chats
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3.16k
| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"煙草の好きな方は、夜中に眼を覚ましても、床の中で一服するそうですからね。",
"私のは、それはそれは、それどころじゃないんです。とにかく、夜中だろうが、昼間だろうが、眼を開いている間はこうして煙草を口にしている始末なんで。何しろ、私あ、十五六の時から燻かして来たんですから。",
"ではもう、三四十年も呑み続けていらっしゃるわけですね。",
"それさね、早三十五六年にもなりますかなあ?"
],
[
"私かね? 私あ、月寒までです。前から知っている牧場で、汽罐を一つ据え付けたもんですて、そこのまあ火夫というようなわけで……",
"これから寒くなりますから、それは、結構な仕事でございますよ。",
"あまりどっとしないんですがね、何しろこれ。私あ、こうして無暗に煙草を燻かすもんですから、煙草銭だけでも自分で働かないと……",
"汽罐の方は手慣れておいでなのですかよ?",
"汽罐の方はそりゃ、私あ、十五六の時から、鉄道の方の、機関庫にいまして、最近までずうっと機関手をやって来ていますから。そりゃ慣れたもんでさあ。何しろ、私が鉄道に這入ったのは、札幌の停車場に、初めて売店というものが出来たころですからなあ。",
"ほう! その頃の札幌を御存じなのですか?",
"そりゃよく知ってまさあ。停車場に売店というものが出来て何かいろいろの物を売っていましたっけが、そこに可愛い娘が一人座ってましてなあ。私あ、その娘の顔を、一日として見ないじゃいられなくなりまして、毎日そこへ、煙草買いに行ったもんでさあ。何しろ子供のことですから、小遣い銭なんかろくろく持ってないんで。煙草なんかも贅沢なことでしたが、何しろその娘の顔を見ないじゃ、一日として凝っとしていられないもんですからなあ。しかし、その娘は、それから一年ばかりでいなくなってしまいましたがなあ。その時には私あもう、立派なはあ、喫煙家になっていましたよ。何度となく、煙草をよそうかと思ったこともありましたが、煙草を燻かしていると奇妙なことにその煙の中へ売店に座っていた娘の顔が浮かんで来ますのでなあ。なんかこう、煙草という煙草には、その娘の匂いまでついているような気がしましたんでなあ。こうして煙草を燻かしていると、今でも私あ、その娘の顔が、煙の中へ見えて来ますんですよ。何しろ、その娘のために毎日毎日一年あまりも煙草を買いに通ったんですからなあ。",
"それはそれは……実を申しますと、あの頃その売店に座っていたのは、私でござんすよ。",
"ははあ! それさね。"
],
[
"それさね。",
"これを覚えておいででしょうがね?"
],
[
"思い出しました。貴女でしたか? その指輪は、私が、機関車のパイプを切ってこしらえた指輪でしたがなあ。",
"銅貨の中へ混ぜて、貴方がこれを私にくれて、顔を赤くしながら逃げるようにして走って行ったのを、今でも覚えていますよ。私はそれから、この指輪を片時もこの指から脱いたことがございませんよ。こんなに磨り滅ってしまいました。",
"貴女でしたか? それで貴女は、今、どこで何をしておいでになりますね。",
"月寒で、ほんのつまらない店をもって、お茶屋をやっています。すぐですからどうぞお寄りになって、ゆっくり、お茶でもあがって行って下さいましよ。それはそれは、あの時の方は、貴方でございましたか?"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「北海タイムス」
1931(昭和6年)9月
「河北新報」
1931(昭和6年)10月
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年9月24日公開
2003年10月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002307",
"作品名": "喫煙癖",
"作品名読み": "きつえんへき",
"ソート用読み": "きつえんへき",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "「北海タイムス」1931(昭和6年)9月、「河北新報」1931(昭和6年)10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-09-24T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
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"底本名1": "佐左木俊郎選集",
"底本出版社名1": "英宝社",
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"テキストファイル最終更新日": "2003-10-27T00:00:00",
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} |
[
[
"細君はどうなんだ? 幾分かはいいのか?",
"同じことですね。起きてはいますけれど……",
"起きてるのなら、散歩にでも連れて出てみるんだな。あんまり家の中にばかりいるのも、身体のためじゃないぜ"
],
[
"どうかして転地でもしなければいけないね。秋ちゃんの家から半分出してくれないかな。そしてどこか空気のいい海岸へでも転地していれば……",
"まだ結婚さえ許してくれないのですもの。それよりも、お父さんが私達の結婚を許して下さるといいと思うわ。そしたら、私、死んでもいいわ。私もうそれだけよ",
"馬鹿な。僕が困るじゃないか。近ごろ少し肥ったじゃない? どれ手を……"
],
[
"どうして判る?",
"だって、あの汽笛は、お父さんの鳴らす汽笛なんだもの、そりゃ直ぐ判るわ"
],
[
"汽笛で判るかい? ほんとに?",
"判るわ。よく判るわ。鳴らす人によってみんな違ってよ。お父さんの汽笛はああいう吼えるような唸ような長い音なのよ。兄さんのは、何かしら三味線の絃でも敲くような、短い汽笛よ",
"ほんとに判るのかなあ?",
"そりゃ判りますとも。お父さんなど、機関庫中の人のをみんな聞き分けるのよ。私だってお父さんのと兄さんのと、それからお父さんの助手をしていた青木さんのと、三人の汽笛を聞き分けられるわ。ほんとなのよ。兄さんが機関車に乗り初めのころには、家の前を通る時には汽笛をきっと鳴らすのよ。ああ兄さんの汽笛だって窓から顔を出して見ると、真っ黒な顔で得意そうに笑って行くのよ。それから青木さんの汽笛はとても優しいの。泣くような。訴えるような。お父さんは青木さんの汽笛が鳴ると、ああ青木が泣くから、発車の時間だ、なんて出掛けて行ったものだわ",
"そんなによく判るものなら、お父さんは、僕達がここに来ていることを知ったら、ここを通るときには、汽笛を鳴らさないだろうな。あんなに怒つたのだから",
"さあ? 案外そうでないかもしれないわ。どんなに怒ってみたところで親子は親子ですもの、もう今ごろは、直ぐ許してくれるかもしれないわ。私、手紙を出してみようかしら。ここにいるからここを通るときには、汽笛だけでも鳴らしてくださいって。今ごろは、私達のことをきっと心配しているのよ",
"でも、随分と頑固だからな",
"表面では怒ったような顔をしていても、きっと心配しているんだわ。私達だって、心の中では可愛いんだわ"
],
[
"汽笛どころか、今に会いに来るよ。怒るときには怒っても、親じゃないか",
"私、逢いに来てくれなくてもいいから、許してだけくれるといいんだわ。私だって、親から許された柴田の妻で死にたいわ。許した証拠に、汽笛だけでも鳴らしてくれると……"
]
] | 底本:「見えない機関車」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年10月20日初版1刷
入力:奥本潔
校正:田尻幹二
1999年2月4日公開
2005年12月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "000716",
"作品名": "汽笛",
"作品名読み": "きてき",
"ソート用読み": "きてき",
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"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-02-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"人物ID": "000134",
"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "見えない機関車 鮎川哲也編",
"底本出版社名1": "光文社文庫、光文社",
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"校正者": "田尻幹二",
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} |
[
[
"僕も、ただ散歩に。――ここへ来ると、田舎の言葉が聞けるもんだから……",
"僕もそうなんだよ。ただそれだけで、僕は小石川からわざわざ出掛けて来るんだよ。"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「若草」
1926(大正15)年12月号
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年9月24日公開
2003年10月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "002308",
"作品名": "郷愁",
"作品名読み": "きょうしゅう",
"ソート用読み": "きようしゆう",
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"初出": "「若草」1926(大正15)年12月号",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-09-24T00:00:00",
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"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "佐左木俊郎選集",
"底本出版社名1": "英宝社",
"底本初版発行年1": "1984(昭和59)年4月14日",
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} |
[
[
"俺達も、年を取れば、青のようになるんだろうなあ。青! 俺達も今にこの坑の中でお前のようになるんだよ。お前よりももっともっと惨めになるかも知んねえ。",
"それはそうよ。人間も馬も変わりがあるもんじゃねえ。なあ青!"
],
[
"青! お前だって、生きているんだもの、何も食わずに、何も飲まずに、幾日も生きているってわけには行くめえ。",
"いくら馬だからって、随分ひどいことをするもんだなあ。これが人間のように口のきけるもんなら、黙ってはいめえ。なあ。",
"おい! 引き出して行ってやろうじゃないか?"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「新青年」博文館
1931(昭和6)年7月号
入力:田中敬三
校正:林 幸雄
2009年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "046178",
"作品名": "狂馬",
"作品名読み": "きょうば",
"ソート用読み": "きようは",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1931(昭和6)年7月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-04-24T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000134/card46178.html",
"人物ID": "000134",
"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "佐左木俊郎選集",
"底本出版社名1": "英宝社",
"底本初版発行年1": "1984(昭和59)年4月14日",
"入力に使用した版1": "1984(昭和59)年4月14日初版",
"校正に使用した版1": "1984(昭和59)年4月14日初版",
"底本の親本名1": "",
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"底本の親本初版発行年1": "",
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"底本出版社名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "田中敬三",
"校正者": "林幸雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000134/files/46178_ruby_34482.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2009-03-28T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000134/files/46178_34799.html",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"冬服じゃ暑かったかしら?",
"夜になると寒いんですもの",
"暑いのはもう日中だけですね"
],
[
"引っ張るも引っ張らないも、弾丸を込めた鉄砲を……",
"本当に危なかったわ。ほんの二、三分くらいだったわ。わたしの額のところを、弾丸がすっと通っていったの、はっきりと分かってよ"
],
[
"熊が出る季節なもんだから、鉄砲を持ってないといつどんなことが……",
"熊が出るからって、弾丸の詰まっている鉄砲をそんなところへ縛りつけて、引っ張れば発砲するようにしておくってことはないよ",
"そんなわけじゃなかったのですがね。弾丸を込めてからここへ置いたのが少し動くもんだから、なにげなく縄をかけてしまって",
"引金へ縄をかけるなんて……",
"正勝! おまえこれから無闇と鉄砲など持ち出しちゃ駄目よ"
],
[
"正勝! 蔦やじゃない?",
"さあ?"
],
[
"正勝! おまえは呑気ね。自分の妹じゃないの? 正勝!",
"妹かしれませんが、しかしおれの知ったことじゃないです",
"正勝! おまえはこのごろ少し変ね?"
],
[
"蔦代だ",
"蔦やだわ。どこへ行く気なのかしら? あの子は……"
],
[
"言わないんなら言わなくてもいいわ。おまえ、どこかへ逃げていくつもりなのね、蔦や!",
"とにかく、どこへ行くにしても馬車へ乗せたらどうです"
],
[
"どこへ行くつもりなの? 蔦や! おまえはそれをわたしにも言えないの? 蔦や! おまえは、わたしがおまえをどんなに思っているかってこと、おまえには分からないんだね。ねえ? 蔦や!",
"いいえ! それは……それは……",
"いいえ! 蔦やには、わたしがおまえをどんなに思っているかってことが少しも分かっていないんだわ。わたしはおまえを、ただの女中だなんて思ってやしないのよ。自分の妹か何かのようにして、なんでもおまえには、特別にしているのに、それがおまえには分からないんだわ",
"いいえ! お嬢さま!"
],
[
"違って? もしわたしの気持ちが少しでも分かっていたら、わたしに何のひと言も言わずに黙って逃げていくってことはないはずじゃないの?",
"お嬢さま! お嬢さま!"
],
[
"いいわ! 訊かないわ。蔦や! おまえ泣いたりなんかして、なんなの? おまえが言いたくなかったら無理に訊こうというんじゃないから、言わなくてもいいわ。ただ、おまえのことを心配してわたし言ってるのよ。おまえが言わなくても、わたしはだいたい分かっているんだけれど……",
"蔦代! おまえそんな黙ってなんか出ていかないで、何もかも打ち明けて相談して出ていったほうがいいぜ。蔦代!"
],
[
"蔦! おまえは馬鹿だなあ。馬車へなんか乗らなけりゃよかったじゃねえか",
"だって……",
"畑の中へでも、構わずどんどんと逃げていってしめえばよかったじゃねえか",
"そしたら、お嬢さまは兄さんに、捕まえておいで! っておっしゃるわ",
"馬鹿! おまえはおれのことを心配しているのか? おれのような馬鹿な兄貴のことなんか心配したって始まらねえぞ。おれのことなんか心配しねえで、おまえの思ったとおりなんでもどんどんやりゃあいいんだ。東京へ行きたいのなら、東京へでもどこへでもおまえの行きたいところへ行くさ。早く、さあ、いまのうちに逃げてしまえ"
],
[
"でも、お嬢さまがわたしのことをあんなに思っていてくださるのだから、わたしもうどこへも行かないわ",
"おまえは馬鹿だなあ。おまえはあの女の言うことを信じているのか? 馬鹿だなあ。いったいあの女が、いつおまえを妹のようにしてくれたことがあるんだ? 考えてみなあ。おまえだってもう十八じゃないか? おまえをいつまでも子供にしておこうと思って、そんな子供のような身装をさせているんだろうが。奴隷じゃあるまいし、十八にもなってあいつらが勝手な真似をするのをその前に立って……馬鹿なっ! そんな馬鹿なことってあるもんか。おまえの好きな人が東京にいるんなら、構わねえから東京へ行ってしまえ。おれもあとから行くし、早く、さあ、いまのうちに逃げてしまえ",
"だって、いま逃げたら、また兄さんが怒られるわ。逃げるにしても一度帰って、それからにするわ",
"おれのことなんか心配するなったら!",
"だって……",
"それじゃ、帰り道にあの原始林にかかったら、隙を見て馬車から飛び降りるといいや。そして引っ返せば、ちょうどこの次の汽車に間に合うから",
"いいかしら?",
"構うもんか。おまえが馬車から飛び降りてしまったら、おれは馬車をどんどん急がせるから",
"でも、お嬢さまが兄さんに、捕まえておいで! っておっしゃらないかしら?",
"言ったって、だれがおまえを捕まえてきて苦しめるようなことをするもんか。おまえはおれのなんだ? そしていったいあの女はおれのなんだ? 心配しなくたっていい、構わねえからどんどん逃げてしまえ",
"では、わたしそうするわ"
],
[
"正勝! では、急いで帰りましょうね",
"ほいやっ、しっ!"
],
[
"正勝! あれ山鳥なの?",
"さあ?"
],
[
"正勝ちゃん! わたしも殺してよ。ねえ! 正勝ちゃん!",
"紀久ちゃん!"
],
[
"紀久ちゃんは昔の紀久ちゃんではなくなって、おれなんかのことはもう馬か牛のように思っているようだげっども、おれはいまだって……",
"そんなことないのよ。わたしだって、正勝ちゃんのこと兄さんか何かのように思っているのよ",
"そんなことは信じないけども、おれだけは、おれだけは紀久ちゃんのこと、昔と同じように思っているんだ。友達で一緒に遊んでいた時分のことなんか考えると、おれは紀久ちゃんを死なせたくなんかないんだ。でもなかったら、おれだってもうどこかへ行ってしまっていたかもしれないんだ。ただ、紀久ちゃんのいる近くにいて、いつまでもいつまでも紀久ちゃんを見ていたいからこそ、おれはこうしているんだ。たとえ紀久ちゃんが結婚をしてしまっても、おれはやはり紀久ちゃんの傍を離れられねえような気がするんだ。奴隷のようにされても、牛馬のように思われても、やはりおれは紀久ちゃんの傍にいたいんだ。おれはやっぱり、いつまでもいつまでも紀久ちゃんを生かしておきたいんだ。紀久ちゃんが死んだからって、蔦が生き返るわけでもあるまいし……",
"でも、わたし、人を殺したんだから、わたしも殺されるのが本当だと思うわ。殺されないまでも、わたし、何年も何年も監獄に繋がれることなんか考えると、かえって殺されたほうがいいわ。正勝ちゃん! わたしを殺してよ! ねえ!"
],
[
"大丈夫だ! 心配することなんかねえよ。蔦がいまいなくなったって、だれも蔦のことなんか気にかけやしねえ。蔦なんか、猫の子が一匹いなくなったよりももっと、なんでもない人間なんだから",
"そんなことないわ。すぐ知れるわ。そして、真っ先に調べられるのはわたしと正勝ちゃんだわ。そしたらわたし、すぐ顔色が変わってしまうわ。顔色ですぐ分かってしまうわ",
"大丈夫だ。都合のいいことに蔦の奴がおれに書置きをしてあったんだよ。だれか、蔦のいなくなったのを不思議がる奴があったら、蔦の書置きを見せりゃあそれでいいんだ"
],
[
"これを証拠として見せりゃあ、だれも疑いをかけやしませんよ",
"でも……でも……その死骸を……",
"死骸なんか、この谷底へ投げ込んでしまえばすぐもう熊に食われてしまうだろうし、熊に食われなくたってすぐもう雪が積もるから、来年の四、五月ごろになって雪が消えてから発見されても、自分で谷へ落ちて死んだのか鉄砲で殺されたのか、そのころには全然分からなくなっていますよ",
"正勝ちゃん! では、わたしの罪を庇ってくれるの?",
"紀久ちゃんにはおれの気持ちが、おれが紀久ちゃんをどんなに想っていたかってこと、分からないのかい?",
"分かってよ。ご免なさいね、いままでのこと許してね"
],
[
"駄目なことがあるもんか。馬を替えてみたらどうかな? 花房ならいいだろう?",
"わたしもう乗馬をやめるわ",
"なにもやめることなんかあるものか。初めはだれだってそう思うもんだ。しかし、そこを押し通さなくちゃ何事も上達はせんもんじゃからなあ",
"でも、わたしなんか駄目だわ",
"とにかく、花房で当分練習してみるといい。花房なら胴が細いから脚も締まるし跑もよくやるし、きっとおまえの気に入ると思うから",
"わたしもう乗馬なんかあっさりやめてしまうわ",
"やめてしまわんでもいいじゃないか? 停車場へ敬二郎を送るときだって、これからは馬車などで送らないで馬で送っていくようにならないといかんよ"
],
[
"少しお願いしたいことがあったものですから……",
"どんな話だ?"
],
[
"お金を少し借りてえのですけど……",
"金! 金を何にするんだ?",
"蔦の奴が急にどこかへ行きやがったもんですから、捜しにいってこようかと思うんですけど……",
"本当に仕様のねえ奴だなあ、黙って逃げ出すなんて。黙って逃げていった奴なんか捜しに行ったところで仕方があるめえ。構わんでおきゃあいいじゃねえか?",
"それはそうですが、でも、自分の妹となってみると……",
"正勝! おまえはなんだってわしにひと言も挨拶をしねえんだ! 自分の妹じゃねえか? 自分の妹を他人の家に預けておいて、妹がいくらかでも世話になっていると思ったら、黙って逃げていったというのに兄たるおまえが一言の挨拶もしないということはないじゃないか?",
"…………",
"済まないとか申し訳ないとか、なんとかひと言ぐらいは挨拶をするもんなんだぞ。それを一言の挨拶もしねえで、見えなくなったから捜しに行く旅費を貸せなんて、そんな言い方ってあるもんか? おまえはよくよく生まれたままの人間だなあ",
"…………",
"いったいどこへ行ったのか、見当がつくのか?",
"東京らしいんで……",
"東京らしい? たわけめ! 逃げていった者を東京くんだりまで捜しにいって、なんになるんだ? たわけめ!",
"いますぐなら、札幌の伯母のところに寄っていると思うもんですから",
"馬鹿なっ! 逃げていったもんなんか捜しに行くことねえ! それより、正午前にサラブレッド系の馬を全部捕まえておけ、買い手が来るのだから",
"…………"
],
[
"西からのほうがいいじゃないか?",
"西から?"
],
[
"前脚を折ったらしい",
"折ったって?",
"折ったわけでもねえらしいが……"
],
[
"畜生! ほらっ! どうしたんだい?",
"手綱を放して、尻っぺたを食わしてみろ!"
],
[
"なんでもねえねえ",
"歩かしてみろ! 少しおかしいから"
],
[
"変だなあ?",
"筋が伸びたんだよ。膝を突いたときに筋が伸びたんだから、なんでもねえ。三、四日も休ませておきゃあ治るよ",
"なんでもねえかなあ?",
"なんでもねえとも。しかし、三、四日は乗れねえなあ。北斗かなんかに乗りゃあいいじゃねえか?",
"また親父に怒鳴られるなあ",
"隠しておきゃあいいじゃねえか。三、四日のことだもの"
],
[
"なんでもねえ。前脚の筋が少し伸びたらしいんだ。ほんで乗れねえんだよ",
"おい! ほんじゃ、この浪岡をおまえが曳っ張っていけ。新馬も曳っ張らねえで歩いていくと、親父がまたなんかかんか言うから",
"それさなあ。ほんじゃ、その浪岡をおれさ寄越せや"
],
[
"しかし、血管が切れただけで大したことはねえなあ",
"ないとも",
"しかし、あんまり出血させちゃ悪かんべなあ"
],
[
"畜生! 縛ってやろうというのに!",
"なんとかして、早く血を止めねえといけねえだろうがなあ",
"とにかく、ここじゃあ仕様がねえから、厩舎まで曳っ張っていこう"
],
[
"なんだって怪我などさせやがったんだ?",
"お嬢さまが……"
],
[
"なにをっ! 紀久子が?",
"白い服を着て、あの土手のところから突然に……",
"正勝! てめえはまた嘘をつくつもりか?"
],
[
"嘘なんか……",
"嘘でないっていうのか?",
"お嬢さまが……",
"なんでそんな嘘を言うんだ。わしはちゃんと見ていたんだぞ。見ていたから言うのだ。てめえが躓かせて、打ち転がしたんじゃねえか?",
"それは花房のほうで……",
"花房? それじゃあてめえは……あっ! 浪岡か? 浪岡に怪我をさせたのか? なんてことをしやがるんだ! たわけめ!"
],
[
"正勝! てめえは大変なことをしたぞ。浪岡か? わしは見違えていた。花房と浪岡とを取り違えて見ていた。なんて馬鹿なことをするんだ。浪岡を捕まえたら、浪岡は新馬だから一頭だけ離して曳いてくりゃあいいじゃねえか。わしはまた、正勝が浪岡に乗って走らせているんだと思っていたんだ。それで、浪岡が躓いたと思ったから心配して出てきたんだ。ところが、なんという態だ。躓いて転んだどころか、蹴らして大切な前脚へ怪我をさせるなんて、平吾! 早く手当てをしなくちゃ! 早く厩舎へ曳っ張っていって、脚へ重みがかからないように梁から吊って、そして岩戸をすぐ呼んで手当てをさせろ!",
"ほらほら、ほらほらほら"
],
[
"知らねえ? しかし、てめえだって何年となく牧場にいるんだから、安い馬か高い馬かぐらいは知っているだろう",
"それは……",
"それみろ! てめえは浪岡が高価な馬だってことを知っていて、わしへの腹癒せにわざと怪我をさせたんだろう?",
"そんな……そんな……",
"とにかく、てめえは蔦が逃げていったのを、わしらが苛めたからだとでも思っているんだろう! 正勝!"
],
[
"てめえはそう思っているんだな? 思うなら勝手に思うがいいや。しかし、いくら腹癒せだからって程度があるぞ。浪岡は五百や六百の金じゃ買える馬じゃねえぞ。投げて千二、三百円、客次第で、三千円ぐらいにだって売れる馬なんだぞ。それを怪我させて……",
"でも、死んだというわけじゃねえんで、血管が切れただけなんですから",
"血管が切れただけだからいいというのか? たわけめ!"
],
[
"それも今日、買手が見に来るっていうんだぞ。怪我をしている馬に、だれが買手がつくもんか。千円、二千円となりゃあてめえなんか、一生かかったってできるかできねえか分かりゃしめえ。それを……",
"馬鹿正直に働いていたんじゃとても……",
"なにを? 馬鹿正直に働いていたんじゃ? ちぇっ! 利巧に立ち回ればできるっていうのか?",
"利巧に立ち回って悪いことでもしねえかぎり、おれだけじゃなく、だれにだって!",
"何を言ってやがるんだ。屁理窟ばかりつべこべと並べやがって。いったい、てめえらはだれのお陰で育ったと思っているんだ? それも忘れやがって、わしに腹癒せがましいことができると思うのか?",
"旦那! 旦那は少し思い違いをしているようですけど……",
"思い違い? 何が思い違いだ? てめえ、とにかくそこへ手を突いて謝れ!"
],
[
"謝るのがいやなら出ていけ! この牧場から出て、てめえの好きなところへどこへでも行け! すぐ、いますぐ出ていけ!",
"はあ! いくらでも出ていきますがね",
"すぐ出ていけ!",
"それじゃあひとつ、出ていかれますように、お金を少し都合していただきてえんですが……",
"金? そんなことわしの知ったことか? てめえのような者に金を出してやる理由なんかありゃしねえ!",
"旦那! 昔のことを少し考えてみてくだせえ",
"なにを!",
"旦那は、おれがなにも知らねえと思っているのかね?",
"何を吐かしやがるんだ? たわけめ!",
"おれはこれでも、旦那一家の秘密を握っているんですからなあ",
"秘密? たわけめ! なんの秘密だ? わしを威かして金を出させようというのか? このたわけ者め!"
],
[
"お嬢さま! 本当にしっかりなさいませんと……これをもう少し召し上がりませんかよ? お嬢さま!",
"あら! 婆や! わたしどうかして?",
"お嬢さまはじゃあ、なにもご存じございませんのかよう? わたしがお嬢さまにお茶を差し上げようと思いましてお茶を持ってまいりましたら、お嬢さまはそこに倒れていらしったのでございますよ",
"あら! わたしどうかしたのかしら?",
"わたしはまたびっくりいたしまして、すぐにここへ抱き上げて、それからはすぐに赤酒を持ってきて差し上げたのですがね",
"あら! それ赤酒なの? 葡萄酒じゃないの? 赤酒なら貰うわ。わたし、赤酒大好きよ"
],
[
"お嬢さま! お嬢さまはどこかお悪いのじゃございませんか",
"なんでもないわ。どこも悪くないのよ。脳貧血を起こしたのだわ",
"脳貧血だって、どこかお悪くないと……お嬢さまは、昨夜からなんとなくお顔の色が悪くて、ご心配事でもあるようなご様子でございましたよ",
"なんでもないのだわ",
"なんでもなければようございますが、何かご心配事でもございましたら、なんでもわたしに打ち明けてくだされませな。わたしはお嬢さまのことなら、生命に懸けてもいたそうと思っているのでございますからね",
"婆や、なんでもないんだからもうあっちへ行っててよ"
],
[
"お嬢さま! 大丈夫でございますよ。わたしがお傍についておりますから、お呼びなさらないでもよろしゅうございますよ",
"何を婆やは言っているの? 呼びに行くのがいやなの? いやならいいわ、わたしが自分で行ってくるからいいわ"
],
[
"お嬢さま! ではわたしが……",
"いいわ!"
],
[
"なんだって!",
"人殺しのようなことをしていながら、そんでもなにも秘密がねえなんて……",
"人殺し? この野郎め! 黙っていりゃ勝手なことを吐かしやがって、おれがいつそんな人殺しのようなことをした?",
"おれらのお袋がだれのために死んだか、何のために死んだか、おれらが知らねえとでも思っているのか?",
"そんなことがおれと何の関係があるんだ?",
"関係がねえ? 関係がねえと思ってんなら教えてやらあ",
"馬鹿野郎! それをおれに教えるっていうのか? てめえのお袋は、てめえの親父が死んでから生活に困って、自殺をしたんだぞ。そんでてめえらは、干乾しになってしまうところだったんだ。その干乾しになってしまうのを、いったいだれが助けてやったと思ってんだ?",
"それじゃいったい、おれらのお袋を自殺させたのはだれなんだ",
"そんなことをおれに訊いたって分かるか?",
"それじゃ教えてやろう。おれらのお袋は、きさま! きさまのために自殺したんだぞ",
"なんと? おれのために自殺をしたって?"
],
[
"馬鹿野郎め、育てられた恩を忘れやがって!",
"大変な恩だ。こっちから言わせりゃあ、それこそ余計なお世話だったんだ",
"余計なお世話だと? 余計なお世話かはしんねえが、もしあん時にだれも世話する者がなかったら、てめえら母子はどんなになっていたか、それを考えてみろ!",
"ふん! そんなこたあさんざんぱら考えていらあ。おれらの親父は何のために死んだか? だれのために殺されたか? そして、お袋はおれらを育てるためにどうしたか? なぜ自殺したか? だれのために自殺したか? そんなこたあ何もかも知っていらあ。おれらの親父は過ってあの谷底へ落ちたんでも、自殺したんでもねえんだ。突き落とされたんだ。自分の財産のために、自分の財産を肥やすために、おれらの親父を突き落とした奴がいるんだ。おれらの親父は開墾地の小作人たちのために、正義の道を踏もうとして地主の奴から谷底へ突き落とされたってこたあ、おればかりじゃなく、だれだって知っていることなんだ",
"地主のために? てめえはそれじゃ、てめえの親父を殺したのがおれだっていうのか?"
],
[
"そんな馬鹿なことがあるもんか? てめえの親父とおれとは、兄弟のようにしていたんだぞ",
"兄弟のようにして、ほとんど共同事業のようにして牧場と農場とを始めて、それが成功しかけてくると、相手がいたんではそれから上がる利益が自分の勝手にならねえもんだから邪魔になってきて、そのためにってこたあだれだって知っているんだ。利益の分配のことについてだけだったら、場合によっちゃあ秘密に隠しおおせたかもしれねえさ。しかし、おれらの親父は小作人たちには味方していたんだ。小作人たちが内地から移住してきたときに、開墾について小作人たちに約束したことは、生命に懸けても枉げようとなんかしていなかったんだ。開墾地の人たちが自分のものとして開墾したところはあくまでもその人たちのもの、地主の耕地として開墾したところは地主のものって区別をはっきりと立てていたんだ。それを欲の皮を突っ張って、自分の名義で払い下げた土地だっていう口実で、当然開墾地の人たちの土地であるべきところまで小作制度にしようとしたんじゃねえか? それにゃあ、仲へ立って小作人たちの味方になって正義の道を踏んでいこうとするおれらの親父が邪魔になったんだ。邪魔になったから狩りに連れ出して谷底へ突き落として、過って落ちたんだとか自殺したんだとか、なんとかかんとかいうことにしてごまかしてしまったんじゃねえか?",
"正勝! てめえは本当にそう思っているのか?"
],
[
"もちろんさ! いまの様子を見ても分かることなんだ? 開墾した土地の半分くらいは自分の土地として貰えるはずで内地からはるばる移住してきた人たちが、自分の土地ってものを猫の額ほども持たねえで、自分たちが死ぬほど難儀して開墾した土地さ持っていって、高い年貢を払って耕しているじゃねえか?",
"何を馬鹿なことを吐かしているんだ。てめえなんかに分かることか? 馬鹿なっ!",
"そして、おれらの親父が死んでお袋が生活に困りだすと、おれらが子供でなにも分からないと思いやがって、お袋が生活に困っているのに付け込んでお袋を妾に、妾にして、子供まで孕まして……",
"嘘をつけ!",
"嘘なもんか! おれらのお袋はそれを恥じて自殺したんだぞ。子供まで孕ましておきながら、ろくに食うものも宛わねえで、自殺してからおれらを引き取って何になるんだ。おれらを引き取ったのだって、育てておいて扱き使ってやるつもりだったのだろう",
"なんだと? 育てられた恩も忘れやがって……",
"何が恩だ? おれらの親父はきさまの財産のために生命をなくし、そしてお袋はきさまの色事のために生命をなくしているのに、何が恩だ? 恩を返せっていうのか? そんな恩ならいつでも返してやらあ",
"この馬鹿野郎め! 黙っていりゃあとんでもねえことばかり吐かしやがって! てめえのような奴は出ていけ! てめえのような奴は置くわけにいかねえから"
],
[
"もちろん出ていく!",
"いまのうちに出ていけ!",
"出ていくとも"
],
[
"すぐ出ていけ!",
"出ていくとも! その代わり近々のうちに恩を返しに来るから、忘れねえでいろ、貉親爺め!"
],
[
"何をするの? その綱で?",
"紀久ちゃんを酷い目に遭わせるようなことはしないから",
"どこかへ行くの?",
"そりゃあ行くさ",
"どこかへ行って、でも、困るといけないわ",
"困ったって……",
"お金を幾らか持っているの?",
"お金? そんなものねえよ"
],
[
"紀久ちゃん! 紀久ちゃんは安心していていい。おれが何もかも引き受けるから",
"どこかへ行くんなら、本当に困るといけないわ"
],
[
"本当になにも心配しなくていい",
"どこかへ行って困ったら、いつでもわたしがお金を送ってあげるわ",
"金なんかいらないよ"
],
[
"紀久ちゃんが、こ、こ、この証人になればいいんだ",
"――しょう……"
],
[
"驚くことはねえ!",
"あっ! あっ!……",
"明日の朝、大騒ぎになるに相違ねえから、そ、そ、その時にゃあ紀久ちゃんがいまのことを、はっきりと見た! って言えば、そ、そ、そんでいいんだ"
],
[
"紀久ちゃん! おれの、おれの言ってるの分かるか?",
"え!"
],
[
"こ、こ、これは、しかし、おれがやったことにしてはいけねえんだ。紀久ちゃん! 分かる?",
"え!",
"蔦代が、蔦代が、蔦代が殺したことにしねえといけねえのだ",
"蔦代が?……"
],
[
"蔦代が殺したことにするんだ。紀久ちゃんは、蔦代が入ってきて父さんを刺したのだ! って言えばそんでいいんだ。そ、そ、そして、それから、蔦代がわたしのほうへ寄ってきたから、わたしは蔦代を鉄砲で撃ったのだ! って言えばそんでいいんだ。紀久ちゃんはそれで立派に正当防衛になるんだから",
"…………"
],
[
"なんなら蔦代が、紀久ちゃんを追い回したことにしてもいいんだ。紀久ちゃんは逃げ回って、鉄砲のあるところへ行ったので、その鉄砲で思わず蔦代を撃ったことにすればいいんだ。鉄砲には……",
"鉄砲?"
],
[
"鉄砲でさ。蔦代の身体にある傷は、蔦代の死んだ傷は、鉄砲の傷なんだもの",
"鉄砲?"
],
[
"鉄砲でさ。それに、鉄砲にはいつでも弾丸が込もっていて、隣の部屋にかかっていることになっているんだから",
"正勝ちゃん!"
],
[
"わたしを助けて……",
"おれの言っているのが分からないのか? おれは自分のためにばかりやっているのじゃねえんだ。いいか、蔦代が殺したことにして、蔦代がそのうえに紀久ちゃんまで殺そうとして追い回したから、紀久ちゃんは鉄砲のある部屋へ逃げていって、そこに弾丸を込めたままかけてある鉄砲を取って思わず撃ってしまったことにすれば、それでいいんだ。それで紀久ちゃんは立派な正当防衛になって、罪にはならねえから",
"…………",
"紀久ちゃん! 分かったかい?",
"え!"
],
[
"それじゃ、こ、こ、これからおれがその準備をするから、支度が出来上がるまで、紀久ちゃんは動いちゃいけねえ。支度ができてから、その寝巻のままで起きて、隣の部屋へ行って鉄砲を撃つんだよ。そして、そこに、みんなが、鉄砲の音を聞いて集まってくるまで、じっとして立ってれば、それで何もかも済むのだ。いいか? それで分かったな?",
"え!"
],
[
"停車場から、おれたちが蔦を一緒に連れて帰ったのを敬二郎くんが知っているのだから、とにかくどこまでか一緒に帰ったことにしておかないと具合が悪いな。牧場の近くまで馬車で一緒に来て、牧場の門のところで降ろしたらそのまままたどこかへ姿を隠してしまったことにするか?",
"…………",
"蔦があなたのお父さんに恨みを持っていたってことは、蔦のおれへの手紙を見ても分かる。だから……",
"…………",
"おれたちが無理に連れ戻って、門のところで降ろしてしまってからおれはいっさいなにも知らなかったことにしておこう。紀久ちゃんは紀久ちゃんで、その場の都合でなんとでも申し立てればいいさ。とにかく、おれは門のところまで一緒に来てそこで降ろしたから、あとはいっさい知らねえことにする。蔦の手紙も証拠の一つとして見せる必要はあるだろうが、あとで読んだことにするから。それでいいね",
"正勝ちゃんがいいと思うんなら……",
"そんな手筈にしておこうじゃないか"
],
[
"紀久ちゃんは、鉄砲を撃てるだろう?",
"撃てるわ",
"それじゃ、銃口を傷口へつけて引金を引いてくれ。そして、紀久ちゃんが鉄砲を撃ったら、おれはすぐこの部屋を逃げ出していくから、だれかが鉄砲の音を聞きつけてこの部屋さ入ってくるまで、紀久ちゃんは大変なことをしたというような顔をしてこの部屋から動かねえでいればいいんだ。おれは真っ先に入ってこないで、なにかこう、都合のいいように拵えるから"
],
[
"それじゃ!",
"いい?",
"いいよ"
],
[
"熊だあ! 馬に気をつけろ! 放牧の馬を気をつけろ!……",
"どっちへ行った!",
"その辺にいるらしい!"
],
[
"おーい! どっちへ行ったのか分かんねえのか?",
"いったい、弾丸を食らっているのか?",
"それより、熊を見たのはだれなんだ"
],
[
"鉄砲が鳴ったって熊とは決まるめえ",
"熊でも出たんじゃないと、だれもこの夜中に鉄砲など撃つ者はあんめえが……"
],
[
"鉄砲を撃ったのはどこだあ?",
"おい! 旦那の部屋に灯が見えるで……",
"あっ!",
"旦那かな? そんじゃ?"
],
[
"蔦代さんがやったのかな?",
"蔦の奴だ。蔦の奴は、お嬢さまに手向かったに違えねえ。そんで、お嬢さまに鉄砲で撃ち倒されたのに違えねえ",
"蔦代さんが、また、どうして……",
"何かひどく恨んでいたらしいから。しかしまあ、こんで、仕様ねえ。夜が明けて警察から来るまで、こうしておくべ"
],
[
"寒くて仕様がねえでしょう?",
"我慢しているわ",
"我慢をしなくたって……"
],
[
"あっ! 婆やが来たか? 婆や! お嬢さまの着物を持ってこう",
"えっ",
"何を婆やは魂消てるんだい? お嬢さまの着物を持ってきてあげろ。外套でもなんでもいい"
],
[
"肩のところへ血がついているようだから、警察が来るまでやはりこの寝巻を着ていたほうがいいだろう",
"それはそうだなあ"
],
[
"お嬢さま! 本当になにも心配することなんかねえよ。あなたのは正当防衛なんだから",
"お嬢さまからすれば、親御の仇でもあるし……"
],
[
"親の仇なんてこたあいまの社会では通用しねえが、とにかく正当防衛だけは立派に成り立つのだから……",
"夜明けももう間近えべから、駐在所まで行ってくっかな?",
"明るくなってからでいい"
],
[
"こういう事件というものは時間が経てば経つほど、当事者の利益なんだ。お嬢さまの気も落ち着かねえうちに警察から来られたんじゃ、とんだ馬鹿も見ねえとも限らねえからなあ。お嬢さまがすっかり心を落ち着けたところで初めて警察から来てもらって、そん時の具合を間違いなく申し立てても遅くねえ",
"それはそうだなあ",
"お嬢さま! なにも心配はねえ。場合によっちゃあ、駐在所の巡査の正当防衛という報告だけで、警察本署のほうからなんざあ来るかどうか分からねえ。東京付近だと裁判所からまで来るそうだども、この辺じゃ警察の本署からとなりゃあ大変だからなあ。来てみて、まあ部長詰所から来るぐれえのもんだべど。そしてまあ、巡査部長の報告で、紀久ちゃんが裁判所へ呼ばれると同時に、おれたちもまあ証人に呼ばれんだべが、正当防衛ってことですぐ済むさ。泊められたって、調べがつくまでほんの三、四日のもんだべど"
],
[
"蔦代っていう娘は主人たちの部屋へ、どこから入ったらしいか分からねえかね?",
"入ったのはこの階段を上って、ここから……"
],
[
"足跡か何か残っていないかな?",
"なにしろ、おれらが鉄砲の音を聞きつけて土足でもってどかどかと駆け込んだもんだから、どれがだれの足跡だか、はあもう、てんで分かんなくなってしまって……"
],
[
"それで、お嬢さんはどこにいるんだね?",
"お嬢さまは中にいますから……"
],
[
"はい、わたしが気のついたのは、蔦代が父を殺してしまったあとだったのでございます。父の唸り声で目を覚まして、蔦代が父の胸から短刀を抜いているのをわたしが見てしまったものですから、蔦代は急にわたしまでも殺してしまおうと思ったのだと思います",
"それで、あなたはすぐ、こっちから先に殺してやるという気になったんだね?",
"いいえ! その時は、どうかして逃げようと思ったのでございます。わたしが驚いて父の寝室のほうを見ていますと、蔦代は短刀を振り上げてわたしのほうへ飛びかかってきたものですから、わたしはすぐ逃げだしたのでございます。それでも、肩のところへ蔦代の短刀を握っている手が触れて、血糊がついたのですけど、わたしはできることならどうかして逃げようと思いまして、この部屋まで逃げてきたのですけど、ここまで来てもう逃げ切れなくなったものですから、鉄砲を取って逆に蔦代を威かそうとしたのでございます。そして、わたしはその時も、別に殺そうという気持ちはなかったのですけど……",
"しかし、鉄砲に弾丸が込まっていたことは前から知っていたんだろうがなあ",
"いいえ! わたしはここにかけてある鉄砲はみんな飾物としてかけてあるので、弾丸など込まっていないように思っていたのでございます",
"また、いろいろの鉄砲があるんだなあ。ほう! 刀も……"
],
[
"しかし、引金は引いたんだろう?",
"わたしは引いたような気もしなかったんですけど、やはり……",
"それじゃ、正当防衛としての殺人というよりは過失としての殺人で、どっちにしてもあなたには罪がないわけだ。しかし、一応は本署の調べも受け、裁判も受けなくちゃならんかもしれんね。そしてその時には、おれとだれか、この牧場のだれかが証人というわけになるだろうと思うが、いったい、いちばん先にこの現場を目撃したのはだれかね?",
"婆や! 婆やだったんでねえか? おれが入ってきたとき、婆やはもう来ていたから"
],
[
"婆さん! おまえさんかね?",
"はあ!"
],
[
"それで、おまえさんがこの部屋へ入ってきたとき、この紀久子さんはどんな風にしていたかね?",
"わたしはなんにも分かりませなんだ。わたしは入口のところで腰を……! 腰を……! 腰がもう立たなくなってしまって……",
"腰を抜かしたというのか? しかし、腰を抜かしたのは、何か腰を抜かすほど驚くものを見たから抜かしたんだろうが、その見たものを聞きたいんだ",
"はあ、わたしはなーに、この部屋へ入ってまいりましたとき、お蔦さんを熊が腹這ってると思ったもんですかんね",
"しかし、蔦代というのが女中とすれば、おまえさんと一緒に部屋にでも寝ていたんだろうが、起きてくるとき蔦代のいなかったことには気がつかなかったのか?",
"なーに、お蔦さんは前の日にはいなくなっていたんですかんね。そんで、鉄砲の音がしたもんですから、熊が出たのをだれかが威かしてるのだと思うて、わたしは熊だあ! 熊だあ! って叫んで旦那さ知らせに来ましたら、足下に黒いものがいますもの、熊だと思ってしまって……",
"分かった。それで、蔦代が前の日からいなかったというのはどういうわけかね?",
"それは……"
],
[
"蔦代はわたしの妹でして、ここに遺書がありますが、一昨日この屋敷から逃げ出したのでございますが、途中から連れ戻って帰ったのでございます。そして、連れ戻りましてからこの事件まで、どこかに隠れていて姿を見せなかったわけです",
"だいたいそれで分かった"
],
[
"これによると主人を恨んでいたようだから、連れ戻されたことを悲観して、恨みのある主人を殺して、自分も死んでしまおうと思ったのかもしれないなあ",
"連れ戻ったときに、父が酷く叱ったのでございます。それから急に姿を隠してしまって……",
"しかし、恨んでいる者を殺して自分も死のうというときに、自分の犯行を発見されたからといってその人まで殺そうとしたのは少しおかしいなあ。あなたはその時、親の仇というようなことを思わなかったかな?"
],
[
"いいえ",
"どうも少しおかしい",
"妹は旦那さまばかりでなく、お嬢さまも恨んでいたようなんです。旦那さまが叱ったのは知りませんけれど、連れ戻るときわたしが馬車のお供をしていたんですが、お嬢さまは馬車の中で酷く妹を叱っていましたから。それは兄として、傍で腹が立つほどでございましたから"
],
[
"それなら分かる。では、あなたは蔦代をそんなに叱るほど何か憎むようなことでもあったのかな?",
"いいえ! 蔦代は妹のようにかわいがっていたものですから、それが逃げたので、その場だけなんですけど急に腹が立ったものですから",
"それなら分かる。それではとにかく、本署まで一緒に行ってもらおう。そして、場合によっちゃ裁判も受けなくちゃならんかもしれんが、心配はなかろう",
"証人として、このわたしもまいったほうがいいというのでしたら?"
],
[
"一緒に行ってもらおう。それに、いろいろ証拠品も持っていかなくちゃならねえからなあ。短刀と鉄砲と……それから……",
"死骸はどうしましょうか?",
"死骸は本署から来るのを待って片づけるのが本当だが、一つの死骸は犯人がはっきりと分かっていてその犯人が死んでいるんだし、他の一つの死骸はそれを殺した人が自首しているのだから、片づけてしまっていいだろう。本署から確かに来るものなら片づけずに待っていてもいいのだが、北海道の山奥じゃそんな例はあまりないからなあ。それより、馬車なりなんなり用意して、早く出かける支度をしてくれ。今日じゅうに本署へ着けなくなるぞ"
],
[
"五日も前に帰ってきているというのに、ぼくには会わないように会わないようにとしているし、せっかくここで会ったからと思って裁判の模様を訊きゃあまったく口も利かず、わずか十日ばかりの間になんて変わり方だ。まったく驚いてしまうなあ!",
"驚くこたあねえさ! 変わるのはおればかりじゃねえんだ。いまにきみだって、おれ以上に変わるさ",
"おっ! 口が利けなくなって帰ってきたのかと思ったら、そういうわけでもないんだな?",
"おりゃあ、悪魔になってきた",
"悪魔に? それは面白いね"
],
[
"正勝くん! どんな意味なのかはっきりと言わなくちゃ、何のことだか分からないじゃないか?",
"いまに分かるさ",
"いまに分かるって?",
"分るまいとしたって、いまに分からずにはいられなくなるのさ",
"何をいいかげんなことばかり言っているんだ"
],
[
"そんな風に考えてるうちが幸福なのさ。いまに、夢にもそんなことは考えられなくなるから、いまのうちだけでもそう思っているんだね",
"変なこと言うね"
],
[
"ぼくには、それがどうも気になって仕様がないんだよ",
"良心に恥じるところがあるからさ",
"そんなものはないがね",
"なかったら、なにも気にかけることなんかないじゃないか?",
"きみが変なことを言うからだよ。いったい何のことだか、はっきりと言ってくれたまえ。頼むから",
"そんなら言ってやろう。しかし、せっかくの楽しい夢がそれでもう覚めてしまうかもしれないぞ。それでもいいんなら言おう",
"構わないとも。話してくれ",
"言ってみればまあ、おれときみとの立場も地位も、全然反対になってしまうのさ",
"立場が反対になる?"
],
[
"それはどういうわけかね",
"理由か? 理由は簡単だ。いままではこの牧場のことは何から何まで旦那の意志一つで支配されていたんだが、これからは紀久ちゃんの意志一つで支配されることになったんだから……",
"それはそうだ。しかし、紀久ちゃんの意志で支配されることになったからって、ぼくの立場や地位がどうして変わるんだね? どうして、ぼくときみとの立場が反対になるんだえ?",
"それが分からないのか?",
"ぼくには分からんね。どういうことなんだえ? それを聞かしてくれ",
"きみは……紀久ちゃんは自分の意志で、きみと結婚をしようとしているのだと思っているのか? 純然たる自分の意志で?",
"それはそうだろうなあ",
"はっはっはっ!……"
],
[
"はっはっはっ? ……驚き入った。恐れ入ったよ。まったく! ……しかし、旦那さま然と構えるなあどうも少し早いような気がするがなあ",
"何が早いんだ? すでに決定していることが、何が早いんだ?",
"しかし、自分の意志で自由にできることになると、紀久ちゃんだって、だれか本当に自分の好きな人と結婚をするかもしれないからなあ。きみはすると、いまのおれのように下男として働かなくちゃならなくなるかもしれないからなあ。そして、これはどうもそんなことになりそうだよ",
"何を言っているんだ。きみはそれで、ぼくを軽蔑し切っているんだな? 帰ってきても挨拶もしなければ、勝手に物を持ち出したりして。どんなことになるか、いまに目の覚めるときがあるさ",
"少なくとも、おれはきみを旦那さまとして戴くようなことは絶対にないなあ。その時が来たんだ"
],
[
"だれのでもいい、貰っておこう。正勝は放牧場のほうへ行っているから",
"それでは、あなたから渡してくださいね。頼みますよ"
],
[
"熊が? それじゃ、おれたちばかりでなく、大勢で行こう",
"ぼくときみだけで沢山だよ",
"それより、きみはおれの電報を預かってるはずだな? いまそこで配達夫がそう言っていたが……",
"熊が出たんで、電報のことなんか忘れてしまっていた"
],
[
"当然のことじゃないか! 紀久ちゃんが無罪に決定して、三、四日うちには帰ってくるんだもの。ほっ! 無罪に決定! 無罪に決定!",
"正勝くん! きみは紀久ちゃんが無罪に決定したのが、そんなに嬉しいのか? 自分の妹を殺した女が無罪に決定したって、何が嬉しいのかぼくには分からないなあ",
"おれにとって嬉しいこたあ、いまとなってみればきみにとっちゃ悲しいことさ",
"何を言っているんだ! きみは妹をかわいそうだとは思わないのか? 自分の妹を殺した女がたとえ幾月にもしろ、刑務所に……",
"余計なお世話だよ。蔦と紀久ちゃんとを一緒にされるもんか。紀久ちゃんのためなら、蔦なんか百人殺されたっていいんだ。紀久ちゃんとおれとがどんな風にして育ってきたか、それを考えてみろ。それから、この牧場が出来上がるまでおれの親父がどんなに難儀したか、それを考えてみろ! おれの親父は言ってみれば、この牧場のために死んだんだぞ",
"そのことと、紀久ちゃんが無罪になったということと、どう関係があるんだね?",
"おれが言わなくても、紀久ちゃんが三、四日うちに帰るから、それまで待っているんだね。おっとどっこい! 無罪に決定! 無罪に決定!"
],
[
"正勝くん! それはそれとして、それじゃ、早く一緒に行ってくれ",
"熊か? おれはご免だ。紀久ちゃんが帰ってこねえうちに、熊と間違えて殺されたりしちゃ困るからなあ。だれかほかの奴を連れていけよ。おれは前祝いでもしてくるから。おっとどっこい! 無罪に決定だ! 無罪に決定! 無罪に決定!"
],
[
"爺さあ! 一本つけてくれないか?",
"おっ! 正勝さんか? これはこれはしばらく"
],
[
"熱くしてもらいたいなあ",
"熱く? あいよ。ときに、裁判はどんなことになったか、決定しねえかね?"
],
[
"無罪さ? 無罪に決定したんだ",
"無罪? ほっ! 無罪かね。それじゃ、敬二郎さんは喜んでるベ?",
"敬二郎の奴なんか、なにも喜ぶわけねえさ。紀久ちゃんは敬二郎の奴なんか好きじゃねえんだもの",
"それは初耳だなあ"
],
[
"今度だって紀久ちゃんは、無罪に決定したっていう電報を敬二郎の奴に寄越さねえで、おれに寄越してるんだからなあ。紀久ちゃんはむしろ、敬二郎の奴を嫌ってるんだよ",
"それじゃ、お嬢さんは敬二郎さんよりも、正勝さんのほうを気に入っているのじゃねえのかな? どうもそうらしいなあ"
],
[
"どっちでもいいってこたあねえさ。いまのところお嬢さんに好かれるか好かれねえかっていうこたあ、こりゃあ大問題だぞ。お嬢さんに好かれりゃあ、それでまあ、森谷さまのお婿さまに決まったようなもんだ。森谷さまの財産といったら、こりゃあまた大したもんだ",
"おりゃあ、財産なんかどうだっていいんだ",
"お嬢さんにしてみりゃあ、そりゃあ正勝さんのことを気にするなあもっともな話だよ。牧場のほうも農場のほうも森谷さまと高岡さまと二人で始めて、森谷さまのお嬢さんと高岡さまの坊ちゃんの正勝さんとは兄妹のようにして育ったのを、高岡さまのほうだけが不幸なことになって、正勝さんをお嬢さんのお婿さんにするのかと思ったらそれもしないで、敬二郎さんを連れてくるんだから……",
"紀久ちゃんがおとなしいからさ。紀久ちゃんが自分の気持ちを言い張れば、親父だって無理やりに押しつけたりしやしめえから"
],
[
"お嬢さまがおとなしいからって、牧場を始めるときのことを考えれば……",
"それなんだ。それだよ、卯吉爺さん! おりゃあ森谷の財産を自分のものにしてえと思わねえが、おれの親父ばかりじゃなく、開墾場のほうの何人かの人たちが実に酷い目に遭っているんだから、できれば開墾場の人たちが当然自分の土地として牧場のほうから貰っていい土地ばかりは開墾場の人たちの手に返してやりたいんだ。おれの親父がそう考えていたんだから、親父の気持ちを継いで、おれの手で返してやりたいんだ",
"それは立派な考えだ。いまならもう、お嬢さんの気持ち一つでどうにでもなるんだから、お嬢さんが敬二郎さんよりゃ正勝さんのほうを好きで、正勝さんが森谷さまのお婿さんになられて、たとえ半分でも返してやったら、開墾場の人々がどんなに喜ぶか……",
"それで、おりゃあ、それだから、紀久ちゃんの気持ちをどうしても敬二郎のほうへは靡かせたくねえんだ。敬二郎の野郎に森谷の財産を奪られてしまえば、それでもう前と同じことなんだから。森谷の親父はまたそれを考えて敬二郎の野郎を婿にしようとしていたんだし",
"しかし、お嬢さまが敬二郎さんに電報を寄越さねえで正勝さんに寄越したのなら、それだけでももうお嬢さまの気持ちははっきりと分かるようだがなあ",
"卯吉爺さん! そりゃあおれにだって、見当も考えもあっての話だがなあ。いまに見てろ、この辺はまるで変わったものになるから。卯吉爺さんなどだって、いまよりはきっとよくなるから。爺さん! 一杯まあ飲め"
],
[
"そんな風にしてくれりゃあ、村にとっちゃ神さまのようなもんだ。村の人たちのためにでも、ぜひともお婿さんになってもらいてえもんだなあ。村の人たちがよくなりゃあ、おれのほうもすぐよくなるのだし、そりゃあぜひとも……",
"紀久ちゃんの気持ちを、どうかして敬二郎の奴から裂いて……"
],
[
"そればかりじゃねえ、あの野郎はなにも仕事をしねえで遊んでばかりいるぞ。そして、旦那の長靴を履いたり、旦那の鞭を持ち出したり、勝手なことばかりしていやがるよ",
"正勝くんとしちゃ、それぐらいのこと、なんでもないことなんだ"
],
[
"正勝くんはこの森谷家の財産を、自分のものにしようとしているのだよ。他人から聞いた話だけれど、どうもそうらしい気振りがぼくにも見えるんでね。それできみたちに相談してみるわけなんだよ",
"あの野郎なら、それぐらいのことは企みかねないなあ"
],
[
"それで、きみたちはどう思うかね",
"どうもこうもねえことじゃありませんがなあ。正勝の野郎をいまのうちに、この牧場から追い出してしめえばいいんですよ。だれがなんと言ったって、いまのところあなたはこの牧場の主人なのだから、あなたがあの野郎を追い出す分にゃあだれも文句はねえはずだ",
"しかし、追い出すといっても、簡単に出ていく男じゃないからなあ",
"あなたがびしびしとやりゃあ、そんなことなんでもねえじゃありませんか。造作のねえことですよ。面倒なときゃあ、正勝の野郎一人ぐれえなら畳んでしめえばいいんだからなあ。叩き殺して谷底へでも投げ込んでしめえば、それで片づいてしまうんだもの",
"しかし、紀久ちゃんの気持ちが最近ではぼくのほうよりも正勝くんのほうへ傾いているかもしれないのだから、紀久ちゃんが帰ってきて、正勝くんより逆にぼくのほうが追い出されるかもしれないからなあ",
"そんなら、お嬢さまの帰ってこねえうちに、いまのうちにやってしめえばいいですよ。まず試しに、何かあいつのいやがることを言いつけて、無理にでもさせるんだなあ。それで、あいつが言いつけどおりにやらねえんなら、おれたちが黙っていねえから",
"いったい、正勝の野郎は今日は何をしてるんだ? 今日は朝から見えねえじゃねえか?"
],
[
"今日は浪岡に乗って、放牧場のほうで鉄砲を撃って歩いていたよ",
"浪岡に乗って?"
],
[
"近ごろは正勝の野郎、浪岡にきり乗りませんよ",
"浪岡を自分の乗り馬にするつもりなのかな? 浪岡なら、乗り馬としちゃ最上の馬だからなあ。まったく、この牧場の中でももっとも値段の出ている馬だし、調教を少しつければ、それだけでもう浪岡は貴族階級の乗り馬だよ",
"それを正勝の野郎に勝手にさせておくなんて、そんな馬鹿なことはねえ! 敬二郎さん! おれが引っ張ってくるから、あなたからぐっと差し止めなせえよ。それで、あの野郎があなたの言うことを聞かなかったら、そのときゃあおれらが黙ってねえから",
"それじゃ、とにかく差し止めてみよう",
"それじゃ、みんなは厩舎の前へ行って、あそこで待っていてくれ。すぐ引っ張ってくるから"
],
[
"正勝ちゃんに、若旦那がちょっと用事があるそうだで",
"若旦那? 若旦那って、いったいだれのことだえ?"
],
[
"そんな皮肉なことは言うもんじゃねえよ。用事があるんだそうだから、一緒に来てくれよ",
"しかし、おれにはだれのことだか分かんねえなあ。おれらが若旦那って呼ばなきゃならねえ人間が、いまこの牧場にいるのかね。おれには分かんねえ",
"皮肉だなあ。敬二郎さんが用事があるんだってさ",
"平さん! きみはもう敬二郎を旦那にしているのかい?",
"そんなことを言ったって、仕方がないじゃないか?",
"仕方がない? 平さん! きみの親父は内地からはるばると、難儀をしにこんなところまで来たのかい? 子供を牧場の安日当取りにしようと思って、こんなところまで来たのかい? 荒地を他人のために開墾したのかい? そんなつもりでおれの親父について来たのじゃねえと思うがなあ",
"そんなことを言ったって、はじまらないよ",
"どうしてかね? きみの親父の開墾したところはきみの親父の土地で、同時にきみの土地なんだ。なにもその土地を敬二郎に奉って、そのうえ敬二郎を旦那として戴かなくてもいい",
"しかし、そんなことを言ったって、開墾はおれらの親父がしたかもしれねえが、大旦那から敬二郎さんに譲られていく土地だもの、おれらが何を言ったところで……",
"そんなことはねえ。森谷の親父はおれの親父まで騙して、開墾をした人たちから開墾地をみんな取り上げて自分のものにしてしまったのだ。けれども、森谷の親父の死んでしまったいまはだれの土地でもねえのだ。いや! 開墾した人たちの土地なのだ。しかし、このままにしておけばこのまま紀久ちゃんのものになって、紀久ちゃんが敬二郎と結婚してしまえば、それこそ敬二郎のものになってしまうのだ。そこで、紀久ちゃんの手に移らねえうちに、開墾した人たちが自分の手に戻さなくちゃ! 紀久ちゃんが帰ったら、おれは紀久ちゃんに言うつもりだが、紀久ちゃんはそれが分からねえ人じゃねえんだ",
"とにかく、敬二郎さんのところへ行ってくれよ。頼むから",
"いったい、敬二郎の奴め、おれになんの用があるんだろう。あの野郎は油断ができねえんだが……",
"なんでも、その浪岡をどこかへ売るらしいなあ",
"なに? そんな勝手な真似をさせておくもんか。行こう!"
],
[
"浪岡はきみの馬か?",
"ぼくが管理している馬だ",
"何を言うんだい? きみの管理している馬なんか、まったく一頭だっていないはずだ。馬はわれわれが管理しているんだ。きみは帳面のほうさえやっていればいいんだ",
"正勝! しかし、若旦那が乗っていけねえって言うんだから、若旦那の言うとおりにしたらいいじゃねえか?"
],
[
"どうする?",
"追いかけましょう",
"おい! 追っかけよう。野郎を谷底へ投げ込んでしまえ?"
],
[
"鉄砲なんか持って?",
"敬二郎の奴らがおれがいちゃ邪魔なもんだから、おれを殺そうというんだ"
],
[
"殺すってね?",
"おれだって、おめおめと殺されちゃいねえさ。野郎どもめ! どうしてくれるか……"
],
[
"大丈夫だよ。おれだっておめおめと殺されちゃいねえから",
"なんだってまた敬二郎の奴は、あんたを殺そうというんです?"
],
[
"正勝さん! おれたちに委して、あなたはこっちへ引っ込んでいなせえよ",
"大丈夫だ。きみたちこそ引っ込んでてくれよ。奴らも鉄砲を持っているんだから、下手に手を出さねえでくれ。敬二郎らの三人や五人はおれが一人で、大丈夫、引き受けてみせるから",
"しかし、おれらのためにあんたがそうまでしてくれるのに、おれらが手を組んで見ているわけにはいかねえ。正勝さん! おれらに委せて、あんたは引っ込んでいてくだせえよ。敬二郎の野郎ぐらいなら、おれらで引き受けるから"
],
[
"おれらが、そんなことを知るかい?",
"でも、きみたちはいまそこから出てきたじゃないか?"
],
[
"そんなこたあこっちの勝手だ",
"きみたちはそれじゃ、正勝の奴を隠そうとしているんだな? 庇っているんだな?",
"庇ったら悪いか?"
],
[
"てめえらの指図なんざ受けねえ",
"指図を受けねえと?",
"受けねえとも",
"そんなことを言わないで、用事があるんだから出してくれないかなあ"
],
[
"正勝くん! きみはどうして逃げたりなんかするのかね?",
"用事を聞こう?",
"きみは浪岡を、どこへやったのかね?",
"そんな用事か? そんなことにゃあなにも、返事をしようとしまいとおれの勝手だ",
"正勝くん! それは少し乱暴じゃないかなあ? 落ち着いて考えてみてくれ",
"森谷家の財産は現在だれの財産でもねえんだ。宙に浮いている財産なんだ。自分のもの顔をするのはよしてくれ",
"きみは本気でそんなことを言ってるのか?",
"本気だとも。きみが紀久ちゃんと結婚して森谷家を相続したら、そん時にゃあ立派に返事をしよう",
"そんなことを言って、浪岡を見えなくでもしたらどうするんだね? 浪岡が高価な馬だってことは、きみも知っているだろうが……",
"余計な心配だよ。どこかその辺の開墾場へ逃げ込んだに相違ねえから、開墾地のだれかが森谷家への貸し分の代わりに捕まえるだろうから。開墾地の人たちゃあ、開墾の賃金をほとんど貰ってねえのだからなあ",
"無茶なことばかり言って、困るなあ"
],
[
"わたしの帰るのが分かったの?",
"こんなに早く帰るとは思わなかったんだが……",
"迎えに来てくれたの? ありがとう。では、帰りましょうか?"
],
[
"それで、お嬢さまはどっちが好きなのかな?",
"そりゃあお嬢さまにしてみりゃあ、敬二郎さんがいいにちげえねえさ。敬二郎さんと正勝さんとじゃ、鶴と鶏とぐれえ違うじゃねえか? そりゃあ敬二郎さんのほうがいいにちげえねえ",
"でも正勝さんの話じゃ、正勝さんを好いているらしいんだがなあ。今度も敬二郎さんのほうへは音沙汰をしないで、正勝さんにだけ手紙を寄越したり、電報を寄越したりしたらしいんだが……"
],
[
"そりゃあお嬢さまにしてみれば、自分が正勝さんの妹を殺したんで、申し訳がねえように思っているんだろう。それで、正勝さんにだって悪い顔はできねえのさ",
"しかし、顔や姿は敬二郎さんのほうが立派かもしれねえが、人間の出来からいったら正勝さんのほうが上じゃねえかなあ?",
"どっちにしても、おれらのためにゃあ正勝さんだよ。いくら姿ばかり立派でも、敬二郎の野郎じゃ糞の役にも立たねえから",
"それはそうよ"
],
[
"それは敬さんの思い過ごしよ。わたし、正勝のことなんかなんとも思ってないわ。それは敬さんの思い過ごしなのよ。わたしがまさか、正勝をそんな風に思うはずはないじゃないの",
"それはそうだが、でも、紀久ちゃんがぼくには葉書一本寄越さないのに、正勝の奴へだけ手紙を寄越したり電報を寄越したりしていたものだから、正勝の奴は有頂天になっているんだよ"
],
[
"それで、敬さんまでそんな風に思っているの?",
"別にそう思うわけではないが、ぼくにだって葉書の一枚ぐらいは寄越しても……",
"敬さん! わたしが正勝に手紙や電報を出したのは、そんなわけではないのよ。かりにそれが過失……正当防衛にもしろ、正勝のただ一人の妹を殺したのはこのわたしなんだから、わたし、正勝になんとなく済まない気がするわ。済まない気がして、正勝にはできるだけのことはしてやりたいと思うのよ。誤解されちゃ困るわ",
"別に誤解はしないがね。しかし、その済まないという気持ちはどうかすると、危険なものになりゃしないかと思うんだがね。すでにもう、正勝の奴は紀久ちゃんのその気持ちを履き違えているようだから",
"そんなことないと思うわ。そんな馬鹿なこと、決してないと思うわ。それだけは、わたしはっきりしておくわ。そして、お蔦に対する詫びの気持ちから正勝のほうへできるだけのことをしてやりたいわ"
],
[
"それには、やはりぼくたちが早く結婚をしてしまわなくちゃいけないね",
"そうかしら? わたしはそうは思わないわ。結婚なんか来年でも再来年でも、いつでもいいと思うわ",
"紀久ちゃんはそう思っているのか?"
],
[
"結婚なんか、だってしようと思えば明日にでもできることなんだから",
"それはそうだがね。しかし、ぼくらが結婚してしまわないうちは正勝の奴、気持ちは静まらないと思うがなあ。奴は紀久ちゃんと結婚して、森谷家の財産の半分は開墾地の人たちへ分けてやることを考えているらしいから。考えているだけじゃなく、他人にももうその話をしているそうだから",
"それは、財産のほうなら半分ぐらい正勝に上げてもいいわね"
],
[
"だって、敬さんはわたしと結婚するんでしょう?",
"しかし、正勝の奴も紀久ちゃんと結婚をして……",
"そんなことできないわ。わたし敬さんと正勝と、二人と結婚するわけにはいかないわ。わたし、正勝となんか結婚したくないわ",
"それだから、ぼくらは早く結婚をしてしまわないといけないんだよ",
"それでも、正勝がわたしと結婚して、わたしの家の財産の半分だけ開墾地の人たちへ分けてやりたいというのなら、結婚は困るけど財産のほうだけ半分上げてもいいわ",
"そんな考えを起こしちゃ駄目だよ",
"だって、敬さんはわたしと結婚するんでしょう? わたしの家の財産と結婚するわけじゃないでしょう。それなのに、敬さんだけ両方とも取っちゃ正勝が少しかわいそうだわ。正勝の妹を殺した代わりにでも、財産の半分ぐらいなら正勝へ上げてもいいと思うわ",
"ぼくはそれには不賛成だ。紀久ちゃんがぼくを本当に愛していれば、そんなことは考えられないはずだ。ぼくを本当に愛していれば、結婚と同時に財産も全部二人の幸福のためにと……",
"敬さんは欲張りなのね",
"当然のことじゃないか? それだけだって、ぼくたちは早く結婚をしてしまわないといけないのだよ。結婚をしてしまえば、だれもそんな考えは起こさなくなるから。起こしたって……",
"では、春になったら……",
"おーい! 紀久ちゃん! 紀久ちゃん!"
],
[
"紀久ちゃん! 早く来いよ",
"何か用なの? 正勝ちゃん"
],
[
"なんでもないのよ",
"あいつが散歩に誘ったって、一緒に散歩なんかするのよせよ",
"それでも、急に冷淡にするわけにはいかないのよ。あの人もお父さんが生きていれば、わたしと結婚するはずの人でしょう。急に空々しくするわけにはいかないのよ",
"しかし、そんなことを考えているうちに、あんたの気持ちの中へ深く入り込んできたらどうする?",
"大丈夫よ。黙って見ていてちょうだい。わたし、正勝ちゃんの言うことはなんでも聞くつもりよ。しかし、あの人の言うことは何から何まで聞いちゃいないわ。自分の気持ちの中に線を引いておいて、そこから中へは絶対に入れないつもりよ。そして、正勝ちゃんの言うことには絶対に線を引かないわ。黙って見ていてくれたら分かると思うわ",
"それならいいがね",
"わたしを疑ったりしちゃ駄目よ。わたし、とてもよく考えているんだから。そして、あの人がしぜんとわたしから離れていくようにするわ。わたしからばかりでなく、この牧場にもなんとなくこう、いられないようにしてやるわ。それまでは、正勝ちゃんは黙って見ていてね",
"しかし、あいつはなんとなく癪に障る奴だからなあ",
"そんなことじゃ駄目だわ。いやな奴なら、それにつけても表面ではよくしてやらないといけないのよ。わたしがあの人と話をしたり一緒に散歩したりするのは、わたしからあの人を遠ざけるためなのだから疑わないでね。わたし、正勝ちゃんの言うことなら、本当になんでも聞くのよ。しかし、あの人の言うことは決して聞かないから。表面ではいやな顔をしないでいて、そして言うことだけは聞かないつもりなの",
"考えたもんだね",
"分かったでしょう? 疑っちゃいやよ。わたしは考えて考えて、考え抜いているんだから",
"しかし、あいつの顔を見ると、何かこう癪に障るね。いやな気持ちを一掃するように、これからひとつ吾助茶屋へでも行ってくるかなあ?",
"それがいいわ。それで、お金はあるの?",
"ないんだよ",
"少しきり持ってきてないのよ"
],
[
"正勝さんだで",
"さあ、正勝さん! ここへおかけなせえよ"
],
[
"やっぱりそれじゃ、今年も値段が折り合わねえのかね?",
"今日の相談は、こっちも少し無理かもしんねえがね。おらんちの嬶が目を悪くして病院さ入れたんでがすが、手術をしなくちゃ目が見えなくなってしまうっていうんで、手術をしてもらうべと思ったら、それにゃあ百五、六十円はかかるっていうんでがす。しかし、片方の目どころか両方の目が見えなくなったって、おれにはそんな大金ができねえから、村の人たちと相談してみたところ、村の人たちが全部保証人になって雑穀屋から借りてくれるって言うんで来たのですが、雑穀屋も百五十両からとなると……"
],
[
"見えるようになるというんですが、片方の目を百五十円も出しちゃ……",
"見えるようになるのなら、おれがそれを出してやろう"
],
[
"この夏、はあ馬を殺してしまって、なんともかんとも困ってるのでがすが、おれもできれば百円ばかり貸していただきてえもんで……",
"百円? 金はいいが、馬を買うのなら馬でやってもいいが……",
"やっぱり、金で貸していただいて……",
"それじゃ、いまここへ持ってこさせるから"
],
[
"爺さん? 五、六本ばかり熱くしてくれ。それから、みんなの分を何かご馳走を拵えてくれよ",
"それじゃ、鶏でも潰すべえかい?",
"鶏でいい"
],
[
"その借金というのは、いったい幾ら借りてるのかね?",
"七十円だけ借りたのですが、利子がついて百円近くになってるのでがすがね",
"それならおれが払ってやるから、心配しなくてもいい"
],
[
"正勝さんがそうして手紙をやると、森谷のお嬢さまは金を寄越すのかね? 冗談でなく、本当に寄越すのかね? そんな大金をよ?",
"寄越すから手紙をやるんじゃないか。寄越すか寄越さねえか当てのねえところへ、いくらおれだって手紙なんかやらねえさ。論より証拠だ。持ってくるかこねえか、ここにいて見てればいいや",
"大したもんだなあ。手紙一本で森谷のお嬢さまが金を届けて寄越すなんて、夢のような話じゃねえか",
"お嬢さまは正勝さんのほうへ、夢中になっているんだべよ"
],
[
"夢中になっているかどうか知らねえが、おれが手紙をやれば紀久ちゃんは自分で持ってきてくれる。紀久ちゃんはもう、おれの言うことならなんだって聞くんだから",
"それじゃ、お嬢さまは敬二郎さんがいやになって、正勝さんと一緒になるつもりでねえのかね?"
],
[
"そんなことはおれの知ったことじゃねえ。論より証拠だ、とにかく、持ってくるか持ってこねえか、見ていれば分かるさ",
"いったい、その手紙っての、どんな風に書くんだね?"
],
[
"金を持ってきてくれたかい?",
"持ってきたわ"
],
[
"初三郎爺さんと与三爺さんは、百円ずつだったね?",
"正勝さん! おれらは本当に、あなたさまを神さまのように思いますよ"
],
[
"紀久ちゃん! 残ってる分を、喜代治さんらに上げてもいいだろう?",
"正勝ちゃんのいいようにしたらいいわ"
],
[
"正勝さん! おれらは死んでもあなたのことは忘れませんよ",
"そんなことはまあいいから、飲もうじゃないか?",
"あなたがお嬢さまと一緒になって森谷さまの旦那さまになられたら、おれらは自分の生命を投げ出してもあなたのためになるようなことをいたしますよ",
"飲もうじゃないか。紀久ちゃん! あんたも飲めよ"
],
[
"一緒に帰るから待てよ",
"平吾が外で待っているのよ",
"それじゃ、すぐ帰ろうか? 紀久ちゃん! いまここでみんなの踊りを見せてもらったんだがね。紀久ちゃんも踊って見せないか?",
"わたしの踊りなんか駄目だわ。それに着物がこれでは……",
"構わないさ。簡単でいいから、何か踊って見せてくれよ",
"できないんだけど……"
],
[
"ありがとう! それじゃ、帰ろうか?",
"帰りましょう。平吾を寒いところに待たしておいちゃ、かわいそうだから"
],
[
"正勝さん! おれらは本当に、あなたさまを神さまのように思っているでがすよ",
"お嬢さま! あなたさまも、ぜひとも正勝さんと一緒になってくだせえましよ。おれらのお願いですから"
],
[
"それさよ。いくらなんでも、森谷家のお嬢さまが正勝の手紙一本で大金を持って駆けつけてきたり……",
"酒を飲んで踊りを踊るなんて、気がどうかしていなけりゃ……",
"正勝さんが偉いからだよ。それで、正勝さんの言うことなら、お嬢さまはなんでも聞くのだよ"
],
[
"気が変になったのじゃなくて、おれらを騙すつもりじゃねえのか? 金をくれておいて、何か問題でも起きたときにおれたちを味方にするとかなんとか……",
"そんなことはねえ。お嬢さまは自分の親御は殺されるし、自分は過って他人を殺したので、気が変になったのさ。正勝さんだって、妹があんなことになったんだから、やっぱり気が少しどうかしたんだよ"
],
[
"きみにはいったい、そんなことを言う権利があるのか?",
"権利があるから言うんだ。紀久ちゃんは、ぼくと婚約している女だ。婚約のある女を勝手に呼び出したりするのは、紳士のやるべきことじゃない。今後はよしてくれ",
"おりゃあ紳士じゃねえよ。そんなこたあおれに言わねえで、紀久ちゃんに言ったらいいじゃねえか? きみの女房になる女なら、何だってきみの言うことは聞くだろうから。しかし、どうも困ったことに、紀久ちゃんはおれの言うことばかり聞くんでなあ。これはどうも、きみにそれだけの威厳がないからなんだなあ",
"なにを!"
],
[
"殴ったなっ!",
"殴りゃあどうしたっ?"
],
[
"ぼくは紀久ちゃんの本当の気持ちを知りたいのだ。ぼくは紀久ちゃんの愛を失うくらいなら……",
"敬さん!"
],
[
"ぼくは本当に、紀久ちゃんの愛を失うくらいなら、死んでしまったほうがいいのだ",
"我慢していてください。きっと、きっと、いまにきっと、どうにかなりますわ。わたしの本当の気持ちの分かるときが来ますわ。それまで、じっと我慢していてちょうだい",
"いくらでも我慢をするがね。しかし、紀久ちゃんはぼくの言うことよりも、正勝のほうの言うことを聞くのだし、さっきだって、ぼくが正勝の奴を組み伏せているのに、紀久ちゃんが出てきて正勝の奴に加勢をするものだから……",
"敬さん! わたしの本当の気持ちを分かってちょうだい。わたし……わたし……わたしと敬さんとのことは、わたしたち二人だけで固く信じ合っていればいいのだわ。わたしの本当に愛しているのは敬さんだけよ",
"それなら、これからは正勝の奴からどんなことを言ってきても、正勝の言うことだけは聞かないでくれ。ぼくはあなたの愛を信じたいのだ。正勝の言うことを聞かないでくれ",
"わたしどうしたらいいのかしら? それは、わたしにも口惜しいんだけれど、どうにもならないのよ。あんな男が、本当に大きな顔をして生きていられるなんて……"
],
[
"正勝はまた、吾助茶屋に行っているのでしょう",
"いったいまた、何を言ってきたんだ?"
],
[
"困ってしまうわ。婆や? いますぐ行くからと言って、帰らしておくれ",
"まいりますか?"
],
[
"でも、手紙には来いと書いてあるのでしょう?",
"――ただいま吾助茶屋にて盃を重ねおり候。しかし、あなたなしではまったくつまらなく存じ候。ともに飲み、ともに歌って踊りたく候間、さっそくにもお越しくだされたく候――",
"やっぱりね"
],
[
"紀久ちゃんは行くつもりなのか?",
"…………",
"紀久ちゃん! 頼むから行かないでくれ。行かないでくれ",
"…………",
"紀久ちゃんが奴の言うことを聞かないからって、奴が何かしたらぼくがどうにでも始末をつける"
],
[
"紀久ちゃん! お願いする。頼むから行かないでくれ",
"…………",
"紀久ちゃん! ぼくはもう、本当に生きてはいられない"
],
[
"なんでもないの",
"顔色が悪い",
"なんでもないのよ"
],
[
"しかし、ばかに顔色が悪い。帰ろう",
"なんでもないのだけど……",
"どこが悪いんだ。真っ青だよ。帰ろう"
],
[
"何を言ったところで、奴が死んでしまえばおれと紀久ちゃんの世界さ",
"それはそうだわ"
],
[
"あちらってどこだい?",
"わたしの部屋へ……"
],
[
"着物を着替えてくるって",
"だって! あなたはベッドで寝て待ってらっしゃいよ。すぐだから",
"それじゃ……"
],
[
"開けてくれ! 早く早く! 紀久ちゃん!",
"寒いのでしょう? 温めて上げるわ"
],
[
"お嬢さま! こんなところにいちゃ危ないです。火の子の降ってこないところへ!",
"構わないで! 構わないで! ただその手紙をなくさないでね。それには大切なことが書いてあるのだから",
"お嬢さま! とにかくあっちへ!",
"おまえは平吾だね! その手紙は確かにおまえに預けたよ。敬二郎さんとわたしとの手紙だわ"
]
] | 底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年8月10日初版発行
入力:野口英司
校正:Juki
1999年11月8日公開
2005年12月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000719",
"作品名": "恐怖城",
"作品名読み": "きょうふじょう",
"ソート用読み": "きようふしよう",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "1999-11-08T00:00:00",
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"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "恐怖城 他5編",
"底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店",
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"校正に使用した版1": "1995(平成7)年8月10日初版",
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"入力者": "野口英司",
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} |
[
[
"それがですよ。その撲殺するのが……、果たして私にうまく殺せるかどうか、というのです。少しもその方面に経験の無い私に……。",
"経験もへつまも入ったもんじゃねえですよ。枠に縛りつけられて、ヒンヒン鳴いている奴を、薪割のようなやつで、額を一つガンと喰わせると、ころりっと参ってしまいまさあ、それを骨切り鋸で、ごそごそっと首を引けば、それであんたの役目は済んだというものですよ。それを一日に五匹もやっつければ、いいやっつけ方でさあね。",
"豚って、そんなにもろいものですか。"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年9月16日公開
2005年12月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000726",
"作品名": "首を失った蜻蛉",
"作品名読み": "くびをうしなったとんぼ",
"ソート用読み": "くひをうしなつたとんほ",
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"副題読み": "",
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"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
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"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
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[
[
"熊が出てね。俺、皮がほしかったもんだから、追っかけて見たのだげっとも……",
"熊だと? 牝兎じゃねえのか?"
],
[
"まあ、なんにしろ、あまり無鉄砲なごとをして、自分の身を亡ぼすようなことをするなよ。貴様の気持ちも判るが……",
"本当に、熊だってばな!"
],
[
"何も心配するごとねえ。それだけの度胸と覚悟があるのなら、もっと考えてやるのさ。――貴様は、自分の親父が殺された時の、本当のことを知らねえで、村の作り事ばかり信じてるから、自分の恨みせえ晴らせばいいと思っていんだべが……",
"作り事って、何が裏にあったんだろうか?"
],
[
"あの、佐平って言うのは、おまえかい?",
"はい、私が佐平で御座りますが……"
],
[
"おまえは、この開墾場一の嘘つきの名人だという噂だが、僕の前で一つ、その名人振りをやってみせないかい? おまえの噂は、浦幌の方でも知らない者が無いぞ。おい、僕の前で一つその嘘をついて見ろよ。",
"どうして、旦那様、旦那様の前でだけは……"
],
[
"誰の前だっていいじゃないか? うむ、一つやってみろよ。その名人振りを……",
"私も、種々の罪のねえ嘘はつきますが、併し、旦那様の前でだけは……他の人なら、ともかくも……",
"構わんと言ったら、他の人につくのこそやめねばいかん。併し、僕の前で、どれだけうまくやるか、試みにやる分には構わん。"
],
[
"どうした? 佐平!",
"毛虫でがす! 大っきな!"
],
[
"毛虫? どれ? どこだ?",
"旦那様の背中でがす。こんな、おっそろしい毛虫は、初めて見たな。なんて毛虫だべ?"
],
[
"こんな、怖ろしい毛虫、私は、おっかなくって、とても取られせん。服をお脱ぎなせえ。",
"そんなことを言わないで、早く取ってくれ、早く。",
"旦那様、服を脱がいん、服を……"
],
[
"だがね、無利子同様の安利子で、いつまでも貸していたんじゃ、手前の方だって堪りませんからね。なんとか一つ早く……",
"今、そんなことを言ったら、藤沢さん、あなたは殺されるよ。あの人達は、今やっと息がつけるようになったばかりじゃないですか……最初の約束だって、開墾場から穀類があがるようになったらという話だったし……それは幾らかの収穫はあるがね、自分達が食うのにも足りないぐらいなのだから……",
"いや、それはね、何も今すぐ無理にいただくという話じゃねえですがね。"
],
[
"いや岡本さん、決して無理というのじゃないんですがね。なにしろその……",
"あなたは最初に、私へなんて約束したです?"
],
[
"前の話は、前の話ですがね。併しその……",
"あなたは、道庁から取り上げられた積もりで、開墾した人にやると言ったじゃないですか? 何も私等だって、あなたからもらわなくたって、あれだけの難儀をして開墾する積もりなら、いくらでももらわれたんです。ただ、手続きの面倒が省けるから、あなたが、自分の力で開墾が出来なくて、取り上げられてしまう土地をもらっただけじゃないですか。",
"その手続きがね、なかなか金のかかる……",
"手続きに使った金ぐらい出しますよ。併し、小作料なら、一粒だって、一銭だって出せません。あなたが現在使用している土地だって、私達が開墾したからこそ、あなたのものになったんだ。あなたは、それだけの広い土地を自分のものにしただけでも、よすぎるくらいじゃないですか。あなたの、名義でもらったから、あなたの所有地にはなっていても、開墾して耕地にしなかったら、あなたのものにだってならなかったじゃないですか。道庁でだって、開墾したものにくれる意志なんだし……",
"いいです。いいです。私が慾を出したから悪いので、皆さんに差し上げますから、幾らにでも、気の向く値段で権利を買い取って下さいな。"
],
[
"金のある時にね。併し、権利は早く私等の方へ移してほしいですね。当然のことなんだから。",
"いいですとも。いいですとも。そんなこと明日にでも。"
],
[
"それでこの人は、おまえとは、おまえの外套を無断で借り着して行くような間柄だったのか?",
"はい。それは、十何年前からの友達で。",
"すると、全然、過失というわけだな?",
"でも、私は、罰を受けないと気が済みません。"
],
[
"いや、いや、すっかり暗くなってからで……",
"宜し。じゃ、とにかく、今夜のうちに駐在所まで来て、本署まで一緒に行ってもらわねばならんな。この外套を背負って。",
"旦那様、私を証人に連れて行ってくだせえ。"
],
[
"証人だと? おまえを証人に立てたら、どんな嘘を言うかわからんじゃないか。嘘つきの名人を、証人に立てるわけにはいかんな。",
"じゃ誰か他の人でも……",
"自首して出た者に証人がいるか。そんなことは後のことだ。――さあ、じゃ、その毛皮を背負って。"
],
[
"冗談じゃねえ。この土地だって資本金が掛かってんですぜ。",
"じゃ、道庁から直接もらって開墾するんだったな。今頃は自分のものになってたのに……"
],
[
"貴様はやはり、雄吾、親父に似ているんだなあ。その度胸のいいところは……",
"度胸じゃねえ。俺、我慢が出来ねえのだ。"
],
[
"うむ、うむ。だからやるのさ。一ぺんで、親父の仇を取って、開墾場の人達みんなを助けて、その上自分の恨みを晴らせるのだもの……",
"あ、やってやるとも!"
],
[
"その上、貴様、母親とも一緒に暮らせるようになるじゃねえか。なあ、そうだろう?",
"あんな、人でなしの母親なんか、どうでもいい。",
"いや! しかしな、貴様からお母さんに話して、この開墾した土地を、我々の所有にしてもらわねえと困るからな。そこを頼むわけなのさ。",
"併し、世の中ってそう調子よく行くものかなあ。俺、やっつけたら、自分も死ぬ覚悟なのだ。",
"だからさ、馬車に乗っている者を撃っちゃ、熊だとは言われめえってことさ。いいか。そこをよく考えて見ねばならねえんだ。"
],
[
"熊だあ! 熊だあ!",
"事務所の方へ逃げたぞう!"
],
[
"熊だあ! 熊だあ!",
"熊だとう?"
],
[
"善蔵、貴様誰かと駐在所へ行って来う。熊が出たので追い廻していたら、そこへひょっこり藤沢さんが出て来たので、熊だと思って間違って撃ってしまいましたってな。解ったか。熊と間違ってだぞ。そこの理由をよく話すんだぞ。",
"誰が撃ったって訊かれたら?",
"あ、俺が撃ったって言ってくれ。"
],
[
"この悪熊も、とうとう為留られたな。",
"何を、馬鹿なことを。――おい、火を焚こうじゃねえか。"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年10月27日公開
2005年12月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000717",
"作品名": "熊の出る開墾地",
"作品名読み": "くまのでるかいこんち",
"ソート用読み": "くまのてるかいこんち",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-10-27T00:00:00",
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"姓": "佐左木",
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"姓読みソート用": "ささき",
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"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
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"没年月日": "1933-03-13",
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} |
[
[
"余計なことであるもんですかよ。いくら髭に税金がかからねえからって、何も、世間の物笑いにまでされて……",
"笑いたい奴には笑わして置けばいいじゃねえか。俺には俺の考えがあるんだ。俺の気持ちが部落の奴等になどわかるもんか。",
"お父さんがその気だから、美津なんかだって、家にいられねえんだよね。そりゃあ、美津は、お嬢さんで育ったかも知んねえけど、今は現在なんだから、どこへだって嫁にやってしまいばよかったんですよ。それを、お父さんたら、昔のことばかり言って、美津や嘉津が(お嬢さんお嬢さんて!)言われていた時の気で髭ばかり捻っているもんだから、結局、誰ももらい手が無くなってしまったんでねえかね。",
"馬鹿っ! 貧乏はしても嘉三郎だぞ! そこえらの水呑百姓と縁組が出来ると思うのか! 痩せても枯れても庄屋の家だぞ。考えても見ろ! 何百人という人間を髭を捻り稔り顎で使って来てる大請負師だぞ。何は無くっても家柄ってものだけは残っているんだ。",
"家柄家柄って、昔のことなど、幾ら言って見ても何になるべね。俊三郎なんかも、家柄のために、なんぼ苦労しているだか。自分じゃあ気楽に百姓していたがるものを、お父さんが(俺家の伜も東京へ勉強に出ていますがな!)って言って髭を稔っていてえばかりに、銭の一文も送れねえのに無理に苦学になど出してやって……"
],
[
"何をするんだね? お父さんは! それで美津は、どこにいるんだね?",
"美津の畜生め? 俺の顔に泥を塗りやがって、いくらなんでも鼻の先にいべえとあ思わなかった。",
"美津はどこにいるんだね?",
"忠太郎の野郎と一緒に高清水にいやがるで、忠太の恩知らず野郎め! 泥足で俺の顔を踏みつけやがって。",
"忠太郎と一緒にいるのかね? 最初からそんなような気がしていたよ。忠太郎ならいいじゃねえかね?",
"馬鹿!"
],
[
"着物をね? 忠太郎と一緒なら、行かねえで、構わねえで置いたらいいじゃねえかね。美津が好きで一緒になっているものなら。",
"投げて置けるか? 早く着物を出せ! 畜生共め!",
"好きで一緒になって、どうやら暮らしているのなら、構わねえで置けばいいものを……"
],
[
"そんなに困ってるどこさ、空手で行ったって、仕方があんめえがね。金を都合して行くとか……",
"なんで金など?"
],
[
"松! 兼元を出して来う。刀をさ。",
"刀をね? 刀なんか何するんだね? お父さんは!",
"畜生どもめ! 叩き切ってやる。先祖の面を汚しやがって。",
"何を言うんだね? お父さんは! 狂人のようなことを言ったりして……",
"なんでもいいから早く出して来う。俺家は、代々、駆落者なんか出したことのねえ家だ。犬共め!",
"それはそうかも知んねえが、代々、こんなに零落れたこともあんめえから。",
"出して来ねえのか? そんなら自分で出して来るからいいで。貴様まで精神が腐りやがった。"
],
[
"そりゃあ、もちろん、送って上げなくちゃなんねえね。私が売ってもらいますべえよ。いつか私が言った値でいいかね?",
"それがですね。私の気持ちでは、出来るなら、売り切りにしたくねえんでね。先祖から伝わってるもので、どうせ私から伜へ伝わって行くものだし、伜の学資のために売ったとなれば、伜も何も文句はねえと思うんですが、伜が成功でもしたとき、またそれが欲しくなるかも知れねえですからね。それでですね。今は、あの半分だけ借りて置いて、一応は伜と相談してから売り切りにしたいんですがね。"
],
[
"そりゃあ承知です。半分でなくたって、元金に利子せえ添えて下さりゃあ、私あいつでも返しますよ。それなら相談するまでもありますめえで。",
"それなら伜になど相談しねえんでいいんですがね。併し、沢山借りるのも気になりますから、それじゃあ、百円だけ……",
"百円。百円でいいかね。",
"売り切りじゃねえですよ。",
"承知です。"
],
[
"何ぶんにも大業物ですからな。",
"嘉三郎さん! 今日中に送るのなら、早く行かないと、郵便局が閉まりますで。待っていなさるんだべが……",
"それさね。"
],
[
"すぐこの先でがす。三軒、四軒、五軒、六軒目の家でがす。饂飩屋ですぐ判ります。",
"その家には、離室でも、別にあるのかね?",
"離室って、前に、馬車宿をしてたもんだから、そん時の待合所を奥さ引っ込んで、どうにか人が寝泊まり出来るように拵えたのがあるにはあんのでがすけど、今のどころ、他所者の若夫婦が借りてるようでがす。",
"お! 一栗の嘉三郎旦那じゃねえかね?"
],
[
"寝てろ! お前が病気だっていうから来て見たのだが、病気は、どんな具合だ?起きてでいいのか?",
"風邪を少し引いて……"
],
[
"今時の風邪は永引くもんでなあ。それにしても、風邪ぐれえなら、安心だ。母親が心配してたぞ。",
"お父さん!"
],
[
"お父さん! 今まで黙っていて、本当に申し訳のねえことで。恩を忘れたようなごとして……",
"何を水臭いことを言うんだ。それより、何だってこんなところにいるんだ。東京さでも行けばいいじゃねえか? こんなどこで俺の恥まで晒すより、東京さでも行けばいいじゃねえか? 馬鹿な奴等だっ! 東京さでも行って立派になって来う! 忠太郎!",
"それも考えでいだのです。併し、お父さんの方に誰も稼ぎ手がいなくなるごと考えたりして……",
"馬鹿なっ! 稼がせるために忠太郎を美津の聟にしたとなると、それこそ、世間さ顔向けが出来なくなる。何も心配しねえで、自分達だけ、立派になって来う。",
"それより、お父さんさ、酒でも買って来たら?"
],
[
"何も悪いことなどねえで。忠太郎はあれでなかなか偉いところのある奴だ。俺も目をつけていた奴だ。こんなに近くにいてあ、何をしてんのもすぐわかってしまうから、東京さでも行って立派になって来う。この辺なら、俺の名を知っている奴もいるに違えねえが、お前がこんな豚小屋のようなところにいてあ、俺だって気持ちがよくねえからなあ。お前の病気が癒ったらすぐ東京の方さでも行くさ。",
"ここで旅費を稼ぎ溜めてから、お父さんにも相談して、それから東京の方さでも……",
"旅費を稼ぎ溜めるって、何か、仕事があんのか、金なら、百円は少し欠けるけども、持って来てやった。これで、どこへでも、落ち着くんだな。"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年11月15日公開
2005年12月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000718",
"作品名": "栗の花の咲くころ",
"作品名読み": "くりのはなのさくころ",
"ソート用読み": "くりのはなのさくころ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-11-15T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000134/card718.html",
"人物ID": "000134",
"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "佐左木俊郎選集",
"底本出版社名1": "英宝社",
"底本初版発行年1": "1984(昭和59)年4月14日",
"入力に使用した版1": "",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "大野晋",
"校正者": "しず",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000134/files/718_ruby_20853.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2005-12-20T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000134/files/718_20854.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-20T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"――俺家の鶏ども、白色レグホンだって、ミノルカだって、アンダラシャだって、どいつもこいつも、みんなはあ、黒鶏みてえになってるから。",
"何処の家のだって同じごった。俺家の鵞鳥を見てけれったら。何処の世界に黒い鵞鳥なんて……。俺は、見る度に、可笑しくてさ。",
"雪のように白かったけがなあ!",
"俺はな、ほんでさ、西洋鵞鳥! 西洋鵞鳥! って徇れて、一つ、売りに行って見べえかと思ってるのだけっとも。",
"儲かっかも知れねえで。黒い鵞鳥! って言ったら、町場の奴等は珍しがんべから。",
"何んて言っても、腹の立つのあ、権四郎爺さ。",
"うむ。部落のためにゃあ、あの爺なんか、打殺して了めえばいいんだ。"
],
[
"やあい! 松代さん。シャボン買いか? シャボンよりもいいもの教えっから、少し休んで行げったら。あ、松代さん。",
"余計なお世話だよ! 平吾さん。他人のごと心配するより、自分のどこの鵞鳥でも洗ってやったらよかんべね。"
],
[
"俺家の鵞鳥、西洋鵞鳥だもの、烏と同じごって、幾ら洗ったって、白くなんかなんねえのだ。松代さんのように、地膚が白くて、洗って白くなんのなら、朝晩欠かさず洗ってやんのだげっとも。",
"知らねえど思って、何んぼでも虚仮ばいいさ。何処の世界に、黒い鵞鳥だなんて……",
"嘘だってか? 西洋鵞鳥って、おめえ、随分と高値のするもんだぞ。"
],
[
"幾ら高値でも、松代さんが嫁に行げねえと同じごって、煉瓦場のために、売口が無くて困ってのさ。世間の奴等、俺家の西洋鵞鳥、煉瓦場の松埃で黒くなったのだと思っていやがるからな。松埃で黒くなった松代さんば、地膚がら黒いのだと思ってやがるし……",
"頭が禿げだって知らねえから。"
],
[
"本当に、何時まで続くもんだかな? 煉瓦場。――早く止めてくれねえど、本当に困って了うな。桑畠は勿論だども、俺は何時までも鵞鳥が売れねえしさ。松代さんは嫁に行げねえしさ。",
"そんなごとより、俺家では、何時あそごの土地を売られっか、判んねえわ。",
"何処の家でだって同じごった。",
"併し、新平氏、今度はあ容易に廃めねって話だで。"
],
[
"鶏にかけちゃ、この界隈にゃ、且那に及ぶ者はねえってごったから……",
"雛鶏だってなんだって、斯う松埃をぶっかけられちゃね。今年は、まるで骨折損でごわした。",
"旦那等ほだからって、鶏を飼ったのが、儲けになんねえでも、暇潰しになって運動になればいいんでごあすべから。"
],
[
"ほだって、且那等は、遊んでても食べて行かれんのでごおすもの。",
"併し、遊んでても食べられる者は、骨折損なことをしてた方がいいて理窟はがすめえ?"
],
[
"徳にも損にも、あそこだけは、どんなことがあっても売るわけに行かねえのでがす。あそこを売るど、差当り、四軒の家の人達が食うに困んのでがすからね。",
"旦那は直ぐそう云うげっとも、売って了めえば、野郎共は又その時ゃその時でなんとかしますべで。今までだって、うんと例があんのでごおすし、心配することはごおせん。",
"それゃあ、私があそこを売ったからって、食わずに死ぬようなごとはがすめえがね。併し、皆んながああして、田圃ばかりじゃ足りなくて、雞を飼ったり養蚕をしたりして、一生懸命になって稼いでいでそんでも困ってのでがすからね。"
],
[
"おっとっとっとっと危ねえ! 誰だね?",
"気をつけやがれ! 老耄め! なんて真似をして歩きやがるんだ?"
],
[
"誰だね? 宮前屋敷の者かね? 夜路はお互に気をつけるごったな。俺は栗原権四郎だが、おめえ、宮前屋敷の誰だね?",
"貴様の名前なんか聞き度くねえや。老耄め! ほんでも俺様の名前を聞きてえんなら教えるべ。俺は宮前屋敷の藤原平吾様だ。今夜だけは許してやるから今から気をつけろ。棺箱さ片足踏込んでやがる癖に、何んの用があって煉瓦場さなど行きやがるんだ。老耄め!",
"まあまあ、夜路はお互に気をつけで……"
],
[
"なあ、野郎共! 法律は許さねえぞ。平吾の馬鹿野郎め! 善良な人民の交通を妨害しやがって、それで罪人でねえと云うのが? 平吾の馬鹿野郎! 犬野郎! 畜生! 猿! 栗原権四郎が罪人と睨んだ以上、法律が許して置くか? 平吾の馬鹿野郎め!",
"老耄め! なんだって他人の悪口をして歩きやがるんだい? 高々と。"
],
[
"誰も糞もあっかい! 糞爺め! なんだって叫んで歩きやがるんだ? 苗代の泥の中さ突倒してくれるぞ。老耄爺め!",
"叫んで歩いだがらって、何も咎立したり、悪口したりしねえでもよかんべがね。法律は、言論の自由を許してるのでごおすからね。",
"ふむ。言論の自由ば、自分だけ許されてると思ってやがる。耄碌しやがって。貴様が、他人の悪口を言って歩いて、言論は自由だって云うんなら、俺だって自由だべ。糞垂爺め!",
"ほれにしたところでさ。別におめえの悪口をして歩いたってわけじゃあるめえしさ、年寄が酒に酔っ払って管を捲いて歩くのぐれい、大目に見でけろよ。なあ、俺が大声を立てて歩いたのが気に喰わねえって云うのだら、俺は一升買うどしべえで。",
"面白いごとを云う爺だな。今まで、平吾の馬鹿野郎、平吾の犬野郎って、俺さ悪口してやがって、それでも俺さ悪口をしねえって云うのなら、平吾って野郎をもう一人引張って来う! 俺の他に、平吾って野郎は一体この辺にいるがい? 考えで見ろ! 糞爺め!",
"おめえが本当の平吾がね? どうれで、先っきのは、なんだか新平に似た平吾だと思ったっけ。それは悪いごとをした。新平の野郎が、俺さ交通妨害をしやがって……兎に角、ほんじゃ間違えだで、俺が一升買うがら、一緒に茶屋さ行くべ。あっ? なっ!",
"その手に乗っかい! 法律が言論の自由を許している。糞爺! 犬爺! 猿爺!"
],
[
"だがね、旦那! 旦那はそうして眼をかけてるげっとも、宮前屋敷の野郎共ったら、平吾にしろ新平にしろ、乱暴な野郎共ばかりで、今に屹度、松埃がかかって収穫が悪いがら、小作米を負けてくれとか、納められねえどか、屹度はあ小作争議のようごとを出かすに相違ねえ野郎共だから。そこを、ようぐ考えで。ね、旦那! 年寄は悪いごと言わねえがら。",
"若し、そんなごとしたら、法律が許して置きしめえから、大丈夫でがすべで。"
],
[
"何んと思っても、売れせんでがすね。",
"じゃ、もう一度ようぐ考えて。――何時かな?"
],
[
"小作米は兎に角、作の悪かった原因がわかんねえようじゃどうも困るね。第一あんな竹の樋で水を運んでちゃ、駄目でがあせんか?",
"それゃ、且那様、俺等もそれ位のごとは知ってるのでごわすが、俺等にゃ竹の樋より上の分にゃ、手が出ねえもんでごわすから。",
"無論それは此方で拵えますがね。他人から笑われねえだけのごとあしますべ。――やって置くだけのことやって置かねえど、小作米を貰うわげに行きせんでがすからね。"
],
[
"来年はまあ、箱樋でも拵えで見るがね? そんでいげねえようだったら、改めて鉄管なりなんなり引くとして。",
"箱樋を引いて頂けゃ、水はそれで十分以上でごわすもの、そしたら、肥料もどっさり入れて、田の草取りなんかわらわらと、俺等は鬼のように稼いで、来年こそは、立派な稲にしてお目にかけしてごわす。"
],
[
"――で、あそこを畠にして了っても、あんたがたは、やって行げるかね?",
"併し、無理して堰を拵えで見ても……",
"今になって畠にする位なら、あそこを売って、何処かいいどこの畠を買いばよかったのだども。"
],
[
"兄つぁんの銭は、酒呑んだ銭だから嫌んだ。",
"ううんだ。そら、見ろ! 銀貨だから。"
],
[
"嫌んだ! この銭は、皮が剥げるもの。",
"ほだべさ。その銭は、蔴疹になってんのだもの。亀だって、蔴疹になったどき、身体中の皮が剥げだべ? ほして癒ったベ? この銭も、蟇口さ入れて置けば、遣うどきまでに、ちゃんと癒ってんのだ。",
"嘘だから嫌んだあ! お母あ、銭けろ。"
],
[
"お房! 汝あ、恨むんなら、煉瓦場を恨めよ。なあ。森山の且那が悪いのでも、俺等が悪いのでもねえ、煉瓦場が悪いのだから。",
"俺は、誰のどこも恨まねえもの。"
],
[
"煉瓦場は、冬休みがとっても長くて、いいもんだな。",
"この野郎は、そんなごとばかり。"
],
[
"森山の且那等、何もかも判っているようだげっとも、物事を考えるのに、深く突詰めるってごとねえんだもの。ほだからのことさ。",
"お房や。小豆餅ばかりでなんなら、納豆餅でなりなんなり、どっさり食って行くんだ。東京さなど行ったら、餅などはあ、たんと銭でも出さねえと、喰れめえから……",
"俺は、何んにも食いたくねえも。",
"何も、先が暗いからって、おっかねえごとなんかねえだ。渡る世間に鬼は居ねってがら。",
"併し考えで見ると、森山の旦那が、あそこの土地を売らながったのだって、ああして困ってのだって、俺等を乾干にしめえど思ってのごとなんだがらな。それを考えると、此方でだって、ああして困ってんのを見れば、全然小作米をやらねえじゃ置げねえがらな。お房には気の毒だげっども。",
"斯んなごとになんのなら、あそこを売ればよがったんだね。自分だけでも助かったのにさ。",
"売って、その金を此方さ廻してくれれば、問題は無かったのさ。それを森山の旦那は、他の地主等、土地を売払って小作人を困らせでるがら、自分だけは、意地でも売らねえって気になったのさ。ふんでも、皆んながああして売った処さ、自分だけ頑張って、島のように残して置いたって、何になんべさ。頑張るのなら、皆んなで頑張らなくちゃ。",
"ほだからって、恨みってえことは言われしめえ。殺すようなごとしてまで取立てる世の中なんだもの。",
"誰も、恨みごとなんか言わねえ。ふむ。旦那が気の毒だと思ってのごった。"
],
[
"可哀相に、遠くさやらねえで、森山の且那のどこさ、金をやる代りに、働きにやるってようなごと出来ねえのがえ? 東京だなんて、そんな遠くさ行って了ったら、俺は生きているうちに、再度と会われめえで……",
"婆さん! 丈夫になっていろな。五年や六年位は、直に経って了うもの。そのうちに、鶴だの亀らが大きくなったら、俺家もよくなんべから。"
],
[
"旦那! どうもこれじゃ出そうもごわせんな。一つ、水揚水車を拵えちゃどうでごわす? 窪地に、一っぺい水があんのでごわすから。",
"どうしても出ねえかね? どんなことをしても? 出ねえければ、それゃ、水揚げ水車でもなんでも拵えるより仕方がねえがね。娘を売ってまで小作料を持って来られちゃ、どんなことをしてだって水をあげてやらねえと……"
],
[
"今の先っきまで踏んでだっけがな。ほんとに?",
"居眠して、水さ落ちたんであんめえかな?"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学集・11 「文芸戦線」作家集(二)」新日本出版社
1985(昭和60)年12月25日初版
1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「黒い地帯」新潮社
初出:「新潮」
1930(昭和5)年1月号
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2002年3月12日公開
2005年12月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"無理ってほどでもねえげっと……拾わねえうぢに、みんな、雀に喰ってしまうべと思ってや。せっかくとったの……",
"落ち穂ぐれえ喰ったって。――そんより、医者さでも掛かるようになったら、なんぼ損だかわかんねえべちゃ、爺つあんはあ!",
"うむ。それもそうだな、ほんじゃ、おら、今日は、休ませてもらうべかな。"
],
[
"なあ長作。この山茶花は、ふんとにいい花、咲くちゃなあ!",
"…………"
],
[
"なんて言ったって、こんだけの山茶花、この界隈に無えがら……",
"山茶花など、どうだって……それより、早ぐ寝で休んだらいかんべな、爺つあんは。"
],
[
"砂糖なんかいらねえぜ、おら。薬だもの、嚥み辛いのなんか、仕方がねえ。",
"卵が、なんぼか溜まってる筈だべちゃ。そいつでも売らせてや。うむ、万の野郎に売らせで。"
],
[
"もう沢山だ。おもん、こんで沢山だ。",
"ほんじゃ、ゆっくり休ませえ。薬も拵えで置ぎしから。"
],
[
"ほだから、まず、爺つあまに訊いてみせえ。",
"駄目だったら、爺つあまが、今、病気だし、この木は、大切にしてんのだから。",
"ほんじゃ、爺つあまに、おれ、直接に、訊いで見んべかなあ?"
],
[
"爺つあんが大切にして育てだ山茶花だもの。今まで、どこから売れって言われでも、売んねえでだ山茶花だもの……",
"いいがら長作、取り換えでもらえ。俺は、本当になんにもいらねえ。こんなに大切にされで、俺、なんにもいらねえ。俺、金でも溜めでいで、その機械買ってやれんのだらえいげっとも……山茶花など! それより、汝等、なんでも楽出来れば。――俺、こんなに大切にされで……"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「文章倶楽部」
1927(昭和2)年7月号
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2007年7月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"房枝さん、どうかしたの? え?",
"頭が痛いんです"
],
[
"拾わねえ、おれは",
"おれも拾わねえ"
],
[
"あ、田中の奴、おれらが畑から来たとき、ここにいて先生の服をいじってたっけが……",
"田中はどこへ行った?",
"田中は落ち葉を運んでいったから、いまに帰ってきます"
],
[
"きみはぼくらが畑にいるうちからこっちへ来て、いちばんにこっちへ来て、先生の洋服を弄っていたそうじゃねえか?",
"ぼくはね、ぼ、ぼ、ぼくはね、先生の洋服を、ま、ま、窓へかけてやっただけだよ。ただ、窓へかけてやっただけで、弄らねえよ、ぼくは",
"では、先生の服は落ちていたのかい?"
],
[
"はい。お、お、落ちていました。そして、ど、ど、ど、どこかの犬が咥えて歩いていましたから、そ、そ、それを取り返して、ま、ま、窓へかけておいただけです",
"うむ……"
],
[
"え、蟇口をなくしてしまって……",
"まあ、お落としになったんですか? ポケットへお入れになっておりましたの?",
"確かに入れておいたはずなんだが……",
"では、一応わたしのほうの生徒にも訊いてみましょうか?"
],
[
"房枝さん、あなた本当に知らないのね",
"…………"
],
[
"房枝さん、あなたはどうして正直に言えないの? ではいいことよ。あなたのお父さんに来ていただいて、何もかもみんなお話しするから……",
"先生"
],
[
"とにかく、こうなってはどんなことをしたって訊こうなんて無理ですから、二、三日の間、鈴木先生のところへ預けることにして、学校も休ませておいて、よく気を静めさせたら、あるいは自分から言うかもしれませんから",
"意地っ張りな! ほんとに",
"では、千葉さん、あなたはお帰りになってください。房枝さんは今夜から鈴木先生のところへ泊めてもらうことにして……鈴木先生も房枝さんを特別かわいがっていたようですし、房枝さんもことに鈴木先生を慕っているようですから。……かえってそのほうが怜悧な方法だと思いますから……"
],
[
"わたしが吉川先生の洋服のポケットに手を突っ込んで物を探ったのは本当ですけど、それは蟇口ではなかったのです",
"蟇口でなくて、なんだったというんです",
"それはどうぞ、いま、ここでは訊かないでくださいまし。いまに何もかも分かるときがまいります。かわいそうに、この部屋は房枝さんの拷問に遭った部屋ですから、わたしもこの部屋で拷問されたいのですけど、いまはなにも訊かないでおいてくださいませ。あの蟇口をとったのはわたしでもなく、もちろん房枝さんでもなく、それがだれだったかいまに分かるときがまいります",
"いったい、だれなんです! それは?",
"それをお話しするのには、わたしが吉川先生のポケットから何をとったかということからお話ししなければ分からないのです。しかし、わたしはいまのところそれを申し上げにくいのです。わたしの口から申し上げなくても、いまに何もかも分かって、わたしも房枝さんも明るみへ出られるのです。吉川先生が近々のうちに結婚をなさるそうですけど、吉川先生が結婚をなされば、それで何もかも分かりますから",
"え? 吉川先生が結婚すれば分かるんですって? どういうわけです",
"おかしい話ですけど、吉川先生の結婚が、わたしも房枝さんもそんな人間ではなかったことを証明してくれるのでございます。それまでなにも訊かずにおいてください",
"いや、なにもいますぐ聞かしていただきたいとは申しませんがね",
"わたし、これから房枝さんのお墓へお参りに行って、通じないまでもお詫びを申してまいりたいと存じますから……"
],
[
"この蟇口のことですが、これは事実なくなったんで、決してわたしの意識的にやった卑劣な手段じゃないんです。意識的にこういうことをやるくらいなら、わたしから結婚のことを言ってやるはずはありませんから……",
"しかしだね、それはきみの言うとおりとして、学校としての責任をどうするんだね",
"わたしと鈴木女教員の恋愛、つまり自分たちがポケットの中で手紙を交換したことは、発表していただいても仕方がありません。二人の自殺がそこにあるのですから。そしてわたしは、責任上教育界から身を退くつもりです"
]
] | 底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年8月10日初版発行
入力:大野晋
校正:しず
1999年6月10日公開
2011年8月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000722",
"作品名": "錯覚の拷問室",
"作品名読み": "さっかくのごうもんしつ",
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"名読み": "としろう",
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"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
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[
"全く驚いたよ。山川牧太郎が星田代二だとは。七年来お尋ね者の、五万円籠抜詐欺犯人が、大きな面をして、この帝都の真中にのさばっていようとは、誰だって考え及ばないからね",
"そこが彼奴のつけ目だよ。隠すには曝せ、というのは、探偵小説の第一課だからね。新聞社や雑誌社に、やたらに写真を撮らせるところなんか、大胆と云おうか、天才と云おうか、驚嘆に値するね",
"山川牧太郎時代の写真が一枚もないもんだから、ずらかる前に、野郎、入念に処分しちまってたもんだから――当局もあざやかに翻弄されてた形だよ"
],
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"そのことなら――僕ア、星田代二という探偵作家の出現当時から疑惑の眼を向けていたのだよ。君も、僕と星田が飲友達だってことを知っているだろうが、元来、僕が星田に近づいて行ったのも、なんとかして奴の尻尾をつかまえたいという遠大な志を抱いたからなんだ。しかし、彼とてしたたか者、なかなかどうして尻尾をつかませるようなへまをやるもんか。で、すっかり手を焼いてしまった僕は、幾度、その執拗な志を抛棄しようと思ったかわからないんだ。しかし、あの、七年前の煽情的な事件を思い出すと、投げようとする僕の中に、又、新な勇気が湧き起るのだったんだ。ところが宮部京子事件の起る三日前の晩、君もすでに知っている通り、銀座裏のカフェで飲んでいた星田と津村と僕とは、星田に脅迫状めいた手紙を書いたとおぼしき二人連の男女に会ったんだが、その時、その洋装の女をどこかで見たような女だがと直感したんだ。しかし、いつどこで会ったのかどうしても思い出せない。ところが、あの事件――宮部京子事件の日、上野の発明博覧会場から、星田と津村と三人で、件の男女の後をつけて行く自動車の中で、ふっと僕は思い出したんだ。これは素晴らしい! と、誰もいなかったら、僕は叫び出したかも知れない。僕は内心の興奮をおさえて、理由を構えて二人と別れた。そして、後々の言い訳のために、本石町の医療機械屋にちょっと寄って、それから、真直に家に帰って、切抜帳をひっくり返して見たんだ",
"誰なんだ、その女は?"
],
[
"浦部俊子",
"浦部俊子? あ、あの――馬鹿な。あの女性は君、死んでいるんだよ。君、君ァ、すこしどうかしていないか。それとも浦部伝右衛門の娘の浦部俊子とは別の――とでも云うのかね",
"なんの、なんの。山川牧太郎に五万円かたられた浦部伝右衛門の娘の浦部俊子さ。成程、あの五万円は浦部伝右衛門の財産の殆んど全部だった。そして、そのために、俊子の縁談がこわれてしまって、彼女は房州の海岸で投身自殺をしてしまった。そのために伝右衛門は発狂して松沢村の癲狂院に送られてしまった。それにも拘わらず、僕は銀座裏のカフェで浦部俊子に会ったんだ。この言葉が何を意味するか、物おぼえのいい君にわからない筈はないと思うんだが",
"うむ、そうか。わかった、わかった。浦部俊子に一人の妹があった。あの娘が順調に生長していれば、丁度二十歳前後、――当時の俊子と同じくらいの年恰好になる",
"そうだ、そうだ。しかも、その顔かたちが、俊子と瓜二つに生長しているんだ。切抜帳の俊子の写真とそっくりなんだ",
"すると、つまり、今度の宮部京子事件は、山川牧太郎に対する復讐なのか?",
"いや。それは分らん。実をいうと、山川牧太郎と星田代二が同一人だということすらも、今君に会って、前科調書の結果を聞くまでは、確たる信念は僕になかったのだから。だから、あの洋装の女が、果して浦部俊子の妹なりということも、ただ、僕の想像にすぎないんだ。それから、彼等が、田原町の銃砲店と、本石町の医療機械屋で何を買ったかということも、僕には不明なんだ。僕なんかが、口出しをするまでもないことだが、先ず、ここらあたりから調査の歩を進めて行ったら、何とかものになるのじゃないかね。では、これで僕は失敬するが、この特種、二木検事の談として、今日の夕刊に掲載していいだろうな",
"き、君、そりゃアちょっと待ってくれないかな"
],
[
"君、スチールを見せてくれ。女優のスチールだ",
"スチールと云ったって、沢山あるんだから。誰の写真を探すのかい?",
"それが分ってるくらいなら……",
"すこし変だぜ"
],
[
"これだっ! これ、これは何という女優かね?",
"三映キネマの如月真弓という女優だよ。今、やっと売り出しかかっている女優なんだ。そら、いつか、君と観に行った宮部京子主演の『東京哀歌』で、ステッキガールになった少女がいたろう",
"あっ! そうか、道理で、どこかで見たことがあると思ったんだ。それじゃアなんだな、あのこの間殺された宮部京子と同じ三映キネマの女優だったんだな。うーむ"
]
] | 底本:「「探偵クラブ」傑作選 幻の探偵雑誌8」光文社文庫、光文社
2001(平成13)年12月20日初版1刷発行
初出:「探偵クラブ」
1933(昭和8)年3月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2008年4月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047759",
"作品名": "殺人迷路",
"作品名読み": "さつじんめいろ",
"ソート用読み": "さつしんめいろ",
"副題": "09 (連作探偵小説第九回)",
"副題読み": "09 (れんさくたんていしょうせつだいきゅうかい)",
"原題": "",
"初出": "「探偵クラブ」1933(昭和8)年3月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-05-12T00:00:00",
"最終更新日": "2017-05-07T00:00:00",
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"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
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"底本名1": "「探偵クラブ」傑作選 幻の探偵雑誌8",
"底本出版社名1": "光文社文庫、光文社",
"底本初版発行年1": "2001(平成13)年12月20日",
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} |
[
[
"何をお使いになったのですか?",
"そんなことがわからんでどうする?"
],
[
"実験をやったらどうだ? 実験を! 外科医術は臨床の方が大切だぞ",
"はっ!"
],
[
"殊にも君は手先が不器用だから、執刀の練習をしっかりやって置かんと、外科医になどなれんぞ",
"はっ!"
],
[
"併し、麻酔剤が無くちゃ、痛いよ",
"痛いのなど我慢するわ。我慢していれば、後から、気持よくなるでしょう。構わないから早くなさいよ",
"併し可哀想だなあ",
"――だって、あなたは、手術をしたいんでしょう? 構わないわ。我慢しているから早くなさいよ"
],
[
"こらっ! おい!",
"待て待て!"
],
[
"署長はおいでにならないでもよくないですか? 私達三人だけでも……",
"いや、儂も、一緒に行くよ"
],
[
"実は、岡埜先生に、お話して置き度いことがあったものですから、儂も一緒に来たのですが……",
"それは又……",
"岡埜先生! 御迷惑でも、署までおいで下さいませんか? 私達の前で、この青年の、心理試験をやって頂き度いのですよ。首無し死体事件の端緒が掴めそうですから",
"それは参りましょうが……",
"では、自動車の中で、寛り話します。それはそうと、岡埜先生は、眼鏡が無いと、御不自由なのじゃありませんか?",
"いや! それほどじゃないです"
],
[
"岡埜先生! あの青年は、首無し死体事件の犯人は先生で、被害者は先生のお嬢さんだと、熱心にそう云っているのですよ",
"ほう! それは面白い。私に娘があるものと思っているのですな?",
"――そうなんです。尤も、先生を、岡埜精神病院長と思っているわけではなく、笠松と云う外科の博士と信じていて、その笠松博士の令嬢に恋情を寄せていたらしいのですが、笠松博士と錯覚しての先生を酷く怖れていながら、矢張、令嬢への恋情に繋がれていたらしく……"
],
[
"あの青年は又、彼女を、何うして先生のお嬢さんだと思っていたのでしょう?",
"彼女は、私の顔を見さえすると(お父さん!)と云っていたのですよ。そして又あの青年は、私の顔を見さえすると(笠松先生!)と云って、直ぐ外科医術上の質問をするのですなあ。あの青年が、私の病院へ来たのは極く最近なのですが……"
],
[
"あ!",
"何か御用だったのでしょうか?",
"あ!"
],
[
"実験のお手伝いなのでしょうか?",
"君でないと困るものだからね",
"併し、僕のような不器用な人間が、果して、外科医として立つことが出来るのでしょうか?",
"今は、手先の問題じゃなく、頭脳の問題だからなあ",
"僕も、頭脳の方には自信を持てますが、手先の方には全然自信を持てないものですから。この前も、僕は、自分の不器用なのに悲観して逃出したんです。先生の研究の助手にして頂いて、先生と一緒に研究の出来ることは僕に取っては非常に嬉しいことですが、併し、何時までやっていても、外科医として立つことが出来ないのなら、全く仕方のないことですから。でなかったら、僕だって、逃出すのではなかったのですが",
"手先よりも、君、頭脳の問題だよ",
"笠松先生! 併し、外科医術の理想が、首と胴との接合として、そんなことが果して出来るのでしょうか?",
"研究は要するだろうが……"
],
[
"何をお使いになったのですか?",
"そんなことを知らないでどうするんだ"
],
[
"それで、この事件の裏に、何か犯罪は無いものでしょうか? 唯単に、自分の手先の不器用なのを悲観してのこととすると、幻想が少し念入りじゃないですか? 笠松と云う外科医の先生が、何処かに、実在しているような気がしているんですが……",
"何かそんな、幻想の動機になっている人が、何処かにいるのでしょう"
],
[
"それで、貴方は外科医なのですか?",
"外科医だなんて、私あ、そんな、立派な人間じゃありません。私は人形師ですよ。人形造りなのですよ。西谷さんを知っているのは、西谷さんが私の家の二階に下宿をしていたからでして……"
],
[
"いや、外科医術の最大の理想と云うのは、首と胴との接合せなんだそうですがね",
"そりゃあ、勿論、そこまで行かないと、それから云うと、私など、人形の医者にしちゃあ、立派な博士だ。笠松博士と云うところかな……"
],
[
"それもそうだが、まあ、怒らないでくれ。死ぬには死んだが、しかし、そこがさすがは笠松博士だって。二階へ行って御覧! 以前のようにちゃんと甦っているから",
"二階に? 僕の部屋にかね? それで、死んだのも、嘘なのですか?",
"兎に角、二階へ行って、何んなものか、笠松博士の腕前を見ておいで"
],
[
"果してそんなことが……",
"頭をちょっと持っていてくれ"
],
[
"――そんなわけで、私が手にかけて殺したわけではなく、医者の死亡診断書の通りなので御座いますが、その髪を抜いたり眉毛を抜いたり、その上に八つに切り刻むなど、随分と残酷なことをいたしました。今になって考えて見ると、我ながら、娘が可哀想でなりません。この老耄めを、御十分に、罰して下さいまし",
"その人形は病院へ借り度いものだな? 西谷の病気は癒るかも知れないぞ。その人形で"
],
[
"それはどうぞお使い下さいまし。西谷を欣ばしたいばかりに拵えた人形でしてな。それが飛んだ結果になりましたけど、西谷をもう一度以前の西谷にして頂けたら、私もどんなに嬉しいかわかりません",
"爺さんに犯罪意志の無かったことは十分に認める。情状酌量すべきものが十分ある。併し死体遺棄罪として一応は検事局へ……それから、西谷は、市立精神病院の岡埜博士の御手元へもう一度……爺さん! 決して心配などせんでいいから……"
]
] | 底本:「「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10」光文社文庫、光文社
2002(平成14)年2月20日初版1刷発行
初出:「新青年」博文館
1932(昭和7)年11月号
入力:川山隆
校正:noriko saito
2011年1月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "051274",
"作品名": "三稜鏡",
"作品名読み": "さんりょうきょう",
"ソート用読み": "さんりようきよう",
"副題": "(笠松博士の奇怪な外科手術)",
"副題読み": "かさまつはかせのきかいなげかしゅじゅつ",
"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1932(昭和7)年11月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-03-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
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"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
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"底本名1": "「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10",
"底本出版社名1": "光文社文庫、光文社",
"底本初版発行年1": "2002(平成14)年2月20日",
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[
[
"今日も、遅いんだね。",
"明日は日曜だから。どう? あなたの職業の方は。やっぱり駄目?",
"うむ。どうも……"
],
[
"あなた! 今日は、お出掛けにならないんですの!",
"あっ! 出掛けるんだ。"
],
[
"厭でも、乗りかけた船だから、仕方が無いわね。",
"うむ。"
],
[
"まあ、静枝さん! どこへいらっしゃるの?",
"…………"
],
[
"遊びに、いらっして下すったの?",
"…………"
],
[
"静枝さん。ゆっくりして行っていいんでしょう?",
"ちょっと失礼するわ。",
"あら! どうして?",
"廻らなければならないところがあるのよ。",
"どこへいらっしゃるんですの?",
"約束があるのよ。ちょっと、この先に。――恵ちゃん、本当に大きくなったのね。"
],
[
"やんちゃでしょうがないのよ。",
"おばちゃんに、接吻をして頂戴よ。ねえ! 接吻をして頂戴よう。"
],
[
"ねえ! 接吻をして頂戴よう。厭なの! 厭ならいいわ。",
"静枝さん! 何をするの? そんなこと止して頂戴!"
],
[
"まあ! どうして?",
"――どうして? もないわ。それを私に訊くの?",
"だって、あたし、わからないわ。",
"私、何も知らないと思っているの? あなたとはもう、絶交よ!",
"絶交?",
"もちろんよ――接吻泥棒!",
"接吻泥棒?",
"知らない!"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年9月16日公開
2005年12月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000723",
"作品名": "接吻を盗む女の話",
"作品名読み": "せっぷんをぬすむおんなのはなし",
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"初出": "",
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"名読み": "としろう",
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} |
[
[
"アキの方からチャセゴに参った。",
"何を持って参った?",
"銭と金とザクザク持って参った。"
],
[
"歳祝に行ったって一升餅持って帰れめえし、それより後のチャセゴの来ねえうちに早く寝た方がいい。",
"馬鹿! 一升餅くらいで、一里からの雪路、吉田様まで、誰が行くものか。俺の欲しいの、餅なんかじゃねえ。銀の杯を欲しいのだ。",
"欲しくたって……",
"吉田様じゃあ、歳祝いというと、二千だか三千だか、自慢たらしく銀の杯出しゃがるから、餅の代わりにもらって来てやるべ。"
],
[
"吉田様さチャセゴに行くべと思って出て来たんだが、なんにも芸事仕込んで置かなかったから、踊りでも踊れるような真似して酒飲んで来んべと思って。しかし、それじゃあんまり芸のねえ話だが、万氏の方に何か二人でやれる種はねえか。",
"俺も、種のねえのに出て来て、戻るべかと思うていたところだ。貴様が踊る真似するなら、俺あ、歌でも歌うべ。それで悪いって法はねえんだから。",
"それにもう芸を仕込んで行く奴等は、今ごろは、もうとっくに行っているから、俺等、何も芸しなくたって、酒と餅にゃあ大丈夫ありつけるさ。"
],
[
"何を持って参った?",
"銭と金とザクザク持って参った。",
"祝いの芸は?"
],
[
"次に続く太夫の芸は?",
"はっ! 私しゃ……"
],
[
"早く始めねえか?",
"私しゃ……私しゃ……私の芸はその……"
],
[
"手品?",
"それは面白い。"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:湯地光弘
1999年12月6日公開
2005年12月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000725",
"作品名": "手品",
"作品名読み": "てじな",
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"姓": "佐左木",
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"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
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"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
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"底本名1": "佐左木俊郎選集",
"底本出版社名1": "英宝社",
"底本初版発行年1": "1984(昭和59)年4月14日",
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"校正に使用した版2": "",
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"入力者": "大野晋",
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[
[
"地図の中央を流れている川の、水の色が変ったのであります。以前は綺麗な水が流れていたから水色になっていますが、川上に住宅地が出来てから、住宅の人達が、塵埃だの洗濯水だの、いろいろな穢いものを川へ流すので、現在では、黒い水が流れているのであります。",
"川の、水の色か? うむ。"
],
[
"併し、地図の上で川を水色にしてあるのは、第一の目的が(これは川だぞ)と云うしるしなので、黒い水が流れているからと云って黒く描いたら、道路か何かと間違われやしないかな? 誰か他に……",
"学校の前から、住宅地の方へ行く、真直ぐな四間道路が新しく出来たのであります。",
"学校の前から住宅地の方へ行く新道。よろしい!"
],
[
"わからないかな! よしっ! じゃ一つ先生が見つけて見よう。いいか? この煉瓦色の部分だ。これは前にも言ったように、人家の建混んでいる都会の色、市街地の色なのであるから、この地図の上で、当然この色が塗られていなければならない部分に塗り落されているように思うが……誰か、わかる人?……",
"市街地は学校の前まで膨らんで来ているのに、地図の上では、用水堀のところまでが市街地のようになっているのであります。",
"よろしい! そうだ。去年の今頃は、市街地はまだ用水堀のところまでしか膨らんで来ていなかった。そしてこの学校は、この地図の上でもわかるように、青い麦畠の真中にあった。ところが市街地は僅か一年の間に、丁度、校長先生のお腹のように、斯う弓なりに学校の前まで膨らんで来た。そしてこの小学校は、田舎の小学校だか、都会の小学校だかわからなくなって了った。"
],
[
"ところでと、一体、どうして市街地は、斯うどんどん拡って行くのだろう? まさか校長先生のように、御馳走をどっさり喰べたと云うわけでもあるまい。",
"人口が殖えたからであります。",
"うむ。それもたしかに一つの原因だ。はいっ!",
"田舎の人が、百姓を廃めて、誰も彼も町へ行って商人になるからであります。",
"それもあるだろう。他に……",
"工業が発達して来たからであります。"
],
[
"おおっ!",
"どうしたんだろう?"
],
[
"併しね。此処へ、別に働かねえでも段当り百八十円からの金が湧いて来るってえのに、そこを畠にしていたんじゃ、全く勿体ねえですからなあよ。",
"勿体ねえ? ハハハ……"
],
[
"勿体ねえって云うんなら、住宅にすんのこそ勿体ねえ話だ。畠にして置けえあ、それこそいろんな食う物が湧いて来るのにさ。住宅にして了ったら、せえぜえ、塵埃が関の山だべ。",
"併し、黙って腕組みしていて、百八十円ずつの地代が這入って来んのですかんな。"
],
[
"幾ら地代が這入ったって、地代がその土地から湧くもんじゃあるめえがな。他所で働いて取って来る金じゃねえか?",
"何れにしろ、私等の懐中さ這入る分にゃ同じことだから、地主としちゃ、やっぱり地代のいい方さ貸すことになるね。全く、借手の誰彼を問題にしちゃいねえんだ。問題は、唯、地代なんだから……"
],
[
"それさね。",
"そう云うことになれば、何んかで、出来るだけのことはいたしますから。店を開くと云うような場合には……"
],
[
"資本金でもあれば店も結構だが、われわれ、どうして商売など始められんべ? 工場さでも通うより仕方がなかんべ。",
"そこですよ。私の言っているのは……勿論、大したことは出来かねますがね。まあ、及ぶだけのことは……",
"併し、皆んな商売をやり出したら、一体、誰が買うんですかね?"
],
[
"ですから、それは、斯うしてこれから、住宅地を貸すことにして、どんどん部落へ人を呼ぶんですよ。そうするてえと、部落はどんどん発展して来る。私達は地代がどっさり這入るし、あんたがたは商売が繁栄するってことになるじゃありませんか?",
"それはそうですね。じゃ一つ、御援助を願って、商人になりますかな。",
"俺の言ったのは、そう云う意味じゃねんだ。今に言わなくたって、わかるときが来るさ。一体全体百姓を廃めて、皆んな商人になれなんて、何処の世界にそんな馬鹿な話があるんだ。"
],
[
"ちょっと考えると、斯うして遊ばして置いちゃ損なようだがね。なあに、町が直きそこまで拡って来てんのですもの。三人が一緒になって頑張ってれあ……",
"斯うして置けあ、なあに、一年も経たねえうちに、もう、皆んな住宅になって了いまさあ。"
],
[
"どんなにしても、二間道路よりゃ狭く出来ますめえが、坪十円で売って貰うことにしても……",
"馬鹿馬鹿しい! あんた! 道路にする土地を買っていられますか? 買手があって、われわれの方から売るんなら別問題ですがね。われわれは寄附して貰うんですな。",
"寄附して貰えるもんなら、そりや、勿論、それに越したことはありませんがね。",
"そこですよ。あんた!(土地の発展のため!)と云うことで、店を出したがってる奴等をあおるんですなあ。尤も、そうなれば、われわれの住宅地へだけ引張ると云うわけには行きますめえ。その辺へ二三本、余計な道路も引張らなくちゃね。",
"それで寄附してくれますかな? 一坪幾らって、皆んな勘定していますからなあ。",
"なあに、皆んな寄附しますよ。百姓を廃めて、店を出したがっている奴等ばかりですもの。店を出すにあ、どうしたって、自分の地所続きに賑かな道路がほしいですからなあ。"
],
[
"だって、あの人達は、その方が得なんだべから……",
"得かも知んねえが、得だから得だからで、耕す土地を皆んな町場にして了ったら、人間は一体、何を食ってればいいんだよ? 町場になって、工場が出来たからって工場からは食うものが出来めえ? そう云うと俺ばかり馬鹿に食意地が張ってるようだが……",
"工場から、食う物は出来ねえか知んねえが、俺、工場さでも行って働くより仕様がねえ。耕す土地がねえのだから、どうも仕様がねえからな。"
],
[
"われわれ、百姓でありながら、始めっから土地を持ってねえのだから、どうも仕様がねえ。働く分にゃ、畠だろうが、工場だろうが、何処で働いたって同じことだろうから。",
"それさ。われわれの暮しにだって、工場で出来たものも必要なのだからな。",
"俺、工場さ行くだ。百姓が出来なくなっても、俺、工場でせえ使って貰えば、それでいいだ。"
],
[
"冗談は冗談として、住宅の人達にも気の毒ですし、土地の発展のためですかんね。",
"商売でもやろうて者にゃ発展かも知んねえが、われわれ小作百姓にゃ、その反対でさあ。これまで作っていた地所は、やれ工場の敷地に貸すの、やれ住宅に貸すのと言っちゃ、片端から取上げられるし、砂利を敷いた道路の真中で百姓が出来るものでねえしさ、ね。",
"併し、いくら百姓だからって、道路を歩かねえってことはねえんですからね。",
"だから、わたしゃあ、砂利の敷いてねえどころを歩きますあ。どうせ、道路いっぱいには、敷くわけであんめえからね。何処の道路だって、泥溝際のどころは少し残してあるもんだから。"
],
[
"構わねえようだねえ。",
"構わねんだね? そりゃ、一体、甚さん、どう云うわけかね?",
"何んのわけで、そんなことまで調べるんだね? 一体その寄附っての、何処から出た話なんだね? 手前達が、勝手にきめて来て、俺が寄附しねって云うの、手前達にせえわかったら、そんでいいじゃねえか?",
"まあまあ、甚さん、そう腹を立てねえで……"
],
[
"面白くもねえ。人を調べるようなことしやがって……",
"では又、気が向いたら寄附して貰うとして……"
],
[
"なあに、工場さ通って、飯せえ食いれあ、われわれに取っちゃあ、何方だって同じごったから……",
"わたしゃあ、どんなことしたって、そこえらの工場だけは行かねえ。面白くもねえ。一体、何んの機械を拵えんだか知んねえが、食う物の湧いて来る土地を潰してそんな工場なんか建てやがってさ。最後に、その機械でも食ってるつもりか? 俺は矢張、何処までも百姓を続けるだあ。"
],
[
"うむ。俺の方はまあ、どうにかやってるが、なあに、相変らず追われ通しだ。おめの方はどうだ? 少しは景気がいいのか?",
"景気がいいどこじゃねえ。悪くて仕様がねえよ。日給一円八十銭で、家族七人と来ちゃ、景気のいい筈がねえじゃねえか? そんで、近近のうちに何んかおっ始まりそうなんだよ。",
"やっぱりな。やっぱり、じゃ、工場だなんて大きな顔していても、景気はよくねえんだな?",
"工場は景気がいいんだ。工場の方じゃ、どんどん儲かって、又、分工場を建てるって話だからな。われわれ、そんで黙っちゃいられなくなって来たわけさ。幾ら工場の方が大きくなったって、われわれの賃銀は一向あがらねえんだからひでえや。",
"大きくなるもの、大きくなる一方だ。われわれは又われわれで……",
"今度の分工場ってのは、とても大きいらしいんだ。そら、甚吉さんの耕っている畠のところに、川に沿うて桑畠があるな。なんでもあそこらしいって話だぞ。",
"俺の畠のとこへ建てるって? 一体、工場の野郎共はなんと云う野郎だべ! この俺を、一体、何処まで追払うつもりだんべ? あそこへ工場が出来れあ、俺の耕ってる畠なんか、住宅に貸すからって、直ぐ又取上げられて了うのだから……"
],
[
"だからよ。甚さん! 工場はそうして大きくなって行くのに、われわれは一向に……",
"一体、何処まで手を拡げて行くつもりなんだ? あんなどこへまで工場を建てるなんて。糞面白くもねえ。",
"われわれ、われわれの言い分を通さねえうちは、どんなことがあったって建てさせるものか。俺、何時か、甚さんに言ったことがあったけがよ。耕地を潰して工場を建てたって百姓をやめて職工になるものがあったって、金目にしてその工場から、耕地から収穫していた以上の収穫があればそんでいい筈だって。――ところが、いくら収穫があったって、われわれ、同じことなんだ。耕地を潰しちゃ奴等だけ膨らんで、われわれは一向に同じことなんだ。"
],
[
"あそこへ工場を持って来るなんて、百姓するものは、一体、何処へ行って百姓をすれあいいんだ?",
"工場の方じゃ、われわれの耕地を潰して置きやがって、幾ら儲かったって、われわれには全然同じことなんだから、そんで、われわれも、黙っちゃいられなくなって来たんだ。馬鹿馬鹿しいにも程がある。"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学集・11 「文芸戦線」作家集(二)」新日本出版社
1985(昭和60)年12月25日初版
1989(平成元)年3月25日第4刷
底本の親本:「都会地図の膨張」世界の動き社
初出:「プロレタリア文学」
1930(昭和5)年6月号
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2002年3月12日公開
2005年12月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"わしは、商売というものが無いから、こうして困っているのじゃが……わしは、その画家なんでな。泊めてもらえないかな?",
"ようがす。泊まんなさい。"
],
[
"そんでも、襖の絵でも描いたら、着物の一枚や二枚は、すぐ出来るだろうがね。",
"それはそうだ。けれども、そんなことを思っていては、ろくな絵はかけんからのお!"
],
[
"あの爺は、再度生老人だなんて、名ばかり偉くて、何もろくなものは描けねえようでがすな。どこから頼まれでも、俺が頼んでも、さっぱり描きいんからな。気が向かねえ、気が向かねえって描きいんでがすからな。",
"そんなごどもがすめえぞ。あの爺様は、――金のことを考えたのでは、ろくな絵は描けねえ。貧乏は苦にならねえ。いいものを描きたいのじゃ――って言ってしたがらね。"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
初出:「宇宙」
1928(昭和3)年9月号
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2007年7月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"帰って来たわよ。",
"まあ! よく帰らしてくれたわね。"
],
[
"姉さん!",
"? ? ?"
],
[
"伸ちゃん! なんなの?",
"わたし、わたし、私もう……"
],
[
"会社の方なのよ。これから、活動に伴れて行ってくれるって言うの。伸ちゃんも一緒に行かないこと?",
"私、一緒に、行ってもいいの?",
"いいも悪いも無いわ。私よりも、伸ちやんを伴れて行って上げようって言うのよ。さあ! 早く支度をなさいよ。"
],
[
"場所がカフェでなければ、一緒に伴れて行くんだけど……",
"いいわ。私一人で帰っているわ。"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年11月15日公開
2005年12月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"婆さん、ほら、水持って来したで。",
"うむ、水!――どうも眼が霞んで。"
],
[
"新田の方はそんなに仕事がひどえのがあ、お美代。――新田さ嫁に行ぐが、鉈で顔剃らせるが――って話は聞いでいだげっとも。",
"なじょして、この辺の男達よりも、もっと荒仕事しさせられんのだもの、新田の方では。",
"女の仕事の荒いの、新田のようだって言ってるぐらいだから……"
],
[
"おらは、どこさも行がねえもは、婆さん。一生家にいで、独身で、叔母様ではあ、この家にいで稼いで助けるもは。おら、どこさも行がねは。",
"うむ? それさな。――やっぱり、新田さ行ぐより、町さ行った方がよがったがな。"
],
[
"俺も、若え時、牛馬のように――やっぱり、町の方さでも片付けば……",
"町さもどこさも、おらどこさも、一生どこさも行かねえは、婆さん。"
],
[
"それさな。こっちの家の姉様が、こんなに大っきくなって、嫁御に行ってるぢのだがら。",
"仙台の方さ行って、大変儲けだぢ話聞いだっけ……",
"なあにな。俺もな婆様、ひでえ長患いしてしまって、儲げだ銭どこでなぐ使ってな。"
],
[
"あ、爺様や、こんなごどしねえだって。",
"ほんとに少しばりだげっとも。――ほう、かれこれ正午だ。どうも日が短けくて。"
],
[
"うむ。――今年は、稲鳰、六つあげだようだな。小作米出した残りで、来春までは食うにいがんべな。",
"鳰一つがら、五俵ずつ穫れでも……婆さん、そんな心配までしねえだって。さあ、風邪引ぐがら。",
"うむ。小便しさ起ぎだのだげっとも、動がれなくなったはあ。――俺、米の無くならねえうぢに死にでぇんだ……",
"そんなごと言って、まだ死んでられめちゃ、婆さん。"
],
[
"ああ、美味がった。甦えったようだちゃ。身体も温まって……",
"ほんでは、これでいいが婆さん。"
],
[
"死んでも忘れねえぞ、お美代。",
"寒ぐねえが、婆さん。",
"なあ、お美代、大崎さは行ぐなよ。なんでもいいから、楽の出来っとごさ行げ。俺死ぬ時、汝は、町場さ嫁にやるように遺言して死ぬがら……",
"俺、大崎など、死んでも行がねえ。婆さんは、まだ枕こんなに濡らして。"
],
[
"昨日な頼んだ蜜柑はやあ? 善三。",
"蜜柑、どこにも、無がった。",
"蜜柑が無がったあ? ほして、銭はやあ?",
"蜜柑が無がったがら、俺、飴玉買った。",
"咽喉渇いて仕様ねえがら、蜜柑買わせっさやったのに、飴玉など買って……ほして、その飴玉はやあ? 汝あ、一人で食ってしまったのがあ?"
],
[
"一人で食ねえちゃ。貞ど菊さもやったちゃ。",
"この野郎は、ほうに、仕様のねえ野郎だ。"
],
[
"ほんじゃ、水持って来て呑ませろ。蜜柑買って来ねえ代わりに。",
"厭んだ。父に怒られっから厭んだ。",
"ほんとに、この野郎まで、なんとしたごったやなあ!……"
],
[
"今朝早ぐ、父と一緒に、大崎さ行ったは。",
"大崎さ? まだ行ったのが?"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「随筆」
1927年(昭和2)年2月号
入力:田中敬三
校正:林 幸雄
2009年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "046182",
"作品名": "蜜柑",
"作品名読み": "みかん",
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"初出": "「随筆」1927(昭和2)年2月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-04-24T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "としろう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Toshiro",
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"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
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"底本名1": "佐左木俊郎選集",
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[
[
"おめえ、本当に試験を受げんのだごったら、みっしり勉強しなげえなんねえんだ。",
"ほだげっとも……"
],
[
"ほだげっとも……ほだげっとも……",
"何、構うごとねえ。家の人達はあの通りみんな不賛成だげっと、俺だけは、汝を百姓にしたぐねえと思って……",
"爺様や継母さんは、(家のごどは考えねで、自分ばり楽するごと考えでる)って言うげっとも、俺は稼いだって大したごとも出来ねえから、何が外のごって……",
"そんなごど……汝あも仲々難儀だ。汝あの実母も、百姓などしねえげ、まだまだ死ぬのでなかったべ……"
],
[
"そんなことは心配しねえでも、まあ、みっしり勉強して……試験を受げさ行ぐ時の旅費ぐらい、父がなんとかしっから、こっそり行って受げて来い。",
"俺、父と二人ばりだら、試験なんか受げさ行かねげっとも……"
],
[
"父は、汝を百姓にしたぐはねえと思って……貧乏さえしてねげ、女学校さもなんさもやりでえのだが、貧乏なばがりに、ろくに書物も買ってやれねえが……",
"ちゃんや! ちゃん!……"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:しず
1999年10月18日公開
2005年12月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000720",
"作品名": "緑の芽",
"作品名読み": "みどりのめ",
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"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"人物ID": "000134",
"姓": "佐左木",
"名": "俊郎",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "としろう",
"姓読みソート用": "ささき",
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[
[
"ヨッキは、まだそんなごとばり。そんな木、なんぼでもある。",
"なあ、父!"
],
[
"誰だべ? ――郵便配達であんめえが?",
"なに? 配達? ほんではまだ、兄つあんどこがらでも来たがやな。",
"なんだ? 巡査様だがもしせねえ。"
],
[
"山遊びなんて、僕もそんな暢気なことはしていられなくなってね。今日は、山巡りに来た序でなものだから……どうも草盗まれて、萱まで刈られんので……",
"あ、ほうしか。"
],
[
"え、山はね。宜がすちゃね……",
"どこを見ても、みんな緑だ。実に新鮮な色彩だ。それに、土の匂いがするし……。ほんに、田舎に限るな。"
],
[
"東京になざあ、こうえな青々したところ、どこにも有すめえもねえ。",
"え。ずうっと郊外、在の方へでも行かなければ……。なんと言っても、田舎のことですね。全く、百姓の生活に限る。"
],
[
"そうで有すべかね?",
"どうも僕なんかには、東京は適当ねえようだね。うるさくって、うるさくって。あれじゃ、気が荒くなるのも無理はねえですよ。ちょっと電車へ乗るんだって、まるで喧嘩腰だもの。――さあ、どうです一本……"
],
[
"ほんでも、せっかく、今までやって、惜しがすぺちゃ。",
"僕なんか、最初っから間違っていたんですね。僕等は、百姓の子だから、百姓をやっていればよかったんですよ。まるで、もぐらもちが陽当に出て行ったようなもんで、いい世間のもの笑いですよ。"
],
[
"百姓もこれ、やって見れば、別して宜いもんでもがいんね。朝から晩まで、真黒になって稼いで!",
"僕には、それがいいんですよ。なんの心配もなく、真黒になって働いて、第一暢気だからね。",
"そうでがすかね。あんまり暢気でもがいんがな。まあ、やって見さいん。",
"百姓の生活が暢気でねえなんて……。僕は、考えただけでも愉快ですけれどね。"
],
[
"市平君は、今どこにいるね?",
"あの放浪者は、今、北海道の、十勝の……先達手紙寄越して、表書きはあんのでがすが。――なんでも線路工夫してる風でがす。",
"ほう、線路工夫! ――市平君でもいれば、梅三爺様も、随分助かるのにな。",
"ほでがす。あの放浪者がいれば……。連れ寄せべと思っても、なったら帰って来がらねえし、今度は、親父が急病だってでも、言ってやんべかと思っていんのしゃ。",
"そりゃ、どうかして呼んだ方がいいね。いつまでも工夫していられるもんでもないし。――僕が一つ、きっと帰ってくるように、手紙を書いてやろうかな?"
],
[
"あ、市平だで……",
"うむ。父病気だぢゅうがら……"
],
[
"ほだら父、父も北海道さ行がねえが? 北海道さ行って、鉄道の踏切番でもすれば……! 踏切番はいいぞ、父!",
"鉄道の踏切番? 洋服着て、靴はいでがあ? 俺に出来んべかや?",
"なんだけな、あんなごと、誰にだって出来る。汽車来た時、旗出せばいいのだもの。",
"ほだって俺、洋服着たり、靴穿いだりして、お笑止ごったちゃ。",
"父は馬鹿なごどばり言って……"
],
[
"一体、開墾して、父、一日なんぼになっけな。",
"ほだなあ、汝いだ頃から見れば、坪あだり五厘ずつあがったがら、七十五銭ぐらいにはなんのさな。天気がよくて、唐鍬せえ持って出れば、十六七坪は拓すから。",
"十六七坪も拓すの、なかなか骨だべちゃ?",
"うむ。ここは、開墾賃もいい代わり、一鍬拓すでねえがらな。深掘りだがんな。",
"踏切番は、初めの中は日給五十銭ぐらいなもんだげっとも、仕事は楽なもんだで、父!",
"五十五銭だっていいさ。日を並べられるもの。俺など、天気の悪えどぎ出来ねえがら、そうさな、一日四十銭平均にもなんめえで、きっと。"
],
[
"ほだから父、北海道さ、俺と一緒に行げばいいんだ。",
"ほだって俺、北海道の土になってしまうの厭だな。いつ帰りたくなるが判んねえし、今ここを去ってしめえば、俺はこれ、自分の家というものは、無くなってしまうのだかんな、これ。",
"ここだって、自分の土地でもあるめえし、どこさ行ったって同じでねえがあ父!",
"ほんでもさ。ここにいれば、これで、一生、誰も去れどは言わねえがんな。――天王寺の春吉らなど皆土地売って行って、今じゃ、帰って来たがっていっちが、ほんでも帰って来ることが出来ねえのだぢゅうでや。なんちたって、生まれだ土地が一番いいがんな。何が無えたって……"
],
[
"ほんでもな、天気がいいがら、少し稼いで来んべで。――まだ、話は晩にでも出来んのだから……",
"俺は父、明日の朝出発のだで。",
"明日の朝? 魂消た早えもんだな。もう少しいでも宜かんべどきに……"
],
[
"ほだって、俺も忙しいがんな。みんな待ってべがら。",
"なんぼ忙しくたってさ。"
],
[
"何升や?",
"二升も買って来う。どっさり拵えて……"
],
[
"ほんでは市平、俺は、少し百合掘って行って来っかんな。",
"うむ。――父も、こうして難儀してより、思い切って、北海道さ行げばいいのに!"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「文章倶楽部」
1926(大正15)年9月号
入力:田中敬三
校正:小林繁雄
2007年7月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"まあ、もげたんで御座いますか。",
"え。あの扉でもって…… 神田ですね。や、どうも……"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版発行
初出:「文学時代」
1929(昭和4)年6月号
入力:大野晋
校正:鈴木伸吾
1999年9月24日公開
2003年10月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "002309",
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[
[
"まあ、なんでもいいよ。",
"でも……"
],
[
"私の手なんか駄目ですわ。節が高くて……",
"いや、ちょっと!"
],
[
"駄目ですわ。私の指は節が高くて。",
"少し短いね。もう少し細くて長いと、この指環を嵌めてやるんだが……それに爪が……"
],
[
"まあ! そんな立派な指環を? そんな綺麗な……",
"指環が立派過ぎると、結局、立派な指というものが無くなるんだ。馬鹿馬鹿しい。",
"ここに一人、綺麗な指の人がいるわ。そりゃ、とても素敵な指よ。もう少しすると来るわ。",
"よし! その人が来たら会わしてくれ。本当に綺麗な指をしていたら、この指環を上げよう。どうせ綺麗な指に嵌めてやろうと思って買って来た指環なのだから……"
],
[
"駄目だ! 指はまあ……",
"だから、初めから駄目だと言っているじゃないの? さあ、私が指を見せて上げた代わりに、あなたの持っている指環を見せてよ。",
"指環はいくらでも見せてやるがね。"
],
[
"まあ、なんて綺麗な立派な指環なんでしょう。",
"この小さいのも、皆んな真珠とダイヤだわよ。"
],
[
"幾ら立派でも綺麗でも、どうせ指環なんてものは、第二義的なものさ。綺麗な指に嵌めてこそ価値があるものなんだ。",
"凄いわね。",
"私、なんだか、恐いようだわ。この指環!",
"恐い? 立派な指さえ持っていれば、恐くなんかありゃしないんだ。さあ、いいかげんにして返してくれ。"
],
[
"実際、おめえの手にかかっちゃ叶わねえな。全くおめえの指は素晴らしい指だよ。俺なんか、今夜はまだ蟇口一つだ。",
"しかも私のなんか、バスの中でなのよ。先様が一所懸命で私に注意しているそのチョッキの、内ポケットで拾ったんですからね。",
"うむ。素晴らしいもんだ。どれ、もう一度よく見せな。おめえの指先も素晴らしいが、それも大したもんじゃねえか。どれ、見せな。",
"見せてあげるけど、手をつけさせるわけには行かないわ。そら御覧。さあ!"
]
] | 底本:「佐左木俊郎選集」英宝社
1984(昭和59)年4月14日初版
入力:大野晋
校正:湯地光弘
1999年12月6日公開
2005年12月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000727",
"作品名": "指と指環",
"作品名読み": "ゆびとゆびわ",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-12-06T00:00:00",
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"名ローマ字": "Toshiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1900-04-14",
"没年月日": "1933-03-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "佐左木俊郎選集",
"底本出版社名1": "英宝社",
"底本初版発行年1": "1984(昭和59)年4月14日",
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"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "大野晋",
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} |
[
[
"わたしになにもそんな、立派な言葉を使わないでもいいのよ",
"はは……どうかしてやしませんか?",
"そりゃ、するはずだわ。何もかも、因を言えばあなたが悪いからよ",
"ぼくが悪いんですって?",
"いちばん悪いのはそりゃあなたじゃないけれど、やはりあなただって悪いわ。いったい、どうしてあんなに逃げ回ったんですの?",
"はは……困ったな。ぼくはちっとも逃げ回りなんかしやしませんよ。ぼくはこれから工場へ行くところなんです",
"工場へ? 工場へだけはおよしなさいよ。あなたはまだ工場へなど行くつもりですの?"
],
[
"大丈夫ですよ。逃げはしないから、大丈夫ですよ",
"ほんとに行かない? どんなことがあっても、工場へだけは行っちゃ駄目よ"
],
[
"行きたくなくたって、行かなければこっちが干乾しになるじゃないですか?",
"まあ! あなたはまだそんな気持ちでいるの? 困るわね。あなたが逃げ回っている間にわたしたちがどんな目に遭ったか、あなたは知らないんですか? あなたは何もかも知っているくせに、よくもそんな馬鹿なことが言えるのね?",
"あなたは人違いをしているんでしょう",
"どうしてあなた、なんて言うの? どうして前のように、おまえ! って言わないの? わたし、前のように、おまえ! って言ってもらいたいわ",
"はは……困った人だな、もういい加減にしてください。工場のほうが遅くなるから……",
"あなたは呆れた人ね。まだ工場のことを言っているの? あなたは自分が逃げ回っている間にどんなことがあったか、本当になんにも知らないの? ごまかしてまた逃げようたって駄目よ。本当にあの工場へだけは、どんなことがあっても行っちゃいけないわ。どんなことがあっても駄目よ"
],
[
"困るな。はは……困った人だな",
"あなたは本当に、なにも知らないの? 本当に知らないなら話してあげるわ。まあ、わたしの話を聞いていらっしゃい! ね"
],
[
"ぼくには、そんな泣き声なんか聞こえませんがね。あなたは頭がどうかなってるのじゃないですか?",
"わたしの頭がどうかなったっていうの? そりゃ、頭もどうにかなりそうだったわ。気がおかしくなりそうだったわ。でもわたし、あなたを捜し当てるまでは、捜し当てるまではと思って、おかしくならないでいたのよ。おかしくならないでいて、あなたに何もかも話してあげなければいけないと思っていたのよ"
],
[
"松島がですか?",
"うん"
],
[
"お! こちらの松島さんはよ、昨夜、夜業をして怪我をしてな。うんで病院のほうへ行ったからよ、そのつもりで心配しねえでいてくれ",
"怪我をしたんですって? ひどく怪我をしたんですか?",
"おれは見なかったんでな、どの程度だかよく知らねえが、大したことじゃあるめえて。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから……",
"で、その病院って、どこの病院なんでしょうね?",
"さあ? おれには分かんねえがな。とにかくよ、心配しねえでてくれってことだから……"
],
[
"今朝はな、おれは工場からの使いだったので本当のことを話せなかったんだどもな。松島さんのことをよ",
"今朝だって、工場から来たんじゃないんでしょう? 松島はどこかへまた、みんなを集めるんでしょう",
"うんにゃ! 人の話だども、それがひでえんだよ。うん、ひでえんだという話だよ",
"本当に、では、怪我をしたんですね"
],
[
"それが、怪我ぐれえのとこならいいのだがよ、こちらの松島さんは機械に食われてさ、胴がまるで味噌のようになったんでねえか! 人の話だがよ。おれは見ねんだどもな",
"そのこと、ほんとなんですの?"
],
[
"人の話で、おれは見ねえんだどもよ",
"そんなことを言って驚かさないでください。松島はいままで本にばかり齧りついていて、工場には慣れていない人ですから、そんなことを言われると本当にしてしまいますわ"
],
[
"だがよ、人の話だども、嘘じゃねえようだでな。なんでも、胴が味噌のようになっても、病院へ持っていくまではひくらひくらと動いていて、熊か何かのように唸っていたそうだで。そして、医者が腹から着物を剥がすべと思ったらよ、ひと唸りうんと唸って、それっきりだったという話なんだがな",
"おじさん! 本当のことなんですの? 本当のことなんですの?"
],
[
"松島さんの、何を、ですと?",
"あの、昨夜は夜業をしたんでしょうか?",
"ここは他の工場と違って、夜業をやらないです",
"まあ! 変ですわ。では、松島の死体はどうなっているんでしょう?"
],
[
"松島さんの死体とね? 松島、重三郎さんですかね?",
"松島重三郎の死体、どうなってるんですの?",
"松島さんが死んだというんですね? 瀕死の怪我人とか死骸ですと、夜中でない限り裏門から出ませんでな。門衛のほうの名簿ですと、松島さんは昨日限り退職されたことになっておりますがね"
],
[
"では、どなたに訊ねたら分かるんですの?",
"明日にしてください。明日もう一度来て、監督さんに会ってください。工場にはもうだれもいませんから"
],
[
"松島の死体は、いったいどうなっているんでしょうね?",
"…………"
],
[
"怪我をしたのなら、どうしてその時すぐに知らせていただけなかったのか、それがわたしにはどうしても分かりませんわ",
"実は、すぐお知らせするはずだったのですが、あまりひどかったものですから、かえってお目にかけないほうがよかろうということになりまして、すぐそのまま病院のほうへ……",
"まるで品物ですのね。あんまりじゃないでしょうか? あんまりですわ! それで、死んだのは本当なんでございますか?",
"まったく、お気の毒ともなんとも……",
"本当のことをおっしゃってください。本当はあなたが、松島にいられたんでは具合が悪いので、どこかへ行ってもらったんでしょう",
"いいや! 本当に亡くなられたんです。これはわずかばかりですが、工場のほうからの遺族慰藉料というわけで、お香典なのですが、まあ、これを何よりの証拠と思っていただきたいんです"
],
[
"まあ! それが松島の死んだ証拠だというんですか? どうして死体をひと目見せてはくれないのでしょうね",
"それはさきほども申しましたように、とてもひどかったものですから、お目にかけたらいつまでもいつまでも目に残ってお困りだろうと存じまして、いっそのことお骨にしてからお目にかけたほうがよかろうということに……、みなの意見だったものですから",
"でも、わたしは見なければ信じられませんわ",
"わたしのほうでは実を申しますと、最初に少しばかり怪我をして、それが原因でだんだん悪くなって亡くなったようにお知らせしたかったのです。なるべく、びっくりさせ申したくないと存じまして",
"どうして本当のことをおっしゃってはくださらないんでしょうかね? あなたのほうでは他の職工さんたちに知れるのが怖くて、表門から出さずに裏門から運んだり、瀕死の怪我人なのに、ちょっと怪我をして病院へ行ったけれども心配はいらないとか、死んでいるのにまだ治る見込みがあるような顔をするんでしょ? それはあなたのほうには都合のいいことでしょうけれど、こちらではそのために、一生涯というものまるで中途半端な感情を持たせられますわ。わたし、ほんとに信じ切れませんわ。どうしても、松島が死んでしまったとは思われないんです。いまにその辺から帰ってくるような気がして",
"わたしのほうでは、かえってそんな風に思っていただいて、一度に気を落とされないようにと思ったものですから",
"いいえ! あなたのほうでは、他の職工さんたちに知られるのを恐れているんです。それくらいのことは、わたしにだって分かります",
"もっとも、それもあります。しかし、そのことはあなたにまで隠そうとは思ってはおりませんのです。こうして何もかも有体に報告いたしましたうえで、国家のためと思って黙っていていただきたいと、口止料というようなものを持ってまいっているのです。社長のほうからわずかばかりですが、こうして包んで寄越しました。……国家のためと思って、どうぞ他の職工たちに知れないようにしていただきたいって……"
],
[
"国家のためですって? ずいぶんおかしいんですのね。松島の死んだのを隠していて国家のためになるのなら、それは黙っておりますとも",
"なにしろ、それを聴きますと他の職工たちが嫌がるもんですから、まあ、士気が鈍るというようなわけで、それで、なるべくはあなたに、どこかここから遠いところへ引っ越していただきたいとも思うんです。ここにあなたが一人でいれば、松島くんの死んだことが長い間にはしぜんと分かってきますから",
"それは困ります! それは困りますわ。わたしはこれから手袋編みだけで食べていかねばならないんですから、引っ越すわけにはいきません。引っ越せば職を失ってしまうのですから",
"もし越してくださるなら、その分も会社から金が出るはずになっていますがね",
"松島は、本当に死んだんですか?"
],
[
"それは本当ですとも。まあ、その証拠に、明日か明後日までにお骨を届けますから",
"灰を見ても、わたし、やっぱり信じられないだろうと、なんか、そんな気がしてなりませんのよ",
"とにかく、これは慰藉料、これは口止料というわけで、それから、これは給料の残り分です"
],
[
"なにしろ社長が、相当の教養があって、身体も健康で、そのうえに美貌でなければいかんというものですから、いくら探してもいなくて困ってたんですよ。ちょうどそこへあなたを思い出したものですから……",
"まるで、お嫁さんを探すような条件ですのね。そんなむずかしいところへ、わたしのような者でいいんですか?",
"あなたなら、文句なし! です。実は、あなたのところへ来ます前に、ちょっと社長へ話してみたんですがね。ところが、社長はあなたを気の毒に思っているものですから、ぜひあなたを頼もうということになりましてね",
"では、まいりますわ。ほんとにわたしのような者でいいんでしたら?"
],
[
"なにも遠慮はいらんのだ。どうせ通りがかりじゃから、さあ遠慮することはないんだから",
"…………"
],
[
"さあ、構わんからここへ乗んなさい",
"では、失礼でございますけど……"
],
[
"松島さん、あなたは、失礼な言い分かもしれないが、ひどく困っていやしないかね?",
"…………"
],
[
"困っているんだったら、だれかの世話になってもいい気はないかね?",
"…………",
"あんたはそれほどの美貌で、相当の教養もあって……しかし、女の人が自分一人でやっていくということはなかなか大変なことだろうからな。……あんたが再婚をしてもいい気持ちがあるのなら。それよりむしろ……",
"なにしろ、子供があったりするものですから"
],
[
"子供があったって、それは構わん。子供があるにつけても、再婚をするより、まあちゃんと一家を持たしてもらって、世話になったほうがどれほどいいかしれん",
"…………"
],
[
"運転手! ちょっと、江東ホテルへ回ってくれ",
"あら! そちらへお回りでございましたら、わたし、ここで失礼させていただきますわ"
],
[
"回ったってすぐだ。ちょうど北海道のある築港から、急行セメントの検査に来た技師が江東ホテルに泊まっているものだから、ちょっと寄って、一緒に行ってもらうだけのことなんで……",
"でも、わたし急いでいるのでございますから"
],
[
"とにかく、どうだね? その男に会って話してみる気はないかね? ついでだから",
"せっかくでございますけど、今日は急いでおりますからこのまま失礼させていただきます",
"結婚をする段になりゃ費用はむろん、全部わしのほうで出してあげるがね。……もっとも、近ごろの新しい女は堅苦しい女房よりも気楽な妾宅暮らしのほうを望んでいるそうだが……"
],
[
"ちょっと、降りていらっしゃい。すぐなそうだけれど、ここに待っていてもつまんないから、お茶でも飲んで……",
"いいえ。わたしはここで失礼させていただきます",
"いや、同じことだから、みっともないから"
],
[
"どうしたというんだ? え? きみはそれじゃ、さっきの築港の技師にもそうしたのかい? 困るじゃないか?",
"放してくださいったら!"
],
[
"坊や! どうして笑わないの?",
"小母さん! 赤ちゃんはね、赤ちゃんはね……"
],
[
"坊やを返してください。坊やと松島を返してください",
"この人は死んだ赤ちゃんを、まだ生きていると思っているのだわ"
],
[
"それがはっきり分れば、この病人は治せるって院長先生はおっしゃっているのよ",
"はっきり分かれば治るんですって? よし! おれが行って話してやる。はっきりと、何もかも話してやる。洗い浚い話してやる"
]
] | 底本:「恐怖城 他5編」春陽文庫、春陽堂書店
1995(平成7)年8月10日初版
入力:大野晋
校正:吉田亜津美
1999年7月17日公開
2005年12月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"姓ローマ字": "Sasaki",
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[
[
"來られるのかね。",
"來るときめてゐるらしいわ。"
],
[
"どうして?",
"その如くに見えた。",
"でも、東京の家は失つてしまつた。",
"オー、でこのあたりに住んでゐるのか。",
"さうぢやない、母を訪ねるのだ。",
"オアウ!"
],
[
"まあまあよく來てくれましたね。",
"おばあさん大丈夫ですか。",
"ええ、ええ。何處といつてどうもないんですよ。自分でも不思議なくらゐ。",
"御本家では何と仰しやつて?",
"私が行くと云ふものを、何が云へるものですか。二三日温泉に入つてくると云つたら、あわててね、せつかくいらつしやるのだつたらゆつくりなすつた方がと云ふんですよ。",
"それはさうですよ。二三日ぢや疲れに行くやうなものぢやありませんか。",
"さうですかね。向うぢやとてもよろこんでるんですよ。目の上の瘤がなくなると思つてね。"
],
[
"これはあしたの朝あがるお魚、これはお辨當の甘いパン、これは疲れた時に召し上る葡萄糖、これは熱いお茶を入れて行く魔法壜、それからこれは、おさつ――",
"オヤオヤもうおさつが出ましたか。まあまあ、これだけ揃へるのは大變だつたでせうね。"
],
[
"いつもはもうお休みの頃ぢやないの?",
"ええ、でも、――",
"今夜はいつもよりよけい休んどいていただかないと、――",
"なに大丈夫ですよ。お午にはうなぎも食べたし。",
"よくお手に入つてね。",
"美耶川さんが持つてきて下すつたんですよ。伊東へ行くのならしばらく會へないからといつて。",
"何て御親切なんでせう。",
"さうさう、お風呂が沸いてるんですよ。あなたお入んなすつたら?",
"おばあさんこそ早く入つてお休みなさい。私は御本家に伺つて來なくちや。",
"さうですね。來ると云つてあるから、待つてるかも知れませんね。"
],
[
"今度はおばあさんが御厄介になりに伺ふさうで、どうも、――",
"いえ。でもおばあさまは何と仰しやつてらつしやいましたか。",
"昨日見えてね、痒いところがあるから二三日温泉に入つてくる。そりやいい。しかしどうして行らつしやると訊いたら、伊東から迎へに來る。――でも明日は日曜で混みやしませんか。",
"通勤者はないわけでせう。私は又おばあさまがお出かけになると云つたら、こちらでお送りでも下さるのぢやないかと思つて、わざと日曜を選んだわけでもあつたのですが。何分お年のことですから、途中どんなことがないものでもない。",
"なに大丈夫でせう。"
],
[
"あつしも近頃は年でね、驛の昇降にも自信がないくらゐなんですよ。だからおばあさんをあつしがおんぶして行くといふわけにも行かない。代りに幸夫をやれるといいんだが、明日はあいにく舊師の謝恩會か何かあるとかで。",
"いいえ、いいんですよ。おばあさまには豫め事を分けて御本家にかうかう申し上げてくれと手紙を出しておいたのですが、九十三の頭ではそれをこちらへお傳へすることも御無理だつたのに違ひありません。私は親子のことですから、假令どんなことがあつても、何と云はれても、お氣持に添へさへすればそれでいいんですが、血の續いてゐないものには一應の形をつけないとと思つたものですから。その代りおばあさまが又こちらへ歸りたいと仰しやり出した時には、幸夫さんにでもお迎へに來ていただけますでせうね。",
"そりや、電報でも打つて下さればすぐ。休みの日ならいつでも、――おい、幸夫、幸夫。"
],
[
"上にお坐りになつたら?",
"この方が樂です。",
"風が入りすぎはしませんか。",
"ちやうどこれで、愉快です。"
],
[
"今日はおばあさんも御滿足でせう、あんなにしてお二人に見送られて。",
"いくらか氣が咎めてるんですよ。昨日は珍しく、お小遣はあるのかと訊きました。",
"で、なんて仰しやつたの?",
"まだ間に合ふからいいと云つてやりました。"
],
[
"おばあさんはいくつかね。",
"いくつに見えます?",
"八十、――さあ。",
"九十三なのですよ。",
"九十三? そいつあ國寶ものだ。へえ、九十三! 人間はうまいものを食つて長生するに限る。",
"とんだ食ひつぶしもので。"
],
[
"やあ、御覽の通りの侘住居でどうも。",
"どう致しまして、大變お立派な。まあまあ大變なお道具でございますね。"
],
[
"どうぞおくつろぎなすつて。",
"一週間ばかり温泉に入れていただきます。",
"さう仰しやらないで、御ゆつくりなすつたらいいでせう。少くとも寒い間は。"
],
[
"お耳も遠くないやうですね。",
"ええ。目も針の針孔が通らないくらゐのことで、新聞ぐらゐは讀めるんですよ。"
],
[
"九時、――半ぐらゐでせう。",
"九時半で、もうお午か。",
"知らなかつたの? 朝六時、午十時、晩四時、――",
"へえ。自然に挑戰してるやうなのが長生の祕訣かな。"
],
[
"さう仰しやられればお顏つきも隱居所にいらしつた時より生きいきしてきたやうですよ。",
"さうでせう。ほんたうにいい氣になつて。",
"結構ぢやありませんか。伊東にいらしつてお痩せになつたんぢや、私としても御本家に合せる顏がありませんわ。さうしてお元氣にしてゐて下さるのが子孝行といふものですよ。",
"何とお禮を申しあげていいのか、ほんたうに私は幸せものだと思ひますよ。ちひさい時に、此子はいい耳をしてゐるからきつと幸せになるとよく云はれたものでしたが。",
"さういふお氣の持ちやうがお幸せといへばいへるのでせうね。上には上で、人間の慾にはきりのないものですから。",
"だつて此上のことはないでせう。かうして朝晩好きな温泉に入つて、おいしいものばかりいただいて。もういつ目を眠つても思ひ殘すことはありません。"
],
[
"だんだんお寒くなるけど、此次には何をお召しになるの?",
"なにといつて、これのほかには、よそいきが一枚あるだけなのですよ。",
"でもこれは良ちやんが死んでから出來たお召物でせう。その前には何を召してらしつたの?",
"それが、――なにか着てゐたのには違ひないんでせうけど、何を着てゐたのかさつぱり憶えちやゐないんですよ。",
"たしか八丈を召してらしつたのを見たことがあると思ふんですが。",
"さうですかしら。でもそんなもの、影も形もありやしません。"
],
[
"一周忌の間に合ひますかしら。",
"このせつのことだから、豫定通りには行くかどうか判りませんが。",
"それまではどうしても生きてゐなくちや。",
"その調子なら、ほほ、百まで大丈夫ですよ。でもどうして? 良ちやんにお酒でもお供へになりたいの?",
"それもさうですね。ですけど私はそれはそつくりこちらへお禮に差し上げたいのです。",
"何を仰しやるの。そんなのいやですよ。うちは御本家と違つて財産税の苦勞といつたやうなもののあるわけぢやありませんけど、それでゐて別に何不自由なく、のんきに暮して行けるんですもの、慾得づくでお世話してるとでも思はれちや、をさまりませんからね。",
"誰がそんなことを思ふものですか。でも私にはほかに御恩の返しやうがない。朝晩好きな温泉であつたまつて、おいしいものばかりいただいて、何の屈託もなく、――東京にゐた時はほんたうに毎日毎日――"
],
[
"そんなお泣きになつては、幸せでも何でもなくなつてしまふぢやありませんか。",
"いいえ、うれし泣きです。"
]
] | 底本:「ささきふさ作品集」中央公論社
1956(昭和31)年9月15日発行
初出:「苦樂」発行所名
1947(昭和22)年1月号
入力:小林 徹
校正:林 幸雄
2008年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"よおう、ご両人!",
"しっぽりと頼みますぜ!"
],
[
"実は、今ちょっとまえに、三百両という大金をすられたんでござんす……",
"なに、三百両……! うち見たところ職人渡世でもしていそうな身分がらじゃが、そちがまたどこでそのような大金を手中いたしてまいった",
"それが実は富くじに当たったんでがしてな。お目がねどおり、あっしゃ畳屋の渡り職人ですが、かせぎ残りのこづかいが二分ばかりあったんで、ちょうどきょう湯島の天神さまに富くじのお開帳があったをさいわい、ひとつ金星をぶち当てるべえと思って、起きぬけにやっていったんでがす。ことしの正月、浅草の観音さまで金運きたるっていうおみくじが出たんで、福が来るかなと思っていると、それがだんな、神信心はしておくものですが、ほんとうにあっしへ金運が参りましてな、みごとに三百両という金星をぶち当てたんでがすよ。だから、あっしが有頂天になってすぐ小料理屋へ駆けつけたって、なにも不思議はねえじゃごわせんか",
"だれも不思議だと申しちゃいない。それからいかがいたした",
"いかがいたすもなにもねえんでがす。なにしろ、三百両といや、あっしらにゃ二度と拝めねえ大金ですからね。いい心持ちでふところにしながら、とんとんとはしごを上って、おい、ねえさん、中ぐしで一本たのむよっていいますと……",
"中ぐしというと、うなぎ屋だな",
"へえい、家はきたねえが天神下ではちょっとおつな小料理屋で、玉岸っていう看板なんです",
"すられたというのは、そこの帰り道か",
"いいえ、それがどうもけったいじゃごわせんか、ねえさんが帳場へおあつらえを通しにおりていきましたんでね、このすきにもう一度山吹き色を拝もうと思って、そっとふところから汗ばんで暖かくなっている三百両の切りもち包みを取り出そうとすると、ねえ、だんな、そんなバカなことが、今どきいったいありますものかね",
"いかがいたした",
"あっしの頭の上に、なにか雲のようなものが突然ふうわりと舞い下がりましてね、それっきりあっしゃ眠らされてしまったんですよ",
"なに、眠らされた?"
],
[
"事実ならばいかにも奇怪じゃが、その眠りというのは、どんなもようじゃった",
"まるで穴の中へでもひきずり込まれるような眠けでござんした",
"で、金はその間に紛失いたしておったというんじゃな",
"へえい、さようで……ですから、目のくり玉をでんぐらかえして、すぐと数寄屋橋のお奉行所へ駆け込み訴訟をしたんですが、なんでございますか、お役人はあちらにもご当番のかたが五、六人ばかりいらっしゃいましたのに、きょうは骨休みじゃとか申されて、いっこうにお取り上げがなかったんで、こちらまで飛んでめえりましたんでござんす",
"よし、あいわかった、普通なら、そんな事件、手下の者にでも任すのがご法だが、少しく思い当たる節があるから、てまえがじきじきに取り扱ってつかわす。念のために、そのほうの所番地を申し置いてまいれ"
],
[
"きさま、これから凌英という駒彫り師の家をつきとめろ! つきとめたら、この駒をみせてな、いつごろ彫ったものか、だれに売ったやつだか、心当たりをきいて、買い主がわかったらしょっぴいてこい。わからなきゃ、江戸じゅうのくろうと将棋さしをかたっぱし洗って、どいつの持ち物だか調べるんだ!",
"え? だんなにゃまったくあきれちまいますね。やぶからぼうに変なことおっしゃって、何がいったいどうなったっていうんです?"
],
[
"文句はあとでいいから、早くしろい!",
"だって、だんな、江戸じゅうの将棋さしを調べる段になると、ちっとやそっとの人数じゃごわせんぜ。有段者だけでも五十人や百人じゃききますまいからね",
"だから、先に凌英っていう彫り師に当たってみろといってるんじゃねえか",
"じゃ、三月かかっても、半年かかってもいいんですね",
"バカ! きょうから三日以内にあげちまえ!",
"だって、江戸を回るだけでも三里四方はありますぜ",
"うるせえやつだな。回りきれねえと思ったら、駕籠で飛ばしゃいいんじゃねえか",
"ちえっ、ありがてえ! おい、駕籠屋!"
],
[
"どうだ、なにかねたがあがったろう",
"ところが、大違い――",
"ええ、大違い?"
],
[
"じゃ、まるっきりめぼしがつかないんだな",
"さようで――おっしゃったとおり、まず第一に凌英っていう彫り師を当たったんですがね。ところが、その凌英先生が、あいにくなことに、去年の八月水におぼれておっ死んでしまったっていうんだから、最初の星が第一発に目算はずれでさ。でも、ここが奉公のしどころと思いましたからね。あの駒の片割れを持って、およそ将棋さしという将棋さしは、看板のあがっている者もいない者も、しらみつぶしに当たってみたんですよ。ところが、そいつがまた目算はずれでしょ。だから、今度は方面を変えて、駒を売っている店という店は残らず回ったんですが、最後にその望みの綱もみごとに切れちまったんでね、このとおり一貫めばかり肉をへらして、すごすごと帰ってきたところなんです"
],
[
"ね、柳原の土手先に、四、五日まえからおかしな人さらいが出るそうですぜ",
"人さらい? だれから聞いた",
"組屋敷のだんながたがたったいま奉行所から帰ってきてのうわさ話をちらり耳に入れたんですがね。いましがた訴えた者があったんだそうで、なんでもそれが夜の九つ時分に決まって出るんだそうだがね。おかしいことは、申し合わせたようにお侍ばかりをさらうっていうんですよ",
"じゃ、徒党でも組んだ連中なんだな",
"ところが、その人さらい相手はたったひとりだというから、ふにおちないじゃごわせんか。そのうえに、正真正銘足がなくて、ちっとも姿を見せないっていうんだから、場所がらが場所がらだけに、幽霊だろうなんていってますぜ。でなきゃ、こもをかかえたお嬢さん――",
"なんだ、そのこもをかかえたお嬢さんてやつは……",
"知れたことじゃありませんか。つじ君ですよ。夜鷹ですよ",
"なるほどな"
],
[
"ちえッ、だんなの気早にゃ少しあきれましたね。くたびれもうけでしたよ",
"うそか",
"いいえ、人さらいは出るでしょうがね、あの近所の者ではひとりも現場を見たものがないっていいますぜ",
"じゃ、そんなうわさも上っちゃいないんだな",
"さようで――また上らないのがあたりまえでしょうよ。さらわれたとすると、その人間はきっと帰ってこないんでしょうからね。だから、四日も五日もお上のお耳へ上らずにもいたんでしょうからね。しかし、ちょっとおつな話はございますよ。こいつあ人さらいの幽霊とは別ですがね、このごろじゅうから、あの土手の先へ、べっぴん親子のおでん屋が屋台を張るそうでしてね、なんでもその娘というのがすばらしい美人のうえに、人の評判では琉球の芋焼酎だといいますがね、とにかく味の変わったばかに辛くてうまい変てこりんな酒を飲ませるっていうんで、大繁盛だそうですよ。どうでごわす、拝みに参りましょうか"
],
[
"座頭太夫はもと船頭で、唐の国へ漂流いたし、その節この玉乗りを習い覚えて帰ったとかいううわさじゃが、まさかにうそではあるまいな",
"そこです、そこです。そういうだんながたがいらっしゃらないと、あっしたちもせっかくの口上に張り合いがないというものですよ。評判にうそ偽りのないのがこの座の身上。それが証拠に、太夫が唐人語を使って踊りを踊りますから、だまされたと思って、二文すててごらんなさいよ"
],
[
"きさま、今の唐人語に聞き覚えないか",
"え? なんです。なんです。唐人語たあなんですか?",
"どこかであれに似た節のことばを聞いたことはねえかといってるんだよ"
],
[
"あっ! そういえば、こないだお花見の無礼講に、清正と妓生が、たしかにあんなふうな節を出しましたね",
"それがわかりゃ、きさまもおおできだ。このうえは、土手のおでん屋を詮議すりゃ、もうしめたものだぞ。来い!"
],
[
"はなはだ卒爾なお尋ねにござりまするが、切支丹伴天連の魔法を防ぐには、どうしたらよろしいのでござりましょうか",
"ほほう、えらいことをまた尋ねに参ったものじゃな。伴天連の魔法にもいろいろあるが、どんな魔法じゃ",
"眠りの術にござります",
"ははあ、あれか。あれは催眠の術と申してな、伊賀甲賀の忍びの術にもある、ごく初歩のわざじゃ。知ってのとおり、なにごとによらず、人に術を施すということは、術者自身が心気を一つにしなけんきゃならぬのでな。それを破る手段も、けっきょくはその術者自身の心気統一をじゃますればいいんじゃ。昼間ならば突然大きな音をたてるとかな、ないしはまた夜の場合ならば急にちかりと明るい光を見せるとかすれば、たいてい破れるものじゃ"
],
[
"見たところへしゃげた耳で、べつに他人のと変わっているようには思えませんが、なにか仕掛けでもありますかい",
"うといやつだな。あのとき小屋の中でもそういったはずだが、お花見のときにきいた妓生の南蛮語だよ。はじめはむろんでたらめなべらべらだなと思っていたが、きさまがおでん屋で芋焼酎を売り物にしているといったあの話から、てっきり南蛮酒だなとにらんだので、南蛮酒から南蛮渡来の玉乗りのことを思いついて、妓生のべらべらをもう一度聞きためしにいったまでのことさ。あの玉乗りの太夫たちが唐人ことばで踊りを踊るということは、まえから聞いていたのでな。ねたを割りゃ、それだけの手がかりさ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:菅野朋子
1999年5月1日公開
2005年6月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000585",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "01 南蛮幽霊",
"副題読み": "01 なんばんゆうれい",
"原題": "",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-05-01T00:00:00",
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"人物ID": "000111",
"姓": "佐々木",
"名": "味津三",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "みつぞう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "みつそう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Mitsuzo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1896-03-18",
"没年月日": "1934-02-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "右門捕物帖(一)",
"底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1996(平成8)年12月20日新装第7刷",
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"入力者": "大野晋",
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[
[
"では、今からその女房二、三人掃きよせに参ろうか",
"え? ほんとうですかい? 正気でおっしゃったのでげすかい?"
],
[
"伝六!",
"え? てんかんでも起きたんでござんすか?",
"バカ! どうやら大きなさかながかかりそうだぞ",
"どこです? どこに泳いでいます?",
"あいかわらず、きさまはひょうきん者だな、敬四郎どのの様子が尋常でない。今からすぐお奉行所までひとっ走り行ってこい!",
"またあれだ。やぶからぼうに変なことをおっしゃって、このうえあっしをかつぐ気でござんすかい?"
],
[
"きさまだって、あばたの敬四郎がこのごろおれと功名争いしているくらいなことは知ってるだろう",
"え! あっ! そうでしたかい。じゃ、今のあいつの様子で、事起こるとにらんだのですね"
],
[
"どうだ。さかなは大きかったろう",
"大きいにもなんにも、まるで怪談ですぜ",
"つじ切りか",
"どうしてどうして、これですよ。これですよ"
],
[
"首?",
"さようで、それもただの首じゃごわせんぜ。まだ血のべっとりと流れている生首ですぜ",
"どこかにそいつがころがってでもいたというんか",
"ところが、そいつがただのところにころがっちゃいないんだから、まるで怪談じゃごわせんか。ね、肝をすえてお聞きなせえよ。お屋敷は番町だそうで、名まえは小田切久之進っていうもう五十を過ぎたお旗本だそうながね、お禄高は三百石だというんだから、旗本にしちゃご小身でしょうが、とにかくそのお旗本のだんなが、眠っている夜中に、どうしたことか急に胸が重くなって、なんか胸先のあたりを押えつけられるような気がしましたものだからね、はっと思って、ふと目をあけてみるてえと――",
"胸のうえに、生首が置いてあったというのか",
"さようで、お約束どおりのざんばら髪でね。青黒いその生首に、べっとりと、いま出たばかりと思われるようなまだ少しなまあったかい血がしみているというんですよ。しかも、そいつが女の首で、おまけに片目えぐりぬいてあるっていうんですよ",
"なるほど、少し変わってるな",
"変わってる段じゃない。いまにおぞ毛が立ちますから、もう少しお聞きなせえよ。ところでね、その生首がひと晩きりじゃねえんですよ。あくる晩にも、やっぱりまた胸もとが変に重くなったから、ひょいと目をあけてみるてえと、今度は座頭の坊主首――",
"なに、座頭? めくらだな",
"さようで。ところが、その生首のめくらの目玉が、やっぱり片方えぐりぬいてあるっていうんだから、どうしたってこいつ怪談ですよ",
"目はどっちだ。左か、右か",
"そいつが、女の生首のときも、座頭の生首のときも、同じように左ばかりだというんだから、いよいよもって怪談じゃごわせんか、だからね、騒ぎがだんだんと大きくなって、三晩めには屋敷じゅう残らずの者が徹夜で警戒したっていうんですよ。するてえと、三晩めにはいいあんばいに生首のお進物がやって来なかったものでしたから、ちょうどきのうです、ご存じのように、きのうはいちんち朝から陰気なさみだれでしたね。ほんとうに降りみ降らずみっていうやつでしたが、つい前夜の疲れが出たものでしたから、屋敷じゅうの者残らずがうたた寝をしているてえと、その雨の真昼間に寝ている旗本のだんなの胸先が、やっぱりまた急に重くなったんで、ひょいと目をさましてみると、今度は年寄りの生首のお進物が、同じように左の目をえぐりぬかれて、べっとりと生血に染まりながら胸先にのっかっていたというんですよ",
"ふうむのう"
],
[
"だが、一つふにおちないことがあるな。それほどの奇異なできごとを、小田切久之進とやら申すその旗本は、なぜ今日まで訴えずにいたのかな",
"そこでがすよ、そこでがすよ。あっしもねたは存外その辺にあるとにらんだのでがすがね。三百石の小身とはいい条、ともかくもれっきとしたお直参のお旗本なんだから、ご奉行さまだって、ご老中だって、身分がらからいったひにゃ同等なんでがしょう。してみりゃ、なにも三日の間それほどの化け物話を隠しだてしたり、ないしはまた遠慮なんぞするにゃあたらないんだからね。しかるに、おかしなことには、きょうそのお旗本のだんながこっそりお奉行所へやって来て、直接お奉行さまに会ったうえで、身分がらにかかわるんだから、事件のことも、探索のことも、ごく内密にしてくれろといったんだそうでがすよ",
"え? そりゃほんとうか",
"ほんとうともほんとうとも、そこは蛇の道ゃなんとやらで、すっかりかぎ出しちまったんですがね。だもんだから、お奉行さまも、ではだれか腕っこきの者にでもごく内密にやらせましょう、っていってるところへ、運よく行き合わしたのがあばたのあのだんななんです。だから、先生すっかりおどり上がって、今度こそはという意気込みで、自分からそれを買って出たという寸法なんですよ"
],
[
"大急ぎで駕籠屋を二丁ひっぱってこい!",
"え? また駕籠ですか。南蛮幽霊のときもそうでござんしたが、あいつと同じ轍で、また江戸じゅうを駆けまわるんでげすかい?",
"いやか",
"どうしてどうして、生まれつき、あっしゃ駆けまわるのが大好きですからね。回ってろといや、一年でも二年でも回ってますが、いったいきょうは、どこを探るんでげすかい?",
"きさまは南町ご番所配属の自身番という自身番を残らず改めろ。この三日以内に、生首をもぎとられた者はないか、行くえ知れずになったものはないかといってな、あったら、例の三つの首の主と思える者の素姓を洗ってくるんだ",
"ありがてえッ、じゃ、いよいよあばたのだんなと本気のさや当てになりましたね。ちくしょう! おしゃべり屋の伝六様がついてらあ。じゃ、ちょっとお待ちなせえよ。この辺は屋敷町で店駕籠はねえかもしれませんからね"
],
[
"これなる首は、当ご番所へ参りましてから塩づけになされたのでござりまするか",
"なに、塩づけ……? そのような形跡があるとすれば少しく奇怪じゃが、いずれもそれらは小田切殿持参されたままの品じゃぞ"
],
[
"きさまも何かひきあげたな",
"え? きさまもというと、じゃ、だんなもほしを拾いましたね。そうと決まりゃてっとり早くいいますがね。ちょうどゆんべでさ。あれからうちへけえったんですが、あばたのだんなにしてやられるかと思うと、いかにも業腹で寝られませんからね、当たって砕けろと思って、実あこっそり小田切のお屋敷へ様子見に出かけたんでがすよ。するてえと、裏口の不浄門がこっそりあいて、中間かなんかでがしょう、いいかげん年寄りのおやじが、とくりをさげて出てきたじゃごわせんか。こいつ寝酒の買い出しだなとにらんだものでしたから、あばたのだんなの手下どもが居眠りしてたのをさいわい、うまいことそのおやじを抱き込んで、二、三本もよりの居酒屋でふるまいながら、すっかりうちの様子聞いちまったんでがすよ",
"なに、うちの様子? そいつぁおめえに似合わないてがらだが、ほしゃどんな筋だ",
"どんなにもこんなにも、つまり、そのほしが下手人でがさあ。ね、そのおやじのいうことにゃ、ついこの一カ月ばかりまえに、小田切のだんなのうちで長年使われていた用人がお手討ちになったっていうんでがすよ。ところが、その首にされた用人の顔てえものがただの顔じゃなくて、つまり、この事件の因縁話になるところだと思うんでがすがね。そら、例の目が、左の目玉が、あの生首の顔のように、一方つぶれていたというんでがすよ。だから、ははんそうか、さてはだれかその用人の身内の者がお手討ちの恨みを晴らすために、あんな左の目のない生首をこしらえて、味なまねしやがったんだなと思いましたからね、すぐにおやじへきいたんでがすよ。その用人にゃ、せがれか、甥か、血筋の者はなかったかってね",
"あったか!",
"大あり、大あり。二十五、六のせがれで、飲む、打つ、買うの三拍子そろったならず者があったというからね、あっしゃもうてっきりそいつのしわざだと思うんでがすがね",
"ちげえねえ"
],
[
"あのなわつきが、きさまの聞いたほしか!",
"そうらしいでがすよ、そうらしいでがすよ。おやじの話した人相書きによると、その若い野郎は右ほおに刀傷があるといいましたからね。ちえッ! ひと足先にやられたか。くやしいな! いかにもくやしいな!"
],
[
"きさま、さっき小田切の家の様子、みんなきいたっていったな",
"ええ、いいやした。いいましたが、なんぞふにおちないことでもあるんでげすか",
"あるからこそきくんだよ。腰元とか女中とか女がいるんだろうが、幾人ぐれえだ",
"え⁉ 女?",
"男でない人間のことを、昔から女っていうんだ。そういう人間がいるはずだが、いくたりぐれえだ",
"たった三人きりだっていいやしたよ",
"どういう三人だ",
"ひとりは飯たきばばあ、あとのふたりはきょうだい娘で、姉は二十一、妹は十六だとかいいやしたがね",
"その姉妹が、つまり小田切のお腰元なんだな",
"お腰元にもなんにも、女のけはその三人。男のけは、例のおやじと、小田切のだんなと、もうひとり玄関番の三人きりで、ご内室はとうになくなったっていうんだから、いずれその姉妹がいろいろとお腰元代わりをするんでがしょうがね、しかし、その娘たちゃ身内同然だといいましたぜ。なんですか、小田切のだんなの姪の姪に当たるとか、いとこの娘だとかで、ともかくも血筋引いてるといいましたからね",
"そのふたりの娘について、なんぞ変わったことは聞かなかったか",
"それがでさあ、だんなにそういわれて、今ふいっとあっしも気がつきやしたがね。なんでも、その姉娘はすばらしい器量よしだそうなが、どうしたことか、ついこの五、六日まえから急にきつねつきになったそうでがすよ",
"なに、きつねつき⁉",
"突然きゃっというかと思うと、いきなりげらげらと笑ってみたりしてね、いちんちじゅう夜となく昼となく髪をおどろにふりみだしながら、屋敷じゅうをうろうろしてるとかいいましたよ"
],
[
"ちと必要がござりまして、ご奉行職ご乗用の御用駕籠を二丁ばかりご拝借願いたいものでござりますが、いかがなものでござりましょうか",
"私用ではあるまいな",
"むろん、公用にござります",
"公用とあらば、お上の聞こえもさしつかえあるまい。自由にいたせ"
],
[
"だんな! 気はたしかですかい?",
"しゃべるな、きょう一日は近藤右門が南町奉行、きさまは供の者だ"
],
[
"きさまはどこの野ぎつねじゃ",
"てへへへへ、道灌山のおきつねさまじゃ。きさまこそ、どこのこじき行者じゃ"
],
[
"よろしい、おれの霊験を見せてやろう。おれのいうとおりまねができるな!",
"できるとも!",
"では、一二三四五六七八九十",
"一二三四五六七八九十",
"そのさかしまだ、十から一までいってみい!",
"十九八七六五四三二一!"
],
[
"それが初めはおれも、おれに似合わねえ大早がてんをしたものさ。きさまからあの片目の用人のせがれのならず者の話を聞いたときにゃ、てっきりほしと思ったんだが、あとで考えてみると大笑いだよ。お旗本の用人といや、ともかくもりっぱな二本差しの身分だろ。そのせがれなら、いかにならず者でも武士のはしくれだから、武士ならばかたき討つのに、あんなまわりくどいまねはしないよ。返り討ちになるにしても、一度はばっさりやる気になるんだからな。としたら、子どものしわざか、女の子のしわざか、刀持つすべを知らない人間とにらむな順序じゃないか。それに、あのときご注進に来た敬四郎の手下の者の話を聞くと、まだ屋敷の外に綱張っているうちに、また首が床の間にあったといったからな、こいつ屋敷の中に巣食っている人間のしわざだなとにらんだだけさ。そこへきさまが、きつねつきの女がいるといったものだから、ぴんときたのさ。きつねつきときちゃ、怪談に縁のあるしろものだからな",
"なるほどね。しかし、あの御嶽行者のまじないは、なんのためでがしたい?",
"きつねつきがほんものかにせものかをためしただけだよ。ところが、大にせものさ。ほんものだったら、一二三四でも百まででも、こっちの口まねをするから数えるだけいわれるがね。こっちで数えないでその逆をいってみろというと、そこがけだもののあさましさ、数字の観念がないからな、口まねならいえるが、自分で数えることはできないものだよ。しかるに、あの女にせものだったから、その計略を知らずに、べらべらとつい人間の本性を出して自分で数えたのさ",
"それにしても、なんできつねつきなんぞのまねをしたのかね。あったら女がバカなことをしたものじゃごわせんか"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:福地博文
1999年6月8日公開
2005年6月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000582",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "02 生首の進物",
"副題読み": "02 なまくびのしんもつ",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-06-08T00:00:00",
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"人物ID": "000111",
"姓": "佐々木",
"名": "味津三",
"姓読み": "ささき",
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"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "みつそう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
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"生年月日": "1896-03-18",
"没年月日": "1934-02-06",
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"底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年9月15日",
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[
[
"察しまするに、伊豆守様ご帰藩中でござりますな",
"しッ、声が高い! そちのことじゃから、忍まで参れといえばだいたいの見当がつくだろうと思って、わざとおしかくしていたが、察しのとおり、つい四、五日ほどまえにご帰国なさったばかりじゃ",
"といたしますると、むろんのこと、このたびのお招き状も、伊豆守様がご内密でのお召しでござりましょうな",
"さようじゃ",
"よろしゅうござります。そうとわからば、さっそくただいまから出立いたしましょうが――"
],
[
"伊豆守様は当代名うての知恵者。その知恵袋をもってしましてもお始末がつかなくて、はるばるてまえごとき者までをもお召しでござりましょうから、これはよほどの重大事に相違ございませぬ。百両どころか、しだいによっては千両がほども必要かと存じまするが、あとあとはまたあとあとで急飛脚でも立てましょうゆえ、さしあたり百金ほどご貸与くださりませ",
"いかにものう"
],
[
"どうやら、ご人相が伊豆守様おことばに生き写しでござりまするが、もしやご貴殿は江戸からおこしの近藤右門どのではござらぬか",
"いかにも、さようにござる",
"やっばり、ご貴殿でござったか! 実は、殿さまがかようにお申されましてな。右門のことゆえ、察するに姿を変えて、わざわざ羽生回りをしてくるにちがいあるまいから、それとのう出迎えいたせと、かようにお申されましたのでな。かくは失礼も顧みず、人体改めをしたのでござる"
],
[
"いましがた、たしかにここをさるまわしが通りすぎたはずでござるが、お気づきではござりませなんだか!",
"えっ⁉"
],
[
"逃がしちまったか!",
"え、このとおり。あいつ、ちっとばかしくせえやつだなと思いましたんでね。なにかは知らぬがしょっぴいていってやろうと思って、せっかくえり首をつかまえたんですが、さるのやつめが手の甲をひっかきむしったそのすきに、逃げうせちまったんでげすよ",
"なるほど、血がにじんでいるな。しかし、それにしても、あいつをしょっぴいていこうと気がついたなあ、さすがおめえも江戸の岡っ引きだな。そのおてがらに免じて、逃げたものならほっとくさ。いずれ二、三日うちに、またあいつにもお目にかかるような筋になるだろうからな。――いや、これはこれは、どうもとんだお手間をとらせました。さぞかし伊豆守様お待ちかねにござりましょうから、ではご案内くださりませい"
],
[
"なにかは存じませぬが、その奇っ怪事とやらは、殿さまご帰国ののちに起こったのでござりまするか、それとも以前からあったのでござりまするか",
"それがわしの帰国と同時に起こりよったのでな、不審にたえかね、そうそうにそのほうを呼び招いたのじゃわ",
"といたしますると、何かご帰国に関係があるようにも思われまするが、いったいどのような事件にござります?",
"一口に申さば、つじ切りなのじゃ",
"つじ切り……? つじ切りと申しますると、いくらでも世の中にためしのあることでござりますゆえ、別段事変わっているようには思われませぬが、なんぞ奇怪な節でもがござりまするか",
"大ありなのじゃ。難に会うた者は、奇怪なことに、いずれも予が家中での腕っききばかりでの、最初の晩にやられた者は西口流やわらの達人、次の晩は小太刀の指南役、三日めは家中きってのつかい手が、一夜に三人までもやられたのじゃ。しかも、それらが、――",
"一太刀でぱっさりと袈裟掛けにでもされたのでござりまするか",
"いや、ぱっさりはぱっさりなんじゃが、奇怪なことには、どれもこれもが一様にみんなそろって右腕ばかりを切りとられたんじゃから、ちっとばかりいぶかしいつじ切りではないか",
"なるほど、少し不思議でござりまするな"
],
[
"ぶしつけなお尋ねにござりまするが、お多忙なおからだをもちまして、なにゆえまた殿さまはかように突然ご帰国なさったのでござりまするか",
"えっ? 帰国の理由……?"
],
[
"上さまは――将軍さまは、この二、三年とんと日光ご社参を仰せいだしになりませぬが、もうそろそろことしあたりがご順年でござりまするな",
"そ、そ、そうのう。そういえば、もう仰せいだしになるころじゃのう……"
],
[
"旅であう春の夜というものは、また格別でござりまするな。では、もうおいとまをちょうだいしとうござりまするが、よろしゅうござりまするか",
"お! そうか! ならば、もう確信がついたと申すんじゃな",
"ご賢察にまかしとう存じまする",
"では、何もこれ以上申さなくとも、そちにはわしの胸中にある秘事も、見込みも、ついたのじゃな",
"はっ。万事は胸にござります。なれども、わたくしが捜査に従うということは、なるべく厳秘に願わしゅうござります",
"そうか。それきいて、松平伊豆やっと安堵いたした。では、今後の捜査なぞについて不自由があってはならぬゆえ、この手札をそちにつかわそう。遠慮なく持ってまいれ"
],
[
"どうやら、ここはどなたかのご茶寮のようにも思われまするが、あなたさまは?",
"はっ……あの……わたくしは……"
],
[
"わかりました、わかりました。なんでござりまするな。伊豆様からのおいいつけで、お越しなされたのでござりますな",
"はっ……なにかといろいろご不自由もござりましょうゆえ、旅の宿のつれづれなぞをお慰めに参れとかようにお申されましたので、ふつつかながら参じましてござります……",
"それはお奇特なこと。お名まえはなんと申されまするか",
"ゆみ――あの、弓と申しまする……",
"ほほう、お弓様と申されまするか、いちだんとよいお名まえでござりまするな。さいわい、わたくしめは白羽矢之助と申しますゆえ、弓に白羽の矢では、ちょうどよい取り合わせでござりまするな"
],
[
"ご苦労でござる。ご異状はござりませぬかな",
"なにッ、ご異状? なれなれしゅう申しおるが、いずこの何やつじゃ!"
],
[
"例のやつをご警戒中と思われまするが、このあたりはどなたのお屋敷つづきでござる",
"はっ、このうち四、五町がほどは、当家中一流のつかい手ばかりがお屋敷を賜わっていますゆえ、例のつじ切りめ腕ききばかりの藩士をねらう由承りましたから、かく宵のうちから一団となって、このかいわいを警固中にござります",
"それはご殊勝なこと、ずいぶんとごゆだんめさるなよ。では、ごめん――"
],
[
"やっぱり、おれのにらんだとおり、下手人は気のきいた知恵者だよ。警固の者をまんまとやりすごしておいて、そのあとからすぐに裏をかいて押し入るなんてところは、なかなかあっぱれ者だよ",
"なるほどね。どうりで、だんながまたさっきからばかにちゃらちゃらと雪駄の音をさせると思ってましたが、じゃだんなが、またそやつの裏の裏をかこうとしたんですね",
"そうさ。ああやって、わざと雪駄をちゃらつかせて、いま通ったぞと知らして歩いたら、気のきいた下手人だったら、きっとそのすきに何かしでかすと思ったからな、ちょっとばかり誘いのすきをこしらえてやったのさ。災難に会ったご藩士にはおきのどくだが、おれはまだ一度も手口の現場を見ていないんだからな――どうやら警固の面々も駆けつけたようだから、ではひとつ検分に行くかな"
],
[
"貴殿とて一流のつかい手でござりましょうが、抜き合わす暇のなかったところを見ると、よほど不意を打たれたとみえまするな",
"面目しだいもござらぬ。つじ切りはしても、まさかにこのように夜中寝所まで押し入ろうとは思いもよらなかったゆえ、つい心を許して寝入っていたところを、不意にやられたのでござる",
"しかし、なんぞそのまえほかに気を奪われたようなことはござりませなんだか",
"さよう、たしかにお尋ねのようなことがあったゆえ、ちと不思議でござる。なんでも、何かばりばりとひっかくような音がありましたのでな――",
"なにッ。ばりばりとかく音がござりましたとな! すりゃ、まことでござるか!",
"まこととも、まこととも、真もってまことでござる。その廊下のあたりで、何かこうばりばりとかきむしるような音が耳にはいったのでな、不審と思って、そのほうへつい気をとられた拍子に、あれなるうしろのふすまを不意に押しあけて、覆面の武者わらじをはいたやつが、いきなりおどり入りさま、物をもいわずに、このとおり腕を切りとったのでござるわ",
"ふうむ、さようでござるか。そうするとそろそろほしが当たりかけてきたな"
],
[
"切られたその腕は、どうしたのでござる!",
"え! 腕ですかい。腕なら、だんな、ここにころがってますぜ"
],
[
"まてッ",
"だって、逃げちまうじゃござんせんか!",
"どじだな。今から追っかけていったって、おめえたちの手にかかるしろものじゃねえんだよ。こっちを騒がしておいて、そのすきに隣へ押し入る大胆な手口だけだって、相手の一筋なわじゃねえしろものってことがわかりそうなものじゃねえか。それよりか、ほら、これをな――",
"えっ?",
"わからんか、な、ほら、ぷんといい女の膚みたいなかおりがするんじゃねえか。おそらく、向こうの手首にもこれと同じ移り香があるにちげえねえから、ちょっといってかいでこい",
"なるほどね。ようがす、心得ました。じゃ、それだけでいいんですね",
"しかり――だが、みんなにけどられねえようにしろよ。騒ぎたてると、ぼんくらどもがろくでもない腕だてをして、せっかくのほしをぶちこわしてしまうからな",
"念にや及ぶだ。あっしもだんなの一の子分じゃごわせんか。どっかそこらの路地口であごひげでもまさぐりながら、待っていなせえよ"
],
[
"きさまこれからお城下じゅうの宿屋という宿屋を一軒のこらず当たって、例のきのうつけてきたあのさるまわしな、あいつの泊まったところを突きとめてこい!",
"なるほどね、やっぱりそうでしたか。ありゃあれっきりのお茶番と思ってましたが、じゃいくらかあいつにほしのにおいがするんですね",
"においどころか、ばりばり障子をひっかいた音っていうのは、そのさるなんだよ。とんだ古手の忍術つかいもあったものだが、しかし、さるをつかってまず注意をそのほうへ集めておいてから、ぱっさりと腕首を盗むなんていうのは、ちょっとおつな忍術つかいだよ。石川五右衛門だって知るめえからな",
"石川五右衛門はようござんしたね。そうと決まりゃ、もうしめこのうさぎだ。じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。だんなはそのるす中に、あの、なんとかいいましたね、そうそう、お弓さんか、まだけさは姿を見せませんが、おっつけご入来になりましょうからね。江戸へのみやげ話に、ちょっぴりとねんごろになっておきなせえ。ゆうべの赤い顔は、まんざらな様子でもなかったようでがしたからね"
],
[
"つかぬことをお願いいたしまするが、ただいますぐと、ご城中にお使いのお腰元たちのこらず、わたくしにかがしてくださりませぬか",
"なに、かぐ?――不思議なことを申すが、腰元たちのどこをかぐのじゃ",
"膚でござります",
"そちには珍しいいきな所望をまた申し出たものじゃな。よいよい。なんぞ捜査の手づるにでもいたすことじゃろうから、安心してかがしてつかわそうわい。こりゃこりゃ、誰そあるか"
],
[
"あの……朝のものが整ってでござりまするが……",
"おう、そうか! では、いただかしてもらいましょう"
],
[
"そなた、けさほど姿を見せなかったようじゃが、どこへ行ってこられた",
"えっ!",
"おどろかんでもいい。見れば、手首にみみずばれの跡があるが、さるにでもひっかかれましたか!"
