたことがあるわ。誰が棄てたか知らないうちに、誰かに棄てられていたのよ。みると、お母さんが歩いて行くのよ。お母さん、助けてッて、叫んで追ッかけようとしても、足が砂にうずもれて進むことができないうちに、お母さんがズンズン歩いて行ってしまうの。とりつく島もないわね。でもね。ズンズン行ってしまうお母さんが悪者ッてことはないわ。誰も悪くはないのね。そんな夢を見ることが、悪いことなのよ",
"夢が悪者なのかい",
"私はね。大庭先生がね。人に夢を与えるようなところがあると思うのよ。だから、悪い人だと思うのよ"
],
[
"あなたも一しょに行きましょうよ。バカバカしくて、一人じゃ行けやしないわ",
"ハッハ。ビックリ箱でも、ミヤゲに持ッてらッしゃい"
],
[
"じゃア、あなたの恋人には、病人が適しているのね",
"そうでしょうか?"
],
[
"あなた、学校は?",
"田舎の高等学校一年生の一学期まで。東京へとびだしてきましたの",
"あなたは利巧だから、何をやっても、成功するわね。何か、やってごらんにならない。私、後援してあげるわ"
],
[
"そう見えるんですか?",
"自信を持たなきゃダメよ。あなたは身に具った珍しい天分のある方だわ",
"そうですかア"
],
[
"散歩もなさらないの?",
"そう云えば、このアパートから一歩も出たことがないね"
],
[
"ええ。私の部屋へいらしたわ。ハンドバッグいただいたの",
"話をした?",
"ええ",
"どんな話?",
"そうねえ。面白い話じゃないわ。お世辞の多い方ですもの",
"フフ"
],
[
"ルミちゃんは、梶さんの妹なんです",
"え?",
"気質のちがう姉妹があるでしょう。ルミちゃんは、気質のちがう妹なんです",
"そうですか",
"そうです。ですが、女らしい女ということでは、二人とも、似ています。ルミちゃんは、はじめから不幸を選んだのは、賢明だったかも知れません",
"そうですか",
"不幸を選ぶ事のできない人は"
],
[
"お前には、アドルムあげるよ。ねな!",
"畜生!"
],
[
"なにが、殺せ、さ。ルミちゃんを殺しかねないのは、あんたじゃないか",
"ヘッ。それが、どうした。お前だって、ルミ子が死んじまえばいいと思ってやがるくせに。アタイはアイツが憎いんだ。自分だけ、部屋をもって、羞しくないのかよ! アタイたちが宿なしで、うれしいだろう! 畜生!"
],
[
"ここを、どこだと思うのよ",
"チェッ! なんだと。どこだって、かまうかい。お前が、ここの、何なのさ"
],
[
"よせやい。アタイ一人が悪いのかい。わるかったネ。お前たち、お金あるのかい。ヘソクリがあるなら、正直に言いなよ。アタイだけが、一文なしの、宿なしだと笑いたいのかよ。叩ッ殺してやるから、笑ってみやがれ。オイ。笑えよ!",
"勝手におしよ"
],
[
"オフロへ行こうよ",
"そうしましょう"
],
[
"フン。アタイにオフロ銭もないのが、うれしいのか。見せつけたいのかよ",
"うるさいね。オフロ銭ぐらい、だしてやるよ。いつだって、そうしてもらッてるじゃないか",
"いつも、そうで、わるかったな",
"だまって、ついてくるがいいや",
"バカヤロー。オフロ銭ぐらいで、大きなツラしやがるな"
],
[
"先生は貧乏人の心境をお忘れですね",
"そうかい",
"宿がないということと、タヨリがないということは、やりきれないことなんです。ギリギリのところへきてしまえば、自然に何とかなるものですが、さもなければ、解散しても、結局ここを当てにすると思います",
"なるほど",
"人間は、すすんで乞食にはなれないのですね。三日やればやめられないと分っていても",
"なるほど。秋がきても、気にかからなければ結構さ。じゃア、帰るよ",
"御元気で。長らく有りがとうございました"
],
[
"あなた、今になって気がついたのは、そんなことなの? そのほかに、気づかなければならないことが、ないのかしら?",
"でも、憎んでらッしゃるでしょう。それに答えてよ",
"さア。憎んでいますか。あなたが憎まれてるンじゃないでしょうか",
"おんなじことよ",
"あなたの場合、憎まれているか、いないか、そんなことを考えるのが問題ではないのよ。人々に憎まれる原因について、考えなければならないのよ。あなたも散々苦労なさッたでしょう。そのアゲク、私に憎まれているか、いないか、ようやくそんなことだけ気がつくようになったとしたら、ずいぶん悲しいじゃありませんか。人々はあなたに期待しています。あの大きな試錬の中から、あなたが何をつかみとってきたでしょうか、と。あなたの場合、私という存在は、とるにも足らぬ問題よ。あなたは男性というものに、どんな新しい考えを、つけ加えるようになりましたか。青木さんについて、エンゼルについて、あなたが新しく知り得たことは、どんなことでしたか。それについて、真剣に考えたことがありましたか"
],
[
"どうしてらッしゃるの? あら、カギがかかってるのね。はいっちゃいけないこと?",
"もう、ねています",
"そう。じゃ、私も戻ってねましょう。さきほどは、ごめんなさいね。でも、あれぐらいのことで血相変えて怒るなんて、オコリンボね。もう、仲直りしましょうね。おやすみなさい"
],
[
"連れなんか、ないわ",
"ヤ。失礼。すみません。ぼくは、ダメなんだ。すべての栄耀は人に具わるもの、そねむなかれ、という呪文を朝晩唱えるようになったからね。しかし、あなたが丈夫になって、ぼくも嬉しいです。世の大人物はあげてぼくを虐待するからね。陰ながら、病室の外まで見舞いに行っていたのを知っていますか"
],
[
"つまらない話は、よして。見舞いにきたのが、どうしたッていうの。見舞いに来てほしいなんて、思ってもいなかったわ。私、こゝにグズグズしていられないわ。梶さんのおウチから、とびだしてきたんです",
"なアンだ。社長殿の邸宅にかくまわれていたのですか"
],
[
"卑しいわね。そんな興味を、いつも持っているのね。人の私生活に興味をもつなんて、卑しいわ。グズグズしないで、旅館へ案内しては、どう?",
"そうガミガミ云うことはないですよ。さッそく支度をしますけどね。人にはガミガミお金にはピイピイ、あわれなる宿命だね。しかし、あなた、社長邸をとびだして、旅館へ泊って、いかがなさるのですか"
],
[
"さ。では、旅館へ御案内いたしましょう",
"あなたが泊るのではありません。案内したら、帰っていただきます",
"御意のままですよ",
"昔のことは、もう、すんだことだわ。親しい名前や言葉で話しかけるんだって、失礼だわ",
"わかりました",
"私の旅館、知ってるのは、あなただけよ。ですから、あなたにしていただく用があるから、明日の朝、来て下さるのよ",
"承知しました"
],
[
"私を探してきた人はなかった?",
"まだ、きません。で、御用というのは、何でしょうね"
],
[
"ねえ、記代子さん。あなたが再度の失踪に当って、ぼくを下僕として選んで下さったことを、しみじみ感謝していますよ。昨夜御命令によってお約束した通り、ぼくは最良の下僕としてあなたに奉仕いたしますよ。決して下僕以上の位をのぞみやしません。ですから、あなたが予定していらッしゃること、あるいは、まだ思案がきまらないようなことでも、みんな打ちあけて下さいませんか。むろん下僕ですから、御相談のない限り、こうなさい、ああなさい、などと差出口はいたしません。ただ御言い付けに従うだけです。ですが、下僕といえども味方の一人ですから、たった一人の味方として、予定の内容をもらしていただきたいというわけです",
"あなたの前夫人に会いたいの。ここへ来ていただいてもいいわ",
"え? 礼子ですか",
"礼子さんとおッしゃい。もうあなたの奥さんじゃないでしょう",
"すみません。ですが、こまったなあ。礼子さんの住所を知りませんのでね。夕方、仕事場へでてからじゃア、おそいでしょうな",
"バーできいてごらんなさい",
"なるほど。ですが、銀座のバーというものは、たいがい留守番の住む場所もないのが普通なんですよ。礼子さんのバーは、特に地下室のウナギの寝床のようなところで、便所以外に付属室はないだろうと思いますね",
"行って、たしかめてみてからになさい"
],
[
"そう。記代子さんを無事保管していただいて、ありがとう。いま、どこにいますか、記代子さんは",
"その御返事はハッキリおことわり致しますよ。彼女は、あなたとは縁なき衆生です。たぶん、ぼくと彼女とも、多かれ少なかれ縁なき間柄であるらしいようですがね。念のために、それだけはお伝えしておきます。ぼくは彼女を路傍の一人として保護いたしておるにすぎません。今や、なんの親密なる関係もありませんや。ぼくは只今より彼女を京都の叔父なる人のもとへ送りとどけてきます。その旅装のために戻ってきたのです。彼女は今夜は京都の叔父のもとに無事安着するに相違ありませんから、だまって引きとっていただきましょう。言語無用。だまったり。だまったり"
],
[
"お待ちなさい。車がありますから、東京駅まで送ってあげるわ",
"ヤヤ。それは、いけませんね。無茶なことをおッしゃるなア。後で八ツ当りにやられるのが、ぼくですよ。八ツ当りならよろしいが、三たび姿がかき消えまさアね",
"その心配はありません。第一、東京生活をきりあげて帰郷なさるのに、オミヤゲも買ってあげなければいけないでしょう。その機会がなければとにかく、機会があって、手ブラで帰せると思いますか"
],
[
"ほんとね。私のようなチンピラにまでこんなことして、叔父様なんかにはどんなプレゼントするのかしら",
"ナニ、長平さんにはお金いらずのプレゼントがあるのさ"
],
[
"君のは、禅問答だね。一般家庭じゃ、禅坊主にはなりきれないさ",
"君まで、そんな風に思うかね。オレはハッキリしていると思うな。女には、家が二つあるんだね。生れた家と、子供を生んだ家とだね。子供を生まなくッてもかまわないが、とにかく、この二ツのうち、どッちかを選ぶ自由を与えておくのさ。娘の親は、それだけ覚悟しておくんだね。生んだ義務だよ。オレは記代子に愛情なんぞもってやしない。義務をもってるだけだね。義務というほどでもないが、勝手にしやがれということさ。戻ってきたら、仕方がない。こりゃア、奴めに権利があるのさ。そう心得ておきゃアいいと思うんだね"
],
[
"君の云うことは、ツジツマが合いすぎて、気味が悪いね。そうツジツマが合いすぎちゃア、いけねえな",
"なに、ツジツマが合うもんかよ。大要をつかんで、要領だけを云ってるんだよ。要所要所は、いつもツジツマの合ったものさ。枝葉末節に至ると、必ずツジツマが合わなくなるのさ。人生は大方枝葉末節で暮しているから、万事ツジツマが合わねえや。こりゃア、仕方がないじゃないか",
"そういうもんかね。しかし、要所要所に於て、君は大そうあたたかいようだが、実はひどく冷めたいのも、枝葉末節のせいかね",
"そうだろう",
"なア、長さんや。思うに、君も水ムシだね。むしろ、君こそ水ムシの張本人だね。生涯人をむしばんで痛くもカユくもねえや。実に酷薄ムザンですよ。最も酷薄なるものは、痛くもカユくもないものだ。それは、君に於て、まさに最も適切だね"
],
[
"京都は落付いた町ですよ。しかし",
"しかし、なによ",
"京都に甘えてもいけないし、東京を怖れてもいけませんや。そして……"
],
[
"なア。記代子さん。ぼくの云った通りだろう。京都へ戻って、よかったろうがね",
"そうよ。だけど、どうして今朝になって、そう云うのよ。ゆうべ、京都へ戻って良かったと云ったとき、あなた、なんと云った?",
"そうか。魔が掠めたんだね",
"あら、おもしろい。ゆうべは私に魔がついていたの",
"いいえ。ワタシにさ",
"なんだ。つまんない。いつもじゃないの",
"ホウ。ぼくにいつも魔がついていますか",
"そうよ",
"見えますか",
"見えるわ。貧乏神がついているのよ。それも変に見栄坊で気位の高い貧乏神なのよ。自分の貧乏性もよく分るけど、ほかの人の方がもっと貧乏性に見えるらしいのね。で、いたわったり、同情したり、泣いてあげたりするのよ。気位が高くッて、センチなのね。あなたの貧乏神は",
"やれやれ"
],
[
"で、記代子は、どうなんだ?",
"あら、私は……",
"ぼくは、こう思うよ。英雄、帝王のAクラスにも貧乏性はあるもんだよ。秀吉だの、ヒットラアでも、そう見えないかね。そして、誰だって、そうじゃないかね。それに気がつくと、みんなそうなのさ。知らない奴が一番幸福なんだ。だから幸福なんてものは願う必要がないし、それにも拘らず、知らない奴はたしかに幸福に相違ないよ"
],
[
"放二さんにお花あげて下さいね",
"ヤ。ありがとう。どんな花?",
"なんでもいいわ。花束なら"
],
[
"私、ホッとしたわ",
"なにが、ですか",
"放二さんが死んだから。私のために死んでくれたような気がするのよ"
],
[
"え? なんだって?",
"私はね。放二さんの生きているのが、何よりイヤだったの。願いごとをかなえてくれる魔物がいるなら、私の未来の時間を半分わけてやっても、放二さんを殺してもらいたかったわ",
"なぜさ",
"目の上のタンコブなの。なぜだか分らないけど、タンコブなのよ。まだ生きてる、まだ生きてるッて、いつも私を苦しめていたのよ",
"そうかい。それは、おめでとう"
],
[
"なア、記代子さん。オレはタンコブじゃアないだろうな?",
"フフ。あなたなんか、空気みたい。ゼロだわ",
"そうだろう。祈り殺されちゃ困るからな",
"カメのように長生きなさい",
"平凡に。幸福に。ね"
],
[
"すぐ上京するから、あの子の屍体が行路病人みたいに扱われないように、かけあっておいてもらいたいね",
"え? 上京する?",
"左様。半日後には東京につく",
"オイ。笑わせるな。オレは今、ムシ歯が痛んでいるんだよ。今朝から下痢もしているぜ。何大公殿下の気まぐれか知れないが、いい加減にしてくれろよ。行路病人なみに扱わないようにしろッて、そもそもルミ子なるものは大公殿下の妃殿下ですかね",
"北川放二の女房だと云っとけばいいのさ。そのつもりで葬儀の支度をしといてもらいたいね。ナニ、葬儀たって、誰に来てもらう必要もないが、形だけのことをしてやりたいのさ",
"ハイ。ハイ。かしこまりました。ぼくも多少は縁につながる意味があるから、因果とあきらめて、やりますよ。どうだい。親類一同に焼香をねがったら。親類一同の住所姓名がわがらないから、新聞広告はいかがですか。親類代表、大庭長平。ルミ子儀かねて博愛の精神をもって、男子一切同胞の悲願をたて、よくその重責の一端を果し候も、身に限りあり……"
],
[
"御足労をかけてすまなかったが、一刻も早く手をうってもらわないと、行路病人の墓地へ埋められても気の毒だからさ。第一、それからじゃア、尚さら手間がかかるだろうよ。しかし、御両氏が死人と差しむかいの酒モリも、沈々、ちょッと見かけないオモムキだね。酒が、うまかろう",
"まずくはないがね。ところで、君が電話で云ってきたときは、この子の自殺が発見されて二三時間直後のことだそうだよ。遺書を電報で送ったわけじゃアあるまいな",
"速達だが"
],
[
"明日の朝にでも、読みたまえ。今夜は、ねむくなるまで、酒をのもうや",
"こんなものが、シラフで読めるかい"
],
[
"君たちかい。線香を供えてやったのは",
"そうはコマメにいかないねえ。センチな気分にひたるヒマがなかったほど、労働が苛烈をきわめたんだなア。二三、回向の方々があったらしいや"
],
[
"なんだか、変ね。御当人たち、生きてるときには、死んでこうなるなんてこと、考えたことがないのにねえ",
"生きてるうちは、人間みんなデタラメさ。死んでからも、デタラメでも仕方がないよ。なんとなく恰好がつけば、花なのさ"
],
[
"オレは持ってやらないぜ。長さんの心事には甚しく同情を感じていないからさ。一人で重い目をするがいいよ",
"私も同感できないのよ。お供しませんから、ごめんなさい"
],
[
"実に親切テイネイなもんだねえ",
"これが武士道さ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「読売新聞 第二六三六七号~第二六五二〇号」
1950(昭和25)年5月19日~10月18日
初出:「読売新聞 第二六三六七号~第二六五二〇号」
1950(昭和25)年5月19日~10月18日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年3月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
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"あなたのところ、赤ガミが来ないのね",
"こないね",
"きたら、どうする",
"仕方がないさ",
"死ねる",
"知らないね"
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"黄河の脚本、かいた?",
"書かないよ",
"なぜ?",
"書く気にならないからさ",
"私だったら、書く気になるけどな",
"あたりまえさ。君はムダなことしかやれない女なのだ"
]
] | 底本:「風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年11月14日第1刷発行
2013(平成25)年1月25日第3刷発行
底本の親本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
初出:「太平 第二巻第一〇号」時事通信社
1946(昭和21)年10月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:酒井裕二
2015年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056805",
"作品名": "魔の退屈",
"作品名読み": "まのたいくつ",
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"初出": "「太平 第二巻第一〇号」時事通信社、1946(昭和21)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2015-07-15T00:00:00",
"最終更新日": "2015-05-24T00:00:00",
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"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "風と光と二十の私と・いずこへ 他十六篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年11月14日 ",
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"校正に使用した版1": "2013(平成25)年1月25日第3刷",
"底本の親本名1": "坂口安吾全集 04",
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} |
[
[
"あなたのところ、赤ガミが来ないのね",
"こないね",
"きたら、どうする",
"仕方がないさ",
"死ねる",
"知らないね"
],
[
"黄河の脚本、かいた?",
"書かないよ",
"なぜ?",
"書く気にならないからさ",
"私だつたら、書く気になるけどな",
"あたりまへさ。君はムダなことしかやれない女なのだ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 04」筑摩書房
1998(平成10)年5月22日初版第1刷発行
底本の親本:「太平 第二巻第一〇号」時事通信社
1946(昭和21)年10月1日発行
初出:「太平 第二巻第一〇号」時事通信社
1946(昭和21)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2009年7月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042899",
"作品名": "魔の退屈",
"作品名読み": "まのたいくつ",
"ソート用読み": "まのたいくつ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「太平 第二巻第一〇号」時事通信社、1946(昭和21)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-07-11T00:00:00",
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"底本出版社名1": "筑摩書房",
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[
[
"もう、みなさんは、おやすみですか",
"いえ、かまいませんよ。どうぞ、あがって下さい",
"いま伊東からの帰り路ですよ。まだウチへ行ってないのです。おやすみ"
],
[
"なんですね。あの男は。この子の生れたころは、あなたの同僚ですよ。ひところは失敗つづきで、乞食のような様子をして、ウチへ借金に来たことだってありましたよ。それになんですか。いくらか出世したと思って、たかが戦争成金のくせに、威張りかえって",
"威張っておらんじゃないか",
"威張ってますよ。昔はキミボク、イケぞんざいに話し合っていたくせに、いくらか出世したかと思って、あなた、私。おお、イヤだ。以前なら、いま伊東の帰りだよ、といったところを、いま伊東の別荘からの帰り路なんですよ。なんてイヤらしい",
"バカな。へりくだっているんじゃないか",
"ウソですよ。へりくだると見せて威張るのよ。悪質の成金趣味よ。ねえ、克子",
"そうよ。無学文盲の悪趣味よ。裏長屋の貴族趣味ね",
"バカな。お前らのハラワタが汚いから、汚い見方しか出来ないのだ。だいいち、野口君は、伊東の別荘などと言いはせん。いつも、ただ、伊東の、という。つとめて成金らしい口吻をさけているのが分らんか",
"つまんない。裏長屋のザアマス趣味をひッくりかえしただけよ"
],
[
"伊東の別荘と言いたいのを、伊東で切らなきゃならないからイヤらしいのよ。使用人に届けさしゃいいものを、今、帰り路ですなんて、恩にもきせたいし、伊東の別荘も言いたいからよ。わざと、へりくだることないじゃないの。いつもタマゴは三ツなのね。不自然ね。ムリして数を合せてさ。一から十までムリしてるのよ",
"生意気な。なにを言うか。このイワシをみろ。七匹じゃないか。ムリして数を合せてはおらん。お前らのゲスのカングリ、汚らしいぞ"
],
[
"私の問いかけたことにハッキリ答えろ。ムリして数を合せているか。これ!",
"それは、たぶん"
],
[
"あちらッて、どこからの人ですか",
"え、沼津です。遠縁の者が、あそこの工場にいて、時々本社へ上京のたび、私のウチへ寄るのですが"
],
[
"大謀網は、うまくいく時は、ブリが四五万尾はいる。海の魚は無尽蔵ですな",
"沼津の大謀網は初耳ですな。沼津は漁場ではありませんよ",
"いえ、沼津ではないのです。あのへんにちかい漁場での話です"
],
[
"どうです。一度、伊東へ遊びにいらっしゃい。今度の日曜にお伴しましょう。とにかく、別天地ですよ。ウチの畑は二町歩あります。鶏も一週間ぶんの卵を生んで、私たちを待っていますよ",
"ええ。ぜひ一度、お伴させていただきます"
],
[
"そんなもの、持ってって、どうするのよ",
"これだって、まだ着れますよ。あなたのためにもさ。いずれ役に立ちますよ",
"私、そんなもの、着やしない"
],
[
"衣裳道楽の大伯母さまが、一生かかっておあつめになった美術品のような衣類を、そっくり私に下さるというのに。そんなもの、女中だって着やしない",
"モッタイないことを言うんじゃありませんよ。これはみんな私がお嫁入りのとき、持ってきた物なのよ。それをアレコレ工夫して、一生着こなしたんですから、なつかしいのよ。あなたのお父さんに着物を買っていただいたことなんて、一度もありません"
],
[
"それ、ほんと。お嫁入りして今までに?",
"ほんとですとも",
"ほんとかしら。お嫁入りして今までッて云えば、私の年よりも多いわけだわね",
"あたりまえよ",
"フウン。グズだわね"
],
[
"まったく、あの人物には困りましたよ。よそへ廻したくても、どこの校長も引きとってくれません。まだしも代用教員を使う方がマシだと言いましてね",
"そんなことを云って、大事な子供をまかせておく我々はどうなるのかね",
"今になんとかしますが、本人にも言いきかせますから、辛抱して下さい"
],
[
"疎開するところがないからなのよ。負け惜しみッてことが分らないのかね",
"いいじゃないの。きいてみたって",
"きくだけ、ヤボよ",
"でも、ききたいわね",
"きいて、どうするのね",
"この本の保管托されてさ。なんの役にも立たなかったガラクタだなんて、その人知らないわね。おもしろいじゃないの"
],
[
"人間には夢が必要だ。夢を持たなきゃ生きられない。三文の値打もないと分っていても、夢に托して生きる。お前さん方には、わからない。戦争が終って、私と本が又一しょに暮すようになる。時世が変って、私のような老書生も試験にパスして、新時代に返り咲くかも知れない。バカらしくとも、夢に托して生きて行くのがカンジンさ",
"なんだ、つまんない"
],
[
"戦争が終ってから試験にパスしたって、もう停年の年齢じゃないのよ。どこにも夢なんて、ありゃしない",
"克子は夢がないのかね"
],
[
"実は、疎開のことですが",
"疎開なさるんですか。結構ですね。早いが勝ですよ。どちらへ?",
"いえ、それがね",
"奥さんの伯母さんの所でしょう。大変なお金持だそうですね。羨しいですよ。こッちへも少し分けて下さい",
"ええ。家内と娘はそこへ疎開させますが、私はちょッと遠いものですから"
],
[
"遠いッたって、なんですか。持久戦ですよ。物資のあるところに限りますぜ。こんな小ッポケな工場を持ったおかげで、私なんか身動きができないから哀れですよ。田舎へひッこんで、新鮮なものをタラフク食べて、忙しい思いを忘れたいですよ",
"実はお宅の伊東の別荘の片隅をかしていただけたらと、あつかましいお願いなんですが"
],
[
"御依頼に応じかねますな。たった四間の掘立小屋ですよ。ウチの家族だけで、はみだしてしまいますよ",
"軽井沢でも結構ですが",
"あれは人に貸しています"
],
[
"たしか鶏小屋が一つ、あいてましたね",
"ハ? なんですか",
"鶏小屋が一つ、あいてましたね",
"ハア。鶏小屋ですか。あいています。それが、どうしたというのですか",
"あれを貸していただけませんか",
"鶏小屋を!"
