chats
sequence | footnote
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3.16k
| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"やあ、よかつたな。",
"や、やああ。",
"ああ、わああ。"
],
[
"パパ、パパ。",
"うむうむ、竜胆々々。おい、素敵だぜ、そら薊だ。蜜柑だ。や、矢代君。おおい、矢代君はいつ見えたんだ。おおい。",
"や、僕はもう山へ行つて来たんですよ。",
"もうさつきですよ。",
"ほう。",
"やあ。これは。"
],
[
"どうして逢はなかつたんだらう。いつかのあの道だよ。",
"僕も其処へ行つたんですがね。ちやうど蜜柑を摘んでゐたお婆さんがゐたから、訊いて見たんだ。するとお婆さんがね、あの若造どもづら、へえ、さつき帰つちまつただと云つたんだ。",
"ほう、若造とはよかつたね。",
"やあ、さうだ、なるほど、あの婆さんから見りや若造かな。"
],
[
"あのハアモニカだよ、若造つて云ふのは。",
"ほう。さうか。ハアモニカか。"
]
] | 底本:「花の名随筆11 十一月の花」作品社
1999(平成11)年10月10日初版第1刷発行
底本の親本:「白秋全集 17」岩波書店
1985(昭和60)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡村和彦
校正:noriko saito
2011年1月9日作成
2012年8月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052296",
"作品名": "蜜柑山散策",
"作品名読み": "みかんやまさんさく",
"ソート用読み": "みかんやまさんさく",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-02-19T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/card52296.html",
"人物ID": "000106",
"姓": "北原",
"名": "白秋",
"姓読み": "きたはら",
"名読み": "はくしゅう",
"姓読みソート用": "きたはら",
"名読みソート用": "はくしゆう",
"姓ローマ字": "Kitahara",
"名ローマ字": "Hakushu",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-01-25",
"没年月日": "1942-11-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "花の名随筆11 十一月の花",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年10月10日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年10月10日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年10月10日初版第1刷",
"底本の親本名1": "白秋全集 17",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1985(昭和60)年9月",
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"入力者": "岡村和彦",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"どうしたんですか、この暑いのに",
"猫が來ました",
"猫はお嫌いですか",
"嫌いぢやありません、好きですから恐れてゐるのです、毆くに忍びません、そして飼うことは懲々してゐるんです",
"お困りですね",
"暑くても我慢してください"
]
] | 底本:「戀の潜航」改善社
1926(大正15)年10月10日発行
※国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/)で公開されている当該書籍画像に基づいて、作業しました。
※「………」と「……」の混在は、底本通りです。
※「小さな」に対するルビの「ちい」と「ちひ」の混在は、底本通りです。
※「江」をくずした形の「変体仮名え」は、仮名にあらためました。
入力:かな とよみ
校正:The Creative CAT
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "060668",
"作品名": "ねこ",
"作品名読み": "ねこ",
"ソート用読み": "ねこ",
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"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-11-26T00:00:00",
"最終更新日": "2021-10-27T00:00:00",
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"人物ID": "002169",
"姓": "北村",
"名": "兼子",
"姓読み": "きたむら",
"名読み": "かねこ",
"姓読みソート用": "きたむら",
"名読みソート用": "かねこ",
"姓ローマ字": "Kitamura",
"名ローマ字": "Kaneko",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-11-26",
"没年月日": "1931-07-26",
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"底本名1": "戀の潜航",
"底本出版社名1": "改善社",
"底本初版発行年1": "1926(大正15)年10月10日",
"入力に使用した版1": "1926(大正15)年10月10日",
"校正に使用した版1": "1926(大正15)年10月10日",
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[
[
"今後、日本は貧富の懸隔次第に甚しくなりませう。西洋が今日まで為し来たのと同じ事情を具へて居る。契約は自由であります。兼併を禦ぐ政略は勿論行はるべきでは無い。機械を採用して人力を省くことになる。今日西洋諸国が困難して居る有様に赴く道が具はつて居る。英人カルカツプは今日の有様を歎息して『欧羅巴人は政治上の民権を得たが、経済上の食客で、地面なく家もなし』と言うて居る。経済上の食客の増加するは機械の使用によつて、資本と労力とを分離させるより起ります。英国でも器械なき間は、資本と労力とは多く同一の人の手に在りました。我が今日の農家はそれに類して居ります。製造家もその通りである。この間は雇主も家族の如き関係を起すから、自然の人情、被雇者を見ること奴隷を見るやうな根性は余り起しませぬ。一たび強大なる器械を入れて数千の職工を集めれば、一つの国と同じで職工は主人の顔を見ることさへ無い。更に資本の勢力を以て機械を充分に入れゝば、一二人の財産では足りないから、会社の組織が起る。会社の組織が起れば、株主と職工と顔を合はせると云ふことは決して無い。さうなると資本と労力との競争のみで、人情の油はこの競争を緩めることは無い。この事が我国の経済社会に必ず起つて来ると思ひます。――興業上の兼併が行はれて多くの人が家来になる。この者が常に雇はれて居ればまだ良いが、決して然うは行かない。生産の競争が起れば色々制限を行ひます。少し出来過ぎて売口が遠くなれば、労役者を解雇します。賃銭はたとひ安くとも仕事があれば、パンを買ふ銭もあるが、雇を解かれゝば、パンを買ふ銭も無くなつて、たゞ坐食しなければならぬ。どうしても資本家と労働者と激戦をしなければなりません。望のある動物なら、何とかしてこの組織を破らうと云ふ考を起すは、已むを得ない。",
"私は社会党でも共産党でもないが、国として考へれば、百人の中一人は非常に富んで九十九人は極貧であるは、人情喜ぶべきでない、国の安全でもない。人民が殖えて分配も行き渉り、百人が略々同様に安楽なるは喜ぶべきことゝ私は思ひます。これが、私は日本の後来の為に注意すべき点と思ふ。私は斯様なる社会の有様に日本を置きたいと希望します。日本にバンデルビルトの如き人が出来ずとも衆人が不足を告げず、資本労力の戦争なき富国にしたいと、私は思ひます。さればとて弊害をのみ恐れて、現在のまゝ未開の有様に居ようと主張するではありません。矢張り大きな製造会社も起したい。今日のやうに熱天に汗をかいて一人でボツ〳〵仕事するよりも、器械を用ひてやるやうにしたいが、同時にこれに伴ふ弊害を避ける方法を講究したい。"
]
] | 底本:「近代日本思想大系10 木下尚江集」筑摩書房
1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
ファイル作成:
2006年9月18日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043239",
"作品名": "自由の使徒・島田三郎",
"作品名読み": "じゆうのしと・しまださぶろう",
"ソート用読み": "しゆうのしとしまたさふろう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論」1933(昭和8)年9月号",
"分類番号": "NDC 289",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-10-21T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000525/card43239.html",
"人物ID": "000525",
"姓": "木下",
"名": "尚江",
"姓読み": "きのした",
"名読み": "なおえ",
"姓読みソート用": "きのした",
"名読みソート用": "なおえ",
"姓ローマ字": "Kinoshita",
"名ローマ字": "Naoe",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1869-10-12",
"没年月日": "1937-11-05",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "近代日本思想大系10 木下尚江集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1975(昭和50)年7月20日",
"入力に使用した版1": "1975(昭和50)年7月20日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1975(昭和50)年7月20日初版第1刷",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "林幸雄",
"校正者": "松永正敏",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000525/files/43239_ruby_24026.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2006-09-18T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000525/files/43239_24363.html",
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[
[
"立春正月の節。雪が一尺以上も降りますと、まだ寒うございますから、なか〳〵解けません。子供などがその雪を二坪ぐらゐ片付けまして、餌を撒き置きますると、二日も三日も餓ゑて居る小鳥が参ります。其所へ青竹弓でブツハキと云ふをこしらへ、餌をあさるを待ち受け、急に糸を引きますると、矢がはづれ青竹弓がはづれまして、雀や鳩が一度に三羽も五羽も取れました。また雪を除き餌をまきたる所へ麦篩を斜にかぶせ、細き竹に糸を付け、小鳥が餌にうゑて降りるを見て糸を引きて取る。一羽二羽は取れ申候。近年鉱毒被害の為め小鳥少なく、二十歳以下の者この例を知るものなし。正月の節よりも十日もたちまして雪が七寸乃至一尺も降りまして、寒気は左程ゆるみましたとも見えませぬけれど、最早陽気でございまして、翌る日晴天になりますと、雪は八九時十時頃より段々解けまする。田圃でも日向のよい箇所は、所々土が雪より現はれます陽炎が立ちまする有様、陽気が土中より登りて湯気の如くに立ちのぼる。然るに鉱毒被害深さ八九寸より三尺に渡り候、田圃には更に陽気の立ち上ぼるを見ず。",
"清明三月の節になりますると、藪の中や林の縁に、野菊や野芹や蕗や三ツ葉うど抔が多くありました。川端には、くこ抔と申すが多くありました。三月の節句に草餅を舂きまするに、蓬が多くありまして、摘みましたものでござりますが、只今では、鉱毒地には蓬が少なき故、利根川堤や山の手へ行つて摘んで参ります。近年は無拠、蓬の代りに青粉と申すを買ひまして、舂きまする。桜の花の盛りをマルタ魚の最中とし、梨の花盛りをサイのしゆんとして、渡良瀬川へ川幅一杯に網を張り通し、夕暮五時頃より、翌朝六七時までに、魚が百貫以上も取れました。また闇の夜などに、川や沼に大高浪押し来り、小胆の人は大蛇かと驚きましたが、獺が多く子を連れて、游ぎあるくのでござりました。渡良瀬川、淵と名のつきましたところは、平時にも水が二丈や三丈はありました。鯉など年中はねて居りました。――只今では毒鉱土砂沈澱し、河底埋塞の為め、平水の節は、名のつきました所も八尺か九尺しかありません。浅くなりました故、魚は居りません。",
"小満四月、中の節。山林田圃などには、蛇が多く居りました。蛇の種類も色々ありました。山かゞしと云ふが、あの縞蛇と云ふがあり、地もぐりと云ふがあり、青大将と云ふがあり、又かなめと云ふがありましたが、只今鉱毒地には更に御座なく候と申しても宜敷位でござります。また畑の境界などには、うつ木と申しまする樹を仕立つ。此木は根が格別ふえませぬ故、境木などに至極宜敷ござります。此木に卯の花と申す真白な花が咲き乱れました。此花の頃は時鳥があちこち啼いて、飛びちがひましたものでござりますが、只今では、虫や蜘蛛が鉱毒の為め居りませぬ故か、一と声も聞きませぬ。卯の花も咲きませぬ。蟷螂や、けら、百足、蜂、蜘蛛等が夥しく居りました。土蜘蛛と申しまして木の根や垣根などに巣の袋をかけて置きましたが、鉱毒地には、只今一切居りませぬ。",
"芒種五月の節に相成りますると、野にも川にも螢が夥しく居りまして子守や子供衆は日の暮を待ち兼ねて螢狩りに行きましたものでござりますが、鉱毒の為め少しも見えませぬ。此節に到りますると、大麦は丈五尺位ありました。並みの馬につけますには、余程高く付けませぬでは、穂が引きずりました。一反で三石四五升位とれました。小麦も丈が四尺余もありました。一反で二石五斗位は取れました。菜種も丈が六尺以上ありました。一反で一石八九升まで取れました。朝鮮菜と申しまするは、丈が七尺以上ありました。一反二石以上とれました。辛子は丈が八尺より九尺位ありました。一反で一石以上とれました。下野国足利郡吾妻村大字小羽田は、関東にても有名の肥土でありましたが、只今は鉱毒被害の為め、何も生えませぬ。",
"処暑七月の中の節。土用明けてから十日もたちますると渡良瀬川、朝日出づる頃よりして、何千万と数限なき蜉蝣が川の真中、幅三間位の処を、列を連ねて真白に飛び登り一時間か半もたちますると、早や流れ下りました。是が毎朝々々十五日位つゞきましたが、只今は少しも飛びませぬ。又た鵜烏といふ鳥が川や沼に四季共、魚を餌にして棲んで居りました。また暑気強き日、大雷が鳴りまして、渡良瀬の河原、焼け砂に急に大雨が降りますと、午後六七時頃には右申上げました河原焼砂は雨に流れ出ます。川水従て泥濁りになりますると、小魚が喜びまして、川原の浅瀬に多く出かけます。是に投網と申すを打ちますと、沢山に取れました。網を持ちませぬ者は、竹箒などで掃き上げて取りましたものでござります。また田面、沼川の辺には、多く白鷺が居りまして、小魚を餌にして飛びあるきましたが、只今では、夕立いたし大雨が降りましても、魚は取れず、白鷺も鵜烏も居りませぬ。",
"大雪十一月の節になりますと、大根や牛蒡や葱芋などが、多く取れました。此の芋などは、人々何れも野中又は道端などに穴を掘りまして、是に馬つけ五駄も七駄も入れて置きました。一戸に付此の塚が三つも四つも五つもござりますから、銘々に我家の印や苗字などを、塚の上にしるしまして、是れに麦種を蒔入れて置きまする。来春に相成りますると、其麦が青々と生えまして、心覚えになりましたものでござりまするが、只今は、鉱毒の為め芋が取れませぬから、何処をあるきましても、此の塚がござりませぬ。",
"大寒十二月の節に相成りますると、貉や狐などが、人家軒端や宅地などを、めぐりあるきました。貉はガイ〳〵〳〵と鳴き、狐はコン〳〵〳〵と鳴く。ケイン〳〵と鳴くもありました。屋敷まはりなどに、人参など土に埋めて置きますると、掘り出して喰ふものでござりましたが、鉱毒の為め野に鼠も居らず、虫類も無く、魚類も少なき故なるべし、二十歳以下の青年は御存じありますまい。"
],
[
"高山の三十七番地茂呂作造(五十八)妻きは、長女さく(二十四)次女きよ(十)の四人暮し。妻きは語りて曰ふ、元は相応の農家でしたが、今は鉱毒で何も穫れません。心配ばかりして居るので、眼が悪るくなつて、両方共かすかに見えますけれど、着物の縞も見えやんせん。眼でも良けりや、何か出来るけれど――やつと火だけはソロ〳〵焚きやんすが、針が一と針出来るぢや無し――父ツさんは年取つて腰が痛いしするが、稼がなけりや食べられないで、無理べえして稼いで居やんす。目の見える人は思ひやりがありやんせん。自分が見えるもんだから、何をせう彼をせうと言はれるたびに、私は身を切られるやうに思ふんでやんす――",
"船津川字中砂、川村新吉(四十五)の家族。女房は田畑に物が出来なくなつたを気にして、血病のやうにブラ〳〵わづらつた末、三年前に死んだ。跡に新吉は三人の子供を抱へて気が少し変になる。中庭で側目もふらず機織して居るのが、十四になる長女のお浅。小さい娘の身に一家の安危を負担して居る。縁先には九歳の新三郎と六歳のおい二人が、紅葉のやうな手に繩をなつて居る。お浅は学校へ行く年でありながら、母親代りに立働き、夜が明けると直ぐ織り始めて、毎夜十二時過ぎまで織りつゞける。元は一町近くの百姓であつたものを",
"船津川百七十四番地、鈴木島吉(三十一)女房おえい(二十九)に両親との四人暮し。父は末吉(五十五)母はおなか(六十二)と言ふ。老母おなかは元来酒を嗜む所に、近年は痰が起つて夜分眠られぬ。すると島吉が、老母の好きな酒を飲ませる。酒を飲むと一時痰が納まつて苦痛を忘れると云ふ。近隣の人の言ふには、島吉さんが毎日々々きまつた時刻に隣村へ酒買に行く。それで私共は、島吉さんが通るから正午だんべえと言ふ位。困窮の中から毎日五銭づゝ酒を買つては母に飲ませる。我等が尋ねた時は、丁度午時で島吉が帰つて来て火を焚いて居たが、其の焚火の料と云ふは、女房が渡良瀬へ膝まで浸つて、浮木を拾つて積んで置くのだと云ふ。此の木を焚くと、銅のやうな色の灰が残り、現に其煙で天井の蠅が落ちる。毒だとは思ひながらも仕方がないから、フウと口で吹いては火を起す。此家は元農の外に漁業をも営んで居たが、鉱毒以来、両方共無一物になつてしまひ、拠なく、今は紡車の撚糸をして、糸より細い煙を立てて居る"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 9 徳冨蘆花・木下尚江集」筑摩書房
1971(昭和46)年10月5日初版第1刷発行
1985(昭和60)年11月10日初版13刷発行
初出:「中央公論 昭和八年四月号」
1933(昭和8)年4月
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2006年5月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042766",
"作品名": "政治の破産者・田中正造",
"作品名読み": "せいじのはさんしゃ・たなかしょうぞう",
"ソート用読み": "せいしのはさんしやたなかしようそう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論 昭和八年四月号」1933(昭和8)年4月",
"分類番号": "NDC 289 561",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-06-19T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000525/card42766.html",
"人物ID": "000525",
"姓": "木下",
"名": "尚江",
"姓読み": "きのした",
"名読み": "なおえ",
"姓読みソート用": "きのした",
"名読みソート用": "なおえ",
"姓ローマ字": "Kinoshita",
"名ローマ字": "Naoe",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1869-10-12",
"没年月日": "1937-11-05",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本文學大系 9 徳冨蘆花・木下尚江集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1971(昭和46)年10月5日",
"入力に使用した版1": "1985(昭和60)年11月10日初版第13刷",
"校正に使用した版1": " ",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "林幸雄",
"校正者": "小林繁雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000525/files/42766_ruby_22804.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2006-05-09T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000525/files/42766_23160.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-05-09T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"何だ失敬な、社会の富を盗んで一人の腹を肥やすのだ、彼の煉瓦の壁の色は、貧民の血を以て塗つたのだ",
"ハヽヽヽ、君の様に悲観ばかりするものぢや無いサ、天下の富を集めて剛造輩の腹を肥すと思へばこそ癪に障るが、之を梅子と云ふ女神の御前に献げると思もや、何も怒るに足らんぢや無いか",
"貴様は直ぐ其様卑猥なことを言ふから不可んよ",
"是れは恐れ入つた、が、現に君の如き石部党の旗頭さへ、彼の女神の為めには随喜の涙を垂れたぢや無いか",
"嘘言ふな",
"嘘ぢや無いよ、僕は之を実見したのだから弁解は無用だよ",
"嘘言へ",
"剛情な男だナ、ソレ、此の春上野の慈善音楽会でピアノを弾いた佳人が有つたらう、左様サ、質素な風をして、眼鏡を掛けて、雪の如き面に、花の如を唇に、星の如き眸の、――彼女が即ち山木梅子嬢サ",
"貴様、真実か"
],
[
"懐疑は悲観の児なりサ、彼女芳紀既に二十二―三、未だ出頭の天無しなのだ、御所望とあらば、僕聊か君の為めに月下氷人たらんか、ハヽヽヽヽヽ",
"然かし、貴様、剛造の様な食慾無情の悪党に、彼いふ令嬢の生まれると云ふのは、理解すべからざることだよ",
"が、剛造などでも、面会して見れば、案外の君子人かも知れないサ",
"そんなことがあるものか"
],
[
"あら、芳ちやん、私は好も嫌も無いと言つてるぢやありませんか",
"けれど姉さん、何方かへ嫁くとお定めなさらねばならんでせう、両方へ嫁くわけにはならないんだもん"
],
[
"芳ちやんは軍人がお好きねエ",
"ぢや、姉さんは、あの吉野とか云ふ法学士の方が好いのですか、驚いたこと、彼様ニヤけた、頭ばかり下げて、意気地の無い"
],
[
"御尤で御座りまする",
"元来を言へば長谷川君、初め篠田如き者を迂濶に入会を許したのが君の失策である、如何だ、彼の新聞の遣り口は、政府だの資産あるものだのと見ると、事の善悪に拘らず罵詈讒謗の毒筆を弄ぶのだ、彼奴が帰朝つて、彼の新聞に入つて以来、僅か二三年の間に彼の毒筆に負傷したものが何人とも知れないのだ、私なども昨年の春、毒筆を向けられたが――彼奴等の言ふ様な人道とか何とか、其様単純なことで坑夫等の統御が出来るものか、少しは考へて見るが可いのだ、石炭坑夫なんてものは、熊か狼だ、其れを人間扱ひにせよと云ふのが間違つて居るぢや無いか、彼の時にも君に放逐する様に注意したのだが、自分のことで彼此云ふのは、世間の同情を失ふ恐があるからと君が言ふので、其れも一理あると私も辛棒したのだ、今度は、君、少しも心配するに及ぶまい、日露戦争に反対するのだから、即ち売国奴と言ふべきものでは無いか"
],
[
"宜しう御座りまする、私も兼ねて其の心得で居りましたのですから、早速執事等とも協議の上、至急御挨拶に及ぶで御座りませう",
"ウム、ぢや、早速左様云ふことに"
],
[
"なにネ、先生と貴郎の衣服を持つて来ましたの、皆さんの所から纏まらなかつたものですから、大層遅くなりましてネ、――此頃は朝晩めつきり冷つきますから、定めて御困りなすつたでせうネ",
"ハヽヽヽ僕も先生も未だ夏です、では其の風呂敷の中に我家の秋が包まれて居るんですか、どうも有難ウ",
"大和さん、男は礼など言ふものぢやありません、皆さんが喜んで張つたり縫つたり、仕事して下ださるんですから",
"しかし老女さん、そりや先生の為めにでせう、僕は御礼申さにやなりませんよ",
"まア、貴郎は今時の書生さんの様でもないのネ"
],
[
"何だか少しも解らないなア",
"其りやお解になりますまいよ、どうせ何にも知らない継母の言ふことなどを、お聴き遊ばす御嬢様ぢや無いんですから――我夫から直にお指図なさるが可う御座んすよ、其の為めの男親でさアね"
],
[
"ハイ、今年取つて五十三歳、旦那様に三ツ上の婆アで御座います、決して新橋あたりへ行らつしやるなと嫉妬などは焼きませんから",
"ナニ、ありや、已むを得ん交際サ",
"左様ですつてネ、雛妓を落籍して、月々五十円の仕送りする交際も、近頃外国で発明されたさうですから――我夫、明日の教会の親睦会は御免を蒙ります、天長節は歌舞伎座へ行くものと、往年から私の憲法なんですから"
],
[
"オイ、大橋君、梅子さんが見えぬやうぢやないか",
"又た井上の梅子さん騒ぎか、先刻一寸見えたがナ、僕は何だか気の毒の様に感じたから、挨拶もせずに過ぎたのサ、彼女でも成るべく人の居ない方へと、避てる様子であつたからナ、山木見たいな爺に梅子さんのあると云ふは、君、正に一個の奇跡だよ"
],
[
"成程、さうか、何卒早く其れを見たいものだネ",
"所が、君、一と通のことで無いので、作者頗る苦心の体サ――さア行かう、今度は彼の菊の鮨屋だ、諸君決して金権党の店に入るべからずだヨ"
],
[
"ハア、貴嬢は劇に非常なる厭世家にお化りでしたネ",
"私は篠田さん、此頃ツクヅク人の世が厭になりました",
"奇態ですネ――此春の文学会で貴嬢が朗読なされた遁世者諷刺の新体詩を、私は今も尚ほ面白く記憶して居りますが――"
],
[
"梅子さん、私は未だ貴嬢の苦悶の原因を知ることが出来ませぬが、何れにも致せ、貴嬢の精神が一種の暗雲に蔽はれて居ると云ふことは、唯に貴嬢御一身の不幸ばかりではなく、教会の為め、特に青年等の為め、幾何ばかりの悲哀でありませうか",
"否、私の苦悶が何で教会の損害になりませう、篠田さん、私の苦悶の原因と申すは、今日教会の上に、別けても青年の人々の上に降りかゝつた大きな不幸悲哀で御座います",
"其れは何ですか",
"篠田さん――貴郎の除名問題で"
],
[
"婆や、ほんたうに申訳がないのネ、お前が其様に心配してお呉れだから、私の心を打ち明けますがネ、私は決して人選びをして居るのぢやないのです、私は疾うから生涯、結婚しないと覚悟して居るのですからネ",
"いゝえ、お嬢様、其様なこと仰しやつても、此婆は聴きませぬ、御容姿なら御才覚なら何に一つ不足なき貴嬢様が、何の御不満で左様なこと仰つしやいます、では一生、剛一様の御厄介におなり遊ばして、異腹の小姑で此世をお送り遊ばす御量見で在つしやいまするか",
"婆や、さうぢやありませぬ、私は現在の様に何も働かずに遊んで居るのを何より心苦く思ふのでネ、――どうぞ貧乏町に住まつて、あの人達と同じ様に暮らして、生涯其の御友達になりたいと祈つて居るのです"
],
[
"時に、オイ、熊の野郎め久しく顔を見せねエが、どうしたか知つてるかイ、何か甘い商売でも見付けたかな",
"大違エよ、此夏脚気踏み出して稼業は出来ねエ、嬶は情夫と逃走する、腰の立ねエ父が、乳の無い子を抱いて泣いてると云ふ世話場よ、そこで養育院へ送られて、当時頗る安泰だと云ふことだ",
"ふウむ、其りや、野郎可哀さうな様だが却て幸福だ、乃公の様にピチ〳〵してちや、養育院でも引き取つては呉れめヱ――、ま、愈々となつたら監獄へでも参向する工夫をするのだ"
],
[
"そりや、貴様のやうな独身漢は牢屋へ行くなり、人夫になつて戦争に行くなり、勝手だがな、女房があり小児がありすると、さう自由にもならねエのだ",
"独身漢〳〵と言つて貰ふめエよ、是でもチヤンと片時離れず着いてやがつて、お前さん苦労でも、どうぞ東京で車を挽いててお呉れ、其れ程人夫になりたくば、私を殺して行かしやんせツて言やがるんだ、ハヽヽヽヽ、そりやサウと、オイ、昨夜烏森の玉翁亭に車夫のことで、演説会があつたんだ、所が警部の野郎多衆巡査を連れて来やがつて、少し我達の利益になることを云と、『中止ツ』て言やがるんだ、其れから後で、弁士の席へ押し掛て、警視庁が車夫の停車場に炭火を許す様に骨折て欲いつて頼んでると、其処へ又警部が飛込んで来やがつて『解散を命ずるツ』てんよ、すると何でも早稲田の書生さんテことだが、目を剥き出して怒つた、つかみ掛りサウな勢だつたが、少し年取つた人が手を抑へて、斯様警部など相手にしても仕方が無い、斯うしなければ警察官も免職になるのだから、寧そ気の毒ぢやないかツてんで、僅々収まつたが、――一体政府の奴等、吾達を何と思つて居やがるんだ",
"そんな大きな声して巡査にでも聞かれると悪イ、が、俺も二三日前に小山を通つてツクヅク思つた、軍艦造るの、戦争するのツて、税は増す物は高くなる、食ふの食へねエので毎日苦んで居るんだが、桂大臣の邸など見りや、裏の土手へ石垣を積むので、まるで御城の様な大普請だ",
"今日も新聞で見りや、媽の正月の頸の飾に五千円とか六千円とか掛けるのだとよ、ヘン、自分の媽の首せエ見てりや下民の首が回はらなくても可いと言ふのか、ベラ棒め",
"何れ一と騒動なくば収まるめエかなア"
],
[
"オ、もう十二時だ、長話しちまつた",
"でも未だ平民社の二階にや燈火が見えるぜ――少こし小降になつた様だ、オヽ、寒い〳〵"
],
[
"では母の遺伝だナ、山木の様な奴には不思議だと思つたのだ",
"否や、左様ばかりも言へないでせう、現に高等学校に居る剛一と云ふ長男の如きも、数々拙宅へ参りますが、実に有望の好青年です、父親の不義に慚愧する反撥力が非常に熾で、自己の職分と父の贖罪と二重の義務を負んでるのだからと懺悔して居る程です、思ふに我々の播ける種子を培ふものは、彼等の手でせうよ"
],
[
"けれ共、君、幸に雨は止んだ",
"オヽ、星が照らして居るわ、我々の前途を"
],
[
"いゝえネ、湖月の送別会とかへ行つてるので、未だ貰へないんですもの",
"しやうが無いネ、今夜あたり其様所へ行かなくツても可いぢやないか",
"オホヽヽヽだつて女将さん、其れも芸妓の稼業ですもの"
],
[
"そりや女将さん、仮令芸妓だからつて可哀さうですよ、当時流行の花吉でせう、それに菊三郎と云ふ花形俳優が有るんですもの、松島さん見たいな頓栗眼の酒喰は、私にしても厭でさアね",
"だツて、妾にならうが、奥様にならうが、俳優買ひ位のことア勝手に出来るぢやないか",
"其う言やマア、さうですがね、しかし能くまア、軍人などで芸妓を落籍せるの、妾にするのツて、お金があつたもンですねエ"
],
[
"国家の公益? ハヽヽヽ其れは大洞、君等の言ふべき口上ぢや無からう、兎に角一旦取り定めたものを、サウ容易く変更することもならんからナ",
"併かし、松島さん、万事貴下の方寸に在ることでは御わせんか",
"仮令方寸に在らうが、国家の公事ぢや、君等は一家の私事さへもグツ〳〵して居るぢや無いか"
],
[
"戯謔仰つしやツちや、因まりますゼ、松島さん、貴下、其様馬鹿気たこと、何処から聞いておいでになりました",
"今日も省内の若漢等が、雑談中に切りと其事を言ひ囃して居つた",
"ハヽヽヽイヤ何うも驚きました、成程、さすが明智の松島大佐も、恋故なれば心も闇と云ふ次第で御わすかな、松島さん、シツカリ御頼申しますよ、相手が兎に角露西亜ですゼ、日清戦争とは少こし呼吸が違ひますゼ"
],
[
"しかし大洞、山木の娘も篠田と同じ耶蘇だと云ふぢやないか",
"松島さん、貴下の様に気を廻しなすつちや困まる、山木も篠田には年来の怨恨がありますので、到頭教会から逐ひ出させたと、妹の話で御わしたが、女敵退散となつた上は、御心配には及びますまい、ハヽヽヽヽ",
"ウム、其れは先づ其れとしても、君、山木が早く取定ないのは不埒極まる、今日まで彼を庇護して遣つたことは何程とも知れたもンぢやない、彼の砂利の牛肉鑵詰事件の時など新聞は八釜しい……"
],
[
"松島さん、そんな旧傷の洗濯は御勘弁を願ひます、まんざら御迷惑の掛け放しと云ふ次第でも無つた様で御わすから",
"それから彼の靴の請負の時はドウだ、糊付けの踵が雨に離れて、水兵は繩梯から落ちて逆巻く濤へ行衛知れずになる、艦隊の方からは劇しく苦情を持ち込む、本来ならば、彼時山木にしろ、君にしろ、首の在る筈が無いのぢやないか",
"御尤至極、であればこそ、松島大明神と斯く随喜渇仰致すでは御わせんか――ドウしたのか、花吉、ベラ棒に手間が取れる"
],
[
"だが、君、今夜の最大奇観とも謂つべきは、篠田長二の出て来たことだ、幹事の野郎も随分人が悪いよ、餅月と夏本の両ハイカラの真中へ、彼の筒袖を安置したなどは",
"所が当人、其を侮辱とも何とも感じないのだから恐れ入るんだ",
"人間も彼程に常識を失へば気楽なものサ",
"見給へ、彼奴未だ四角張つて何か言つてるぜ",
"ヤ、相手が珍報社の丸井隠居ぢや、是こそ天然の滑稽ぢや"
],
[
"否や、戯謔ぢやない、今度は真面目の話だ――ソレ、彼の向ふに北海道土人の阿房払宜しくと云ふ怪物が居るだらう、サウ〳〵、あの丸井の禿顱と話してる、――彼奴誠に人情を解せん石部党で、我々同業間の面汚のだ、其処で今夜彼奴の来たのを幸に、我党の人にして遣らうと思ふんだ",
"河鰭さんの我党などにはならない方が可う御座んすよ",
"オイ〳〵飛んだことを言ふ――デ、彼奴に一杯、酒を飲ませて遣うと思ふんだが、我々の手では駄目だから、是に於てか花吉大明神の御裾にお縋り申すのだ"
],
[
"人がましくも、殿方が頭を下げての御依頼とあるからは、そりや随分火の中へも這入りませう、してお名前は",
"篠田ツて言ふのだ、同胞新聞の篠田",
"ヘエ、篠田さん、ぢや、あの、自由廃業をおやりなすつた方でせう",
"さうだ〳〵、其のとほりの野暮天なんだから、是非花ちやんの済度を仰ぐのだ"
],
[
"お手にだけなりともおとり遊ばせ",
"イヤ、私は一切、用ひませぬから"
],
[
"左様です、彼は決して嫉妬などの為めに凶行に出でたのではありません、――必竟、自分の最愛の妻――仮令結婚はしないにせよ――を、姦淫の罪悪から救はねばならぬと云ふのが、彼の最終の決心であつたのです、彼の此の愛情は独り婦人に対してのみで無いのです、彼が平生、職業に対し、友人に対し、事業に対する観念が皆な其れでした、成程、其の小米と云ふ婦人も、今ま貴女の(と花吉を一瞥しつ)仰つしやる通り実に気の毒でした、然かし彼女が彼の如くして生きて居たからとて、一日と雖も、一時間と雖も、幸福と云ふ感覚を有つことは無かつたでせう、兼吉が執つた婦人に対する最後の手段は、無論正道をば外れてたでせう、が、生まれて此の如き清浄な男児の心を得、又た其の高潔なる愛情の手に倒れたと云ふことは、女性としての満足なる生涯では無いでせうか",
"ナ、成程"
],
[
"兼吉と云ふ男は決して其様な性格の者ではありませぬ、石川島造船会社でも評判の職工で、酒は飲まず、遊蕩などしたことなく、老母には極めて孝行で、常に友達の為めに借金を背負はされて居た程です、何うも日本では今以て、鍛冶工など云へば直に乱暴な、放蕩三昧な、品格の劣等の者の如く即断致しますが、今日の新職工は決してソンなものでは無いですからな、――今春他の一人の職工が機械で左腕を斬り取られた時など、会社は例の如く殆ど少しも構はない、已むを得ず職工同志、有りもせぬ銭を出し合つて病院へ入れたのですが、兼吉は、此儘にしては、廿世紀の工業の耻辱であると云ふので、其の腕を携へて、社長の宅へ面談に参つたのです、風呂敷から血に染つた片腕を出された時には、社長も顔色を失つて、逃げ掛けたサウですが、其裾を捉へて悲惨なる労働者の境遇を説き、資本家制度の残忍暴戻を涙を揮つて論じたのには、サスがの柿沢君も一言の答弁が無つたと云ふことです、一言に尽したならば、兼吉の如きは新式江戸ツ子とでも言ひませうか",
"しますると、兼吉と小米との交情は如何致したと申すのでげすナ",
"御尤です、新聞には大抵、小米と申すのが、未だ賤業に陥らぬ以前、何か兼吉と醜行でもあつた様にありますが、其れは多分小米と申すの実母から出た誤聞であります、兼吉と彼の婦人とは幼少時代からの許嫁であつたのです、然るに成人するに及で、婦人の母と云ふが、職工風情の妻にしたのでは自分等の安楽が出来ないと云ふので、無残にも芸妓にして仕舞つたので――其頃兼吉は呉港に働いて居たのですが、帰京つて見ると其の始末です、私も数々兼吉の相談に与かつたのです、一旦婦人の節操を汚がしたるものを娶るのは、即ち男子の道義をも自ら破壊することになるか如何と云ふのです、私は彼に質問したのです、――君は彼女の節操破壊を以て自己の心より出でたるものと思つてるか如何――所が彼の言ひまするには、私は決して左様は思ひません、全く母親の利慾に圧制されたので、柔順なる彼女は之に抵抗することが出来なかつたのであることを疑はないと云ふのです"
],
[
"彼晩は貴下、香雪軒で桂さんだの、曾禰さんだのツて大臣さん方の御座敷でしてネ、小米さんが大盃でお酒をグイ飲みするんですよ、あんなことは今まで一度も無いのですから、何したんだらうつて皆な不思議がつて居ましたの、少こし酔つたから風に吹かれた方が可いつて、無理に車を返へしましてネ、一人で歩いて帰つたんですよ、――きつとあれから門跡様へ参詣したのです、何事も前世からの約束ですワねエ",
"承れば先生、兼吉の老母を御世話なされまするさうで、恐れ入りました御心掛で",
"イヤ、世話致すなど申す程のことも出来ませんが、此際先づ男の家と、女の家を調和させたいと思ひましたが、丸井さん、実に不思議ですなあ、小米の父親は涙に暮れまして、是れと申すも手前共の悪るかつたからで、聊か兼吉を怨む筋は無いと悔いて居りまするが、母親の方は非常な剣幕で、生涯楽隠居の金蔓を題無しにしたと云ふ立腹です、――女性と云ふものは、果して此の如く残忍酷薄なものでせうか"
],
[
"ナニ、芸妓になり下つたト、――余まりフザけた口きくもんぢやない、乞食の女でも宮様だの、大臣さんだのの席へ出られると思ふのか",
"大臣が何だネ、養母さん、お前は大臣なんてものが、其様に難有のかネ、――私に取つちや一生忘られない仇敵なんだよ――、あゝ、思うても慄とする、三月の十五日、私の為めの何たる厄日であつたのか",
"三月十五日が、何したと云ふんだ",
"お前が私を拾つて下すつたのは、今から二十年前の師走の廿五日、雪のチラつく夕間暮と能くお言ひだが、たツた五年の昔、三月十五日の花の夜、十六の春の一人の処女を生きながら地獄へ落しなすつたことは、モウ疾くにお忘れだらうネ"
],
[
"聞いた風なことホザきやがる、銭取り道具と大目に見て居りや、菊三郎なんて大根に逆せ上つて、――",
"オホヽヽヽ養母さん、逆上つて丈は取消にして、下ださい、外聞が悪いから――それや、狸々花吉と異名取る程、酒を呑みますよ、俳優買では毎々新聞屋の御厄介にもなりますよ、養母さん、酒でも呑んで気でも狂はせずに、片時なりと此様馬鹿げた稼業が勤まりますか、俳優々々と八釜敷言ふもんぢやありません、まア考へても御覧なネ、毎日毎夜是れ程男の玩弄になつて居りながら、此世で仇讐の一つも撃つて置かなかつたなら、未来で閻魔様に叱かられますよ、黄金で叩れた怨恨だから黄金で叩り復へして遣るのさネ、俳優の様な意気地なしでも、男の片ツ端かと思もや、養母さん、ちツとは癪も収りまさあネ、あゝ、何卒一日も早く此様娑婆は御免蒙りたいものだと思つてネ",
"ヘン、其様に死りたきや、小米の様に殺してでも貰ふが可いや",
"養母さん、可哀さうにも花吉にはネ、兼さんとか云ふ様な、実意の男が無いんですよ、何せ芸妓町などへウロつく奴に、真人間のある筈が無いからネ――あゝ、ほんたうに米ちやんが、羨ましい――"
],
[
"虚偽ツ、若し其れならば、姉さん、貴嬢の苦悶を私に打ち明けて下すつても可いぢやありませんか、秘密は即ち不信用の証拠です",
"秘密? 剛さん、私、何の秘密もありやしないワ"
],
[
"左様です、世間では彼が自殺の原因を、哲学上の疑問に在る如く言ひ囃しましたが、あれぢや藤野の霊も浮ばれませんよ、――僕は能ウく彼の秘密を知つてますからネ",
"ぢや、剛さん、何か深い原因があつたのですか",
"左様です、人生の不可解が若し自殺の原因たるべき価値あるならば、地球は忽ち自殺者の屍骸を以て蔽はれねばなりませんよ、人生の不可解は人間が墓に行く迄、片手に提げてる継続問題ぢやありませんか、其様乾燥無味な理窟で、彼の多感多情の藤野を殺すことは出来ませんよ",
"剛さんとは兄弟の様に親しくて、私のことも姉さんと呼んで下だすつたので、ほんたうにお可哀さうだと思つてネ",
"姉さん、藤野は実に可哀さうでした――彼の自殺は失恋の結果なんです",
"エ、――失恋?",
"左様です、彼の『巌頭の感』は失恋の血涙の紀念です、――彼が言ふには、我輩は彼女を思ひ浮かべる時、此の木枯吹きすさぶが如き荒涼の世界も、忽ち春霞藹々たる和楽の天地に化する、彼女を愛することに依て我あるを知ることが出来る、――彼女は即ち我が生命であると自白して居ましたよ、そして僕に向て、山木、君は果して理想の佳人が無いかと詰問しますからね、僕は言つて遣つたのです、――山木剛一にも理想の佳人があるツ",
"アラ、剛さん",
"では其人は誰かと聞きますから、僕は藤野に言つたのです――僕の理想の佳人は家の姉さんである"
],
[
"剛さん、其様こと言ふものぢやありません、何うぞ其様こと言はないで下ださイ",
"けれど、姉さん、何うぞ僕に言はせて下ださい、――一体僕の家は何で食つて居るんです、何で此様贅沢が出来るんです、地代と利子と、賭博と泥棒とぢやありませんか――否や、姉さん、少しも酷い言ひ分ぢやありません、正直のことです、――実直に働いてるものは家もなく食物もなく、監獄へ往つたり、餓死したり、鉄道往生したりして、利己主義の悪人が其の血を吸て、栄耀栄華をするとは何事です――父さんは九州炭山の大株主で重役だと云ふので、威張て居なさる、僕等は其の利益で斯く安泰に生活して居るけれど、僕等を斯く安泰ならしめてる彼の炭山坑夫の状態は何うです、――現に父さんでさへ、彼等を熊の如き有様だと言うて居なさるぢやありませんか、然かし彼等は熊ぢやありません、人間です、同胞兄弟です、僕は彼の暖炉に燃え盛る火焔を見て、無告の坑夫等の愁訴する、怨恨の舌では無いかと幾度も驚ろくのです、僕は今朝『同胞新聞』を見て実に胸を打たれたです――父さんは同胞新聞を家へ入れることを禁じなさるけれど、僕は毎朝買つて見て居るんです――九州炭山の坑夫間に愈々同盟が出来上がらんとして、会社の方で鎮圧策に狼狽してると云ふ通信が載つてたのです、――僕は端なくも篠田さんが曾て『労働者中尤も早く自覚するものは、尤も世人に軽蔑されて、尤も生活の悲惨を尽くしてる坑夫であらう』と予言された演説の一節を、思ひ浮べました、姉さん、篠田さんは曾て此事を予言なされたのです"
],
[
"疑問て、剛さん",
"姉さん、貴嬢がほんたうに僕を愛し、僕を信じて下ださるなら、何卒僕に打ち明けて安心させて下ださいませんか、僕は姉さんの独身主義と云ふのが解からないのです、其れは主義から出た結論でなく、境遇から来た迫害だと僕は思ふのです、――其れは貴嬢の持論に似合はぬ甚だ卑怯なことだと思ふのです",
"卑怯つて何です",
"其れは、少しく言葉が過ぎたかも知れませんが、然かし姉さん、旧思想の黒雲を誰か先づ踏み破る人が出なければ、世に改革の曙光を見ることが出来ないと云ふのが、姉さんの主張ではありませんか、――今ま貴嬢は啻に旧思想のみならず、現時の不正なる勢力の裡に取り囲まれて居なさるのです、何故、姉さん、貴姉は之を打ち破つて、幾百万の婦女子を奴隷の境遇から救ふべき先導をなさいませんか、神聖なる愛情を殺して、独身主義などと云ふ遁辞を作りなさるのは、僕は実に大不平です",
"剛さん",
"いや、姉さん、僕は貴嬢の理想の丈夫を知つて居ます、貴嬢の理想の丈夫は即ち僕の崇拝して居る所の丈夫です、僕は実に嬉しくて堪まらんのです、――僕が此の父の罪悪の家に在りながら、常に心に光明を持つことの出来るのは、姉さん、貴嬢の純潔なる愛の為めです、――此上に貴嬢の理想の丈夫の口から『我が弟よ』と呼んで貰ふことが出来るならば、僕は世界に於て外に求むる所はありません"
],
[
"誤解? 誤解とは何です",
"いエ、慥に貴郎は誤解して居なさいます、剛さん、貴郎は篠田さんが常に洗礼のヨハネをお説きになつたことを御聴きでせう、又た実に殆どヨハネの如く生活して居なさることも御覧でせう、家庭の歓楽と云ふ如き問題は、最早や篠田さんのお心には無いのです、勿論彼の様なる荘厳の御精神に感動せざる女性の心が、何処にありませう、けれど剛さん、若し自分一人して其の愛情を獲たいと思ふ女があるならば、其れは丁度申しては、失礼ですが、私共の父上や、貴郎の伯父上が、自分の手一つに社会の富を占領したいと思召すのと、同じ罪悪です"
],
[
"其処の篠田さんナ、彼様不用心な家見たことが無いぜ、暗いうちに牛乳を配るにナ、表の戸を開けて裡へ置くのだ、あれで能く泥棒が這入らねエものだ",
"ナニ、年中泥棒に遭つてるださうナ、これから広尾へ掛けて貧乏人の巣だから、堪まつたもんぢやねエやナ、所がお前言ひ分が面白いや、書生の大和ツて男が言ふにやネ、誰も好んで泥棒などするのでは無いだから、余つてるものが在るなら、無いものに融通するのは人間の義務で、他人が困つてるのに自分ばかり栄耀してるのが、ほんたうの泥棒だとよ",
"ふウム、一理あるナ、――所で近来素敵な別嬪が居るぢやねエか、老母付きか何かで",
"母子ぢや無いよ、老婆の方は月の初めから居るが、別嬪の方はツイ此頃だ、何でも新橋あたりの芸妓あがりだツてことだ",
"へい、筒袖先生、マンざら袖無エばかりでも無いと見えるナ",
"所が言葉の使ひツ披から察しると、其様らしくも無い、馬鹿丁寧なこと言ひ合つてるだ"
],
[
"ほんとに老女さん、何したら篠田様のやうな御親切な御心が持ませうかネ――私ネ老女さん、男なんてものは、皆な我儘で、道楽で、虚つきで、意気地なしのものと思つてたんですよ、――先生様で私、驚きましたの、一寸お見受け申すと、何だか大変に怖さうで、不愛想の様で居らつしやいますが、心底に温柔い可愛らしい所がおありなすつて、彼れが威あつて猛からずとでも云ふんでせうかねエ――籍の方の詰も落着したから、明日の何とか、さウ〳〵、クリスマスとか云ふのが済んだなら、大久保の慈愛館とやらへ行くやうにと、今朝もお話下ださいましたけれどもネ、老女さん、私、何うやら此家が自分の生まれた所の様に思はれて、何時までも老女さんと一所に居たい様な気がして、堪まりませんの",
"花ちやん、其様に柔しく言うてお呉れだと、何だかお前さんが米ちやんの様に思はれてネ",
"老女さん、私も左様ですよ、始めて此方へ上つて――疲れたらうから早くお寝ツて仰つて下だすツて、老女さんの傍へ寝せて戴いた時――私、ほんとに母の懐へ抱かれでもした様な気がしましてネ、五体が延びりして、始めてアヽ世界は広いものだと、心の底から思ひましたの、――私、老女さん、二十年前に別れた母が未だ存へて居て、丁度廻り合つたのだと思つて孝行しますから――私の様なアバずれ者でも何卒、老女さん、行衛知れずの娘が帰つて来たと思つて下ださいナ"
],
[
"アラ、老女さん、そんなこと――此の教会で亡母のこと知つてて下ださるのは、今は最早老女さん御一人でせう、家でもネ、乳母が亡母のこと言ひ出しては泣きます時にネ、きツと老女さんのこと申すのですよ、私、老女さんに抱いて戴いて、亡母と永訣の挨拶をしたのですとネ、――私、老女さん、此の洋琴に向ひますとネ、何うやら亡母が背後から手を取つて、弾いてでも呉れる様な気が致しましてネ、不図、振り向いて見たりなどすることがあるんですよ、――私ネ、老女さん、此の教会を棄てることの出来ないのは、こればかりなんです――",
"まア、貴嬢、飛んでも無いこと仰しやいます、此上貴嬢が退会でもなさろものなら、教会は全で闇ですよ、篠田さんの御退会で――"
],
[
"ハヽヽヽヽ何に奥が怖いことあるものか、あれは梅干婆と云ふのぢやから、最早嫉くの何うのと云ふ年ぢや無いわい、安心しちよるが可い、――其れよりも世の中に野暮なは、其方の伯父ぢや、昔時は壮士ぢやらうが、浪人ぢやらうが、今は兎に角芸人の片端ぢや、此頃の乱暴は何うぢや、姪を売つて権門に諂ふと世間に言はれては、新俳優の名誉に関はるから、其方を取り戻すなどと、イヤ、飛んだ活劇をし居つたわイ、第一其方の心中を察しない不粋な仕打ぢや、ナ、浜子",
"あの時は、御前、何うなることかと私、ほんとに怖う御座いましたよ、けども御前、伯父も本心から彼様こと致したのでは御座いませぬでせうと思ひますの、御前の御贔負に甘えまして一寸狂言を仕組んで見たので御座いますよ",
"ウム、其方の方が余程物が解わちよる、――アヽ、僅かの間でも旅と思へば、浜子、誰憚からず、気が晴々としをるわイハヽヽヽヽ",
"ほんたうに左様で御座いますのねエ、ホヽヽヽヽ"
],
[
"閣下、久しく拝謁を見ませんでしたが、相変らず御盛なことで恐れ入りまする",
"山木、隠居役になると、貴公等には用が無くなるからナ"
],
[
"所が閣下、何うやら亜米利加の労働者などから、内々運動費を輸送し来るらしいので御座りまして、――若し外国の勢力が斯様なことから日本へ這入つて来るやうになりませうならば、国体上容易ならぬ義かと心得まするので",
"ナニ、山木、別段不思議無いではないか、労働者が労働者の金を輸入するのと、君等実業家連が外資輸入を遣り居るのと、何の違もあるまいではないか"
],
[
"ハ、篠田長二と申すので、閣下御存で御座りまするか",
"否や、顔は見たことないが、実に怪しからん奴ぢや、我輩のことなど公私に関はらず、攻撃を――"
],
[
"ハヽヽヽヽ、時局と女とは何の関係もあるまい、戦争の門出に祝言するなど云ふことあるぢやないか、松島も久しい鰥暮ぢや、可哀さうぢやに早くして遣れ――それに一体、山木、誰ぢや、媒酌は",
"ハ、表面立つた媒酌人と申すも、未だ取り定めたと申す儀にも御座りませぬ、何れ其節何殿かに御依頼致しまする心得で――",
"フム、其りや幸ぢや、我輩一つ媒酌人にならう、軍人と実業家の縁談を我輩がする、皆な毛色が変つてて面白ろからう、山木、どうぢや",
"ハ、閣下が御媒酌下ださりまするならば、之に越したる光栄は御座りませぬが――",
"松島、君の方は何ぢや"
],
[
"閣下、其れを御信用下だされましては、遺憾千万に御座りまする、全く松島様の誤解で御座りますから――",
"松島、事実相違ないか、何うぢや"
],
[
"梅子さん、ほんとに久濶ですことねエ、私、貴嬢に御目に懸りたくてならなかつたんですよ、手紙でとも思ひましたけれどもね、其れでは何やら物足らない心地しましてネ――今日も少こし他に用事があつたんですけれども、多分、貴嬢が御来会になると思ひましたからネ、差繰つて参りましたの",
"私もネ、銀子さん、此頃切りに貴女が懐しくて堪らないで居ましたの、寧そ御邪魔に上らうかと考へましたけれどネ、外交のことが困難いさうですから、菅原様も定めて御多用で在つしやらうし、貴嬢にしても矢張り御屈托で在つしやらうと遠慮しましてネ",
"あら、梅子さん、いやですことねエ、――結婚すると御友達と疎遠になるなんて皆様仰しやるんですけれど、貴嬢まで矢張其様事を仰つしやらうとは思ひも寄りませんでしたよ",
"銀子さん、左様ぢやありませんよ"
],
[
"否、別に如何も致しませんの",
"けども、何か御心配でもおありなさらなくて",
"否――心配と云ふ程のこともありませんがネ――",
"心配と云ふ程で無くとも、何か御在りなさるでせう"
],
[
"けれど銀子さん、道時さんに何もおありなさるんぢや無でせう",
"梅子さん、私、貴嬢だから何も角もお話しますがネ――矢張有るんですよ――つまり、私の不束故に、良人に満足を与へることが、出来ないのですから、罪は無論私にありますけれど、――男も亦た余り我儘過ぎると思ひますの――梅子さん、是れは世界の男に普通のでせうか、其れとも日本の男の特性なのでせうか",
"けれど銀子さん、道時さんが不品行を遊ばすと云ふ様なことは無いでせう"
],
[
"アヽ、梅子さん、其れが真理なんでせうねエ――",
"銀子さん、ほんとに貴女こそ幸福ねエ――何故ツて?――貴女は愛を成就なされたぢやありませんか、現今の貴女は只だ小波瀾の中に居なさるばかりです、銀子さん何卒、私を可哀さうだと思つて下ださい、――私の全心が愛の焔で燃え尽きませうとも、其を知らせる便宜さへ無いぢやありませんか、此のまゝ焦がれて死にましても、アヽ気の毒なことしたとだに思つて貰ふことがならぬではありませんか――何と云ふ不幸な私の鼓膜でせう、『我は汝を愛す』と云ふ一語の耳語をさへ反響さすることなしに、墓場に行かねばなりませんよ――"
],
[
"ナニ、鍛工組合が決議した――吾妻、又た虚言吐いちや承知せぬぞ",
"騒いぢや可かん、――彼の松本が例の猜忌と嫉妬の狂言なんだらう、馬鹿メ"
],
[
"いゝえ、お嬢様、上野浅草へ行しやるのを、心配とも何とも思ひは致しませんが――帰途に大洞様の橋場の御別荘へ、お寄りなさると仰しやるぢや御座いませんか",
"左様よ",
"サ、それが、お嬢様、何となく心懸りなので御座います",
"何故――婆や"
],
[
"ネ、梅子、左様でせう、だから余ツ程考へなけりやなりませんよ、何時までも花の盛で居るわけにはならないからネ、お前さんなども、何かと言へば、最早見頃を過ぎた齢ですよ、まア、縹緻が可いから一ツや二ツ隠くしても居れようがネ――私にしてからが、只だお前さんの行末を思へばこそ、斯してウルさく勧めるんだアね、悪く取られて、たまつたもんぢやありませんよ",
"阿母さん、勿体ない、悪く取るなんてことあるものですか",
"けれど言ふことを聴いてお呉れでなきや、悪るく取つておいでとしか思はれませんよ"
],
[
"イヨウ、素敵な別嬪が立つてるぢやねエか――池の端なら、弁天様の御散歩かと拝まれる所なんだ",
"束髪で、眼鏡で、大分西洋がつたハイカラ式の弁天様だ、海老茶袴を穿いてねい所が有難い",
"見ねイ、弁天様の御側に三途川原の婆さんも御座るぜ"
],
[
"否、結婚は致しませぬ",
"然らば、何時約束なされた",
"約束も致しませぬ",
"然らば御尋ね致すが、御両親も承諾されたのか"
],
[
"左様だらう、未だ結婚もしない、公然約束もしない、父母の承諾を得たでもない、其れで良人があるとすれば、野合の外なからう",
"――貴所は愛の自由と神聖とをお認めになりませぬか",
"神聖も糞もあるかい"
],
[
"ナニ、姉さん、左様気をいら立てずと、最少し休んで在らつしやる方が可いですよ",
"けれどネ、剛さん、彼様猛悪な心が、此の胸に潜んで居るのかと思ふと、自分ながら恐ろしくて堪りませんもの、――私は剛さん、奇魔に死ぬことと覚悟して居たんです、彼様乱暴しようとは、夢にも思やしませんよ、如何した突嗟の心の変化か、考へて見ても解らないの、矢ツ張り私の心が、怨と怒に満たされて居たので、其れで彼した卑怯な挙動に出たのですねエ――今朝からネ、一人で聖書を読んだり、お祈したりして居たんですよ、私もう――怖くて怖くて神様の御前へ出られないんですもの――"
],
[
"ハア、折角の日曜も姉さんの行つしやらぬ教会で、長谷川の寝言など聞くのは馬鹿らしいから、今朝篠田様を訪問したのです、――非常に憤慨してでしたよ",
"私の挙動をでせう"
],
[
"ハ、閣下、彼が先刻も談柄に上りましたる、社会党の篠田と申す男で御座りまする",
"フム、松島の一眼を失つたのも、彼の男の為めか",
"ハ、尤も松島の負傷に就ては、少こし事情もある様に御座りまするが――"
],
[
"ハ、多分今晩演説の腹案でも致し居るものと思はれまする",
"ナニ、演説――何処で",
"ハ、神田の青年館と申すで、非戦論の演説会を"
],
[
"日本も偉いことになつて参りましたナ、此の戦争熱の最中で、非戦論の演説を行らうツてんですから",
"左様、其れを又た聴きたいてんで、此の騒なんですからナ",
"而かも貴所、十銭傍聴料を払ふんだから、驚くぢやありませんか",
"正直な所、誰でも戦争など有難いもんぢやありませんのサ、――大きな声ぢや言はれませんがネ"
],
[
"して、山は何の辺で在つしやりますか",
"粟野で御座います"
],
[
"ハイ、篠田の一族で御座います",
"篠田長左衛門様の――",
"左様です、長左衛門の伜で"
],
[
"伯母御様は御達者で在つしやりまするか、永らく御目通りも致しませぬが――",
"ハイ、御蔭様で別状も無いやうですが――私も久しく無沙汰致しましたから、一寸見舞にと思ひまして",
"成程"
],
[
"別に不思議はありませんよ、現に伯母さんも左様ぢやありませんか",
"ナニ、私ヤ、是でもチヤンと心に亭主があるのだよ",
"其れならば、伯母さん、御安心下ださい、私もチヤンと花嫁がありますよ"
],
[
"なに、伯母さん、改めてお知らせする程のことも無いのです、最早疾くの昔時のことですから",
"ほツほ、何を長二、言ふだよ、斯様老人をお前、弄るものぢや無いよ、其れよりも、まア、何様婦人だか、何故連れて来ては呉れないのだ",
"伯母さん、最早、貴女にも御紹介した筈ですよ"
],
[
"サ、伯母さん、私の花嫁と云ふのは、其の『おかみさん』のことですよ",
"其のお媽さんの名は何と言ふのだの",
"おかみさんと云ふのです"
],
[
"現に伯母さん、貴女の所へ私の両親も来る、貴女の旦那様も来ると仰しやつたでせう――怪物でも、不思議でもありませんよ",
"だがの、長二や、其れは皆な私の知つて居る人達だが、お前の嫁の其の神様には、お前、お目に掛つたことがあるかの",
"左様ですねエ――思ひに悩む時、心の寂しい時、気の狂ほしい時、熟と精神を凝らして祈念しますと、影の如く幻の如く、其の面も見え、其声も聴こゆるですよ、伯母さんのと格別違ありますまい"
],
[
"端書で言うて御遣しになつたのだから、詳しいことは解りませんがネ、明日の晩までには、お帰宅になりませうよ、大和さんが左様言うてらしたから、だから花ちやん、丁度可い所へ来てお呉れだわネ、寂しくて居た所なんだから",
"私、まア――ぢや、私、お目に掛ること出来ないんですか――",
"そんなに急ぐのかネ、花ちやん、たまのことだから、少しは遊んで行つても可いでせう、外の処ぢや無いもの"
],
[
"まア、厭な阿母",
"否エ、本当ですよ"
],
[
"――悉く虚報と云ふでもありませぬが――悉く真実と云ふ事も困難です――",
"ぢや、吾妻、彼奴が山木の嬢を誘惑して、其の特別財産を引き出す工夫してると云ふのは、ありや真実か何だ",
"――あれは少し違つてる様でした――",
"花吉を妾にして居ると云ふのは",
"あれも――少し違つて居ります"
],
[
"馬鹿ツ",
"馬鹿ぢやありません、今度も左様です、松島が負傷したに就て、軍隊や元老の方からも八釜しく言うて来て困る、是非何とかして、篠田を引ツ縛らねばならぬからと言ふんでせう――其りや成程、僕が最初篠田と山木の嬢と、不正な関係がある様に虚誕を報告して置いた結果で仕方ないですが――"
],
[
"今ネ、何処からか電話で、――何でも警視庁とか云つてでしたの――報して来たんです、阿父が阿母に話して在らしつてよ、是れで漸く松島さんへ、お詫が出来るつて、ほんとに左様だわねエ",
"ヘエ、そして芳ちやん、既う牢屋へ行らしつたのですか",
"否え、明日ですつて、",
"左様ですか――"
],
[
"左様です、何か至急の御要件ださうで御座いまして、是非御面会をと云ふことです",
"ウム此の雪中を御光来は尋常のことでは有るまい、――早速に"
],
[
"左様です、力を以て来るものには、只だ温順を以て応接する外無いでせう",
"けれど――従来、愚父などの話に依りますれば、貴所のやうな方は、監獄内で不測の災禍にお罹りなさる恐があると申すでは御座いませんか、出過ぎたことでは御座いますが、暫く日本を遠のきなさいましては――外国には随分他国に身を逃れると云ふ例もあるやうで御座いますから",
"梅子さん、御厚誼は謝する所を知りません、けれど私の一身には一人探偵が附けてあるのです、取分け既に拘引と確定しましたからは、今斯くお話致し居りまする私の一言一句をさへ、戸の外に筆記して居るものがあるも知れないです、――若し私一己の野心から申すならば、今ま空しく牢獄に囚はれて、特に只今御話の如き暴行は、随分各国の獄裡に実験せられた所ですから、私も決して喜んで行かうとは思ひませぬ、乍併、私共同志者の純白の心事が、斯かることの為に、政府にも国民にも社会一般に説明せられまするならば、眇たる此一身に取て此上なき栄誉と思ひます、実は我々の同志者と言はれて居る間にさへ、尚ほ心術を誤解して居るものが尠くないので御座いますから――"
],
[
"――心は永久に同住で御座います",
"勿論"
],
[
"ハ、夜中に長い電報が参りましたので、印刷が大層遅くなりました――先生、到頭戦争を為るのでせうか――",
"サア、左様なりませうネ"
]
] | 底本:「筑摩現代文学大系 5 徳冨蘆花・木下尚江・岩野泡鳴集」筑摩書房
1977(昭和52)年8月15日初版第1刷発行
1981(昭和56)年11月15日初版第2刷発行
初出:「毎日新聞」
1904(明治37)年1月1日~3月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「六《むづ》ヶ|敷《しい》」と「六《むつ》ヶ|敷《し》い」と「六《むつ》ヶ|敷《しい》」の混在は、底本通りです。
※「何人」に対するルビの「なんぴと」と「なんびと」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:松永正敏
2004年8月9日作成
2016年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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"予が幼時の剛情は、母に心配をかけしこと幾何ぞ。五歳の時、或雨の夜の事なりき。予、奇怪なる人形の顔を描きて、傲顔に下僕に示せしに、彼冷然として『余りお上手ではありません』と笑へり。己れ不埒の奴、然らば汝上手に書き見せよと、筆紙を取りて迫れば、下僕深く己が失礼を謝して、赦されんことを乞ふも、予更に聴るさず、剛情殆ど度に過ぎたり。今まで黙視し居たる母は、此時頻りに予を宥めたれど、予頑として之を用ゐざりしかば、終に戸外に逐出し、戦慄泣き叫ぶ予をして、夜雨に曝さしむること二時間余に及べり。母の刑罰、真底心を刺して、誠に悔悟の念を起さしめぬ。思ふに予をして永く下虐の念を断たしめたるもの、誠に慈母薫陶の賜なり",
"予生来口訥にして且つ記憶力に乏しかりき。赤尾小四郎(白河浪士)予の為に試筆の手本を書す。『日長風暖柳青々』――幾度教へらるゝも、予遂に此の読方を記憶すること能はず。地方の俗として、児童試筆をなす時は、之を親族に献じて賞銭を受く。然れ共予は是を読ましめられんことを恐れ、賞銭を顧みずして窃に之を台所へ投げ込みたり。是れ予が七歳の時なり。去れば予も自ら発憤して独り窃に富士浅間を信仰し、厳冬堅氷を砕き水浴をとりて、記憶力を強からしめたまへと祈れり。五十年後の今日、予が猶ほリウマチスの病に困しむもの、幼時厳冬の水浴に原因せるに非ざるか。"
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"さて、此地の寒気は、人も知る如く、人並みの衣服を纏へりとも、肌刺されて耳鼻そがるゝばかりなるに、冬の支度の乏しきに寒気俄に速に進み来り、故郷は山川遠く百五十里を隔てゝ運輸開けず、県庁の御用物すらに二個月に渉りて往返せる程なれば、衣類を故郷より取寄せんこと、囚人の身として迚も迚も覚束なく、また間に合ひもせぬ気候の切迫、いかゞはせんと案じわづらひける折柄、偶々囚人の中に赤痢を病みて斃れたる人ありしかば、獄丁に請ひて、死者の着せし衣類を貰ひ受けて、僅に寒気を凌ぎけり。此年、此獄中の越年者中、凍死せる者四人ありき。",
"獄中に書籍の差入もなく、只だ黙念するのみなれば、予は記憶力乏しきより難儀に至る事少なからざれば、茲に記憶の工風凝らして一種の発明せしものあり。此事長ければ略すと云へども、要は只だ専門と云ふに外ならず。他の事は忘れよ、予が記憶乏敷性来にて、二課以上を兼ぬるは過りなりと。故に予は出獄以来、何事も兼ぬる事をば避けて為さゞるなり。",
"予は又た幼年の頃よりドモリにて、談話と喧嘩の区別なく、議論も常に喧嘩と同一に聴取られて、其身を禍ひすること多ければ、せめては少しく弁舌ドモらざる迄の研究をせばやと思ひしに、偶々中村敬宇が訳書西国立志編の文章、舌頭に上り易きを幸とし、一語邁返、舌頭錬磨、研究殆ど年余、他日獄を出でて人に接し、始めて其功の著しきを知れり。"
],
[
"独り聖人となるは難からず。社会を天国へ導くの教や難し。是れ聖人の躓く所にして、つまづかざるは稀なり。男子、混沌の社会に処し、今を救ひ未来を救ふことの難き、到底一世に成功を期すべからず。只だ労は自ら是に安んじ、功は後世に譲るべし。之を真の謙遜と言ふ也",
"人として交はるは聖人に如くは無し。然れども神にあらざれば聖に至らず。聖は神に出づ。故に古来聖にして、天を信じ神を信ぜざるは無し。憐むべし、凡庸の徒、神を知らず。知らざれば信ずるに由なし",
"神の姿、目あるものは見るべし。神の声、耳あるものは聞くべし。神の教、感覚あるものは受くべし。此の三者は信ずるに依りて知らる",
"目なき者に見せんとて木像を造る。木像以来、神ますます見えず。音楽以来また天籟に耳を傾くるなし",
"聖人は常の人なり、過不及なき人なり。かの孔子が常あるものを見ば可なりと言はれしは、狭義の常にして予が言ふ所の常は広大の常なり。意は一にして大小の差あり。今世の人の常識を言ふは、多くは是れ神を離れたる常識、天を畏れざる常識、信仰なき常識のみ。是れ真理に遠き常識なり。真理を離れたる常識は即ち悪魔の働となる。常の一字難いかな",
"眼鏡のゴミの掃除をのみ専業とする者あり。眼鏡は何の用か。物を見るに在り。物を見ることをなさずして、只管眼鏡をコスリて終生の業とす。夫れ神を見るは眼鏡の力に非ず。仏智は心眼と言ふ。心を以て見るに、尚ほ私心を免れず。口に公明と言ひ誠大と言ふも、力よく聖に到らざれば心眼明かなりと言ふこと能はず。聖も尚ほ之を病めり、聖なればこそ之を病めり。常人は病ともせざるなり。私を去り慾を去り、正路に穏かに神に問ふべし、我が信によりて問ふ所、神必ず答ふ",
"人若し飽くまで神を見んと欲せば、忽にして見るべし。誠に神を見んと欲せば、先づ汝を見よ。天を仰ぐも未だ見るべからず。精を尽し力を尽して先づ汝の身中を見よ。身中一点の曇なく、言行明かにして、心真に見んことを欲す。然る後に見るべし。神は木像にあらず。徒らに神の見えざるを言ふ、其愚憐むべし",
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]
] | 底本:「近代日本思想大系 10 木下尚江集」筑摩書房
1975(昭和50)年7月20日初版第1刷発行
初出:「中央公論」
1933(昭和8)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:小林繁雄
2006年7月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "043027",
"作品名": "臨終の田中正造",
"作品名読み": "りんじゅうのたなかしょうぞう",
"ソート用読み": "りんしゆうのたなかしようそう",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論」1933(昭和8)年9月",
"分類番号": "NDC 312 368 289 561",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-08-30T00:00:00",
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"姓": "木下",
"名": "尚江",
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"姓読みソート用": "きのした",
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"姓ローマ字": "Kinoshita",
"名ローマ字": "Naoe",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1869-10-12",
"没年月日": "1937-11-05",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "近代日本思想大系 10 木下尚江集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1975(昭和50)年7月20日",
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} |
[
[
"やつとこ、さいやの、どつこいさあ。",
"やれこら、さよな――。"
],
[
"え、どつこい、どつこい",
"そおらああ……"
]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
初出:「三田文学」
1911(明治44)年6~7月号
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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"作品ID": "004663",
"作品名": "海郷風物記",
"作品名読み": "かいきょうふうぶつき",
"ソート用読み": "かいきようふうふつき",
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"初出": "「三田文学」1911(明治44)年6~7月号",
"分類番号": "NDC 914 915",
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"名読みソート用": "もくたろう",
"姓ローマ字": "Kinoshita",
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"生年月日": "1885-08-01",
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} |
[
[
"まあまあ高麗屋が一でせうな。",
"左團次もようがつせ。",
"どつちとも云へまへんな。"
]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「地下一尺集」叢文閣
1921(大正10)年刊行
初出:「三田文学」
1910(明治43年)5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「チヤン」と「チャン」の混在は底本の通りにしました。
※誤植を疑った箇所については、「現代紀行文學全集 第四巻 西日本篇」修道社、1958(昭和33)年4月15日発行を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月9日作成
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"作品ID": "004702",
"作品名": "京阪聞見録",
"作品名読み": "けいはんぶんけんろく",
"ソート用読み": "けいはんふんけんろく",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "「三田文学」1910(明治43年)5月号",
"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-09-22T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "木下",
"名": "杢太郎",
"姓読み": "きのした",
"名読み": "もくたろう",
"姓読みソート用": "きのした",
"名読みソート用": "もくたろう",
"姓ローマ字": "Kinoshita",
"名ローマ字": "Mokutaro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-01",
"没年月日": "1945-10-15",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本紀行文学全集 西日本編",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日",
"入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日初版",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日初版",
"底本の親本名1": "地下一尺集",
"底本の親本出版社名1": "叢文閣",
"底本の親本初版発行年1": "1921(大正10)年",
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"入力者": "林幸雄",
"校正者": "小林繁雄、門田裕志",
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} |
[
[
"二つですか?",
"一つ!",
"お釣りぢやあ無いんですか?",
"二銭!"
]
] | 底本:「日本の名随筆 別巻95 明治」作品社
1999(平成11)年1月25日第1刷発行
底本の親本:「木下杢太郎全集 第七巻」岩波書店
1981(昭和56)年6月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2007年8月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "046889",
"作品名": "市街を散歩する人の心持",
"作品名読み": "しがいをさんぽするひとのこころもち",
"ソート用読み": "しかいをさんほするひとのこころもち",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-09-12T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000120/card46889.html",
"人物ID": "000120",
"姓": "木下",
"名": "杢太郎",
"姓読み": "きのした",
"名読み": "もくたろう",
"姓読みソート用": "きのした",
"名読みソート用": "もくたろう",
"姓ローマ字": "Kinoshita",
"名ローマ字": "Mokutaro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-01",
"没年月日": "1945-10-15",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の名随筆 別巻95 明治",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年1月25日第1刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年1月25日第1刷",
"底本の親本名1": "木下杢太郎全集 第七巻",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1981(昭和56)年6月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "浦山敦子",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000120/files/46889_ruby_27513.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-08-11T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000120/files/46889_27867.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-08-11T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"ねえ、お作、本當だねえ。今日午前鮭が一匹この川を上つて來たねえ。",
"本當ですともお孃さん。今年は二度目だつてますよ。"
],
[
"だつてせつかく態々來るのだから……そんなに内へ遠慮なんか、お前、しなくつても可いのよ。おつ母さんがお休みになつて居たつて、姉さんが御飯ぐらゐ世話してあげるから。",
"だつて姉さん、僕よりずつと年の上の人なんだよ。もう二十より上の人なんだから……それに僕アそんなに善く知らないんだから……",
"兎に角お前もう起きて顏をお洗ひ。そしておやつをお食りよ。"
],
[
"土屋……土屋富之助といふ、東京の中學へ行つてゐる學生の家ですが……何でも停車場からさう遠くはないと聞いてゐましたが。",
"そうですか。それなら土屋守拙さんといふ學者のお宅でせう。それならこの道を眞直ぐに行くと石垣のある家の角に郵便函がありますが、その四辻の角を左に向くと小さい橋があります。その岸を川下にお下んなさい。直ぐです。黒い塀が𢌞つて、大きい銀杏樹のある家です。",
"さうですか、有りがたう御座います。"
],
[
"お前のとこに來た東京のお客さんは酒を飮むかえ。",
"へい、大抵晩に飮みます。",
"澤山飮むのかえ。",
"毎晩五合づつ買ひに行つたが、面倒くさいから昨夕から一升買ひました。",
"ひとりで飮むかえ。",
"始めには獨りで飮んだが、時々は家の兄さんと一緒に飮むことがあります。それに別莊から客が來ることがあります。"
],
[
"夜は早くねるかえ。",
"時々夜中まで歸つて來ないことがあります。",
"○○(遊廓のある町名)の方へ行くかえ。"
],
[
"何してゐるえ、一日。",
"何して居ますか。",
"一日家にゐるかえ。",
"大概家にゐます。",
"何か話をするかえ。",
"何にも言はないで默つてゐます。"
],
[
"なぜ下まで落ちないうちに死ぬだらう。",
"なぜだか知らないけれども、飛行機から落ちても、下まで屆かないうちに死ぬさうだ。",
"華嚴やなんかの瀧でもさうだらうか。",
"瀧ぢやどうだか分らない。途中岩へぶつかつたりするから。",
"下まで落ちないうちに死ぬのなら苦しくはあるまい。",
"そりや苦しくは無からうと思ふ。"
],
[
"おお、びつくりした。何うしたともつた。",
"下へ飛び込んだら、何うだらう。",
"止し給へ、冗談はしたまふな、魔が差すことがあるよ。僕は喫驚して、も少しで欄干から手を放すとこだつた。",
"一萬圓賭けたら、下へ飛び込む人があるだらうか。",
"一萬圓だつて有りやしない。",
"有るかも知れないよ。",
"いくら一萬圓だつて、死んぢや貰ふことは出來ないぢやないかね。",
"然し一萬圓貰はなくても、飛び込む人があるからね。",
"そりや別だ、厭世家だから。",
"然しどんな氣持だらう。",
"分りやしない。",
"僕には分るやうな氣がする。久しく下を見てゐると、飛び込みたい氣になるよ。",
"君は氣違だから。",
"僕はもとから屡人に氣違だと言はれたことがあるよ。",
"そんな人は危險人物だ。",
"その代りに何かで決心が付きや、僕はきつとこの處へ飛び込むね。それが國家の爲になるとか、人を救ふとかいふことになれば。",
"君には犠牲的精神があるといふのだらう。",
"別にそんな事を高慢にするのぢやない。",
"然し考へると本當になるつて言ふよ。",
"美だと思ふ、僕は。こんな處から下へ落ちて死んだら、肺病や何かで死ぬよりも好いぜ。",
"馬鹿だなあ、暑いや、早く行かう。",
"見給へ、水の底がまつ青に見えるよ。水の精でも棲んでゐるやうだね。君ロオレライつて歌を知つてゐる?",
"僕はそんな文學的の事は知らない。",
"然し綺麗な女の人魚でも居るつてことは想像されるね。",
"あ、セエリングが來た。きつとまた西洋人だね。",
"ここの下ばかりへ船が來るのかい。",
"ああ。",
"向ふは。",
"島から向ふにや行かないよ。波があるからだらう。",
"あつちへ行つて見ようか。",
"止さう、咽喉が乾いた。家へ早く行つてラムネを飮まう。"
],
[
"昨夜? 一人で。",
"ああ。",
"何しに行つたの?",
"膽力を試す爲めに。",
"本當かい。",
"本當だ。",
"そんな事をすると叔母さんが心配するよ。",
"僕は今夜も行く積りだ。",
"今夜は月が無いぜ。",
"暗い方が一層爲めになる。"
],
[
"家い來て居る富さんて云ふ友達だ。",
"そりや大變だ。――着物はあるのかね。",
"着物と下駄はあの船の下にある。"
],
[
"山長のとこのお客さんが海で見えなくなつたつて。",
"今濱ぢや船を出した。",
"地引網の衆を頼みに行つた。",
"潜水の女しを搜しに行つたが、生憎一人も家に居なかつた。"
],
[
"どうですえ、此處ぢや、あんまり人立がしますから、あすこの裏を借れちや。",
"さうさ。お前さん一つ頼んでおくんな。"
],
[
"もつと構はねえから人工呼吸をやりなせい。海軍ぢや一時間位やる。",
"おお、さうだ。佐治衞門さんのとこの伜が可い。海軍だから好く知つてゐるだらう。",
"早く體あ倒にして、松葉の煙で燻すが可い。",
"さつきから松葉々々つて言つて居るがどうしたらう。",
"そんなこたあ爲なくても可い。水はもうみんな吐いた。"
],
[
"海軍は來ないか、海軍は。",
"來たよ、來たよ。"
]
] | 底本:「現代日本文學全集 17 小山内薫 木下杢太郎 吉井勇集」筑摩書房
1968(昭和43)年4月5日初版発行
入力:伊藤時也
校正:小林繁雄
2001年1月19日公開
2005年12月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001392",
"作品名": "少年の死",
"作品名読み": "しょうねんのし",
"ソート用読み": "しようねんのし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-01-19T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000120/card1392.html",
"人物ID": "000120",
"姓": "木下",
"名": "杢太郎",
"姓読み": "きのした",
"名読み": "もくたろう",
"姓読みソート用": "きのした",
"名読みソート用": "もくたろう",
"姓ローマ字": "Kinoshita",
"名ローマ字": "Mokutaro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1885-08-01",
"没年月日": "1945-10-15",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本文學全集 17 小山内薫 木下杢太郎 吉井勇集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1968(昭和43)年4月5日",
"入力に使用した版1": "",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "伊藤時也",
"校正者": "小林繁雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000120/files/1392_ruby_20688.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2005-12-05T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "4",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000120/files/1392_20689.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-05T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"何でえ?",
"O君の居所が知りたいんですが……"
],
[
"何人位行くのだい?",
"あれの配下だけでざっと二十名"
],
[
"僕も先刻一種類見たがね",
"どんなだった?",
"へへへへという底気味の悪い奴だったよ",
"ほほう、じゃねじ込みが又例の如しでうまく成功した訳だな。それは満足した時のだが、でもまあその中の下の方だね。してみると、娘さんと二人きりでは会えなかったとみえるな……"
],
[
"ズボンが濡れているから俺あよっぽどよそうかと思ったがね、崔本が放さねえんだよ",
"俺あ李山にせがまれてかわりに行くけど、ほんとは今日のマラソンに出たかったよ。あいつマラソンの賞品をとってみやげに持って来ると云ってたが、まだ来ねえんだよ",
"賞品は何だえ?",
"五等まで純綿のタオルだそうだよ。俺はタオルがねえんでね"
],
[
"厳ちゃん、頑張れ! 頑張れ!",
"馬川さん、頑張れよう!",
"玉村! 玉村! 頑張れ!",
"X市の孫、だらしねえぞ!"
]
] | 底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
2005(平成17)年8月10日第2刷発行
底本の親本:「金史良全集 ※[#ローマ数字2、1-13-22]」河出書房新社
1973(昭和48)年1月30日初版発行
初出:「新潮 通卷四百四十四號(一月號)」新潮社
1942(昭和17)年1月1日発行
※()内の任展慧氏による割り注は省略しました。
入力:坂本真一
校正:富田晶子
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052313",
"作品名": "親方コブセ",
"作品名読み": "おやかたコブセ",
"ソート用読み": "おやかたこふせ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新潮 通卷四百四十四號(一月號)」新潮社、1942(昭和17)年1942(昭和17)年1月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-03-03T00:00:00",
"最終更新日": "2020-02-25T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000252/card52313.html",
"人物ID": "000252",
"姓": "金",
"名": "史良",
"姓読み": "きむ",
"名読み": "さりゃん",
"姓読みソート用": "きむ",
"名読みソート用": "さりやん",
"姓ローマ字": "Kim",
"名ローマ字": "Sa-ryang",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1914-03-03",
"没年月日": "1950",
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"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年4月10日",
"入力に使用した版1": "2005(平成17)年8月10日第2刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成)年4月10日第1刷",
"底本の親本名1": "金史良全集 Ⅱ",
"底本の親本出版社名1": "河出書房新社",
"底本の親本初版発行年1": "1973(昭和48)年1月30日",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"いや、玄竜だ、玄竜だよ",
"そうだ、あれに違いない",
"小説家の玄竜だよ"
],
[
"あらまあ、玄さん、珍しいですこと",
"へへえ、これは又至極面白いところで……"
],
[
"黙れ!",
"黙れ!"
],
[
"これを聞くと田中君の妹が妬きましょうぜ、へへへ",
"あら、そうでしたの、東京の恋人ってその方のお妹さん? おほほこれは面白いわね"
],
[
"旦那、恵んで頂戴",
"恵んで頂戴"
],
[
"怪しからん、怪しからん、僕は恨んだぞ、大いに恨んだよ。黙って来るってそんな法があるかよ",
"済まん、済まん"
],
[
"R君はどうしている?",
"D君の奥さんは?"
],
[
"早く謹慎の状をみせるんだ! 警察の手に君を渡すに忍びない気持があるからこそ、立派な和尚さんの所へ行って頭を直して来いと云うのじゃ。要するに君のような人間たちの魂を引き上げるためなんじゃ。煩悩を断つんだぞ、煩悩を",
"はあ、だから僕も……"
],
[
"さあ、もうそろそろ引上げましょうかな。大抵どんなものか見当がついたでしょうな",
"ああ大村さん、もうお帰りになるんですか"
],
[
"もっとつき合ってくれな、もっと",
"ほう、これはいい花だね"
],
[
"鮮人!",
"鮮人!"
],
[
"鮮人じゃねえ!",
"鮮人じゃねえ!"
]
] | 底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 1[#「1」はローマ数字、1-13-21]」河出書房新社
1973(昭和48)年2月
初出:「文芸春秋」
1940(昭和15)年6月号
入力:kompass
校正:土屋隆
2010年1月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002929",
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"作品名読み": "てんま",
"ソート用読み": "てんま",
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"副題読み": "",
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"初出": "「文芸春秋」1940(昭和15)年6月号",
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"公開日": "2010-03-02T00:00:00",
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"底本名1": "光の中に 金史良作品集",
"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年4月10日",
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} |
[
[
"孟山からでがす。丁元三ちゅうもんでがす……",
"ここさいねえで酒幕(木賃宿)へ行くがええだ",
"わ、わっしあ、う、おあしをもたねえんでがす",
"何だって来ただや?",
"わっしあ、う、これから働くんでごぜえます"
],
[
"爺やにどんげな嫁さんを貰ってやるだかな",
"くくく、くくく",
"サッチョンコルの酒婦はどうだかな",
"くくく、もうわっしあ若えでねえでもええだよ。昔あわっしにも若えのがいてな、餓鬼も二人さいただが、う、疫病にみな斃っちもうただよ。ふんとう、ふんとうだとも"
],
[
"全く人間ちゅうて偉えもんだで。わしゃ一体何して生きてるだか自分にも分らねえ……だがわしあこんなに立派に生きとるだからな",
"心さ静めるだよ、だら気も楽になるだに"
],
[
"ほう",
"そうだとも、う、餓鬼も三人一緒だで、可愛い奴でわっしの後嗣だったにな。みんな斃るちゅうなんて、全くひでえ因果だよ。う、どだい、云うて何になるだ――"
],
[
"…………",
"全く大水でな",
"…………"
],
[
"う……わっしだよ……う……元三だよ",
"何うしただね"
],
[
"何だや",
"う……つまり……どうも……こう訊くのあ悪えが、う……姐さん、ふんとうに……う……城内に行くだかね?"
],
[
"知ってるだかね",
"何だや"
],
[
"そったらことお前さんに出来るだか",
"世話するちゅう男がいてな"
],
[
"う、う……",
"元三爺、しっかりするだよう、元三爺!",
"う、逃げ……逃げろ……"
]
] | 底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
2005(平成17)年8月10日第2刷発行
底本の親本:「金史良全集 ※[#ローマ数字1、1-13-21]」河出書房新社
1973(昭和48)年2月28日初版発行
初出:「文芸首都」
1940(昭和15)年2月号
※表題は底本では、「土城廊《トソンラン》」となっています。
※()内の任展慧氏による割り注は省略しました。
※底本の任展慧氏による注は省略しました。
入力:坂本真一
校正:富田晶子
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052358",
"作品名": "土城廊",
"作品名読み": "トソンラン",
"ソート用読み": "とそんらん",
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"副題読み": "",
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"初出": "「文芸首都」1940(昭和15)年2月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2020-03-03T00:00:00",
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"姓読み": "きむ",
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"姓ローマ字": "Kim",
"名ローマ字": "Sa-ryang",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1914-03-03",
"没年月日": "1950",
"人物著作権フラグ": "なし",
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"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年4月10日",
"入力に使用した版1": "2005(平成17)年8月10日第2刷",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年4月10日第1刷",
"底本の親本名1": "金史良全集 Ⅰ",
"底本の親本出版社名1": "河出書房新社",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
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} |
[
[
"南先生! 南先生!",
"あたいも抱っこして",
"あたいも",
"あたいも"
],
[
"今度は君も行こうね",
"…………",
"どうしたんだね、君もお母さんを連れて来たらいいよ。父ちゃんでも構わない、どなたか父兄の方が来て承諾すればいいことになっているからね",
"…………",
"連れて来る気かい"
],
[
"じゃ行かないの?",
"…………",
"費用は先生が出してやる"
],
[
"そうしようね",
"…………",
"そんなら君のうちに先生が一緒に行って話してやろうか"
],
[
"うん、先生は駄目だ、今度は留守番をすることになったんだ",
"じゃ僕も行かないや"
],
[
"朝鮮人も入れてくれるかい?",
"そりゃ誰だって入れてくれるさ、試験さえうかれば……",
"嘘云ってらい。僕の学校の先生はちゃんと云ったんだぞ、この朝鮮人しょうがねえ、小学校へ入れてくれたのも有難いと思えって",
"ほう、そんなことを云う先生もいるのかい。それで生徒は泣いたのかい",
"うん泣くもんか、泣きやしねえよ",
"そうか、何という子供だい。一度先生の所へ連れて来てごらん"
],
[
"おかしなことを云うね",
"誰にも云わないんだよ、云わないんだよ"
],
[
"莫迦だな、泣いたりして",
"違うんだよ。病院へ行きやしないよ。行きやしないよう"
],
[
"おかしな父ちゃんだね。母ちゃんが気の毒じゃないか",
"…………",
"それなら父ちゃんの所へは帰るつもりだね。父ちゃんだってきっとうちで心配しているよ"
],
[
"君は朝鮮のどこだい?",
"北朝鮮だ"
],
[
"朝鮮に行って貰ったのかい",
"おかしくって、面倒臭せえや。じかに洲崎の朝鮮料理屋に親方とかけ合いに行ってさ、この女をおらあの手に渡せ、でねえとこっちが承知しねえぞ、障子に火を附けてやらあとおどかしたんだ。すると野郎たち蒼くなってくれやがった訳さ"
],
[
"先生",
"え",
"妾、お願いすることがあります",
"お話して下さい",
"お願い……します。どうか妾の春雄の……相手をしないで……下さいませ"
],
[
"春雄は内地人テす……春雄はそう思っています……あの子は妾の子ではありません……それを……先生が邪魔するのは……妾悪いと思います……",
"私は半兵衛さんも南朝鮮で生れたというふうに聞いているのですが……",
"え……そうです……母が私のように朝鮮人でした。……だが今は……朝鮮といえば言葉だけでも……あの人はオコリます……",
"だけど春雄君は朝鮮人の私に非常になついて来ました。実は昨夜あの子は私の部屋で泊って行ったのです",
"…………"
],
[
"先生云うのかい",
"何をだい"
],
[
"そうか",
"うん、僕、踊るのが好きだよ。だけど明るいところでは駄目だよ。舞踊は電気を消して暗い所でやるもんさ。先生は嫌いかい?"
]
] | 底本:「光の中に 金史良作品集」講談社文芸文庫、講談社
1999(平成11)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「金史良全集 ※[#ローマ数字1、1-13-21]」河出書房新社
1973(昭和48)年2月28日
初出:「文芸首都」
1939(昭和14)年10月号
※底本の注によれば、9文字欠落した「×××××××××血を流しては、」は、初出では「半兵衛に打たれて血を流しては、」となっています。
入力:大野晋
校正:大野裕
2001年1月1日公開
2012年12月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001398",
"作品名": "光の中に",
"作品名読み": "ひかりのなかに",
"ソート用読み": "ひかりのなかに",
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"初出": "「文芸首都」1939(昭和14)年10月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-01-01T00:00:00",
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"名": "史良",
"姓読み": "きむ",
"名読み": "さりゃん",
"姓読みソート用": "きむ",
"名読みソート用": "さりやん",
"姓ローマ字": "Kim",
"名ローマ字": "Sa-ryang",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1914-03-03",
"没年月日": "1950",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "光の中に 金史良作品集",
"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年4月10日",
"入力に使用した版1": "",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "金史良全集 Ⅰ",
"底本の親本出版社名1": "河出書房新社",
"底本の親本初版発行年1": "1973(昭和48)年2月28日",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
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} |
[
[
"先生よ、吾々は最後まで生き残ったものの、もはや生命を全うしようなどという、希望は、毫も有りません、淋しい苦しい世界を脱して、一時も早く他の楽しい所へ行きたいと思うのです",
"よく言われた、君らは充分に安心してよいのだ、学問上宇宙のすべての物は、如何なる微塵子といえども、一秒も進化という目的を忘却せぬ、つまり吾々の世界が、今滅亡しようとするのも、その実滅亡ではなくて、進化の一現象に過ぎぬのだ、しかし物体の不滅則は、何人も否定し得ない以上は、吾々の肉体は決して滅亡すべきものではない、またエネルギーが不滅なものであるからには、吾々の活動的精神も滅びない事は解っているだろう",
"して見れば先生よ、吾々は一時地球とともにその形態を変化する迄で、決してこれきり亡びるのではない事を知りました、この上は吾々は大なる慰安の下に、彼ら同胞の跡を追うことが出来るのです、ああ先生の教訓は、吾々をして、大善智識の化導と同様なる、愉快を与えられた事を謝します"
]
] | 底本:「懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説」中央公論新社
2001(平成13)年6月10日第1刷発行
初出:「冒険世界」博文館
1907(明治40)年5月
入力:川山隆
校正:伊藤時也
2006年10月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046458",
"作品名": "太陽系統の滅亡",
"作品名読み": "たいようけいとうのめつぼう",
"ソート用読み": "たいようけいとうのめつほう",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「冒険世界」1907(明治40)5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-11-30T00:00:00",
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"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001243/card46458.html",
"人物ID": "001243",
"姓": "木村",
"名": "小舟",
"姓読み": "きむら",
"名読み": "しょうしゅう",
"姓読みソート用": "きむら",
"名読みソート用": "しようしゆう",
"姓ローマ字": "Kimura",
"名ローマ字": "Shoshu",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1881-09-12",
"没年月日": "1955-04-20",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説",
"底本出版社名1": "中央公論新社",
"底本初版発行年1": "2001(平成13)年6月10日",
"入力に使用した版1": "2001(平成13)年6月10日初版",
"校正に使用した版1": "2001(平成13)年6月10日初版",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "川山隆",
"校正者": "伊藤時也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001243/files/46458_ruby_24425.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2006-10-18T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001243/files/46458_24613.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-10-18T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"先生、私も矢張り巳なんです。一廻り下のヘビです。",
"いやァ、これはいかん。"
]
] | 底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
1949(昭和24)年2月20日発行
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
2012年5月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047644",
"作品名": "小杉放庵",
"作品名読み": "こすぎほうあん",
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"副題": "",
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"分類番号": "NDC 723",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-01-27T00:00:00",
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"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001312/card47644.html",
"人物ID": "001312",
"姓": "木村",
"名": "荘八",
"姓読み": "きむら",
"名読み": "しょうはち",
"姓読みソート用": "きむら",
"名読みソート用": "しようはち",
"姓ローマ字": "Kimura",
"名ローマ字": "Shohachi",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1893-08-21",
"没年月日": "1958-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "東京の風俗",
"底本出版社名1": "冨山房百科文庫、冨山房",
"底本初版発行年1": "1978(昭和53)年3月29日",
"入力に使用した版1": "1989(平成元)年8月12日第2刷",
"校正に使用した版1": "1989(平成元)年8月12日第2刷",
"底本の親本名1": "東京の風俗",
"底本の親本出版社名1": "毎日新聞社",
"底本の親本初版発行年1": "1949(昭和24)年2月20日",
"底本名2": "",
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[
"洲崎遊廓は洲崎弁天町の全域を有し、別に一廓を成し、新吉原に擬したるものにして海に臨むを以てその風景は却つて勝れりとす……洲崎橋を渡りて廓内に入れば直接の大路ありて海岸に達す。左右両畔に桜樹を植ゑ、新吉原の一時仮植せるものに異り、春花爛漫の節には香雲深く鎖して一刻千金の夢を護す。この花折るべからずの標札は平凡なれども此処に在りては面白く覚え、海岸の防波堤は石垣とコンクリートを以て築きたるものにして明治三十一年五月成、監督東京府技手恩田岳造と固くしるしあり。天然の風浪はこれを以て容易に防ぎ得るべし、色海滔々の情波は遂に防ぐべからず。",
"青楼綺閣縦横に連り、遊客の登るに任す。その中最も大なるは八幡楼(大八幡といふ)にて構前に庭あり。蟠松に松竹等を配して風趣を添へたるが如き新吉原に見ざる所なり。その他新八幡楼、甲子楼、本金楼等は廓中屈指のものなり。夜着の袖より安房上総を望み得る奇景に至つては、実に東京市中に在りては本遊廓の特色なり。"
]
] | 底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
1949(昭和24)年2月20日発行
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
2012年5月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "047709",
"作品名": "洲崎の印象",
"作品名読み": "すざきのいんしょう",
"ソート用読み": "すさきのいんしよう",
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[
[
"……両国の広小路に沿うて石を敷いた小路には小間物屋、袋物屋、煎餅屋など種々なる小売店の賑はふ有様、正しく屋根のない勧工場の廊下と見られる。横山町辺のとある路地の中には矢張り立派に石を敷詰めた両側ともに長門筒袋物また筆なぞ製してゐる問屋ばかりが続いてゐるので、路地一帯が倉庫のやうに思はれる処があつた。",
"……路地はいかに精密なる東京市の地図にも、決して明らかには描き出されてゐない。どこから這入つて何処へ抜けられるか、あるひは何処へも抜けられず行止りになつてゐるものか否か、それはけだしその路地に住んで始めて判然するので、一度や二度通り抜けた位では容易に判明すべきものではない。",
"……路地は即ち飽くまで平民の間にのみ存在し了解されてゐるのである。犬や猫が垣の破れや塀の隙間を見出して自然とその種属ばかりに限られた通路を作ると同じやうに、表通りに門戸を張ることの出来ぬ平民は大道と大道との間に自ら彼等の棲息に適当した路地を作つたのだ。路地は公然市政によつて経営されたものではない。都市の面目、体裁、品格とは全然関係なき別天地である。されば貴人の馬車、富豪の自動車の地響に午睡の夢を驚かさるゝ恐れなく、夏の夕は格子戸の外に裸体で涼む自由があり、冬の夜は置炬燵に隣家の三味線を聞く面白さがある。新聞買はずとも世間の噂は金棒引きの女房によつて仔細に伝へられ、喘息持の隠居がセキは頼まざるに夜通し泥棒の用心となる。かくの如く路地は一種いひがたき生活の悲哀の中に自らまた深刻なる滑稽の情趣を伴はせた小説的世界である。而して凡てこの世界の飽くまで下世話なる感情と生活とは、またこの世界を構成する格子戸、溝板、物干台、木戸口、忍返しなぞいふ道具立と一致してゐる。この点よりして路地はまた渾然たる芸術的調和の世界といはねばならぬ。"
]
] | 底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
1949(昭和24)年2月20日発行
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
2012年5月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "047736",
"作品名": "両国界隈",
"作品名読み": "りょうごくかいわい",
"ソート用読み": "りようこくかいわい",
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"姓ローマ字": "Kimura",
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"生年月日": "1893-08-21",
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"底本出版社名1": "冨山房百科文庫、冨山房",
"底本初版発行年1": "1978(昭和53)年3月29日",
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"校正に使用した版1": "1989(平成元)年8月12日第2刷",
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"底本の親本出版社名1": "毎日新聞社",
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[
[
"両国回向院角力。角力は両国晴天十日晴れて逢ふとはうらやまし",
"柳橋。柳橋から小舟ぢやおそいそれより手ばやに人力車",
"百本杭。百本杭まで手に手をつくしこれも恋ゆゑ苦労する",
"両国の花火。日よふを待つてあげたる両国花火猫は鯰がそう仕舞"
]
] | 底本:「東京の風俗」冨山房百科文庫、冨山房
1978(昭和53)年3月29日第1刷発行
1989(平成元)年8月12日第2刷発行
底本の親本:「東京の風俗」毎日新聞社
1949(昭和24)年2月20日発行
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "047738",
"作品名": "私のこと",
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"姓": "木村",
"名": "荘八",
"姓読み": "きむら",
"名読み": "しょうはち",
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"名読みソート用": "しようはち",
"姓ローマ字": "Kimura",
"名ローマ字": "Shohachi",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1893-08-21",
"没年月日": "1958-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "東京の風俗",
"底本出版社名1": "冨山房百科文庫、冨山房",
"底本初版発行年1": "1978(昭和53)年3月29日",
"入力に使用した版1": "1989(平成元)年8月12日第2刷",
"校正に使用した版1": "1989(平成元)年8月12日第2刷",
"底本の親本名1": "東京の風俗",
"底本の親本出版社名1": "毎日新聞社",
"底本の親本初版発行年1": "1949(昭和24)年2月20日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "伊藤時也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001312/files/47738_ruby_34107.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2009-01-06T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"周玉明少佐殿でありますか",
"そうだ、周玉明だ"
],
[
"その荷物の内容を税関に見せはすまいな",
"はッ、公用の判がありましたし……",
"よしよし、時に手紙の内容は大体聞いて来ただろうか……"
],
[
"宿はあてがあるのか",
"は、母が小西門外に居りますから",
"小西門外に"
],
[
"この裏の黄泥巷さ、随分変っちまったが……",
"ああ、この貧民窟ですか。命令ですっかり取払いになりましてね。大分騒ぎましたけど官署のやることをどうにもなりはしませんや。気の毒なもんでしたよ。その日から寝る所もないのですからな",
"それで、あれだけの人間が何処へ行ったんだろう",
"さア、不断だって、何処へどう行っちゃうか分らない人達ですからね、軍夫にとられたり、鉱山へ送られたり……",
"だがまさか女子供までそんなことはしないだろう"
],
[
"何処へどう散ってしまいましたかな……騒ぎにつけ込んで、大分白螞蟻なんかが入込んで来ましたからね。やっぱり魔窟や、奴隷に売られたり、工場だの鉱山へ売られて行ったんでしょう。なにしろ、こう諸式が高くなったところへ、巣を追い立てられちゃア、ここらに住んでいた連中に親も子も云っちゃ居られませんからね",
"しかし、誰か一人や二人、この近所に居ないものかな。俺は直ぐ前線へ帰らなけりゃならないんだが、その前に是非会い度い人があるんだ"
],
[
"はア、今夜は公用で鳥渡帰って来て、休暇を貰ったところです",
"どうです前線の様子は?",
"あなた方には想像も出来ませんよ"
],
[
"おいおい、往来で何を云ってるんだ。丁度いい、今夜は前線の勇士を歓迎して大いに飲もうじゃないか。兵隊さん、いや失敬! 伍長殿飲もうじァないですか",
"自分は飲めません",
"飲めなきゃア大いに語ろう。ね、いいでしょう、江南の戦況はどうでした? 今は何処です、国境ですか?"
],
[
"彼等を今責めるのは可哀想だよ。飛行機工場だって解体して、二百万弗もの機械や設備を、南京、漢口と日本の爆撃に曝されながら持ち運び、漢口から一千哩もある仏印国境まで移転したのだ。しかもそこも又危くなって、ビルマに近い荒野の中へ再建したばかりだからな",
"え? ビルマ国境?",
"君だって驚くだろう、それほど大変な仕事だ。場所は秘密だが、そこはボーリイヴィルと名をつけてね。三千五百人の支那人が住む近代都市になっている。しかも彼等の修理部隊として各地に散っている二千五百人の職工と、家族を、三百哩から千二百哩も離れた所から、この新工場へ全部呼び寄せにかかっているんだ"
],
[
"出来るも出来ないもあるもんか。やるんだ、やらなきゃアならないのだ",
"吾々学生だってそうだぞ"
],
[
"伍長! 貴様分ったのか、分ったのか貴様、前線から帰って来たと思って、俺達を威圧しようなんと思ったら承知しないぞ",
"おい郭、何を云うんだ",
"お前達ァ黙っとれ、伍長ッ貴様アさっき避難民が入り込んで雲南府が穢れたようなことを云ったが、映画館や茶館が出来る位が何だッ",
"郭やめろ、無礼だぞ"
],
[
"俺は雲南へ来て中国の領土の中に、こんな未開の地があるのを知って実に情ないんだ。奴隷娘の学校があるとは何だ……俺はあすこで、奴隷あがりの妾に、後から奴隷に来て妾にされた娘が、嫉妬から灼熱した鉄棒で頭を焼かれ、脳が死んで身体だけが生きている娘を見た。食うものもろくに食わせられずに、叱言の代りに眼を指で刳りとられた娘も見た。こんな雲南の奴隷娘や、悲惨な少年坑夫の話を、ここで生れた君は知らない筈はないだろう。人間の子供は豚より安いんだ。一弗か二弗で買った奴は、食うものもろくにやらずに使い倒して、片輪になると捨ててしまう。その無恥な売買の市場があの貧民窟だ",
"なにッ",
"俺を殴って気が済むなら俺をなぐれ……だが伍長、怨むなら、あんな無恥な野蛮な習慣をいいことにして、人間を搾って金を儲ける人非人を怨め……取払ったのは当然だ。俺は中国の名誉の為に雲南人の自覚を要求するんだ。伍長ッ、お前からだぞ、貴様の弟だってどうされているか分るかッ、これを憤慨しない奴ァ人間じゃアない、叫ぶならお前が第一に改革を叫ばなければならない人間だぞッ"
],
[
"おい、もう陰気な話はやめろ、これから吾々は孫伍長の家族を探そうじゃないか。先ず伍長がさッき逃げて来たという裏街の探検から始めるのだ",
"よし賛成だ",
"俺も行く",
"伍長、しっかりしろ、逃げて来たなんて意気地がないぞ"
],
[
"学生さん達は何処にいるね",
"今朝早く帰りました",
"え?"