],
[
"ゆうべお貸し下げの弓とか申すあの小女は、殿さまのお腰元でござりまするか",
"さようじゃ。城中第一の美姫、まだつぼみのままじゃが、所望ならば江戸へのみやげにつかわしてもよいぞ",
"またしてもご冗談でござりますか、そのような浮いた話ではござりませぬ。あの者の素姓をご存じにござりまするか",
"よくは存ぜぬが、ついこの濠向こうの仁念寺という寺の養女じゃそうな",
"えっ! お寺! お寺でござりまするとな!",
"さよう――住持が大の碁気違いじゃそうでの。それから、なんでもあの小女に、もうひとり有名なおくびょう者じゃそうなが唖の兄とかがあって、どういうつごうでか、その兄もいっしょに養われているとかいうことじゃわ"
],
[
"さ、伝六、あの穴の中からくくされて出てくるやつを、ご城中のかたがたに引き渡してやりな",
"え? 地の下にはまだ人間がいるんですかい",
"例のさるまわしたちさ。七人ばかりを一網にして、今くくしておいたからな、みなさまがたに引き渡してやりな"
],
[
"きさまも驚いたろうが、おれもちっとばかり今度という今度は知恵を絞ったよ。なにしろ、恐れ多い話だが、上さまと伊豆さまを一時になきものにしようとしていたんだからな",
"大きにそうでがしょう。あっしもおおよその見当がつきやしたが、察するにあの七人のやつは、豊臣の残党じゃごわせんかい",
"さすがにきさまだけのことがあるな。残党じゃねえが、いずれも豊家恩顧の血を引いたやつばらさ。あくまでも徳川にふくしゅうしようっていう魂胆で、まずそれには、というところから伊豆さまのご藩中へ先に巣を造り、巧みに所所ほうぼうへあのとおりのさるまわしとなって駆けまわり、将軍家の日光ご社参の機会を探っていたというわけさ。ところが、伊豆様はさすがに知恵者、早くもにおいでかぎ知ったとみえて、今度の日光ご社参ばかりはこのおれにさえ隠すほど絶対にご内密を守り、ああやってこっそりとお先にご帰藩もして、それから今夜のようにごく密々で上さまを城中へお迎えするつもりだったんだが、じょうずの手から水が漏れるというやつで、あべこべにそのおん密事をかぎ取ったやつがあの七人組のほかにもうひとりあったものだから、それと知ってさるまわしたちが久喜の宿でも会ったように、たちまち八方へ飛び、まずつじ切り事件が最初に起きたというわけさ",
"なるほどね。じゃ、そろいもそろって腕っききばかりの右腕を切り取ったっていうのも、ねたを割りゃ、いざ事露見というときの用心に、まえもって力をそいでおくつもりなんですね",
"そのとおり、そのとおり。なにしろ、てめえたちの仲間はたった七人しきゃねえんだからな。目抜きのつかい手の肝心な腕切ってかたわにしておきゃ、雑兵ばらの二、三百は物の数じゃねえんだから、さすが真田幸村の息がかかった連中だけあって、しゃれたまねしたものだが、ところがそれが大笑いさ。なま兵法はなま兵法だけのことしかできねえとみえて、きさまもかいだあの香の移り香を残しておいたことが、そもそもねたの割れた真のもとだよ",
"ちょっと待ってくだせえよ。だって、だんなはまだ、その香の持ち主をひっくくったとも、捕えたとも聞きませんが、あの七人組の中にそやつもござんしたかい",
"いたとも、いたとも。まっさきに穴の中から出てきたあの前髪のまだ若いやつがその香の持ち主で、つじ切りの下手人なんだよ。おくびょう者と見せかけて、その実は一刀流の達人、しかもかわいそうに、生まれつきの唖さ",
"えっ、唖⁉ 唖がまたなんだってかたわのくせに、あんな上等の香なんぞからだにたきこめていたんですかい",
"それがあのとおりの美少年だけあって、うれしいといえばうれしい話だが、つまり武士のたしなみなんだよ。いつ不覚な最期を遂げないともわからないっていうんで、つね日ごろ身にたきこめていたらしいんだが、そいつが伊豆守様のお話で、そら、あそこの濠の向こうに見えるお寺があるだろう、あの仁念寺というお寺に養われていると聞いたものだから、そこの住持が碁気違いだというのをさいわい、江戸上りの碁打ちに化け込んで様子を確かめに行ってみるてえと、仁念寺というお寺そのものが、だいいち臭いんだ。おびただしい新土が裏口に山のごとく盛り上がっているから、よく見ると、つまりその土の正体は、さきほどおれが地中の下からはい出てきたあの抜け穴の入り口なんだよ。さっきの東亭というのが、そもそも上さまを迎えるためにこしらえたということがきゃつらにわかっていたものだから、二カ月かかってあの穴をお寺から濠の下をくぐって掘りぬき、しかるうえでさきほどの珍事のように、いちじにおふたかたのお命をちぢめようって魂胆だったのさ。そのからくりがまずだいたいわかったところへ、案の定、唖がさるを飼ってはいる、あまつさえぷんと例の香のにおいがしたものだから、もうあとはぞうさがないさ。いかな一刀流の達人でも、おれの草香流やわらの逆腕にかかっちゃ、赤子の手をねじるのと同然だからな。まずやっこめをひっくくっておいて、きさまも久喜の宿でとくと見届けたはずだが、あの椎の実のやりとり一件をはからず思い出したから、唖に白状させる手数よりか、あの手品を先にあばいたほうが早手まわしと思って、飯籠をかっさばいてみるてえと、あるわあるわ、椎の実を割ってみると中に仕込んで無数の江戸から届いた手紙があったものだから、それによってあいつらの頭目が年寄りの腰の曲がったさるまわしに化けているのをかぎだし、ちょっとばかりしばいをうって、羽生街道口のところに陣取っていたんだよ。そのとききさまの天蓋姿を見つけて、いっぺんは逃げたが、とうとうほしどおりおれのしばいが当たって、江戸から飛んできた新しいさるまわしのやつをまんまとわなにひっかけて、椎の実の中の手品から今夜上さまのお忍びで江戸からご入城のこともわかり、あいつらの計画もいっさいがっさいねたがあがっちまったから、それからの大車輪っちゃなかったよ。あとの五人をてっとり早くおびき出して、ひと網にくくしあげる。そのあとで伊豆様とお打ち合わせをする、それからお城下をとびまわって、江戸を出がけのときにお奉行様からいただいた百両で役者をふたり見つけ出し、うまうまとおんふたかたに化けさせて、ようやっと豊家の残党をあのとおり根だやしにしおわせたというわけさ。思えば、でけえ大しばいさな"
],
[
"きさま、一生一度の内密に必ず他言しないことを先に誓うか",
"ちえッ、うたぐり深いだんなだな。あっしだって、おしゃべり屋ばかりが一枚看板じゃござんせんよ。意気と意気が合ったとなりゃ、これでなかなかがっちりとした野郎なんだから、ええ、ようがす、いかにも八幡やわたにかけて、誓言しようじゃごわせんか",
"さようか。では、こっそりとその者を見せてやろう"
],
[
"えっ⁉ あの、このお弓さんが、そのちっこく美しいお弓さんが、将軍のお社参までもかぎつけて、そもそもこんなだいそれた陰謀をたくらました張本人なんでがすかい⁉",
"さようじゃ。お腰元としてお城中へ上がりこみ、怜悧にもご城内の様子までかぎ出したのだろうわい。おれときさまの江戸から下ることまでをもかぎ出してな。それから伊豆様にわざと願って、おれたちの小間使いになられたものとみえるよ",
"ちくしょう? じゃ、豊臣がたの犬も同然じゃごわせんか。おっかねえべっぴんに、またおまんまのお給仕までもしてもらったもんだね。ようがす、あっしがだんなの代わりに、料ってやりましょう"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:ごまごま
1999年9月25日公開
2005年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"ようがす、ようがす。そんなにあごがだるけりゃ、あっしがこうやってつっかえ捧になってあげますからね、話の筋だけをお聞きなせえよ。ね、ゆうべおそくになって駆け込み訴訟をしたんだそうですが、だんなは牛込の二十騎町の質屋の子せがれが、かどわかされたって話お聞きになりませんでしたか",
"なんだ、それか。じゃ、きさま、小当たりに当たってみたな"
],
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"へえい。じゃとおっしゃいましたところをみると、だんなもその事件もうご存じですね",
"あたりめえさ。それがために、毎朝訴訟箱をひっかきまわしているんじゃねえか。きさまのこったから、当たるには当たったが、しくじっちまったんだろ",
"ずぼし、ずぼし。実あ、だんなのめえだがね、あっしだっていざとなりゃ、これでなかなか男ぶりだってまんざら見捨てたもんじゃねえでがしょう。それに、なんていったってまだ年やわけえんだからね、人さまからも右門のだんなの一の子分と――",
"うるせえな。能書きはあとにして、急所だけてっとり早く話したらどうだ",
"ところが、そいつがくやしいことにはおあいにくさま。だんなの一枚看板がむっつり屋であるように、あっしの能書きたくさんもみなさまご承知の金看板ですからね。だから、はじめっから詳しく話さねえと情が移りませんが、でね、今いったとおり、あっしだってもこの広い江戸のみなさまから、むっつり右門のだんなの一の子分だとかなんだとか、ちやほやされているんでしょう。しかるになんぞや、一の子分のその伝六様がいつまでたってもどじの伝六であったひにゃ、たといだんなはご承知なすったにしても、あっしひいきの女の子たちが承知しめえと思いやしてね、ひとつ抜けがけの功名に人気をさらってやろうと思って、こっそりいましがた話のその二十騎町へちょっと小当たりに当たってきたんですが、お目がねどおり、そいつがどんなにしても、あっしひとりの力じゃ手におえなくなったんでね。だんなの知恵借りに、おっぽ振ってきたんですよ。不憫とおぼしめして聞いてくださいますか",
"ウッフフフ。若い娘と差しになりゃ恥ずかしくてものもいえなくなるくせに、女の子が承知しねえたあよかったよ。陽気のせいだよ、陽気のせいだよ。しかたがねえ、不憫をたれてやるから、早いとこ急所を話してみな",
"ありがてえッ。じゃ、大急行で話しますがね。あの訴え状にもあるとおり、時刻は夕がたとしてありますが、その夕がたのおよそいつ時分に、どこでどうやってあの質屋の子せがれがかっさらわれたのか、かいもく手がかりがねえっていうんでしょ。だから、こいつやり口のしっぽをちっとものこさねえあたりからいって、ただの人さらいや人買いのしわざじゃねえなとにらみましたからね、けさご番所へ来てみるてえと、まだだれも手をつけてねえようでしたから、すぐ駆けつけていったんですよ。するてえと――",
"ちょっと待ちな。その質屋は牛込のどこだとかいったな。そうそう、二十騎町といったな",
"へえい、さようで――二十騎町から市ガ谷のお見付のほうへぬけていくちょうど四つつじですよ。のれんに三河屋という屋号が染めぬいてありましたから、たぶん生国もその屋号のほうでござんしょうがね",
"ござんしょうがねというところを見ると少し心細いが、じゃ詳しい素姓は洗ってみなかったんだな",
"いいえ、どうつかまつりまして――。あっしだっても、だんなの一の子分じゃごわせんか。だんながいつも事件にぶつかったとき、まずからめてからねたを集める手口や、あっしだっても見よう見まねでもう免許ずみですからね、ご念までもなく、ちゃんともうそいつあまっさきに洗ったんですよ",
"どういう見込みのもとに洗ったんだ",
"知れたこと、牛込の二十騎町といや、ともかくも二本差ばかりの、ご家人町じゃござんせんか。こいつが下町の町人町にのれんを張っているただの質屋だったら、それほどに不思議とも思いませんがね、わざわざお武家を相手のあんな山の手に店を張ってるからにゃ、ひとくせありそうな質屋だなと思いやしたんで、あっしの力でできるかぎりの素姓を洗ったんですよ",
"偉い! 大いに偉い! おれも実あ今ちょっとそのことが気になったんで、わざときいてみたんだが、そこへきさまも気がつくたあ、なかなか修業したもんだな。おめえのてがらを待ってるとかいったその女の子のために、久しぶりで大いにきさまをほめといてやろう。やるが、それにしてはしかし、生国が三河だというだけの洗い方じゃ少し心細いな",
"だから、そのほうもだんなの知恵を借りたいといってるんでがすよ。とにかく、生国が三河であるということと、十年ばかりまえからあそこで今の質屋渡世を始めたってことだきゃはっきりと上がったんですが、それ以上はあっしの力でどうにも見込みがたちませんからね、じゃ別口でもっと当たってやろうと思いやして、子せがれの人相書きやかっさらわれた前後のもようをいろいろにかき集めてみるてえと――",
"何か不審なことがあったか",
"大あり、大あり。消えてなくなったその子せがれは、十だとか十一だとかいいましたがね、女中の口から聞き出したところによると、質屋の子せがれのくせに、だいいちひどく鷹揚だというんですよ。金のありがたみなんてものは毛筋ほども知らず、商売が商売だからそろばんぐれえはもう身を入れて習いそうなものだのに、朝っちからいちんちじゅう目の色変えて夢中になっているものは、いったいだんな、なんだとおぼしめします?",
"八卦見じゃあるめえし、おれにきいたってわからねえじゃねえか。だが、察するに鷹揚なところを見ると、その子せがれは万事がきっと上品で、顔なぞも割合にやさ形だな",
"お手の筋、お手の筋。そのとおりの殿さま育ちで、今いったそのいちんちじゅう目色を変えて夢中になっているっていうものがまた草双紙のたぐいというんでしょう。だから、自然おしばやのまねとか、役者の物まねばかりを覚えましてね、女中なんかにも、おれゃ大きくなったら役者になるんだって口ぐせにいってたところへ、ちょうどまた行きがた知れずになったというその日の夕がた、質屋の家のまわりをうろうろとうろついていたしばや者らしい男があったっていうんだから、あっしがこいつをてっきりほしとにらんだな、おかしくも目違いでもねえじゃごわせんか",
"たれもおかしいとはいやしないよ。このとおり、さっきから神妙に聞いているんだが、それでなにかい、知恵を借りたいっていうな、そのほしが実は目きき違いだったとでもいうのかい",
"いいえ、どうつかまつりまして。今もあっしゃ、むろんのことに、もうそいつめが人さらいのほしだとにらんでいますが、だからね、いろいろと番頭や主人にも当たって、そいつの人相書きから探りを入れてみるてえと、やっぱりしばや者で、久しいまえから家へも出入りの源公というやつなんだそうでがすよ。下谷の仲町に住んでいて、おくやま(浅草)の掛け小屋しばやとかの道具方をやっているというねたが上がりましたからね。こいつてっきり欲に迷いやがって、子せがれに役者の下地のあるのをさいわい、そこの小しばやへ子役にでもたたき売りやがったなと思いやしたから、さっそくしょっぴきに駆けつけていってみるてえと、少しばかり不審じゃごわせんか。野郎が裏口の日あたりへ出やがって、にたにたと青白い顔にうすっ気味のわりい笑いをうかべながら、いま切りたてのほやほやといったような子どもの足を二本、日にかわかしているんでがすよ",
"なに? 子どもの足⁉",
"そうでがしょう。だんなだって、そいつを聞きゃ、聞いただけでもおもわずぎくっとしなさるでがしょう。なにしろ、ももから下の両足ばかりをぶらぶらと両手にさげて、日に干していたんですからね、あっしがちっとばかり肝を冷やして、このとおり、今もおぞ毛をふるいながら、だんなのところへ、いちもくさんに知恵借りに来たな、まんざら筋にはずれたことでもねえじゃごわせんか",
"そうよな。で、なにかい、その日にかわかしていたとかいう子どもの足にゃ、ほかに何か不審と思える節は気がつかなかったのかい",
"ところが、それが大ありなんでがすよ。ね、血をね、血をぬぐいとって、もう長いこと日にあててでもいたものとみえましてね、いやにのっぺりとなまっちろいうえに、なんだか少しかさかさとしているように思えたものでしたから、このあんばいだとこいつ何かのまじないに子どもをかっさらっては足を干していやがるなと思ったんで、なまじなま兵法に手出しをやって、せっかくのほしを逃がしでもしてはと、だんなの草香流を大急ぎで拝借に駆けつけてきたんでございますよ"
],
[
"じゃ、あの日に干していた子どもの足は、しばやに使う小道具だってことが、きさまにもはっきりわかったんだな",
"へえい。なんともどうもお恥ずかしいことでござんした。だんなは話を聞いただけであの足が小道具だという眼力がちゃんと届くのに、あっしのどじときちゃ、現物を見てさえももういっぺんたしかめないことにはそれがわからないんですから、われながらいやになっちまいます",
"ウッフフフ……そうとわかりゃ、そうしょげるにもあたらない! 少しバカていねいじゃあるが、念に念を入れたと思やいいんだからね。だが、それにしても、ほかにもうあの事件のねたになるようなものはめっからなかったかい",
"それがですよ。あっしもせっかくこれまで頭突っ込んでおいて、あのほしが見当はずれだからというんですごすご手を引いちまっちゃいかにも残念と思いやしたからね、下谷のあのほしはもう見切りをつけて、すぐにもういっぺん二十騎町の質屋へすっ飛んでいってみたんですが、ほかにゃもう毛筋一本あの事件にかかわりのあるらしいねたがねえんでがすよ",
"そうすると、依然質屋の子せがれは生きているのかも死んでいるのかも、まだわからんというんだな",
"へえい。けれども、そのかわり、あの質屋のおやじがあっしをつかまえて、おかしな言いがかりをつけやがってね。南町はどなたのご配下の岡っ引きだとききやがるから、へん、はばかりさま、いま売り出しのむっつり右門様っていうなおれの親分なんだって、つい啖呵をきっちまいましたら、おやじめがこんなにぬかしやがるんですよ。むっつり右門といや、南蛮幽霊事件からこのかた、江戸でもやかましいだんなだが、それにしては、子分のおれがどじを踏むなんて、きいたほどでもねえなんてぬかしやがったんですよ",
"たしかにいったか!"
],
[
"いいましたとも! いいましたとも! はっきりぬかしやがってね。それからまた、こうもいいやがったんですよ。お上の者がまごまごしてどじ踏んでいるから、たいせつな子どもをかっさらわれたばかりでなしに、もう一つおかしなことを近所の者から因縁づけられて、とんだ迷惑してるというんですよ",
"ど、ど、どんな話だ",
"なあにね、そんなことあっしに愚痴るほどがものはねえと思うんですがね、なんでもあの質屋の近所に親類づきあいの古道具屋がもう一軒ありましてね。そうそう、屋号は竹林堂とかいいましたっけ。ところが、その竹林堂に、もう十年このかた、家の守り神にしていた金の大黒とかがあったんだそうですが、不思議なことに、その金の大黒さまがひょっくり、どこかへ見えなくなってしまうと反対に、今度はそれと寸分違わねえ同じ金の大黒さまが、ぴょこりとあの質屋の神だなの上に祭られだしたというんですよ。だからね、古道具屋のほうでは、てっきりおれんちのやつを盗んだんだろうとこういって、質屋に因縁をつける――こいつあ寸分違わねえとするなら、古道具屋の因縁づけるのがあたりめえと思いますが、しかるに質屋のほうでは、あくまでもその金の大黒さまを日本橋だかどこかで買ったものだというんでね。とうとうそれが争いのもとになり、十年来の親類つきあいが今じゃすっかりかたきどうしとなったんだというんですがね。ところが、ちょっと変なことは、その大黒さまのいがみあいが起きるといっしょに、ちょうどあくる日質屋の子せがれがばったりと行きがた知れずになったというんですから、ちょっと奇妙じゃごわせんか",
"…………"
],
[
"伝六! 早駕籠だッ",
"えッ。じゃ、じゃ、今度は本気でだんなが半口乗ってくださいますか⁉",
"乗らいでいられるかい。こんなこっぱ事件、おれが手にかけるがほどのものはねえと思っていたんだが、質屋のおやじのせりふが気に食わねえんだ。右門ひとりを見くびるなかんべんしても、お上の者がどじを踏むとぬかしやがるにいたっては、お江戸八百万石の名にかかわらあ。朝めしめえにかたづけてやるから、大手を振ってついてこいッ",
"ちえッ、ありがてえッ。そう来なくちゃ、おれさまの虫もおさまらねえんだ。今度という今度こそは、もうのがしっこねえぞ"
],
[
"――お品はお腰の物でございましょうか。お刀ならばあいにくと新刀ばかりで、こちらは堀川の国広、まず新刀中第一の名品でござります。それから、この少し短いほうは肥前の忠吉、こちらは、京の埋忠――",
"いや、刀ではない。わしは八丁堀の者じゃ"
],
[
"おやじ! おまえのその右小手の刀傷はだいぶ古いな",
"えッ!",
"隠さいでもいい。十年ぐらいにはなりそうだが、昔はヤットウをやったものだな",
"ご、ご冗談ばっかり――このとおりの見かけ倒しなただの古道具屋めにござります……",
"でも、道具屋にしてはわしを見そこなったな、新まいか",
"えへへへ……そういう目きき違いがおりおりございますので、とんだいかものをつかませられることがございます……",
"ウハハハハハハ"
],
[
"不意にわしがおかしなことをいったので、きさま、がたがたと、いまだに震えているな。なに、心配せいでもいいよ。ときに、きさまのところで金のお大黒さまとかが紛失したそうじゃってのう",
"あっ。その件でお越しくださりましたか。遠路のところ、わざわざありがとうございます。実は、それが、そのいかにも不思議でござりましてな。あのお大黒さまは、てまえが、命にかけてもたいせつな品でござりますので、神だなにおまつり申しあげ、朝晩朝晩欠かさずにお供物も進ぜるほどの信心をしてござりましたが、さよう、まさしく一昨日のことでござります。朝お茶を進ぜようと存じまして、ひょいと神だなを見ますると、不思議なことに、それが紛失しているのでございますよ。ところが、もっと奇妙なことには、つい目と鼻の先のあのかどの三河屋でございますが、あの質屋の神だなに、その日から寸分たがわぬ大黒さまがちゃんとのっかってござりますのでな、てまえはもうてっきり家のものと存じまして、さっそく掛け合いに参りますると――"
],
[
"わかった、わかった。もうわかってる。そのことでおまえたちがいがみ合っていることを聞いたから参ったのじゃが、いったいそのお大黒さまはどんな品じゃ",
"正真正銘金無垢のお大黒さまでござります",
"金無垢とのう。すると、なんじゃな、いずれは小さい品じゃな",
"へえい。実はその小さいのが大の自慢で、まずあずき粒ほどの大きさででもござりましたろうか。ところが、その豆大黒さまには、ちゃんとみごとな目鼻も俵もついてございますのでな。どうしたって、そんな珍しい上できのお大黒さまなんてものは、たとえこの江戸が百里四方あったにしても、二つとある品じゃないのでござりますよ。しかるに、それが――",
"わかった、わかった。あとは言わいでもわかってると申すに! ところで、その豆大黒はどこへ祭ってあった",
"ここでござります"
],
[
"よくまあ、この両方の茶わんの中を見るがいいや。道具屋にも似合わしからぬお眼力のうといことでござんしたな",
"へへい、なるほどね、両方とも茶わんの中はどろ水ですが、そうすると、こりゃお大黒さまはやっぱり二つで、両方ともどろ細工でしたんですかい",
"ま、ざっとそんなところかな。おまえんところのやつは、ねずみかなんかにけおとされて、ご運がわるくもお茶わんの中におぼれちまったんで、金無垢の豆大黒さまもたわいなく正体をあらわしちまったんさね。これがほんとうに箔のはげるというやつさ。でも、どろ水の中にちかちか光った金粉がいまだに残っているところを見ると、金は金の金粉だったろうが、それにしてもこんな子どもだましの安物をお家の宝にしていたり、それがもとで仲たがいするところなんぞをみると、ほかに何かもっといわくがありそうだな"
],
[
"ね、だんな。ちょっと妙なことをききますがね。だんなはそのとおりの色男じゃあるし、べっぴんならばほかに掃くほどもござんすだろうに、あのまあ太っちょの年増のどこがお気に召したんですかい。まさかに、あの女の切り下げ髪にふらふらなすって、だんなほどの堅人が目じりをさげたんじゃござんすまいね",
"ござんしたらどうするかい"
],
[
"え⁉ じゃなんですかい、あのぶよんとしたところが気にくっちまったとでもいうんですかい?",
"でも、ぶよんとはしているが、残り香が深そうで、なかなか美形だぜ",
"へへい、おどろいちゃったな。そ、そりゃ、なるほどべっぴんはべっぴんですがね、まゆも青いし、くちびるも赤いし、まだみずけもたっぷりあるから、残り香とやらもなるほど深うござんすにはござんすだろうがね、でも、ありゃ後家さんですぜ",
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"わ、わ、わるかない。そりゃわるい段ではない。だんながそれほどお気に召したら、めっぽうわるい段じゃごわすまいが、それにしても、あの女はだんなよりおおかた七、八つも年増じゃごわせんか。ちっとばかり、いかもの食いがすぎますぜ"
],
[
"では、気をつけてね。あそこだよ",
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],
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"ね、だんな。あんたのお心もち一つですが、このぶよんとしたくらげのほうも、くくるんですかい",
"あたりめえだ。おれがそんな女に参ってたまるけえ。ゆうべのことだって、みんなこいつらの裏をかいてやりたいために、わざと酒もあびたんだ。そんな女に指一本だって触れたんじゃねえんだぞ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:ごまごま
2000年1月5日公開
2005年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"おっ、熊の字きいたかよ、きいたかよ。あれがいま八丁堀で評判のむっつり右門だとよ。なんぞまたでかものらしいぜ",
"大きにな、ただのてんかんにしちゃ、ちいっとご念がはいりすぎると思ったからな。それにしても、なんじゃねえか、うわさに聞いたよりかずっといい男じゃねえか",
"ほんとにそうね。あたし、もうお祭りなんかどうでもよくなったわ"
],
[
"なあ、伝六。きさまにゃ女の子の知り合いはなかったっけかな",
"えっ⁉ なんですって? 不意に変なことおっしゃいまして、なかったっけかなといいますと、さもあっしが醜男のように聞こえますが、なかったら、それがいったいどうしたというんですかい",
"どうもしないさ。その若さで女の子に知り合いがないとなりゃ、口ほどにもないやつだと思ってな。これからおれは、きさまをけいべつするだけのことだよ",
"ちッ、めったなことをおっしゃいますなよ。大きにはばかりさまですね。さぞおくやしいでしょうが、女の子のひとりやふたり、ちゃんとれっきとしたやつが、あっしにだってありますよ",
"ほう、そいつあ豪儀だな。いったい、何歳ぐらいじゃ",
"うらやましくてもおこりませんね",
"おまえの女なんぞ、うらやんでもしようがないじゃないか",
"じゃ申しますがね、きいただけでもうれしいじゃござんせんか、番茶も出ばなというやつで、ことしかっきり十八ですよ",
"いっこうに初耳で、ついぞ思い当たらないが、その者はいま江戸に在住か",
"ちえッ、あきれちまうな、そりゃどうみたって小町娘というほどのべっぴんじゃござんせんからね。だんななんぞにはお目に止まりますまいし、鼻もひっかけてはくださいますまいがね。それにしたって、江戸に住んでいるかはちっとひどいじゃごわせんか。かわいそうに、ああ見えたって、あいつああっしの血を分けたたったひとりの妹ですよ",
"ああ、乃武江のことか",
"ちえッ、またこれだ。ああいえばこういい、こういえばああいって、じゃなんですかい、だんなはそいつが乃武江って名まえなことは知ってるが、あっしの妹だってことはご存じなかったんですかい",
"知っているよ、知っているよ、知っていればこそいま思い出したんだが、――なんとかいったな、もう長いことどこかお大名のお屋敷奉公に上がっているとかいったけな",
"へえい、さようで。辰之口向こうの遠藤様に、もう四年ごしご奉公しているんですがね。それにつけても、ねえ、だんな。血を分けたきょうだいってものは、うれしいじゃござんせんか、ついきんのうもきんのうでしたがね、わざわざ前ぶれの手紙をよこしましてね。近いうちにまたお宿下がりをもらうから、そのときあっしの好きなところてんを、うんとこさえてくれるとぬかしましたよ",
"そいつあもっけもないさいわいだ。どうだろうな、きょうくりあげて、乃武江にそのお宿下がりをもらうわけにいくまいかな",
"え? じゃなんですかい、だんなもところてんが好きなんですかい",
"食い意地の張っているやつだ。ところてんに用があるんじゃない、乃武江にちょっとないしょの用があるんだよ",
"え? ないしょのご用……? たまらねえことになったもんだね。そうれみろい。たまにゃ身内の恥もさらしてみるもんじゃねえか。あんな者でもついうわさをしたばっかりに、だんながないしょのご用とおいでなすったんじゃねえか。これがえにしになって、あのお多福がだんなの玉のこしに乗られるとなりゃ、おいらが一門の名誉というものだ。ようがす、じゃ、ひとっ走り今から呼びに行ってきますからね。ちょっくらお待ちなせえよ",
"バカだな。まてッ",
"えッ?",
"ないしょの用だからといって、すぐときさまのように気を回すやつがあるかッ。女でなくちゃ役者になれんから、ちょっと乃武江を借りるんだ",
"ははあ、なるほどね。じゃなんですね。こんどの事件の手先にでもお使いなさろうっていうんですね",
"あたりめえよ。ひとり者であったぐあい、女客の多かったぐあいから察するに、色恋からの毒殺とにらんでいるんだ",
"わかりやした、わかりやした。それだけ聞きゃ、あっしだって岡っ引きだ、あとはもうおっしゃらなくとも胸三寸ですよ。じゃ、なんですね、乃武江のやつをおとりにつかって、だれか出入りの女客をつかまえ、そいつの口から色ざたをきき出させようって寸法なんですね",
"しかり――だが、きさまのようにおしゃべり屋じゃあるまいな",
"ちえッ。うりのつるにもなすびがなるってことご存じじゃねえんですか。血を分けたきょうだいだからって、おしゃべり屋ばかりじゃござんせんよ。細工はりゅうりゅうだから、あごひげでも抜いて待ってらっしゃい"
],
[
"ほしが当たったらしいな",
"お手の筋、お手の筋。なにしろ、あっしという千両役者の兄貴がついているんだから、太夫もしばいがやりいいというものでさあね、まあよくお聞きなせえよ。こんなにとんとん拍手でてがらたてたこたあめったにねえんだから、あっしもおおいばりでお話ししますがね。あれから辰之口へめえってお屋敷に願ったら、晩までというお約束ですぐに暇くれたんでね、横っとびに妹とふたりで四谷まで出かけていったないいんですが、勤めが勤めなんだから、乃武江のやつめどう見たってお屋敷者としか見えねえんでしょう。だから、ずいぶん心配したんだが、兄貴がりこう者なら血につながる妹もりこう者とみえましてね。うまいこと横町のだんご屋の娘と仲よしになって、洗いざらい女出入りをきき込んじまったんですよ",
"じゃ、情婦めかしいやつをかぎ出してきたんだな",
"いうにゃ及ぶですよ。なにしろ、美男子のひとり者で親はなし、きょうだいはなし、あるものは金の茶釜に大判小判ばっかりときたんじゃ、女の子だって熱くなるなああたりめえじゃござんせんか、むろんのこと、だんご屋の娘もぼおっとなっていたお講中なんだからね。乃武江のやつが、あたしもあのひとには参っていたんだが、というようなかまをかけたら、すっかりしゃべっちまってね、あそこのやお屋のやあちゃんもそうだとか、お隣の畳屋のたあちゃんもそうだとか、いろいろ熱くなっていた女の名まえをあげているうちに、ひときわ交情こまやかというやつが出てきたんですよ",
"何者だ",
"そいつがまた筋書きどおり、笛には縁の深い小唄のお師匠さんというんだから、どう見たっておあつらえ向きの相手じゃござんせんか",
"なるほどな、事のしばいがかりだった割合にゃぞうさなくねたがあがるかもしれないな",
"と思いやしてね。大急ぎに妹のやつを送り届けておいて、このとおり大汗かきながらけえってきたんですがね。なんでも、毎日のように男のほうが入りびたっていたというんだから、あっしゃてっきりそいつが下手人と思うんですがね。それに、だいいち、女のほうが少し年増だというんだから、なおさらありそうな図じゃござんせんか。てめえはだんだんしわがふえる、反対に、かわいい男はますます若返って、いろいろとほかの女どもからちやほやされる、いっそこのままほっておくより――というようなあさはかな考えから、ついつい荒療治をするなんてこたあ、よくある手だからね",
"いかにもしかり。ところで、番地はむろんのことに聞いてきたろうな",
"そいつをのがしてなるもんですかい。芝の入舟町だそうですよ",
"じゃ、ぞうさはねえ。涼みがてらに、くくっちまおうよ"
],
[
"われながらおかしくてしようがねえや。もう十手なぞを斜に構えてなくたっていいんだよ。とんだほしちげえさ",
"えッ。じゃ、菊廼屋歌吉っていうやつあ男の野郎なんですかい",
"女は女だがね、おあいにくさまなことに、もう七十に近い出がらしの梅干しばあさんさ",
"ちえッ。妹のやつも兄貴に似やがって、ちっとばかり早気だな。じゃ、なんですね、来るまじゃえらくぞうさがなさそうに見えやしたが、こう見えてこの事件は存外大物のようですね",
"と思って、おれもいま考え直しているんだが、どうやらこいつ相当に知恵を絞らなきゃならんかもしれんぜ"
],
[
"これ、町人、まてッ",
"えッ……! ご、ご、ごめんなさい、だ、だんなを幽霊といったんじゃねえんですよ",
"だから、聞きたいことがあるんだ。そんなにがたがたと震えずに、もそっとこっちへ来い",
"い、い、いやんなっちまうなあ。ますます気味がわるくなるじゃござんせんか。ま、ま、まさかに出ていったところをばっさりとつじ切りなさるんじゃござんすまいね",
"江戸っ子にも似合わねえやつだな。しかたがない、名まえを明かしてとらそう。わしは八丁堀の右門と申すものじゃ",
"えッ。そ、そうでしたかい。お見それ申しやした。むっつり右門のだんなと聞いちゃ、おらがひいきのおだんなさまだ。そうとわかりゃ、このとおり急に気が強くなりましたからね。なんでもお尋ねのことはお答えしますが、もしかしたら、今の幽霊の話じゃござんせんかい",
"では、やっぱり、どこかにそんなうわさがあるんじゃな。今そちが、それみろい、いううちに出たじゃねえか、と口走ったようじゃったからな、たぶんそんなうわさでもしいしい来たんだろうと思って呼び止めたのじゃが、いったいそのうわさの個所はどの辺じゃ",
"どの辺もこの辺も、つい目と鼻の先ですよ。そう向こうのよもぎっ原に本田様のお下屋敷が見えやしょう。あの先に変な家が一軒あるんですがね。ふさがったかと思えばすぐとあき家になるんで、何かいわくがあるだろうあるだろうといっているうちに、ついこのごろで、あの山王さんのお祭り時分から、ちょくちょくと変なうわさを聞くんですよ。真夜中に縁の下で赤ん坊の泣き声がしたんだとか、庭先の大いちょうの枝に白い煙がひっかかっていたとか、あまりぞっとしないことをいうんですね",
"さようか。どうもご苦労だった",
"いいえ、どうつかまつりまして――ところで、だんなは、おやッ、ひどくあっさりしてらっしゃいますな。聞いてしまうともうさっさとお歩きですが、ご用っていうのはそれっきりですかい"
],
[
"なんのつらあてで死んだか知らねえが、世の中にはずいぶん変わったやつもあるもんだね。将軍さまの面前でわざわざ毒をなめやがったのもしゃれているが、書き置きを笛の胴の中にしまっておくなんぞは、もっとしゃれているじゃござんせんか。これじゃ、いかなだんなでも尾っぽを巻くなあたりめえでしょうよ。てめえが好きでおっ死んだものを、人がばらしたとにらんでたんだからね。しかし、それにしても、だんな、この文句が気になるじゃござんせんか。いまにきさまらの塩首が獄門台にのぼるだろうよと書いてあるが、このきさまらというそのきさまらは、なにものだろうね",
"今そいつを考えているんだ。うるせえ、しゃべるな!"
],
[
"今からお奉行所へ行って、訴訟箱の中をかきまわしてみてこい!",
"えッ! だって、もう五つ半すぎですぜ",
"五つ半すぎならいやだというんか",
"いやじゃねえ、いやじゃねえ。そりゃ行けとおっしゃりゃ唐天竺にだって行きますがね。こんなに夜ふけじゃ、ご門もあいちゃいませんぜ",
"天下の一大事出来といや、大手門だってあけてくれらあ",
"なるほどね、天下の一大事といや、大久保の彦左衛門様がちょいちょい使ったやつだ。一生の思い出に、あっしもちょっくら使いますかね"
],
[
"いやんなっちまうな。じゃ、まくらと蚊やりはこの家で使うんですかい",
"あたりめえだ。この草むらじゃさぞかし蚊が多いだろうと思ってな、それでわざわざ用意してきたんだ。八丁堀のごみごみしているところとは違って、この広っぱならしずかだぜ",
"ちえッ。静かにもほどがごわさあ。あんまり静かすぎて、あっしゃもう、このとおりわきの下が冷えていますよ",
"じゃ、おめえさんおひとりでおけえりなせえましよ",
"またそれだ。あっしがひとりでけえられるくらいなら、だんなにしがみついちゃいませんよ。ばかばかしい。いくら夏場だって、化け物屋敷へ寝にくるなんて酔狂がすぎまさあ。しかたがねえ、もうこうなりゃ、だんなと相対死にする気で泊まりやすがね。それにしても、わざわざでけえ音をたてるこたあねえんじゃござんせんか。寝ている化け物までが目をさましますぜ",
"さましてほしいから、わざと、音をたてるんだよ、な、ほら、こういうふうにしてへえるんだ"
],
[
"まだ女がひとりいるはずだが、おいでがなくば迎えに行くぞ",
"出ますよ、出ますよ、どうせ一度は納めなくっちゃならねえお年貢ですからね。大きにご苦労でござんした。へえい。さ、ご自由に――"
],
[
"ところが、あっしゃ成仏しませんよ。もうこんりんざい、だんななんぞに幽霊屋敷や化け物話を聞かせるこっちゃねえ。だんなの知恵じゃ、すぐとそいつが一味の巣窟にも穴倉にも見当がつくんでがしょうが、あっしゃぺったり生き血を首筋へやられたときゃ、五年ばかり命がちぢまりましたぜ",
"じゃ、きげん直しに乃武江でも招いて、いっしょにところてんでも食べるかな"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
1996(平成8)年12月20日新装第7刷発行
入力:大野晋
校正:Juki
1999年11月26日公開
2005年6月29日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000562",
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"副題": "05 笛の秘密",
"副題読み": "05 ふえのひみつ",
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[
[
"ねぼけんない。おらそんなこたあ知らねえよ",
"えッ。ねぼけんないっですって……? あきれちまうな。だんなのおなかにへえる品物ですぜ",
"でも、きさま、おれがきのうこの暑っくるしいのに河岸の物ばかりでも気がきかねえから、たまにゃ冷ややっこでも食わせろといったら、ご亭主っていうもな、お勝手のことなんぞへ口出すもんじゃねえっていったじゃねえか"
],
[
"ねえ、だんな、あっしゃこれでも、だんなのためにゃ命までもと打ち込んでいるつもりなんですが、まさか急にだんなは、あっしにみずくさくなったわけじゃござんすまいね",
"やぶからぼうに、おかしなことをからまってくるが、いったいどうしたのかい。米俵でも玄関にころがっていたのかい",
"しらきりなさんな。だんながその気なら、あっしもその気で考え直しますが、そもそもいってえ、いつのまに、あんな女の子を手なずけなすったんですかい",
"え……? 女の子?",
"え、があきれまさあ。いくらだんなが変わり者だからって、あれじゃまだせいぜい九つか十ぐれえにしかならねえんじゃねえですか。それとも、今からあんなちっちぇい娘を予約でもしておくんでげすかい",
"変なことばっかりいうが、そんな小娘でもたずねてきたのかい",
"来ただけじゃねえんだから、あっしゃみずくせいっていってるんですよ。ね、せっかくあっしがああやってわざわざお出迎いにいってやったのに、ちくしょうめ、おかしなまねをしやがって、あっしの顔みるてえと、じゃまなやつが出やがったなんていうようなつらしながら、赤くなってまた逃げてきましたぜ",
"ほんとうなら、少し変だな",
"だからこそ、いつあんな小娘を手なずけたんですかって、きいてるんじゃござんせんか。もうあんな色っぽい手管おぼえやがって、それとも、だんながあっしの顔みたら逃げてかえれとでも悪知恵つけておいたんですかい"
],
[
"な、伝六! きさま清水屋にお糸っていう小娘のあること知っているな",
"え? 知ってますよ。知ってますが、清水屋っていや米屋じゃござんせんか。お米ならもうとうにゆんべまにあいましたぜ",
"米に用があるんじゃねえんだ。娘のお糸に用があるから、ひとっ走りいって、ちょっくら借りてこい!",
"あきれちまうな。そんな小娘ばっかり集めなすって、鬼ごっこでもする気ですかい"
],
[
"ね、お糸坊。おまえこないだっから、おじさんが好きだといったな",
"ええ、大すきよ。絵双紙でみた名古屋山三そっくりなんだもの――"
],
[
"じゃ、きょう一日おじさんの子どもにならんかい",
"いちんちだけなの……?",
"ああ。だけど、おまえがもっと幾日もなりたいというなら、してあげてもいいよ",
"じゃ、なりましょう! なりましょう!"
],
[
"らちもねえことするにもほどがごわさあ。くそおもしろくもない、あっしゃもうけえりますよ",
"そうかい。けえりたきゃけえってもいいが、でも、すぐとまた来なくちゃならんぜ"
],
[
"そうさ。まさに判然とあの小娘だよ。どうだい、おまえの胸も、ちっとはすっとしたろう",
"しました、しました。富士の風穴へでもへえったようですよ。さすがはだんなだけあって、やることにそつがねえや。なるほどな。じゃ、なんですね、きのうからのこの小娘のそぶりをお聞きなすって、ひと事件あるなっとおにらみなすったんですね",
"あたりめえよ。わざわざ右門を目ざしてたずねてきたのもおかしいが、二度もたずねて二度とも帰ってしまったなあ、恥ずかしいよりもよくよくでかい事件なんで、訴えることがおっかねえんだなとにらみがついたから、きょうもてっきりまたたずねてくると思って、子どもは子どもどうしに、お糸坊をちょっとえさに使ったんだ。――な。嬢や、さ、いってみな。このとおり、もうおじさんがついているからにゃ、鬼の首だって取ってあげるから、隠さずにいってみなよ"
],
[
"そなたのおとうさんは、ご藩にいられたおり、どんなお役がらでござったな",
"殿さまのお手紙とかを書くお役目にござりました",
"ほほうのう。ご祐筆でござったのじゃな。では、剣術なぞのご修業は自然うとかったでござろうな"
],
[
"そなた、ご飯たきをしたことがあるかな",
"ござります……",
"そうか。では、どうじゃ。今晩からしばらく、おじさんのうちのままたきなぞをてつだってみないか"
],
[
"あいかわらずのひょうきん者だな。さ! 深川だ、深川だ! 深川へいって、あの小娘のおふくろを洗ってくるんだ!",
"えッ、おふくろ……? だって、小娘はまさに判然と、おやじの死に方がおかしいから、そいつを洗ってくれろといいましたぜ。だんなの耳は、どこへついているんでござんすかい",
"あほうだな。おれの耳は横へついているかもしれねえが、目は天竺までもあいていらあ。てめえにゃあの子の首筋と手のなま傷がみえなかったか!",
"え……? なま傷……? なるほどね。そういわれりゃ、三ところばかりみみずばれがあったようでござんしたが、ではなんですかい。そのみみずばれは、おふくろがこしらえたものとでもおっしゃるんですかい",
"あたりめえよ。あの小娘のおれに訴えてえものは、おやじのこともことだが、ほんとうはあのみみずばれのことがおもにちげえねえんだ。けれども、さすがは武士の血を引いて年より利発者なんだから、おふくろの折檻やそんなことは、家名の恥になると思って、このおれにさえいわねえんだよ。だから、見ねえな、おれが察して、当分ままたきのおてつだいでもするかといったら、あのとおり、ぽろぽろとうれし泣きをやったじゃねえか。きっと、おふくろに何か家へ帰りたくねえようないわくがあるにちげえねえから、ひとっ走り行ってかぎ出してこい",
"なるほどね。いわれてみりゃ、大きにくせえや、じゃ、もうこっちのお糸坊のほうはご用ずみでしょうから、道のついでに帰してもようがすね",
"ああ、いいよ。途中であめん棒でも買ってやってな――ほら、二朱銀だ",
"ありがてえッ。残りは寝酒と駕籠代にでもしろってなぞですね。では、ひとっ走り行ってめえりますから、手ぐすね引いて待っていなせえよ"
],
[
"ずいぶん待たしやがった。さ、伝六! どうやらむくどりが一匹かかりそうだから、あの女から目を放すなよ",
"えッ、女……? どこです? どこです?",
"あそこを行くじゃねえか。ほら、みなよ。黒っぽい明石の着付けで、素足に日傘をもったくし巻きのすばらしいあだ者が、向こうへ行くじゃねえか",
"な、な、なるほどね。どうやら堅気の女じゃねえ様子だが、あいつに目を放さなかったら、暑気当たりの薬にでもなるんですかい",
"よくも口のへらないやつだな。ひょうきん口をたたいている場合じゃねえんだよ。ずいぶん暑い思いをさせやがったが、あのあだ者が、今うわさに高いくし巻きお由にちげえねえんだ",
"えッ、くし巻きお由……? くし巻きお由っていや、きんのうもご番所でやつのうわさが出ましたっけが、この節浅草を荒らしまわる女すりじゃござんせんかい",
"だろうとにらんだればこそ、目を放さずにいろといってるんだ",
"でも、深川のまま母は、あいつじゃござんせんぜ",
"うるせえや、見てろといったら見ていろい!"
],
[
"ちょいと、お由さん! 妙なところでお目にかかったもんですな",
"えッ!"
],
[
"おうわさじゃ聞いていましたが、あんなに器用な腕まえたあ思いませんでしたよ",
"えッ……まあ、突然――突然なんのことでございますかね",
"いいえ、なにね、今そこの日傘の中にちょいとこかし込んだしろもののことですがね",
"えッ!"
],
[
"ところが、どうして、筋書きがそう定石どおりにいかねえんだから、人見知りはしておきたいものだね。実あ、お由さんの今のあの器用な腕まえをちょっとばかり見込んで、特にお頼みしてえことがあるんだがね",
"えッ……。だんながあたしに……?",
"さよう。そのために、この暑いさなかをわざわざ八丁堀から出張ったんですがね",
"まあ、近ごろうれしいことをおっしゃいますわね。そう聞いちゃ、あたしもくし巻きお由ですもの、その意気とやらに感じまして、どんなお仕事かひとつお頼まれしてみましょうかね",
"さすがは名をとった人だけあって、わかりがはええや。実は、今のあの器用なまねを逆にやってみせてもれえてえんだがね",
"え? 逆……? 逆というと",
"知れたことじゃござんせんか。ふところに品物をねじ込むんですよ、今のは器用にすり取ったようだがね。逆といや、つまり、あれをあべこべに、ふところへ品物をねじ込むんでさあ。むろんのこと、相手には気のつかないようにね",
"ああ、そんなことなら……"
],
[
"ね、こちらのだんな。そら、そこのえり首に、大きな毛虫がはってますよ",
"えッ、毛、毛虫? 毛虫……?"
],
[
"おどろいたかい",
"ちえッ。あんまり人をいじくりなさんな。あっしゃもう無我夢中で少し腹がたっているんですよ",
"じゃ、お由さん、まだ二、三本手紙が残っているようだから、このかわいそうな気短者に、おまじないの種をみせてやっておくんなさいな"
],
[
"なるほどな。さすがだんなのやることだけあって、芸がこまかいや。じゃ、なんですね、このおまじないをおとりに使って、まずあのときの八卦見の野郎をおびき出そうというんですね",
"あたりめえよ。人相とか年かっこうでもわかっていりゃ、こんなまわりくどい捨て石なんか打たなくたっていいんだが、ただ深川の八幡にいた八卦見といっただけじゃ、どうせあいつらは渡り者なんだもの、どれがどいつだかわからんじゃねえか。だから、きょうだけの捨て石じゃ獲物がかからねえかもしれないよ。江戸にいる八卦見の数は、あれっぽちじゃねえんだからな",
"その心配ならだいじょうぶ。おらがだんなのやるこっちゃござんせんか。いますよ、いますよ。きっとあの十二匹のうちにいますぜ。それに、渡り者といったって、あいつらにもなわ張りはあるんだからね。思うに、あっしゃ深川の境内に今もまだいるんじゃねえかという気がするんですがね",
"そうばかり問屋でも卸すめえさ。――だからねえ、お由さん、あんたも今の話で、あっしどもがなにしているか、もうおおかためぼしがついたでしょうが、場合によっちゃ、まだ二、三日あんたの例の早わざをお借りしてえんだからね。当分おてつだいをしてはくださるまいかね。ごらんのようなひとり者で、家の人数といっちゃあ、そこのお勝手にいるお静坊とあっしきりなんだから、寝言をいおうと、さかしまにはい出そうと、ご随意なんだがね。――もっとも、あっしが生身のひとり者なんだから信用がおけねえっていうんなら、そいつあまた格別ですが",
"いいえ、もうだんななら――、だんなのようなおかたのそばでしたら――"
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"おう、来てくだすったか。ご苦労だな",
"あっ――、暗くてよくわかりませんが、さきほど書面をくださっただんなですね。うちにけえってみると、いつもらったものか、ふところにあいつがへえっていたもんだから、あっしもびっくりしちゃいましてね",
"そうかい。とんだおつなまねしてすまなかったが、知ってのとおり、ちと内密に頼んだ仕事だったものだから、人に見とがめられちゃあとぐされが恐ろしいと思ってな、ちょっとばかり隠し芸をしたまでさ",
"ええ、そうでがしょう。大きにそうでがしょう。あのときもそういうお話でしたからね。ところで、ご書面によるとうまくいったとありますが、あの浪人者はほんとうにあれで死にましたかい",
"死んだからこそ、こうやってお礼に来たんだ。ときに、あのときゃいくら礼金をやるって約束をしたっけな",
"三両――たしかに三両っておっしゃいましたよ。だから、あっしゃ欲にかまけて、いまに来るか、いまに来るかと思いながら、はやりもしないのにあの八幡の境内で、きょうが日までだんなのおたよりを待っていたんですぜ",
"そうか、きのどくでしたな。じゃ、とりあえずその三両を先にやっておこうから、手を出しなよ",
"ありがてえなあ。久しぶりで小判の顔が拝まれますかね――"
],
[
"きさま、きのう深川のまま母を洗ってきたとき、このごろじゅう毎晩五つから四つの間に、折檻の悲鳴が聞こえるといったっけな",
"へえい、たしかに申しやしたよ",
"それなら、身分ありげな六十のおやじっていうのも、いっこうに不思議はねえや。じゃ、五つから四つといや、ちょうど今がその時刻だから、大急ぎに深川へ駕籠だ、駕籠だ!"
],
[
"ご苦労だが、このかまどの下の古井戸の中に、人間の死体が浮いているはずだから、堀りあげてくれ!",
"そりゃ聞き捨てがなんねえや。そら、野郎ども、手を借しなッ"
],
[
"おそくまで待たして、さぞかし眠かったろう。でものう、お静坊、おまえのかたきは、このおじさんがいま討ってきてあげたぞ",
"えッ……では、あのやっぱり、もしやおじいさんのお侍……"
],
[
"そうそう、たいへんな人のいらっしゃいましたことを忘れていましたな。さっき出がけには、まだ二、三日お頼みしなくちゃなるまいかとも思ったものだから、寝言でもさかだちでもご随意のように願っておきましてたっけが、お聞きのとおりの仕儀でござんすからな。あんたのようなべっぴんになにかと長居されりゃ、いろいろと世間のバカがつまらぬうわさをたてやがるから、早いとこ引き取ってもらいますかね",
"まあ! じゃ、だんなはほんとうに、あたしをご用弁にする気じゃござんせんでしたか!"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tat_suki
校正:湯地光弘
1999年7月25日公開
2005年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "000564",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "06 なぞの八卦見",
"副題読み": "06 なぞのはっけみ",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-07-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"人物ID": "000111",
"姓": "佐々木",
"名": "味津三",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "みつぞう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "みつそう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Mitsuzo",
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[
[
"そうそう、お通夜といえば、さっき出がけにお番所へ、妙な訴えをもってきたお坊さんがあったぜ。なんでも、小石川の仁光寺とかいうお寺なんだそうだが、ゆんべのうちに裏の墓をあばいて、二つばかり死骸を胴切りにしていったものがあったそうだよ",
"ほう、死骸をね。このお盆のさいちゅうに、またうすっ気味のわるいいたずらするやつがあったものだな。なんぞ恨みの筋でもありそうなほしなのかい",
"ところが、どうもただのいたずらだろうというんでね。勤番の者の評定じゃ、べつに取り上げるようなけしきを見せなかったっけが、でも、そのあばかれた墓っていうのが、そろいもそろって四、五日まえに仏となった新墓で、そのうえに二つとも死骸は女だというんでね。いたずらにしても、ちっといろけがあるように思われるんだがね",
"そうよな、女がふたりとも小町娘の姉妹かなんかで、胴切りがまた恋のさか恨みとでもいうのなら、めったな草双紙でも見られない筋だがな"
],
[
"伝六ッ",
"ええ",
"駕籠だよ",
"駕籠……?",
"おれが駕籠といや、もうわかりそうなものじゃねえか"
],
[
"ちっと、どうもやることがそそっかしいように思われますが、ねえ、だんな、だんなはまさか、今度の仕事の相手に、どんなやつが向こうに回ったか、お忘れじゃござんすまいね",
"知らないでどうするかい、あばたの敬四郎じゃねえか",
"そうでがしょう。だのに、たったあれだけの調べ方じゃ、ちっとどうもそそっかしいように思われますがね",
"じゃ、おれの目は節穴だというのかい",
"ど、どういたしまして――、だんなの目のくり玉は、天竺までにも届いていらっしゃるこたあよっく心得ていますがね。でも、あばたのだんなはいろいろともっと調べていましたぜ。墓のあばき方だとか、戒名なんぞのことまでも必死とね",
"おおかた、敬四郎にゃあの胴切りが、恨みの末のしわざに思われているんだろうよ",
"え、なんですって……? じゃ、だんなはそうじゃないというんですかい",
"あたりめえさ。まさに判然と、ただの死に胴だめしだよ",
"死に胴だめし……? でも、あの仏たちゃまだなまなましい若そうなべっぴんどうしですぜ",
"だから、なおのことそうじゃねえか。死に胴をためすからにゃ、新仏ほど切りがいがあるんだからな",
"それにしたって、新仏ならば、まだいくらもあそこにあったじゃござんせんか",
"わからねえやつだな。おおかた、おめえはあの女どもの妙なところばっかり見ていたんだろうが、ありゃふたりとも水死人だぜ",
"道理でね、いっこうわずらった跡もなし、死人にしちゃちっと太りすぎていると思いましたが、するてえと、なんですね、あれをぶった切った野郎は、どこかであの仏どもの水にはまったことを知っていて、あんなまねしたんですね",
"あたりめえさ。しかも、あの下手人はすばらしいわざ物の持ち主で、おまけに左ききだぜ",
"え? 左きき……なるほどね。そういわれれゃ、二つとも左胴ばかりをぶった切っていたこと今あっしも思い当たりやしたが、大きにそれにちげえねえや。剣術のことはよくあっしゃ知らねえが、生きている相手ならともかく、手向かいもなんにもしねえ死人の胴を、なにもわざわざ左から切るこたあねえからね。しかし、それにしても、あの門前のおかしな張り紙は、いったいなんのおまじないですかい",
"それがおれの目の節穴じゃねえといったいわれだよ。おめえもあばたの先生もいっこう気がつかねえような様子だったが、あの墓の五、六間先に、子細ありげな前髪立ての若衆がひとりしゃがんでいたんだ。どうもそいつのおれたちを見張っている眼の配りが、とても心配顔でただごとじゃねえと思ったからね。ひょっとすると、なにかこの事件にひっかかりがあるかもしれねえなとにらみがついたから、ちょっと右門流の細工をしたまでさ",
"ありがてえッ、そうと聞きゃ、もうこっちのものだ。じゃ、前祝いに駕籠をおごろうじゃござんせんか。この暑いのに、右門のだんなともあろうおかたを汗びたしにさせたといっちゃ、あっしが女の子たちに合わす顔がござんせんからね"
],
[
"てまえも八丁堀で少しは人に知られた者でござる。わざわざあのような張り紙をしておいてまいったからには、いかようなことなりとご貴殿の力になってしんぜようから、まず事の子細を先に承りましょうではござらぬか",
"はっ……"
],
[
"では、なんでござるな、てまえに信が置けぬと申すのでござるな",
"いいえ、め、めっそうもござりませぬ。あの張り紙をはからずも目に入れたとき、そなたさまのことはとうにてまえも聞き及んでござりましたので、これはよいおかたの味方を得たものだと存じまして、ふたときあまりも、とつおいつ思案ののちに、ようやっとこのように夜ふけのことをも存じながら、おじゃまさせていただきましてござりまするが、さていざとなると、やっぱりどうも……",
"打ちあけぬほうがよいと申さるるか",
"いいえ、それをどうしたものかと、今もなおかように思い迷ってでござります……"
],
[
"慧眼、いまさらのごとくに感服つかまつりました。それまでも、わたくし腹中をお見通しでござりましたら、このうえ隠すは無益にござりますので、いかにも胸中の秘密お明かしいたしまするが、けっしてお他言はござりませぬでしょうな",
"かくのとおりにござる"
],
[
"いや、ご懸念は無用でござる。そなたがなにゆえきょうが日まで、密々にそのような詮議のご苦心をなさったか、なにゆえまた今のようにかくお驚きなさったか、すべてはてまえにもとっくりと判明してござるから、いったん耳に入れた以上は、拙者も近藤右門、こよいからさっそくそなたのおてつだいをしようではござらぬか",
"すりゃ、あの、わたくしめにお助勢くださるとおっしゃるのでござりまするか!",
"さよう、二日とたたないうちに、きっとそなたのご心配は取りのけてしんぜましょうよ",
"ありがとうござります、ありがとうござります。あなたさまのお助力をうければもう千人力、やっぱりご相談に上がってよいことをいたしました"
],
[
"なあ、伝六",
"え?",
"どうやら、おれも焼きが回ったかな",
"不意にまたいくじのねえことおっしゃいますが、どうしてでござんす",
"だって、よく考えてみなよ。おれはかりにもむっつり右門といわれている男なんだぜ",
"でも、柳の下にゃどじょうのいねえときだってあるんだからね。時と場合によっちゃ、しかたがねえじゃござんせんか",
"いいや、そうじゃねえんだよ。おれにはもっとほかに、おれ一流の吟味方法があったはずじゃねえのかい",
"な、なるほどね、大きにそれにちげえねえや。だんなの口癖にしていらっしゃるからめての戦法というやつだ",
"だからよ、今はじめておれも気がついたところだが、とんだむだぼねをおったもんさ。肝心かなめのお小姓というたいせつなほしのいることを忘れているんだからな",
"ちげえねえ、ちげえねえ。逆胴切りの詮議から先に手がけるなんてどじな洗い方は、せいぜいあばたのだんなぐらいにやらしておきゃたくさんですからね",
"だから、ひとつ顔を洗い直して、今からその右門流を小出しにするかね",
"今から?",
"不足かい",
"だって、兵糧をつめないことには、いくらあっしだって、いくさはできませんよ",
"それだから、金葉へでもちょっくら寄って、中ぐしのふた重ねばかりも食べようかといってるんだよ",
"え? うなぎ?",
"おめえきらいか",
"どうつかまつりまして、うなぎときちゃ、おふくろの腹にいたうちから、目がねえんですがね。でも、この土川うちじゃ、目のくり玉の飛び出るほどぼられますぜ",
"しみったれたことをいうやつだな。その悲鳴が出るあんばいじゃ、ふところが北風だろうから、じゃこいつをおめえに半分くれてやろうよ",
"な、なんです?――こりゃだんな、切りもち包みじゃござんせんか",
"そうよ、その中にある品は、まさに判然と山吹き色をした二十五両だよ",
"近ごろ珍しく金満家になったもんですね",
"ねたを割りゃ、お奉行さまのお手元金だよ。これまでのてがら金だといって、きのう五十両ばかりお中元にくだすったのでね、おれのてがらはおめえのてがらなんだから、半分そっちへおすそ分けさ",
"ちッ、ありがてえ。持つべきものは、べっぴんの女房と、いいご主人さまだ。こうなりゃ、もうお大尽です。きょうのおあいそは、みんなあっしが持とうじゃござんせんか",
"天から降った小判だと思って、いやに大束を決めだしたね。では、そろそろ出かけようか"
],
[
"ときに、うなぎの佃煮は、何日くらいもつかね",
"うちのは特別製ですから、この土用でも三日はだいじょうぶでございます",
"そうか、あした一日さえもってくれりゃいいんだから、じゃ五人まえばかり折り詰めにしてな、お代は食べたのといっしょに、そっちの男からもらってくんな"
],
[
"ご大身のお小姓に、ただのもっそう飯でもかわいそうだからな。これでもおかずにしてお上がりなさいといって、ほうり込んでおきなよ。それから、蚊いぶしでも特別にたくさんあてがってやってな",
"なるほど、がてんがめえりましたよ。うなぎの佃煮以来、どうもいろいろと変なことするなと思っていましたっけが、あれもこれもみんな右門流ですね。そうとわかりゃ、牢名主の野郎にもよっくいいきかせて、殿さま扱いにさせますからね。お先に帰って、ゆっくりとお休みなせいよ"
],
[
"越前さまのご家中でござりましょうな",
"はい……お下屋敷の奥勤めをいたしておりまする百合江と申す者でござります",
"おおかたその辺でござろうと、右門けさからお待ちうけいたしておりました。なんのためにお越しなさったかも存じてござるによって、けっしてお隠しなさってはなりませぬぞ。おそらく、石川殿と秘めごとがござりましょうな"
],
[
"よく納得が参りました。お恥ずかしい仕儀にござりまするが、お目がねどおり、まだ人目を忍ばねばならぬ仲にござります",
"いつごろからでござった",
"つい十日ほどまえのふとした夜さに、はじめてあのかたさまから熱いお心のうちを承りましたので、末始終の恋をお誓いしたのでござります",
"そのとき、だれぞに見とがめられたお記憶はござらぬか",
"いいえ、少しも……",
"では、どなたかほかの者で、まえからお身を慕っていた者にお心当たりはござらぬか",
"それもいっこう存じ寄りはござりませぬ…",
"ほう、ないとな"
],
[
"では、異なことをお尋ねするが、そのとき言いかわすまで、杉弥どのとはお近づきでござらなんだか",
"いいえ、幼いころから存じてでござります",
"ならば、杉弥どのの朋輩なぞも、よくご存じでござりましょうな",
"はい、道場通いのころからのご朋輩を五人ほど存じてでござります",
"そのなかに左ききの腕達者の者はござらぬか",
"ござります、ござります、波沼様と申しまして、要介様と欣一郎様と申されるふたごのご兄弟が、どうしたことか、生まれおちるからのそろいもそろった左ききだそうでござります",
"なに、ふたごの兄弟⁉",
"はい、おふたりとも杉弥さまよりか二つ上のはたちとかにござりまするが、お家がらもよろしいし、日ごろおとなしやかなおかたたちでござりましたので、ついおととしの春ご元服あそばされるまでは、やはりお小姓方をおふたりともお勤めでござりました",
"むろん、剣道達者でござろうな",
"はい、おふたりとも、そろいもそろって無念流とかのおじょうずにござりますので、家中のみなさまがたが、珍しいおふたごだと、もっぱらのご評判にござります"
],
[
"そなた水泳ぎはご堪能でござらぬか",
"ござりましたら、いかがなされまするか",
"そなたのいとしい杉弥どののお難儀を救ってしんぜるが、おできにござるか",
"できますでござります、できますでござります。杉弥さまをお救い願えますことならば、どのようなことでもいたしまするでござります",
"でも、男どもといっしょに泳ぐのでござるぞ",
"恋しいおかたのためならば、身の恥も悲しみも、けっしていといませぬ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:Juki
1999年12月28日公開
2005年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000581",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "07 村正騒動",
"副題読み": "07 むらまさそうどう",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-12-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"姓読み": "ささき",
"名読み": "みつぞう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "みつそう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Mitsuzo",
"役割フラグ": "著者",
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"没年月日": "1934-02-06",
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"底本名1": "右門捕物帖(一)",
"底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年9月15日新装第1刷",
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} |
[
[
"何か事件かい",
"事件かいの段じゃねえんですよ。お番所はひっくり返るような騒ぎですぜ",
"ほう。そいつあ豪儀なことになったものだな。三つ目小僧のつじ切りでもあったのかい",
"なんかいえばもうそれだ。いやがらせをおっしゃると、あっしだけでてがらしますぜ",
"大きく出たな。そのあんばいじゃ、おれが出る幕じゃねえらしいな",
"ところが、おめがね違い、足もとから火が出たんですよ。ね、平牢にもう半月ごし密貿易の科で、打ち込まれていた若造があったでがしょう",
"ああ、知ってるよ。長崎のお奉行から預かり中の科人だとかいってたっけが、そいつがくたばってでもしまったのかい",
"しまったのなら、なにもお番所の者がこぞって騒ぐにはあたらねえんだがね、そやつめが運わるくあばたのだんなのお係りだったものだから、かわいそうに毎日の痛め吟味でね、尋常なことではそんなまねなんぞできるからだではねえはずなのに、どうやってぬけ出やがったものか、まるきり跡かたも残さねえで、ゆうべ消えてなくなっちまったんですよ",
"破牢したのか",
"それがただの破牢じゃねえんですよ。牢番の者が三人もちゃんと目をさらにしていたのに、いつのまにか消えちまったっていうんだからね、もうお番所は上を下への騒ぎでさあ",
"じゃ、むろんあばたの大将おおあわてだな",
"おおあわても、おおあわても、血の色はござんせんぜ。なんしろ、よそからの預かり者を取り逃がしたんだから、事と場合によっちゃ、あっしども一統の名折れにもなるんだからね",
"よし、そう聞いちゃ、相手がちっと気に入らねえが、おれも一口買って出よう!",
"ほんとうですかい!",
"いったん買って出るといったからにゃ、おれもむっつり右門じゃねえか。まさかに唐天竺までもおっ走ったんじゃあるめえよ"
],
[
"じゃなんですかい、だんなはあっしどもが八丁堀の人間じゃねえとおっしゃるんですかい",
"上役に向かって何をいうかッ",
"ちえッ、上役も時と場合によりけりですよ。これがつかまらなかったひにゃ、だんなはじめあっしども一統の恥っさらしなんだからね。せっかくおいらのだんながお出ましくだすったっていうのに、今のごあいさつあ、ちっと肝ったまが小さすぎるじゃござんせんか"
],
[
"ゆうべの破牢罪人は何番牢じゃ",
"あっ! だんなもお出ましでござんすか。えらい騒ぎになったものでござんすが、いったいあっしゃ、あばたのだんながあんまりひどい痛め吟味に掛けすぎたと思うんでがすよ",
"じゃ、きさま、あらましのことは知ってるな",
"知らないでどうしますかい。ずっともうひと月ごし、病人だまりにいたんですからね",
"ほう、それは耳よりな話じゃが、ではどこぞわずらっていたのじゃな",
"そこがつまり、あばたのだんなのひどすぎるところだというんでがすがね。なにしろ、あのとおり吟味といや、きまって拷問に掛けるのがお得意のだんななんだから、ずいぶんとかわいそうな責め折檻をしましたとみえましてね、もうここのところずっと半死半生の病人でしたよ",
"どんな科でそんなに責められたのか、耳にしていることはないか",
"あっしどもは下人だから詳しい様子は知りませんが、密貿易をやった仲間がまだ三、四人とか御用弁にならないのでね、そいつらのいどころを吐かせるためにお責めなすったとかいいましたがね"
],
[
"なんでえ、ぞうさのねえことじゃねえか。おめえがちっとこれから忙しくなるぜ",
"えッ! じゃ、もうほしがついたんですかい",
"おれがにらみゃ、はずれっこはねえや",
"ありがてえッ。じゃ、すぐにひとっ走り出かけましょうが、方角はどっちですかい",
"まあ、そうせくなよ。こうなりゃもうこっちのものだから、あばたの大将にさっきの礼をいってけえろうじゃねえか"
],
[
"さ、きさまは非人をあげてくるんだ",
"非人――? 非人が何かこの事件にからまっているんですかい",
"じゃ、きさまは、あそこに清め塩の盛ってあったことも気がつかなかったんだな",
"そんなものが、どこにござんした?",
"病人たまりのこうし口に、ちゃんと盛ってあったよ",
"するてえと、ゆうべあそこから死骸になって、かつぎ出されたものがあったんですね",
"まずそんなところさ。一つ屋根にいた者に死んで出られりゃ、いくら科人どもだってあんまり縁起のいい話じゃねえんだからな。どやつか牢番に鼻薬をかがして、清め塩を盛らしたんだろうよ",
"じゃ、破牢罪人の野郎め、そのすきになんか細工をしやがったんですね",
"穴も掘らず、壁も破らずに破牢したっていや、牢役人どもとぐるでのことか、でなきゃ死骸を運び出すときに細工したとしか、にらみようがねえじゃねえか。聞いてみりゃ、足腰も立たねえほどな半病人だったというから、なおさらこいつは腕ずくの破牢じゃねえよ",
"ちげえねえ! 神さまにしたって、だんなほど目はきかねえや、あそこの係りの非人どもは、日本橋のさらし場にいるはずだから、じゃ、ひとっ走り行ってきますからね。どっちへしょっぴいてまいりましょうね",
"八丁堀へつれてきなよ"
],
[
"ちょっと承りたいことがありまして参じましたが、もしや、ゆうべ伝馬町の平牢から、死人となって出た者はござりませなんだか",
"ああ、ありましたよ、ありましたよ。まだ宵のうちじゃったがな。もう長いこと労咳でわしがめんどうみていた無宿者の老人が、急にゆうべ変が来たというて呼び迎いに参ったのでな。行くにはあたるまいとも存じたが、役儀のてまえそうもなるまいから、検診してさっそく非人どものほうへ下げ渡させましたわい",
"そのとき、なんぞお気づきのことはござりませなんだか",
"さようのう。死因はたしかに病気じゃったし、ほかに不審とも思われた節はないが、身寄りもない無宿者に、だれがそんな手回しのいいことをしたものか、棺にして運び出したようでござりましたよ",
"え? 棺でござりましたとな!",
"さよう、それもふたり分ぐらいはゆっくりはいれそうな大きい寝棺でしたよ"
],
[
"では、もう一つ承らせていただきまするが、あの病人たまりに若造の囚人が居合わしたはずでござりまするが、なんぞお気づきではござりませなんだか",
"ああ、存じてますよ。よく存じていますよ。わしが二、三度脈をとったことがござりますでな",
"どのような風体の男でござりましたか",
"さようのう。まず、ああいうふうのが中肉中背と申そうが、娑婆にいたときはよほどの荒仕事に従事いたしおったとみえて、骨格なぞは珍しいくらいがんじょうでござったわい",
"年は?",
"二十七、八ででもござりましたろうかな",
"顔に特徴はござりませなんだか",
"さようのう、まず四角な面だちとでもいうほうかな。目が少しおちくぼんで、鼻がとても大きいだんご鼻でござったから、それがなによりな目じるしでござるよ",
"ほかにはなんぞ変わったところはござりませなんだか",
"それがさ、妙なところに妙なものがあるのでな。実は、てまえもいぶかしく思うておるが、右乳の下に卍のほりものがありましたんですよ",
"卍というと、あのお寺の印のあれでござりまするか",
"さようさよう。それも、腕にあるとか背にあるとか申すなら格別、世の中にはずいぶんと変わったいれずみをする者がござるのでな、愚老もべつに不思議とは思わぬが、右乳の下に、ほんのちょっぴりと朱彫りにいたしおったのでな、いまだにいぶかしく思うているのじゃわい"
],
[
"なんにもいわずに、あっしへお暇をくだせえましよ",
"なんじゃい、不意にまた、おめえらしくもねえこというじゃねえか",
"ちっともあっしらしくねえこたあねえんです。さっきからいっしょうけんめい考えたんでがすが、それよりほかにゃ行く道がねえんだから、お願いするんですよ",
"じゃ、おめえ、今になっておれにあいそがつきたのか",
"めっそうもねえことおっしゃいますな! ここらがご恩返しのしどころと思うからこそ、命も的にしようって覚悟をしたんです",
"ウッフフ、そうか。じゃ、敬四郎の野郎にでもじゃまされたんだな",
"じゃまどころの段じゃねえんです。いかに上役だからって、あんまりあばたのだんなもくやしいことをするじゃござんせんか",
"どんなまねやりゃがった",
"お尋ねの非人はすぐめっかりましたからね、出すぎたこととも思いましたが、ちっとばかりあっしも里心出して、野郎どもにかまをかけてみたんですよ。するてえと――",
"破牢罪人から酒手をもらって、ふたり分へえれる寝棺を、ゆうべあそこへかつぎ込んだといったろ",
"ええ、そう、そうなんですが、だんなはどこでお調べなすったんですかい",
"ご官医の玄庵先生だよ。こもで運び出すのが定なのに、ぜいたくな棺で運搬したといったのでな、おおかた破牢罪人の野郎が非人どもに金をばらまいて、そんな細工をやりやがったんだろうと、たったいましがた、にらみがついたところさ",
"そんなら詳しいことは申しますまいが、死人が出たから取りに来いというお達しがあったんで、野郎たちふたりで始末に出かけていったら、破牢罪人の若造が酒手を一両はずんで、寝棺を買ってこいといったんで、すっかりそいつに目がくらんじまって、おおかた破牢だろうと特別でけいやつをかつぎ込んだというんですがね。それをまた牢番たちもどじなやつらだが、そばについてでもいりゃいいのに、ぼんやり格子口に立っていたもんだから、すばやくこの死人といっしょに寝棺の中へへえってしまって、まんまと破獄させてやったというんですよ",
"じゃ、どこへ飛んだか、行き先もたいてい見当がついたんだろ",
"だから、あっしゃ、くやしいっていうんですよ。こいつ、いいねたあげたと思ったからね、まずだんなのところへ連れてこなくちゃと、おおいばりで非人どもしょっぴいてけえりかかったら、あばたのだんなが息を切りながら駆けつけてきて、いきなりぽかりとくらわしたんですよ",
"おめえをぽかりとやったのか",
"そ、そうなんです。だから、あっしも食ってかかったらね、下人が何を生意気なことぬかすんだとおっしゃって、せっかくあっしがつかまえた非人を腕ずくで横取りしたんですよ",
"じゃ、あばたの野郎も、牢番の者から寝棺のことを聞き込んだんだな",
"だろうと思うんですがね。でなくちゃ、いくらあばたのだんなが上役だからって、あっしの眉間にこんなこぶをこしらえるはずあござんせんからね。いいえ、そいつもときによっちゃいいんですよ。どうせ、あっしゃましゃくにも合わねえ下人だからね、なぐろうと、けろうと、それがあっしたち下人どもの模範ともなるべき上役のかたのおやりなすってもいいことでしたら、いっせえあっしもみれんたらしい愚痴はこぼしませんがね。でも、それじゃ、せっかく今までご恩をうけただんなに合わす顔がねえんじゃござんせんか。あばたの野郎になぐられました、非人も途中で横取りされました、といってすごすごけえってきたんじゃ、あっしがだんなに二度と合わす顔がねえじゃござんせんか……だから、あっしゃ、だからあっしゃ……",
"よし、わかった、わかった。うすみっともねえ、大の男がおいおいと手放しでなんでえ! 泣くな! 泣くな! 泣くなったら泣くなよ!",
"だって、あっしゃ、こんなくやしいこたあねえんです。平生はだんなをずいぶんとそまつにもした口のきき方をいたしますが、あっしがだんなを思っている心持ちは、どこのどやつが来たって負けやしねえんです。だから、だから、命を的にしても、あっしゃ、あばたの野郎と刺し違えます! 刺し違えて死んでやります! ええ! やりますとも! やらいでいられますか! それも、よその国の者でしたら、ときにとってはてがらの横取りもいいんですが、同じおひざもとで、同じお番所のおまんまいただいている仲間うちじゃござんせんか! それになんぞや、肝ったまの小せえまねしやがって、このうえそんな野郎を生かしておかれますか! ええ! やりますよ 殺してみせますよ! きっと刺し違えてみせますよ! だから……だから……きょうかぎりあっしにおいとまをくだせえまし……そして、そして、早くだんなも美しい奥さまをお迎えなさいましよ。なにより、それがあっしの気がかりでござんすからね。草葉のかげでお待ちしましょうよ……"
],
[
"虫けらみたいな了見のせめえ野郎を相手に、刺し違えたってしようがねえや。それより、はぜつりにでもいこうぜ",
"えッ。じゃ、じゃ、だんなはどうあっても、あっしにおいとまをくださらないんですかい!",
"あたりめえだ。非人を横取りされたからって、なにもまだ勝負に負けたわけじゃねえんだからな。品川辺へでも夕づりに出かけようよ。ざらにつれるさかなだから、みんな小バカにしているようだが、秋口のはぜのてり焼きときたら、川魚みたいでちょっとおつだぜ",
"でも、そんなのんきなまねをしなすって、もしあばたの野郎にてがらされっちまったら、だんなまでがいい恥さらしじゃござんせんか",
"負けたら恥っさらしかもしらねえが、寝棺で破牢した手口なんぞから見るてえと、このほしゃあばたのやつの知恵だけじゃ、ちっともてあますかもしれねえよ。どうやら、向こうのほうが一枚役者が上のようだからな。知者は寝て暮らせといってな、そのうちにまた何かおれでなくちゃ判断のつかねえようなことが起きるかもしれねえから、大船に乗った気で、ゆっくりはぜつりでもするさ",
"そうでござんすか、じゃ、ついでにあの変な立て札をもってきて、お目にかけておきゃあようござんしたね"
],
[
"なんじゃい、なんじゃい。いま変なこといったが、その立て札とかいうやつは、どこにあったしろものじゃい",
"なあにね、日本橋のたもとに立っていたやつを、来がけにちらりと見たんですがね。文句は忘れちまいましたが、おかしな符丁を書いてあったんで、ちょっと妙に思っているんですがね",
"どんな符丁だ",
"そら――、なんとかいいましたっけな。よくお寺のちょうちんなんかに染めてあるじゃござんせんか",
"寺のちょうちん……? じゃ、卍じゃねえか!",
"そうそう、その卍が、立て札の文句のおしまいに、たった一つちょっぴりと書いてあったんですよ"
],
[
"すばらしいねただ! やっぱり、天道正直者を見捨てずというやつだよ。ひとっ走り行って引きぬいてこい!",
"じゃ、何かそいつが糸を引いているんですかい!",
"右門の知恵は、できあいの安物じゃねえよ!"
],
[
"さ、伝六! 例のとおり駕籠だ! 駕籠だ!",
"えッ? だって、恒藤権右衛門が殺されたことはわかっていますが、どこの恒藤権右衛門だか、居どころはわからねえじゃござんせんか",
"だから、おめえは少し正直すぎるんだよ。日本橋へ立て札を掲げるほどの人殺しがあって、お番所へ殺された身内の者から訴えが来ていねえはずはねえんだ。訴状箱ひっくり返してみりゃ、どこの権右衛門だかすぐとわからあ",
"なるほど、それにちげえねえ。そういわれてみりゃ、きょうはまたいっぺんもお番所へ顔を出さねえや。じゃ、お待ちなせえよ、四丁肩で勇ましいところをひっぱってめえりますからね"
],
[
"けさほどお訴えに来られたかたは、そなたでござったか",
"はっ……では、あの、お番所のおかたさまにござりまするか",
"さよう、近藤右門と申す八丁堀同心でござる",
"まあ、あなたさまが右門様でござりましたか、よいおかたのお越しを願えまして、仏となった者もしあわせにござりましょう",
"では、もちろんそなたが恒藤権右衛門どののご妻女でござるな",
"はっ……このとおり、もう今年六歳になるかわいい者までなした仲にござります"
],
[
"どうやら、由緒あるらしいかたがたのように思われるが、ご主人はご浪人中ででもござったか",
"はっ……さよう……さようにござります"
],
[
"いや、ご藩名やご浪人をなさった子細までも聞こうというのではござらぬ。士籍にあられたかたかどうか承ればよろしゅうござるから、もっとはっきり申されませい",
"では申します。いかにも権右衛門は父の代までさるご家中で、相当由緒ある家門をつづけていた者にござりまするが、仕官をきらい、もう十年このかた浪人してでござります",
"さようか。では、不慮の災に会われたことも、なんぞ恨みの節とか、かたきの筋とかがあってのことでござったか",
"それがあんまり理不尽にござりますので、訴えに参ったわけでござります",
"ほう、理不尽とな。では、なんの恨みもうける覚えがないのに、討たれたと申さるるか",
"はっ、わたくし主人にかぎっては、なに一つ人さまから恨みなぞうける覚えはござりませぬのに、昨夜四つ過ぎでござりました。このあたりでは珍しいつじうら売りが流してまいりましたものでしたから、なにげなく権右衛門がそれなる者を呼び入れましたら、やにわに主人へ飛びかかりまして、長年の恨み思い知れと呼ばわりながら、ひきょうな不意打ちを食わしたのでござります",
"いかにもの。して、それなるつじうら売りは、どのくらいの年輩でござった",
"二十七、八くらいでござりました。そのうえ、つい今までご牢屋にでもつながれていたというような節の見うけられたかたでござりました"
],
[
"いや、よいことをお聞かせくだされた。では、それなるつじうら売りは、ご主人を理不尽に切りつけて、そのまま立ち去ったと申さるるのでござるな",
"いいえ、それが切り倒しておきまして、このとおり家内はわたくしとこの子どもとのふたりきりでござりましたから、無人の様子を知って急に気が強くでもなりましたものか、今より中仙道へ参るから、路用の金を二十両ばかり出せとおどしつけまして、金をうけとるとすぐに逃げ出しましてござります",
"ほほう、さような大胆不敵なことまでいたしおりましたか。――いや、なによりなことを承って重畳でござる。下手人の人相書きはすでに上がっているゆえ、二日とたたぬうちに、きっとこの右門が、ご主人のかたきを討ってしんぜましょうよ。では、念のために、仏をちょっと拝見させていただきますかな",
"はっ、どうぞ……"
],
[
"ちくしょう! むだな殺生をやっていやがらあ。牢疲れで足腰もまだ不自由なはずだから、そう遠くへは行くめえよ。さっそくお奉行さまに遠出のお届けをしておいて、すぐにも中仙道を追っかけようじゃねえか",
"ちえッ、ありがてえや、まだ夏場の旅でちっと暑くるしいが、久しぶりに江戸を離れるんだから、わるい気持ちじゃねえや"
],
[
"ちくしょうめ、いやなかっこうで来やがるが、かぎつけたんでしょうかね",
"そうよな。どうやら、遠出の旅じたくらしいな",
"そうだったら、野郎め、あの非人からかぎ出したにちげえねえから、あっしゃあいつらと刺しちげえて死にますぜ",
"むやみと死にてえやつだな。まだかぎつけたかどうだかもわからねえじゃねえか"
],
[
"もし、どなたもおりませんか! わっちゃ急ぎの使いで来た者ですがね、この家ゃあき家ですか!",
"べらぼうめ! あき家じゃねえや、なに寝ぼけたことぬかすんでえ"
],
[
"うるせいや、きさま読め!",
"じゃ、封を切りますぜ"
],
[
"ええと、前略、先刻は遠路のところをわざわざご苦労さまにそろ。その節ご検死くだされそうらえども、埋葬ご許可のおことば承り漏れそうろうあいだ、使いの者をもっておん伺い申し上げそろ。なにぶん、いまだ夏場のことにそうらえば、仏の始末なぞも火急に取り行ないたく、ご許可くださらば今夕にも急々に式葬つかまつりたくそうろうあいだ、右おん許し願いたく、貴意伺い上げそろ。頓首不宣。恒藤権右衛門家内より、近藤右門様おんもとへ――",
"こめんどうくせえこといってくるじゃねえか。検死を済ましゃ、埋葬許可をしたも同然だから、そういって追っ払いなよ!"
],
[
"今の手紙はどこへやった!",
"これこれ、ここにありますよ",
"使いに来た者はさかな屋だな",
"そう、そう、そうですよ。魚勘と染めたはっぴを着ていましたからね、たぶん、そこの家のわけえ者でがしょうが、会いもしねえのに、どうしてまたそれがわかりますかい",
"手紙にさかなのにおいがしみてるじゃねえか"
],
[
"なあ、伝六、人間の心持ちってものは、おかしな働きをするもんじゃねえか",
"気味のわるい。突然変なことおっしゃって、坊主にでもなるご了見ですかい",
"いいやね、おれ自身じゃちっともあせったつもりはねえんだが、どうもあばたの野郎が向こうに回るたびに、こういうしくじりがあるんだから、いつのまにかおれもあせるらしいよ",
"じゃ、何かお見おとしでもあったんですかい",
"それが大ありだから、おれにも似合わねえって話さ。まあ、おめえもよく考えてみなよ。だいいち、おかしいのはこの立て札なんだが、中仙道へ突っ走ったやつが、いつのまにこいつを日本橋へもってこられるんだい",
"なるほどね。考えてみりゃ、足の二十本ぐれえもあるやつでなきぁできねえや",
"だから、そいつがまず第一の不審さ。第二の不審は、この立て札の文句だよ。念のために、もういっぺんおめえも読み直してみるといいが、諸君よ、恒藤権右衛門はみごとわれら天誅を加えたれば、意を安んじて可なり、としてあるぜ",
"ちげえねえ。いくら無学でも、あっしだって天誅という文句ぐれえは知ってらあ。天に代わって討ったってえ意味じゃござんせんか",
"しかるにだ、権右衛門のおかみは、理不尽に切りつけたといったぞ",
"なるほど、少しくせえね",
"まだあるよ。第三の不審は、いま使いがもってきたこの手紙の筆跡と、こっちの立て札の筆跡だが、実に奇妙なこともあるじゃねえか。棒の引き方、点の打ちぐあい、まるで二つが同じ人間の書いたほどに似ているぜ",
"なるほどね、墨色までがそっくりでござんすね",
"しかも、恒藤権右衛門家内といや、女でなくちゃならねえはずなのに、だれが書いたものか、この手紙はそっちの立て札の筆跡同様、れきぜんと男文字だよ",
"ちげえねえ。じゃ、また駕籠ですかい",
"いや、まだ早いよ。それから、第四の不審は、恒藤夫人自身だがな、おめえもなにか思い出すことはねえのかい",
"あるんですよ、あるんですよ。あっしゃ行ったときから変に思ってるんだがね。あの家の構えは、浪人者親子三人にしちゃ、すこしぜいたくすぎゃしませんか",
"しかり。まだあるはずだが、気のついたことはねえかい",
"あのおかみさんのおちつきぐあいじゃござんせんかい",
"そうだよ、そうだよ。おれゃさっき、あのおちつきかたを実あ感心したんだがね。日ごろの身だしなみがいいために、あんな非常時に出会っても取りみだした様子を見せないところは、さすが侍の妻女だなあと思ってな、つい今まで感服していたんだが、考えてみりゃ、ちっとおさまりすぎているぜ。しかもだ、それほどの巴板額ごときおちつきのある侍の勇夫人が、目の前で夫の殺されるのを指くわえて見ているはずもねえじゃねえか。あまつさえ、路用の金を二十両もみすみす強奪されたというにいたっては、ちっとあの恒藤夫人くわせ者だぜ",
"しかり、しかりだ。それに、あの恒藤権右衛門も、切られ方がちっと不思議じゃござんせんか。物取り強盗が時のはずみで人を殺したにしても、あれまで顔をめった切りにする必要はねえんだからね",
"だからよ、急におら腹がへってきたから、まずお昼でもいただこうよ",
"気に入りやした。いわれて、あっしも急にげっそりとしましたから、さっそく用いましょうが、なんかお菜がござんしたかね",
"くさやの干物があったはずだから、そいつを焼きなよ。それから、奈良づけのいいところをふんだんに出してな。そっちの南部のお鉄でゆっくりお湯を沸かして、玉露のとろりとしたやつで奈良茶づけとはどんなものだい",
"聞いただけでもうめえや。じゃ、お待ちなせいよ。伝六さまの腕のいいところを、ちょっくらお目にかけますからね"
],
[
"いいえ、これはみな、出入りの町人ばかりでござります",
"では、ご親戚のかたがたをなぜお呼び召さらなかったか",
"いずれも遠国にござりますので、急の間には招きかねたゆえにござります",
"知人も江戸にはござらぬか",
"はっ、一人も居合わしませぬ",
"では、その六人に相尋ねる。そちらのいちばんはじにいるやつは何商売だ",
"てまえは米屋にござります",
"次はなんじゃ",
"やお屋の喜作と申します",
"その次の顔の長いのはなんじゃ",
"なげえ顔だからそんな名まえをつけたんじゃござんせんが、あっしゃ炭屋の馬吉と申しやす",
"人を食ったこと申すやつじゃな。お次はなんじゃ",
"酒屋の甚兵衛めにござります",
"その隣のくりくり頭をしたおやじは何者じゃ。按摩でもいたしおるか",
"じょ、じょうだんじゃござんせんぜ、こうみえても、この家の家主でござんすよ",
"さようか、失敬失敬。では、そちらのいちばんはじにいるいなせな若い者は何商売じゃ",
"うれしいな、わっちのことばかりゃ、いなせな若い者とおっしゃってくだせえましたね。それに免じて名を名のりてえが、ところで、どいつにしましょうかね",
"そんなにいくつもあるのか",
"ざっと三つばかり。うちの親方はぬけ作というんですがね。河岸のやつらはぽん助というんでげすよ",
"よし、もうあいわかった。さては、きさまがさっき手紙の使者に参った魚勘とかの若い者だな",
"へえ、そうなんですが、どうしてまたそれがおわかりなすったんですかい",
"きさま今、河岸といったじゃねえか",
"ちえッ、おっかねえことまで見ぬいてしまうだんなだな。してみるてえと、おれが隣のお美代坊に去年から夢中になっていることも、もうねたがあがっているんかな――"
],
[
"死者をお恥ずかしめなさりまするな! 浪人者ながらも武士の妻にござります。たしかに主人の死体と申しあげましたら、それに相違ござりませぬ",
"では、この右乳下の、卍のいれずみは何の印でござる!",
"それあればこそ、恒藤権右衛門のなによりな証拠にござりますゆえ、お疑いにござりますなら、お立ち会いのかたがたにもお尋ねくださりませ"
],
[
"ね、だんなだんな! なにか知らぬが、あばたの野郎がまっさおな顔つきで、目をまっかにしながら、しょんぼりとしてたずねてきましたぜ",
"そうか! やっといま来たか"
],
[
"いや、おことば、いまさらのごとくてまえも恥じ入ってござる。貴殿にそう淡泊に出られると、てまえも大いに勇気づいてお願いができるしだいじゃが、どうでござろう。今度という今度は、ほとほとてまえも肝に銘じてござるから、今までの失礼暴言はさらりと水にお流しくだすって、てまえの命をお助けくださるわけにはいくまいかな。このとおり、手をついての願いでござるが……",
"もったいない。お手をあげくだされませ。もうじゅうぶんにてまえには、こうやってご貴殿のお越しなさることまでもわかってでござりますによって、どうぞもうそれ以上はおっしゃらずに――、中仙道はどこまでお越しでござったか存じませぬが、暑い中を、ひどいめにお会いでござりましたな",
"そう申さるるところをみると、では破牢罪人の行く先、ご貴殿にはもうわかってでござるか!",
"さようにござります。中仙道へ参ろうと、東海道へ参ろうと、ことによったら唐天竺までお捜しなすっても、ちょっとあいつめを見つけること困難でござりましょうよ",
"さようか、ありがたい! では、敬四郎一期のお願いじゃ。なにとぞ、お力をお貸しくださらぬか。貴殿のことだからもうご存じでござろうが、あいつめをてまえが逃がすと、切腹ものでござるからな",
"ええ、ようわかってでござります。ひょっとしたら、へびといっしょに蛇が飛び出すかもしれませぬから、どうぞ今からごいっしょにお越しくだされませ"
],
[
"どこか、ご近所のお組屋敷に槍をお持ちのかたがあるだろうから、急いで一本借りてこい!",
"えッ? 槍……? 槍というと、あの人を突く槍ですかい",
"あたりめえだ。槍に幾色もはねえはずじゃねえか、なるべく長いやつがよいぞ"
],
[
"白昼許しもなく女こどもばかりの住まいに長物持参で押しかけ、なにごとにござりまするか!",
"いや、どらねこ退治に参ってな"
],
[
"その源内とやら申す破牢罪人は、こやつが殺して、おのれの身代わりとなし、もうきのう土の下へうずめてしまいましたよ",
"なに⁉ 殺した⁉ 殺した⁉ なぜ、てまえのたいせつな罪人をかってに殺しおったか、さ! 子細を申せ! 申さぬか!"
],
[
"おことば身にしみてござります。いかにも白状いたしましょうが、それより、どうしてだんなは、あの死体がてまえの替え玉であるとおにらみでござりましたか",
"いうまでもないことじゃ。きのうあのような愚かしき手紙を持たしてよこしたによって、不審がわいたのじゃ。それも、日本橋にさらした立て札と手紙とは別々に、どちらか妻女にでも代筆させたら、まだ不審はわかなかったかもしれぬが、両方ともにそのほうが書くとは、りこうそうにみえても愚かなやつじゃ",
"なるほど、とんだしくじりでござりましたが、でも、てまえが天井裏に潜みおること、よくおにらみでござりましたな",
"あれなるねこに焼きざかなを取られたことが、そちの運のつきじゃったわい。人間がいなくば、天井裏に食べごろの焼きざかななぞあるはずはないからな",
"さようでござりましたか。いや、かさねがさね慧眼恐れ入りました。では、いかにも、神妙に白状いたしましょうが、何をかくそう、てまえは、もと、あれなる非業の死をとげしめた破牢罪人の源内などとともに、長崎表に根城を構えて、遠くは呂宋、天竺あたりまでへもご法度の密貿易におもむく卍組の一味にござりました。しかるうちに、これなる妻女となじみましてな、はじめのうちは船の帰るたびに相会うだけで、てまえも妻女も満足してござりましたが、いつかあれなるかわいいせがれができまして、それからというもの、急に妻女にもせがれにもいとしさがつのり、いろいろと考えましたところ、上の目をおかすめたてまつって、いつまでもご法度の密貿易なぞに従っていましたのでは、いずれ遠からずご用弁になって打ち首にでもなり、家内はおろか、せっかく設けたかわいいせがれとも、死に別れいたさねばなるまいと存じましたによって、お恥ずかしいことながら、妻子たちのかわいさゆえに、死すとも友は売るまじと神に誓って、あのようにめいめい右乳下へ卍のいれずみすらしておいた身にかかわらず、つい仲間の者にそむいて、長崎奉行に密告したのでござります。それも、密告すればお奉行さまがてまえの罪をお許しくださるというご内達でござりましたから、せがれのために行く末長いてまえの命ほしさで、ついつい、血をすすり合った兄弟を裏切ったのでござりまするが、いや、わるいことはできないものでござる。兄弟たちが極度にてまえを恨み、いかにしても裏切り者のてまえに天誅を加えねばと、一度長崎表でご用弁となったにかかわらず、仲間のうちの四人が決死隊となって破牢を企て、どこでどうかぎつけたものか、てまえが江戸に潜んでいることを聞きつけまして討っ手に向かったと知りましたので、じゅうぶんてまえも気をつけまして、ついひと月ほどまえに、わざわざこんなへんぴな土地へ逃げかくれ、首尾よく身を隠しおおせていたつもりでござりましたが、それが一昨夜でござりました。その四人のうちのひとりのあれなる源内が、長崎表からのお達しでこちらのだんなにご用弁となり、運よくというか、入牢していたうちにだれからか、はからずもてまえがここにいるということをかぎつけ、あのように破牢いたしましてつじうら売りとなり、てまえを討ち取りに参りましてござるが、昔とったきねづかに、てまえのほうが少しばかり力があまっているため、かえってきゃつめを討ち取ってしまったのでござります。そのとき、ふとこれなる妻女が知恵をつけてくれましたので、てまえも急に替え玉のことを思いつき、さいわい右乳下には源内にもてまえにも同じ卍のいれずみがござりましたから、源内の面をあのようにめった切りといたしまして、その卍のいれずみをなによりの証拠のようにみせかけるつもりで、ひとしばい打ってみたのでござります。そうして、上のお目をかすめ、あの日本橋へかかげた立て札によって、いずこにいるか、たしかにまだこの江戸の中にてまえをねらって潜んでいるはずの、残る三人の卍組刺客たちにも、てまえがもう死んだごとくに装って、その凶刃から一生安楽にのがれるつもりでござりましたが、右門のだんなの慧眼に、とうとうこのように正体を見現わされたのでござります。かくのとおり、なにもかも包まずに申し上げましたによって、さいわいに、あれなるてまえのせがれのために、特別のお慈悲あるおさばきをいただければしあわせにござります……"
],
[
"情状不憫にも思うが、天下のご法度をまげることは相成らぬ。遠島申しつけられるよう上へ上申するから、さよう心得ろ!",
"えッ! 遠島――あの、遠島でござりまするか!",
"不服か",
"でも、てまえの密貿易の科は、すでに長崎お奉行さまからご赦免になっているではござりませぬか!",
"囚人とはいいじょう、許しなくして人をむごたらしくあやめた罪じゃ",
"でも、それは、それは、わが身を守ったがための科でござります。そのうえ、てまえは今こそ浪々の身でござりまするが、れっきとした士籍にある身ではござりませぬか!",
"愚かなやつじゃな。これほどいうても、まだわしの慈悲がわからぬか。そちは今なんと申した、子のかわいさゆえに人も切ったと申したではないか。さればこそ、その子ゆえに、そちの命の長かるべきよう慈悲をたれて、縛り首打ち首にもすべきところを遠島に上申すると申すのじゃ。それも、島流しすべきものはそちひとりではない。それなる妻女も、夫の罪業を手助けいたした罪により、同罪の遠島じゃ。せがれは――上の席にあるものとして教ゆることはならぬが、係り役人なぞに用いてはならぬそでの下を使って、手荷物なぞに装い、うまいこと船に積み込んだりしてはあいならぬぞ。どうじゃ、まだそれでもわしの慈悲がわからぬか",
"はッ……よくわかってござります。せがれの手荷物のことも、よく胸におちてござります。ありがとうござりました。ありがとうござりました"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2000年4月10日公開
2005年6月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000577",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "08 卍のいれずみ",
"副題読み": "08 まんじのいれずみ",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2000-04-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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[
"では、ほんとうにもう、てまえに子細をきかぬとお約束してくださりまするか",
"男の一言じゃ、くどうきかぬというたら断じてきかぬ",
"ありがとうござります。それならば、けっしてもうわたくしも、あのようなバカなまねはいたしませぬ",
"よしッ。では、この紙入れもそなたに返してつかわすによって、しっかり残り香なと抱き締めて、もうやすめ"
],
[
"そりゃだんな、ほんとうですか!",
"ほんとうだよ",
"きっとですね!",
"きっとだよ"
],
[
"バカだな、いざとなっておっかなくなったのかい",
"いいえ、ちがいます",
"じゃ、うちへけえって、おめかしをし直して来ようというんか",
"めったなことをおっしゃいますな! 遊ぶとなりゃ、あっしだって、顔やがらで遊ぶんじゃねえんです",
"そんなら、なにもしり込みするこたあねえんじゃねえか。傾国の美人ってしろものをおめえにもとりもってやるから、しっぽを振ってついてきなよ",
"いやです、あっしゃ今から伊豆守さまのお屋敷へ駆け込み訴訟に参りますよ",
"伊豆守さま……? 急にまた、変な人の名まえを引き合いに出したものだが、伊豆守さまっていや、松平のあの殿さまのことかい",
"あたりめえじゃござんせんか。伊豆守さまはふたりとござんせんよ",
"そりゃまた何の駆け込み訴訟に行く考えなんだ",
"知れたこっちゃあござんせんか。もっと早く伊豆守さまがだんなにご新造をお世話しておいてくださいましたら、今になってだんなにこんな気の狂いはおきねえはずなんだからね。あっしゃ今から駆け込んでいって、うんと殿さまに不足をいうつもりですよ。だんなをごひいきなら、ごひいきのように、もっと身のまわりのことをお世話くださったって、ばちゃ当たらねえんだからね"
],
[
"そんなに心配ならば、ほんとうのところを聞かしてやろう。実あ、さっきうちにころがっていたあの若い野郎のねた洗いだよ",
"えッ? じゃ、また何か事件ができたんですかい",
"まだ洗ってみねえんだからわからねえが、ひょっとすると大物じゃねえかと思ってな。とりあえず、小当たりにやって来たところさ",
"なんだ、ねた洗いだったのですかい。あっしゃまた、あんまりだんなが人騒がせなことをきまじめな顔でおっしゃいましたからね、ほんとうに松平のお殿さまをお連れ申そうと思いましたぜ。――ようがす、そうとわかりゃ、一刻も早く参りましょうよ。役目のかどで大門をくぐるぶんには、だんなをおひいきの女の子に見とがめられたって、ちっとも恥じゃござんせんからね。大手を振って参ろうじゃござんせんか"
],
[
"女どもの種類はみな一様か",
"いえ。すべてでは千人あまりもござりましょうが、そのうちで太夫、格子、局女郎なぞと、てまえかってな差別をつけてござります",
"ほう。では、遊女らも禄高があるとみえるな"
],
[
"ですから、お客さまのほうのお鳥目にしたがいまして、遊女のほうでもそれぞれの禄高のものが参りますが、どなたかおなじみでもござりましょうか",
"なじみと申すと、親類の者かな",
"さ、さようです。親類と申せば大きに親類でございますが、てっとり早く申せば、お一夜なりとご家内になったもののことで――",
"ああ、そのことか。残念ながら、ひとりもないわい",
"といたしますと、てまえどものほうでころあいの者をお見立ていたしまするが、よろしゅうござりまするか",
"よいとも、よいとも。だが、少々注文があるのじゃがな",
"どのようなご注文なんで――",
"なるべくがさつ者で、べらべらとよくしゃべる女がよいのじゃがな",
"それはまた変わったお好みで――。では、さっそく呼びたてまするでござりましょう"
],
[
"まてまて、女はおおぜいいらぬ。その者ひとりでよいぞ",
"え? だんながたはおふたりでござりますのに、お敵娼は、あの、おひとりでよろしゅうござりまするか"
],
[
"知ってざますよ。知ってざますよ",
"なに、知っている⁉ どこのものじゃ",
"江戸町の角菱楼にいなました薄雪さんざますよ",
"その者は、特に達磨がすきじゃったか",
"大好きも大好きも、どうしてあんなひょうげたものが好きやら、髪飾り帯下じゅばんの模様まで、身につけるほどの品物はみんな達磨の模様でありんした",
"さようか。では、その者いまも角菱楼とかにおるのじゃな",
"いいえ、それがもう手いけの花になりいした",
"なに、根引きされた⁉ それはいつごろのことじゃ",
"つい十日ほどまえのことざます",
"相手は何者で、今の住まいはどこか知っていぬか",
"上方のものざますとかで、住まいは浅草馬道の、二つめ小路とかいうことでありいした",
"さようか、よいことを教えてくれた。では、ついでにも一つ相尋ぬるが、もしやその薄雪とやら申す花魁に、深く言いかわした男はなかったか",
"知ってざます、知ってざます。清吉さんとやらいいなまして、三年越しの深間だとかでありんした",
"二十三、四の、色の白い、小がらな男ではなかったか",
"そうざます、花魁衆の間夫にしては、思いのほかにりちぎらしいかたざました"
],
[
"さ、例のとおり、駕籠だ、駕籠だ",
"ようがす、だんなの口からそれが出るようになれば、もうしめこのうさぎだ"
],
[
"亭主はいるか",
"へえい、ここにひとりおります",
"ひとりおればたくさんだ。きさまが看板主の久庵か",
"へえい、さようで",
"でも、目があいているな",
"目あきじゃ按摩をしてならぬというご法度でもあるんですか",
"へらず口をたたくやつじゃな。わしは八丁堀の者じゃ。隠しだてをすると身のためにならぬから、よく心して申すがよいぞ",
"あッ、そうでござんしたか。ついお見それ申しやして、とんだ口をききました。ときどき針の打ち違いはございますが、うそと千三つを申しあげないのがてまえの身上でございますので、だんながたのお尋ねならば、地獄の話でもいたします",
"いう下から地獄の話なぞと申して、もううその皮がはげるじゃないか。うち見たところ正直者らしゅうはあるが、なかなかきさまとんきょう者じゃな",
"へえい、さようで。それもてまえの身上でございますから、よく町内のお茶番狂言に呼ばれます",
"お座敷商売の按摩だけあって、口のうまいやつじゃ。では、相尋ぬるが、そこの二つめ小路に、このごろ吉原から根引きされた囲い者がいることを存じおるじゃろうな",
"へえい、よく存じおります。むっちりとした小太りで、なかなかもみでがございますよ",
"やっぱりそうか。にらんできたとおりじゃったな",
"え? にらんできたとおりとおっしゃいますと、どこかでだんなは、てまえがあの家へ出入りすること、お聞きなさったんでござんすか",
"くろうと上がりの女は、どういうものか女按摩より男按摩を好くと聞き及んでいたから、きさまの家の表に吉田久庵と男名があったのをみつけて、ちょっと尋ねに参ったのじゃ",
"さすがはお目が高い、おっしゃるとおりでござんすよ。このかいわいをなわ張りの女按摩がござんすのに、ご用といえばいつもこの老いぼれをお呼びですから、男は死ぬまですたりがないとみえますよ",
"むだ口をたたくに及ばぬ。家内は幾人じゃ",
"ふたりと一匹でございます",
"一匹とはなんじゃ",
"ワン公でございます。それもよくほえる――",
"亭主は何歳ぐらいじゃ",
"四十五、六のあぶらぎった野郎――と申しちゃすみませんが、人ごとながら、あんなべっぴんにゃくやしいくらいな、いやな男ですよ",
"商売はなんじゃ",
"上方の絹あきんどとか申しやしたがね"
],
[
"それなる亭主は、いつごろ在宅じゃ",
"さよう――ですな、夜分はいるようですが、昼のうちはたいてい不在のようでございますよ",
"そうか。では、すずりと紙をかしてくれぬか"
],
[
"まだ存じまいが、そなたの好いている人は、ゆうべ首をくくりなすったぞ",
"ええ! あの、清、清さんは死になましたか!"
],
[
"だから、そなたはこれからどうなさる?",
"知れたこと、二世かけて契った主さんでござりますもの、わちきもすぐと跡を追いましょう",
"では、なんじゃな、そなたも二世かけて契った主さんというたが、今のおつれあいはいっしょにいても、ほんとうにただのでくのぼうじゃというのじゃな"
],
[
"くどうはいわぬ。わしも多少は人に知られた男のつもりじゃ。いったんこうとにらんで乗り出した以上は、どのようにしてもそなたたちのために尽くしてみようと思うが、どうじゃ。何もかも隠さずにいうてみぬか",
"でも、そればっかりは……",
"だれであってもいえぬというか",
"はい……これを口外するくらいならば、わちきはもうひと思いに死にとうござります"
],
[
"では、こちらから先にほんとうのことをいってやろう。清吉さんはてまえが救い出して、まだぴんぴんしていなさるぜ",
"えッ。まあ、あの、それは、ほんとうのことでござりますか!"
],
[
"そうとは知らず、わちきにも似合わないお見それをいたしました。では、何もかも申しまするが、実は、あのだんなさんも、清吉さんも、ただの素姓ではござりませぬ",
"と申すと、なんぞうしろ暗い素姓ででもござるか",
"はい、浪花表で八つ化け仙次といわれている人が、なにを隠そう、わちきのだんなさんざます"
],
[
"すると、清吉さんもその手下だというのじゃな",
"それが芯からの悪仲間でござりましたら、わちきとてなじみはいたしませぬが、仙次さんのたくらみにかかって、ふたりとも今のように苦しめられ通しでありいすから、あんまりくやしいのでござります",
"では、なじみとなるまえ、清吉さんは真人間だったと申さるるか",
"真人間も真人間も、あの人がらでもわかるように、それまでは浪花表のさるご大家で、人の上に立つお手代衆でござりましたのを、思い起こせばもう三年まえでござります。わちきが廓へはいりぞめ、そのおりちょうど清吉さんも商用で江戸表に参られて遊里へ足をはいりぞめに、ふと馴れそめたのが深間にはいり、それからというもの江戸に来るたびわちきのもとへお通いなさりましたが、そのうちにとうとうあのかたも行きつくところへ行きなまして、大枚百両というご主人のお宝を、わちきのためにつかい込みましたのでござります……",
"では、その百両の穴を八つ化け仙次が救ってでもくれたと申さるるのじゃな",
"はい、それもただのお恵み金ではありいせぬ。仙次さんもあちらで盗んだ品を江戸へさばきに来るうちときおりわちきのもとへお通いなさりましたが、たとえ遊女に身はおとしていても、おなごに二つの操はないと存じましたので、柳に風とうけ流していたのに、執念深いとはきっと、あの人のことでござりましょう。たまたま清吉さんが百両の穴に苦しんでいると聞きつけ、男を見せたつもりでわちきにお貸しなされまして、そのかわりに操を買おうとなされましたが、でもわちきがなびこうといたしませなんだので、とうとう今度のような悪だくみをしたのでござります",
"すると、なにか、百両貸してもそなたがはだを許さなかったために、むりやり身請けをしてしまったと申すのじゃな",
"いいえ、お目きき違いでござります。身請けされましたのは、わちきが進んでお頼み申したのでござります",
"なに、進んで? それはまた異なことをきくが、それほどきらいな男に、そなたが進んでとは、どうしたわけじゃ",
"仙次さんがあまり清吉さんを苦しめたからでござります",
"どのような方法で苦しめおった",
"金で買ってもわちきがなびかないゆえ、その償いにといっておどしつけ、とうとう無垢の清吉さんに恐ろしいどろぼうの罪を働かさせたのでござります",
"なるほど。それで、そなたたちふたりとも、申し合わせたように秘密を守っていたのじゃな。よし、おおよそもう話はあいわかったが、ときにその盗ませたとか申す品物はなにものでござった",
"それがだいそれた品を盗ませたのでござります。清吉さんがお勤めのお店にはご身代にも替えがたい品で、昔豊太閤様から拝領しなましたとかいう唐来の香箱なのでござります。それも、盗ませるおりに、もし首尾よくその香箱を持ち出してきましたならば、あのときの百両は帳消しにしたうえで、このわちきをももう執念くつけまわすようなことはせぬといいなましたので、つい清さんも気が迷うたのでござりましょう。うかうか盗み出してきたその香箱をうけとると、急に今度は仙次さんがいたけだかになりまして、おまえもいったん盗みをしたうえは、もう傷のついたからだだと、このようにいうておどしつけ、そのうえになおわちきにも約束をたがえて、いろいろとしつこくいいよりましたので、清吉さんの身は詰まる、わちきも身は詰まる、いっそもうこうなればと心を決めまして、わちきが進んで身請けされたのでござります。そうやって敵のふところに飛び込んだうえで、おりあらば香箱を奪いとり、清さんの身の浮かばれるようにと思うのでござりましたが、相手も名うての悪党だけあって、なかなかわちきなぞの手にはおえませんので、それを苦にやみ思いつめて、おかわいそうに、とうとう死ぬ気にもなられたのでござりましょう――思えば、それもこれも、みんなわちきゆえからできたこと、ふびんでふびんでなりませぬ……"
],
[
"よしッ、むっつり右門が腕にかけてもひっくくってやろう! すぐさま案内されい!",
"えッ! では、あの、ではあの、わちきたちの命を救ってくださりまするか!",
"聞いちゃほっておかれねえのがわしの性分じゃ。ふざけたまねしやがって、このうえおひざもとを荒らされたんじゃ、江戸一統の名折れではござらぬか。ついでに、その香箱とやらも取り返してしんぜようが、いま仙次の野郎は在宅でござるか",
"今は不在でござりまするが、暮れ六つまえには帰ると申しましたので、おっつけもうそのころでござります",
"さようか。では、張り込んでてやろう。さ、伝六! ひょっとすると、きさまの十手にものをいわさなくちゃならねえかもしれんから、土性骨を入れてついてきなよ"
],
[
"ようやくわかったか。ついでに名まえも聞かしてやらあ。おれがいま八丁堀でかくれもねえむっつり右門だ!",
"うぬッ、きさまだったか。こうなりゃもう百年めだ。黙ってさっき聞いてりゃ、ぐにゃぐにゃの贅六なんかときいたふうなせりふぬかしゃがって、とれるものならみごととってみろッ"
],
[
"無手なら草香流、得物をとらば血を見ないではおかぬ江戸まえの捕方じゃ、それでも来るか!",
"行かいでどうするッ。いざといわば仕掛けのその壁へかくれて、まんまと抜け裏へ逃げるつもりだったが、そいつを気づかれたんじゃ、八つ化け仙次も運のつきだ。さ、そっちのひょうげた野郎もいっしょにかかってこい!"
],
[
"では、早いこと清吉どんに、うれしい顔をみせてあげなさいましよ",
"はい、もうどこへでも参ります。お連れしてくんなまし"
],
[
"今まで三年ごし、どなたにも申しませんだが、だんなさまだから申します。実は、わちきのくるわへ身を売りましたのは、人さまのように、親のためや、恩をうけた主人のためではござりませぬ。もともと生まれおちるからの親なし子でござりましたのを、さるご親切なおかたさまに拾われて成人しましたが、人のうわさに、くるわはおなごにいちばんの苦界と聞きましたゆえ、すき好んでわれとわが身をその苦界に沈めたのでござります",
"それはまた珍しい話を聞くものじゃが、どうしてまた苦界と知って、われとわが身をお沈めなさったのじゃ",
"くるわはおなごの操のいちばん安いところと聞きましたゆえ、その安いくるわでどのくらいまでおなごの操を清く高く守り通されるかためすためでござりました。さればこそ、達磨大師の、面壁九年になぞらえて、わちきも操を守るための修業をしようと、朋輩からさげすまれるほど、あのようなひょうげたものの姿を身のまわりにつけていましたが、お恥ずかしゅうござります……ついここの清さんばかりには心からほだされまして、守りの帯も解いてしまいました。――でも、ここの主さんをのぞいては、百万石を積まれてもだれひとりなびいた殿御はござりませぬ。身請けされた仙次さんなぞはいうまでもないこと、一つ家に十日あまり暮らしていても、指一つふれさせないで、主さんにさし上げたこのはだは守り通してござります"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:Juki
2000年5月24日公開
2005年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000559",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "09 達磨を好く遊女",
"副題読み": "09 だるまをすくゆうじょ",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"ひどくまとまって粒がちっちゃいが、まさかおもちゃじゃあるまいね",
"そう思えるでしょう、だから、あっしもさっきからこうやって、しげしげと見物していたんですよ",
"じゃ、おめえが連れてきたんじゃねえのかい",
"いいえ、連れてきたな、いかにもあっしですがね、それにしたって、どうも少し変わりすぎているから気味悪がっているんですよ",
"何が変わっているんだ、少し造りが小粒なだけで、見りゃなかなか利発そうじゃねえか",
"ところが、いっこうバカだかりこうだか見当がつかねえんですよ。年はやっと九つだとかいうんだがね。さっき通りがかりに見たら、くまを切るんだといって、しきりとつり鐘をたたいていたんですよ",
"禅の問答みたいだな。じゃなにかい、そのつり鐘がくまのかっこうでもしていたのかい",
"いいえ、それならなにもあっしだって不思議に思やしねえんだがね。実あきょう池ノ端にちょっと用足しがあって、いまさっき行ったんですよ。するてえと、そのかえり道に切り通しを上がってきたらね、あそこの源空寺っていうお寺の門前で、しきりとこのお小僧さんが、その門のところにひっころがしてあったつり鐘を竹刀でたたいていましたからね、なにふざけたまねするんだ、つり鐘だってそんなものでたたかれりゃいてえじゃねえかっていったら、いまさっきいったように、こうやってくまを切るんだっていうんですよ",
"じゃ、それがおかしいんで、ひっぱってきたんだな",
"ええ、ま、そういえばそうなんだが、その先が少し不思議だから、そう急がずにお聞きなせえよ。だから、あっしも妙なことをいう豆僧だなと思いましたからね、だって、このつり鐘がくまの形も犬のかっこうもしていねえじゃねえかってきいてやったら、あたりめえだい、つり鐘がくまやこまいぬのかっこうしていたら、おじさんの頭はとっくに三角のはずだいって、こんなことをいうんですよ",
"ほほう、なかなか達者だな。じゃ、なんだっていうんだな。そのつり鐘をけいこ台にして、剣術のけいこでもしていたっていうんだな",
"そ、そうなんですよ。だから、いよいよいわくがありそうだなと思いやしたから、どこにそのくまがいるんだってきいてやったら、どこにいるかわからねえが、うちのたいせつなあんちゃんがそのくまに殺されたから、それでかたきを取るためこうやって、毎日けいこしているんだっていうのでね、ひょっとすると、こいつあまただんなの畑だなと気がついたものだから、何はともあれいっぺんおめがねにかけなくちゃと思って、わざわざひっぱってきたんですよ",
"そうか、なかなか禅味のある話でおもしれえや。蛇が出るか蛇が出るか知らねえが、じゃおれがひとつ当たってやろう"
],
[
"お名まえはなんといいますな",
"モクザンと申します",
"モクザン……? モクとはどのように書きますな?",
"黙った山と書きます",
"ああ、なるほど、その黙山でありましたか。なかなかよいお名まえでありますな。生まれたお国は?",
"天竺だと申しました",
"なに、天竺……? 天竺と申せば唐の向こうの国じゃが、どなたにそのような知恵をつけられました",
"うちのお師匠さまが申されました。仏の道に仕える者は、みんな如来さまと同じ国に生まれた者じゃとおっしゃいましたので、おじさんとても万一わたくしのお弟子になるようなことがござりますれば、やはり天竺の生まれになります",
"ははあ、なるほどな、なかなか利発なことをいいますな。きけばお兄いさまがあったそうじゃが、おいくつでありました",
"十二でござりました",
"ほう。では、そなたのようにかわいかったでありましょうな",
"はい、みなさまが源空寺の豆兄弟、豆兄弟とおっしゃいまして、ときどきないしょに、くりのきんとんなぞをくださりました",
"ほほう、くりのきんとんをとな。では、お兄いさまもそなたのように源空寺へお弟子入りをしていましたのじゃな",
"はい、鉄山と申しまして、わたくしよりか太鼓を打つことがじょうずでありました",
"なるほどのう。でも、今きけばくまに殺されたとかいうてでしたが、そのくまというのは、けだもののくまでありましたか、それともくまという名の人でありましたか",
"それがくまという名の人じゃやら、けだもののくまじゃやらわかりませぬゆえ、毎朝お斎のおりにいっしょうけんめい如来さまにもお尋ねするのだけれど、どうしたことやら、阿弥陀さまはなんともおっしゃってくださりませぬ"
],
[
"いいえ、そのことならばよう存じてござります。つい十日ほどまえの晩がたでござりましたが、お師匠さまのお使いで浅草へ参りましたのに、どうしたことやらお帰りがおそうござりましたので、わたしがあそこの門前へ出てお待ちしておりましたら、衣までまっかになさって、よろよろしながら帰ってまいりますると、いきなりわたくしの足もとへばったり倒れたのでござります",
"ほう。では、そのときお兄いさまはどこぞ切られておいでなすったのじゃな",
"はい、肩のところを大きくぐさりと切られてでござりました",
"肩をのう。それで、そなたはどういたしました",
"だから、いっしょうけんめい傷口のところを押えて、お兄いさまお兄いさまと呼んでさしあげましたら、くまにやられた、くまにやられた、とこのように、たったふたことおっしゃっただけで、それっきりもう極楽へいんでしまわれました",
"なに、たったふたこと? では、どこでそのくまに会うたかもいわずにいんでしまわれたというのでありますな",
"はい、よっぽどおくやしそうだったとみえて、息が絶えてしまうときにも、お兄いさまはお目々にいっぱい涙をためてでござりました",
"おかわいそうにのう、そなたもさぞお力おとしでありましたろう。――では、それゆえ人間のくまじゃやら、けだもののくまじゃやらわからぬけれど、お兄いさまのかたきを討つために、ああして毎日、つり鐘と剣術のおけいこをしていなさるのじゃな",
"はい。如来さまの教えのうちには殺生戒とやら申すことがあるんじゃそうにござりますけれど、わたくしとふたりできんとんをないしょにいただいたほかには、なに一つわるいことをせぬあんなおやさしいお兄いさまですもの、くやしゅうてなりませぬ"
],
[
"おこったってしかたがないよ、おれがすきたくてすくんじゃねえ、おなかのほうがかってに減ってくるんだからね。大急ぎでなにかこしらえておくれよ",
"知りませんよ。いくらかってにおなかのほうから減ってくるにしたって、他人のものならだが、お自分の身の内なんだからね。なにもそんなことわざわざ碁盤を持ち出してみなくっても、わかりそうなもんじゃござんせんか"
],
[
"そなたもまだでありましたか",
"はい。お相伴させていただければしあわせに存じます"
],
[
"そなた生臭をいただくとみえますな",
"はい、ときおり……",
"なに、ときおり? でも……? 仏に仕える者が、生臭なぞいただいたのでは仏罰が当たりましょう?",
"だけど、お師匠さまがときおりないしょで召し上がりますゆえ、そのお下がりをいただくのでござります"
],
[
"それみろ! きさまはおれが腹の減っていることを思い出したといったら、人間じゃねえような悪態をついたが、碁盤のききめはもうこのとおりてきめんだ。思い出したからこそ、こんなもっけもねえ手がかりがついたじゃねえか。さッ、大急ぎに行って、あの源空寺の住職をしょっぴいてこいッ",
"え⁉ 不意にまた何をおっしゃるんですか。源空寺の和尚に何用があるんですかい",
"どじだな。きさまの耳はどっち向いてるんだ。うちのお師匠さまはときおりないしょで生臭を食うと、たった今、この黙山坊がはっきりといったじゃねえか。何宗であるにせよ、仏にかしずいている身で、生臭なんぞ用いるやつにろくなものはねえや、ひとっ走りいってしょっぴいてこい!",
"なるほどね。こうなりゃ腹の減るのも見捨てたものじゃねえや。じゃ、寺社奉行さまのほうへも渡りをつけてから行くんですね",
"そんなやかましい手続きはいらねえや。ちょっとお尋ねしたいことがあるからといって、じょうずにおびき出してこい!"
],
[
"ね、だんな、だんな! 下手人の野郎は、いよいよあの生臭坊主と決まりましたよ",
"だって、肝心の玉を連れてこないことにはしようがねえじゃないか",
"だから、あの坊主がくせえっていうんですよ。ね、あっしがお番所の者だといったら、やにわと逐電しちまいましたぜ",
"えッ、そりゃほんとうかい",
"ほんとうにもうそにも、だからこうやって、あっしひとりでけえったんじゃござんせんか",
"じゃ、なにか事件のことをにおわしたんだな",
"ところが、そいつがおおちげえなんですよ。どうやら、生臭坊主うたたねをしているようすだったからね、いきなり庫裡のほうへへえっていって、ちょっとお番所でききたいことがあるから、八丁堀まで来てくんなといったら、野郎むくりと起きざまに青くなって、そのままやにわとずらかってしまったんですよ",
"なるほどな、少しにおいがしてきたかな",
"においどころじゃねえんですよ。だから、久しぶりでひとつ、だんなの鼻をあかしてやろうと思ってね、近所の者にこっそり身がらを当たってみたら、なにをかくそう、あの生臭坊主がくまっていう名だそうですぜ",
"なに、くま! そりゃほんとうか!",
"ちゃんとこの耳でいま聞き出してきたばっかりだから、まちがいっこありませんよ。ちっと変な名なんですがね。永守熊仲っていうんだそうですぜ"
],
[
"そなたひのき稲荷というのはどこか知っておりませぬか",
"よく存じております。こないだお兄いさまのおつかいにいんだところも、やはりそこでござりました",
"なに⁉ では、浅草でありますな",
"はい。お師匠さまのお姪御さんとやらが、三味線のじょうずなかたで、近所のお子ども衆にお手ほどきしているとかいうことでござりました"
],
[
"まてまて。今きさまの申したところをきけば、女犯の罪ばかりのようなことをいうが、では、これなる黙山の兄をあやめた下手人ではないというのか!",
"め、めっそうもござりませぬよ。では、だんながたは、てまえが兄の鉄山を討った下手人と見込んで、お越しなさったのでござりまするか",
"さようじゃ。いろいろ考え合わしてみるに、てっきりそのほうのしわざとめぼしがついたゆえ、かく黙山同道にて助太刀に参ったのじゃが、目きき違いじゃと申すか",
"目きき違いも、目きき違いも、大きなおめがね違いにござりますよ",
"でも、これなる黙山の申すには、兄を討った者は、そなたの名まえ同様、くまと名がつくというてじゃぞ",
"ばかばかしい。わたしの熊は同じ熊でも読み方が違いますよ",
"なんと申す",
"ユウチュウと申します",
"なに、ユウチュウ?",
"はい、熊という字と仲という字がありますから、クマナカと読みたいところですが、あれはユウチュウと読むのがほんとうでござります。また、坊主の名まえにクマナカというのもおかしいではござりませぬか。ユウチュウと読んでこそ、坊主らしい名まえでござりましょう?",
"いかにもな。しかし、それにしてはあのとき小者が呼びに参ったのに、なぜいちはやく姿をかくした",
"お番所に用があると申されましたゆえ、てっきりもうてまえの女犯の罪があがったものと早がてんいたしまして、かく逐電したのでござります",
"なんじゃ、ばかばかしい。これがほんとうにひょうたんから駒が出たというやつじゃな"
],
[
"まちがいとおわかりでしたら、実はだんなにおりいってのご相談がござりますがな",
"なんじゃ",
"もう二度とかような女犯は重ねませぬによって、今度のところはお目こぼしを願いたいものでござりますがな",
"虫のよいことを申すな。女犯の罪は出家第一の不行跡じゃ。おって寺社奉行のほうに突き出し、ご法どおり日本橋へさらし者にしたうえ百たたきの罰を食わしてやるから、さよう心得ろ",
"いいえ、ただでとは申しませぬよ。だんなのお捜しになっていらっしゃる鉄山殺しの下手人に思い当たりがござりますので、それを引き換えにしていただきとうござりまするが、いけませぬかな",
"なにッ? では、きさま、その下手人をよく存じていると申すのか",
"知らいでどういたしますか、兄の鉄山も、そこの黙山も、もとはといえばてまえが門前に行き倒れとなっているのを拾いあげたのでござりまするよ",
"それは何年ごろじゃ",
"忘れもしないちょうどおととしの秋でござりましたが、朝からひどい吹き降りのした晩でござんしてな、檀家の用を済ましておそく帰ってくると、兄弟が旅の装束のままで門前に行き倒れとなっていたのでござりますよ",
"すると、生まれは江戸の者ではないのじゃな",
"へえい。南部藩のご家中で、どういうものかおじいさまの代から浪人をしていたとか申してでしたが、きいたらかたき討ちに来たと、このようにいうのでござりますよ",
"なに、かたき討ち? では、なんじゃな、もうそのとき、このいたいけな兄弟たちは、なみなみならぬ素姓なのじゃな",
"へえい、さようで。そこの黙山はまだ七つくらいでしたから何も存じませなんだようでしたが、兄の鉄山は九つか十でござりましたから、いろいろ手当をすると、いま申したようにかたきを捜して、江戸へ来たといいましたのでな、だれのかたきだと尋ねましたら、姉だというのでござりまするよ",
"では、親たちを国に残してきたというのじゃな",
"いいえ、それが早く両親に死に別れて、姉と三人兄弟だったというんですがな",
"するとなんじゃな、よくある横恋慕がこうじて、つい手にかけたとでもいうのじゃな",
"たぶんそうでござりましょう。おねえさまは南部のお城下で、お殿さまさえもがおほめになった小町娘だったというてでござりましたからな",
"女のこととなると、感心にくわしいことまで覚えているな",
"ご冗談ばっかり――。だから不憫と存じましてな。このようにひとまず兄弟とも出家をとげさせたうえで、てまえが今まで手もとにさし置いたのでござりまするが、するとつい死ぬふつかまえでござりました。夕がた兄の鉄山に門前をそうじさせていましたら、いきなり血相を変えて駆け込んでまいりましてな、かたきが今くまを連れて門前を通ったと、このようにいうのでござりますよ",
"なに、くま⁉ どんなくまじゃ",
"生きた二匹のくまを大きな檻に入れて、そのそばに南部名物くまの手踊りと書いた立て札がしてあったと申しましたから、思うにくまを使って興行をして歩く遊芸人の群れだろうと存じますがな",
"なるほどな、またとない手がかりじゃ。して、そのとき鉄山はいかがいたした",
"だから、すぐにも飛び出しそうにしたゆえ、てまえがきつくしかっておいたのでござりまするよ。なにをいうにもまだ十二やそこらの非力な子どもでござりますからな、もし早まって返り討ちにでもなったらたいへんだと存じましたので、もう少し成人してから討つように堅くいいきかせておいたのでござりまするが、やっぱり子どもにはきき分けがなかったのでござりましょう。ちょうどあのけがをして帰った日のことでござります、お恥ずかしいことですが、これなる女のもとへ使いによこしましたところ、その帰り道かなんかで、またまたくまを連れたかたきを見かけ、てまえの堅くいいおいたことばも忘れて、むてっぽうに名のりをあげたために、ついついあのような返り討ちに会うたのではないかと存じます",
"いかにもな。それならば、くまにやられたと申した鉄山のことばとも符節が合うているが、しかし、なぜそれほども詳しい下手人の面書きがついているのに、これなる黙山へは厳秘にしておいたのじゃ",
"だんなにも似合わないお尋ねでござりまするな。もしも黙山に詳しいことを知らして、またまたこれが子ども心にかたきを追いかけ、このうえつづいてむごたらしく返り討ちになるようなことがござりましたら、いったいあとはだれがきょうだいたちのかたきを討つのでござります? まるで、血を引いたものは根絶やしになるではござりませぬか",
"いかさまな。女道楽なぞするだけあって、なかなか才はじけたことを申すわ"
],
[
"では、さきほどの見のがしてくれという問題じゃが、けっして二度とは女犯の罪を犯すまいな",
"へえい、もう今夜ぐらい命の縮まった思いをしたことはござりませぬから、今後いっさいこのようなバカなまねはいたしませぬ",
"でも、蛤鍋かなんかでやにさがっていたあたりは、あんまり命が縮まったとも思えないではないか",
"それが縮まったなによりの証拠でござります。いたっててまえはこれが好物でござりますので、もうお番所からさきほどのようにお使いがあった以上は、いずれてまえのお手当もそう遠くないと存じ、今生の思い出に腹いっぱい用いておこうと思いまして、やぶれかぶれにやっていたのでござります",
"猥褻至極なやつじゃ。女のもとへ逃げ走って、今生の思い出に蛤鍋なぞをたらふく用いるとはなにごとじゃ。――だか、うち見たところ存外のおろか者でもなさそうじゃから、今回だけは兄弟ふたりを拾い育てたという特志に免じ、見のがしておいてつかわそうよ",
"えッ、すりゃ、あの、ほんとうでござりまするか!",
"しかし、このままでは許さぬぞ。もとはといえば、そのほうがあの日鉄山を、所もあろうにかくし女のもとへなぞ使いによこしたから、あたら少年の前途ある命もそまつにせねばならぬようになったのじゃ。だから、あすより手先となって、これなる黙山のかたき討ちに助力をいたせ",
"へえ、もうお目こぼしさえ願えますれば、どのようなことでもいたしますでござります",
"むろん、鉄山からきいて、かたきの人相はどんなやつじゃか、そのほうはよく存じているであろうな",
"へえい、もう大知りでござんす。またこのかたきの人相くらい覚えやすいやつはございませんよ。どうしたことか、右の耳が片一方なくなっている浪人上がりだとか申しましたからな",
"さようか、なによりじゃ。では、黙山坊を同道いたして、明日早く八丁堀へたずねてまいれよ",
"へえい、承知いたしました。だが、八丁堀はどなたと申しておたずねすればよろしゅうござりまするか",
"名まえを告げて、もう一度びっくりさせてやりたいが、そのほうごとき生臭に名のるのはもったいないわ。黙山坊が屋敷はよく存じているはずじゃから、くれぐれもいたわって、いっしょに参れ"
],
[
"てかてか顔のほてっているところを見ると、またひのき稲荷へ回って、般若湯でも用いてきたな",
"冗、冗談じゃございませんよ。こりゃ、大急ぎに駆けてきたので、赤くなったんでござんすよ",
"大急ぎとは何が出来したのじゃ",
"鉄山殺しの居どころがわかったんでござりますよ",
"なに、わかった? どこじゃ、どこじゃ",
"ここでなにかてがらをたてなきゃ、罪ほろぼしができないと存じましたからな。あんなぼろ寺でも住職のありがたさに、けさほど檀家の縁日あきんどを狩りたてて、江戸じゅう総ざらえをいたさせましたら、耳なし浪人くまの檻を引き連れて、きょうから向こう三日間、四谷の毘沙門さまの境内で、縁日興行を始めているというんですよ",
"そうか、さすがは仏に仕える者じゃ。よくてがらをたててまいった。では、伝六ッ、今度こそはほんとうに十手の用意がいるぞッ"
],
[
"では、きさまらも一つ穴の浪人上がりじゃな",
"今はじめて知ったかッ。放蕩無頼に身をもちくずしたために、南部家を追放された六人組のやくざ者だ。むっつり右門だか、とっくり右門だか知らねえが、南部の浪人者にも骨があるぞッ! さ! 抜けッ!"
]
] | 底本:「右門捕物帖(一)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tat_suki
校正:はやしだかずこ
1999年12月21日公開
2005年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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"そりゃほんとうですかい",
"みくびっちゃいけねえよ。おめえのひとり者と、おれのひとり者とは、同じひとり者はひとり者でも、できが違うんだ――行くなら早くお小屋へけえって、へそくりをさらってきなよ"
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"えい、一両で二十八文のおかえしイ",
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"こちらは黄八丈のどてら地イ――"
],
[
"女の子の丸帯じゃ――",
"えッ? じゃ、冗談でなくてほんとうですかい"
],
[
"なるべく、はで向きで、それもごく上等を見せてもらおうかな",
"へえ、かしこまりました。こちらは繻珍、こちらの品はつづれ織りでございます"
],
[
"いや、違うよ違うよ。もっとずっと若い、十二、三の子どもものじゃよ",
"ちぇッ"
],
[
"三十両がほどもするかね",
"いいえ、十八両でございます",
"ああ、そうか。ちっと物足らないが、では、これをいただきましょうかな"
],
[
"むろん、届けてくださるだろうね",
"へえい、もうすぐと伺わせまするでござります。おところはどちらさまで――"
],
[
"先刻店先でこちらのかたがおっしゃいましたようでしたが、そちらのだんなさまは、八丁堀の右門様でござんすね",
"そうじゃよ",
"では、あの、うちの大だんなさまが、大至急で、ご内聞にちょっとお目にかかりたいと申してでござりますゆえ、ご足労ながらお立ち寄り願えないでござりましょうか",
"用は何でござる",
"詳しゅうは存じませぬが、いましがただんなさまがたが店先にお越しのさいちゅう、奥でなにやら妙なことが起きたそうでござります"
],
[
"何ぞ出来いたしたそうじゃが、どんなことでござる",
"あっ、ご苦労さまに存じます。あの、妙なことをしちくどく念押しするようでござりまするが、ほんとうに右門のだんなさまでござんしょうか"
],
[
"先ほど、お店のかたも念を押されたようじゃが、もしてまえが右門でなかったならば、なんと召さる?",
"おふたりさまを前にして、変なことを申すようでござりまするが、もし右門のだんなさまでござりませなんだら、なまじ事を荒だててもどうかと存じますので、差し控えようかと思うているのでござります",
"すると、なんじゃな、右門なら事をまかしても安心じゃというのじゃな",
"へえい、ま、いってみればさようでござります",
"いや、なかなか味のありそうな話じゃ。いかにも拙者が右門でござるよ",
"あっ、さようでござりまするか。では、ちとご内聞に申し上げとうござりますので、そちらのかたをお人払いを願いとうござりまするが、いかがなものでござりましょう",
"だいじょうぶ、ご心配無用じゃ。これはてまえの一心同体のごとき配下じゃから、なんでも申されよ",
"さようでござりまするか。では申し上げまするが、実は今これなる座敷で、ふいっと軸が紛失いたしましてな",
"軸と申すと、書画のあの軸でござるか",
"へえい",
"品物は何でござる",
"雪舟の絹本でござりました",
"雪舟と申すとなかなか得がたい品じゃが、家宝ででもござったか",
"へえい。代々家に伝わりました、二幅とない逸品でござりますので、かくうろたえているしだいでござります",
"いつごろでござった",
"ほんのただいま、それもまだだんなさまがたがお買い物中のことでござります",
"聞き捨てならぬことじゃな。場所はどこでござった",
"その床の間に掛けてあったのでござりまする",
"でも、この床には現在なにやらめでたそうな新画が掛かっているではないか",
"いいえ、それが不思議の種なんでござりまするよ。実は、いましがた出入りの鳶頭が参りましてな、つい十日ほどまえにてまえのせがれが嫁をめとりましたので、その祝儀じゃと申しまして、この新画の幅をくれたものでござりますから、さっそくこれと雪舟とを掛け替えて鳶頭とふたりでながめておりましたら、そのまに取りはずしておいた雪舟が、いつか消えてなくなったのでござりまするよ",
"ほほう。では、その間だれもこのへやへははいらなかったというのじゃな",
"ええ、もうはいるどころではござんせぬ。てまえと鳶頭がちゃんとここについていましたのに、あとで気がつきましたら、雪舟だけがなくなっていたのでござります",
"なに、あと……? あとと申すと、鳶頭が帰ってからのことじゃな",
"へえい。いつも気ぜわしげな男で、すぐに帰りましたゆえ、うちのものに玄関まで送らせまして、ふと気がつくと、もう雪舟が消えてなくなったのでござります",
"すると、なんじゃな、もし疑いをかけるなら、その鳶頭とやらが怪しいわけじゃな",
"ところが、それが大違いでござります。に組の金助といや古顔の鳶頭でござんすから、だんながたもご存じだろうと思いまするが、てまえの家はもう先代からの出入りで、今年七十になるまでただの一度も人からうしろ指さされたことのないっていうりちぎ一方の江戸っ子なんでござりますから、疑うどころか、怪しい節一つないんでござりまするよ。それに、てまえがその間座をはずしたとか、ご不浄にでも立ったとか申しますなら、鳶頭にも疑いがかかるんでござりますが、なんしろ来るから帰るまで、ちゃんとてまえがこの二つの目で見張っていましたのに、雪舟だけが消えてなくなったんでござんすから、どうにも解せないのでござります"
],
[
"見れば、この新画の落款には栄湖としてあるようじゃが、栄湖というのはあの四条派の久和島栄湖であろうな",
"へえい。新画番付では三役どころの画工だそうにござります",
"すると、相当な値ごろのものじゃな",
"へえい。よそから祝儀にいただいて値ぶみをするのも変なものでござりまするが、安い品ではござりませぬ",
"では、箱ぐらいついていそうなものじゃが、どうしたことか、これは無箱のようではないか",
"いいえ、無箱ではござりませぬ。ちゃんと箱に入れて持ってきてくれたのでござりまするが、途中でまにあわせに買いととのえたもので、まだ箱書きがしてございませんからと申しまして、鳶頭が箱だけを――持ち帰ったのでござりまするよ"
],
[
"盗まれた雪舟は、たぶん尺二でござったろうな",
"へえい、そ、そうでござりまするが、どうしてまた、そんなことがおわかりでござりまするか"
],
[
"では、あの、雪舟の行くえはもうおわかりになったのでござりまするか",
"わかったからこそ、こうして帰りじたくをしているんじゃねえか。ねこごたつにでもはいって、金の勘定でもしていなよ"
],
[
"とおっしゃると、だんなは、あのおやじの握り屋らしいところに、なんかこの事件の糸口があるっておっしゃるんですかい",
"あたりめえよ。ひと口にいや、小欲が深すぎるんだよ。だから、あの軸物をもらったんで、もらうものならなんでもござれとばかり、ほくほくもので有頂天になっているすきを、ちょろりと雪舟に逃げられてしまったんだ",
"じゃ、やっぱり、あの鳶頭の金助とやらが怪しいとおっしゃるんですね",
"決まってらあ。あのおり、ほかにだれもあの座敷へ来たものがねえとすりゃ、雪舟の絵に足がはえてでも逃げ出さねえかぎり、金助よりほかに盗んだやつあねえじゃねえか",
"でも、先代からのお出入りで、評判の正直者だといったじゃござんせんか",
"だから、なおのこと、あのおやじ小欲が深すぎるにちげえねえっていうんだよ。相手が正直者だから安心しきって、もらいものに有頂天となっているすきを、ちょろりと細工されちまったんだ。また、鳶頭のほうからいや、日ごろ正直者として信用されているのをさいわい、そこをつけ込んで裏かいたのさ",
"いかにもね。そうすると、やっぱり、箱書きをするといって、あの箱を持ちけえったことがなんか細工の種ですかね",
"ほほう。じゃ、おまえもやっぱり箱書きが怪しいとにらんだかい",
"だって、考えてみりゃおかしいじゃござんせんか。お祝儀の進物に持ってくるくれえなら、箱書きなんぞまえからちゃんと用意してくるのがあたりめえなんだからね。しかも、きいてみりゃ、盗まれた雪舟がやっぱり尺二で、さっきあそこに掛かっていた新画のほうも同じ尺二じゃござんせんか。だから、思うに、あれと雪舟とを掛け替えるとき、うまいこと目をちょろまかして、持ってきた箱の中へ雪舟を盗み入れたうえで、箱書きを口実に、まんまと持ち帰ったんじゃござんせんかね",
"偉い! そのとおりだよ。そのとおりだよ。きさまもだいぶこのごろ修業が積んだな",
"ちぇッ、つまらないことを、めったにほめてもらいますまいよ。あっしだって、三年たちゃ三つになりますからね。それに、でえいち、盗まれた品物が品物ですからね。あんなかさばるものを、おやじの見ている前でどうして持ち出したろうと不審をうっているとき、ひょっくりとだんなが箱のことを尋ねなすったものだから、さてはそいつが急所だなと思って、いっしょうけんめい聞いていたところへ、箱書きうんぬんのことを申し立てたので、こいつ鳶頭が細工したなと気がついたまでのことでさ",
"いや、偉いよ。どっちにしても、それを気がつくようじゃ、きさまもめっきり腕をあげたよ。――だが、こいつ、ぞうさなさそうに見えて、存外根が深いかもしれねえぜ",
"とおっしゃいますと、なんですかい。盗み手のめぼしはついたが、肝心の雪舟はちょっくらちょいとめっからないとでもおっしゃるんですかい",
"いいや、そんなものの行くえやありかは、このおれが出馬するとなりゃまたたくまだがね。とかくこういうふうにぞうさがなさそうに見える事件ってものが、思いのほかに根の深いもんだよ。ついこないだの達磨さんの捕物でもそうなんだが、うわべに現われているたねの小さいものほど、底が深いものさ",
"だって、雪舟が人の見ている前で、ひゅうどろどろと消えてなくなるなんて、ちっとも小さかねえじゃござんせんか",
"そりゃ、きさまが雪舟という絵の値うちに目がくらんでいるからだよ。そいつをとりのけてみりゃ、ただの盗難さ。けれども、その盗んだやつが七十近い老人のりちぎ者だっていうんだからな。根が深いかもしれねえっていうなあ、そのりちぎ者のとったってことそのことさ",
"大きにね。だんなの目のつけどころは、いつも人と違うからね",
"それに、あの生島屋のおやじが、二度も三度もおれに右門だかどうだか念を押したのが、ちっと気に入らねえじゃねえか",
"いかにもさよう。あっしもあの一条がいまだに気持ちがわるいんですがね。右門のだんなならお頼みするが、ほかの八丁堀衆なら頼むまいっていわんばかりのことを、変に気を持たせてぬかしゃがったからね",
"だから、こいつちっと大物かと思っているのさ。それに、時が時だからな……おっと、いけねえ、いけねえ。話に夢中になっているうちに、とんでもねえほうへ来ていらあ。ここをいっちゃ深川へ出てしまうじゃねえか。に組っていや、たしか神田だったろ",
"へえい、さようでござんす。連雀町あたりに火の見があったはずでござんすよ",
"じゃ、めんどうくせえや。ひと飛びにまた例の駕籠にしようよ",
"そらッ、おいでなすった。もう出るか、もう出るかと待っていましたっけが、だんなの口から駕籠っていうお声がかかりゃ、槍が降ろうと、火の玉が舞おうと、もうおれが天下だ。――おいそこの裸虫! 大急ぎ二丁ご用だぜ"
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"この寒いのに、正気ですかい",
"正気でなくてどうするかい。火事は、寒い暑いにかかわらず、燃えるときが来りゃ燃えるんだよ",
"えッ? どっかで今、半鐘でも聞こえるんですか",
"あいかわらずどじを踏みだすと、感心してえほど連発するな。いま半鐘が鳴っているっていうんじゃねえんだよ。このからッ風じゃいつ火事を出すかわからねえから、そろそろ出かけようっていってるんだ",
"禅の問答みたいなことおっしゃいますね。よしんばからッ風が吹いているにしても、だんなやあっしが火の番でもねえのに、なにもうろうろするにゃ当たらねえじゃござんせんか",
"決まってらあ。おれたちが火事見回りに行くんじゃねえんだよ。火事が出そうなこんな晩にゃ、火消しや鳶人足はうちをあけずに寝ず番で起きているから、おおかた金助ももう外出から家へけえっているにちげえねえっていってるんだ",
"な、なるほどね。目のつけどころが凝ってらあ。いかにも金助め、この風じゃ心配になって、うちにいるにちげえねえでがしょう。では、また駕籠ですかい",
"寒い風に当たるのも一つの修業じゃ。歩いて参ろう"
],
[
"一二三の合い図をするから、きさまもいっしょに、この家の前で、お隣が火事だと大声で叫べ!",
"だって、火事でもねえのに、そんな人騒がせのことを叫んだら、のされちまいますぜ",
"八丁堀の右門様がどなれとお命じになってるんだ。――いいか、そら、一二三!"
],
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"どこか近くの自身番に、座敷手錠があるだろうから、借りてきてはめときな",
"じゃ、ご番所へしょっぴいていくんじゃねえんですかい",
"鳶頭といや、とにもかくにも人の上に立つ人間だ。盗みの罪状は罪状にちげえねえが、これほどの分別ざかりな人間がやるからにゃ、なんぞ子細があるだろうからな。それに、お年寄りがこの寒空に火の種一つねえご牢屋住まいも身にこたえることだろうから、なるべくいたわってやんな",
"わかりやした。――みろッ、そこら辺のまごまごしているわけえ者、おらのだんなのなさるこたあ、このとおり、いつだってそつがねえんだぞ。後学のため、ちっとだんなのつめのあかでももらって煎じて飲みな"
],
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"そうか、それでこそそのほうも男の中の男伊達じゃ。きいてつかわそう、どんな子細じゃ",
"ちっとこみ入った話でごぜえますから、よっくお聞きくだせえましよ。実は、生島屋のおおだんなに八郎兵衛っていうおにいさんがもうひとりごぜえましてね、そのかたが兄でありながら、あんまりおかわいそうなご沈落をしていなさるので、見るに見かねて、あっしがちっとばかり侠気を出したんでごぜえますよ",
"なるほど、さようか。ともかくも、人のかしらといわれるほどのそのほうがいたしたことじゃから、ただの盗みではあるまいと存じおったが、では、雪舟を盗みとって金にでも引き換え、ないしょにみつごうというつもりじゃったのじゃな",
"めっそうもござんせんや。だから、よくお聞きなせえましといってるんですよ。あっしががらにもなく侠気を出してこの品を盗みとったなあ、そんなちっぽけな了見からじゃねえんですよ。ピンが出るか、ゾロが出るか、生島屋の身上を目あてに賭けて張った大勝負でさあ",
"なに、生島屋の身代……? では、なんぞあの一家には秘密な節でもあると申すか",
"ある段じゃござんせぬ。だんなもとっくりお考えになったらおわかりでござんしょうが、唐や天竺の国なら知らぬこと、おらが住んでいるこの国じゃ、どこの家へいっても、兄貴があったら兄貴へ身代を譲るのが昔からのしきたりじゃござんせんか",
"しかり、それでこそ豊葦原瑞穂国が、ご安泰でいられると申すものじゃが、そうすると、なにか、あれなる七郎兵衛とか申すのが、兄をさしおいて、なんぞよこしまなことでもいたしおったのじゃな",
"ではないかと存じましてな、あっしが雪舟でちょっと細工してみたんでがすが、どこの家へいったって兄がありゃ兄に家督を譲るのがあたりめえなのに、どうしたことか、あの生島屋っていううちには昔から妙な言い伝えがごぜえまして、子どもがふたり以上生まれたときにゃ、その成人を待って嫁をめとり、そのせがれたちの設けた孫のなかで、男の子を産んだものに、次男だろうと三男だろうと、うちの身代を譲るっていう変なしきたりがあるんですよ。だから、今の大だんなの七郎兵衛さんと、ご沈落しなさっている兄の八郎兵衛さんと、このおふたりが成人なすったときにも、先代の親ごさんていうのがさっそく言い伝えどおり、それぞれむすこさんにお嫁をめとらしたんですがね。するてえと、ご運わるく兄の八郎兵衛さんには女のお子ども衆が生まれ、弟の七郎兵衛さんにはまたご運よくもあの陽吉さんていう男の子どもが生まれたんでね、代々の家憲どおり、七郎兵衛さんが兄をさしおいて、今の生島屋の何万両っていうご身代を、ぬれ手でつかみ取りにしちまったんですよ",
"なるほど、わかったわかった。そうすると、なんじゃな、その七郎兵衛の設けた陽吉っていう男の子どもが少し不審じゃと申すのじゃな",
"へえい。いってみりゃつまりそれなんですが、どうもいろいろとおかしい節がごぜえましてね",
"どのようなことじゃ",
"第一はお湯殿でごぜえますが、男の子ならなにもそんなまねしなくてもいいのに、どうしたことか陽吉さんは昔からひとりきり、別ぶろへへえりなさるんですよ。それも、四方板壁で、のぞき窓一つねえっていう変なお湯殿なんでね。だから、妙だなと思っているやさきへ、今度陽吉さんがおめとりなさった嫁っていうのが、どうもおかしなしろものなんですよ。だんながたはご商売がらもうご存じでごぜえましょうが、日本橋の桧物町に鍵屋長兵衛っていうろうそく問屋があるんですが、お聞き及びじゃござんせんか",
"ああ、存じおる。名うての書画気違いと聞き及んでいるが、そのおやじのことか",
"さようさよう、その書画気違いのおやじでごぜえますよ。そいつの娘がつまり陽吉さんのお嫁さんになったんですが、奇妙なことに、その鍵屋にはふたり子どもがあっても、みんな男ばかりで女の子はねえはずだったのに、生島屋とのご婚礼まえになってから、ひょっくりと女の子がひとりふえましてね。そのふえ方ってものがまた妙なんで、今まで長崎のほうの親戚へ預けてあった娘を呼びよせたってこういうんですが、それはまあいいとして、そのかわり今までふたりあった男の子どものうちの、弟むすこってほうが、女の子のふえるといっしょに、ひょっくり消えてなくなったんですよ。長兵衛のいうには、長崎のその親戚へ女の子の代わりに次男のほうを改めてくれてやったと、こういってるんですがね。いずれにしても、男がひとり消えてなくなって、そのかわり女の子がひょっくりとひとりふえてきたんだから、もしや、と思ったんですがね",
"では、なんじゃな、そこに何か細工があって、若主人の陽吉は実際は女であり、嫁に来たろうそく問屋の娘っていうのが、もしやほんとうは男であるまいかと、こういう疑いがわいたと申すのじゃな",
"へえい、あっしだけの推量なんでごぜえますが、陽吉さんの別ぶろのことといい、ろうそく問屋の次男坊の見えなくなったことといい、なんかうすみっともねえ小細工しているんじゃねえかと思うんですよ"
],
[
"しからば、雪舟は何がゆえに盗みとったのじゃ",
"それがあっしの苦心なんですよ。だんなはさっき、バカの小知恵とおっしゃいましたが、あっしとすりゃあれを盗むのがいちばん近道と思いやしたからね。さればこそ、一生一度の盗みもしたんですが、それってものは、あのろうそく屋の長兵衛めがちっと気にいらねえ癖があってね。いま手もとに集めている書画の掛け物はおおかた二、三百幅もあるんでしょうが、一本だっててめえが金を出して買った品はねえんですよ",
"では、いずれも盗みとった品物じゃと申すのか",
"いいえ、もっと根のふけえやり口で巻きあげるんですがね。ひとくちにいや、みんなゆすり取るんですよ。そのゆすり方ってものがまた並みたいていのゆすりようじゃねえんだがね、どこかにいい幅のあることを耳に入れると、しつこくその家をつけまわして、何かそこの家の急所になるような秘密とかあら捜しをやったうえに、うまいこと巻きあげちまうんですよ。だから、生島屋のこの雪舟にしたって、やっぱりその伝でね、こないだ長兵衛がこいつをくれろといって、ゆすりに来たと小耳へ入れたものだから、長兵衛がくれろというからにゃ、何か生島屋の急所となる秘密かあらを握ってからのことだろうと思いやしたので、もしかすると、おれのにらんでいる急所じゃねえかと思ったところから、こいつを盗み取らば、自然事が大きくなって生島屋のほうでもあわてだすだろうし、長兵衛のほうでもゆすりの種をなんかの拍子に明るみへさらけ出さないもんでもあるまいと思って、ちっとまわりくどい方法でしたが、ためしに盗んでみたんですよ"
],
[
"品物はなんじゃ",
"えッ、た、たびでございますよ",
"なに、たび……! だれのたびじゃ",
"若だんなさまがたのたびでございます",
"どれ、みせろ"
],
[
"そら、のぞみの品じゃ。よく改めろ",
"あっ、たしかに見覚えの雪舟でござりまするが、この変わり方はどうしたのでござります",
"どうしてこんなになったかは、そちの胸に思い当たることがあるはずじゃ。ちと一見いたしたきことがあるから、職分をもって申しつくる。せがれの陽吉夫婦をすぐさまこれへ呼びよせろッ",
"えッ……!"
],
[
"さすがは年の功じゃ。陽吉夫婦は、そちのにらんだとおりじゃぞ",
"えッ、じゃ、やっぱりご亭主が嫁さんで、お嫁さんがご亭主だったんですかい",
"そのとおりじゃ",
"いくら欲の皮がつっ張っていたからのことにしたって、あきれたものだね。この先、もし赤ん坊が生まれるようなことになったら、どうするつもりだったんでしょうね。男で通っていたご亭主の陽吉さんが岩田帯をするなんてことになったら、天下の一大事ですぜ"
],
[
"七郎兵衛の罪は良俗を乱し、美風を損じたる点において軽からざるものがあるが、右門特別の慈悲により、お公儀への上申は差し控えてつかわすによって、ありがたく心得ろ。そのかわり、生島屋の身代六万両はこんにちかぎり二分いたし、その一半はこれなるお兄人八郎兵衛どのにつかわせよ。どうじゃ、よいか",
"えッ。では、三万両もの大金をただくれてやるんでござりまするか"
],
[
"控えろッ、控えろッ。ただくれてやるとはなにごとじゃッ。そのほうこそ、ただもらっているではないかッ。それとも、六万両みんな八郎兵衛どのにつかわすようお公儀に上申してもさしつかえないかッ",
"め、めっそうもございませぬ。では、三万両さしあげるでござります。さしあげますでござります"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tat_suki
校正:はやしだかずこ
1999年12月21日公開
2005年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000579",
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"副題読み": "11 みがわりはなよめ",
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[
[
"な、九重さま。あなた、わたしのひいき相撲に、断わりなしでご声援なさいましたら、そのままではほっておきませぬぞ!",
"汐路さまこそ口はばったいことをおっしゃりますな! 江戸錦はわたしのひいき相撲にござりますゆえ、めったなことを申しますると、晩にお灸をすえてしんぜましょうぞ"
],
[
"な、伝六ッ",
"えッ?",
"世の中にゃいか者食いの女もあるもんじゃねえか。どんな顔のどんなお腰元だかわからねえが、しきりと金切り声で秀の浦を声援しているやつがあるぜ",
"どうどう? どこですか",
"ほら、あっちのいちばんすみの奥から、さかんにやっているじゃねえか",
"いかさまね。女の旗本というのも聞いたことがねえから、虫のせいかな――"
],
[
"さ! 伝六ッ、どうやらまた忙しくなったようだぞ",
"えッ、どこかに忍術使いでもいるんですか",
"あいかわらずのひょうきん者だな。今の相撲を見なかったのか!",
"見たからこそ、いってるんじゃござんせんか。あんなおかしな相撲ってものは、へその緒切ってはじめてなんだからね。西方の棧敷に忍術使いでもいやがって、あんなまねをさせたんじゃねえかと思うんですよ"
],
[
"ほほう、さすがは敬公だな。おめえのように、そうがみがみとたなおろしをするもんじゃねえよ。きょうここに詰めかけていた与力同心は、南北あわせて何十騎いたか知らねえが、今の変なあの一番を見て、こいつ臭そうだなとにらんだものは、おれをのぞいてあの敬四郎一人だけじゃねえか。了見はちっと気に食わねえが、さすが腕っききだけがものはあるから、ほめてやれよ、ほめてやれよ",
"だって、あのげじげじ、きっとまただんなのじゃまをしますぜ"
],
[
"それ、ご覧なせえまし、いううちに、もうじゃまだてを始めたんじゃござんせんか。だんなもあの江戸錦を洗ってみるお考えだったんでがしょう",
"そうだよ",
"なら、だんなのほうがひと足はええんだから、こっちへ玉をさらったらどうですか",
"まあそう鳴るなよ、鳴るなよ。おれの知恵は、いつだって出どころが違うじゃねえか。ほしいものならやっときな――"
],
[
"思うに、そちの思案していることも、今のあの奇怪至極な勝負に胸を痛めてのことじゃろうと察するが、どうじゃ、違ったか",
"へえい……",
"ではわからぬ。どうじゃ、違ったか",
"いいえ、おめがねどおりでござんす",
"するとなんじゃな、やっぱりあの一番は、わしのにらんだとおり八百長ではなかったのじゃな",
"ええ、もう八百長どころか、どうしてあんな遺恨相撲になったかと、いっしょうけんめいそれを思案していたのでごんす",
"ほほうのう。やっぱり、遺恨相撲じゃったか。わしもちらりとあの秀の浦とやらいう西方相撲の仕切りぐあいを見たとき、あやつの目のうちにただならぬ殺気が見えたゆえ、どうもおかしいなと思うていたのじゃが、ではなんじゃな。そちの口裏から推しはかってみるに、今までふたりは遺恨なぞ含むようなかかり合いはなかったというのじゃな",
"ええ、もう遺恨どころか、もともとあの野郎どもは相べやで、そのうえ相弟子どうしの評判な仲よしだったんでござんすのに、さっきの仕切りぐあいを見ると、だんなもお気づきでござんしたろうが、秀の浦めがどうしたことか、封じ手の鉄砲をかませようとしたんでござんすよ",
"ほほう、西方相撲のあのときの妙な手つきは、あれが鉄砲というのか",
"ええ、そうでごんす。それも、あの野郎の鉄砲とくると、がらはちまちまっとしていてちっせえが、わっちたち仲間でもおじ毛立つくれえな命取りでごんしてな。あの野郎からその鉄砲をくらって、今まで三人も土俵で命をとられたやつがあるんで、爾後いっさい使ってならぬときびしく親方が封じ手にしておいたんでごんすが、バカにつける薬はねえとみえて、将軍さまのご面前だというのに、野郎めがその封じ手の鉄砲をかませようとしたものだから、さすが江戸錦や、さきざき大物になるだろうと評判されているだけがものはあって、命取りの鉄砲に会っちゃかなわねえと早くも気がついたものか、あんなふうに殿さまがたからおしかりをうけるようなことになっちまったんでござんすよ"
],
[
"バカ野郎ども! おれさまたちが御用があるっていうのに、なぜ無断でけえしたんだ!",
"だって、からだがあきゃ、こっちの気ままでごんすからね。あの野郎もきょうの一番で、うめえご祝儀にあずかれると思ったか、まるくなってけえりましたよ",
"どっちへ行ったかわからねえか",
"さあね。どことも行き先ゃいわねえようでしたが、ここをまっすぐ北のほうへめえりましたよ"
],
[
"いましがた色の黒い出っ歯の相撲取りがここを通ったはずでござりまするが、さだめしご門鑑改めをしたのでありましょうな",
"ええ、いたしました。秀の浦とやら、姫の浦とやら申したようでござりまするが、あいつのことでござりまするか",
"さよう。ご門を外へ出てからどちらへ参ったか、お気づきではござりませなんだか",
"それがちょっと妙なんでございますよ。相撲取りなどが乗るにしては分にすぎた駕籠が一丁、向こうの濠端に待ち受けていましてな、まえから話でもついていたものか、あごでしゃくってそれに乗ると、濠端を四ツ谷のほうへいったようでござりましたよ"
],
[
"では、伝六、いつもの駕籠にしようかな",
"えッ、いつもというと、あの例のいつもの駕籠ですかい!",
"そうだよ。おまえと差しで、仲よくいこうじゃねえか",
"ちぇッ、ありがてえッ。おらにゃあのもぐら野郎がどこへ消えたかわからねえが、だんなにゃ先の先までもう見通しがついているとみえらあ。――ざまアみろい! あばたの野郎! 口まねするんじゃねえが、うちのだんなはちょっとできが違うぞッ!"
],
[
"たぶん、秀の浦の死骸じゃねえか",
"えッ⁈ そのとおりですが、どうしてまた見ないうちにそんなことがわかりますかい",
"そのくれえな目先が見えなくてどうするかい。おまえの言いぐさじゃねえが、こんなことで音を上げるような右門だったら、それこそみなさまがたに会わする顔がねえや。さっき左内坂で新手の駕籠が奪い乗せるように秀の浦をさらっていったと聞いたときから、おそらく無事なからだじゃけえるめえと思ったからこそ、こうして行火にぬくまりながら、騒ぎの起きるのを待ってたんだ。だが、それにしても、この死骸をおれの門前にすえておくなあちっと解せねえな。なにかそこらに書いたものでもありゃしねえかい",
"ありますよ、ありますよ。暗くてよくはわからねえが、ここに紙切れみたいなものが張ってありますぜ",
"そうかい。じゃ、だれのいたずらか、ぞうさなくめぼしがつくだろう。ちょっくら龕燈を持ってきてみせな"
],
[
"笑わしゃがるね、敬四郎のしわざだよ。それにしても、およそ子どもっぽいいたずらをしたもんじゃねえか。悔やしがってじだんだ踏めとしてあるが、どこのじだんだを踏むのかな",
"じゃ、あのいもづらのだんながしたんですかい",
"そうさ、敬四郎でなきゃ、こんな自慢たらしい狂言はやらないよ。きっと、そこらあたりでこっちの様子でも伺っているにちげえねえから、ちょっくらその辺を捜してきてみな"
],
[
"とおっしゃいますと、なんでござりまするか、あの一番が遺恨相撲であったことも、それなる江戸錦がこの秀の浦の下手人であるということも、すっかり眼がついたというのでござりますな",
"あたりめえだ。眼がついたからこそ、こうしてきさまにも拝ませに連れてきたんじゃねえか",
"でも、ちょっと不思議じゃござんせぬか",
"何が不思議だ",
"遺恨を仕掛けられたものこそ江戸錦のほうなんだから、その江戸錦が秀の浦をあやめるたあ、ちっと筋が通らないように思いますがね",
"だって、こういうれっきとした証拠がありゃ、しかたがねえじゃねえか",
"ほほう、りっぱな印籠のようだが、どこかに江戸錦の持ち物だっていう目じるしでもござんすかな",
"そのでかい字が読めねえのか、印籠の表に、ひいきより江戸錦へ贈るっていう金泥流しの文字がちゃんと書いたるじゃねえか",
"なるほどね。この字が見えねえようじゃ、おれもあき盲にちげえねえや。そうするとなんですな、昔からよくある古い型だが、この印籠が秀の浦の死骸のそばにでも落っこちていたというんですな",
"いうまでもねえや。それも、ただのところに落っこちていたんじゃねえんだ。この江戸錦の野郎をいくら締め上げても、知らぬ存ぜぬと言い張って遺恨相撲の子細をぬかしゃがらねえから、それなら秀の浦とふたりを突き合わして白状さしてやろうと、こやつめをしょっぴきながら秀の浦のあとを追っかけていったら、かわいそうに、四ツ谷見付の土手先でこの駕籠へはいったまま、あけに染まってゴネっているんだ。しかも、その駕籠の中にこの印籠が落っこちていたんだから、だれだって江戸錦が下手人と思うに不思議はねえじゃねえか"
],
[
"さ、忙しいぞ。きさまこれから大急行でお城まで行ってこい!",
"えッ、お城なんぞに今ごろ何か用があるんですかい。さすがのだんなも、今度という今度は、あのあばたづらにしてやられたんで、退職願いでもしようとおっしゃるんですかい"
],
[
"江戸八百八町がごひいきのむっつり右門じゃねえか。退職願いを出すなあ敬四郎のほうだよ",
"じゃ、なんですかい、だんなはまだ勝つつもりでいらっしゃるんですかい",
"おかしなことをいうね。するてえと、なにかい、おまえこそおれが負けるとでも思っているのかい",
"だって、そう思うよりほかにしかたがねえじゃござんせんか。秀の浦の死骸のそばに江戸錦の持ち物の印籠がおっこちていたっていやあ、だれだってもうしっぽを巻くよりほかにしかたがねえんだからねえ",
"あきれたもんだな。じゃ、おまえにきくが、おまえはいったい江戸錦がふたりいると思っているのかい",
"ちぇッ、バカにしなさんな! そんなこと、ひとりにきまってるじゃござんせんか",
"そうだろ。だとしたら、おまえももうちっとりこうになってみねえな。江戸錦が殺した殺したというが、その江戸錦ゃああの相撲が終わるからずっと今まで、敬四郎の野郎がそばにくっついて番をしているはずじゃねえのかい",
"な、なるほどね。大きにそれにちげえねえや。あばたの野郎自身も、たしかにそういいましたっけね。いくら江戸錦を締めあげても遺恨の子細を白状しねえので、四ツ谷見付までしょっぴいていったら、秀の浦の死骸にぶっつかったとは、たしかにはっきりいいましたっけね",
"そうだろ、にもかかわらず、あばたの大将ときちゃ、てめえで本人の張り番をしていたことをすっかり忘れちまっているんだからね。そんなでくの棒のくせに、折り紙つきのこの右門と張り合おうというのは大違いだよ",
"ちげえねえ、ちげえねえ、そのせりふを聞いて、すっかり溜飲が下がりやした。じゃ、なんですね、だれかほかに下手人があって、そやつが江戸錦に罪をきせるため印籠の細工をしたというんですね",
"あたりめえさ。だから、お城へひとっ走り行ってこいといってるんだよ",
"まあま、待ってください。行くはいいが、お城にその肝心の下手人がいるとでもいうんですかい",
"聞くまでもねえこったよ。おれの目玉が安物でねえ証拠をいま見せてやるから驚くな。下手人は女だぜ"
],
[
"どうだ、早わざに驚いたろ。まず第一は、この紙ににじんでいる赤い色が二通りになっているから、目のくり玉をあけてよく調べてみなよ",
"いかにもね。こっちのべたべたにじんでいるどす黒いやつア、たしかに血の色にちげえねえが、そっちのちっちぇえ赤い色は、どうやら口紅のあとじゃござんせんかい",
"そうだよ、ふところ紙に口紅のあとがついているとするなら、この紙の持ち主が女であるこたあ確かだろ。そこで、第二はこの紙そのものだがね、おまえのような無粋なやつあ、このなまめかしいふところ紙がなんてえ品物かも知るめえなあ",
"ちぇッ、つまらんところでたなおろしなんぞしなくたってようがすよ。無粋だろうと、ぶこつだろうと、大きなお世話じゃござんせんか。なんてえ紙ですかい",
"これが有名な筑紫漉だよ",
"へへえ、なるほどね。筑紫漉といやあ思い出しましたが、大奥のお腰元が使うとかいう紙ゃあこれですね",
"そうさ。だから、これでこのふところ紙の持ち主ぁ女で、しかも大奥のお腰元だっていうことがわかったろ。しかるにだ、まだ一つおれでなくっちゃ見破ることのできねえネタがあるんだが、さっき秀の浦の傷口を調べてみたら、あれあおまえ、だんびらやわきざしの切り傷じゃなくて、たしかに懐剣の突き傷だったぜ",
"そうですか、わかりやした、わかりやした。じゃ、ほんとうの下手人は、大奥の女中の中にいるからしょっぴいてこいというんですね",
"そのとおり。だが、おまえ、ただどなり込んでいったって下手人は容易にゃ見つからねえはずだが、どうして本人をしょっぴいてくるつもりかい",
"ちぇッ。こう見えたって、だんなの一の子分じゃござんせんか。はばかりながら、見当はもうついていますよ。だんなはお忘れなすったかもしらねえが、あの結び相撲のときに、お腰元の中からしきりと秀の浦へ声援したやつがあったじゃござんせんか。あいつを捜し出してしょっぴいてきたら、よし下手人でなかったにしたって、何か目鼻がつくでがしょう",
"偉いッ! そのとおりだが、まだ一つ忘れてならんことがあるぞ。きっと、あの時刻に外出をしたやつがあるはずだからな。いたら三人でも五人でもかまわねえから、みんなしょっぴいてきなよ",
"がってんの助だ。自慢じゃねえが、こういうことああっしの畑なんだから、あごでもなでなで待っていなせえよ"
],
[
"いっさい白状せぬというたらなんとなさりまするか",
"ここで白状させてお目にかけまするわ",
"ま、自慢たらしい。こことおっしゃりまして、お偉そうにおつむをたたきなさいましたところをみますると、知恵で白状させてみせるとおっしゃいますのでござりまするな",
"さようじゃ。頭をたたいてここといえば、知恵よりほかにないはずでござる。それも、右門の知恵袋ばかりは、ちっとひとさまのとは品物が違いまするぞ",
"あなたさまの知恵袋とやらが別物でござりまするなら、わたしの強情も別物でござります。いま道々聞けば、秀の浦とやらを殺害の嫌疑でお呼び立てじゃそうにござりまするが、わたしも二の丸様付きの腰元のなかでは人にそれと名まえを知られた秋楓、いかにも知恵比べいたそうではござりませぬか",
"ほほう、なかなか強情なことを申さるるな。では、どうあっても、秀の浦をあやめた下手人ではないと申さるるか",
"もとよりにござります",
"でも、あの御前相撲がうち終わってからまもなく外出をしたことは確かでござろうがな!",
"確かでござりまするが、それがいかがいたしました",
"いかがでもない。これなる伝六へあの時刻ごろ外出をしたものがあったら、三人五人と数はいわずに皆連れてまいれと申したところ、そなたひとりだけを召し連れて帰ったによって、そなたに下手人の疑いかかるは理の当然でござらぬか。それに、第二の証拠はこのふところ紙じゃ。見れば、そなたの内ぶところから顔をのぞかせている紙もこれと同じ品じゃが、それでも強情を言り張りますか!",
"えッ!"
],
[
"早まったことをいたしてなんとするか! すなおに申さば、ずいぶんと慈悲をかけまいものでもなかったのに、死なば罪が消えると思うかッ",
"いえいえ! 罪からのがれたいための自殺ではござりませぬ! 罪を後悔すればこそ、覚悟のうえのことにござります。それが証拠は、この内ぶところに書き置きがござりますゆえ、ご慈悲があらば今すぐお読みくださりませ!",
"なに、書き置き⁈ では、もしこの右門を言いくるめえたら格別、かなわぬときは自殺しようと、まえから用意してまいったのか!",
"は、どのように隠しだていたしましても、いま八丁堀でご評判のあなたさまに、しょせんたち打ちはかのうまいと存じましたゆえ、いよいよ罪に服さねばならぬときがまいりましたら、いさぎよう身を殺しまして、そのかわりに用意のこれなる書き置きをお読みねがうつもりでござりました。それに、生き長らえたままで白状いたしましたら、いくじなきものよとのそしりもござりまするが、わが身を殺すとともにいたす自白ならば、おなごのいささかばかりな操もたちますことゆえ、かくお目前を汚しました。どうぞ、かわいそうとおぼしめしくださりましたら、はようこれなる書き置きをご覧くださりませ"
],
[
"せっかくだが、大島弥三郎とかいった旗本奴は、もう見のがしちゃおかれねえや。このかわいそうな腰元の命を取ったのも、けっきょく野郎のしわざのようなもんじゃねえか。さ! 伝六ッ、駕籠だッ、駕籠だッ。今度はほんとうの駕籠だッ!",
"ちぇッ、ありがてえや! もうのがしっこねえぞ!"
],
[
"あぶねえあぶねえ、いまひと足おくれたら、おれたちもこの寒空に旅へ出かけなきゃならなかったかもしれねえぜ",
"えッ。じゃ、野郎め、事のバレたのをかぎつけやがって、逐電の用意をしているとでもいうんですかい",
"そうさ、この不行儀な雪駄の脱ぎぐあいをまずよく見ねえな。三足が三足ともに、あっちへ一方、こっちへ一方飛び飛びになっているところをみると、どうやらはき主があわてて駆けつけて、あわてて駆け上がったらしい様子だよ。しかも、見りゃどれもこれも印伝鼻緒で、金めらしい二枚裏だからな。おそらく、このはき主ゃ、道楽仲間の悪旗本連だよ。そのうえに、土のちっともつかねえ真新しいわらじが、はくのを待つばっかりでこちらむきにそろえてあるとすりゃ、野郎が逐電の覚悟をつくりゃがって、大急ぎに道楽仲間を呼び寄せたとしきゃ読めねえじゃねえか",
"いかさまね。じゃ、ここで待ち伏せしててやりましょうか",
"ああ。しだいによると、野郎たちダンビラ抜くかもしれんから、十手の用意をしておくがいいぜ"
],
[
"長生きはしてえもんじゃねえか。今日さまが毎日東から出るこたあ知っているが、まだこんな珍しい湯おけを見たことがねえよ。ついでのことに、伝馬町までみやげにしてやろうから、どこかその辺へ駆けていって、力のありそうな駕籠屋どもを三、四人ひっぱってきなよ",
"なるほどね、こいつあいかにも珍品にちげえねえや。じゃ、ひとっ走りいってきますから、しっかりふたを押えていなせえよ"
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] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年2月16日公開
2005年7月6日修正
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[
[
"大将ッ。おい、伝六大将ッ",
"えッ?",
"そっちじゃねえ、うしろだよ、うしろだよ。おれじゃねえか、おれがわからねえのか",
"あッ、だんなでござんしたか! いいところへおいでなさいました。ちっと、どうも不思議なことがあるんですがね",
"なんでえ。からかさ小僧でも通ったのか",
"ちぇッ、あっしがまじめな口をきくと、いちいちそれだからな。ね! 今、あばたのやつこが通ったんですよ",
"なにも不思議はねえじゃねえか。あいつにだって足は二本くっついてるぜ",
"きまってまさあ。その二本の足で、いやに目色を変えながら、走っていきゃあがったから、いっしょうけんめいで頭をひねっているんですよ",
"というと、なにかい、いくらか事件のにおいでもするというのかい",
"する段じゃねえ、ひょっとすると、何かでか物じゃねえかと思うんですがね。だって、あのやつこもきょうは非番のはずでがしょう。しかるにもかかわらず、今あっしがここまで来たらね、ご番所のほうからあばたの野郎の手下が、ふうふういいながら駆けてきやがったから、はてなと思ってここのところに隠れているてえと、手下め、あばたのやつを連れ出して、またあっちへ目の色変えながら走っていったんですよ",
"いかにもな。ちっとくせえかな"
],
[
"さっきおことづてをしてあげましたのに、なぜご出仕なさらないんでございますか!",
"おれのことかい",
"そうですよ、ほんのいましがた、たしかにおことづてをしたんですが、お聞きにならなかったんでございますか",
"知らねえよ、だれも使いなんか来やしなかったぜ",
"えッ、行かなかったんですか! どうしたんだろうな。あんなにくどく、念を押しましたのにな"
],
[
"わかったよ、わかったよ。おめえがあんまり人を信じすぎたので、ことづてが途中で消えたのだ。おそらく、頼んだ相手というのは、あばたの敬公の手下じゃねえのかい",
"ええ、そうですよ。そうなんですよ。お奉行さまがすぐにあなたを呼んでまいれとおっしゃいましたのでね、駆けだそうとしたら、門のところに敬だんなのお手下がおいでなさって、ことづてならばおれんが今お組屋敷へ帰るところだから、ついでに伝えてやろうといいましたんで、ついうっかりとお頼みしたんですよ",
"よし、わかった、わかった。おめえが悪いんじゃねえ、人の仏心を裏切るやつが悪いんだよ。あばたがあばたなら、手下も手下だが、それでご用向きはどんなことかい。お奉行さまからのお呼び出しというと、尋常一様のあなじゃなさそうだが、おれでなくちゃとでもおっしゃっていられるのかい",
"そうなんですよ、そうなんですよ。こりゃ右門でなくちゃ手に負えまいとおっしゃいましたのでね。すぐにまたこうしてお呼びに参ったんですが、ゆうべ二ところへおかしな押し込みがはいりましてね、変なものを盗み取られたという訴えがあったんですよ",
"なんだ、押し込みどろぼうか。そんなものなら、なにもおれがわざわざ出るにも当たらねえじゃねえか",
"いいえ、それがただの豆どろぼうや、小ぬすっとじゃねえんですよ。一カ所は小石川の台町、一カ所は方面違いの厩河岸ぎわですがね、その飛び離れたところへ、半刻と違わねえのに同一人らしいおかしな野郎が押し込みゃがってね、両方ともそこの主人の手の指を二本ずつ切り取っていったというんですよ",
"なに、手の指? なるほど、からだについている品をとられたとすると、品物がちっと変わっているな。じゃ、なにかい、ふたりともぐっすり寝ついているときにでも、知らずに切りとられたというのかい",
"いいえ、床にこそはついていたが、はいってきたのをちゃんと知っていながら、相手の野郎がとても怪力なんで、どうもこうもしようのねえうちに、そろいもそろってふたりとも、左手の親指と人差し指を二本切りとられちまったというんだから、ちっとばかりおかしいじゃござんせんか。それも、厩河岸のほうは町人だから、相手の怪力に手も足も出なかったとて不思議もありますまいが、小石川の台町のほうは一刀流だかをよく使うりっぱな若侍だっていうんだからね。こいつああっしだっても、どうしたって、だんなの畑だと思うんですがね",
"なるほどな。じゃ、なんだな、相手の野郎は大入道みたいなやつででもあったというんだな",
"ところが大違いですよ。みたところ五尺とねえ小男でね、そのうえ女みたいな優男だったというんだから、ご番所のみなさまがたもその怪力っていうのが不思議だ不思議だとご評定しなさっていらっしゃるんですがね",
"いかさまな。そうするてえと、おれもちっとてつだうかな"
],
[
"駕籠なんぞ遠くもねえのに、いらねえよ。いらねえよ。春雨に降られていくのもおつだから、そろそろおひろいで行こうじゃねえか",
"だって、あばたの野郎が、あのとおりことづてを横取りしたとわかりゃ、捨てておけねえじゃござんせんか",
"忘れっぽいやつだな。いったい、おめえは何度おれにその啖呵をきらせるんだい",
"どの啖呵ですい",
"わからねえのか。だてや酔狂でおれあご番所のおまんまをいただいているんじゃねえんだよ。はばかりながら、あばたの敬公なんかとは、ちっとできが違わあ",
"だって、あば芋のだんなも、今度しくじりゃ五へんめだから、ただじゃしっぽを巻きませんぜ",
"うるせえな。口があいていると、しゃべってしようがねえから、あめチョコでも買ってしゃぶっていなよ"
],
[
"せっかくじゃが、ひと足おそうござったな。お奉行さまがだいぶそなたをお待ちかねの様子じゃったが、お越しがなかったから敬四郎どのにご命令が下りましたぞ。もっとも、ああいうかただから、しきりと敬四郎どののほうからお頼みしていた様子じゃったがな",
"ではもう、てまえが手を下さなくともよろしいとのご諚でござりまするな",
"そのような仰せでござりましたよ。敬四郎だけではちっと心もとないが、それほど本人が頼むなら、任してみるのもよろしかろうから、右門が参ったならば、いさぎよく手を引くよう申して、二、三日ゆっくり休養いたせと、このような仰せでござりましたよ"
],
[
"ではひとつ、どこかへ物見遊山にでも行こうかな。二、三日ゆっくり休養しろとおっしゃったそうだから、久方ぶりに浅草の見せ物小屋でものぞきに行こうじゃねえか",
"いやですよ!",
"ほう、えらいけんまくだな。では、しかたがねえや。ひとりで出かけようぜ"
],
[
"江戸の絵図面を板におこして、売りさばいている店は、たしかにそのほうのところだったと存じて参ったが、違うかな",
"いいえ、てまえのところでございます。こればっかりはお許しがないと売り出せぬ品でございますゆえ、てまえの店の一枚看板にしておりますが、ご入用でございますか",
"さよう、あったら一枚売ってくれぬか"
],
[
"な、おい、伝六大将! 今夜は指切り幽霊、日本橋の本石町と神田の黒門町へ出没するぜ",
"えッ。不意に御嶽さまでも乗りうつったようなことをいいますが、支倉屋で売る絵図面の中には、そんなことまでが書いてあるんですかい",
"おれの目にゃそう書いてあるように見えるんだから、目玉一つでも安物は生みつけてもらいたくねえじゃねえか。まず、この絵図面のおれがいま引いた赤い線をたどってみろよ。てめえもさっき聞いたろうが、訴えてきたホシの野郎は、たしか、同一人といったろう。にもかかわらず、小石川の台町と浅草の厩河岸みたいな飛び離れたところへ、よくも町方の者に見とがめられねえで、二カ所もつづけて押し込みやがったなと思ったんで、不審に思って地図を調べてみたら、な、ほら、この赤い線をとっくりたどってみねえな。台町から厩橋へ行く道筋のうちにゃ、番太小屋も自身番も一つもねえぜ",
"いかさまね。おそろしい眼力だな。じゃ、なんでしょうかね、ホシの野郎はよっぽど江戸の地勢に明るいやつだろうかね",
"しかり。だから、今夜はきっと本石町と黒門町へ出没するにちげえねえよ。この二つの町をつなぐ道筋が、やっぱりゆうべ出没した町筋と同じように、一カ所だって番太小屋も自身番も見当たらねえんだからな",
"なるほどね。するてえと、野郎ちゃんとそれを心得ていて、恐れ多いまねをしやあがるんだね",
"あたりめえさ。どんな姿の野郎だか知らねえが、人が寝床へはいっているような寝しずまった夜ふけに、のそのそそこらを歩いていりゃ、どっかで番太小屋か自身番の寝ずの番に、ひっかからねえってはずあねえんだからな。野郎め、そいつを恐れやがって、番所のねえ町をたどりながら押し込みやがるんだよ",
"するてえと、敬公の野郎、そいつを気がついているでしょうかね",
"と申してあげたいが、あの下司の知恵じゃ、まず知るめえな。おおかた、今ごろは、まんまとおれに手を引かすることができたんで、のぼせかえりながら、せっせと被害者の身がらでも洗っているだろうよ",
"ちくしょう、くやしいな。お奉行さまもまたお奉行さまじゃござんせんか。なんだって、あんな野郎にお任せなすったんでしょうね。もし、今夜もだんなのおっしゃるように、指を盗まれる者があるとするなら、災難に会う者こそきのどくじゃござんせんか",
"だから、おれもさっきから、ちっとそれを悲しく思っているんだよ。おまえはおれのお番所へ行きようがおそかったんで、がみがみどなったようだが、断じておれのおそかったせいじゃねえよ。あばたの大将がことづてを横取りしやがったのが第一にいけねえんだ。第二には、身のほども知らずに、お奉行さまへ食いさがって、おれをのけ者にしたことがいけねえんだ。お奉行さまからいや、それほどあばたの敬公が意気込んでいるのに、おまえでは役にたたぬ、ぜひにも右門にさせろとやつの顔をつぶすようなことはできねえんだからな。それに、敬公といやなにしろ同心の上席で、ちったあ腕のきく仲間として待遇されてもいるんだからな。潔く手を引いていろとご命令があった以上は、それに服するよりしかたがねえさ"
],
[
"ね、だんな! さ、啖呵ですよ! 啖呵ですよ! いつものように、胸のすっきりするやつをきっておくんなせえよ。お奉行さまからご命令が下りましたぜ。やっぱり、右門でなくちゃだめだとおっしゃいましたぜ",
"えッ、じゃ、おれのいったところへ、ゆうべ出やあがったか",
"出やあがったどころの段じゃねえんですよ。おっしゃったとおり、黒門町と本石町と両方へ現われやがってね。それも、本石町のほうは、ふたりもまたゆうべと同じように左手の人さし指と親指を切られたというんですよ",
"そうか。だから、いわねえこっちゃねえんだ。それで、敬公はどうしたい。どんな顔をしていやがったい",
"そいつがほんとうにあきれるんですよ。身のほども知らねえまねをしやがったんで、こういうのをばちが当たったというんでしょうがね。野郎め、ゆうべ日本橋で、さらわれちまったというんですぜ",
"えッ、じゃ、行くえ知れずになったのか",
"そうなんですよ。そうなんですよ。なんでも、ゆうべまだ宵のうちだったそうですがね、野郎め、ただのつじ切りでも押えるような了見でいたんでしょう。手下を三人つれて日本橋の橋たもとまでやっていったらね、いきなりぽかぽかとおかしなやつに当て身を食わされて、ぐうと長くなってしまったところを、そのままどっかへさらわれていっちまったというんですよ",
"じゃ、手下もいっしょにさらわれたのか",
"いいえ、それならまだいいんですが、三人ともに、野郎どもめ、目の前で親分ののされちまうのをちゃんとながめていながら、手出しひとつできなかったっていうんですよ",
"うすみっともねえ野郎どもだな。じゃ、けさになるまで、手下たちぁ敬公のさらわれちまったことを、ひたかくしに隠していたんだな",
"ええ、そうなんですよ、そうなんですよ。うっかりしゃべっておこられちゃたいへんだと思って、隠していたというんですがね。だから、今あっしも野郎たちにさんざん啖呵をきってやったんですよ。ろくでもねえ親分が、平生ろくでもねえお仕込みをしやがるから、いざというとき、こんなぶざまなことしなきゃならねえんだってね、うんとこきおろしてやったんですよ",
"そうか。じゃ、お奉行さまはすぐとおれに出馬しろとおっしゃったんだな",
"おっしゃった段じゃねえんですよ。手数のかかることをしでかして、さぞかし腹がたつだろうが、お公儀の面目のために、早く敬四郎を救い出してやってくれと、あっしにまでもお頼みなすったんですよ",
"そうか、人のしりぬぐいをするなちっと役不足だが、お公儀の面目とあるなら、お出ましになってやろうよ。では、そろそろ出かけるかな",
"じゃ、駕籠ですね",
"いいや、いらねえよ",
"だって、敬公、急がねえとゴネってしまうかもしれませんぜ",
"おれがこうとにらんでのさしずじゃねえか。命までもとるんだったら、ゆうべ日本橋で出会ったときに、もう殺されていらあ。わざわざ手数をかけてさらっていったところを見ると、どっか穴倉にでもほうり込まれているにちげえねえよ。でも、おめえは少し遠道しなくちゃならねえからな、一丁だけ駕籠を雇って、すぐ黒門町のほうを洗ってきなよ。おれあ、本石町のほうで待っているからな。ぬからずに洗っておいでよ"
],
[
"紙屋の亭主",
"へえい",
"そちのところを襲ったのは、何どきごろじゃった",
"さよう、九ツ少しまえだったかと思いますがね、少しかぜけでございましたので、いつもより早寝をいたしまして、ぐっすり寝込んでいると、いきなり雨戸がばりばりとすさまじい音をたてて、破れましたからね。はっと思って目をあけてみると、もうそのとき、野郎があっしのまくらもとに来ていやがったんですよ",
"小がらのやさ男だったという話じゃが、そのとおりか",
"へえい、なにしろこわかったので、しかとした背たけはわかりませんでしたが、五尺の上は出ていなかったように思われますよ。お定まりのような覆面でしてね。着物は唐棧格子の荒いやつでしたが、だのに野郎とても怪力でござんしてな、あっしがはね起きようとしたら、やにわに片足で胸のところを踏んづけておきやがって、声もなにも出す暇がないうちに、短いわきざしでこのとおり、左手の親指と人さし指だけを二本根もとからすぱりと切りゃがって、すうと出てうせやがったんですよ",
"なるほどな。では、つくだに屋の主人、そちのほうはどんなもようじゃった",
"わたしのほうもだいたい手口が同じでございますが、ただ一つ妙なことには、どうしたことか、野郎の着物が水びたしにぐっしょりぬれていたんですがね。そのうえ妙なことには、たしかにぷんとその着物のうちに松やにのにおいがしみ込んでいたんですよ",
"なにッ、着物がぬれていて、松やにのにおいがしみ込んでいたとな⁈ まさか、ねぼけていて勘違いしたのではあるまいな"
],
[
"きさま、深川筋で、どこか舟宿を知っていねえか",
"えッ? 舟宿というていと、よく女の子をこっそりつれて、舟遊山をやりに行くあの舟宿のことですかい",
"ああ、そうだよ",
"ちぇッ、そんなものなら、おめえ知っているかはすさまじいね。はばかりながら、こうみえてもいきな江戸っ子ですよ。舟宿の二軒や三軒知らねえでどうなるもんですかい。深川ならば軒並み親類も同様でさあ。まず第一は菱形屋でしょ。この家の持ち舟は屋台が三艘。つづいて評判なのは一奴。それから海月、丁字屋、舟吉とね、まず以上五軒が一流ですよ",
"ほほう、だいぶ博学だが、遊んだことでもあるのかい",
"ところが、その、それがつまりなんでしてね",
"はっきりいいなよ、遊んだことでもあるのかい",
"いいえ、その、なんですよ、去年潮干狩りに行ったとき、おれもこういういきな家で、五、六日しみじみと昼寝をしてみたいなと思いながら通ったんで、ついその今も名まえを忘れずにいるんですよ",
"なんでえい、情けねえ江戸っ子もあったもんだな。じゃ、おれが今から思いきり昼寝をさせてやるから、小さくなってついておいでよ",
"えッ、でも、深川の舟宿といやあ、ちっとやそっとのお鳥目じゃ出入りもかないませんぜ",
"しみったれたことをいうと、みなさんがお笑いになるよ。小さくなって、しっぽを振りながらついてきな",
"だって、肝心のホシゃどうするんですかい。それに、敬公のほうだっても急がなきゃならねえんでがしょう。どぶねずみみてえな野郎にゃちげえねえが、さぞやあいつ今ごろは生きた心持ちもしていめえからね。どっちかを先にお急ぎなすったらどうですかい",
"うるせえな、黙ってろよ。おれがお出馬あそばしているじゃねえか。それより、早く駕籠を呼んできな"
],
[
"もうこっちのものだよ。おれがお出ましになったとなると、このとおりぞうさがねえんだから、たわいがねえじゃないか",
"だって、こりゃ、松の木がへいぎわにはえている白壁のお屋敷というだけのことで、なにもまだ目鼻はつかねえんじゃござんせんか",
"だから、おめえはいつまでたってもあいきょう者だっていうんだよ。まず第一に、この松の木の強いにおいをかいでみねえな",
"かいでみたって、松やにのにおいが少しよけいにするだけのことで、なにも珍しかねえじゃござんせんか",
"あきれたものだな、下手人の野郎の着物に松やにのにおいがしていたってことを、もうおまえは忘れちまったのかい",
"いかさまな、ちげえねえ、ちげえねえ。するていと、下手人の野郎の着物が、水びたしにぐっしょりぬれたっていうな、この大川を泳ぎ越えてきたからなんだね",
"そうさ。きのう支倉屋で買った絵図面を調べたときに、おそらく下手人の野郎は、大川の向こうに根城を構えていやあしねえかなと気がついていたよ。あの二筋の自身番も番太小屋もねえ道筋へ線を引いてたどってみると、不思議にどれもこれもその道の先がこの大川端で止まっていたんだからな。ところへ野郎の着物が水びたしになっていたと、もっけもねえことを聞いたんで、てっきり川向こうだと確信がついたわけさ。そのうえ、松やにのにおいがしみついていたといったろう。だから、こうして川下から松の木のある家を捜してきたというわけさ",
"でも、ちょっと変じゃござんせんか。こんな大きなお屋敷でこそはなかったが、松の木のある家や、今までだってもずいぶん舟の中から見たようでしたぜ",
"それがおれの眼力のちっとばかり自慢していいところさ。まあ、よく考えてみねえな。松やにのにおいが着物にしみついていたといや、野郎が松の木を上り下りした証拠だよ。としたら、どこの家にだって、門もあろうし出入り口もあるんだから、なぜまたわざわざご苦労さまに松の木なんぞを上り下りしなきゃならねえだろうかってことが、不思議に考えられそうなものじゃねえか。そこが不思議に考えられてくりゃ、野郎め、大ぴらに大手をふって門の出入りができねえうしろ暗い身分の者か、さもなくばお屋敷奉公でもしている下男か下働きか、いずれにしても、門を自由に大手をふっては出入りのできねえ野郎だってことが、だれにだっても考えられるんだからな。そこまで眼がついてくりゃ、よしんば松の木はいくらあったにしても、ちっちぇい家には目もくれねえで、大きな屋敷をめどに捜してきたってことがわかりそうなものじゃねえか",
"いかにもね。だが、それにしても、河岸っぷちだけに見当をつけて上ってきたなあ、少しだんなの勘違いじゃござんせんかい。本所深川を捜していたら、もっと奥にだって、へいぎわに松の木のあるお屋敷がいくらでもあるにちげえねえんだからね",
"いろいろとよく根掘り葉掘り聞くやつだな。もし、河岸の奥に野郎の住み家があったら、水びたしになったうろんなかっこうで夜ふけに通るんだもの、火の番だっても怪しく思って騒ぎたてるに決まっているじゃねえか。しかるにもかかわらず、いっこう、そんなやつの徘徊した訴えが、この奥のどこからもご番所へ届いていねえところをみると、河岸っぷちに住み家があるため、だれにも見とがめられねえんだってことが見当つくじゃねえか。だいいち、何よりの証拠は、この白壁へべたべたとついている足跡をよく見ろよ",
"えッ、ど、どこですか",
"ほら、こことここと、足のかっこうをしたどろの跡が、ちゃんとついているじゃねえか。しかも、松の木の枝の出ている真下に足跡がついているんだから、ここを足場にしやがって、上り下りしたにちげえねえよ",
"なるほどね。おっそろしい眼力だな。じゃ、すぐに踏ん込みましょうよ",
"まあ、そうせくなよ。なにしろ、敬公という人質を取られているうえに、そもそもこのでけえ屋敷なるものが、なにものともわからねえんだからな。細工は粒々、右門様の眼力のすごいところと、捕物さばきのあざやかなところをゆっくり見せてやるから、急がずについておいでよ"
],
[
"伝六ッ。そら、来るぞ。来るぞ。よほどの怪力らしいから、命を五ツ六ツ用意しておけよ",
"ちくしょうッ、だんなの草香流がありゃ万人力だ。さ、来い!"
],
[
"おい、伝六ッ、伝六ッ。こりゃ女だぜ!",
"えッ。ど、どこにそんな証拠がござんすかい!",
"あの胸のところを見ろ! ぬれてぴったり吸いついている着物の下から、ふっくらと乳ぶさの丸みが見えるじゃねえか。念のため、きさまその覆面をはいでみろ!",
"えッ⁉",
"えじゃねえ、覆面をはいでみろ!",
"でもだ、だ、だいじょうぶですか",
"いざといや、草香流がものをいわあ。早くはいでみろ!"
],
[
"どうやら、この女、夢癆にかかっているらしいよ",
"え? ムロウってなんですかい。かっぱの親類ででもあるんですかい",
"とんきょうなことをいうやつだな。夢癆っていう病気なんだよ。それが証拠には、おれの大喝に出会って夢からさめたものか、きょときょとしているじゃねえか",
"はてね、奇態な病気があるもんですね"
],
[
"そなた今まで手ごめに会っていたなッ",
"えッ!",
"おどろかいでもいい。そなたもうわさになりと聞いたであろうが、八丁堀のむっつり右門というはわしのことじゃ。白を黒といっても、この目が許さんぞ!"
],
[
"こうしてたき火にあたためさせてくださったご慈悲深さといい、いずれただのおかたではあるまいと存じていましたが、右門のだんなさまだったら、しょせん何もかももうお見のがしはなさりますまいゆえ、ありていに申し上げますでござりましょう",
"さようか、神妙ないたりじゃ。手ごめに会っていたとすると、あの屋敷がそもそも不審じゃが、いったい何者の住まいじゃ",
"あれこそは何を隠しましょう。絵師眠白の屋敷でござります",
"なに、眠白とな。眠白といえば、当時この江戸でも一、二といわれる仏画師のはずじゃが、それにしても一介の絵かきふぜいには分にすぎたあの屋敷構えはどうしたことじゃ",
"名代の強欲者でございますゆえ、高い画料をむさぼって、ためあげたものにござります",
"聞いただけでも人の風上に置けなさそうなやつじゃな。して、そなたは、眠白の何に当たる者じゃ。そのあだめいた姿から察するに、たぶん娘やきょうだいではあるまいが、囲われ者ででもあるか",
"はい。お恥ずかしいことながら、お目がねどおり囲われ者として、この三年来情をうけている者にござります",
"もうよほどの年のはずじゃが、眠白は何歳ぐらいじゃ",
"六十を二つすぎましてござります",
"ほほう、六十二とな。よし、もうそれで先はだいたいあいわかった。六十を過ぎたちょぼくれおやじに、そなたのような年の違いすぎるあだ者が囲われ者となっていると聞かば、両腕首のあざのあとも何の折檻かおおよそ察しはついたが、思うに、そなた眠白の情をいとうているな",
"はい……ご眼力恐れ入ってござります。このようなのろわしい病にかかって、夢の間に人の指なんぞを切り盗むようになりましたのも、みんなそれがもとでござりまするが、実は眠白様のおふるまいがあんまりあくどく、しつこうござりますゆえ、いとうとものういとうているうちに、ついお弟子の五雲様と人目を忍ぶような仲になってしもうたのでございます。その五雲様がまたあいにくと申しますか、このごろめっきり絵のほうがお上達なさいまして、お師匠よりもだんだんと画名が高まってまいりましたので、わたくしたちの仲をお気づきなさいましたとき、つい眠白様の憎しみが二倍したのでござりましょう。おかわいそうに、五雲様は眠白様の嫉刃にお会いなさいまして、画工には何よりもたいせつな右の腕を切りとられたのでござります。それというのも、眠白様のお考えでは、わたくしが五雲様に心を移したのも、あのかたのご名声が高まってきたゆえからと思い違えたのでござりましょう。筆とる右腕を切ってやったら絵はかけぬはずじゃ、絵がかけなくば名声がすたるはずじゃ、名声がすたらばわたくしの恋もさめるはずじゃ、とこのようにあさはかなことを申されまして、おむごたらしいことに根もとからぷっつりとお切り取りなさいましたのでござります。けれども、五雲様にはまだ満足な左腕が一本ござりましたゆえ、人の一心というものはあのように恐ろしい力を見せるものかと驚いてでござりまするが、半年とたたぬうちに、その残った左腕で、またまた五雲様がまえよりもいっそう名声のお高くなるような絵をいくつもいくつもお仕上げなさいましたのでござります。それに、わたくしどもの間がらも、ますます深まってこそまいりましょうとも、そのくらいなことでお考えのようにさめるはずはござりませなんだゆえ、とうとう眠白様の嫉刃が三倍にも八倍にも強まったのでござりましょう。おかわいそうに、今度は残った五雲様のその左腕を、それも意地わるく筆をとるにたいせつな親指と人さし指を、またもむごたらしゅう切りとったのでござります",
"そうか。よし、もうそれでことごとく皆あいわかった。――では、伝六! そろそろあばたの敬公を救い出しに出かけようよ",
"えッ?",
"あばたの敬公をしゃばの風に吹かしてやろうといってるんだよ",
"わからねえことをとつぜんおっしゃいますね。だって、まだ話を中途まで聞いただけで、この女がどうしてまたあんなだいそれたまねをしやがったか、それさえわからねえんじゃござんせんか",
"血のめぐりのおそいやつだな。ほれた絵かきの男が、最後に残った左手のたいせつもたいせつな親指と人さし指をまたもや見せしめに切りとられたんで、このご新造さんそれをかわいそうに思いつめた結果、夢癆病に取りつかれて、ご自身は知らずにあんなまねをしたんだよ。それが夢癆病の気味のわるいとこだが、正気じゃだれだってもそんなことは考えることさえもできねえのに、夢まぼろしの中で考えると、他人の指を切りとってくりゃ、ほれた男のだいなしになった手の指が、満足に直ると思われたんで、ふらふらとあんなふうに、ぶきみなまねをしちまったんだ。さっきのあの足のある幽霊みていな歩き方を見てもわかるが、それよりも大きな証拠は、今このご新造さん、おれの一喝で夢からさめたとき、自身でもまたやったかとおっかながって、おぞ毛をふるっていたじゃねえか",
"なるほどね。そういわれると、ふにおちねえでもねえんだが、それにしてもあの怪力はどうしたんですい。こんな優女に、あんな怪力の出たのが不思議じゃござんせんか",
"それが夢の中の一念だよ。きつねが乗りうつったようなものだからな、自身じゃ知らねえ力がわくんだよ。ついでだから、このご新造さんが夢の中を歩いていても、あのとおり江戸の地勢に詳しかった手品の種もあかしてやるが――な、ご新造さん、あなたは今のその眠白のお囲い者になるまえに、江戸節か、鳥追い節を流して江戸の町を歌い歩いたおかたじゃなかったのかい",
"ま! 恐れ入ってござります。恥ずかしい流し稼業でございましたゆえ、そればっかりはお隠しだてしてでございましたが、どうしてまた昔の素姓までがおわかりでございましたか",
"むっつり右門は伊達にそんなあだ名をもらっているんじゃござんせんよ。ほかでもねえ、その眼のついたのは、あなたの右手先に見える三味線のばちだこからさ。どうだい、伝六。わかったら、そろそろあばたの敬公に人ごこちをつけてやろうじゃねえか",
"まあお待ちなせえよ、お待ちなせえよ。人ごこちをつけてやるはいいが、だいいち野郎がどこにいるかもまだわからねえじゃござんせんか",
"うるせえな。右門のにらんだまなこに、はずれたためしはただの一度だってもねえじゃねえか。ちっちゃくなってついてきなよ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年1月21日公開
2005年7月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000556",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "13 足のある幽霊",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-01-21T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"生年月日": "1896-03-18",
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"底本名1": "右門捕物帖(二)",
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[
[
"人間てがらを重ねておくと、こういう堀り出し者が、ひとりでに向こうから集まってくるんだから、ありがたいこっちゃござんせんか。実は今、こちらに晩のおしたくにやって来ようとすると、ひょっくりこの珍客があまくだってめえりましてね、きょうから右門のだんなの手下になることに話が決まったから、だんなに引き合わせろとこう申しましたんで、さっそくお目見えにつれてまいりましたが、すばらしい珍品じゃござんせんか。どうです! 御意に召しませんか",
"不意に妙なことをいうが、いったいだれが手下にしてやると申した"
],
[
"では、ともかく人となりを承ろう。当年何歳じゃ",
"二十三でございます",
"ひどく小さいようじゃが、まさか日陰で育ったわけではあるまいな",
"いいえ、それが実あ日陰ばかりで育ったんだから、うそはいえないものでございますが、親代々家の稼業が金山の金掘りでござんしたのでな、しょっちゅう日の目の当たらない地の中へもぐっていたせいか、あっしでちょうど七代、こんなお平の長芋みたいな育ちの悪い小男ばかりが続くんでございますよ。今のお目にかけました隠し芸にしてからが、やっぱり親どもの稼業のせいなんでござんしょうが、暗いところばかりで仕事をしたため、ひとりでに目が強くなったものか、あっしまでが今お目にかけましたように親の血を引いて、子どもの時分から夜でもよく物が見えるんでございますよ。伊豆守様が希代なわざと折り紙つけてくださいましたのも、一つはつまりそれなんでございますがね",
"なるほどさようか、いかにも珍しい話じゃが、名はなんと申すか",
"善光寺辰と申しますんで――",
"なに、善光寺辰? いぶかしい名まえじゃが、親がつけたか",
"いいえ、親のつけた名まえは辰九郎というんですが、あんまりあっしが小粒なんで、善光寺さまのご尊体が一寸八分しきゃないとかいうあれをもじって、みんながいつのまにかそんなあだ名をつけたんでございますよ",
"いかさまな、物は考えようじゃな。では、あとの一つの希代なわざじゃが、それはどんな隠し芸じゃ"
],
[
"だんな、だんな! くせ者は十五、六ぐれえの小僧っ子ですぜ!",
"えッ、少年かッ。なんぞ子細があろう! 捕えろッ、捕えろッ"
],
[
"辰にもてつだわせて、手おけに水を二、三杯持ってきなよ",
"え⁈ 水で人間が死ねますかい?",
"またお株を始めやがったな。なにもいちいち聞き返さなくっていいじゃねえか。持ってこいってたら持ってきなよ",
"いいえね、あっしゃもう一年のうえもだんなのそばにくっついているんだから、どんなとんちんかんなことをおっしゃろうと、まただんなのおはこが出たなと思うだけで、べつに驚きゃしませんが、善光寺辰あ、まだほやほやなんだからね、さぞかしめんくらうだろうと思って、ちょっと兄貴風を吹かしてみただけなんですよ"
],
[
"あんまり腹がたちましたゆえ、ついカッとなりまして、前後も知らずにだいそれたまねをいたしましたが、もうお手向かいはいたしませぬゆえ、どうぞだんなさまも、わたしの姉をお返しくださりませ。お願いでござります。お願いでござります。はようお返しなされてくださりませ",
"なに⁈ そなたの姉とな⁈"
],
[
"おとぼけなさりますな! 先ほどだんなさまお自身がお引っ立てなさったはずではござりませぬか",
"まてまて。やぶからぼうに、妙なことばかり申すが、いったいわしがそなたの姉とやらをどうしたというのじゃ",
"どうしたもこうしたも、ちゃんとだんなさまご自身がよくご存じのはずではござりませぬか",
"ますます奇態なことを申しおるな。まさか、人違いしているのではあるまいな",
"ござりませぬ! ござりませぬ! たしかに、むっつり右門のだんなさまと承知して、すぐさまかように押しかけてまいったのでござります。わたくしの姉にかぎってそんなだいそれたことをいたすわけはござりませぬのに、親方を殺した下手人じゃとおっしゃいまして、つい今のさっきお引っ立てなさいましたとききましたゆえ、返していただきに上がったのでござります",
"なにッ、親方殺しの下手人とな⁈ いよいよ聞き捨てならぬことを申すが、そなたの姉がどこで何をいたして、どこのどんなむっつり右門が引いてまいったと申すのじゃ"
],
[
"では、あの、だんなさまは少しもご存じないのでござりまするか",
"知らぬ、知らぬ。まったくの初耳なればこそ、かくおどろいているしだいじゃが、いったいいかがしたのじゃ",
"いかがも何もござりませぬ。まことご存じよりがござりませねば、詳しゅう申し上げいではなりませぬが、実はこうでござります。わたくしめは、いかにもだんなさまが先ほど仰せられましたように、この月初めから奥山の娘かるわざ師一座に仲間して、つたない手裏剣打ちをお目にかけておりまする芸人でござりまするが、つい半刻ほどまえでござりました。いつものように舞台を済まして、なにげなく楽屋へ帰ってまいりますと、ひどう皆さまがお騒ぎでござりましたゆえ、なんじゃと申して尋ねましたら、座元の女親方が、胸先を匕首でえぐられまして、お殺されなさったとこういうのでござりまするよ。それも、わたしの姉が下手人じゃと、みなさま一様に申されましたのでな、ぎょうてんいたしましてよくよく尋ねましたら、いったいどうしたことでござりますやら、お殺されなさった親方さまが、わたしの姉の着ておりました衣装の片そでを食いちぎって死んでおりましたゆえ、それが何より動かぬ下手人の証拠じゃと申しまして、その場からお引っ立てなさりましたと聞きましたゆえ、このとおり舞台姿のままで、すぐさま取り返しに追うてまいったのでござります",
"ほほうのう。では、その引っ立ててまいった者が、このわしじゃと申すのじゃな",
"はい。座方の皆さまがたもさように申しましたが、ご本人もそのときおっしゃったげにござります。実は、いま観音さまへ参詣に来て、人殺しのうわさを聞きつけ、すぐさま参ったが、わしは八丁堀のむっつり右門じゃ、この右門がこうとにらんだまなこに狂いはないゆえ、ふびんながら、それなる女は下手人として引っ立てまいるぞ、とこのようにご自身申されまして、わたしの姉を無理無体におくくしになりながらお連れ帰りなさったと聞きましたゆえ、たとえだれがなんと申されましょうとも、姉にかぎってそんなむちゃなことはしないはずと、ついカッとなりましてあとを追いかけ、あそこの茂みで様子をうかがっておりましたところへ、だんなさまがたのお姿が見えましたゆえ、てっきりもう姉を牢屋へぶち込んでのお帰りと存じまして、ちょうど舞台から持って帰ったままの手裏剣がふところにあったのをさいわい、腹だちまぎれに前後のわきまえもなく、先ほどのようなだいそれたまねをしたのでござります"
],
[
"一丁でいいぜ",
"えッ?",
"おれの分が一丁でいいんだよ",
"急に勘定高いことをおっしゃりだしましたが、じゃ、あっしらふたりはどうするんですかい",
"きまってらな。入費のかからねえ二本の足で走っておいでよ",
"ちぇッ。どうせご番所のお手当金をいただくんだもの、足代ぐらいはしみったれなくたっていいじゃござんせんか",
"だから、おめえなんざいつまでたっても出世しねえんだ。ご番所のご公金だからこそ、足代だとてむだにしちゃならねえじゃねえか。辰あきのうきょうの新参者だ。しかるにもかかわらず、新参者が初手から駕籠なんざあぜいたくすぎらあ。年季が積むまで修業しなきゃならねえから、かわいい弟分の兄弟つきあいだと思って、いっしょに苦労を分けてやんなよ"
],
[
"そちらはこの座で何をいたしおる者じゃ",
"へえい、番頭代わりかたがた楽屋番をいたしおるおやじめでござります",
"では、このできごとの前後のもようなども存じおるであろうが、これなる親方があやめられたときは、どんな様子じゃった",
"倒れて消えましたものか、わざと吹き消しましたものか、へやのあかりが消えますといっしょに、どたばたとけたたましい物音がござりまして、まもなくキャッという悲鳴がござりましたゆえ、みんなしてこわごわやって参り、ここの入り口からあかりをさし入れまして、そっとのぞきましたら、親方さまがかようなお姿となられまして、そばにその手裏剣打ちの姉めがそでを食いちぎられて、がたがたと震えていたのでござります",
"そのおり、だれぞこのへやの中まではいりおったか",
"いいえ、だれもはいった者はござりませぬ。なにしろ、こわい一方で、みんなここのところから、震えふるえのぞいたばかりでござります",
"その後もずっと、このへやへ座方の者ではいった者はなかったか",
"へえい。なにしろ、娘子どもの多い一座でございますゆえ、みんなもう血のけを失って、いまだにだれもそばへ寄りつく者がないくらい、こわがってでござりましたゆえ、せめてあかりなとつけなくてはなおこわかろうと、てまえがそのあんどんをともしに、はいったばかりでござります。それから、いまひとり、先ほど下手人めをお引き立てに参りました八丁堀のむっつり右門様とやらおっしゃるおかたが、おひとかたはいっただけでござります",
"ほほう、むっつり右門がたったひとりで参ったとな。あやつのそばには、おしゃべり屋のあいきょう者が今までしょっちゅうくっついていたはずじゃが、それを置き忘れてくるとは、むっつり右門も近ごろちっともうろくしたようじゃな。よしよし、もうたくさんじゃ。あまりそこからのぞかないほうがよろしいぞ"
],
[
"そなたの姉は、かるわざ一座で何をいたしおった",
"ついこのほどで始めたばかりでござりまするが、竹棒渡りをしてでござりました",
"なにッ、竹棒渡りとな! たしか、あのかるわざをやる者は、竹がすべらぬように、たびの裏へ石灰かみがき砂を塗っておくはずじゃが、この一座では何をつかいおるか",
"石灰でござりました",
"ほほう、さようか。道理でのう。ならば、そなたの姉のほかに、まだこの一座では、察するところ、たしかにほかにも竹棒渡りをする者があるはずじゃが、どうじゃ。いるか、いないか",
"はっ、ござりますござります! 梅丸様とおっしゃるかたと、竹丸様とおっしゃるかたと、おふたりほかに竹棒渡りがござります",
"なにッ、ふたりとな! いずれも娘どもか",
"はい。おふたりさまにわたしの姉を加えて三人が、実はこの娘かるわざ師一座の看板でござります",
"なるほどのう。では、少し立ち入ったことをあい尋ぬるが、きょうだいならば気のつかぬはずもあるまい。そなたの姉は、何文ぐらいのたびをおはきじゃったか存ぜぬか",
"存じてござります、よく存じてござります。わたしと同じ八文七分でござりましたゆえ、どうかすると、ふたりして一つたびをかわるがわるはき合うたことさえもござりました"
],
[
"こりゃ、おやじ",
"へえい",
"わしは先ほどここへ下手人を召し取りに参ったむっつり右門のお師匠――というと少し口はばったいが、まま、それに近い者じゃがな、なにか右門めが見落としたところはないかと、せっかくこうして調べに参ったが、うち見たところ、やはり先ほどのあれなる娘が下手人と決まったのでな、引き揚げるついでに、と申さば腹がたつかも存ぜぬが、見らるるとおりわれわれは平生ぶこつなご番所勤めをいたす悲しさに、めったなことではあでやかな娘かるわざ師の曲芸なぞは拝見できぬ身じゃでな、せっかくここまで参ったついでの目の保養に、どうじゃろうな、梅丸竹丸ご両人のあでやかな竹棒渡りを一見させてはくれまいかな",
"へえい、そりゃもう、ぜひに見せろとおっしゃいますれば見せもいたしまするが、なにしろこの騒ぎのあとではござりまするし、それにもう夜ふけでござりますのでな、本人どもがなんと申しますか",
"そこをひとつ無理して頼むのじゃがな。べつに役人風を吹かすわけではないが、このとおり奉行所の者が事を割っての頼みじゃから、両人の者にもその旨を申し聞けて、ひとつ目の保養をさせてはくれまいかな",
"よろしゅうござります。そう事を割ってのおことばならば、いかにもてまえが申し聞かせましょう"
],
[
"な、伝六ッ",
"えッ",
"めったなことはいうもんじゃねえよ。むっつり右門ももうろくしたなと、さっきひとごとのようにひやかしていたが、おれともあろうものが、こんなでかいネタを見のがすんだからな。うっかりしたせりふはきけねえものさ。その女親方の口にかみ切られている振りそでをよく見ねえな",
"何か、るすの間にそでの様子でも変わったんですかい",
"いいや、変わりゃしねえがね。見りゃ、桜の花が染めぬいてあるから、さっき見た竹丸の竹模様、梅丸の梅模様だったところから推しはかって、おそらくその振りそで衣装をつけていたかるわざ娘は桜丸とでもいう名だろうが、でけえネタを見のがしたというな、その片そでの一枚下だよ",
"下に何か手品のしかけでもありますかい",
"あるんだから奇態じゃねえか。ちょっと上のをまくってみなよ",
"よよッ。なるほど、下にもう一枚模様の違った衣装のすそみてえなものを食いちぎっておりますね。しかもこりゃ、さっき梅丸が着ていやがったやつとおんなじ梅模様じゃござんせんか",
"だから、右門もとんだもうろくをしたものさ。いくら梅と桜と紛れやすい模様だからって、これに気がつかねえようじゃ、われながら皆さまに申しわけがねえよ。だが、もうこうなりゃおれの畑だッ。ふたりとも、さっき見とれたべっぴんをじきじきに拝ましてやるから、ついてきな!"