],
[
"小さい方の使っていない小屋のことでしょうね",
"むろん、そうですとも。使用中のものを、お願いできるとは思いませんから",
"あの小屋なら、一間の四尺五寸、つまり一坪に足りないのですよ。あれをどうしようと仰有るのです"
],
[
"とんでもないことです。そんな国宝的な品物はお預りできません。保管の責任がもてません。私はズボラですから",
"いえ、責任をもっていただく必要はありません",
"ダメ。ダメ。あなたがそう仰有っても、戦火で焼くとか、紛失するとか、してごらんなさい。野口はくだらぬ私物を大事にして、人から托された国宝的な図書を焼いてしまった、と後世に悪名を残すのは私ですよ。それほど学術的価値のあるものでしたら、文部省とか、大学などに保管を托されることですな。そんな物騒な高級品は、私のような凡人の気楽な家庭へ、とても同居を許されません。意地が悪いようですが、堅くおことわり致しますよ"
],
[
"いえ、いいんです。私は疎開は考えません。一億玉砕の肚ですから。最後の御奉公ですよ。それに、日本は、負けやしません。最後には勝つのです。何年先か分りませんがね。そのとき私の残した本が、まア、いくらか、お役に立つでしょう。私はそれだけで満足です。ほかに思い残すこともありません",
"梅村さん。戦争は何百万の雷をあつめたように、容赦しませんよ。小さな負け惜しみや、小さな意地をはってみたって、なんにもなりゃしませんよ",
"いえ、なります。時間の問題ですから。軍は秘密兵器を完成しています。敵が図にのって、総攻撃に来たときに、奥の手を用いて一挙に勝利へみちびく。これが軍の既定の作戦なんです"
],
[
"フトン、衣類、鍋釜でしたら、鶏小屋へ保管してあげます。まア、せいぜい、分散しておくことですよ。必需品ですから。そして、書籍などは、値のあるうちに、売り払いなさい。もっとも、タキツケの役に立つときが来るかも知れませんがね",
"ええ、まア、タキツケには、なりますね。戦国乱世には、皇居の塀や国宝の仏像で煖をとります。庶民は、仕方のないものです。私の本も、おなじ運命かも知れません"
],
[
"私もみんな焼きました。残ったのは、私の着ているものだけです",
"命が助かっただけ、しあわせです。しッかりしなさい"
],
[
"あなたはフトンも衣類も疎開しなかったのですか",
"いえ、私は、いらないのです。私はひとりぼっちが怖しいのです。夜露をしのぐ屋根さえあれば、たくさんなんです。こんな怖しいところへ、私を見すてないで下さい",
"むろん助け合うことは必要です。しかし、奥さんの疎開先へいらしたら、どうですか。あなたは逆上して、いろんなことを忘れてらッしゃるようですね。屋根だけじゃありませんよ。フトンも、鍋釜もある筈ですよ。奥さんが待っておられますよ。心配しておられるでしょう",
"いえ、私は働かねばなりません。社長に見放されては、生きることができません",
"私の工場は焼けました。伊東にはチッポケな家があるだけです。私は、もう社長ではありません",
"私を見すてないで下さい"
],
[
"あなたはウチの鉈でエンピツをけずっていらっしゃいましたね。鉈は叩き割る道具ですが、どうでした、うまく削れましたか。ウチの者に仰有ればナイフぐらいお貸ししますよ。しかしナイフぐらいお買いになってはどうですか。まだ売ってる店を見かけましたよ",
"いえ、買いません。買いたいと思いません。お金が惜しいからではありません。私は貴重な体験を生かしているのです。私は考古学のまとまった資料や大切な文献をみんな焼いてしまいましたが、文献以上の資料を見出しているのです。それは私の今の生活を原始時代のものとみて、その体験を資料にし、実験しているのです。今までの学者は石器時代の遺跡を地下から発掘しましたが、私は生きている生活を発掘しているつもりなのです。八紘一宇の精神にも一致します。遺跡の発掘は米英的な科学にすぎませんが、私のは、学問の真髄、日本精神にのっとった唯一最後のものなんです。ここまでこなければ、考古学は分りません。そして、私が考古学に於て日本精神による方法の勝利を発見したように、米英の科学思想は究極に於て日本の復古精神に敗れますよ。日本全土が焦土と化した後に於て、米英の科学思想は逆に日本に弱点をつかれます。日本の勝利は近づいているのです",
"なるほど、石器時代を体験なすっていらっしゃるのですか。なるほど、タオルはなかったでしょうな。たしかに沐浴のあとでは、からだを天日にかわかしたでしょうな。しかし、失礼ですが、石器時代は貝塚とか云って、物をナマで食べていやしませんか。まア我々の食べ物は調味料もなし、豚のエサで、石器時代以下かも知れませんが、あのころは、また、穴居とも云いましたようですね。鶏小屋は変じゃありませんか。防空壕で起居なさる必要があるでしょう"
],
[
"仰有る通りです。でも、急ぐことはありません。自然にそうせざるを得なくなりますから。日本は焦土になります。ここも焼けるか、吹きとぶか、どちらかです。みんな次第に穴居しますよ。ムリにすることはないのです。自然になされた状態に於て、はじめて体験の真理が会得されます",
"ほんとですね",
"むろんです",
"石器時代に毛布やフトンや着物がありましたかね",
"むろん、ないです",
"なぜ着物をきてらっしゃるのですか。戦災者特配の毛布は、うけとるべきではなかったですね。なぜ、お貰いになったのですか",
"いえ、それでいいのです",
"なぜですか。せっかくの自然状態を自ら裏切ってやしませんか",
"いえ、いいのです。今に、くれる物もなくなる時がきます。みんな、裸になる時がきます",
"それでも日本が勝ちますか",
"かならず勝ちます。『有る』思想は滅亡すべき性格です。『無』の思想には、敗北はないのです",
"あたりまえですよ。無より悪くはなりっこないにきまってますよ",
"いえ、無が有を亡すのです"
],
[
"あなた、ひがんではいけませんよ。たとえば、単に別荘だけでしたら、金殿玉楼も買い手がないのは当然かも知れません。いま敵に追いつめられ、窮亡のドン底にある我々に、最大の財産はなんですか。言うまでもなく、自給自足しうる土地ですよ。田畑ですよ。いいですか。現在に於ては、そうなんです。しかし、平和恢復後の未来に於ては、田畑の値は下るでしょう。そのときに高値をよぶのは何でしょう。この土地に於ては、先ず第一に源泉にきまってるじゃありませんか。伊東の町にはどの住宅にも温泉がひいてあるかも知れませんが、源泉の数は知れています。おまけに、ここの湯は自噴ですよ。伊東に自噴の源泉なんて、いくつも有りゃしませんよ。大部分がモーターであげているのです。現在に於ける最大の財産と、未来に於ける最大の財産と、二つを一とまとめにして、しかもこれが空襲にも艦砲射撃にも絶対不変の財産ですが、それで一万が高すぎますか。私は親しくしていただいたあなたなればこそ、安くお譲りしようと思っているのです。一万円なら誰だって飛びつきますよ。しかし、見ず知らずの人に売るのでしたら一万円じゃ売りませんとも。失礼ながら、焼けだされて無一物となったあなたのために、すこしでも尽してあげたいと思ったのですよ。お別れすれば再びお目にかかる機会があるかどうか分りませんが、私としては、最後の友情のつもりなんです。餞別にそっくりタダで差上げたいのは山々ですが、私も焼けだされだから、そう気前よく出来ないのが残念です",
"近代戦の上陸地点の激戦の跡というものは、満目荒涼、山の形も川の流れも変るでしょう。草も木も、小鳥も虫も、何もありません。どこに伊東の町があったか、見当もつかないでしょう。あなたの地所が川か沼にならなければ幸せというものですな。温泉町として復活するにも二十年はかかるでしょう。そのころは、私は死んでいるでしょうな"
],
[
"すべてを失った後に於て、日本は勝ちます。太古にかえり、太虚に至って、新世界の黎明が現れます。日本は太虚であり、太陽であり、新世界の盟主です。記紀に予言されたところであり、歴史的必然です",
"そうあって欲しいものですよ。ところで、梅村さん。穴の中に隠れてくらすにしても、人間は何か食わずには生きられませんよ。穴の中の生活に配給はありませんぜ。自分の畑がなくて、あなた、どうなさる。この畑には、鶏小屋も鶏も附属していますぜ。日本の現状に於ては、まさに王侯じゃないですか。第一、私がこの別荘を人に売ったら、あなたは鶏小屋を追われます。あなたの身柄までひッくるめて、買ってくれる人はいませんからなア"
],
[
"ええ、ええ。どうぞ。ひさしく笑うことを忘れていましたから",
"五千円なら買いたいという人があるんですが、おことわりしたんです。しかし、私も、金と命をひきかえるのはイヤですから、値ぎられるよりも、時間のちぢまる方が、なお怖いですよ。あなたは売り別荘続出で、買い手がないとタカをくくってらッしゃるようですが、大戦争の生きるか死ぬかの瀬戸際にも思惑をはる商売人がいるもんですよ。私も、つくづく、呆れました。別荘を買い漁っている人種がいるのです",
"それに似た話はきいております。しかし、私のきいたのは、買い漁ってと云うよりも、拾い漁ってと云う方が正しいような話でしたな。買い漁る必要はないのです。別荘をすてて逃げているのですから。引越しの運賃になれば、よろこんで売るそうです"
],
[
"あなたは、まだ誤解してらッしゃるようですな。売り別荘はタダが当然ですとも。しかし私のは、別荘の価値じゃなくて、田畑と源泉の値段です",
"それでしたら、千円ですな。もう、ちょッと安いかも知れない",
"この田畑と源泉が、たった千円ですか!",
"ええ、千円です",
"何から割りだしたお値段ですか。ひとつ、後学のために、きかせて下さい",
"敵の上陸を二ヵ月後として、別荘二ヵ月間のお家賃六十円。それも、四五日後に敵が上陸すれば、丸損ですな。二ヵ月後から十数年間は不毛の沙漠となりますから、土地も源泉も値のつけようがありません。値のつくものは、三十羽ほどの鶏と、いま畑にできている野菜だけです。これを高く見積って、全部でせいぜい千円です。食べきらぬうちに敵が上陸すれば、これも丸損になります。そこを半々にみて、五百円がいい値でしょうな",
"あなた、また、五百円に下ったんですか!",
"ええ、そうなります。それでも高い",
"まだ下るんですか!",
"ええ",
"いくらに!",
"明日、敵が改めてくるかも知れない。今夜かも知れない。いえ、もう、大島辺に敵の艦影が見えて、今に空襲警報がなるかも知れない",
"なるほど。すると?",
"タダです",
"タダなら貰って下さるんですか。イヤ、まったく光栄です。あいにく、そのときは私が鶏と野菜をたべなければなりませんから、さしあげるわけにはいきません",
"私、千円で買ってさしあげましょう",
"ハハア。買ってさしあげて下さいますか。千円でねえ",
"ええ。買ったトタンに敵の上陸作戦がはじまっても、私の不運とあきらめます。あきらめては、いけないのです。あきらめては、この戦争に勝てません。鶏小屋の家賃にしてはすこし高いと思いますが、長らくお世話になったお礼として当然だと思って、あきらめるのです",
"なるほど。たいへん勉強になりました。色々の計算法があるものですなア。私は感服しましたよ。しかし、驚きましたな。どうして、あなたが、もっと出世なさらなかったのだろう? 自分の欲する通りに、千円の物を十円に値をつけて、キチンと思い通りの計算をわりだすことがお出来になる。あなたは四角のものを円だと云って、そのワケをキチンと説明のできる方です。白いものを黒だと云って、そのワケをキチンと証明することもお出来になるに相違ありません。自分の欲する通りの計算がおできなのに、どうして一生貧乏なさったのでしょうね。梅村さん。そのワケがお分りですか。なぜ貧乏なさったか? 思いのままにキチンと計算ができながら、ね。そのワケは、こうです。あなたの計算は、あなただけしか通用しません。世間ではその計算が通らないのです。四角は常に四角。白は黒では有りえないのです",
"公式通りには、いきません。なぜなら、戦争ですから。一寸先はヤミ、ということを、あなたは忘れてらッしゃるのです",
"あなたは、又、一寸先はヤミ、というウマイ方式で単純に割りきって、手前勝手な言いくるめ方をあみだしていらッしゃいますよ。しかし、ねえ、それでは人生は身も蓋もありません。そうでしょう。たとえばですね。家を買う。戦争の時でなくッたって、その晩、火事で焼けるかも知れません。源泉を買う。地底の変化で突然源泉が出なくなるかも知れません。牛を買う。翌日死ぬかも知れません。それを理窟にして、五千円のものを、千円、五百円、タダにしろと云えますか。しかし、理窟としては、たしかにタダでも有りうるのです。なぜなら、買った日に、燃えたり死んだりするかも知れませんから、ね。あなた、その理窟をふりかざして、世渡りができるでしょうか",
"いえ。できますとも。あなたこそ、平時と戦時をゴッチャにして、計算をごまかしていらッしゃる。みんな別荘をすてて逃げている時代なのです。すべて物という物が無価値になりつつある時代なのです。あなたの計算が、手前勝手なのです"
],
[
"じゃア、二千円で買いましょう",
"何を仰有るのです。私だって疎開を急がなければ、こんな捨値で売りやしませんよ。今どき、五千円ポッチで何が買えますか。あなたのように、家も土地も所有したことのない方に、こんな話をしたのがマチガイでした。私も長い辛酸のあげくに、ようやく念願を果したこの別荘です。ハシタ金で、ボートクを加えるほどなら、火をかけて燃した方がマシですとも",
"ボートクじゃないのです。私はお金がないのです",
"じゃア、およしなさい。お金がなければ、話になりません",
"じゃア、三千円で手をうちましょう",
"誰が手をうつのですか",
"私はそれしかお金がないのです",
"ですから、お金がなければ、お止しなさい",
"あなたは卑怯です",
"なぜ",
"私のような鶏小屋の住人に売買の話をもちだす以上、私のもてる限度に於て取引に応じて下さるのが当然でしょう",
"私はあなたとは論争しません。あなたが弁護士でしたら、殺人犯人がどんなに喜ぶか知れませんよ。泥棒や詐欺は正業という結論になったでしょうよ。債権者は罪人になります",
"私をからかうために、この売買の話をもちかけたのですね。それでしたら、あなたは本当に罪人ですとも",
"あなたに善人とよばれるよりは、罪人とよばれることを喜びますよ",
"あなたは私をぬか喜びさせ、期待にふるえる思いをさせて、ドン底へ突き落したのです。希望をもたなかったうちは、私は鶏小屋の生活に安住することができたでしょう。こんなふうに、いっぺん空へ抱き上げて、突き落されては、私はもう平静な心境を失いました。私は絶望させられたのです。手足を折られた上に、さア働いて生きて行け、と突き放されたようなものです。私をどうして下さるのですか",
"私は何もしませんよ。この土地と建物を売って、軽井沢へひきあげるだけです",
"じゃア、二千五百円で、土地の半分と、建物の半分と、源泉の半分を売って下さい",
"あと半分の買い手を探していらしたらね"
],
[
"なに、ここだけが戦場になるわけじゃありませんよ。おそかれ、早かれ、日本中がそうなるのです。私は、高いとか安いとか選り好みできるあなたの境遇がうらやましいと思ってますよ",
"じゃア、死ぬる思いですが、思いきって、四千円だします。四千円で売って下さい",
"いえ、いけません。五千円。最低の値をつけたのです。私は商売をしているわけではありません。五千円という捨て値は、まったくの捨て値で、損得勘定の根拠があるわけではありません。ひとつの気分でヒョイときめた捨て値です。愛着のこもったものを捨て去るときの悲しさをいたわってくれるものは気分だけです。私は気分をこわすわけにいきません。商取引のように、値切られたり、まけたりするわけにいかないのです"
],
[
"五千円で買ったら、あなたは今日中に立退きますか。いえ、今日中に立退いて下さい",
"今日中はムリですよ。先日来、駅との談合で、明朝荷物を送りこむ手筈になってるのです。用意はできていますから、明日の午後、立退きましょう",
"きっとですね",
"むろん、まちがいはありません。それで、あなたは、いつ五千円下さるのです",
"あなたの立退きとひき換えに",
"いえ、いけません。もしもあなたの気持が変ると、私は出発をのばして、買い手を探さねばなりません。私が怖れているのは、疎開の時間がおくれることです。いま、五千円、いただきましょう",
"いえ、それは片手落です",
"おかしいですね。あなたにとっても今日中に一時も早く登記の手続をすませることが大切ですよ。すると、もう、あなたはここの所有者で、安心してよろしいのですよ"
],
[
"一式百円で買いませんか。大工道具一式、左官のコテまで揃ってますぜ。御不用なら、駅前でセリで売りますがね",
"百円は高い",
"ほんとですか。桶もテンビンも、噴霧器まで揃ってますぜ。どこを探しても農具や大工道具は売ってませんよ。そして、現在これ以上の貴重品はありません。有り過ぎて困る物ではありませんから、持ってこうかと思ったのですが、こちらに何もなくては、せっかく田畑があっても耕作にさしつかえますから、お譲りしようと思ったのです。高いと仰有れば、重いけれども持ってきましょう",
"それは畑に附属したものです",
"それじゃア家具は家に附属したものですか",
"いえ、それは屋外で使う品物だから",
"アハハ",
"いえ、買いますよ"
],
[
"フトン買ってくれ",
"フトン?",
"カヤもいる",
"お前、もたないのか",
"お前も、もたないだろう"
],
[
"私の毛布、一枚わけてやる。それで、たくさんだ",
"冬にこまる。いま、買っておけ",
"フトン背負って、戦場を逃げて廻れるものか",
"オレが背負ってやる。カヤも買え",
"カヤはいらん。今に穴ボコの中で暮すようになるのだ。穴の中にカヤはつられん",
"つれる。つれる穴をつくってやる。鍋と釜を買え",
"私が持っとる",
"小さい",
"小さくない。四人で充分にくえる",
"くえん",
"お前バカだな。あの釜は一升たける",
"三升たかねばならん",
"お前、一食に一升くえるか",
"オレは一日に五へん食う"
],
[
"みんな買っておけ。今が安いぞ。オレが安く買ってきてやる。持ってる金、みんな、だせ",
"どうするのだ",
"金のあるだけ品物を買う",
"バカだな。一文なしで、くらせるか",
"心配するな。オレにまかしておけ",
"電燈屋がきたら、どうする",
"畑の物を売って払ってやる。お前は心配するな",
"そうか。本当に大丈夫か",
"大丈夫だ",
"そんなに買いこんで、戦争のとき、持って逃げられるか",
"オレにまかしておけ"
],
[
"お前、酒すきか",
"うむ。酒が買えるのか",
"オレが造ってやる"
],
[
"お前も酒すきか",
"オレはのまん。オレは腹いっぱい食うのが好きだ"
],
[
"畑はオレが一人でする。お前は用がないから、退屈したら、魚釣っとれ",
"そうか。釣れるか",
"釣れるだろう。イヤなら、やめれ",
"やってみる"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 09」筑摩書房
1998(平成10)年10月20日初版第1刷発行
底本の親本:「夜長姫と耳男」大日本雄弁会講談社
1953(昭和28)年12月発行
初出:「別冊文藝春秋 第一五号」
1950(昭和25)年3月5日発行
※初出時の表題は「水鳥亭由来」です。
入力:tatsuki
校正:花田泰治郎
2006年4月8日作成
2014年5月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043187",
"作品名": "水鳥亭",
"作品名読み": "みずとりてい",
"ソート用読み": "みすとりてい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「別冊文藝春秋 第一五号」1950(昭和25)年3月5日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-06-14T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43187.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 09",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年10月20日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年10月20日",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年10月20日",
"底本の親本名1": "夜長姫と耳男",
"底本の親本出版社名1": "大日本雄弁会講談社",
"底本の親本初版発行年1": "1953(昭和28)年12月",
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"入力者": "tatsuki",
"校正者": "花田泰治郎",
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"テキストファイル最終更新日": "2014-05-30T00:00:00",
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} |