],
[
"孫伍長は元気であります。お蔭様で、もう心残りはないのであります",
"そうか、それはよかった。これは返事だ。同様機密だから、そのつもりで沈団長に手渡しするのだぞ",
"はいッ",
"団長に吉報だと云ってお渡ししてくれ……それから話は別だが、お前にも進級の話があるかも知れん。まア一生懸命にやれ",
"はッ",
"では列車に遅れないように早く行け"
],
[
"おい、守備兵は何処にいる?",
"あの丘のような石小屋です"
],
[
"見せろ! 一人だけ来い",
"遙々来たのに水臭いことを云う奴だな"
],
[
"中尉殿は命令に従わないのでありますか",
"命令? 小僧ッ、伍長が将校に命令するのか",
"守備隊長殿の命令であります。一応命令書を御覧下さい"
],
[
"軍曹殿御用中ですか",
"なアに悪戯書きだ。国境で壕に埋められたことがあってから、俺の分隊で遺書や日記を書くのが流行ってね、やり始めて見たんだが、俺はどうも字が下手でね"
],
[
"何か用か",
"鉱山事務所から応援を求めて来ましたが……",
"な、何が起ったのだ"
],
[
"いえ、少年坑夫が逃亡を企てたのです",
"…………",
"誰かやらないと、吾々も責任を問われますが――"
],
[
"おい、子供でも撃つのか",
"はあ、一発でとまらなければ、射殺していいのであります。それでも脱走者が絶えないのであります",
"可哀想なことをしやがる"
],
[
"軍曹殿、誰れか応援に出して置きませんと――",
"いいようにしてくれ。だが、子供なんか射殺しても、俺はちっとも喜びはしないぞ",
"はッ、要領よくやります"
],
[
"徐上等兵、殺されたのはどんな少年だ",
"新規募集をして補充した者です。この頃は子供も少くなって、大分大きいのが来ますし、大きいのはどうしても坑外で使うようになりますので、よく逃げるのであります",
"じゃア坑内にはまだ小さいのが居るのか",
"はア、坑道は非常に狭いものですから、大人は働きにくいのです",
"俺を案内してくれ。一度見て置こう",
"自分も前の守備隊長のおともで一度見たきりですが、坑内を御覧になるのですか"
],
[
"ここは駄目です。とても入れますまい",
"しかし子供達は入っているんだろう"
],
[
"でも、この竪坑は狭くて深いのです。底までは七百尺もありますしそれに華氏の百二十度という暑さですからな……とても……",
"そんな所でよく生きてるもんだね"
],
[
"地獄の絵がどうかしたのですか",
"さしずめ、俺達ァ、あの、赤鬼、青鬼だと云うんだよ"
],
[
"坑内のことに就いては、沈大佐殿にも既に御諒解を得ているので……どうか一つ、あなたもよろしく願いますよ。こういう仕事ですからね。外部へ知れていいことばかりはないので……これはそのほんの手土産代りですが",
"何ですかこれは?",
"そう改まって仰有るほどの金じゃアありませんが、街へ出た時にでもお役に立てて下さい"
],
[
"私共は大佐殿の命令に背いたことはしていないのですからね……それとも何か不都合な所でもありましたかな",
"惨めなものですな子供達は……第一、あの身体の青さはどうです、まるで草の葉のような色じゃないですか"
],
[
"戦争に錫が必要だ位のことは仰有らなくても分っています",
"いいえ、あなた、単にそれだけじゃありませんよ"
],
[
"それだけじゃあない、実は中央政府は、これを機会に、何とか箇旧の錫鉱山に難癖をつけて、全部政府の直営にしようと企んでいるのです。ようがすか、そんな事になったら、われわれの龍雲省長閣下はどうなります。閣下の腹心の幕僚は何とかその分前に食込むとしてですね、年々二千五百万ドルからの錫をこの蕃地から出す七百の鉱山主はどうなります……猛運動をして漸くここの守備隊長になられた沈大佐も、莫大な徴発金がとれなくなれば、部下のあなたも、甘い汁は吸えなくなるということになるんですよ",
"沈大佐が猛運動をしてここへ来た",
"そうですとも。ここは月給の百倍も収入のある土地ですからね。沈大佐も、軍務司長あたりに莫大な贈物をしたという噂ですよ……まあ何にしても、あんた方と吾々は同じ利害関係を持っているんですからな……一つ仲良く行きましょう……",
"…………"
],
[
"蒋閣下のように二百万の兵を殺し国を焦土にして国民を路頭に迷わしても、外国へ亡命すれば向うの銀行に十億近くも預金のある人はいいですがね……われわれ、今稼いで置かないと何処へ追払われるか分ったもんじゃない。だから、どんな事をしても今のうちに沢山錫を採らなきゃア……何処へ行って暮すにも金だ。沈大佐だってそれを考えたんですよ……お互も一つうまくやろうじゃないですか",
"そりゃあ本当なんですか。世の中ってものはそんなものですか"
],
[
"どうしたんだ",
"落盤です。子供が三、四人埋まってしまったのです",
"なに埋った? 何処だ、なにを愚図々々しているんだ、早く掘って出してやれ"
],
[
"馬鹿野郎、こんな所で死にやアがって……何だって俺が坑へ入った時出て来やがらねえんだ",
"軍曹さん、万里を知っているんですか",
"俺の生れたところの奴だ。俺の家から一町とは離れて居ない……おい、この鉱山に、この万里より二つ三つ下の、春生という子供はいないか……おい、誰か知っている者はないか、春生という子供を……"
],
[
"鉱山はたまらないぞ、あの子供の奴隷を見ているのは……",
"軍曹殿、そんな弱気では駄目ですね。あの邸宅をご覧なさい。みんなあの子供達の働きで贅沢をしているんですぜ……雲南ドルで年収二、三百万ドル、中には百人も武装した護衛を連れて歩く奴がいるんですからな",
"ふーん、君は箇旧には古いのかね",
"もう四年になりますがね、前の守備隊長の時には、徴発金を納めない鉱山主の所へ、よく懲罰に押しかけたもんでさ",
"そうかね、俺も子供を撃つ位なら、その方へ廻るね",
"はッはッは、黄中尉の様にやりますかね"
],
[
"何とか云え……貴様は役にも立たん小孩の死骸を掘出すのに、鉱山中の坑夫の仕事を数時間も邪魔したそうだが",
"大佐殿、小孩は生きながら埋められたのでありまして――",
"莫迦! 埋ってしまったものが生きているか、死んでいるか誰に分る。以後坑内のことに干渉は許さん。いいか、覚えて置け。抗戦には金が要るんだ。国家は今、如何なる犠牲を払っても、多量の錫を美国へ送らなければならないのだ",
"しかし、大佐殿"
],
[
"少年達の待遇は……その……極度に酷いのでありまして、美国人にでも知れましたら、黙って居らんだろうと思うのであります",
"貴様、何処でそんなしゃれた文句を聞き噛って来たんだ。それだから世界第一の大馬鹿者だというんだ。美国だって箇旧の錫がどうして採鉱されているか位知らんで金を貸すか。その金の為に戦争が続いて何百万の兵隊が死のうが、箇旧で中国の子供が全滅してしまおうが、美国が今更何を云うか。人道主義は向うの売物なのだぞ。その売物の人道主義を何で美国が買うんだッ。奴等の買いたいのは錫なんだ。いいか欲しいのは錫なんだぞ。馬鹿者奴! 分ったか"
],
[
"孫、考えなくちゃいかんぞ",
"はあ?",
"抗戦の前途ももう先が見えて来たんだ。将軍連はみんな保身の道に……つまり、この戦争がどんな風に結末がついてもいいようにだ、自分の地盤と金を作ることに一生懸命だ……吾々だけが前線で頑張って見たところでどうにもなるもんじゃない……自分が前線からここへ来たのも分るだろう……いいか、だから、つまらん事に力みかえらんで鉱区の成績をあげさせろ。俺に一々口を出させんでも、お前は、ここでは恐れられているんだからな……あの鉱山が成績があがれば、それを標準に全鉱区からうんと徴発金を収めさせることも出来るんだ",
"…………"
],
[
"春生! お、俺が分らないのか",
"え?"
],
[
"永才だ、春生ッ",
"ああッ"
],
[
"春生、男のくせに何時までも泣く奴があるかッ。お母さんはどうした",
"兄さんだって……兄さんだって、泣いてるじゃアないか……お母さんは、どっかへ行った。二人で一緒に居たら、二人とも何も食べられなかったんだ……家はなくなるし、寝るところもないのでお母さんは病気になるし……"
],
[
"…………",
"あたいは劉さんていう痘痕のおやじが、鉱山へ働きに行けば、お母さんにもお金をやれるし、子供でも戦争の役に立つんだと云ったから路三や、万里なんかと一緒に来たんだ",
"お母さんとはそれっきりなのか、それとも何処に居るか知っているのか"
],
[
"兄さん、それっきりなの。あたい達は屋根のない火車に乗って、山の天辺や、谷底や、猿の沢山いる所を通って、随分遠くまでやって来たんだ……騙されたんだ……騙されたんだ……兄さん、口惜しい、みんなも口惜しがっているんだ",
"うむ、鉱山のことは俺も知っている",
"兄さんに分るもんか。あたいの鉱山では、あたい達はもう来た時の半分も居ないんだ……あたいは爆発で眼が見えなくなって……銅貨十枚で、国へ帰れって……でも、病気や、怪我で死んだり、酷いのは逃げ損ったものをみんなの前に連れて来て、鉄砲で頭を……"
],
[
"どうした? 何を怖がっているんだ",
"兄さんも……兵隊さんだね。兄さんも……"
],
[
"春生! お前の居た鉱山はどの鉱山だ",
"洪開元将軍の鉱山なの、あすこは一番酷いんだって――",
"洪司令官の鉱山だ?"
],
[
"こんな場所で将軍の鉱山の噂はいけませんぞ",
"何故",
"何故と云われると鳥渡困るが、洪将軍は退職なすっても、この辺では守備隊長も遠慮する御人じゃ……君子危きに近寄らずでな"
],
[
"何処へ行くの?",
"とに角、どっかでお前の着物を買わなくちゃア……春生、お前、足が悪いのか",
"何でもないんだ……膝のところが少しはれているけれど、もう鉱山へ入りゃアしないから直き癒るよ"
],
[
"兄さん、あたい、着物なんかいらないや",
"何故? そんな恰好をしてると、またさっきの様な目に遭うぞ",
"でも、あたい一人になったら、どうせ、又誰かに奪られてしまうもの",
"なに、着物まで剥がれたのか?",
"うん、あばたの劉ってやつに金を貰ったとき、お母さんが買ってくれたのを大事に持っていたんだけど……鉱山を下りて箇旧へ来る途中で……",
"だ、誰れに剥がれたんだ?",
"誰だか分りゃアしないよ……あたいは眼が見えないし……身体が弱り切っていて……"
],
[
"随分立派な着物だね……あたい……こんな柔かい着物初めてだ",
"うん、よく似合うよ。鐘楼横の范家の令郎のようだぞ"
],
[
"お母さんが見たら喜ぶね",
"うん",
"あの奪られた着物をきせてくれた時だって、泣いて喜んでいたんだものね",
"……むむ……"
],
[
"兄さん、兄さんは、もう隊へ帰らなければいけないんだろう",
"春生、心配しなくてもいい、俺はもう隊へは帰らないんだ",
"え?"
],
[
"兄さんはどうして隊へ帰らないの?",
"俺は兵隊が厭になったのさ"
],
[
"ほ、ほんとうはね、兄さん……ほんとうは鉱山を追い出される時、あたいは云われたんだ(どうも此奴はもう長くはないから)って……あたいなんかどうなったって……兄さんッ……兄さんは偉くなってお母さんを……",
"春生ッ"
],
[
"一体お前さんは、誰なんだ",
"この丘の向うで、錫をとっている者だよ",
"なに、鉱山主だと"
],
[
"いや、いや、錫をとると云ってもな……わしのは、その子と同じように鉱山で怪我をした盲目の子供と二人でやっているのだ……",
"…………",
"わしの鉱山には坑道もなにもないが、それでも竈くらいの熔鉱炉もある……それで結構二人や三人が食べるのに不自由はない……月に何度か、ほら"
],
[
"あの飯店へ行って、こうして子供に土産を買ってくるのが楽しみなのだ……若い人、短気はいけませんよ……暮しようは色々ある……幸などというものは、その人々の考えようにあるのだ",
"盲目の子供があんたの所にも……",
"うむ"
],
[
"え? 預ってくれる?",
"ああ、砒素の毒なら消す薬草があるし、頭さえ確かなら、まだまだ将来のある子供だからね。あんたが無茶なことをしないと約束するなら引受けよう。そして休暇に会いに来るがいい。時期を待てばまた道も開けるだろう"
],
[
"老人、では何分頼みます。孫永才はこの恩を忘れません",
"そうか、やっぱり孫軍曹だったね"
],
[
"じゃあ春生、兄さんは直きに会いに来るからな、おとなしくして、よくいうことをきくんだぞ",
"兄さんッ、行っちゃア厭だ",
"春生ッ、折角老人が世話をして下さるというのに、何を云うんだ。さっき自分で言った言葉をもう忘れたのか",
"まあいい、子供だもの無理はないさ",
"有難う御座います。お蔭様で安心して行けます",
"では約束を忘れずにね。短気はいかんよ",
"ええ大丈夫です"
],
[
"意気地なしッ、そんな了見でこれから先他人に負けずに一人前になれるか。落盤に押しつぶされた万里のことを考えて見ろ。何万とこの鉱山で殺された子供達のことを考えて見ろ。同じ箇旧に俺もいるんだ……お前なんか、不幸と云える身じゃアないぞ",
"はい",
"よしよし、分った、分ったな"
],
[
"箇旧はどうかな、やっぱり爆撃は免れられないだろうな",
"まあ、夜はこの通りですから大丈夫でしょうが……雲南府はまるで死の街だというし、蒙自も大分やられてますからな",
"いい具合に雲が出たが、これが晴れたら危いもんだな",
"うむ"
],
[
"鉱山はいくらやられても大したことはないでしょうが",
"しかし、そうはいかんぞ。それに坑夫は今までのように手に入らんし、一時に大勢殺されて、相当損害だからね。第一混乱中に逃亡されては敵わんからな。技師長、どうです御意見は?",
"さア"
],
[
"昼間は森の中へでも押込んで寝かしてやって夜働かせるんですね。わしは輸送上の打合せに、香港まで行って来なければなりませんがね……わしが居なくても、錫は出して貰わなければなりません",
"しかし"
],
[
"律氏もそれはよく承知しているんです……ただこの少爺は書斎の理想家ですからな……時に、どうです皆さん、爆撃でもされては、もう悠りする晩はないでしょうから、今夜は一つ雲鶴楼へでも行って、蜜蜂のバタ揚げに、焼鴨の胆でもやりながら、牌を闘わしては……",
"よかろう"
],
[
"なにしろ二千五百万ドルと云えば全世界の十二分の一の錫ですからね。箇旧も世界的の存在ですよ",
"いや、いや、ここは誰れに来て貰わなくていい所なんだ。やはりホテルなど要らんね"
],
[
"襲撃だ",
"その塀の陰だ"
],
[
"わしは、そういうことをするなら、春生を預るのではなかった。あんたは大物をやって来たと云ったが、一体箇旧にどんな大物がいるのだね。第一、英国の技師長は微傷もしていない。又あの白人を殺したにしてもだ、失礼だがあんな者達を何人殺したって箇旧はどうにもなりはせん",
"しかし、黙ってやらして置いたのでは、少年達の浮ぶ日はありませんよ"
],
[
"そりゃア闘うのはいい。だが、お前さんのやりかたがくだらなくはないか……結局は奴等と心中するようなことになるんだ",
"くだりませんかね"
],
[
"春生、老人はどうした?",
"さっき豚を持って来た飯店の小僧が、洪将軍の私兵と守備隊とが衝突して大変だというもんだから、私達に一歩も出るなと云い置いて",
"そうか、それであの騒ぎなんだな"
],
[
"春生、驚くんじゃないぞ。兄さんは、洪将軍や、鉱山主を、昨夜機関銃でやっつけて来たのだ",
"ええッ"
],
[
"それに、それに今夜は白人を滅多斬りにして来た。もう、ここにはいられないのだ……だが、何時か、きっと迎いに来るからな……それまで身体を丈夫にして",
"兄さん、あたいはいやだ。死んでもいいから一緒に連れて行って",
"春生! お前はまだそんな無理を云って俺を困らすのか"
],
[
"おさとしもきかずに勝手なことをしながら、お留守を狙って来たのではありません。別れを云いにたった一目弟の顔が見たくて……",
"兄さんッ"
],
[
"わしは世の中を捨ててこうしていても、考えることだけは色々考えた。そして考えているということで自ら満足していたんだが……この年になって今更のように、たとえ考えても何もしないことは、考えないも同じだということを知ったのだ。これはどうやらお前さんの勝らしい",
"え",
"まア、あの丘へ来て御覧……お前さんの使った機関銃を発見した洪の部下は、沈大佐が将軍を暗殺させたと思い込んで守備隊長を襲撃した。守備隊と洪将軍の私兵は、そこら中で撃ち合っているし、鉱山は鉱山で大変な騒ぎだ",
"鉱山がどうかしましたか",
"うむ、爆撃されるという噂で動揺している所へ、またこの騒ぎで坑夫達は勝手に避難し始めたのだ。何万という人数だ、もう誰にもどうも出来はしない",
"そりゃア、本当ですか",
"あの物音が聞えないかね"
],
[
"兄さん、本当だね、馬も一緒だね",
"春生、分るのか、そんなことまで分るのか",
"分るねえ、陳さん、赤い火がゆれているのまで分るさ。声も足音もちゃんと聞えるし……"
],
[
"兄さん、あたいにはまだ色々なことが分るんだよ。もう陳さんや、老先生に色々なことを教わったし、学校へあがって勉強すれば、眼明きに出来ないような仕事も出来ると思うんだ",
"むむッ",
"老先生……そうですね"
],
[
"洪将軍の兵と沈大佐の兵とではどうだな",
"守備隊には洪将軍の息のかかった連中が多いですからね。いざとなるとどうなるか。この兵変は長引くかも知れませんね",
"孫軍曹、決行するなら今夜だね",
"え?",
"箇旧を脱出するなら今夜をおいて外はない。わしの、あの小さな熔鉱炉で出来た錫と通鑑を貸そう。二人を連れて行ったらどうだ",
"でも、それでは老人が……",
"いや、わしのことなら心配はいらない"
],
[
"老人もお達者で……",
"有難う"
]
] | 底本:「消えた受賞作 直木賞編」メディアファクトリー
2004(平成16)年7月6日初版第1刷発行
底本の親本:「大衆文学大系30 短篇集・下」講談社
1973(昭和48)年10月20日第1刷
初出:「新青年」
1941(昭和16)年4月号
※「西蔵」に対するルビの「チベット」と「チブッチ」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「雲南守備兵――うんなんしゅびへい――」となっています。
※「官署《コアリシュウ》」、「長掛子《チャンクリツー》」は中国語の発音を考慮すると「官署《コワンシュウ》」、「長掛子《チャンクワツー》」の誤植が疑われますがママ注記にとどめました。
※「水中に野菜の車を曳《ひ》かせ行く」は「水牛に野菜の車を曳《ひ》かせ行く」の誤植が疑われますがママ注記にとどめました。
入力:結城宏
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"お待たせした。どうも今は結構なものをありがとう",
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"それは御厚意をどうもありがとう"
]
] | 底本:「九鬼周造随筆集」菅野昭正編、岩波文庫、岩波書店
1991(平成3)年9月17日第1刷発行
1992(平成4)年9月20日第3刷発行
底本の親本:「九鬼周造全集 第五巻」岩波書店
1991(平成3)年2月第2刷
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:鈴木厚司
校正:松永正敏
2003年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"どっか、近いところで、雪がうんとつもっているところ、知らない?",
"神鍋",
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]
] | 底本:「幾度目かの最期」講談社文芸文庫、講談社
2005(平成17)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
1978(昭和53)年12月31日初版発行
「VIKING47・VILLON4 共同刊行号」
1952(昭和27)年3月
初出:「VIKING47・VILLON4 共同刊行号」
1952(昭和27)年3月
※「落つ」と「落ちつ」、「コーヒー」と「コーヒ」の混在は、底本通りです。
入力:kompass
校正:The Creative CAT
2019年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"スキーしにゆくんじゃないの、雪見にゆくの、人の居ないところ"
]
] | 底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
1978(昭和53)年12月31日初版発行
1981(昭和56)年6月30日六刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"雪子は御飯まだなんだろ。九時になるというのに",
"何ですかねえ。夕方から出ちまって、家の事ったら何一つしようとしないで……",
"あなたがさせないからいけないのです",
"申し訳ございません"
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[
"ふん、ジャズもわからないのか。全く、家にいるのは、ゆううつさ。面白くもねえ、姉様だってアプレの癖に……",
"こんな老嬢もやはりアプレのうちなのね",
"来年から年一つ若くなるんだよ。だけど、麻雀やカードは話せるなあ"
],
[
"何の?",
"ジャズバンドさ。スティールギター",
"いつ覚えたの",
"いつだっていいさ、大したもんなんだぜ",
"いいわ、おやんなさい。でも夏のこともあるんだからよく考えてからよ"
],
[
"母様にはときふせてあげましょう。父様は、金城鉄壁だけれど、何とかなるでしょう",
"ダンケ。頼むよ"
],
[
"おはようございます。いかが、御気分は",
"やあ"
],
[
"きれいな菊、中庭のかい",
"ええそう、香りはあまりないけれど"
],
[
"兄様、父様に輸血をしたの",
"父様随分おわるいの?",
"そんなでもないのよ、いつもの如くなの。雪子の五百円也の血……、ふふ"
],
[
"五百円って?",
"売ったのよ、血を……",
"え、お前、父様に? そして五百円受けとったの?",
"いけない? 雪子、それみな使ったわ、今度ん時は兄様、モツァルトのレコード買ったげるわね",
"親子じゃないか、しようのないひとだ"
],
[
"ねえ、信二郎さんがジャズバンドのアルバイトやりたいって、雪子に昨夜云ったんだけど、兄様、どうお思いになる?",
"信二郎が、あれ勉強してるのかい、夜稼ぐのじゃ大変じゃないか、おそく迄なんだろう",
"でも土曜日曜らしいことよ。それも、きまってあるのじゃなくて……",
"僕のように体をこわしちゃつまらないからな、で何をやるの",
"スティールギター。借りるんだって? で一二回やれば自分のを買う事が出来るっていうの",
"まあ、場所が場所だから、僕は反対だけれど……。二年間も世間と没交渉なんだからな、口はばったいことは云えないね。僕の気持も世間からみれば馬鹿な時代おくれなものだろうが……",
"兄様、そんなことはない。どんな世の中になっても兄様はモツァルトの音楽を愛する方でなきゃ……"
],
[
"唯今、おばさま",
"おかえんなさい。そうそう郵便が来てましたよ、二三通だったかしら"
],
[
"松川さんのところのおばあ様ね、まあ、御葬式の費用に仏様の金歯をはずしなさったそうな、いくらなんでもねえ、ひどい世の中になりましたよ",
"どうしていけないんだい?"
],
[
"いいじゃないか、おん坊に盗まれるよりかしこいさ、姉様どう思う?",
"私もいいと思う。とがめることはないわ、信二郎さんみたいに、唯物論者じゃないから死者の霊をまつりたい気持はあるわ、でも、金歯を抜くことが死者の霊に対して無礼だとは思わないわよ。それで御葬式してあげられたらいいじゃないの"
],
[
"勉強なさいよ。何してるの、時間が無駄よ",
"考えてるんだ、無駄じゃない",
"何を御思索ですか、紫の煙の中に何がみえるのでしょう"
],
[
"何も姉様に対しておこらない。だけど、僕は僕勝手に生きるんだ。バンドのことはよすもよさないも駄目になっちゃったんだ",
"今日の、どこかの奥様なんでしょう。どんなお交際なの",
"どんなでもいい、どんなでもいい。姉様あっちへ行って。僕を一人にしておいて下さい"
],
[
"クラブ二つ",
"ハート二つ",
"クラブ三つ",
"ハート三つ"
],
[
"雪子、これ土蔵から出しておいてくれ。それから東さんを呼んで来てね。だいたい値をかいておいたけれど、よくもう一度相談してみてくれ。銀は東さんでない方がいいだろう。貴金属屋の方が……",
"では今日中に"
],
[
"仕方ないわね。編物の内職でなんとか春彦と二人食べて来てるけれど、だんだん注文もなくなって来たし、株だってさがる一方だし、売る物もないわ。ひすいやダイヤもすっからかん。今はめている指輪、これは十銭で夜店で買ったのよ。魔除けの指輪、もう三十年になるわ",
"おばさまはお偉いわ、どん底でも案外平気でいらっしゃる",
"なるようにしかならないものね",
"私はならせたい。やりたいのよ",
"八卦でもみてもらったらいい考えが浮ぶかもしれないわね",
"いい考えだわ、そう、雪子みてもらお。母様もみてもらおうじゃありませんか",
"いや、私はいやですよ、神様におまかせしているのです"
],
[
"いらっしゃい、お嬢さん",
"おひさしぶり、この頃いかが?",
"さっぱり売れまへんな"
],
[
"ここへすわっていると、いつまでたってもあきないわね",
"へっへ、まあどうぞおかけ、お茶をいれますから"
],
[
"あのね、父が少し残っているものを買っていただきたいって申しますの、来ていただけません? 大したものでもないんですけれど",
"ああさようですか、お宅のものならなんでも買わせてもらいまっせ。今日の午後からでもうかがいましょう",
"有難う"
],
[
"銀を買ってほしいのですけど",
"買いますよ",
"今、幾らしますの",
"さあ物によって、品は何ですか",
"盃など",
"十八円から二十一、二円のところでしょうな。一匁が",
"そんなにやすいの",
"今さがってますからね、でも毎日ちがいますから、とにかく御損はさせませんよ。品物をみた上で、主人とも相談せにゃなりませんから",
"そうね、とにかく品物を明日持って来ますから、確かな物にちがいないけど",
"お嬢さん、他でもきいてみて下さい。他の云った値が家より高けりゃ、その価にしますし……。主人に内緒ですけど、造幣局へ持って行ってでしたら一番高く売れますよ、我々も結局造幣局へ持って行くんですから、その代り、一週間はかかるでしょうし、大阪へ行く電車賃やなんやかやいれたらわずかのちがいですけどね"
],
[
"みてほしいんですけど、一体幾ら?",
"百円"
],
[
"あんたは……",
"はい",
"結婚してますか"
],
[
"今月中にね、動という字が出てますからね。何かあんた自身、或いはお家に変動があります。それは、幸とも不幸とも云われません。とにかく、その後のあんたの担ってゆくものはますます大きい。あんたは担うことばっかりかんがえて、自分の力がどれ程かに注意しておらない。だから荷物に押しつぶされてしまう恐れがあるのだ。とにかく今月中に起る一つの事件によってですね、あんたは、今迄の方針が自ずと変られると思います",
"どんな変動かわかりませんの",
"それは予言出来ますまい。とにかく、注意をしとりなさい。結婚はまあ、今のところいそがなくていいでしょう。あんたのような人はひとりでいた方がいいようなものです。金銭には不自由せん。一生は短い。十年も生きればいい方でしょう。これは又変るかも知れないです。人間必ずしも長寿が幸福だとは云えん。だが、惜しむらくは、あんたが女だということ。男なら英雄になっとる。銅像がたつ。女であるが故に、そういう宿命的なものがかえってわざわいの種ともなります。とにかく、動がありますから、それに注意して下さい"
],
[
"東さんのところへ行くと、ほしいものだらけ。父様、朝鮮箪笥もあったわよ",
"そうかい。焼いてしまったけど、あのうちにあったのもいい色だったね。さみしいことだよ",
"まあまあ旦那さん。元気出しなされ"
],
[
"おばさま、毎月毎月買う分、計算したらずいぶんのマイナスでしょう",
"そうなのよ。でもやめられないわ"
],
[
"お義姉様。春彦の本代が随分いりますのよ。科学の材料費なんかも。ノートや鉛筆やそんなものも馬鹿になりませんわね",
"本当ね。でも勉強のものだけは十分にしてあげたいわね。雪子にも、たんす一本、買ってやれなくて……"
],
[
"母様、お金はふって来ませんよ。すわってて待ってたって駄目よ。何かやらなければ……、売喰いはもう底がみえているし",
"商売でもやるの、出来ませんよ。商売人でない我々がやったら結局損をしてしまうんですよ",
"だって、じゃあ一体、これからどうするつもりなの、何もやらないとしたら、いつまで続くとお思いになるの",
"税金のこともあるんだし、まあ、神様におまかせしてあるんですから。昔、あまりぜいたくした罰だと思わなきゃ。もう少し、辛抱していたら又、神様がお援け下さいます"
],
[
"兄様、しっかりね。信二郎だってもう大きいし、兄様に何でもおたすけしますわよ。とにかく今はお体のことだけをかんがえてね。わずかな株や何かで、何とか致しますから、心配なさらないでね",
"雪子に済まないよ。どうにも仕様がない。雪子に何でもたのむから、母様と力を併せてやってくれ。兄様もなるべく我儘云わないから"
]
] | 底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
1978(昭和53)年12月31日初版発行
1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"この頃、男爵夫人おみえになる?",
"えゝ、毎週一回は必ず",
"今度は何日",
"明後日",
"お渡し願います"
],
[
"帰りましたわ、でもすぐに又行ってしまいます",
"何故、何故行ってしまうのだ",
"私、こわいのです"
]
] | 底本:「幾度目かの最期」講談社文芸文庫、講談社
2005(平成17)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「新編 久坂葉子作品集」構想社
1980(昭和55)年4月
入力:kompass
校正:The Creative CAT
2020年11月27日作成
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"奥様、私離縁……",
"えっ、離縁……"
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] | 底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
1978(昭和53)年12月31日初版発行
1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
2005年10月19日修正
青空文庫作成ファイル:
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[
"ああ、探したのですよ、教員室にないかと……",
"失礼しました。ちょっとしらべ度いことがありましたので"
],
[
"唯、寺や仏像が好きだけ。あなた、仏教信者? 教員室で噂きいた。……",
"何もかもわからなくなってしまって……わからないままにかえって強くなったみたい。わたし、数珠を捨てたの……",
"自信を持つことね。自信をもつことよね"
],
[
"ボビ。御電話よ",
"もう寐たと云って……"
]
] | 底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
1978(昭和53)年12月31日初版発行
1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
2011年10月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"お疲れでしたでしょう。さあどうぞ。奥の御部屋でしばらく御休みくださって",
"あ、どうも",
"蓬莱さん、相変らずカレワラは森閑としてますね",
"そうなのよ。商売に馴れない者は駄目ですわね。でも私よろしいの、此処は御稽古にもって来いの場所なんですもの"
],
[
"何だ、やっぱりあなただったの(実は気付いていたのだ)",
"さっき、わからなかった。髪の型がちがうとまるで違うのですね。相変らずいそがしいですか"
],
[
"ポルタメントつけすぎね。ここのママさんは趣味でうたをならってらっしゃんの",
"まあ趣味かな。でも関西じゃちょっと有名ですよ",
"谷山さんも落ちたみたいね"
],
[
"だけどいい声だ",
"だれ、ああママさん? 声のいいのは天稟ね。モーツァルトかジプシーソングか"
],
[
"御趣味拝聴って時間つくればいかが? スポンサーはアルバイト周旋屋",
"女史は何が出来るんですか",
"わたくし? パントマイム"
],
[
"ここの喫茶店、よく来られるのですか",
"たびたび。でもママさんとは話をしたことがないのよ",
"御紹介しましょうか",
"(興味ある? ありそうね)どうぞ"
],
[
"まあ、いらっしゃい。おまちしてましたのよ",
"先日は失礼、いそがしくって……",
"そうですってね。六ちゃんが云ってました。一人で何でもやってらっしゃるんですってね",
"(六ちゃん。よほど親しい人とみえる)ぼんやりだから、仕事駄目なのよ。……いいお店。おたのしみね",
"あらいやだ。ちっとももうかりませんのよ。あなた東京の方ね。私、谷山さんの弟子ですのよ。あ、先達は、見えてたでしょう。ああして、月に一回レッスンに来て頂いてますの。関西の御弟子さんはみんなここへいらっしゃるのですよ。御店だか稽古場だかわかりませんわ"
],
[
"あなた、音楽なさいませんの",
"好きだけど、無芸なのよ",
"あなた、失礼だけど、お幾つ",
"年などはずかしくって申せませんわ(実際のところ、私はいくつになるのかしら)",
"あら、ごめんなさい。お若くみえますわ、で、おひとり",
"ええ",
"御家族は",
"東京",
"まあ、じゃたったおひとりなんですの",
"さあ"
],
[
"東京はよろしいですわね。で女子大でも",
"いいえ、とんでもない",
"あら、……。私、戦前はよく東京へまいりましたのよ。日比谷、なつかしいですわ。あのさ、御菓子召しあがって、私、とてもあなたが好きになりましたわ。御ぐしの恰好、チャーミングですわね"
],
[
"お菓子おきらい? ビールお飲みにならない",
"のみましょう"
],
[
"あら、ない方が楽ですわ。でも何故ないって御気付きになったの",
"わかりますわ、お若いですもの"
],
[
"ねえ、女史はよしてね",
"どうして突然そんなこと云いだした?",
"あなたは、仲々仮面を取りはずさないみたいよ。だから、私まで女史を意識しなきゃいけないみたいで嫌。(早く生の彼を発見したいものだわ)",
"じゃあ何て呼ぼう",
"阿難",
"アナン、それ愛称?",
"ううん。誰も阿難とは呼ばないわ。私、ひとりで阿難って自分に名前つけてるの(実は今ふと思いついた名前なのだ。阿難陀は男だったかしら)",
"どうして",
"何となく"
],
[
"ねえ、どうして此処へはいったのでしょう",
"わからない",
"あなたらしくないこたえね",
"もののはずみなんだ",
"ますますあなたらしくないわ。(先手をうたれたようだ)もののはずみって度々生じるんでしょう。しかも特定の対象に限らないのだ",
"じゃあ君はどうなんだ",
"阿難と云ってよ。私はもののはずみじゃない(本当はもののはずみかしら)",
"計画していたこと?",
"いやね。まるで、私が誘惑したみたい。唯ね、何かの働きがあって、斯うなったのよ",
"おかしな哲学だ。ロジックがないよ",
"もののはずみこそ、およそ非論理的よ"
],
[
"カレワラのマダムとはあるのでしょう",
"何故",
"だってお互に好きなのでしょう"
],
[
"今日は私がおそばをさそうわ",
"ゆきましょう"
],
[
"女史は独身ですか",
"(みんな同じことに興味があるのね)私、などに誰も申込んでくれませんわ",
"結婚しようと思わないでしょう",
"ええ、まあそうね。私自信がないの",
"おおありの人じゃないですか",
"ちょっとまってよ。自信って、女房の自信がないわけよ",
"何故",
"男の人を安心させることが出来ないようですわ。主婦の務めは寛容でなきゃね。それなのに私はおそろしく我儘ですもの。結婚したら主婦の私は夫にほっとさせる義務があるのに、屹度、いらいらさせるばかりよ",
"経験もないのに",
"自分の性格で推測することは出来る筈",
"じゃ恋愛は",
"します。でも結婚しません",
"恋愛には自信があるのですか",
"あなたは理攻めね。恋をすれば、その日から、自信なんてありませんわ。生きてゆくこと。仕事には自信あってもね。恋をすれば盲目的になります",
"あなたが? 本当ですか",
"本当よ"
],
[
"あなたは恋愛結婚なさったの",
"いや、見合い、一回の",
"何年になるの",
"四年",
"お子さんあるの",
"まだ。ほしいですよ"
],
[
"いえね、あなたの恋愛はどんなのかと想像したの、可能性の限界を究めた上での恋でしょう。一プラス一は二になるのでしょうね",
"みぬきましたね。確かに一プラス一は二にしなきゃすまされない男です。すべてにおいて",
"詩人じゃないわね。やっぱり放送屋ね",
"あなたはどうです",
"私。自分の行動に計算なんかしないわ。一プラス一がたとい三になっても二に足らなくてもいいわ。割切れないものは確かにあるのですから",
"自分のことで割切れないものがあって、よく、生きてられますね",
"あら、割切れなさがあるから生きているのですわ",
"わからん。わからん"
],
[
"強いんですね",
"酔えないことは悲しいですわ。少し位、いい気持なんですけど、私、時々、自分をすっかり忘れたくなるんです。前は度々そういうよい心地になることが出来たんですけど。音楽をきいても、景色をみても。でも、駄目になったわ。絶えず自分があるんです",
"僕はもともと人生に酔いを知らない男だけど。物をみる時に決して主観をいれてみませんね。僕は音楽でそれを知った。ノイエザッハリッヒカイトってやつですよ。それは、生き方の解釈法にもなっている",
"強い人ね。悪に於いておや"
],
[
"お杉、(いつからか蓬莱和子は斯うよびはじめていた)あなたは感覚のある方だから、音楽を御存知なくても批評でなしに感想おっしゃれますでしょう。きかせて頂けません",
"あら私、さっぱりわかりませんの、でもあなたの御声、素晴しいわね、いい趣味"
],
[
"洋服のことなんか僕わからない",
"あら、ごめんなさい。のけものにして、ねえ、六ちゃん。お杉の黒のスーツどう思う? ちっとも似合わないわね。お杉は、明るい色彩の方が似合ってよ"
],
[
"僕はからきし色合のことわからないんだ",
"お杉が黒をきると澄ましすぎるわ"
],
[
"さむくない。お若いのね",
"私、冬中、いつも上着の下はこうなのよ",
"活動的なお杉らしいわね"
],
[
"お杉、ダンスできるの",
"ええ、あなたも?",
"私、しらない。六ちゃんと踊りなさいよ",
"女史、踊る?"
],
[
"あら、私こそ。これから度々踊って下さいね。あなたは素晴しい人ね、好きよ",
"わたくしも好きですわ。美しい人は好き"
],
[
"六ちゃん。やかないでね、女同士だからいいでしょう",
"おかしな人達だ"
],
[
"どのおうち",
"いや、まだまだだ",
"じゃあ、いそぎましょう"
],
[
"まだ遠いの",
"その角をまがればじきだ"
],
[
"御食事はまだでございましょう",
"あの、私結構ですのよ。ほしくないのですから、本当にこんな夜分御邪魔して",
"僕、食うよ"
],
[
"おまえに花が贈られるとはね。どうも、おくった人の感覚を疑いたくなるよ",
"云ったわね、一度、会わせてあげるわ",
"素晴しい人だというけど、女なんてものは大方どれもおなじだよ",
"おんなじだったら、いい加減に浮気もあきたでしょう",
"大方同じだが、大方でないところを発見するのが面白いんだね、時にお前の方はどうだい?",
"ええ、あたしは相変らずですよ。あなたをのぞいた他の男には大いに興味がありますからね",
"まあせいぜいやったがいいね。だが、外泊が三日もつづいたとなりゃ、いくら、妻の浮気公認の亭主だと云っても、亭主としての義務上、一応心配してみるね、どこかで怪我か病気でもしてやしないかと思ってね。心中てなことはないと思うがね。やっぱり多少はお前とつながりがあるんだからね。ずるずるひもをたぐられて、俺に責任がかかって来るようなことなきにしもあらずだからね",
"御親切様ね。その位の御気持あるなら、せっせとかせいで下さいよ。月一万ぽっちじゃくらせませんよ",
"そりゃそうだ。だが浮気の話と別間題。俺の浮気は二時間で済むが、お前のは三日だからね"
],
[
"御花届いて? ああ、あるわ、いいでしょう",
"まあ、お杉本当にありがとう。うれしいわ"
],
[
"花屋の前で、あんまりきれいだったもんで。ああ疲れた",
"おいそがしいのでしょうね。大部あたたかくなりましたわね"
],
[
"どうお",
"お前よりはずっといいね"
],
[
"ねえ、あれどう思う。ヴァージンかどうか",
"俺の知ったことじゃない",
"ねえ、六ちゃんとらしいのよ",
"で、お前が嫉くというのか、くだらんね。ところで昨夜は、六ちゃんのところへ泊った。それをわざわざ云うあたり、お前の間が抜けてるところさ",
"どうして間が抜けてるんでしょうね。云ったっていいじゃないの",
"反応をみようとしたが、あにはからんや",
"ほっておいて下さいよ。つべこべつべこべうるさいったら"
],
[
"会いたかったのよ",
"僕もだ",
"何故かしら",
"僕もわからない",
"でも、会ってほっとした",
"そうだ"
],
[
"楽譜?",
"ええ",
"誰の",
"阿難のよ。阿難、ピアノ弾くのよ",
"何故、今までかくしていたの",
"云う機会がなかったもの、阿難が弾くと云う時は、ピアノの傍でひきはじめる時よ",
"すごい自信だね",
"ええ、但し、近代もの以外は人の前でひけないのよ",
"きかせてほしい",
"即物的じゃないわよ",
"何でもいいききたい",
"何でもいいとはひどいわ。私、自分のひき方を決めてあるわ。いろいろ変えたけど。でも、ラヴェール、ドビュッシーあたりがひけると思うだけよ",
"誰に習った?",
"あなたの知ってる人、大方に師事したけどみんないやでよしたの。後は、レコード勉強と、本勉強よ",
"どうしてピアニストにならなかった?",
"あら、これからなるかも知れなくてよ"
],
[
"お暇なら、これからきかせてあげる",
"どこで"
],
[
"うれしいわ",
"じゃあ、阿難、いつか結婚しないなんていったこと嘘?",
"こんなにあなたを愛するとは思っていなかったの。阿難は始めて世の中に愛する人を発見したの",
"じゃあ、僕に接している一人の女性、僕の妻をどう思うの",
"御目に掛れば嫉妬するでしょう。阿難はにくむかも知れません。でも、今は、あなたの奥様、幸せな方だと思うわ",
"幸せ? だが僕は妻を愛しちゃいないんだよ",
"でも、奥様は愛されていると思ってらっしゃるでしょう",
"夫の義務は行っているからね。僕は妻をいつわっていることになる。みえない部分ではね。仕方ないことだ。苦痛。だが苦痛よりも阿難とのよろこびの方が大きいのだ",
"一番幸せなのは阿難です"
],
[
"阿難、僕は阿難にはっきり云うことがあるのだ",
"なあに",
"蓬莱和子のことだ。僕と彼女は何でもない。一昔たった一度の交渉があったきりなのだ。僕はひどく酔っていた。それまでのこと"
],
[
"うれしいわ、何でもかくさずにおっしゃって頂いた方が、阿難の愛は少しも変りません",
"阿難は蓬莱女史をどう思っているの",
"きれいな人だと思うだけよ。でも真実うりますには閉口。あなたと親しいつきあいらしいので、それはあんまりいい気持じゃなかったわ。でもね。阿難は、こう解釈するの、阿難とあなたの出会いより、あなたと彼女の出会いの方がさきだとみとめなければならないと思うの、それだけ"
],
[
"あなたと御話したかったから、あんな芝居しちゃったの",
"でも上手いもんだね"
],
[
"あなた、美しい奥様で、世界一幸せな旦那様よ",
"どうだかね",
"あなたなんか、浮気心もおきないでしょうね",
"御推察にまかせるね",
"じゃあ、今日の彼女にうらまれたかしら。御約束あったんじゃない?",
"僕は約束がきらいでね",
"あら、私もよ",
"ところで君にやいてるぜ、妻君が",
"あらどうして",
"六ちゃんだ",
"おやおかしい。わたくしが嫉いてるのに",
"じゃ、六ちゃんはどっちが邪魔なんだ?",
"そりゃわたくし。それからあなたもよ。でも、奥様、六ちゃんの思いに対して冷酷なんでしょう",
"人間の思うことはつまらんね。することもだよ",
"うそおっしゃい。あなたはまるで傍観者みたいにおっしゃるけど、奥様大もてだから、やっぱり内心は心配なんでしょう。美しいものは、そっとしまいこんでおきたい筈だもの",
"ふふ。君は、妻君の浮気の相手を何人知っているわけ",
"奥様浮気なんかなさらないわ。浮気をなさったら私、かなしいわ。私、奥様好きですもの",
"君は変態かい?",
"そうかもしれないわ。あなたが浮気なさったら、奥様のためになげくわよ。でも、ともかく奥様は、大もてね",
"それで僕が幸せってことになるのかね",
"誇よ",
"まあいいさ、どっちにしろ。ところで君と僕が浮気をしたらどういうことになる?",
"奥様はあなたが浮気しないものと思ってらっしゃるわよ。やっぱりあなたがお好きで、しかも、あなたに愛されているって御自信がおありですわ",
"まってくれよ。俺はそうすると、ひどく妻君に侮辱されてるようだぜ",
"何故",
"浮気しないなんか僕を人間並にしてないじゃないか。自分だけはさっさと浮気してさ",
"ほらほらやっぱりあなたは傍観者じゃないわ。あなたの最愛の人は奥様なんでしょう",
"何だかわけがわからなくなったよ。ねえ、それより、君と浮気していいかい?",
"と、奥様におききあそばせ"
],
[
"おい。お前の愛人とランデヴーしたぞ",
"あらそう、お杉とね、よかったでしょう"
],
[
"彼女と浮気したとしたら、おこるかね",
"どうぞ。だけどあなたが惚れても彼女はあなたなんかに惚れやしないわよ"
],
[
"よしよし、じゃあ賭けよう、何がいい",
"そうね、あなたに背広つくってあげるわ"
],
[
"じゃあ、お前は何がほしいんだ",
"真珠のネックレース。チョーカがいいの",
"浮気させてもらって、背広をもらう、しめしめだ",
"浮気出来なくて、真珠をかわされるあなたは、ちっとかわいそうだこと。あら、だけど証拠はどうするの",
"浮気したらしたと云うさ",
"あなたの言葉を信用しましょうか、いえ、私、お杉をみればすぐわかるわ、よろしい"
],
[
"先達ては御主人様に御馳走になりましたのよ",
"そうですってね。お杉、おいそがしいでしょうけど、ちょっとあれと遊んでやって下さいね"
],
[
"だって、待合せのこと奥様におっしゃらなかったでしょう",
"何故わかる",
"あなたの奥様は、御存じのことすべておっしゃる性格の方ですもの、私に待合せのこと、おっしゃらなかったわ",
"じゃあ、偶然の出会いになってるわけだね",
"そうよ"
],
[
"どこへ連れてって下さるわけ",
"僕のね、かわいい女をみてほしいんだ",
"それは興味"
],
[
"ひろちゃん、どうだ",
"いいわね。大阪に珍しいわ、だらだらぐにゃにゃした女性ばかりですものね",
"いいだろう",
"もう少し観察してから、アダナつけるわ"
],
[
"魅力ね、魅力の根源はね",
"つまり、スポットだからでしょう。彼女は誰からも触れられてない",
"成程ね、僕も彼女にふれがたいんだ。いい女さ"
],
[
"君は、スポットじゃないね",
"勿論よ。そしてあなたのスポッツでもないわ"
],
[
"ねえ、あなた、奥様におっしゃるおつもりなの",
"云ったらいけないのかね",
"どちらでもいいわ"
],
[
"私から、云ったらどうかしら",
"六ちゃんに云いつけられるよ",
"奥様、何ておっしゃる? お杉と主人とが浮気しましたって、彼に云うわけ?",
"一体、君は、六ちゃんとどうなんだ",
"どうってきくのは愚問よ"
],
[
"じゃ、君は僕を好きだと云ったのは嘘?",
"好きだから本当よ",
"同時に二人を好きなのかい",
"三人よ。あなたの奥様もよ",
"でも、誰かを裏切ったことになるね。つまり、六ちゃんか、うちの妻君か、僕か。背信の行為じゃないか",
"背信、背信って何故?",
"君は少しおかしいよ。じゃあね、君が若し、六ちゃんともうれつに愛し合っていてさ。六ちゃんが他の誰かと、そうだ、僕の妻君でもいいさ、関係したとすれば、背信の行為じゃないか、嫉くだろ?",
"あら、背信じゃないし、私嫉かないわ。その場合を仮定したらよ。嫉くのは自分達の愛情の接点がぐらつくからでしょう。そういった行動。つまり第三者との交渉などは、たしかな愛情の裏付けにならないわ",
"じゃあ、君は三人、つまり、僕と、六ちゃんと僕の妻君のうち、一人以外は、愛情がないわけになるじゃないか",
"あなたは、私のたとえを私の現実だと思ってしまったのね。私の現在の場合、三人の誰とも愛情の接点をみとめていないのよ。私が好きでも相手は私を愛しちゃいないものね。あなたはおかしな人ね、スポットを好きなこと、それは、奥様に対して背信だとはおもってらっしゃらないし、私とこうなったことも別に心に矛盾がないのでしょう。それは、奥様との愛の接点がたしかにあるからなのか、あるいは、私のように、誰からの愛情もみとめていないのか、どちらかよ。百パーセント前者でしょう",
"わからないね、君の云うこと",
"私は、あなたがわからないことが、何か知っててよ。私が三人の人に愛情をもつということでしょう? だって何も一人の人以外に、愛情を抱いてはいけないことはない筈よ。それからあなたの心はちゃんと見抜けてよ。あなたは、奥様以外の女性が複数だとしても、単に肉体的な快楽の対象にしているし、スポットはまだ手が届かないだけ、いずれそうなるに違いないわ、そして、すぐにあきるのでしょう、わかっててよ",
"どうだっていいさ、理窟のこね合いはよしにしよう"
],
[
"ねえ、あなたを好きなのは、あなたに迷惑かしら",
"別にね、僕だって好きなんだからね",
"だったらいいわ、いいじゃないの",
"何が",
"いえね、じやあ、度々会ってくださる?",
"こっちがのぞむところだね",
"じゃあ余計いいわ",
"だが、君困るだろ、六ちゃんとも会わなきゃなんない",
"あなただって、スポットやこの間の踊り子や、あら、又同じことのくりかえし、とにかくお互いの邪魔にならなきゃいいでしょう"
],
[
"いや、未完遂、昨夜は、友達に会ったのさ、軍隊の時のね",
"それは、御気の毒様"
],
[
"今、何時だろう",
"二時すぎよ"
],
[
"あなた、うわごと云ってらしたわよ",
"なんて",
"よくわからなかったけど御仕事のことでしょう。私、会社へ今朝電話しておきました",
"そうか"
],
[
"ねえ、どっちだと思う。男の子かしら女の子かしら",
"どっちがいい",
"女の子がほしいの",
"何故",
"私が、女にうまれてよかったと思うから"
],
[
"もしもし、南原でございます",
"もしもし、蓬莱建介でございます",
"なんだ、あなたなの",
"どうして電話くれない?",
"あなただってくれない。待っていたのよ",
"きょう、きみの生活に、少し割こむ余地があるかい",
"ある。ガラアキ",
"六時",
"カレワラで",
"駄目、梅田のね、そら新しいビルの地下で",
"わかった"
],
[
"深い意味はないがね",
"そう、それなら、スポットガールのこと私忘れてしまうわね。ちょっと煩雑すぎて来たから",
"何が"
],
[
"ところで、君と僕の間を永続させる希望があるかね",
"永続? だって、あなたは私を深く好きじゃないでしょう",
"君は、愛されてもいない人に肉体を提供したと思っているのかい?",
"そうよ。だけど、私、あなたが好きなんだから後悔しないわ。どれだけ永続出来るものか、わからないけれどもね",
"僕に愛されたいとは云わないのかい",
"云わないけど、思うわよ。云えない筈よ",
"愛してるかも知れんぞ、六ちゃんと決闘するかも知れんぞ",
"おやんなさい"
],
[
"どうして来なくなったの",
"病気で寐てたのさ。それにとてもいそがしいんだ",
"お杉も来ないわよ。お杉はどうして来ないの",
"僕にきいたってわかることじゃない",
"お杉と会っているのでしょう",
"うん"
],
[
"私ね、何にもあなたとお杉のことを、とやかく云うつもりはないんですよ、私は、お杉が好きなんですからね。お杉に来てほしいのですよ。お杉に会いたいのですよ",
"だったら、彼女に云いたまえ",
"ええ、云いますとも"
],
[
"何だかばたばたしちゃってて。二週間以上になるわね。ごめんなさい",
"心配したわよ"
],
[
"うちの旦那様がね。あなたにとってもまいっちゃったらしいの",
"あら、御冗談、御主人にいつだったか、散々あなたのこと、のろけられちゃったわ"
],
[
"ねえ、あなたは、うちの旦那様どう思って?",
"いい方ですわ、いい御主人様ですわ、いい御夫婦ですわ",
"そうかしら、私、六ちゃんの夫婦は、とてもいい御夫婦だと思ってよ。あの人愛妻家よ"
],
[
"阿難は、ピアノを弾く時、直覚が大事だと思うのよ。直覚は直感とちがうの、ある程度理解の上でなければ感じることの出来ないものよ。阿難は、今迄、随分自分の感覚にたよりすぎていたのよ。感覚には自信もてるのよ。でも感覚だけで物事を判断することは危険だと知ったわ。阿灘が若し、昔のままで、感覚的に物事を処理してゆくとしたら、あなたとの恋愛は永続出来ないでしょう。阿難はあなたを直覚出来たから、幸福をつかめたのよ。時折、そりゃさみしいと思うわ。でも阿難は、あなたを知って、あなたと共に、こうして居られることが。阿難は言葉で云えないわ、阿難は作曲してみるわね",
"阿難、有難う、僕は嬉しい"
],
[
"他人の目のあるところで、あなたに接するのはとてもいやよ。でも、行きたくないけど行かなきゃならないわね。阿難は、仮面かぶらなければならないの、阿難は、阿難をその間葬ってしまうのがかなしいわ",
"僕だって行きたくない。だけど行かねばならないね、僕達の間が永続するように、ありのままの姿を、他人の前にさらけ出すことはさけなきゃならないよ。とにかく、行こう。阿難は、蓬莱氏を知らないだろう? いい人だ"
],
[
"主人はまだでしょうか",
"あら、もうすぐいらしてよ。さあさ"
],
[
"僕をふった女性はまだ来ないかね",
"お杉、来る筈よ。わざとおくれて来るんでしょう"
],
[
"ねえ、あなた、こんなおまねき本当にうれしいですわ",
"じゃあ、これから度々しましょうね、今度はうちの方へ御まねきするわ"
],
[
"たか子。僕が浮気したらどうする?",
"いやですわ、冗談おっしゃっちゃ",
"たか子さん、御心配御無用よ。六ちゃんは絶対大丈夫。私が太鼓判を押すわ"
],
[
"ジャズがいいわね",
"『いつかどこかで』をかけろよ",
"あら、思い出があるの?"
],
[
"たか子さん、おかしいね、あの二人、あなたも踊られませんか",
"私、ちっとも知らないのです"
],
[
"ねえ、あなた。でもお若い御夫婦をみてると羨しくなるわね",
"あらいやだ。ママさんは、御若いのだと、御自分で思ってらっしゃる筈よ"
],
[
"どうして、あなたよりずっと年寄りよ",
"年齢で若さは決められないわよ",
"じゃあ何",
"だって、人間の精神があるものね。五十でも六十でも若い人居てよ。精神的な若さに、肉体が伴わない場合、しばしば女の悲劇が起るのよ。ママさんはとにかく御若い筈よ"
],
[
"おどろいたわね、お杉は子供なのね",
"そうよ、みえない世界で結婚していて、ひめやかに貞操を守りつづけているわけよ"
],
[
"いいことないわよ。私は、お杉がすきだから、お杉のために一肌ぬごうっていう気なんですもの",
"僕のために一肌ぬいでくれたらどうだい"
],
[
"私、伴奏しますわ",
"あら、お杉、ピアノひけるの",
"南原女史は何でも屋なんだね"
],
[
"初見でおひきになれる?",
"ええ。エルケニッヒね"
],
[
"お杉、何かひきなさいよ",
"え、ひきますわ"
]
] | 底本:「久坂葉子作品集 女」六興出版
1978(昭和53)年12月31日初版発行
1981(昭和56)年6月30日6刷発行
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"あの――戸田先生、他にいらっしゃいません? 貴方じゃなかったんです。戸田明雄です……",
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]
] | 底本:「幾度目かの最期」講談社文芸文庫、講談社
2005(平成17)年12月10日第1刷発行
底本の親本:「新編 久坂葉子作品集」構想社
1980(昭和55)年4月
初出:「VIKING 11号」
1949(昭和24)年10月
入力:kompass
校正:The Creative CAT
2021年2月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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"うん。そうだってさ。いやだね、樺太まできてさ、せっかく骨休めに来たのに……",
"この間の、何とかいうえこじなお爺さんの殺された?",
"ああ、おことわりしたんだがね、東京地裁にいた久保田さんが、検事になってきているんだよ――日本の国も、広いようでせまいんだね"
],
[
"やあ、ご苦労さまです。とんだお願いをしまして……",
"いや、どうも"
],
[
"お久しゅう。お元気で……",
"君こそ、とんだ所で会ったもんだね……何かね、あんたの子供さんが、製紙にいるんだって?",
"ええ、長女が嫁いで……",
"そうだってね……ふとさっき古市君から聞いてね……会い度かったし、ご意見でも聞かして頂こうと思ってね、電話をしたんですよ。まあまあ、僕を助けるつもりで一つ",
"あっははは、とんでもありません。私が久保田さんをお助けするなんて……",
"昔は新聞記者さん達がアミさんの行く所に犯罪あり、って追っかけ歩るいていたもんでしたね"
],
[
"それは逆だ。事件のある所に僕が行くんで、僕の行った処に、犯罪が起きたんじゃまるで僕が、犯人見たいじゃありませんか……あはははは。まあね。何のお手伝いにならんかもしれませんが、勉強になりましょう。参考に拝見さして頂きますよ",
"嫌な事件でね。余程上手に立ち廻ったとみえて内側からカギまでかけた『密室の殺人』て型にしていやがるんだ"
],
[
"本庁におれば、鑑識課って裏づけがあるので、私達も動けるんですが……",
"何しろ因業な爺さんで、誰一人として好感をもっている者はない。細君でさえも困っているらしい。洗ってみなければ判らないが、金銭なんかでも、相当他人を泣かしているんじゃないかと思っている……その早川久三老人が殺された、その夜はひどい寒さでね……"
],
[
"いいえ、今朝は、お見かけいたしません……書庫じゃありませんか?",
"そうね……だけどまだ、火も入れてないのに。一寸見て来て下さい"
],
[
"書庫には鍵がかかっていますが、返事がありません",
"返事がないって?"
],
[
"久三さん、だったらなぜ、東京からわざわざ呼んだのさ。わしだってあの極楽縁起があればこそやって来たんですよ……こんな樺太くんだりまで……",
"え! 何だって新造さん。樺太くんだりだって。ふん、それで悪かったら、帰るさ。船はあすあたり出るだろう"
],
[
"ひどく、むかついて、すっかり吐いてしまった。なあに、すぐなおりますよ。珍しく深飲みしたものですから……",
"おやもう十二時!"
],
[
"ええ、そうでございます。……伊東さんはコオリのため船がまだ三四日出ませんのでそんな時は時々来て泊るのですが、今度も一昨日から私の所に泊っていました。そこに丁度高沢寺さんが見えられたものですから、今度の船で東京へ帰られる五十嵐さんの送別会を兼ねまして、何んですか、そんな事を皆さんがいい出して、一同でお食事を頂いたのでございますが……",
"山村さんは、始終おいでになります?",
"ええ、檀那寺でございます。先代様とは碁や書籍の事でよく口争いをしましたり、仲直りをしたり、長い事でございました。大変“うま”が合っていたとでも申しましょうか、亡くなられる前の日まで遊びに来られていました。二三年前に亡くなられたのですが、若い時は相当学問をなすったのですが、こちらへ来られましても、ええ私達のきました次の年かに、岩国の方から、参られました。たくさんなご本をお持ちになりましてそれが……",
"それが?",
"ええあの……こんな事は、何んですけれども、今の常顕さんを大学にお出しになるのに、大変お金がいって、私共でお立替え申しました。その時大部分主人に、本や何かをお売りになったようです"
],
[
"あの夜は雪が十時頃降り止んで出入りすると雪に足跡がつくのですけれどもあの通り山村さんの外家から出て行った者はないのです。で、犯人はあの時家の中に居た者と、みなされています。あの人達の中に、ご主人をうらんでいた者とか、ご主人が亡くなれば、利益の得られる様な立場にある人は誰でしょうか?",
"さあ……あさは主人の遠い親類で、最近孫娘を養子にしようかという話が出まして主人が亡くなれば一番に損をするのが、あさですから……",
"望月が、何か金の事で、ご主人に気まずかったとか、聞いていましたが?",
"ええ主人がなくなれば、五千円程の退職金をあげる事になっていましたが……まさか、望月さんがそれ位の金であんなだいそれた事をなさるとは思われません。でも、この正月に主人の金を少し使ったり印鑑を利用したりしましたので、たたき出すんだといって、松の内でしたけれど打ったりした事などもありました"
],
[
"あの夜書庫に、入られてから後はご主人は一度もお出になりませんでしたでしょうか?",
"ええ、出られなかったと思います",
"あなたはあの夜、書庫にはお入りになりませんでした?",
"入りませんでございます",
"ご主人が書庫に入ってからの事はお判りになりませんでしょうね?",
"ええ伊東さんが、一度入られましたがすぐ出て来られた様でした",
"入ったのは伊東さんだけでしょうか?"
],
[
"ほう――それは誰でした?",
"はっきり判りませんでした……一人は主人でしたが……",
"ご主人の声に違いありませんでしたか?"
],
[
"ほう、そして?",
"すぐまたドアが閉ったので、誰とも判りませんでした",
"どんな事をいっていられました",
"ドアが閉ったので、よく聞き取れませんでしたが……今思えば五十嵐さんの声でなかったかと思いますが……いいえ、はっきりした事はいえないのですけれども……そして私が台所に二、三分いまして座敷にもどりますと、皆さんが座っておられました。山村さんが青い顔してはばかりから帰って来られた所でした",
"それから、山村さんは、すぐ帰ったのですね?",
"はい、五分も経たないで……"
],
[
"ああ、やらしておいたが、警視庁の鑑識課みたいには行かんよ。ご期待にそうかどうか",
"いややって頂けば結構です。あとで署に帰って拝見しましょう……次に伊東でも訊問しようか……一寸呼んでくれませんか"
],
[
"伊東……憲助です",
"いや……警視庁の田名網です……早川氏の殺害の犯人が、まだあがらないのであなたにもご協力願い度いと思いましてね",
"はあ私で出来ます事なら……",
"あの夜二時頃、皆んなが皆んな小用に起きたといっているが、その前にたとえば君は、異様な音で目を覚ましたというような事はなかったでしょうか?"
],
[
"じゃ誰が殺した?",
"…………",
"望月は夜中に君が、あのドアから出て来たといっているんだがね",
"そ、それは望月君が何かためにする事があっての証言ではないんですか?",
"だって君は会社の金を使い込んだという外、よからぬ商売をやっているんだろう。密輸入品を……魔薬のような……",
"…………",
"それを知っている早川を君はこの際、沈黙させるには良い機会ではないかね。望月にも相当な動機はあるし、五十嵐だってあの夜早川と争いをやっている。夜中に君は目を覚した、まだ一人書庫に早川は起きている。何気なく入って来て一撃する。それから出て――そしてどうして君はこの鍵をかけたんだい?"
],
[
"――それにね伊東! 君の書いた三千円の……早川さんにやった借用証がなくなっているんだよ",
"…………",
"金の外は……もし期日までに返せない時は君は何か相当なものを引換えにする条件だったね……その証書はどうした?",
"焼きました"
],
[
"ほれ、ここに鉛筆で、無駄書きをした所がありましょう。¥3.000.00 ¥3.000.00と二つ三つありますね",
"何か本の代価ではない?",
"僕も初めはそう考えたのです。下に POSER と、英語で乱棒に、書いてあります。これは伊東と話しながら無意識に書いたんです。調べてみると早川にはそんな癖があるんですね――で、僕は三千円を伊東に貸したか、又は貸すというのか、判らないがあの夜、二人の中に三千円が問題になっていたと想像したのです。それがあの文庫の中をみて了解したのですよ二、三証書を入れた封筒が入っていましてね。只の封筒でしたが――その中に(伊東¥3.000.00三月末)と書いてあるのがあって、中身はなかった。伊東と話中早川はそれを出して彼に見せたのだろうね。そして文庫に入れる時封筒に入れずに一番上に乗せておいた。次の日、ドアを破って入った時、人々の気の転倒しているすきに、伊東は手早く処理したという訳さ。彼は千円といってはいたがね",
"なら、どうして殺した時、盗らなかったのかね",
"誰が?",
"誰がって伊東がさ!",
"あっははは、伊東は犯人じゃないよ。少くとも今の所はね",
"え! じゃなぜ、あんな事を伊東にいったんだい",
"今の所、伊東にも外の者にも彼に嫌疑をかけていると思わせておき度かったからですよ"
],
[
"そりゃ見ないよ",
"じゃ三千円の金額は良いとして、交換条件に……",
"あっははは、あれかい? あれは山勘さ、どうせ早川の様な男だ、只で三千円は貸さんからね。あははは"
],
[
"あ、望月さんのオーバー、あの旦那さんの、なくなられた朝、洗濯屋に出しましたよ",
"洗濯に――ね、あささん、その時、その時望月はオーバーだけだったの?",
"いいえ寝巻も出しました"
],
[
"そうですってね。……今度の事件があったからではないんですがそんな事で御先代と早川さんの間に、何か問題でもあったような事……まあそんな事は、あなたにお聞きするのも変なことですが……",
"さあ別に……父は、中には大変おしがっていたものもありましたが……",
"今度早川さんが蔵書を、手放しするということでしたが、高沢寺の社印のあるものまで散いつするのはおしいですね",
"ええ、父のものもですが、爺さん時代、いやまだその前のものもあったので。父の残して行きました目録を見ますと……",
"ほう、そんなお古い……その御記録を今でも御保存なすっていられますか?"
],
[
"あの書庫で、なくなられましたそうで。夜中だったそうですが、私はなにしろそれから二時間前に失礼さして頂きましたので……あの人は例の通り、気むずかしい皮肉を言ったりしてみなさんを困らしておられました。私などにも、けんもほろろの挨拶でした",
"あなたの書庫に入られたのは何時ごろでしょうか?",
"いつごろと言いますと?",
"あなたが御気分が悪いとおっしゃって便所へおいでになった前でしたでしょうか、それともその後"
],
[
"実はその文庫が一寸問題になりましてね",
"え! 文庫が! どんな?",
"何あにあの中からなくなったものがありましてね",
"え! なくなった物! と言いますと"
],
[
"じゃ雪はあの夜十時過ぎにやんだ筈だが又ふったのですね",
"ええそうです",
"幾時ごろだろう? それを知り度いのですがね",
"はああの雪は、一時三十分ごろから、又少しふり出して約十分位でやみました。その後は月が出たと思っています",
"え! 一時半ごろ! それは……だが君はその時間を正確に証明してくれる事が出来る?",
"ええ出来ると思います。その巡ら日記にも記入したようにも思っています……ああ何んなら念のため入港中の船の当直日記でもご覧いただいたらと思いますが",
"いや有難う"
],
[
"先ず、あの夜、早川の家に寝泊りしていた三人の男達の外に容疑者として、新しく一人の男が、浮びあがったという事です",
"え! 誰です。それは?",
"高沢寺のお上人……山村常顕師ですよ"
],
[
"え! 二時まではついていました",
"ランプの消えたのは、二時でしたが、然しそれは、何も早川の生きていた証明には、ならないのです。私はあの灯の消えたのと、早川の死は、別々に考えるべきだと思ったのです",
"だって君、じゃランプは誰が消した! 犯人が、あの灯を消したのだよ。いや犯人でなくとも、その時誰かが、被害者以外に、あの部屋にいた",
"所が、ランプを消した者は、いなかったのです",
"え! 何ですって? 消した者がいない!"
],
[
"ええそうでしたね……私もそう思っていました。そしてその事にのみ囚われて、失敗していました。あの犯罪の構図を組立てようと、かかったのですが、あの灯のためにどうしても大きなそごが出来てしようがないのです。で今一度、出発点に戻して見て……あのランプの灯がなかったとして、考えて見たのです。すると朧気ながら、あの兇行の時間に、一つの一致を見る事が出来たのです。だが灯の消えたのは事実です……けれどもあれは消したのではなく、消えたのです。私はあのランプは自然に消えたものと、断定したのです",
"だって君、あのランプには、まだ石油が、半分も残っていたし、風だって何処からも入る所はなかったぜ"
],
[
"そう、そうです。そうですよ。油の凍った時も、やはり消えるのです。あの広瀬先生のご覧になった深夜の二時、あのランプは寒さのために、石油が凍ってそして消えたのです。私より長年樺太で生活していられる皆さんが、石油が凍ってランプの消える時の状況はどんな風かよく知っていられると思います。広瀬先生のご覧になった通りですね",
"うむ、あの夜は寒かった"
]
] | 底本:「探偵小説アンソロジー 甦る名探偵」光文社文庫、光文社
2014(平成26)年10月20日初版1刷発行
底本の親本:「探偵新聞」
1948(昭和23)年5月5日号、5月15日号、5月25日号、6月5日号、6月15日号
初出:「探偵新聞」
1948(昭和23)年5月5日号、5月15日号、5月25日号、6月5日号、6月15日号
※「丑満《うしみつ》頃」と「丑満つ頃」の混在は、底本通りです。
入力:sogo
校正:雪森
2017年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"一体あなたの、その体の工合はどんな場合に似てゐるのですか。",
"わたしは牢屋に入れられた人の体の工合は知りません。併しどうもわたしの体の工合はさう云ふ人に一番似てゐるらしいのです。こなひだ中からは自由行動が妨げられてゐるやうで、猶自由意志までも制せられてゐるやうです。歩きたいのに歩かれない。息がしたいのに窒息しさうになる。詰まり一種の隠微な不安、不定な苦悶があるのです。"
],
[
"事によるとわたしの写象には、此病の起る前に見た夢が影響してゐるかも知れません。",
"はあ。夢を見ましたか。",
"えゝ、手に取るやうな、はつきりした夢を見たのです。そして不思議にもその夢がいまだに続いてゐるやうなのです。若しわたしがさうしようと思つたら、わたしは疑も無くその夢を今でも見続けてゐて、例之ば話をしてゐるあなたなんぞを、却つて幻だと思ふでせう。",
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],
[
"檀那様。ここへお這入なさいますか。",
"さうだ。"
],
[
"囚徒は皆内にゐるのですね。今見たのより外にはゐないのですね。",
"はい。あの外にはゐません。きのふ一名逃亡しました。",
"逃亡者がありますか。名前は。",
"マルヒユスと云ふ奴です。"
],
[
"内の檀那の亡くなつたのを、お前知らずに来たのかい。",
"いゝえ。知りません。だがそれはどうでも好いのです。わたしは只言ひ附けられた用を済ませさへすりやあ好いのです。",
"誰が言ひ附けたのだ。",
"マルヒユスさんです。",
"それは誰だい。",
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"亡くなつたのかい。",
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"内の檀那を知つてゐた人かい。",
"いゝえ。知らないのですが、宜しく言つて、そして死んだことを知らせてくれと云ひました。それからこちらでは瘖が物を言ふだらうと云ひました。"
],
[
"なに。それには及びません。ひどくお変になりましたか。",
"うん。ひどくお変になつた。",
"マルヒユスさんも羂でひどく顔が変ました。頸にひどい痕が附いて。",
"まだ何か言ふことがあるかい。",
"いゝえ。もう往きます。"
]
] | 底本:「鴎外選集 第十五巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「三田文学 四ノ七」
1913(大正2)年7月1日
入力:tatsuki
校正:山根生也
2001年11月13日公開
2005年12月16日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名": "フロルスと賊と",
"作品名読み": "フロルスとぞくと",
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"原題": "Florus und der Rauber(独訳)",
"初出": "「三田文学」四ノ七、1913(大正2)年7月1日",
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"生年月日": "1872",
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"やあ、ちびが歩いている。",
"ふみ殺されるなよ。",
"つまんでかみつぶしてやろうか。",
"ちびやい。ちびやい。"
],
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"京都へ上ってどうするつもりだ。",
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],
[
"お前か、今呼んだのは。",
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"お前は何者だ。",
"難波からまいりました一寸法師でございます。",
"なるほど一寸法師に違いない。それでわたしの屋敷に来たのは何の用だ。",
"わたくしは出世がしたいと思って、京都へわざわざ上ってまいりました。どうぞ一生懸命働きますから、お屋敷でお使いなさって下さいまし。"
]
] | 底本:「日本の古典童話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2006年7月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"ほら、あのとおり歩きくたびれて、暑さに当たって、水をほしがって死にそうになっている人があるのです。",
"おやおや、それはお気の毒ですね。ではさしあたりこれでも召し上がってはいかがでしょう。"
]
] | 底本:「日本の古典童話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2006年7月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043458",
"作品名": "一本のわら",
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} |
[
[
"うん、佐馬頭義朝の末子だ。お前はだれだ。",
"どうりでただの人ではないと思いました。わたしは武蔵坊弁慶というものです。あなたのようなりっぱな御主人を持てば、わたしも本望です。"
]
] | 底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
※「僧正ガ谷」の「ガ」は底本では小書きになっています。
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "018384",
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[
[
"まあ、そうかい。わざわざ礼なんぞいいにくるにはおよばないのに",
"でも、ほんとうにありがとうございました。ときに、浦島さん、あなたはりゅう宮をごらんになったことがありますか",
"いや、話にはきいているが、まだ見たことはないよ",
"ではほんのお礼のしるしに、わたくしがりゅう宮を見せて上げたいとおもいますがいかがでしょう",
"へえ、それはおもしろいね。ぜひ行ってみたいが、それはなんでも海の底にあるということではないか。どうして行くつもりだね。わたしにはとてもそこまでおよいでは行けないよ",
"なに、わけはございません。わたくしの背中におのりください"
]
] | 底本:「むかし むかし あるところに」童話屋
1996(平成8)年6月24日初版発行
1996(平成8)年7月10日第2刷発行
底本の親本:「日本童話宝玉集(上中下版)」童話春秋社
1948(昭和23)~1949(昭和24)年発行
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2001年12月19日公開
2008年10月10日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "003390",
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"姓読み": "くすやま",
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"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
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[
[
"これはきっと、わたしたちに子供の無いのをかわいそうに思って、神さまがさずけて下さったものにちがいない。だいじに育ててやりましょう。",
"そうですとも。ごらんなさい。まあ、かわいらしい顔をして、にこにこ笑っていますよ。"
],
[
"瓜子姫子、少しでいいからあけておくれ、指の入るだけあけておくれ。",
"そんなら、それだけあけましょう。",
"もう少しあけておくれ、瓜子姫子。せめてこの手が入るだけ。",
"そんなら、それだけあけましょう。",
"瓜子姫子、もう少しだ。あけておくれ。せめて頭の入るだけ。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2006年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "043459",
"作品名": "瓜子姫子",
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"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
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"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
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[
[
"小僧、小僧、いったいどうしたのだ。",
"きょう、和尚さんのたいじなお湯飲みを洗っていますと、いきなり猫がじゃれかかって来て、そのひょうしに手をすべらして、お湯飲みを落としてこわしてしまいました。もうこれは死んで申しわけをするよりほかはないと思って、つぼの中の毒薬を出して、残らず食べました。もう毒が体中に回って、間もなく死ぬでしょう。どうかかんにんして、お経だけ読んでやって下さい。ああ、苦しい、ああ、苦しい。"
],
[
"その重箱はどこにある。",
"本堂の御本尊さまの前に上げて置きました。",
"うん、それはなかなか気が利いている。どれ、どれ。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "018387",
"作品名": "和尚さんと小僧",
"作品名読み": "おしょうさんとこぞう",
"ソート用読み": "おしようさんとこそう",
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"公開日": "2003-08-27T00:00:00",
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"姓読み": "くすやま",
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"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
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"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月10日",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"じゃあ、だれならかかる。",
"そりゃあこのおれならかかるよ。",
"じゃあ頼む、お前さん後生だ、代わりにかけておくれ。",
"そりゃあかけてやってもいいが、何をお礼にくれる。",
"そりゃあかけてくれればなんでも上げるよ。",
"じゃあお前、その目玉をよこせ。",
"なに、目玉だ。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018389",
"作品名": "鬼六",
"作品名読み": "おにろく",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-08-26T00:00:00",
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"人物ID": "000329",
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"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月10日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年4月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年4月10日第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
"校正者": "大久保ゆう",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/18389_ruby_11927.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-08-02T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"もしもし、おばあさん、くたびれたら少しお手伝いをいたしましょう。その代わりこの縄をといて下さい。",
"どうしてどうして、お前なんぞに手伝ってもらえるものか。縄をといてやったら、手伝うどころか、すぐ逃げて行ってしまうだろう。",
"いいえ、もうこうしてつかまったのですもの、今さら逃げるものですか。まあ、ためしに下ろしてごらんなさい。"
],
[
"うさぎさん、うさぎさん。何をうまそうに食べているのだね。",
"栗の実さ。",
"少しわたしにくれないか。",
"上げるから、このしばを半分向こうの山までしょっていっておくれ。"
],
[
"うさぎさん、うさぎさん。かち栗をくれないか。",
"ああ、上げるよ、もう一つ向こうの山まで行ったら。"
],
[
"うさぎさん、うさぎさん。かち栗をくれないか。",
"ああ、上げるけれど、ついでにもう一つ向こうの山まで行っておくれ。こんどはきっと上げるから。"
],
[
"うさぎさん、うさぎさん、かちかちいうのは何だろう。",
"この山はかちかち山だからさ。",
"ああ、そうか。"
],
[
"うさぎさん、うさぎさん、ぼうぼういうのは何だろう。",
"向こうの山はぼうぼう山だからさ。",
"ああ、そうか。"
],
[
"たぬきさん、たぬきさん。ほんとうにきのうはひどい目にあったねえ。",
"ああ、ほんとうにひどい目にあったよ。この大やけどはどうしたらなおるだろう。",
"うん、それでね、あんまり気の毒だから、わたしがやけどにいちばん利くこうやくをこしらえて持って来たのだよ。",
"そうかい。それはありがたいな。さっそくぬってもらおう。"
],
[
"おやおや、たぬきさん、もうやけどはなおったかい。",
"ああ、お陰でたいぶよくなったよ。",
"それはいいな。じゃあまたどこかへ出かけようか。",
"いやもう、山はこりごりだ。",
"それなら山はよして、こんどは海へ行こうじゃないか、海はおさかながとれるよ。",
"なるほど、海はおもしろそうだね。"
],
[
"いいお天気だねえ。",
"いいけしきだねえ。"
]
] | 底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第14刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018377",
"作品名": "かちかち山",
"作品名読み": "かちかちやま",
"ソート用読み": "かちかちやま",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-08-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card18377.html",
"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の神話と十大昔話",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年5月10日",
"入力に使用した版1": "1992(平成4)年4月20日第14刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年5月10日第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
"校正者": "大久保ゆう",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/18377_ruby_11923.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-08-02T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/18377_11982.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-08T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"都の御所では、天子さまが大病で、大そうなさわぎをしているよ。お医者というお医者、行者という行者を集めて、いろいろ手をつくして療治をしたり、祈祷をしたりしているが、一向にしるしが見えない。それはそのはずさ、あれは病気ではないんだからなあ。だがわたしは知っている。",
"じゃあどういうわけなんだね。"
],
[
"それはこういうわけさ。このごろ御所の建て替えをやって、天子さまのお休みになる御殿の柱を立てた時に、大工がそそっかしく、東北の隅の柱の下に蛇と蛙を生き埋めにしてしまったのだ。それが土台石の下で、今だに生きていて、夜も昼もにらみ合って戦っている。蛇と蛙がおこって吹き出す息が炎になって、空まで立ちのぼると、こんどは天が乱れる。その勢いで天子さまの体にお病がおこるのだ。だからあの蛇と蛙を追い出してしまわないうちは、御病気は治りっこないのだよ。",
"ふん、それじゃあ人間になんか分からないはずだなあ。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"姓読み": "くすやま",
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} |
[
[
"それはどこにある。",
"ここから南の方に猿が島という所がございます。そこには猿がたくさん住んでおりますから、どなたかお使いをおやりになって、猿を一ぴきおつかまえさせになれば、よろしゅうございます。",
"なるほど。"
],
[
"いったい猿というのはどんな形をしたものでしょう。",
"それはまっ赤な顔をして、まっ赤なお尻をして、よく木の上に上がっていて、たいへん栗や柿のすきなものだよ。",
"どうしたらその猿がつかまるでしょう。",
"それはうまくだますのさ。",
"どうしてだましたらいいでしょう。",
"それは何でも猿の気に入りそうなことを言って、竜王さまの御殿のりっぱで、うまいもののたくさんある話をして、猿が来たがるような話をするのさ。",
"でもどうして海の中へ猿を連れて来ましょう。",
"それはお前がおぶってやるのさ。",
"ずいぶん重いでしょうね。",
"でもしかたがない。それはがまんするさ。そこが御奉公だ。",
"へい、へい、なるほど。"
],
[
"猿さん、猿さん、今日は、いいお天気ですね。",
"ああ、いいお天気だ。だがお前さんはあまりみかけない人だが、どこから来たのだね。",
"わたしはくらげといって竜王の御家来さ。今日はあんまりお天気がいいので、うかうかこの辺まで遊びに来たのですが、なるほどこの猿が島はいい所ですね。",
"うん、それはいい所だとも。このとおりけしきはいいし、栗や柿の実はたくさんあるし、こんないい所は外にはあるまい。"
],
[
"おいでになるなら、わたしが連れて行って上げましょう。",
"だってわたしは泳げないからなあ。",
"大丈夫、わたしがおぶっていって上げますよ。だから、さあ、行きましょう、行きましょう。",
"そうかい。それじゃあ、頼むよ。"
],
[
"くらげさん、くらげさん。まだ竜宮までは遠いのかい。",
"ええ、まだなかなかありますよ。",
"ずいぶんたいくつするなあ。",
"まあ、おとなしくして、しっかりつかまっておいでなさい。あばれると海の中へ落ちますよ。",
"こわいなあ。しっかり頼むよ。"
],
[
"そりゃあ持っていないこともないが、それを聞いていったいどうするつもりだ。",
"だってその生き肝がいちばんかんじんな用事なのだから。",
"何がかんじんだと。",
"なあにこちらの話ですよ。"
],
[
"おい、どういうわけだってば。お言いよ。",
"さあ、どうしようかな。言おうかな、言うまいかな。",
"何だってそんないじの悪いことを言って、じらすのだ。話しておくれよ。",
"じゃあ、話しますがね、実はこの間から竜王のお后さまが御病気で、死にかけておいでになるのです。それで猿の生き肝というものを上げなければ、とても助かる見込みがないというので、わたしがお前さんを誘い出しに来たのさ。だからかんじんの用事というのは生き肝なんですよ。"
],
[
"何だ、そんなことなのか。わたしの生き肝で、竜王のお后さんの病気がなおるというのなら、生き肝ぐらいいくらでも上げるよ。だがなぜそれをはじめから言わなかったろうなあ。ちっとも知らないものだから、生き肝はつい出がけに島へ置いてきたよ。",
"へえ、生き肝を置いてきたのですって。",
"そうさ、さっきいた松の木の枝に引っかけて干してあるのさ。何しろ生き肝というやつは時々出して、洗濯しないと、よごれるものだからね。"
],
[
"やれ、やれ、それはとんだことをしましたねえ。かんじんの生き肝がなくっては、お前さんを竜宮へ連れて行ってもしかたがない。",
"ああ、わたしだって竜宮へせっかく行くのに、おみやげがなくなっては、ぐあいが悪いよ。じゃあごくろうでも、もう一度島まで帰ってもらおうか。そうすれば生き肝を取ってくるから。"
],
[
"何だって。じゃあ生き肝を取ってくる約束はどうしたのです。",
"ばかなくらげやい。だれが自分で生き肝を持っていくやつがあるものか。生き肝を取られれば命がなくなるよ。ごめん、ごめん。"
]
] | 底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第14刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"何だ。何だ。",
"人間のじじいじゃないか。"
],
[
"うまいぞ、うまいぞ。",
"しっかりやれ。"
]
] | 底本:「日本の古典童話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2006年7月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"まあ、おじいさん、よくいらっしゃいました。",
"おお、おお、ぶじでいたかい。あんまりお前がこいしいので、たずねて来ましたよ。",
"まあ、それはそれは、ありがとうございました。さあ、どうぞこちらへ。"
],
[
"せっかくだが、おばあさんも待っているだろうから、今日は帰ることにしましょう。またたびたび来ますよ。",
"それは残念でございますこと、ではおみやげをさし上げますから、しばらくお待ち下さいまし。"
],
[
"じゃあ、さようなら。また来ますよ。",
"お待ち申しております。どうか気をつけてお帰り下さいまし。"
],
[
"おじいさん、今ごろまでどこに何をしていたんですね。",
"まあ、そんなにおおこりでないよ。今日はすずめのお宿へたずねて行って、たくさんごちそうになったり、すずめ踊りを見せてもらったりした上に、このとおりりっぱなおみやげをもらって来たのだよ。"
],
[
"ばかなおじいさん。なぜ重い方をもらってこなかったのです。その方がきっとたくさん、いいものが入っていたでしょうに。",
"まあ、そう欲ばるものではないよ。これだけいいものが入っていれば、たくさんではないか。",
"どうしてたくさんなものですか。よしよし、これから行って、わたしが重いつづらの方ももらってきます。"
],
[
"さあ、それでは重い方と軽い方と二つありますから、どちらでもよろしい方をお持ち下さい。",
"それはむろん、重い方をもらっていきますよ。"
]
] | 底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第14刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "018378",
"作品名": "舌切りすずめ",
"作品名読み": "したきりすずめ",
"ソート用読み": "したきりすすめ",
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"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
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"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
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"底本名1": "日本の神話と十大昔話",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
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[
[
"お前、今でも天へ帰りたいだろうね。",
"ええ、それははじめのうちはずいぶん帰りとうございましたが、今では人間の暮らしに慣れて、この世界が好きになりました。"
],
[
"だって羽衣を見せると、それを着て、また天へ帰ってしまうでしょう。",
"まあ、わたくし、人間の世界がすっかり好きになったと申し上げたではございませんか。おかあさん、お願いです、ほんの一目見ればいいのですから。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "033210",
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"作品名読み": "しろいとり",
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"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
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"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月10日",
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[
[
"これ何にするの、おばあさん。",
"玉子をやくのだよ。",
"こんなもので焼くの、おもしろいなあ。",
"これで玉子焼をこしらえてあげるが、食べるかい。",
"ああ。"
],
[
"でもこれはまだほんとうに出来上っていないんですからね、すっかり出来あがったら上げましょう。",
"だっていつのことだか知れないじゃないか、いいからそれをおくれよ。",
"だめですよ、まだ彩色もしてないし……",
"いいよ、彩色なんか僕自分でするから。",
"そんなわがままをおっしゃってはいけません。あなたに彩色ができるものですか。",
"できらい、できらい。おくれってばよう。"
]
] | 底本:「赤い鳥傑作集 坪田譲治編」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年6月25日発行
1974(昭和49)年9月10日29刷改版
1984(昭和59)年10月10日44刷
初出:「赤い鳥」大正10年3月号
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2001年3月28日公開
2001年4月2日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 | {
"作品ID": "002225",
"作品名": "祖母",
"作品名読み": "そぼ",
"ソート用読み": "そほ",
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"初出": "「赤い鳥」1921(大正10)年3月号",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2001-03-28T00:00:00",
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"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "坪田譲治編 赤い鳥傑作集",
"底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社",
"底本初版発行年1": "1955(昭和30)年6月25日、1974(昭和49)年9月10日29刷改版",
"入力に使用した版1": "1984(昭和59)年10月10日第44刷",
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} |
[
[
"ああ、ひろい田んぼが見えて、青青した空がながめられて、ひさしぶりでいい心持ちだ。わたしはここでしばらく日向ぼっこをしているから、そのあいだにお前はお社へおまいりしてくるといいよ",
"それでは、いそいで行ってまいります"
]
] | 底本:「むかし むかし あるところに」童話屋
1996(平成8)年6月24日初版発行
1996(平成8)年7月10日第2刷発行
底本の親本:「日本童話宝玉集(上中下版)」童話春秋社
1948(昭和23)~1949(昭和24)年発行
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2001年12月19日公開
2011年10月22日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "003389",
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"姓読み": "くすやま",
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"姓ローマ字": "Kusuyama",
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"没年月日": "1950-11-26",
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[
[
"それは聞いてあげまいものでもないが、いったいお前は何者だ。",
"わたくしは長年この湖の中に住んでいる龍王でございます。",
"ふん、龍王。するとさっき橋の上に寝ていたのはお前かね。",
"へい。",
"それで用というのは。",
"それはこうでございます。いったいわたくしはもう二千年の昔からこの湖の中に住んで、何不足なく暮らしていたものでございます。それがいつごろからかあのそれ、あちらに見えます三上山に、大きなむかでが来て住むようになりました。それがこのごろになって、この湖を時々荒らしにまいりまして、そのたんびにわたくしどもの子供を一人ずつさらって行くのです。どうかして敵を打ちたいと思いますが、何分向こうは三上山を七巻き半も巻くという大むかでのことでございますから、よし向かって行っても勝つ見込みがございません。そうかといって、このまま捨てておけば子供は残らず、わたくしまでもむかでに取られて、この湖の中に生きものの種が尽きてしまうでしょう。こうなると、もうなんでも強い人に加勢を頼むよりしかたがないと思いまして、この間から橋の上に寝て待っていたのでございます。けれどもみんなわたくしの姿を見ただけで逃げて行ってしまうのでございます。これでは世の中にほんとうに強い人というものはないものかと、じつはがっかりしておりました。それがただ今あなたにお目にかかることができて、こんなにうれしいことはございません。どうかわたくしたちのために、あのむかでを退治しては頂けますまいか。"
]
] | 底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018338",
"作品名": "田原藤太",
"作品名読み": "たわらとうだ",
"ソート用読み": "たわらとうた",
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"原題": "",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2003-10-29T00:00:00",
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"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
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"底本名1": "日本の英雄伝説",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月10日",
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} |
[
[
"そうです。わたくしどもは鬼の子孫です。",
"鬼ガ島なら、宝があるだろう。",
"むかしほんとうの鬼だった時分には、かくれみのだの、かくれがさだの、水の上を浮く靴だのというものがあったのですが、今では半分人間になってしまって、そういう宝もいつの間にかなくなってしまいました。",
"よその島へ渡ったことはないか。",
"むかしは船がなくっても、ずんずん、よその島へ行って、人をとったりしたこともありましたが、今では船もないし、たまによそから風にふきつけられてくる船があっても、波が荒いので、岸に上がろうとすると岩にぶつかって砕けてしまうのです。",
"何を食べて生きている。",
"魚と鳥を食べます。魚はひとりでに磯に上がって来ます。穴を掘ってその中にかくれて、鳥の声をまねていると、鳥はだまされて穴の中にとび込んで来ます。それをとって食べるのです。"
]
] | 底本:「日本の英雄伝説」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
※「鬼ガ島」の「ガ」は底本では小書きになっています。
入力:鈴木厚司
校正:今井忠夫
2004年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "018383",
"作品名": "鎮西八郎",
"作品名読み": "ちんぜいはちろう",
"ソート用読み": "ちんせいはちろう",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-02-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"人物ID": "000329",
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"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の英雄伝説",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月10日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年6月10日第1刷",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"おお、だれかと思ったらねずみか。その願いというのは何だな。",
"はい、和尚さまも御存じのとおり、このごろお上のお言いつけで、都の猫が残らず放し飼いになりましたので、罪のないわたくしどもの仲間で、毎日、毎晩、猫の鋭い爪さきにかかって命を落とすものが、どのくらいありますかわかりません。もう一日食べ物の無い穴の中に引っ込んだまま、おなかをへらして死ぬか、外に出て猫に食われるか、ほかにどうしようもございません。和尚さま、どうかおじひにもう一度猫をうちの中につなぐようにお上へお願い申し上げて下さいまし。今日はそのお願いに上がったのでございます。"
],
[
"猫のやつが和尚さんの所へ頼みに行ったそうだ。",
"和尚さんは猫に、ねずみの言うことは決して取り上げないと約束をなさったそうだ。",
"何でも猫は天竺の虎の子孫で、人間のために世界中の悪い獣を退治するんだといばっていたそうだ。"
],
[
"そうだ、それがいい、それがいい。",
"なあに、猫なんかちっともこわくないぞ。"
],
[
"何を、ねずみのくせに生意気なやつだ。",
"よし、残らずかかって来い。一ぺんにみんな食い殺してやるから。"
],
[
"これ、これ、お前たちもせっかくねずみたちがああ言うものだから、こんどはこれでがまんして、この先もうねずみをいじめないようにしておくれ。その代わりまた、ねずみが悪さをはじめたら、いつでも見つけ次第食い殺してもかまわない。どうだね、それで承知してくれるか。",
"よろしゅうございます。ねずみが悪ささえしなければ、わたくしどももがまんして、あわび貝でかつ節のごはんや汁かけ飯を食べて満足しています。"
],
[
"さあ、それでやっと安心した。ねずみは猫にはかなわないし、猫はやはり犬にはかなわない。上には上の強いものがあって、ここでどちらが勝ったところで、それだけでもう世の中に何もこわいものがなくなるわけではないし、世の中が自由になるものでもない。まあ、お互いに自分の生まれついた身分に満足して、獣は獣同士、鳥は鳥同士、人間は人間同士、仲よく暮らすほどいいことはないのだ。そのどうりが分かったら、さあ、みんなおとなしくお帰り、お帰り。",
"どうもありがとうございました。これからはもう咎のないねずみを取ることは、やめましょう。",
"そうです。わたくしどもも、けっしてよけいな人の物を取ったりなんかいたしません。"
]
] | 底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第14刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018380",
"作品名": "猫の草紙",
"作品名読み": "ねこのそうし",
"ソート用読み": "ねこのそうし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-09-02T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card18380.html",
"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の神話と十大昔話",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年5月10日",
"入力に使用した版1": "1992(平成4)年4月20日第14刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年5月10日第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
"校正者": "大久保ゆう",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/18380_ruby_12075.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-08-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/18380_12099.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-08-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"まあ、あなたよりもえらい方があるのですか。それはどなたでございますか。",
"それは雲さ。わたしがいくら空でかんかん照っていようと思っても、雲が出てくるともうだめになるのだからね。",
"なるほど。"
],
[
"雲さん、雲さん、あなたは世の中でいちばんえらいお方です。どうぞわたくしの娘をお嫁にもらって下さいまし。",
"それはありがたいが、世の中にはわたしよりもっとえらいものがあるよ。"
],
[
"まあ、あなたよりもえらい方があるのですか。それはどなたでございますか。",
"それは風さ。風に吹きとばされてはわたしもかなわないよ。",
"なるほど。"
],
[
"風さん、風さん、あなたは世の中でいちばんえらいお方です。どうぞわたくしの娘をお嫁にもらって下さいまし。",
"それはありがたいが、世の中にはわたしよりもっとえらいものがあるよ。"
],
[
"まあ、あなたよりもえらい方があるのですか。それはどなたでございますか。",
"それは、壁さ。壁ばかりはわたしの力でもとても、吹きとばすことはできないからね。",
"なるほど。"
],
[
"壁さん、壁さん、あなたは世の中でいちばんえらいお方です。どうぞうちの娘をお嫁にもらって下さいまし。",
"それはありがたいが、世の中にはわたしよりもっとえらいものがあるよ。"
],
[
"まあ、あなたよりもえらい方があるのですか。それはどなたでございますか。",
"それはだれでもない、そういうねずみさんさ。わたしがいくらまっ四角な顔をして、固くなって、がんばっていても、ねずみさんはへいきでわたしの体を食い破って、穴をあけて通り抜けていくじゃないか。だからわたしはどうしてもねずみさんにはかなわないよ。",
"なるほど。"
]
] | 底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第14刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018335",
"作品名": "ねずみの嫁入り",
"作品名読み": "ねずみのよめいり",
"ソート用読み": "ねすみのよめいり",
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"副題読み": "",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-08-26T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card18335.html",
"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の神話と十大昔話",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年5月10日",
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"テキストファイル最終更新日": "2003-08-02T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"頭が鉢で、体が人間のお化けが来た。",
"鉢のお化けだ。鉢のお化けだ。",
"お化けにしてはきれいな手足をしているぜ。"
]
] | 底本:「日本の古典童話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「日本童話寳玉集下卷」冨山房
1922(大正11)年4月10日発行
※表題は底本では、「鉢《はち》かつぎ」となっています。
入力:鈴木厚司
校正:officeshema
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050756",
"作品名": "鉢かつぎ",
"作品名読み": "はちかつぎ",
"ソート用読み": "はちかつき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-26T00:00:00",
"最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card50756.html",
"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の古典童話",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年6月10日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年6月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年6月10日第1刷",
"底本の親本名1": "日本童話寳玉集下卷",
"底本の親本出版社名1": "冨山房",
"底本の親本初版発行年1": "1922(大正11)年4月10日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
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"入力者": "鈴木厚司",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"やあ、たいへんだ。茶がまが化けた。",
"和尚さん、和尚さん。茶がまが歩き出しましたよ。"
],
[
"何だ。ばかなことを言うにもほどがある。",
"でもへんだなあ。たしかに歩いていたのに。"
],
[
"やあ、たいへん。茶がまが化けたぞ。",
"くず屋さん、そんなにおどろかないでもいいよ。",
"だっておどろかずにいられるものかい。茶がまに毛がはえて歩き出せば、だれだっておどろくだろうじゃないか。いったいお前は何だい。",
"わたしは文福茶がまといって、ほんとうはたぬきの化けた茶がまですよ。じつはある日野原へ出て遊んでいるところを五、六人の男に追いまわされて、しかたなしに茶がまに化けて草の中にころがっていると、またその男たちが見つけて、こんどは茶がまだ、茶がまだ、いいものが手に入った。これをどこかへ売りとばして、みんなでうまいものを買って食べようと言いました。それでわたしは古道具屋に売られて、店先にさらされて、さんざん窮屈な目にあいました。その上何も食べさせてくれないので、おなかがすいて死にそうになったところを、お寺の和尚さんに買われて行きました。お寺では、やっと手おけに一ぱいの水をもらって、一口にがぶ飲みしてほっと息をついたところを、いきなりいろりにのせられて、お尻から火あぶりにされたのにはさすがにおどろきました。もうもうあんな所はこりこりです。あなたは人のいい、しんせつな方らしいから、どうぞしばらくわたしをうちに置いて養って下さいませんか。きっとお礼はしますから。",
"うん、うん、置いてやるぐらいわけのないことだ。だがお礼をするってどんなことをするつもりだい。",
"へえ。見世物でいろいろおもしろい芸当をして見せて、あなたにたんとお金もうけをさせて上げますよ。",
"ふん、芸当っていったいどんなことをするのだい。",
"さあ、さし当たり綱渡りの軽わざに、文福茶がまの浮かれ踊りをやりましょう。もうくず屋なんかやめてしまって、見世物師におなんなさい。あしたからたんとお金がもうかりますよ。"
]
] | 底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第14刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018336",
"作品名": "文福茶がま",
"作品名読み": "ぶんぶくちゃがま",
"ソート用読み": "ふんふくちやかま",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2003-08-25T00:00:00",
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"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
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"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
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"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
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"底本出版社名2": "",
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} |
[
[
"おとうさん、いつお帰りになるのでしょうね。",
"まだ、たんと寝なければお帰りにはなりませんよ。",
"おかあさん、京都ってそんなに遠い所なの。",
"ええ、ええ、もうこれから百里の余もあって、行くだけに十日あまりかかって、帰りにもやはりそれだけかかるのですからね。",
"まあ、ずいぶん待ちどおしいのね。おとうさん、どんなおみやげを買っていらっしゃるでしょう。",
"それはきっといいものですよ。楽しみにして待っておいでなさい。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:佳代子
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "033214",
"作品名": "松山鏡",
"作品名読み": "まつやまかがみ",
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"分類番号": "NDC K913",
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"公開日": "2004-03-25T00:00:00",
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"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月10日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年4月10日第1刷",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
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[
[
"じゃあ、起きて外へ出て、しておいでなさい。",
"戸があきません。",
"にいさんにあけておもらいなさい。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
※底本の「物のいわれ(上)」「物のいわれ(下)」をひとつにまとめました。
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018390",
"作品名": "物のいわれ",
"作品名読み": "もののいわれ",
"ソート用読み": "もののいわれ",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-10-31T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月10日",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"おばあさん、今帰ったよ。",
"おや、おじいさん、おかいんなさい。待っていましたよ。さあ、早くお上がんなさい。いいものを上げますから。",
"それはありがたいな。何だね、そのいいものというのは。"
],
[
"ほほう、これはこれは。どこからこんなみごとな桃を買って来た。",
"いいえ、買って来たのではありません。今日川で拾って来たのですよ。",
"え、なに、川で拾って来た。それはいよいよめずらしい。"
],
[
"鬼が島へ、鬼せいばつに行くのだ。",
"お腰に下げたものは、何でございます。",
"日本一のきびだんごさ。",
"一つ下さい、お供しましょう。",
"よし、よし、やるから、ついて来い。"
],
[
"鬼が島へ鬼せいばつに行くのだ。",
"お腰に下げたものは、何でございます。",
"日本一のきびだんごさ。",
"一つ下さい、お供しましょう。",
"よし、よし、やるから、ついて来い。"
],
[
"鬼が島へ鬼せいばつに行くのだ。",
"お腰に下げたものは、何でございます。",
"日本一のきびだんごさ。",
"一つ下さい、お供しましょう。",
"よし、よし、やるから、ついて来い。"
]
] | 底本:「日本の神話と十大昔話」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年5月10日第1刷発行
1992(平成4)年4月20日第14刷発行
※「そのお城《しろ》のいちばん高《たか》い」「こうして何年《なんねん》も」の行頭が下がっていないのは底本のままです。
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年8月27日作成
2013年10月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "018376",
"作品名": "桃太郎",
"作品名読み": "ももたろう",
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"副題読み": "",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-09-02T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の神話と十大昔話",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年5月10日",
"入力に使用した版1": "1992(平成4)年4月20日第14刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年5月10日第1刷",
"底本の親本名1": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"なあに、それはわたしが雀を焼いて食べたからさ。",
"そうか。そんなら少し寝かしておくれ。あんまり駆けてくたびれた。",
"おばあさん、おばあさん。寝るのは石の櫃にしようか、木の櫃にしようか。",
"石の櫃はつめたいから、木の櫃にしようよ。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2006年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043462",
"作品名": "山姥の話",
"作品名読み": "やまうばのはなし",
"ソート用読み": "やまうはのはなし",
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"副題読み": "",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-11-16T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card43462.html",
"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月10日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年4月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年4月10日第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
"校正者": "土屋隆",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/43462_ruby_24174.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2006-09-21T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/43462_24407.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-09-21T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"それはどんな夢。",
"何でもわたしが野の中を歩いていると、いつの間にか頭の上に草が生えて、背中には雪が積もった。どうしたのかと思って、気持ちが悪いから、雪を払おうとすると、夢が覚めた。いったい何の知らせだろうか。気になってしかたがない。"
]
] | 底本:「日本の諸国物語」講談社学術文庫、講談社