],
[
"じれってえだんなじゃござんせんか。どういうホシをつけなすったかしらねえが、割らなきゃ口を割るように、早いところ締めあげておしまいなせえよ",
"だめだよ",
"ちぇっ、べっぴんだから、おじけが出たんですかい",
"うるせえな。拷問火責めでものをいわするおれさまだったら、だれも右門党になんぞなっちゃくださらねえや"
],
[
"当一座には、男芸人が何人いるか",
"木戸番道具方をのぞきますと、芸人と名のつく男は、このわたくしのほかに、百面相を売り物といたしまする鶴丈というのがひとりいるきりでござります",
"なにッ、百面相の芸人とな!",
"はい。じつによく顔をつくりかえますゆえ、なかなかの人気でござります",
"何歳ぐらいじゃ",
"もう五十いく歳とやら承りました",
"そんな年で、若い男にも化けおるか",
"はい、別して、若化けが得意芸のようにござります",
"どこにいるか",
"つい、いましがた、向こうの男べやにうろうろとしていましたゆえ、まだいるはずにござります"
],
[
"ちょっと、ちょっと、だんな、だんな! 何をとち狂っていらっしゃるんですかい。そんなほうにけえり道ゃござんせんぜ。こっちですよ! こっちですよ",
"バカッ、声を立てるなッ"
],
[
"――まことに恐れ入りました。おめがねどおり、親方を殺した下手人は、いかにも、この梅丸でござります。と申しあげただけではさぞかしご不審でござりましょうが、実のところを申しますると、それもこれもみんな女のあさましいねたみからでござりました。もともとを申しますれば、わたしのほうがずっとまえから、この娘一座では姉分でもござりましたし、いくらかよけい人気もいただいておりましたのに、あの桜丸様がわたくし同様、竹棒渡りをいたしますようになりましてから、日に日に人気負けがいたしましたゆえ、そのことを親方さまに申しあげて、あすから役替えしていただくようにお願い申しましたところ、いっこうお聞き入れくださりませなんだゆえ、ついいさかいしているうちに、逆上いたしまして、ちょうど目の前に親方さまの匕首があったのをさいわい、あやめるともなくあやめてしまいましたのでござります",
"よし、わかった、わかった。それから先は、おれがいちいちずぼしをさしてやろうか。そのとき親方が、おめえの衣装のすそを苦しまぎれに食い切ったところへ、物音をきいて桜丸がやって来そうだったゆえ、おまえが灯を吹っ消したんだろうがな",
"はい、おっしゃるとおりでござります。それゆえ、わたしが――",
"いや、言わいでもわかっているよ、わかっているよ。それゆえ、おまえがどこかへやのすみにでもうずくまって隠れているところへ、桜丸が知らずに駆け込んだので、親方がおまえと思いつめて、断末魔の前に桜丸のそでを食いちぎったんじゃねえのかい",
"はい。ですから、これさいわいと存じまして、騒ぎに紛れこっそりとへやを抜け出しまして、鶴丈さんの百面相をまんまと使い、桜丸様を罪におとしいれようとしたのでござりましたが、やっぱり……",
"ほんもののむっつり右門ほどには、化けきれなかったというのかい。あたりめえだよ。また、やすやす化けられちゃ、こっちがたまらねえからな。ところで、気にかかるなあその桜丸だが、こりゃ百面相ッ、どこへしょっぴいていったんだッ",
"それはその……"
],
[
"ご番所のかたでござるか。それとも、どこぞ自身番のかたでござるか",
"あッ。右門のだんなさまでござりましたか! てまえは吾妻河岸の自身番を預かっている町役人でござりまするが、こちらの芸人だという妙な娘をひとり拾いましたのでな。なにはともかく、取り急ぎこの見せ物小屋へ駆けつけてきたのでござりまするが、ちっと話が変でござりまするぞ",
"よし、わかった、わかった。名を桜丸といやしねえか",
"へえい。よくご存じでござりまするが、でも、妙なことがござりまするぞ。娘が申したところによると、あなたさまがこの小屋からお連れ出しなさりまして、吾妻河岸からやにわと大川へ突き落としたと申してござりまするぞ",
"そうかい。右門は右門だが、むっつり右門じゃねえ、ここにいるこの化け右門だよ。でも、突き落とされたのによく助かったな、だれか船頭でも拾ってくれたのかい",
"へえい。なにしろ、高手小手にくくされたまま、おっぽり込まれたんで、危うくおぼれようとしたところを、うまいこと荷足船が通り合わせて、拾いあげてくれたんですよ"
],
[
"兄分らしくもねえ、あんまりどじなかっこうすると、こちらのちっちゃなお公卿さまに笑われるぜ。なにがいったい考えに落ちねえのかい",
"だって、よくまあだんなにゃ、しょっぱなから化け右門があの一座にいるとおわかりでござんしたね。あっしゃまた、あばたの敬公かだれかご番所の者が名をかたりやがったと思ってたんですよ",
"どじだな。そんなことぐれえ、初めっから眼のつかねえようでどうするかい。大きな声じゃいわれねえが、他人の名まえの手がらまでも横取りしたい連中はうようよいても、自分のあげたてがらにひとの名まえを貸してやるような、ご了見の広い者は、半分だってもご番所になんぞいねえじゃねえか。それも、ほかの者の名まえならだが、このごろちっとてがらをあげすぎるために、内々そねまれているおれの名まえなんぞ、ご番所のだれがかたるもんかい。さっきの手裏剣少年じゃねえが、少し逆上しているようだから、冷やっこいところを二、三杯見舞ってやろうか",
"いいえ、けっこうです、けっこうです。そんなもなあお見舞いいただくには及びませんが、でも、なんだってまあ、あのひょっとこおやじの百面相が、命とかけがえに片棒かつぐ気になったんでしょうね",
"そこがいわくいいがたしだが、いずれは娘のたいせつなものでもちょうだいができる約束でもあったろうよ。だから、梅丸もそこは人気稼業で、若い男ででもあらば格別、相手の五十男であったことが恥ずかしくて、なかなか口を割ろうとしなかったろうさ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年2月12日公開
2005年7月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000575",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "14 曲芸三人娘",
"副題読み": "14 きょくげいさんにんむすめ",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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[
"ね、か、かわいそうなことになったもんじゃござんせんか。善光寺辰の野郎め、どうやら陽気に当てられやがって、気がふれたようですぜ",
"なにッ⁈ まさか、かつぐんじゃあるめえな",
"こんなことでかついで、なんの得になりますか! せっかくだんなが拾ってくだすったんで、これから皆さまにもけええがってもらえるだろうと、あっしも陰ながら楽しみにしていたんですが、あんまりたわいなく陽気に当てられちまやがったんで、けええそうで、けええそうでならねえんですよ",
"みっともねえ、手放しでそんなにおいおいと泣いたってしようがねえじゃねえか。もっと詳しくいってみなよ",
"だって、あんまりぞうさなく気がふれやがったんだから、兄弟分としてちっとは涙も出るじゃござんせんか。実あ、だんなにしかられるかもしれませんが、このけっこうな春先に、いい年のわけえ者が、能もなくひざ小僧抱きかかえて寝ちまうのももってえねえと思いましたからね。さっきこちらを引き揚げてから、ふたりしてちょっくら神明前の吹き矢へ出かけていったんですよ。するてえと、あのお公卿さまが、からだのこまっけえ割合に、奇態に吹き矢を当てるんでね。そのときから、どうもちっとおかしいなとは思いましたが、まさか気がふれる前兆だろうたあ思いませんでしたから、なんの気なし連れだって、つい今そこまでけえってくるてえと、野郎め、やにわとねこの鳴き声を始めやがって、四つんばいになりながら、うちの庭じゅうを狂いまわりだしたんですよ",
"ねこにとりつかれるたあ変わっているな。まだやめずにやってるのかい",
"やめるどころか、ニャゴニャゴと黄色い声を出しやがって、いくらどやしつけても夢中になりながらはいまわっていやがるんでね。こりゃただの陽気当たりじゃあるめえと思って、あわくいながらお知らせに上がったんですよ"
],
[
"気がふれているのはおまえのほうだよ",
"ちぇッ。冗談も休みやすみおっしゃいませよ。だんなの耳あどっちを向いているんですかい! あの鳴き声が聞こえねえんですか!",
"忘れっぽいやつだな。おまえの耳こそ、どこについてるんだ。善光寺辰の目ぢょうちんは、伊豆守様がわざわざ折り紙つけてくださったしろものじゃねえか",
"な、なるほどね。そいつを忘れちまうたあ、大きにあっしのほうが気がふれているにちげえねえや。じゃ、野郎め、このくらやみで何か見つけやがったんだろうかね",
"あたりめえさ。いくら辰が寸の足りねえ小男だからって、そうそうたわいなく気がふれてなるもんかい。いまに何かつかまえてくるから、声を出さねえでいてやりな"
],
[
"人形の首からはぎとった毛だな!",
"ええ、そうですよ、そうですよ。このくらやみでしたから、兄貴の目じゃわからねえのがあたりめえですが、今さっきそこまで帰ってきましたら、あそこのかきねのそばをこちらへ、六十ぐれえの変なおやじが、人形をだいじそうにかかえながら、素はだしでふらふらとやって来ましたんでね。おやッと思いながら目をみはっていましたら、やにわとこの黒ねこめが横から人形に飛びついて、このとおり髪の毛を引きむしりながら、うちの庭先へ逃げ込みやがったんで、さっそくこっちもねこになって追いかけまわしたんですよ",
"ちっと奇態な話だな。おやじはどうした",
"そいつがあっしにも似合わねえどじをしたもんですが、ついじゃまっけでしたから、出がけに家へ投げなわをこかしこんでいきましたんで、それさえありゃおやじの三人や五人手もなくつかまるやつを、みすみす逃げられちまったんですよ",
"いくらお公卿さまだからって、商売道具のなわを忘れていくたあ、ちっとのどかすぎるじゃねえか。ま、いいや、いいや、ねこをちょっくらこっちへ貸してみな",
"かみつきますぜ",
"草香流があらあ!"
],
[
"いやにねこめが必死とくわえていたようでしたが、まさかにかつおぶしでこしれえた髪の毛じゃござんすまいね",
"またとんきょう口を始めやがった。このにおいがわからねえのか。鼻の穴を洗い清めて、よくかいでみろよ",
"はてね。――こりゃべっぴんのにおいがするようですが、なんていう髪油でしょうかね",
"次から次へ、よくとんきょう口がきけるやつだな、これが有名な古梅園の丁子油じゃねえか",
"へへえ、この油が丁子油でござんすか。安い品じゃねえように承っておりますが、人形の髪の毛に、なんだってまた、そんなもったいねえまねをしやがったんでしょうかね",
"だから、この髪の毛がただものじゃねえっていうんだよ。それに、もう一つ奇態なことにゃ、このたけ長の表に、女の戒名が書いてあるぜ",
"えッ。どう、どう? なるほどね、瑞心院妙月大姉としてあるようですが、気味のわるい、なんのまじないでしょうかね",
"知りたけりゃ、ねこにきけよ。――おや! 今ここにいたようだっけが、どこへ姿を隠しちまったんだろな、辰ッ、そこらに見えねえかい",
"いますよ、いますよ。だんなの足もとに、目を光らして尾っぽをつっ立てながら、ためていますぜ",
"そうか、それをきいちゃ、なおほっておかれねえや。油のにおいをつけながら、きっと、あとを追ってくるから、きさまその目ぢょうちんで、見失わねえようにしっかり見張ってきなよ"
],
[
"髪の毛だけでもあんまりうれしい詮議じゃねえのに、薄気味のわるい黒ねこのお供で、なにもこんな夜よなかお出ましにならなくたってよかりそうなもんじゃござんせんか。癇のせいで、そんないやがらせをなさるんでしたら、もういっさいそまつな口あききませんから、あしたの朝にしておくんなせえましよ",
"悲鳴をあげるな。きさまのまたぐらにゃ、人並みに度胸袋がぶらさがっていねえのか。夜が夜中だろうといつだろうと、こいつあ捨ておけねえとにらんだら、それがご番所に禄をはむ者の役目じゃねえか、しっかり度胸袋に活でも入れて、辰といっしょにねこを見張りながらついてきなよ"
],
[
"藤阿弥は在宿か",
"へえい。急ぎの注文がござりますので、まだ起きてでござります",
"少しく調べたいことがあるによって、取り次ぎいたせ",
"いえ、参ります。ただいまそちらへ参りまするでござります"
],
[
"油もそちがつけたか",
"いいえ、それがどうも妙なんでござりまするよ。この丁子油のしみた毛束に、そこへ使ってある戒名の書いた丈長を向こうからお持参なさいまして、至急に十七、八歳ごろの人形をこしらえろとのご注文でござりましたので、少し気味がわるうござりましたが、手もとにちょうどその年ごろなのがござりましたゆえ、そのままお言いつけどおりにいたしましてござります",
"いつじゃ",
"つい三日まえでござりました",
"注文先も存じおろうな",
"へえい。吉原の蛸平様とおっしゃる幇間のかたでござりました"
],
[
"いまさら愚痴をいうんじゃねえが、こうべっぴんばかりいるところへ来てみるてえと、せめてもう五寸背がほしいね",
"泣くなよ、泣くなよ。ちっちぇえ花魁だってあらあな。しかし、それにつけても、だんなにばかりゃ、うっかり気を許すなよ。堅仁だかと思うと、気味がわるいほど恐ろしく通人で、通人だかと思うと変にまたこちこちなんだからな。いい気になるてえと、またぽかりしょい投げを食わされるぜ"
],
[
"幇間の蛸平というは、どこにいるか存ぜぬか",
"ついそこですよ。ほら、あそこに四ツ菱屋っていう揚げ屋がござんすね。あのちょうどまうしろになっていますから、行ってごらんなせえましよ"
],
[
"おやッ。辰めがどこかへ消えてなくなっちまいましたぜ!",
"なにッ、いない? ねこはいるかッ",
"そいつもいっしょに駆け落ちしちまったらしいですよ"
],
[
"これはいったい、どうした子細じゃ",
"どうもこうもない、あの人形とぶつぶつさえずっている薄気味のわるいおやじが、さっき八丁堀で取り逃がした当の本人でござんすよ",
"えッ⁈ ――そうか、髪の毛と黒ねこがあの京人形に結びつくたあ、いかなおれも、にらみがつかなかったな。よしよし、ここまでもう押えりゃ、どうやらちと右門流を大出しにしなきゃならねえようだから、ひとつ江戸のごひいき筋をあッといわせてやろうよ。それにしても、ねこと蛸平をいっぺんにここで押えるたあ、少しばかりおてがらすぎるな",
"いいえ、てがらでもなんでもねえんですよ。ねこを見張ってだんなのあとからついてめえりましたらね、やにわとこいつめがニャゴニャゴいって、どうしたことかここの二階へ駆け上がってきたんで、逃がしちゃならねえと追っかけてきて押えたところへ、あの蛸平坊主めがあとから裏のへいを乗りこえやがって、逃げこみましたんで、ついでにちょいとからめとってやったんですよ"
],
[
"神妙に申し立てろよ。なにゆえ逃げおった",
"へえい……",
"へえいではわからぬ。わしがなんという名のものであるか、もうわかったであろうな",
"へえい。ようようただいまわかりましてござります。初めからむっつり右門のだんなさまと知りましたら、逃げるんではございませんでしたが、こんなことになったのも、あの気味のわるいお大尽に見込まれたのがそもそもの不運でござりましょうから、身の災難とあきらめまして、もうじたばたはいたしませぬ",
"では、これなる怪しの髪の毛を携えて、人形師藤阿弥のところへ注文に参ったはそちでないと申すか",
"いいえ、使いに立ったのはいかにもこの蛸平めにござりまするが、頼み手はあそこの気味のわるいお大尽でござりまするよ",
"なに、あの老人とな。うち見たところ常人でなさそうじゃが、気でも狂いおるか",
"それが、さっぱりてまえにも、正気やら狂気やら見境がつかないんでござりまするよ。忘れもいたしませぬが、三日まえの朝早くでござりました。だれでもよいから幇間をひとり呼べというご注文だとか申しましてな、こちらの四ツ菱屋さまからてまえのところにお座敷をかけてくださいましたんで、なんの気もなく伺いましたら、今、だんながお持ちの丁子油がしみた髪の毛と戒名を書いた丈長に五十両を渡しまして、至急にこの毛を植えた十七、八の娘人形をととのえろ、とのおことばでござりましたんで、さっそく藤阿弥のところでお言いつけどおりの品を求めてまいりましたら、それまではたしかにご正気でござりましたが、どうしたことやら、人形をご覧になると、急に気が変になりましてな、ちょうど今晩でまる三日、あんなふうに小判の山を目の前にお積みなさいましておいて、日に二百人ずつこのくるわの花魁衆をかたっぱしお揚げなさっては、なにかぶつぶつ人形としゃべりながら、ひとりに二両ずつご祝儀をきっているんでございますよ。――ほらほら、いううちに、また始めたんじゃござんせんか、よくご覧なさいましよ"
],
[
"芯からの気違いじゃねえや。なにか悲しいことにぶつかって、逆上しているんだぜ",
"えッ⁈ じゃ、あの、まだどこか脈がござんすかい。見りゃ目も血走っているし、言うこともろれつが回らねえようですが、このごろはああいう花魁の揚げ方がはやりますのかね",
"次から次へと、よくいろんなとんきょう口のきけるやつだな。ひとり頭に小判を二枚ずつとかぎって、祝儀にしたところが、芯からの気違いじゃねえなによりの証拠だよ。ほんとうに気がふれてりゃ、三両も五両も金の差別はわからねえや。まてまて、今おれが気つけ薬を飲ましてやらあ"
],
[
"そなたのねこであるか",
"へえい。なくなった娘が、命よりもたいせつにかわいがっていたやつにござりまするが、どうやらお見かけすれば、その筋のかたがたのようなご様子。どなたさまにござりましょう",
"わからぬか",
"と申しますると、もしや、あの、むっつり右門の……",
"さようじゃ。右門とわからば、こわうなったか",
"いえいえ、だんなさまにござりますれば、このようなうれしいことはござりませぬ。できますことなら、ふびんなこのおやじめがただいまの身の上をお話し申し上げ、お力にもおすがり申したいと念じてござりましたゆえ、こわいどころではござりませぬ",
"なに、右門の力にすがりたいとな。では、先ほどそれなる京人形をかかえて八丁堀へ参ったのも、そのためじゃったか",
"この二、三日こちら、わが身でわが身がわからぬほど心が乱れておりましたゆえ、よくは覚えておりませぬが、もしお屋敷のあたりをさまよっていましたとすれば、だんなさまにお会いしたいと思うた一念が知らずに連れていったやも存じませぬ",
"よほど心痛していることがあるとみえるな。そう聞いては、聞くなというても聞かいではおられぬが右門の性分じゃ。いかにも力となってやろうから、ありのままいうてみい!",
"そうでござりまするか。ありがとうござります、ありがとうござります。では、かいつまんで申しまするが、てまえは日本橋の橋たもとに両替屋を営みおりまする近江屋勘兵衛と申す者にござります。今から思いますれば、そのような金なぞをいじくる商売を始めたのが身のおちどにござりましょうが、なんと申しましょうか、拝金宗――とでも申しまするか、金を扱っているうちに、だんだんと小判に目がくらみましてな、人さまから因業勘兵衛だの、ごうつく勘兵衛だのと、いろいろ悪口をいわれるのも承知で、ようよう三万両ばかりため上げたところへ、たったひとりの娘がちょうど十八になったのでござります。自分の口からいうは変でござりまするが、その娘の妙めが、どうしたことやら、少しばかり器量よしでござりましてな、それゆえ、いくらか人さまの目にもついたのでございましょう。おやじのこのてまえめは、人から因業だの、ごうつくばりだのと、ろくなことはいわれておりませんのに、いざ養子を捜そうとなりましたら、われもおれもと十人ばかりの相手が現われてまいりましてな、競って養子になろうと、手を替え品を替えて話を持ち込んでまいりましたゆえ、つい欲にくらみまして、そんなにだれもかれも養子になりたいならば、持参金の多い者をいただきましょうと、われながら情けないことを一同に言い渡したのでござります。すると、たちまち三百両、五百両、八百両とめいめいがせり上げてまいりましてな、あげくの果てに、同じ両替屋商売のさる次男坊が、とうとう三千両持参金にしようとこのようなことを申してまいりましたゆえ、内心喜んで、さっそくその者を養子に取り決めてしもうたのでござります。ところが、いざ婚礼をしようとなってから、どうしても娘がいやじゃというて聞きませなんだのでな。だんだんその子細を問い正してみると――",
"ほかに契り合うた恋人があったというのじゃな",
"へえい。まだおぼこじゃ、おぼこじゃと思うて、気を許していたうちに、いつのまにか、親の目をかすめまして、それも言いかわした相手がうちの手代の弥吉じゃ、とこのようなことを申しましたのでな、腹が立つやら、情けないやらで、むやみとがみがみしかりつけたのでござります。だのに、どうしても娘は弥吉でなくてはいやじゃと申しまして、たとえ十万両持ってこようと、業平のような男であろうと、わたしが二世と契ったは弥吉以外ないゆえ、添わしてくださらなくばいっそ死にまするなぞと、思いつめたらしいことを申しましたので、ついてまえもカッとなりまして、それほど弥吉のようなやつが好きなら、三千両持たして連れてこいといってやったのでござります。すると、だんなさま、どうでござりましょう。そのあくる朝、弥吉めが、どこで才覚いたしましたか、正銘まちがいない小判で三千両持ってまいりましたのでな、手代ふぜいが、はていぶかしいと思いましたゆえ、もしやと存じましてうちの土蔵を調べましたら、案の定、千両箱が三つなくなっていましたのでな、てっきりもう弥吉めが盗んだのじゃろうと存じまして、ずいぶん手きびしゅう責めたてたのでござりまするが、弥吉が申しますには、朝起きてみると、だれが置いていったのか、まくらもとに千両箱が積んでありましたゆえ、婚礼はもう迫っているし、娘を人にとられるはくやしいし、つい気味のわるいも承知しながら、天の授かりものじゃと思うて、いちじ拝借しただけでござります、とこのように申しまするのでな、では、娘の妙めが弥吉かわいさで、そんなまねをしたのじゃろうかと、このほうもずいぶん入念に調べてみましたのでござりまするが、不思議とそれらしい様子が見えませなんだゆえ、いっそもうめんどうと存じまして、しゃにむに弥吉めに盗賊の名を着せて、家を追い出してしもうたのでござります。さすれば、自然日がたつうちに、去る者日々にうとしで、娘の思慕も薄らぐじゃろうと思うたからでござりまするが、どうしてどうして、今度は妙めがあとを追いましてな、ふいっとどこかへ家出をしたのでござりまするよ",
"なるほどのう。そのあげくに、とうとうこの丈長に見えるような戒名となってしもうたというのじゃな",
"へえい。ひと口にいえばそうなんでござりまするが、ちとそれが妙なんでござりましてな。家出をしたとて、まさかに死にもいたすまいと、捜しにも行かずにほっておきましたら、その晩ひょっくりと船頭衆のようなおかたが、どこからかお使いにみえましてな、この紙包みをお嬢さんから頼まれましたと申しますので、なにげなくあけてみましたら、だんながお持ちのその髪の毛なんでござりますよ。においをかいでみましたら、娘が好んで日ごろ使っておりました丁子油の髪油がかおりましたゆえ、こりゃ、どっちにしてもただごとではあるまいというので、急に騒ぎだしましてな、所々ほうぼうと人を派して、だんだんと捜すうちに、あろうことかあるまいことか、深川の先で死体となって揚がったのでござります。入水するときけがでもしたか、顔は一面の傷だらけで、娘かどうか、ちょっと見ただけでは見分けもつかないくらいでしたが、着物のがらも娘のものだし、年ごろも十七、八でござりましたし、それになによりの証拠は、形見によこした髪の毛が根元から切られて、ざん切り坊主となったおなごでござりましたのでな、泣くなく野べの送りをしたのでござります",
"いかにものう。だが、それにしても、京人形をあつらえて、小判をまきに吉原へ来たとは、ちといぶかしいな",
"いいえ、それが今のてまえの心持ちになってみれば、ちっとも不思議ではないのでござりまするよ。だんなさまをはじめ、花魁がたにも特にここのところをしっかりと聞いていただきたいのでござりまするが、たったひとりの娘に死なれて、千両万両の金がなにたいせつでござりましょう! こうなるまでは、この世に小判ほど尊いものはあるまいと存じたればこそ、人にも憎まれるほどな拝金宗となりまして、あげくの果てには娘の器量までも黄金に売り替えんばかりのあさましい了見になったのでござりまするが、つまらぬてまえの心得違いから、だいじなだいじなひと粒種の娘に仏となってしまわれてみて、翻然とおろかな悪夢から目がさめたのでござります。ほんとうに、ほんとうに、はじめて目がさめたのでござります。人の尊い、いいえ、かわいいかわいい娘の命が、万両積んだとて、億両積んだとて、卑しい金なぞで買い替えられるものですか! 娘がなくば、小判なぞいくらあったとて、なんの足しになるものか、なまじ手もとにあれば、てまえのあさましさ、娘のふびんさが思い出されてならぬと存じましたゆえ、一つは仏へのせめてもの供養に、二つには不浄の金ができるだけ役にたつよう、使い果たしてやろうと存じましたので、ふと思いつきまして、その日に、さっそくこの吉原へまず五千両を携えてまいったのでござります。と申しただけではまだご不審かも存じませぬが、おなごはやはりおなごどうし、娘へのたむけには、この廓でままならぬかごの鳥となっておられまするおかわいそうな花魁衆へ、わずかながらでもおこづかい金をもろうていただいたならば、これにました金の使い道はあるまいと存じたからでござります。さればこそ、形見の髪で人形をあつらえ、せめてもそれを娘と思うて、小判の供養をしたつもりでござりまするが、それさえあまり悲しゅうて、つい心が乱れていたあいだにしたことでござりますゆえ、どのようなお恥ずかしいとこをお目にかけましたやら、こうして気が晴れてみますると、ただただもう赤面のほかはござりませぬ",
"なるほど、そうか、よくあいわかった。話の初めを聞いているうちは、人の皮かむったけだものじゃなと思うていたが、今のそのざんげ話を聞いて、いささか胸がすっといたした。では、なんじゃな、あれなる黒ねこが、髪の毛をはぎとったのも、そちはどこでとられたか覚えもあるまいが、生前娘がかわいがっていたゆえ、丁子油のにおいから、畜生ながらもだいじにしてくれた人の面影を慕うて、人形とも知らずにとびついたのじゃな",
"おそらくそうでござりましょう。子どものようにかわいがっておりましたゆえ、それが忘れかねて、知らぬうちにつけ慕っていたものと思われまするでござります",
"よし、もうそれで、すっかりなぞは解けた。では、なんじゃな、そちがわしに力を借りたいというは、弥吉のまくらもとにあったとかいう三千両の盗み出し手をよく調べたうえで、万が一ぬれぎぬだったならば、罪人の汚名を着せて追いだした弥吉にそれ相当のわびをしたいというのじゃな",
"へえい。ぬれぎぬでござりますればもちろんのこと、よしんばあれがついした盗みにござりましょうとも、それほどまでにして娘がほしかったのかと思いますると、憎いどころか、弥吉の心がふびんに思われますゆえ、おついでにあれの居どころもお捜し当て願えますれば、つまらぬ了見違いで、若い者の思い思われた仲を割ろうとしたこのわからず屋のおやじの罪をいっしょにわびたいのでござります",
"気に入った、大いに気に入った、そういう聞いてもうれしい話で、このおれの力が借りたいというなら、むっつり右門の名にかけて、きっと望みをかなえさせてやらあ。じゃ、もうこの丁子油の髪の毛も用がねえ品だから、ついでにねこへも供養させてやるぜ。ほら、黒とかいったな、おまえにこいつあいただかしてやるから、生々世々までおまえの命があるかぎり、お嬢さんだと思って守っていなよ"
],
[
"さ! 伝六ッ、駕籠だ、駕籠だ!",
"ちぇッ、ありがてえッ。いまに出るか、いまに出るかと、さっきからなげえこと、しびれをきらしていたんですよ。だんなの分が一丁ですね",
"二丁だよ",
"えッ! じゃ、あっしが兄貴分の役得で、乗られるんですね",
"のぼせんな! こちらのお人形お大尽がお召しになるんじゃねえか",
"ほい、また一本やられたか。なんでもいいや、だんなのお口から駕籠が出りゃ、おいら、胸がすっとするからね。じゃ、辰ッ、おまえもひざくりげにたんと湿りをくれておけよ"
],
[
"まて、まてッ。あけるのはあとでよいによって、まず先に盗み出されたおりのもようがどんなじゃったか、覚えているだけのことを話してみい",
"べつにいぶかしいと思うたことはござりませなんだよ。まえの晩にちゃんと錠をおろしておいたとおり、朝参りましたときも錠がおりてござりましたゆえ、あけて中を改めましたら、三千両だけ減っていただけでござります",
"あわて者よな。錠がそのままになっていて、なかの金が減っていたとせば、大いに不思議じゃないか。いったい、この錠のかぎは一つきりか、それとも紛失したときの備え品がほかにもあるか",
"いいえ、天にも地にもただ一つきりでござります",
"その一つは、だれが預かりおった。弥吉にでもかぎ番をさせておいたか",
"どうつかまつりまして、それまでは先ほども申しましたとおり、命をとられても小判は離すまいと思うほどだいじな品でござりましたゆえ、かぎは毎晩てまえがしっかり抱いて寝ていたのでござります",
"では、夜中にその抱いて寝ていたかぎを盗み出された形跡もないというのじゃな",
"ござりませぬ、ござりませぬ。そうでのうても目ざとい年寄りでござりますもの、抱いているのを盗み出されたり、またそっと寝床の中へ入れられるまで知らずにいるはずはござりませぬ",
"とすると、なかなかこれはおもしろうなったようじゃな。では、もう一度念を押してきくが、朝来たとき、たしかに錠はおりたままになっていたというのじゃな",
"へえい、ちゃんとこの目で調べ、この手で調べたうえに、てまえがこのかぎであけたのでござりますゆえ、おりていたに相違ござりませぬ",
"そうか、よしよし。ではもう一つ尋ねるが、その前の蔵の金を調べたのはいつじゃった",
"いつにもなんにも、毎晩調べるのでござりまするよ。商売がらも商売がらからでござりまするが、毎晩一度ずつ千両箱の顔をなでまわさないと、夜もろくろく寝られませなんだので、娘をしかった晩もよく調べましたうえ、ちゃんと錠をおろしましてやすんだのに、朝起きてみますると、先ほど申しあげましたように、弥吉めが持ってまいりましただけのちょうど三千両が蔵の中で減っておりましたゆえ、てっきりもうあいつのしわざと思うたのでござります",
"では、もう一つ尋ねようか。その晩調べにまいったおりは、そのほうひとりじゃったか",
"へえい、ひとりでございました",
"たしかにまちがいないか",
"…………",
"黙って考えているところをみると、なにか思い出しかけている様子じゃが、どうじゃ、たしかにひとりで調べに参ったか",
"いえ、思い出しました。いま思い出しました。やっぱりひとりではござりませぬ。小僧の次郎松といっしょでござりました",
"なにッ、丁稚の次郎松がいっしょだったとな! 当年何歳ぐらいじゃ",
"十四でござりまするが、目から鼻へぬけるようなりこうなやつで、何も疑わしいようなことをする悪いやつではござりませぬよ",
"だれも疑うているといやあせぬわ。ただきいているまでじゃ。では、なんじゃな。その後この蔵には手をつけないのじゃな",
"へえい。こんなふうにだんなさまのお出ましを願うようにならばと存じまして、そのままにしておいたのでござります",
"しからば、吉原へ持参の五千両はどこから出しおった",
"向こうにもう一つ、ないしょ倉がござりますゆえ、そちらから持ち出したのでござります"
],
[
"どうもこりゃ天狗のしわざかもしれませんぜ。錠にもかぎにも異状がねえっていうのに、中の三千両が羽がはえて、弥吉の野郎のまくらもとに飛んでいっているなんて、どうしてもこりゃ天狗のいたずらですよ。久しく江戸に出たといううわさを聞かなかったが、陽気にうかれて二、三匹鞍馬山からでも迷い出たんでしょうかね",
"うるせえ! 黙ってろ。では、もういいから、戸をあけてみな"
],
[
"なんでえ、いやに気を持たしゃがって、つまらねえ。これだから、おれあどうも欲の深い金満家とは一つ世の中に住みたくねえよ。欲が深いくせに、むやみとこのとおり、やることがそそっかしいんだからな。ね、おい、京人形のお大尽、もう蔵の中なぞ調べなくたって、天狗の正体がわかったぜ",
"えッ! じゃ、あの、三千両を持ち出したものは、やっぱり弥吉でござりましたか、それとも娘でござりましたか",
"だれだか知らねえが、おまえさんはたしかにこの戸の錠がおりていたといったな",
"へえい、二度も三度も、しちくどいほど申しあげたはずでござります",
"では、もういっぺんその戸を締めてみな",
"締めますよ。締めろとおっしゃいますなら、何度でも締めますが、これでようござりまするか",
"たしかに締めたな",
"へえい、このとおりピシリと締めましてござります",
"では、もういっぺん、そのままかぎを使わないであけてみろ",
"冗談じゃござんせぬ。ピシリと締まった戸前が、かぎを使わないであけられるはずはござんせんよ。大阪錠というやつは、締まるといっしょにトボソが自然と中からおりるのが自慢なんでござりますからな。かぎなしでこの錠があけられてなりますものかい"
],
[
"こりゃなるほど天狗でござります。いったい、どうしたのでござりましょうな",
"ちっとおれの目玉は値段が高いつもりだが、少しはおどろいたか",
"へえい、もう大驚きでござります。どうしたというのでござりましょうな",
"どうもこうもないよ。値段の安そうなその目をしっかりあけて、敷居のトボソがはまるそこのみぞ穴をよくみろな",
"何か穴に不思議がござりますか! おやッ、はてな。こりゃだんなさま、穴に何かいっぱい詰まっているようでござりまするが、何品でござりましょうな",
"塩豆だよ。塩でまぶしたあの煎り豆さ",
"なるほどね。そういわれてみると、いかさまそれに相違ござんせんが、それにしても、だれがこんなまねをしたのでござりましょうな",
"丁稚の次郎松だよ",
"えッ! でも、せっかくのおことばでござりまするが、ちっとりこうすぎるところはあっても、あいつにかぎって、こんなまねするはずはござんせんよ",
"控えろ。むっつり右門といわれるおれがにらんでから、こうこうと見込みをつけたんだ。不服ならば聞いてやるが、あいつは買い食いする癖があるだろ。どうじゃ。眼が違うか",
"恐れ入りました。そういわれると、そのとおりにござります。ほかに悪いところはござりませぬが、たった一つその癖があいつの傷でござります",
"それみろ。思うにあの晩、そなたとふたりでこの倉へ調べに来たときも、きっとボリボリやっていたに相違ないが、気がつかなかったか",
"さよう……いえ、おことばどおりでござります。そう言われてみますと、いま思い出してござりまするが、たしかに何かもごもごと口を動かしておりましたゆえ、また買い食いをしたのかといってしかった覚えがござります。しかし、それにしても、あの次郎松がまたなんとしようとて、こんなだいそれたまねをしたのでござりましょうな。三千両を持ち出したのもあれでござりまするか",
"あたりめえさ、今どろを吐かせてやるから、はよう連れてこい"
],
[
"な、辰、おっかねえだんなの眼力じゃねえかい。おら、一年もこっちくっついているが、だんなながらちっと今夜は気味がわるくなったよ。な、おい、どうだろうな、このあんべいじゃ、おれとおめえが、ゆうべだんなにないしょで吹き矢の帰り道に、ふぐじるを食べたことも、ひょっとするともう眼がついているかもしれねえから、いっそ思いきって白状しちまうか。おら、隠しておくのがおっかなくなったよ",
"ああ、いえよ、いえよ。割勘にしたことも隠さずにいっておきなよ",
"じゃ、いうからな。――ね、だんな! ちょいと、だんな!",
"バカ",
"えッ",
"子どもみてえなこというな",
"だっても、隠しておくとおっかねえからね",
"かわいいやつらすぎて、あいそがつきらあ。みろ! 次郎松が来たじゃねえか"
],
[
"申します、申します。まことにおわるうござりました。いかにも、わたしがあの三千両をこの蔵から盗み出して、弥吉どんのまくらもとへ置きました。かんにんしてくださりませ。かんにんしてくださりませ",
"よし、泣かいでもいい、泣かいでもいい。そうとわかりゃ、けっしてこのおじさんはとがめだてをせぬが、でも、どういうわけで、おまえがそんなたてひきしたんだ。おじさんが思うには、きっとおまえは弥吉からつね日ごろかわいがられていたんで、そのお礼心に、一つまちがやどろぼうの罪も着ねばならぬほどのことをしたと思うが、どうじゃ、ちがうか",
"そのとおりでござります。隣のへやで、だんなさまがお妙さまをおしかりなさっていたのを聞いていましたら、美しいお嬢さまもおかわいそうでござりましたが、やさしい弥吉どんも、金がないばっかりにつらい思いをせねばならぬかと、ふびんでふびんでなりませなんだゆえ、あの晩土蔵へのお供を仰せつかったをさいわい、こっそり塩豆を穴にうめて、錠のかからぬようにしておきましてから、夜そっと弥吉どんのまくらもとへお金を運んでおいたのでござります",
"千両箱といや、十三や四のおまえひとりでは運ばれぬ目方があるはずじゃが、だれかに力を借りたか",
"子どもだとて、そのくらいな知恵がつかぬでどういたしますか! 封印を破って、少しずつ少しずつ、気長にひとりで運んだのでござります",
"ほほう、そうか。ねずみのまねをしたと申すか。目から鼻へ抜けるというたが、いかさまその賢さならば、右門のおじさんの弟子になっても、ずんとまにあいそうじゃな。では、それほどおまえがふびんに思うて、日ごろの、お礼心を返す気になった弥吉どんじゃがの、今どこにいるか、その居どころを知っているじゃろうな",
"…………",
"なに? 黙っているところをみると、そればっかりはいえぬというのか。おまえの親切がかえってあだとなって、そのためにこのうちを追われた弥吉どんじゃもの、おまえとてもそのまま黙っているはずはあるまいし、また弥吉どんじゃとて、よし、あだになった親切じゃろうと、うけた親切は親切じゃもの、何かその後おまえと行き来があったと思うが、どうじゃ、おとなしくいってしまえぬか",
"…………",
"ほほう、そればっかりは強情張っているところをみると、なにかまだ大きな隠しごとがあるかもしれぬな"
],
[
"人形大尽! 十七、八の島田がつらを一つ用意しておきなせえよ",
"えッ⁉ まだなにかそんなものを用意して、娘の供養をせねばならぬのでござりまするか",
"さようじゃ。ちっとこんどの供養は大金がかかるが、だいじないか",
"金ゆえに失った娘でござりますもの、それで供養ができますならば、いかほどかかりましょうとも惜しくはござりませぬ",
"でも、この近江屋の身上がみんなじゃぞ",
"みんなじゃろうと、どれだけじゃろうと、喜んでさし上げまするでござります",
"すこぶるよろしい! では、あすの朝にでも河岸へ行って、江戸一番の大鯛をととのえてな、それから灘の生一本を二、三十樽ほどあつらえておきなよ。そうそう、特にこのことは忘れてはならぬが、これなる次郎松少年は、じゅうぶん目もかけ、いたわってもつかわせよ。こういう賢い奉公人というものは、そういくたりもあるものではないからな",
"なんじゃやらいっこうに解せませぬが、しろとおっしゃれば、どのようにでもいたしまするでござります",
"ますますよろしい! では、伝六ッ!",
"えッ?",
"夜通しではちっと眠いが、今から青葉見物にでも出かけようじゃねえか",
"…………⁈",
"黙って首なんぞひねらなくたっていいんだよ。ほら、小判で五両やるから、これで酒手もなにもかも含めてな、大急ぎに遠出駕籠を三丁雇うてこいよ",
"ゲエッ――と、ようようこれで声が出やがった。まあそう矢つぎばやとものをおっしゃらずに、しばらく待っておくんなせえよ。――な、辰ッ。おりゃ、こんどばかりは、だんだんだんながおっかなくなってきたからな、お供は断わりてえが、おめえ行く気かい",
"…………",
"なにをもがもがと、死にかけたふなみてえな口つきしてやがるんだ。おめえもあんまりおどろいたんで、声が出ねえのか!",
"で、で、出るよ、出るよ、このとおりりっぱに出るが、だんながああおっしゃるんだから、青葉見物とやらに行ったらいいじゃねえかよ",
"ちぇッ、こいつ、おまえの目は夜が夜中でも青葉が見えるかしらねえが、おらの目はこう見えたって人間並みにまっとうなんだぜ。つまらんところで、できそこないの目を自慢するない!",
"おいこら、伝六ッ",
"えッ!",
"なにをいつまでむだ口たたいているんだ。駕籠はどうした!",
"あきれるな、またなんか化かす気でいるんだからな。ほかのところじゃ慈悲ぶけえだんなだが、いつもこの手ばかりゃ、ほんとに伝六泣かせですよ"
],
[
"ちぇッ、ね、だんな! ちょっと、だんなったらだんな!",
"うるせえな、何を目色変えるんだ",
"だって、今しみじみと思っているんですがね。男は尼さんになれねえもんでしょうかね",
"あきれたやつだな。でも、おまえは日本橋を出るとき、青葉見物なんぞごめんだといったじゃねえか",
"ありゃ江戸へ置いてきた伝六で、ここへ来た伝六は別口ですよ。ね! 男でも尼になれるっていうんなら、あっしゃもう今からでもここへ二、三年逗留してえんですが、なんとか尼になれる法はござんすまいかね",
"もうしゃべるなッ"
],
[
"な、もし……弥吉さまか",
"そうでござります、お妙さまか",
"あい……会いとうござんした。きょうも一日が、ほんとうに長うござんした",
"わたしも! わたしも!"
],
[
"いえ、もうご心配はござりませぬ。それよりか、あのとおり、ふたりのてまえの手下どもが首をひねってござりますから、おふたりがどうしてこんなところへ来ていらっしゃるか、手みじかに話してやってくださいましな。てまえにはおおかた眼がついておりますが、手下のやつらは鼻をつままれたような様子をしておりますからな。お妙さまからお先に話してやってくださいましよ",
"…………",
"お迷いなさらなくともよろしゅうござりまするよ。あなたさまが深川で入水女の替え玉を使ったことも、次郎松に金襴仕立ての守りきんちゃくを贈ったことも、てまえにはちゃんともうわかっているんでござりまするからな、手間を取らせずに、早く聞かせてやってくださいましよ",
"ま! それまでおにらみがついてでござりましたら、申します、申します。いかにも深川先で、おことばどおり、わたくしの身がわり仏を使いましたはまことでござりまするが、でも、わたくしがあやめたのではござりませぬ。弥吉さまに添われぬくらいならば、いっそもう死んだがましと存じましたゆえ、髪の毛をきって、形見にととさまのところへ届けたうえ海へ入水して死のうと思いまして、浜べまでまいりましたら、ちょうどわたしと同じくらいな年ごろのおなご衆が、むごたらしい死体となってあげられましたなれど、お身もとがわからぬために、お引き取り人がないと聞きましたゆえ、こわさもこわくなりましたが、無縁仏のおなご衆も、このまま捨てておいたら行くところへも行かれますまいと存じましたゆえ、ふとふびんがわきまして、わたしの身代わりにして野べの送りさせてしんぜようと、死体をいただき、髪の毛をお切り申しあげ、着物もわたくしのとお着替え申しあげて、身代わりにしたのでござりまするが、偽りながらも死んだ身となったわたくし、もうふたたび世には出られまいと存じましたゆえ、この尼寺へ身を託したのでござります",
"そうでござんしたか。名まえは違って仏に祭られましたが、その身寄りのないおなご衆も、きっとあの世で、あなたさまのお心やりに手を合わせておりましょうよ。では、こっちの弥吉どんだが、おまえさんこっそり次郎松にお会いなすって、あの金襴織りの守り袋を見せてもらったんじゃござんせんかい",
"…………",
"いいえ、なにもそんなにこわがらなくともいいですよ。江戸っ子ならば、すっぱりとおっしゃいな",
"申します、申します。おめがねどおりでござります。ちょうどおとついでござりました。追い出されてみましても、やっぱり恋しいおかたはおかた――そのごどうしたじゃろうと存じまして、夜ふけにそっと様子見に参りましたら、次郎松がお嬢さまのお家出をなさった話の末に、あのにしきの守り袋を見せまして、ついきょう、青梅から差し出し人のわからぬ急飛脚で、このような袋と手紙とを届けてくださりましたが、どうやらお妙さまのお贈り物のようじゃから、念のため捜しに行ってみたらどうかというてくれましたゆえ、すぐやって参りまして、ようようこの尼寺でお見かけしたのでござります",
"じゃ、むろんおまえさんたちふたりは、あの三千両を持ち出してきてくれた相手が次郎松ってことを、知っていなすったんだね",
"はっ。この弥吉が追い出されるとき、次郎松がお嬢さまとてまえとに、こっそり告げてくれましたゆえ、ふたりとも身にしみて親切に泣きましてござります",
"そうわかりゃ、もう不審はねえはずだ。さ! 星空でもながめながめ、みんなして大手をふりながら、ゆっくり駕籠で江戸へけえりましょうよ。五丁そろえて乗りこみゃ景気がいいぜ"
],
[
"よく首をひねるやつだな。なにがふにおちねえのかい",
"だって、だんながどうしてふたりともここに来ているとおにらみなさったか、それが薄気味わるいですよ。江戸の日本橋にいらっしゃって、十里ももっと上の青梅の空に、こんなすてきもねえ青葉の名所があるっていうことなんぞ、いかなだんなだって、そうそうわかりっこはねえと思うんだからね",
"しようのねえやつだな。男の尼になりてえだの、ふぐじるがどうだのと、とんきょうなことをいっているから、いちいちおめえなんぞはそのとおり首をひねらなきゃならねえんだ。おれの青梅と眼がついたな、あの金襴織りの守り袋からだよ。ありゃ青梅金襴といってな、ここの宿でなきゃできねえ高値なしろものさ。それへもっていって、お寺さんのお線香がしみついているうえ、あの手紙が紛れない女文字だったから、お妙さまの尼美人ぶりにお目にかかれるだろうと眼がついたんだよ。どうだい、伝六あにい! 呉服屋をのぞくにしても、さらしもめんや、欝金もめんみてえな安い品をのぞくなよ、どこで知恵の小づちを拾うかわからねえんだからな",
"へえい……",
"いやに景気のわるい返事をするな。まだそれじゃ気に入らねえのかい"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年2月16日公開
2005年7月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
"ちぇッ。なんともかともたまらねえ景色じゃござんせんか。死んだおふくろに、いっぺんこのながめを見せてやりたかったね。目と鼻のおひざもとに住んでいながら、おやじめがごうつくばりで、ただの一度も遠出をさせなかったんで、おっちぬまでいっぺん海を見て死にてえと口ぐせにいってましたっけが、今度のお盆にゃ位牌を抱いてきて、しみじみ拝ましてやるかね",
"バカッ",
"えッ?",
"おめでたいお出迎えに来ているというのに、死ぬの、位牌のと、不吉なことを口にするな",
"そうですか。じゃ、おめでたいことを申しますが、ねえ、だんな、あそこの茶店の前の目ざるに入れてある房州がにゃ、とてもうまそうじゃござんせんか。ご用が済んだら十ばかりあがなってけえって、晩のお惣菜にかに酢でもこしれえますかね",
"よくよくしゃべりてえやつだな。松平のお殿さまに聞こえるじゃねえか。うるせえから、あごをはずして、ふところの中へでもしまっちまえッ"
],
[
"豆州か。お出迎えご苦労でござった",
"おことば恐れ入ってござります。道中つつがのうございまして、祝着至極にござります"
],
[
"くせ者じゃ、くせ者じゃッ",
"狼藉者でござりまするぞッ"
],
[
"ご立腹ごもっともにござりまするが、てまえは伊豆守様のご内命こうむりまして、お出迎えご警固に参りました八丁堀の同心、役儀のある者でござりましてものぞいてはなりませぬか",
"ならぬならぬッ。だれであろうと迷惑でござるわ! さっさとおどきめされッ"
],
[
"せっかくですが、いやですよ",
"ほう。江戸の兄いがまた荒れもようだな",
"あたりめえじゃござんせんか! いくら尾州様がご三家のご連枝だからって、江戸へ来りゃ江戸の風がお吹きあそばすんだッ。しかるになんぞや、迷惑だから手をひけたあなんですかい! それをまただんなが、なんですかい! たかがいなかっぺいのけんつくぐれえに尾っぽを巻いて、江戸八百八町の名折れじゃござんせんか! あっしゃくやしいんだッ。ええ、くやしいんです! くやしくてならねえんですよ!",
"…………",
"ちぇッ。黙ってにやにや笑ってらっしゃるが、何がおかしいんですかい! え? だんな! 何がおかしいんですかい!",
"坊やが吹かしがいもしねえ江戸っ子風を吹かすからおかしいんだよ",
"ちぇッ。じゃ、だんなは、江戸っ子じゃねえんですか!",
"うるせえな。おめえが江戸っ子なら、おりゃ日本子だッ。はばかりながら、あれしきのけんつくに、むっつり右門ともあろうおれが、たわいなく尾っぽを巻いてたまるけえ。眼がもうついたんだから、駕籠をよんでくりゃいいんだよ",
"へえい。じゃ、なんですかい、あのお小姓姿に化けていた女の素姓も、眼がついたんですかい",
"きまってらあ。ありゃ尾州さまがご寵愛のおへやさまだよ。そういったら、またおまえが口うるさく何かいうだろうが、おへやさまだからこそ、諸侯のお手本ともなるべきご三家のお殿さまが先へたって行列とごいっしょに参覲道中させたと聞かれちゃ、世間体がよろしくないため、わざわざお小姓にやつさせたんだ。なればこそ、またあの供頭の大将が、それをおれにあばかれちゃならねえと思って、あんなに目色変えながら、忠義だてにけんつくを食わしたんじゃねえか。どうだい、江戸の兄い。それでもまだ駕籠にやはええのかい",
"そ、そりゃ連れてこいとおっしゃれば、仁王様でも観音様でも連れてまいりますがね。でも、眼のついたというなそれだけで、くせ者大名の乗り捨てた駕籠に紋が一つあるじゃなし、おへやさまのお素姓に探りを入れようとすりゃ、あのとおり、でこぼこりゃんこ(侍)がご三家風を吹かしゃがるし、どう首をひねってみてもそれだけじゃ、手の下しようがなさそうじゃござんせんか",
"いちいちだめを押しやがって、うるせえな。むっつり右門は鳥目じゃねえや。あの毒矢を見て、ちゃんともうりっぱな眼がついてるんだッ。おまえなんぞおしゃべりよりほかにゃ能はねえから知るめえが、ありゃ西条流の鏑矢といって、大弓はいざ知らず、矢ごろの弱い半弓に、あんな二また矢じりの重い鏑矢を使う流儀は、西条流よりほかにゃねえんだよ。しかも、その弓師っていうのが、おあいにくとまた、このおひざもとにたった一人あるきりなんだ。かてて加えて、乗り捨てた駕籠の様子が大名にちげえねえとしたら、よし紋所はなくとも、何家の何侯に半弓を納めたか、そいつを洗えばおおよその当たりがつくじゃねえか。のう、江戸っ子の兄い、それでもまだ駕籠のお許しゃ出ねえのかい",
"みんごと一本参りました。――ざまアみろ! でこぼこりゃんこのかぶとむしめがッ。おいらのだんながピカピカと目を光らしゃ、いつだってこれなんだッ――そっちのちっちゃな親方! のどかな顔ばかりしていねえで、たっぷり投げなわにしごきを入れておきなよ。どうやら、城持ち大名と一騎打ちになりそうだからな、遺言があるなら、今のうちに国もとへ早飛脚立てておかねえと、笠の台が飛んでからじゃまにあわねえぜ"
],
[
"控えろ。身どもの腰がわからぬか",
"なんでござりましょう",
"手数のかかるやつどもじゃな。これなる巻き羽織が目にはいらぬかときいているのじゃ",
"…………?"
],
[
"神妙に申したてねばあいならんぞ",
"ご念までもござりませぬ",
"では、あい尋ねるが、そちの手掛けた西条流半弓一式を近ごろにどこぞの大名がたへ納めたはずじゃが、覚えないか",
"…………",
"黙っているは隠す所存か",
"め、めっそうもござりませぬ。そのようなことがござりましたろうかと、とっくりいま考えているのでござりまするが、――せっかくながら、この両三年、お尋ねのようなことは一度もござりませぬ",
"なに? ないとな! いらざる忠義だていたすと、せっかく名を取った西条流弓師の家名も断絶せねばならぬぞ。どうじゃ、しかとまちがいないか",
"たしかにござりませぬ。てまえは昔から物覚えのよいが一つの自慢。まして、ご大名がたへのご用ならば家の名誉にもござりますゆえ、あらば隠すどころか、進んでも申しまするが、せっかくながら、この三年来、ただの一度もお尋ねのようなことはござりませぬ"
],
[
"な、伝六ッ",
"ありがてえ! 出ましたか!",
"出ねえでどうするかい。おれともあろうものが、とんだおかたのいらっしゃることを度忘れしていたもんじゃねえか。こういうときのお力にと、松平伊豆守様というすてきもないうしろだてがおいでのはずだよ",
"ちげえねえ。ちげえねえ。じゃ、老中筆頭というご威権をかりて、まっさきに尾州様へお手入れしようっていうんですね",
"と申しあげちゃ恐れ多いが、身分の卑しさには、それより道がねえんだ。三百十八大名をかたっぱし洗って、西条流半弓のお手きき殿さまをかぎつけることにしてからが、同心や岡ッ引きじゃ手が出ねえんだからな。こういう場合の伊豆守様だよ",
"大きにちげえねえや。それにまた、松平のお殿さまだって、お自分がお出迎えのさいちゅうにあんな騒動が降ってわいたんだからね。今まで、だんなにおさしずのねえのが不思議なくらいですよ",
"だから、まずおまんまでもいただいて、ゆるゆると出かけようじゃねえか。さっき品川でかに酢をどうとかいったっけが、ありゃどうしたい",
"ちぇッ。これだからあっしゃ、だんなながらときどきあいそがつきるんですよ。十ばかりさげてけえりましょうかといったら、とてつもなくしかりつけたじゃござんせんか。もういっぺんあごをなでてごらんなせえな",
"ほい。そうだったかい、今度は一本やられたな。じゃ、ちっとじぶんどきがはずれているが、いつもおかわいがりくださる伊豆守様だ。あちらでおふるまいにあずかろうよ"
],
[
"ご老中さまから火急にお差し紙でござります",
"なに! 伊豆守様からお差し紙が参ったとな――伝六ッ。なにかご内密のお力添えかもしれぬ、はよう行けッ"
],
[
"伝六。床を敷け",
"…………",
"何を泣くんだ。泣いたって、しようがねえじゃねえか。早く敷きなよ",
"でも、あんまりくやしいじゃござんせんか",
"身分が低けりゃしかたがねえんだ。なんぞ尾州様におさしつかえがおありなさるんだろうから、早く敷きなよ",
"じゃ、辰とふたりでお口に合うものをこしれえますから、おまんまだけでも召し上がってから、お休みくだせえましな",
"胸がつかえて、それどころじゃねえんだ。世の中があじけなくて、生きているのもこめんどうになったから、早く敷いて寝かしてくれよ"
],
[
"やかましいや! きょうはお取り込みがあるんだから、手の内ゃ出ねえよ!",
"いいえ、物もらいではござりませぬ! 右門のだんなさまのお屋敷と知って、お力借りに駆けつけました者でござりますゆえ、おはようお取り次ぎくださりませ!",
"うるせえな! お通夜に行ったって、こんなに悲しかねえんだッ。用があるなら庭へ回れッ"
],
[
"世の中があじけなくなってくると、訴えてくることまでがこれなんだッ。たかの知れたご家人ふぜいのゆすりかたりぐれえで、もったいなくもこのおれが、そうやすやすとお出ましになれるけえ。二、三十枚方役者が違わあ。おめえたちふたりにゃちょうどがら相当だから、てがらにしたけりゃ、行ってきなよ",
"じゃ、辰ッ。どうせ腹だちまぎれなんだから、あっさり締めあげちまおうかッ",
"おもしれえ。そうでなくとも、おいら、ゆんべから投げなわの使い場がなくて、うずうずしてるんだから、ちょっくら行ってこようよ"
],
[
"どうしたい。がら相当でもなかったのかい",
"へえい……",
"ただへえいだけじゃわからぬよ、向こうが強すぎたのかい。それとも、おまえたちが弱すぎたのか",
"ところが、どうもそいつが、からっきしどっちだかわからねえんでね。今も道々辰とふたりで、首をひねりひねり来たんですよ",
"あきれ返ったやつらだな。じゃ、ご家人でなかったのかい",
"いいえ、それがいかにも変なんだから、まあ話をお聞きなせえよ。行ってみると、ひと足ちげえに、ご家人の野郎め千両ゆすり取りやがって、今ゆうゆうとあの駕籠で出かけたばかりだからといったんでね。それっとばかりに、辰とふたりしながら追っかけて、手もなく駕籠を押えたまではいいんだが、それからあとが、いかにもおかしいじゃござんせんか。駿河屋の店先から乗ったときにゃ、正真正銘のご家人だったというのに、中を改めてみるてえと、いつの間に人間をすり替えりゃがったか、似てもつかねえ按摩めが澄まして乗り込んでいるんですよ",
"ほほう。なるほど、ちっと変だな。それからどうしたい",
"でもね、いっしょに追っかけていった番頭がいうにゃ、しかと乗って出た駕籠にちげえねえというんでね、按摩の野郎を締め上げようとするてえと、こいつが偉い啖呵をきりゃがったんですよ。ご禁裏さまから位をいただいた鈴原撿校じゃ。不浄役人ふぜいに調べをうける覚えはない、下がれッとぬかしやがったんでね。くやしかったが、位のてまえ、そのまま引き揚げたんですよ",
"なかなかぬかすな。頭は坊主か。それとも、何かかむっていたかい",
"撿校ずきんって申しますか、ねずみちりめんの、袋をさかさまにしたようなやつを、すっぽりかむっていましたよ",
"かわえそうに、みんごとお兄いさまたち、やられたな",
"じゃ、やっぱり化けていやがったんでしょうかね",
"あたりめえだ。ずきんの下でご家人まげが笑っていたことだろうよ。たぶん、針の道具箱もあったろうがな",
"ええ、ごぜえましたよ、ごぜえましたよ。なんだか知らねえが、特別でけえやつが、ひざのところに寄せつけてありましたぜ",
"しようのねえやつらだな。その道具箱の中に、千両はいっているんだ。もうちっとりこうにならなくちゃ、みっともねえじゃねえか。どういうわけでゆすり取られたか聞いてきたか",
"へえい。このまますごすごけえったんじゃ、だんなに会わす顔がねえと思いましたんでね。それだきゃ根堀り葉掘り聞いてきたんですが、なんでもあの駿河屋に勘当した宗助とかいうせがれがあってね、もう十年このかた行き先がわからねえのに、ご家人の野郎めがどこで知り合いになったか、その宗助に千両貸しがあるから、耳をそろえていま返せっていったんだそうですよ。だけども、借りた本人は生きているかも死んだかも知らねえんでね、すったもんだをやっていたら、せがれの直筆だという借用証書をつきつけやがって、あげくの果てに、とうとうだんびらをひねくりまわしゃがったんで、命あっての物種と、みすみす千両かたり取られたとこういうんですがね。でも、おやじがそのとき、ちょっと妙なことをぬかしやがったんですよ。勘当むすこの宗助はどういうわけで縁を切ったんだときいてやりましたらね、あんまり芸ごとと、それから弓にばかり凝りゃがるんで、十年まえにぷっつりと親子の縁を切ったと、こういうんですがね",
"なにッ。もういっぺんいってみろ!",
"なんべんでも申しますが、せがれの野郎め、あんまり芸ごとと弓にばかり凝りゃがるんで、先が案じられるから勘当したと、こういうんですよ",
"もうほかにゃねえか!",
"あるんですよ、あるんですよ。こいつあおやじの話じゃねえ、あっしがこの二つの目でちゃんと見てきたことなんだが、鈴原撿校の乗っていきやがった駕籠っていうのが、ちっと変ですぜ。きのう品川宿でくせ者大名が乗り拾てていったあの駕籠みてえに、金鋲打った飾り駕籠で、おまけにやっぱり紋がねえんですよ",
"なにッ。そりゃほんとうかッ",
"正真正銘のこの目の玉で見たんだから、うそじゃねえんですよ"
],
[
"ちくしょうめッ。すっかりおれさまにあぶら汗絞らせやがって、とんだ城持ち大名もあったもんじゃねえか。な! 伝六ッ",
"えッ!",
"あんまりつまらぬうぬぼれをいうもんじゃねえってことさ。二、三十枚がた役者が違わあなんかと大きな口をきいていたが、もうちっとでむっつり右門も腹切るところだったよ",
"じゃ、なにかくせ者大名の当たりがついたんですかい!",
"大つきさ。ご家人と、按摩と、にせ大名は、一つ野郎だよ",
"そ、そ、それじゃあんまり話がうますぎるじゃござんせんか",
"うまくたってまずくたって、ほんとうなんだから、しようがねえじゃねえか。おめえもとっくり考えてみねえな。いやしくも、正真正銘の大名が乗る金鋲駕籠だったら、どんな小禄のこっぱ大名だっても、お家の紋がねえはずあねえよ。しかるにもかかわらず、お大名の飾り駕籠で、まるきし紋がねえなんていうもなあ、しばいの小道具よりほかにゃねえんだ。また、小道具だからこそ、上への遠慮があるんで、駕籠はにせても紋はつけねえのがあたりまえじゃねえか。それとも知らず、品川表の出があんまり大きすぎたんで、尾州様を相手に取っ組むからにゃ、いずれ大名だろうと早がてんしたのが、おれにも似合わねえ眼の狂いだったよ",
"いかさまね。じゃ、野郎め、どっかの役者だろうかね",
"あたりめえさ。ご家人から按摩に化けることのうまさからいったって、しばい者だよ。しかも、おどろくことにゃ、ご家人も、鈴原撿校も、にせ駕籠大名も、みんな裸にむいたら十年このかた行くえが知れねえといった駿河屋の勘当むすこの宗助めだぜ",
"えッ。そりゃまた下手人が妙な野郎のところに結びついたもんですが、どうしてそんな眼がおつきですかい",
"どうもこうもねえ、おめえが今その口で、勘当むすこが芸ごとと弓に凝りすぎたといったじゃねえか。おおかた落ちぶれやがって、器用なまねができるのをさいわい、河原者の群れにでも身をおとしゃがったにちげえねえんだ。弓にしてからがおそらく半弓にちげえねえよ。それよりも、肝心な証拠は直筆の借用証書なんだ。本人のてめえだからこそ、直筆だろうと真筆だろうと何枚だっても書けるじゃねえか",
"でも、それにしたって、生まれたうちへなにもご家人に化けていかなくたっていいじゃござんせんか",
"あいかわらずものわかりの悪いやつだな。七生までも勘当されたといったじゃねえか。あまつさえ、千両もの大金をねだりに行くんだ。勘当されたものがしらふで行かれるかい",
"なるほどね。そういわれりゃそれにちげえねえが、野郎めまたなんだって、千両もの大金がいるんだろうね",
"路銀をこしれえて、どこか遠いところへ高飛びするつもりなんだよ",
"えッ。そりゃたいへんだッ。さあ、忙しいぞッ。いう間もこうしちゃいられねえや! さ! 出かけましょうよ! な! 辰ッ。おめえも早くしたくしろよ",
"どじだな。行き先もわからねえうちに駆けだして、どこへ行くつもりなんだッ",
"そうか! いけねえ、いけねえ! あんまりだんながおどかすから、あわてるんですよ。じゃ、野郎の居どころも当たりがついていらっしゃるんですね",
"むっつり右門といわれるおれじゃねえか。じたばたせずと、手足になって働きゃいいんだッ。ふたりして、ちょっくらご番所を洗ってきなよ",
"行くはいいが、何を洗ってくるんですかい",
"知れたこっちゃねえか。このおひざもとで小屋掛けのしばいをするにゃ、ご番所のお許しがなくちゃできねえんだ。いま江戸じゅうに何軒小屋が開いてるか、そいつを洗ってくるんだよ",
"なるほど、やることが理詰めでいらっしゃらあ。じゃ、辰ッ、おめえは数寄屋橋のほうを洗ってきなよ。おいら呉服橋の北町番所へ行ってくるからな",
"よしきた。何を洗い出しても、今みてえにあわ食うなよ。じゃ、兄貴、また会うぜ"
],
[
"ね、だんなだんな! 南町ご番所でお許しを出したというなア、神明さまの境内のあやつりしばいが一座きりきゃないっていいますぜ",
"そうかい。伝六兄いのほうはどんなもようだ",
"そいつがね、だんな、ちっとにおうんですよ。もうそろそろ夏枯れどきにへえりかけたためか、願いを出したな両国河岸に中村梅車とかいうのがやっぱり一座きりだそうですがね、尾州から下ってきた連中だとかいいますぜ",
"そうか! 尾州下りと聞いちゃ、犯人ゃその両国にちげえねえ。じゃ、例の駕籠だッ",
"ちぇッ、ありがてえ。もうこんどこそは、尾張様だろうと百万石だろうとこわかねえぞ。ちっと急がにゃならねえようだから、きょうは特別おおまけで、三丁じゃいけませんかね",
"どうやらまた晴れもようになったから、世直し祝いにかんべんしてやらあ",
"むっつり大明神さまさまだッ。じゃ、辰ッ、そのまにだんなのお召し物をてつだっておあげ申せよ。そっちの三つめのたんすが夏の物だからな"
],
[
"なにごとじゃ。何をわめきたてているのじゃ",
"だって、あんまり座方の者がかってをしやがるから、だれだっても見物が鳴りだすなあたりまえじゃござんせんか。じつあ、この一座に尾州下りの市村宗助っていう早変わりのうめえ役者がいるんですがね。これから幕のあく色模様名古屋音頭で、市村宗助が七役の早変わりをするってんで、みんなそれを目当てでやって来たのに、今にわかと用ができて舞台に出られねえと頭取がぬかしゃがったんで、このとおりわめきだしたんですよ"
],
[
"市村宗助はいるか、いないか!",
"今、楽屋ぶろから上がってきたようでしたから、まだいるでしょうよ",
"へやはどこじゃ",
"突き当たりの左っかどです"
],
[
"鈴原撿校! 駿河屋のかえりには手下どもが偉いご迷惑をかけたな",
"ゲエッ――"
],
[
"よよッ、おかしな狂言が始まったぞッ",
"おやまの役者が、弓を持っているじゃねえか!",
"おしろいが半分きゃ塗れていねえぜ"
],
[
"恐れ入ってござります。いかにも、てまえが先ほどおやじの家へ化けてまいりまして、千両ゆすり取りましてござりますゆえ、お手やわらかにおさばき願います",
"バカ者ッ。そんなこまけえ科をきいているんじゃねえんだ。なんのために、恐れ多くも品川宿で、あんなだいそれたまねしやがったんだッ。手間を取らせずと、すっぱり吐いちまえッ",
"…………",
"このおれを前にして、強情張ってみようというのかい! せっかくだが、ちっと看板が違うよ。早変わりを売り物にするくれえのおまえじゃねえか。時がたちゃ、こっちの色も変わらあ。痛み吟味に掛けねえのを自慢のおれだが、手間取らせると、きょうばかりは事が事だから、少々いてえかもしれんぜ",
"し、しかたがござりませぬ。では、もう申します。いかにもお供先を乱したのはてまえでござりまするが、でも、あの毒矢を射込んだおへやさまってえのは、こう見えてもあっしの昔の情婦なんでごぜえますよ",
"だいそれたことを申すなッ。かりにもご三家のお殿さまからお寵愛うけているお手かけさまだ。下司下郎の河原者なんかとは身分が違わあ",
"でも、あっしの情婦だったんだからしようがねえんです。できたのは一年まえの去年のことでしたが、駿河屋のおやじからは勘当うけるし、せっぱ詰まってとうとう江戸を売り、少しばかりの芸ごとを看板にして、名古屋表のこの一座の群れにはいっているうちに、お喜久といった茶屋女とねんごろになっちまったんです。するてえと、できてまもなく、ぜひにも百両こしらえてくれろと申しましたんで、八方苦しい思いをやって小判をそろえて持っていったら、それきり金だけねこばばきめて、どこかへどろんを決めてしまったんですよ。くやしかったが、人気稼業の者が、そんなぶざまを世間に知られちゃと、歯を食いしばってそのままにしているうちに、忘れもせぬついこないだの桃のお節句のときです。ご酒宴のご余興の上覧狂言に、尾州様があっしたち一座を名古屋のお城にお招きくだせえましたので、なにげなくお伺いしてみるてえと、おどろくじゃござんせんか、一年知らぬまに茶屋女のお喜久めが、いつのまにか尾州様のけっこうな玉の輿に乗って、あっしとらにゃめったに拝むこともならねえお手かけさまに出世していたんですよ。だから、その晩でござりました。あっしを生かしておいちゃ、昔の素姓がわかってうるさいと思ったんでごぜえましょう。お喜久のやつめが――じゃないお喜久のお方さまが、あっしに三人刺客を放ってよこしたんです。でも、さいわいに西条流の半弓を少しばかりいたしますんで、どうにかその晩は殺されずに済みましたが、うっかりしてたんじゃ命があぶねえと思いましたんで、さっそく一座を勧めて、この江戸へやってめえったんでごぜえます。するてえと、因果なこっちゃござんせんか、参覲交替で尾州さまが、あっしのあとを追っかけるように、お喜久の方さまともども江戸へお越しと人づてに聞いたんで、見つかりゃあっしの昔の素姓を知っているかぎり、いずれまた刺客をさし向けられて、笠の台が飛ぶは必定、いっそのことに先手を打って、こちらからお命をいただいちまえと、去年の苦しい百両をだまされて取られた腹だち紛れもてつだって、とうとうきのう、あんなだいそれたまねをしたんでごぜえます。親の金を千両いたぶったのは、むろん高飛びの路銀。――蝦夷へでも飛ぼうと思ったところを、とうとう運のつきに、だんなさまのお目にかかってしまったしだいでござります。それにつけても、器量よしの女は、あっしが看板ぐれえの七変わりや百変わりではござりませぬ。いつ、どんな者に早変わりするかわからねえんだから、もういっさいかかわり合いはくわばらくわばらでごぜえます"
],
[
"みっともねえな。何がふにおちねえんだい",
"でもね――",
"なんだよ",
"あれほどのだいそれたまねをしたっていうのに、なんだってまた尾州さまは、おらのだんなに手入れすんなとおっしゃったんだろうね",
"ちぇッ。しょうのねえどじだな。それだから、おまえなんぞ、いつまでたっても背が伸びねえんだよ。知れたこっちゃねえか。道々お小姓姿におやつしなさって、お連れ申し上げたくれえもご遠慮したんだもの、おへやさまの素姓が世間へ知られりゃ、何かとお家の名誉にもかかわるじゃねえか。だからこそ、だんなも一服盛って、早く宗助の野郎をやみからやみへかたづけてほしいと、わざわざお書面をお書きなすったもんだ。もっと食い養生をして、りこうになれよ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
※誤植は、『右門捕物帖 第二巻』新潮文庫と対照して、訂正した。ただし、底本、新潮文庫版ともに「牽馬」は「索馬」とあるが、「牽馬」とした。「おいてをや」もともに「おいておや」とあるが、「おいてをや」とした。
入力:tatsuki
校正:M.A Hasegawa
2000年4月22日公開
2005年7月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000583",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
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"副題読み": "16 ななばけやくしゃ",
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[
"火だッ、火だッ。早くたいまつ燃やせッ",
"どっちだッ、どっちだッ、姿が見えねえじゃねえかッ",
"こっちだッ、こっちだッ。ひとり抱き上げたから、早くなわを投げろッ"
],
[
"あがったな、だれだッ、だれだッ。先生か、お嬢さまかッ。姿は見えねえかッ",
"髪のぐあいが小町らしいぞッ",
"違うッ、違うッ。おやじらしいぞッ"
],
[
"伝馬ッ、伝馬ッ。やい! そこの伝馬ッ。何をまごまごしてるんだッ。早くこっちへつけねえかッ",
"べらぼうめッ。おうへいな口ききゃがるねえ! おめえたちやじうまを乗せるためにこいでいる伝馬じゃねえや! こっちへつけろが聞いてあきれらあ!",
"なんだとッ。やじうまたあ何をぬかしゃがるんでえ! 八丁堀の伝六親方を知らねえかッ"
],
[
"こりゃいけねえ! な、おい伝六あにい! どうやらおれたちだけじゃ手に負えねえようだから、早くだんなに知らそうじゃねえか!",
"待てッ、待てッ、そう騒ぐなよ",
"だって、何かいわくがありそうだから、おれたちがまごまごするより、早いところだんなの耳へ入れたほうがいいじゃねえか",
"うるせえな。おれがついているじゃねえか!"
],
[
"人が暑い思いをやっていっしょうけんめい飛んできたのに、そのやにさがり方はなんですかい! しかじかかくかくで、途方もねえことが起き上がったんだから、早くおしたくなさいましよ!",
"静かにしろい。おめえの声を聞きゃ暑くならあ",
"ちぇッ。暑いなあっしのせいじゃねえんですよ! 今も申し上げたとおり、しかじかかくかくで、とてもどえれえことになったんだから、早いことお出ましくださいましよ",
"騒々しいな。ひとりでしかじかかくかくといったって、何もまだ聞かねえじゃねえか。もっとおちついてものをいいなよ",
"だって、これがおちついたり、やにさがったりしていられますかい! おまえたちふたりがそばにいりゃ暑くてしようがねえからとおっしゃいましたんで、辰の野郎と河岸へ降りてめえりましたら、しかじかかくかくで小町の屋形がぶくぶくとやりましたんでね、さっそく舟をつけて調べましたら、屋形の底に刀かなんかでくりぬいた穴があるんですよ。おまけに、娘の行くえがまだわからねえというんだから、これじゃあわてるのがあたりまえじゃござんせんか!"
],
[
"人足どもあ、みんなとち狂って、川下ばかり捜しているんだろ。だれかひとりぐれえ上へのぼって調べたやつあいねえのかい",
"ちぇッ。お寝ぼけなさいますなよ。墨田の川はいつだって下へ流れているんですよ。聞いただけでもあほらしい。この騒ぎのなかに川上なんぞゆうちょうなまねして捜すとんまがありますものかい? 沈んだものでなきゃ、下へ流されていったに決まってるじゃござんせんか!",
"しようのねえどじばかりだな。だから、おいらは安できの米の虫が好かねえんだ。頭数ばかりそろっていたって、世間ふさぎをするだけじゃねえか。せっかく久しぶりで気保養しようと思ってやって来たのに、ろくろく涼むこともできゃしねえや。ちょっくら知恵箱あけてやるから、ついてきな"
],
[
"ね、だんな、それであっしゃこう思うんですがね。聞きゃ、あの小町美人、たんざく流しで婿選みするっていうんでしょう。だから、きっと、あの式部小町に首ったけのとんまがあって、思いは通らず、ほっておきゃ人にとられそうなんで、くやし紛れにあんなだいそれたまねしたんだろうと思うんですがね。どうでしょうね。違いますかね",
"…………",
"ちょッ。こっちへお向きなせえよ。あっしだっても、たまにゃ眼をつけるときがあるんだから、そんなにつれなくしねえだってもいいじゃござんせんか。だから、こんなにも思うんですがね。いまだにあのとおり行くえのわからねえところを見るてえと、下手人の野郎め、騒ぎの起きたどさくさまぎれにべっぴんをかっさらって、無理心中でもしたんじゃねえかと思うんですがね。でえいち、水へもぐって船底をくりぬいた手口なんぞから察してみるに、どうしたって野郎は河童のようなやつにちげえねえんだからね。女をさらって川底へひきずり込んだかもしれませんぜ"
],
[
"静かにせい! だから、おめえなんざ安できの仲間だといってるんだ。ガンガンいうと人だかりがするから、黙ってついてきたらいいじゃねえか",
"じゃ、なんですかい、だんなの目にゃ、この大川が上へ流れているように見えるんですかい",
"うるせえな。右にすきあるごとく見ゆるときは左に真のすきあり――柳生の大先生が名言をおっしゃっていらあ。捕物だっても、剣道だっても、極意となりゃ同じなんだッ。さらって逃げたとすりゃ、下手人の野郎もそのこつをねらって、みんなが川下ばかりへわいわい気をとられているすきに、きっとこっちへ来たにちげえねえんだッ"
],
[
"口まねするんじゃねえが、あんまりぞうさなさすぎて、ほんとうにあいそがつきまさあ。およそまぬけの悪党もあるもんじゃござんせんか。あそこの帳場から二丁雇ってきやがって、ここへ待たしておきながらつっ走ったといいますぜ",
"なるほど、まぬけたまねしたもんだな。行く先の眼もついたか",
"大つき、大つき! 河童権とかいう水もぐりの達者な船頭でね。ねぐらは蔵前の渡しのすぐと向こうだっていうんですよ",
"いかさま、名からしてそいつが犯人にちげえねえや。じゃ、ちょっくら川下のとち狂っている人足どもにそういってきな。式部小町とやらのお嬢さまは、河童が丘を連れてつっ走ったから、もう腹減らしなまねはすんなといってな。だが、おれの名まえは隠しておきなよ。わいわい騒がれると暑っ苦しいからな"
],
[
"ちくしょうッ、ひと足先にずらかりましたぜ! 早く眼をつけて、夜通しあとを追っかけましょうよ! 河童なんぞにあのべっぴんをあやからしちゃ、気がもめるじゃござんせんか",
"うるせえ! 声をたてるな!",
"でも、まごまごしてりゃ、遠くへ逐電しちまうじゃござんせんか!",
"あわてなくともいいんだよ。あそこの物干しざおにぶらさがっているしろものをよくみろ。源氏のみ旗が、しずくをたらしているじゃねえか。川へもぐってぬれたやつを、いましがた干したばかりにちげえねえんだッ"
],
[
"ちょッ。こりゃいけねえや。野郎め、のびちまっているようですぜ",
"女も、いっしょかッ",
"河童だけですよ",
"じゃ、早く火をつけろッ"
],
[
"伝六ッ",
"ちッ、ありがてえ! 駕籠ですね! ――ざまアみろい! もうこれが出りゃこっちのものなんだッ。ひとっ走り行ってくるから、お待ちなせえよ!",
"あわてるな! 待てッ",
"えッ?",
"二丁だぜ",
"…………⁈",
"何をパチクリさせてるんだ",
"だって、またちっともよう変わりのようじゃござんせんか! 二丁たアだれとだれが乗るんですかい",
"きさまとお公卿さまがお召しあそばすんだよ",
"…………⁈",
"何を考えているんだい。いってることが聞こえねえのか",
"いいえ、ちゃんと聞こえているんですがね、やにわとまた変なことおっしゃいまして、どこへ行くんですかい",
"このおひざもとを、大急ぎでひと回りするんだ",
"ちぇッ、たまらねえことになりゃがったもんだな。じゃ、辰ッ、一刻千金だ、はええとこしたくをしろよ!",
"待てッ、あわてるな",
"でも、早駕籠で江戸をひと回りしろとおっしゃったんじゃござんせんか!",
"ただ回るんじゃねえんだよ。山の手に九人、下町に二十一人町名主がいるはずだ。辰あまだ江戸へ来て日があせえから山の手の九人、おめえは下町の二十一軒を回って、ふたりとも、いいか、忘れるな。もし町内に小町娘といわれるべっぴんがいたら、おやじ同道ひとり残らずあしたの朝の四ツまでに数寄屋橋のお番所へ出頭しろと、まちがわずに言いつけておいでよ",
"ちぇッ。いよいよもってたまらねえことになりゃがったな。さあ、ことだぞ。ね、だんな――つかぬことをおねげえするようで面目ござんせんが、ちょっくら月代をあたりてえんですがね。それからあとじゃいけませんかね",
"不意にまた何をいうんだ。まごまごしてりゃ、回りきれねえじゃねえか",
"でも、小町娘を狩り出しに行くんだからね、暇があったら男ぶりをちょっと直していきてえんだが――、ええ、ままよ。男は気のもの、つらで色恋するんじゃねえんだッ。じゃ、辰ッ、出かけようぜ!"
],
[
"ねえ、だんな! どうです。すっかり世間がほがらかになっちまうじゃござんせんか。これだから、お番所勤めはいくらどじだの、おしゃべり屋だのとしかられましても、なかなかどうして百や二百の目くされ金じゃこのお株は売れねえんですよ。ね、ほらほら、また途方もねえ上玉がご入来あそばしましたぜ。――でも、それにしちゃ、あのおやじめはちっとじじむさすぎるじゃござんせんか。もしかするてえと、もらい子じゃねえのかな。だとすると、これで広い世間にゃ、もらい合わせて跡めを譲ろうってえいうようなもののわかったやつがいねえわけでもねえんだからね、年もころあい、性はこのとおりの毒気なし、ちっと口やかましいのが玉に傷だが、そこをなんとか丸くおさめて、あっしが半口乗るわけにゃめえりますまいかね",
"…………",
"ちょッ、いやんなっちまうな。どういうお気持ちで狩り出したかしらねえが、だんなが発頭でお呼びなすったんじゃござんせんか。九人も十人もの小町娘をいっぺんに見られるなんてことあ、一度あって二度とねえながめなんですよ。やけにおちついていらっしゃらねえで、きょうばかりは近所づきあいに、もっとうれしくなっておくんなせえよ。な、辰ッ。おい、お公卿さまッ",
"…………",
"ちぇッ、のどかなくせに、きどっていやがらあ。寸は足りねえったって、耳は人並みについているじゃねえか。なんとか返事をしろよ",
"だって、このついたてが高すぎて、よく向こうが見えねえんだよ",
"ほい、そうか。高すぎるんじゃねえ、おめえがちっとこまかすぎるからな。じゃ、おれがふたり分堪能してやるから、気を悪くすんなよ。――ねえ、だんな、ないしょにちょっと申しますが、ついでだからころあいなのをひとり見当つけておいたらどうですかい。あっしゃそればっかりが気になって、毎晩夢にまでも見るんですよ。似合いの小町とこうむつまじくお差し向かいで、堅すぎず、柔らかすぎず、ごいっしょに涼んでいらっしゃるところをでも拝見できたら、どんなにかあっしも涼しくなるだろうと思いましてね。――よッ。いううちに、今はいってきたべっぴん、だんなのほうをながめて、まっかになりましたぜ。助からねえな。おれなんかのほうは、半分だっても見当つけてくださる小町ゃねえんだからね"
],
[
"よしッ。いま来たふたりのおやじがたいせつなお客だ。あとの者たちは、もう目ざわりだから、引きさがるように申し伝えろッ",
"…………",
"何をパチクリやってるんだ。幾人来たか数えてもみないが、あとの小町娘たちにはもうご用済みだからと申し伝えて、引きさがるように手配しろよ",
"…………",
"…………⁈",
"血のめぐりのわりいやつだな。いつまでパチクリやってぽかんとしているんだ。きさまは河童権があんどんへ残していった文句覚えてねえのか。江戸の小町娘は気をつけろ、比丘尼小町に食われちまうぞと、気味のわるい文句があったじゃねえか",
"ちぇッ、そうですかい。じゃ、あんな文句が残っているからにゃ、どこかほかでもう比丘尼小町とやらにやられた娘があるだろうと眼がついたんで、わざわざ小町改めをしたんですかい",
"決まってらあ。いま来たあのおやじどもを見ろ。なにか思いもよらねえいわくがあるとみえて、おどおどうろたえているじゃねえか。だから、もう小町娘を無事に連れてきた親どもにゃ用はねえんだ。早く引きさがるよう申し伝えろッ",
"これだからな。化かされまい、化かされまいと思っていても、じつにだんなときちゃあざやかだからな、せっかく堪能できると油が乗り出してきたのに、しかたがねえや。じゃ、辰ッ、遠慮しねえでついたての陰から首を出しなよ",
"まてまてッ",
"えッ?",
"ここに十金あるから、帰りの乗り物代に分けてつかわせ。暑いさなかをご苦労だった、このうえとも娘どもはたいせつにしろと、ねんごろにいたわってやれよ",
"いちいちとやることにそつがねえや。おい、辰ッ。背のちっちぇえのが恥ずかしかったら、せいぜい伸び上がってついてきなよ"
],
[
"遠慮はいらぬ。心配ごとがあらば、早く申し立てろ",
"へえい……",
"たぶん、両名とも娘たちの身の上に、何か異変があっての心配顔と察するが、どうじゃ、違うか",
"お察しのとおりなんでございまするが、でも、ちっと話がこみ入っているんでございますよ。じつは、ゆうべおそくに町名主がおみえなさいまして、この町内で小町娘と評判されているのはおまえのところのお千恵だけじゃ、しかじかかくかくでお番所から不意にお呼び出しがかかってきたから、四ツまでに出頭しろと、このように申されましたんで、なんのことやら、では参りましょうと、さっそくただいま、預けておいたところへ娘を連れに参りましたら、どうしたのでござりましょう、その娘がふいっと行くえ知れずになったのでござりますよ",
"なに! 預けておいたとな! 聞き捨てならぬことばじゃ。いつ、どうして、どこへ預けておいたか!",
"それがどうも、ちっと気味のわるい話なんでございますよ。聞けば、こちらの綿半さんも同じようなめにお会いなすったそうでございますが、ちょうど三日まえのことでございます。てまえは神田の連雀町で畳表屋を営みおりまする久助と申す者でございますが、雨がしょぼしょぼ降っていました晩がた、おかしな比丘尼の女行者がひょっくりとやって参りましてな――",
"なにッ、女行者とな! 美人だったか!",
"へえい。目のさめるほど美しい比丘尼の行者でございましたが、ひょっくり、やって参りまして、いま通りかかりに見たのじゃが、おまえの家の屋の棟に妖気がたちのぼっているゆえ、ほっておいたら恐ろしい災難がかかってくるぞ、とやにわにこのようなことを申しましたのでな、家内もてまえもそういうことは特別かつぎ屋でございますゆえ、何がそんなあだをするのでございましょうと尋ねましたら、気味のわるいこともあればあるものではござりませぬか。この屋敷には五代まえから白へびが主となって住んでいるはずじゃが、今まで一度も供養をせずにほっておいたゆえ、それがお怒りなすったのじゃ、とこんなことを申すんですよ。でも、そんなへびは祖先代々お目にかかったという話さえも承ったことがございませんゆえ、半信半疑に聞いておりましたところ、疑うならばお呼び申してしんぜようと申しまして、なにやら呪文のようなことを二言三言おっしゃいましたら、二尺ばかりのまっしろいへびが、ほんとうに縁側からにょろにょろとはいってきたんでございますよ!",
"それで、いかがいたした。災難のがれに、娘を供養にあげろと申しおったか!",
"へえい。供養金を百両と、娘の千恵めを五日間お比丘尼さまのご祈祷所におこもりさせたら、へび静めができると、このようなことを申しましたゆえ、どんな災難がござりまするか、つまらぬあだをされてはと震え上がりまして、おっしゃるとおりにしましたところ、奇態ではござりませぬか、お祈祷所はそのままでございましたが、ただいま行ってみますると、娘もお比丘尼さまもどこへ行ったものやら、かいもくあとかたも見えないのでござります",
"綿半とやら、そちも同様だったか",
"へえい。一日だけてまえのほうが早いだけのことで、何から何までそっくりでござりました。ほかのものならそれほどもぎょうてんいたしませぬが、見たばかりでも気味のわるい白へびがにょろにょろ庭先へはい出してまいりましたゆえ、てまえも、家内も、娘のお美代もすっかりおじけたちまして、いうとおり百両さしあげ、やっぱりおこもりにつかわしましたのでござります",
"その間に祈祷所とやらへ、様子見に参ったことはなかったか",
"おきれいなお比丘尼さまでござりましたゆえ、安心しながらきょうまでお預け放しにしておいたのでござります"
],
[
"おろか至極な親どもだな! へび使いの比丘尼小町に、たいせつな娘をしてやられたぞッ",
"えッ! では、では、娘をかたり取るために、そんな気味のわるい長虫を使ったのじゃとおっしゃるのでござりまするか",
"決まってらあ。小へびのうちから米のとぎじるで飼い育てたら、どんなへびでも白うなるわ!",
"でも、呪文を唱えましたら、それを、合い図ににょろにょろとはい出したのが、奇態ではござりませぬか!",
"だから、愚かな者どもじゃと申しているんだッ。前もって縁の下にでも放しておいて、使い慣らした白へびを呼び出したんだッ",
"ならば、娘の身にもなんぞ異変が起きているのでござりましょうか! かたりかどわかしたうえで、どこぞ遠いところの色里へでも売り飛ばしたのでござりましょうか!",
"相手はへびと一つ家に寝起きしている比丘尼行者だ。もっとむごたらしいめに会っているかもしれんぞッ。祈祷所とか申したところは、遠いか、近いか!",
"湯、湯島の天神下でござります",
"じゃ、伝六ッ",
"…………",
"伝六ッといっているのに、聞こえねえか!",
"き、聞こえますよ、聞こえますよ。ちゃんと聞こえているんですが、どうせのことなら、ゆうべの式部小町を先にかぎ出しておくんなせえな、生得あっしにゃ、長虫ってえやつがあんまりうれしくねえんでね。話きいただけでも、目先にちらついてならねえんですよ",
"忙しいやさきに、よくもたびたび手数のかかるこというやつだな! その式部小町もいっしょにしてやられているから、急いで駕籠呼んでこいといってるんだッ",
"えッ。じゃなんですかい! 河童権に一服盛りやがったのも、おんなじ比丘尼小町のへび使いのその女行者だというんですかい!",
"決まってらあ! 捨てておいたら、三人の小町娘が生き血を吸いとられてしまうかもしれねえんだから、早いところしたくをしたらいいじゃねえか! へびがこわかったら、鎧でも兜でもかぶってこい!"
],
[
"駕籠なら三丁表につれてめえりましたよ",
"そうかみろ! のどかなあにいに、ヒリリと一本、小粒の辛いところを先回りされたじゃねえか! じゃ、そっちの町人衆! 青ざめていねえで、早く乗りなよ"
],
[
"辰ッ",
"えッ",
"兄貴ゃどこへもぐったッ",
"それがどうもおかしいんですよ。目色を変えながらふいッと今のさっき表のほうへ飛び出したんでね。だいじょうぶだ、へびはいねえよっていってやりましたら、おれさまともあろうものが、こまっけえやつの下風についてたまるけえと、こんなことをガミガミ言いのこしまして、どこかへずらかっちまいましたんですよ"
],
[
"ちくしょうッ、ざまあみろい! 日ごろはどじの血のめぐりがわりいのと、いっぺんだっておほめにあずかったこたあねえが、きょうばかりは伝六様のできが違うんだッ。ね、だんな、だんな! このとおり、おてがらあげてきたんだから、頭をなでておくんなせえよ!",
"それどころじゃねえや! 三人の小町が生きているかも死んでいるかもわからねえ早急の場合じゃねえかッ。のそのそと、どこをほつき歩いていたんだッ",
"ちぇッ、犬っころじゃあるめえし、のそのそほつき歩いているはねえでがしょう! あっしだっても、だんなにゃ一の子分です! 辰みていな豆公卿にお株とられてたまりますかい! たまさか気イきかして駕籠のしたくをしたぐれえで、小粒のさんしょうにヒリリとやられたもねえもんじゃござんせんか! 大張りの伝六太鼓だって、たたきようによっちゃいい音が出るんだッ。あんまり辰ばかりをおほめなすったんで、くやしまぎれに、ちょっといま小手先を動かしたら、こういうもっけもねえ品が手にへえったんですよ。早いところご覧なせえよ! あて名も、差し出し人も、字は一つもねえっていう白封の気味のわるい手紙じゃござんせんか!",
"どこからそんなものかっぱらってきたんだッ",
"ちぇッ。あっしが手に入れてくりゃ、かっぱらってきたとおっしゃるんだからね。細工は粒々、隣ののり売りばばあから巻きあげてきたんですよ。なんでも、ばばあのいうにゃ、ゆんべ夜中すぎに、比丘尼の行者が式部小町らしいべっぴんをしょっぴいてきて、けさまたうろたえながら大きなつづら荷つくって人足に背負わしたあとを、こそこそとどっかへ出かけたというんですよ。その出かけたるすへ、この白封が入れ違いに届いたんで、のり売りばばあが預かっていたというんですがね。聞いただけでも、大きにくせえじゃござんせんか! 早いところあけてご覧なせえよ!"
],
[
"ちくしょうめッ。すっかり頭を痛めさせゃがって、やっと行き先だきゃ眼がついたぞッ。伝六ッ、駕籠はどうしたッ",
"表に待たしてごぜえますよ!",
"よしッ。じゃ、小石川だッ",
"えッ?",
"行く先は小石川の白山下だよ!",
"だって、葬式道具の受取にゃ、久世大和守家中としてあるじゃござんせんか! 久世の屋敷なら麹町ですぜ!",
"うるせえや! おれがこうと眼をつけたんだッ。やっこだこになってついてこい!"
],
[
"九郎兵衛は家をあけているはずだが、いつからるすをしているかッ",
"いいえ、いるんですよ、いるんですよ。ご主人ならば、家なんぞあけやしませんよ",
"なにッ、いるとな! 奥か、二階か!",
"三日まえから裏の土蔵にたてこもって、何をしていらっしゃいますのか、一歩も外へ顔を見せないんですよ"
],
[
"むっつり右門といわれるおれを向こうに回して、とんでもねえ茶番をうったものじゃねえか。さすがのおれも、今度ばかりはちっと汗をかいたよ。九郎兵衛おやじ!",
"へえ?",
"きさまも途方もねえいかもの行者に化かされたな",
"何をめっそうなことをおっしゃいますか! 屋敷の主のお白へびさまに一度も供養したことがございませんため、屋の棟に妖気がたち上っているとそちらのお比丘尼さまがおっしゃってくださいましたゆえ、こうして一心不乱におへびしずめの行を積んでいるのに、何をもったいないことをおっしゃいますか!",
"隠坊屋の親類みてえな商売やっているくせに、みっともねえのぼせ方しているな。目がさめなきゃ、おれが正気にさせてやらあね。おいおい、比丘尼さん!",
"…………",
"ひとりあってふたりといねえおれなんだッ。早く涼みてえから、すっぱりと吐いちまいなせえよ",
"…………",
"ほほう、このうえ小知恵小才覚で、おれを向こうに回そうとおっしゃるのですかい。大味のようならこっちも大味、小味に出ればこっちも小味、むっつり右門にゃいくらでも隠し札があるぜ",
"恐れ入ってござります……",
"恐れ入っただけじゃわかりませんよ。玉の輿に乗ろうと思えば、いくらでも乗られるそのご器量で、この大仕組みの茶番をするにゃ、何か思いもよらねえいわくがあるだろうとにらみましたが、違いますかね",
"…………",
"もじもじなさる年ごろでもなさそうじゃござんせんか。じらさずに、すっぱり吐きなせえよ",
"お恥ずかしいことでござりまするが、じつは、一生一度と契り誓いました情人に、金ゆえ寝返りされましたため、思い込んだが身の因果、小判で男の心をもう一度昔に返すことができますものならと、とんだ人騒がせをしたのでござります……",
"なにッ、恋が身を焼いたとがですとな! そいつあちっと思いもよらなすぎますが、そう聞いちゃなお聞かずにおられねえや。てっとりばやくおいいなせえよ",
"申します、申します。もとわたくしは京に育ちまして、つい去年の暮れまで、二条のほとりでわび住まいいたしまして、古い判じのへび使いをなりわいにいたしておりましたが、ふと知恩院の所化道心様となれそめまして、はかない契りをつづけていましたうちに、わたしとの道にそむいた恋がお上人さまのお目にとまり、たいせつなたいせつな所化様は寺を追われたのでござります。それまではなれそめたが因果にござりましたゆえ、男もわたしも互いに変わらじ変わるまいと、さっそく還俗いたしまして、行く末先のよいなりわいを捜し求めようといたしましたが、先だつものは金。困じ果てているところへ魔がさしたというのでござりましょう、所化のころから出入りしておりましたるお檀家の裕福なお家さまが、命とかけたわたしの思い人を金にまかせて奪い取り、ふたり手を携えこの江戸に走りまして、四谷の先に袋物屋を営みおりますと知りましたゆえ、恥ずかしさもうち忘れあと追いかけまして、昔のふたりに返るよう迫りましたところ、男の申しますには、金子七百両がなくば義理をうけたお家さまから手が切れぬとこのように申しましたゆえ、男心がほしいばっかりにその七百両をこしらえようと、このような人騒がせのまねする気になったのでござります",
"でも、そのために、無垢な小町娘をねらうたあ、ちっとやり方があくどすぎるじゃござんせんか",
"いいえ、それがわたしにしてみれば、そういたしまするよりほかに手段がなかったのでござります。七百両といえばもとより大金、女子の腕一つで手に入れますためには、――だいじなだいじな……",
"だいじなだいじな何でござりまするか",
"女子には命よりもだいじな操を売るか、でござりませねば、なりわいのへび占いで、あくどくはござりますとも、人の迷信につけ入るよりほかによい手段はないはずではござりませぬか。なればこそ、こちらの九郎兵衛様がお見かけによらぬご信心家で、お蔵にもたんまりお宝があると聞き知りましたゆえ、使い慣らした白へびをあやつり、魔をはらってしんぜると巧みにつけこみまして、それには三十二相そろった三人の小町娘を生き宮にして五日間へびしずめの祈祷せねばならぬとまことしやかにもったいつけたうえで、五百金のお宝を祈祷料にかたり取るつもりでござりました。さればこそ、綿屋様と畳屋様のお二軒にも同じ手口で白へびをあやつり、おたいせつなお娘御をことば巧みにお借り申したのでござりまするが、あとのひとりはあいにくとご迷信深い親御さまがたやすく見つかりませなんだゆえ、たんざく流しの催しがあると聞いたをさいわい、船頭の権七どのに三両渡して事情を打ちあけ、ゆうべのような手荒いまねをしたのでござります。それというのも、こちらの九郎兵衛様があとのひとりをせきたてなさいましたゆえ、はよう金を手に入れまして、天下晴れてのめおととなりたいばっかりに、つい手荒なまねをいたしましたのが運のつきでござりました。なれども、ただ一つお三方のお嬢さまがたにみだらな指一本触れさせませなんだことだけは、どうぞおほめくだされませ。せめて、それをたった一つのみやげに、くやしゅうござりまするが、男をあとへのこして、地獄の旅へ参りましょう……ごめんなさりませ。ごめんなさりませ"
],
[
"きょうはちっと気がめいっているんだッ。何がわからなくてひねるんだい!",
"いいえね、あっしもそうそうたびたびひねりたかあねえんだが、どうしてまた、だんなが葬具屋の九郎兵衛に行き先の眼をつけたか、そいつが奇態でならねえんですよ",
"うるせえが、いってやらあ。何かにつけて世間のうわさや人のうわさは聞いておくもんだよ。おれもあの妙ちきりんな白封の手紙を見たときゃ、ちっとぞっとしたが、あれこそは九郎兵衛が世間の口にけち九といわれているとんだ大ネタさ。だいじな手紙なんだから、半紙の一枚や二枚けちけちしねえだってよかりそうなのに、あんな葬式道具の受取を二度の用に使ったんで、こんなけちな野郎はどやつだろうと糸をたぐったその先へ、ピンときたのがけち九郎兵衛の世間のうわさ。しかも、受取書が葬式道具じゃねえか。まだそれでもわからねえのかい",
"でも、それにしちゃ、なんだってまたそんなけち九郎兵衛が、五百両もの大金積んで、あの比丘尼小町にはめられたんでしょうね",
"もううるせえや! 恋とご幣かつぎは、昔から思案のほかと相場が決まっているじゃねえか"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
※誤植は、『右門捕物帖 第二巻』新潮文庫と対照して、訂正した。ただし、底本、新潮文庫版ともに「あっし」を一箇所「あつし」としているが、「あっし」とした。
入力:tatsuki
校正:M.A Hasegawa
2000年4月22日公開
2005年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000569",
"作品名": "右門捕物帖",
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[
"ちぇッ。兄弟がいのねえ野郎だな。あごだって調子のものなんだ。使わずにおきゃ、さびがくらあ。善根を施しておきゃ、来世は人並みの背に産んでくれるに相違ねえから、もっと仏心出して相手になれよ",
"…………",
"耳ゃねえのか!",
"…………",
"ちょッ。やけに目色変えて、豆ばかりいじくっていやがらあ。だから、豆公卿だなんかと陰口きかれるんだ。――ね、だんな! ちょっと、だんな!",
"…………",
"いやんなっちまうな。だんなまで、あっしをそでにするんですかい。あごなんぞなでりゃ、何がおもしれえんですか。からだ持ち扱っているんですから、人助けだと思って相手になっておくんなさいよ"
],
[
"頼もう! 頼もう!",
"よッ。やけに古風なせりふぬかしゃがるぞ。羅生門から鬼の使者でも来やがったのかな"
],
[
"ごめんあそばせ……ごめんあそばせ……",
"おっ! いい音がしたぞ、陰にこもった声のぐあいが、どうやら忙しくなりそうだぜ。――へえい、ただいま、ただいま参ります。少々お待ちくださいまし。ただいま伝六が参ります"
],
[
"しばらく……お久しゅうござんした",
"…………",
"ま! わたしですよ。お見忘れでござんすか。わたしですよ",
"…………?",
"去年の夏、お慈悲をかけていただいた、くし巻きのお由ですよ",
"えッ"
],
[
"そうでござんしたか! ずいぶんとお変わりになりましたな。見れば、すっかり堅気におなりのようでござんすが、今は何をしておいででござんす",
"あの節のお慈悲が身にしみましたゆえ、あれからすっかり足を洗いまして、湯島の天神下で、これとこれの看板をあげているんでございますよ",
"なに、三味線と琴のお師匠をおやりでござんすか。ほほう、器用なおかたは何をおやりになってもご器用とみえますな。ときに、ご用向きはなんでござんす",
"じつは、ぜひにもだんなさまのお力をお借り申したいと存じまして、知り合いのお殿さまをお連れ申したんでござんすが、お会いくださいましょうかしら",
"会うはよろしゅうござんすが、いったいどういうお知り合いなんでござんす",
"お嬢さまに琴のおけいこしに上がっておりますんで、その知り合いなんでござんす",
"ふうむ、そうでござんすか。わざわざお越しなさったところを見ると、何かご内密のお頼みでござんすな",
"は、だんなさまの侠気におすがりいたしましたら、どんな秘密でもお守りくださいますからと、わたしがおすすめ申しまして、お連れしたんでございますよ",
"そうでござんすか。そう聞いては、どのようなお頼みかは存じませんが、あとへは引かれますまい。ようござんす! いかにもお頼まれいたしましょう!"
],
[
"いや、お驚きあそばしますにはあたりませぬ、おみ足の運びぐあい、お手のさばき、たしかに今川古流の作法と存じましたが、目違いでござりましたか",
"ご眼力恐れ入ってござる。いかにも、今川古流を指南いたす北村大学と申す者でござる。以後お見知りおきくだされい",
"そのごあいさつではかえって痛み入りましてござります。お顔の色は尋常でござりませぬのに、一糸乱れぬお身のこなし、さだめしお名あるご高家のおかたでござりましょうと存じまして、かく失礼なこと申しましたしだいでござりまするが、して、てまえにお頼みとは、どのようなことでござります",
"…………",
"いえお隠しあそばしますには及びませぬ。てまえもいささか人に知られた近藤右門、夢断じて口外いたしませぬゆえ、ご懸念なくお明かしくだされませ",
"かたじけない、かたじけない。それを聞いて大いに安堵いたしたが、じつは将軍家からお預かり中のお能面が紛失したのでござるわ",
"えッ、すりゃまた容易ならぬ紛失物でござりまするが、どうした子細でさような貴品、お預かりなさっていたのでござります?",
"それがじつはちと申し憎いことでござるが、知ってのとおり、当節は諸家みな小笠原ばやり。そのため日増しに今川古流は世に捨てられて、お恥ずかしながら家名もろくろくささえることできぬほどの貧困に陥りましたゆえ、その由将軍家のお耳に達したとみえ、てまえ一家をお救いくださるご賢慮からでござろう。申すもかしこいことにござるが、上さまご秘蔵あそばす蓮華鬼女のご能面保管方をてまえにお申しつけくださって、保管料という名目のもとに、年金三百両あてお下げ渡しくださるならわしでござったのじゃ。なれども、なまじ高家なぞという格式あるため、年々費用出費はかさむばかり。そのため、ふとした心の迷いから、ご貴品と知りつつ、つい金に窮してさる質屋へ入れ質いたしおいたところ、けさほどお達しがござって、明十四日の上覧能に持参せよとのご諚がござったゆえ、うろたえてようやく借用の百金を調達いたし、さきほど受け質に参ったのじゃが、しかるに、どうしたことやら――",
"質屋でいつのまにか紛失していたのでござりまするか",
"さようじゃ。それがちと奇態なのじゃわ。入れ質いたすとき、てまえと用人と、それなる質屋の番頭の十兵衛と申す者と、三人してしかと立ち会い、じゅうぶん堅固な封印いたしておいたのに、さきほどお箱を開いて見改め申したところ、てまえの印鑑をもって封じておいた封印はいささかも異状がないのに、中身のお能面だけがいつ抜きとられたものかからなのじゃ。なれども、身におちどのあることゆえ、あからさまに奉行所へ駆けつけてまいることもならず、さりとて捨ておかばお宝の行くえもだいじと生きた心持ちもなく心痛しておったところへ、こちらのお由どのがお越しくださって、貴殿にご面識ある旨聞き及んだゆえ、家門の恥辱も顧みずに、こうしてお力借りに参ったのじゃ。なんとも不面目しだいな仕儀でござるが、老骨一期の願い――このとおりじゃ。このとおりじゃ"
],
[
"ご心痛のほど、よくわかりました。事実はどうありましょうと、上さまご秘蔵のご名宝が紛失いたしたとあっては捨ておかれませぬゆえ、いかにもお力となりましょう",
"そうでござるか! かたじけない! かたじけない! このとおりじゃ! このとおりじゃ!",
"もったいない、お手をおあげくださりませ。そうと聞いてはあすの朝までにまにあわせねばなりませぬゆえ、すぐにも詮議にかかりましょうが、それなるからのお箱は、質屋に置いたままでござりましょうな",
"中身のないもの預けぬと申して、土蔵の中に置いたままでござるわ",
"質屋はどこでござります",
"湯島天神下の三ツ藤というのでござるわ",
"お屋敷もご近所でござりまするか",
"筋向かいじゃ",
"そうでござりまするか。――では、伝六ッ",
"…………",
"伝六はどこへ参った!"
],
[
"どうでえ! どうでえ! この鳴り方をみろ! きょうは張りきってるんだから、いつもの伝六太鼓とは音が違うんだッ。お駕籠だろうと思って、もうちゃんと用意してまいりましたぜ",
"人見知りをしないやつだな。お人さまがいらっしゃるのに、そうガンガン鳴るな。雇ってきたのはいいが、何丁じゃ",
"ちぇッ、決まってるじゃござんせんか! だんなの分が一丁ですよ!",
"たまにできがいいと思や、そのとおりまがぬけてらあ。もう一丁つれてきな",
"えッ?",
"急いでいるんだ。たたらを踏んでいるまに、早くいってきなよ"
],
[
"あるじはいるか",
"…………",
"ほほう、歯の根が合わぬようじゃな。八丁堀の右門じゃ。こわがらいでもよい。主人はいるか",
"あの、死にました",
"なにッ。いま死んだのか",
"いいえ、この春でござります",
"では、今、主なしの店か",
"いいえ、ござります",
"だれじゃ",
"番頭の十兵衛どのが、おかみさんの後見をいたしまして、主人同様に切り盛りしてござります",
"手数のかかるやつよのう。それならそれと初めから申せばよいのに、その番頭に用があるのじゃ。はよう呼べ"
],
[
"どうやら、あの野郎が臭いじゃござんせんか。からの箱なぞを調べてみたって、手品使いじゃあるめえし、中からお能面がわいて出るはずもねえんだから、てっとり早く野郎を締めあげたほうが近道かもしれませんぜ",
"控えろ"
],
[
"これなる封印は、先ほど立ち会ったとき破ったのじゃな",
"さようでござります",
"大学殿のおことばじゃと、中身を改めるまでは、封印に少しも異状がなかったとのことじゃが、たしかにそのとおりじゃったのか",
"なんの異状もござりませんだからこそ、安心してお改めを願うたのでござります",
"預かったのはいつじゃった",
"つい二十日ほどまえでござります",
"その節はじゅうぶん中身を改めて、預かったのじゃな",
"ご念までもござりませぬ",
"どういう品か、存じて預かりおったか",
"ご名家の北村様がお持参の品でござりますゆえ、いずれは名ある品と存じまして、べつに詳しいことをお尋ねもしませいで預かりましてござります",
"では、これなる倉じゃが、ここへいつもなんぴとが出はいりいたすか。小僧どもが出入りするか",
"いいえ。この倉は、ご覧のとおりお金めの品ばかりでござりますゆえ、てまえ一人のほかは出入りいたしませぬ",
"でも、倉の戸はいつもあいているようではないか",
"あのとおりてまえの帳場が入り口にござりますゆえ、よし戸はあいておりましょうと、他の者の出入りはできませぬ",
"帳場にいないときはなんとするか",
"ご新造さまにお番をお願い申すのでござります",
"そうか。では、手すすぎを持ってまいれ"
],
[
"ご新造が、だんなにないしょでちょっとお目にかかりたいと申しておりますぜ",
"なに? 用はなんじゃと申した",
"あの野郎のことで、お耳へ入れたい話があると、こういうんですよ"
],
[
"主人の身で、使用人のことをあしざまに申しますのは、はしたないようでござりまするが、どうも十兵衛どんがこのごろ毎晩おかしいんでございますよ",
"どのようにおかしいのでござる?",
"毎晩日の暮れどきになりますと、水茶屋者らしい女がこっそり呼び出しに参りまして、十兵衛どんがまたそわそわしながら目色を変えて、いっしょにどこかへ出ていくんでございますよ",
"なにッ、茶屋女でござるとな! ふうむ! そうか! どうやら、きょうばかりは伝六様にいい音を出されたな。――なによりのこと聞かしてくださった。じゃ、伝六ッ、辰ッ。久しぶりで立ちん坊だ。むだ口きくなよ"
],
[
"だんな、だんな! 上玉ですよ! 上玉ですよ! ね! どうです。しゃくにさわるほどあだ者じゃござんせんか",
"ほどを知らねえやつだな。口をきくなといっておいたじゃねえか。静かにしろ!",
"でも、やけにべっぴんなんだからね。出すまいと思っても、ついひとりでに音が出てしまうんですよ",
"うるせえな。聞こえて玉に逃げられたら、また手数がかかるじゃねえか。いらざるときにむだ音を出すな"
],
[
"バカバカしいや。これだから、伝六太鼓はあてにならんよ。おめえがあんまり陰にこもった鳴り方させたんで、ついうっかりとおれも調子につり込まれてしまったが、とんでもねえ眼ちげえだぞ",
"何を理屈もねえことおっしゃるんですかい! いくらだんなが碁は初段にちけえお腕めえだって、音を聞いただけで眼の狂いがわかってたまりますかい! 碁打ちのなかにだって、石川五右衛門の生まれ変わりがいねえともかぎらねえんだ。十兵衛の野郎、どう考えたってくせえんだから、しりごみせずと踏ん込みましょうよ!",
"わかりのにぶいやつだな。あの石の運びは、まさしく習いたてのザル碁の音だ。碁将棋を覚えりゃ、親の死にめにも会われねえというくれえのもんじゃねえか。野郎め、そわそわしながら出てきたな、近ごろに覚えやがったんで、それがおもしろくてならねえからのことだよ。だいいち、身にやましいことがありゃ、ああゆうゆう閑々と碁石なんぞいじくっていられるものかい。とんだ大笑いさ",
"ちぇッ、伝六太鼓鳴りそこないましたか。じゃ、ちっとまたあわてなくちゃなりますまいが、これからいったい、どうなさるんですかい",
"ところが、物は当たってみるもんじゃねえか。碁石の音をきいて、とんだ忘れ物をいま思い出したよ。さっき北村の大学先生から、だいじなことで聞き忘れていたことが一つあるはずだが、おめえは思い出さねえのかい",
"…………⁈",
"印形だよ。封印に使った印形が無事息災かどうか、肝心なそいつをちっとも聞かなかったじゃねえか",
"ちげえねえ、ちげえねえ"
],
[
"なくなったのにお気づきなさったのは、いつでござります",
"ほんの今なのじゃ",
"では、お封印のときお使いなすったままで、今までは一度もご用がなかったのでござりまするな",
"そうなのじゃ。見らるるとおり、特別仕掛けの錠前をじゅうぶん堅固に掛けておいたゆえ、だいじょうぶこの中にあるじゃろうと存じて、先ほども印鑑のことは申さずにおいたが、もしやと存じて調べたところ、このとおり紛失してござるわ"
],
[
"どうやら、これはオランダ錠のようにござりまするが、これなる錠前あけることをご存じのおかたは、あなたさまおひとりでござりまするか",
"いや、ほかに用人の黒川が存じておるにはおるが、黒川ならばいたっての正直者ゆえ、不審掛けるまでもござらぬわ",
"でも、念のためでござりますゆえ、お招き願えませぬか"
],
[
"ちと変なお願いでござんすが、お由さん、大急ぎで鳥追い姿にやつしてくれませんか",
"…………?",
"ご不審はあとでわかりますから、ひとっ走りお宅へ帰って、早いところおしたくしてくださいましよ"
],
[
"あの用人の野郎の懐中物をすっておくんなさい!",
"えッ!",
"あっしが許してお願いするんだ。遠慮なさらず、昔の腕を奮っておくんなさいよ",
"そうでござんしたか! そのために、わたしを鳥追いにやつさせたんでござんすか。お上のだんながお許しくださいましたとならば、久しぶりに若返りましょうよ"
],
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"用人黒川! 神妙にせい!",
"えッ!",
"さっきの右門と今の右門たあ、同じ右門でも味がお違い申すんだッ。じたばたせずと、おなわうけい!",
"そうか! ゆだんさせて、つけてきやがったのか! もうこうなりゃ破れかぶれだッ"
],
[
"世間に知られちゃ、きさまも北村殿も割腹ものだ。手数をかけずにどろを吐けッ",
"…………",
"まだつまらぬ強情張るのかい。じゃ、びっくりするもの見せてやろう。この印形と質札に覚えはねえのか!",
"げえッ",
"おそいよ、おそいよ。こっちゃお献立ができてから押えたんだ。びっくりするまにどろを吐いたらどんなものだ",
"そうでござりまするか! どうしてお手にはいりましたか存じませぬが、その二品を押えられましては、お慈悲におすがり申すよりほかにしかたがござりますまい。なんとも恐れ入りましてございます",
"ただ恐れ入っただけじゃわからねえや。なんだって、こんな人騒がせやったんだ",
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"でも、ちと不審じゃな。そなたが金のくめんに困るはよいとして、こちらのご新造はりっぱな分限者の女主人だ。金に困るとは、またどういうわけじゃ",
"いいえ、それがちっとも不審ではござりませぬ。あれなる番頭十兵衛は、先代の甥でござりまして、口やかましく身代の管理をいたしておりますゆえ、あるはあっても一文たりとままにならぬのでござります",
"そうか。そこで、このおかみさん、十兵衛に罪を着せて、うまいこと追ん出し、あとでほどよくねこばばするつもりから、ろくでもないあんな告げ口したのかい。そうとわかりゃ、先を急がなくちゃならねえが、室井屋という質屋は何町だ",
"表神田でござります",
"じゃ、お由さん、北村のご主人に、そのこと一刻も早く知らせてあげておくんなさい"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:柳沢成雄
2000年8月10日公開
2005年8月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000578",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "18 明月一夜騒動",
"副題読み": "18 めいげついちやそうどう",
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"名読みソート用": "みつそう",
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"名ローマ字": "Mitsuzo",
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"底本名1": "右門捕物帖(二)",
"底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店",
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[
[
"ね、だんな、性得あっしゃこの秋っていうやつが気に食わねえんでね。だからってえわけじゃござんせんが、せっかくの非番びよりに、生きのいいわけえ者がつくねんととぐろを巻いていたって、だれもほめてくれるわけじゃござんせんから、ひとつどうですかね、久方ぶりに浅草へのすなんてえのもあだにおつな寸法だと思うんだが、御意に召しませんかね",
"…………",
"ちぇッ。親のかたきじゃあるめえし、あっしがものをいいかけたからって、なにもそう急に空もよう変えなくたってもいいじゃござんせんか。そりゃ、あっしゃ口うるせえ野郎です。ええ、そうですよ、そうですよ。辰みてえにお上品じゃござんせんからね。さぞやお気に入らねえ子分でござんしょうが、なにもあっしが行きたくてなぞかけるんじゃねえんだ。あのとおり、辰の野郎がまだ山だしで、仁王様に足が何本あるかも知らねえんだから、こんなときにしみじみ教育してやったらと思うからこそいうんですよ",
"…………",
"伝之丞の居合い抜きが殺風景だというんなら、生き人形なぞも悪くねえと思うんですがね",
"…………",
"それでも御意に召さなきゃ、ことのついでに両国までのすなんてえのも、ちょっと味変わりでおつですぜ",
"…………",
"聞きゃ、娘手踊りと猿公のおしばいが、たいそうもねえ評判だってことだから、まずべっぴんにお目にかかってひと堪能してから、さるのほうに回るなんてえのも、悪い筋書きじゃねえと思うんですがね。あっしのこしれえたお献立じゃ気に入りませんかね",
"…………",
"ちぇッ。何が御意に召さなくて、あっしのいうことばかりはお取り上げくださらねえんですかい。天高く馬肥えるってえいうくれえのものじゃござんせんか。人間だっても、こくをとってみっちり太っておかなきゃ、これから寒に向かってしのげねえんだ。久しく油っこいものいただかねえから、まだ少しはええようだが、今からそろそろ出かけて、お昼に水金あたりでうなぎでもたんまり詰め込んでから、腹ごなしに小屋回りするなんてえのは、思っただけでも気が浮くじゃござんせんか"
],
[
"兄貴ゃどうしたい",
"え?",
"伝六太鼓はどこへ逐電したかってきいてるんだよ",
"それが、じつはちっとのんきすぎるんで、あっしもさっきから少しばかり腹だてているんですが、半年のこっちも一つ釜のおまんまをいただいているのに、兄貴の了見ばかりゃ、どう考えてもあっしにわからねえんですよ",
"やにわと変なことをいうが、けんかでもしたのかい",
"いいえ、それならなにもこうして、ぼんやりしているところはねえんですがね、今から両国へ気保養に行くんだから、だんなの雲行きの変わらねえうちに、はええところいっちょうらに着替えろと、火のつくようにせきたてたんで、いっしょうけんめいとしたくしたら、あきれるじゃござんせんか。おれゃちょっくら朝湯にいって、事のついでに床屋へ回ってくるから、おとなしく待っていなよっていいながら、どんどん出ていったきり、いまだにけえらねえんですよ",
"あいそのつきた野郎だな。あわてるときはあわてすぎやがって、気がなげえとなりゃ長すぎるじゃねえか。あいつはきっと長生きするよ。かまわねえ、ほっといて出かけようぜ",
"だいじょうぶですかい",
"あいつのことだもの、鳴らしながら追っかけてくるよ"
],
[
"みどもはいかだにいたそうかな",
"心得ました。そちらのお小さいおかたは?",
"…………",
"早く何か注文してやんなよ",
"…………",
"小さいっていわれたんで恥ずかしいのかい。じゃ、おれが代わりに注文してやらあ。がらは細かいが、お年はあぶらの乗り盛りだからね、大ぐしがよかろうよ",
"心得ました。おふたりまえで――",
"いや、六人まえじゃ",
"え――",
"六人まえだよ",
"でも……",
"できぬというのかい",
"いいえ、おふたりさまで六人まえは、ちょっとその――",
"だいじょうぶ、だいしょうぶ。あとからひとり勇ましいのが来るから、足りないかもしれんよ"
],
[
"兄貴め、まさかまい子になったんじゃありますまいね",
"お門が違わあ。食いものとなりゃ、親のかたきをほっておいても駆けだすやつなんだもの、だいじょうぶ、いまに来るよ"
],
[
"あきれたやつじゃねえか。めんどうくさいから、おいていこうよ",
"でも、おこりますよ",
"身から出たさびだよ。いこうぜ、いこうぜ"
],
[
"おいら川越の山育ちなんだからな、猿公なんぞちっとも珍しくねえんだがな",
"控えろッ",
"えッ?",
"といったら腹もたつだろうが、町方を預かっている者は、一に目学問、二に耳学問、三に度胸、四に腕っ節というくれえのもんだ。娘手踊りなんぞはいつだっても見られるが、さるしばいをのがしゃ、またいつお目にかかれるかもわからんじゃねえか。珍しいものと知ったら、せっせと目学問しねえと、出世がおくれるぜ"
],
[
"人中も人前もわきまえのねえやつだな。おまえがここへ来ようと水を向けた本人じゃねえか。みっともねえ、ガンガン大きな声を出すなよ",
"声のでけえな親のせいですよ! それにしたとて、町方を預かるお身分の者が、このせわしいなかに、のうのうと遊山はねえでがしょう! 治にいて乱を忘れず、乱にいて治を忘れずと、ご番所のお心得書きにもちゃんと書いてあるんだッ。人にさんざんと汗をかかして、腹がたつじゃござんせんかッ",
"変なところへからまるやつだな。おれが来たくてこんなところへ来たんじゃないよ。おめえがやけに誘ったから来たんじゃねえか。おいてきぼりに出会った腹だち紛れにのぼせているなら、大川は目と鼻の近くだぜ。ひと浴び冷やっこいところを浴びてきなよ",
"ちぇッ。血のめぐりのわるいだんなだな! のぼせているな、こっちじゃねえ、そっちですよ! レコなんだッ。レコなんだッ。レコが降ってわいたんですよ!",
"なに! 事件かい",
"だからこそ、やいのやいのと騒いでるじゃござんせんか! ご番所からお呼び出し状が来たんですよ!",
"でも変だな。おまえは髪床へいって、朝湯へ回って、たいそうごきげんうるわしくおめかしをしていたはずだが、違うのかい",
"もうそれだ。なにも人前でかわいい子分をいびらなくたっていいでがしょう! あっしだっても生身ですよ。生身なら月代も日がたてば伸びるだろうし、あぶらあかもたまるじゃござんせんか! きのうやきょうの伝六様じゃあるめえし、人聞きのわりいことを、ずけずけといってもらいますまいよ!",
"とちるな、とちるな。愚痴はあとでいいから、肝心のあなというのはどうしたのかい",
"さればこそ、このとおり愚痴から先へいってるじゃござんせんか。なにごとによらず芸は細かくねえといけねえんだ。だから、あっしだって、髪床へも行くときがあろうし、朝湯にだっても出かけるときがあるんだからね、いこうとすると、途中でばったり出会ったんですよ。だんなへ用かときいたら、女が殺されたんだといったんでね、女だったら――",
"いずれべっぴんだろうと思って飛び出したのかい",
"いちいちとひやかしますなよ。なににしても、女が殺されたと聞いちゃ、ほかのことはともかく聞き捨てならんからね、だんなに来たお呼び出し状なら、この伝六様のところにも来たのと同然なんだから、下検分してやろうと、さっそく行ってみるてえと、生意気じゃござんせんか。あんな年増のお多福が、女でございもねえんですよ。でもね、死んでみりゃ仏じゃあるし、仏となってみりゃ器量ぶ器量もねえんだから、どいつがいったいあんなむごい殺しようをしやがったかと、腹をたてたて、八丁堀へけえってみると、だんなもだんなじゃござんせんか。いくらあっしが水を向けたご本尊であったにしても、黙って逐電するって法はねえんだ。けれども、ほかと違ってだんなときちゃ、食いもののこととなると、親のかたきはほっておいても飛び出すおかたなんだからね、いずれ水金あたりで、五、六人まえ勇ましく召し上がってから、この辺へだろうと当たりをつけて、一軒一軒、のみ並みに小屋を捜してきたんですよ。だから、急がなくちゃならねえんだ。にやにやしていらっしゃらずと、はええところみこしをあげておくんなせえよ",
"…………",
"ちぇッ。何がおかしいんですかい! 話ゃちゃんと筋道が通ってるじゃござんせんか! 年増のぶ器量な女で、ちっと気に食わねえが、変な殺され方をしているんで、はええところお出ましなせえましといってるんですよ――辰もまた、小せえくせに何がおかしいんだッ。人並みににやにやすんない! とっととみこしをあげたらいいじゃねえか!",
"あげるよ! あげるよ! 催促せんでもみこしをあげるが、でもなんだからな、兄貴の話ゃ――",
"何がなんでえ! 話がわかったら、気どらなくたっていいじゃねえか! やきもきしているんだから、活発に立ちなよ!",
"と思うんだが、兄貴の話ゃ、大きに芸が細けえようなことをいって、ちっとも細かくねえんだからな。女の殺されているのはいいとして、どこで本人が殺されているのか、肝心の方角をいわねえんで、だんなだっても急ぎようがねえんだよ",
"つべこべと揚げ足取るなッ。何もかもおぜんだてができていればこそ、せきたてるんだッ。細けえか、細かくねえか、表へ出てみりゃちゃんとわからあ! さ! だんなも立ったり! 立ったり!"
],
[
"ほほう。ご家人だな",
"え?",
"ここのおやじはご家人だなといってるんだよ",
"やりきれねえな。おいらが汗水たらして洗ったネタを、だんなときちゃ、ただのひとにらみで当てるんだからな。どうしてまたそんなことがわかるんですかい",
"またお株を始めやがった。この一郭は大御番組のお直参がいただいている組屋敷町じゃねえか。直参なら旗本かご家人のどっちかだが、この貧乏ったらしい造りをみろい。旗本にこんな安構えはねえよ"
],
[
"念までもあるまいが、検死が済むまでは現場に手をおつけなさらないようにと、当家のかたがたへ堅く言いおいたろうな",
"一の子分じゃあござんせんか! だんなの手口は、目だこ耳だこの当たるほど見聞きしているんだッ。そこに抜かりのある伝六たあ伝六がちがいますよ!"
],
[
"お禄高は?",
"お恥ずかしいほどの少禄にござります",
"少禄にもいろいろござりまするが、どのくらいでござりまするか",
"わずか五十石八人扶持にござります",
"では、やっぱりご家人でござりましょうな",
"はッ。おめがねどおりにござります",
"これなるご不幸のおかたは?――",
"てまえの家内にござります",
"だいぶお年が違うように存じまするが――",
"はっ。てまえが九つ年下でござります",
"ほかにご家族は?――",
"女中がひとりいるきりでござります",
"年は?――",
"しかとは存じませぬが、二十二か三のように心得てござります",
"では、これなるご内室がどうしてこんなお災難にかかりましたか、肝心のそのことでござりまするが――"
],
[
"いきなり変なものを出したが、これはなんのお守り札かい",
"ところが、このお守り札が、なんともかとも、うれしくなるほどいわくがあるんだから、たまらねえじゃござんせんか。先ほどからたびたび申しましたように、とかく芸は細かくなくちゃいけねえと思ってね、じつあ今までとらの子のようにかわいがって懐中していたんだが、ときにだんなは、ゆうべ、上さまが、お将軍さまが、松平のお殿さまのお下屋敷へもみじ見物にお成りあそばさったことをご存じでしょうね",
"知っていたらどうしたというんだ",
"そうつっけんどんにおっしゃいますなよ。話は順を追っていかねえとわからねえんだからね。そこで、こちらの井上のだんななんだが、このとおり縦から見ても横から見てもおりっぱなご家人さまだ。しかも、大御番組のご家人さまなんだから、だんなを前に説法するようだが、お将軍さまがお鷹野や、ゆうべのように外出あそばさるときに、お徒歩でお守り申し上げる役目と相場が決まってるんでがしょう。だから――",
"わかっているよ",
"いいえ、きょうばかりゃ別なんだから、伝六にも博学なところを見せさせてやっておくんなせえよ。ところで、こちらの井上のだんなも、ゆうべそのお徒歩供となって、松平のお殿さまのお下屋敷へ参ったところ、将軍さまがたいそうもなくもみじ見物のお催しに御感あそばさって、けさの明けがた近くに御帰城なさったってこういうんですよ。だから、自然とこちらの井上のだんなもお帰りがおそくなって、ようようにご用を済まし、あけ六ツ近くにここへ帰ってみるてえと――",
"るす中に変事があったというのか",
"そ、そうなんです! そうなんです! このとおり、お内儀がふとんの中に寝たまま、ぐさりとやられていなすったので、何はともかくと、取るものもとりあえずご番所へ変事を訴えにおいでなすったとこういうわけなんですがね。しかし、物はいちおう疑ってみなくちゃなるめえと思いましたんで、差し出がましいことでしたが、ゆうべたしかにお徒歩供をなすったという生きた証拠はござんせんかと、さっき下検分に来たとき念を押してみたら、井上のだんなが、これこそその何よりな証拠だとおっしゃって、あっしにくだすったのが、つまり、この酒肴料うんぬんの包み紙なんですよ。中身はどのくれえおありなすったか、はしたねえことだから、そいつまでは聞きませんが、いずれにしてもこの包み紙は、ゆうべのお徒歩供の特別お手当としてくださった金一封のぬけがらにちげえねえんだから、とするてえと、井上のだんながおるすなさったことに疑う節もねえんだし、ほかにまたこれといって怪しいところもねえんだから、こいつ変だと――",
"ふふうむ。なるほどのう",
"ちぇッ、変なところで感心しっこなしにしましょうぜ。話やこれからが聞きどころ、眼のつけどころなんだからね。そこで、何かネタになるような怪しいことはねえかと、この伝六様がけんめいと捜してみるてえと――",
"あったか!",
"だから、鼻がたけえというんですよ。こういうもっけもねえ品が見つかったんだから、これこそは粗略にできねえと、たいせつに隠しておいたんですがね。どんなもんですかね"
],
[
"いかにものう! どこで見つけ出した!",
"どこもここもねえんですよ。ついそこの袖垣のところに落っこちていたんでね。こいつを見のがしたら、伝六様の値うちがさがるんだッ、――というわけで、うやうやしくしまっておいたんですが、さ! これから先ゃだんなのおはこ物だッ。へんてこなこの丸樫杖が何者の持っていた品だか、それさえ眼がつきゃ、下手人は文句なしにそやつと決まってるんだから、はええところ勇ましく、ずばずばッとホシをさしておくんなせえよ!"
],
[
"この持ち主は座頭だな!",
"えッ?",
"この杖の持ち主は、あんまの座頭だなといってるんだよ",
"たまらねえな! ピカピカッと目を光らすと、もうこれだからな。しかし、どこにもこの持ち主が座頭だなんてことは書いてねえようだが、どうしてまたそう早く知恵が回りますのかね",
"また始めやがった。眼をつけりゃ、じきとおまえはそれをやるんだからな、うるさくなるよ。青竹づえはあんまの小僧、丸樫杖は一枚上がって座頭、片撞木はさらに上がって勾当、両撞木は撿校と、格によって持ちづえが違っているんだ。してみりゃ、この丸樫杖の持ち主が座頭であるのに不思議はねえじゃねえか",
"なるほどね。だんなの博学は、おいらの博学と見ちゃまた桁が違わあ。そうと眼がつきゃ、大忙しだ。もののたとえにも、めくら千人めあき千人というんだから、江戸じゅうの座頭をみんな洗ったってせいぜい千人ぐれえのものなんだからね。大急ぎで洗いましょうぜ! さ! 辰公! 何を遠慮してるんだッ。とッととしたくをしなよ!"
],
[
"目ぼしがござりまするか!",
"はっ。ひとり――",
"ひとりあらばたくさんじゃが、名はなんと申します",
"仙市と申します",
"このご近所か",
"はっ。ついその道向こうの、はら、あそこに屋根が見えるあの家が住まいでござります",
"お心当たりにまちがいござりますまいな",
"はい。じつは、このつえの先の油のしみに見覚えがござりますゆえ、たしかに仙市の持ちづえと、とうに見当だけはつけておりましたが、人を疑って、もしや無実の罪にでもおとしいれては、と今までさし控えていたのでござります",
"ご当家へはお出入りの者でござりまするか",
"はっ、家内が癪持ちでござりましたゆえ、三日にあげずもみ療治に参っていた者でござります",
"女房持ちでござりまするか、それともまたひとりでござりましたか",
"どうしたことやら、もう三十六、七にもなりましょうに、いまだに独身でござります",
"ほほうのう! ちと焦げ臭くなってきたかな。蛇が出るか、へびが出るかわからねえが、ではとって押えろッ"
],
[
"ちぇッ、何がおかしいんです! 人がせっかく腹をたてているのに、何がおかしいんですかよ",
"控えろッ",
"えッ?",
"そうまあガンガン安鳴りさせずと、その足もとをよくみろよ"
],
[
"よッ、さては野郎め、家の中に隠れているんだろうかね",
"あたりめえだッ。湯気水の中に、出がらしの茶の葉がプカプカと浮いてるじゃねえか。やっこさんゆうゆうと茶をいれ替えて、とぐろを巻いているぜ。このあんばいじゃ、一筋なわで行きそうもねえやつのようだから、気をつけねえとやられるぞ!",
"なにをッ。きょうの伝六様は品がお違いあそばすんだッ。――ざまあみろッ"
],
[
"目ぢょうちんだッ。目ぢょうちんだッ。はええところ辰公! 見当つけろッ",
"つきました! つきました! 床の間の前におりますぞ",
"一匹か。それとも、眷族がとぐろでも巻いてるか!",
"一匹です! 一匹です! どうしたことやら、ブルブルと震えておりますぜ!",
"なんじゃい! 震えているんだとな! ほほう、またこれはちと眼が狂ったようだが、こいつ思いのほかに気味のわるい事件だぞ。ともかく、雨戸をあけな"
],
[
"ちぇッ",
"…………",
"じれってえな",
"…………",
"何がわからねえんだろうね",
"…………",
"まちげえならまちげえ、犯人なら犯人と、ふにおちねえことがあるなら、バンバンと締めあげてみりゃらちがあくじゃござんせんか!",
"…………",
"達磨さんのにらめっこじゃあるめえし、震えているめくらあんまを相手に、気のきかねえだんまりを始めて 何がおもしれえんですかい! まごまごしているうちに日が暮れちまったじゃござんせんか!"
],
[
"なげえつきあいだったが、おめえとはもうこれっきり仲たがいしたくなったよ",
"何がなんです! やにわと変ないやがらせをおっしゃって、あっしがどうしたっていうんですかよ!",
"すわりな、すわりな。ふくれなくとも黙ってすわって聞いてりゃわかるんだ、おめえがあれこれとろくでもない献立をならべて迷わしたんで、狂わなくともいい眼がちょっと狂ったんだよ。ところで、仙市さんだがね"
],
[
"おまえさん目あきだね",
"…………",
"だいじょうぶ、だいしょうぶ。目があいていたとて、疑いが濃くなるわけじゃねえんだから、震えていずとこっちをお向きなせえな。あんたの疑いはすっかり晴れましたよ",
"えッ。じゃ、あの、――そうでございますか! 向きます! 向きます! 疑いが晴れたとなりゃ向きますが、いかにもこのとおり目あきのあんまでごぜえます",
"やっぱりな。ぱっちりとりっぱなやつが二つくっついていらあ。それならそうと早く顔を見せりゃいいのに、頭をかかえて震えてばかりいなすったんで、すっかりあぶら汗をかかされましたよ。でもまあ、目あきであって大助かりだが、ときにおまえさんは妙なお道楽をお持ちだね",
"へえい、あいすみませぬ。あんまふぜいがとお笑いでごぜえましょうが、こればっかりゃ病みついたが因果とみえて、女房一匹飼う金までもおしみながら、刀を集めているのでごぜえます",
"そうだろう、おめえさんが顔をかくしていたからわるいんだ。どうもこいつが変だと思ってね、すっかり頭を絞ったんだが、目の不自由な者が刀を集めてみてもしようがあるまいし、といってこれだけ飾ってあるところを見りゃ、たしかに刀道楽にちげえねえんだがと、いろいろ考えた末に、ようようといましがた目あきだなとにらみがついたんですよ。そこでだが、――きさま何か隠しているなッ",
"えッ",
"といっておどしてみたところで始まりますまいから、今まで手間をとらせたその償いに、ゆうべの一条をすっぱりと白状したらどうですかい",
"…………",
"黙っていりゃ、せっかく晴れかかった疑いがまた曇りますぜ",
"でも……",
"心配ご無用。見りゃ刀のどの小柄にも血の曇りはねえし、察するところ、今まで震えていたなあ、ゆうべそのぱっちりとあいている目で、何か変なことを見たんで、かかり合いになっちゃと、心配してのことにちげえねえと思うが、的ははずれましたかね",
"恐れ入りました。そのとおりでごぜえます。じつあ――",
"見なすったか!",
"見もし、出会いもしたんで、疑いがかかりましてはと、今まで生きた心持ちもなかったんでございますが、ゆうべのかれこれ九ツ近いころでした。井上のおだんなのところから、お葉さんがお使いにみえましてね――",
"葉というは女中か!",
"へえい、ぽちゃぽちゃっとしたべっぴんなんで、年は若いし、ちっと気にかかっているんですが、そのお葉さんがお使いに来て、奥さまからのおことづてだが、おだんなが夜勤にお出かけなすって、たいくつしているから話しに来いと、こういう口上でございましたんで、夜中近いのに変だなと存じましたが、何はともかくお呼びならばと思いまして、かって知った庭先のほうからお伺いしましたところ、妙なんですよ。いま話しに来いとおことづてくださったそのお内儀のへやがまっくらがりで、おまけにいくらごあいさつを申し上げてもご返事がございませんのでな。さては持病の癪がにわかに起きて、気を失っていらっしゃるなと思いましたんで、手さぐりに上がりながらなにげなくお首のところへ手をやるとぺったり――",
"血がついたんで、無我夢中に逃げ帰ったといわっしゃるか!",
"へえい、そうなんです。だからもう、つえも何もほったらかして――",
"待った! 待った! ちょっと待ったり! でも、少しその話ゃ変だな。りっぱな目あきのあんたが、用もないつえを持っていったとはおかしくないかい",
"ごもっともです。いかにもご不審はごもっともですが、わたしたちあんまのつえは、和尚さまの衣のようなものなんですよ。むろんのことにご存じでござりましょうが、小僧は青竹、座頭は丸樫、勾当は片撞木、撿校は両撞木とつえで位が違いますんで、目あきだろうとあんまなら位看板に格式格式のつえを持つんですよ。だから、あっしのつえに不思議はねえが、いまだになんとも気味わるいことには、逃げ帰るそのときに、あのお屋敷のへいのところでちらりと変なものを見たんですがね",
"何じゃ",
"猿公ですよ",
"なにッ。猿とな!",
"へえい、たしかに猿公なんです。でも、いくら猿公がくらやみの中から飛び出してきたって、けだものが人間をそうやすやすと刺し殺せるわけのものではなし、だからどうしたってきっと行き合わしたあっしに疑いがかかるだろうと存じましてね。つまらぬ疑いのもとになっちゃたいへんだから、ほうり出したつえも拾って帰って、どこかへ隠そうかとも思いましたが、なまじ隠して見つけ出されりゃ、いっそう疑いが濃くなるんだし、それに家のほうにもこのとおり疑いのもとになる刀も何本かあるんだから、こいつもどうしよう、隠そうか、売り飛ばそうかと迷いましたが、細工をしてまた足がつきゃ、なおさら疑いがかかるんだしと、すっかり思いあぐねて、ただもう震えていたんでごぜえます",
"いかにものう。変なことに出会ったというのはそれっきりか",
"いえ、もう一つあとで気がついたことなんですが、どう考えてもふにおちないことがあるんですがね",
"なんじゃ",
"お葉さんがお使いに来たとき、井上のおだんなは夜勤に出かけてるすだとたしかにおっしゃったのに――",
"いたというのか!",
"ではないかと思うことがあるんですよ。というのは、ポンポンと妙な鼓の音が聞こえたんですがね",
"なにッ、鼓とな! ふふうむ! ちとおかしなことになってきたようだが、鼓の音と井上の金八と、なんぞかかり合いでもあると思うのか!",
"あるからこそ、どうもふにおちねえと思うんですがね。ああいう鼓は、なんというんだか、謡の鼓でもなし、三河万歳の鼓でもなし、どうもさる回しのたたくやつじゃないかと思うんですが、それをまたどうしたことなんだか、井上のおだんながひどくお堪能でね、今までもときおりちょくちょくと夜ふけになんぞおたたきになったんですよ。ところが、その同じ鼓の音が、あとで思い出して気がついたんですが、お使いをうけてあちらへ伺おうとするとき、たしかに井上のだんなのお屋敷で聞こえたんですよ。だから、どうもいない人がいるわけではなし、といって、あんな鼓をほかに鳴らす人はこの近所になしと、いろいろ考えてみて、あんまり気味がわるいのによけい震えていたんでごぜえます",
"ふふうんのう! まて! まて! どうやらこいつあ、いろはから考え直さなくちゃならねえぞ! するてえと――?"
],
[
"大将! 兄貴! おい、伝六ッ",
"フェ……?",
"とぼけた返事をすんな! おめえのことだから、しりぬけのへまをやっていても大澄ましに澄ましていることだろうが、たぶんまだ松平のお殿さまのほうは洗っちゃいめえな",
"たぶんとはなんですかい! いいかげん人をバカにしてもらいますまいよ",
"じゃ、もう洗ってきたか",
"いいえ、はばかりさま! 別段と洗うこともなし、けっこうまた洗う必要もねえんだから、洗いませんよ!",
"しようのねえ善人だなッ。だから、かわいさ余って仲たげえもしたくなるじゃねえかッ。不審は井上の金八が証拠に見せたあの祝儀袋だ。たしかに、ゆうべ野郎も御徒歩供になってお屋敷に詰めていたかどうか、はええところ飛んでいって松平のお屋敷のほうを洗ってこいッ",
"…………",
"手数のかかる兄いだな。首をひねって何をぼんやりしているんだッ。いろはから出直して、もう一度とっくりと考え直してみなよ! 井上の金八館は、まるで化け物屋敷みてえじゃねえか! 貧乏長屋かと思や中は存外と金満家なんだ。だのに、あれほどの騒ぎがあって見舞い客がひとりもいねえんだ。しかも、あの夫婦をみろいッ。きのどくなほどぶ細工な年増女のご亭主にしちゃ、金八奴、気味の悪いほど若すぎるじゃねえかッ。おまけに、おかしな鼓の隠し芸があるっていうんで、証拠呼ばわりをして突きつけたあの祝儀袋に、きっと何かふらちな細工がしてあるにちげえねえから、とっとと洗いにいってきな",
"なるほどね。いろはだけじゃわからねえが、ちりぬるをわかまで考えてみりゃ、いかさまちっとくせえや! うなぎを食いはぐれてあぶら切れがしていやがったんで、野郎にたぶらかされたんだ。よくもだましゃがったな! どうするか覚えてろッ。地獄でまた会いますぜ!",
"まてッ、まてッ",
"えッ?",
"きょうは特別だ。急がなくちゃならんから、早駕籠で行ってきな",
"ちぇッ。たまらねえことになりやがったな! ざまあみろい! 井上の金八! おうい! 駕籠屋! 駕籠屋! 早駕籠はどこかにいねえか!"
],
[
"ちくしょうッ。ずぼしだ、ずぼしだッ、井上の金八め、ゆだんのならねえ細工師ですぜ!",
"そうだろう。徒歩供にいったというなぁまっかなうそか!",
"いいえ、いったのはほんとうなんだが、その間に変な小細工しやがったんだから、ゆだんがならねえというんですよ。なんでも九ツ少しまえにね、金八の野郎め、急に腹が痛くなったから休ませてくれといやがって、供べやへさがっていったんでね、急病なら手当をしたらいいんだろうというんで、供頭が見舞いにいったら、野郎め、どこかへ雲隠れして見えねえっていうんですよ。だから、大騒ぎしてわいわいと捜していたら、九ツよっぽど過ぎた時分に、腹痛のはずの野郎めがぴんぴんしながらひょっくりと表からけえってきたとこういうんだ。察するに、やつめその間に家へ帰って、なにか変なまねしたに相違ござんせんぜ!",
"お手の筋! お手の筋! そのとおりだよ。じゃ、せくこともあるまいから、お茶でも飲みな"
],
[
"おちついているようだが狂ったか",
"ところが大当たり。やっぱり、ゆうべの九ツ前後に一匹、あの一座の猿公が行くえ知れずになったんで大騒ぎしていたら、ひょっくりこっちの方角から帰ってきたっていいますよ",
"もしや、その猿公は、おまえも見たあの袈裟切り太夫じゃなかったか!",
"そうなんです! そうなんですよ! 袈裟御前を突き刺したあのでけえ雄ざるなんですよ! しかも、血まみれの小柄を一本持っていたといいますぜ",
"よしッ。もう眼はたしかだッ。じゃ、ちっとばかり草香流を小出しにしようぜ!"
],
[
"どうだ。こっちも似合うだろう",
"ま! すてき! これもくださるの",
"やる段じゃない、みんなもうきょうからはおまえのものだよ",
"ほんと? じゃ、ご本妻にも直しくださるのね",
"そうさ。だから、な……? わかったかい?"
],
[
"大きにおたのしみだね",
"げえッ!――"
],
[
"げいッもふうもあるもんかい! おたげえに忙しいからだなんだ! のう、金大将! ふざけっこなしにしようじゃねえか! こんなしばいはもう古手だせ!",
"な、な、なにを申すかッ。天下のお直参に向かって何を無礼申すかッ"
],
[
"笑わしゃがらあ! そのせりふももう古手だよ! さる回しの鼓がしょうずなお直参もなかろうじゃねえか! あっさりとどろを吐いたがよかろうぜ、むっつり右門とあだ名のこわいおじさんがにらんでのことなんだ。どうでやす? 金どんの親方!",
"き、き、金どんの親方とは何を申すかッ。無礼いたすと容赦はせぬぞ",
"よせやい! 大将! 抜くのかい! できそこないの秋なすじゃあるめえし、すぱすぱと切られちゃたまらねえよ――ほら! ほら! このとおり草香流が飛んでいくじゃねえか!"
],
[
"まだお夕飯をいただかねえので、ちっと気がたっているんだ。手間をとらせると、おれはがまんしてもこっちの伝六あにいが許すめえぜ。さらりと恐れ入ったらどんなもんだ。なんなら、ゆうべたたいた鼓を家捜ししてやってもいいぜ",
"…………",
"黙ってたんじゃわからねえよ。鼓だけで気に入らなきゃ両国から袈裟切り太夫をつれてきて、けだもの責めにしてやってもいいが、それまでホシをさしてもまだしらをきるつもりかい",
"…………",
"手間のかかる親方だな! じゃ、いっそことのついでに仙市座頭を呼びよせて、無実の罪を着せようとした一件を対決させてみせようかッ"
],
[
"あいすみませぬ。何もかもおめがねどおりてまえの仕組んだ狂言でござります",
"そうだろう。このきのどくなめに会わされたおかみさんと年が違いすぎるところから察するに、おそらくおまえはあとから入り婿にへえったやつとにらんでいるが、違ったか!",
"そのとおりでござります。ゆうべ鳴らした鼓のことまでお調べがついているご様子でござりますゆえ、隠さずに昔の素姓も申しますが、じつはお恥ずかしながら、さる使いをなりわいにいたしておりました卑しい身分の者でござります。それで因果とでも申しますか、少しばかり人がましいつらをしておりますんで――と申しちゃうぬぼれているようでございますが、どうしたことやら、こちらのこの仏がてまえを気に入ったと申して、二、三度夜の内座敷を勤めているうちに、どうしても入り婿となれとこんなにせがみましたんで、てまえがご家人の株を買った体につくろい、井上金八と名のってこの屋のあるじになったんでございます。なれども、魔がさしたとでも申しますか、ちょうどてまえが入り婿になりましたのといっしょに、こちらのこのお葉めが女中となって参り、ついしたことから仏となったこの者の目をかすめて、ねんごろになったのが身のあやまち――一方は恩こそあっても年は上だし、それにぶ器量、お葉のやつはまた因果と水のでばなの年ごろでござんしたので、だんだんと目にあまるような不義がつづくうちに、けんかはおきる、内はもめる、毎夜のように癪はおこす――",
"だから? いっそ毒くらわばさらまでと、殺す気になったのかい",
"は……、殺して、まんまとご家人のこの株を奪いとり、お葉を跡に直してと思ったんですが、いかにむしの好かぬ女であっても、一年あまりなめるほどもかわいがってくれた相手でございますゆえ、自分が手を下すのもむごたらしいし、といってまごまごすれば追い出されそうだし、ところへたまたま耳に入れたのが両国のあの袈裟切り太夫のうわさでござりました。たいそう真に迫った人切りの狂言を踊りぬくという評判でございましたゆえ、こいつさいわい、昔覚えたさる使いの腕を使って、あの雄ざるをつれ出し、ひと狂言うたせようと、ゆうべ松平様のお屋敷からこっそり抜けてかえり、鼓一つで両国からさるをここまでおびき出し、すやすやと眠っていたこの仏をば袈裟御前に見立てさせて、小柄でプッツリと、舞台の狂言を地に踊らしてひと刺しに刺させたのでござります。なれども――",
"よし、わかった! わかった! 鼓一つでさるを使い、まんまと殺させるには殺させたが、もし見破られちゃたいへんと、仙市座頭に罪を着せようとしたのかい",
"あいすみませぬ。べつにあの仙市が憎いというわけではござんせんが、ちょくちょくもみ療治に参り、だいぶこの仏とも親しくしておりましたゆえ、よくない関係でもあったためにあの座頭が刺したんだろうと世間さまに見せかけるつもりで、殺してから知らぬ顔でお葉めを呼びにやらしたのでござります。ありようしだいはかくのとおり、もうじたばたはいたしませぬ……すっぱりと、あすにでもすっぱりと打ち首にしてくだせえまし。どうせない命なら、せめての罪ほろぼしに、この仏といっしょに冥土へ参りとうござります……",
"気に入った! 人を殺したなあ気に入らねえが、罪をほろぼしに冥土へいっしょにいきてえたあ、おめえも存外善人かも知れんよ。だが、来世はもっとぶおとこに生まれて来なよ。ろくでもねえやつが、つらばかりりっぱだって、それこそ顔負けがするんだからな――じゃ、伝六あにい! このお葉も当分暗いところで日を送らずばなるまいから、いっしょに早くしょっぴく用意をしなよ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:柳沢成雄
2000年8月10日公開
2005年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000572",
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[
[
"これよ、伊豆",
"はっ",
"あちらの畑で、百姓どもが珍奇な槍を振りまわしている様子じゃが、あれはなんじゃ",
"恐れ入ってござります。あれなる品は槍でござりませぬ。鍬と申す農具にござります",
"なに、あれが鍬と申すか。ほほうのう。予はよい学問いたしたぞ"
],
[
"帰館じゃ! 予はもう帰館いたすぞ。供ぞろいせい!",
"ちぇッ。なんでえ! なんでえ!"
],
[
"なんでえ! なんでえ! だからおいら、てんとうさまとさいころばかりは、わがまますぎて気に入らねえんだ。せっかく寒い中を夜中起きして、きょうばかりはおいらもお将軍さまになったつもりでいようと楽しみにしていたのに、なにも今が今になって義理も人情もわきまえねえまねしなくったっていいでしょう! ね! だんな! 違いますかい! 雪までなにも降らせなくたっていいでしょう! ね! だんな! 違いますかい! あっしのいうことは、理屈が通っちゃおりませんかい!",
"頭が高い! 控えろッ",
"え?",
"あのお姿がわからぬか! 頭が高いッ。控えろッ"
],
[
"ちくしょうめ。やけにまた降りやがるな。雪は豊年の貢がきいてあきれらあ。おいらにゃ不作の貢じゃねえか。ね! だんな!",
"…………",
"ちぇッ。せめて相手になとなっておくんなさいよ、この雲行きじゃ、辰の野郎め、ご印籠どころじゃござんせんぜ。雪中を大きにご苦労だった。ついでにいま一度屋敷へ回って、腰元どもでも相手にゆるゆるちそうをとっていけ、とでもいうようなことになって、やつめ、やにさがっているにちげえござんせんぜ。豆州さまのお腰元となると、またやけに絶品ぞろいなんだからな。くやしいな"
],
[
"なにごとにござります?",
"これじゃ! これじゃ!"
],
[
"どちらに! 殿は、どちらでござります?",
"お下屋敷じゃ!",
"馬は?",
"これじゃ! てまえのこの鹿毛にて参れとのご諚じゃ!",
"心得ました!"
],
[
"よほどの大事と拝せられまするが、なにごとにござります?",
"一見いたさばあいわかる。こちらに参れ"
],
[
"采女、だれもいまいな",
"はっ。じゅうぶんに見張っておりましたゆえ、だいじょうぶにござります"
],
[
"かわいそうに、どうしてまた、このようなことになりましたのでござります",
"それがいっこうにわからぬゆえ、なにはともかくと、急いでそのほうを呼び招いたのじゃ。じつは、そちたちも知ってのとおり、この屋敷から小石川のほうへ弓を届けるよう命じたのに、これなる辰がいつまで待ってもお矢場に持参せぬゆえ、ようやくご用を済まし、不審に思いながら、ほんのいましがた帰ってまいったところ、このような仕儀になっていたのじゃ",
"お耳に達しましたのは、いつのことにござります",
"帰邸いたすとすぐさまじゃ",
"たれがお知らせ申し上げたのでござります",
"あの者じゃ――ほら、聞こえるであろう。あれが知らせた当人じゃ"
],
[
"女でござりまするな。何者にござりまする",
"こちらに倒れている古橋専介のひとり娘じゃ。あれなる者が最初にこのさまを見つけ出し、わしにも知らせた本人ゆえ、遠慮のう尋ねてみい"
],
[
"そなた、きょう寺参りに行きましたな!",
"えッ――"
],
[
"身にお線香がしみついているは、たしかにその証拠じゃ――。のう、このとおり、どのようなことでも見通すことのできるわしゆえ、隠してはなりませぬぞ。見れば、家人とてはそなたおひとりのようじゃが、墓参りに行ったはお母ごか",
"あい……そうでござります",
"きょうがご命日か",
"あい。月は違いますなれど、二十六日がみまかりました日でござりますゆえ、父にるすを頼みまして、朝ほど浅草の菩提寺へ参り、五ツ少しすぎまして帰ってまいりますると――",
"お父上とあれなる辰がふたりして切り結んでいたと申されるか",
"いえ、違います。違います。父はおはぎが大の好物でござりましたゆえ、駒形まで回ってみやげに買ってまいりましたところ、いかほど呼んでも、ととさまのご返事がござりませなんだゆえ、捜すうちにこの庭先で、ふたりが雪の中にこのようにあけに染まって倒れていたのでござります",
"そのときはもうこと切れてでござったか。それとも、まだ息がござりましたか",
"こと切れてでござりましたが、まだふたりとも、からだにぬくもりがござりましたゆえ、いっしょうけんめい介抱いたしましたなれど、あの深手でどうなりましょう、そのうちにも冷たくなってしまいましたゆえ、さっそくどなたかにお知らせいたしましてと存じましたなれど、あいにくきょうは、お長屋のかたがたみなご非番で、どこぞに他出なされて、どなたもおいでがござりませなんだゆえ、どういたしましょうと考えまどうているうちに、なまじ騒ぎたてて、お家のお名にでもかかわるようなことになりましてはとようやく心を定め、目だたぬようにと、そのまま手もつけず菰をかむせ、悲しいのをこらえましてお待ちいたしましておりましたところへ、お殿さまご帰館のようにござりましたゆえ、こっそりとお目通りを願い、委細をお耳に達したのでござります"
],
[
"なんぞあったか!",
"…………",
"なんぞ、調べのついたことがあるか!",
"はっ。ござります! たしかにござります!",
"なんじゃ! なんじゃ!"
],
[
"あれなるお娘ごは、なんという名にござります",
"小梅というのじゃが、あれになんぞ不審があるか",
"いえ、そうではござりませぬ。ちと尋ねたいことがござりますので――、のう! 小梅どの! 小梅どの!"
],
[
"そなた、これなる二つの死骸は見つけたときのままで、少しも動かしはいたしますまいな",
"あい。ととさまと、そちらのおかたと、お口のところへは手を触れましたが、そのままどこにもさわりませぬ",
"そういたしますると――",
"なんじゃ!",
"お驚きあそばしますな。ちょっと見は、これなる両名が、刃傷に及んだ結果、共に手傷を負うて落命いたしたように思われまするが、断じて相討ち遂げたものではござりませぬぞ",
"なに! 相討ちでないとな! なぜじゃ! なぜじゃ!",
"第一の証拠はふたりの肩傷でござりますゆえ、ようごろうじませ。相討ち遂げてこのように向き合うたまま倒れているならば、互いに前傷こそあるべきが当然。しかるに、両名の傷は申し合わせていずれも背をうしろから袈裟掛けにやられているではござりませぬか",
"ふうんのう――しかし",
"いえ、断じて眼の狂いござりませぬ。第二の証拠は両名の太刀でござりますゆえ、比べてようごろうじなさりませ。両人が互いに相手を仕止めて落命したならば、二本とも太刀には血のあぶらが浮いているべきはずなのに、辰の得物にはそれが見えても、専介どのが所持の一刀にはなんの曇りも見えないではござりませぬか"
],
[
"しからば――",
"なんでござります",
"専介を討ったは辰に相違ないが、辰を切ったはほかに下手人があると申すか",
"いえ、おめがね違いでござります"
],
[
"専介どのを討ったのは辰でござりませぬぞ",
"なにッ。辰でもないとな! たれじゃ! たれじゃ! しからば、ふたりとも他の下手人の手にかかったと申すか",
"はい。右門の見るところをもってすれば、まさしくそれに相違ござりませぬ。その証拠は、両名が握りしめている太刀の握り方でござりますゆえ、ようごろうじなさりませ。ほら! かくのとおり専介どのは握りしめたままで切られたと見えて、いかほど引いても抜けませぬ、辰のはこのとおり――"
],
[
"よッ。これなる古橋専介どのは、絵のおたしなみがござりまするな!",
"そのとおりじゃ! そのとおりじゃ! 雅号を孔堂と申して、わが家中では名を売ったものじゃが、どうしてまたそれがわかった!",
"指に染まっている絵の具がその証拠にござりまするが、では、絵をもってご仕官のおかたにござりましたか",
"いや、わしが目をかけて使うていた隠密のひとりじゃ",
"なんでござりまする! 隠密でござりますとな! 近ごろでどこぞにご内命をうけて、内偵に参られたことござりましたか",
"大ありじゃ。何をかくそう! 生駒壱岐守の行状探らせたは、たれでもない、この古橋専介じゃわ!",
"えッ――"
],
[
"ふうん、そうでござりましたか! いったい、専介どのは何を探ってまいったのでござります",
"壱岐守が、ご公儀の許しもうけずに、せんだって中高松の居城に手入れをいたせし由、密告せし者があったゆえ、専介めが絵心あるをさいわい、隠密に放って城中の絵図面とらせたところ、ご禁制の防備やぐらを三カ所にも造営せし旨判明したゆえ、生駒家は名だたるご名門じゃが、涙をふるって処罰したのじゃわ",
"それでござりまするな!",
"なに! では、古橋専介をねらいに参ったのは、生駒の浪人どもででもあったと申すか!",
"まず十中八、九、それでござりましょう。ご公儀や御前さまに刃向こうことはなりませぬゆえ、せめても恨みのはしにと、筋違いの古橋どのをねらったに相違ござりますまい。いずれにしても、かような太刀を辰の手に残しておいたはなによりさいわい、これを手がかりにいたさば、おっつけ下手人のめぼしもつきましょうゆえ、とくと見調べまするでござりましょう"
],
[
"わかったか!",
"たぶん――",
"なんじゃ!",
"この鍔をごろうじなさりませ。まさしく千柿名人の作にござりまするぞ",
"なに! 千柿の鍔とな"
],
[
"伝六ッ",
"できました!"
],
[
"暫時拝借させていただきとうござります!",
"おう! いかほどなりとも!――吉報、楽しみに待ちうけているぞ!"
],
[
"こ、こ、これに覚えはねえか!",
"…………?",
"急ぐんだッ、パチクリしていねえで、はええところいってくれッ。この鍔は、どこのどいつに頼まれて彫ったか覚えはねえか",
"控えさっしゃい",
"控えろとは何がなんだッ。右門のだんなと、伝六親方がお越しなすったんだッ。とくと性根をすえて返事しろッ",
"どなたであろうと、まずあいさつをさっしゃい!",
"ちげえねえ! ちげえねえ! おいらふたりの名めえを聞いても恐れ入らねえところは、さすがに名人かたぎだな! わるかった! わるかった! じゃ、改めて、こんばんはだ。この鍔に覚えはねえか!",
"なくてどういたしましょう! まさしく、こいつはてまえが、大小そろえ六年かかって刻みました第八作めの品でございますよ",
"そうか! ありがてえ! 注文先はどこのどいつだ!",
"生駒さまのご家来の――",
"なにッ。ああ、たまらねえな! だんな! だんな! 眼だッ、眼だッ、眼のとおりだッ――あっしゃ、あっしゃもう、うれしくって声が、ものがいえねえんです! 代わって、代わって洗っておくんなせえまし……! うんにゃ、まて! まて! やっぱりあっしが洗いましょう! 辰が喜ぶにちげえねえから、あっしが洗いましょう!――とっさん! 生駒のご家来の名はなんていう野郎なんだッ",
"権藤四郎五郎左衛門様といわっしゃる長い名まえのおかたでございますよ",
"身分もたけえ野郎か!",
"野郎なぞとおっしゃっちゃあいすまぬほどのおかたでごぜえます。禄高はたしか五百石取り、三品流の達人とかききましたよ",
"つらに覚えはねえか!",
"さよう……?",
"覚えはねえか! なんぞ人相書きで目にたつようなところ、覚えちゃいねえか!",
"ござります。四十くらいの中肉中背で、ほかに目だつところはございませぬが、たしかに左手の小指が一本なかったはずでござります",
"ありがてえ! ありがてえ! ああ、ありがてえな!――だんな! だんな! お聞きのとおりでごぜえます。これだけの手がかりがありゃ、ぞうさござんすまいから、はええところなんとかしてくだせえまし! どけえ逃げやがったか、はええところ眼をつけておくんなせえまし!",
"よしッ。泣くな! 泣くな!"
],
[
"御前!",
"おお! 首尾はどうじゃ!",
"もとより――",
"上首尾じゃと申すか!",
"はっ。下手人はやはり生駒家がお取りつぶしになるまで禄をはんでいたやつにござりまするぞ",
"では、新しゅう浪人となった者じゃな!",
"御意にござります。生駒家お取りつぶしとともに、浪人となったはずにござります。それゆえ――",
"なんじゃ! 余になんぞ力を貸せと申すか",
"はっ。てまえ一人にてぜひにも捜せとのご諚でござりますれば、少しく日にちはかかりましょうとも、必ずともに潜伏先突きとめてお目にかけまするが、古橋どのはもとよりのこと、辰九郎ことも御前にはご縁故のものにござりますゆえ、できますことなら――",
"わかった! わかった! 力を貸す段ではないが、余に何をせよというのじゃ",
"下手人はこのごろ新しく浪人になった者でござりましょうとも、浪人とことが決まりますれば、御前の、あの――あとはご賢察願わしゅう存じます",
"おお! そうか! しかとわかった! いうな! いうな! あとをいってはならぬ! その者はどのような人相いたしているやつじゃ",
"四十年配の中肉中背で、左手の小指が一本ないやつじゃそうにござります",
"それだけわかっていればけっこうじゃ。――みなの者も人相書きのことを聞いたであろうな"
],
[
"おう、いずれも用意ができたな。よいか、四人は街道口隠し屯所へ。あとの四人は市中の一町目付けへ、いま右門が申した人相書きの浪人を目あてに、ぬかりなく動静探ってまいれよ。念までもあるまいが、隠し屯所へ出入りいたすときは、人に見とがめられぬよう、じゅうぶんに注意いたすがよいぞ",
"はっ"
],
[
"おお! どうじゃ! どうじゃ!",
"わかりましてござりまするぞ! 手がかりがつきましてござりますぞ!",
"なに! ついたとな! そちが参ったはいずれじゃった!",
"中仙道口の板橋でござります!",
"そうか! 申せ! 申せ! はよう申せ! どんな手がかりじゃ!",
"つい先ほど暮れ六ツ少してまえじゃったそうにござりまするが、日の暮れどきのどさくさまぎれに乗じ、眼の配り、肩、腰、どう見ても、ひとくせありげな武家と思われるやつが、中間ふうにやつし、中仙道目ざして、早足に通り抜けようといたしましたゆえ、不審をうって調べましたら、左小指がないばかりか、中間ふぜいに不似合いな千柿鍔の小わきざしを所持いたしておりましたゆえ、今もなお隠し屯所に止めおいているとのことでござりまするぞ!",
"なに! さようか! まさしくそやつじゃ! 右門! どうじゃ! 違うか!",
"いえ、それに相違ござりませぬ! 千柿鍔の小わきざしを所持いたしておるというがなによりの証拠、先ほど千柿老人が、大小二つの鍔をこしらえたと申しておりましたゆえ、たしかにそやつが権藤四郎五郎左衛門めでござりましょう! では、お駕籠三丁お貸しくださりませ!――さ! 伝六ッ",
"…………",
"いかがいたした! なぜ立たぬ! なぜ立たぬ! いかがいたした!",
"うれしすぎて、うれしすぎて、はや腰が抜けちまやがったんでごぜえます! ひとつ、どやしておくんなせえまし!",
"かたきのありかを聞いたばかりで、今から腰抜かすやつがあるかッ。相手は三品流の達人じゃ! しっかりいたせ!――そらどうじゃ! いま一つたたいてつかわそうか!",
"いえ、た、た、立ちましたッ。ちくしょうめ! 腰が立ったからにゃ、さあ、もうかんべんしねえぞッ。――辰ッ、これ辰よ! よく聞いていろよ! おめえの、お、おめえのかたきは、兄貴が、この伝、伝六がきっと討ってやるぞ! わかったか! これ辰ッ、わかったかッ。わかりゃ、いってくるぞッ。小梅さん、さ! あんたもいっしょだ! たすきをかけて! はち巻きをして! そうそう! おしたくができりゃ、この駕籠にお乗んなせえ!"
],
[
"長え名のお客仁! おひざもとで味なまねしやがったなッ",
"えッ――",
"驚くにゃまだはええや、讃岐でもちったァ名を聞いたろう! おれが、むっつりとあだ名の右門だッ。名を名のりゃ、もういうことはあるまい! ここにおれが持っているこのなげえ一刀の千柿鍔と、おぬしが所持のその小わきざしの千柿鍔と、大小二つがぴったり合うこそ、なによりの証拠とホシをさしたら、ほかに責め道具はいらなかろう! どうじゃ、江戸まえの町方衆は、むだをいわねえんだッ。ずんとこのせりふが骨身にしみたか!",
"そうか! きさまが右門とかいう小わっぱか! それならば"
],
[
"千柿鍔に眼をつけたとあらば、じたばたすまい。いかにも古橋専介を討ったはこのおれじゃ。こざかしいあの隠密めが、いらぬ忠義だてしたため、あったら十七万石に傷がついたゆえ、討ったのじゃ。投げなわの小さなやつも、いらぬすけだちしたゆえ、一つ刀で手にかけたが、この夜ふけに起こして、どうしようというのじゃ",
"誉のあだ討ちさ! お気に召したか!",
"おもしろい! 権藤四郎五郎左衛門の三品流知らぬとはおもしろい! いかにも相手になろう! 来いッ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(二)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
※誤記は、『右門捕物帖 第二巻』新潮文庫と対照して、訂正した。
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年4月20日公開
2005年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000588",
"作品名": "右門捕物帖",
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"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "20 千柿の鍔",
"副題読み": "20 せんがきのつば",
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"どう考えてもくやしいな。今さら愚痴をいったって、死んだものがけえるわけじゃねえが、なにもよりによって、おらがの辰を連れていかなくてもいいでしょう。まくらを並べて寝ていたらね、かわいいやつだったじゃござんせんか、なあおい兄貴、と、こんなにいってね、夜中にふいっとくつくつ笑いだしたものだから――",
"途方もねえこと、やにわにいいだすなッ",
"いいえ、いわしてください! いわしてください! 辰の思い出話は一生いいますぜ! いうんだ、いうんだ。いやア辰だって浮かばれるにちげえねえんだから、いくらしかられたって、こればかりゃいいますぜ! 造りもちまちまっとしてかわいらしかったが、きっぷも子どもみてえなやつだったですよ。まくらを並べて寝ていたらね、いきなりくつくつと笑いだしたものだから、何がおかしいんだといってやったら、いかにも辰らしいじゃござんせんか。寝床の上にふいっと起き上がってね、福助の頭はどうしてあんなにでけえだろうな、とこんなにいうんですよ",
"…………",
"だから、あっしゃ少しかんしゃくが起きてね、まじめくさってバカげたことをいうな、たこの頭はもっとでけえじゃねえかといったら、かわいいやつでした。なるほど、兄貴ゃ兄貴だけのことがあらあ、大きにそれにちげえねえや、と、こんなにいってね、安心したようにころりとなると、ぐうぐう寝ちまったんですよ",
"バカだな",
"え……?",
"そんな途方もねえバカ話を思い出して、バカげたことをいうと、人さまに笑われるといってるんだよ",
"だって、くやしいんだッ。死んでいいでこぼこ野郎が掃くほども世間にゃころがっているのに、おらがの辰を殺すとはなにごとですかい! だれに断わって殺したんですかい!",
"おれに食ってかかったってしようがねえじゃねえか",
"いいえ、だんなが下手人だというんじゃねえんですよ。ねえ、けれども、ほかに食ってかかる人はいねえんだからね、きょうばかりゃ辰を殺したつもりになって、あっしの愚痴を聞いておくんなせえな。まったく、あれはいちいちやることがかわいかったね。ある晩もね、鼻の頭に梅干しの皮をぺたりと張って、チュウチュウとねずみなきをしながら、お勝手もとをはいまわっていたんでね。何をバカなまねするんだといったら、こうしてねずみをとるんだというんですよ。江戸じゃいっこう聞かねえ話なんだが、鼻の頭に梅干しなんかを張っておいたら、ねずみがとれるんですかねえ。え……? だんな! とれるんですかね",
"うるさいッ。だれか庭先に来たじゃねえか"
],
[
"捕物名人とやらいうおかたは、お違い申すな",
"なんでござります",
"お偉くなると、お心がけも変わるとみえるよ。正月の二日といえば、上役同僚おしなべて年始に参るが儀礼じゃ、縁もゆかりもない手下の小奴がくたばったぐらいで、服喪中につき、年賀欠礼仕候と納まり返っているは、さすがに違ったものじゃというのさ"
],
[
"では、貴殿のところへだけ参ってごきげん取り結ぶために、ひとつおせじを使いますかな。お追従を申しておくと、これからさき憎まれますまいからな",
"憎まれますまいからとはなんじゃい。身どもがこうして参ったは、憎まれ口ききに来たのではないわ。さぞかしうらやましゅうなるだろうと思うて参ったのじゃ。人が年始回りをするときはな、人並みのことをしておくものでござるぞ。お奉行さまのところへ年賀に参ったればこそ、この敬四郎も年初めそうそう大役を仰せつかったわ。どうじゃ、くやしいか"
],
[
"さあ、いけねえ。さあ、いけねえ。お奉行さまもお奉行さまじゃござんせんか。年初めそうそう大役を仰せつかったっていうなア、きっとあばたの野郎め、与力か、同心主席に出世しやがったにちげえござんせんぜ。でなきゃ、用もねえのに、わざわざあんないやがらせを吹聴に来るはずはねえんだ。人を見そこなうにもほどがあるじゃござんせんか。むっつりの右門というおらがのだんながおいでましますのに、あばたの大将を出世させるとはなにごとですかい。べらぼうめ! お奉行になんぞ掛け合ったってらちのあくはずはねえんだから、伊豆守のお殿さまへじかに掛け合いにめえりましょうよ! ね! だんな、めえりましょうよ! 行きましょうよ!",
"…………",
"いやんなっちまうな。何をにやにや笑っていらっしゃるんですかい。人もあろうに、あばたの大将なんかに出しぬかれてうれしいんですか! お奉行さまに目がねえんだ。松平のお殿さまなら、うん、そうか、よしよし、とおっしゃるにちげえねえんだから、直訴にめえりましょうよ! いいや、殿さままでがおらがのだんなをそでになさるんなら、この伝六が胸倉にくいついてやるんだ。――ちぇッ、やりきれねえな。にやにや笑って、何がおかしいんですかい!"
],
[
"こんなものに、なんの御用があるんです⁈",
"しようがねえな。おめえの目はどっち向いていたんだ。あばたの先生が今どんな身なりをしてきたか、気がつかなかったのかい",
"バカにおしなさんな。あたりめえの人間がきる着物をきてきたじゃござんせんか! そいつのどこが不思議だとおっしゃるんです!",
"だから、雑煮でもうんといただいて、丹田に力でもはいるようにしておけというんだよ。おめえは大役仰せつかったといったせりふを聞いて、出世したろうの、松平のお殿さまへ食いつこうのと途方もねえことをいって騒いでいるが、お年始へいった帰りだけだったのなら、熨斗目裃のご定服を着ているのがあたりめえなんだ。にもかかわらず、大将は巻き羽織で十手を腰にしていたじゃねえか。何かあな(事件)が降ってわいて、その大役仰せつけられたにちげえねえから、とち狂っていずと、ひとっ走りお番所へいってきな"
],
[
"ホシだッ、ホシだッ。お番所はどえれえ騒ぎですぜ",
"お年賀登城のお大名がたにでも何かまちがいがあったのかい",
"ところが大違い。本郷のね、妻恋坂で人が殺されたっていうんですよ",
"また人殺しか。あんまりぞっとしねえな",
"とおっしゃるだろうと覚悟してめえりましたが、詳しく聞くと、なかなかこれがぞっとする話なんだから、まあお聞きなせえまし。訴えてきたのは妻恋坂の町名主だっていうんですがね、殺されている相手が考えてもかええそうじゃござんせんか。十と、八つと、六つの子どもだっていうんですよ",
"なに! 子どもばかり三人やられているとな! ふうむな。いかさま、ちっとよろしくないな",
"でしょう。だから、話はおしまいまでお聞きなせえましといってるんですよ。シナの孔子様もおっしゃったんだ。常人の狂えるは憎むべからず、帝王にして心狂えるは憎むべしとね",
"なんだい。いきなり漢語を使って、それはなんだい",
"いいえ、こないだ辰のふた七日の日にね、あんまり気がめいってならねえから、通りの釈場にいったら講釈師がいったんですよ。あたりめえの人間の気違いはかええそうだが、王さまで気の触れているのは何をしでかすかわからねえから、あぶなくてしようがねえんだ、とこういうわけあいなんだそうながね、なかなかうめえことをいうじゃござんせんか。つまり、その心狂えるっていうやつが、殺された子どものそばにいるっていうんですがね",
"キの字か",
"そうそう、そのキの字なんだ、キ印なんだ。それも、二十三、四のうらわけえ気違いがね、殺された子どものそばに、にやにや笑いながら血のついた出刃包丁をさか手に握って、しょんぼりと張り番をしているっていうんですよ。だから、殺した下手人はてっきりもうそれにちげえねえが、それにしても子どもの親っていうのがだれだかわからねえと、こういうんですがね。どう考えてみても、男の気違いが子どもを産むはずはなし、よしんば産んだにしても、二十三、四のわけえ野郎に十をかしらの子どもが三人もある道理はねえんだから、そりゃこそ大事件だとこういうことになって、おらがだんなはお出ましにならねえし、だれにしよう、かれにしようと、人選みをしたあげくがくやしいじゃござんせんか。あばたの大将にそのおはちが回っていったと、こういうんですよ"
],
[
"ちぇッ。何がお気に入らねえんですかい! 人がせっかくこの寒い中を汗水たらしてかぎ出しにいってきたのに、フフンはねえでやしょう! どこがお気に入らねえんです! この伝六のどこがお気にさわったんです!",
"…………",
"そりゃね、あっしがきいたふうな漢語なんぞ使うのはがらにねえですよ。ええ、ええ、そうです。そうですよ。どうせ伝六は無学文盲なんだからね、さぞかしお気にもさわったでござんしょうが、しかし、ありゃ講釈師がいったんだ。常人の狂えるは憎むべからず、帝王の心狂えるは憎むべしとね。だんなだってそう思うでしょう。この伝六やあばたの敬大将が気違いになってるぶんなら驚きゃしますまいが、松平のお殿さまやお将軍家が気違いになったと思ってごらんなせえまし、右門、前へ出ろ、そのほうはむっつりといたして気に食わんやつじゃ、手討ちにいたすぞ、としかられたってしようがねえじゃござんせんか。だから、それをいうんだ。大きにもっともだと、それをいっただけなのに、フフンとはなんです!",
"…………",
"ね! フフンとはなんですかよ! しかもだ、並みの人間が殺されたんじゃねえ、かわいい子どもが三人も手にかかってるんだというんですよ。おまけに、あばたの大将がわざわざいやがらせをいいに来ているんじゃねえですか! 何が気に入らねえんです! 伝六の話のどこがお気に召さねえんです!"
],
[
"ようがす。どうせそうでしょうよ。ええ、ええ、だんなはあっしよりか、死んだ辰のほうがかわいいんだからね。え、ええ、ようがすよ。どうせ、あっしがかぎ出してきたあな(事件)じゃお気に召さんでしょうからね。あばたの大将にてがらをされてもけっこうとおっしゃるなら、それでいいんだ。あっしゃ……あっしゃ……",
"ウッフフ……。アハハ……",
"え……?",
"ウッフフ……アッハハ",
"何がおかしいんです! あっしが泣いたら、何がおかしいんです!",
"では、ひとつ――"
],
[
"九ツが鳴ったようだね。あれを聞いたら急にげっそりとおなかがへったようだから、おまんまを食べさせてくんな",
"いやですよ!",
"だって、おれがすかしたんじゃねえ、おなかのほうでひとりでにすいたんだから、しょうがねえじゃねえか。何か早くしたくをやんな",
"いやですよ。ろくでもねえおなかをぶらさげているからわりいんだ。だんなは辰がお気に入りでござんしょうから、妙見寺の裏の墓から、おしゃりこうべでも連れてきて、お給仕してもらいなさいな",
"しようのねえあにいだな。いつになったらりこうになるんだ。おちついて物事をよく考えてみねえな。ああしてあばたの大将が、今度こそはてがらにとしゃちほこ立ちをして出かけたうえは、あわててあとを追っかけていったとて、けんかになるばかりなんだ。あのとおり了見のせめえ男だから、お係り吟味を命ぜられた役がらをかさに着て食ってもかかるだろうし、意地わるくじゃまもするだろうし、眼になるネタだってひっかきまわして、気よく手助けさせる気づかいはこんりんざいあるまいと思ったればこそ、わざとこうして、ほとぼりがさめるまで、時のたつのを待っていたんじゃねえか。敬公を相手の相撲なら、このくれえゆるゆるとしきっても、軍配はこっちに上がるよ。どうだい、おこり虫、これでもまだ、おれにおまんまを食べさせねえというのかい",
"ちぇッ。そうでござんしたか。あやまった! あやまった! それならそうと、はじめからおっしゃりゃ、泣くがところはなかったのに、正月そうそうからつれなくなさるから、つい愚痴が出たんですよ。べらぼうめ! あばたの敬公、ざまアみろい。おらがのだんなは、初めから相撲にしていねえんだ。そうと事が決まらば、おまんまも食わする段じゃねえ。あるものをみんな読みあげるから、ほしい品だけをおっしゃってくだせえましよ。――いいですか。ええと、ごまめに、きんとん、おなます、かずのこ、かまぼこ、小田巻き、こはだのあわづけ、芋のころ煮、ふなのこぶ巻き、それから、きんぴらに、松笠いかのいそ焼きと、つごう十一色ござんすが、どれがお好きですかい",
"みんな出しなよ",
"え……?",
"みんな出せばいいんだよ",
"おどろいたな。このほかにまだあるんですぜ。これは暮れの歳暮の到来ものなんだが、赤穂だいの塩むしがまるまる一匹と、房州たこのでけえやつもまだ一ぱい残っているんですぜ",
"遠慮はいらんから、それも出しな",
"あきれたな。こいつをみんな召し上がるんですかい",
"あたりめえだ。食べ物だって風しだい、舵しだいだよ。はしの向いたほう、目の向いたほうをいただくんだから、威勢よくずらずらッと並べておきな"
],
[
"うちはどこだ",
"あれですよ、あれですよ。妻恋坂を上りきって、右へ十五、六間いったところの二階家だといいましたからね。たぶん、あのしいの木の下のうちですよ"
],
[
"貴、貴公なぞが用はないはずじゃ。のっぺりした身なりをいたして、何しに参った!",
"これはきついごあいさつじゃ。だいぶ逆上していらっしゃるとみえますな。ときに、この狂人にご用がおありでござろうな",
"いらぬおせっかいじゃわッ"
],
[
"いかがです? このにいさん、ご入用ではござりませぬかな",
"いろうと、いるまいと、うぬからさしずうけぬわッ",
"ま、そう、きまり悪がって、がみがみとおこらなくてもよいですよ。ご入用なら、お持ちあそばしませな",
"ちぇッ。せっかくだんなが手取りにした上玉を、なにものしをつけて進上するこたあねえでしょう! 人がいいからな、見ているこっちがくやしくなるじゃござんせんか!"
],
[
"なんでえ! なんでえ! 恩知らず! 首筋のみみずばれに眼をつけたのも、あぶねえ気違いを押えたのも、みんなおいらのだんなじゃござんせんか! にもかかわらず、お礼一ついわねえで、けんつく食わせるたア、何がなんでえ! 何がなんでえ!",
"下郎が何をほざくかッ。お奉行さまからご内命うけたのは、この敬四郎じゃ! 四の五の申すなッ"
],
[
"何をでしゃばりいたすんだッ。この女とてもこちらのものじゃ! かってなまねをすると、手はみせんぞッ",
"なんでえ! なんでえ! 情けねえおっさんだな。てめえじゃなにひとつ眼をつける力がねえくせに、いちいちと横取りなさらなくともいいじゃござんせんか! その玉はおらがのだんなが見つけたんだッ。これまでもみすみす渡してなるもんですかい! ――だんな! だんな! にやにやしていねえで、草香流を貸しておくんなせえましよ! ちょっぴりでいいんだ。ほんのちょっぴり草香流でおまじないすりゃ、ぞうさなく取りけえすことができるんだから、はええところ貸しておくんなせえよ!"
],
[
"おいらもう……",
"なんでえ",
"いいですよ! そんな薄情ってものはねえんだ。なにもこの場に及んで、草香流の出し惜しみなんぞしなくたってもいいんだ。なんべん使ったってもべつに減るもんじゃねえんだからね。いいんですよ! 子分の災難を見ても、腹のたたねえようなだんななら、こっちにだっても了見があるからいいんですよ",
"ウフフフ……",
"何がおかしいんです! 人のいいばかりが能じゃねえんだ。いいえ、納まっているばかりが能じゃねえんですよ。納まっている人間がえれえんなら、ふろ屋の番台はいちんちたけえところにやにさがっているんだからね、日本一えれえんだ。ほんとにばかばかしいっちゃありゃしねえや。気違いもとられ、子どももとられ、女までも巻きあげられてどうするんですかい! 眼になるネタは一つもねえじゃござんせんか!"
],
[
"フフン。居士号大姉号をつけてあるところは相当金持ちだな",
"え……?",
"てつだってくれなくともいいよ。どうせ、おれはふろ屋の番台だからな。おめえはひとりでかんかんおこってりゃいいじゃねえかよ",
"ちぇッ"
],
[
"そろそろ少し――",
"え? なんです? なんです? 何か眼がつきかかったんですかい",
"いらぬお世話だよ",
"ちぇッ、なにもすねなくたって、いいじゃござんせんか! あっしのがみがみいうのは、今に始まったことじゃねえんだ。鳴るがしょうべえだと思や、腹たてるところはねえでやしょう。意地のわるいことをおっしゃらねえで、聞かしておくんなせえな",
"いいや、よしましょうよ。わたしはどうせふろ屋の番台だからね、アハハハ。いいこころもちだね"
],
[
"よッ。江戸も広いが、こんなおもちゃは知らないぞ。まさに、これは玉ころがしに使う玉だな",
"え……? なんです? なんです? 玉ころがしとは、浅草のあの玉ころがしですかい",
"いらぬお世話だよ",
"ちぇッ、なんてまあ意地まがりだろうな。ついもののはずみで、番台にたとえただけじゃござんせんか。いつまでもそう意地わるくいびらなくたってもいいでやしょう",
"いいえ、どうせあたしはふろ屋の番台ですよ。アッハハハ。伝六あにい、きょうはけっこうなお日よりでござるな"
],
[
"あにい!",
"えッ! ごきげんが直りましたかい",
"町方役人というものはな",
"どうしたというんです",
"腕ずくでネタやホシをかっ払っていったとてな",
"さようさよう",
"変なところであいづちをうつない。町方役人というものはな。腕より、度胸より――",
"さよう、さよう",
"わかってるのかい",
"いいえ",
"なんでえ、わかりもしねえのに、さようさようもねえじゃねえか。町方役人の上玉と下玉の分かれめはな、腕より度胸より、これとこれだよ"
],
[
"だから――",
"たまらねえな。駕籠ですかい",
"違うよ。近所へいって聞いてきな",
"え……?",
"わからねえのか。近所へいって、ここの家の様子を洗ってくるんだ",
"いいえ、それならわかっていますが、賽ですよ。さいころですよ。金粉を見つけ出して、ぴかぴかと目を光らしたようですが、こいつのどこが不思議なんですかい",
"しようがねえな。こんなものぐらい知らなくて、ご番所の手先は勤まらねえぜ。いんちきばくちのいかさま師が使う仕掛けのコロじゃねえかよ",
"へえ! これがね"
],
[
"ほら、みろよ。こいつあ二の目に細工がしてあるとみえて、下からちかちかと金粉が漏れるじゃねえか。気違いや十だの六つだのの子どもが、こんなくろっぽい品を所持しているはずはねえんだ。おそらくは、この家に出入りのやつか、でなきゃ、血筋でも引いたやつが置き忘れていったか、子どもにねだられてくれたものか、どっちにしてもただものじゃねえんだから、これに目をつけたとて何が不思議かい。そっちの玉ころがしの玉にしたってそうじゃねえか。赤や黄のきれいな色がついているから、子どもはたいせつなおもちゃだと思ってしまっておいたかもしれねえが、どいつがどうしてこんな品をくれたか、それも眼のつけめなんだ。このうちの家族の様子を探りゃ、おおかた目鼻もつこうというもんだから、とち狂っていずと、はよういってきな",
"ちげえねえ! ちげえねえ! べらぼうめ! ざまあみろい! ええと――、さてな、どこで洗ってきたものかな"
],
[
"変だというのは、たぶんあの子どもの親たちのことだろう。父親も母親もそろって去年の十二月十二日に死んだといやしなかったか",
"そうです! そうです! そのとおりなんだが、気味がわるいね、どうしてまたそいつをご存じですかい",
"また始めやがった。あの新しい位牌の裏に、十二月十二日没と書いてあるじゃねえか。それもおそらく変死だろう",
"そうなんだ、そうなんだ。夫婦そろって首をくくったというんですよ。なんでも、ご先祖代代日本橋のほうでね、手広くかつおぶし問屋をやっていたんだそうなが、なんのたたりか、代代キ印の絶えねえ脳病もちの血統があるというんですよ。だから、それをたぶん気に病みでもしたとみえて、去年の十二月店をたたんでここへひっこすそうそう、いやじゃありませんか、ちょうどこの辺ですよ、今だんなのいらっしゃるあたりだというんですがね、跡取りの長男夫婦が急にふらふらと変な気になって、その鴨居からぶらりとやったというんですよ",
"へへえ、この鴨居かい。おおかたそんなことだろうと思ったよ。夫婦ふたりが同じ日に仏となるなんて、そうざらにあるこっちゃねえからな、するてえと、さっきの気違いは、ぶらりとやった長男の兄弟なのかい",
"そうです、そうです。三人めの、つまり一番末のむすこだというんですがね。だから、あのかわいそうな子どもたちにゃ、気は狂っていても正銘の叔父貴だというんですよ",
"というと、死んだ兄貴とあの気違いのまんなかにまだひとりあるはずだが、もしやそいつが、さきほどちらりと姿を見せたあの落としまゆの女じゃねえか",
"ホシ! ホシ! そのとおりですよ。どこかなんでも下町のほうへね、お嫁にいっている娘なんだそうですよ",
"よし、わかった。それで兄弟の人別調べははっきりしたが、もうひとりだいじな人があるだろう。年寄りのはずだが、聞かなかったか",
"気味がわるいな。あるんですよ、あるんですよ、おばあさんだそうながね、どうしてまたそれをご存じですかい",
"いちいちとうるせえな。あそこに水晶の数珠があるじゃねえか。年寄りででもなくちゃ、数珠いじりはしねえよ。するてえと――な、大将!",
"え……?",
"おめえ、変なことが一つあるが、気がついているかい",
"はてな……",
"しようがねえな。いねえじゃねえか! いるべきはずの、そのおばあさんがいねえじゃねえか! な! おい! 伝六ッ。どうだ! どうだ! 不思議に思わねえか!",
"ちげえねえ! さあ、事がややこしくなってきたぞ! だいじな孫が三人も殺されているのに姿を見せねえたア、ばばあめが下手人かもしれねえな。女の年寄りだっても、いんちきばくちのいかさま師がいねえとはかぎらねえんだからね。べらぼうめ! じゃ、もちろん――"
],
[
"へえ、下手人はここにいるんですかい",
"やかましいよ。敬公がどんな様子をしているか、ちょっとのぞいておいでな",
"え……?",
"よくよく目をぱちくりさせるやつだな。敬公の様子によっちゃ、けんかにならねえように陣立てしなくちゃならねえんだ。こっそりいって、空もようを探ってきなよ"
],
[
"いけねえ! いけねえ! ひと足先にもう――",
"あげてきたか",
"いいえ、あの変な落としまゆの女を締めあげてね、下手人のどろも吐かし、ありかも突き止めて、今のさっきしょっぴきに出かけたというんですよ",
"ほほう、そうかい"
],
[
"いくら敬公だっても、そのくらいなてがらはたてるだろうよ。なにしろ、責め道具のネタを三つも持ってけえったんだからな。それで、女はどうしたのかい",
"かわいそうに! 大将のことだから、さんざん水責め火責めの拷問をやったんで、虫の息になりながら、お白州にぶっ倒れているんですがね。ところが、伝六あにいとんだ眼ちげえをやったんですよ。ちょっと変なことがあるんですが、だんなはいってえだれが下手人だと思ってるんですかい",
"決まってらあ。おめえは行くえ知れずのばあさんだろうとかなんとかさっき啖呵をきったようだが、あの女の亭主野郎、すなわちこの懐中しているさいころの持ち主、詳しくいえばいんちきばくちうちの玉ころがし屋に縁のある野郎だよ",
"かなわねえな。どうしてまたそうぴしぴしとホシが的中するんだろうね",
"またひねりだしやがった。とっくりと考えてみねえな。女のなかにもいかさまばくちの不了見者はたまにいるかもしれねえが、かわいい孫を三人もひねり殺すような鬼畜生は、そうたんとねえよ。あの落としまゆの女が飛び出したときからくせえなとにらんでいたところへ、さいころは見つかる、玉ころがしの玉は出てくる、そのうえに下町へ嫁にいっているといったようだが、敬公のしょっぴきに行ったところもその下町じゃねえのかい",
"そうですよ、そうなんですよ。それも、奥山のたった一軒きりきゃねえその玉ころがし屋が、下手人の野郎のうちだといってね、おおいばりに出かけていったというんですよ",
"そうだろう。女はたぶん亭主と同罪じゃあるめえが、それまでは聞かなかったかい",
"いいえ、聞きました、聞きました。泣いて亭主をいさめたのに、悪党めどうしてもきかずに飛び出したんで、せめても甥たちの菩提を弔おうと、ああしてさっき子どものむくろにすがりついたというんですよ。だから、もう死ぬ死ぬといってね、ほら、あのとおり――",
"なるほど、泣いているらしいな。それならひとつ――"
],
[
"泣きたくなるな。今のせりふがくやしいじゃねえですか! ご無礼されねえように、なんとかしてくだせえよ! ね! だんな、なんとか力んでくださいましよ!",
"うるせえな、てがらはこれからだよ。静かにしろ"
],
[
"いけねえ! いけねえ! 下手人のいかさま野郎、いま舌をかみ切ろうとしたんでね、大騒ぎしているんですよ",
"なに! そうか! じゃ、ちっとも白状しねえのか",
"いいえね、あの三人の子どもを殺したのはいかにもおれだと、それだけは白状したというんですがね、それがまた、むごいまねをしたもんじゃねえですか。おちついているところをみるてえと、もちろんだんなはもう眼がついていらっしゃるでしょうが、あの玉ころがしの玉と、さいころをくれてやって日ごろから子どもたちを手なずけてからね、ゆうべすごろくで遊んでいるところへ、ぬっと押しかけ、グウともスウともいわさずに細ひもでくびり殺しておいてから、てめえの罪を隠すためにあくどい細工をしやあがって、さらに胸倉を出刃包丁で突き刺したうえに、あの気違いをいいことさいわいにしながら、役者に使ったっていうんですよ。その使い方も罪なまねしやがったもんだが、かわいそうな気違いさんがね、もちをくれろ、もちをくれろとせきついたんで、くれてやるかわりに、血のついた出刃包丁を持って、死骸のそばに張り番しているかといったら、脳のわりい者は孔子様の口調をまねるんじゃねえが、ほんとうに憎めねえじゃござんせんか、うれしがって、ゆうべからさっきまで、なまもちをかじりかじり張り番していたっていうんですよ。けれどもね、どうしてまたそんなむごい子ども殺しをやったか、肝心かなめのそいつをちっとも白状しねえので、敬大将カンカンになりながら責めにかけているうちに、死んでもいわねえんだと、すごい顔をしながら、ぷつりと舌をかみ切ったというんですよ",
"ふん――"
],
[
"知恵のねえ男ほど、この世に手数のかかるやつはねえよ。あば敬さんが手を染めたあな(事件)だからな、恥をかかしちゃなるめえと、今までこうしててがらにするのを遠慮していたが、いつまでたっても火責め水責めを改めねえから、おきのどくだが、またこちらにてがらをいただかなくちゃならねえんだ。では、ひとつ生きのいいその知恵を小出しに出かけますかね",
"行くはいいが、どけへ出かけるんです",
"知れたこった。行くえしれずのおばあさんを堀り出しに行くんだよ。その玉さえ拾ってくりゃ、白状しねえで舌をかみ切ったなぞの玉手箱も、ひとりでにばらりと解けらあ。さあ、駕籠だッ"
],
[
"いけねえぜ! いけねえぜ! あねごばかりか、兄貴もしょっぴかれたようじゃねえか。このぶんなら、あっちのほうの玉にも手が回るぜ",
"回りゃ――",
"そうよ。おれたちの笠の台だって満足じゃいねえんだ。急ごうぜ"
],
[
"ホシだッ、野郎どものあとをつけろッ",
"え……?",
"じれってえな、今やつらが、あっちのほうの玉にも手が回るぜといったじゃねえか。その玉とは、こっちがほしいおばあさんだよ",
"…………?",
"ちぇッ、まだわからねえのかい。おまえの口ぐせじゃねえが、ほんとうにちぇッといいたくなるよ。今の二匹は、同じいかさま師の一家にちげえねえんだ、やつらの仲間がうしろに隠れて、何か細工をしているに相違ねえよ、舌をかみ切った野郎が白状しねえのもそれなんだ。やつら遊び人が親分や兄弟に災難のふりかかることなら、なにごとによらずいっさい口を割らねえしきたりゃア、おめえだっても知っているはずじゃねえか。まごまごしていると、見えなくなっちまうぜ"
],
[
"この江戸にゃ、おれがいるんだぜ",
"なんだと!",
"下っぱのひょうろく玉たちが、豆鉄砲みたいな啖呵をきるなよ。観音さまがお笑いあそばさあ",
"気に入らねえやつが降ってわきやがった! どうやらくせえぞッ。めんどうだッ。たたんじまえッ"
],
[
"同じ江戸に住んでいるじゃねえかよ。いんちきさいころをいじくるほどのやくざなら、このお顔は鬼門なんだ。よく見て覚えておきなよ",
"そうか! うぬがなんとかの右門かッ。生かしておきゃ仲間にじゃまっけだ。骨にしてやんな!"
],
[
"どうだね、むっつり右門の草香流というなあ、ざっとこんなぐあいなんだ。ほしけりゃ参ろうかい。ほほう。さび刀をまだひねくりまわすつもりだな、草香流が御意に召さなきゃ錣正流の居合い切りが飛んでいくぞッ。――のう、ひざの下の親分、だんだんと人だかりがしてくるじゃねえか。恥をかきたくなけりゃ、子分どもをしかったらどうだい。それとも、三、四人三途の川を渡らせるかッ",
"お、恐れ入りました。本願寺裏のだんだら団兵衛といわれるおれが、世間に笑われちゃならねえ。すなおにすりゃお慈悲もあるというもんだ。野郎ども、だんなのおっしゃるとおり、手を引きな"
],
[
"ありがとうござります。ありがとうござります。婿は、玉ころがし屋の悪はどうなりました",
"きのどくながら、ご番所で舌をかみ切りましたぜ",
"いい気味でござんす! あんな鬼畜生は、それがあたりまえでござんす! ほんとに、なんて人でなしの野郎でござんしょう! いくら血筋はつながっていなくとも、義理の甥をくびり殺すとは、ばちあたりでござります",
"じゃ、おばあさん、何もかも見ていたのかい",
"見ていたどころか、わたしの目の前で殺したんでございますよ。それというのが、一万両ばかり先代の残した金がござんすので、せがれ夫婦が死んだあとの遺産に目をつけて、かわいそうに、孫どもをなくして跡を断ってしまえば、気の触れた弟子に行くはずはなし、そっくりそのまま婿のわが身にころがり込むだろうと、あのようなおろかなまねをいたしまして、このわたくしまでをも、こんな悪のところに押し込め、今が今まで身代を譲れの渡せのと、責め折檻をしていたのでござります。――どなたさまやら、なんとおっしゃるだんなさまやら、年寄りの目には……この老婆の目には、生き如来様のように見えまするでござります",
"もったいのうござんすよ。拝まれるほどの男じゃねえんです。お手をおあげなすって! お手をおあげなすってくだせえまし! そんなに拝まれりゃ、地もとの観音さまに申しわけござんせんや"
],
[
"そうそう、いま思い出しました。朝ほどはわざわざ組屋敷のほうへご年始の催促に来ていただいて恐縮しましたね、ついでに、ここで申しておきましょう。明けましておめでとうござる。ことしもこんなぐあいに、あいかわらず――さようなら",
"ちぇッ。すっとしたね。ああ、たまらねえな。ね、敬だんな! ことしもこんなぐあいに、あいかわらずたアどうですかい。おらがだんなのせりふは、このとおり、こくがあるんですよ。ああ、たまらねえな。すっとしましたね"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:しず
2000年4月12日公開
2005年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品名": "右門捕物帖",
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"副題": "21 妻恋坂の怪",
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[
[
"たまらねえな。陽気がぽかついてくるてえと、ものごとがこういうふうにはずんでくるんだからね。どうです? まあ、この字の行儀のよさというものは――。見ただけでもほれぼれするじゃござんせんか。お将軍さまが召し上がる目刺しだっても、これほど行儀よく頭をそろえちゃおりませんぜ。べっぴんですよ! べっぴんですよ! この字の書きっぷりじゃ、きっと大べっぴんですぜ",
"うるさいよ",
"え……?",
"耳もとでガンガンとうるさくほえるなといってるんだ。おまえのようなあきめくらがのぞいたっても、犬が星をみるようなものなんだから、尾っぽを巻いておとなしくかしこまってな",
"ちぇッ。あきめくらとはなんですかい! なんですかい! いかに伝六が無学文盲だっても、このぐれえの色文なら勘だけでもわかるんだ。これが世間にほまれのたけえ水茎の跡うるわしき玉章っていうやつなんだ。名は体を表わし、字は色を現わすといってね、さぞおくやしいでござんしょうが、この主はべっぴんですよ"
],
[
"せっかくお楽しみのようだが、このご用主はおばあさんだぜ",
"何を途方もねえことおっしゃるんですかい! だから、女ぎれえは自慢にならねえというんですよ。はばかりながら、色模様にかけちゃ、あっしのほうがちょっとばかりご無礼しているんだからね。あらあらかしこなぞと若々しい止め文句を使う年寄りのばんばあが、どこの世界にあるんですかい。論より証拠、行ってみりゃわかるんだ。いらっしゃい! いらっしゃい! すぐさまご入来願わしくとあるんだから、早いところおいでなさいましよ"
],
[
"なんです? どこかにご隠居さまが書いたっていう判じ絵でもあるんですかい",
"あいかわらず手数のかかるやつだな。このご書面の紙をみろな。もみくちゃになったやつを、火のしかなんかで伸ばしたようなこじわが、たくさんついているじゃねえかよ。いろけ盛りの若い女だったら、こんなつましいまねはしねえもんだよ。お年寄りだからこそ、捨てるももったいないと、丹念にしわをのばして、巻き紙に使ったんだ。目を変えろ、目玉をな。ねずみおどしにぴかぴか二つ光らしているんじゃねえんだから、今度ついでがあったら、神田の鍛冶町へでもいって、もっとドスのきく目玉に打ち直してもらってきなよ"
],
[
"盗難にお会いなすったのでござりまするか",
"いいえ、それだけのことなら、わざわざお呼びたてすることはござりませぬが、ちとこみ入っておじゃりますのでな、これなる雛のいわれから先にお話しいたしましょう――"
],
[
"では、なんでござりまするな。こちらの雛をお飾りなさるときは、十二年このかた預かっている男雛に相違ないとお思いなすって、お飾りあそばしたのでござりまするな",
"ええ、もう相違ないどころか、形も同じ、着付けも同じ、しまったところも去年のままで、なにひとつ変わった個所も、疑わしいところもおじゃりませんなんだゆえ、娘もわたくしもこれがにせものであろうなぞとは夢にも知らずこうして飾りましたところ、古島のててごさまが不意にびっくりなさいまして、これは偽物じゃとおっしゃりましたゆえ、てまえどももぎょうてんしてお尋ねいたしましたら、何から何までほんものそっくりにまねて作ってはあるが、着付けの金襴の生地がまがいものじゃ、うちから預けた雛は二百年このかた伝わっている品で、一寸十両もする古金襴地のはずなのに、これは今できの安い京金襴じゃとおっしゃいましたゆえ、わたくしどもも生地を調べてみて、ようやくそれと知った始末でおじゃります"
],
[
"ほほう。なるほど、おっしゃるとおり、近ごろでこしらえた新品のようでござりまするな。そういたしますると、すり替えられた真物というは、よほどのご名品でござりましたろうな",
"ええ、もう名品も名品も、内藤家の古島雛と評判されている逸品じゃそうにおじゃります",
"なるほど、さようでござりましたか。いや、それならばてまえも耳にしたことがござります。内藤家の古島雛に、小笠原大膳様の源氏雛、それに加賀百万石の光琳雛は、たしか天下三名宝のはず、してみると、十中八、九まず――",
"盗難じゃとおっしゃるのでおじゃりまするか",
"ではなかろうかと考えるのが事の順序かと存じます。これが世間にもざらにある安物の駄雛でござりましたら、ねらってすり替えようという盗心も起こりますまいが、天下に指折り数えられるほどの名品とすれば、ほしくなるのが人情でござりまするからな。しかし、気になるのはお嬢さまの婚期でござりまするが、お約束のお輿入れはいつごろのご予定なのでござります",
"十八の年の五月五日が来たら、という約定でおじゃりますゆえ、もう目前に迫っているのでおじゃります",
"なるほど、なかなかゆかしいお約束でござりまするな。女夫雛を片雛ずつ分けて持って、女の節句に祭りかわし、五月五日の男の節句に、雛と人と二組みの女夫をめでたくこしらえ納めようというのでござりまするな。いや、いろいろと事の子細、納得が参りました。では、念のためでござりますゆえ、春菜様とやらおっしゃったそのお嬢さまにも、ちょっとお会わせさせていただきましょうかな",
"は、よろしゅうおじゃります、と申しあげたいのでござりまするが、それが、じつは……",
"いかがあそばされたのでござります",
"どうしたことやら、騒ぎが起きるといっしょに、どこかへ姿が消えたように、見えなくなったのでおじゃります",
"えッ――"
],
[
"ふうむ。ちとこれはまた少しこみ入ってまいりましたな。どのようなご様子で見えなくなったのでござります",
"古島様親子がご立腹なすっているさいちゅうに、なにやら悲しそうに顔色を変えて、ふらふらと奥庭のほうへ出てまいりましたゆえ、思いつめてなんぞまちがった考えでも起こしてはと、腰元の多根にすぐさま追いかけさせましたところ、もうどこへいったか見えなくなっていたそうなのでおじゃります。それゆえ、大騒ぎいたしまして、心当たりのところへは残らず人を飛ばし、くまなく捜させましておじゃりまするが、かいもく居どころがわかりませぬゆえ、それもついでにお捜し願おうと存じまして、あなたさまをお呼びたてしたのでおじゃります",
"容易ならぬことになりましたな。ようござります、なんとか力を傾けてお捜し申しましょう。では、お多根どのとやら申されるそのお腰元を、ここへちょっとお招きくだされませな",
"ところが、その多根もいつのまにやら、ふいっと消えてなくなったのでおじゃります",
"なんでござります! お腰元もいなくなりましたとな! ふふうむ! いよいよこれは事がむずかしくなりましたな。いなくなりましたのは、いつごろでござりました",
"手分けして春菜を捜しているさいちゅうに、多根がまたうち沈んだ様子で、同じようにふらふらと奥庭のほうへ出てまいりましたゆえ、若党にすぐさまあとを追わしましたところ、やはりもういなかったそうなのでおじゃります",
"お年はいくつぐらいでござりました",
"一つ下の十七でおじゃります",
"気だては……?",
"やさしゅうて、すなおで、かわゆらしゅうて、そのうえ主人思いの、なにひとつ非の打ちどころもない子でおじゃりますゆえ、春菜もいっそほんとうの妹にしたいと、口ぐせに申していたくらいでおじゃりました"
],
[
"たまらねえな。まったくどうもたまらねえな。内藤小町に思い雛とかけてなんと解く、とはどんなもんですかい。それにつけても、おべっぴんさまさまだ。ときどきはこういうのに出会わねえと、ぜんそくが起きるからね。ちくしょうめ、桜の花びらまでがのぼせやがって、ひらひらと浮かれていやがらあ。べっぴんって名をきくてえと、これがまたじっさい妙なものでね――",
"…………",
"ちぇッ。なにも急にそんなに気どらなくたってもいいじゃござんせんか。やけにうれしくなったんだから、いっしょにほがらかになっておくんなさいよ。今も申したとおり、これがまたじっさい妙なものでね。同じ女の子の話でも、べっぴんでねえと気が乗らねえんだ。ぜんそくにべっぴん、のぼせ引き下げにはとうがらしといってね、ときどき持薬にしねえと、胸のつかえがおりねえんですよ。だから、ねえ、だんな!",
"…………",
"やりきれねえな。なんだってまた、きょうはやけにそうむっつりとしているんです? 七つのときから十二年このかた、男雛をかわいがってきたべっぴんなんて、思っただけでもべっぴんべっぴんしているじゃござんせんか。それにまたいっしょにいなくなったお腰元が、しとやかで、すなおで、かわいらしくて、あっしのように主人思いだというんだから、――だんなは小町、あたしは腰元、はええところパンパンとふたりの居どころを突きとめて、けえりに四人して夜桜見物とでもしゃれたら、豪儀に似合いの女夫雛と思うんですがね。どうですね、いけませんかね",
"…………",
"おや?",
"…………",
"はてな……?"