[
[
"君、まだ、歯はぬけないかい?",
"歯がぬける?",
"ウン、そろそろ、ぬけるぜ。あんときは、いゝ医者へ行かなくっちゃアいけないよ。治療が長びいてネ。入れ歯をすると、餅にくッついて、いけないネエ。年だなア。君も、そろそろ、はじまるころだ"
],
[
"どうぞ。お年寄、こちら。床の間へ",
"おい、ふざけるな。君と、いくつ、違うんだ",
"いえ、わかってます。そんなに気になるもんですか。ふうむ"
],
[
"兄さん、ほんとに、何か、変なこと、したんじゃないの",
"バカぬかせ。あいつ、何か言ったのか",
"いゝえ、問いつめてみても、返答しないんです",
"あたりまえだ。ありもしないこと、言える筈がないにきまってる",
"だって、益々変よ。ちかごろは、お風呂へはいるとき、内側からカギをかけるのよ。ねる時も、女中部屋の障子にシンバリ棒をかけるんです。一方だけシンバリ棒をかけたって、一方の障子があくのに、バカな子ね。でも、そんな要心たゞ事じゃないでしょう。そのくせ、じゃア、私のお部屋へ寝にいらっしゃいと云っても、来ないのよ",
"それみろ。あいつはヒネクレ根性の、悪党なんだ。あんな不潔な、可愛げのない奴、追いだしてしまえ"
],
[
"これは意地強情とか、ヒネクレ根性というだけじゃないよ。あいつ、男があるんだよ。男の便りを待ってるのだろう",
"じゃア、兄さんとおんなじじゃないの。ころあいのサヤアテでしょう。それにしても、熱病患者の兄さんが敗北するとは、おトンちゃんの情熱は凄いわね"
],
[
"きっと、深いワケがあるのよ",
"なぜ",
"あの沈鬱、たゞごとじゃないわ。だから、たとえば、その恋人は、刑務所かなんかに居るんじゃないかしら",
"ふうむ"
],
[
"あの子、おかしいのよ",
"なにが",
"あの子はね、新聞や雑誌の広告を見て、いろんな毛はえ薬を買っていたのよ。奈良だの、大阪だの、姫路だの、岡山だのと、方々のね。小包がくるでしょう。すぐ隠して持ち去るでしょう。あんまり様子が変だから、あの子の留守にお部屋を調べてみたのです。荷物の底へ、同じような毛はえ薬がたくさん隠してあるでしょう"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 06」筑摩書房
1998(平成10)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物 第三巻第五号」
1948(昭和23)年5月1日発行
初出:「オール読物 第三巻第五号」
1948(昭和23)年5月1日発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2007年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042834",
"作品名": "無毛談",
"作品名読み": "むもうだん",
"ソート用読み": "むもうたん",
"副題": "――横山泰三にさゝぐ――",
"副題読み": "――よこやまたいぞうにささぐ――",
"原題": "",
"初出": "「オール読物 第三巻第五号」1948(昭和23)年5月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-08-22T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42834.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 06",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月22日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年7月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "オール読物 第三巻第五号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1948(昭和23)年5月1日",
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"テキストファイル最終更新日": "2007-07-24T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"太刀もやろう。欲しいものは、みんな、やろう",
"衣も、おくせ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集3」ちくま文庫、筑摩書房
1990(平成2)年2月27日第1刷発行
1991(平成3)年5月20日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:花菱蓮
校正:小林繁雄
2008年11月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "042764",
"作品名": "紫大納言",
"作品名読み": "むらさきだいなごん",
"ソート用読み": "むらさきたいなこん",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-12-14T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card42764.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集3",
"底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1990(平成2)年2月27日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日第2刷",
"校正に使用した版1": "1990(平成2)年2月27日第1刷",
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"校正者": "小林繁雄",
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"テキストファイル最終更新日": "2008-11-16T00:00:00",
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"テキストファイル修正回数": "0",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"なになに、ええわ、本を読みなされ",
"字が読めんです"
],
[
"何んだい、藪医者の奴が! 注射で人を殺した偉い先生があるもんかね!",
"いやいや、さういふもんでないぞ。(と。見給へ、半左右衛門はなほも攻勢をつづけるのである!)偉い先生のことだから患者は死ぬだけのことで助かつたといふもんでないか! これが素人であつてみい、どうなることか知れたもんでないぞ"
],
[
"わしは別に殺しはせんよ。婆さんは今朝から死んどるといふのに。……",
"おや! 誰が言ひましたかね!",
"医者が――",
"えへん!"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 01」筑摩書房
1999(平成11)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「三田文学 第六巻第一〇号」三田文学会
1932(昭和7)年10月1日発行
初出:「三田文学 第六巻第一〇号」三田文学会
1932(昭和7)年10月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※新仮名によると思われるルビの拗音、促音は、小書きしました。
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2010年5月19日作成
2011年5月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045805",
"作品名": "村のひと騒ぎ",
"作品名読み": "むらのひとさわぎ",
"ソート用読み": "むらのひとさわき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「三田文学 第六巻第一〇号」三田文学会、1932(昭和7)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-06-15T00:00:00",
"最終更新日": "2016-04-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card45805.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 01",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月20日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "三田文学 第六巻第一〇号",
"底本の親本出版社名1": "三田文学会",
"底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年10月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "伊藤時也",
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"テキストファイル最終更新日": "2011-05-20T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/45805_39313.html",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"虎かい。どうだ。ちかごろ剣術使いは忙しいかエ",
"父母子七名、どうやら飢えをしのいでおります",
"神楽坂に酔っぱらいの辻斬がでるそうな。オメエに似ているという話だ",
"メッソウもない",
"婦人の首ッ玉にかじりついて頬ッペタをなめるものだから、神楽坂は夜の八時から婦人の通行がないそうな。どうせなめて下さるなら隣の新十郎様にしてもらいたいと神楽坂の娘や新造が願をかけているそうだ。虎が首ッ玉にかじりつくのはコンニャク閻魔が似合いだろうと按摩のオギンが大きに腹を立てていたぜ",
"汗顔の至りで、多少身に覚えがありますが、話ほどではないようで。実は、その結城新十郎どののことで御前の御智略を拝借にあがりましたが",
"なにか事件があったかい",
"まことに天下の大事件で、新聞は記事差止め。密偵は津々浦々にとび、政府は目下御前会議をひらいております"
],
[
"どこかで戦争がはじまったかエ?",
"実は昨夜八時ごろ政商加納五兵衛が仮装舞踏会の席上何者かに殺害されました。当夜の会には閣僚はじめ各国の大公使、それに対馬典六、神田正彦も出席いたしておりました"
],
[
"曰くある人物が一堂に会したのがフシギだな。一堂に会することにフシギはないのだが、五兵衛自邸の舞踏会てえのが曲者なのさ。はやまったことをいっちゃア、新十郎に笑われるかい。オメエの知ってるだけの事件の模様を話してごらんな。後先をとりちがえねえように、石頭に念を入れてやるがいいぜ",
"ハ。ありがたき幸せで"
],
[
"私、仮装なんか、しないわ",
"じゃア、マスクなさるのね",
"いいえ。マスクはきらい。舞踏会もきらいなのよ。だから、今夜はお友だちと乗馬のお稽古にでかけますのよ"
],
[
"お梨江嬢はどうした。いまだに姿が見えんじゃないか",
"ハ? イヤ。すでに来ているはずですが、見こぼしておられるのではありませんか",
"バカな。オレは三十分も前から目を皿にして見ているのだぞ。ヤ。あんた、加減がわるいのか?"
],
[
"じき現れるそうです",
"そうか。それで安心した"
],
[
"ほかの人々はお梨江嬢の倒れた方へ駈け去って、残っていたのは、あなた方雲助組だけですね",
"とんでもない。駈けつけたのは、まア、四分の一ぐらいでしょうか。四分の三は自分の場所を動きません。ただ、何事ならんとお梨江嬢の倒れた方を見ておったのです",
"あなたは加納さんの倒れるところを見ましたか",
"まことに、おはずかしいが、オイドンはお梨江嬢の方に気をとられて、犯人と犯行の瞬間を目撃いたしておりません。両名で担っておった山カゴがグラグラと前へゆれて傾きおるから、ふと見ると、五兵衛どんが胸か腹をおさえて、前へトントンとのめるように倒れるところでした。あの人は剛気ですから、その瞬間になっても、山カゴを担った片手は放しません。そのとき、五兵衛どんのフシギな様子に気づいて、横っとびに駈けよりざま、ちょうど倒れた五兵衛どんを抱きとめようとした虚無僧がありました。両手でだきとめよったから、手にした尺八が音をたてて落ちましたな。後にアミ笠をとりよったのを見ると、この虚無僧は油絵描きの田所金次ですわ。今夕の仮装者には、もう一人虚無僧がおりましてな。これは政商、神田正彦でありました",
"すると、それまで、被害者に接近した人はなかったのですか",
"その四五分前に総理大臣が五兵衛どんのところへこられましてな。ちょッと用談がありました。すると五兵衛どんは令夫人を目でさがしましてな、折よく近いところでフランケン大使と踊っておるのを認めまして、そこへ行って一二応答があったようです。五兵衛どんは戻ってきて総理に復命しました。そういえば、そのとき、五兵衛どんはなんとなく顔色すぐれぬ様子でしたなア"
],
[
"総監はハダカにフンドシですが、国威を失墜しましたなア",
"ヤ。しまった"
],
[
"探偵はあらゆるものに変装しますから、そう見ておいたらよろしいでしょう",
"ヤ。結構々々"
],
[
"捩じまがって倒れたのでないとすると、ちょうど楽隊席の方角だなア",
"なんの方角だえ?"
],
[
"お主、剣術使いだが、真剣勝負をしらないなア。幕府には新撰組という人殺しの組合があったが、お主はそれほどの人物ではなかったようだ",
"真剣勝負とは、何のことだ",
"手裏剣が柄の根元までブスリ突き刺すものか、ということさ。人の腹はやわらかいが、豆腐にくらべてはチトかたいなア"
],
[
"加納さんが倒れる前後に、この近ぺんにいた虚無僧は田所さん一人でしたか",
"左様。その瞬間にこの近くにいた虚無僧は一人だけのようです"
],
[
"いゝえ、ただなんとなくこッちへ歩いてくる途中でした。私は人々のさわぐ様子で何かが起ったと知りましたが、妹が倒れたとは知りませんでした",
"あなたは倒れるお父上の姿をごらんになりましたか",
"倒れる瞬間には見ておりません。倒れた後に、虚無僧姿の田所さんに抱かれて後の姿を見ましたが"
],
[
"被害者が泳ぐ様子をごらんになったとき、何をしていると思いましたか",
"左様。泳ぐというよりは、前の方へうつむきがちに、しゃがみこむように見えましたな"
],
[
"そう。そう。私も、そう見たね。おや、あの雲助はしゃがむんだナ、というようにね。それだけのことだ。別に死の前のどうこういう様子に見えたわけじゃアない",
"しかし、しゃがみながら、胸をかきむしったなア。こう、何か胸にだきしめるような様子だった",
"胸に? 腹じゃアないのですか",
"イヤ。つまり、何かだくような様子です。だくといったって、ハダカだから、だいてるわけじゃアないなア。つまり、胸をこう、こすったのかな。私はハッキリ見ました。つまり、あれは死の苦しみというのかなア"
],
[
"ですが、ほんとに、そう仰有ったのです。そして、まさか、アレが生きてやすまい、なんて仰有ったようです",
"戻られたのは、何時ごろですか",
"会場の皆様が大分おあつまりになって後のことでした。いそいで御飯を三膳、お茶づけで召しあがって――お急ぎのときは、いつもそんなです。一二分で、かッこむように召しあがるのです。そして雲助に扮装あそばしてお出になる、三十分もたつかたたぬに、あの御有様でした"
],
[
"御主人はおそく戻られたそうだが、どこへお連れしたのだえ?",
"烏森の夕月でした。何御用かは存じ上げません。ただ、お帰りのときに、まさか人のイタズラとは思われないが、生きているなら、どうして来ないのだろう。来ないワケはないがなア、と仰有っていました。夕月の女将に、誰それが見えたら、使いをよこすように、と仰有ってたようです"
],
[
"私、気絶していましたから、お父さまの死になさるのを見ておりませんが、虚無僧姿の田所様が介抱なさったそうですね",
"仰有る通りです",
"虚無僧には、きっと秘密があるものですわ。昔からそうなんですッて。その秘密をお探しなさるといゝわ。下男の弥吉じいやに、おききあそばせ"
],
[
"お梨江嬢さまが私にきけと仰有ったのですね?",
"そうだよ。ハッキリ、そう仰有ったよ"
],
[
"御主人は酒をおのみにならないのかね",
"いゝえ。大そう豪酒でいらッしゃいます",
"宴会前に茶漬三膳は妙だねえ。せっかくの美酒がまずいだろうに",
"いゝえ。御前様には一風変った習慣がおありでした。重大な御宴会には御飯を召上っておでかけでした。深酔いをさけるためでございます",
"なるほどねえ。一流の人物は心構えがちがっているね"
],
[
"今晩はどんなものを召上ったね?",
"蒲焼やおサシミや鮎や洋食の御料理や、いろいろと用意してございましたが、急いでお茶漬を召上るときは、梅干を六ツ七ツ召上るだけでございます。梅干がお好きで、御前様の梅干は小田原の農家の古漬を特にギンミして取寄せております"
],
[
"アッハッハ。ムダな方角を見ているんだねえ。アッハッハッハ。見ちゃアいられねえなア。オレは、ちょッと、失敬しますよ。ハッハッハッハ",
"みッともないねえ。なんてダラシのない笑い顔をする人だろう。馬がアゴを外したような顔をする人だ。お前さんの方角が見当ちがいにきまってらア。ムダ骨を折りたがる人だ",
"アッハッハッハッハッハッ"
],
[
"あすこッて、どこですか",
"ねえ。ほら、あすこんとこさ。先生の心眼がズバリさしたところさね",
"私の指したところッて、どこでしょうか",
"ヤだなア、この人は。あなた、さしたでしょう。加納夫人の素行のとこさ。ね。フランケンですよ。犯人はこれだ。私もね。手裏剣にしちゃア傷が深い、おかしいなア、と思ったんだが、西洋の手裏剣たア知らなかったね。こいつア、術がちがいます。フランケンは大そう好男子だが、西洋手裏剣の名取りだろうと睨みましたね"
],
[
"神田正彦が虚無僧だッけな?",
"ハ、左様で。しかし、神田は遠い壁際にたたずんでおりまして、フランケンと同国の大使館員と同席、会話いたしておりました",
"そうだろうよ"
],
[
"ヤ。お帰り。大探偵。とうとう犯人を見つけなすッたね",
"ハッハッハ。貴公の心眼はどうしたエ",
"ナニ。犯人はフランケンさ。顔は優しいが、根は西洋手裏剣の使い手だ",
"ハッハッハッハ。しかし、フランケンを見ているとこは、田舎通人にしては、出来すぎている。色とみせて別口のあるところが非凡だな。お前には荷が重かろう"
],
[
"夕月で待っていたのは、中園弘でございます",
"ヤ、加納さんの第一番頭、三年前に行方不明をつたえられている中園ですね",
"さようです。夕月の女将には腹蔵なく話しておいてくれましたので、さいわい知ることができましたが、その日の午ごろ見知らぬ男が、中園の使者と称して現れまして、ただ今シナから戻ってきましたが、まだ仕事が完成しておりませんので姿を現す時期ではないが、御前に御報告だけしておきたい、夕方、夕月へ参りますから、とこういう話であったそうです。加納さんは半信半疑で、中園はたしかに用務を帯びてシナへ行く途中ではあったが、玄海灘で船が沈んで、助かったとは思われないが、フシギなことだと話しておられたそうであります"
],
[
"なるほど、たぶん、そんなことだろうと思ってはいました。そして中園は夕月へ現れましたか?",
"いいえ、今もって現れておりません",
"そうでしょうなア。そして、たぶんいつまでたっても現れはしますまい。それから?",
"夕月のぶんはそれだけですが、アツ子の素行につきましては、まことに難題で、田所のほかには、なかなか正体がつかめません。しかし、だいたい素行については悪評がありまして、フランケンとは近ごろ特にネンゴロだということを噂している者はございます。散々歩いて、つきとめたのは、ようやく、それだけで……"
],
[
"オヤ。どちらへ?",
"加納家へ参りますよ"
],
[
"オヤ、あんなところへ、何御用で?",
"さては泉山さんは犯人を見つけましたね。おはずかしいが、おそまきながら、私はこれから犯人を突きとめに出かけるのですよ"
],
[
"杖とも柱とも頼み申しておりますぞ。この犯人のあがらんことには、政府はつぶれる、日本国中人心動揺、ワア、つらい。その責任がオイドンにかかっているとは、ひどいことになるもんだなア。犯人は見つかりましたか",
"たぶん犯人がこの邸内にもいるという証拠を見ることができるでしょう",
"シメタ!"