1983(昭和58)年4月10日第1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:大久保ゆう
2003年9月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "033216",
"作品名": "夢占",
"作品名読み": "ゆめうら",
"ソート用読み": "ゆめうら",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-10-31T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/card33216.html",
"人物ID": "000329",
"姓": "楠山",
"名": "正雄",
"姓読み": "くすやま",
"名読み": "まさお",
"姓読みソート用": "くすやま",
"名読みソート用": "まさお",
"姓ローマ字": "Kusuyama",
"名ローマ字": "Masao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1884-11-04",
"没年月日": "1950-11-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の諸国物語",
"底本出版社名1": "講談社学術文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1983(昭和58)年4月10日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年4月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年4月10日第1刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "鈴木厚司",
"校正者": "大久保ゆう",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/33216_ruby_13243.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-09-29T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000329/files/33216_13255.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-09-29T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"うッふふ。――で、おめえ、どうしなすった。まさか、うしろを見せたんじゃなかろうの",
"ところが師匠、笑わねえでおくんなせえ。忠臣蔵の師直じゃねえが、あっしゃア急に命が惜しくなって、はばかりへ行くふりをしながら、褌もしずに逃げ出して来ちまったんで。……",
"何んだって。逃げて来たと。――",
"へえ、面目ねえが、あの体で責められたんじゃ命が保たねえような気がしやして。……",
"いい若え者が何て意気地のねえ話なんだ。どんな体で責められたか知らねえが、相手はたかが女じゃねえか。女に負けてのめのめ逃げ出して来るなんざ、当時彫師の名折ンなるぜ",
"ところが師匠、お前さんは相手を見ねえからそんな豪勢な口をききなさるが、さっきもいった通り、女はちょうど師匠が前に描きなすった、あの北国五色墨ン中の、てっぽうそっくりの体なんで。……",
"結構じゃねえか。てっぽうなんてものは、こっちから探しに行ったって、そうざらにあるもんじゃねえ。憂曇華の、めぐりあったが百年目、たとえ腰ッ骨が折れたからって、あとへ引くわけのもんじゃねえや。――この節の若え者は、なんて意気地がねえんだろうの"
],
[
"へえ。――",
"お前さん今夜ひとつ、おいらを、その陰女に会わせてくんねえな",
"何んですって、師匠"
],
[
"そう驚くにゃ当るまい。おいらを、お前さんの買った陰女に会わせてくれというだけの話じゃねえか",
"冗談いっちゃいけません。いくら何んだって師匠が陰女なんぞと。……",
"あッはッは。つまらねえ遠慮はいらねえよ。こっちが何様じゃあるめえし、陰女に会おうがどぶ女郎に会おうが、ちっとだって、驚くこたアありゃしねえ",
"それアそういやそんなもんだが、あんな女と会いなすったところで、何ひとつ、足しになりゃアしやせんぜ",
"足しになろうがなるめえがいいやな。おいらはただ、お前の敵を討ってやりさえすりゃ、それだけで本望なんだ",
"あっしの敵を討ちなさる。――冗、冗談いっちゃいけません。昔の師匠ならいざ知らず、いくら達者でも、いまどきあの女を、師匠がこなすなんてことが。――",
"勝負にゃならねえというんだの",
"お気の毒だが、まずなりやすまい",
"亀さん"
],
[
"へえ",
"何んでもいいから石町の六つを聞いたら、もう一度ここへ来てくんねえ。勝負にならねえといわれたんじゃ歌麿の名折だ。飽くまでその陰女に会って、お前の敵を討たにゃならねえ"
],
[
"師匠、そいつア本当でげすかい",
"念には及ばねえよ",
"これアどうも、飛んだことになっちまった"
],
[
"で、亀さん",
"へえ",
"女はいって、え、いくつなんだ",
"二十四だとか、五だとかいっておりやした",
"二十四五か。そいつアおつだの。男には年がねえが、女は何んでも三十までだ。さっきお前さんのいった北国五色墨の若鶴という女も、ちょうど二十五だったからの、うッふッふ"
],
[
"じゃア師匠、夢にもあっしの知合だなんてことは、いっちアいけやせんぜ。どこまでも笊屋の寅に聞いて来た、ということにしておくんなさらなきゃ。――",
"安心しねえ。お前のような弱虫の名前を出しちゃ、こっちの辱ンならア",
"ちぇッ、面白くもねえ。もとはといやア、あっしが負けて来たばっかりに、師匠の出幕になったんじゃござんせんか",
"いいから置いときねえ。敵はとってやる",
"長屋は奥から三軒目ですぜ",
"合点だ。名前はお近。――",
"おっと師匠、莨入が落ちやす"
],
[
"お近さんは留守かい",
"いやだよ。そんな大きな眼をしてながら、よく御覧なね。その屏風の向うに、芋虫のように寝てるじゃないか",
"芋虫。――うん、こいつア恐れ入った"
],
[
"お近さん",
"え。――"
],
[
"よく内にいたの",
"お前さん、誰さ",
"ゆうべおめえに可愛がってもらった、あの亀吉の伯父だ",
"え、あの人の伯父さんだって",
"そうよ。そんなにびっくりするにゃ当らねえ。なぜおれの甥を可愛がってくれたと、物言いをつけに来た訳でもなけりゃ、遊んだ銭を返してもらいに来た訳でもねえんだ。おまえに、ちっとばかり頼みがあって、わざわざ駐春亭の料理まで持って出かけて来たくれえだからの",
"おや、何んて酔狂な人なんだろう。あたしのような者に、頼みがあるなんて。――"
],
[
"おかしいか",
"そうさ。あたしゃお前さんが思ってるほど、頼りになる女じゃあないからねえ",
"うん、その頼りにならねえところを見込んで頼みに来たんだ。――それ、少ねえが、礼は先に出しとくぜ"
],
[
"どうだの。ひとつ、頼みを聞いちゃくれめえか",
"さアね。大籬の太夫衆がもらうような、こんな御祝儀を見せられちゃ、いやだともいえまいじゃないか。だがいったい、見ず知らずのお前さんの、頼みというのは何さ。あたしの体で間に合うことならいいが、観音様の坊さんを頼んで、鐘搗堂の鐘をおろして借りたいなんぞは、いくら御祝儀をもらっても、滅多に承知は出来ないからねえ",
"姐さん、おめえ、なかなか洒落者だの",
"おだてちゃいけないよ",
"おだてやしねえが、観音様の鐘は気に入った。だが、おいらの頼みはそんなんじゃねえ。観音様の鐘のように大きいおめえの体を、二時ばかりままにさせてもらいてえのよ",
"あたしの体を。――",
"そうだ。噂に違わず素晴らしいその鉄砲乳が無性に気に入ったんだ。年寄だけが不足だろうが、さりとて何も、おめえを抱いて寝ようというわけじゃねえ。ただおめえが、おいらのいう通りにさえなってくれりゃ、それでいいんだ。――どうだの、お近さん。ひとつ、色よい返事をしちゃアくれめえか"
],
[
"ほほほ。改まっていうから、どれほど難かしい頼みかと思ったら、いっそ気抜けがしちまったよ。二時でも三時でも、あたしの体で足りる用なら気のすむまで、ままにするがいいさ",
"うむ、そんなら、承知してくれるんだな",
"あいさ、承知はするよ。だがお前さん、抱いて寝ようというんでなけりゃ、どうする気なのさ。まさかあたしのこの乳を、切って取ろうというんじゃあるまいね",
"うふふ、つまらぬえ心配はしなさんな。命に別条はありゃアしねえ。ただおめえに、そのまま真ッ裸になってもらいてえだけさ",
"ええ裸になる。――",
"きまりが悪いか。今更きまりが悪いもなかろう。――十年振りで、おまえのような体の女に巡り合ったは天の佑け、思う存分、その体を撫で廻しながら、この紙に描かしてもらいてえのが、おいらの頼みだ",
"そんならお前さんは、絵師さんかえ",
"まアそんなものかも知れねえ",
"面白くもない人が飛込んで来たもんだねえ。あたしの体は枕絵のお手本にゃならないから、いっそ骨折損だよ"
],
[
"あッ。――",
"まア待ちねえ。逃げるにゃ及ばねえ",
"へえ。――"
],
[
"つね。おもての雨戸の心張を、固くして、誰が来ても、決して開けちゃならねえぞ",
"はい",
"酒だ。それから、速く床をひいてくんねえ"
],
[
"大層お早くから、どんな御用で。――",
"歌麿さん"
],
[
"へえ",
"お前さん、お気の毒だが、これから直ぐに、わたしと一緒にお奉行所まで、行ってもらわにゃならねえんだが。……",
"奉行所へ",
"うむ",
"何かの証人にでも招ばれますんで。――",
"ところが、そうでないんだ。お前さんのことで、今朝方、自身番から差紙が来たんだ",
"え、あっしのことで。――"
],
[
"名主さんや月番の人達も、みんなもう、自身番で待ってなさる。どんな御用でお前さんが招ばれるのか、そいつはわたし達にも判らないが、お上からのお呼び出しだとなりゃア、どうにも仕方がない。お気の毒だが、早速支度をして、わたしと一緒に行っておくんなさい",
"――――",
"外のことと違って、行きにくいのはお察しするが、どうもこればかりは素直に行ってもらわねえじゃア。……",
"へえ。――"
],
[
"どなただか知らねえが、初めての方なら、病気だといって、お断りしねえ",
"ですがお師匠さん、お客様は割下水のお旗本、阪上主水様からの、急なお使いだとおっしゃいますよ",
"なに、お旗本のお使いだと",
"そうでござんすよ。是非ともお目に掛って、お願いしたいことがあるとおっしゃって。……",
"どういう御用か知らねえが、お旗本のお使いならなおのこと、こんな態じゃお目に掛れねえ。――御無礼でござんすが、ふせっておりますからと申上げて、お断りしねえ"
],
[
"あたしでござんす。おきたでござんす",
"え。――"
],
[
"おお、おきたさんか。――ここへ何しに来なすった",
"何しにはお情ない。お見舞に伺ったのでござんす"
],
[
"お旗本のお使いと聞いたから、滅多に粗相があっちゃならねえと思って断らせたんだが、なぜまともに、おきただといいなさらねえんだ",
"そういったら、お師匠さんは、会ってはおくんなさいますまい。――永い間の御親切を無にして仇し男と、甲州くんだりまで逃げ出した挙句、江戸へ戻れば、阪上様のお屋敷奉公。さぞ憎い奴だと思し召したでござんしょう。――ですがお師匠さん。おきたの心は、やっぱり昔のままでござんす。ふとしたことから、お前さんの今度の災難を聞きつけましたが、そうと聞いては矢も楯も堪らず、お目に掛れる身でないのを知りながら、お面を被ってお訪ねしました。――ほんに飛んだ御難儀、お腰などおさすりしたい心でござんす"
],
[
"お師匠さん",
"――",
"お前さんは、殿様のお世話になっているあたしが、怖くおなりでござんすか",
"そうかも知れねえ。おれアもうお侍と聞くと眼の前が真暗になるような気がする",
"おほほほ、弱いことをおっしゃるじゃござんせんか。そのような楽な手錠なら、はめていないも同じこと、あたしが外して上げましょうから、いっそさっぱりと。……"
],
[
"あ、いけねえ",
"そんな野暮な遠慮は、江戸じゃ流行りませんよ"
],
[
"お痛うござんすか",
"――",
"何かお薬でも。……"
],
[
"師匠",
"えッ"
],
[
"おつねさん。師匠はまだ、なかなか起きそうにもねえから、あっしゃ一寸並木まで、用達に行って来るぜ",
"亀さんにも似合わない、お師匠さんが、こんなに早くお起きなさらないのは、知れきってるじゃないか",
"知っちゃアいるが、今朝ばかりは、別だろうと思ってよ",
"そんなことがあるものかね。大きな声じゃいえないが、ゆうべは何か変ったことでもあったと見えて、夢中で駈込んでくると、そのままあたしに床を取らせて寝ておしまいなんだもの。そう早く起きなさるわけはありやしないよ",
"ふん、だからよ。だからその変ったことのいきさつを、ゆっくり師匠に訊きてえんだ。――まあいいや。半時ばかりで帰って来るから、よろしくいっといてくんねえ"
]
] | 底本:「歴史小説名作館8 泰平にそむく」講談社
1992(平成4)年7月20日第1刷発行
初出:「面白倶楽部」光文社
1948(昭和23)年4月号
入力:大野晋
校正:noriko saito
2008年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "047513",
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[
"おッとッとッと。そう乗出しちゃいけない。垣根がやわだ。落着いたり、落着いたり",
"ふふふ。あわててるな若旦那、あっしよりお前さんでげしょう",
"叱ッ、静かに。――",
"こいつァまるであべこべだ。どっちが宰領だかわかりゃァしねえ"
],
[
"まだかの",
"まだでげすよ",
"じれッてえのう、向う臑を蚊が食いやす",
"御辛抱、御辛抱。――"
],
[
"松つぁん",
"へえ",
"たしかにここに、間違いはあるまいの",
"冗談じゃござんせんぜ、若旦那。こいつを間違えたんじゃ、松五郎めくら犬にも劣りやさァ",
"だってお前、肝腎の弁天様は、かたちどころか、影も見せやしないじゃないか",
"御辛抱、御辛抱、急いちゃァ事を仕損じやす",
"ここへ来てから、もう半時近くも経ってるんだよ。それだのにお前。――",
"でげすから、あっしは浅草を出る時に、そう申したじゃござんせんか。松の位の太夫でも、花魁ならば売り物買い物。耳のほくろはいうに及ばず、足の裏の筋数まで、読みたい時に読めやすが、きょうのはそうはめえりやせん。半時はおろか、事によったら一時でも二時でも、垣根のうしろにしゃがんだまま、お待ちンならなきゃいけませんと、念をお押し申した時に、若旦那、あなたは何んと仰しゃいました。当時、江戸の三人女の随一と名を取った、おせんの肌が見られるなら、蚊に食われようが、虫に刺されようが、少しも厭うことじゃァない、好きな煙草も慎むし、声も滅多に出すまいから、何んでもかんでもこれから直ぐに連れて行け。その換りお礼は二分まではずもうし、羽織もお前に進呈すると、これこの通りお羽織まで下すったんじゃござんせんか。それだのに、まだほんの、半時経つか経たないうちから、そんな我儘をおいいなさるんじゃ、お約束が違いやす。頂戴物は、みんなお返しいたしやすから、どうか松五郎に、お暇をおくんなさいやして。……",
"おっとお待ち。あたしゃ何も、辛抱しないたいやァしないよ。ええ、辛抱しますとも、夜中ンなろうが、夜が明けようが、ここは滅多に動くンじゃないけれど、お前がもしか門違いで、おせんの家でもない人の……",
"そ、それがいけねえというんで。……いくらあっしが酔狂でも、若旦那を知らねえ家の垣根まで、引っ張って来る筈ァありませんや。松五郎自慢の案内役、こいつばかりゃ、たとえ江戸がどんなに広くッても――",
"叱ッ",
"うッ"
],
[
"南無大願成就。――",
"叱ッ"
],
[
"若旦那",
"黙って。――",
"黙ってじゃァござんせん。もっと低くおなんなすって。――",
"判ってるよ",
"そんならお速く",
"ええもういらぬお接介。――"
],
[
"あッ",
"たッ"
],
[
"おせんや",
"あい",
"何んだえ、いまのあの音は。――",
"さァ、何んでござんしょう。おおかた金魚を狙う、泥棒猫かも知れませんよ",
"そんならいいが、あたしゃまたおまえが転びでもしたんじゃないかと思って、びっくりしたのさ。おまえあって、あたし、というより、勿体ないが、おまえあってのお稲荷様、滅多に怪我でもしてごらん、それこそ御参詣が、半分に減ってしまうだろうじゃないか。――縹緻がよくって孝行で、その上愛想ならとりなしなら、どなたの眼にも笠森一、お腹を痛めた娘を賞める訳じゃないが、あたしゃどんなに鼻が高いか。……",
"まァお母さん。――",
"いいやね。恥かしいこたァありゃァしない。子を賞める親は、世間には腐る程あるけれど、どれもこれも、これ見よがしの自慢たらたら。それと違ってあたしのは、おまえに聞かせるお礼じゃないか。さ、ひとつついでに、背中を流してあげようから、その手拭をこっちへお出し",
"いいえ、汗さえ流せばようござんすから……",
"何をいうのさ。いいからこっちへお向きというのに"
],
[
"おせん",
"あい",
"つかぬことを訊くようだが、おまえ毎日見世へ出ていて、まだこれぞと思う、好いたお方は出来ないのかえ",
"まあ何かと思えばお母さんが。――あたしゃそんな人なんか、ひとりもありァしませんよ",
"ほほほほ。お怒りかえ",
"怒りゃしませんけれど、あたしゃ男は嫌いでござんす",
"なに、男は嫌いとえ",
"あい",
"ほんにまァ。――"
],
[
"若旦那",
"何んとの",
"何んとの、じゃァござんせんぜ。あの期に及んで、垣根へ首を突込むなんざ、情なすぎて、涙が出るじゃァござんせんか",
"おやおや、これはけしからぬ。お前が腰を押したからこそ、あんな態になったんじゃないか、それを松つぁん、あたしにすりつけられたんじゃ、おたまり小法師がありゃァしないよ",
"あれだ、若旦那。あっしゃァ後にいたんじゃねえんで。若旦那と並んで、のぞいてたんじゃござんせんか。腰を押すにも押さないにも、まず、手が届きゃァしませんや。――それにでえいち、あの声がいけやせん。おせんの浴衣が肩から滑るのを、見ていなすったまでは無事でげしたが、さっと脱いで降りると同時に、きゃっと聞こえた異様な音声。差し詰志道軒なら、一天俄にかき曇り、あれよあれよといいもあらせず、天女の姿は忽ちに、隠れていつか盥の中。……",
"おいおい松つぁん。いい加減にしないか。声を出したなお前が初めだ",
"おやいけねえ。いくら主と家来でも、あっしにばかり、罪をなするなひどうげしょう",
"ひどいことがあるもんか。これからゆっくりかみしめて、味を見ようというところで、お前に腰を押されたばっかりに、それごらん、手までこんなに傷だらけだ",
"そんならこれでもお付けなんって。……おっとしまった。きのうかかあが洗ったんで、まるっきり袂くそがありゃァしねえ",
"冗談いわっし、お前の袂くそなんぞ付けられたら、それこそ肝腎の人さし指が、本から腐って落ちるわな",
"あっしゃァまだ瘡気の持合せはござせんぜ",
"なにないことがあるものか。三日にあげず三枚橋へ横丁へ売女を買いに出かけてるじゃないか。――鼻がまともに付いてるのが、いっそ不思議なくらいなものだ",
"こいつァどうも御挨拶だ。人の知らない、おせんの裸をのぞかせた挙句、鼻のあるのが不思議だといわれたんじゃ、松五郎立つ瀬がありやせん。冗談は止しにして、ひとつ若旦那、縁起直しに、これから眼の覚めるとこへ、お供をさせておくんなさいまし",
"眼の覚めるとことは。――",
"おとぼけなすっちゃいけません。闇の夜のない女護ヶ島、ここから根岸を抜けさえすりゃァ、眼をつぶっても往けやさァね",
"折角だが、そんな所は、あたしゃきょうから嫌いになったよ",
"なんでげすって",
"橘屋徳太郎、女房はかぎ屋のおせんにきめました",
"と、とんでもねえ、若旦那。おせんはそんななまやさしい。――",
"おっと皆までのたまうな。手前、孫呉の術を心得て居りやす",
"損五も得七もありゃァしません。当時名代の孝行娘、たとい若旦那が、百日お通いなすっても、こればっかりは失礼ながら、及ばぬ鯉の滝登りで。……",
"松っぁん",
"へえ",
"帰っとくれ",
"えッ",
"あたしゃ何んだか頭痛がして来た。もうお前さんと、話をするのもいやンなったよ",
"そ、そんな御無態をおいいなすっちゃ。――",
"どうせあたしゃ無態さ。――この煙草入もお前に上げるから、とっとと帰ってもらいたいよ"
],
[
"おいおい松つぁん",
"えッ",
"はッはッは。何をぶつぶついってるんだ。三日月様が笑ってるぜ",
"お前さんは。――",
"おれだよ。春重だよ"
],
[
"なァんだ、春重さんかい。今時分、一人でどこへ行きなすった",
"一人でどこへは、そっちより、こっちで訊きたいくらいのもんだ。――お前、橘屋の徳さんにまかれたな",
"まかれやしねえが、どうしておいらが、若旦那と一緒だったのを知ってるんだ",
"ふふふ。平賀源内の文句じゃねえが、春重の眼は、一里先まで見透しが利くんだからの。お前が徳さんとこで会って、どこへ行ったかぐらいのこたァ、聞かねえでも、ちゃんと判ってらァな",
"おやッ、行った先が判ってるッて",
"その通りだ、当てやろうか",
"冗談じゃねえ、いくらお前さんの眼が利いたにしたって、こいつが判ってたまるもんか。断っとくが、当時十六文の売女なんざ、買いに行きゃァしねえよ",
"だが、あのざまは、あんまり威張れもしなかろう",
"あのざまたァ何よ",
"垣根へもたれて、でんぐる返しを打ったざまだ",
"何んだって",
"おせんの裸を窺こうッてえのは、まず立派な智恵だがの。おのれを忘れて乗出した挙句、垣根へ首を突っ込んだんじゃ、折角の趣向も台なしだろうじゃねえか",
"そんなら重さん、お前さんはあの様子を。――",
"気の毒だが、根こそぎ見ちまったんだ",
"どこで見なすった",
"知れたこった。庭の中でよ",
"庭の中",
"おいらァ泥棒猫のように、垣根の外でうろうろしちゃァいねえからの。――それ見な。鬼童丸の故智にならって、牛の生皮じゃねえが、この犬の皮を被っての、秋草城での籠城だ。おかげで画嚢はこの通り。――"
],
[
"重さん、お前、相変らず素ばしっこいよ",
"なんでよ",
"犬の皮をかぶって、おせんの裸を思う存分見た上に写し取って来るなんざ、素人にゃ、鯱鉾立をしても、考えられる芸じゃねえッてのよ",
"ふふふ、そんなこたァ朝飯前だよ。――おいらぁ実ァ、もうちっといいことをしてるんだぜ",
"ほう、どんなことを",
"聞きてえか",
"聞かしてくんねえ",
"ただじゃいけねえ、一朱だしたり",
"一朱は高えの",
"なにが高えものか。時によったら、安いくらいのもんだ。――だがきょうは見たところ、一朱はおろか、財布の底にゃ十文もなさそうだの",
"けちなことァおいてくんねえ。憚ンながら、あしたあさまで持越したら、腹が冷え切っちまうだろうッてくれえ、今夜は財布が唸ってるんだ",
"それァ豪儀だ。ついでだ、ちょいと拝ませな",
"ふん、重さん。眼をつぶさねえように、大丈夫か",
"小判の船でも着きゃしめえし、御念にゃ及び申さずだ"
],
[
"どうだ、親方",
"ほう、こいつァ珍しい。どこで拾った",
"冗談いわっし。当節銭を落す奴なんざ、江戸中尋ねたってあるもんじゃねえ。稼えだんだ",
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"はんははんだが、字が違うやつよ。ゆうべお旗本の蟇本多の部屋で、半を続けて三度張ったら、いう目が出ての俄分限での、急に今朝から仕事をするのがいやンなって、天道様がべそをかくまで寝てえたんだが蝙蝠と一緒に、ぶらりぶらりと出たとこを、浅草でばったり出遭ったのが若旦那。それから先は、お前さんに見られた通りのあの始末だ。――",
"そいつァ夢に牡丹餅だの。十文と踏んだ手の内が、三両だとなりゃァ一朱はあんまり安過ぎた。三両のうちから一朱じゃァ、髪の毛一本、抜くほどの痛さもあるまいて",
"こいつァ今夜のもとでだからの",
"そんなら止しなっ聞しちゃやらねえ",
"聞かせねえ",
"だすか",
"仕方がねえ、出しやしょう"
],
[
"耳をかしな",
"こうか",
"――",
"ふふ、ほんとうかい。重さん。――",
"嘘はお釈迦の御法度だ"
],
[
"なんだい",
"なんだかよく見さっし"
],
[
"こいつァ重さん、糠袋じゃァねえか",
"まずの",
"一朱はずんで、糠袋を見せてもらうどじはあるめえぜ。――お前いまなんてッた。おせんの雪のはだから切り取った、天下に二つと無え代物を拝ませてやるからと。――",
"叱ッ、極内だ",
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"袋じゃねえよ。おいらの見せるなこの中味だ。文句があるンなら、拝んでからにしてくんな。――それこいつだ。触った味はどんなもんだの"
],
[
"開けて見せねえ",
"拝みたけりゃ拝ませる。だが一つだって分けちゃァやらねえから、そのつもりでいてくんねえよ"
],
[
"こいつァ重さん。――",
"爪だ",
"ちぇッ",
"おっとあぶねえ。棄てられて堪るものか。これだけ貯めるにゃ、まる一年かかってるんだ"
],
[
"重さん、お前まったく変り者だの",
"なんでよ",
"考えても見ねえ。これが金の棒を削った粉とでもいうンなら、拾いがいもあろうけれど、高が女の爪だぜ。一貫目拾ったところで、瘭疽の薬になるくれえが、関の山だろうじゃねえか。よく師匠も、春重は変り者だといってなすったが、まさかこれ程たァ思わなかった",
"おいおい松つぁん、はっきりしなよ。おいらが変り者じゃァねえ。世間の奴らが変ってるんだ。それが証拠にゃ。願にかけておせんの茶屋へ通う客は山程あっても、爪を切るおせんのかたちを、一度だって見た男は、おそらく一人もなかろうじゃねえか。――そこから生れたこの爪だ"
],
[
"おたき",
"え",
"隣じゃまた、いつもの病が始まったらしいぜ。何しろあの匂じゃ、臭くッてたまらねえな",
"ほんとうに、何んて因果な人なんだろうね。顔を見りゃ、十人なみの男前だし絵も上手だって話だけど、してることは、まるッきり並の人間と変ってるんだからね",
"おめえ。ちょいと隣へ行って来ねえ",
"何しにさ",
"夜のこたァ、こっちが寝てるうちだから、何をしても構わねえが、お天道様が、上ったら、その匂だけに止めてもらいてえッてよ。仕事に行ったって、えたいの知れぬ匂が、半纏にまでしみ込んでるんで、外聞が悪くッて仕様がありやァしねえ",
"女じゃ駄目だよ。お前さん行って、かけ合って来とくれよ",
"だからね。おいらァ行くな知ってるが、今もそいった通り、帳場へ出かけてからがみっともなくて仕様がねえんだ。あんな匂の中へ這入っちゃいかれねえッてのよ",
"あたしだっていやだよ。まるで焼場のような匂だもの。きのうだって、髪結のおしげさんがいうじゃァないか。お上さんとこへ結いに行くのもいいけれど、お隣の壁越しに伝わってくる匂をかぐと、仏臭いような気がしてたまらないから、なるたけこっちへ、出かけて来てもらいたいって。――いったいお前さん、あれァ何を焼く匂だと思ってるの",
"分ってらァな",
"何んだえ",
"奴ァ絵かきッて振れ込みだが、嘘ッ八だぜ",
"おや、絵かきじゃないのかい",
"そうとも。奴ァ雪駄直しだ",
"雪駄直し。――",
"それに違えねえやな。でえいち、外にあんな匂をさせる家業が、ある筈はなかろうじゃねえか。雪駄の皮を、鍋で煮るんだ。軟らかにして、針の通りがよくなるようによ",
"そうかしら",
"しらも黒もありァしねえ。それが為に、忙しい時にゃ、夜ッぴて鍋をかけッ放しにしとくから、こっちこそいい面の皮なんだ。――この壁ンところ鼻を当てて臭いで見ねえ。火事場で雪駄の焼け残りを踏んだ時と、まるッきり変りがねえじゃねえか",
"あたしゃもう、ここにいてさえ、いやな気持がするんだから、そんなとこへ寄るなんざ、真ッ平よ。――ねえお前さん。後生だから、かけ合って来とくれよ",
"おめえ行って来ねえ",
"女じゃ駄目だというのにさ",
"男が行っちゃァ、穏やかでねえから、おめえ行きねえッてんだ",
"だって、こんなこたァ、どこの家だって、みんな亭主の役じゃないか",
"おいらァいけねえ",
"なんて気の弱い人なんだろう",
"臭えからいやなんだ",
"お前さんより、女だもの。あたしの方が、どんなにいやだか知れやしない。――昔ッから、公事かけ合は、みんな男のつとめなんだよ",
"ふん。昔も今もあるもんじゃねえ。隣近所のこたァ、女房がするに極ッてらァな。行って、こっぴどくやっ付けて来ねえッてことよ"
],
[
"おかしいな。いねえはずァねえんだが。――あかりをつけて寝てるなんざ、どっちにしても不用心だぜ。おいらだよ。松五郎様の御登城だよ",
"もし、親方"
],
[
"ねえお上さん。ここの家ァ留守でげすかい。寝てるんだか留守なんだか、ちっともわからねえ",
"いますともさ。だが親方、悪いこたァいわないから、滅多に戸を開けるなァお止しなさいよ。そこを開けた日にゃ、それこそ生皮の匂で、隣近所は大迷惑だわな",
"生皮の匂ってななんだの、お上さん",
"おや、親方にゃこの匂がわからないのかい。このたまらないいやな匂が。……",
"判らねえこたァねえが、こいつァおまえ、膠を煮てる匂だわな",
"冗談じゃない。そんな生やさしいもんじゃありゃァしない。お鍋を火鉢へかけて、雪駄の皮を煮てるんだよ。今もうちで、絵師なんて振れ込みは、大嘘だって話を。……"
],
[
"お早よう",
"お早ようじゃねえや。何んだって松つぁんこんな早くッからやって来たんだ",
"早えことがあるもんか。お天道様は、もうとっくに朝湯を済まして、あんなに高く昇ってるじゃねえか。――いってえ重さん。おめえ、寝てえたんだか起きてたんだか、なぜ返事をしてくれねえんだ",
"返事なんざ、しちゃァいられねえよ。――いいからこっちへ這入ンねえ"
],
[
"へえってもいいかい",
"帰るんなら帰ンねえ",
"いやにおどかすの",
"振られた朝帰りなんぞに寄られちゃ、かなわねえ",
"ふふふ。振られてなんざ来ねえよ。それが証拠にゃ、いい土産を持って来た",
"土産なんざいらねえから、そこを締めたら、もとの通り、ちゃんと心張棒をかけといてくんねえ",
"重さん、おめえまだ寝るつもりかい",
"いいから、おいらのいった通りにしてくんねえよ"
],
[
"松つぁん、何んで上らねえんだ",
"暗くって、足もとが見えやしねえ",
"不自由な眼だの。そんなこっちゃ、面白い思いは出来ねえぜ",
"重さん、おめえ、ずっと起きて何をしてなすった",
"ふふふ。こっちへ上りゃァ、直ぐに判るこッた。――まァこの行燈の傍へ来て見ねえ"
],
[
"絵をかいてたんじゃねえのかい",
"絵なんざかいちゃァいねえよ。――おめえにゃ、この匂がわからねえかの",
"膠だな",
"ふふ、膠は情ねえぜ",
"じゃァやっぱり、牛の皮でも煮てるのか",
"馬鹿をいわッし。おいらが何んで、牛の皮に用があるんだ。もっともこの薬罐の傍へ鼻を押ッつけて、よく嗅いで見ねえ",
"おいらァ、こんな匂は真ァ平だ",
"何んだって。この匂がかげねえッて。ふふふ。世の中にこれ程のいい匂は、またとあるもんじゃねえや、伽羅沈香だろうが、蘭麝だろうが及びもつかねえ、勿体ねえくれえの名香だぜ。――そんな遠くにいたんじゃ、本当の香りは判らねえから、もっと薬罐の傍に寄って、鼻の穴をおッぴろげて嗅いで見ねえ",
"いってえ、何を煮てるのよ",
"江戸はおろか、日本中に二つとねえ代物を煮てるんだ",
"おどかしちゃいけねえ。そんな物がある訳はなかろうぜ",
"なにねえことがあるものか。――それ見ねえ。おめえ、この袋にゃ覚えがあろう"
],
[
"あッ。そいつを。……",
"どうだ。おせんの爪だ。この匂を嫌うようじゃ、男に生れた甲斐がねえぜ",
"重さん。おめえは、よっぽどの変り者だのう"
],
[
"変り者じゃァねえ。そういうおめえの方が、変ってるんだ。――四角四面にかしこまっているお武家でも、男と生れたからにゃ、女の嫌いな者ッ、ただの一人もありゃァしめえ。その万人が万人、好きで好きでたまらねえ女の、これが本当の匂だろうじゃねえか。成る程、肌の匂もある。髪の匂もある。乳の匂もあるにァ違えねえ。だが、その数ある女の匂を、一つにまとめた有難味の籠ったのが、この匂なんだ。――三浦屋の高尾がどれほど綺麗だろうが、楊枝見世のお藤がどんなに評判だろうが、とどのつまりは、みめかたちよりは、女の匂に酔って客が通うという寸法じゃねえか。――よく聞きなよ。匂だぜ。このたまらねえいい匂だぜ",
"冗談じゃねえ。おいらァいくら何んだって、こんな匂をかぎたくッて、通うような馬鹿気たこたァ。……",
"あれだ。おめえにゃまだ、まるッきり判らねえと見えるの。こいつだ。この匂が、嘘も隠しもねえ、女の匂だってんだ",
"馬鹿な、おめえ。――",
"そうか。そう思ってるんなら、いまおめえに見せてやる物がある。きっとびっくりするなよ"
],
[
"いたずらじゃねえよ。油が切れちゃったんだ",
"油が切れたッて。そんなら、行燈のわきに、油差と火口がおいてあるから、速くつけてくんねえ",
"どこだの",
"行燈の右手だ"
],
[
"速くしてもらいてえの",
"いまつける"
],
[
"松つぁん。おめえ本当に、女の匂は、麝香の匂だと思ってるんだの",
"そりゃァそうだ。こんな生皮のような匂が女の匂でたまるもんか",
"そうか。じゃァよくわかるように、こいつを見せてやる"
],
[
"あッ",
"気味の悪いもんじゃねえよ。よく手に取って、その匂を嗅いで見ねえ"
],
[
"これァ重さん、髪の毛じゃねえか",
"その通りだ",
"こんなものを、おめえ。……",
"ふふふ、気味が悪いか。情ねえ料簡だの、爪の匂がいやだというから、そいつを嗅がせてやるんだが、これだって、髢なんぞたわけが違って、滅多矢鱈に集まる代物じゃァねえんだ。数にしたら何万本。しかも一本ずつがみんな違った、若い女の髪の毛だ。――その中へ黙って顔を埋めて見ねえ。一人一人の違った女の声が、代り代りに聞えて来る。この世ながらの極楽だ。上はお大名のお姫様から、下は橋の下の乞食まで、十五から三十までの女と名のつく女の髪は、ひと筋残らずはいってるんだぜ。――どうだ松つぁん。おいらァ、この道へかけちゃ、江戸はおろか、蝦夷長崎の果へ行っても、ひけは取らねえだけの自慢があるんだ。見ねえ、髪の毛はこの通り、一本残らず生きてるんだから。……"
],
[
"重さん。おれァ帰る",
"帰るンなら、せめて匂だけでも嗅いできねえ"
],
[
"どうした、兄ィ",
"おおこりゃ松住町",
"松住町じゃねえぜ。朝っぱらから、素人芝居の稽古でもなかろう。いい若え者がひとり言をいってるなんざ、みっともねえじゃねえか"
],
[
"みっともねえかも知れねえが、あれ程たァ思わなかったからよ",
"何がよ",
"春重だ",
"春重がどうしたッてんだ",
"どうもこうもねえが、あいつァおめえ、日本一の変り者だぜ",
"春重の変り者だってこたァ、いつも師匠がいってるじゃねえか。今さら変り者ぐれえに、驚くおめえでもなかろうによ",
"うんにゃ、そうでねえ。ただの変り者なら、おいらもこうまじゃ驚かねえが、一晩中寝ずに爪を煮たり、束にしてある女の髪の毛を、一本一本しゃぶったりするのを見ちゃァいくらおいらが度胸を据えたって。……",
"爪を煮るたァ、そいつァいってえ何んのこったい",
"薬罐に入れて、女の爪を煮るんだ",
"女の爪を煮る。――",
"そうよ。おまけにこいつァ、ただの女の爪じゃァねえぜ。当時江戸で、一といって二と下らねえといわれてる、笠森おせんの爪なんだ",
"冗談じゃねえ。おせんの爪が、何んで煮る程取れるもんか、おめえも人が好過ぎるぜ。春重に欺されて、気味が悪いの恐ろしいのと、頭を抱えて帰ってくるなんざ、お笑い草だ。おおかた絵を描く膠でも煮ていたんだろう。そいつをおめえが間違って。……",
"そ、そんなんじゃねえ。真正間違いのねえおせんの爪を紅の糠袋から小出しに出して、薬罐の中で煮てるんだ。そいつも、ただ煮てるんならまだしもだが、薬罐の上へ面を被せて、立昇る湯気を、血相変えて嗅いでるじゃねえか。あれがおめえ、いい心持で見ていられるか、いられねえか、まず考えてくんねえ",
"そいつを嗅いで、どうしようッてんだ",
"奴にいわせると、あのたまらなく臭え匂が本当の女の匂だというんだ。嘘だと思ったら、論より証拠、春重の家へ行って見ねえ。戸を締め切って、今が嬉しがりの真ッ最中だぜ"
],
[
"隠れるこたぁなかろう",
"そうでねえ。おいらは今逃げて来たばかりだからの。見付かっちァことだ",
"そんなら、そっちへ引っ込んでるがいい。もののついでに、おれがひとつ、鎌をかけてやるから。――"
],
[
"大丈夫かの",
"叱ッ。そこへ来たぜ"
],
[
"八つぁんか",
"八つぁんじゃねえぜ、一ぺえやったようないい顔色をして、どこへ行きなさる",
"柳湯への",
"朝湯たァしゃれてるの",
"しゃれてる訳じゃねえが、寝ずに仕事をしてたんで、湯へでも這入らねえことにゃ、はっきりしねえからよ",
"ふん、夜なべたァ恐れ入った。そんなに稼いじゃ、銭がたまって仕方があるめえ",
"だからよ。だから垢と一緒に、柳湯へ捨てに行くところだ",
"ほう、済まねえが、そんな無駄な銭があるんなら、ちとこっちへ廻して貰いてえの。おれだの松五郎なんざ、貧乏神に見込まれたせいか、いつもぴいぴい風車だ。そこへ行くとおめえなんざ、おせんの爪を糠袋へ入れて。……",
"なんだって八つぁん、おめえ夢を見てるんじゃねえか。爪だの糠袋だの、とそんなことァ、おれにゃァてんで通じねえよ",
"えええ隠しちゃァいけねえ。何から何まで、おれァ根こそぎ知ってるぜ",
"知ってるッて。――",
"知らねえでどうするもんか。重さん、おめえの夜あかしの仕事は、銭のたまる稼ぎじゃなくッて、色気のたまる楽しみじゃねえか",
"そ、そんなことが。……",
"嘘だといいなさるのかい。証拠はちゃんと上ってるんだぜ。おせんの爪を煮る匂は、さぞ香ばしくッて、いいだろうの",
"そいつを、おめえは誰から聞きなすった",
"誰から聞かねえでも、おいらの眼は見透しだて。――人間は、四百四病の器だというが、重さん、おめえの病は、別あつらえかも知れねえの"
],
[
"ちょいと家へ寄らねえか。おもしろい物を見せるぜ",
"折角だが、寄ってる暇がねえやつさ。これから大急ぎで、おせんの見世まで行かざァならねえんだ",
"おせんの見世へ行くッて、何んの用でよ",
"何んの用だか知らねえが、春信師匠が、急に用ありとのことでの"
],
[
"おッとッと、そう一人で急いじゃいけねえ。まず御手洗で手を浄めての。肝腎のお稲荷さんへ参詣しねえことにゃ、罰が当って眼がつぶれやしょう",
"いかさまこれは早まった。こかァ笠森様の境内だったッけの",
"冗談じゃごわせん。そいつを忘れちゃ、申訳がありますめえ。――それそれ、何んでまた、洗った手を拭きなさらねえ。おせんは逃げやしねえから、落着いたり、落着いたり",
"御隠居、そうひやかしちゃいけやせん。堪忍堪忍",
"はッはッはッ、徳さん。お前の足ッ、まるッきり、地べたを踏んじァいねえの"
],
[
"はいお早う",
"ああ喉がかわいた"
],
[
"いらっしゃいまし。お早くからようこそ御参詣で。――",
"茶をひとつもらいましょう",
"はい、唯今"
],
[
"おかしいの。居りやせんぜ",
"そんなこたァごわすまい。看板のねえ見世はあるまいからの",
"だが御隠居。おせんは影もかたちも見えやせんよ",
"あわてずに待ったり。じきに奥から出て来ようッて寸法だろう",
"朝飯とお踏みなすったか",
"そうだ。それともお前さんのくるのを知って、念入りの化粧ッてところか",
"嬉しがらせは殺生でげす。――おっと姐さん。おせんちゃんはどうしやした",
"唯今ちょいとお詣りに。――",
"どこへの",
"お稲荷様でござんすよ",
"うむ、違いない。ここァお稲荷様の境内だっけの"
],
[
"相棒",
"おお",
"威勢よくやんねえ",
"合点だ",
"そんじょそこらの、大道臼を乗せてるんじゃねえや。江戸一番のおせんちゃんを乗せてるんだからの",
"そうとも",
"こうなると、銭金のお客じゃァねえ。こちとらの見得になるんだ",
"その通りだ",
"おれァ、一度、半蔵松葉の粧おいという花魁を、小梅の寮まで乗せたことがあったっけが、入山形に一つ星の、全盛の太夫を乗せた時だって、こんないい気持はしなかったぜ",
"もっともだ",
"垂を揚げて、世間の仲間に見せてやりてえくれえのものだの",
"おめえばかりじゃねえ。そいつァおいらもおんなじこッた"
],
[
"あい",
"どうでげす。駕籠の垂を揚げさしちァおくんなさるめえか",
"堪忍しておくんなさい。あたしゃ内所の用事でござんすから。……",
"折角お前さんを乗せながら、垂をおろして担いでたんじゃ、勿体なくって仕方がねえ。憚ンながら駕籠定の竹と仙蔵は、江戸一番のおせんちゃんを乗せてるんだと、みんなに見せてやりてえんで。……",
"どうかそんなことは、もういわないでおくんなさい",
"評判娘のおせんちゃんだ。両方揚げて悪かったら、片ッ方だけでもようがしょう",
"そうだ、姐さん。こいつァ何も、あっしらばかりの見得じゃァごあんせんぜ。春信さんの絵で売り込むのも、駕籠から窺いて見せてやるのも、いずれは世間へのおんなじ功徳でげさァね。ひとつ思い切って、ようがしょう",
"どうか堪忍。……",
"欲のねえお人だなァ。垂を揚げてごらんなせえ。あれ見や、あれが水茶屋のおせんだ。笠森のおせんだと、誰いうとなく口から耳へ伝わって白壁町まで往くうちにゃァ、この駕籠の棟ッ鼻にゃ、人垣が出来やすぜ。のう竹",
"そりゃァもう仙蔵のいう通り真正間違えなしの、生きたおせんちゃんを江戸の町中で見たとなりゃァ、また評判は格別だ。――片ッ方でもいけなけりゃ、せめて半分だけでも揚げてやったら、通りがかりの人達が、どんなに喜ぶか知れたもんじゃねえんで。……",
"駕籠屋さん",
"ほい",
"あたしゃもう降りますよ",
"何んでげすッて",
"無理難題をいうんなら、ここで降ろしておくんなさいよ",
"と、とんでもねえ。お前さんを、こんなところでおろした日にゃ、それこそこちとらァ、二度と再び、江戸じゃ家業が出来やせんや。――そんなにいやなら、垂を揚げるたいわねえから、そうじたばたと動かねえで、おとなしく乗っておくんなせえ。――だが、考げえりゃ考げえるほど、このまま担いでるな、勿体ねえなァ"
],
[
"へえ",
"こっち側だけ、垂を揚げておくんなさいな",
"なんでげすッて",
"花が見とうござんすのさ",
"合点でげす"
],
[
"まァ綺麗だこと",
"でげすからあっしらが、さっきッからいってたじゃござんせんか。こんないい景色ァ、毎朝見られる図じゃァねえッて。――ごらんなせえやし。お前さんの姿が見えたら、つぼんでいた花が、あの通り一遍に咲きやしたぜ",
"ちげえねえ。葉ッぱにとまってた蛙の野郎までが、あんな大きな眼を開きゃァがった",
"もういいから、やっておくんなさい",
"そんなら、ゆっくりめえりやしょう。――おせんちゃんが垂を揚げておくんなさりゃ、どんなに肩身が広いか知れやァしねえ。のう竹",
"そうともそうとも。こうなったら、急いでくれろと頼まれても、足がいうことを聞きませんや。あっしと仙蔵との、役得でげさァね",
"ほほほほ、そんならあたしゃ、垂をおろしてもらいますよ",
"飛んでもねえ。駕籠に乗る人かつぐ人、行く先ァお客のままだが、かついでるうちァ、こっちのままでげすぜ。――それ竹、なるたけ往来の人達に目立つように、腰をひねって歩きねえ",
"おっと、御念には及ばねえ。お上が許しておくんなさりゃァ、棒鼻へ、笠森おせん御用駕籠とでも、札を建てて行きてえくらいだ"
],
[
"こう見や。あすこへ行くなァおせんだぜ",
"おせんだ",
"そうよ。人違えのはずはねえ。靨が立派な証拠だて",
"おッと違えねえ。向うへ廻って見ざァならねえ"
],
[
"へえ",
"八つぁんは、まだ帰って来ないようだの",
"へえ",
"おせんもまだ見えないか",
"へえ",
"堺屋の太夫もか",
"へえ",
"おまえちょいと、枝折戸へ出て見て来な",
"かしこまりました"
],
[
"行ってめえりやした",
"御苦労、御苦労。おせんはいたかの",
"へえ。居りやした。でげすが師匠、世の中にゃ馬鹿な野郎が多いのに驚きやしたよ。あっしが向うへ着いたのは、まだ六つをちっと回ったばかりでげすのに、もうお前さん、かぎ屋の前にゃ、人が束ンなってるじゃござんせんか。それも、女一人いるんじゃねえ。みんな、おいらこそ江戸一番の色男だと、いわぬばかりの顔をして、反りッかえってる野郎ぞっきでげさァね。――おせんちゃんにゃ、千人の男が首ッたけンなっても、及ばぬ鯉の滝のぼりだとは、知らねえんだから浅間しいや",
"八つぁん。おせんの返事はどうだったんだ。直ぐに来るとか、来ないとか",
"めえりやすとも。もうおッつけ、そこいらで声が聞えますぜ"
],
[
"藤吉さん。ここであたしを、待ってでござんすかえ",
"そうともさ、肝腎の万年青の掃除を半端でやめて、半時も前から、お前さんの来るのを待ってたんだ。――だがおせんちゃん。お前は相変らず、師匠の絵のように綺麗だのう",
"おや、朝ッからおなぶりかえ",
"なぶるどころか。おいらァ惚れ惚れ見とれてるんだ。顔といい、姿といい、お前ほどの佳い女は江戸中探してもなかろうッて、師匠はいつも口癖のようにいってなさるぜ。うちのお鍋も女なら、おせんちゃんも女だが、おんなじ女に生れながら、お鍋はなんて不縹緻なんだろう。お鍋とはよく名をつけたと、おいらァつくづくあいつの、親父の智恵に感心してるんだが、それと違っておせんさんは、弁天様も跣足の女ッぷり。いやもう江戸はおろか日本中、鉦と太鼓で探したって……",
"おいおい藤さん"
],
[
"何をするんだ。八つぁん",
"何もこうありゃァしねえ。つべこべと、余計なことをいってねえで、速くおせんちゃんを、奥へ案内してやらねえか。師匠がもう、茶を三杯も換えて待ちかねだぜ",
"おっと、しまった",
"おせんちゃん。少しも速く、急いだ、急いだ",
"ほほほほ。八つぁんがまた、おどけた物のいいようは。……"
],
[
"八つぁん、ちょいと来てくんな",
"何んだ藤さん"
],
[
"お前、あとから誰が来るか、知ってるかい",
"知らねえ",
"それ見な。知らねえで、よくそんなお接介が出来たもんだの",
"お接介たァ何んのこッた",
"おせんちゃんを、先に立って連れてくなんざ、お接介だよ",
"冗談じゃねえ。おせんちゃんは、師匠に頼まれて、おいらが呼びに行ったんだぜ。――おめえはまだ、顔を洗わねえんだの"
],
[
"どうだの、これは別に、おいらが堺屋から頼まれた訳ではないが、何んといっても中村松江なら、当時押しも押されもしない、立派な太夫。その堺屋が秋の木挽町で、お前のことを重助さんに書きおろさせて、舞台に上せようというのだから、まず願ってもないもっけの幸い。いやの応のということはなかろうじゃないか",
"はい、そりゃァもう、あたしに取っては勿体ないくらいの御贔屓、いや応いったら、眼がつぶれるかも知れませぬが。……",
"それなら何んでの",
"お師匠さん、堪忍しておくんなさい。あたしゃ知らない役者衆と、差しで会うのはいやでござんす",
"はッはッは、何かと思ったら、いつもの馬鹿気たはにかみからか。ここへ堺屋を招んだのは、何もお前と差しで会わせようの、二人で話をさせようのと、そんな訳合じァありゃしない。松江は日頃、おいらの絵が大好きとかで、板おろしをしたのはもとより、版下までを集めている程の好き者仲間、それがゆうべ、芝居の帰りにひょっこり寄って、この次の狂言には、是非とも笠森おせんちゃんを、芝居に仕組んで出したいとの、たっての望みさ。どういう筋に仕組むのか、そいつは作者の重助さんに謀ってからの寸法だから、まだはっきりとはいえないとのことだった、松江が写したお前の姿を、舞台で見られるとなりゃ、何んといっても面白い話。おいらは二つ返事で、手を打ってしまったんだ。――そこで、善は急げのたとえをそのまま、あしたの朝、ここへおせんに来てもらおうから、太夫ももう一度、ここまで出て来てもらいたいと、約束事が出来たんだが、――のうおせん。おいらの前じゃ、肌まで見せて、絵を写させるお前じゃないか、相手が誰であろうと、ここで一時、茶のみ話をするだけだ。心持よく会ってやるがいいわな",
"さァ。――",
"今更思案もないであろう。こうしているうちにも、もうそこらへ、やって来たかも知れまいて",
"まァ、師匠さん",
"はッはッは。お前、めっきり気が小さくなったの",
"そんな訳じゃござんせぬが、あたしゃ知らない役者衆とは。……",
"ほい、まだそんなことをいってるのか。なまじ知ってる顔よりも、はじめて会って見る方に、はずむ話があるものだ。――それにお前、相手は当時上上吉の女形、会ってるだけでも、気が晴れ晴れとするようだぜ"
],
[
"師匠、太夫がおいでになりました",
"おおそうか。直ぐにこっちへお通ししな"
],
[
"お師匠さん、後生でござんす。あたしをこのまま、帰しておくんなさいまし",
"なんだって"
],
[
"藤吉、堺屋の太夫に、もうちっとの間、待っておもらい申してくれ",
"へえ"
],
[
"おせん",
"あい",
"お前、何か訳があってだの",
"いいえ、何も訳はござんせぬ",
"隠すにゃ当らないから、有様にいって見な、事と次第に因ったら、堺屋は、このままお前には会せずに、帰ってもらうことにする",
"そんなら、あたしの願いを聞いておくんなさいますか",
"聞きもする。かなえもする。だが、その訳は聞かしてもらうぜ",
"さァその訳は。――",
"まだ隠しだてをするつもりか。あくまで聞かせたくないというなら、聞かずに済ませもしようけれど、そのかわりおいらはもうこの先、金輪際、お前の絵は描かないからそのつもりでいるがいい",
"まァお師匠さん",
"なァにいいやな。笠森のおせんは、江戸一番の縹緻佳しだ。おいらが拙い絵なんぞに描かないでも、客は御府内の隅々から、蟻のように寄ってくるわな。――いいたくなけりゃ、聞かずにいようよ"
],
[
"お師匠さん、堪忍しておくんなさい。あたしゃ、お母さんにもいうまいと、固く心にきめていたのでござんすが、もう何事も申しましょう。どっと笑っておくんなさいまし",
"おお、ではやっぱり何かの訳があって。……",
"あい、あたしゃあの、浜村屋の太夫さんが、死ぬほど好きなんでござんす",
"えッ。菊之丞に。――",
"あい。おはずかしゅうござんすが。……"
],
[
"おせん",
"あい",
"よくほれた",
"えッ",
"当代一の若女形、瀬川菊之丞なら、江戸一番のお前の相手にゃ、少しの不足もあるまいからの。――判った。相手がやっぱり役者とあれば、堺屋に会うのは気が差そう。こりゃァ何んとでもいって断るから、安心するがいい"
],
[
"へえ、おおきに。――",
"太夫は、おせんちゃんには、まだお会いなすったことがないんでござんすか",
"へえ、笠森様のお見世では、お茶を戴いたことがおますが、先様は、何を知ってではござりますまい。――したが若衆さん。おせんさんは、もはやお見えではおますまいかな",
"つい今し方。――",
"では何か、絵でも習うていやはるのでは。――",
"さァ、大方そんなことでげしょうが、どっちにしても長いことじゃござんすまい。そこは日が当りやす。こっちへおいでなすッて。……"
],
[
"太夫",
"おお、これはお師匠さんは。早からお邪間して、えろ済みません",
"済まないのは、お前さんよりこっちのこと、折角眠いところを、早起きをさせて、わざわざ来てもらいながら、肝腎のおせんが。――",
"おせんさんが、なんぞしやはりましたか",
"急病での",
"えッ",
"血の道でもあろうが、ここへ来るなり頭痛がするといって、ふさぎ込んでしまったまま、いまだに顔も挙げない始末、この分じゃ、半時待ってもらっても、今朝は、話は出来まいと思っての、お気の毒だが、またあらためて、会ってやっておもらい申すより、仕方がないじゃなかろうかと、実は心配している訳だが。……",
"それはまア",
"のう太夫。お前さん、詫はあたしから幾重にもしようから、きょうはこのまま、帰っておくんなさるまいか",
"それァもう、帰ることは、いつでも帰りますけれど、おせんさんが急病とは、気がかりでおますさかい。……",
"いや、気に病むほどのことでもなかろうが、何せ若い女の急病での。ちっとばかり、朝から世間が暗くなったような気がするのさ",
"へえ"
],
[
"おめえ、いってえ弟子に来てから、何年経つと思っているんだ",
"へえ",
"へえじゃねえぜ。人形師に取って、胡粉の仕事がどんなもんだぐれえ、もうてえげえ判っても、罰は当るめえ。この雨だ。愚図々々してえりゃ、湿気を呼んで、みんなねこンなっちまうじゃねえか。速くおこしねえ",
"へえ",
"それから何んだぜ。火がおこったら、直ぐに行燈を掃除しときねえよ。こんな日ァ、いつもより日の暮れるのが、ぐっと早えからの",
"へえ",
"ふん。何をいっても、張合いのねえ野郎だ。飯は腹一杯食わせてあるはずだに。もっとしっかり返事をしねえ",
"かしこまりました",
"糠に釘ッてな、おめえのこった。――火のおこるまで一服やるから、その煙草入を、こっちへよこしねえ",
"へえ",
"なぜ煙管を取らねえんだ",
"へえ",
"それ、蛍火ほどの火もねえじゃねえか。何んで煙草をつけるんだ"
],
[
"坊主。坊主",
"へえ",
"おめえ、今朝面を洗ったか",
"へえ",
"嘘をつけ。面を洗った奴が、そんな粗相をするはずァなかろう。ここへ来て、よく人形の足を見ねえ。甲に、こんなに蝋が垂れているじゃねえか"
],
[
"こいつァおめえの仕事だな",
"知りません",
"知らねえことがあるもんか。ゆうべ遅く仕事場へ蝋燭を持って這入って来たなァ、おめえより外にねえ筈だぜ。こいつァただの人形じゃねえ。菊之丞さんの魂までも彫り込もうという人形だ。粗相があっちゃァならねえと、あれ程いっておいたじゃねえか"
],
[
"坊主。おめえ、表の声が聞えねえのか",
"誰か来ておりますか",
"来てる。戸を開けて見ねえ",
"へえ",
"だが、こっちへ通しちゃならねえぜ"
],
[
"おや、あたしでござんすよ",
"おお、おせんさん"
],
[
"親方は",
"仕事なんで。――",
"御免なさいよ",
"ぁッいけません。お前さんをお上げ申しちゃ、叱られる",
"ほほほほ、そんな心配は止めにしてさ",
"でもあたしが親方に。――"
],
[
"へえ",
"いまもいった通りだ。たとえどなたでも、仕事場へは通しちゃならねえ"
],
[
"どうかきょうだけ、堪忍しておくんなさいよ",
"いけねえ",
"あたしゃお前さんに、断られるのを知りながら、もう辛抱が出来なくなって、この雨の中を来たんじゃござんせんか。――後生でござんす。ちょいとの間だけでも。……",
"折角だが、お断りしやすよ。あっしゃァお前さんから、この人形を請合う時、どんな約束をしたかはっきり覚えていなさろう。――のうおせんちゃん。あの時お前は何んといいなすった。あたしゃ死んでる人形は欲しくない。生きた、魂のこもった人形をこさえておくんなさるなら、どんな辛抱でもすると、あれ程堅く約束をしたじゃァねえか。――江戸一番の女形、瀬川菊之丞の生人形を、舞台のままに彫ろうッてんだ。なまやさしい業じゃァねえなァ知れている。あっしもきょうまで、これぞと思った人形を、七つや十はこさえて来たが、これさえ仕上げりゃ、死んでもいいと思った程、精魂を打込んだ作はしたこたァなかった。だが、今度の仕事ばかりァそうじゃァねえ。この生人形さえ仕上げたら、たとえあすが日、血へどを吐いてたおれても、決して未練はねえと、覚悟をきめての真剣勝負だ。――お前さんが、どこまで出来たか見たいという。その心持ァ、腹の底から察してるが、ならねえ、あっしゃァ、いま、人形を塗ってるんじゃァねえ。おのが魂を血みどろにして、死ぬか生きるかの、仕事をしてるんだからの"
],
[
"若旦那。――もし、若旦那",
"うるさいね。ちと黙ってお歩きよ",
"そう仰しゃいますが、これを黙って居りましたら、あとで若旦那に、どんなお小言を頂戴するか知れませんや",
"何んだッて",
"あすこを御覧なさいまし。ありゃァたしかに、笠森のおせんさんでござんしょう",
"おせんがいるッて。――ど、どこに"
],
[
"あすこでござんすよ。あの筆屋の前から両替の看板の下を通ってゆく、あの頭巾をかぶった後姿。――",
"うむ。ちょいとお前、急いで行って、見届けといで",
"かしこまりました"
],
[
"どうした",
"この二つの眼で睨んだ通り、おせんさんに違いござんせん",
"これこれ、何んでそんな頓狂な声を出すんだ。いくら雨の中でも、人様に聞かれたら事じゃァないか",
"へいへい",
"お前、あとからついといで"
],
[
"おやまァ若旦那、どちらへおいででござんす",
"つい、そこの不動様へ、参詣に行ったのさ。――そうしてお前さんは",
"お母さんの薬を買いに、浜町までまいりました。",
"浜町。そりゃァこの雨に、大抵じゃあるまい。お前さんがわざわざ行かないでも、ちょいと一言聞いてれば、いつでもうちの小僧に買いにやってあげたものを",
"有難うはござんすが、親に服ませるお薬を人様にお願い申しましては、お稲荷様の罰が当ります",
"成る程、成る程、相変らずの親孝行だの"
],
[
"お前さんは、これから何か、急な御用がお有かの",
"あい、肝腎のお見世の方を、脱けて来たのでござんすから、一刻も速く帰りませぬと、お母さんにいらぬ心配をかけますし、それに、折角のお客様にも、申訳がござんせぬ",
"お客の心配は、別にいりゃァすまいがの。しかし、お母さんといわれて見ると。……",
"何か御用でござんすかえ",
"なァにの。思いがけないところで出遭った、こんな間のいいことは、願ってもありゃァしないからひとつどこぞで、御飯でもつき合ってもらおうと思ってさ",
"おや、それは御親切に、有難うはござんすが、あたしゃいまも申します通り、風邪を引いたお母さんと、お見世へおいでのお客様がござんすから。――",
"この雨だ。いくら何んでも、お客の方は、気になるほど行きもしまい。それとも誰ぞ、約束でもした人がお有りかの",
"まァ何んでそのようなお人が。――",
"そんなら別に、一時やそこいら遅くなったとて、案ずることもなかろうじゃないか",
"お母さんが首を長くして、薬を待ってでございます",
"これ、おせんちゃん",
"ああもし。――",
"お手間を取らせることじゃない。ちと折いって、相談したい訳もある。ついそこまで、ほんのしばらく、つき合っておくれでないか",
"さァそれが。……",
"おまえ、お袋さんの、薬を買いに行ったとは、そりゃ本当かの",
"えッ",
"本当かと訊いてるのさ",
"何んで、あたしが嘘なんぞを。――",
"そんならその薬の袋を、ちょいと見せておくれでないか",
"袋とえ。――",
"持ってはいないとおいいだろう。ふふふ。やっぱりお前は、あたしの手前をつくろって、根もない嘘をついたんだの、おおかた好きな男に、会いに行った帰りであろう。それと知ったら、なおさらこのまま帰すことじゃないから、観念おし",
"あれ若旦那。――",
"いいえ、放すものか、江戸中に、女の数は降る程あっても、思い詰めたのはお前一人。ここで会えたな、日頃お願い申した、不動様の御利益に違いない。きょうというきょうはたとえ半時でもつき合ってもらわないことにゃ。……"
],
[
"若旦那、殺生でげすぜ",
"ええ、うるさい。余計な邪間だてをしないで、引ッ込んでおくれ",
"はははは。邪間だてするわけじゃござんせんが、御覧なせえやし。おせんちゃんは、こんなにいやだといってるじゃござんせんか。若旦那、色男の顔がつぶれやすぜ"
],
[
"馬鹿野郎",
"へえ",
"なぜおせんを捕まえないんだ",
"お放しなすったのは、若旦那でございます",
"ええうるさい。たとえあたしが放しても、捕まえるのはお前の役目だ。――もうお前なんぞに用はない。今すぐここで暇をやるから、どこへでも行っておしまい"
],
[
"松つぁん、お前なんぞの出る幕じゃないよ。黙ってておくれ",
"そうでもござんしょうが、市どんこそ災難だ。何んにも知らずにお供に来て、おせんに遭ったばっかりに、大事な奉公をしくじるなんざ、辻占の文句にしても悪過ぎやさァね。堪忍してやっとくんなさい。――こう市どん。おめえもしっかり、若旦那にあやまんねえ",
"若旦那、どうか御勘弁なすっておくんなさいまし",
"いやだよ。お前は、もう家の奉公人でもなけりゃ、あたしの供でもないんだから、ちっとも速くあたしの眼の届かないとこへ消えちまうがいい",
"消えろとおっしゃいましても。……",
"判らずやめ。泥の中へでも何んでも、勝手にもぐって失せるんだ",
"へえ"
],
[
"手前でございます。市松の親父でございます",
"えッ",
"通りがかりの御挨拶で、何んとも恐れいりますが、どうやら、市松の野郎が、飛んだ粗相をいたしました様子。早速連れて帰りまして、性根の坐るまで、責め折檻をいたします。どうかこのまま。手前にお渡し下さいまし",
"おッとッとッと。父つぁん、そいつァいけねえ。おいらが悪いようにしねえから、おめえはそっちに引ッ込んでるがいい"
],
[
"ど、どうなすったのでございます",
"番頭さん、市松に直ぐ暇をだしとくれ",
"市松が、な、なにか、粗相をいたしましたか",
"何んでもいいから、あたしのいった通りにしておくれ。あたしゃきょうくらい、恥をかいたこたァありゃしない。もう口惜しくッて、口惜しくッて。……",
"そ、それはまたどんなことでございます。小僧の粗相は番頭の粗相、手前から、どのようにもおわびはいたしましょうから、御勘弁願えるものでございましたら、この幸兵衛に御免じ下さいまして。……",
"余計なことは、いわないでおくれ",
"へい。……左様でございましょうが、お見世の支配は、大旦那様から、一切お預かりいたして居ります幸兵衛、あとで大旦那様のお訊ねがございました時に、知らぬ存ぜぬでは通りませぬ。どうぞその訳を、仰しゃって下さいまし",
"訳なんぞ、聞くことはないじゃないか。何んでもあたしのいった通り、暇さえ出してくれりゃいいんだよ"
],
[
"松つぁん",
"へえ",
"若旦那が、こっちへとおいなさる",
"そいつァどうも。――",
"おっと待った。その足で揚がられちゃかなわない。辰どん、裏の盥へ水を汲みな"
],
[
"ではおせんにゃ、ちゃんとした情人があって、この節じゃ毎日、そこへ通い詰めだというんだね",
"まず、ざっとそんなことなんで。……",
"いったい、そのおせんの情人というのは、何者なんだか、松つぁん、はっきりあたしに教えておくれ",
"さァ、そいつァどうも。――",
"何をいってんだね。そこまで明かしておきながら、あとは幽霊の足にしちまうなんて、馬鹿なことがあるもんかね。――お前さんさっき、何んといったい。若旦那が鯱鉾立して喜ぶ話だと、見世であんなに、大きなせりふでいったじゃないか。あたしゃ口惜しいけれど聞いてるんだよ。どうせその気で来たんなら、あからさまに、一から十まで話しておくれ。相手の名を聞かないうちは、気の毒だが松つぁん、ここは滅多に動かしゃァしないよ",
"ちょ、ちょいと待っとくんなさい、若旦那。無理をおいいなすっちゃ困りやす",
"何が無理さ",
"何がと仰しゃって、実ァあっしゃァ、相手の名前まじァ知らねえんで。……",
"名前を知らないッて",
"そうなんで。……",
"そんなら、名前はともかく、どんな男なんだか、それをいっとくれ。お武家か、商人か、それとも職人か。――",
"そいつがやっぱり判らねえんで。――",
"松つぁん"
],
[
"へえ",
"たいがいにしとくれ。あたしゃ酔狂で、お前さんをここへ通したんじゃないんだよ。おせんが隠れて逢っているという、相手の男を知りたいばっかりに、見世の者の手前も構わず、わざわざ二階へあげたんじゃないか。名を知らないのはまだしものこと、お武家か商人か、職人か、それさえ訳がわからないなんて、馬鹿にするのも大概におし。――もうそんな人にゃ用はないから、とっとと消えて失せとくれよ",
"帰れと仰しゃるんなら、帰りもしましょうが、このまま帰っても、ようござんすかね",
"なんだって",
"若旦那。あっしゃァなる程、おせんの相手が、どこの誰だか知っちゃいませんが、そんなこたァ知ろうと思や、半日とかからねえでも、ちゃァんと突きとめてめえりやす。それよりも若旦那。もっとお前さんにゃ、大事なことがありゃァしませんかい",
"そりゃ何んだい",
"まァようがす。とっとと消えて失せろッてんなら、あんまり畳のあったまらねえうちに、いい加減で引揚げやしょう。――どうもお邪間いたしやした",
"お待ち",
"何か御用で",
"あたしの大事なことだという、それを聞かせてもらいましょう"
],
[
"おせんが茶をくむ格好じゃ、早う見に来たがいい",
"もし、太夫"
],
[
"新七かいな",
"へえ",
"おこのは何をしてじゃ",
"さァ",
"何としたぞえ",
"お上さんは、もう一時も前にお出かけなすって、お留守でござります",
"留守やと",
"へえ",
"どこへ行った",
"白壁町の、春信さんのお宅へ行くとか仰しゃいまして、――",
"何んじゃと。春信さんのお宅へ行った。そりゃ新七、ほんまかいな",
"ほんまでござります",
"おこのがまた、白壁町さんへ、どのような用事で行ったのじゃ。早う聞かせ",
"御用の筋は存じませぬが、帯をどうとやらすると、いっておいででござりました",
"帯。新七。――そこの箪笥をあけて見や"
],
[
"着物も羽織も、みなそこへ出して見や",
"こうでござりますか",
"もっと",
"これも",
"ええもういちいち聞くことかいな。一度にあけてしまいなはれ"
],
[
"おまえ、直ぐに白壁町へ、おこのの後を追うて、帯を取って戻るのじゃ",
"何んの帯でござります",
"阿呆め、おせんの帯じゃ。あれがのうては、肝腎の芝居がわやになってしまうがな"
],
[
"駕籠屋さん。済まんが、急いどくれやすえ",
"へいへい、合点でげす。月はなくとも星明り、足許に狂いはござんせんから御安心を",
"酒手はなんぼでもはずみますさかい、そのつもりで頼ンます",
"相棒",
"おお",
"聞いたか",
"聞いたぞ",
"流石にいま売だしの、堺屋さんのお上さんだの。江戸の女達に聞かしてやりてえ嬉しい台詞だ",
"その通り。――お上さん。太夫の人気は大したもんでげすぜ。これからァ、何んにも恐いこたァねえ、日の出の勢いでげさァ",
"そうともそうとも、酒手と聞きいていうんじゃねえが、太夫はでえいち、品があるッて評判だて。江戸役者にゃ、情ねえことに、品がねえからのう",
"おや駕籠屋さん。左様にいうたら、江戸のお方に憎まれまッせ",
"飛んでもねえ。太夫を誉めて、憎むような奴ァ、みんなけだものでげさァね",
"そうとも"
],
[
"お師匠さん、お客でござんす",
"どなたかおいでなすった",
"堺屋さんの、お上さんがお見えなんで",
"なに、堺屋のお上さんだと。そりゃァおかしい。何かの間違いじゃねえのかの",
"間違いどころじゃござんせん。真正証銘のお上さんでござんすよ",
"お上さんが、何んの用で、こんなにおそく来なすったんだ"
],
[
"何の御用か存じませんが、一刻も早くお師匠さんにお目にかかって、お願いしたいことがあると、それはそれは、急いでおりますんで。……",
"はァてな。――何んにしても、来たとあれば、ともかくこっちへ通すがいい"
],
[
"飛んだところへ邪間が這入って、気の毒だの",
"どういたしやして、どうせあっしゃァ、外に用はありゃァしねえんで。……なんならあっちへ行って待っとりやしょうか",
"いやいや、それにゃァ及ぶまい。話は直ぐに済もうから、構わずここにいるがいい",
"そんならこっちの隅の方へ、まいまいつぶろのようンなって、一服やっておりやしょう"
],
[
"師匠、お連れ申しました",
"御免やすえ",
"さァ、ずっとこっちへ"
],
[
"こないに遅う、無躾に伺いまして。……",
"どんな御用か、遠慮なく、ずっとお通りなさるがいい",
"いいえもう、ここで結構でおます"
],
[
"そうしてお上さんは、こんな遅く、何んの用でおいでなすった",
"拝借の、おせん様の帯を、お返し申しに。――",
"なに、おせんの帯を。――",
"はい",
"それはまた何んでの"
],
[
"御大切なお品ゆえ、粗相があってはならんよって、速うお返し申すが上分別と、思い立って参じました",
"では太夫はこの帯を、芝居にゃ使わないつもりかの",
"はい。折角ながら。……"
],
[
"はい",
"お前さんもう一度、思い直して見なさる気はないのかい",
"おもい直せといやはりますか",
"まずのう",
"なぜでおます",
"なぜかそいつは、そっちの胸に、訊いて見たらば判ンなさろう。――その帯は、おせんから頼まれて、この春信が描いたものにゃ違いないが、まだ向うの手へ渡さないうちに、太夫が来て、貸してくれとのたッての頼み、これがなくては、肝腎の芝居が出来ないとまでいった挙句、いや応なしに持って行かれてしまったものだ。おせんにゃもとより、内所で貸して渡した品物、今更急に返す程なら、あれまでにして、持って行きはしなかろう。お上さん。お前、つまらない料簡は、出さないほうがいいぜ",
"そんならなんぞ、わたしがひとりの料簡で。……",
"そうだ。これがおせんの帯でなかったら、まさかお前さんは、この夜道を、わざわざここまで返しにゃ来なさるまい。太夫が締めて踊ったとて、おせんの色香が移るという訳じゃァなし、芸人のつれあいが、そんな狭い考えじゃ、所詮うだつは揚がらないというものだ。余計なお接介のようだが、今頃太夫は、帯の行方を探しているだろう。お前さんの来たこたァ、どこまでも内所にしておこうから、このままもう一度、持って帰ってやるがいい",
"ほほほ、お師匠さん"
],
[
"え",
"折角の御親切でおますが、いったんお返ししょうと、持って参じましたこの帯、また拝借させて頂くとしましても、今夜はお返し申します",
"ではどうしても、置いて行こうといいなさるんだの",
"はい",
"そうかい。それ程までにいうんなら、仕方がない、預かろう。その換り、太夫が借りに来たにしても、もう二度と再び貸すことじゃないから、それだけは確と念を押しとくぜ",
"よう判りました。この上の御迷惑はおかけしまへんよって。……"
],
[
"どうした松つぁん",
"どうもこうもありませんが、あんまり話が馬鹿気てるんで、とうとう辛抱が出来なくなりやしたのさ。――師匠、ひとつあっしに、ちっとばかりしゃべらしておくんなせえ",
"何んとの",
"身に降りかかる話じゃねえ。どうせ人様のことだと思って、黙って聴いて居りやしたが。――もし堺屋さんのお上さん、つまらねえ焼きもちは、焼かねえ方がようがすぜ",
"なにいいなはる",
"なにも蟹もあったもんじゃねえ。蟹なら横にはうのが近道だろうに、人間はそうはいかねえ。広いようでも世間は狭えものだ。どうか真ッ直向いて歩いておくんなせえ",
"あんたはん、どなたや",
"あっしゃァ松五郎という、けちな職人でげすがね。お前さんの仕方が、あんまり情な過ぎるから、口をはさましてもらったのさ。知らなきゃいって聞かせるが、笠森のおせん坊は、男嫌いで通っているんだ。今さらお前さんとこの太夫が、金鋲を打った駕籠で迎えに来ようが、毛筋一本動かすような女じゃねえから安心しておいでなせえ。痴話喧嘩のとばっちりがここまでくるんじゃ、師匠も飛んだ迷惑だぜ"
],
[
"おお、お上さん",
"あッ。お前はどこへ",
"どこへどころじゃござりません。お上さんこそ今時分、どちらへおいでなさいました",
"わたしは、お前も知っての通り、あの絵師の春信さんのお宅へ、いって来ました",
"そんならやっぱり、春信師匠のお宅へ",
"お前がまた、そのようなことを訊いて、何んにしやはる",
"手前は太夫からのおいいつけで、お上さんをお迎えに上ったのでござります",
"わたしを迎えに。――",
"へえ。――そうしてあの帯をどうなされました",
"何、帯とえ",
"はい。おせんさんの帯は、お上さんが、お持ちなされたのでござりましょう",
"そのような物を、わたしが知ろかいな",
"いいえ。知らぬことはございますまい。先程お出かけなさる時、帯を何んとやら仰しゃったのを、新七は、たしかにこの耳で聞きました",
"知らぬ知らぬ。わたしが春信さんをお訊ねしたのは帯や衣装のことではない。今度鶴仙堂から板おろしをしやはるという、鷺娘の絵のことじゃ。――ええからそこを退きなされ",
"いいや、それはなりません。お上さんは、確に持ってお出なされたはず。もう一度手前と一緒に、白壁町のお宅へ、お戻りなすって下さりませ",
"なにいうてんのや。わたしが戻ったとて、知らぬものが、あろうはずがあるかいな。――こうしてはいられぬのじゃ。そこ退きやいの"
],
[
"あッ。お打ちなさいましたな",
"打ったのではない。お前が、わたしの手を取りやはって。……",
"ええ、もう辛抱がなりませぬ。手前と一緒にもう一度、春信さんのお宅まで、とっととおいでなさりませ"
],
[
"これ、新七、何をしやる",
"何もかもござりませぬ。あの帯は、太夫が今度の芝居にはなくてはならない大事な衣装、手前がひとりで行ったとて、春信さんは渡しておくんなさいますまい。どうでもお前様を一緒に連れて。――",
"ええ、行かぬ。何んというてもわしゃ行かぬ"
],
[
"ふふふふ。みっともねえ。こんなことであろうと思って、後をつけて来たんだが、お上さん、こいつァ太夫さんの辱ンなるぜ",
"えッ",
"おれだよ。彫職人の松五郎"
],
[
"藤吉。――これ藤吉",
"へえ"
],
[
"何か御用で",
"羽織を出しな",
"へえ。――どッかへお出かけなさるんで。……",
"余計な口をきかずに、速くするんだ",
"へえ"
],
[
"師匠、お供をいたしやす",
"独りでいい",
"お一人で。……そんなら提灯を。――"
],
[
"藤吉。――藤吉",
"へえ"
],
[
"ここへ来や",
"へえ"
],
[
"お兄様は、どちらにお出かけなされた",
"さァ、どこへおいでなさいましたか、つい仰しゃらねえもんでござんすから。……",
"何をうかうかしているのじゃ。知らぬで済もうとお思いか。なぜお供をせぬのじゃ",
"そう申したのでござんすが、師匠はひどくお急ぎで、行く先さえ仰しゃらねえんで。……",
"直ぐに行きゃ",
"へ",
"提灯を持って直ぐに、後を追うて行きゃというのじゃ",
"と仰しゃいましても、どっちへお出かけか、方角も判りゃァいたしやせん",
"まだ出たばかりじゃ。そこまで行けば直ぐに判ろう。たじろいでいる時ではない。速う。速う"
],
[
"どなた様でござります",
"わたしだ",
"へえ",
"白壁町の春信だよ",
"えッ"
],
[
"面目次第もござりませぬ。――でもまァ、ようおいでで。――",
"ふふふ。あんまりよくもなかろうが、ちと、来ずには済まされぬことがあっての",
"そこではお話も出来ませんで。……どうぞ、こちらへお通り下さりませ",
"しかし、わたしが上っても、いいのか",
"何を仰しゃいます。狭苦しゅうはござりますが、御辛抱しやはりまして。……",
"では遠慮なしに、通してもらいましょうか。……のう太夫"
],
[
"今更あらためて、こんなことを訊くのも野暮の沙汰だが、おこのさんといいなさるのは、確にお前さんの御内儀だろうのう",
"何んといやはります"
],
[
"深いことはどうでもいいが、ただそれだけを訊かしてもらいたいと思っての。あれが太夫の御内儀なら、わたしはこれから先、お前さんと、二度と顔を合わせまいと、心に固く極めて来たのさ",
"えッ。ではやはり。……",
"太夫。つまらない面あてでいう訳じゃないが、お前さんは、いいお上さんを持ちなすって、仕合だの。――帯はたしかにわたしの手から、おせんのとこへ返そうから、少しも懸念には、及ばねえわな",
"どうぞ堪忍しておくれやす",
"お前さんにあやまらせようと思って、こんなにおそく、わざわざひとりで出て来た訳じゃァさらさらない。詫なんぞは無用にしておくんなさい",
"なんで、これがお詫せいでおられましょう。愚なおこのが、いらぬことを仕出来しました心なさからお師匠さんに、このようないやな思いをおさせ申しました。堺屋、穴があったら這入りとうおます"
],
[
"わッ、土平だ土平だ",
"それ、みんな来い、みんな来いやァイ",
"お母ァ、銭くんな",
"父、おいらにも銭くんな",
"あたいもだ",
"あたしもだ"
],
[
"はッはッはッ。これが噂の高い土平だの。いやもう感心感心。この咽では、文字太夫も跣足だて",
"それはもう御隠居様。滅法名代の土平でござんす。これ程のいい声は、鉦と太鼓で探しても、滅多にあるものではござんせぬ",
"御隠居は、土平の声を、始めてお聞きなすったのかい",
"左様",
"これはまた迂濶千万。飴売土平は、近頃江戸の名物でげすぜ",
"いや、噂はかねて聞いておったが、眼で見たのは今が初めて。まことにはや。面目次第もござりませぬて",
"はははは。お前様は、おなじ名代なら、やっぱりおせんの方が、御贔屓でげしょう",
"決して左様な訳では。……",
"お隠しなさいますな。それ、そのお顔に書いてある"
],
[
"なに、おせんだと",
"どこへどこへ"
],
[
"どこだの",
"あすこだ。あの松の木の下へ来る"
],
[
"違えねえ。たしかにおせんだ",
"そら行け"
],
[
"いやだよ直さん、そんなに押しちゃァ転ンじまうよ",
"人の転ぶことなんぞ、遠慮してたまるもんかい。速く行って触らねえことにゃ、おせんちゃんは帰ッちまわァ",
"おッと退いた退いた。番太郎なんぞの見るもンじゃねえ",
"馬鹿にしなさんな。番太郎でも男一匹だ。綺麗な姐さんは見てえや",
"さァ退いた、退いた",
"火事だ火事だ"
],
[
"ふふふふ。飴も買わずに、おせん坊へ突ッ走ったな豪勢だ。こんな鉄錆のような顔をしたおいらより、油壺から出たよなおせん坊の方が、どれだけいいか知れねえからの。いやもう、浮世のことは、何をおいても女が大事。おいらも今度の世にゃァ、犬になっても女に生れて来ることだ。――はッくしょい。これァいけねえ。みんなが急に散ったせいか、水ッ洟が出て来たぜ。風邪でも引いちゃァたまらねから、そろそろ帰るとしべえかの",
"おッと、飴屋さん",
"はいはい、お前さんは、何んであっちへ行きなさらない",
"行きたくねえからよ",
"行きたくないとの",
"そうだ。おいらはこれでも、辱を知ってるからの",
"面白い。人間、辱を知ってるたァ何よりだ",
"何より小より御存じよりか。なまじ辱を知ってるばかりに、おいらァ出世が出来ねえんだよ",
"お前さんは、何をしなさる御家業だの",
"絵かきだよ",
"名前は",
"名前なんざあるもんか",
"誰のお弟子だの",
"おいらはおいらの弟子よ。絵かきに師匠や先生なんざ、足手まといになるばッかりで、物の役にゃ立たねえわな"
],
[
"おッとッとッと、おせんちゃん。何んでそんなに急ぎなさるんだ。みんながこれ程騒いでるんだぜ。靨の一つも見せてッてくんねえな",
"そうだそうだ。どんなに待ったか知れやァしねえよ。おめえに急いで帰られたんじゃ、待ってたかいがありゃァしねえ"
],
[
"もし、そこを退いておくんなさいな",
"どいたらおめえが帰ッちまうだろう。まァいいから、ここで遊んで行きねえ",
"あたしゃ、先を急ぎます。きょうは堪忍しておくんなさいよ",
"先ッたって、これから先ァ、家へ帰るより道はあるめえ。それともどこぞへ、好きな人でも出来たのかい",
"なんでそんなことが。……",
"ねえンなら、よかろうじゃねえか",
"でもお母さんが。――",
"お袋の顔なんざ、生れた時から見てるんだろう。もう大概、見あきてもよさそうなもんだぜ",
"そうだ、おせんちゃん。帰る時にゃ、みんなで送ってッてやろうから、きょう一ン日の見世の話でも、聞かしてくんねえよ",
"お見世のことなんぞ、何んにも話はござんせぬ。――どうか通しておくんなさい",
"紙屋の若旦那の話でも、名主さんのじゃんこ息子の話でも、いくらもあろうというもんじゃねえか",
"知りませんよ。お母さんが風邪を引いて、独りで寝ててござんすから、ちっとも速く帰らないと、あたしゃ心配でなりませんのさ",
"お袋さんが風邪だッて",
"あい",
"そいつァいけねえ。何んなら見舞に行ってやるよ",
"おいらも行くぜ",
"わたしも行く",
"いいえ、もうそんなことは。――"
],
[
"はッはッは。みんな、みっともねえ真似をしねえで、速くおせんちゃんを、帰してやったらどんなもんだ",
"おめえは、春重だな",
"つまらねえ差し出口はきかねえで、引ッ込んだ、引ッ込んだ",
"ふふふ。おめえ達、あんまり気が利かな過ぎるぜ。おせんちゃんにゃ、おせんちゃんの用があるんだ。野暮な止めだてするよりも、一刻も速く帰してやんねえ",
"馬鹿ァいわッし。そんなお接介は受けねえよ"
],
[
"お母さん",
"おや、おせんかえ",
"あい"
],
[
"どうかおしかえ",
"いいえ",
"でもお前、そんなに息せき切ってさ",
"どうもしやァしませんけれど、いまそこで、筆屋さんの黒がじゃれたもんだから。……",
"ほほほほ。黒が尾を振ってじゃれるのは、お前を慕っているからだよ。あたしゃまた、悪いいたずらでもされたかと思って、びっくりしたじゃァないか。何も食いつくような黒じゃなし、逃げてなんぞ来ないでも、大丈夫金の脇差だわな。――こっちへおいで。頭を撫で付けてあげようから。……",
"おや、髪がそんなに。――"
],
[
"お母さん",
"あいよ",
"あたしの留守に、ここに誰か這入りゃしなかったかしら",
"おやまァ滅相な。そこへは鼠一匹も滅多に入るこっちゃァないよ。――何んぞ変わったことでもおありかえ",
"さァ、ちっとばかり。……",
"どれ、何がの。――"
],
[
"気にする程でもござんせぬ。あっちへ行ってておくんなさい",
"ほんにまァ、ここへは来るのじゃなかったッけ"
],
[
"あい",
"この暗いのに、行燈もつけずに",
"あい。さして暗くはござんせぬ",
"何をしておいでだか知らないが、支度が出来たから御飯にしようわな",
"あい、いまじきに",
"暗い所に一人でいると、鼠に引かれるよ"
],
[
"おせん",
"えッ",
"驚くにゃ当らねえ。おいらだよ"
],
[
"ど、どなたでござんす",
"叱っ、静かにしねえ。怪しいものじゃねえよ。おいらだよ",
"あッ、お前は兄さん。――",
"ええもう、静かにしろというのに。お袋の耳へへえッたら、事が面倒ンなる"
],
[
"十八でござんす",
"十八か。――"
],
[
"怖がるこたァねえから、後ずさりをしねえで、落着いていてくんねえ。おいらァ何も、久し振りに会った妹を、取って食おうたァいやァしねえ",
"あかりを、つけさせておくんなさい",
"おっと、そんな事をされちゃァたまらねえ。暗でもてえげえ見えるだろうが、おいらァ堅気の商人で、四角い帯を、うしろで結んで来た訳じゃねえんだ。面目ねえが五一三分六のやくざ者だ。おめえやお袋に、会わせる顔はねえンだが、ちっとばかり、人に頼まれたことがあって、義理に挟まれてやって来たのよ。おせん、済まねえが、おいらの頼みを聞いてくんねえ",
"そりゃまた兄さん、どのようなことでござんす",
"どうのこうのと、話せば長え訳合だが、手ッ取早くいやァ、おいらァ金が入用なんだ",
"お金とえ",
"そうだ",
"あたしゃ、お金なんぞ。……",
"まァ待った。藪から棒に飛び込んで来た、おいらの口からこういったんじゃ、おめえがかぶりを振るのももっともだが、こっちもまんざら目算なしで、出かけて来たという訳じゃねえ。そこにゃちっとばかり、見かけた蔓があってのことよ。――のうおせん。おめえは通油町の、橘屋の若旦那を知ってるだろう",
"なんとえ",
"徳太郎という、始末の良くねえ若旦那だ",
"さァ、知ってるような、知らないような。……",
"ここァ別に白洲じゃねえから、隠しだてにゃ及ばねえぜ。知らねえといったところが、どうでそれじゃァ通らねえんだ。先ァおめえに、家蔵売ってもいとわぬ程の、首ッたけだというじゃねえか",
"まァ兄さん",
"恥かしがるにゃァ当らねえ。何もこっちから、血道を上げてるという訳じゃなし、おめえに惚れてるな、向う様の勝手次第だ。――おせん。そこでおめえに相談だが、ひとつこっちでも、気のある風をしちゃあくれめえか",
"えッ",
"おめえも十八だというじゃァねえか。もうてえげえ、そのくれえの芸当は、出来ても辱にゃァなるめえぜ"
],
[
"兄さん",
"え",
"帰っておくんなさい",
"何んだって。おいらに帰れッて",
"あい",
"冗談じゃねえ。用がありゃこそ、わざわざやって来たんだ。なんでこのまま帰れるものか。そんなことよりおいらの頼みを、素直にきいてもらおうじゃねえか。おめえさえ首を縦に振ってくれりゃァ、からきし訳はねえことなんだ。のうおせん。赤の他人でさえ、事を分けて、かくかくの次第と頼まれりゃ、いやとばかりゃァいえなかろう。おいらァおめえの兄貴だよ。――血を分けた、たった一人の兄貴だよ。それも、百とまとまった金が入用だという訳じゃねえ。四半分の二十五両で事が済むんだ",
"二十五両。――",
"みっともねえ。驚く程の高でもあるめえ",
"でも、そんなお金は。……",
"だからよ。初手からいってる通り、おめえやお袋の臍くりから、引っ張り出そうたァいやァしねえや。狙いをつけたなあの若旦那、橘屋の徳太郎というでくの棒よ。ふふふふ。何んの雑作もありァしねえ。おめえがここでたった一言。おなつかしゅうござんす、とかなんとかいってくれさえすりァ、おいらの頼みァ聴いてもらえようッてんだ。お釈迦が甘茶で眼病を直すより、もっとわけねえ仕事じゃねえか",
"それでもあたしゃ。心にもないことをいって。……",
"そ、その料簡がいけねえんだ。腹にあろうがなかろうが、武士は戦略、坊主は方便、時と場合じゃ、人の寝首をかくことさえあろうじゃねえか。――さ、ここに筆と紙がある。いろはのいの字とろの字を書いて、いろよい返事をしてやんねえ"
],
[
"堪忍しておくんなさい",
"何もあやまるこたァありゃァしねえ。暗くッて書けねえというンなら、仕方がねえ。行燈をつけてやる",
"もし。――"
],
[
"何をするんだ",
"あたしゃ、どうでもいやでござんす",
"そんならこれ程までに、頭をさげて頼んでもか",
"外のこととは訳が違い、あたしゃ数あるお客のうちでも、いの一番に嫌いなお人、たとえ嘘でも冗談でも、気の済まないことはいやでござんす",
"おせん。おめえ、兄貴を見殺しにするつもりか",
"何んとえ",
"おめえがいやだとかぶりを振りゃァ、おいらは人から預かった、大事な金を落としたかどで、いやでも明日は棒縛りだ。――そいつもよかろう。おめえはかげで笑っていねえ",
"兄さん",
"もう何んにも頼まねえ。これから帰って縛られようよ"
],
[
"若旦那、もし、油町の若旦那",
"おお、お前は千吉つぁん",
"そんなに急いで、どこへおいでなせえやす",
"お前のとこさ",
"何、あっしンとこでげすッて。――あっしンとこなんざ、若旦那においでを願うような、そんな気の利いた住居じゃござんせん。火口箱みてえな、ちっぽけな棟割長屋なんで。……",
"小さかろうが、大きかろうが、そんなことは考えちゃいられないよ",
"何んと仰しゃいます",
"あたしゃお前に頼んだ返事を、聞かせてもらいに、往くところじゃないか",
"はッはッは。それでわざわざお運び下さろうッてんでげすか。これぁどうも恐れいりやした。そのことなら、どうかもう御心配は、御無用になすっておくんなさいまし",
"おお、そんなら千吉さん、おせんの返事を。――",
"憚りながら、いったんお引受け申しやした正直千吉、お約束を違えるようなこたァいたしやせん",
"済まない。あたしはそうとは思っていたものの、これがやっぱり恋心か。ちっとも速く返事が聞き度くて、帳場格子と二階の間を、九十九度も通った挙句、とうとう辛抱が出来なくなったばっかりに、ここまで出向いて来た始末さ。そうと極ったら、どうか直ぐに色よい返事を聞かせておくれ",
"ま、ま、待っておくんなせえやし。そんなにお急ンならねえでも、おせんの返事は、直ぐさまお聞かせ申しやすが、ここは道端、誰に見られねえとも限りやせん。筋の通ったいい所で、ゆっくりお目にかけようじゃござんせんか",
"そりゃもう、いずれおまんまでも食べながら、ゆっくり見せてもらおうが、まず文の上書だけでも、ここでちょいと、のぞかせておくれでないか",
"御安心くださいまし。上書なんざ二の次三の次、中味から封じ目まで、おせんの手に相違はございません。あいつァ七八つの時分から、手習ッ子の仲間でも、一といって二と下ったことのねえ手筋自慢。あっしゃァ質屋の質の字と、万金丹の丹の字だけしきゃ書けやせんが、おせんは若旦那のお名前まで、ちゃァんと四角い字で書けようという、水茶屋女にゃ惜しいくらいの立派な手書き。――この通り、あっしがふところに預かっておりやすから、どうか親船に乗った気で、おいでなすっておくんなせえやし",
"安心はしているけれど、ちっとも速く見たいのが人情じゃないか。野暮をいわずに、ちょいとでいいから、ここでお見せよ",
"堪忍しておくんなさい。道ッ端ではお目にかけねえようにと、こいつァ妹からの、堅い頼みでござんすので。……",
"はてまァ、何んという野暮だろうのう",
"どうか察しておやンなすって。おせんにして見りゃ、自分から文を書いたな始めての、いわば初恋とでも申しやしょうか。はずかしい上にもはずかしいのが人情でげしょう。道ッ端で展げたとこを、ひょっと誰かに見られた日にゃァ、それこそ若旦那、気の弱いおせんは、どんなことになるか、知れたもんじゃござんせん。野暮は承知の上でござんす。どうか、ここンところをお察しなすって……"
],
[
"あたしゃ気が短いから、どこへ行くにしても、とても歩いちゃ行かれない。千吉つぁん、直ぐに駕籠を呼んでもらおうじゃないか",
"合点でげす"
],
[
"さ、千吉さん",
"へえ",
"早くお見せ",
"何をでござんす",
"おや、何をはあるまい。おせんのふみじゃないか",
"おそうだ。これはすっかり忘れて居りやした",
"お前は道端じゃ見せられないというから、わざわざ駕籠を急がせて、ここまで来たんだよ。さ大事な文を、少しでも速く見せてもらいましょう",
"お見せいたしやす",
"口ばっかりでなく、速くお出しッたら",
"出しやす。――が、ちょいとお待ちなすっておくんなさい。その前に、あっしゃァ若旦那に、ひとつお願い申してえことがござんすので。……",
"何んだえ、あらたまって。――",
"実ァその、おせんの奴から。……",
"なに、おせんから、あたしに頼みとの",
"へえ",
"そんならなぜ、もっと早くいわないのさ",
"申上げたいのは山々でござんすが、ちと厚かましい筋だもんでげすから、ついその、あっしの口からも、申上げにくかったような訳でげして",
"馬鹿な。つまらない遠慮なんか、水臭いじゃないか。そんな遠慮はいらないから、いっとくれ。あたしでかなうことなら、どんな願いでも、きっと聞いてあげようから。……",
"そりゃどうも。おせんに聞かしてやりましたら、どれ程喜ぶか知れやァしません。――ところで若旦那",
"なにさ",
"そのお願いと申しますのは",
"その頼みとは",
"お金を。――",
"何んのことかと思ったら、お金かい。憚りながら、あたしァ江戸でも人様に知られた、橘屋の徳太郎、おせんの頼みとあれば、決していやとはいわないから、かまわずにいって御覧。たとえどれ程の大金でも、あれのためなら、首は横にゃ振らないつもりだよ",
"へえへえ、どうも恐れいりやした。いやもう、おせん、おめえよく捕ったぞ。これ程の鼠たァ、まさか思っちゃ。……",
"これ千吉つぁん、何をおいいだ。あたしのことを鼠とは。……",
"ど、どういたしやして、鼠なんぞた申しゃしません。若旦那にはこれからも、鼠のように、チウ義をおつくし申せと、こう申したのでございます",
"お前は口が上手だから。……",
"口はからきし下手の皮、人様の前へ出たら、ろくにおしゃべりも出来る男じゃござんせんが、若旦那だけは、どうやら赤の他人とは思われず、ついへらへらとお喋りもいたしやす。――ねえ若旦那。どうかおせんに、二十五両だけ、貸してやっておくんなせえやし",
"何、二十五両。――",
"江戸で名代の橘屋の若旦那。二十五両は、ほんのお小遣じゃござんせんか"
],
[
"長兄イ。聞いたか",
"何を",
"何をじゃねえ、千吉がしこたま儲けたッて話をよ",
"うんにゃ。聞かねえよ",
"迂濶だな",
"だっておめえ、知らねえもなァ仕方がねえや。――いってえ、あの怠け者が、どこでそんなに儲けやがったたんだ",
"どこッたっておめえ、そいつが、てえそうないかさまなんだぜ",
"ふうん、奴にそんな器用なことが出来るのかい",
"相手がいいんだ",
"椋鳥か",
"ちゃきちゃきの江戸っ子よ",
"はァてな、江戸っ子が、奴のいかさまに引ッかかるたァおかしいじゃねえか",
"いかさまッたって、おめえ、丁半じゃねえぜ",
"ほう、さいころじゃねえのかい",
"女が餌だ",
"女。――",
"相手を釣って儲けたのよ",
"そいつァ尚更初耳だ。――その相手ッてな、どこの誰よ",
"油町の紙問屋、橘屋の若旦那だ",
"ほう、そいつァおもしれえ",
"あれだ。おもしれえは気の毒だぜ。千吉は妹のおせんを餌にして、若旦那から、二十五両という大金をせしめやがったんだ",
"なに二十五両だって",
"どうだ。てえしたもんだろう",
"冗談じゃねえ。二十五両といやァ、小判が二十五枚だぜ。こいつが二両とか、二両二分とかいうンなら、まだしも話の筋が通るが、二十五両は飛んでもねえ。あいつの首を引換にしたって、借りられる金じゃァねえぜ。冗談も休み休みいってくんねえ",
"ふん、知らねえッてもなァおッかねえや。おいらァ現にたった今、この二つの眼で、睨んで来たばかりなんだ。山吹色で二十五枚、滅多に見られるかさじゃァねえて",
"ふふふふ、金の字。その話をもうちっと委しく聞かせねえか"
],
[
"春重さん、お前さんいたのかい",
"いたから顔を出したんだがの。大分話が面白そうじゃねえか"
],
[
"てえした面白え話でもねえからよ",
"なに面白くねえことがあるもんか。二十五両といやァ、おいらのような貧乏人は、まごまごすると、生涯お目にゃぶら下がれない大金だぜ。そいつをいかさまだかさかさまだかにつるさげて、物にしたと聞いちゃァ、志道軒の講釈じゃねえが、嘘にも先を聞かねえじゃいられねえからの。――相手が橘屋の若旦那だったてえな、ほんまかい",
"おめえさん、それを聞いてどうしようッてんだ"
],
[
"どうもしやァしねえがの。そいつがほんまなら、おいらもちっとばかり、若旦那に借りてえと思ってよ",
"若旦那に借りるッて",
"まずのう。だが安心しなよ。おいらの借りようッてな、二十五両の三十両のという、大それた訳のもんじゃねえ。ほんの二分か一両が関の山だ。それも種や仕かけで取るようなけちなこたァしやァしねえ。真証間違いなしの、立派な品物を持ってって、若旦那の喜ぶ顔を見ながら、拝借に及ぼうッてんだ",
"そいつァ駄目だ",
"なんだって",
"駄目ッてことよ。橘屋の若旦那は、たとえお大名から拝領の鎧兜を持ってッたって、金ァ貸しちゃァくれめえよ。――あの人の欲しい物ァ、日本中にたったひとつ、笠森おせんの情より外にゃ、ありゃァしねッてこった",
"だから、そのおせんの、身から分けた物を、おいらァ買ってもらいに行こうッてえのよ",
"身から分けた物。――",
"そうだ。他の者が望んだら、百両でも譲れる品じゃねえんだが、相手がおせんに首ッたけの若旦那だから、まず一両がとこで辛抱してやろうと思ってるんだ",
"春重さん。またお前、つまらねえ細工物でもこしらえたんだな",
"冗談じゃねえ、こしらえたもンなんぞた、天から訳が違うンだぜ",
"訳が違うッたって、そんな物がざらにあろうはずもなかろうじゃねえか",
"ところが、あるんだから面白えや",
"そいつァいってえ、なんだってんだい",
"爪よ",
"え",
"爪だってことよ",
"爪",
"その通りだ。おせんの身についてた、嘘偽りのねえ生爪なんだ",
"馬、馬鹿にしちゃァいけねえ。いくらおせんの物だからッて、爪なんざ、何んの役にもたちゃァしねえや。かつぐのもいい加減にしてくんねえ",
"ふん、物の値打のわからねえ奴にゃかなわねえの。女の身体についてるもんで、年が年中、休みなしに伸びてるもなァ、髪の毛と爪だけだぜ。そのうちでも爪の方は、三日見なけりゃ目立って伸びる代物だ。――指の数で三百本、糠袋に入れてざっと半分よ。この混じりッけのねえおせんの爪が、たった小判一枚だとなりゃ、若旦那が猫のように飛びつくなァ、磨ぎたての鏡でおのが面を見るより、はっきりしてるぜ"
],
[
"千の字。おめえ、いい腕ンなったの",
"ふふふ",
"笑いごっちゃねえぜ。二十五両たァ、大束に儲けたじゃねえか",
"どこで、そいつを聞いた",
"壁に耳ありよ。さっき、通りがかりに飛び込んだ神田の湯屋で、傘屋の金蔵とかいう奴が、てめえのことのように、自慢らしく、みんなに話して聞かせてたんだ",
"あいつ、もうそんな余計なことを喋りゃがったかい",
"喋ったの、喋らねえの段じゃねえや。紙屋の若旦那をまるめ込んで。――"
],
[
"叱ッ。いけねえ。行っちめえねえ",
"合点だ"
],
[
"千吉。おめえ、こんなとこで、何をうろうろしてるんだ",
"へえ。きょうは親父の、墓詣りにめえりやした。その帰りがけでござんして。……",
"墓詣り",
"へえ",
"いつッから、そんな心がけになったんだ",
"どうか御勘弁を",
"勘弁はいいが、――丁度いい所でおめえに遭った。ちっとばかり訊きてえことがあるから、つきあってくんねえ",
"へえ",
"びくびくするこたァありゃしねえ。こいつあこっちから頼むんだから、安心してついて来ねえ"
],
[
"千吉、おめえ、おせんのところへは出かけたろうの",
"どういたしやして。妹にゃ、三年この方、てんで会やァいたしません",
"ふふふ。つまらねえ隠し立ては止めねえか。いまもいった通り、おいらァおめえを、洗い立てるッてんじゃねえ。こっちの用で訊きてえことがあるんだ。悪いようにゃしねえから、はっきり聞かしてくんねえ",
"どんな御用で。……",
"おせんのとこへ、菊之丞が毎晩通うッて噂を聞き込んだんだが、そいつをおめえは知ってるだろうの"
],
[
"何んで、そんな不審そうな顔をするんだ",
"何んでと仰しゃいますが、あんまり親方のお聞きなさることが、解せねえもんでござんすから。……",
"おいらの訊くことが解せねえッて。――何が解せねえんだ",
"浜村屋は、おせんのところへなんざ、命を懸けて頼んだって、通っちゃくれませんや",
"おめえ、まだ隠してるな",
"どういたしやして、嘘も隠しもありゃァしません。みんなほんまのことを申上げて居りやすんで。……",
"千吉",
"へ",
"おめえ、二三日前に行った時、おせんが誰と話をしてえたか、そいつをいって見ねえ",
"話でげすって",
"そうだ。おせん一人じゃなかったろう。たしか相手がいたはずだ",
"お袋が、隣座敷にいた外にゃ、これぞといって、人らしい者ァいやァいたしません",
"ふふふ、お七はいなかったか",
"お七ッ",
"どうだ、お七の衣装を着た浜村屋が、ちゃァんと一人いたはずだ。おめえはその眼で見たじゃねえか",
"ありゃァ親方。――",
"あれもこれもありゃァしねえ。おいらはそいつを訊いてるんだ",
"人形じゃござんせんか",
"とぼけちゃいけねえ。人間を人形と見違える程、鬼七ァまだ耄碌しちゃァいねえよ。ありゃァ菊之丞に違えあるめえ",
"確にそうたァ申上られねえんで。……",
"おめえ、眼が上ったな。判った。――もういいから帰ンな",
"有難うござんすが、――親方、あれがもしか浜村屋だったら、どうなせえやすんで。……",
"どうもしやァしねえ",
"どうもしねンなら、何も。――",
"聞きてえか",
"どうか、お聞かせなすっておくんなせえやし",
"浜村屋は、役者を止めざァならねえんだ",
"何んでげすッて",
"口が裂けてもいうじゃァねえぞ。――南御町奉行の、信濃守様の妹御のお蓮様は、浜村屋の日本一の御贔屓なんだ",
"ではあの、壱岐様からのお出戻りの。――",
"叱っ。余計なこたァいっちゃならねえ",
"へえ",
"さ、帰ンねえ",
"有難うござんす"
],
[
"大そう早いの",
"はい。少しばかり思い余ったことがござんして、お智恵を拝借に伺いました",
"智恵を貸せとな。はッはッは。これは面白い。智恵はわたしよりお前の方が多分に持合せているはずだがの",
"まァお師匠さん",
"いや、それァ冗談だが、いったいどんなことが持上ったといいなさるんだ",
"あのう、いつもお話しいたします兄が、ゆうべひょっこり、帰って来たのでござんす",
"なに、兄さんが帰って来たと",
"はい",
"よく聞くお前の話では、千吉とやらいう兄さんは、まる三年も行方知れずになっていたとか。――それがまた、どうして急に。――",
"面目次第もござんせぬが、兄さんは、お宝が欲しいばっかりに、帰って来たのだと、自分の口からいってでござんす",
"金が欲しいとの。したがまさか、お前を分限者だとは思うまいがの",
"兄さんは、あたしを囮にして、よその若旦那から、お金をお借り申したのでござんす",
"ほう、何んとして借りた",
"いやがるあたしに文を書かせ、その文を、二十五両に、買っておもらい申すのだと、引ッたくるようにして、どこぞへ消え失せましたが、そのお人は誰あろう、通油町の、橘屋の徳太郎さんという、虫ずが走るくらい、好かないお方でござんす",
"そんなら千吉さんは、橘屋の徳さんから、その金を借りて。――",
"はい。今頃はおおかた、どこぞお大名屋敷のお厩で、好きな勝負をしてでござんしょうが、文を御覧なすった若旦那が、まッことあたしからのお願いとお思いなされて、大枚のお宝をお貸し下さいましたら、これから先あたしゃ若旦那から、どのような難題をいわれても、返す言葉がござんせぬ。――お師匠さん。何としたらよいものでござんしょう"
],
[
"徳さんも、人の心の読めない程馬鹿でもなかろう。どのような文句を書いた文か知らないが、その文一本で、まさか二十五両の大金は出すまいよ",
"それでも兄さんは、ただの二字でも三字でも、あたしの書いた文さえ持って行けば、お金は右から左とのことでござんした",
"そりゃ、いつのことだの",
"ゆうべでござんす"
],
[
"痛ッ。――だ、だれだ",
"だれだじゃねえや、てえへんなことがおっ始まったんだ。子丑寅もなんにもあったもんじゃねえ。あしたッから、うちの小屋は開かねえかも知れねえぜ"
],
[
"な、なにがあったんだ",
"なにがも、かにがもあるもんじゃねえ、まかり間違や、てえした騒ぎになろうッてんだ。おめえンとこだって、芝居のこぼれを拾ってる家業なら、万更かかり合のねえこともなかろう。こけが秋刀魚の勘定でもしてやしめえし、指なんぞ折ってる時じゃありゃァしねえぜ",
"いってえ、どうしたッてんだ、長さん",
"おめえ、まだ判らねえのか",
"聞かねえことにゃ判らねえや",
"なんて血のめぐりが悪く出来てるんだ。――浜村屋の太夫が、舞台で踊ってたまま倒れちゃったんだ",
"何んだッてそいつァおめえ、本当かい",
"おれにゃ、嘘と坊主の頭ァいえねえよ。――仮にもおんなじ芝居の者が、こんなことを、ありもしねえのにいって見ねえ。それこそ簀巻にして、隅田川のまん中へおッ放り込まれらァな",
"長さん",
"ええびっくりするじゃねえか。急にそんな大きな声なんざ、出さねえでくんねえ",
"何をいってるんだ。これがおめえ、こそこそ話にしてられるかい。おいらァ誰が好きだといって、浜村屋の太夫くれえ、好きな役者衆はねえんだよ。芸がよくって愛嬌があって、おまけに自慢気なんざ薬にしたくもねえッてお人だ。――どこが悪くッて、どう倒れたんだか、さ、そこをおいらに、委しく話して聞かしてくんねえ"
],
[
"丁度二番目の、所作事の幕に近え時分だと思いねえ。知っての通りこの狂言は、三五郎さんの頼朝に、羽左衛門さんの梶原、それに太夫は鷺娘で出るという、豊前さんの浄瑠璃としっくり合った、今度の芝居の呼び物だろうじゃねえか。はねに近くなったって、お客は唯の一人だって、立とうなんて料簡の者ァねえやな。舞台ははずむ、お客はそろって一寸でも先へ首を出そうとする。いわば紙一重の隙もねえッてとこだった。どうしたはずみか、太夫の踊ってた足が、躓いたようによろよろっとしたかと思うと、あッという間もなく、舞台へまともに突ッ俯しちまったんだ。――客席からは浜村屋ッという声が、石を投げるように聞こえて来るかと思うと、御贔屓の泣く声、喚く声、そいつが忽ち渦巻になって、わッわッといってるうちに、道具方が気を利かして幕を引いたんだが、そりゃおめえ、ここでおれが話をしてるようなもんじゃァねえ、芝居中がひっくり返るような大騒ぎだ。――そのうちに頭取が駆け着ける、弟子達が集まるで、倒れた太夫を、鷺娘の衣装のまま楽屋へかつぎ込んじまったが、まだおめえ、宗庵先生のお許しが出ねえから、太夫は楽屋に寝かしたまま、家へも帰れねえんだ",
"よし、お花、おいらに羽織を出してくんねえ"
],
[
"何んの用だ",
"用じゃァねえが、おかみさんもああいうンだから、晩にしたらどうだ。どうせいま行ったって、会えるもんでもねえンだから。――",
"ふん、おめえまで、余計なことはおいてくんねえ。おいらの足でおいらが歩いてくんだ。どこへ行こうが勝手じゃねえか",
"ほう、大まかに出やァがったな。話をしたなァおれなんだぜ。行くんなら、せめておれの髯だけでもあたッてッてくんねえ",
"髯は帰って来てからだ",
"帰って来てからじゃ、間に合わねえよ",
"間に合わなかったら、どこいでも行って、やってもらって来るがいいやな。――ええもう面倒臭え、四の五のいってるうちに、日が暮れちまわァ"
],
[
"急いでくんねえよ",
"ようがす",
"急病人の知らせに行くんだからの",
"合点だ"
],
[
"お母さん",
"おやおまえ、どうしたというの、何かお見世にあったのかい"
],
[
"どうおしだよ、おせん",
"お母さん、あたしゃ、どうしよう",
"まァおまえ。……",
"吉ちゃんが、――あの菊之丞さんが、急病との事でござんす",
"なんとえ。太夫さんが急病とえ。――",
"あい。――あたしゃもう、生きてる空がござんせぬ",
"何をおいいだえ。そんな気の弱いことでどうするものか。人の口は、どうにでもいえるもの。急病といったところが、どこまで本当のことかわかったものではあるまいし。……",
"いえいえ、嘘でも夢でもござんせぬ。あたしゃたしかに、この耳で聞いて来ました。これから直ぐに市村座の楽屋へお見舞に行って来とうござんす。お母さん、そのお七の衣装を脱がせておくんなさいまし",
"えッ、これをおまえ",
"吉ちゃんが、去年の芝居が済んだ時、黙って届けておくんなすったお七の衣装、あたしに着ろとの謎でござんしょう",
"それでもこれは。――",
"お母さん"
],
[
"お止し",
"いいえ、もう何んにもいわないでおくんなさい。あたしゃお七とおんなじ心で、太夫に会いに行きとうござんす"
],
[
"あい",
"おまえ、一人で行く気かえ",
"あい"
],
[
"おせんさん、仮名床の伝吉でござんす。浜村屋の太夫さんが、急病と聞いて、何より先にお知らせしてえと、駕籠を飛ばしてやってめえりやした。笠森様においでがねえんでこっちへ廻って来やした始末。ちっとも速く、葺屋町へ行っとくンなせえやし",
"親方、その駕籠を、待たせといておくんなさい",
"合点でげす"
],
[
"ちょいとお前さん、何んだってあんなお医者の駕籠に、くッついて歩いているのさ",
"なんだ神田の、明神様の石の鳥居じゃないが、お前さんもきがなさ過ぎるよ。ありゃァただのお医者様の駕籠じゃないよ",
"だってお辰つぁん、どう見たって。……",
"叱ッ、静かにおしなね。あン中にゃ、浜村屋の太夫さんが乗ってるんだよ",
"浜村屋の太夫さん。――",
"そうさ。きのう舞台で倒れたまま、今が今まで、楽屋で寝てえたんじゃないか。それをお前さん、どうでも家へ帰りたいと駄々をこねて、とうとうあんな塩梅式に、お医者と見せて帰る途中だッてことさ",
"おやまァ、そんならそこを退いとくれよ",
"なぜ",
"あたしゃ駕籠の傍へ行って、せめて太夫さんに、一言でもお見舞がいいたいンだから。……",
"何をいうのさ。太夫は大病人なんだよ。ちっとだッて騒いだりしちゃァ、体に障らァね。一緒について行くなァいいが、こッから先へは出ちゃならねえよ",
"いいから退いとくれッたら",
"おや痛い、抓らなくッてもいいじゃないか",
"退かないからさ",
"おや、また抓ったね"
],
[
"松助さん",
"はい",
"お前さんは、折角だが、ここから帰る方がいいようだの",
"なぜでございます",
"不吉なことをいうようだが、浜村屋さんはひょっとすると、あのままいけなくなるかも知れないからの",
"ええ滅相な。左様なことがおますかいな"
],
[
"どなたもお静かに。――",
"はい"
],
[
"先生、如何でございます",
"脈に力が出たようじゃが。……",
"それはまァ、うれしゅうござんす",
"だが御安心は御無用じゃ。いつ何時変化があるか判らぬからのう",
"はい",
"お見舞の方々も、次の間にお引取りなすってはどうじゃの、御病人は、出来るだけ安静に、休ませてあげるとよいと思うでの"
],
[
"それがようござる。及ばずながら愚老が看護して居る以上、手落はいたさぬ考えじゃ",
"何分共にお願い申上げます"
],
[
"はい",
"お気の毒でござるが、太夫はもはや、一時の命じゃ",
"えッ",
"いや静かに。――ただ今、脈に力が出たようじゃと申上げたが、実は他の方々の手前をかねたまでのこと。心臓も、微かに温みを保っているだけのことじゃ",
"それではもはや"
],
[
"お客様でございます",
"どなたが",
"谷中のおせん様",
"えッ、あの笠森の。……",
"はい",
"太夫は御病気ゆえ、お目にかかれぬと、お断りしておくれ"
],
[
"あい",
"よく来てくれた",
"太夫さん",
"太夫さんなぞと呼ばずに、やっぱり昔の通り、吉ちゃんと呼んでおくれな",
"そんなら、吉ちゃん。――",
"はい",
"あたしゃ、会いとうござんした",
"あたしも会いたかった。――こういったら、お前さんはさだめし、心にもないことをいうと、お想いだろうが、決して嘘でもなけりゃ、お世辞でもない。――知っての通り、あたしゃどうやら人気も出て、世間様からなんのかのと、いわれているけれど、心はやっぱり十年前もおなじこと。義理でもらった女房より、浮気でかこった女より、心から思うのはお前の身の上。暑いにつけ、寒いにつけ、切ない思いは、いつも谷中の空に通ってはいたが、今ではお前も人気娘、うっかりあたしが訪ねたら、あらぬ浮名を立てられて、さぞ迷惑でもあろうかと、きょうが日まで、辛抱して来ましたのさ",
"勿体ない、太夫さん。――",
"いいえ、勿体ないより、済まないのはあたしの心。役者家業の憂さ辛さは、どれ程いやだとおもっても、御贔屓からのお迎えよ。お座敷よといわれれば、三度に一度は出向いて行って、笑顔のひとつも見せねばならず、そのたび毎に、ああいやだ、こんな家業はきょうは止そうか、明日やめようかと思うものの、さて未練は舞台。このまま引いてしまったら、折角鍛えたおのが芸を、根こそぎ棄てなければならぬ悲しさ。それゆえ、秋の野に鳴く虫にも劣る、はかない月日を過ごして来たが、……おせんちゃん。それもこれも、今はもうきのうの夢と消えるばかり。所詮は会えないものと、あきらめていた矢先、ほんとうによく来てくれた。あたしゃこのまま死んでも、思い残すことはない。――",
"もし、吉ちゃん",
"おお",
"しっかりしておくんなさい。羞かしながら、お前がなくてはこの世の中に、誰を思って生きようやら、おまえ一人を、胸にひそめて来たあたし。あたしに死ねというのなら、たった今でも、身代りにもなりましょう。――のう吉ちゃん。たとえ一夜の枕は交さずとも、あたしゃおまえの女房だぞえ。これ、もうし吉ちゃん。返事のないのは、不承知かえ"
],
[
"吉ちゃん。――太夫さん。――",
"お、せ、ん――",
"ああ、もし"
],
[
"もし、お嬢様。お危のうござります",
"何をするのじゃ。放しや",
"どちらへおいで遊ばします",
"知れたことじゃ。これから直ぐに、浜村屋の許へまいる",
"これはまあ、滅相なことを仰しゃいます",
"何が滅相なことじゃ、わらわがまいって、浜村屋の病気を癒して取らせるのじゃ。――邪間だてせずと、そこ退きゃ",
"なりませぬ",
"ええもう、退きゃというに、退かぬか"
],
[
"お嬢様。お気をお静め遊ばしまして。……",
"いらぬことじゃ。放せ",
"いいえお放しいたしませぬ。今頃お出まし遊ばしましては、お身分に係わりまする。もしまた、たってお出まし遊ばしますなら、一応わたくし共から御家老へ、その由お伝えいたしませねば。……",
"くどいわ。放せというに、放さぬか"
],
[
"それ、向うから。――",
"あちらへお廻り遊ばしました"
],
[
"お嬢様。――",
"お待ち遊ばせ"
],
[
"おせんさん",
"は、はい。――",
"お焼香のお客様がお見えでござんす。よろしかったら、お通し申します",
"はい、どうぞ。――"
]
] | 底本:「大衆文学代表作全集 19 邦枝完二集」河出書房
1955(昭和30)年9月初版発行
1955(昭和30)年11月30日8刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:伊藤時也
校正:松永正敏
2007年4月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "046687",
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"姓ローマ字": "Kunieda",
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[
[
"お人が来いしたよ",
"え"
],
[
"誰だい。この雪道に御苦労様な。――",
"伺うのは初めてだといいしたが、二十四五の、みすぼらしいお人でありんす",
"どッから来たといった",
"深川とかいいなんした",
"なに、深川。そいつア呆れた。――仕方がねえ。そんな遠方から来たんじゃ、会わねえ訳にもゆくめえ。直ぐに行くから、客間へ通しときな",
"会いなんすか",
"面倒臭えが、いやだともいえめえわな"
],
[
"はい、左様でございます。わたくしは、深川仲町裏に住んで居りまする、馬琴と申します若輩でございますが、少々先生にお願いの筋がございまして、無躾ながら、斯様に早朝からお邪魔に伺いました",
"どんな話か知らないが、そこじゃ遠くていけねえ。遠慮はいらないから、もっとこっちへ這入ンなさるがいい"
],
[
"その頼みの筋というなア、一体どんなことだの",
"外でもございませんが、この馬琴を、先生の御門下に、お加え下さる訳にはまいりますまいか",
"やっぱりそんなことだったのか"
],
[
"はい",
"はいじゃアねえよ。改まって、願いの筋があるといいなさるから、また何か、読本の種にでもなるような珍らしい相談でもすることかと思ったら、何んのこたアねえ、すっかり当が外れちゃった――そりゃアまア、弟子にしてくれというんなら、しねえこともないが、第一お前さん、そんな野暮な恰好をして、これまでに、黄表紙か洒落本の一冊でも、読んだことがおあんなさるのかい",
"ございます"
],
[
"どんな物を読みなすった",
"まず先生のお作なら、安永七年にお書卸しの黄表紙お花半七を始め、翌年御開板の遊人三幅対、夏祭其翌年、小野篁伝、天明に移りましては、久知満免登里、七笑顔当世姿、御存商売物、客人女郎不案配即席料理、悪七変目景清、江戸春一夜千両、吉原楊枝、夜半の茶漬。なおまた昨年中の御出版は、一百三升芋地獄から、読本の通俗大聖伝まで、何ひとつ落した物のないまでに、拝読いたしてまいりました",
"うむ、そうかい"
],
[
"よく読んだの",
"はいおかげさまで。……",
"しかし、現在お前さんは、何をして暮しているんだの",
"只今は、これぞと申すこともいたしては居りませぬが、曾てはお旗本の屋敷に奉公いたしましたり山本宗英先生の許に御厄介になって、医術を学んだこともございます",
"ほうお医者さんの崩れかい。それじゃその道で、おまんまは食べられるという訳合か",
"さア、そうまいれば、不足はないのでございますが、宗仙という名前は貰いましたものゝ、まだまだ生きた人間を診察いたしますことなどは、怖くて、容易に手出しは出来ませぬ"
],
[
"そりゃまたなぜでございます",
"積っても見るがいゝ。この世間の、ありとある幸不幸を、背負って生れて来た人間を、筆一本で自由自在に、生かしたり殺したりしようというのが、戯作者の仕事じゃねえか。それだのにお前さん、生きた人間は怖いなんぞと、胆ッ玉の小さなことをいってたんじゃ、これア見世の出しようがねえやな"
],
[
"お言葉じゃございますが、この馬琴は、戯作を、楽しみ半分ということではなしに、背水の陣を布いて、やって見たいと思って居りますんで。……",
"折角だが駄目だ",
"駄目だと仰しゃいますと",
"人間、食わずにゃいられねえからの",
"ところが先生、わたくしは、食わずにいられるのでございます",
"何んだって",
"もとより生身を抱えて居ります体、まるきり食べずにいる訳にはまいりませぬが、一日に米一碗に大根一切さえありますれば、そのほかには水だけで結構でございます。――どのような下手な作者になりましても、米一碗ずつの稼ぎは、出来ないことはありますまい"
],
[
"本当にやる気かの",
"三日三晩、一睡もしずに考え抜いた揚句、お願いに参上いたしましたやつがれ、毛頭嘘偽りは申上げませぬ",
"よかろう。それ程までの覚悟があるなら、やって見なさるがいゝ。しかし断っておくが、わたしゃついぞこれまでにも、弟子と名の付く者は、只の一人も取ったことはないのだから、新らたにお前さんを、弟子にする訳にゃア行かねえよ",
"じゃアやっぱり、御門下には加えて頂けませんので。……",
"元来絵師と違って、作者の方にゃ、師匠も弟子もある訳のもんじゃねえのだ。己が頭で苦心をして己が腕で書いてゆくうちに、おのずと発明するのが、文章の道だろう。だからお前さんが、ひとかどの作者になりたいと思ったら、何も人を頼るこたアねえから、おのが力で苦心を刻んでゆくことだ。そいつが世間に容れられるようなら、お前さんに腕があるという訳だし、こんなもなア読めねえと、悪評判を立てられるようなら、腕のたりねえ証拠になる。――どっちにしても、師匠に縋るとか、師匠の真似で売出そうとか考えたら、それア飛んだ履き違いだぜ。――いくたりの知己ある世かは知らねども、死んで動かす棺桶はなし。つまり戯作者の立場はこれだ。判ったかの",
"はい"
],
[
"その換り、弟子にはしねえその換り、お前さんが何か書き物をしたら、見てくれろというんなら、必ず見てもあげるし、遠慮のない愚見も述べて進ぜる。が、これはどこまでも師弟の立場からではなくて、友達としてのつきあいだ。それでよかったら、気の向いた時は、いつでも遊びに来なさるがいゝ",
"何んとも恐れ入りました。では今後は、御迷惑でも、屡々御厄介になることゝ存じます。――そのお言葉で、馬琴、世の中が急に明るくなったような気がいたします",
"昔ッから、盲目の蟋蟀という話がある。あんまり調子付いて水瓶の中へ落ちねえように気をつけねえよ",
"うふふ。――その御教訓は、いつまでも忘れることじゃございません"
],
[
"あっしゃア縁側にいやしたのさ",
"じゃア今の、馬琴という男を見ただろう",
"見たどころじゃござんせん。あいつのせりふも実アみんな聞きやしたよ",
"ほう、そうか。しかしおれもこれまで、弟子にしてくれといって来た男にゃ、勘定の出来ねえくらい会ったが、今の馬琴のような一徹な男にゃ、まだ会ったことがなかった。書いた物を見た訳じゃねえから、どうともはっきりゃアいえねえが、ありゃアおめえ、うまく壺にはまったら、いゝ作者になるだろうぜ",
"ふん、馬鹿らしい"
],
[
"何が馬鹿らしいんだ",
"だってそうじゃげえせんか。あんな鰯の干物のような奴が、どう足掻いたって、洒落本はおろか、初午の茶番狂言ひとつ、書ける訳はありますまい。――あっしにゃ、あんな男につまらね愛想を云われて、喜んでる兄さんの気組が、いくら考えても判らねえから、そいつを聞かせて貰いにめえりやしたのさ",
"慶三郎"
],
[
"おめえまた、正月早々、いつもの癖が始まったな",
"癖はござんすまい。あんな干物の草稿を見てやろうなんて、つまらねえ料簡が、どこを押しゃア兄さんの肚から出るんだか、あっしゃアそいつが訊きてえだけの話さ",
"人のことを、矢鱈にくさしたがる、その癖の止まねえうちは、おめえにゃいつんなっても、ろくな物ア書けねえだろう。――なる程、あの馬琴という男ア、干物のような風采にゃ違えねえ。おいらも初手に一目見た時にゃ、つまらねえ奴が舞い込んで来たもんだと、内心腹が立ったくれえだった。だが、一言喋るのを聞いてからは、なかなかの偉物だということが、直ぐにおれの胸へ、ぴたりとやって来た。そういっちゃア可哀想だが、おめなんざ、足許へもおッ付く相手じゃねえ。この二三年面倒を見てやったら、きっと、あッと驚くような大物を、書き始めるに相違なかろう。その時になって、眼が利かなかったと、いくら悔んでも、もう間に合わねえぜ",
"冗、冗談じゃアねえや。あんな唐変木に、黄表紙が一冊でも書けたら、あっしゃア無え首を二つやりやす。――鹿爪らしく袴なんぞ履きゃアがって、なんて恰好だい。そいつもまだいいが、兄さんが、何か読んだかと訊いた時の、あの高慢ちきの返事と来たら、あっしゃア向うで聞いてて、へどが出そうになりやしたぜ。まず先生のお作ならから始めやがって、安永七年のお書卸しの黄表紙お花半七、翌年御出版の遊人三幅対",
"止しねえ",
"だって、この通りじゃげえせんか。天下に手前程の学者はなしと云わぬばかりの、小面の憎い納り様が、兄さんの腹の虫にゃ、まるッきり触らなかったとなると、こいつア平賀源内のえれきてるじゃアねえが、奇妙不思議というより外にゃ、どう考えても、考えられねえ代物でげすぜ",
"もういゝから、あっちへ行きねえ"
],
[
"聞かねえうちア、滅多にゃこゝア動きませんよ。――あんな干物野郎が、あっしよりもずんと上の作者だといわれたんじゃ、猶更立つ瀬がありませんや。――もし嫂さん。使いだてしてお気の毒だが御輿を据えて、聞かざならねえことが出来やした。ここへ一合、付けて来ておくんなせえやし",
"慶さん、何んざます"
],
[
"一合お願い申しやす",
"おほゝ、御酒でありんすか",
"左様",
"御酒なら、わたしがお酌しいす。向うのお座敷で飲みなんし"
],
[
"兄さん。ちょいと待ってゝおくんなせえ。たった一つ、訊かしてもらいたいことがありやす",
"おめえの酔が醒めた時に、聞かしてやる",
"冗談じゃねえ。あっしゃア酔っちゃ居りやせんよ。――あの馬琴という男より、たしかにあっしの方が、作者は下でげすかい。そいつをここで、はっきり聞かして貰いてえんで。……",
"腹は一つだが、おめえはこの京伝の、義理のある弟だ、出来ることなら、嘘にも下だたアいいたかねえ。が、書いた物を見るまでもなく、おめえと馬琴とじゃ、第一心構えに、大きな違いがありゃアしねえか。これアおいらがいうよりも、おめえの肚に聞いて見たら、いっそ判りが速かろう"
],
[
"よく判りやした。あっしゃアこれから先、あの干物の出入するこの家にゃ、我慢にもいられやせんから、あいつが来る間は、ここの敷居は跨ぎますまい",
"もし、慶さん。――"
],
[
"ぬしさん。――",
"うむ",
"慶さんは、どこへ行きなんす",
"どこへも行きゃアしめえ",
"でも、あゝして出て行きいしたからは、滅多に帰っては来いすまい。わたしが傍に附いていながら飛んだ粗相、面目次第もありいせん",
"来たばかりのおめえが、心配するこたアありゃアしねえや。負け嫌いのくせに、本を漁ろう考えもなく、ただ酒ばかり飲んで、月日を後へ送ってる。同じくらいの年恰好でも、馬琴とは天地の相違だ。可哀想だが、ちと腹を立てさせた方が、後々の為めにもなるだろう。つまらねえ心配はやめにして、鬢の乱れでも直すがいいわな"
],
[
"辛抱しな。もうあと半分だ。その換り家へ帰ったら、おいらがおっかあに凧を買って貰って、揚げてやる",
"凧なんか見たかねえから、早く帰りてえ",
"おめえがいまやめると、お父っあんが困る。いい子だから、もう少し配ってくんな"
],
[
"にがい。――",
"我慢しろ。おめえが腹痛を起したのが悪いんだ"
],
[
"おいら、苦いから、もういやだ",
"いけない。飲まないと、あとでお父っあんに叱られるよ",
"もうお腹は癒ったから、飲まない"
],
[
"何かうまい物が、腹一杯食って見てえな。二三日して、京伝の家の居候になりゃア、盗み食いをしない限り、腹一杯は食えねえことになってるんだ。――だが、銭はなし。米はあるが虫ころげだし、せめて久し振りで鰯の顔ぐらい、見せてくれる親切な人ア、長屋中にゃアねえものかなア",
"もし、瀧沢さん。お客様がお見えなさいましたよ",
"えッ"
],
[
"お前さんは、さっき山東庵へおいでなすった、馬琴さんでげしょうね",
"はい、わたくしが、お尋ねの馬琴でございます",
"あっしゃア京伝の弟の、京山という者さ",
"あゝ左様でございましたか。存じませぬことゝて、これはどうも御無礼いたしました。――御覧の通りの漏屋ではございますが、どうか、こちらへお上んなすって下さいまし"
],
[
"折角だが、上って話をする程の、大事な用じゃアねえんで。……",
"どのような御用でございましょう",
"おめえさんに、もう二度と再び、銀座へは来て貰いたくねえと、その断りに来やしたのさ",
"えッ",
"どうだ。こいつアちったア身に沁みたろう。――ふゝゝ。おめえのような、そんな高慢ちきな男ア大嫌えなんだ"
],
[
"そりゃアどうも、わざわざ御苦労様でございました",
"なんだって",
"御苦労様でございましたと、お礼を申して居りますんで。……この雪道を、わざわざおいで下さいませんでも、それだけの御用でしたら、今度伺いました時に、そう仰しゃって頂きさえすりゃ、それで用は足りましたのに、却って恐縮で、お詫の申しようもございません",
"そんな気永に、待っていられるかい。それに第一、おめえを嫌いなゝア、兄貴じゃなくっておいらなんだ",
"これは面白い。では京伝先生は、別に何も仰しゃったという訳じゃございませんので。……",
"兄貴がいおうがいうめえが、おいらがいやならおんなじこった",
"どういたしまし。それア飛んだ御料簡違いでございましょう。わたくしは、何もお前さんの門弟になりたいとは、夢にもお願いした覚えはありアしません。京伝先生のお弟子にして頂きたいのがかねてからの心願でございました。こりゃアいくらお屠蘇の加減でも、つまらない見当違いの矢を、向けておいでなさいましたな。まったくそんな御用なら、上って頂くにも及びますまい。どうかさっさとお帰んなすっておくんなさいまし",
"帰れといわれなくっても、誰がこんな薄汚ねえ家に、いつまでいられるかい。――土産のしるしだ取ってきねえ"
]
] | 底本:「昭和のエンタテインメント50篇(上)」文春文庫、文芸春秋
1989(平成元)年6月10日第1刷
底本の親本:「オール讀物 増刊号」文芸春秋
1988(昭和63)年7月
入力:網迫、大野晋
校正:山本弘子
2008年5月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "047516",
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"底本出版社名1": "文春文庫、文芸春秋",
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[
[
"なアお牧、お春や常吉は、まさか道草を食ってるわけじゃあるまいね、大層遅いじゃないか",
"そんなことはござんせんよ。お組頭のお屋敷は、ここから五丁とは、離れちゃいないんですもの。きっと将軍のお成りが、遅れているんでしょうよ"
],
[
"ねえ、旦那。今夜お由利が帰ってきましたら、平太郎さんとの話を、すっかり決めて、一日も速くお城から退るようにしたいもんですねえ",
"それはわたしも、望んでいるんだが、お由利の便りでは、上役の袖ノ井さんとやらが、可愛がって下さるとかで、急いで退りたくはないとのこと。今時の娘の心はわたしにゃ解せないよ",
"何んといっても、町家の娘が、いつまでも御奉公をしているのは、間違いの元ですよ。……そういえば、本当に遅いようですが、何か変わったことでも、あったんじゃござんせんかしら?……"
],
[
"旦那様。おかみさんもお喜びなさいまし",
"おお、常吉か。お由利はどうした?",
"へい。今し方お行列が、遠藤様へお着きになりましたので、お嬢様にもお暇が出ました。今、あすこへおいでなさいますが、お客様が御一しょだと仰しゃいますので、一っ走り、お先へまいりました"
],
[
"おお、お由利……",
"よくまア帰って来ておくれだねえ",
"お父さん、おっ母さん。お達者で……"
],
[
"親分、大変だ",
"やいやい、岩吉、騒々しいぞ。御用を預かる家で、一々大変だなんぞと云ってたんじゃ、客人に笑われるぜ。気をつけろい",
"へッ。こいつア大しくじりだ。いつもの癖が出ちまったんで。……こりア黒門町の親分、お早うございます",
"岩さん。朝から大層な働きのようだな",
"伝七親分の前でござんすが、十年に一度って騒ぎを、聞き込んでめえりやしたんで……",
"岩、そりア何だ"
],
[
"岩、てめえの話ア、騒々しくっていけねえ。黒門町もいる事だ。もうちっと落ち着いて話をしねえ",
"いや北町の"
],
[
"あわてる方じゃ滅多に退けを取らねえ男が、こちらにもいるんだ。おいらア、あわて者にゃ慣れてるから、ひとつ、今のつづきを聞かして貰おうじゃねえか",
"冗談じゃありやせんぜ"
],
[
"親分。何も青山くんだりまで来て、あっしを引き合いに出さなくっても、ようござんしょう",
"ははは。人ア、引き合いに出されるうちが、花だと思いねえ。……ところで岩さん。筋アどういうんだ?"