],
[
"ちょっと! ちょっと! 何をのぼせているんですかよ。雛は飾り物、人間は生身の生き物じゃござんせんか。雛の詮議に行くんだったら、三日や四日おくれたって人形町がなくなるわけじゃねえんだから、べっぴんどものほうを先になんとか目鼻つけておくんなさいよ。生身に虫がついたら、ひとのものでも気がめいるじゃござんせんか!",
"…………",
"ねえ、ちょいと!",
"…………",
"じれってえな! 目色を変えて、何を急ぐんです? 雛の出どころ詮議だったら、人形町は逃げも隠れもしやしねえといってるんだ。ねえ、ちょいと! お待ちなさいよ!"
],
[
"これが何か……?",
"扱った覚えがあるかないかときいているのじゃ",
"さてな……? てまえどもの店で商った品かどうかはわかりませんが、たしかにこれは古島雛のまがい雛ですね"
],
[
"だいぶ詳しいようじゃが、どうしてこれを古島雛の偽物と存じておるか!",
"どうもこうもござりませぬ。あのとおり、あそこにもたくさんございますゆえ、ごろうじなさりませ"
],
[
"あのようにたくさん、どうしたというのじゃ!",
"よく売れるから仕入れたんでございますよ",
"なに! よく売れるとな! それはまた、いったいどうしたというのじゃ!",
"評判というものは変なものですよ。なにしろ、内藤様の古島雛といえば、もともとが見ることも拝むこともできないほどのりっぱな品だとご評判のところへ、あのとおりほかの内裏雛とよく比べてごろうじませ、こちらのまがい雛がまた比較にならんほどずばぬけてよくできておりますんでな、どこから評判がたちましたか、ことしは古島雛のまがいが新品にできたそうだとたいした人気で、どんどん羽がはえて売れるんですよ"
],
[
"ちくしょうめ、なるほどたくさん並んでいやがるな。おい! 番頭の大将! あのいちばん上にあるやつが古島雛のまがい雛とかいうやつかい",
"へえい、さようで――",
"いくらするんだ",
"ちとお高うございますが……",
"べらぼうめ! 安けりゃ買おう、高けりゃよそうというような贅六じゃねえんだ。たけえと聞いたからこそ買いに来たんじゃねえか。夫婦一対で、いくらするんだい",
"五両でございます",
"…………",
"あの、五両でございます",
"…………",
"聞こえませんか! 女雛男雛一対が大枚五両でございますよ!",
"でけえ声を出さねえでも聞こえていらあ! ちっと高すぎてくやしいが、五両と聞いて逃げを張ったとあっちゃ、江戸っ子の名に申しわけがねえんだ。景気よく買ってやるから、景気よくくんな"
],
[
"なるほど、羽がはえて飛んでいくな。これをこしらえたやつは何者じゃ!",
"それがちと変なんですよ。にせものではございましても、これほどみごとな品を作るからにはさだめし名のある人形師だと思いますのに、だれがこしらえたものか、さっぱりわからないのでございます",
"でも、これを売るからには、卸に参った者があるだろう。そいつがだれかわからぬか!",
"ところが、肝心のそれからしてが少々おかしいのでございます。おばあさんの人が来たり、若い弟子のような男が来たり、雛のできしだい持ち込んでくる使いがちがうんですよ",
"しかとさようか!",
"お疑いならば、ほかの九軒をもお調べくださいまし。同じようにして持ち込み、同じようにみな売れているはずでございますから、それがなによりの証拠でございます"
],
[
"おてがら、おてがら。どうもちっと変じゃござんせんか",
"なんでえ。じゃ、きさま、先回りして九軒をもう洗ってきたのか",
"悪いですかい",
"たまに気がきいたかと思って、いばっていやがらあ。どんな様子だ",
"やっぱり、九軒とも、気味のわるいほど古島雛のまがい雛が売れているんですぜ",
"それっきりか",
"どうつかまつりまして。これから先が大てがらなんだから、お聞きなせえまし。その作り手の人形師がね――",
"わかったのかい",
"いいえ、それがちっともだれだかわからねえんですよ。そのうえ、売り込みに来た使いがね、手品でも使うんじゃねえかと思うほど、来るたんびに違うというんだから、どうしても少し変ですぜ"
],
[
"たわいがねえや。だから、おれゃべっぴんというやつが気に食わねえよ",
"え……?",
"目の毒になるだけで、人を迷わすばかりだから、べっぴんというやつあ気に入らねえといってるんだ",
"なんです! なんです! 悪口にことを欠いて、おらがひいきのべっぴんをあしざまにいうたあ、何がなんです! だんなにゃ目の毒かもしれねえが、この伝六様にはきいてもうれしい気付け薬なんだ。ひいきのべっぴんをかれこれといわれたんじゃ、あっしが承知できねえんだから、聞こうじゃねえですか! ね! どこが目の毒だか聞こうじゃござんせんか! さ! おっしゃいましよ! 言いぶんがあったらおっしゃいましよ!",
"うるせえな。ふたりも若い女がいなくなったと聞いたんで、何かいわくがあるだろうと、せっかく力こぶを入れてみたんだが、やっぱりこりゃただの盗難だというんだよ",
"へえ、じゃなんですかい。まがい雛をこしれえて売り出すために、どやつか了見のよくねえ人形師が、古島雛の真物を盗み出したというんですかい",
"まず十中八、九、そこいらが落ちだよ。売りに来るたび人を変えて、こしらえた人形師の正体をひた隠しに隠している形跡のあるのが第一の証拠さ。盗んだればこそ、名の知れるのがおっかねえんだ。ばかばかしいっちゃありゃしねえや",
"でも、べっぴんがふたり消えてなくなったのが変じゃござんせんか",
"だから、目の毒、迷いの種はそのべっぴんだといってるんだ。なんのことはねえ、久米の仙人がせんたく娘の白いはぎを見て、つい雲を踏みはずしたというやつよ。いなくなったり、消えたり、人騒がせをやりやがるから、むっつりの右門様もちょっと眼を踏みはずしたんだ。春菜とやらのいなくなったは、十二年このかた思いこがれたおかたとも破談になりそうになったんで、悲しみ嘆いての家出だろうさ。腰元お多根の家出出奔も、主人の難儀はわが難儀と、悲しさあまって心中だてに忠義の出奔というやつよ。たわいがなさすぎて、あいそがつきらあ。真物が姿を見せたら、うわさを聞いて女どももひとりでににょきにょきと姿を見せるにちげえねえから、ひとっ走りいって洗ってきな",
"え……?",
"京金襴の出どころをかぎつけてこいといってるんだ",
"そんなものを洗や、なんのまじないになるんです",
"いちいちとうるせえな。これだけたくさんのまがい雛を作るからには、着付けに使った京金襴だってもおろそかなかさじゃねえんだから、どやつかどこかの店でひとまとめに買い出した野郎があるにちげえねえんだ。その野郎をかぎ出しゃ、自然といかもの作りの人形師もわかるだろうし、わかれば盗まれた真物の行くえにも眼がつく道理じゃねえかよ。べっぴんをごひいきとかのおあにいさまは、血のめぐりがわるくてしようがねえな",
"ちげえねえ!",
"てめえで感心していやがらあ。日本橋の呉服町に京屋と清谷といううちが二軒、浅草の田原町に原丸という家が一軒、つごう三軒がいま江戸で京金襴ばかりをひと手にさばいている店のはずだから、きょときょとしていねえで、早いところいってきな",
"ようがす! ちくしょうめ! 盗み出す品に事を欠いて、因縁つきの思い雛に手をかけやがったから、かわいそうにお姫さまたちが泣きの涙で雲がくれあそばしたんだ。むろんのことに、だんなは八丁堀へけえって、あごをおなででござんしょうね",
"決まってらあ"
],
[
"だんなの口まねするんじゃねえが、まったくべっぴんというやつも、ときにとっちゃ目の毒さね。ほんとにたわいがなさすぎて、あいそがつきらあ。人形師の野郎がね――",
"眼的か",
"的も的も大的なんです。浅草の原丸も、呉服町の清谷も、最初の二軒はしくじったからね、心配しいしい三軒めの京屋へ洗いにいったら、あのまがい雛の着付けとおんなじ金襴を百体分ばかり、人形師の野郎が自身でもって買い出しに来たというんですよ。しかも、買うとき味なせりふをぬかしやがってね、こういうものは人まかせにすると、気に入ったのが手にへえらねえからと、さんざんひねくりまわして買ってけえったといやがったからね、能書きをぬかしたところをみるてえと、いくらか名人気質の野郎かなと思って探ってみたら――",
"桃華堂の無月だといやしねえか!",
"気味がわるいな。そうなんですよ! そうなんですよ! 四ツ谷の左門町とかにいるその桃華堂無月とかいう野郎だというんですがね。どうしてまた、そうてきぱきと、いながらにして眼がつくんですかね",
"またお株を始めやがった。むっつりの右門といわれるおれが、そのくれえの眼がつかねえでどうするんかい。いま江戸で名の知れた雛人形師のじょうずといえば、浅辰に、運海に、それから桃華堂無月の三人ぐれえなものなんだ。なかでも桃華堂はことのほか偽作がじょうずとかいう評判だから、もしかすると野郎じゃねえかと思っていたやさきへ、おめえがいま京金襴を買い出しにいって能書きうんぬんといったんで、名人気質のやつならてっきり野郎とホシがついただけのことさ。そのあんばいならば、大将め、ちょろまかした古島雛をどこかへ隠して、今ごろはぬくぬくしていやがるだろう。じゃ、駕籠だよ。いってきな",
"ちゃんともう二丁――",
"大束決めたな。じゃ、急いで乗りな"
],
[
"江戸名物のおふたりさまが、このとおりおそろいでお越しあそばしたんだ。けえりにゃ、夜桜見物に回らなきゃならねえんだから、先を急がなくちゃならねんだ。手間取らせずと、すっぽり吐きな",
"なんでござります?",
"しらばくれるな! 京屋で買い込んだ京金襴をつきとめて、古島のまがい雛詮議にやって来たんだ。おれの啖呵で不足なら、こちらにお控えあそばすおしゃべり屋のおあにいさんは、特別音のいい千鳴り太鼓をお持ちだよ。四の五のいってしらをきりゃ、勇ましいところが鳴りだすぜ。すっぱりきれいにどろを吐きなよ",
"なるほど、そうでござりましたか、いや、さすがでござります。京金襴から足をおつけなさるたア、さすがご評判のおふたりさまでござります。それまでお調べがついたとなりゃ、むだな隠しだていたしましても罪造りでございますゆえ、いかにも白状いたしましょう。おめがねどおり、古島のまがい雛をこしらえたのは、この無月めにござります",
"ほほう、おぬしもさすがに名のある江戸の職人だな。それだけあっさり口を割ったら、あとの一つも隠すところはないだろう。ねこばばきめた真物も、ついでにこれへ出しな",
"なんでござります?",
"渡辺様から盗み出した古島雛の真物も、隠さずにこれへ出せといってるんだよ",
"冗、冗談じゃござんせんよ! やにわと変なことをおっしゃいますが、何かお勘違いなすっているんじゃござんせんか",
"なに、勘違い? 勘違いとは何を申すか! まがいものをこしらえる以上は、真物をねこばば決めて雛型とったに相違ねえから、盗んで隠したその古島雛をあっさりこれへ出しゃいいんだ",
"め、めっそうもござんせぬ! しがない渡世はしておりましても、わたしはまだ人のものをかすめたり盗んだり、そんなだいそれた悪党じゃござんせんよ。あるおかたから頼まれまして、あのまがいものをこしらえただけでござんす"
],
[
"へへえ。ちっとこれはまた空もようが変わりましたかな。人から頼まれたというは、どういうわけだ",
"どうもこうもござんせぬ。あるおかたがひょっくりお越しなさいまして、おまえはまがいものをこしらえるがじょうずとのうわさじゃ、ないしょに急いで古島雛の男雛を一つ、――ようござんすか、ここがだいじでもあり、あたしの冤罪の晴れる急所でもございますから、よくお聞きくださいましよ。女夫雛を一対のご注文じゃねえんでござんす。なんのごつごうか、古島雛の男雛ばかりを一つ、至急にこしらえろとのご注文でござりましたゆえ、ご存じのとおり、あの内裏雛は天下のお名物お宝物でございます。未熟ながらてまえも雛造り渡世の人形師ならば、せめてまがいものなりと古島雛ぐらいの品を造ってみたいと日ごろ念じておりましたゆえ、さっそくご注文どおり男雛を一体造りあげて向こうさまにお渡ししたのでございます。ところが、そのできぐあいが、なんと申しますか、このわたくしの口からいうのも変でございますが、思いのほかにみごとでござりましたのでな、さいわい節句のまえではございますし、いっそついでに女雛も作り、女夫一対にそろえて売り出してみたらと、こっそり人形町へ持ち込んでいったのが、評判というものは恐ろしいくらいでござります。世間さまには目の高いおかたがいらっしゃるとみえて、古島雛じゃ、古島雛のまがい雛じゃと、あのとおり羽がはえて、てまえのまがい作りが売れましたのでございます",
"なるほどな。うそとも思えぬ話のようじゃが、では、それなる頼み手が、真物の古島雛を携えてまいって、そのほうに見せたうえ、雛型をとらしたと申すか",
"いいえ、それがちっと変なんでございますよ。頼んだおかたは手ぶらのままお越しになって、いきなり古島雛をこしらえろとおっしゃいましたゆえ、いくらまがいものでも、手本の真物がなくてはと、はじめは二の足を踏みましたんですが、名の高いもの、天下に知られたご名品は、何によらず暇のあるかぎり見ておくものでござります。じつは、二年ほどまえ、ふとした手づるから真物を古島様のお屋敷で拝見したことがございましてな、やはり神品となると、後光がさすとでも申しますか、そのおり拝ましていただいた一対の雛、形、まゆの引き方、鼻のかっこうのみごとさは申すに及ばず、着付けの色のほどのよさまでが目に焼きつき、あとあとも夢に見るほど心の底から離れませなんだゆえ、ご注文の男雛はもとより、あとからこしらえて売りに出した女雛そろっての一対も、そのときのわたしの心覚えをたどって、着付けの金襴もようやく似た品を捜し出し、ああして売り出したのでござります",
"しかし、ちと不審じゃな。それならば、なにもそなたには後ろ暗いところはないはず。にもかかわらず、売り込みに参ったみぎり、人を替え使いを替えて、ひた隠しに正体隠そうとしたのは、なんのためじゃ",
"お疑いはごもっともでござりまするが、古島雛は天下の名宝、二つとないその名宝に、まがいものながら似た品がたくさん世に出たとあらば、真物にも傷がつく道理でございますゆえ、それがそら恐ろしかったのと、金がほしさに桃華堂無月がまたにせものをこしらえたといわれるが悲しさに、わざと名も隠し、正体も隠したのでござります",
"いかにもな、一寸の虫にも五分の魂、偽作のじょうずにも名人気質というやつだな。しからば、その頼み手じゃが、男雛ばかり一つというような変な注文したのは、どこのなんというやつだ",
"…………",
"ほほう、肝心かなめのことになったら、急に黙り込んだな。しかし、いくら隠しても、こいつばかりはいわさなきゃおかねえぜ。どこのだれから頼まれたんだ",
"…………",
"ふふん、いわねえな。いわなきゃ手があるぜ。裏表合わすりゃ九十六手、それで足りずばもう一つ右門流というドスのきいた奥の手もそろっているんだ。隠してみたとて三文の得にもならなかろうじゃねえか。不思議なその注文主は、どこのどやつか、すっぱりいったらどうだい。功徳になるぜ",
"いや、わかりました。なるほど、そうでござります。てまえが隠したとても、三文どころか半文の得にもなるわけじゃねえんですから、いかにも申しましょうよ。じつは、古島雛にかかわりのあるおかたでござります",
"なに! 縁のあるやつとな! だれじゃ! 古島の親子か!",
"いいえ、違います",
"では、預かり主の春菜とやらいったあのお嬢さまか!",
"いいえ、違います。じつは、そのお姫さまのお付き人の――",
"えッ。じゃ、あの腰元か!",
"へえい、お多根様でございます。できたらこっそりお下屋敷のほうへとのことでございましたゆえ、わたしがじかにあのお腰元のところへ持参したのでございます",
"こいつあ意外だな。ちっとあきれたよ"
],
[
"ね、伝六あにい",
"フェ……?",
"変な声を出すなよ。雲だよ。雲だよ",
"なんでござんす? 夕だち雲でも出ましたかい",
"久米の仙人がまた雲を踏みはずしたといってるんさ。ただの雛どろぼうだろうとにらんだやつが、またここでどんでん返しよ、だから、やっぱり、どうもべっぴんは目の毒さ。いいや、だんだん魔物に近づきかけたよ",
"さようでございますかね",
"ちぇッ、ごひいき筋を悪口いわれるんで、御意に召さねえのかい。しかし、こうなりゃお多根のかたさまがどんなにいじらしくて、すなおで、かわいかろうとも、おれの目にゃ如夜叉なんだ。出直しだよ、出直しだよ。内藤新宿へもどって、いろはからまた出直すんだから、急いで駕籠を仕立てな"
],
[
"どうでおじゃりました。だめでおじゃりましたか",
"いえ、どうやらめぼしがつきましてござりまするが、そのかわり",
"なんでおじゃります",
"おひざもとからとんだ悲しい科人を出さねばなりませんぞ",
"だれでおじゃりましょう。科人とやらは、だれでおじゃりましょう",
"お多根どのでござります",
"えッ――。でも、あの子が、あの子にかぎってそのような",
"ごもっともでござります。美しい子なら美しいだけに、そのような悪事はいたすまいとお思いでござりましょうが、疑うべき証拠があがってみれば、やむをえませぬ。擬物の男雛をあつらえてこしらえさせたことまでわかりましてござりますゆえ、念のため、お多根どののおへやを拝見させていただきましょうよ"
],
[
"お多根どのは、あなたさまがだいぶおほめのようでござりましたが、このふしだらはどうしたのでござります",
"いえ、これはほんの先ほど兄の敬之丞が参って、なにやらお多根に預けた品があるとか申し、捜して持ち帰ったようでおじゃりますゆえ、そのためこのように散らかしたのでおじゃりましょうよ",
"なに! お多根どのに兄がござりますとな! 兄はどのような男でござります",
"これもけっしてけっして疑うべき男ではおじゃりませぬ。今は禄に離れまして、この近くに浪人住まいをいたしておりますが、家内の者同様に、ときおり屋敷へも参り、よく気心もわかった善人でおじゃりますゆえ、あれにかぎってはご詮索ご無用におじゃります"
],
[
"とんだ善人のおにいさまさ。ねえ、大将!",
"フェ……?",
"べっぴんびいきのおまえさんは、さぞ耳が痛いことでござんしょうが、とかく美人と申すしろものが、外面如菩薩、内心如夜叉というあのまがいものさ。まず上等なところでお多根菩薩のやきもちというところかね。そろそろ春菜姫のおめでたが近づいたんで、やはり女は水ものよ、日ごろは忠義たいせつと仕えた主人であっても、目の前でうらやましがらせを聞かされちゃ、お菩薩さまとて番茶の出花だからな、ついふらふらと、やきもちねたみじるこに身をこんがりこがして、何か小細工をやったか、でなくばたいそうもなく善人の兄貴とふたりしての欲得仕事に預かり雛を売り飛ばし、代わりにまがい雛をまにあわせたというようなところが、まず話の落ちさ。とにらむのが順序だが、おまえさん気に入らないのかい?",
"知りませんよ。あたしゃお多根っ子の兄貴でも亭主でもねえんだからね、だんながそれに相違ねえとおっしゃるんなら、まだ先ゃなげえんだ。姫君も見つけ出さなきゃならねえし、ひょっとするてえと、きょうだいふたりゃ風をくらってずらかったかもしれねえんだから、急いで追っかけましょうよ",
"せくな! ここまで眼がつきゃ、もうひと息だ。ご後室さま、敬之丞とか申した兄の浪宅はどこでござります",
"いえ、ようわかりました。信用しすぎましたのが災いのもとやも知れませぬゆえ、どこここと申さずに、てまえがご案内つかまつりましょう"
],
[
"おや! ――。ちょっと変だな",
"ね!",
"おまえにも聞こえるかい?",
"ちぇッ、聞こえるからこそ、不思議に思って首をかしげているじゃござんせんか",
"とするてえと、またこれは眼ちげえかな"
],
[
"お多根! おいい! おいい! 何もかもいっておしまい! おまえに疑いがかかってじゃ! おこりませぬ! おこりませぬ! おまえのことならけっしておこりませぬゆえ、もう何もかもいっておしまい!",
"でも……でも……",
"いえぬとおいいか! あの預かり雛がなくば、かわいい春菜の身に大事がふりかかります。おまえがあの男雛を盗んだとのお疑いじゃ。どこぞへ隠したであろう。おいい! おいい! ほんとうのことをいっておしまい!",
"いえ、おばあさま! 違いまする! 違いまする! 多根ではありませぬ! あれを盗み出したは、多根ではござりませぬ!"
],
[
"あれを盗み出したのは、あの男雛を隠しましたは、このわたくし、この春菜でござります",
"えッ――"
],
[
"ご本人のあなたさまがたいせつな契り雛を隠すとは、またなんとしたことでござります",
"お恥ずかしゅうござります。それもこれも、じつは……",
"なりませぬ! なりませぬ! それをお嬢さまがおっしゃってはなりませぬ!",
"お黙り! 多根! いいまする! いいまする! おまえに難儀がかかってはなりませぬゆえ、もう何もかも申しまする。それというのも、もとはといえば……",
"いえ、ではわたくしが、この多根が代わって申しまする。ご後室さまもお許しくださりませ。このような騒ぎの起きたもとはといえば、――でも、どうしましょう。恥ずかしゅうて言い憎うござります。いえ、申しまする、申しましょう。それもこれも、もとはといえば、こちらに控えておりまするわたくしの兄めが、おりおりわたくしをたずねてお屋敷へ参り、お嬢さまと一度会い、二度会ううちに、ついした縁の端から、ひと目を忍んでの割りない仲になりましたのでござります。なれども、お嬢さまは、古島の若さまと堅いお約束のあるおん身、――兄なぞとそのようなことにおなりあそばしてはと、わたくしひとり胸を痛めましたけれど、恋とやら情けとやら申すものは、どうせきとめようにも、せきとめるすべのないものとみえまして、三度は四度と重なり、四度は五度と重なるごとに、古島様とのお約束を破ってもと、おいじらしくも思いつめたお心におなりあそばしたのでござりましょう。今こうして三人泣き合いながら、わたくしもありのままを申しあげ、お嬢さまからも事の子細みんな承りましたのでござりまするが、ことしの節句が無事に済めば、遠からずもうお輿入れせねばなりませぬゆえ、いっそ思いきってと、あの預かり雛をお隠しあそばされたのだそうでござります。さすれば、古島様がたいせつな契り雛を粗略にしたとご立腹あそばし、したがって十二年このかたのお約束も、ご立腹のあまりご破談になることであろうし、なればひとりでに兄めにも添いとげられるとお思いあそばして、こっそりどこかへお隠しなさいましたのを、ちらりとこのわたくしが見かけたのでござります。それゆえぎょうてんいたしまして、兄は、このとおりのやせ浪人、こんな浪々の身分卑しい者とご大身のお嬢さまが、りっぱなおいいなずけにおそむきあそばしてまでも添いとげたとて、いずれは先々お身の不幸と、ご恩顧うけたご主人さまの行く末々を思う心から、二つにはまた身のほど知らぬ兄めをもたしなめましょうと存じまして、お嬢さまの目を忍び、こっそり桃華堂様のところへ駆けつけて、あのようなまがい雛をこしらえさせたのでござります、契りのしるしの男雛さえあれば、よしまがいものでござりましょうと、またお嬢さまにひそかごとがござりましょうとも、約束どおり八方無事にお輿入れもできますことでござりまするし、とすればまた兄との仲もおのずと水に消えることでありましょうと、女心のあさはかさからしたことが、けさほどのように古島様親子からひと目にまがいものじゃと見現わされまして、このような騒ぎになりましたのでござります。これがなんぞの罪科になりますことなら、だれかれと申しませぬ、この多根めがすべての罪を負い、どのようなおしおきでもいただきますゆえ、よしなにお取り計らいくださりませ……"
],
[
"では、そなた、お嬢さまとお兄人との恋が、憎うて妨げようとしたのではござりませぬな",
"それはもう、わたくしとてもおなごのはしくれ――、なんで恋が憎うてなりましょう。いっそ、わたくしにもそのような恋がと――、いえ、いえ、恥ずかしゅうござります。いえ、そうではござりませぬ。ただもうお嬢さまがいとしいばっかりに、身分のふつり合いは不幸不縁のもとと、涙を忍んで兄との恋を忘れていただこうと思うただけのことでござります……"
],
[
"ご後室さま、お聞きのとおりでござりまするが、いかがお計らいあそばされます",
"計らいもくふうもおじゃりませぬ。わたくしまでも多根のかわゆらしい心根におもわずもらい泣きいたしました。ほんとうに、古島の婿どのが、しんそこ春菜がかわゆければ、雛一つぐらい失ったとて、あのように口ぎたなくはののしりませぬはず。いかほどたいせつな家の宝でありましょうと、人の子よりも雛のほうがたいせつじゃといわぬばかりのおことば聞いては、向こうがわびてまいりましょうと、こちらがもうまっぴらでおじゃります。それに、春菜がそれほどまでに敬之丞を好いているとあらば――いえいえ、そのようなことはもういわぬが花、恋に身分の上下隔てはおじゃりませぬものな。のう、春菜、そうでおじゃろう。こうならば、もうわしがそなたたちの味方じゃ。だれがなんと申しましょうと、必ずともに敬之丞どのと添いとげさせてしんぜまするぞ",
"いや、おみごと! おみごと! おさばきあっぱれでござります。そうなりますれば、もうただ一つ気になるは、お隠しなすった雛のことでござりますが、春菜さま、どこへおしまいでござります",
"ここにござります",
"ほうこれはまた?",
"なにも不審はござりませぬ。お屋敷裏の高円寺へそっと預けておきましたなれど、こうならばもうしょせんただでは済むまいと、先ほどこっそりまた持ちかえり、古島様のほうへきっぱりご返却いたしましたうえで、しばらくお多根ともども三人して、どこぞへ身を潜めるよりしかたがあるまいと存じましたゆえ、多根の身のまわりの品から先にまずここまで運び出して、その相談をしていたところなのでござります",
"それならばもう何も申しあぐることはござりますまい。この雛はたった今、すぐにご返却なさいませな。心の去ったおしるしに。さすれば古島家のほうでも察しましょうよ。――いや、これでもうてまえどもの役目は終わりました。恋のおふたりさん。それから、いじらしいお多根さん。おしあわせでお暮らしあそばしませよ。さ! 伝あにい! 何をまごまごしているんだ。じゃまだよ! じゃまだよ! 長居はじゃまっけじゃねえか"
],
[
"ね……!",
"ね……!",
"どう思ってもたまらねえね"
],
[
"何を感心しているのかい",
"いいえね、見ましたかい",
"何をよ",
"べっぴんたちの顔ですよ。内藤小町の春菜さんもくやしいほどべっぴんでしたが、お多根っ子も気がもめるほどあでやかでしたぜ。そのうえにまた、敬之丞っていうご浪人が、きりりっとこう苦み走っていてね、だんなの次くらいなべっぴん男なんですぜ",
"つまらねえことばかりを感心してらあ。だから――",
"いいえ、だからはこっちでいうことなんだ。べっぴんのなかにもああいう掘り出しものがいるんだからね、親のかたきみてえに、目の毒だの、如夜叉だのと悪口いうもんじゃねえんですよ",
"そうよな。たまには顔も心もそろったべっぴんがいるのかな",
"ちぇッ、それほどものがわかっていたら、なんでだんなもはええところ五、六人見つけねえんですかよ。あっしが気がきかねえようで、江戸のみなさまにも会わする顔がねえじゃござんせんか。了見入れ替えて、お捜しなさいましよ!"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:鈴木伸吾
2001年2月7日公開
2005年9月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
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"かまわねえや。どうせおめえとおれとは水入らずの仲なんだからな。さだめし窮屈だろうが、がまんしねえよ。お盆がすぎりゃまた極楽さけえって、はすのうてなでぜいたくができるんだからな。――ほうれみろ、こう見えてもなかなか器用じゃねえか。この麻幹馬だっても、でき合いじゃ売ってねえんだぞ。特別おめえはちっちぇえから、馬も乗りここちがいいように、かげんしてちっちゃくこしれえてやるんだ。持つべきものは兄貴なり、あした来がけに地獄のそばも通ることだろうから、おえんま様にちょっくらことづてしてきなよ。しゃばには伝六っていういい兄貴があるから、お客にいってめえりますとな。いい兄貴というところを、特別にでけえ声でいってきなよ――",
"もしえ……",
"…………⁈",
"あの、もしえ。だんな",
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"ま、まさかにおめえは、辰じゃあるめえな。た、辰ならまだ出てくるにゃちっとはええぞ。――ど、どこのどいつだ。な、なに用があって来たんだ",
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"返事をしろ。な、なにを気味わるく黙ってるんだ。むしのすかねえ野郎だな。返事をしろ。な、なんとかものをいってみろ",
"…………",
"耳ゃねえのか。気、気味のわりい野郎だな。なんだって人の顔をやけにまじまじと見つめていやがるんだ。今、もしえといったじゃねえか。声の穴が通ってるんだろ、返事をしろ。どこから来たんだ。な、なんの用があって来やがったんだ"
],
[
"だんなは、江戸っ子でござんしょうね",
"なんだと!",
"だんなは江戸っ子かどうかとおききしているんでござんす",
"べらぼうめ。気をつけろ。余人は知らず、江戸っ子の中の江戸っ子のこの伝六様をつかまえて、だんなは江戸っ子でござんしょうかねとはなにごとだ。いま八百八町にかくれのねえ右門のだんなの一の子分といや、ああ、あの江戸っ子かと、名まえをいわなくともわかっているくれえのものなんだ。おれが江戸っ子でなかったら、ど、どう、どうしよってんだい。ええ、おい。ちっちぇえの!",
"あいすみませぬ。ただいま、ぽんぽんと景気よくおっしゃった啖呵だけでも江戸っ子に相違ござりますまい。なら一つ――",
"なら一つがどうしたってえいうんだい。江戸っ子なら、べっぴんでも世話するっていうのかい",
"冗、冗談じゃござんせぬ。そんな浮いた話で来たんじゃねえんです。右門のだんなの一の子分の伝六様は江戸っ子だってことをあっしも聞いちゃいたんですが、ほんとうにだんなが江戸っ子だったら、あっしの話を聞いただけでもきっとむかっ腹をおたてになるんだろうと思って、じつあこうしておねげえに参ったんでござんす",
"こいつあおもしれえ。おめえ、がらはこまっけえが、なかなか気のきいたことをぬかすやつだな。なんだか知らねえが、その言いぐさが気に入った。頼みとありゃ、いかにもむかっ腹をたててやろうじゃねえか。事としだいによっちゃ、今からたててもかまわねえぜ",
"いえ、けっこうでござんす。けっこうでござんす。話を申し上げねえうちにぽんぽんとやられちゃ、ちぢみ上がっちまいますから、どうかしまいまでお聞きくだせえまし。じつあ、余のことじゃねえんですが、だんなはいま奥山に若衆歌舞伎の小屋を掛けている大坂下りの嵐三左衛門っていう役者のうわさをご存じですかい",
"べらぼうめ、知らねえでどうするかい。それがどうしたというんだい",
"じゃ、詳しく申し上げる必要もござんすまいが、あいかわらずあの気味のわるい水騒動が、今も毎晩毎晩絶えねえんです。だから――",
"ちょっと待ちねえ、待ちねえ。嵐三左衛門とか八左衛門というやつあ、いってえ何をしょうべえにしている野郎なんでえ",
"へ……?",
"今おめえがいったその奥山の若衆歌舞伎とかに出ている上方役者とかいう野郎は、何をしょうべえにしているんだい",
"役者だから、役者を商売にしているんでござんす",
"決まってらあ。役者はわかっているが、何をしょうべえにしているかといってきいているんだよ",
"こいつあおどろきましたな。じゃ、だんなはあの気味のわるい騒動のうわさも何もご存じないんですね",
"あたりめえだよ。かりにもご番所勤めをしている者が、知らねえといったんじゃ、お上の威光のしめしがつかねえから、大きに知っているような顔をしたまでなんだ。けれども、君子女人を語らず、町方役人どじょうを食せずと申してな、どじょうにかぎらず、町方役人となれば、そのほうたち下々の者へのしめしのためにも、知っておいてわるいことと、知らないほうがかえって役目の誉れになることがあるんだ。だから、おれが奥山くんだりの河原乞食のうわさを知らなくたって、何も恥にゃならねえんだろう。違うか。どうじゃ",
"恐れ入ました。いちいちごもっともさまでごぜえます。いえ、なに、ご存じないとなりゃ、なにもあっしだって口おしみするわけじゃねえんだから詳しく申しますがね、じつあ、こうなんですよ。ただいま申しました上方役者の嵐三左衛門っていうのがね、若衆歌舞伎の一座を引きつれて、はるばるとこの江戸へ下り、十日ほどまえから奥山に小屋掛けして、お盆を当て込んでのきわもの興行を始めたんでござんす。ところが、だんな、世の中にゃ、まったく気味のわるいことがあるもんじゃござんせんか。その嵐三左衛門が寝泊まりしている宿屋でね、毎晩水の幽霊が出るんですよ。水の幽霊がね",
"おどすねえ。お盆が近いからといって、人をからかっちゃいけねえよ。なんでえ、なんでえ、その水の幽霊ってえのは、いってえどんなしろものなんでえ。やっぱり、ヒュウドロドロと鳴り物がはいって、目も口も足もねえのっぺらぼうの水坊主でもが出てくるのかい",
"そうじゃねえんです。そんななまやさしい幽霊水じゃねえんですよ。朝起きてみるてえと、その三左衛門の泊まっているへやじゅうが、あっちにぽたり、こっちにぽたりと――、いいえ、ぽたりどころの騒ぎじゃねえんです。からかみから、びょうぶから、着て寝ている夜具ふとんまでがぐっしょりと水びたしになっているというんですよ。それがひと晩やふた晩じゃねえんで、毎晩知らぬまに、出どころたれどころのわからねえ幽霊水にぐっしょりとぬれているんでね。とうとう気味がわるくなって、四日めに宿屋を替えたんですよ。するてえと、だんな――",
"また出たか",
"出た段じゃねえんです。泊まり替えたその宿屋でもまた、朝になってみるてえと、衣桁にかけておいた着物までが、ぐっしょりと水びたしになってね、おまけにまだぽたぽたとしずくがたれていたっていうんですよ。だから、すっかりおじけをふるって、その日のうちにすぐまた三度めの宿を替えたら、ところがやっぱり幽霊水があとをつけてくるというんです。しかも、おまえさん、いいえ、伝六だんな、それからっていうものは、いくら宿を取り替えても、必ず朝になるてえとぐっしょり何もかもぬれているんでね。だから、とうとう――",
"よし、わかった。べらぼうめ。ほかならぬこの伝六様がお住まいあそばす江戸のまんなかに、そんなバカなことがあってたまるけえ。おおかた、河童の野郎か雷さまの落とし子でもが、そんないたずらするにちげえねえんだ。さあ来い。野郎ッ。どうするか覚えてろッ",
"いえ、もし、ちょっとちょっと、血相変えてどこへいらっしゃるんです。まだあるんですよ。まだこれから肝心な話がのこっているんです",
"なんでえ、べらぼうめ。じゃ、おめえはおれに、その幽霊水の正体を見届けてくれろと頼みに来たんじゃねえのかい",
"来たんです。来たんだからこそ、このあとを聞いておくんなさいましというんです。だからね、嵐の三左衛門もとうとう考えちまったというんですよ。こいつあただごとじゃねえ、どいつかきっと意趣遺恨があって、そんなまねするんだろうとね、いろいろ考えて、あれかこれかと疑わしい者に見当つけていったところ、同じその奥山で小屋を並べながら、やっぱり若衆歌舞伎のふたをあけている、江戸屋江戸五郎っていう役者があるんですよ。名まえのとおり三代まえからのちゃきちゃきの江戸っ子なんですが、疑ってみるてえと、どうもこれが怪しいとこういうんです。というのは、どうしたことか、この江戸屋江戸五郎のほうが最初から人気負けしておりましてね、芸だってもそうたいして違っちゃいねえし、なにをいうにもおひざもとっ子なんだから、人気負けなんぞするはずはねえと思うのに、三左衛門の大坂下りっていうのが珍しいのか、ふたをあけてみたらからきし江戸屋のほうに入りがねえっていうんです。だから、三左衛門がいうのには、きっとその江戸五郎が人気負けした意趣晴らしに、毎晩宿へ忍び込んで、あんなけちをつけてまわっているにちげえねえ、とこういうんですよ。でなきゃあ、行く先泊まり替えた先にまで水が降るってはずアねえんだからね、江戸五郎自身がしねえにしても、だれか忍術でも使う手下をそそのかして、あんな気味のわるいまねをさせるんだ、とこういうんです。むろんのことに、そいつあ疑いだけのことなんで、現の証拠を突きとめたわけじゃねえんだが、てっきりもう江戸屋のしわざにちげえねえと、嵐三左衛門が会う人、出会う人に吹聴したからたまらねえんです。江戸屋江戸五郎もなさけねえ了見になったもんだ。てめえの芸のまずいのはたなにあげておいて、人気の出ねえ意趣晴らしに、水いたずらをするたアなにごとだ。江戸役者のつらよごすにもほどがあらあと、まあこういうわけでね、ひいきのお客までが、すっかりあいそをつかして人気はますますおちる、それにひきかえ嵐三左衛門のほうは、幽霊水のうわさと評判がますます人気をあおりたててね、知らぬ旅先へ興行に来て、あんまりうますぎるところから、意趣を含まれるほどの役者なら、さだめしじょうずだろうと、人気が人気を呼んで、毎日毎日大入り繁盛しているというんです。――ねえ、だんな! むかっ腹をたてておくんなさいというのは、ここのところなんです。ねえだんな!",
"…………",
"え! 伝六だんな! ねえ、だんな! だんなは腹がたちゃしませんかい。おたげえ江戸っ子なら、だれだってもきっとあっしゃ腹がたつと思うんだ。考えてみてもごらんなさいまし。江戸屋の江戸五郎がほんとうにやったという、現の証拠を突きとめてのうえで、かれこれと三左衛門が人に吹聴するならもっとも至極な話なんだが、ねこがやったか、きつねがいたずらしたかもまるきし見当がつかねえうちに、罪を人に着せて、それでもって人気をあおるなんて、どう考えてもあっしゃ上方贅六のそのきっぷが気に入らねえんです。また、江戸屋の親方にしたっても、生まれおちるからの江戸っ子なら、芸ごとのうえで人気負けしたのを根に持って、人の寝込みに水をぶっかけてまわるなんて、そんなけちなまねゃしねえと思うんだ。べつに、なにもあっしゃ江戸屋の親類でも回し者でもねえんですが、あかの他人だっても同じ江戸っ子なら、贅六ふぜいにおひざもとっ子が、ほんとうにやったかどうかわかりもしねえことをかれこれいわれて、いいようにひねられていると聞いちゃ黙っていられねえんです。こうしてわざわざおねげえに来たのも、つまりはそれでござんす。だんなも江戸っ子なら、きっとお腹がたつだろうと思いましてね。たてば、ほかならぬ右門のだんなの一の子分の伝六親方のことだから、ぱんぱんと啖呵をおきりなすって、朝めしまえにだれがまことの下手人だか、幽霊水の正体つきとめてくださるだろうと思って、暑いさなかもいとわず、わざわざこうしておねげえに来たんでござんす。ねえ、だんな! 同じおひざもとっ子一統の顔にかかわるんだ。ひとはだぬいでおくんなせえまし! ねえ、伝六だんな! いけませんか、ねえ、伝六親分!",
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"ちえッ、人のわるい。なんですかよ。だんなならだんなとおっしゃりゃいいんだ。隠れておって意地わるくウフフとやるこたアねえでしょ。あっしが気どろうと納まろうと、大きなお世話です。はばかりながら――",
"人並みにおれにだってもあごがあるというのかい。あるにはあっても、どうやら、一山百文のあごのようだが、どうだな、安物でも、なでりゃ眼がつくかね",
"ちぇッ、顔を見せたとなるともうそれだ。口のわるいってたらありゃしねえや。じゃ、なんですかい、何もかもその陰で立ち聞きしたんですかい",
"さよう。あんまりおめえがいい心持ちそうに気どっていたのでな、なにごとかと思って、幽霊水の話も、江戸屋の江戸五郎とかの話もみんな聞いたのよ、気に入らないかね",
"またそれだ。なにもいちいちとそんなに陰にこもった言い方でひねらなくたっていいでしょ。いくら主従の間がらにしたって、人の話を立ち聞きするっていう法はねえんです。これが男どうしの公話だったからいいようなものの、もしもかわいい女の子とふたりで、いっしょに逃げましょう、ああ逃げようぜと道行き話でもしていたのだったら、どうするんですかい",
"ウフフフ、ぬかしたな。べつにどうもしねえのよ。おめえみたいな男とでも道行きする珍だねがあるのかなと思って、びっくりするだけのことさ。ときに、どうだね、たいそうもなく江戸っ子がっていたようだが、肝心の幽霊水とかの眼はもうおつきかい",
"はばかりさま、自慢じゃねえが、まだちっともつかねえんですよ。だから、今そのあごをね――",
"なんでえ、つがもねえ、知恵の出ねえようなあごなら、なにも気どるこたアねえじゃねえか。さいわいここにかんながあるようだから、削っちまいなよ。ほんとうにしようがねえな。どきな、どきな。どうやら、夏向きで涼しい幽霊のようだから、ちょっくら生きのいいお手本を見せてやろう。――いいかい、眼をつけるっていうなアこうするんだ。よく見ておきな"
],
[
"きさま、うそをついてるなッ",
"そ、そ、そんな、うそなんかつくような男じゃねえんです。何もかも実のことを申し上げたばかりなんでござんす",
"控えろ、伝六親方の安でき目玉なら知らねえが、このおれの目の玉はちっとばかり品が違うんだぜ。かれこれいうなら、その証拠あげてやらあ。そりゃなんだ。その右にはいている雪駄の鼻緒の三味線糸はなんのまじないだ"
],
[
"なかなか凝ってらあね。三味線の古糸で雪駄の鼻緒をすげるなんて、色修業でもした粋人でなくちゃできねえ隠し芸だよ。さっき、そこのそでがきの陰で聞いていたら、おめえは江戸屋江戸五郎の回し者でもねえ、親類でもねえとりっぱな口をきいたようだが、その三味線糸のあんべえじゃ、おそらく江戸五郎一座の浄瑠璃語りか、下座でも勤めている芸人だろう。でなきゃ、おめえの色女かなんかが、一座のはやし方をでも勤めているはずだが、どうだ、違うか。正直なことをいわなきゃ、幽霊水の詮議もこっちの気の入れ方が違うというもんだぜ",
"恐れ入りました。お目の鋭いのにはおっかねえくらいです。べつに隠すつもりではなかったんですが、ついその――いいえ、ほかのことは、幽霊水の話も、嵐三左衛門が江戸五郎親方のことを下手人のようにいっていろいろ吹聴していることも、みんなほんとうですが、縁もゆかりもねえといったのはうそでござんす。いかにも、お隠しだてしておりました。じつは――",
"一座の者か",
"いいえ、わっちゃ座方の者でも親類でもねえんですが、妹めが、その、なんでござんす、ずっとまえから江戸五郎親方に、その――",
"かわいがられているとでもいうのかい",
"へえい。まあ、ひと口にいや囲われ者になっているんでござんす。だから――",
"なるほど、ちっと眼が狂ったようだが、じゃなにかい、鼻緒のその正体は、妹がなにか三味線いじりをしているんだな",
"へえい、ほんの少しばかり、糸の音の好きなおかたなら、墨田舎二三春っていや、あああれかとごひいきにしてくださるけちなやつでござんす。だから、人気稼業の名にかかわっちゃと、妹の素姓の出ねえようにお隠しだてしていたんでござんす",
"ほほう、なるほどな。そうか、二三春がそちの妹か。たしか、二三春といや、のど自慢顔自慢の東節語りと聞いているが、それにしちゃ兄貴のおめえさんは、ちっとこくが足りねえな。じゃ、その妹に頼まれて、ほれただんなの江戸屋江戸五郎がほんとうの下手人かどうか、幽霊水の正体を突き止めてもらうようにと、駆け込み訴訟に来たんだな",
"いいえ、そうじゃねえんです。あっしが自身に思いたって、お詮議をおねげえに来たんでござんす。と申すと物好きのようにお思いでござんしょうが、めかけ奉公のような囲われ者でも、妹にとっちゃほれてほれぬいた江戸屋でござんす。それゆえ、だんなの江戸五郎が人気負けしたうえに、ほんとうの下手人かどうかわかりもしねえものを三左衛門からかれこれいわれて、みじめなめに突き落とされているのを見ちゃ、いかな妹も立つ瀬がねえとみえましてな、毎日日にち、泣きの涙で暮らしているんで、そこは血を分けたきょうだい、からだは細っかくとも、たったひとりの妹が悲しんでいるのを見ちゃ、あっしだってもじっとしていられませんので、こっそりとこうして伝六親方のところにお力借ろうと飛び込んできたんでござんす。もうほかに何も隠していることはござんせぬ。どうか、おねげえでございますから、だれがいったいほんとうの下手人だか、幽霊水の正体ご詮議くだせえまし。このとおり、ちっちぇえからだを二つに折っての頼みでござんす、頼みでござんす……",
"いかさまな。夏場に外出はあんまりぞっとしねえが、正体のわからねえ幽霊水なんて、存外とおつな詮議かもしれねえや。じゃ、あにい! 伝六親方!",
"…………",
"へへえ。ちっとまた荒れもようだな。何が気に入らねえんだ。おれが横から飛び込んであごの講釈したのが気に入らねえのかい",
"バカにしなさんな。むっつり右門はあごのだんな、伝六だんなはおしゃべりだんなと、近ごろ軽口歌がはやっているくれえのものです。そのあっしが、だんなのお株を奪って、あごに物をいわせるようになりゃ、だんなのしょうべえは干上がっちまうじゃござんせんか。そんなことに腹たてているんじゃねえんだ。あっしの気に入らねえのは、このちっちぇえやつなんですよ。べらぼうめ、そんなべっぴんの妹がいるのに、なぜまた出しおしみして、おめえなんぞが、まごまごとこくのねえつら、さげてきたんだい。二三春とかが自身このおれに頼みに来たら、おれのあごだって油が乗ってくるんだ。油が乗りゃ、おのずと気もへえって眼もつくじゃねえか。これからもあるこったから気をつけろ",
"暑っくるしいやつだな。四の五のいっている暇があったら、はええところ長いのを持ってきな",
"え……?",
"のぼせるな、大小をはよう持参せい"
],
[
"嵐三左衛門とかいう上方役者は、今どこに泊まっているんだ",
"ゆうべはたしか浜町河岸の栗木屋っていう水茶屋に宿をとっていたはずでござんす",
"じゃ、幽霊水はゆうべも出たんだな",
"出たとのうわさを聞いたればこそ、こうしてお詮議のおねげえに参ったんでござんす",
"おまえのうちはどこじゃ",
"駒形河岸の妹のところにいるんでござんす",
"じゃ、道のついでだ、栗木屋のほうを洗って眼がついたら、吉左右しらせに寄ってやるから、帰って待っていな"
],
[
"弟子だな",
"へえい、あいすみませぬ",
"なにもあやまることはない。師匠は、三左衛門は小屋のほうか",
"へえい、朝の四ツから幕があきますんで、もうとうに楽屋入りしたんでござります",
"荷造りしているところをみると、今晩もまたどこかへ宿替えしようというんだな",
"へえい、こう毎晩毎晩じゃ、命がちぢまるさかい、今夜からお師匠はんもわてたちといっしょに楽屋で寝よういいなはるよって、荷ごしらえしているのでござります",
"というと、宿を取って寝るのは、いつも三左衛門ひとりきりか",
"へえい、そうでござります",
"なら、ゆうべのもよう、おまえではよくわからぬな",
"いいえ、わてはいっしょに泊まらいでも、お師匠はんから聞いたり、宿の衆からも聞いたりしておりますさかい、よう知ってまんね。まるでな、ねこほどの足音もさせいでな、朝になってみると知らぬまにこのとおり水びたしになっていますのや。な、ほら、たたんでおいたお召し物までが、このとおりぬれてまっしゃろ",
"ほほう、いかにもな。すると、なんじゃな、いつ忍び込んで、いつこんないたずらをするのか、今まで一度も下手人の姿は見たことがないというのじゃな",
"へえい、姿はおろか、影も見たことがないよって、よけい気味がわるいとお師匠はんもおっしゃってでござります",
"なら、ちと不審じゃな。姿も顔も見せぬ者が、なぜまた江戸屋江戸五郎のしわざとわかるのじゃ",
"そ、それはあんた、江戸五郎はんが水芸を売り物にして盆興行のふたをあけていやはりますさかい、だれかて疑いのわくがあたりまえやおまへんか",
"なるほど、水芸とな。どんな水芸じゃ",
"立ちまわりしていなはるさいちゅうに、足の先から水が吹いたり、刀の先からしずくが散ったりしますさかい、だれかて江戸五郎はんの水忍術、疑うはあたりまえでござります",
"ほほうのう、水忍術を使うとは、ちと容易ならんことになってまいったな。よしよし、久方ぶりじゃ、知恵袋にかびがはえぬよう、虫干しさせてやろうよ"
],
[
"ね……?",
"…………",
"箱根から東へはお化けも河童も出ねえってことに相場が決まってるんだが、なにしろお盆がちけえんだからね。怨霊のやつめ、三途の川で見当まちげえやがって、お門違いのおひざもとへ迷ってきやがったかもしれませんぜ。ええ、そうですよ。そうですとも! たしかに、こりゃだれかの怨霊のしわざにちげえねえんですよ。そうでなくちゃ、だれにこんな気味のわるいまねができるもんですか",
"…………",
"ええ、そうですよ。そうですとも! いくら江戸屋の江戸五郎が水芸達者のけれん師であったにしても、舞台と地とでは場所が違うんだからね。伊賀甲賀の忍術までも使えるはずがねえんだ。ええ、そうですとも! それにちげえねえんだ。ひょっとすると、こりゃ三左衛門の肩にでもくっついてきた上方怨霊にちげえねえんですぜ"
],
[
"弟子のあにい! おい、こら、弟子のおにいはん!",
"へ?",
"嵐三左衛門の紋はどんなやつじゃ",
"このとおり羽織にもございますが、うちの師匠はかたばみでござんす",
"江戸五郎のはどんな紋じゃ",
"江戸屋はんのはたしか――なんだっしゃったろな。ええと……?",
"だきみょうがか!",
"そうでござんす。そうでござんす。たしかにそのだきみょうがでございました"
],
[
"暑いさなかを人騒がせするのにもほどがあらあ、おれが出かけるにもあたるめえ。のう、江戸のあにい、伝六親方、おめえだいぶべっぴんにご執心のようだったから、ひとっ走り駒形河岸へいって、気に入るように締めあげてきなよ",
"え……?",
"えじゃないよ、とんだ食わせ者にもほどがあらあ。幽霊水の下手人は、墨田舎二三春と事が決まったよ。おそらく、さっき駆け込み訴訟したちっこい野郎もぐるになって、何かひと狂言うったにちげえねえんだから、いっしょにぱんぱんと啖呵をきってしょっぴいてきな",
"ちぇッ。だから、いわねえこっちゃねえんだ。たまにゃあごにも甘い物を食べさせておやんなさいよ。墨田舎の二三春が下手人とはなんですかよ。水芸達者の江戸屋江戸五郎に疑いがかかるというならまだ理屈にかなった話だが、三味線ひくのと忍術使うのとはわけが違うんだ。どこにあるんです、現の証拠は、どこにあるんです",
"この品さ。よく目をあけてごらんなよ",
"それがなんです。珍しくもねえ銀の平打ちかんざしじゃねえんですか。そんなもの、墨田舎の二三春でなくたって、いくらでもさしている女はありますよ",
"わからねえやつだな。紋だよ、紋だよ。そのどんぐりまなこをよくあけて、このだきみょうがの透かし紋をとっくり見なよ。江戸屋江戸五郎の紋だといっているじゃねえか。おれも二つしか耳はねえが、この江戸で女のかんざしをさしている男があるという話はまだ聞かねえよ。きのどくながら、やっぱりかんざしは女の持ち物とするなら、ほれた男の江戸屋の紋をかんざしにまで刻んでいるあだものは、まず十中八、九、二三春にちげえあるめえとホシをつけたって、しかたのねえことじゃねえかよ。はええところいってきな",
"へへえね。そういう理屈のものですかね",
"何を感心しているんだい。この暑気だ、まごまごしてりゃ腐っちまうじゃねえか。おおかた、二三春のやつめ、ほれた男の江戸五郎が、嵐の三左衛門に人気をさらわれちまったんで、それがくやしさに水まきして歩いているにちげえねえんだ。三味線ひくやつだって、忍びの得手がねえとはかぎらねえよ。夜忍びするは男と決まったもんじゃねえからな",
"ちげえねえ。当節は江戸で、女の色忍びがはやるっていうからね、べらぼうめ、べっぴんのくせに、ふざけたまねしやがって、どうするか覚えてろ。江戸っ子のつらよごすにもほどがあるじゃねえか。じゃ、なんですかい、兄貴だとかいったあのさっきのこくのねえ野郎も、いっしょにしょっぴいてくるんですかい",
"あたりめえよ。おれゃ八丁堀でひと涼みしているから、あっちへつれてきな"
],
[
"やかましいな。どうしたんだい",
"これがやかましくいわずにおられますかい。べっぴんがね、二三春のやつがね――",
"逐電したか!",
"したんだ、したんだ。ちっと遠すぎるところへ逃げたんですよ。冥土へ飛んじまったんですよ",
"へへえね。罪を恥じて、首でもくくったのかい",
"ところが、おおちがいなんだ。殺されたんですよ。殺されたんですよ。どいつかに匕首でね、ぐさりとやられているんですよ",
"えッ――"
],
[
"ね、どう見たってもよう替わりなんだ。殺されるって法はねえんです。このべっぴんが幽霊水の下手人っていうだんなの眼に不足をいうんじゃねえが、その下手人が殺されているっていうのは、いってえどうしたわけなんです。だれが見たって、こりゃ、いい心持ちで三味をひきひきうなっているところを、ぐさりとうしろからやられたものにちげえねえんだからね。現の証拠にゃ、うしろにその匕首がころがっているから、なにより確かなんだ",
"…………",
"ね、だんな、どうですかね。殺されるって法はねえんですよ。ええ、そうですとも! おまけに、くやしいほどのべっぴんなんだからね。どう考えたって、この世の中にべっぴんがただ殺されるって法はねえんですよ、どうですね。またあっしがかれこれしゃべっちゃうるせえですかね"
],
[
"びっくりするじゃありませんか。ど、ど、どうしたんです。また何か怨霊でもが出ましたかい",
"出たとも、出たとも。すんでのところ、むっつりの右門も大恥かくところだったよ。こりゃなんだぜ、人手にかかったんじゃねえ、まさに二三春自身が自分で命をちぢめたんだぜ",
"冗、冗、冗談も休みやすみおっしゃいませよ。猿の手にしたっても、てめえの背中へドスを突き刺すような器用なまねはできねえんだ。ましてや、こんなかわいいべっぴんの手が、背中のまんなかに回るほど長かったら、首もろくろっ首のはずですよ",
"ところが、ご自身でお死にあそばしたんだから、なんともしようがねえじゃねえか。まあ、そのうしろの柱に結びつけてある品物をとっくり見ろよ"
],
[
"はあてね。七つ屋へこかしこんでも一両がところは物をいいそうな上等のちりめんだが、いってえこんなところに結わいつけて、なんのまじないですかね",
"それが手品の種よ。なんのまじないだか、種あかししてみたかったら、そこのしごきのひとねじねじれているところへ、おっこちているドスをさしてみな",
"はあてね、――よよっ。こりゃ妙な仕掛けだ。ぴったり、ドスがはまりますぜ",
"それがわかりゃ、死人に口はなくとも手品の種はとけるはずだよ。まず、われ思うにだ、どうして死なねばならなくなったかは二の次として、なかなか二三春べっぴんゆかしいじゃねえか。さすがは糸の音締めで名をとった江戸女だよ。しょせん死なねばならぬものなら、日ごろ自慢の渋いのどで、この世のなごりに思いのこもったゆかしい一節をでも語りながら、心の清く澄んだところで、身ぎれいに果てようと、われとわがうしろ背をその柱に結わいつけた匕首にぶすりとやったやつが、がっくり前へ三味線をかかえて身はのめる、その拍子にドスが抜けて下におちる、魂は飛んで極楽へといった寸法だと思うが、むっつり右門の眼は狂ったかね",
"ちげえねえ。暑気に会っても、知恵にかびのはえねえのは、さすがにおらがだんなだ。そういや、二三春の両手の手首に、麻なわででもくくったらしいくくりあとのあるのも不思議じゃござんせんかい",
"それよ。さすがにおめえも一の子分だけあって、あごの油の切れねえのは豪勢だ。なぞを解くすべてのかぎは、まさにその手首に見えるくくりあとだよ。こうなりゃ、もうおれの眼はすごいんだ。これだけのべっぴんが、ただ死ぬはずはねえ。何かいわくがあって江戸紫の命を断ったにちげえねえから、家捜しやってみな",
"ちくしょうッ、なんとも気に入ったことをおっしゃいましたね。こうなりゃおれの眼はすごいんだとは、またいかにもうれしくなるせりふじゃござんせんか。べらぼうめ。おいらの眼だっても、こうなりゃなかなかにすごくなるんだ。ほんとに、どうするか覚えてろ"
],
[
"ざまあみろ。ざまあみろ! あるんですよ。あるんですよ! ここに変なものがあるんですよ。あッ、いけねえ。だんな、だんな。血だ、血だ。血がしみ出ている紙包みですぜ",
"なに!"
],
[
"ちょっと、ちょっと。こんな人けもねえような小屋に、なんの用があるんです。鬼娘じゃあるめえし、食い切った小指の詮議なら、江戸五郎は見当ちげえじゃござんせんかい。いかに二三春がとち狂ったにしても、ほれてほれてほれぬいた男の小指を食いちぎるはずあねえですぜ",
"うるせえや。死人に口がありゃ、こんな苦労はしねえんだ。黙ってついてきな"
],
[
"江戸っ子は諸事あっさりしているんだ。このおひざもとで、上方流儀のねちっこいまねははやらねえぜ。のう、三的!",
"不意に、な、な、なんでおまっしゃろな",
"その、なんでおまっしゃろなというせりふがねちっこいんだ。二三春は、ゆかしい死にざまだったよ",
"えッ……!",
"しばいがかったみえをきるなッ。おめえの手の指は、まさかに六本じゃあるめえ。ほうら、みやげだよ。この食いちぎられた小指を、その左手の布を巻いた下にあるあき家へもっていったら、四本の指がねずみ鳴きして喜ぶはずだ。もうこのうえむだなせりふはいう必要もあるめえ。あっさりするんだ、あっさりとな。江戸のごひいき筋は、かば焼きをおあがりあそばすにも油をぬくぞ",
"…………",
"なんでえ。まだ恐れ入らねえとありゃ、――むっつり右門の奥の手出そうか! 草香流は暑くなるとききがいいんだ。手間とらしゃ、ぼきりとお見舞いするぜ。幽霊水の下手人もおおかたうぬ自身だろう。どうだッ。まさかに眼が狂っちゃいめえがなッ",
"お、恐れ入りました。それまでおにらみがおつきでは、もう隠しだていたしませぬ。いかにも、水いたずらはてまえのしわざにござります",
"油っこいまねするにもほどがあらあ。なんでまた、てめえでてめえの座敷に水まきしたんだ。涼み水なら、まきどころが違うようだぜ",
"ごもっともさまでござります。なにを隠そう、それもこれも――",
"人気をあおる手品の種かッ",
"へえい。つい、その、いいえ、何を申しますにも江戸下りははじめてでござりますゆえ、知らぬ土地ではごひいきさまへ評判とるのも並みたいていなてだてではいくまいと存じまして、ついその水いたずらをしたのでござります。ああして、だれがいたずらするかわからないようにこっそり水をまき、幽霊水の評判がたったところで、わるいことと知りながら、江戸屋はんにぬれぎぬ着せたうえ人気をひとり占めにしようと計ったのがさいわいと申しますか、うまくあたったのでござります。それゆえ、内心ほくほくしておりましたところ、昨晩――",
"二三春が様子探りにでも忍んでいったと申すかッ",
"へえい。かしこいおなごはんでござります。てまえのしわざとにらんだものか、夜中近いころ、へやの外までこっそり参りましたところを、ついてまえが見つけ出し、さかねじ食わせて言いとがめておりますうちに――",
"よし、わかった。聞くもけがらわしいや。江戸の女のべっぴんぶりに目がくらんで、手ごめにでもしたというのだろう。どうだ、違うかッ",
"なんとも、面目ござりませぬ。かえって水いたずらの罪を二三春さんとやらにぬりつけ、ないしょにしてやるからとおどしつけ、ついその、なにしたのでござります。重々面目ござりませぬ",
"あたりめえだ。人のお囲い者を手ごめにした野郎に、面目やお題目があってたまるけえ。食いちぎられた小指は、そのときの手ごめ代かッ",
"恐れ入ります。なにを申すも人気稼業の芸人でござりますゆえ。穏便なお計らいくださりますればしあわせにござります",
"控えろッ、むしのいいにもほどがあらあ。江戸の女は、お囲い者でも操がいのちのうれしい心意気を持っているんだッ。さればこそ、江戸五郎に面目ねえと、恨みの小指を一枚刷り絵に供えておいて、ゆかしい死に方までしているんだッ。そのうえ、あくどい水いたずらまでもやった者を、どこの江戸っ子がかんべんできるけえ。よくみろいッ。みなさまも鳴りを静めて聞いているじゃねえかッ。一、二年伝馬町の牢屋敷で涼みをさせてやらあ。――伝六ッ、伝六ッ、いいぐあいにつじ番所の連中が来たようだ。こののっぺりした三的を渡してやんな。おひざもとを騒がせた幽霊水の下手人だと申してな。札でも押っ立てながら、江戸じゅうを引きまわすようにいってやんな。そうすりゃ、ぬれぎぬ着せられた江戸屋江戸五郎も、あすからどっと人気が盛り返そうよ",
"ちげえねえ。ざまあみろいだ。やけにまたきょうは涼しいね"
],
[
"だが、しかし――",
"だが、しかしがなんだよ",
"いいえね、表へ出ると急に暑くなったというんですよ。だからね、どうでござんすかね。なにも陰にこもるわけじゃねえが、そもそもこのあな(事件)はあっしのところへころがり込んできたんだ、といったようなわけだからね、てがらのおすそ分けに、さいわい両国までは遠くねえし、屋形船かなんかを浮かべて、ぱいいち涼み酒とはどんなものかね。油をぬいた江戸っ子好みのかば焼きかなんぞを用いてね。どうですね、いけませんかね",
"生臭食ったら辰が泣くよ。だいいち、さっきの精霊だながまだでき上がっていねえじゃねえか。早くこしらえておいてやらねえと、あしたの晩やって来ても、寝るところがねえぜ",
"ちげえねえ、ちげえねえ。なるほど、それにちげえねえや。とんだ忘れ山のほととぎすだ。辰め、まごまごしやがって、上方へでも迷って出りゃたいへんだからね。おうい、かごや。きょうはおいらが身ぜにをきって乗るんだ。ぱんぱんと八丁堀まで雲に乗って飛んでいきな――"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年4月8日公開
2005年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000595",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "23 幽霊水",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"バカだな――",
"…………",
"なんて気のきかねえまねしてるんだ",
"…………",
"ね、おい大将。何しているんだよ"
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"つかぬことをお尋ねするんだがね――",
"なんだよ。不意に改まって、何がどうしたんだ",
"いいえね、この梁からだらりとさがっている帯ですがね、だんなにはこれがなんと見えますかね",
"なんと見ようもねえじゃねえか。ただの帯だよ。二分も持っていきゃ十本も買える安物じゃねえか",
"でしょう。だから、あっしゃどうにもがてんがいかねえんですがね。だんなはいったいこの帯が人を殺すと思いますかね",
"変なことをいうやつだな。殺したらどうしたというんだ",
"いいえね。殺すかどうかといって、おききしているんですよ。どうですかね、殺しますかね。このとおりもめんの帯なんだ。刃物でもドスでもねえただのこのもめんのきれが、人を殺しますかね",
"つがもねえ。もめんのきれだって、なわっきれだって、りっぱに人を殺すよ。疑うなら、おめえその帯でためしにぶらりとやってみねえな。けっこう楽々とあの世へ行けるぜ",
"ちぇッ、そんなことをきいてるんじゃねえんですよ。首っくくりのしかたぐれえなら、あっしだっても知ってるんだ。だらりとね、もめんのきれがさがっている下に、人間の野郎が死んでいるんですよ。大の男がね、それもれっきとしたお侍なんだ。その二本ざしが、のど笛に風穴をあけられて、首のところを血まみれにしながら冷たくなっているんですよ。だからね、あっしゃどうにもその死に方が気に入らねえんだ。どうですかね、そんなバカなことってえものがありますかね",
"あるかねえか、やぶからぼうに、そんな妙なことをきいたってわからねえじゃねえか。どこでいったい、そんなものを見てきたんだ",
"どこもここもねえんですよ。きょうは八月の八日なんだ。一月は一日、二月は二日、三月は三日と、だんなもご存じのように月の並びの日ゃこの三年来、欠かさず観音様へ朝参りに行きますんでね。けさも夜中起きして白々ごろに雷門の前まで行くてえと、いきなりいうんです。もしえ、だんな、ちょいといい男ってね。こう陰にこもってやさしくいうんですよ",
"なんだよ。今のその変な声色は、なんのまねかい",
"女のこじきなんですがね。ええ、そうなんですよ。年のころはまず二十七、八。それがいうんですがね。ちょいといい男ってね。こうやさしくいうんですよ。だから、ついその――",
"バカだな。そのこじきがどうしたというんだ",
"いいえね、こじきはべつにどうもしねえんだ。とかく話は細かくねえと情が移らねえんでね、念のためにと思って申しあげているんだが、こじきのくせに、かわいい声を出していうんですよ。ちょいと、いい男、おにいさん。もしえ、だんな、情けは人のためではござんせぬ。七つの年に親に別れ、十の年に目がつぶれ、このとおり難渋している者でござんす。お手の内をいただかしておくんなんし、とこんなに哀れっぽく持ちかけるんでね。十の年に目のつぶれた者があっしの男ぶりまでわかるたア感心なものだと思って、三百文ばかり恵んでやったんですよ。するてえと、だんな、いいこころ持ちで観音様へお参りしながらけえってくるとね――",
"そこで見たのか",
"いいえ、そう先回りしちゃいけませんよ。話はこれからまだずっとなげえんだから、まあ黙ってお聞きくだせえまし。するとね、ぽっかり今日さまが雲を破ったんだ。朝日がね。まったく、だんなを前にして講釈するようですが、こじきに善根を施して、観音さまへお参りをすまして、いいことずくめのそのけえり道にお会い申す日の出の景色ぐれえいい心持ちのするものは、またとねえんですよ。だから、すっかりあっしも朗らかになってね、あそこへ回ったんですよ。あそこの妙見さまへね。だんなは物知りだからご存じでしょうが、下谷の練塀小路の三本榎の下に、榎妙見というのがありますね。よく世間のやつらが、あそこは丑の刻参りをするところだとかなんだとか気味のわるいことをいっておりますが、どうしたことか、その妙見さまがまたたいそうもなくひとり者をごひいきにしてくださるとかいう評判だからね。事のついでにと思ってお参りに行くてえと、ぶらり――下がっているんですよ",
"なんだよ。何がぶらりとさがっているんだ",
"ほら、なんとかいいましたっけね。鈴でなし、鉦でなし、よくほうぼうのほこらやお堂の軒先につりさがっているじゃござんせんか。青や赤やのいろいろ取り交ぜた布切れがたらりとさがっておって、それをひっぱるとガチャガチャボンボンと変な音を出すものがありまさね",
"わにぐちか",
"そうそう、わにぐちですよ。そのわにぐちの布がぶらりとさがっているまっ下にね、死んでいるんだ、死んでいるんだ、さっき申した二本ざしのりっぱなお侍がね、ぐさッとのど笛をえぐられて、長くなっていたんですよ。だから、こいつあたいへん、何をおいてもまずだんなにお知らせしなくちゃと思ってね、さっそく大急ぎにいましがた駕籠でけえったんですが、それにしても死に方が気に入らねえんだ。いかに妙見さまは弁天さまのごきょうだいにしたって、ただの布切れが人ののど笛を食い破るなんてことは、どう考えたってもがてんがいかねえんだからね。いってえ、そんなバカなことがあるもんだろうか、ねえもんだろうかと思って、じつはそのなんですよ。帯とわにぐちとではちっと趣が違いますが、でも同じもめんの布だからね、これで死ねるだろうかどうだろうかと、こうしてここへだらりとつりさげて、いっしょうけんめいと考えていたんですよ",
"バカだな",
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"あきれてものがいえねえといってるんだよ。にわか坊主の禅修行じゃあるめえし、帯とにらめっこをしてなんの足しになるけえ。それならそうと早くいやいいんだ。どうやら、また手数のかかるあな(事件)のようじゃねえか。役にもたたねえ首なんぞをひねっている暇があったら、とっとと朝のしたくをやんな。まごまごしてりゃ、ご番所から迎いが来るぜ"
],
[
"なんです! なんです! 何がいったい気に入らねえんですかよ! だから、あっしゃいつでもむだな心配しなくちゃならねえんだ。だんなが急げといったからこそ、あわてけえっておまんまのしたくもしたじゃござんせんか。しかるになんぞや、おもとなんぞにうつつをぬかして、何がいってえおもしれえんです。ね、ちょいと、え? だんな!",
"…………",
"耳はねえんですかい。ね、ちょいと。え? だんな! だてや酔狂でがみがみいうんじゃねえんですよ。お奉行さまがおっしゃるんだ、お奉行さまがね。そうそうにお手配しかるべしと、お番所じゃいちばんえれえお奉行さまがおっしゃるんですよ、にわか隠居が日干しに会ったんじゃあるめえし、おもとなんぞとにらめっこをしていたら、何がおもしれえんですかよ。ね、ちょいと。え? だんな! 聞こえねえんですかい"
],
[
"もう大将飛び出していった時分だ。ちょっくらいって、あば敬の様子を見てきなよ",
"え……?",
"あばたの敬公の様子を見てこいといってるんだよ",
"ちぇッ。ようやく人並みに口をきくようになったかと思うと、もうそれだからな。ほんとうに、どこまで人に苦労させるんでしょうね。お差し紙の来たのはだんななんだ。あば敬のところじゃねえ、だんなのところへ来たんですよ。疱瘡神の露払いじゃあるめえし、用もねえのに、わざわざとあばたのところへなんぞ行くがものはねえじゃござんせんか",
"しようがねえな。だから、おれもおめえの顔を見るとものをいいたくなくなるんだ。わからなきゃ、このお差し紙をもう一度よくみろい。名あてがねえんだ。どこにも名あてがねえじゃねえか。おれひとりへのおいいつけなら、ちゃんとお名ざししてあるべきはずなのに、どこを見ても右門の右の字も見当たらねえのは、お奉行さまがこの騒動を大あな(事件)とおにらみなすって、いくらか人がましいあば敬とおれとのふたりに手配りさせようと、同じものを二通お書きなすった証拠だよ。現の証拠にゃ、さっきの小者があば敬の組屋敷のほうへ飛んでいったじゃねえか。ただの一度むだをいったことのねえおれなんだ。見てくりゃわかるんだから、はええところいってきなよ",
"なんでえ、そうでしたかい。それならそうと早くいやいいのに、道理でね、さっきの使いめ、いま一本お差し紙をわしづかみにしていましたよ。ちくしょうめッ、にわかとあごに油が乗ってきやがった。あば敬の親方とさや当てするたア、まったく久しぶりだね。そうと事が決まりゃ気合いが違うんだ、気合いがな。ほんとうに、どうするか覚えてろッ。――おやッ。いけねえ。いけねえ"
],
[
"ね、いるんですよ。大将がうちの表にまごまごしておりますぜ",
"敬公か",
"ええ。ねこのように足音殺しながらやって来やがってね。表からそうっと、うちの様子をうかがっているんですよ。ね、ほら、あれがそうですよ。あのかきねのそばにいるのがそうですよ"
],
[
"どうだえ、親方、ちっとはりこうになったかえ",
"え……?",
"またとぼけていやあがらあ。これが右門流の軍学というやつだ。かきねの外からすき見するほどの性悪だもの、あば敬なんぞといっしょに歩いていたひにゃ、じゃまされるに決まってるじゃねえか。おおかた、やつらは今ごろ妙見さまへ駆けつけて、きつねにでもつままれたような顔しているだろうよ。これからもあることだ、しっこいやつを追っ払うにはこうするんだから、よく覚えておきな",
"はあてね",
"何を感心しているんだよ",
"いいえね、向こうの木にすずめが止まっているんですよ。しみじみ見ると、すずめってやつめ変な鳥じゃござんせんかい",
"横言いうない。一本参ったら参ったと正直にいやいいんだ。それより、一件の物はどこにあるか、はええところかぎつけな"
],
[
"いつごろからここにお見張りじゃ",
"知らせのあったのが明けのちょうど六つでござりましたゆえ、そのときからでござります",
"だいぶ長い間お見張りじゃな。ならば、もう市中へもこの騒動の評判伝わっていることであろうゆえ、うわさを聞いて心当たりがあらば、これなる仁と同藩家中の者が様子見になりと参らねばならぬはずじゃが、それと思われる者は見かけなんだか",
"はっ、いっこうにそのようなけはいがござりませなんだゆえ、じつはいぶかしく思うていたところなのでござります"
],
[
"ほほう、なかなかに武道熱心のかたとみゆるな。相当のつかい手がたわいなくやられたところを見ると――",
"え……? たわいなく眼がつきましたかい",
"黙ってろ"
],
[
"どうだね。あにい。おいらはひげすり閻魔さまへお参りしたのはきょうがはじめてだ。ひと回り見物するかね",
"え……?",
"木があって、森があって、池があってね、なかなかおつな境内のようだから、ひと回り見物しようぜといってるんだよ",
"かなわねえな。思い出したようにしゃべったかと思うと、やけにまた変なことばかりいうんだからね。おたげえ死ねば極楽へ行かれる善人なんだ。用もねえのにお閻魔さまのごきげんなんぞ伺わなくたっていいんですよ。――ね、ちょいと。やりきれねえな。とっととそんなほうへいって、何が珍しいんですかよ"
],
[
"ゆっくりでいいからな。練塀小路の妙見堂だぜ",
"ちぇッ。これだからな。駕籠屋やあば敬に口をきくくれえなら、かわいい子分なんだ、あっしにだっても口をきいたらいいじゃござんせんか。なんて意地曲がりだろうね"
],
[
"頼もう、頼もう",
"どうれ"
],
[
"ご覧のごとくに八丁堀の者じゃ。静かなへやがあらば拝借いたしたいが、いかがでござろうな",
"は……?",
"ご不審はごもっとも、この巻き羽織でご覧のごとく八丁堀者じゃ。仏道修行を思いたち、かく推参つかまつったが、うわさによれば当山は求道熱心の者を喜んでお導きくださるとのお話じゃ。静かなへやがあらば暫時拝借いたしたいが、お許し願えましょうな",
"なるほど、よくわかりました。ご公務ご多忙のおかたが仏道修行とは、近ごろご奇特なことにござりまする。喜んでお手引きつかまつる段ではござりませぬゆえ、どうぞこちらへ"
],
[
"ちぇッ、なんですかよ! なんですかよ! 人を小バカにするにもほどがあるじゃござんせんか。十手はどうするんです! 用意しろとおっしゃった十手は、どうかたをつけるんですかよ。きのうきょうの伝六様の十手あしらいは気合いが違うんだ、気合いがね。あっしゃさっきから、もう腕を鳴らして待っているんですよ。どこにいるんです! ね、ちょいと、十手の相手のホシは、このお経の中にいるんですかい。え? だんな! どこにいるんですかよ",
"せくな、せくな。がんがんいう暇があったら寝りゃいいんだよ。お経をおつむにいただいて寝るほどありがたいことはねえんだ。極楽へ行けるように、ゆっくり休みな",
"おこりますぜ。ほんとに、人をからかうにもほどがあるじゃござんせんか。じゃ、一杯食わしたんですかい。十手の用意をしろといったな、うそなんですかい",
"うそじゃねえよ。おめえみたいなあわてものは、今から用意させておかねえと、いざ鎌倉というときになってとち狂うからと思って、活を入れておいたんだ。夜中の丑満時になりゃ、十本あっても足りねえほど十手が入り用になるんだから、寝るのがいやなら、そこにそうして、十手を斜に構えて、ゴーンと丑満が鳴るまで意気張っていな",
"ちぇッ。なんてまあ気のなげえ十手だろうね。あば敬はどうするんです。あば敬にしてやられたらどうするんですかよ。あの大将だって死にもの狂いに駆けずりまわっているにちげえねえんだ。さるも筆のあやまり弘法様も木から落ちるというからね。やにさがっているまにしてやられたら、どうするんですかよ"
],
[
"いや、どうも近ごろにないけっこうな修行をいたしました。事のついでにと申しては無心がましゅうて恐れ入るが、ちょうどお斎のころじゃ。夕食ご造作にはあずかれまいかな",
"はっ、心得ました。お目ざめになりますれば、ほかならぬあなたさまのことでござりますゆえ、たぶんそのご用がござりましょうと、もうしたくしておきましてござります",
"ほかならぬあなたさまとは、なんのことでござります",
"お隠しあそばしますな。さきほどからの不審なおふるまいといい、そちらのおかたのおにぎやかさといい、どうもご様子ががてんまいりませぬゆえ、いろいろとみなして評定いたしましたが、あなたさまこそ今ご評判の右門殿でござりましょうがな",
"あはははは、とうとう見破られましたか。それとわかれば、隠しだていたしませぬ。ちと詮議いたさねばならぬことがござりますゆえ、このような無作法つかまつりましてござります。上さまご祈願所を汚しましたる不敬の数々、なにとぞお許し願わしゅう存じます",
"なんのなんの、そのごあいさつでは痛み入りまする。学頭さまもなんぞ容易ならぬ詮議の筋あってのことであろう、丁重にもてなしてしんぜいとのおことばでござりますゆえ、どうぞごゆるりとおくつろぎくださりませ"
],
[
"なんぞご用でも?",
"ちと承りたいことがござる。当山は悪魔退散邪法調伏の修法をつかさどる大道場のはずゆえ、さだめしご坊たちもその道のこと詳しゅうご存じであろうが、ただいま江戸にて丑の時参りに使われる場所は、どことどこでござる",
"なるほど、そのことでござりまするか。丑の時参りは、てまえども悪魔調伏の正法を守る者にとりましては許すことのかなわぬ邪法でござりますゆえ、場所も所も知らぬ段ではござりませぬ。まず第一は練塀小路の妙見堂、つづいては柳原のひげすり閻魔、それから湯島坂下の三ツ又稲荷、少しく飛びまして本所四ツ目の生き埋め行者、つづいては日本橋本銀町の白旗金神なぞ五カ所がまず名の知れたところでござります",
"よく教えてくれました。いろいろおもてなしにあずかってかたじけない。些少でござりまするが、お灯明料にご受納願いとうござる"
],
[
"いけねえ! いけねえ! まごまごしちゃいられませんぜ。あそこのかどに張っていた雑兵をうまいことおだてて聞き出したんだがね、あば敬大将はあの下手人をのどえぐり修業のつじ切りだとかなんだとかおっかねえ眼をつけてね、お番所詰めの小者からつじ役人にいたるまでありったけの捕り方を狩り集めて、江戸じゅうの要所要所に捕り網を張らしているというんですぜ。ね、ちょっと――かなわねえな。またむっつり虫が起きたんですかい。え? だんな。だいじょうぶですかい。よう、だんな。ようってたらよう、だんな!――",
"黙ってろ。おれのむっつり虫は、一匹いくらという高値なしろものなんだ。気味のわるいところをお目にかけてやるから、てめえのその二束三文のおしゃべり虫ゃ油で殺して、黙ってついてきな。これから先ひとことでも口をきいたら、今夜ばかりは容赦しねえんだ。草香流が飛んでいくぜ"
],
[
"わはははは、とうとう今夜は待ちぼけくったか",
"え? なんですと! ね、ちょっと、ちょっと。な、な、なんですかい"
],
[
"人をおどすにもほどがあるじゃござんせんか。気味のわるいいたずらをするっちゃありゃしねえや。あっしゃ三年ばかり命がちぢまったんですよ。おもしろくもねえ、待ちぼけくったとは何がなんですかよ。何を酔狂に、こんなまねしたんですかよ",
"おこったってしようがねえじゃねえか。向こうさまのごつごうで待ちぼけくわされたんだから、おいらに文句をいったって知らねえよ。またあしたという晩があらあ。さっさと帰りな",
"なんですと! あしたとはなんですかよ。急いでお手当しなくちゃならねえあば敬相手の大仕事じゃござんせんか。またあしたの晩があらあとは何がなんですかよ。けえらねえんだ。あっしゃけえらねえんですよ。人を茶にするにもほどがあらあ。下手人のつら拝ましていただくまでは、どうあったってここを動かねえんですよ",
"うるせえ坊やだな。むっつり右門とあだ名のおいらが、こうとにらんでの伏せ網なんだ。それほどだだをこねるなら、いってやらあ。おめえは朝ほど手に入れたわら人形の裏の文字を覚えているかい",
"つがもねえ。急という字があって、その下に巳年の男、二十一歳と書いてあったじゃござんせんか。それがいったいどうしたというんですかよ",
"どうもこうもしねえのよ、なぞはその急の字なんだ。おめえなんぞは知らねえに決まってるがね。ありゃ急々如律令というのろいことばのかしら文字さ。のろいの人形に急と書いて一体、同じく急と書いてもう一体、最初の晩には二カ所に打ちつけて、二日めに如と書いたのが一体、三日めに律と書いて一体、四日めに最後の令の字人形の一体を打って祈り止めにするのが、昔から丑の時参りのしきたりなんだ。けさひげすり閻魔と妙見堂でお目にかかったあの二体は、ゆうべが初夜ののろいぞめのその二つだよ。としたら、今夜は如の字の祈りをするだろうとにらんで、さっきお山の青道心に教えられたこの三ツ又稲荷のあなへ伏せ網を張ったのになんの不思議もねえじゃねえか、おあいにくなことに待ちぼけくったのは、あな違いだっただけのことさ。おおかた、今夜は本銀町の白旗金神か、本所四ツ目の生き埋め行者のほうへでも、同じ仲間が人を替え手を替えてのろい参りにいったろうよ。おめえがもう少し気のきいた手下だったら、ふた手に分かれて張れるものをな。むっつり右門のからめ手攻めも、手が足りなきゃ、ひと晩ふた晩むだぼねおったとてしかたがなかろうじゃねえかよ。どうだね、気に入らないかね",
"ちぇッ、なにも今になって事新しくあっしを気がきかねえの役不足だのと、たなおろししなくたっていいですよ。おいらが光っていたひにゃ、だんなの後光がにぶくなるんだ。さしみにもつまってえいう、しゃれたものがあるんだからね。おいらのような江戸まえのすっきりしたさしみつまはおひざもとっ子の喜ぶやつさ。――えへへへ、ちくしょうめ、急にうれしくなりやがったな。そうと眼がついているなら、なにも好き好んでふくれるところはねえんだ。じゃなんですかい、その丑の時参りを押えとって、だんなのいつものからめ手詮議で糸をたぐっていったら、どこのどいつが、のろい参りのさむれえたちを、けさみてえにねらい討ちしているか、その下手人もぱんぱんと眼がつくだろうというんですかい",
"決まってらあ。いわし網を張るんじゃあるめえし、あば敬流儀に人足を狩り出すばかりが能じゃねえよ。あした早く、生き埋め行者と白旗金神と両方をこっそり調べにいってきな"
],
[
"眼だ、眼だ。白旗金神のほうはおるすでしたがね、やっぱりゆうべ本所四ツ目の生き埋め行者へ出たんですよ",
"やられていたか",
"いた段じゃねえ、ほこらの前にね、はかまをはいて大小さしたわけえ侍が、同じようにのど笛をえぐられてのけぞっていたんですよ",
"わら人形も見つけてきたか",
"そいつをのがしてなるもんですかい。一の子分が親分から伝授をうけたお手の内は、ざっとこんなものなんだ。ね、ほら、これですよ、これですよ、ほこらのうしろの大かえでに打ち込んであったんですがね。なにもかも眼のとおり、だんなのおっしゃった如の字がちゃんと書いてあるんですよ",
"ほほうな、巳年の男、二十一歳という文字もちゃんと書いてあるな。どうやらこの様子だと",
"え……?",
"どうやらこの様子だと大捕物になりそうだといってるんだよ。どこの藩士がどういう男をのろっているか知らねえが、手を替え人を替えて幾晩ものろいつづけているところを見ると、丑の時参りの一味徒党もおろそかな人数じゃあるめえし、そいつらののど笛をねらっているやつも並みたいていのくせ者じゃねえよ。あば敬の様子はどんなだったか探っちゃこねえかい",
"それですよ、それですよ。そいつがどうも事重大なんだ。ゆうべ山下でも出会ったとおり、ああしてつじ番所の小役人まで狩り出して、江戸じゅう残らずへ大網を張ったはいいが、獲物はこそどろが三匹と、つつもたせの流れがひと組みと、ろくなやつあかからねえんでね。やつも少しあわを吹いたところへ、けさのこの生き埋め行者の一件が耳にはいったんだ。だからね、あばたこそあっても、さすがは敬四郎ですよ。のど切り騒動が申し合わせてほこらやお堂にばかりあるところから、やつめ、とうとう眼をつけたとみえて、今夜から手口を変えて総江戸残らずのお堂とほこらへ伏せ網を張るというんですよ",
"そいつあさいわいだ。なにもおいらは意地わるく立ちまわって、てがらをひとり占めにしてえわけじゃねえんだからな。人手を使っておてつだいくださるたア、願ったりかなったりだよ。だが、まず十中八、九むだ網だろうよ。ゆうべだってもあれほど四方八方へ網を張っておいて、生き埋め行者に迷って出た下手人を見のがすんだからな、そうと事が決まりゃ、おいらは今夜も湯島の三ツ又稲荷だ。夜あかししなくちゃならねえから、今のうちぐっすり寝ておきな",
"え……?",
"わからねえのかい。ゆうべ如の字の祈りを本所の四ツ目へ打ったとすりゃ、残るところは律と令とのふた夜きりだ。一つあなの三ツ又稲荷へじっと伏せ網を張っておいたら、よしんば今夜かからなくとも、あしたの丑満時にゃいやおうなく三ツ又の網にひっかかるよ。伏せ網するならしじゅう一カ所を選ぶべし、いつかは必ず獲物あらんとは、捕物心得の手ほどきじゃねえか。つまらねえところで首をひねらずと、ぐっすり寝る勘考でもしろよ",
"いいえね、そりゃいいんだ。一つあなの三ツ又稲荷へ迷わずに伏せ網するのは大いにけっこうだがね。ちっとあっしゃくやしいんだ。人間てえものはこうも薄情なものかと思うとね、く、く、くやしいんだ。だんなの耳にこんなこと入れたかねえんだが、どうにもくやしいんですよ。く、く、くやしいんですよ",
"バカだな。なんだよ、不意にぽろぽろ泣きだして、何が悲しいんだよ",
"だってね、いま来がけに、ふたところばかりで耳に入れたんだが、江戸っ子も存外と薄情なんですよ。だんながてがらをしたときゃ、てめえらがむっつり右門になったような気どり方で、やんやというくせにね。少し手間が取れるともう、何やかやと、ろくでもねえことをいうんですよ。いつのまにか、けさの四ツ目行者のほうの一件も町じゅうにひろまったとみえてね、聞きゃあ、あば敬とむっつり右門のだんなとふたりして、きのうからお手当中だっていうが、いまだに下手人があがらねえとは情けねえじゃねえか。あんな気味のわるい人死にがこの先三日も四日もつづいたひにゃ、うっかりお堂参りもできねえやね、こんなにうわさしていやがるんだ。おまけにね、ぬかすんだ。聞いたふうなことをぬかしていたんですよ。いくらかむっつり右門のだんなにも、焼きが回ったかとね。人の苦労も知らねえで、こんなにつべこべといっていたんですよ。だから、あっしゃ……だから、あっしゃ、く、くやしくてなんねえんだ。くやしくてならねえんですよ",
"ウフフフフフ、そんなことで泣くのがあるかよ。つがもねえ。手間がかかりゃかかっただけ、お手拍子喝采も大きいというもんだ。夏やせで少し身細りするにはしたが、目にさびゃ吹いちゃいねえよ。――しとしとまた小降りになったな。秋ゃ、秋、身にしむ恋のつまびきに、そぼふる雨もなんとやら、いっそ音締めもにくらしい、というやつだ。おいらが涙をふいてやらあ、雨の音を聞きながらひと寝入りするんだから、おめえもあの押し入れからまくらを持ってきな"
],
[
"いけねえ! いけねえ! 出たんだ、出たんだ。もう今夜は出ちまったというんですよ。丑の時参りがね、もう出ちまやがって、白旗金神の境内にのけぞっているというんですよ",
"へへえね。それはまたどうしたんだい",
"おおかたね、毎晩毎晩やられるんで今夜は早参りしてやろうとでも思って出かけたところをまたばらされたらしいんだが、なにしろ不意打ちなんでね、網を張っていた連中は大騒ぎなんですよ",
"どうしてそれを聞き出したんだ",
"あば敬の手下からかぎ出してきたんだがね。今そこまでいったら、つじ役人どもがうろうろしているんで、うまいことかまをかけて探ったら、しかじかかくかくであば敬の行くえを捜しているところだというんですよ",
"捜すとはまたどうしたんだい。あば敬もいっしょに張り込んでいたんじゃねえのか",
"やつあ山の手を見まわりにいったるすだというんですよ。それがまた情けねえやつらなんだが、なんでもね、白旗金神の町かどの三方に三人も張っていたくせに、いつのろい参りがやって来て、いつばらされたかも、まるで知らねえとこういうんですよ。だから、なおさらあば敬に面目がねえと、手分けしていま必死とやつの立ちまわり先を捜しているさいちゅうだというんですがね。どっちにしてもまごまごしちゃいられねえんだ。お出かけなすったらどうですかい",
"よかろう。雨はどうだ",
"もう宵のうちから降りやんでいるんですよ",
"じゃ、遠くもねえところだ。眠けざましに、お拾いで参るとしようぜ。龕燈の用意をしてついてきな"
],
[
"犬だッ。この下手人は犬と決まったぞッ",
"え! こいつあたいへんだ。ど、ど、どこに犬だと書いてありますかい!",
"胸もとの梅ばち型のどろ跡をよくみろよ。それからのど笛の傷跡だ。ぐさりとざくろの実が割れたようにえぐられているなあ紛れもなくワン公が食い切った証拠だよ。胸のどろ跡は、首をねらって飛びついたときについたんだ。雨上がりでおおしあわせよ。道がどろでぬかるんでいたからこそ眼がついたというものさ。秋雨さまさまだよ。それにしても、この犬はただものじゃねえぜ。これだけの腕も相当らしいお侍をうんともすうともいわさずに、かみ倒すんだからな。どうだい、伝あにい、そろそろとむっつりの右門も板についてきかかったが、ちがうかね",
"ちぇッ、たまらねえね。とうとう三日めで眼がつきましたかい。さあ、ことだ。さあ、話がちっとややこしくなってきやがったぞ。犬が下手人とはおどろいたね。なにしろ、四つ足のすばしっこいやつだからな。いってえどうして締めあげるんですかい。草香流もワン公を相手なら、うまくものをいわねえかもしれませんぜ",
"騒ぐな、騒ぐな。ここまで眼がつきゃ、むっつり右門の玉手箱には、いくらでも知恵薬がしまってあるんだ。そろそろとうちへけえって、あごでもなでてみようぜ。――つじ役人のかたがた、いまに敬だんなも山の手から、ご注進を受けてここへお越しだろうからな。下手人は犬に決まったとことづてしてくんな。伏せ網もそのつもりでお張りなせえとな。じゃ、伝あにい、引き揚げようぜ"
],
[
"ちくしょうッ、やられた、やられた。なんてまあ運がわりいんだろうね。ひと足先にてがらをされたんですよ",
"なにッ。じゃ、もう下手人をあげてきたか!",
"きたどころの段じゃねえんですよ。おなわにした浪人者をひとりしょっぴいてね、おまけに今の先白旗金神で見てきた丑の時参りとそっくりなお武家の死骸をひとり、戸板に乗せて運び込んできているんですよ"
],
[
"どうやらにせもののようだが、これはいったいどうしたんですかい",
"なにッ、にせ者とはなんだ。いらぬおせっかいだ。先手を打たれたくやしまぎれに、つまらぬけちをつけてもらうまいよ",
"いや、そうまあがみがみとことばにかどをたてるもんじゃござんせんよ。はかま大小藩士体のぐあい、のどをやられているぐあい、それに刻限のぐあいもよく似てはいますがね、まさしくこいつあにせ者ですよ。第一はこの首の傷だ、今まで手がけたやつはみんな犬にがぶりとかみ切られているのに、こりゃたしかに刀で突いた刺し傷じゃござんせんか。そちらの浪人者が下手人だというのもちっと不思議だが、いったいどこでお見つけになったんですかい"
],
[
"なるほどね。そうおっしゃりゃ少し様子がおかしいが、でもこの浪人がたしかにやったんですよ。じつあ、敬だんなのおさしずがあったんでね、市ガ谷八幡の境内に張っていたら、このおきのどくなお侍が向こうからやって来たのを見すまして、そっちの浪人者がいきなりのど輪を刺し通してから、懐中物を捜していやがったんでね、刻限の似通っているぐあいといい、首筋を刺したぐあいといい、どうやらホシにかかわりのある野郎だとにらんで、いやおうなくしょっぴいてきたんですよ",
"つがもねえ、まだ下手人のあがらねえのを世間がいろいろあしざまにいってるんで、あせってのことでしょうが、おたげえお上御用を承っている仲間なんだ。もう少し見通しのきいた仕事をしねえと笑われますぜ。懐中物をねらっていたというのが大にせ者だ。論より証拠、今までの死骸はみんな紙入れもきんちゃくも残っていたじゃござんせんかい。まさしく、この野郎は、きのうきょうの騒動につけ込んだただの切り取り強盗ですよ。下手人のあがり方がちっと手間がとれているんで、そこにつけ込み同じ手口のように見せかけて、てめえらの荒仕事もその罪跡を塗りつけようとたくらんでからの切り取り強盗にちげえねえんだ。あげてきたのは、おてがらもおてがらもりっぱな大てがらだが、少うしホシ違いでござんしたね"
],
[
"いったッ。いったッ。伝公ッ、とうとうあごがものをいったぜ",
"てッ。ありがてえ! ありがてえ! ち、ちくしょうめッ――。は、腹が急にどさりと減りやがった。も、ものもろくにいえねえんです。なんていいましたえ。あごはなんていいましたえ",
"武鑑をしらべろといったよ",
"え……?",
"武鑑をおしらべあそばせと、やさしくいったのよ。わからねえのかい",
"はあてね。いちんち一晩寝もせず考えたにしちゃ、ちっと調べ物がおかしな品だが、いったいなんのことですかい",
"しようがねえな。このわら人形の裏の文字をよくみろよ。巳年の男、二十一歳とどれにも書いてあるんだ。書いてあるからには、この二十一歳の巳年の男が、のろい祈りの相手だよ。ところがだ、人を替え、日を替えてのろい参りに行った連中は、みんなそろってお国侍ふうの藩士ばかりじゃねえかよ。なぞを解くかぎはそこのところだよ。藩士といや、ご主君仕えの侍だ。その侍がああ何人もあやめられているのに、一度たりとも死骸を引き取りに来ねえのがおかしいとにらんで、ちょっくらあごをなでたのよ。そこでだね、いいかい、およそのろい祈りなんてえまねは、昔から尋常な場合にするもんじゃねえんだ。しかるにもかかわらず、お国侍の藩士がああもつながって毎晩毎晩出かけたところが不思議じゃねえかよ。ともかくも、ご本人たちはれっきとした二本差しなんだ。腕に覚えのある侍なんだからな、そのお武家が、人に恨みがあったり、人が憎かったり、ないしはまた殺したかったら、なにもあんなめめしいのろい参りをしなくたっていいじゃねえかよ。すぱりと切りゃいいんだ。生かしておくのがじゃまになったら、わら人形なぞを仕立てるまでのことはねえ、一刀両断に相手を切りゃいいんだよ。だのに、わざわざあんなまわりくどい丑の時参りなんかするのは、その相手が切れねえからのことにちげえねえんだ。切れねえ相手とは――、いいかい。のろい参りしたのは禄持ち藩士だよ、その禄持ちの藩士が切りたくても切れねえ相手とは、――おめえにゃ眼がつかねえかい",
"大つきだ、やつらがおまんまをいただいているお殿さまじゃねえんですかい",
"そうよ。眼の字だ。相手が身分のたけえ、手も出すことのできねえお殿さまだからこそ、陰から祈り殺すよりほかにはなき者にする手段はあるめえとひと幕書いた狂言よ。すなわち、その祈られているおかたが当年二十一歳、巳年の男というわけなんだ。としたら、武鑑を繰って二十一歳のお殿さまを見つけ出せば、どこの藩のなんというおかただか、ネタ割れすると思うがどうだね。いいや、そればかりじゃねえ、藩の名まえがわかりゃ、どうしてまたなんのために犬めがのろい参りの一党を毎晩毎晩食い殺してまわっているか、そのなぞも秘密もわかるはずだよ。いいや、そればかりでもねえ。まさしく、その犬はこの世にも珍しい忠犬だぜ。よくあるやつさ。忠義の犬物語お家騒動というやつよ。悪党がある。その悪党が一味徒党を組んでお家横領を企てて、おん年二十一歳の若殿さまをのろい殺しに祈ってまわる、そいつをかぎつけた忠犬が、かみころして歩いているという寸法さ。したがって、犬のうしろには糸をあやつる黒幕がなくちゃならねえはずだよ。お家だいじ、お国だいじ、忠義の一派というやつよ。だからこそ――、むすびを三つばかり大急ぎにこしらえてくんな",
"え? 犬をつり出すためのえさですかい",
"おいらが召し上がるんだよ、いただきいただき武鑑を繰って、ここと眼がついたら風に乗ってお出ましあそばすんだ。早く握りなよ",
"ちくしょうめ、どうするか覚えてろッ。へへえね、――ちょっとこいつあ大きすぎたかな、かまわねえや、つい気合いがへえりすぎたんだからね、悪く思いますなよ"
],
[
"ほほうね。三万石のご主君だよ",
"ちぇッ、三万石とはなんですかい。やけにまたちゃちなお殿さまだね",
"バカをいっちゃいかんよ。お禄高は三万石だが、藤堂近江守様ご分家の岩槻藤堂様だ。さあ、忙しいぞ。駕籠だッ。早くしたくをやんな"
],
[
"これからおめえの役だ。そこのお長屋門をへえりゃお小屋があるだろう。どこのうちでもいいから、うまいこと中間かじいやをひとり抱き込んで、屋敷の様子をとっくり洗ってきなよ",
"がってんだ。こういうことになると、これでおいらのおしゃべりあごもなかなかちょうほうなんだからね。細工はりゅうりゅう、お待ちなせえよ"
],
[
"眼の字、眼の字。やっぱりね。おかしなことがあるんですよ",
"なんだい。殿さまが座敷牢にでもおはいりかい",
"いいや、家老がね、なんの罪もねえのに、もう三月ごし、蟄居閉門を食っているというんですよ。しゃべらしたなあの門番のじいやだがね、そいつが涙をぽろりぽろりとやって、こういうんだ。閉門食っているおかたは村井信濃様とかいう名まえの江戸家老だそうながね。あんな忠義いちずのご老職はふたりとねえのに、やにわに蟄居のご処罰に出会ったというんですよ。だからね――",
"犬を探ったか",
"そのこと、そのこと。なにより犬の詮議がたいせつだと思ったからね、このお屋敷には何匹いるんだといったら、六匹いるというんだ。その六匹のうちでね、いちばんりこうと評判の秋田犬が、今のそのご家老のところにいるというんですよ",
"ホシだッ。その犬の様子は聞かなかったかい",
"聞いたとも、聞いたとも、そこが肝心かなめ、伝六がてがらのたてどころと思ったからね、いっしょにおいらもそら涙を流しながら探りをいれたら――。そのね、なんですよ、そのね――",
"陰にこもって、何がなんだよ",
"いいえね、そのご家老さまのところのべっぴんのお嬢さまがね、その秋田犬とふたりして、毎晩毎晩夜中近くになってから、お父御さまの蟄居閉門が一日も早く解かれるようにと、こっそりご祈願かけにほこら回りをしていらっしゃるとこういうんですよ",
"それだッ。なぞは解けたぜ。今夜は最後の令の字人形ののろいの晩だ。伏せ網はあとの一つの三ツ又稲荷と決まったよ。駕籠屋ッ。ひと飛びに湯島まで飛ばしてくんな"
],
[
"よッ。今夜は多いね",
"黙ってろ"
],
[
"さあ、出やがったッ。だんな! だんな! 犬使いの下手人が出たんですよ! 何をまごまごしているんですかい。草香流だッ。草香流ですよ!",
"とち狂うなッ。これまで来ても、おめえには善悪がわからねえのかッ。お家にあだなす悪人ばら成敗といまお嬢さんが名のったじゃねえかッ。――田鶴どの! おなごの身にあっぱれでござる! 八丁堀の近藤右門がおすけだちいたしまするぞッ"
],
[
"あっさりのめったな。どうやらかたづいたようです。お嬢さま、おてがらでござりましたな",
"ま! お礼もござりませぬ。ことばも、ことばもござりませぬ。この者たちは……"
],
[
"おっしゃらずに! おっしゃらずに! 人に聞かれちゃご家名にかかわります。おおかた、この連中がよからぬお家横領のたくらみを起こして、お殿さまをそそのかし、まずじゃまになるやつから先に遠ざけようと、忠義無類のあんたのお父御さまを閉門のうきめに会わせたんでしょうね",
"はっ。そのとおりでござります。そればかりか、このように毎夜毎夜――",
"いいや、わかっておりますよ。このとおり毎夜毎夜人を替え、もったいないことにもお殿さまのお命を縮めたてまつろうとしているんで、おなごの身も顧みず、ひと知れずあなたおひとりで悪人ばらを根絶やしにしようと、ああして犬をお使いになったんでござんしょうが、それにしてもこのかわいそうな犬はよく慣らしたもんですね",
"お恥ずかしいことでござります。大の男を相手にわたくしひとりでは、とてもたくさんの悪人成敗はおぼつかないと存じまして、父がいつくしみおりましたこの秋田犬を、二十日あまりもかかってひそかに慣らし込み、ようやくゆうべまでは首尾よう仕止めましたなれど、今宵のこの危ういところ、ご助力くださりまして、田鶴は天にものぼるようなうれしさでいっぱいでござります……それにつけましても、クロを殺したことは……クロを殺しましたことは何より悲しゅうござります",
"お嘆き、ごもっともでござりましょう。そのかわり、このかわいそうなむくろをお殿さまにお目にかけて、それからこのわら人形でござります。これもいっしょにお見せ申したら、罪ないお父御の閉門も解かれましょうし、お殿さまおみずから残った悪人ばらをご成敗あそばすでしょうから、お家もこれでめでたしとなりましょうよ。ここに涼んでおりまするふたりのご藩士は、あとから近所のつじ番所の者たちに引かして、こっそりお屋敷へ送り届けさせましょうからな。そなたは一刻も急がねばなりませぬ。はよう、犬と人形をお持ち帰りになって、しかじかかくかくと申しあげ、クロの忠義をたてておやりなせえまし――伝あにい、早く手配しな。お嬢さまにはお駕籠を雇ってね。では、ごめんくだせえまし。八丁堀の右門はけっしてお家の秘密を口外するような男じゃござんせんからな。ご安心なさいませよ"
],
[
"おかげさまで――",
"おてがらでござりましたか",
"どうやら、一味徒党五人ばかりを捕えましたわい。やっぱり、そなたの眼のとおりでござったよ。八丈島から抜けてきたやつらが小判ほしさに、さっきのあの浪人めの入れ知恵で、騒動につけ込み、にせ手口の荒かせぎしたのでござったわい。ときに、そちらのホシはどうでござった",
"それもおかげさまで、しかし他言のできぬてがらでござります。それゆえと申しては失礼でござりまするが、どうぞあなたの捕物はあなたおひとりのおてがらにご上申なされませ。お奉行さまもお喜びでござりましょうよ。てまえのてがらは口外もできぬてがらでござりまするが、いちどきにあなたさまともども、二つの騒動が納まりましたのでござりまするからな。――伝あにいよ、二日分ばかりゆっくり寝るかね",
"ちげえねえ。敬だんな、ごめんなせえよ。お奉行さまからおほめがあったら、クサヤの干物でもおごらなくちゃいけませんぜ。てッへへへ。出りゃがった。ね、ほら、朝日がのっかりとお出ましになったんですよ。なんとまあ朗らかな景色じゃごんせんかね"
],
[
"はあてね。もうさっきのあのお嬢さまが、胸を焦がしたってわけじゃあるめえね",
"黙ってろ"
],
[
"さきほどは三ツ又稲荷にてうれしきお計らい、お礼申しあげまいらせ候。さそくに屋敷へ帰り、おさしずどおり、殿さまに申しあげ候ところ、万々のことめでたく運び候まま、お喜びくだされたくこのご恩は、田鶴一生忘れまじく、またの日、お身親しくお目もじもかないえばと、夢のまにまにそのこと念じまいらせ候。取り急ぎあらあらかしこ――",
"てへへへ。うれしいね。え! ちょいと、夢のまにまに念じまいらせ候とは、陰にこもって思いが見えて、うれしいじゃござせんか。いいや、なになに、お奉行さまからは表だってのご賞美はなくとも、こういうやさしいところが、夜ごと日ごとにぽうっとなって念じてくれりゃ、ね、だんな、いっそありがてえくらいじゃござんせんか。え? いけませんかね"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:小林繁雄
2000年4月17日公開
2005年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"起きりゃいいんだ、起きりゃいいんだ。ね、ちょっと!――やりきれねえな、毎朝毎朝これなんだからな。見せる相手もねえのに、ひとり者がおつに気どって寝ていたってもしようがねえじゃござんせんか。起きりゃいいんですよ、起きりゃいいんですよ。たいへんなことになったんだから、早く起きなせえよ",
"…………",
"じれってえな。だれに頼まれてそんなに寝るんでしょうね。ね、ちょっと! たいへんですよ。たいへんですよ。途方もねえことになったんだから、ちょっと起きなせえよ"
],
[
"ほほう。珍しいものをかっ払ってきたね。豪儀なことに、目も鼻もちゃんと一人まえについているじゃねえか。どうやら、人間の子のようだな",
"またそれだ。どこまで変なことばかりいうんだろうね。もっと人並みの口ゃきけねえんですかよ。抱いてくださりゃいいんだ。忙しいんだから、早くこいつを受け取っておくんなせえよ",
"起きぬけにそうがんがんいうな。――ああ、ブルブル――ほら、ほら、こっちだよ。こっちだよ。おじちゃんの顔はこっちだよ。ああ、ブルブル。――わっははは、かわいいね。この子は生きているよ。ね、見ろ、笑ったぜ",
"ちぇッ、おこりますよ、おこりますよ。なんてまあ、そう次から次へとろくでもねえ口がきけるんでしょうね。目と鼻があって、息の通っている人間の赤ん坊だったら、生きているに決まってるんだ。この忙しいさなかに、おちついている場合じゃねえんだから、はええところ抱きとっておくんなせえよ",
"変なことをいうね。はばかりながら、おいらはそんな赤ん坊に親類はないよ。おれに抱けとは、またどうした子細でそんな因縁つけるんだ",
"あっしにきいたっても知らねえんですよ。あの三助がわりいんだ。あの横町のふろ屋のね。あいつめがパンパンと変なことをぬかしゃがったもんだから、べらぼうめ、そんなバカなことがあってたまるけえと思って、橋のたもとへいってみるてえと、この子がころがっていたんだ。だから、はええところ受け取ってくださりゃいいんですよ",
"あわてるな、あわてるな。ひとりがてんに三助がどうのふろ屋がどうのと変なことばかりいったって、何がなんだかさっぱりわからねえじゃねえか。その子の背中に、むっつり右門の落とし子とでも書いてあるのかい",
"いいえ、書いちゃねえんだ。一行半句もそんなことは書いちゃねえが、もう少し早起きすると何もかもわかるんですよ。朝起き三文の得といってね、寝る子は育つというなア数え年三つまでのことなんだ。四つそろそろかわいざかり、五つ歯ぬけに六ついたずら、七八九十はよみ書きそろばん、飛んで十五とくりゃもう元服なんだからね。ましてや、だんなのごとく二十五にも六にもなるいいわけえ者が、日の上がるまでも寝ているってことはねえんですよ。だから、あっしもね――",
"なにをつまらん講釈するんだ。そんなことをきいているんじゃねえ、赤ん坊のことをきいているんだよ。横町のふろ屋の三助がどうしたというんだよ",
"いいえ、そりゃそうですがね、全体物事というものは順序を追って話さねえといけねえんだ。これでなかなか、こういうふうに筋道をたてて話すということは、駆けだしのしろうとにゃできねえ芸当でね、なんの縁故もかかり合いもねえような話でも、順を追ってだんだんと話していけば、だんなも一つ一つとふにおちていくでしょうし、ふにおちりゃしたがって眼のつきもはええだろうと思って、せっかくあっしもこうしてつまらんようなことからお話しするんだが、だからね、朝起き三文の得というからにゃ、おいらだっても早起きしなくちゃなるめえとこういうわけで、けさも六つの鐘を耳にすると、すぐさまひとっぷろ浴びに行ったんですよ。するてえと、だんな、あんな三助ってえ野郎もねえものなんだ。いかに朝湯は熱いものと相場が決まっているにしても、まるでやけどをしそうなんですよ。ぜんたい、お湯屋というものは、だんなを前において講釈いうようだが、人間をゆでだこにするためにこしらえてあるんじゃねえ、からだをあっためるためにこしらえてあるんだからね、さっそくあっしがぱんぱんと啖呵をきってやったんですよ。やい、バカ野郎ッ、こんな煮え湯をこしれえておいて、おいらをゆであげておいてから、あとで酢だこにでもする了見かい、と、こういってやったらね、三助の野郎がまたとんでもねえ啖呵をきりやがったんですよ。何をぬかしゃがるんだ、酢だこになりたくなけりゃかってに水をうめろ、それどころの騒ぎじゃねえんだ、通りの橋のたもとに、おかしな捨て子があるっていうんで、みんないま大騒ぎしているじゃねえか、と、こんなにいいやがったんですよ。だから、あっしもまた啖呵をきってやったんだ。べらぼうめ、この泰平な世の中に、そんなおかしな捨て子なんぞがあってたまるもんけえというんでね、さっそく飛んでいってみるてえと、――ほら、なんとかいいましたっけね、あそこの町のまんなかに大きな橋があるじゃござんせんか。ありゃなんといいましたっけね",
"どこの町だよ",
"日本橋の大通りにあるじゃござんせんか、東海道五十三次はあそこからというあの橋ですよ",
"あきれたやつだな。あいそがつきて笑えもしねえや。日本橋の大通りにある橋なら、日本橋じゃねえかよ",
"ちげえねえ、ちげえねえ。その日本橋の人通りのはげしい橋のたもとにね、目をくるくるさせながら、この子がころがっていたんだ。だから、ともかくこいつをはええところ抱きとっておくんなせえよ",
"受け取るはいいが、なんだってまた、おれがこれを受け取らなくちゃならねえんだ",
"じれってえだんなだな、捨て子はこの子がひとりじゃねんだ。まだあとふたりも同じようなのがころがっているんですよ。だから、あとのを運ぶに忙しいといってるんじゃござんせんか",
"ちぇッ、なんでえ。あきれけえったやつだな。それならそうと、最初からはっきりいやいいじゃねえか。手数をかけるにもほどがあらあ、あとのふたりは、どうして置いてきたんだ",
"どうもこうもねえんですよ。ねこや犬の子なら、三匹いようと八匹いようと驚くあっしじゃねえんだが、なにしろ人間の子ときちゃ物が物だからね、いっしょに運んでつぶしちゃならねえと思って、わいわい騒いでるやつらをしかりとばしながら、張り番させて置いてきたんですよ。売るにしろ、飼うにしろ、だんなにまずいちおうお目にかけてのことにしなくちゃと思ったからね",
"よくよくあきれけえったやつだな。急いでしたくをやんな",
"え……?",
"胡散な捨て子が三人もあっちゃ、どうやらいわくがありそうだから、とち狂っていねえで、はええところしたくをしろといってるんだよ",
"ちッ、ありがてえ。だから、早起きもして、ふろ屋の三助ともけんかするもんさね。ざまあみろ。事がそうおいでなさりゃ、もうしめたものなんだ。それにしても、せわしいな、なんてまあこうせわしいんだろうね。――いやだよ、大将、おい、赤ん坊の大将、泣くな、泣くな。泣いちゃいやだよ。おじさんだってもこわくないぜ。ね、ほら、おもちゃがほしくば、この鼻の頭をしゃぶるといいよ。――ああ、せわしいな。いつになったら、あっしゃもっと楽になれるんでしょうね"
],
[
"かわいそうにね",
"そうよ。おいらはさっきからもう腹がたってならねえんだ。産むってこたあねえのですよ。産むってこたあね。え? 棟梁! そうじゃござんせんか。捨てるくらいなら、なにも手数をかけてわざわざと産むってこたあねえでしょう",
"おれに食ってかかったってしょうがねえじゃあねえか。文句があるなら親にいいなよ",
"いいてえのは山々だが、その親がいねえから、よけい腹がたつんですよ。ね、ご隠居! おたげえ人の親だが、いくら貧乏したっても、おいらは子を捨てる気にゃならねえんですよ。え? ご隠居。ご隠居さんはそう思いませんかい",
"さようさよう。しかればじゃ、世の戒めにと思ってな、さきほどから一首よもうと考えておるのじゃが、こんなのはどうかな。朝早く橋のたもとに来てみれば、捨て子がありけり気をつけろ――というのはいかがじゃな",
"あきれたもんだ。油が抜けると、じき年寄りというやつは、歌だの発句だのというからきれえですよ。でも、子どもはまったく罪がねえや。捨てられたとも知らねえで、にこにこしながら、あめをしゃぶっておりますぜ"
],
[
"抱いているその子も、いっしょに並べてみい!",
"え……?",
"おまえの抱いている赤ん坊も、そこへもういっぺん寝かせといってるんだよ",
"情なしだな。せっかく拾ったものを、また捨てるんですかい",
"文句をいうな。早くしたらいいじゃねえかよ",
"へいへい。お悪うござんした。並べましたよ。さあ、並べましたからね。お気のすむようになさいませよ。どうせ、あっしはいろいろと文句をいう変な野郎なんだからね。ええ、そうですとも",
"…………",
"ええ、ええ、どうせそうですよ。どうせあっしなんざあ人前でがみがみとしかられるようにできた野郎なんだからね。もっとしかりゃいいんだ。出世まえの男を人前でしかるのがりっぱなことなら、もっとしかりゃいいんですよ。――おやッ。はあてね。少し変だな。こうして並べてみると、三人の様子がおかしいじゃござんせんかい。いま捨てた子も、左の赤ん坊も、男の子はみんなまるまる太っていかにも金満家のぼっちゃまらしいが、それにひきかえまんなかの女の子ばかりは、やけに貧乏ったらしいじゃござんせんか。ね! ちょいと! どうしたんだろうね"
],
[
"ふふうむな。どうやら、そろそろと――",
"ありがてえ。つきましたかい。え? ちょっと! もう眼がつきましたかい",
"やかましいや。黙ってろ"
],
[
"はあてね。まるでこりゃなぞなぞの判じ物みてえじゃござんせんか。鬼子母神といや、昔から子どもの守り神と相場が決まってるんだが、それにしても、ぞうりの間に畳御幣をはさんでおくたア、ちっと風変わりじゃござんせんかい。まさかに、この赤ん坊が年ごろの娘になったら、ぞうり取りの嫁にしてくれろってえなぞじゃありますまいね",
"…………",
"え? ちょっと! ね、だんな! かなわねえな。すこうし眼がつきかけると、じきにむっつり屋の奥の手を出すんだからね。なにもあっしだって、ひとりごとをいうために生まれてきたんじゃねえんだ。ああでもねえ、こうでもねえと、いろいろやかましくしゃべっているうちにゃ、だんなの眼もはっきりついてくるだろうと思って、せいぜい年季を入れているんですよ。ね、ちょっと。ええ? だんな!"
],
[
"みなの衆! 隠しだてしてはなりませぬぞ。この子のしゃぶっている棒あめは、どなたが与えたのじゃ",
"…………",
"だれぞかわいそうに思うて恵んだ者があるであろう。とがめるのではない。ちと必要があっておききしたいのじゃ。見れば、しゃぶらしてからまだ間もないようじゃが、どなたがお恵みなすったのじゃ",
"いえ、あの、それはだれも恵んだのではござりませぬ。初めからしゃぶっていたのでござります"
],
[
"わたしがいちばん最初にこの捨て子を見つけた当人でござりますゆえよく存じておりますが、初めからまんなかのその子ばかりがしゃぶっておりましてござります",
"しかとさようか",
"あい、うそ偽りではござりませぬ。わたしが見つけたほんのすぐまえにでも与えたものとみえて、まだまるのままのを持ってでござんした"
],
[
"それがわかりゃ、もうぞうさはあるめえ。はだしではんてんを着ていねえ子どもがふたり、どこかそこらの人込みの中に隠れているにちげえあるめえから、手分けしておまえもいっしょに捜しな",
"フェ……?",
"何をとぼけた顔しているんだ。おめえにゃこの畳御幣の文句が見えねえのかよ。母よ。みんなひもじくてならねえんだ。早くかえってきてくんなと、読んだだけでもまぶたの奥が熱くなるようないじらしい文句がけえてあるじゃねえか。しゃぶっているそのあめも、ついでによく見ろよ。だれも恵んだ者がねえにかかわらず、まだ三つ一も減っちゃいねえところを察すると、ぞうりを脱いで、はんてんを脱いで、あめをしゃぶらせて、おっかあは来ねえか、母は帰らねえかと、首を長くしながら様子を探っているこの畳紙の文句の書き手の子どもがふたり、どこかに隠れているはずだよ。とち狂っていねえで、早く捜しな",
"なるほどね。いわれてみりゃ、おおきにそれにちげえねえや。べらぼうめ、なんて人騒がせなまねしやがるんでしょうね。――やい! どきな! どきな! 見せ物じゃねえんだ。見せ物に捨て子したんじゃねえんだよ。おっかあがけえってくるように捨て子をしたと、おらのだんなが狂いのねえ眼をおつけあそばしたんだ。どきな! どきな!",
"…………",
"じゃまっけだな。そこんところに毛ずねをまる出しにして伸び上がっているのっぽは、どこの野郎だ。おめえなんぞの毛ずねに用はねえんだよ。はだしの子どもを捜しているんだ。はんてんを着ていねえ子どもを捜しているんだよ。どきな! どきな!"
],
[
"二、三日何も食べないとみえて、だいぶおなかがすいているようじゃな。右門のおじさんの目に止まったからにゃ、どんなにでも力になってしんぜるぞ",
"…………",
"泣くでない、泣くでない。さぞかし、ひもじいだろうな。伝六ッ"
],
[
"そこの横町へはいれば、大福もち屋があるはずだ。大急ぎで百ばかり買ってきな",
"え? 百! 数の、あの、数の百ですかい",
"決まってらあ。数の百だったらどうだというんだ",
"いいえ、その、ちっと多すぎるんでね、残ったあとをどうするんかと心配しているんですよ",
"さもしいなぞをかけるな! 食べたかったら、おめえがいただきゃいいじゃねえか",
"ちッ、ありがてえ。おらがだんなは、諸事こういうふうに大まかにできているからな。ざまあみろ。やい、何をゲタゲタ笑ってるんだ。じゃまじゃねえか。大福もちが百がとこ買い出しに行くんだ。じゃまだよ、じゃまだよ。どきな! どきな!"
],
[
"江戸っ子はもち屋までがいいきっぷをしているから、うれしくなるんですよ。きょう一日分のできたてをみんな買い占めてやったんでね、ないしょに二つまけてくれましたぜ",
"はしたないことをいうな! 早くこっちへ出しなよ"
],
[
"遠慮はいらぬ。さぞひもじいだろうから、かってにつまんでお上がり",
"…………",
"ほほう、なかなかお行儀がよいのう。だいじない。だいじない。はようお上がり"
],
[
"感心なことよのう。こんなにたくさんあるのに、そなたいただきませぬのは、このおもちをうちへ持って帰って、二、三日の間のおまんま代わりにしたいためであろうのう",
"…………",
"え? そうであろうのう。それゆえ、ひもじいのをこらえて、いただかないのでありましょうのう"
],
[
"よくよくつらいめに会うているとみえますのう。なれども、おじさんがこうして力になってあげますからには、もうだいじないゆえ、なにごとも隠さずに申さねばなりませぬぞ。どうした子細で、このようなことをしたのじゃ",
"…………",
"え……? どうした子細で、としはもいかぬそなたたちが、こんなことをせねばならぬのじゃ。母よ、早く帰ってきてくんなと鬼子母神さまにお願いしてあるようじゃが、そなたたちのかあやんはどこへ行ったのじゃ。のう! どこへ行ってしまったのじゃ"
],
[
"盗み出したとは、いったいどうしたわけじゃ",
"どうもこうもござんせぬ。ゆうべ本所の子育て観音さまに虫封じのご祈祷がござんしたゆえ、こちらにおいでの糸屋のご新造さんとお参りに行きましてついおそうなり、疲れてそのままぐっすり寝込みましたら、いつとられましたものか、朝になってみますると、ふたりとも坊やたちを盗まれていたのでござります。それゆえぎょうてんいたしまして、大騒ぎをしておりましたところへ、いましがた日本橋に似たような捨て子があると知らしてくれた人がありましたゆえ、もしやと思って駆けつけたのでござんす。ほんに憎らしいってたらありゃしない。だれが盗み出したやら――、ま! その子じゃ! その子じゃ! 下手人はそのきょうだいに相違ござんせぬ!"
],
[
"だれに断わって、ふざけたまねしゃがるんだ。よしんばこの小娘が子ぬすっとの下手人であろうと、うぬらにかってな吟味折檻させてたまるけえ。それがために、こうやって、できのいいおらがのだんなが、わざわざとお出ましになっているんじゃねえか。てめえの子どもを盗まれても知らねえような唐変木が出すぎたまねしやがると、この伝六様が承知しねえぞ",
"…………⁈",
"何をぱちくりやってるんだ。無傷で赤ん坊が手にけえりゃ文句はねえはずだから、とっとと抱いてうしゃがれッ。まごまごしてりゃ、おらがはあんまりじょうずじゃねえが、だんなの草香流はききがいいぞ"
],
[
"あのとおり、みんなが騒いでじゃ。おじさんはけっしてしかりませぬゆえ、はよう何もかもいうてみい",
"…………",
"のう! なぜいわぬのじゃ。どうしてまた、よその赤ちゃんなぞをふたりも盗み出して、こんなところに捨てたのじゃ。――いうてみい! のう! はよう心配ごとをいうてみい!"
],
[
"はあてね。まさかに、唖じゃねえでしょうね",
"…………",
"え? だんな! どうしたんでしょうね。唖なら耳が聞こえねえはずだが、こっちのいうことはちゃんと通じているんだ。通じているのにものをいわねえとは、いったいどうしたんですかね。え? ちょいと!",
"…………",
"やりきれねえな。気味わるくおちついていねえで、なんとかおっしゃいませよ。下手人はこの小娘にちげえねえんだ。さっき目色を変えて飛び込んできやがったご新造たちの口うらから察してみても、あのふたりの太った赤ん坊を盗み出して捨て子にしたのは、たしかにこの小娘にちげえねえんですよ。ね! ちょっと! 黙ってちゃわからねえんだ。黙ってたんじゃ何もわからねえんだから、なんとかおっしゃいませよ"
],
[
"ちくしょうッ、気味のわりいところへ連れてくりゃがったね。扶桑教といや、ちんちんもがもがの行者じゃねえですか。べらぼうめ、もったいらしくしめなわなんぞ張りめぐらしゃがって、きっと子ぬすっとのにせ行者にちげえねえんだ。さ! 出てみせろ。ただじゃおかねえんだから、出てみせろッ",
"あわてるな! がんがんと声をたてて、逃げうせたらどうするんだ。役にもたたねえ十手なんぞ引っ込めてろッ"
],
[
"逃げるからにゃ、何かうしろぐれえことをしているんだろう。すっぱりいいな",
"へえい。なんともどうも――",
"なんともどうもが、どうしたというんだ。ただ震えているだけじゃわからねえよ",
"ごもっともさまでござります。まことになんともごもっともさまでござりまするが、いかほどおしかりなさいましても、てまえにだってどうもしようがござりませなんだゆえ、てだてに困り、つい盗み出せともったいらしく知恵をつけただけのことなのでござります。それが悪いとおっしゃいますなら、相談うけたてまえも災難でござりますゆえ、どのようなおしおきでもいただきまするでござります",
"ほう。これは少し妙なことになったようだな。やぶからぼうにおかしなことをいうが、てだてに困ってもったいらしく知恵をつけたとは、何がなんだよ"
],
[
"相談うけたてまえも災難だとは、いったいどんな相談うけたんだ",
"どんなといって――、では、なんでござりまするか、何もかもこの小娘からお聞きなすってお調べにお越しなすったんじゃないのでござりまするか",
"いかほどきいても口をあけずに、知りたくばこちらへ来いといわぬばかりでどんどん連れてきたから、何かいわくがあるだろうと乗り込んだまでなんだ。どんな入れ知恵つけたかしらねえが、人より少しよけい慈悲も情けも持ち合わせているおれのつもりだ。隠さずにいってみな",
"いや、そういうことなら、むだな隠しだていたしましても、三文の得になることではござりませぬゆえ、申す段ではござりませぬ。まことに面目のないしだいでござりまするが、この子たちの嘆きをまのあたり見聞きいたしまして、いかにもふびんでなりませなんだゆえ、老いぼれの身にくふうもつかず、子を捨てろと教えたのでござります。と申しただけではおわかりでござりますまいが、まことにこの子たちほどかわいそうな者はござりませぬ。住まいはつい向こう横町の裏店でござりまするが、働き盛りの父御がこの春ぽっくりと他界いたしましてからというもの、見る目もきのどくなほどのご逼塞でござりましてな、器量よしのまだ若い母御が残ってはおりますというものの、女手ひとりではどんなに器量ばかりよろしゅうござりましたとて、天からお米のなる木が降ってくるはずもなし、二つになったばかりのその子のような赤子があるうえに、としはもいかぬこんなきょうだいふたりまでもかかえて、なに一つ身に商売のない女ふぜいが、その日その日を楽々と送っていかれるわけのものではござりませぬ。それゆえ、とうとうせっぱつまってのことでござりましょう。日ごろはただの一度行き来したことのない親類じゃが、なんでも板橋の宿の先とやらに遠い身寄りの者がひとりあるから、そこへ金策にいってくるとか申しましてな、赤子をその姉娘にあずけ、子どもたちばかり三人を残しておいて、十日ほどまえのかれこれもう四ツ近い夜ふけに、母親がたったひとりで、ふらふらと出かけていったのでござりますよ。ところが――",
"待てッ、待てッ、ちょっと待てッ",
"は……?",
"ちとおかしいな",
"何がおかしいのでござります",
"ここから板橋の先までといえば、一里や二里ではきかぬ道のりじゃ。にもかかわらず、女ひとりが四ツ近いというようなそんな夜ふけの刻限に、それもがんぜない子どもばかりを残してふらふらと出かけたというは、ちと不審じゃな",
"そうでござります、そうでござります。じつは、てまえどももそれを不思議に思っておりましたところ、どうもあとの様子がいかにもふにおちないのでござりまするよ。その晩出ていったきり、たよりはおろか、もうきょうで十日にもなるのに、なんの音さたもござりませんのでな、町内の者もいろいろと心配いたしまして、子どもに板橋とやらの親類先をきいたところ、そんなところはいっこうに聞いたことも、聞かされたこともないというてらちは明かぬし、二日三日のおまんまを恵む者はあっても、七日十日とそうそう長い間あかの他人のめんどうをみる者はござりませぬ。それゆえ、とうとう子ども心に思い余ったのでござりましょう。その子がきのうの朝とつぜんてまえをたずねてきたのでござります。それもただ来たのではござりませぬ。おじいさんは神さまに仕える行者ゆえ、人の目に見えぬことでも見通しがつくはずじゃ。母はどこにいるか、どうしたら帰ってくるか、神さまとご相談して早く呼びよせてくれと、こんなに申しながら、泣きなき訴えたのでござります。なれども、お恥ずかしいことながら、てまえとてただの人間、千里万里先のことまでもわかるはずはござりませぬゆえ、ふびんと思いながらも、てだてに困りまして、いろいろと考えましたところ、もしやと思いついたのでござります。かわいい子どもをのこして自分だけ身をかくすなんてことはめったにある道理はござりませぬが、広い世間には鬼親もないわけではござりませぬ。ひょっとしたら、あの器量よしの若後家も、おまんまいただけぬつらさから、ついふらふらと心に魔がさし、子どもたちを置き去りにして、自分だけどこかへ姿を隠したのではなかろうかと存じましたのでな。いっそ思いきって、日本橋か浅草か、人通りのしげい町中へ子を捨ててみろと、入れ知恵したのでござります",
"異なことを申すな。人通りのはげしい町中へ捨て子をしたら、なんのまじないになるのじゃ",
"べつになんのまじないになるのでもござりませぬが、人出のしげいところへ捨て子をしておけば、それだけよけいひと目にかかり、それだけよけい評判も高まる道理。伝わり伝わって、捨て子のうわさが江戸のどこかに隠れている母親の耳にはいりましたら、よし一度は思いあまって邪慳な心となった鬼親でござりましょうとも、やはり真底は子どもがかわいいに相違ござりませぬゆえ、もしや置き去りにしたわが子が捨てられたのではなかろうかと、うしろ髪引かれて姿を見せぬものでもあるまいと思うたからでござります。何をいうにも行き先はわからず、居どころ隠れどころもわからぬ人を呼び返そうというのでござりますゆえ、そんなことでもするよりほかに、この老いぼれにはよいくふうがつきませなんだのでござります",
"いかさまな。見かけによらず、なかなかの軍師じゃ。しかし、それにしても、よそさまの子どもまで盗み出して捨てさせるとはどうしたわけじゃ",
"ごもっともでござります。そのおしかりはまことにごもっともでござりまするが、ひとりよりはふたり、ふたりよりは三人と、数多く捨て子をさせましたならば、それだけうわさも高まりましょうし、高まればしたがって母ごの耳にも早く伝わるじゃろうと存じましたゆえ、悪いこととは知りながら、その姉娘に入れ知恵つけて、似通うた年ごろの子を見つけさせ、こっそり盗み出させたのでござります。それもこれも、みなこの娘たちがふびんと思えばこそのこと、お目こぼし願えますればしあわせにござります",
"なるほどな。ひとのだいじな宝を盗ませて世間を騒がした罪は憎むべきじゃが、かわいそうなこのきょうだいの嘆きを救おうためのこととあらば深くはとがめまい。しかし――",
"なんでござります",
"これはなんじゃ。この畳紙をぞうりの中にはさんでおいたは、なんのいたずらじゃ",
"それはその――",
"それはその、どうしたというのじゃ",
"なんともはや面目ござりませぬ。かようなことを申しましたら、さぞかしお笑いでござりましょうが、相手は子どものことゆえ、なんぞもったいつけねば納得いくまいと存じまして、ぞうりは足にはくものであることから思いつき、母ごの行くえにも早く足がついて居どころがわかりますようにと、しかつめらしく畳御幣をはさんで、まくらにさせるよういいつけたのでござります",
"ちぇッ、なんでえ、なんでえ! 子どもだましにもほどがあらあ。おいら、なんのまじないだろうと、どのくれえ首をひねったかわからねえじゃねえか。みろ。おかげでこんなに肩が凝りやがった。これからもあるこったから気をつけな"
],
[
"じゃ、もう聞くことはあるまい。そろそろあごをなでなくちゃならなくなったようだ。あにい、代わってその赤子を抱いてやんな",
"え……?",
"器量よしの若い後家さんが、夜ふけにひとりでどこの板橋へ金策にいったか、その眼をつけに行くんだから、赤子を代わって抱いて、おとなしくついてこいといってるんだよ。――ねえや、このおじさんは行者じゃねえが、千里も万里も先が見える目玉が二つあるからな。きっと母の居どころを見つけてやるぞ。泣かいでもいい、泣かいでもいい。もう泣かいでもいいから、おまえのうちへ連れていきな"
],
[
"おどろいたね。いくら貧乏しても、こんなあばら屋ってえものはねえですよ。もののたとえにも、日本橋といや土一升金一升というくれえのもんだが、目と鼻のその日本橋近くにこのあばら屋は、なんですかよ。おら、承知ができねえんだ。え? ちょいと、だんな! だれがいってえこんなに貧乏にしやがったんですかい。ね、ちょいと! え? だんな?",
"…………",
"へへえね。こいつあおどろいた。生意気に押し入れがついておると思ったら、何もねえんですよ。ふとん一枚ねえんですよ。もう十日もたちゃ霜が降りようってえいうこの薄寒い秋口に、毎晩毎晩何を着て寝ていたんでしょうね。え? ちょいと。ね、だんな!"
],
[
"ウフフフ。とんだ福の神だ。ちっと手間がかかりそうだと思ったが、このあんばいじゃぞうさなくかたがつきそうだよ",
"ありがてえ。どこです! どこです! え? ちょいと。どこに眼のネタがあるんですかい",
"この米びつの上に祭ってあるご神体をよくみろよ",
"ふえッ、気味のわるい! こ、こりゃ亡者の七つ道具じゃねえですかよ。こんな卒塔婆がどうしたというんです。こんなものを祭っておきゃ、なにがどうしたというんですかよ",
"しようのねえやつだな。ご番所勤めをする者が、このくれえなことを知らねえでどうするんだ。真夜中にこいつを新墓から折り取ってきて祭っておきゃ、さいころの目が思うとおりに出るとかいうんで、昔からばくちうちがよくやる縁起物だよ。どうかひとあたり当たって、この米びつにざくざくお米がたまるようにと、こんなところに祭っておいたにちげえねえんだ。――ねえや! のう、ねえや?"
],
[
"もう何も隠しちゃいけねえぞ。こりゃだれが祭ったんだ。まさかに、おまえのいたずらじゃあるめえと思うが、だれがこんな気味のわるいものを祭ったんだ",
"…………",
"え?――隠さずにいってみな。手間をとりゃ、それだけかあやんを見つけ出すのが遅れるんだからな、早くいってみな。きっと、おまえのかあやんが祭ったものと思うが、違うか、どうだ",
"あい、あの……いったら、かあやんがこわいめに会うだろう思って隠しておりましたんですけれど、早く見つけてくださるというんなら申します。やっぱり、あの、かあやんが祭ったのでござります",
"ほほう、そうか。子ども心にも何かよくないことと思うて、今までかあやんのこともなにもいわずにいたんだな。悪いことを隠すのはよくないことだが、親のふためになることをいわずにいたなあ、なかなか賢いや。おそらく、出かけていくまえにこれを祭ったんだろうな",
"あい。あの、まえの晩おそくに、どこかからこれを持ってきて祭っておいてから、青い顔して出ていかんした。でも、あの……、でも……"
],
[
"ほほう。これを焼いて、おまんま代わりに食べていたんだな",
"…………",
"え? ねえや! そうだろう。このぬかを、だんごに丸めて焼いて食べていたのだろうな",
"あい……なんにも食べるものがないので、あの……あの……",
"よいよい。泣くな、泣くな。泣かいでもいいよ。ぬかを食べるとは、かわいそうにな……"
],
[
"はあてね。またなぞなぞの判字物が出りゃがった。なんてまあ、きょうはおればっかりにいやがらせをしやがるんでしょうね。え? ちょいと!",
"…………",
"ね! だんな! かなわねえな。三世をかけた主従なんだ。だんなの苦労はおらの苦労、おらの災難はだんなの災難なんだから、仲よくいっしょになって心配しておくんなせえよ。え? ちょいと! ちゃんとした名まえがあるのに、わざとこんな人泣かせをしなくたってもいいじゃござんせんか。この目はなんですかよ。三つの輪丸は、なんのまじねえですかよ"
],
[
"正直にいわなくちゃいけねえぜ。この豆本も、おっかあがここへ隠したんだろうな",
"…………",
"え? だいじない。だいじない。しかりゃしねえから、隠さずにいわなくちゃいけないよ。のう! そうだろう。おっかあがしまっておいて行ったんだろうな",
"あい、あの、そうでござります、そうでござります。出かけるまえにいっしょうけんめいこのご本を習っておいて、だれにもいうなといっておいてから出かけましてござります",
"そんなことだろう。見りゃ押し入れに夜着もふとんもねえようだが、出かけるまえにそれを売っ払ってお金をこしらえてから行ったんじゃねえのかい",
"あい、そのとおりでござります。お宝ができたら、それでお米を買ってくださればいいと思いましたのに、しっかり帯の中にはさんで出ていかんした。それゆえ……それゆえ……",
"泣かいでもいい! 泣かいでもいい! もうおっかあの行く先ゃわかったから、心配せんでもいいよ。――さ! あにい! 何をまごまごしているんだ。駕籠先ゃ本所の一つ目だよ",
"フェ……?",
"なにをぱちくりやってるんだよ。こんなたわいもねえなぞなぞがわからなくてどうするんだ。本所の下に目が一つありゃ、本所一つ目じゃねえか。その下に輪が三つありゃ三つ輪だよ。本所一つ目に三つ輪のお絹ってえいう女ばくちのいんちき師があるのは、おめえだっても知っているはずじゃねえか。ふとんを売っ払って金をつくって、このいんちきばくちの勝ち抜き秘伝書をとっくり覚え込んでから、千葉のおしろうとだんなをむくどりにしようと出かけていったにちげえねえんだ。はええところ二丁用意しな!",
"ちくしょうッ。なんでえ、なんでえ。そんならそうと、ひと筆けえておきゃいいじゃねえですか。首をひねらせるにもほどがあらあ。べらぼうめ、女だてらにばくちをうつとは、何がなんでえ。べっぴんだったら大目に見てもやるが、おかめづらしていたら承知しねえぞ"
],
[
"さ! うちを捜すなおめえの役だ。はええところ三つ輪のお絹がとぐろ巻いている穴を捜し出しな",
"ここだ、ここだ。駕籠を止めたこの家ですよ。家捜し穴捜しとなりゃ、伝六様も日本一なんだからね。おおかたここらあたりだろうと、鼻でかいでやって来たんだ。さ! 乗り込みなせえよ"
],
[
"ほほう、あれだな",
"え? あの物置き小屋がどうしたんですかい",
"いくらばくちはお上がお目こぼしのいたずらだっても、うちの表べやでやっちゃいねえんだ。あの物置き小屋がいんちきばくちの開帳場にちげえねえから、しりごみしていずと乗り込みな"
],
[
"騒々しいね。せっかく楽しみのところへ、どなたに断わってはいりましたえ。少しばかり男ぶりがいいったって、目のくらむあっしじゃござんせんよ",
"ウフフフフ。やすでの啖呵をおきりだな"
],
[
"おたげえ色恋がしたくて、こんなところをまごまごしているんじゃねえんだ。見そこなっちゃいけねえぜ。本所の一つ目にゃ目が一つしかねえかもしれねえが、むっつりの右門にゃできのいいやつが二つそろってるんだ。油っけのぬけたやつが、女衒みてえなまねしやがって、何するんでえ。来年あたりゃ西国順礼にでも出たくなる年ごろじゃねえかよ。はええところ恐れ入りな",
"おいいですね。油けがぬけていようといなかろうと、大きなお世話ですよ。恐れ入ろとはなんでござんす。何を恐れ入るんでござんすかえ",
"へへえ。まだしらをきるな。むっつり右門の責め手も風しだいだ。凪とくりゃ凪のように、荒れもようとくりゃ荒れもようのように、三十六反ひと帆に張れる知恵船があるんだ。四の五のいや草香流も飛んでいくぜ",
"いえ、わたしが……わたしが何もかも代わって申します"
],
[
"何から申してよいやら、まことに面目しだいもござりませぬ。ここまでお越しなさりましたからには、おおかたもう何もかもお察しでござりましょうが、女だてらにだいそれたさいころいじりをやって、お米の代なりとかせがせていただこうとしたのがまちがいのもとでござりました。それもなんと申してよいやら、人取りの蛇人に取られたとでも申しますのか、こちらのお絹さまは少しも知らないおかたでござんしたなれど、貧には代えられませぬゆえ、せっぱつまって人のうわさをたよりにご相談に上がりましたら、近いうちに千葉のほうからお金持ちのおだんなさまが参るはずゆえ、そのおりいかさまころでも使ってもうけたらよいと、たいへんご親切そうにおっしゃってくださったのでござります。それゆえ、わるいこととは知りながら、秘伝書をたよりに夜の目も眠らず、つぼいじりを覚えこみ、これならと思って夜具ふとんまでも売ってこしらえたお鳥目を元手にやって参りましたところ、もともとがしろうとの悲しさ、かえってお絹さんたちのいんちきにかかりまして、だんだんと借金がかさむうちに――",
"お黙り! お黙り! めったなことをおいいでないよ! かえってお絹さんたちのいんちきにかかったとは、どこを押すとそんな音がお出だね。ありもしないことを泣き訴訟すると承知しないよ"
],
[
"よし、もうあとはわかった。かえってお絹たちのいんちきにかかり、だんだん借金がかさむうちに、金で払うことができねばからだで払えとでもいって、このろくでもねえいなかひひおやじと、そっちの四十ばばあの女衒とふたりが、きょうまでおめえさんをここへ閉じこめて、毎日毎日責め折檻していたんだろう。どうだ。ずぼしは当たったはずだが、違うか、どうだ",
"あい、お恥ずかしいことながら、そのとおりでござります。心の迷いで、ついふらふらとばくちなぞに手は染めましたなれど、まだわたしは女の操までも人に売るはした女ではござりませぬ。それゆえ、逃げよう逃げようと存じましてずいぶんと争いましたなれど、借金のあるうちはこっちのからだだとおふたりさまが申しまして、いっかな帰しませぬゆえ、子どもたちのことを案じながらも、つい今までどうすることもできずにいたのでござります",
"バカ野郎ッ。やい、いなかのひひじじいのバカ野郎ッ"
],
[
"そっちのお絹のあまも同罪だ。きっとこりゃひひじじいと相談して、まんまとここへおびきよせてから、いんちきばくちのわなにしかけ、若後家のおかみさんをものにしようとしたにちげえねえからね。はめ込み女衒のだまし罪ゃ入牢と決まってるんだ。ついでにふたり、伝馬町へ涼ましに送りますぜ",
"よろしい。手配しろ"
],
[
"おまえ、へそくりを三両持っていたね",
"へえ……?",
"とぼけるな。ゆうべおまんまごしらえをしながら、ひとりごとをいってたじゃねえかよ。へそくりが三両たまったんだが、どうすべえかな。くれてやる女の子はなし、善光寺参りに行くにゃまだちっと年がわけえし、何に使ったものかなと、しきりに気をやんでいたが、今も持っているだろうな",
"ちぇッ。なんてまあ、だんなの耳ゃ妙ちくりんな耳でしょうね。聞いてもらいてえことはちっとも聞こえねえで、聞かなくともいいことはやけに耳ざとく聞こえるんだからね。三両へそくりがあったら、どうしたというんですかい",
"ここへみんな出しな",
"へえ……?",
"出しゃいいんだ。そんなに心配するほど使いみちがなけりゃ、おいらが始末してやるよ"
],
[
"子どもがかわいそうだから、ふたりの志だ。どんなに貧乏しようとも、まっとうな世渡りするほどりっぱなことはねえ。これからけっしてさいころいじりなんぞに手出ししちゃいけませんぜ。十三両ありゃ、一年や二年寝ていても暮らせるが、働くこうべに神宿るだ。これを元手に、何か小商いでもやって、子どもたちにうまいおまんまを腹いっぺえたべさせておやりなせえよ",
"えれえ。ちくしょう。どう考えても、だんなはおらよりちっとえれえね。三両のへそくりをここへ使うたあ気に入った。めんどうくせえから、みんなはたいてやらあ。ね、ほら、まだ小粒銀が六つ七つと、穴あき銭が二、三枚ありますよ。けえりにあんころもちでも大福もちでもたんと買ってね、子どもたちのその落ちくぼんだ目玉をもとどおりに直させておやんなせえましな。へえ、さようなら――"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年5月23日公開
2005年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000590",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "25 卒塔婆を祭った米びつ",
"副題読み": "25 そとばをまつったこめびつ",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"なんだよ! 気に入らねえやつだな。朝っぱらから庭先でへへへというやつがあるかい!",
"へへへ。いえ、なにね、なんしろまだめでてえんだ。笑う門には福きたるってえいうからね。めでてえお正月そうそうにがみがみやっちゃいけめえと思って、ちょっと笑ったんですよ。――ところで、大忙しなんだ。ね! ちょっと! じれってえな! むかっ腹がたってくるじゃござんせんか! 起きりゃいいんだ。はええところ起きて、とっととしたくすりゃいいんですよ!"
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"しゃくにさわるな! ね! ちょっと! あな(事件)なんだ! あななんだ! あごなんぞなでてやにさがっている場合じゃねえんですよ! 江戸八百八町のべたらにね――",
"ウフフ……",
"ウフフたア何がなんです! 人がいっしょうけんめいとほねをおってしゃべっているのに、笑うこたアねえじゃござんせんか。江戸八百八町、のべたらにね――",
"あきれたやつだよ",
"え……?",
"おめえみたいな変わり種もたくさんねえといってるんだ。大きな福の神のような顔をしてきた親方が、もうがらがらと鳴りだして、なんのまねかい。毒気をぬかれて、ものもいえねえやな",
"いらぬお世話ですよ! おいらだっても生き物なんだからね。笑うときだっても、泣くときだってもあるんだ。江戸八百八町、のべたらにね――",
"のべたらに何がどうしたというんだ",
"駕籠なんですよ。つじ駕籠なんだ。それもからっ駕籠がね、町じゅうのべたらに乗り捨ててあるんですよ。いえ、なに、こんなこたアなにもいまさらかれこれといやみったらしくいいたかねえんですがね、いってえ、あっしゃだんなのそのこたついじりが気に食わねえんだ。正月といやだれだっても気が浮きたって、じっとしちゃいられねえんだからね。せめて松の内ぐれえは、もっと生きのいいところを見せりゃいいのに。隠居じみたそのかっこうは、いったいなんのざまですかよ! だから、ついくやしくなって、けさ早くふらふらと江戸見物にいったんですよ",
"バカだな",
"え……?",
"ひとりでいいこころもちになりやがって、なんの話をしているんだ。駕籠はどうしたよ。町じゅうのべたらに乗り捨ててあったとかいう、からっ駕籠の話はどうなったんだ",
"だから、今その話をしているんじゃござんせんか。へびにだっても頭としっぽがあるんだ。しっぽだけ話したんじゃわからねえからね、江戸っ子のあっしともあろう者が、なんのために江戸見物に出かけたか、それをいま話しているんですよ。だんなを前にしてりこうぶるようだが、ことしゃ午の年なんだ。午年ゃ景気がぴんぴんはねるというからね、さぞやおひざもともたいした景気だろうと思って、起きぬけに、ちょッくらとばかりないしょでいってみるてえと、――これがどうです。だんなは驚きませんか!",
"変なやつだな。何もいわずに驚けといったって、驚きようがねえじゃねえかよ",
"そこをなんとかして、うそにも驚いた顔をしなせえといってるんだ。いいえ、なにね、まず景気を見るなら江戸は日本橋宿初め、五十三次も日本橋がふり出しだから景気もまたあそこがよかろうと思って、のこのこいってみるてえと、これがどうです。やっぱり江戸っ子は何べんお正月を迎えても物見だけえんですよ。橋の上いっぱいに人だかりがして、わいわいやっているからね。なんだと思ってのぞいてみるてえと、駕籠があるんだ、からっ駕籠がね",
"つがもねえ。ご繁盛第一の日本橋なんだもの、から駕籠の一つや二つ忘れてあったって、べつに珍しくもおかしくもねえじゃねえかよ",
"ところが、そうでねえんだ。その置き方ってえものがただの置き方じゃねえんですよ。つじ駕籠はつじ駕籠なんだが、いま人が乗ったばかりと思うようなから駕籠がね、橋のまんなかにこうぬうと置いてあるんですよ。むろん、人足はいねえんだ。どこへうしゃがったか、ひとりも駕籠かきどもはいねえうえにね、わいわいいっているやじうまどもの話を聞いてみるてえと、どうやらただごとじゃねえらしいんですよ。同じような気味のわるいから駕籠が、須田町のまんなかにもぽつんと置いてあるというんだ。それからまた湯島の下のがけっぱなにもね、その先の水戸さまのお屋敷めえにもぽつねんと置き忘れてあるというんでね。さてこそあなだ、こいつただごとじゃあるめえと、さっそく通し駕籠をきばってひと走りにいってみたら、やっぱり話のとおり、須田町の町のまんなかにぽつりと置いてあるんですよ。湯島の下にもね。それから水戸さまのお屋敷前の濠ばたにも、気味わるくぽつりと置いてあるんだ。そのうえなお先にもぽつりぽつりと同じようなのが置いてあるというんでね、さっそく捜しさがし行ってみるてえと、なるほどあるんですよ。牛込ご門の前のところにやはり一丁、それからぐるっと濠を回って、四ツ谷ご門のめえにも同じく一丁、あれからしばらくとだえているんで、もうそれっきりどこにもあるめえと思ったら、土橋ご門の前の向こうかどにやっぱり一丁置いてあるんですよ。それから先はもうどっちへ行っても、捜してみても人にきいても見つからねえのでね、やれやれと思ってさっそくお知らせに飛んできたんですが、いずれにしても、こいつただごとじゃねえですぜ。駕籠はからっぽであっても、人足がついておったら、ぽつりぽつりとどこにいくつ置いてあってもいっこうに不思議はねえが、乗り手もかつぎ手もまるで人っけのねえ気味のわるいから駕籠ばかりがひょくりひょくりと、それもよく考えてみりゃお城のまわりなんだ。日本橋から土橋までぐるりと大きく回って、なぞなぞみてえに置いてあるんだからね。こいつあどうしたって穏やかじゃねえですよ",
"いかさまな。何かいわくのありそうな捨て駕籠のようだが、それにしても触れ込みよりゃちっと駕籠の数が少なかったな",
"へ……?",
"へじゃないよ。さっきのお話じゃ、江戸八百八町、のべたらにあるようなことをおっしゃったはずだが、たった七丁だね",
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"ウフフ。しようがねえな、つまらねえところで、けんかを売るなよ、けんかをな。気に入るにも入らねえにも、七丁なら七丁でいっこうさしつかえはねえが、七丁のそのから駕籠ってえのは、いったい、どっちを向いているんだよ",
"フェ……?",
"とんきょうな返事をするなよ。日本橋から始まってるか、土橋から始まっているか知らねえが、七つのそのから駕籠はちぐはぐに向いているか、それとも一つ方角に向いているか、それを聞いているんだ。いってえどっちを向いているんだよ",
"ちぇッ、何をとち狂ったことおっしゃるんですかい! ばかばかしいにもほどがあらあ。だから、あっしゃときどき、だんなながらあいそのつきることがあるんですよ。駕籠に目鼻や似顔絵がけえてあるんじゃあるめえし、どっちを向くもこっちを向くもねえんだ。前へ向いていると思や前へ向いているし、うしろへ向いていると思やうしろへ向いているんですよ",
"ウフフ。ことしでおまえさんいくつにおなりだか知らねえが、いつまでたってもあんまりおりこうにゃならないね。目鼻こそついちゃいねえが、駕籠にはちゃんと前うしろというものがきまってるんだ。乗ったお客のよっかかりぶとんがついているほうがすなわちうしろ、息綱のぶらさがっているほうがすなわち前と相場がきまってるんだ。どうだい、あにい、それでも前うしろがねえのかい",
"ちげえねえ! あいかわらず知恵がこまけえね。だんなもことしでいくつにおなりだか知らねえが、いつまでたっても知恵にさびの浮いてこねえのは豪儀ですよ。そういえば、なるほどそのとおりなんだが、はてね? ええと、どっちへ向いていたっけな? ええと、待てよ。――いや、思い出しました、思い出しました。まさに判然と、いま思い出しましたよ。日本橋の駕籠はたしかに須田町のほうへ向いてましたぜ",
"須田町の駕籠は?",
"まさしく湯島のほうへ向いてましたよ",
"湯島のやつは?",
"水戸さまのお屋敷のほうに向いてやしたよ",
"水戸家の前の駕籠は?",
"牛込ご門のほうです",
"そこにあったやつは?",
"四ツ谷のほうに向いてましたよ",
"四ツ谷の駕籠は?",
"土橋のほうへ向いてるんです",
"土橋のは?",
"そいつが気に入らねえんだ。ついでのことに日本橋のほうへ向いてりゃいいものを、ちくしょうめ、何を勘ちげえしたか、品川から富士山のほうへ向いていやがるんですよ",
"ウフフ、そうかい。そうするてえと――",
"そうするてえと、どうしたというんですかい",
"たよりのねえやつだな。どうしたんですかいとはまた、なんてぼんやりしているんだよ。駕籠の向きをしちっくどく聞いてみたのは、ひとりだか七人だか知らねえが、七つの捨て駕籠の乗り手がどこから先に捨てはじめて、どこで捨て終わっているか、それを探ってみたんだ。けっきょく方角をたどっていったら、ぐるりと大きくお城を回って、どれも申し合わせたように土橋のほうへ向いているとすると、ふり出しは日本橋、上がりはすなわち土橋ご門と決まったよ。正月そうそう、どうやらおつりきなあなのようだ。したくしなッ",
"ちぇッ。たまらねえことになりやがったね。さあ、忙しいぞ! さあ、忙しいぞ! ちくしょうめ! うれしすぎて目がくらみゃがった。ええと、何から先にしたらいいのかな。駕籠ですかい! おひろいですかい! 雪駄ですかい! お羽織ですかい! ね! ちょっと! かなわねえな。やけに黙って、どこへ行くんですかよ。――ね! ちょっと! なんとかおっしゃいましよ!"
],
[
"やりきれねえな。これだから何年いっしょにいても、だんなにばかりは芯からは気が許せねえんだ。きげんのいいときゃ、やけに朗らかにしゃべるくせに、むっつりしだしたとなると、べっぴんがしなだれかかっても、からきし感じねえんだからな。ね! ちょっと! ちょっと! どこへ行くんですかよ。ひとりの野郎が乗り捨てたんだか、七人の野郎が乗り捨てたんだか知らねえが、すごろくにしたってもふり出しから始めなきゃ上がりにならねえんだ。ことに、だいいち――",
"うるさいよ",
"いいえ、うるさかねえんですよ! だんなは何を気どって、お黙りなすっていらっしゃるか知らねえが、あっしにゃだいいち、駕籠かきどもの行くえが気になってならねえんだ。ひょっとすると、ばっさりやって乗り逃げしたかもしれねえんだからね。それに、どこからあの駕籠が迷ってきたか、出どころの見当をつけるにしても日本橋へ行くのが事の先なんですよ。――ね! ちょっと!",
"…………",
"ちょっとてたら! だんな! 聞こえねえんですかい!",
"うるせえな。からめ手詮議は右門流十八番の自慢の手なんだ。はしごを上っていくんじゃあるめえし、一丁一丁ごていねいに調べなくとも、どうせしまいは土橋へ来ておちつくんだ、おちつくものなら、最終の一つをこのおいらのできのいい目玉でぴかぴかとのぞいてみりゃ、七駕籠ひとにらみにたちまちすっと溜飲の下がるような眼がつくよ。ろくでもねえことをべちゃくちゃとやる暇があったら、晩のお総菜の才覚でもしておきな",
"いいえ、そりゃいたしますがね。来いとおっしゃりゃ、土橋へだろうと、石橋へだろうとついてもいくし、お総菜もたんまりとくふうする段じゃねえが、行ってみたところでしようがねえんだ。から駕籠がしょんぼりと品川のほうへ向いているきりで、人ひとり、人足一匹いるわけじゃねえんだからね。いねえものを、――おやッ。ちくしょうッ。おかしいぞ!"
],
[
"ほほう。なるほど、妙なやつががんくびを並べているね。そろそろと本筋になってきたかな。疑うようだが、たしかにさっき来たときにゃ、あの連中もだれも人影は見えなかったのかい",
"いねえんですよ! いなかったんですよ! だからこそ、化け駕籠だといってるんだ。きのこにしたっても、そうぞうさなくにょきにょきとはえるわけじゃねんだからね。野郎ども、くせえですぜ",
"ウフフ、さてのう。蛇が出るか、へびが出るか、ともかくも、お駕籠拝見と出かけるかな"
],
[
"うすみっともねえつらしているじゃねえかよ。まるで、伸びたうどんみてえじゃねえか。近ごろそんなつらは、あんまり江戸ではやらねえぜ。え! おい、大将、まさかに、おまえさん、おいらがだれだか知らねえわけじゃあるめえね",
"…………",
"何をきょとんとした顔しているんだ。おいらがだれだか知らねえわけじゃあるめえねといってきいてるんだよ。え! おい! 奴の大将。この巻き羽織を見ただけでも、おめえたちにはちっと苦手の八丁堀衆ってえことがわかるはずだ。黙っているのは知らねえのかい",
"フフン"
],
[
"巻き羽織がどうしたとおっしゃるんです! いいや、やにわと権柄ずくに、おかしなことをおっしゃいますが、あんたの名まえとやらをあっしが知らねえといったらどうなさるんです",
"ほほう、陰にこもって、からまったことをいうね。知らねえというなら知らねえでもさしつかえねえが、おいら、むだ手間取ることがおきらいなたちなんだからね、そういうことなら、すっぱり名のろうじゃねえか。むっつりの右門ってえいうな、おいらのことだよ",
"…………!"
],
[
"ウフフ、むっつりの右門ときいて目をぱちくりやったところをみると、おいらのあだ名もいくらか効能があるとみえるね。ききめがあるならあるで、なおさいわいだ。お互いこういうことははええがいいんだからね。隠さずに、なにもかもすっぱりいいな。詮議に来たんだ。どういう了見から七ところも捨て駕籠をやって、お正月そうそうお公方さまのお住まい近くを騒がせやがったか、その詮議に来たんだからね。この駕籠の中にある七つのおかしな橙もまた、なんのまねだか白状すりゃいいんだ。え! おい! 大将。江戸っ子らしく、あっさりとどろを吐きなよ",
"…………",
"じれってえね。また黙り込んだところをみると、せっかく名のったむっつり右門の名まえもききめがねえというのかい。七味とうがらしにしたっても、おいらの名まえのようなききのいい薬味はねえはずだ。きかなきゃきくように、ぴりっとしたところを混ぜてやるぜ",
"ところが、なんと啖呵をきられてもしかたがねえんですよ。やった本人のあっしにせえも、何がなんだかさっぱりわからねえんだからね。白状しようにも、どろを吐くにも、吐くどろがねえんです",
"へへえ。こいつアまた妙なことをいうね。じゃ、なにかい、捨て駕籠をした本人は、たしかにおまえにまちがいねえというんだね",
"そうなんです。いかにもあっしが人騒がせをやった当人なんですが、当人でありながらさっぱり見当がつかねえんですよ",
"控えろッ。やった当人でありながら、なんのためか知らぬという法があるものかッ、大手責めの十八番、からめ手責めも十八番、知らぬ存ぜぬとしらをきるなら、責め手も合わせて三十六番、どろを吐かせる手品はいくつもあるぞッ",
"いいえ、なんとおしかりになっても、お答えのしようがねえんですよ。さるおかたから頼まれまして、この変な七つの飾り橙を、七日の朝の七ツ刻から始めて、七つの駕籠に乗せ、だれにもわからぬよう見とがめられぬように、お城のぐるりをこの土橋ご門まで運んでくれろとのことでごぜえましたゆえ、気味のわるいお頼みだなとは思いましたが、日ごろごひいきのお屋敷でごぜえますから、いわれるとおりにいたしましたところ、どう考えてもいっこうにがてんがいかねえんでごぜえます。こっそりと向こうの横町にかくれておって、このおかしな橙を受け取ってくださるとのお約束のその頼み手が、待てど暮らせどいまだに姿を見ませんので、じつは、ご覧のとおり、先ほどからぼんやりと思案していたんですよ",
"その頼み手は、どこのだれだッ",
"それは、その――",
"それはその、がどうしたんだよ! 頼み手があるというなら、それを聞きゃ用が足りるんだッ。日ごろごひいきのそのお屋敷とやらは、どこのどやつだッ",
"そいつばかりゃ、せっかくながら――",
"いえねえというのかッ",
"あっしも男達とか町奴とか人にかれこれいわれる江戸っ子、いうな、いいませぬと男に誓って頼まれたからにゃ、鉛の熱湯をつぎ込まれましても名は明かされませぬッ",
"な、な、なんだと! やい! ひょうろく玉!"
],
[
"な、な、何をぬかしゃがるんだッ。ふやけたつらアしやがって、江戸っ子がきいてあきれらあ! 品が違うんだッ、品がな! 熱湯つぎこまれてもいいませぬ、白状しませぬというつらは、そんなつらじゃねえや! おいらのようなこういう生きのいいお面が、正真正銘江戸っ子のお面なんだッ。のぼせたことをいわずと白状しろい! 吐きゃいいんだ! すっぱりどろを吐きなよ!",
"いいえ、申しませぬ! お気にさわったつらをしているかもしれませんが、このつらで引き受けたんじゃねえ、男と見込まれて頼まれたんだッ、割らぬといったら命にかけても口を割りませぬッ",
"ぬかしたなッ。ぬかさなきゃぬかせる手があるんだッ。ぴしりとこいつが飛んでいくぞッ"
],
[
"あいつを見ろよ。ね、ほら、変な物をいじくっている野郎がいるよ。あれをよく見ろな",
"なんです? どれです? あいつとはどれですかい",
"子分だよ。あの左に立っている子分の野郎が、目をつりあげやがって、出したり入れたり手のひらの上でさいころをいじくっているじゃねえかよ。上役人のおいらがお出ましになっているのもかまわねえで、はばかりもなくコロいじりをしているぐあいじゃ、よくよくあの三下奴め、あれが好物にちげえねえんだ。好きなものにゃ目がねえというからな、おめえ、うまいことあいつを誘い出して、じょうずに何かコロのにおいでもかがせてから、それとなくどろを吐かしてみなよ",
"なるほど、打ち出の小づちにちげえねえや。目もはええが、あとからあとからと知恵がふんだんにわき出すからかなわねえね。ようがす。カマをかけてどろを吐かせる段になると、これがまたおいらのおはこなんだからね。ちょっくら吐かしてめえりますから、どこかその辺の小陰にかくれて、あごでもなでていなせえよ"
],
[
"どうやら、つじうらは上吉らしいな。珍しく気がきいているようだが、橙までも持ってきて、ホシの眼はついたかい",
"大つき大つき! あっしだっても、たまにゃてがらをするときだってあるんだ。いえ、なにね、こうなりゃもう締めあげるにしても何をするにしても、このなぞなぞの七つ橙が大慈大悲の玉手箱なんだからと思って、ご持参あそばしたんですよ。さっそくあの野郎をさそい出して、うまいことカマをかけたらね――",
"手もなくどろを吐いたか!",
"大吐きですよ。お番所勤めをしている者がばくちをやるといっちゃ聞こえがわるいが、そこはそれ、お釈迦さまのおっしゃるうそも方便というやつさアね。あの三下奴をちょいと向こうかどまで連れていってね、どうでえ、わけえの、おいらもさいころは大好きなんだ。おめえがべらべらっとひと口しゃべりゃ、だんなばくちのいいカモばかりそろっているたまりべやを教えてやるが、どこのだれから親分が頼まれたのか、ないしょにしゃべっちまいなよと、いろけたっぷりににおわしたらね。えっへへ――",
"しゃべったのかい",
"みんごとしゃべったからこそ、えっへへ、おてがらだというんですよ。じつあ、あの町奴め、さかさねこの伝兵衛とかいう野郎でね。ねぐらがまた大笑いなことに、八丁堀とは目と鼻の日本橋馬喰町の大根河岸だとぬかしゃがるんだ。そこへ行きゃ、七つの駕籠かきどもが数珠つなぎになってころがっているはずだからね。野郎どもを締めあげりゃ、頼み手はいうまでもないこと、何もかもなぞなぞの正体がわかるというんですよ。どんなもんです。伝六様だっても、ときどきは味をやるんですよ",
"なるほど、味なてがらかもしれねえ。こうなりゃおまえさんまかせだ、橙を落とさねえようにして、はええところ伝兵衛とやらのねぐらへ案内してみな"
],
[
"ちくしょうめッ。ねこ伝の野郎、ふてえまねをしやがったね。べらべらしゃべられちゃならねえというんで、さるぐつわをかましておいたにちげえねんだ。ね! だんな! いいでやしょうね? なにもあっしがだんなをそでにするってえわけじゃねえんだが、あの三下奴を抱きこんでどろを吐かせたからこそ、ぞうさなくネタが上がることにもなったんだからね。このてがらの半分は、伝六様もおすそ分けにあずかりてえんだ。野郎どもはあっしが締めあげますぜ",
"いいとも、やってみな"
],
[
"ひょっとこみてえな野郎が来やがったなッ。どこのどやつだ! 名を名のれッ。どこから迷ってきやがったんだッ",
"なんだと! やい! ひょっとこみてえな野郎たアだれにいうんだッ。どなたさまにおっしゃるんだッ。つらで啖呵をきるんじゃねえ! この十手が啖呵をおきりあそばすんだ。あれを見ろッ、あそこの格子窓の向こうからのぞいていらっしゃるだんなの顔をみろッ。音に名だけえむっつり右門のだんなは、ああいうこくのあるお顔をしていらっしゃるんだッ。ひょっとこなぞとぬかしゃがって、気をつけろい! 一の子分の伝六様たアおいらだよ!",
"…………",
"…………"
],
[
"情けに刃向こうやいばはねえといってな、武蔵坊弁慶でせえも、ほろりとなりゃ形見に片そでを置いてくるんだ、伝六様はむだをいわねえ。な! ほら! このとおりさるぐつわをはずしてやらあ。知ってることはみんないいな",
"なんです? 何をいうんですかい",
"とぼけるねえ! 右門のだんなのせりふを請け売りするんじゃねえが、大手責めも十八番、からめ手責めも十八番、合わせて三十六番の責め手を持っていらっしゃるおいらだよ。すっぱりいやいいんだ。隠さずにすっぱり白状すりゃいいんだよ",
"わからねえおかただね。ぱんぱんと、ひとりでいいこころもちそうに啖呵をおきりのようですが、いってえ何を白状するんですかい",
"決まってるんだッ。どこのどやつに頼まれて、こんなろくでもねえ飾り橙をぐるぐると駕籠なんぞに乗せて持ちまわったか、それを白状すりゃいいんだよ",
"こいつアおどろいた。変な言いがかりはつけっこなしにしてもらいましょうぜ。どこのどやつに頼まれたんだとおっしゃいましたが、気味のわるい橙運びをわっちとらに頼んだのは、ここのうちのねこ伝親分ですよ",
"なにッ。なんだと! やい! もういっぺんいってみろ! 何がなんだと!",
"いえとおっしゃりゃなんべんでもいいますがね。運べといって頼んだのは、まさにまさしくここの親分なんですよ。わっちとらも駕籠かき渡世の人足になって、こんなおかしなめに出会ったのははじめてなんだ。日本橋から須田町まで最初に運んでいったのは、このひとつなわにくくされているあっしたちふたりですがね。景気よく小判を一枚投げ出してむやみとただ運べといったんで、正月そうそういいかせぎだとばかり、欲得ずくでなんの気なしに須田町まで飛ばしていったら、あそこに受け駕籠が一丁待ち構えておって、橙を何こうに移したかと思うといっしょに、ぽかぽかとこちらの子分衆にたたきのめされたあげくの果てが、ここへしょっぴかれて、このざまなんですよ。七駕籠七組みの兄弟がみんなその伝なんだ。文句があるなら、ねこ伝親分を締めあげなせえよ",
"ウフフフ。アハハハ。ウフウフアハハハ……"
],
[
"わはは。ウフフ。伝あにい、あっさりとやられたな、どうせおめえのやるこった。ちっとおおできすぎると思っておったら、案の定これだよ。ウフフ。アハハハハ。くやしかろうが、さっきの三下奴にみんごとやられたね",
"ちぇッ。何がおかしいんですかい! 笑いごっちゃねえんだ。しゃくにさわるね。笑いごっちゃねえんですよ!――やい! 野郎ッ。野郎たち!"
],
[
"やい! 野郎どもッ、人足たち! まさかに今いったことはうそじゃあるめえな!",
"ばかばかしい。たたかれて、のめされて、さんざんなめに会ったものが、うそなんぞいってなんの足しになりますかよ! うそだったら、十四人みんながくくされちゃおりませんよ",
"ちくしょうめッ。くやしいね。あの三下奴め、ぬうとしたつらアしてやがって、一杯はめりゃがったんだ。べらぼうめ。さかさねこだか曲がりねこだかしらねえが、ねこ伝ふぜいになめられてたまるけえ。おんなじ身内だ、ここにいる子分どもを締め上げりゃ、頼み手がわかるにちげえねえから、ね! だんな! やっつけますぜ! だまされたと思やくやしいんだッ。荒療治でぎゅうとしめあげますぜ! やい! げじげじのかぶとむし! 前へ出ろッ"
],
[
"袋があるんだ。知恵の実のざくざくはいった袋がな。荒療治荒責めはおいらの手じゃねえんだよ。七つの橙さえ手もとにありゃ、なんとかまた知恵袋の口が開かアね。ひとなでなでながら、ぴかぴかと眼をつけてやるから、気を直してついてきな",
"でも、くやしいね!",
"くやしかろうと思えばこそ、霊験あらたかなあごをなでてやるといってるんだ。もう用はねえ。十四人の人足たちゃなわじり切って、けえしてやんな。では、行くぜ。橙を落とすなよ。――身内のやつら、おやかましゅう"
],
[
"七つともに、この橙はみな落ち残りだな!",
"え! なんですかい。おっかねえくれえだな。ぴかりとひと光りひかったかと思うと、もうそれだからね。なんのことですかい",
"この七つの橙は、みんな落ち残りだといってるんだよ",
"はあてね。妙なことをおっしゃいましたが、その落ち残りとかいうのは、なんのことですかい",
"少なくとも四年か五年、どの橙も落ちずに木に残っていたひね橙ばかりだといってるんだ。この臍をみろ。一年成りの若実だったら、すんなりとしてもっと青々としておるが、臍がこのとおりしなびて節くれだっているのは、まさしく落ち残りの証拠だよ。ことによると――",
"ことによると、なんでござんす!",
"昔から橙は縁起かつぎのお飾りに使われている品だ。そのなかでも三年五年の落ち残りとなりゃ、ざらにある品じゃねえ。朝の七ツ刻から七つの駕籠に移し替えて、人目にかからぬよう持ち運んだとかぬかしておったが、数も七つ、刻も七ツ、駕籠も七つと気味のわりい七ずくめから察するに、どうやらこりゃただのいたずらじゃねえかもしれねえぜ。ましてや、持ちまわったところはご将軍さまのお住まいのお城のぐるりだ。凶か吉か何のおまじないか知らねえが、どっちにしてもただごとじゃねえぞ!",
"ちくしょうめッ。さあいけねえ! さあいけねえ! さあいけねえぞ! 容易ならんことになりゃがったね。さあいけねえぞ!"
],
[
"気に入らねえんだ。食い物だけに、あっしゃ橙なんぞをおまじないにしたことがしゃくにさわるんですよ! なんでしょうな! え! ちょっと! なんのおまじないでしょうね!",
"…………",
"じれってえな! そんなに思わせぶりをしねえで、すぱっといやアいいんだ、すぱっとね、こんなものを七つの駕籠で七ツ刻から持ちまわりゃ、なんのおまじないになるんですかい。ね! ちょっと! え? だんな!",
"騒々しいやつだね。黙ってろ。なんのおまじないかわからねえからこそ、こうしてじっと考え込んでいるじゃねえか。気味のわりい細工がしてあるかもしれねえ。中を改めてみるから、その三宝をちょっとこっちへ貸しな"
],
[
"ちくしょうッ。気味のわりいものが出やがったね。ぞおッとなりゃがった! なんです! なんです!",
"…………",
"え! だんな! 針じゃござんせんか! ミスヤのもめん針にしちゃ長すぎるし、畳針にしちゃ短すぎるし、なんです! なんです! いってえなんの針ですかい!"
],
[
"含み針だッ。たしかにこりゃ含み針だぜ!",
"え……?",
"一太刀、二槍、三鎖鎌、四には手裏剣、五に含み針と数え歌にもあるじゃねえか。口に含んでこれを一本急所に吹き込んだら、大の男も命をとられるというあの含み針だよ。しかも、こりゃまさしく山住流の含み針だ。三角にとがったこの先をみろ。村雨流、一伝流と含み針にもいろいろあるが、針の先の三角にとがっているのは山住流自慢のくふうだよ。ここまで眼がつきゃ、もうお手のものだ。そろそろと、伝六ッ――",
"ありがてえ! 駕籠ですかい! 駕籠ですかい! ざまあみろッ。だからいわねえこっちゃねえんだ。もぞりとひとなであごをなでりゃ、このとおりぱんぱんと眼がつくんだからね、景気よくぶっ飛ばすようにちょっくらと駕籠をめっけてめえりますから、お待ちなせえよ"
],
[
"どなたか早くお顔をお貸しくだせえまし! たいへんなことになったのでごぜえます! お早くだれかお顔をお貸しくだせえまし!",
"うるせえな! 何がどうしたというんだ。それどころじゃねえ、いま大忙しなんだよ。用があったら庭へ回りゃいいんだ。だれだよ! だれだよ! どこのどいつなんだ!",
"お騒がせいたしましてあいすみませぬ。では、ごめんなんし。そちらへ参ります。――さっきはどうも失礼。どこのどやつでもねえ、あそこでお目にかかったあっしでごぜえますよ"
],
[
"ちくしょうッ。うぬかッ、うぬかッ、さっきはよくもおいらをはめりゃあがったな! なんの用があってうしゃがったんだッ。まだだまし足りねえので、またのめのめと来やがったか!",
"冗、冗、冗談じゃござんせんよ! さっきはさっき、今は今なんでごぜえます。じつあ、親分が、あの親分がね、死んだんです! 殺されたんです! 突然と変な死に方をしちまったんですよ!",
"なにッ。え、そりゃほんとうかい! ほんとうかい! いつ、どこで、どんな死に方しやがったんだ",
"うちなんです! 大根河岸のあのうちなんですがね。だんなたちと別れてうちへけえってくるとまもなく、庭先からだれか呼ぶ声がありましたんでね、なにげなく親分が縁側まで出ていったと思ったら、もうどたりとひっくりけえちまったんですよ。なんしろ、死に方が尋常じゃねえからね、さっきはさっき、今は今と大急ぎにだんなたちのところへお知らせに飛んでめえったんです",
"ちくしょうめッ、さあことだッ。さあことだッ。またややこしいことになりやがったですぜ! だんな! だんな! どうするんですかい! え! だんな! どうなさるんですかい!",
"ウフフ、やったな。がんがん騒ぐなよ。雲行きが変われば変わったで、また手はあるんだ。筋書きどおりかもしれねえ。早く駕籠の用意しな"
],
[
"まさしく女だッ。飛んだお忘れものよ。含み針を入れてあった袋だぜ。ね、おい、伝あにい。下手人は女と決まったぞ",
"そ、そう、そうですよ。そうなんですよ"
],
[
"おっしゃるとおり、たしかに女ですよ。やさしい声で、この木戸口のあたりから、もうし親分、あのもし親分さんえ、と、こんなに呼びましたんでね。ひょっくりとうちの親分がこの縁側まで出ていったと思ったら、ぱたりとのけぞる音がきこえたんですよ。だから、すぐに飛び出してみたんですが、声はあれども姿はなしというやつでね。もうそのときゃ、影も形もなかったんですよ",
"なんでえ、つがもねえ。それならそうと早くいやいいじゃねえかよ。女の声で呼んだことまでも知っているなら、どこのどやつかおおよそ見当がつくだろう。さっきはうまいことこちらのかわいいあにいに一杯食わせたようだが、今度の相手はちっと役者がお違いあそばすんだ。どこのだれが七つ橙を頼んだか、隠さずに名をいいな。親分殺しの下手人は、その頼み手にちげえねえんだ。早く白状すりゃ、それだけ早くかたきがとれるぜ",
"ところが、あいすみませぬ。あっしはもとより、子分の者はだれひとり肝心のその頼み手を知らねえんですよ。また、うちの親分という人は、日ごろがそういう偏屈屋なんです。何をするにしても、どこからけんかを頼み込まれても、自分ひとりだけが心得ておって、あっしら子分にはつめのあかほども物を明かさねえ人なんだからね、隠そうにも、打ち明けようにも、だいたい見当がつかねえんですよ。だからこそ、さっきもいっそ駕籠かきどもを締めあげたほうが早くわかるだろうと、そちらのだんなにも思ったとおり申しあげたんですよ",
"そのことば、うそじゃあるめえな",
"いまさらうそなんぞいってなりますものか! あの橙の頼み手を知っているものは、この広い世の中でうちの親分がたったひとりなんだ。その親分が殺されたとなりゃ、わっちらにとっても頼み手の野郎はもうかたきですよ。かたきならば、隠すどころか、何もかも申し上げて、ことのついでにあっしどもも仕返しがやりてえんだ。いいますよ! いいますよ! 知っておったら隠さずに申しますよ!",
"なるほどな。そうと事が決まりゃ、ひと知恵絞らざなるめえ。正月そうそう飛び歩くのはぞっとしねえが、しかたがねえや。では、ひとつ右門流のあざやかなところをお披露してやろうよ"
],
[
"急がなくちゃならねえ! ひとっ走り、伝六、寺社奉行さまのところへ行ってきな",
"フェ……?",
"何をとんきょうな返事しているんだ。寺社奉行さまのところへ大急ぎに行ってこいといってるんだよ。行きゃいいんだ。まごまごしねえで、はええところ行ってきなよ!",
"行きますよ! 行きますよ! そんなにつんけんとおっしゃらなくとも、行けといやどこへだって行きますがね。それにしても、やにわと途方もねえ、寺社奉行さまなんぞになんのご用があるんですかい",
"お町方とはお支配違いのお寺で少しばかり調べ物をしなくちゃならねえから、踏むだけの筋道を踏んでおかなくちゃならねえんだ。八丁堀同心近藤右門、いささか子細がござりましてご差配の寺改めをいたしとうござりますゆえ、お差し許し願いとうござりますとお断わりしてくりゃいいんだよ。行く先ゃ四ツ谷からだ。おいら、ひと足先にあっちへいって、四ツ谷ご門のところに待っているからな。ほら、駕籠代の一両だ。残ったら、あめでも買いな",
"…………?",
"何をいつまでひねってるんだ。行けといったら、とっとと行きゃあいいんだよ。――ねこ伝身内の奴さんたちもおさらばだ。正月そうそう仏を出して縁起でもなかろうが、因縁ならしかたもあるめえ。ねんごろに葬っておやりよ"
],
[
"お寒う",
"おめでとう",
"ごきげんだね",
"お互いさまだよ。ことしもまたあいかわらず――",
"なんでえ! なんでえ! 何をいいやがるんだ。ことしもまたあいかわらず抜き打ちの右門流でこんなふうにたびたびどぎもをぬかれたひにゃ、お相手のおいらがたまらねえよ。やせるじゃねえか! ほんとうに!――どきな! どきな! じゃまっけだよ! へえい、ただいま――"
],
[
"早かったな。お奉行さまはなんておいいだ",
"どうもこうもねえんですよ。ほかならぬ右門のことなら、許す段ではない。詮議の筋があったら気ままにせいとおっしゃいましたがね、それにしても、いってえ――",
"なんだよ",
"とぼけなさんな! あっしに汗をかかせるばかりが能じゃねえんですよ。わざわざと寺社奉行さまなんぞにお断わりをして、お寺の何をいってえ調べなさるんですかい",
"下手人の女よ",
"その女が、お寺のどこを詮議したらわかるんですといってきいているんですよ。おもしろくもねえ。昔からお寺は女人禁制と相場が決まってるんだ。その寺のどこへ行きゃ女がいるとおっしゃるんですかい",
"やかましいやつだな。広い江戸にも武芸者はたくさんあるが、槍や太刀と違って含み針なぞに堪能な者はそうたくさんにいねえんだ。数の少ねえそのなかで、山住流含み針に心得のある達人は、第一にまず四ツ谷永住町の太田五斗兵衛、つづいては牛込の小林玄竜、それから下谷竹町の三ノ瀬熊右衛門と、たった三人しきゃいねえんだよ。くやしいだろうが、この紅絹の袋をよく見ろい。持ち主のあたしはかくのとおり色香ざかりの若い女でござりますといわぬばかりに、憎いほどにもなまめかしくまっかで、そのうえぷーんといいにおいのおしろいの移り香がするじゃねえかよ。ひと吹きで大の男をのめらした手並みから察するに、おそらく下手人は今いった三人のうちのどやつかから一子相伝の奥義皆伝でもうけた娘か妹か、いずれにしても身寄りの者にちげえねえんだ。かりにそれが眼ちげえであっても、流儀の流れをうけた内弟子か門人か、どちらにしても、近親の若い女にちげえねえよ。ちげえねえとするなら、まず事のはじめに三人のやつらの家族調べ、人別改めをやって、下手人とにらんだ若い女のあるやつはどこのどれか、その眼をつけるが先じゃねえか。それをするなら寺だ。お寺だ。お寺の寺帳を調べてみたら、てっとり早くその人別がわかるはずだよ。どうだい、あにい。まだふにおちませんかね",
"はあてね。寺帳とね。亡者調べの過去帳なら話もわかるが、寺帳とはまた初耳だ。そんなものを調べたら、何のなにがし、娘が何人ござりますと、現世に生きている人間の人別がいちいちけえてあるんですかい",
"気をつけろ。お番所勤めをする者が、寺帳ぐれえをご存じなくてどうするんかい! 江戸に住まって江戸の人間になろうとするにゃ、ご藩士ご家中お大名仕えの者はいざ知らず、その他の者は、士農工商いずれであろうと、もよりもよりのお寺に人別届けをやって、だれそれ子どもが何人、父母いくつと寺受けをしてもらわなくちゃならねえおきてなんだ。さればこそ、まず四ツ谷から手始めに太田五斗兵衛のだんな寺へ押しかけて、やつに娘があるか、若い女の身寄りがあるか、その人別改めをするというのに、なんの不思議があるかよ。しかも、そのお寺までちゃんともう眼がついてるんだ。永住町なら町人は妙光寺、お武家二本差しなら大園寺と、受け寺がちゃんと決まっているよ。おいらの知恵がさえだしたとなると、ざっとこんなもんだ。どうです、あにい! 気に入ったかね",
"ちきしょう。大気に入りだ。あやまったね。恐れ入りましたよ。さあこい! 矢でも鉄砲でももうこわくねえんだ。駕籠屋! 駕籠屋! 何をまごまごとち狂っているんだ。大園寺だよ! 大園寺だよ! おいらもう尾っぽを巻いて小さくなっているから、ひとっ走りにやってくんな"
],
[
"そちが住持か。役儀をもって、申しつくる。当寺の寺帳そうそうにこれへ持てい",
"はっ。心得ました。お役目ご苦労さまにござります。これよ、哲山。そそうのないように、はよう持参さっしゃい"
],
[
"住持! 玄竜の所が見えぬようじゃが、これはなんとしたのじゃ",
"なるほど、ござりませぬな。いかい手落ちをいたしまして、あいすみませぬ。じつは、よくひっこしをいたしますおかたで、近ごろもまたお変わりのようでござりましたゆえ、あとから書き入れようと存じまして、ついそのまま度忘れいたしましたのでござります",
"お上にとってはたいせつな人別帳じゃ。以後じゅうぶん気をつけねばあいならんぞ。移り変わったところはどこじゃ",
"目と鼻の弁天町のかどでござります",
"手数をかけた。――じゃ、あにい!"
],
[
"なんじゃ! なんじゃ!",
"おかしなやつが来よったな!",
"案内も請わずにぬうとはいって、何用じゃ!"
],
[
"もしえ! お嬢さん! 用があるんだ。ちょっとあんたに用があるんですが",
"ま?――どなたでござります! 知らぬおかたが、わたくしになんの、なんのご用でござります!",
"これですがね"
],
[
"これですがね。どうです? 覚えがござんしょうね",
"ま! いいえ! あの! あなたがそれをどうして! いいえ! あの! いいえ! あの!",
"しらをきるなッ。神妙にしろい"
],
[
"玄竜、玄竜! あるじはおらぬか! 娘の詮議にやって来たんだ。玄竜夫婦はどこだ!",
"…………",
"ほほう。声のねえのは、どこぞへご年始回りにでもいったとみえるな。るすならるすで、なおいいや。――お嬢さん! むっつりの右門はね、むだ責めむだ口はでえきれえ、意気ときっぷで名を売った江戸まえの男のつもりだ。うじゃうじゃしておりゃ、おたげえ癇の虫が高ぶるからね。すっぱりと何もかもおいいなせえよ"
],
[
"ぼうと首筋までがなにやら陰にこもって赤らんでおりますね、あかねさす色も恥ずかし恋心というやつだ。目のでき、眼のつけどころ、慈悲の用意も人とは違うおいらですよ。隠さずおいいなせえな",
"…………",
"え! お嬢さん! 今のさきやさしくにらんで、な、もし、源之丞さまと呼んだあの声になぞがあるはずだ。一をきいて十を判ずる、勘のいいのはむっつり右門の自慢ですよ。いいなといったら、いいなせえな!",
"…………",
"ほほう。江戸娘にも似合わず強情だね。ならば、おいらがずばりと一本肝を冷やしてやらあ。あの橙に打ち込んだ山住流の三角針はなんのまねです!",
"ま! そうでござりましたか! あればっかりはだれも気づくまいと思いましたのに――さすがはあなたさまでござります。それまでもご看破なさいましたら、申します! 申します! かくさずに何もかも申します……"
],
[
"お騒がせいたしましてあいすみませぬ。ご慈悲おかけくだされませ。それもこれも、ひと口に申しますれば、みな恥ずかしいおとめ心の――",
"恋からだというんですかい!",
"あい。それも片思い――そうでござります! そうでござります! ほんとに、いうも恥ずかしいあのかたさまへの片思いが、思うても思うても思いの通らぬ源之丞さまへの片思いが、ついさせたわざなのでござります。と申しましただけではご不審でござりましょうが、源之丞さまは父も大の気に入りの一の弟子、お気だて、お姿、なにから何までのりりしさに、いつとはのう思いそめましたなれど、憎いほどもつれないおかたさまなのでござります。武道修行のうちは、よしや思い思われましてもそのような火いたずらなりませぬと、ふぜいも情けもないきついこと申されまして、つゆみじんわたしの心くんではくださりませぬゆえ、つい思いあまって目黒のさる行者に苦しい胸をうちあけ、恋の遂げられますようななんぞよいくふうはござりませぬかときき尋ねましたところ、それならば七七の橙のおまじないをせいとおっしゃいまして、あのように七草、七ツ刻、七駕籠、七場所、七橙と七七ずくめの恋慕祈りをお教えくださったのでござります。それもただ祈っただけでは願いがかなわぬ、もめん針でもなんでもよいゆえ、落ち残りの橙捜し出して、人にわからぬよう思い針を打ち込むがよいとおっしゃいましたゆえ、日ごろ手なれの含み針を使うたが運のつき、――いいえ、あれをあなたさまに山住流三角針と見破られたのが、このような恥ずかしいめに会うもとになったのでござります。ほかに子細はござりませぬ。みな恥ずかしい恋ゆえのこと、ふびんと思うてお慈悲おかけくださらば、しあわせにござります……",
"ほほうね。しかし、気に入らねえのはお城のまわりを騒がせたあの一条だ。ありゃいったいなんのまねです!",
"あいすみませぬ。あれもそれもみな恋慕祈りのおまじないになくてはならぬ約束、なるべく高貴のおかたのお住まいのまわりを持ち運べとのことでござりましたゆえ、恐れ多いこととは知りながら、あのようにお騒がせしたのでござります",
"なるほどね。それにしても、人間一匹殺すにゃあたるめえ。ねこ伝をあんなむごいめに会わすたアなんのことです!",
"おしかり恐れ入りました。あいすみませぬ。あいすみませぬ。それもやはり祈りの約束、人に知られたら念が通らぬとのことでござりましたゆえ、思いこがれたこの片思い、つい遂げたいばかりの一心から、お命いただいたのでござります",
"たわいがなくてあいそがつきらあ、口のすっぱくなるほどいったせりふだが、だから女はいつまでたっても、魔物だっていうんですよ。――伝あにい! 源之丞だか弁之丞だか知らねえが、一の弟子とやらをここへしょっぴいてきな"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
1999年12月8日公開
2005年9月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"豪勢なもんさ。この寒いのに、火をたいちゃならねえというんだからね",
"そうよ。おまんまはどうするんだ、おまんまをな。火の気を使っていけなきゃ、お茶一つ口にすることもできねえじゃねえかよ。つがもねえ。こちとら下々の者は人間じゃねえと思ってらっしゃるんだからな。おたげえ来世はねこにでもなることよ"
],
[
"酒井大和守様ア――",
"土屋相模守様ア――"
],
[
"ちくしょうッ",
"いてえ!",
"踏んだな!",
"やかましいや。半鐘どろ! やい。のっぽ野郎! そのろくろ首をひっこめろッ",
"じゃまっけで見えねえじゃねえか。ひっこぬいて、たもとの中へしまっちまいなよ!",
"なんだと! べらぼうめ。張り子のとらじゃねえや。首の抜き差しができてたまるけえ。産んだ親がわりいんだ。不足があったら、親にいいなよ"
],
[
"お着ウ。伊豆守様ア――",
"お迎イ。ただいまア――"
],
[
"一期の願い、お慈悲でござります! この訴状お取り上げくださりませい! お願いでござります! お慈悲でござります!",
"…………",
"直訴じゃなッ",
"ならぬ!",
"さがれい!",
"不届き者めがッ!",
"押えろッ、押えろッ",
"取って押えい!"
],
[
"御前! 火急のお計らいが肝心でござります。必死の覚悟とみえまして、まさしく訴人は切腹しておりまするぞ",
"なにッ",
"みるみるうちに顔色の変わりましたが第一の証拠、直訴を遂げて気の張り衰えましたか、五体にただならぬ苦痛の色が見えまするでござります",
"いかさまのう。調べてみい"
],
[
"かくのとおり、みごとな覚悟にござります。殿、ご賢慮のほどは?",
"いかさま必死とみゆるな。命までもなげうって直訴するとは、あっぱれ憎いやつめがッ。そち、しかと、――のう!",
"はッ",
"あいわかったか、予に成り代わって、ふびんなそのふらち者じゅうぶんに取り調べたうえ、ねんごろにいたわって、しかとしかりつけい!",
"心得ました。ご諚どおりしかりつけまするでござります",
"いつもながら小気味のよいやつよのう。――ご僧! ご案内所望つかまつる",
"はッ、控えおりまする。ご老中さまご参拝イ"
],
[
"堀丹羽守様ア――",
"太田摂津守様ア――",
"石川備中守様ア――"
],
[
"どうせそうでしょうよ。え、え、そうでしょうとも、どうせあっしなんぞは血のめぐりもわりいし、いつまでたっても人前で恥をかかされるようにできた人間なんだからね。さぞやだんなはあっしに赤っ恥をかかせていい心持ちでしょうが、それにしても場合というものがあるんだ。場合がね、え? だんな!",
"…………",
"くやしいね。どれだけいやがらせをしたらお気が済むんですかい。ちっとはあっしの身にもなってみるといいんだ。なんしろ、時が時だし、人出もあのとおりの人出なんだからね。とちっちゃならねえ、男をたてずばなるめえと思ったればこそ、だんなが御用というまで、がまんにがまんをして待っていたんですよ。ところへ、お顔が下馬札の陰からぬっとのぞいたんだ。うれしかったね。え、だんな。考えてもみりゃいいというのはここですよ。きのうやきょうの仲じゃねえんだからね。死なばもろとも、出世もいっしょと、口にこそ出して約束したんじゃねえが、あっしが女だったら、人さまにやかれるほどもうれしい仲なんだ。なればこそ、しめたとばかり――",
"うるさいね",
"いいえ、きょうはいうんだ。なにも、ああまで人前で恥をかかせなくともいいんだからね。きょうは腹の虫がいえるまでいいますよ。うるさかったら、だんなもとっくり考えてみりゃわかるんだ。いまかいまかと待っていたところへ、ぬうとお顔がのぞいたんでね、さてこそおれの出幕だ、話せるね、いい気性だよ、あっしに花を持たせるおつもりなんだと思ったればこそ、喜んで勇んで飛んでもいったのに、ありゃなんです。あのまねゃなんです! ぬうと出して、ぬうとそっぽを向いて、ありゃいったいなんのまねですかよ!",
"…………",
"え! だんな! ね、ちょっと!――くやしいね。なんてまたきょうはやけにそう足がはええんだろうな。そんなにお急ぎだったらおごりゃいいんだ。気まえよく駕籠をおごりゃいいんですよ。ね! ちょっと! だんなってたらだんな!",
"…………",
"しゃくにさわるね、あっしがうるさくいうんで、意地わるに急ぐんだったら、あっしも意地わるくいいますぜ。なにもだんなに、伊豆守様をお気どりなせえというんじゃねえがね。せめてあのとき、ひとことぐれえおっしゃったっても、ばちア当たらねえんだ。おお、伝六か、捜したぞ、おめえが来ねえことにゃ役者がそろわねえんだ、かわいいやつだね、ついてきな、とでもおっしゃってごらんなせえよ。わッときたにちげえねんだ。日本一、親方ア、よう伝あにいとね。エヘヘ、エッヘヘ――",
"バカだな",
"え……?",
"がんがんやっていたかと思や、ひとりで急に笑いだしやがって、おめえくらいあいそのつきるやつは、ふたりとねえよ",
"そうでしょう。ええ、そうでしょうとも。どうせあっしはあいそのつきる人間なんだからね。笑ったり、おこったり、方図のねえ野郎ですよ。それにしたっても気に入らねえんだ。これがいったいどうしたっていうんです。え! ちょっと。この直訴状のどこがどうしたというんですかよ。親心に上下がねえならねえで、しかじかかくかく、せがれがこれこれこうでごぜえますゆえ、依怙のご沙汰はごかんべんくだせえましと、何が何してどう依怙の沙汰だか、どうせ死ぬからにはもっと詳しくけえて直訴すりゃいいんだ。それをなんぞや、においばかりかがしたきりで、ご賢察願いあげ奉り候とはくどいですよ。いかにも思わせぶりで、しゃくにさわるんだ。しかも、だんながまた、――ああ、いけねえ! どこまで人に気をもませるんでしょうね。まさかと思ったのに、そこをそっちへ曲がっていきゃお番所じゃねえですかよ。ここにちゃんとけえてあるんだ。ご賢察奉願上候。芝入舟町甚七店束巻き師源五兵衛と所名まえがはっきりけえてあるんですよ。ひと飛びにあっちへ行ったほうが早道なんだ。ね、ちょっと!――ちょっとったら、ね! ちょっと!"
],
[
"じれってえな。そんなものを調べりゃ何がおもしれえんですかよ。色文にしたっても、日がたちゃ油がぬけるんだ。その中にあるやつア、みんなかびのはえた訴え状ばかりですよ。てっとりばやく入舟町へいって洗いたてりゃ、たちまちぱんぱんとらちがあくじゃねえんですか!",
"…………",
"え! だんな! くやしいね。そもそも、あのおやじが気に入らねえんだ。雪の降るさなかに、なにもわざわざあそこまで飛び出してみえをきるがものはねんですよ。直訴をしてえことがありゃ、息の根の止まらぬうちに、ここへ来りゃいいんだ。それがためのお番所なんだからね。よしやだんなが虫の居どころがわるくてお取り上げにならなくとも、あっしという者があるんだ。あっしという気性のいい男がね。この伝六様がいるからにゃ、どんなうるせえねげえごとでも聞いてやりますよ。ね! ちょっと! え! だんな!",
"申しあげます! あの、もし、お願いでござります。お願いの者でござります!",
"うるせえな。いううちに来りゃがった。忙しいんだよ。伝六様は、いま手がふさがっているんだ。用があるならあしたおいでよ",
"いいえ、あしたになってはまにあいませぬ。てまえは京橋薬研堀のろうそくや大五郎と申す者でござります。うちの女房が、けさほどお将軍さまのお成り先へ裸で飛び出したとか、駆けだしたとか申しまして、こちらへお引っ立てになったそうでござりまするが、あれは三年まえから気の触れている者でござります。座敷牢に入れておいたのを知らぬまに飛び出したのでござりますゆえ、お願いでござります。お下げ渡しくださりませ。お願いでござります",
"べらぼうめ。人の気違いの女房なんぞ、だれが酔狂にさらってくるけえ。おら知らねえや。係りが違うんだ。お係りが違うんだから、あっちへ行きなよ",
"ウフフ",
"え! なんです、だんな! いちいちとしゃくにさわるね。ウフフとは何がなんですかよ。お係りが違うから違うといったんですよ。骨おしみをしてはねつけたんじゃねえんだ。笑う暇があったら、だんなこそとっととらちをあけりゃいいんですよ。ほんとにまったく、がんがんしてくるじゃござんせんかい",
"控えろッ",
"え……?",
"おきのどくだが、そのらちがな",
"あいたんですかい!",
"あいたからこそ、うれしくもなったじゃねえかよ。まあ、そこへすわって、あごでもはずして、ふところへしまってから、とっくりとこれを見なよ"
],
[
"ちっとこりゃおかしいじゃござんせんか",
"何がよ",
"きょうは忘れてならねえ二十四日だ。最初の一通は二十一日、次は二十二日、しめえは二十三日の日づけになっているところをみるてえと、三日まえから毎日毎日お番所へお百度を踏んだってわけですかい",
"決まってらあ。だからこそ、いつまでたってもお取り上げにならねえので、われらにも覚悟これあるべく候とある、その覚悟の直訴をしたんじゃねえかよ。そんなことぐれえがわからねえんでどうするんだ",
"いいえね、それをいってるんじゃねえんですよ。見りゃ弥七郎とかいう至極とできのいいせがれが、奉公先の露月町で姿をくらましやがったとけえてあるじゃござんせんか。そんなれっきとした大騒動が持ち上がっているなら、なにもこんなふうに直訴状へ陰にこもった思わせぶりを書かなくたっていいでしょう。はっきり書きゃいいんだ、はっきりとね。しかもですよ、この直訴状の表には、お取り上げこれなきをさらさらお恨みには存ぜず候えどもとぬかしているくせに、この三通めの文句はなんですかよ、いわく子細これあり候ために依怙のおさばきがどうのこうのと、さもさもお番所勤めをしておる者は、そでの下しだいで十手吟味をしてでもいるようなことをぬかしているじゃござんせんか。べらぼうめ、おれがおるんだ。生きのいい江戸っ子のこの伝様がいるんですよ。え? ちょいと。それでもひねっちゃわりいんですかい。え! だんな!――気に入らねえね、何がおかしくてニヤニヤするんですかよ",
"あいかわらず、この伝様とやらがご利発でいらっしゃるからだよ。考えてもみろい、直訴じゃねえか。直訴は天下の法度だ。お取り上げくださるかくださらねえかは、先さましだい、風しだい、腹しだいだよ。さればこそ、お取り上げなさらぬときに訴状をろくでもねえやつに拾われて、上お役人、われわれお番所勤めの者たち一統をあしざまにけえたことが世間に知れちゃ、あとの響きも大きかろうと、それを遠慮して特にこんななぞをかけた文句だけでぼかしたんだ。その心づかいがいっそゆかしいじゃねえかよ。死にぎわもまた源五兵衛、りっぱなものだよ。おめえなんぞは知るめえが、束巻き師源五兵衛といや、源五巻きという名で通るくれえの、刀の束の綾巻きじゃ江戸にひびいた男だ。さすがは刀いじりの職人よ。町人ながら腹かっさばいたうえで直訴するたア、性根が見上げたもんじゃねえかよ。おいら、心がけのゆかしさに、ちっとばかり今ほろりとなっているんだが、いけねえかい",
"あやまった。あやまりました。なるほどね、ちくしょうめ、さあ来い! もうこうなりゃ忙しいんだぞ。事がそうと決まりゃ、露月町の泥斎とやらが本能寺だ。ぱんぱんと早手回しにやってめえりますからね、ちょっくらお待ちなせえよ"
],
[
"なんでえ。つがもねえ、こりゃ博多人形のこぶ泥じゃねえかよ",
"フェ……? こぶ泥たアなんですかい",
"知らねえのかい、あきれた物知らずだな。訴え状に土偶師泥斎と書いてあるんで、どこの何者かいなと頭をひねったんだが、こりゃ博多焼きのこぶ泥だといっているんだよ",
"はてね",
"まだわからねえのかい。お手数のかかるおあにいさんだな。博多人形はその昔宗七というのが焼きだしたんで、ほんとうの名は宗七焼きというんだよ。その博多焼きの泥斎ならば、二十年間博多で修業したといういま江戸で折り紙つきの名工だ。左の耳下に福々しいこぶがあるところから、人呼んでこれをこぶ泥というのよ。おまえよりちっと物知りで、気に入らねえかい",
"どうつかまつりまして。ちくしょうめ、やけにうれしくなりゃがったね。そういうふうにずばりずばりとだんなの眼がついてくりゃ、もうしめたものなんだ。なんともかんともたまらねえね。え! だんな。――やい、こぶ泥、通っていくぞ"
],
[
"ウフフ。ちとにおいだしたぞ。泥斎、親子であろうな",
"…………",
"なぜ、はきはき答えぬか! せがれでなくば甥であろうが、どちらじゃ",
"甥ではござりませぬ",
"ひねったことを申すのう。甥でないゆえせがれじゃと申したつもりか。せがれならばせがれと、すなおに申せ!――せがれ! 名はなんというか!",
"名、名は……",
"名はなんというか!",
"粂、粂五郎と申します……",
"ひとり身か!",
"ま、まだ家内を迎えませぬ……",
"ウフフ。それだけ聞いておかば、これから先はちっと生きのいい啖呵入りでいこうかい。泥斎老人、お互い心配だな。弥七郎は二十日の夕刻から消えてなくなったってね",
"へえ、しようのないのらくら者で、三日にあげず悪所通いはする、ばくちには入れ揚げる、仕事はなまける、いくつ人形を焼かしても手筋はわるい、七年まえから内弟子に取ってはいたんですが、からきしもう先に望みのない野郎でございましたんで、どこへいったのやら、あの晩ふらふらと出ていったきりいまだに帰らねえところをみると、また女のところにでもはまっているんじゃねえかと思っているんでごぜえます",
"ちっと変だね",
"何がでございます?",
"でも、おやじの源五兵衛の訴え状にゃ、たいそうもなくできのいいりちぎ者だと、きわめ書きをつけてあるぞ",
"とおっしゃいますと、なんでございますか。源五兵衛どんがなんぞお番所へでも訴えてまいったんでございますか",
"訴えたどころじゃねえ、腹を切って伊豆守様に直訴をしたぜ",
"えッ――。まさか! まさかに、そんなことも――",
"これをみろい。直訴状だ、みごとな最期だったよ。肝が冷えたかい",
"なるほど! そうでござりましたか――。思いきったことをやりましたな。いいや、無理もござりますまい。のらくら者でしたが、老い先かけて楽しみにしておったひとり子でござりますもの。それが消えてなくなったとなると、親の身にしてみれば心配のあまり、命を捨てて直訴もする気になりましたろうよ。それにしても、親の心子知らず、どこへ姿をかくしたのやら、弥七郎めはばち当たりでござります。てまえども親子にうしろめたいことはなに一つござりませぬ。ご不審の晴れるまで、どこなとお捜しくだされませ。お案内いたしまするでござります",
"さすがは名工、肝に鍛えができているとみえて、なかなかに神妙のいたりだ。弥七郎が寝起きしていた居間はどこかい",
"ところが、変な男といえば変な男でござります。あちらにあれのためのへやが一つ取ってあるのに、人形の中へ寝るが好きじゃと申して、毎夜この仕事べやに寝起きしておりましてござります",
"ほほう。のらくら者で、仕事に魂の打ち込めぬなまけ者が、焼き人形の中に寝るが好きとは、なにさま変わっておるな。だいぶ色焼きのみごとな人形が並んでいるじゃないかよ。宗七焼きの粋というしろものを、しみじみ拝見するかね"
],
[
"こぶ泥、いや、泥斎",
"はッ",
"いい焼き色だな。この三体はだれの作かい",
"てまえとせがれと弥七郎とで、それぞれ一体ずつ、この正月の初焼きにこしらえたものでござります",
"いちばん左はだれの作かい",
"せがれでござります",
"まんなかは?",
"てまえの作でござります",
"ほほう、そうかい。とすると、右端が弥七郎の作だな",
"さようでござります",
"おかしなこともあればあるものだ。ちょっと拝見するかな"
],
[
"妙だな。泥斎! ちっとおかしかねえかい",
"何がでござります",
"せがれ粂五郎のふできはとにかくとして、のらくら者の弥七郎が、師匠のおまえさんより上物をこしらえるとは変じゃないかよ",
"なるほど、しろうと目にはさように見えるかも存じませぬが、どうしてなかなか、われわれくろうと目には老いても泥斎、自慢するのではござりませぬが、まだまだ弟子に劣るようなものはこしらえませぬ。弥七郎ごとき及びもつかぬはずでござります",
"ほほう。しろうと目だというのかい。そうかもしれぬ。名作名品、芸道のこととなると常人の目の届かぬところがあろうからな。しかし、それにしても――",
"なんでござります?",
"土も同じ、薬も同じ、おそらく窯も同じ一つ窯であろうが、にかかわらず、焼き色、仕上がりに、できふできのあるは不思議だな",
"どういたしまして、土こそ、薬こそ同じでござりまするが、窯ばかりは一つでござりませぬ",
"それはまたどうしたわけかい",
"そこが流儀のわかれどころ、苦心の入れどころ、火くせ、焼きくせ、窯くせというものがござりまして、えもいわれぬ働きをいたすものでござりますゆえ、てまえの窯、せがれの窯、弥七郎の窯と、窯ばかりは三人別々でござります",
"なるほど、そういうものかい。その窯はどこにある",
"あの庭先の小屋の中に見えるのがそれでござります"
],
[
"どれがどうだ",
"右端がてまえ、左がせがれ、まんなかが――",
"弥七郎の窯か",
"そうでござります",
"三窯ともに火口がふさいであるのう",
"この露月町はご承知のとおり増上寺へのお成り筋、煙止めせいとのお達しでござりましたゆえ、そそうがあってはならぬと、二十日の夕刻に焼き止めまして、火口ふさいだままになっているのでござります",
"なに、二十日! 二十日の夕刻に火止めしたとのう!"
],
[
"こぶ泥! びっくりするじゃねえぜ! おいらがどこのだれだか知ってるだろうな",
"はッ、存じておりまする。右門のだんなさまと気がついたればこそ、何をお見破りかと不審に思いまして、おあとについてまいったのでござります",
"ならば、改まって名のるにも及ぶめえ。右門流の眼のさえというな、ざっとこんなもんだ。よくみろい!"
],
[
"あれの足だ! 弥七郎の足だ! 泥斎のこの目に狂いはござりませぬ! まさしく、弥七郎めの足首でござります。ど、どう、どうしたのでござりましょう! あれが、あの男が蒸し焼きになっているとは、どうしたのでござりましょう",
"どうでもない。たった一つの出入り口の火口が内側から塗りこめられてあったとすりゃ、考えてみるまでもねえことよ、まさにまさしく自害だよ",
"えッ。自害! 自、自害でござりまするか! あの男が、弥七郎が、自害をしたというのでござりまするか!"