],
[
"この壺をいじった人は誰だね",
"誰もいじる筈はございませんが、どうかしておりますか",
"本当に誰もいじらないね",
"決していじる筈はございません。それを入れておく戸棚は御前様専用のもので、今日は戸棚に手をふれたものもなかった筈でございます",
"そうだろうね。ところが、たった一人、この壺をいじった人がいるのだよ。この中の梅干は昨日は六ツ残っていたが、今日は八ツになっているよ"
],
[
"ナニ、お前に悪いところはないのさ。ところで、梅干の大きな壺はどこにあるね",
"御前様のものは全部同じ戸棚にございます"
],
[
"昨夜の不快を思いだしていただいては恐縮ですが、お嬢さまがおくれて会場へお出になったについては、なにか理由がございますか",
"理由と申上げるほどのものはございませんわ。ただ、なんとなく、気がすすまなかっただけ。できるだけ、おそく、できれば、出席したくなかったのです",
"すると、あの時刻に出席すると打ち合せた人も、むかえに来た人もなかったのですね",
"ございません。一存で、見はからッて出て行きましたの。迎えになんかきたって、うッちゃッとくわ"
],
[
"いつ揃えなさるの?",
"三十分ぐらいのうちに捕えることができましょう。お嬢さまも犯人の名を御存知でしょうね"
],
[
"ほかの場合とちがいまして、御変死のお顔に対面は御前の御名誉に傷をつけるようなもの、との奥様の御希望で、今朝、ごく近親者だけの対面をすませますと、蓋を密封いたしましてございます",
"風巻先生に調べていただく必要があるのですが、奥様のお許しを得て蓋をとっていただきたい。又、奥様にも立会っていただきたいものです"
],
[
"では、奥様、蓋をあけますが、よろしゅうございますか",
"どうぞ"
],
[
"一見して毒死の徴候歴然です。使用した毒物はわからないが、刀傷によって死んだものでないことは確かのようです",
"すると、加納さんが前へとんとんと泳がれて、胸をかきむしるようにしてしゃがみこむようになすったのは、刀傷によるのじゃなくて、毒物の作用によるのですね",
"まア、そうでしょう。脾腹へ小柄をうちこまれたときに、そんな泳ぐようなことをするのも妙でしょう。叫ぶとか、ふりむくとか、それとは多少ちがった反応がありそうなものだ",
"ヤ。ありがとうございます。おかげさまで事件の全貌がハッキリ致しましたようです。どうしても毒死でなければならないということ、小柄を刺しこんだのは毒死をごまかす手段に相違ないということは、昨夜から確信いたしておりました。毒死と知れては、犯人が邸内に居ることを見破られ易いからでしょう。多数の方々はお嬢さまが卒倒なさッたのをある人の指金で定められた時刻のようにお考えのようでしたが、この時刻はお嬢さまが勝手に選んだもので偶然にすぎません。ある人の指金で定められた時刻とは、加納さんが幽霊から使いをもらって夕月へひきだされ、どうしても、会におくれて帰邸せざるを得なかったというカラクリにあるのです。これは加納さんの性癖をよく知りつくせる者のみのなしうることです。つまり、加納さんは重大な宴会前には食事して出席すること、いそいで食事するときには、茶漬に梅干だけで二三分でかッこむことを知りぬいた者のたくんだことです。なぜなら、犯人は加納さんに大急ぎで梅干をたべさせる必要がありました。その梅干に毒が仕込んであったからです"
],
[
"すると、ほかに真犯人がいるのですか",
"小柄を刺したのが致命傷でないそうですから、毒を仕込んだ人の方が、もっと大物の真犯人というべきでしょうか。では、真犯人のお部屋を訪問いたしましょうか。しかし……"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第四巻第一一号」
1950(昭和25)年10月1日発行
初出:「小説新潮 第四巻第一一号」
1950(昭和25)年10月1日発行
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その一」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年4月6日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043204",
"作品名": "明治開化 安吾捕物",
"作品名読み": "めいじかいか あんごとりもの",
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"借金の依頼、身の振り方の相談、オレのところへは相談ごとにくる人間の絶えたことがない。人殺しの兇状もちが、かくまってくれといってきたこともあったよ。二三日おいてやって、ここはもう門前に見張りの者がついている。危いから、これこれの人を頼って行けと握り飯を持たせてやったが、この男は立ち去るまで挙動は尋常で、食事なども静かに充分に食べて、夜も熟睡していたぜ。虎はどうだエ。ゆうべは眠っていなかろう。お前ほど思いみだれて智慧をかりに来た人はいないが、探偵は、皆、そんなものかえ",
"ハ。凡骨の思慮のとどかぬ奇ッ怪事が、まま起るものでござります。内側よりカケガネをかけ密封せられたる土蔵の中で、殺された男がございます。犯人は外へのがれた筈はありませんが、煙の如くに消えております",
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"ハ。まさしく左様で。本朝未聞の大犯罪にござります"
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"藤兵衛は土蔵にくらしていたのかえ",
"土蔵の二階半分を仕切りまして、居間にいたしておりました。一代で産をきずき、土蔵もちになったのを何よりに思っておりましたそうで、常住土蔵に坐臥して満足を味っていたのだそうでございます",
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"いいえ、藤兵衛一人でございます。至って殺風景な部屋で、なんの部屋飾りもなく、年々の大福帳と、大倉式の古風な金庫が一つあるだけでございます",
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"そんなことも一度はしらべておくものさ。罪の根は深いものだ。日常のくらし、癖、それをようく知ってみると、謎の骨子がハッキリとしやすいものさ。それでは、お前が見てきたことを、語ってごらんな。後先をとりちがえずに、落附いて、やるがいいぜ",
"ハ。ありがたき幸せにござります"
],
[
"板戸を押し倒した時に、カケガネは簡単に外れたんですね。五寸釘も傷んでいないし、カケガネも傷んでいませんよ",
"するてえと、カケガネはかかっていなかったんじゃないかなア。何かの都合で戸の開きグアイが悪いのを、早合点して、カケガネがかかっているものと思いこんだんじゃないかねえ"
],
[
"何かの都合ッて、なんの都合で戸が開かなかったんだい。その都合をピタリと当ててもらいたいね",
"なにかの都合がよくあるものさ",
"ハッハッハ"
],
[
"お前はヒキ戸をひいてみて、カケガネがかかっていると分ったのだネ",
"ハイ。そうです",
"どうしてカケガネがかかっていると分ったのだネ",
"戸のアチラ側ですから別にカケガネがかかっているのを見たわけじゃアありませんが、この戸はカケガネをかけると開きません。ほかに開かない仕掛けはありませんからネ",
"カケガネのことだから、かかっていても、細目にあくだろう。そこからのぞいたら、カケガネは見えそうなものだ",
"そんなことをしなくッとも、戸があかなければカケガネがかかっているにきまっています",
"お前が主人を最後に見たのはいつごろのことだね",
"ゆうべは旦那から指図がありまして、今夜加助がくるだろうから、来たら土蔵へ案内しろと云いつけられていましたから、加助さんの顔が見えると案内しました",
"加助とは、どんな人だ",
"今年の春まで、ここの番頭をつとめた人でございます。五月ごろヒマをもらッて、そのときは、旦那に叱られて、追んだされた筈でございますよ",
"なんで叱られたのだね",
"オカミサンに懸想したとか、酔ってイタズラしたとか、そんな噂でございます。それは無実の罪でございますよ。これだけの大家の番頭を十何年もつとめあげて、追んだされてから大そう貧乏して、細々と行商をやってるそうですが、そんな実直な白鼠が、この日本橋にほかに誰がいるものですか。みんなよろしくやって、お金をためこみ、女を貯えているものでございます。あの番頭さんだけは、ちッとは女遊びぐらいしたかも知れませんが、ほかの白鼠なみのことは爪の垢ほどもしたことのない律儀者でございます。細々と行商して貧乏ぐらしをしているときいて、旦那は後悔なさったそうですよ",
"今の番頭の修作はどうだえ",
"そんなこたア知りません"
],
[
"加助が来たのは何時ごろだえ",
"ちょうど九時すぎごろでございます。三四十分ぐらいして帰りましたが、帰りぎわに、旦那からのお云附けだが、オカミサンと芳男さんを呼んでらッしゃるから、お二人にそう申上げて、土蔵へ行かせてあげて下さい、との話でした。それで、オカミサンと芳男さんに申上げて、お二人は土蔵へいらッしゃったと思いますよ",
"お前が御案内したわけじゃアないね",
"当り前ですよ。オカミサンじゃありませんか。私ゃ、オカミサンと芳男さんが土蔵へはいるのは見ませんが、出てきてからのことなら、知っていますよ。オカミサンは台所へきて、一升徳利をわしづかみに、ゴクゴク、ゴクゴク、六七合たてつづけに呷りましたね。にわかに酔っ払って、大そうな剣幕で、土蔵の中へあばれこんだのを見ていました。芳男さんがそれを追って行って、中で十分か二十分ぐらいゴタゴタしていましたが、あとは気をつけていませんでした",
"そのほかに、変ったことはなかったかネ",
"変ったことと云えば、この四五日、旦那は土蔵からお出になりません。いつもは離れでオカミサンと食事をなさるのですが、この四五日は食事を土蔵へとりよせて一人で召しあがっていました。オトトイのことですが、私が夕御飯を土蔵へ持ってあがりますと、番頭さんがよびつけられて叱られていました。きいたのはホンの一言二言ですが、お前のような番頭では、この店がつぶれてしまうぞと、きついお言葉でしたよ"
],
[
"おまえが旦那を見かけなすった最後の時はいつごろだえ",
"私は昨晩は八時にヒマをもらいまして、遊びにでておりまして、旦那にはお会いしておりません。御承知でもございましょうが、昨日は五日、水天宮さまの縁日でございます。この日は夜ッぴてこの通りも混雑いたしますから、一日、五日、十五日の縁日に限って、当家は夜の十二時まで店をひらいております。ですが、店員全部居揃う必要もありませんので、五日の縁日には、私と正どんと文どんが夜の八時から休みをもらうことになっております。その代り、十五日の縁日には私どもが十二時まで働きまして、五日の居残り組が休みをもらうことになっております"
],
[
"おまえは一晩縁日の賑いをたのしんでいたわけだね",
"いいえ。私はもう水天宮の縁日は十年もの馴れッこで、縁日なんぞ、そうブラつきは致しません。この一日から十五日まで、寄席の金本に、円朝がかかっております。西洋人情噺、十五日の連続ものでございます。今月の金本は前代未聞の大興行と申すのでしょう。円朝、円生、円遊、円右、馬車の円太郎、ヘラヘラ万橘、金潮、新潮の落語、手品が、西洋手品天下一品の帰天斎正一に女テジナの蝶之助、水芸の中村一徳、鶴枝の生人形、そこへ新内が銀朝ときてます。ほかに女清元の橘之助、女新内の若辰などと、一流どころの真打をズラリとそろえた番組、こんな大それた番組は二度と再びあることではございません。なんでも、秋葉原へかかっている茶リネの西洋曲馬団が大そうな人気だそうで、それに負けない人気番組を特に興行しているらしゅうございますよ"
],
[
"私は今月の金本には初日から通いつめております。名人ぞろいのこととて、一々が面白うございますが、特に円朝の西洋人情噺、これを一日でも聞きもらしてはたまりません。あいにくラクの十五日が、私の居残り番の縁日の当日ですが、円朝は真打ですから、三十分も早めに店をきりあげると、間に合うだろうなぞと考えて、おりました",
"金本のハネるのは何時だね",
"だいたい十二時ごろでございます。私はそれから忠寿司で一パイやって、帰り支度の縁日をひやかして、帰ってきたのが二時ごろでございます",
"正平と文三も一しょかえ",
"いいえ。子供は寄席よりも縁日が面白うございますよ。私が一円ずつ小遣いをやりましたが、店からいただいた小遣いに合せて、求友亭で一円五十銭の西洋料理というものをフンパツしたらしゅうございますが、今朝はうかない顔をしているようですよ",
"八時に遊びに出たんじゃア昨夜のことは何も知らないわけだが、二時に帰ってきて、変ったことはなかったかえ",
"ちょッと酒をのみましたので、今朝起されるまで何も知らずに寝こんでしまいました",
"四日の晩の夕飯のころに、主人によばれて土蔵へ行ったそうだが、どんな用があってのことだネ",
"左様です。ちょッと申上げにくいことですが、旦那が非業の最期をおとげなすッた際ですから、包まず申上げます。オカミサンと芳男さんの仲がどうこうということを、疑っておいででした。そして私に包まず教えろとのことで、大そう困却いたしました。なんとか云い逃れましたが、私まで大そうお叱りを蒙った次第でございます",
"オカミサンと芳男の仲は、どんな風だえ",
"手前どもには分りかねます。どうぞ、当人にきいて下さいまし",
"昨夜二時に戻ったとき、芳男の姿はもう見えなかったかネ",
"私は小僧どもに近い方、芳男さんは離れに近い方で、ちょッと離れていますから、なんの物音もききませんでした"
],
[
"いい加減な説を真にうけちゃア、立派な推理はできないぜ",
"そこが剣術使いのあさましさ。私はね、これを千吉、文三、彦太郎という当家の丁稚からききだしてきたのだよ。加助がお槙にフシダラなことをしかけて当家を追放されたのは五月五日、節句の日だね。この晩は男の祝日だから酒がでる。一同ヘベのレケに酔っぱらッたが、男連と一座して飲んでいたお槙がまず酔いつぶれ、自分の部屋まで戻らずに、かたえの小部屋で畳の上にねこんでしまったんだね。それへ誰かが、ありあわせのフトンをかぶせておいた。酔い痴れた加助がフトンの中へ這いこんでお槙を抱いて寝ようとしたから、お槙が怒って、喚きたてた。酒席の男女、店の者全部そろってドッと駈けつけたから、たまらない。事を秘密にすますわけにいかないから、この番頭では店の取締りができないと加助は即日クビをチョンぎられて出されてしまったということさ。ここに千吉、文三という酒をのんでいなかった子供たちの証言がある。酔い痴れた加助が畳の上へゴロンとねようとすると、芳男と修作が加助にすすめて、ここで寝ちゃア風をひく、あの小部屋に正平が酔いつぶれてフトンをかぶって寝ているから、番頭さんもいっしょにフトンをひッかぶって寝みなさいと、お槙のねているのを正平だと云ってすすめたという話だねえ。なに正平は自分の小僧部屋へあがって小間物屋をひろげて寝ていたのさ。お槙が酔いつぶれて、自分の部屋でないところでねていたてえのも、かねて打合せた仕業かも知れないなア"
],
[
"ヤ、お内儀か。御苦労さん。今回は大変なことで、御心中お察しします。昨夜、加助がきて、旦那と話して帰ったあとで、お前と芳男が土蔵へ呼ばれたそうだね",
"オヤ。加助が昨夜きたのですか。それじゃア、加助が旦那を殺したに相違ありません"
],
[
"なぜ加助が旦那を殺したとお考えだえ",
"それは加助にきまっております。加助のほかに旦那を恨んでいる者はいないからですよ。あれは陰険で悪がしこい男狐でございます",
"それではあとで加助をとりしらべることにしよう。お前と芳男が旦那によばれて土蔵へ行ったのはいつごろだったね",
"十時前ごろでしょう。よく覚えてはいませんが、たいがい九時半か十時ごろのつもりです。ちょうどよい時刻だから寄席へ行って円朝でもきいてこようかと思っている矢さきでしたから",
"毎日、寄席へ行くのかえ",
"いいえ、昨晩はじめて思いついたことです。私は寄席はあんまり好きじゃありません",
"旦那からどんな話がありましたね",
"それは、芳男さんの相続の話でございます。一人娘のアヤさんが胸の病で、聟の話もさしひかえている有様ですから、血のつづいた芳男さんに嫁をもたせて、当家を相続させようという結構なお話でした",
"それは結構な話だったね、それから、どんな話があったかえ",
"いえ、それだけでございます",
"それにしては、奇妙なことがあるものだ。この三行り半は藤兵衛がお前にあてたものに相違ないが、日附もチャンと昨日のことになっているよ"
],
[
"そんなものを、いったい、どこから探しだしたのですか",
"お前の部屋のクズ入れの中からさ"
],
[
"私はあわれな女でございます。ずいぶん旦那にはつくしたつもりですし、旦那も私を信じて可愛がって下さいました。ですが、花柳地で育った女というものは、とかく堅気のウチでは毛ぎらいされるものと見えます。あらぬ噂をたてて人をおとしいれようとなさる方もあれば、どなたかは存じませんが、こんなひどい物を私の部屋へすてておいて、さもさも私が旦那から離縁された宿なし女のように計って見せる人もあります。こんなにされては立つ瀬がありませんが、いったい、誰がこんなヒドイことをするんでしょうねえ",
"当家にそんなことのできそうな大人は、芳男と修作の二人だけだね",
"いいえ、当家の人とは限りません。外から忍んでくることもできますし、人を使って、させることもできます",
"しかし、お前は土蔵から出てくると、台所へでかけて、一升徳利から冷酒をついで、六七合も呷ったそうではないか。そして、土蔵の二階の旦那のところへ押しかけて、十分か二十分ぐらいも、ごてついていたそうではないか",
"それは私はお酒のみですから、寝酒に冷酒をひッかけるようなことも致します。別に旦那に腹の立つことがある筈はございませんが、酔ったまぎれに旦那の居間へ遊びにでかけただけのことでございます。けれども旦那は、もうカギをかけて、お寝みでしたよ。私も酔ってるものですから、戸をたたいたりして、旦那をよんでいますと、芳男さんが来て、寝んでいらッしゃるのに、そんな乱暴をしてはいけないと云って、とめて下さいましたよ。それで中へはいらずに、お部屋へ戻って、ねてしまったんです"
],
[
"お前が当家へきたのは、いつごろだね",
"ハイ。この店がはじめて開店の当日からでございます。十二の年に丁稚にあがりまして以来二十年、この五月五日までひきつづいて御奉公いたして参りました"
],
[
"お前がゆうべここへ来たのは、どうしたわけだえ",
"昨日行商にでまして夜分ようやく家へ戻って参りますと、家内が旦那からの手紙を受けとっておりまして、これは町飛脚が持参いたしたものだそうでございますが、この手紙を見次第、夜分おそくとも構わないから裏口から訪ねてくるように、今日は五日の水天宮の縁日だから、どんなに遅くなっても待っているから、という文面でありました。まだ八時半ごろで、急げば九時ごろには当家へ到着いたしますので、さッそく突ッ走って参ったのでございます",
"それで、どんな御用件だったえ"
],
[
"実は道々旦那が非業の最後をとげられたという話を承りまして、旦那の御不運、又、私にとりまして一生の不運、まことにとりかえしのつかないことになったものだと嘆息いたすばかりでございます。かような折に、かようなことを申上げるのは、人様をおとし入れるようではばかりがありますが、旦那の御最期を思えば、胸にたたんでおくわけにも参りません。旦那の御用件と申しますのは、旦那は私の手をとられて、加助や、お前には気の毒な思いをかけたがカンニンしておくれ。メガネちがいであった。ついては、もう一度、当家へ戻って店のタバネをしてくれるように。悪い噂をきくものだから、この四五日とじこもって帳面をしらべてみると、お前が出てからというもの、仕入れない品物を仕入れたように書いてあったり、色々と不正があるのを見やぶることができた。これは芳男と修作がグルになってしていることだ。すでに修作は昨日よんで、いろいろ問いつめてみたが、奴も証拠があるから、嘘は云えない。一度は許そうと思ったが、あの若さであれだけの不正を働くようでは、とてもまッとうな番頭に返れるものではない。そこで、芳男も修作もおン出そうと思うから、明日の正午に店へ来てくれるように。朝のうちに追ンだす者を追ンだして、お前を番頭にむかえるからというお話でした。それで、正午に当家へ参上のつもりで支度いたしておりますと、迎えの方が見えられたわけでございます",
"なるほど。旦那が死んでは、せっかくお前が帰参のかなうところをフイになってしまって、大そう困るわけだ。ほかに話はなかったかえ",
"ハイ。実は、オカミサンと芳男の仲が世間で噂になっているが、お前はどう思うか。お前のいたころから、気のついたことはなかったか、というお尋ねがありました",
"それは大そうな質問だね",
"ハイ。それで私も困却いたしまして、そのような噂のあることはきいたことがありましたが、自分の目で見て気のついた特別なことは一ツもございません、と申上げますと、旦那は淋しい笑いをうかべなすって、実は、オレは自分の目でチャンと見届けているのだよ、とおッしゃいました",
"自分の目でチャンと見届けていると",
"左様です。深夜に便所へ立ったついでに、ふとオカミサンの部屋の前へきてみると、障子が薄目にあいているものですから、ボンボリをかざしてごらんになったそうです。すると中がモヌケのカラですから、さてはとお思いになりましてな。ボンボリをけして、そッと二階へ忍んでみると、芳男さんの部屋の中からまごう方なく二人のムツゴトをきいてしまったと申されました。お前が帰ってから、二人をよんで、お槙には三行り半を、芳男にも叔父甥の縁をきって、今夜かぎり追ンだしてしまうのだと申しておられました。そして私がお暇を告げますときに、それではついでにおしのに云いつけて、お槙と芳男二人そろって土蔵へくるように伝えておくれと、おッしゃいました。その云いつけをおしのに伝えて、私は家へ戻りましてございます",
"まッすぐ家へ帰ったのだね",
"いいえ。実は、はからずも帰参がかないまして、あまりのうれしさに、縁日のことでもありますし、水天宮さまへ参拝いたし、ちょッと一パイのんで、久しぶりの酒ですから、大そう酩酊して、夜半に家へ戻りましてございます",
"酒をのんだ店は、どこだね",
"それが、貧乏ぐらしのことで、持ち合せが乏しいものですから、見世物の裏手の方にでている露店の一パイ屋でカン酒を傾けたのでございます。それで大そう悪酔いいたしたのかも知れません",
"当家を訪ねているあいだ、お前の姿を見た者は誰々だえ",
"おしのとお民の両名のほかには誰に会った覚えもございません"
],
[
"ハイ、その通りです",
"二人は絶縁を申し渡されて土蔵をでたが、お前はそれから、どうしたえ",
"私は自分の部屋へ立ち帰って、今後どうしたものかと思っておりますと、オカミサンが、いえ、お槙と申上げることに致しますが、下でさわいでいる声がしますので、行ってみると、酔っぱらって土蔵の中へはいっています。追っかけて行ってみると、戸の前でののしり騒いでおります。みると、戸にカケガネがおりているとみえて、あかないのでございます。私はお槙をなだめて、部屋へひきとらせますと、ぶうぶう不平をならべたてながら、寝こんだようでございます。私は再び自分の部屋へもどりまして、どうしたものかとフトンをひッかぶって物思いに沈んでおりました。いくら考えても埒はあきません。一度は当家をでるつもりで荷づくりをはじめたりしましたが、この店を追い出されると、暮しようがありませんから、荷造りはやめてしまいました。よそでは生活力のない私だから、どうしても叔父さんにお詫びして、許していただかなくてはと思いつきました。そこで時計を見ますと一時でしたが、そんな時間のことを云ってはいられませんので、土蔵の二階へ上ってみますと、戸口は相変らずカケガネがかかっていまして、女中も諦めたとみえて、夜食のお握りが戸の外においてありました。手燭の光でみますと、カケガネはかかっていますが、釘がさしこんでないようですから、隙間から爪楊枝をさしこんで鐶をもちあげると、なんなく外れました。中へはいってみると、もうその時には叔父さんは殺されていたのでございます。すぐ逃げだせば血はつかなかったのですが、私が呼びつけられて叱られたときに、落してきたものと見えまして、私のタバコ入れが、死体のかたわらに落ちております。血をふまないように用心に用心して、それを拾って逃げましたが、部屋をでるときにふと気がついて、もう一度隙間から爪楊枝をさしこんで鐶にかけて外からカケガネをかけてしまいました。土蔵をでると、にわかに怖しくなって、そのまま夢中で外へでてしまいましたが、まるで自分が犯人のような気がしたからでございます",
"そりゃアそうさ。真夜中にカケガネのかかっているのを外して勘当の詫びをのべに行く奴はいないよ。お前は藤兵衛を殺すつもりだったのだろう",
"とんでもない!"