],
[
"実ア梅窓院通りの、伊吹屋の娘でござんす",
"じゃア大奥へ勤めている、お由利だな。いってえどこで殺されたんだ"
],
[
"ゆうべ、自分の家へ帰って来やしてね。大勢で祝いの真似をして飲んだり食ったりして、寝間へ這入ったそうですが、今朝お袋が起こしに行くと、胸元を一突き、もう冷たくなってたという話なんで……",
"うーむ",
"当人は、星灯ろう見物の、お供で来たんだそうでしてね。二日だけ、宿退りを頂いたってわけだと聞きやした。何しろ帰ったその晩の出来事でげすから、両親を初め見世の者ア気が転倒してえたんでござんしょう。飛び込んでったあっしをつかまえて、まるっきりまとまりのつかねえことを申しやす――この界隈じゃア、小町娘と評判だったお由利さんのこと。一つ親分に、出向いてお貰い申そうと、横ッ飛びに帰ってめえりやした",
"そうか。よく聴き込んだ。将軍様は、ゆうべの中に御帰還だが、それに関わりのあることだけに、今日明日の中に埒を開けなくちゃ、お奉行の遠山様のお顔に係わるというもんだ。直ぐに行こう"
],
[
"黒門町。いま聞きなすった通りだ。迷惑だろうが、一緒に来ちゃ貰えめえか",
"うむ。お前さんさえよけれア、いかにもお供をしよう。仏様を抱えているお前だ。手伝いが出来りゃ、おいらも本望よ",
"有難てえ。長引いたら、今度ばかりゃ、ほうぼうから集まって来るに違えねえから、愚図愚図しちゃいられねえ仕事、兄貴が来ておくんなさりゃ、千人力だ"
],
[
"親分",
"何だ",
"あっしゃまだ、御殿女中の殺されたのア、見たことがねえんで。……きょうはひとつ、手柄を立てさしておくんなせえ",
"バカ野郎",
"おっと黒門町の。竹さんも連れて行こう。何か飛び廻ってもらうことが、あるに違えねえ",
"へッ、へッ。有難え。きっとあっしの鼻が、お役に立つことがありやすぜ"
],
[
"旦那、飛んだことでござんしたねえ。折角お宿退りをなすったお由利さんが、こんな不仕合わせな目にあいなさるとア、まったく夢のようだ",
"北町の親分、お察し下さいまし。半年振りで帰って来たものを一晩も、ゆっくり寝ますことが出来なかったなんて、何という因果でございましょう",
"こんなことでしたら、帰って来てくれない方が、どんなによろしゅうござんしたろう"
],
[
"どうぞ親分。早く殺した奴を、捕えておくんなさいまし。せめて娘を、成仏させてやりとうございまする",
"心配しなさんな。お由利さんとア小娘の時から知り合ってるおいらだ。青山小町と迄うたわれた娘を、こんな惨い目に遇わしやがった奴を、おめおめ生かしておくもんじゃねえ。それに今日は、おいらの兄貴分の、黒門町の伝七がうちへ来合わせていたのを幸い、一緒に来てもらったんだからなア",
"えッ。ではこちら様が、下谷の伝七親分さんで?……"
],
[
"お忙しいところを、申し訳ございません。何分よろしく、お願い申しまする",
"いや、お役に立つかは判らねえが、こうして来るのも、やっぱり緑があるんだろうから、出来るだけは、働いてみることにしましょうよ"
],
[
"兄貴、やっぱりこれが命取りだな",
"うむ、刃物は大した切れ味だ"
],
[
"旦那。それじゃゆうべの様子を、一通り聞かしてもらおう",
"はい。……お由利が帰ってまいりましたのは、丁度五ツ時でございましたが、お光の方様へお仕え申して居ります、表使のお方とやらで、三十くらいの袖ノ井様と申すお女中衆と、鴎硯と申されるお坊主衆とが一しょでございました",
"その二人は、何だって来なすったんだ?",
"袖ノ井様は、百人町にお家があり、お由利とは、大層仲よくして頂いて居りましたそうで、同じように宿退りのお許しが出ましたのを幸い、送って行って上げようと、お立ち寄り下さいましたのでございます。……お坊主の鴎硯様は、お光の方様のお声掛かりで、途中を護って下さいましたので。……",
"それで、二人は、座敷へ上がったのかね",
"左様でございます。手前共でも膳の用意なども、いたして居りましたので、お二方を上席に、お由利と平太郎が並びまして、一口召し上がって頂きました",
"平太郎と云うと?……",
"同じ町内の結城屋のせがれで、お由利がお城を退りましたら、一緒にする約束になって居ります。――昨夜も呼び迎えて居りました",
"そんなら、その時にゃ、別に変わったことは、なかったんだな",
"それはもう、みんな楽しそうで、鴎硯様は、唄や手踊りが、大層お上手でございました。さんざん笑わせて頂きましたくらいでございました",
"うむ。みんなが帰ったのは?",
"鴎硯様は、お行列のお供には、加わらなくてもよいのだと、申されて居りましたが、それでも四ツ時ごろには、駕籠でお帰りになり、暫くして、星灯ろうを見物がてら、お由利が袖ノ井様を、送って行くと申しまするので、遠くもない所でもあり、常吉をつけてやりましたが、ものの半刻ばかりで、お由利もかえってまいりました",
"………",
"それから親子水入らずで、いろいろと話がはずみましたが、疲れていることでもございますし明日の朝は、ゆっくり寝たいから、渡り廊下になっている、離れがいいと申しますので、ここへ寝かしましたのでございます。愚痴のようではございますが、今から思いますと、手前共の部屋へ寝かしましたら、と、そればっかりが、残念でなりません",
"旦那。大層失礼なことを、おたずねするが……"
],
[
"平太郎さんと、お由利さんとは割ない仲になっていなすったのかね",
"いえいえ。左様なことはございません。お由利も、親の口から申しますのは、何でございますが、固い女で、平太郎もまた気の弱い男、祝言の日のきまるのを、待って居りますような訳でございます",
"今朝はまだ、来ちゃア居ないようだね",
"はい。あんまり騒ぎが大きくなりましてはと、見世の者にも、口止めをいたしてございますし、結城屋へも、報してはございませんので……"
],
[
"それでは申し上げますが、一番前に居りますのが、妹娘のお春で、十七になります",
"お由利さんは、確か十九だったね",
"はい、厄年でございます"
],
[
"いや、よく判った。こうしてみんなに並んでもらったので、調べも大層楽に出来るというもんだ。どうだな、この中にいるだれかはゆうべ一同が寝静まってから、お由利さんの部屋へ、這入って行った者のあるのを、知ってるに違いねえんだが、遠慮はいらねえから、話してもらいたいな",
"………",
"みんなが黙ってると、一人一人を、責めなくちゃならねえ。時によると、根こそぎお奉行所へ、引っ張って行くかも知れねえんだ。おいらの方じゃァ、大体の見当がついて居て、こんなこともきくんだから、正直に云わなくちゃいけねえぜ",
"………",
"よしッ。それじゃア、一人一人にきこう。お春さんを一人残してほかの者ア、次の部屋で待っててくんな"
],
[
"お春さん、ここにいるのア、両親だけだ。姉のあだを討つためにも、本当のことを云わなくちゃならねえ。いまお前が、何か云いたそうにしていたから、みんなを遠ざけたんだ。――さア云いねえ",
"はい。……時刻は、はっきりとは判りませんが、真夜中に、御不浄へまいりました時、廊下を足音を忍ばせて、通った者がございます",
"うむ",
"わたしが廊下へ出ました時、手燭の光に、驚いたように振り返りましたのは、もうずっと向こうへ行って居りましたが、確かに常どんでございました",
"常吉?……"
],
[
"あの廊下は、姉さんの寝ている離れから、台所まで行くようになって居ります。その途中から、常どんが小僧達と一緒に寝ている部屋へ、曲がるようになって居りますので、その時は、何とも思ってはおりませんでしたけど、あれは姉さんの所へ、行った帰りだと思います",
"そうか。……他に何か今度のことについて、気のついたことはねえか",
"ございません",
"よし。じゃアお前さんは、あっちへ行って、小僧達を呼んで来ねえ",
"はい"
],
[
"常吉に限って……",
"でも、……そう云えば、お由利のことというと、夢中になる方ですからね。きのうだって、自分一人で迎えに行くなんて、云ってたじゃござんせんか"
],
[
"小僧達を、連れてまいりました",
"………"
],
[
"おい。お前達は、ゆうべ寝てから、常吉が部屋から外へ出て行ったのに、気がついていただろう",
"………"
],
[
"松どんは、よく眠っていたらしいんですが、あたしは、常どんに足をけっ飛ばされて、眼が覚めました。痛えなアといいますと、暗くって見えないんだから、勘弁しなと云って、自分の床へ這入ったようでございました",
"そうか。それじゃア夜半に、外へ出たことは間違えねえな? どうだ。今朝常吉に、何か変わった様子はなかったか",
"あ、そうだ"
],
[
"さい角や干し肝を削る、薄刃の小刀を、磨いでくれと頼まれましてあたしが磨ぎました",
"なに、刃物?……"
],
[
"常吉。おめえいま、裏の方へ行ってたそうだな。いよいよ、逃げ出すつもりだったに違えなかろうが、そうは問屋でおろさねえぜ",
"いえ。なんで左様なことを、いたしましょう。それは……"
],
[
"今朝、お嬢さんのことを知りましてから、何か手掛かりはないかと探して居りましたら、裏の木戸のかんぬきの外れているのに、気がついたのでございます",
"えッ、かんぬきが?……"
],
[
"では旦那。そいつは、いつもかかっていたんですね",
"左様でございます。暮れ六つになりますと、必ずかけることになって居りまして、昨夕方も、わたくしが見回りまして、確かに見届けているのでございます",
"じゃア兄貴は?……"
],
[
"外から這入って来た奴が、あると云いなさるのか",
"さあてな。あるとは云わねえ。だが、無いとも云えねえ。それを調べてみなくちゃ、ならねえと思うだけよ",
"はははは。この野郎が、おのれにかかった疑いを、ごま化すためにそんなことを云い出したんだ。やい常吉"
],
[
"てめえは、お由利さんに、想いを寄せてたんだろう。平太郎に取られるのが、たまらなくなったんで、飛んでもねえ真似を、しやがったに違いねえ。その心底が判ってればこそ、てめえを養子に迎えるはずのお春さんが、てめえの味方になっちゃアくれねえんだ。どうだ、申し開きがあるか",
"………",
"お春さん。そうだろう?",
"わたしは、常吉が殺したとは申しませんが、姉さんと常吉とを較べますと、姉さんの味方をしたいと、思いますので……",
"よし、常吉。どうだ?",
"わ、わたくしは、子供の時分、御奉公に参りましてから、上のお嬢さんには、いつも優しくして頂きました。母親のないわたくしはもったいないことながら、母とも姉とも、お慕いしてきましただけに、お嬢様を殺すなどと、そんな大それたことが、出来るわけはございません。……刃物はきょう、犀角散を、削ることになって居りましたので、磨がしましたばかり。決して、血を落としたんじゃございません",
"それじゃてめえは、お春さんに見られた時ア、離れからの帰りじゃなかったのか",
"………",
"厠にゃお春さんが這入っていたんだ。てめえは用もねえのに廊下を歩いていたんじゃあるめえ",
"………",
"よし。もうきくことアねえ。これから、お奉行所へしょっ引いて行って、砂をかましてやるから覚悟しろ。お奉行様は、泣く子も黙る遠山左衛門尉様だ。ひとたまりもあるもんじゃねえ。――おお旦那、野郎の部屋にある刃物を、持って来ておくんなせえ"
],
[
"伝七兄貴。どうやら片付いたようだ。さア一しょに引き揚げよう",
"いや、折角だが、おいらは残ろう。おめえは気の済むまで、そいつを調べるがいい",
"じゃ何か。お前さんはまだ、外から入った奴の仕業だと、にらんでるんだな",
"そりア判らねえ。だが北町の。おいらアどうもまだ、調べ残しがあるように思われるんだ。おいらは、得心のいくまで調べねえと、飯がうまくねえ性分だ。ちっとも遠慮することアねえから、おめえは、先へ引き揚げてくんねえ。なアに、夕方までにゃ帰って、おめえンとこの、仏様に聞いてもらうよ"
],
[
"じゃァ旦那。あっしはこれから、裏庭を一と回りするから、まだだれも外へ出ちゃァならねえが、仏様のことにでも、取り掛かンねえ。それから、おみねといったな、その女中は。お前さんに案内してもらおう",
"いえ、わたしが……"
],
[
"なアに、おみねの方がいい。台所や裏口なんてものア、女中の方が明るいもんだ。おい竹",
"へい",
"おめえは……"
],
[
"おめえの話を、聴こうじゃねえか。常吉が縄を掛けられた時の、おめえの顔は、ただじゃなかった。何かあるだろうから、話してみねえ",
"はい……"
],
[
"親分さん。つ、常どんは、お嬢さんを殺したんじゃアありません",
"どうしてお前に、それが判るんだ?",
"さっき、お春お嬢さんが、廊下を歩いていたと仰しゃいましたが、常どんはあの時まで、女中部屋にいたのでございます",
"そんな夜半に、どうしてお前の部屋にいたんだ? おかしいじゃねえか",
"はい……"
],
[
"おはずかしいことでございますけど、常どんの命に係わることですから、何もかも申し上げます。二人は……常どんとわたくしは、言い交わした仲でございます",
"何んだって?",
"この春でございました。わたくしが病気で、十日ばかり寝ました時、常どんが、毎晩看病してくれましたので、ついその親切にほだされまして……",
"だっておめえ、常吉はここの家の、聟になる男じゃァねえか",
"左様でございます。ですけど、お春お嬢さんは、常どんが小僧さんだったというので、大層邪慳になさいます。それでときどきは、常どんも、口惜し泣きに泣いて居りますんで。……わたくしも日頃から、気の毒に思って居ました",
"うむ",
"ゆうべも旦那は、お春お嬢さんと常どんを、お祝いの席へ着かせようと、なすったんですけど、お春お嬢さんは常どんと、一緒じゃいやだと仰しゃって、さっさと寝ておしまいになりました。それというのも……",
"それというのも?……",
"お春お嬢さんは、平太郎さんを想ってらっしゃるからでございます",
"平太郎といえば、死んだお由利さんと、祝言するはずだった男だが。……それじゃ男の方でも、お春を想っているのか",
"それは、わたくしには判りませんが、ゆうべのことを思いますと……",
"ゆうべのことというと……?",
"………",
"つまらねえ遠慮をしてると、常吉ばかりか、おめえのためにもならねえんだよ。はっきり云うがいい",
"は、はい。……実は、夜半過ぎまで、常どんは、わたしの所に居ましたが、これからお由利様の、お部屋の行灯の油を差しに行くんだと云って、離れへまいりましたんで……",
"うむ",
"それから先は、わたしは何んにも知りませんでしたが、今朝の騒ぎになってから、ゆうべは飛んでもないことをした、と云うんでございます",
"………",
"常どんが、離れへ行きますと、障子の中に、人の居る様子なので、びっくりして引き返してしまったと申します――こんなことなら、顔を見て置きゃアよかった。平太郎さんだと思ったばっかりに、着物の柄も判らないと、常どんは口惜しがって居りました",
"そうか。だが、そんならどうしてさっき、常吉はそれを云わなかったんだろうな。それだけでも、身の証しの助けになるというもんだが……",
"はい、それはこうでございます。わたしは、両親が貧乏ですので、このお見世へまいります時に、まとまったお金を借りて居ます。途中でしくじりがございますと、そのお金をお返しして、国へ帰らなければなりません。きっと常どんは、それを考えて、何もかも黙っていてくれたんだと思います",
"成程",
"それに常どんは、お由利様思いでございますから、お嬢様のお部屋に、男がいたなどとは、どうしてもいえなかったんではございますまいか"
],
[
"お、平太郎か。ここへ掛けねえ",
"………"
],
[
"おめえが、お由利さんの部屋へ這入ったのア、何刻だった?",
"………",
"今朝、ここのお内儀が、お由利さんの死んでるのを見て騒ぎ出した時、駈けつけた旦那の気がついたのア、縁側の雨戸が二寸ばかり、開いてたってことだ。馴れた奴ア、決してそんな間抜けな真似はしやアしねえ。素人に限って、あわてて、そんなドジを踏むんた。おめえ、夢中ンなって、逃げ出したに違えあるめえ",
"恐れ入りました",
"うぬ、御用だッ"
],
[
"竹、待ちねえ。平太郎、おめえ何かいいてえことがあるのか",
"へい。……お由利さんの所へ、忍び込みましたのは、わたくしに相違ございませんが、その時にはもうお由利さんは、死んで居たのでございます……",
"平太郎。口から出まかせをいうと、反っておめえの、お咎めが重くなるぜ"
],
[
"いいえ、決して親分さんに、嘘は申しません。ゆうべお由利さんが、お客様を送って、帰ってまいりましてから、小父さんや小母さんに、わたしも加わりまして、四方山話をいたしました",
"うむ",
"小父さんも小母さんも、口を揃えて、近いうちに祝言をするようにと、勧めてくれますのに、お由利さんは、うんとは申しません。そればかりでなく、来年三月は、いろいろ都合があって、袖ノ井さんと、宿退りをしない約束をしてあるから、今度帰ってくるのは、来年の今ごろになるだろうなどと申しました",
"………",
"わたしは、間もなく切り上げて帰りましたが、家へ帰っても口惜しくて、どうしても眠られません。それで、どうかしてもう一度お由利さんと、とっくり話し合いたいと思いまして、ふらふらと、家を出てしまいました",
"きいてくれねえ時にゃ、ひと思いに、殺す気になってたんだな",
"飛んでもございません。だいいち、刃物も持っては居りません。ただ、心を尽くして話しましたら、また考えも変わるだろうと、それだけが、望みでございました",
"それで、裏からは、どうして這入ったんだ?",
"家を出ます時には、塀を乗り越えてでもと、思って居りましたが、何気なく裏木戸を押してみますと、わけもなく開きましたので……",
"すると、閂が外れていたというんだな",
"左様でございます。それから庭伝いに、縁側まで行って、そっと雨戸を開けまして、枕元の方へ行きますと、有明行灯の灯で、ぼんやりと見えましたのは、両のこぶしを握りしめている、裸のお由利さんの死骸でございました",
"うむ",
"あッと云ったっきり、わたしは、何も見えなくなってしまいましたが、間もなく気がつきましたのは、こうして居れば、自分に人殺しの疑いがかかる、ということでございました。もう恐ろしさに、誰を起こす考えも出ませず、あわてて、逃げて帰ったのでございます",
"そうじゃあるめえ。おめえは、お春にそそのかされて、太え料簡を起こしたんだろう?",
"決して、そんなことはございません。わたしは、お春のような勝ち気な女は、大嫌いでございます"
],
[
"親分、そう急がなくっても、いいじゃござんせんか",
"馬鹿野郎。御用中は忙しい体なんだ。てめえにつき合っちゃアいられねえんだ",
"でも、平太郎は、ホシじゃアねえんでげしょう",
"だから、なおさらじゃねえか",
"お由利さんの部屋へ、忍んで行った奴を、挙げねえんなら、まアぼつぼつやるより他にゃ、仕方がござんすまい。どっかそこいらで、一と休みしようじゃござんせんか",
"竹。おめえ休みたけりゃア、いつまででも、そこいらで寝てきていいぜ",
"冗談云っちゃアいけません。親分、ま、待っておくんなせえ"
],
[
"竹、おめえに、働いて貰う時が来たぜ",
"えッ、あっしに?……有難え",
"ほかじゃねえが、これから赤坂御門外へ行って、溜池の麦飯茶屋を、洗ってくんねえ",
"あすこの茶屋なら、六軒ありやしてね。女の数が三十人。いま評判なのア、お滝におつま……",
"女を知りてえんじゃねえ。ゆうべ五ツ頃から、今日の明け方までに、どんな客が上がったか、そいつを調べて来るんだ。こっちの目当ては、鴎硯という茶坊主だが、まだ外に、拾いものがあるかも知れねえからな",
"へい。ですが、茶坊主が、なんであすこへ行きやすんで?……",
"ゆうべ伊吹屋からの帰りに、源兵衛が如才なく、二分や一両は、握らしたに違えねえ。坊主の住居は、浜松町だそうだから、丁度都合のいい足溜まりだ。しけ込んだ上で、何を企むか知れねえって奴だ",
"成程",
"伊吹屋へ上がり込んで、みんなの機嫌を取るような坊主だ。お城から、誰に何を云いつかって来てるか、知れたもんじゃねえから、抜かっちゃならねえぜ",
"ようござんす。きっと何か、土産を掴んでめえりやす",
"おいらはこれから、一軒寄って黒門町へ帰ってる。おめえの方の様子を知ってからでねえと、仕事の順序が立たねえから、ちっとも速く頼むぜ",
"おっと合点。親分も、お気をつけて行っておくんなせえ"
],
[
"御免なすって。……お城勤めをなすってらっしやる、袖ノ井さんのお宅は、こちらでござんしょうか",
"はい、はい。誰方でございます"
],
[
"わたしは、お奉行所の、御用を承ってる者でござんすが、袖ノ井さんに、ちょいとお目にかかりたいことがござんして、お伺い申しました",
"あの、どのような御用で?",
"伊吹屋さんの娘さんの、お由利さんのことにつきまして、お伺い申しましたが……",
"少々お待ち下さいまし"
],
[
"どなたにも、お目に掛からぬのじゃが、御用の筋と聞いてお通し申した。どのようなことでござろうか",
"ほかでもござんせんが、実は、袖ノ井さんの朋輩衆の、伊吹屋のお由利さんが、ゆうべ急に亡くなられましたんで、袖ノ井さんに、何かとお訊ねいたしたいと存じやして……",
"何と云われる。由利殿が亡くなられた?……あの娘御とは、殊の外親しくいたし、昨夜もここへ見えられたが……",
"左様でござんすか。そんなに、仲よくしておいでなすったんで?……",
"左様。着る物も髪のものも、みな揃いのものを、用い居ると申して居ったが、袖が聞いたら、さだめし嘆くことでござろう"
],
[
"で、お嬢様は、どちらへお出ましでござんしょう?",
"あれは、わしの使いで、四谷の親戚まで出向いたが、八ツまでには、帰って来るはずじゃ。わしで判ることは、何でも話して進ぜるが……",
"いえ、そんならまた、お帰りの時分に伺いましょう。どうぞよろしく、申し上げておくんなさいやし"
],
[
"なアお俊。柳下亭の読みものかなんかで、見たような気がするんだが、女同士が夫婦のように想い合うなんてことが、本当にあるもんなのか",
"さア、どういうもんでしょうねえ。何かあったんですか"
],
[
"うむ。ちょいと困ったことがあっての",
"あたしゃ、そんなことは知りませんけれど。……富本のお稽古に通ってた時分、御師匠さんとこへ来る羽織衆が、そんな話をしていたことがありましたよ。女芝居の一座や、女牢の中なんぞでは、女同士が言い交わして、入れぼくろまで、するようなこともあるんだって……",
"そうか"
],
[
"親分、行ってめえりやした",
"おお、早かったじゃねえか。やっこは一晩、しっぽりと濡れて行ったか",
"恐れ入りやした。お手の筋で。……鴎硯さんは、さかえ屋へ上がっていやしたが、面白く騒いで寝て今朝七ツ頃に帰って行ったという、こちらに取っちゃア、何の変哲もねえ話なんで。……どうも相済みません",
"いや、御苦労だった。それでおいらの考えが纏まった。早速もう一度、百人町へ行こう。今度アちっとア、手ごたえがあるぜ",
"へッ、そいつア有難え話でげす",
"今夜は、遅くなるかも知れねえから、提灯の仕度をしてくんねえ",
"合点で……"
],
[
"親分。いま袖ノ井さんの使いだという婆さんが、駕籠でめえりやした",
"袖ノ井の?……"
],
[
"よし。ここへ通しねえ",
"へい"
],
[
"先程は、まことに御苦労様でございました。今し方、お嬢様がお帰りになりましたので",
"いや、あっしこそ、御無礼いたしやしたが、御用は?",
"お嬢様の仰しゃいますには、夕景にお見え下さるそうでございますが、病人の気が立って居りますので、明朝にして頂きたいのだそうでございます",
"………",
"今夜一晩、病人の介抱に、人々の孝養の真似をいたしまして、明朝は、お城へ帰りますゆえ、その際なれば、ゆっくりお目にかかれようと、かように申されまして……",
"そんなら今日は、親子水入らずで、居たいと仰しゃるんですね",
"はい。わたしもお暇が出ましたので、親分さんが御承知下さいましたら、浅草の娘のところへ、泊まりにまいりますので……"
],
[
"ようござんしょう。お邪魔するのも、心ない仕業だ。またお前さんの折角の保養を、妨げても気の毒だ。伝七は明日の午の刻頃までは、伺いませんから、どうぞゆっくりしておくんなさい",
"有離うございます。それでは何分、お願い申します"
],
[
"親分、冗談じゃござんせんぜ。提灯はどうなりやすんで?",
"なア竹。せいては事を仕損ずると云うじゃねえか",
"だって親分。常吉でもなし、平太郎でもなし、鴎硯でもなしってことになった今、袖ノ井に、何をお聴きなさるのか知りやせんが、これも明日のことだってんじゃ、いい加減、気がくさるじゃござんせんか",
"ははは。まだくさるのア早えよ。こんな日にゃ、早く寝ちまって、またあした出直すんだ"
],
[
"お早うござんす。親分はおいででござんしょうか。留五郎からまいりました。ちょいとここで、お目に掛かりとう存じます",
"おお、岩吉さんか。大層また早いじゃねえか"
],
[
"親分の留五郎が、上がりますはずでござんすが、取り混んで居りますため、手前名代で、とりあえずお報せに伺いやした",
"そして用の筋というのア?",
"今朝、暁け方に、袖ノ井が、自害して果てましたんで……",
"そうか。……やっぱり死んだか……",
"じゃア親分にゃ、袖ノ井の死ぬことが、きのうから判ってたんでござんすか"
],
[
"岩さん、まア掛けてくんねえ。で、病人はどうした?",
"へえ。病人も袖ノ井の手で、殺しましたんでござんす。毎朝病人の、布の巻き替えを手伝います隣りの隠居が見つけまして、手前共へ、飛んでめえりやした。親分とあっしが、直ぐに出向きましたが咽喉を突いて、腑伏している袖ノ井の傍にありやしたこの手紙を、親分が披いて見ましたので、事情はすっかり判りやした。知らねえこととて、お先へ拝見いたしやしたが、早速黒門町の親分へ、お届けしろと申しますので、あっしが持って伺いました次第でございやす"
],
[
"おいお俊。やっぱり二人は、おめえの云ったような間柄だったんだなア",
"あたしには、判りませんけれど、その書置きを聞いていて、つい泣いてしまいましたよ"
],
[
"親分は、あっし達が、常吉をしょっ引いた時、もう袖ノ井に当たりをつけておいでなすったんでござんすか",
"いいや、そうじゃねえ。ただ乳房を一刺しにした腕前は、町人にゃ、ちょいと難しいと思っただけだ。真斎の話を聞いているうちにこいつア袖ノ井だと、はっきりと判ったが、使いを寄越されてみると、一晩だけア騒がねえで、その最後を浄くさしてえと、黙って手を束ねていたわけだ。……岩さん御苦労だったの。それで、お届けの方は、すっかり済んだかい",
"へえ。ああいう女中衆は、こんなことになると、きのうのうちに、お暇が出たことになりやすそうで。……後始末は留五郎親分に、すっかり委されやした。いま取り混みの最中でござんす",
"そうか。おいらも後から顔を出すが、何分宜敷く頼むと、留五郎どんに、くれぐれも伝えてくんねえ",
"へえ、かしこまりました"
],
[
"お俊、係り合いだから、香奠を包んでくんねえ",
"はい"
]
] | 底本:「競作 黒門町伝七捕物帳」光文社文庫、光文社
1992(平成4)年2月20日初版1刷発行
親本:「黒門町捕物百話」桃源社
1954(昭和29)年発行
入力:大野晋
校正:noriko saito
2010年2月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047509",
"作品名": "乳を刺す",
"作品名読み": "ちちをさす",
"ソート用読み": "ちちをさす",
"副題": "黒門町伝七捕物帳",
"副題読み": "くろもんちょうでんしちとりものちょう",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-03-25T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001261/card47509.html",
"人物ID": "001261",
"姓": "邦枝",
"名": "完二",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "かんじ",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "かんし",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Kanji",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1892-12-28",
"没年月日": "1956-08-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "競作 黒門町伝七捕物帳",
"底本出版社名1": "光文社文庫、光文社",
"底本初版発行年1": "1992(平成4)年2月20日",
"入力に使用した版1": "1992(平成4)年2月20日初版1刷",
"校正に使用した版1": "1992(平成4)年2月20日初版1刷",
"底本の親本名1": "黒門町捕物百話",
"底本の親本出版社名1": "桃源社",
"底本の親本初版発行年1": "1954(昭和29)年",
"底本名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "大野晋",
"校正者": "noriko saito",
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} |
[
[
"それで、仕事の方は何うだったの?",
"うん、今夜は止めたよ。チャーリーの所でつい歌留多をやり過ぎちゃったからね――それじゃいけないかい?",
"だって――ウッドワードの仕事は今夜だって事をあなたから聞いていたから",
"そりぁ、計画はそうだったさ。だが来週まで延ばすことにしたんだ"
],
[
"お前達は、皆んな知ってるんじゃないか――",
"お前達ですって――あんた今夜何うかしてるわ"
],
[
"マシュースは何も知ってやしない。あんな奴に捕ってたまるもんか。おい、サディ。お前、まさか俺を売りやしないだろうな",
"莫迦なことを云っちゃ嫌だわ。そんな事誰がするもんですか。妾には何の為めか分らないけれど、あんた今夜は嘘をついてるわね。だけど若しマシュースが来ると困るから、打合せだけはして置きましょうよ。妾は何と云ったらいいの? さあ元気を出して――もう直きに此処へ来ることよ"
],
[
"それは何方でもいいがね。唯サディに聞いて見たかったからさ。何あにサディが、君が今夜此処にずっといたことを証明して呉れればいいんだ。そうすれば僕は可なり助かるからな",
"一体何を調べてるんです。マシュースさん、そんな謎みたいな事をきいても、私には訳が分りませんが",
"そりゃ然うだろう。では一つ今夜の事を話そうかね。だが、その前に――その衣嚢から食出してる手袋を見せてくれないか"
],
[
"仕事の手口を調べたいと思ってね。先刻サディに訊ねたのも実はその事なんだ",
"サディなんかに聞いたって駄目ですよ。此奴に何が分るもんですか"
],
[
"また貴方のお手柄になるのでしょう",
"然うなればいいがねえ。併し今度のは巧くゆきそうなんだよ。此の事件には特殊な事情があった。と云うのはウッドワード氏が道楽に化学を研究していた事なのだ。氏は地下室に研究室を設けて絶えず新しい化合の現象を研究していた。その結果或る液体を発見したのだが、それは一見した所水の様で然かも金属を腐蝕させぬ性質を持っている。氏は試験的にその液体を金魚鉢に入れ、中に金属製の金魚を入れて置いた。以来一年余りになるが、その金魚は少しも錆びないのだ"
],
[
"じゃ、よく見て下さい。だが、私のは濡れてはいないでしょう",
"うん、乾いている。僕もこれで安心したよ。けれど先刻も云った通り、いい加減に機嫌を直し給えよ。だが、スラッグ・ドルガンは――"
],
[
"でもねえ、今夜殺された男と云うのは実はドルガンだったのだ。所で、これは僕の感違いかも知れないが、君はドルガンを嫌っているらしいね――まるで毒の様に",
"そんな事は何うでもいいじゃありませんか。マシュースさん。あんた方は兎角つまらない事を穿くり出しては人を嫌がらせる癖がありますね。ええ、私はドルガンは虫が好かなかったのです。何う云う訳か気が合わないでね。そこへ持って来て、しょっ中サディの跡を追い廻わしていたので実は癪でたまらなかったんです。けれど、貴方はそんな事に口を出す必要はありませんぜ"
],
[
"用心たって! あんな重い水の一ぱい入った、然も滑り容い金魚鉢を運ぶんだぜ。そんな時に、内容が水でないなんて、誰が気がつくものか。俺はマシュースの言葉は信用しないよ。奴は冗談に云っただけだよ",
"然うじゃないわ。抜目のないマシュースの事ですもの。唯隙を狙っているだけよ。あの人は一度狙いをつけたら藁一本だって外さないと云う噂じゃありませんか。それに、あの液体の事が真実とすると犯人を見分けるのも一層楽になるし――",
"だけど、ありゃ嘘だよ。そんな莫迦なことがあってたまるもんか。何しろ此処に濡れたハンカチがあるから、一つ試めして見ようじゃないか"
]
] | 底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「探偵」
1931(昭和6)年8月
初出:「探偵」
1931(昭和6)年8月
※「残ったと云う訳だ。」の最後に閉じ括弧がないのは底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:湖山ルル
2014年4月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047412",
"作品名": "赤い手",
"作品名読み": "あかいて",
"ソート用読み": "あかいて",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「探偵」1931(昭和6)年8月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2014-05-21T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card47412.html",
"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
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"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "国枝史郎探偵小説全集 全一巻",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "2005(平成17)年9月15日",
"入力に使用した版1": "2005(平成17)年9月15日第1刷",
"校正に使用した版1": "2005(平成17)年9月15日第1刷",
"底本の親本名1": "探偵",
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"底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年8月",
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} |
[
[
"なに、浅慮じゃ? この秀吉を!",
"過言はお許し下さいますよう。名に負う左様な不敵の人間、まして術者とござりますれば、不礼を咎めて罪するよりも、恩を掛けてお味方に付け……",
"何かの役に立てろと云うか?",
"仰せの通りにござりまする",
"利休、今日より茶を止めい!"
],
[
"取り分け香港に於きまして、〈黒仮面船〉の猛者どもに、おっ取り巻かれました其時は、此九郎右衛門心の底より恐ろしく思いましてござります",
"なに、香港の〈黒仮面船〉とな? それは一体何者じゃな?",
"不思義な海賊にござります",
"ほほう海賊? 支那の海賊かな?",
"ところが、支那人ではござりませぬ",
"どうやら話は面白そうじゃ。ひとつ詳細に話して貰いたいの"
],
[
"それでは愈々ご承引か?",
"その無道人を只一刀に息の根止めてご覧に入れる!",
"あいや、息の根止められましては、却って困難致しますゆえ‥…",
"左様であったの、では深手を、死なぬぐらいに付けると致そう"
],
[
"王陛下と王妃陛下! ホホウ、左様にござりましたか。さりとも存ぜず意外の失礼、何卒お許し下さりますよう。偖、王陛下と承まわり、お尋ね致し度き一義ござります。……今より大略五年以前に、皇太子におわすカンボ・コマ殿下、悪人共の毒手に渡り、お行方不明になられませなんだかな?",
"おお如何にも其通り、行方解らずなり申した。……そして其行方を突き止めて、コマの安否を知りたいばかりに叛将イルマを捉えながら、早速に誅罰を加えようともせず、却って彼の申し出に従い其方を加えて十人の勇士を、憎む可き彼の毒刃の前に、おめおめ晒した次第でござるよ。と申すのは彼の口から皇子の成行を聞きたかったからじゃ……が其希望も今は絶えて、イルマは此通り死んで了った! 語る可き口も閉じられて了った!",
"あいや其儀でござりましたら、必ずご心配はご無用でござります"
],
[
"……フウム、左様か、五年以前に、柬埔寨国の皇太子、カンボ・コマ皇子を其方が、お救助け致したと申すのじゃな? 面白そうな話じゃの。それを詳細く聞かしてくれい",
"かしこまりましてござります"
],
[
"忠義の臣下が、隙を伺い、盗み出したのだそうでござります。……覆面をした水夫の群こそ、その臣下達でござりました",
"浮沈自由の奇怪の船、その後何んと致したな?",
"撃沈めましてござります"
]
] | 底本:「妖異全集」桃源社
1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「中学世界」
1924(大正13)年6月
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○常時利休は:「当時」の誤植か、旧字の「當」を新字にする時に間違った可能性を疑いました。
○復心:「腹心」の誤植か。
○明瞭《はっきり》り:別箇所に「明瞭《はっきり》した」があり、「明瞭《はっきり》した」か「明瞭《はっき》りした」か判断がつきませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043584",
"作品名": "赤格子九郎右衛門",
"作品名読み": "あかごうしくろうえもん",
"ソート用読み": "あかこうしくろうえもん",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中学世界」1924(大正13)年6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-01-07T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "妖異全集",
"底本出版社名1": "桃源社",
"底本初版発行年1": "1975(昭和50)年9月25日",
"入力に使用した版1": "1975(昭和50)年9月25日",
"校正に使用した版1": "1975(昭和50)年9月25日",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "阿和泉拓",
"校正者": "小林繁雄、門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43584_ruby_17063.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2004-12-13T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-12-13T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"御前もあのように有仰ります。遠慮は禁物でござります。……鈴木様、小宮山様、さあさあお過しなさりませ。おやどうなされました川島様、お酒の一斗も召し上ったように顔を真赤にお染め遊ばして、どれお酌致しましょう、もう一つおあがりなさりませ、……山崎様や、井上様、いつもお強い松井様まで、どうしたことか今日に限って一向にお逸みなされませぬな。さてはお酌がお気に召さぬそうな",
"なんのなんの飛んでもないことで。お菊様の進め上手に、つい平素より度をすごし、眼は廻る、胸は早鐘、苦しんで居るところでございますわい"
],
[
"……御身達いずれも四十以上であろうな。鈴木が年嵩で六十五か。……年を取ってもこの元気じゃもの壮年時代が思いやられる。……さればこそ一世の大海賊赤格子九郎右衛門も遁れることが出来ず、御身達の手に捕えられたのじゃ。……いや全く今から思ってもあれは大きな捕物であったよ",
"はい左様でございますとも"
],
[
"まさか海賊赤格子が身分を隠して陸へ上り、安治川一丁目へ酒屋を出し梶屋などという屋号まで付けて商売をやって居ようなどとは夢にも存ぜず居りました所へ、重右衛門の訴人で左様と知った時には仰天したものでございます。……番太まで加えて百人余り、キリキリと家は取り巻いたものの相手は名に負う赤格子です、どんな策略があろうも知れずと、今でこそお話し致しますが尻込みしたものでございます",
"九郎右衛門めは奥の座敷で酒を呑んでいたそうじゃな",
"我々を見ても驚きもせず、悠々と呑んで居りました。その大胆さ小面憎さ、思わずカッと致しまして、飛び込んで行ったものでございます",
"そうしてお前がたった一人で家の中へ飛び込んで行き、九郎右衛門に傷を負わせたため、さすがの九郎右衛門も自由を失い捕えられたということじゃな",
"先ず左様でございますな"
],
[
"もう帰ると? まだよかろう。夜道には日の暮れる心配はない。……もっとも家は遠かったな",
"はい玉造でございますので"
],
[
"戎ノ宮の藪畳まで、私めお送り申しましょう",
"それには及ばぬ、結構々々。……折角のご主人のご厚意じゃ提燈だけは借りて参ろう"
],
[
"今更らしく何を有仰る",
"立派な寮、美しい愛妾。……卜翁様の豪奢振り、何と羨しいではござらぬかな",
"ははアなるほど、そのことでござるかな"
],
[
"はて何事か起こりましたかな? 顫えて居られるではござらぬか!",
"き、貴殿の……せ、背中に……",
"拙者の背中に何がござるな?",
"し、白い、……い、糸屑が……"
],
[
"すこしどうも睡り過ぎるようだ。……毎晩お前の立ててくれるこの一杯の薄茶を飲むと、地獄の底へでも引き込まれるようににわかに深い睡眠に誘われ、そのまま昏々睡ったが最後、明けの光の射す迄はかつて眼を覚ましたことはない",
"まアお殿様、何を有仰ります"
],
[
"何か妾がお殿様へ、毒なものでも差し上げるような、その惨酷い仰せられよう。あんまりでござんすあんまりでござんす。……それほど疑がわしく覚し召さば一層お暇を下さいまし。きっと生きては居りませぬ。淵川へなりと身を投げて……",
"ああこれこれ何を申す。……何のお前を疑うものか。暇くれなどとはもっての他じゃ。手放し難いは老後の妾と、ちゃんと下世話にもあるくらい、お前に行かれてなるものか。……とは云えどうもこの薄茶が……",
"お厭ならお捨なさりませ"
],
[
"忠さん、妾ゃア思うんだよ。まるで鱶のような鼾をかいて、他愛なく寝ているこの爺さんが、十五年前はお町奉行でさ、長門守と任官し、稼人達に恐れられ、赤格子と異名を取ったほどの妾の父さん九郎右衛門殿を、千日前で首にしたとは、どっちから見たって見えないじゃないか、……今じゃ罪も憎気もない髯だらけの爺さんだよ",
"全く人間年を取ってはからしき駄目でござんすね",
"生命を狙う仇敵とも知らず、この日頃からこの妾をまアどんなに可愛がるだろう",
"うへえ、姐御、惚気ですかい",
"と云う訳でもないんだがね、今も今とてこの毒薬を薄々感付いて居りながら、妾がふっと怒って見せたら笑って機嫌よく飲んだものだよ",
"南蛮渡来の眠薬に砒石を雑ぜたこの薄茶、さぞ飲み工合がようござんしょう",
"一思いに殺さばこそ、一日々々体を腐らせ骨を溶解かして殺そうというのもお父様の怨みが晴らしたいからさ",
"しかし迂闊り油断するとあべこべに逆捻を喰いますぜ。……大方船出の準備も出来、物品も人間も揃いやした。片付けるものは片付けてしまい、急いで海に乗り出した方が、皆の為じゃありませんかな",
"それも一つの考えだが、まだこの妾には品物が少し不足に思われてね",
"何も買入れた品物じゃなし、資本いらずに仕入れた品、見切り時が肝腎ですよ。そうこう云っているうちに、一人でも仲間が上げられたひにゃア、悉皆ぐれ蛤になろうもしれず……",
"おや一体どうしたんだい。お前も塩田の忠蔵じゃないか。莫迦に弱い音をお吹きだねえ"
],
[
"はい、妾は京橋の者、悪漢共に誘拐され、蘆の間に押し伏せられ手籠めに合おうとしましたのを、やっとのことで擦り抜けてそれこそ夢とも現とも、ここまで逃げて参りました。後から追って来ようもしれず、お助けなされて下さりませ",
"それはまアお気の毒な。いえいえ妾がこうやって一度お助けしたからは、例え悪漢が追って来ようと渡すものではござんせぬ。それはご安心なさりませ",
"はい有難う存じます"
],
[
"お見受けすればお前様もまだ若い娘御こんな夜更けに何をして?",
"ああその事でござんすか。……何と申してよろしいやら。……"
],
[
"こういう寂しい場所へ出て客を引くのが妾の商売、……妾は夜鷹でござんすよ。――どうやら吃驚なされたご様子。決してご心配には及びませぬ。心は案外正直でござんす。……実は難波桜川で、はじめてのお客を引きましたところ、わたしの初心の様子を見て、かえって不心得を訓しめられ、一朱ばかり頂戴し、別れた後で往来を見れば、大金を入れた革財布が……",
"おお落ちて居りましたか?",
"中味を見れば二百両",
"え、二百両? むうう、大金!",
"はい、大金でございますとも。すぐに後を追っかけて、ここまで走って来は来ましたが……",
"見付かりましたか、落し主は?",
"いいえ、それがどこへ行ったものか、見失ってしまいました",
"それでは財布はそっくりその儘……",
"妾の懐中にござんすとも",
"おやまアそれはいい幸い、どれ妾に障らせておくれ"
],
[
"それじゃお前は泥棒だね!",
"今それに気がお付きか! こう見えても女賊の張本赤格子九郎右衛門の娘だよ!"
],
[
"ああ忠さんかいどうおしだえ?",
"ひでえ目に逢いましたよ",
"眼端の鋭いお前さんが、酷い目に逢ったとは面白いね。何を一体縮尻たんだえ?",
"何ね中之島の蔵屋敷前で、老人の武士を叩斬り、懐中物を抜いたはいいが、桜川辺りの往来でそいつを落としてしまったんだ。つまらない目にあいやしたよ"
],
[
"落とした金は二百両かえ?",
"へえ、いかにも二百両で……",
"革の財布に入れたままで?",
"こりゃ面妖だ。こいつア不思議だ!",
"女を買うもいいけれど、夜鷹だけは止めたがいいね",
"…………",
"何だ詰まらないお前の金か。無益の殺生したものさね。……さあ返すよ。それお取り"
],
[
"殿様、塩梅が悪いそうだね",
"どうも体がよくないよ",
"若い女子ばかり傍へ引き付け、あんまり不養生さっしゃるからだ",
"アッハハハこれは驚いた。すこし攻撃が手酷どすぎるぞ。とは云え確かに一理はあるな。実は俺も考えたのじゃ。どうも運動が足りないようだとな。そこで投網をやりだしたのさ",
"投網結構でございますよ。いい運動になりますだ。……おおもうここは木津川口だ。そろそろ網を入れましょうかな。あッ、畜生! これは何だ!"
],
[
"漁は止めだ。船を漕いで一刻も早く陸へ着けろ",
"へえへえ宜敷うござります"
],
[
"うむ、有難い、体温がある。手当てをしたら助かるであろう。まだ浦若い娘だのに殺してしまっては気の毒だ。爺々もっと漕げ!",
"へえへえ宜敷うござります"
],
[
"昨夜の女が死にもせず、旦那に命を助けられてここへ来ようとはコリャどうじゃ",
"お釈迦様でも知らないってね、……お前さんはそれでもまだいいよ。妾の身にもなってごらん。本当に耐ったものじゃないよ。とにかく妾はあの女を川へ蹴落したに相違ないんだからね。これが旦那に暴露ようものなら妾達の素性も自然と知れ、三尺高い木の上で首を曝さなけりゃならないんだよ",
"姐御、逃げやしょう。逃げるが勝だ",
"そうさ、逃げるが勝だけれど、親の敵を討ちもせず、あべこべに追われて逃げるなんて妾は癪でしかたがないよ",
"と云ってみすみすここにいてはこっちのお蔵に火が付きやすぜ",
"とにかくもう少し様子を見ようよ。と云って妾は行かれない",
"へえそれじゃこの私に様子を見ろと仰有るので? どうもね、私にはその悠長が心にかかってならないのですよ。いっそこの儘突っ走った方が結句安全じゃありませんかね"
],
[
"おや忠さん、いい天気だね",
"そうさ、莫迦にいい天気だなあ。そうそう夏めいたというものだろう"
],
[
"ちょいと忠さん、待っておくれよ。そう逃げないでもいいじゃないか",
"なアに別に逃げはしないが、それ諺にもある通り男女七歳にして席を同じうせずか。殊にこちらの旦那様は大変風儀がやかましいのでね",
"でもね、忠さん、立ち話ぐらい、奉公人同志何悪かろう。……ところで妾はたった一つだけ訊きたいことがあるのだよ",
"そりゃ一体どんなことだね?"
],
[
"いいや、ないね。通ったことはない",
"それでもその時のお客というのがそれこそお前さんと瓜二つだがね",
"夜目遠目傘の中他人の空似ということもある",
"それじゃやっぱり人違いかねえ"
],
[
"なるほど、人違いに相違ない。お前さんがあの時のお客なら妾の顔を見るや否や忘れて行ったお金のことを直ぐに訊かなければならないものね",
"へえ、それではその野郎は財布でも忘れて行ったのかね!"
],
[
"しかもお前さん二百両という大金の入った財布をね",
"おやおや広い世間にとぼけた野郎があるものだね"
],
[
"卑しい夜鷹ではござんしたが、根からの夜鷹ではござんせぬ",
"そりゃ云うまでもないことさ。オギャーと産れたその時から夜鷹商売をするものはねえ",
"妾は播州赤穂産れ。家は塩屋でござんした",
"何、赤穂の塩屋だって? ふうむ、こいつは聞き流せねえ。ところで屋号は何と云ったね?"
],
[
"それじゃもしや本名は……",
"はい、本名でござんすか。本名はお浪と申します",
"ううむ、お浪! ではいよいよ。……もしやお前の右の腕に、蟹に似た痣はなかったかな?",
"どうして詳くそんな事まで……"
],
[
"もう数えるには及ばねえ。とうに決心は付いてるのだ。そも悪党には情はねえ。肉親の愛に溺れた日にゃ、一刻も泥棒はしていられねえ。今更姐御に背かれようか",
"おおそれでこそ妾の片腕。いい度胸だと褒めてもやろうよ。……変心しないその証拠に今夜お袖をしとめておしまい!",
"え! 罪もねえ妹を⁉",
"妾も卜翁をばらすからさ",
"その卜翁は姐御の敵。ばらすというのも解っているが、妹には罪も咎もねえ",
"それでは厭だと云うのかい?"
],
[
"姐御々々やっつけやしょう!",
"後夜の鐘の鳴る頃に……"
],
[
"ただ恐ろしい海賊が、ある夜海から襲って参り、妾の家を惨酷しく、滅して行ったと聞いたばかり、妾はその時僅か五歳、乳母に抱かれて山手へ逃げ、そのまま乳母の実家で育ち、十五の春まで暮らしましたが乳母が病気で死にましてからは、日に日に悲しいことばかり、とうとう人外の夜鷹とまで零落れましてござりますが、いまだに海賊の名も知らず残念に存じて居りまする",
"そうであろうと察していた。……その海賊が何者であるか俺が教えて進ぜよう"
],
[
"おおそれではお殿様にはご存じなのでござりますか?",
"おお俺は知って居る"
],
[
"様子は解った気の毒な身の上。卜翁の命を狙ったことも決して怨みには思わぬぞ。お袖は死んだ。お前も死ね",
"ああ有難う存じます",
"ただし一つ合点のゆかぬは、山屋を滅ぼした赤格子一家は其方の仇じゃ。しかるを何故その赤格子の一味徒党とはなったるぞ?",
"……知らぬが仏とは正しくこの事。存ぜぬこととは云いながら今日が日まで一家の仇赤格子の娘の手下となりうかうか暮らして居りましたこと残念至極に存じます",
"…………",
"妹お袖へお話し下されたお殿様のお話で初めて知りましてござります"
],
[
"西町奉行手付の与力、本條鹿十郎と申す者。至急ご主人に御意得たく深夜押して参ってござる。ここお開け下されい",
"それはそれはご苦労千万。拙者すなわち卜翁でござる"
],
[
"取り逃がしましてござります",
"なに逃がした? 逃がしたと仰有るか? 怠慢至極ではござらぬかな"
],
[
"卒爾のお尋ねではござりますが、もしやお屋敷の召使中にお菊と宣るものござりましょうか?",
"お菊? お菊? いかにも居ります"
],
[
"召捕りましたる海賊の口より確と聞きましたる所によれば、その女子こそ海賊船の頭領とのことにござります",
"ははあなるほど。左様でござるかな"
],
[
"それで訪ねてまいられたか?",
"はい追い込んで参りました",
"お菊は拙者の妾でござる",
"ははあ左様でござりますか"
],
[
"仰せの通りにござります。はなはだ失礼とは存じましたが、お庭内まで乱入致し、離れ座敷の出入口まで人を配りましてござります",
"や、それこそお手柄でござった。お菊はあそこに居るのでござるよ",
"ははあ左様でござりますか"
],
[
"卜翁をご信用なされぬそうな",
"なかなかもって左様なこと。……",
"拙者昔は町奉行でござった",
"よく存じて居ります",
"しからばご信用下されい",
"…………"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「ポケット」
1925(大正14)年2月~3月
※「仰有る」と「有仰る」の混在は、底本通りです。
※「サット」は底本通りです。
※「グイと腕を差し延ばすと、夜鷹の胸元へ突っ込んだ。」は底本では天付きです。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "043765",
"作品名": "赤格子九郎右衛門の娘",
"作品名読み": "あかごうしくろうえもんのむすめ",
"ソート用読み": "あかこうしくろうえもんのむすめ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「ポケット」1925(大正14)年2月~3月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-10-02T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "国枝史郎伝奇全集 巻6",
"底本出版社名1": "未知谷",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年9月30日",
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[
[
"君公の謀計にござりまする。粗略あろうとは存じられませぬ",
"早々御落去なさりませ",
"再挙の時こそ待ち遠しゅうござりまする"
],
[
"怪しい曲者",
"射て、討ちとれ!"
],
[
"…………",
"合戦の勝敗と申すもの、必ずしも大勢小勢にはよらぬ。ただただ兵の志が、一になるかならぬかにある。……公綱が行動を案ずるに、先般関東方我に破られ、面目を失して帰りし後、小勢にて向い来し志、生きて帰らぬ覚悟であろう。それに公綱は弓矢とっては、坂東一と称さるる人物。従う紀清両党の兵は、宇都宮累世養うところのもの、戦場に於て命を棄つること、塵埃の如く思いおる輩じゃ。その兵七百余騎志を合わせ、決死を以て当手に向わば、当手の兵大半は討たれるであろう。関東討伐、朝権恢復、この戦を以て決しはせぬ。行末遥の戦に多からぬ味方を失うては、取り返しならぬこととなろう。……正成、今宵陣を引く所存じゃ"
],
[
"一旦退いてまた乗っ取るのじゃ",
"…………",
"味方を傷つけず敵も傷つけぬためにな",
"…………",
"公綱に恩を施すともいえる",
"…………",
"宇都宮公綱は律義者じゃ。義に厚く情に脆い。坂東武者の典型でもあろうよ。ただ不幸にして順逆の道を誤り、今こそ朝家に弓引いておるが、一旦の恩に志を翻えし、皇家無二の忠臣として、尽瘁せぬとも限られぬ。……正成が為んよう見て居るがよいぞ"
],
[
"明日は天王寺へ帰ることが出来るぞ",
"は?"
],
[
"では明日わが君には、天王寺をお討ちあそばすので?",
"いや公綱とは戦いはせぬよ。これは以前から決めていることじゃ",
"では如何して天王寺へ、明日お帰りあそばしますか?",
"公綱明朝陣を引き、京都へ帰って行くからじゃ",
"ははあ、公綱退陣しましょうか?",
"あの篝火の衰え様では、明日退陣と見てよかろう",
"…………",
"一戦も交えず正成をして、退かせましてござりますと、これを功にして京に帰らば、公綱の面目は立つからのう",
"これは御意にござります",
"公綱としてはわしを追い討ち、この陣を破りたく思ってはいようが、それにしては兵が少なすぎる。といって天王寺にとどまっているには、夜な夜な燃える数千の篝が、どうにも気になっておちついて居られぬ。で、結局、帰って行くのじゃ",
"さよう予めご計画あそばして、天王寺をご退陣あそばしましたので?"
],
[
"わしは赤坂を落ちる時にも、必ず後日奪回いたすと、こう決心して落ちたのじゃよ",
"は"
],
[
"まこと君にはその後間もなく、赤坂城を復されましてござりまする",
"わしが火をかけて脱け出した城を、其方よく修理してくれたのう",
"…………"
]
] | 底本:「時代小説を読む 城之巻」大陸書房
1991(平成3)年1月10日初版
底本の親本:「天保綺談」桜木書房
1945(昭和20)年
初出:「日の出」
1935(昭和10)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2008年5月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "047209",
"作品名": "赤坂城の謀略",
"作品名読み": "あかさかじょうのからくり",
"ソート用読み": "あかさかしようのからくり",
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"初出": "「日の出」1935(昭和10)年6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-06-15T00:00:00",
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"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
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"没年月日": "1943-04-08",
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"底本名1": "時代小説を読む 城之巻",
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"底本の親本名1": "天保綺談",
"底本の親本出版社名1": "桜木書房",
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} |
[
[
"飛天夜叉、飛天夜叉!",
"若い女だということだね",
"いやいや男だということだ",
"ナーニ一人の名ではなくて、団体の名だということだ",
"飛天夜叉組ってやつか",
"術を使うっていうじゃアないか",
"摩訶不思議の妖術をね",
"宮方であることには疑がいないな",
"武家方をミシミシやっつけている",
"何がいったい目的なんだろう?",
"大盗賊だということだが",
"馬鹿を云え、勤王の士だよ",
"武家方が宮方を圧迫して、公卿衆や坊様を捕縛しては、拷問をしたり殺したりする。そこで捕縛をされないように、宮方の人々を逃がしてやったり、捕えられた人を取り返したり、いろいろやるということだ"
],
[
"それほどの美貌を持ちながら、愉快でないとは変ですね",
"何を厭なことをおっしゃるんです",
"年はたしか二十歳でしたね",
"どうしてそんなことをご存知なので?",
"妾は何んでも知っているのです"
],
[
"美濃の名族土岐蔵人頼春、このお方の一族で、学問も武芸もお出来になるが、美貌が祟って身がもてない、それに気が弱くて感情ばかり劇しい、その上に徹底した放浪性の持ち主、そこで何をしても満足しない。することもなくボンヤリしておられる。――というのがあなたのお身の上でしょうね",
"どうしてそんなことまでご存知なのです?",
"わたしは何んでも知っているのです"
],
[
"その美貌をわたしに売ってください",
"何んですって! 何をおっしゃるんです",
"それをわたしに使わせてください",
"…………",
"あなたを仕込んであげましょう",
"あなたはいったい誰なんです",
"一芸のある人間や、特色のある人間を集め、仕込んでやるという道楽を持った、そういう女なのでございますの",
"でもどういうお方なのです?",
"こんなことの出来る人間なのですよ"
],
[
"こういうことの出来る女なのですよ",
"ド、どなた様でござりまするかな?"
],
[
"飛天夜叉なのよ。飛天夜叉の中の一人! ……さあ名は桂子とでも云って置きましょう",
"…………"
],
[
"こわいの、妾、あのお方が!",
"こわい? どうして? 何故こわいの?",
"お姉様、怖いの、あのお方が!",
"そんなことはないよ、そんなことはないよ。……あのお方あんなに綺麗じゃアないか",
"ええ、そうですわ、お綺麗ですわ。……ですから怖いの。……綺麗過ぎますわ"
],
[
"コッコッコ――、トテコ――ヨ――ッ",
"おいおい薬子、何んてえ態だ"
],
[
"それじゃ近所のどんな鶏だって、騙されて鬨なんかつくりゃアしないよ。……そいつア鶏の啼き声じゃアない。人間が鶏の啼き声を真似て、吼えているとしか思われやアしない",
"だって小父さんその通りだもの"
],
[
"わたし鶏の真似をしているんですよ",
"鶏の真似には違えねえが、真似になっちゃアいけねえんだ",
"だって妾鶏の真似をしているんですもの",
"くどい!"
],
[
"痛いヨ――、あンあンあン",
"おい泣き男泣き男!"
],
[
"あンあンあンという薬子の泣き声、こいつこそ本当の泣き声だ、参考にしろ参考にしろ",
"あンあンあン"
],
[
"相模入道を食い殺せ!",
"ソレ宮方を噛み仆せ!"
],
[
"ウオ――ッ",
"ウオ――ッ",
"ワ、ワ、ワ、ワ――ッ!"
],
[
"稽古じゃ、アッハッハッ、怒ってはいけない",
"稽古? 稽古とは? 何んの稽古?",
"何か紛失物ありませぬかな?",
"紛失物? 何をつまらない"
],
[
"ない! 金が! 金を入れた袋が!",
"すなわちこれでござろうがな"
],
[
"それじゃ! さては……",
"掠りましたよ",
"はあ",
"我が身掠りましたよ",
"…………",
"密書があれば密書を掠る。小柄ほしければ小柄を掠る",
"はあ",
"我が身は掏摸の係りでしてな",
"はあ",
"ほかにもいろいろ係りの人があります",
"はあ",
"一日に五十里走る男",
"はあ",
"どのような堅牢の錠前であろうと、針一本で開ける男",
"はあ",
"細作の名手、放火の上手、笛の名人、寝首掻きの巧者、熊坂長範、磨針太郎、壬生の小猿に上越すほどの、大泥棒もおりまするじゃ",
"はあ",
"で、我らは飛天夜叉じゃ",
"あッ、飛天夜叉! おおそうそう! 飛天夜叉の方々に相違ない。私は同じ飛天夜叉の、桂子様に召しつれられて……",
"叱!"
],
[
"桂子様などと仰せられてはならぬ",
"では、ナ、なんと申しますので?",
"姫君様よ、お解りかな",
"姫様君、はあさようで",
"若君様と仰せられてもよろしい",
"若君様? では男で?",
"男になられる場合もある",
"はあ",
"老婆になられる場合もある",
"老婆に?",
"怨敵『鬼火の姥』などを相手に競争される場合には、老婆姿にもなられるのじゃ",
"はあ",
"老爺になられる場合もある",
"やれやれ",
"やれやれとも",
"化物のようで",
"さよう",
"で、あのお方様が飛天夜叉の、お頭なのでござりまするかな?",
"疑問じゃ",
"はい?",
"そうらしくもあればそうらしくもない",
"はてね",
"さよう",
"…………",
"万事はてねさ"
],
[
"八百年生きているということで",
"百八十年だということでござる",
"一見すると六十歳ぐらいじゃ",
"髪の毛が卯の花のように真っ白でござるな",
"加持祈祷がうまいそうじゃな",
"七尺もあろうかと思われるような身長の、しかも糸のように痩せている体で、あの道の方は凄いということで",
"美童を好むということじゃな",
"われらが美女を好むようにな",
"お互いあの道の方は凄うござるて",
"眷族にも変なやつが多いそうじゃ",
"山伏、修験者、巫女、官主、こういう手合いが従っているそうじゃ"
],
[
"はい、私でございます",
"なんと思ってこんな所へ……",
"供待ちにお待ちしておりましたが、お館の中があまりに賑やか、そこで羨ましく存じまして、後苑の中へまぎれ入り、今までこっそりご酒宴のご様子を……",
"不躾け千万、何んということだ",
"綺麗な白拍子がざっと二十人、素肌へ褊一枚を着て",
"馬鹿な奴だ、何を云うか",
"尹の大納言様が茶筌髷を散らし、指貫一つで道化た踊りを、たった今しがた踊りましたっけ……",
"アッハハ、とんだものを見たなあ",
"兄上お一人がお寂しそうに、取り澄ましておいでなさいましたが、水に油でございましたよ"
],
[
"云おう云おうと思っていたが、云う機会がなくて今日まで過ごしたが、その方この頃館を忍び出で、二条あたりの怪しげな館へ、しげしげ通うということだが……",
"はい、通いますでございます",
"さてはその方例によって、たわれ女などにうつつを抜かし……",
"違いまする、ちと違いまする",
"なんの違うことがあるものか",
"ヒンヒン、ワンワン、ニャンニャン、コケコッコ――",
"ナ、なんだ、いったいそれは⁉",
"という稽古なども致しますので",
"たわけめ、こやつ、気が狂ったか",
"ヒンヒンというのは馬の啼き声、ワンワンというのは犬の啼き声、ニャンニャンというのは猫の啼き声、コケコッコーと申しますのは、鶏の啼き声にございます",
"いいかげんにしろ、つまらないことを",
"こいつを一続きにいたしますと、ヒンヒンワンワン……",
"そちの方が酒に酔っているようじゃ",
"という稽古などもいたしますので。……そうかと思うと幽霊女が、『怨めしや判官殿……』",
"小次郎!",
"という稽古もいたします",
"稽古稽古とそちは申すが……",
"この小次郎に至りますると、いかにして女をたらすべきか? ……",
"立ち去れ!",
"という稽古をいたしおりまして。――年増女に対しましては……",
"さてさて困った奴だのう",
"まずこのような色眼を使い……",
"薄気味の悪い男ではあるぞ",
"次にやんわりと手を握り……",
"よせ、馬鹿者、わしの手などを……",
"次には大胆に頬を寄せ……",
"ホホウ、そうか頬を寄せるのか",
"次にはひしと……",
"うむうむひしとな……",
"これで卒業にござります",
"面白いな、そうかそうか",
"初心娘に対しましては……",
"いずれたらし方違うであろうな",
"大違いにござりまして、まずしなやかに笑いかけ、次に鼻にかかる優しい声で……"
],
[
"南都北嶺の僧徒衆の、御味方あるはかねてよりのこと、お心がかりはござりませぬ",
"…………",
"番直の土岐、多治見の徒も、数度の無礼講にことよせまして、その志試みました結果、二心なき頼もしき心栄え、あらかた知れましてござりまする",
"…………",
"今は急速に兵を挙げ、一挙に六波羅を討伐し、探題北条範貞を誅し、宮方の堅き決心のほどを、天が下に知らしめますること、何より肝要かと存ぜられまする",
"うむ"
],
[
"そちどもの辛労察するぞ",
"お言葉勿体のう存じまする。……資朝ごときわずかに先年、山伏に姿変えまして諸方の豪族をかたらいましたまで……",
"俊基も心労したであろうよ",
"有難きお言葉に存じまする。俊基聞かばいかばかりか喜び。……その俊基儀も私めとおなじく、昨年湯治に事よせまして、紀伊の国へまかり下り、土地の豪族南海の諸将と、ことごとく謀議仕りまして、お味方にいたしましてござりまする",
"諸臣の尽忠うれしく思うぞ",
"勿体なきお言葉に存じまする"
],
[
"今上の御宸襟推察し奉れば、我れ仏門に帰せし身ながら、法の衣かなぐり捨てたく思うぞ",
"…………"
],
[
"朝権恢復、平天下、万民和楽の大目的と、仏法における衆生済度と、何の異るところがあろう! ……この頃われしきりに思うぞ、如かず忍辱の袈裟を脱ぎ、無上菩提の数珠を捨て、腰に降魔の剣を佩き、手に大悲の弓矢を握ろうと! ……還俗して戦場に立ちたいのじゃ!",
"……………"
],
[
"方今天下の武士という武士、わずかの数をのぞきましては、他はおおよそ鎌倉幕府に、今に帰属しおりまする。朝家頼むは南都北嶺、爾余の僧衆にござりまする。かかる情勢の今日にあって、宮家御門跡にあられますること、いかばかりか力強くいかばかりか……",
"…………",
"なにとぞご自重! なるべくご韜晦! ……しかる後に獅子王檻を出で!",
"うむ",
"百獣を慴伏あそばしませ。……",
"うむ",
"宮!"
],
[
"六波羅勢だ!",
"討手だ! 討手だ!",
"討ち取れ!",
"遁がすな!",
"敵は小勢じゃ!"
],
[
"なんの一人で食べるものかよ、あの子にもやらなけりゃアならないし、この子にもやらなけりゃアならないのだよ",
"どこにそんな子供いるのだえ?",
"まあ黙って見ているがいいよ。今に沢山の子供たちが、ガツガツとお腹をへらしながら、闇の中から素っ飛んで来るから。……それよりお前さんそんな所にいずに、ここへ来て火にでもおあたりな"
],
[
"そんな恐ろしい眷族が、お前さんの周囲にいるんだものねえ。……蛇だの蝦蟇だの……恐や恐や!",
"ふふん"
],
[
"そんなしおらしいお姫様でもないに",
"あたしゃアしおらしいお姫様さ。お姫様は長虫がお嫌いだよ",
"ふふん"
],
[
"無礼講のご様子遠見に来たのさ",
"わたしゃアとげられない謀反たくんで、あがき廻る馬鹿な人間どもの姿を、嘲笑ってやろうと入り込んだのさ",
"さあとげられるかとげられないか、お前さんなんかにわかるものか",
"鬼火の姥は見透しじゃよ",
"せいぜいのところ一、二年の先が",
"お前さんなんかには明日のことさえ、てんから見透しつくまいに",
"勝負はどっちが勝つかねえ",
"とにかくわたしゃアこう云っておくよ。武家方のご運強いとねえ",
"せいぜいそれも数年のうちさ",
"今度の企て破れるよ",
"…………",
"裏切り者があらわれてねえ",
"…………",
"妻子には心ひかれるものさ",
"…………",
"この眼力狂わないよ",
"…………",
"…………"
],
[
"姥よ、見透しはどうなったかよ",
"…………",
"ははあさては鬼火の姥よ、手下を――子供をお館へ忍ばせ、何か悪いこと巧らんだね",
"…………",
"今度の企て破れると云ったが、どうやらお前さんの企ての方が、破れたような格好だね",
"剣戟の音が聞こえるわ! ……あッ、斬られた! 子供が斬られた! ……あッ、また斬られた、子供が斬られた!"
],
[
"連判状を奪われたそうな",
"…………"
],
[
"その連判状奪われたそうな。……奪った奴が六波羅方で……",
"アッハハハ"
],
[
"この身の心の苦しさも察せず",
"じゃと申しても、兄上兄上、どうにもおかしゅうございます。アッハッハッハッ、イッヒッヒッ",
"何がおかしい、この馬鹿者!",
"じゃと申しても、アッハッハッ、その連判状と申すやつが、誰かの懐中にありまして、この辺にまごまごしているとあっては、何がおかしいと仰せられても、やはりメチャメチャにおかしくて、アッハッハッ、エッヘッヘッ、クックックッ、ピッピッピッ――"
],
[
"女房というものいとしいものだぞ!",
"はあ"
],
[
"私には女房はございません",
"戦場に出て功をたてる、主君に日常お仕えして、お覚えよかれと苦心する、みな妻子のため家のためじゃ",
"はあ",
"大義も、節義も、忠も、士道も……",
"妻子には代えられませんでござりまするかな",
"迂濶にも俺は血判したのだ! ……ご謀反へお味方仕ると!",
"…………",
"迷うぞ!",
"…………",
"迷う!",
"…………",
"男心だ!",
"…………",
"が、もう仕方がないかもしれぬ。――その血判した連判状は……"
],
[
"旗あげせぬうちに捕えられ、打ち首じゃ! 梟し首じゃ!",
"…………",
"いっそ!",
"兄上",
"男らしく、盟約の義を貫いて……",
"兄上",
"それとも……それとも……思い切って……"
],
[
"頼春殿、それがよろしい!",
"誰だ!"
],
[
"お前いま何んとか云ったか?",
"はい、兄上と申しました",
"そうではない、それ以外に……",
"いえ、なんとも申しません",
"お前に何か聞こえなかったか?",
"さあ、遠くで鶏の声が……",
"いやいや嗄れた女の声じゃ",
"聞こえませんでございますな",
"頼春殿、それがよろしいと……たしかに、このように聞こえたが……"
],
[
"武士は武家方へつくものじゃ、宮方へつくのはかえって不忠。……武家方に返り忠なさりませ",
"小次郎"
],
[
"聞こえたであろう、あれじゃあれじゃ!",
"変ですなあ"
],
[
"そちであろう! そちであろう! 俺に言葉をかけたのは⁉",
"頼春殿"
],
[
"あなた様にお言葉をかけましたは、いかにも妾にござりまする。……返り忠おすすめしましたも、この姥にござりまする",
"宣れ! 誰じゃ! 名を宣れ!"
],
[
"承久以来武家方に対し、宮方の謀反成功ませぬ! ……この度のご謀反とて何んの何んの……",
"黙れ!"
],
[
"この身の心を見抜いた女、素性が知りたい! 宣れ宣れ!",
"世間の人達は妾のことを、鬼火の姥と申しております",
"おおおのれが鬼火の姥か!"
],
[
"蜜柑が葉の下に生るということ、あなたご存知でございまして?",
"何に?"
],
[
"地震のあるのを知っているものは、鯰が一番だと申しますね",
"アッハッハッ何を云うやら",
"海嘯のあるのを知っているものは、蟹が一番だと申しますね",
"アッハッハッ何をつまらない",
"今年は雪が多いか少ないか? ―― ということを知っているものは、蜜柑の実だそうでございます",
"そうかねえ、わしは知らん",
"雪の多い年だと知ると、蜜柑は葉下へしがみつきますけれど、雪が少ない年だと知ると、葉の上へ顔を出しますそうで",
"ははあさうかねえ、面白いねえ",
"蜜柑は気候を知っておりますのね",
"そうらしいなア、偉いものだ",
"良人の心を知っているものは、誰が一番でございましょう?",
"…………",
"妻ですの! 女房でございます!"
],
[
"あなた!",
"うむ",
"お心割って……",
"…………"
],
[
"ナニ嬢が? 早瀬が来たと?",
"はい、おこしにござります",
"で、頼春も一緒にか?",
"いえ、お一人にござります。……それもお供もお連れ遊ばさず",
"…………"
],
[
"わたくし無理に酒すすめまして、酔わせて深い眠りに入らせ……",
"…………",
"わたくし一人家をぬけ出し、ま、参りましてござります",
"…………"
],
[
"父を信じて……さあ何事も……心しずめて……云うがよいぞ。……頼春何んとかいたしたかな!",
"お父様!"
],
[
"宮方ご謀反! 良人頼春も! ……",
"娘!",
"あッ……いえいえ……お父様!"
],
[
"宮方ご謀反あそばすやもしれずと、この頃世上に行われまする取り沙汰、お父上には、お父上には? ……",
"うむ"
],
[
"取り沙汰真実となりまして、宮方武家方お手切れとなり、もしも合戦となりましたなら?",
"大日本はいわゆる神国、朝敵となって栄えしもの、古往今来一人もなし、近くは平相国清盛入道、唐土天竺が征めて来ようと、傾くまじき勢威であったが、頼朝義経院宣を奉じて、仁義の戦起こして以来、たたかえば敗けたたかえば破れ、一門ことごとく西海に沈み、子孫ほろびしが何より証拠……",
"おおおおそれでは宮方武家方、お手切れ合戦となりましたら、宮方ご勝利でござりまするか⁉",
"宮方ご勝利! 何んの疑がい! つもっても見よ当今の鎌倉、また南北六波羅の殿ばら、奢り増長我慢熾烈、神明仏陀の怒りの矢先、眼にこそ見えね迫りおるに、一朝宮方と干戈に及ばば、土崩瓦壊疑がいなし!",
"それでは……それでは……お父様も……身六波羅殿のご被官ながら……お心はとうから宮方へ?",
"この国に生きとし生けるもの、心はことごとく宮方よ!",
"それ聞いて安堵いたしました。……どうなることかと思ったに……それ聞いて安堵いたしました"
],
[
"宮方ご謀反にござりまするぞえ!",
"…………",
"この日頃良人頼春の様子、ソワソワとしておちつかず、そうかと思うと物憂そうに……それで妾いろいろさまざま、言葉設けて探りましたところ、今宵になって寝所の床で、はじめて明かした一大事! ……お父様、宮方ご謀反! 日野中納言様や俊基様や、そのほかの公卿衆や坊様にまじり、多治見ノ四郎二郎国長様も、土岐十郎頼兼様も、そうしてそうして良人頼春も!",
"うむ",
"ことごとく一味徒党となり、無礼講と称しては相集まり、その実ひそかに六波羅征めの……",
"うむ",
"謀議をいたしておりますとか",
"うむ",
"聞きました時には胸つぶれ、良人は宮方父上は武家方! 揷まった妾はどっちへつこうかと! ……でも安堵いたしました。……お父上のお心が宮方へ……",
"…………"
],
[
"不覚者は土岐頼春!",
"お父様!",
"よく聞け!"
],
[
"娘!",
"は、はい"
],
[
"父はこれより六波羅殿へ伺候し……",
"…………",
"事情つぶさに言上し、今宵のうちに手配りし、一挙に宮方を討って取る!",
"…………",
"不愍なはそち! ……そちたち夫婦!",
"…………",
"生きていたいか⁉",
"お父様!",
"頼春といつまでも添っていたいか⁉",
"…………",
"であろうよ、添っていたいであろうよ。……では……"
],
[
"日本一の不覚者、前代未聞の臆病者、士道の廃れ、人の裏切り者! ……この汚名を末代まで背負い、返り忠の焼き印を顔に押し、頼春も生きろそちも生きろ! ……生き得る手段はただ一つ!",
"は、はい",
"頼春をここへ呼び……",
"は、はい",
"彼の口より謀反のあらまし……",
"は、はい",
"云わせて密告させることじゃ!",
"は、はい",
"人やって即刻呼び寄せようぞ",
"は、はい"
],
[
"嬉しいか?",
"添うてさえ……",
"添うてさえおれれば嬉しいか"
],
[
"もう少し気の利いたやり方だって、ありそうなものに思われまするがなあ",
"どうして?"
],
[
"二人の男を順番に取って、二人ながら満足させ、自分でも満足するという法など……",
"小次郎や"
],
[
"娘に頬を染めさせるようなことは、なるべく謹んで云わない方がいいよ",
"はあ",
"小次郎や"
],
[
"すこしわたし苦になっているんだよ",
"はあ",
"その『はあ』という言葉だがねえ",
"はあ",
"それそれ、それがいけないのさ。田舎びていて間が抜けていて、下卑てさえいる『はあ』という言葉、それを使うとお前さんの縹緻が、――綺麗すぎるほど綺麗な小次郎が、一度に田舎者になってしまって、どうにも嬉しくないのだよ",
"へい",
"あれ、『へい』はもっと悪いよ",
"はあ",
"あれあれ元へ戻ってしまった",
"…………",
"今度は唖者になったのね",
"何んと云ったらいいのです",
"『はい』とお云いな、ただ『はい』とねえ",
"はい",
"及第だわ、満点よ",
"はあ",
"おや",
"ハッハッハッ『はい』"
],
[
"いいかげんでおいたらよいではないか",
"お姫様"
],
[
"この鉞を磨ぐということは、私の趣味でござりましてな。これさえ磨いでおりますると、私は心持ちよろしいので",
"大変物騒な趣味なんだねえ",
"世間が物騒になりますると、趣味までが物騒になりまする",
"蹴球だの双六だのというようなものは、どうやらお前には向かないそうな",
"ありゃア公卿方の遊戯でございますよ。私どもには向きませんなあ",
"そう公卿方をコキ下ろしてはいけない。どうして当今のお公卿様方は、勇猛果敢でいらっしゃるよ",
"そういうお方もいらっしゃいますとも。たとえば日野資朝様、たとえば藤原俊基様など。……が、少数でございますよ。……爾余のお公卿様と来たひには、アッハッハッハッ、他愛ありません。……ヨイショヨイショ! ヨイショヨイショ! ……大分磨げましてござります"
],
[
"わたしでありましたら死ぬことだけはやめて……ええと、それから、ええと、それから……",
"ええとそれからどうなさいますの?"
],
[
"さっきも私申しましたとおり、まず一人を満足させ、そうして自分も満足し……",
"それだけでいいじゃアありませんか。……一人と一人とだけでネエ小次郎様!"
],
[
"一人と一人だけでネエ小次郎様!",
"はい、しかし、もう一人の男に、テコナという女は恋された筈で……",
"ですから自分から死んだのよ",
"そいつが私にはわからないんで……",
"どうしてお解りになりませんの?",
"どうしてといってそんな場合には……",
"死ぬよりほかはありませんわね",
"え、そいつが私にはわかりませんので",
"どうしてですの、小次郎さん?",
"二人の男に恋された以上……",
"どっちへも行けなければ死にますわねえ",
"いえ、両方へ行きますので",
"あら、そんなこと出来ると思って!",
"何んですって!"
],
[
"私はいつもそうして来ましたので……",
"小次郎や"
],
[
"お前の心持ちはわかっているよ。……口に出してあまり云わないがいいよ。……お前の武勇も解っているよ。……大事に蔵っておくがいいよ",
"はい"
],
[
"右衛門か俺じゃ、袈裟太郎じゃ! ……ここ開けてくれ一大事じゃ!",
"うむ袈裟太郎か! 何んだ何んだ!"
],
[
"袈裟太郎や、くわしくお云い!",
"は"
],
[
"お命令によりまして私はじめ、雉六、石丸、椋右衛門など、六波羅方の動静を、日夜うかがいおりましたるところ、今夜にいたりまして活溌となり、早馬数騎鎌倉さして、馳せ下るよう見うけましたれば、途中に要して取って抑え、事情責め問いいたしましたるところ、宮方ご謀反内通者あって分明、そこで鎌倉へ注進し、兵を乞うとの意外の話……",
"内通者あって分明というか? 内通者あって! 内通者あって?"
],
[
"姫君様一大事!",
"六波羅にては、兵どもを集め、到着づけはじめましてござります!"
],
[
"仔細をお云い! さあさあ早く!",
"は"
],
[
"六波羅探題の大門ひらき、篝火さかんに燃えたたせ、軍奉行の斎藤太郎左衛門、同じく隅田弾正少弼、床几を立てての検分のありさま、あまりに由々しく存じましたれば、雑兵をとらえ訊しましたるところ、姫君様にも夙にご存知の、摂州葛葉の荘園において、地下侍ども代官に反き、合戦に及びおりまするが、その合戦に兵を送って、鎮定するまでの話よと、その雑兵めは申しましたが……",
"それは偽りでござりまして、そのように世間態をとりつくろい、その実は四十八箇所の警護の武士と、在京の武士とを召し集め、内裡攻めんとの謀りごとの趣き、探り知りましてござりまする"
],
[
"内通者は誰だ! お云いお云い!",
"美濃ノ国は土岐の住人、土岐右近ノ蔵人頼春とか!",
"いけねえ!"
],
[
"さあこの鉞血が吸えるぞ! 裏切り者の血が吸えるぞ!",
"兵どもの噂によりますれば……"
],
[
"土岐頼春その最初は、宮方のお味方でありましたところ、妻の愛に雄心ゆるみ、裏切り内通いたしました由!",
"やられた!"
],
[
"北殿(探題北条範貞の事)ご諚じゃよ! そちへのご諚じゃ!",
"…………"
],
[
"十郎頼兼と多治見ノ四郎二郎、この二人を討って取る。ついてはそち勢に加わり、二人の者の首級の真偽、見究めかたがた参れとのこと! 早々出発するがよかろう",
"あの私が頼兼、国長の……"
],
[
"討手の勢に加わりますので?",
"そうだ"
],
[
"北殿ご諚じゃ、すぐ打ち立て!",
"私が一族の頼兼と国長を! ……ソ、それはあまりに無惨!",
"黙れ!"
],
[
"そちの返り忠神妙ながら、なお本心心もとないと、おぼしめしての北殿ご諚! これ解らぬか、迂濶者め!",
"じゃと申して、じゃと申して、現在一族の頼兼、国長を……"
],
[
"この儀ばかりは! この儀ばかりは!",
"私情じゃ!"
],
[
"北殿ご諚は公ごと! 私情をもって拒むとあっては、頼春、せっかくの返り忠むだになるぞよ、水の泡となるぞよ",
"たとえ水の泡になりましても……",
"これ"
],
[
"早瀬の心思わぬか",
"早瀬! ……妻! ……おお妻ゆえに!",
"そちこのご諚拒んだが最後、謀反の心根いまだ消えずと、捕えられて縛り首! しかも頼兼、国長は、運命変わらず討たれるのじゃ!",
"…………",
"そち死なば早瀬は生きていまい",
"…………",
"娘と婿とに先立たれて、ワ、わしも生きていぬ!",
"舅殿!",
"頼春行け!",
"は、はい",
"※(りっしんべん+繊のつくり)悔の道、贖罪の浄め、他にあろう、他日ほかに……",
"は、はい",
"な",
"はい"
],
[
"…………",
"…………"
],
[
"来たわ!",
"鼡め!",
"不愍な馬鹿者!",
"志は猛く殊勝ながら、この智恵のなさ、討ちとれ討ちとれ!"
],
[
"土岐頼春という男をも、懸命にさがしているのじゃよ",
"何故じゃい?"
],
[
"斬られた!",
"死んでる!",
"お侍さんだ!",
"誰がいったい殺したんだ!"