],
[
"野郎が、野郎が、ね、ほら! せがれの青僧が、粂五郎が逃げ出しやがったんですよ!",
"なにッ",
"ね、ほら! ほら! あのとおりまっしぐらに逃げ出しやがったんです。逐電するからにゃ、野郎め何かうしろぐれえことがあるにちげえねえんだ。てつだっておくんなせえよ。野郎足がはええんだ。いっしょに追いかけておくんなせえよ"
],
[
"野郎をつかまえろッ。粂五郎のやつが、なぞのかぎを握っているにちげえねんだ。跡を追いかけろッ",
"跡を追いかけろといったって、とうに野郎はもうつっ走ったんですよ。ばかばかしい。だから、あっしがさっきあわてて呼んだんじゃねえですか。今ごろになって、そんな無理をおっしゃったっても知りませんよ",
"あいもかわらず血のめぐりが鷹揚だな。おいらのやることにむだはねえんだ。これをみろ。きょうは何が降ってると思ってるんだい。よく目をあけてこれを見ろよ"
],
[
"やつめ、察するにおくびょう者だな",
"え? そんなことが、またどうしてわかるんですかい。足跡に肝ったまの大小がけえてあるんじゃあるめえし、だれの足跡でも雪に残りゃこういうかっこうをしているんですよ",
"ところが、おいらが見るとちゃんとけえてあるから妙じゃねえかよ。走ったかと思やとまり、止まったかと思やまた逃げだして、その逃げ方もあっちへいったり、こっちへ来たり、まごまごと迷ってばかりいるのは、気の小せえ証拠、度胸のすわっていねえ証拠だよ。――どうやら、裏庭は木戸も抜け道もねえ止まりのようだ。どこかにもぐっているにちげえあるめえ。さっさと拾っていってかいでみな"
],
[
"上には慈悲があるぞ! 目もあるぞ! しかも、このおいらの目玉は、雨空、雪もよう、晴れ曇り、慈悲にもきくがにらみも江戸一ききがいいんだ。なんぞおめえ細工をしたろう。すっぱりいいな",
"いいえ、あの、あっしが、あっしが――",
"あっしがどうしたというのかい",
"あっしが蒸し焼きにしたんじゃねえんです。殺したんじゃねえんです",
"それをきいてるんじゃねえんだ。さっき仕事べやへへえっていったときに震えていたあんばい、今こうして逃げまわったあんばいからいっても、無傷じゃあるめえ。弥七郎が思い案じて自害しなくちゃならねえような種を、何かおめえがまいたろう! どうだ。ちがうか!",
"め、めっそうもござりませぬ。無、無実でござります! 無実のお疑いでござります。あっしゃ何もしたんじゃねえんです。ただ、二十日の晩、弥七郎がいなくなったあの二十日の晩に――",
"二十日の晩にどうしたんだ",
"見たんです。ちらりと、ちらりとあれがあの窯の中にはいるところを見かけたような気がしましたんです。何をするだろうと思ったんですが、はっきり見たわけじゃなし、まさかと思っておったら――",
"思っておったら、どうしたんだ",
"その夜から明けがたにかけて臭かったんです。たしかに人の焼けるようなにおいがしたんです。だから、だから、かかり合いになっちゃなるまいと思って、前後の考えもなく逃げかくれしただけのことなんです",
"ほんとうか!",
"う、うそ偽りはござりませぬ。人の焼けるにおいがしましたんで、ひょっとしたらと思ってはいたんですが、のぞいてみるのもこわいし、よけいなことをしてまたつまらぬ疑いでもかかってはと、ひとりでびくびくしておりましたら、今のさきだんなさまが手もなくお見破りなすったんで、かかり合いになっちゃあと逃げだしただけのことなんです",
"まちがいないな!",
"ご、ござりませぬ",
"こちら向いてみろッ。向いて目をみせろッ"
],
[
"わからぬ! わからぬ! くやしいな! 伝六ッ",
"…………",
"解けんわい! 解けんわい! この人形のなぞばかりは、なんとしても解けぬ。自害にちげえねえんだ。火口一つより出はいりする口はねえ、その口を中から塗りこめてあったからにゃ、自害にちげえねえんだ。だのに、だのに、くやしいな! 伝六ッ。――みろ! この人形を、とっくりとみろ!",
"み、みているんですよ。そ、そんなに悲しそうな声でおこらなくとも、ちゃんと見ているんですよ",
"見たら、おめえにだってもわかるはずだ。ワガ姿ヲ写ス、弥七郎作と銘が入れてあるんだ。女じゃねえてめえの姿だ。その人形を抱いて共焼きに蒸され死にした弥七郎の了見がわからねえんだ。女なら考えようもある。解きようもある。好いた女にそでにされて、慕っても慕っても思いが通らねえので、せめてもその女の姿を写しとって、心中がわりに蒸され死にしたってえなら話もわかるが、そうじゃねえんだ。てめえの姿を抱いて共焼きになってるんだ。くやしいな! 伝六。わからねえ! 解けねえ、このなぞばかりゃ解けねえよ!",
"だ、だんなにわからねえものなら、あっしに、わたしに、と、解けるはずアねえんですよ。――生まれ変わりてえな。知恵の袋をうんとこしこたま仕込んで、今ここでぴょこんといっぺんに生まれ変わりてえな。く、くやしがらずと、そんなにくやしがらずと、なんとか知恵の水の井戸替えしてみておくんなせえな",
"いくら考えても、それがわからねえんだ。未熟だな……申しわけがない。伊豆守様にお会わせする顔がない……、な! 伝六! 未熟だな。まだおいらも修業が足りねえんだ……この世に、おいらが考えて、おいらがにらんで、解けねえなぞはなにひとつあるめえと思っていたのに、人の心の奥の奥の奥底だきゃわからねえな。いいや、芸道に打ち込んだ者の、魂まで打ち込んで芸道に精進した者の、命までかけた心の秘密ア、心のなぞは、さすがのおいらにもわからねえわい――。未熟だな……未熟だ、未熟だ。くやしいよ。伝六、くやしいな……情けねえな……身の修業の足りねえのが、いまさら恨めしいわい……"
],
[
"すみませぬ。あいすみませぬ。この老いぼれが隠しだてしていたのでござります",
"なにッ、えッ――。そなたが、そちがか! そちが隠しごとしていたと申すか!",
"はッ。申、申しわけござりませぬ。明かさばこの身の恥になることと存じまして、今の今まで気どられまいと、色にも出さずひたがくしに隠しておりましたが、だんなさまのただいまのせつなげなおことばを承りましては、もう、もう、おろかな隠しだてしてはおられなくなりました。いいえ、泥斎、身にこたえましてござります。おひとことに打ちのめされましてござります! いいえ、いいえ、弥七郎が苦心の果てのこの群青焼きを見ましては、心魂打ち込んだこの青焼きを見ましては、泥斎恥ずかしゅうてなりませぬ。お笑いくださりまするな。事の起こりは、やはり、みなせがれかわいさの親心からでござります",
"なに! 親心からとは、またどうしたわけじゃ。どうした子細じゃ!",
"いうも恥ずかしい親心――源五兵衛どのが、子ゆえにみごと腹切り召されて、直訴までもしたその親心に比べますればいうも恥ずかしい親心でござりまするが、おろかなせがれ持ったが悲しい因果の一つ、利発な弥七郎めを弟子に持ったが恨めしい因果の二つ、それゆえにこそ泥斎がこのようなあさましい親心になりましたことも、おしかりなくお察しくだされませ。と申したばかりではおわかりでござりますまいが、じつは、てまえも、せがれも、弥七郎も、三人ともども、この青人形のような濃淡自在の群青色焼き出しを、もう二年越しくふう苦心していたのでござります。なれども、せがれはご覧のような鈍根のうつけ者、群青色焼き分けは夢おろか、てんからふできな、先に望みもないやつなのでござります。それにひきかえ他人さまの子の弥七郎は、さきほどだんなさまがそこのたなの三体をお見比べなさいましてずぼしをお当てなさいましたように、いたっての腕巧者、師匠のこの泥斎すらもときおり舌を巻くような上作を焼きあげるのでござります。それがあさましい親心のきざしたる基、手を取って教えた弟子のなかから流儀流派の名を恥ずかしめぬ門人が生まれましたら、子を捨ててもその者に跡目譲るべきはずのものを、そこがつい親心でござります。せがれに譲りたい、譲るには弥七郎がおってはじゃまじゃ、なんぞ罪着せて破門するが第一と、もともとありもしない秘伝書を盗んだであろう、かすめたであろうと責めたてたのがこんなことになりました。手こそ下しませぬが、この泥斎が殺したも同然、無実の言いがかりに責められるを悲しんで、知らぬまに窯へはいり自害したに相違ござりませぬ。せめてものなごりにと、このみごとな群青焼きを置きみやげに自害したのでござります",
"そうであったか! つかなんだ。つかなんだ。それまでは察しがつかなんだ。そちも音に聞こえた陶工、名人達者といわれるほどの者の心に、そのような濁りあるまいと存じて疑うてもみなかったのだ。それにしても、泥斎!――魔がさしたのう!",
"面目ござりませぬ! 源五兵衛親子ふたりを殺した泥斎の罪ほろぼしはこれ一つ! ごめんなされませ!"
],
[
"えれえ! さすがはお江戸の名人と名工だ。火をかぶった泥斎もえれえが、じっと見ていただんなもみごとだね。しいーんと身の内が締まりましたよ",
"感心している場合じゃねえや。この人形たいせつに持って、すぐに伊豆守様のお屋敷へいってきな。――直訴のなぞは、この青焼き人形でござります。恐れながら、これには三人の人の命がこもっておりまするゆえ、末長くご秘蔵願わしゅうござりますと、ご用人さまにお取り次ぎお願いしてな。羽織はかまで今からすぐ献上に行ってきなよ",
"なるほど、そつがねえや。名工と名人が世に出したこの青人形が、名宰相さまのお手もとに納まりゃ、仏も人形も浮かばれましょうよ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年5月23日公開
2007年2月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
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"分類番号": "NDC 913",
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"おっといけねえ、いけねえ。うっかりと声も出して読めねえや。こりゃおらがゆうべないしょによんだ歌なんだからな。こんなものをだんなに聞かれたひにゃ、手もなく笑われらあ。――はてな。まだあったと思ったが、もうねえのかな",
"ウフフ……",
"え! 起きていたんですかい! しゃくにさわるね。寝てたと思っていたら目があいていたんですかい!"
],
[
"ウフフ。今のは歌かい",
"いらんお世話ですよ"
],
[
"人の悪いにもほどがあらあ。ないしょごとってえものがあるんだ。人間にはだれだって他人に聞かせてならねえないしょごとってえものがあるんだからね。起きていたなら起きていたと、背中に張り紙でもしておきゃいいんですよ",
"おこるな、おこるな。感心しているんじゃねえかよ。おまえが敷島の道に心得があるたア、見かけによらず風流人だよ。花が咲くゆえがまんできけり、と特にけりで結んだあたりが、またいちだんとね、えもいわれぬ味があるよ",
"へへへ、ちくしょうめ、恥ずかしいね。ほめてくだすったんですかい。いえ、なに、それほどでもねえのだが、あっしだって木石じゃねえんだからね。人にしてみやび心のなかりせば、犬ねこ馬と同じなりけり、という歌もあるんで、ちょっとそのゆうべ、一首ものしてみたんですよ。へへへ、うれしいね",
"あきれたもんだよ",
"へ……?",
"ほんとうにほめられたと思ってらあ。みやび心だかなんだか知らねえが、おまえのとらの巻きゃ肝心かなめのことを書き落としておるな",
"な、な、何がなんです! 上げたり下げたり、しゃくにさわるね! 肝心かなめのことを書き落としているたア何がなんですかよ!",
"いま読みあげたしごきどろぼうのことよ。そりゃほんとうにあったことかい",
"ちぇッ、だから腹がたつというんですよ! こないだから口がすっぱくなるほどいったじゃござんせんか! これこれかくかくで、わけえ女の腰ひもばかりを抜きとる色きちげえみてえなやつが、あっちへ出たりこっちへ出たりしていやがるから、陽気が陽気だ、ねらうところも腰ばっかりで穏やかじゃねえ、ほかならぬわけえ女ばかりが災難に会ってるんだから、ちょっくらお出ましになって、娘っ子たちを安心させておやりなせえよと、顔を見るたびにいったじゃござんせんかよ! 女の子のこととなると、やけにつむじを曲げて、目のかたきにしているから、こういうことになるんだ。これには三ところしきゃけえてねえが、きょうのふた口を入れると、しめて八人、きゅうっと抱きしめられて、つるりとなでられて、するするとしごきを抜きとられているんですよ",
"そんなことをきいているんじゃねえんだよ。ふところ日記だか、へそ日記だか知らねえが、おまえさんのそのとらの巻きにはな――",
"いいえ、だんな! うるせえ! しゃべりなさんな! きょうはおらのほうが鼻がたけえんだ。事のしだいによっちゃ後世までも残るかもしれねえおらがのこの日記を、へそ日記とは何がなんですかよ! 毎日毎日、丹念に女の子の顔造作までも書き止めておいたからこそ、いざというときになって物の役にたつじゃござんせんか。口幅ったいことはいってもらいますまいよ",
"ウフフ。それが勘どころをはずれているというんだ。大きに丹念に書いたのはいいが、丹念なところは女の子の顔ばかりで、ホシの野郎はどんなやつか、肝心かなめの下手人の人相書きは、毛筋ほども書き止めていらっしゃらねえじゃねえかよ、だいじなことが抜けているというな、そのことなんだよ",
"はてね。――お待ちなせえよ。もういっぺん読み直してみるからね。――ちぇッ、なるほど、ねえや、ねえや。どこにもねえですよ! 自慢じゃねえが、りっぱに書き落としてありますよ",
"バカだな。てめえのしくじりをてめえで感心するやつがあるかい。ホシゃいってえどんなやつなんだ",
"それが穏やかじゃねえんですよ。つじ番所の下っぱ連に聞いたんだから、しかとのことアわからねえが、出る町、出るところ、出る場所ごとに人相も風体も変わってね、おまけにわけえ野郎だったり、中じじいだったり、ところによっちゃ女のばばあが出たりするってえいうんですよ",
"やられた女は、たしかにわけえ女ばかりなのかい",
"そ、そ、そうなんだ。そうなんだ。だから気がもめるんですよ。おかめやお多福やとうのたった女なら相手にするこっちゃねえんだが、八人ともに水の出花で、みなそれぞれ相当に値が踏めるんでね、よけい気がもめるんだ。よけいね、よけい気がもめてならねえんですよ",
"わかった、わかった。そんなになんべんもいわなくたってわかったよ。女の子のこととなると、むやみと力を入れりゃがって、あいそがつきらあ。じゃなにかい、ほかには何もとられた品はねえんだね",
"ねえから、なおのこと気がもめるんだ。きんちゃくだってかんざしだっても、とる気になりゃいくらでもとれるくせに、そういう品にゃいっこう目もくれねえで、おかしなところをつるりとやりゃがっちゃしごきばかりをねらうんでね、こいつかんべんならねえと、あっしもいっしょうけんめいに文句を考えて、このとおりとらの巻きにいと怪しとけえたんですよ。自慢じゃねえが、えへへ、なかなかこういうおつな文句は書けねえもんでね。ええ、そうですよ。学問がなきゃなかなか書けるもんじゃねえんですよ",
"能書きいわなくともわかっているよ。そのしごきは、どんなしごきだ",
"それが穏やかじゃねえんです。だんながお出ましにならなきゃ、おらが片手間仕事にちょっくらてがらにしようと、じつあきょう昼のうちに八人みんな回って、小当たりに当たってみたんですが、八本ともとられたしごきてえいうのが、そろいもそろって、目のさめるような江戸紫のね――",
"なにッ"
],
[
"どうやら、聞きずてならねえ色だ。もしや、その江戸紫にゃ、どれにも鹿の子絞りを染め抜いてありゃしねえか",
"あるんですよ! あるんですよ! そのうえできが少し――",
"風がわりで、ふっさりと幅広の袋ひもになってるだろう!",
"そうなんです! そうなんです! しごきといや、天智天皇の昔から、ひと重のもので、ギュッと伊達にしごいて用いるからこそ、そういう名まえがついているくれえのものなのに、ふた重で袋仕立てになっているたアあんまり聞かねえからね、こいつ、何かいわくがあるだろうと、じつあ首をひねっていたんですが、かなわねえね。だんなはまたどうしていながらにそうずばずばと何もかもわかるんですかい",
"そんなことぐれえにらみがつかねえでどうするかい。目のさめるような江戸紫ときいたんで、ぴんときたんだ。まさしくそりゃ、いま江戸で大評判のお蘭しごきだよ",
"はあてね。なんですかい! なんですかい! 聞いたようでもあり、聞いたようでもねえが、今のそのお蘭しごきというななんですかい。くさやの干物に新口ができたとかいう評判ですが、そのことですかい",
"しようのねえ風流人だな。だから、おめえなんぞ歌をよんでも、花が咲くゆえがまんできけりになっちまうんだ。そんなことぐれえ知らねえでどうするんかい。加賀様の奥仕えのお腰元のお蘭というべっぴんが思いついて、江戸紫に今のその鹿の子絞りを染めさせ、袋仕立ての広幅にこしらえさせて、ふっさりふさのように結んでたらしたぐあいがいかにもいきで上品なところから、お蘭しごきという名が出たんだよ。くさやの干物とまちがえるようなおにいさんに手の出るような安い品じゃねえんだ。よりによってお蘭しごきばかりねらいとるたアただ者じゃあるめえ。慈悲をかけてお出ましになってやるから、したくしな",
"ちぇッ。ありがてえ。ちくしょうめ。だから、歌もよむものなんだ。春が来て花が咲くゆえとよんだればこそ、しごきどろぼうもだんなのお目に止まったじゃねえかよ。察するに、イの字とロの字のきちげえにちげえねえんだ。でなきゃ、よしやお蘭しごきが一本三両しようと五両しようと、おかしなところをつるりとなでて、わざわざ腰に締めているのを抜きとるなんて、人ぎきのわりいまねをするはずあねえんだから、べらぼうめ、おらがに断わりなしで江戸の女に手を触れるってえことからしてが、かんべんならねえんだ。おしたくがよければ出かけますぜ!"
],
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"だんなだんな、だんなはどちらでござんす!",
"だれだ、だれだ。どこのどいつだよ。ただだんなじゃわからねえや。今ここに、だんなはふたりいるんだ。右門のだんなか、伝六だんなか、どっちだよ",
"そういう伝だんなでござんす。あんたに、伝だんなにちょっくら用があるんですよ",
"えへへ。うれしいことをいやがるね。伝だんなとは気に入ったね。待ちな、待ちな、今あけるからな。――そら、見てくんな。これが伝だんなのお顔だ。わざわざおれに用とは、どこのだれだよ"
],
[
"ウフフ。おっかねえぜ",
"いやですよ! 気味のわりい。だんなまでがいっしょになっておどすとは、なんのことですかよ。名あてはねえが、おらがによこしたもんでしょうかね",
"あたりまえさ。伝だんなとやらがこのうちにふたりおるなら知らぬこと、そうでなけあおまえさんだよ。さよう心得ろとあるから、さよう心得ていねえとあぶねえぜ",
"冗、冗、冗談じゃねえんですよ。くやしいね。なんとかしておくんなさいよ",
"おいらは知らねえよ。伝だんなじゃねえんだからな。ウフフ",
"くやしいね! なんてまた薄情なこというんでしょうね。こういうときにこそ、主従の縁じゃねえんですかよ! ちくしょうめッ。こんなことになるくれえなら、歌なんぞよまなきゃよかったんだ。いらぬ告げ口しやがってとあるな、おらが今だんなに話したお蘭しごきの一件にちげえねえが、どうしてまたおしゃべりしたことをかぎつけやがったんでしょうね",
"ご苦労さまに、毎日毎夜どこかそこらで見張っていたんだろうさ。今夜もおそらく、あとをつけてくるだろうよ。どうやら、本筋になりやがった。性根をすえてついてきな",
"だ、だ、だいじょうぶですかい",
"忘れるねえ! 久しくお使いあそばされねえので、草香流が湯気をたててるんだッ。よたよたしねえで、ちゃんと歩いてきなよ"
],
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"お、お、お待ちなさいよ、薄情だな。やけにそんなに急がなくともいいじゃござんせんか! 今夜ばかりは、いやがらせをしないでおくんなさい! え! だんな!",
"…………",
"ね! ちょいと! 意地曲がりだな。どこへいったい行くんですかよ! ねらわれているな、あっしなんだ。だんなは草香流をお持ちだからいいかもしれねえが、おらがの十手はときどきさびを吹いてものをいわなくなるんですよ。ね! ちょいと!",
"…………",
"やりきれねえな。今夜は別なんだ。黙ってりゃ、いまにもねらわれそうで気味がわりいんだから、子分がかわいけりゃ人助けだと思って、なんとかうそにも景気をつけておくんなさいよ"
],
[
"やけにうれしくなりゃがったね。このくれえのことなら、いくらあっしだっても眼がつくんですよ。それならそうと、出がけからいやいいのに、草香流が湯気をたてているのなんのと荒っぽいことをおっしゃったんで、あっしゃてっきりおどし文句の本尊の根城にでも乗り込むんだろうと肝を冷やしていたんですよ。ここへ来たからにゃ、お蘭しごきもここで染めあげたにちげえねえとおにらみなすってのことでしょうね",
"決まってらあ、江戸紫が紅徳か、紅徳が江戸紫かといわれているほどの名をとった老舗なんだ。加賀百万石の御用染め屋で、お蘭が加州家奥勤めのお腰元だったら、しごきもここが染め元と眼をつけるなあたりまえじゃねえかよ。むっつりしてはおっても、やることはいつだってもこのとおり筋道が通っているんだ、気をつけな",
"ちげえねえ!――おやじ、おやじ、紅屋のおやじ! おまえもちっと気をつけな。むっつり右門のだんなが詮議の筋あって、わざわざのお越しなんだ。気をつけてものをいわねえと首が飛ぶぞッ",
"は……? なんでござんす? やにわとおしかりでございますが、てまえが何をしたんでござんす?"
],
[
"精が出るな、景気はどうかい",
"上がったり下がったりでござんす",
"世間の景気を聞いているんじゃねえんだ。おまえのところの景気だよ",
"下がったり上がったりでござんす",
"味にからまったことをいうおやじだな、お蘭しごきの売れ行きはどんなかい",
"売れたり売れなんだりでござんす",
"控えろ、何をちゃかしたことを申すかッ。神妙に申し立てぬと、生きのいい啖呵が飛んでいくぞッ",
"それならばこちらでいうこと、かりにも加賀大納言さまお声がかりの御用商人でござんす。あいさつもなく飛び込んできて、何を横柄なことをおっしゃりますかい",
"とらの威をかるなッ"
],
[
"この巻き羽織、目にはいらぬかッ。加賀のお城下ならいざ知らず、八百万石おひざもとにお慈悲をいただいておって、何をふらち申すかッ。そちこれなる紺屋たれさまのご允許受けて営みおるかッ、加賀宰相のお許し受けたと申すかッ。不遜なこと申すと、江戸まえの吟味が飛んでまいるぞッ",
"なるほど、いや、恐れ入りました。じつは、そちらのやかましいだんなが、――いや、これは失礼。そちらの威勢のいいだんなが、やにわとおかしなことをおっしゃってどなりつけましたゆえ、つい腹がたったのでございます。なんともぶちょうほうなことを申して、恐れ入りました。ご詮議の筋は?",
"お蘭しごきだ。売れ行きはどんなか",
"飛ぶように、――と申しあげたいが、なんしろ物が駄物と違いまして少々お値段の張る品でござりますゆえ、月々さばけるはほんのわずか、それに染めあげるてまえのほうから申しましても、染め粉はもとより、ちりめんからして吟味いたしまして、織り傷一本、染めみだれひと筋ございましてもはねのけますゆえ、染めあがる品もわずかでござりまするが、売れ行きも月ならしせいぜい三、四十本というところでござります",
"このごろはどうだ",
"さよう? この月の十一日でござりましたか、三十六本仕上がってまいりましたのが、ついさきおとついまでに、みんな売れ切れましてござります",
"買い主はおおよそどっち方面だ",
"下町、山の手、お娘御たちも町家育ちお屋敷者と、ばらばらでござりまするが、まとまったところでは加賀様がやはり――",
"御用があったか",
"へえ、それも珍しく大口で、いま申したさきおとついの日、ひとまとめにして二十五本ほどお納めいたしましてござります",
"なに、二十五本とのう! いちどきに二十五本とは豪儀とたくさんのようだが、加賀家の御用は毎月そんなか",
"いいえ、ちとご入用の筋がござりまして、今度は格別でござります。月々しごきはたかだか三、四本、それもごくふう主のお蘭さまばかりでござりましてな、ご器量もお屋敷第一でござりまするが、ぜいたくもまたお腰元第一とみえまして、同じものをそう何本も何本もどうするかと思いますのに、もうこの半年ばかりというもの、毎月毎月決まって三本ずつご用命いただいておりまするでござります",
"なに! 月に決まって三本ずつとのう! なぞはそれだな",
"は……?",
"いや、こちらのことよ。伝六ッ",
"へ……?",
"おまえのふところ日記のあれは、いつから始まっておったっけな",
"ひやかしゃいけませんよ。三月十二日があれの出始め、いと怪しのほうもその日が初日じゃござんせんか",
"なるほどな。十一日に三十六本染め上がってきて、あくる日から幕があいたか。ちっとにおってきやがった。では、おやじ、その三十六本はもう一筋も残っていねえんだな",
"へえ、さようでござります。毎日毎日のお花見騒ぎで、手代はじめ職人どももみんな浮かれ歩いておりますんで、ここ当分あと口の染め上げは差し控えておりますんでござります",
"いかさまのう――"
],
[
"おやじ! 妙なことがあるな",
"なんでござります?",
"そのいちばん上の型紙よ。たしかにそりゃ手ぬぐいを染めた古型のようだが、違うかい",
"さようでござります。ついきのう染め上げて、もうご用済みになりましたんで、倉入りさせようといま調べていたんですが、これが何か?",
"何かじゃねえや! 梅ばちは加賀家のご定紋だ。縮緬羽二重、絹地のほかにゃ手もかけたことのねえ上物染め屋と名を取った紅徳が、下物も下々の手ぬぐいを染めるたあ、不審じゃねえかよ。どうだい、おかしいと思わねえかい",
"アハハ。なるほど、さようでござりましたか。いかにもご不審ごもっともでござりまするが、いや、なに、打ち割ってみればなんでもないこと、よそへ頼むはやっかいだ、ついでに二十五本ばかり大急ぎに染めてくれぬかと、加賀家奥向きから、ご注文がございましたんで、いたずら半分に染めたんでございます",
"なに、やはり二十五本とのう。百万石の奥女中が、そればかりの手ぬぐいを急いでとは、またどうしたわけだ",
"あす、上野でお腰元衆のお花見がございますんでな、そのご用を仰せつかったんですよ",
"ウフフ。そうかい。――ぞうさをかけた。甘酒でも飲んで、暖かく寝ろよ"
],
[
"あにい。この辺のどこかにかまぼこ屋があったっけな",
"へ……?",
"かまぼこ屋のことだよ",
"はてね。かまぼことは、あの食うかまぼこのことですかい",
"あたりまえだよ",
"ちくしょうッ。さあおもしろくなりやがったぞ。右門流もここまで行くとまったく神わざもんだね。お蘭しごきの下手人がかまぼこ屋たア、しゃれどころですよ。板を背負ってはりつけしおきとはこれいかにとね。ありますよ! ありますよ! ええ、あるんですとも! その横町を向こうへ曲がりゃ、江戸でも名代の伊豆屋ってえのがありますよ",
"買ってきな",
"へ……?",
"三枚ばかり買ってこいといってるんだよ",
"ね……!",
"何を感心しているんだ。うちのだんなは特別食い栄耀のおかただから、いちばん上等をくれろといってな、値段にかまわず飛びきり一品を買ってきなよ。それからついでに、あたりめ甘露煮、なんでもいいからおまえさんの口に合うようなものをいっしょにたんまり買って、酒も生一本を一升ばかり忘れずに求めてな、ほら、一両だ。これだけありゃたっぷりだろう",
"おどろいたな。ちょっと伺いますがね",
"なんだよ",
"なんしろ、陽気がこのとおりの木の芽どきなんだからね。ちょっと気になるんですが、まさかにぽうっときたんじゃござんすまいね",
"染めが違わあ。紅徳の江戸紫だっても、こんなに性のいい江戸前にゃ染まらねえんだ。一匁いくらというような高値なおいらのからだが、そうたやすくぽうっとなってたまるけえ。とっとと買ってけえって、お重に詰めて、あしたの朝ははええんだからな、いつでも役にたつようにしたくしておきな。おいら、ひと足先にけえって寝るからね、おしゃべりてんかん起こして道草食ってちゃいけねえぜ"
],
[
"その鳴りぐあいじゃ切れ味もよさそうだから、威勢ついでにちょっくら月代をあたっておくれよ",
"な、な、なんですかい! ええ! ちょいと! 人を茶にするにもほどがあらあ、だから、ひとり者をいつまでもひとりで寝かしておきたかねえんだ。無精ったらしいっちゃありゃしねえ。寝ていて月代をそれとは、何がなんですかよ",
"何がなんでもねえよ。じゃいじゃいあたりゃいいんだ、早くしなよ",
"いやですよ",
"じゃ、おいていくぜ。おいら、花見に行くんだからね。それでもいやかい",
"てへへへ……そうですかい! そうですかい! ちくしょうッ。いいだんなだね。なんてまあいいだんなだろうな。あたりますよ! あたりますよ! それならそうと、変に気を持たせねえで、はじめからおっしゃりゃいいんだ。あたりますとも! あたりますとも! あたるなといったってあたりますよ! べらぼうめッ。忙しくなりゃがったね。――どこだ。どこだ、金だらいはどけへいったんだよ! てへへ。うれしがって金だらいまでががんがん鳴ってらあ。――ね! ほら! あたりますよ。じゃい、じゃいとね",
"やかましいな。節をつけてそらなくともいいよ",
"よかアねえんだ。威勢ついでにあたれとおっしゃったからね、景気をつけているんですよ。ね、ほら、じゃいといって、じゃいといって、じゃい、じゃいとね。できました、できました。へえ、お待ちどうさま",
"ばかにはええな。まだらにあたったんじゃあるめえね",
"少しくれえあったって、がまんおしなせえよ。こうなりゃはええほうがいいんだからね。お召し物は?",
"糸織りだ",
"出ました、出ました。それから?",
"博多の袋帯だ",
"ござんす、ござんす、それから?",
"おまんまだ",
"ござんす、ござんす。それから?",
"…………",
"え! ちょっと! かなわねえな。もう出かけたんですかい"
],
[
"てへへ。参るほどに、もはや上野でおじゃる、というやつだ。歌人にはなりてえもんだね。ひとり寝るのはいやなれど、花が咲くゆえがまんできけり、というやつアこれなんだ。たまらねえ景色じゃござんせんかい。え! だんな?",
"…………",
"ちぇッ。またそれをお始めだ。世間つきあいてえものがあるんですよ、おつきあいてえものがね。みんなが浮かれているときゃ、義理にも陽気な顔をすりゃいいんだ。しんねりむっつりとまた苦虫づらをやりだして、なんのことですかよ。――よせやい。酔っぱらい。ぶつかるなよ。でも、いいこころもちだね。えへへへ。花は散る散る、伝六ア踊る。踊る太鼓の音がさえる、とね。――よッ。はてな"
],
[
"おつだね。そろいのあの腰の江戸紫がおつですよ。ね、ちょいと。え! だんな!",
"ひとり足りねえようだな",
"なんです、なんです。何がひとり足りねえんですかい",
"しごきも二十五本、手ぬぐいも二十五本、両方同じ数をそろえて加賀家へ納めたと紅徳のおやじがいったじゃねえかよ。だのに、二十四人しきゃいねえから、ひとり足りねえといってるんだ。ちっとそれが気になるが、まあいいや。ひと目に手踊りの見物できるような場所を選んで、早く店を開きなよ",
"話せるね。むっつりだんなになっているときゃしゃくにさわるだんなだが、こういうことになるとにっこりだんなになるんだから、うれしいんですよ。おらがまた気のきくたちでね。おおかた筋書きゃこうくるだろうと、出がけに敷き物をちゃんと用意してきたんだ。へえ、お待ちどうさま。そちらがうずら、こちらが平土間、見物席ゃよりどりお好みしだいですよ"
],
[
"くやしいね。なんてまた色消しなまねするんでしょうね。ちっとほめると、じきにその手を出すんだからね。え! ちょいと! 起きなせえよ!",
"…………",
"ね! だんな!――むかむかするね。酒の味が変わるじゃござんせんかよ、ゆうべ夜中までかかって、せっかくあっしがこせえたごちそうなんだ。せめてひと口ぐれえ、義理にもつまんでおくんなせえよ"
],
[
"お出会いくださいまし!",
"お出会いくださいまし!",
"どろぼうでござります! お山同心さま!",
"くせ者でござります。くせ者が出ましてござります",
"しごきどろほうでござります",
"え! ちくしょうッ。だんな、だんな。出やがった、出やがった。ね、ほら、ほら! あれが出やがったんですよ"
],
[
"それなる町人、ちょうだいいたしとうござるが、いかがでござろう",
"なにッ。尊公は何者じゃッ"
],
[
"ご不審はごもっとも至極、てまえはこれなる巻き羽織でも知らるるとおり、八丁堀の右門と申す者でござる",
"おお、そなたでござったか! ご評判は存じながら、お見それいたして失礼つかまつった。では、この町人たちもなんぞ……?",
"さようでござる。ちと詮議の筋あるやつら、てまえにお引き渡し願えませぬか",
"ご貴殿ならば否やござらぬ。お気ままに",
"かたじけない――"
],
[
"きさま、紅屋の手代だな!",
"えッ――",
"びっくりしたっておそいや! 指だよ、指だよ。両手のその指の先に、藍や江戸紫のしみがあるじゃねえかよ。せがれにしちゃ身なりがちっとおそまつだ。番頭か手代とにらんだが、違ったか!",
"…………",
"はきはき返事をしろい! 気はなげえが、啖呵筋が張りきっているんだ。おまけに、この雨じゃねえか、しっぽりぬれるには場所が違わあ、手間ア取らせねえで、はっきりいいなよ!",
"恐れ入りました。いかにもおめがねどおり、紅屋の手代幸助と申す者でござります",
"と申す者でござりますだけじゃ恐れ入り方が足りねえや。うちで染めて売ったしごきを、こんなにたくさんの人まで使ってとり返すからにゃ、ただのいたずらじゃあるめえ。二度売りやってもうけるつもりだったか",
"ど、どうつかまつりまして、そんなはしたない了見からではござりませぬ。じつは、ちとその――",
"なんだというんだよ",
"ひとに聞かれますると人命にかかわりますることでござりますゆえ、できますことならお人払いを――",
"ぜいたくいうねえ! 啖呵のききもいいが、よしっ引き受けたとなりゃ、人一倍たのもしいおいらなんだ。人命にかかわるならかかわるように、おいらが計ってやらあ。何がどうしたというんだよ",
"弱りましたな。じつは、ちと恥ずかしいことでござりますゆえ、いいや、申しましょう。そういうおことばならば申しまするが、じつはその少々人目をはばかる不義の恋をいたしまして――",
"なんでえ! また色沙汰か。おいらがひとり者だと思って、意地わるくまたおのろけ騒動ばかし起こしゃがらあ。相手の女はどこのだれだよ",
"加賀家奥仕えのお蘭どのでござります",
"へえ。つやっぽい名まえが出りゃがったな。お蘭しごきのご本尊さまが相手かい。それにしても、この騒ぎはどうしたというんだよ",
"どうもこうもござりませぬ。お蘭とてまえは一つ町に育った幼なじみ。向こうは加賀家のお腰元に、てまえは染め物いじりの紅屋さんへ――",
"分かれて色修業に奉公しているうち、とんだほんものの色恋が染め上がったというのかい",
"というわけではござりませぬが、やはり幼なじみと申す者はうれしいものでござります。いつとはなしに思い思われる仲になりましたなれど、てまえはとにかく、お蘭はおうせもままならぬ奥勤め。文一つやりとりするにも人目をはばからねばなりませぬゆえ、お蘭どのが思いついてくふうしたのが、このお蘭しごきでござります。と申せばもうおわかりでござりましょうが、ひと重のしごきをわざわざ二重の袋仕立てにしたというのも、じつはその袋の中へてまえからの文を忍ばせて、首尾よく送り届ける仕掛けのためのくふうでござりました。それゆえ、決まってお蘭どのが月々三本ずつ――",
"よし、わかった。そんなにたくさんいるはずはねえのに、決まって三本ずつ新しいのを買うというのが不審だとにらんでいたが、ほしいのはしごきじゃなくて、おまえの口説をこめた文が目あてだったというのかい",
"さようでござります。この月の十一日にも新規の品が三十六本仕上がりましたゆえ、そのうちの一本にいつものとおりこっそりとてまえの文を忍ばせておきまして、あすにも加賀様から沙汰のありしだい届けようと待ちあぐんでおりましたところ、運の尽きというものに相違ござりませぬ。でき上がったちょうどその日、所用がありまして、ついてまえが店をあけたるす中に、仕上がるのを待ちかまえておりましたものか、ばたばたと十一人ほどのお客さまがあとから買いに参られまして、店の者がまた秘密の文を仕込んだ一本がその中に交じっているとも知らず、どこのどなたか住まいもお名まえもわからぬお客さまがたに売りさばいてしもうたのでござります。それゆえぎょうてんいたしまして、もしや残りの二十五本に交じっていはしないかとさっそく調べようと存じましたが、これがまたあいにくなことには、同じその十一日に、加賀家から二十五本取りまとめて十五日に納入しろとのご用命があったとか申しまして、主人が一つ一つの桐箱に入念な封印をほどこし御用倉へ厳重に納めてしまいましたゆえ、心はあせっても手が出せず、何をいうにも不義はお家の法度と、きびしいおきてに縛られているお屋敷仕えのお腰元でござります。万が一ないしょの文が人手に渡り、ふたりの秘密があばかれましたら、てまえはとにかく、お蘭どのの命はあるまいと、そのことばかり恐ろしゅう思いまして、いろいろ思案いたしましたが浅知恵の悲しさ、そのまにも日がたっては一大事にござりますゆえ、悪いこととは知りながら、ついやるせなさのあまりに、もしかしたら運よく取り返すことができはしないかと、そちらに捕えられている八人のかたがたに旨を含め、お蘭しごきを締めている女を見かけしだい、かすめ取るよう、一本盗みとったら二分ずつ礼をさし上げる約束で、こっそりと文改めしたのでござります。なれども、悲しいかな、どなたの手に渡っているやら、むだぼねおりでござりましたところへ、こん日ここへあのかたがたがそろいのしごきでお花見にお越しとかぎつけましたゆえ、これ屈強と網を張っていたのがこんな騒ぎになりましたもと、それもこれも秘密のその文、見つけたいばっかりの一心でござりました。ありようはそれだけのこと、お慈悲のおさばきいただけましたらしあわせにござります",
"いかにもな。聞いてみりゃたわいがねえが、忍んだ恋ゆえの知恵がくふうさせたお蘭しごきとは、なかなかしゃれていらあ。事がそうと決まりゃ、おまえさんのいい人にも当たってみなくちゃなるめえ。向こうの桜の下に弁天さまが二十四体雨宿りしているようだが、おまえさんがご信心の腰元弁天はどの見当だ",
"それが、じつはおかしいんでござります。あのお腰元連といっしょに来なければならんはずなのに、どうしたことやら、肝心のそのお蘭どのが姿を見せませんゆえ、先ほどから不審に思うているのでござります",
"なに! お蘭がおらんというのかい。しゃれからとんだなぞが出りゃがったな。伝六ッ、伝六ッ。どこをまごまごしているんだ。ちょっくらあそこのお腰元衆のところへいって、お蘭がどうしておらんのか、ついでに二十四本のしごきの中も洗ってきなよ",
"へへんですよ。まごまごしていたんじゃねえ、それをいま洗ってきたんだ。二十五本納めたしごきが花見に浮かれ出たのに一本不足の二十四本とは、これいかにと思ったからね、ちょいと気をきかして当たってみたら、不思議じゃござんせんかい。二十四本のしごきはみなからっぽのぬけがらで、お蘭弁天がまたどうしたことか、きのう急に浅草の並木町とやらの家へ宿下がりを願い出して、それっきりきょうも姿を見せんというんですよ",
"なにッ、そうか! さては、やられたなッ。芽が吹きやがった。ゆうべ八丁堀へこかし込んだあのちゃちなおどし文のなぞが、それでようやく新芽を出しやがったわい。幸助ッ、むろんおまえがおどし文なんぞ、あんないたずらしたんじゃあるめえな",
"め、め、めっそうもござりませぬ。文取り返したさに、この四、五日は無我夢中、どんなおどし文かは存じませぬが、てまえの書いたものは文違いでござります",
"しゃれたことをぬかしゃがらあ。伝六ッ、お蘭の家は並木町のどこだといった",
"かどにかざり屋があって、それから三軒めのしもた屋だという話です",
"眼はそこだ。――お山同心のかたがた! お聞きのとおりでござる。慈悲は東照宮おんみたまもお喜びなさるはず、お召し捕りの八人のやくざ者たちは、百たたきのおしおきにでもしたうえ、放逐しておやりくだされい。――幸助ッ",
"へえ",
"人の色恋のおてつだいはあんまりぞっとしねえが、お蘭しごきのくふうがあだめかしくて気に入った。おいらが慈悲をかけてひと知恵貸してやるからな。そのかわり、今すぐ南町ご番所へ自訴にいって、しかじかかくかくでござりますと正直に申し立てろ。さすれば、しごきをとられたお嬢さんたちの名まえも居どころもわかるはず。わかったら、けちけちしちゃいけねえぜ。おわびのしるしにお菓子折りの一つずつも手みやげにして、とったしごきは返してやりな。いいかい、忘れるなよ",
"ありがとうござります。このとおり、このとおり、お礼のしようもござりませぬ",
"拝むなはええや。無事におったら、お蘭弁天さまでもたんと拝みなよ。伝あにい! 用意はいいのかい",
"いうにゃ及ぶでごぜえます! ちきしょう、雨が小降りになりやがった。散れ散れ花散れ駕籠飛ばせとくりゃがらあ。山下で用意をしておりますからね。二丁ですかい、一丁ですかい",
"おごってやらあ。二丁にしなよ",
"ちぇッ、話せるね。こんなきっぷのいいおだんなを、なんだってまた江戸の女の子がいつまでもひとりでおくんだろうな。ほれ手がなけりゃ、おらがほれてやらあ。待っているからね、ゆっくり急いでおいでなせえよ"
],
[
"だんな、だんな、今ごろになって出りゃがった。変な野郎が、ちょこちょことつけだしましたぜ!",
"ほほう。案の定新芽が出たか。いずれはちゃちな野郎だろうが、念のために首実検しようかい"
],
[
"まず町飛脚という見当かな。黒幕はたしかに二本差しにちげえねえが、あんなやつまで手先に使って、上野へ来たことまでかぎつけて、この山下に張り込んでいたところを見ると椋鳥ゃおおぜいさんかもしれねえや。かまわねえから、ほっときな",
"だ、だいじょうぶですかい",
"いま騒ぎだしゃ、えさがなくなるじゃねえかよ。草香流が節鳴りしてるんだ。こわきゃ先へ飛ばしな"
],
[
"だいじょうぶ、幸助殿御から始終のことはもう承りましたよ",
"そういうあなたさまは!",
"むっつりとあだ名の右門でござんす",
"ま……それにしても、そのあなたさまがまた何しにここへ!",
"心配ご無用。幸助どんからおむつまじい仲を聞きましたんでね。いいや、あんたへ届けるはずの仕掛けしごきが人手に買われて、どうやらその買い主が文を種にあんたをおどしつけていやしねえかとにらみがついたんで、ちょっくらお見舞いに来たんですよ。泣いていたは、にらんだとおりそいつの手がもう回ったんでしょうね",
"そうでござりましたか! それで何もかもはっきり納得が参りました。まちがえて人手に買われたら買われたと、どのようにでもしてひとことそれをわたくしにお知らせくだされば、手だても覚悟もござりましたものを、いきなりさる男がやって参りまして、不義密通の種があがったとおどしの難題言いかけられましたゆえ、どうしようとお宿下がりを願って、このように生きたここちもなく取り乱していたのでござります",
"やっぱりね。おどしのその相手は、いったい何者でござんす",
"それが、じつは少し――",
"だいじょうぶ! おいらが乗り出したからにゃ、力も知恵も貸しましょうからね。隠さずにいってごらんなせえよ。どこのだれでござんす?",
"めぐりあわせというものは不思議なもの、もと同じ加賀様に仕えて、二天流を指南しておりました黒岩清九郎さまとおっしゃるかたでござります",
"やっぱり二本差しだったね。どうしてまたそやつの手にはいったんですかい",
"それも不思議なめぐりあわせ、じつは黒岩さまが今のようなご浪人になったのも、家中のご藩士をふたりほどゆえなくあやめたのがもとなのでござります。さいわい、その証拠があがりませなんだゆえ、ご処分にも会わず浪人いたしまして、今はここからあまり遠くもない下谷御徒町に、ささやかな町道場とやらを開いてとのことでござりまするが、そのご門人衆のひとりの姪御さんとやらが買ったしごきの中に、わたくしあての恥ずかしい文があったとやらにて、不審のあまり清九郎さまに見せましたところ、同じ家中に仕えていたおかたでござりますもの、わたくしの名を知らぬはずはござりませぬ。このあて名のお蘭ならばまさしくあれじゃと、すぐにご見当がつきましたとみえ、ついおとついの日でござります、鬼の首でも取ったような意気込みで不意にお屋敷のほうへたずねてまいり、このとおり不義密通の種があがったぞ、ご法度犯した証拠は歴然、殿のお手討ちになるのがいやなら、くどうはいわぬ、いま一度加賀家の指南番になれるよう推挙しろ、でなくばみどものいうがままにと――",
"けがらわしいねだりものをしたんですかい",
"あい。恥ずかしいことをいいたてて、どうじゃ、どうじゃと責めたてますゆえ、思案にあまり、きょうの晩までご返事お待ちくだされませと、その場をのがれて、ただ恐ろしい一心から、かく宿下がりをいたしましたが、幸助さまにご相談したとてもご心配をかけるばかり。ほかに力となるものとては、おじいさまおばあさまのおふたりがあるばかり、そのふたりもあいにくと善光寺参りに出かけまして、るすを預かっているのはたよりにならぬばあやがひとりきり、困り果ててこのように泣き乱れておりましたのでござります",
"そうでしたかい。黒岩だかどろ岩だか知らねえが、江戸っ子にゃ気に入らねえ古手のおどし文句を並べていやがらあ。ようがす! ちっと気になるやつが、さっき表をうろうろしやがって姿を消したからね。ちょっくら様子を見てまいりましょうよ"
],
[
"冗、冗、冗談じゃねえ、だんな! 払い下げるなら、あっしがいただきますよ! こんなとてつもねえ弁天さまを、なんだってまたそんなにむごいことするんですかよ! べっぴんすぎて、ふらふらとなったんじゃござんすまいね",
"黙ってろい! ついてくりゃいいんだ。もうけえるんだよ"
],
[
"忘れるねえ! これがお江戸八丁堀のむっつり右門の顔だッ。少しはぴりっとからしがきいたかッ",
"なにッ",
"よッ",
"はかったなッ",
"そうよ、知恵の小引き出しは百箱千箱、こうとにらんだ眼は狂い知らずだ。張った捕り網にもこぼれはねえが、草香の当て身にもはずれがねえんだ。菜っ切り包丁抜いてくるかッ",
"ほざいたなッ。うぬにかぎつけられちゃめんどうと、おどしのくぎを一本刺しておいたが、こうなりゃなおめんどうだッ。二天流の奥義、見舞ってやるわッ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年4月14日公開
2005年9月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000587",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "28 お蘭しごきの秘密",
"副題読み": "28 おらんしごきのひみつ",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-04-14T00:00:00",
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"品が違うんだ、品がね。どうせおすけだちをお願い申すんだったら、もっとしゃれた話を持ち込みゃいいのに、たわいもねえことをぎょうさんに騒ぎたてて珍事出来が聞いてあきれるじゃござんせんか。なくなったしろものが出てきたんだったら、橋の上にあろうと、うなぎ屋の二階にあろうと、めでたしめでたしでけっこう話ア済んでいるんだからね。まさかにお出かけなさるんじゃありますまいね",
"…………",
"え! ちょっと!――やりきれねえな、行くんですかい",
"…………",
"ね! ちょっと! 品が違うんですよ、品がね。寺社奉行所にだって人足アいくらでもあるんだからね。越後から米つきに頼まれたんじゃあるめえし、こんなちゃちな詮議にのこのことお出ましになりゃ、貫禄がなくなりますよ、貫禄がね。――え! だんな! ね、ちょっと!――かなわねえな。やけに急いでおしたくをしていらっしゃいますが、まさかにお出かけになるんじゃありますまいね"
],
[
"はええところ、しりっぱしょりでもやりなよ",
"へ……?",
"行くんだよ",
"あきれたね。お江戸名代はいろいろあれど、知恵伊豆様にむっつり右門、この名物があるうちは、八百八町高まくらってえいうはやり歌があるくれえじゃござんせんか、虫のせいでお出ましなさるなら悪止めしやしませんが、江戸に名代のそのだんながお安くひょこひょこと飛び出して、あとでかれこれ文句をおっしゃったって、あっしゃ知りませんぜ",
"うるせえやッ",
"へえへ……おわるうござんした。行きますよ。えええ、参りますとも! どうせあっしゃうるせえ野郎なんだからね。じゃまになるとおっしゃるならば、あごをはずしてでも、口に封印してでもめえりますがね、ものにゃけじめってえものがあるんだ。買って出て男の上がるときと、でしゃばって顔のすたるときとあるんだからねえ。それをいうんですよ、それをね。ましてや、相手は石仏なんだ。ものを一ついうじゃなし、あいきょう笑い一つするじゃなし、――えッへへ。でも、いいお天気だね。え! だんな! どうですかよ、この朗らかさってえものは! 勤めがなくて、ぽっぽにたんまりおこづけえがあって、べっぴん片手に船遊山、チャカホイ、チャカホイ、チャカチャカチャ――と、いけませんかね。けえりに中州あたりへ船をつけて……パイイチやったら長生きしますぜ、ね、ちょいと。またやかましくしゃべってうるせえですかい"
],
[
"ご無理願いまして恐れ入ります",
"どうつかまつりまして、お役にたちますならばいつなりと。――念までもござるまいが、石仏は六基ともそのまま手つけずにお置きでありましょうな",
"はッ。たいせつなご詮議の妨げになってはと存じまして、てまえどもはもとより、通行人どもにも指一本触れさせず、先ほどからずっとこのとおりやかましく追いたてて、お越しをお待ち申していたのでござります",
"それはなにより。てまえの力でらちが明きますかどうか。では、拝見いたしますかな"
],
[
"てへへ、おどろいたね。え! ちょいと! なんてまあこまっけえんだろうね。豆に目鼻をけえたにしても、これほど小さかねえですよ。――ね、和尚、豆大将、おまえさんそれでも息の穴が通っているのかい",
"これはいらっしゃい。おはようございます",
"ウッフフ。あきれたもんだね。生意気に生きていらあ。ね、ちょっと。こんなにこまっかくとも、ちゃんと一人まえにものをいうんですよ。ようよう。笑やがった、笑やがった。気味がわるいね。え! ちょっと! どっちにしてもただものじゃねえですぜ。あつらえたって、こんな小造りなのはめったにできねえんだからね。なんぞこの豆和尚にいわくがあるにちげえねえですぜ"
],
[
"あれは?",
"どうもそれが少しおかしいんですよ。ご詮議のじゃまになるからどけどけといって、どんなにしかっても、あたしがいなくなりますとお地蔵さまが寂しがりますゆえどきませぬと、このように言い張って、先ほどからあそこにちんまりとすわったままなのでござります",
"ほほう。変わったことを申しますのう。何かなぞを持っておるやもしれませぬゆえ、当たってみましょう。――お小僧さん、こんにちは。いいお天気でござりますな",
"はい、こんにちは。わたくしもさように思います"
],
[
"おじさん、遠いところをご苦労でございまするな。お寺ならばお茶なとさし上げられますのに、このようなところではおもてなしもできませず、おきのどくでござります",
"あはは。これはごあいさつ、痛み入りました。お寺ならばと申しましたところをみますと、では、そなた興照寺のお小僧さんでありましょうのう",
"あい。珍念と申します",
"ほほう、珍念さんとのう。姿に似合うたよい名でありますこと。お年は?",
"九つでござります",
"去年は?",
"八つでござりました",
"来年は?",
"十になるはずでござりますけれど、なってみねばわかりませぬ",
"あはは。なかなかりこうなことをおっしゃる。ほんとうにそうでありますのう。あした病気にでもなりましたならば、み仏のおそばへ行かねばなりますまいからのう。そのおりこうなそなたがまた、どうしたわけでお役人のおさしずもきかず、そんなところにすわっているのでござります?",
"いいえ、あの、お役人さまのおさしずにさからったのではござりませぬ。あの、あの――"
],
[
"わたくしは、このお地蔵さまと大の仲よしだからでござります",
"なに! 仲よしでありますとのう。どんなふうに仲がよいのでござります?",
"毎朝毎晩、お水をあげるのもわたくし、お花を進ぜますのもわたくし。このお地蔵さまのお世話は、何から何までみんなこの珍念がしてあげたのでござります。それゆえ、ひと朝なりともお世話欠かしましては、お地蔵さまもさぞかしお寂しかろうと存じまして、けさもこのとおり急いでやって参りました。そこをようごろうじませ。お花もござります。お水もござります。みんなそれは仲よしのこの珍念がお上げ申したのでござります"
],
[
"なるほどのう。では、そなたこの地蔵さまがどうしてこんなところへ、このようなお姿にされて捨てられたか、それもこれもみんなご存じでござりまするな",
"いいえ! 知りませぬ! 存じませぬ! だれがこんなおかわいそうなめにお会わせ申したのやら。きのうの朝でござりました。いつものとおり、お花と水を進ぜに参りましたところ、ふいっとこのお地蔵さまが消えてなくなっておりましたゆえ、わたしを捨ててどこへお逃げなさいましたやらと、ゆうべひと晩じゅう泣いておりましたら、けさほど檀家のおかたが、ここにおいでと知らしてくださいましたゆえ、ころころと飛んでまいったのでござります",
"ほほうのう。では、それゆえなつかしゅうてなつかしゅうて、いかほどお役人がたにしかられましても、おそばを離れることができませんなんだというのでござりまするな",
"あい。そのとおりでござります。それに、このお地蔵さまたちは、うちのお師さまとは因縁の深い、だいじなだいじな守り仏でござりますゆえ、仲よしの珍念がお師さまに代わってお守り申しあげたら、さぞかしお喜びでござりましょうと存じまして、いっしょうけんめいお話し相手になっていたのでござります",
"なに! お師さまには因縁の深いお地蔵さまとのう。どんな因縁でござります?",
"どんなもこんなもありませぬ。この六地蔵さまは、うちのお寺がご本寺の一真寺さまから分かれてまいりましたとき、新寺のお守り仏としていっしょにいただいてまいりました分かれ地蔵でござります",
"といいますると、では、そのご本寺の一真寺とやらにも、これと同じようなお地蔵さまがおありなさるのでござりまするな",
"あい。あちらにも残りのお地蔵さまがやはり六体ござります。合わせて十二体ござりましたゆえ、十二地蔵とも、また女人地蔵とも申しまして、一真寺においでのころから評判のお地蔵さまでござりました",
"なに! 女人地蔵とのう! それはまたどうしたわけからでござります?",
"あちらの六体のお施主も、これをご寄進なさいましたかたがたも、みんなそろうて女のかたばかりでござりますゆえ、だれいうとなく一真寺の女人地蔵といいだしたのでござります。うそじゃと思うたら、おじさんも字が読めるはず、お地蔵さまたちのお背中をようごろうじませ。ちゃんとお奇特なかたがたのお名まえが刻んでござります",
"はあてね。べらぼうめ。おらだっても字ぐれえ読めるんだ。どれどれ、どこにあります? え! ちょいと! 手もなく読んでやるから、どこに彫ってありますかい"
],
[
"そなた、もとよりこの女たちの素姓、お知りでありましょうの",
"いえ。あの……あの珍念はまだ年がいきませぬゆえ、女のことはなに一つ知りませぬ。でも、あの……",
"なんじゃ!",
"そのかたたちはどのような素姓やら少しも存じませぬが、うちのお寺にはたいせつなたいせつなお檀家とやらで、お参詣のたびごとにお師さまもたいそうごていねいにおもてなしでござります",
"ほほうのう。そのお師さまはおいくつくらいじゃ。さだめし、もうよほどのお年でありましょうのう",
"いえ。ことしようやく二十三でござります",
"なに! ただの二十三でござりますとのう。そんなお年で一寺のお住職になられるとは、ちと若すぎるようじゃが、よほどおできのかたでござりまするか",
"あい。お本寺の一真寺のほうにおいでのころから評判のおかたでござりましたゆえ、なくなられました大和尚さまもたいそうお力を入れて、わざわざ今の興照寺をお建立のうえ、ご住職におすえ申しましたとやらいうお話でござります",
"なるほどのう。お姿は?",
"は?……",
"そのお師さまのお様子じゃ。ご美男でござりまするか",
"ええもう、それはそれは、お気高くて、やさしゅうて、絵からぬけ出たように美しい若上人さまでござります"
],
[
"ウフフ。手がかりは何もない。落とし物もなに一つない。あるものはおつむにのっかっている古わらじばかりだとすると、頼みの綱はおいらの知恵蔵一つだ。――干そうぜ!",
"え……?",
"おまえにいってるんじゃねえ。まだちっと季節に早いが、早手回しに知恵蔵の虫干ししようかと、おいら、おいらに相談しているんだ。――珍念さん",
"はい。朝のお斎いただかずに駆けだしてまいりましたゆえ、少しおなかがひもじゅうなりました",
"おきのどくにのう。もうこれでご用済みになるゆえ、はよう帰ってたんといただきなさいよ。そなたのお寺はどこでござる?",
"興照寺ならば、あの……あの、あれでござります。あそこの火の見やぐらの向こうに見える高いお屋根がそうでござります"
],
[
"一真寺は?",
"ご本堂は、ほら、あの、あれでござります。川をはさんでうちのお寺とにらめっこをしている右側の、あの高いお屋根がご本堂でござります"
],
[
"にらめっことはうまいことをいいましたね。ほんとうに、屋根と屋根とがけんかをしているようだ。分かれ地蔵がこのありさまならば、一真寺のお残り地蔵も気にかかる。十八番のからめ手詮議でぴしぴしとたたき上げていってみようよ。――ご出役のかたがた、ご苦労さまでした。ちっと回り道のようだが、これがあっしの流儀です。一真寺のほうから洗ってみましょうからね。この六地蔵さまともども、どうぞもうお引き揚げくださいまし。珍念さんもね、仲よしのお菩薩さまがこのとおりたいへんなおけがだ。こっちのお役人さまにてつだっていただいて、お寺へお連れ申してから、せいぜいお看病してあげなさいよ",
"あい、おじさん。今度またお目にかかりましたら、お地蔵さまともお相談をして、おはぎをどっさりおもてなしいたします。さようなら……"
],
[
"へへえ。いばってやがるね、この寺はこりゃまさしく大師さまですよ",
"偉いよ。おまえにしちゃ大できだ。いかにも真言宗のお寺だが、どうして眼がついたかい",
"バカにおしなさんな。だから、さっきもお断わりしておいたんですよ。あっしだっても字ぐれえ読めるんだからね。この上の門の額に、ちゃんとけえてあるんじゃねえですかよ。一真寺、浄円題とね。浄円阿闍梨といや、天海寺の天海僧正と、どっちこっちといわれたほどもこの江戸じゃ名の高かった真言宗のお坊さんなんだ。そのお坊さまのけえた額がこうして門にかかっているからにゃ、まさにまさしく真言派のお寺にちげえねえですよ",
"ウフフ。なかなか物知りだね。おまえにしちゃ珍しく博学だが、このお寺はどのくれえの格式だか、それがわかるかい",
"え……?",
"寺格はどのくれえだかといってきいてるんだよ",
"くやしいね",
"あきれたな。知らねえのかい。そういうのがバカの一つ覚えというやつさ。定額寺といってね、お上からお許しがなくっちゃ、むやみと山門にこういう額は上げられねえんだ。相撲の番付にしたら、りっぱな幕の内もまず前頭五枚めあたりよ。これからもあることだからね、知恵はもっと細っかくたくわえておかなくちゃ笑われるぜ",
"ちぇッ。ほめたかと思うと、じきにそれだからな。だから、女の子も気を許してつきあわねえんです。しかし、それにしちゃこのお寺、ふところにぐあいがちっと悪いようじゃござんせんかい"
],
[
"不思議なことをしておりますな",
"は……?"
],
[
"真言宗の紫数珠は、たしか一寺一院をお持ちのしるしでござりますはず、ご住職でありましょうな",
"恐れ入りました。いかにも愚僧、当寺の住職蓮信と申す者でござります。あなたさまは?",
"八丁堀の右門にござる",
"おう! そうでござりましたか。ようこそ! では、永代橋のあの一件、お詮議にお越しでござりまするな",
"さよう、この六体はまさしくあちらの分かれ地蔵とはご因縁の女人地蔵とにらみましたが、急にこのような杭垣設けられるとは、どうした子細でござります?",
"あのようなもったいないお姿にされては、ご寄進のかたがたにも申しわけがござりませぬゆえ、盗み出されぬようにと、こうしてきびしく囲うているのでござります。あはは。いや、まったく、用心に越したことはござりませぬ。興照寺のようなおうちゃく寺では、地蔵尊どころか、いまにご本尊さままでも盗まれまするよ",
"聞き捨てならぬことを申されまするが、では、あちらのお住職はご行状がちと――",
"悪い段ではござりませぬ。いかに修行の足らぬ者でござりましょうとも、あれでは少し度が過ぎましょうわい。あはは、河原者ならば男の良いのがとりえでござりましょうが、み仏に仕える者ではな、かえってじゃまでござりましょうよ",
"と申しますると、何か浮いたうわさでも――",
"うわさどころか、兄弟子ながらこの蓮信も、あれではちと目に余るくらいでござります。同じこのお寺で修行をつづけて、本寺、末寺と分かれた仲でござりますのでな、ことごとにかばいだてもいたしまして、悪いうわさの口端に広まらぬようにと、ずいぶん気をつかってでござりまするが、あれこそまったく女地獄、このごろではどういう素姓の者やら、年上のあばずれ者らしい女とこっそり行き来をつづけて、いいえ、もう近ごろはからだに暇さえあると女を寺に引き入れて淫楽三昧でござりますのでな、さすがのてまえも、ほとほとあいそをつかしているくらいでござります。ちょうどいいさいわい、あなたさまからもきびしくお灸をおすえくださりませ",
"なるほどのう。あちらのお住職とは兄弟弟子でござりまするか。それならば、ご心痛なさるのもごもっとも至極、よもや、今のそのお話、うそではござりますまいな",
"もってのほかのこと、不妄語戒、犯すほどのばち当たりでござりましたら、蓮信、この紫数珠を身につけてはおられませぬ。お疑いならば、あちらへ行ってお調べなさるが早道、今も申したとおり、身に暇ができたとならば、きっと女をこっそり引き入れるか、ないしょに女の隠れ家へ忍んでいくか、よからぬ交わりしているはずでござりますゆえ、じきじきにご詮議なさるとよろしゅうござりまするよ。――いや、いううちに、てまえのからだも少し忙しくなったようでござります。ごめんくださりませ。鳶の衆もな、かきねができたらもうご用済みでござりますゆえ、ゆっくりお説教でもお聞きなさいよ"
],
[
"きょうは幾日だっけな",
"へ……?",
"四月の何日かというんだよ",
"はてね。お待ちなさいよ。おついたちの赤のご飯をいただいたのはおとついだから、ええと――ちきしょう、三日なら三日といやいいんだ。まさしく四月の三日ですよ",
"ウフフ。そうかい。道理でな、蓮信上人、忙しくなりだしたとのたまわったよ。おいらも急に忙しくなりやがった。――来な!",
"ど、ど、どこへ行くんですかよ。いやだね、また急に伝六泣かせをお始めですか、三日なら何がどうしたというんですかい",
"決まってらあ。あそこの立て札にもちゃんと断わってあるじゃねえかよ。三日ならばこっちの説教日、こっちが説教日ならば川向こうは暇の日なんだ。蓮信上人、今なんといったのかい。からだに暇さえあれば、興照寺の住持さん、おしろいつけた女仏さまからとんだ極楽の夢を見せてもらっているといったじゃねえか。さらし地蔵のなぞも、そこら辺にしっぽがのぞいているかもしれねえ。だから、その女、張りに行くんだよ",
"ちぇッ。たまらねえことになりやがったね、色和尚、恋の遺恨の鼻欠け地蔵とくりゃおしばやものだ。行きますとも! 行きますとも! しっぽの出てくるところまで行きますよ。からめ手詮議はだんなが得意、いろごと詮議はあっしの得意、坊主がなめりゃ四光とくらあ。――えっへへ。こうなりゃもう気もたってくるが、足もまたはええんだからね。じれってえな。もっと急いで歩きなせえよ"
],
[
"ちきしょう。おあつらえ向きにできてやがるね。船頭、乗ってやるぜ。遠慮はいらねえ。早く出しなよ",
"冗、冗、冗談じゃねえですよ。一真寺のお説教を聞きに来た日本橋のご隠居さんたちが買いきりの船なんだ。二文三文の安お客を乗せる渡しじゃねえんですよ",
"なんでえ、なんでえ。二文三文の安お客たア、どなたにいうんでえ。腰の十手がわからねえか! お上御用でお乗りあそばすんだ。向こうっ岸までとっとと出しなよ!"
],
[
"ちきしょう、あの手この手を出しやがらあ。くやしいね。とんだ引導を授けていやがるんですよ。はええがいいんだ、飛び込みましょうよ!",
"黙ってろ"
],
[
"では、おだいじに。母上にもよろしゅう",
"申しましょう。おまえもたいせつにな"
],
[
"な、な、何がどうしたというんですかよ。せっかくねらいをつけただいじなかもを、あの場になってのがすたアどうしたというんです! え! ちょっと? ご返答しだいによっちゃ覚悟があるんだからね。何がいったいどうしたというんですかよ!",
"ウフフフ。とんだ大われえさ"
],
[
"いったっておまえは承知しめえ。じかに当たってみるほうが早わかりするだろうから、女を洗ってきてみなよ",
"くやしいね! そんなにそでにするなら、ようがすよ。あとであやまりなさんな!"
],
[
"どうだい、あにい。りこうになったろう。きょうだいでござりますといわなかったかい",
"ね……!",
"ねだけじゃわからないよ。いったか、いわなかったか、どっちなんだよ",
"いったんですよ。姉と弟じゃねえ、弟と姉でござりますとね",
"同じじゃねえか。女は水稼業の者だといわなかったかい",
"いったんですよ",
"それから",
"じわりじわりといじくって気に入らねえね。母上があるというんだ、ふたりを産んだおふくろがね",
"決まってらあ。さっきも、ふたりがそれをはっきりいったじゃねえか。よろしく申しましょう、おまえもたいせつにな、とな。だから、きょうだいだなとすぐににらみをつけたんだ。水稼業は何をしているといったんだよ。おそらく、大っぴらに会われねえ商売だと思うが、違うかい",
"そ、そ、そうなんですよ。深川のついこの川上で、湯女をしているんだというんだ。だから、血を分けたきょうだいだが、弟の出世の妨げになっちゃと、世間のてまえもあるんでね、なるべく人に隠れて行き来しているうちに――",
"船で加持祈祷を受けにやって来るにも、まくらがなくちゃ来られねえほど、その姉君が重い病気になったといったろう",
"そうなんです、そうなんです。真言秘密の祈祷を受けに、弟上人のからだの暇を見てはこっそり通ったのが、とんでもないうわさの種になったんでござりましょうというんですよ。したがって、だんなの眼も狂い、あっしが少し男を下げたというわけなんだ。早い話がね",
"おいらの眼が狂ったんじゃねえや。詮議の道が一本、行き止まりになっただけよ。ウフフ。知恵の引き出しをあけ替えなくちゃなるめえッ。二の手をたぐるんだ。さらし地蔵の背中に彫ってあった六人の女を洗ってきなよ。おまえは字が読めるといばったはずだ。覚えているだろう。大急ぎで回ってきな!",
"えっへへ。おいでだね。いずれこんなことにもなろうと思って、ふところ日記にちゃんと所書きも名まえも書き止めておいたんだ。回るはいいが、回って洗って何をするんですかい",
"知れたこっちゃねえか。六人の女の身性がわかりゃ、遺恨の筋にも見当がつくんだ。通し駕籠を気張ってやらあ。あわてねえで、急いで、ゆっくりいってきなよ",
"お手のものだ。だんなは?",
"寝ているよ"
],
[
"バカにしてらあ。六人はね、そろいもそろって大年増ですよ",
"へえ。年増とね。眼がちっと狂ったかな。年増もいろいろあるが、おおよそいくつぐらいだよ。三十五、六か",
"ところが大違い。五十九歳を若頭にね、六十一、六十三、六十八、七十、七十三と、しわから顔がのぞいているようなべっぴんばかりですよ",
"ウフフ。あっはは。参ったね。歯の抜けた年増たア、みごとに一本参ったよ。洗ってきたのはそれっきりかい",
"どうつかまつりまして、いかにもくやしかったからね。事のついでにと思って、一真寺のお残り地蔵のほうも、六人ともにかたっぱし施主の身がらを洗ってみたんだがね。やっぱり……",
"しわ入りのべっぴんかい",
"そのとおり。しかも、金はあるんだ。いろけはねえがね、十二人とも福々の隠居ばかりなんですよ",
"…………",
"どうしたんです! 急にふいっと黙っておしまいなすったが、何かお気に入らんですかい",
"ウッフフ。二本めの道も、またもののみごとに止まったかなと思っているんだよ",
"へ……?",
"裏街道も行き止まりになったというのさ。おいらは寝るよ。あっはは。春のひとり寝はいいこころもちだ。くやしかったら、夜食でも食べにいってきなよ"
],
[
"変な男だね。どうしたんだよ",
"…………",
"ウフフ。おいらのお株を奪って、きょうからはおまえさんがむっつり屋になったのかい。黙りっこなら負けやしねえんだ。五日でも十日でも、あごをなでているぜ",
"だって、くやしいからですよ",
"何がくやしいんだよ",
"うるさくがみがみとやりだしゃ、またおこられるから、あんまりいいたかねえがね、こんなことにでもなっちゃなるめえと思ったればこそ、お気をつけなさいよ、出かけて男の上がるときもあるかわりにゃ、でしゃばって男の下がるときもあるんだからと、あんなに口をすっぱくしていったのに、のこのことお出ましになったんで、手もなく八方ふさがりになっちまったんだ。いやがらせはいいたくねえがね、あっしゃくやしいんですよ。だから、ちくしょう、ひとりで目鼻をつけてやろうと、けさ起きぬけにお番所へ出かけていったら――",
"何がどうしたというんだよ",
"人ごろしがあったっていうんですよ",
"ウフフ。つがもねえ。八百八町は広いんだ。ねこの心中もありゃ、人も殺されるよ。それで、おまえさんは悲しくなって、めそめそとやりだしたというのかい",
"バカにおしなさんな。人が殺されて悲しいんじゃねえんですよ。こっちゃ鼻欠け地蔵の目鼻もつかなくてくさくさしているのに、お番所のやつら、てがらにするにゃはでな人ごろしが降ってわいたというんで、わいわいと景気をつけていたからね。それがうらめしくなって、気がめいったんですよ",
"気の小せえやつだな。日の照るところもありゃ、雨の降るところもあるんだ。殺されたのはいってえ何人だよ",
"四人ですよ",
"身性は?",
"五分月代ばかりですよ",
"へえ。浪人者かい。じゃ、みんなばっさりやられているんだな",
"いいえ、それがちっとおかしいんだ。ふたりは刀傷だが、あとのふたりは血を一筋も出さずに伸びているというんですよ",
"場所は?",
"それもちっとしゃくにさわるんだ。きのう矢来地蔵をこしれえていたあの一真寺の――",
"なにッ。もういっぺんいってみろッ",
"なんべんでもいいますよ。あの一真寺の裏の松平越前様のお屋敷のへいぎわにころがっているというんですよ",
"駕籠だッ"
],
[
"ね……!",
"…………",
"不思議じゃねえですかい。いいえ、くやしかねえですかい。よりによって、一真寺の近くにこんな変な人切り沙汰が起きているんだ。しかも、まんなかのふたりはだれが殺したか、どうして死んだかもわからねえ死に方をしているんだからね。おまけに、両側のふたりもおたげえ頭を向き合わせて死んでいるのが気に入らねえんですよ。きさまはこっちへ向いて死ね、おれもそっちへ向いて死のうと、相談してばっさりやられたわけでもあるめえからね。三町も離れているくせに、仲よく向き合って切られているのがおもしろくねえんですよ。え! ちょいと!",
"…………",
"じれってえね。何がうれしいんですかよ。黙ってにやにやとあごをなでていらっしゃるが、だんなにゃこの死に方がお気に召しているんですかい"
],
[
"毒だ。まさしく、毒薬を仕込んだ酒だよ",
"はてね、気味が悪いようだが、そんなことで毒酒の見分けがつくんですかい",
"ついたからこそ、毒が仕込んであるといったじゃねえかよ。どうまちがっておまえもお将軍さまのお毒味役に出世しねえともかぎらねえんだからね、よく覚えておくといいよ。つめにたまって散りもせず、かわきもしない酒なら毒のない証拠、今のようにしずくをはじいてしまったら、すなわち毒を仕込んである証拠と、昔から相場が決まってるんだ。――おきのどくだが、眼がついたぜ",
"え! フフ、ついたんですかい! ちくしょうめッ。ぞうっと背中が寒くなるほどうれしくなりやがったね。どっちですかい、鼻欠け地蔵のほうですかい、それとも、こっちの死骸の眼ですかい",
"両方よ",
"ちぇッ。たまらねえことになりゃがったね。そもそもいってえ、四人を、四人を、この四人を殺した下手人はどやつですかい",
"すなわち、この四人よ",
"へ……?",
"ひと口にいったら、この四人がこの四人の下手人だというんだよ。身から出たさびさ。――いいかい、よう聞きな"
],
[
"坊主があってな",
"へえへえ。なるほど",
"慈悲忍辱の衣をつけながら、こやつがあんまり了見よろしからざる坊さんなんだ",
"なるほど、なるほど",
"だから、なんの遺恨か知らねえが、ともかくも遺恨があって、あるお寺の分かれ地蔵にけちをつけようと、四人の浪人者に五十両やる約束でそれを請け負わしたのよ",
"いかさまね。それから",
"まんまと六体のお地蔵さまにけちをつけてさらしものにしたからね、浪人のひとりがみんなに代わって、約束の五十両を了見よろしからざるその坊主のところへもらいにいったんだ。しかし、分けまえは人数の多いより少ないほうがよけい取れるに決まっているんだからな、四人より三人で分けようと、金を受け取りにいったやつのけえりを待ちうけておって、まずひとり、ばっさり仲間をばらしたのよ。その殺されたのがすなわちあれさ。あの一真寺寄りのあの死骸だよ",
"へへえね。まるでその場に居合わせたようなことをおっしゃいますが、そんなことがひと目でわかりますかい",
"まだあるんだから黙ってろよ。ところでだ、三人で五十両手にしてはみたが、仲間はひとりでも減るほど分けまえは多くなるんだからな。三人のうちのふたりがしめし合わせて、ひとりを酒買いにやったってのよ。それとも気づかず、一升ぶらさげて帰ってきたところを、ばっさり同じ一刀切りでばらされたのが、酒屋のほうからこっちを向いてのめっているあの浪人者さ",
"ほんとうですかい",
"知恵蔵が違うんだ、知恵蔵のできぐあいがな。そこでだよ、まずこれでしめしめ、五十両は二つ分け、二十五両ずつまんまとふところにしまっておいて、いっぺえ祝い酒をやろうかいと、ところもあろうに道のまんなかで飲みだしたその酒が、あにはからんや毒酒だったのよ。――わかるかい",
"はあてね",
"しようがねえな。酒を買いにやらされたそのやっこさんが、じつは容易ならぬくせ者だったのさ。五十両ひとりでせしめたら、こんなうめえ話はあるめえ、酒を買いによこしたのをさいわい、毒を仕込んでふたりを盛り殺してやろうというんでね、かねて用意しておったのか、それともどこかそこらの町医者からくすねてきたのか、死人に口なしで毒の出どころはわからねえが、いずれにしても使いにいったやつがこっそり一服仕込んで、なにくわぬ顔をしながら帰ってきたところを、毒殺してやろうとねらっていたふたりにかえって先手を打たれて、ひと足先にばっさりやられる、やっておいて毒が仕込んであるとも知らずに飲んだればこそ、因果はめぐる小車さ。このとおり、このふたりが一滴の血も見せず、また命をとられてしまったんだ。ふところから切りもち包みが一つずつ出てきたのがなにより証拠。その酒だるから毒酒の出たのも動かぬ証拠。それでもなおがてんがいかずば、そこのふたりの刀をよく調べてみろよ。あっちとこっちのふたりを、それぞれ一刀切りにしたときの血くもりが、どれかの刀身に見えるはずだよ",
"はてね、――よッ。ありますよ、ありますよ。この右のやつの刀に、まさしく血のりの曇りがありますよ",
"ありゃあもう文句はあるめえ。すなわち、身から出たさび、欲がさせたしわざの果てさ。残るところは、どこのお寺の坊主がこの四人を欲で買ったたか、五十両包みの出どころ詮議だけだよ",
"ね……! まるで神さまみてえだね。頼んだその坊主はだれですかい",
"すなわち一真寺! きのうのあの紫数珠の蓮信坊だよ",
"つがもねえ。どこにそんな証拠があるんですかよ",
"五十両の包み紙から、ぷーんと強く線香のにおいが散っているじゃねえかよ。しかも、まっさきにばらされたあっちの死骸が、いま一真寺から出てきたところでござりますといわぬばかりに、裏門から一本道をこっちへ向いて道なりに倒れているじゃねえか。きのう、なんのかのとおいらに末寺の兄弟弟子のあの美男上人の讒訴をしたのも、今になって思い直してみりゃ気に食わねえんだ。かばうかばうといいながら、その口で弟弟子の根も葉もない悪口を訴えがましくいうやつがあるかよ。ホシはあれだ。来な!",
"ちげえねえ! べらぼうめ、どうするか覚えてろ"
],
[
"むっつり右門の生地を見せてやらあ。ちっと伝法でいくぜ。ネタは悉皆あがったんだ。すっぱりどろを吐きなよ!",
"な、な、なんでござります! 不意に何を仰せでござります",
"しらをきるねえ! そんな見えすいた仏顔は古手だよ。ちゃんとその目にもけえてあるじゃねえか。五十両であの四人を買いましたと、あっさり白状すりゃいいんだ",
"…………"
],
[
"目があるんだ、目がな。おいらの目も安物じゃねえが、み仏のおん目は、三世十方お見通しだぜ。手数をかけりゃ、啖呵にもきっすいの江戸油をかけなきゃならねえんだ。早く恐れ入りなよ",
"…………",
"吐かねえな。かがしてやらあ。この五十両の線香のにおいは、どこのにおいかよ",
"…………",
"ちぇッ、まだ吐かねえのか。じりじりして疳がたかぶってくらあ。じゃ、ぴしぴしとこちらからいってやろうがね。事の起こりゃ、おそらくみんなご坊のあさましいねたみ心にちげえあるめえ。なによりの証拠は、末寺の興照寺と本寺のこの一真寺との景気の違いだ。定額のお許しもねえ興照寺はあのとおりのご繁盛、それにひきかえ、ご本寺はあそこの鐘楼の石がきでもわかるとおり、ちっとご身代が左前のご様子だからな。それゆえに、あの分かれ地蔵を何かよからぬ了見からさらしものにしたとにらんだが、ちがうのかい",
"…………",
"じれってえな。おいらが責めたてると思や腹もたつかしらねえが、啖呵は借りもの、責め手もみ仏のご名代、弘法さまに成り代わって責めているんだ。袈裟のご光、法衣のてまえに対しても申しわけがあるめえ。いいや、仏心をお持ちなら、もっとすなおにざんげができるはずだよ。理にはずれたことアいわねえつもりだ。どうでえ、まだじらすのかい",
"なるほど、いや、恐れ入りました。このうえ隠しだていたしましたら、罪のうえにも罪を重ねる道理、仏罰のほどもそら恐ろしゅうござりますゆえ、白状いたしまするでござります……"
],
[
"何もかもまったくおにらみどおり、あの四人を五十両で抱き込み、いうももったいないあんな所業をさせたのは、みんなこの蓮信でござります。それもこれも、もとはといえば、今おっしゃったおことばどおり、末寺の栄えをそねんでのこと、もとよりもうお調べがおつきでござりましょうが、あちらは新寺でありながら、住職のあの弟弟子に人徳がござりますのか、日に日に寺運が栄えてまいりましたのにひきかえ、当寺は愚僧の代となりましてから、このとおりのさびれかた、――それというのも、あの六地蔵菩薩のお施主たちがたいへんもなくあちらにお力添えくださるからのことでござります。もともと新寺の開運地蔵としてお祭り申しあげるよう、特にあの六体を分けてやったものでござりますゆえ、そのお施主たちがわがことのように、あちらの寺へお力添えなさるはあたりまえでもござりまするし、別してねたむところなぞないはずでござりまするが、これこそほんとうに天魔に魅入られたというのに相違ござりませぬ。新寺の栄えるは、ひっきょう、あの分かれお地蔵六体の寄進者たちがあちらの檀家となってついていったからじゃ、もったいないが、お地蔵さまをおけがし申したら、六人の施主たちも憤るにちがいない。いいえ、盗み出されたり、あんなところへさらしものにされるというのも、みんな住持の不始末からじゃ、不徳からじゃ、だいじに祭ってくれぬゆえ、人目に恥をさらすようなことにもなるのじゃとお怒りなさるは必定、さすればきっとあちらを見捨てて、もとどおりこの本寺の檀家になってくださるだろうと、ついあさはかなことを考えたのが、こんな人騒がせのもとになったのでござります。仏弟子にもあるまじき不浄のねたみ心、まことになんとも面目しだいもござりませぬ……",
"なるほど、そうでしたかい。よく申しました。ちっと心が濁りすぎましたのう",
"は……お会わせする顔もござりませぬ。かくならば覚悟いたしましてござります。わたくしは、このなさけない蓮信は、どうしたら、どう身の始末つけたらよいでありましょう",
"罪を犯したとお思いか!",
"思う段ではござりませぬ。お地蔵さまをおけがし申した罪、そねんだ罪、あの四人をそそのかした罪。――みな罪ばかりでござります。どう……どう身の始末つけたらよろしゅうござりましょう",
"お行きなされい! 寺社奉行さまが、さばきのむちと情とを持って、お待ちかねでござろうわ!",
"なるほど、わかりました……ようわかりました……ならば、自訴しに参りまするでござります……"
],
[
"その乱れた姿で表山門はくぐりにくかろう。いいや、人目にかからば悲しかろう。裏門からお行きなされい。何もかもこの右門胸にたたんで、こっそりお見送り申しましょうわい",
"わかりました。参りまするでござります……"
],
[
"おう! 来ましたのう! 手にささげているはなんじゃ",
"お約束のおはぎでござります。あの、あの、今度おじさんにお目にかかりましたら、お地蔵さまともご相談しておもてなしいたしますと約束いたしましたゆえ、こちらにお越しとききまして、このとおり急いで川向こうから持って参じましてござります",
"ウフフ。賢いことでありますのう。なるほど、そんなお約束をいたしましたな。では、遠慮のういただきましょうよ",
"あい。どうぞたくさん……"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:福地博文
2000年6月5日公開
2005年9月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "000571",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "29 開運女人地蔵",
"副題読み": "29 かいうんにょにんじぞう",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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[
"四谷お駕籠町比丘尼店平助ッ",
"…………",
"平助と申すに、なぜ返事をいたさぬか!",
"へえへえ。鳥目でござえますから、どうかもっと大きな声をしておくんなせえまし……"
],
[
"人を食ったやつじゃ。鳥目ゆえ耳がきこえぬとは何を申すかッ。上役人を茶にいたすと、その分ではさしおかんぞ",
"でも、当節は耳のきこえぬ鳥目がはやりますんで……",
"控えろッ。いちいちと嘲弄がましいこと申して、なんのことかッ。通り名は平助、あだ名は下駄平、歯入れ、鼻緒のすげ替えを稼業にいたしおるとこの調べ書にあるが、ほんとうか",
"へえ、さようで。稼業のほうはたしかにげたの歯入れ屋でごぜえますが、あだ名のほうはあっしがつけたんじゃねえ、世間がかってにつけたんでごぜえますから、しかとのことは存じませぬ",
"控えろッ。ことごとに人を食ったことを申して、許しがたきやつじゃ。比丘尼店家主弥五六の訴えたところによると、そのほう当年八歳になるせがれ仁吉と相はかり、仁吉めが先回りいたしては人目をかすめて玄関先へ忍び入り、はさみをもって鼻緒を切り断ちたるあとよりそのほうが参って、巧みに鼻緒を売りつけ、よからぬかせぎいたしおる由なるが、しかとそれに相違ないか",
"へえ、そのとおりでごぜえます。なんしろ、この長雨じゃ、いくら雨に縁のある歯入れ屋でも上がったりで、お客さまもまた気を腐らしてしみったれになったか、いっこうご用がねえもんだから、親子三人干ぼしになって死ぬよりゃ牢へはいったほうがましと、せがれに緒を切らして回らしたんでござんす",
"なんだと! 雨が降ってお客がしみったれになるが聞いてあきれらあ。雨は雨、お客はお客。槍が降ろうと、小判が降ろうと、人殺しのあるときゃあるんだ。だんな! だんな! ご出馬だッ。穏やかじゃねえことになりやがったんですぜ"
],
[
"右門殿、お声がかかりましてござります! 火急に詮議せいとのお奉行さまお申し付けにござります!",
"えっへへ"
],
[
"うれしいね。扱いが違うんだ、お扱いがね。こそこそと内訴訟してやっとのことお許しが出るげじげじと、お奉行さまおめがねで出馬せいとお声のかかるだんなとは、段が違うんだ。――駕籠のしたくはもうちゃんとできているんですよ、とっとと御輿をあげなせえな",
"…………"
],
[
"ぼんやりしているから、ずらかられちまったんだ。どっちへ曲がったか捜してみろ",
"捜しようがねえんですよ。どこまで姿があって、どこから消えたものか、それがわからねえんだからね",
"文句をいうな! 手下がいのねえやつらだ。所をよく聞かなかったが、人殺しゃどこだといった",
"おどろいたな。あっしどもは、だんなが飛び出したんで、そりゃこそてがら争いとばかり、あとをついてきただけなんですよ",
"いちいちとそれだ。もっと万事に抜からぬよう気をつけろい。たしか北条坂とかいったが、その北条坂はどの辺だ",
"ここがそうなんですよ",
"そんならそうと早くいえッ。殺されたのは小娘だといったはずだ。捜してみろッ"
],
[
"あいすみませぬ。ついそのうっかりいたしまして……ご出役ご苦労さまにござります",
"何がご苦労さまじゃッ。怠慢にもほどがあるわッ。これだけの人殺しがあるのに、ご検視の済むまで見張りをせずにおるということがあるかッ",
"つい、その……なんでござります。あんまり寂しいので、つい、その……",
"言いわけなど聞きとうないわいッ。死骸にはだれもまだ手をつけまいな!",
"いいえ",
"いいえとはどっちじゃ! だれか来たかッ。右門めでもがもう参ったかッ",
"いいえ、あなたさまがお初め、だれも指一本触れた者はござりませぬ",
"それならばそうと、はっきり申せい。手数のかかるやつらじゃ。殺められたのはいつごろか!",
"それがわかりませぬゆえ、ご出役願ったのでござります",
"ことばを返すなッ。これなる死骸の見つかったのはいつごろじゃ!",
"朝の五ツ下がりころでござります。北条坂に小娘が殺されておるとの注進でござりましたゆえ、すぐにここへ出張って、お番所へ人を飛ばせたのでござります。なにしろ、このとおり寂しいところではござりまするし、それにこの雨でござりまするし――",
"うるさいッ。きかぬことまでかれこれ申すなッ"
],
[
"お尋ねはこれでござりましょう。いまかいまかと、お越しになるのをお待ちしていたところでござります",
"なに! その横帳はなんだ",
"身内の売り子の人別帳でござります。麻布で害められたとか申しましたなつの身もとをお詮議にお越しであろうと存じますゆえ、お目にかけたのでござります",
"気味のわるいことを申すやつじゃな、どうしてそれがあいわかるか!",
"えへへ。あっしがそれとにらみをつけたんじゃござんせぬ。つい先ほど右門のだんなさまがのっそりとおみえになりまして、この人別帳をおしらべなすった末に、あとからいまひとりこれに用のある同役が参るはずじゃ、親切に応対してあげい、とのことでござりましたゆえ、いまかいまかとお待ち申していたのでござります"
],
[
"えっへへ。敬だんな、お早いおつきでごぜえましたな。麻布はたぬきの名どころだ。子だぬきにちゃらっぽこやられたんじゃござんすまいね",
"なにッ。早かろうとおそかろうと、いらぬお世話じゃ。どけッ、どけッ",
"きまりがわるいからって、そうがみがみいうもんじゃねえですよ。知恵箱のたくさんあるだんなと、知恵働きの鷹揚なだんなとは、こういうときになって、おのずとやることに段がつくんだ。ここへ先回りしていたのが不思議でやしょう。いいや、不思議なはずなんだ。このあっしでせえ、首をひねったんだからね。ところが、聞いてみると、まったく右門のだんなの天眼通にゃ驚き入るじゃござんせんかい。孫太郎虫の元締めは越中屋新右衛門のはずだ、こっちを洗えば麻布くんだりまで先陣争いに行かなくとも、お先の身もとがわかるじゃねえかよ、とね、あっさりいってネタ洗いに来たのがこれさ。御意はどうでござんすかえ?",
"嘲弄がましいことを申すなッ。こちらにはちゃんと証拠の品が手にはいっているのだ。能書きはあとにしろ"
],
[
"小娘は年のころ十三、四、名まえはおなつ、口にくわえておったか手に握りしめておったかは存ぜぬが、その証拠の品とやらは片そででござらぬか",
"…………",
"いや、お驚きめさるはごもっとも、きのうからきょうへかけて、麻布一円へ呼び商いに出た者は、おなつ、おくに、両人と申すことじゃ。片そでをもぎとられた仕着せはんてんはここにござる。これじゃ。しまがらは合いませぬかな"
],
[
"いかがでござる。合いませぬかな",
"…………",
"いや、お隠しなさるには及びませぬ。貴殿もこれが第一の手がかりとにらんだればこそ、おしらべにお越しでござりましょう。ご入用ならば、手まえには用のない品、とっくりとそでを合わせて、おたしかめなされい"
],
[
"ご異存ござりませねば、てまえ代わって取り調べまする。亭主、神妙に申し立てろよ。上には慈悲があるぜ。くには何歳ぐらいの女じゃ",
"二、二十……",
"二十いくつじゃ",
"三のはずでござります",
"なつと連れだって麻布へ呼び商いに出かけたのはいつじゃ。けさ早くか",
"いいえ、きのう昼すぎからいっしょに出かけまして、ふたりともゆうべひと晩帰りませんなんだゆえ、どうしたことやら、みなしてうち案じておりましたところ、おくにどんだけがけさがた早くこの片そでをちぎられた仕着せ着のままで帰ってくると――",
"うろたえておったか",
"へえ、なにやらひどくあわてた様子で帰りまして、このとおり商売道具も何もかも投げ出したまま、急いで外出のしたくを始めましたゆえ、不審に思うておりましたら、尋ねもせぬに向こうからいうたのでござります。おなつがまい子になったゆえ、これからお願をかけに行くのじゃ、あとをよろしくと申しまして――",
"願かけにはどこへ行くというたか",
"浅草の観音さまへ、とたしかに申しましてござります",
"出かけたときの姿は?",
"日ごろからなかなかのおしゃれ者で、残った金はみな衣装髪のものなぞへ張りかけるほうでござりましたゆえ、けさほどもはでな黄八丈に、黒繻子の昼夜帯、銀足の玉かんざしを伊達にさして、何を急いでおるのか、あたふたと駕籠を気張って出かけましたようでござります",
"その駕籠はどこで雇うたか",
"黒門町手前の伊予源と申しまする駕籠宿からでござります",
"顔だちは? べっぴんか",
"さよう、べっぴんというにはちと縁が遠うござりましょうかな",
"持ち物は?",
"何一つ持たずに、手ぶらでござりました",
"路銀は、いや、金はどのくらい所持しておったかわからぬか",
"きのうがちょうど宿払いの勘定日でござりましたゆえ、きんちゃくの中までもよく存じておりまするが、てまえがたの入費を支払ったあと、まるまるまだ三両ばかり残っておりましてござります",
"男なぞの出入りした様子はないか",
"少しも!",
"しかとさようか",
"なれなれしげに男と話をしていたところさえ見たことがござりませぬ。まして、ここへ男なぞ呼び入れたことは、ついぞ一度もござりませぬ",
"よし。では、くにの荷物、残らずこれへ取り出せい"
],
[
"こいつあおどろいたね。この入梅どきだ、よくきのこがはえなかったもんですよ",
"黙ってろ",
"へ……?",
"敬四郎どのと立ち会いのたいせつな吟味だ。おまえなんぞの出る幕ではないよ"
],
[
"浅草へ行くわい! かってにせい!",
"えへへ。すうっとしやがったね。浅草へ行くわい、かってにせいがいいじゃござんせんか。くしだんごのところへ行きたくも、あば敬にゃこの判じ絵がかいもく見当がつかねえんですよ。知恵はふんだんに用意しておくものさあ。すっかりうれしくなりやがった。こうなりゃもう遠慮はいらねえんだからね。さあ、出かけましょうよ"
],
[
"偉そうな口をおききだが、そういうおまえはどうだい。みごとにこれがわかるかよ",
"へ……?",
"このくしだんごのなぞが、おまえさんにおわかりか、といってきいてるんだよ",
"バカにおしなさんな、こんなものぐれえわからなくてどうするんですかい。まさにまさしく、こりゃ墨田の言問ですよ",
"偉い! 偉いね。おまえにしちゃ大できだが、どうしてまたこのだんごを言問と判じたんだよ",
"つがもねえ。お江戸にだんご屋は何軒あるか知らねえが、どこのだんごでも一くしの数は五つと決まっているのに、言問だんごばかりゃ昔から三つと限っているんだ。だから、この絵のところへ来いとあるからにゃ、墨田の言問へ来いとのなぞに決まっているんですよ。どんなもんです。違いましたかね",
"偉い! 偉い! 食い意地が張ってるだけに、食べもののことになると、なかなかおまえさん細っかいよ",
"えへへ。いえ、なに、べつにそれほど細かいわけでもねえんだがね。じつあ、六、七年まえに、いっぺんあそこで食ったことがあってね、そのときやっぱり三つしきゃ刺してなかったんで、ちくしょうめ、なんてけちなだんごだろうと、いまだに忘れずにいるんですよ。べらぼうめ、さあ来いだ。食いものの恨みゃ一生涯忘れねえというぐれえなんだからね。言問とことが決まりゃ、七年めえからのかたきをいっぺんに討つんだ。駕籠屋駕籠屋。墨田までとっぱしるんだよ"
],
[
"名物、だんご召し上がっていらっしゃいまし",
"雨でご難渋でござりましょう。一服休んでいらっしゃいまし"
],
[
"雨で客足がのうていけませぬな。あの笠は?",
"あれは、あの……",
"おうちのものか",
"いいえ、あの、闇男屋敷の七造さまがお掛けになっていったものでござります",
"なにッ、不思議なことをいうたが、今のその闇男屋敷とやらはなんのことじゃ!",
"ま! だんなさまとしたことが、向島へお越しになって闇男屋敷のおうわさ、ご存じないとは笑われまするよ。ここからは土手を一本道の小梅へ下ったお賄い長屋に、市崎友次郎さまとおっしゃるお旗本がござりまするが、そのお組屋敷のことでござります",
"なぜそのような名がついたのじゃ",
"それが気味のわるい。なんでも人のうわさによりますとな、ご主人の友次郎というは、お直参はお直参でも二百石になるかならずのご小身で、お城の賄い方にお勤めとやら聞いておりましたが、ついこのひと月ほどまえから、まだ二十五、六のお若い身そらでござりますのに、奇妙な病に取りつかれまして、なんでも昼日中お出歩きなさりまするとそのご病気が――",
"決まって出ると申すか",
"そうなんでござります。お年も若くて、まだおひとり身で、このあたりまでもひびいたご美男のお殿さまでござりますのに、どうしたということやら、日のめにお会いあそばすと、にわかにからだが震えだすのじゃそうでござります。それゆえもうお勤めも引き下がり、昼日中はまっくらなお納戸へ閉じこもったきりで、お出歩きは夜ばかり、明るいうちはひと足も外へお出ましにならず、このひと月あまりというものは友次郎さまのお姿も見たものがござりませぬゆえ、だれいうとなく闇男じゃ、闇男屋敷じゃといいだしたのでござります"
],
[
"またそれだ。きょうばかりゃゆうちょうに構えている場合じゃねえんですよ。あば敬と張りあってるんだ。まごまごしてりゃ、今度こそほんとうにてがらをとられちまうじゃねえですかよ",
"…………",
"ね! ちょっと! いらいらするな。ホシゃ七造だ。あの巡礼笠の主の七造めがどこへうせたか、はええところ見当をつけなくちゃならねえんですよ。あごなんぞいつでもなでられるんだ。勇ましくぱっぱっと起きなせえよ!",
"うるさい。黙ってろ。その七造を待っているんじゃねえか。七年まえの恨みがあるとかいったはずだ。だんごでも食いなよ",
"え……?",
"えじゃないよ、何かといえばすぐにがんがんやりだして、のぼせが出るじゃねえか。下男だか若党だか知らねえが、その七造が判じ絵文の書き手、おくにの誘い手、ふたりでいち早く巡礼に化けてからどこかへ高飛びしようと来てみたのが、道行き相手のおくにめがまだ姿を見せねえので、あの笠を目じるしに掛けておきながら、浅草へでも捜しがてら迎えに行ったんだよ。闇男屋敷とやらにも必ず何かひっかかりがあるにちげえねえ。いいや、気になるのはその浅草だ。あば敬の親方、へまをやって、女も野郎もいっしょに取り逃がしたかもしれねえから、むだ鳴りするひまがあったら、ひとっ走り川を渡って様子を見にでもいってきなよ",
"ちぇッ。うれしいことになりやがったね。事がそうと決まりゃ、たちまちこの男、ごきげんが直るんだから、われながら自慢してやりてえんだ。べらぼうめ。舟の中で恨みを晴らしてやらあ。ねえさん! だんごを五、六本もらっていくぜ"
],
[
"おそかった! おそかった! だんな、やられましたよ!",
"なにッ。ふたりとも逃がしたか!",
"いいえね、女が、女が、おくにめがね",
"おくにがどうしたんだよ",
"仁王門の前でばっさり――",
"切り口は!",
"袈裟だ!",
"敬大将は!",
"まごまごしているばかりで、からきし物の役にゃたたねえんですよ"
],
[
"袈裟がけならば、切り手は二本差しだな",
"へ……?",
"黙って食ってりゃいいんだよ。道の奥にゃ突き当たりの壁があるといっておいたが、案の定これだ。追いかけた肝心のおくにが、死人に口なしにかたづけられておったとあっちゃ、敬だんな、さぞやしょげきっていたろうな",
"ええ、もう、歯を食いしばっちゃ、ぽろり、ぽろりとね",
"あの男が!",
"そうですよ。泣いているんですよ",
"きのどくにな。運がわりいんだ。おめえでさえも判じのつく言問だんごを、今まで食わなかったのが運の分かれめなんだ。あの判じ絵のなぞが解けりゃ、こっちへ来たのにな。食いものだってバカにするもんじゃねえよ",
"そうですとも! ええ、そうですよ!",
"つまらねえところへ感心するない! 七造はどうした。それらしい姿もねえか",
"いりゃあ取り逃がす伝六じゃねえんだが、やつがそれじゃねえかと思やみんなそれに見え、そうじゃあるめえと思やみんなそうじゃねえように見えるんでね。まごまごしているうちに、舟がひとりでにここへ帰ってきちまったんですよ。へえ、舟がね"
],
[
"おかしいな。いくら女は身じたくがなげえからって、もう来そうなもんだがな",
"あれだ! 七造だ! とって押えろッ"
],
[
"七造、おくには浅草で殺られたぞッ",
"えッ。――そ、そ、そりゃほんとうですかい!",
"一刀に袈裟切りだ。切り手は、おまえの判じ文にこっちがあぶなくなったとあったその相手に相違ねえが、そいつはだれだ。おまえたちがこわがったその相手は、どこのだれだ",
"ちくしょうめ、とうとうばっさりやりやがったんですかい。おくにはあっしのだいじな妹でござんす。無慈悲なまねしやがったとありゃ、こっちもしゃくだ。一つ獄門に首をさらすように、何もかもしゃべっちまいましょうよ。孫太郎虫の小娘おなつを絞め殺したのはこのあっし、てつだわせたのは妹おくに、殺せと頼んだのは、だれでもねえ闇男屋敷のおふくろと、その兄の宗左衛門でござんす",
"闇男本人の友次郎とやらはかかわりないか!",
"あるもないもねえ、友次郎だんななんぞ、もうとっくに死出の旅へお出かけですよ",
"なにッ。この世の人でないと申すかッ",
"ひと月もまえにお死になすったんですよ。それもただ死んだんじゃねえ。お直参が情けないといえば情けない、おかわいそうにといえばおかわいそうに、首をくくって死んだんでござんす。闇男のうわさのひろまったもそれがもと、なつを殺すようになったもそれがもと、なにもかも宗左衛門と友次郎だんなのおふくろが、悪党働きやがったから起こったことなんでござんす",
"どんなわるだくみじゃ",
"どうもこうもねえ、あっしゃ渡り中間だから主筋の悪口いうってえわけじゃござんせんが、お旗本のうちにも、ああいう名ばかりお直参の、うすみっともねえ根性の人がいるんだから、世間はさまざまですよ。もっとも、事の起こりゃただの二百石という貧乏知行のせいですがね。お賄い方なんてえお役向きからしてが、はぶりのいいもんじゃねえ。しかし、ひと粒種の友次郎だんな、いかにも男がようござんしたからね。上役の、お賄い方支配頭の、大沢高之進様に、あんまりべっぴんじゃねえお嬢さまがおあんなすって、これがつまりぽうっとなっておしまいなすったんですよ。ほかの殿御はいやじゃ、世の中が二つに裂けても、友次郎さまに添わしてたも、でなければ死にまする、死にますると、命を張ってお見そめなすったのが騒動の起こりとなったんでござんす。さっそく高之進さまがやって来て、もらってくれという、上役のお嬢さまだが、いい男がなにもすき好んで醜女といっしょになるがところはねえんですからね。友次郎だんなはいやだという。それならおふくろと親類から説きつけて、ということになって、高之進さまが、伯父御の宗左衛門と、おふくろに当たってみたところが、このふたり、欲の皮が突っ張ってるんだ。上役の大沢さまと婿しゅうとの縁を結べば出世も早かろう。知行高もじきふえよう、持参金も千や二千はというんで、なにごとも家門のためだ、器量三年、気心一生、ましてやお嬢さまがお見そめとあれば一生おまえをなめるほどおかわいがりくださるんだから、喜んでお受けしろとばかり、おためごかしをいって、いやがるのをむりやりかってに結納まで取りかわしたんですよ。ところが、その晩、忘れもしねえがひと月まえの夜ふけでござんす。友次郎さまが先ほどもいったように、ぶらりと首をつっておしまいなすったんでね。おどろいたのはおふくろと宗左衛門のふたり。たったひとりのご子息に死なれちゃ、お家は断絶、跡目がたたねえからね。わるい知恵の働く兄妹とみえて、さっそくくふうしたのが――",
"闇男の細工か!",
"そうなんでござんす。せっかくできかかった金のつるを飛ばしたんでは、いかにも残念。七造、おまえも出世のできることだ、力を貸せといってね、それにはまず第一、友だんなさまの死んだことを世間に隠さなくちゃならねえからと、からくり細工の闇男をでっちあげて、いもしねえおかたがありもしねえ病気にかかったように触れ歩きながら、姿は見せぬがさもさもまだこの世にいるように見せかけておいて、いっしょうけんめいに替え玉になるような顔だちの似た男を捜し歩いたんですよ。その捜し手に頼まれたのが、殺された妹のおくになんでござんす。国は越後だが、江戸へ来るたんびにちょくちょくあっしをたずねてお屋敷へも来たことがあるんでね、友だんなさまの顔だちはよく見知っておるし、なにをいうにも、稼業が世間の広い孫太郎虫売りだ。あっちこっちと江戸のうちを売り売り捜しているうちには、ひとりくらいうり二つという町人衆が見つかるだろう。町人衆ならばわけを話して身代わりに抱き込んだら、一生旗本暮らしに出世のできることなんだから、二つ返事で承知するだろうとね、毎日毎日、妹が捜し歩いているうちに――",
"よし、もうわかった。その秘密をいっしょに売り歩いていたおなつがかぎつけたんで、むごいめに会わしたというのか!",
"そうなんでござんす。子どもだ、だいじょうぶでござんしょうといったが、宗左とおふくろがどうしてもきかねえんで、きのう夕がた、麻布へおびき出し、この手で絞めたのが天罰てきめん、おくにといっしょにお屋敷へ帰って、せめても景気をつけようと酒をあふっていたら、事のついでだ、影武者捜しはほかの者を使って捜してもおそくはない、小娘を殺さしてはみたが、人ひとりやってみれば世間が騒ぐだろうし、下郎の口がいつ割れるともかぎるまいから、ふたりもかたづけようとね、宗左たちめが相談しているところをちらりと聞いたんで、判じ文を妹にこっそり渡しておいて、ここから巡礼落ちをしようとしたんでござんす。申し立てにうそはござんせぬ。こうなりゃおくにのかたき、切ったやつはまさしく宗左衛門に相違ござんせんから、お慈悲だ、やつらの首もいっしょに獄門台へ並べておくんなさいまし……"
],
[
"ひとっ走り、行きましょうかい。人足ならば伝六ってえいう生きのいいのがおりますぜ",
"…………",
"はええがいいんだ。行けっておっしゃりゃ、ひと飛びにいってめえりますよ"
],
[
"知恵箱、小出しにしてやらあ! 七造!",
"へえへえ、なんでもいたしますよ",
"しかとやるか!",
"やりますとも!",
"宗左衛門は、今、どこにいるか",
"ゆうべから人殺し騒ぎがつづいているんだからね、今だってもきっとお屋敷にやって来て、兄妹ふたり、わるだくらみをしているに相違ねえですよ",
"よしッ。来い! ひと狂言、あざやかなところを書いてやらあ。伝六、小梅まで早舟の用意だッ。早く仕立てろッ",
"ちくしょうめ。さあおいでだぞ。金に糸目はつけねえんだ。船頭、急げ、急げ"
],
[
"あの二つめのお長屋がそうですよ",
"よしッ。では、七造、玄関先へいって呼びたてろ。口止め金を百両くださらば一生口をつぐみます。くださらなければ、今すぐお番所へ駆け込み訴訟をいたしますぞと、大声で呼んで逃げ帰ってこい! 追っかけてこの屋敷をひと足外へ出りゃ草香流だ",
"心得ました"
],
[
"魚心がありゃ水心だ。百両出すか、出さねえか。出さなきゃ三尺たけえ木の空へ、うぬらの首もいっしょに抱きあげてやるぞッ",
"なにッ。バカな! 七か! 何をたわごと申すんじゃ。まてッ、まてッ"
],
[
"うぬは!",
"右門でござる",
"計ったか! 老いても市崎宗左衛門じゃ。手出しができるなら出してみろッ"
],
[
"七造、おとなしゅう行けよ。ふびんとは思うが、小娘ひとりあやめたとあっては、おさばきを待たねばならぬ。右門には目がある。お慈悲のありますよう、取り計らってやるぞ。わかったら行け",
"行きますとも! だんなさまになわじり取っていただけますなら、どこへでも参ります……"
],
[
"だんなへ……",
"なんだよ",
"いい気性だな。あっしゃ、あっしゃ……泣けてならねえ、泣けてならねえ……"
]
] | 底本:「右門捕物帖(三)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年1月14日公開
2005年9月23日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
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"作品名読み": "うもんとりものちょう",
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[
[
"なんじゃ",
"変なものだぞ"
],
[
"水死人があるかもしれぬぞ",
"のう……!",
"いずれも懐中にさしている品ばかりじゃ。このようなところへ捨てる道理がない。入水いたした者の懐中から抜けて浮きあがったものに相違ないぞ。土手に足跡でもないか"
],
[
"だれか一騎、すぐに屯所へ飛べッ",
"心得た。手はずは?",
"厳秘第一、こっそりお組頭に耳打ちしてな、足軽詰め所へ参らば水くぐりの達人がおるに相違ない。密々に旨を含めて、五、六人同道せい"
],
[
"城外へ漏れてはならぬゆえ、そのことくれぐれも心して、たち騒がずに見張りせいとのお達しじゃ。お組頭はあとからいますぐ参られるぞ",
"足軽たちは?",
"いっしょに来るはずじゃ、それから……",
"だれかほかにご城内からお検分にお越しか",
"いいや。どういうおつもりか、お組頭、ちとふにおちぬことをされたわい。密々の早馬、すぐに八丁堀へ飛ばしてのう、だれか知らぬが火急に呼び招いた様子でござるぞ",
"ほほう。なるほど、さすがはお組頭じゃ。八丁堀なら、おおかた――"
],
[
"浮いているのはどの辺じゃ",
"あのまんなかでござります",
"いかさま、女物じゃな。だれぞひとり、はようあのふた品をこれへ、残りはすぐさま水へくぐらっしゃい"
],
[
"いのちには替えられませぬ。あそこばかりは二度ともう――",
"たわけッ、いのちに替えられぬとは何をいうかッ。いいや、なんのためにお禄米をいただいているのじゃ。もいちど行けいッ"
],
[
"あそこばかりは二度ともう――",
"うぬらもかッ",
"でも、気味がわるくて近よれませぬ",
"死骸か! 死骸が気味わるうてよりつけぬと申すかッ",
"いいえ、何もござりませぬ。死骸はおろか何一つ怪しいものは見えませぬのに、どうしたことか、あそこへ近よりますと身のうちが凍えるように冷たくなりまして、ぐいぐいと気味わるく引き入れられそうになりますゆえ、いかほどしかられましても、てまえどもの手には合いませぬ"
],
[
"そんなバカなはずはない。寄りつけないというはずがない。だれぞ勇を鼓して、いまいちどくぐる者はないか",
"…………",
"戦場と思うたら行けるはずじゃ。だれもおらぬか!"
],
[
"わざわざお呼びたてつかまつって恐縮にござる",
"いや、てまえこそ……"
],
[
"ご城内のことは、われら町方同心ふぜいの差し出らるべきはずござりませぬが、特にてまえをお呼び出しは、あなたさまのお計らいで?",
"いや、かねがね伊豆守様が仰せでのう。手にあまる変事出来の節は、八丁堀に一人心きいた者がおるゆえ、忘れずに、とご諚ござったゆえ、その一人とは貴殿よりほかにござるまいと、とりあえず早馬さしあげたのじゃ",
"なるほど、知恵伊豆様のおさし金でござりましたか、その変事とやらは?",
"女持ちのこのふた品じゃ、かような品が浮いているからには、昨夜のうちに入水した女があったに相違ない。しかし、外濠ならいざ知らず、このあたりは知ってのとおり、夜中の通行はご禁制の場所、ましてや、われわれお濠方が見まわっておるのに、その目をかすめて女が水死いたしたとすれば、容易ならぬ変事に相違あるまいと察したゆえ、騒ぎの大きくならぬうちに、尊公のお力を借りてと、火急にこっそりお招き申したのじゃ",
"なるほど。なまめかしい品々でござりまするな。浮いていた場所は?",
"ほら、あのまんなかを見られよ。ぶくぶくと、ときおりあわが吹いておるところがござろう。あのあたりひとところを離れずに、ゆらりゆらりと漂っていたのじゃ。それゆえ、不審はまずあの一カ所と、このとおり、水練に達者な者どもをさっそくかしこへくぐらせてみたが、奇態でござるわい。どうしたことやら、名うての泳ぎ達者どもでさえが、魔に吸いこまれるようなここちいたして、寄りつかれぬと申すのじゃ",
"なに、魔に吸いこまれるようなここちいたしますとのう。ほほう。あそこでござりまするな"
],
[
"かしこへは寄りつかれぬも道理、おそらく隠し井戸の一つがござりまして、どうしたことか、たぶん吹き井戸の水道が切れましたために、かえって地の底へ濠水を吸い込んでおるに相違ござりませぬよ。あのあわを吹いておるのがなによりの証拠、底知れぬ穴へ水がしみ入っているゆえ、ぶくぶくとあわだつのでござります。アハハハ……幽霊の正体見たり枯れ尾花とはまさにこのこと、これなる扇子と懐紙入れがあの一カ所から離れなかったのも、かしこの水がうずというほどのうずでないうずを巻いているため、水もろとも穴の底に引きつけられて、ぐるぐるあのまわりを漂っていたに相違ござりませぬ",
"いかさまのう。なぞが解ければ恐るるところはない。どこかほかのところに骸が沈んでいるはずじゃ。手を分けて残らず捜してみい"
],
[
"あの水門は?",
"何がご不審じゃ?",
"いつもは締まっておるはず、どうしてあいておるのでござります?",
"なるほど、あれでござるか。長つゆで上の濠水が増したゆえ、土手を浸さぬようにとあけさせておいたのじゃ"
],
[
"ならば、下のこの濠を捜すより、上の濠をお捜しなさるが早道、あちらの水底をさぐってごらんなさりませい",
"なに、それはまたどうしたわけじゃ。上の濠をさらえとはなにゆえじゃ",
"下の濠にこのふた品が浮いていたゆえ、入水の者はこの水底に沈んでおると見るはおしろうと考え、あのとおり水門から今もなおこちらへ濠水が流れ込んでおりますからには、このふた品もまた上から流れてきたものかもしれませぬ。右にすきあると思わば左をねらえとは剣の極意、道こそ違え吟味詮議もまたそれが奥義でござります。右門のにらんだことに狂いござりませぬ。ものはためし、あちらを捜させてごらんなさりませい"
],
[
"ありました! ありました! たしかに死骸がござりまするぞ!",
"なにッ、あったか! やはり女か!",
"しかとはわかりませぬが、どろへ深くはまっておりまして持ちあげられませぬ。みな手を貸せい!"
],
[
"たまらねえね。こういうなぞたくさんの変事になると、知恵蔵もたくさんあるが、切れ味もまたいいんだから。え? だんな。遠慮はいらねえんだ。ちょっくら小手しらべに、正宗、村正、はだしというすごいところをお目にかけなせえましよ",
"うるさいよ",
"へ……? これっぱかりしゃべってもうるさいですかね。お将軍さまのお寝間へちけえと思って、大きに遠慮しているつもりなんですがね。あっしがものをいうと、何をしゃべってもうるさいですかね",
"それがうるさいというんだ。黙ってろ"
],
[
"大小の重みぐらいで今までこの死体の浮き上がらなかったのがいかにも不思議、どろへはまっておったと申されたが、どのくらい深くうずまっておりましたか",
"一尺ほどでござりました。いや、もっと深かったかもしれませぬ。両方のたもとに大きな石がふたつずつはいっておりましたのでな、頭をさかさまにめりこんでおりましたよ",
"なに! さかさまにめり込んでおりましたとのう! どうやらそのぶんでは、まず十中八、九――",
"乱心ざたの入水か!",
"いえ、おそらくさようではありますまい。よしやどろが深かったにしても、頭をさかさまにしてはまっておったというのが不思議。ましてや、二本差す身でござります、入水などと恥多い死に方をするはずござりませぬ。何か容易ならぬ秘密がありましょうゆえ、さしでがましゅうござりまするが、ともかく死体を一見させていただきましょう"
],
[
"案の定――",
"毒死か!",
"さようでござります。一服盛ってから、石の重りをつけて沈ましたものに相違ござりますまい。事がそれと決まりますれば――"
],
[
"お刀番でござりまするな",
"なに! お刀番?――お刀番出仕のものなら、てまえ知らぬでもない。死に顔をよく拝見いたしましょう"
],
[
"まさしく、中山数馬じゃ!",
"存じ寄りのおかたでござりまするか!",
"話したことも、つきあったこともないが、てまえの叔父が富士見ご宝蔵の番頭をいたしておるゆえ、ちょくちょく出入りいたしてこの顔には見覚えがある。たしかにこれはご宝蔵お二ノ倉の槍刀剣お手入れ役承っておる中山数馬という男じゃ"
],
[
"ご城内奥女中のご用品でござりまするな",
"な、なぜおわかりじゃ! なぜこれが奥女中の品とおわかりじゃ",
"この紅いろ扇子がその証拠。骨に透かしがござります。紅いろ透かし骨の扇子といえば、日本橋石町たらちね屋が自慢の品物、たしか大奥にも出入り御用を仰せつかっているように聞いておりましたゆえ、奥女中の持ちものとにらんだだけのことでござります",
"灯台もと暗しとは、まさしくこれじゃのう。お城仕えのわれわれが存ぜぬとはうかつ千万、面目次第もござらぬわい",
"えへへ。いえなに、知らねえのはお互いさまでね。知らぬあんたがたが別段うかつというわけじゃねえんだ。おらのだんなが、すこうしばかり物を知りすぎているんですよ。ね、だんな。事ははええがいいんだ。大奥であろうが、天竺であろうが、人を殺した女をのめのめ見のがしておいたら、八丁堀の恥になるんだからね。どんどんと乗りこんでめえりましょうよ",
"うるさい。黙ってろ!"
],
[
"ご貴殿は?",
"なんじゃ",
"やはり蔵人様のお組下でござりまするか",
"さよう。三宅平七という者じゃ。御用あらば、いかほどなりとお力になってしんぜまするぞ",
"なによりでござります。事は密なるが第一。蔵人様、しばらく三宅氏をお借り申したいが、いかがでござりましょう",
"異存のあろうはずはない、いかようなりと",
"かたじけのうござります。右門、これをお引きうけいたしましたからには、必ずとも変事のなぞ解いてお目にかけますゆえ、なにとぞお心安う。――では、三宅どの、ちとお耳を拝借願いとうござりますゆえ、あちらへお越し願えませぬか"
],
[
"貴殿ならばご城内のこと、奥も表もあらましはお通じのはず、お知り人もたくさんござりましょう。もしや、だれか大奥お坊主衆におちかづきはござりませぬか",
"あるとも! われわれお濠方はお庭番同様、ご城内の出入りはお差し許しの身分ゆえ、お城坊主衆ならば残らずちかづきじゃ。何かご用か",
"ご存じならば、お坊主衆にひとりぜひ用がござります。おくびょう者でひときわ口やかましい者、お心当たりござりませぬか",
"あるある! お鳥係りに可賀と申すおしゃべり者のいたってひょうげたやつがひとりおるわい。用ならば、今からすぐにでもお引き合わせつかまつるぞ",
"では、さっそく――",
"えへへ。うれしいことになりやがったね"
],
[
"これはこれは、わざわざてまえをお名ざしで御用とは、近ごろ冥加のいたりでござりやす。八丁堀ご名物むっつり右門とおっしゃりますそうなが、御用の筋はなんでおじゃります。てまえはお鳥係り。烏は唐の金鶏鳥、四国土佐のおながどり、あるはまためじろ、ほおじろ、うぐいすならば鳴き音が千両、つるに、ひばりに、恋慕鳥、別して大奥のお女中がたは、この恋慕鳥が大の好物でござりやす。御用はその鳥に何か?",
"アハハ。なるほど、ききしにまさるお口達者でござりまするな。そのぶんならば、ずんと頼みがいもありましょう。ちと異なお願いでござりまするが、てまえは今おおせのその右門、けさほど牛ガ淵でゆゆしき変事がござりましたのでな。ぜひとも今明日中に、大奥仕えのお女中残らずをお詮議いたさねばなりませぬ。それゆえ、じつは、そなたさまのお口達者なところを見込んで、今より大奥女中残らずへ――",
"吹聴せいとのお頼みでござりますか",
"さようさよう、なにしろたくさんなご人数、それにとつぜん参りましたら、お気の小さいお女中がたでござりますゆえ、さぞかし肝をお冷やしなさるであろうと存じまして、特に前もってお吹聴願いたいのでござります。いかがでありましょうな",
"いや、ぞうさもないこと。千人、二千人おりましょうとも、この可賀が引きうけましたからには、お茶の子さいさいでござりやす。あなたさまはいま八丁堀でお名うての知恵巧者、むっつり右門が乗りこんだからには、ただでは済みませぬぞ、と、このように少しく色をつけて、すみからすみまでずいと触れ歩きまするでござります。ご用はそれだけで?",
"さようじゃ。なるべくお早くのう",
"心得まして候じゃ。では、またのちほど",
"いや、ちょっと待たれよ"
],
[
"なんぞお考えあってのことでござりましょうが、城内の手入れはいうまでもないこと、大奥お手入れとならば、手続きがなおさらめんどう、あのように吹聴させて、大事ござらぬか",
"そのご懸念ならば、手つづきせずとも、たぶん伊豆守様が――"
],
[
"いずれは伊豆守様のお耳へはいるは必定、はいればたぶん伊豆守様がにやりとお笑いあそばしまして、右門やりおるなと、お黙許くださるに相違ござりませぬ。可賀どの、ではなにぶんともによろしゅうな",
"万事は可賀が胸のうち、お羽織のひもでござりやす"
],
[
"三宅氏、お手数でござった。伝六! 用はすんだ。八丁堀へ帰ってひと寝入りしようぜ",
"ね……!"
],
[
"早く行くんだよ",
"どこへ行くんですかい",
"おまえの兄弟分のところへ、大急ぎに行くんだ。きのうのあのお番屋へ行って、だれかに取り次いでもらえば会えるから、至急に駕籠で可賀をここへ連れてくるんだよ",
"…………",
"変にしょげているな。おまえらふたりがしゃべりだしたら、年の暮れでなくちゃ帰ってこねえかもしれねえ。いい気になってしゃべりはじめちゃいけねえぜ",
"あれにゃとてもかなわねえんです。だから、しょげもするじゃねえですか。なんとなく、おら、おもしろくねえや……"
],
[
"いや、これはこれは。またまたお名ざしのお呼びたてで、可賀、恐縮でござりやす。きのうお申し伝えのことをな――",
"ご披露くださりましたか",
"それはもうてまえのこと、そこに抜かりのあるはずはござりませぬ、さっそくに奥女中がた残らずへ吹聴いたしましたら、みな、みなもう――",
"どんな様子でござった",
"色も青ざめて震えあがり、なんでござりましょうと、おどろくかと思いのほかに、女というものはなんともいやはや奇態な生き物でござります。ふふんと横を向いて相手にいたしませぬのでな、愚老もとんと張り合いぬけいたしまして、おしゃべり損かと思うておりますると、ここにいぶかしきはただひとり――",
"来ましたか! うろたえて、そなたに、なんぞ聞き尋ねに参った者がござったか!",
"ござりました、ござりました。名は岩路、御台さま付きの腰元が、なにやらうろたえ顔にこっそりと参りましてな、いやはや、根ほり葉ほりききますことききますこと。右門とやらは何を詮議にお越しじゃ、どのようなことをそなたにおいいじゃ、牛ガ淵で何をお見つけじゃ、と、おしゃべりのてまえもほとほともて余すほどうるさくききましてござりやす。そのうえ、急にけさほど――",
"宿下がりいたしましたか!",
"さようでござりやす。気分がすぐれぬとか申して、てまえがこちらへ出かける半刻ほどまえに、親もとへ帰りましたげにござりやす",
"家はどこじゃ!",
"神田鍛冶町、御用お槍師、行徳助宗というが親でござりやす",
"よしッ。それだ! 伝六ッ"
],
[
"ホシはその女だ! 駕籠だよ! 駕籠だよ!",
"偉い! さすがだね"
],
[
"黙っていると、われながら勘がよくなるとみえらあ。偉いね、さすがにだんなですよ。密々に詮議をしなきゃならんものが、わざわざ吹聴させて何をするかと思っていたんですが、これこそほんとうに右門流だね。だんなが乗りこむと聞いたら、胸に覚えのある女がさぞかしあわてだすだろうというんで、ちょっとひと出し、知恵の袋を小出しにしたんですかい",
"決まってらあ。お鳥係りのお坊主を使って鳥網を張ったというなこのことよ。近ごろ珍しい、ほめてつかわす。お駄賃に駕籠をおごってやるよ",
"かたじけねえ! 可賀の大将、こうなりゃおしゃべりっくらに負けはとらねえんだ。小道具に使ってしまえばもう用はねえからね、口もとの明るいうちにとっとと帰ってくんな!"
],
[
"おまえさんが岩路というんだろうね",
"…………",
"ほほう。親が槍師だ。武物を扱う稼業だけに、いくらか親の血をうけているとみえて、強情そうだね、そっちが一本槍で来るなら、こっちは七本槍で責めてやらあ。まずお顔を拝見するかね",
"…………",
"手向かったら、だいじなお顔にあざがつきますよ。おとなしくこっちへ向けりゃいいんだ。――ほら、こうやって、そうそう。ほほう、なかなかべっぴんさんだね。いい女ってえものには、とかく魔物が多いんだ。むだはいわねえ。なんだって中山数馬さんをあんなむごいめに会わしたんですかい",
"…………",
"思いのほか手ごわいね。女が強情張るぐれえたかがしれていらあ。むっつり右門の啖呵と眼の恐ろしさを知らねえのか! べらぼうめ、責め道具は掃くほどあるんだ。名こそ書いてはねえが、この扇子もおまえさんの品のはずだ。この懐紙入れもおまえさんがたいせつにしていた持ち物のはずだ。いいや、もっと急所があらあ、やましくもねえものが、可賀に張らした網にひっかかって、目のいろ変えながらこんなところへ逃げだすはずはねえんだ。べっぴんならべっぴんらしく、きれいにどろを吐きなせえよ",
"…………",
"笑わしやがらあ、おいらを相手にどうあっても強情を張るというなら、手近な責め道具をほじくり出してやりましょうよ"
],
[
"こりゃなんだッ、この名はなんだ",
"あッ! 知りませぬ。知りませぬ。なんといわれても……なんといわれましても……"
],
[
"いかほど、どれほど責められましても、わたくし、中山様に毒など盛った覚えござりませぬ",
"それみろッ。とうとういっちまったじゃねえか。それが白状だ。身に覚えのねえものが、中山数馬の毒死を知っているはずはねえ。だれからそれを聞いたんだ",
"えッ……",
"ウフフ、青くなったな。りこうなようでも、女は女よ。可賀にさえも毒死の一件はあかさなかったんだ。話しもせず、しゃべらせもしなかった毒のことを、おまえさんばかりが知っておるはずはねえよ。手間をとらせりゃ、こっちの気もたってくる。気がたてば、情けのさばきもにぶる。どうだ、むっつり右門とたちうちゃできねえぜ。もうすっぱりと吐いたらどんなものだよ",
"…………"
],
[
"申、申しわけござりませぬ……いかにもわたくし、下手人でござります。なれども、これには悲しい子細あってのこと、父行徳助宗は、ご存じのように末席ながら上さま御用鍛冶を勤めまするもの、事の起こりは富士見ご宝蔵お二ノ倉のお宝物、八束穂と申しまするお槍にどうしたことやら曇りが吹きまして、数ならぬ父に焼き直せとのご下命のありましたがもと、そのお使者に立たれましたのが中山数馬さまでござりました。さそくに沐浴斎戒いたしまして、焼き直したところ、未熟者ではござりましたが、父も槍師、さすがはお名代のお宝物だけありまして、穂先、六尺柄の飾り巻きともどもいかにもおみごとな業物ぶりに、なんと申しましょうか、魅入られたといいまするか、心奪われたと申しまするか、ゆゆしきご宝物と知りつつ、父が手ばなしかねたのでござります。なれども、いかように執心したとて、ものがもの、日限参らばお倉へ納めねばならぬお品でござりますゆえ、とつおいつ思案したうえに、とうとう父が恐ろしい悪心起こしました。穂先、飾り柄ともににせもの打ち仕立て、そしらぬ顔で納めましたるところ、かりにもご宝蔵を預かるお番士の目に、真贋のわからぬ道理ござりませぬ。わけても中山さまは若手のお目きき、ひと目ににせものとお見破りなさりましたが、人の世のまわり合わせはまことに奇しきものでござります。その中山さまが、ふつつかなわたくしふぜいにとうから思いをお運びでござりましたゆえ、女夫の約束すれば一生口をつぐまぬものでもないと、父をおどし、わたくしをお責めなさりましたのが、運のつき、父の悪業ひたかくしに隠そうと、心染まぬながらとうとうこの飾り綿まで受け取らねばならぬようなはめになったのでござります。なれども、恋ばかりは……真実かけた恋ばかりは……",
"ほかにまえから契った男でもござったか!",
"あい。名はいいませぬ! たとい死ぬとも、あのかたさまのお名はいいませぬ! 同じお城仕えのさるかたさまときびしいご法度の目をかすめ、契り誓ってまいりましたものを、いまさら中山さまのごときに身をまかするは、死ぬよりもつろうござりましたゆえ、いっそ、もう事のついでに――",
"よろしい。わかった。毒くらえばさらまでと、数馬に一服盛ったというのであろうが、しかしちと不審は女手一つで中山数馬の死体をあの濠ぎわまで運んだことじゃ。名をいえぬその男にでも力を借りたか!",
"いいえ、結納つかわしたならば、式はまだあげずとも、もうわがもの同然じゃ、意に従えと口くどうお責めなさりますゆえ、では、あの牛ガ淵の土手のうえでお待ちくださりませ、心を決めてご返事いたしますると、巧みにさそい出し、お菓子に仕込んだ毒をそしらぬ顔で食べさせたのでござります。あとはおしらべがおつきでござりますはず、ただ一つ死体を沈めるおりに、あやまって懐中のふた品を濠に落としたのが、悪運の尽きでござりました……",
"あたりめえよ。悪運が尽きねえでどうするかい。その八束穂のご宝物はどこへやった",
"いえませぬ! そればかりはいえませぬ!",
"なに! また強情張りだしたな。では、親の助宗はどこへうせた! 姿が見えぬようじゃが、いずれへ逃げた?",
"そ、それもいえませぬ! 父はあのお槍に魅入られておりまする。思えばその心根がいっそふびん、せ、せめてもこのわたくしが、ふびんなその父への孝道に、最、最後の孝道までに、いいませぬ! 口がさけても申しませぬ……ご、ごめんくださりませ!"
],
[
"ウフフ。どうだよ、伝あにい。まずざっとこんなものだ。むっつり右門の目が光ったとなると、事は早いよ。野郎め、お槍をひっかついで高野へとっ走ったぜ",
"はてね、高野とね。お大師さまが何かないしょでおっしゃりましたかい",
"いったとも! いったとも! あの女、なかなかしゃれ者だよ。行き先を聞きたけりゃあの世へ来いとぬかしたが、お大師さまがこのとおりちゃんとあの世からおっしゃっていらあね。このご尊像があるからには、宗旨は高野山だ。おまえなぞ知るめえが、高野はこの世のあの世、ひと足お山の寺領へ逃げ込めば、この世の罪は消滅、追っ手、捕り手、入山禁制のお山だ。この世を逃げても、せめてご先祖だけはいっしょにと、位牌を背負ってとっ走ったにちげえねえよ。山へ入れたら指をくわえなくちゃならねえ! まだとっ走って一刻とはたつめえから、早だッ。宿継ぎ早の替え駕籠二丁仕立てろッ。ここからすぐに追っかけるんだ",
"ちくしょうッ。たまらねえね。とっ走りを追っかけて、遠っ走りとはこれいかにだ。お大師さま、たのんますぜ! さあ来い、野郎だッ"
],
[
"できましたよ! ひと足おくれりゃ、野郎め、ひと足お山へ近くなりゃがるんだ。急いだッ、急いだッ",
"あわてるな"
],
[
"ああ苦しい、なんとか鳴りつづけていきてえんだが、声が出ねえや。だんなえ! このあんばいじゃ、助宗の野郎も、早駕籠を飛ばせていったにちげえねえですぜ",
"決まってらあ。だからこそ、こっちも早にしたんじゃねえか。いよいよ箱根だ。一杯ひっかけて、景気よく走ってくんな!"
],
[
"お槍を持って逃げたとしたら、長柄物所持うんぬんのお定め書きにひっかかって、お取り調べをうけているはずじゃ。伝六、大声で呼びたてろッ",
"よしきた。ご開門を願います。江戸よりの早駕籠でござります。この木戸、おあけ願いまする!",
"なにッ、また早駕籠とな! よく早駕籠の通る晩じゃな。まてッ、まてッ。そらッ、はいれッ"
],
[
"ただいま、異なことを仰せられたな。よく早駕籠の通る晩じゃというたようじゃが、われらの駕籠の前にも通りましたか",
"一刻ほどまえに一丁通りおった。それがどうしたのじゃ",
"われら、ちと不審あって江戸より追っかけてまいったもの。もとより、お改めのうえお通しでござろうが、人相風体、通行申し開きの口上はどのようでござった",
"どのようもこのようもござらぬわい。年のころは五十がらみ。御用鍛冶、行徳助宗、将軍家御台所のお旨をうけ、要急のご祈願あって、高野山へお代参に参る途中じゃ、とこのように申し、御台さまのお手形所持いたしおったゆえ、否やなく通行許したのじゃ",
"なに! お手形まで所持しておったとのう!……"
],
[
"長柄物、所持してはおりませなんだか",
"長柄物?",
"槍でござる",
"おらぬ、おらぬ。そのようなもの目にかからば、おきてお定め書きにもあるとおり、証文の吟味もうけるべきはず、いっこう見かけなんだわい",
"それはちと奇態、なんぞ変わったところ、目にとまった覚えござらぬか",
"さようのう……いや、あるある、一つ覚えがござるわい。駕籠の肩棒が並みよりも少々太めで、きりきり白布で巻いてござったが、変わったところといえばそのくらいじゃ",
"それこそまさしくお槍! 六尺柄の肩棒とは、ちょうどあいあいの長さじゃ、容易ならぬことになり申したぞ。番のおかた! 上役のおかたはおりませぬか! おはようこれへお出会いめされいッ"
],
[
"容易ならぬくせもの、まんまと当関所を破ってござる。お力借りたい、火急にお手配くだされたい",
"貴殿は?",
"江戸八丁堀、近藤右門と申す者じゃ",
"なに、ご貴殿がのう。ご姓名は承っておらぬでもないが、関所のおきて、なんぞお手あかし拝見つかまつりたい",
"取り急いでまいったゆえ、ご奉行さまお手判は所持しておらぬが、これこそなによりの手あかし、ご覧召されい"
],
[
"何よりたしか、よろしゅうござる。いかにも力お貸し申そうが、手配のてはずは?",
"今よりただちに早馬飛ばさば、じゅうぶんにまだまにあいまするはず、一騎か二騎か、火急に三島へ飛ばして、宿止めするよう、お計らいくだされい",
"口上は?",
"江戸より急ぎのご宝物、ご通行とお触れくださらばけっこうでござる",
"心得た。二騎すぐに行けいッ"
],
[
"伝あにい、これでどうやら少し涼しくなった。そろそろ三島へ下るかのう",
"わるくねえ筋書きだね。お関所の早馬が宿止めだと止めたところへ、あとからのっと降りていってね、御用だ、神妙にしろと大みえをきるなんてえものは、まったく江戸のあの娘たちに見せてえもんですよ"
],
[
"行徳助宗、神妙にしろッ",
"えッ……"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年2月12日公開
2005年9月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"下りだよう。急いでおくれよう、舟が出るぞう――",
"待った、待った。だいじなお客なんだから、ちょっと待っておくれよ!"
],
[
"では、おだいじに……",
"ああ、ご苦労さん。ふたりとも無事に着いたと、おやじさまたちによろしくいっておくれ",
"へえへえ。かしこまりました。奥さま、かさを! かさを! おかさを忘れちゃいけませんよ。もう今夜から天下晴れてのご夫婦ですもの、なかよく相合いがさでいらっしゃいまし……"
],
[
"ばあや。ばあや",
"あら、まあ! 若だんなさまじゃござんせんか! この降りに、どうしたんでござんす!",
"来たくなったから急に来たのよ",
"なんてまあお気軽なおかたでござんしょう。でも、ゆうべお嫁さんをもらったばかりで、まだろくろく式も済まんじゃござんせんか!",
"だから来たのさ。店にいたんじゃ、わいわいとお客がうるさくて、自分のお嫁さんだか人のお嫁さんだかわからないからね。こっちへ逃げてきたら、しみじみと話もできるだろうと思って、こっそりやって来たんだよ。早くしたくをしておくれ",
"なるほど、そうでござんしたか。ほんにそのとおりでござんす。日本橋ではお客ばかりでゆるゆるおやすみなさるところもござんすまいからね。ええもう、こっちならば何をあそばそうと、目のあいている者はこのばあやばかりでござんす。そのばあやの目も、近ごろはとんと鳥目になりましてね。これはこれは、若奥さまでござりまするか、――お初にお目にかかります。いいえ、もう恥ずかしがるところはござんせんよ。お嫁にいらっしゃった晩はどなたもそうなんでございますからね。わたくしだっても、今はこんなに年が寄りましたが、昔はやっぱりお嫁にもいきましてね。そうですとも! ええ、ええ。万事このばあやが心得ておりますから、ちっとも恥ずかしいことなんかござんせんよ。じきにもうだんなさまがかわいくなりましてね。ええ、ええ、そうですとも! そうですとも!",
"もういいよ! ばあや! そんなにつべこべといろいろなことをいえば、よけい恥ずかしくなるじゃないか。早くしたくをおやり",
"はいはい。では、まずお湯のかげんでも見てまいりましょうよ、あちらでごゆっくり――"
],
[
"おまえ、胸がどきどきしているんじゃないかえ",
"あんなことを……",
"なんだかこうそわそわとして、へんにうれしいね",
"そうですとも! ええ、ええ、だれだってうれしいもんですよ"
],
[
"ちょうど上かげんでございます。情が移ってようござんすからね。仲よくごいっしょにおはいりなさいまし",
"よかろう! どうだい! おまえはいるかい",
"でも……",
"だいじょうぶ。だれも見ちゃおらんからはいろうよ",
"…………",
"恥ずかしいことなんかありゃしないよ。ね、ばあや。それが夫婦じゃないか。いっしょにはいったって、おかしくないやね",
"ええ、ええ、そうですとも! これがおかしかったら、おかしいというほうがおかしいですよ。ここの寮のお湯殿は、とても広くてせいせいしておりますからね、仲よくふたりで水鉄砲でもして遊ぶとようござんすよ"
],
[
"大急ぎだ。だれでもいい! すぐにだれかお使いを呼んできておくれッ",
"ど、ど、どうしたんでございます! 奥さまが何かおけがでもしたんでございますか",
"そんなこっちゃない! もっとたいへんなことなんだ。早くだれか呼んでくりゃいいんだよ!"
],
[
"何がいったいどうあそばしたのでございます",
"おまえの知ったこっちゃない! 呼んでくりゃいいんだ! 早くお行き!",
"はいはい、参ります! 参ります! 近所といっても、ここでは法泉寺一軒きりでございますからね。寺男でも頼んでまいりましょう。それでようございましょうね",
"けっこうだとも! 早くしておくれ!"
],
[
"早く! 早く! 早くしておくれ! 大急ぎだよ! 川を越したら駕籠をを飛ばしてね、このあて名のところへすぐ行っておくれ",
"わかりました。八丁堀ですね",
"ああ、八丁堀だよ。右門のだんなさまといやあ、すぐわかるはずだからね。ほら、お使い賃をあげます。人に知られると、女房が、いや、女ひとり死ぬようなことになるかもしれんからね。右門のだんなさまにも、なるべくこっそりこの書面をお渡ししておくれ――"
],
[
"だいじょうぶだいじょうぶ、今さらくよくよ心配したとてどうなるもんでもない。気を大きく持っていなくちゃいけないよ",
"…………",
"なんだね。泣いてばかりおって、しようがないじゃないか。もう少しのしんぼうだから、しっかりしておいでよ"
],
[
"どこだ、どこだ。入り口ゃどこだよ。この家にゃ目も鼻もねえじゃねえか。ちょうちんをつけな! ちょうちんをな! 観音さまへ行きゃ大きなやつがぶらさがっているから、なければあれを借りてきなよ",
"あッ、お越しだ。ただいま、ただいま。ただいまおあけいたします……"
],
[
"ようこそ、お出ましくださりました。てまえが幸吉、わざわざお呼びたていたしましてあいすみませぬ",
"…………",
"あの、あの、てまえが書面のぬしの幸吉でござります。何やらご不興の様子でござりますが、何かお気にさわりましたんでございましょうかしら……",
"大さわりだ",
"では、あの、お力をお貸しくださるわけにはまいりませぬか",
"あまりぞっとせぬが、たっての願いとあればしかたがない。ほかの仁に頼むとよかったな",
"ごもっともでござります。いわば私事でござりますゆえ、重々ご迷惑と存じましたが、なにしろ親兄弟にもうっかりとは明かされぬないしょごとでござりまするし、家内めもほかのおかたにお願いして世間に知れたら生きてはおれぬと申しますゆえ、だんなさまなら必ずともに他人へ知れぬよう、ご内密にご詮議くださることと存じまして、失礼ながらあのようなお願いの書面をさしあげたのでござります",
"伝六は喜ぶだろうが、身どもにはありがた迷惑だったかもしれぬのう",
"へ? なんですかい。あっしが何をどうしたというんですかい",
"黙ってろ。まだはめをはずすには早いんだ。おまえには目の毒、おれには虫の毒、こういう色っぽい詮議をすると、二、三日おまんまがまずいから二の足を踏んだが、すがられてみりゃいやともいえまい。実物を見せてもらおう。花嫁御はどこだ",
"奥でござります。おい。冬! 冬! だんなさまがお力をお貸しくださるとおっしゃいましたぞ! もう心配はない! はよう来てお見せ申せ!",
"…………",
"何を恥ずかしがっているんだ。右門のだんなさまにお見せ申すんなら、ちっとも恥ずかしいことはない。早くせんか!"
],
[
"なかなか珍しい彫りでござるな。書面によると、当人も知らなかった、そなたも知らなかった、だれも知らなかった。だれも知らぬうちに彫られたとあったが、ほんとうか",
"ほんとうとも、ほんとうとも、そのとおりでござります。いいえ、この幸吉が神にかけてお誓いいたしまする。実を申せば、てまえとこれなる冬は町内どうしで、小さいうちから知った仲でござりました。浮いたうわさ一つあるでなし、夜ふかし夜遊び一つするでなし、隠し男はいうまでもないこと、町内でも評判のほめ者ござりましたゆえ、親たちも大気に入り、てまえも心がすすんでゆうべ式をあげ、天にものぼるような心持ちでここへやって参り、うちそろうていましがたお湯を使おうといたしましたところ、はしなくもこのいれずみが目に止まったのでござります。てまえもぎょうてんしましたが、当人の冬は気を失わんばかりにおどろきまして、知らぬことじゃ、覚えないことじゃ、だいいち喜七という男がどこの人やら、それすらも心当たりがないと申しますゆえ、ただごとならずと、さっそくにだんなさまのところへお願いの書面さしあげたのでござります",
"まことならばいかにも不思議じゃが、冬どのとやらもそのとおりか",
"あい。いつこのようないたずらをされましたやら、少しも覚えござりませぬ。知っておりましたら、いいえ、いいえ、このようなはしたないものを腕に入れておりましたら、いずれはわかること、わたくしとても、そしらぬ顔でとついでまいられるはずはござりませぬ",
"このまえお湯にはいったはいつでござった",
"きのうの夕がた、里を出るまえでござります",
"そのときは別条ありませなんだか",
"ござりませぬ! ござりませぬ! 夕がたお湯を使って、お化粧をしていただいて、式へ参りまして、それからこちらというものは、ただいまここへ参りまするまで横になるおりもないほど忙しゅうござりましたゆえ、いつこんなにだいじな膚をけがされましたのやら、気味がわるいのでござります……",
"なるほどのう。いや、しかと拝見いたしました。もうけっこう、膚をおさめなされい"
],
[
"不思議なものがござりまするな。なんの灸でござる",
"にんにく灸のあとでござります",
"なに? にんにく灸とのう! あまり耳にせぬが、なんの病にきくお灸じゃ",
"これをいたしますれば、とついでから気欝の病にかからぬとか申しまして、ゆうべ式へ出がけに、姉さまがわざわざおすえくださったものでござります",
"姉?",
"あい。なくなった母さまの代わりになって、わたくしと弟を育てあげてくださった姉でござります",
"ほほうのう。いや、もうよろしゅうござる。キリシタンバテレンのしわざなら格別、さもないかぎりは、ひとりでにいれずみが膚に浮き上がるはずもござるまい。なんとか詮議の道もたとうゆえ、それまではまずまず仲むつまじゅう語り暮らすが肝心じゃ。――いずれまたのちほど、おじゃまでござった"
],
[
"寝るか",
"へ……?",
"うちへ帰って寝ようじゃないかといっているんだよ",
"ちぇッ。つがもねえ、何をもったいつけていうんですかい。夜が来りゃみんな寝るに決まってるんだ。わざわざおおぎょうに断わらなくてもいいんですよ。足もとがふらふらしていらっしゃるが、日ごろ偉そうなことをおっしゃって、だんなもあのべっぴんの雪の膚を見てから、脳のかげんがちっとおかしくなったんじゃござんせんかい",
"やかましいや! 早く船の勘考でもしろい"
],
[
"騒々しいな。どこのどいつだよ!",
"…………",
"人に頼まれて寝てるんじゃねえんだ。いくらたたいたって、気に入るまで寝なきゃ起きねえよ。こんな朝っぱらから、いったい何の用があるんだ"
],
[
"物にはほどってえものがあるんだ。あっしゃ朝湯のけいこをするために生まれてきたんじゃねえんですよ。あっしをゆで殺す了見ですかい!",
"でも、さっき出がけに、おまえ、たいそうもなく大口をたたいたじゃねえかよ。朝湯ならいちんちはいったっても飽きがこねえとかなんとかいってね。まだ日が暮れるまでには間があるよ",
"いちいちと揚げ足を取りなさんな! 物にほどがありゃ、ことばにだっても綾があるんだ、綾ってえものがね。いちんちはいっていたら朝湯じゃねえ、晩湯になるじゃねえですかよ。何が気に入らなくて、あっしをこんなにゆであげるんです! え! ちょっと! あっしのどこがお気にさわったんですかい!"
],
[
"あにい、りっぱな看板だな。ほれぼれしたよ",
"それほどでもねえんですがね。だんなも彫りはお好きですかい",
"好きなればこそ目についたんだ。いかにも胸のすくような朱色だな。さだめし、名のある彫り師だろうが、どこのだれだ",
"それがちっと変わっておりましてね、評判のたつのを当人が好かねえんで、あんまり世間に知られちゃおりませんが、神田の代地の伊三郎ってえいうちょっと気性の変わった名人はだの親方ですよ",
"道理でのう。おれも江戸の彫り師なら五、六人名のある男を耳に入れていねえわけじゃなかったが、このつぶし朱彫りだけは見当がつかなかった。彫り師によっちゃ、いっさい女の膚を手がけねえのがいるようだが、大将はどっちだい。女も彫るのかい",
"彫る段じゃござんせぬ。一生に若い女を千人彫ってみてえと、千人彫りの願までたてているとかいう話ですよ",
"なに! 若い女!――におってきやがったな! 伝六! 伝六!",
"…………",
"何をふうふうゆだっているんだ。話ゃ聞いたろう。眼がつきかかったんだ。早く上がりなよ",
"ええ、ええ、わかりました、わかりました。ようやく長湯をなすったいわく因縁がわかりましたがね。長湯にもよりけりだ。あっしゃもう……あっしゃもう……酢にしてもらいたくなりましたよ。骨までがゆであがって、ぐにやくにゃになっちまったんです。ええ、このとおり。ね、ほら。もう、ろれつも回らねえや……"
],
[
"客があるぞ。鉄火な女だな",
"おどろいたね。げたを見ただけで、そんなことがわかるんですかい",
"目玉が違わあ。こんなことぐれえわからねえんでどうするんだ。脱ぎ方をみろ。小笠原流にも今川流にも、こんな無作法な脱ぎ方はねえや。この鼻緒ならばまず年のころは二十一、二、あっちへ一方、こっちへ一方横向きにゆがんで脱いであるぐあいじゃ、気性もあっちへ一方、こっちへ一方、細かいことのきらいな鉄火ものだよ。いま彫っているさいちゅうにちげえねえ。いずれおまえのことだから、女の膚でも見りゃぽうっとなるにちげえあるめえが、のぼせて変な声を出しちゃいけねえぜ"
],
[
"ね……ちくしょうめ、胸がどきどき変な音をあげだしやがった。なんだか憎らしくてたまらねえね",
"黙ってろ"
],
[
"おやじ",
"…………",
"伊三郎!",
"え……? ご見物ですか。若いおかたが、こういうところを見ちゃいけませんね。二、三日眠れませんぜ"
],
[
"どろを吐けッ",
"どろ……?",
"しらっばくれるな! 千人彫りの秘願とやらの何人めにあの生娘の膚をいけにえにしたか知らねえが、同じ朱の色だ。おまえお冬の膚にもいたずらしたろう",
"お冬さん……? ああ、なるほど、本石町の薬屋さんのお妹御ですね",
"彫ったか!",
"冗、冗談じゃござんせぬ。いっこう知らないことですよ",
"でも、知っているような口ぶりじゃないか!",
"知っておりますとも! この朱はあの薬屋さんから買いつけておりますからね、よく知っておりますよ。姉娘のお秋さんはたしか三十、これもべっぴんだが、お冬さんのほうは若いだけにいい膚色のようでござんした。できることなら手がけてみたいとは思いましたが、彫った覚えなぞ毛頭ござんせんよ",
"うそをつけッ。朱の色も同じ、つぶし彫りもおまえのこの流儀だ。ぴかりとこの目が光ったら逃がさねえぞ、彫ったからとて、獄門にかけるの、はりつけにするのというんじゃねえ、頼まれたら頼まれた、盗んで彫ったなら盗んで彫ったと、すなおに白状すりゃいいんだ。どうだよ。名人かたぎが自慢なら自慢のように、あっさりどろを吐きなよ",
"情けないことをおっしゃいますな……てまえも朱彫りの伊三郎とちっとは人さまの口の端にも乗っている男でござんす。生娘の膚が好きで千人彫りの秘願はかけておっても、盗んでまで彫ろうとは思いませんよ。あっしゃくやしくなりました……だんなも江戸っ子ならば、江戸っ子の職人がどんなきっぷのもんだか、よく胸に手をおいて考えてみておくんなさいまし……"
],
[
"なるほどのう。つるは見つかったが、根が違うというやつかな。それにしても、朱色の寸分違わねえのがちっと不審だ。ほかにもこんなさえた朱色を浮かす彫り師があるか",
"いいえ、ござんせぬ。これはてまえが自慢のつぶし彫り、口幅ったいことを申すようでござりまするが、まずこの色では日本一とうぬぼれているんでござります。しいてまねができるものといえば、弟子の栄五郎が少しばかりやるくらいのものですよ",
"なにッ。弟子がやるか! その栄五郎とやらは、いくつぐらいだ",
"二十八でござります",
"女は好きか!",
"さよう、きらいなほうじゃござんすまいね。ちょくちょく呼び出し状が舞い込んできたり、よる夜中、こっそり女が表へ会いに来たりしますからね。まず人並みに好きでしょうよ",
"姿が見えぬようだが、どこへ行った!",
"それが少しおかしんですよ。一昨晩、さよう、たしかにおとついの夕がたでござんした。だれからのものか、いつものような呼び出し状が届きましてね、こそこそと出ていった様子でしたが、一刻ほどたってから、何がうれしいのか、にやにややって帰ってくると、そのままおおはしゃぎで念入りにおめかしをしてから、ふらりとまたどこかへ出ていったきり、いまだに帰ってこないんですよ"
],
[
"居間はどこだ",
"下でござります",
"案内しろ"
],
[
"おやじ、栄五郎は下絵がうまいか",
"うまい段じゃござんせぬ。絵かきになるつもりで修業をしているうちに、ふいっと彫り物がやってみたくなりましてこの道へはいったんでございますから、玄人はだしの絵をかきますよ",
"よしよし。何か眼がつくだろう。あざやかなところをお目にかけようぜ"
],
[
"伝六、駕籠だッ",
"ちぇッ、たまらねえね。行く先ゃどこですかい。こないだは箱根へとっぱしったが、今度は奥州仙台石巻とでもしゃれるんですかい",
"両国の新花屋だよ",
"新花屋! はてね、あそこはこのごろできた白首女の岡場所だが、だんなのなじみがいるんですかい",
"しようのねえやつだな。なんて血のめぐりがわりいんだ。この扇子をよくみろい。栄五郎め、内職にこんなものをかいたはずあねえんだ。お中元用の配り物に新花屋のこの女から頼まれて、ちっとばかり鼻毛をのばしながら、せっせとかいたもんだよ",
"パカにしちゃいけませんよ。あっしだって字も読めりゃ、絵も読めるんだ。たいそうもなくいばって、この女、この女とおっしゃいますが、この女の顔がどこにかいてあるんですかい",
"あきれたやつだな。こないだじゅう少しりこうになったかと思ったら、またよりがもどりやがった。この絵をよくみろい。咲きみだれた小菊がどれにもかいてあるじゃねえか。両国新花屋小菊と申す女でござります、といわず語らずにこの絵でちゃんとご披露しているよ。きっと、栄五郎のやつ、この女にはまり込んでいるにちげえねえ。新花屋を当たりゃ野郎の足がつかあ。早くしたくしな",
"なるほどね。おつりきな読み絵をかいていやがらあ。さあ来い。ちくしょうッ。――駕籠屋! おうい! 駕籠屋!"
],
[
"あら。いきなにいさんね。ちょっと遊んでいらっしゃいよ",
"えへへ……たて引くかい。おら、八丁堀の伝六っていう勇み男なんだ。こっちのだんなは、江戸の娘がぞっこんの――",
"こらッ。何をのぼせているんだ。――許せよ"
],
[
"ひとり客を取っているな",
"おりますが、それがなんか――",
"小菊という名の女だろう――",
"そうでござんす。何かご用でも――",
"大ありじゃ。座敷へ案内せい"
],
[
"やにさがっているな",
"なんでござんす! 不意にひとのへやへはいってきて、失礼な! なんの用がおありでござんす!",
"ちっとばかりお上の御用筋さ。正直に申し立てろよ。おとついの夜から姿をかくして、ここへ居つづけしているのを突きとめたからこそ、わざわざお越しあそばしたんだ。安い金では、二日もとぐろが巻けるわけはない。どこから金の茶がまが降ってきたんだ",
"恐れ入りました。お上のかたがたでござりましたか。それとも存ぜず、とんだぶちょうほうな口をききましてあいすみませぬ。いいえ、お役人衆ならちょうどさいわい、当人のてまえも気味わるく思っておりましたやさきでござりますゆえ、何もかも申ましょうよ。じつは、この金の出どころが少し不思議でござりましてな",
"なにッ。不思議な出どころ! どうして手にはいった金だ",
"どうもこうもござんせぬ。ちょうどおとついの日暮れ少しすぎでござりました。駕籠屋が突然、てまえのところへだれかさっぱり差し出し人のわからぬ書面を持ってまいりましたのでな。何心なくあけてみると、特にあなたに朱彫りがしていただきたい、こちらのするとおりになっていたなら、お礼は五十両さしあげる、と、こんなに書いてあったのでござります。変なお頼みとは思いましたが、五十両なぞという大金は、わたくしふぜいが二年三年身を粉にして働いてもなかなか手にはいるものではござりませぬゆえ、つい欲にかられて道具の用意をしながら出てまいりますると、いきなり駕籠屋が力まかせに押えつけて、目隠しをしてしまったんですよ。それから先が不思議、どんどん飛ばしていって、目隠しのまま連れ込んだ家が、どこのどなたの住まいかわかりませぬが、たしかに薬屋なんでござんす",
"なにッ、薬屋!",
"そうなんでござんす。ぷうんと家じゅうに薬のにおいが漂っておりましたからね。はてな、変なことをなさるなと思っておりましたら、だれともわからぬ人がそでをひっぱって、ぐんぐん裏座敷らしいところへ連れていきましたのでな。いうとおりになっていろというのはこのことだろうと思って覚悟をしておりますると、男とも女とも、年寄りとも、若い者ともわからぬ声で、もうよい、目隠しを取れ、といいましたゆえ、こわごわ取りはずしてみますると、目の前に紙切れが置いてあって、それに変なことが書いてあるんでござんす。いま障子の穴から手が一本出るから、大急ぎで喜七いのちと――",
"ほんとうか!",
"ほんとうとも、ほんとうとも、当人のわたくしがちゃんと出会ったことなんだから、うそはござりませぬ。気味のわるいことになったなと思って、ひょいと座敷の様子を見たら、そのときはじめて、連れ込まれた家が日ごろ朱を買いに行く大西屋さんらしいのに気がつきました。ここにはお秋お冬おふたりの評判娘がおるはずだがと思っておりましたら、にゅっと障子の穴から女の手が出たんでござります。たしかに女の手でござりました。姉かしら、妹かしらと思いましたが、障子をあけてみることもならず、いわれたとおり黙って彫れば五十両になるだろうと思いまして、大急ぎに喜七いのちと、師匠ゆずりのつぶし彫りを仕上げましたら、また目隠しをしろとしかるように声がかかりましたのでな、いいつけどおりいたしましたら――",
"五十両、だれからともなく礼金が舞い込んできたと申すか!",
"そうなんでござんす。くれた人も、頼み手もたしかに大西屋さんのおかたに相違あるまいと思いまするが、だれともさっぱり見当がつきませぬ。しかし、別段わるいことをしたのでもなし、五十両はかたじけないと、さっそくこの女のところへ飛んできたんでございます"
],
[
"おもしろくなりやがった。ちょうど夏場だ。知恵袋の虫干しをやろうよ。ここまで来りゃぞうさもあるめえ。栄五郎、大西屋は本石町だっけな",
"そうでござります。あそこは薬種屋ばかり。かどが林幸、大西屋さんはそれから二町ほど行った左側でござります",
"乗り込んでいったら、何か眼がつくだろう。伝六、ついてきな。――栄五郎もあんまりうつつをぬかしちゃいけねえぜ。女の子なんてえものは、脳に凝りがきたとき、薬味に用いるものだ。師匠に心配させねえように、早く帰んなよ"
],
[
"奥へ通るぞ",
"あの、ちょっと、どなたさまでござります、薬のご用ならこちらで承りまするが、何品でござりましょう",
"これ、勇吉、何をそそういたしまする!"
],
[
"失礼なことを申して、なんでござります! だんなさまのあの巻き羽織が目につきませぬか。とんだ無作法をいたしました。なんぞご密談でも?",
"少しばかり。そなたがお秋どのか",
"さようでござります。父はちょっと他出いたしましてただいま不在にござりまするが、御用でござりましたら、この秋が代わって承りまするでござります。奥へどうぞ"
],
[
"なにから何までがべっぴんだね",
"はい……?",
"いいえ、用のあるのはあっしじゃねえ。だんなえ、ぼんやりしていちゃいけませんよ。こういうご大家へ来ると、伝六はからきし板につかねえんだ。小さくなっていますからね。はええところ虫干しでもおせんたくでも、遠慮なくおやりなせえよ"
],
[
"おめでたがござりまして、なによりでござったな",
"おかげさまで……お用談はそれについて何か……?",
"さよう。なぞが解けるまではちと他聞をはばかるが、血を分けたお姉御ならばさしつかえもあるまい。お冬どのに変なことがござってな",
"なんでござりましょう?",
"知らぬまに、二の腕へいれずみが降ってわいたのじゃ",
"ま!……あの子が? あの子の膚に! どんな、どんないれずみでござりましょう!",
"喜七いのちと、五文字の浮かし彫りじゃ",
"喜七!",
"ご存じか!",
"いいえ、存じませぬ、知りませぬ。似通った名まえの者さえも、あの子の知り人にはござりませぬ。だいいち、あの子はいたって内気もの、みだりがましい男狂いのうわさなぞなにひとつござりませぬのに、なんとしたのでござりましょう。そんな、そのような不思議なことがある道理ござりませぬ!",
"でも、現在彫ってあるからにはいたしかたもあるまい。聞き込んだこともあるゆえ、お尋ねつかまつる。当家のご家族は?",
"奉公人残らず入れまして二十八人にござります。父、わたくし、弟、女中が五人、店の者は番頭三人、手代六人、あとの十一人はいずれも十二、三の小僧たちでござります"
],
[
"番頭の名は?",
"伝右衛門、五兵衛、正助、みんな五十に近い者ばかりでござります",
"手代どもは?",
"新吉、宗太郎、竹造、源助、与之助、巳太郎の六人でござります"
],
[
"ないか!",
"狂いましたかい"
],
[
"さるも木から落ちるんだからな。それに、この夏場じゃ知恵袋にもかびがはえますよ",
"黙ってろ。お秋どの!",
"あい",
"いかにも不思議じゃが、当夜はお冬どののお身のまわり、だれがおやりなさった",
"わたくしでござります。たったひとりのかわいい妹、日ごろわたくしが母代わりになっておりましたゆえ、当夜もこのわたくしが片ときも目を離さず、なにから何まで世話をしたのでござります"
],
[
"だめですよ。そこは日本橋だ。何をぼんやりしているんですかよ!",
"…………",
"じろじろと人が見ているじゃござんせんか。日本橋から飛び込んだっても死ねやしませんよ。五十三次東海道へは行かれるが、冥土へ行くなら道が違うんだ。だんならしくもねえ、こっちまでが悲しくなるじゃござんせんか。しっかりおしなせえよ"
],
[
"効験あらたかってえおまじないはねえのかな。ね、ちょっとあごをなでてみてごらんなせえよ。なんとかなるかもしれねえんだから……え、ちょっと",
"…………",
"あやまったな、もういっぺんたこになれってえなら昼湯にでも晩湯にでもいって、いくらでもゆだりますよ。あっしゃだんなのその悲しそうな顔をみると、おまんまがまずくなるんだ、ね、ちょっと。うそにでもいいから、笑っておくんなせえよ",
"ウフフ……!",
"え、ほんとうですかい。ほんとうに笑ったんですかい",
"ほんとうさ。おいらが笑や、ひと笑い五千両の値がするよ。すんでのことに、むっつり右門も世をはかなむところだった。いくらかおいらも焼きが回ったらしいよ",
"へいへい。なるほど。それで……?",
"たいへんなことを見のがしていたのよ。こんなバカなはずはねえ。何か見のがしていやしねえかと考え直しているうちに、ふといま思い出したんだが、おまえは物覚えのいいのが自慢だ。何か思い出すことアねえかい",
"はてね。いかにももの覚えのいいのは自慢だが、品によりけり、ときによりけりでね。いっこう心あたりはねえが、なんですかい",
"灸よ。にんにく灸のあとよ",
"ちげえねえ、なるほど、ありましたね。ええ、ありましたとも! あのもちはだにやけどのあとをこしれえて、もってえねえまねしやがると、じつアちっとばかりしゃくにさわっていたんですが、それがどうかしたんですかい",
"決まってらあ、いましがたお秋はたしかに、当夜お冬のそばから片ときも離れなかった、といったね",
"ええ、いいましたとも! りっぱにいいましたよ",
"しかるに、障子の穴からお冬の手がにゅっと出ているんだ。それがちっとおかしかねえかい",
"ふん、なるほど、おかしいですよ",
"そうだろう。おかしいだろう。しかもだ、冬坊に灸をすえたのはだれだと思うよ。そのお秋がすえたといったじゃねえか",
"かたじけねえ! そろそろ眼がついてきやがったね。なるほど、灸がおかしいや、なにも式の晩になってやらなくともいいんだからね。わざわざすえたってえのが怪しいですよ",
"怪しけりゃ、お秋がちっとばかりくせえじゃねえかよ。おまえ、にんにく灸はどこに売ってるか知らねえかい",
"知ってますとも! 薬屋にきまってるんですよ! ほらほら! あそこにも薬屋があらあ。何を洗うんですかい。用があるならひとっ走りいってめえりますが、にんにく灸の百両ほども買ってくるんですかい",
"能書きを聞いてくるんだ。気欝の病封じにすえてくれたとぬかしたが、お秋めとんでもねえ気欝封じをしたかもしれねえ。何々にききめがあるか、よく聞いてきな",
"がってんのすけだ"
],
[
"ふざけていやがらあ、気欝封じなんてまっかなうそですよ。ありゃ胃にきく灸だというんだ。おまけに、あいつをすえたら急に眠くなって、死んだように寝込むというんですよ",
"なにッ、眠り灸! 眠くなる灸だってな。ふふん、そうか! さては、お秋め、ひと狂言書いたな――来い! 逆もどりだ。啖呵を聞かしてやるよ"
],
[
"栄五郎の目隠しに穴があったっていいましたぜ",
"えッ!"
],
[
"たたみ文句はいくらでもござんす。しかし、夏場はあっさりと行くにかぎりますからね。むだな啖呵は控えましょう。あなたもお妹御に負けず劣らずおきれいでいらっしゃる。だが、少うしお年を召していらっしゃる。でき心の種は、そのお年までおひとり身でいらっしゃったことに根を張っていそうでござんすが、違いますかい",
"なにをおっしゃいます! わたしは何も! わたくしはいっこうに何も……",
"知らん存ぜぬというんですかい。おきのどくだが、灸のにおいがね、にんにく灸のにおいが、栄五郎にやった五十両の小判にはっきりしみついていましたよ",
"ま、にんにく灸のことを!――そうでござんしたか! あれをかぎつけなすったんでございますか……! それではもう、それではもう……"
],
[
"取り返しのつかぬことをいたしました。かわいい妹の膚を傷物にして、恐ろしゅうござります……! そら恐ろしゅうござります",
"やっぱり、あんたでござんしたな。なんだとて、またあんないれずみをしたんです",
"かわいかったから、ただもうかわいかったからでござんす",
"なに! かわいかったから?――ほほうね。じゃ、ねたみ心からじゃなかったんですね。あんたはその年でおひとり身、お冬さんは年下なのに、うれしいおめでたごとになったんで、女心のねたましさから、ついふらふらと何かじゃまを入れたんじゃないかと思いましたが、そうじゃなかったんですね",
"とんでもない。ただもう、ただもうかわいかったからなのでござります。と申しただけではご不審にお思いでござりましょうが、ご存じのように、わたくしどもは母のない姉妹、それゆえに自身の身が年とるのも忘れ、ただもうあの子がいじらしさ、かわいさに、いくつかあった縁談も断わりまして、きょうが日までこのわたくしが手しおにかけてきたのでござります。さればこそ、あの子にこのたびの縁談がありましたときにも、だれよりわたしが喜んで、したくのこと日取りのこと、みんなわたくしがめんどうをみたんでござりまするが、女の心というものはわれながら解せませぬ。だれよりも喜んでおりながら、式の晩になってお化粧をしてやろうと、いっしょにあの子とお湯を使っておりましたら、急にあの子を人手に取られるのが惜しくなりたのでござります。こんなかわいい娘を、こんな美しい妹を、知らぬ他人にとられたらと思いましたら、もう矢もたてもたまらなくなりまして、――魔がさしたのでござりましょう、こうやって、ああやって、こっそりいれずみをしたら、一生わたしのそばから離れまいと、ついあのようなそら恐ろしいことをしたのでござります",
"どういうわけじゃ。いれずみしたら一生離れまいとは、どうした子細じゃ",
"喜七なぞとはもともとありもしない人の名、そのありもしない人とさもさも契り合いでもしたように見せかけて、二の腕へあのような彫り物をしておけば、今度の縁談も式をあげた日のうちに破れて生娘のまま帰ってまいりましょうし、こののちともあの彫り物がじゃまをして二度とお嫁の口がかかるまいと、ただただあの子がかわいい一方から、あさはかなことを考えまして、だれともわからぬように栄五郎さんを呼びよせ、にんにく灸で眠ったところを、喜七いのちと障子の穴から彫らしたのでござります……"
],
[
"ご心中、ほろりとなってござる。よくわかりました。気になるのはお冬どののこの先、どうあっても娘のままお手元におくおつもりでござるか",
"いいえ! いいえ! 今になりましては、もうあの子のしあわせが第一、夫婦仲はどんなでござりましたでしょう。あれがもとで、なんぞいさかいでもありませんでござりましょうか。それが、そればかりが心配でござります……",
"よろしい! その心ならば、今すぐ向島の寮へ参られよ! しかじかかくかくであったと、そなたから正直にお打ちあけなさらば、かえって夫婦仲がむつまじゅうなりましょう。行きまするか!",
"行きまする! 参りまする……!",
"伝六ッ。駕籠だ。用意をしておやり!",
"ちゃんともう",
"そうか。気がきいたな。では、お秋どの、お早く! 送ってしんぜましょう",
"あい"
],
[
"伝六、なんだかいいこころもちだな……",
"ちげえねえ。どうでござんす、もういっぺんお昼の朝湯にへえって、たこになりましょうかね",
"ごめんだよ。夏場の酢だこは身の毒だとさ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:菅野朋子
2000年2月24日公開
2005年9月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"一太刀、二槍、三鎖鎌、四弓、五馬の六泳ぎといってね、総じて武芸というものは、何によらず、恥ずかしがっていると上達しねえものなんだ。えへ……だれも見ちゃいないね。このまにちょっと乗ってやるかな。え? だんな。あば敬の大将が来たら、ないしょで知らしておくんなさいよ。ほかの者に見られるぶんにゃかまわねえが、あいつに見られちゃ、これからさきおいらをバカにするからね",
"されないようにじょうずに乗ったらいいじゃないかよ",
"そうはいかねえんだ。おいらの馬術は、何流にもねえ流儀なんだからね。――ほらよ、くろ、くろ! おとなしくしているんだよ。名人が乗るんだから、ヒンヒンはねちゃいけねえぜ"
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[
"ちぇッ、笑いごっちゃねえんです、だんな。なんとか動くように、おまじないしておくんなさいよ",
"何流にもない流儀とやらでお駆けあそばすさ。おいらに頼むより、馬に頼みな。泣かずにひとりでお遊び"
],
[
"後生だから走っておくれよ。何が気に入らなくて、そんなに長い顔をしているんだ",
"…………",
"返事をしなよ、返事を! むりな頼みをしているんじゃねえんだ。おまえは走るが商売じゃねえか。まねごとでもいいから、ちょっくら走ってくんなよ"
],
[
"一大事だ、一大事だ! だんな、だんな、止めておくんなさいよ。伝六の一大事なんだ。早くなんとかしておくんなさいよ!",
"うまい、うまい。腰つきがなかなかみごとだぞ",
"まずくたっていいですよ! はやしたてりゃ、くろめがよけいずにのって走るじゃござんせんか。よしなよ! よしなよ! くろ! おまえもあんまり薄情じゃねえか! わかったよ、わかったよ! そんなにむきになって走らなくとも、おまえの走れるのはもうわかったんだ。よしなったら、よさねえかよ!"
],
[
"な、な、なにするんだ! どきな! どきな! けとばされたらあぶねえじゃねえか!",
"おじさんこそあぶないよ。馬を止めてやるんだ",
"バカいうない! おらに止まらねえものが、おまえなんぞに止められてたまるもんか! そら! そら! あぶねえじゃねえかよ"
],
[
"へえ……偉いね、ちんぴら。止まったね",
"止まったろう。おじさんみたいなしろうとが乗るもんじゃないよ、あぶないからね……",
"何いやがるんでえ。おれがしろうとだかくろうとだか、おまえ知らねえじゃねえかよ",
"知ってるよ。おじさんは伝六のおじさんだろう",
"いやなことをいうね。どうして、おらが伝六のおじさんだってえことを知ってるんだい",
"知ってるから知ってるんだよ。だから……だから……"
],
[
"ど、ど、どうしたんだ。気味のわるい子だな、おまえは。おらが伝六のおじさんだからって、なにも泣くこたアねえじゃねえかよ",
"悲しいんだ。悲しいから泣くんだ。早くちゃんを助けておくれよ",
"なに、ちゃん? ちゃんがどうしたというんだ",
"かあやんが、かあやんがな、けさふろおけの中で死んでたんだ。だから、ちゃんが下手人だといって、おなわにされたんだよ",
"さあ、いけねえ! えらいことになりゃがったな。いってえ、だれがおなわにしたんだ",
"顔にいっぱい穴のあるお役人だよ",
"なにっ、あば敬か! ちくしょうッ、さあ、いけねえぞ! さあ、いけねえぞ! いってえ、そりゃいつのことなんだ",
"たった今なんだよ。けさ起きてみると、かあやんがいつだれに殺されたか、死んでたんだ。だから、うちじゅう大騒ぎになって、近所のつじ番所へ知らせにいったら、どこできいたか顔に穴のあるそのお役人がすぐはいってきてな、ふたことみこといばっておいて、いきなりちゃんになわをかけてしまったんだ。ちゃんは、おらのちゃんは、そんな鬼のちゃんじゃねえ。だから、だから、おじさんたちに助けてもらおうと思って、いっしょうけんめいにここへ飛んできたんだよ",
"どうしてまた、おじさんたちがここにいるのを知ってたんだ",
"だって、きょうは半日じゃないか。半日には右門のおじさんがお馬のおけいこに来るはずだから、来れば伝六のおじさんもしかられしかられいっしょに来ているだろうと思ったんだ。はじめはおじさんがだれだかわからなかったけれども、馬がへただったから、へたならきっと伝六のおじさんだろうと気がついて、走るのを止めてやったんだよ",
"あけすけと、よぶんなことをいうねえ。きょうはへただが、じょうずな日だってあるんだ。だんな、だんな。だんなはどこですかい! 一大事ですよ。今度は掛け値のねえ一大事なんだ。だんなはおらんですかい?",
"やかましいや。ここにひとりおるじゃないか。よく目をあけてみろい"
],
[
"おまえ、うちは米屋だな",
"あ、そうだよ。そこの細川長門守さまのお屋敷向こうの増屋っていうお米屋だよ",
"女のきょうだいがあるな",
"ああ、妹がひとりあるよ",
"へへえ。おどろいたもんだね――"
],
[
"毎度のことだから感心したくねえんだが、ちっとあきれましたね。目に何か仕掛けがあるんですかい",
"あたりめえだ。南蛮渡来キリシタンのバテレン玉ってえいう目が仕掛けてあるんだよ。子どもの着物をよくみろい。米のぬかがほうぼうについているじゃねえか。足もよくみろい。女の子のぞうりをはいているじゃねえか。だから、米屋のせがれで女のきょうだいがあるだろうとホシをさしたのに、なんの不思議があるんだ。米つきばったのようなかっこうをしてへたな馬をけいこするひまがあったら、目のそうじでもやんな。右門のおじさん行ってやるぞ、先へ飛んでおいき!"
],
[
"そんな小娘ひとりもてあまして、なんのこった! おろせ! おろせ! 早くおろさんか",
"口でいうようにそうたやすくは降りんですよ、なんしろ、死に物狂いになってるんだからね。こら! 早くおりんか! いうことをきかんと、痛いめにあうぞ!"
],
[
"さかんにおやりじゃな",
"なにッ。でしゃばり者が参ったな。せっかくだが、このアナは敬四郎がひと足先じゃ。指一本触れさせぬぞ。じゃまじゃ。どかっしゃい",
"おじゃまなら、どきもいたしましょうが、これはいったいなんのまねでござる",
"いらぬおせっかいじゃわい!",
"いいえ、いらぬおせっかいじゃござんせんよ。綾坊、右門のおじさんがお越しじゃ。もうどきな"
],
[
"ようお越しくださいました。子どもはいじらしいものでござんす。あっしが下手人でもないのに下手人だと、このとおりおなわにされましたんで、だんなさまを呼んでくるまでは手をつけさせぬ、始末もさせぬと、敬四郎だんなをてこずらせているんでござります。そのふろおけの中が――",
"死骸か!",
"そうでござんす。家内めが変わり果てた姿になっております……よくお見調べくださいまし"
],
[
"お尋ねつかまつる。早手まわしにもう父親をおなわにされておいでじゃが、この者が下手人とのたしかな証拠あってのことでござるか",
"決まっておるわい。殺された女房は後妻じゃ。そのきょうだいはまま子じゃ。店をようみい。米屋というは名ばかり、米俵もろくにない貧乏店じゃ。そのうえに、女房は七百両という身金つきで後妻に来たものじゃ。おやじめ、女房がいのちよりたいせつにしてしまっておったその七百両の小判がほしゅうて殺したものに相違ないわい",
"なるほど、後妻でまま子でござったか。道理でのう。それならば、娘のような乳首をしているはずじゃ。しかし、それだけではちと証拠固めが不足のように思われまするな",
"何が不足じゃ。まだいくらでも不審なことがあるわい。このおやじ、ゆうべからけさまで、どこへうせたか店をるすにしておるわ。いかほどきいても行く先白状せぬが不審じゃ。いいや、そればかりではないわい。これをみろ、これを! 女房がたいせつにいたしておった小判の包みじゃ。おやじめ、この七百両を背中にいたして、ゆうべのそのそとどこかへ出かけておるわ。いかほど締めてもいわぬが、うしろ暗い証拠じゃわい",
"ほほう。なるほど、小判の包みを背中にいたして家をるすにしましたとのう。――おやじ、それはほんとうか!",
"ほんとうでござります……",
"何しに、どこへいった?",
"そればっかりは……",
"白状できぬというか。疑いが濃くなるばかりだのにのう。子どもたち、おまえら知っておるだろう。ちゃんはどこへいった?",
"あの、あの……"
],
[
"みろ! おやじめ、七百両に目がくらんで、なんぞ細工したに相違ないわい。この敬四郎に授かったてがらじゃ、指一本触れてもらいとうない。直九! じゃまされぬうちに、この死骸も早く取りかたづけろ",
"いや、おてがらはけっこうじゃが、まだ少々お早いようじゃ。待てッ、直九!"
],
[
"おりおりは、目ものう、すす払いをするものじゃ。では、いま一つ承るが、敬どの、これなる女の死因をお見破りかな",
"死因? 死因なぞ、死因なぞは、このおやじを締めたらわかるわい。いらぬじゃまだてせずと、どかっしゃい!",
"アハハ。弱りましたな。それゆえ、ときおりは目のすす払いしたらどうかと申すのじゃ。まさしくこれは絞め殺したものでござるぞ。しかし、下手人は子どもじゃ",
"なに、子ども! 子どもが、子どもがこんな大女を絞め殺せるものか、バカな",
"さよう、ひとりならばむずかしいかもしれぬが、下手人はふたりでござる。論より証拠、この二カ所のつめ跡をよく見られよ"
],
[
"うぬらだ。うぬらだ。うぬらがまま子根性でやったにちがいない! 直九! なわ打てッ",
"バカな! まだ早い! 手荒なことをされるな! 待たれよッ",
"じゃまするなッ。敬四郎が手がけたあなじゃ! どかっしゃい! つじ番所のやつら! 早くこの死骸をかたづけろ"
],
[
"やい! 何がおもしれえんだ。ぽかんと口をあけて見てたって、一文にもなりゃしねえぞ、かせげ、かせげ、うちへ早く帰ってかせぎなよ。やじうまじゃ乗り手もありゃしねえや、べらぼうめ。――ね、ちょいと、これからいったいどうするんですかい。長年苦労をしただんなとあっしの仲なんだからね、いやみなこたアいいたくねえが、いまさら指をくわえていたって始まらねえんだからね、お人よしの直るお灸でもすえに行ったほうが賢いですよ",
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"え! だんな! 返事をしなさいよ、返事を! これこれかくかくで、今度だけはあやまった。ついおまえのまねをして、おしゃべりしたのがわるかった、以後気をつけるからかんべんしろ、とすなおにおっしゃりゃ、あっしだってがみがみいやしねえんだからね。ぼんやりしていねえで、なんとかおいいなさいよ"
],
[
"それにしては、わざわざ知らせにあの子どもが来たのがおかしいな。ふたりとも、なかなかかわいいからな",
"え? なんとかいいましたかい。あっしがかわいいっておっしゃるんですかい",
"うるせえや。黙ってろ",
"ちぇッ、黙りますよ。黙りますとも! ええ、ええ、どうせあっしゃかわいい子分じゃねえんでしょうからね。もうひとことだって口をきくもんじゃねえんだから、覚悟しておきなさいよ"
],
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"ウフフ、そろそろ風向きが変わったかな",
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"ああいうことをいうんだからな。薄情っちゃありゃしねえや。いっさいしゃべらねえ、口をききませぬといっておいてしゃべって、あっしのおしゃべりゃ人並みぐれえなんですよ。しゃべりだしゃこれでずいぶんとたのもしいんだ。どっちの風向きがどう変わったんですかい",
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"なるほど、あるね。手だね。もみじのお手々というやつだ。まさに、まさしく手の跡だね",
"だから、捜すんだよ",
"へ……?",
"あのおやじが七百両背負って、ゆうべどこへ出かけていったか、そのなぞの解けるようなかぎを捜し出すんだよ。うちじゅう残らず調べてみな",
"じきそれだからな。この手の跡が七百両するんですかい。もうちっと話の寸をつめていってくれなきゃアわからねえんですよ",
"しようのねえやつだ。このとおり不思議な手の跡がこんなところに残っているからにゃ、下手人の風向きもこっちへ変わったじゃないかよ。変わったとすりゃ、かわいそうなあの親子を助け出さなきゃならねえんだ。しかし、相手は敬四郎だ。尋常なことでは嫌疑を晴らすはずアねえんだ。だから、敬四郎がぐうの音も出ねえように、おやじがゆうべどこへいったか動かぬ足取りを洗いたてて、攻め道具にしなきゃならねえんだよ。おやじの嫌疑が晴れりゃ、子どもたちの嫌疑の雲の晴れる糸口もおのずと見つかるというもんじゃないかよ。一刻おくれりゃ、一刻よけいあの親子が、むごたらしい敬四郎の責め折檻を受けなきゃならねえんだ。早くしな",
"ちげえねえ! さあこい! 物に筋道が通ってきたとなりゃ、伝六ののみ取りまなこってえのはすごいんだからな。べらぼうめ、ほんとうにおどろくな――ええと、なるほど、これが大福帳だね。向こう柳原、遠州屋玉吉様二升お貸し。糸屋平兵衛様五升お貸し――なんてしみたれな借りようをするんだい。どうせ借りるなら、五千石も借りろよ"
],
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"なるほど、少し変な受け取りだな。どこから見つけ出したんだ",
"この大福帳にはさんであったんですよ。伝六も知恵は浅いほうじゃねえが、まだ駕籠屋の受け取りてえものを聞いたことがねえ。だいいち、この金高も少し多すぎるじゃござんせんかよ。一両二分ってえいや、江戸じゅう乗りまわされるくれえの高なんだからね。それに、この夜中増し金付きってえただし書きも気にかかるじゃござんせんかよ。夜中にでも乗りまわしたにちげえねえですぜ",
"偉い。おまえもこの節少し手をあげたな。捕物の詮議はそういうふうに不審を見つけてぴしぴしたたみかけていくもんだよ。佐久間町といや隣の横町だ。宿駕籠にちがいない。行ってみな"
],
[
"だれかおらんか",
"へえへえ。ひとりおります"
],
[
"この受け取りは、おまえのところでたしかに出したか",
"どれどれ。ちょっと見せておくんなさいまし。――ああ、なるほど、うちから出したものに相違ござんせんよ",
"変だな",
"何がでござんす?",
"駕籠屋が受け取りを出すという話をあまり聞かぬが、どうしたわけだ",
"アハハ。そのことですか。ごもっともさまでござんす。あっしのほうでもめったにないことですがね。じつア、あの米屋さんのご新造ってえのが、とても金にやかましい人なんでね、だから、つかった金高を女房に見せなくちゃならねえんだから、ぜひに受け取りをくれろと増屋さんがおっしゃったんで書いたんですよ",
"いつだ",
"けさの夜明けでござんす",
"なに! けさの夜明け! 乗ったは米屋のおやじか!",
"さようなんでござんす",
"一両二分もどこを乗りまわした!",
"それがじつアちょっと変でしてね。ゆうべ日が暮れるとまもなくでした。今からお寺参りするんだから急いで来てくれろというんでね。夜、お寺参りするのもおかしいがと思ってお迎えにいったら、米屋のあのおやじさんが、鍬を一丁と重そうなふろしき包みを一つ持ってお乗んなすったんですよ。はてなと思って、肩にこたえる重みから探ってみると、どうもふろしきの中は小判らしいんです。小判に鍬はおかしいぞ、お寺へ行くのはなおおかしいというんで、相棒と首をひねりひねりお供していったら――",
"どこのお寺へいった!",
"小石川の伝通院の裏通りに、恵信寺ってえいう小さなお寺がありますね、あのお寺の寂しい境内へ鍬とふろしき包みを持ってはいって、しばらくあちらこちらのそのそ歩いていた様子でござんしたが、まもなくまたふた品を持ったままで出てきて、変なことをおっしゃるんです。どうもこの寺じゃあぶない、どこかもっと寂しいお寺へやってくんな、とこういうんでね。今度は本郷台へ出て、加賀様のお屋敷裏の新正寺ってお寺へ乗せていったんですよ。ところが、そこでまたあっしどもを門前に待たしておいて、米屋さんたったひとりきり――",
"鍬と小判を持って境内へはいったか!",
"そうでござんす。同じように、あちらこちらをのそのそやっていたようでしたがね、まもなくまたふた品を持ったままで出てくると、やっぱりあぶない、もっとどこかほかの寺へやってくれろというんでね、今度は浅草へいったんでござんす。ところが、そこのお寺もやっぱりいけない。川を渡って本所へいって三カ寺回ったが、そこもいけない、いけない、いけないで、神田へまた舞いもどってきたら、とうとう夜が明けちまったんですよ。こっちもきつねにつままれたような心持ちでござんしたが、米屋のおやじさんもぼんやりとしてしまって、鍬と包みを背負いながらにやにや笑っていらっしゃるからね。何がいったいどうしたんでござんす、といってきいたら、いうんですよ。顔なじみのおまえたちだから打ち明けるが、あんな無理をいう女房ってえものはねえ。この金をどこか人に見つからねえところへこっそり埋めてこいといわれたんだが、江戸じゅうにそんなところがあるもんけえ。どこもかも見つかりそうであぶねえところばかりじゃねえか、とこういってね、この受け取りを作らせてお帰んなすったんですよ"
],
[
"あの女房について、何か知っていることはないか!",
"そうですね。やかましやの、きかん気の、亭主をしりに敷いている女だということは町内でも評判だからだれも知っておりますが、ほかのことといったら、まず――",
"何かあるか!",
"昔、吉原で女郎をしておったとかいうことだけは知っておりますよ",
"なに! 女郎上がり! どうしていっしょになったか知らぬか。あのおやじが身請けでもしたか!",
"さあ、どうでござんすかね。両国の河岸っぷちに見せ物小屋のなわ張り株を持っている松長ってえいう顔役がありますが、その親分が世話をしたとか、口をきいていっしょにしたとかいう話ですから、いってごらんなさいまし",
"おまえ、そのうちを知っているかい",
"おりますとも、よく知っておりますよ",
"よしッ。話し賃にかせがしてやる。早いところ二丁仕立てろ",
"こいつアありがてえ。おい、おい、きょうでえ! お客さんを拾ったよ。早くしたくをやんな"
],
[
"伝六よ",
"へ",
"捕物ア、こうしてなぞの穴をせばめていくもんだ。もう五十年もすりゃ、おまえも一人まえに働かなくちゃならねえから、よくこつを覚えておきなよ",
"ああいうことをいってらあ。五十年だきゃ余分ですよ。珍しくだんな、上きげんだね",
"そうさ。おいら、腹が減ったんでね、早くおまんまが食べたいんだよ",
"じきにそれだ。何かといやすぐに食いけを出すんだからな。秋口だって恋風が吹かねえともかぎらねえ。たまにゃ女の子の気のほうもお出しなせえよ。――よっと! 駕籠が止まったな。わけえの、もう来たのかい",
"へえ。参りました。ここが松長の親分のうちでござんす。外で待つんでござんすかい",
"そうだとも! うちのだんなが駕籠に乗りだしたとなりゃ、一両や五両じゃきかねえ。夜通し昼通し三日五日と乗りつづけることがあるんだからな、大いばりで待っていな"
],
[
"朝っぱらからいたずらしているな。松長はどこにいるんだ",
"…………?",
"パチクリしなくともいいんだよ。おまえらの親分はどこにいるんだ。うちか、るすか"
],
[
"おまえが松長だろうな",
"…………?",
"返事をしろ! おまえは松長じゃねえのか?",
"…………?"
],
[
"とぼけたまねをしても目が光ってるぞ、耳はねえのか!",
"いいえ、だんな、いくらしかってもだめですよ"
],
[
"親分を相手に晩までどなったって、らちはあきませんよ",
"なんだ。おまえら口がきけるじゃねえか。なぜ、さっき黙ってたんだ",
"このうちじゃ、ものをいっても通じねえ人がひとりあるんでね。ついみんな手まねで話をする癖がついちまったんです。親分少々――",
"耳が遠いか",
"遠い段じゃねえ、このとおり耳のねえ人も同然なんです。御用があるなら、筆で話しておくんなせえまし",
"なんでえ。それならそうと早くいやいいじゃねえか。すずりを出しな",
"七ツ道具の一つなんだから、火ばちの陰にちゃんと用意してありますよ"
],
[
"うれしいね。それが出ると、峠はもう八合めまで登ったも同然なんだからな。え? ちょっと。伝六もてつだって、あごをなでてあげましょうかい",
"…………",
"やい、やい、松長。そんなにきょとんとした顔をして、不思議そうにだんなのあごをのぞき込まなくともいいんだよ。だんなは今お産をしているんだ、お産をな。気が散っちゃ産めるもんじゃねえ。じゃまにならねえように、その顔をそっちへもっと引っ込めていな!"
],
[
"旅芸人か、曲芸師……?",
"身の軽い子どもとすれば曲芸師?"
],
[
"ばくちかい。おいらに貸しな",
"こいつを? あの、だんなが……?",
"そうさ。びっくりせんでもいいよ。さいころの音はどんな音か聞くんだ。こうしてつぼを伏せるのかい"
],
[
"なアんでえ。さあ、駕籠だ。表のやつらにしたくさせな",
"ありがてえ、眼がつきましたかい",
"大つきだ。いたずらもしてみるものさ。このさいころをよく見ろよ。ころころところがってはぴょこんと起きるじゃねえか。ふいっと今それで思いついたんだ。ホシは角兵衛獅子だよ",
"カクベエジシ?",
"ぴょこんと起き上がる角兵衛獅子さ。身の軽い子どもだからただの曲芸師かと思ったが、まさしく角兵衛のお獅子さんにちげえねえよ。かどわかされて売られた子どもが、恨みのあまりやった細工に相違ねえ。一年ぶりであいつらがまた江戸へ流れ込んだきのうきょうじゃねえかよ。あっちこっち流して歩くうちに、かどわかしたおマキを見つけて、いちずの恨みにぎゅうとやりました、といったところがまずこのなぞの落ちだ。急がなくちゃならねえ、早くついてきな"
],
[
"なんしろ、八百八町あるんだ、八百八町ね。日に一百一町ずつ捜したって八日かかるんですよ。え? ちょっと。何かいい手はねえんですかね。王手飛車取りってえいうようなやつがね",
"…………",
"あっしが下手人でござんす。あっしが絞め殺しましたと首に札をつけているわけじゃねえんだからね。まごまごしてりゃ、ことしいっぱいかかりますぜ"
],
[
"おまえのところへ泊まってる角兵衛獅子どもはいくたりだ",
"二十六人でござります",
"帰りは何刻ごろだ",
"いつどちらへ流しに出ておりましても、暮れ六ツかっきりには必ず帰ってまいります",
"じゃ、ひとつおまじないをしておこうよ。寝泊まりしているへやへ案内せい"
],
[
"亭主、子どもたちの着物を出せ",
"は……?",
"変な顔しなくたっていいんだよ。角兵衛たちみんな着替えを持ってるだろう。どれでもいい、その中からふたり分出せ"
],
[
"あやまったならあやまったと、すなおにいやいいんだ。だんなだっても神さまじゃねえ、たまにゃ手を焼くときもあるんだからね。あんな着物におしろいのにおいがついているかどうか、あっしゃにおいもかいだこたアねえんですよ。伝六に罪をぬりつけるつもりですかい",
"うるさいな、王手飛車取りの珍手をくふうしろといったから、注文どおりやったのじゃねえか。がんがんいうばかりが能じゃねえや。たまにゃとっくり胸に手をおいて考えてみろい。あの着物四枚はどの子どものものだか知らねえが、ああしておきゃ、あの持ち主の四人はもとより、やましいことのねえ子どもがみんな無実の罪を着せられめえと、騒ぎだすに決まってるんだ。そうでなくとも、ああいう他国者の渡り芸人たちゃ仲間のしめしもきびしいが、うちわどうしの成敗法度もきびしいんだ。だれがやった、おまえか、きさまかと、わいわい騒いでいるうちにゃおのずからほんものの下手人がわかるだろうし、わかりゃ手数をかけずにそっくりこっちが小ボシをふたりちょうだいができるというもんじゃねえかよ。日が暮れるまでは高まくらさ。わかったかい",
"なるほど、王手飛車取りにちげえねえや。うまいえさを考えたもんだね。六十人からの子どもがべちゃべちゃ騒ぎだしたとなると、またやかましいんだからな。さあ、こい、敬四郎。知恵のあるだんなを親分に持つと、こういうふうに楽ができるんだ。まくらをあげましょうかい。ふとんを敷きましょうかい。伝六の骨っぽい手でもよければ、お腰ももみますよ"
],
[
"むこうへ行きつくと、ちょうど暮れ六ツです。さあいらっしゃい。お駕籠の用意はできているんですよ",
"何丁だ",
"うれしくなったからね。あっしが手銭を気張って、二丁用意したんですよ",
"一丁にしろ",
"へ……?",
"一丁返せというんだよ"
],
[
"こいつおれんだ。おれの着物だ。おれはそんな人殺しなんぞやった覚えはねえよ",
"じゃ、だれだ、だれだ、だれがやったんだよ"
],
[
"おじさんが来たからにゃ心配するなよ。慈悲をかけてあげましょうからのう。あのふろおけの下手人は、おまえたちだろうな",
"…………",
"泣かいでもいい。さぞくやしかったろう。ふたりともあの女にかどわかされて、角兵衛に売られたんでありましょうのう。ちがうか。どうじゃ"
],
[
"ようきいてくれました。おじさんなら隠さずに申します。下手人は、あの下手人は……",
"やはりおまえたちか!",
"そうでござります。おっしゃるとおり、あたいたちはあの女にかどわかされたんでござります……",
"どこでさらわれた",
"浅草の永徳寺でござります。あたしたちふたりとも、親なし子でござります。親なし子だから、永徳寺にもらわれて、六つのときから小僧になっていたのでござります。ちょうど三年まえでござりました。和尚さまはずいぶんかわいがってくださいましたけれど、朝のお勤め、夜のお勤め。寒中なぞはつらいことがござりましたゆえ、どこかほかにいい奉公口でも、と思っておりましたら、あの米屋の鬼女がうまいことばかり並べて、わたしたちを連れ出したんでござります。そのときはかどわかされてこんな角兵衛に売られるとは夢にも思いませなんだゆえ、喜んで参りましたら、雪国へ売られて、お小僧よりももっとつらいめに会わされたのでござります。それゆえ、毎年毎年江戸へ来るたび、もしあの鬼女が見つかったら思い知らせてやろうと、ふたりで相談し合っていたのでござります。こちらの貞坊も十二、あたしも十二、子どもとてもふたり力を合わせたなら恨みが晴らされまいこともあるまいと思うておりましたら――",
"きのう柳原で見つかったのか!",
"そうでござります。親方といっしょに流しにいったら、夢にも忘れぬあの鬼女が見つかりましたゆえ、ゆうべ日が暮れるといっしょに、こっそりふたりしてここを抜け出し、あの米屋へいってみたら、鬼女めもあたしたちに見つけられたことがわかったとみえて、欲深の女でござります。かどわかして売った金を取り返しにでも来るだろうと思い違えましたものか、ご亭主に小判の包みを埋めてこいとか隠してこいとか、しかりつけるようにいって表へ出しましたゆえ、様子をうかがっておふろへはいったところを見すまし、窓からふたり忍びこんで、わたしが首を、貞坊がお乳を押えて絞め殺したのでござります。あいつは、あの鬼女はきっと、みんなを、たくさんな子どもを、あたいたちみたいにさらっては売っているんだ。みんなのために、かわいそうなみんなのために殺してやったかと思えば、悲しいことはございませぬ。どこへでも参ります……連れていってくださいまし。参ります……。参ります……"
],
[
"あいかわらず荒療治がおすきだな。目違いもいいかげんにしないと、のろい殺されますよ。増屋のおやじ! きょうだいを連れて早くかえりな",
"なにをするんだ。なにをかってなまねをするんだ"
],
[
"増屋のおやじ。つまらねえ隠しだてをするから、目違いもされるんだ。なぜ、あのとき小判を埋めにいったと、正直に白状しなかったんだ",
"あいすみませぬ。女房の前身も前身、金も金でござりましたゆえ、世間に恥をさらしてはと、つい口が重かったのでござります……",
"そんなことだろうと思った。これからもあるこったから、隠しごとも人を見ておやりよ。そちらの敬だんなのようなおかたがいらっしゃるんだからな。角兵衛の子どもたちは、死にたいか、生きておりたいか",
"生きておりとうはございませんけれど、浅草のお師匠さまにおわび申しとうござります……",
"いじらしいことだな。法は曲げられぬ。一度はお牢屋に入れますがのう。おじさんがすぐ永徳寺へ知らせてあげますから、まもなくお師匠が救いとって、慈悲のおそでの下へかばってくれましょう。それまでのしんぼうじゃ、おとなしゅう牢屋へはいりなさいよ",
"あい、はいります……ふたりして、いっしょにはいります……"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年3月13日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"いいえ、なにもね。あっしゃべつにその貧乏しているってえわけじゃねえんだ。これもみんな人づきあいでね。物事は何によらず人並みにやらねえとかどがたつから、おつきあいに行くんですよ。え? だんな。だんなは何もご用はござんせんかい",
"バカだな",
"え……?",
"えじゃないよ。きょうは幾日だと思ってるんだ",
"まさに九月九日、だんなをめえにしてりこうぶるようだが、一年に九月九日っていう日はただの一日しかねえんですよ",
"あきれたやつだ。そんなことをきいているんじゃねえ、九月の九日はどういう日だかといってきいてるんだよ",
"決まってるじゃござんせんか。菊見のお節句ですよ",
"それを知っていたら、今もう何刻だと思ってるんだ。やがて六ツになるじゃねえか。九月の九日、菊見の節句にゃ暮れの六ツから、北町南町両ご番所の者残らずが両国の川増でご苦労ふるまいの無礼講と、昔から相場が決まってるんだ。まごまごしてりゃ、遅れるじゃねえかよ",
"じつあそいつに遅れちゃなるめえと思って、ちよっとその質屋へね",
"質屋になんの用があるんだ",
"べつに用があるというわけじゃねえんだが、ちょっとその、なんですよ、じつあ一張羅をね",
"曲げたのかい",
"曲げたってえわけじゃねえが、ついふらふらと一両二分ばかりに殺してしまったら、それっきり質屋の蔵の中へはいっちまったんですよ",
"それなら、やっぱり曲げたんじゃねえかよ。バカだな、なんだってまた一両二分ばかりの金に困ったんだ",
"いいえ、金に困ったから入れたんじゃねえんですよ。ふところにゃまだ三両あまりあったんですが、今も申したとおり、みんなが相談したように質屋通いをするんでね、ものはためし、近所づきあいにおれもひとつ入れてみてやろうと思って、一両二分に典じたら、あとが変なことになりやがったんですよ。なんしろ、ふところの金と合わすと、五両近くの大金ができたからね、すっかり肝がすわっちまって、吹き矢へ行こう、玉ころがしもやってみべえ、たらふくうなぎも拝んでやろうと、浅草から両国へひと回りしてみたら、きんちゃくの中がぽうとなりやがって、いつのまにか、かすみがかかっちまったんだ。べつになぞをかけるわけじゃねえんだがね、どうですかい、だんな、だんなは何か質屋にご用はねえんですかい",
"あいそがつきて、ものもいえねえや。だんなはご用が聞いてあきれらあ。つまらねえなぞばっかりかけていやがる。なんのかのといって、これがほしいんだろう。よくよくあいそのつきるやつだ。しようがねえから、三両やるよ。早くいって出してきな!",
"うへへ……かたじけねえ! 話せるね、まったく! ちょいとひとなぞ遠まわしに店をひろげると、たちまちこのとおり、ものがおわかりあそばすんだからな。だんなさまさま大明神だ。だから、女の子がぽうっとくるんですよ",
"ろくでもねえおせじをぬかすない! とっとといってくりゃいいんだよ。おいらさきに行くから、あとから来るんだぜ。いいかい、柳橋の川増だ。とち狂って、また吹き矢や玉ころがしに行っちゃいけねえぜ",
"いうにゃ及ぶだ。殺した一張羅が生きてかえるとなると気がつええんだからね。だんなこそ、吹き流されちゃだめですぜ。いいですかい。まっすぐ行くんですよ……"
],
[
"おかしいのう。これよ、女",
"なんでござんす",
"川増というのは、このあたりでこのうち一軒であろうな",
"いいえ、あの……",
"まだあるか?",
"ござります",
"なに! ある!――やはり料亭か",
"いいえ、絵双紙屋でござんす",
"アハハハハ。ほかならぬあいつのことじゃ。うちをまちがえてはいって、いいこころもちになって絵双紙でも見ておるやもしれぬ、ご苦労だが、ちょっと見にいってくれぬか",
"かしこまりました。お名まえは?",
"伝六というのだが、顔を見ればひと目にわかる。つら構えからしてにぎやかにできておるからのう。ひと走り様子見にいってくれぬか",
"ようござんす。みなさまこのとおりご陽気になっていらっしゃるんだから、おりましたら、首になわをつけてひっぱってまいりましょう"
],
[
"あごのだんなさまというのは、どなたさまでござんす?",
"あごのだんな?",
"急用じゃと申しまして、ただいま駕籠屋がこの書面を持ってまいりました。どのだんなさまでござります",
"アハハハハ。あごのだんななら、あれじゃ、あれじゃ。あのすみであごをなでている男じゃ"
],
[
"なんだなんだ",
"なんじゃ!",
"なんでござるか、ろくでもないことかもしれぬが、参らずばなるまい。番頭、駕籠屋は表におるか",
"早く早くとせきたてておりますから、お早くどうぞ",
"そうか。では、参ろう。お先に……"
],
[
"伝六か!",
"え……? き、き、来ましたか! ありがてえ。だ、だ、だんなですか!",
"バカだな。何を震えておるんだ。しっかりしろい!",
"こ、これがしっかりできたら、伝六は柳生但馬守にでも岩見重太郎にでもなんにでもなれるんですよ。あれをあれを、あそこの、あ、あ、あれをよくごらんなさいまし……"
],
[
"いったい、これはどうしたんだ",
"どうしたかこうしたか、あっしにきいたって知らねえですよ。あっしがつっているわけじゃねえんだからね。三両くだすったから大いばりで、このとおり一張羅を受け出して、遅れちゃならねえと駕籠をおごって来たんです。ところが、景気をつけて飛ばせているうちに、駕籠屋のやつめ、足にはずみがついて止まらなくなったものか、ちゃんと承知しながら柳橋を通りすぎてしまやがってね。ここまで来たら首っつりが五人あるといって、わいわい騒いでいやがるんだ。来てみるとこれなんですよ。さあたいへんとばかり、だんなへあのとおり一筆したためてお迎いを出したはいいが、あんまりいばった口をきくもんじゃねえんです。何がおもしれえんだ、しろうとが見たとて生きかえるわけじゃねえ、どけどけ、番人はおれひとりでたくさんだとばかり、やじうまを追っ払って番をしてみたら、ちっとばかり了見が違ったんだ。なんしろ、五人もくくっていやがるんだからね。知らぬうちに手足がこまかく動きだしやがって、目はくらむ、肝は冷える、そのうちにしいんと気が遠くなっちまったんですよ",
"だれが、いつごろ見つけたんだい",
"ほんのいましがた、この下を通った船頭が見つけてね、それから騒ぎだしたというんだから、つったのも明るいうちじゃねえ、きっと日が暮れてからですよ",
"自身番の者には、もう手配したか",
"そんな度胸があるもんですかよ。なんしろ、仲間は死人なんだ。だんなの来ようがおそいんで、あっしゃ恨みましたよ",
"ことし、いくつになるんだ。しようがねえっちゃありゃしねえ。早くいって呼んできな",
"行くはいいが、あっしが行きゃだんなひとりになるんだ。あとはだいじょうぶですかい",
"おまえたアちがわあ!"
],
[
"ね……! こういうことになるんだから、人まねもして質屋へも行くもんですよ。あっしが一張羅を殺して道を迷ったからこそ、こういう大あなにもぶつかったんだ。三両じゃ安いですぜ",
"なにをつまらねえ自慢しているんだ。早く取り降ろすくふうしろ",
"だって、このとおり上っちゃいけねえし、手は届かねえんだからね。くふうのしようがねえんですよ",
"舟から枝へはしごでも掛けりゃ降ろせるじゃねえか。倉の荷揚げ場へ行きゃ、舟もはしごも掃くほどあるはずだ。とっととしろい"
],
[
"船頭だな!",
"へ……? 船頭というと、船のあの船頭ですかい",
"決まってらあ。駕籠屋に船頭があるかい。いちいち口を出して、うるさいやつだ。この手を見ろい。まさしくこいつあ艫肉豆だ。船頭の証拠だよ。これだけ眼がつきゃ騒ぐこたアねえ。自身番の連中、おまえらはどこだ",
"北鳥越でござります",
"四、五町あるな。遠いところをきのどくだが、見たとおり、ただの首くくりじゃねえ。今夜のうちにも騒ぎを聞いて、この者たちの身寄りが引き取りに来るかもしれねえからな。来たらよく所をきいて渡すように、小屋に死体を運んで番をせい。人手にかかったと思や、よけいふびんだ。ねんごろに預かって守ってやれよ……"
],
[
"何かうまそうなもので折り詰めができるか",
"できますが、何人まえさんで?",
"五人まえじゃ",
"五人まえ……!"
],
[
"なにはともかく、腹をこしらえるのがだいいちだ。遠慮せずと、おまえもおあがりよ",
"冗、冗、冗談じゃねえですよ。気味のわるい。弁当どころか、あっしゃ気味がわるくて、も、も、ものもいえねえんですよ",
"そうかい。でも、おいしいぜ。ほほう、いま食ったのはどうやら卵焼きらしいや、暗がりでよくはわからねえが、なかなかしゃれた味につくってあるよ。どうだい。おまえ食べないかい",
"いらねえですよ",
"そうかい。遠慮すると腹がへるぜ。おいらが一人まえ、おまえは晩めしもいただいていないから、四人まえはいるだろうと思って親切につくってきてやったんだが、調子がわるいと朝までここにこうしていなきゃならねえかもしれんからな。あとでぴいぴい音をあげたって知らねえぜ"
],
[
"毎晩毎晩奇特なことじゃな。お役舟か。それとも、特志の舟か。どっちじゃ",
"但馬屋身内の特志舟でござんす",
"そうか、ご苦労なことだな。揚げてきたは、やっぱり心中か",
"いいえ。野郎仏をひとり、橋下でいま拾ったんでね。急いで帰ってきたんですよ",
"ほほう、男をな。ききたいことがある、隠してはならんぞ。日の暮れあたりに、おまえら土左舟のうちで、死体を五つ運んだものがあるはずだが、どの舟だ",
"ああ、なるほど、そのことでござんすか。首尾の松の一件じゃござんせんかい",
"知っておるか!",
"あそこに妙な首つりが五人あったと聞いたんでね、はて変だなと思って、今も舟の上できょうでえと話し話し来たんですがね。日暮れがた、ちょっとおかしなことがあったんですよ。今夜からお上のお役舟は川下のほうをお回りなさることになったんでね。じゃ、あっしども特志の舟は手分けして川上を回ろうというんで、幡随院舟はずっと上の綾瀬川、加賀芳舟は東橋、わっちども但馬屋舟はこのあたりにしようとここで相談しておったら、変な男が、三、四人やって来てね、今そこで五人ひとかたまりの土左衛門を見つけた、功徳だからおれたちであげてやる、どれか一艘舟を貸せんかといったんで、加賀芳身内がなんの気なしに貸したんですよ。ところが、どこで拾ってどこへ始末したのか、仏ならこの小屋へ運んできそうなものなのに、まもなくから舟をまた返しに来たんでね。妙なことをしやがると思っていたら、首尾の松に五人、ぶらりとさがっていると聞いたんです。お尋ねはそれじゃござんせんかい",
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],
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"伝六か!",
"…………",
"たれじゃ! 伝六か!",
"いいえ、あの、北鳥越の自身番の者でござります"
],
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"何をあわてておるのじゃ!",
"これがあわてずにおられますか! やられました! やられました! とんだことになったんですよ!",
"死体か!",
"そうでござんす! ゆうべ五人とも盗まれたんでござんす",
"なにッ。行くえもわからぬか!",
"いいえ、それがじつに気味がわるいのでござります。ねんごろに守れとのおことばでござりましたゆえ、あれから死体を運んで帰って、つじ番小屋の中へ寝かしまして、目も放さず見張っておりましたのに、いつ盗まれたのやら、ひょいと気がつくと、五人とも亡者の姿がなくなっておりましたゆえ、にわかに騒ぎだして、八方へ手分けしながら捜したところ――",
"どこにあった!",
"ゆうべのあの枝に、ぶらりとさがっていたんですよ。それも、けさになってようようわかったんでござります。やっぱり船頭がみつけまして、血の色もなく小屋までしらせに参りましたんで、半信半疑で駆けつけましたところ、枝も同じ、場所も同じ、ゆうべのかっこうそのままで五人ともさがっているんですよ。なにはともかくと思って、すぐお知らせに駆けつけたんでござります"
],
[
"じゃまだ、じゃまだ。道をあけな!",
"御用駕籠なんだ。横へどきな!"