],
[
"そうとられても仕方がありませんが、私はもう胸がいっぱいで、無我夢中になって何も分りませんでした。勘当をゆるして下さいとたのむには、お槙と一しょではグアイがわるうございます。女はそうなると意地がわるうございますから、勘当が許されないように、差出口をするに相違ありません。そこで、お槙のねているうちに勘当をゆるしてもらって、お槙がオンでてしまうまで素知らぬフリをして身を隠していようなどと、そんなことが気がかりでしたから、ただもう一刻も早く叔父にあやまりたい一心で夢中だったのでございます。カケガネを爪楊枝で外したのはたしかに非常識ですが、そんなことには気がつかなかったぐらい夢心地で早く叔父にあやまりたい一心でした。決して私が下手人ではありません。私の申上げたことは、そっくり掛け値なしの真実でございます",
"それでは、もう一つきくが、お前は加助が藤兵衛によびよせられたことを知っているかえ",
"それは存じております。叔父が私どもに、私とお槙とにでございますが、こう申しきかせました。加助をよびむかえて働いてもらうことにきまったから、お前たちや修作をオンだしても商売にはなんの差し支えもない。お前たちは今夜のうちにどこへでも立ち去ってしまえ、そして修作はどうした、よんでこいと云いますから、今晩は休んで縁日へ参っておりますと答えますと、そんなら仕方がない、修作は明朝オンだすことにするが、お前たちは今夜のうちにさッさと荷造りして立ち去るがよい。姦夫姦婦が日中立ち去るのは人に笑われて、お前たちのツラの皮でも気がひけよう。明日のヒルから加助が来てくれるから、と、いかにも私たちの居なくなるのを痛くも痒くもないような云い方でした",
"お前は死体をみて土蔵をとびだしてから、どこをどうしていたのだえ",
"なんだか自分が犯人だと思われそうな気がして、居ても立ってもいられません。知ったところへ行くと追手がくるような気がしましたから、ナジミのない洲崎へ行って一晩遊びましたが、大阪の知人をたよって、しばらく身を隠そうと思い、わざと品川へ行って汽車を待っていたのでございます",
"イヤ、御苦労であった。今晩は留置場でゆっくり休むがよい",
"いえ、私は犯人ではございません"
],
[
"さア、どうですか。なかなか一筋縄ではいきません。奥には奥がありますよ",
"そんなバカな。動機と云い、血痕と云い、ハッキリしている。カケガネのはずし方、かけ方まで自分でちゃんと説明しとるじゃないですか。私は犯人ではございませんと云う奴を犯人でないときめるバカ探偵、甘スケ探偵があるもんですかい",
"ブッ、偉い! あなたは、甘くもなければ、バカでもないよ。ですが、あなた。ね、剣術の心眼と、探偵の心眼は、又、別のものだねえ。アレをごらん。アノ、土蔵の中の土。ね。これですよ。ここに心眼をジッとすえなくちゃア、この犯人はつかまりません",
"くだらないことを云うな。土ぐらい鼠が運んでくらア。この田舎通人のボンクラめ",
"あなたヤケを起しちゃいけませんねえ。探偵がヤケを起して、土ぐらい鼠がもってくる――鼠がもってくるかねえ。それはモグラの事でしょう。ですから、あなた、犯人はとてもつかまりません"
],
[
"あなた、お馬にお乗りにならないの",
"乗りますけれども、馬を持っておりません",
"じゃア、人形町のような遠いところへ、どんなもので、いらッしゃるの?",
"歩いて参ります",
"アラ、大変。私、お馬を持ってきてあげるわ",
"ところが、連れがありますので、ぼくだけというわけに参りません",
"存じております。気どり屋の通人さんに、礼儀知らずの剣術使いでしょう",
"ほかに古田さんという巡査がおります",
"じゃア、四頭ね"
],
[
"さて、お前にきくが、藤兵衛の死体のかたえから拾ったタバコ入れはどうした?",
"大川へすててしまいました",
"お前はいつもタバコ入れを腰にさしているのかえ",
"いつもということはありません。店に働いている時などは腰にさしておりません",
"あの晩は店にいるとき藤兵衛によばれて土蔵へ行ったのだろう",
"ア!"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第四巻第一二号」
1950(昭和25)年11月1日発行
初出:「小説新潮 第四巻第一二号」
1950(昭和25)年11月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その二」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043205",
"作品名": "明治開化 安吾捕物",
"作品名読み": "めいじかいか あんごとりもの",
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"副題": "03 その二 密室大犯罪",
"副題読み": "03 そのに みっしつだいはんざい",
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"初出": "「小説新潮 第四巻第一二号」1950(昭和25)年11月1日",
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[
[
"本件に先立ちまして、昨年暮に突発いたした奇怪事から申上げなければなりません。御記憶かと思いますが、昨年十二月十六日、茗荷谷の切支丹坂に幸三と申す若者がノド笛を噛みきられ、腹をさかれ臓物をかきまわされて無残な死体となっておりました。肝臓が奪われておりますので、業病やみの仕業と推定されましたが、生き肝を食うと業病が治るという迷信があるのだそうでございます。ところが、それより二ヶ月たちまして、本年二月中ごろに、又々同じような事件が起りました。音羽の山林の藪の中に、佐分利ヤス、マサと申す母子が、ノド笛をかみとられ、腹をさかれ肝臓を奪われてことぎれておりました。母が三十五、娘が十八、どちらも大そう美人でありましたが、これを調べてみますと、久世山の天王会、俗にカケコミ教と申す邪教の信徒であることが分りました。先の幸三が同様にカケコミ教の信徒でございますから、ここに捜査方針が一転いたしましてございます。三人とも平信徒とはちがいまして、役附きの幹部級、いずれも夜更けて教会の帰路に殺害せられたのですが、幸三は久世山から大塚へ帰る途中、佐分利母子は雑司ヶ谷へ帰る途中でございました。護国寺界隈には業病人が集っておりますから、この見込みも捨てるわけにはいきませんが、カケコミ教が臭いというので、内偵をすすめることになりました。ところが、これがまことに難物、天王会には後援会がありまして、会長が藤巻公爵、副会長が町田大将、その他いずれも天下の名士ぞろいでございます。確たる証拠もなくムヤミに拘引して取調べると後の祟りが怖しゅうございますから、密偵を放って内偵をすすめることになりまして、牛沼雷象と申す武術達者な刑事を信者に化けさせて放ちましてございます。この者は当年三十歳、手前方の道場に師範代をつとめましたる第一の高弟にござります",
"それでは頭がわるかろう。密偵というものは、なまじ腕に覚えがあると出来る辛抱も破れがちなものさ。カケコミ教はそんなにイノチガケのところかえ"
],
[
"虎も釜焚きにされるから、カケコミ教には近づかない方がいいぜ。西洋の諺にミイラとりがミイラになるというが、虎には似合いの戒めだから、覚えておくがいいや。豪傑には頭の仕事は不向きなものだ。昔は武官が国政をやったから、国が大そう荒れたのさ。探偵なども、推理の頭とふんじばる豪傑はそれぞれ違った人がやるべきことだ。虎は捕方にまわる方が無難だぜ",
"探偵は馴れでござる。武術に於ても錬磨、馴れということを古人は第一に戒めてござった"
],
[
"あらたに牧田と申す密偵を放ちましたが、雷象の顔見知りでは不都合が起りますから、にわかに人選して採用いたした未経験者でござるが、書生あがり、小才の利いた文弱な若造でございます。彼が密偵に入ってすでに半年、なんらの見るべき成果もあがらぬうちに、三度目の怪事件が出来いたしてござります。月田銀行の頭取、月田全作の夫人まち子がカケコミ教会よりの帰るさに、ノド笛をかみとられ、腹をさかれ肝をぬかれて殺害されておりました。すでに捜査に四日目になりますが、知れば知るほどカケコミ教は奇怪事にみち、魔人魔獣跳梁し、まさしく人力を絶した不可思議が現実に行われておりまする。魔人は居ながらにして、魔獣を使い、道ゆくまち子のノド笛を食いとり、腹をさき肝をぬくものと思量いたすが、魔人の怪力は地をくぐり天を走り、人力未到の境地に至っておりますから、にわかに魔獣を使っての犯行と決しかねるところもあります",
"誰がそのようなことを思量したのだえ",
"拙者でござるよ",
"そうだろう。虎でなくッちゃア、そうは頭がまわらねえやな。魔獣というのは何だえ",
"さ。そのことでござるよ。大なること小牛のごとく、猛きこと熊も狼も及び申さぬ。世に奇ッ怪な大犬でござるよ。グレートデンと申す",
"グレートデンは西洋で名の通った普通の犬だ。だが、そのような犬が日本のカケコミ教にいるというのがおもしろいな。いろいろ曰くがありそうだ。だが神通力といえども必ず裏には仕掛があってのことだよ。水芸や西洋手品と同じことだアな。虎のようにこれを魔力と見てかかっては、裏の仕掛は分らないぜ。お前の主観が邪魔になるが、オレの目にありのままの現実が見えるように、写真機の如くに語ってごらんな"
],
[
"まだ警視庁から誰も見えておりません。やむなく自分が指揮をとっております。自分は土屋警部であります",
"妻の死体は?",
"検視をうけるまで現場にそのままに致してあります。庭の木戸をでた路上ですが、御案内いたしましょう"
],
[
"グレートデンを飼っているそうですが、それと狼と関係があるのですか",
"それは関係がないと思います。信徒の中にも何か関係があるように思っている向きもありますが、実は世良田摩喜太郎が帰朝のみぎり番犬用に買ってきたもので、ヤミヨセの行事には、噛まれる者のむごたらしい悲鳴慟哭はうちつづきますが、猛獣の音はきこえたことがありませんでした",
"ヤミヨセの行事は、それで無事終ったのですか"
],
[
"何者かサクラを使って発声せしめているのではありませんか",
"誰しも一度はその疑いをもつのです。いかな信徒といえども、無批判に魔神の実在を信ずるものではございません。しかし、快天王の声は、ある時は地下よりの如く、ある時は頭上よりの如く、しかし常に必ず中央のいずこよりか聴えて参るのです。即ち、ヤミヨセの行事は広間に円陣をつくり、中央に空地をのこし、空地の中央にただ一人世良田摩喜太郎が坐をしめて、快天王の出現を乞い、その告発を乞うのであります。即座にそれに応じて快天王の怖るべき告発が発せられますが、円陣のどこに坐しても、その声は自分の前方にきこえます。快天王の声は必ず額の前にきこえる、というのが信徒の常識となっておりますが、ひそかに私が実験して人知れず坐所を変えてみましても、かの声は常に額の前方に、したがって常に中央の上下いずこよりか発していることはマチガイございません",
"中央に坐しているのは世良田摩喜太郎一人ですか",
"左様です。そして告発をうけたものは、中央の空地へよびあつめられ、世良田の四囲をのたうちまわって狼に噛み殺されるのであります"
],
[
"どうも、牧田さん、あまりに奇ッ怪で、お話の一ツ一ツがはじめて耳にすることばかり。特に何を手がかりにお聞きしてよいのやら皆目見当もつきません。とても私などが特に質問すべきことは見当りませんから、あなたの御意見をそッくりきかせていただきましょう",
"心得ました。私にも、時にあまりに奇ッ怪で殆ど魔神の実在を信ぜざるを得ない場合があるのですが、見聞のありのままをお伝えすることに致します"
],
[
"ヤ。どうも、ありがとうございました。赤裂地尊の祭典には、諸国から集る信者も多かったとききましたが、ソジンや一般人は参拝できないのですか",
"参拝ぐらいはできますが、ヤミヨセには、信者以外はでられません。ソジンも出ることを許されません。そう云えば、たった一人、信者でない人が、ヤミヨセの座にまぎれこんでいるのを見ました",
"ハテ、誰ですか",
"山賀侯爵の弟、達也君です。邸が隣接しておりますから、時々見かけて顔を見知っているのですが、彼は天王会に最大の敵意をいだいているときいております。この日は地方から参集した信者も多いので、まぎれこむには便利に相違ないのです。しかし、彼一人ではありませんでした。若い婦人を同伴していたのです",
"それは誰ですか",
"私もはじめて見る顔でしたが、二十前後のまだ未婚かと思われる婦人で、さして美しくはありませんが、いかにも知的な、体格のよい女でした。身体つきや顔に特徴があるので、見忘れることはありませんが、あの教会では、ついぞ見かけたことのない婦人です"
],
[
"私は今朝皆さんのお見えになるまで月田邸の警備に当り、ズッとつききっていたのですが、月田全作の弟妹は分家したり嫁いだりした中に、たった一人、末娘のミヤ子という二十の娘がまだ未婚で、兄の家に同居いたしております。この娘をちょッと見かけましたが、いかにも体格のよい、ちょッと角ばった知的な顔をしているようです。まさかとは思いますが、御参考までに、申上げておきます",
"イエ、それは大そう興味津々たる事柄ではありませんか。さッそく牧田さんに首実検をおねがい致すことにしましょう"
],
[
"では、妹御にお目にかからせていただきたいものですが、よろしいか",
"それは妹の自由です",
"では、さッそく留守宅を訪問いたしますから、悪しからずおききおき下さい",
"妹は兄にまけない強情な女ですからな。アハハ"
],
[
"私に何の御用でしょうか",
"喪中にお騒がせいたしまして、無礼の段おゆるし下さい。今回はまことにおいたわしいことでした",
"いいえ、別にいたわしいことはございません。当家は別段喪に服してはおりません。変死人の死体は寺へ預けて一切任せてございます。兄は平常通り出勤いたしております",
"ヤ。そのような話は承っておりました。失礼ですが、お嬢さまは天王会の信者でいらッしゃいますか",
"いいえ。当家は代々法華宗を信仰いたしております。",
"これはお見それいたしました。天王会の赤裂地尊の祭日にお嬢さまが出席されておりますから、信徒とまちがえました。あの祭日の行事中、特にお嬢さまが御出席のヤミヨセには信者以外の者は列席を許されないときつい定めがございますが、お義姉様の特別のはからいで列席を許されなすったのでしょうか"
],
[
"お嬢さまはお考えちがいをなすッていらッしゃいます。当夜お嬢さまがヤミヨセに出席なさったことは、ほかに見ている人がいて教えてくれたのです。山賀達也さんは、当夜列席していたのは自分一人で女の連れなどはなかったと大そうかばっていらッしゃるのですよ。それで、ヤミヨセ見物の御感想はいかがでしたか?",
"大そう面白く拝見いたしました。本当に食い殺されたと思いまして喜んでおりましたが、生き返ったのでガッカリいたしました。しかし結局あの結果になりましたから、天王会の隠し神は案外正直でございます。当家の庭で殺したのはズルイやり方ですが、生き返ったままノコノコ戻ってくるのに比べれば、結構なことで、不平ものべられませんね。天王会には散々迷惑した当家ですが、これで恨みがいくらか軽くなったように思われます",
"あの晩は何時ごろお帰りでしたか",
"ヤミヨセが終るとさッそく帰りました。門の前まで達也さんに送っていただきましたが、帰ってみると零時ちょッと過ぎていました",
"庭に物音をおききになりませんでしたか",
"疲れてグッスリねましたので、目がさめるまで何一つ覚えがありません"
],
[
"なるほど。お前の職務にそれが必要とあれば、これも国のため、まげて別天王様にお願いしてあげてもよい。幸いヤミヨセは別天王様がその場に出御あそばすわけではなく、代り身として私一人が座に出ておればよろしいのだから、それ以上にムリなお願いをたのむことがなければ、お願いしてあげよう",
"それはもう、それ以上何も望みません",
"それでは別天王様にお願いしてくるから待っていなさい"
],
[
"オットット。虎大人。どこへ飛んで行くツモリだね",
"ヤ。しまった! オレの行く先はどこだ",
"カケコミ教だよ。帯ぐらいしめるのを忘れなさんな",
"ナムサン、シマッタ!"