],
[
"東大寺勧進、諸国行脚、寄進奉謝つつしんで頂戴の、茨組と申す興行者……",
"丹後の国をふり出しに、但馬、因幡、播磨、摂津と、打って廻りましてござりまして……",
"昨日この都へ参りましたところ……",
"何やら市中さわがしく……",
"斬った斬られた討った討たれた、謀反じゃ裏切りじゃと人心兢々……",
"これでは興行はおぼつかなし……",
"というところへ眼星をつけ……",
"ただ今都を退散仕り……",
"伏見か奈良か、宇治か大津か、その辺を打って廻ります所存……",
"大木戸お通しくださりませ"
],
[
"これはこれは山伏殿、ごもっともなその仰せ、では仰せに従いまして、おぼえの芸当仕りましょう。……やあやあ泣き男と笑い男、幽霊女と鶏娘、まかり出て芸当仕れ",
"オーッ"
],
[
"諸国を巡る芸人香具師、その一行に相違ない。木戸を通す、早く行け早く行け",
"待ったり待ったり"
],
[
"念には念を入れろと云う。……獣を入れた檻の中を、一応調べる必要がある",
"なるほどそうじゃ"
],
[
"熊がいる。これはよろしい",
"ここにいるのは狼じゃ。凄い眼付きをしているわい",
"猪めが一匹眠っている。そのほかには何んにもいない",
"ははあ、こいつが山猫か、普通の猫よりはずいぶん大きい"
],
[
"この檻ばかりが密閉してある。頼兼か国長の残党ばらを、ひそかに隠してあろうも知れぬ。檻を破って検分検分!",
"いかにも怪しい。檻をひらけ! これこれ香具師ども、檻をひらけ"
],
[
"はいはいそうまでおっしゃいますなら、お開けいたしますでござりまするが、それはそれは恐ろしいものが、はいっているのでござりまするぞ",
"えい、くどい! 早くあけろ!",
"それじゃアお開けいたします。……この鉞でガ――ンと一撃! と板がバラバラになる。その瞬間に恐ろしい奴が……",
"飛び出すというのか、ナーニナーニ"
],
[
"が何事もご用心、ご用心が専一にござります。……山伏殿などズーッとうしろに、お引きさがりなされておられました方が……",
"それもそうだな、ではソロリと……何を馬鹿な、たかが知れてる! えい開けろ! 開けろ開けろ!",
"ではソロソロあけまする"
],
[
"よろしゅうござるかな、ガ――ンと一撃! と、世にも恐ろしいものが……",
"まあ待て待て、何だそいつは?",
"ただもう世にも恐ろしい……",
"虎か? 唐土の……獅子か? 天竺の……",
"なかなかもちましてそんなものでは……",
"フーン"
],
[
"申せ申せ、正体申せ!",
"ガ――ンと一撃いたしまして、そのものが飛び出して参りましたら、おのずと解るでござりましょうよ。……さあ一撃! 命の用心!"
],
[
"出た――ッ",
"いたぞ――ッ",
"何んだ何んだ!"
],
[
"やられた",
"いやはや",
"ひどい奴らだ!",
"はなから終いまで嬲りおった",
"こうまで嬲られれば腹も立たない",
"通れ通れ、さっさと通れ!"
],
[
"お許しが出た、さあ行こうぞ",
"方々しからばご免候らえ",
"ソレ"
],
[
"いや面白い奴らだった",
"おかげで我ら眠気ざましをした"
],
[
"立派な関守、それでこそ範覚、わしの仲間での大立て者じゃ! ……さてその大立て者の範覚殿に、至急たずねたいことがある。……旅まわりの香具師の一団、茨組と称する奴ばら、ここへ来かかりはしなかったかな?",
"来た来た"
],
[
"いや面白い奴らだった。芸当をしてな、素晴らしい芸当を! ……最後に大きな檻をひらき、鼡一匹を飛び出させたよ、その口上が気が利いていた。大山鳴動して鼡一匹さ、アッハッハッハッ、見せたかったよ姥に!",
"餓鬼め!"
],
[
"その香具師の群れ、おのれどうした⁉",
"ド、どうしたと? どうするものかよ、仕った芸当が関所の切手、という次第で、伏見の方へ……",
"通したというのか、この大木戸を!",
"ソ、そうさ、それがどうした?",
"餓鬼め!"
],
[
"おのれがおのれがその二つの眼、節穴かそれとも蜂の巣空か! ……その香具師の群れ茨組こそ、飛天夜叉なのじゃ、飛天夜叉組なのじゃ!",
"バ、馬鹿な、そんなこたアねえ",
"餓鬼め!"
],
[
"しかも檻には頼兼の妾と、小伜とが隠してあったのじゃ!",
"うんにゃ、違う、そんな筈はねえ、念には念を入れたがいいと、こう思ったので警護衆と一緒に山猫の檻から猿の檻、密閉してあったでっかい檻まで、いちいち刻明に調べたが、密閉してあった檻の中からは、さっきもいったが鼡一匹……",
"黙れ、迂濶者、この阿呆! ……密閉してある檻なんぞ、カラクリじゃ、まやかしよ! そのようなものに何んの何んの、落人なんど隠して置こうか! ……獣の檻に、獣の檻に!",
"マ、まってくんな、そんな筈はねえ。獣の檻には獣の類が……熊や猪めが、まさしくいたに!",
"熊は熊だが熊の皮じゃ!",
"皮! 皮と? クマカワと?",
"頼兼の妾千寿めには、熊の生皮をうちかぶせ……",
"…………",
"六歳になる小伜には、猪の生皮をうちかぶせ……",
"…………",
"獣に仕立てた飛天夜叉の才覚!",
"ふーん",
"範覚!",
"おれどうしようぞ!",
"大木戸通ったは何時じゃ!",
"おおよそ半刻、半刻前じゃ",
"二里とは行くまい、ソレ追っかけろ!"
],
[
"いた――ッ",
"いたいた!"
],
[
"斬れ!",
"討ちとれ!"
],
[
"道ふみ迷った盲人でござる。――人違いでござろう、聊爾なさるな!",
"ナニ盲人? そんなことはあるまい!",
"盲人が大藪地へはいれるものか!",
"飛天夜叉じゃ、飛天夜叉組じゃ!",
"功名しろ! 討って取れ!"
],
[
"鬼火の姥の一党よ、存じていながら何をいうぞ!",
"こうとり囲んだうえからは、遁がしはせぬ、討ってとる!"
],
[
"沼辺にいるわい、眉輪の沼辺に",
"おのれら飛天夜叉の一党を、包囲した陣地にご安居じゃ",
"おっつけおのれの穢い首級も、姥の見参に入るというものじゃ",
"眉輪の沼辺?"
],
[
"ではここは司馬の藪地か?",
"知れた話だ、何を云うか"
],
[
"素晴らしく大事な料物でな。……それだけに六波羅の探題様にとっては、手に入れたい品物なのじゃ",
"なるほど"
],
[
"どっちみち宮方へ加担した奴らの、姓名が記してあるだけだろうが……",
"そうとも、それだけに過ぎないのだが、そうして宮方に味方している、京都在住の者どもの名は、連判状がなかろうと、だいたいのところ目星がつき、たいして心配にもならないのだが、諸国諸地方の豪族のうちに、味方した奴らがあるらしく、それだけは連判状がなかろうものなら、かいくれ見当がつかないようなのじゃそうな",
"どうしてそいつらを引き入れたものかの?",
"資朝卿と俊基卿とが、先年諸国を巡られて、そいつらと逢い口説いたからじゃそうな",
"そいつらに次々に旗あげされたら、なるほど武家方は困るであろうよ",
"手がつけられないということじゃ",
"資朝卿や俊基卿をとらえ、糾問したらよかろうに",
"それが出来ないということじゃ。あそこまで官位の高い公卿は、めったに糾問出来ぬのじゃそうな",
"内裏攻めようと意気込んでいたに",
"あれも北殿一時の怒りで、土岐、多治見を討ちとったばかりで、後は当分穏便じゃとよ。……それにそういう一大事は、鎌倉よりの指揮を受けねば、行ないがたいということじゃ",
"いつ鎌倉から指揮が来るのじゃ?",
"早馬鎌倉へ馳せつくのさえ、相当日数がかかる筈じゃ。それからいろいろ評定があって、それから返辞の早馬が来る。…ずっとずっと先のことよ"
],
[
"どうした宗任!",
"や、死んでる!",
"咽喉をえぐられている!",
"鳩尾も!"
],
[
"脆い奴じゃ、沼へでも捨てろ! ……盲人が……竹の杖で……凄い腕じゃと……アッハッハッ、何をいうやら! ……いずれは飛天夜叉の部下の奴らに、討ってとられたことであろうよ",
"円信!"
],
[
"内通をした頼春めがよ。……頼春さえ武家方についていたら、宮方一味の豪族ばらの名、一切知れて都合よかったに、行衛不明になったのじゃ",
"頼春の女房の早瀬とかいう女、この女など糾問したら、宮方一味の公卿や武士の名、すこしは知れるであろうにな。……なんでもその女が頼春をすすめて、裏切りさせたということじゃから"
],
[
"良人の後を慕ってのう",
"へえ"
],
[
"その女も家出、それはそれは。……近来家出が流行ると見える。……たいして楽しいことでもないに",
"土岐、多治見の郎党ばらは、一人のこらず討ち死にしてしまった。……で、どうにも宮方一味の、公卿や武士――豪族の名、ほとんど知ることが出来ないのじゃ。……そこでせめても頼兼の妾、千寿などでもひっ捕え拷問いたしたら知れようかとな。……",
"ところがそいつに飛天夜叉めが附いた",
"そうして大木戸を脱けられた"
],
[
"そいつを云われると身が縮むて。……が、千寿や朱丸を籠めて、この大藪地へ追い込んだ上は、飛天夜叉にも遁がれられまい。……どっちみち千寿や朱丸めは、姥の手へはいったというものさ",
"さあそうなってくれればよいが",
"とにかく今はこうなんだな、千寿か朱丸を手に入れるか、頼春や早瀬を捕えるか、連判状を目付け出すか、そのうち一つでもとげることが出来たら、宮方一味の公卿や豪族の、確実の名を知ることが出来、六波羅殿には安堵が出来ると。……",
"そうじゃよそうじゃよ、そういうこととなるのじゃ",
"ところでこれからどうする気じゃな? ……こう飛天夜叉めと睨み合っていてよ",
"六波羅殿からの加勢を待って、一挙に猟り立て捕えるのじゃ",
"六波羅殿から加勢が来るとな?",
"とっくに注進してやったのじゃ。……五百か千の援兵が、もうソロソロ来る頃じゃ",
"へえ、そうか、知らなかった。いやそれなら安心だ。……それはそうときゃつどうしたか? 円信め、いつまで何をしているか⁉"
],
[
"何んと申してよろしいやら……",
"何んの"
],
[
"お助けなくばもう今頃は、わたくしども親子は六波羅の手に……渡され渡って恐ろしい目に……",
"そうねえ"
],
[
"情けしらずの六波羅に渡って、糾問されたかも知れませぬねえ。……が、それでは神も仏も、この世にないと申すもの。……そうあってはなりませぬ",
"わたしたち親子にとりましては、あなた様はまことに神か仏……でもこのように鬼火の姥とやらに、四方をかこまれてしまいましては……",
"アッハッハッ、大丈夫で"
],
[
"われらの大将……いや姫君じゃ……桂子お姫様の力量技倆を、すこしでもご存知でございましたら、そのようなご心配はなさいますまいよ。……アッハッハッ、大丈夫で",
"右衛門や"
],
[
"そのような、バカらしい大袈裟なことは、あまり人前で云わない方がいいよ",
"はい"
],
[
"お前の不平はわかっているが、でも自分のそういう不平を、罪のない他人に移すってこと、不道徳でよくないよ",
"はい"
],
[
"そう一刻に云うものではないよ。……どんな人間にだってよいところはあるよ。……お前の攻撃しているその男だって、今に大功をあらわすよ。……それよか物騒な大鉞を、もう手もとへ引っ込ました方がいいよ",
"はい"
],
[
"気を悪くしちゃアいけないよ",
"はい"
],
[
"いいえ何んとも思いはしません",
"ねえ小次郎様"
],
[
"いつまでこのような林の中に、鬼火の姥などと対陣し、止どまりおるのでござりまするかな?",
"右衛門や"
],
[
"こりゃ不思議だ!",
"どうしたのだ!"
],
[
"ご恩は海山! 何んとお礼を! ……今こそお別れ、ご無事でご無事で!",
"お姉様、お姉様!"
],
[
"千寿様、朱丸様! ……ご無事で……さあさあ! ……今こそお別れ! ご縁さえござれば……また逢われます!",
"お姉様ヨ――ッ",
"朱丸様ヨ――ッ……可愛い可愛い朱丸様ヨ――ッ",
"いざ千寿様朱丸様、お供仕るでござりましょう"
],
[
"機会失っては一大事、いざいざ早うご出立",
"はい"
],
[
"飛天夜叉だ!",
"飛天夜叉組だ!"
],
[
"貴殿……お名前……お明かしくだされい! ……あまりに美事なお腕前……お名前聞きたい……おあかしくだされい! ……拙者は金地院範覚と申す!",
"いや"
],
[
"決して姓名申しますまい! ……誰にも云わぬ、何者にも明かさぬ。……が、このようにご記憶くだされい。……『裏切り者』と。……な、このように",
"裏切り者? とは?",
"またこのようにご記憶くだされい。『神の界に属する御一方に、許すとのお言葉うけたまわるまでは、死ぬことの出来ぬ男』じゃと。……",
"不思議なお言葉! ……気にもかかる! ……拙者も一人の裏切り者を、この頃尋ねているのでござるが……しかしその者は無双の美男、かつ立派な若い武士、貴殿のような盲人ではない。……"
],
[
"我らが仲間を五人がところ、討って取られた上からは、我らにとって貴殿は敵、惜しい人物とは存ずるが、この範覚お助けは出来ぬ! ……覚悟なされい、観念なされい!",
"さようか"
],
[
"神の界に属する御一方に、許すというお言葉うけたまわるまでは、決して死ねぬこの拙者じゃ! ……行く手を遮る者があらば、誰彼問わず用捨いたさぬ! ……殺生ながら討って取る!",
"参るゾ――ッ",
"…………"
],
[
"飛天夜叉だ!",
"鬼火の姥め!"
],
[
"頼春殿と連れ立って、歩いておられた若衆武士じゃな! ……美しや、おおおお! ……おお遁がさぬ! 取る! わしのものにする! ……美しや、おお、おお、おお!",
"助けてくれ――ッ"
],
[
"や――汝ア⁉",
"香具師よ香具師よ!",
"大木戸で逢った……",
"香具師よ香具師よ!",
"宣れ!",
"汝は?",
"金地院範覚!",
"鬼火の姥の眷族だな! ……俺ア大蔵ヶ谷右衛門よ!",
"飛天夜叉めの⁉ ……",
"忠義の家来だア――ッ"
],
[
"や、姥か! ……少しばかり邪魔な",
"範覚ウ――ッ"
],
[
"テ、手に入れたわ、レ、連判状オ――ッ",
"ホ、ほんとかア――ッ"
],
[
"ワ――ッ",
"ギャ――"
],
[
"連判状を取られた――ッ",
"ケダモノ――ッ"
],
[
"思い知らさでおくべきか――ッ",
"キャ――"
],
[
"やったね、アッハッハッ、とうとうやったね",
"あの大将こいつを知らなかったそうな",
"懲りて二度とはやるまいよ"
],
[
"なんでも盲人だということだな",
"うん"
],
[
"俺は一度だけ逢ったことがある。盲人だよ、凄い盲人だ",
"むやみと人を斬るそうだが?",
"うん、むやみと斬るそうだ。……昔はそうでもなかったそうだが。……そうだ昔はその男の行く手を、変に遮って邪魔などすると、怒って斬ったということだが……今じゃアむやみと斬るそうだ",
"狂人だよ! 殺人狂さ!"
],
[
"その狂人の人鬼でも、この可愛い子供を見たら、――この子供はずいぶん可愛いわね――殺生の気持ちなどなくなしてしまって、仏心になるだろうよ",
"駄目だよ"
],
[
"その男は盲人なのだからな、子供を見せたって見えやアしないよ",
"では私は抱かせてやろう。その盲目の狂人にあったら、この可愛い子を抱かせてやろう",
"この女こそ狂人なんだがなあ"
],
[
"誰だろう、こんな気の狂っている女に、殺生な子供なんかはらませたのは。……それはそうと盲目の殺人狂は、名を宣らないということだの",
"そうだ"
],
[
"誰かが名を訊くとこう云うそうだ、『このようにご記憶くだされい、裏切り者とな』このように……またこんなように云うそうだ、『神の界に属する御一方に、許すとのお言葉うけたまわるまでは、死ぬことの出来ない男じゃ』と。……",
"竹の杖を使うということだが?",
"そうだ、……竹の杖が得物なのだ。それでズバリと咽喉をつくのだ。……狙いは絶対に狂わないのだそうだ。……が、相手が大勢の時には、相手の持っている太刀を奪って、そいつで斬って斬りまくるそうだ",
"名を宣らないという段になると、ここにいるお嬢様とおんなじだな"
],
[
"裏切り者というその男と、貴殿どこで逢われたかな?",
"美濃の青墓で逢いましたよ",
"今でもそこにおりましょうか?",
"さあそれは? ……どうであろうかな?"
],
[
"じゃアそいつこの辺にいるんだ!",
"逃げろ!",
"あぶない!"
],
[
"可哀そうに、あの犬も殺されるのね。……心の臓をえぐられるか、肝の臓をくりぬかれるかして",
"そうさ、可哀そうに、贄だからなあ"
],
[
"贄持って来オ――、贄が足りねえ――ッ",
"オ――"
],
[
"そりゃア姥も気の毒なものさ、宮方の調伏に対抗してよ、武家方の調伏を引きうけて、肉だち塩だち男だちして、二十一日の荒修行! ……そいつが効験あらわれず、贄釜が音を上げねえんだからなあ。今夜の丑の刻が勝負の別れ目さ、その時になっても効験なければ、犬や狐じゃア間に合わねえ。生き身の人間の男と女とを、贄釜の中へたたっ込まなけりゃアならねえ! ……ヤイヤイ汝ら用心しろ! ……悪くふざけると丑の刻に、贄釜の中へ叩っ込まれるぞ!",
"ヒーッ"
],
[
"お前の早い歩き方で、京の二条の館へ行き、小次郎にすぐにここへ来るように、そう伝言しておくれ",
"かしこまりましてございます"
],
[
"そなた使命を果たしたかえ⁉",
"使命⁉"
],
[
"お姉様、使命とは?",
"何んのために水浴に行くのだえ?",
"おいでとお姉様がおっしゃいますゆえ",
"で、使命を果たしたかえ?",
"…………",
"あの谷川の向こう岸に、何があるとお思いだ?",
"鬼火の姥の修法の洞が……",
"そうさ、修法の洞があるのさ、鬼火の姥の修法の洞が! そこには誰がいるのだろうね?",
"鬼火の姥や金地院範覚が……",
"そうとも金地院範覚がいるよ。姥にとっては無二の味方で、そうして情夫の範覚がねえ。……その範覚を迷わしたかえ?",
"…………",
"鬼火の姥が狂気じみた、男好きの女なら、金地院範覚は狂気じみた、女好きの男なのさ! ……その範覚を迷わしたかえ?",
"…………",
"あの二人が一緒に手を組んで、修法調伏を行なえばこそ、姥の調伏験を見せるのだよ",
"…………",
"姥の調伏を無為にしようと、こう思ったら姥の身辺から、範覚を放さなければならないのだよ……その範覚を迷わしたかえ?",
"それではお姉様は、そんなお心から……"
],
[
"わたしを毎日あそこへやり……",
"そうとも!"
],
[
"お前の綺麗な裸身を見せて、色情狂の範覚を迷わせてやろうと、もくろんだのさ!",
"お姉様!"
],
[
"姉妹の仲でありながら、そんなあさましい恥ずかしい所業に、わたしを妾を追いやるとは……",
"お黙り!"
],
[
"あさましいぐらい、恥ずかしいぐらい、血書き写経の荒修行に、たずさわっている妾に比べ、何が何が、何あろう! ……それとも綺麗な裸身は小次郎以外に見せたくないと、そう思ってのその言葉か!",
"お姉様……ア、あんまりな!",
"何を!"
],
[
"よう申されたな、とうとう本心を! ……姉上こそ邪淫の権化! 小次郎様を邪に恋し、四年も五年も思い詰めていた、このわたしから横取ろうとなさる! ……その姉上様どうかというに、男の肌には触れることのならぬ、女行者の身でござんす筈! ……行けと云う、妾に洞へ! ……それでご自分の血書き写経の、折伏の験を見ようと云われる! ……そればかりならば参りましょう! 姉上様の行のおためなら! ……厭じゃ厭じゃ何んのそればかりか! ……いいえ姉上のお心持ちは、わたしをそこへ追いやっておいて、おっつけそこへおいでなさる小次郎様をとらえ、煩悩とげるおつもりなのじゃ! ……むごいむごい姉上のお心! 行かぬ行かぬわたしは行かぬ!",
"何をほざくぞ、貪瞋癡女郎! ……三毒を備えた我執の塊り! ……この姉に楯つく気な! ……四年五年恋したという! 汝が小次郎に恋したという! それが何んじゃ、何んの手柄じゃ! ……その小次郎を連れて来たはこの身、その小次郎を四年、五年、養い育て磨いたもこの身! ……小次郎はこの姉のものじゃ! ……その小次郎を恋するという汝! 汝こそまことの横取り者よ! ……何を賢こがって汝が汝が、姉の身の上をあげつらい、男禁制の肌断ちのと、云わでものこと云いおるぞ! ……男禁制も肌断ちも承知の上でかかった恋、なんのとげいでおくものか! ……その後は凡婦に帰ろうとまま、堕地獄の苦に悩もうとまま! ……さあこう明かした上からは、肉親でもなければ姉妹でもない! 恋の敵情慾の仇! ……ええ贄なんどに追いやるより、いっそ手短かに命取ってやろうか! ……それより汝の愛嬌顔、潰して醜婦にしてやろうわ! ……如意くらえ!"
],
[
"今上第一の御皇子にましまし、梨本御門跡とならせたまい、つづいて比叡山延暦寺の、天台座主に座らせられたまいし、尊雲法親王様におかせられては、二度目の座主をお罷めあそばされ、叡山の大塔にご起居ましまし、もっぱら武事を御練磨あそばされ、叡山大衆三千の心を、収攬せられおられますそうな",
"宮方ふたたび武家討伐、朝権恢復の御企てを、密々に行ないおらるるそうじゃが、その総帥こそ大塔宮様そうな",
"主上のご寵愛ご信任厚く、万事ご相談のお相手そうな"
],
[
"この子が可哀そうでございます。……おなかを空かせておりまする。……わたしには乳がございません。……あなた様にお乳はございますまいか",
"いいえ、わたしは……"
],
[
"まだ娘でございますので。……乳など何んで……何んで出ましょう",
"…………"
],
[
"わッ",
"しまった!"
],
[
"浮藻だ浮藻だ! ……おのれ右衛門、また邪魔な所へ! 邪魔な所へ!",
"くたばれ――ッ"
],
[
"右衛門!",
"あッ、お姫様ア――ッ"
],
[
"贄釜の中へ、贄を入れろオ――ッ",
"オ――ッ"
],
[
"贄のハダカって何んでござんす?",
"範覚さん、そんな物アこっちにゃアねえ",
"黙れ範覚!"
],
[
"範覚さんは、お前さんなんだよ",
"お前さんこそ範覚さんなんだよ",
"そうだ"
],
[
"俺こそ金地院範覚だ! ヤイヤイ範覚ハダカ持って来――ッ",
"範覚ウ――ッ"
],
[
"贄釜の中へ贄を入れろ――ッ",
"ちげえねえ!"
],
[
"気絶させた女だ――ッ、俺をよ! 俺をよ! ……オレもう一度気絶するぞ――ッ、この女でよ! この女でよ! ……やらぬ誰にも、オレのものだ――ッ……釜へ! 何云う! 入れるものか――ッ……贄釜なんどへ、入れるものか――ッ……",
"範覚ウ――ッ……"
],
[
"女を渡せ、渡せ渡せ! 渡さねば汝、汝を雑えて贄にするぞ――ッ、贄釜に入れて!",
"へ、へ、姥駄目だ――ッ"
],
[
"小次郎様ア――ッ",
"浮藻殿オ――ッ"
],
[
"一度は夜の京の町で、一度は司馬の大藪地で、見かけた美しいお侍さんだ! ……年たけていっそう綺麗になられた! ……執心じゃ、さわらせてくだされ! ……頬へ、額へ、可愛らしい口へ!",
"姥ア――ッ"
],
[
"小次郎様ア――ッ",
"浮藻殿こっちへ!",
"やらねえ――ッ"
],
[
"手へ、胸へ、円々とした肩へ! ……さわらせてくだされ、執心じゃ!",
"ワッ"
],
[
"強いぞ!",
"用心!",
"凄い技術だ!",
"オレ、もう一度、オレもう一度! ……キ、気絶、気絶してえ――ッ",
"ギャッ"
],
[
"小次郎様ア――ッ",
"もう大丈夫! ……しっかり縋って! ……もう大丈夫!",
"やらねえ――ッ"
],
[
"逃げた――ッ",
"追え――ッ"
],
[
"袈裟太郎は時々ここへ来て、城内の様子を話しておくれ",
"承知いたしましてござります",
"一芸一能ある人間と見ると、きっとお用いになる楠木様だよ。お前たちきっと重用されるよ",
"へい"
],
[
"役づきますでござりまするかな",
"自信をお持ち、きっと役づくよ",
"へい"
],
[
"お前たちにもそのうち役づかせてあげるよ",
"どうぞ"
],
[
"どこかで赤ん坊が泣いてるのね",
"はい、赤ん坊が泣いておりまする"
],
[
"お乳おありではござりますまいか。……もし、おありでございましたら、この子に飲ませてくださりませ",
"わたし、これでも娘なのだよ"
],
[
"だから、お乳は出ないのだよ",
"とんだ粗忽を申し上げました",
"あのね"
],
[
"この林を出て少し行くと、恩地という人のお館があるから、そこへ行って、何かいただくといいよ",
"ご親切にありがとう存じます",
"でも、お前さん何んと思って、こんな林の中などへ入り込んだの?",
"…………",
"いまにも合戦がはじまるというのに、野武士や追い剥ぎが群れをつくって、ここらへ入り込んでいるのだよ",
"はい",
"この林など物騒なのだよ",
"はい",
"人里へ早く行った方がいいねえ",
"はい、ありがとう存じます"
],
[
"いい女らしいぞ",
"まだ若いな",
"業病じゃアないか、顔に垂れがある",
"手足を見ろ、綺麗で満足だ",
"お顔拝見",
"担いで行け!"
],
[
"刃物で斬った疵ではない",
"おや、あそこにもう一つ"
],
[
"猩々だ――ッ",
"卯ノ丸だよ"
],
[
"斬ってくだされとお願いしながら、よしそれでは斬ってやると、貴殿方お仲間のお二人が、親切にも拙者を斬ろうとすると、何んと忘恩のこの拙者の右手が、拙者の意志を裏切って、あべこべに親切なお二人の人を、ブツリと突き殺した、それのように",
"…………"
],
[
"前代未聞、凄いといわねばならぬ。……で、ご招待いたしたいというので",
"感謝"
],
[
"行きますとも、行きますとも。……さあご一緒に参るとしましょう",
"こっちでござる、さあ参られい"
],
[
"どうなされた、なぜお歩きなさらぬ",
"変でござるよ、足が動かぬ"
],
[
"いや",
"違います",
"そんなことはござらぬ!"
],
[
"迂散に思われるはごもっともでござるが、われらがご案内いたそうとするは、われらのお頭の館でござってな……",
"ナーニ山寨でござろうよ!",
"…………"
],
[
"そのわれらのお頭というは……",
"泥棒であるに相違ない!",
"…………"
],
[
"一芸一能に秀でたお方を……",
"豪族へ売り込むという手もござるて!",
"…………"
],
[
"残念、拙者盲目でのう",
"ナール",
"とはいえ拙者見えまする!",
"さてこそ!",
"心眼で見えるのじゃ!",
"…………"
],
[
"叡山の裏山へあらわれた時にも、側へ来ずに辞儀ばかりしていたが、でも大変なつかしそうにして、恐縮なんかしなかったものだよ。……それにしてもあの時もそうだったが、今度もあんな方へ指をさして、わたしをどこかへつれて行こうとする。……いいよ、どこへでも行ってやろう。……右衛門や、行ってみようじゃアないか",
"馬鹿な人間などに比べましたら、比較にもならない利口な卯ノ丸、それにお姫様には忠実な卯ノ丸、あのようにお誘いするからには、わけがなくてはなりませぬ。参りました方がよろしいようで……"
],
[
"その前衛の部隊としまして、勝間田彦太郎入道が、一千の兵を率いまして、伊賀路より、たった今しがた、白布の郷へ入りまして、農家に分宿いたしましたり、仮屋を建てましたり、幕屋をつくりまして、宿しましてござります",
"そうか、いよいよ来たのかい。そろそろ来る頃だと思ってはいたが。……お城の様子はどんなかしら?",
"赤坂の城内でござりましたら、士気旺盛と申しますより、ほとんど関東の寄せ手の勢など、眼中にないといったように、静まり返っておりまする",
"そうだろうねえ、そうなくてはならないよ",
"いずれもが申しておりまする。われらが御大将多門兵衛様は、智徳兼備わが朝での孔明、このお方をいただいている以上、戦いに負けよう筈はない。その上に我らは金枝玉葉の、大塔宮様をさえ奉戴いたしておる。死も生も問題でないと。……",
"その宮様のご機嫌はいかが?",
"いつも麗かにござりまする",
"随分ご苦労あそばしたのにねえ"
],
[
"寄せ手の様子はどんな塩梅だえ?",
"お話にも何んにもなりませぬ。こんな小城、おとすの朝飯前だと、このように申して油断に油断し、京都や、淀や、神崎などより、めし連れました遊君を侍らせ、乱痴気さわぎいたしおりますそうで",
"そうかえ、それは面白そうだねえ。ではわたしは見に行こうかしら",
"何をお姫様おっしゃいますやら",
"戦陣での乱痴気さわぎ、わたしは一度も見たことがないよ。参考のため見たいような気がする……そう、見に行くときめてしまおう。……袈裟太郎やお前もおいで",
"へい……しかし……わたしはお城へ……",
"お城へ帰るのは見合わせとして、わたしと一緒に行くがいいよ",
"どちらでも結構でございます",
"ではお前を連れて行くときめたよ。……お前たちも一緒に行くがいいよ"
],
[
"京男と異って東男には、よいところがあるかもしれないからねえ、お前達二人も連れて行って、東男を見せてあげよう",
"まあ、お姫様イヤでございますよ"
],
[
"三河どうじゃ、……いい女だろう。……千山、それでワザ師でな、……そうであろうがな、コーレ千山!",
"何を入道様仰せられますことやら",
"いやこの鞍馬もたいしたものじゃ"
],
[
"大手一の木戸口より、仁王堂まで寄せたと思え、ここを固めていた敵方の将は、足助次郎垂範であったが、三人張りの強弓に、十三束三伏の、雁叉の矢をひきつがえ、二町をへだてた我らの陣へ鳴り音たかく射てよこした",
"おおその矢をあなた様には、見事に受けて刎ね返し……"
],
[
"ト、ところがそうではのうて、味方の豪勇荒尾九郎と、舎弟弥九郎とが田楽刺しに刺され、ために我らは総くずれよ……",
"これこれ"
],
[
"それでは敵を褒めるようなものじゃ、とんと自慢にはならぬではないか",
"ほんにの"
],
[
"今日は陣中見舞いに来たか",
"はい、まずさようでござりまするが、実は飛天夜叉の桂子めが……",
"何?"
],
[
"飛天夜叉の桂子が何とかしたか?",
"この陣中に変装しまして、紛れ入りおる由承わり、見あらわして捕えようと……",
"ほんとか?"
],
[
"飛天夜叉めがまぎれ入っておるとな?",
"入道様には飛天夜叉めを、ご存知あそばしておられますので?",
"そち鬼火の姥ぐらいには、飛天夜叉の噂も聞いておる。……若くて美しいということじゃの"
],
[
"その法力と通力も、そちに劣らず見事とのこと。……が、残念にも宮方だそうじゃの",
"宮方にござりまする",
"その飛天夜叉が何用あって、この陣中へなど紛れ入ったのじゃ?",
"宮方の女にござりますれば、関東方の名ある武将の、御首級掻こうと変装して……",
"ヒャッ"
],
[
"コ、こいつを掻こうというのか!",
"であろうかと存ぜられまする",
"こいつはたまらぬ、首掻かれてなろうか!"
],
[
"飛天夜叉が忍び入っているとよ",
"われらの首を掻こうとよ",
"身を変じているそうじゃ",
"白拍子にか遊君にか?",
"あの女ではあるまいかな?"
],
[
"ともかくもお知らせ致さねば……",
"興をさまそう、後刻に後刻に",
"いやともかくもお耳へだけは……"
],
[
"何事じゃな、何か起こったかな?",
"怪しい男女を捕えましたそうで"
],
[
"怪しい男女? ほほうどこでな?",
"拙者の陣前を忍びやかに、赤坂城の方へ歩みおりましたそうで",
"なるほどそれは怪しいの",
"斬りすてましょうや、捕え置きましょうやと、意見を訊ねに参りましたような次第で",
"さような者は斬りすてた方がよかろう",
"美しい若い男女の由で",
"ほほう"
],
[
"男などはどうでもよいが、女が美しいとは聞きずてにならぬの",
"しかし"
],
[
"飛天夜叉などであろうものなら……",
"なんの飛天夜叉が男などを連れて、陣前などを通るものか",
"いえいえ"
],
[
"飛天夜叉めは手下の一人、風見の袈裟太郎と申す者をつれて、忍び込んだと申しますことで",
"フーン"
],
[
"男と一緒に忍び込んだのか。……ではその男女もちと怪しいな",
"庭へ引き出し吟味したらどうじゃな"
],
[
"なるほどこれは美しい",
"やつれてはおるが素晴らしい美女じゃ",
"売女と異って素人女は、まことに清らかでよいものじゃ"
],
[
"よい殿ごぶり",
"光源氏じゃ"
],
[
"範覚よ、ありゃア小次郎じゃ",
"姥よ、浮藻じゃ、ありゃア浮藻じゃ!"
],
[
"何者じゃ、身分を宣れ!",
"云わぬよ"
],
[
"汝らどこへ行こうとしたぞ? 赤坂であろう、赤坂の城へ!",
"知らぬ"
],
[
"どこへ行ってよいか知らぬのじゃ",
"痴者め!"
],
[
"汝の行き場所、汝知らぬのか?",
"姉を尋ねて行くのであるが、どこにおわすか知らぬのよ",
"汝ら何んだ?",
"われらは兄妹じゃよ",
"黙れ!"
],
[
"似ても似つかぬ顔を持った、そのような兄妹がどこにあろうか",
"兄妹じゃ、義兄妹じゃ",
"アッハッハッ、そうだろうと思った。今でこそ義兄妹、アッハッハッ",
"さよう、姉上さえお許しならば、われら夫婦になろうもしれぬ",
"また姉上か、そやつ何者じゃ!",
"云わぬよ"
],
[
"入道殿は殺生じゃ",
"では何んとかせずばなるまい",
"姥、どうしたらよかろうのう?",
"横どりされようとしているのじゃ。だからまたそれを横どるがいい",
"どうしたら取れる? え、姥よ?",
"智恵で取りな、智恵を働かせて",
"…………"
],
[
"やろう! 智恵で、やってみよう。……ところで姥、お前はどうする?",
"わしが何をよ? 何をするのじゃ?",
"小次郎をすてては置かれまい",
"…………",
"すてて置けば殺されよう",
"…………",
"助けずばなるまい。是が非であろうと",
"…………",
"姥の力でやるひになれば、助けることなど訳ない筈じゃ",
"わけないとも"
],
[
"わッ",
"キャッ"
],
[
"曲者オ――ッ",
"ソレ捕えろ!"
],
[
"一大事、御大将が!",
"陸奥守様が! 陸奥守様が!"
],
[
"夜討ちだ!",
"寝首掻きだ!",
"飛天夜叉かもしれぬぞ!"
],
[
"面白いからやっつけようよ",
"鬨をつくってやろう。夜明けの鬨を"
],
[
"おお範覚か、首尾は首尾は?",
"ごらんの通りだ――ッ……小次郎は?",
"従いて来るぞよ、あの通りだ――ッ",
"これからどうする?",
"静かな所へ!",
"それじゃア、林へ!",
"うむ、行け行け!"
],
[
"まだ例の連判状を、手に入れることが出来ないのだからのう",
"猩々にさらわれた連判状か?",
"そうだよ、司馬の大藪地でのう",
"あんな連判状が今になっても、そんなに姥には大切なのかな",
"わしにとって何んの大切なものか、北条様や武家方にとって、大変もない大切な品なのさ。……楠木多門兵衛正成という男が、突然宮方加担の兵を、こんな所へ挙げてしまった。噂によると日野資朝卿と、とうに約束が出来ていて、連判状にも名を記していたとよ。……備後では桜山四郎入道がこれも北条家討伐の、宮方の兵を挙げたそうじゃ。……ひょっとかするとこの入道なども、連判状へ記名している。その一人かも知れぬではないか",
"そうさな、そうかもしれぬのう",
"日野資朝卿は佐渡の地で、俊基卿は鎌倉の地で、つい最近首を斬られてしまった。……大塔宮様は赤坂の城へ、ご入城遊ばしてお遁がれじゃ。……この方々を糾問して、宮方加担の人々の名を、きき出すことは出来なくなった。……で、どうでも、連判状を手に入れ、それを知るより法はないのじゃ。……楠木正成、桜山入道、これくらいならまだよいが、その他に続々と旗上げされたら、いかな関東の力でも、抑えることは出来ないからのう",
"旗あげするものそうあろうかの?",
"こんな形勢になってくると、どこからどんなものが飛び出して来るか、とんと見当がつかぬものさ。……四国、中国、九州あたりには、気心の知れない大小名どもが、様子をうかがっているからのう。……それにお味方の連中にしてからが、味方頽勢と目星をつけると、平気で宮方に款を通ずるいうことにだってなるからのう",
"そんな裏切りの心の持ち主、お味方にもあるだろうか?",
"足利殿などあぶないそうじゃ",
"足利殿? 高氏殿?",
"そうよ。足利高氏殿よ",
"でも、あのお方は笠置攻めから、この赤坂の城攻めまで、神妙にご従軍されたがな",
"不承不承にご従軍なされたのじゃそうな"
],
[
"この姉が許すによって、小次郎と夫婦になるがよいよ。……愛し合って末永くお添い!",
"お姉様!"
],
[
"世の荒波に揉まれ揉まれて、立派な人間になっておくれ。……わたしも、わたしも、一人で寂しく、でも清浄潔斎して、やはりお前たちに負けないような、立派な人間になるからねえ",
"お姉様!"
],
[
"浮藻殿、参りましょう",
"…………"
],
[
"仕事はどうだった?",
"まず上首尾",
"まだ獲物はあるだろうな?",
"うむ、まだまだ獲物はあるが、東城の気の強い百姓どもが、本職の俺たちの真似をして、戦場あらしをやっているから、早く行かないとなくなってしまうぞ"
],
[
"岩壁の背後に何があるか、やっとわたしには見当がついたよ",
"何があるのでござりましょうかな?",
"野武士たちの巣窟があるのだよ",
"それに相違ございません"
],
[
"それも大掛かりの巣窟が",
"面白い出来事にぶつかりそうだよ、さあ中へはいってみよう"
],
[
"わたくしどもは東城の百姓、山へ枯れ木とりに参りましたところ、いつか道に迷いまして……",
"なるほど"
],
[
"へい、さようでございます。枯れた大木などあの大鉞で、切り倒すのでございます",
"ここがどこだか知っているか?",
"存じませんでございます",
"はいったが最後出られない処だ",
"…………",
"漢権守様のご領地じゃ"
],
[
"こやつら三人どうしたものかな?",
"さようさ"
],
[
"が、娘はあのとおり綺麗だ",
"娘だけ送り込むか",
"ともかくも三人送り込んで、係りの者に取捨させたがいい"
],
[
"では貴公送って行け",
"よし"
],
[
"わたしは一本の白布となって、お城の中へはいって行くのさ",
"ははあ上帯に身を変じて?",
"そうだよ、上帯に身を変じてね",
"お一人で大丈夫でございましょうか"
],
[
"飛天夜叉には危険はないよ",
"さようで"
],
[
"…………",
"…………"
],
[
"嬰児に飲ませるお乳もあります",
"綺麗なお部屋もおいしいご馳走も、清らかなお衣裳も差し上げましょう",
"わたしたちの住居へおいでなさいまし"
],
[
"いつまでご厄介になれましょうか?",
"永久にでございます",
"永久に? ……でも、わたしとしましては……尋ねる人がありますので、早晩おいとまいたしませねば……",
"はいったが最後出られません",
"まあ"
],
[
"白い高い柱のようなものじゃ。そいつがユラユラと歩いて来るのじゃ。……その後から子を抱いた女が一人、その後から盲目の男が一人、その後から白い猩々が一匹、間をへだてて従いて来るのじゃ",
"人間ではないのか、柱なのか? ……柱が歩くとは変ではないか?",
"だから変な物といっているのじゃ! ……おかしいのう、どうもわからぬ",
"姥にもわからぬ事があるのかのう",
"わしと同じくらいの術者なら、わしより優れた術者なら、そいつのやる仕業は、わしにはわからぬよ",
"姥より偉い術者などあるものかのう",
"なければよいが、あるような気がする",
"飛天夜叉! ……飛天夜叉の桂子!",
"あいつにはこの頃、後手ばかり食うよ",
"大仏陸奥守様の陣中でも、ひどい後手を食ったのう",
"わしやお前の身に変身されて、とんでもない騒動を起こされてしまった",
"その後へ行ったわれら二人の、疑がわれようというものは!",
"冷遇され方というものは!",
"思っただけでも腹が立つわい!",
"ほうほうの態で逃げ帰ったわい!",
"白い高い柱のようなものが、飛天夜叉めの変身じゃとすると、姥うっちゃってはおけぬのう",
"何のうっちゃっておけるものかよ",
"さて、そこでどうする気じゃ?",
"今度は、わしが先手をうつのさ",
"打ちな、姥、先手を打ちな! ……が、何んじゃい、打つ先手は?"
],
[
"ああ今夜もあいつがあるのか",
"女を男に変えるのじゃ",
"苦痛に充ちたあの悲鳴! あれにはわしもおののくよ",
"男を女のように一変して、宦官といって宮廷などへ入れる。そういうことは唐土にあるそうじゃ……女を男のように変えてしまって、変態ごのみの富豪へ捧げる、そういうことだって唐土にはあるそうじゃ。……漢権守様のご先祖は、唐土のお方であられる筈じゃ……嬰児の眼をわざと潰し、瞽婢といって色を売らせる、そういうことも唐土にはあるげな。……顔の前へ白い布をかけた、姑獲鳥のような女が抱いている子も、漢権守様のお手によって、やがては瞽婢にされるであろうよ"
],
[
"そんな話はやめてくれ! あんまり酷い! あんまり惨酷だ! ……俺もずいぶん殺生な男で、殺人など何んとも思っていないが、嬰児の眼を潰すほどの、そんな惨酷だけは出来そうもない! ……姥、頼む、ここから出してくれ! ……いや一緒にこの城から出よう! ……それにしても俺には不思議でならない、何んと思って鬼火の姥には、こんなところへやって来たのだ⁉",
"帰って来たのじゃ、この城へよ! ……時々この城へ帰って来て、住まねばならぬわしなのじゃ",
"では何んだ、姥の身分は? この城での姥の身分は?",
"やがて知れよう、じっとしていな。……とにかくこの城へさえ帰って来れば、鬼火の姥の力も業も、外にいる時より百層倍も強まる! ……範覚よ、安心していな。安心してわしに縋っていな"
],
[
"命もちませんでござります",
"ただ脳髄を入れ替えるだけじゃ。……何んでもないよ、入れ替えるだけじゃ"
],
[
"脳髄の組織に至りますると、まことに微妙でござりまして、なかなかもちまして入れ替えなど。……さようなことをいたしましたなら、この女の命はすぐに……",
"何んでもない、何んでもない"
],
[
"試みますでござりましょう",
"早くおやり、時刻が経つから。……邪魔がはいらないものでもない"
],
[
"…………",
"…………"
],
[
"何か事件が起こったらしいぞ",
"脇門でも破ってはいってみようか"
],
[
"お逃げ、一緒に、右衛門、袈裟太郎!",
"おお小次郎様も浮藻様も"
],
[
"盲目じゃ、頼む、手を引いてくだされ!",
"お気の毒な"
],
[
"正成、お早う。よい朝だな",
"これは宮様お早うござります。……よい朝あけにござります"
],
[
"いずれお前のことであるから、あッというような奇手を使って、敵を狼狽させることであろうよ",
"すくなくも向こう四日間は、奇手妙手を用いまして、敵を一足も城内へは入れぬ。――というのが、方寸にござります",
"向こう四日間? ふうん、四日間? ……五日目にはどうなるのか?",
"正成討ち死ににござります",
"ナニ討ち死に? すこしお待ち"
],
[
"そんな筈ではなかったがな",
"正成討ち死ににござります……一族郎党もことごとく戦死で。……城は陥落にござります"
],
[
"お前に討ち死にされてしまっては、わしも生きている甲斐がないから、お前と一緒に討ち死にときめよう",
"宮様も討ち死ににござります",
"ほほう、それも決定っているのか",
"きまっておりますでござります",
"討ち死にをしてそれからどうする?",
"私は近くの金剛山へ分け入り、しばらく世の中のなりゆきを眺め……",
"変だのう"
],
[
"それでは死んではいないではないか",
"で、宮様におかれましても、しばらく草莽の間に伏され……",
"ああわしも生きているのかな",
"いえ、皆討ち死ににござります",
"…………",
"そこで敵は安心いたし、兵をひとまず諸国へ帰す……",
"ははあなるほど、そういう次第か。……おおかたそうだろうとは思ったが……つまり敵方をして我々一同が戦死したものと思わせるのだな",
"はいさようにござります",
"お前一流の兵法だな。……ではわしも戦死ときめて、戦死した後では熊野へでも行こうよ"
],
[
"なかなか上手にござります。……ああ云えとわたくしが申しましたので、稽古いたしておりますので、あれを聞きましたら寄せ手の者どもは、まこと正成が死んだものと、信じ込むことでござりましょう",
"ははあ"
],
[
"そこまで手筈をつけているのか。……が、あの男は何者なのだ",
"人夫募集に応じまして、入城しました者にござりまするが、何やら由緒ある者のようで……",
"泣き声、真に迫っているので、まことお前が死んでしまったような気がする",
"この正成めったのことには死ぬようなことはござりませぬ。……正季、そちもそうであろうの",
"はい"
],
[
"正成腹切って死んだそうな",
"一族郎党みな死んだらしい",
"大塔宮様もご薨去じゃ"
],
[
"せっかくのお進めでござるによって、では遠慮なく逗留仕り……",
"荒行でいささか疲労した体を、休ませていただくことにいたしましょう"
],
[
"平賀坊よお主どうする。……河内国金剛山へ、楠木多門坊を訪ねて行き、その後の様子知りたい、などと昨日あたりまで申しておったが、この雪では行けそうもないぞ",
"そういう赤松坊こそどうする気じゃ。……播磨の国へ立ち越えて、苔縄山へ円心坊を訪ね、先達殿の御旨を伝えると、口癖のように云っていたが",
"この雪では閉口じゃ",
"村上坊ではなかったかな、吉野山に参詣し、庵室になるべき地形見立てようと、数日来大分意気ごんでいたが",
"行くことは行くが、先達殿が許さぬ。……道の開くまで待つがよいとな",
"その先達殿だが、ご覧なされ、また娘ごにとらえられ、ちとお困りのご様子じゃ"
],
[
"さよう、参らねばなりませぬ",
"そのように、お若いお身の上で、荒いご修行などなさいまして……何んのお役に立つのでございましょう",
"仏の道は救いの道、自分を救い人を救う、その助けになるでございましょうよ"
],
[
"呉服を何んとおぼしめしまして?",
"…………",
"可憐と……可憐と……おぼしめしましてか?"
],
[
"可憐と……わたしを……ほんとうに可憐と?",
"…………"
],
[
"それにしても何故にそなたには、自分のお家へは帰られずに、兵衛殿のお家などにいられまするかな?",
"小父様乱心と聞きましたゆえ、見舞いかたがたお手伝いに参り……そのままずっと、ずっと、今日まで……",
"なるほど、さようでございましたか",
"帰れとの伝言はございますが……あなた様が、ここにおいでのうちは……なんのわたくし家へなど……",
"…………",
"先達様"
],
[
"わたくしご案内いたしまする。そのうち是非ともわたしの家へも……",
"いずれ参るでござりましょうよ。……入道殿にもお目にかかり……お目にかかることになりましょうよ"
],
[
"あなた様の勝れたご祈祷で、ねじけた男の心持ちをお治しくださることなりますまいか",
"さあ"
],
[
"大弥太殿の放埓と申して、どのような所業なされますのかな?",
"これほどの大家の総領でいながら、あぶれ者などを集めまして、そのお頭などになりまして、近郷近在まで出かけて行き、面白ずくの殺傷沙汰。……いつもいつもその苦情が、舅ご様のもとへ参りますので……",
"なるほどこれはちと荒い",
"そういう驕慢心をなおしたさに、咲いていよいよ頭を下げる、お山の神木の藤の木を、舅ご様には移し植えましたが……",
"ははあ、そういうお心から、藤の神木を移し植えましたのか",
"館など建てましてやりましたら、家におちつくこともあろうかと、それで新館もしつらえましたような次第で……",
"親ごの心というものは、勿体ないほど有難いものです"
],
[
"こんなに遅く、何んの用じゃい",
"あけろ、わしじゃ、大弥太じゃ! ……御曹司様のご帰館じゃ",
"や、ほんとに、大弥太様のお声じゃ"
],
[
"お父上ご病気ともご存知なく、二月に渡って、うかうかと他国へさまよい歩かれたあなた、何んと申してよろしいやら……",
"ナニお父上ご病気とな⁉"
],
[
"ご病気とな? ご大病か?",
"ご大病もご大病、ご乱心あそばされたのでございます",
"乱心! それじゃア気違いだな!",
"それもあなた様のお身の上を案じて……",
"俺ア昔から気違いは嫌いだ",
"ご乱心なされたのでございます",
"ナーニ、俺としてもそういう親心や、お前のおろそかでない志に、まったく盲目というのではない。が、ただ俺としては狭くるしい、この十津川などに埋ずもれて、豪族でござるの土豪でござるのと、いわば井の中の蛙となって、一生を終わってしまうのが、どうにも我慢が出来ないのさ。そこでこの土地にいる間は、近在近郷へ出かけて行って、鬱憤ばらしの乱暴をやったり今度のように他国へ走って、羽根をのして一月でも二月でも、遊びほうけて帰らなかったりするのさ。……が、俺としての本心は、功名手柄勝手次第、下剋上のこの時代に、せめて大国の一つ二つ持った、大名になりとなりたいというのさ。……ところで今度京へ行ってみて、耳よりの噂を耳にしたので、こいつをうまく塩梅したら、六波羅殿より莫大もない、恩賞を得られるに相違ないと、それで急いで帰って来たのさ。……ところがせっかく帰ってみると、お父上が気違いじゃと。……これじゃアどうにもクサるなあ",
"いいえそのお父様のご病気も、この頃ご本復なさいまして……",
"ナニ本復? 治ったのか! ……馬鹿め、早くそういえばよいに!",
"それも尊い山伏殿のご祈祷のおかげでございます",
"ナニ山伏の? 山伏のご祈祷?",
"九人の山伏殿が参られまして……",
"九人の山伏? フーム、九人の……",
"そのうちのお若い先達様が……",
"その山伏、その後どうした?",
"家にご逗留でございます",
"この家に泊まっているというのか",
"はい、それでわたくしどもは、毎日毎日心をこめて、ご接待いたしておりまする",
"そうか"
],
[
"神武天皇様のご東征にも、吉野上市の井光とか、磐排分の子などという土人の酋長が、お従いしたものでございまするし、壬申の乱のみぎりには、吉野を出られました大海人の皇子、天武の帝でございまするが、このお方にお附きして、武功をたてましたのが十津川郷民で、そのため帝がご即位あそばさるるや、諸税免許という有難い恩典に、浴しましたにございます",
"なるほど"
],
[
"それに十津川の郷民とくると、武勇絶倫ということでござるな",
"さようで"
],
[
"保元の乱におきましては、指矢三町、遠矢八町――などと呼ばれる騎射の名手が、南都興福寺の信実だの玄実だのの、荒法師ばらに召し具されまして、新院方にお味方し、比類ない武勇をあらわしましたそうで",
"いったいに郷民の性質が勤厚篤実に見うけられまするな"
],
[
"神武天皇様ご東征の際、熊野において八咫烏が道案内をいたしまして以来、熊野地方も宮方でござって、王事に尽くしたものでございまするが、現在の熊野の別当職、定遍僧都は遺憾ながら無二の武家方でございますれば、大塔宮様熊野におわすと知らば、よもや見遁がしはいたしますまい……",
"ははあ"
],
[
"熊野三山の別当定遍、そのように武家方でござるかな",
"無二の武家方にございます。……で大塔宮様におかれましても、そのような熊野においで遊ばすより、この十津川へお越し遊ばしたなら、私はじめ郷民こぞって、お味方仕りご起居も安泰に、万事とり計らうでございますものを、思うにまかせぬ儀にござりますよ"
],
[
"大塔宮様ご一行、まこと十津川へおしのびあらせられたら、兵衛殿には心をこめられ、真実お味方あそばさるるかな?",
"お味方いたさで何んとしましょう"
],
[
"光林房玄尊",
"赤松律師則祐",
"岡本三河房",
"武蔵房",
"村上彦四郎",
"片岡八郎",
"矢田彦七",
"平賀三郎",
"兵衛"
],
[
"大弥太様、立ち聞きされたな",
"誰だ? ……や、呉服殿か!",
"大弥太様、何んとなさるるお気じゃ?",
"何んとしようとわしの勝手じゃ! ……そういうそなたも立ち聞きされた筈じゃ!",
"立ち聞きしました、立ち聞きしました! ……聞けば何んとあの先達様は、おそれ多い大塔宮様!",
"わしもそれ聞いて身が顫えた! ……が、これこそ絶好の機会!",
"何んだとえ? さあその訳は?",
"云わぬ! 云うだけの義理もなし! ……えい放せ! 袖を放せ!",
"放さぬ、何んの放しますものか! ……心よこしまのお前様、おそらく何か慾心にかられて、……",
"何を囈言! えい放さぬか!",
"それにお前いつ帰られた?",
"たった今よ、今しがた帰って、蓬生に逢って話をきけば、九人の山伏が泊まっているとのこと……耳よりの話京で聞き、はてなと思ってここへ来て……",
"立ち聞きしたのでござんしょう。……いよいよ怪しいお前の振る舞い! ……心セカセカとつかわとして、これからそなたどこへ行くお気じゃ⁉",
"いつまでもクドクドとうるさいわい……そういうそなたこそ女の身で、このようなとこへやって来て……",
"わたしは若い先達様に……",
"ははあ読めた、懸想したな!",
"えい滅相な。……でもあのお方様は……",
"尊い尊いお方様よ! そなたなどの恋、何んの何んの……",
"恋どころか、今は必死! ……お尽くししたい心で一杯! ……その眼にどうにもお前の様子が……",
"いらぬ詮索、袖を放せ!",
"思うにそなた慾にかられて、熊野の別当定遍あたりへ……",
"密告すりゃア褒美も褒美、一国一城の主になれるわ!",
"やっぱりそれじゃア……",
"ナーニ違う!",
"見抜いたからは、やってなろうか! ……どなたか、どなたか、お出合いくだされ!",
"こやつめが!"
],
[
"姥よ、参った。寒くてたまらぬ",
"暖め合って行こうではないか"
],
[
"こんな時にも、そんな言葉か",
"フ、フ、フ、あたため合って行こうぞ",
"そのカサカサした枯れ木のような肌でか",
"贅沢云うな、女の肌じゃ",
"どこか起こして泊まろうではないか",
"泊まるもよいが先もいそがるるよ",
"や"
],
[
"姥見な、行き仆れじゃ",
"不愍やな、旅人らしい",
"うっちゃっても置かれまい",
"先が急がるる、捨てて行きな",
"その無慈悲、わしゃ嫌いじゃ"
],
[
"冷え切っていようの、うっちゃって行こう",
"うんにゃ、ヌクヌクじゃ、まだ暖かい",
"では死んではいないのか",
"気絶しているだけじゃ、そこで活じゃ。……エイ!"
],
[
"汝を助けた恩人よ",
"熊野三山の別当職、定遍僧都にお眼にかかろうと、夜をかけて行くわしら二人に、逢ったお前さんは幸福者さ"
],
[
"あの十津川と申します土地は、嶮岨ならびなき地ではあり、郷民と申せば勇猛の者ばかり、力攻めにいたしましたら、五万八万の衆徒をもってしましても、従えますこと困難にござります。………で、これはどうありましょうと、智謀をもっていたしませねば、大塔宮様を討ちとりますること、おぼつかないよう存ぜられまする",
"もうその云い条聞き飽いているわい"
],
[
"智謀智謀と偉そうに云うが、智謀が往来にころがってはいまいし、そうそう目付かるものではない。……それともそなたによい智謀があらば、ちゃっと披露するがよいわえ",
"あるともよ"
],
[
"利を喰らわせて裏切らせるのよ",
"古い手だの、何が智謀じゃ",
"古い手も新しく用うれば、新しい手になるものよ",
"その新しい手聞きたいものじゃ",
"立て札を辻々に立てるのよ",
"何立て札? なんの札じゃ!",
"大塔宮様討ったる者へは、莫大の恩賞与うるの立て札!",
"それで裏切り者出ようかの?"
],
[
"そなたさっきも云われた筈じゃ、十津川郷民は勇猛じゃと。……いやいや勇猛ばかりでなく、利にくらまされず節義を尚ぶと、久しい前から聞いてもいるに",
"何んの"
],
[
"おおよその郷民は仁に近い木訥、融通きかぬ手合いではござるが、中には利に敏い者もあって……",
"さようさ、ちょうどお前のように"
],
[
"範覚つつしめ、口がすぎるぞ。……大弥太気にかけるな、さてそれから",
"はい"
],
[
"その立て札を見ましたならば、八荘司はじめ郷民たちは、動揺いたすでござりましょう。そこへつけ込み私はじめ、姥殿にも範覚殿にも、手を分けて裏面から、誘惑の腕ふるいましたら、宮様の御首級掻こうとする者、幾人か出るでござりましょう",
"なるほどのう"
],
[
"悪くない手じゃ、やってみようか‥…立て札へ書く文面が、そうなると大切なことになる",
"御意で"
],
[
"出来るだけ読む人の心持ちを、まどわすような文面を……",
"ひとつとっくりと考えてみよう"
],
[
"誰かこいつを読んでくれ",
"お前読みな、遠慮はいらねえ",
"おれ読めぬ、鳥眼でな",
"朝見えない鳥眼なんて、おおよそ世間にあるものでねえ"
],
[
"宮様を討てとは何事だ",
"熊野の定遍の悪巧みだな!",
"こんなものに何んでまどわされるものか!",
"こんな立て札ひき抜いてしまえ!",
"待て待て"
],
[
"まてまて、とはいえ、悪くないのう、非職凡下というからには、失業している平民どもじゃ、それが宮様さえ討ちとったら、一庄の主になれるのじゃ! 六千貫貰えるのじゃ! ……乞食が大名になれるというものじゃ! ……悪くないのう、悪くないのう!",
"黙れ、こやつ、とんでもない奴だ!",
"頬げた張り曲げろ、叩き殺せ!"
],
[
"とんでもねえサムライだ、ぶち殺せ!",
"勿体ない奴だ、生かして帰すな!"
],
[
"考えなければならぬのう",
"はい。……何んでございまするか?"
],
[
"何んでございますかといったところで……いや、何んでございますかではないよ。……大塔宮様は我が家におられる。……で、我らどうとも出来る",
"はい。……さようにございます",
"お父上にはあのとおり、……戸野の小父様にもあのとおり、大変もない熱心さをもって、ご奉公申し上げてはいるけれど……",
"それに妹呉服ことも……",
"うむ、お仕えいたしているが……",
"…………",
"しかしだのう、しかしだのう……",
"…………",
"熊野の別当定遍殿が、こうも辛辣に敵対するからは……",
"…………",
"それにわが身の眼から見れば、宮方なんどまことに微力……",
"さようで"
],
[
"承久以来幾度となく、朝権恢復を試みましたが、いつもほとんどひとたまりもなく、武家方によって粉砕されました",
"今回とてもその通りじゃ",
"そのとおりにござります",
"で、わしは思うのじゃ、父上や戸野の小父などと一緒に、宮方にご奉公いたそうものなら、数代つづいた竹原の家が、武家方によって滅ぼされようもしれぬと",
"わたくしにもそれが案じられまする",
"大塔宮様はわが家におわす",
"致そうと思えばどのようなことでも",
"うむ",
"それに……ともかくも致しますれば……車の庄はわが手に入ります",
"六千貫も手にはいる"
],
[
"……大逆の身になるのだからのう",
"が、先刻の顔を包んだ武士が、思い切って出世をしようと思ったら、思い切った仕事をやらねばと……",
"云ったのう、きゃつ云った。……それにしてもきゃつ何者であろう?",
"見覚えあるように思いましたが……",
"おお、お前もそうだったか、わしも見覚えあるように思った。……それにあの男にああいわれたので、わしとしては心を迷わしたのだが……"
],
[
"追ったぞ追ったぞ、ずいぶん追ったぞ、でもよかった、追いついてよかった",
"大弥太!"
],
[
"いま貴様いったいどこにいるのじゃ⁉",
"熊野にいるのよ、定遍様の館に",
"ふうん"
],
[
"妹から――呉服から聞いたところ、貴様京の地へ長旅をし、帰って来たと思ったところ、その夜すぐに飛び出してしまい……",
"しかも"
],
[
"しかも行きしなに妹呉服の、咽喉を締めるという悪てんごうをして……",
"気絶させたということではないか!",
"云うな云うな過ぎ去った事だ"
],
[
"それというのも大塔宮様が、わが家においでと突き止めて、驚喜しての所業だからのう。……つまりわが身はその宮家を……と思うのに呉服にはあべこべに……そこで気絶させて飛び出したのだからのう。……ところで兄弟そちたちの心は、いったいどっちへ傾く気か?",
"どっちへとは何をよ、何んのことだ?"
],
[
"わが身はすでに定遍様の方へ、随身をしてしまったのだから、宮家に対する心持ちが、どうあろうか解っておろう。……うちあけて云えばあの立て札を、あんなように辻々に立てて、御首級いただこうと企らんだのも、わしから定遍様へ建議したからよ",
"悪い奴じゃ! 逆賊め!",
"アッハッハッ、そうかもしれぬが、国主にはなりたいからのう",
"六千貫も欲しいからのう"
],
[
"さて、ああいう立て札を立てて、吉野十八郷の者どもに、御首級掻きをそそのかし、裏手からわれらがそれを駆り立てる。……今朝からそいつで走り廻っていたら、ひょっこりお主ら二人を見かけた。……そこで追っかけて来たのだが……これ兄弟考えたがよいぞ。……やろうと思えば、お主らこそ絶好! ……宮家現在はお主たちの館に、御足とどめておられるのだからのう",
"そうともよ"
],
[
"俺はもう心を決めているのだが、兄者人が右顧左眄、家のことを思ったり、大逆になるのを恐れたりして……",
"お父上のお心を推し計るとのう"
],
[
"妹の心根を思いやってものう",
"では、最初から云い出さねばよいのじゃ"
],
[
"来る道々宮家に対し、討とうか討つまいか考えものじゃの、宮家方に附いては家が持たぬのと、云い出したのは兄者人じゃ",
"それもさ家のことを思えばこそじゃ",
"それそれ"
],
[
"俺はなお前達の先達だ。そうだ俺は裏切り者だ! お前達より先に裏切った者だ!",
"何を馬鹿な、が、汝は……",
"これよく聞け愚か者め! 日本は神国そのご皇統は、一筋にして神の界より出ている! ……この一事にさえ心づかば、進退あやまりなかろうに、汝らあやまろうといたしおる! ……宮家の御首級いただこうとな⁉ ……不忠、大逆、極重悪人め! ……われ裏切り者には相違ないが、そこまでの悪業はまだまだ! ……それ聞いては許すことならぬ! ……汝らが討とうとする御方は、私情から申してもわが身にとっては、かけがえのない御方じゃ! ……その御方のお口より、許すとの一言承わろうと、諸方を乞食して巡りおる者じゃ! ……汝等に討たれてたまろうや!"
],
[
"宣れ! 汝は、汝は何者だ!",
"日本は神国そのご皇統は、一筋にして神の界より出ている――この大真理を見誤って、宮方より武家方に裏切った者じゃ! ……そうして※(りっしんべん+繊のつくり)悔と浄罪との旅に、今は出ている憐れな乞食じゃ!"
],
[
"…………",
"…………"
],
[
"あなた様とご一緒になりましてから、あなた様にはまア幾人、人を手にかけ殺しましたことか",
"誰だ!"
],
[
"わしに物を云いかける女、いったいそちは何者だ!",
"あなた様の妻、妻の早瀬",
"昔はそういう女房もあった。……が、その女房は良人を裏切り、良人の大事を舅へ告げ、良人を裏切り者にした筈だ",
"ああまたそれを……それをあなた様には……",
"その女は蝮を良人に噛ませ、良人を不具者にした筈だ",
"存ぜぬことでござりました。……そうしてそのことはもうこれまでに、幾度お詫びを申しましたことか……",
"その女は良人の良心を、地獄の苛責に逢わせようと、良人の殺した女の嬰児の、泣き声を不断に聞かせる筈だ",
"この子ばかりは……可哀そうに……もうすっかりわたしになついて……どうぞお許しくださりませ",
"それでも妻か! 妻といえるか!",
"…………",
"あなた、ないしは頼春様などと、俺を親しそうに呼ぶ女は誰だ!",
"…………",
"漢権守の恐ろしい居城の、あの騒乱の際において、ゆくりなく互いに手を取った、それが縁となって二人は逢い、話し合ってみれば、話し合ってみれば……が、わしは云った筈だ、『漂浪人同士、乞食同士となら、ついて来い、一緒に行こう』と。……",
"漂浪人同士にござります。乞食同志にございます",
"そうだ、二人は他人同志だ",
"でも……ああ……いつになりましたら?",
"…………",
"良人じゃ妻じゃと……"
],
[
"わしの罪が許された時に……",
"…………",
"わしの心はのびやかになろう",
"…………",
"人を許す心にもなるだろう",
"その時妾の罪を許して……",
"うむ"
],
[
"おお隆貞か、よく参った",
"宮、ご壮健であらせられ、何よりの御事に存じ上げまする"
],
[
"土佐の国へ御流遷……尊澄法親王様におかせられましては、讃岐の国に御流遷……",
"承久の例そっくりじゃな!"
],
[
"御旗が我らをお守りくださる。……いや我らが御旗を捧げて、まつろわぬ者どもを折伏するのだ",
"靡かぬものとてはござりますまい",
"日本ばかりか異国さえも靡くよ"
],
[
"竹原入道の二人の息子、この頃の振る舞いちと審しく……",
"それじゃよ"
],
[
"入道の誠忠には疑がいないが、左源太、右源次の二人はのう",
"戸野兵衛の息子大弥太は、熊野定遍の部下となり、勿体なくも宮家のご身辺を……",
"うむ、過日も蓬生が参って、泣く泣くそのことを申しておった",
"彼らこそまことに親の心子知らず……",
"…………",
"表立って敵対う輩には、備うべき手段もござりまするが、内輪にあって逆意持つ者には……",
"備うべき策にも困ずるのう",
"所詮十津川も安泰の地にはおわさず",
"入道や兵衛には気の毒ではあるが、早晩この地も捨てずばなるまい",
"捨ててさて宮家には?",
"吉野へ行こう、要害の吉野へ",
"至極の御事と存じまする、……この頃しきりに吉水院のもとより、ご来駕促がしおりますれば……",
"吉水院は完全に宮方。が、執行の岩菊丸は、首鼡両端を持しておるとか……",
"宮家吉野へおいで遊ばし、吉水院に御力を添え、岩菊丸を御抑え遊ばすこそ、もっとも肝要かと存ぜられまする",
"いずれにいたしても十津川を去るべく、ひそかに用意いたすよう",
"かしこまりましてござります"
],
[
"兄の頼みじゃ、妹の身として……",
"いかな兄上のお頼みでも、勿体ない、だいそれた……"
],
[
"われらが事を行なわねば、大弥太が事を行なうまでじゃ! ……きゃつに功を奪われてはのう!",
"大弥太めが⁉ ……憎い憎い大弥太!",
"兄上は優柔不断! でもとうとう決心されて……玉置、芋ヶ瀬の荘司の方へ、……先刻内通に行かれた筈……",
"ええまア穢らわしい、聞けば聞くほど……あそこにもここにも不忠者ばかりが……",
"父上には昨日よりお留守……で、今夜あたりが絶好の機会……呉服たのむ、やってくれ!",
"ええもう聞く耳持ちませぬ! ……思っただけでも勿体ない……身の毛のよだつ大悪逆、それをわたしに勧めるとは! ……ひとでなし、何が兄妹! ……手助けはおろか改心なされずば、その旨すぐにも宮様にお告げし……",
"えい女郎、何を云うぞ、宮様に明かされてたまるものか! ……むずかしことを頼むのではない、ただお枕もとの御佩刀を、こっそり持ち出してくれさえすれば……宮家はご武勇でいらせられるからのう……得物をお手にされたひには……それで御佩刀をまず奪い……後はわれらが、われらがやる!",
"天魔に魅入られたと申そうか、その恐ろしいお心持ち! ……父上にお恥じなさりませ! ……宮様の御令旨かしこんで、近々伊勢へ打って出ようと、あのご老体で東奔西走、昨日もお留守今日もお出かけ、兵の催促やら、兵糧武器の仕入れやらに、懸命になっておいでなされます。……戸野の小父さまも同じお心で、父上と行動を一つにされ、父上ともども毎日の奔走! ……それを血気の兄上たちは、目前のわずかな利に迷い……",
"口賢しく小女郎が何を云うぞ!",
"いえいえ云います、云います云います! ……目前の利に心を眩ませ、順逆の道踏み迷い……",
"うるさい! 黙れ! 時刻が経つわい!",
"極悪といおうか大逆といおうか、この日本の人間として、行なうまじきを行なって……",
"まだ云うか! その頬げた!",
"ご先祖を恥ずかしめ家を穢し!",
"愚か者めが、何を云うぞ! その家を立てるため栄えさせようため、今度の企てたくらんだのじゃ!",
"やがては……すぐにも……兄者人の命も……",
"死なぬの、なかなか、それどころではない、車の庄の主として、長く栄えて冥加得る気じゃ!",
"あくまでご改心なされぬお気なら……",
"よく聞け、見ろ、今夜のありさまを! ……いつもは篝火諸所に焚き、宮様警護の家の子ども、槍薙刀をひっさげて、館の内外に充ちているのに、今夜に限ってこの寂しさ! 何故じゃ? 云おう、明かしてやろう! みんな俺のやったことよ! 彼らにしたたか酒くらわせ、遠侍や廊の詰め所に、夢こんこんと結ばせているのじゃ! ……さてそこでこの右源次様が、合図の太鼓をドンと打つ! と、玉置の荘司から、よこしてくれた荒くれどもが、伏せてあるところから一斉に立ち、館へこみ入りこみ入って! ……が、もしそいつが仕損なったら、戸野の大弥太が熊野定遍の……",
"恐ろしや、それほどまでに……すでに準備が……ではこうしては",
"やらぬ、女郎! 明かす気じゃな! ……もうこうなっては妹とは思わぬ! ……秘密を知られた汝は敵じゃ!",
"どなたか! 出合え……宮様一大事!",
"黙れ!",
"あッ"
],
[
"良人ながらも大弥太こと、天魔に心魅入られましたと見え、熊野の定遍の味方につき、家を明けましてござりまするが、父、兵衛のこの頃の不在を、早くも探り知りましてか、定遍の手の者荒くれ武士どもを、今夜大勢ひきつれ参り、家にて評定仕り、勿体なくも宮様を。……立ち聞きしましたわたしの驚き! こは一大事と存じまして、裏口よりかちはだしで、走り出でまして駈けつけ参り……",
"さようか"
],
[
"そちの誠心うれしく思うぞ",
"は、はい、ただもうその御言葉、わたくしこそ妾こそ……勿体ないやら嬉しいやら……それにいたしても良人大弥太……"
],
[
"左源太、右源次の逆意の証拠も、たった今しがた確かめた",
"…………"
],
[
"そのため不愍にも右源次は、不思議な盲人の杖で突かれ、命を奪われ槻の木の根もとに……",
"え⁉",
"まあ"
],
[
"大弥太も逆意をあからさまにし、この館へとり詰めるという。……いよいよ十津川を去る期となったぞ",
"御いたわしや、おそれ多や……"
],
[
"叔父様や舅様、せめておいででござりましたら……",
"いやいや"
],
[
"未練な! 呉服様! ……でも可哀そうに……",
"お姉様!"
],
[
"宮様が、宮様が、わたしを見すてて",
"いいえ宮様はあなたお一人だけの、御方様ではござりませぬ! この日本のみんなの御方様!",
"おおそうしてわたしには"
],
[
"これはうっちゃってはおかれない",
"野長瀬様のお館へ行って、この旨をお知らせしなければならない"
],
[
"彼ら七人は何者だろう?",
"人間ばなれしていたようだが",
"明日起こる事件を今日知るには、とうてい人間業ではない",
"熊野権現のお使いかな",
"狐狸のまどわしではあるまいか?",
"それにしては七人ながら立派だった",
"どこへ行ったかな、もう見えないが",
"いや向こうの辻にいるそうだ",
"野長瀬様のお館へ参って、殿様のご意見を聞こうではないか"
],
[
"これは只事ではござりませぬな",
"そうだな"
],
[
"その七人の男女という奴が、妖怪でもなく変化でもなく、また世間を騒がして、ドサクサまぎれに盗みしようなどと、姦策を巡らす悪漢でもなく、何らかの理由でそういうことを知り、それを我らの耳に入れ、大塔宮様のご遭難を、我らの手によって避けさせたいと、そう望んでいるというのなら、これはうっちゃってはおかれないな",
"何んとか手段を講じませいでは……",
"そうとも"
],
[
"宮家が十津川へおいでになり、戸野兵衛や竹原入道が、お味方となってご守護いたしおる旨、ひとづてによって聞いた時から、わしは竹原入道のもとへお味方の使者でも遣わそうかと、心構えをしたほどじゃ",
"槇野城の上野房聖賢のもとへは、たしか兄上には使者をつかわされ、宮家へお味方いたす所存と申しやりました筈にござりますな",
"さよう、彼の房とは懇意ではあり、彼の房も宮方の一人じゃからの"
],
[
"熊野の定遍から密使が参り、大塔宮様を討ってとるようにと、兄上へご慫慂なされました時、兄上におかれましては一も二もなく、お断わりなされましてござりますな",
"わしは定遍が嫌いだし、それに仮りにも宮様をのう。……で、わしは産まれてはじめて、あの時本当に腹を立てたよ",
"その宮様が明日小原で、大難にお遭いあそばすという、傍観いたすこと出来ますまいが",
"真実なれば傍観は出来ぬ。……が、竹原入道や、戸野兵衛などが心をこめて、お守りしている宮様じゃ、それが突然十津川を立たれ、小原で大難にお遭いあそばす、しかもそのことが前の日にわかる。……これが合点ゆかぬでのう",
"わたくしにも合点参りませぬ",
"これさえ合点参ればのう",
"けっきょく七人の男女の者が、何者であるかさえわかりましたら……",
"そうじゃそうじゃそれさえわかったら、行動を起こすことが出来るのじゃが、今のままではちとどうも。……軽々しく動くのは危険じゃからのう"
],
[
"大塔宮様明日小原にて大難に遭われまする趣きを、郷民ども耳に入れまして、いかが致せばよかろうか、お館様のご意見ききたしと、二百人三百人続々と、詰めかけましてござります",
"ふうん"
],
[
"二百人三百人、そうも来たというか",
"後続々と幾何ともなく、詰めかけ参る様子にござります",
"ふうん"
],
[
"七郎これは啓示らしいぞ",
"啓示? 兄上、啓示とは?",
"例の七人の男女の触れ言、悪戯でもなく姦策でもなく、人をもって云わしめる天啓らしいぞ! ……でなかろうものなら郷民の心を、そうも刺戟し一致させはしない",
"いかさま、兄上、これはごもっともで",
"大門をひらけ!"
],
[
"桂子様は桂子様、浮藻様は浮藻様、小次郎様は小次郎様と、バラバラに離れておいでなさるのね",
"こまったことでございますのね",
"こればかりはどうも他人の口からはねえ",
"いっそ別れておしまいになったら……",
"それが思い切って出来るようならねえ",
"三人めいめい苦しみながら、一緒に住んでおいでなさるなんて、これこそ本当に生き地獄ね",
"恐ろしいことでも起こらなければよいが"
],
[
"山伏のお姿でござりまして、お供は八人にござります",
"八人?"
],
[
"お供は九人の筈だがねえ",
"村上彦四郎義光殿の姿が、見えませんでござります",
"足でも痛めて遅れたのかしら? ……で、ご一行はどうあそばされたえ?",
"芋ヶ瀬荘司の館をさし、すぐにおかかりでござりました",
"館へお入りなされたのだね",
"はい、さようでございます",
"荘司はお迎えしたろうね",
"いえ家人を附けまして、附近の堂へご案内申し、そこへお置きにござります",
"そう……さては……芋ヶ瀬の荘司め……やっぱりわたしの察したとおり……",
"わたくしこれだけ見とどけましたので、とりあえずお知らせいたそうものと、馳せ帰りましてござります"
],
[
"二つながらお許しない際には、勿体なけれどお供の方々に、矢少々、矢少々……",
"うむ、手向かうと申すのか",
"余儀ない次第にござりまする"
],
[
"とかくの返辞いたすまで、しばらく堂外にてお待ちくだされ",
"は"
],
[
"危きを見て命を致す! 臣の道にござりまする。紀信は詐わって敵に降り、魏豹はとどまって城を守りました、いずれも主公の命に代わり、名を後世に残しましたもの。……とてもかくても芋ヶ瀬の荘司が心に、和解の情涌きまして、この地を通すことでござりますならば、私彼の手に渡り……",
"いやいや"
],
[
"その儀無用かと存ぜられまする。……と申しまするは我ら九人は、この日頃宮家に扈従し参らせ影の形に添うごとく、艱難辛苦仕りました。……されば、宮家におかせられましても、股肱耳目ともおぼしめされ、お頼みあそばさるることと存ぜられまする。……その一人が欠けますることいかばかり残念至極! ……しかるに錦の御旗は、大権の所在を示すところの、唯一無二の神聖なる標識! で、これとても朝敵同様の、芋ヶ瀬の荘司ごときにお渡しあそばさるること、しかるべからずとは存じまするが、しかし古来より合戦の場合、旗指物を戦場に遺棄し、敵の手にこれを奪われました例、決して少なからずござりまする。……で、この点宮家には、とくとご勘考あそばされまして……",
"いかにも"
],
[
"のみならず錦の御旗は、敵に奪われたと申すではこれなく、方便としてただ一時、彼らにお下げ渡し遊ばさるるまで。……しかもこれとても考えようによれば、彼らに朝家のご威徳を、光被させましたことにもなりましょうか",
"うむ"
],
[
"失礼ながら貴所方は、この郷の方々にござりまするかな?",
"芋ヶ瀬の荘司殿身内の者よ。……ここにおられるが荘司殿じゃ"
],
[
"そうじゃ、山伏、そのとおりじゃ、これこそ錦の御旗なのじゃ。……そちなど生涯見ようと望んでも、容易に見られぬ尊い御旗じゃ。……遠慮はいらぬ、近寄ってよう見い",
"ははあ"
],
[
"その尊い錦の御旗を、荘司殿にはいかがいたして?",
"大塔宮様よりいただいたのじゃ",
"ナニ大塔宮様より?",
"宮様この地をお通りになられた。通してはわれら関東に対して済まぬ。そこで御旗を頂戴し、一合戦仕ったと……",
"勿体なや! 無礼者!"
],
[
"宮様御内人の何者かに、たしかに右源次は殺されたのだからのう",
"云ってくれるな"
],
[
"わしが父や入道殿に、宮家ご一行は養われていたのじゃ。……それだのに右源次を殺して去んだとは",
"そうともよ"
],
[
"恩を仇じゃ! 恩を仇じゃ!",
"どうでも討たずばなるまいがな",
"討つともよ、どうでも討つ!",
"車の庄も手に入るしな",
"六千貫も手に入るわ!"
],
[
"よもや宮家へご加担などとは……",
"云わぬよ"
],
[
"宮家を討つは以前よりの存念、昔よりわしは武家方じゃとな",
"そうであろうとも、そうなくてはならぬ。……では明日宮家が小原をさして行かれ、玉置をお通りになろうものなら、荘司殿には弓矢をもって……",
"弓矢をもってお敵対するとも",
"が、それには及ばぬのう",
"…………",
"われらが今夜やるのじゃからな",
"…………",
"われらがやらずば玉置殿がやる。……どっちみち宮家はご運の尽きよ",
"…………",
"玉置殿に功名されては、車の庄と六千貫とが、われらからフイになってしまう。……そちにしては弟の敵が討てぬ",
"だがのう"
],
[
"恐ろしいことも恐ろしいぞ",
"また弱気か、臆病な奴め!",
"大逆の心起こしたばかりに、弟は、弟は、非業に死んだ",
"だからよ、敵を討てというのじゃ",
"あべこべにわれら討たれようも知れぬ",
"火をかけるのよ、な、小屋へ! ……宮家をはじめとして十人の者、周章狼狽して出て来ようわ。……そこを討つのじゃ、きっと討てる!",
"怨む! わしは、お前を怨む! 十津川の辻で、立て札の前で、お前があんなことさえ云わなかったら、わしは心など迷わさなかったものを! ……父上に反き妹に反き、天人共に許さぬ所業を! ……恐ろしくなったぞ、俺は恐ろしい! ……殺されるぞよ、われらこそ殺される!",
"臆病者め! 何が殺される! ……宮様討ち取り三日のうちに、六千貫の黄金を手に入れ、車の庄の主となり……栄耀栄華! アッハッハッ"
],
[
"また人二人をあなた様には、お殺しなされましてござりますねえ",
"…………",
"でも今殺された二人の男は、殺されてもよい者どもでした",
"…………",
"それにしてもあなた様の殺生さは。……わたしは悲しゅうござります"
],
[
"嬉しいぞ早瀬、嬉しいぞ!",
"あなた!"
],
[
"その時こそは妾の罪をも――あなた様を裏切りいたしました、わたしの罪をもあなた様には……",
"おお許すとも、許さで置こうか!",
"では明日からは昔ながらの……",
"また夫婦じゃ! 愛し合う夫婦じゃ!",
"それでこそ早瀬は救われまする! ……救いの神様へ、宮様御許へ!",
"大塔宮様御許へ!",
"樵夫小屋はあなたでござりまする! ……今は死んでいる二人の者が、向こうから参りましてござりまする",
"案内頼むぞ!"
],
[
"何者! ……汝! ……チ、チ、チッ……左の片足、膝から寸断! ……切ったわ! 砕いたわ! ぶち折ったわ! ……おおおおおお、血が流れ出る! ……快よや悪血が流れる! ……比叡の裏山で片腕斬られた、あの時さながらのこの快感! ……あッ、あッ、あッ、この快感……おお、さりながら遠くなる心よ! ……月が見えぬ! ……早瀬そちも! ……",
"頼春様ア――ッ、お心たしかに!"
],
[
"芋ヶ瀬の荘司は実のところ、まだ人情味があるのだよ。……それが玉置の荘司となると、非人情で強慾で惨忍だからね",
"しかし野長瀬六郎兄弟が、兵を率いて宮様お迎いに、途中まで出張ることと存じまするが"
],
[
"兵を集めるに暇をとったか、寄せて来る道に故障があったか、その加減でござりましょう",
"そうだねえ、そうかもしれない"
],
[
"女をたらす性の悪い若僧を、ぶった斬ること出来ませぬので、代わりといたしまして、殺人鬼めの足をぶった斬りましてござりますよ",
"何をお云いだ、殺伐至極な!"
],
[
"事情をお話し、さあ詳しく!",
"林から出かけて行きましたので。……と藁鳰がございました。……男女の乞食がおりましたので……とそこへ二人の武士が、腰を下ろして話し出しました。……すると突然男の乞食が――その乞食はどうやら片腕のない、盲人のようでございましたが、持っていた杖を突き出したんで。……それも二度でございました。……するとどうでしょう、二人の武士は死んでしまったじゃございませんか! ……凄い凄い殺人鬼! ……わたくし思わずカッとなりまして、鉞を投げつけましてござりまする……どうやら足をぶった斬りましたようで。……頭へ白い布をかけ、嬰児を抱いている女の方の乞食が、気絶したらしい男乞食の体を、ズルズル引っ張って行きましたっけ。……で、わたくしは鉞をひろって帰って参りましたのでござりますが、久しぶりに鉞に血を吸わせ、よい気持ちにござります"
],
[
"が、わたくしといたしましては、そんなものよりそこにいる男を……",
"右衛門や"
],
[
"年を取っても、艱難を経ても、お前の短気と一本気とは、すこしも治らないと見えるねえ",
"性でございます、私の性で",
"小次郎をご覧、浮藻をご覧、年を取ったり艱難を経たら――漢権守の城などで、あんな恐ろしい目に逢わされたら、ああも性質が変わったではないか",
"よい変わりようではございません",
"遠慮深くなり控え目になり、他人の心持ちを推量して、決して我など張ろうとしない、人間らしい人間になったよ",
"無邪気で、あけっぱなしでよく笑った、陽気な性質が陰気になり、いつも何かを不安がっておられる、そういう性質になられました",
"人間らしい人間になったのさ",
"それが人間らしい人間なら、人間らしい人間というもの、厭アな物でございますなア"
],
[
"お姫様、あなたも変わられました",
"そうかねえ、どう変わったかしら?",
"人間らしい人間になりました、女らしい女になりました",
"…………",
"以前のお姫様ときたひには、男やら女やら、人間やら魔物やら、悪魔やら神様やらわけわからずにおりながら、大きな強い神聖な、不思議なお力で、わたしたちを心服させておられました。それだのにこの頃のお姫様ときては、煩悩の塊り、嫉妬猜疑の坩堝! そのようなものに成り下がられ、わたしたちを不安と焦燥とに……のう袈裟太郎、そうではないか?",
"さあ"
],
[
"お前の持ち芸を出しておくれ",
"はい"
],
[
"宮様ご一行竹原館を出られ、吉野へご潜行あそばされましたと、昨日呉服様より承まわりました",
"その呉服様仰せられますには、吉野へまでの道々には、宮家に異心抱く者あって、宮様のご安危心もとなし……",
"ついてはそちたち後お慕いし、ご安泰の地までお供せよと……",
"で、参りましてござります",
"おお呉服が? そうであったか"
],
[
"承わりますれば玉置の荘司は、芋ヶ瀬の荘司よりもひときわすぐれた、武家に加担の荒くれ武士とか、さすれば昨日宮家じきじきに、芋ヶ瀬の荘司がもとへお入りあらせましたように、玉置がもとへお入りありましては、危険至極かと存ぜられまする。……つきましてはわたくし一人して参り、宮家ご一行をお通しあるや否や、荘司に逢ってあらかじめ尋ね……",
"それよろしい"
],
[
"が、八郎殿一人では、ちと心もとのう存ずるよ",
"ではわたくしもご同行"
],
[
"同行するでござりましょう",
"…………"
],
[
"これ山伏、どこへ通る",
"いや"
],
[
"それ来たぞ",
"お知らせしろ",
"いっそここで……",
"いや待て待て"
],
[
"これはいけないな",
"ちと不穏だ"
],
[
"わしは芋ヶ瀬の荘司とは違う。わしはあんな意気地なしではない。どうあろうと宮家は討って取るよ",
"それでこそ武家方でございます"
],
[
"宮様御首級さえあげましたら、車の庄と六千貫とは、あなた様のものでござりまする。これまでのご知行と合わせましたら、たいへんもない高になりまする",
"そうともそうとも"
],
[
"が、わしとしてはご恩賞よりも、昔から武家方の武士としての、つくすべきことをつくしたいのでな",
"そうなくてはなりませぬ。……北条家代々のご仁政によって、この日本の武士という武士は、安泰にくらすこと出来ました筈で。……ご恩は海山でござりまする",
"いざ事あらば鎌倉へとな、われら日頃から思っていたのじゃ。……範覚殿もそうであろうな",
"さようで"
],
[
"いやいやどの道へ廻ろうと、われらが手の者要所要所にいて、警戒おこたりないにより、討ちもらすことはめったにないて",
"戸野の大弥太殿が竹原館で、惜しいところを討ちもらし、芋ヶ瀬の荘司殿が心弱く、お通しをしてしまった以上、ここで玉置殿が討ちとらずば、宮家は吉野へ入らせられましょう"
],
[
"大塔宮様ご使者と申して、片岡八郎と矢田彦七とが……",
"おお参ったか!"
],
[
"仰せに従い両人の者を、玄関までつれましてござります",
"よし"
],
[
"変だな?",
"あぶない!",
"いかがいたそう?"
],
[
"宮様仰せられたお言葉がある。……荘司に不穏の挙動があったら、卑怯もない引っ返せと! ……荘司の挙動まさに不穏だ",
"行こう!"
],
[
"どこへ?",
"退け!"
],
[
"…………",
"…………"
],
[
"!",
"!"
],
[
"彦七! そなたは、遁がれて宮家へ!",
"浅傷だ! 八郎、気を落とすな! ……死なばもろとも、何んで一人で!"
],
[
"行け、彦七! 宮様御大事! ……お落とし申せ、行け行け行け!",
"今日まで生死を共にして来た二人だ! ……死なばもろとも! 生くるももろとも! ……肩にかかれ、生くるももろとも!",
"一人で防ぐ! 防いで死ぬ! ……事情宮家にお知らせせずば、みすみす宮家は、雑兵ばらに! ……行け遁がれてくれ、落ちてくれ! ……行かぬか、怨むぞ、汝、彦七イ――ッ",
"…………"
],
[
"矢田彦七、汝は汝は、八郎を犬死にさせる気な! ……二人もろともここで死なば、みすみす宮家は! ……この理わからぬか!",
"八郎オ――ッ"
],
[
"おさらば! ……行くぞ! ……見すてて行くぞオ――ッ",
"それでこそ朋友! ……礼を云うぞ彦七イ――ッ"
],
[
"大塔宮様二人のご家来、片岡八郎殿と矢田彦七殿とが、玉置の荘司の館へ参り、宮様ご通過を申し入れましたところ、荘司無礼にも返辞なく、不穏の挙動ありましたので、お二人のご家来には引き返されましたが、それを追いまして玉置の家来ども、五、六十人馳せ参り、むこうの野原にて矢襖をつくり……のみならずこの様子にて察しますれば、荘司めは別に大兵を出して、宮様を討とうといたすものらしく……",
"一大事!"
],
[
"矢田よ! ……彦七よ! ……いかがいたしたア――ッ",
"彦四郎オ――ッ"
],
[
"矢田が帰った!",
"彦七どうした⁉",
"片岡は?",
"八郎は?",
"彦七へ水を!"
],
[
"何者?",
"奇怪!",
"女の声だったぞ!"
],
[
"ああ云ってわれわれをあらぬ方へ向かわせ、そこで討ち取る所存らしいぞ!",
"狩り出だせ!",
"討って取れ!"
],
[
"アッハッハッ",
"ワッハッハッ"
],
[
"アッハッハッ",
"ワッハッハッ"
],
[
"ワッハッハッ",
"アッハッハッ"
],
[
"ワッハッハッ",
"アッハッハッ"
],
[
"変だな?",
"何者だろう?",
"樵夫か百姓か?",
"狩り出せ!"
],
[
"仰せごもっとも、何条われら……",
"きたなき振る舞いいたしましょう",
"宮様御前に命をおとし……",
"日本の武士の亀鑑となれや!"
],
[
"背後にも敵いでたるぞ!",
"玉置の荘司め計りおったわ!"
],
[
"では宮様ご一行は、野長瀬兄弟がお供をして、槇野聖賢の槇野城へ、一旦お入りあそばしたのだね",
"はいさようにござります、玉置の軍を追い散らしました後、野長瀬兄弟にご守護され、槇野城に入りましてござります",
"野長瀬兄弟はもう昨日から、そこの陣地にいたとか云ったね",
"はいさようにござります。……そこへ私事行き合わせましたので、間もなく宮様ご一行が、おさしかかりあそばすと申し上げ、お待ち受けいたしておりましたところへ、はたしておいで遊ばしましたので……",
"どっちみちこれからも大塔宮様には、艱難ご辛苦あそばさるるものの、当座の大難をお遁がれあそばして、こんな嬉しいことはないよ"
],
[
"小次郎様をご覧になるのが、お姫様には苦痛になられ、それであのようにかけ離れて、一人で住んでおいでになるのね",
"浮藻様を見るのが辛いので、それで離れてお住居になるのさ"
],
[
"どこの山の奥へなりと、どこの海の果てへなりと、二人で参ってくらしましょうよ",
"…………"
],
[
"いつぞや河内の林の中で、桂子様からわたしたち二人は、どこへなりと行ってくらすがよいと追いやられた身の上でござります。……漢権守の居城の事件から、このような境遇とはなりましたが……今こそ出かけて行くべき時……",
"おおそれでは小次郎様、わたしと一緒にここを出て他国へ!"
],
[
"それでこそ妾は救われまする! ……どのような苦労がありましょうとも、このようなありさまでこのような所に、苦しみながら住んでいるより……",
"忘恩の徒と桂子様には、わたくしたちの立ち去った後、お怒りになるかは知れませぬが、それもこれも一時でござって、わたくしどもの姿が消えましたならば、かえって桂子様に致しましても、心朗らかになりましょうよ",
"わたくしどもにいたしましても、二人ばかりでいつまでも一緒に、水いらずにすむこと出来ましたら、知らぬ他国での辛苦のくらしも、何んの恐ろしく何の悲しく……"
],
[
"や、わりゃア右衛門か!",
"汝が汝が浮藻様を!",
"授かったのだ! 貰って行く!",
"黙れ!"
],
[
"右衛門、おさらば、いずれ逢おう!",
"待て!"
],
[
"ああとうとうこのお館も無住の古御所になってしまうのね",
"そう、わたしたちが行ってしまえばねえ",
"小次郎様はどうなされたことやら?",
"あの晩まるで狂人のように、魔の高殿から駈け下りられ、『戦場へ! 戦場へ! そこで働いて討ち死にする』と叫び、館から馳け出して行かれたがねえ……",
"それよりその後から桂子様が、顔にお袖をおあてになり、別人のような様子になられ、やはりお館から出て行かれたが、そのお姿が眼に残っていてならぬ"
],
[
"袈裟太郎様お出かけか",
"この早い足で日本国中を巡り、桂子様や浮藻様の行衛を、わしはお探しするつもりさ",
"さようなら袈裟太郎様",
"さようならお前たち"
],
[
"おお彦四郎! 生前に逢えたか!",
"宮!"
],
[
"おお父上、その姿は⁉",
"よろこべ義隆、人臣の誉れ! 大塔宮様御身代わりとなって、本日只今討ち死にいたすわ!",
"御討ち死に⁉ 宮様に代わり⁉"
],
[
"この義隆もしからば御供!",
"ならぬ!"
],
[
"宮様高野へお落ちあそばされたわ! ……遮る逆賊あろうもしれぬ! ……汝参って防ぎ矢仕れ! ……それこそ忠! ……それこそ孝! 今はこれまで! 今生の別れ!",
"父上!"
],
[
"誰じゃ⁉ ……さては、武家方の……",
"大塔宮様にお目にかかり、許すとのお言葉承まわりたさに、この年月諸所方々を、お後慕うておりまするもの……",
"…………",
"今日の合戦に大塔宮様、ご生害とのお噂なれど、何んの何んのそのようなこと! ……このわたくしの一念でなりと、何んの何んのそのようなこと!"
],
[
"乞食よ、安心せ、大塔宮様は、村上義光殿お身代わりになり、御自身にはこの道より、高野へお落ち遊ばされたわ。……そちの足もとに死骸となって、横仆わっている若武者こそ、義光殿のご子息義隆殿じゃ!",
"宮家高野へ⁉ 宮家高野へ⁉"
],
[
"や、ここに死骸があるわ!",
"腹切っているわ!",
"首がないわ!",
"物の具を剥げ!",
"太刀を取れ!"
],
[
"こやつ!",
"何者!",
"斬れ!",
"討ちとれ!"
],
[
"宮方じゃな!",
"遁がすな漏らすな!"
],
[
"範覚さん疲労れたの?",
"アッハハハ、どういたしまして、この範覚という人間は、つかれを知らない人間でしてな、まして旅などにはつかれませぬよ",
"わたしも疲労れを知らない女よ",
"ずいぶんお健康でございますなあ。はじめはそうとも思いませんでしたが――はじめはナ――こ、こんな娘っ子、体も心もすぐに疲労れて、クタクタになるものと思っていたのでしたが、どういたしまして反対で、お精神もお肉体も健康なものです。範覚ことごとく参ってしまいましたよ",
"わたしはそれとは反対でしたわ、はじめはわたし範覚さんて人、精神も肉体もとても強く、悪人だと思ったのでしたが、つきあって見るとそうではなくて、善良で弱くて親切な人ね",
"へい"
],
[
"では野宿しましょうよ",
"野宿? へえ、恐かアありませんか",
"範覚さんとご一緒ならねえ",
"へい"
],
[
"おや、あんなところに燈火が……",
"変ですねえ……行って見ましょう"
],
[
"道に迷うようなこういう山路には、こういう宿があるものと見える",
"早速お宿を願いましょうよ"
],
[
"世間って親切なものですわねえ",
"へい、親切でございますとも"
],
[
"ありゃア刃物を磨ぐ音だ",
"範覚さん"
],
[
"出かけましょうよ。行きましょうよ",
"ナーニ"
],
[
"どうだア――ッ",
"ヒ――ッ"
],
[
"浮藻殿オ――ッ",
"コ、小次郎様ア――ッ"
],
[
"われらが宿願成就にあたり、最大の障害を与うるもの、前征夷大将軍大塔宮様じゃ。……時行などの手にお渡りあっては、後難計るべからざるものがある。……まことにおいたわしい限りではあるが……",
"…………"
],
[
"そち二階堂ヶ谷に引っ返し……",
"…………",
"宮家の御首級……",
"それは余りに",
"行け! 主命じゃ! 躊躇は許さぬ!",
"…………"
],
[
"勿体なや……何者が⁈",
"左馬頭の家臣渕部義博が",
"堕地獄の輩! やがて天罰が!",
"長老様! ……ご供養を!",
"…………"
],
[
"姓名は? 身分は?",
"昔は由緒ありましたもの、今は非人にござりまする。……裏切り者にござりまする",
"裏切り者? 裏切り者というか?",
"※(りっしんべん+繊のつくり)悔の罪人でござりまする! 浄罪の巡礼にござりまする",
"…………",
"殺人の鬼にござりまする",
"…………",
"裏切りをし、※(りっしんべん+繊のつくり)悔をし、浄罪の旅に出でながら、人を殺し、自身も斬られ、後悔し、※(りっしんべん+繊のつくり)悔をし、しかもその後も人を殺し、月日を経ましたものにござりまする",
"…………",
"大塔宮様にお目にかかり、許すとの御言葉承まわり、真人間となる願望だけを唯一の目標といたしまして、いまに生存えおりまする生ける死骸にござりまする",
"…………"
],
[
"深い理由のある身の上と察し、あからさまに事情知らせて進ぜる。……大塔宮様におかせられては、逆臣左馬頭直義の家来、渕部義博の毒刃にかかられ、勿体なくも只今ご最期……ここに捧げたはその御首級!",
"…………"
],
[
"何を、ばかな、そのようなことが! ……土岐頼春の執念だけでも、宮家ご薨去などあられようや!",
"いいえ……"
],
[
"宮様おかくれにござりまする! ……御首級が御首級が!",
"誠か!"
],
[
"御首級が? 宮家の御首級が?",
"坊様持たれましてござりまする!",
"ハ――ッ"
],
[
"お喜びなされ頼春殿とやら、宮様まさしくそなたの罪を、今こそお許しなされましたぞ! ……怒りの眼を見ひらかれ、猛々しくおわした宮様の御顔が、ご覧なされ、御眼を閉じられ、一切の罪も悪業も、許すぞとばかりの慈悲円満の、ご相好になられました!",
"おおいかさまお言葉どおりじゃ"
],
[
"裏切り者の極重罪悪、許されて頼春、真人間になったぞ!",
"あなた!"
],
[
"それではあなた様には妾の罪をも!",
"許すぞ早瀬! 許さで置こうか!",
"おおそれでは今日からは……",
"妻じゃ! 良人じゃ! 愛し合う夫婦じゃ!",
"救われました! おおおお妾こそ!"
]
] | 底本:「あさひの鎧(上)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年9月20日第1刷発行
「あさひの鎧(下)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年9月20日第1刷発行
初出:「時事新報」
1934(昭和9)年8月25日~1935(昭和10)年3月16日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「痴」と「癡」、「揺」と「搖」、「※[#「火+稻のつくり」、第4水準2-79-88]」と「焔」、「遥」と「遙」、「稚子」と「稚児」、「淵部」と「渕部」の混在は、底本通りです。
入力:阿和泉拓
校正:酒井裕二
2018年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045546",
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"作品名読み": "あさひのよろい",
"ソート用読み": "あさひのよろい",
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"初出": "「時事新報」1934(昭和9)年8月25日~1935(昭和10)年3月16日",
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} |
[
[
"これ迄喫ったことはないのですか?",
"鴉片を喫うのは今日がはじめてです",
"なるほどそれでは煉れないはずだ。……がそれなら鴉片なんか喫わない方がいいのですがね",
"こんな大戦争を起こす程にも、みんな喫いたがる鴉片なのですから、私も喫いたいと思いましてね",
"そう、誰もがそう云ったような、誘惑を感じて喫いはじめ、喫ってその味を知ったが最後、みすみす廃人となるのを承知で、死ぬまで喫うのが鴉片ですよ。……全く御国の人達と来ては、鴉片中毒患者ばかりです",
"御国の人? 御国の人ですって? ……では貴郎は外人なのですか?"
],
[
"グレーという英国人をご存じですか?",
"司令官ゴフの甥にあたる、参謀長のグレーのことなら、戦争以来耳にしています",
"大変もない怪物でしてね、あの男一人を殺しさえしたら、こう迄も清国は負けないのですよ。大胆で勇敢で智謀があって、まだ壮年で好色淫蕩で、女惚れさえするのです。でもエリオットとは仲が悪いのです"
],
[
"参謀長グレー閣下",
"ご一緒のご婦人は奥様ですか?",
"奥様ではない、愛人だよ"
],
[
"妾、グレーとエリオットとの二人へ、女装をしたり男装をしたりして、自由に体を任かせたのも、紅幇の頭から命ぜられたのではなく、自分から進んでやったのよ。そうやって二人をだいなしにして、殺してやろうと思ったからだわ。でもとうとうエリオットの方は、妾から鴉片を進めたのに乗って、鴉片を喫い出したので頭を悪くし、昔のあいつじゃアなくなったし、グレーの方はあんな具合に、貴郎に殺して貰ったし、妾の目的は遂げられたってものよ。……これじゃアなかなか鎮江は、英軍の手には落ちないわね。……二人の大将が駄目になったんですもの",
"それにしてもどうしてグレーって男が、あんな所へやって来たんだい?",
"妾からやっぱり、呼んだからよ。例の厠の紙を使って。好奇にあいつやって来たのさ。毛唐って奴、好色だからねえ……ところが現われた女ってのが、自分だけの情婦だと自惚れていた、妾だったので嫉妬して、私の咽喉を締めたんだわ",
"じゃア僕を招んだのは、グレーの奴を殺させるため、……ただ、それだけのためだったんだね",
"それもあったわ、でももう一つ、妾あんたが好きだったからよ"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「オール読物」
1931(昭和6)年12月
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043766",
"作品名": "鴉片を喫む美少年",
"作品名読み": "あへんをのむびしょうねん",
"ソート用読み": "あへんをのむひしようねん",
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"生年月日": "1887-10-10",
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[
[
"貴様の名は何んと云う?",
"増田四郎と申します"
],
[
"俺かな。俺は大浮かれさ。素晴らしい美童を捉まえての",
"フフン"
],
[
"女気が無いと寂しくて不可",
"よしよし夫れじゃ出してやろう"
],
[
"さあさあ酒を注いでくれ",
"はい"
],
[
"それはね、人の胸の中に",
"マリアお姫さん。斯ういう名ね?",
"ええ、そうよ。そういう名よ。〈神の子エス・キリストの母〉斯う云ってもよいのですよ",
"大変長い名なんですね",
"愛。――斯う云ってもよいのですよ。〈人々よ互に愛し合えよ〉妾は日本の人達に斯ういう教えを説いているのですからね",
"そのお爺さんは何う云う人?",
"森宗意軒て云う人です。大変偉い人なのです。そうして妾達親子の者――エス・キリストとマリアとを大変信仰しているのですよ",
"その人、魔法を使うんですね",
"あれは切支丹伴天連の法よ",
"ああいう事行って見たいなあ",
"ええええ貴郎にも出来ますとも。もっと不思議なことが出来ますよ。貴郎の美しさは神のようです。その貴郎の美しさは選ばれた人の美しさです。妾はどんなに貴郎のような美しい人を待っていたでしょう。妾は貴郎の美貌を使って妾達の持っている宗教を世間に拡めなければなりません"
],
[
"尊い尊い天の童児様! 尊い尊い天の童児様!",
"見ろ、私は義軍を起こし、キリストとマリアとを守るであろう!"
],
[
"四郎め、すっかり天童気取りで、悠々寛々と構えているので、城中の兵ども安心して、かく防戦するでは無いか。迷信の力ほど恐ろしいものは無い",
"三月何うかと案じていたのに、一年の余も持ち堪えているとは、農民兵とて馬鹿にならぬ。天童降来して宗徒を護ると斯う信じ切って居ればこそ、望みの無い戦にも勇気を落とさず健気に防戦するであろうぞ",
"それも皆四郎のおかげじゃ",
"いやいやお前の才覚のためじゃ。あの白痴の四郎めをお前の手品で誑かし、天帝の子と思い込ませたのが、今日の成功をもたらせたのじゃよ"
],
[
"老後の思い出天下を相手に斯ういう芝居が打てたかと思うと、全く悪い気持はしないの",
"お互、小西の残党なのだが、憎い徳川を向うに廻わし是だけ苦しめたら本望じゃ",
"江戸で家光め地団太踏んでいようぞ",
"長生きするとよいものじゃ。いろいろのことが見られるからの",
"が、此度が打ち止めであろうぞ。後詰めする味方があるではなし",
"豊臣恩顧の大名共、屈起するかと思ったが是だけはちと当てが外れた",
"そうは問屋が卸ろさぬものじゃ。もう是迄に卸ろし過ぎている。ワッハッハッ",
"ワッハッハッ",
"ああ夫れでは此私は天の使いではなかったのか"
]
] | 底本:「妖異全集」桃源社
1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「ポケット」
1925(大正14)年1月
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043585",
"作品名": "天草四郎の妖術",
"作品名読み": "あまくさしろうのようじゅつ",
"ソート用読み": "あまくさしろうのようしゆつ",
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"初出": "「ポケット」1925(大正14)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名": "史郎",
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"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
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"名ローマ字": "Shiro",
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"生年月日": "1887-10-10",
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"底本名1": "妖異全集",
"底本出版社名1": "桃源社",
"底本初版発行年1": "1975(昭和50)年9月25日",
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[
[
"川に何か変わったことでもあるのか",
"いいえそうではございませんが。所在なさに見ていますんで",
"所在ない? なぜ所在ない",
"わたしは大工なのでございますが、親方のご機嫌をとりそこなって、職を分けてもらうことができなくなったんで。……どうしたものかと、思案しいしい歩いていますうちに、こんなところへ来ましたんで。……そこでぼんやり川を眺めて……",
"大工、そうか、手を見せろ",
"手を? なんで? なんで手を?",
"大工か大工でないか調べてやる",
"…………",
"大工なら鉋だこがあるはずだ",
"…………",
"これ手を出せ、調べてやる。……此奴手を懐中へ入れおったな!",
"斬れ!"