],
[
"まだ柳橋へかからぬか",
"珍しくお急きですね。もうひとっ走り――、参りました! 参りました! ちょうどいま柳橋ですが、これから先はどっちでござんす",
"北鳥越じゃ。自身番へやれッ"
],
[
"なるほどのう。よしよし、細工するにはかっこうな場所じゃ。知っておること残らず申せよ。死体はあのむしろの上へ置いたであろうな",
"さようでござります",
"ゆうべいたのは、ここにいるおまえら四人きりか",
"いいえ、六人でござりました",
"あとのふたりはどこへいった",
"あちらをもう一度おしらべなさいますようなら手をつけてはならぬと存じましたゆえ、首尾の松のほうを見張らしてござります",
"六人ともみな夜じゅう起きていたか",
"いいえ、一刻替わりに寝てもよいことになっておりますゆえ、三人ずつ入れ替わってかわるがわる起きていたのでござります",
"なくなったのは、いつごろじゃ",
"九ツそこそこでござりました",
"そのとき起きていたのは、だれだれじゃ",
"てまえと、この横のふたりでござります",
"しかと見ている前で紛失したか",
"そうでござります。三人ともこの目を六ツ光らしておりましたのに、ふいっと消えてなくなりましたゆえ、みなして大騒ぎになったのでござります",
"よう考えてみい。キリシタンバテレンの目くらましでもそううまくはいかぬぞ。何か不思議があったはずじゃが、その近くに怪しい者でもたずねてこなんだか",
"いいえ、怪しい者はおろか、不思議なことなぞなに一つござりませぬ。ゆうべのうちにこの自身番へ来たものは、あとにもさきにも女がたったひとりだけでござります",
"なに、女! いつごろじゃ!",
"死骸のなくなるちょっとまえでござります",
"それみい! そういうたいせつな言い落としがあるゆえ、きいているのじゃ。女はどんなやつだ",
"いいえ、その女は何も怪しいものではござりませぬ。年のころは二十七、八でござりましょうか。お高祖頭巾で顔をかくした品のよいお屋敷者らしい美人でござりましてな。この裏の大御番組の柳川様をたずねてきたが、気味のわるい男が四人ほどあとをつけていて離れぬゆえ、追っ払ってくれと駆けこんできたのでござります",
"どこからのぞいた。裏か、表か!",
"あの裏口からでござります。のぞいてみると、なるほど四、五人、路地の奥に怪しい影が見えましたゆえ、三人してちょっと追っ払ってやっただけでござります",
"よし、わかった。アハハ、しようのないやつらだのう。追っ払って帰ってきたら、死骸がとっくになくなっていたろうがな",
"そうでござります。ついさきほどまでちゃんとあったのに、もう見えませなんだゆえ、にわかに騒ぎだしたのでござります",
"あたりまえだ。いつまで死骸が残っているかよ。六つ目玉を光らしているまえで紛失したなどというから不思議に思うんだ。もっとことばに気をつけろ"
],
[
"伝六も来たはずだが、見えなんだか",
"参りました。ちょうどなくなった騒ぎのさいちゅうおみえになりましたが、何をおあわてか目いろを変えてこの奥へ駆けこんでいったきり、あのかたの姿が消えてなくなりましたゆえ、なおさら気味わるく思っていたところでござります",
"よしよし。もう騒ぐには及ばぬ。死骸はいつまでも首尾の松へつるしておいたとてなんの足しにもならんから、はよう始末せい",
"やっぱりここへ?",
"おまえらに預けたんではまたあぶない。お番所の塩倉へ運んでつけておくよう手配せい"
],
[
"もうしめこのうさぎだ。門のまえに、伝六ここにありと目じるしの十手をさしておきましたが、ご覧になりましたかい",
"見たからここへ来たじゃねえか。何を力み返ってにらめっこしているんだ",
"女、女! 怪しい女を一匹このうちの中へ追い込んだんですよ",
"お高祖頭巾か!",
"そう、そう、そのお高祖頭巾なんですよ。お番所をさきに洗ってこの北鳥越へ回ってきたらね、だいじな死骸を盗まれたといって大騒ぎしていたんだ。ひょいと見ると、このお組屋敷の門前を変な女がちらくら走っていやがるからね、夜ふけじゃあるし、ちくしょうめ臭いなと思ったんで、まっしぐらに飛んできたら、このうちの中へすうと消えたんだ。だんなに知らせたくも知らせるすべはなし、一歩でもここをどいて逃がしちゃたいへんと思ったからね、こうしていっしょうけんめいと張り番していたんですよ。いるんです! いるんです! このとおりまだ戸も締まったきりなんだから、中でもそれと気がつきやがって、きっとどこかにすくんでいるんですよ"
],
[
"あき屋敷だな",
"冗、冗、冗談じゃねえですよ。中へ消えるといっしょに、まさしく女と男の話し声が聞こえたからね。たしかに人が住んでいるんですよ",
"はいったきり、だれも出てこなんだか",
"男が出たんです。男がね、若い二十七、八の、いい男でした。話し声がぱったりやんだかと思うと、にやにや笑って若い野郎がひとり出てきたんですが、裏も横もそれっきり戸のあいた音はなし、女はどこからも逃げ出したけはいもねえからね。たしかにまだこのうちにいるんですよ"
],
[
"な、な、なにがおかしいんです! 笑いごっちゃねえんですよ。こっちゃひと晩寝もせずに腰骨を痛くして張り番していたんだ。あっしのどこがおかしいんですかよ",
"そろいもそろってまぬけの穴があいているから、おかしいんだ。百年あき屋の前で立ちん棒したって、雌ねこ一匹出てきやしねえよ",
"バカいいなさんな。男と女とふたりで、たしかに話をやったんだ。この耳でちゃんとその話し声を聞いたんですよ。この目で男は出てきたところをたしかに見たが、逃げこんだお高祖頭巾の女は、半匹だって出てきたところを見ねえんだからね。溶けてなくなったら格別、でなきゃたしかにいるんですよ",
"しようのねえやつだな。八人芸だってある世の中じゃねえか。ひとりで男と女のつくり声ぐれえ、だれだってできらあ。年のころは二十七、八、いい男が出てきたといったそいつが逃げこんだ女なんだ。大手ふりながら目の前を逃げられて、なにをぼんやりしていたんだい。論より証拠、中はから屋敷にちげえねえから、あけてみなよ"
],
[
"ちくしょうめ、さてはあの女へび、ひと皮ぬいで逃げやがったね。それならそうとぬかして逃げりゃ、腰の骨まで痛くしやしねえのに、いまいましいね",
"今ごろごまめの歯ぎしりやったっておそいや。ぶつぶついう暇があったら、戸でもあけろい"
],
[
"しゃれたものを着ていやがらあ。伝六さまの顔でいきゃ、どこの質屋だってたっぷり十両がところは貸しますぜ",
"黙ってろ。ろくでもないことばかりいっていやがる。さっき男に化けていったとき、どんな着付けだった",
"黒羽二重の着流しで、一本独鈷の博多でしたよ",
"刀はどうだ。さしておったか",
"いねえんです。今から思や、そいつがちっと変なんだが、丸腰に白足袋雪駄というのっぺりとしたなりでしたよ",
"頭は?",
"手ぬぐい",
"かぶっておったか",
"のせていたんです"
],
[
"なんでえ。べらぼうめ。おいらがすこうし念を入れて調べると、たちまちこういうふうに知恵箱が開いてくるんだからなあ。さあ、眼がついたんだ、駕籠の用意しろ",
"かたじけねえ。行く先ゃどっちですかい",
"一石橋の呉服後藤だよ。この絹糸をようみろい。江戸にかずかず名代はあるが、呉服後藤に碁は本因坊、五丁町には御所桜と手まりうたにもある呉服後藤だ。ただの呉服屋じゃねえ。江戸大奥お出入り、お手当米二百石、後藤縫之介と、名字帯刀までお許しの呉服師だ。位が違います、お仕立ても違いますと、世間へ自慢にあそこで縫った品には、このとおり紅糸をふた筋縫い込んでおくのが店代々のしきたりだよ。このひとそろいの着手も、おそらくは城中お出入り、大奥仕えに縁のある者にちげえねえ。早く呼んできな",
"ちくしょうめ。さあ、事が大きくなったぞ。いつまでたっても、だんなの知恵は無尽蔵だね。やあい、人足! 人足、江戸一あしのはええ駕籠屋はいねえかよ!"
],
[
"あっ、なるほど。わかりました。おしらべの筋は?",
"これじゃ"
],
[
"たしかにござります。先月の二十一日にご注文うけまして、当月二日にお届けいたしました品でござります",
"注文主はだれじゃ",
"ちとご身分のあるおかたでござりまするが",
"承知のうえでしらべに参ったのじゃ。奥仕えのお腰元か",
"いいえ、奥ご医師でござります",
"ほほう、お脈方とのう。しかし、ご医師にもいろいろある。お外科、お口科、お眼科。お婦人科。いずれのほうじゃ",
"いいえ、お鍼医の吉田法眼さまでござります",
"当人か",
"ご後室さまでござります",
"なに、ご後室とのう。なるほど、そうか。やはり、女だったか! 住まいはいずれじゃ",
"法眼さまがおなくなりになりましてから二年このかた、小石川の伝通院裏にご隠宅を構えて、若党ひとりを相手に、ご閑静なお暮らしをしていらっしゃるとかのことでござります。この品もそちらへお届けいたしました",
"よし、わかった。口外するでないぞ。――駕籠屋! 伝通院裏じゃ"
],
[
"ありがてえね。ちゃんとこういうふうに骨を拾ってくださるんだからな。お眠くはござんせんかい。お疲れなら肩でももみましょうかい",
"つまらねえきげんをとるな。駕籠に乗って肩がもまれるかい",
"いいえね、もめねえことは万々わかってるんだが、気は心でね。これでもあっしゃ精いっぱいおせじを使っているんですよ。――そらきた。伝通院の裏に二つはねえ。あの三軒のどれかですぜ"
],
[
"ちくしょうめ、さあいけねえぞ。鯨の油につけたって、いちんちひと晩でこうはこやしがきかねえんだ。くやしいね、急にまた空もようが変わりましたぜ",
"ちっとあぶら肉が多すぎるな",
"おちついた顔をしている場合じゃねえんですよ。たしかにこの隠宅へあの三蓋松のひとそろいを届けたというからにゃ、首尾の松の首っつりもこの家のうちに根を張っているにちげえねえんだ。お城御用まで承る後藤の店でうそをつくはずはねえ。乗り込んで、ひと洗い洗ったらどうでござんす",
"やかましい! だれだッ。そんなところでがんがんいうやつあ!"
],
[
"がんがんいうやつたア何をぬかしゃがるんだ。人を見てものをいいねえ! うぬアこのうちの下っぱか!",
"下っぱならどうだというんだ。これみよがしに十手をふりまわしているが、うぬア、不浄役人の下っぱか!",
"野郎。ぬかしたな! 不浄役人の下っぱたアどなたさまに向かっていうんだ。詮議の筋があって来たんだ。うぬのうちア三蓋松か!",
"知らねえや。とちめんぼうめ! かりにも法眼の位をいただいたおかたさまのご隠宅なんだ。うぬらごとき不浄役人の詮議うける覚えはねえ。用があったら大目付さまの手形でも持ってきやがれッ。ふふんだ。ひょうろく玉めがッ",
"野郎ッ。おっそろしく口のわるい野郎だな。まてまて、かっぱ野郎ッ。用があるんだ、待ちやがれッ"
],
[
"かっぱ野郎、ほえづらかくなよ。このとおり、おっかねえうしろだてがおつきあそばしていらっしゃるんだ。駕籠ですかい",
"決まってらあ。一眼去って一眼きたるたアこのことよ。早くしな"
],
[
"ちくしょうッ、ふざけてらあ。ちょろりと今ふたり、天水おけの陰へかくれましたよ。あんなところでちちくるつもりにちげえねえですぜ",
"そんな詮議に来たんじゃねえ。於加田を捜しているんだ。早く見つけなよ",
"いいえ、物事は総じてこまかく運ばねえと、とかくしりがぬけるんだ。ある! ある! あのかどにあるのがそうですよ"
],
[
"船頭さん、おしたくは?",
"いつでもいいよ",
"そう。じゃ、はぎの間のお客さんからお送りするからね。順々にこっちへ舟をたのみますよ"
],
[
"いってらっしゃいまし。どうぞごゆっくり。船頭さん、しっかりたのむよ",
"おいきた。だいじょうぶだよ"
],
[
"舟だ。急いで一丁仕立てろッ!",
"がってんでござんす"
],
[
"あれだ、あれだ、この建物アたしかにお富士教ですよ",
"えらいことを知っているな。どこで聞いたんだ",
"七つ屋ですよ。質屋のことをいや、だんなはまたごきげんが悪くなるかもしれねえが、床屋と質屋と銭湯と、こいつア江戸のうわさのはきだめなんだ。こないだ一張羅を曲げにいったとき、番頭がぬかしたんですよ。世間が繁盛すると、妙なものまでがはやりだすもんです。近ごろ本所のお蔵前にお富士教ってえのができて、たいそうもなく繁盛するという話だがご存じですかい、とぬかしたんでね。御嶽教、扶桑教といろいろ聞いちゃおるが、お富士教ってえのはあっしも初耳なんで、今に忘れず覚えていたんですよ。本所のお蔵前といや、ここよりほかにねえんだ。まさしくこれがそのお富士教にちげえねえですぜ",
"どういうお宗旨だかきいてきたか",
"そいつが少々おかしいんだ。お富士教ってえいうからにゃ、富士のお山でも拝むんだろうと思ったのに、心のつかえ、腰の病、気欝にとりつかれている女が参ると、うそをいったようにけろりと直るというんですよ",
"道理でな、女ばかりはいりやがった。それにしても、ご信心のお善女さまが、遠い川下の船宿からこっそり通うのがふにおちねえ。まして、夜参りするたアなおさら不思議だ。どこかにはいるところはねえか捜してみな"
],
[
"じれってえね。どこへもぐりやがったろうね",
"黙ってろ"
],
[
"ちくしょうッ、あれだ、あいつだ。たしかに、あのお高祖頭巾の女ですぜ",
"なにッ、見まちがいじゃねえか",
"この目でたしかに見たんです。年かっこう、べっぴんぶりもそっくりですよ"
],
[
"化けの皮はいでやろう! こうとにらみゃ万に一つ眼の狂ったことのねえおいらなんだ。うぬ、男だな!",
"何を無礼なことおっしゃるんです! かりそめにも寺社奉行さまからお許しのお富士教、わたしはその教主でござります。神域に押し入って、あらぬ狼藉いたされますると、ご神罰が下りまするぞ!",
"笑わしゃがらあ。とんでもねえお富士山を拝みやがって、ご神罰がきいてあきれらあ。四の五のいうなら、一枚化けの皮をはいでやろう! こいつあなんだ!"
],
[
"幔幕も三蓋松、これも三蓋松、大御番組のあき屋敷に脱ぎ捨てた着物の紋どころも同じこの三蓋松だ。小石川伝通院裏吉田法眼様のご後室へ、たしかに三蓋松の紋つきちりめんをひとそろいお届けいたしましたと、呉服後藤の店の者がいってるんだ。あのあぶらぎったご後室もご利益うけている信者に相違あるめえ。ちりめんのあのひとそろいも、お賽銭代わりにうぬへ寄進した品にちげえねえんだ。北鳥越の一件もうぬの小細工、首尾の松の一件も同じうぬの小細工、これだけずぼしをさせば、もう文句はあるめえ。どうだ、すっぱり吐きなよ",
"…………",
"吐かねえのかい! むっつり右門にゃ知恵箱、啖呵の小ひき出し、女に化ける手だけはねえが、たたみ文句の用意はいくらでもあるんだ。これだけの狂言をうつからにゃ、うぬもただのねずみじゃあるめえ。男らしく恐れ入ったらどんなもんだ"
],
[
"おとなしく寝ろい。慈悲を忘れたことのねえむっつり右門だが、今夜ばかりゃ気がたってるんだ。伝六、早くこいつを始末しな",
"いいえ、そ、そ、それどころじゃねえんだ。ほらほら、あいつも逃げた、こっちも逃げやがった。女も、船頭も、太鼓野郎も、みんなばらばらと逃げだしたんですよ。手を! 手を! ひとりじゃ追いきれねえんだ。はええところてつだっておくんなせえよ",
"そんなものほっときゃいいんだよ。根を枯らしゃ、小枝なんぞひとりでに枯れらあ。息を吹きかえさねえうちに、この赤い芋虫を舟まで背負ってきな"
],
[
"つら見るのも、ふてえ野郎だ。それにしても、なんだって野郎め、船頭を五匹も絞めやがったんですかね。盗んで掛け直したところがわからねえんですよ",
"決まってるじゃねえか。金と女を両天秤にかけて、こんなあくどい狂言をうったんだ。手先に使っておったあの五人の川船頭が、漏らしてならねえ秘密を漏らしそうになったんで、荒療治をやったのよ。掛け直したのは、残った船頭たちへの見せしめさ。もっと理詰めで考えるけいこをしろい",
"なるほどね、大きにそれにちげえねえや。久方ぶりに、だんなも荒療治をおやんなさいましたな",
"あたりめえだ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年3月13日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000574",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"なんだ",
"へ……?",
"へじゃないよ。たった今がんがんとやかましくがなってきたのに、なにを急にめそめそやるんだよ。寒にあてられたのかい",
"あっしが泣いたからって、いちいちそうひやかすもんじゃねえんですよ。悲しいのはあっしじゃねえんだ。こう暮れが押しつまっちゃ、人づきあいをよくしておかねえと、どこでだれに借銭しなくちゃならねえともかぎらねえからね。そのときの用心にと思って、ちょっとおつきあいに泣いたんです。あれをご覧なさい、あれを――",
"…………?"
],
[
"お牢屋同心だな!",
"そ、そ、そうなんですよ。ちらりと見たばかりでホシをさすたアえれえもんだね。あの、だんな、ご親類ですかい",
"腰にお牢屋のかぎ束をぶらさげていらっしゃるじゃねえか。いちいちとうるせえやつだ。ご心配そうにしていらっしゃるが、何か起きたのかよ",
"起きた段じゃねえんだ。しかじかかくかく、こいつとてもひとりの力じゃ手に負えねえとお思いなすったとみえてね、まずなにはともかくと、あっしのところへ飛んでおいでなすったんですよ。うれしいじゃござんせんか、そのご気性がね。伝六はむっつり稲荷の門番なんだ、奥の院を拝むにはまずあっしに渡りをつけなきゃというわけでね。来られてみりゃ、あっしもこういう気性なんです。べらぼうめ、ようがす、引きうけました。牢屋で人が切り殺されるなんて途方もねえことがあってたまりますかい、うちのだんなは人一倍寝起きのわるい人なんだ、あっしが特別念入りに目ざまし太鼓をたたいてやるから、おいでなさいと、こうしていっしょに力をつけつけ――",
"うるさいよ! なにをひとりでべらべらやっているんだ。おまえなんぞに聞いていたら手間がとれらあ。じゃまっけだから、こっちへ引っこんでいな",
"いいえ、だんな、お黙り! あっしがしゃべりだしたからって、そうそう目のかたきにしなくともいいんですよ。話にはじょうずへた、物にはこつというものがあるんだ、こつがね、そのこつをよく心得ているからこそ、あっしがあちらのだんなに代わって、手間をとらせず、むだをいわず、事のあらましをかいつまんで、のみこみのいいように物語ろうってえいうんじゃねえですか。ちゃんとエンコして、おとなしく聞いていらっしゃい。いいですかい。あちらのだんなはお牢屋同心なんだ。お牢屋同心てえいや、伝馬町の囚罪人を預かっていらっしゃるやかましい役がらなんです。名は牧野源内さま、お預かりの牢は平牢の三番べや。いま十九人という大連が三番牢にぶちこまれているというんですがね。ところがだ、その三番牢で、ゆうべ人切りがあったというんですよ、人切りがね。ただの人殺しじゃねえ、罪人がひとり切られて死んでいるというんだ。だんなもご存じでしょうが、ふとん蒸し、水責め、さかつるし、罪人どうしの間で刃物を使わねえ人殺しは、これまでもちょくちょくねえわけじゃねえんです。しかし、刃物を使った人殺しは、天地開闢以来はじめてなんですよ。なんしろ、切れもの、刃物、刃のついているものはいっさいご禁制のご牢内なんだからね。そこでぐさりとひとり、胸もとをやられて死んでいたというんです。不思議じゃござんせんか。え! だんな",
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],
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"かぎのぐあい、外からはいったものがないかどうか、入念にお調べでござったろうな",
"それはもう仰せまでもござらぬ。なにより肝心なこと、念に念を入れて調べたが、さらに外よりはいった形跡がござらぬゆえ、不審に耐えぬのじゃ",
"見つけたのはいつごろでござる",
"ほんのいましがたじゃ。丑満に見まわったときはなんの異状もなかったのに、明けがた回ってみると、十九人がひとり欠けているのじゃ。それがいま申したとおり、胸もとを刺されて血に染まっていたのでな、騒ぎだしたらこの源内の恥辱と思うて、こっそりと同牢の者十八人を洗ってみたのじゃが、下手人はおろか、刃物さえも見つからぬのじゃ。それゆえ、うろたえて、いっそてまえごときがまごまごといじくりまわすよりも、そなたのご助力仰いだが早道と思うて、取るものも取りあえず駆けつけたのじゃ。面目ない……面目ない……お寒いところおきのどくじゃが、お力お貸しくだされい",
"ようござる。お互いお上仕え、災難苦労は相見互いじゃ。すぐ参ってしんぜよう。ご案内くだされい",
"かたじけねえ!",
"なに喜んでいるんだ。それがむだ口だというんだよ。早くはきものでも出しな",
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"おいらじゃねえや。源内だんなが、はだしではさぞおつめたかろうと思って、はきものをといったんだよ。まのぬけたことばかりやっていやがって、このとおり抜けめがねえもねえもんだ。では、お供つかまつる。冷えますな……"
],
[
"刺されたという男は、どこでござる",
"あれじゃ。あのすみのこもの下がそうでござる。いま外へ運ばせますゆえ、ちょっとお待ちくだされい",
"いや、いじらぬほうが、なにかと手がかりもつきやすいというものじゃ。中へはいって調べましょう。おあけくだされい"
],
[
"あきれたもんだね。ほんとうですかい。いかにだんなにしてもちっと気味がわりいが、見てきたようなうそをつくんじゃありますまいね",
"もう出しやがった。いちいちとそれだからうるせえんだ。この右手の人さし指と親指の腹をよくみろい。ちゃんとこのとおり、そろばんだこが当たっているじゃねえかよ、こんなにたこの当たるほどそろばんをいじくっていたとすると、お店者もただのあきんどじゃねえよ。まず両替屋、でなくば質屋奉公、どっちにしても金いじりの多いところだ。素姓しらべはあとでいい、傷口を先に見よう。そのこもをはねてみな"
],
[
"源内どの、こやつは近ごろ入牢の者でござるな",
"さようでござる。つい十日になるかならぬかの新入りでござる",
"ほほうのう。十日ばかりじゃと申されるか。ちっとそれが気にかかりますな。傷口は?",
"そこじゃ。その右の胸もとじゃ"
],
[
"おまえ、たいそう上きげんだな",
"えへへ……そうでもねえのですがね、畳の上の居ごこちはまた格別でね。だんなもちょいといかがでござんす",
"はいってもう何年じゃ",
"忘れましたよ。ここは浮き世の風が吹かねえのでね。えへへ――近ごろ、おつけがしみったれでしようがねえんだ。ご親切があったら、けえりしなにえさ係りへ一本くぎをさしていっておくんなせえまし。もっとうまいしるを食わせるようにとね。浮き世の景気はどうでござんす"
],
[
"さてのう、どこからおどろかしてやるか、いろいろと手はあるんだが……牢名主",
"なんでござんす",
"おまえの生国はどっちじゃ",
"おふくろの腹ん中ですよ",
"そうか。では、おまえの腹の中もひやりとひと刺し冷たくしてやるぞ"
],
[
"降りろッ",
"な、な、なんですかえ。牢頭の重ね畳はお城も同然なんだ。お奉行さまがちゃんとお許しなんですよ。降りろとは、ここを降りろとはなんでござんす!"
],
[
"一枚一枚、この畳をしらべてみな",
"へ……?",
"裏返しにしてみろというんだよ。どれか一枚にドスを刺しこんで隠してあるにちげえねえ。一枚のこらず返してみな"
],
[
"来た! 来た! おつけだぞ",
"めっぽう豪気なことになりやがったじゃねえか。湯気がたっているぜ",
"捜し出すなら捜してみねえ。下手人詮議よりも、こっちゃめしがだいじだ。おい! こっち! こっち! おれが先に手を出したじゃねえか! へへんだ。こんなぬくめしにありつけるなら、なんべんだって殺してやらあ!"
],
[
"たわけたちめがッ。これも名だけえむっつり流の奥の手だ。ようみろい! 餓鬼みてえなまねをするから、こういうことになるんだ。下手人はこのぎっちょと決まったよ。立てッ",
"な、な、なにをなさるんです! ぎっちょは親のせいなんだ。あっしが、あたしが下手人なんぞと、とんでもねえことですよ!",
"控えろッ。おいらをだれと思っているんだ。江戸にふたりとねえむっつり右門だよ。あの傷をよくみろい。うしろから抱きすくめて刺した傷じゃねえ。あのとおり逆刃の跡が上にはねているからにゃ、まさしく正面から突いた傷だ。そこだよ、そこだよ。正面から刺した傷なら、ぎっちょでねえかぎり、相手の左を突くのがあたりめえじゃねえか。しかるにもかかわらず、あの傷は右をやられているんだ、右の胸をな。さては下手人左ききか、いいや、ぎっちょにちげえあるめえと、このおいらがにらんだになんの不思議があるかよ。十八人いるうちで、なにをあわてたか左でめしを食ったなおめえひとりなんだ。まぬけめがッ。むっつり右門がむだめしを食わせるけえ。そのぎっちょを見つけたくて食わしたんだ。食い意地に負けて、右手ではしを持たなかったのが運のつきさ――。下手人があがりゃ、ほかにはもう用はねえ。あにい! あにい!",
"へえ……?",
"へ、じゃないよ。なにをぱちくりやってるんだ。これから先は伝六さまの十八番だ。このなまっちろい野郎をしょっぴいていって、ひとり牢へぶち込みな",
"ね……!",
"なにを感心していやがるんだ。毎度のことだ、いちいちと驚かなくともいいんだよ。人ひとり殺すからには、なにかいわくがあるにちげえあるめえ。やつらの素姓をちょっと洗わしてもらいましょう。源内どの、ご案内くださらぬか"
],
[
"源内どの、殺された男はなんといいましたかな",
"豊太という名でござる",
"あの下手人は?",
"梅五郎という名じゃ",
"入牢は何日と何日でござる",
"両名とも十二月五日じゃ",
"ほほう。いっしょの日でござるか"
],
[
"あれなる両名のお係りはどなたじゃ",
"敬四郎どのでござる",
"ははあ……そうか。とんだめぐり合わせじゃのう、伝六よ",
"へえ……?",
"よろこべ、よろこべ、あばだんなのしりぬぐいを仰せつかったぞ。これをようみい",
"……? エへへ……なるほどね。道理で、近ごろろくろく顔を見せずにしょげていましたっけ。あきれたもんだね。不審のかどありとは、よくもしらをきったもんだ。大将の手がけたあなで、不審のかどのねえものはねえんですよ。さあ、忙しい! ちきしょうめ。さあ、忙しくなりましたね",
"あわてるな。まだしりからげなんぞしなくともいいよ。気になるのは、この不審のかどとあるその不審じゃが、源内どの、様子お知りか",
"知っている段ではござらぬ。このとおり、千百三十両使い込んだに不思議はござらぬが、その使い方がちと妙でな。鈴文は当代でちょうど三代、なに不自由なく両替屋を営んでおったところ、この盆あたりから日増しにのれんが傾きかけてまいったと申すのじゃ。だんだんと探っていったところ、その穴が――",
"あの両名の使い込みか!",
"さようでござる。ところが、ここに不審というのは、ふたりともおれが使った、おまえではない、このわしが使い込んだのじゃ、梅五郎の申し立ては偽りでございます、いいえ、豊太の申し立てはうそでござりますと、互いに罪を奪い合うのじゃ。それも申し立てがちと奇妙でござってのう、長年、ごめんどううけた主家が左前になったゆえ、ほっておいてはこの年の瀬も越せぬ、世間にぼろを出さず、鈴文の信用にも傷をつけず、傾きかけたのれんを建て直すには、一攫千金、相場よりほかに道はあるまいと、五十両張り、百両張り、二百両、三百両と主人に隠れて張ったのが張る一方からおもわく違いで、かさみにかさんだ使い込みが知らぬまに千百三十両という大金になったと申すのじゃ。いわば主家再興の忠義だてにあけたあなではあるし、知らぬ存ぜぬというなら格別、おれじゃ、わしじゃ、おまえではない、うぬではないと言い争って罪を着たがるゆえ、拷問好きの敬四郎どのも痛しかゆしのていたらくで、ことごとく手を焼き、日を見ておりを見てと、入牢させておいたのがこのような朋輩殺しになったのじゃ。何から何まで不審ずくめでござるからのう。どうなることやら、困ったことでござる"
],
[
"あにい! 茅場町だッ",
"駕籠ですかい!",
"決まってらあ!",
"ありがてえ! これでもちがつけらあ。さあこい! 野郎! あば敬の大将、そこらからひょこひょこと出るなよ。めんどうだからな。――へえ、御用駕籠です! はずんで二丁だ。かんべんしておくんなせえ。いいこころもちだね。飛ばせ! 飛ばせ"
],
[
"うそじゃねえや。屋根がほんとうに傾いていやがる。――おるか。許せよ",
"いらっしゃいまし……あいすみませぬが、ご両替ならこの次にお願いしとうござります…",
"この次を待ってりゃ土台骨がなくなろうと思って、大急ぎにやって来たんだ。おまえが主人か",
"さようでございますが、だんなさまはどちらの",
"どちらの男でもいい。しょぼしょぼしていてよく見えねえや。もっとこちらへ顔をみせろ"
],
[
"店のものはこれっきりか",
"ほかにおることはおったんですが――",
"牢へへえったんだろう",
"さようでござんす。よくご存じですな。あのほかにいまひとり――",
"まだいたか!",
"おりました。つえとも柱とも頼んだ番頭がおりましたんですが……",
"なに、番頭!",
"さようでござんす。子どものうちからてまえの兄弟のようにして育ったのがおりましたんですが、店が傾いてくるとしようのないものでござんす。一軒構えたい、のれんを分けてくれと申しますんで、やらないというわけにもいかず、こんな店にまたおってもしかたがあるまいと、ついこのひと月ほどまえに暇をやりました。残ったのはこの小僧ひとり、子もなし、家内もなし、火の消えたようなものでござんす……",
"ふふん、そうか。ひと月ほどまえに暇をとったというか。いくらかにおってきやがったな"
],
[
"その番頭の構えたという店はどこだ",
"あれでござんす",
"あれ?",
"あの前の横町へ曲がるかどにある店がそうでござんす"
],
[
"笑わしゃがらあ。ねえ、あにい、どうでえ。おかしくって腹がよじれるじゃねえかよ",
"そうですとも。あっしゃもうさっきからおかしくってしようがねえんだ",
"ばかに勘がいいが、なにがおかしいかわかっているのかよ",
"わかりますとも。あのおやじの顔でがしょう。ちんころが縫いあげしたような顔ってえことばがあるが、こんなのは珍しいや。浅草へでも連れていったら、けっこう暮れのもち代はかせげますよ",
"あほう",
"へ……?",
"いつまでたっても知恵のつかねえやつだ。だから嫁になりてもねえんだよ。おいらのおかしいのは、あば敬のことなんだ。不審のかどありが聞いてあきれらあ。ちゃんとこの店の前に、不審のかどのご本尊がいらっしゃるじゃねえかよ。のれんを分けてもらった子飼いの番頭が、ご本家へ弓を引くようなまねをするはずがねえ。ふたりの手代どもが忠義顔に罪を着たがったのも、火もとはあの辺だ。ぱんぱんとひとにらみに藻屑をあばいてお目にかけるから、ついてきな",
"ちげえねえ",
"おそいや! 感心しねえでもいいときに感心したり、しなくちゃならねえときに忘れたり、まるで歯のねえげたみてえなやつだ。そっちじゃねえ。あのかどの鈴新へ行くんだよ。とっとと歩きな"
],
[
"根が枯れて、枝が栄えるというのはこれだよ。鈴新というからにゃ、新兵衛、新九郎、新左衛門、いずれは新の字のつく名まえにちげえねえ。おやじはいるか、のぞいてみな",
"待ったり、待ったり。穏やかならねえ声がするんですよ。出ちゃいけねえ、出ちゃいけねえ。ちょっとそっちへ引っこんでおいでなさいまし",
"なんだ",
"女の声がするんですよ",
"不思議はねえじゃねえか",
"いいや、若い娘らしいんだ。――ね、ほら、べっぴん声じゃござんせんか……"
],
[
"久どん! 久どん! いけないよ。なんだね、おまえ、だいじなお宝じゃないか。小判をおもちゃになんぞするもんじゃないよ",
"いいえ、お嬢さま、おもちゃにしているんじゃねえんですよ。精出して音いろを覚えろ、にせの小判とほんものとでは音が違うからと、おだんなさまがおっしゃったんで、音いろを聞き分けているんですよ",
"うそおっしゃい! そんないたずらをしているうちに、また一枚どこかへなくなったというつもりだろう。おとといもそうやっているうちに、小粒が一つどこかへなくなってしまって、出ずじまいじゃないか、ほかのだれをごまかそうとも、このわたしばかりはごまかせないよ。音いろを聞きたかったら、この目の前でおやり!"
],
[
"繁盛だな……",
"いらっしゃい。どうぞ、さあどうぞ。そこではお冷えなさいます。こちらへお掛けなさいまし"
],
[
"ご両替でございましょうかしら? お貸し金でございましょうかしら? ――お貸し金のほうなら、もう暮れもさし迫っておることでございますゆえ、抵当がないとお立て替えできかねますが……",
"金に用はない。のれんに用があって参ったのじゃ"
],
[
"小判に目が肥えているなら、こっちのほうも目が肥えておろう。この巻き羽織でもようみい",
"まあ。そうでござんしたか。どんなお詮議やら、朝早くのご出役ご苦労さまでござります。お尋ねはにせ金のことかなんかでございましょうかしら?"
],
[
"なんのお調べでござんしょう? わたくし、娘の竹というものでござります。わたしでお答えのできないことなら親を呼びますが……",
"おるか!",
"朝のうち一刻は信心するがならわし。あのご念仏の声が親の新助でござります",
"いいや、行く、行く。お上のだんなの御用ならいま行くぞ……"
],
[
"毎度のご出役ご苦労さまでござります。おおかただんなさまも、てまえのうちが向かいの主人の鈴文さまのお店より景気がいいんで、それにご不審をうってのお越しじゃござんせんか",
"よくわかるな。どうしてそれがわかる",
"いいえ、敬四郎のだんなさまもそのようにおっしゃって、たびたび参りましたんで、たぶんまたそんなことだろうと察しがついただけなんでございますよ。そのご不審でのお越しならば、ここに一匹招きねこがおりますゆえ、ようごろうじませ。アハハハハ。親の口からは言い憎いことでござりまするが、一にあいきょう、二にあいきょう、若い娘のあいきょうほど客を引くにいい元手はござりませぬ。店の繁盛いたしますのも、みんなこの招きねこのせいでございますよ。ほかにご不審がございましたら、お白州へでも、ご番所へでも、どこへでも参ります。なんならただいまお供いたしましてもよろしゅうござります。アハハハハ。いかがでござります。だんなさま"
],
[
"またなにかいやがらせをするんですかい",
"アハハ……",
"アハハじゃねえですよ。根が切れた、つるが切れた、詮議の糸がなくなったらなくなったと、正直にいやいいんだ。てれかくしに笑ったって、そんなバカ笑いにごまかされるあっしじゃねえんですよ。ぱんぱんとひとにらみに藻屑をあばいてやらあと、たいそうもなくりっぱな口をおききでしたが、ぱんぱんはどこへいったんです。藻屑はどこへ流れたんですかよ",
"うるさいよ",
"いいえ、うるさかねえ、だんな! これがうるさかったら、伝六はめしの食いあげになるんだ。出のわるいところてんじゃあるめえし、出しかけてやめるたア何がなんですかよ。しらべかけて逃げだすたア何がおっかねえんですかよ。お竹とかいったあの娘に、ぽうときたんですかい",
"がんがんとやかましいやつだな。あのおやじがホシだ、くせえとにらんだ目に狂いはねえんだ。ねえけれども、おやじもおやじ、娘も娘、ああいうのが吟味ずれというんだよ。すべすべぬらぬらとしゃべりやがって、あんな親子をいくら締めあげたってもむだぼねなんだから、あっさり引きあげたんだ。手をまちがえたのよ、手をな",
"手とね。はてね……",
"わからねえのかい。ああいうやつには、動かぬ証拠をつきつけて責めたてるよりほかには手がねえんだ。その手をまちがえたというんだよ。とんだ忘れものさ。むっつり流十八番桂馬飛びという珍手を忘れていたはずだが、おまえさん心当たりはないかえ",
"さあ、いけねえ。食い物のことじゃござんすまいね。そのほうならば、ずいぶんとこれで知恵は回るんだが……",
"ドスだよ",
"へ……?",
"ぎっちょの梅五郎が豊太をえぐったあの匕首なんだ。刃物の持ち込み、出し入れのきびしいお牢屋だ。どこのどやつが梅五郎のところへ届けたか、肝心かなめ、たいせつなお詮議ものを度忘れしていたじゃねえか。しっかりしろい",
"ち、ち、ちげえねえ。――急ぎだよ! 駕籠屋! 待っておれといったのに、どこをのそのそほつき歩いているんだ。牢屋へ行きな! 牢屋へ!"
],
[
"なにをお責めじゃ",
"おう、おかえりか。太いやつじゃ。こいつが、こいつめがあのドスを――",
"差し入れたといわるるか!",
"そうなのじゃ。人手にまかして源内ばかり高見の見物もなるまいと、ドスの差し入れ人をしらべたところ、ようやくこやつのしわざだということだけはわかったが、なんとしてもその頼み手を白状せぬゆえ、責めておるのじゃ。――ふらちなやつめがッ。牢屋づとめをしておる者が科人とぐるになって、なんのことじゃ。ぬかせッ、ぬかせッ。ぬかさずば、もっと痛いめに会うぞッ"
],
[
"おまえ、今晩あたり、うれしいことがあるな!",
"…………!",
"びっくりせんでもいい。むっつり右門の目は、このとおりなにもかも見通しだぜ。おまえ、きょう非番だろう!",
"…………",
"おどろいているだけじゃわからねえんだ。返事をしろ! 返事を!",
"そうでござんす。非番でござんす",
"だから床屋へいってきたというだけじゃあるめえ。そのめかし方は、まずうれしい待ち人でもあるといった寸法だ、今夜きっと会いましょうと口約束した待ち人がな。しかも、その待ち人は女だろう! 違うか! どうだ!",
"…………!",
"返事をしろッ、返事を! いちいちと、そうびっくりするにゃ当たらねえや。おまえらふぜいを責め落とすぐれえ、むっつり右門にゃ朝めしめえだ。安い油をてかてかとぬったぐあい、女に会えるからのおめかしに相違あるめえ。どうだ、違うか!",
"そ、そ、そうでござんす",
"その女がドスの頼み手、こいつをこっそり梅五郎さんに届けておくんなさいまし、さすればどんなことでもききます。あすの晩にでもと、色仕掛けに頼みこまれて、ついふらふらと、とんでもねえドスのお使い番をしたんだろう。女は年のころ十八、九、あいきょうたっぷり、こいつもにらんだ眼に狂いはねえつもりだが、違うか、どうだ",
"…………!",
"返事をしろッ、返事を! むっつり右門の責め手は理づめの責め手、知恵の責め手、こうとにらんだら抜け道のねえ責め手なんだ。年もかっきりずぼしをさしたに相違あるめえ。どうだ、青っぽ!",
"そ、そ、そのとおりでござります……",
"よし、わかった。もうそれで聞くにゃ及ばねえ。伝六、また駕籠だ。おめえひとりがよかろう。あの親子をしょっぴいてきな",
"親子!",
"今のあの鈴新親子を引いてこいというんだ。これだけの動かぬ証拠がありゃ、もう否やはいわせねえ。しかし、おめえは口軽男だ、うれしくなってぱんぱんまくしたてたらいけねえぜ。ちょっとそこまでと別口のおせじでもいってな、のがさねえように、うまく引いてきな",
"心得たり! ちきしょうめ。こういうことになりゃ、伝あにいのおしゃべりじょうずは板につくんだ。たちまち引いてくるから、お茶でも飲んでおいでなせえよ"
],
[
"さっき妙なことをいったな。不審なところがあったらお白州へでもご番所へでも参りますといったけえが、忘れやしめえな、新助",
"な、な、なんでござんす!",
"急に目いろを変えるな! その不審があってしょっぴいたんだ。娘からさきにとっちめてやろう。竹! 前へ出い!",
"…………",
"なにを青くなって震えているんだ。あいきょうが元手でござんす、こういう招きねこがおるんでござんすと、親バカの新助が自慢したおまえじゃねえか。度胸があったら、このおいらの前でもういっぺんあいきょうをふりまいてみなよ",
"いいえ、そんなことは、そ、そ、そんなことは",
"時と場合、出したくてもこの恐ろしい証拠を見せつけられては、肝がちぢんで出ねえというのか! ――そうだろう。ようみろい、この証拠を!",
"な、な、なんの証拠でござんす。証拠とはどれでござんす",
"このドスだ",
"えッ……!",
"それから、この牢番の青っぽうだ。みんなべらべらと口を割ったぜ。こいつを左ぎっちょの梅五郎さんにこっそりと届けてくださいまし、そうしたらなんでもききます、今晩でもおいでくださいましと、とんでもねえ両替仕込みの安いあいきょうをふりまいて、おまえから色仕掛けに頼み込まれたとな、残らずしゃべったよ。どうだい、ずうんと背筋が寒くなりゃしねえか",
"バ、バ、バカな! たいせつな娘に、なにをおっしゃいます! バカな!"
],
[
"とんでもないお言いがかりをおっしゃっちゃ困ります。たったひとりの婿取り娘、色仕掛けのなんのと人聞きのわるいことをおっしゃっちゃ困ります。バカなッ。ドスがどうの、梅五郎がどうのと、娘にかぎってそんなだいそれたことをする女じゃござんせぬ!",
"たしかにないというか!",
"ござんせんとも! てまえら親子に、何一つやましいことはござりませぬ。両替仕込みの安いあいきょうがどうだのこうだのとおっしゃいましたが、娘のあいきょうを安く売るといったんじゃござんせぬ。商売はあいきょうが第一、店の繁盛はあいきょうが元手、幸い娘があいきょう者ゆえ店も繁盛すると申しただけでござります",
"控えろッ。では、おまえにきこう。娘のあいきょうが元手になって繁盛いたしますといったその店を張るについての、そもそもの元手はどこからひねり出したんだ。あの鈴新ののれんを出した元手の金はどこから降ってわいたんだ",
"それはその、元手はその……",
"その元手はどこの小判だ。まさかに、一文なしじゃあれだけの店は張れめえ。しかも、不思議なことには、ご主家筋の鈴文はあのとおり落ちぶれて、千百三十両という大穴があいているというんだ。変な穴じゃねえか。なあおい、新助おやじ!",
"…………",
"なにを急に黙りだしたんだ。おいらが不審をうったのはその小判、千百三十両という大穴だ。小判はものをいわねえかもしらねえが、おいらの目玉はものをいうぜ",
"…………",
"どうだよ。おやじ! 聞きゃ鈴文店で子飼いからの番頭だという話だ。その番頭がひと月まえに暇をとって新店をあける。あけたあとで千百三十両の大穴がわかった。わかったその大穴は、わたしが相場にしくじってあけたんでござんす、いいやおまえじゃねえ、おれが使い込みの大穴だと、世にも珍しい罪争いが起きているというじゃねえかよ。争っているのは、ふたりとも男ざかりの手代だ。ひとりは三十四、ひとりは二十八、その若いほうの手代の左ぎっちょの梅五郎のところへ、おまえの娘がこっそりドスを届けたんだ。匕首をな。届けたら、けさになって豊太が刺し殺されていたんだ。どれもこれも、おかしなことばかりじゃねえかよ。争って罪を着たがったも不審、娘がドスを届けたも不審、しかも娘は婿取りだというんだ。男のほしい娘だとな。――どうだい、おやじ。これだけ筋を立ててたたみかけりゃ、もうよかろう。白状しな! 白状を!",
"…………",
"いわねえのかッ。じれってえな! おたげえに年の瀬が迫って気が短くなっているんだ。いわなきぁ、ぎっちょの梅五郎と突き合わせてやろうよ。めんどうだ。伝六! あの野郎をしょっぴいてきな!",
"いいえ、も、も、申します。恐れ入りました"
],
[
"お察しのとおり、千百三十両はこの新助が三年かかってちびりちびりとかすめてためた大穴でござります。いずれは店も出さねばならぬ、その用意にと長年かかってかすめたんでござりまするが、あそこへ店を出すといっしょに大穴がばれたんでございます。それを知って、罪を着ようといいだしたのが、あの豊太と梅五郎のふたりでござんした。ふたりともいまだにひとり身、娘は婿取り、罪を着る代わりにおれを婿におれを婿にといいだしたのが、こんな騒動のもととなったのでござります。なれども、娘のすきなのはあの梅五郎、きらいな豊太と末始終いっしょにならねばならぬようなことになってはと、娘がひどく苦にやみましたゆえ、ええ、めんどうだ、ついでのことに豊太を眠らせろと、この親バカのおやじが悪知恵をさずけて、梅五郎に刺し殺させたのでござります。しかし、あいつはぎっちょ、そんなことから足がつかねばよいがと、じつは内心胸を痛めていたんでございますが、なにがもとでばれましたやら、恐ろしいことでござります。主家を救うための使い込みと申し立てさせたのもみんなこの新助の入れ知恵、そんなことにでも申し立てたら、いくらか罪も軽くなり、なったら早くご牢払いにもなることができましょうとの魂胆でござりました。恐れ入りましてござります……",
"そうだろう。おおかたそんなことだろうと思っていたんだ。せっかくしりをぬぐってやって、ほねおり損だが、こんなしみったれのてがらはほしくねえ。のしをつけて進上するからと、すまぬが源内どの、敬四郎先生のところへだれか飛ばしてくれませぬか。不審のかどは丸くとれましたといってな。そのかわり、だいじなさばきだけを一つつけておいてあげましょう。――おやじ、千百三十両は鈴文さんに成り代わっておいらがもらってやるぜ。利子をどうの、両替賃をいくらつけろのと、はしたないことをいうんじゃねえ。元金だけでたくさんだからな。それだけありゃ、鈴文の店ののれんもまた染め直しができるというもんだ。伝六、おめえひとっ走りいって、あのしょぼしょぼおやじの顔のしわをのばしてきてやんな!",
"心得たり! さあ、これでもちがつけるんだ。とみにうれしくなりやがったね。一句飛び出しやがった。――もちもちと心せわしき年の暮れ、とはどうでござんす"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:M.A Hasegawa
2000年3月3日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000570",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "35 左刺しの匕首",
"副題読み": "35 ひだりさしのあいくち",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-03-03T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"没年月日": "1934-02-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "右門捕物帖(四)",
"底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店",
"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年9月15日",
"入力に使用した版1": "1982(昭和57)年9月15日新装第1刷",
"校正に使用した版1": "1996(平成8)年4月20日新装第3刷",
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"腹がたつね。こたつはなんです? そのこたつは! 行くんだ、行くんだ。出かけるんですよ",
"お寺参りかえ",
"ああいうことをいうんだからな。正月そうそう縁起でもねえ。きょうはいったいなんの日だと思っているんですかよ。やぶいりじゃねえですか。世間が遊ぶときゃ人並みに遊ばねえと、顔がたたねえんだ。行くんですよ! 浅草へ!",
"へへえ。おまえがな。年じゅうやぶいりをしているようだが、きょうはおまえ、よそ行きのやぶいりかえ",
"おこりますぜ、からかうと! ――ええ、ええ、そうですとも! どうせそうでしょうよ。なにかというと、だんなはそういうふうに薄情にできているんですからね。けれども、物事には気合いというものがあるんだ、気合いというものがね。よしやあっしが年じゅうやぶいり男にできていたにしても、いきましょ、だんな、どうですえと、羽をひろげて飛んできたら、よかろう、いこうぜ、主従は二世三世、かわいいおまえのことだ、――そうまではおせじを使ってくださらねえにしても、もちっとどうにかいい顔をしたらいいじゃござんせんか、いい顔をねえ",
"…………",
"え! だんな! どうですかよ、だんな!",
"…………",
"くやしいな! いかねえんですかい、だんな! え! だんな! どうあっても行かねえというんですかい"
],
[
"はてね。すごろくにしちゃ上がりがねえようだが、なんですかい、だんな",
"…………",
"え、ちょっと。これはなんですかよ。人が寝ているじゃねえですか、人が……",
"うるさいよ",
"いいえ、うるさかねえ、だんな。事がこういうことになりゃ、やぶいりはあすに日延べしたってかまわねえんだ。本郷の加州家といや加賀百万石のあのお屋敷にちげえねえが、その裏門の人はなんですかい、人は! だれがそんなところへ寝かしたんですかい",
"知らないよ",
"意地わるだな。教えたっていいじゃねえですかよ",
"でも、おまえ、おいらは薄情だといったじゃねえか。どうせわたしは薄情さ、のぞいてもらわなくたっていいですよ",
"ああいうことをいうんだからね。物は気合い、ことばははずみのものなんだ。ついことばのはずみでいっただけなんですよ。主従は二世三世、だんなとあっしゃ五世六世、ふたりともいまだにひとり身でいるが不思議だが、ひょっと伝六女じゃねえかと、ひとさまが陰口きくほどの仲じゃござんせんか。あな(事件)ならあなといやいいんですよ。なんです! その長く寝ている人間は――",
"変死人だよ",
"変死人! さあ、いけねえ。とんでもねえことになりゃがったね。どこのだれが、こんなつけ届けをしたんですかい",
"あきれたやつだな。もっとまっとうにものをいいな。つけ届けとは何をいうんだよ。たった今しがた、おまえとひと足違いに若いお武家がやって来て、てまえは本郷加州家の者でござる。この絵図面にあるとおり、屋敷の裏門前に怪しい死人がござるゆえお出まし願いたいと、駆け込み訴えをして帰ったんで、さっきから不思議に思って考えているんじゃねえかよ",
"いっこうに不思議はないね。駆け込み訴えがあったら考えることはねえ。さっさとお出ましなさりゃいいでやしょう",
"しようのねえやつだな。おまえの鼻は飾りものかよ。この絵図面をかいでみな"
],
[
"はあてね。べっぴんのにおいがするじゃござんせんかい",
"だから不思議だといってるんだ。飛びこんできたのは、りっぱな男のお侍だよ。それだのに、持ってきたこの紙には、れっきとした女の移り香が残っているんだ。しかも、この手跡をみろい。見取りの図面はめっぽうまずいが、ところどころへ書き込んである字は、このとおりめっぽううまいお家流の女文字だ。さてはこいつ、手数がかかるなと眼がついたればこそ、考えこんでもいたんじゃねえか。気をつけろい。やぶいりやっこめ、おいら、同じこたつにあたっても、ただあたっているんじゃねえやい。とっととしたくしな",
"ウへへ……うれしいね。しかられて喜んでいやがらあ。このやぶいりやっこめ、気をつけろいときたもんだ。へえ、帯でござんす。お召しものでござんす。――気をつけろい、ときたもんだ。おいら同じ雪駄をはくにしても、ただはくんじゃねえやい。へえ、おはきもの! おぞうり、雪駄、お次は駕籠とござい……",
"どこにいるんだ。まだ駕籠屋来ねえじゃねえかよ",
"おっと、いけねえ。呼びに行くのを忘れちまったんだ。めんどうくせえ。行ったつもりで、来たつもりで、乗ったつもりで、あそこまで歩いていっておくんなさいましよ。――いい天気だね。たまらねえな。小春日や……小春日や……伝六女にしてみてえ、とはどうでござんす……"
],
[
"ちと変じゃな。ずっとはじめから、おまえらだけか",
"そうでござります。加州さまのかたがたは顔もみせませぬ。知らせがあって駆けつけてから、わたくしどもばかりでござります"
],
[
"さてな。大きにおかしなやけどだが、ねえ、おい、伝あにい",
"へえ……?",
"今は冬かい",
"冗、冗、冗談いうにもほどがあらあ。とぼけたことをいうと、おこりますぜ、ほんとうに! 一月十五日、冬のまっさいちゅうに決まっているじゃねえですかよ",
"江戸は降らねえが、さだめし加賀あたりは大雪だろうね",
"なにをべらぼうなこというんです。加賀は北国、雪の名所、冬は雪と決まっているんだ。加賀に雪が降ったらどうだというんですかよ",
"べつにどうでもないが、おかしなやけどなんでね、ちょっときいてみたのさ。さてな、どのあたりかな"
],
[
"さきほどは失礼、めぼしがおつきか",
"さきほどと申しますると?",
"もうお忘れか。けさほど駆け込んでいったは、このてまえじゃ",
"ああ、なるほど、そなたでござったか。貴殿ならばなおけっこうでござる。どうやらめぼしがつきましたが、ちと不思議なものでやけどをしておりますゆえ、お尋ねせねばなりませぬ。お隠しなさらば詮議の妨げ、隠さずにおあかしくださりませよ。よろしゅうござりましょうな",
"申す段ではござらぬ。お尋ねはどんなことじゃ",
"加賀さまの献上雪は、たしか毎年いまごろお取り寄せのように承っておりますが、もうお国もとからお運びでござりまするか",
"運んだ段ではない。知ってのとおり、あれは日中を忌むゆえ、夜道に夜道をつづけて、ちょうどゆうべこの裏門から運び入れたばかりじゃ",
"やっぱりそうでござりましたか。たぶんもうお運びとにらみをつけたのでござりまするが、ようようそれでなぞが一つ解けました。おどろいてはなりませぬぞ。この変死人は、その雪で死にましたぞ",
"なに! 雪!――そうか! 雪で死んだと申されるか。道理でのう。凍え死んだ者はやけどそっくりじゃとか聞いておったが、雪か! 雪であったか……!"
],
[
"あのえ。だんな。少々ものをお尋ねいたしますがね",
"なんだ。うるさい",
"いいえ、うるさかねえ。さすがにえらいもんさ。ちょいとにらんだかと思うと、こいつア雪だとばかり、たちまち眼をつけるんだからね。あっしも雪で死んだに不足はねえが、それにしたって、なにも人が殺したとはかぎらねえんだ。自分で雪にはまったって、けっこう死ねるんだからね。気に入らねえのはそれですよ。えらそうなことをいって、もしもてめえがすき好んで凍え死んだのだったら、どうなさるんですかえ",
"しようのねえやつだな。そんなことがわからなくてどうするんだ。ひと目見りゃ、ちゃんとわかるじゃねえかよ。自分ではまって死んだものが、こんな道ばたにころがっているかい。加賀さまの雪室は、たしか七つおありのはずだ。ゆうべ運び入れたどさくさまぎれに、そのどれかへこかしこんでおいて、夜中か明けがたか、凍え死んだのを見すましてから、そしらぬ顔でここへひっころがしておいたに決まっているんだ。そんなことより、下手人の詮議がだいじだ。そっちへ引っこんでいな"
],
[
"なにもかも正直におあかしくだされましよ。けさほど八丁堀へわざわざおいでのことといい、こうして今ここへお立ち会いのご様子といい、特別になにかご心配のようでござりますが、貴殿、このご仁とお知り合いでござりまするか",
"同役じゃ",
"なるほど、同じ加賀家のご同役でござりまするか。このおきのどくな最期をとげたおかたは、なんという名まえでござります",
"松坂甚吾とおいいじゃ",
"お役は何でござります",
"奥祐筆じゃ",
"奥祐筆……! なるほど、そうでござりましたか"
],
[
"なるほど、ご祐筆とあっては、ご兄妹でござりまするかおつれ合いでござりまするか知りませぬが、お身よりのご婦人も字がうまいのはあたりまえでござりましょう。あの絵図面をお書きになったご婦人は、この松坂様の何に当たるおかたでござります",
"あの書き手を女とお見破りか!",
"見破ったればこそお尋ねするのでござります。お妹ごでござりまするか",
"いいや、ご内儀じゃ",
"ほほう、ご家内でござりまするか。お年は?",
"わこうござる",
"いくつぐらいでござります",
"二十三、四のはずじゃ",
"お顔は?",
"上の部じゃ",
"なに、上の部!――なるほど、美人でござりまするか。美人とすると――"
],
[
"雪が口をきかねえと思ったら大違いだ。そのご内室に会いとうござりまするが、お住まいはどちらでござります",
"住まいはついこの道向こうのあの外お長屋じゃが、会うならばわざわざお出かけなさるには及ばぬ。さきほどから人ごみに隠れて、その辺においでのはずじゃ",
"なに、おいででござりまするか。それはなにより、どこでござります。どのおかたがそうでございます",
"どのおかたもこのおかたもない。てまえといっしょに参って、ついいましがたまでその辺に隠れていたはずじゃが――はてな。おりませぬな。おこよどの! おこよどの……! どこへお行きじゃ。おこよどの!"
],
[
"くやしいね。なにがおかしいんですかよ! 笑いごっちゃねえですよ! 矢が来たんだ。矢が! 大将のどから血あぶくを出しているんですよ!",
"もう死んだかい",
"なにをおちついているんですかよ! せっかくの手づるを玉なしにしちゃなるめえと思うからこそ、あわてているんじゃねえですか。のそのそしていりゃ死んでしまうんですよ!",
"ほほう。なるほど、もうあの世へ行きかけているな。しようがねえ、死なしておくさ"
],
[
"ものをおっしゃい! ものを……! くやしいね。いまさらお長屋なんぞへいったって、むだぼねおりなんだ。矢が来たんですよ! 矢が! 質屋の吹き矢の矢とは矢が違うんだ。ぷつりと刺さって血が出たからには、どやつかあの鐘楼の上からねらって射かけたにちげえねえんですよ。はええところあっちを詮議したほうが近道じゃねえですかよ",
"うるせえな。黙ってろい"
],
[
"いちいちと世話のやけるやつだ。むっつり右門がむだ石を打つかよ。これが桂馬がかりのからめ手詮議、おいらが十八番のさし手じゃねえか。考えてみろい。おこよどのとかいうご新造がいたというのに雲がくれしたんだ。しめたと思って捜していたら、ぷつりと天から矢が降ってきたんじゃねえかよ。字もうめえが、ねらい矢も人にひけをとらねえとんだ巴板額もいねえとはかぎらねえんだ。右が臭いと思わば左を洗うべし――むっつり右門きわめつきの奥の手だよ",
"ちげえねえ。うれしいことになりゃがったね。事がそうおいでなさると、伝六屋の鳴り方も音いろが違ってくるんだ。蟹穴、狸穴、狐穴、穴さがしとくるとあっしがまた自慢なんだからね。ぱんぱんとたちまちかぎつけてめえりますから、お待ちなさいよ……"
],
[
"おりそうか",
"いるんですよ。年もちょうど二十三、四、まさにまさしくべっぴんの女ですよ。ほらほら、あの障子に写っている影がそうです"
],
[
"そなた、女中だな!",
"…………",
"返事をせい! 返事を! 口はないのか!"
],
[
"唖か!",
"…………",
"唖かといってきいているんだ。耳が遠いのか!"
],
[
"そなた、この書き置きにおどろいて、ものもいえなかったんだな。え? そうだろう。違うかい",
"そ、そ、そうでござります……",
"これを見ると、もうとうに死んでおるはずじゃが、この家のどこかに死体があるか",
"いいえ、うちには影も形も見えませぬ。この書き置きを残して、どこかへ家出なさいましたゆえ、びっくりしていたところなのでござります",
"そうか。死出の旅に家出したというか、出かけたはいつごろだ",
"ほんのいましがたでござります",
"出かけるところを見ておったか",
"いいえ、それが不思議でござります。こんなことになりましたら、もう申しあげてもさしつかえないでありましょうが、うちのだんなさまが、あの表で気味のわるい死に方をなさいましたゆえ、びっくりいたしまして、わたくしも騒ぎだしましたら、騒いではならぬ、出てきてもならぬ、いいというまで女中べやにはいっておれと申されまして、たいへんおしかりになったのでござりました。それゆえ、おことばどおり、あちらのへやに閉じこもって震えておりましたところ、どこかへお出ましなさったご様子でござりましたが、しばらくたってまたお帰りになりましたかと思うと、急に家の中がしいんとなりましたゆえ、不審に思いまして、こわごわ今のぞきにまいりましたら、このお書き置き一枚があるきりで、いつのまにどこへお出かけなさいましたものやら、もうお姿がなくなっていたのでござります"
],
[
"正月そうそう、だんなをバカにしたくはねえんだが、あんまりいばった口をきくもんじゃねえんですよ。さっきなんとかおっしゃいましたね。からめ手詮議がどうのこうの、桂馬がかりが十八番のと、たいそうもなくいばったお口をおききのようでしたが、自慢なら自慢で、早く王手をすりゃいいんだ、王手をね",
"…………",
"くやしいね。恥ずかしいなら恥ずかしいと、はっきりおっしゃりゃいいんだ。てれかくしに黙らなくともいいんですよ。だいいち、将棋が桂馬ばかりでさせると思っていらっしゃるのがもののまちがいなんだ。金銀飛車角、香に歩、あっしなんぞはただの歩かもしれねえが、歩だってけっこう王手はできるんですよ。りっぱな王手がねえ。え? だんな! 聞かねえんですかよ!"
],
[
"これへ名を書け",
"…………",
"なにを震えているんだ。急にそんなにまっさおにならんでもいい。書けといったら、早く名を書け",
"か、か、書きます。書けとおっしゃれば書きますが、名と申しますと……?",
"あんたの名まえさ。それから、生まれたところ、いつ当家へ奉公に来たか、それまではどこで何をしていたか。詳しく書きな",
"…………",
"なぜ書かねえんだよ! 八丁堀のむっつり右門がいいつけだ。書けといったら、早く書きな"
],
[
"争われないものさ。似ているね",
"な、なにがでござります",
"同じ人間が書いたものは、どうごまかそうとしたって似ているということよ。いま書いた字と、書き置きの字とはそっくりじゃねえか"
],
[
"慈悲をかけねえっていうわけじゃねえ。出ようしだいによっては、いくらでも女にやさしくなるおいらなんだ。むっつりの右門がむだ石を打つかい。べらぼうめ。おまえのその手の墨はなんだ。そでの墨はなんだ。こいつめ、にせの書き置きを書きやがったなとにらんだればこそ、おまえの字を知りたくて、わざわざ一筆ものさしたんだ。似たりや似たり、うり二つというのはこいつのことだ。両方の字のそっくりなのが論より証拠だ。この書き置きもおまえが書いたんだろう。どうだ、違うか",
"そうでござりましたか。やっぱり、やっぱりそのためでござりましたか。不意に名をかけとおっしゃいましたゆえ、もしやわたしの字をお調べではあるまいかと、書きながらもひやひやしておりましたんですが、恐れ入りました。いかにもこの書き置きはにせものでござります。書き手もおっしゃるとおり、このわたくしに相違ござりませぬが――",
"ござりませぬが、なんだというんだ",
"わたくしがすき好んで書いたのではござりませぬ。人におどかされまして、書かねば殺すぞと人におどかされまして、いやいやながら書いたのでござります",
"へへえ、急に空もようが変わってきやがったね。うそじゃあるめえな",
"いまさらなんのうそ偽りを申しましょう。あのかたに殺されたらと、それがおそろしくて、お隠し申していたんでござりまするが、もうもうなにもかも白状いたします。奥さまが死出の旅路にお出かけなさったなぞとはまっかな偽り、その奥さまは人にさらわれたんでござります。さらっておいて、罪を隠すためにそのかたがわたくしをおどしつけ、このようなにせの書き置きを書かせたのでござります",
"だれだ、あの矢で殺された若侍か",
"いいえ、あのかたこそ、ほんとうにおかわいそうでござります。同役というだけでいろいろご心配なさいましたのに、あんなことになりまして、さぞやご無念でござりましょう。さらった人は、わたしをおどしつけた人は、大口三郎というおかたでござります",
"どこのやっこだ",
"もとは同じ溝口藩のご祐筆、うちのご主人とはお相弟子、ご先代松坂兵衛様のご門人でござります",
"いま浪人か!",
"いいえ、やはり当加賀家へご仕官なさいまして、ただいまはご祐筆頭でござります",
"なに! ご祐筆頭! そろそろ焦げ臭くなってきやがったな。ひとり身か!",
"いいえ、奥さまもお子さまもおおぜいござります",
"それだのに、なんだとて人の奥方をさらったんだ",
"と存じまして、わたくしもじつはいぶかしく思うているのでござります。りっぱな奥さまがござりましたら、ふたりも奥さまはいらないはずでござりますのに、どうしてあんな手ごめ同様なことをなさいましてさらっておいでなされましたやら、だんなさまの変死だけでも気味がわるいのに、おりもおり、気に入らないことをなさるおかたでござります",
"どこへさらっていったかわからねえか",
"たぶん――",
"たぶんどこだ",
"日ごろから、特別になにやらお親しそうでござりますゆえ、この裏側のお長屋の依田重三郎様のお宅ではないかと思われますのでござります",
"何をやるやつだ。やっぱり祐筆か",
"いいえ、依田流弓道のご師範役でござります",
"なにッ、弓の師範! そうか! とうとう本においがしてきやがったな。――ねえ、あにい",
"へ……?",
"とぼけた返事をするない。桂馬がかりの詰め手というのは、こういうふうに打つんだ。気をつけろい",
"さようでございますかね",
"なにがさようでございますかだ。十手を用意しな! 十手を! まごまごしていたら、依田流のねらい矢でやられるというんだよ。こわかったら小さくなってついてきな"
],
[
"へへえ、弓の大将、やもめだな",
"バカいいなさんな。やもめといやひとり者にきまってるんだ。やもめににおいがあるじゃあるめえし、見もしねえうちから、人のうちのことがわかってたまりますかよ",
"ところが、おいらの鼻は、においのねえそのやもめのにおいまでがわかるから、おっかねえじゃねえかよ。そこにひらひらやっている干し物を、ようみろい、けいこ着、下じゅばん、どれもこれも男物ばかりで、女物はなにひとつ見えんじゃねえか。下男がひとり、依田の大将が一匹、人の数までがちゃんとわかるよ。そっちの法被は下男のやつだ。こっちの刺し子は依田のけいこ着だ。いわば、おまえとおいらのようなもんさ。――そら! そら! いううちに、変な声が聞こえるじゃねえか。やもめばかりの住まいに珍しい女の声だ、じっと聞いてみな"
],
[
"よからぬことをおやりじゃな",
"なにッ。どこの青僧だ!",
"知らねえのかい。おいらがむっつりのなんとかいう名物男さ、覚えておきな"
],
[
"笑わしやがらあ。百万石おかかえ、依田流の弓術があきれるよ。おひざもと育ちの八丁堀衆は、わざがお違いあそばすんだ。大口の三郎、おめえも大口あいてかかってくるか!",
"うぬ! か、か、かからずにおくものかい!"
],
[
"うすみっともねえまねをするにもほどがあらあ。そんなに目玉を白黒させずとも、うぬの小細工の黒い白いはもうついているんだ。痛い思いをしたくなけりゃ、すなおにすっぱりどろを吐きな",
"いいえ、あの、ありがとうございました。おかげさまで、危ういところをのがれました。その白い黒いは、このわたくしが申します"
],
[
"ただいま、このわたくしを前にすえておいて、自慢たらたらとおふたりで申されましたゆえ、なにもかもわかりましてござります。やはり、わたくしたち、夫の甚吾とふたりが疑ったとおりでござりました。と申しただけでは、なんのことやらおわかりではござりますまいが、そちらの大口三郎さまは、いうも身の毛のよだつ人非人でござります。忘れもせぬ二年まえ、父が他界いたしますといっしょに、生前なによりたいせつにして、父が秘蔵しておりました子持ちすずりという名のすずりが紛失したのでござります。そこの床の間にありまする小さな桐箱の中がそのすずりでござりまするが、石は唐の竜尾石、希代の名品でござりますばかりか、不思議が言い伝えがござりまして、女のわたくしがかようなことをあからさまに申しあげますのは心恥ずかしゅうござりまするが、子のない家にそのすずりを置けば、必ず子宝が得られますとやらいう言い伝えにちなみまして、いつのまにか子持ちすずりという名がついたとか申すことでござります。それゆえ、父もことのほかたいせつにいたしまして、人にも見せないほどに秘蔵しておりましたところ――",
"大口の三郎がさらって逃げたと申されるか",
"いいえ、はじめはだれが盗んだものやら、いっこうにわかりませなんだが、紛失するといっしょに大口様がふいっと国もとから姿を消しましたゆえ、はておかしなこともあるものじゃと、不審に思っておりましたところ、人のうわさに、まもなく当加賀家へ祐筆頭としてお仕官なさいましたと聞きましたゆえ、変死を遂げた夫ともども、わたくしたちも国を離れて、つてを求め、同じこの加賀家に仕えまして、内々探っていたのでござります。ところが、ようやく二、三日まえになって、その証拠があがり、あまつさえたいせつなすずりはこの依田様のところへ、祐筆頭に取りなしてもらったお礼がわりの進物として贈られているということがわかりましたゆえ、どうぞして取り返そうと、夫ともども心を砕いておりましたところ、じつに大口様は人外なおかたでござります。その夫を、あろうことか、あるまいことか――",
"よし、それでわかりました。あばかれては身は破滅、いっそ毒食わばさらまで、事の露見しないうちに、やみからやみへ葬ろうと、依田の重三郎に力を借りて、あのとおり雪で焼き殺したというのでござりまするな",
"ではないかと存じまして、けさ早く変死を遂げておりましたのを知るといっしょに、あの絵図面をわたくしが書きしたためまして、あのふびんな死にざまをなさいましたおかたに、あなたさまのところへ、飛んでいっていただいたのでござります。さっそくにお出役くださいましたゆえ、もうだいじょうぶと心ひそかに喜んでおりましたら、依田様もいいようのない人非人でござります。秘密を知られてはならぬと、あの鐘楼の上から恐ろしい矢を射かけたのでござります。そればかりか、ふたりでしめし合わせて、このわたくしをこんなところへ、手ごめ同様に押しこめ、妻になれの、はだを許せのと、けがらわしいことばっかり、今まで責めさいなんでいたのでござります。わたくしには何から何までのご恩人、ただもううれしくて、あなたさまのお顔も見ることができませぬ。お察しくだされませ"
],
[
"ちくしょうめッ。これで伝六様も早腰を抜かさずに済んだというもんだ。これからが忙しいんだ。野郎どもはなわにするんでしょうね",
"決まってらあ。ふたりとも並べてつないで引っ立てな!"
],
[
"いろいろとお手数ご苦労でござった。ふらちなその両名、てまえにお渡しくださらぬか",
"あなたさまは!",
"なにも聞いてくださるな。名も名のりとうはない。当加賀家に仕えておる者じゃ。さればこそ、加賀家の面目思うて、この一条、世にも知らさずに葬りたいのじゃ。家臣の者が顔を見せなんだのもそれがため。お渡しくださらば、てまえ必ずおこよどのに力を添えて、夫のあだ討たせましょう。いかがでござる。ご不承か"
],
[
"なるほど、筋の通ったおことば、しかとわかりました。百万石のご家名に傷がついては、一藩を預かるおかたとして、さぞやご心痛でござりましょう。ご所望ならば、お渡しする段ではござりませぬ",
"かたじけない。――すぐさまその両名をひっ立てて、あだ討ちの用意させい! おこよどのも参られよ"
],
[
"でも、ちょっとあっしゃ気になることがあるんだがね",
"なんだよ",
"あの美しいおこよさん。うれしそうに子持ちすずりを抱いていったはいいが、きょうから赤い信女のおひとり者になるんだ。どんな仏さまから子宝を授かるかと思うと、気がもめるんですよ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
※誤記は、『右門捕物帖 第四巻』新潮文庫と対照して、訂正した。
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年4月20日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000573",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"底本初版発行年1": "1982(昭和57)年9月15日",
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"きのうやきょうのお約束じゃねえ、もう十日もまえからたびたびそういってきているんですよ。牛込の守屋先生、下谷の高島先生、いの字を習ったか、ろの字を習ったかしらねえが、両方から二度も三度もお使いをいただいているんだ。去年も来なかった。おととしもみえなかった。古いむかしの筆子ほどなつかしい。今度の天神まつりにはぜひ来いと、わざわざねんごろなお使いをくだすったんじゃねえですか。のっぴきならねえ用でもあるなら格別、そうしてごろごろしている暇がありゃ、両方へ二、三べんいってこられるんですよ。じれってえっちゃありゃしねえ。日ぐれをみていたら、何がいってえおもしれえんです",
"…………",
"え! だんな! ばくちにいってらっしゃい、女狂いにいってらっしゃいというんじゃねえですよ。親は子のはじまり、師匠は後生のはじまり、ごきげん伺いに行きゃ先生がたがよぼよぼのしわをのばしてお喜びなさるから、いっておせじを使っていらっしゃいというんだ。世話のやけるっちゃありゃしねえ。そんな顔をして障子とにらめっこをしていたら、何がおもしれえんですかよ。障子には棧はあるが、棧は棧でも女郎屋の格子たア違いますぜ。それをいうんだ。それを!",
"…………",
"じれじれするだんなだな。なんとかいいなさいよ"
],
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"お待ちどうさま。お迎えでござんす……",
"そうれ、ごらんなせえ。だから、いわねえこっちゃねえんだ。牛込か下谷か、どっちかの先生が待ちかねて、お迎えの駕籠をよこしたんですよ。はええところおしたくなせえまし!",
"…………?",
"なにを考えているんです。首なぞひねるところはねえんですよ。しびれをきらして、どっちかの先生がわざわざお迎えをよこしたんだ。行くなら行く、よすならよすと、はきはき決めたらいいじゃねえですかよ!",
"あの、お待ちかねですから、お早く願います……"
],
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"人違いではあるまいな",
"ござんせぬ。だんなさまをお迎えに来たんです。どうぞ、お早く願います"
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"なるほど、わざわざお呼びはこれでござりまするな。いったい、これはどうしたのでござる",
"どうもこうもござりませぬ。岡三庵、今年五十七でござりまするが、生まれてこのかた、こんな気味わるい不思議に出会うたことがござりませぬゆえ、とうとう思いあまって、ご内密におしらべ願おうと、お越し願ったのでござります。よくまあ、これをご覧くださりませ。天井からも、壁からも、ただのひとしずくたれたあとはござりませぬ。床にもただの一滴たれおちてはおりませぬ。それだのに、どこから降ってくるのか、このへやのこの床の間へ軸ものをかけると、知らぬまにこのとおり血が降るのでござります",
"知らぬまに降る?――なるほど、そうでござるか。では、今までにもたびたびこんなことがあったのでござりまするな",
"あった段ではござりませぬ。これをまずご覧くださりませ"
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"なるほど、ちと気味のわるい話でござりまするな。血のいろに古い新しいがあるようじゃが、いつごろから、いったい、こんなことが始まったのでござる",
"数のとおり、ちょうど六日まえからでござります。そちらの右はじがいちばんさきの幅でござりまするが、前の晩までなんの変わりもございませんでしたのに、朝、ちょっとこのへやに用がござりましたゆえ、なんの気なしに上がってまいりまして、ひょいと床を見ましたら、そのとおり血が降っていたのでござります。医者のことでござりますゆえ、稼業がら、血にはおどろかぬほうでござりまするが、それにしても場所が床の間でござりますそのうえに、このとおり、かかっている品が軸物でござりますゆえ、見つけたときはぎょうてんいたしまして、腰をぬかさんばかりにおどろきましたが、何かのまちがいだろう、まちがいでなくばだれかのいたずらだろうぐらいに思いまして、そちらの二本めのと掛け替えておきましたところ、朝になると、また血が降っているのでござります。掛ければまた降る、替えればまた降る、三朝、四朝、五朝とつづきましたゆえ、すっかりおじけだちまして、すぐにもだれかに知らせようと思いましたが、うっかり人に話せば、たちまち八方へうわさがひろがるのは知れきったことでござりますのでな、やれ幽霊屋敷じゃ、やれ血が降るそうじゃとつまらぬ評判でもたちまして、せっかくあれまでにした門前がさびれるようなことになってはと、家人にも知らさずひたがくしにかくしておりましたが、きょうというきょうは、とうとうがまんができなくなったのでござります。いつもは朝降っておるのに、いまさっき日ぐれがたに、なにげなく上がってまいりまして、ひょいとみたら、このとおりなまなまとしたのが降っておりましたゆえ、生きた心持ちもなく、あの駕籠を大急ぎであなたさまのところへ飛ばしたのでござります"
],
[
"さあ、いけねえ。左甚五郎の彫った竜は夜な夜な水を吹いたという話だが、狩野のほうにだって、三人や五人、左甚五郎がいねえともかぎらねえんだ。ひょっとすると、こいつが血を吹く絵というやつにちげえねえですぜ。え、ちょいと、違いますかい",
"黙ってろ。うるさいやつだ。へらず口をたたくひまがあったら、こっちへ灯を出しな"
],
[
"はしご段は?",
"いま上がってきたのが一カ所きりでござります",
"夜はどなたが二階におやすみでござるか",
"どうして、どうして、見らるるとおりこれは自慢の客間でござりますのでな。寝るどころか、家人のものもめったにあげませぬ。この下がてまえども家族の居間に寝間、雇い人どもは向こうの別棟でござります",
"その雇い人はいくたりでござる",
"まず代脈がひとり、それから書生がふたり、下男がひとり、陸尺がふたり、それに女中がふたり",
"うちうちのご家族は?",
"てまえに、家内、それから娘、それから――いいや、いいや、それだけじゃ、ことし十九になる娘がひとりきりでござります",
"しかとそのお三人か!",
"まちがいござりませぬ。天にも地にも娘がひとり、親子三人きりでござります",
"別棟からの廊下は筒ぬけでござるか。それとも、なにか仕切りがござるか",
"大ありでござります。なにをいうにも、表のほうへは、朝から晩までいろいろの病人が出はいりしますのでな、奥と表とごっちゃになって不潔にならぬようにと、昼も仕切り戸で仕切って、夜は格別にきびしく雇い人どもへ申し渡してありますゆえ、この二階はおろか、奥へもめったには参られませぬ"
],
[
"しようがねえ、あんまりぞっとしねえ手だが、やっつけてみようぜ。ねえ、おい、あにい",
"へ……?"
],
[
"なにか踏み台をお借り申して、なげしへこの絵をみんな裏返しにして掛けな",
"裏返し!",
"掛けりゃいいんだ。早くしな!"
],
[
"書生か",
"さようでござります",
"名は?",
"平四郎と申します"
],
[
"おまえも書生だな",
"さようでござります",
"親は男親がすきか、母親がすきか",
"は……?",
"よしよし。もう帰れ"
],
[
"おまえ、すきだろう。伝六、何かきいてみな",
"へ……?",
"おふたりとも、なかなかご器量よしだ。もののはずみで、どんなことにならねえともかぎらねえ。ききたいことがあったら、尋ねてみろといってるんだよ",
"はずかしいや……",
"がらかい!――よし、よし、ご苦労さまでした。もう用はありませぬ。あとはおうちのおふたりだ。すぐに来るよう申してもらいましょう"
],
[
"お名まえは?",
"千萩と申します……",
"ほほう、千萩さんといいますか。いまにも散りそうな名でござりまするな"
],
[
"この町内か、近くの町内に、お針の師匠はねえか、洗ってきな",
"お針……? お針の師匠というと、おちくちくのあのお針ですかい",
"決まってらあ。つり針や意地っぱりに師匠があるかい。どこの町内でも、娘があるからにゃお針の師匠もひとりやふたりあるはずだ。がちゃがちゃしねえで、こっそりきき出してきな",
"…………?",
"なにをぼんやりひねっているんだよ。おひねりだんごじゃあるめえし、まごまごしていりゃ夜がふけるじゃねえか",
"あんまり人を小バカにしなさんな。ひねりたくてひねっているんじゃねえですよ。裏を返して軸物を掛けてみたかと思や、ひとりひとり呼びあげて、ろくでもねえことをきいて、町内にお針の師匠がおったら何がどうしたというんです。ひねってわるけりゃ、もっと人情のあることをいやいいんですよ",
"しようのねえ男だな。これしきのことがわからなくてどうするかい。くれぐれもご内密にと、三庵先生が拝むように頼んでおるじゃねえか。だからこそ、血の一件を知らすまいと思って、わざわざ裏返しに掛けさせたんだ。裏は返しておいても、あの家の者の中にいたずらをしたやつがおったら、軸を見ただけでもぴんと胸を刺されるにちげえねえんだ。胸を刺されりゃ、自然と顔のいろも変わろうし――",
"足も震えるだろうし――",
"それだけわかってりゃ、なにも首なんぞひねるがものはねえじゃねえかよ。ほかの者はみんなけげんそうな顔をして降りていったが、あの娘だけが震えていたんだ。ばかりじゃねえ。おまえさんはあの娘の顔と親たちの顔を比べてみたかい",
"いいえ、自慢じゃねえが、あっしゃそんなむだをしねえんですよ。べっぴんはべっぴんでけっこう目の保養になるんだからね。しわくちゃな親の顔なんぞと比べてみなくとも、ちゃんと堪能できるんですよ",
"あきれたやつだ。だから、伝六でんでんにしんの子、酒のさかなにもなりゃしねえなんぞと、子どもにまでもバカにされるんだよ。とびがたかを産んだという話はきくが、おやじの三庵はあのとおりおでこの慈姑頭、おふくろさんは四角い顔の寸づまり、あんな似たところのねえ親子なんてものはありゃしねえ。不審はそれだ。娘のことを探るのは娘どうし、その娘っ子の寄り集まるところといや、まずてっとり早いところがお針のお師匠さんじゃねえか。三人五人と町内近所の娘が寄りゃ、あっちの娘の話、こっちの娘のうわさ、今のあの不思議な娘のことも、何かうわさを聞いているだろうし、陰口もたたき合っているにちげえねえんだ。それを探るというんだよ、それをな。ほかのところじゃねえ、女護が島を見つけに行くんだ。わかったら、勇んでいってきなよ",
"かたじけねえ。そういうふうに人情を割って話してくれりゃ、あっしだってすねるところはねえんですよ。べらぼうめ、どうするか覚えていろ。ほんとうに……! おうい、どきな、どきな、じゃまじゃねえか。道をあけな"
],
[
"見つからねえのかい",
"相手は娘じゃねえですか。あっしともあろう者が、娘っ子の巣を見のがしてなるもんですかい。ふたところあるんですよ",
"そいつあ豪儀だ。この近所か",
"近所も近所も裏通りの路地に一軒、向こうの横町に一軒、裏通りは五人、向こう横町のほうは八人、お節句着物でも縫っているとみえてね、両方ともあかりをかんかんともして、いっしょうけんめいとおちくちくをやっているんですよ。いい娘のそろっているほうがご注文なら、ちっと遠いが向こう横町だ。いきますかえ",
"いい娘が見たくて行くんじゃねえ、近いほうがいいや、連れていきな"
],
[
"あの右から三人めの不器量な娘だ。あそこのかどまで呼んできな",
"な、な、なんですかい。冗談じゃねえ、えりにえって、あんなおででこ娘に白羽の矢を立てなくともいいでしょう。ほかに見晴らしのいいのが、ふたりもおるじゃねえですかよ",
"大きな声を出すな。聞こえるじゃねえか。器量のいい娘のうわさに、器量のわるい娘ほど知っているものなんだ。勘のにぶいやつだ。ご苦労だがちょっと来てくれといって、おとなしく連れてきな"
],
[
"お仕事中をおきのどくさまでしたな。隠しちゃいけませんぜ。あんたの町内はどこでござんす",
"…………?",
"こわいこたあねえ、ちょっとききたいことがあってお呼び申したんですよ。この近くのお町内ならお知りでしょうが、あそこの岡三庵先生のところのお嬢さんのことを何かご存じじゃござんせんかい"
],
[
"ほ、ほかのことは知りませぬが、なんでもお櫃を、おまんまを入れる大きなお櫃を、人にも見せずに毎日毎日宝物のようにして、たいへんだいじにしているといううわさでござります",
"お櫃! 中には、なにがはいっているんです",
"知りませぬ。毎晩夜ふけになるとそのお櫃をたいせつにかかえて、お女中さんをひとりお供につれて、こっそりどこかへ出ていくとかいううわさでござります",
"どこへ行くんです",
"そ、それも知りませぬ。ほかには何も存じませんゆえ、もう、もうごかんべんくださいまし……"
],
[
"辻占はみんなおじさんが買ってやるからな。そのかわり、おまえのからだを貸しておくれ。もう少したったら、あそこのお医者のうちの内玄関か裏のほうから、女がふたりこっそりと出てくるからな、出たらすぐに知らせておくれ",
"見張りをするのかい",
"そうよ。なかなかわかりがいい。だから、向こうに見つからねえようにしなくちゃいけねえぜ。おじさんは、ほら、みろ、そこの川の中に小船があるだろう。あの中に寝ているから、万事抜からねえようにやるんだぜ",
"あいきた。わかったよ。出てきたら、合い図にあのうちの前の土手でちょうちんを振るからね。すぐに来ておくれよ"
],
[
"どっちだ!",
"あそこ! あそこ! あのへいかどを左へ曲がっていくふたりがそうですよ"
],
[
"懐剣を持っているな",
"懐剣!",
"あのうしろを守って行く女中のかっこうを見ろ。左手で胸のところをしっかり握っているあんばいは、たしかに懐剣だ。どうやら、こいつは思いのほかの大物かも知れねえぜ"
],
[
"だいじなどたん場だ。声を出したらしめ殺すぞ",
"だ、だ、だ、だいじょうぶ。なんだか変なこころもちになりやがって、出したくとも、で、で、出ねえんですよ……"
],
[
"ちくしょう。墓だ! 墓だ! 新墓をあばいて、死人の血を絞りに来たにちげえねえですぜ",
"黙ってろい。しゃべらねえという約束じゃねえか。聞こえて逃げたらどうするんだ",
"だ、だ、だまっていてえんだが、あんまり気味のわりいまねばかりしやがるんで、ひとりでに音が出るんですよ。埋めたばかりの死人なら、血の一合や二合絞り取れねえってえはずはねえんだ。きっと、新墓をねらいに来たんですぜ"
],
[
"お待ちかねでしたでしょう。千さま、もういいですよ。早くいっていらっしゃい……",
"…………",
"いいえ。だいじょうぶ。だれも見ちゃいないから、こわいことなんぞありませんよ。ええ、そう、――そう。まあ、かわいらしい。わたしにあいさつしていらっしゃるの。長遊びしちゃいけませんよ。早く帰っていらっしゃいね……"
],
[
"聞き分けのないおかたでござりまするな! あれほどいったのに、まだおやめなさらないのでござりますか!",
"…………",
"こんなものを飼えば、こんな気味のわるいものを飼ったら、なにがおもしろいのでござります! どこがかわいいのでござります"
],
[
"あッ。あなたは……! あなたさまは……!",
"右門でござる。さきほどはお宅の二階でお騒がせいたしましたな"
],
[
"始終の様子は、のこらず見せていただきました。とんだにょろにょろとした隠し男をおかわいがりでござりまするな",
"ではもう……ではもう、なにもかも……",
"聞きもいたしましたし、詳しく拝見もいたしましたゆえ、ここらが潮どきとおじゃまに出てきたんでござんす。虫も殺さぬようなお美しい顔をしておいでなすって、あんまり人騒がせをするもんじゃござんせんよ。いま聞きゃ、こっちのこの若いおかたと、なにかいわくがありそうでござんすが、なにをいったい、どうしたというんでござんす。あれほどいったのに、まだやめないかと、たいへんこちらがおしかりのようでしたが、このかたはいったい、どういう掛かり合いのおかたなんです",
"…………",
"え? お嬢さま!",
"…………",
"じれったいね、むっつりの右門といわれるあっしが耳に入れて、このとおりにょろにょろとはい出してきたんです。櫃の中の大将に比べりゃかま首もみじけえし、からだもみじけえが、目はもっと光っているんだ。手間を取らせねえほうがおためですぜ。え? お嬢さん! はきはきいったらどんなものでござんす"
],
[
"わたくしが申しましょう。あなたさまなら大事ござりますまい。そのかわり、くれぐれもご内密に頼みますぞ",
"そなた何もかもご存じか",
"知っている段ではござりませぬ。その女は、千萩は、なにを隠しましょう。このわたくしの妻たるべき女でござります",
"おいいなずけか!",
"そうでござります。どういうお詮議で塗町の父のほうへ参られましたか知りませぬが、てまえはあの岡三庵のせがれでござります。血を分け合った一粒種の三之助と申すものでござります",
"なに、ご子息!――なるほど、そうか。道理で、さきほど家族しらべをしたおり、ほかに子はない、この娘ひとりきりじゃと、しどろもどろにいった様子がちとおかしいとにらんでおったが、やっぱり隠し子がありましたな。血を分けた実のせがれが家を出て、いいなずけの女が娘同様家におるとは、なんぞ深い子細がござろう。それが聞きたい。どうしてまた、そなたは家を出ておるのじゃ。夜遊びでも高じて、勘当でもされましたか",
"めっそうもござりませぬ。それもこれもみんな、もとはといえば、千萩のこの気味のわるい病気ゆえでござります。こうなりますればもう、千萩の素姓も申しましょうが、この女は、わたくしの父三庵が、書生のうちからかわいがられて、今のような医業を授けていただいたたいせつな先生の、お師匠さまの忘れ形見なのでござります。年をとってからこの千萩をもうけて、まだ成人もせぬうちにご他界なさいましたゆえ、父の三庵が子ども同様にして引きとり、わたくしともいいなずけの約束を取りかわし、四年まえまで一つ家に育ってきたのでござりまするが、なんの因果か、千萩めがちいさいうちから、こんなものを、こんな気味のわるい長虫をかわいがって、昼も夜もそばを離さないのでござります。それゆえ――",
"そなたがきらって家出をしたと申されるか",
"一口に申さばそうなんでござります。一匹や二匹ではござりませぬ。多いときは七匹も八匹も飼って、死ねばとっかえとっかえ、またどこからか手に入れて、あげくのはてには、夜一つふとんへ抱いて寝るような始末でござりましたゆえ、ほかの生き物とはちがうのじゃ、人のきらう長虫なのじゃ、いいかげんにおやめなされと、口のすっぱくなるほどいさめたのでござりまするが、どうあっても聞き入れないのでござります。父からしかってもらいましょうと、父に申したところ、その父がまたいっこうにわたくしの味方となってくれないのでござります。たわけを申すな、だれのお嬢さまと思っておるのじゃ、わしにとってはかけ替えのないご恩人の娘じゃ、先生の娘じゃ、お師匠さまの忘れ形見じゃ、わしが一人まえの医者になれたのも、みんな千萩どののおとうさまのたまものじゃ、恩人の娘に意見ができるか、バカ者、ほかの男を抱いて寝るとでもいうなら格別、長虫をかわいがるくらい、がまんができなくてどうなるのじゃ、おまえがいやなら、たって添いとげてもらわなくともいい、ほかから養子を迎えて千萩に跡目を継がせるから、気に入らずばどこへでも出ていけと、実の子のわたくしをかえってしかりつける始末なのでござります。くやしいのをこらえて、三度、五度と千萩にも頼み、父にも頼みましたが、いっこうにわたくしのいうことなぞ取りあげてくれませぬゆえ、ええままよ、恩じゃ、義理じゃ、先生の娘じゃと、他人の子をわがままいっぱいに育てて、実の子をそでにするような親なら、かってにしろとばかり、家を飛び出し、こっそりと長崎へくだって、きょうが日までの丸四年、死に身になって医業を励み、どうにかこうにか一人まえの医者となって、つい十日ほどまえにこっそりまた江戸に帰ってまいったのでござります。帰ってきて、それとなく千萩の様子を見ますると、このとおりだんだんと年ごろになってはいるし、四年まえとはうって変わって、どことのう――",
"美しくなっていたゆえ、また未練が出てきたというのじゃな",
"お恥ずかしゅうござります。未練といえば未練でござりまするが、いいなずけの約束までした女じゃ、他人にとられとうはない。けれども気味のわるい長虫はいまだにやめぬ、――どうしたものかと迷っていたやさき、さいわいなことに、ここの寺はてまえたち一家の菩提寺なのでござります。千萩がまたこの寺へ毎夜毎夜へびのえさのねずみ取りに来ることをかぎ知り、こっそりとこの寺に寝泊まりしておりまして、このとおり、毎夜毎夜ころあいを見計らっては意見に来ますけれど、千萩は相手になってもくれないのでござります。こんなものの、こんな長虫のどこがかわいいのか。く、くやしくてなりませぬ。千、千萩めが、うらめしゅうてなりませぬ……"
],
[
"憎いか! 三之助!",
"は……",
"千萩は憎いかときいておるのじゃ",
"こ、恋しゅうござります。いいえ、うらめしゅうござります。こんなに思うておるのに、人の心を知らない千萩が、ただただうらめしゅうござります……いいえ! いいえ! 千萩よりも父が憎い! 親が憎い! 実の子を捨てても他人の子をかばうような、父が、親が、もっともっとうらめしゅうござります……",
"そうか! 親が憎いか! 父がうらめしいか! では、おまえだな!"
],
[
"隠しても目は光っているぞ! おまえがあんないたずらしたんだろう",
"気、気味のわるい。不意になんでござります! あんないたずらとは、なんのことでござります",
"しらっばくれるな! 父が憎い、親がうらめしいと、今その口でいったはずだ。他人の子をかばって自分を追ん出した腹いせに、あんないたずらをしたんだろう!",
"な、な、なんのことでござります! いっこうてまえにはわかりませぬが、何をお疑いなさっているんでござります!",
"血だ! 床の間へたらしたあの血のことなんだ!",
"血! 床の間の血……?"
],
[
"へへえ……とんだ長いしっぽがお櫃の中から出たかと思ったら、またにょろりと隠れてしまったか。――どうやら、こいつあ難物だよ。来い! あにい! なにをまごまごしているんだ",
"へ……?",
"へじゃないよ。新規まき直し、狂ったことのねえ眼が狂ったから、出直さなくちゃならねえといってるんだ。まごまごしねえで、ついてきなよ",
"まごまごしているのは、あっしじゃねえですよ。ばかばかしい。だんなこそまごまごして、どこへ行くんですかよ。そんなところは出口じゃねえんです。木魚ですよ。外へ出るなら、ここをこう曲がって、こっちへ出るんですよ"
],
[
"ねえ、あにい!",
"…………",
"あにいといってるんだ。いねえのかよ、伝六",
"い、い、いるんですよ。ここにひとりおるんですよ。気味のわるいほど考えこんでしまったんで、どうなることかとこっちも息を殺していたんです。いたら、いきなりぱんぱんと笑いだしたんで、気が遠くなったんですよ。あっしがここにおったら、なにがどうしたというんです",
"どうもしねえさ。岡の三庵先生は何商売だったっけな",
"医者じゃねえですかよ",
"医者なら、血があったって不思議はねえだろう",
"だれも不思議だといやしませんよ。おできも切りゃ、血の出る傷も手当をするのがお医者の一つ芸なんだ。医者のうちに血があったら、なにがどうしたというんですかよ",
"血をいじくるが稼業なら、血を始末するかめかおけがあるだろうというのさ。どう考えたって、あの床の間へ降った血は、外から忍びこんできたいたずらのしわざじゃねえ。たしかに、あの家の者がやったにちげえねえんだ。その血も、十中八、九、おけかかめにためてある病人の血を塗ったものに相違あるめえというんだよ。だから、血がめにえさをたれに行くのよ。ついてきな",
"えさ……?",
"変な声を出さなくともいいんだよ。そういうまにも、また今夜血を降らされちゃ事がめんどうだ。早いことえさをたれておかなくちゃならねえから、とっととついてきな"
],
[
"おめえの一つ芸だ。はええところ血がめのありかを捜してきなよ",
"…………?",
"なにをまごまごしてるんだ。内庭か、外庭か、どっちにしても外科べやの近所の庭先にちげえねえ。あり場所さえわかりゃ、おいらがちょいとおまじないするんだ。大急ぎで捜してこなくちゃ、夜が明けるじゃねえかよ"
],
[
"大だいがつれたようだぜ。早くしゃっきりと立ちなよ。なにをぽうっとしているんだ",
"がみがみいいなさんな。変なことばかりなさるんで、まくらもとへすわってだんなの寝顔をみていたら、頼みもしねえのに夜が明けちまったんですよ。ひと晩寝なきゃ、だれだってぽうっとなるんです",
"あきれたやつだな。寝ずの番をしていたって、夜が明けなきゃあさかなはつれねえんだ。ゆうべぬったうるしが、ものをいってるんだよ。目がさめるから、飛んできな"
],
[
"手を見たい。家の者残らずこれへ呼ばっしゃい",
"手……? 手と申しますると?",
"文句はいりませぬ。言いつけどおりにすればいいのじゃ。早くこれへひとり残らず呼ばっしゃい"
],
[
"これが右門流のつりえさだ。よくおわかりか。ゆうべおそくにわざわざやって来て、こっそりとあの血がめのふたへうるしを塗っておいたんだ。そのふたにさわったからこそ、そのとおりうるしにかぶれたんでござろう。なに用あって、あの血のかめのふたをおあけなすった",
"…………",
"いいませぬな! 情けも水物、吟味詮議も水物だ。手間を取らせたら、いくらでも啖呵の用意があるんですぜ。ただの用であのかめのふたへさわったんではござんすまい。たびたび二階の床の間へ血が降っているんだ。そのうるしかぶれがなにより生きた証拠、すっぱりと、ネタを割ったらどうでござんす",
"わ、わかりました……なるほどよくわかりました。この証拠を見られては、もう隠しだてもなりますまいゆえ申します……申します……"
],
[
"長虫の膚なぞより、人の心は、人の膚はもっとあたたかい。そなた、三之助どのがいとしゅうはござらぬか",
"…………",
"アハハ……まっかにおなりじゃな。首のそのもみじでよくわかりました。三庵どの、千萩どのは三之助どのがきらいではないそうじゃ。お早く駕籠の用意をさっしゃい。行くさきは松永町の正福寺"
],
[
"いや、待たっしゃい。乗せていくものがござる。夫婦和合にあのお櫃は禁物じゃ。寺へ届けたら、あの長虫の始末は和尚がねんごろにしてくださりましょうゆえ、三之助どのと引き換えに迎えておいで召されい。千萩どのもたんと人膚にあやかりなさいませよ……",
"えへへ……人膚たア、うめえことをいったね。ちくしょう。ようやく今になって音が出やがった",
"おそいや。おまえが鳴らなくて、いつになく静かでよかったよ。それにしても、おいらとおまえは出雲の神さ。ざらざらしてちっと気味がわるいが、ほかになでる人膚はねえ、おまえの首でもなでてやらあ。こっちへかしなよ"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:はやしだかずこ
2000年4月20日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000557",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
"ソート用読み": "うもんとりものちよう",
"副題": "37 血の降るへや",
"副題読み": "37 ちのふるへや",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-04-20T00:00:00",
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"ご苦労でござる",
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"では、川西万兵衛、差し出がましゅうござるが吟味つかまつる。――音蔵殺し下手人やまがらお駒、ここへ引かっしゃい",
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"ご覧のとおりでござる。音蔵があやめられていた場所は、浅草北松山町の火の見やぐら下じゃ。時刻は宵五ツどき。お駒の住まい岩吉店はその火の見の奥でござる。場所は近し、血によごれた匕首はむくろのそばに捨ててござるし、品はまさしくお駒の品でござるゆえ、下手人をこの女と疑うに無理はござらぬが、しかしながら肝心の傷がご覧のとおりじゃ。りっぱな刀傷じゃ。この点疑うべき余地がない。ご意見いかがでござる",
"…………",
"ご異論ありませぬな。ござらねば、さきを急ぎましょう。――痴情なし、色恋なし、恨み、憎しみ、八方手をつくして詮議したところによると、これまでお駒と音蔵は他人も他人、顔を合わしたことはござっても、世間話一つかわしたこともない間がらということじゃ。知らぬ他人が、なんの恨みもない知らぬ男をあやめるなぞというためしはない。この点も、下手人として嫌疑のくずれる急所でござる。ご意見いかがじゃ",
"…………",
"ありませぬな。しからば、最後のこの血潮じゃ。とり押えたみぎり着用のじゅばんに、このとおり血の跡はござったが、駒の申すにはひざより発した血じゃということでござる。――駒! だいじな場合じゃ。恥ずかしがってはならぬぞ。じゅうぶんに脛をまくって、諸公がたに傷跡をご検分願わっしゃい。だれかてつだって、まくってつかわせ"
],
[
"かくのとおりじゃ。残念ながら証拠固めがたたぬとすれば、無罪追放のほかはない。諸公がたのご判断はいかがでござる",
"…………",
"ご意見はいかがじゃ!",
"…………",
"どなたもご異論ござりませぬか!",
"…………",
"ありませぬな。――では、川西万兵衛、公儀のお名によってさばきつかまつる。やまがらお駒、ありがたく心得ろよ。長らくうきめに会わせてふびんであった。上の疑いは晴れたぞッ。立ちませい! 帰っても苦しゅうない、宿もとへさがりませい!"
],
[
"とんだ食わせものだ。またちっと忙しくなりやがったな。――おうい、あにい! 伝六",
"ここにあり",
"見たか",
"まさに拝見いたしましたね。いい形でしたよ。つかつかと飛び降りる、さっと石を拾う、えッ、パッと投げて、大みえきってぴたりと決まった型は、まずこのところ日本一、葉村家かむっつり屋といったところだ。うれしかったね。胸がすうとしましたよ",
"そんなことをきいているんじゃねえや。今のお駒のあざやかなところを見たかというんだよ。千両役者にしたって、ああみごとに舞台は変わらねえ。あの決まったところ、さっとつぶてをかわしたところ、きりっと体が締まったところ、おいたはおよしなさいませとおちついたところ、やっとう剣法、竹刀のけいこでたたきあげたにしても、まず切り紙以上、免許ちけえ腕まえだ。女に剣術使いはあるめえと思い込んでかかったのが目ちげえさ。あの体のこなしなら、袈裟がけ、一刀切り、男一匹ぐれえを仕止めるにぞうさはねえ。またひとてがらちょうだいするんだ。早くしたくしな",
"冗談じゃねえ。それなら、なぜさっき横車を押さなかったんですかよ。万兵衛のだんなが、ご意見はいかがじゃ、ご異論はござらぬか、と二度も三度もバカ念を押したんだ。あるならあるで、はい、先生、ございますと、活発に手をあげりゃよかったじゃねえですか",
"犬の顔にだって裏表があるんだ。物を考えつくときにだって、あともありゃさきもあるよ。初めっから気がついていりゃ、ほっちゃおかねえや。今ひょいと思いついたんで、急がしているんだ。とっとと駕籠を呼んできな",
"いいえ、だんな、お黙り! なるほど、犬の顔にも裏表があるかもしれねえがね、よしんばお駒が免許皆伝の剣術使いであったにしても、包丁はドス、そのドスが血によごれて、死骸のそばにころがっておったと、万兵衛のだんなが詳しくご披露なすったんだ。傷口が違うんです。刃物が違うんです。ドスの袈裟がけ匕首剣法の一刀切りなんてえものは、伝六へその緒を切ってこのかた耳にしたこともねえですよ。せっかくだが、あっしゃご異論のある口だ。文句があったら活発に手をあげてごらんなせえ",
"音止めにぱっとあげてやらあ。うるせえ野郎だ。刀で切って、目をくらますために、匕首を捨てておくという手もあるじゃねえか。おいたはおよしなさいませと、あっさりやられたあのせりふが気に入らねえ、にこりともしなかった顔が気に入らねえんだ、ついてきな"
],
[
"笑わしやがらあ。だから、白州のじゃりもほうってみろというんだよ。川西万兵衛どんのお口上だと、痴情なし、色恋なし、恨みなし、憎みなし、音蔵とお駒はあかの他人だ、他人と他人に刃傷沙汰はねえと見てきたようなことをご披露したが、お駒音蔵、音蔵お駒と一本道にふたりのつながりばかりねらうから、じつあ裏手にこういう抜け道のあったことがわからねえんだ。亭主が人手にかかって、あき家になったみずみずしい女のところへ、長い虫が黒く伸びて寝ているなんて、おあつらえの図じゃねえかよ。どうだえ、あにい",
"なんだ、きさまは! あいさつもなく他人のうちへぬうとはいって、なにをべらべらやっているんだ。おあつらえの図たアどなたさまにいうんだ"
],
[
"だれに断わって、このうちへへえってきたんだ",
"死んだ音蔵にさ",
"ご番所の野郎か",
"しかり",
"何用があるんだ",
"御用筋の通った御用があって来たのよ。ものをきくがね、おまえさんはこのうちのなんですえ",
"親類だ",
"親類にもいろいろござんすぜ。親子兄弟、いとこはとこ、それからも一つご親類というやつがな。あんた、そのごの字のつくほうかえ",
"つこうとつくまいと、いらぬお世話だ。ごの字をつけたきゃ、気に入るようにかってにつけておきゃいいじゃねえか。とにかく、おれはここの親類だよ",
"そうですか。とにかくづきの親類なら、ごの字のつく親類とあんまり遠くねえようだが、まあいいや。それにしても、このうちの暮らしぶりは、ちっと金回りがよすぎるようだね。鳶のかしらといえば、江戸っ子の中でも金の切れるほうだ。宵越しの金を持たねえその江戸ッ子の主人が死んで、もうふた月にもなる今日、こんなぜいたく暮らしのできるようなたくわえが残っているはずアねえ。暮らしの金はどこからわいて出るんですえ",
"いらぬお世話じゃねえか、縁の下に小判の吹き出る隠し井戸がねえともかぎらねえんだ。捜してみたけりゃ、天井なりと、床の下なりと、もぐってみるがいいさ",
"きいたふうなせりふをおっしゃいましたね。そういうご返事なら、たってききますまいよ。お名はなんていいますえ",
"知らねえや!",
"なるほど、名まえも知らねえ屋どのとおっしゃるか。よしよし、これだけわかりゃたくさんだ。伝六、河岸を変えようぜ。忙しいんだから、鳴らずについてきなよ"
],
[
"バカにしてらあ。あんまりむだをするもんじゃねえですよ",
"むだに見えるか",
"むだじゃござんせんか。あんな月代野郎にけんつくをかまされて、すごすごと引き揚げるくれえなら、わざわざ寄り道するがまでのことはねえんだ。お駒を煎じ直すなら煎じ直すように、早く締めあげりゃいいんですよ",
"そのお駒を締めあげるために、むだ石を打っているじゃねえか。右門流のむだ石捨て石は、十手さき二十手さきへいって生きてくるんだ。文句をいう暇があったら、はええところお駒のねぐらでもかぎつけな"
],
[
"どこの野郎だ。なにしに来やがったんだ",
"…………",
"黙ってぬっとへえってきやがって、だれに断わったんだ",
"似たようなことをいうな。おまえはこのうちの、何にあたるえ",
"いらぬお世話じゃねえか。親類だよ",
"なるほど、やっぱり親類か。親類にもいろいろあるが、どんな親類だ。おまえもごの字のつく親類筋のほうかえ",
"どんな筋の親類だろうと、いらぬお世話じゃねえか。ごの字とやらをつけたきゃ、かってにつけておくがいいさ"
],
[
"どこかに水があったら、ざあっと一ぺえかぶりてえ。毛が、尾っぽの毛がそこらについているような気がしてならねえですよ。ぎゅっと一つつねってみておくんなさいまし。あっしゃまだ生きておりますかえ",
"バカだな。ひとりで青くなっていたってわかりゃしねえじゃねえか。いってえどうしたんだ。野郎たちゃ全然別人か",
"――のようなところもあるんで、ふたりかと思ったら",
"やっぱりひとりか!",
"――のようなところもあるんですよ。音蔵のうちへ駆けこんでいったら、裏口からもばたばたとあの町人らしい足音が飛びこんできやがってね、と思ったら、表口へぬっと顔が出たんで、さては青月代かとよくよくみたら黒い頭なんだ。あの御家人めがにったりやって、なにしに来やがったとにらみつけたんでね、こいついけねえと思って、大急ぎにお駒のうちへ飛んでけえったら、いま見たとおりまたばたばたと裏口から駆け込んできやがって、にやにややっていたんです。こんな気味のわるいこたア二つとありゃしねえ。つらは同じなんだ。年かっこうも同じなんだ。男っぷりもそっくりなんだ。毛がはえたり、なくなったり、飛んであるくうちに月代が青くなったり、黒くなったりするなんてえきてれつは、弘法様だってご存じねえですよ。あっしゃ震えが、ふ、震えが出てならねえんです……"
],
[
"迷わしゃがるな。めんどうだが、手間をかけて、しっぽをつかむより法はあるめえ。両方の近所へいって、人の口を狩り集めてきな",
"聞き込みですかい",
"そうよ。人の毛は肉の下からはえてくるんだ。気ままかってに取りはずしのできる品じゃねえ。ひとりかふたりか、おおぜいの目を借りたら正体もわかるにちげえねえから、ひとっ走りいって洗ってきな",
"よしきた。ちくしょうめ。たっぷりとまゆにつばをつけていってやらあ。どこでお待ちなさるんです。いずれはどこかそこらの食い物屋でしょうね",
"お手のすじさ。おいらが食い物屋と縁が切れたら冥土へちけえよ。あの向こうの突き当たりだ。オナラチャズケ、ウジリョウリとひねった看板が見えるじゃねえか。あそこにいるから、舞っておいで"
],
[
"伝六か!",
"しかり!",
"景気がいいな。みやげはどうだ。その足音じゃたんまりとありそうだが、どうだ、わかったか",
"…………"
],
[
"だめなのかい",
"いいえ、だめとはっきり決まったわけじゃねえんだ。音蔵のほうで五軒、お駒のほうで五軒、締めて十軒探ったんですがね。そのうちで、たぶんふたりだろうといったのが――",
"何軒だ",
"締めて五軒あるんですよ。いいや、ひとりかもしれねえといったのが、やっぱり五軒あるんだ。くたぶれもうけさ。いくら探っても、やっぱり、ひとりかふたりか、雲が深くなるばかりで正体はわからねえんですよ",
"なんでえ。ばかばかしい。それなら、なにも景気よく帰ってくるところはねえじゃねえか。今ごろまゆをぬらしたっておそいや",
"おこったってしようがねえですよ。あっしのせいじゃねえんだからね。ふたりかひとりかわからねえようなやつが、このせちがらい世の中をのそのそしているのがわりいんです。ほかに手はねえんだ。どうあっても正体を突きとめるなら、野郎たち両方へ呼び出しをかけるより法はねえんですよ。ひとりだったら一匹来るし、ふたりだったら二匹来るし、そのときの用意にと思って、まゆをぬらしているんだ。――はてな、待ったり! 待ったり! なにか急に騒がしくなりましたぜ"
],
[
"人殺しだ!",
"火の見の下ですよ! 音蔵さんと同じところに、同じかっこうをして、また人が切られているんだ。人殺しですよ! 気味のわりい人殺しが、また火の見の下にあるんですよ!"
],
[
"ちくしょうめ。人をからかったまねしやがるね。毛はどうだ。毛は! 張りつけ毛じゃあるめえね",
"ひっぱってみる暇があったら、あっちへいったほうがはええや。ついてきな!"
],
[
"駒!",
"…………",
"お駒といっているんだ。聞こえねえのか!"
],
[
"やめろッ",
"…………",
"用があるんだ。尋ねたいことがあるんだ。鳥をしまいなよ!",
"…………",
"さっきの野郎は、どこへ消えてなくなったんだ",
"…………",
"口はねえのか! お駒! 返事をしろ! 返事を!"
],
[
"じれってえね。このつら構えは、ひと筋なわでいく女じゃねえんだ。ものをいわなきゃいうように、ぎゅっとひとひねり草香のおまじないをしておやりなせえよ!――やい! 駒! 口を持ってこい! 口を!",
"…………",
"むかむかするね。ひとひねりひねりあげりゃ、どんな強情っぱりでも音をあげるにちげえねえんだ。草香は春さきききがよし、女ならばなおききがよしと、物の本にもけえてあるんですよ。甘いばかりが能じゃねえんだ。いわなきゃあっしが目にものを見せてやらあ。――ものをいえ! ものを! いわなきゃ十手が行くぞ! 十手が!"
],
[
"武士だな!",
"…………",
"おやじか。お駒! それとも兄か!",
"…………",
"だれだ、この位牌の主は! いずれにしても、おまえの身寄りだろう! 身分もたしかに武士だろう! 伝六をあしらった今の手の内、昼間お白州で、この右門のつぶてをみごとにかわした身のこなし、ただのやまがら使いじゃあるめえ。強情を張っているおまえのつらだましいからしてが、たしかに武家育ち、槍ひと筋のにおいがするんだ。武士だろう! 親だろう! それとも兄か! 亭主か!"
],
[
"その手のうちだ。みごとな構えだ。どこのだれに習った何流か知らねえが、その構え、その位取り、その身のさばきぐあいなら、男のふたりや三人、切ってすてるにぞうさはねえはずだ。どうだえ、お駒、覚えがあろう、むっつり右門の責め手、たたみ吟味は、かくのとおり味がこまけえんだ。もう、知らぬ存ぜぬとはいわさねえぜ。どろを吐きな! どろを!",
"…………",
"音蔵の切り口もすぱりと一刀、今夜の火の見のあの御家人もすぱりと一刀、この仏壇の中のやつもすぱりとひと太刀、うしろと前と相違はあるが、三人ともみごとな袈裟がけの一刀切りだ。腕のたたねえものにできるわざじゃねえ。このお位牌もお武家筋、おまえの手の筋もお武家筋、――やまがら使いじつは武家の娘、ゆえあって世間を忍ぶかりの姿のお駒とにらんだが、違うかえ。むっつり右門は手さばきも味がこまけえが、眼のにらみも味が通ってこまけえつもりだ。これだけたたみ込んだら、もう文句はあるめえ。白状しな! 白状を!",
"…………",
"気のなげえやつだな。春さきゃ啖呵がじきに腐るんだ。かけてえ慈悲にも、じきに薹がたつんだ。世を忍ぶもこの位牌ゆえ、人を切ったもこの位牌ゆえ、――すなおに白状しろとお位牌がにらんでおるじゃねえか。手間をとらせたら、のこのこと動きだすぜ。どうだ、お駒ッ。また六十日ほども牢にへえりてえのか"
],
[
"さすがでござんす……。みごとなお目きき、やまがら使いのお駒もかしらがさがりました。なにもかもおっしゃるとおり、そのお位牌もお目がねどおり、槍ひと筋のものでござります。わたくしもまたおことばどおり、やまがら使いは世を忍ぶかりの姿、いかにも武士の血を引いたものでございます",
"位牌はどなただ",
"兄でござります",
"兄! そうか! お兄上か! 名剣信士とあるご戒名のぐあい、そなたの手の内のあざやかさ、武家は武家でもただの武家ではあるまい、さだめし剣の道にゆかりのあるご仁と思うが、どうだ、違うか",
"違いませぬ。流儀は貫心一刀流、国では名うての達者でござりました",
"そのお国はどこだ",
"三州、挙母――",
"内藤様のご家中か",
"あい、やまがらの名所でござります。わずか二万石の小藩ではござりまするが、武道はいたって盛ん、兄も志をいだいてこの江戸へ参り、伊東一刀流の流れをくんだ貫心一刀流を編み出し、にしきを飾って国へ帰る途中、小田原の宿はずれで、なにものかの手にかかり、あえないご最期をとげたのでござります。わたくし国もとでその由を聞きましたのは、八年まえの二十二のおりでございました。父にも母にも先立たれ、きょうだいというはわたくしたちふたりきり、あまたござりました縁談も断わりまして、はるばるかたき討ちに旅立ったのでござります",
"そうか! かたきを持つ身でござったか。いや、そうであろう。六十日間責められて口を割らなんだ性根のすわり、かたきがあっては拷問えび責めにも屈しまい。そのかたきが音蔵か! いいや、今宵切ったこの者たちふたりか",
"いえ、そうではござりませぬ。それならば、駒もあのように強情は張りませぬ。事の起こりは、みんな似た顔のこのふたり、憎いのも今宵切ったあのふたり、駒はだまされたのでござります。ふたりにあざむかれて、罪も恨みもない音蔵さんを切ったのでござります――と申しただけではおわかりござりますまいが、八年まえに人手にかかりました兄上は、この位牌のぬしは、とにもかくにも一流をあみ出した者でござります。それほどの兄を切った相手は、ただの者ではあるまい。場所も小田原近く、いずれは江戸にひそんでおろうと存じまして、はるばる出府したのでござりまするが、そうやすやすとかたきのありか、かたきの名まえがわかるはずはござりませぬ。それに、わたくしは女の身、――討つには腕がいりましょう。わざもみがかずばなりますまいと捜すかたわら剣の道も学んでおるうちに、時はたつ、たくわえはなくなる。なれども、かたきは討たねばなりませぬ。お兄上のお恨み晴らさぬうちに飢え死にしてはなりませぬ、と思いまして、思案にくれたあげく",
"やまがら使いに身をおとしたと申さるるか",
"あい、さようでござります。やまがらは、かわいい山のあの小鳥は、名所の国にいたころからの深いなじみ、おさないうちから飼いならし、使いならして、長年飼い扱ったことがござりますゆえ、恥ずかしいのもかえりみず、みんなこれもかたきゆえ、兄上ゆえと、小屋芸人の仲間入りをいたしまして、その日その日の口をすすぎつつ、兄のかたきを捜していたのでござります。するうちに、似た顔のこの兄弟が――",
"ふたりは兄弟か!",
"あい、腹違いの兄と弟であったとかいうことでござります。江戸の生まれで、由緒はなんでござりますやら、兄は御家人くずれ、弟は小ばくちうちの遊び人、どちらにしてもならず者でござります。不思議なほどよく似たふたりが、通り魔のように現われて、因果な種をまいたのでござります。わたくしはこの弟めに見こまれ、兄のほうは――",
"あの音蔵の妻女に懸想したのか",
"そうでござります。おっしゃるとおりでござります。たびたびわたしにも言いより、兄のほうも音蔵さんのご家内にたびたび言い寄ったことでありましょうが、そんなけがらわしいまねができるものではござりませぬ。ああの、こうのと、あしらっているうちに、ついわたくしがかたき持つ身とこの弟めに口をすべらしたのが災難、――いいえ、因果な種となったのでござります。兄弟ふたりして、うまうまとたくらみ、このわたくしに、兄のかたきはあの音蔵さんだと、まことしやかに告げ口したのでござります。あのとおり音蔵さんは鳶のかしら、まさかと思いましたが、いいや音蔵は侍あがりじゃ、そなたの兄を討ったゆえに、身をかくして鳶の者になっておるのじゃ、まちがいはない、兄弟して手を貸そうと申しましたゆえ、八年の苦労辛苦に、ついわたくしも心があせり、火の見の下へおびき出してきたところを、みごとに討ったのでござります。――と思ったのが大のまちがい、ふたりにだまされたことをはじめて知ったのでござりました。音蔵さんをなきものにすれば、やがてはあのご家内も思いをかけた兄の手にはいる道理、あやまって人を切らして、その弱みにつけこんでおどしたら、わたしも弟に身をまかせるだろうと、兄弟ふたりがたくみにしくんだわなだったのでござります。それと知って後悔いたしましたときは、もう恐ろしい罪を犯したあとでござりました。なんとかして罪をかくすくふうをせねばなりませぬ。そのくふうも、似た顔のこの兄弟ふたりが入れ知恵したのでござります。切ったは刀であるが、匕首を死骸のそばへ捨てておいたら、証拠が合わぬ、傷口が合わぬ、さすれば捕えられても白状せぬかぎり、やがてはご牢払いになるに相違ない、ひと月か二十日のことじゃ、牢へ行けと、そそのかしたのでござります。それゆえ、わたしもすなおに捕えられ、お牢屋へいって六十日間あのとおり――",
"よし、わかった。それでなにもかもわかった。ほんとうのかたきも討たねばならぬ、だまされたと思えばその恨みもはらしたい、討つまでは、はらすまでは罪におちてはならぬと、六十日の間、拷問、火ぜめ、骨身の削られるのもじっと忍びこらえていたというのじゃな",
"さようでござります。六十日間のお駒の苦しみ、しんぼう――お察しくださりませ。ほんとに、ほんとに、死よりもつらい苦しみでござりました。でも、ご放免になったのは身のしあわせ、まずだまされた恨みをはらそうと、――いいえ、いいえ、だまされて手にかけた音蔵さんへのお手向けに、申しわけに、兄のほうは同じ火の見の下へおびき出し、弟のほうはこの裏の井戸ばたで、みごとに切り果たしたのでござります。――なれども、兄のかたきはまだわかりませぬ。どうあっても捜して討たねばなりませぬ。捜して討ち果たすまでは、三人切ったその罪もかくして、と存じまして、さきほどからのとおり、あなたさまへもあのような強情を張っていたのでござります。――切りました。お駒は三人を、ひと三人を、音蔵さんと、似た顔のこの兄弟ふたりを、ひと三人も手にかけた罪人でござります。なんとも申しませぬ。よろしきようにお計らいくださりませ……"
],
[
"なさけをかけてやったら、きっとお兄上のかたきを捜し出して、必ず討ってみせるか!",
"討ちまする! それが武士の娘のつとめ、いいえ、いいえ、駒も侍の血を引いた者でござります。討たいではおきませぬ!",
"どこにいるかわかっておるか",
"わかりませぬ。なれども、わかるまでは、三年かかろうと、九年かかりましょうと、必ず捜しとおして、みんごと討ってお目にかけまする! この顔がしわにうずまりましょうとも、この黒髪が雪のように変わりましょうとも、必ずともに討ち果たしてお目にかけまする! 貫いてお目にかけまする!"
],
[
"その決心気に入った。むっつり右門、討ち貫くといったその決心を買ってやろう! 行けい! すぐ逃げい!",
"では、あの、では、では、駒を、この駒の罪をお見のがしくださるというのでござりまするか!",
"見のがそう、みごとに討ってかえるまで、罪は責むまい。四年かかるか、十年かかるか知らぬが、むっつり右門の目の黒いうちは、むっつりのこの口に錠をおろして、唖になろう。待ってやろう。――討ったら、かえってまいれよ!",
"あ、ありがとうござります……こ、このとおりでござります……",
"行け! 人目にかかってはめんどうじゃ。裏口から早く逃げい",
"参ります! 参ります……! では、ごきげんよう……",
"まてッ。だいじな品を忘れてはならぬ。置き去りにしたら、お兄君がしかりましょう。お位牌を持っていけ",
"ほんにそうでござりました。抱かせていただきまする。――おあにいさま、霊あらばご覧なさりませよ。お聞きあそばしませよ。では、では必ず捜して、必ず討って、必ずかえってまいりまする。くれぐれもごきげんよろしゅう……"
],
[
"めそめそ泣いて、なにをやっているんだ",
"鳥がかわいそうです。せめてあっしもなにか功徳をと思って、追いかけているんですよ。――来い。来い。このおじさんだって、大きになさけはあるんだ。帰るまで飼ってあげるよ。おっかねえことはねえ。早く来い。来い。ここへ来な……"
]
] | 底本:「右門捕物帖(四)」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年9月15日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2000年4月14日公開
2005年9月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000593",
"作品名": "右門捕物帖",
"作品名読み": "うもんとりものちょう",
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"副題": "38 やまがら美人影絵",
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"分類番号": "NDC 913",
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"いっそもう野武士になりたい位じゃ。十万石がうるそうなったわ。なまじ城持ちじゃ、国持ちじゃと手枷首枷があればこそ思い通りに振舞うことも出来ぬのじゃ。それにつけても肥後守は、――会津中将は、葵御一門切っての天晴れな公達よ喃! 御三家ですらもが薩長の鼻息窺うて、江戸追討軍の御先棒となるきのう今日じゃ。さるを三十になるやならずの若いおん身で若松城が石一つになるまでも戦い抜こうと言う御心意気は、思うだに颯爽として胸がすくわ。のう! 林田! そち達はどう思うぞ",
"只々もう御勇ましさ、水際立って御見事というよりほかに言いようが厶りませぬ。山の頂きからまろび落ちる大岩を身一つで支えようとするようなもので厶ります。手を添えて突き落すは三つ児でも出発る業で厶りまするが、これを支え、喰い止めようとするは大丈夫の御覚悟持ったお方でのうてはなかなかに真似も出来ませぬ。壮烈と申しますか、悲壮と申しますか、いっそ御覚悟の程が涙ぐましい位で厶ります",
"そうぞ。そうぞ。この長国もそれを言うのじゃ。勤王じゃ、大義じゃ、尊王じゃと美名にかくれての天下泥棒ならば誰でもするわ。――それが憎い! 憎ければこそ容保候へせめてもの餞別しようと、会津への援兵申し付けたのにどこが悪いぞ。のう永井! 石川! 年はとりたくないものよな",
"御意に厶ります。手前共は言うまでもないこと、家中の者でも若侍達はひとり残らず、今日かあすかと会津への援兵待ち焦れておりますのに御老人達はよくよく気の永い事で厶ります",
"そうよ。ああでもない。こうでもないと、うじうじこねくり廻しておるのが分別じゃと言うわ。――そのまに会津が落城致せば何とするぞ! たわけ者達めがっ。恭順の意とやらを表したとてもいずれは薩長共に私されるこの十万石じゃ。ほしゅうないわっ。いいや、意気地が立てたい! 長国は只武士の意気地を貫きたいのじゃ! ――中将程の天晴れ武将を何とて見殺しなるものかっ。――たわけ者達めがっ。のう! 如何ぞ。老人という奴はよくよくじれったい奴等よのう!"
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"門七!",
"大三!",
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"た、誰じゃ!",
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"……!",
"……!"
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"おう! そちか! ――波野よな! 千之介じゃな!",
"はっ……。おそなわりまして厶ります……",
"小気味のよい奴じゃ。丹羽長国の肝を冷やさせおったわ。わっはは。井戸の中からでも迷うて出おったかと思ったぞ。来い。来い。待っておった。早うここへ来い",
"はっ……。参りまする……。只今それへ参りまするで厶ります……"
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"なに! 泣いているな! どうしたぞ。解せぬ奴じゃ。何が悲しいぞ!",
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"のう! 言うてみい! 何を泣いておるのじゃ!",
"いえあの、な、泣いたのでは厶りませぬ。不調法御免下さりませ。風気の気味が厶りますので、つい鼻が、鼻がつまったので厶ります……",
"嘘をつけい!"
],
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"言うてみい! 言うてみい! のう! 遠慮は要らぬぞ。悲しいことがあらば残らずに言うてみい!",
"…………",
"気味のわるい奴よ喃。なぜ言わぬぞ。そう言えば来た時の容子も腑に落ちかぬるところがあったようじゃ。林田達みなの者と一緒にそちのところへも火急出仕の使いが参った筈なのに、その方ひとりだけ、このように遅参したのも不審の種じゃ。のう! 何ぞ仔細があろう。かくさずに言うてみい!",
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"この男のことならばおすておき下さりませ。千之介の泣き虫はこの頃の癖で厶ります。それよりもうお灯りをおつけ遊ばしたらいかがで厶ります?",
"なに? 灯り? そう喃。――いや、まてまて。暗ければこそ心気も冴えて、老人共の長評定も我慢出来ると申すものじゃ。すておけ、すておけ。それより千之介の事がやはり気にかかる。のう! 波野! どうしたぞ? 早う言うてみい!",
"いえ、あの、殿――"
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"何でも厶りませぬ。仔細は厶りませぬ。気鬱症にでもとり憑かれましたか、月を見ると――、そうで厶ります。馬鹿な奴めが、月を見るといつもこの通りめそめそするのがこの男のこの頃の病で厶りますゆえ御見のがし下さりませ。それよりあの――",
"アハハハ……"
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"怪談をするか! のう! 気を張りつめていたいのじゃ。今から怪談を始めようぞ",
"……?",
"……!",
"ハハハ……。いずれも首をひねっておるな。長国、急に気が立って参ったのじゃ。いまだに何の使者も大広間から来ぬところを見ると、相変らず老人達が小田原評定の最中と見ゆる。気の永い奴等めがっ。じれじれするわ。のう! どうじゃ。一つ二つぞっとするような怪談聞こうぞ",
"……!",
"……?",
"まだ不審そうに首をひねっておるな。長国の胸中分らぬか! 考えてもみい。今宵こうしているまも、山一つ超えた会津では、武道の最後を飾るために、いずれも必死となって籠城の準備の最中であろうわ。いや、中将様も定めし御本懐遂げるために、寝もやらず片ときの御油断もなく御奔走中であろうゆえ、蔭乍ら御胸中拝察すると、長国、じっとしておれぬ。せめて怪談なときいて、心をはりつめ、気を引きしめていたいのじゃ。誰ぞ一つ二つ、気味のわるい話持ち合せておるであろう。遠慮のう語ってみい",
"なるほどよいお思いつきで厶ります。いかさま怪談ならば、気が引締るどころか、身のうちも寒くなるに相違厶りませぬ。なら、手前が一つ――"
],
[
"あり来たりと言えばあり来たりの話で厶りまするが、手前に一つ、家重代取って置きの怪談が厶りますゆえ、御披露致しまするで厶ります",
"ほほう、家重代とは勿体つけおったな。きこうぞ。きこうぞ。急に何やら陰にこもって参って、きかぬうちから襟首が寒うなった。離れていては気がのらぬ。来い、来い。みな、もそっと近う参って、ぐるりと丸うなれ"
],
[
"ではきこうぞ",
"はっ……"
],
[
"――先年亡くなりました父からきいた話で厶ります。御存じのように父は少しばかり居合斬りを嗜みまして厶りまするが、話というのはその居合斬りを習い覚えました師匠にまつわる怪談で厶ります。師匠というのは仙台藩の赤堀伝斎、――父が教を乞いました頃は勿論赤堀先生のお若い時分の事で厶りまするが怪談のあったというのはずっとのちの事で厶ります。なにしろ居合斬りにかけては江戸から北にたったひとりと言われた程のお方で厶りましたゆえ、御自身も大分それが御自慢だったそうに厶りまするが、しとしとといやな雨が降っていた真夜中だったそうに厶ります。どうしたことか左の肩が痛い……。いや、夜中に急に痛くなり出しまして、どうにも我慢がならなくなったと言うので厶ります。右が痛くなったのであったら、武芸者の事でも厶りますから、別に不思議はないが、奇怪なことに左が痛みますゆえ、不審じゃ、不思議じゃと思うておりましたとこへ、ピイ……、ピイ……と、このように悲しげに笛を鳴らし乍ら按摩が通りかかったと言うので厶ります。折も折で厶りますゆえ、これ幸いとなに心なく呼び入れて見ましたところ、その按摩がどうもおかしいと言うので厶りまするよ。目がない! いや、按摩で厶りますゆえ、目のつぶれているのは当り前で厶りまするが、まるで玉子のようにのっぺりと白い顔をしている上に、まだ年のゆかぬ十二三位の子供だったそうに厶ります。それゆえ赤堀先生もあやぶみましてな、お前のような子供にこの肩が揉みほぐせるか、と申しましたところ、子供が真白い顔へにったりと薄ら笑いを泛べまして、この位ならどうで厶りますと言い乍ら、ちょいと指先を触れますると、それがどうで厶りましょう。ズキリと刺すように痛いと言うので厶りまするよ。その上に揉み方も少しおかしい。左が痛いと言うのに機を狙うようにしてはチクリ、チクリと右肩を揉むと言うので厶ります。それゆえ、流石は武芸者で厶りまするな。チクリチクリと狙っては揉み通すその右肩は居合斬りに限らず、武芸鍛練の者にとっては大事な急所で厶ります。用もないのに、その急所を狙うとはこやつ、――と思いましてな、なに気なくひょいと子供を見ますると、どうで厶りましょう! のっぺりとした子供のその白い顔の上に今一つ気味のわるい大人の顔が重なって見えたと言うので厶りまするよ。しかも重なっていたその顔が、――ひょいと見て思い出したと言うので厶ります。十年程前、旅先で、自慢の居合斬りを試して見たくなり、通りがかりにスパリと斬ってすてた、どこの何者とも分らない男の顔そのままで厶りましたのでな、さては来たか! そこ動くなっとばかり、抜く斬る、――実に見事な早業だったそうに厶ります。ところが不思議なことにもその子供が、たしかに手ごたえがあった筈なのに、お台所を目がけ乍らつつうと逃げ出しましたのでな、すかさずに追いかけましたところ、それからあとがいかにも気味がわるいので厶ります。開いている筈のない裏口の戸が一枚開いておって、掻き消すようにそこから雨の中へ逃げ出していったきり、どこにも姿が見えませなんだゆえ、不審に思いましてあちらこちら探しておりますると、突然、流し元の水甕でポチャリと水の跳ねた音がありましたのでな、何気なくひょいと覗いて見ましたところ、クルクルとひとりでに水が渦を巻いていたと言うので厶りまするよ。そればかりか渦の中からぬっと子按摩の父の顔が、――そうで厶ります。旅先で斬りすてたどこの何者とも分らないあの男の顔が、それも死顔で厶ります。目をとじてにっと白い歯をむいたその死顔が渦の中からさし覗いていたと言うので厶ります。いや、覗いたかと思うと、ふいっと消えまして、それと一緒にバタリと表の雨の中で何やら倒れた音が厶りましたゆえ、さすが気丈の赤堀先生もぎょっとなりまして怕々すかして見ましたところ、子按摩はやはりいたので厶りました。見事な居合斬りに逆袈裟の一刀をうけ、息もたえだえに倒れておったと言うので厶ります",
"ふうむ。なるほどな"
],
[
"気味のわるい話じゃ。やはり子按摩は親の讐討ちに来たのじゃな",
"はっ、そうで厶ります。魂魄、――まさしく魂魄に相違厶りませぬ。親の魂魄の手引きうけて、仇討に来は来ましたが、赤堀先生は名うての腕達者、到底尋常の手段では討てまいと、習い覚えた按摩の術で先ず右腕の急所を揉み殺し、然るのちに討ち果そうと致しましたところを早くも看破されて、むごたらしい返り討ちになったのじゃそうに厶ります",
"いかさまな、味のある話じゃ。それから赤堀はどうなったぞ",
"奇怪で厶ります。それから先、水甕を覗くたびごとに、いつもいつも父親の死顔がぽっかりと泛びますゆえ、とうとうそれがもとで狂い死したそうで厶ります",
"さもあろう。いや、だんだんと話に気が乗って参った。今度は誰じゃ。誰ぞ持合せがあるであろう。語ってみい!",
"…………",
"返事がないな。多々羅はどうじゃ",
"折角乍ら――",
"ないと申すか。永井! そちは如何じゃ?",
"手前も一向に――",
"不調法者達よ喃。では林田! そちにはあるであろう。どうじゃ。ないか",
"いえ、あの――",
"あるか!",
"はっ。厶りますことは厶りまするが……"
],
[
"やめろとは何としたのじゃ! あの話とはどんな話ぞ? 千之介がまたなぜ止めるのじゃ",
"…………",
"のう林田。仔細ありげじゃ。聞かねばおかぬぞ。何が一体どうしたというのじゃ",
"いえ、実は、あの――",
"言うなと申すに! なぜ言うかっ"
],
[
"気味の悪い奴よのう! その方は今宵いぶかしいことばかり致しおる。尋ねているのはそちでない。門七じゃ。林田! 主の命じゃ! 言うてみい!",
"はっ。主命との御諚で厶りますれば致し方厶りませぬ。千之介がけわしく叱ったのも無理からぬこと、実は波野と二人してこの怪談を先達てある者から聞いたので厶ります。その折、語り手が申しますのに、これから先うっかりとこの怪談を人に語らば、話し手に禍いがかかるか、聞き手の身に禍いが起るか、いずれにしても必ずともに何ぞ怪しい祟りがあるゆえ気をつけいと、気味のわるい念を押しましたゆえ。千之がそれを怖れてやめろと申したので厶ります",
"わははは。何を言うぞ。そち達両名は二本松十万石でも名うての血気者達じゃ。そのような根も葉もないこと怖がって何とするか、語ったは誰か知らぬが、その者はどうしたぞ?語ったために何ぞ崇りがあったか",
"いえ厶りませぬ",
"それみい! 話し手も息災、きいたそち達も今まで斯様に無事と致さば何の怖れることがあるものか! 長国、十万石を賭けても是非に聞きとうなった。いや主命を以て申し付くる! その怪談話してみい!",
"はっ。君命とありますれば申しまするで厶ります。話と言うは――",
"よさぬか! 門七! 知らぬぞ! 知らぬぞ! 崇りがあっても俺は知らぬぞ",
"構わぬ! 崇りがあらば俺が引きうけるわ。何やら急に話して見とうなった。ハハハ……。殿! 物凄い話で厶りまするぞ。とくと、おきき遊ばしませ"
],
[
"話と言うはこうで厶ります。ついこの冬の末にそれもこの二本松のお城下にあった話じゃそうに厶りまするが、怪談に逢うたは旅の憎じゃとか申すことで厶りました。多分修行半ばの雲水ででも厶りましたろう。雪の深い夕暮どきだったそうで厶ります。松川の宿に泊ればよいものを夜旅も修業の一つと心得ましたものか、とぼとぼと雪に降られてこの二本松目ざし乍らやって参りますると、お城下へもうひと息という阿武隈川の岸近くで左右二つに道の岐れるところが厶りまするな、あの崖際へさしかかって何心なく道を曲ろうと致しましたところ、ちらりと目の前を走り通っていった若い女があったそうに厶ります。ぎょっと致しましたが、そこはやはり旅馴れた出家で厶りますゆえ、雪あかりにすかしてよくよく女を見直すと、これがどうで厶りましょう。パラリと垂れたおどろ髪の下から、ゲタゲタと笑いましてな、履物も履きませず、脛もあらわに崖ぷちへ佇み乍ら、じいっと谷底を覗いていたかと思うと止めるひまも声を掛けるひまもないうちに、ひらりと飛込んで了ったと言うので厶りまするよ。それからが大変、なにしろ身は出家で厶りまするからな。人ひとり救うことが出来ぬようではと、お城下で宿を取ってからもそのことばかり気に病んでおりましたところ、急に何やら町内の者がそわそわと宿の内外で騒ぎ出しましたゆえ、それとなく探ってみると、因縁で厶ります。泊り合わせたその宿の若い内儀が夕方近くから俄かに行方知れずになったとやらで、それがよくよく人相など聞いて見ますると、崖ぶちから身を投げたあの女にそっくりそのままで厶りましたのでな、それならばしかじか斯々じゃと言う出家の話から騒ぎが大きくなってすぐに人が飛ぶ、谷底から死骸が運ばれて来る。しらべて見るとやはり宿の内儀だったので厶ります。それゆえせめても救うことの出来なかった詫び心にあとの菩提でも弔いましょうと、身投げした仔細を尋ねましたところ、亭主が申すには何一つ思い当る事がないと言うのじゃそうで厶ります。ない筈はあるまい。何ぞあるであろうと根掘り葉掘りきき尋ねましたところ、やはり変なことがあったので厶りまする。身投げした十日程前に古着屋から縮緬の夜具を一組買ったそうで厶りましてな、それを着て寝るようになってから、どうしたことか毎夜毎夜内儀が気味わるく魘されるばかりか、時折狂気したようにいろいろとわけのわからぬことを口走っては騒ぎ出すようになったと言うので厶ります。――それじゃ。屹度それじゃ、その古着の夜具に何ぞ曰くがあろうと思い当りましたゆえさすがは出家、さそくに運び出させて仔細に見しらべましたところ――、別に怪しいことはない。ないのに魘されたり、狂い出したり、あげ句の果てに身投げなぞする筈があるまいと一枚々々、夜具の皮を剥がしていってよくよくしらべますると、ぞっといたします。申しあげる手前までがぞっと致します。古着の敷布団の、その一枚の丁度枕の下になるあたりの綿の中から、歯が出て来たと言うので厶りまする。人が歯が、何も物言わぬ人の歯がそれも二枚出て来たと言うので厶ります",
"なにっ。歯が二枚とな! 歯とのう! 人の歯とのう! ……"
],
[
"茶坊主世外めに厶ります。御老臣伴様が、殿に言上せいとのことで厶りました。もう三日もこちら一睡も致さず論議ばかり致しておりましたせいか、人心地失いまして、よい智慧も浮びませぬゆえ、まことに我まま申上げて憚り多いことで厶りまするが、ひと刻程睡りを摂らせて頂きましてから、今度こそ必ずともに藩議いずれかに相まとめてお目にかけまするゆえ、今暫く御猶予願わしゅう存じまするとのことで厶ります",
"何を言うぞ! 返す返すも人を喰った老人共じゃ。武士の本懐存じておらば、三日も寝ずに論議せずとも分る事じゃ! たわけ者達めがっ。勝手にせいと申し伝えい!"
],
[
"では――",
"おう、また――"
],
[
"馬鹿め!",
"なにっ",
"怒ったか",
"誰とても不意に馬鹿呼ばりされたら怒ろうわ。俺がどうして馬鹿なのじゃ",
"女々しいからよ。君前であの態は何のことかい。なぜ泣いたか殿はお気付き遊ばしておられるぞ。あの時も意味ありげに仰有った筈じゃ。乱世ともならば月を眺めて泣く若侍もひとりや二人は出て参ろうわと仰せあった謎のようなあの御言葉だけでも分る筈じゃ。たしかにもう御気付きなされたぞ",
"馬鹿を申せ! 誰にも明かさぬこの胸のうちが、やすやすお分り遊ばしてなるものか!第一そう言うおぬしさえも知らぬ筈じゃわ",
"ところが明皎々――",
"知っておると申すか!",
"さながらに鏡のごとしじや。ちゃんと存じておるわ。さればこそ、さき程もあのように願ってやったのじゃ。疑うならば聞かしてやろうか",
"聞こう! 言うてみい! まこと存じておるか聞いてやるわ! 言うてみい!",
"言わいでか。当てられて耻掻くな。おぬしが女々しゅうなったそもそもはみな奥方にある筈じゃ。契ったばかりの若くて美しいあの恋女房が涙の種であろうがな! どうじゃ。違うか!",
"……!"
],
[
"みい! アハハ……。見事的中した筈じゃ。俺は嗤うぞ! わはは。嗤ってやるぞ! 未練者めがっ。会津御援兵と事決まらば、今宵にも出陣せねばならぬゆえ、残して行くが辛さにめそめそ泣いたであろうがな! どうじゃ! 一本参ったか!",
"…………",
"参ったと見えるな。未練者めがっ。たかが女じゃ。婦女子の愛にうしろ髪曳かれて、武士の本懐忘れるとは何のことか! 情けのうて愛想がつきるわ",
"いやまてっ",
"何じゃ",
"たかが女とはきき棄てならぬ。いかにもおぬしの図星通りじゃ。出陣と事決まったらどうしようと思うて泣いたも確かじゃが、俺のあれは、いいや俺とあれとの仲は人と違うわ",
"言うたか。今にそう言うであろうと待っていたのじゃ。ならば迷いの夢を醒ましてやるために嗅がしてやるものがある。吃驚するなよ"
],
[
"嗅いでみい! 想い想われて契った恋女房ですらも、やはり女は魔物じゃと言う匂いがこの袖にしみついている筈じゃ。よう嗅いでみい!",
"……?",
"のう! どうじゃ! 合点がいったか!",
"よっ。まさしくこの匂いは!――",
"そうよ! お身が恋女房と自慢したあの女の髪の油の匂いじゃわ。ウフフ。迷いの夢がさめたか",
"ど、どう、どうしたのじゃ! この匂いがおぬしの袖についているとは、何としたのじゃ! ど、どうどうしたと言うのじゃ",
"どうでもない。忘れもせぬ夕暮どきじゃ。殿より火急のお召しがあったゆえ、おぬしを誘いに参ったところ、どこへいっていたのかるすなのじゃ。それゆえすぐに引返そうと出て参ったところ、もしあのお袖が、――と恥しそうに呼びとめたゆえ、ひょいと見るとなる程綻びておったのじゃ。やさしいお手で縫うて貰うているうちに、どちらが先にどうなったやら、――それからあとは言わぬが花よ。この通り片袖に髪の油がしみついたと言えば大凡察しがつこうわ。どうじゃ! 千之! 未練の夢がさめたか!",
"なにっ。うぬと、あれが! あれと、うぬが! ……"
],
[
"いるか!",
"…………",
"どこじゃ!",
"…………",
"どこにおるか!"
],
[
"おう! 千之か! 誰かと思うたのにおぬしだったか!",
"お、おぬしだったかがあるものか! 妻を盗んだ不埒者めがっ。千之が遺恨の刃、思い知ったか",
"そ、そうか! では、では、お身、今の話をまことと信じたか!",
"なにっ。う、嘘か! 嘘じゃと申すか",
"嘘も嘘も真赤な嘘じゃわ! あの貞女が何しにそんないたずらしようぞ! 袖の破れを縫うて貰うたは本当のことじゃが、あとのことは、みなつくり事じゃわ!",
"油のしみはどうしたのじゃ! その片袖の油の匂いはどうしたと言うのじゃ!",
"縫うて貰うているすきに知りつつ細工したのじゃわ。それもこれもみなおぬしに、武道の最期、飾らせたいと思うたからじゃ。女ゆえに見苦しい振舞でもあってはと――そち程の男に、女ゆえ見苦しい振舞いがあってはと、未練をすてさせるために構えて吐いた嘘であったわ",
"そうか! そうであったか! 逸まったな! 斬るとは逸まったことをしたな……",
"俺もじゃ。この門七も計りすぎたわ。その上、おぬしと知らずに斬ったは、俺も逸まったことをしたわ……"
],
[
"出陣じゃ! 出陣じゃ!",
"俄かに藩議がまとまりましたぞう!",
"会津へ援兵と事決まりましたぞう!",
"出陣じゃ! 出陣じゃ!"
],
[
"千之!",
"門七!",
"無念じゃな……",
"残念じゃな……",
"ここで果つる位ならば、本懐遂げて死にたかったわ",
"そうよ、華々しゅう斬り死にしたかったな",
"許せ。許せ",
"俺もじゃ。せめて見送ろう!",
"よし行こう!"
],
[
"行けい!",
"行けい!",
"丹羽長国の名を恥かしめるでないぞ!",
"行けい!",
"行けい!",
"二本松藩士の名を穢すでないぞ!",
"行けい!",
"行けい!"
],
[
"御本懐そうよのう",
"御うれしげじゃのう"
],
[
"あれじゃ! 千之! 崇ったぞ! あの怪談話したゆえの崇りに相違ないぞ!",
"のう! ……"
]
] | 底本:「小笠原壱岐守」大衆文学館文庫、講談社
1997(平成9)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「佐々木味津三全集10」平凡社
1934(昭和9)年発行
初出:「中央公論 二月号」
1931(昭和6)年発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:noriko saito
2004年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001484",
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"相済みませぬ。相済みませぬ。先を急がねばなりませぬゆえ、お許しなされて下さりませ。もうお許しなされて下さりませ",
"何だとッ? では、貴様どうあっても抜かぬつもりかッ",
"はっ、抜くすべも存じませぬゆえ、もうお目こぼし下されませ",
"馬鹿者ッ、抜くすべも知らぬとは何ごとじゃ、貴様われわれを愚弄いたしおるなッ",
"どう以ちまして。生れつき口不調法でござりますゆえ、なんと申してお詑びしたらよいやら分らぬのでござります。それに主人の御用向きで、少しく先を急がねばなりませぬゆえ、もうお許しなされまして、道をおあけ下さりませ。お願いでござります",
"ならぬならぬ! そう聞いてはなおさら許す事罷り成らぬわ。どこの塩垂主人かは存ぜぬが、かような場所での用向きならば、どうせ碌な事ではあるまい。それに第一、うぬのその生ッ白い面が癪に障るのじゃ。聞けば近頃河原者が、面の優しいを売り物にして御大家へ出入りいたし、侍風を吹かしているとか聞いているが、うぬも大方その螢侍じゃろう。ここでわれわれの目にかかったのが災難じゃ。さ! 抜けッ、抜いていさぎよく往生しろッ"
],
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"ま! お可哀いそうに。ああいうのがきっと甚助侍と言うんですよ",
"違げえねえ。あのでこぼこ侍達め、きっといろに振られたんだぜ",
"なんの、あんなのにいろなんぞあってたまりますかい。誰も女の子がかまってくれねえので、八ツ当りに喧嘩吹っかけたんですよ"
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"畜生ッ、くやしいな! こういう時にこそ、長割下水のお殿様が来るといいのにな",
"違げえねえ違げえねえ。いつももう、お出ましの刻限だのにな"
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"あっ! お越しのようでござりまするぞ! お越しのようでござりまするぞ! な、ほら長割下水のお殿様のようでござりまするぞ!",
"え? ど、どう、どこに? ――なる程ね、お殿様らしゅうござんすね",
"そうですよ。そうですよ。あの歩き方がお殿様そっくりですよ"
],
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"うろたえて何ごとじゃ",
"だって、これをうろたえなきゃ、何をうろたえたらいいんですか! ま、あれを御覧なせえましよ",
"ほほう、あの者共も退屈とみえて、なかなか味なことをやりおるな",
"相変らず落ちついた事をおっしゃいますね。味なところなんざ通り越して、さっきからもうみんながじりじりしているんですよ。あんまりあの四人のでこぼこ共がしつこすぎますからね",
"喧嘩のもとは何じゃ",
"元も子もあるんじゃねえんですよ。あっしは初めからこの目で見てたんだから、よく知ってますがね、あの若衆の御主人様が、お微行でどこかへお遊びに来ていらっしゃると見えましてね、そこへの御用の帰りにあそこの角迄やって来たら、あの四人連れがひょっこり面出しやがって、やにわと因縁つけやがるんですよ。それも粕みていな事を根に持ちやがってね、若衆は笑いも何もしねえのに、笑い方が気に喰わねえと、こうぬかしゃがるんですよ。おまけに因縁のつけように事を欠いて、あの若衆の顔が綺麗すぎるから癪に障ると、こんな事をぬかしゃがるんで、聞いてるものだって腹が立つな当り前じゃござんせんか",
"ほほう、なかなか洒落れた事を申しおるな。それで、わしに何をせよと申すのじゃ",
"知れたこっちゃござんせんか。あんまり可哀えそうだから、何とかしてあの若衆を救ってあげておくんなさいよ",
"迷惑な事になったものじゃな。どれどれ、では一見してつかわそう――"
],
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"折角じゃが、どうやらわしの助勢を待つ迄の事はなさそうじゃよ",
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"ではない、あの若者ひとりでも沢山すぎると申すのじゃ",
"冗談おっしゃいますなよ! 対手はあの通り強そうなのが四人も揃っているんだもの、どう見たって若衆に分があるたあ思えねえじゃござんせんか",
"それが大きな見当違いさ。ああしてぺこぺこ詑びてはいるが、あの眼の配り、腰の構えは、先ず免許皆伝も奥義以上の腕前かな。みていろ、今にあの若者が猛虎のように牙を出すから"
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"いけねえいけねえ! 殿様、ありゃたしかに今やかましい道場荒しの赤谷伝九郎ですぜ。あの野郎が後楯になっていたとすりゃ、いかな若衆でも敵うめえから、早くなんとか救い出してやっておくんなせいな",
"ほほう、あの浪人者が赤谷伝九郎か、では大人気ないが、ひと泡吹かしてやろうよ"
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"くどうは言わぬ、この上人前で恥を掻かぬうちに、あっさり引揚げたらどうじゃ",
"なにッ。聞いた風な白を吐かしゃがって、うぬは何者だッ",
"そうか、わしが分らぬか。手数をかけさせる下郎共じゃな。では、仕方があるまい。この顔を拝ましてつかわそうよ"
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[
"今迄一度もそのような事はなかったが、今宵はまたどうしたことじゃ",
"………",
"黙っていては分らぬ。兄が無役で世間にも出ずにいるゆえ、それが悲しゅうて泣いたのか",
"………",
"水臭い奴よな。では、兄が毎晩こうして夜遊びに出歩きするゆえ、それが辛うて泣くのか",
"………",
"わしに似て、そちもなかなか強情じゃな。では、もう聞いてやらぬぞ"
],
[
"では、あのおききしますが、お兄様はあの決して、お叱りなさりませぬか",
"突然異な事を申す奴よ喃。叱りはせぬよ、叱りはせぬよ",
"きっとでござりまするな",
"ああ、きっと叱りはせぬよ。いかがいたした",
"では申しまするが、わたくし今、一生一度のような悲しい目に、合うているのでござります……",
"なに? 一生一度の悲しい目とな? 仔細は何じゃ",
"その仔細が、あの……",
"いかがいたした",
"お叱りなさりはせぬかと思うて恐いのでござりますけれど、実はあの、お目をかすめまして、この程から、さるお方様と、つい契り合うてしもうたのでござります",
"なに! なに! ほほう、それはどうも容易ならぬ事に相成ったぞ。いや、まて、まて、少々退屈払いが出来そうじゃわい。今坐り直すゆえ、ちょッとまて! それで、なんとか申したな。この程からさるお方様と、どうとか申したな。もう一度申して見い",
"ま! いやなお兄様! そのような事恥ずかしゅうて、二度は申されませぬ",
"ウフフ、赤くなりおったな。いや、ついその、よそごとを考えていたのでな、肝腎なところをきき洩らしたのじゃ。そう言い惜しみせずに、もそっと詳しいことを申してみい",
"実はあの、さるお方様と、お兄様のお目をかすめまして、ついこの程から契り合うたのでござります",
"ウフフ。そうかそうか。偉いぞ! 偉いぞ! まだほんの小娘じゃろうと存じていたが、いつのまにか偉う出世を致したな。いや天晴れじゃ天晴じゃ。兄はこのようにして女子ひとり持てぬ程退屈しているというのに、なかなか隅におけぬ奴じゃ。それで、そのさるお方とか言うのは、いずこの何と申される方じゃ",
"いえ、そのような事はあとでもよろしゅうござりますゆえ、それより早う大事な事をお聞き下さりませ。実は、毎晩お兄様がお出ましのあとを見計らって、必ずお越し下さりましたのに、どうしたことか今宵はお見えにならないのでござります……",
"なんじゃ、きつい用事を申しつくるつもりじゃな。では、この兄にその方をつれて参るよう、恋の使いをせよと言うのじゃな",
"ま! そのような冗談めかしい事ではござりませぬ。いつもきっと五ツ頃から四ツ頃迄にお越し遊ばしますのに、どうしたことか今宵ばかりはお見えがございませなんだゆえ、打ち案じておりましたところへ、お使いの者が飛んで参られまして、ふいっとそのお方様がお行方知れずになられたと、このように申されましたのでござります",
"なに? 行方知れずになったとな? それはまた、何時頃の事じゃった",
"お兄様がお帰り遊ばしましたほんの四半刻程前に、お使いの方が探しがてら参られたのでござります",
"ほほうのう――"
],
[
"よし、相分った。では、この兄の力を貸せと申すのじゃな",
"あい……。このような淫らがましい事をお願いしてよいやらわるいやら分らぬのでござりますけれど、わたしひとりの力では工夫もつきませなんだゆえ、先程からお帰りを今か今かとお待ちしていたのでござります",
"そうか。いや、なかなか面白そうじゃわい。わしはろくろく恋の味も知らずにすごして参ったが、人の恋路の手助けをするのも、存外にわるい気持のしないもののようじゃ。それに、ほかの探し物ならわしなんぞ小面倒臭うて、手も出すがいやじゃが、人間一匹を拾い出すとは、なかなか味な探し物じゃわい。心得た。いかにもこの兄が力になってつかわすぞ",
"ま! では、あの、菊の願い叶えて下さりまするか",
"自慢せい。自慢せい。そちも一緒になって自慢せい。早乙女主水之介は退屈する時は人並以上に退屈するが、いざ起つとならばこの通り、諸羽流と直参千二百石の音がするわい",
"ま! うれしゅうござります、嬉しゅうござります! では、あの、今よりすぐとお出かけ下さりまするか",
"急かでも参る参る。こうならば退屈払いになる事ゆえ、夜半だろうと夜明けだろうと参ってつかわすが、一体そちのいとしい男とか申すのは、どこの何と言われる方じゃ",
"榊原大内記様のお下屋敷にお仕えの、霧島京弥と申される方でござります",
"えろう優しい名前じゃな。では、その、京弥どのとやらを手土産にして拾って参らばよいのじゃな",
"あい……、どちらになりと御気ままに……",
"真赤な顔をいたして可愛い奴めが! どちらになりとはなにを申すぞ、首尾ようつれて参ったら、のろけを聞かしたその罰に、うんと芋粥の馳走をしろよ"
],
[
"ゴモンバン――こりゃ、ゴモンバン――",
"畜生ッ、いやな声でまた呼びやがったな。どこのやつだッ"
],
[
"よッ、御貴殿は!",
"みな迄言わないでもいい。この傷痕で誰と分らば、素直に致さぬと諸羽流正眼崩しが物を言うぞ。当下屋敷に勤番中と聞いた霧島京弥殿が行方知れずになった由承わったゆえ、取調べに参ったのじゃ、知れる限りの事をありていに申せ",
"はっ、申します……、申します。その代りこのねじあげている手をおほどき下さりませ",
"これしきの事がそんなにも痛いか",
"骨迄が折れそうにござります……",
"はてさて大名と言う者は酔狂なお道楽があるものじゃな。御門番と言えば番士の中でも手だれ者を配置いたすべきが定なのに、そのそちですらこの柔弱さは何としたことじゃ。ウフフ、十二万石を喰う米の虫よ喃。ほら、ではこの通り自由に致してつかわしたゆえ、なにもかもありていに申せ。事の起きたのはいつ頃じゃ",
"かれこれ四ツ頃でござりました、宵のうち急ぎの用がござりまして、出先からお帰りなされましたところへ、どこからか京弥どのに慌ただしいお使いのお文が参ったらしゅうござりました。それゆえ、取り急いですぐさまお出かけなさりますると、その折も手前が御門を預かっていたのでござりまするが、出かけるとすぐのように、じきあそこの門を出た往来先で、不意になにやら格闘をでも始めたような物騒がしい叫び声が上りましたゆえ、不審に存じまして見調べに参りましたら、七八人の黒い影が早駕籠らしいものを一挺取り囲みまして、逃げるように立去ったそのあとに、ほら――ごらん下さりませ。この脇差とこんな手紙が落ちていたのでござります。他人の親書を犯してはならぬと存じましたゆえ、中味は改めずにござりまするが、手紙の方の上書には京弥どのの宛名があり、これなる脇差がまた平生京弥どののお腰にしていらっしゃる品でござりますゆえ、それこれを思い合せまして、もしや何か身辺に変事でもが湧いたのではあるまいかと存じ、日頃京弥どののお立廻りになられる個所を手前の記憶している限り、いちいち人を遣わして念のために問い合せましたのでござりますが、どこにもお出廻りなさった形跡がござりませぬゆえ、どうした事かと同役共々に心痛している次第にござります",
"ほほう、それゆえわしの留守宅にも、問い合せのお使いが参ったのじゃな。では、念のためにそれなる往来へおちていたとか言う二品を一見致そうぞ。みせい"
],
[
"その駕籠は、誰をどこへ連れ参った帰り駕籠じゃ",
"これは、その、何でござります……"
],
[
"お上屋敷へ急に御用が出来ましたゆえ、御愛妾のお杉の方様が今しがた御召しに成られての帰りでござります",
"なに? では、当下屋敷には御愛妾がいられたと申すか",
"はっ、少しく御所労の気味でござりましたゆえ、もう久しゅう前から御滞在でござります",
"ほほうのう、お大名というものは、なかなか意気なお妾をお飼いおきなさるものじゃな"
],
[
"その駕籠、暫時借用するぞ",
"な。な、なりませぬ。これは下々の者などが、みだりに用いてはならぬ御上様の御乗用駕籠でござりますゆえ、折角ながらお貸しすること成りませぬ",
"控えい、下々の者とは何事じゃ、榊原大内記侯が十二万石の天下諸侯ならば、わしとて劣らぬ天下のお直参じゃ。直参旗本早乙女主水之介が借りると言うなら文句はあるまい――こりゃそこの陸尺共、苦しゅうないぞ、そのように慄えていずと、早う行けッ"
],
[
"ま! よう来てくんなました。では、あの、わちきの願いを叶えて下さる気でありいすか",
"まてまて。叶える叶えないは二の次として、ちとその前に頼みたい事があるが、聞いてくれるか",
"ええもう、主さんの事ならどのようなことでも――",
"左様か、かたじけない、かたじけない。丸に丁の字を染めぬいた看板の持主はどこの太夫さんじゃったかな",
"ま! 曲輪がお家のような主さんでありいすのに。その紋どころならば、王岸楼の丁字花魁ではありいせぬか",
"おう左様か左様か。その丁字花魁の様子をこっそり探って来てほしいのじゃがな。いってくれるか",
"そしたら、わちきの願いも叶えてくんなますかえ",
"風と日和次第、ずい分と叶えまいものでもないによって、行くなら早う行って来てくれぬか"
],
[
"いぶかしいお客様方ではありいせぬか、丁字さんのところには、由緒ありげな女子のお客さんに、美しい若衆が御一緒で、ほかに六七人程も乱暴そうなお武家さんが御一座してざましたよ",
"なにッ、若衆に女子の客とな?――ご苦労じゃった。今宵は許せ。また会うぞ"
],
[
"そなたが霧島京弥どのか",
"あっ! あなた様はあの……"
],
[
"ま! その三日月形の傷痕は……",
"身をかくそうとしても、もうおそうござるわ!"
],
[
"先程、仲之町で消え失せたのは、菊路の兄がわしと知ってはいても、会ったことがなかったゆえに、見咎められては恥ずかしいと、それゆえ逃げなさったのじゃな",
"はっ……、御礼も申さずに失礼してでござりました",
"いや、そうと分らば却っていじらしさが増す位のものじゃ。もはやこの様子を見た以上聞かいでも大凡の事は察しがつくが、でも念のために承わろう。一体いかがいたしたのじゃ"
],
[
"大事ない! 早乙女主水之介が天下お直参の威権にかけても後楯となってつかわすゆえ、かくさず申して見られよ",
"では申しまするが、お杉の方が久しい前から手前に――",
"身分を弁えぬ横恋慕致して、言い迫ったとでも申さるるか",
"はっ……。なれども、いかに仰せられましょうと、君侯のお目をかすめ奉って、左様な道ならぬ不義は霧島京弥、命にかけても相成りませぬ。それにまた――",
"ほかに契り交わした者があるゆえ、その者へ操を立てる上にもならなかったと、申さるるか",
"はっ……。お察しなされて下されませ",
"いや、よくぞ申された。それ聞かばさぞかし菊路も――いや、その契り交わした者とやらも泣いて喜ぶことでござろうよ。その者の兄もまたそれを聞かば、きっと喜ぶでござりましょうよ。だが、少し不審じゃな。お杉の方と言えば仮りにも十二万石の息のかかったお愛妾。にも拘らず、かような場所へそこ許を掠って参るとは、またどうしたことじゃ",
"別にそれとて不審はござりませぬ。こちらの丁字様は以前お屋敷に御奉公のお腰元でござりましたのが、故あってこの廓に身を沈めましたので、そのよしみを辿ってお杉の方様が、手前にあのような偽の手紙を遣わしまして、まんまとこのような淫らがましいところへ誘い運び、いやがるものを無理矢理に、今ごらんのようなお振舞いを遊ばされたのでござります"
],
[
"さてはうぬが、この淫乱妾のお先棒になって、京弥どのを掠ってまいったのじゃな",
"よよッ、又しても悪い奴がかぎつけてまいったな! 宵の口にも京弥めを今ひと息で首尾よう掠おうとしたら、要らぬ邪魔だてしやがって、もうこうなればやぶれかぶれじゃ。斬らるるか斬るか二つに一つじゃ。抜けッ、抜けッ"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
1997(平成9)年1月20日新装第8刷発行
入力:大野晋
校正:皆森もなみ
2000年6月28日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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"な、京弥さま。あのう……お分りになりましたでござりましょう?",
"は。分ってでござります。のち程参りますから、お先にどうぞ"
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"いぶかしいお方が血まみれとなりまして、あの塀外から屋敷うちへ飛び込んでござります。いかが取り計いましょうか",
"なに? 血まみれとな? お武家か町人か、風体はどんなじゃ",
"遊び人風のまだ若い方でござります"
],
[
"もっけもねえところへ飛び込んでめえりました。早乙女の御前様のお屋敷じゃござんせんか。お願げえでごぜえやす。ほんの暫くの間でよろしゅうごぜえますから、あっしの身柄を御匿まい下せえまし。お願げえでごぜえます。お願げえでごぜえます",
"なに、そちの身柄を予に匿まえとな⁉",
"へえい。どう人違いしやがったか、何の罪科もねえのに、御番所の木ッ葉役人共めが、この通りあっしを今追いかけ廻しておりやすんで、御願げえでごぜえやす。ほんのそこらの隅でよろしゅうごぜえますから、暫くの間御匿まい下せえまし",
"ほほう、町役人共が追いかけおると申すか。だが、匿まうとならばこの後の迷惑も考えずばなるまい、仔細はどんなことからじゃ",
"そ、そんな悠長な事を、今、この危急な場合に申しあげちゃいられませぬ。な、ほら、あの通りどたばたと、足音がきこえやすから、後生でごぜえます。御前のお袖の蔭へかくれさせて下せえまし",
"いや、匿まうにしたとて、そう急くには及ばぬ。無役ながらも千二百石を賜わる天下お直参のわが屋敷じゃ、踏ん込んで参るにしても、それ相当の筋道が要るによって、まだ大事ない。かいつまんで事の仔細を申せ",
"それが今も申し上げた通り、仔細もへちまもねえんですよ。御前の前で素のろけらしくなりやすが、ちっとばかり粋筋な情婦がごぜえやしてね、ぜひに顔を見てえとこんなことを吐かしがりやしたので、ちょっくら堪能させておいて帰ろうとしたら、何よどう人間違げえしやがったか、身には何も覚えがねえのに、役人共が張ってやがって、やにわに十手棒がらみで御用だッと吐かしゃがッたので、逃げつ追われつ、夢中であそこの塀をのりこえてめえりやしたが、もっけもねえ。それが御前のお屋敷だったと、只これだけの仔細でごぜえます",
"でも、そち、そのふところにドスを呑んでいるようじゃが、何に使った品じゃ",
"えッ――なるほど、こ、こりゃ、その、何でごぜえます。情婦の奴が、こんな物を知合の古道具屋が持ち込んで来たが、女には不用の品だから何かの用にと、無理矢理持たして帰しやしたのを、ついそのままにしていただけのことなんでごぜえますから、後生でごぜえます。もう御勘弁なすって、どこかそこらの隅へ拾い込んで下せえまし",
"ちとそれだけの言いわけでは、そちの風体と言い、面構えと言い、主水之介あまりぞっとしないが、窮鳥ふところに入らば猟師も何とやらじゃ。では、いかにも匿まってつかわそうぞ。安心せい"
],
[
"あきめくら共めがッ、この眉間の三日月形が分らぬかッ",
"………⁈",
"よよッ",
"………!",
"分ったら行けッ",
"早乙女の御前とは知らず、お庭先をお騒がせ仕って恐れ入ってござります。なれ共、それなる下郎はちと不審の廉あって召捕らねばならぬ者、役儀に免じてお下げ渡し願われますれば仕合せにござります",
"では、行けと申すに行かぬつもりかツ",
"はは、申しおくれましてござりまするが、拙者は北町奉行所配下の同心、杉浦権之兵衛と申しまする端役者、役儀に免じて手前の手柄におさせ願われますれば、身の冥加にござります",
"ならば行けッ。無役なりとも天下お直参の旗本じゃ。上将軍よりのお手判お差紙でもを持参ならば格別、さもなくばたとい奉行本人が参ったとて、指一本指さるる主水之介ではない。ましてやその方ごとき不浄端役人に予が身寄りの者引き立てらるる節はないわッ。行けッ、下がれッ",
"えッ。では、それなる下郎、御前の御身寄りじゃと申さるるのでござりまするか!",
"言うが迄もない事じゃ。当屋敷の内におらば即ち躬が家臣も同然、下がれッ、行けッ"
],
[
"………!",
"………!"
],
[
"お目醒めでござりましたか",
"京弥か",
"はッ",
"菊に用なら、ここには見えぬぞ",
"何かと言えばそのように、お冷やかしばかりおっしゃいまして、――お目醒めにござりますれば、殿様にちと申し上ぐべき事がござりまして参じましたが、ここをあけてもよろしゅうござりまするか",
"なに、殿様とな? 兄と言えばよいのに、他人がましゅう申して憎い奴じゃな。よいよい、何用じゃ",
"実は今朝ほど、御門内にいぶかしい笹折りが一包み投げ入れてでござりましたゆえ、早速一見いたしましたところ、品物は大きな生鯛でござりましたが、何やら殿様宛の手紙のような一事が結びつけてござりますゆえ、この通り持参してござります",
"……? ほほう、いかさま大きな鯛じゃな。手紙とやらは開けてみるも面倒じゃ、そち代って読んでみい",
"大事ござりませぬか",
"構わぬ、構わぬ",
"………?",
"いかが致した。首をひねっているようじゃが、なんぞいぶかしい事でも書いてあるか",
"文字がいかにも奇態な金釘流にござりますゆえ、読み切れないのでござります――いえ、ようよう分りました――ごぜん、せんやは、たいそうもねえ御やっかいをかけまして、ありがとうごぜえやした。じきじき、お礼ごん上に伺うが定でごぜえやすが、さすればまたおっかねえものが、あごのところへ飛んで来るかも存じませぬゆえ、ほんのお礼のしるしに、ちょっくらこれを投げこんでおきやした。お口に合わねえ品かも存じませぬが、性はたしかの生の鯛、気は心でごぜえやすから、よろしくお召し上がり下せえまし――と、このように書き認めてござります",
"ほほうそうか。贈り主は前夜のあの怪しい血まみれの男じゃな。それにしてはちと義理固すぎるようじゃが、どれどれ、鯛をもっとこちらへ。よこしてみせい"
],
[
"はて、いぶかしい。魚が口から黒血を吐きおるぞッ",
"えッ、黒血でござりますとな⁉",
"みい! 尾鰭も眼も生々と致して、いかさま鮮魚らしゅう見ゆるが、奇怪なことに、この通り口からどす黒い血を吐き垂らしておるわ。それに贈り主がちと気がかりじゃ。まてまて、何ぞ工夫をしてつかわそう――"
],
[
"こりゃ、七平、七平!",
"へえい――御用でござりましたか",
"その辺の原っぱにでも参らば、どこぞに、野良犬かどら猫がいるであろう。御馳走してつかわす品があるゆえ、早速曳いて参れ"
],
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"よよッ、何としたのでござりましょう! やっぱり毒でも仕掛けてあったようにござりましたな",
"左様。まさしく鴆毒じゃ",
"えッ。では、あの怪しい男め、お殿様のお命を縮め奉ろうとしたのでござりましょうか",
"然り――",
"不届きな! あれ程の大恩をうけましたのに、恩を仇で返すとは、また何としたのでござりましょう。何がゆえに、かような大それた真似をしたのでござりましょう",
"察するにあの夜、頤の下に疵をつけておいて帰したゆえ、その目印しを知っているわしを生かしておくのが、何かと邪魔に思えたからであろうよ。それだけにあ奴、存外の大悪党かも知れぬぞ"
],
[
"御苦労じゃが、駕籠の用意をさせてくれぬか",
"不意に白昼、駕籠なぞお召し遊ばしまして、どこへ御出ましにござります",
"知れたこと、北町奉行所じゃ",
"では、あの、前夜あの者奴をお庇い遊ばしたことを、お詑びに参るのでござりまするか",
"詑びに行くのではない。早乙女主水之介と知って匿まえと申しおったゆえ、直参旗本の意気地を立つるために、あの夜はあのように庇うてつかわしたが、それゆえに天下の重罪人を存ぜぬ事とは言い条、野放しにさせたとあっては、これまた旗本の面目のためほってはおけぬ。どのような不審の廉ある奴か、奉行所の役人共に聞き訊ねた上で、事と次第によらばこの主水之介が料ってつかわすのじゃ",
"分りました。では、お邪魔にござりましょうが、手前もお供にお連れ下さりませ",
"ほほう、そちも参ると申すか。でも、菊が何と申すか、それを聞いた上でなくばわしは知らぬぞ",
"またしてもご冗談ばっかり――それは、それ、これはこれでござりますゆえ、お連れなされて下さりませ。実はあまり家のうちばかりに引き籠ってでござりますゆえ、近頃腕が鳴ってならぬのでござります",
"わしの退屈病にかぶれかかって参ったな。ではよいよい、気ままにいたせ"
],
[
"御大身の御方とお見受け申しまして、御合力をいたします。この通り起居も不自由な非人めにござりますゆえ、思召しの程お恵みなされて下さりませ",
"汚ない! 寄るなッ、寄るなッ"
],
[
"汚ない者なればこそ、合力いたすのでござります。そのように御無態なことを申しませずに、いか程でもよろしゅうござりますゆえ、お恵み下さりませ",
"寄るなと言うたら寄るなッ"
],
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"これはどうも、いやはや、ずんと面白いわい。段々と退屈でのうなりおったな",
"では、あの、お怪我をなさったのではござりませなんだか!",
"南蛮の妖器ぐらいに、江戸御免の退屈男が、みすみす命失ってなるものかッ。この通り至極息災じゃ",
"でも、ううむと言う、お苦しそうな呻き声があったではござりませぬか!",
"そこじゃそこじゃ。人と人の争いは武器でもない。技ばかりでもない。智恵ぞよ、智恵ぞよ。この主水之介の命など狙う身の程知らずだけあって、愚かな奴めが、わしの兵術にかかったのさ。早くも胡散な奴と知ったゆえ、二度目に駕籠脇へ近よろうとした前、篠崎竹雲斎先生お直伝の兵法をちょっと小出しに致して、ぴたり駕籠の天井に吸いついていたのじゃよ",
"ま! さすがはお殿様にござります。京弥ほとほと感服仕りました",
"いや、そちの手並も、弱年ながらなかなか天晴れじゃ。これでは妹菊めの参るのも無理がないわい。――では、どのような奴か人相一見いたそうか"
],
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"しまったッ。さてはまんまと計られたかッ。もうこうなりゃ、よも生かしては帰すまい。いかにもあの晩、うぬに邪魔をされた北町御番所の杉浦権之兵衛じゃ。さ! 生かすなと殺すなと勝手にせい!",
"まてまて、物事はそうむやみと急いてはならぬ。なる程、あの夜ちと邪魔立てしたが、それにしても身共の命迄狙うとは何としたことじゃ",
"知れたこと。うぬが要らぬ旗本風を吹かしゃがって、庇うべき筋合のねえ奴を庇やがったために、折角網にかけた大事な星を取り逃がしたお咎めを蒙って、親代々の御番所の職を首にされたゆえ、その腹いせをしにやって来たんだッ",
"なに、お役御免になったとな? それ迄響きが大きゅうなろうとは知らなかった。そうときかばいささかお気の毒じゃ。この通り詑びを申そうぞ。許せ、許せ。では何じゃな、あの怪しの奴は余程の重罪人じゃったな",
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"では、何でござりまするか、御前はあ奴が何者であるともご存じなくてお庇いなさったのでござりまするか",
"無論じゃ。無論じゃ。存じていたら身共とて滅多に庇い立ては出来なかったやも知れぬよ",
"そうでござりましたか。実は御前があ奴の身の上を御承知の上で、尻押しなさったのじゃろうと邪推致しましたゆえ、ついカッとなりまして、あの翌る日職を奪われました時から、こうしてお出ましの折をつけ狙っていたのでござりまするが、そうと分らば手前の腹の虫も大分癒えてござります。何をかくそう、あ奴めは、百化け十吉と仇名のお尋ね者にござりまするよ",
"奇態な名前のようじゃが、変装でもが巧みな奴か",
"はっ。時とすると女になったり、ある時はまた盲目になったり、自由自在に姿形を化け変えるが巧みな奴ゆえ、そのような仇名があるのでござります。それゆえ、これ迄も屡々町役人の目を掠めておりましたが、ようようと手前が眼をつけましたゆえ、あの夜手柄にしようと追うて参ったところでござりました",
"ほほうそうか。いや、許せ、許せ。一体そのように化けおって何を致すのじゃ",
"奇態に女を蕩かす術を心得おりまして、みめよき婦女子と見ると、いつのまにかこれをたらしこみ、散々に己れが弄んだ上で沢山な手下と連絡をとり、不届至極にも長崎の異人奴に売りおる奴でござります",
"なに⁉ 不埒な奴よ喃。――それきかばもう、この主水之介が棄ておけずなったわ。ようしッ、身共が今日よりそちの力となってつかわそうぞ",
"そ、それはまた不意に何とした仔細にござります! よし、お怪我はなかったにしても、一度は御前に不届な種ガ島を向けたわたくし、このままお手討になりましょうとも、お力添えとは少しく異な御諚ではござりませぬか",
"一つは公憤、二つにはそちをそのような不幸に陥入れた罪滅ぼしからじゃ。それにあ奴め、この主水之介を毒殺しようと致しおったぞ",
"何でござります! そ、それはまた、どうした仔細からにござります",
"そちから今、十吉めの素性をきいて、ようようはっきり納得いたしたが、実は身共も奴めが少し不審と存じたゆえ、あの夜逃がしてつかわす砌、もしや重罪人であってはならぬと、のちのち迄の見覚えに、奴めの頤に目印の疵をつけておいたのじゃ。それゆえ、どのように百化け致しおっても、身共がこの世に生きてこの目を光らしておる限りは、頤の疵が目印になって正体を見現わさるるゆえ、それが怖うてこの主水之介を亡きものに致そうとしたのであろうよ",
"そうでござりましたか。御前に迄もそのような大それた真似をするとは呆れた奴でござります。では、お力添え下さりますか",
"いかにも腕貸ししてつかわそう! 番所の方も亦、復職出来るよう骨折ってつかわすゆえ、安心せい"
],
[
"では善は急げじゃ。在職中の配下手先なぞもあろうゆえ、その者共を出来るだけ大勢使って、旗本退屈男の早乙女主水之介は、今朝よそから到来の鯛を食して、敢なく毒殺された、とこのように江戸中へ触れ歩かせい",
"奇態な御諚でござりまするが、それはまた何の為でござります",
"知れたこと。さすれば身共が死んだことと思うて、百化け十吉めが安心いたして、また江戸の市中に出没いたし、魔の手を伸ばすに相違ないゆえ、そこを目にかかり次第引ッ捕えるのじゃ",
"いかさまよい工夫にござります。では、すぐさま手配をいたしまして、のち程またお屋敷の方へ参じますゆえ、お待ち下されませ"
],
[
"大分早いようじゃな。江戸一円に触れさせるとあらば、容易な手数ではなさそうじゃが、いかがいたした",
"いえもう、こういう事ならば手前がお手のものでござります。若い奴等を十人ばかりもかき集めましてな、第一に先ず御前には縁の深い、曲輪五丁街へ触れさせなくてはと存じまして、早速お言いつけ通り口から口へ広めさせましたところ、御名前の御広大なのにはいささか手前も驚きましてござりまするよ――江戸名物旗本退屈男何者かに毒殺さる、とこのようにすぐともう瓦版に起しましてな、町から町へ呼び売りして歩いたげにござりまするぞ。それから、第二にはなるべく人の寄る場所がよかろうと存じましたのでな。目貫々々の湯屋床屋へ参って、巧みに評判させましてござります",
"いや左様か。商売道に依って賢しじゃ、まだちと薬が利くのは早いかも知れぬが、でもこうしていたとて退屈ゆえ、ではそろそろ江戸見物に出かけるか"
],
[
"のう菊、お前にちと叱られるかも知れぬが、京弥に少々用があるゆえ、この兄が二三日借用致すぞ",
"ま! 何かと言えばそのような御冗談ばっかりおっしゃいまして、あまりお冷やかしなさりましたら、いっそもうわたしは知りませぬ",
"なぞと陰にこもったことを申して、その実少し妬いているようじゃが、煮て喰いも焼いて喰いもせぬゆえ、大丈夫じゃ。では、借用するぞ"
],
[
"今朝ほど、腕が鳴ってならぬとか申していたゆえ、望みにまかせて、腕ならしさせてつかわそうぞ。早速菊路にも手伝うて貰うて、女装して参れ",
"でも、あの、わたくしの腕が鳴ると申しましたのは、女子なぞになりたいからではござりませぬ",
"おろかよ喃。百化け十吉をおびきよせる囮になるのじゃ。そちの姿顔なら女子に化けても水際立って美しい筈じゃ。どこでいつ十吉に見染められるかは存ぜぬが、この退屈男が毒殺されたと噂をきかば、今宵になりとみめよき婦女子を浚いに出かけるは必定ゆえ、海老で鯛を釣ってやるのよ",
"そうでござりましたか。よく分ってでござります。ではお菊どの、御造作ながら御手伝い下さりませ"
],
[
"兵衛、兵衛。どうやら少し匂いがして参ったぞ。あの供の奴等の腰つきをみい!",
"何ぞ奇態な品でも、ぶら下げておりまするか",
"品が下がっているのではない、あの腰つきなのじゃ。根っからの侍共なら、あのように大小を重たげにさしてはいぬわ。打ち見たところいずれも大小に引きずられているような様子――ちとこれは百化けの匂いが致して参ったぞ"
],
[
"これ、もし、そこのお嬢さま",
"あい――"
],
[
"この顔をみい! そちが一番怖い長割下水の旗本退屈男じゃ",
"げえッ"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
1997(平成9)年1月20日新装第8刷発行
入力:大野晋
校正:皆森もなみ
2000年6月28日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000566",
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[
[
"打ち見たところいずれも二十七八の若者揃いのようじゃが、こうしてみると一段とまた馬術も勇ましい事よ喃",
"御意にござります。中でも葦毛の黒住団七殿と、黒鹿毛の古高殿がひと際すぐれているように存じられますな",
"左様、あの両名の気組はなにか知らぬが少し殺気立っているようじゃな"
],
[
"のう、京弥!",
"はッ",
"最初からそれなる両名、特に殺気立っていたようじゃったが、先程試合前にあの美形が天降ったあたりといい、何ぞまた退屈払いが出来るやも知れぬぞ",
"いかさま様子ありげにござりまするな。念のために一見致しましょうか",
"おお、参ってみようぞ。要らぬ詮議立てじゃが、この木の芽どきに生欠伸ばかりしているも芸のない話じゃからな。ちょっとのぞいてみるか"
],
[
"わしじゃ、分らぬか",
"おッ。早乙女の御殿様でござりまするな。この者、御前の御身寄りでござりますか",
"身寄りでなくば、のぞいてはわるいか",
"と言うわけではござりませぬが、お役柄違いの方々が、御酔狂にお手出しなさいましても無駄かと存じますゆえ、御注意申しあげただけにござります"
],
[
"控えろ。笑止がましい大言を申しおるが、その方共はあれなる鎧に生血の垂れおるを存じおるか",
"えッ?",
"それみい! それ程ののぼせ方で、主水之介に酔狂呼ばわりは片腹痛いわ"
],
[
"のう、こりゃ、町役人",
"………"
],
[
"真赤になっているところをみると、少しは人がましいところがあるとみゆるな。わしはなにもそち達の邪魔をしようというのではない。只、退屈払いになりさえすればよいゆえ、手伝うてつかわすが、どちらの番所の者じゃ。北町か、南町か",
"………",
"食物が悪いとみえて、疑ぐり深う育っている喃。そち達の瘠せ手柄横取りしたとて、何の足しにもなる退屈男でないわ。姓名を名乗らば下手人見つかり次第進物にしてつかわすが、何と申す奴じゃ",
"南町御番所の与力、水島宇右衛門と申しまするでござります",
"現金な奴めが。了見の狭いところが少し気に入らぬが、力を貸してつかわすゆえに、家へ帰ったならば家内共に熱燗でもつけさせて、首長う待っていろよ"
],
[
"いつ頃逐電いたしたか存ぜぬか!",
"ほんの今しがたでござりましたよ",
"今しがたにも色々あるわ。いつ頃の今しがたじゃか、存ぜぬか",
"古高様のあのお騒ぎが起きますとすぐでござりましたよ。どうした事か急に色を変えて、まごまごしていたようでござりましたが、気がついて見ましたら、もう姿が見えませんでしたゆえ、手前共もいぶかしんでいる次第でござります"
],
[
"これなる煙草入は何者の持ち品じゃ!",
"おやッ。野郎め、あんなに自慢していやがったのに、よっぽど慌てやがったとみえて、大切な品を忘れて行きやがったね。古高様の中間の六松めが、さっき見せびらかしていた品でごぜえますよ"
],
[
"病というものは仕方がのうてな、身共も至ってこの賽ころが大好物じゃが、その方共が用いるところはどこの寺場じゃ",
"ふえい?……",
"なにもそのように頓狂な声を発して、おどろくには当らないよ。こればッかりは知ったが病、久しぶりでちと弄みたいが、いつもどこの寺場で用いおるか",
"ご冗談でござりましょう。お見かけすればお小姓をお召し連れなさいまして、ご身分ありげなお殿様が、賽ころもねえものでごぜえますよ。いい加減なお弄りはおよしなせえましな",
"疑ごうていると見ゆるな。身分は身分、好物は好物じゃ。ほら、この通りここに五十両程用意して参っているが、これだけでは資本に不足か"
],
[
"下手の横好きと言う奴でな。ついせんだっても牛込の賭場で、三百両捲き上げられたが、持ったが病で致し方のないものさ。これだけで足りずば屋敷へ使いを立てて、あと二三百両程取り寄せても苦しゅうないが、存じていたら、そち達の寺場に案内せぬか",
"そりゃ、ぜひにと言えばお教え申さねえわけでもござんせぬが、実あ、こないだうちここへ御主人のお供致しまして、馬馴らしに参りますうちに六松と昵懇になって、あいつの手引で行くようになったんでごぜえますからね。そうたびたび弄みに参ったわけじゃござんせんが、寺場って言うのがちっと風変りな穴なんでごぜえますよ",
"どこじゃ。町奴共の住いででもあるか",
"いいえ、手習いの師匠のうちなんでごぜえますよ",
"なに! 手習いの師匠とな! では、浪人者じゃな",
"へえ。元あ、宇都宮藩のお歴々だったとか言いましたが、表向きゃ、手習いの看板出して、内証にはガラガラポンをやるようなご浪人衆でごぜえますもの、なんか曰くのある素性でごぜえましょうよ",
"住いはいずこじゃ",
"根津権現の丁度真裏でごぜえますがね"
],
[
"退屈払いに参ったのじゃ、びっくり致したか",
"なにッ? 何の用があってうしゃがったんだ!",
"血のめぐりがわるい下郎共よ喃。退屈男が御手ずから参ったからには、只用ではない。それなる中間の六松に用があるのじゃ"
],
[
"手間どってはあとが面倒にござりますゆえ、ちょっと眠らしてつかわしましょうか",
"そうのう、では、揚心流小出しにせい",
"はッ。――ちと痛いかも知れぬが、暫くの間じゃ。お辛抱召されよ"
],
[
"主人と言えば、親にもまさる大切なご恩人、然るにあの素浪人共の手先となって、毒蛇など仕掛けるとは何事じゃ。かくさず有体に申し立てろ",
"へえい……",
"へえいでは分らぬ。何の仔細あって、あのような憎むべき所業致しおった",
"………",
"強情を張りおるな。そら、ちと痛いぞ。どうじゃ、どうじゃ。まだ申さぬか",
"ち、ち、ち……、申します、申します。もう申しますゆえ、その頤をお押えなさっていらっしゃるお手を、お放し下されませ。――ああ痛てえ! いかにも、三十両の小判に目が晦みまして、つい大それたことを致しましたが、しかし、毒蛇を頼まれましたのは、今のあの市毛の旦那様じゃござんせんよ。そもそものお頼み手は、あの時うちの旦那様と先着を争ってでござりました、あの八条流の黒住団七様でござりまするよ",
"なにッ⁉ そもそもの頼み手は黒住団七とな! いぶかしい事を申しおるが、まことの事かッ",
"なんの嘘偽りがござりましょうぞ。あの黒住の旦那様が、昔宇都宮藩で御同役だったとかいう市毛の旦那様と二人して、ゆうべこっそり手前を訪れ、あの毒蛇を鞍壺に仕掛けるよう、三十両の小判の山を積んで、手前を欲の地獄に陥し入れたのでござります。あの時鉄扇を投げつけたのも、やっぱりお二人様の企らみですぜ",
"なに⁉ 鉄扇も二人の企らみとな? でも、あの時狙われた対手は、たしかに黒住団七と見えたが、それはまたどうした仔細じゃ",
"それがあの方達の悪智慧でごぜえますよ。もし、仕掛けた毒蛇でうまく行かねえようだったら、鉄扇でうちの旦那様を仕止めようと、前からお二人がちゃんと諜し合って、今、ここにい合せた八人のご浪人衆に、それぞれ鉄扇を持たせて、どこからでも投げられるように、幔幕外のところどころへ忍ばせておいたのでござります。だからこそ、黒住の旦那様は、初めからそれをご存じでごぜえましたので、うまくご自身は身を躱したんでごぜえますよ。さもあの方が狙われたように見せかけた事にしてからが、黒住の旦那様の悪智慧なんでごぜえまさあ。ああしてご自身をさもさも狙ったように見せかけて投げつけりゃ、事が起った場合、御番所の方々のお見込みが狂うだろうというんだね、なかなか抜け目のない悪企みをしたんでごぜえますよ",
"きけば聞く程奇怪な事ばかりじゃが、何のためにまた黒住団七めは、そのような悪企み致しおった",
"知れた事でござんさあ、あの時、降って湧いたように姿をお見せなすった、あの別嬪の女の子が目あてだったのでごぜえますよ",
"なに⁉ では、あれなる腰元、あの早駈けに勝を占めた者へお下しなさるとでも賭けがしてあったか",
"へえい。ご存じかどうか知りませぬが、あの別嬪の女の子は御台様付の腰元中で、一番のご縹緻よしじゃとか申しましてな、お上様をあしざまに申し上げるようでごぜえますが、あの通り、御酔狂な御公方様の事でごぜえますので、ほかに何か下されりゃいいのに、別嬪を下げつかわすとおっしゃったものでごぜえますから、お腹黒い黒住の旦那が、女ほしさに、とうとうあんな悪企みをしたんでごぜえますよ。それっていうのが、手前方の旦那様があの四人のうちじゃ、一番の御名手でごぜえましたからね、それがおっかなくて、うちの旦那様だけを、ほかには罪もねえのにあんなむごい目にも遭わせる気になったんでごぜえます",
"馬鹿者ッ",
"へえい?",
"ずうずうしゅう、へえいとは何ごとじゃ。主人に危難来ると知らば、身を楯にしても防ぐべきが当り前なのに、自ら手伝って、死に至らしむるとは不埓者めがッ",
"へえい。それもこれも元はと言えば、バクチが好きのさせたわざ――、たった三十両の端た資本に目が眩みまして、何ともはや面目次第もごぜえませぬ。この通り、もう後悔してござりますゆえ、お手やわらかに願います",
"虫のよい事申すな! 立てッ",
"へえい?",
"立てと申すに立たぬか",
"痛えい! 立ちますよ。立ちますよ。そんなにお手荒な事をなさらずとも、立てと言えば立ちますが、一体どこへ御引立てなさるんでござりますか",
"くどう申すな。行けッ"
],
[
"のう京弥々々! ちとこれは面白うなったぞ。早うそちもここへ駈け上がってみい!",
"心得ました。お手かし下されませ"
],
[
"よおッ。あの六人が先廻りしておりまするな!",
"のう。よくよく斬って貰いたいと見ゆるわ。久しぶりに篠崎流を存分用いるか",
"はッ。けっこうでござりまするが、うしろの槍はなんとした者共でござりましょうな",
"言うがまでもない。あの真中にいるのが、確かに昼間見かけた黒住団七じゃ。思うに、同藩のよしみじゃとか何とか申して、はき違うべからざる武士道をはき違えおる愚か者共じゃろうよ",
"笑止千万な! では、手前も久方ぶりに揚心流を存分用いて見とうござりますゆえ、お助勢お許し下されませ",
"ならぬ",
"なぜでござります",
"退屈男の名前が廃るわ。そちはこれにてゆるゆる見物致せ"
],
[
"江戸旗本は、斬ると言うたら必ず斬るぞ。主君の馬前に役立てなければならぬ命を、無用な意地立てで粗末に致すつもりかッ。逃ぐる者は追わぬ。逃げたくば今のうちに早う逃げえいッ",
"………"
],
[
"あそこに倒れおる市毛甚之丞と、これなる死骸となった黒住団七の両名を、駕籠にでも拾い入れて、約束通り南町御番所の水島宇右衛門めへ土産に送ってつかわせ",
"送るはよろしゅうござりまするが、お殿様はいかがなさろうとおっしゃるのでござります",
"少し寂しゅうなったわ。退屈じゃ、退屈じゃと思うていたが、今となって思い返してみると、やはり人が斬りたかったからじゃわ。――しかし、もう斬った。久方ぶりにずい分斬った。そのためか、わしはなんとのう心寂しい! ――では、ずい分堅固で暮らせよ。菊路をも天下晴れて存分にいとしんでつかわせよ",
"ま! おまち下されませ!……どこへお越しになるのでござります。お待ち下されませ! どこへお越しになるのでござります!"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:M.A Hasegawa
2000年6月29日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000567",
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[
[
"退屈の折からじゃ、目をかけてつかわすぞ、神妙に占ってみい",
"………",
"どうじゃ。第一聞きたいは剣難じゃ。あらば早う会うて見たいものじゃが、あるかないか、どうじゃ",
"………",
"喃! おやじ! どうじゃ。剣難ありと人相に書いてはないか",
"………",
"ほほう。こやつめ、答えぬところを見ると、場所柄が場所柄ゆえ、堅いほうは不得手と見ゆるな。よいよい、然らば女難でも構わぬゆえ観て貰おう。どうじゃ、身共の人相に惚れそうな女子があるか",
"………",
"喃! おやじ! なぜ返事を致さぬ! 黙っているは女難も分らぬと申すか!"
],
[
"まてッ、町人!――こりゃ待たぬか! 町人",
"なんでえ! 呼びとめて何の用があると言うんだ",
"異な事を申したゆえ、後学のために相尋ねるのじゃ。ヘゲタレとか申すのは身共のことかな",
"阿呆ぬかすない。身共なればこそ言ったんだ。因縁つけて喧嘩を売ろうと言うのか",
"のぼせるなのぼせるな。骨の固まらぬ者が左様に気取るものではない。そのヘゲタレとか申すは、食べ物の事かな",
"ちょッ、こいつ吐かしたな。ヘゲタレを知らねえような奴あヘゲタレなんだ。どなたのお道中だと思ってるんだ。珠数屋の大尽がお通りじゃねえか! 所司代様だっても関白様だっても、お大尽にゃ一目おく程の御威勢なんだ。どきなどきな。どいて小さくなっていりゃ文句はねえんだよ"
],
[
"ほほう、これはまた珍景じゃな。下郎! あの珠数屋の大尽とか申すは、どこの馬の骨じゃ",
"何だと!",
"騒ぐな騒ぐな。虎の威を藉りて生煮えの啖呵を切るものではない。農工商の上に立つお歴々が、尾をふりふり素町人の御機嫌を取り結んでいるゆえ、珍しゅう思うて尋ねるのじゃ。あの成上がり者はどこの虫けらじゃ",
"ヘゲタレ! ぬかしたな! お歴々だろうと二本差だろうと、小判に頭が上らなきゃ仕方がねえんだ。引込んでろ引込んでろッ。お道中先を汚されたんじゃ、露払いの弥太一と名を取ったおれ様の役目にかかわるんだ。振舞い酒にありつきてえと言うんなら、口を利いてやらねえもんでもねえんだから、小さくなって引込んでろッ"
],
[
"何じゃ、弥太一! この浪人者が何をしたというのじゃ",
"どうもこうもねえんですよ。あの通り誰も彼も目の明いている者は、みんなお大尽のお道中だと知って道をよけているのに、このヘゲタレ侍めがのそのそしていやがるんで、どきなと言ったら因縁をつけたんですよ",
"左様か。よしッ。拙者が扱ってつかわそう"
],
[
"身共が因縁つけたら、おぬしこそどうしようと言うのじゃ",
"知れたこっちゃ。これが物を言うわッ"
],
[
"では、因縁をつけてつかわそうぞ。なれども、尊公ひとりでは物足りぬ。ゆっくり楽しみたいゆえ、あちらのお三人衆にも手伝うて貰うたらどうじゃ",
"なにッ",
"何だと!",
"ほざいたな!",
"よしッ。それほど斬られたくば、痛い目に会わせてやろう! 出い、出い! 前へ出い!"
],
[
"どうじゃ、見たか",
"………⁈",
"いずれも少しぎょッと致したな。遠慮は要らぬぞ。もそッと近よってとっくりみい",
"………",
"のう、どうじゃ。只の傷ではあるまい。江戸では少しばかり人にも知られた傷じゃ。これにても抜いて来るか!",
"………",
"参らばこちらもこの傷にて対手を致すぞ。のう、どうじゃ。来るか!"
],
[
"目違いするにも程があろうわッ。身共を何と心得おるかッ。そのような汚物がほしゅうて対手したのでないわッ。退屈なればこそあしろうたのじゃ。それなる四人! 急に腰の一刀が鞘鳴りして参った。前に出ませい! 尋常に前へ出ませい!",
"いえ、もう、お四人様はともかく、手前が不調法致しましてござります。そのように御威張り遊ばさずと、お納め下されませ。小判の顔を拝みましたら何もかも丸う納まります筈、では失礼。お四ッたり様もお早く! お早く!"
],
[
"まて、町人",
"へ?……",
"打ち見たところ大分のっぺりと致しておるが、その風体では無論のことに曲輪の模様よく存じておろうな",
"………?",
"何を慄えているのじゃ。大事ない、大事ない。知っておらばちと尋ねたい事があるが、存じておるか",
"左様でござりましたか。あてはまた、あまり旦那はんが怕い顔していなはりますゆえ、叱られるのやないかと思うたのでござります。お尋ねというは何でござります",
"今のあれじゃ。珠数屋の大尽じゃ",
"ああ、あれでござりまするか。あれはもうえらい鼻つまみでござりましてな。ああして所司代付きのお武家はんを用心棒に買い占めなはって、三日にあげずこの廓をわがもの顔に荒し廻っていやはりますさかい、誰もかれも、みなえらい迷惑しているのでござります",
"ほほう、ではあれなる武家達、所司代詰の役人共じゃと申すか",
"ええ、もう役人も役人も、何やら大分高いお役にいやはります方々やそうにござりますのに、どうしたことやら、あのようにお髯のちりを払っていやはりますさかい、お大尽がまたいいこと幸いに、小判の威光を鼻にかけて、なすことすることまるで今清盛のようでござります"
],
[
"よかろう! ひと泡吹かしてやろうわ。奴等の根城は何という家じゃ",
"ほら、あそこの柳の向うに、住の江、と言う灯り看板が見えますやろ。あれが行きつけの揚げ屋でござります"
],
[
"何じゃ",
"折角でござりまするが、今宵はもう……",
"苦しゅうない! 苦しゅうない! 遊んでつかわすぞ",
"いえ、でも、あの、今宵はもう珠数屋のお大尽様が客止めを致しましたゆえ、折角でござりまするが、お座敷がござりませぬ",
"構わぬ、すておけ、すておけ。町人輩が小判で客止めしたとあらば、身共は胆と意気で鞘当して見しょうわ。――ほほう喃、なかなか風雅な住いよのう"
],
[
"端役人共も下郎達も有難く心得ろ。隣り座敷での遊興、慈悲を以て許してつかわすぞ",
"なにッ",
"よッ",
"気味のわるい奴が、またやって来たな! 女将! 仲居! なぜあげたッ",
"客止めの店へなぜあげたッ",
"つまみ出せッ、つまみ出せッ。何をまごまごしておるかッ。早うつまみ出せッ"
],
[
"のう、女!",
"………",
"ほほう、血の道でもが止まったと見えて、青うなっているな。いや、大事ない大事ない。少々胸がすッと致したゆえ、今宵は身共も美人を一個侍らせようぞ。珠数屋の大尽とか申す町人の敵娼は、何と言う太夫じゃ",
"困ります。あのようにお大尽様が御立腹のようでござりますゆえ、困ります困ります。今宵はもう、あの――",
"苦しゅうない。何と申す太夫じゃ",
"八ツ橋はんと言やはりますが、それももうお大尽が山と小判を積みましての事でござりますゆえ、所詮、あの――何でござります。ちッとやそッとのお鳥目では、あの、何でござりますゆえ、今宵はもうあの――",
"控えい! 曲輪遊びは金より気ッ腑が資本の筈じゃ。金も必要とあらば、江戸より千二百石、船で運んでとらすわ。それにても足りずば、将軍家に申しあげて直参振舞い金を一万両程お貸し下げ願うてつかわすゆえ、遠慮せずに八ツ橋とやらを早う呼べい"
],
[
"大切なお客様がお怪我を遊ばしたのじゃ。早く介抱せい",
"………",
"何をためらっているのじゃ。京のお茶屋は、小判の顔を見ずば、生き死の怪我人の介抱もせぬと申すかッ"
],
[
"定めし深い仔細あっての事であろう。何が因での刄傷じゃ",
"何もこうもねえんです。あの四人の野郎達は猫ッかむりなんです。喰わせ者なんです",
"なに! では所司代付の役侍とか申したのは、真赤な嘘か",
"いいえ立派な役侍なんです。役侍のくせに悪党働きやがって、人をこんなに欺し斬りしやがるんだから猫ッかむりなんです。おお痛え! 畜生ッ、くやしいんだッ、人を欺しやがって、くやしいんだッ。これも何かの縁に違えござんせぬ。打ッた斬っておくんなせえまし! 後生でござんす。あっしの代りに野郎共四人を叩ッ斬っておくんなせえまし!",
"斬らぬものでもない。退屈の折柄ゆえ、事と次第によっては斬ってもつかわそうが、仔細を聞かぬことにはこれなる一刀、なかなか都合よく鞘鳴りせぬわ。そちを欺したとか言うのは、どういう事柄じゃ",
"そ、そ、それが第一太えんです。話にも理窟にもならねえほど太てえ事をしやがるんです。こうなりゃもうくやしいから、何もかも洗いざらいぶちまけてしまいましょうが、あっしゃ珠数屋へ出入りの職人なんです。ちッとばかり植木いじりをしますんで、もう長げえこと御出入りさせて頂いておりましたところ、――おお痛え! 太夫、命助けだ。もう一服今の気付け薬をおくんなせえまし、畜生めッ、旦那に何もかもお話しねえうちは、死ねって言っても死なねえんだッ。――ああ有りがてえ、お蔭ですっと胸が開けましたから申します。申します。話の起こりっていうのは、さっき御覧になったあの観音像なんです",
"ほほう、やはりあれがもとか。どうやら異国渡りの秘像のようじゃが、あれがどうしたと言うのじゃ",
"どうもこうもねえ、野郎達四人があれを種にひと芝居書きやがったんです。というのが、珠数屋のお大尽も今から考えりゃ飛んだ災難にかかったものだが、十年程前に長崎へ商売ものの天竺珠数を仕入れにいって、ふとあの変な観音像を手に入れたんです。ところがどうしたことか、それ以来めきめきと店が繁昌し出しましたんで、てっきりもうあの観音像の御利益と、家内の者にも拝ませねえほど、ひたがくしにかくして、虎の子のように大切にしている話を嗅ぎつけたのが、所司代のあの四人の野郎達なんです。これがまたおしい位の腕ッ利き揃いなんだが、ちッとばかり料見がよくねえんで、ひょッとすると切支丹の観音像かも知れねえと見当つけやがったと見えてね、ご存じの通り、切支丹ならば御法度も御法度の上に、その身は礫、家蔵身代は闕所丸取られと相場が決まっているんだから、――おお、苦しい! 太夫水を、水をいっぺえ恵んでおくんなせえまし――ああありがてえ、畜生めッ、これでくたばりゃ七たび生れ代っても野郎四人を憑り殺してやるぞッ――だからね、どうぞして観音像の正体を見届け、もしも切支丹の御秘仏だったら、御法度を楯に因縁つけて、大ッぴらに珠数屋の身代二十万両を巻きあげようとかかったんだが、お大尽がまた何としてもその観音像を見せねえんです。だから手段に困って、出入りのこのあっしに渡りをつけやがって、うまくいったら五百両分け前をやるからと、仲間に抱き込みやがったんです。われながらなさけねえッたらありゃしねえんだが、五百両なんて大金は、シャチホコ立ちしたってもお目にかかれねえんだから、つい欲に目が眩んで片棒かつぐ気になったのがこの態なんです。だけどもお大尽は、幾らあっしがお気に入りでも、どんなにあっし達が機嫌気褄を取り結んでおだてあげても、あの観音像ばかりはと言って、ちっとも正体を見せねえので、とどひと芝居書こうと考えついたのが、こちらの八ツ橋太夫なんです。――おお苦しい! もう、もう声も出ねえんです。苦しくて、苦しくて、あとはしゃべれねえんです。これだけ話しゃ、太夫がもう大方あらましの筋道もお察しでしょうから、代って話しておくんなせえまし。くやしいんだッ、是が非でも奴等の化けの皮を引ッぱいでやらなきゃ、死ぬにも死にきれねえんだッ。いいや、旦那にその讐を討って貰うんです! どうやら気ッ腑のうれしい旦那のようだから討って貰うんです。だから太夫、話してやっておくんなせえまし。あっしに代って、よく旦那に話してやっておくんなせえまし……",
"よう分りました。どうもお初の時から御容子が変だと思いましたが、それで何もかも察しがついてでござんす。話しましょう、話しましょう。代って話しましょうゆえに、江戸のぬしはんもようきいておくれやす。十日程前でござんした。こちらの弥太一様がわたしを名ざしでお越しなはってな、お前はこの曲輪で観音太夫と仇名されている程の観音ずきじゃ。ついては、珍しい秘仏をさるお大尽様が御秘蔵じゃが見とうはないかと、このようにおっしゃったんでござんす。観音様は仇名のようにわたしが日頃信心の護り本尊、是非にも拝ましておくんなさんしと早速駄々をこねましたら、あのお大尽をお四人様達大勢が、面白おかしゅう取り巻いてお越しなはったんでござんす。なれども、よくよくお大切の品と見えて、なかなかお大尽が心やすう拝ましてくだはりませんのでな、みなさんに深いお企らみがあるとも知らず、口くどうせっつきましたところ、ようようこん日拝まして下はるとのことでござんしたゆえ、楽しみにしてさき程、ちらりと見せて頂きましたら、御四人様が不意に怕い顔をしなはって、まさしく切支丹じゃッ、お繩うけいッ、とあのようにむごたらしゅうお大尽をお召し捕りなすったんでござんす。それから先は、どうしてまた弥太一様が、こんな姿になりましたことやら、わたくし察しまするに――",
"どうもこうもねえんだ。おいらを、この弥太一を生かしておきゃ後腹が病めるからと、バッサリやりやがったんです。斬ったが何よりの証拠なんだ。奴等の企らみが、あくでえ細工が、世間にバレねえようにとこの俺を斬ったが何よりの証拠なんだ。野郎共め、今頃はほくそ笑みやがって、珠数屋の二十万両を丸取りにしようとしているに違げえねえんです。いいや、お大尽も早えところ片附けなきゃと、今頃はお仕置台にでものっけているに違げえねえんです。いっ刻おくれりゃ、いっ刻よけいむごい目にも会わなきゃならねえに違げえねえんだから、ひと乗り乗り出しておくんなせえまし、後生でござんす! 後生でござんす!"
],
[
"珠数屋というからには仏に縁がある筈、よもやあれなる大尽、切支丹宗徒ではあるまいな",
"ねえんです。ねえんです。切支丹どころか真宗のこちこちなんだのに、只あの変な観音様を内証に所持しているというだけで、やみくも因縁つけようというんだから、今となっちゃあっしまでも野郎達四人が憎くなるんです。言ううちにも、お大尽がお仕置にでもなッちや可哀そうだから、ひと肌ぬいでおくんなせえまし。大尽のうちゃ、つい近くの西本願寺様を表へ廻ったところなんだから、行ってみりゃ容子がお分りの筈です。おお痛てえ! もう死にそうなんだッ。打ち斬っておくんなせえまし! 早えところお出かけなすって、打ッた斬っておくんなせえまし! 後生でござんす! 後生でござんす!",
"ようし! 参ろうぞ。対手が所司代付きとあらば、骨があるだけに、どうやらずんと退屈払いが出来そうじゃわい。ならば八ツ橋太夫、弥太一とやらの介抱手当は、しかと頼んでおくぞ",
"大丈夫でござんす。御縁があらばあとでしッぽりと、いいえ、ゆるゆる。……ゆずる葉! お乗り物じゃ。お乗り物じゃ。早うお駕籠をとッて進ぜませい"
],
[
"よッ――",
"………",
"さッきの奴じゃな! 行く手をふさいで何用があるのじゃ! 何の用があってつけて来たのじゃ!"