],
[
"ハッ、世良田と別天王は見事に自害して果てました",
"ムムム"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第四巻第一三号」
1950(昭和25)年12月1日発行
初出:「小説新潮 第四巻第一三号」
1950(昭和25)年12月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その三」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043206",
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[
[
"へ。どうぞ。旦那、どちらまで",
"乗って参るのではない。本郷真砂町に中橋という別荘がある",
"ヘイ。ヘイ。存じておりやす",
"その別荘に行李が一個あずけてあるから、それを受けとり、浜町河岸の中橋本邸へ届けてもらいたい。お前が行李をつむと、別荘番が二円の祝儀をくれるから、お前は一ッ走り、十時前に本邸へ届けなさい",
"ヘイ。それだけで?",
"それだけだ。急いで行け"
],
[
"今、門をしめたばかりだというのに、お前はさっきの車夫か",
"さっきの車夫だか、いつの車夫だか知らないが、ごらんのような車夫でさア。本宅へ届ける行李を受けとりに来やしたから、二円の御祝儀をいただきやしょう"
],
[
"オレに礼を云うことはない。人を馬鹿にしておる。さッさと行け",
"ヘイ"
],
[
"御訊ねの通り、まことに人を小馬鹿にした車夫のふるまいですが、いったい、奴めが何をやりましたか",
"小馬鹿にしたと申しますと、何か致したのですか",
"致すも、致さないも、夜分、当別荘の玄関へ車をつけて、一個の行李を下して、本宅へ届ける行李だが、あとで誰か本宅へ届ける者が受けとりにくるから、その者に行李と二円の祝儀を渡してくれと云って、二円おいて行きおったのです。それから三四十分もたつと戻ってきて、門を叩いて喚きたて、行李をつんで、二円とりもどして行きおったのです。まことに憎いふるまいではありませんか",
"なるほど。して、先に行李を置いて行ったのは何者ですか",
"なに、当人です。小一時間ほどたって、再び現れて、持って戻っただけのことです",
"二人は同一人物でしたか",
"それは同一人にきまっていますとも。二円の仕事を人手に渡す車夫がいますか。昔からゴマノハエと雲助は道中のダニと申す通り、今日、東京のダニはスリと人力車夫。あのダニどもが、二円という大枚の手間を人手に渡すものですか。居酒屋で一パイやる間、この玄関へ保管をたのむ狡猾な手段でしょう"
],
[
"姐さん。いい匂いだねえ",
"そうよ。舶来の上等な香水だから。日本にはめったにない品だから、たんと嗅ぎためておきなさい"
],
[
"行李のようなものを運ばせたのではないか",
"いえ。行李なんぞ持ってやしません。ちょッとした包みを持っていましたが、カサはあるようでしたが重い荷物ではございませんでしたね"
],
[
"オヤ。あんた一人? ヒサはどうしたのさ",
"え? まだお帰りじゃアないんですか"
],
[
"それで中橋さんは、その後もお見えにならないのかね",
"ハイ。その後、お見えになりません"
],
[
"お前がヒサの姿を見失ったテンマツを語ってごらん",
"ハイ。三筋町のお師匠さんの家へ参りまして、お稽古がはじまりましたから、散歩にでました。頃合いを見て戻ってみますと、奥さんはもうお帰りだとのことでした。買物に行くと仰有ってたから、いずれお見えになるだろうと、お師匠さんのお宅に三時すぎまで待っていましたが、お見えにならないので、いったん戻りました"
],
[
"もういっぺん、昨日のことを語ってごらん",
"仰有る通りでございます。お待ちしておりましたが、約束の時間がとっくに過ぎても戻って見えません。悪いとは存じながら、いつもタンマリお駄賃を下さるので、奥さんのイイツケに背くことができませんでした",
"二人はどこでアイビキしていたね",
"私はお師匠さんの家に置いて行かれて、どこへいらッしゃるのやら、存じません"
],
[
"どうかカンベンして下さいまし。奥さんからいつも駄賃をいただいておりますし、こんなことが起りましたので、怖しくて、正直に申し立てることができませんでした。三筋町のお師匠さんへ行ったというのは真ッ赤な偽りで、いつも真ッ直ぐ浅草へ参っておりました",
"いつも二人で新開地へ行ったのかね",
"いいえ。吾妻橋を渡って仲見世の中程から馬道の方へまがってちょッと小路をはいりますと、露月というちょッと奥まった待合風の宿がございます。奥さんは真ッ直ぐここへお這入りになる。私は新開地へいっていつもブラブラしていました。荒巻さんはいつも飛龍座にいますから、奥さんと打合せのない日は、私が行って知らせますし、用がすんで奥さんが帰る時は荒巻さんが戻ってきて知らせてくれます",
"十一月三十日のことをできるだけ正確に述べてごらん",
"あの日だけは今までと違います。いつもですと吾妻橋から仲見世へ曲り、その中程から又曲って真ッ直ぐ露月へ這入るはずの奥さんが、この日に限って、新開地へ行こうと仰有るのです。なんでも、夢之助さんに厳談があるとかで、荒巻さんとのアイビキが旦那に知れたのは夢之助さんのせいだったと、そんなことを申しておられました。で、飛寵座へ御案内しますと、皆さん荷造りで忙しい中から、小山田さんがヌッと現れて、いきなり奥さんを抱きすくめて乱暴しようとしました。奥さんが悲鳴をあげて大騒ぎになり、私は奥さんをかばって夢之助さんの部屋へおつれしました。奥さんは驚いて気分を悪くなさったらしく、蒼ざめて苦痛の様子でしたが、夢之助さんが親切で、お水をのませるやら、介抱して下さいまして、しばらくそッとしてあげるがよかろうと仰有るので、私は外へでて、方々小屋をのぞいて遊んでいました。一時間半ぐらいして戻ってみると奥さんの姿がどこにも見当りません。方々探して、三時半ごろまでうろついていましたが、先にお帰りになったのかも知れないと、いったん戻って参りました",
"奥さんの姿が見えないと分ったのは何時ごろだね",
"何時ごろか正しいことは分りませんが、一時ぐらいかも知れません"
],
[
"これは君の劇団の物と違いますか",
"これは古い行李ですなア。僕のところでは、はじめての旅興行で、大方新品、こんなのは無かったようです。しかし、この型の行李は芝居小屋ではよく使う物ですから、近所の小屋のものかも知れませんなア",
"中橋が芸人あがりであることや、夢之助が倶に渡米した芸人の娘だということは、本当ですか",
"結城新十郎ともあろう物識りが、それを御存知ないとは恐れ入りましたなア。芸人雑記という本の『川富三与吉』の項目を読んでごらんなさい。この警察署の前の貸本屋にもあるでしょうよ"
],
[
"お前はアメリカ巡業の一行の中に、一ツ年下のスミという娘のいたのを覚えていないかね",
"覚えています。三味線のカツおばちゃんの娘のスミちゃん!",
"そう。その娘が梅沢夢之助だということを、お前は知っていないのか"
],
[
"君は先刻、ヒサと結婚することを夢之助が了解しているように言ったが、夢之助はそうではないと言っているよ。夢之助の語るところでは、結婚の相手は自分で、君はヒサに愛想づかしをされていると云うではないか",
"いえ。そんなことはありません。ヒサは私を追って四国へくることに話がきまっていました。ただ、時期と方法の問題をあれこれ相談していたのです",
"それはおかしいねえ。君は三十日の夕方にも夢之助と酒をくみ交しつつ結婚の時期と方法を相談したと夢之助は言っているが、同時に二人の女と同じことを相談していたのかね。ここへ夢之助をよんでくるが、君は今の言葉を復誦するだろうね",
"いえ。ちょッと待って下さい。たしかに二人じの女と同じことを相談していたのです。ですが、夢之助と語る場合は本気ではありません。一時のがれなのです。なんとかしてヒサが先に四国へ来るように、夢之助がおくれるようにと、そこに苦心していたのです。一足先にヒサと結婚してしまえば、キミエのような嫉妬深い女とちがって、夢之助は案外アッサリあきらめるような女なのです。ですが、これはナイショですから、夢之助の前で、こうは言いたくないのです",
"ヒサが死んだから、今度は夢之助にかかりきるというわけかね"
],
[
"十一月三十日に、夢之助と荒巻の両名が揃って戻ってきた筈だが、それは何時ごろだったね。楽の翌日の荷造りの日だよ",
"ハッキリとは覚えていませんが、夕方ちかいころでしたね。これで一段落、忙しい用がすんだ、と、すぐお酒盛でした。まだ日のあるうちに、疲れた、疲れた、とおやすみでしたよ",
"寝室は二階だね",
"旦那がお見えになると二階が寝室ですが、荒巻さんと御一緒の時は、そこの離れのような小部屋でございます。玄関からはどこよりも離れていますし、雨戸をあけると、誰にも見られず裏木戸へ抜けられます。荒巻さんは帽子も靴も荷物も一切合切この離れへ持ちこんで、イザと云えば逃げだす用意をととのえて、おやすみになるんですよ",
"二人はグッスリねていたかね",
"そんなことは知りやしません。ただ夜の十時ごろ水をと仰有ったので、お届けしましたが、荒巻さんの方は眠っていました",
"その晩、中橋さんはたしかに来なかったのだね",
"たしかにお見えになりません"
],
[
"この小屋はズッと休んでいるのかね",
"ヘイ。とりこわして、新しい小屋をたてるとかでね。常盤座とかいう浅草一の立派な小屋をつくるとかいうことで",
"留守番はお前だけか",
"ヘイ。ほかに女が一人いますが、こんな何もない小屋のことですから、留守番なんぞいらないようなもので。お天気の日はあッしも女房も日中はたいがい働きにでて、帰ってくるのは夜の八時ごろでさア",
"小屋の戸は鍵をかけるのか",
"いえ、鍵なんざ、ありません。内側からカンヌキはかかりますが、それは夜だけのことで。自分の部屋の戸の鍵をしめるだけでタクサンさね。盗られるものは何もありやしませんや"
],
[
"この行李の数が一ツ減ってやしないか",
"そうですねえ。そう云えば、なるほど、以前は七ツあったかね。するてえと、一ツ減ったかも知れないね。なに、空ッポで、中には何もはいってやしませんので"
],
[
"シナ産の黒豚が笑っていると思ったら、二軒隣りの豪傑じゃないか。男女の道で真犯人が解けたかい",
"ハッハッハ。犯人は女だ",
"ブッ。男女の道に見切りをつけたところはお見事",
"貴公の心眼はどうだ。誰知るまいと思いのほか、天の声。実に不正はおのずから破れるてえことを知るまいな",
"知らないねえ。失礼だが犯人は男でげす。クロロホルムと変装。急所はここにありますねえ。薬物に通じて、芝居道に通じたる者。しかも変態にして吸血鬼。ねえ。犯人はただ一人。小山田新作あるのみ",
"ゲゲッ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第五巻第一号」
1951(昭和26)年1月1日発行
初出:「小説新潮 第五巻第一号」
1951(昭和26)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その四」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043207",
"作品名": "明治開化 安吾捕物",
"作品名読み": "めいじかいか あんごとりもの",
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"副題読み": "05 そのよん ああむじょう",
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[
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"癩病って、顔も手足もくずれるそうじゃありませんか",
"そんな話をしてくれるな。今に我身もそうなるかと思えば、毎日鏡を見るのも怖しいばかりだよ。はじめはオデコや眉のあたりがテラテラ光って、コブのようにかたくなるということだ。父の死んだときは、オレはまだ十八という若い時で、癩病などは何も知らないから、父のどこに異状が現れたのか、気がつかなかったが、毎朝、鏡を見るときのオレのおののく切なさ苦しさを察してもらいたい",
"それにつけても、兄様は正直、潔白な人格者ですよ。離れがたい愛人の方と別れて、外国へお去りになったではありませんか。こんな立派な兄様がいらっしゃるから、貴方の卑怯さが尚更腹立たしいのです",
"イヤ、この兄は、あまり神経過敏すぎる。別に癩の徴候が現れたわけではないのに、居ても立ってもいられぬらしく、外国へ逃げてしまった。外国に癩を治す名医がいるならとにかく、そうまで慌てるのも、甚しすぎるというものだ。おまけに、外国へ逃げて、結婚したというではないか。外国人ならだましてもかまわないというのかね。人格者というわけにもいかないではないか",
"本当に結婚なさったの?",
"手紙でそう知らせてきたということだ。もう日本には帰らないと云っているそうだ。外国から帰ってきた人の話でも、アイマイ女と結婚して、酒を浴びて、身をもち崩しているということだ",
"それにしても、癩病だの、自殺だのということが、よく秘密に保てたものですね",
"さア、それだ。それがこの家のガンというものだ。癩病と知って、召使いの者はヒマをとる。一人去り二人去り、一週間目には、一人も召使いがいなくなったよ。中には、癩病と知った当日逃げだした弱虫の慌て者もいたほどだよ"
],
[
"一也さんも、万引やるんじゃないの。あなた方には怪しからぬ血がいろいろとこんがらがって流れているのだから",
"フン。その代り、天才の血が流れているのさ。もっとも、キミの旦那様だけ、天才の血が外れているらしいぜ、このウチにバカの血だけはない筈だが、どうも奇妙だ。すると癩病の血も万引の血も外れているかも知れねえな。そう思って我慢するがいいぜ。癩病一家へ御降臨あそばしたからッて、牛肉屋の娘がにわかに気が強くなるのは考え物だな",
"あなたの何が天才なのさ。ちょッとした学問を鼻にかけるのは、見苦しいわよ",
"ハハ。愚物には分らねえのさ。マ、写真を撮してやるから、せいぜい良い顔を工夫するがいいね"
],
[
"昼のうちから御酒を召上って、急病人ができたときにどうなさいますの",
"ナニ、医者は東京にワシ一人ではあるまいて。第一ワシは漢方に洋学のサジ加減をちょッと加味したような雑種なのさ。ワシの倅が三年前に医学校を卒業して、今ではワシよりもサジ加減がよい。特に婦人には親切をつくすそうだから、あなたも診てもらいなさい。そういえば、あなたもニンシンの由承ったが、当家の初孫、まことにお目出たい"
],
[
"フン。正司君もちかごろは見ちがえるような若社長ぶり、見上げたものだと思っていたが、持って生れたバカの性根は仕方がない。余計なことを言わなければよいものを、無役に人を嘆かせるばかりのものを",
"いいえ。私がそれを知りましたのは主人からではありません。一也さんが、まるでヨソのウチの話のように皮肉タップリ語っておきかせだったのです",
"フン。あの一也が。そうだったか"
],
[
"変だねえ。オレは殺されるかも知れないと、この人は口癖のように言ってたんですよ",
"誰に殺されるといっていたのだネ",
"さア。誰だか知りませんが、医者の奴がいやがるから、危くッて、お茶も呑めやしねえなんて言ってたんです",
"それなら話が合っている。その医者と組打ちして、崖から落ちて死んだのだ。医者も死んだのだから、あきらめなさい",
"そうですか"
],
[
"エエ、畜生め。何が証拠がいるものか。癩病やみの血筋の秘密を握られて二人の男を殺したと言いふらしてやるから覚えていやがれ",
"なるほど当家は癩病の筋には相違ないが、人殺しと言われてはカンベンはなりませぬ。出るところへ出て、もう一度、同じことを申してごらん。癩病は当家ののがれがたい運命、それは覚悟いたしているから怖れはせぬが、人殺しと言われてそのままに済まされぬ。訴えて出るから、さ、一しょにおいで",
"フン。バカめ。誰が警察なんぞへ出向いていられるか。癩病は当家の筋だとハッキリいったな。その言葉を忘れやしめえ。明日から日本中駈けまわって喚きちらし言いたててやるから覚えてやがれ",
"待ちなさい"
],
[
"お前の父にはその口封じに月々千円のお金をあげていたが、お前がその秘密をまもってくれるなら、お前にも父と同じことはしてあげよう。秘密はまもってくれるだろうね",
"ハナからそう出てくれるなら、何も余計な口は動かしませんや。口は案外堅い方で"
],
[
"そんなことが、今回の殺人事件に何か関係がありますか",
"さア。それは分りません。しかし、今回の事件でしたら、二人がどんな方法で誰に殺されたか、大分当りはついています。だが、この事件に至っている大体の秘密が知りたいのです。なにしろ、秘密を握っていた二人の人は死んでしまったのですから。そして、今我々に分っていることは、殺人動機として充分うなずけるものですが、しかし、たぶんこうだろうと人々が推測しているだけのことにすぎません。当時ここにいた人は今は一人も居ないのです。しかし、何がでてくるにしても人の心を明るくしてくれることは出てくる筈はありますまいよ",
"ウーム。御炯眼。先ず、そこから当り始めるのが順序でげす。ヤツガレもチクと同行いたしましょう"
],
[
"奥様と娘のキク子さんは毎月どれぐらいの買物をなさるのだね",
"ハア、よくは存じませんが、時に一軒の店から五千円、一万円等と莫大なものがあったようです。それはまア貴金属類でございます",
"そのツケに書いてある半分ぐらいが万引の品なんだね",
"ハ?",
"奥様とキクさんが万引なさッた品物のことさ",
"ハア。万引でございますか? あの大家の奥様、お嬢様が万引なさる筈はございませんでしょうが",
"ホウ。東京では浅虫の奥様、お嬢様の万引といえば、かなり知れている事実なのだが",
"いえ。そんなこと、きいたことがありません。その筈がないではありませんか"
],
[
"あの野郎は三人兄弟の末ッ子ですが、なんしろ雪国の野郎は大酒のみで、なまじ小金を貰ったのが却っていけなかったようですよ。三年前までは盆になると戻ってきて景気の良さそうなことをいっていましたが、店を潰してからは手紙一本よこしません。恥サラシをやらなきゃよいがと心配しているのです",
"年はいくつだね",
"今年は四十になりやがった筈です。女房子供五人家族ですから、妻子が哀れですよ。女房はこの村からでた女ですが、わりとシッカリ者で、なんでも貧民窟のようなところで内職して子供だけは育てているそうですが、こまったものです",
"すると離縁したのかね",
"いゝえ。時々金をせびりに行きやがるそうで、十銭二十銭の血と汗の銭をせびって消えて行きやがるそうです"
],
[
"思い当ることがあるかね",
"思い当る段ではありません。どうしてあれが忘れられるものですか。オノブサンという三十五の人と私が奥の女中でしたが、まだ春先の午後三時ごろというのに奥で戸をしめる音がしますから行ってみますと、戸をしめていらッしゃるのは奥様で、お嬢様が、廊下に見張りのように立っていらッしゃるのです。お嬢様は私を睨みつけて、花田先生に来ていただくように、と仰有るのですよ。花田先生をお連れしますと、呼ぶまでは誰も来てはいけないというキツイ御命令で、夕飯も召上らず、真夜中の十二時まではヒッソリと物音もありませんでした。夜中に私どもが一室によび集められて、旦那様は癩病を苦に狂死なさったが、必ず他言してくれるな。一同にはヒマをやるから、葬式がすんだらひきとるように、と大枚のお金を下さいました",
"屍体の始末に手伝った者はいないかね",
"女中は一人も奥の部屋へは召されませんでしたが、下男の野草さんと植木屋の甚吉さんが奥へ召されてズッと出て来ませんでした。車夫の馬吉は棺桶を運んで来ましたが、運んできて、廊下まで持って参っただけで、これも手伝ってはおりません。正司様、一也様はまだ子供ですから、これも奥からは締めだされて、女中のたまりへいらして心配そうに奥の気配を気にしていらッしゃいましたよ。下男と植木屋はどういう御用があったのか、ズッと葬式の終るまで姿を見せませんでしたが、秘密がもれるといけないからでしょうね。私がヒマをもらう日になって、その時はもう、女中の半分はヒマをとってからですが、野草さんだけヒョッコリどこかから戻ってきました。私がヒマをもらう時はまだ植木屋の方は戻りませんでした。下男の野草さんとお医者の花田さんが、ゆすっていたのは当然ですとも。旦那様は自殺ではありませんね。誰かが殺したのです",
"誰が殺したと思うね",
"それは分りません"
],
[