],
[
"可哀そうに",
"行き倒れだね",
"自身番へ知らせてやんな",
"何より薬を",
"水を持って来い"
],
[
"大工だと申したではございませんか。ではお城下の大工の棟領を――それも船大工の棟領を、おしらべなさいましたら、あの男の素性も、現在のおり場所も、おわかりになろうかと存ぜられまする",
"チエ"
],
[
"そう、あの男もこんなように、貴郎様の太刀先をのがれましたねえ",
"乞食め!"
],
[
"狼藉者が入り込んだのでな",
"狼藉者? 気味の悪い……どのような様子の狼藉者で?",
"乞食じゃよ、穢ない乞食じゃ",
"お菰さん、おやおや……お菰さんでございましたら、もうこの辺へは、毎日のように、いくらでも立ち廻るのでございますよ",
"それが怪しからん乞食でな",
"旦那様に失礼でもなさいましたので?",
"うむ、まあ、そういったことになる",
"息づかいがお荒うございますのね。お水でも……",
"水か、いや、それには及ばぬ",
"ではお茶でも、ホ、ホ"
],
[
"というわけにもいかないのさ。……何しろお嬢様があんなだからねえ",
"惚れるのに事を欠いて、あんな野郎に惚れるとはなア",
"鶴吉と宣っているあの江戸者、女にかけちゃア凄いものさ",
"そこへもって来てお小夜坊が、初心の生娘ときているのだからなあ",
"ころりと参って無我夢中さ",
"駆け落ちの相談ができ上がったとは、呆れ返って話にもならない",
"世間知らずの娘だからだよ",
"男の素性に気もつかずか",
"男の心にも気がつかずさ",
"まったくそうだ、だから困るのさ。本当の恋からの所業ならいいのだが、そうでないのだから恐ろしい",
"江戸へうまうま連れ出されてから、どうされるかってこと、知らないんだからねえ",
"生き証拠にされるってこと、ご存知ないからお気の毒さ"
],
[
"駆け落ちの日にちと刻限とに、間違いがあっちゃア大変だが",
"今日から五日後の子の刻さ。たしかめておいたから大丈夫だよ",
"お前も従いて行くんだったな",
"そうさ途中までお見送りするのさ。お嬢様は可愛らしいよ、何から何まで、妾にだけはお明かしなさるのだから",
"そこがこっちのつけめなのだが……それにしても鶴吉というあの男、お小夜坊ばかりを連れ出して、それで満足するような、優しい玉とは思われないが",
"これまでにお嬢様の手を通して、いろいろの物を引きだしたらしいよ",
"証拠になるような品をだろう",
"ああそうさ、証拠になるような品さ",
"ところで職場の仕事だが、どうだな、はかどっているようかな",
"それだけは妾にもわからないのさ。こしらえた端から化け物屋敷の方へ、こっそり運んで行くのだからねえ",
"そういうことは鶴吉って男も、とうに知っているだろうに、化け物屋敷を調べないとは、どうにも俺には腑におちないよ",
"これから調べるのかもしれないじゃアないか",
"そうよなア、そうかもしれない……駆け落ちの前にか、駆け落ちの夜にかな"
],
[
"こいつ湿らせちゃア大変だ",
"変な物だねえ、何なのさ?",
"いってみりゃア地雷火さ。普通にゃ落火というが",
"地雷火? まア、気味の悪い……どうしてお前さんそんなものを?",
"お殿様から下げ渡されたのさ",
"お殿様って? どこのお殿様?",
"殿様に二人あるものか。俺等のご主君は犬山の御前さ",
"それじゃア成瀬様から。……でも、成瀬様がそんな恐ろしいものを……",
"いよいよの場合には火をかけろってね、俺等前もって言いつけられているのさ"
],
[
"何がさ",
"隣の部屋に紅裏の布団が敷いてあるってことさ",
"ばからしい、……わたしゃア小母様が病気だから、ちょっと見舞いに行って来るといって、お暇をいただいて来たんだよ",
"ありもしない小母様に病気をさせて、情夫に逢いに来るなんて、隅に置けない歌舞伎者さ",
"その歌舞伎者で心配になったよ。行き倒れ者に自分を仕組んで、持田様へ抱え込まれ、ずるずるべったりに居ついてしまって、お嬢様をたらしたあの鶴吉、わたしの居ない間に、二番狂言でも仕組んで、わたしたちを出し抜きゃアしないかとねえ",
"それじゃアすぐに帰る気か",
"どうしよう",
"じらすのか。……それともじれているのか……",
"あれ、痛いよ"
],
[
"見慣れない奴でありましたよ",
"外から忍び込んだ人間らしい",
"どうあろうとさがし出して捕えねば……"
],
[
"なんだ、貴様、乞食ではないか。……しかし、……本当の乞食ではないな。……宣れ、身分を!",
"そういう貴様こそ身分を宣れ! 庄内川からこの屋敷へ、大水を取り入れるために作り設けた、取入口を探ったり、行き倒れ者に身を俏して、船大工の棟領持田の家へはいり込み、娘をたぶらかして秘密を探ったり、最後にはこの屋敷へ忍び入り、現場を見届けようとしたり……",
"黙れ! 此奴、それにしてもそこまで俺の素性を知るとは?……さては、汝は、……もしや汝は⁈",
"…………",
"隠密ではないかな? どこぞの国の?",
"…………",
"ものは相談じゃ、いや頼みじゃ、同じ身分のものと見かけ、頼む見遁してくれ"
],
[
"ナニ礼だと、礼がほしいのか?",
"ただで頼まれてたまるものか",
"なるほどな、もっともだ。……かえって話が早くていい。……何がほしい、なんでもやる。",
"調べた秘密をこっちへ吐き出せ",
"…………",
"抑えた材料を当方へ渡せ",
"…………",
"江戸まで連れて逃げようとする生き証拠を俺の手へ返せ",
"チェッ、要求はそれだけか",
"もう一つ残っている",
"まだあるのか、早く言え!",
"汝この場で消えてなくなれ",
"ナ、なんだと?",
"汝に生きていられては都合が悪いと言っているのだ"
],
[
"あなた様の太刀先をひっ外して、庄内川へ飛び込んだ男が、隠密の此奴でございます。川がないから大丈夫で。今度こそお討ちとりなさりませ",
"そういう貴様は……や、いつぞやの晩……",
"あれは内証にしておきましょうよ。お味方同志でございますから"
],
[
"畜生、鶴吉!",
"恩知らず!"
],
[
"言いたいことがあるなら言うがいい",
"乞食に計られて死んだとあっては、オ、俺は死に切れぬ。頼む、明かしてくれ、お前の素性を",
"もっともだ、明かすことにしよう。……尾張家の附家老、犬山の城主、成瀬隼人正の家臣、旗頼母、それが俺だ"
],
[
"火事だ!",
"大変だ、作事場が燃える!"
],
[
"貴殿をこの地へ遣わした、そのお方が心にかけられた、宗春様ご建造の禁制の大船、ただ今燃えておりまする。貴殿のお役目遂げられたも同然、お喜びなされ、ご安心なされ!",
"火事?……大船が?……燃えている?",
"拙者が放火いたしたからでござる",
"貴殿が……お身内の貴殿が?",
"われらが主君成瀬隼人正、西丸様お企てを一大事と観じ、再三ご諫言申し上げたれど聞かれず、やむを得ず拙者に旨を含め……"
]
] | 底本:「日本伝奇名作全集4 剣侠受難・生死卍巴(他)」番町書房
1970(昭和45)年2月25日初版発行
初出:本全集収録まで未発表
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"初出": " 「日本伝奇名作全集4 剣侠受難・生死卍巴(他)」番町書房、1970(昭和45)年2月25日",
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[
[
"期限があるのだ、誘拐の期限が。それを過ごすと無駄になる。外へ出たところをさらうなどと、悠長なことはしていられない。今夜だ、今夜だ、今夜のうちにさらえ",
"では"
],
[
"いただきたいもので、前祝いを",
"酒はさっきから飲んでいるではないか"
],
[
"酒も黄金の色ではあるが、ちと、その、どうも水っぽくてな",
"チャリンチャリンと音のするやつを",
"なんだなんだ、金がほしいのか"
],
[
"持ってけ持ってけ。……分けろ分けろ",
"これは莫大……",
"十両ずつかな",
"後へ二十両残りそうだ",
"うん、しめて五十両か"
],
[
"可哀そうな可哀そうなお母様!",
"だが私達も可哀そうだった",
"虐げられたのでございますから",
"で、それから逃がれなければならない。そうしてその上へ出なければならない",
"逃がれなければなりません。その上へ出なければなりません",
"で、お前は行かなければならない",
"弁吉、右門次、左近を連れて……",
"そうだ、そうして、その上で、所作をしなければならないのだ",
"同じようなことを、長い間……",
"目っからないからだよ、適当な人が……",
"恐らく生涯目っかりますまい"
],
[
"今夜はお遁がしいたしません",
"うむ、お前か、うむ、島子か",
"はい"
],
[
"何をではない、てんごうは止めろ",
"何を!"
],
[
"方々!",
"うむ",
"ご用心!"
],
[
"四分前だ! もうすぐだ!",
"こちらをご覧なさいまし。きっと見ることが出来ましょう! 私の肌を!"
],
[
"ご覧なさりませ! ご覧なさりませ! 白い私を! 真っ白い私を!",
"後一分!",
"素裸体の私!"
],
[
"あなた!",
"娘か!",
"いいえ葉末!",
"葉末というのか?",
"あなたの花嫁!"
]
] | 底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
1927(昭和2)年6月15日号
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品名読み": "あやしのやかた",
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[
[
"無理な算段などなされずにねえ",
"大丈夫だよ、大丈夫だよ"
]
] | 底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "043558",
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[
[
"吉之助様、何分ともよろしく",
"村岡様、大丈夫でごわす"
],
[
"それには上人は立派すぎるよ。神々しいほど気高いからのう",
"なるほど、優しくて婦人のようでもあるし",
"高僧の姿そのままで、駕籠に乗って行くが無難じゃろう",
"途中で疑がわれて身分を問われたら?",
"薩摩の出家じゃと申せばよか",
"それにしては言葉がちとな",
"師の坊は幼少より京都におわし、故郷に帰らねばとこう申せばよか",
"なるほど、上人の京訛りも、そう云えば疑がいなくなるじゃろう。それでもとやかく申す奴があったら、この有村たたっ切る",
"痴言申すな!"
],
[
"あのお方の手、綺麗だねえ",
"…………",
"綺麗な手のお方をお送りして、重助さん遠くへ行くんでしょう",
"…………",
"だからご苦労と云っているんだよ",
"女ってもの変なものでねえ、男の何んでもないちょっとしたことに、くたくたになってしまうものさ。たとえばその人の足の踵が、桜貝のような色をしていたというので、旦那をすててその人と逃げたり、その人が笑うと糸切り歯の端が、真珠のように艶めくというので、許婚をすててその人と添ったり、おおよそ女ってそんなものだよ。……あの人のお手、綺麗だねえ",
"…………",
"八百八狸も名物だけれど、でも四国にはもっと凄いものが、名物となっている筈だよ。犬神だアね、犬神だアね",
"…………",
"でも犬神もこんなご時勢には、ご祈祷ばかりしていたんでは食えないのさ……。犬の字通り隠密にだってなるのさ。……取っ付きとさえ云われている犬神、こいつが隠密になったひにゃア、どんな獲物だって逃がしっこはないよ"
],
[
"へい、竹田街道の立場茶屋で。……",
"ああそうさ、あの時の女さ。……では重助さんさようなら"
],
[
"船はもう眼の先にある。面倒になったら叩っ切れ",
"斬ってはならんとおはん申したが。……",
"時と場合じゃ、今はよか。……斬り払って上人を船に乗せるのじゃ。乗せてしまえばこっちのものじゃ",
"斬りたいの。久しく斬らん",
"そういう心がけで斬ってはよくない",
"フ、フ、フ、なるほどそうか"
],
[
"さあ船夫いそいで船を出せ",
"駄目ですよ、出せませんねえ"
],
[
"へえ、斬るとおっしゃるので。ところがあっしたち斬られませんねえ。水の上ならこっちが得手で、刀を抜いてお斬りになるのが早いか、あっしたちが水へ飛び込むのが早いか、物は験だ、やってごらんなせえ",
"水へ飛び込んだらいよいよ得手だ、船なんかすぐにもひっくりかえして見せる"
],
[
"酒手が欲しくて云っているのではごわせん、深夜に坊さんを乗せるってことが……",
"船に坊主は禁物でしてね",
"それに深夜の坊主と来ては……",
"坊主は縁起が悪いんで"
],
[
"姐ごのせっかくのお言葉ですが、あっしたちゃア姐ごに頼まれたんではなく……",
"藤兵衛の親分さんにご依頼受けたんですからねえ……",
"現在坊主が……"
],
[
"しかし姐ご、現在坊主が……",
"餓鬼め!"
],
[
"出せ船を!",
"出さねば汝ら!",
"同じ運命だぞ、命がないぞ!"
],
[
"世間普通のお方と交際わない、特別のお方とおっしゃいますのは?",
"それはねえこうなのです。そのお方が何かを欲しいと思って、それを持っている人を見詰めた時、その人がそれを与えればよし、与えない時にはその人の身の上に、恐ろしい災難が落ちて来るという……",
"ああではとっつきなのでございますね",
"そう、ある土地ではとっつきと云い、あるところでは犬神ともいいます"
],
[
"いいえ……ナーニ……なんでもないんですが……お見受けしましたところあのお屋敷から……",
"あの屋敷がどうかしましたかな?",
"いいえ、ナーニ、何んでもないんですが……空家だと思っておりましたところが、あなた様が潜門から出て来られたので。……それに綺麗な手が見えたりしましたので……",
"綺麗な手? なんですかそいつは?",
"千木の立ててある建物から――建物の二階の雨戸から、綺麗な上品な手が出ましたので……"
],
[
"あのお方たっしゃかい",
"え? へい……あのお方とは?",
"ご上人様のことよ、しらばっくれるない",
"…………",
"アッハッハッ、まあいいや。……おっつけお眼にかかるから"
],
[
"重助来い!",
"へい",
"向こうだ!"
],
[
"行きな、親分、とり逃がしたら事だ",
"姐ごは心変わりしたんですぜ。……今ではあべこべに敵方で。……ですから親分踏み込んで行って……"
],
[
"うむ、そいつは知ってるが、ここは迂濶にはいれない、あらたかなところになっているのだからなあ",
"あらたかもクソもあるものですかい。あっしたちの手入れの先廻りをして、お尋ね者を連れ出して、かくまっている姐ごじゃアありませんか。よしんばそいつが親分の情婦にしたところで……",
"そうともよ、見遁がせねえなあ",
"そいつを愚図愚図しているようなら、目明し文吉の兄弟分、三条の藤兵衛とはいわせませんぜ"
],
[
"今日の昼頃奥の座敷にいると、さも悲しそうな女の声で、ひっきりなしにわしを呼ぶのじゃよ。そこでわしは行ったのじゃよ。夢のような心持ちでのう。……はッと人心地のついた時には、あの祈祷所に坐っていたのじゃよ",
"あのお綱という犬神の娘は、何をご上人様になされましたので?",
"ただわしの手をしっかりと握って、撫でたりさすったりしたばかりじゃよ",
"ご上人様には一度雨戸をあけて、お手を出されたようでございますが?",
"あまり撫でられたりさすられたりしたので、手がどうかなりはしないかと思って、あの娘が階下へ下りて行った隙に、陽にあてて手を見たまでじゃよ"
]
] | 底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「講談倶楽部」
1935(昭和10)年9月増刊号
※「叱咤」と「叱※[#「口+它」、第3水準1-14-88]」の混在は底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043559",
"作品名": "犬神娘",
"作品名読み": "いぬがみむすめ",
"ソート用読み": "いぬかみむすめ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部」1935(昭和10)年9月増刊",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-12-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card43559.html",
"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "怪しの館 短編",
"底本出版社名1": "国枝史郎伝奇文庫28、講談社",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年11月12日",
"入力に使用した版1": "1976(昭和51)年11月12日第1刷",
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"入力者": "阿和泉拓",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"可愛い坊ちゃんね",
"何を申す無礼な",
"綺麗な前髪ですこと",
"うるさい",
"お幾歳?",
"幾歳でもよい",
"十四、それとも十五かしら",
"うるさいと申すに",
"お寺小姓? それとも歌舞伎の若衆?",
"斬るぞ!",
"ホ、ホ、ホ、斬るぞ、うるさい、無礼、なんて、大変威張るのね、いっそ可愛いいわ。……そうねえ、そんなように厳めしい言葉づかいするところをみると、やっぱりお武士さんには相違ないわね"
],
[
"何だか知っているかとは何じゃ、蔵は蔵じゃ",
"鸚鵡蔵よ",
"鸚鵡蔵? ふうん、鸚鵡蔵とは何じゃ?",
"お蔵の前へ行って、何々さーんと呼ぶんですの。するとお蔵が、何々さーんと答えてくれるでしょうよ",
"蔵が答える?",
"ええ、だから鸚鵡蔵……",
"馬鹿申せ",
"それでもようござんす、馬鹿申せッて、呼ぶんですの。するとお蔵が、馬鹿申せと答えてくれるでしょうよ。……納谷様の鸚鵡蔵ですものねえ"
],
[
"では、あれが、納谷殿のお屋敷か?",
"そうよ。でもどうしたのさ、親しそうに納谷殿なんて?",
"拙者、納谷殿屋敷へ参る者じゃ",
"まア、坊ちゃんが。……では、坊ちゃんは?",
"納谷の親戚の者じゃ",
"まあ",
"身共の姉上が納谷家に嫁しておるのじゃ",
"まあ、それでは、奥様の弟?",
"うむ",
"お姓名は?",
"筧菊弥と申すぞ"
],
[
"では菊弥様、妾もう一度貴郎様にお目にかかることでしょうよ。……そうして一度は、その愛くるしい……",
"斬るぞ!"
],
[
"は、はい、菊弥でございます。……あ、あなた様は?",
"お前の姉だよ",
"お、お篠お姉様?",
"あい",
"お、お姉様! それは? その首は?",
"代首だよ",
"か、代首? 代首とは?",
"味方の大将が、敵に首を掻かれ、胴ばかりになった時、胴へ首を継いで葬るのが、戦国時代のこの土地の習慣だったそうな。……その首を代首といって、前もってこしらえて置いたものだそうだよ",
"まあ、では、その首は、本当の首ではないのでございますか?",
"本当の首ではないとも。木でこしらえ、胡粉を塗り、墨や紅で描き、生毛を植えて作った首形なのだよ",
"でも、お姉様、どうしてそんな首形が、いくつもいくつも、お家に?"
],
[
"納谷家は、遠い昔から、この土地の武将として続いて来た、由緒のある家なのだよ。だから代首がたくさんあるのだよ",
"では、その代首の方々は?",
"ええ、みんな納谷家の武将方だったんだよ。でも、これらの方々は、幸い首も掻かれず、ご病死なされたので、それで代首ばかりが残ったのだよ",
"でも、どうして代首を、お洗いなさるのでございますか?",
"納谷家の行事なのだよ。年に一度、お蔵から、そう、鸚鵡蔵から、代首を取り出して、綺麗に洗ってあげるというのがねえ。……代首にもしろ、首を残しておなくなりになった方々の冥福をお祈りするためでもあり、残されたお首を、粗末に扱わぬためでもあり……",
"でも、どうしてお姉様が?",
"いいえ、これまでは、妾ではなくて、納谷家の当主――妾の良人、そうそうお前さんには義兄さんの、雄之進様がお洗いになったのだよ",
"おお、そのお義兄様は、お健康で?"
],
[
"遠い旅へお出かけなされたのだよ",
"旅へ? まあ、お義兄様が?",
"あい、何時お帰りになるかわからない旅へ!"
],
[
"どうして旅へなど、お義兄様が⁉",
"恐ろしいご病気におかかりなされたからだよ",
"恐ろしいご病気に?",
"あい、血のために",
"血のために? 血のためとは?",
"濁った血のためにねえ",
"…………",
"納谷家は、いまも云ったように、古い古い名家なのだよ。それで代々、親戚の者とばかり、婿取り嫁取りをしていたのだそうな。身分や財産が釣り合うように、親戚をたくさん増やさないようにとねえ。……そのあげくが血を濃くし、濁らせて、とうとう雄之進様に恐ろしい病気を。……それでご養生に、つい最近、遠い旅へねえ。……お優しかった雄之進様! どんなに妾を可愛がって下されたことか! お前さんは知らないでしょうが、お前さんがまだ誕生にもならない頃、でも妾が十七の時、雄之進様には江戸へおいでになられ、浅草寺へ参詣に行った妾を見染められ……笑っておくれでない、本当のことなのだからねえ。……財産も身分も違う、浪人者の娘の妾を、是非に嫁にと懇望され、それで妾は嫁入って来たのだよ。その妾を雄之進様には、どんなに可愛がって下されたことか! 恐ろしいご病気になられてからも、どんなに妾を可愛がって下されたことか! でもご病気になられてからの可愛がり方は、手荒くおなりなさいましたけれど。……そう、こう髪を銜えてお振りなどしてねえ"
],
[
"先々月おなくなりなさいましてございます",
"妾はお葬式にも行けなかったが。……それもこれも婚家の事情で。……旦那様のご病気のために。……それで菊弥や、妾の所へ来たのだねえ",
"はい、お姉様、そうなのでございます。……お母様が臨終に仰せられました。『お父様は三年前に逝去り、その後ずっと、お篠からの貢ぎで、人並に生活て来たわたし達ではあるが、妾が、この世を去っては、年齢はゆかず、手頼りになる親戚のないお前、江戸住居はむずかしかろう。だからお姉様の許へ行って……』と。……",
"よくおいでだった。そういう書信が、お前のところから来て以来、どんなに妾は、お前のおいでるのを待っていたことか。……安心おし、安心して何時までもここにお居で。この姉さんが世話てあげます。子供のない妾、お前さんを養子にして、納谷の跡目を継いで貰いましょうよ",
"お姉様、ありがとうございます。万事よろしくお願い申します"
],
[
"お父様やお母様の書信で聞いたのだが、いわばお前は、不具者のようにされて育てられて来たのだってねえ。……でもここへ来たからには大丈夫だよ。もうそのような固苦しいみなりなどしていなくてもよいのだよ",
"はいお姉様、ありがとう存じます"
],
[
"いいえ首は……お姉様の首は……ちゃんとお姉様の肩の上に……",
"首がない! 妾の首がない! 男ばかりの首の中に、たった一つだけある女の代首! それが妾に似ているところから、旦那様が、お篠、これはお前の首じゃと云われ、日頃いっそう大切にお扱い下された首! その首がないのじゃ!"
],
[
"まだ済まぬよ。……向こうへ行っておいで。……お前などの来るところではないよ",
"へい。ちょっとお話を……",
"また! いやらしい話かえ! ……くどい",
"いいえ……よく聞いていただきまして……",
"お黙り!"
],
[
"へい、これは菊弥お坊ちゃまで。……これでございますか、これは『飯食い地蔵様』へお供えする昼のお斎でございますよ",
"飯食い地蔵? 飯食い地蔵って何だい?",
"お坊ちゃまは、江戸から参られたばかりで、何もご存知ないでしょうが、飯食い地蔵と申しますのは、大昔から、この納谷家に祭られておる地蔵様のことでございましてな、お蔵の裏手……",
"お蔵って、鸚鵡蔵のことかい",
"ご存知で。これはこれは。へい、さようでございます、その鸚鵡蔵の、裏の竹藪の中に、安置されてあるのでございますがな、朝、昼、晩と、三度々々お斎を供えなければなりませんので。それが納谷家に伝わる、長い間の習慣で",
"地蔵様がお斎を食べるのかい?",
"さようでございます",
"嘘お云いな",
"あッハッハッハッ。……いずれは野良犬か、狐か狸か、乞食などが食べてしまうのでございましょうが、とにかくお斎は毎日綺麗になくなります",
"飯食い地蔵。……見たいな",
"およしなさいまし。あの方角へは、まずまずおいでにならない方がよろしゅうございます",
"お姉様も、昨日、そんなことを云ったよ。鸚鵡蔵の方へは行かない方がいいって",
"さようでございますとも、魔がさしますで"
],
[
"雄之進殿オーッ",
"お篠オーッ"
],
[
"雄之進殿オーッ",
"お篠オーッ"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「冨士」特別増大号
1937(昭和12)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "043767",
"作品名": "鸚鵡蔵代首伝説",
"作品名読み": "おうむぐらかえくびでんせつ",
"ソート用読み": "おうむくらかえくひてんせつ",
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"初出": "「冨士 特別増大号」1937(昭和12)年9月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2005-10-05T00:00:00",
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[
[
"おお、お目にかかるとも",
"そこでお伺い申しますが、宇治の牛丸と申す爺、本性は何者でござりましょうや?",
"妖怪変化ではあるまいし、本性などとは無礼であろうぞ。宇治の牛丸と申すのは馬飼吉備彦の変名じゃわい",
"うへえ!"
],
[
"馬飼吉備彦と申しますれば本邦第一の物持ち長者と、かよう聞き及んでおりましたが……",
"その長者の吉備彦じゃわい",
"それに致してはその風態があまりに粗末にござります",
"ほほう、どのような風態かな?",
"木綿のゴツゴツの布子を着……",
"恐らくそれは結城紬であろう"
],
[
"よう見えられたの吉備彦殿",
"これはこれはご前様。ご多忙中にもかかわらず、お目通りお許しくだされまして、有難い仕合わせに存じます"
],
[
"ははあそれでは絵のご用か",
"仰せの通りにござります",
"よろしゅうござる。何んでも描きましょう"
],
[
"ところでどういう図柄かな?",
"はい"
],
[
"壁にも耳がござります。……何事も内密に内密に",
"別に変わった図柄でもないが?",
"他に註文がござります",
"うむ、さようか。云って見るがいい"
],
[
"それに致してもどういうところからそういう心になったのじゃな?",
"別に訳とてはござりませぬがただ私めはそう致した方が子孫のためかと存じまして",
"子孫のためだと? これはおかしい。そっくり財宝を譲った方がどんなにか子供達は喜ぶかしれぬ",
"仰せの通りにござります。恐らく子供達は喜びましょう。それがいけないのでござります",
"はてな? 麿には解らぬが",
"家財を受け継いだ子供達は、その家財を無駄に使い、世を害するに相違ござりませぬ。必ず他人にも怨まれましょう。破滅の基でござります。それに第一私一代でこの商法は止めに致したく考えおります次第でもあり",
"それではいよいよそうするか",
"是非お願い致します",
"しかしどうもそれにしても変な絵巻を頼まれたものじゃ。まるでこれでは判じ絵だからの。……よしよし他ならぬお前の依頼じゃ。大いに腕を揮うとしようぞ",
"そこでいつ頃出来ましょうか?",
"一人を仕上げるに一月はかかろう?",
"では六ヵ月後に参ります",
"六人描くのだから六ヵ月後だな",
"何分お願い申し上げます。その間に私めも家財の方を処分致す意にござります"
],
[
"これには訳がありそうだ。……ううむ秘密はここにあるのだ。この絵巻の六歌仙にな",
"私達は六人、絵巻も六人、ちょうど一枚ずつ分けられる。六歌仙を分けようじゃありませんか"
],
[
"賊がはいったようでございます",
"うん。どうやらそうらしいな。大分騒いでいるようだ",
"すぐお出掛けになりますか?",
"専斎殿は金持ちだ。時には賊に振る舞ってもよかろう。……もう夜明けに間もあるまい。見舞いには早朝参るとしよう"
],
[
"これはご隣家の藪様で",
"昨夜盗難に遭われたとの事、ご家内に別状はござらぬかな?",
"はい有難う存じます。怪我人とてはございませぬが……",
"おおそれなれば何より重畳。そうして賊は捕らえましたかな?",
"いえ"
],
[
"では小町と黒主をな?",
"いや、黒主は助かりました。他へ預けて置きましたでな"
],
[
"立派なものでございます。……ところが喜撰と申しますお方は、どういうお方でございましょうか",
"世捨て人だよ。宇治山のな",
"ははあ、さようでございますかな",
"嵯峨天皇弘仁年間山城の宇治に住んでいた僧だ。橘奈良丸の子とも云われ紀ノ名虎の子とも云われ素性ははっきり解らない",
"さては無頼者でござりますな",
"莫迦を申せ。有名な歌人だ"
],
[
"何程のお値打ちがございましょうな?",
"専斎殿の鑑定によれは、捨て売りにしても五十両。好事家などに譲るとすれば百両の値打ちはあるそうだ"
],
[
"米屋醤油屋薪屋まで、もうもうずっと以前から好い顔を見せてはくれませぬ。いっそお出入りを止めたいなどと……",
"なるほど"
],
[
"熊谷へおいででございますかな。それはそれはご苦労のことで。それに致しても三時立ちとは随分お早うございましたなあ",
"何?"
],
[
"いかにも俺は三時に立ったがどうしてそれを知っているな?",
"へへへへへ、まだまだ沢山存じております。例えば今朝ご出立の時、アノ用人の三右衛門様が、何にあわてたのか大変あわてて鴨居で額をお打ちなされたので、『三右衛門はしたない、気を付けるがよいぞ』と、こう旦那様がおっしゃいました筈で",
"いかにもそういうこともあった",
"ええと、昨夜はご隣家へ泥棒がはいって大事な物を――見事な幅を確か一幅盗んで行った筈でございますよ",
"おおおお、いかにもその通りじゃ",
"盗まれた絵は小野小町土佐の名筆でございましょうがな?"
],
[
"ははあさようか、いや解ったぞ。察するところそのほうは邸近くの町人であろう。それで事情を知っているのであろう",
"はいさようでございますよ。旦那様のすぐお側に住んでいる者でございますよ",
"ついぞ見掛けぬ仁態じゃが、どこら辺りに住んでいるな?",
"ほんのお側でございます旦那様のお邸内で",
"莫迦を申せ"
],
[
"邸の内には用人とお常という飯煮き婆。拙者を加えて三人だけじゃ",
"へへへ"
],
[
"ところでお前は何者だな? そうしていったい何という名だ?",
"貧乏神と申します"
],
[
"それはまあ何より有難いことで。で何程に売れましたかな?",
"何も俺は売りはせぬ"
],
[
"ああなるほど喜撰のことか。喜撰の軸なら紛失したよ",
"え、ご紛失なされましたとな?",
"いや道中で盗まれたのじゃ。眼にも止まらぬ早業でな。あれには俺も感心したよ"
],
[
"米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解したものか。ああああこれは困ったことになった。それだのにマアマア旦那様は首尾はよいの上々吉だのと。これが何んのめでたかろう",
"まあ見ろ三右衛この筒を"
],
[
"二尺八寸の短筒ながらこの素晴らしい威力はどうだ! 携帯に便、外見は上品、有難い獲物を手に入れたぞ",
"米屋薪屋醤油屋へ何んと弁解したものであろう",
"三右衛、何が不足なのじゃ?",
"何も不足はござりませぬが。……金のないのが心配でござります",
"金か、金ならここにある"
],
[
"あまりお前が金々というから実はちょっとからかったまでさ",
"へえ、それにしてもこんな大金を……"
],
[
"なあに旦那様大丈夫ですよ。米屋も薪屋も醤油屋も近頃はこちらを信用して少しも催促致しませんので。一向平気でございますよ",
"どうやら米屋醤油屋が一番お前には恐いらしいな",
"へい、そりゃ申すまでもございませんな。生命の糧でございますもの",
"腹が減っては戦は出来ぬ。ちゃんと昔からいっておるのう"
],
[
"おおそちなら大丈夫じゃ。矢頃を計り射落とすがよいぞ",
"かしこまりましてござります"
],
[
"千年を経ました化鳥と見え、二度ながら矢返し致しましてござる",
"おおそうか、残念至極。そちの弓勢にさえ合わぬ怪物。弓では駄目じゃ鷹をかけい! 五羽ながら一度に切って放せ!",
"は、はっ"
],
[
"いざ専斎殿お出くだされ",
"はっ"
],
[
"……一分、いやいや五厘の相違で、幸福にも生命を取り止めたわい。……",
"専斎殿、お診断は?"
],
[
"いや、九分九厘……大丈夫でござる",
"それはそれは有難いことで"
],
[
"貧乏神さ。ごらんの通りね",
"貧乏神だ? どこから来た!",
"フフフフお前さんの家からさ"
],
[
"はいはい金包みはございますよ",
"いくらあるかな? あけて見るがいい",
"はい、小判で五十両"
],
[
"なんのあなた、正の金ですよ",
"どうも俺にはわからない",
"今朝方お帰りでございましたが、やはり昨夜は狩野様で?",
"いやいや違う。そうではない。狩野の邸なら知っている。昨夜の邸とはまるで違う",
"まあ不思議ではございませんか。どこへおいででございましたな?",
"それがさ、俺にも解らぬのだよ"
],
[
"……それがどうもいえませんて、口止めをされておりますのでな",
"なるほど、それではいえますまい",
"ところが私としてはいいたいのじゃ",
"秘密というものはいってしまいたいもので",
"一人で胸に持っているのがどうにも私には不安でな。――昨夜、それも夜中でござるが、化物屋敷へ行きましてな、不思議な怪我人を療治しました。……無論人間には相違ないが、肌が美しい桃色でな。それに産毛が黄金色じゃ。……細い細い突き傷が一つ。そのまた傷の鋭さときたら。おおそうそうそっくりそうだ! 藪殿が得意でおやりになるあの吹矢で射ったような傷! それを療治しましたのさ。……ところで私はその邸で珍らしいものを見ましたよ。六歌仙の軸を見ましたのさ。……見たといえばもう一つ貧乏神を見ましてな。いやこれには嚇かされましたよ。……邸からして不気味でしてな。百畳敷の新築の座敷に金屏風が一枚立ててある。その裾の辺に老人がいる。十徳を着た痩せた武士でな。その陰々としていることは。まず幽霊とはあんなものですかね"
],
[
"さようさようその貧乏神じゃ。……何んとその後はいかがじゃな?",
"はい、近頃はお陰をもって……",
"ふむふむ、景気がよいそうな。それは何より重畳重畳。みんな私のお陰じゃぞよ。なんとそうではあるまいかな。数代つづいて巣食っていた貧乏神が出て行ったからじゃ",
"仰せの通りにござります",
"で、私には恩がある。な、そうではあるまいかな?",
"はいはい、ご恩がございますとも",
"では、返して貰おうかな?",
"しかし、返せとおっしゃられても……",
"何んでもござらぬ。隠匿ってくだされ",
"はて隠匿うとおっしゃいますのは? ああ解りました。ではあなた様は、また当邸へおいでなさる気で?",
"うんにゃ、違う! そうではござらぬ。私は隣家に住んでおるよ",
"専斎殿のお邸にな?",
"さようさようヘボ医者のな",
"道理で近来専斎殿は不幸つづきでござります"
],
[
"みんなこの私のさせる業じゃ",
"ははア、さようでござりましたかな",
"どうも彼奴は乱暴で困る",
"さして乱暴とも見えませぬが……",
"私を泥棒じゃと吐しおる",
"なるほど、それは不届き千万",
"今私は追われている",
"それはお困りでござりましょうな",
"で、どうぞ隠ってくだされ",
"いと易いこと。どうぞこちらへ"
],
[
"藪殿藪殿! 御意得たい! 専斎でござる。隣家の専斎で",
"これはこれは専斎殿、その大声は何用でござるな?"
],
[
"拙者の邸へ賊がはいった? それはそれは一大事。ようこそお知らせくだされた。はてさて何を盗んだことやら",
"そうではござらぬ! そうではござらぬ!"
],
[
"ほほう、どこから逃げ込みましたかな?",
"黒板塀を飛び越えてな。お庭先へ逃げ込みました",
"それは何かの間違いでござろう。……拙者今までその庭先で吹矢を削っておりましたが、決してさような賊の姿など藉りにも見掛けは致しませぬ",
"そんな筈はない!"
],
[
"お気の毒ながらお邸内を我らにしばらくお貸しくだされ。一通り捜索致しとうござる!",
"黙らっせえ!"
],
[
"おお三右衛、聞くことがある。貧乏神はどこへ行かれたな?",
"へ? 何でございますかな?",
"ここにおられたお客様だ",
"ああそのお方でござりますか。さっきお帰りになられました。綺麗な小粋な若いお方で",
"え? なんだって? 若い方だって?",
"はいさようでございますよ"
],
[
"いいや違う。穢い老人だ",
"何を旦那様おっしゃることやら。ええとそれからそのお方がこういうものを置いてゆかれました。旦那様へ上げろとおっしゃいましてね"
],
[
"ええ、そち達は商売がら山手辺のお邸へも時々仕事にはいるであろうな?",
"はい、それはもうはいりますとも"
],
[
"おおあるか? どこにあるな?",
"へえ、本郷にございます",
"うむ、本郷か、何んという家だな?",
"へい、写山楼と申します"
],
[
"聞いた名だと思ったが写山楼なら知っている",
"へえ、旦那様はご存知で?",
"文晁先生のお邸であろう?",
"へえへえ、さようでござりますよ"
],
[
"おお、そうであろうそうであろう。これは聞く方が悪かった。……文晁先生は当代の巨匠、先生の一顧を受けようと、あらゆる階級の人間が伺向するということだ",
"へえへえ旦那のおっしゃる通りいろいろの人が参詣します。武士も行くし商人も行くし、茶屋の女将や力士や俳優なんかも参りますよ。ええとそれからヤットーの先生。……",
"何だそれは? ヤットーとは?",
"剣術使いでございますよ",
"剣術使いがヤットーか、なるほどこれは面白いな",
"ヤットー、ヤットー、お面お胴。こういって撲りっこをしますからね",
"それがすなわち剣術の稽古だ",
"それじゃ旦那もおやりですかね?",
"俺もやる。なかなか強いぞ",
"えへへへ、どうですかね",
"こいつがこいつが悪い奴だ。笑うということがあるものか"
],
[
"南町奉行手附きの与力、拙者は松倉金右衛門、ここにいるは同心でござる",
"与力衆に同心衆、ははあさようでござるかな。……拙者は旗本藪紋太郎、実は道に迷いましてな",
"なに旗本の藪紋太郎殿? ははア"
],
[
"吹矢のご名手と承わりましたが?",
"さよう、少々仕る",
"多摩川におけるご功名は児童走卒も存じおりますところ……",
"なんの、あれとて怪我の功名で",
"ええ誠に失礼ではござるが、貴所様が藪殿に相違ないという何か証拠はござりませぬかな?"
],
[
"ここにおります。……拙者藪紋太郎……",
"おお藪殿か。私は和泉じゃ",
"おおそれでは南お町奉行筒井和泉守様でござりましたか",
"藪殿、道に迷われたそうで",
"道に迷いましてござります",
"よい時道に迷われた。藪殿、よいものが見られますぞ。アハハハ"
],
[
"は、よく承知でござります",
"上様特別のご愛子じゃ",
"さよう承わっておりまする",
"お輿入れ道具も華美をきわめ、まことに眼を驚かすばかりじゃ",
"は、そうでございますかな",
"今夜のこともやがて解ろう。……おおまたどなたかおいでなされたそうな"
],
[
"信州高島三万石諏訪因幡守様ご同勢",
"ははあさようでござりますかな"
],
[
"藪氏、あれこそ毛利侯じゃ",
"長門国萩の城主三十六万九千石毛利大膳大夫様でござりますかな",
"さよう。ずいぶん凛々しいものじゃの長州武士は歩き方から違う"
],
[
"藪氏、ちょっとご覧なされ、面白いものが見られます",
"は、しかし拙者など。……",
"私が許す。ご覧なさるがよい",
"それはそれは有難いことで。しからばご好意に従いまして",
"おお見られい。がしかし、驚いて眼をば廻されな"
],
[
"不思議千万、胆を冷しました",
"アッハハハさようでござろう",
"彼ら何者にござりましょうや?",
"見られた通り妖怪じゃ",
"しかし、まさか、この聖代に。……",
"妖怪ではないと思われるかな",
"はい、さよう存ぜられますが",
"妖怪幾匹おられたか、その辺お気を付けられたかな?",
"はい私数えましたところ二十一匹かと存ぜられまする……",
"さようさよう二十一匹じゃ",
"やはりさようでございましたかな。……ううむ、待てよ、これは不思議!",
"不思議とは何が不思議じゃな?",
"諸侯方も二十一人。妖怪どもも二十一匹",
"ははあようやく気が付かれたか。……まずその辺からご研究なされ"
],
[
"階下のお客様とおっしゃいますと?",
"駕籠を座敷まで運ばせた客だ",
"はいまだお立ちではございません",
"駕籠の中には誰がいたな",
"さあそれがどうも解りませんので",
"解らないとは不思議ではないか",
"駕籠からお出になりません",
"食事などはどうするな",
"二人の若いお武家様が駕籠までお運びになられます",
"ふうむ、不思議なお客だな",
"不思議なお客様でございます",
"ええと、ところで二頭の馬、そうだあの馬はどうしているな?",
"厩舎につないでございます",
"重そうな荷物を着けていたが",
"重そうな荷物でございます",
"あの荷物はどうしてあるな?",
"やはり二人のお武家様が自分で下ろして自分で片付け、決して人手に掛けませんそうで",
"何がはいっているのであろう?",
"何がはいっておりますやら",
"鳥の死骸ではあるまいかな",
"え?"
],
[
"大きな鳥の死骸",
"あれマア旦那様、何をおっしゃるやら"
],
[
"これはこれは成田屋さんようこそおいでくだされた。さあさあどうぞお上がりなすって",
"ごめんよ"
],
[
"それがさ、西丸の大御所様",
"ははあなるほど、これはありそうだ",
"満千姫様のお輿入れ、これはどなたもご存知だろうが、一旦お輿入れをなされては容易に芝居を見ることも出来まい、それが不愍だと親心をね、わざわざ西丸へ舞台を作り、私達一同を召し寄せてそこで芝居をさせようという、大御所様のご魂胆だそうだ",
"大いに結構じゃありませんか。……で、もうお達しがありましたので?",
"ああ、あったとも、葺町の方へね",
"そりゃ結構じゃございませんか",
"云うまでもなく結構だが、さあ出し物をどうしたものか",
"で、お好みはございませんので?",
"そうそう一つあったっけ、紋切り形でね『鏡山』さ",
"ナール、こいつは動かねえ。……ところで、ええと、後は?",
"こっちで随意に選ぶようにとばかに寛大なお達しだそうで",
"へえ、さようでございますかな。かえってどうも困難い",
"さあそこだよ、全くむずかしい。委せられるということは結構のようでそうでない",
"いやごもっとも"
],
[
"家の芸だが『暫』はどうかな?",
"なに『暫』? さあどうでしょう",
"もちろん『暫』は家の芸だ。成田屋の芸には相違ないが、出せないという理由もない",
"えい、そりゃ出せますとも。しかし皆さん納まりましょうか?",
"私もそれを案じている",
"私もそれが心配です",
"といって私は是非出したい。……あなたさえ諾といってくれたら",
"さあ"
],
[
"ナーニ私は諾と云います。がどうでしょう幸四郎が?",
"なあにあなたさえ諾と云ったらそこは日頃の仁徳です、誰が何んと云いますものか",
"さあそれならこれは決まった。ところで後の出し物は?",
"それは皆と相談して",
"いやいやこれも大体のところはここであらまし決めた方が話が早いというものだ",
"なるほど、それももっともだ。……心当たりがありますかえ"
],
[
"仁木を振って千代萩か",
"御殿物が二つ続く",
"どうもこいつアむずかしい",
"ではどうでしょう『関の戸』は?",
"ははあそこへ行きましたかな",
"幸四郎の関兵衛、立派ですぜ",
"そうしてあなたの墨染でね",
"私はどうでもよろしいので",
"いやいや是非ともそうなくてはならない。よろしい決めましょう『関の戸』とね",
"これで二つ決まりました",
"ついでに三つ目を……さあ何がいいかな"
],
[
"また病気が起こりましてね",
"それじゃ、家にはおいでなさらない?",
"昨日から姿が見えません。……ところでいかがですな小次郎さんは?",
"小次郎は家におりますよ",
"おいでなさる? これは不思議。私は一緒かと思ったに",
"さようさ、いつもは御酒徳利で、きっと連れ立って行くんですからね",
"へえ、家においでなさる?",
"今度は家におりますよ",
"それじゃ家の三津太郎だけがヒョコヒョコ出かけて行ったんですな"
],
[
"へえ、一向存じません",
"おおそうか、知らねえんだな。知らねえとあれば仕方もねえが、他にもう一つ訊くことがある。……この行李だ! 知っていような?"
],
[
"さような大事の書き附けを何んで私が盗みましょう。存ぜぬことでございます",
"なに知らねえ? 本当の口か?",
"存ぜぬことでございます",
"ふうむ、そうか。確かだな!",
"何んの偽り申しましょう",
"が、それにしちゃア去年から、何故お前は変わったんだ!",
"はい、変わったとおっしゃいますと",
"何故時々家を抜ける"
],
[
"永い時は十日二十日、どこへ行ったか姿も見せねえ。……それに聞きゃあ右の腕へ刺青をしたっていうことだがお前役者を止める気か! 止める意なら文句はねえ。よしまた役者を止めねえにしても俺の家へは置けねえからな! もっともすぐに上覧芝居、こいつに抜けては気が悪かろう。まあ万事はその後だ。……部屋へ帰って考えるがいい",
"おい待ちねえ!"
],
[
"少しはアタリがついたのかい⁉",
"え?"
],
[
"六歌仙よ、揃ったかな?",
"それじゃ親方! お前さんも……"
],
[
"何んとも申し訳ございません。たしかに盗みましてございます",
"そうして六歌仙は揃ったか?",
"はいようやく三本ほど",
"ううむ、そうか、どこで取ったな?",
"そのうち二本は専斎という柳営奥医師の秘蔵の品、女中に化けて住み込んで盗み出してございます",
"二十日ほど家をあけた時か?",
"へえ、さようでございます",
"もう一本はどこで取った?",
"これは藪という旗本の宝、木曽街道の松並木で私の相棒が掠りました",
"相棒の眼星もついているが、それは他人で関係がねえ。……で、四本目はまだなのか?",
"へえ、まだでございます",
"二十五日は上覧芝居、お前も西丸へ連れて行く",
"へえ、有難う存じます",
"お前を西丸へつれて行くんだ",
"へえ、有難う存じます",
"いいか悪いかしらねえが、まあ俺の心づくしさ",
"へえ、有難う存じます",
"部屋へ帰って休むがいい"
],
[
"どなたでござるな? どこへおいでになる?",
"はい妾はお霜と申し、秋篠局の新参のお末、怪しいものではございませぬ",
"新参のお末、おおさようか。道理で顔を知らぬと思った。で、どちらまで参られるな?",
"はい、お局まで参ります",
"秋篠様のお局へな?",
"はい、さようでございます",
"それにしては道が違う",
"おやさようでございましたか。広い広いご殿ではあり、新参者の悲しさにさては道を間違えたかしら",
"おおおお道は大間違い、秋篠様のお局は今来た廊下を引き返し、七つ目の廊下を左へ曲がり、また廊下を右へ廻ると宏大もないお部屋がある。それがお前のご主人のお部屋だ",
"これは有難う存じました。どれそれでは急いで参り……",
"おお急いで参るがよい。……ところで芝居はどの辺だな?"
],
[
"何を申す怪しい女子! かく申すこの妾こそ秋篠局のお末頭、其許のようなお末は知らぬ",
"南無三!"
],
[
"只今ここへ駕籠と馬とがはいりましたように存じますが?",
"おおはいった。ここの主人じゃ",
"そのご主人のお姓名は?",
"ユージェント・ルー・ビショット氏。阿蘭陀より参った大画家じゃ",
"どちらよりのお帰りでござりましょう?",
"江戸将軍家より招かれて百鬼夜行の大油絵を揮毫するため上京し、只今ようやく帰られたところ",
"二頭の馬に積まれたは?",
"ビショット氏発明の飛行機じゃ",
"は、飛行機と仰せられるは?",
"大鵬の形になぞらえた空飛ぶ大きな機械である。十三世紀の伊太利亜にレオナルド・ダ・ビンチと名を呼んだ不世出の画伯が現われた。すなわち飛行機を作ろうと一生涯苦労された。それに慣ってビショット氏も飛行機の製作に苦心されついに成功なされたが、またひどい目にもお逢いなされた。多摩川で試乗なされた節吹矢で射られたということじゃ。……いずれ大鳥と間違えて功名顔に射たのであろう世間には痴けた奴がある。ワッハハハ"
],
[
"私は長崎の大通詞丸山作右衛門と申す者、ビショット氏とは日頃懇意、お見受けすればお手前には他国人で困窮のご様子、力になってあげてもよい。邸は港の海岸通り、後に訪ねて参られるがよい",
"泥棒!"
],
[
"もう一度お眼を洗おうぜ",
"よかろう"
],
[
"六つ揃わば眼を洗え。――さあさあ水をかけるがいい",
"承わる"
],
[
"千代田の大奥にあった軸だ。贋やイカ物でたまるものか。それよりお前が長崎の蘭人屋敷で取ったという、その文屋と遍昭が食わせものじゃあるめえかな",
"うんにゃ違う、こりゃ確かだ。俺が現在二つの眼で、写山楼の内で見たものだ。そうして文晁がお礼としてあの蘭人にくれたものだ。そうでなくってこの俺が江戸から後を尾行るものか。べらぼうなことをいわねえものだ",
"へん、どっちがべらぼうでえ、へんな贋物を掴みやがって"
],
[
"ヒャア、こいつあぶっ魂消た。でけえ穴が掘ってあるでねえか!",
"道標の石も仆れているのでねえか",
"この畑の踏み荒しようは。こりゃハア天狗様の仕業だんべえ"
],
[
"やあここに掛け物がある",
"やあここにも掛け物がある",
"一つ二つ……五つ六つ、六つも掛け物落ってるだあよ",
"何んて穢ねえ掛け物だあ。踏みにじられてよ泥まみれになってよ",
"火にくべるがいいだあ、火にくべるがいいだあ"
],
[
"やあ眼の中へ字が出ただよ。誰か早く読んで見ろやい",
"お生憎さまだあ。字が読めねえなあ"
],
[
"ああ暖けえ。ああいい火だ",
"もう春だなあ。菫が咲いてるだあ",
"ボツボツ桜も咲くずらよ"
],
[
"それは何より有難いことで。……飛行機も拝見したいけれどむしろそれよりビショット先生に親しく拝顔の栄を得て過失を謝罪致したければなにとぞお連れくださるよう",
"よろしゅうござる。さあ参ろう"
]
] | 底本:「銅銭会事変 短編」国枝史郎伝奇文庫27、講談社
1976(昭和51)年10月28日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
1925(大正14)年1月11日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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"綺麗な太夫じゃありませんか",
"それに莫迦に上品ですね",
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"求型という所さ",
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"お前そいつを知らねえのか。――伊丹屋の若旦那だよ",
"え、伊丹屋? じゃ日本橋の?",
"ああそうだよ、酒問屋の",
"だって源ちゃん変じゃないか、ここはお前江戸じゃないよ",
"信州諏訪でございます",
"それだのにお前伊丹屋の……",
"ハイ、別荘がございます",
"おやおやお前さん、よく知ってるね",
"ちょっと心配になったから、実はそれとなく探ったやつさ"
],
[
"何を云いやがるんでえ、箆棒め、誰のための苦労だと思う",
"アラアラお前さん怒ったの"
],
[
"おい紫錦、気を付けろよ、いつも道化じゃいねえからな",
"紋切型さね、珍らしくもない"
],
[
"たった今さ。悪いかえ",
"小屋者からお姫様か",
"そういきたいね、心掛けだけは"
],
[
"思召しは有難う存じますが……妾のような小屋者が……貴郎のような御大家様の……",
"構いませんよ。構うもんですか……貴女さえ厭でなかったら……",
"なんの貴郎、勿体ない……"
],
[
"美しい晩、私は幸福だ",
"妾も楽しうござんすわ"
],
[
"あら、舟がありますのね",
"私の所の舟なんですよ"
],
[
"寄っておいで、構やしないよ",
"いいえ不可ませんわ、そんなこと"
],
[
"でも本当とは思われないよ。そんな事をする人かしら?",
"恋は人間を狂人にしまさあ",
"だって妾あの人に対して何もこれまで一度だって……それに妾達は従兄妹同志じゃないか",
"従兄妹であろうとハトコであろうと、これには差別はござんせんからね。……私はこの眼で見たんでさあ",
"だってそれが本当なら、あの人それこそ人殺しじゃないか",
"だからご注意するんでさあね",
"ただの鼬じゃないんだからね",
"喰い付かれたらそれっきりでさあ",
"恐ろしい毒を持っているんだからね",
"私は現在見たんでさあ。裸蝋燭を片手に持って、ヒューッ、ヒューッと口笛を吹いて、檻からえて物を呼び出すのをね。そいつを肩へひょいと載っけて、月夜の往来へ出て行ったものです。こいつおかしいと思ったので、直ぐに後をつけやした。それ私は四尺足らず、三尺八寸という小柄でげしょう。もっとも頭は巾着で、平く云やア福助でさあ。だから日中歩こうものなら、町の餓鬼どもが集って来て、ワイワイ囃して五月蠅うござんすがね。折柄夜中で人気はなし、家の陰から陰を縫って、尾行て行くには持って来いでさあ。小さいだけに見付かりっこはねえ。で行ったものでございますよ。別荘作りの立派な家、そこまで行くと立ち止まり、ジロリ四辺を見まわしたね、それから木戸を窃と開けて、入り込んだものでございますよ。で、しばらく待っていると、そこへお前さんとあの人とが、湖水から上って来たものです。そこで鼬を放したというものだ",
"でもマア大騒ぎをしただけで、怪我はなかったということだから、妾は安心をしているのさ",
"ところが、あの人の母者人なるものが、気を失ったということですぜ",
"まあ、よっぽど驚いたんだね",
"おどろき、梨の木、山椒の木だ。が、ままともかくもこの事件は、これで納まったというものだ。そこでこれからどうしなさる?",
"どうするってどうなのだよ?",
"一度こっきりじゃ済みませんぜ",
"じゃまたあるとでも云うのかい? 源ちゃん、そんなに執念深いかしら?",
"お前さんの遣り方一つでさあ",
"だって妾、これまでだって、随分お座敷へは呼ばれたじゃないか",
"それとこれとは異いまさあ。それはそれで金取り主義、ご祝儀頂戴の呼吸だったが、今度はどうやらお前さんの方でも、あの青二才に惚れているようだ",
"何を云うんだよ、トン公め!"
],
[
"藤九郎め、好男子だからな",
"そういえば、伊丹屋のお神さんは、莫迦に藤九郎めを贔屓にしたっけ",
"誰の種だか解りゃしねえ"
],
[
"きっと悪い女ですよ",
"第一その時の女軽業と、今度の軽業の一座とは、別物に相違ありませんよ",
"鼬を使うとお云いじゃないか",
"それだって別の鼬ですよ",
"いいえ同じ鼬です。妾見たから知っています"
],
[
"紫錦さんは‼ 紫錦さんは‼",
"何を吠く! 死ってしまえ!"
],
[
"伊太郎さんが!",
"若旦那が!"
],
[
"それにお錦は左の腕を、いつも繃帯しているが、どうも私は気になってならない",
"ほんとにあれは変ですね",
"お前からそれとなく訊いて見るがいい"
],
[
"痣があるのでございますの",
"まあ、そうかえ、痣がねえ"
],
[
"おや、お前、トン公じゃないか?",
"ナーンだ、やっぱり紫錦さんか"
],
[
"たしかにそうだとは思ったが、何しろ様子が変っているだろう。穏し作りのお嬢さん、迂闊り呼び掛けて人異いだったら、こいつ面目がねえからな。それでここまでつけて来たのさ",
"まあそうかえ、どこで目付けたの?",
"うん、玉乗の楽屋でね。俺らあそこに傭われているんだ"
],
[
"……で、そういった塩梅でね、諏訪以来一座は解散さ。チリチリバラバラになったのさ。……随分お前を探したよ。親方にとっては金箱だし源公から見れば恋女だ。そのお前がどこへ行ったものか、かいくれ行衛が知れねえんだからな。そりゃア随分探したものさ。ああ今だって探しているよ。執念深い奴らだからな",
"そりゃあもう探すのが当然さ"
],
[
"そうよ、妾の小さい時にね",
"その上ふんだんに稼がせてよ。あぶく銭を儲けたんだからな",
"恩もなけりゃ義理もない訳さ",
"ところでどうだな、今の生活は?"
],
[
"そりゃあそうだよ。云う目は出るさ。でもね、本当の幸福ってものは、そんなものじゃないと思うよ",
"それにお前伊太郎さんは、お前の好きな人じゃアねえか",
"嫌いでなかったという迄の人さ。それにどうも妾とはね、気心がピッタリと合わないのだよ",
"ふうん、そうかなア、変なものだなア。……だが、オイ、そりゃア我儘ってもんだぜ"
],
[
"それじゃお前さんはここ当分玉乗の一座にいるんだね",
"他に行き場もないからな",
"それじゃいつでも逢えるのね",
"だが余り逢わねえがいい、今じゃ身分が異うんだからな",
"莫迦をお云いな。逢いに行くわよ",
"それに親方も源公もいずれ江戸の地にはいるんだからな、あんまり暢気に出歩いていて目付けられると五月蠅ぜ。何しろ源公ときたひにゃア、未だにお前に夢中なんだからな"
],
[
"だが様子が変わり過ぎるな",
"ナーニ彼奴だ、彼奴に相違ねえ",
"そうさ、俺もそう思う",
"畜生、顔を反けやがった",
"オイ源公、後をつけて見な",
"云うにゃ及ぶだ。見遁せるものか"
],
[
"ああ恵むとも、時々はな。つまりナンダ罪ほろぼしのためさ",
"でも一座の連中で、お前のことを悪く云う者は、それこそ一人だってありゃアしねえよ",
"それは俺らが座主だからだろう",
"ああそれもあるけれどね……",
"うっかり俺の悪口でも云って、そいつを俺に聞かれたが最後、首を切られると思うからさ",
"ああそいつもあるけれどね……",
"それより他に何があるものか",
"金を貸すからいい親方だと、こうみんな云っているよ",
"アッハハハ、そうだろう。その辺りがオチというものだ。ところでそういう人間のことだ、俺が金を貸さなくなったら、今度は悪口を云うだろうよ"
],
[
"俺らの一座へ来る前には、お前どこの座にいたな?",
"俺ら軽業の一座にいたよ",
"軽業の一座? ふうん、誰のな?"
],
[
"お話にも何にもなりゃあしない",
"それはそうと文の一座に綺麗な娘がいたはずだが?",
"幾人もいたよ、綺麗な娘なら",
"それ、文の養女だとか云う?",
"ああそれじゃ紫錦さんだ",
"うん、そうそうその紫錦よ、行衛が知れないって云うじゃないか"
],
[
"教えられねえ? 何故教えられねえ?",
"お前の本心が解らねえからよ",
"俺の本心だって? え、本心だって?",
"今紫錦さんは幸福なんだよ。ああそうだよ大変にね。もっとも自分じゃ不幸だなんて我儘なことを云ってるけれど、ナーニやっぱり幸福なのさ。だがね、紫錦さんの幸福はね、どうも酷く破壊やすいんだよ。で、ちょっとでも邪魔をしたら、直ぐヘナに破壊っちまうのさ。ところでどうも運の悪いことには、その紫錦さんの幸福をぶち破壊そうと掛かっている、良くねえ奴がいるのだよ。だがここに幸のことには、まだそいつらは紫錦さんの居場所を、ちょっと知っていねえのさ。……ね、これで解ったろう、俺らがどうして紫錦さんの居場所を、お前に明かさねえのかって云うことがな"
],
[
"どうしてそれが解るものか",
"じゃお前はこの俺を悪党だと思っているのだな?",
"俺らはそうは思わねえけれど、お前が自分で云ったじゃねえか",
"だが、そいつは昔のことだ",
"ああそうか、昔のことか",
"今では俺はいい人間だ。いつも俺は懺悔しているのだ"
],
[
"俺ら、お前を信じることにしよう。紫錦さんの居場所を明かすことにしよう",
"おおそれでは明かしてくれるか。有難え有難えお礼を云う。で、紫錦はどこにいるな?",
"江戸にいるよ。この江戸にな",
"江戸はどこだ? え、江戸は?",
"日本橋だよ。酒屋にいるんだ",
"日本橋の酒屋だって?",
"伊丹屋という大金持の養女になっているんだよ",
"ふうん、伊丹屋の? ふうん、伊丹屋のな?……ああ、夢にも知らなかった"
],
[
"よく拍子木が解ったな",
"お前の打手を忘れるものかよ",
"実は急に逢いたくってな、それで呼び出しをしたやつさ",
"用でもあるの? お話しおしよ"
],
[
"行ってもいいがね、どこへ行くの?",
"金龍山瓦町へよ"
],
[
"それがね、至急を要するんだ",
"へえ不思議だね、何の用さ",
"逢いてえって人があるんだよ。是非お前に逢い度えって人がな。それが気の毒な病人なんだ",
"誰だろう? 知ってる人?",
"お前の方じゃ知らねえだろうよ。だが確かな人間だ。実は俺らの親方なのさ",
"お前の親方? 玉乗りのかい?",
"ああそうだよ。葉村一座のな。俺らその人に頼まれて、お前を迎いに来たってやつよ"
],
[
"だがお前は出られめえな、なにせ大家のお嬢さんだし、もう夜も遅いんだからな",
"行くならこのまま行っちまうのさ",
"だが後でやかましいだろう?",
"そりゃあ何か云われるだろうさ",
"困ったな、では止めるか。止めにした方がよさそうだな",
"くずくず云ったら飛び出してやるから、そっちの方は平気だよ。それより妾にゃその人の方が気味悪く思われるがね",
"うん、こっちは大丈夫だ。俺らが付いているんだからな",
"では行こうよ。思い切って行こう"
],
[
"観音様の横手でね",
"それじゃ今日の帰路にだな",
"お前と別れてブラブラ来るとね、莚の上で親方がさ、えて物を踊らせていたじゃないか",
"ふうんそいつアしまったなあ",
"早速源公が後をつけて来たよ",
"え、そいつアなおいけねえや",
"ナーニ途中で巻いっちゃったよ",
"そいつアよかった。大出来だった"
],
[
"あ、畜生、源公だな!",
"やい、紫錦、態あ見ろ! よくも仲間を裏切ったな、料ってやるから観念しろ!"
],
[
"あっ、いけねえ、侍だ",
"またにしろ! 逃げたり逃げたり!"
],
[
"娘御、お怪我はなかったかな",
"あぶないところをお助け下され、まことに有難う存じます。ハイ幸い、どこも怪我は……",
"おおさようか、それはよかった。……や、ここに仆れているのは?"
],
[
"ハイ、日本橋でございます",
"日本橋はどの辺りかな?",
"あの伊丹屋という酒問屋で",
"はあ、伊丹屋、さようでござるか"
],
[
"失礼ながら、ご令嬢かな?",
"ハイ、娘でございます",
"さようでござるか、それはそれは"
],
[
"もし、親方、お客様ですよ",
"誰だか知らねえが断っておくれ",
"どうしても逢いたいって仰有るので",
"ところが俺は逢いたくねえのだ",
"困りましたね、どうしましょう"
],
[
"おいら夢にも知らなかった。まさかお前が江戸も江戸、浅草奥山でも人気のある、葉村一座の仕打として、こんな所にいようとはな。……なるほど、世間はむずかしい、これじゃ探しても目付からなかった訳だ",
"目付けてくれずともよかったに",
"お前の方はそうだろうが、俺の方はそうはいかねえ",
"ところで、どうして目付けたな?",
"うん、それが、偶然からさ。今日お前のやっている葉村の玉乗を見に入ったものさ。俺だって生きている人間だ、たまには楽しみだって必要ってものさ。ところでそこでトン公を目付けた",
"ああ成程、トン公をな",
"彼奴は元々俺の座で、道化役をしていた人間だ",
"そういうことだな、トン公から聞いた",
"ところが今じゃお前の座にいる",
"ははあ、それじゃ、それについて、文句をつけに来たんだな",
"うんにゃ、違う、そうじゃねえ。……俺ら信州の高島で、とんでもねえブマを打っちゃってな、一座チリチリバラバラよ。だからトン公がどこにいようと、苦情を云ってく筋はねえ。だからそいつあ問題外だ。……とにかくトン公を目付けたので、それからそれと手繰って行って、お前という者を探りあてたのよ"
],
[
"交換だって? え、何の?",
"永年お前が欲しがっていた、あの紫錦を返してやろう。その代り一件の手箱をくんな"
],
[
"もうあの娘には用がねえからさ",
"おかしいな、どうしてだい?",
"俺の心が変ったからさ",
"だって、お前の子じゃあねえか"
],
[
"だから紫錦は俺達のものさ",
"ほんとに居場所を知っているのか?",
"知っていなくてさ。大知りだ",
"どこに居るな? 云ってみるがいい",
"じゃ、よこせ、杉の手箱を!"
],
[
"文! 紫錦にゃ罪はねえ! そんな事はよしてくれ!",
"じゃ、手箱を渡すがいい",
"ないのだないのだ! 手許には!",
"じゃ一体どこにあるのだ?",
"そいつあ云えねえ。勘弁してくれ",
"云えなけりゃそれまでよ。……そろそろ料理に取りかかるかな"
],
[
"ほんとに紫錦をいじめる気か?",
"二枚の舌は使わねえよ",
"ほんとに居場所を知ってるのか? え、紫錦の居り場所を?",
"二枚の舌は使わねえよ"
],
[
"その代り手箱を手に入れたら、きっと紫錦からは手を引くだろうな",
"云うにゃ及ぶだ、手を引くとも。元々あの娘を抑えたのは、その手箱が欲しかったからさ。いわば人質に取ったんだからな。……で、手箱はどこにあるな?",
"よく聞きねえよ、その手箱はな……"
],
[
"と云うなあお前さんが、あんまり嘘を云うからさ",
"ナニ嘘を云う? 嘘とはなんだ!"
],
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"あの、お客様でございます",
"お客様? どなただな?",
"伊丹屋の娘だと仰有いまして、眼の醒るようなお美しい方が、駕籠でお見えでございます",
"ああそうか、通すがよい"
],
[
"ほほう左様で、誰人からな?",
"ハイ、見知らぬ老人から",
"見知らぬ老人から? これは不思議",
"ほんとに不思議でございますの。……昨夜あれから参りました、瓦町の古家で、気味の悪い老人から、戴いたものでございます"
],
[
"杉でないと仰有いますと?",
"杉材としては持ち重りがする。鐡で作った箱の表皮へ、杉の板を張り付けたもので、しかも日本の細工ではない。支那製か南蛮製だ"
],
[
"ひとつ、開けて見ましょうかな。おおここに鍵穴がある。さて鍵だがお持ちかな?",
"ハイ、うちにならございます",
"では明日にでも持って来て、ともかくも開けて見ましょうかな",
"そういうことに致しましょう"
],
[
"実は空家と存じましてな",
"左様、ここは空家でござる。……幽霊屋敷で通っている。外桜田の毛脛屋敷でござる"
],
[
"姿はさまざまに俏しては居れど、浪士方と存ぜられます",
"いかにも左様、浪士でござる。……何の為の会合とおぼしめすな?",
"それはトント存じませんな",
"この図面、ご存知かな?"
],
[
"将軍に対する反逆については?",
"それとてよくはござらぬな。しかし、大勢というものは、多数の意嚮に帰するものでござる。天下は一人の天下ではなく、即ち天下の天下でござる、いや、帝の天下でござる",
"しかし、貴殿は旗本とのこと、すれば将軍は直接の主君、それに反抗するこの我々をさぞ憎く覚し召さりょうな?"
],
[
"ナニ、芸道とな? 何の芸道?",
"清元、常磐津、長唄、新内、その他一般の三味線学でござる。日本古来よりの芸道でござる"
],
[
"アッハハハ、沙汰の限りだ。こういう武士があればこそ、徳川の天下は亡びるのだ",
"両刀をたばさむ武士たるものが、遊芸音曲に味方するとは、さてさて武士道もすたれたものでござるな"
],
[
"ほほう、それは何故でござるな?",
"なぜと申して、立ち合ったが最後、負けるに相違ござらぬからな"
],
[
"しかし、それでは卑怯でござるぞ",
"負けると知って剣を合わせ、万一の僥倖を期する者こそ、即ち卑怯と申すもの。拙者はそれとは反対でござる"
],
[
"世の中は近々平和になるよ。だが今後とも小ぜりあいはあろう。幕臣たる者は油断してはならない。八郎、お前、久能山へ行け! 函嶺の険を扼してくれ!",
"それは、何故でございますな?",
"二三日中に西郷と逢う。そうして俺は談判する。俺の言葉を入れればよし、もし不幸にして入れなかったら、幕府の軍艦を一手に集め、東海道の薩長軍を、海上から俺は殲滅して見せる。函根、久能山は大事な要害だ。敵に取られては面白くない。……まあ八郎聞くがいい、どうだ冴え切った三味線ではないか",
"よい音色でございますな"
],
[
"これは只事ではございません",
"お前は剣道では奥義の把持者だ。俺などよりずっと上だ。お前がそう云うならそうかもしれない",
"これは危険がせまって居ります",
"ふうむ、そうかな。そうかもしれない",
"これは助けなければなりません"
],
[
"大丈夫だよ、親方のことだ、ヘマのことなんかやるはずはねえ",
"それにえて物を連れて行ったんだからな",
"あいつときたら素ばしっこいからな"
],
[
"まあ待ちな、もう直ぐだ。なんだか知らねえが親方が宝箱を持って来るんだとよ",
"何が入っているんだろう?",
"小さな物だということだ",
"で、うんと金目なんだな",
"一度にお大尽になるんだとよ",
"源公!"
],
[
"ふん、女に惚れているんだな",
"あたりめえだ、惚れてるとも、だから苦心して取り返したんだ",
"だが宜くねえぜ、そういう惚れ方は、古い惚れ方っていうやつだ"
],
[
"じゃ何が新らしいんだ",
"お前は承知させて、それからにしようって云うんだろう? だめだよだめだよそんなことは……",
"俺には出来ねえ、殺生な真似はな",
"じゃあお前は縮尻ぜ"
],
[
"ああいいとも、暇を上げよう。親元へでも帰るのかな",
"はい、あの神田の兄の許へ",
"おおその神田の兄さんとやらは、お上のご用を聞いているそうだな",
"はい、さようでございます",
"ゆっくり遊んで来るがよい",
"はい、それでは夕景まで"
],
[
"これはお土産、つまらない物よ",
"よせばよいのに、お気の毒ねえ",
"それはそうと兄さんはいて。妾ちょっと用があるのよ",
"おお、お花か、何だ何だ"
],
[
"ええ、それがなかったんですよ",
"探したらどこかにあるだろう。帰って窃り探して見な",
"そうねえ、それじゃ探してみよう"
],
[
"妾、近々伊丹屋の家を、出てしまうかもしれませんの",
"あなたが伊丹屋のお家を出て、一人住みでもなされたら、江戸中の若い男達は、相場を狂わせるでございましょうよ。……そうして貴女は江戸中の女から、妬まれることでございましょうよ",
"お口の悪い何を仰有るやら。……でもきっと貴郎様は、おさげすみなさるでございましょうね。そうしてもうもうお屋敷へなど、お寄せ付けなされはしますまいね",
"どう致しまして私など、こっちから日参いたします",
"まあ嬉しゅうございますこと、嘘にもそう云っていただけると、どんなに心強いことでしょう"
],
[
"はい、お呼びかと存じまして",
"呼びはしない。向うへ行っておいで"
],
[
"うん、そう云やアその通りだが、そこには曰があるんだろう。豚に真珠という格言もあらあ、せっかくの宝も持手が悪いと、ねっから役に立たねえものさ",
"今度は親方が手に入れたんだ、どうかマア旨く役立つといいが",
"役立つとも役立つとも。俺らきっと役立たせてみせる。伝説によるとこの壺は夜な夜な不思議をするそうだ"
],
[
"そいつも今の所わからねえ。この福の神を手に入れてから、まだ一晩も寝て見ねえんだからな",
"そうすると今夜が楽しみですね。小判の雨でも降るかもしれねえ"
],
[
"恐ろしい壺でございますことね。で、その壺はどうなさいました",
"伯爵様がお壊しなされた。別に変事も起らなかった。ところで地図はどうしたえ?"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻一」未知谷
1992(平成4)年11月20日初版発行
初出:「太陽」博文館
1925(大正14)年7月~12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"二銭!",
"はい"
]
] | 底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「新青年」
1927(昭和2)年7月
初出:「新青年」
1927(昭和2)年7月
入力:門田裕志
校正:北川松生
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"それじゃ私も",
"では拙者も"
],
[
"主人はいるかな、ちょっと逢いたいが",
"へい、どなた様でいらっしゃいますか?"
],
[
"これはこれは十二神の殿様で。……",
"ああ主人か、訊きたいことがある。この頃『ままごと』がよく出るようだが"
],
[
"諸方様からご注文でございますので",
"どんな方々から注文があるか、ひとつそれを聞かしてくれ",
"かしこまりましてございます"
],
[
"いずれも立派な方々からだな。……ところで松本伊豆守様からが、一番注文が多いようだが、この頃にご注文があったかな?",
"へい、一月の十五日までに、是非とも一つ納めるようにと、ご用人の三浦作右衛門様から。……",
"一月の十五日、ふうんそうか"
],
[
"ご大層もない人がお立ち寄りなされた! この節世上にお噂の高い『館林様』がお立ち寄りなされた! 深編笠、無紋のお羽織、紫柄のお腰の物、黙って道を歩かれても、威厳で人が左右へ除ける! お供はいつもお一人で……おやいけない、行っておしまいなさる!",
"館林様? ふうん、そうか"
],
[
"お勘定奉行の松本伊豆守様とおっしゃいますお方は、どういうお方なのでございましょう",
"厭な奴らしい"
],
[
"賄賂取りの名人だ。自分でも随分賄賂を使う。田沼侯へ贈賄して、あれまでの位置になった奴だ。……だがそれがどうかしたかな",
"はい。……いいえ"
],
[
"そのお方のご用人だとかいうお方が……",
"お前を見初めたとでも云うのかな?",
"でも妾はどうありましょうとも。……",
"…………"
],
[
"お品のことについて云っておられますので?",
"はい。……そうしてもう一人の、お気の毒な女の方についても",
"ああそれではお篠のことについて?"
],
[
"どなたへご献上なさいましたので?",
"甲必丹カランス殿にお訊きなされ"
],
[
"ははあさようでございましたか",
"伊豆は第二の人物で、やっつける必要はないのだからな",
"それはさようでございましょうとも",
"元兇の方をかたづけなければ嘘だ",
"それはさようでございましょうとも"
],
[
"私のお父上のご生存中は、田沼という男も今日のように、ああも僣上な真似はしなかった",
"それはさようでございましょうとも。殿のお父上右近将監様は、御老中におわすこと三十八年、その間にご加増をお受け遊ばしたこと、わずか六千石でございました。いかにご忠正でご謙謹で、お身をお守り遊ばすことが、お固すぎるほどお固うございましたことか",
"将軍家が田沼をご寵愛のあまり、度々ご加増遊ばされたが、ある時のご加増に田沼は憚り、私のお父上に意見を訊いたそうだ。するとお父上は云われたそうだ。『そなたの秩はまだ五万石以下だ。五万石まではよろしかろう。と云うのは徳廟『吉宗』公様が、秩五万に充たざる者は、積労によって増すべきであると、こう仰せ遊ばされたからだ。……今、将軍家よりの命があって、そなたがご辞退致したとあれば、一つには将軍家へ不恭となり、二つには将軍家の過贈の非を、世間へ知らせることになる。だからご加増は受けるがよろしい』と。……その時田沼は感激して、涙を流したということだ。……それだのに私のお父上が、この世を辞してからというものは、千恣百怠沙汰の限りの態だ。売官売勲利権漁り、利慾を喰わしては党を作り、威嚇を行っては異党を攻め、自己を非議する識者や学徒の、言説を封じ刊行物を禁じ、美女を蓄わえて己楽しみ、美女を進めて将軍家を眩まし、奢侈と軟弱と贈収賄と、好色の風潮ばかりを瀰漫させておる。……老中、若年寄、大目附、内閣は組織されていても、田沼一人に掣肘されて、政治の実は行われていない。……こういう時世には私のような男が、一人ぐらい出る必要がある。お父上が老練と家柄と、穏健と徳望とを基にして、老中筆頭という高官にあって、田沼の横暴を抑えたのを、私は年若と無位無官と、過激と権謀術数と、ある意味における暴力とを基とし、表面には立たず裏面にいて田沼の横暴を膺懲するのだ。……私のような人間も必要だ",
"必要の段ではございません。大いに必要でございます。でありますから世間では、殿様のことをいつとはなしに『館林様』とこのように申して、恐ろしい、神のような、救世主のような、そういう人物に空想し、尊び敬い懐しんでおります。……がしかし殿にはどう遊ばしましますので? これからどこへいらせられますので?",
"もう用事は済んだのだ。……証拠を捉えようと企んだ仕事が、今、成功したのだからな。で家へ帰ってもいいのだ。がしかし私は笑ってやりたい。で、もう少し行くことにしよう",
"あの行列の後をつけて?",
"そう、行列の後をつけて。そうしてその上であの行列が、あそこの門を何も知らずに、得意気にくぐってはいるのを見て、大声で笑ってやりたいのだ",
"殿らしいご趣味でございます",
"趣味といえばどうにも六人男の連中、あくど過ぎて少しく困る",
"根が不頼漢でございますから",
"云い換えると好人物だからさ",
"無頼漢が好人物で?",
"こんな時世に命を惜しまず、感激をもって事を行う! 気の毒なほどの好人物だよ。……仕事を成功させてからも、伊豆守を討って取ろうとして、横町から本通りへ引っ返して来て、再度の切り込みをしたことなどは、好人物の手本だよ",
"仕事と仰せられ、成功と仰せられる、どのような仕事なのでございますか?",
"家へ帰ってから話してあげよう"
],
[
"それでは今の献上箱の中に。……",
"お品殿がはいっておられようも知れぬ",
"行こう!",
"行かれるか?",
"屋敷の中へはいろう!",
"ご案内しましょう。おいでなされ"
],
[
"お品という女、美しいそうで",
"が、明日は狂女となって、醜くなってしまいましょうよ"
],
[
"可哀そうなお品を助け出すつもりで",
"ギヤマン室へ忍び込んでかな?",
"場合によっては切り込んで!"
],
[
"金銀財宝というものは、人々命にも代えがたいほどに、大切にいたすものではござるが、それらの物を贈ってまでも、ご奉公いたしたいという志は、お上に忠と申すもの、褒むべき儀にございますよ",
"御意、ごもっともに存じます。志の厚薄は、音物の額と比例いたすよう、考えられましてございます",
"彦根中将殿は寛濶でござって、眼ざましい物を贈ってくだされた。九尺四方もあったであろうか、そういう石の台の上へ、山家の秋景色を作ったもので、去年の中秋観月の夜に、私の所へまで届けられたが、山家の屋根は小判で葺いてあり、窓や戸ぼそや、板壁などは、金銀幣をもって装おってあり、庭上の小石は豆銀であり、青茅数株をあしらった裾に、伏させてあったほうぼうは、活きた慣らした本物でござったよ",
"その際私もささやかな物を、お眼にかけました筈にございます"
],
[
"その小刀と申しますのが……",
"存じておる、存じておる、柄に後藤の彫刻の、萩や芒をちりばめた、稀代の名作であった筈だ"
],
[
"ままごとというこの遊びを、私に教えてくだされたのも伊豆殿お前様であった筈だ",
"献上箱へ活きた犠牲を入れ、殿へ音物としてお送りしましたのも、私が最初かと存ぜられます",
"さようさようお前様だ",
"抽斗を引く、皿小鉢が出る。戸棚をあける、ご馳走が出る。抽斗を引く、盃が出る。戸棚をあける、酒が出る。……蒔絵を施した美しい、お勝手箪笥のあの『ままごと』! 酒盛りをひらくにすぐ間に合う、あの『ままごと』を妾は好きだ! 『ままごと』をひらいてお酒盛りをする! それから献上箱の蓋をあける! と、人形のよそおいをした、初心の未通女の女が出る。引っ張り出して酌をさせる。それから? それから? それから? それから? ……もう『ままごと』も献上箱も、運ばれている筈でございます! 早く行こうではございませんか! 行ってままごとをいたしましょうよ!"
],
[
"今度の仕事には間接ではあるが、最初から十二神貝十郎が、関係をしていたのだからな",
"それはさようでございますとも"
],
[
"そんなもの嫌いでございます",
"お品、こいつを冠せてやろうか"
],
[
"男に冠せるとようございますわ",
"御意で"
],
[
"こういう刑罰の道具類や、こういう節操保持の機械は、女から男へ進呈すべきものさ。……悪事は男がしているのだからなあ",
"浮世は逆さまでございますわね",
"御意で"
],
[
"浮世は逆さまでございますとも。そこで大変息苦しい。そこで当分貝十郎式に、韜晦して恋にでも耽るがよろしい",
"でも、勇気がございましたら。……",
"あ、待ってくれ、勇気なんてものは、館林様にお任せして置け。……勇気なんてものを持とうものなら、お前となんか交際う代わりに、ああいう六人の無頼漢どもと、交際わなければならないことになる……",
"では、勇気なんか、棄ててしまいましょう"
],
[
"これはようこそ、まあまあお坐り",
"吉雄殿、お話しのお島という娘で"
],
[
"いかさま美しい娘ごじゃな。こういう娘ごの命を取ろうなどとは、いやとんでもない悪い奴らで。……が、もうご安心なさるがよい。今夜で危険はなくなりましょう",
"いつ見てもこの部屋は珍らしゅうござるな"
],
[
"平賀源内殿、杉田玄伯殿など、相変わらず詰めかけて参りましょうな",
"あのご両人は熱心なもので。その他熱心の人々と云えば、前野良沢殿、大槻玄沢殿、桂川甫周殿、石川玄常殿、嶺春泰殿、桐山正哲殿、鳥山松園殿、中川淳庵殿、そういう人達でありましょうか。その人々の見物の仕方が、その人々の性格を現わし、なかなか面白うございます",
"ほほう、さようでございますかな。どんな見方を致しますので?",
"前野良沢殿、大槻玄沢殿、この人達と来た日には、物その物を根掘り葉掘り尋ね、その物の真核を掴もうとします",
"それは真面目の学究だからでござろう。あの人達にふさわしゅうござる。蘭医の中でもあのご両人は、蘭学の化物と云われているほどで",
"ところが平賀源内殿と来ると、ろくろく物を見ようともせず、ニヤリニヤリと笑ってばかりおられ、このような物ならこの源内にも、作り出すことが出来そうで――と云いたそうな様子をさえ、時々見せるのでございますよ",
"アッハッハッ、さようでござろう。平賀殿はいうところの山師、山師というのは利用更生家、新奇の才覚、工面をなして、諸侯に招かれれば諸侯を富まし、町人に呼ばれれば町人を富まし、その歩を取って自分も富む――と云う人間でありますからな。このような物を一眼見ると、それを利用してそれに類した物を、なるほどあの仁なら作られるでござろう。……それはそうとカランス殿には"
],
[
"そなたの苦しい境遇と、そなたの不思議な病気につき、私は探って知ったのだ。いや探らせて知ったのだ。その結果を吉雄殿に話し、吉雄殿からカランス殿に話し、カランス殿の力によって、そなたの身の上に振りかかっている、危難を助けていただくことにした。……あの薬売りの藤兵衛という男に、ああいうことを云わせたのも、この十二神貝十郎なのだ。安心して一切を委せるがよい。と云うのはこれからこの部屋の中へ、そなたの胆を奪うような、奇怪な出来事が起こるからだ。驚いて気絶などしないように",
"はい有難う存じます。厚くお礼を申し上げます"
],
[
"御用!",
"何を!",
"勘助御用だ!",
"仙介か! ……やっぱり……岡っ引だったな!",
"やい、神妙にお縄をいただけ!",
"…………",
"夜叉丸! 手前も……年貢の納め時だ!",
"馬鹿め! 人足! 捕れたら捕れ!"
],
[
"いけねえいけねえ言葉ばかりじゃアいけねえ、やい何んとか色をつけろ!",
"色をつけろとおっしゃいますと?",
"解らねえ奴だな、いくらか出せ!",
"へええお銭をでございますかな",
"あたりめえよ、膏薬代だ",
"と云うと怪我でもなさいましたので",
"え、怪我? うん、したした! 大変もない怪我をした。だからよ、出しな、膏薬代をさ!",
"ちょっと拝見いたしたいもので",
"ナニ、拝見? 拝見とは何をよ?",
"大変もない怪我という奴を",
"うるせえヤイ! 青瓢箪め!"
],
[
"いえ、私は……",
"大丈夫なのよ"
],
[
"喧嘩といえば喧嘩だが、性の悪い喧嘩でな",
"性のよい喧嘩ってありますかしら",
"出合い頭の間違いで、ぶん撲り合うというような、そういう喧嘩は性のいい喧嘩だ",
"性の悪い喧嘩といえば?",
"計画的に仕掛けた喧嘩さ。……それはそうと、こういうお妾横丁には随分喧嘩はあるだろうな",
"そうですねえ、まあ、ちょくちょく",
"ところで突きあたりの格子づくりの家だが、やはり妾の巣だろうな?",
"巣とはお口のお悪いことね。でも、ええ、お妾さんの巣のようだわ",
"一、二度見かけたことがあるが、そのお妾さん美い縹緻だった",
"そこでちょっかいを出そうと云うのね",
"うっかりちょっかいを出そうものなら、あのお妾さんくらいつくよ",
"鬼や夜叉じゃアあるまいし",
"それ以上に凄い玉かもしれない。顔に険のある女だった……旦那というのはどんな男かな?",
"旦那だか何んだか知らないけれど、時々駕籠で立派なお武家さんが深夜においでなさるようです",
"他にも男が出入りするだろう?",
"よくご存知ね。四、五人の男が……",
"物など持ち運んでは来ないかな?",
"おや、そう云えばそんなことも……でもどうしてご存知なんでしょうね?",
"俺の身分を知っているくせに、何を云うのだ。うっかりした女だ"
],
[
"そうそう旦那は与力衆でしたわね",
"今後は殿様と呼ぶがいい",
"結城ぞっきのお殿様ね",
"文句があるなら唐桟でも着るよ",
"いいえ、殿様と云わせたいなら、黒羽二重の紋服で、いらせられましょうとこう申すのさ",
"そういう衣装を着る時もある。が、その時には同心が従く",
"目明し衆も従くんでしょうね",
"お前なんかすぐふん縛る"
],
[
"遊んでおいでなされても、役目は忘れないとおっしゃるのね",
"それくらいなら御の字だ。遊びを役目の助けにしている――と云う荒っぽい時世なのさ"
],
[
"歌を聞かせてやったろうな",
"聞かせてやりましてございます",
"今度のことばかりは気永に構え、そろそろとやらなければ成功しがたい。暴力や権威をもってしても、歯の立つことではないのだからな",
"はい、さようでございますとも",
"直接本人にぶつかっても、口を割らない事件ではあるし",
"はい、さようでございますとも",
"それで傍流から手をつけたのが……"
],
[
"ええお母様、そうなんですよ。女が背後についております。その人が私へそう云わせるのです。でもそればかりではありません、たといその人が背後にいなくとも、早晩私は同じようなことを、お母様に云い出したに相違ありません。ただ、あの人が私へ来たために、云い出すのが早くなったばかりなのです。……だってそうじゃアありませんか。私達の家は何んていうのでしょう。ガランとしていて寂しくて、陰惨としていて墓場のようです。その辺に沢山幽霊がいて、私達を見守ってでもいるようです。大きな屋台骨、暗い間取り、荒れ果てた庭、煤けた階段、陽の目さえ通さないじゃアありませんか。ここにじっとして坐っていると、私は滅入ってしまいそうです。……いえそれよりもっともっと、大事なことがあるのです。それはお母様とお父様なのです。まあどうでしょうお父様と来ては、年が年中離座敷ばかりにいて一度として主屋へはいらっしゃらない。一度として戸外へおいでにならない。庭へさえ出ないじゃアありませんか。その上お母様や私をさえ、はいらせようとしないじゃアありませんか。ええそうです離座敷の中へ。……つまりお父様は狂人なのです。それもひどい人間嫌いの。ところでお母様はどうかというに、猫可愛がりに私を可愛がってお父様へ接近させまいとする。教えることは何かと云うに、じっとしておれ、穏しくしておれ、世間へ出るな、出世など願うな――と云うようなことばかりです。そうしてお母様はおっしゃられる、二十五歳まで待つがよい。その時お前は金持ちになれると! ……そういう私の家庭です。こういう家庭にじっとしていれば、青年としての活気が失われます。出て行かなければなりません。出て行って私は何かしたいのです",
"そういうことを云わせるのも、お前についている女だと思うよ。妾にはその女が憎くてならない",
"悪い女ではございません、お母様誤解してくださいますな"
],
[
"妾はあの夜お逢いしました時から、あなた様を愛しておりました",
"私もそうなのでございます"
],
[
"出ましょう、出ますとも、家を出ましょう! お蝶様ご一緒に行ってくださるか",
"行く段ではございません……でも"
],
[
"でも、世間へは手ぶらでは、出て行けるものではございません",
"手ぶらで! 手ぶらとは? 何んのことでしょう?",
"世間は薄情でございます。薄情の世間と戦うには、戦うだけの用意をしなくては……",
"いえ、私はこう見えても、体は強うございますから……",
"体も体でございます。……それより、何よりお金がないことには……"
],
[
"あの歌の後さえ解りましたら、金はなんぼでも出来るのですが。……あの歌の後を知っている者は右のこめかみに痣のある老人ばかりなのでございます",
"私の父の右のこめかみにも、痣があるのでございますよ。……でも私の父などが……",
"後の歌をお聞き出しくださいまし"
],
[
"そんなお前、勝手なことを!",
"ねえお母様、お金をくだされ!",
"そういうことも背後にいる女が……",
"ねえお母様、お金をくだされ!"
],
[
"今! すぐにだ! ねえお母様!",
"狂人だ! お前は! ……おお恐ろしい! 誰か来ておくれ、京一郎が妾を!"
],
[
"娘ご、どうかな、怪我はなかったかな",
"はい、ありがとう存じます。おかげをもちまして",
"それはよかった。家はどこかな、送って進ぜる、云うがよい",
"はい、ありがとう存じます。すぐ隣り村でございまして、征矢野と申しますのが妾の家で……あれ、ちょうど、家の者が……喜三や、ほんとに、何をしていたのだよ……",
"お嬢様、申しわけございません。道で知人に逢いましてな"
],
[
"それはこっちでも云うことだが……",
"あれ、幸い家の者が……"
],
[
"へい、いくらでもございますだ",
"ナニ、一軒で沢山なのだが、美しい娘のある家だ",
"木曽は美人の名所でごわしてな"
],
[
"へい、御意で、三十年前には",
"三十年前の別嬪については、いずれ詮索をするとして、三保という娘のいる家だが……",
"あれ、お三保お嬢様のお家でがすか",
"さよう。お前の親戚かな"
],
[
"ね、いいじゃアありませんか。……いつまで待てとおっしゃるのでしょう。……",
"いいえ、いけませんの、どうぞ勘忍して。……妾、辛いのでございますわ。……だって、叔父様が……ね、ですから……",
"叔父様が何んです! そんなもの! ……ああ私はどうしたらいいのだ! ……もう待てないのです、とても私には! ……若さだって過ぎてしまいます! ……逃げましょう、いっそ、ね、二人で! ……"
],
[
"私と三保子様との恋三昧をでさあ",
"…………",
"旦那、邪魔をしちゃアいけませんぜ",
"貴様は誰だ!",
"鏡太郎って者だ!"
],
[
"うるさい下司だな、何を云うか!",
"何を、箆棒、怖いものか",
"行け!",
"勝手だ",
"白痴者め"
],
[
"さようさようそうだそうです。親父を生かして返してくれ、それが出来なかったら財産を渡せ――こう云って強請ったということで",
"ところがその男もいつの間にか、姿が失くなってしまったそうで"
],
[
"先代が裏庭の松の木の枝で、首を縊って死んでいたのを、私は検屍をしたのでしたが、厭な気持ちがいたしましたよ",
"私は現在ここの娘の、お三保さんに読書を教えているのですが、どうも性質が陰気でしてな"
],
[
"いいえさ、今度こそ上手に、ホ、ホ、散らぬようお注ぎいたします",
"うーん、どうもな、大変な女だ",
"まあ失礼な、お口の悪い",
"いやはや、ご免、地金が出ました",
"今度は罰金でございます",
"と云うところでもう一つか",
"それもさ、今度は大きい器で"
],
[
"降参でござる。もういけない",
"では妾が助太刀と出ましょう",
"おお飲まれるか、これは面白い。……さあさあ拙者が注ぎの番か"
],
[
"ナーニ、奥州は宮城野の産だ。……そなたこそ江戸の産まれであろうな",
"房州網代村の産でござんす。……ご免遊ばせ"
],
[
"おい豊ちゃんどうなんだい",
"鏡ちゃん、駄目だよ、まだなんだよ",
"駄目、へえ、どうして駄目なんで?",
"あの人どうにも固いのでね",
"何んだい、豊ちゃん、意気地がないなあ",
"鏡ちゃんだって意気地がないよ。二度も三度も縮尻ったじゃアないか",
"邪魔がそのつど出やがるのでね。それもさいつも同じ奴が。江戸者らしい侍なんだよ",
"江戸者らしい侍といえば、妾もそういうお侍さんへ、酒を飲ませて酔いつぶしてやったよ",
"邪魔の奴はつぶしてしまうがいいなあ。……でないといい目が見られないからなあ。……豊ちゃんと俺らとのいい目がさ"
],
[
"ですから三保子様を早くどなたかへ。……鏡太郎さんというあの人へでも。……お仕事! ああ、そのお仕事です! どんなに妾はそのお仕事を、憎んで憎んで憎んでおりますことか! ……そのためあなたは人相までも、変わってしまったではありませんか! ……二つの骸骨! 壊してしまおうかしら!",
"これ、お豊! 何を云うのだ!",
"旦那様! いいえ隼二郎様",
"お豊、私はお前を愛している。……ね、それだけは信じておくれ"
],
[
"猪之助? おお猪之助が。……あの破落戸が! 執念深い! ……兄の悪口を云っていたであろうな",
"ええ申しておりました",
"去年も来た、一昨年も来た。……普通の日にもやって来て、私を強請ったことさえある。……あいつは誤解をしているのだ。……いやいやいや、誤解ではないが。……お豊や、私は気持ちが悪くなった。お前は向こうへ行って休むがよい"
],
[
"退け! 今夜こそ埒をあけるんだ!",
"いけません! ……おお、誰か来てください!",
"敵だ! 畜生め! 親の敵だ! ……待って待って待っていたのだ! ……他国からこの地へやって来て、こんな山の中へ住み込んで! 金……命を取るか、金を取るかと! ……やい、放せ! 埒をあけるのだ!",
"危険い! そんな、刃物なんか! ……誰か来てください! あッ誰か!"
],
[
"鏡ちゃん! いいところへ! 早く来ておくれ!",
"姉さん! あぶない! ……おのれ猪之助!",
"何を、こいつら! 邪魔をするな!"
],
[
"ああ、あなた猪之助さんね。……どうなさいました、匕首など持って。……",
"…………"
],
[
"おや財布を盗まれたぞ",
"俺も印籠を盗まれた",
"掏摸が入り込んでいるらしい",
"どこにいる、捕えろ、叩きのめせ"
],
[
"それでは明後日の夜。……ね、珠太郎様",
"明後日の夜? ……ええ、きっと。……",
"まず名古屋まで通し駕籠で。……",
"通し駕籠で、……参りましょうとも",
"詳細い手筈は明日の晩に、やはりここで致しましょうよ",
"ええここで、明日の晩に。……"
],
[
"アッハッハッ、どうしたものだ。そんな殺生な真似はしない方がいい",
"これはこれはとんだ話で、あなた様こそ殺生な真似など、なさいません方がよろしいようで",
"何を馬鹿な、十二神め!",
"館林様こそよくございません"
],
[
"ちょっと来てくれ、訊きたい事がある",
"おや、十二神の殿様でしたか"
],
[
"どうだ、大概は大丈夫か",
"はい、大丈夫でございます",
"八人芸のお前なんだからな",
"とんだものがお役に立ちまして。……",
"相手は六人だから訳はあるまい",
"癖を取るのは訳はないんですが、六人が一緒に集まって、話しているところへぶつかるのが大骨折りでございました",
"一緒に住んでいないのだからな",
"みよし屋の寮だけがまあまあで",
"だから俺が教えたのさ。三人住んでいるのだからな",
"娘ッ子が難物でございましたよ",
"そうだったろう、大いに察しる",
"いつご用に立てますので?",
"大体明日の晩だろう",
"さようでございますか、よろしゅうございます"
],
[
"困った奴だなあ、止せばいいのに",
"あんな姿であんなことをして、人に見られたらどうするのだ",
"病気のように好きなんだからなあ、潮湯治っていうやつをよ。どうにもこうにもやり切れない",
"それも毎晩やるんだからなあ"
],
[
"この席にいる客人を、お前、何んとか思わないかな?",
"はい、いいえ、別に何んとも。……"
],
[
"は、どう思うとおっしゃいますと?",
"社会的に見てどう思うか?",
"…………",
"浪人とは失業知識階級の謂だ。……社会の中間に浮動している群だ",
"…………",
"一番危険な連中だ",
"…………",
"時代の宗教、時代の道徳、幕府の強圧や迫害に屈せず、食って行けないという事実の下に、浪人という浪人の、あるいは潜行的にあるいは激発的に、押し進んで行く目標といえば、政治的革命という一点なのだ。由井正雪の謀反事件も、天草島原の一揆事件も、その指導者は浪人群だった。別木、林戸の騒擾事件から、農村に起こった百姓一揆の、指導者もおおかた浪人者なのだ。そういう危険の浪人者が、今非常に多くなっている。将来益〻多くなるだろう。何故というに大名取り潰し政策を、幕府が固執しているからだ。徳川が天下を取って以来、二百年近くになっているが除封減禄された大名の数、三百をもって数えることが出来る。石高にして二千万石、一万石の大名から、二百人の浪人は出る。と、これまでに四十万人の、浪人が出ていることになる。さてこれらの浪人に対して、幕府はどういう処置をとっているか?『他所ヨリ牢人者(浪人者の事)参リ所有度由申候ハバ吟味ノ上、御断申可シ』――追っ払ってしまえと達を出している。『近年村々ヘ浪人体ノモノ参、合力ヲ乞、ネだりヶ間敷儀申モノ数多有之候間、右体ノモノ召捕候ハバ、直ニ訴可』――合力もするな、捕えて突き出せ、こう残酷に命じているのだ。こう残酷にあつかわれては、浪人といえどもたまらない。とはいえどうしても生きて行かなければならない。そこでとうとう対抗上『近来浪人体ノ者所々ヘ大勢罷越、村方ノ手ニ難及、会難儀候段相聞候』というように、多勢が一緒にかたまって、押し借りをするようになってしまい、『近年諸国在々浪人体ノモノ多ク徘徊イタシ、頭分、師匠分抔ト唱、廻場、留場ト号シ、銘々、私ニ持場ヲ定、百姓家ヘ参リ合力ヲ乞』というように、合力を乞う持ち場をさえ、定めるようになってしまい、甚しいのに至っては『近来浪人共、槍鉄砲等ヲ大勢シテ持歩、在々所々ニ於テ及狼藉』――と云うようになってしまった。……槍鉄砲を持ち歩くに至っては、内乱の萠と云ってもよい。が、それはそれほどまでに、失業知識階級の――浪人者の心境が、荒んで来ているという証拠であり、それほどまでに浪人者の、生活が苦しくなって来た。――と云うことの証拠でもある。……ではそういう浪人者の群を、少なくとも安全に生活させてやる、そういう政策を立つべきではないか。どうだな十二神、そうは思わぬかな?"
],
[
"…………",
"邪魔をするな、このわしの仕事を!",
"…………",
"お前も掻い撫での与力ではなく、物の解った人間の筈だ。邪魔をするな、わしの仕事を!"
],
[
"あッ、お小夜だ! お小夜だお小夜だ!",
"さよう、お小夜です。大変なお小夜です。……帰って来るまで見ていましょう"
],
[
"貝を吹き旗差し物をかざし、進む者がなければいけないのだ。でなければいつまでも悪い浮世は悪い浮世のままで居縮んでしまう",
"そこであなた様が先駆者となって、事を起こそうとなさいますので?"
],
[
"今夜集まって来た浪人者なんか、食いも慣らわないご馳走を食い、かつてなかった待遇を受け、いい気持ちに大言壮語して館林様を讃美しているが、明日になって自分の古巣へ帰ると、古巣の生活を後生大事に守り、館林様が事を挙げたって、一人だって従いて行きはしないよ",
"俺らにしてからがそうだろう、神道徳次郎、火柱夜叉丸、鼠小僧外伝、いなば小僧新助、女勘介、紫紐丹左衛門、こう六人揃っていたって、心からあのお方に従いて行こうと、そう思っている者はないのだからなあ。……女勘介、お前はどうだ? お前の方の仕事はどうなっている?",
"ああ俺らの例の仕事か、俺らあいつは止めてしまった。丸田屋が寝返りを打った場合、苦しめてやる手段として、一人息子の珠太郎を、誘拐して監禁してしまえという、館林様の吩咐けだったので、そのつもりで骨を折ったんだが、こういう仕事には飽き飽きしている俺だ。投げ出してしまったよ、止めてしまったよ"
],
[
"浜の方へでも参りましょう、海など見ようではございませんか",
"うん"
],
[
"お前の八人芸、巧いものだな",
"お役に立って何よりでした",
"よく六人の無頼漢どもの、声の特徴を真似したものだ",
"それでも妾はハラハラしました。殿様から教えられた白といえば、あそこまでしかなかったのですから。あれから先が入用ようなら、どうしたものかと思いましてね",
"あれはあれだけでよかったのだった",
"それにしても妾には不思議でならない。誰もいないあんなみよし屋の寮で、六人の声色を使うなんて",
"お前にあそこへ行って貰う前に、三人の男が住んでいたのだ。そうして他にもう三人の男が――そいつらは人目に立たないように、他の貸し別荘にバラバラになって、めいめい住んでいたのだが、時々あそこへ集まって、よくないことを企んでいたのさ。が、そいつらはお前が行く前に、あわてて引き上げて行ってしまった。引き上げさせたのは俺なのだがな",
"妾、芸当をやりながら、障子の隙から見ていました、大変品のあるお武家様が、あなた様と連れ立っておいでなさいましたのね",
"あのお方へお聞かせしたかったのさ、そのお前の芸当をな"
]
] | 底本:「十二神貝十郎手柄話」国枝史郎伝奇文庫17、講談社
1976(昭和51)年9月12日第1刷発行
初出:「文芸倶楽部」
1930(昭和5)年1月~6月
※誤植の確認には「国枝史郎伝奇全集 巻4」(未知谷)を用いました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「不頼漢」と「無頼漢」、「女勘助」と「女勘介」、の混在は底本の通りです。
入力:阿和泉拓
校正:小林繁雄、門田裕志
2005年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"花ヲ看還花ヲ看ル",
"春風江上ノ路",
"覚ズ君ガ家ニ到ル"
],
[
"ああそうですか、では何時でも、私の所へいらっして下さい――ところで貴郎のお名前は?",
"結城善也と申します"
],
[
"左様左様、よい絵ですなあ……尤も私には絵の事なんか実はてんで解らないのですがね。貴女がよいと有仰るのですもの好い絵で無くて何うしましょう",
"まあ何んて変な云い方でしょうね。酒井さんたら可笑しな方ね……私この絵が気に入りました。初々しい所が素敵ですわ",
"全く、初々しい所が素敵ですなあ",
"黙っていらっしゃいよ莫迦らしい……何んにも解かってもいない癖に",
"それでは沈黙しましょうかね。何も彼も貴女の御意のままです"
],
[
"こんな拙い絵をでございますか?",
"何を有仰います拙いなんて……立派な傑作ではございませんか"
],
[
"え? 音ですって? どんな音?……何んにも聞えないじゃありませんか!",
"いいえ、聞えて来ますとも、地の底を掘るような物音が"
]
] | 底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「ポケット」
1924(大正13)年3月
初出:「ポケット」
1924(大正13)年3月
入力:門田裕志
校正:湖山ルル
2014年6月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"でもね伊右衛門さん、そうじゃあ無いか。私の女房の姉というのは、四谷左門の娘お岩、その左門とお岩とを、お前さんは文字通り殺したんだからね",
"そうとも文字通り殺したよ。お岩を呉れろと云った所、左門奴頑固に断わったからな。それで簡単に叩っ切ったのさ",
"でも何うしてお岩さん迄?",
"うん、増花が出来たからよ",
"伊藤喜兵衛のお嬢さんが、惚れていたとは聞いていたが",
"お梅と云って別嬪だった",
"お岩さんより可かったんだね?",
"第一若くて初心だったよ。子を産みそうな女ではなかった。玩具のような女だったよ",
"へへえ、そこへ打ち込んだんだね!",
"何しろお岩は古女房、そこへ持って来て子を産みやあがった。どうもね、女は子を産んじゃあ不可ねえ。ひどく窶れてみっともなくなる。肋骨などがギロギロする。尤も金持の家庭なら、一人ぐらいは可いだろう。産後の肥立が成功すると、体の膏がすっかり脱けて、却って別嬪になるそうだからな。ところが不幸にもあの時分、俺等はヤケに貧乏だったものさ",
"でも、殺さずとも可かったろうに",
"ナーニ、手にかけて殺したんじゃあねえ。変な具合で自殺したんだ。尤も自分で死ななかったら、屹度俺は殺したろうよ",
"恨死に死んだんだね",
"お説の通りだ、恨死に死んだ",
"で、只今はお梅さんと、仲宜くおくらしでござんすかえ?"