],
[
"何の用もあって来たのではない。江戸侍の怕いところを少々御披露しに参ったのよ",
"なにッ、怕いところを披露とは何のことじゃ! われら、うしろ暗いことなぞ一つもないわッ。道をあけろッ、道をあけろッ。しつこい真似を致すと、役儀の名にかけてもすてておかぬぞッ",
"早い。早い。その啖呵はまだ早い。うしろ暗いところがなくば結構じゃ。あとでゆるゆる会おうわい。充分に覚悟しておくがよかろうぞ。では、あちらでお待ち致すかな。腰のものの錆なぞよく落して参れよ"
],
[
"少々……",
"うむ、分った! こちらは付添って参らずとも万事心得ている筈じゃ。先廻りしろッ、先廻りしろッ、先廻りしてひと泡吹かせろッ"
],
[
"ならぬ! ならぬ!",
"開門なぞ以てのほかじゃッ",
"貴公の目玉は節穴かッ",
"直参であろうと、旗本であろうと、夜中の通行は制札通り御禁制じゃッ",
"かえれッ。かえれッ",
"とッとと帰って出直さッしゃいッ"
],
[
"騒々しゅう申すな。立派な二つの目があればこそ、公儀お直参が夜中のいといもなく直々に参ったのじゃ。どうあっても開門せぬと申すか",
"当り前じゃわッ。表の制札今一度とくと見直さッしゃいッ。禁中よりのお使い並びに江戸公儀よりの御使者以外は、万石城持の諸侯であろうと通行厳禁じゃッ。江戸侍とやらは文字読む術御存じござらぬかッ",
"ほほう、申したな。笑おうぞ、笑おうぞ、そのように猛々しゅう申さば、賄賂止めのこの制札が笑おうぞ",
"なにッ、賄賂止めとは何を申すかッ。この制札が賄賂止めとは何ごとじゃッ。不埓な暴言申さば、御直参たりとも容赦ござらぬぞッ",
"吠えるな、吠えるな。そのように口やかましゅう遠吠えするものではない。揃いも揃うてよくよく物覚えの悪い者達よ喃。この一札こそは、まさしく先々代の名所司代職板倉内膳正殿が、町人下郎共の賄賂請願をそれとなく遠ざけられた世に名高い制札の筈じゃ。無役ながら千二百石頂戴の直参旗本、大手振って通行致すに文句はあるまい。早々に出迎い致してよかろうぞ",
"ぬかすなッ。ぬかすなッ。出迎いなぞと片腹痛いわッ。どういう制札であろうと、通行お差し止めと書いてあらば開門無用じゃッ",
"ほほう、なかなか口賢しいこと申しおるな。ならば制札通り、禁中、お公儀の御使者だったら、否よのう開門致すと申すか",
"くどいわッ、くやしくば将軍家手札でも持って参らッしゃいッ。もう貴公なぞと相手するのも役儀の費えじゃッ。おととい来るといいわッ"
],
[
"これだけあれば不足はあるまい。どこぞこのあたりの駕籠宿に参って、至急にこれなる乗物、飛脚駕籠に仕立て直して参れ",
"どうなさるんでござんす",
"ちと胸のすく大芝居を打つのじゃ。ついでに替肩の人足共も三四人狩り出して参れよ。よいか、その方共も遠掛けのように、ねじ鉢巻でも致して参れよッ"
],
[
"どいたッ、どいたッ、早駕籠だッ",
"ほらよッ、邪魔だッ、早駕籠だッ"
],
[
"どうでござんす",
"ほほう、替肩を六人も連れて参ったな。いや、結構々々。これならば充分じゃ。では、その方共にも見物させてつかわそうぞ。威勢よく今の門前へ乗りつけて、江戸公儀からの急飛脚じゃ。開門開門とわめき立てい",
"………?",
"大事ない。天下の御直参が申し付くるのじゃ。心配せずと、いずれも一世一代の声をあげて呼び立てい",
"面白れえ。やッつけろ"
],
[
"早打ちだッ、早駕籠だッ",
"江戸お公儀からの早駕籠でごぜえます",
"開門! 開門! 御開門を願いまあす!",
"江戸表からの御用駕籠だッ、お早く! お早く! お早く! 開門を願います!",
"なにッ――"
],
[
"しかと左様かッ。たしかに江戸お公儀からの急飛脚でござるか",
"たしかも、しかもござんせぬ! この通り夜道をかけて飛んで来たんでござんす! お早く! お早く! 早いところ開門しておくんなせえまし!",
"いかさま替肩付きで急ぎのようじゃな! 者共ッ、者共ッ、開門さッしゃい! 早く開門してあげさッしゃい"
],
[
"ならぬ! ならぬ! とッて返せい! 引ッ返せいッ",
"恐れ多くも御公儀の名を騙るとは何ごとじゃッ。かくならばもう大罪人、禁札破りの大科人じゃッ。帰りませいッ、帰りませいッ。たって通行致さるるならば、お直参たりとも手は見せ申さぬぞッ",
"控えい!"
],
[
"大科人とは何を申すか! 公儀のおん名騙ったのではない。公儀お直参の旗本は、即ち御公儀も同然じゃ。――その方公旗本は禄少きと雖も心格式自ら卑しゅうすべからず、即ち汝等直参は徳川旗本の柱石なれば、子々孫々に至るまで、将軍家お手足と心得べしとは、東照権現様御遺訓にもある通りじゃ。端役人共ッ、頭が高かろうぞ。もそッと神妙に出迎えせいッ",
"言うなッ。言うなッ、雑言申さるるなッ。いか程小理屈ぬかそうと、夜中胡散な者の通行は厳禁じゃッ、戻りませいッ、戻りませいッ。この上四ノ五ノ申さるるならば、腕にかけても搦めとってお見せ申すぞッ",
"控えろッ。胡散な者とは何事じゃ。さき程その方共は何と申した。公儀お使者ならば通行さしつかえないと申した筈でないか。即ち、われらは立派なお使者じゃ。行列つくって出迎えせい",
"まだ四ノ五ノ申しおるなッ。まことお使者ならば、公儀お差下しのお手判がある筈、見せませいッ、見せませいッ。証拠のそのお手判、とくとこれへ見せませいッ",
"おう、見せてつかわそうぞ。もそッと灯りを向けい。ほら、どうじゃ。これこそはまさしく立派なお手判、よく拝見せい"
],
[
"どうじゃ。何より見事な証拠であろう。この向う傷さえあらば、江戸一円いずこへ参ろうとて、いちいち直参旗本早乙女主水之介とわが名を名乗るに及ばぬ程も、世上名代の立派な手判じゃ。即ちわれら直参旗本なること確かならば、将軍家お手足たることも亦権現様御遺訓通りじゃ。お手足ならば、即ちわれらかく用向あって罷り越した以上、公儀お使者と言うも憚りない筈、ましてやそれなる用向き私用でないぞ。どうじゃ、覚えがあろう! 身に覚えがあろう! その方共端役人の不行跡、すておかば公儀のお名にもかかわろうと、われら、わざわざ打ち懲らしに参ったのじゃわッ",
"なにッ",
"おどろかいでもいい。その方共が口止めに、卑怯な不意討ちかけた露払いの弥太一は、まだ存命致しておるぞ。と申さば早乙女主水之介が、手数をかけて禁札破り致したのも合点が参ろう。ほしいものは珠数屋の大尽の身柄じゃ。さ! 遠慮のう案内せい!",
"そうか! 弥太一が口を割ったとあらばもうこれまでじゃッ。構わぬ、斬ってすてろッ、斬ってすてろッ"
],
[
"そうか! 何もかも弥太一からきいてのことかッ",
"露顕したとあらばもうこれまでじゃッ。うぬがうろうろと門前を徘徊致しているとの注進があったゆえ、邪魔の這入らぬうちに手ッ取り早く珠数屋を片付けようと、折角これまで運んだものを、要らざる御節介する奴じゃッ。木ッ葉旗本、行くぞッ、行くぞッ"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
※「不埒」と「不埓」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:M.A Hasegawa
2000年6月29日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000568",
"作品名": "旗本退屈男",
"作品名読み": "はたもとたいくつおとこ",
"ソート用読み": "はたもとたいくつおとこ",
"副題": "04 第四話 京へ上った退屈男",
"副題読み": "04 だいよんわ きょうへのぼったたいくつおとこ",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"左様かな",
"え?……",
"何じゃ",
"何じゃと言うのはこっちのことですよ。今旦那が左様かなとおっしゃいましたが、何でござんす?",
"さてな、何に致そうかな。名古屋からここまでひと言も口を利かぬゆえ、頤が動くかどうかと思うてちょッとしゃべって見たのよ。時にここはどの辺じゃ",
"ここが音に名高いあの赤坂街道でござんす",
"音に名高いとは何の音じゃ",
"こいつあどうも驚きましたな、仏高力、鬼作左、どへんなしの天野三郎兵衛のそのお三方が昔御奉行所を開いていたところなんですよ",
"いかいややこしいところよ喃、吉田の宿へはまだ遠いかな",
"いえ、この先が長沢村でござんすから、もうひとのしでごぜえます"
],
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"駕籠屋、流れにハヤがおる喃",
"笑、笑談じゃござんせんよ。あんまり大きな声をお出しなすったんで、胆をつぶしました。魚は川の蛆と言うくれえなものなんだもの、ハヤがいたって何も珍しかござんせんよ",
"いいや、そうではない。流れに魚族が戯れおるは近頃珍重すべきことじゃ。身共はここで釣を致すぞ",
"え?……",
"予はここでハヤを対手に遊興を致すと申すのじゃ。どこぞ近くの農家にでも参らば道具があろう。江戸旗本早乙女主水之介、道中半ばに無心致して恐縮じゃが、刀にかけても借り逃げは致さぬゆえ、暫時拝借願いたいと、かように口上申してな、よく釣れそうな道具一揃い至急に才覚して参れ",
"呆れましたな。旦那のような変り種は臍の緒切って初めてでございますよ。まさかあっし共をからかうんじゃござんすまいね",
"その方共なぞからかって見たとて何の足しになろうぞ。荘子と申す書にもある。興到って天地と興す、即ち王者の心也とな。道中半ばに駕籠をとめて釣を催すなぞは、先ず十万石位の味わいじゃ。遠慮なく整えて来たらよかろうぞ。早うせい"
],
[
"わはははは、憎い奴じゃ。憎い奴じゃ。細い奴が天下のお直参をからかいおるわい。のう、駕籠屋、駕籠屋、こうならば身共も意地ずくじゃ、刀にかけても一匹釣らねばならぬ。折角これまでお供してくれたが、もう乗物は要らぬぞ",
"へ?……",
"へではない。このあんばいならば二三日ここを動かぬかも知れぬゆえ、もう駕籠に用はないと申すのじゃ。ほら、酒手も一緒につかわすぞ。早う稼ぎに飛んで行け"
],
[
"御清興中をお妨げ致しまして相済みませぬ。手前この近くの百姓でござります。川下で馬を洗いとうござりまするが、お差し許し願えませんでしょうかしら――",
"………?",
"あの、いかがでござりましょう? お差し許し願えませんでしょうかしら――",
"………?",
"いけませんようでしたら、明日に致しましてもよろしゅうござりまするが、いかがでござりましょう。お差し許し願えますようなら――",
"まて、まて。返事をせずにいたは、その方の人柄を観ておったのじゃ。そち、百姓に似合わずなかなか学問致しておるな",
"お恥しゅうござります。御領主様が御学問好きでござりますゆえ、ついその――",
"見様見真似でその方達までが寺子屋通い致すと申すか、何侯の御領内かは存ぜぬが、さだめし御領主は名君と見ゆるな。近頃心よい百姓に会うたものじゃ。苦しゅうない、苦しゅうない、存分に浴びさせてつかわしたらよかろうぞ",
"有難うござります。有難うござります。では御免下さりませ。――黒よ、黒よ、御許しじゃ。さぞ待ち遠であったろうな、今浴びさせて進ぜるぞ"
],
[
"鮮かじゃ。鮮かじゃ。自得の馬術と思わるるがなかなか見事であるぞ。馬も宇治川先陣の池月、磨墨に勝るとも劣らぬ名馬じゃ",
"………",
"そこ、そこ、そこじゃ、流れの狭いがちと玉に瑾じゃな。いや、曲乗り致したか。見事じゃ、見事じゃ、ほめとらするぞ"
],
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"出いッ、百姓! 前へ出い!",
"相すみませぬ。ご勘弁なすって下さいまし。これがわるいのです、この、黒めが、黒の奴がわるいのです。お許し下されまし。どうぞ御勘弁なすって下さいまし……",
"馬、馬、馬鹿を申すなッ。馬のせいにするとは何ごとじゃ! 己れが乗用致す馬が暴れ出さば、御する者がこれを制止すべきが当り前、第一下民百姓の分際で、武士が通行致す道先に、裸馬など弄ぶとは無礼な奴じゃ! 出い! 出い! 前へ出い! 覚悟があろう! 神妙に前へ出い!",
"そ、そ、そこをどうぞ御勘弁なすって下さいまし。このような下郎風情を斬ったとても、お刀の汚れになるばかりでござります。以後充分に気をつけますゆえ、お許し下さいまし。不憫と思うてお見のがし下さいまし……",
"ならぬわッ。武士にかような恥掻かした上は、下郎なりともその覚悟がある筈じゃ! 泣きごと言わずと前へ出いッ、潔よう前へ出いッ"
],
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"飛んだお災難でござったな。何とも御愁傷の至りでござる。わははは、わははは、黒めがなかなか味を致しましたわい。どうでござるな、御怪我はござらなかったかな",
"………?",
"いや、お気にかけずに、お気にかけずに。身共笑うたのは尊公方の落馬ぶりが見事でござったゆえではない。あれなる黒めが、人前も弁えず怪しからぬ振舞い致そうとしたのでな、それがおかしいのじゃ。尊公方もとくと御覧じ召されよ。自然の摂理と申すものは穴賢いものじゃ。黒めが、やわか別嬪逃がすまじと、ほら、のう、あの通り今もなおしきりと弾んでいるわ、わはははは、わはははは、のう、どうじゃ、畜生のあさましさとはまさしくあれじゃわ。はははは、わはははは",
"なにがおかしいかッ。われら笑いごとでござらぬわッ。嘲笑がましいことを申して、おぬしは一体何者じゃ",
"身共かな、身共は、ほらこの通り――"
],
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"のう、御覧の通りの、ま、いわば兇状持ちじゃ。これなる眉間の傷を名乗り代りの手形に致して、かように釣の道具を携えながら、足のむくまま、気のむくままに、退屈払い探し歩く釣侍と思えば当らずとも遠からずじゃ、時に、いかがでござるな。御怪我はござらなかったかな",
"からかいがましいこと申すなッ。おぬしなぞ対手でござらぬ! 憎いはその百姓じゃ! 己れの罪を素直に詑びたらまだしも格別、馬のせいに致すとは何ごとじゃッ。出い! 出い! 是が非でも打った斬ってつかわすわッ。隠れていずと前へ出いッ",
"いや、そこじゃて、そこじゃて。馬のせいに致したと大分御立腹のようじゃが、これなる若者、身共はいっそほめてやりたい位のものじゃ。見かけによらずなかなか学者でござるぞ。尊公方もまあ、よう考えてみい。男女道に会って恋心を催す、畜生と雖も生ある限り、牡、牝を知って、春意を覚ゆるは、即ち天地自然陰陽の理に定むるところじゃ。のう、いかがでござるな。甚だ理詰めの詑びと思うが、それにても馬のせいに致したは御勘弁ならぬと仰せあるかな",
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"うぬとは言葉がすぎる! 控えおろうぞ!",
"なにッ",
"とまあ叱って見たところで初まらぬと申すものじゃ。尊公はこちらの馬が先に挑みかかったゆえ、勘弁ならぬと仰せのようじゃが、肝腎かなめ、きいてうれしいところもそこじゃて、そこじゃて。夫、婦女子は慎しみあるを以て尊しとす。女、淫に走って自ら挑むは即ち淫婦なり、共に天を戴かずとな、女庭訓にも教えてあることじゃ。さればこそ、あれなる黒めも物の道理よく心得て、恋は牡より仕掛くるものと、花恥かしげに待ちうけた牝馬共に進んで挑みかかったのは、甚だうい奴と思うがどうじゃな。よしんば挑んだことが行状よろしからざるにしても、そこはそれ畜生じゃ。罪は決してこれなる若者にないと思うがいかがじゃな。身共も少し学問がありすぎて、御意に召さぬかな"
],
[
"ならば貴公、罪なき者は斬ってならぬ。罪あらば何者たりと斬っても差支えないと申すかッ",
"然り! 士道八則にも定むるところじゃ。斬るべしと知らば怯まずしてこれを斬り、斬るべからずと知らば忍んでこれを斬らず、即ち武道第一の誉なりとな。これもやはり御意に召さぬかな",
"かれこれ申すなッ、ならば目に物見せてやるわッ"
],
[
"許せ、許せ、身共の扱いようがわるかった。あのような情知らずの奴等と分らば、手ぬるく致すではなかったに、馬鹿念押して馬を成敗致すとは、奴なかなかに、味をやりおったわい。さぞ無念であろうが、嘆いたとて詮ないことじゃ。これなる馬の代りは、身共がもそッと名馬購い取ってつかわそうゆえ、もう泣くのはやめい。のう、ほら、早う手を出せ、足りるか足りぬかは知らぬが十両じゃ、遠慮のう受取ったらよかろうぞ",
"………",
"なぜ手を出さぬ。これでは足りぬと申すか",
"滅、滅相もござりませぬ。恵んで頂くいわれござりませぬゆえ、頂戴出来ませぬ……",
"物堅いこと申す奴よ喃。いわれなく恵みをうけると思わば気がすまぬであろうが、これなる黒鹿毛、身共に売ったと思わば、受取れる筈じゃ。早う手を出せ",
"いえ、なりませぬ。くやしゅうござりまするが、無念でもござりまするが、それかと言うて見も知らぬお方様から、そのような大金頂きましては、先祖に――、手前共先祖の者に対しても申しわけありませぬ",
"なに、では、その方の先祖、由緒深い血筋の者ででもあると申すか",
"いいえ、只の百姓でござります。家代々の水呑み百姓でござりまするが、三河者は権現様の昔から、意地と我慢と気の高いのが自慢の気風でござりまする。それゆえ頂きましては――",
"いや、うれしいぞ、うれしいぞ、近頃ずんとまたうれしい言葉を聞いたものじゃわい。三河者は意地と我慢と気の高いが自慢とは、五千石積んでもきかれぬ言葉じゃ。なにをかくそう、身共の先祖も同じこの国育ち、そうきいては意地になっても取らせいではおかぬ。早う手を出せ",
"では、あの、お旦那様も――",
"そうよ。権現様御自慢の八万騎旗本じゃ",
"そうでござりましたか。道理でちッと――",
"ちッといかが致した",
"類のない御気性のお方と、男惚れしていたのでござります",
"男惚れとは申したな、いや話せるぞ、話せるぞ。ならばこれなる十両、惚れたしるしに取ると申すか",
"頂きまするでござります。頂きませねばお叱りのあるのは必定、それがまた三河育ちの御殿様達が御自慢の御気風でござりましょうゆえ、喜んで頂戴いたしまするでござります",
"いや申したな、申したな、なかなか気の利いたことを申す奴じゃ。ついでにもう十両遣わそう。そちらの十両は馬の代、こちらの十両は身共もそちへ惚れたしるしの結納金じゃ。これで少し胸がすッと致したわい。だが、それにつけても――"
],
[
"目ざした先はまさしく東じゃ。今より急いで追わばどこぞの宿で会うやも知れぬが、いずれの藩士共かな",
"薩摩の方々でござります",
"なに! 島津の家中じゃと申すか",
"はっ。たしかにそれに相違ござりませぬ",
"とはまた、どうして知ってじゃ",
"どうもこうもござりませぬ。今日その島津様が参覲交替でお江戸入りの御道中遊ばします筈にござりまするゆえ、よく存じているのでござります。いいえ、手前ばかりではござりませぬ。何と申しまするか、御大藩の御領主様と申すものは兎角わがまま育ちでいられますのか、島津のお殿様がこの街道をお通りの折は、なにかと横道なお振舞いを遊ばしまして、お手討ちになったり、通行止めをされたり、ここらあたりの百姓共は毎度々々むごい迷惑をうけておりますゆえ、厄病神の御通りだなぞ申して、誰も彼もみんなお日どりから御時刻までもよう存じているのでござります。それゆえ、わたくしもまたつまらぬ災難に会うてはと存じまして、あのように急いで馬を洗いましたのに、とんだ悲しいことになったのでござります",
"ほほう、左様か。いかにもな、七十三万石と申さばなかなかに大禄じゃからな。島津の大守も大禄ゆえにいささか御慢心と見ゆるな。いや、そう承わっては――鳴って参った。急に血鳴りが致して参ったわい。家臣の不埒は即ち藩主の不埒じゃ。七十三万石何するものぞ。ましてや塵芥にも等しい陪臣共が、大藩の威光を笠に着て、今のごとき横道な振舞い致したとあっては、よし天下のすべてが見逃そうとも、早乙女主水之介いち人は断じて容赦ならぬ。いや、面白いぞ、面白いぞ。島津が対手ならば、久方ぶりに肝ならしも出来ると申すものじゃ。街道の釣男、飛んだところで思わぬ大漁に会うたわい。では、追っつけ薩摩の行列、練って参るであろうな",
"はっ、恐らくあともう四半刻とは間があるまいと存じます。それゆえ今の二人も、うちの殿様の御容子がどんなか、こっそりと探りに飛んでいったに相違ござりませぬ",
"何のことじゃ、不意に異なこと申したようじゃが、うちの殿様とは、どなたのことじゃ",
"わたくし共長沢村の御領主様でござります",
"はてのう、一向に覚えないが、どなたのことじゃ",
"ぐずり松平のお殿様でござります",
"なに! ぐずり松平のお殿様とな! はてのう、きいたようでもあり、きかぬようでもあるが、その殿の御容子を探りに参るとは、一体どうした仔細じゃ",
"どうもこうもござりませぬ。ぐずり松平のお殿様と言えば、この街道を上り下り致しまするお大名方一統が頭の上らぬ御前でござります。ついこの先の街道わきに御陣屋がござりまするが、三代将軍様から何やら有難いお墨付とかを頂戴していられますとやらにて、いかな大藩の御大名方もこの街道を通りまする析、御陣屋の御門が閉まっておりさえすれば、通行勝手、半分なりとも御門が開いておりましたならば、御挨拶のしるしといたして御音物を島台に一荷、もしも御殿様が御門の前にでもお出ましでござりましたら、馬に一駄の御貢物を贈らねばならぬしきたりじゃそうにござります。それゆえ、今の二人も慌てて早馬飛ばしましたあたりから察しまするに、御陣屋の容子探りに先駆けしたに相違ござりませぬ",
"なるほどのう、それで分った。それで分った。漸く今思い出したわい。さては、ぐずり松平の御前とは、長沢松平のお名で通る源七郎君のことでござったか。いや、ますます面白うなって参ったぞ。御前がこのお近くにおいでとは、ずんときびしく退屈払いが出来そうになったわい。素敵じゃ、素敵じゃ。島津七十三万石と四ツに組むには、またとない役者揃いじゃ"
],
[
"わははは、面白いぞ、面白いぞ、さては何じゃな、今の二人が陣屋の雲行き、探りに参ったところを見ると、島津の太守、つね日頃より松平の御前の御見込みがわるいと見ゆるのう。そうであろう。どうじゃ、そのような噂聞かぬか",
"はい、聞きましてござります。いつもいつも献上品を出し渋り勝ちでござりますとやらにて、道中神妙番付面では、一番末の方じゃとか申すことでござります",
"左様か、左様か、いやますます筋書がお誂え通りになって参ったわい。然らば一つ馬の代五千頭分程も頂戴してつかわそうかな。御陣屋は街道のどの辺じゃ",
"ついあそこの曲り角を向うに折れますとすぐでござります",
"ほほう、そんなに近いか。では、早速に御前へお目通り願おうぞ。そちも早うこの馬弔うておいて、胸のすくところをとっくりと見物せい"
],
[
"源七郎君におわしまするか。土州にござります。いつもながら御健勝に渡らせられまして、恐悦に存じまする……",
"おお、土佐侯でござったか。いや、恐縮じゃ恐縮じゃ――"
],
[
"御身がこん日、御道中とは一向に心得ざった。お構いなく、お構いなく――",
"有難い御言葉、却って痛み入りましてござりまする。いつもながらの御清興、お羨ましき儀にござります",
"いや、なになに、それ程でもない。近頃年を取ったか、とんと気が短うなって喃。禅の修行代りにと、かようないたずらを始めたのじゃ。時に江戸も御繁昌かな",
"はっ、近年はまた殊のほかの御繁昌にて、それもみな上様の御代御泰平のみしるし、恐れながら土州めも、わがことのように喜ばしゅう存じあげておりまする儀にござります。これなるは即ち、その江戸よりのお手土産、御尊覧に供しまするもお恥ずかしい程の品々にござりまするが、何とぞ御憐憫を持ちまして御嘉納賜わりますれば恐悦にござりまする……"
],
[
"ほほう、これはまたいかいお気の毒じゃな。毎度々々よく御気がついて痛み入る次第じゃ。折角のお志、無にするも失礼ゆえ、遠慮のう頂戴致そうわい。以後はな、成べくこのような事致さぬようにな",
"はっ、いえ……。取るにも足らぬ粗品、さっそくに御嘉納賜わりまして、土州、面目にござります。では、道中急ぎまするゆえ、御ゆるりと――",
"うんうん、左様左様、手製の粗茶なと参らすとよろしいが、もう御出かけかな。では、遠路のことゆえ、御身も道中堅固にな、国元に帰らば御内室なぞにもよろしくな。――いや、言ううちに、妙庵、妙庵、ハヤが餌を悉く私致しおったぞ。ほら、ほら、のう不埒ないたずら共じゃ、早うつけ替えい"
],
[
"お付きの御坊主衆にまで申し入れまする。江戸旗本早乙女主水之介、松平の御前にお目通り願わしゅう存じまするが、いかがにござりましょう",
"なになに、旗本とな――"
],
[
"何の用かは知らぬが、江戸旗本ときいては、権現様の昔偲ばれていちだんとなつかしい。どうやら胆もすぐれて太そうな若者じゃ。野天のもてなしで風情もないが、何はともあれひとねじりねじ切ってつかわしたらよかろうぞ",
"心得ましてござります。主水之介殿とやら、お上がお茶下し賜わりまする。ねじり加減はどの位でよろしゅうおじゃりましょう?"
],
[
"何でござりましょう? 只今のねじり加減とは何のことにござりましょう?",
"いや、それかそれか、存ぜぬは無理もない。これはな、当国三河で下々の者共が申す戯れ語でな、つまりはお茶の濃い薄いじゃ、飴のごとくにどろどろと致した濃い奴を所望致す砌りに、ねじ切って腰にさすがごとき奴と、このように申すのでな、下情に通しておくは即ち政道第一の心掛けと、身が館でも戯れに申しておるのじゃ。その方はどうじゃな。別してねじ切った奴が所望かな、それとも薄いが所望かな",
"なるほど、いや、お気軽に渡らせられまして、なかなか味あるお言葉にござります。手前は至って濃い茶が好物、では恐れながら、ひとねじりねじ切って頂きとうござります",
"うん左様か左様か、ねじ切った奴が好物とはなかなか話せるぞ、石斎、石斎、丹田に力を入れての、うんときびしくねじ切ってつかわせよ"
],
[
"時に、目通りの用向きは何じゃな",
"はっ。実は余の儀でござりませぬ。こん日、島津の太守がここを通行の筈にござりまするが、御前はそのことを御承知に渡らせられましょうか",
"うんうん、それならばよう存じおる、存じおる。修理太夫には久しい前からの貸し分があるのでな、こうして身も先程から待ち構えておるのじゃ",
"いかさま、お貸しの分と申しますると",
"いやなにな、つまりあれじゃ、島津の太守、大禄喰みながらなかなか勘定高うてな、この十年来、兎角お墨付を蔑ろに致し、ここを通行致す砌りも、身が他行致しておる隙を狙うとか、乃至は夜ふけになぞこっそりと通りぬけて、なるべく音物届けずに済むようと、気に入らぬ所業ばかり致すのでな、頂かぬものは即ち貸し分じゃ。いけぬかな",
"いや分りましてござります。重々御尤もな仰せなれば、手前一つお力添え致しまして、十年分ごといち時に献納させてお目にかけましょうが、いかがにござりましょう",
"ほほう、その方が身のために力を貸すと申すか、眼の配り、向う傷の塩梅、いちだんと胆も据っておりそうじゃ。見事に貸し分取り立てて見するかな",
"御念までもござりませぬ。お墨付を蔑ろに致すは、即ち葵御宗家を蔑ろに致すも同然、必ずともに御気分の晴れまするよう、御手伝い仕りましょうが、一体いかほどばかりござりましたら?",
"左様喃。何を申すも十年分じゃ、三万両ではちと安いかな",
"いや頃合いにござりましょう。然らば恐れながらお耳を少々――",
"うん、耳か耳か。よいよい、何じゃな……",
"………",
"ふんふん、なるほどな。では、先刻供先の者共、身が容子探りに参ったと申すか。七十三万石にも似合わず、なかなかに細かいのう。いや、その方の工夫至極と面白そうじゃ。言ううちに行列参るとならぬ。早うせい。早うせい"
],
[
"もぐり大名、行列止めいッ。素通り無礼であろうぞッ",
"なにッ",
"よッ、先程の釣り侍じゃな? 七十三万石の太守に対って、もぐり大名とは何ごとじゃッ、何事じゃッ、雑言申さるると素ッ首が飛び申すぞッ"
],
[
"頭が高いッ、控えいッ、陪臣共が馴れがましゅう致して無礼であろうぞッ。当家御門前を何と心得ておる。まこと大名ならば素通り罷りならぬものを、知らぬ顔をして挨拶も致さず通りぬけるは即ちもぐりの大名じゃッ。その方共は島津の太守の名を騙る東下りの河原者かッ",
"なにッ、名を騙るとは何事じゃッ、何事じゃッ。よしんば長沢松平家であろうとも、御門が閉まっておらば素通り差支えない筈、ましてや貴殿ごとき素姓も知れぬ旅侍にかれこれ言わるる仔細ござらぬわッ。供先汚して不埒な奴じゃッ。搦めとれッ、搦めとれッ。行列紊す浪藉者は、打ち首勝手たること存じおろう! 覚悟せい! 覚悟せい"
],
[
"下郎共が無礼仕ったゆえ、直参旗本早乙女主水之介、松平の御前の御諚によって、とくと、承わりたい一儀がござる。島津殿、お墨付にござるぞ。乗物棄てさっしゃい",
"………",
"なぜお躊らい召さる。征夷将軍がお墨付に対って、乗物のままは無礼でござろうぞ。匇々に土下座さっしゃい"
],
[
"念のために承わる。今しがた、御門前を騒がしたるあの下郎共は、御身が家臣でござろうな",
"左様にござります。それが何か?",
"控えさっしゃい。それが何かとは何事にござる。臣は即ち主侯の手足も同然、家臣の者が不埒働かば、主侯がその責負わねばなりませぬぞ。お身御覚悟が、ござろうな",
"はっ。ござりまする",
"然らば問わん。今しがた彼奴共が、当松平家の御門閉っておらば素通り差支えないと無礼申しおったが、何を以って左様な曲言申さるるぞや",
"それはその……",
"それはそのが何でござる。恐れ多くもこれなるお墨付には、左様な御上意一語もござりませぬぞ。長沢松平家は宗祖もお目かけ給いしところ、爾今東海道を上下道中致す諸大名共は右長沢家に対し、各々その禄高に相応したる挨拶あって然るべしと御認めじゃ。さるをかれこれ曲弁申して、素通り致すは何のことでござる。上意にそむく不埒者、これが江戸に聞えなば島津七十三万石に傷がつき申そうぞ。それとも御身、江戸宗家に弓引く所存でござるかッ",
"滅、滅、滅相もござりませぬ。ははっ……、なんともはや、ははっ……、不、不調法にござりました。何とぞお目こぼし給わりますれば、島津修理、身の倖せにござります。ははっ、こ、この通りにござります",
"そうあろう、そうあろう。血あって涙あるが江戸旗本じゃ。わざわざ事を荒立とうはない。以後気をつけたらよろしゅうござろうぞ。ならば、これなるお墨付の条々も、有難くおうけ致すでありましょうな",
"はっ、致しますでござります",
"それ承わらば結構じゃ。――御前! 源七郎君! もう頃合いでござりましょうぞ"
],
[
"おう、薩州か。一別以来であった喃",
"ははっ――、いつもながら麗しき御尊顔を拝し奉り、島津修理、恐悦至極に存じまする",
"左様かな。そちが一向に姿を見せぬのでな。一度会いたいと思うていたが、身も昔ながらにうるわしいかな",
"汗顔の至りにござりまする。何ともはや……申し条もござりませぬ",
"いやなになに、会うたかも知れぬが年が寄ると物覚えがわるうなって喃。時に、薩摩の方は飢饉かな",
"と仰せられますると?……",
"久しく手土産を頂かぬので喃、七十三万石も近頃は左前かと、人ごとならず心配しておるのじゃ。どうじゃな。米なぞも少しはとれるかな",
"はっ。いえ、なんともはや、只々汗顔の至りでござりまする。――これよ! これ! な、何をうろたえおるかッ。早う、あれを、御音物を、用意せぬかッ",
"いや、なになに、そのような心配なぞ御無用じゃ。御勝手元が苦しゅうなければ三万両が程も拝借致そうと思うておったが、飢饉ならばそれも気の毒じゃでな。お茶なぞ飲んで参らぬかな",
"いえ、はっ、恐れ入りましてござります。これよ! これッ、な、なぜ早う用意せぬかッ。御前が三万両との有難い仰せじゃ。とく献上せい!"
],
[
"御前。御意はいかがにござります。薩摩の山吹色はまた格別のようでござりまするな",
"うんうん、飢饉にしてはなかなか色艶もよさそうじゃ。これよ、薩州、いかい心配かけたな。ひと雨あらば小魚共もよう喰うであろうゆえ、二三匹が程も江戸の屋敷の方へ届けようぞ。無心致したお礼にな。では主水之介、そちにも骨折賃じゃ、二箱三箱持っていったらどうじゃな",
"いえ、折角ながら――"
],
[
"折角ながら、道中の邪魔になるばかりでござりますゆえ、御辞退仕りまする。こちらの五百両も――、言ううちに愛馬を斬られた御領内の若者がかしこへ参りました。何とぞあれへ。その代り――",
"何か所望か",
"手前、先程あれなる向うの川でハヤ共を一匹も物に致しませなんだが、いかにも心残りでなりませぬ。御前のその御曲彔、暫時の間拝借仕りまして、事のついでにお坊主衆もお借り受け申し、お茶なぞねじ切りながら、心行くまで太公望致しとうござりまするが、いかがでござりましょう",
"うんうん、若いに似合わず禅味があってうい奴じゃ、石斎、妙庵、気に入るよう支度致してとらせい"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:皆森もなみ
2001年5月18日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001479",
"作品名": "旗本退屈男",
"作品名読み": "はたもとたいくつおとこ",
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"副題": "05 第五話 三河に現れた退屈男",
"副題読み": "05 だいごわ みかわにあらわれたたいくつおとこ",
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"野郎ッ、邪魔を入れたな。俺のお客だ、俺が先に見つけたお客じゃねえかッ",
"何ょ言やがるんでえ、おいらの方が早えじゃねえか、俺が見つけたお客だよ"
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"うるせえ野郎だな。どけッてたらどきなよ。お客様はおいらの馬に乗りたがっているじゃねえか。しつこい真似すると承知しねえぞ",
"利いた風なセリフ吐かすないッ。うぬこそしつこいじゃねえか。おいらの馬にこそ乗りたがっていらッしゃるんだ。邪魔ッ気な真似するとひッぱたくぞ",
"畜生ッ、叩てえたな。おらの馬を叩てえたな。ようしッ、俺も叩てえてやるぞ",
"べらぼうめッ。叩いたんじゃねえや。ちょッとさすったばかりじゃねえか。叩きゃおいらも叩いてやるぞ",
"野郎ッ、やったな!",
"やったがどうした!",
"前へ出ろッ、こうなりゃ腕ずくでもこのお客は取って見せるんだ。前へ出ろッ",
"面白れえ、俺も腕にかけて取って見せらあ、さあ出ろッ"
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"元禄さ中に力技修業を致すとは、下郎に似合わず見あげた心掛けじゃ。直参旗本早乙女主水之介賞めつかわすぞ。そこじゃ、そこじゃ。もそッと殴れッ、もそッと殴れッ。――左様々々、なかなかよい音じゃ。もそッと叩け、もそッと叩け",
"え?……"
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"三公、ちょッと待ちな。変なことを言うお侍がいるから手を引きなよ。――ね、ちょッと旦那。あッし共は力技の稽古しているんじゃねえ。喧嘩しているんですぜ",
"心得ておる。世を挙げて滔々と遊惰にふける折柄、喧嘩を致すとは天晴れな心掛けと申すのじゃ。もそッと致せ。見物致してつかわすぞ",
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"左様、気に入らぬかな。気に入らなくば止めてつかわすぞ。一体何が喧嘩の元じゃ",
"何もこうもねえんですよ、あッちの野郎はね。横取りの三公と綽名のある仕様のねえ奴なんだ。だからね、あっしが見つけたお客さんを、またしても野郎が横取りに来やがったんで、争っているうちに、ついその、喧嘩になったんですよ。本当は仲のいい呑み友達なんだが、妙な野郎でね、シラフでいると、つまりその酒の気がねえと、奇態にあいつめ喧嘩をしたがる癖があるんで、どうも時々殿様方に御迷惑をかけるんですよ。ハイ",
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"えッへへ、と言うわけでもねえんだが、折角お止め下すったんだからね、お殿様がいなくなってからすぐにまた喧嘩になっては、お殿様の方でもさぞかし寝醒が悪かろうと、親切に申しあげて見ただけのことなんです。いいえ何ね、それも沢山は要らねえんだ、ほんの五合ばかり、僅か五合ばかり匂いを嗅がせりゃけっこう長くなるんですよ。へえい、けっこう楽にね",
"ウフフ、なかなか味な謎をかける奴じゃ。酒で長くなるとは、どじょうのような奴よ喃、いや、よいよい、五合程で見事に長くなると申すならば、どしょうにしてやらぬものでもないが、それにしても喧嘩のもとのそのお客はどこにいるのじゃ",
"……? はてな? いねえぞ、いねえぞ、三的! 三的! ずらかッちまったぜ。いい椋鳥だったにな。おめえがあんまり荒ッぽい真似するんで、胆をつぶして逃げちまったぜ",
"わはははは、お客を前に致して草相撲の稽古致さば、大概の者が逃げ出すわい。椋鳥とか申したが、どんなお客じゃ",
"どんなこんなもねえんですよ。十七八のおボコでね、それが赤い顔をしながら、こんなに言うんだ。あの、もうし馬方さん、身延のお山へはまだ遠うござんしょうかと、袂をくねくねさせながら、やさしく言うんでね。そこがそれ、殿様の前だが、お互げえにオボコの若い別嬪と来りゃ、気合いが違いまさあね、油の乗り方がね。だから、三公もあっしもつい気が立って、腕にかけてもと言うようなことになったんですよ。えッへへへへ。だが、それにしても、三的ゃ、酒の気がねえと、じきにまた荒れ出すんだ。ちょッくらどじょうにして下さいますかね",
"致してつかわそうぞ。あけすけと飾らぬことを申して、ずんと面白い奴等じゃ。身共も一緒にどじょうになろうゆえ、馬を曳いてあとからついて参れ",
"え?",
"身延詣でのかわいい女子に酌をして貰うなぞとは、極楽往生も遂げられると申すものじゃ。まだそう遠くは行くまい。今のその袂をくねくねさせて赤い顔を致した椋鳥とやらに、身共も共々どじょうにして貰おうゆえ、急いでついて参れ",
"ありがてえ。豪儀と話が分っていらっしゃいまさあね。全く殿様の前だが、江戸のお方はこういう風に御気性がさらッとしていらっしゃいますから、うれしくなりますよ。へッへへ、ね、おい三的! 何を柄にもなく恥ずかしがっているんだ。気を鎮めて下さるんだとよ。お酒でね、おめえの気を鎮めて下さるというんだよ。馬を曳いて、はええところあとからやって来な"
],
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"なかなか風情よ喃",
"へえ",
"霧に包まれて鈴の音をききながらあてのない道中を致すのも、風流じゃと申しているのよ",
"左様で。あっしらもどじょうにして頂けるかと思うと、豪儀に風流でござんす"
],
[
"はてな、三公、ちょッとおかしいぜ",
"そうよな。変だね。女の足なんだからな、こんなに早え筈あねえんだが、どこへ消えちまったんだろうね"
],
[
"あのうもし、つかぬ事をお尋ねいたしますが、旦那様方はどちらからお越しなすったんでございましょうか",
"背中の向いている方から参ったのよ。何じゃ",
"財布でごぜえます、もしや道でお拾いにはならなかったでござんしょうかしら?……",
"知らぬぞ。いかが致したのじゃ",
"落したのか掏摸れましたのか、さっぱり分らないのでござります。今朝早く南部の郷の宿を立ちました時は、確かに五十両、ふところにありましたんですけれど、今しがたお山へ参りまして、御寄進に就こうと致しましたら、いつのまにやら紛失していたのでござります",
"ほほう、それは気の毒よ喃、知らぬぞ、知らぬぞ。目にかからば拾っておいてつかわしたのじゃが、残念ながら一向見かけぬぞ",
"悲しいことになりましたな。手前には命にかかわる程の大金でござります。そちらのお馬子衆、あなた方もお拾いではござんせんでしたか",
"拾うもんけえ。そんなでけえ蛙を呑んだ財布を拾や、鈴など鳴らしてまごまごしちゃいねえやな、おいらも知らねえぜ",
"そうでござりまするか。仕方がござんせぬ。お騒がせ致しまして恐れ入りまする。念のため宿までいって探して参ります"
],
[
"三公、どうもちッと臭えぜ",
"そうよな。虫も殺さねえような面していやがったが、あのオボコがそうかも知れねえぜ、大年増に化けたり、娘に化けたりするッて噂だからな。やったかも知れねえよ"
],
[
"何じゃ、何じゃ。化けるとは何の話じゃ",
"いいえね。今の青僧の五十両ですが、ありゃたしかに掏摸れたんですよ",
"どうしてまたそれを知ってじゃ",
"いるんですよ、一匹この街道にね。それも祠堂金ばかり狙う女スリだっていうんですがね、三十位の大年増に化けたかと思うと、十七八のかわいらしい奴に化けたりするっていうんですがね。どうもさっきの娘が臭せえんです。足の早えのも、ちッとおかしいが、今登っていったばかりなのに、あの青僧がきょときょと入れ違げえにおりて来たんだからね、てっきりさっきの娘がちょろまかしたに違げえねえんですよ"
],
[
"あのう、もし――",
"財布か",
"じゃ、あの、お拾い下さいましたか!",
"知らぬ、知らぬ、存ぜぬじゃ",
"はてね、じゃ、どうしたんだろう。お山に行くまではたしかにあったんだがな。ねえとすりゃ大騒動だ。ご免なんし――"
],
[
"もしや、あの?",
"やはり財布か",
"へえい。そ、そうなんです。祠堂金が二百両這入っていたんですが、もしお拾いでしたら――",
"知らぬ、知らぬ、一向に見かけぬぞ",
"弱ったことになったな。すられる程ぼんやりしちゃいねえんだから、宿へでも置き忘れたのかしら――。いえ、どうもおやかましゅうござんした"
],
[
"よほどの凄腕と見ゆるな",
"ええもう、凄腕も凄腕も、この三月ばかりの間に三四十人はやられたんでしょうがね、只の一度も正体はおろか、しッぽも出さねえですよ",
"根じろはどこにあるか存ぜぬか",
"それがさっぱり分らねえんです。お山に巣喰っていると言う者があったり、いいやそうじゃねえ、南部の郷にうろうろしているんだと言う者があったりしていろいろなんだがね、どっちにしてもあッしゃさっきの娘が臭せえと思うんですよ。――きっとあの手でやられたんだ、おいらにさっき道をきいたあの伝でね、袂をくねくねさせながら恥ずかしそうに近よって来るんで、ぼうッとなっているまにスラれちまったんですよ。――それにしても姿の見えねえっていうのは奇態だね、どこへずらかッちまったんだろうな。なにしろ、この霧だからね"
],
[
"よッ、あれだ、あれだ。殿様、あの女がたしかにそうですよ。だが、もうお生憎だ。この馬返しから先は、お供が出来ねえんだから、スリはともかく、お約束のどじょうの方はどうなるんですかね",
"一両遣わそうぞ。もう用はない、どじょうになろうと鰻になろうと勝手にせい"
],
[
"ほほうのう",
"は?……",
"いやなに、何でもない。おひとりで御参詣かな",
"あい……。殿様もやはりおひとりで?",
"左様じゃ。そなたもひとり身共もひとり――あの夜のお籠りがついした縁で、といううれしい唄もある位じゃ。どうじゃな、そなたとて二人して、ふた夜三夜しっぽりと参籠致しますかな",
"いいえ、そんなこと、――わたしあの、知りませぬ"
],
[
"どうも小判はやはり身の毒じゃ。母様がな、きつい日蓮信者ゆえ、ぜひにも寄進せいとおっしゃって二百両程懐中致してまいったが、腹が冷えてなりませぬわい。――ほほう、襟足に可愛らしいウブ毛が沢山生えてじゃな。のう、ほら、この通り、男殺しのウブ毛と言う奴じゃ。折々は剃らぬといけませぬぞ",
"わたし、あの……そんなこと、知りませぬ。ひとりで参ります。どうぞもう側へ寄らないで下さりませ"
],
[
"有難く心得ろ。江戸への土産に見物してつかわすぞ。案内せい",
"滅相な、当霊場は見物なぞする所ではござりませぬ。御信心ならばあちらが本堂、こちらが御祖師堂、その手前が参籠所でござります。御勝手になされませ"
],
[
"どじょうになったな。何の用じゃ",
"えッへへへへ、どうもね、この通り般若湯ですっかり骨までも軟かくなったんで、うれしまぎれに御殿様の御容子を拝見に参ったんでござんす。一件の女的はばれましたかい",
"見失うたゆえ、探しているのよ",
"顔に似合わず素ばしッこかったからね。どッかへ隠れてとぐろを巻いているんでしょうよ。いえ、なにね、それならそれでまた工夫もあると言うもんでござんす。実は今あの通りね、ほら、あそこの経堂のきわに大連の御講中が練り込んで来ておりますね。何でもありゃお江戸日本橋の御講中だとかいう話なんだ。日本橋と言えば土一升金一升と言う位なんだからね、きっとお金持ち揃いに違えねえんですよ。だから、今夜あの連中がお籠り堂へ籠ったところを狙って、こんな晩に大稼ぎとあの女的がお出ましになるに違えねえからね、どうでござんす。智慧はねえが力技は自慢のあッしなんだ。どじょうにして頂いたお礼心にね、あっしもお手伝いしたって構わねえんだが、殿様も旅のお慰みにお籠りなさって、化けて出たところを野郎とばかり、その眉間の傷でとッちめなすっちゃどうですかい",
"面白い。ドンツク太鼓をききながらお籠りするのも話の種になってよかろうぞ、万事の手筈せい",
"へッへへ。手筈と言ったって、おいらにゃこれがありゃいいんだ。酔がさめて夜半にまた喧嘩虫が起きるとならねえからね。ふんだんに油を流し込んでおくべえと、さっきの小判のうちからね、この通り用意して来たんですよ"
],
[
"殿様え。ね、ちょっと、眉間傷のお殿様え",
"………",
"豪儀と落付いていらっしゃるな。鼾を掻く程も眠っていらっしゃって、大丈夫かな"
],
[
"畜生ッ、スリだッ、スリだッ",
"スリがまぎれ込んでいるぞッ",
"俺もやられたッ、気をつけろッ"
],
[
"狼藉者ッ。退れッ、退れッ。霊場を騒がして何ごとじゃッ。退らッしゃいッ",
"申すなッ、無礼であろうぞッ。狼藉者とは何を申すかッ"
],
[
"いらぬ邪魔立て致して、御僧は何者じゃ",
"当行学院御院主、昨秋来関東御巡錫中の故を以て、その留守を預かる院代玄長と申す者じゃ。邪魔立て致すとは何を暴言申さるるか、霊地の庭先荒さば仏罰覿面に下り申すぞッ",
"控えさっしゃい。荒してならぬ霊地に怪しき女掏摸めが徘徊致せしところ見届けたればこそ、これまで追い込んで参ったのじゃ。御僧それなる女を匿い致す御所存か!",
"なに! 霊地を荒す女掏摸とな。いつ逃げこんだのじゃ。いつそのような者が当院に逃げ込んだと申さるるのじゃ",
"おとぼけ召さるなッ、その衣の袖下かいくぐって逃げ込んだのを、この二つのまなこでとくと見たのじゃ。膝元荒す鼠賊風情を要らぬ匿い立て致さば、当山御貫主に対しても申し訳なかろうぞ",
"黙らっしゃい。要らぬ匿い立てとは何を申すか! よしんば当院に逃げ込んだがまことであろうと、窮鳥ふところに入る時は猟夫もこれを殺さずと申す位じゃ。ましてやここは諸縁断絶、罪ある者とてもひとたびあれなる総門より寺内に入らば、いかなる俗法、いかなる俗界の掟を以てしても、再び追うことならぬ慈悲の精舎じゃ。衆生済度を旨と致すわれら仏弟子が、救いを求めてすがり寄る罪びとを大慈大悲の衣の袖に匿うたとて何の不思議がござる。寺領の掟すらも弁えぬめくら武士が、目に角立ててのめくら説法、片腹痛いわッ。とっとと尾ッぽを巻いて帰らっしゃい",
"申したな。それしきの事存ぜぬわれらでないわ。慈悲も済度も時と場合によりけりじゃ。普き信者が信心こめた献納の祠堂金は、何物にも替え難い浄財じゃ。それなる替え難い浄財を尊き霊地に於てスリ取った不埒者匿うことが、何の慈悲じゃッ。何の済度じゃッ。大慈大悲とやらの破れ衣が、通らぬ理屈申して、飽くまでも今の女匿おうと意地張るならば、日之本六十余州政道御意見が道楽の、江戸名物早乙女主水之介が、直参旗本の名にかけて成敗してつかわそうぞ。とっとと案内さっしゃい",
"なにッ、ふふうむ。直参じゃと申さるるか。身延霊場に参って公儀直参が片腹痛いわッ。御身にお直参の格式がござるならば、当山当院には旗本風情に指一本触れさせぬ将軍家御允許の寺格がござる。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 五万石の寺格を預かる院代玄長、五万石の寺格を以てお断り申すわッ。詮議無用じゃ、帰らっしゃい! 帰らっしゃい!",
"申したか! ウッフフ、とうとう伝家の宝刀を抜きおったな! 今に五万石を小出しにするであろうと待っていたのじゃ。よいよい、信徒を荒し霊地を荒す鼠賊めを、霊地を預かり信徒を預かる院代が匿もうて、五万石の寺格が立つと申さるるならば、久方ぶりに篠崎流の軍学大出し致してつかわそうぞ。あれなる女はいずれへ逃げ落ちようと、御僧がこれを匿もうた上は、御身が詮議の対手じゃ、法華信徒一同になり代って、早乙女主水之介ゆるゆる詮議致してつかわそうわ。今から覚悟しておかっしゃい。いかい御やかましゅうござった"
],
[
"もうし、あの、殿様、お願いでござります",
"なにッ"
],
[
"不敵な奴めがッ、また化けおったなッ",
"いえ、御勘違いでござります。滅相もござりませぬ。御勘違いでござります",
"申すなッ、娘に変り年増に変り、なかなか正体現さぬと聞いておるわ。自ら飛び出して来たは幸いじゃ。窮命してつかわそうぞ。参れッ",
"いえ、人違いでござります。人違いでござります。わたくしそのようなものではござりませぬ。只今悲しい難儀に合うておりますゆえ、お殿様のお力にすがろうと、このように取り紊した姿で、お願いに逃げ出して来た者でござります",
"なに? 身共の力にすがりたいとな! 人違いじゃとな! 災難に会うているとな!――はて喃。そう言えばこの奥へ逃げ失せた女とは少し背が小さいようじゃが、では、今朝ほど坂で会うたあの娘ではないと申すか",
"いえ、あの時のあの者でござります。江戸お旗本のお殿様とも存ぜず、何やら怕うござりましたゆえ、ついあの時は逃げましたなれど――",
"逃げたそなたが、またどうしてこのような怪しい尼姿なぞになったのじゃ",
"お力お願いに参りましたのもこの尼姿ゆえ、悲しい災難に会うているのもこの恥ずかしい尼姿ゆえでござります",
"ほほう喃。これはまた急に色模様が変ったな。仔細は何じゃ、一体どうして今朝ほどのあのかわいらしい姿をこんな世捨人に替えたのじゃ",
"それもこれも……",
"それもこれもがいかが致した",
"お恥ずかしいこと、恋ゆえにござります",
"わははは、申したな。申したな、恋ゆえと申したな。いやずんと楽しい話になって参ったわい。身共も恋の話は大好きじゃ。聞こうぞ、聞こうぞ。誰が対手なのじゃ",
"申します。申します。お力におすがり致しますからには何もかも申しますなれど、あのそのような、そのような大きいお声をお出しなさいましては、奥に聞かれるとなりませぬゆえ、もう少しおちいさく……",
"なに! では、そなたの災難も今奥へ消えていった荒法師玄長に関りがござるか",
"あい。ある段ではござりませぬ。あの方様は御院代になったのを幸いにして、いろいろよからぬ事を致しまするお方じゃとの噂にござります。それとも知らずお弟子の念日様に想いをかけましたがわたしの身の因果――、わたくしは岩淵の宿の者でござります。このお山の川の川下の川ほとりに生れた者でござります。ついこの春でござりました。念日様が御弘法旁々御修行のお山の川を下って岩淵の宿へおいでの砌、ついした事から割りない仲となりましたのでござります。なれどもかわいいお方は、いいえ、あの、恋しい念日様は御仏に仕えるおん身体、行末長う添うこともなりませぬお身でござりますゆえ、悲しい思いを致しまして、一度はお別れ致しましたなれど――。お察し下されませ。女子が一生一度の命までもと契った恋でござりますもの、夢にもお姿忘れかねて、いろいろと思い迷うた挙句、御仏に仕えるお方じゃ、いっそわたしも髪をおろして尼姿になりましたならば、いいえ、髪をおろして、尼姿に窶し、念日様のお弟子になりましたならば、女と怪しむ者もござりませぬ筈ゆえ、朝夕恋しいお方のお側にもいられようと、こっそり家を抜け出し、今朝ほどのようにああしてこのお山へ上ったのでござります。幸い誰にも見咎められずに首尾よう念日様のお手で黒髪を切りおとし、このような尼姿に、いいえ、ひと目を晦ます尼姿になることが出来ましたなれど、あの院代様に、さき程お争いのあの玄長様に、乳房を――いいえ、女である事を看破られましたが運のつき、――その場に愛しい念日様をくくしあげて、女犯の罪を犯した法敵じゃ、大罪人じゃと、むごい御折檻をなさいますばかりか、そう言う玄長様が何といういやらしいお方でござりましょう。宵からずっと今の先迄わたくしを一室にとじこめて、淫らがましいことばかりおっしゃるのでござります。それゆえどうぞして逃げ出そうと思うておりましたところへ、この騒動が降って湧きましたゆえ、これ幸いとあそこの蔭まで参りましたら――お見それ申してお恥ずかしゅうござります。怕らしいお殿様じゃとばかり思い込んでおりましたお殿様が、どうやら御気性も頼もしそうな御旗本と、つい今あそこで承わりましたゆえ、恥ずかしさも忘れて駈け出したのでござります",
"ほほう喃、左様か左様か。いやずんとうれしいぞ。うれしいぞ。恋するからにはその位な覚悟でのうてはならぬ。大切な黒髪までもおろして恋を遂げようとは、近頃ずんと気に入ったわい。それにつけても許し難きは玄長法師じゃ。先程庇った女スリはいずれへ逃げ失せたか存ぜぬか",
"庫裡の離れに長煙管を吸うておりまする。いいえ、そればかりか、先程念日様が折檻うけました折に、つい口走ったのを聞きましたなれど、なにやらあの女スリと玄長様とのお二人は、もう前から言うもけがらわしい間柄じゃとかいうことにござります。いえいえ、祠堂金を初め、お山詣での方々の懐中を掠めておりますことも、みな玄長様のお差しがねじゃとか言うてでござります",
"なにッ。まことか! みなまことの事かッ",
"まことの事に相違ござりませぬ。わたしの念日様が嘘を言う気づかいござりませぬゆえ、本当のことに相違ござりませぬ",
"売僧めッ、よくも化かしおッたなッ。道理で必死とあの女を庇いおッたわッ。スリを手先に飼いおる悪僧が衆生済度もすさまじかろうぞ。どうやら向う傷が夜鳴きして参ったようじゃわい。案内召されよ"
],
[
"あの、なりませぬ! なりませぬ! どのようなお方もいつ切通してならぬとの御院代様御言いつけにござりますゆえ、お通し申すことなりませぬ",
"………"
],
[
"あの灯の洩れている座敷が離れか",
"あい。ま! あの方も、念日様も、あそこへ曳かれてまた折檻に合うていなさりますと見え、あの影が、身悶えしておりまするあの影が、わたしの念日様でござります"
],
[
"売僧、ちん鴨の座興にしては折檻が過ぎようぞ、眉間傷が夜鳴き致して見参じゃ。大慈大悲の衣とやらをかき合せて出迎えせい",
"なにッ――よッ。また参ったかッ。た、誰の許しをうけて来入致しおった! 退れッ。退れッ。老中、寺社奉行の権職にある公儀役人と雖も、許しなくては通れぬ場所じゃ。出いッ。出いッ。表へ帰りませいッ"
],
[
"ほほう、川下の尼御前、羨ましい恋よ喃",
"いえ、あの、知りませぬ。そんなこと知りませぬ。それより念日様をお早く……",
"急がぬものじゃ。今宵から舐めようとシャブろうと、そなたが思いのままに出来るよう取り計らってつかわそうぞ。ほら、繩目を切ってつかわすわ",
"よッ、要らぬ御節介致したなッ。何をするかッ。何をッ"
],
[
"女犯の罪ある大罪人を、わが許しもなく在家の者が勝手に取り計らうとは何ごとかッ",
"たけだけしいことを申すでない。ひと事らしゅう女犯の罪なぞと申さば裏の杜の梟が嗤おうぞ",
"ぬかしたなッ。では、おぬし、五万石の尊い寺格、許しもうけずに踏み荒そうという所存かッ。詮議禁制、俗人不犯の霊地を荒さば、そのままにはさしおきませぬぞッ",
"またそれか、スリの女を手飼いに致す五万石の寺格がどこにあろうぞ。秘密はみな挙ったわッ。どうじゃ売僧! そちの罪業、これなる恋尼に、いちいち言わして見しょうか!",
"なにッ!……",
"そのおどろきが何よりの証拠じゃ。どうじゃ売僧! これにても霊地荒しの、俗人不犯のと、まだ四の五の申すかッ",
"そうか! 女めがしゃべったか。かくならばもう是非もない! ひと泡吹かしてくれようわッ"
],
[
"あれじゃ! あれじゃ!",
"搦めとれッ。搦めとれッ"
],
[
"よう。日本一のお殿様! 向う傷のお殿様! あッしだ。あッしだ。たまらねえお土産をお持ちだね。お約束だ、お手伝い致しますぜ",
"生きておったか。幸いじゃ。早う舟を用意せい",
"合点だッ。富士川を下るんですかい",
"身共ではない。ここに抱き合うておいでの花聟僧に花嫁僧お二人じゃ。しっぽり語り合うているまに、舟めが岩淵まで連れてくれようぞ。――両人、来世も極楽じゃがこの世もずんとまた極楽じゃ。そのような恋の花が咲いておるのに、つむりを丸めて味気のう暮らすまでがものはない。遠慮のう髪を伸ばして楽しめ。楽しめ。わははは、身共はひとりで退屈致そうからな"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:大野晋
2001年5月21日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001474",
"作品名": "旗本退屈男",
"作品名読み": "はたもとたいくつおとこ",
"ソート用読み": "はたもとたいくつおとこ",
"副題": "06 第六話 身延に現れた退屈男",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"いかがでござります。エエいかがでござります。手前のところは当城下第一の旅籠屋でござります。夜具は上等、お泊り貸は格安、いかがでござります。エエいかがでござります",
"いえ、わたくしの方も勉強第一の旅籠でござります。座スクはツグの間付きの離れ造り、お米は秋田荘内の飛び切り上等、御菜も二ノ膳つきでござります。それで御泊り賃はたった百文、いかがでござります。エエいかがでござります",
"いえいえ、同ズことならわたくス共の方がよろしゅうござります。揉み療治按摩は定雇い、給仕の女は痩せたの肥ったのお好み次第の別嬪ばかり、物は試スにござりますゆえ、いかがでござります。欺されたと思うて御泊りなされませ。エエいかがでござります"
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"のう、こりゃ下郎!",
"………?",
"下郎と申すに聞えぬか。のう、これよ町人!",
"へ?……",
"へではない、なぜ身共ばかりを袖にするぞ? いずれはどこぞへ一宿せねばならぬ旅の身じゃ。可愛がると申さば泊ってつかわすぞ",
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"そちのところも身共ばかりには、色目一つ使わぬようじゃが、やはり泊めぬと申すか。泊めて見ればこのお客、なかなかによい味が致すぞ。どうじゃ。いち夜泊めて見るか",
"いえ、あの、御勘弁下さいまし。滅相もござりませぬ。どうぞこの次に願いとうござります",
"異なことを申す奴等じゃ喃。わははは。さてはこの眉間の疵に顫えておると見ゆるな。よいよい。それならほかをばきいてやろうぞ。――白石屋! 白石屋! そちらの下郎!",
"へえ……!",
"その方のところはどうじゃ。眉間に少し怕そうな疵痕があるにはあるが、優しゅうなり出したとならば、女子よりも優しゅうなる性ゆえ怕がらないでもよい。宿銭も二三百両が程は所持致しておるぞ。どうじゃ、泊めて見るか",
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"折角お越しなさいましたのに、宿がのうて御困りでござりましょう。およろしかったら手前のところにどうぞ――",
"………?",
"いえ、あの決して胡乱な旅籠ではござりませぬ。遙々御越しなさいました旅のお方が御泊りの宿ものうては、さぞかし御困りと存じまして申すのでござります。およろしかったら手前のところでお宿を致しまするでござります"
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"いかがでござりましょう! お殿様方に御贔屓願いますのも烏滸がましいようなむさくるしい宿でござりまするが、およろしくば御案内致しまするでござります",
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"他の旅籠では申し合わせたように身共を袖に致しておるのに、そちの宿ばかり好んで泊めようと言うのが不審じゃと申すのよ。一体どうしたわけじゃ",
"アハハハ。そのことでござりまするか。御尤も様でござります。いえなに仔細を打ち割って見れば他愛もないこと、御武家様をお泊め申せばお届けやら手続きやら、何かとあとで面倒でござりますゆえ、それをうるさがってどこの宿でも体よくお断りしているだけのことでござりまするよ",
"異な事を申すよ喃。二本差す者とても旅に出て行き暮れたならば宿をとらねばならぬ。武家を泊めなば何が面倒なのじゃ。それが昔から当仙台伊達家の家風じゃと申すか",
"いえ、御家風ではござりませぬ。そのような馬鹿げた御家風なぞある筈もござりませぬが、どうしたことやら、近頃になって俄かに御取締りがきびしゅうなったのでござります。御浪人衆は元より御主持ちの御武家様でござりましょうとも、他国より御越しのお侍さまはひとり残らず届け出ろときつい御達しでござりましてな、御届け致しますればすぐさま御係り役人の方々が大勢してお越しのうえ、宿改めやら御身分改めやら、何かと手きびしく御吟味なさったあげ句、少しなりとも御不審の節々がおありの御武家は容赦なく引っ立て、あまつさえ宿の亭主も巻添え喰って入牢させられたり、手錠足止めに出会いましたり、兎角に迷惑なことばかりでござりますゆえ、触らぬ神に祟りなしとみなお侍様と見れば、ああして逃げを張っているのでござります",
"ヘゲタレよ喃",
"は?……",
"京ではそのような食べ物のよろしくない者共をヘゲタレと申すとよ。折があったら伊達侯に申し伝えい。時々鰻位用いたとても六十五万石の大身代では減るようなこともあるまいゆえ、三日に一度位は油の乗った大串を充分に食して、もッと胆を練るようにとな。いずれにしても、仙台伊達と言えば加賀島津につづく大藩じゃ。ましてや独眼竜将軍の流れを汲む者が、そのようにせせこましゅうしてどうなるものぞ。では、何じゃな。そちのところはあとの迷惑面倒も覚悟の前で身共に一夜の宿を貸すと申すのじゃな",
"へえい。一夜も百夜もお貸しする段ではござりませぬ。お殿様に御不審の廉なぞあろう筈もござりませぬゆえ、およろしくば御案内致します",
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],
[
"ほほう、ちと奇態じゃな。亭主! 亭主! いや番頭! 番頭!",
"………",
"番頭と申すにきこえぬか",
"………",
"あい……"
],
[
"そちではない。ゆうべの番頭はどこへいった",
"あの……",
"怕がらいでもよい。番頭に用があるのじゃ! どこへ参った",
"ゆうべからずッとどこぞへ出かけまして、まだ帰りませぬ",
"なにッ、……異なことを申すな。あの男、時折夜遊びでも致すのか",
"いえあの、この頃になりまして、どこへ参りますやら、ちょくちょく家をあけまするようでござります",
"ほほう喃。だんだんと不思議なことが重なって参ったようじゃな。いや、よいわよいわ。掛り役人共とやらも番頭も何を致しおるか存ぜぬが、長引くだけにいっそ楽しみじゃ。ならば一つ身共も悪戯してつかわそうぞ。ゆうべのあの看板を今一度ここへはずして参れ"
],
[
"御かえりなさいまし。御遊行でござりましたか",
"遊行なぞと気取った事を申しおるな。番頭風情が心得おる言葉ではなかろうぞ。そちこそゆうべからいずれを泳ぎおった",
"恐れ入ります。えへへへへへ。ちと粋すじな向きでござりましてな。殿様も大分御退屈のようでござりまするな",
"退屈なら何といたした。身共にもゆうべのその粋筋な向きとやらを、一人二人世話すると申すか",
"御所望でござりましたら――",
"こやつ、ぬらりくらりとした事を申して、とんと鯰のような奴よ喃。退屈なればこそ、このように触れ看板も致したのじゃ。るす中に誰も参らぬか。どうぞよ",
"は、折角ながら――。それゆえおよろしくばその御眉間疵にひと供養――。いえ御退屈凌ぎにはまたとないところがござりますゆえ、およろしくば御案内致しまするでござります",
"奥歯に物の挟まったようなことを申しおるな。面白い。どこへなと参ろうぞ。つれて行けい"
],
[
"よし、引こう! 引いてやろうよ",
"ならば拙者も――"
],
[
"今度は手前じゃ",
"いや、拙者が早いよ。年の順じゃ。お手際見事なところを見物せい"
],
[
"な、なにがおかしゅうござる!",
"………",
"返答聞きましょう! 何がおかしゅうてお笑い召さった",
"身共かな"
],
[
"御用のあるのは身共かな",
"おとぼけ召さるなッ。尊公に用あればこそ尊公に対って物を申しているのじゃ。何がおかしゅうて無遠慮な高笑い召さった",
"アハハハ。その事かよ。人はな――",
"なにッ",
"静かに、静かに。そのような力味声出さば腹が減ろうぞ。もっとおとなしゅう物を申せい。人はな、笑いたい時笑い、泣きたい時泣くものと、高天原八百万の御神達が、この世をお造り給いし時より相場が決ってじゃ。身共とて人間ぞよ。笑ったのに何の不思議があろうかい。それとも仙台の方々は一生お笑い召さらぬかな",
"そのようなこときいているのではござらぬわッ。手前達の何がおかしゅうて馬鹿笑い召さったのじゃ",
"ははん、そのことか。江戸ではな",
"江戸が何だと申すのじゃ",
"弓は射るもの当てるもの、江戸で引いても当らぬものは富籤位じゃ。第一――",
"第一何だと申すのじゃ。何が何だと申すのじゃッ",
"おぬし達のことよ。見ればそれぞれ大小二腰ずつたばさんでおいでじゃが、まさかに似せ侍ではござるまいてな",
"なにッ。似せ侍とは何を申すかッ。どこを以って左様な雑言さるるのじゃッ。怪しからぬことほざき召さると、仙台武士の名にかけても許しませぬぞッ",
"ウフフフ。その仙台武士がおかしいのよ。ナマリ節じゃかズウズウ武士じゃか存ぜぬが、まこと武士ならば武士が表芸の弓修業に賭物致すとは何ごとぞよ。その昔剣聖上泉伊勢守も武人心得おくべき条々に遺訓して仰せじゃ。それ、武は覇者の道にして、心、王者の心を以て旨となす。明皎々として一点の邪心あるべからず。されば賭仕合い、賭勝負、およそ武道の本義に悖るべき所業は夢断じて致すべからず、とな。弓は即ち剣に次ぐの表芸。さるを何ぞよ。おぬし達が先刻よりの不埒道断な所業は何じゃ。笑うぞ、嗤うぞ。よろしくばもッと笑おうかい。アハハハ。ウフフ。気に入らぬかな"
],
[
"ほほう、おいでじゃな。何かは知らぬが退屈払いして下さるとは忝けない。しかしじゃ。十箭のうち五本も射はずすナマリ武士が、人がましゅう鯉口切るとは片腹痛かろうぞ",
"言うなッ、ほざくなッ"
],
[
"広言申して、ならばおぬし、見事に十本射当てて見するかッ",
"身共かな",
"気取った物の言い方を致さるるなッ。射て見られいッ。見事射当てるならば射て見られいッ",
"所望とあらばあざやかなところ、見物させてとらそうぞ。あるじ! 弓持てい"
],
[
"早乙女の御前。昔ながらのお手並、久方ぶりで存分に拝見致しまするでござります",
"なにッ",
"いえ、さ、早く御前様、お引き遊ばせと申しただけでござります。――いえ、ちょッとお待ちなされませ。陽が落ち切りましたか、急に暗うなりましたゆえ、灯の用意を致しまするでござります"
],
[
"まずざッとこんなものじゃ。五寸の的などに十本射通すがものはなかろうぞ。あるじ、的替えい",
"はっ"
],
[
"御見事、さすがにござります!",
"何の、他愛もない。今一度寸を縮めい",
"はっ。――的は二寸――"
],
[
"天晴れにござります",
"まだ早い。事のついでじゃ。一条流秘芸の重ね箭を見せてとらそうぞ。的替えい"
],
[
"お見事! お見事! 英膳、言葉もござりませぬ",
"左様のう。先ず今のこの重ね矢位ならば賞められてもよかろうぞ"
],
[
"隠密じゃッ。隠密じゃッ。やはり江戸隠密に相違あるまい。素直に名乗れッ",
"なに!"
],
[
"なぜじゃ。身共が江戸隠密とは何を以て申すのじゃ",
"今さら白を切るなッ。千種屋に宿を取ったが第一の証拠じゃ。あの宿の主人こそは、われら一統が前から江戸隠密と疑いかけて見張りおった人物、疑いかかったその千種屋にうぬも草鞋をぬいだからには、旗本の名を騙る同じ隠密に相違あるまいがなッ",
"ほほう、左様であったか。あれなる若者、何かと心利いて不審な男と思うておったが、今ようやく謎が解けたわい。なれど身共は正真正銘の直参旗本、千種屋に宿を取ったは軒並み旅籠が身共を袖にしたからじゃ。隠密なぞと軽はずみな事呼ばわり立てなば、あとにて面々詰め腹切らずばなるまいぞ。それでもよいか",
"言うなッ。言うなッ。まこと旗本ならばあのような戯れ看板せずともよい筈、喧嘩口論白刄くぐりが何のかのと、無頼がましゅう飄げた事書いて張ったは、隠密の素姓かくす手段であったろうがッ。どうじゃどうじゃ! まだ四の五の申さるるかッ",
"ウフフフ、左様か左様か。笑止よ喃。あれまでもその方共には尾花の幽霊に映りおったか。あれはな、そら見い、この眉間疵よ。退屈致すと時折りこれが夜啼きを致すゆえ、疵供養にと寄進者の御越しを待ったのじゃ。慌てるばかりが能ではなかろうぞ。もそッと目の肥えるよう八ツ目鰻なとうんとたべい",
"申したなッ。ならばなにゆえ胡散げに市中をさ迷いおった。それも疑いかかった第三の証拠じゃ。いいや、それのみではない。今のひと癖ありげな弓の手の内といい、なにからなにまでみな疑わしい所業ばかりじゃ。もうこの上は吟味無用、故なくして隠密に這入ったものは召捕り成敗勝手の掟じゃ、じたばたせずと潔よう縛に就けいッ",
"わッははは。さてさて慌てもの達よ喃。道理でうるさくあとをつけおったか。馬鹿者共めがッ。頭が高い! 控えおろうぞ! 陪臣の分際以て縛につけとは何を申すかッ。それとも参らばこの傷じゃ。幸いの夕啼き時刻、江戸で鳴らしたこの三日月傷が鼠呼きして飛んで参るぞッ",
"申すなッ、申すなッ。広言申すなッ。陪臣呼ばわりが片腹痛いわッ。われらは捕って押えるが役目じゃッ。申し開きはあとにせいッ。それッ各々! 御かかり召されッ"
],
[
"お願いでござります! 夫が、夫が大変でござります。御力お貸し下されませ! お願いでござります!",
"……⁉",
"夫が、夫が、早乙女のお殿様へ早うお伝えせいと申しましたゆえ、おすがりに参ったのでござります。今、只今、宿の表で捕り方に囲まれ、その身も危いのでござります。お助け下さりませ。お願いでござります! お願いでござります!",
"捕り方に囲まれおるとは、何としたことじゃ",
"かくしにかくしておりましたなれど、とうとう江戸隠密の素姓が露見したのでござります。宿改め素姓詮議のきびしい中をああしてお殿様にお泊り願うたのは、御眉間傷で早乙女の御前様と知ってからのこと、いいえ、かくしておいた隠密が露見しそうな模様でござりましたゆえ、万一の場合御力にすがろうとお宿を願うたよし申してでござります。ほかならぬ江戸で御評判の御殿様、同じ江戸者のよしみに御助け下さらばしあわせにござります。わたくし共々しあわせにござります",
"よし、相分った! そなたが夫とは、あの客引きの若者じゃな",
"はい。三とせ前からついした縁が契の初めとなって、かようないとしい子供迄もなした仲でござります。お助け、お助け下さりまするか!",
"眉間傷が夕啼き致しかかったばかりの時じゃ、参ろうぞ! 参ろうぞ! きいたか! ズウズウ国の端侍共ッ、直参旗本早乙女主水之介、ちと久方ぶりに退屈払いしてつかわすぞッ! 来るかッ。馬鹿者共よ喃。ほら! この通りじゃ! よくみい! うぬもかッ。並んでいっぷくせい"
],
[
"三とせ越し上手によく化けおったな。怪我はないか",
"おッ……。ありがとうござります。ありがとうござります。実は、実は手前、御前と同じ江戸の……",
"言わいでもいい、妻女からあらましは今きいた。何ぞよ、何ぞよ。隠密に参った仔細はいかなることじゃ",
"居城修復と届け出して公儀御許しをうけたにかかわらず、その実密々に増築工事進めおりまする模様がござりましたゆえ、矢場主英膳どのと拙者の二人が御秘命蒙り、うまうまと、三年前から当城下に入り込みまして、苦心を重ね探りましたところ、石の巻に――"
],
[
"石の巻に何ぞ秘密でもあったか",
"秘密も秘密、公儀御法度の兵糧倉と武器倉を二カ所にこしらえ、巧みな砦塞すらも築造中なのでござります。そればかりか城内二ノ廓にも多分の兵糧弾薬を秘かに貯え、あまつさえ素姓怪しき浪人共を盛んに召し抱えまする模様でござりましたゆえ、ようやく今の先その動かぬ証拠を突きとめ、ひと飛びに江戸表へ発足しようと致しましたところを、先日中より手前の身辺につきまとうておりました藩士共にひと足早く踏みこまれ、かくは窮地に陥入ったのでござります",
"左様か、左様か、お手柄じゃ。では、先程身共を英膳の矢場へ案内していったのも、うるさくつきまとう藩士達を身共共々追っ払って、その間に動かぬ証拠突き止めようとしてのことか",
"は。その通りでござります。御前は手前等ごとき御見知りもござりますまいが、手前等英膳と二人には、江戸におりました頃からお馴染深いお殿様でござりますゆえ、この城下にお越しを幸いと、万が一の折のお力添え願うために、お引き合せかたがたあの矢場へ御つれ申したのでござります。それもこれも藩の者共が、江戸に城内の秘密嗅ぎ知られてはとの懸念から、宿改め、武家改めをやり出しましたが御縁のもと、かく御殿様のうしろ楯得ましたからには、もう千人力にござります",
"よし、それにて悉皆謎は解けた。――者共ッ、もう遠慮は要らぬぞ。これなる眉間傷の接待所望の者は束になってかかって参れッ。――来ぬかッ。笑止よ喃。独眼竜将軍政宗公がお手がけの城下じゃ。ひとり二人は人がましい奴があろう。早う参れッ"
],
[
"捕ったかッ、捕ったかッ。――まごまご致しおるな。たかの知れた隠密ひとりふたり、手間どって何ごとじゃッ。早う召し捕れッ、手にあまらば斬ってすてろッ",
"………",
"よッ。見馴れぬ素浪人の助勢があるな! 構わぬ! 構わぬ! そ奴もついでに斬ってすてろッ",
"控えい! 控えい! 素浪人とは誰に申すぞ。下りませい! 下りませい! 馬をすてい!"
],
[
"無役ながらも千二百石頂戴の天下お直参じゃ! 陪臣風情が馬上で応待は無礼であろうぞ。ましてや素浪人とは何ごとじゃ。馬すてい!",
"なにッ?"
],
[
"みい、当藩目付とあらば少しは分別あろう。早う下知して捕り方退かせい",
"………",
"まだ分らぬか。わからば元より、江戸大公儀御差遣の隠密に傷一つ負わしなば、伊達五十四郡の存亡にかかろうぞ。匆々に捕り方退かせて、江戸へ申し開きの謝罪状でも書きしたためるが家名のためじゃ。退けい。退かせい",
"申すなッ。隠密うける密事があらば格別、何のいわれもないのになにゆえまた謝罪するのじゃ。紊りに入国致した隠密ならば、たとい江戸大公儀の命うけた者とて、斬り棄て成敗勝手の筈じゃわッ。構わぬ、斬ってすてろッ",
"馬鹿者よ喃。まだ分らぬかッ。石の巻のあの不埒は何のための工事じゃ",
"えッ――",
"それみい、叩けばまだまだ埃が出る筈、この早乙女主水之介を鬼にするも仏にするも、その方の胸一つ出方一つじゃ。とくと考えて返答せい",
"………",
"どうじゃ。それにしてもまだ斬ると申すか。主水之介眉間に傷はあるが、由緒も深い五十四郡にたって傷をつけるとは申さぬわッ。探るべき筋あったればこそ探りに這入った隠密、斬れば主水之介も鬼になろうぞ。素直に帰さば主水之介も仏になろうぞ。どうじゃ。とくと分別して返答せい",
"…………"
],
[
"退けッ。者共騒ぐではない。早う退けいッ",
"わッははは、そうあろう。そうあろう。素直に退かばこの隠密とても江戸者じゃ。血もあり涙もある上申致そうぞ。さすれば五十四郡も安泰じゃ。早う帰って江戸への謝罪の急使、追い仕立てるよう手配でもさっしゃい。――若者、旅姿してじゃな。身共もそろそろ退屈になりおった。秋の夜道も一興じゃ。ぶらりぶらり参ろうかい",
"は。何から何まで忝のうござります"
],
[
"まてッ。まてまて。妻女がそこに泣いてじゃ。いたわって江戸まで一緒に道中するよう、早う支度させい",
"いえ!"
],
[
"いえあの、わたくしはあとへのこります",
"なに? なぜじゃ。末始終離れまじと誓った筈なのに、そなたひとりがあとへ残るとは何としたのじゃ",
"誓って馴れ初めました仲ではござりますなれど、わたくしは家つきのひとり娘、御領主様の御恩も忘れてはなりませぬ。親共が築きましたる宿の差配もせねばなりませぬ。いいえ、いいえ、祖先の位牌をお守りせねばならぬわたくし、三とせ前に契るときから、江戸隠密とは承知の上で、こうした悲しい別れの日も覚悟の上で思い染め馴れ染めた仲でござります。――俊二郎さま! お身お大切に! 坊は、この児はあなたと思うて、きっとすこやかに育てまする……。では、さようなら……、さようなら……",
"天晴れぞや。――俊二郎とやら、陸奥の秋風はまたひとしお身にしみる喃"
],
[
"おう。こちらも御無事で!",
"そちもか。英膳、悲しい別れをそちも泣いてつかわせ"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:大野晋
2001年5月21日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001475",
"作品名": "旗本退屈男",
"作品名読み": "はたもとたいくつおとこ",
"ソート用読み": "はたもとたいくつおとこ",
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[
"何じゃい。何じゃい。まだ失せおらぬかッ。老人と思うて侮らば当が違うぞ。行かッしゃいッ。行かッしゃいッ、行けと申すになぜ行かぬかッ",
"でも、あの……いいえ、あの、どうも、相済みませぬ。ついその、あの、何でござりますゆえ、ついその……"
],
[
"実はあの……、いいえ、あの、重々わるいこととは存じておりますが、ついその、あの何でござります。せめて、あの……",
"せめてあの何じゃい!",
"五ツか六ツ刺さないことには、晩のおまんまにもありつけませんので、かようにまごまごしているのでござります。何ともはや相済みませぬ。どうぞ御見逃し下さいまし……",
"嘘吐かッしゃいッ。刺さねばおまんまにありつけない程ならば、あれをみい、あれをみい、あちらにも、こちらの畠にも、あの通り沢山いるゆえ、ほしいだけ捕ればよい筈じゃ。それを何じゃい、刺しもせずに竿を持ってうろうろと垣のぞき致して、当御社のどこに不審があるのじゃ。行かッしゃい! 行かッしゃい! 行けばよいのじゃ。とっとと消えて失くならッしゃい",
"御尤もでござります。おっしゃることは重々御尤もでござりまするが、実はその、あの、何でござります。わたくし、ついきのうからこの刺し屋を始めましたばかりでござりますゆえ、なかなかその思うように刺せんのでござります。それゆえあの、ついその……",
"こやつ、わしを老人と見て侮っておるな! ようし! それならば消えて失くなるようにお禁厭してやるわ。そこ退くなッ"
],
[
"いかがでござるな。退屈の折柄丁度よいお対手じゃ。この構え、少しは槍の法に適っておりまするかな",
"なにッ?――何じゃい! 何じゃい! 見かけぬ奴が不意におかしなところから迷って出おって、貴公は、一体何者じゃ!",
"身共でござるか。身共はな、ウフフフ、ご覧の通りの風来坊よ。いかがでござるな。青江流とはまたちと流儀違いでござるが、少々は身共も槍の手筋を学んでじゃ。退屈払いに二三合程お対手仕るかな"
],
[
"ウフフ、またそれをお尋ねか。御老体、ちとお耳が遠うござりまするな。身共はな――",
"なにッ、耳が遠いとは何を言うかい。当豊明権現を預る神主沼田正守と申さば、少しはこのあたりにも知られたわしじゃ。事ここに至っては命にかけてもうぬら二匹、追ッ払わねばならぬ。誰の指し図によって垣のぞきに参ったのじゃ。言わッしゃい! 言わッしゃい! それを言わッしゃい! どやつが指し図致したのじゃ",
"わははは、誰の指し図とは御老体、耳が遠いばかりか脳の方も少々およろしくござらぬな。身共はな、このうしろの奴じゃ、こやつのな――"
],
[
"また来やがッたか。やッつけろ。やッつけろ",
"構わねえ、のめせ! のめせ! 御領主様の廻し者に違えねえんだ。打ちのめせッ、打ちのめせッ"
],
[
"逃げた。逃げた。野郎め、そッちへ逃げたぞッ",
"追ッかけろッ。追ッかけろッ。逃がしてなるもんかい! 逃がせばこんな奴、御領主様に何を告げ口するか分らねえんだ! 叩き殺せッ、叩き殺せッ"
],
[
"控えおらぬか。騒ぐでない。何をするのじゃ",
"何だと!",
"邪魔ひろぐねえ",
"どこから出て来やがったんだッ",
"退きやがれッ。退きやがれッ。退かねえとうぬも一緒に痛え目にあうぞッ"
],
[
"………⁈",
"………⁈",
"のう、どうじゃ。ずうんと骨身までが涼しくなるようなよい疵であろうがな。近寄ればチュウチュウ鼠啼き致して飛んで参るぞ",
"………⁈",
"………⁈"
],
[
"やッつけろ。やッつけろ。構わねえからやッつけろ。どこのどやつだか知らねえが、邪魔ひろぐ奴アみなおいらの讐だ。のめせ! のめせ! 構わねえから叩きのめせ!",
"違げえねえ。一ぺん死にゃ二度と死なねえや! いってえおいらお侍という奴が気に喰わねえんだ。百姓と見りゃ踏みつけにしやがって気に喰わねえんだ。やッつけろ。やッつけろッ。みんな死ぬ覚悟でやッつけろ"
],
[
"貴公、なかなか――",
"何でござる",
"当節珍らしい逸品でおじゃるな",
"わはは、先ず左様のう。自慢はしとうないが、焼き加減、味加減、出来は少し上等のつもりじゃ。刀剣ならば先ず平安城流でござろうかな。大のたれ、荒匂い、斬り手によっては血音も立てぬという代物じゃ。鯛ならば赤穂鯛、最中ならトラヤのつぶし饀、舌の奥にとろりと甘すぎず渋すぎず程のよい味が残ろうという奴じゃ。お気に召したかな",
"大気に入りじゃ。御身分柄は何でおじゃる",
"傷の早乙女主水之介と綽名の直参旗本じゃ",
"なにッ、何だと!",
"のめせ! のめせ!",
"それきいちゃもう我慢が出来ねえんだ。こいつも同じ旗本だとよう! のめせ! のめせ! 叩きのめせ!"
],
[
"またッしゃい! 待たッしゃい! 旗本は旗本でも、この旗本ちと品が違うようじゃ! 投げてはならぬ。鎮まらッしゃい! 鎮まらッしゃい!",
"でも、同じ旗本ならおいらはみな憎いんだ。うちの御領主様もその旗本なればこそ、お直参風を笠に着て、あんな人でなしのむごい真似をするに違げえねえんだ。やッつけろッ。やッつけろッ、構わねえから叩きのめせッ",
"待たッしゃいと言うたら待たッしゃい! そのように聞き分けがござらぬと、わしはもう力を貸しませぬぞ。物は相談、荒立てずに事が済めばそれに越した事はないのじゃ! 手を引かッしゃい! 手を引かッしゃい! それよりあれじゃ、あれじゃ。あの男を早く!――"
],
[
"貴殿の胆力に惚れてのことじゃ。お力を借りたい一儀がおじゃる。あちらへお越し召さらぬか",
"ほほう、ちと急に雲行がまた変りましたな。借り手がござらば安い高いを申さずにお用立て致すこの傷じゃ。ましてや旗本ゆえに恨みがあると聞いてはすておけぬ。いかにも参りましょうぞ。どこへなと御案内さッしゃい"
],
[
"珍しい一軸じゃ。御老体、当所はそれなる軸に見える大和田家の知行所か",
"左様でおじゃり申す。何やら驚いての御容子じゃが、貴殿大和田殿御一家の方々御知り合いでおじゃりますか",
"知らいで何としょう。それに見える八郎次殿はたしか先々代の筈、当主十郎次は身共同様同じ八万騎のいち人じゃ。それにしても、十郎次どのの所領にめぐりめぐって参ったとは不思議な奇縁でござるな"
],
[
"騒ぎは何でござる。どうやら百姓共の容子を見れば、一揆でも起しそうな気勢でござるが、騒ぎのもとは何でござる",
"それがいやはや、さすがの沼田正守、あきれ申したわい。かりにも御領主どのゆえ、悪ざまに言うはちと憚り多いが、それにしても当代十郎次どの、少々あの方がきびしゅうてな",
"きびしいと申すは、年貢の取立てでござるか",
"どう仕って、米や俵の取立てがきびしい位なら、まだ我慢が出来申すというものじゃが、あれじゃ、あれじゃ、目篇でござるわい",
"目篇とは何でござる",
"目篇に力の字じゃ",
"ウッフフ。わッははは! 左様でござるか。助でござるか。助でござるか。助の下は平でござるな",
"左様々々。その助と平がちと度が強すぎてな。何と申してよいやら、あのようなのも先ず古今無双じゃ。これなる床の軸にも見える通り、御先々代八郎次さまは至っての偉物でな、病気平癒の祈願を籠めてさしあげたは、かく言う沼田正守がまだ壮年の砌のことじゃ、それ以来当豊明権現を大変の御信仰で、あの一札にもある通り、貢納米から労役人夫、みな行き届いた御仕方じゃ。なれども御三代の当主と来ては、いやはや何と言うか、売家と唐様で書く三代目どころの騒ぎではござりませぬわい。今のその目篇がちときびしすぎてな、江戸の女共を喰いあきたせいでおじゃるのか、それともまた田舎育ちの土女共が味変り致してよいためでおじゃるのか、どちらがどうやら存ぜぬことじゃが、所労保養のお暇を願ったとやらにて、ぶらりとこの月初めに知行所へお帰り召さったのじゃ。ところが、もうそのあくる日からちょくちょくと早速にあれをお始めでござるわい。それとても、いやはや、もう論外でな、きのうまでに丁度十一人じゃ",
"と申すと?",
"人身御供におシャブリ遊ばした女子が都合十一人に及んだと申すのじゃ。娘が六人、人妻が三人、若後家が二人とな、いずれもみめよい者共をえりすぐって捕りあげたのは言うまでもないことじゃが、憎いはそれから先じゃ。十一人が十一人、人妻までも捕りあげて屋敷の広間に監禁した上、なおそれでも喰いあきぬと見えて、この次は何兵衛の娘、その次は何太郎の家内と、御領内残らずの女共の中から縹緻よしばかりをえりすぐって、次から次へと目星をつけているゆえ、領民共とて、人の子じゃ、腹立てるのは当り前でおじゃりますわい。それゆえ、つまり――",
"一揆の談合をこの境内でしたと申さるるか",
"左様々々。ひと口に申さばまだ談合中じゃが、相談うけたのが、何をかくそうこのわしなのじゃ。同じ御領内に鎮守の御社を預かって、御家繁昌御家安泰を御祈願すべき神主が、由々敷一揆の相談うけたときかばさぞかし御不審でおじゃろうが、拙者、ちと変り者でな。神にお仕え申すこの職は、親代々の譲りものゆえ嫌いではおじゃりませぬが、それより好物はこの本じゃ。それから骨じゃ。別して医の道は大の好物ゆえ、御領内みなの衆にあれやこれやと医療を授けているうちに、何かと相談を持ち込むようになったのじゃ。それゆえ、一揆起すについても先ずわしに計ってと、あの通り大挙して参ったところを、御領主方でも知ったと見える。先程のあの鳥刺しめ、まさしく大和田十郎次どのから秘密の言い付けうけて参った者に相違ござらぬが、あやつめが四たび五たびとしつこく隙見して、何か嗅ぎ出そうと不埓な振舞いに及んだゆえ、脅しつけようと飛んで出たところへ、貴殿がふらふらと迷ってお出なすったという次第じゃ。それから先は御存じの通り、――それにつけても沼田正守、当年九十一蔵に至るまでまだ一度も女子に惚れたことはおじゃらぬが、男の尊公ばかりにはぞッこん参りましたわい。それ故にこそ由々敷大事の秘密まで打ちあけてのお願いじゃ。一揆を起すか刺し殺すか、どうあっても十郎次どのに今日のごとき非行お改めなさるよう、御意見申上げねばならぬ。いかがでおじゃろう、強ってとは申さぬ。同じお直参のよしみもござろうゆえ、旗本八万騎にその位は当り前と、十郎次どのに御味方なさるならばなさるで、それもよし、少しなりとこのおやじに見どころがござらば、先程とくと拝見仕った尊公のあのお腕前と御胆力、少々御用立て願いたいのじゃ。否か応か御返答いかがでおじゃる",
"なるほど、事の仔細も御所望の筋もしかと分り申した。もしこの主水之介が否と申さば?",
"知れたこと、この場に先ず御貴殿を血祭りに挙げておいて、老体ながら沼田正守、一揆の一隊引具し、今宵にも御領主の屋敷に乱入いたし、力弱き農民百姓達を苦しめる助の平の大和田十郎次めにひと泡吹かすまででおじゃるわ",
"わはは。いや、面白い面白い。身共を先ず血祭りに挙げるとはさも勇ましそうに聞えて、ずんと面白うござりますわい。老いてもなお負けぬ気な、その御気性、主水之介近頃いちだんと気に入ってござる。ましてや世の亀鑑たるべき旗本中にかかる不埓者めが横行致しおると承わっては、同じ八万騎の名にかけて容赦ならぬ。いかにも身共、御所望の品々御用立て仕ろうぞ",
"なに! 御力となって下さるか。忝けない、忝けない。ほッと致して急に年が寄ったようじゃ。みなの衆もさぞかし躍り上がって悦びましょうゆえ、早速事の仔細を知らせてやりましょうわい",
"いや、待たれよ。待たれよ。お待ち召されよ"
],
[
"百姓共を悦ばすはよいが、十郎次と身共面識があるだけに、懲らしめる方法をちと工夫せずばなるまい。十一人とやらの女子供はいずれもみな一室に閉じこめて見張り中でござろうな",
"見張りどころか、まるで屋敷牢でござりますわい。しかもじゃ、十郎次の助の字、掠めとった女子供はいずれも裸形にしてな、夜な夜な酒宴の慰みにしているとやらいう噂ゆえ、百姓達が殺気立って参ったは当り前でおじゃりますわい",
"いかさまのう。聞いただけでも眉間傷が疼々と致して参った。しかし、事は先ず女共を無事に救い出すが第一じゃ。いきなり身共が乗り込んで参らば面識ある者だけに、十郎次、罪のあばかれるのを恐れて女共を害めるやも知れぬゆえ、それが何よりの気懸りじゃ。二つにはまたわるい病の根絶やしすることも必要じゃ。今は身共の力で懲らしめる事は出来ても、この先たびたび病気が再発するようならば、仏作って魂入れずも同然ゆえ、利きのいい薬一服盛ってつかわしましょうぞ。百姓共のうちに足の早い者二三人おりませぬか",
"おる段ではない。何にお使い召さる御所存じゃ",
"江戸への飛脚じゃ。おらば屈強な者を二人程御連れ願えぬか",
"心得申した。すぐさま選りすぐって参りましょうわい"
],
[
"やられました! やられました! あいつめが、あの鳥刺しの奴めが密訴したに違げえねえんです! 御領主様が捕り方を差し向けましたぞッ。一揆の相談するとは不埓な百姓共じゃと怒鳴り散らして、三十人ばかりの一隊が捕って押えに参りましたぞッ",
"なにッ――"
],
[
"行ったら危ない。捕らせてやらっしゃい。あとからすぐにそっくり頂戴に参らばようござるわい",
"………?",
"お分りでござらぬか。あれじゃ。あれじゃ。あの大和田八郎次どのお残しの一書じゃ。労役人夫必要の時あらばいか程たりとも微発苦しからずと、子々孫々にまで言いきかせてござるわい。すぐにあとから追っかけて参って、引かれていったあの者共をそっくり頂戴して参るのよ",
"いやはや、なる程。わしも軍学習うたつもりじゃが、若い者の智慧には敵わぬわい。ようおじゃる。ゆるゆるひと泡吹かしてやりましょうわい"
],
[
"身共もお供仕る。そろそろ参りましょうぞ",
"待たッしゃい。待たッしゃい。こういう事は威厳をつけぬと兎角利き目が薄いでな。装束を着けて参ろうわい"
],
[
"おう、御手柄じゃ。御手柄じゃ。手もなく曳いて参ったようじゃな。みなで何名じゃ",
"五十七名でござります",
"左様か、不埓な奴らめがッ。百姓下民の分際で、領主に逆らい事致すとは何ごとじゃッ。生かすも気まま、殺すも気まま、その方共百姓領民は、当知行所二千八百石に添え物として頂いた虫けらじゃ。不埒者達めがッ。明朝ゆるゆる成敗してつかわそうゆえ、見せしめのために、ひとり残らずくくしあげて、今宵ひと夜、この庭先で雨曝らしにさせい"
],
[
"なにッ?",
"いや、わしじゃ。わしじゃ。たびたび無心を言うて相済まぬがな。御身がおじい様の八郎次どのから、いつ何時たりとも苦しからずと、有難い遺し書を頂戴しておるゆえ、またまた拝借に参ったのじゃ。では、頂いて参ろうわい。――みなの衆、豊明権現様もさき程からきっとお待ちかねじゃ。遠慮は要りませぬぞ。急いで行かッしゃい",
"まてッ、まてッ、待たッしゃい!",
"御用かな",
"おとぼけ召さるなッ。祖先の御遺訓ゆえ御入用ならば労役人夫やらぬとは申さぬ。決してさしあげぬとは申さぬが、この百姓共には詮議の筋がある。おぬしにはこやつらの手にせる品々、お分り申さぬか",
"これはしたり、九十の坂を越してはおるが、まだまだ両眼共に確かな正守じゃ。鍬をもち、鎌をも構え、中には竹槍棍棒を手にしておる者もおじゃるが、それが何と召されたな",
"何と召されたも、かんと召されたもござらぬわッ。かような物々しい品を携え、あの境内に寄り集って、不埓な百姓一揆を起そうと致しおったゆえ、ひと搦めに召し捕ったものじゃ。ならぬ! ならぬ! なりませぬ! この者共を遣わすこと罷りならぬゆえ、とッとと帰らッしゃい!",
"いやはや困った御笑談を申さるる御方じゃ。御立派やかな若殿が老人を弄うものではござらぬわい。一揆の証拠どこにおじゃる。石垣の修築と境内の秋芝刈りを願おうと存じたのでな。みなの衆にもその用意して社殿の裏に集うて貰うたのじゃ。鍬をお持ちの方々は即ちその石垣係り、鎌を所持の人達は即ち草刈り係り、それから竹槍と棍棒は――",
"何でござる! 何のために左様なもの用意させてござる!",
"狸狩りじゃ。奇態とあの境内へ夜な夜なムジナ、マミの類がいたずらに参るのでな、尊い御神域を修復中にケダモノ共が荒してはならぬと、追ッ払い役に頼んだのじゃ。あははは。では、参るかな。みなの衆も行かッしゃい",
"ならぬ! 罷りなりませぬ! 境内修復ならばかような夜中にせずともよい筈じゃ。明日という日がござる。なりませぬ! 遣わすこと罷りなりませぬ!",
"これはしたり、名君名主になろうには、もう少し物の道理の御修業が御肝要じゃ。いかにもあすという日がおじゃる。しかしな、民百姓というものは、日のうちこそ大事、大事な日中を使い立て致さば、お身が栄躍栄華のもとたる米すら作ることなりませぬ。それゆえ手すきの夜業にと、みなの衆にもお集りを願い、ぜひにもまた今宵お借りせねばならぬのじゃ! 神意は広大、御神罰もまた御広大、崩れた垣のままでいち夜たりとても棄ておかば、御社預る沼田正守、豊明権現様に御貴殿が御家名安泰の御祷りも出来ぬというものじゃ。では、みなの衆、参りましょうかな!",
"いいや、なりませぬ! 断じてやることなりませぬ! 強って労役人夫入用ならば、当領内にはまだ百姓共が掃く程いる筈、そやつ等を呼び集めさッしゃい。この者共は一歩たりとも屋敷外へ出すことなりませぬ!",
"分らぬ御方じゃな。特にこの方々呼び集めたのは、力も人の一倍、働らきも人一倍でおじゃるゆえ、わざわざえりすぐってお集いを願うたのじゃ。それゆえ、ぜひにもこの方々でのうては役に立たぬ。それとも――",
"それともなんでござる!",
"いいやな、これ程申してもお用立出来ぬと仰せあるならば、致し方がおじゃりませぬゆえな、今から江戸へ急飛脚飛ばして、寺社奉行様のお裁きを願いましょうわい。御領内に鎮座まします御社でござるゆえ、御身のものと申さば御身のものじゃが、社寺仏閣の公事争い訴訟事は寺社奉行様御支配じゃ。御先祖様が無心徴発苦しからずと仰せのこしておじゃるのに、御身が貸すこと罷りならぬとあらば、江戸お上にお訴え申して、この黒白つけねばならぬ。さすれば――",
"………!",
"あははは。ちと雲行がおよろしくござらぬと見えて、俄かにぐッと御詰りでおじゃりまするな。いやなに、別段事を荒てとうはござらぬが、おじい様は使えとおっしゃる、お孫殿はならぬと仰せあって見れば止むをえませぬのでな、出るところへ罷り出て、お裁き願うより手段はござりませぬわい。さすれば元より軍配のこちらに揚がるは必定、それやかやとお調べがござらば、当屋敷からほこりも出ようし、鼠も出ようし、出ればその何じゃ、自ずとお上の目も光り、光らば御家断絶とまではきびしいお裁きがないにしても、御役御免、隠居仰付けらる、というような事になり申すと、わしは構わぬが、八郎次どの御霊位に対して御気の毒と思いまするのでな。物は相談じゃが、どうでおじゃるな、断じて罷りならぬとあらば、それはまたそれでよし、お借り願えるものならばなおけっこう。いかがじゃな",
"………!",
"何と召さった。大分歯ぎしりをお噛みのようじゃが、虫歯ならば沼田正守医道の心得がおじゃるゆえ、ことのついでに癒して進ぜましょうかな",
"勝手にさッしゃい!",
"なるほど。では、御借り申してもようおじゃるかな",
"くどいわッ。それほどこの百姓共がほしくば、とっとと連れて行かッしゃい!",
"なるほど、なるほど。御年は若いがさすがに急所々々へ参ると、よく物が御分りでなによりにおじゃる。祖先の御遺訓を守るは孝の第一、神を敬するは国の誉、そなたも豊葦原瑞穂国にお生れの立派な若殿様じゃ。わははは。いやなに、わははは。では、みなの衆、帰ってもよいそうじゃ。お互い物の道理の分る御慈悲深い御領主様を戴いて、倖でおじゃりまするな。そろそろ参りましょうわい",
"よッ!",
"何じゃな",
"待たッしゃい!",
"ほほう、まだ御用がおじゃりますかな",
"不審な奴があとにおる。そのうしろの深編笠は何者でござる!",
"ははあ、なるほど、これでござるか。この者はな、わしの伜じゃ",
"なにッ。そなたには妻がない筈、それゆえ変屈男と評判の筈じゃ。独身者に子供があるとは何とされた!",
"妻はのうてもわしとて男でござりますわい。若い時に粗相をしてな。落し胤じゃ、落し胤じゃ。――伜よ。参ろうぞい"
],
[
"御老体",
"何じゃな",
"身共にわるい癖が一つござってな",
"なるほど、なるほど。里心がおつき申したか",
"どう仕って。宿までさせて頂いて、いろいろと御造作に預る居候の身がわがまま言うて相済まぬが、旅に出るとどういうものか身共、三日目に一度位ずつ、塩ものを食さぬと骨放れが致すようでならぬのじゃ。夕食に何ぞよい干物御無心出来ませぬかな",
"ウフフ。これはどうも恐れ入った。口栄耀をした天罰でござりますわい。お直参旗本千二百石取り疵の早乙女主水之介と言わるるお殿様が、干物を好物とは話の種でおじゃる。と申すものの、実は、ウフフ、この正守もな",
"御好物か",
"恥ずかしながらこの通り、今日は出そうか今日は出そうかと、そなたに気兼ねして実はこの本箱の奥に隠しておいたのじゃ。口の合うたが幸い、早速に用いましょうわい"
],
[
"お兄様! お兄様! あの、お兄様はどこにござります",
"おお、菊か。菊路か",
"あい、遅なわりました。只今ようやく参着致しましてござります。お早く! お早く! 御無事なお顔をお早く見せて下さりませ",
"まてまて、今参る今参る。ちょっと今大変なのじゃ。今参る、今参る。――そらみい。兄じゃ、よう見い。傷もあるぞ",
"ま! 御機嫌およろしゅうてなにより……。お色つやもずっとよろしくおなり遊ばしましたな",
"うんうん。旅に出ると干物なぞが頂けて食べ物がよろしいのでな。そちも半年見ぬまにずんと美しゅうなったのう",
"もうそのような御笑談ばかり。――あの、それより、あの方も、あの、あのお方も御一緒にお越しなさりました",
"誰じゃ。書面にはそちひとりに参れと書いてやった筈じゃが、あの方とは誰ぞよ",
"でもあの……、いいえ、あの、あの方でござります。京さまでござります。京弥さまでござります",
"なに? ――いずれにおるぞ?",
"その駕籠の向うに……"
],
[
"わッははは、そちもか。もッと出い。こッちへ出い。恥ずかしがって何のことじゃ。ウフフ、あはは。のう京弥、諺にもある。女子の毛一筋は、よく大象をもつなぐとな。わはは。そちも菊に曳かれて日光詣りと洒落おったな",
"いえ、あの、そのようなことで手前、お伴をしたのではござりませぬ。長い道中を菊どのおひとりでは何かとお心もとなかろうと存じましたゆえ、御警固かたがたお伴をしたのでござります",
"なぞと言うて、嘘を申せ。嘘を申せ。ちゃんと二人の顔に書いてあるぞ。菊がねだったのやら、そちが拗ねたのやら知らぬが、別れともない、別れて行くはいやじゃ、なら御一緒にと憎い口説のあとで、手に手をとりながら参ったであろうが喃。ウフフ、あはは。いや、よいよい、京弥までが一緒に参ったとあらば、風情の上になおひと風情、風情を添えるというものじゃ……。のう御老体。沼田の御老体!",
"ここじゃ。ちゃんとうしろにおりますわい",
"……? なるほど、左様か。いつのまにおいでじゃ。これが主水之介の妹菊路でござる",
"そちらが御妹御御意中の御小姓か",
"と、まア、左様に若い者を前にして、あからさまなことは言わぬものじゃ。役者が揃わば手段は身共の胸三寸にござる。すぐさま参りましょうぞ。……のう菊",
"あい……",
"そち、疲れておるか",
"あい、少しばかり。……いいえ、あの、久方ぶりに懐かしいお兄様のお顔を見たら、急に元気が出て参りました。何でござります、わたくしに火急の御用とは何でござります",
"それがちと大役なのじゃ。なれどもそちとて早乙女主水之介の妹じゃ。よいか。この兄の名を恥ずかしめぬよう、この兄に成り代ってこの兄にもまさる働きをするよう、充分覚悟致して大役果せよ。と申すはほかでもないが、当大和田の郷に、みめよき女子と見ればよからぬ病の催す不埓な旗本がひとりおるのじゃ。領民達の妻女、娘なぞを十一人も掠め奪り、沙汰の限りの放埓致しおると承わったゆえ、早速に兄が懲らしめに参ろうと思うたが、わるいことにきやつめ、兄と面識のある間柄なのじゃ。それゆえ……",
"分りました。それゆえ顔を見知られぬこの菊に、お兄様に代って懲らしめに参れとおっしゃるのでござりまするか",
"然り。なれども只懲らしめに参るのではない。ちとそこに工夫がいるのじゃ。今も申した通り、至っての女好きじゃでな。さぞかしそちとしては辛くもあろうし、きくもけがわらしい事であろうが、一つには可哀そうな十一人の女子のために、二つにはその女子共を掠められて恨み泣きに泣き恨んでおる領民共のために、三つには八万騎旗本一統の名誉のために、そちが重責荷った節婦になるのじゃ。それゆえ、よいか、このように申してそちひとりがきゃつの屋敷に乗り込んで参れよ。わたくし、旅に行き暮れて道に踏み迷い、難渋致しておる者でござります。ぶしつけなお願いでござりまするが、いち夜の宿お貸し願えませぬかと、この様にな、さもさも困り果てているように見せかけてまことしやかに申すのじゃ。さすれば人一倍色好みのきゃつのことじゃ、兄の口からこのようなこと言うのもおかしいが、江戸でもそう沢山はないそちの縹緻ゆえ、きゃつがほっておく筈はない。わるい病が催して何か言い寄って参らば、そこがそちの働きどころじゃ。近寄らず近寄らせず巧みにあしらって懲しめてやるのよ",
"ま! 恐ろしい! ……でも、でも仕損じて、もしも身にけがらわしい危険が迫りましたら……",
"死ね!",
"えッ!",
"いや、恥ずかしめられなば死ぬ覚悟で参れと申すのじゃ。役者はそちひとりじゃが、うしろ楯にはこの兄がおる。京弥もついておる。それからここにお在での風変りなおじい様も控えておられる。そちと一緒に兄達三人も庭先に忍び入り、事急と相成らば合図次第押し入って、充分に危険は救うてつかわすゆえ、その事ならば心配無用じゃ。よいか、今申した通り、きゃつめがいろいろと淫がましゅう言い寄って参るに相違ないゆえ、風情ありげに持ちかけて、きゃつを坊主にせい",
"坊主⁈ なんのためにござります。何の必要がござりまして、御出家にするのでござります",
"それはあとで相分る。わざわざそちを呼び招いたのも、つまりは、やつの頭をクリクリ坊主にさせたいからじゃ。是が非でも出家にさせねばならぬ必要があるゆえ、そちが一世一代の手管を奮って、うまうまと剃髪させい",
"でも、でも、わたし、そんな手管とやらは……",
"知るまい、知るまい、そちがはしたない女子の手管なぞ存じおらば事穏かでないが、でも、近頃は万更知らぬ事もなかろうぞ。兄がるす中、それに似たようなことを京弥と二人して時折試みていた筈じゃ。わはは。のう、違うかな",
"ま!……",
"いや、怒るな、怒るな、これは笑談じゃ。いずれに致せ、一つ間違わば操に危険の迫るような大役ゆえ、行けと言う兄の心も辛いが、そちの胸も悲しかろう。なれども、天下の御政道のために、是非にも節婦となって貰わねばならぬ。どうじゃ、行くか",
"………",
"泣いてじゃな。行くはいやか",
"いえ、あの、京弥さまさえお許し下さいましたら――",
"参ると申すか",
"あい、行きまする!",
"出かしたぞ、出かしたぞ、いや、きつい当てられたようじゃ。京弥、どうぞよ。菊めが赤い顔して申してじゃ。そち、許してやるか",
"必ずともに危険が迫っても、手前のために操をお護り下さると申しますなら――",
"わはは。当ておるわ、当ておるわ、若い者共、盛んに当ておるわい。いや、事がそう決まらば急がねばならぬ。御老体、先ず事は半成就したも同然じゃ。御支度さッしゃい"
],
[
"あの、物申します。わたくし、旅に行き暮れた女子でござります。宿を取りはぐれまして難渋ひと方ではござりませぬ。今宵いち夜、お廂の下なとお貸し願えぬでござりましょうか、お願いでござります",
"なに、女子でござりますとな。待たッしゃい、待たッしゃい。宿を取りはぐれた女子とあっては耳よりじゃ。どれどれ、どんなお方でござります"
],
[
"御老体、そなた屋敷の模様御存じであろう。十郎次の居間はいずれでござる",
"今探しているところじゃ。待たっしゃい。待たっしゃい。いや、あれじゃ、あれじゃ。あの広縁を廻っていった奥の座敷がたしかにそうじゃ"
],
[
"ほほう、いかさまあでやかな小娘よ喃。道に踏み迷うたとかいう話じゃが、どこへの旅の途中じゃ",
"………",
"怖うはない、いち夜はおろか、ふた夜三夜でも、そなたが気ままな程に宿をとらせて進ぜるぞ。どこへ参る途中じゃ",
"あの、日光へ行く途中でござります",
"ほほう、左様か。このあたりは道に迷いやすいところじゃ。それにしてもひとり旅は不審、連れの者はいかが致した",
"あの、表に、いいえ、表街道までじいやと一緒に参りましたなれど、ついどこぞへ見失うたのでござります",
"じいやと申すと、そなた武家育ちか",
"あい、金沢の――",
"なに、加賀百万石の御家中とな。どことのうしとやかなあたり、育ちのよさそうな上品さ、さだめて父御は大禄の御仁であろう喃",
"いえ、あの、浪人者でござります。それも長いこともう世に出る道を失いまして、逼息しておりますゆえ、よい仕官口が見つかるようにと、二つにはまた、あの――",
"二つにはまたどうしたと言うのじゃ",
"あの、わたくしに、このような不束者のわたくしにでもお目かけ下さるお方がござりますなら、早くその方にめぐり合うよう、日光様へ願懸けに行っておじゃと、母様からのお言いつけでござりましたゆえ、じいやと二人して参ったのでござります",
"ウフフ。うまいぞ。うまいぞ"
],
[
"聟探しの日光詣でとはきくだに憎い旅よ喃。もしも目をかけてとらす男があったら何とする",
"ござりましたら――",
"ござりましたら、何とするのじゃ",
"そのようなお方がござりましたら、きっと日光様が御授け下さりましたお方に相違ござりませぬゆえ、いいえ、あの、わたくしもうそのようなこと申上げるのは恥ずかしゅうござります"
],
[
"可愛いことを申す奴よ喃。身共がなって進ぜよう。誰彼と申さずに、この拙者が聟になって進ぜるがいやか",
"ま! でも、でもあのそんな、ここをお放し下されませ! あの、そんな今お会い申したばかりなのに、もうそんな――",
"いつ会うたばかりであろうと、そなたが可愛うなったら仕方がないわい。どうじゃ。拙者の心に随うてくれるか",
"でも、あの、あなた様は――",
"わしがどうしたと申すのじゃ",
"卑しいわたくしなぞが、お近づくことすら出来そうもないほど、御身分の高いお方のようでござりますゆえ、わたくし、空恐ろしゅうござります",
"しかし、恋に上下はないわい。この通りまだ三十になったばかり、妻も側女もないひとり身じゃ。そちさえ色よい返事致さば、どんなにでも可愛がってつかわすぞ。いいや、そちの望みなら何でもきき届けて進ぜるぞ。親御の仕官口もよいところを見つけて、世に出るよう取り計らってつかわすぞ。どうじゃ、言うこときくか",
"それがあの、本当なら倖でござりますなれど……わたくし、あの只一つ――",
"只一つどうしたと言うのじゃ",
"………",
"黙っていては分らぬ。言うてみい、只一つどうしたと申すのじゃ",
"気になることがあるのでござります",
"どういうことじゃ",
"あの、小さい時、鞍馬の修験者が参りまして、わたくしの人相をつくづく眺めながら、このように申したのでござります。そなたは行末ふとしたことから、身分の高いお方のお情をうけるやも知れぬが、その節は必ずこの事守らねばならぬ。俗人のままの姿でお情うけたならば、その場で悲しい禍いに会わねばならぬゆえ、ぜひにもお頭を丸め、御法体になって頂いてからお情うけいと、このように申されましたゆえ、それが気になるのでござります",
"馬鹿な! 修験者風情の申すことが何の当になるものぞ。くだらぬことじゃ。そのようなことは気にかけるが程のものもないわい",
"いいえ、でも、三年の間に三人の違った修験者に観て頂きましたら、三人共みな同じことを申しましたのでござります。それゆえ、ふとしたことからお情頂戴致すようなことになるとか申したその身分の高いお方というは、もしやあの、お殿様ではないかと思うて、気になるのでござります",
"では、このわしに頭を丸めいと言うのか",
"あい。末々までもと申すのではござりませぬ。御出家姿となって最初の夜のお情をうけたら、邪気が払われて必ずともに倖が参るとこのように修験者共が申しましたゆえ、本当にもし――",
"本当にもし、どうしたと言うのじゃ",
"わたくしのような不束者を本当にもしお目かけ下さるならば、愛のしるしに、いえ、あの誓いの御しるしに、わたくしのわがままおきき届け願いとうござります。そしたらあの……",
"身をまかすと申すか!",
"あい……。いいえ、あの、わたくしもう、なにやら恥ずかしゅうて、胸騒ぎがして参りました。あの、胸騒ぎがしてなりませぬ"
],
[
"わッはは。俄か坊主、唐瓜頭が青々と致して滑かよ喃。風を引くまいぞ",
"なにッ? よよッ! 貴公は!",
"誰でもない。傷の早乙女主水之介よ。江戸でたびたび会うた筈じゃ。忘れずにおったか",
"何しに参った! 狼狽致して夜中何しに参った!",
"ウフフ、おろか者よ喃。まだ分らぬか。三日前の夜、こちらの沼田先生にお伴して、百姓共をとり返しに参ったのもこの主水之介よ。そこのその旅姿の女も、身共の妹じゃわい。八万騎一統の名を穢す不埓者めがッ。その方ごときケダモノと片刻半刻たりともわが肉身の妹を同席させた事がいっそ穢らわしい位じゃ。主水之介、旗本一統に成り変って、未練のう往生させてつかわすわッ。神妙に覚悟せい",
"さてはうぬが軍師となって謀りおったかッ。同輩ながら職席禄高汝にまさるこの大和田十郎次じゃ。屋敷に乱入致せし罪許すまいぞッ、者共ッ者共ッ。狼藉者捕って押えいッ"
],
[
"京弥、青道心を始末せい!",
"お差し支えござりませぬか!",
"投げ捕り、伏せ捕り、気ままに致して、押えつけい"
],
[
"どうじゃ。十郎次、よくみい! そちを坊主にさせた仔細これで相解ろう。早う名の下に書判せい",
"何じゃ。こ、これは何じゃ! 勝手にこのようなものを書いて、何とするのじゃ!",
"勝手に書いたとは何を申すぞ、この一埓、表立って江戸大公儀に聞えなば、家名断絶、秩禄没収は火を睹るより明らかじゃ。せめては三河ながらの由緒ある家名だけはと存じて、主水之介、わざわざ手数をかけその方を坊主にしてやったのじゃ。有難く心得て書判せい"
],
[
"御老体いかがじゃ。こうして十郎次を隠居放逐しておいて、家名食禄を舎弟に譲り取らしておかば、この先当知行所の女共は元より、領民一統枕を高くして農事にもいそしめると言うものじゃ。御気持はいかがでござる。屈強な者共二三人えりすぐって、これなる上申書、すぐさま江戸へ持参するよう、御手配なさりませい",
"ウフフ、あはは、左様か左様か。病の根を枯らし取ると言うたはこの事でおじゃったかい。いや、さすがは干物がお好きなだけのものがおじゃる。飛ばそう、飛ばそう。すぐに江戸へ飛ばしましょうが、その間、丁度よい都合じゃ。今十一人の女共を救うてやったあの部屋が、錠前つき、出入りままならぬ座敷牢ゆえ、大目付御係り役人がお取り調べに参るまで、この青いお頭を投げ込んでおきましょうわい。十郎次出家、立たッしゃい"
],
[
"殿様、有難うござります",
"お蔭で領民共一統生き返りました",
"有難うござります。有難うござります"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
※「不埒」と「不埓」の混在は、底本通りです。
入力:tatsuki
校正:皆森もなみ
2001年10月18日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
"ほらよう。退いた! 退いた! 傷の御殿様がお帰りじゃ",
"早乙女の御前様が御帰りじゃ。ほらよう。退いた! 退いた!"
],
[
"な! 御兄様! ほら、ごろうじませ! ごろうじませ! 灯が見えまする。江戸の灯が見え出しました。さぞかしおなつかしゅうござりましょう?",
"………",
"な! お兄様!",
"………",
"江戸の灯でござります。久方ぶりでござりますもの、さぞかしおなつかしゅうござりましょう",
"………",
"お! お兄様!",
"………",
"お兄様と申しますのに! な! ――お兄様!"
],
[
"もし! ……駕籠屋さん! 駕籠屋さん! 御兄様がどうかしたかも知れませぬ。ちょッと乗り物をお止め下さりませ",
"え?",
"呼んでも呼んでもお兄様の御返事がござりませぬ。どうぞなされたかも知れませぬゆえ、早う止めて、ちょっと御容子を見て下さりませ",
"殿様え! もし傷の御殿様え!"
],
[
"止めいッ。駕籠屋!",
"へ?",
"匂うて参った。身共はここで消えて失くなるぞ",
"何の匂いでござんす? 火事や江戸の名物だ。ジャンと来た奴なら今に始まッたこッちゃござんせぬ。年中焦げ臭せえですよ",
"匂い違いじゃ。吉原の灯りの匂いよ。名犬はよく十里を隔てて主人の匂いを嗅ぎ知る。早乙女主水之介夢の国にあって吉原の灯りの匂いを知るという奴じゃ。何はともあれ江戸へ帰ったとあらばな、ほかのところはともかく、曲輪五丁町だけへは挨拶せぬと、眉間傷もおむずかり遊ばすと言うものじゃ。――菊! 別れるぞ。早う屋敷へ帰って、京弥とママゴトでもせい",
"ま! 変ったことばかりなさる御兄様! おひとりでは御寂しいゆえに御出かけ遊ばしますなら、わたくしがどのようにでも御対手致します。久方ぶりでござりますもの、今宵だけはこのまま御屋敷へ御帰り遊ばしましたがいいではござりませぬか",
"真平じゃ。うっかりそちの口車なぞに乗ったら、この兄の身体、骨と皮ばかりになろうわ。さぞかし手きびしく当てつけることであろうからな。わッはは。邪魔な独り者には吉原でよい妓が待っておるとよ。京弥! 程よく可愛がってつかわせよ。――流水心なく風また寒し。遙かに華街の灯りを望んでわが胸独り寥々……"
],
[
"九重さん",
"何ざます?",
"御大尽がもうさき程からやかましいことをおっしゃってお待ち兼ねですよ",
"いやらしい。そう言ってくんなんし。わちきにも真夫のひとりや二人はござんす。ゆっくり会うてから参りますと、そう言ってくんなんし",
"ちえッ。のぼせていやがらあ"
],
[
"おい。金的! 見ねえ! 見ねえ! 長割下水のお殿様だ。傷の御前様が御帰りだぜ",
"違げえねえ。相変らずのっしのっしと頼もしい恰好をしていらっしゃるな。京へ上ったとかエゾへ下ったとかいろいろの噂があったが、もう御帰りになったと見えるな。六月前までや毎晩ここでお目にかかった御殿様だ。急に五丁町が活気づいて来やがったね"
],
[
"ま! 見なんし! 見なんし! 豆菊さん! 蝶々さん! お半さん! 殿様が御帰りでござんす! 早乙女の御前様が御帰りでありんすよ!",
"どこに! どこに! ま!……",
"やっぱりすうっと胸のすくような傷痕をしてでござんすな。今宵からまたみなさん気の揉める方がお出来でありんしょう。――わちきも水がほしゅうなりました"
],
[
"どうでござりました。吉原とやらは面白うござりましたか",
"それほどでもない。菊!",
"あい。何でござります",
"兄はまたどこぞ旅に出とうなった。江戸は思うたよりも寂しい。いや、思うたよりも退屈なところよな",
"ま! お声までが悲しそうに! ――どうしたらよいのでござりましょう。どうしたら、どうしたらそれがお癒り遊ばしますのでござりましょう"
],
[
"京弥! 京弥! うろたえた声が表に致すぞ。何ぞ火急の用ある者と見える。仲間共に言いつけて、早う開けさせて見い",
"はッ。只今もう開けに参りましたようでござります"
],
[
"ほほう。見たことも会うたこともない者共よ喃。苦しゅうないぞ、縁へ上がって楽にせい",
"いえ、もう、御殿様に御目通りさえ叶いますれば結構でござります。ようよう御会い申すことが出来まして、ほッと致しました。御庭先でも勿体ない位でござります"
],
[
"異な事を申す奴よ喃。先程も表で怒鳴ったのをきけば、身共が帰って参ったと知ったゆえ駈けつけて来たとやら申しておったが、何ぞ用でもあって待っておったか",
"お待ち申していた段じゃござんせぬ。江戸へ御帰りなれば何をおいても吉原へお越し遊ばすだろうと存じまして、今日はおいでか明日はお越しかと、もうこの半月あまり、毎夜々々五丁町で御待ち申していたんでごぜえます。今晩もこちらのお絹さんと、――こちらはあッしの知り合いの棟梁の御内儀さんでごぜえますが、このお絹さんと二人していつもの通り曲輪へ参りましたところ、うれしいことにお殿様が旅から御帰りなせえまして、今しがた、ひと足違げえに御屋敷へ御引き揚げ遊ばしましたとききましたゆえ、飛び立つ思いで早速御願げえに参ったのでごぜえます",
"毎夜吉原で待っておったとは、ききずてならぬ事を申す奴よ喃。飛び立つ思いで願いに参ったとやら申す仔細は一体どんなことじゃ",
"どうもこうもござんせぬ。あッし共風情の端ッ葉者じゃどうにも手に負えねえことが出来ましたんで、ぜひにも殿様にお力をお借りせずばと、ぶしつけも顧みずこうしてお願いに参ったのでごぜえます",
"なに! 主水之介の力が借りたいとのう。ほほう、左様か。相変らず江戸はちと泰平すぎて、傷供養らしい傷供養もしみじみと出来そうもないゆえ、事のついでに今宵にもまたどこぞ長旅へ泳ぎ出そうかと存じておったが、どうやら話しの口裏を察するに、万更でもなさそうじゃな",
"万更どころじゃねえんですよ。あッしゃいってえお殿様が黙ってこの江戸を売ったッてえことが気に入らねえんです。御免なせえましよ。お初にお目にかかって、ガラッ八のことを申しあげて相済みませんが、こいつアあッしの気性だから、どうぞ御勘弁下せえまし、そもそもを言やア御殿様は、傷の御前で名を御売り遊ばした江戸の御名物でいらッしゃるんだ。その江戸名物のお殿様が、御自身はどういう御気持でのことか知らねえが、あッしとら殿様贔屓の江戸ッ児に何のひとことも御言葉を残さねえで、ぶらりとどこかへお姿を消してしまうなんてえことが、でえ一よくねえんですよ。何を言っても江戸は日本一御繁昌の御膝元なんだからね。こちらに御在で遊ばしゃ遊ばしたで、是非にも御殿様でなくちゃというような事がいくらでもあるんです",
"ウフフ。あけすけと歯に衣着せず申してずんと面白い気ッ腑の奴じゃ。どうやら眉間傷もチュウチュウと啼き出して参ったようじゃわい。そこでは話が見えぬ。上がれ。上がれ。何はともかく上がったらよかろうぞ",
"では、真平御免下せえまし。こうなりゃあッしもお殿様にその眉間傷を眺め眺め申し上げねえと、丹田に力が這入らねえから、御言葉に甘えてお端しをお借り申します。早速ですが、そういうことなら先ず手前の素姓から申します。御覧のようにあッしゃ少しばかり侠気の看板のやくざ者で、神田の小出河岸にちッちゃな塒を構え、御商人衆や御大家へお出入りの人入れ稼業を致しておりまする峠なしの権次と申す者でごぜえますが、御願いの筋と申しますのはこちらのお絹さんの御亭主なんですよ。これがついこの頃人に奪られましてね",
"奪られたと言うのは、他に隠し女でも出来て、その者に寝奪られたとでも申すか",
"どう仕りまして、そんな生やさしい色恋の出入りだったら、口憚ッたいことを申すようですが、峠なしの権次ひとりでも結構片がつくんです。ところが悪いことに対手が少々手に負えねえんでね。殿様が旅に御出かけなすった留守の事なんだから、勿論御存じではござんすまいが、ついふた月程前に、あッしのところの小出河岸とはそう遠くねえ鼠屋横丁へ、変な町道場を開いた野郎があるんですよ",
"なるほどなるほど、何の町道場じゃ",
"槍でござんす。何でも上方じゃ一二を争う遣い手だったとか評判の、釜淵番五郎という名前からして気に入らねえ野郎ですがね。それがひょっくり浪華からやって来て途方もなく大構えの道場を開いたんですよ。ところがよく考えて見るてえと開いた場所からしてがどうも少しおかしいんです。鼠屋横丁なんてごみごみしたところへ飛び入りに、そんな大きな町道場なんぞ構えたって、そうたやすく弟子のつく筈あねえんですからね。近くじゃあるし、変だなと思っているてえと、案の定おかしなことを始めたんですよ。開くまもなく職人を大勢入れましてね",
"何の職人じゃ",
"最初に井戸掘り人夫を十四人ばかりと、あとから大工が八人、その棟梁の源七どんの御内儀さんがつまりこちらのお絹さんでごぜえますが、入れたはよいとして、いかにも不思議というのは、もうかれこれひと月の上にもなるのに、井戸掘り職人は言うまでもないこと、八人の大工もいったきりでいまだにひとりも――",
"帰らぬと申すか",
"そうなんでごぜえます。いくつ井戸を掘らしたのか知らねえが、十四人からの人夫がかかれば三日に一つは大丈夫なんですからね。それだのに行ったきりと言うのもおかしいが、通い職人がまた泊り込みでひとりも帰らず、四十日近くもこちら井戸ばかり掘っているというのも腑に落ちねえことなんですからね。少し気味がわるくなって、ひと晩でいいから宿下りをさせておくんなせえましとお願いに参ったんでござんす。ところが変なことに、釜淵の道場の方ではもうとっくに井戸なんぞ掘りあげたから、人夫は十四人残らずみんな帰したと言うんですよ。帰したものなら帰って来なくちゃならねえのに一向帰らねえのは、愈々只事じゃあるめえというんで、つい色々と凶い方にも気が廻ったんです。と言うのは、無論お殿様なんぞ御存じでごぜえましょうが、ひょっとするとあれじゃねえかと思いましてね。ほら、よくあるこッちゃござんせんか。お城普請やお屋敷なんぞを造らえる時に、秘密の抜け穴や秘密仕掛けの部屋をこっそり造らえて、愈々出来上がってしまうと外への秘密が洩れちゃならねえというんで、工作人夫を生き埋めにしたり、バッサリ首を刎ねたりするってことを聞いておりますんでね。もしやそんなことにでもなっていちゃ大変と、内々探りを入れて見たんです。するてえと――",
"あったか! 何ぞそれらしい証拠があったか!",
"あったどころか、どうも容易ならんことを耳に入れたんですよ。どんな抜け穴を掘ったか知らねえが、仕事が出来上がってしまってから、人夫を並べておいてやっぱり首を刎ね出したんでね、そのうちのひとりが怖くなって逃げ出したと言うんです。しかし逃げられちゃ道場の方でも大変だから、内門弟を六人もあとから追っかけさせて、とうとう首にしたとこう言うんですよ。だから、こちらのお絹さんもすっかり慌てておしまいなすったんです。井戸掘り人夫がそんなことになったとすりゃ、勿論棟梁達も無事で帰ることはむずかしかろうと大変な御心配で、あっしごとき者をもたったひとりの力と頼りにしておくんなせえましたんですが、悲しいことには向うは兎も角も道場の主なんです。いくらあッしが掛け合いにいっても、打つ、殴る、蹴るの散々な目に会わせるだけで、一向埓が明かねえんでごぜえますよ。いいえ、命はね、決して惜しくねえんです。あッしとても人から男達だの町奴だのとかれこれ言われて、仮りにも侠気を看板にこんなやくざ稼業をしておって見れば、決して死ぬのを恐ろしいとも怖いとも命に未練はねえんですが、身体を投げ出して掛け合いにいって、斬り死してみたところで、肝腎の道場のその秘密を嗅ぎ出さずに命を落してしまったんでは結句犬死なんです。ひょっくり上方からやって来た工合から言っても、人夫を入れて変な真似をするあたりから察しても、どうやらあいつ只の鼠じゃねえと思いますんでね。なまじあッしなぞが飛び出すよりも、こういうことこそお殿様が肝馴らしには打ってつけと存じまして、実あ首長くしながら毎日々々お帰りをお待ち申していたんでごぜえますよ",
"なるほど喃。話の模様から察するに、いかさま何ぞ曰くがありそうな道場じゃ。いや、この塩梅ならばなかなかどうして、江戸もずんと面白そうじゃわい。では何じゃな、源七とやら申す棟梁は、いまだに止め置きになっておるが、まだ首は満足につながっておると申すのじゃな",
"そうなんでごぜえます。殿様がお帰り遊ばさねえうちに、バッサリとやられてしまったんじゃ、折角お待ち申してもその甲斐がねえと存じましたんで、毎日々々気を揉みながらこっそり乾児共を容子探りにやっておりましたんですが、今日もトントンカチカチと金槌の音がしておったと申しましたゆえ、大工の方は仕事が片付かねえ模様なんです",
"ならば乗り込み甲斐があると申すものじゃ。今からすぐにでも参ろうが、道場の方はどんな容子ぞ",
"今夜だったら願ったり叶ったりでごぜえます。今頃丁度済んだか済まない頃と存じますが、何の試合か宵試合がごぜえましてね、済んでから門弟共残らず集めて祝い酒かなんかを振舞うという話でごぜえましたから、その隙に乗り込んだらと存じまして、実はあッしも大急ぎに吉原から御あとを追っかけて参ったんでごぜえますよ",
"面白い! 門弟残らずが集っておるとあらば、傷供養もずんと仕栄えがあると申すものじゃ、では早速に参ろうぞ。京弥! 京弥!"
],
[
"そちも聞いたであろう。退屈払いが天から降って参った。吉原へも挨拶に参るものよ喃。そちらの雲行はどんな容子ぞ",
"は?",
"分らぬか。二人者はこういう折に兎角手数がかかってならぬと申すのじゃ。許しがあらばそちにも肝馴らしさせて得さするが、菊の雲行はどんなぞよ",
"またそのような御戯談ばッかり。菊どのもお聞きなさいまして、只今とくと手前に申されましてござります。御兄様の御気が霽れます事なら、怪我をせぬように、御無事で帰るように行って来て下さりませと、このように申されましてでござりますゆえ、どこへでもお伴致しまするでござります",
"ウフフ。陰にこもったことを申しておるな。怪我をせぬように、御無事で帰るようにとは、ほんのりとキナ臭い匂いが致して、兄ながら只ではききずてならぬ申し条じゃ。では、匇々に乗り物の用意せい"
],
[
"御出かけ遊ばしますのは、御二人きりなんでごぜえますか",
"元よりそちも一緒じゃ。今になって怖じ毛ついたか",
"どう仕りまして。ここらが峠なしの権次、命の棄て頃と存じますゆえ、一緒に来るなとおっしゃいましても露払いに参る覚悟でごぜえますが、三人きりでは少うし――",
"少し何じゃ。門弟共の数でもが多いゆえ、三人きりでは人手不足じゃと申すか",
"いいえ、弟子や門人達なら、三十人おろうと五十人おろうと、殿様のその眉間傷が一つあったら結構でごぜえますが、道場主番五郎のうしろ楯にちょッと気になるお方がおいでのようでごぜえますゆえ、うっかり乗り込んで参りましたら、いかな早乙女の御前様でも事が面倒になりやしねえかと思うんでごぜえます",
"ほほう、番五郎の黒幕にまだそのような太夫元がおると申すか。気になるお方とやら申すは一体何ものじゃ",
"勿論御名を申しあげたら御存じでごぜえましょうが、いつぞや大阪御城の分銅流し騒動でやかましかった、竜造寺長門守様でごぜえます",
"なに! 竜造寺殿が糸を引いておるとのう。これはまた意外な人の名が出たものじゃな。どうしてまたそれが相分った。何ぞたしかな証拠があるか",
"証拠はねえんです。あったらまた御上でも棄てちゃおきますまいが、乾児の若けえ者達の話によると、竜造寺の殿様が二三度あの道場へこっそり御這入りなすったところをたしかに見かけた、と言うんでごぜえます。釜淵番五郎が大阪者だというのも気になるが、竜造寺のお殿様もまたその大阪とは因縁の深けえお方でごぜえますから、それこれを思い合わせて考えまするに、どうも何か黒幕で糸を操っていらッしゃるんじゃねえかと思うんでごぜえます。それゆえ、万ガ一の場合のことをお考え遊ばして、御殿様の御仲間のお旗本衆でも二三人御連れなすったらいかがでごぜえます",
"いかさま喃。竜造寺殿が蔭におるとはちと大物じゃな"
],
[
"ウフフ。安い酒がそろそろ廻り出した模様じゃな。傷もむずむずとむず痒くなって参ったようじゃ。まさかにこの祝い酒、大工共を首尾よく血祭りにあげた祝い酒ではあるまいな",
"いえ、その方ならば大丈夫でごぜえます。ほら、あれを御聞きなせえまし、夜業でもしておりますものか、あの通り槌の音が聞えますゆえ、棟梁達の首は大丈夫でごぜえます"
],
[
"首のない者が夜業も致すまい。では、久方ぶりに篠崎流の軍学小出しに致して、ゆっくり化物屋敷の正体見届けてつかわそうぞ。羅漢共は何名位じゃ。京弥、伸び上がって数えてみい",
"心得ました。――ひとり二人三人五人、十人十三人十六人、すべてで十九人程でござります",
"番五郎はどんなぞ? 一緒にとぐろを巻いているようか",
"それが手前にはよく分りませぬ。真中にふたり程腕の立ちそうなのが坐っておることはおりますが、どちらがどれやら、権次どの、そなた顔を覚えておいでの筈じゃ。ちょっと覗いて見て下さりませ",
"ようがす。しかと見届けましょう。――いえ、あいつらはどちらも釜淵の野郎じゃござんせぬ。恐らく番五郎めは奥で妾と一緒に暖まってでもいるんでしょう。あの右のガッチリした奴は師範代の等々力門太とかいう奴で、左のギロリとした野郎はたしかに一番弟子の吉田兵助とかいう奴でごぜえます",
"ほほう、左様か。面倒な奴は先ず二人じゃな。どれどれ、事のついでにどの位出来そうか星をつけておいてつかわそう。――なるほど喃。右は眼の配り、体の構え先ず先ず京弥と五分太刀どころかな。左の吉田兵助とやらは少し落ちるようじゃ。では、一幕書いてやろうわい、京弥",
"はッ",
"もそっと耳を寄せい",
"何でござります?",
"そのように近づけいでもいい。のう、よいか。事の第一はこれなる化物道場のカラクリ暴き出すが肝腎じゃ。それがためには抜いてもならぬ。斬ってもならぬ。手足まといな門人共を順々に先ず眠らしておいて、ゆるゆる秘密探り出さねばならぬゆえ、そのところ充分に心得てな、その腕ならばそちも二三度位は道場破りした覚えがあろう。その折の骨を用いて他流試合に参ったごとく持ちかけ、そちの手にあまる者が飛び出て参るまで、当て身、遠当て、程よく腕馴らしやってみい",
"心得ました。久方ぶりでの道場荒し、では思いのままに門人共を稽古台に致しまするでござります"
],
[
"槍術指南の表看板只今通りすがりに御見かけ申して推参仕った。夜中御大儀ながら是非にも釜淵先生に一手御立会い所望でござる。御取次ぎ下さりませい",
"何じゃと、何じゃと、他流試合御所望でござるとな。このような夜ふけに参られたとはよくよく武道御熱心の御仁と見えますな。只今御取次ぎ仕る"
],
[
"わはは。何じゃい何じゃい。今愉快の最中じゃ。当道場には稚児の剣法のお対手仕る酔狂者はいち人もござらぬわ。御門違いじゃ。二三年経ってから参らッしゃい",
"お控え召されよ!"
],
[
"武芸十八般いずれのうちにも、小姓ならば立会い無用との流儀はござらぬ筈じゃ。是非にも一手所望でござる。早々にお取次ぎ召されい",
"なに! 黄ろい奴が黄ろいことをほざいたな。強って望みとあらば御対手せぬでもないが、当流釜淵流の槍術はちと手きびしゅうござるぞ。それにても大事ござらぬか",
"元より覚悟の前でござる。手前の振袖小太刀も手強いが自慢、文句はあとでよい筈じゃ。御取次ぎ召さりませい",
"ぬかしたな。ようし。案内しょうぞ。参らッしゃい。――各々、みい! みい! 世の中にはずい分とのぼせ性の奴がいる者じゃ。この前髪者が一手他流試合を所望じゃとよう。丁度よい折柄ゆえ、酒の肴にあしらってやったらどんなものじゃ",
"面白い。武芸自慢の螢小姓やも知れぬ。あとあと役に立たぬよう、股のあたりへ一本、変ったタンポ槍を見舞ってやるのも一興じゃ。杉山、杉山! 貴公稚児いじりは得意じゃろう。立ち合って見さッせい"
],
[
"あれ程お出来とは存じませんでしたよ。まるで赤児の手をねじるようなものじゃござんせんか。いい男振りだ。実にいい男前だね。前髪がふっさり揺れて、ぞッと身のうちが熱くなるようですよ",
"ウフフ。そちも惚れたか",
"娘があったら、無理矢理お小間使いにでも差しあげてえ位ですよ",
"ところがもう先約ずみで喃。お気の毒じゃが妹菊めが角を出そうわ。――みい! みい! 言ううちに三人目もまたあっさり芋虫にしたようじゃ。三匹並んで長くなっておるところは、どうみても一山百文口よ喃"
],
[
"大丈夫でごぜえましょうか。野郎なかなか出来そうですぜ。もしかの事があったらお嬢様に申し訳がねえんです。そろそろお出ましになったらどうでごぜえます",
"ウフフ。左様のう――"
],
[
"揃うて出迎い御苦労じゃ。ウッフフ。揉み合って参らば頭打ち致そうぞ。――京弥、危ないところであった喃",
"はッ。少しばかり――",
"ひと足目つぶしが遅れて怪我をさせたら、菊めに兄弟の縁切られるところであったわい。もうよかろう。ゆるゆるそちらで見物せい。門太!",
"なにッ",
"名前を存じおるゆえぎょッと致したようじゃな。わッはは。左様に慄えずともよい。先ずとっくりとこの眉間傷をみい。大阪者では知るまいが、この春京まで参ったゆえ、噂位にはきいた筈じゃ。如何ぞ? どんな気持が致すぞ? 剥がして飲まばオコリの妙薬、これ一つあらば江戸八百八町どこへ参るにも提灯の要らぬという傷じゃ。貴公もこれが御入用かな",
"能書き言うなッ。うぬも道場荒しの仲間かッ",
"左様、ちとこの道場に用があるのでな、ぜびにも暫く頂戴せねばならぬのじゃ。こういうことは早い方がよい。あっさり眠らしてつかわすぞ"
],
[
"ほほう、さすがはそちじゃ。身共を早乙女主水之介と看破ったはなかなか天晴れぞ。名が分ったとあらば用向きも改まって申すに及ぶまい。あの男を見れば万事分る筈じゃ。――権次! 権次! 峠なしの権次!",
"めえります! めえります! 只今めえります! ――やい! ざまアみろい! 一番手は京弥様。二ノ陣は傷の御前、後詰は峠なしの権次と、陣立てをこしれえてから、乗り込んで来たんだ。よもや、おいらの面を忘れやしめえ! 用はこの面を見りゃ分るんだ。よく見て返答しろい!",
"そうか! うぬが御先棒か! それで何もかも容子が読めたわ。あの大工がほしいと言うのか。ようし。ではこちらも泡を吹かしてやろうわッ。――殿! 殿!"
],
[
"殿! 殿! やっぱり察しの通りでござりました。後押しの奴も御目鑑通り早乙女主水之介でござりまするぞ。御早く御出まし下さりませい",
"よし、参る"
],
[
"ウフフ。そちが早乙女主水之介か",
"わッはは。お身が竜造寺どのでござったか",
"珍しい対面よ喃",
"いかにも",
"対手がそなたならば早いがよい。用は何じゃ",
"御身の謎を解きにじゃ",
"面白い! 長門の返答はこれじゃ。受けてみい!"
],
[
"竜造寺長門と言われた御身も、近頃耄碌召さったな",
"なにッ。では、どうあっても長門の秘密、嗅ぎ出さずば帰らぬと申すか!",
"元よりじゃ。横紙破りのお身が黒幕にかくれて、これだけの怪事企むからには、よもや只の酔狂ではござるまい。槍ならばこの眉間傷、胆力ならば身共も胆力、名家竜造寺の系図を以て御対手召さらば、早乙女主水之介も三河ながらの御直参を以て御手向い申すぞ。御返答いかがじゃ",
"ふうむ、そうか。さすがにそなただけのことはある喃。その言葉竜造寺長門、気に入った。よし。申してつかわそう。みなこれ天下のためじゃわ",
"なに! 何と申さるる! 近頃奇怪な申し条じゃ。承わろうぞ! 承わろうぞ! その仔細主水之介しかと承わろうぞ! 怪しき道場を構えさせ、怪しき武芸者を使うて人夫共の首斬る御政道がどこにござるか",
"ここにあるゆえ仕方がないわ。びっくり致すな。井戸掘人夫を入れて掘らしたは陥し穴じゃ。大工達に造えさせおるは釣天井じゃ。みなこれ悪僧護持院隆光めを亡き者に致す手筈じゃわ",
"なになに! 隆光とな! 護持院の隆光でござるとな! ――"
],
[
"意外じゃ! 意外じゃ、実に意外じゃ。いやさすがは長門守どの、狙う対手がお違い申すわい、それにしても――",
"何じゃ",
"隆光はいかにも棄ておき難い奴でござる。なれども、これを亡き者と致すにかような怪しきカラクリ設けるには及びますまいぞ。何とてこのような道場構えられた",
"知れたこと、悪僧ながら彼奴は大僧正の位ある奴じゃ。ましてや上様御祈願所を支配致す権柄者じゃ。只の手段を以てはなかなかに討ち取ることもならぬゆえ、この二十五日、当道場地鎮祭にかこつけて彼奴を招きよせ、闇から闇に葬る所存じゃわ。その手筈大方もう整うたゆえ、今宵この通り前祝いさせたのじゃ",
"ウフフ。あはは! 竜造寺どの、お身も愈々耄碌召さった喃",
"なにッ。笑うとは何じゃ。秘密あかした上からは、早乙女主水之介とて容赦せぬ。出様次第によってはこのまま生かして帰しませぬぞ",
"ウフフ。また槍でござるか。生かして帰さぬとあらば主水之介、傷に物を言わせて生きて帰るまでじゃが、隆光を憎しみなさるはよいとして、罪なき人夫を首にするとは何のことぞ。さればこそ、竜造寺長門守も耄碌召さったと申すのじゃ。いかがでござる。言いわけおありか",
"のうて何とするか! 隆光が献策致せし生類憐れみの令ゆえに命を奪られた者は数限りがないわ。京都叡山、天台の座首も御言いじゃ。護持院隆光こそは許し難き仏敵じゃ。彼を生かしておくは仏の教を誤る者じゃと仰せあったわ。さるゆえ竜造寺長門、これを害めるに何の不思議があろうぞ。憎むべき仏敵斃すために、人夫の十人二十人、生贄にする位は当り前じゃわ",
"控えませい!",
"なにッ",
"十人二十人生贄にする位当り前とは何を申されるぞ。悪を懲らすに悪を以てするとは下々の下じゃ。隆光いち人斃すの要あらば正々堂々とその事、上様に上申したらよろしかろうぞ。主水之介ならばそのような女々しいこと致しませぬわ!",
"………",
"身共の一語ぐッと胸にこたえたと見えますな。そうでござろう。いや、そうのうてはならぬ。男子、事に当ってはつねに正々堂々、よしや悪を懲らすにしても女々しき奸策を避けてこそ本懐至極じゃ。天下御名代のお身でござる。愚か致しましたら、竜造寺家のお名がすたり申しましょうぞ",
"………",
"いかがでござる!",
"………",
"主水之介は、かような女々しき、奸策は大嫌いじゃ。今なお槍をお持ちじゃが、まだ横車押されると申さるるか! いかがでござる!",
"………",
"いかがじゃ! 返答いかがでござる",
"いや、悪かった。面目ない。許せ許せ"
],
[
"棟梁共もさぞかし喜ぼうぞ。早う救い出して宿帰りさせい",
"心得ました。ざまアみろい"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:大野晋
2001年12月18日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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"おういよう……",
"何だよう……",
"かかった! かかった! めでたいお流れ様がまたかかったぞう!",
"品は何だよう!",
"対じゃ。対じゃ。男仏、女仏一対が仲よく抱きあっておるぞ",
"ふざけていやアがらあ。心中かい。何てまた忙しいんだろうな。今漕ぎよせるからちょッと待ちなよ"
],
[
"みろ! みろ! おい庄的! 男も若くていい男だが、女はまたすてきだぜ",
"どれよ。どこだよ",
"な、ほら。死顔もすてきだが、第一この、肉付きがたまらねえじゃねえかよ。ぽちゃぽちゃぽってりと程よく肥っていやがって、身ぶるいが出る位だぜ",
"分らねえんだ。暗くて、おれにはどっちが頭だかしっぽだかも分らねえんだよ。もっと灯りをこっちへ貸しなよ。――畜生ッ。なるほどいい女だね。くやしい位だね。死にたくなった! おらも心中がして見てえな。こんないい女にしッかり抱かれて死んだら、さぞや、いいこころ持ちだろうね",
"言ってらあ。死ぬ当人同士になって見たら、そうでもあるめえよ。それにしても気にかかるのはこの年頃だ。何ぞ書置きかなんかがあるかも知れねえ。ちょっくら仏をこっちへねじ向けて見な"
],
[
"畜生ッ。いけねえ! 何だか気味のわりい死体だぜ。早くつけろ! つけろ! 灯りをつけなよ",
"つ、つけようと思ってるんだが、なかなかつかねえんだよ。――何だかいやだね。変な気持になりゃがった。只の心中じゃねえかも知れねえぜ",
"大の男が何ょ言うんでえ。お流れいじりは商売のようなおれらじゃねえかよ。俺がつけてやるからこっちへ貸してみな"
],
[
"畜生ッ。巻きつきゃがった。巻きつきゃがった。ぺとりと女の髭の毛が手首に巻きつきゃがったぜ",
"え! おい! 本当かい。脅かすなよ。脅かすなよ。――いやだな、何か曰くのある心中だぜ"
],
[
"変だぜ。変だぜ。やっぱりどうも調子が変だよ",
"な! ……",
"男も男だが、女が花魁だけに、なおいけねえんだ。どっちにしても棄てちゃおけねえんだから、早えところ京橋へお知らせしなくちゃならねえ。船を出しなよ"
],
[
"やだね。別嬪の小姓がひとりで時でもねえ冬の夜釣りなんて気味がわりいじゃねえか。今夜はろくなものに会わねえよ。――真平御免やす! 御目障りでござんしょうが、通らせておくんなせえまし! 土左船でごぜえます!",
"なに! 土左船!"
],
[
"土左船、水死人はどんな奴ぞ?",
"心中者でごぜえますよ",
"ほほう。粋なお客じゃな。何者達かい",
"男は京橋花園小路、糸屋六兵衛伜源七という書置がごぜえます。女は吉原三ツ扇屋の花魁誰袖というんだそうでごぜえますよ",
"花魁とあの世へ道行はなかなかやりおるのう。よい、よい。通行差許してつかわすぞ。早う通りぬけい!"
],
[
"面白うない。京弥、そろそろ罷帰るかのう。精進日という奴じゃ。土左船に出会うようでは釣れぬわい。ウフフフ。主水之介の眉間傷も小魚共には利き目が薄いと見ゆるよ",
"はッ。御帰館との御諚ならば立ち帰りまするでござりますが、釣れぬのは――",
"釣れぬのは何じゃ",
"水死人ゆえでも、御眉間傷の利き目が薄いゆえでもござりませぬ。冬の夜釣りがそもそも時はずれ、ましてやタナゴ釣りは陽のあるうちのもの、いか程横紙破りの御好きな御殿様でござりましょうとも、釣れる筈のない時に釣れる道理はござりませぬ",
"わははは。身共を横紙破りに致したは心憎いことを申す奴よのう。眉間傷も曲っておるが、主水之介はつむじも少々左ねじじゃ。馬鹿があってのう",
"は?",
"昔のことよ。昔々大昔、馬鹿があってのう。箒で星を掃き落とそうとしたそうじゃ。ウフフフ。主水之介もその馬鹿よ。釣れても釣れのうても釣りたくなると釣って見たいのじゃ。――帰るかのう"
],
[
"船頭々々",
"へッ",
"獲物はないが、冬ざれの大川端の遠灯眺むるもなかなか味変りじゃ。そのように急ぐには及ばぬぞ",
"でも京弥様が、寒いゆえ早うせい、早うせいと――",
"申したか! ウッフフ。京弥! なかなか軍師じゃのう。どんな風やら、さぞかし寒かろうぞ。菊めの袖屏風がないからのう。身共も吉原へでも参って、よい心中相手を探すかな",
"ま! またお兄様が御笑談ばッかり、その菊路はここにお迎えに参っておりまする"
],
[
"あの、京弥さまは? ……",
"ここでござります",
"ま? お寒そうなお姿して――、御風邪は召しませなんだか。そうそう。あの御兄様、大事ことを忘れておりました"
],
[
"な! お兄様、あの、先程から何やら気味のわるい御客様が御帰りを御待ちかねでござります",
"なに! 気味のわるい客とのう。どんな仁体の者じゃ",
"口では申されぬ気味のわるい男のお方でござります",
"ききずてならぬ。すぐ参ろうぞ。仲よく二人で舟の始末せい"
],
[
"身共が主水之介じゃ。何ぞ?",
"………"
],
[
"不審なことよのう。――京弥々々。京弥はいずれじゃ",
"はッ。只今! 只今参りまするでござります"
],
[
"それをみい",
"何でござります?",
"幽霊が菓子折を届けて参ったのよ。そちも聞いた筈ゆえ覚えがあろう。その名前よくみい",
"……? えッ! なるほど、源七とござりまするな。まさしくあの心中男、ど、どうしたのでござります。どこから誰が持参したのでござります?",
"今の先、青テカ坊主が黙ッておいていったわ",
"なるほど。では、只今のあの按摩でござりまするな",
"会うたか!",
"今しがた御門先ですれ違いましてござりまするが、あれならばたしかにめくらでござります",
"わはは。そうか。そうか。目は明いておるが盲目であったと申すか。道理で蛤のような目を致しおったわい。それにしても源七とやらは、とうにもう大川から三途の川あたりへ参っている筈じゃ。何の寸志か知らぬが、身共につけ届けするとは不審よのう"
],
[
"何じゃ。また菓子折か",
"あい。これでござります"
],
[
"よくよく不気味なことばかりよのう。取次いだは菊か。そちであったか",
"あい。やさしゅうちいさな声で、ご免下さりませと訪のうた者がござりましたゆえ、出てまいりましたら、式台際に顔の真ッ白い――",
"女か",
"いいえ、女のような男でござります。それも若い町人でござりました。その者がいきなり黙ってこの品を出しまして、殿様に――お兄様によろしゅうと、たったひとこと申したまま、何が怕いのやら、消えるように急いで立ち去りましてござります",
"何から何まで解せぬことばかりじゃ。幽霊なぞがあるべき筈はない。いいや、あッたにしても傷の主水之介、冥土から菓子折なぞ受ける覚えはない。まだそこらあたりに姿があるであろう。京弥、追いかけてみい",
"心得ました。菊どの! 鉄扇々々"
],
[
"見かけざったか",
"ハッ。いかにも不思議でござります。ご存じのように道は、遠山三之進様の御屋敷まで真ッ直ぐに築地つづき、ほかに曲るところもそれるところもござりませぬのに、皆目姿が見えませぬ。念のためにと存じまして、裏へも廻り、横堀筋をずッと見検べましたが、ひと影はおろか小舟の影もござりませぬ",
"のう! ……。参ったからには足がないという筈はあるまい。ちとこれはまた退屈払いが出来るかな。その菓子、二折とも開けてみい"
],
[
"ほほう、いよいよ不審よのう。二品ともにみな主水之介の大好物ばかりじゃ。身共の好物知って贈ったとは、幽霊なかなか話せるぞ。それだけに気にかかる。京弥、何時頃じゃ",
"四ツ少し手前でござります",
"先刻、土左船がたしか京橋花園小路の糸屋だとか申したな",
"はッ。間違いなく手前もそのように聞きましてござります",
"ちと遅いが、すておけぬ。伜がよからぬ死に方したとあっては、定めし寝もやらず、まだ打ち騒いでおるであろう。よい退屈払いじゃ。そちも供するよう乗物支度させい"
],
[
"その駕籠待たッしゃい。急いでどこへお行きじゃ",
"身共じゃ。退屈払いに参るのよ。この眉間をようみい",
"あッ。傷の御前――いや、早乙女の御前様でござりまするか。御ゆるりと御保養遊ばしませい"
],
[
"直々の目通り、苦しゅうないぞ。主人はおるか",
"おりますが、只今ちょッと家のうちに取込みがござりますゆえ、出来ますことならのち程にでも――",
"その取込事にかかわる急用で参ったのじゃ。おらば控えさせい",
"失礼ながらどちら様でござります"
],
[
"そのように固くならずともよい。主水之介不審あって罷り越したのじゃ。土左船の者達、こちらへ参った筈じゃが、伜共の死体もう届いたであろうな",
"へえい。と、届きましてござります。半刻程前に御運び下さいましたが、それがちと――",
"いかが致した。生き返ったか!",
"ど、どう仕りまして。伜とは似てもつかぬ全然の人違いなのでござります",
"なにッ。人違いとのう! ほほう、そうか。ちとこれは面白うなって参ったかな。なれども死顔は変るものじゃという話であるぞ",
"よしや変りましても、親の目は誰より確か。年恰好、背恰好はどうやら似ておりまするが、伜はもッと優型でござりました。水死人はむくみが参るものにしても、あのように肥っておりませなんだ筈、親の目に間違いはござりませぬ",
"でも、書置にまさしくその方伜と書いてあったそうじゃが、それは何と致した",
"なにより不審はそのこと。骸は誰が何と申しましょうとも、見ず知らずの他人でござりますのに、どうしたことやら、書置の文字は紛れもなく伜の手蹟でござりますゆえ、手前共もひと方ならず不審に思うているのでござります",
"女の方はどうぞ? 誰袖とやらの骸は、吉原へ送ったか。それともまだこちらにあるか",
"こちらにござります。何が何やらさッぱり合点参りませぬゆえ、庭先に寝かしたままでござりまするが、それもやはり――",
"人違いじゃと申すか!",
"はッ。なにはともかくと存じまして、さそくに人を飛ばし、三ツ扇屋とやらの主人にもお越しを願うたところ、今しがた駈けつけまして打ちしらべましたばかりでござりまするが、やはり似てもつかぬ別人じゃそうにござります",
"のう! ――まことと致さばなにさまいぶかしい。騒ぎのもとと相成ったその伜はいずれじゃ。源七は行方知れずにでもなっておるか",
"それが実は心配の種でござります。どうしたことやら、四日程前にぶらりと家を出たきり、行き先も居どころも皆目分りませぬゆえ、もしや不了簡でも起したのではないかと、打ち案じておりましたところへ、人違いの心中者が届きましたゆえ、かように騒ぎが大きくなった次第でござります",
"誰袖もか",
"同じ日の夕方、やはり居のうなっているのじゃそうにござります。そういうお殿様はまた、いったいどうしてここへ?",
"到来物があったからじゃ。行方知れずの源七達から菓子折が参ったのよ",
"えッ。ではあの、せ、伜はまだ生きておるのでござりましょうか! どこぞにまだ存生しておりましょうか!",
"おるかおらぬかそれが謎じゃ。人間二匹居のうなって死体が揚がる、書置の手蹟は本人のものじゃがむくろは別人、死んだ筈のその者共から、選りに選って傷の主水之介に菓子折が到来したとあっては面白いわい面白いわい。いや近項江戸にも珍しい怪談ものじゃ。念のためそれなる死体一見しょうぞ。案内せい"
],
[
"はてのう。ちと不審じゃのう京弥",
"何でござります",
"断末魔の苦悶はおろか、水を呑んであがいたような色もない。いぶかしいぞ。灯りをみせい"
],
[
"ウッフフフ。わッははは。いや、面白いぞ。面白いぞ。水死人に絞め殺した紐痕が見ゆるとは、愈々怪談ものじゃ。どうやら話が本筋に這入ったわい。――亭主! 亭主!",
"はッ。六兵衛はここに控えてござります",
"いやそちでない。遊女屋の亭主じゃ。誰袖の抱え主が参り合わせておると申したが、いずれじゃ",
"へえへえ。三ツ屋の亭主ならば手前でござります。いつもながら御健勝に渡らせられまして、廓内の者一統悦ばしき儀にござります。近頃は一向イタチの道で、いや、一向五丁町へお越し遊ばされませぬが何か――",
"つべこべ申すな! ここは曲輪でない。そのように世辞使わなくともよいわ。――相尋ぬることがある。偽り言うては相成らんぞ",
"へえへえ、もうほかならぬ御前様でござりますゆえ、偽りはゆめおろか、毛筋程のお世辞も言わぬがこの亭主の自慢でござります。それにつけても御殿様のお姿が見えぬと、曲輪五丁目は闇でござりますゆえ、折々はあちらの方へもちとその、エヘヘヘ、その何でござります。つまりその――",
"控えぬか! それが世辞じゃ。――きけば誰袖も行方知れずに相成りおるとのことじゃが、まことであろうな",
"まこともまこと、あれはやつがれ方の金箱でござりますゆえ、うちのもの共も八方手分けを致しまして、大騒ぎの最中でござります",
"居のうなったは、当家伜の源七と同じ日じゃと申すが、それもまことか",
"不思議なことに、カッキリと日が合いまするゆえ、面妖に思うておりまするのでござります。どうしたことやら、あれが、誰袖がどうも少し気欝のようでござりましたのでな、四五日、向島の寮の方へでもまいって、気保養致したらよかろうと、丁度四日前の夕刻でござりました。婆をひとりつけまして送り届けましたところ、ほんの近くまでちょいと用達しにいったそのすきに、もう姿が見えなくなったのでござります",
"ほほうのう。源七との仲はどうぞ! 客であったか。それとも通うたことさえなかったか",
"いえその、実は何でござります。親の六兵衛どんを前にして言いにくいことでござりまするが、両方共にぞっこんという仲でござりましてな、あれこそ本当の真夫――曲輪雀共もこのように申していた位でござります。誰袖源七何じゃいな、あれは曲輪の重ね餅、指を咥えてエエくやしい、とこんなに言い囃している位の仲でござりますゆえ、今も六兵衛どんにそれとなく聞き質して見たのでござりまするが、それ程の深い仲なら添わせてやらないものでもなかったのに、生きておるやら死んだやら、これがまことの二人ならば、比翼塚でも建てましょうにと、しんみり承わっていたところでござります"
],
[
"のう! ……その両人が菓子折二つを身共に届けて参ったとは、なおさら解せぬ謎じゃ。亭主! 三ツ扇屋の亭主!",
"へえへえ。何でござります",
"いずれは誰袖に通いつめたお客が、沢山あるであろうな",
"ある段ではござりませぬ。ざッと数えて三十人。その中でもとりわけ御熱心な方々と申せば――",
"誰々じゃ",
"筆頭は言うまでもないこと、こちらの源七どん。つづいては本石町の油屋藤右衛門どんの伜又助どん。浅草の大音寺前に人入れ稼業を営みおりまする新九郎どんのところの若い者十兵衛。それから――",
"それから誰じゃ",
"ちとこれは他言を憚りまするが、遠藤主計頭様が、お忍びでちょくちょくと参られまするでござります",
"なにッ。遠藤どのとのう! 主計頭どのはたしか美濃八幡二万五千石を領する城持ちじゃ。一国一城のあるじが、そちのごとき中店の抱え遊女にお通い召さるとは、変った風流よのう。源七をのぞいての三人はどんな持て方じゃ。ちッとはよい顔を見せたか",
"何ともはやお気の毒でござりまするが、いくら遊女でござりましょうと、ほかに二世かけたかわいい男のある者が、そうそう大勢様にいい顔なぞ見せられる筈がござりません。夜伽は元より、呼ばれましても座敷へ出ぬ時さえたびたびでござります",
"それゆえ熱うなってなお通ったと申すか。いや、面白い。面白い。心覚えに致しておく要がある。今いちどそれなるうつけ者達ののぼせ番附呼びあげてみい",
"心得ました。大関は当家の伜源七どん、関脇は本石町油屋藤右衛門どのの伜又助どん。小結は新九郎身内十兵衛。張り出し大関が遠藤主計頭様というわけでござります",
"ようしッ。主水之介、傷にかけてもこの謎解いて見しょうぞ。六兵衛、火急に白木の建札十枚程用意せい"
],
[
"浅ましい奴等に用はない。京弥、あの四人の者こそわが意に叶うた者じゃ。早う座敷にあげい",
"………",
"何をぼんやりしておるぞ。ぜひにも二人三人手が要るゆえ、一両を餌にして人足共を狩り集めたのじゃ。小判を投げたは早乙女流の人選みよ。欲破り共のうちからせめてもの欲心すくなき者を選み出そうと、わざわざ投げて拾わしてみたのじゃ。あの四人には見どころがある。余の亡者には用がないゆえに早々に追ッ払って、あの者共早う召し連れい",
"いかさま、左様でござりましたか。そうのうてはなりませぬ。御深慮さすがにござります"
],
[
"来たか。来たか。遠慮は要らぬぞ。勝手に膝をくずしてずっと並べ。その方共とてあの建札眺めて参ったからには、小判がほしゅうての事であろうが、なにゆえ拾わざった",
"………",
"怕いことはない。念のためにきくのじゃ。遠慮のう言うてみい。さだめし咽喉から手が出おったろうに、なにゆえ拾わざったぞ",
"あさましいあの有様を眺めましたら、急に情なくなりましたんで、ぼんやりと見ていたんでごぜえます",
"やはりそうであったか。なかなかにうれしい気性の奴等じゃ。そこを見込んでちと頼みたいことがあるゆえ、先ず名をきいておこうぞ。いずれあの建札知って参ったからには、それぞれ得手がある筈、右の奴は何と申す名前の何が得手じゃ",
"大工の東五郎と申しやす。少しばかり足の早いが自慢でごぜえます",
"ほほうのう。大工ならば足なぞ早うのうても役に立つ筈なのに、人一倍早いと申すか。いや、面白い面白い。次は何じゃ",
"床屋が渡世の新吉と申す者でござります。髪床は人の寄り場所、したがって世間のことを少々――",
"なるほど。世間通じゃと申すか。いや、面白いぞ面白いぞ。段々と役者が揃うて参ったわい。三人目は何じゃ",
"鳶の七五郎と申します。ジャンと来りゃ火の子の中へ飛び出すが商売、そのせいか人より少し耳が早うごぜえます",
"ウフフ。面白い面白い。ずんと面白いぞ。お次はどうじゃ",
"あッしばかりはまことに早やどうも――",
"バクチの方か!",
"へえ。相済みませぬ。御名物のお殿様でごぜえますから、直に申しまするが、名前は人好し長次、まとまった金がころがりこむと、じきにうれしくなって人にバラ撒いちまいますんで、この通り年がら年中文なしのヤクザ野郎でごぜえます",
"わはは。道理でのう。目が細うて、鼻が丸うて、極楽行の相がある。いや、揃うた揃うた。注文通りによくも揃うたわい。早足に早耳に世間通に、世馴れ者のバクチ打ちとはひと狂言打てそうじゃ。何を頼むにしても先立つものはこれであろうゆえ、五両ずつ遣わそうぞ。ほら、この通り五枚ずつじゃ、遠慮のう懐中せい。――いや、苦しゅうない。びっくりせいでもいい。五両の小判で命売れと言うのではない。折入って頼みたいことがあるゆえ遣わしたのじゃ。もじもじせずと早う懐中致せ! ――そうそう。いずれも蔵うたな。ではそれなる頼み言うて聞かすゆえ、よう聞けよ。と申すはほかでもないが、吉原三ツ扇屋抱えの遊女誰袖と、京橋花園小路糸屋六兵衛の伜源七と申す両名が、同じ日に行方知れずとなって、奇態なことに似せ者の死体が大川から揚がったのじゃ。頼みと申すはこのこと、本人同士が何ぞ細工をしたか、それとも恋讐共がよからぬ企らみ致しおったか、何れに致せすておけぬゆえ、その方共に今からすぐ不審の正体探り出しにいって貰いたいのじゃ。先ず第一は吉原へ参って、誰袖の行状探り出すこと、第二にはうつつぬかして通いつめた色讐共じゃが、対手は三人ある。本石町油屋藤右衛門伜又助なる者がそのひとりということゆえ、こやつの行状探り出すには、油いじりが商売の床屋新吉がよかろうぞ。二人目は浅草大音寺前人入れ稼業新九郎の身内十兵衛と申す奴ゆえ、男達にバクチ打ちは縁ある仲じゃ。人好し長次がこの方を探ってな。あとのひとりはちと大物ゆえ、残った早足東五郎と早耳七五郎の両名揃うて参るがよい。探り先は二万四千石城持ち、赤坂溜池際に屋敷を頂戴致しおる遠藤主計頭じゃが、大工と鳶なら近よる手段もあろうし、よしまた近寄ることが出来ずとも、お抱えお出入りの鳶、大工があろうゆえ、少しく智慧を働かしなば、屋敷の秘密なにくれとのう雑作なく嗅ぎ出せるというものじゃ。床新と人好し長次両名はまたその足で三ツ扇屋へ参り、なにかと詳しゅう探ってな、別して新吉は世事に通じておるが自慢とのことゆえ、人の話、世間の噂、ぬからずに、――のう分ったか! 事は急じゃ。早う行けい!",
"なるほど! 御名物の御殿様ゆえ、只の御酔狂ではあるまいと思いましたが、いや、変ったお頼みでごぜえます。そういうことは大の好き、折角お目鑑に叶ったものをヘマしちゃならねえ。じゃ、兄弟! ひとッ走りにいって来ようぜ",
"合点だ! 支度しな!"
],
[
"ほほう。みな揃うて帰ったな。どこで落ち合うたのじゃ",
"遠藤主計頭様はなんしろ御大名、ヘマを踏んで引ッくくられでもしちゃ大変だから、その時はお屋敷へしらせてお殿様にお救い願おうと存じまして、万一の用意にと、床新さん達に用のすみ次第、あちらへ廻って貰ったんでござんす。その遠藤様が仕掛け細工の張本人ですぜ",
"なにッ。そうか! そうであったか! 仕掛け細工とは何をしたのじゃ",
"何うもこうもねえんですよ。太え御了簡ッちゃありゃしねえ。どうして探り出そう、誰から嗅ぎ出そうと手蔓をたぐって行くうちにね、ゆうべこちらへ御菓子折とかを届けためくらとあの若い野郎とを嗅ぎ当てたんですよ。めくらはお出入り按摩、若い奴も同じお出入りの小間物屋だそうでござんすが、こちらへお伺いしたからには、何もかも話せばいいのに、うっかり申しあげたら、御殿様にバッサリやられそうな気がしたんで、怕い怕いの一心から、ひた隠しに隠してひた逃げに逃げて帰ったんだそうですがね。事の起りゃ御身分甲斐もねえ、みんな遠藤様の横恋慕からなんですよ。三日にあげず通いつめたが、御存じのように誰袖花魁には真夫がある。ぬしと寝ようか五千石取ろうかの段じゃねえんです。万石積んでも肌一つ見せねえというんで、江戸ッ児にゃ気に入らねえお振舞いをなすったんですよ。源七どんと誰袖を手もなく浚って、屋敷へ閉じこめ、切れろ、別れろ、別れなきゃこれだぞと、毎日毎夜古風な責め折檻に嫉刄を磨いでいらっしゃると言うんですがね。対手は曲輪育ちの気性の勝った花魁だ。なかなかうんと言わねえんで、だんだん日が経つ、世間が騒いで悪事露見になりゃ御家の名に傷がつくというところから、人目をごまかそうと遠藤様がひと狂言お書きなすって、仰せの心中者をひと組こしらえたというんですよ。それも聞いてみりゃむごい事をしたもんじゃござんせんか。年頃恰好の似通ったお屋敷勤めの若党と女中の二人をキュウと絞め殺させてね、源七どんに無理無体書置をしたためさせて、ぽっかり大川へ沈めたというんです。そうして置けば、世間は心中したろうと思い込んで、騒ぎもなくなるし、人目もたぶらかすことが出来るから、そのすきにゆっくり責め立てて、二人に手を切らし、まんまと誰袖を手生けの花にしようと、今以て日夜の差別なく交る交る二人を折檻しているというんですがね",
"ほほうのう! ならば源七をバッサリやればよい筈、邪魔な真夫を生かしておいて、似せの心中者を細工するとはまたどうした仔細じゃ",
"そこが江戸花魁のうれしいところでござんす。斬りたいは山々でしょうが、源七どんに万一のことがありいしたら、わちきも生きてはおりいせぬ、とか何とか程よく威しましたんでね、元も子も失くしちゃ大変と、首をつないでおいて、下郎風情があのような別嬪を私するとは不埓至極じゃ、分にすぎるぞ。手を切れ、たった今別れろと、あくどく源七どんを御責めになっていらっしゃると言うんですが、二人にとっちゃ必死も必死の色恋に相違ねえから、どうぞして逃れたい、救い出して貰いたいと考えた末、ふと思い出したのは――",
"身共の事じゃと申すか!",
"そうでござんす! そうなんでごぜえます! 対手はとにもかくにも城持ち大名、これを向うに廻して、ひと睨みに睨みの利くのは傷のお殿様より他にはあるまいと、二人が二人、同じように考え当って、源七どんは出入りの按摩に、誰袖花魁は小間物屋の若い衆に、こっそりとお使いを頼み込んだというんですがね。気に入らねえのは使いに立ったその二人ですよ。しかじか斯々でごぜえますからと早く言えばいいものを、お殿様程の分った御前を、怕いの恐ろしいのと思い違えて逃げ帰ったのがこんな騒ぎのもととなったんでごぜえます",
"不埓者めがッ。傷がむずむずと鳴いて参った! 京弥! 千二百石直参旗本の格式通り供揃いせい!"
],
[
"この傷が見参じゃ。とく御覧召されい",
"よッ。さては――いや、まさしく貴殿は!",
"誰でもござらぬ。早乙女の主水之介よ。うい傷じゃ、その傷もって天上御政道を紊す輩あらば心行くまで打ち懲らせ、とまでは仰せないが、上将軍家御声がかりの直参傷じゃ。当屋敷うちに、誰袖源七の幽霊がおる筈、のちのちまでの語り草にと、これなる傷にて買いに参った。早々にこれへ出さッしゃい",
"なにッ。――知らぬ! 知らぬ! いや、左様なもの存ぜぬわッ。幽霊が徘徊致すなぞと、うつけ申して狂気と見ゆる! みなの者! みなの者! 何を致しおるかッ。この狂気者、早う補えい!"
],
[
"お身、時折は鏡を御覧召さるかな",
"なにッ。雑言申して何を言うかッ。小地たりとも美濃八幡二万四千石、従四位下を賜わる遠藤主計頭じゃ。貴殿に応対の用はない。とく帰らっしゃい",
"ところが帰れぬゆえ、幽霊の念力は広大なものでござるよ。二万四千石とやらのそのお顔、時折りは鏡にうつして御覧召されるかな",
"要らぬお世話じゃ。見ようと見まいとお身の指図うけぬわッ",
"いや、そうでない。そのお顔でのう。ウフフ。あはは。まあよう見さっしゃい。ずんぐりとしたそのお顔で曲輪通いをなさるとは、いやはやお肝の太いことでござる。ましてや、曲輪の遊びは大名風が大の禁物、なにかと言えば二万四千石が飛び出すようでは、誰袖に袖にされるも当り前じゃ。ぜひにも幽霊買わねばならぬ! 早うこれへ出さっしゃい!",
"不埓申すなッ。お身こそ直参風を吹かせて、何を申すかッ! 知らぬ! 知らぬ! 身に覚えもない言いがかりを申しおって、誰袖とやらはゆめおろか、源七とやらも幽霊も見たことないわッ。帰れと申すに御帰り召さずば、屋敷の者共みな狩り出し申すぞッ",
"わはは。古手の威し申されたな。問答無益じゃ。御存じないとあらば屋探し致して心中者の幽霊買って帰りましょうぞ。近侍の者共遠慮は要らぬ。案内せい!"
],
[
"控えられい! お控え召されよッ",
"何でござる",
"かりそめにも当館は、上将軍家より賜わった大名屋敷じゃ。大名屋敷詮議するには、大目付衆のお指図お許しがのうてはならぬ筈、お身、それを知ってのことかッ",
"ウフフ。お出しじゃな。とうとうそれをお出し召さったか。――止むをえぬ。お家を無瑾に庇って進ぜようと思うたればこそ、主水之介わざわざ参ったが、それをお出しとあらば致し方ござらぬわい。お目付衆の手を煩わすまでもないこと、ようござる! 今より主水之介、じきじきに将軍家へ言上申上げて、八幡二万四千石木ッ葉みじんに叩きつぶして見しょうぞ。――ウフフ。京弥、下賤の色恋にまなこ眩んでいるお大名方には、この三日月形、利きがわるいと見えるわい。では、負けて帰るかのう。急いで参れよ"
],
[
"あれじゃ、あの手じゃ。篠崎流の兵法用いて、アッと言わしてやろうぞ。手分け致して早う門を見張れッ",
"何を見張るのでござります",
"知れたこと、主計頭とて二万四千石は惜しい筈じゃ。じきじきに将軍家へ言上しょうと威したからには、お吟味屋敷改めされるを惧れ、慌てふためいて今のうちに誰袖達をどこぞへ運び去って、隠し替えるに相違ないわ。それを押えるのじゃ。門を見張って、運び出したところを、そっくりそのまま頂戴するのよ。身共はこの正門受持とうぞ。そち達も手分けして三方を固めい",
"心得ました。そうと決まりますれば、京弥、北口不浄門を見張りましょうゆえ、七五郎どの新吉どの両人は東口を、東五郎どの長次どの御両人は西口を御見張り召されよ。ではのちほど――",
"まて! まてッ",
"はッ",
"いずれは警固もきびしく運び出すであろうゆえ、それと分らば合図致せよ",
"心得ました!"
],
[
"わざわざ荷物に造って御苦労じゃ。手数をかけて相済まぬ。もうよいぞ。苦しゅうない。苦しゅうない。主水之介も人夫用意致しておるゆえ、そのままおいて行けい",
"な、な、何でござります! 差上げるべきいわれござりませぬ。こ、これはそのような――",
"そのような、何じゃと言うぞ",
"怪しの品ではござりませぬ。こ、これは、その、こ、これは、その――",
"何品じゃ!",
"ふ、ふ、古道具でござります。只今お主侯様から、もう不用じゃ、払い下げいとの御諚がござりましたゆえ、出入りの古道具屋へ売払いに参るところでござります。御退き下されませい",
"ならばなおさらけっこう。身共、近頃殊のほか古道具類が好きになってな、丁度幸いじゃ。買い取ってつかわそうぞ。値段は何程でも構わぬ。いか程じゃ",
"………",
"早いがよいわッ。売るもひと値。買うもひと値。あとで品物に不足は言わぬ! 言うてみい! 何程じゃ",
"二、二千両程の品にござります",
"たった二千金か! 即金じゃ。ほら! 手を出せい!"
],
[
"お殿様でござりましたか!",
"早乙女の御前様でありんすか!",
"ありがとうござります! ようこそ、ようこそお救い下さりました。ありがとうござります。命の御恩人でござります",
"ウフフ。そんなにうれしいか。生きておって仕合わせよのう。身共もうれしいぞ。まだ賞玩せぬが、ゆうべはけっこうな菓子折、散財かけて済まなかった。早う出い。――京弥々々"
],
[
"やったな。出すぎ者めがッ。忘れるな! 覚えておれよ!",
"ウフフ。わはは。そこへお越しか。声の主に物申そうぞ。主水之介、今宵のことは内聞に致してつかわしましょうゆえ、二万四千石が大切ならば、以後幽霊なぞこしらえぬようにさっしゃい。曲輪育ちの女子はな、千石万石がほしゅうはない。気ッ腑がほしゅうござるとよ。わはは。――誰袖源七! 六兵衛のところへ早う行けい。比翼塚建てましょうにと、嘆いておったほど物分りのよいおやじ様じゃ。めでたく身請けが出来たら、また好物の菓子折など届けろよ。念のためじゃ、七五郎達送り届けい。――では京弥!",
"はッ",
"三河でぐずり松平の御前からきいた言葉をふと思い出した。屋敷へかえってあの菓子頂戴しながら、菊めにお茶なぞひとねじりねじ切らすかのう。ウフフ。如何ぞ!",
"けっこうでござります",
"なぞと申して、菊めの名前が出ると、俄かにそわそわと足が早うなるのう。――一句浮んだ。茶の宵やほのかにゆらぐ恋心、京弥これを詠む、とはどんなものぞよ"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:大野晋
2001年12月18日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"誰だッ",
"………",
"まてッ。誰だッ"
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"どうした!",
"俺だ! 小芳! どうしたんだ!",
"あッ……"
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[
"白い影が……、煙のような男の影が……",
"のぞいたか!",
"そうざます。お湯からあがって、身仕舞いしているところへ、あのうす暗い庭さきからふうわりとのぞいて、また向うへ――"
],
[
"アハハ……。気のせいだよ",
"いいえ、ほんとうざます。ほかのことはぬしにさからいませぬが、こればっかりは――"
],
[
"このようなうちに住むは、もういっ刻もいやざます。今宵にもどこぞへ引ッ越してくんなまし",
"馬鹿言っちゃいけねえ。俺もちらりと、――いいや、ちらりと見たという奴が目のせい、気のせい、みんなこっちの心で作り出すまぼろしさ、今御繁昌のお江戸に幽霊なんかまごまごしておってたまるかよ。それよりいい話があるんだ。おまえの兄さんに会ったぜ",
"まあ! いつ、どこで?"
],
[
"兄さんなら、下総にいらっしゃる筈、嘘でありんしょう",
"嘘なもんか? 用を足して、来たついでだからと、観音さまにお詣りしていたら、ぽんと肩を叩いて、篠原の先生、という声がするじゃないかよ。ひょいとみたら田舎の兄さんさ。よいところじゃ、小芳も会いたがっておりますから、一緒にどうでござんすと誘ったが、ぜひにも今夜足さなくちゃならない用が馬道とかにあるから、今は行かれない、その代りあしたの朝早く行こうと言うからね。あすならなお幸い、小芳とふたりで森田座へ行くことになっているから、じゃ御一緒にあんたも芝居見はどうでござんすと言ったら大よろこびさ。朝早く起きぬけにこっちへやって来ると言ったよ",
"でも、不思議でござんすな。江戸へ来るなら来るとお便り位さきによこしておきそうなものなのに、忙しいお身体の兄さんがまた、何しに来たんでござんしょう",
"何の用だか知らないが、今朝、早立ちしたと言ってたよ。それから、こんなことも言ってたぜ。小芳め、さぞかし尻に敷くことでござんしょうな、とね。アハハ……",
"ま! いけすかない……。でも、兄さんが来るときいてすこうし胸がおちつきました。もういや! これから、わちきひとりにさせたらいやざんすよ。今のような怕いことがあるんだから……"
],
[
"これはようこそ。毎度、ご贔屓さまにありがとうござんす。まもなく二番目が開きますゆえ、お早くどうぞ。ひとり殖えた、三人にしろとゆうべお使いがござりましたんで、ちやんと平土間が取ってござります……",
"じゃ兄さん……"
],
[
"兄さん、下総の筵芝居とはちと違いましょう?",
"人前で恥をかかすものじゃねえ。下総、下総と大きな声で言や、田舎もののお里が分るじゃねえかよ。それにしても梅甫さん、江戸ってところは、よくよく閑人の多いところだね"
],
[
"おいおい。ちょっとまてッ",
"へえへえ、毎度ありがとうござりやす",
"白っぱくれたこと言うな。大切な髪をこわして、毎度ありがとうござりやすとは何だよ。貴様、たいこだな",
"左様で。何かそそうを致しましたかい",
"これをみろ。この髪のこわれた奴が分らねえのかよ",
"なるほど。ちっとこわれましたね、しかし、こういう大入り繁昌の人込みなんだからね。こわれてわるい髪なら、兜でもやっていらっしゃることですよ",
"なに! 跨いで通るってことがそもそも間違っているんだ。詑りもしねえでその言い草は何だよ",
"何だ! 何だ!"
],
[
"何じゃ。三平。こやつら何をしたのじゃ",
"いいえなに、このおめかしさんの髪へ触ったとか触らないとか言ってね。大層もないお叱りをうけましたんで、ちょっとわびを言ったら、そのわびの言い草が気に入らないというんですよ",
"文句を言ったは貴様等か!",
"何でござんす"
],
[
"あいつめが来ておるとすると――",
"企んで仕かけた事かも分りませぬ。兄さん!……"
],
[
"何とかうまく扱っておくんなんし……",
"よしよし。惚れ合っていると兎角こんなことになるんだ。こっちへどきな"
],
[
"こちらこそ飛んだ粗相、本当に三平さんとやらがおっしゃる通りです。髪なんどこわれようとつぶれようと、また結い直せば済みますこと、もう追っつけ幕もあくことでござんしょうから、いざこざなしにきれいさっぱり旦那方もお引きあげなすって下せえまし",
"いざこざなしとは何じゃ。こっちで売った喧嘩でない。うぬらがつけた因縁じゃ。わびを言うならそのように法をつけい",
"だから、立つ腹もこっちが納めて、この通り下手からおわびを申しているんでごぜえます",
"なにッ。下手からとは何じゃ! その言い草が面憎い! こっちへ出い!",
"笑、笑談じゃござんせぬ。ごらんの通りわたしどもは田舎ものばかり、この人前で手前ども風情を恥ずかしめてみたとて、お旦那方のご自慢になるわけじゃござんせぬ。騒ぎ立てたら、みなさまも迷惑、小屋も迷惑、この位でもう御勘弁下さいまし",
"お旦那方がご自慢とは何じゃ! きさま、見くびっておるなッ。たわけものめがッ。出い! 出い! ここへ出い! こうしてやるわ!"
],
[
"喧嘩だッ。喧嘩だッ",
"出方はおらんか! おうい! 出方! 早く鎮めろッ"
],
[
"御前だ!",
"早乙女の御前だ!"
],
[
"べらぼうめ、見損った真似しやがるねえ! 江戸でこそ下総十五郎じゃ睨みが利かねえかも知れねえが、九十九里ガ浜へ行きゃ、松のてっぺんまで聞えた名めえだ。松魚にしてもこんな生きのいい生き身はありゃしねえやい! 生かして帰えせと言うんじゃねえんだ。のめすならのめす、斬るなら斬ってみろい!",
"な、な、何ッ",
"何を、何を大口叩くかッ。出、出、出ろッ",
"のめして貰いたくばのめしてもやるわ。斬ってもやるわッ。もそっとこっちへ出ろッ",
"べらぼうめ、出なくたって斬れらあ! 俎板代りにちゃんと花道を背負っているんだ。斬ってみろ!",
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],
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"やれッ。やれッ。構わぬわッ、斬れ斬れッ",
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"………",
"行かぬかッ。行かねば光るぞッ"
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"誰に頼まれて要らざる真似をしやがるんじゃ。うぬは何者という野郎じゃ",
"その方、もぐりじゃな",
"なにッ。もぐりとは何じゃ! 怪しからぬことを申しやがって、もぐりとは何が何じゃ!",
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"いいえ、左様ではござりませぬ。手前風情がご贔屓頂いておりますさえも身の冥加、そのうえ直き直きにあのようなお扱いを頂きましては空恐しゅうござります。甚だぶしつけでござりまするが――",
"何じゃい。退屈払いでもしてくれると申すか",
"致しまする段ではござりませぬ。日頃御贔屓に預りまするお礼方々、今宵深川へお供させて頂きとうござりまするが、いかがでござります",
"深川はどこじゃ。女子がおるか",
"御前は御名代の女ぎらい、――いいえ、おすきなようなお嫌いなような変ったお気性でござりますゆえ、手前にいささか趣向がござります。女子もおると思えばおるような、いないと思えばいないようなところでござります"
],
[
"気に入った。その言い草が面白い。主水之介も嫌いなような好きなような顔をして参ろうぞ。早う舞台を勤めい",
"有難い倖せでござります。お退屈でござりましょうが、ハネるまでこの楽屋ででも御待ち下さりませ"
],
[
"さき程ちょっと耳打ちしておいたから来て下さる筈だ。上方の親方を呼んで来な",
"いいえ、お使いには及びませぬ。参りました"
],
[
"お初に……",
"おう。主水之介じゃ。世の中がちと退屈でのう。楽屋トンビをしておるのよ。舞台は言うがまでもないが、そうしておる姿もなかなかあでやかじゃのう",
"御前が、御笑談ばっかり……。江戸の親方さん、では、身支度に――",
"ああ、急いでね。早乙女のお殿様のお目の前で女に化ってお見せ申すのも一興だから、一ツ腕によりをかけて頼みますよ",
"ようます"
],
[
"ごぜん、どうざます。女子に見えますかえ。およろしかったら、わちきに酌なとさせておくんなまし……",
"わはは、そうか、そうか、団十郎め、心憎い趣向をやりおった。女子がおると思えばおるような、いないと思えばいないようなと申したはこのことか。いや、いないどころか立派な女子じゃわい。主水之介、苦労がしとうなった。どうじゃ、奥州、いっそ成田屋を撒いてどこぞでしっぽり濡れてみるか",
"お口さきばっかり……。では成田屋さん、お伴させて頂きんしょう"
],
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"ちょっと、あの、かごを止めてくんなんし……",
"へえへえ。止めますがお気分でもわりいんですかい",
"いいえ、あの、わちき、――おししがやりたい……"
],
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"いらっしゃいまし!……",
"あら! 成田屋さんじゃござんせんか。どうぞ! どうぞ! さあどうぞ……"
],
[
"ま! 花魁も……",
"傷の御前も……"
],
[
"おいらん、一献汲むか",
"あい。お酌いたしんす……",
"のう、成田屋",
"はッ",
"は、とは返事がきびしいぞ。市川流の返事は舞台だけの売り物じゃ。もそっと二枚目の返事をせんと、奥州に振られるぞ。さきほどのおししは、十万石位のおししだったのう",
"あんなことを! 憎らしい御前ざます。覚えておいでなんし。そのようなてんごうお言いなんすなら――"
],
[
"痛い! 痛い! おししが十万石なら、この痛さは百万石じゃ。――のう、成田屋。昼間の喧嘩も女がもとらしいが、そち、あの女を見たか",
"いいえ、御本尊にはお目にかかりませぬが、番頭どもがきき出して参った話しによると、曲輪上りだそうでござります。玄人でいた頃、あの二人が張り合っていたそうでござりましてな、売ったお武家さまは、腰本治右衛門とかおっしゃるお歴々、売られたお方は湯島とやらの町絵師とかききました。ところがいぶかしいことにはその絵師の住いに、ときどきどろどろと――",
"出るか!",
"尾花のような幽霊とやらが折々出ると申すんですよ。それもおかしい、売った工合もおかしい、御前のお扱いをうけて、あの場はどうにか無事に納まりましたが、あとで何かまたやったんではないかと、番頭どもも心配しておりましてござります",
"のう",
"また喧嘩に花が咲きましたら、何をいうにも対手は七人、それにお武家、先ず十中八九――",
"どくろ首の入れ墨男が負けじゃと申すか",
"ではないかと思いまする。狂言の方ではえてして、あの類の勇み肌が勝つことに筋が仕組まれておりまするが、啖呵では勝ちましても、本身の刄先が飛び出したとなりますると、筋書通りに参りますまいかと思いまする",
"いや、そうでない。喧嘩とても胆のものじゃ。抜身の二本三本あの度胸ならへし折ろうわい",
"いいえ、やられましてござります……"
],
[
"小気味のよい男じゃのう。対手はさっきのあれか",
"そうでござんす。喧嘩両成敗じゃ、おまえらも小屋を出ろと、殿様がお裁きなすったんで、御言葉通り出るは出たんですが、出れば刄物三昧になるは知れ切ったこと、――ええ、ままよ、おれも下総十五郎だ、江戸で膾斬りになってみるのも、地獄へいってからの話の種だと、男らしく斬られる覚悟をしたんですが、妹という足手まといがござんす。どうにかして女たちふたりを逃がさなくちゃならねえ、しかし、逃がすにはあの通りの真ッ昼間、日の暮れるまで待とうとお茶屋で待って、こっそりふたりを裏から駕籠で落してから、あっしひとりでいのちを張りにいったんでござんす",
"喧嘩の花はどこで咲いた",
"小屋を出ると、案の定黒鍬組の奴等が、今出るか今出るかと待っていやがったとみえて、来いというからあの前の河岸ッぷちへいったんでござんす。抜いたのは手下のあの六人でした。さすがに腰本治右衛門だけや抜かなかったところが親分でござんす",
"得物もあるまいに、よくそれだけの傷で済んだものじゃのう。どうしてまたその姿でここへ参った",
"そのことでござんす。こっちは只の素人、向うはともかくも二本差が六匹、無手の素町人が六人の侍を対手にして斬り殺されたと世間に知れたら、下総十五郎褒め者になっても死に恥じは掻くめえと、いのちを棄てる覚悟でござんしたが、斬られているうちに、ふいッと妹たちふたりのことを思い出したんでござんす。喧嘩のもとというのは妹のあの小芳、死ぬあっしゃいいが、あとで黒鍬組の奴等がきっと何かあのふたりにあくどい真似をするだろうと思いつきましたんで、こいつうっかり死なれねえ、死ぬにゃどなたかに妹たちふたりの身の上を頼んでからと、御迷惑なことですが、ふと気のついたのはお殿様のことでござんした。男が気ッ腑を張ってお頼み申したら、お眉間傷にかけても御いやとはおっしゃるまいと、地獄の一丁目から急に逃げ出して、楽屋の中へ駈け込んだんでござんす。ところが、お殿様たちはこっちへもうひと足違い――成田屋さんのお弟子さんでござんしょう、大層もなく御親切なお方がひとりおいでなすってな、行った先は深川の谷の家だ、気付けをあげます、駕籠も雇うてあげます、すぐにおいでなさいましと、いろいろ涙のこぼれるような御介抱をして下さいましたんで、こんな血まみれの姿のまますぐ、おあとをお慕い申して来たんでござんす",
"ほほう、そうか。では主水之介にそちの気ッ腑を買えと申すんじゃな",
"十五郎、無駄は申しませぬ。あっしの気ッ腑はともかく、妹たちは惚れ合った同士、不憫と思召しでござりましたら、うしろ楯となってやって下さいまし……",
"嫌と申したら?",
"………",
"人の喧嘩じゃ、身共の知ったことではない、嫌じゃ勝手にせいと申したら何とする?",
"………",
"どうする了簡じゃ",
"いたし方がござんせぬ"
],
[
"眉間傷貸してやる! 妹の住いはいずれじゃ",
"え! じゃ、あの!……",
"眉間傷に暑気払いさせてやろうわい。小芳とやらの住いはいずれじゃ",
"十五郎、うれしくて声も出ませぬ。神田の明神裏の篠原梅甫というのが配れ合いでござんす。手前、ご案内いたします……",
"無用じゃ。その怪我ほってもおかれまい。そちはどこぞへ隠れて傷養生せい。成田屋、その方も江戸ッ児じゃ。下総男にひと肌ぬがぬか",
"よろしゅうござります。医者のこと、隠れ家のこと、一切お引きうけいたしましょう。たんと眉間傷を啼かしておいでなさいまし",
"味を言うのう。吉三郎のおいらん、浮気するでないぞ",
"あんなことを……。ぬしさんこそ、小芳さんとやらに岡惚れしんすなえ",
"腰本黒鍬左衛門とはちと手筋が違うわい。アハハ……。世の中にはまだ退屈払いがたんとあるのう。女共、気まぐれ主水之介、罷り帰るぞ。乗物仕立てい"
],
[
"どうした!",
"………?",
"何をふるえているのじゃ。昼間小屋で会うた主水之介ぞよ。どうしたのじゃ",
"あの、ほ、ほんとに、傷のお殿様でござりますか!",
"おかしなことを申すのう、主水之介はふたりない。兄が駈けこんで来たゆえ参ったのじゃ。何を怕がっているぞよ",
"兄!……。あの、十五郎がいったんでござりまするか!",
"そうよ。ほんの今深川まで血を浴びて身共を追っかけて来たゆえ、眉間傷の供養にやって来たのじゃ。何をそのようにびっくりしているのじゃ",
"いいえ! そ、そんな馬鹿なことはありませぬ! ある筈がござりませぬ!"
],
[
"あ、兄が、十、十五郎が、深川なぞへ行かれる筈がござりませぬ。兄はほんの今しがた血を浴びて、ふわふわとここへ来たばかりでござります",
"なに!",
"うそではござりませぬ。それも二度、つい今しがたふわふわとその庭先へ来たばかりなんです。髪をみだして、血を浴びて、しょんぼりとそこの暗い庭先へ立って、にらめつけておりましたんで、どうしたんですとおどろいて声をかけたら、俺は喧嘩で斬られて死んだ、気になることが一ツあって行かれるところへも行かれないから、小芳に言いに来たんだ。この屋敷には生き埋めの井戸があってよくない、住んだのが因果だ、祟りがあるから夫婦別れをしろ、別れないと兄は恨むぞ、斬られたのもみんなおまえらのせいだ、兄が可哀そうなら今別れろ、別れないと何度でも迷って来てやるから、と二度が二度うらめしそうに言って、ふわふわと庭の向うの闇の中へ消えましたんで、ふたりがこの通りふるえていたところなんです……"
],
[
"まだ出ると申したか",
"今別れろ、別れると約束するまでは何度でも迷って来るぞと、気味のわるいことを言いのこして、ふわふわと消えていったんでござんす"
],
[
"相すみませぬ。十、十五郎ではござりませぬ。お見のがし願わしゅうござります。手、手前でござります",
"控えろッ。どこの手前かその手前を見るのじゃ。梅甫、灯りを持てい!"
],
[
"たわけがッ。傷の早乙女主水之介を何と心得おるぞ。腰本治右の差図か!",
"そ、そ、そうなんでござります。おまえらふたり、十五郎に化けて、かようかように梅甫夫婦を脅して来いと言われましたゆえ、迷って出たのじゃ、今すぐ別れろと、うまうまひと狂言書いたのでござります",
"夜な夜な玄関先の寒竹の繁みの中とやらへも、白い影が出るとか申したが、それもおまえらの仕業か",
"相済みませぬ。あそこの生き埋めの井戸というのがあるのを幸い、脅しつけろ、と腰本様がおっしゃりましたゆえ、変化の真似をしたのでござります……",
"たわけものめがッ。その方共も黒鍬組のはしくれであろう。下賤者ではあろうとも黒鍬組はとにもかくにも御直参の御家人じゃ。他愛もない幽霊の真似なぞするとは何のことかッ。腰本治右に申すことがある。少し痛いが待て。――梅甫、料紙をこれへ持参せい"
],
[
"おかえり遊ばしませ……",
"何じゃい。気の抜けたころおかえり遊ばせもないもんじゃ。煮て喰うぞ。アッハハハ。兄が留守してうれしかったか",
"ああいうことばっかり……。ご機嫌でござりますのな",
"機嫌がようてはわるいかよ",
"またあんなことばっかり……。どこへお越しでござりました",
"あっちへいってのう",
"どこのあっちでござります",
"鼻の先の向いたあっちよ",
"またあんなことばっかり……。わたし、もう知りませぬ",
"わたしもう知りませぬ。わッははは。怒ったのう。おいちゃいちゃの巴御前、兄が留守したとても、あんまり京弥とおいちゃいちゃをしてはいかんぞよ。兄はすばらしい恋の鞘当買うてのう。久方ぶりで眉間傷が大啼きしそうゆえ上機嫌じゃ。先ず早ければあすの朝、お膳立てに手間をとれば夕方あたり、――果報は寝て待てじゃ。床取れい"
],
[
"腰本治右は意気地がのうても、娘は将軍家の息がかかっておるという話じゃからのう、おてかけ馬に乗って来そうなものじゃが――",
"何でござります。お将軍さまのお息がかかるというのは何のことでござります",
"おまえと京弥みたいなものよ",
"菊路はそんな、京弥さまに息なぞかけたことござりませぬ",
"アハハ。かけたことがなければ急いでかけいでもいい。このうえ見せつけられたら、兄は焼け死ぬでのう。あすは来るやも知れぬ。来たら分るゆえまてまて"
],
[
"来たか!",
"はッ",
"何人じゃ",
"ひとりでござります",
"なに、ひとり?",
"このようなもの持参いたしました",
"みせい!"
],
[
"わッははは。黒鍬組の親方、漢語を使いおるのう。拙邸と申しおるぞ。使いはいずれじゃ",
"お玄関に御返事お待ち申しておりまする",
"今行くと伝えい! 乗り物じゃ。すぐ支度させい!",
"御前、おひとりで?",
"そうだ。わるいか",
"でも、もし何ぞよからぬ企らみでもござりましたら――",
"企らみがあったら、ピカリと光るわ。江戸御免の眉間傷対手に治右ごとき何するものぞよ。あとで菊路とおいちゃいちゃ遊ばしませい。わッははは。六日待たすとはしびれを切らしおった。いつ罷りかえるか分らぬぞ"
],
[
"早乙女の御前様、御入来にござります",
"これはこれは、ようこそ。さあどうぞ。御案内仕りまする。さあ、どうぞ"
],
[
"ちとおそうござりますのな。どうしたのでござりましょう。大丈夫かしら?",
"………",
"なぜお黙りでござります! 菊がこんなに心配しておりますものを、あなたさまは何ともござりませぬのか。もう他人ではない筈、いいえ、菊の兄ならあなたさまにもお兄上の筈、一緒に心配してくれたらいいではありませぬか",
"心配すればこそ、京弥もこうして、さきほどからいろいろと考えているのでござりまするよ",
"あんなことを! 心配していたら、御返事ぐらいしたとていいではありませぬか。憎らしい……。このごろのあなたさまは何だかわたくしにつれなくなりましたのな。そのような薄情のお方は――",
"イタイ! イタイ! なにをなさります! そんなところを抓ってなぞして痛いではありませぬか!",
"いいえ、つねります! 抓ります! もっとつねります!……"
],
[
"どうしたのでござりましょうな。いかなお兄上さまでも、少しおかえりがおそうござります。それにお招きなさった方は、素姓が素姓、わたくし何だか胸騒ぎがしてなりませぬ",
"ゆうべ届いた腰本の書面はどこにござります? ちょっとお貸しなされませい"
],
[
"お支度なさりませ!",
"いってくれまするか!",
"ぼんやり待っておりましたとて、心配がつのるばかりでござります。何ぞ容易ならぬこと、起きているやも計られませぬ。お伴仕ります!"
],
[
"あれじゃ、あれじゃ。あの大きな屋敷がそうでござります",
"どのようなことがあっても、狼狽えてはなりませぬぞ。京弥が抜くまでは抜いてはなりませぬぞ"
],
[
"頼もう! 頼もう!",
"………",
"急用で参ったものじゃ。取次の者はおいで召さらぬか。頼もう! 頼もう!"
],
[
"侮ったことを申すと、手は見せませぬぞ! 早乙女の屋敷から参った者じゃ。御前はいずれでござる!",
"ああ、なるほど。お暑いところをようこそ。少々お待ち下されませ"
],
[
"まだ計るつもりか!",
"計るとは?",
"御前もこの手でたばかったであろう! われら二人も計るつもりか!",
"滅相もござりませぬ。あの通り陸尺どもは只の下郎、御案内いたすものはこの手前ひとり、計るなぞとそのような悪企み毛頭ござりませぬ。早乙女の御前は少々他言を憚るところに至って御満悦の体にてお越しにござりますゆえ、そこまで御案内を申上げるのでございます。どうぞお疑いなくお乗り下されませ",
"よしッ。乗ってやろう。菊どの、御油断あってはなりませぬぞ",
"あなたさまも!"
],
[
"われら、御前のむくろや新墓検分に参ったのではない。不埓な振舞いいたすと容赦はせぬぞ!",
"どうぞお静かに。ご案内せいとの主人言いつけでござりますゆえ、手前は只御案内するだけでござります……"
],
[
"ここにおいでか!",
"さようでござります。伝通院自慢の裏書院でござります。今もまだたしかにおいでの筈、手前の役目はこれで終りました。どうぞごゆっくり……"
],
[
"何ごとでござります! お兄上!",
"………",
"この有様は何のことでござります! お兄上!",
"御案じ申してはるばると御迎いに参ったのではござりませぬか! このはしたないお姿は何のことでござります!"
],
[
"あれなる女はいったい何ものでござります",
"ききたいか",
"ききたければこそお尋ねするのでござります。どこの女狐でござります",
"女狐なぞと申すと口が腫れるぞ。あれこそはまさしく――",
"何者でござります",
"腰本治右の娘、将軍家御愛妾お紋の方よ",
"えッ! ……。ほ、ほ、ほんとうでござりまするか!",
"懸値はない。びっくりいたしたか。なかなかの美人じゃ。別して膝の肉づきは格別じゃったのう"
],
[
"飛んだことになりましたな。もしもこの一条が上様お耳に這入りましたら何となされます!",
"何としようもない、先ず切腹よ",
"それ知ってかようなおたわむれ遊ばしましたか!",
"当り前よ。右膝は将軍家、左り膝は主水之介、恋には上下がのうてのう。美人の膝国を傾けるという位じゃ。切腹ですむなら先ず安いものよ。寄るぞ。寄るぞ。心配いたすと折角の顔に皺がよる。そちたちも膝枕の工合、とくと見物した筈じゃ。やりたくば屋敷へかえって稽古せい",
"なにを笑談仰せでござります! いつものお対手とは対手が違いまするぞ! かりにも将軍家、もしもの事がありましたならば――",
"………",
"御前!",
"………",
"お兄様!",
"………",
"殿!"
],
[
"飛んだことになりましたな……。さき程番町の屋敷へ訪れたときの容子、案内していきましたときの容子、お紋の方様が治右衛門めの娘とあっては、まさしく腰本が仕組んだ企らみに相違ござりませぬ。主人は只今火急の用向にて登城中と申したが気がかり、今になにか御城中から恐ろしいお使者が参るに相違ござりませぬぞ",
"な! ……。それにしてはお兄様の憎らしいこのお姿。こんなに御案じ申しあげておりますのに、すやすやとお休み遊ばして何のことでござりましょう。もし、お兄様!",
"………",
"お兄様!"
],
[
"御前! 御前! ……。参りましたぞ!",
"来たか",
"来たかではござりませぬ。大目付様、おしのびで参りましたぞ",
"大目付にも多勢ある。誰じゃ",
"溝口豊後守様でござります",
"ほほう、豊後とのう。智恵者が参ったな"
],
[
"これをお貸し申そう。早乙女主水之介の最期を飾らっしゃい",
"アハハ……。なるほど、ゆうべの膝枕の借財をお取り立てに参られましたか。なかなかよい膝で御座った。まさにひと膝五千石、切腹せいとの謎で御座るかな",
"その口が憎い。ひと膝五千石とは何ごとでござる。江戸八百万石、お上が御寵愛のお膝じゃ。言うも恐れ多い不義密通、上のお耳にもお這入りで御座るぞ。表沙汰とならばお身は申すに及はず、お紋の方のお名にもかかわろうと思うて、溝口豊後、かく密々に自刄すすめに参ったのじゃ。わるうは計らぬわ。いさぎよう切腹さっしゃい",
"アハハハ。なるほど、五千石はちと安う御座ったか。いかさま八百万石の御膝じゃ。そうすればゆうべの片膝は四百万石で御座ったのう。道理でふくよかなぬくみの工合、世にえがたき珍品で御座りましたわい"
],
[
"主水之介、もし切腹せぬと申さば?",
"知れたことじゃ。今宵にもお上よりお差し紙が参るは必定、お手討、禄は没収、家名は断絶で御座るぞ",
"智恵者に似合わぬことを申しますのう。もしもお紋の方、父治右衛門と腹を併せて、知りつつ企らんだ不義ならば何と召さる。かような膳立てになろうとは承知のうえでこの主水之介、わざとお借り申した膝枕じゃ。どうあっても切腹せぬと申さば何と召さる!",
"さようかせぬか……"
],
[
"立ちませい!",
"立てとは?",
"何と言い張ろうとも、不倫の罪はもはや逃がれがたい。今より登城して将軍家御じきじきのお裁きを仰ぐのじゃ。豊後、大目付の職権以って申し付くる。早々に立ちませい!",
"ほほ、なるほど、急に空模様が変りましたのう"
],
[
"月代じゃ。用意せい",
"ではあの、御登城なさるのでござりまするか!",
"そうじゃ。早乙女主水之介、死にとうないからのう、上様、おじきじきのお裁きとは願うてもないことじゃ。早う盥の用意せい",
"でも、対手は御愛妾の縁につながる治右衛門、泣く児と地頭には勝たれぬとの喩えもござります。いかほど御潔白でござりましょうとも、白を黒と言いくるめられて、お身のあかし立ちませぬ節は何と遊ばすお覚悟でござります",
"潔白なるもの、潔白に通らぬ世の中ならば、こちらであの世へ逃げ出すだけのことよ。上様お待ちかねじゃ。早うせい"
],
[
"おのびでござりまするな",
"そちと比べてどうじゃ",
"手前の何とでござります",
"鼻毛とよ",
"御笑談ばっかり、おいたを仰せ遊ばしますると傷がつきまするぞ"
],
[
"いちだんとお見事でござりまするな。京弥、惚れ惚れといたしました",
"では、惚れるか",
"またそんな御笑談ばっかり。お門違いでござります",
"ぬかしたな。こいつめ、つねるぞ。菊! 菊! 菊路はおらぬか。京弥め、憎い奴じゃ、兄に惚れいと言うたら御門違いじゃと申したぞ。罰じゃ。手伝うて早う着物を着せい"
],
[
"馬子にも衣裳という奴じゃ。あの妓、この妓があれば見せたいのう。駕籠じゃ。支度せい",
"お供は、京弥が――",
"いいや。いらぬ。その代りちと変った供をつれて参ろう。土蔵へ行けばある筈じゃ。馬の胸前持って参って、駕籠につけい",
"胸前?",
"馬の前飾りじゃ。菊、存じておろう。鎧櫃と一緒に置いてある筈じゃ。大切な品ゆえ粗相あってはならぬぞ"
],
[
"大目付、溝口豊後守様、御登城にござりますうウ……",
"おあと、早乙女主水之介殿、御案内イ……"
],
[
"豊後も何じゃ! うつけ者めがッ",
"はッ",
"は、ではない! このざまは何のことじゃ! なぜ、なぜ、――なぜ主水之介を生かして連れおった!"
],
[
"憎い! 憎い! 憎いと申すも憎い奴じゃ! 不埓者めがッ。顔あげい!",
"………",
"なぜあげぬ! 顔あげてみい!",
"………",
"あげぬな! 不届者めがッ。それにて直参旗本の職分立つと思うか! たわけ者めがッ。治右よりその方の不埓、逐一きいたぞ。お紋を何と心得ておる! 言うも憎い奴じゃ! 顔あげてみい!"