"そのお嬢さんのオナカの子はどう始末をしたのだね",
"私がヒマをもらうまでは、まだその儘だったと思いますよ。花田先生がついておいでだから、いつでも、どうにかなったでしょうとも",
"胎児の父は誰だと思うかね。思う通り、言ってごらん",
"それは分りやしません。ですが、奥へ出入りする男といえば、旦那様、お兄様、花田先生、この御三方のほかにはありません",
"博司さんの男友だちは",
"そんな方は奥へ出入りなさいません"
],
[
"どうだろう。甚吉の友だちというのは居ないだろうか",
"それが、それ、先日もお話いたしましたが、生意気な野郎で、名人気どり、仲間を怒らせやがるばかりで、仲良しなんて一人だって居やしませんや。色女なら一人ぐらいは居たかも知れませんが、あッちこッち手当り次第、別にこれという極った女は少いようで。あの野郎ばッかりは、こッちで身を堅めさせてやろうという気持になりませんや。フン、という顔をしやがるのでね。ウチのカカアなんぞ、一度親切気を起したばかりに、ひどく腹を立てましたよ",
"そうかい。それでは内儀に会わせていただこうではないか"
],
[
"さア。甚吉の親しい仲間は、私も目がとどきませんで、心当りがございません。なんしろ同輩よりは一枚も五枚も上のツモリで、フンという顔をしておりますから、友だちはできません。同輩のバカ話の話相手にも加わりませんから、甚吉がどこで何をしているのやら、何を思っているのやら、それも誰にも分りやしません。実際腕はよいのだから、まア仕方がなかろうというわけで、御近所に、今は零落なさッていますが、元は二百石とりの武士のお方のお嬢さんが、躾けもよく、よく出来た方で、こういうお方なら甚吉には向くかも知れないと、話をしてみたことがあるのですが、貧乏ザムライの売れ残りがイキのいい職人のカカアにもらえるもんですかい、という挨拶で、この野郎、とあの時ぐらい腹の立ったことはございません。生意気と申したらありやしませんでした。しかし言うだけのことはあって、読み書きなども相当にできましたし、洋学を勉強しようか、西洋の植木屋の極意書をチョット見てやろうか、なんて大きなことを申すような奴でした",
"浅虫家にいたころはチョイ〳〵遊びに来ましたか",
"めったに参りませんでしたが、たまに来ることはありました。浅虫家からヒマをとって後は、一度も参りません"
],
[
"イヤハヤ。ムダのムダ。莫大の時間と路銀を費して、鼠一匹でやしない。心眼の曇る時はそんなものさ。私は旅にでる前から、こうあることがピタリと分っていたね",
"イエ、泉山さん。決してムダではありません。甚しく重大なことが分ったではありませんか",
"キク子のニンシンのことだろうが、それぐらいの隠しごとはどこのウチの女中でも必ず嗅ぎつけているものなのさ",
"それに甚吉の行方不明が今度判った重大な二ツではありますが、もっと重大な事があるのです。泉山さんはお忘れですか。未亡人とキク子さんは、あの事件が起るまでは万引したことがなかったのですよ"
],
[
"なんのことだい。今度の二人殺しの犯人なら始めから分ってらアな。それは浅虫家の全員さ。それだけじゃア、昔のナゾがとけていないよ。なア、新十郎どん",
"いいえ、たぶん、全てのナゾの最後の日です。そして、恐らく、大そう陰鬱な日となるでしょうよ。では、さよなら"
],
[
"イエ。それは相成りませぬ。人様には見せられぬ秘密の品々がありますから",
"それは分っております。ですが奥様。五年間辛苦なさった万引の品々が見たいと申すのではございませぬ。その品々がおさまる前から在ったもの。万引常習者を装い、その品々を土蔵に積んで、人々の立入りを禁じる自然の口実をつくって、万人の目から隠さなければならなかったもの。又、この居間で他の御家族と別に、奥様お嬢様だけで食事なさらなければならなかった理由をもつもの"
],
[
"すべてお見透しですから、今は何を隠しましょう。ただ、当時の切ない事情をおききとり下されませ。キクが庭内を逍遥の折、矢庭に躍りかかった甚吉に首をしめられ手ゴメにされて身ごもったのでございます。一夜キク子が自害して果てようとするのを、かねて私が怪しんでおりました為に、事前に察して取り押え、事の次第を知るに至りましたが、父は激怒逆上のあまり庭前を通りかかった甚吉をこの居間へよびこみ一刀のもとに刺し殺してしまったのです。駈けつけて下さいました花田先生の親切なお指図により、甚吉の顔の皮をはぎ、癩病、発狂、自殺と見せて葬り、主人は生きてこの土蔵の中に今も暮していることはお見透しの通りでございます。博司は生来虚弱のところへ、この秘密の暗さにたえがたく、その切なげな日常を見かねて、海外へ送り、彼の地で安穏に生涯を終らせることにはからいましたのです",
"奥様、よくお話し下さいました"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第五巻第三号」
1951(昭和26)年2月1日発行
初出:「小説新潮 第五巻第三号」
1951(昭和26)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その五」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043208",
"作品名": "明治開化 安吾捕物",
"作品名読み": "めいじかいか あんごとりもの",
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"副題読み": "06 そのご まんびきかぞく",
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"底本名1": "坂口安吾全集 10",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年11月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年11月20日初版第1刷",
"底本の親本名1": "小説新潮 第五巻第三号",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年2月1日",
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"校正者": "松永正敏",
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} |
[
[
"息綱持ちがその女に限るとなれば仕方がありませんが、その代り、料理方の大和を解雇して貰いたいものです。あの猛毒の深海鰻めが船内にトグロをまいている限り、女が乗り組んで、船に異変が起らぬということは有り得ません",
"自分もそれを考えないではないが、板子一枚下は地獄と云う通り、船乗りには身についた特別の感情があって、ともに航海するものは盟友であり、家族でもあるのです。女が乗りこむからと云って、その為に家族の一人を除くというのは情に於て忍び得ません。そのことからも不吉な異変が起りかねないという感じ方もあるものですよ。ここは船長たる自分にまかせていただきたいものです"
],
[
"船中生活の無聊にバクチにふける気持は分るが、あの大和はちょッと心のよからぬ奴、賭の支払いで苦しんでから悔むのはもうおそい。今のうちにやめなさい",
"なアに、あんな奴に負けやしません。たいがい勝ってるのはオレの方でさ",
"それがお前の心得ちがいだよ。私も長い船乗り暮し、だいぶお前よりは大人だから目は肥えている。あの大和は実に驚くべきインチキバクチの天才だよ。何年となく負けつづけているこの船の乗員どもが、今度こそは大和に勝てるという気持をすてることができないのは、よほどバク才のひらきが大きいからだ。今にしてやられるに極っているから、今のうちにやめなさい",
"アッハッハ。海の底が仕事場のオレたちには、水の上じゃア虎や狼とでも遊ぶ気持になりまさア"
],
[
"済みませんが、その白蝶貝だけ、今さいて見せて呉れませんか。中が見たくて仕方がないものですから",
"そうかい。なるほど、こいつは確かに白蝶貝の主だなア。これを採っちゃア中があけてみたいのは人情だなア"
],
[
"何も手数をかけてやしないよ。女をまわすのがイヤなら、オレたちをこッちの仲間へ入れてくれてもいいじゃないか",
"この部屋に女がいるか、よく見るがよい",
"フン。仲間にも入れたくねえのか"
],
[
"ナニ、今日一日で捜査が終るわけじゃアねえや。日本へ戻りつくにはまだ相当の日数があると覚えておいてもらいてえな。人殺しの罪人になりたくねえと思ったら、金庫の中へ珠だけ戻してくれてもいいや。人殺しの犯人なんぞこちとらは気にかけねえやな。盗ッ人だけは勘弁ならねえ",
"怪しいのはお前じゃないか。この船内で捜査をうけていないのはお前の身体だけだ"
],
[
"そんなことは、やらせねえぞ",
"やれたら、やってみろ"
],
[
"お前は、あの部屋をでろ。そして、みんなと雑居しろ。どうも、なじめねえ野郎だ。船乗りの気持は分るが、貴様が何を考えているか、その気持だけは、てんで見当がつかねえや。貴様があの部屋にトグロをまいていちゃア、助平どもの気が荒れていけねえ",
"そうだとも。そうしろ"
],
[
"この手紙が届いたのは一週間ほど前のことですが、私は昨日まで考えたあげく、度々の家探しをされて痛くもない腹を探られるのも癪ですし、亡夫が他殺でありますなら、この際ハッキリ犯人をあげていただきたく、思いきってお願いに上ったのです。一切の秘密を申上げては他の方々に悪いようですが、この手紙で見ましても内輪だけの犯人探しなどといかにもふざけた様子ですから、いッそ埒をつけていただこうとの考えでした",
"清松さんや竹造さんは出席しますか",
"あの方々とは近頃は親しい交際もありませんので、きいて参りもしませんでした",
"足かけ四年前の出来事といえば大そう捜査も困難でしょう。私のような者が出席して、皆さんの口が堅くなっては困りますから、隣室で皆さんのお話が伺えるような手筈を致しておきましょう。私たちがお話を立聞いているということが分るような態度をなさっては、いけません。たとえば、強いて話をききだして私たちにきかせようとなさるような御親切は却って無用にねがいますよ"
],
[
"これをここで言うのは辛いが、大和がしつこく訊くもので、教えてやったことがある。しかし、これはオレにも確かに犯人だと心当りがあることじゃアないのでな。知っての通り、オレは酒には弱い男だ。あの晩はいくらも飲まぬうちに苦しくなって、真ッ暗な甲板へあがって、ウトウトねこんでしまった。人の気配にふと目がさめると、二人の男が大部屋の方から出てきたと思うと、アッという小さな叫びを残して誰かが海へ落ちた様子。そこに誰かが一人残って立っているが、突き落したのか、自然に落ちたのか分らないし、真ッ暗闇で、誰とも分らない。あの晩は曇天のところへ月の出のおそい晩のことだからな。ただオレが知っているのは、二人は皆の騒いでいる大部屋の方からデッキを歩いてきたことと、残った一人は船長室の方へ降りて行ったということだ。ほかに行方不明は居ないから、海へ落ちたのは八十吉だ。だが、もう一人は分らない",
"たいそうなことを知ってるじゃないか。それでハッキリしているな。その男は今村だ"
],
[
"フン。それじゃア部屋にねていたのはオレだけじゃないか。オレが犯人というワケか。バカにするな。オレは第一、あの晩は酒も飲まずに寝ていたのだ。大部屋へなんぞ行きやしねえ。部屋の外でオレを見かけた奴が一人でもいるか、探してこい",
"誰もお前が犯人だと言ってやしねえ"
],
[
"これで読めた。大和は利巧な奴だぜ。奴は今村をゆすっているのだ。奴は尾羽うちからしていやがるし、昇龍丸の乗員で出世したのは今村だけだ。奴めは芝で一寸した貿易会社の社長だアな。だが大和の奴がこんな芝居を打つようじゃ、今村に泥を吐かせる確証がねえような気もするなア",
"どうも変だな。オレはたしかに八十吉がデッキから戻ってきたのを聞いた筈だが"
],
[
"あれはまだ宵のうちだ。九時半か十時ぐらいに相違ないが、金太が八十吉の落ちた声を聞いたてえのは朝方じゃアないか",
"とんでもない。オレがそれと入れ違いに大部屋へ戻った時は、だらしなくノビた奴も半分いたが、半分はまだバカ騒ぎの最中よ。九時半か、十時ごろだ",
"そのとき今村は大部屋にいたか",
"そこまでは気がつかねえや。なんしろバカ騒ぎの最中だし、半分は酔い倒れていやがるし、ロウソクは薄暗えや。オレは隅ですぐ寝ちまったからな",
"人が海に落ちたのを見ていながら。だから、お前はウスノロてんだ"
],
[
"おキンさんにきくが、八十吉は十時ごろ一度戻ってきやしないか。イヤ。たしかに戻ったに相違ない",
"いいえ。戻って来ませんよ。戻って来たとすれば、私は寝ていて知らなかったが、翌る朝の様子では夜中に戻った様子はありません",
"イイヤ。お前の部屋へはいった者がたしかにいた。オレはこの耳できいていたのだ",
"部屋の間違いじゃないの?",
"そんなことはねえや。オレの部屋の隣は船長室だ。オレの真向いがお前の部屋だ。今村の部屋はお前の隣り、船長室の真向いだが、二ツの扉はちょッと離れているぜ",
"なんだか気味が悪いわね。いったい誰が私の部屋へはいってきたの。私は寝ていて知りやしないよ",
"不思議だなア。あれが今村だとしてみると、どうもオレには分らねえや",
"いったい、私の部屋へはいった人が何をしたの?",
"それがハッキリ分らねえや。その男がお前の部屋へはいると間もなくオレは眠ってしまったんだ。ただ、オレが知っているのは、その男はデッキから降りてくると船長室へはいったのだ。三十分ぐらい船長室にいて、それからお前の部屋へ行ったのだぜ",
"船長室で何をしたの?",
"それがオレには分らない。別に話声もきこえないし、シカとききとれた音もねえや。どうもな。まさか、人を殺しているとは知らねえや"
],
[
"人を殺した音がきこえなかったというの? 板一枚でさえぎられた隣室じゃないか",
"分らない時は分らねえやな。しかし、まさかお前の部屋へはいったのが幽霊じゃアないだろう。どうにもオレには分らねえ",
"もうよしねえよ"
],
[
"オレたち四人の者だけ集めて、そんなことをしたって何にもなりゃしねえや。五十嵐を帰したのはどういうわけだ",
"あの人の行先は分っています。芝の今村さんのところへユスリに行っているのですよ",
"フン、そこまで分っていたら、今から行って犯人をつかまえてきな",
"どういたしまして、五十嵐さんが見込んだ程度の証拠ではユスリの種になりません。明日は五十嵐さんも、今村さんも、大和さんも、皆さんに参集を願いますから、あなた方も必ずお集りをねがいますよ"
],
[
"明日犯人が分りますかい?",
"たいがい分るだろうと思います",
"大きな真珠もでてきますかね?",
"そこまでは分りませんが、大和という天眼通がノミ取り眼で探しても出てこなかった真珠ですから、この行方は謎ですね。私はここで失礼します",
"オヤ? どちらへ?",
"ちょッと潜水夫のことを調べなければならないのです。さよなら"
],
[
"虎や。おキンというのは美人かえ?",
"海女には稀な、十人並をちょッと越えたキリョウ良しでございます。何せスクスクとまことに目ざましい体躯の女で",
"船長畑中、冒険心に富み、豪の者だが、心の弛みによって色慾に迷う。酒のなせる一時のイタズラ心だ。好漢惜しむべし。もう一歩控える心を忘れなければ、何事もなかったのだな。同席の男が揃って水夫どもの宴会室へ立ち去ったから、ムラムラと悪心を催した。おキンの私室を訪れて、これを手籠にしたのが運の尽きさね。八十吉はその心構え細心な潜水夫だから、ガサツな水夫どもの酔いッぷりは肌に合わなかったろう。おキンのことで何かにつけて水夫どもにからまれもしよう。長座に堪えがたかったのは当然だな。一足先に戻ってみるとおキンの部屋から畑中が出ようとするのにバッタリ出合う。平素は一点非のうちどころもない船長だから、八十吉はとッさに怪しむ心も起らなかったかも知れないが、これには畑中の方が驚いたに相違あるまい。室内へはいられては困るから、その場をごまかして、言葉巧みに八十吉を誘い、デッキへ連れ去る。オレが見ていたワケじゃアないから、こうまで細かには分らないが、おおよその事情に変りはなかろう。策に窮した畑中は八十吉を海に突き落してしまったのさ。自室へ戻って残り酒をひッかけたから、にわかに疲れが出て椅子にもたれたまま寝こんだのだろう。おキンは利巧な女だから、あらましの事情を察して、畑中の熟睡を見すまし、モリを執ってただ一突きに刺し殺したのさ。日本の海女はモリの名手だよ。モリを片手に十尋の海底をくぐって魚を突くに妙を得ている。海女の手中のモリは、虎の手中の箸のように自由なものさね。おキンがわが部屋を出て船長室に忍びこんだ物音はきこえないから、畑中を殺し、金庫をひらいて真珠を奪い、再びわが部屋へ戻ったおキンを、清松の耳はデッキを降りた男の仕業ときいているのさ。今日までは、これを八十吉と心得ていたから、清松はおキンの留守宅に忍びこんで、再々真珠を探したのだ。清松には諦めきれぬ真珠と見えるよ。西洋では宝石にまつわる怪談ほど因果をきわめた物はないぜ。古来本朝にその怪談が少いのは、貧乏な国の一得さ。これがさしずめ本朝宝石怪談の元祖に当るかも知れねえや"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第五巻第四号」
1951(昭和26)年3月1日発行
初出:「小説新潮 第五巻第四号」
1951(昭和26)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その六」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043209",
"作品名": "明治開化 安吾捕物",
"作品名読み": "めいじかいか あんごとりもの",
"ソート用読み": "めいしかいかあんことりもの",
"副題": "07 その六 血を見る真珠",
"副題読み": "07 そのろく ちをみるしんじゅ",
"原題": "",
"初出": "「小説新潮 第五巻第四号」1951(昭和26)年3月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-07-19T00:00:00",
"最終更新日": "2016-03-31T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/card43209.html",
"人物ID": "001095",
"姓": "坂口",
"名": "安吾",
"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坂口安吾全集 10",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年11月20日初版第1刷",
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"底本の親本名1": "小説新潮 第五巻第四号",
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"入力者": "tatsuki",
"校正者": "松永正敏",
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} |
[
[
"どんな手合い?",
"四目だ"
],
[
"夜もだいぶ更けたようだから、このへんで寝ようではないか。お前さんも目が血走って兎の目のようだよ。身体に毒だな",
"目の赤いのは生れつきだ。江戸ッ子は徹夜でなくちゃア碁は打てねえ",
"そうかい。それじゃア、夜食でもこしらえてもらいましょう"
],
[
"甚八さん。おあがり",
"どうぞ、あついうちに召上れ"
],
[
"先晩きいた話では、津右衛門殿は息をひきとるまで同じ方向を指さそうとされたそうだが、ひとつ、その部屋へ案内して、その方向を見せてもらいたいものだ",
"ごらんになっても、その方向には何もございませんよ",
"江戸の碁打の甚八とやらを指し示していたのとは違うか",
"いえ、そうではございません。のたうつうちに、にじりすすんで方向が変りましたが、お苦しみのうちにも、もがき、もがきして、いつも碁盤の方を指さそうとなさるようでしたから",
"それはフシギだな"
],
[
"オイ。これでいいのか",
"ええ。そう",
"オイ。いい加減を云うな。まちがっていたらそう云え。この場所へ、こんなカッコウか"
],
[
"およしなさいよ。そんなバカなマネ",
"バカッ!"