],
[
"お梅は何うでも可かったが、持参金だけは欲しかった。伊藤の家庭と来たひにゃあ、時々蔵から小判を出して、錆を落とさなけりゃあならねえ程、うんとこさ金があったんだからなあ",
"だが何うして殺したんで?"
],
[
"ははあ、其奴ぁお岩さんの怨だ",
"世間でもそんなことを云っていたよ",
"でお前さんは何う思うので?",
"何う思うとは何を何う?",
"幽霊が恐くはありませんかね?",
"それより俺は斯う云い度いのさ。人間の良心というものは、麻痺させようと思えば麻痺出来るとな"
],
[
"それ、お前さんもご存知の通り、お袖の許婚は佐藤与茂七、其奴を私が叩っ切り、敵の目付かる其うち中、俺等の所へ来るがいいと、斯う云ってお袖を連れて来たんでしょう。ところがお袖奴真に受けて、許婚の敵の知れる迄は、私に肌身を許さないそうで",
"やれやれ其奴はお気の毒だ。お前にしては気が長いな",
"短くしてえんだが成りそうもねえ",
"構うものか、腕力でやるさ",
"其奴だけは何うも出来そうもねえ"
],
[
"じゃあ最う一つ手段がある",
"へえ、もう一つ、聞かして下せえ",
"好む所に応ずるのよ",
"あっさりしていて解らねえ",
"いいか、お袖へ斯う云うのさ。敵を目付けた其上に、助太刀ぐらいはしてやるから、俺の云うことを聞くがいいとな",
"成程、大きに可いかも知れねえ",
"逆応用という奴さ",
"今夜あたり遣っ付けるか",
"ところで何うだ、稼業の方は?",
"今年は何うやら鰻奴が、上方の方へでも引っ越したらしい。何処を漁っても獲物がねえ",
"じゃあ随分貧的だろう?",
"顔色を見てくれ、艶があるかね",
"お袖は何うだ? 顔の艶は?",
"それがさ、俺よりもう一つ悪い",
"つまり栄養不良だな",
"商売物だけは食わせられねえ",
"今夜だけ其奴を食わせてやれ",
"え、鰻をかい? 今夜だけね?",
"そうさ、精力が無かったら、色気の方だって起こるめえ",
"うん、こいつぁ金言だ",
"それ、金言という奴は、行う所に値打がある",
"よしよし今夜だけ食わせてやろう",
"そうだ、其処だよ、今夜だけだ。明日になったら麦飯をやんな",
"麦飯なら毎日食っている"
],
[
"悪にかけちゃあお前が上だ",
"天井抜けの不義非道",
"首が飛んでも動いて見せるか",
"なにさ、良心を麻痺させる、だけよ"
],
[
"や、南無三、餌を取られた。……それは然うとオイ直助、今日は鰻は取れたのか?",
"うんにゃ"
],
[
"お主の難病……薬下せえ",
"うんにゃ"
],
[
"そうよ、夫婦になりましょうよ",
"大変結構でございまする",
"これには伊右衛門も驚くだろうね",
"こんな事でもしなかったら、彼奴は吃驚りしますまい。……だが最う私達は伊右衛門のことなど、これからは勘定に入れますまい"
],
[
"嬉しいのよ、小平さん",
"ああ私も、お岩さん"
]
] | 底本:「怪奇・伝奇時代小説選集2」春陽文庫、春陽堂書店
1999(平成11)年11月20日第1刷発行
初出:「大衆文藝」
1926(大正15)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2007年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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} |
[
[
"そういうご貴殿こそどこへ参られるな?",
"君命を帯びて薩州邸まで……"
],
[
"志賀山初という名人が近年まで生きておりましたが",
"どんな様子の女だったね?",
"なかなか上品のお婆さんでした",
"それじゃその人かも知れないな……俺は三度まで逢ったんだがね。それもいつも往来でね",
"それで、何んですか、ご前とは、何か関係でもございましたので?",
"あるといえばあったようなもの、ないと云えばなかったようなものさ……ところで、初というその老女はどんな具合に死んだかな? 往来の上で野倒れ死にかな?"
]
] | 底本:「怪しの館 短編」国枝史郎伝奇文庫28、講談社
1976(昭和51)年11月12日第1刷発行
初出:「サンデー毎日」
1924(大正13)年1月1日号
入力:阿和泉拓
校正:多羅尾伴内
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043560",
"作品名": "開運の鼓",
"作品名読み": "かいうんのつづみ",
"ソート用読み": "かいうんのつつみ",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「サンデー毎日」1924(大正13)年1月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-12-20T00:00:00",
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"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
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"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
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"底本出版社名1": "国枝史郎伝奇文庫28、講談社",
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[
[
"話はないかな? 面白い話は?",
"へえへえ"
],
[
"へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……",
"無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……"
],
[
"お爺様! お爺様! お爺様!",
"おお娘、しっかりしろ!"
],
[
"深くは無いが、ちょっと痛い",
"アッハハハ、お気の毒だな。……手中に握った天罰でござる",
"でも宜く心が付かれたな",
"天地人三才の筋からでござる",
"大概な者には解らぬ筈だが",
"なにさ、手相さえ心得て居れば、あんなことぐらいは誰にでも解る。……が、あれは何術でござるな?",
"さよう、あれは、十宮伝"
],
[
"ご老人ほどの方術家にも、どうにもならぬと見えますな",
"天人にも五衰あり、仙人にも七難がござる。……死霊だけには手が出ない",
"歌に就いてのお考えは?",
"え、歌だって? なんの歌かな?",
"彼奴等の歌ったあの歌でござる",
"あああれか、考えて見た。……が、どうも解らない",
"ところが拙者には解って居る",
"ふうん、さようかな、その意味は?"
],
[
"さようでござる、孫娘で",
"どうして活きて戻られたな?",
"いや夫れは毎晩でござる。毎晩彼奴等が征めて来ては、あの娘を死骸とし、船へ運んで虐んだ後、活かして返してよこすのでござる。……可哀そうなのは孫娘でござる。だんだん衰弱いたしてな、……つまりわしには祟れぬので、そこで弱い娘に祟り、わしを間接に苦しめるのでござるよ",
"老人、何か過去に於いて殺生なことはなされぬかな?"
],
[
"今後はなんとなされますな?",
"手が出ませぬ。捨てて置きます",
"お娘御のお命は?",
"可哀そうに、死にましょう"
]
] | 底本:「妖異全集」桃源社
1975(昭和50)年9月25日発行
初出:「ポケット」
1926(大正15)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本には以下に挙げるように誤植が疑われる箇所がありましたが、正しい形を判定することに困難を感じたので底本通りとし、ママ注記を付けました。
○練金術:「錬金術」の誤記か。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043586",
"作品名": "鵞湖仙人",
"作品名読み": "がこせんにん",
"ソート用読み": "かこせんにん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「ポケット」1926(大正15)年3月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-01-09T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "妖異全集",
"底本出版社名1": "桃源社",
"底本初版発行年1": "1975(昭和50)年9月25日",
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"入力者": "阿和泉拓",
"校正者": "小林繁雄、門田裕志",
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"テキストファイル最終更新日": "2004-12-13T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-12-13T00:00:00",
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} |
[
[
"貴殿、手中に握っておられるもので",
"ははあこれで、独楽でござるか。アッハッハッ、子供騙しのようなもので",
"子供騙しと仰せられるなら、その品拙者に下さるまいか",
"…………",
"子供騙しではござるまい",
"…………",
"その品どちらで手に入れられましたかな?",
"ほんの偶然に……たった今しがた",
"ほほう偶然に……それも今しがた……それはそれはご運のよいことで……それに引き換え運の悪い者は、その品を手中に入れようとして、長の年月を旅から旅へ流浪いたしておりまするよ",
"…………",
"貴殿その品の何物であるかを、ではご存知ではござるまいな?",
"左様、とんと、がしかし、……",
"が、しかし、何でござるな?",
"不思議な独楽とは存じ申した",
"その通りで、不思議な独楽でござる",
"廻るにつれて、さまざまの文字が……",
"さようさよう現われまする。独楽の面へ現われまする。で、貴殿、それらの文字を、どの程度にまで読まれましたかな?",
"淀という文字を目つけてござる",
"淀? ははア、それだけでござるか?",
"いやその他に荏原屋敷という文字も",
"ナニ荏原屋敷? 荏原屋敷? ……ふうん左様か、荏原屋敷――いや、これは忝のうござった"
],
[
"その独楽を拙者にお譲り下されい",
"なりませぬな、お断りする"
],
[
"貴殿のお話承わらぬ以前なら、お譲りしたかは知れませぬが、承わった現在においては、お譲りすることなりませぬ",
"ははあさては拙者の話によって……",
"さよう、興味を覚えてござる",
"興味ばかりではござるまい",
"さよう、価値をも知ってござる",
"独楽についての価値と興味とをな",
"さようさよう、その通りで",
"そうすると拙者の言動は、藪蛇になったというわけでござるかな",
"お気の毒さまながらその通りで",
"そこで貴殿にお訪ねしますが、この拙者という人間こそ、その独楽を手中に入れようとして、永年尋ねておりました者と、ご推量されたでござりましょうな",
"さよう、推量いたしてござる",
"よいご推量、その通りでござる。……そこであからさまにお話しいたすが、その独楽を手中に入れようとする者、拙者一人だけではないのでござるよ。……拙者には幾人か同志がござってな、それらの者が永の年月、その独楽を手中に入れようとして、あらゆる苦労をいたしておるのでござる",
"さようでござるか、それはそれは",
"以前は大阪にありましたもので、それがほんの最近になって、江戸へ入ったとある方面よりの情報。そこで我ら同志と共々、今回江戸へ参りましたので",
"さようでござるか、それはそれは",
"八方探しましたが目つかりませなんだ",
"…………",
"しかるにその独楽の価値も知らず、秘密も知らぬご貴殿が、大した苦労もなされずに、楽々と手中へ入れられたという",
"好運とでも申しましょうよ",
"さあ、好運が好運のままで、いつまでも続けばよろしいが",
"…………"
],
[
"拙者か、拙者の同志かが、必ずその独楽を貴殿の手より……",
"無礼な! 奪うと仰せられるか!",
"奪いますとも、命を殺めても!",
"ナニ、命を殺めても?",
"貴殿の命を殺めても",
"威嚇かな。怖いのう",
"アッハッハッ、そうでもござるまい。怖いのうと仰せられながら、一向怖くはなさそうなご様子。いや貴殿もしっかりものらしい。……ご藩士かな? ご直参かな? 拙者などとは事変わり、ご浪人などではなさそうじゃ。……衣装持物もお立派であるし。……いや、そのうち、我らにおいて、貴殿のご身分もご姓名も、探り知るでござりましょうよ。……ところでお尋ねしたい一儀がござる。……曲独楽使いの女太夫、浪速あやめと申す女と、貴殿ご懇意ではござりませぬかな?"
],
[
"存じませぬな、とんと存ぜぬ",
"ついそこの曲独楽の定席へ、最近に現われた太夫なので",
"さような女、存じませぬな"
],
[
"奪ったとは何だ、無礼千万! 拙者は武士だ、女芸人風情より……",
"奪ったでなければ貰ったか!",
"こやつ、いよいよ……汝、一刀に!"
],
[
"何だ貴公、鷲見ではないか",
"さようさよう鷲見与四郎じゃ"
],
[
"呆れた話じゃ、どうしたというのだ",
"申し訳ない、人違いなのじゃ"
],
[
"承知の通りのお館の盗難、そこで拙者ら相談いたし、盗人をひっ捕らえようといたしてな、今夜もお館を中心にして、四方を見廻っていたところ、猿廻しめに邂逅いたした",
"猿廻し? 猿廻しとは?",
"長屋の女小供の噂によれば、この頃若い猿廻しめが、しげしげお長屋へやって来て、猿を廻して銭を乞うそうじゃ",
"そこで、怪しいと認めたのじゃな",
"いかにも、怪しいと認めたのじゃ。……その怪しい猿廻しめに、ついそこで逢ったので、ひっ捕らえようとしたところ、逃げ出しおって行方不明よ",
"なに逃げ出した? それなら怪しい",
"……そこへ貴殿が土塀を巡って、突然姿をあらわしたので……",
"猿まわしと見誤ったというのか?",
"その通りじゃ、いやはやどうも",
"拙者猿は持っていない",
"御意で、いやはや、アッハッハッ",
"そそっかしいにも程があるな",
"程があるとも、一言もない、怪我なかったが幸いじゃ",
"すんでに貴公を斬るところだった。これから貴公たちどうするつもりじゃ",
"業腹じゃ。このままではのう。……そこでこの辺りをもう一度探して……",
"人違いをして叩っ切られるか",
"まさか、そうそうは、アッハッハッ。……貴殿も一緒に探さぬかな",
"厭なことじゃ。ご免蒙ろう。……今日拙者は非番なのでな、そこで両国へ行ったところ、あそこへ行くと妙なもので、田舎者のような気持になる。それで拙者もその気になって、曲独楽の定席へ飛び込んだものよ。すると、そこに綺麗な女太夫がいて……",
"ははあ、その美形を呼び出して、船宿でか? ……こいつがこいつが!"
],
[
"逃げようとて逃がしはせぬ、無理に逃げればぶった斬るぞ!",
"…………"
],
[
"隠語とのことにござります",
"…………",
"昨夜近習の山岸主税こと、怪しき女猿廻しを、ご用地にて発見いたし、取り抑えようといたしましたところ、女猿廻しには逃げられましたが、その者独楽を落としました由にて、とりあえず独楽を調べましたところ、この紙片が籠められておりましたとか……これがその独楽にござります"
],
[
"これは奥の秘蔵の独楽じゃ",
"奥方様ご秘蔵の独楽?",
"うん、わしには見覚えがある、これは奥の秘蔵の独楽じゃ。……それにしても怪しい猿廻しとは?",
"近頃、ひんぴんたるお館の盗難、それにどうやら関係あるらしく……",
"隠語の意味わかっておるかな?",
"主税儀解きましてござります",
"最初に『三十三』と記してあるが?",
"『こ』という意味の由にござります",
"『こ』という意味? どうしてそうなる?",
"いろは四十八文字の三十三番目が『こ』の字にあたるからと申しますことで",
"ははアなるほど",
"山岸主税申しますには、おおよそ簡単の隠語の種本は、いろは四十八文字にござりますそうで、それを上より数えたり、又、下より数えたりしまして、隠語としますそうにござります",
"すると二番目に『四十八』とあるが、これは『ん』の隠語だな",
"御意の通りにござります",
"三番目に『二十九』とあるが、……これは『や』の隠語だな",
"御意の通りにござります",
"その次にあるは『二十四』だから、言うまでもなく『う』の字の隠語、その次の『二十二』は『ら』の字の隠語、その次の『四十五』は『も』の字の隠語、『四十八』は『ん』の字の隠語、『四』は『に』の字の隠語、『三十五』は『て』の字の隠語。……これで全部終えたことになるが、この全部を寄せ集めれば……",
"こんやうらもんにて――となりまする",
"今夜裏門にて――いかにもそうなる",
"事件が昨夜のことにござりますれば、今夜とあるは昨夜のこと。で、昨夜館の裏門にて、何事かありましたと解釈すべきで……",
"なるほどな。……で、何事が?",
"山岸主税の申しまするには、お館の中に居る女の内通者が、外界の賊と気脈を通じ、昨夜裏門にて密会し……",
"館の中に居る女の内通者とは?",
"その数字の書体、女文字とのことで",
"うむ、そうらしい、わしもそう見た",
"それにただ今うかがいますれば、その独楽は奥方様の御秘蔵の品とか……さすれば奥方様の腰元あたりに、賊との内通者がありまして、そのような隠語を認めまして、その独楽の中へ密封し、ひそかに門外へ投げ出し、その外界の同類の手に渡し、昨夜両人裏門にて逢い……",
"なるほど",
"内通者がお館より掠めました品を、その同類の手に渡したか……あるいは今夜の悪事などにつき、ひそかに手筈を定めましたか……"
],
[
"これはいかにもお前の言う通り、館の中に内通者があるらしい。そうでなくてあのような品物ばかりが、次々に奪われるはずはない。……ところで頼母、盗まれた品だが、あれらの品を其方はどう思うな?",
"お大切の品物と存じまする",
"大切の由緒存じおるか?",
"…………",
"盗まれた品のことごとくは、柳営より下されたものなのじゃ",
"…………",
"我家のご先祖宗武卿が、お父上にしてその時の将軍家、すなわち八代の吉宗将軍家から、家宝にせよと賜わった利休の茶杓子をはじめとし、従来盗まれた品々といえば、その後代々の我家の主人が、代々の将軍家から賜わったものばかりじゃ",
"…………",
"それでわしはいたく心配しておるのじゃ。将軍家より賜わった品であるが故に、いつなんどき柳営からお沙汰があって、上覧の旨仰せらるるやもしれぬ。その時ないとは言われない。盗まれたなどと申したら……",
"お家の瑕瑾にござります",
"それも一品ででもあろうことか、幾品となく盗まれたなどとあっては……",
"家事不取り締りとして重いお咎め……",
"拝領の品であるが故に、他に遣わしたとは言われない",
"御意の通りにござります"
],
[
"とにかく、内通者を至急見現わさねばならぬ",
"御意で。しかしいかがいたしまして?",
"これは奥に取り計らわせよう",
"奥方様にでござりまするか"
],
[
"お腰元楓殿が築山の背後にて、頓死いたしましてござります",
"ナニ⁉"
],
[
"楓殿が頓死⁉ 頓死とは?",
"奥方様のお吩咐とかで、三人の腰元衆お庭へ出てまいられ、桜の花お手折り遊ばされ、お引き上げなさろうとされました際、その中の楓殿不意に苦悶され、そのまま卒倒なされましたが、もうその時には呼吸がなく……"
],
[
"それでは余りお軽々しく……",
"よい、行ってみよう、履物を出せ"
],
[
"数日前に庭師を入れまして、樹木の植込み手入れ刈込み、庭石の置き換えなどいたさせました",
"そうらしいの、様子が変わっている"
],
[
"死因は何か?",
"さあその儀――いまだ不明にござりまする。……腹中の食物など調べましたなら……",
"では、外傷らしいものはないのだな",
"はい、いささかも……外傷らしいものは",
"ともかくも死骸を奥へ運んで、外科医宗沢とも相談し、是非死因を確かめるよう",
"かしこまりましてござります"
],
[
"ではもうあやめは居ないというのか",
"へい、この小屋にはおりません",
"つまり席を退いたのだな",
"と云うことになりましょうね"
],
[
"退いたとも何とも申しちゃアいません。ただ彼女今日はいないので",
"一体あやめはどこに住んでいるのだ?",
"さあそいつは……そいつはどうも……それより一体貴郎様は、どうして何のために彼女を訪ねて、わざわざおいでなすったんで?"
],
[
"それで訪ねて参ったのだが、居ないとあっては止むを得ぬの。どれ、それでは帰るとしようか",
"ま、旦那様ちょっとお待ちなすって"
],
[
"実は彼女がいなくなったのであっしはすっかり参っていますので。何せ金箱でございますからな。へい大事な太夫なので。……それであっしも小屋の者も、大騒ぎをして探していますので",
"しかし宿所には居るのだろう?",
"それが貴郎様、居ないんで",
"宿所にもいない、ふうんそうか。一体宿所はどこなのだ?",
"へい、宿所は……さあ宿所は……神田辺りなのでございますが……それはどうでもよいとして、宿所にもいず小屋へも来ない。昨夜ポカンと消えてしまったんで",
"ふうん、昨夜消えてしまった。……猿廻しに身をやつして消えてしまったのではあるまいかな",
"え、何だって? 猿廻しにだって?"
],
[
"黙っておればこやつ無礼! 拙者を誘拐しか何かのように……",
"おお誘拐しだとも、誘拐しでなくて何だ! あやめの阿魔を誘拐して、彼女の持っている秘密を奪い、一儲けしようとするのだろう! ……が、そうならお気の毒だ! 彼女はそんな秘密などより、荏原屋敷の奴原を……",
"荏原屋敷だと⁉ おおその荏原屋敷とは……",
"そうれ、そうれ、そうれどうだ! 荏原屋敷まで知っている汝、どうでも平記帳面の侍じゃアねえ! 食わせ者だア――食わせものだア――ッ……わーッ"
],
[
"貴殿が手に入れた淀屋の独楽を、譲り受けようと掛け合った者よ。……隠すにもあたらぬ宣ってやろう、浪速の浪人飛田林覚兵衛! ……さてその時拙者は申した、貴殿の命を殺めても、淀屋の独楽を拙者が取ると! ……その期が今こそめぐって来たのじゃ!",
"淀屋の独楽とは? 淀屋の独楽とは?",
"どうせ汝は死んで行く奴、秘密を教えても大事あるまい、そこで秘密を教えてやる。……浪速の豪商淀屋辰五郎、百万にも余る巨富を積み、栄耀栄華を極めたが、元禄年間官のお咎めを受け、家財一切を没収されたこと、汝といえども伝え聞いていよう。……しかるに辰五郎、事の起こる前、ひそかに家財の大半を分け、絶対秘密の場所へ隠し、その隠し場所を三個の独楽へ……とここまで申したら、万事推量出来るであろう。……汝が手に入れたあの独楽こそ、淀屋の独楽の一つなのじゃ。……今後汝によって三つの独楽を、それからそれと手に入れられ、独楽に記されてある隠語を解かれ、淀屋の巨財の隠し場所を知られ、巨財を汝に探し出されては、長年その独楽の行方を尋ね、淀屋の巨財を手に入れようと、苦心いたしおる我らにとっては、一大事とも一大事! そこで汝をこの場において殺し、汝の屋敷に潜入し、独楽をこっちへ奪い取るのだ!"
],
[
"しめた!",
"斬れ!",
"火に入る夏の虫!",
"わッはッはッ、斬れ、斬れ、斬れ!"
],
[
"なぜたかが一本ばかりの木を、三十年も護って育てましたの?",
"それはわしにも解らないのだよ"
],
[
"なぜたかが一本ばかりのそんな木を、三十年もの間育てたかと、そういう疑いを抱くことよりそんなたかが一本ばかりの木を、迷わず怠らず粗末にせず、三十年もの間護り育てた、そのお方の根気と誠心と、敬虔な心持に感心して、そのお方のお話を承わろうと、そう思った方がいいようだよ",
"ええそれはそうかもしれませんけれど。……で、その木は何の木ですの?",
"榊の木だということだが、松であろうと杉であろうと、柳であろうと柏の木であろうと、そんなことはどうでもよいのだよ",
"それでたくさんのいろいろの人が、そのお方の所に伺って、お教えを乞うたと仰有るのね?",
"そうなのだよ、そうなのだよ。そんなに根気のよい、そんなに誠心の敬虔のお心を持ったお方なら、私達の持っている心の病気や、体の病気を癒して下されて、幸福な身の上にして下さるかもしれないと、悩みを持ったたくさんの人達が、そのお方の所へ伺って、自分たちの悩みを訴えたのだよ",
"するとそのお方がその人達の悩みを、みんな除去って下すったのね",
"解り易い言葉でお説きなされて、心の病気と体の病気を、みんな除去って下されたのだよ",
"それでだんだん信者が増えて、大きな教団になったと仰有るのね",
"そうなのだよ。そうなのだよ",
"そのお方どんなお方ですの?",
"わしのような老人なのだよ",
"そのお方の名、何て仰有るの?",
"信者は祖師様と呼んでいるよ。……でも反対派の人達は『飛加藤の亜流』だと云っているよ",
"飛加藤? 飛加藤とは?",
"戦国時代に現われた、心の邪な忍術使いでな、衆人の前で牛を呑んで見せたり、観世縒で人間や牛馬を作って、それを生かして耕作させたり、一丈の晒布に身を変じて、大名屋敷へ忍び込んだり、上杉謙信の寝所へ忍び、大切な宝刀を盗んだりした、始末の悪い人間なのだよ"
],
[
"どうしてお偉いお祖師様のことを、飛加藤の亜流などというのでしょう?",
"祖師様のなさるいろいろの業が、忍術使いのまやかしの業のように、人達の眼に見えるからだよ",
"お爺さん、あなたもそのお祖師様の、信者のお一人なのでごさいますのね",
"ああそうだよ、信者の一人なのだよ",
"お爺さんのお名前、何て仰有るの?",
"世間の人はわしの事を、飛加藤の亜流だと云っているよ",
"ではもしやお爺さんが、そのお偉いお祖師様では?"
],
[
"障わったからじゃ。……殺されたのじゃ",
"何に、お爺さん、何に障わったから?",
"木へ! そう、一本の木へ!"
],
[
"お爺さん、またここにも!",
"障わったからじゃ。殺されたのじゃ",
"お爺さん、お爺さん、あなたのお力で……",
"あの木で殺された人間ばかりは、わしの力でもどうにもならない"
],
[
"ご家老様へお尋ねいたしまするが、貴郎様がもしもお館様より、これこれのことを致して参れと、ご命令をお受け遊ばされて、ご使命を執り行ない居られます途中で、相手の方に見現わされました際、貴郎様にはお館様のお名を、口にお出しなさるでございましょうか?",
"なにを馬鹿な、そのようなこと、わしは云わぬの、決して云わぬ",
"八重も申しはいたしませぬ",
"…………"
],
[
"隠語の文字と其方の文字、同一のものと思われる、其方この隠語を書いたであろう?",
"書きましてござります",
"お館の外の何者かと謀り、お館の器類を、数々盗んで持ち出したであろう?",
"お言葉通りにござります",
"これほどの大事を女の身一つで、行なったものとは思われぬ、何者に頼まれてこのようなことをしたか?",
"わたくしの利慾からにござります。決して誰人にも頼まれましたのではなく……",
"黙れ、浅はかな、隠し立ていたすか! 尋常な品物であろうことか、代々の将軍家より賜わった、当家にとっては至極の宝物ばかりを、選りに選って盗んだは、単なる女の利慾からではない。頼んだ者があるはずじゃ、何者が頼んだか名を明かせ!"
],
[
"お館の外の共謀者、何者であるか素性を申せ!",
"申し上げることなりませぬ"
],
[
"隠語を記しましたあの紙片を、ご家老様には何者より?",
"あれか"
],
[
"其方の恋人山岸主税が、わしの手にまで渡してくれたのよ!",
"え――ッ、まア! いえいえそんな!"
],
[
"今日の昼主税めわしの所へ参り、『私こと昨夜お館附近を、見廻り警戒いたしおりましたところ、怪しい女猿廻しめが、ご用地附近におりましたので、引っとらえようといたしましたところその猿廻しめは逃げましたが、独楽を落としましてござります。調べましたところ独楽に細工あって、隠語を認めましたこのような紙片が、封じ込めありましてございます。隠語を解けば――コンヤウラモンニテ、と。……思うにこれはお館の中に、女猿廻しの一味が居りまして、それと連絡をとりまして、お館の大切な器類を、盗み出したに相違なく、しかも女猿廻し一味のものは、女に相違ござりませぬ。何故と申せば隠語の文字、女文字ゆえでござりまする。左様、女にござりまする! 奥方様付のお腰元、お八重殿にごさりまする! わたくしお八重殿の文字の癖をよく存じておりまする』とな。……",
"嘘だ嘘だ! 嘘でごさりまする! 主税殿が何でそのようなことを!"
],
[
"妾の、妾の、主税様が!",
"フッフッフッ、ハッハッハッ、可哀そうや可哀そうやのうお八重、其方としては信じていた恋男が、そのようなことをするものかと、そう思うのは無理もないが、それこそ恋に眼の眩んだ、浅はかな女の思惑というもの、まことは主税というあの若造、軽薄で出世好みで、それくらいの所業など平気でやらかす、始末の悪い男なのじゃ。つまるところ恋女の其方を売って、自分の出世の種にしたのよ"
],
[
"そうか。そこで、気絶でもしたか?",
"ノンビリとお眠りでございます。……やんわりとした積藁の上に、お八重様にはお眠ねで",
"強情を張る女には、どうやらこの手がよいようだのう",
"死んだようになっている女の子を、ご介抱なさるのは別の味で……ところでお殿様お下りなさいますか? ……すこし梯子は急でござんすが",
"まさか穴倉の底などへは。……命じて置いた場所へ運んで行け",
"かしこまりましてございます"
],
[
"八重めが途中で正気に返ったら、猿轡など噛ませて声立てさせるな。よいか勘兵衛、わかったろうな",
"わかりましてござります"
],
[
"あの時あっしア確かにみっしり、締め殺されたようでござんすねえ。……殺そうとした奴ア解っていまさア。‥…あやめの阿魔に相違ねえんで。……あの阿魔以前からあっしの命を、取ろう取ろうとしていたんですからねえ。……取られる理由もあるんですから、まあまあそいつア仕方ねえとしても、どうやらあっしというこの人間、あんなちょろっかの締め方じゃア、殺されそうもねえ罪業者と見え、次の瞬間にゃア生き返って、もうこの通りピンピンしていまさあ。……そこでこの屋敷へ飛んで来て、淀屋の独楽を取らねえ先に、あやめの阿魔に逃げられたってこと、松浦様にご報告すると……",
"それでは汝も松浦頼母の……"
],
[
"其方の恋女腰元八重、縛められてこの屋敷に居ること、さぞ其方には不思議であろうな。……その理由明かしてとらせる! お館にての頻々たる盗難、……その盗人こそ八重であったからじゃ!",
"…………"
],
[
"極重悪木と仰有るのは? 東海林自得斎と仰有るのは?",
"私たちの祖師様とはいつの場合でも、反対の立場に立っている、世にも恐ろしい恐ろしい男、それが東海林自得斎なのだよ。その男も私達の祖師様のように、三十年もの間一本の木を、苦心惨憺して育てたのだよ。それが極重悪木なのだ。触った生物を殺す木なのだ。来る道々按摩を殺し、仲間を殺したその木なのだ。あそこにいる植木師たちの植木の中に、その木が一本雑っているのだよ",
"その東海林自得斎という男、何をしてどこに居りますの?",
"日本一大きな植木師として、秩父山中に住んでいるのだよ。幾個かの山、幾個かの谷、沢や平野を買い占めてのう。幾万本、いや幾十万本の木を、とりこにして置いて育てているのだよ。そうして大名衆や旗本衆や、大金持の人々から、大口の注文を承わっては、即座に数十本であろうと数百本であろうと、どのような珍木異木であろうと、注文通り納めているのだよ",
"そういう大きな植木師をしながら、人を殺す恐ろしい毒の木を、東海林自得斎は育てて居りますのね",
"いいや、今では数を殖やしているのさ。三十年もの間研究して極重悪木を作り上げたのだから、今ではその数を殖やしているのだよ。……憎いと思う人々の屋敷へ植え込んで、そこの人を根絶しにするためにな",
"その恐ろしい木が、極重悪木が、田安家へ植えこまれたと仰有るのね! 今夜も植えこまれると仰有るのね! まあ、こうしてはいられない! お八重様があぶない、お八重様のお命が!"
],
[
"まあお前は妹!",
"お姉様か!"
],
[
"十年前に……お姉様が……不意に家出をなされてからというもの……わたしは、毎日、まアどんなに、お帰りなさる日をお待ちしたことか! ……いつまでお待ちしてもお帰りにならない。……そのうちだんだんわたしにしましても、お家にいることが苦痛になり……それでとうとう同じ年の、十二月の雪の日に、お姉様と同じように家出をし……",
"おお、まアそれではお前も家出を……",
"それからの憂艱難と申しましたら……世間知らずの身の上が祟って……誘拐されたり売られたり……そのあげくがこんな身分に……",
"お葉や、わたしも、そうだった。今のわたしの身分といったら、曲独楽使いの太夫なのだよ! ……荏原屋敷の娘、双生児のお嬢様と、自分から云ってはなんだけれど、可愛らしいのと幸福なのとで、人に羨まれたわたしたち二人が、揃いも揃って街の芸人に!"
],
[
"わたしも、わたしも、そうなのです! 一生の大事を遂げようと、決心したのでございます!",
"わたし、主馬之進を殺す意なのだよ! お父様を殺し、お母様を誑し、荏原屋敷を乗っ取って、わたしたち二人を家出させた、極悪人の主馬之進をねえ"
],
[
"お葉や、一体、それは一体! ……",
"おお、お姉様お姉様、あなたはご存知ないのです。……お姉様よりも六七ヶ月後に、家出をいたしたこのお葉ばかりが、知っていることなのでございます。……その六七ヶ月の間中、わたしは主馬之進という人間の素性を、懸命に探ったのでございます。その間幾度となく立派な武士が、微行して屋敷へ参りまして、主馬之進と密談いたしましたり、主馬之進と一緒に屋敷内を、そここことなく探したりしました。探った結果その武士こそ、主馬之進の実の兄の、田安家の奥家老、松浦頼母だと知りました",
"知らなかった、わたしは! まるで知らなかった! ……でもどうしてそんな立派な、田安中納言様の奥家老が、実の弟を荏原屋敷へ入れたり、自身微行して訪ねて行ったり?",
"慾からですお姉様、慾からです! ……それも大きな慾から! ……"
],
[
"どういう財産? どういう素性の?",
"浪速の豪商淀屋辰五郎が、闕所になる前に家財の大半を、こっそり隠したということですが、その財産だということですの",
"まあ淀屋の? 淀辰のねえ",
"それをどうして知ったものか、松浦頼母が知りまして、美貌の弟の主馬之進を進め、わたし達のご両親に接近させ、そのあげくにお父様を、あのような手段で非業に死なせ、お母様を誑かし、わたし達の家へ入婿になり……",
"おおなるほどそうなのかえ、そうして財産の隠匿場所を……",
"そうなのですそうなのです、時々やって来る頼母と一緒に、主馬之進めはその隠匿場所を……",
"発見そうとしているのだねえ。……そう聞いてみれば松浦頼母めが、お父様の敵の元兇なのだねえ。……ああそれでやっとわたしには解った。何でお前がこのような所へ、こんな田安様のお屋敷内へ、忍び込んで来たのかと不思議だったが、では頼母を殺そうとして……",
"いいえお姉様わたしはそれ前に、ここのお腰元のお八重様のお命を……それよりお姉様こそどうしてここへ?",
"ここのご家臣の山岸主税様の、お命をお助けいたそうとねえ……"
],
[
"性懲りもなく又ベラベラと",
"これは、えへ、えッヘッヘッ"
],
[
"覚兵衛も勘兵衛も飲むがよい",
"は",
"頂戴",
"さあさあ飲め"
],
[
"山岸様!",
"お八重様!"
],
[
"あッ、そなたはあやめ殿!",
"まあまああなたはお葉様か!"
],
[
"お葉や、お前はお八重様を連れて……",
"あい。……それでは。……お八重様!"
],
[
"生き返ったのよ、業が深いからのう。……あんな生温い締め方では……",
"そうか、それじゃアもう一度"
],
[
"昼日中なんの機嫌がよくて、三味線なんか弾きましょう",
"…………"
],
[
"ま、やっぱりあやめお姉様!",
"お前は妹! まアお葉かえ!"
],
[
"あれ以上に文字は現われないのであろうよ。……この独楽に現われたあれらの文字と、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字、それを一緒にして綴ってみようではないか。何らかの意味をなすかもしれない",
"それがよろしゅうございましょう"
],
[
"この独楽へ現われた文字といえば『淀』『荏原屋敷』『有りて』『「飛加藤の亜流』という十五文字だし、以前にわしの持っていた独楽へ現われた文字は、『屋の財宝は』『代々』『守護す』『見る日は南』の十五文字じゃ。……で、わしは先刻からこの三十文字を、いろいろに考えて綴り合わせてみたが、こう綴るのが正しいらしい……ともかくも意味をなすよ『淀屋の財宝は代々荏原屋敷に有りて、飛加藤の亜流守護す』と、なるのだからの",
"飛加藤の亜流とは何でしょう?"
],
[
"白昼に龕燈をともしなどして、奇行をして世間を歩き廻っている、隠者のような老人とのことで。……勘兵衛めがそう云いましたよ。今日も夕方この近くの野道で、怪しい行ないをいたしましたとかで……",
"その飛加藤の亜流とかいう老人が、代々財宝を守護するなどと、文字の上に現われました以上は、その老人を捕らえませねば……",
"左様、捕らえて糺明するのが、万全の策には相違ござらぬが、その飛加藤の亜流という老人、どこにいるのやらどこへ現われるのやら、とんと我らにしれませぬのでな"
],
[
"この文句だけが独立して――他の文句と飛び離れて記されてあるので、何ともわしにも意味が解らぬ。……だがしかしそれだけに、この文句の意味が解けた時に、淀屋の財宝の真の在場所が、解るようにも思われる……",
"三つ目の淀屋の独楽を目つけ出し、隠語を探り知りました時、この文句の意味も自ずから解けると、そんなように思われまするが",
"そうだよそうだよわしもそう思う。が、三つ目の淀屋の独楽が、果たしてどこにあるものやら、とんとわしには解らぬのでのう"
],
[
"曲者だ!",
"追え!",
"それ向こうへ逃げたぞ!",
"斬られたのは近藤氏じゃ"
],
[
"お母様、わたしでございます",
"お母様だって? このわたしを! まアまアまア失礼な! 見ればみすぼらしい猿廻しらしいが、夜ふけに無断にこんな所へ来て、わたしに向かってお母様などと! ……怪しいお人だ、人を呼ぼうか!",
"お母様、お久しぶりねえ",
"…………",
"お別れしたのは十年前の、雪の積もった日でございましたが、……お母様もお変わりなさいましたこと。……でも妾は、このお葉は、もっと変わりましてございます。……苦労したからでございましょうよ。……産みのお母様がご覽になっても、それと知れない程ですものねえ。……妾はお葉でございます……",
"お葉⁉"
],
[
"あのお部屋へ参ろうではございませんか!",
"何をお云いだ、え、お葉や! あのお部屋へとは、お葉やお葉や!",
"あのお部屋へ参ろうではございませんか。……あのお部屋へお母様をお連れして、懺悔と浄罪とをさせようため、十年ぶりにこのお葉は、帰って来たのでございます!",
"お葉、それでは、それではお前は?",
"知っておりました、知っておりました! 知っておればこそこのお葉は、この罪悪の巣におられず、家出をしたのでございます!",
"そんな……お前……いえいえそれは!",
"悪人! 姦婦! 八ツ裂きにしてやろうか! ……いえいえいえ、やっぱりお母様だ! ……わたしを、わたしを、いとしがり可愛がり、花簪を買って下されたり、抱いて寝させて下さいました、産みのお母様でございます! ……でも、おおおお、そのお母様が、あの建物で、あのお部屋で……",
"いいえ妾は……いいえこの手で……",
"存じております、何のお母様が、何の悪行をなさいましたものか! ……ただお母様はみすみすズルズルと、引き込まれただけでございます。……ですから妾は申しております。懺悔なされて下さりませと……",
"行けない、妾は、あの部屋へは! ……あの時以来十年もの間、雨戸を閉め切り開けたことのない、あの建物のあのお部屋なのだよ。……堪忍しておくれ、妾には行けない!"
],
[
"おお、まアそれではあのお部屋は、十年間閉扉の間か! ……さすが悪漢毒婦にも、罪業を恐れる善根が、心の片隅に残っていたそうな。……ではあのお部屋にはあのお方の、いまだに浮かばれない修羅の妄執が、黴と湿気と闇とに包まれ、残っておることでございましょうよ。なにより幸い、なにより幸い、さあそのお部屋へお入りなされて、懺悔なさりませ、懺悔なさりませ! そうしてそれから妾と共々、復讐の手段を講じましょう。……",
"復讐? お葉や、復讐とは?",
"わたしにとりましては実のお父様、お母様にとりましては最初の良人の、先代の荏原屋敷の主人を殺した、当代の主人の主馬之進を!",
"ヒエーッ、それでは主馬之進を!",
"お父様を殺した主馬之進を殺し、お父様の怨みを晴らすのさ。……さあお母様参りましょう!"
],
[
"一方は閉扉の館、また一方は底なしの古沼、前と背後とからは我々や覚兵衛たちが、隙なく取り詰めて参りましたのに、主税もあやめも消えてなくなったように、姿をくらましてしまいましたとは? ……不思議を通りこして気味のわるいことで",
"沼へ落ちたのではございますまいか?"
],
[
"そいつア不可ねえ! あっしゃア恐い! ……先代の怨みの籠っている館だ! ……あっしも手伝ってやったんですからねえ!",
"臆病者揃いめ、汝らには頼まぬ! ……覚兵衛、館の戸を破れ!"
],
[
"頼母や主馬之進たちが戸を破って……",
"うむ、乱入いたすそうな。……そうなってはどうせ切り死に……",
"切り死に? ……敵と、お父様の敵と……それでは返り討ちになりますのね。……構わない構わないどうなろうと! ……本望、わたしは、わたしは本望! ……主税様と二人で死ぬのなら……"
],
[
"あッ",
"又も、執念深い!"
],
[
"不思議といえば不思議千万! ……いやいや不思議といえばこればかりではない! ……閉扉の館の戸が開いたのも、燈火の光が現われて、われわれを二階へみちびいたのも、釘づけにされてある館の雨戸が、このように一枚だけ外されてあるのも、一切ことごとく不思議でござる",
"きっと誰かが……お父様の霊が、……わたしたちの運命をお憐れみ下されて、それで様々の不思議を現わし、救って下さるのでございましょうよ。……さあ主税様、この梯子をつたわり、ともかくも戸外へ! ともかくも戸外へ!",
"まず其方から。あやめよ先に!"
],
[
"お葉やお葉や、そこにいるのは?",
"お母様よ! お姉様!",
"お母様だって? 良人殺しの!",
"…………",
"良人殺しの松女という女かえ!",
"…………",
"よくノメノメとここへは来られたねえ"
],
[
"わたしがお母様をここまで連れて……",
"お前がお母様を? 何のために?",
"お父様を殺したあのお部屋へ、お母様をお連れして懺悔させようと……",
"その悪女、懺悔するかえ?"
],
[
"わたしは先刻から雨戸の隙から、お前さんたちの様子を見ていたのだよ。……お葉がお前さんを引っ張って、この二階へ連れて来ようとするのに、お前さんは行くまいと拒んでいたじゃアないか……ほんとうに後悔しているなら、日夜二階の部屋へ来て、香でも焚いて唱名して、お父様の菩提を葬えばよいのだ! ……それを行くまいとして拒むのは、……",
"あやめや、それも恐ろしいからだよ。……あのお方の怨みが恐ろしく、わたしの罪業が恐ろしく、その館が恐ろしく……",
"おおそうとも、恐ろしいとも! この館は今も恐ろしいのだ! ……恐ろしいのも色々だが、今のこの館の恐ろしさは、又もやむごたらしい人殺しが、行なわれようとしていることさ!",
"また人殺しが? 誰が、誰を?",
"お前さんの良人の主馬之進と、主馬之進の兄の松浦頼母とが、たくさんの眷族をかたらって、わたしとわたしの恋しい人とを、この館へとりこめて、これから殺そうとしているのさ。……お聞き、聞こえるだろう、戸をこわしている音が! ……館の裏の戸をぶちこわして、この館へ乱入し、わたしたちを殺そうとしているのさ! ……あッ、しめた! いいことがある! ……お葉やお葉やその女を捉え、ここへおよこし、引きずり上げておくれ! 人質にするのだよその女を! ……もう大丈夫だ、殺されっこはない。その女を人質に取っておいたら、いかな主馬之進や頼母でも、わたしたちを殺すことは出来ないだろうよ。……"
],
[
"居たぞ!",
"二階だ!",
"用心して進め!"
],
[
"叔父様、どうしてこのような所に……",
"わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのような所へでも入り込まれるよ。……お前の父親、わしの実兄の、東海林自得斎が極重悪木を利用し、自由に人が殺せるようにのう。……それにしてもわし達兄弟は、何という変わった兄弟であろう。徳川によって滅ぼされた、小西摂津守の遺臣として、徳川家に怨みを抱いていることは、わしも兄上も同じなのではあるが、兄上は魔神の世界に住んで、悪木を作り人を殺し――田安中納言家をはじめとし、徳川家に縁ある人々を殺し、主家の怨を晴らそうとしているのに、わしは一念頓悟して、誠の教の庭に住み、真実の人間を目つけ出そうとして、乞食のように歩き廻っている。……わが兄ながら惨忍な、実の娘を間者として、田安家の大奥へ住み込ませ、淀屋の独楽を奪わせようとは……",
"まあ叔父様、そのようなことまで……",
"わしは飛加藤の亜流なのだよ、どのようなことでも知っている……",
"では、叔父様には、淀屋の独楽の――三個あるという淀屋の独楽の、その所在もご存知なので?",
"一個は頼母が持っておる。お前を苦しめた松浦頼母が。もう一つは主税が持っておる、お前が愛している山岸主税が。……が、最後の一つはのう",
"最後の一個は? 叔父様どこに?",
"それは云えぬ、今は云えぬ! ……勿論わしは知っているが"
],
[
"では叔父様、独楽にまつわる、淀屋の財宝の所在も?",
"淀屋の財宝を守護する者こそ、この飛加藤の亜流なのだよ",
"…………",
"この荏原屋敷の先代の主人は、わしの教の弟子なのじゃ。そうして淀屋の財宝は、この荏原屋敷に隠されてあるのじゃ。淀屋の財宝の所在について、わしの知っているのは当然であろう",
"…………"
],
[
"淀屋の財宝の所在が、この和歌の中に詠まれているのだよ。……太陽を仰いでいる人間の位置は、東西南北の中央にある。その人間の位置にあたる所に、淀屋の財宝が隠されてあるのさ",
"ではどこかの中央に?",
"この屋敷の中央に?",
"この屋敷の中央とは?",
"荏原屋敷は大昔においては、沼を中央にして作られていたものさ",
"まア、では、財宝は古沼の中に?",
"沼の中央は岩の小島なのさ",
"まア、では、沼の小島の内に?",
"小島の中央は祠なのだ",
"では淀屋の財宝は祠の中に隠されてあるのね"
],
[
"すぐ行くぞよ、しっかりしてくれ!",
"勘兵衛放せ、えい馬鹿者!"
],
[
"…………",
"…………"
],
[
"ま、待ってくれ! 少し待ってくれ! どうせ殺されて死んでゆく俺、殺されるのは恐れないが、それ前にお松へ云いたいことがある! それも懺悔だ、お松へのお礼だ! ……おおおおお松、よくまアこれまで、貞女を保ってくらして来たなア。……俺と夫婦にはなったものの、拒んで拒んで拒みとおして、俺とは一度の枕も交わさず、よくまア貞操を立て通したものだ! ……そのため俺はどんなに怒り、どんなに苦しみ苦しんだことか! ……しかし今になって考えてみれば、けっきょくお前が偉かったのだ! ……俺はただ名ばかりの良人として、荏原屋敷の格と財産とを、今日まで守護して来たばかりだった。……",
"主馬之進殿オーッ"
],
[
"あなたが御兄上の頼母様ともども、わたくしの家へ接近なされ、先代の主人わたくしの良人と、何くれとなく懇意になされ、やがては荏原屋敷の家政へまで、立ち入るようになりましたので、苦々しく思っておりましたところ、わたくし良人の申しますには『わしはもう長の病気、余命わずかと覚悟しておる。わがなき後はこの大家族の、荏原屋敷を切り廻してゆくこと、女のお前ではとうてい出来ない。幸い主馬之進殿そなたに対し、愛情を感じておるらしく、それに主馬之進殿の兄上は、田安家の奥家老で権勢家、かたがた都合がよいによって、俺の死んだ後は主馬之進殿と、夫婦になって荏原屋敷を守れ』と……その時妾はどんなに悲しく『いいえ妾はあなたの妻、あなたがおなくなりなさいました後は、有髪の尼の心持で、あなた様のご冥福をお祈りし』『それでは屋敷は滅びるぞ! 先祖に対して相済まぬ!』『では妾は形ばかり主馬之進様の妻となり……』こうして妾は良人の死後……",
"その御先代の死態だが……"
],
[
"お前たちの母は、荏原屋敷の主婦は、おおおお決してお前たちの、思い込んでいたような悪女でないこと……お解りかお解りか! ……なき良人の遺言を守って、家のためにこの身を苦しめ……でも、もう妾は生きていたくない! ……可哀そうな主馬様の後を追い……",
"お母様アーッ",
"お母様アーッ"
],
[
"そうとは知らずお母様を怨み……",
"そうとは知らず主馬之進殿を殺し……",
"わたしたちこそどうしよう!",
"お母様アーッ",
"主馬之進様アーッ"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「講談雑記」
1936(昭和11)年1月~10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は、「おっしゃる」に「仰有る」と「有仰る」を混記しています。原義が「オオセ・アル」であることから、「有仰る」を注記の上「仰有る」に改め、表記の統一を図りました。
※「袖の中には?」「怪しの浪人」などの小見出しは、底本では天付きですが、3字下げとしました。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
YYYY年MM月DD日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043768",
"作品名": "仇討姉妹笠",
"作品名読み": "かたきうちきょうだいがさ",
"ソート用読み": "かたきうちきようたいかさ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談雑記」1936(昭和11)年1月~10月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-06-29T00:00:00",
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"名": "史郎",
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"名読み": "しろう",
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"小豆島紋太夫が捕らえられたそうな",
"いよいよ天運尽きたと見える",
"八幡船の後胤もこれでいよいよ根絶やしか。ちょっと惜しいような気もするな",
"住吉の浜で切られるそうな",
"末代までの語り草じゃ、これは是非とも見に行かずばなるまい",
"あれほど鳴らした海賊の長、さぞ立派な最期をとげようぞ"
],
[
"その方以前何んと申した。海を見ながら死にとうござると、このように申した筈ではないか、本来なれば千日前の刑場で所刑さるべきもの、海外までも名に響いた紋太夫の名を愛でさせられ、特に願いを聞き届けこの住吉の海辺において首打つ事になったというは、一方ならぬ上のご仁慈じゃ。今さら何を申しおるぞ",
"いや"
],
[
"海で死にたいと申しましたは、決して海の中へはいり、水に溺れて死にたいという、そういう意味ではござりませぬ",
"うむ、しからばどういう意味じゃな?",
"自由に海が眺められるよう、海に向かった矢来だけお取り払いくださいますよう",
"自由に海を眺めたいというのか",
"はいさようでございます。高手小手に縛された私、矢来をお取り払いくだされたとてとうてい逃げることは出来ませぬ",
"警護の者も沢山いる。逃げようとて逃がしはせぬ。……最後の願いじゃ聞き届けて進ぜる",
"有難い仕合せに存じます"
],
[
"えい、あわてずにしっかり云え!",
"はい、頭領がおられます! はい、頭領がおられます。いつものお部屋におられます",
"馬鹿!"
],
[
"聞け十平太! よく聞くがいい! 宝は海の東南にあるそうじゃ",
"どのような宝でございますな?",
"隠されたる巨万の富だ!"
],
[
"遠い遠い海のあなたのメキシコという国じゃそうな",
"メキシコ? メキシコ? 聞かぬ名じゃ"
],
[
"そこに一つの湾がある",
"大きな湾でございましょうな?",
"日本の九州より大きいそうじゃ。湾の名は加利福尼亜という",
"加利福尼亜湾でございますかな",
"そこに一つの島があるそうじゃ。チブロンという島じゃそうな。宝はそこに隠されてあるのじゃ。――みんな地理書に記されてある",
"どのような宝でございましょうな?",
"砂金、宝石、異国の小判",
"無人の島でございますかな?",
"兇暴残忍の土人どもが無数に住んでいるそうじゃよ",
"頭領"
],
[
"瀬戸内海の大海賊、小豆島紋太夫の手下には、臆病者はおりませぬ筈!",
"おおいかにもその通りじゃ、それではいよいよ加利福尼亜へ行くか!",
"申すまでもございませぬ",
"準備に半年はかかろうぞ",
"心得ましてございます",
"鉄砲、大砲も用意せねばならぬ",
"それも心得ておりまする",
"四方に散々に散っている友船を悉く集めねばならぬ",
"すぐに早船を遣わしましょう",
"よし"
],
[
"やはり異形のその軍船から打ち出したものでございます",
"どこへ向かって打ったのか?",
"島へ向かって打ちました",
"チブロン島へ向かってか?",
"はい、さようでございます",
"ふうむ"
],
[
"不思議な帆船でございます。見たこともないような不思議な船!",
"どんな人間が乗り組んでいたな?",
"それが不思議なのでございます。私達と大変似ております",
"肌の色はどうだ白いかな?",
"いえ、銅色でございます",
"そうか、そうして頭の髪は?",
"それも私達と同じように真っ黒な色をしております",
"なるほど、俺達と同じだな"
],
[
"東邦人を追っ払え! 宝を渡してたまるものか!",
"東邦人が利口でもあの謎語を解くことは出来まい",
"たとい謎語は解くにしても、あの紐だけは解くことは出来まい",
"とにかく充分用心しよう。少しの間様子を見よう"
],
[
"交際を修め貿易をなし利益交換を致したいために",
"東邦人に相違なくば、祖先より伝わる数連の謎語と、固くむすぼれた不思議な紐とを、何より先にお解きくだされい。修交貿易はその後のことでござる",
"ははあさようか、よろしゅうござる。一旦船中へ取って返し、御大将に申し上げ、改めて再度参ることに致す"
],
[
"拙者は小豆島紋太夫。東邦人の頭領でござる",
"拙者はオンコッコと申すもの。チブロン島国の酋長でござる"
],
[
"いったいどこから捕らえて来たのだ?",
"ドームの森の附近だそうで",
"誰がいったい捕らえたのだ?",
"物見に行った仲間達で",
"何故俺達の敵の子を神聖な社殿などへ隠匿うのだ?",
"あまり不愍でございましたから",
"不愍とは何んだ。何が不愍だ",
"この子を捕らえた仲間達は、戦勝を祈る犠牲だと申して、この子を神の拝殿の前で焼き殺そうと致しました、見るに見かねてこの私が命乞いを致したのでございます。私は祭司でござります。神の御旨はこの私が誰よりも一番存じております。神は助けよと申されました"
],
[
"拙者代わって償いましょう",
"この深い深い林の中を西へ西へと三里余り参ると一つの大きな巌窟がござる。巌窟の中に剣がござる",
"ははあそれではその剣を持って参れと云われるのか"
],
[
"拙者は東邦の人間でござるが、計らず洞中へ迷い入り、帰りの道を失ってござる。あなたのご好意をもちまして洞窟外へ出るを得ましたら有難き仕合せに存じます",
"それはとうてい出来ますまい"
],
[
"それはまた何故でござりますな?",
"何故と申してこの妾も、やはり出口を存じませぬゆえ",
"おおあなたもご存じない?",
"はい妾も存じませぬ。物心ついたその頃から妾はずっとこの洞内に起き伏ししておるのでございます",
"食物もなく水もなくどうして活きておいでなさるな?",
"いえいえ水も食物も、運んでくださる方がござります",
"それは何者でござるかな?",
"妾は一向存じませぬ",
"ご存知ないとな、これは不思議",
"きっと妾のお仕えしている尊い尊い壺神様がお運びくださるのでござりましょう"
],
[
"我々の露営もかなり久しい。土人の様子もたいがい解った。平和手段では駄目らしい。で船を出し海峡を越え砲火を交じえて征服しよう。しかし、聞けば不思議な軍艦が、ビサンチン湾に碇泊し、やはり我々と同じようにチブロン島を狙っているそうだ。まず使者を遣わして彼らと一応商議しようと思う",
"賛成"
],
[
"お父様! お父様! 早く来てください! 土人は刀を抜きました。私の胸へ差し附けました!",
"神様神様お助けください! おおジョンよすぐ行くぞよ! その土人を撲るがいい! その土人を蹴ってやるがいい! どこにいる? どこにいる? ジョンよどこにいるのだ⁉"
],
[
"踊りを止めて武器をとれ!",
"捕虜を攫われない用心をしろ!",
"それ敵めが現われたぞ! 毒矢を射ろ毒矢を射ろ!"
],
[
"壺神様の神殿へはどう行ったらよいのかね?",
"奇数、偶数、奇数、偶数と、こう辿っておいでになれば、参られるそうではございますが、しかし行く事は出来ますまい",
"何故行くことが出来ないな?",
"行く道々悪者どもが蔓延っているそうでございます",
"とにかく私は行くことにしよう"
],
[
"どうでもおいでなされますか",
"活き剣を手に入れてきっと帰って参りまするぞ"
],
[
"俺は東邦の人間だ。壺の神の神殿へ行く",
"おお行きたくば行くがよい。しかしその前にこの関門を、貴様どうして通るつもりだ",
"関門とは何だ? 何が関門だ?",
"すなわちここが関門よ。そうして俺こそ関守よ",
"関門であろうと関守であろうと、俺は腕ずくで通って見せる",
"腕ずくでは駄目だ、智恵で通れ"
],
[
"形がなくて声がある、早く走るけれども足がない。これは何んだ、当てて見ろ",
"いよいよ益〻愚劣だな。それは風と云うものだ。さあ何でも訊くがいい",
"だんだん肥えてだんだん痩せる。死んでも死んでも生まれるものは何んだ?",
"智恵のねえ事を訊きゃあがるな。それはな、空のお月様だ"
],
[
"神のお怒りでござります。神様が何かを怒らせられ飢餓を下されたのでござります。大事な宝を犠牲として、お怒りを和めずばなりますまい",
"犠牲には何を捧げような?"
],
[
"なるほど俺の身にとって皇子より大事なものはない。皇子を捧げずばなるまいかな",
"皇子を犠牲となされずば神の怒りは解けますまい",
"人民のため国家のため、それでは壺皇子を捧げる事にしよう"
],
[
"おおあなたは日本人ですね",
"さよう、私は日本人",
"助けてください助けてください!"
],
[
"助けてやろうとも助けてやろうとも、しかし何を助けるのです",
"妾は聖典を盗まれました",
"何、聖典! 聖典とは?",
"それには諸〻の尊い智恵が記されてあるのでございます",
"そうして誰が盗んだのだ?",
"旅籠屋の主人でござります",
"その旅籠屋はどこにある!",
"林の奥でござります",
"では俺が取り返してやろう",
"どうぞお願い致します。どうぞお願い致します",
"それにしても不思議だな。どうして日本語を知っておるな?",
"それには訳がございます。いずれお話し致します。聖典をお取り返しくださいませ",
"心配するな。取り返してやる"
],
[
"范邸は浚儀の令たり。二人絹を市に挟み互いに争う。令これを両断し各〻一半を分ちて去らしめ、後人を遣わして密かにこれを察せしむ。一人は喜び、一人は慍る色あり。ここにおいて喜ぶ者を捕らう。はたして賊也",
"魏の李恵、雍州に刺史たり、薪を負う者と塩を負う者とあり。同じく担を弛めて樹蔭に憩う。まさに行かんとして一羊皮を争う。各〻背に藉ける物と言う。恵がいわく、これ甚だ弁じ易しと。すなわち羊皮を席上に置かしめ、杖をもってこれを撃つ。塩屑出ず。薪を負う者すなわち罪に服す",
"相伝う、維亭の張小舎、善く盗を察すと。たまたま市中を歩く。一人の衣冠甚だ整いたるが、草を荷う者に遭うて、数茎を抜き取り、因って厠にゆくを見る。張、その出ずるをまって、後ろよりこれを叱す。その人惶懼す。これを掬すれば盗なり",
"またかつて暑月において一古廟の中に遊ぶ。三、四輩あり。地に蓆して鼾睡す。傍らに西瓜あり。劈開して未だ食わず。張また指さして盗と為して擒う。はたしてしかり。ある人その術を叩く。張がいわく、厠に入るに草を用う。これ無頼の小人。その衣冠も必ず盗み来たるもの。古廟に群がり睡るは、夜労して昼疲る。西瓜を劈くはもって蠅を辟くるなりと"
],
[
"なるほど、それがよろしかろう。逸をもって労を討つ、これ日本の兵法の極意じゃ",
"我が英国の兵法にもそういうことは記されてある。兵の極意は科学的であるとな",
"科学的とは面白い言葉だ。つまり理詰めと云うのであろう",
"さようさよう、理詰めと云うことじゃ。敢て兵法ばかりでなく、万事万端浮世の事は、すべからく総て科学的でなければならない"
],
[
"いと易いこと、説明してやろう。君には忠、親には孝、この二道を根本とし、義のためには身を忘れ情のためには犠牲となる。科学や理詰めを超越し、その上に存在する大感情! これすなわち大和魂じゃ!",
"ははあ、なるほど、よく解った。英国流に解釈すると、つまり騎士道という奴だな",
"騎士道? 騎士道? いい言葉だな。しかし、俺には初耳だ。騎士道の説明願おうかな",
"何んでもないこと、説明しよう。我が国中古は封建時代と称し、各地に大名が割拠していた。その大名には騎士と称する仁義兼備の若武者が、武芸を誇って仕えていた。その騎士は原則として、魑魅魍魎盗賊毒蛇、これらのものの横行する道路険難の諸国へ出て行き、良民のために粉骨砕身、その害物を除かねばならぬ。多くの悪魔を討ち取った者、これが最も勝れた騎士で、その勝れた騎士になろうと無数の騎士達は努力する。これがすなわち騎士道じゃ!",
"なるほど、説明でよく解った。いやどうも立派なものだ。いかさまそれこそ大和魂だ",
"それではそなたは大和魂で、そうしてこちらは騎士道で、土人どもに当たるとしようぞ",
"向かうところ敵はあるまい",
"そろそろ土人ども来ればよいに",
"や、にわかに明るくなったぞ"
],
[
"何んでござるな? 何かご用かな?",
"拙者、武器を持っていませぬ",
"武器がないとな。いやいや大丈夫。武器を持っている土人めを拙者真っ先に叩き斬るゆえ、そいつの武器をお使いなされ",
"これは妙案。お願い申す"
],
[
"もうよかろう",
"では一休み"
],
[
"さようさ、二人は殺した筈だ",
"俺の方が一人多いな。俺は三人ぶッ放した",
"土人ども、どうするであろう?",
"このままでは済むまいな。いずれ大勢で盛り返して来よう"
],
[
"しかしそれまでにはこっちも疲労れよう",
"ナニ、疲労れたら休むまでよ"
],
[
"引っ返すとはどこへ行くのだ?",
"俺の通って来たこの地下道は、幸いのことに迷宮ではない。枝道のない一本道だ。そうして社殿へ通じている。……だからこの道を二人で辿ってひとまず社殿へ出ようと思う"
],
[
"なるほどそれもよいかも知れない。しかし俺は不賛成だ",
"ふうむ、不賛成? それは何故かな?",
"俺はオンコッコと約束した。剣を取って来ると約束した。是非とも剣は取らなければならない"
],
[
"さあどこへ行ったものかね。それは私も知らないよ",
"二度と烏はやって来ないの?",
"さあそれも知らないよ",
"僕、烏に逢いたいなア",
"どうして烏に逢いたい?",
"僕、宝島へ行ってみたいよ",
"宝島へなら私も行きたい",
"烏! 烏!一本足の烏!"
],
[
"貴様の名は何んと云う?",
"はい、バタチカンと申します",
"仲間の土人はどこへ行った?",
"私、一向存じません",
"何、知らぬ? それは何故か?",
"仲間にとってこの私は裏切り者でございます",
"何をして裏切った?",
"ジョンという子供を助けましたので"
],
[
"ジョン少年を救ったのはさてはバタチカンお前であったか。乱軍の場合ではあったけれど、一人の土人がジョン少年を酋長オンコッコの毒刃から救い、小脇に抱えて逃げ出したのを遠目ながら確かに見た。そう聞いては粗末に出来ぬ。バタチカンの縛めを解かなければならない。……さて、ところでジョン少年は今もお前の手もとにいような?",
"それがいないのでございます",
"ナニ、いない? どこへやった?",
"いえやったのではございません。消えてなくなったのでございます"
],
[
"実は俺達は土人軍を追って、島を縦横に駈け廻ったところ、不意に一時にその土人達が姿を隠してしまったのだ。まるで地の中へ吸い込まれたようにな。……この島には地下へ通う抜け穴のようなものがあるのではないかな?",
"はい、抜け穴がございます",
"おおあるか! どこにあるな?",
"しかも三つございます",
"おお、そうか、教えてくれ",
"一つは社殿にございます",
"ナニ、社殿? 社殿のどこに?",
"はい床下にございます",
"それは少しも気が附かなかった",
"それからもう一つは林の奥の窟の中にございます。しかしここからは、容易のことでは地下の世界へは行けません。迷路が作られてありますので",
"で、もう一つはどこにあるな?",
"はいこの島の裏海岸の荒野の中にございます",
"さてはそこから逃げ込んだものと見える",
"恐らくさようでございましょう",
"地下の世界とはどんな世界かな?",
"恐ろしい所でございます。神秘の世界でございます"
],
[
"そんな者ではありません。僕は英国の少年です。ジョン・ホーキンと云う子供です",
"嘘を云え悪者め! が、子供などは相手にしない。サッサとここを立ち去るがいい。そうして蛇使いの婆さんに云え、早く聖典を返せとな!",
"僕、蛇使いの婆さんなどに一度も逢ったことはありません"
],
[
"ええ僕らは日本人です。……君も土人ではありませんね?",
"そうです僕は英国人です",
"英国人? ああそうですか。で名前は何んと云うのです? 僕の名は大和日出夫",
"僕の名はジョン・ホーキン",
"英国というとどの辺です?",
"遠くの遠くの海のあなたです",
"そこから一人で来たのですか?",
"どうして一人で来られるものですか。お父さんや仲間の者と、海を越えて来たのですよ",
"その人達はどうしました?",
"土人と戦争をしています。……ところでここはどこなのです? 大陸ですか島ですか?",
"チブロン島の裏海岸です"
],
[
"日本は東洋の君子国ですよ。そうして人間は利口ですよ。尚武の気象に富んでいます",
"チブロン島から近いのですか?",
"いいえ非常に遠いのです",
"いつこの島へ来られたのです?",
"ちょうど、今から五年ほど以前に",
"何んのために来られたのです?",
"隠された宝庫を探すためにね?"
],
[
"もう一息というところでとうとう失敗したのですよ。……つまり聖典を盗まれたのでね",
"その聖典とはどんなものです?",
"漢文で書かれた本ですよ",
"漢文というと支那の文章ですね",
"ええそうです支那の文章です。……その聖典には、益になる話が数限りなく書いてあるのです。……大事な大事な本なのです",
"いったい誰が盗んだのです?",
"蛇使いの婆さんがね",
"その婆さんはどこにいます",
"地下の世界にいるのだそうです",
"そんな世界があるのですか?",
"ええあるということですよ",
"何故他人の本なんか盗んだのでしょう?",
"宝の在所が書いてあったからです",
"隠された宝と婆さんとは何か関係でもあるのですか?",
"その婆さんが守り主なのです。その隠された宝のね。で、婆さんは本さえ盗んだら宝は安全だと思ったのです",
"晩に来てこっそり盗んだのですね?",
"いいえ、そうではありません。その婆さんは毎日のようにここへ遊びに来ていたのですよ。そうしてある日大威張りで聖典を攫って行ったのですよ。土人酋長オンコッコなどもよく遊びに来たものです。その婆さんとオンコッコとがチブロン島の支配者なのでね。つまりオンコッコは地上の支配者、婆さんが地下の支配者なのです。そうして二人は力を合わせて宝を守っているのですよ",
"すると君のお父様はその婆さんやオンコッコ等と、以前から仲がよかったのですね?",
"つまりお父様はその二人を利用しようとしたんですよ。そやつらの口から宝の在所を確かめようとしたのですよ。……すべて野蛮人というものは、歌を唄うことを好みますね。ことに蛇使いの婆さんは酷くそいつが好きだったので、万葉という日本の古歌へ今様の節をくっ付けて、そいつをお婆さんへ教えたり、日本語を教えたりしたんですね。語学にかけては野蛮人どもは本当に立派な天才ですね。すぐに覚えてしまいましたよ。それを有難いとも思わずに聖典を盗んだというものです。それからというものお父さんはすっかり気持ちが変になって、人さえ見れば、泥棒だと思い悪口ばかり吐くのですよ"
],
[
"僕、武器を持っています! 蛇使いの婆さんを退治てやろう! 地下の世界へ行けさえしたら、きっとそいつを退治てやる!",
"地下の世界へなら行けますよ!"
],
[
"それじゃここから下りて行こうよ",
"では僕が先へ行こう"
],
[
"いよいよ地下の国へ着いたようだな",
"土人どもが騒いでいる"
],
[
"いやいや決して迷信ではない。日本には沢山例がある",
"いや迷信だ。非科学だ。合理的とは認められぬ",
"西洋流の解釈だな",
"そうして正しい解釈だ",
"しかしそいつはまだ解らぬ。……や、来た来た盛り返して来たぞ。議論をしている暇はない",
"うん、来たな。サア戦争だ"
],
[
"蜃気楼だって? そんな筈はない。確かに僕は見たんだからね",
"でも、上陸はしなかったんだろう",
"ああ上陸はしなかった。少し先を急いだものだから",
"では確かに島があったと断言することは出来ないじゃないか",
"しかし、確かに見たんだからね",
"人間の眼というものは、案外アテにならないものでね",
"それに僕は歌声を聞いたよ。沢山の子供達が輪を作って、『いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい、夢の島絵の島お伽噺の島、いらっしゃい、いらっしゃい、いらっしゃい』ッてね、声を揃えて唄っているのを、僕はハッキリ聞いたんだが、これもやはり蜃気楼かしら?",
"いやそれは空耳だよ。でなけれは聞き間違いだよ。潮の音か風の音かが、そんなように聞こえたのさ",
"でも繰り返して聞こえたがな"
],
[
"それは伝説の性質によるね",
"では烏の伝説は?",
"烏の伝説? 聞いたことがないね",
"一本足の大烏が、隠されてある宝の島へ、案内するという伝説だがね",
"で、誰が話したね?",
"土人司祭のバタチカンがね",
"いや僕は信じないね。……だって君そうじゃないか、一本足の烏なんてものはどこの国にだってありゃしないからね",
"ところがあったから面白いじゃないか、僕はこの眼で見たんだよ。僕はその烏に案内されて、島の表から裏側まで、つまり君の家へまで、やって行くことが出来たんだよ"
],
[
"ねえ、ジョン君、こう思うのだよ、理由なしに烏が消える筈がない。消えるには消えるだけの理由があろう。いや理由がなければならないとね",
"ああ、そうとも、理由がなければならない",
"で、僕は思うのだがね、あの断崖の裾の辺に、何か秘密があるのだろうとね",
"ああなるほど、そうかもしれないね",
"恐らく洞窟でもあるのだろう",
"ああなるほど、そうかもしれないね",
"しかも普通の洞窟ではない",
"そんな事までは解らないよ",
"いや僕は断言してもいい。きっと普通の洞窟ではない。非常に価値のある洞窟だよ",
"どうしてそんな事云えるだろう?",
"云えるだけの理由があるからさ",
"僕にはちっともわからない"
],
[
"天工と思うかね? 人工と思うかね?",
"それはもちろん天工だろう",
"ところが、あいつは人工なのだ"
],
[
"その解釈は胸に落ちるね",
"そこで僕はこう思うのだよ、人工の浮き岩を作ったのは、何かを防禦するためだとね",
"ははあなるほど、そうかもしれない",
"つまり、洞窟が大事だからだ。洞窟に価値があるからだ。で、その洞窟へ泥棒どもを侵入させないそのために、浮き岩なる物が作られたのさ"
],
[
"では早速行って見ようや",
"よかろう"
],
[
"やあ小ちゃい島があらあ",
"おやおや烏があんな所にいるよ"
],
[
"これが伝説の宝島だろう",
"そうだそれに違いない",
"大急ぎで宝を目付けようぜ",
"よしきた、目付けよう、競争だ!"
],
[
"俺は最近にお暇するぜ",
"お暇ですって? 何のことです?"
],
[
"首にさわっちゃいけないよ、首にさわっちゃいけないよ",
"ええええ、首になんかさわるものですか"
],
[
"どうも近来首が痛い",
"それはどうも困りましたな",
"ナーニ、ちっとも困りゃしないよ。所期の目的はとげたんだからな",
"所期の目的とおっしゃると?",
"チブロン島の宝庫発見よ",
"それなら充分にとげられましたとも",
"で、首が痛くなったのさ",
"あなたの云うことは解らない",
"本来俺は住吉の浜で首を切られた人間だよ",
"…………",
"意志は強し! 生命より強し!"
]
] | 底本:「十二神貝十郎手柄話」国枝史郎伝奇文庫17、講談社
1976(昭和51)年9月12日第1刷発行
初出:「中学世界」博文館
1925(大正14)年1月~8月
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年3月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043622",
"作品名": "加利福尼亜の宝島",
"作品名読み": "カリフォルニアのたからじま",
"ソート用読み": "かりふおるにあのたからしま",
"副題": "(お伽冒険談)",
"副題読み": "(おとぎぼうけんだん)",
"原題": "",
"初出": "「中学世界」博文館、1925(大正14)年1月~8月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-04-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card43622.html",
"人物ID": "000255",
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"名": "史郎",
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"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "十二神貝十郎手柄話",
"底本出版社名1": "国枝史郎伝奇文庫17、講談社",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年9月12日",
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[
[
"日本人が一人も居ないとは?",
"料理人もボーイも支那人だね……屹度主人も支那人だろう"
],
[
"特別に料理が旨いからさ……純粋の支那人の店でなければ、こう旨くは料理は出来ないものさ",
"新聞記者だけのことはあるね……君のいう通り此処の主人は、六十位の支那人だよ"
],
[
"君は東京へ来たばかりだから、そんな噂は聞かないだろうが、何んでも宗社党の或る親王の、姫君が日本へ来たとか云うので、宗社党に属している留学生達が、窃かに何か企んでいるそうだ",
"何んな事だね?"
],
[
"葱畑の殺人を読んだかね?",
"支那の留学生が殺された記事?"
],
[
"その殺された留学生は、例の支那料理でよく見かけるダイヤモンドの指環の主だ",
"君は死骸を見たのかい",
"勿論現場へ駈けつけたのさ……僕は社会部記者だからね……ところで屹度取られたのだろうダイヤの指環は穿めていなかった"
],
[
"これから曲馬を見に行こう",
"曲馬ってどこの曲馬をだい?",
"勿論浅草の曲馬をだが……君が厭なら一人で行くよ",
"久々で浅草へ行こうかな"
],
[
"何のために事務所へ行ったんだい?",
"一寸ばかり聞くことがあったからさ"
],
[
"一体あれは何者だね?",
"僕と親しい刑事だよ"
],
[
"どうして君は知ったんだい? ボーイが放免されるってことを?",
"知っているわけさ、この僕自身が、ボーイを放免したんだもの……がまあそんな事はどうでもいいよ。そんな事より素晴らしいものを今夜は君に見せてやろう"
],
[
"即ち宗社党の留学生達が、ある建物へ集って、密議をしているその有様を、君に見せようと思うのさ",
"いよいよこいつは面白くなった",
"それでは一緒に出かけよう"
],
[
"そう言って君を瞞したのさ。君はトリックにかかったのだよ。僕のトリックに旨々とね",
"暗の中に立っていた洋館は、あれは一体何なのかね?",
"あれはあの辺の教会だよ!"
]
] | 底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「講談雑誌」
1921(大正10)年9月
初出:「講談雑誌」
1921(大正10)年9月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2019年11月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047419",
"作品名": "広東葱",
"作品名読み": "かんとんねぎ",
"ソート用読み": "かんとんねき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「講談雑誌」1921(大正10)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-11-30T00:00:00",
"最終更新日": "2019-11-02T00:00:00",
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"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
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"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
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"生年月日": "1887-10-10",
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"底本名1": "国枝史郎探偵小説全集 全一巻",
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"校正に使用した版1": "2005(平成17)年9月15日第1刷",
"底本の親本名1": "講談雑誌",
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"底本の親本初版発行年1": "1921(大正10)年9月",
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"入力者": "門田裕志",
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} |
[
[
"弓箭の根元ご存知でござるか?",
"弓箭の根元は神代にござる"
],
[
"根の国に赴きたまわんとして素盞嗚尊、まず天照大神に、お別れ告げんと高天原に参る。大神、尊を疑わせられ、千入の靱を負い、五百入の靱を附け、また臂に伊都之竹鞆を取り佩き、弓の腹を握り、振り立て振り立て立ち出で給うと、古事記に謹記まかりある。これ弓箭の根元でござる",
"さらに問い申す重籐の弓は?",
"誓って将帥の用うべき品",
"うむ、しからば塗籠籐は?",
"すなわち士卒の使う物",
"蒔絵弓は?",
"儀仗に用い",
"白木糸裏は?",
"軍陣に使用す"
],
[
"お若いに似合わず技巧ばかりでなく、学にも通じて居られますご様子、姓名をお聞かせ下されよ",
"伊賀の国の住人日置正次、弓道の奥義極めようものと、諸国遍歴いたし居るもの。……ご息女のお名前お聞かせ下され"
],
[
"天王寺の妖霊星! 天王寺の妖霊星!",
"見たか見たか妖霊星!"
],
[
"千早は落ちたか、あら悲しや",
"悲しや落ちた、情なや",
"天王寺の妖霊星!",
"妖霊星、妖霊星!"
],
[
"それでは約束に背くというものだ",
"元々貴殿より姫君に対して、強請された難題でござる。背いたとて何の不義になろう",
"よろしい背け、がしかしだ、一旦思い込んだこの雉四郎、姫も奪うぞ『養由基』も取る! それだけの覚悟、ついて居ろうな!"
],
[
"この家の主人にござります。……",
"では先刻の……今様の歌主?"
],
[
"ご姓名は? ……ご身分は?",
"楠氏の直統、光虎の妹、篠と申すが妾にござります",
"おお楠氏の? ……さては名家……その由緒ある篠姫様が……"
],
[
"や、貴殿は? ……",
"昼の程は失礼",
"うーむ、和田の翁でござるか",
"すなわち楠氏の一族にあたる和田新発意の正しい後胤、和田兵庫と申す者。……",
"しかも先刻築山の方より、拙者を目掛けて箭を射かけたる……",
"それとて貴殿の力倆如何にと、失礼ながら試みました次第……",
"…………"
],
[
"その楠氏の姫君が、何故このような古館に?",
"洞院左衛門督信隆卿、妾の境遇をお憐れみ下され、長年の間この館に、かくまいお育て下されました。しかるに大乱はじまりまして、都は大半烏有に帰し、公卿方堂上人上達部、いずれその日の生活にも困り、縁をたよって九州方面の、大名豪族の領地へ参り、生活するようになりまして、わが洞院信隆卿にも、過ぐる年周防の大内家へ、下向されましてござります。その際妾にも参るようにと、懇におすすめ下されましたが……",
"…………"
],
[
"何故ご下向なされませなんだ",
"先祖正成より伝わりました、弓道の奥義書『養由基』九州あたりへ参りましたら、伝える者はよもあるまい、都にて名ある武士に伝え、伝え終らば九州へと……",
"養由基? ふうむ、名のみ聞いて、いまだ見たこともござらぬ兵書! ははあそれをお持ちでござるか"
],
[
"きわどい所でござりましたな、私も日中和田兵庫殿に、お目にかかる事出来ませなんだならば『養由基』のお譲りを受けるという、またとある可くもない幸運に、外れるところでござりました",
"ご縁があったからでござります"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
1993(平成5)年7月20日初版発行
初出:「キング」
1932(昭和7)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043744",
"作品名": "弓道中祖伝",
"作品名読み": "きゅうどうちゅうそでん",
"ソート用読み": "きゆうとうちゆうそてん",
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"副題読み": "",
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"初出": "「キング」1932(昭和7)年6月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2005-06-22T00:00:00",
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"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
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"姓ローマ字": "Kunieda",
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"生年月日": "1887-10-10",
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} |
[
[
"ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……",
"え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか",
"胸をご覧、妾の胸を"
],
[
"持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ",
"マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく解った"
],
[
"解らないのかい。驚いたなあ",
"あら解ってよ。お入んなさい"
],
[
"銀の洪水と見えますわい",
"よかったらお前さん持っておいでな",
"気前がいいな。そいつアほんとか?"
],
[
"接吻が合図だ。間違うなよ",
"大丈夫だ。大丈夫だ"
],
[
"彼奴の如何にも好きそうな歌だ。そっくり彼奴にあてはまるからな",
"侮どられて人に捨られぬ",
"ほんとに侮どられて捨られた",
"彼は衰えず落胆せざるべし",
"これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?"
],
[
"ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?",
"さあ、そいつは解りません。だが日本の天保銭なども、随分大きくて重かったですよ。……紋章が面白いじゃアありませんか"
],
[
"どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね",
"ええなりますとも大なりです"
],
[
"何人からお借りしていらしったの? こんな妙な気味の悪いものを",
"気味が悪いって? どうしてだい?"
],
[
"立派な紳士だよ、蒐集家なんだ",
"佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?"
],
[
"どうしてどこでお友達になって?",
"公園でだよ。鶴舞公園でね"
],
[
"おい、こいつア同じだ",
"贋金でなくて白金よ",
"この大きさでこの重さ……",
"数にして三十枚よ。さあお金に意もったら? ああ妾にゃア見当がつかない",
"おい、自動車を呼んで来い!"
],
[
"変にえこじに調べられると、カッと逆上する性質だからなあ",
"それに貴郎はお忙しいんでしょう",
"うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう",
"それが一番困りますわね"
],
[
"牢屋へ持ってって返せってのか",
"では貴郎には手が着かないのね?"
],
[
"妾にお委せなさいまし",
"で、お前はどうするつもりだい?",
"貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ"
],
[
"だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら",
"だが俺には手が出ないよ",
"お書きなさいまし、原稿をね"
],
[
"ねえ、お馬鹿ちゃん",
"ねえ、凸坊"
],
[
"贓物ですって? 下等な言葉ね",
"売ったのだろう! 白金を!"
],
[
"…………",
"黙っていては解らない"
],
[
"君、どこに住んでるね",
"市内西区児玉町",
"何だね、一体、商売は?"
],
[
"児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!",
"家はあるよ。……だがないんだ"
],
[
"ふふん、こいつ狂人だな。……死にたければ勝手に死ぬがいい。だがここは俺の管轄だ。……他へ行ってぶら下るがいい",
"妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな"
],
[
"それじゃアあの女を知ってるのか。俺の狙けてる淫売だが",
"あれが僕の妻君さ"
],
[
"いくらあるね、云って見給え",
"袂にあるんだ、蟇口がな。いくらあるか知るものか"
],
[
"奥様からのお伝言で。あるよい家が目つかりましたので、昨日お移りなさいましたそうで。それで、お迎えに参りました",
"一体貴郎様はどういうお方で?",
"へい、タクシの運転手で",
"すぐ載っけろ! 馬鹿野郎!"
],
[
"あの、お寝みでございます",
"伯爵夫人はお寝みか"
],
[
"今はちょうどその帰りで",
"ああ左様でございますか",
"貴郎この頃お留守だそうで"
],
[
"銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う",
"報酬金が倍になった"
],
[
"銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う",
"十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には解らない"
],
[
"銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う",
"報酬金が五万円になった"
],
[
"銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ",
"これは恐ろしい脅迫だ!"
],
[
"返しておしまい! 返しておしまい!",
"売りましょう! 売りましょう! 白金を!"
],
[
"以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金! こう云って大金で買ってくれたのに!",
"本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません"
],
[
"銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず",
"ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない"
],
[
"汎猶太主義の秘密結社、フリーメーソンリイの会員達が、大分日本へ入り込みましたね",
"ああ左様でございますか",
"倫敦タイムスで見たのですが、彼等の大切な秘密文書を、ある日本人に盗まれたので、それを取り返しに来たのだそうです"
],
[
"本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか",
"おや、どうしてご存知です"
],
[
"仰せの通りそうなのですよ",
"だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?",
"つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の守護本尊は、イスカリオテのユダなんですね。本尊を贋金で作っては、どうもちょっと勿体ない、こういう意味からそれだけを、非常に高価な白金で、作ったのだということです。だが真偽は知りませんよ、伝説的の話ですから"
],
[
"誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ",
"え、したのよ。県知事さんと"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「新青年」
1926(大正15)年3月~5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では「貸す」を一部「借す」としていますが、近世までは多く見られる表記法であり、両者の混在は底本通りにしました。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043769",
"作品名": "銀三十枚",
"作品名読み": "ぎんさんじゅうまい",
"ソート用読み": "きんさんしゆうまい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新青年」1926(大正15)年3月~5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-06-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "国枝史郎伝奇全集 巻六",
"底本出版社名1": "未知谷",
"底本初版発行年1": "1993(平成5)年9月30日",
"入力に使用した版1": "1993(平成5)年9月30日初版",
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"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
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"テキストファイル最終更新日": "2005-05-24T00:00:00",
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} |
[
[
"保養か、成ほど、そういえるな。いや全くいい景色だ。菜の花、桜、雲雀の唄、街道を通る馬や駕籠、だがこの景色とも別れなければなるまい",
"あの然うして妾とも",
"うむマァざっと然ういうことになる",
"お名残りおしゅうございます",
"泣きもしまいが、泣いては不可ない",
"泣けと有仰るなら泣きますとも、泣くなと有仰れば耐えます",
"祝って貰わなければならないのだよ",
"では笑うことにいたしましょう",
"ナニサ故意とらしく笑わないでもよい",
"では無表情でおりましょう"
],
[
"読んでごらん唐詩だ",
"風蕭々易水寒シ",
"壮士一度去ッテ復還ラズ"
],
[
"親の仇でも討とうというので?",
"いかがかな、この見立ては?",
"どういうところから思い付かれたな?",
"名刀所持とあってみれば……",
"だが時々その名刀を、スッパ抜いて見るというではないか",
"それが何とか致しましたかな?"
],
[
"何んでござるな、その後とは?",
"矢っ張り夫れさ、名刀さ",
"ははあ名刀が邪魔しますかな",
"どだい風流というやつは、人間をノンビリさせ茫然させ、生鼠にするのに役立つものでな、そこに風流のよい所がある。ところが刀というやつは、人間を頑張りにし意地っ張りにし、肘を張らせるに役立つものさ。このまるっきり反対のものを、一緒に引っかかえている以上、大通の酔興とはいわれないよ"
],
[
"何んでもないよ、名を売りたがっているのだ。いい換えると評判を立てたがっているのさ",
"あああ評判を? 何んのために?",
"高く売ろうとしているのさ、彼奴の持っている何かをな?",
"ああ夫れでは名刀を?"
],
[
"あッ、成程、わかりました。太公望を気取っているので?",
"この見立は狂うまいよ",
"では武王が無ければならない",
"その武王こそ我々なのさ"
],
[
"それ酒手だ",
"これは何うも、莫大もない"
],
[
"淀川堤におりました者",
"汝が然うか? どうして此処へ?",
"御首級頂戴いたしたく……",
"俺の首をか、何んにする?",
"或お方のお屋敷へ参り、或お方へ近寄って、一太刀なりとも恨みたい所存……"
],
[
"或お方の差金により、取潰された西国方の大名、その遺臣にござります",
"淀川における風流は?",
"ただ拙者という人間を、貴殿のお耳に入れようとな",
"うむ矢っ張り然うだったか。易水の詩を残したは? 我等の企ての失敗を、未然において察しられたか",
"正しく左様、一つには! ……が、同時にもう一つ、拙者の心境を御貴殿へ、お知らせ到そうと存じましてな",
"成程"
],
[
"でもその時越前守様が、おっしゃったそうではございませんか『一年の間考えるがよい』と",
"ああ然うだよ、そういったよ。そうして今日が一年目だ"
],
[
"それではせめて紋服なりと、刀でお突きなさりませ",
"そうさなあ、紋服をお出し"
],
[
"どんなように見える? 似合うかな?",
"ちっともお似合い致しません",
"そうだろうとも然うだろうとも、矢っ張り町奉行の品格がないと、町奉行の衣裳は似合わないと見える",
"お脱ぎなさりませ、そんな衣裳"
],
[
"これから何んとなされます?",
"そうよなァ、泥棒になろう"
],
[
"花魁から乞食、乞食から泥棒、その辺がオチでございましょう",
"武士から乞食、乞食から泥棒、まずこの辺が恰好さ"
]
] | 底本:「妖異全集」桃源社
1975(昭和50)年9月25日発行
※「到」と「致」の混在は底本通りにしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2004年12月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043587",
"作品名": "首頂戴",
"作品名読み": "くびちょうだい",
"ソート用読み": "くひちようたい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-01-07T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card43587.html",
"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "妖異全集",
"底本出版社名1": "桃源社",
"底本初版発行年1": "1975(昭和50)年9月25日",
"入力に使用した版1": "1975(昭和50)年9月25日",
"校正に使用した版1": "1975(昭和50)年9月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "阿和泉拓",
"校正者": "小林繁雄、門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43587_ruby_17099.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2004-12-13T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/43587_17206.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-12-13T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"見たこともないお侍様で、滝沢様とか仰有いましたよ。是非ともお眼にかかりたいんですって?",
"敵討ちじゃあるまいな。俺は殺される覚えはねえ。もっともこれ迄草双紙の上じゃ随分人も殺したが……",
"弟子入りしたいって云うんですよ",
"へえこの俺へ弟子入りかえ? 敵討ちよりなお悪いや",
"ではそう云って断わりましょうか?",
"と云う訳にも行かないだろう。かまうものか通しっちめえ"
],
[
"手前滝沢清左衛門、不束者にござりまするが何卒今後お見知り置かれ、別してご懇意にあずかりたく……",
"どうも不可え、固くるしいね。私にゃアどうにも太刀打ち出来ねえ。へいへいどうぞお心安くね。お尋ねにあずかりやした山東庵京伝、正に私でごぜえやす。とこうバラケンにゆきやしょう。アッハハハハどうでげすな?",
"これはこれはお手軽のご挨拶、かえって恐縮に存じます",
"どう致しまして、反対だ、恐縮するのは私の方で。……さて、お訪ねのご用の筋は? とこう一つゆきやしょうかな",
"は、その事でござりますが、手前戯作者志願でござって、ついては厚顔のお願いながら、ご門下の列に加わりたく……",
"へえ、そりゃア本当ですかい?",
"手前お上手は申しませぬ",
"それにしちゃア智慧がねえ……"
],
[
"戯作者は幇間でござりましょうか?",
"人気商売でげすからな。幇間で悪くば先ず芸人。……"
],
[
"手前の考えは些違います",
"ハイハイお説はいずれその中ゆっくり拝聴致すとして、第二に戯作というこの商売、岡眼で見たほど楽でげえせん",
"いやその点は覚悟の前で……",
"ところで、これ迄文のようなものを作ったことでもござんすかえ?"
],
[
"見るにも耐えぬ拙作ながら、ほんの小手調べに綴りましたもの、ご迷惑でもござりましょうがお隙の際に一二枚ご閲読下さらば光栄の至。……",
"へえ、こいつア驚いた。いやどうも早手廻しで。ぜっぴ江戸ッ子はこうなくちゃならねえ。こいつア大きに気に入りやした。ははあ題して『壬生狂言』……ようごす、一つ拝見しやしょう。五六日経っておいでなせえ"
],
[
"どうでげすな滝沢さん、私の家へ来なすっては。一つ部屋へ机を並べて一諸に遣ろうじゃごわせんか",
"おおそれは何よりの事。洵参って宜敷ゅうござるかな"
],
[
"おおこれは耕書堂さん",
"お互いひどい目に逢いましたなア"
],
[
"左様、代作、不可せんかえ?",
"……で、筋はどうなりますな?",
"ああ筋ですか、胸三寸、それはここに蔵して居ります"
],
[
"よろしゅうござる、代作しましょう",
"では承知して下さるか",
"ともかくも筆慣らし、その筋立てで書いて見ましょう",
"や、そいつア有難てえ。無論稿料は山分けですぜ"
],
[
"おい貴公十返舎ではないか",
"え?"
],
[
"へえ、お客様、何かご用で?",
"私の衣類はどこへ遣ったな?",
"へえ、私知りましねえ",
"ご主人はどうなされた?",
"あわててどこかへ出て行きやした",
"何、出て行った? 客を捨てか?",
"珍しいことでごぜえません",
"寒くて耐らぬ。代わりの衣類は無いか",
"古布子ならござりますだ",
"古布子結構それを貸してくれ"
],
[
"極意に悟入する必要がある。無念無想ということだ",
"無念無想と申しますと?"
],
[
"敵に向って考えぬことだ",
"全身隙だらけにはなりますまいか?"
],
[
"全身これ隙、それがよいのだ",
"ははあ左様でございましょうか",
"全身隙ということは隙が無いと同じことだ"
],
[
"守りが乱れて隙となる。最初から体を守らなかったら、隙の出来よう筈はない",
"あっ、成程、これはごもっとも",
"さて、剣だ、下段に構えるがよい。相手の腹を狙うのだ。切るのではない突き通すのだ。眼は自分の足許を見る。そうしてじっと動かない。敵の刀が自分の体へヒヤリと一太刀触れた時グイと剣を突き出すがよい。肉を斬らせて骨を斬る。間違っても合討ちとはなろう。打ち合わす太刀の下こそ地獄なれ身を捨てこそ浮かむ瀬もあれ。一刀流の極意の歌だ。貴殿は中年も過ごして居る。今更剣を学んだ所で到底一流には達しられぬ。無駄な時間を費やさぬがよい",
"御教訓忝のう存じます"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻五」未知谷
1993(平成5)年7月20日初版発行
初出:「サンデー毎日」
1925(大正14)年4月1日春季特別号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年5月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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"第一わしのようなこんな老人に、もろく負けるようなそんな伎倆では、自慢しようも出来ないではないか。のう澄江、そうであろうがな",
"まあお父様そのようなこと……もうよろしいではござりませぬか……でも陣十郎様のお伎倆は、お立派のように存ぜられますわ"
],
[
"これは恐縮に存じます。……いや私の伎倆など、まだまだやくざでござりまして、まさしく小父様に右の籠手を、一本取られましてござります。……将来気をつけるでござりましょう",
"さようさようそれがよろしい、将来は気をつけ天狗にならず、ますます勉強するがよい。いやお前にそう出られて、わしはすっかり嬉しくなった。……では茶でものむとしようぞ。……陣十郎来い、澄江来い"
],
[
"澄江様。……澄江様",
"はい、何でございますか?",
"私の甲源一刀流、お父上の新影流より、劣って居るとお思い遊ばしますかな?",
"いいえ……でも……わたくしなどには……",
"お解りにならぬと仰せられる?",
"わかりませんでござります",
"わからぬものは剣道ばかりか……男の、男の、恋心なども……"
],
[
"打とうと思えば小父様など、たった一打ち手間暇はいらぬ。……打たずにかえって打たれたは……澄江さま、貴方のためじゃ",
"…………"
],
[
"これは杉様で、お珍しい",
"たっしゃでいいな、一年ぶりだ",
"旦那様もおたっしゃのご様子で",
"源女が帰って出演ているようだな",
"よくご存知で、ほんの昨今から",
"ちょっと源女に逢いたいのだが"
],
[
"知っていたとは? ……何を知って?",
"桟敷にお居でなされましたことを"
],
[
"ただそれだけか。え、お組",
"…………",
"一年ぶりで逢った二人だ。浪之助様がお居でになると、ただそう思って見ていただけか"
],
[
"お組、いままでどこにいたのだ?",
"旅に……旅に……諸方の旅に",
"旅を稼いでいたというのか?",
"いいえ。……でも……ええ旅に。……"
],
[
"旅はいずこを……どの方面を?",
"どこと云って、ただあちらこちらを",
"ふむ。……一座を作って?",
"いいえ、一人で……でも時々は……一座を作っても居りました"
],
[
"なぜそれにしても旅へ出ますと、わしに話してはくれなかったのだ",
"…………"
],
[
"いやわしはただほんの……それも偶然先刻方……榊原様のお長屋で……試合をしていたのを通りかかって……だがその男が桟敷にいたので……",
"ただそれだけでございますか"
],
[
"陣十郎が! 水品陣十郎が!",
"陣十郎が? どうなされた?",
"桟敷にいました! 妾につき纏い!",
"…………"
],
[
"彼、悪鬼、江戸まで来たか!",
"先生!"
],
[
"ついて居る、わしが、大丈夫じゃ",
"はい……先生! ……でも妾は! ……恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい!",
"自分で自分を苦しめてはいけない。……自分で自分を恐れさせてはいけない。……秋山要介が付いて居る"
],
[
"拙者ただ今討ち果したものじゃ",
"はあ。……さようで……何の咎で?",
"裏切りいたした手下ゆえ",
"はあ",
"憎むべきは裏切り者。……言行一致せざる奴。……",
"はあ",
"失礼ながら貴殿のご姓名は?",
"ス、杉浪之助。……",
"杉浪之助殿。……お住居は?",
"小石川富坂町。……",
"源女の小屋で今日午後、お眼にかかったことご存知か?",
"サ、さよう。……存じ居ります",
"源女の部屋へ行かれましたな?",
"…………",
"貴殿と源女との関係は?",
"これと云って、何もござらぬ。……一年前に、ただちょっと……"
],
[
"秋山要介殿源女の部屋へ、今日参って居られたが、貴殿と秋山殿との関係は?",
"何でもござらぬ、ただ今日、はじめてあそこでお逢いしたまでで。……",
"しかと左様か。偽りはござるまいな",
"何の偽り。……真実でござる"
],
[
"拙者貴殿に悪いことは申さぬ、深い因縁がないとあれば、いよいよもって幸いでござる、源女とも秋山要介とも今後決して関係つけなさるな",
"はあ。……しかし……それは……何故に。……",
"さようさ、拙者が好まぬ故",
"…………"
],
[
"わけても源女と関係なされては不可ない。……いかがでござる、よろしゅうござるか",
"…………",
"よろしい、承知なされたそうな。……念のため貴殿にお訊ねいたすが、貴殿、源女の歌う不思議な歌を、耳にしたことござるかな?"
],
[
"よろしい、では、お別れいたす。……お妻行こう",
"あい、行きましょう"
],
[
"何人のお長屋でござりましたかな?",
"さあそれは、うっかり致しまして、確かめませんでござりましたが、よろしくば私ご案内いたし",
"忝けのうござる、では遠慮なく、夕景にでもなりましたら、散策かたがたご同行を願い……"
],
[
"しかし先生などの腕前からすれば、陣十郎の腕前など……",
"なかなか以って、そうはいかぬ。……一年前に上州間庭、樋口十郎左衛門殿の道場において、偶然彼と逢いましてな、懇望されて立合いましたが……",
"勝負は?",
"相打ち",
"…………",
"見事に足を。……",
"足を?",
"さよう。払われました",
"…………",
"拙者は面を取りましたが"
],
[
"こいつで来るのじゃ、さようこいつで。……下れば足、上れば胴、もう一段上れば顎へ来る……必ずやられる、必ず切られる",
"しかしそのように解って居りますれば、その術を破る方法が、いくらもあるように存ぜられますが",
"それが無い、こいつが業じゃ。……分解して云えば今のようではあるが、分解も何も差し許さず、講釈も何も超越して、序破急を一時に行なうと云おうか、天地人三才を同時にやると云おうか、疾風迅雷無二無三、敵ながら天晴れと褒めたくなるほどの、真に神妙な早業で、しかも充分のネバリをもって、石火の如くに行なわれては、ほとんど防ぐに術が無い"
],
[
"恐ろしい業でござりまするな",
"恐ろしい業じゃ、恐ろしい悪剣じゃ。……爾来拙者苦心に苦心し、あの悪剣を破ろうものと、考案工夫をいたしおるが……",
"考案おつきになりませぬか?",
"彼のあの時の太刀さばきが、いまだに眼先にチラツイていて、退きませぬよ、消えませぬよ"
],
[
"人楯とは汝卑怯者!",
"お兄様お兄様妾もろとも、陣十郎を切ってお父様の敵を!"
],
[
"いかにも秋山! ウ――ム南無三!",
"事情は知らぬが日頃の悪業、邪は汝にあるは必定! ここは通さぬ、組み止めるぞ! ……"
],
[
"浪之助殿、貴殿は居残り、主水殿と澄江殿を介抱なされい!",
"かしこまりました"
],
[
"どうしたのだ?",
"火事か?",
"盗賊か?"
],
[
"向こうだ",
"いや、こっちでござろう"
],
[
"出た――",
"やれ!"
],
[
"ギャ――ッ",
"ワッ"
],
[
"陣十郎さん、あぶなかったねえ",
"誰だ。……や、貴様はお妻",
"情婦を忘れちゃ仕方がないよ",
"うむ。……しかし……どうしたんだ",
"そいつアこっちで云うことさ。……一体こいつアどうしたんだえ",
"どうしたと云って……やり損なったのよ",
"そうらしいね、そうらしいよ。……それにしてもヤキが廻ったねえ"
],
[
"ヤキが廻ったと、莫迦を云うな、人間時々しくじることもある。……それはそうとお前はどうして?",
"ここへ来たかというのかえ。……下谷の常磐で待ち合わそうと、お前と約束はしたけれど、気になったので見に来ると……",
"この騒動で驚いたか",
"それで物陰にかくれていると、この夜廻りが六尺棒でお前の足を払おうとしたので……",
"飛び出してグッサリ横ッ腹をか",
"とんだ殺生をしてしまったのさ",
"お蔭で俺は助かった",
"わたしゃアお前の命の恩人、これから粗末にしなさんな",
"と早速恩にかけか",
"かけてもよかろう礼を云いな",
"いずれゆっくりと云うとしよう",
"そのゆっくりが不可ないねえ",
"そうだ、ゆっくりは禁物だ。……どうともして早くここを遁れ。……しかし八方取りまかれてしまった",
"いいことがある、姿を変えな",
"姿を変えろ? どうするのだ?",
"夜廻りの野郎の衣装を剥ぎ……",
"成程こいつア妙案だ"
],
[
"さてこうやって頬冠りをし、お前という女と手を取り合ったら、ドサクサまぎれの駈落者と、こう見られまいものでもないの",
"あたしゃアちょっと役不足さ",
"贅を云うな。……さあ行こう"
],
[
"待て",
"へい",
"何者だ",
"ごらんの通りで……お見遁しを",
"うふ、そうか、おっこち同志か",
"へい",
"行け",
"ごめんなすって",
"これ、待て待て",
"何でございます",
"物騒な殺人者が立ち廻っているぞ。用心をして行くがいい",
"――へい、ご親切に、ありがたいことで。……"
],
[
"澄江、おいで、あれをご覧",
"はい、何でございますか"
],
[
"お兄様、何なのでございますか?",
"わしの眼違いかも知れないが、陣十郎に似た浪人らしい武士が……"
],
[
"通って行ったとおっしゃいますので?",
"博徒と博労らしい一団が、駕籠を護って通って行ったが、その中にその武士がまじっていたのだ",
"ではちょっとわたしが行って、陣十郎かそうでないかを……"
],
[
"へい、何でございますか",
"馬大尽とは何者かな?",
"馬大尽でございますか",
"馬大尽じゃと囃されて行った様だが、彼は一体何者かな?",
"木曽の大金持でございます",
"木曽の金持? 信州木曽のか?",
"へい左様でございます。信州木曽谷福島宿の奥所、西野郷に住居いたします。馬持大尽様にございます",
"馬持大尽? ははあ馬持の?",
"五百頭どころか一千頭にも及ぶ、たくさんの木曽駒をお持ちになって居られる、大金持の旦那様なので……お駕籠に乗って居られましたのが、その旦那様なのでございます",
"馬持の大尽様だから馬大尽?",
"へい、さようでございます",
"訳を聞いてみると不思議ではないな",
"へい、さようでございますとも",
"博徒風の男が五人ばかり、駕籠に附き添って行ったようだが……",
"高萩村の猪之松親分から、迎え出ました乾分衆で",
"高萩の猪之松? 博徒の頭か?",
"へい左様でございます。……赤尾村の林蔵親分か、高萩村の猪之松親分かと、並び称され居ります大親分で",
"それにしても木曽の馬大尽が、武州の博徒などと親しいとは?",
"それには訳がございます。……ご承知のこととは存じますが、木曽福島には毎年半夏至の候、大馬市がございまして、諸国から馬持や博労が集まり、いくらとも知れないたくさんの馬の、売買や交換が行なわれ、大賑いをいたします",
"木曽の馬市なら存じて居る。日本的に有名じゃ",
"荒っぽい大金の遣り取りが行なわれますのでございます",
"もちろんそれはそうだろうな",
"そこを目掛けて諸国の親分衆が、身内や乾児衆を大勢引連れ、千両箱や駒箱を担ぎ、景気よく乗り込んで行きまして、各自の持場に小屋掛けをしまして、大きな盆を敷きますので",
"つまり何だな博奕をやるのだな",
"へい左様でございます。その豪勢さ景気よさ、大相もないそうでございます"
],
[
"賭場をひらくとは怪しからんではないか",
"などと仰せられても福島の賭場、甲州身延山御会式賭場と一緒に、日本における二大賭場と申し天下御免なのでございますよ",
"ふうんそうか、豪勢なものだな",
"本名は井上嘉門様、西野郷の馬大尽様が、この馬市でお儲けになる金高、大変もないそうでございます",
"云わずと知れた、そうだろうな",
"そこで親分方の乾分衆が、押しかけて行って無心をなさる",
"成程な、有りそうなことだ",
"それを一々嘉門様には、お取り上げなされてご合力なさる",
"感心だな。金があるからだろうが",
"親分方といたしましても、見て見ぬふりも出来ませんので、お訪ねをしてお礼を云う",
"義理堅い手合だ、そうだろう",
"嘉門様には一々逢われて、丁寧にご会釈なさるそうで",
"金持には珍しい心掛けだな",
"そこで諸国の親分衆と、嘉門様とはそんな関係から、ずっと永らく交際して居られ、嘉門様が旅などなさいますと、その土地々々の親分衆が、争って歓待なさいますそうで",
"ははあそうか、よく解った",
"高萩村の猪之松親分とは、心が合うとでも申しましょうか、わけても親しいご交際だそうで、馬市が終えると大金を持たれ、毎年のようにこの土地へ参られ、猪之松親分をお相手にして、上尾の宿がひっくり返るほどの、多々羅遊びをなさいます",
"フーンそうか、豪勢なもんだな",
"と云いましても抜目は無く、武州には小金井の牧場があり、牧馬や、牧牛が盛んでありますから、その間に牧主や博労衆などと、来年の馬市の交渉などを、なさいますそうでございます",
"それはまあそうだろう",
"多々羅遊びをなさいまして、上尾の宿を潤しますので、馬大尽がおいでになったと聞くと、宿の人達は大喜びで、お祭のようにはしゃぎます",
"ところで馬大尽の同勢の中に、浪人風の武士がいたが、あれは一体何者かな?",
"用心棒でございますよ、猪之松親分の賭場防ぎの",
"で、何という姓名の者か?",
"さあ何と申しますやら、ああいう浪人衆は一人や二人でなく、猪之松親分の手許などには、五人六人と居りまして、居たかと思うと行ってしまい、行ったかと思うと新しいのが来る。いつもいつも変わりますので"
],
[
"一瞬間に勝負がつき、突嗟に金銭が授受される。……息詰まるような客人の態度。……細心な中盆の壺の振り方。……万事が真剣で緊張していて、見ていても自ずと力が入る。……",
"アッハハ大変ですねえ、お侍さんだけに渡世人と異って、物の見方が面白いや。……まあどうかあんなものへは、決してお手を出しませんように",
"いやわしはやるつもりだ。今日ははじめてのことであり、駒の張り方さえ解らなったが、一日の見学でよく解った。この次からはわしも張るつもりだ",
"いけませんよ杉さん、そいつは不可ない。あいつに手を出して味を覚えると、一生涯やめられません。……やればやるほど深みへ入り、財を失い人を悪くし、碌なことにはなりません",
"だろうとわしも思っている。だからわしはやろうというのだ",
"へー、そいつア変ですねえ",
"わしには物事が退屈なのだ。そこで何かしら退屈でない、全身でぶつかって行けるような物に、ぶつかりたいものと思っていたのだ。……博奕、いや結構なものだ。……当分こいつにぶつかって行くつもりで",
"呆れましたな、とんでもない話だ。……秋山先生に知れようものなら、あっしゃアこっぴどく叱られますよ。……お連れしなけりゃアよかったっけ"
],
[
"秩父地方に何か用でも?",
"旨くゆくと大金を掘りあて、まずく行っても変わったことを、いろいろ経験しましょうよ"
],
[
"源女をお連れなさいますのは?",
"あの婦人が――いや、あの婦人の歌が、秩父行きの原因でな。……秩父の郡小川村逸見様庭の桧の根、昔は在ったということじゃ。――と云うあの婦人のうたう歌が"
],
[
"杉さんにもつきあって貰って、山城屋へ行って遊ぶとしようぜ",
"そう来なくちゃアならねえところさ。第一お山さんが大喜びだ"
],
[
"戸をどやしつけてみましょうか",
"そうさな、ひとつひっ叩いてみねえ"
],
[
"親分あれをお聞きですか、お馴染様であろうとご一現様であろうと、お断わりすると云っています",
"うむ、どうも仕方がねえな。ともかくももう一度俺の名を明かして、その若衆に掛合ってみな",
"へい、よろしゅうございます。……おいおい若衆、他でもねえが、赤尾の親分を知っているだろうな。お前のところのお山さんとは、切っても切れねえ仲だってこともよ。今年の暮ごろには受出してよ、黒板塀に見越の松、囲うってことも知ってなけりゃア嘘だ。その林蔵親分がな、ここにおいでなすっているのだ。ヤイこれでも戸をあけねえか",
"へい、さようでございましたか、赤尾のお貸元さんでございましたか。……野郎とうとう来やがったな",
"え、何だって、何て云ったんだい?",
"いいえ何にも云やアしません。……ええどうも困りましたな。いつもでしたら家中総出で、お迎えするんでございますが、何しろ今晩は馬大尽様が、そのお山さんを相方にして、しかも家を総仕舞いにして、誰もあげるなと有仰って……"
],
[
"それじゃア何かいお山の客は、木曽の馬大尽井上嘉門様か?",
"へい、さようでございます",
"それじゃアどうも仕方がねえ。そうそうそう云えば井上大尽が、今日この土地へ来られたってこと人の噂で聞いたっけ。此方俺も随分ご厄介になった方だ。……いやそれなら結構だ。そういうお方に可愛がられたとあっては、かえってお山に箔がつく、いやそれなら結構だ。……杉さん、藤作、じゃア行こう。……笹屋へでも行って飲み明かそうぜ"
],
[
"これは親分、もうお帰りで",
"うん、わしは、これから帰るが、連れの二人はまだ寝ている、起こさずにそのままにして置いてくれ",
"へい、よろしゅうございます"
],
[
"実は俺らもその通り、上尾へ行って遊んだが、面白くもねえ待遇を受け、業を湧かしての帰り道さ。いやすっかり懲りてしまった",
"あんまり懲りてもいないようだが……そうしてどこへ上ったのかな?",
"楼か、楼は、ええと笹屋だ",
"へえ、こいつは面妖だな。俺らの上ったのも笹屋だが、お前さんの噂は聞かなかったぜ",
"はてな、それじゃア違ったかな",
"大違いの真ン中だろう。……まあそんなことはどうでもいい。そこで高萩の相談がある。聞けばお前さんは小川宿の、逸見多四郎先生の、直弟子で素晴らしい手並とのこと、以前から一度立合って、教えを受けたいと思っていた。ここで逢ったは何より幸い、あまり人通りも無さそうだから、迷惑だろうが立合ってくれ",
"ナニ立合え? ……剣術の試合か?",
"それも是非とも真剣で",
"真剣勝負?",
"命の遣り取り!",
"…………"
],
[
"勝負はしねえとこういうのか?",
"そうさ、勝負は、いずれその中、盆蓙の上でするとしよう",
"ほほうそれじゃア博奕打は、盆蓙の上で勝ちさえすりゃア真剣勝負には及ばねえと、こうお前さんは云いなさるのか",
"まあそういったところだろう。無職渡世の俺らには、何より賽コロの勝負が大事、刃物三昧は二の次さ"
],
[
"博徒同志の切り合いらしい",
"かかりあいなどになりましては、大事持つ身迷惑千万、避けて行くことにいたしましょう"
],
[
"あのお侍さんでございますか。……おお、まさしく水品陣十郎!",
"編笠を脱いだあの横顔、いかさま陣十郎に相違ない! ……妹!",
"お兄様! 天の賜物!",
"とうとう逢えた! さあ用意!"