],
[
"茶! 茶! お茶はいずれじゃ",
"御前にござります……"
],
[
"申開きあらば聞いてえさせる。顔あげい!",
"はッ……"
],
[
"いつにないお爽やかな御気色、主水之介何よりの歓びにござります",
"なに! 爽かな御気色とは何じゃ! 予の怒った顔がそちには爽やかに見ゆるか!",
"またなきお爽やかさ、天下兵馬の権を御司り遊ばす君が、取るにも足らぬ佞人ばらの讒言おきき遊ばして、御心おみだしなさるようではと、恐れながら主水之介、道々心を痛めて罷り越しましてござりまするが、いつにも変らぬそのお爽やかさ、さすがは権現様お血筋、二なき御明君と主水之介よろこばしき儀にござります",
"黙れッ! たわけッ。佞人ばらとは何じゃ! 誰のことじゃ!",
"すなわち腰本治右衛門、まったお紋の方様、倶に天を戴きかねる佞人にござります",
"黙れッ。黙れッ。紋が佞人とは何じゃ! お紋は予が寵愛の女、またなく可愛い奴じゃ。たわけ申すと許さぬぞッ",
"それこそ佞人の証拠、御明君のお目を紊し奉つるが何より佞人の証拠にござります。上は天晴れ御明君、われら直参旗本が自慢の御明君――",
"黙れッ、黙れッ、黙らぬかッ",
"いいや、上は御明君、天下に誇るべき御明君、主水之介もまたつねづねそれを思い、これを思い――",
"黙れと申すに黙らぬかッ",
"いいや、上は天晴れ御明君、天下二なき御明君を戴き奉つることほど、よろこばしき儀はござりませぬ。女魔と申すものはとかく美しきもの、御寵愛はさることながら、それゆえにお上ほどの御明君が、正邪のお目違い遊ばされたとあっては由々しき大事、只々御明察のほど願わしゅうござります……"
],
[
"では、治右の申せし事、その方はみな偽りじゃと申すか",
"御意にござります。どのようなことどもお耳へ入れ奉ったかは存じませぬが、早乙女主水之介も三河ながらの由緒ある旗本、恐れながら上、御寵愛のお部屋様ときくも憚り多い不義密通なぞ致すほど、心腐ってはおりませぬ。すべて腰本治右の企らみましたるつくりごと、御賢察願わしゅうござります",
"でも治右は、その方がささに酔いしれて、紋にたわむれかけたと申しおるぞ",
"以ってのほかの讒言、みなこの早乙女主水之介を罪ならぬ罪に陥し入れようとの企らみからでござります。上も御承知遊ばす通り、あの者はもと卑しき黒鍬上がり、権に驕って、昨今の身分柄もわきまえず、曲輪の卑しきはした女に横恋慕せしが事の初まりにござります。小芳と申すその女、他へかしずきしを嫉んで、あるまじき横道しかけましたを、はからずも主水之介、目にかけまして力となったが治右には目ざわり、あろうことかあるまいことか、上、御寵愛のお紋の方様をそそのかし、場所も言語同断の伝通院へこのわたくしを招き寄せ、ささのたわむれ、お膝のたわむれ、申すも恐れ多い御振舞い遊ばされたのでござります",
"なぜたわむれた! よしや治右の企らみであろうとも紋は予が寵愛の女じゃ。知りつつその方がまたなぜたわむれた!",
"天下の為、上、御政道の御為にござります",
"たわけめッ! 将軍家が寵愛の女の膝にたわむるが何ゆえ天下の為じゃ!",
"父娘、腹を合せて不義を強いるような不埓者、すておかば恩寵に甘えて、どのような非望企らむやも計られませぬ、知りつつお膝をお借り申し奉ったは、みな、主水之介、上への御意見代り、いずれはお膝を汚し奉ったことも、御上聞に達するは必定、さすれば身の潔白もお申し開き仕り、御前に於て黒白のお裁き願い、君側の奸人どもお浄め奉ろうとの計らい、君側の奸を浄むるはすなわち天下のため、上御政道のお為にござります",
"たわけめッ",
"は?",
"たわけじゃと申すわい",
"有難きしあわせ、早乙女主水之介は天下第一の大たわけ者でござります。さりながら、このたわけは只のたわけではござりませぬ。三河ながらの旗本はみなたわけ者、上、御政道、天下の為なら喜んでいのち棄てるたわけ者ばかりでござります。主水之介、天地に誓って身は潔白、御疑念晴れませねば、只今このところにおきまして、お紋の方様と対決致しましても苦しゅうござりませぬ",
"対決?",
"はッ。それにても御疑念晴れませねば伝通院の坊主どもお招きの上にて対決するともなお苦しゅうござりませぬ。上は二なき御明君、御明察願わしゅうござります",
"いずれにしても不埓者じゃ、不、不埓者めがッ",
"恐れ入ってござります。不義を強いて天下を紊そうといたしましたるは治右が不埓か、或いはまた貸すべからざる膝貸し与えたお紋の方様が不埓か、それとも御怒りに触るるを覚悟で、御意見代りにお膝汚し奉ったこの主水之介が不埓か、黒白は上のお目次第、もし万一、主水之介に不埓ありとの御諚ならば、切腹、お手討、ゆめいといませぬ。おじきじきのお裁き願わしゅうござります",
"………",
"恐れながら御賢慮のほど、いかがにござります",
"憎い。いや、もう聞きとうない! 予は気分がわるうなった。見苦しい。もうゆけい!"
],
[
"供! 主水之介じゃ。供の者はおらぬか",
"あッ。おかえり遊ばしませ。よく、御無事でござりましたなあ",
"眉間の傷はのう。お城へ参っても有難い守り札じゃ。上様はいつもながらの御名君、先ず先ず腹も切らずに済んだというものじゃ。ゆっくりゆけい",
"お胸前は?",
"まだ馬鹿者が迷うて出ぬとも限らぬ。そのままつけて行けい"
],
[
"これでまいる! 素手は素手ながら三河ながらの直参旗本、早乙女主水之介が両の拳、真槍白刄よりちと手強いぞ。心してまいられい…",
"………",
"臆するには及ばぬ……遠慮も御無用!………額の三カ月傷こわかろうが、とっては食わぬ。腕一杯、踏んで来られたらどうじゃ"
],
[
"いかが! 敵を即座の楯とする、早乙女主水之介、無手勝流の奥義。お気に召しましたか",
"………",
"そのまま! そのまま! 突いてかかれば二つの槍につかまったお仲間が田楽ざしじゃ。次には同じく早乙女流、追い立て追い落しの秘芸御覧に入れる。――まいるぞ!"
],
[
"兄上!",
"殿ッ",
"ご、御前! ご、ご無事でごぜえやしたか! よかった! よかった! よよッ。そっちにもいやがるな。そ、そのお濠端の方は知らねえが、そ、そこにいるその白覆面は――",
"腰本治右衛門であろう"
],
[
"チビ狒狒どもも前へ出ろい! 下総の十五郎がかけつけたからにゃ、もう御前様にゃ、指一本ささせるもんじゃねえぞ。九十九里の荒浜でゴマンと鯨を退治たこの腕で片ッ端から成仏さしてやらあ! 冥途急ぎのしてえ奴からかかって来い!",
"ひかえい! 十五郎!"
],
[
"仔細があるゆえ、そちは後ろにひかえろ! ――京弥! 菊路!",
"はッ"
],
[
"そちたちには腕だめしゆるすぞ。よき機会ぞ。日頃仕込んだ揚心流当身の術、心ゆくまで楽しむ用意せい",
"はッ"
],
[
"腰本治右衛門……この目をみい!",
"………",
"今のこの男の申し分、何ときいたぞ!",
"………",
"お小納戸頭取の重職すらいただく身が、漁師渡世の者よりこれほどまでにののしられて、上の御政道相立つと思うか! よこしまの恋に心がくらみ、御恩寵うくる妹に不義しかけさせるさえあるに、この主水之介の命うぼうて上の御賢明をくらまそうとは何事ぞ! 目をさませッ。本心とりもどせ。性根入れ替えると一言申さば、主水之介とて同じお旗本につらなる身、ことを荒立てとうはない! いかがじゃ!",
"な、な、なにをッ。う、うぬのその口封じてしまえばよいのじゃ!"
],
[
"い、妹の器量ならうぬもうつつぬかそうと考えたのがこっちの手違い、いやさ、うぬさえこの世におらずば、おれと妹の天下じゃわい。やるッ。やるッ。――か、方々ッ。そっちの方々ッ",
"………",
"おかかりなされッ。この邪魔者消すは今宵じゃ、明日にならば、――いや、善は急げじゃッ、そっちも多勢、こっちも多勢、力を合せたらこやつ一匹ぐらいわけはないのじゃッ。早うとびこみめされいッ。早うお突き立てめされいッ"
],
[
"京弥さま! しっかり!",
"菊路さま! おぬかり遊ばすな!"
],
[
"あ!",
"うーん!"
],
[
"堪能じゃ堪能じゃ。いや、濠ぎわに追いつめられた時は汗が出るほど堪能いたしたぞ。あはははは、天下の将軍にあれまで堪能さすとは、にっくい主水之介よのう。はじめより余と知っての馳走か!",
"御意!",
"のう……",
"おそれながら、御骨相におのずとそなわる天下の御威光、夜目にもさえざえと拝しました上、御近習衆のお槍筋が、揃いも揃ったお止め流の正法眼流! 更には又、葵御紋をも憚らぬ不審! さては、上、この主水之介の三河ながらの手の内試し、御所望ならんと存じ、御心ゆくばかり――",
"堪能させおったか",
"御意!",
"はははははは。いよいよもってにっくい主水之介じゃ。おもしろい。――おもしろい。いやのう。さきほどのそちの申し開き、胸にこたえてよくわかったが、心冴えぬは紋の不始末じゃ。女の表裏二心は大賢をも苦しむると申すが、尤もじゃのう。ふと、三河ながら、三河ながらと吹きおったそちの手の内ためしたら癇癪も晴れようと気づき、豊後をはじめこの者共ひきつれて涼みにまいったのじゃ。よくやりおったな! 主水之介! 天ッ晴れじゃ! 見ごとじゃ! わしの胸の内、見ごとに晴れたわい。――主水之介!",
"は!",
"紋には暇とらすぞよ",
"ははッ",
"まったこれなる人非人――"
],
[
"豊後! 豊後!",
"ははッ"
],
[
"そのうじ虫に活を入れい!",
"はッ"
],
[
"笑止な奴よのう! ――主水之介!",
"はッ",
"君子の謬は天下万民これを見る。よくぞ紋めの膝で諌言いたしてくれた。綱吉、礼をいうぞ"
],
[
"上!",
"綱吉の仕置き、これでよいか",
"なにをか、なにをか――"
],
[
"――なにをか主水之介、申しましょうや。ただただ……",
"胸がすいたか",
"ははッ。聖人は色を以て賢に替えず。天っ晴れ神君御血筋の御名君! この君戴いて天下泰平、諸民安堵! 御名君! 御名君! 主水之介のよろこびは四民のよろこび、何とも申し上げようもござりませぬ",
"いかん! いかん! そちの御名君々々々が出るとあとがこわいぞ、のう、豊後!",
"御意!",
"また冷汗かかされぬうちに引揚げた方が賢明じゃ。――よい夜気のう。今宵は快うやすまれるぞ。豊後! 馬!",
"はッ"
],
[
"主水之介、時おりはまた小言を堪能させにまいれよ。さらばじゃ",
"主水之介どの今宵のお手柄、祝着に存ずる。挨拶はいずれ後日――"
],
[
"そのよろこび、早う妹へ伝えてつかわせ。われらもともに引上げようぞ。――京弥。お胸前!",
"はッ"
]
] | 底本:「旗本退屈男」春陽文庫、春陽堂書店
1982(昭和57)年7月20日新装第1刷発行
入力:tatsuki
校正:大野晋
2001年12月18日公開
2014年7月1日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001478",
"作品名": "旗本退屈男",
"作品名読み": "はたもとたいくつおとこ",
"ソート用読み": "はたもとたいくつおとこ",
"副題": "11 第十一話 千代田城へ乗り込んだ退屈男",
"副題読み": "11 だいじゅういちわ ちよだじょうへのりこんだたいくつおとこ",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
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"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-12-18T00:00:00",
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[
[
"平七。――これよ、平七平七",
"…………",
"耳が遠いな。平七はどこじゃ。平はおらんか!",
"へえへえ。平はこっちにおりますんで、只今、お靴を磨いておりますんで",
"庭へ廻れ",
"へえへえ。近ごろまた東京に、めっきり美人がふえましたそうで、弱ったことになりましたな",
"またそういうことを言う。貴様、少うし腰も低くなって、気位もだんだんと折れて来たと思ったらじきに今のような荊を出すな。いくら荊を出したとて、もう貴様等ごとき痩せ旗本の天下は廻って来んぞ",
"左様でございましょうか……",
"左様でございましょうかとは何じゃ。そういう言い方をするから、貴様、いつも叱られてばかりいるのじゃ。おまえ、郵便報知というを知っておろうな",
"新聞社でございますか",
"そうじゃ。あいつ、近ごろまた怪しからん。貴様、今から行ってネジ込んで参れ",
"なにをネジ込むんでございますか",
"わしのことを、このごろまた狂介々々と呼びずてにして、不埒な新聞じゃ。山県有朋という立派な名前があるのに、なにもわざわざ昔の名前をほじくり出して、なんのかのと、冷やかしがましいことを書き立てんでもよいだろう。新聞が先に立って、狂介々々と呼びずてにするから、市中のものまでが、やれ狂介権助丸儲けじゃ、萩のお萩が何じゃ、かじゃと、つまらんことを言い囃すようになるんじゃ。怪しからん。今からすぐにいって、しかと談じ込んで参れ",
"どういう風に、談じ込むんでございますか。控えろ、町人、首が飛ぶぞ、とでも叱って来るんでございますか",
"にぶい奴じゃな。山県有朋から使いが立った、と分れば、わしが現在どういう職におるか、陸軍、兵部大輔という職が、どんなに恐ろしいものか、おまえなんぞなにも申さずとも、奴等には利き目がある筈じゃ。すぐに行け",
"へえへえ。ではまいりますが、この通りもう夕ぐれ近い時刻でございますから、かえりは少々おそくなるかも存じませんが、今夜もやはり、こちらでございますか。それとも御本邸の方へおかえりでございますか",
"そんなつまらんことも聞かんでいい。おそくかえって、わしの姿がここに見えなかったならば、本邸へかえったと思うたらよかろう。思うたらおまえもあちらへかえったらよかろう。早く出かけい",
"…………"
],
[
"川、川、川",
"舟、舟、舟だ",
"水もだんだんと濁って来たなあ……"
],
[
"おまえさん、近ごろ、なにをしておいでじゃ",
"こっちで言いたい言葉じゃ、貴公、山県狂介のところで、下男のような居候のような真似をしておるとかいう話じゃが、まだいるのか",
"おるさ",
"見さげ果た奴じゃ。仮りにも旗本と言われたほどの幕臣が、讐同然な奴の米を貰うて喰って、骨なしにもほどがあると、みんなも憤慨していたぞ。――あんな奴のところにおったら面白いのか",
"とんと面白くない",
"なければ、そんなところ飛び出したらどうじゃ",
"かと言うて、世間とてもあんまり楽しくあるまい",
"張り合のないことを言う男じゃな。こんなところでなにをぼんやりしていたのじゃ",
"新聞社へネジ込んで来いと言うたんで、出て来たところさ",
"なにをネジ込みに行くのじゃ",
"狂介狂介と呼びずてにするから、脅して来いと言うのさ",
"行くつもりか",
"いきませんね。狂介だから狂介と言われるに不思議はないからな。随って、ぼんやりと立っていたのさ",
"骨があるのかないのか、まるで海月のようなことを言う奴じゃな。――不憫な気がしないでもない。望みならば、一杯呑ましてやろうか",
"金はあるのか",
"あるから、つれていってやろうと言うのじゃ。――行くか",
"…………"
],
[
"あら……",
"おお、いたのう"
],
[
"きんのう来たとき、襟足を剃れと言うたのに、まだ剃らんの",
"でも、忙しいんですもの……",
"忙しい忙しいと言うたところで、こんな家へ八字髭の旦那方は来まいがな。みんなおれたちみたいな風来坊ばかりじゃろうがな",
"ええ、それはそうですけれど……",
"毎日文を書いたり、たまにはいろ男にも会うたりせねばならんゆえ、それが忙しいか",
"まあ、憎らしい……"
],
[
"このおつれさん? ……",
"うん、酒じゃ",
"あなたさまも?",
"呑もうぜ。料理もいつものようにな。きのうのようにまた烏賊のさしみなんぞを持って来たら、きょうは癇癪を起すぞ、あまくて、べたべたと歯について、あんなもの、長州人の喰うもんじゃ。おやじによく言ってやれ"
],
[
"さあ来たぞ。うんとやれ",
"…………",
"どうしたんじゃ。飲まんのかよ。――機嫌のわるい顔をしておるな。注いでやろうか"
],
[
"仕様のない奴じゃな。折角よろこばそうと思ってつれて来てやったのに、もっとうれしそうに呑んだらどうじゃ",
"…………",
"まずいのかよ。酒が!",
"うまいさ",
"うまければもっとうまそうに呑んだらどうじゃ"
],
[
"罪なことをするのね。こんなおとなしい人をひとりぽっちにしておいて、まずかったでしょう、お酒が",
"昔からおれはひとりぽっちだ"
],
[
"前の川は今でも深いかね",
"深いですとも、江戸が東京に変ったって、大川は浅くなりゃしないですよ",
"そういうものかな。じや江戸が東京になっても、人が死ねるところでは、やっぱり人が死ねるということになるんだな",
"まあ。気味のわるいことを仰有るのね。なんだってそんなおかしなことをおききなさいますの?",
"むかしからこの前の川で何人ぐらい死んだか。変らないものはいつまで経っても変らないから、妙なもんだと思っていたところさ。――貴君はいくつだね",
"おい……"
],
[
"もうかえるんだよ",
"……? あ、そうか。花は散ったか"
],
[
"貴公どっちへかえるんじゃ",
"うん……",
"うんじゃないよ。なにをそんなところでぼんやりしておるんじゃ",
"うん……。なるほどこのあたりは、むかし通り深そうじゃな。だぶりだぶりと水が鳴っているよ",
"つまらんことを感心する奴じゃ。ぼんやりしておったら置いてゆくぞ"
],
[
"平七。――これよ、平七平七",
"…………",
"毎日毎日耳の遠い奴じゃな。平七はどこじゃ。平はおらんか!"
],
[
"おまえ、どうかすると馬鹿ではないかと思うときがあるが、使いようによっては、なかなか律義もんじゃな。わしが大切にしている靴だから、大切に磨かずばなるまいという心掛けが、育ちに似合わずなかなか殊勝じゃ。もう少しはきはきしておったら、出世出来んもんでもないが……",
"…………"
],
[
"なにがおかしい! ――どこがおかしいんじゃ",
"わたしはそんなつもりで、磨いていたわけではないんですが",
"ではどんなつもりで磨いたというんじゃ",
"こうやってぼんやり手を動かしておると、心持が馬鹿になれますから、それで磨いていたんですが",
"またそういうことを言う! そういうことを言うから、なんとか出世の道を開いてやろうと思っても、する気になれんのじゃ。馬鹿になる稽古をするというならそれでもいいが……"
],
[
"平七",
"へい",
"…………",
"…………",
"秋だな",
"秋でござりますな"
],
[
"おまえはどちらへ行くつもりじゃ",
"どちらでもいいですが……",
"わしもどちらでもいいが……"
],
[
"どうぞ。どうぞ。さあどうぞこちらへ。こんなむさくるしいところへわざわざお越し下さいましてなんと申してよいやら。只今女たちをご挨拶に伺わせますから。さあどうぞ!――もし、お雪さん! お座布団だよ! 上等のお座布団はどこだえ!",
"…………",
"お雪さん! お雪! お雪! ――お雪はどこだえ!"
],
[
"おお",
"よう"
],
[
"おまえ、あれと朋輩じゃろう。用はない。あれの方へ行け",
"……?",
"ここにはもういなくてもよいから、あちらへ退れというのじゃ。早く退れっ",
"そうでございますか。あちらへ行くんですか……。やあ君。ゆうべは失敬。さがれと言ったからやって来たよ"
],
[
"なんだとて、あんなものを案内して来たんじゃ!",
"おれが案内して来たわけじゃない。ふらふらとこっちへやって来たら、和服の陸軍中将も興に乗って、ふらふらとついて来たから、一緒にここへ這入ったまでさ",
"なにが陸軍中将じゃ。貴様、そういうような諛った真似をするから、みんなからも爪はじきされるんじゃ。女将も女将じゃ。江戸の名残りだの、めずらし屋だのと、利いた風な看板をあげておいて、あのざまはなんじゃ! こういう風なことをするから、成り上り者が、ますますのさばるんじゃ",
"そういうことになろうかも知れんの",
"知れんと思ったら、貴様はじめ、こんな真似をせねばよいのじゃ! するから、尾っぽをふるから、心のよごれぬ女までが、お雪のまうなものまでが――"
],
[
"平七さんとやら、ご前がうるさいから、さきへかえれと仰有っておりますよ",
"あ、左様か。今度はさきへかえれか。そういうことになれば、そういうことにするより致仕方ござるまい。では、かえるかな……"
],
[
"頼む! こいつを持っていってくれっ",
"おれに斬れというのか",
"いいや、新兵衛も行く! おれも行く! 一緒にいって斬ってくれっ",
"ひとりでは山県狂介が斬れんのか",
"斬れんわけではないが、狂介ごとき、き、斬れんわけではないが……",
"斬れんわけでなければ、おぬしひとりでいって、斬ったらよかろう。それとも狂介はひとりで斬れるが、山県有朋の身のまわりにくっついている煙りが斬り難いというなら、やめることさ",
"では、貴公は、おまえは、むかしの仲間を見殺しにするつもりか!",
"つもりはないが、おぬしは腹が立っても、おれは腹が立たんとなれば、そういうことにもなるじゃろうの。――行くもよし、やめるもよし。おれはまずあしたまで、生きのびてみるつもりじゃ",
"……!"
],
[
"だれじゃ! そんな唄を唄うのは! 平七か!",
"わたしが、――ですか。なにも唄ったような覚えがないですが……",
"いや、よし、分った。近所の小童たちじゃ。だれが教えたか、つまらぬ唄を唄って、悪たれどもがわいわい向うへ逃げて行くわ。仕方のない奴等じゃ。――さあ馬じゃ",
"あ、なるほど、軍服も靴もお着けでござりまするな。ではゆるりゆるりとまいりましょうか"
],
[
"違うぞ。平七。吾妻橋を渡るんじゃ",
"そうでございますか……。こちらへいっては、お屋敷へまいられませんか",
"行って行かれないことはないが、半蔵門へかえるのに、本所なぞへいっては大廻りじゃ。吾妻橋へ引っ返せ",
"でも、馬がまいりますもんですから……",
"…………"
],
[
"なるほど、そうか。ハハハ……。さては、おまえ……",
"なにかおかしいことがあるんでございますか",
"あれに、お雪に参っておるな",
"わたしが! そうでございましょうかしら……。そんな筈はないんだが、いち度もそんなことを思ったことはないつもりですが……"
],
[
"そうれみろ、知らず知らずに思い焦がれていたろうがな。ハハハ……可哀そうにな",
"いいえ! いいえ! 可哀そうなのは平七さまではござりませぬ! わたくしでござります! お待ち下されませ! ご前さま!"
],
[
"お前か! たわけっ。なにをするのじゃ!",
"いいえ! いいえ! 放しませぬ! 人でなし! 人でなし! 嘘つきのご前さまの人でなし! わたしをだまして、こんな悲しい目に会わして、だれがなんと仰有ろうとも、この靴は放しませぬ! きょうは、きょうは、と毎日毎日泣き暮して待っていたんです! みなさまも集っておいでなら、よくきいて下さいまし! そればっかりはご免下さい、こらえて下さいと、泣いてわたしがお頼みしたのに、わたしをだまして、威して、あすは来る、あすは使いをよこして、気まま身ままの寵いものにしてやるなぞと、小娘のわたしをだましておいて、それを、それを",
"たわけっ。なにを言うのじゃ! 人が集って来るわっ。放せ! 放せ!",
"いいえ! 死んだとてこの靴は放しませぬ! どうせ嘘とは思いましたけれど、とうとう悲しい目に会いましたゆえ、もしや、もしや、ときょうまで待っておりましたのに、それを、それを、嘘つき! 人でなし! いいえ! いいえ! そればかりではありませぬ。あの人を、新兵衛さままでをも、なんの罪もないのに、あんなむごい目に会わして、お役人に、お牢屋に引っ立てなくともいいではありませぬか! お可哀そうに、あんな負けた人までも、世の中に負けた人まで引っくくって、放しませぬ! ご前さまが、このお雪に詫びるまでは放しませぬ!",
"馬鹿めがっ。わしが新兵衛のことなぞ知るものか! あやつが刀なぞ引き抜いて、あばれに来たゆえ、くくられたのじゃ! 退けっ。退けっ",
"いいえ! たとえこの身が八ツ裂きになりましょうとも退きませぬ! 道へお集りのみなさまもきいて下さいまし! このご前は、この嘘つきのご前さまは――",
"まだ言うかっ"
]
] | 底本:「小笠原壱岐守」大衆文学館文庫、講談社
1997(平成9)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「佐々木味津三全集10」平凡社
1934(昭和9)年発行
初出:「講談倶楽部 十二月号」
1933(昭和8)年発行
入力:大野晋
校正:noriko saito
2004年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001486",
"作品名": "山県有朋の靴",
"作品名読み": "やまがたありとものくつ",
"ソート用読み": "やまかたありとものくつ",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部 十二月号」1933(昭和8)年",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"底本名1": "小笠原壱岐守",
"底本出版社名1": "講談社大衆文学館文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1997(平成9)年2月20日",
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[
[
"のぼせるにも程がある。町人や土百姓に鉄砲をかつがせてなんになるかい",
"門地をどうするんじゃ。士族というお家柄をどうするんじゃ"
],
[
"奴を屠れっ",
"大村初め長州のろくでもない奴等が大体のさ張りすぎる。あんな藪医者あがりが兵部大輔とは沙汰の限りじゃ",
"きゃつを屠ったら、政府は覆がえる。奴を倒せ! 奴の首を掻け!"
],
[
"奴、晩酌をたのしむくせがありますから、酒の気の廻ったころを見計って襲うのも手でござりまするが、――もう少し容子を見まするか",
"左様……",
"左様という返事はありますまい。待つなら、待つ、斬りこむなら斬りこむように早く取り決めませぬと、嗅ぎつけられるかも知れませぬぞ",
"…………"
],
[
"しょうもない。大村を斬ったら九人目じゃ。アハ……。世の中には全く変な商売があるぞ",
"笑談じゃない。なにをとぼけたこと言うちょりますか! 手飼いの衛兵は、少ないと言うても三十人はおります。腕はともかく鉄砲という飛道具がありますゆえ、嗅ぎつけられたら油断はなりませぬぞ! すぐに押し入りまするか。それとも待ちまするか",
"せくな。神代直人が斬ろうと狙ったら、もうこっちのものじゃ。そんなに床いそぎせんでもええ。――富田の丸公",
"へえ",
"へえとはなんじゃい。今から町人の真似はまだちっと早いぞ。おまえ、花札でバクチを打ったことがあるか",
"ござりまするが――",
"坊主の二十を後家ごろしというが知っちょるか",
"一向に――",
"知らんのかよ。人を斬ろうというほどの男が、その位の学問をしておらんようではいかんぞよ。坊主は、檀家の後家をたらしこむから、即ち後家ごろし、――アハハ……。わしゃ、おん年十六歳のときその後家を口説いたことがあるが、それ以来、自分から思い立って仕かけたことはなに一つありゃせん。天下国家のためだか知らんがのう。斬るうぬは、憎いとも斬りたいとも思わないのに、人から頼まれてばかり斬って歩くのも、よくよく考えるとおかしなもんだぞ",
"馬鹿なっ。なんのかんのと言うて、隊長急におじけづいたんですか!",
"…………",
"折角京までつけて来たのに、みすみす大村の首をのがしたら、大楽どんに会わする顔がござりませぬぞ",
"…………",
"あっ、しまった隊長! ――二階の灯が消えましたぞ!",
"…………",
"奴、気がついたかも知れませんぞ!"
],
[
"どこへ参ります! お待ちなさりませ!",
"…………",
"どなたにご用でござります!"
],
[
"遺言はござらんか",
"ある。――きいておこう。名はなんというものじゃ",
"神代直人",
"なにっ。そうか! 直人か! さては頼まれたな!"
],
[
"もうよさそうだな。――おい",
"…………",
"おいというに! 誰もおらんか!",
"ひとりおります。もう大丈夫でござりまするか",
"大丈夫じゃ、早く出ろ。誰だ",
"市原でごわす",
"小次か! おまえもずぶぬれだのう。もう誰もおらんか",
"いいえ、こっちにもひとりおります"
],
[
"どうやら小久保と、利惣太がやられたらしいな。念のためじゃ、呼んでみろ",
"副長! ……",
"…………",
"石公! ……。利惣太……"
],
[
"しまった! そういうおれもやられたぞ",
"隊長が! ――ど、ど、どこです! どの辺なんです!",
"足だ。左がしびれてずきずき痛い! しらべてみてくれ!"
],
[
"危ない! 肩をかせ! このあん梅ではおそらく全市に手が廻ったぞ。早くにげろっ",
"大丈夫でござりまするか!",
"痛いが、逃げられるところまで逃げてゆこう。そっちへ廻れっ"
],
[
"岸をしらべろっ。灯はみえんか!",
"…………",
"どうだ。だれか張っていそうか!",
"――いえ、大丈夫、いないようです",
"よしっ、あがれっ"
],
[
"この辺で消えたぞ",
"この家が臭い!",
"這入れっ、這入れっ"
],
[
"来たろう!",
"三人じゃ!",
"かくしたか!",
"家探しするぞ!"
],
[
"こいつは誰じゃ!",
"…………",
"返事をせい! 黙っていたら引っ剥ぐぞ"
],
[
"はしたない。旦那は疲れてぐっすり寝こんだところなんですよ。もっとあてられたいんですかえ",
"馬鹿っ"
],
[
"追っつけ旦那が来るんです。来たら今の奴等よりもっと面倒になるから、早く逃げて下さいまし",
"先生々々。もう大丈夫ですよ。足音も遠のきましたよ! このすきだ。早くお逃げなさいまし!"
],
[
"けがらわしい! 危ない思いをしてかくまってあげたのになんていやな真似をしているんです! そんなものほしければくれてやりますよ! 今に旦那が来るんです! とっとと出ておいきなさいまし!",
"すまんすまん! アハハ……。つい匂うたもんだからのう。ほかのところを盗まんで、しあわせじゃ。旦那によろしく……"
],
[
"どうです。先生は?",
"…………",
"おやりになりませんか、まだたっぷり二合位はありますよ"
],
[
"どうしたんです。一体。――足の傷が痛むんですか",
"…………",
"傷が、その傷がお痛みになるんですか",
"決ってらあ",
"弱りましたね。手当をしたくも膏薬はなし、住職を起せば怪しまれるし、――酒があるんです。これで傷口を洗いましょうか",
"…………",
"よろしければ洗いますよ。もし膿を持つと厄介だからね。丸公、手伝え"
],
[
"あれだね。――この忙しい最中に、先生も飛んだものを嗅いだもんさ。今の女のあの匂いを思い出したんでしょう",
"…………",
"旦那よりほかに寝かしもしないふとんの中へ入れたんだ。紙ひと重の違いだが、因縁のつけようじゃ浮気をしたも同然なんだからね。そこを一本、おどしたら、あの女、物になるかも知れんです。酒のしみるのが分らないほど、思いに凝っていらっしゃるなら、ことのついでだ。今からひと押し、押しこんでいったらどうでごわすかよ",
"バカッ",
"違いましたか!",
"…………",
"どうもそのお顔では、ちっときな臭いんですがね。あのときの女の立膝が、ちらついているんじゃごわせんか"
],
[
"どうやらおれも、少々タガがゆるんだかな",
"なんのタガです",
"料簡のタガさ。――大村益次郎、きっと死ななかったぞ"
],
[
"しかし、九人目の大村にはふた太刀かかったんだ。そのふた太刀も、急所をはずれて膝へいったんだからな。問題ははずれた最初のあのひと太刀じゃ。八人斬って、八人ともに狂ったことのないおれの一刀斬りが、なぜあのとき空へ流れたか、おまえらはどう思うかよ",
"…………",
"心のしこりというものはそら恐ろしい位だ。頼まれてばかり斬って歩いて、馬鹿々々しい、と押し入る前にふいっと思ったのが、手元の狂ったもとさ。――神代直人も、もう落ち目だ。タガがゆるんだと言ったのはそのことなんだよ",
"ならば、そんなろくでもないことを思わずにお斬りなすったらいいでがしょう",
"いいでがしょうと言うたとて、思えるものなら仕方がないじゃないか。おまえらもとっくり考えてみい。――長州で三人、山県の狂介めに頼まれて、守旧派の奴等を斬っちょるんじゃ。その山県狂介は今、なんになっておると思うかよ。陸軍の閣下様でハイシイドウドウと馬の尻を叩いているじゃないかよ。伊藤俊輔にも頼まれてふたり、――その伊藤は、追っつけどこかの知事様に出世するとか、しないとか、大した鼻息じゃ。桂小五郎にもそそのかされて三人、――その小五郎は、誰だと思っちょるんじゃ。木戸孝允で御座候の、参与で侯のと、御新政をひとりでこしらえたような顔をしちょるじゃないか。――斬ってやって、奴等を出世させたこのおれは、相変らず毛虫同然の人斬り稼業さ",
"いいえ! 違います! 隊長! 隊長は馬鹿々々しい馬鹿々々しいと仰有いますが、斬った八人はみんな、天下国家のために斬ったんでがしょう!",
"がしょう、がしょう、と思うて、おれも八人斬ったが、天下国家とやら、このおれには、とんと夢で踏んだ屁のようなもんじゃ、匂いもせん、音もせん、スウともピイともこかんわい。――ウフフ……馬鹿なこっちゃ。只のいっぺんでいい! 頼まれずに、憎いと思って、おれが怒って、心底このおれが憎いと思って、いっぺん人を斬ってみたい!",
"斬ったらいいでがしょう!"
],
[
"きっといいか!",
"いいですとも! 人斬りの名を取った先生がお斬りなさるんだから、誰を斬ろうと不思議はごわせんよ!",
"…………"
],
[
"お時勢が変っておらあ! 憎くもないのに、斬った昔は斬ったと言うてほめられたが、憎くて斬っても、これからは斬ったおれが天下のお尋ね者になるんだからのう。――勝手にしろだ。おれは寝る。おまえらも勝手にしろ",
"だめです! 先生! 手当もせずに寝たら傷が腐るんです! せめてなにか巻いておきましょう。そんな寝方をしたら駄目ですよ!",
"うるさい! 障るな! ――腐ったら腐ったときだ……"
],
[
"どうするんですか。――隊長",
"…………",
"東京へ逃げるなら逃げる、西へ落ちるなら落ちるように早くお決め下さらんとわれわれふたり、度胸も据わらんですよ",
"勝手に据えたらよかろう",
"よかろうと仰有ったって、隊長がなんとかお覚悟を決めぬうちは、われわれ両人、どうにもならんこっちゃごわせんか。生死もともども、とろろもともども分けてすすろうと誓って来たんですからね。寝てばっかりいらっしゃるのは足の傷がおわるくなったんじゃごわせんか",
"どうだか知らん。ここも動かん……",
"動かんと仰有ったって、三年も五年もここに寝ていられるわけのもんじゃごわせんからね。逃げ出せるものならそのように、駄目ならまたそのように、はきはきとした覚悟を決めたいんですよ。一体どうなさるおつもりなんです",
"お生憎さまだが、つもりは今のところ、どんなつもりもない。おまえら、つもりたいようにつもったらよかろう"
],
[
"つかまったらつかまったときじゃ。探って来よう!",
"市中の容子か!",
"そうよ。こんなところにすくんでいたとて、日は照らん。逃げられるものなら一刻も早く逃げ出した方が賢いんじゃ、手分けして探ろう。おれは大村の宿の容子と、市中の模様を嗅いで来る。おぬしは、西口、東口、南口、街道筋の固めの工合を探って来い",
"よし来た。出かけよう! ――いいですか。隊長。おまえらつもりたいようにつもれと仰有いましたから、容子を探ったうえで然るべく計らって参ります。あとでかれこれ駄々をこねちゃいけませんぞ"
],
[
"大丈夫だ、先生。大村は死にますぞ",
"これから死ぬというのか、もう死にかけているというのか",
"急所ははずれたが、思いのほかに傷が深いから、十中八九死ぬだろうというんです。うれしいじゃごわせんか",
"ふん……",
"ふんはないでがしょう。先生は、大村が死にかけておったら、気に入らんですか",
"入らんのう、かりそめにも暗殺の名人と名をとった神代直人じゃ。看板どおり仕止めたというなら自慢になるが、これから死ぬかも知れん位の話で、よろこぶところはなかろう",
"それならば、あのとき黙ってお斬りなすったらようがしたろう。大村が死なんでも、誰が斬ったか分らなんだら、先生の耻にはなりませんからな",
"なんの話じゃ",
"益次郎を斬るとき、神代直人じゃ、と隊長が名乗ったことを申しておるんです。わざわざ名乗ったばっかりに、斬り手の名は分る、配符は廻る、われわれ一党の素性も知られる、市中では、もう三尺の童子までわれわれを毛虫のように言いそやしておりますよ",
"阿呆! 名乗って斬ったがなんの不足じゃ、頼まれて斬ったればこそ、出所進退をあきらかにして斬ったじゃないか。直人が心底憎くて斬るときはかれこれ言わん。黙って斬るわい"
],
[
"道があけた! 先生すぐお出立のお支度なさいまし! ――小次も早く支度しろ",
"逃げられそうか!",
"大丈夫落ちられる! 東海道だ。どういう間違か、ひょんな噂が伝わってのう。先生らしい風態の男が、同志二人とゆうべ亀山口から、東海道へ落ちたというんじゃ。それっというので、海道口の固めが解けたのよ。このすきじゃ。追っ手のあとをあとをと行くことになるから、大丈夫東京へ這入られる。――かれこれと駄々はこねんというお約束です。道中、お歩きもなるまいと思うて、こっそりと駅馬を雇うて参りました。すぐお乗り下さいまし!"
],
[
"だから、手当々々とやかましく言うたんです。こんなになるまでほっとくとは呆れましたな。――お痛いですか",
"その腫れではたまらんでしょう。我慢出来ますか",
"駄々をこねるなという言いつけじゃ。駄々はこねん。気に入るように始末せい‥…"
],
[
"しみったれた宿では気が滅入っていかん。景気のよさそうな奴を探せ",
"あの三軒目はどうじゃ",
"なるほど、あれなら相当なもんじゃ。めんどうだからこの辺で馬もかえせ。あすからは駕籠にしよう。乗物もちょいちょいと手を替えんと、じき足がつくからのう。――あの宿です。先生。泊りますぞ。おうい、宿の奴等、お病人じゃ。手を貸せ"
],
[
"どうします。先生。すぐに夕食を摂りますか",
"それとも、傷さえ浸けねばいいんだから、久方ぶりにひと風呂浴びますか"
],
[
"小次!",
"へい……"
],
[
"芸者を買おうか",
"え? ……芸者! ……突然またどうしたんでごわす",
"どうもせん。買いたくなったから買うのよ",
"その御病体で、隊長、妓を物しようというんですか",
"物にはせん、物したくもおれは物されんから、おまえらに買わせて、この枕元で騒がせて、おれも買うたつもりになろうというんじゃ、いやか",
"てへっ。こういうことになるから、おらが隊長は、気むずかしくて怕いときもあるが、なかなか見すてられんです。――きいたか。丸公。事が騒動になって来たぞ。仰せ畏し御意の変らぬうちじゃ、呼べっ、呼べっ",
"こころえた。いくたり招くんじゃ",
"おれは物されんと仰有るからには、おれたちふたりの分でよかろう。――亭主! 亭主!"
],
[
"よう。美形々々",
"名古屋にしてはこれまた相当なもんじゃ",
"あちらのふとんの上に、えんこ遊ばしていらっしゃるのがおらがのお殿様でのう。殿様、病中のつれづれに、妓を呼んで、おまえら、枕元で馬鹿騒ぎせい、との御声がかりじゃ。遠慮はいらんぞ。さあ呑め、さあ唄え",
"…………",
"どうです。先生。景色がよくなりましたな。呑みますぞ",
"うんうん……",
"少しはお気が晴れましたか",
"うんうん……",
"申しわけごわせんな。女、酒、口どき上手、人後におちる隊長じゃごわせんが、その御病体では、身体がききますまいからな。気の毒千万、蜂の巣わんわん、――久方ぶりの酒だから、金丸は酔うたです、こら女! なにか唄え",
"…………",
"唄わんな。ではジャカジャカジャンジャンとなにか弾け",
"…………"
],
[
"まてっ",
"な、な、なんです! どうしたんです!"
],
[
"たわけたちめがっ。おれをどうする! 見せつけるのかっ。羨やましがらせをするのかっ。それへ出い!",
"ば、ば、馬鹿なっ。目の前で、枕元で芸者買いせい、と言うたじゃごわせんか! お言いつけ通りにしたのが、なぜわるいんです!",
"ぬかすなっ。それにしたとて程があるわい! ずらりと並べっ",
"き、き、斬るんですか! 同志を、仲間を、苦労を分けた手下を斬るんですか!",
"同志もへちまもあるかっ。腹が立てば誰とて斬るんじゃっ。憎ければどやつとて斬るんじゃっ――一緒に行けいっ。たわけたちめがっ"
]
] | 底本:「小笠原壱岐守」大衆文学館文庫、講談社
1997(平成9)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「佐々木味津三全集10」平凡社
1934(昭和9)年発行
初出:「中央公論 十月号」
1932(昭和7)年発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大野晋
校正:noriko saito
2004年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"道弥はおらぬか。灯りが消えたぞ",
"はっ。只今持参致しまするところで厶ります"
],
[
"あれは、道弥はおらぬと見えるな。もう何刻頃であろう喃?",
"只今四ツを打ちまして厶ります",
"もうそのような夜更けか。不思議な消え方を致しおった。よく調べてみい",
"……?",
"首をひねっておるが、何としてじゃ",
"ちといぶかしゅう厶ります。油も糸芯も充分厶りますのに――",
"喃!……充分あるのに消えると申すは不思議よ喃。もし滅火の術を用いたと致さば――",
"忍びの術に達した者めの仕業で厶ります",
"そうかも知れぬ。伊賀流のうちにあった筈じゃ。そう致すと少し――",
"気味のわるいことで厶ります。御油断はなりませぬぞ",
"…………",
"およろしくば?",
"何じゃ",
"さそくに宿居の方々へ御注進致しまして、取急ぎ御警固の数を増やすよう申し伝えまするで厶りますゆえ、殿、御意は?",
"…………",
"いかがで厶ります。およろしくば?",
"騒ぐまい。行けい",
"でも――",
"国政多難の昨今、廟堂に立つものにその位の敵あるは当り前じゃ。行けい"
],
[
"大無! 大無! また消えおったぞ",
"はっ。只今! 只今! 只今新らしいお灯り持ちまするで厶ります。――重ね重ね奇態で厶りまするな",
"ちと腑におちぬ。油壷予に見せい"
],
[
"粗忽者共よ喃。みい。油ではないまるで水じゃ。納戸の者共が粗相致して水を差したであろう。取り替えさせい",
"いかさま、油と水とを間違えでもしたげに厶ります。不調法、恐れ入りました。すぐさま取替えまするで厶ります",
"しかし乍ら――",
"はっ",
"叱るでないぞ。いずれも近頃は気が張り切っている様子じゃ。僅かな粗相をも深く耻じて割腹する者が出ぬとも限らぬからな。よいか。決して強く咎めるでないぞ",
"はっ。心得まして厶ります。御諚伝えましたらいずれも感泣致しますることで厶りましょう。取替えまする間、おろうそくを持ちまするで厶ります",
"うむ……"
],
[
"御油断なりませぬぞ! 殿! ゆめ御油断はなりませぬぞ!",
"来おったか",
"はっ。怪しの影をお庭先で認めました由にて宿居の方々只今追うて参りまして厶ります!"
],
[
"御、御座ります。ここに御灯りが厶ります",
"……⁉"
],
[
"不埒者たちめがっ。引っ立てい!",
"いえあの、そのような弄み心からでは厶りませぬ! 二人とも、……二人ともに……"
],
[
"館!",
"はっ",
"ゆうべはかしこに何人おったか存じておるか",
"おりまする。たしかに両名の姿を見かけました",
"その前はどうであった",
"三人で厶りました",
"夜ごとに目立って客足が減るよう喃。――歎かわしいことじゃ。考えねばならぬ。――参ろうぞ"
],
[
"どうじゃ。いるか",
"はっ。おりまするが――",
"何人じゃ",
"たったひとりで厶ります",
"僅かに喃。酒はどうか。用いておるか",
"おりませぬ。寒げにしょんぼりとして、うどんだけ食している容子に厶ります",
"やはりここも次第に寂れが見ゆるな。ひと月前あたりは、毎晩のように七八人もの客が混み合っていたようじゃ。のう。山村。そうであったな",
"はっ。御意に厶ります。年前は大分酒もはずんで歌なぞも唄うておりましたが、明けてからこちら、めっきり寂れがひどうなったように厶ります。ゆうべもやはりひとりきりで厶りました",
"そう喃。――胸が詰って参った。もう迷わずにやはり決断せねばなるまいぞ、先へ行け"
],
[
"館!",
"はっ",
"そち今日、浅草へ参った筈よ喃",
"はっ。事の序にと存じまして、かえり道に両国河岸の模様もひと渡り見て参りまして厶ります",
"見世物なぞの容子はどんなであった",
"天保の饑饉の年ですらも、これ程のさびれ方ではなかったと、いち様に申しておりまして厶ります",
"不平の声は耳にせざったか",
"致しました。どこに悪いところがあるやら、こんなに人気の沈んだことはない。まるで生殺しに会うているようじゃ。死ぬものなら死ぬように。立直るものならそのように、早うどちらかへ片がつかねばやり切れぬ、とこのように申しておりまして厶ります"
],
[
"のう館!",
"はっ",
"人はな",
"はっ",
"首の座に直っておる覚悟を以て、事に当ろうとする時ほど、すがすがしい心持の致すことはまたとないな。のう。どう思うか",
"御諚よく分りかねまする。不意にまた何を仰せられまするので厶ります",
"大丈夫の覚悟を申しておるのじゃ。国運を背負うて立つ者が、国難に当って事を処するには第一に果断、第二にも果断、終始果断を以て貫きたいものじゃ。命は惜しみたくないものよ喃",
"…………",
"泣いておるな。泣くにはまだ早かろうぞ。それにつけても大老は、井伊殿は、立派な御最期だった。よかれあしかれ国策をひっ提て、政道の一線に立つものはああいう最期を遂げたいものじゃ。羨やましい事よ喃",
"申、申しようも厶りませぬ……",
"泣くでない。そち程の男が何のことぞ。――天の川が澄んでおるな。風も冷とうなった。少し急ぐか"
],
[
"まてっ。何者じゃっ",
"まてとは何のことじゃ!高貴のお方で厶るぞ。控えさっしゃい!"
],
[
"姿の容子、浪士取締り見廻り隊の者共であろうな",
"……?",
"のう、そうであろうな。予は安藤じゃ。対馬じゃ",
"あっ。左様で厶りましたか! それとも存ぜず不調法恐れ入りまして厶ります。薩州浪士取締り早瀬助三郎組下の五名に厶ります",
"早瀬が組下とあらば腕利きの者共よな。夜中役目御苦労じゃ。充分に警備致せよ",
"御念までも厶りませぬ。御老中様もお気をつけ遊ばしますよう――"
],
[
"さぞかし御疲れに厶りましょう。御無事の御帰館、何よりに御座ります。今宵の容子は?",
"ききたいか",
"殿の御心労は手前の心労、ききとうのうて何と致しましょうぞ。どのような模様で厶ります",
"言いようはない。火の消えたような寂れ方じゃ",
"ではやはり――",
"そうぞ。もはや迷うてはおられまい。断乎として決断を急ぐばかりじゃ",
"…………",
"不服か。黙っているのは不服じゃと申すか",
"いえ不服では厶りませぬ。殿が御深慮を持ちまして、それ以外に途はないと仰せられますならば、いかような御決断遊ばしましょうと、格之進何の不服も厶りませぬが――",
"不服はないがどうしたと申すのじゃ",
"手前愚考致しまするに屋台店の夜毎に寂れますのは、必ずしも町民共の懐中衰微の徴しとばかりは思われませぬ。一つは志士召捕り、浪土取締りなぞと血腥さい殺傷沙汰がつづきますゆえ、それを脅えての事かとも思われますので厶ります",
"一理ある。だがそちも常人よ喃。今の言葉は誰しも申すことじゃ。予は左様に思いとうない。も少し世の底の流れを観たいのじゃ。よしや殺傷沙汰が頻発致そうと、町民共の懐中が豊ならば自と活気が漲る筈じゃ。屋台店はそれら町民共のうちでも一番下積の者共の集るところじゃ。集る筈のそれら屋台に寂れの見えるは下積の者共に活気のない証拠じゃ。国政を預る身としてこの安藤対馬は、第一にそれら下積の懐中を考えたい。活気のあるなしを考えて行きたい。民は依らしむべし、知らしむべからず、貧しい者には攘夷もなにも馬の耳に念仏であろうぞ。小判、小粒、鳥目、いかような世になろうと懐中が豊であらばつねにあの者共は楽しいのじゃ。なれども悲しいかな国は今、その小判に欠けておる。これを救うは異人共との交易があるのみじゃ。交易致さば国に小判が流れ入るは必定、小判が流れ入らば水じゃ。低きを潤す水じゃ。下積の者共にも自と潤いが参ろうわ。ましてやポルトガル国はもう三年来、われらにその交易を求めてじゃ。海外事情通覧にも書いてある。ポルトガル国はオランダ、メリケン国に優るとも劣らぬ繁昌の国小判の国と詳しく書いてじゃ。対馬は常に只、貧しい者達の懐中を思うてやりたい。決断致すぞ。予は決断致してあすにも交易を差し許して遣わすぞ。のう。多井、対馬の考えは誤っておるか",
"さり乍ら、それではまたまた――",
"井伊大老の轍を踏むと申すか!",
"はっ。臣下と致しましては、只もう、只々もう殿の御身が……",
"死は前からの覚悟ぞ!たとえ逆徒の刃に斃れようとも、百年の大計のためには、安藤対馬の命ごとき一毛じゃ。攘夷を唱うる者共の言もまた対馬には片腹痛い。一にも二にも異人を懼れて、外船と交易致さば神州を危うくするものじゃと愚かも甚しい妄語を吐きおるが、国が危ういと思わば内乱がましい内輪の争い控えたらよかろうぞ。のう、多井! 予の考えは誤りか",
"いえ、それを申すのでは厶りませぬ。京都との御約束は何と召さるので厶ります",
"あれか。約束と申すは攘夷実行の口約か",
"はっ。恐れ乍ら和宮様御降嫁と引替えに、十年を出ずして必ず共に攘夷実行遊ばさるとの御誓約をお交わしなさりました筈、さるを、御降嫁願い奉って二月と出ぬたった今、進んでお自らお破り遊ばしますは、二枚舌の、いえ、その御約束御反古の罪は何と遊ばしまする御所存で厶ります",
"そちも近頃、急に年とって参ったよ喃――"
],
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"それにしてもあんまりで厶ります……。殿様もあんまりで厶ります。……",
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],
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"殿様をお恨みに思う筋は毫もない。お目を掠め奉った二人にこそ罪があるのじゃ。正直にこれこれとも少し早うお打ちあけ申し上げておいたら、屹度御許しもあったものを、今までお隠し申し上げておいたのが悪かったのじゃ。なりませぬ! 殿様にお恨み申し上げてはなりませぬ!",
"いいえ申します。申します。隠した恋では厶りましょうと、あれほどもおきびしゅうお叱りを受けるような淫らな戯むれでは厶りませぬ。それを、それを、只のひと言もお調べは下さりませいで、御追放遊ばしますとはあんまりで厶ります。あんまりで厶ります",
"ならぬと言うたらなぜ止めませぬ! どのような御仕置きうけましょうとも、御恩うけた殿様の蔭口利いてはなりませぬ。御手討ちにならぬが倖わせな位じゃ。もう言うてはなりませぬ!",
"でも、でも……",
"まだ申しますか!",
"あい、申します! 晴れて添いとげたいゆえに申します。わたくしはともかく、あなた様は八つからお身近く仕えて、人一倍御寵愛うけたお気に入りで厶ります。親とも思うて我まませい、とまでお殿様が仰せあった程のそなた様で厶ります。それを、それを、只の御近侍衆のように、不義はお家の法度、手討ちじゃと言わぬばかりな血も涙もないお仕打ちは、憎らしゅう厶ります。殿様乍らお憎らしゅう厶ります"
],
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"あすは十五日で厶ったな",
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],
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"行って参る! 並々ならぬ身体じゃ。大切に致されよ",
"ま! 不意にどこへお越し遊ばすので厶ります。このような夜中、何しに参るので厶ります",
"せめてもお詫びのしるしに――、いや、道弥がせねばならぬことを致しに参るのじゃ。健固でお暮し召されよ……",
"ま! お待ちなされませ! お待ちなされませ!"
],
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"夜明けのせいか、めっきり冷えが増して参ったように厶ります。お微行のあとのお疲れも厶りましょうゆえ、御寝遊ばしましてはいかがで厶ります",
"…………",
"な! 殿!",
"…………",
"殿!",
"…………",
"きこえませぬか。殿! もう夜あけに間も厶りませぬ。暫しの間なりとお横におなり遊ばしましてはいかがで厶ります",
"…………",
"な! 殿!",
"…………",
"殿!"
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"あすは十五日であったな",
"はっ。月次総登城の御当日で厶ります。それゆえ暫しの間なりとも御寝遊ばしましてはと、先程から申し上げているので厶ります。いかがで厶ります",
"それよりも予の目のうちには、あれがちらついておる。……屋台店の寂れがちらついておる……。たしかに十五日じゃな",
"相違厶りませぬ",
"しかと間違いあるまいな",
"お諄う厶ります",
"諄うのうてどうしょうぞ。月次総登城とあらば、諸侯に対馬の動かぬ決心告げるに丁度よい都合じゃ――硯を持てい",
"はっ?",
"紙料持参せいと申しているのじゃ"
],
[
"予が遺言に――、いや、夜がいか程更けておろうと火急の用じゃ。すぐさま外国奉行の役宅へ持参させい",
"ではもうやはり――",
"聞くがまではない。ちらつく……、ちらつく、予の目には只あれがちらつくばかりじゃ……"
],
[
"湯浴の支度は整うておるであろうな",
"おりまするで厶ります"
],
[
"お潔ぎよいことで厶ります。只もう、只もうお潔ぎよいと申すよりほかは厶りませぬ",
"長い主従であったよな",
"…………",
"不吉じゃ。涙を見するは見苦しかろうぞ。大老も、井伊殿の御最期もそうであった。登城を要して討つは、刺客共にとって一番目的を遂げ易い機である。十五日であるかどうかを諄うきいたのもそのためじゃ。決断を急いだのもそれゆえじゃ。予を狙う刺客共もあすの来るのを、いや、今日の来るのを待ちうけておるであろう。多井!",
"はっ……",
"すがすがしい朝よな"
],
[
"供揃いさせい",
"整えおきまして厶ります",
"人数増やしたのではあるまいな",
"いえ、万が一、いや、いずれに致せ多いがよろしかろうと存じまして、屈強の者選りすぐり、二十名程増やしまして厶ります",
"要らぬ。減らせ!"
],
[
"見苦しい! 退れっ。縁なき者の守護受けとうないわっ。行けっ",
"では、では、これ程までにお詫び致しましても、――手裏剣文放って急をお知らせ致しましたのも手前で厶りました。蔭乍らと存じまして御護り申し上げましたのに、では、では、どうあっても――",
"知らぬ! 行けっ",
"やむをえませぬ! ……"
],
[
"嬰児が父なし児になろうぞ。早う行けっ",
"左様で厶りましたか! 左様で厶りましたか!"
]
] | 底本:「小笠原壱岐守」大衆文学館文庫、講談社
1997(平成9)年2月20日第1刷発行
底本の親本:「佐々木味津三全集10」平凡社
1934(昭和9)年発行
初出:「改題」
1930(昭和5)年発行
入力:大野晋
校正:noriko saito
2004年11月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "001483",
"作品名": "老中の眼鏡",
"作品名読み": "ろうじゅうのめがね",
"ソート用読み": "ろうしゆうのめかね",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「改題」1930(昭和5)年",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-11-17T00:00:00",
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"姓": "佐々木",
"名": "味津三",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "みつぞう",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "みつそう",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Mitsuzo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1896-03-18",
"没年月日": "1934-02-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "小笠原壱岐守",
"底本出版社名1": "講談社大衆文学館文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1997(平成9)年2月20日",
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"校正に使用した版1": "1997(平成9)年2月20日第1刷",
"底本の親本名1": "佐々木味津三全集10",
"底本の親本出版社名1": "平凡社",
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} |
[
[
"では。",
"どうぞ。"
],
[
"フランス語もお前が好きだつたのだな。",
"えゝ。",
"――海商法を研究してゐるといふのは、…………さうだ、あれは俺が勧めたのだつた。"
],
[
"まあいゝや。死ななくともよかつたのになあ。――お前なぜキスしてやらなかつたのだい。去年来たときさ。――",
"そんなこと、もうどうぞ――",
"いゝさ。いゝよそんな事。――名古屋まで遊びに来たらキスしてあげるて書いてやつたのだらう?……姉さんは嘘吐きです。……か。あの手紙では山添少し怒つてゐたね。それからあの遺書だね……………おい……"
]
] | 底本:「編年体 大正文学全集 第十巻 大正十年」ゆまに書房
2002(平成14)年3月25日第1版第1刷発行
親本:「新潮 第三十四巻第五号」新潮社
1921(大正10)年5月1日発行
初出:「新潮 第三十四巻第五号」新潮社
1921(大正10)年5月1日発行
入力:富田晶子
校正:日野ととり
2017年1月1日作成
2018年1月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "058091",
"作品名": "ある死、次の死",
"作品名読み": "あるし、つぎのし",
"ソート用読み": "あるしつきのし",
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"副題読み": "",
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"初出": "「新潮 第三十四巻第五号」新潮社、1921(大正10)年5月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2017-01-01T00:00:00",
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"姓": "佐佐木",
"名": "茂索",
"姓読み": "ささき",
"名読み": "もさく",
"姓読みソート用": "ささき",
"名読みソート用": "もさく",
"姓ローマ字": "Sasaki",
"名ローマ字": "Mosaku",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1894-11-11",
"没年月日": "1966-12-01",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "編年体 大正文学全集 第十巻 大正十年",
"底本出版社名1": "ゆまに書房",
"底本初版発行年1": "2002年(平成14)年3月25日",
"入力に使用した版1": "2002年(平成14)年3月25日第1版第1刷",
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"底本の親本名1": "新潮 第三十四巻第五号",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
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} |
[
[
"いけない、と言うことはありませんが、一体に婦人は舟に弱いものですからね",
"いえ、それでしたら御心配いりませんわ。私、もう五、六年も毎年葵原と一緒にヨットの練習をやっているんですもの――一度だって、眩ったこと御座いませんの――",
"それなら、いいですが",
"昨年の夏は、品川から三崎まで遠乗りしましたわ。ちゃんと、度胸が据わってます",
"大したものですな――しかし、葵原君が同意するかどうか?",
"ところがですわ、今朝お前がやって見たいと言うなら、行ってお願いして見なさい、と言って葵原の方から私に勧めたような訳で御座いますわ",
"そうでしたら、構いませんが……"
],
[
"では、御供させて戴けるんですか?",
"それ程、御熱心なら……"
],
[
"駄目だ――それは、泥亀が月を望むと同じようなものだ",
"私、きっと釣って見せるわ。きっと――"
],
[
"婦人でも、釣がやれますか?",
"やれますとも、婦人だって別段男と変ったところはありませんわ",
"私、やって見たいと思うわ",
"あなたも、運動家なんですもの――足に自信がおありでしょう。私、いくらでもお供してあげますわ",
"私に、釣れるかしら?"
],
[
"我儘ものが、いろいろ御面倒を掛けますなア",
"いや、決して御心配はいりません。却って賑やかに遊べて結構です",
"分らぬことを言ったら叱って下さい――ところで僕もお供をして、あの豪華な大鯛を一尾釣り上げて見たいと思うのですが、この頃少し健康を害しているのが残念で堪りません。今度は、これ一人御願いします"
],
[
"私もう、何んにも手につかないわ――",
"羨しいなア"
]
] | 底本:「垢石釣游記」二見書房
1977(昭和52)年7月20日初版発行
入力:門田裕志
校正:塚本由紀
2015年8月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "050581",
"作品名": "葵原夫人の鯛釣",
"作品名読み": "あおいはらふじんのたいつり",
"ソート用読み": "あおいはらふしんのたいつり",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 787 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2015-09-03T00:00:00",
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"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
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} |
[
[
"清掃人夫というのは、どんな仕事をするのです",
"煙突掃除に、溝掃除だよ――ところで、清掃人夫をやりたいというのは誰だい"
],
[
"私です",
"なんだお前か、お前みたいな生白いのには仕事が向かねえ。もっと頑丈な、節くれ立った人間でなけりゃ駄目だ"
],
[
"溝や煙突掃除くらい私にもやれますよ",
"駄目だ、そんな細い指の人間にゃやれねえな",
"でも、やらせみておくれ、必ずやりますから",
"どうかな――おい、お前にはあの道具が扱えるかい"
],
[
"それじゃ、一盃にならねえじゃねえか。交番で取っちまうだろう",
"もちろんさ、一年たっても遺失主が現われなければ、おいらのところへ下げ渡されるけれどその間は警察へ預け放しさ",
"そいつは、つまらねえ",
"花咲爺さんじゃねえけれど、こいつは天道さまがおいらに授けたんだ。三人で呑んじまうことにしべえよ"
],
[
"呑みたいのは山々だが、そいつはいけねえな。天知る地知るだ。後が怖ろしいぞ",
"後が怖ろしいとは、どういうことだ",
"拾得物横領というので、呑んじまったことが分かれば、おいらは後ろへ手がまわる",
"そんなわけか",
"危ない危ない、交番行きが一番安全だ"
],
[
"割れた下駄です",
"恥ずかしい、そんなものを提げて――なぜ棄ててこないのだ",
"いえ、これは棄てられません",
"なぜ",
"これは、竈の下の焚きつけになります"
],
[
"ほんとうにお優しいおかあさんでございましたわね",
"そうだった",
"ところであなた旅費はどうなさいます",
"さあ",
"万一の時に取って置きのお金をお持ちでしょうか",
"ない"
]
] | 底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
2011年10月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "046735",
"作品名": "泡盛物語",
"作品名読み": "あわもりものがたり",
"ソート用読み": "あわもりものかたり",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-01-15T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
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"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "『たぬき汁』以後",
"底本出版社名1": "つり人ノベルズ、つり人社",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年8月20日",
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} |
[
[
"まだお達者でいたのですか",
"達者じゃ、矍鑠としちょる。沼之上へ帰ったら皆の者によろしく伝えてくれ",
"もうお爺さんは、九十幾歳にもなるじゃありませんか。なんで、こんな山の中へ入り込んで暮らしているのです、一緒に帰りましょうよお爺さん。沼之上の家で皆が待っていますよ",
"そうはゆかぬ",
"どうしてお爺さん、そのわけ聞かせてくださいよ",
"お前に話しても理解はゆくまいがな、わしは沼之上の家を出て以来、この信州と上州の国境に聳える横手山の洞窟に齢老いた野守と夫婦の暮らしを営んでいる。これから先、幾百年も幾千年も、このままこのあたりにいるであろうが、わしに逢いたいと思うたら、なん時なりと、この渋峠の頂へ来るがよい",
"野守といいますと?",
"それは、説明せぬがよかろう"
],
[
"賢彌、もうそんな寂しい話はやめましょうよ。ですがね、もうお前も子供ではないのですから、石坂家に伝わる男の悲しい運命を知っていると思います。ですから、やがてお前の身の上にも、その運命がめぐってくるのでありましょう",
"おばあさん、僕にも分かっています"
],
[
"気を揉んだところで、時節がめぐってこなければ駄目じゃちうのは、お前さんも承知じゃろうがな",
"さ、それはそうですけれど――",
"あれはどこへもいけない人間じゃ、必ずお前さんの懐のものになるのは分かっているじゃろう"
],
[
"石坂の家は先祖代々、息子が嫁を迎え、その嫁が一人の子供を生まんうちは、わしらのようなものの精が、どんな妖気を弄んだところで、あの息子を拐わかすことはできない。つまり石坂家の持っている天命を、われわれが左右しようといったとてそれは無理じゃ。まあ、落ちついて時節のくるのを待つがよい。その時節は、遠いことではあるまいとわしは思うね",
"ですが、わたしの乙女心をお察しください",
"乙女心か、あっははは――ところでね、賢彌君の曾祖父さんが、渋峠の西に当たる横手山の渓谷の岩窟に、野守の精ともう百年近くも共に棲んでいるのは、お前さんも知っている筈じゃね。わしはお前さんのわずらいが心配になるので、二、三日前横手山へ出かけて行って、曾祖父さんに相談してみた。一日も早く賢彌さんを相俣淵へ引き取って、岩魚を安心させてやりたいが、なんとかならぬものでしょうかといったところ、一言のもとにはねつけられた",
"それはご親切に――厚くお礼を申しあげます",
"お礼で痛み入る――ところで、嫁を貰い子供を儲けぬうちに賢彌を誘拐すれば、石坂家の系図はそこで絶えてしまう。もし、早まって強いて賢彌を誘い出すような不心得のことをやれば相俣の岩魚めはひと捻りに捻りつぶす。そのときは、貴公も同罪じゃから只では置かぬと曾祖父さんから大喝を喰ったようなわけじゃ。じゃが、条件さえ具備すれば、これは石坂家に伝わる運命じゃから貴公らが賢彌を煮て食おうと焼いて食おうと――",
"そうでしたか、では静かに時節のくるのを待つよりほかにいたし方ありませんね",
"そのとおり、そこでしばらく燃ゆる恋心を抑えて、身のわずらいを癒す思案でもするがよかろう",
"心を落ちつけます",
"そうでなければならぬこと。そして、からだを達者にして置いて恋人を迎えにゃなるまい",
"ほほ"
]
] | 底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046737",
"作品名": "岩魚",
"作品名読み": "いわな",
"ソート用読み": "いわな",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-01-15T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/card46737.html",
"人物ID": "001248",
"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "『たぬき汁』以後",
"底本出版社名1": "つり人ノベルズ、つり人社",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年8月20日",
"入力に使用した版1": "1993(平成5)年8月20日第1刷",
"校正に使用した版1": "1993(平成5)年8月20日第1刷",
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"底本の親本出版社名1": "",
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"底本出版社名2": "",
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} |
[
[
"熊だよ",
"いけねえ、いけねえ。僕は、これから奥へ入るのは、もうご免だ",
"大丈夫だよ。この足跡で見ると、熊は五、六時間も前に通り過ぎている。案じねえ",
"ほんとか?",
"大丈夫だろうに――"
]
] | 底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
※<>で示された編集部注は除きました。
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046741",
"作品名": "香熊",
"作品名読み": "かおりぐま",
"ソート用読み": "かおりくま",
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"分類番号": "NDC 596 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-01-15T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
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"底本名1": "『たぬき汁』以後",
"底本出版社名1": "つり人ノベルズ、つり人社",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年8月20日",
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} |
[
[
"何だか、ひどく臭いですな",
"これが鮎川港の特徴なんで――鮎川は鯨で生活している町なんだから、あらゆるものに鯨の匂いがしみ込んでいる"
],
[
"鮎川の町民にとっては、この匂いは香水以上なんですよ",
"なるほど――鯨からとれる龍涎香は香水のもとだといいますからね"
],
[
"これはなんですか",
"これも、今朝とれた二頭の抹香鯨の頭だけです",
"うわ……"
],
[
"この一つの頭のなかには、油が石油罐に二百四、五十杯も入っているでしょう。一頭の抹香鯨の油、皮、肉、臓腑などを計算すると、ざっと一万円位にはなりましょうかね",
"驚いた",
"こんなのは大したことはありませんよ。白長鬚鯨の大きいのになると、一頭で二万五千円にもなります"
]
] | 底本:「垢石釣游記」二見書房
1977(昭和52)年7月20日初版発行
入力:門田裕志
校正:塚本由紀
2015年5月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "050589",
"作品名": "鯨を釣る",
"作品名読み": "くじらをつる",
"ソート用読み": "くしらをつる",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 664 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2015-09-14T00:00:00",
"最終更新日": "2015-05-25T00:00:00",
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"人物ID": "001248",
"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "垢石釣游記",
"底本出版社名1": "二見書房",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年7月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年7月20日初版",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年7月20日初版",
"底本の親本名1": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
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"校正者": "塚本由紀",
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} |
[
[
"諸君ひさ〴〵ぢやの",
"大分御無沙汰でございました",
"時になんぢや、重鎮が二人顔を揃へてやつてくるちふのは――",
"実は突然ですが、先生に一骨折つて頂きたいことができましたので――",
"ふん、さうか。わしは、七段二人腕を揃へて都合十四段のおいでからに、強豪犬養をとつちめに来よつたかと思つた。あつは……"
],
[
"ふん",
"それは呉清源といつて、いま北京に住んでゐる今年十四歳の少年ですが、棋聖秀策の少年時代に似たやうな天稟の棋力を持つてゐます。このほどこの少年が打つた棋譜を三局ばかり調べてみましたがその天分の豊かなのに、吾々専門棋士仲間でも驚いてゐるやうな次第でございます",
"なるほど、それは耳寄りぢやな",
"そこで、その少年を日本へ呼び寄せてみつちり仕込んで物にしてみたいと思ふのです。ですが当方に有力な背景がないといふと向ふの親達が安心して、遠い日本へ旅はさせまいと思ふのですが――",
"それも、さうぢやの",
"ところで、先生に一筆、北京の芳沢大使の許へお願ひ申して、芳沢大使から少年の親御に修業を勧誘して頂いたら、どんなものかと存じますが――",
"それはたやすいことぢや、ぢやがの、連れてきて果してものになるかな"
],
[
"ものになるどころぢやありません。このまゝすく〳〵と伸びて行けば、どこまで行くものか見当がつきません。世の中に所謂天才少年といふのはいくらもありますが、こんなのはちよつと類がないといへませう",
"ふん、なるほど、するとぢやな、その少年が貴公らの予想通りに伸びて行くとすれば、将来は名人になれるかも知れんちふのぢやな",
"ほんたうに、なれるかも知れません",
"よし、それはよく分つた。しかし、そこでぢやな、もしその少年がめき〳〵と育ちよつたら、結局将来は貴公等がやられる時代がくるのぢやないか。日本の棋界が中国の少年に抑へられたとあつてはどんなものかな。貴公等はどう思ふ",
"いゝえ、芸道に国境はございません。世界のどの国の人が名人上手になつたところで、私らは大いに歓迎したいと思つてゐます。",
"えゝ覚悟ぢや。技芸に携る人は常にその精神を持つちよらにやいかん。それでこそ、芸の道は発達するのぢや"
],
[
"はい",
"たやすいことぢや、一骨折る。ぢやがな、外国から人を呼んでそれを面倒みるちうことになると、相当に費用がかゝるものぢや。その方のことは、どうするつもりぢや",
"それは、私らに心当りもございます"
]
] | 底本:「日本の名随筆 別巻11 囲碁2[#「2」はローマ数字、1-13-22]」作品社
1992(平成4)年1月25日第1刷発行
2000(平成12)年1月30日第7刷発行
底本の親本:「垢石傑作選集 人物篇」日本出版共同株式会社
1953(昭和28)年5月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046518",
"作品名": "呉清源",
"作品名読み": "ごせいげん",
"ソート用読み": "こせいけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 795 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-01-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/card46518.html",
"人物ID": "001248",
"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の名随筆 別巻11 囲碁Ⅱ",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "1992(平成4)年1月25日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年1月30日第7刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "垢石傑作選集 人物篇",
"底本の親本出版社名1": "日本出版共同株式会社",
"底本の親本初版発行年1": "1953(昭和28)年5月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "仙酔ゑびす",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46518_ruby_25560.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-01-01T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46518_25612.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-01-01T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"その包のなかには、なにが入っている",
"はい"
],
[
"包をあけてみろ",
"いえ、少しばかり野菜が――",
"あけなさい"
],
[
"これは飛んでもない。一体、どこから持ってきた。うん",
"粕川の親戚から、頂戴してきました。子供の食べものが足りないものですから――",
"いかん、藷は移動禁止の品だ。ここへ、置いて行け"
],
[
"……二度と再び、藷なぞ提げ回れば承知しないぞ",
"はい"
],
[
"野菜の公定価は、どこを標準にしてきめたものでしょうね",
"そりゃ、わし共にも分かりゃしねえがの",
"飛んでもねえ、納得なんか爪の垢ほどもいっていねえよ",
"それじゃ、組合の値段が安過ぎるというのかね",
"馬鹿馬鹿しくって、話にならねえ",
"でも皆さんが、精々青物組合へ出すようじゃありませんか"
],
[
"大きな声じゃ言えねえがね、ほんとうは組合から買いにきても、いい顔はしねえだよ。もう畑は、空っぽだよ、ちうわけなんだ",
"なるほど",
"町の人にや気の毒だがの、やむを得ねえ、ちうわけだんべ",
"そうだね、都会の人には気の毒だね。ところで、それならあれほどあっちこっちの畑に葱や菜っ葉が山ほどあるのに一体どこへ売るということになるのだろう",
"そこを、きいて貰っちゃ困る",
"でも、農家で、食った余りを組合へ出さなければ、野菜は畑で腐ってしまうじゃないか",
"そこは、けっこう腐られねえよ",
"そうかねえ"
],
[
"なにかありませんかね",
"ねえこともねえ",
"あったら、少し分けておくんなさい。なんでも結構です",
"面倒だな",
"そんなこといわないで、お慈悲ですから少し分けてくださいよ"
],
[
"すみませんね、お手数かけて――それでお代はいくら差しあげたら、よろしいのでしょう",
"なあに、これんばかりの品だから、いくらでもかまわねえよ",
"でもね、おっしゃってくださいよ",
"おれにや、値は分からねえだよ。まあいいから持ってくさ"
],
[
"少しですみませんが、これ取って置いてください",
"これじゃ、お剰銭がねえがの。いまちょうと細けえのがねえんで――",
"お剰銭なんぞ、いいんですよ",
"それじゃ済まねえの"
],
[
"おじさん、またきますから、こん度おじゃがなんか、売って頂戴ね",
"あいよ。この相場なら何でもやるよ。おれのうちになければ、近所から都合してきてもやるべえよ"
],
[
"なにかありませんかって、どんなもの",
"米でも、じゃがいもでも結構なんですがねえ、少し――",
"なんだ君は買いだしか――だが僕のところには生憎なにもないんだよ",
"うそ言わないでさ",
"うそだもんか、僕の方でほしい位だ",
"じょうだん言わないで、ほんとに――あっちでもこっちでも、かすを食うんで、僕悲観しちゃったあ",
"それは気の毒だな、けれど、僕も最近ここへ疎開してきたばかりで、米や麦は愚かなこと、汁の実にする青いものさえ不足しているので、困っている最中だ",
"そうですか、それは見損なった"
],
[
"おじさんなんぞ、畑のまん中に住んでいて食べものが足りないなんて、へんですね",
"不思議なことはないのさ、足りないのは都会ばかりじゃないよ",
"実はね、私は徴用で工場へ勤めているのですけれど、根は下駄屋なんですよ。きょうは電休日ですから、食いもの探しに出かけたわけですよ。自分でこしらえた下駄をぶら下げて――",
"ふふん",
"下駄と食いものと交換して貰うという算段なんです――この近所に、誰か下駄の入用の人はありませんかね",
"僕のところに何かあれば、喜んで交換してやるのだが、生憎で気の毒だな。ところで、君はちょいちょい買いだしに歩くかね",
"ええ、電休日がくると必ず家内にせきたてられますので――",
"そこで、君たちは農村から食べものを、どんな相場で買って行くのです",
"品により相手により土地により、相場などときまったものはありませんよ。その日の運不運行き当たりばったりですよ。まあ、品物を分けていただいたその礼に、いくらかの金を差しあげるというわけになるのですから、農家から闇で買うというわけでもありませんね",
"なるほど",
"つまり、農家の親切に対し金で謝意を表するのですから普通の取引のようには行きません。ですから、家へ帰って計算してみると、随分高価な食べものもありますし、割合に安いものもあります",
"ふふん、貴公はなかなか、うまいことをいうね。ところで高価であるといっても、どの位高いのか、僕には見当がつかないが、一体八百屋から買った方が高いか安いか――",
"そりゃ、八百屋から配給を受けた方が、安いにきまってるじゃありませんか",
"そうだろうな、気の毒だね。――お礼はどんな程度に差しあげるのかね",
"まず、公定の十倍位には当たるでしょうね",
"驚いたな",
"驚くなんて野暮ですよ。八百屋の配給だけで健康を保って行けないのは、いつかも議会で農商大臣も認めていましたね",
"君は、甚だ記憶がいいね",
"そこで、政府でも地方の官庁でも、都会民に一坪農園とか二坪農園をやれといいますが、一坪や二坪でなにができますかね。第一、農具もなければ、肥料もない。土地もない",
"君、不平いっちゃいかん、創意と工夫ちうことがあるじゃないか",
"恐れ入りました――あっ、間もなく日没、家内に叱られます。どこかで、この下駄に物をいわせにゃなりません"
]
] | 底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046749",
"作品名": "食べもの",
"作品名読み": "たべもの",
"ソート用読み": "たへもの",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-01-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/card46749.html",
"人物ID": "001248",
"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "『たぬき汁』以後",
"底本出版社名1": "つり人ノベルズ、つり人社",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年8月20日",
"入力に使用した版1": "1993(平成5)年8月20日第1刷",
"校正に使用した版1": "1993(平成5)年8月20日第1刷",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "松永正敏",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46749_ruby_25666.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-01-01T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"君が、佐藤君ですか",
"はい",
"僕は、編集局長の村上政亮です。君ですな、新聞記者になりたいというのは",
"はい",
"どんな考えで、新聞記者を志望するのですか",
"えー、そのー、実はそのー",
"よし分かった、それでいい――ところで君の性質は、短気の方ですか、気永の方ですか"
],
[
"いえ、僕はやめません。辞表をだしたことはないと思います",
"そうかね、でも君は社の方ではやめたことにしてあるがね",
"そうですか、でも私はまだ解職の辞令を受け取っていません",
"そうだったかね"
]
] | 底本:「『たぬき汁』以後」つり人ノベルズ、つり人社
1993(平成5)年8月20日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2006年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046754",
"作品名": "入社試験",
"作品名読み": "にゅうしゃしけん",
"ソート用読み": "にゆうしやしけん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-01-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/card46754.html",
"人物ID": "001248",
"姓": "佐藤",
"名": "垢石",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "こうせき",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "こうせき",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Koseki",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1888-06-18",
"没年月日": "1956-07-04",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "『たぬき汁』以後",
"底本出版社名1": "つり人ノベルズ、つり人社",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年8月20日",
"入力に使用した版1": "1993(平成5)年8月20日第1刷",
"校正に使用した版1": "1993(平成5)年8月20日第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "松永正敏",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46754_txt_25669.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-01-01T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001248/files/46754_25690.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-01-01T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"やいチビ、逃げるのかきさま",
"逃げやしません",
"豆腐をくれ",
"はい"
],
[
"いかほど?",
"食えるだけ食うんだよ、おれは朝飯前に柔道のけいこをしてきたから腹がへってたまらない、焼き豆腐があるか",
"はい"
],
[
"銭はこのつぎだよ",
"はい",
"用がないからゆけよ、おれはここで八百屋の豊公を待っているんだ、あいつおれの犬に石をほうりやがったからここでいもをぶんどってやるんだ"
],
[
"そうですか",
"重たいだろうね、きみ"
],
[
"ありがとう",
"じゃ失敬"
],
[
"かまわないだろ、日曜だから……",
"ああ、そうだけれども",
"いいからね、遠慮せずとも、ぼくは昔の友達にみんなきてもらうんだ",
"じゃゆきましょう"
],
[
"なんの?",
"へびに芸をさせるんだ",
"よしきた……そもそもこれは漢の沛公が二つに斬った白蛇の子孫でござい"
],
[
"うまいうまい",
"みんな見たか",
"うまいぞ",
"見たものは弁当をだせ"
],
[
"何が下卑てる?",
"国定忠治だの次郎長だの、博徒じゃないか、尻をまくって外を歩くような下卑たやつはおれの仲間にゃされない",
"じゃどうすればいいんだ",
"おれは秀吉だからお前は加藤か小西になれよ"
],
[
"だっておまえの方で、かなわないからやめてくれといったじゃないか",
"かなうのかなわないのという問題じゃないよ、ただね、つまらないことは……",
"なにを?"
],
[
"ぼくのだ",
"てめえに似て臆病だな"
],
[
"生蕃がきた",
"たのむぞ",
"やってくれ"
],
[
"和睦もへちまもあるものか、きさまはおれの貴重な鼻をガンと打ったね",
"きさまが先に打ったじゃないか",
"いやきさまが先だ",
"さあこい",
"こい",
"ワン",
"ワンワン"
],
[
"早いことをするな",
"柳にあんな勇気があったのか"
],
[
"いずれね",
"堂々とこいよ"
],
[
"そうしてぼくを殺した木俣も生きていられないとすれば……三人だ……三人死ぬことになる、つまらないと思わんか",
"うむ"
],
[
"じゃいってまいります",
"いっておいで"
],
[
"やあ青木君",
"やあ"
],
[
"ないよ、きみは?",
"ぼくもない",
"親がないのはお金がないよりも悲しいことだね",
"それにぼくは力がない、きみは力があるからいいさ"
],
[
"いやだ? こら豊松はおとなしくおれにみつぎをささげたのにおまえはいやだというのか",
"いやだ、これは伯父さんにあげるんだから",
"やい、こらッ、きさまはおれのげんこつがこわくないかよ"
],
[
"阪井君、ぼくは毎朝きみに豆腐を食われてもなんともいわなかった、これだけは堪忍してくれたまえ、きみは豊公のを食べたならそれでいいじゃないか",
"きさまは豊公をぎせいにして自分の義務をのがれようというのか",
"義務だって? ぼくはなにもきみにさかなをやる義務はないよ",
"やい小僧、こらッ、三年のライオンを退治した生蕃を知らないか、よしッ"
],
[
"どうしたんだ",
"伯父さんにあげようと思ってぼくは……"
],
[
"あやまらないからなぐったんだ",
"ぐずぐずいわんと早く歩け",
"おれをどうするんだ"
],
[
"そのままでいい",
"おれはけだものじゃねえ"
],
[
"阪井にけがをさしたんでしょうか",
"そうらしいよ、たいしたこともないようだが、それでも相手が助役さんだからね",
"今晩帰ってくるでしょう?",
"さあ"
],
[
"さしいれ物ってなあに?",
"警察へね、毛布だのお弁当だのを持っていくんだよ、警察だけですめばいいけれどもね",
"お母さんが弁当をこさえてくれればぼくが持っていくよ",
"それがね、お金を弁当屋にはらって、さしいれしてもらうのでなきゃいけないんだよ",
"いくら?",
"一遍の弁当は一番安いので二十五銭だろうね",
"三度なら七十五銭ですね",
"ああ",
"七十五銭!"
],
[
"休みません、伯父さんのできることならぼくがやってみせます、ぼくのために助役をなぐった伯父さんに対してもぼくはるす中りっぱにやってみせます",
"でもさしいれ物はね",
"お母さん、ぼくの考えではね、お母さんもぼくと一緒に豆腐を作って、それから伯父さんの回り場所を売りにでてください、二人でやればだいじょうぶです"
],
[
"待てッ",
"待っていられないよ、明日の朝またあおうね"
],
[
"きみはぼくと親友になるといったことをわすれたか",
"わすれはしねえ",
"じゃ、一緒に学校へいこう",
"しかし",
"もういいよ"
],
[
"監獄へいくんでしょうか",
"そうなるかもしれない、きみの方で阪井にかけあってなんとかしてもらうんだね"
],
[
"はあ",
"覚平さんのさしいれはすんでるよ",
"三度分の弁当ですよ",
"ああすんでる",
"だれがしてくれたのです",
"だれだかわからないがすんでる、五十銭の弁当が三本",
"へえ、それじゃちり紙を一つ……",
"ちり紙とてぬぐいと、毛布二枚とまくらと……それもすんでる"
],
[
"それもいえない、いわずにいてくれというんだから",
"じゃさしいれするものはほかになんでしょう",
"その人がみんなやってくれるからいいだろう"
],
[
"だれだろうね",
"さあだれだろう"
],
[
"青木さん、兄さんがあなたを探してたわ",
"兄さんが?",
"ああ",
"何か用事があるんですか",
"そうでしょう私知らないけれども"
],
[
"急用なの?",
"そうでしょう",
"なんだろう",
"会えばわかるじゃないの?",
"それはそうですな",
"兄さんがいま、家にいるでしょう、いってちょうだいね"
],
[
"やかましいやつだな、おてんば!",
"そんなことをいったら青木さんをつれてきてあげないわ",
"おまえがつれてこなくても青木君はここにいるじゃないか"
],
[
"きみ、ちょっとはいってくれたまえ",
"ぼくはどろあしですから",
"そうか、じゃ庭へいこう"
],
[
"ぼくはぼくの父ともよく相談のうえでこのことをきめたんだが",
"どんなことですか",
"つまり、きみにもいろいろ不幸な事情が重なってるようだがきみはもう少し学問をする気がないかね"
],
[
"かくさないでいってください、ぼくはお礼をいわないと気がすまないから",
"そうじゃないよきみ、決してそうじゃない、ところできみ、いまの話はどうする、きみはぼくと一緒に中学へ通わないか、ねえきみ、きみはぼくよりもできるんだからね、ぼくの家はきみに学資をだすくらいの余裕があるんだ、決して遠慮することはないよ、ぼくの父は商人だけれども金を貯めることばかり考えてやしない、金より大切なのは人間だってしじゅういってるよ、きみのような有望な人間を世話することは父が一番すきなことなんだから、ねえきみ、ふたりで一緒にやろう、大学をでるまでね、きみは二年の試験を受けたまえ、きっと入学ができるよ、ねえきみ"
],
[
"ねえ青木君、ぼくの心持ちがわかってくれたろうね",
"…………",
"明日からでも商売をやめてね、伯父さんがでてくるまで休んでね、そうしてきみは試験の準備にかかるんだね、決して不自由な思いはさせないよ",
"…………",
"ぼくはね、金持ちだからといっていばるわけじゃないよ、それはきみもわかってくれるだろうね",
"無論……無論……ぼくは……"
],
[
"いやなのかい",
"お志は感謝します。だが柳さん"
],
[
"わがままのようだけれどもぼくはお世話になることはできません",
"どうして?",
"ぼくはねえ柳さん、ぼくは独力でやりとおしたいんです、人の世話になって成功するのはだれでもできます、ぼくはひとりで……ひとりでやって失敗したところがだれにも迷惑をかけません、ぼくはひとりでやりたいのです",
"しかしきみ"
],
[
"いままでどおりにお願いします",
"ぼくもね"
],
[
"きみ、気をつけなきゃいけないよ、生蕃がきみを殺すといってるよ",
"なぜだ",
"きみの父がチビ公の伯父さんのさしいれ物をしたそうじゃないか",
"だれがそんなことをいったんだ",
"町ではもっぱら評判だよ",
"そんなことはぼくは知らん、よしんば事実にしたところで、生蕃がなにもぼくを殺すにあたらない話だ",
"ぼくもそう思うがね、あの問題はチビと生蕃のことから起こって、大人同志の喧嘩になったんだからな",
"かまわんさ、ほっとけ、ぼくは生蕃をおそれやしないよ",
"きみはいつも傲慢な面をしてるとそういってたよ",
"なんとでもいうがいい",
"しかし気をつけなけりゃ"
],
[
"逃げるもんか、日本男児だ、大沢一等卒は銃剣をまっこうにふりかぶって",
"らっぱはどうした",
"らっぱは背中へせおいこんだ",
"らっぱ卒にも銃剣があるのか",
"あるとも、兵たる以上は……まあだまって聞け大沢一等卒は……",
"いまや小使いになってる"
],
[
"小使い! お茶をくれ",
"はい、お茶を持ってまいります"
],
[
"しかし外国人と話をするときに先生の発音では通じません",
"それだからきみらはいかん、語学をおさめるのは外人と話すためじゃない、外国の本を読むためだ、本を読んでかれの長所を取りもってわが薬籠におさめればいい、それだけだ、通弁になって、日光の案内をしようという下劣な根性のものは明日から学校へくるな"
],
[
"おれにくれ",
"おれにも"
],
[
"屋台をひきずりこんだのはきみか",
"はい、そうです",
"なぜそんなことをしたか",
"たい焼き屋がきたためにみなが校則をおかすようになりますから、みなの誘惑を防ぐためにぼくがやりました",
"本当か",
"本当です",
"よしッ、わかった"
],
[
"それじゃ生蕃がかわいそうだよ",
"仕方がないさ",
"一つでも二つでもいいからね",
"ぼくは自分の力でもって人を助けることは決していといはせんさ、だが、先生の目をぬすんでこそこそとやる気持ちがいやなんだ、悪いことでも公明正大にやるならぼくは賛成する、こそこそはぼくにできない、絶対にできないよ"
],
[
"なんとでもいいたまえ、ぼくは卑劣なことはしたくないからふだんに苦しんで勉強してるんだ、きみらはなまけて楽をして試験をパスしようというんだ、その方が利口かも知らんがぼくにはできないよ",
"きみは後悔するよ、生蕃はなにをするか知れないからね"
],
[
"一つもか",
"一つも",
"なんにもか"
],
[
"校長に談判しよう",
"やれやれ",
"徹底的にやれ"
],
[
"ぼくにはわかりません",
"わからんということがあるかッ"
],
[
"カンニングのその……",
"どうした",
"柳が阪井に教えてやらないので",
"それで阪井がうったのか",
"はい",
"一番先に答案ができたのは柳だ、それに柳が阪井を救わずに教室を出たのは卑怯だ、利己主義だといったのはだれか"
],
[
"きみでなければだれか",
"知りません",
"知らんというか",
"多分桑田でしょう",
"桑田か",
"はい",
"きみもカンニングをやるか",
"やりません",
"きみは一番うまいという話だぞ",
"それは間違いです",
"よしッ帰ってもよい"
],
[
"先生も校長も非常におこってきみを退校させるといってる",
"退校させるならさせるがいいさ、片っ端からたたききってやるから",
"短気を起こすなよ、ぼくがうまくごまかしてきたから多分だいじょうぶだ",
"なんといった",
"柳の方から喧嘩を売ったのです。柳は生蕃に向かっておまえはふだんにいばってもなんにもできやしないじゃないかといっても生蕃はだまっていると……",
"おい生蕃とはだれのことだ",
"やあ失敬",
"それから?",
"柳が生……生……じゃない阪井につばをはきかけたから阪井がおこってたちあがると柳は阪井の顔を打ったので阪井は弁当をほうりつけたのです",
"うまいことをいうな、きみはなかなか口がうまいよ",
"そういわなければ弁護のしようがないじゃないか"
],
[
"なぜだ",
"ばかやろう! おれは人につばを吐きかけられたらそやつを殺してしまわなきゃ承知しないんだ、つばを吐きかけられたとあっては阪井は世間へ顔出しができない、うそもいい加減に言えよばかッ"
],
[
"キリストの言葉に九十九のひつじをさしおいても一頭の迷える羊を救えというのがあります、あれだけ悪い家庭に育ってあれだけ悪いことをする阪井は憎いにちがいないが、それだけになおかわいそうじゃありませんか、あんな悪いことを働いてそれが悪いことだと知らずにいる阪井巌をだれが救うてくれるでしょうか、善良なひつじは手をかけずとも善良に育つが、悪いひつじを善良にするのはひつじかいの義務ではありますまいか、いまここで退校にされればかれは不良少年としてふたたび正しき学校へ行くことができなくなり、ますます自暴自棄になります、そうすると、ひとりの男をみすみす堕落させるようなものです、救い得る道があるなら救うてやりたいですな",
"いかにもなア"
],
[
"どういうわけだ",
"校長はね、柳の家へしばしば出入りしたのを見た者があるんだよ"
],
[
"どろぼうめが、畜生",
"どろぼうがいたの?",
"どろぼうじゃねえか、一部の議員と阪井とがぐるになって、道路の修繕費をごまかして選挙費用に使用しやがった、それをおまえ大庭さんがギュウギュウ質問したもんだから、困りやがって休憩にしやがった、さあおもしろい、お父さんがいるか",
"ぼくはいま学校の帰りですから知らない",
"知らない? ばかッ、そんならそうとなぜ早くいわないのだ、そんな風じゃ出世しないぞ"
],
[
"なぜ校長先生がこの学校をでるのですか",
"栄転ですか、免官ですか",
"先生がぼくらをすてるんですか",
"先生を追いだすやつがあるんですか"
],
[
"校長先生が諸君に告別の辞をたまわるそうだが、諸君は先生とわかれる意志があるか、意志があるなら告別の辞を聴くべしだ、意志のない者は……どうしても先生とわかれたくないものはお話を聴く必要がないと思うがどうだ",
"そうだ、無論だ"
],
[
"ああ柳さん",
"どこへゆく?"
],
[
"いや、見ない",
"ああそうですか、今朝から家をでたきりですからな、また阪井の家へどなりこみにいったのではないかと思ってね"
],
[
"さっきね丸太ん棒のようなものを持ってね、ここを通ったから声をかけるとね、おれは大どろぼうを打ち殺しにゆくんだといってたっけ",
"どこへいったでしょう",
"さあ、停車場の方へいったようだ",
"酔ってましたか",
"ちとばかし酒臭かったようだったが、なあチビ公早くゆかないと、とんだことになるかもしれないよ",
"ありがとう"
],
[
"ああきたよ",
"何分ばかり前ですか",
"さあ三十分ばかり前かね",
"どっちの方へゆきましたか"
],
[
"だがきみ、社会が正しいものであるなら、ひとりやふたりぐらい悪いやつがあってもそれを撃退する力があるべきはずだ",
"それはそうだが、しかし悪いやつの方が正しい人よりも知恵がありますからね、つまり君の学校の校長さんより阪井の方が知恵があります、どうしても悪いやつにはかないません"
],
[
"税務署で",
"税務署?",
"よっぱらってるから役場と税務署とを間違えて飛びこんだのだよ、阪井を出せ、どろぼうをだせってどなっていたよ",
"ありがとう"
],
[
"はい",
"きさま、どこへいってきた",
"床屋へゆきました",
"なにしにいった",
"頭を刈りに",
"ばかッ、頭を刈ったってきさまの頭がよくなるかッ",
"お母さんがゆけといったから",
"お母さんもばかだ、頭はいくらだ",
"二十銭です",
"二十銭で頭を刈りやがって、学校を退校されやがって"
],
[
"でも……そのね、町会があんなにさわぎ出すと、どうしてもね……",
"もういいよわかったよ、おれに考えがあるから、なにをばかな、はッはッはッ"
],
[
"しかし、いよいよ明日ごろ……多分明日ごろ、検事が……あるいは検事が調べにくるかもしれんので……",
"なにをいうか、検事がきたところでなんだ、証拠があるかッ",
"帳簿はその……",
"焼いてしまえ"
],
[
"だれだッ",
"ぼくです",
"巌か、何遍床屋へゆくんだ、いくら頭をかっても利口にならんぞ"
],
[
"ぼくですお父さん",
"おまえか……なにをする",
"消しましょう",
"あぶない、早く逃げろ"
],
[
"もうだめだ、早く早く、下を這え、立ってるとむせるぞ、下を這って……這って逃げろ",
"消しましょう"
],
[
"なにをいうか、ぐずぐずしてると死ぬぞ",
"死んでもかまいません、消しましょう、お父さん",
"ばかッ、こい"
],
[
"お父さん、あなたは証拠書類を焼くために、この役場を焼くんですか",
"なにを?"
],
[
"きさまはおれを殺しにきたのか",
"助けにきたんだ"
],
[
"お父さんはどんなですか",
"大したこともないのです、手だけが少しひどいようですよ",
"それはよかった"
],
[
"きみがいったとき、犯人らしいものの姿を見なかったかね",
"さあ"
],
[
"見た?",
"ああ見た",
"どんな風体の者だ",
"それは覚平によく似たやつだった"
],
[
"そうだ、それにちがいない。あいつはきみにうらみがあるから、きみに放火犯人の疑いをかけさせようと思って放火したにちがいない、例の工事問題が起こってる最中だから、きみが帳簿を焼くために火をつけたのだろうとは、ちょっとだれでも考えることだからな、いやあいつはじつにうまく考えたものだ",
"そうだ、ことによると立憲党のやつらが覚平を扇動したのかもしれんぜ"
],
[
"お父さんはぼくにうそをつくなと教えました。それだのにあなたはうそをついています、あなたはぼくに義侠ということを教えました。それだのにあなたは命を助けてくれた恩人を罪におとしいれようとしています、ぼくのお父さんはそんなお父さんじゃなかった",
"生意気なことをいうな、おまえなぞの知ったことじゃない、おれはなおれひとりの身体じゃない、同志会をしょって立ってるからだだ、浦和町のために生きてるからだだ、豆腐屋ひとりぐらいをぎせいにしても天下国家の利益をはからねばならんのだ",
"むつかしいことはぼくにわかりませんが、お父さん、自分の罪を他人に着せて、それでもって天下国家がおさまるでしょうか"
],
[
"今日の見送りだがね、もし生徒が軽々しくさわぎだすようなことがあると、校長先生がぼくらを扇動したと疑られるから、この点だけはどうしてもつつしまなきゃならんよ",
"ぼくもそう思ったからきみに相談しようと思ってでかけたんだ"
],
[
"ぼくもそう思うよ",
"じゃそのつもりでやってくれ、だが三年はどうかな"
],
[
"ねえきみ、ぼくにはよく先生の気持ちがわかった、それはね、ぼくが捕手をやってるからだよ、捕手は決して自分だけのことを考えちゃいかんのだ、全体のことを……みんなのことを第一に考えなけりゃならない、ちょうど校長は捕手のようなものだからね",
"そうかね"
],
[
"三年は全部結束してつぎの駅の蕨で校長を見送るらしい",
"いや赤羽まで校長と同車する計画だ"
],
[
"おれもゆく",
"おれも……"
],
[
"浦和中学バンザアイ",
"久保井先生バンザアイ"
],
[
"生蕃がいる",
"阪井のやつがきている"
],
[
"きさまは久保井先生を学校からおいだしたんじゃないか、どの面さげてやってきたんだ",
"…………",
"おい、犬でも畜生でも恩は知ってるよ、おれはずいぶん不良だが校長先生の恩だけは知ってるんだ、きさまは先生をおいだした、犬畜生にもおとるやつだ",
"…………",
"きさまのようなやつはくたばってしまやがれ、きさまのようなやつがいるのは浦和の恥辱だぞ、どうだ諸君、こいつを打ち殺そうか"
],
[
"やれやれ",
"制裁制裁"
],
[
"畜生!",
"ばかやろう!"
],
[
"柳、ゆるしてくれ",
"なにをいうんだ、過去のことはおたがいにわすれよう",
"おれはおまえに悪いことばかりした、それだのにおまえは二度ともおれを救うてくれた",
"そんなことはどうでもいいよ、さあいこう"
],
[
"おれは今日から生まれかわるんだぞ",
"どうしてだ",
"おれが今までよいと思っていたことはすべて悪いことなんだ、それがわかったよ",
"それはどういうことだ",
"どういうことっておまえ、すべてだよ、すべてだ、なにもかもおれは悪いことをして悪いと思わなかったのだ、親父はおれになんでも学校で一番強い人間になれというだろう、だからおれは喧嘩をした、活動を見ると人を斬ったり賭博をしたりするのが侠客だという人だ、だからおれはそれをまねて見たんだ、だがそれは間違ってるね、悪いことをして人よりえらくなろうというのは泥棒して金持ちになろうとするのと同じものだね、そう思わないか",
"そうだとも",
"だからさ……"
],
[
"車に乗れよ",
"何でもないよ……ねえ柳、ぼくはおまえにききたいことがあるんだが",
"なんだ",
"一年のとき、重盛の諫言を読んだね",
"ああ、忠孝両道のところだろう",
"うん、君に忠ならんとすれば親に孝ならず、重盛はかわいそうだね",
"ああ",
"清盛は悪いやつだね",
"ああ",
"重盛がいくらいさめても清盛が改心しなかったのだね",
"ああ",
"それで重盛はどうしたろう",
"熊野の神様に死を祈ったじゃないか",
"そうだ、死を祈った、なぜ死のうとしたんだろう",
"忠孝両道をまっとうできないからさ",
"困ったから死のうというんだね",
"ああ",
"ではおまえ"
],
[
"困るときに死んでしまえばいいのかえ",
"それが問題だよ",
"なにが?",
"自分だけ楽をすればあとはどうなってもかまわないというのは卑怯だからね",
"じゃ重盛は卑怯かえ",
"理論からいうと、そうなるよ、しかし重盛だってよくよく考えたろうと思うよ",
"そうかね"
],
[
"清盛が改心するまで重盛が生きていなければならなかったね",
"さあぼくにはわからないが",
"ぼくにはわかってるよ、わかってるとも、そうでなかったら無責任だ"
],
[
"やあ、いま、きみのところへいこうと思ってきたんだよ",
"そうか"
],
[
"生蕃はどうした",
"帰ったよ",
"きゃつ、ぼくのことをおこっていたろう",
"どうだか知らんよ、だがおこっているだろうさ、いままできみと阪井とは一番親しかったんだろう、それをきみがみんなと一緒になってつばをはきかけたんだからね",
"だってあいつは悪徒だからさ",
"きみほど悪徒ではないよ"
],
[
"きみ、活動へゆかないか",
"いやだ",
"クララ・キンポールヤングすてきだぜ",
"それはなんだ、西洋のこじきか",
"ははははきみはクラちゃんを知らないのかえ",
"知らないよ",
"話せねえな、一遍見たまえ、ぼくがおごるから",
"活動というものはね、きみのようなやつが見て喜ぶものだよ"
],
[
"きみ、ぼくのカナリアが子をかえしたからあげようね",
"いらないよ",
"じゃね、きみは犬を好きだろう、ぼくのポインターをあげようね",
"ぼくの家にもポインターがいるよ",
"そうだね"
],
[
"きみは生蕃が好きになったのか",
"もとから好きだよ",
"だってあいつはきみを負傷させたじゃないか",
"喧嘩はおたがいだ、生蕃は男らしいところがあるよ",
"じゃ失敬"
],
[
"おなかがすいたろう。ご飯を食べない?",
"ほしくありません",
"火傷がなおらないうちに外へ出歩いてはいけないよ、おや、ひたいをどうしたんです",
"なんでもありません",
"また喧嘩かえ"
],
[
"なんでもいいです",
"なにか気にさわることがあるならおいいなさい",
"あちらへいってくださいというに"
],
[
"なにがそんなにご心配なのですか",
"この村に三害といって三つの害物がある。そのために私も村の人も毎日毎日心配している",
"三害とは何ですか",
"南山に白額のとらが出でて村の人をくらう、長橋の下に赤竜がでて村の人をくらう、いま一つは……"
],
[
"いま一つはなんですか",
"おまえだ、おまえがわるいことをして村の害をなす、とらとりゅうとおまえがこの村の三害だ"
],
[
"おれだっておめえを豆腐屋にしたくないんだ、なあ千三、そのうちになんとかするから辛抱してくれ、そのかわりに夜学へいったらどうか、昼のつかれで眠たかろうが、一心にやればやれないこともなかろう",
"夜学にいってもいいんですか"
],
[
"夜学だけならかまわないよ、お宮の近くに夜学の先生があるだろう",
"黙々先生ですか",
"うむ、かわり者だがなかなかえらい人だって評判だよ"
],
[
"あなたなにかいってください",
"うん",
"うんだけではいけません",
"うん",
"あなたはなにもおっしゃることがないんですか",
"うん",
"なにか用事があるでしょう",
"うん",
"ご飯はどうなさるの?",
"うん",
"めしあがらないんですか",
"うん"
],
[
"うん",
"はりにひっかかってるのはかまぼこじゃありませんか",
"かまぼこは魚なり"
],
[
"きみ、ここへきたまえ",
"はあ",
"きみの名は?",
"青木千三です",
"うむ、なにをやるか",
"英漢数です",
"よしッ、これを読んでみい"
],
[
"うむ",
"どこを読むのですか",
"どこでもいい"
],
[
"読める字だけ読め",
"湯……曰……日……新……日……日……新又日新"
],
[
"わかりません",
"考えてみい"
],
[
"これは毎日毎日お湯へはいって新しくなれというのでしょう",
"えらい!"
],
[
"湯の盤の銘に曰く、まことに日に新たにせば日々に新たにし又日に新たにせん……こう読むのだ",
"はあ",
"湯はお湯でない、王様の名だ、盤はたらいだ、たらいに格言をほりつけたのだ、人間は毎日顔を洗い口をすすいでわが身を新たにするごとく、その心をも毎日毎日洗いきよめて新たな気持ちにならなければならん、とこういうのだ、だがきみの解釈は字句において間違いがあるが大体の意義において間違いはない、書を読むに文字を読むものがある、そんなやつは帳面づけや詩人などになるがいい。また文字に拘泥せずにその大意をにぎる人がある、それが本当の活眼をもって活書を読むものだ、よいか、文字を知らないのは決して恥でない、意味を知らないのが恥辱だぞ"
],
[
"弓削道鏡です",
"蘇我入鹿です",
"足利尊氏です",
"源頼朝です"
],
[
"武力をもって皇室の大権をおかしました",
"うん、それから"
],
[
"信玄はどうして",
"親を幽閉して国をうばいました",
"うん",
"徳川家康!",
"どうして?",
"皇室に無礼を働きました",
"うん、それで、きみらはなにをもって悪い人物、よい人物を区別するか",
"君には不忠、親に不孝なるものは、他にどんなよいことをしても悪い人物です、忠孝の士は他に欠点があってもよい人物です",
"よしッ、それでよい"
],
[
"どなた?",
"豆腐屋の青木ですが、母が急病ですからどうかちょっとおいでを願いたいんです"
],
[
"はい",
"先生は風邪気でおやすみですから……どうですかうかがってみましょう",
"どうぞお願いします、急病ですから"
],
[
"そう?",
"あの隣の室のもう一つ隣の室は茶室風でおまえがそこで生まれたのです、萩の天井です、床の間には……"
],
[
"お母さん! つまらないことをいうのはよしてください、ぼくはいまにあれ以上の家を建ててあげます",
"そうそう、そうだね"
],
[
"さあこい",
"よしッ"
],
[
"千三、おまえ今夜も休むの?",
"ああ",
"どうしてだ",
"ゆきたくないからゆきません"
],
[
"きみは病気か",
"いいえ",
"どうしてこない?",
"なんだかいやになりました",
"そうか"
],
[
"洗ってまいりましょうか",
"洗わんほうがうまいぞ"
],
[
"おい、これを見い、わしはきみに見せようと思って書いておいたのだ",
"なんですか",
"きみの先祖からの由緒書きだ",
"はあ"
],
[
"先生なんですか、これは",
"あとを読め",
"右大臣師房卿――後一条天皇のときはじめて源朝臣の姓を賜わる",
"へんなものですね"
],
[
"――雅家、北畠と号す――北畠親房その子顕家、顕信、顕能の三子と共に南朝無二の忠臣、楠公父子と比肩すべきもの、神皇正統記を著わして皇国の正統をあきらかにす",
"北畠親房を知ってるか",
"よくは知りません、歴史で少しばかり",
"日本第一の忠臣を知らんか、そのあとを読め",
"親房の第二子顕信の子守親、陸奥守に任ぜらる……その孫武蔵に住み相模扇ヶ谷に転ず、上杉家に仕う、上杉家滅ぶるにおよび姓を扇に改め後青木に改む、……青木竜平――長男千三……チビ公と称す、懦弱取るに足らず……"
],
[
"どうだ",
"先生!",
"きみの父祖は南朝の忠臣だ、きみの血の中に祖先の血が活きてるはずだ、きみの精神のうちに祖先の魂が残ってるはずだ、君は選ばれたる国民だ、大切な身体だ、日本になくてはならない身体だ、そうは思わんか",
"先生!",
"なにもいうことはない、祖先の名をはずかしめないように奮発するか",
"先生",
"それとも生涯豆腐屋でくちはてるか",
"先生! 私は……",
"なにもいうな、さあいもを食ってから返事をしろ"
],
[
"あれはな、後村上天皇がいま行幸になったところだ",
"ああそれじゃここは?",
"吉野だ",
"どうしてここへいらっしったのです"
],
[
"逆臣尊氏に攻められて、天が下御衣の御袖乾く間も在さぬのじゃ",
"それでは……これが……本当の……"
],
[
"ああそうですか、それと並んで紺青のよろいを着て鉢巻きをしているのはどなたですか",
"あれは正行の従兄弟和田正朝じゃ",
"へえ",
"そら御輿がお通りになる、頭をさげい、ああおやせましましたこと、一天万乗の御君が戦塵にまみれて山また山、谷また谷、北に南に御さすらいなさる。ああおそれ多いことじゃ"
],
[
"御輿の御後に供奉する人はあれは北畠親房じゃ",
"えっ?"
],
[
"喧嘩の夢でも見たのか、足利の高さんと喧嘩したのかえ",
"なんだって畜生ッ、高慢な面あしやがって、天子様に指でも指してみろ、おれが承知しねえ、豆腐屋だと思って尊氏の畜生ばかにするない",
"千三どうしたのさ、千三",
"お母さんですか"
],
[
"ぼくは今日先生にぼくのご先祖のことを聞きました。北畠顕家、親房……南朝の忠臣です。その血を受けたぼくはえらくなれない法がありません",
"だけれどもね、このとおり貧乏ではおまえを学校へやることもできずね"
],
[
"貧乏でもかまいません。お母さん、顕家親房はほんのはだか身でもって奥州や伊勢や諸所方々で軍を起こして負けては逃げ、逃げてはまた義兵を集め、一日だって休むひまもなく天子様のために働きましたよ、それにくらべると日に三度ずつご飯を食べているぼくなぞはもったいないと思います。ねえお母さん、ぼくはいま夢を見たんです。先祖の親房という人はじつにりっぱな顔でした、ぼくのようにチビではありませんよ、尊氏のほうをきっとにらんだ顔は体中忠義の炎が燃えあがっています。ぼくだって忠臣になれます。ぼくだってね、チビでも忠臣になれないことはないでしょう",
"いい夢を見たね"
],
[
"先生ただいま",
"うむ帰ったか"
],
[
"どんな友達ができたか",
"あんこうというやつがあります。口がおそろしく大きいんでりんごを皮ごと二口で食ってしまいます。それからフンプンというやつがあります。これは一年に一ぺんもさるまたを洗濯しませんから、いつでもフンプンとしています。それからまむしというやつ、これは生きたへびを頭からかじります",
"ふん、勇敢だな"
],
[
"この三人はみんなできるやつです。頭がおそろしくいいやつです、三人とも政治をやるといってます",
"たのもしいな、きみとどうだ",
"ぼくよりえらいやつです",
"そうか"
],
[
"活動を見るか",
"さかんに見ましたが、あれは非常に下卑たものだとわかったからこのごろは見ません",
"それがいい"
],
[
"試験の前日、先生はおれにこういった",
"安場、腕ずもうをやろう",
"ぼくですか",
"うむ"
],
[
"さあこい",
"よしッ"
],
[
"先生こそ弱虫です",
"なにを!",
"どっこい"
],
[
"いいですか、本気をだしますぞ",
"よしッ、虫けらの本気はどんなものか、へっぴり虫!",
"よしッ"
],
[
"ふしぎですな",
"おまえはばかだ",
"なんといわれてもしようがありません",
"いよいよジャクチュウかな",
"ジャクチュウとはなんですか",
"弱虫だ、はッはッはッ",
"先生はどうして強いんですか",
"わしが強いんでない、おまえがジャクチュウなんだ",
"ぼくはそんなに弱いはずがないのです",
"おまえはどこに力を入れてるか",
"ひじです",
"腕をだしてみい"
],
[
"腹ですか",
"うむ、力はすべて腹から出るものだ、西洋人の力は小手先からでる、東洋人の力は腹からでる、日露戦争に勝つゆえんだ",
"うむ",
"学問も腹だ、人生に処する道も腹だ、気が逆上すると力が逆上して浮きたつ、だから弱くなる、腹をしっかりとおちつけると気が臍下丹田に収まるから精神爽快、力が全身的になる、中心が腹にできる、いいかおまえはへそをなんと思うか",
"よけいなものだと思います",
"それだからいかん、人間の身体のうちで一番大切なものはへそだよ",
"しかしなんの役にも立ちません",
"そうじゃない、いまのやつらはへそを軽蔑するからみな軽佻浮薄なのだ、へそは力の中心点だ、人間はすべての力をへそに集注すれば、どっしりとおちついて威武も屈するあたわず富貴も淫するあたわず、沈毅、剛勇、冷静、明智になるのだ、孟子の所謂浩然の気はへそを讃美した言葉だ、へそだ、へそだ、へそだ、おまえは試験場で頭がぐらぐらしたらふところから手を入れてしずかにへそをなでろ"
],
[
"なあおい青木、一緒に進もうな",
"うむ"
],
[
"そうかなあ",
"進軍のらっぱだ",
"うむ",
"いさましいらっぱだ、ふけッ大いにふけ、ふいてふいてふきまくれ"
],
[
"これは新しいんですね",
"心配するなよ"
],
[
"きみ、たのむからね、ぼくに向かってていねいな言葉を使ってくれるなよ、ね、きみは豆腐屋の子、ぼくは雑貨屋の子、同じ商人の子じゃないか、ねえきみ、きみもぼくも同じ小学校にいたときのように対等の友達として交わりたいんだ、きみも学生だからね",
"ああ"
],
[
"それからね、きみ、きみの塾とぼくの学校と試合をやらないか",
"ああ、だけれども弱いから",
"弱くてもいいよ、おたがいに練習だからね",
"相談してみよう",
"きみはなにをやってるか",
"ぼくはショートだ",
"それがいい、きみは頭がよくて敏捷だから",
"きみは",
"ぼくは今度からピッチャーをやってるんだよ",
"すてきだね",
"なかなかまずいんだよ、手塚はショートだ、あいつはなかなかうまいよ"
],
[
"なんだこれは",
"すりこぎのようだ",
"犬殺しの棒だ",
"いやだな、おまえが使えよ",
"おれもいやだ"
],
[
"そうじゃない、もしひとりでも傑出した打手があってホームランを三本打てば三点とられるからね、勝負はそのときの拍子だ、強いからってゆだんがならない",
"だからぼくは練習をしようというんだ、青木千三は小学校時代には実にうまかったからね、身体が小さいがおそろしいのはかれだよ"
],
[
"それがいけないよ手塚君、きみはうまいけれども敵をあなどるのは悪いくせだ、ぼくは青木の方がぼくよりうまいと思う",
"きみは青木を買いかぶってるよ、あいつはまだ腰が決まらない",
"いざとなれば強くなるよ"
],
[
"どうかして勝たしてもらいたい、わしが生徒に野球をゆるしたのは少し考えがあってのことだ、この町のものは官学を尊敬して私学を軽蔑する、いいか、中学校や師範学校の生徒はいばるが、黙々塾の生徒は小さくなっている、なあ安場、きみもおぼえがあるだろう",
"そうです、ぼくもずいぶん中学校のやつらにばかにされました",
"そうだ、金があって時間があって学問するものは幸福だ、わしの塾の生徒はみんな不幸なやつばかりだ、同じ土地に生まれ同じ年ごろでありながら、ただ、金のために甲は意気揚々とし乙は悄然とする、こんな不公平な話はないのだ、いいか安場、そこでだ、わしは生徒共の肩身を広くさしてやりたい、金ずくではかなわない、かれらの学校は洋風の堂々たるものだ、わしの塾は壁が落ち屋根がもり畳がぼろぼろだ、生徒は町を歩くにいつも小さくなってしょぼしょぼしている、だからせめて野球でもいいから一遍勝たしてやりたい、実力のあるものは貧富にかかわらず優勝者になれるものだということを知らしめたい、師範生も中学生も黙々生も同等のものであると思わせたい、大手をふって町を歩く気にならせたい、だからどうしても今度は勝たねばならん、わしもこの年になって、なにをくるしんですっぱだかになって空き地でバットをふり生徒等を相手に遊んでいたかろう、生徒の自尊心を養成したいためだ、そうして一方において町の人々や官学崇拝者を見かえしてやりたいためだ、野球の勝敗は一小事だが、ここで負ければわしの生徒はますます自尊心を失い肩身を小さくする、実に一大事件だ、なあ安場、今度こそはだ、なあおい、しっかりやってくれ"
],
[
"今日は日曜だからおまえは休め、おまえは今日大事な戦争にゆかなきゃならないじゃないか",
"野球は午後ですから、朝だけぼくは売りにでます",
"いやかまわない、わしもおひるからは見物にゆくぞ、しっかりやってくれ",
"ありがとう伯父さん、それじゃ今日は休ましてもらいます",
"うむ、うまくやれよ、金持ちの学校に負けちゃ貧乏人の顔にかかわらあ"
],
[
"おい、きみは下腹に力がないぞ、胸のところをへこまして下腹をふくらますようにせい",
"はい"
],
[
"おい、大きなへそだなあ",
"ぼくはいま力を入れてつきだしてるのです",
"いかん、へそのところをつきだすのじゃない、へその下へ食べたものをみんなさげてやるんだ、いいか、胸がせかせかして負けまい負けまいとあせればあせるほど、下腹がへこんで、肩先に力がはいり、頭がのぼせるんだ、味方が負け色になったらみんなへそに気をおちつけろ、いいか、わすれるな、黙々塾は一名へそ学校だぞ、そう思え"
],
[
"ところで一杯どうです",
"これはこれは"
],
[
"つまり球を打ってとれないところへ飛ばしてやればいいんです",
"なるほどね"
],
[
"早く始めろ",
"なにをぐずぐずしてるんだ"
],
[
"やあい、モクモク",
"モクネンジンやあい",
"モク兵衛やあい"
],
[
"柳!",
"小原!"
],
[
"もくもく万歳! もくもく勝ったぞ",
"ぷうぷうぷうぽうぽうぷう"
],
[
"五大洲の頭にかにを這わせてやろうか",
"なぜだ",
"天下横行だ",
"はッはッはッ"
],
[
"そろそろいい時分だよ",
"なにが?",
"ラッキーセブンだ",
"ぼくにラッキーはない、だめだ",
"ばかいえ、きみはたしかに勝てるのに勝たずにいるんだ",
"どうして?",
"きみは大事なことをわすれてる",
"なにを? 大事なことを?",
"うむ、先生に教わったことを"
],
[
"あッ、へそか",
"人間がへそをわすれたら、もうおしまいだ",
"そうか、うむ、ああへそだ、はッはッはッ"
],
[
"ぷうぷうぽうぽう",
"バンザアイ"
],
[
"今日は一本も打たせなかったね",
"このつぎにはかならず打つぞ"
],
[
"青木君、ぼくの学校へ入学したまえよ",
"いまさらそんなことはできないから、一高で一緒になろう、もう二、三年経てばぼくの家も楽になるから",
"検定を受けるつもりか",
"ああ、そうとも",
"じゃ一高で一緒になろう、きみがショートでぼくが投手で小原さんが捕手だったら愉快だな"
],
[
"だれだろう",
"だれだろう"
],
[
"活動を見にゆくのはけしからん",
"しかし、諸君の中に活動を見ない人があるかね、どうだ"
],
[
"女と合奏したり、手紙をやりとりするのはどうだ",
"それはぼくもよくないと思う、しかしそんなことは忠告ですむことだ、一度忠告してきかなかったらそのときに第二の方法を考えようじゃないか、ぼくは生蕃のことでこりた、生蕃は決して悪いやつじゃなかった、だがあのとき諸君がぼくに同情して生蕃を根底からにくんだ、そのために彼はふたたび学校へくることができなくなった、ぼくはいつもそれを思うと、われわれは感情に激したためにひとりの有為の青年を社会から葬ることになったことが実に残念でたまらん、人を罰するには慎重に考えなければならん、そうじゃないか"
],
[
"よし、それできまった、だがもしそれでも反省しなかったらそのときにはだれがなんといってもぼくはあいつをなぐり殺すぞ",
"よしッ、ぼくはかならず反省さしてみせる"
],
[
"そうかえ",
"お着かえになってすぐおでましになりました"
],
[
"きてるのか",
"うむ、きみが忠告するはずだったが、おれはどうしてもあいつをぶんなぐらなきゃ腹の虫がおさまらないからやってきた",
"待ってくれよ、ね、決議にそむいちゃいかんよ",
"いや、おれはなぐる、忠告なんて手ぬるいことではだめだ、あれを見い、毛唐人は犬やねこのようなまねをしてそれが愛だというんだ、おれはそれが気に食わねえ、日本の写真はそのまねをしてるんだぜ、日本の役者……そうだおれはなにかの雑誌を読んだがね、米国では人間のうちで一番劣等なものは活動役者だって……そうだろう、劣等でなければ、あんな醜悪な動作をしてはずかしいとも思わず平気でやっておられんからな、けだものめ"
],
[
"いないよ",
"畜生め、どこかにかくれてるんだ"
],
[
"ちがう、近藤勇はあんな懦弱な顔をしておらんぞ",
"きみは近藤勇を知ってるのか",
"知らんよ、だがあんな下等ないものような面じゃない",
"元来ちょんまげの頭は下等なものだよ、ぼくはあれを見るとたまらなくいやになる",
"それでも近藤勇ならいいよ、国定忠治だの鼠小僧だの、博徒やどろぼうなどを見て喜んでるやつはくそだめへほうりこむがいい、おれは近藤勇だ"
],
[
"大事なことだからさ、でないときみの身体が危ないんだ",
"いやにおどかしやがるね、どうしようてんだ、手塚をなぐろうてのか、面白いなぐってもらおう"
],
[
"なにを?",
"喧嘩か、喧嘩するなら外へでてやろう、ぼくが手塚と話をすますまで待て"
],
[
"きみは制裁を受けなきゃならなくなったんだ、その前にぼくは一応きみに忠告する、ぼくの忠告をきいてくれたらぼくは生命にかえてもきみを保護しようし、また学校でもきみをゆるすことになっている",
"ゆるされなくてもいいよ、ぼくはなんにも悪いことをしない",
"それがいけないよ、なあ手塚、人はだれでも過失があるんだ、それを改めればそれでいい",
"ぼくに改めるべき点があるのか",
"あるよ、手塚、学校ではね、このごろ不良少年があるといってしきりにさがしてるんだ、その候補者としてきみが数えられている",
"ぼくが不良?",
"きみはよく考えて見たまえ",
"ぼくは考える必要がない",
"じゃ君、活動へいくのは?",
"活動へいくのが不良なら、天下の人はみな不良だ",
"そうじゃない、きみはなんのために活動へいくのだ",
"面白いからさ",
"面白いかね、あんな不純なもの、あんな醜悪なものが面白いかね",
"人はすきずきだよ、他人の趣味に干渉してもらいたくないね",
"いやそうじゃない、ぼくはきみと小学校からの友であり同じく野球部員である以上は、きみの堕落を見すごすことはできない、ねえ手塚、きみは活動が好きだから見てもさしつかえないというが、好きだからって毒を食べたら死んでしまう、活動はもっとも低級で俗悪で下劣な趣味だ、下劣な趣味にふけると人格が下劣になる、ぼくはそれをいうのだ"
],
[
"じゃきみは活動のどういう点がすきか",
"近藤勇は義侠の志士じゃないか",
"そこだ、きみは近藤勇を十分に知りたければ維新の史料を読みたまえ、愚劣な作を愚劣な役者が扮した近藤勇を見るよりも、専門家が調べた歴史を読み、しずかに考える方がどれだけ面白いか知れない、活動の小屋は豚小屋のようだ、はきだめのようだ。あんな悪い空気を呼吸するよりも山や野やただしは君の清浄な書斎で本を読むほうがどれだけいいか知れない、活動なんていやしいものを見ずに、もっとりっぱな趣味を楽しむことはできないのか、高尚で健全で男性的な趣味はほかにいくらでもある、趣味が劣等だと人格も劣等になる、きみはそれを考えないのか"
],
[
"じゃ活動のことはそれでよしにしよう、第二にきみは飲食店へ出入りするそうだね",
"ああ、それがいけないのか、だれだって飲んだり食ったりするだろう",
"手塚君、ぼくだって人が洋食を食えば食いたくなる、そば屋へはいることもある、だがね、学生はどこまでも純潔でなければならないのだ、飲食店は大抵大人にけがされている、不潔な女が出入りする、学生はそういう……少しでも不潔な場所へいってはいけないのだ、身体がけがれるからだ、いいか、りっぱな玉はきりの箱に入れてしまっておくだろう、学生はけがれのない玉だ、それをきみはどぶどろの中に飛びこんでるのだ、きみは家にいれば洋食でもなんでも食える身分じゃないか、なぜ食べたければ家で食べないのだ、学校でやかましくいうのも形式ではない、そんなくさった趣味を喜ぶようにならないようにするためだ、きみのことばかりをいうのじゃないよ、ぼくだっておりおり大人のまねをしたいと思うことがある、だがそれはいやしいことだと思いかえすだけだ",
"いやだ、ぼくはぼくの銭でぼくの好きなところへゆくのに学校がなにも干渉するにはあたらないじゃないか",
"手塚君、きみはどうしてもぼくの忠告をきいてくれないのか",
"いやだ、ぼくに悪いことがないんだ"
],
[
"なんでもいうがいい",
"きみの心は潔白か",
"無論だ",
"良心に対してやましくないか",
"やましくない",
"きみは不良少女と遊んでるね、いまきみの隣にいてりんごをかじっていた女の子はなんだ"
],
[
"あれはどろぼうして二、三度警察へあげられた子じゃないか",
"あれは……ろばの友達だよ",
"ろばはきみの親友だろう"
],
[
"堪忍してくれ、ぼくは改心する",
"そうか"
],
[
"おまえ後からおいで",
"兄さんは男だから後になさいよ"
],
[
"おい、おまえの頬っぺたがだんだんふくれてきたね",
"いいわ",
"後ろから見るとほっぺたが耳のわきにつきでてるぞ",
"いいわ",
"ぼくが八百屋の前を通ったらおまえの頬っぺたを売ってたよ、買ってこようと思ったら丸いなすだった",
"いいわ、兄さんだって鼻の先にニキビがあるじゃないの?",
"これはじきなおるよ",
"口のはたに黒子があるから大食いだわ",
"食うに困らない黒子なんだ"
],
[
"四十銭足りないのよ",
"へえ"
],
[
"いいのよ、四十銭ぽちなんでもないわ",
"そう? それじゃ私すぐお返しするわ",
"あらいいわ"
],
[
"私の家へいってくださる?",
"ああおよりするわ、でもなにか食べてからにしましょうよ",
"なにを食べるの?",
"私ね、おしるこを食べたいわ、それともチャンにしましょうか",
"チャンてなあに",
"支那料理よ",
"私食べたことはないわ",
"おいしいわ"
],
[
"でも私お金が……",
"私持ってるからいいわ"
],
[
"私叱られるから",
"叱られる?"
],
[
"はいってみましょうか、私切符があるわ",
"ああちょっとだけね"
],
[
"でも……私",
"お金のことを気にしてるんでしょう、かまわないわ、この人達はねいま材木屋の前でお金を拾ったんですとさ、いくらおごらしてもかまやしない、ねえろば"
],
[
"帰ってもいいよ、どうせおれ達の仲間になったんだから、帰りたければ帰ってもいい",
"私が仲間?"
],
[
"あいつらはね、あなたをわなにかけて銭をゆすろうて計略なんだ、ぼくが引きうけていいようにするから安心していらっしゃい",
"でも私新ちゃんに四十銭と活動のお銭を返さなきゃならないわ",
"いいよ、それも僕が引きうけたから"
],
[
"兄さんに秘密だよ",
"ええ"
],
[
"坊っちゃまはお上手でいらっしゃること",
"男ぶりがいいから役者におなんなさるといい"
],
[
"それどころじゃないよ、文子のようすがこのごろなんだか変だとおまえは思わない?",
"変ですな",
"そうだろう",
"ほっぺたがますますふくれる",
"そんなことじゃない、学校の帰りが大変におそい",
"居残りの稽古があるんです",
"でもね、お金使いがあらいよ",
"本を買うんです、いまが一番本を買いたい年なんです、ぼくにも少しください",
"おまえのことをいってるんじゃないよ、本当に文子が本を買うためにお金がいるんだろうか",
"そうです",
"でも毎晩なんだか手紙のようなものを書いてるよ",
"作文の稽古ですよ、あいつなかなか文章がうまいんです",
"このあいだ男の子と歩いているのをお松が見たそうだよ",
"男の子とだって歩きますよ、ぼくも女の子と道づれになることがある、隣の珠子さんが犬に追われたとき、ぼくはおんぶして帰ってきた",
"おまえはなんとも思わないかね",
"だいじょうぶですよお母さん、文子は決してばかなことはしませんよ、ぼくの妹です、あなたの娘です",
"そうかね、それならいいが"
],
[
"なあに?",
"どこへいくの?",
"お友達が待ってるのよ、テニスよ、今日は復讐戦よ、大変よ",
"ちょっと待ってくれ",
"だって、もうおそいんですもの、ああ暑い、私汗がびっしょりよ"
],
[
"商売から帰らないのですか",
"今日はね、お昼前だけでお昼すぎから休みです、ボールへいったのじゃありますまいか",
"さようなら"
],
[
"やあ柳君、ちょっとはいれ",
"ぼくは急ぎますから失礼します",
"なに? 急ぐ? 男子たるものが事を急ぐという法があるか、急ぐという文字は天下国家の大事な場合にのみ用うべしだ",
"ですが先生、ぼくは……",
"敵に声をかけられておめおめ逃げるという卑怯者は浦中にあるかも知らんが、黙々塾にはひとりもないぞ"
],
[
"よしッ、じゃきみにきくがきみは水を飲むか",
"飲みます",
"一日何升の水を飲むか",
"そんなに飲みません",
"いかん、人間は毎日二升の水を飲むべしだ、顔回は一瓢の飲といったが、あれは三升入りのふくべだ、聖人は",
"さようなら"
],
[
"あたりまえだ、きさまはおれの妹を誘惑したろう",
"ぼくが!",
"あそこの松のところで妹と話をしていたのだ、それをおれが見た、きさまから妹にやった手紙も見た、知らないとはいわせないよ、ばかッ",
"おい柳! どうしたというんだ、ぼくがきみの妹を? きみ! きみ! それは嘘だ、とんでもないことだ、きみ、誤解しちゃいけないよ",
"白ぱっくれるなよ、おれには証拠がある",
"じゃ証拠を見せたまえ",
"証拠はこれだ"
],
[
"きみはぼくをなぐったね",
"無論だ、文句があるならかかってこい"
],
[
"きたか",
"まだまだ",
"気をつけろよ",
"にがしちゃいかんよ"
],
[
"なにをするんだ",
"たたんでしまえ、やれやれ",
"どこだ",
"ここだ",
"こん畜生!"
],
[
"青木じゃないか",
"ああ安場さん",
"うむ、おれだ",
"柳を助けてください",
"よしッ"
],
[
"しばるものがない",
"ふんどしでしばれ",
"ぼくはさるまただ",
"心がけの悪いやつだ",
"安場さんのは?",
"おれは無フンだ"
],
[
"ぼくは今夜きみの演説で真の英雄がわかった、ぼくらはおたがいに英雄じゃないか、正義の英雄だよ",
"ゆるしてくれるか",
"ゆるすもゆるさんもないよ",
"ありがとう"
]
] | 底本:「ああ玉杯に花うけて/少年賛歌」講談社大衆文学館文庫、講談社
1997(平成9)年10月20日第1刷発行
底本の親本:「ああ玉杯に花うけて」少年倶楽部文庫2、講談社
1975(昭和50)年10月16日発行
初出:「少年倶楽部」
1927(昭和2)年5月号~1928(昭和3)年4月号
※底本は、親本の親本と思われる、「少年倶楽部名作選1 長編小説集」講談社、1966(昭和41)年12月17日発行の誤りを残しているため、誤植が疑われる箇所は、「佐藤紅緑全集 上巻」講談社、1967(昭和42)年12月8日発行、を参照してあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄、kazuishi
校正:花田泰治郎
2006年2月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアのみんなさんです。
| {
"作品ID": "003585",
"作品名": "ああ玉杯に花うけて",
"作品名読み": "ああぎょくはいにはなうけて",
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"初出": "「少年倶楽部」1927(昭和2)年5月号~1928(昭和3)年4月号",
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"おうバクスター、心配することはないよ、ここはぼくら四人で十分だから、きみは幼年たちを看護してくれたまえ"
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],
[
"たいへんだたいへんだ、兄さん、水が船室にはいったよ",
"ほんとうか"
],
[
"ああだいじょうぶだ。ゴルドン!",
"ここにいるよ、モコウは?"
],
[
"た、た、助けて!",
"おうモコウ!"
],
[
"モコウ、きみの気のせいだよ",
"いやいや"
],
[
"陸です、たしかに",
"君の眼はどうかしてるよ",
"いや、ドノバン、霧が風に吹かれてすこしうすくなったとき、みよしのすこし左のほうをごらんなさい"
],
[
"モコウ、どうした",
"乗りあげましたが、たいしたことはありません"
],
[
"船をもっと出そうじゃないか",
"乗りあげたのだから出ません"
],
[
"みんなで出るようにしようじゃないか",
"それはだめです",
"それじゃここから泳いでゆくことにしよう",
"賛成賛成"
],
[
"きみはだいじょうぶでも、ほかの人たちはそうはいかんよ、君にしたところでたいせつなからだだ、つまらない冒険はおたがいにつつしもうじゃないか",
"だが、向こうへ泳ぐくらいは冒険じゃないよ",
"ドノバン! きみにはご両親がある、祖国がある、自重してくれたまえ",
"だがこのままにしたところで、船はだんだんかたむくばかりじゃないか、だまって沈没を待つのか",
"そうじゃないよ、いますこしたてば干潮になる、潮が引けばあるいはこのへんが浅くなり、徒歩で岸までゆけるかもしらん、それまで待つことにしようじゃないか",
"潮が引かなかったらどうするか",
"そのときには別に考えることにしよう",
"そんな気の長い話はいやだ"
],
[
"ねえドノバン! きみはぼくを誤解してるんじゃないか、ぼくらは休暇を利用して近海航行を計画したときに、たがいにちかった第一条は、友愛を主として緩急相救い、死生をともにしようというのであった、もしわれわれのなかでひとりで単独行為にいずるがごとき人があったら、それはその人の不幸ばかりでなく、わが少年連盟の不幸だ、いまの時代は自己一点張りでは生きてゆけない、少年はたがいにひじをとり、かたをならべて、共同戦線に立たねばならぬのだ、ひとりの滅亡は万人の滅亡だ、ひとりの損害は万人の損害だ、われわれ連盟は日本英国米国ドイツイタリアフランス支那インド、八ヵ国の少年をもって組織された世界少年の連盟だ、われわれはけっして私情をはさんではいけない、もしぼくが私情がましき行為があったら、どうか断乎として、僕を責めてくれたまえ、ねえドノバン",
"わかったよ、だがきみは、なにもぼくらの自由を束縛するような、法律をつくる権利がないじゃないか?"
],
[
"権利とか義務とかいうのじゃないよ、ただぼくは、共同の安全のためには、おたがいに分離せぬように心を一にする必要があるというだけだ",
"そうだ、富士男の説は正しい"
],
[
"陸には一すじの煙も見えない、ここには人が住んでないと見える",
"人が住まないところに、舟が一そうだってあるものか"
],
[
"きみらはボートをおろすつもりなのか",
"そうだ、だがそれをとめる権利はきみにないはずだ",
"とめやしないが、ボートをおろすのはかってだが、きみらだけ上陸して、ほかの少年をすてる気ではあるまいね",
"むろんすてやしないよ、ぼくらが上陸してからだれかひとり、ボートをここへこぎもどして、つぎの人を運ぶつもりだ",
"それならまず第一に、いちばん年の少ない人たちから上陸さしてくれたまえ",
"それまでは干渉されたくないよ、小さい人たちを上陸さしたのでは役にたたない、まずぼくが先にいって陸地を探検する",
"それはあまりに利己主義だ、おさない人たちを先に救うのは、人道じゃないか",
"人道とはなんだ"
],
[
"きみ、ボートは危険だ、あれを見たまえ、潮はひいたが暗礁だらけだ、あれにかかるとボートはこなみじんになってしまうぞ",
"そうだ"
],
[
"このうえはただ一つの策があるばかりだ",
"どうすればいいか"
],
[
"だれかひとり、綱を持ってむこうの岸へ泳ぎつき、船と岸の岩に綱を張り渡すんだ、それから、年長者は一人ずつ幼年者をだいて、片手に綱をたどりながら岸へ泳ぎつくんだ",
"なるほど、それよりほかに方法がないね",
"では、そういうことにきめるか",
"だが、だれが第一番に綱を持って、むこうへ泳ぎつくか",
"むろんぼくだ"
],
[
"ドノバンは幼年者からボートを取ろうという、きみは幼年者のためにいちばんむずかしい役をひきうけようという、ぼくははじめて日本少年の偉大さを知ったよ",
"このくらいのことは、ぼくの国の少年は、ふつうになっているんだ、そんなことはとにかくとして、綱の用意をしてくれたまえ"
],
[
"やるよりしようがない、これが最善の道だと考えた以上は、死んでもやらなきゃならない",
"しかし……",
"ゴルドン、安心してくれたまえ、ぼくは父からきいたが、日本のことわざに、『義を見てなさざるは勇なきなり』というのがあるそうだ"
],
[
"しかたがないよ",
"うん"
],
[
"やあふしぎだ",
"波があの大きな岩をこえて、船を砂浜へ運んでくれたのだ",
"バンザアイ"
],
[
"だが船は、ふたたび波にさらわれるかもしれない、とにかく、さしむき、ちいさい人たちの住まいを、きめなきゃならんね、きみとふたりで探検しようじゃないか",
"うん、ぼくもそう思ってたところだ"
],
[
"どう考えてもここは熱帯地でないように思う",
"ぼくは熱帯だと思うが、きみはなんの理由でそんなことをいうか"
],
[
"ここには、かしわ、かば、まつ、ひのき、ぶなの木などが非常に多い、これらの樹木は太平洋中の赤道国には、ぜったい見ることができない樹木だ",
"それじゃどこだというのか",
"まつ、ひのきのほかの木がみな、落葉したり、紅葉したりしてるところを見ると、ニュージーランドよりも、もっと南のほうの高緯度だろうと思う"
],
[
"いやたしかに海だ",
"よし、それじゃいけるところまでいって、その実否をたしかめることにしよう",
"よし、いこう"
],
[
"どうか、ドノバンとけんかしないようにしてくれたまえね",
"むろんだ、ドノバンはただいばりたいのが病で、性質は善良なんだから、ぼくはなんとも思っていないよ",
"それでぼくも安心したが、少年連盟はぼくら三人が年長者だからね、きみとドノバンと仲が悪くなると、まったくみんなが心細がるよ",
"連盟のためには、どんなことでも、しのばなきゃならんよ",
"それで安心した"
],
[
"どうかぶじに帰ってくれ",
"おみやげたのむぞ"
],
[
"この石垣は、人手でもって積んだものにちがいない、して見ると、ここに人が住んでいたと思わなきゃならん",
"それはそうだ、たしかに舟をつないだところだ"
],
[
"なんだかわからない字だ",
"エジプトの字だよ",
"支那の字だ"
],
[
"なんだろう、これは",
"どれどれ"
],
[
"山田左門",
"山田?",
"山田!"
],
[
"地図だ",
"おう"
],
[
"やっぱり島だ",
"うん、島だ",
"四方が海だ",
"島だからゆきどころがなくなって死んだのだ",
"ぼくらもだめかなあ"
],
[
"日本は世界じゅうでもっとも小さな国だが、日本人の度量は、太平洋よりも広いんだ、昔から日本人は海外発展に志して、落々たる雄図をいだいたものは、すこぶる多かったのだ、この山田という人は通商のためか、学術研究のためか、あるいは宗教のためか、どっちか知らないが、図南の鵬翼を太平洋の風に張った勇士にちがいない、それが海難にあって、無人境の白骨となったとすれば、あまりに悲惨な話じゃないか、だがけっして犬死にでなかった、山田は数十年ののちに、その書きのこした手帳が、なんぴとかの手にはいるとは、予期しなかったろうと思う、絶海の孤島だ、だれがちょうぜんとして夕陽の下に、その白骨をとむらうと想像しえよう、それでもかれは、地図をかいた、その地図は、いまぼくらの唯一の案内者となり、その洞穴は、いまぼくらの唯一の住宅となった。ぼくははじめて知った、人間はかならずのちの人のために足跡をのこす、いやのこさなければならんものだ、それが人間の義務だ、だからぼくらものちの人のために、りっぱな仕事をして、りっぱな行ないをつまなければならん、人間はけっして、ひとりでは生きてゆけない、死んだ人でも、のちの人を益するんだからね、ぼくはいまそれがわかった、きみらはどう思うかね",
"むろん賛成だ"
],
[
"河のほとりにテントを張ることにしよう",
"それにしても、この船をといて洞まで持ってゆくのは、なかなかよういなことではないよ"
],
[
"ぼくは洞穴にひっこんで冬ごしをするよりも、このまま船のなかにいるほうがいいと思う。船におればここを通る船に救われまいものでもない",
"それにはぼくは賛成ができない。このばあい、ほかから助けを待つべきでない。ぼくら自身の力で、ぼくらの生命をまもる決心をしなければならん",
"それでは永久に洞穴のなかにいて餓死するつもりか",
"餓死するつもりではない、ただぼくらはいかなるばあいにも、他人の助けをあてにせず、自分で働きたいと思うだけだ"
],
[
"船はなくなった、ぼくらはぼくらの運命を大自然に一任するよりほかはない、しかしぼくらはできるだけの手段をとらねばならぬ、それには万一ここを通航する船に、ぼくらの存在を知らしむるために、岩壁の上に一本の信号旗を立てておきたいと思うがどうだろう",
"賛成賛成"
],
[
"そうだ、五月五日、南半球の五月は北半球の十一月にあたる、それだけの差はあるが、しかし五月五日は非常にさいさきのよい日なのだ",
"どういうわけか"
],
[
"ぼくの故郷のじまんと誤解してくれたもうな、五月五日は日本においては少年の最大祝日なのだ。それはちょうど、欧米におけるクリスマスににたものだ、日本全国津々浦々にいたるまで、いやしくも男の子のある家では、屋根よりも高く鯉幟を立てる、室内には男性的な人形をかざる。鐘馗という悪魔降伏の神力ある英雄の像をまつる、桃太郎という冒険者の像と、金太郎という動物と同棲していた自然児の裸像もまつる、この祀りを五月の節句と称するんだ、五月節句は男子の祝日なのだ、だからぼくは五月節句をもって、世界少年連盟が共同の力でもっていかだをつくり、相和し相親しんで人生のかどでにつくことを、じつに愉快に思うのだ、諸君もどうかこの意義ある五月五日を忘れずにいてくれたまえ",
"賛成賛成"
],
[
"よしッ、話そう、だが潮がそろそろやってきたようだ、まず、とも綱をとこうじゃないか",
"よしきたッ"
],
[
"おまえも行って、みんなといっしょに遊ばないか",
"ぼくはいやだ"
],
[
"なぜだ、おまえはとうから、なんとなくふさぎこんでるが、病気なのか",
"いやなんでもない"
],
[
"たぶん山田先生がけものをとるためにほったおとし穴だろう",
"そうかね"
],
[
"それじゃ、この穴をかくしておこうじゃないか、ひょっとしたらなにか大きなけものがひっかかるかもしれないよ",
"そんなことがあるもんか、ぼくらがこうして毎日鉄砲をうつから、けものは遠くへ逃げてしまったよ",
"だが、どうかしてくるかもしらない"
],
[
"なんだろう",
"ひょうか"
],
[
"だが生けどりはむつかしいよ、あの大きなくちばしでつっつかれたらたまらない",
"なあにだいじょうぶだ"
],
[
"なにか縄をくれ",
"よしきた"
],
[
"食わずにどうするつもりだ",
"後生だから命だけは助けてくれよ、いまにこれをかいならして乗馬にするんだから",
"だがわれわれの食料の倹約しなければならないのに、この鳥をかう食料はどうするつもりか"
],
[
"それは心配するなよ、鳥は木の葉や草を食って生きるものだ、われわれの食料とは無関係だ",
"なるほど"
],
[
"どこへいったろう",
"猛獣にでも殺されたのかもしらん"
],
[
"この壁のうしろに、もう一つの洞があるにちがいない",
"そうかもしれないよ、そこにいろいろな動物がすんでいるんだと思う"
],
[
"ああ、フハンが猛獣と戦ってるんじゃなかろうか",
"だが洞の入り口がわからないから、助けにゆけないね"
],
[
"どうもへんだぜ",
"なにが?"
],
[
"ああジャッカルだ",
"フハンがかみ殺したんだ",
"すてきすてき、こんどこそごちそうだ"
],
[
"それともきみは、このジャッカルを乗馬にしますかね",
"いくらなんでも死んだものには乗れないよ"
],
[
"ぼくらが住んでるこの島にも、いろいろ名があるの?",
"無人島だから名はないかもしらん"
],
[
"でも、名がないとこまるじゃないの? ぼくらのこの家だって、なんという町かわからない",
"それはもっともだ、諸君、今夜みんなで相談して、名をつけようじゃないか",
"賛成賛成",
"モコウ! 命名式だからコーヒーをごちそうしてくれたまえ"
],
[
"賛成賛成",
"ぼくらがこの洞を発見したのは、山田左門先生のおかげだから、左門洞とつけたいね"
],
[
"賛成賛成",
"サクラ湾にそそぐ川は?",
"ニュージーランド川としよう",
"湖は?",
"平和湖",
"海が見える岡は?",
"希望が岡",
"だちょうを捕った森は?",
"だちょうの森としてくれたまえ"
],
[
"そうだ、もっといい名がありそうなものだね",
"ぼくは!"
],
[
"少年連盟島とつけたいのです",
"賛成賛成"
],
[
"諸君がそうしたいなら、僕も異存はないが、しかし選挙をするのかね",
"選挙だ選挙だ"
],
[
"選挙ならそれもよかろう、しかし任期は六ヵ月ぐらいに限りたいね",
"六ヵ月と限るもいい、そのかわりに、再選もさしつかえないということにして"
],
[
"われわれ十五人の少年連盟の首領として、われわれが選挙する人物は、われわれのうちでもっとも徳望あり、賢明であり、公平であるところのゴルドン君でなければならん",
"いやいや"
],
[
"いやいやそうじゃない、諸君、ゴルドン君を選挙してくれたまえ",
"いや、諸君、富士男君を選挙してくれたまえ"
],
[
"うん",
"大統領という名目は、けっして階級的の意味じゃない",
"うん"
],
[
"ゴルドン君の万歳をとなえようじゃないか",
"ゴルドン君万歳!"
],
[
"きみに相談したいことがある",
"なんだ",
"われわれの冬ごもりのことだ、もしぼくらが想像するごとくこの島が、ニュージーランドよりずっと南のほうにあるものとすれば、これから五ヵ月のあいだ――十月までは雪のために外へ出ることはできまいと思う。そのあいだわれわれは、なんにもせずに春を待っているのは、きわめておろかな話だと思う。われわれは少年だからいかなるばあいにも学問をやめてはならん",
"むろんそうだ",
"そこでわれわれはこの冬ごもりのあいだに、日課を定めて勉強したいと思うがどうだろう",
"賛成賛成、ぼくもそれを考えていたところだよ、すぐに実行しよう、それにはなにか方法があるかね"
],
[
"これにはぼくの役割がないが、ぼくはどうなるのか",
"きみは首領だから学級の総監督をすればいいのだ",
"それはいかん、ぼくもみなと同じく学生だ。首領だからといって、学問をやめることはできない。人間は死ぬまで学生だと昔の人がいった。ぼくも仲間にいれてくれたまえ",
"なるほど、それではきみひとりが第五級だ",
"なぜだ",
"きみは十六歳で最年長者だから",
"そうか"
],
[
"おい、いいかげんにして、だちょうをしめて食おうじゃないか",
"じょうだんじゃない、そればかりはかんにんしてくれ"
],
[
"文句をいわずに乗って見せたまえ",
"しからば乗って見せてやろうか、だちょうの快足とぼくの馬術を見て、びっくりしてこしを抜かすなよ"
],
[
"いよう、うまいうまい",
"これから走るところを見せてやるぞ、びっくりしてこしをぬかすなよ",
"見せてくれ",
"ようし"
],
[
"うん",
"天下の名馬はどうした"
],
[
"うん",
"どうしたんだ",
"こしがぬけた"
],
[
"なるほど、やぎににた動物だな、とにかくつかまえようじゃないか",
"よしッ"
],
[
"ヴィクンヤに乳汁があるだろうか",
"あるとも",
"よし、乳汁が飲めるな、ヴィクンヤ万歳!"
],
[
"気をつけイ",
"ど、ど、どうした"
],
[
"あの声をきけよ、ぼくらのテントをねらって、野獣がやってくるようだ",
"うん、ジャガー(アメリカとら)か、クウガル(ひょうの属)だろう、どっちにしたところがたいしておそるるにおよばない、さかんにたき火をたけよ、かれらはけっしてたき火をこえて突入することはないから"
],
[
"逃げたらしいぞ",
"一頭だけたおれてる",
"またやってきやしまいか",
"だいじょうぶだ"
],
[
"なんだろう",
"なんだろう"
],
[
"きみの乗馬にしたらどうだ",
"乗馬はもうこりごりだ"
],
[
"次郎君、きみはニュージーランドを出てからいつもふさぎこんでるが、なにか気になることがあるのかえ",
"なんでもありませんよ兄さん",
"なにか心配があるなら、ぼくにだけ話してくれないか",
"なんにもありません",
"いや、そんなことはない、みながそれで心配してるんだ、ぼくにうちあけてくれ"
],
[
"雷さまのさるまたはとらの皮だ",
"海ひょうのさるまたはモダーンの雷だ"
],
[
"なにが?",
"ぼくらは年長者だから自分の運命に対してあきらめもつく、また気長く救いを待つ忍耐力もある、だがあのちいさい子たちは、家にいると両親のひざにもたれる年ごろだ。この絶海の孤島に絶望の十ヵ月をけみして、しかもただの一度も悲しそうな顔もせず、一生けんめいに心をあわして働いてくれる。それはぼくらを信ずればこそだ。かれらは一身をぼくらの手にまかしているのだ。それにぼくらはかれらを救う道具を見いだしえない。じつに情けないことだ。ぼくらは自分の責任に対してまったくすまないと思う"
],
[
"それについてぼくはきみに相談がある。ぼくらはこの土地を絶海の孤島と認定してしまったが、まだぼくらの探検しつくさない方面がある、それは東の方だ、ぼくは念のために東方を探検したいと思うがどうだろう、あるいは東のほうに陸地の影を見いだすかもしれぬからな",
"きみがそういうならぼくも異議はないよ。五、六人の探検隊を組織していってくれたまえ",
"いや、五、六人は多すぎる。ぼくはボートでもって平和湖を横ぎろうと思うのだ、ボートはふたりでたくさんだ、おおぜいでゆくとボートがせますぎるから",
"それは妙案だ、きみはだれをつれてゆくつもりか",
"モコウだ、かれはボートをこぐことが名人だ、地図で見ると六、七マイルのむこうに一条の川がある。この川は東の海にそそぐことになっている",
"よし、それじゃそうしたまえ、だがふたりきりでは不便だからいまひとりぐらい増したらどうか"
],
[
"けっこう、じゃぼくの弟次郎をつれてゆきたい",
"次郎君か? あんまりちいさいから、かえってじゃまになりゃせんか",
"いや、ぼくには別に考えがある。次郎は国を出てから急に沈鬱になって、しじゅうなにか考えこんでいるのはどうもへんだと思う、このばあいぼくはかれにそのことをたずねてみたいと思う",
"次郎君のことはぼくも気にかかっていた、きみがそうしてくれれば非常につごうがよい"
],
[
"それではこの遠征は、少年連盟の公用のためでなく、富士男君の私用のためなのかね",
"そんな誤解をしちゃいかんよ、たった三人で遠征にでかけるのは、ひっきょう一同のために東方に陸地があるやいなやを探検のためじゃないか、きみは富士男君に対してそんな誤解をするのは紳士としてはずべきことだよ"
],
[
"なんということをしたのだ、それでおまえは良心にはじるから、ふさぎこんでいたのだね",
"ごめんなさい、兄さん、ぼくが悪かったのです",
"悪かったというだけではすまないじゃないか、みんながこんなに難儀するようになったのも、おまえが悪かったからだ、こんなはなれ島にみんなを……",
"ごめんなさい、だからぼくはみんなのためにはいつでも命をすてます",
"そうだ、おまえはおまえの罪をあがなわなきゃならんぞ"
],
[
"ぼくはひじょうに悪いことをしました",
"なんだきみは?"
],
[
"ぼくはいま木の陰へゆきましたら、聞くともなしに次郎さんの告白を聞きました",
"聞いたか?"
],
[
"聞きました、聞くつもりでなかったけれども聞きました。ですが富士男さん、どうか次郎さんの罪をゆるしてあげてください",
"ぼくは兄弟だからゆるしてやりたいが、しかしみんなはけっしてゆるさないだろうと思う",
"むろんゆるしはしますまいが、それをいま荒らだてて言ったところで、しようのないことです、いずれ次郎さんにはそれをつぐなうだけの手柄はさせますから、それまではどうか秘密にしてあげてください",
"きみがそういうなら、ぼくもいましいて弟の罪はあばきたくないよ",
"ありがとうございます",
"いや、お礼はぼくがきみにいわなきゃならんのだ"
],
[
"鳥か雲かをたしかめるために船をつくって遠征しよう",
"いや、そんなことに骨を折るよりもこの島に安住するほうがよい"
],
[
"富士男君はカンニングをやった",
"そんなことはない",
"いやカンニングだ"
],
[
"どうしてカンニングというか",
"富士男君はラインの外に足をふみだした",
"それはきみの見あやまりだ、富士男君は一歩も足をふみださない",
"いやふみだした"
],
[
"ドノバン君、こんなことは遊戯だからどうでもいいけれども、しかしカンニングで勝ったと思われては人格上の問題になるから、それだけは弁明しておくよ、僕はけっしてラインをわらなかったよ",
"いやわった",
"ではくつのあとと白墨の線とを見てくれたまえ",
"そんなものは見んでもわかってる、きみは卑劣だよ",
"卑劣? そんなことばがきみの口から出るとは思わなかったね",
"卑劣だ、いったいジャップは卑劣だ、なんだ有色人種のくせに"
],
[
"もういっぺんいってみろ",
"ジャップは卑劣だ、有色人種は卑劣だ",
"こらッ"
],
[
"どうしたんだ、きみらにはにあわんことをするじゃないか",
"ぼくは卑怯者を卑怯だといったのに富士男は乱暴をした"
],
[
"それはいかん、きみが富士男君を卑怯者だといったのが悪い",
"しかしかれは腕力に……",
"侮辱的のことばは腕力よりも悪いよ",
"そんなことはない",
"きみはだまっていたまえ"
],
[
"どうしてこんなことになったのだ",
"ドノバン君がぼくを卑劣だといっただけなら、ぼくはききながしておくつもりだったのだ、だがかれは遊戯に負けたくやしさのやり場がないところから、ぼくをカンニングだの卑劣だのといったうえに、ジャップは卑劣だ、有色人種は卑劣だといったから、ぼくはちょっとジャップの腕前はどんなものかを見せてやっただけだ",
"ほんとうか"
],
[
"ほんとうとも、ぼくの本国では日本人と犬入るべからずと書いた紙札を畠に立ててあるんだ",
"きみは……けしからんことをいう"
],
[
"富士男君は正しいからだ、ぼくは連盟の総裁として正しきにくみするだけだ、どう考えてもきみは悪い",
"悪くないよ",
"まあ待てよ、きみはいま昂奮してるから、とにかく森のほうへでも行って熱気をさましてきたまえ、富士男君もそれまであまり追究せずにいてくれたまえ",
"ぼくはいつでもドノバン君と握手したいと思っているよ"
],
[
"次郎君、ぼくが大統領になったのをきみはどう思うか",
"ぼくはひじょうにうれしいよ、兄さん",
"どうして?",
"兄さんが大統領になったから、どんな用事でもだれにでもいいつけられるだろう、そうすると兄さん……これからいちばんむずかしい仕事があったらぼくにいいつけてください、ぼくは命をすててもかまわないから"
],
[
"あの元気いっぱいさはどうだ、みんなうれしそうだね",
"だが、ドノバンらがいないのはどうしたんだろう?"
],
[
"ねえ、ゴルドン君、ぼくはこのごろかれらの態度が不安でたまらない",
"どうして",
"人を疑うことは日本人のもっとも忌むところだ。だが、ぼくはドノバン君の態度を見るに、なにごとかひそかにたくらんでいるように疑えてならないんだ",
"ハハハ、きみにもにあわない、いやに神経過敏だね"
],
[
"たといかれらがなにごとかひそかにはかることがあろうとも、それはきみに対する謀反ではないさ、連盟員一同がきみを捨てて、ドノバンにくみしはしないことぐらい、いくらうぬぼれの強いドノバンでも、知ってるだろうからね……",
"いやかれらはぼくらを捨てて、この左門洞を去ろうとしている",
"ハハハ、ますます過敏症になるね。こりゃなにか、おまじないをして、早くなおさなけりゃ一同が心配するよ",
"ゴルドン君!"
],
[
"じょうだんごとではないのだ、ぼくはたしかな証拠をにぎったのだ",
"証拠?"
],
[
"ゆうべぼくはなぜか寝苦しくってしかたがなかった、ぼくは千を数えた、だがまだねむれない。ぼくはとうとう寝ることを断念した、外の夜気にでもあたってみようと、そっと寝床をぬけだした。ぼくはついでだと思ったから、みんなの寝すがたを見てまわった。ところが、ぼくは室の一隅にポツンとあかりのさしているのに気がついた、ぼくはそっと近づいた、見ればイルコックが左門先生の地図を写しとっているのだ",
"…………",
"ね、ゴルドン君、きみも知ってるように、ドノバン一派は、ぼくが命令するといつもいやな顔をする。思うにかれらの不満は、ぼくの一身にこころよからざるところから発するのだ。ぼくは大統領の職を辞そうと思うよ、ぼくが現職にあるために連盟の平和をみだすようになっては心苦しい。きみかあるいはドノバンにゆずったら、不和の根が絶えて、連盟はもとの平和にかえると思うんだ……"
],
[
"ゴルドン君、ありがとう、ぼくは全力をつくしてあたるよ",
"たのむ。ぼくもできるだけ協力しよう"
],
[
"きみらはぼくらをすてる気か?",
"いや誤解してくれてはこまる。ぼくらはただしばらく諸君と別居したく思うのだ",
"それはいったいどういうわけなのか"
],
[
"四君がぼくに対して不満であるのはどんな理由からだろう",
"なんの理由もない、ただ、きみには連盟の首領たるべき権利がないと思うのだ。ぼくらはみんな白色人種である。連盟は白色人種が多数だ。それなのに、有色人種が大統領になって采配をふる、次回にはモコウ、すなわち黒人の大統領ができるだろう",
"そうだ、ぼくらは野蛮人の命令に服することは恥辱だ"
],
[
"ドノバン、きみはまじめにいってるのか",
"もちろん、ぼくはまじめだ。真実のことをいってるのだ、ぼくら四人は黄色人種の治下に甘んじて忍従することはできないのだ"
],
[
"ドノバン君! 暴言はつつしみたまえ。少年連盟は、人種を超越した集団なのだ。きみはちかったことを忘れたのか、あやまりたまえ!",
"いやだ!",
"アメリカのやつはさぎ師だ。富士男さま、とめないでください、わたしはやつらをなぐり殺してやる"
],
[
"ぼくはなにもあやまる必要をみとめない",
"あやまらないのか"
],
[
"いやだ",
"よろしい、きみらがそんな差別観念にとらわれて、それをすてようともしないのなら、ぼくらはおたがいにいさぎよく別れよう。きみらはつごうのいいときに去ってくれたまえ"
],
[
"ではさようなら",
"さようなら"
],
[
"ご主人、こればっかりはおことわりします。ほかの人にやらせてください",
"なぜだ?",
"黒ん坊のボートで川を渡ったとなればかれらの恥でしょうし、あんなにご主人を侮辱したやつには、力をかしてやる理由がありません",
"モコウ、きみは私事と公事とを混用している、たとえかれらがぼくを侮辱したところが、それは小さな私事なのだ。私事のためにかれらに難儀をかけることは恥ずべきことだ、ぼくは連盟の大統領の職責から命じるのだ",
"わかりました。ですがご主人、わたしはかれらと一言もことばをかわしたくないと思いますが、これだけはゆるしてください",
"ハハハ、そりゃきみの自由だ"
],
[
"そうだ。帰するところは同じだが、このまえ、富士男が探検した話をきみは忘れはしまい。富士男の一行は左岸の林中に、ストーンパインを発見したというではないか、そうすればぼくらは、ゆくゆく果実を採集する便宜がある。一挙両得じゃないか",
"なるほど、わかった",
"たよりない、食糧係だなあ"
],
[
"もちろん異議なし",
"賛成だ"
],
[
"ぼくらの財産はどうして運ぶことにするか",
"そりゃもちろん、ボートで運ぶのがいちばんいい"
],
[
"だがいったい、だれがボートをこぐのか",
"黒ん坊にたのむさ",
"モコウにはたのみたくない",
"なぜだ",
"ぼくらは独立の第一歩において、かれのやっかいになった、そしていままたかれの力をたのむために、頭をさげなければならないとなると、大なる恥辱だ",
"ハハハ、遠慮にはおよばないさ。黒ん坊は働くために生まれてきたのだから、使ってやれば喜んでいる"
],
[
"では第二案として、左門洞に帰るまえに、ぼくらは浜辺にそって、島の北部を探征することを提議する。たとえ荷物をとりに帰るとしても、ぼくらはなにか一つてがらをたてておきたいからだ、諸君はどう思う",
"そりゃすばらしい計画だ",
"左門洞の一同の鼻をあかすに、絶好の計画だ"
],
[
"これはきっと、平和湖から流れて海にそそぐのだ",
"ぼくらが発見した川だ、名前をつけよう"
],
[
"大統領に一任しよう",
"賛成!",
"では北方川と命名しよう"
],
[
"だいじょうぶか",
"よし!"
],
[
"どうだった",
"逃げたよ",
"弾丸があたらなかったのか",
"あたったけどはねかえった"
],
[
"わかったよ諸君! これは南アメリカの河畔に見るばくの一種だ",
"害を加えるのか",
"いやばくはけっして害を加えない、だが、用にもたたない",
"南アメリカにすむばくの一種だとすれば、この島はあるいは大陸の一部かもしれないね",
"そうだ、島にあんな巨獣がすむわけはない",
"ぼくもいまそう考えたところだ、とにかく、もう少し探検しよう"
],
[
"ひきかえそうよ",
"そりゃだめだ。いまからひきかえしてもとちゅうでどんな目にあうかもしれない。どこかかっこうの場所をさがしたほうが安全だ"
],
[
"きこえるか",
"波の音のようだ",
"そうだ、ぼくらはとうとう目的地へついたのだ",
"万歳!"
],
[
"そうだ。ぼくらは卑怯だった",
"はずかしい行為をした"
],
[
"モコウのやつがとてもこっけいなんだよ",
"どうして?"
],
[
"鼻の頭にまっかなおできができたんだ。まるで噴火山のようにみごとなんだ、みんながはやしたてるんで、鼻をかくして台所へ逃げていって、出てこないんだよ。ハハハハ",
"……",
"善金のやつは大ねずみに鼻をかじられたよ",
"どうして?"
],
[
"身体髪膚これを父母にうく、あえて毀傷せざるは孝のはじめなりさ",
"そうだそうだ、ねずみふぜいに鼻をかじられては両親にすまないってんだね",
"からだをたいせつにして勉強するのが、孝行の第一歩だということなんだよ",
"そうか。どうりでカンカンおこって、だちょうの森へ山ねこをさがしにいったんだね",
"山ねこ"
],
[
"ハハハハ、山ねこをとってきて、ねずみ征伐をやろうって寸法なんだ",
"ハハハハ、支那人らしいのんきな計画だね、ハハハハ"
],
[
"きみはあまりに心労しすぎるよ、ドノバンがいかに剛腹でも、この冬までにはかならず帰ってくるよ。四人がいかに力をあわしても、きびしい冬とたたかうことはむずかしい。心配はいらないよ、春に浮かれて飛びだした思慮のたりない小鳥だと思えばいいさ。きっと冬になったら、もとの巣がこいしくなって帰ってくるよ、そのときぼくらはあたたかい心をもってむかえてやればいい",
"そうだ、ぼくはあまりに考えすぎていた",
"ハハハ、これでどうやら過敏症も全快らしいね、おめでとう"
],
[
"元気にやろうよ",
"快活にやるよ",
"じゃその第一歩に元気に笑おう",
"よし!"
],
[
"一、二、三、ハハハハ",
"ハハハハ"
],
[
"そんなもの、できやしませんよ",
"ハハハハ、昔々、モコウ君の鼻にまっかなおできがふきでました。それがとつぜん噴火したので、あとがまッ黒にこげてしまいました。ハハハハ"
],
[
"ハハハハ",
"ハハハハ"
],
[
"どんな発明だい",
"早く発表してくれたまえ"
],
[
"その大だこの線をもっと長く強くして、ニュージーランドのぼくらの学校までとどかせ、できればぼくらのひとりを乗せて、救助をたのむんだ",
"そうだ、その乗り手にはぼくが志願する"
],
[
"たこの製作はバクスター君に一任しよう",
"賛成!",
"よう工学博士!",
"救いの神さま!"
],
[
"十分にぼくらのひとりをせおうことができるね",
"ぼくがいったとおりだろう"
],
[
"弾がはいってるね!",
"いまつめてきたんだよ、兄さん"
],
[
"いこう",
"ぼくもいこう"
],
[
"やあ、気がついた",
"おあがんなさい"
],
[
"ああ、わたしはたすかった",
"お気がつきましたか"
],
[
"ね、おい、水夫だってうまいもん食いてえや、船長たちゃ、いつもビフステーキやチキンの煮ころばしを食いやがって、ちくしょう!",
"おれたちにゃくさったキャベツと、ぶたのしっぽとくらあ!"
],
[
"どうしてもか?",
"親分めんどうくせえ、やっつけろよ"
],
[
"助けて!",
"どうしたんです"
],
[
"おい抽き出しの銃はだいじょうぶか",
"ちっともぬれてません",
"ありがてえ、弾薬は?",
"これもだいじょうぶのこんりんざいです",
"じゃ、とにかく、東のほうへいってようすをさぐろう",
"親分、運転手の野郎はどうしましょう"
],
[
"そうだ。おまえとロックが監視しろ",
"女のほうは",
"ありゃ、浪にさらわれていまごろはおだぶつさ、もし生きてりゃ、おれたちの秘密を知ってるから、殺してやる"
],
[
"ぼくはモコウとふたりでボートをあやつって、平和湖を横ぎり、東川をくだってかれらの住まいをたずねよう",
"いつ出発するの"
],
[
"一刻も時をあらそう危急のばあいだ。暗くなったらすぐ出発しよう",
"兄さん、ぼくもつれていってください"
],
[
"だめだよ次郎、ボートは六人以上は乗れない、ぼくらは帰りには四人を乗せねばならない",
"兄さん、ぼくは小さいです。はしのほうに乗ります、兄さん、ぼくは危険な仕事をしたいのです"
],
[
"次郎! おまえの気持ちはよくわかる。兄さんはうれしい、だがいまはその時機ではないよ",
"そうか、だめか!"
],
[
"用心してくれたまえ",
"ああ、だいじょうぶだよ"
],
[
"舟をつけよ",
"危険ですよご主人! 悪漢かもしれません",
"ドノバンかもしれない",
"わたしもいっしょにつれていってください",
"いや、ぼくがひとりでゆく、きみはボートをまもってくれたまえ",
"そうですか"
],
[
"なんでもないよ、ドノバン君、きみだってぼくの地位に立ったら、ぼくを救ってくれたにちがいない、そんなことはどうでもいいじゃないか、おたがいのことだよ、それよりぼくらは、早くここを去らねばならない",
"どうして?"
],
[
"そうだ、万一悪漢どもにきこえたらたいへんだからね",
"ああぼくははずかしい、きみはぼくよりも、百段もすぐれた人だ、富士男君! なんでも命令してくれたまえ、ぼくはきみの命令ならなんでも服従する"
],
[
"だが、バクスター君だけは、幼年組の保護のために残ってくれたまえ、でないと幼年組が心細がるだろうから",
"そのかわりにぼくがゆきます"
],
[
"いや、ぼくの身になってください、ぼくはじっとしていられないんです、兄さんにだけ危険をおしつけて、弟がどうして安閑とできましょう。ぼくは病気にならないように、フハンをつれてゆきます、寒くなったらきゃつをだっこします、ぼくの心を知ってくれるなら、フハンはぼくをあたためてくれるでしょう",
"おうなんとけなげな子でしょう"
],
[
"ゴルドンさん、つれていってやってくださいよ、神さまはいつでも正義の士の味方です",
"ぼくもそう信じます、次郎君、いこう",
"ありがとう"
],
[
"ああ、なんでもないよ",
"次郎君、その傷は僕の一命を救ってくれた尊い血なんだ、ぼくはみなに心配をかけた、すまない、ゆるしてくれたまえ"
],
[
"どんなことです、おばさん",
"わたしを一日か二日、自由の身にしていただきたいのです",
"それはいったいどういうわけですか"
],
[
"いいえ、そうじゃないのです、わたしはみなさんが毎日不安な顔をしているのが、気のどくでたまらないのです、わたしがいって舟があるかないか、調べてきたいのです、それがわたしの責任です",
"それはいまぼくらが決心しかねているのです"
],
[
"そうです、ですがあなたたち少年連盟は、まだ悪漢が知りません、さいわいわたしは海蛇といっしょにおったものです、あなたたちがゆくよりも危険が少ないと思います",
"それは無謀です。悪漢どもはおばさんが生きていることを知ったら、殺してしまいます"
],
[
"いいえ、ゆかしてください、わたしは一度かれらの毒手からのがれることができました、これは神さまが味方してくださったからです、わたしは信じます、そして、あの温良なイバンス運転手をさそってくることができたら、くっきょうな味方になるでしょう",
"でもイバンス運転手は、海蛇の悪事を知っています、悪漢どもにすきがあったら、逃走しているにちがいありませんよ"
],
[
"わたしは息のつづくかぎり、けっして悪漢どものとりこにはなりません",
"おばさんがぼくらのことを思ってくださるのは、ありがたいです、ですがいま、みすみすおばさんを悪漢どもの手にまかせることはできない、ね、ゴルドン君、ぼくはおばさんに、この冒険は思いとまってもらいたいと思うが……",
"そうだ、おばさんは、ぼくらのお母さんの役目をまもっていただきたいと思います"
],
[
"それは物置きにあるたこでは不十分だ、だがさらに大なる、さらに堅固なものに改造したら、だいじょうぶだと思う",
"たこは一度あがったら、いつまでもそのままでいることができるだろうか",
"それはだいじょうぶだ"
],
[
"そうだ、二百メートルぐらいの高さにまで達したいと思うんだ、そうすれば島のもようを見おろすことができる",
"さっそく、ぼくらは実行にうつろう、ぼくらはもうたいくつでたいくつでならないんだからね"
],
[
"製作主任はやっぱりバクスター君にまかせよう",
"それがいい",
"万歳!"
],
[
"富士男君、きみはほんとうにこの計画を実行しようというのか",
"そうだ、ぼくはぜひやりたい",
"だがそりゃあまりに危険な計画だ",
"ぼくもそう思う",
"そしてだれがみずから一命をかけて、この冒険をやるのだ、まちがえば尊い人命をなくすのだ",
"ゴルドン君、心配しないでくれたまえ、ぼくには信ずるところがあるのだ",
"まさかきみは、くじでいけにえをきめようというのではなかろうね",
"そんなことはしないよ、ぼくを信じてくれたまえ",
"そうか、ぼくは余り感心しないよ"
],
[
"ゴルドン君、待ってくれたまえ、ドノバン君、ぼくは相談がある",
"なんだ"
],
[
"いいえ、兄さん、ぼくです、この大任はぼくがやるのが当然です、兄さん、ぼくにやらしてください",
"次郎君、きみは小さいんだ、それは年長組のひとりのぼくがあたるのが当然だ"
],
[
"いいえ、諸君、この大任はぼくにあたえられるべきです、それが義務です",
"なぜだ! 次郎君! きみにだけどうしてその義務があるというのか"
],
[
"きみ、寒気でもするんじゃないか",
"いや"
],
[
"ね、兄さん、ぼくに義務があるでしょう、ぼくをやらしてください",
"富士男君、これはなにかわけがあるんだろう、なにも次郎君ひとりがこの大任にあたる義務があるとは思えない、ね諸君!",
"そうだ",
"ドノバン君、ぼくはいっさいをざんげしよう"
],
[
"次郎君は二年間の良心のかしゃくで、すでにその罪はつぐなわれている、そればかりではない、次郎君は危険な仕事があるたびに、みずから喜んであたってくれた、富士男君、ぼくはいまはじめてきみの高潔な心を知った、きみがつねに冒険をひきうけたのは、弟をかばうあたたかい心からだったのだ",
"そうだ、ぼくらは次郎君を罰することはできない"
],
[
"なぜだい兄さん、ぼくだ",
"いや、弟の罪は兄の罪だ、ぼくがはじめこの計画をたてたとき、ぼくはすでに、覚悟していたのだ",
"うそだ、兄さん、ぼくにやらして",
"おまえはまだ小さい、空にあがるだけではなにもならないのだ、敵状を視察することができないと、なにもならない",
"そのくらいのこと、ぼくだってわかってるよ"
],
[
"争っていては時間がたつ。この大任はぼくにあたえてくれたまえ",
"いや、ドノバン君、それはいけない、ぼくは決心しているのだ"
],
[
"休んじゃいけない",
"いや、ドノバン、これから先は走れない",
"どうして?"
],
[
"だめだ",
"チェッ! おれはなぜここに、ボートの用意をしておかなかったのだろう"
],
[
"諸君!",
"アッ! 兄さんの声だ、兄さん!"
],
[
"かつてケートおばさんが話されたように、悪漢どもの船は航海にたえないほど、大破損はしていない、それなのにかれらはいまだに立ち去るようすもなく島をうろついている。これはなにか理由がなければならない。船を修復する器具がないことも理由の一つかもしれないが、もっと重大な理由がひそんでいるように思われる。ぼくは空中から連盟島の東のほう、島からあまり離れていないところに、一大陸地のあることを知った、連盟島はまったくの孤島でなく、東方の大陸かあるいは群島を有する一無人島なんだ、悪漢どもはそれを知っているのだ、これがかれらを島におちつかせている大きな理由だと思う",
"じゃ、失望湾で見た沖の白点はやっぱり島だったのですか?"
],
[
"そうだ、あるいは大陸かもしれない",
"ぼくらはまた救われる希望があたえられた"
],
[
"洞門に防壁をつくって戦おう",
"広場におとし穴をいくつもいくつも、つくったらいい"
],
[
"ヤアヤア、山賊のかくれ家だな",
"いや、もぐらの巣だ"
],
[
"ぼくは服をよごさないようにする",
"ぼくは服を破らないようにする"
],
[
"ボートをたのむよ",
"どこへゆくんですか",
"いいからぼくにまかしておいてくれたまえ"
],
[
"みだりに出歩いてはこまるじゃないか",
"重大事件だよ"
],
[
"そんな骨をどうするんだい、パイプにでもするのか?",
"富士男君、これをよく見てくれたまえ、陶製のパイプだよ、ぼくらのなかにはたばこをすうものがない、これはきっと悪漢どもがおとしたのだよ"
],
[
"左門先生らがおとしたのかもしれないさ",
"いや、かいでみたまえ、たばこのにおいが、まだ新しくのこっている、きんきん一、二日前か、あるいは一、二時間前にここにおとしたものだ"
],
[
"やあケートさん",
"あなたは少年らに救われました、わたくしも救われたのですよ、これはみんな神さまのひきあわせです、イバンスさん、あなたもどうか子どもらの力になってやってください"
],
[
"十五人か、しかもみずからふせぐことのできるのは、五、六人しかない",
"いま、悪漢どもが襲撃してくるのですか"
],
[
"いや、いまということはないだろう、だが……",
"ね、イバンスさん、子どもらがかわいそうです、救ってやってください"
],
[
"やっと人間らしくなった",
"もっと食べますか?"
],
[
"ハハハ、もういいんです、これから食べはじめたら、底なしですよ、諸君の食べ物がなくなってしまうよ、ハハハ",
"おじさんはまるでくまのようだ"
],
[
"よろしい、話そう、だが左門洞とはいったいなんです?",
"ぼくらが命名したこの洞の名ですよ、前の川が、ニュージーランド川です",
"ホウ! それぞれ名まえがついてるんですね、それは改めてひまのあるとき聞くとして"
],
[
"ぼくらは数日間は、伝馬船の修復に手をつくした、だが、なにぶん修繕に必要な道具が不足である、そのうち、食物がなくなってくる、水が飲めない、ぼくらは修繕するのをよして、船は雨風のあたらない場所にかくし、食糧を求めるために浜辺にそって南下した、行くこと十九キロばかりで一条の小川の口に達した、ぼくらはむさぼるように水を飲んだ、水はとてもおいしかったよ",
"その川は東方川というんです、そして川のそそぐところを失望湾というんです"
],
[
"そうだろう、海蛇らはちゃんとにらんでる",
"でもおかしいな、海蛇はぼくらのことはなにも知らないと思うが?"
],
[
"それがゆだん大敵さ、ぼくはなにもおどかしなんかはしない、これはほんとうだからね、敵がどこにひそんでるかは神さましか知らない。ぼくはどうかして海蛇の毒手からのがれようと胆をくだいた、が、かれらはなかなか厳重に警戒して目をはなさない、時機を待つよりしかたがない、ぼくは遁走をあきらめてかれらの命令どおりにした、数日前、ぼくらは堤をさかのぼって茂林のなかに進んだ、とぼくらは、枝にひっかかったえたいの知れない油布でつくったらしい、巨大なたこのようなものを発見した",
"ああそれはぼくらがつくったたこです"
],
[
"だが海蛇どもは失望せずに進んだ、そしてとうとうきみらを発見した",
"どこで?"
],
[
"二十二日の夜だった、鉄砲玉のロックと四本指の兄貴のパイクのふたりが、海蛇の命令で斥候に出た、そしてきみらの洞穴を発見したのだ、洞からはチラチラと火がもれ、戸をあけしめするすがたを見たので、ふたりの報告を受けとった海蛇は、つぎの日単身で川ぶちの茂林にひそんで、きみらの動静をさぐった",
"やっぱりそうだったか"
],
[
"そうです、ぼくらはたばこのにおいのまだ新しいパイプを発見したのです",
"そうか、どうりで海蛇が、たいせつなものをなくしたと手下どもをどなっていた、ハハハハ"
],
[
"海蛇どもは洞のなかのものが、みな年のゆかない子どもばかりの集まりだと知ったのだ、きみらは不用意にも川のふちに出たり、洞の前に立ったりしたからね、悪漢どもは襲撃の方法をあれこれと相談した",
"悪魔! 人でなし! かれらはこのかれんな子どもたちをどうしようとするのだろう、助けてやろうとは思わないのでしょうか?"
],
[
"そこだ、けさ海蛇たちはホーベスと、鉄砲玉のロックにぼくの番を命じて、諸君らの動静をさぐりに出てしまった。ぼくは逃走の好機到来と心中で計企するところがあったが、ふたりはなかなかゆだんしないのだ。午前十時ごろ一頭のラマがぼくらの前にすがたをあらわした。ロックはこれを見るとさっそく銃をとって一発やった。そのすきにとつぜん身をひるがえして、森林のなかに逃げこんだ",
"銃声は聞かなかったが、ラマの死体は川むこうで見ました"
],
[
"ぼくはそれから十四時間ほど、ふたりの追跡者の手をのがれるために走りつづけた、こんなに走ったのは生まれてきょうがはじめてだ、おそらく五十キロは走ったと思う。海蛇たちの話で、諸君の洞は、湖の南西岸にある川の西がわだということを知っていたので、右に左に逃げまわりながらも、諸君の洞をめあてに走った。かれらが銃を持っていなかったら、苦労はなかったが、しばしば追いうちをせめられるので、弾をさけるのはひじょうな苦労だった。いま一つぼくの逃走を妨害したのは電光だ、夜になれば逃走は安全だと思っていたのに、電光はやみを破ってぼくのすがたを照らし、追跡者に発砲の機会をあたえたのだ。とこうして川岸に出たが、そのとき一道の電光とともに、背後に銃声がひびいた",
"その銃声はわたしたちもききました"
],
[
"諸君がここへ漂着して二十ヵ月のあいだ、一せきの船も沖に見えなかったか",
"小船一せきも見えません、信号もかかげてありましたが、ケート小母さんに海蛇らの話をきいたので、六週間以前におろしてしまいました"
],
[
"パン粉をとられるとこまるなア",
"あすどこかへかくしておこう"
],
[
"そればかりでない、かれらは諸君がサクラ号のおかねを、かくしていると思っているから、修繕器具を貸してやっても、恩義に感ぜずに、貨幣掠奪の計画をするにちがいない。また硝薬の少ないかれらは硝薬も要求するだろう、諸君はかれらのこの要求が入れられるか",
"いや"
],
[
"かの小船で、洋々たる大洋を、横断するのですか",
"大洋を横断する? いやわれわれは、まず南米に近い港にわたって、便船を求めるつもりである"
],
[
"数百キロ? いや港までは、きんきん五十キロを出ない航程です",
"ではこの島は、大洋中の孤島ではないのですか",
"島の西方は大洋であるが、東南北は大洋ではありません。諸君はこの島を、大洋中の孤島だと思ったのですか"
],
[
"チリー国の南端に港がありますか",
"チリー国の南端にタマル港があるが、もし荒廃していれば、さらに南に航路をとって、マゼラン海峡に出れば、ガーラント港があります。ここへゆけば、かならず豪州行きの便船はあるはずです"
],
[
"かれらがすがたをあらわさないのは、かれらの作戦である。かれら一味は、ケートさんやぼくが、きみらといっしょにいると思わないから、諸君がかれらの漂着したのをまだ知らないつもりでいる。そのうちかれらのひとりが漂流者のごとくよそおって左門洞にきたり、助けをもとめて洞のなかにはいり、すきをうかがって戸を内からひらいて一味をみちびき、労せずしてこの洞を占領するつもりであると思う",
"そのときにはどうするか?",
"そのときには間者をみちびきいれて逆襲しよう"
],
[
"きみたちは何者だ",
"けさ南方で破船した遭難水夫です",
"他の乗り組みの者は?",
"みな溺死しました。しかし諸君は何者です",
"ぼくらはこの島の植民者です",
"ではわたしたちに食物と水をください、じつはけさから水一てきも口にしないのです、助けてください",
"よろしい、破船水夫は救助をもとめる権利がありますから、こっちへきなさい"
],
[
"ああイバンス",
"諸君きたまえ"
],
[
"きみはかれらの作戦を知らせてくれればいい。まずきみたちは、昨夜少年たちをあざむいて、皆殺しにするつもりだったのか",
"そうです"
],
[
"きみはかれらの今後の計画を知っているか",
"…………"
],
[
"かれらはふたたび洞に襲撃するか",
"するはずだ"
],
[
"いろいろお世話になりました、だがぼくはもうだめです。どうか少年たちにお礼をいってください。ぼくは死んでも少年たちをまもって、ぶじ本国に帰るようにします",
"そんな心細いことをいわずに、元気をお出しなさい。あなたはかならず全快なさいます"
],
[
"諸君! もしこの世に、先輩というものがあって後進の路をひらいてくれなかったら、人生はいかに暗黒なものとなるであろう。それと同時に、ぼくらもやがて先輩となるときがくる。ぼくらはあとにくるもののために、もっとも正しき人となり、もっともよき人となるべく努力しなければならん。左門先生の遺徳を思うとともに、ぼくらもまた、第二の左門先生となりたいものだ",
"賛成賛成"
],
[
"そうです、それはぼくらです",
"よし、それでは諸君のために、航路を変じてオークランドに直航し、諸君を本国へ送ることにしよう"
]
] | 底本:「少年連盟」少年倶楽部文庫、講談社
1976(昭和51)年4月16日第1刷発行
初出:「少年倶楽部」
1931(昭和6)年8月号~1932(昭和7)年6月号
入力:゛゜゛゜
校正:土屋隆
2008年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"見得の為めにはそんなことは云ひ度くないんだが、僕は自分の文学的生涯を君と一緒に踏み出す可きであつたと後悔してゐる。××や○○(ここで彼は一二の人名を揚げて)などと道連になつたのは間違つてゐた",
"それは気質から云つても、体質から云つても、芸術的見地から云つても、君と僕とは非常に似てゐるのは慥なのだから。今まで一緒に踏み出さなかつたとしたら何もこれからだつて遅くは無いんだからね",
"いや遅い。もう遅い"
],
[
"君は酒を飲んで躍る気持になれると思ふか、まあ歌位ならば微吟するかも知れないが",
"迚も〳〵、躍るなどは思ひもつかん、歌だつて醒めてゐたら却つて歌つて見るかも知れんが酔払つては迚も駄目だね"
]
] | 底本:「定本 佐藤春夫全集 第20巻」臨川書店
1999(平成11)年1月10日初版発行
底本の親本:「わが龍之介像」有信堂
1959(昭和34)年9月
初出:「改造 第十卷第七號」
1928(昭和3)年7月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ニッケル」と「ニツケル」、「ゴッホ」と「ゴツホ」、「ペルシャ」と「ペルシヤ」の混在は、底本通りです。
入力:夏生ぐみ
校正:津村田悟
2018年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "058851",
"作品名": "芥川竜之介を憶ふ",
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"初出": "「改造 第十卷第七號」1928(昭和3)年7月1日",
"分類番号": "NDC 910",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-07-24T00:00:00",
"最終更新日": "2018-06-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/card58851.html",
"人物ID": "001763",
"姓": "佐藤",
"名": "春夫",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 佐藤春夫全集 第20巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年1月10日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年1月10日初版",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年1月10日初版",
"底本の親本名1": "わが龍之介像",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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"テキストファイル最終更新日": "2018-06-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"いやですよ、紫陽花などは。あれは病人の絶えない花だというじゃありませんか。",
"そう。そんなことも言いますね……"
]
] | 底本:「たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集」平凡社ライブラリー、平凡社
2015(平成27)年7月10日初版第1刷
底本の親本:「定本佐藤春夫全集 第4巻」臨川書店
1998(平成10)年5月
初出:「改造 第四巻第六号」改造社
1922(大正11)年6月
入力:琴屋 守
校正:佐伯伊織
2017年8月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058459",
"作品名": "あじさい",
"作品名読み": "あじさい",
"ソート用読み": "あしさい",
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"原題": "",
"初出": "「改造 第四巻第六号」改造社、1922(大正11)年6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2017-09-10T00:00:00",
"最終更新日": "2017-08-25T00:00:00",
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"名": "春夫",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
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"底本名1": "たそがれの人間 佐藤春夫怪異小品集",
"底本出版社名1": "平凡社ライブラリー、平凡社",
"底本初版発行年1": "2015(平成27)年7月10日",
"入力に使用した版1": "2015(平成27)年7月10日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "2015(平成27)年7月10日初版第1刷",
"底本の親本名1": "定本佐藤春夫全集 第4巻",
"底本の親本出版社名1": "臨川書店",
"底本の親本初版発行年1": "1998(平成10)年5月",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "琴屋 守",
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} |
[
[
"それや、こんな事で目角を立ててぐづぐづいふのは野暮には相違ないさ。相手はそれがつけ目なのだ。だから僕は笑つてはすませない。この野暮を敢てしよう。こんな場合野暮をおそれて笑つてすますのはいい趣味かも知れないが、僕はいやだ。野暮と言はれるのをおそれてこれを黙つてゐるなどは僕には寧ろ不道徳な感じがするのだ。",
"さうかい。天下にそんな事よりもつと関心事があつてもよささうに思ふのだが。",
"さうだ、この事たるや、これをそのまま拡大すれば天下のあらゆる関心事とその軌を一つにするものだよ。"
],
[
"さう、さう、そこのところを太宰も先生に迷惑にあたるまいかと出して見せてゐましたよ。",
"なんだ、自分でも気がついてやつてゐるのだね。――どの程度だかは知らないが。右といふ事実を左にしてしまつて迷惑になるまいかもないものさ。とぼけてゐるのかな。"
],
[
"原稿を返されたつて、作品が悪いといふのか。",
"いや、悪いのでせうが悪いとも何とも言ひません。きのふは少し陰惨過ぎたといひましたから別のものを書き直して来てもいいと言つたのですが、そんな話をしてゐるうちに泣けて来てしまつて、向うでも困つたのか、今日はもう記者は出て来ないで給仕に黙つて持たせて受附から渡させて……。"
],
[
"何枚あるのだ。",
"四十八枚!"
],
[
"オイデマツと打ちますか",
"いや、そんな電報では何か面白い話でもあるかと思つてのこのこやつて来て小言ではいけないから、はじめからその覚悟をして来させたがよい。ハナシアルスグコイと打つのだ。"
]
] | 底本:「定本 佐藤春夫全集 第10巻」臨川書店
1999(平成11)年4月9日初版発行
底本の親本:「わが小説作法」新潮社
1954(昭和29)年8月15日発行
初出:「改造 第十八卷第十一號」
1936(昭和11)年11月1日発行
※「好まし」と「好もし」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「芥川賞」です。
※初出時の副題は「――憤怒こそ愛の極點(太宰治)――」です。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。また、「味倒するに」については底本の親本通りですが、初出の表記にそって、「味到」にあらためました。
入力:焼野
校正:きりんの手紙
2020年5月27日作成
2020年7月1日修正
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| {
"作品ID": "058554",
"作品名": "或る文学青年像",
"作品名読み": "あるぶんがくせいねんぞう",
"ソート用読み": "あるふんかくせいねんそう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「改造 第十八卷第十一號」1936(昭和11)年11月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-06-19T00:00:00",
"最終更新日": "2020-07-01T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/card58554.html",
"人物ID": "001763",
"姓": "佐藤",
"名": "春夫",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 佐藤春夫全集 第10巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年4月9日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年4月9日初版",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年4月9日初版",
"底本の親本名1": "わが小説作法",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
"底本の親本初版発行年1": "1954(昭和29)年8月15日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "焼野",
"校正者": "きりんの手紙",
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"テキストファイル最終更新日": "2020-07-01T00:00:00",
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"テキストファイル修正回数": "1",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"今ちよつと用がある、もう十分ほど待つておれ。",
"はい。"
],
[
"おい〳〵、彼は詩人かい。",
"誰で御座います。",
"この間の男さ、画を描いてやつた…………"
]
] | 底本:「定本 佐藤春夫全集 第3巻」臨川書店
1998(平成10)年4月9日初版発行
底本の親本:「病める薔薇」天佑社
1918(大正7)年11月
初出:「我等 第一年第七号」
1914(大正3)年7月1日発行
※「鮮か」と「鮮やか」と「鮮」の混在は、底本通りです。
※副題は底本では、「或は[#横組み]“An Essay on Love and Art.”[#横組み終わり]」となっています。
入力:水底藻
校正:朱
2023年3月20日作成
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| {
"作品ID": "060173",
"作品名": "円光",
"作品名読み": "えんこう",
"ソート用読み": "えんこう",
"副題": "或は“An Essay on Love and Art.”",
"副題読み": "あるいはアンエッセイオンラブアンドアート",
"原題": "",
"初出": "「我等 第一年第七号」1914(大正3)年7月1日",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2023-05-06T00:00:00",
"最終更新日": "2023-05-01T00:00:00",
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"人物ID": "001763",
"姓": "佐藤",
"名": "春夫",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 佐藤春夫全集 第3巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年4月9日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年4月9日初版",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年4月9日初版",
"底本の親本名1": "病める薔薇",
"底本の親本出版社名1": "天佑社",
"底本の親本初版発行年1": "1918(大正7)年11月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "水底藻",
"校正者": "朱",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/60173_txt_77199.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2023-03-20T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"わからぬ言葉って、何か日本の言葉ではないのか",
"いいえ。日本の言葉でございますの。『わたし……だわよ』というのですけれど、その間が分りませんの",
"それに、オカアサン、オカアサンて呼んだじゃないの",
"え、そんなに申しました。小さな女の子のような声でしたね",
"はっきり言うかい",
"そうね。あんまりよくわからないわ"
],
[
"ア、マダアルワヨ",
"ソコニモオチテイルワヨ"
],
[
"ね、この鳥の名はロオラというのだよ",
"おや、そうですか。可愛いわね、ロオラや"
],
[
"ロオラか。あれは面白い鳥だよ",
"よく喋る?",
"うん。いろんなことを言う",
"それはいい",
"だが、とりとめのあることは言わない。また片言ばかりだ――言葉はどうもよくわからないが、それは鳥の罪ではなくて、先生の罪らしいのだ。――赤ん坊の言葉をおぼえたのだね。だから意味はわからないが情緒はなかなかあるよ"
]
] | 底本:「文豪の探偵小説」集英社文庫、集英社
2006(平成18)年11月25日第1刷
底本の親本:「怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集 夢を築く人々」ちくま文庫、筑摩書房
2002(平成14)年5月
初出:「女性」
1926(大正15)年10月
入力:sogo
校正:Juki
2015年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "055985",
"作品名": "オカアサン",
"作品名読み": "オカアサン",
"ソート用読み": "おかあさん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「女性」1926(大正15)年10月",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2015-01-01T00:00:00",
"最終更新日": "2015-01-01T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/card55985.html",
"人物ID": "001763",
"姓": "佐藤",
"名": "春夫",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "文豪の探偵小説",
"底本出版社名1": "集英社文庫、集英社",
"底本初版発行年1": "2006(平成18)年11月25日",
"入力に使用した版1": "2006(平成18)年11月25日第1刷",
"校正に使用した版1": "2006(平成18)年11月25日第1刷",
"底本の親本名1": "怪奇探偵小説名作選4 佐藤春夫集 夢を築く人々",
"底本の親本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房",
"底本の親本初版発行年1": "2002(平成14)年5月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "sogo",
"校正者": "Juki",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/55985_ruby_55494.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2015-01-01T00:00:00",
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} |
[
[
"天が高うて昇られない。",
"そうか。"
],
[
"天が高うて昇られない。",
"もう取りかえてやろうにもゼンマイはないのだ。"
]
] | 底本:「幻想童話名作選 文豪怪異小品集 特別篇」平凡社ライブラリー、平凡社
2021(令和3)年7月21日初版第1刷
底本の親本:「佐藤春夫全集 第九卷」講談社
1968(昭和43)年11月28日発行
初出:「童話」
1922(大正11)年2月号
入力:砂場清隆
校正:持田和踏
2023年3月7日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "061269",
"作品名": "おもちゃの蝙蝠",
"作品名読み": "おもちゃのこうもり",
"ソート用読み": "おもちやのこうもり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「童話」1922(大正11)年2月号",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2023-04-09T00:00:00",
"最終更新日": "2023-04-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/card61269.html",
"人物ID": "001763",
"姓": "佐藤",
"名": "春夫",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "幻想童話名作選 文豪怪異小品集 特別篇",
"底本出版社名1": "平凡社ライブラリー、平凡社",
"底本初版発行年1": "2021(令和3)年7月21日",
"入力に使用した版1": "2021(令和3)年7月21日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "2021(令和3)年7月21日初版第1刷",
"底本の親本名1": "佐藤春夫全集 第九卷",
"底本の親本出版社名1": "講談社",
"底本の親本初版発行年1": "1968(昭和43)年11月28日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "砂場清隆",
"校正者": "持田和踏",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/61269_ruby_77136.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2023-03-07T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/61269_77135.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2023-03-07T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"それでは、先生百年の後に紅毛碧眼の血の交ったような第二世が出現するような心配はございますまいか",
"いや大丈夫、そんな心配はありません。いつも世界に鳴りひびいた日本武術の秘術を尽して国威をかがやかしては来たが、戦場には必ず武装して、武装なしの白兵戦をするだけの勇気がなかったから、国の内外を問わず、万一、天一坊が出現しても、疑いもなくみなニセ者と思いなさい"
],
[
"それでは先生の百年を待つような気になっていけません。いっそ直ぐにはいただけませんか",
"いや、それはいけない。今はまだ時々出して見たいこともありますからね"
]
] | 底本:「定本 佐藤春夫全集 第26巻」臨川書店
2000(平成12)年9月10日初版発行
底本の親本:「週刊現代 第一巻第六号」
1959(昭和34)年5月17日発行
初出:「週刊現代 第一巻第六号」
1959(昭和34)年5月17日発行
入力:きりんの手紙
校正:hitsuji
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059395",
"作品名": "荷風先生と情人の写真",
"作品名読み": "かふうせんせいとじょうじんのしゃしん",
"ソート用読み": "かふうせんせいとしようしんのしやしん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「週刊現代 第一巻第六号」1959(昭和34)年5月17日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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[
[
"女中が留守だとでも言ひはしなかつたか",
"いいや、ただちよつとあいまいな不徹底なそぶりだつたが",
"それならいいが實は留守といふことになつてゐたものだから――原稿を書きかけて、瀧田が下で居催促をしてゐる"
]
] | 底本:「わが龍之介像」有信堂
1959(昭和34)年9月15日発行
1960(昭和35)年6月15日第2刷発行
初出:「浪漫古典 第一巻第二号」昭和書房
1934(昭和9)年5月1日発行
入力:佐伯伊織
校正:きりんの手紙
2019年2月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"いい家のやうな予覚がある",
"ええ私もさう思ふの"
],
[
"でも、まさか狐狸の住家ではあるまい",
"でもまるで浅茅が宿よ。でなけや、こほろぎの家よ。あの時、畳の上一面にぴよんぴよん逃げまはつたこほろぎはまあどうでせう。恐しいほどでしたわ",
"浅茅が宿か、浅茅が宿はよかつたね。……おい、以後この家を雨月草舎と呼ばうぢやないか"
],
[
"そこで、今度は井戸換へですよ、これが大変ね。一年もまるで汲まないといふのですもの、水だつて大がい腐りますわねえ",
"腐るとも、毎日汲み上げて居なければ、俺の頭のやうに腐る"
],
[
"馬鹿な、俺はいい気持に詩人のやうに泣けて居る。花にか? 自分の空想にか?",
"ふふ。若い御隠居がこんな田舎で人間性に饑ゑて御座る?",
"これあ、俺はひどいヒポコンデリヤだわい"
],
[
"これやあ君の家の犬だらう",
"さうだ。何故だい",
"これやあ、怖くつて通れんわい"
],
[
"大丈夫だよ。形は怖いが、おとなしい犬だから",
"何が大丈夫だい。怖くつて通れもしない",
"狂犬ぢやないよ。吠えもしないぢやないか",
"飼つて居る者はさうでも、飼はんものにはおつかない。ちよつと出て来て、繋いだらどうだい"
],
[
"黙つて居ろ。卑屈な奴だ、謝る事はない。犬が悪いのぢやないぞ。この男が臆病なんだ。子供や泥棒ぢやあるまいし……",
"何、泥棒だと",
"お前が泥棒だと言やしないよ。音無しく尾を振つて居る犬をそんなに怖がる奴は泥棒見たいだと言つただけだ"
],
[
"うん。あの丘だよ。あの丘なのだがね",
"あれがどうしたの?",
"どうもしない……綺麗ぢやないか。何とも言へない……",
"さうね。何だか着物のやうだわ"
],
[
"お桑さか?",
"おおつ! びつくらした! 小父さん居なつたか"
],
[
"王禅寺がどうなすつたの? あなた、今寝言をおつしやつてよ",
"いつ?",
"つい今、私が灯をともさうと思つてマッチを擦つた時"
],
[
"おい! さつき何か壊したね",
"ええ、十銭で買つた西洋皿",
"ふむ。十銭で買つた西洋皿? 十銭の西洋皿だから壊してもいいと思つて居るのぢやないだらうね。十銭だの十円だのと、それは人間が仮りに、勝手につけた値段だ。それにあれは十銭以上に私には用立つた。皿一枚だつて貴重なものだ。まあ言はばあれだつて生きて居るやうなものだ。まあ、其処へ御坐り、お前はこの頃、月に五つ位はものを壊すね。皿を手に持つて居て、皿の事は考へないで、ぼんやり外のことを考へる。それだから、その間に皿は腹を立てて、お前の手から逃げ出す。すべり落ちるんだ。一たい、お前は東京のことばかり考へて居るからよくない。お前はここのさびしい田舎にある豊富な生活の鍵を知らないのだ。ここだつてどんなに賑やかだかよく気をつけて御覧。つまらないとお前の思つてゐる台所道具の一つ一つだつて、お前が聞くつもりなら、面白い話をいくらでもしてくれるのだ。生活を愛するといふことは、ほんとに楽しく生きるといふことは、そんな些細な事を、日常生活を心から十分に楽しむといふ以外には無い筈ではないか……"
],
[
"おい、夢ではないんだね",
"何がです。あなた寝ぼけていらつしやるのね"
],
[
"や、大変!",
"え?",
"犬だ!",
"犬?"
],
[
"おい、気がつかなかつたかい。今朝はなかなかいい花が咲いて居るぜ。俺の花が。二分どほり咲きかかつてね、それに紅い色が今度のは非常に深い落着いた色だぜ",
"ええ、見ましたわ、あの真中のところに高く咲いたあれなの?"
],
[
"やつと九月に咲き出したのですもの",
"どうだ。あれをここへ摘んで来ないかい",
"ええ、とつて来るわ"
],
[
"それでは、これを敷きませう",
"これはいい。ほう! 洗つてあつたのだね",
"汚れると、あの雨では洗濯も出来ないと思つてしまつて置いてあつたの",
"これや素的だ! 花を御馳走に饗宴を開くのだ"
],
[
"やあ、沢山とつて来たのだなあ",
"ええ、ありつたけよ。皆だわ!"
],
[
"なぜ? 俺は一つでよかつたんだ",
"でもさうは仰言らないのですもの",
"沢山とでも言つたのかね……それ見ろ。俺は一つで沢山だつたのだ",
"ぢや外のは捨てて来ませうか",
"いいよ。折角とつて来たものを。まあいい。其処へお置き。……おや、お前は何だね――俺の言つた奴は採つて来なかつたのだね",
"あら、言つたの言はないのつて、これだけしきあ無いんですよ! 彼処には",
"然うかなあ。俺は少し、底に斯う空色を帯びたやうな赤い莟があつたと思つたのに。それを一つだけ欲しかつたのさ",
"あんな事を。底に空色を帯びたなんて、そんな難しいのはないわ、それやきつと空の色でも反射して居たのでせうよ",
"成程、それで……?",
"あら、そんな怖い顔をなさるものぢやない事よ。私が悪かつたなら御免なさいね。私はまた、沢山あるほどいいかと思つたものですから……",
"さう手軽に謝つて貰はずともいい。それより俺の言ふことが解つて貰ひ度い……一つさ。その一つの莟を、花になるまで、目の前へ置いて、日向へ置いてやつたりして、俺はぢつと見つめて居たかつたのだ。一つをね! 外のは枝の上にあればいい",
"でも、あなたは豊富なものが御好きぢやなかつたの"
],
[
"さあ、早く機嫌を直して下さい。せつかくこんないい朝なのに……",
"さうだ、だから、せつかくのいい朝だから、俺はこんな事をされると不愉快なのだ"
],
[
"俺は、仕舞ひには彼処で首を縊りはしないか? 彼処では、何かが俺を招いてゐる",
"馬鹿な。物好きからそんなつまらぬ暗示をするな",
"陰気にお果てなさらねばいいが"
],
[
"お前はなぜつまらない事に腹を立てるのだ。お前は人生を玩具にして居る。怖ろしい事だ……。お前は忍耐を知らない",
"おお、薔薇、汝病めり!"
]
] | 底本:「日本文学全集27 佐藤春夫集」筑摩書房
1970(昭和45)年11月1日発行
初出:「中外」中外社
1918(大正7)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿部哲也
校正:津村田悟
2018年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "057392",
"作品名": "田園の憂欝",
"作品名読み": "でんえんのゆううつ",
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"副題": "或は病める薔薇",
"副題読み": "あるいはやめるそうび",
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"名": "春夫",
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"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
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"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
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"底本名1": "日本文学全集27 佐藤春夫集",
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[
[
"お前のゐたところは真暗だつたかい",
"いいえ。少しは明るかつたの、ぼんやりと",
"お前は婦人といふものを見たことがあつたかい",
"婦人つて、どんなもの? 小父さん",
"知らないのか。それぢや見たことが無いのだらう。お母さんも無論知らないのだね。婦人はどんな人だつて地下の十階以下には決して住んではゐないよ。――特別にいい職業があるからね。それでお前、何かい。空気は管から毎日吸つたかい?",
"ううん。時々なの――随分おいしかつたの"
],
[
"俺もその植物とやらになるとしよう。本当にここに書いてあるとほり幸福だかどうだか知れないが。何にしろ今日の我々よりもみぢめな存在物がこれ以上にあらうとも考へられないから、してみればやつぱりこれは本当に相違ないからね",
"然うだとも"
],
[
"うまく手に入つたな――競売はどんな具合だつたかね",
"競売なんて、買ひ手はわたしひとりなのよ",
"そんなに不人気か――それぢや、折角買つて来ても看板にはならないではないか",
"大丈夫、その点は大丈夫。みんなはそれや、このへんなものに興味は持つてゐるのだわ。でも何も使ひ道がないので買はうと言はなかつたのですよ。それにこれを飼ふのはなかなか贅沢ですよ――少くとも三十分は日光が必要なのですつて"
],
[
"お前は月といふものを知つてゐるか",
"お前は星といふものを知つてゐるか",
"お前は虹を知つてゐるか",
"小鳥たちを――夜鶯を知つてゐるか",
"黒土の芳ばしいにほひは?",
"泉の囁きは?",
"夜の露は?",
"少女の接吻は?"
],
[
"一たい君は誰だ",
"僕は薔薇科に属する植物だ",
"それではお前も、近ごろ人間から変形したひとなのだね",
"さうです",
"さうして一たいお前さんは幸福か"
],
[
"それは俺たちだつて幸福でない事はないさ。空気はある、日光もともかくある。それに植物はものを言へないなどと言つたが立派にこのとほり口が利ける。それから飛ぶことさへ出来るのだ",
"飛ぶことが? 植物でゐながら飛ぶ事が?"
],
[
"一たいどこにゐるのです",
"壁に吸ひついてゐるさ"
],
[
"その檞の木はどうしてゐる。それは僕のお父さんとも言ふべき人なのだが",
"気の毒に、切られてしまつたよ。根元から"
]
] | 底本:「定本 佐藤春夫全集 第7巻」臨川書店
1998(平成10)年9月10日初版発行
底本の親本:「明治大正文学全集第四十卷 志賀直哉・佐藤春夫」春陽堂
1929(昭和4)年6月15日発行
初出:「改造 第一一巻第一号」改造社
1929(昭和4)年1月1日発行
※「生ひ立」と「生ひ立ち」、「仕掛け」と「仕掛」、「見下ろす」と「見下す」、「僅か」と「僅」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「のん・しやらん記録」です。
入力:朱
校正:水底藻
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059216",
"作品名": "のんしやらん記録",
"作品名読み": "のんしゃらんきろく",
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"初出": "「改造 第一一巻第一号」改造社、1929(昭和4)年1月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-04-09T00:00:00",
"最終更新日": "2020-03-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/card59216.html",
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"姓読みソート用": "さとう",
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"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
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"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 佐藤春夫全集 第7巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年9月10日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年9月10日初版",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年9月10日初版",
"底本の親本名1": "明治大正文学全集第四十卷 志賀直哉・佐藤春夫",
"底本の親本出版社名1": "春陽堂",
"底本の親本初版発行年1": "1929(昭和4)年6月15日",
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[
[
"慾を云へばきりもあるまいが、それがぼつぼつ今の勢で四方へ侵略して行けば、今に、どこも禿げたりうすくなつたりしないで、そつくり見事な銀髪にならうといふものだ。それがむかしからの僕の注文だつたが、とても実現されさうもないから、せめては君が僕の理想を実現したところを見よう。",
"あんまり見事な銀髪になると、また白髪のかつらをかぶつてゐるのかと云はれさうですね"
]
] | 底本:「定本 佐藤春夫全集 第24巻」臨川書店
2000(平成12)年2月10日初版発行
底本の親本:「心 第七巻第一〇号」
1954(昭和29)年10月1日発行
初出:「心 第七巻第一〇号」
1954(昭和29)年10月1日発行
入力:えんどう豆
校正:津村田悟
2019年3月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058828",
"作品名": "人さまざまの苦労の話",
"作品名読み": "ひとさまざまのくろうのはなし",
"ソート用読み": "ひとさまさまのくろうのはなし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「心 第七巻第一〇号」1954年(昭和29)年10月1日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-04-09T00:00:00",
"最終更新日": "2019-03-29T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/card58828.html",
"人物ID": "001763",
"姓": "佐藤",
"名": "春夫",
"姓読み": "さとう",
"名読み": "はるお",
"姓読みソート用": "さとう",
"名読みソート用": "はるお",
"姓ローマ字": "Sato",
"名ローマ字": "Haruo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-04-09",
"没年月日": "1964-05-06",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 佐藤春夫全集 第24巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年2月10日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年2月10日初版",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年2月10日初版",
"底本の親本名1": "心 第七巻第一〇号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1954(昭和29)年10月1日",
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"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "えんどう豆",
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