],
[
"コラ。ハッキリ、本当のことを云え。本当にこんなか",
"ほんとに、そうよ"
],
[
"世間の人は色々のことを云うが、オレのうちはそのような大それたものではない。まア多少はある一人のちょッとした曰くづきの人物に関係があるが、この家の者がその血筋ではないのだ。わが家の血筋などはとるにも足らぬものさ。関係があるという血筋の人については、ちょッと先祖は言外をはばかる事情があったが、今ではさしたることもない。そこで私のオジイサンの代からそれを系図に書き入れてあるよ。東太が成人して家督をついだら、東太にたのんで見せてもらうがいいさ",
"では、父から息子へ語り伝える必要はもうなくなったのですか",
"イヤ。それはまだある。これだけは文字に記するわけにはいかないのだよ"
],
[
"私もそれを残念に思いますが、終盤ちかくチラと見ただけの盤面、しかと覚えておりませぬ",
"甚八と申せば江戸の素人天狗は三目でもめったに歯の立たぬ豪の者。まず二段はたっぷり打ちましょう。甚八に四目置かせて勝つなどとは名人と雖も考えられぬことでござる。棋譜の知られぬは残念千万でござるのう",
"うち見たところでは白によい碁ではございませぬ。黒は置き石を生かして白を圧迫し、黒に充分の碁ですが、隅の黒石に平凡な死に筋があるのを見落して、せっかくの好局を負けにしたのでした"
],
[
"それで、金箱の在りかを、どなたか突きとめましたか",
"それが未だに分らねえだねえ。チョックラ指をさしたぐらいじゃ分らないねえ",
"そうでしょうなア"
],
[
"東京へ買い物のツイデにお寄りしたのです。すこし間があると思いましたが、ほかにツイデがありませんから",
"そちらのツイデはそれがよろしいかも知れないが、こッちのツイデも考えてもらいたいね。私も棟梁と名がつくからには、ちッとは手下もいるしヒマな身体じゃありませんぜ"
],
[
"そうだねえ。石にも色々あるが、庭石に使いなさるのか",
"それがだ。この旦那がタダの旦那と旦那がちがう。まア、大金持の気違いだと思えばマチガイねえや。人間のやらねえことを、やってみたいてえ気違いだね。太閤が大阪城で使った何百倍の大石でもかまわねえから、大小に拘らず天下の名石を探してこいてえ御厳命だね",
"このあたりで名石というのは、あんまりきかないねえ",
"山か河原でもかまわねえが、石がタクサンあるようなところはないかね",
"そうだねえ。石がタクサンあるてえば、山の神だが、こいつァ庭石になるかねえ"
],
[
"へえ。山の神てえのが、石の名所か",
"この近在のタナグ山に山の神があるのだが、お客人は田舎のことに不案内のようだが、この山の神てえものは御神体が山でもあるし、また石だね",
"その石は山のどこにあるのだ",
"慌てちゃアいけねえなア。オレが見てきたワケじゃアねえ。山の神だのサエノカミてえものは石を拝むものだてえ話さ。ホコラの代りに石がころがってるだけのものだね。名石だか、奇石だか知らないが、タダの石かも知れないよ。行ってみればどこかに石があるのだろうが、それを東京へ持って帰るわけにもいかねえだろうよ"
],
[
"棟梁にははじめての挨拶だが、私は千代の兄で安倍天鬼という者だ。こッちの夫婦は入間玄斎という御家人くずれの通人だ。今度の招待には、棟梁もめっぽう面くらったらしいな",
"ヘッヘ",
"くわしい事情は私が説明しなくともみんな探りだしたであろうが、ハッハ。イヤ、あんたがこの村へきてからのことは、みんな知っとるよ。よくもまア足マメに一軒のこらず訊いて廻ったものじゃアないか。よほど面くらわなくちゃアできない芸当だが、しかし、癖がなくちゃアこう身を入れてやれるものじゃアない。その癖に感じて、ここに誰からも訊きだすことができなかった一ツの書附を進ぜようじゃないか"
],
[
"イエ。なんでもありませんや。ちょうど旦那に庭石をたのまれていたから、ついでに探しただけのことでさア",
"ハハ。たかが庭石を探すぐらいで、あの道のないタナグ山へ踏み入り、藪を越え、谷を渉り、岩をよじてさまようことはないだろうさ。そのワケを言いなさい",
"そうですか。それじゃア申しますが、私しゃアね。死んだ旦那が指したのは、方角かも知れないし、また碁石かも知れないと思っただけさ。石を探せという意味かも知れないと思いましたのさ。あっちこっち山中に至るまで探して歩くと、どこかに目ジルシの石らしいものが見つかりやしないかなぞと思ってみただけのことでさアね"
],
[
"いよいよ法事の当日になりましたが、津右衛門どのの霊にでてもらいますから、身支度して、おいで下さい",
"法事は明日じゃアありませんか",
"甚八さんは二十年前をお忘れとみえますね。あなたは仏と碁をうって夜をふかし、四目の対局の時には翌日未明になっていたのですよ。今夜はこれから二十年前を再現するのですが、碁盤にむかっているうちに、翌日未明になるでしょう。ちょうど津右衛門どのの死んだ時刻に霊が現れる筈になっております",
"ハハア。なるほど。私が誰と碁をうつのかね。まさか津右衛門さんの幽霊と碁をうつわけじゃアあるまいが",
"来てみれば分りますよ。みなさん用意してすでに集っておられますから",
"そうですかい。それじゃア支度して参ると致しましょう"
],
[
"オヤ、改まって、なんだい?",
"イエ、二十年前がこうだったんですよ。私があんたを二階座敷へ御案内したのだから"
],
[
"尊公もさだめし片腹いたかろう。これなる若者が当時三ツの仏のワスレガタミ東太だが、これを津右衛門の身代りに、尊公と二十年前の情景をここへ再現するのだそうだ。東太はねむたくて御覧のようにコックリコックリ、坐っていながら目があかない始末だから、オレがこうして介添役に控えているのさ。二人合せて津右衛門一人なみだよ",
"なるほど。すると、この坊っちゃんに仏の霊がのりうつるんですかい",
"イヤ、イヤ。そうじゃないそうだ。霊のうつるのは志呂足の娘でミコの比良という女だよ。自分のミコでもない東太にのりうつるような器用なことはできるものかい"
],
[
"どうも呆れたもんだね。甚八だって言やアがる。くそ、いまいましい野郎だ。再びぬかしやがるとポカリとお見舞いするから覚悟しろ。ボツボツ幽的をだしてくれ。こッちは気が短けえや",
"まアまア、棟梁、そう短気を起しちゃいけない。めったに見られない見世物だから、ゆっくりお手並拝見とシャレよう",
"それも、そうだね。しかし、いつまで待たせるのかね",
"刻限があるのだそうだ。その刻限になると手打ウドンがでてくるそうだから、そのへんへきたらそろそろ幽的のでる刻限だと思わなくッちゃアいけないね",
"甚だ面白えや。するてえと今はどのへんかなア。今ごろは白のいいとこのない局面だったね"
],
[
"奥さんがあのとき現れなければ、私は負けがなかったかも知れないね。負け碁に仲のいいところを見せつけられちゃア、のぼせちまわア。オレも若かったなア",
"誰でも負けがこむと、同じ手合の人でも三目ぐらいまで打ちこまれるそうですわ。碁打ちの方は皆さん覚えがおありでしょうよ",
"それがあなた、奥さんの前だが、私はあの一夜のほかには誰にも負けがこんだてえ覚えがないのだからね"
],
[
"いよいよドンブリが現れたね。これから、そろそろ幽的の現れる刻限だね",
"あと十分ぐらいのものかね。津右衛門どのが息をひきとられた時刻までは"
],
[
"何年たっても半可通の頭だねえ。系図の文句を読み落さないように気をつけることだ。当家大明神大女神也とあるのはどうだ",
"それは即ち当家切支丹の開祖大女神ということさ",
"ハッハ。このウチには切支丹らしいものが何一ツないじゃないか。デクノボーめ"
],
[
"あなたがお茶をいれたのはマチガイありませんね",
"ハイ",
"お茶をいれて、それを二階に持って行く時刻はあなたがはかったのですか",
"いいえ。その指図は宇礼さんです。宇礼さんもミコですから、神の霊がのりうつッて、時刻がお分りなのやら、私たちの前にピッタリお坐りで、一々指図なさるのでした",
"ときに、あなたは、碁がお強いそうですねえ",
"イイエ",
"御ケンソンはいけませんね。初段格はおうちになさるということを古い碁客から承りましたよ。あなたは御主人と甚八の四目の碁の終盤をごらんになりましたね",
"終盤だけ見ておりました",
"どんな碁でしたか",
"さア。黒によい碁でしたが、一隅の黒石が死んだので足らなくしたようでしたが",
"なにか筋を見落したということでしたね",
"見落しがあったようです",
"その筋は石の下ではありませんか"
],
[
"甚八さんへ先に差上げたと思います",
"どのへんの位置へ差しだしましたか",
"膝のすぐ横手でしたでしょう",
"次の茶ワンは?",
"東太の膝の横手です",
"兄さんの前ではありませんか",
"いいえ。そこは兄の前にも当りますけど、兄は一膝ぶんぐらいひッこんでおりましたから、東太の膝にすぐ近く、兄の膝からは二尺ちかい距離は離れておりましたろう。特に気をつけてそこへ置きました",
"なぜ特に気をつけたのですか",
"二十年前を再現すること、したがって、兄のためではなく、東太が亡父の身代りですから",
"二十年前には、二人はお茶をのんだでしょうか",
"覚えがありません",
"東太さんはのみましたか",
"いいえ",
"よく覚えていますね",
"居眠りしていて、お茶がそこにあることを知らなかったと思います。ソノがドビンを持って茶をいれ代えにきたとき、東太の茶ワンは手づかずに茶が残っていました",
"そう、そう。ソノもそう申していましたよ。その後はどうでしたでしょう",
"その後のことは記憶しません",
"茶に食塩を入れるのは、いつごろからの習慣ですか",
"私が当家に嫁しましたとき、すでに当家の習慣でした",
"甚八はお茶を一息にのみほしたそうですが、あなたは見ましたか",
"見たような気もしますが、そうでないような気もします",
"あなたは、いま、何が一番気がかりですか",
"東太のことが気がかりでございます"
],
[
"別に変った様子、変った挙動はなかったのだね",
"変ったことは一向にございませんよ",
"その塩の壺を持ってきてごらん"
],
[
"たしかに塩だ。この塩の分量が、近頃メッキリへらなかったかね",
"そんなことは気がつきませんね",
"ヤ。ありがとう"
],
[
"虎は碁をうつかエ",
"ハ。ヘタの横好きで",
"虎のタンテイ眼では、碁がヘタなことは知れている。石の下を心得ているかエ",
"ハ。それを心得ませぬのが、まこと痛恨の至りで",
"石の下とは、こんな手筋だ"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第五巻第五号」
1951(昭和26)年4月1日発行
初出:「小説新潮 第五巻第五号」
1951(昭和26)年4月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その七」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043210",
"作品名": "明治開化 安吾捕物",
"作品名読み": "めいじかいか あんごとりもの",
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"副題": "08 その七 石の下",
"副題読み": "08 そのしち いしのした",
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"初出": "「小説新潮 第五巻第五号」1951(昭和26)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
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"公開日": "2006-07-22T00:00:00",
"最終更新日": "2016-03-31T00:00:00",
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[
[
"行方を探すのにどれぐらい苦労したか知れやしねえや。こんなところにトグロをまいてる時じゃアねえやな。そろそろ戦争がはじまるぜ。上野寛永寺へたてこもることにきまったのだ。おいらも威勢を見せてやろうじゃないか",
"それは面白いな。酒もバクチもちょうど鼻についてきたところだ。正二郎。長らく世話になったが、面白い遊びを教えてやるから、一しょにこい"
],
[
"身寄りがないときいていたが、お母さんが生きているのか。なぜ早く打ちあけてくれないのだね",
"だって、あんまりひどい暮しをしているものですから",
"娘を芸者にだすほどだから豊かに暮している筈はないさ。それぐらいは心得ているよ。安心して話してごらん。とッくに助けてあげたものを",
"ええ。でも今はメクラなんです。もとは旗本の娘ですけど",
"ほう。私も旗本のハシクレだが、姓はなんと仰有るのだね",
"嫁ぎ先の姓ですけど、梶原というのです"
],
[
"あら。梶原という旗本、ご存じですの? ぶるぶるふるえてらッしゃるんじゃないこと?",
"ナニ、二三その姓に心当りはあるが、お前のお母さんに似た人は、さて、その心当りがあるかなア",
"でも、私は梶原という旗本の子供じゃないのよ。梶原の子供は姉さんだけ。その旗本は寛永寺の戦争で死んだそうです。私の父は望月彦太という旗本",
"望月彦太!",
"ご存じ?",
"きいたことのある名だが",
"そうですッてね。御家人仲間で鼻ツマミの悪ですッて。私がきいているのは悪名ばかり。顔を見たこともないのです。父のおかげで、お母さんは今の不幸に落ちこんだのだそうです。泣きの涙にグチられて、子供心に辛かったわ。私が生れてまもなく父に棄てられ、苦しい暮しをしているうちに目がつぶれてしまったのです",
"どこに住んでいるのだね",
"四谷の鮫河橋という貧民窟です。今はメクラの男と夫婦になって、小さい子供がゴチャ〳〵五人もいるのです。アンマで暮しを立てているのです",
"お前に姉さんがいると云ったが、その人はどうしているのかね",
"駿河橋に一しょにいます。お母さんの手をひくために。そして、今のお父さんの子供と夫婦になっています。車夫ですが、酒のみで、バクチ打ちで、悪党なのね。姉さんが気の毒ですわ。私が芸者になったのも兄さんに売りとばされたんですけど、私を助けるために姉さんがはからッても下さったのです。家に居ればロクなことにはならないでしょう。いッそ芸者になる方が身のためですッてね。身売りの金を手切金に、親子の縁を切るから、母も姉もないものと思って、こんな悲しい家のことは二度と思いだしてもいけませんよッて、そう言われて出たんです"
],
[
"なるほど、気の毒なお母さん、姉さんだが、バクチ打ちの悪漢がついていては、なまじ私が世話をすると、却って双方迷惑する結果になるようだ。姉さんが、家も母も姉もないものと思え、とお前に諭したのは、よくそこを見ぬいているのであろう。私も充分考えてみて、できることは計らうから、お前はしばらく家族のことを思い出さないようにするがよい",
"私も思い出さないことにしていたのです。うッかり申上げてしまいましたが、母や姉をどうこうしでいただこうという気持ではなかったのです。私の抱え主の芸者屋のおカアさんにも姉が呉れ呉れも念を押したことで、私が母や姉を思いだしたら諭してくれるように、また兄さんが会いに来たりユスリに来ても私には会わせないように、と頼んでおりました。お龍姐さんが附き添っている役目の一ツも、私の家の者のことで旦那に迷惑がかからぬように、堅く見張りをするようにとおカアさんに言い含められて来ているのです"
],
[
"この家ですかね。メクラの爺さんと、その息子がいるウチは?",
"ここだけど、男は二人とも出払ってるよ"
],
[
"今連れ添う二人の男にはそれぞれ充分に報いをするし、裁判がきまったあとでは五人の子供もひきとって、生涯大事に育てるから、それまではむごいようだが二人の男には内密に、今から直ちにウチへ来てくれまいか",
"あんたは誰さ。昔のことは忘れたよ",
"お園の父の梶原正二郎だよ"
],
[
"そういうものかねえ。しかし、昔のことは忘れた。あんたは誰だ、というお久美さんの心もしみじみ分る気がするなア。貧乏人は金持になりたがったり、あこがれているかも知れんが、自分がドン底へ落ちているのに、二十年前に生き別れて死んだと思った亭主が金持になって現れては、今の自分の境遇以外は忘れたかろう。金持の幽霊よりも、今の自分がなつかしかろうよ。本当に昔が忘れたいに相違ないなア",
"そうですかねえ。貧乏人のヒガミですよ",
"イヤ、イヤ。お龍さん。あこがれたものが呆気なく目の前に出てきてみると、人間は今の自分が大事なことが分るものだよ"
],
[
"とにかくお米お源という人をこの屋敷から出さなければ、あんたも幸福にはなれないのだし、その二人を追んだすには、お母さんがここの本妻で私が実子にならなければ解決ができないのだものねえ。本当に、どうしたら三人のために良いのだろうねえ",
"私には、昔は、ないよ"
],
[
"ヘエ。そうですかい。お話は分りましたが、念のため女房にだけ会わせて下さい",
"なるほど、それは尤もだ"
],
[
"お母さんはイヤだと云うが、ひとまずウンと云えば、私はここの相続者になるんだがねえ。しかし、それじゃア、駒ちゃんが気の毒。お母さんもウンといいそうな見込みがないが、そうなると、私も相続できないし、駒ちゃんも追んだされてお米お源にこの邸を乗っとられてしまうのさ。どっちみちお前さんにはイクラカになるのだから、どうでもいいだろうけれどもね",
"よかろう。話はわかった。どっちみち金になることなら、オレはなんでも辛抱だ。できるだけ余計の金になるように、一ツじッくり考えるかな。また来るぜ"
],
[
"お米お源花亭の三名は塩竈に立ち返っちゃアいないのかえ",
"ハ。それはもう立ち返ってはおりません。松川花亭は生国不明でありますが、旅絵師の花亭に二人の女をひきとるような家があろうとは思われませんな",
"三名の者は殺されているな。犯人は梶原正二郎よ。お久美が元のサヤにおさまろうてえ気持がないから、駒子と添いとげるには、三名の者を殺す一手あるのみ。これほど明白な事実はあるまい。近所の土を掘ってみな。どこかから死体が現れてくらアな"
],
[
"そう、そう、ランプ用の石油カン。それをおききになりたいのでしょうな",
"たしか二十本でしたな",
"その通りです"
],
[
"それが来たときは、二十本の石油カンですが、翌日は十七本の石油カンと、三本はほかの物がつまっていましたね",
"いえ。やっぱり石油です。だが、石油のほかの物も一しょにつまったというのが正しいのですよ"
],
[
"三本の石油カンはどうなりましたか",
"オモリをつけて海底へ沈めましたよ。銚子沖三十海里。再び浮き上がることはありません。しかし私の負けでした"
]
] | 底本:「坂口安吾全集 10」筑摩書房
1998(平成10)年11月20日初版第1刷発行
底本の親本:「小説新潮 第五巻第八号」
1951(昭和26)年6月1日発行
初出:「小説新潮 第五巻第八号」
1951(昭和26)年6月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※表題は底本では、「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物」となっています。
※初出時の表題は「[#割り注]明治開化[#割り注終わり]安吾捕物 その八」です。
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2006年5月11日作成
2016年3月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043211",
"作品名": "明治開化 安吾捕物",
"作品名読み": "めいじかいか あんごとりもの",
"ソート用読み": "めいしかいかあんことりもの",
"副題": "09 その八 時計館の秘密",
"副題読み": "09 そのはち とけいかんのひみつ",
"原題": "",
"初出": "「小説新潮 第五巻第八号」1951(昭和26)年6月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-07-22T00:00:00",
"最終更新日": "2016-03-31T00:00:00",
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"姓読み": "さかぐち",
"名読み": "あんご",
"姓読みソート用": "さかくち",
"名読みソート用": "あんこ",
"姓ローマ字": "Sakaguchi",
"名ローマ字": "Ango",
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"生年月日": "1906-10-20",
"没年月日": "1955-02-17",
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