],
[
"水品先生を敵と狙う! とんでもねえ奴らだ料ッてしまえ!",
"合点だ、やれ!",
"やれやれやれ!"
],
[
"そうとさそうとさ!",
"それに相違ねえ",
"何でもいいから料ッてしまえ!"
],
[
"この朝まだきに街道端で、女を誘拐すとは不埒千万、藤作殿嚇して取り返しましょうぞ",
"ようがす、やりましょう、途方もねえ奴らだ"
],
[
"女を誘拐すとは何事だ! ……ヨ――、汝らア高萩の、猪之松身内の八五郎、峯吉!",
"何だ何だ藤作か! チェッ、赤尾の百姓か!"
],
[
"いけねえ",
"逃げろ!"
],
[
"お、お――、貴郎様は……いつぞやの晩……あやうい所を……",
"お助けいたした杉浪之助! 再度お助けいたしたは、よくよくの縁、ご安心なされ! それに致してもこの有様は?"
],
[
"どこへ? どっちへ? 主水殿は?",
"杉さん……てっきり……高萩村だア!"
],
[
"このお女中を引っ担ぎ、連れて行こうとしたからにゃア、先刻の奴らァ陣十郎とかいう、悪侍の一味でごわしょう。その先刻の奴らといえば、高萩村の猪之の乾兒で。ですから恐らく陣十郎って奴も猪之の家にいるのでござんしょう。ということであってみれば陣十郎とかいう悪侍、主水様とかいうお侍さんを、高萩村の方角へ……",
"いい考え、そうだろう。……では拙者はその方角へ……藤作殿頼む、澄江殿の介抱! ……",
"合点、ようがす、貴郎は早く……"
],
[
"おお藤作、どうしたのだ?",
"タ、大変で……オ、親分が!",
"なに親分が? 林蔵がか?",
"へい、林蔵親分が、カ、街道で、あそこの街道で……タ、高萩の猪之松と……",
"うむ、高萩の猪之松と?",
"ハ、果し合いだい、果し合いだい!"
],
[
"?",
"?"
],
[
"大丈夫、生きてるよ",
"じゃア気絶というやつだな"
],
[
"姐御いい加減にしてくんな。どこの馬の骨か知れねえ奴に、それも死に損ない殺され損ないに。気をくばるなんて嬉しくなさ過ぎらあ",
"まあそういったものでもないよ。……第一随分可愛そうじゃアないか。……それにさ、ご覧よ、この蒼白い顔を……唇の色だけが赤くてねえ。……ゾッとするほど綺麗だよ。……",
"色狂人! ……行こう行こう!",
"行きゃアがれ、碌で無し! ……妾アこの人を介抱するよ"
],
[
"わしの魚釣、いつも不漁じゃ",
"御意で、全くいつも不漁で。……それにもかかわらず先生には、毎日ご熱心でございますな",
"それでいいのだ、それが本意なのだ。……と云うのはわしの魚釣は、太公望と同じなのだからな",
"太公望? はは左様で",
"魚釣り以外に目的がある。……ということを云っているつもりだが",
"どのような目的でございますか?",
"そう安くは明かされないよ",
"これはどうも恐れ入りました……が、そのように仰せられますと、魚の釣れない口惜しまぎれの、負けおしみなどと思われましても……",
"どうも其方、小人で不可ない",
"お手厳しいことで、恐縮いたします",
"こう糸を垂れて水面を見ている",
"はい、魚釣りでございますからな",
"水が流れて来て浮子にあたる",
"で、浮き沈みいたします",
"いかにも自然で無理がない……芥などが引っかかると……",
"浮子めひどくブン廻ります",
"魚がかかると深く沈む",
"合憎、今日はかかりませんでした",
"相手によって順応する……浮子の動作、洵にいい",
"浮子を釣るのでもござりますまいに",
"で、わしはその中に、何かを得ると思うのだよ",
"鮒一匹、そのくらいのもので",
"魚のことを云っているのではない",
"ははあ左様で。……では何を?",
"つまりあの業を破る術じゃ",
"は? あの業と仰せられまするは?",
"水品陣十郎の『逆ノ車』……",
"ははあ",
"お、あれは何だ"
],
[
"東馬、寄せろ、船を岸へ",
"飛んでもないものが釣れましたようで"
],
[
"これはこれは秋山先生、ようこそご光来下されました",
"逸見先生に御意得たい。この段お取次下されい",
"は、先生には江戸表へ参り、未だご帰宅ござりませねば……",
"ははあ、いまだにお帰りない",
"帰りませんでござります",
"先生と一手お手合わせ致し、一本ご教授にあずかりたく、拙者当地へ参ってより三日、毎日お訪ねいたしても、そのつどお留守お留守とのご挨拶、かりにも小川の鳳凰と呼ばれ、上州間庭の樋口十郎左衛門殿と、並び称されている逸見殿でござれば、よもや秋山要介の名に、聞き臆じして居留守を使われるような、そのようなこともござるまいが、ちと受取れぬ仕儀でござるな"
],
[
"これは一体どうしたことで?",
"…………"
],
[
"武芸指南所の門札は、商家の看板と等しなみに、その家にとりましては大切なもの、これを外されては大恥辱……",
"ということは存じて居るよ"
],
[
"それをご承知でその門札を……",
"さよう、わしは外して来た"
],
[
"それも高名の逸見先生の……",
"鳳凰と云われる逸見氏のな"
],
[
"それほど逸見様は高名なお方……",
"わしも麒麟と呼ばれて居るよ"
],
[
"関東の麒麟と称されて居ります",
"鳳凰と麒麟……似合うではないか",
"まさにお似合いではございますが、似合うと申して門札を……",
"ナニわしだから外して来てもよろしい",
"麒麟だから鳳凰の門札を……",
"さようさよう外して来てもよろしい",
"ははあ左様でございますかな",
"他の奴ならよろしくない",
"…………",
"ということは存じて居る。さよう逸見氏も存じて居る",
"…………",
"人物は人物を見抜くからの",
"はい、もう私などは小人で",
"そのうちだんだん人物になる",
"はい、ありがたく存じます"
],
[
"それに致しましても先生には、何と思われて小川村などへ参り、何と思われて逸見先生のお宅などへ……",
"武術試合をするためにさ……",
"それだけの目的でございますかな?",
"真の目的は他にある",
"どのような目的でございますかな?",
"赤尾の林蔵を関東一の貸元、そいつに押し立ててやりたいのだ",
"そのため逸見先生と試合をなさる?",
"その通り。変に思うかな?",
"どういう関係がございますやら",
"今に解る。じきに解る",
"ははあ左様でございますか",
"わしは金蔓をなくしてしまった――源女殿を見失ってしまったので、秩父にいる必要がなくなってしまった。そこで江戸へ帰ろうと思う。……江戸へ帰って行く置土産に、林蔵を立派な男にしてやりたい。それで逸見氏と試合をするのだ。……高萩の猪之松の剣道の師匠、逸見多四郎殿と試合をするのだ"
],
[
"信濃方面へ旅をした。武術の修行というのではなく、例によっての風来坊、漫然と旅をしたまでだが沓掛の宿で一夜泊まった。明月の夜であったので、わしは宿を出て宿を歩き、つい宿外れまでさまよって行った。と、歌声が聞こえてきた。云うまでもなく例の歌さ。はてなと思って足を止めると、狂乱じみた若い女が、その歌をうたって歩いて来る。と、その後から一人の武士が、急ぎ足で追いついたが、やにわに女を蹴倒すと、踏む撲るの乱暴狼藉『汝逃げようとて逃がそうや』こう言っての乱暴狼藉! その瞬間女は正気づいたらしく、刎ね起きると拙者を認め、走り寄って縋りつき、お助け下されと申すのじゃ。心得たりと進み出て、月明で武士を見れば、以前樋口十郎左衛門殿方で、立合ったことのある水品陣十郎! 先方も拙者を認めたと見え、しかも形勢非なりと知ったか、『秋山殿でござったか、その女は源女と申し、発狂の女芸人、拙者故あって今日まで、保護を加えて参りましたが、お望みならば貴殿に譲る』と、このようなヘラズ口をきいたあげく、匆慌として立ち去ったので、源女殿を宿へ連れて参り、事情を詳しく訊いたところ、江戸両国の曲独楽の太夫、養母というものに悪婆あって長崎の異人に妾に出そうという。それを避けて旅へ出で、ある山国へ巡業したところ、大森林、大傾斜、百千頭も馬のいるところ、そういう所の大きな屋敷へ、どういう訳でか連れて行かれた。そうしてそこで恐ろしい目に逢い、妾は正気を失ったらしい。正気づいて見れば陣十郎という男が、妾の側に附いていて、それ以来ずっとその男が、あらゆる圧迫と虐待とを加え、妾にその土地へ連れて行け、お前の謡う歌にある土地へ、連れて行けと云って強いに強い、爾来その男に諸々方々を、連れ歩かれたとこう云うのじゃ。……それからわしは源女殿を連れて、江戸へ帰って屋敷へ置いたが、そこは女芸人のことで、もう一度舞台に出たいという。そこで元の座へ出したところ、陣十郎に見付けられ、貴殿などとも知り合うようになった。……",
"よく解りましてござります"
],
[
"ここに居られるは杉浪之助殿某の知己友人でござる。門札外して持ち参ったことを、ひどく心配いたしましたについて、いや拙者だからそれはよい、余人ならばよろしくないと云うことは逸見先生もご存知、人物は人物を見抜くものじゃと、今し方申して居りました所で、……杉氏何と思われるな?",
"ぼんやり致しましてござります"
],
[
"酒も飲みましょう。がしかし、酒は場所を変えて飲みましょう",
"場所を変えて? はてどこへ?",
"拙者の屋敷で。……云うまでもござらぬ",
"要介のまかり在るこの屋敷、さてはお気に入らぬそうな",
"いやいや決して、そういう訳ではござらぬ。……が、最初にご貴殿において、お訪ね下されたのが拙者の屋敷、言って見れば先口で。……ではその方で飲むのが至当。……",
"ははあなるほど、それもそうじゃ",
"ということと存じましたれば、駕籠を釣らせてお宿の前まで、既に参って居りますので",
"それはそれはお手廻しのよいこと。……がしかし拙者といたしましては、ご貴殿のお屋敷におきましては、酒いただくより木刀をもって、剣道のご指南こそ望ましいのでござる",
"云うまでもござらぬ剣道の試合も、いたしますでござりましょう",
"その試合じゃが逸見先生、尋常の試合ではござらぬぞ",
"と申してまさかに真剣の……",
"なんのなんの真剣など。……実は賭試合がいたしたいので",
"ナニ賭試合? これは面妖! 市井の無頼の剣術使いどもが、生活のために致すような、そのような下等の賭試合など……",
"賭る物が異ってござる",
"なるほど。で、賭物は?",
"拙者においては赤尾の林蔵!"
],
[
"高萩村の猪之松を、お賭下さらば本望でござる",
"彼は拙者の剣道の弟子……",
"で、彼をお賭け下され",
"賭けて勝負をして?",
"拙者が勝てば赤尾の林蔵を、関東一の貸元になすべく、高萩村の猪之松を、林蔵に臣事いたさせ下され",
"拙者が勝たば赤尾の林蔵を、高萩の猪之松に従わせ、猪之松をして関東一の……",
"大貸元にさせましょう",
"ははあそのための賭試合?",
"弟子は可愛いものでござる"
],
[
"賭試合承知いたしてござる。しからば直ちに拙者屋敷に参り、道場においてお手合わせ、試合いたすでござりましょう",
"欣快"
],
[
"いかがなされた、秋山氏?",
"あの歌声は? ……歌声の主は?",
"ここに控え居る東馬共々、数日前に、絹川において、某釣魚いたせし際、古船に乗って正体失い、流れ来たった女がござった。……助けて屋敷へ連れ参ったが、ただ今の歌の主でござる"
],
[
"名は? 源女! お組の源女! ……と申しはいたしませぬか?",
"よくご存知、その通りじゃ",
"やっぱりそうか! そうでござったか! ……有難し、まさしく天の賜物! ……その女こそこの要介仔細ござって久しい前より、保護を加え養い居る者、過日上尾の街道附近で、見失い失望いたし居りましたが、貴殿お助け下されたか。……源女拙者にお渡し下され"
],
[
"源女決して渡すことならぬ!",
"理由は? 理由は? 逸見氏?",
"理由は歌じゃ、源女の歌う歌じゃ!",
"…………",
"今は変わって千の馬、五百の馬の馬飼の……後にも数句ござったが、この歌を歌う源女という女子、拙者必要、必要でござる!"
],
[
"貴殿のお家に、逸見家に、因縁最も深き歌、その歌をうたう源女という女、なるほど必要ござろうのう……伝説にある埋もれたる黄金、それを掘り出すには屈竟の手蔓……",
"では貴殿におかれても?",
"御意、さればこそ源女をこれ迄……",
"と知ってはいよいよ源女という女子、お渡しいたすことなりませぬ",
"さりながら本来拙者が保護して……",
"過ぐる日まではな。がその後、見失いましたは縁無き證拠。……助けて拙者手に入れたからは、今は拙者のものでござる",
"源女を手蔓に埋もれし黄金を、では貴殿にはお探しなさるお気か?",
"その通り、云うまでもござらぬ",
"では拙者の競争相手!",
"止むを得ませぬ、因縁でござろう",
"二重に怨みを結びましたな!",
"ナニ怨みを? 二重に怨みを?",
"今は怨みと申してよかろう! ……一つは門弟に関する怨み、その二は源女に関する怨み!",
"それとても止むを得ぬ儀",
"用心なされ逸見氏、拙者必ず源女を手に入れ、埋もれし黄金も手に入れましょう",
"出来ましたなら、おやりなされい!",
"用心なされ逸見氏、源女を手に入れ埋もれし黄金を、探し出だそうと企て居る者、二人以外にもござる程に!",
"二人以外に? 誰じゃそ奴?",
"貴殿の門弟、水品陣十郎!",
"おお陣十郎! おお彼奴か! ……弟子ながらも稀代の使い手、しかも悪剣『逆ノ車』の、創始者にして恐ろしい奴。……彼奴の悪剣を破る業、見出だそうとこの日頃苦心していたが、彼奴が彼奴が源女と黄金を……",
"逸見氏、お暇申す",
"勝負は? 秋山氏、今日の勝負は?",
"アッハハ、後日真剣で!"
],
[
"日和が続いていい気持だのに、爺つぁんはいつも不機嫌そうね",
"へい、不機嫌でございますとも、倅が江戸へ出て行ったまま、帰って来ないのでございますからな"
],
[
"出て行きたそうなご様子はないかえ?",
"出て行きたそうでございますなあ",
"出て行かしちゃアいけないよ",
"というお前さんの云いつけだから、せいぜい用心しては居りますがね",
"行かせたらあたしゃア承知しないよ"
],
[
"手に合わなけりゃア仕方がねえ、ボーッと竹法螺吹くばかりだ",
"と、村中の出口々々が、固められるから大丈夫だねえ。でもそういった大袈裟なこと、あたしゃアしたくはないのだよ",
"ご尤もさまでございます",
"どれご機嫌を見て来よう"
],
[
"へ、へい、これは水品様……",
"爺つぁん、お妻が来たようだね",
"オ、お妻さんが……へい……いいえ",
"へい、いいえとはおかしいな。へいなのか、いいえなのか?",
"へい……いいえ……いいえなので",
"とすると俺の眼違いかな",
"………",
"恰好がお妻に似ていたが……",
"…………",
"ナーニの、俺ら家を出てよ、親分の家へ行こうとすると、鼻っ先を女が行くじゃアないか。滅法粋な後ろ姿さ。悪くねえなア誰だろうと、よくよく見ると俺の女房さ。アッ、ハッハッそうだったか、女房とあっては珍しくねえ、と思ったがうちの女房ども、どちらへお出かけかとつけて来ると、お前の家へ入ったというものさ",
"へ、へい、さようで、それはそれは……",
"それはそれはでなくて、これはこれはさ。これはこれはとばかり驚いて、しばらく立って見ていたが、裏の方へ廻って行ったので、爺つぁんお前をよんだわけさ",
"へ、へい、さようでございますかな",
"裏にゃア何があるんだい?",
"へい、庭と生垣と……",
"それから雪隠と座敷とだろう",
"へい、裏座敷はございます",
"その座敷にだが居る奴はだれだ!",
"ワーッ! ……いいえ、どなた様も……",
"居ねえ所へ行ったのかよ",
"ナ、何でございますかな?",
"誰もいねえ裏座敷へ、俺の女房は入って行ったのか?",
"…………",
"犬か!",
"へ?",
"雄の犬か!",
"滅相もない",
"じゃア何だ!",
"…………",
"云わねえな、利いていると見える、お妻のくらわせた鼻薬が……",
"水品様、まあそんな……そんな卑しい弁三では……",
"ないというのか、こりゃア面白い、媾曳宿に座敷を貸して、鼻薬を貰わねえ上品な爺――あるというならこりゃア面白い! 貰った貰った鼻薬は貰った。そこでひし隠しに隠しているのだ! ……ヨーシそれならこっちの鼻薬、うんと利くやつを飲ませてやる"
],
[
"そろそろ発足いたしませねば……",
"さあご恢復なさいましたかしら"
],
[
"ご恢復とあってはお父様の敵、お討ちにならねばなりませんのねえ",
"はいそれに誘拐されました妹の、行方を尋ね取り戻さねば……",
"そうそう、そうでございましたわねえ"
],
[
"とはいえ永らく兄妹として、同じ家に育って参りましたから、やはり実の妹のように……",
"さあどんなものでございましょうか"
],
[
"その妹儀あれ以来、どこへ連れられ行かれましたか……思えば不愍……どうでも探して……",
"不愍は妾もでございますよ"
],
[
"あの際お助けしなかろうものなら、陣十郎が立ち戻り、正気を失っている貴郎様を、討ち取ったことでござりましょうよ。……恩にかけるではござりませぬが、かけてもよいはずの妾の手柄、没義道になされずにねえ主水様……",
"あなた様のお心持、よう解っては居りまするが、……そうしてお助け下されました、ご恩の程も身にしみじみと有難く存じては居りまするが……"
],
[
"それを思わずに居られましょうか。……討ち取らねばならぬ父の敵! 陣十郎の寵女、お妻殿がそれだと知りましては、心許されぬはともかくも、何で貴女様のお志に……",
"従うことなりませぬか",
"不倶戴天の敵の情婦に……",
"では何でおめおめ助けられました",
"助けられたは知らぬ間のこと……",
"では何で介抱されました……"
],
[
"さよう、敵の片割でござる。あなたの愛人水品陣十郎を、敵と狙う拙者故……",
"悪縁なのでござりましょうよ"
],
[
"いかに拙者に恋慕の情をお運びになるあなたとはいえ、現在の恋人をあからさまに、恋せぬなどと仰せらるるは……そういうお心持でござるなら、拙者に飽きた暁には、又他の情夫に同じように、拙者の悪口を仰せられましょう……頼み甲斐なき薄情! ……",
"いいえ、何の、主水様、それには訳が、たくさん訳が……"
],
[
"妾の前に陣十郎には、情婦があったのでござります。江戸両国の女芸人、独楽廻しの源女という女、これが情婦でござりまして、諸所方々を連れ歩いたと、現在の情婦の妾の前で、手柄かのように物語るばかりか、貴郎様のお許婚の澄江様にも……",
"澄江にも! うむ、陣十郎め!"
],
[
"横恋慕の手をのばし……",
"いかにも……悪虐! ……陣十郎……",
"あの夜澄江様を誘拐し、しかも妾という人間を、下谷の料亭常磐などに待たせ……さて首尾よく澄江様を、連れ出すことが出来ましたら、妾を秋の扇と捨て、澄江様を妾の代わりに……",
"何の彼如き鬼畜の痴者に、妹を、妹を渡してなろうか?",
"そういう男でござります。そういう男の陣十郎を、何で妾ひとりだけが……先が先ならこっちもこっち……主水様! 今は貴郎様へ!",
"それにいたしても、妹澄江は……",
"お許婚の澄江様は……",
"上尾街道のあの修羅場で、馬方博徒数名の者に、担がれ行かれたと人の噂……",
"人の噂で聞きましたなア……さあそのお許婚の澄江様……澄江様のお噂さえ出れば、眼の色変えてお騒ぎになられる",
"妹であれば当然至極!",
"可愛い可愛いお許婚なりゃ、脳乱遊ばすもごもっとも? ホ、ホ、ホ、その澄江様、どうで担いだ人間が、馬方博徒のあぶれ者なら? ……"
],
[
"や、あの声は?",
"おおあの声は"
],
[
"姐御、どっこい、奥様だったっけ、奥様お見えになりませんが、一体全体どうしたんで、こんな時にこそご出張を願って、あの綺麗で粋なご様子で、お座敷の方を手伝っていただき、愛嬌を振り蒔いていただけば、嘉門様だって大喜び、親分だって大恭悦、ということになるんですがねえ。それが昼から夜にかけて、一度もお見えにならねえなんて……一体全体奥様は……",
"奥様? ふん、誰のことだ!"
],
[
"奥様、ふふん、どいつのことだ!",
"どいつッて、そりゃ、お妻さんのこと……",
"枕探し! ……あいつのことか!",
"え? 何ですって、こいつアひでえや"
],
[
"何を云うんですい、水品先生",
"何とは何だ、これ何とは! ……枕探しだから枕探し、こう云ったに何が悪い。いずれは亭主の寝首を掻く奴! ……そんな女でも奥様か!",
"ワ――ッ、不可ねえ、何を仰有るんで、……奥様で悪かったら奥方様……",
"出ろ! 貴様! 前へ出ろ!"
],
[
"さぞまア気味の悪いことで、いやアなものでございましょうなあ",
"討たれまいとして逃げ廻る。いやなものだぞ、いやなものだぞ",
"いやアなものでござりましょうなあ",
"が、一面快い",
"…………",
"討て、小童、探し出して討て! が俺は逃げて逃げて、決して汝には討たれてやらぬ。……こう決心して逃げ廻る心、快いぞ快いぞ",
"そんなものでございますかなあ",
"とはいえ厭アな気持のものだ。討つ方の心は一所懸命、命を捨ててかかっている。討たれる方は討たれまいとして、命を惜しんで逃げ廻る。心組みが全く別だ。討つ方には用心はいらぬ。討とう討とうと一向だ。討たれる方は用心ばかりだ。……用心をしても用心をしてもいずれは人間油断も隙もあろう、そこを狙われて討たれるかもしれぬ! この恐怖心、厭アなものだぞ",
"へい、さようでございましょうなあ"
],
[
"そこで今夜は私が胆入り、ここに居りますどの女子でも、お気に入りの者ござりましたら、アッハハハ、取り持ちましょう",
"アッハハ、それはそれは、重ね重ねのご好意で、そういうお許しのある以上、嘉門今夜は若返りまして、……"
],
[
"野郎!",
"怪しい!"
],
[
"泥棒!",
"遁すな!"
],
[
"どうなされた? 元気がござらぬな",
"…………",
"やはりお疲労なされたからであろう",
"…………",
"返辞もなさらぬ。アッハハ。……それゆえ拙者馬か駕籠かに、お乗りなされと申したのじゃ",
"…………",
"按摩なりと呼びましょうかな",
"いいえ。……それにしても……主水様は……"
],
[
"……いや……どこへも……厠へ……厠へ……",
"…………"
],
[
"貴様はお妻!",
"陣十郎様か!"
],
[
"助けて――ッ、皆様、助けて!",
"どうしたどうした?",
"若い女だ!"
],
[
"女を助けろ!",
"狂人を殺せ!",
"ソレ抜身を叩き落とせ!"
],
[
"ワ――ッ",
"切ったぞ!",
"仲間の敵!",
"逃がすな!",
"たたんでしまえ!",
"狂人め、泥棒め!"
],
[
"馬が放れたぞ――ッ",
"逃がすな、追え!",
"捕らえろ!",
"大変だ――ッ",
"人殺し――ッ"
],
[
"畜生、恩知らず、たたんでしまえ!",
"やれ!"
],
[
"切ったぞ畜生!",
"用心しろ!"
],
[
"起きろ!",
"火事だ!",
"焼き討ちだ!"
],
[
"あ、あ、あなたは主水様ア――ッ",
"や、や、や、や、澄江であったか――ッ"
],
[
"陣十郎オ――ッ! 尋常に勝負!",
"参れ主水オ――ッ! 返り討ち!"
],
[
"陣十郎オ――ッ! 汝逃げるな!",
"何の逃げよう――ッ! 主水参れ――ッ!",
"お兄イ様ア――ッ",
"妹ヨ――ッ",
"澄江殿! 澄江殿! 澄江殿オ――ッ"
],
[
"焼き討ちだ――ッ!",
"馬が逃げた――ッ!",
"百頭、二百頭、三百頭オ――ッ!",
"切り合っているぞ――ッ!",
"焼き討ちだ――ッ"
],
[
"林蔵々々、少し待て!",
"へい、先生、大変ですなア",
"どうも大変だ、迂闊には行けぬ",
"そうですとも先生迂闊には行けない",
"宿を避けて野を行こう",
"そうしましょう、さあ野郎共、その意で行け、街道から反れろ"
],
[
"へい、親分、何でござんす",
"向こうに一団見えるだろう。どこのお貸元だか知らねえが、ちょっと挨拶に行って来ねえ"
],
[
"親分、大変で、猪之松の野郎で",
"ナニ猪之松? ううん、そうか!"
],
[
"向こうに見えるあの同勢、高萩の猪之だっていうことで",
"猪之松? ふうん、おおそうか"
],
[
"猪之松には其方怨みはあろうが、ここでは手出ししてはならぬぞ",
"何故です先生、何故いけません?",
"何故と申してそうではないか。宿は火事と放れ馬とで、あの通りに混乱し、人々いずれも苦しんで居られる。そういう他人の苦難の際に、男を売物の渡世人が、私怨の私闘は謹むべきだ",
"そうですねえ、そう云われて見れば、こいつ一言もありませんや。が、相手がなぐり込んで来たら?",
"おおその時には売られた喧嘩、降りかかる火の子だ、断乎として払え!",
"ようがす、それじゃアその準備だ。……やいやい野郎共聞いていたか、猪之の方から手出ししたら幸い、遠慮はいらねえ叩き潰してしまえ! ……それまではこっちは居待懸け! おちついていろおちついていろ!"
],
[
"うん、藤作が見えたっけ",
"向こうにいるなあ林蔵ですぜ。林蔵と林蔵の乾児共ですぜ",
"俺もそうだと睨んでいる",
"さて、そこで、どうしましょう?",
"どうと云って何をどうだ。先方が手出しをしやアがったら、相手になって叩き潰すがいい。それまではこっちは静まっているばかりさ",
"上尾街道では林蔵の方から、親分に決闘を申し込んだはず。今度はこっちから申し込んだ方が",
"嘉門様がお居でなさらあ。……素人の客人を護衛って行く俺らだ、喧嘩は不可ねえ、解ったろうな",
"なるほどなア、こいつア理屈だ。……じゃア静まって居りやしょう"
],
[
"先生ありゃア逸見先生で",
"であろうな、わしもそう見た",
"先生、女は源女さんですよ"
],
[
"拙者におきましてはこの邂逅、不思議ではのうて期する処でござった",
"期する処? はてさてそれは?",
"と申すはこの要介、貴殿を追っかけ参りましたので",
"拙者を追っかけ? ……何故でござるな?",
"源女殿を当方へいただくために",
"…………",
"過ぐる日貴殿お屋敷において、木刀立合いいたしました際、拙者貴殿へ申し上げましたはずで。源女殿を取り返すでござりましょうと。……なお、その際申し上げましたはずで、後日真剣で試合ましょうと。……",
"…………",
"いざ、今こそ真剣試合! 拙者勝たば有無ござらぬ、源女殿を頂戴いたす!",
"…………",
"なお、この際再度申す、拙者が勝たば赤尾の林蔵を――その林蔵は拙者と同伴、乾児と共にそこへ参ってござる。――関東一の貸元として、猪之松を隷属おさせ下さい!",
"拙者が勝たば高萩の猪之松を――その猪之松儀これより見れば、同じく乾児を引卒して、そこに屯して居るようでござるが、その猪之松を関東一の、貸元として林蔵を乾児に……",
"致させましょう、確かでござる!",
"しからば真剣!",
"白刃の立合い!",
"いざ!",
"いざ!"
],
[
"さあ手前達かもう事アねえ、猪之の同勢へ切り込んで、猪之の首をあげっちめえ!",
"さあ野郎共赤尾へ切り込め! 林蔵を仕止めろ仕止めろ!"
],
[
"東馬々々、東馬参れ!",
"はい先生! 私はここに!",
"源女殿は? 源女殿は?",
"源女殿は人波にさらわれて……どことも知れずどことも知れず……"
],
[
"もう逃がさぬ! どこへもやらぬ! 杉氏々々源女殿を、林蔵の手へ! ……そこで介抱!",
"おお源女殿オ――ッ! よくぞ来られた!"
],
[
"いざ源女殿、向こうへ向こうへ! ……先生にもご同道……",
"いやいや俺は逸見多四郎を! ……",
"この混乱、この騒動、見失いました上からは……",
"目つからぬかな。……では行こう"
],
[
"どうだ陣十郎、気分はどうだ?",
"悪い、駄目だ、起きられぬ"
],
[
"こういう俺を討って取らぬか",
"そういうお前を討つ程なら、あの時とうに討って居るよ",
"あの時討てばよかったものを",
"死人を切ると同じだったからな",
"それでも討てば敵討にはなった",
"誉にならぬ敵討か",
"ナーニ見事に立ち合いまして、討って取りましたと云ったところで、誰一人疑う者はなく、誉ある復讐ということになり、立身出世疑いなしじゃ",
"心が許さぬよ、俺の良心が",
"なるほどな、それはそうだろう。……そういう良心的のお前だからな",
"お前という人間も一緒に住んで見ると、意外に良心的の人間なので、俺は少し驚いている",
"ナーニ俺は悪人だよ",
"悪人には相違ないさ。が、悪人の心の底に、一点強い善心がある。――とそんなように思われるのさ",
"そうかなア、そうかもしれぬ。いやそうお前に思われるなら、俺は実に本望なのだ。……俺は一つだけ可いことをしたよ。……いずれゆっくり話すつもりだが",
"話したらよかろう、どんなことだ?",
"いやまだまだ話されぬ。もう少しお前の気心を知り、そうして俺の性質を、もう少しお前に知って貰ってからそうだ知って貰ってからでないと、話しても信じて貰われまいよ"
],
[
"実はな俺もお前に対し、その中是非とも聞いて貰いたいこと、話したいことがあるのだよ。が、こいつも俺という人間を、もっとお前に知って貰ってからでないと……",
"ふうん、変だな、似たような話だ。……が、俺はお前という人間を、かつて疑ったことはないよ。俺のような人間とはまるで違う。お世辞ではない、立派な人間だ",
"お前だってそうだ、可いところがある"
],
[
"俺とお前は血縁だったなア",
"…………"
],
[
"俺とお前は従々兄弟だったんだなア",
"…………",
"だから互いに敵同志になっても、……",
"…………",
"こんな具合に住んでいられるのだなア"
],
[
"歩けるのか、陣十郎",
"大丈夫だ。ボツボツ歩ける"
],
[
"駄目だなア主水、問題にならぬぞ。それでは到底俺は討てぬ",
"…………",
"人物は立派で可い人間だが、剣道はからきし物になっていない",
"…………",
"刀をひけよ、俺も引くから"
],
[
"うん、修行するとしよう",
"俺が時々教えてやろう",
"うん、お前、教えてくれ",
"俺の創始した『逆ノ車』――こいつを破る法を発明しないことには、俺を討つことは出来ないのだがなア",
"とても俺には出来そうもないよ。『逆ノ車』を破るなんてことは",
"それでは俺を討たぬつもりか",
"きっと討つ! 必ず討つ!"
],
[
"うむ、兎も角も使って見せてくれ",
"立ちな。そうして刀を構えな"
],
[
"ワッ",
"ナーニ切りゃアしないよ"
],
[
"どうだな主水、もう一度やろうか",
"いや、もういい。……やられたと思った"
],
[
"どうだ主水、破れるか?",
"破るはさておいて防ぐことさえ……",
"防げたら破ったと同じことだ",
"うん、それはそうだろうな",
"どこがお前には恐ろしい?",
"最初にスーッと左斜へ……",
"釣手の引のあの一手か?",
"あれにはどうしても引っ込まれるよ",
"次の一手、柳生流にある、車ノ返シ、あれはどうだ?",
"あれをやられるとドキンとする",
"最後の一手、大下手切り! これが本当の逆ノ車なのだが、これをお前はどう思う?",
"ただ恐ろしく、ただ凄じく、されるままになっていなければならぬよ",
"これで一切分解して話した、……そこで何か考案はないか?",
"…………"
],
[
"木曽の奥地西野郷へ、行って見ようではござらぬか",
"はいはいお供いたしますとも"
],
[
"其方は健気で話が面白い。同行すると愉快でござろうよ",
"まあ殿様、お世辞のよいこと",
"東馬、其方も行くのだぞ",
"は、お供いたします"
],
[
"たしかに妾こういう所を、山駕籠に乗せられ揺られながら、以前に通ったように思います",
"そうでござるか、それは何より……源女殿には昔の記憶を、だんだん恢復なされると見える"
],
[
"西野郷の馬大尽、井上嘉門殿のお屋敷は、大したものでござろうの?",
"へえ、そりゃア大したもので、ご門をお入りになってから、主屋の玄関へ行きつくまでに、十町はあるということで",
"それはどうも大したものだな",
"嘉門様お屋敷へ参られますので?",
"さよう、明日行くつもりじゃ",
"あそこではお客様を喜ばれましてな、十日でも二十日でも置いてくれます"
],
[
"大家のことだからそうであろう",
"幾日おいでになろうとも、ご主人のお顔を一度も見ない、……見ないままで帰ってしまう……そういうことなどザラにあるそうで",
"ほほう大したものだのう"
],
[
"おや",
"はてな"
],
[
"先生、あいつら変ですねえ",
"客ではなくて泥棒かな"
],
[
"おい、陣十郎切ったのか?",
"いや峯打ちだ。殺してはうるさい"
],
[
"『逆ノ車』! さては汝、陣十郎であったか、水品陣十郎! ……拙者は逸見多四郎じゃ! ……師に刃向こうか、汝悪逆!",
"あッ! ……しまった! ……主水逃げろ!"
],
[
"お妻殿ご存じか?",
"はい。……いいえ。……それにしても……",
"それにしても、うむ、それにしても、あの恐ろしい悪剣を……『逆ノ車』をどうして破ったか?"
],
[
"何と申してよろしいか、貴女様がこれからおいでになる所、何と申してよろしいか。……どっちみち厭アなところでござる……どんな強情のジャジャ馬でも、一どそこへ叩っ込まれると、生れ変わったように穏しくなります……気の弱いお方は発狂したり、もっと気の弱いお方になると、さっさと自殺するようで。……さようさよう以前のことではあるが、お組の源女とかいう女芸人が、やはり強情でそこへやられたところ、発狂――まあまあそれに似たような状態になりましたっけ……さて、そこで貴女様も、そこへおいでにならなければ……ならないことになりましたようで",
"どこへなと参るでござりましょう"
],
[
"ははあそれで逸見様には、その黄金を手に入れるべく、当屋敷をお訪ね下されたので?",
"率直に申せばその通り、千、五百の大馬飼は、貴殿以外にはござらぬからな",
"御意で。……が、そうとありますれば、いささかお気の毒に存ぜられまする",
"何故でござるな。それは何故で?",
"なぜと申してそうではござらぬか、そのような莫大な黄金を、私保存いたし居りますれば、決して決して何人にも、お渡しすることではござりませぬ",
"それはもうもう云うまでもない儀、が、拙者といたしましては、そこに少しく別の考えが……"
],
[
"別の考え? 何でござるかな?",
"貴殿がたしかにその黄金を、現実に保存され居るなら、何で拙者その貴殿より、その黄金取りましょうや。……が、もしも貴殿においても、黄金の在り場所的確に知らず、ひそかに探し居らるるようなら……",
"なるほど、これはごもっとも。そうあるならば貴郎様と私、力を集めて探し出そうと覚し召し、参られたので?",
"さよう、ざっとその通りでござる",
"これは事件が面白くなった。……が、さて何と申し上げてよいやら"
],
[
"歌にありまするその馬飼は、たしかに私にござります。そうして歌にありますように、私の屋敷に領地内に、ある時代にはその黄金、ありましたそうでござります。……その黄金ありましたればこそ、馬鹿らしいほどの繁栄を来たし、今このように広い領地を、持つことが出来て居りますので。そうでなくては馬飼風情、いかにあくせく働きましたところで、とてもとても今日のような。……で私はその黄金を、巧みに利用し財を積んだところの、祖先に対して有難やと、お礼申して居りまする次第で",
"とそう云われるお言葉から推せば、今日においてはその黄金、すでにお手にはないご様子……",
"さあそれとてそうとも否とも、ちと私としては申しかねますので……",
"これは奇怪、はなはだ曖昧!",
"へいへい曖昧でござりますとも",
"方角を変えてお尋ねいたす。例の歌の末段に〽秣の山や底無しの、川の中地の岩窟にと、こういう文句がござりまするが、そこに大方その黄金、埋没されて居りたるものと、この拙者には思われまするが、そのような境地が領内に……?",
"へいへいたしかにござります",
"しからばそこへご案内を……",
"駄目で!",
"なぜ?",
"命が無い!",
"命が無いとな?",
"生地獄ゆえ!",
"…………",
"アッハッハッ、地獄々々! そこは恐ろしい生地獄! そこへ行ったら命が無い! 有っても人間発狂する! アッハッハッ発狂する! ……が、今夜も可哀そうに、女が一人送られましたよ。さようさようその生地獄へ!"
],
[
"逸見様は幾軒もござります",
"…………",
"高名で比較的近い所では、尾張にあります逸見三家……",
"おおなるほど逸見三家!"
],
[
"逸見三家の家風については、拙者も遥かに承わり居り、不思議な大尽があるものと、疑惑を感じて居りましたが、その逸見三家と埋もれた黄金と、関係ありと仰せられまするかな?",
"あるやらないやら確かのところは、私にも即座には申し上げられませぬが、……さよう即座には申し上げられぬとし、貴郎様におかれてもせっかくのご来訪、何卒長くご逗留下され、ゆるゆるそのことにつきまして、お話しすることにいたしましょう"
],
[
"とうとう犠牲者を助け損なったが、これも運命仕方がない。……が、それは仕方ないとして、生地獄の光景を見ようではないか",
"それがよろしゅうございます",
"源女殿もおいでなされ",
"妾は厭でござります"
],
[
"秣の山だ、なア娘っ子、お前が一所懸命上ろうとしているそいつ、そいつア秣の山なんだ。秣の山の斜面なんだ。……乗れば辷る、足をかければ辷る。二間と上った者アねえ。無駄だから止めにしな",
"アッハッハッ",
"ヒッヒッヒッ",
"フッフッフッ",
"ヘッヘッヘッ"
],
[
"ここはどこなのでございます? どういう所なのでございます?",
"処刑場だ、人捨場だ! 嘉門の云い付けに背いた者や、廃人になって役に立たなくなった者を、生きながら葬る墓場でもある",
"恐ろしい所なのでございますねえ",
"一緒においで、従いておいで、ここがどんなに恐ろしい所だかを、例をあげて知らせてあげよう"
],
[
"何を食べて生きているのです?",
"馬の肉だ、死んだ馬の。……時々そいつを投げてくれるのだ。谷の下口から上の番人が",
"死んだ馬の肉を? ……それが食物?",
"米もなけりゃア麦もねえ。野菜もなけりゃア香の物もねえ。……水といえばドロンと濁った、泥のようなその川の水だ。……だから長く生きられねえ。一月か二月で死んでしまう。……もっとも中にゃアそいつに慣れて、三年五年と生きてる奴がある。……俺なんかはその一人だよ。……",
"皆様どこにいるのです? どこに住んでいるのです?",
"岩窟の中だ岩窟のな。……向こうにある、行ってみよう"
],
[
"また客が来た",
"俺らの仲間か",
"何か食物を持って来たかしら?",
"着物を剥げ! ひっぺがしてしまえ!",
"若い女だ",
"奇麗な女だ",
"すぐ汚くなるだろう",
"ナーニ半月は経たねえうちに首をくくってくたばるだろう"
],
[
"あの歌、何でございますの?",
"誰も彼もうたう歌なのじゃ、……この辺りではちっとも珍らしくない。……所在ないからうたうのさ……ずっと昔からある歌で、意味もなんにもないのだろうよ",
"この岩窟深いのでしょうか?",
"深いそうだ、深いそうだ。が誰もが行ったものはない。行ったものがないということだ。……わしだけは相当奥まで行った。だが中途で引っ返してしまった。……恐ろしいと云おうか凄いと云おうか、あらたかと云おうか何と云おうか、どうにも変な気持がして、とうとう引返してしまったのさ。……人柱が立っているんだからなア……骸骨なんだ、本当の骸骨! ……そっくり原形を保っている奴だ。そいつが岸壁の右にも左にも、ズラリと並んでいやがるじゃアないか"
],
[
"昼と夜とは自ずと異う。暗中での『逆ノ車』……なるほど、こいつ教わった方がいいな",
"いいともさあ、刀を抜きな"
],
[
"主水、充分用心しろよ。……試合などとは思うなよ。……俺を父親の敵と思い――事実それに相違ないし……その敵を今討つのだと、こう思って真剣にかかって来い",
"うむ。よし。そのつもりで行こう",
"俺もお前を返り討ちにすると――こう思ってかかって行くつもりだ",
"うむ、そのつもりでかかって来てくれ",
"暗中での『逆ノ車』……ダ――ッとお前の左胴へ、事実入るかもしれないぞよ",
"…………",
"暗中だからな。……どうなるかわからぬ……",
"…………",
"本当にお前を切るかもわからぬ",
"…………",
"暗中だからな……よく見えぬからな",
"…………"
],
[
"杉氏か、何という態だ!",
"ナ、何という、ザ、態だと、セ、先生には、オ、仰せられても……",
"アッハハハハ、立ちな立ちな",
"恐ろしい目に逢いました"
],
[
"一体どうしたのでございます?",
"ナ――ニ、邪気を払ったまでさ",
"ははあ邪気を? ……が、邪気とは?",
"まあよろしい、いずれ話そう……ともかくも邪気は払ってやった。……しばらくじっとしているがいい"
],
[
"ははあもう一人も逃げて行ったな",
"先生何です、逃げて行ったとは?",
"一人が一人を殺そうとしていたのだ。……それをわしが挫いてやったのだ。……殺そうとした奴が先に逃げ、殺されかけていた人間が、つづいて今逃げて行ったのさ",
"こんな暗中でそんなことが、先生におわかりになりますので?",
"活眼活耳さえ持って居れば、暗中であろうと、睡眠中であろうと、そういうことはわかるものだ"
],
[
"人使いが荒すぎる",
"役にも立たないお客さんなどを、泊めて置くのが間違っている!",
"客人たちを追っ払え!"
],
[
"逸見様何といたしましょう?",
"とり静める方法ござりますかな?",
"さあこう人心が亢っていましては……",
"一時避けたがようござろう?"
],
[
"見りゃア手前は赤尾の藤作、まんざら知らねえ顔でもねえ。事を決して荒立てたくはねえが、高萩一家が盆割の場所で、イカサマと云われちゃア、どうにも我慢が出来にくい。さあ云え云えどこがイカサマだ!",
"何を云やがる、イカサマだ――ッ、賽もイカサマなら盆もイカサマ、高萩一家は、イカサマだ――ッ"
],
[
"爺つあん船を出してくんな",
"おや、これは親分さんで、夜分渡し船を出しますのは、堅い法度でございますが……",
"と云うことは知っているが……",
"実はたった今もお渡ししましたんで。法度は法度、抜道は抜道、ハイハイお渡しいたしますとも"
],
[
"もう一人俺のような人間が、渡りてえと云って来るだろうから、そうしたら文句無く渡してやってくれ",
"高萩の親分さんじゃアございませんかな",
"こりゃア驚いた、どうして知ってる?",
"たった今お渡りになりまして、同じようなことを仰有いましたので",
"さすがは猪之松、先へ渡ったか、こいつはどうも恐れ入った。……じゃア爺つあんこうしてくんな。俺か猪之松かどっちか一人、間もなく宿の方へ帰るから、向こう岸へ帰らずに船をとめて、ここの岸で待っていてくんな",
"へい、よろしゅうございます……が、お一人だけお帰りになるので?",
"そうさ、一人だけ帰るのよ。もう一人は遠い旅へ出るんだ。……行って帰らぬ旅ってやつへな"
],
[
"高萩のか、遅れて悪かった",
"俺もいまし方来たばかりよ"
],
[
"三度目の決闘だ、今度こそかたをつけようぜ",
"うん、俺もそのつもりだ。……最初は上尾の街道で、二度目は追分の宿外れの野原で、三度目はこの黒川渡で……",
"今度こそかたがつきそうだ",
"三度目の定の目でなあ",
"俺が死んだらオイ高萩の、俺の縄張俺の乾兒、お前悉皆世話を見てくれ",
"心得た、きっと見る。その代わり俺が死んだ時には……",
"俺が悉皆みてやろう",
"心残りはねえと云うものだ",
"もつれにもつれた二人の仲が、今夜こそスッパリとかたがつく、こう思うと気持がいいや",
"これまでは四辺に人がいて、勝負するにもこだわりがあったが、今夜こそ本当に二人だけだ、思う存分切り合おうぜ",
"じゃアそろそろはじめようか",
"やろう、行くぜ、高萩猪之松!",
"さあ抜いた、林蔵来い!"
],
[
"決闘か? そうであろう!",
"…………"
],
[
"決闘! それもよかろう! ……が決闘したその後において、一体どのような良いことが残るのか?",
"…………",
"決闘! 決闘……さてその結果は一人が死ぬ! ……そうだ一人は殺されるのだ! よくよくのことがなければのう、決闘などするものではない",
"…………",
"理由は何か、云ってみい"
],
[
"ここに居りまする林蔵の子分に、藤作と申するものがござりまするが、その者が、わたくしの賭場へ参り、乱暴狼藉いたしましたゆえ、私子分ども腹を控えかね、みんなして袋叩きにいたしましたところ……",
"賭場荒しが原因だな",
"はい、さようでござります",
"みんなして藤作を叩いたといえば、争いは五分々々というものだな",
"まあ左様でございますが……",
"では、どうしてお前たち二人、あらためてここで決闘などするのだ?",
"子分の怨みは上に立つ者の……",
"親分の怨みになるという訳か",
"そればかりでなく、ずっと以前から、林蔵と私とは犬猿もただならず……"
],
[
"そのような噂も聞いて居る、がその不和の原因も、要するに縄張りの取り合いとか、勢力争いだということではないか",
"はい左様にござります、が私共渡世人にとっては縄張りと申すもの大切でありまして……",
"一体誰から許されて、縄張りというようなものをこしらえたのじゃ?",
"…………",
"土地はお上、ご領主の物、それをなんぞや博徒風情が、自分の勢力範囲じゃの縄張りじゃのと申し居る",
"…………",
"一体お前たちは、何商売なのじゃ?",
"…………",
"無職渡世などと申しているが、お上で許さぬ博奕をし、法網をくぐって日陰において生くる、やくざもの、不頼漢ではないか!",
"…………",
"そういう身分のその方なら、行動など万事穏便にし、刃傷沙汰など決していたさず、謹しんでくらすのが当然じゃ! それをなんぞや決闘とは! ……猪之松、其方はわしについて剣道を学んだ者だった喃",
"お稽古いただきましてござります",
"では其方はわしの弟子じゃ",
"申すまでもございません"
],
[
"先生の秘蔵弟子の猪之松殿を、不肖におとしましたは、この林蔵にござりまする",
"…………",
"林蔵さえ争いを仕掛けませねば、穏和な高萩の猪之松殿には決闘などいたしはしませぬ",
"…………",
"私をもお手討ち下さりませ"
],
[
"さすがは男、立派なお心! 多四郎ことごとく感心いたしてござる……そこで多四郎よりお願いすることがござる。……林蔵殿、猪之松と和解下さい……",
"…………",
"一つ秩父の同じ地方で、それほどの立派な男が二人、両立して争うとはいかにも残念! 戦えば両虎とも傷つきましょう。和解して力を一つにすべきじゃ"
],
[
"それに致しても秋山殿には何用あって、このような所に?",
"それは拙者よりお訊きしたい位で、何用あって逸見殿にはこのような所においでなさるるな?",
"実は井上嘉門殿の屋敷に、滞在いたして居りましたところ……",
"これはこれは不思議なことで、拙者も井上嘉門殿の屋敷に滞在いたして居りましたので……",
"や、さようで、一向存ぜず、彼の地にて御面会いたすこと出来ず、残念至極に存じ申す",
"しかるに今回の騒動! そこで引揚げて参りましたので",
"実は拙者も同様でござる"
],
[
"撞木杖をついた跛者の武士が辻斬りをするということで厶るが",
"その噂なら存じて居ります",
"不思議な太刀使いをするそうで",
"こうヒョイと車に返し、すぐにドッと胴輪切りにかける――ということでありますそうで"
],
[
"近来お城下に性のよくない、乞食が殖えたようで、機会あるごとにたたっ斬った方がよろしい",
"なるほどこれは妙案で厶るな"
],
[
"女をころばすのは判っているが、女にころばされるとはサカサマじゃ",
"そこが色男の本性かな",
"その女柔術でも出来るのかな?"
],
[
"どうしたどうした",
"顔色が悪いぞ",
"今までどこへ行っていたのだ"
],
[
"新刀の試し切りいたそうと存じて、川上氏と金田一氏共々、大曾根の乞食小屋まで参りましたところ、一つの小屋の菰垂れの裾より、白刃ひらめきいでまして、あの豪勇の金田一氏が、片足を斬り落とされまして厶りまする",
"なに乞食に金田一氏が……"
],
[
"長の月日お父上の敵、陣十郎めを討とう討とうと、千辛万苦いたしても、今に討つことならぬとは、われわれ二人神や仏に、見放された結果かもしれませぬ……将来どのように探そうとも、陣十郎の行衛結局知れず……知れず終いになろうもしれませぬ……わしにとっては無念至極ではござるが、澄江殿にとってはその方が、かえってよいかもしれませぬのう……アッハッハッよいともよいとも!",
"…………"
],
[
"わしには不思議でなりませぬよ……お父上の敵の陣十郎と、一緒に旅をして居りながら、その敵を討って取ろうと、一太刀なりと加えなかったとは",
"…………",
"弱い女の身にしてからが、同じ部屋に寝泊りして来た以上、相手の眠りをうかがって、討ちとる機会はありましたはずじゃ……それを見遁して討たなかったからには、討てない理由があったものと……",
"…………"
],
[
"名古屋逸見家にある分だけが、これだけなのでございます……。この他に知多の逸見家にも、また犬山の逸見家にも、これほどの財宝が蔵してありますので",
"その三家を支配している者が、貴殿井上嘉門殿なので",
"はい代々井上嘉門が支配いたして居りました。……で、この秘密を保つために、逸見三家は家憲として、外界との交際を避けて居りました",
"それは聡明なやり口ではござるが、しかしこれほど莫大な財宝を、死蔵いたすということは……"
],
[
"今後これまでのような保存のやり方では、よろしくないように存ぜられまする……それにこのように貴方様へ財宝の在り場所お知らせした以上、今後ともお力添えをいただいて、この財宝の使用方につき、研究いたしたく存じまする",
"結構、何なりとお力になりましょう"
],
[
"陣十郎オーッ",
"あッ、逸見先生!"
],
[
"や、貴殿は秋山氏!",
"おおこれは逸見先生で",
"秋山氏には、どうしてここへ?",
"乞食ども怪しい片輪武士と、ともどもこの屋敷へ潜入いたしましたを、つけて参って拙者見届け、押込みと推し、ご注意いたそうと、拙者も潜入いたした次第で",
"その片輪武士こそ陣十郎でござる",
"ナニ、陣十郎? さようでござったか。……してそ奴、陣十郎めは?",
"お妻と申す女を奪い、たった今しがた逃げましてござる",
"追いましょう、逃がしてはならぬ",
"御意で! 追いましょう、遠くは行くまい!"
],
[
"やア、汝は水品陣十郎オーッ",
"誰だ? やア鴫澤主水かアーッ"
],
[
"主水様、この世の名残りに、お目にかかれて本望でござんす……二人一緒に旅はしましたが、とうとう最後まで赤の他人……今はやっぱり陣十郎殿の女房……良人に討たれて死にまする",
"討て主水! いざ立派に!",
"よい覚悟! 討つぞ陣十郎!"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻四」未知谷
1993(平成5)年5月20日初版発行
初出:「山形新聞」
1936(昭和11)年3月~8月18日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、以下の場合には大振りにつくっています。
「戸ヶ崎熊太郎」「広谷ヶ原」
※底本は、「行方/行衛」、「提燈/提灯」、「綺麗/奇麗」、「子分/乾兒/乾児/乾分」、「仰有る/有仰る/仰言る」を混在させていますが、底本のママとしました。
※小見出しの終わりから、行末まで伸びた罫は、入力しませんでした。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045339",
"作品名": "剣侠",
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"私のつけた流名で",
"よりどころでもあるのかい",
"そりゃアありますとも、大ありで。それ私の名は忠三でげしょう",
"妾ア忠公かと思っていた",
"ひどうげすな。そいつアひでえ、いえ忠三でございます",
"忠的にしよう、その方がいい",
"だんだん悪くなる、驚いたなあ。いえ私の名は忠三で、しかも肩書きは早引でげす",
"早引の忠三、なるほどね、だが大してドスも利かない。ところでどうなんだい、中条流は?",
"忠三をもじって中条流。もったいがつくじゃアありませんか"
],
[
"ああそうかい、そいつあ有難う。永い間の念願が、それじゃいよいよ届くんだね",
"へい、さようでございますとも"
],
[
"競争相手もあるそうだが、そっちの方も大丈夫かしら?",
"まず大丈夫でございましょう",
"まず大丈夫とは気がかりではないか。確かに大丈夫でなけりゃあね"
],
[
"へい、確かに大丈夫で",
"だってお前、競争相手は、ひととおりの奴じゃあないそうだが",
"その代わり味方にも大物がいます",
"でもね、お前、そのお方は、表に立ってはくださらないじゃないか",
"かりにも三家のご一人、立てるものではございませんよ",
"そうはいってもつながる縁、お母様さえあのままなら……",
"おっとおっと、そいつアいけねえ"
],
[
"そいつもなみの駕籠じゃあねえ。葵ご紋のついてる駕籠だ。いやそうなったら私なんか、土下座をしたっておッつかねえ。……それはそうとねえあねご、その後あっしはこの江戸で、随分仲間を作りましたよ。命令一下働く奴が、さあどのくらいありましょうか。そこへあねごが乗り込むんだ、そうするとすぐに女大将さ、葵のご紋なんか蹴飛ばしてしまえだ。だがあねご、そいつらを使って、大ダンビラを振りまわすなあ、策としては拙の拙だ。まず真っ先にとる法は持ってうまれたその美貌、そいつでやろうじゃあございませんか。――といって直接じゃあいけません、間接間接こいつに限る以夷制夷というやつだ。競争相手の随一人、好色漢の島原城之介、あねごに以前から参っているはず、こいつをおたらしなさいまし",
"ああなるほど、島原をね。あいつも江戸にいるのかい",
"えらい勢力でございますよ",
"あいつをたらしてさてそれから?",
"以夷制夷でございますよ",
"ふふん天草とかみ合わせるんだね",
"こいつ成功疑いない",
"それじゃあ腕を振るおうか",
"どうぞね、一つ、すごいところを",
"ではそろそろ出かけよう",
"まず天蓋、おかぶりなせえまし",
"あいよ"
],
[
"舞二郎殿おいでかな",
"おおこれは袴様。ハイハイ皆様お庭の方で、お話し最中でございます",
"ははあ、どなたかご来客で"
],
[
"なるほどな。これは金言、さすがは袴広太郎氏、うまいことを仰せられる。がしかし愚考するところ、少しく矛盾してはおりませんかな",
"ナニ、矛盾? そんなはずはござらぬ",
"いつぞやの貴殿のお説によれば、座談はすべからく悪口たるべし、ということであったはず。噂すなわち座談でござる。自然悪口がよろしいはずで"
],
[
"舞二郎殿、おいそがしいかな",
"いや、例によって平凡で",
"ちょっといつもよりお顔色が悪い、勉強が過ぎるのではあるまいかな",
"ナニ、それほど勉強しません",
"それがよろしい、おなまけなさい",
"これ以上なまけたら馬鹿になる",
"いやそれ以上勉強されては、この拙者などはお話しさえ出来ぬ",
"そういわれるとこの拙者、なんだか大変学者のように見える",
"学者でござるとも、立派な学者で"
],
[
"いやいやトンと存じませんな",
"邪教徒の巣窟を襲ったのだそうで",
"ははあ邪教徒? ではキリシタン",
"さようさようキリシタンで",
"で、結果は? 一網打尽かな?",
"主領をはじめ五、六人の者が、うまくのがれたということで",
"ふうむなるほど、それでわかった。隅田で出あったあのくせ者、恐らくそいつらの一人でござろう",
"さよう、話のご様子ではな",
"どっちにしても物騒な世情だ",
"台閣諸侯も困難でござろう",
"いや全く困難らしい。叛骨を帯びた連中が随分諸方面にいるようでござる。南海の龍、紀州大納言、このお方などは随一人だ",
"変な浪人も沢山いますな",
"由井正雪、山鹿素行",
"外様大名にも危険なのがいます",
"伊達、島津、加賀、毛利",
"天草、島原の残党などもな",
"それに近来頻々と、奇怪な盗賊が横行するようで"
],
[
"妾をお召しでございますか",
"従いておいで、イスラエルの宮へ",
"はい有難う存じます",
"選ばれた処女、恐れるには及ばぬ"
],
[
"売僧!",
"無礼者!",
"人さらいめ!"
],
[
"おお袴氏と仰せられるか、こやつ邪教徒、しかも人さらい、捕えあぐんだ曲者でござる。ようこそお捕えくだされた。お渡しくだされ、引っ立てて参る",
"それはご苦労、お連れくだされ",
"今後もお娘ごにご用心"
],
[
"それがなんとか致したかな?",
"いや、お手柄でございましたな。――ところで甚だ失礼ながら、あの人攫いは容易ならぬ手きき、なかなかもって普通の事では、取りおさえることは出来ませぬ。いかが致して貴所様には、生擒り致してございますな?",
"木刀で脳天をくらわせてござる",
"ほほう、木刀で。それは不思議。では貴所様には、あの人攫い、昨夜あの辺を襲うということを、あらかじめご承知でござりましたかな?"
],
[
"いいかげんになされ、袴氏。とぼけるのにもほどがござる。よしまたどのようにトボけられても、食わせられるような拙者でもない。お芝居をするも善し悪しでござるよ",
"芝居もしなければトボけもしない。拙者真面目にきいているので"
],
[
"あくまでもシラをきられる気かな",
"知らぬものは知りませんな",
"それで拙者を追っ払う気かな",
"当方でお招きしたのではない。ご用が済まば帰られるがよろしい"
],
[
"盗みたければお盗みなされ",
"ふふん、その時……",
"馬鹿め!"
],
[
"どなたでござる。何かご用?",
"拙者は袴広太郎。築土殿に御意得たい"
],
[
"うむそいつもご存知ない? これは当然、そうでござろう。お話し致す。城之介とはな、貴殿が捕えて同心へ渡した、あの白衣の修験者でござる。そうしてそやつが持ってるので、その巻軸というものをな",
"が、すでに修験者は、同心の手から奉行所へ",
"なるほど渡っているかもしれない。しかしそこには裏があります。地獄の沙汰も金次第、いやな例だが引かねばならぬ。貴殿お家はたいへん裕福、それ、そいつを利用して",
"わいろを使えとおっしゃるのか?",
"いや、そこまでは指図いたさぬ。潔白のご気性、おいやであろうな……では、やむを得ぬ。お眼にかけよう、貴殿、魂のおののくものを"
],
[
"花に蜜蜂、野には牛乳、遠い遠い小亜細亜。美しい美しい約束の国、そこへ行かなければなりません",
"気が狂ったのだ! 発狂だ!"
],
[
"おい、見や見や今夜もいるぜ。薄気味の悪いリャンコめが。あのあから顔の四十年輩、あの侍を知ってるかい",
"知らなくってよ。お茶の水だあ",
"せいの高い侍は?",
"あれは本郷三好坂だよ",
"本郷六丁目も来ているぜ",
"ふふん、浅草七軒町もいらあ",
"おっと、最上の浪人もいらあ",
"全くもってご精が出るな、とっ代え引っ代え飽きもせずに、やって来るのはいいとしても、時々ひどく乱暴するので、たいして有難い客ではないよ",
"有難くないばかりかい、迷惑至極というものだ。あいつらが来るのでいやがって、足を遠のかせるお客様もあらあ",
"だがあいつら、自分たちの素姓が、わからないと思っているのだろうか。もしそうならトンチキだな",
"江戸じゃあ一流の人物だ、まさかそうとは思っていまい。顔の知れている奴らだからな",
"親方にちょっと知らせておこう"
],
[
"これ、貴様、無礼千万だぞ。武士たるものに言葉をかけられ、返辞をしないとは何事だ。おしか、それともつんぼなのか",
"うるせえヤイ! 三ピンめ!"
],
[
"おそろしい力だ、おおいてえ! こんなに強いとは知らなかった。ワーッ、いけねえ、人殺しいい!",
"これこれ何だ、野暮な声を出すな。殺しはしない、折っぺしょるだけだ。取ったこの手を逆にひねる。するとメリメリと音がする。骨のつがいが離れるのさ。と腕がブランコになる。身体髪膚父母に受く、毀傷せざるは孝のはじめ、こんな格言もむだになる、可愛い女もだくことができない。生まれもつかぬ片端者! よいか、ごろん棒、折っぺしょるぞ"
],
[
"それとも拙者の忠告を入れ、今後南蛮屋へは来ないようにするか。誓えばゆるす。どうだ、どうだ",
"へえへえ承知致しやした。もう来ることじゃあございません。旦那様え、ごめんなすって",
"うんそうか、それなら許す。が、なんとかいったっけな、大名小路広小路、伊勢屋稲荷に犬の糞、江戸紫から錦絵まできらいなものは一つもねえが、二本差しだけは好かねえか",
"ありゃあ無駄の形容詞で",
"お前が本来むだじゃあねえか",
"そんなあんばいでございます"
],
[
"いずれべっぴんでござろうな",
"いかにもさよう。天女のようで",
"いやいや拙者の思うところでは、弁天様のように美しい筈で",
"お言葉どおり、弁天様のようで",
"だが少々浮気の方でござろう"
],
[
"貞淑無類、珍しいほどで",
"いやいや拙者の考えでは、浮気者の大莫連。それで許婚の貴殿を棄て、仇し男と逃げた筈でござる。……競争相手はなかったかな?"
],
[
"それそれそいつが仇し男でござる。おそらく今ごろは手に手を取り……",
"いやいや断じて、そんなことはござらぬ。実はその男も拙者と同じく、探し廻っている筈で",
"などと安心していると、貴殿、煮え湯を飲まされますぞ。そいつが曲者、討ち果たすがよろしい",
"さようかな? そうだろうか?"
],
[
"とんでもないこと、旗本でござる",
"ははあ、徳川ご直参か",
"しかも安祥旗本で、家柄にかけては、負けを取らぬ"
],
[
"何さ、ここにいるご仁がな、あんまり縹緻がお美しい。寺侍かと聞いたところ、安祥旗本とおっしゃるので。どうかな、旗本に見えるかな?",
"どれどれ一見。これは美男! ははあこいつ、河原者だな",
"どれどれ一見。これはヨカ稚児。陰間でござろう、それに相違ない",
"どれ拙者にも見せてくれ。あッ、なるほど。これは素的。女であろう、変装した女",
"まあさ、拙者にも見せたり見せたり。ウフッ、まさしく両性だな"
],
[
"大青江だ! よっく見ろ!",
"すなわち鳥飼国俊だ!",
"驚いてはいけない、松倉郷!"
],
[
"酒はどうした。酒だ酒だ!",
"もうよかろう。勘定だ"
],
[
"チェッ、奴らまだいやがる。乱暴狼藉の仕放題。畜生ほんとにムカムカするなあ。どうかしてやらなけりゃあ気が済まねえ。これまでにした店だって、きゃつらのおかげでさびれてしまう。……あねご、勘考はあるまいかね",
"うっちゃってお置きよ、どうなるものか。今があいつらの全盛時さ。あばれ放題あばれるがいいや、そのうちにこっちが勝ってみせる",
"などとおちついているうちに、口があいたらどうします",
"妾あ大丈夫と思うがねえ、そんな気遣いはまずなかろう。相手も大変な人間だが、あいつだってあのとおりの曲者さ、痛め吟味では口もあくまい",
"あっしにゃアなんだか心配でね。どうでしょう、いっそのこと、荒っぽい料理に取りかかっては",
"そいつこそ本当にあぶないよ。だって忠公そうじゃあないか。味方に五百人の人数があれば、敵には千の人数がある。それに味方がどうかというに、残念ながら烏合の衆さ。町人、百姓、ごろん棒、女子供に食い詰め浪人、一束いくらっていう人足だよ。ところがお前、あいつらときたら、一騎当千の武者だからねえ。それに親玉が浪人ながら、十万石のくらしをする、兵法の先生と来たひにゃア、どうあがいたって歯は立たないよ。まあまあもう少しながめていよう、待てば海路の日和ってね。古いようだが金言さ。金言は無駄にはできないよ。……ネロや、ここへおいで"
],
[
"それがさ、並みの緋縮緬じゃあない。あぶらの乗った真っちろな、ピンと張り切ったはぎが二本、鎮座ましますと思うとね、こう胸の辺がモダモダしまさあ",
"粂仙の口だね。きたない仙人だよ"
],
[
"あねごも今年ははたちの筈だ。いろをこしらえていい頃だ。兼好さんがいってまさあ。色を好まねえ阿魔っ子は、底のねえひしゃくに似ているってね。どうもあねごはがさつでいけねえ",
"呆れもしないよ、ひしゃくだとさ。玉の杯底なきごとしさ。それにお前、阿魔っ子じゃないよ",
"どっちにしても似たようなものさ。なにしろあねごは落胤には見えねえ"
],
[
"どんな男がお好きかね?",
"ああ真っ先にいって置こう。お前のような男じゃあないよ",
"ご丁寧でげす。さてそれから?",
"色の浅黒い好男子さ",
"アレ、おいらに似ているぜ",
"武道の方も達人でね",
"中条流の早縄はえ?",
"金持ちでなけりゃ嫌いだよ",
"あッ、こいつだけがはずれている",
"三拍子そろった若い男さ",
"飲む打つ買うの三拍子なら、めったにヒケは取らねえが",
"さあそいつだってあぶねえものさ、飲むときまって管を巻くし、打つと勝って来たためしはなし、買うとむやみに振られるしさ",
"ワーッ、あねご、コキおろしましたねえ"
],
[
"ふふん、あいつもお前に似ている",
"惜しいことをした。ちょっとの違いだ。巻軸がこっちへはいったものを",
"今さらいったってどうなるものか",
"あねごにしちゃアまずかったね。すぐに巻き上げりゃよかったのに",
"いくら好色の城之介でも、あれほどの物が手にはいりゃあ、ちょっと渡すのが惜しくなるものさ",
"そのうちとうとうとッつかまってしまった",
"なんとかいったっけねえ、とっつかまえた奴は?",
"袴が広いとかいう奴さ",
"ああ袴広太郎か"
],
[
"機会を逃がすと大変だがなあ",
"うるさいねえ。心得ているよ",
"いい手段でもおあんなさるので?",
"いったじゃアないか、もうさっきに。待てば海路の日和とね",
"私にゃ難船が眼に見える"
],
[
"あのね、いずれはそうなろうよ。お館様のお力に、おすがりするようになるだろうさ。それよりほかに今のところ、いい手段はないのだからね",
"そうでげしょう、そうですともさ。そうきまったらさあすぐに",
"ところが駄目さ、まだ今はね。……誰かいっそ強い押し手で、押し立ててくれたら飛び込んで行くよ"
],
[
"イスラエルのあねご、お客様で",
"え、私に客だって? おかしいねえ。だれだろう?",
"立派なお武家様でございますよ"
],
[
"これでお暇いたそうかな",
"それがよろしい。しからばこれにて",
"ご免くだされ、袴氏"
],
[
"うむ、そうだ。意外だったよ",
"しかしお館にはどうしてこれを?",
"今な、鸚鵡が舞って来た。そうしておれに手渡したのさ。で、すぐに返辞をやった"
],
[
"いうまでもない。承知したとな",
"これはごもっともに存じます",
"ついてはその方大儀ながら、すぐに参って取り計らってくれ",
"かしこまりましてございます"
],
[
"うむ、それはわかっている。……どこに隠したか聞いているのだ。住居をいえ、お前の住居を",
"拙者はイスラエル教の教主でござる。信者のある所、天が下、これ皆拙者の安住地でござる"
],
[
"さて最後の拷問は……",
"まだやるのか。これは面白い",
"お前の恋するイスラエルのお町……"
],
[
"おびき寄せてこの牢屋で……",
"何をするのだ、何をするのだ!",
"一糸もまとわずはだかにし……",
"はずかしめようとするのだな!",
"お前の見ているその前でな……"
],
[
"ほえろほえろ、五十ぺんでもほえろ。イスラエルの神が天上から、この土牢へ現われて、屋根を破ってお前を連れ出し、奇蹟を現わしたらおれは信ずる",
"モーゼに現われた大天使よ、この姦悪な盗人を、火柱となってお焼きくだされ!"
],
[
"紀州家の使者として申すでなく、単なる牧野兵庫として、由井先生へ申し上げます。これは先生におかれては、是非とも大納言家のお言葉に従い、島原という修験者を、この際追放あそばすよう、切にお進めいたします",
"うむ、それはどういうわけかな?",
"大納言様へすがられた方が、尋常な方ではございません",
"ナニすがる? すがるとは?",
"修験者を追放するように、すがった者があるのでござる",
"ははあなるほど。何者かな",
"それより先に先生へ、お尋ね致したいことがございます。イスラエルのお町と申す婦人、先生にはお聞き及びござらぬかな?",
"さようさ、噂は聞いております。島原天草の残党で、あるスペイン司僧の娘と、日本の貴族との間にできた、混血の美人だと申すことで",
"その日本の貴族というのが、大納言家でございます"
],
[
"そう没義道におっしゃいますな。ね、ね、ね、お嬢様、文三はばかではございますが、どうやら猿よりはましの筈で。……早い早い随分早い、早いお足でございますなあ。こいつアどうも大汗だ。もっとゆっくり、お嬢様、内輪にお歩きなさいまし。……そうら捉まえた捉まえた。細くて白くてすべっこくて、綺麗なお手々でございますなあ",
"厭だよ厭だよお放しよ、なんてきたないんだろう、お前の手は。あぶらだらけで、ネチネチして、蛭だわ、蛭だわ、まるで、蛭だわ! 厭々! すいつこうッてのね。いよいよ蛭だわ。薄っ気味の悪い! ぶつよ! ぶつよ! 頬っぺたを!"
],
[
"おお痛い、おお痛い、ぶちましたね。お嬢様、これは有難う存じます。いえ何大変結構で、ほう帯をして、油紙で包み、大事に致します。……がその代わりお嬢様! ちょっとちょっと。ようがしょう",
"何をするんだヨーいやな奴! だれか来ておくれヨー。だれか来ておくれヨー文三がわたしをなめ殺すヨーッ"
],
[
"ご洗足のお水、取りましょうで",
"何さ、裏に清水がある"
],
[
"それでは私は里じゅうへ……",
"うん、ふれを廻してくれ"
],
[
"失礼ながらお武家様には、剣術がお出来でございましょうか?",
"さよう。いささか、柳生流をな",
"あの、名人でいらっしゃいますの?",
"なかなかもって。下手糞の方で"
],
[
"結構な折り紙。ありがたいことで",
"自然とわかるのでございますの",
"ははあ人相もお出来とみえる"
],
[
"はい、さようでございます。盆地をくだれば杉窪の里、ほんの眼の下でございますの",
"実はな、先ほども申しましたとおり、尋ねる人がありまして、まず手はじめに水戸の方を……といって何もその水戸に、尋ねるお方がいるものと、そう思ったのではございませんが、……つまり、一つにはうさ晴らし、霞ヶ浦の風景でも、探ってみようかと存じましてな。松戸の宿まで参りましたところ、眼についたは一つの石標、西、杉窪の里とある。実は以前より杉窪については、耳にしたこともございましたので、こういう場合、出掛けて行き、変った土地を見るもよかろうと、それで参ったのでございますよ",
"おやおやさようでございましたか。でも杉窪と申しましても、別に変った土地でもなく、家があって、人がいて……悪い人だっておりますのよ",
"ほほう、悪人もおりますかな?",
"文三といって大悪人……",
"ははあ、人殺しでもしましたので?",
"妾を追っかけるのでございますの"
],
[
"でも、いいものもおりますの",
"ははあ、美しい若い衆でも?",
"あの、いいえ、三吉猿"
],
[
"これは容易に目つかりますまい",
"あの、妾に似ておりますそうで",
"下世話にいう瓜二つ",
"では、やっぱり妾のように、お美しい方なのでございますのね"
],
[
"さようさよう、あなたのように、お美しい方でございます",
"そうして妾のようにおとなしい"
],
[
"ナーニ、あべこべにみな殺しにしてやる",
"うん、その元気。そいつが大事だ!"
],
[
"文三も馬鹿でございますねえ",
"問題にも何にもなりゃアしない。……どれそれではお目にかかろう"
],
[
"へい、私は里の者で",
"うむ、そうか、どこへ行く?",
"天草殿に逢いたいので",
"ははあ貴様、間者だな",
"いいえそうじゃアございません、天草殿にお目にかかり、お話したいことがございますので。どうぞ陣所までお連れなすって。へい、大丈夫でございます、刃物一本持っていません"
],
[
"ぼろい儲けはあるまいかな? こう思って入城したってものさ。神様商売もうまくやると、お賽銭のあがりが大きいからなあ。ところがどうも島原では、思うようにはいかなかったよ",
"それはまたなぜでございましたな?",
"一口にいうと信者ばかり多くて、不信心家が少なかったからさ",
"面白いお言葉でございますな",
"面白いものか、ひどい目にあったよ。だってお前そうじゃアないか。一切物は信じてはいけない、それだのにお前物もあろうに、神様なんかを信じるんだからなあ。戦争に負けるのはあたりまえだよ",
"しかし神様というものは、信じるものではないでしょうか?"
],
[
"オイオイ築土、何をいう。持ち出したなんて、人聞きが悪い。ふんだくって来たとこういいねえ。すべて物事というものは、下等な言葉でいうがいい。万事その方がいきいきしてみえる。上品な言葉を使ったが最後、物事精彩を失ってしまう。……そうだよ巻軸をふんだくって来たよ。ところがどうも驚いたことには、おれより一層素早い奴があって、いつの間にか一本持ち出してしまった。二本の巻軸を合わせないことには、秘密の糸口はわからないんだからなあ。これにはおれも参ってしまったよ",
"その素早い人間とは、杉窪の銅兵衛でございましょうな?",
"そうだよそうだよ銅兵衛だよ。きゃつも一個の人傑だが、その上に立っている人間が、すばらしくえらい人物だな",
"ははあ何者でございますか?",
"葵のご紋だ、葵のご紋だ"
],
[
"文三と申す若者、密々に言上致したいと、里を抜け出して参りましてござるが",
"ほほう、さようで。それは結構。文三さんとやら、さあおはいり"
],
[
"女がほしいんでございますよ",
"ああさようで、ご婦人をな。で、どういうご身分の方で?"
],
[
"親方銅兵衛の一人娘、君尾という子でございます",
"ははあなるほど、君尾ちゃんで。……どうなさろうとおっしゃるので?",
"いずれ乱軍になりましょう。ドサクサまぎれに引っさらい、逃げて行きたいんでございますよ。あなたの陣中へ飛び込みます。その時お見のがしを願いたいもので"
],
[
"肌身放さず親方が、持っているようでございますよ",
"で、今夜は銅兵衛さん、どこらあたりにおいでかな?",
"武器蔵か本陣でございます",
"では文三さん、おさらばおさらば"
],
[
"いやいや、それはわからない! 君尾はどうだろう? 姫はどうだろう?",
"銅兵衛殿の息のあるかぎり、君尾姫にはご安泰。見越しをつけるべきかと存ぜられます",
"ともかくも急げ、のっ立てろ!"
],
[
"気息奄々、断末魔!",
"姫はどうした、君尾はどうした⁉",
"文三と申す裏切り者、もったいなくもかどわかし!"
],
[
"ただし袴広太郎という義士、追っかけてゆきましたと申すこと",
"銅兵衛に逢いたい! のしくだせ! 槍をもて! さあ続け!"
],
[
"水だヨーッ……水々……水を汲んでおいで!",
"で、どの辺にござんすえ?",
"一、二、三、四、ヤイ忠々! 十かぞえるその間に、水を汲んで来なかろうものなら……",
"あねご、無理だ! 水のあり場所……"
],
[
"五、六、七、八、ヤイ忠々!",
"あと二つか……どうなるものか!"
],
[
"何かご用でござんすかえ?",
"お京様をご存知ではございますまいか!",
"あの、一向存じません",
"でも、もしやご存知では?",
"とんと存じませんでございます"
],
[
"君尾様をご存知ではございますまいか?",
"とんと存じませんでございます"
],
[
"目つかりませんでございます。しかしどうやらこの二、三日、猿の居場所だけは目つかりましたようで",
"それは結構でございますな。でやはり木の上にでも?",
"塀の内にいるのでございます。立派なお屋敷の塀の内に、つまりお庭でございますな。飼われているようでございます。で私の思いますには、三吉猿がいる以上は、君尾様もおられるに相違ないと……そこで毎日出かけてゆき、様子を見るのでございますが……",
"しかし、はたしてその猿が、三吉猿でございましょうか?",
"それはもう確かでございます。なき声を知っておりますので。キーキーキーキーキー、キー、こんなようになくのでございます",
"キーキーキー、キーキーキーははあ、こんなようになきますので。だが、たいがい猿というものは、キーキーとなくようでございますな。ところでお屋敷はどの辺で?",
"そ、そいつは申されません"
],
[
"あっ、さようでございましたね。あの、ところでお京様は、まだ手がかりがございませんので?",
"八百八町広いお江戸を、五十ぺんほどもまわりましたかしら。いまだに手がかりはございません",
"さぞお疲れでございましょうな",
"他人の足のようになりました",
"ほんとにご同情申し上げます",
"はい、そうしてあなたへも"
],
[
"今夜もお探しでございますかな?",
"はい、これから参ります。そうしてグルグル屋敷を、見廻るつもりです",
"成功をお祈りいたします",
"はい有難う存じます。どうぞあなたもお京様を、一日も早くお探しなさるよう、私もお祈りいたします"
],
[
"ちと難儀でございますな。で、先生ならどうなされます?",
"さよう、私ならうっちゃって置きます",
"みすみす物を奪われましても?",
"ナニ、一個人の盗み高など、悪い為政者の国盗みからみれば、たいして問題でもございませんよ。もちろんよいことではござらぬがな",
"これはごもっともに存じます"
],
[
"たしか抱朴子にありましたようで",
"さよう、抱朴子にありました。一口にいえば気息の調和で。心臓から出ずる気、呵と称し、脾臓から出ずる気、呼と称し、腎臓から出ずる気、吹と称し、肝臓から出ずる気、嘘と称し、肺臓から出ずる気、泗と称す。六息乱れざれば延命長寿、つまり達者で永生きをします。ところがこいつが当然なることには、泥棒の役に立ちますのでな"
],
[
"いやいやそれとて結構でござる。一国の正史を編もうとするには、それくらいの障害はやむをえません",
"これはいかにも御意のとおり"
],
[
"どんなお方が偉人でしょう",
"大楠公などは偉人ですな。それだのにロクないしぶみさえない。是非建てなければなりませんな。さよう湊川の古戦場へな"
],
[
"紀州の叔父上のお振る舞いなど、いかが先生には思しめしますかな?",
"ちと奔放に過ぎますな。平地に波瀾を起こされるようで",
"困ったものでございます",
"そのうちおいさめなさるがよろしい",
"しかし私など若年で……",
"年など考えてはいけませんな。よいと思ったらなさるがよろしい"
],
[
"これこれ若者、逃げないでもよろしい。何か物でもほしいのか",
"どう致しまして、とんでもないことで"
],
[
"では何ゆえここへ忍び込んだ?",
"さようでございますね。ついうかうか……",
"ここをどこだと思っているな?",
"とんと存じませんでございます"
],
[
"とんと存じませんでございます",
"尊いお方だ。ご挨拶をしな"
],
[
"このご老人を知っているかな?",
"とんと存じませんでございます",
"えらいお方だ。ご挨拶をしな"
],
[
"ナニサわしは居候だ。日本の国の居候で、そうしてこの方の居候だ。……いったいなんだな、お前の身分は?",
"料理屋の亭主でございます",
"ほほう、さようか、それは結構。では唐風の料理の書、一冊そちに進ぜようかな",
"いえ、私のは南蛮流で",
"さようか、それでは役に立つまい。……どうだな、亭主。変わった話はないかな?",
"へい、どうも、これといって……",
"何かあるだろう。話してくれ",
"お暇いたしとう存じます",
"まだよかろう。もっと話して行け",
"へい。有難う存じますが、もう夜ふけでございますし、店の方も心配で。……不用心の世間でございますから",
"全く不用心の浮世だな、戸締まりを破って押し込む奴がある",
"いえ、自然と開きましたので"
],
[
"鷺でも飛びそうでございますのね。……でも、どちらからいらしったの?",
"裏門からでございます",
"なんのご用でいらしったの"
],
[
"見せてちょうだい、どんなもの?",
"それがね、ちょっと見せられません",
"なぜでしょうね。見せてちょうだいよ",
"形のないものでござんす",
"形のないもの? では夢ね"
],
[
"よいお方でございますの",
"いずれよいお方でございましょうな。あの、お嬢様のお仲好しで?",
"ええそうよ、兄弟のように",
"夫婦のようではございませんかね",
"ええそうなるかもしれないの"
],
[
"出世とは違う、女の話だ",
"似たようなものさ、何が違う。おめえがあねごを手に入れれば、途方もねえ出世といっていい"
],
[
"ああいう荷厄介な生き物だ。遠いところまでブラブラと、さげて行くような気づかいはない。近間に隠れているんだろう",
"なんのなんの長崎から、持ち運んで来たしろ物だ。蝦夷松前へでも持って行けらあ"
],
[
"ところがあの時断りおった",
"そいつを素直に承知かえ",
"まさか手ごめにも出来なかったからな",
"そこで逃げたというものさ",
"そいつが卑怯だといってるのだ",
"おれの知ったことじゃアねえ"
],
[
"へい、よろしゅうございます",
"オイ待て待て、まだあるのだ。本来なれば忠三が、おうかがいするのでございますが、お仲のよいところをのぞくのも、まことに変な格好で、あねごにとってもご迷惑、忠三にとってもご迷惑。そこでお呼び立て致しましたとな",
"へい、よろしゅうございます",
"オイ待て待て、まだあるのだ。そうよなア、何ていおう、寮お住居もようがしょうが、南蛮屋だってすてたものじゃアねえ、時々いらしってもようがしょうとな",
"へい、よろしゅうございます",
"オイ待て待て、まだあるのだ。袴広太郎様はようがしょうが、忠三だってようがしょうとな",
"へい、よろしゅうございます",
"オイ待て待て、まだあるのだ。一体全体何がなんでえ! ひとつこういってどなって来ねえ",
"へい、威勢よくどなるんですね",
"まあ少し待て、考えてみよう。……どなるだけ理由はなさそうだな。オイ権十、どう思う",
"かまうものですか、どなりなせえ"
],
[
"落ちあゆの季節になりました",
"ああいかにもな、落ちあゆの季節",
"カマスやヒシコや小がれいや、かじきまぐろの盛りだそうで",
"さようさよう、そんなようで",
"からいも、八頭、蓮根、ごぼう、市場へ出たそうでございます",
"秋はよろしゅうございますなあ",
"初雁、虫の音、花壇の手入れ、歌をよむ方やお百姓などは、さぞ忙しいでございましょう",
"さぞ忙しいでございましょう",
"牡丹や、芍薬や、幽蘭の、根分けをしなければならないそうで",
"そんなあんばいでございますな",
"妾、ゆうべきぬたの音を、耳にしたようでございます"
],
[
"木犀に萩にすすきに葛、いろいろの花が咲き出しました",
"いろいろの花が咲き出しました",
"霧にとんぼに稲刈りに、面白い時令となりました",
"面白い時令となりました",
"二百十日に二百二十日、白露に彼岸の秋分に、不動様のお開帳も近づきました",
"みんなみんな結構で",
"ホ、ホ、ホ、ホ、おかしなお方!",
"アッハッハッハッ、愉快でござる"
],
[
"あなた、ご気分もお身体もよろしいようでございますのね",
"よろしゅうございます、おかげさまで",
"お肥えにならなければいけません",
"沢山たべて肥えましょう",
"少しはお散歩なさりませ",
"ボツボツ散歩しましょうかな"
],
[
"忠三さんをはじめとし、沢山の人を手分けして、杉窪からかけて江戸一帯、近郷近在までさがしたのに、どうしてもお行方が知れないとは",
"この世にいないからでございましょう",
"お気の毒な娘さんでございます"
],
[
"本来私はあの時に、殺されている身分でございますよ",
"ほんとにあぶのうございました",
"それを今日生きております",
"ご運がよかったからでございます",
"いやあなたに助けられたからです",
"妾、よいことをいたしました",
"私の身体はあの時以来、私のものではない筈です。あなたのものでございますよ。……それはそれとして人間というもの、ああいう境地を経て来ると、覚悟が出来るものですね。流れるままに流れよう。こだわらずに生きて行こう。過去は一切消えたのだ。現在ばかりに生きて行こう。そうしてそれもあなた任せ! こういう覚悟でございますよ"
],
[
"私を愛してくださいました。私を看病してくださいました。私を放そうとなさいませんでした。そこで実家がありながら、私はそこへ帰ろうともせず、あなたと一緒に住んでおります",
"たいへんお気の毒でございますこと",
"最初私には疑問でした。いったいどういう女だろうと?",
"妾、毒婦でございますの",
"はい、さようで。この私にも、ある時はそんなように見えました",
"こわい女でございますのよ",
"私が命を助けられたばかりか、お京様を天草の屋敷から、無事にお取り返しくださいましたのも、やはりあなたでございました",
"あなたのおたのみでございましたから。……",
"二重三重の恩人です"
],
[
"よろしゅうございます。お待ちなされ",
"では夫婦ならぬ夫婦生活も……",
"今夜あたりで幕をおろしましょう",
"ああ、夢のようでございます",
"夢はこれから見るのです"
],
[
"よくもよくも目付けたねえ! なぜだい! なぜだい! なぜだい! なぜだい!",
"無理だ! あねご! 滅茶苦茶だ! め、目付けろといった筈だ!"
],
[
"妾は行きます。さようならよ",
"あねご、送りましょう。へいそこまで",
"妾は行きます。さようならよ"
],
[
"おッ、貴様早引か!",
"やッ、手めえは左源太か!"
],
[
"今夜はせわしい。オイ早引、また逢おうぜ。一昨日逢おう",
"今夜はせわしい。オイ左源太、また逢おうぜ。一昨日逢おう"
],
[
"ははあ、それで帰依したというのか?",
"私、さように存じますが"
],
[
"よろしい、満点、その方がいい。無駄な年号なんか覚えているより、そろばんはじきを習う方がいい。満点ついでにもう一つ聞こう。なぜ南蛮寺を建立したかな?",
"は、やっぱり紅毛人の、ご機嫌を取るためでございましょう",
"百二十点! 感心感心。お前むやみといい点を取るなあ。ではもう一つ質問しよう。機嫌を取ってさてそれから?"
],
[
"そうだろうて、おおかただろう。が、ともかくもいってごらん",
"は、今日私こと、所用ありまして小梅の方へ……"
],
[
"ね、あねご、そうじゃねえですか。右に鉄杖、左に袴様、おそらく島原城之介、引っかかえていたに相違ねえ。その上きゃつは大男、重い身体を持っていまさあ。はいている下駄は一本歯!",
"ああなるほど、下駄の歯跡が!",
"やわらかい土にさ、ついている筈だ!",
"感づいたねえ、いいところへ! 探しておくれよ。妾も探す"
],
[
"それじゃこいつを!",
"たどって行きやしょう! ……ここにもある! それここにも!",
"もう大丈夫! ここにもあるよ!"
],
[
"そうじゃアありませんか、ねえ、あねご。これまで歯跡は藪地に沿い、一の字を引いておりましたよ。ええそうでさあ、先へ先へと。ところがこいつは藪地へ向かって一の字を引いておりまさあ",
"わかった。それじゃア、城之介め、ここから藪地へはいったんだね",
"へい、さようで、疑いなく",
"では妾たちもはいって行こう"
],
[
"そうするとお前この路は、その古塚に通じているかもしれない",
"そこへ持って来て一本歯の跡だ。あねご、知れましたね、きゃつの住居!",
"女の泣き声という奴も、塚があいつの住居ときまれば、どうやら胸に落ちようじゃアないか"
],
[
"おかしいねえ。何者だろう?",
"おかしいなあ。解せねえや",
"なんでもいいや。急ごうよ"
],
[
"あねご、こいつだ。傾城塚!",
"調べてごらんよ、足跡を!"
],
[
"あねご、あった! こっちのものだ!",
"入り口をお探し。塚の入り口!",
"ヤイ野郎ども、さあ手をかせ!"
],
[
"なんと見られるな、あの柱を?",
"けがらわしいものだ! 冒涜だ!"
],
[
"北多摩郡の多穀神社、笠島の道祖神、屋張の国の田県神社、印旛郡の熊野神社、奥州塩屋の金精神、信濃の△△、日向の△△、四国の五剣山、美濃の山神、いくらもあります! いくらもあります!",
"が、何者だ! あの女達は!"
],
[
"オイ城之介、もう駄目だ",
"それじゃアおれを殺すつもりか",
"杉窪の里の裏道で、築土を殺したのはお前だろう?",
"時のはずみでなぐり殺したよ",
"その時巻軸を奪い取ったろう?",
"いやおれは取りはしない",
"あの時築土が持っていたのだ、一本の方の巻軸をな。一本の方はおれが持っていたが",
"いやおれは知らないよ",
"あとから死骸を探しにやった。築土の死骸は谷底にあった。だが巻軸は持っていなかった。お前が取ったに相違ない",
"いやおれは取りはしない",
"ではお前はどこまでも、巻軸のありかを知らないというのか?",
"いや巻軸は持っている。だが築土から取ったのではない。袴広太郎というさむらいから、全く偶然手に入れたのだ",
"そうか、そんなことはどうでもいい。とにかくそいつをこっちへ渡せ。そうしたら命だけは助けてやろう"
],
[
"ワーッ、いけねえ、もうコレだ。何かというとおどすんですね",
"それがさ、妾におどされるのが、お前にはひどくうれしそうじゃアないか",
"またあねごときた日には、あっしをおどかすのがうれしそうですねえ",
"おどかされっぷりがいいからさ",
"ところであねごはおどしっぷりがいいや。どっちみちあねごと二人っきりだ。今度の旅行は楽しみさ。口説くかな、その辺で",
"口説かれたいね、袴様に",
"あッ、なるほど、そうでしたねえ。袴様を探しに行くんでしたねえ、木地師のあとを追っかけてさ。にわかに楽しくなくなっちゃった"
],
[
"歌声が聞こえるではございませんか",
"さようでございますね、木地師の歌が"
],
[
"お聞きなさりませ袴様。赤ん坊の笑い声が聞こえます",
"ああそうしてあやしている声も……"
],
[
"やっぱり木地師と同じようなもので?",
"漂泊民という点では、さよう、われわれに似ております。しかしかれらにはこれといって、きまった商売がありませんでな。もっともササラや風車や、タワシだの箕だのというようなものを、人里へ出て売りつけはしますが、それとて商売のためではなく、泥棒をするツテでございましてな",
"ははあ泥棒を致しますので?"
],
[
"なにさそれとてコソコソでな、たいした仕事はいたしません。せいぜい干し物をふんだくったり、家畜や野菜を荒らしたり、時には子供や娘などをさらうようなこともありますが、そんなことはメッタにありませんなあ",
"とまれ厄介な人間どもで"
],
[
"おおおおそうか、それはいい。そそくれというものは邪魔っ気なものだ。邪魔っ気なものは取った方がいい。そうしてまな板というものは、大事な大事なお勝手道具さ。そういう物こそ作らなけりゃアいけねえ。すぐに役立つ物だからなあ。とくさをかけて艶ぶきんをかけて、根つけばかり作るのは、結構なことではないからなあ。……お松坊お松坊何を磨いているな?",
"はい、あの根つけを磨いています"
],
[
"が、その前に聞きたい一義、隠語どうして現われましたかな?",
"巻軸二本泉水に捨てた!"
],
[
"紀州大納言頼宣卿!",
"ほほう面白いお殿様で",
"と、巻軸水にぬれ、おのずと解けたそのおもてへ……"
],
[
"朝日出ずるを合図としましょう",
"承引の場合は竹ぼらを、拙者吹くことに致しましょう"
],
[
"ああ将右衛門か、何しに来たな?",
"いやなことが起こりましてございます"
],
[
"あなた様にもご存じの、天草時行が参りました",
"ああ天草がな? 裏切り者がな。……わしとはちがった意味の裏切り者",
"江戸の浪人、由井の正雪、一味の者が参りました",
"ああそうか、なんのために?",
"唐櫃を渡せと申します",
"ああそうか、唐櫃をな? なんの必要があるのだろう?",
"宝がほしいそうでございます",
"宝? なるほど、宝をな。……そうだ宝には相違ない。……なぜあんな宝がほしいのだろう?",
"誤解しているようでございます",
"中身をなんだと思っているのだろう?",
"金銀珠玉、異国の珍器",
"唐櫃はどうも渡せないよ",
"はい、渡すことはできません",
"そういうがいい、渡せないとな",
"とても承知は致しますまい",
"無理に取ろうとしているのか?",
"兵をひきいて参りました"
],
[
"戦いか! 恐ろしい! 流血か! おそろしい! おれはいやだ! おれはいやだ!",
"私もいやでございます",
"それはどうしてもやめなければならない!",
"いかがでございましょう。時行、正雪に、中身をあからさまに見せましたら?"
],
[
"なんの用意だ、将右衛門?",
"流浪いたさねばなりますまい",
"引き払うのか、富士見の郷を?"
],
[
"ああ流浪か、それもいいなあ。そうだ、戦をするよりもな。……人は誰もかも流浪しているよ。おちつけるような世界はない。……おいでおいで、どこでもおいで!",
"どうぞご用意あそばしませ"
],
[
"もうすぐですぜ、ねえあねご",
"やっとそれでも行きついたかねえ"
],
[
"木地師の連中袴様を、引っさらったという眼力さ",
"あッはん、なるほど、そのことで",
"だってお前さんじゃアないか、渋沢の藪地でバッタリと、袴様にあったと思ったら、あの騒動で見失ってしまい、仰天して後を追っかけると、藪を出たところに無数の足跡、爪先ばかりで歩いているので、木地師に相違ないと眼星をつけたのは。ならまんざら馬鹿じゃアないじゃアないか",
"ナーニそれとて原の城に、あっし達と一緒に木地師の大将、富士見の将右衛門がこもっていて、そいつの部下の木地師どもの、歩き方をあねごが知っていたからさ",
"だがそれだけじゃア袴様を、さらったという証拠にはならないよ",
"へい、マアそりゃアそうですねえ",
"最初に妾は思ったのさ。袴様は手傷を負っている。だから遠くへは逃げられまいとね",
"でもあの時あっしをかり立て、あたりを探させたじゃアありませんか",
"ところがどこにもおられなかった",
"無駄骨折ったというもので",
"そこで妾はきめちゃったのさ、木地師が袴様をさらったとね",
"恋の眼力というやつでね",
"ああさ恋の直感でね",
"それからのあっしと来た日には、ミジメ至極でございましたよ。……さあさあ忠三江戸中を、こまのようにブンブン廻っておいで! 探しておいでよ、木地師の行方を! ……仕方がないのでヘイコラサ、あてなしに飛び出して聞き廻ると、よくしたもので、知れましたねえ",
"一挺の駕籠を引っ包み、小梅を通って江戸へはいり、ところもあろうにお父様のやかたへ……",
"へい、紀州様のお屋敷へ、スーッとはいっていったそうで",
"そこで妾はその木地師を、富士見の将右衛門と睨んだのさ。だって将右衛門はお父様の家来、原の城へこもったのもそのためだからねえ",
"だが間もなく女駕籠が、一挺お館から舁ぎ出され、そいつを守って木地師の面々、甲州街道へ出たというのが、あっしの探索した結果ですが、この女駕籠気になりますねえ",
"ナーニ妾ア問題にしないよ。それよりもう一つの駕籠の方が、妾にとっちゃア問題さ",
"つまりそいつに袴様が、乗っていらっしゃるとこういうので",
"そうとしか取りようがないじゃアないか"
],
[
"妾にもそいつはわからないがね、よい意味にとればこうなるのさ。傷を負って袴様が倒れていたので、捨てても置かれず助けたんだとね",
"なるほど、ところで、悪い意味にとれば?",
"悪い意味になんかとらないよ",
"大変結構でございます。大変楽天家でございます"
],
[
"君尾という娘のいどころを、お前さんにはじめて明かされた時さ",
"いったいどいつがうたったんで?",
"店の酔っ払いの客だろうさ",
"風流の歌をうたやアがった",
"何をいうんだい。縁起でもない歌さ",
"さようさ、あねごにとってはね。……だが、あっしの身にとっては……"
],
[
"執念深うございます",
"妾もそうさ、袴さんにはね"
],
[
"妾にゃアそうとは見えないがねえ。お前なんだかうれしそうに、妾に使われているじゃアないか",
"なるほどそうとでも思わなければ、こうまでコキ使やアしますまい"
],
[
"予感があたったらどうなさいます?",
"さあ妾どうしよう",
"逢えなかったらどうなさいます?",
"ああ妾逢えなかったら",
"日本国中さがしますかね。このあっしを供に連れて?"
],
[
"そうなったら妾ヒョッとすると……",
"縄で……首を……おつりなさいますか"
],
[
"あねご、それでこそ悪党だ!",
"そうかねえ。悪党かねえ",
"いよいよそうなるとこの忠三……",
"役付くとでも思うのかい?",
"え?",
"駄目だよ!",
"なぜ?",
"なぜでも!",
"だって理由は? ……",
"すかないからさ!"
],
[
"そりゃあマアそれに違いありませんがね。だが、うるさいじゃアありませんか。それに恐らく邪魔をしましょう、ソレ袴様と逢うやつをね",
"ああなるほど、そりゃアそうだ。困ったねえ、こいつだけは",
"ね、あねご、こうしましょう。とにかくわきに隠れていて、様子を見ようじゃアございませんか",
"ああそれがいい。それがいい",
"そこで邪魔なは松明だ。がまさか火を持って隠れも出来ない"
],
[
"え、前途? なんの前途で?",
"魂のぬけがらの前途だよ"
],
[
"どうしたんだい、性急に?",
"フッ、フッ、フッ、まずこうだ。あの魂のぬけがらを、追っかけているその間は、袴様とは逢われねえ。と少なくともそのうちじゅうは、あねごと一緒にいられるってものだ。へいさようで、二人きりでね。いいなあいいなあ、行きやしょう"
],
[
"不快な音色でございましたよ。爪拗音というやつでな、不安と焦燥とがこもっております。鉄杖の持ち主何者か、すぐにも不幸の結果を見ましょう。……器は持つ人の精神によって、いろいろの音色を発しますもので。清浄の山伏が貝を吹けば、霧さえ左右へ開くほどで",
"これはごもっともに存じます"
],
[
"そちが探った君尾殿の素姓、だいたい間違いはあるまいな?",
"はい、間違いはございません",
"銅兵衛という杉窪の長、それの養女だとかいうのだな",
"はい、さようにございます",
"そうして銅兵衛は紀州殿の、旧家臣だとこういうのだな",
"はい、さようにございます",
"で、君尾殿がかどわかされた晩――杉窪の里の亡びた晩、たしかに紀州の伯父上が、由井正雪一党を率い、異風天狗に身をやつし、杉窪へ行ったというのだな?",
"私、殿の内命を受け、杉窪の里へまかりこし、二代目の長楠右衛門について、取り調べましたところでは、それに相違ございません",
"だがそれにしても紀州の伯父上、何ゆえ天狗などに身をやつされ、杉窪などへ行ったのであろう? ……そんな異風の天狗などに……"
],
[
"私にもそんなように思われます。……ひょっとすると、伯父上の、落胤などではあるまいかと",
"もしそうなら好都合で",
"は、好都合とおっしゃいますと",
"これは以前にも申しましたが、どうやら紀州殿のやり口は、平地に波瀾を起こされるようで。どうでもとめなければなりません。光殿からご忠告なさるがよろしい。ところが以前にも仰せられたが、光殿にはずっとご若年で、そのためご忠告しにくかろう。そこで君尾殿をカセにして、ご忠告なされるがよろしゅうござる。もし真実君尾殿が、紀州殿のご落胤であられたら、それを助けられた光殿は、とりも直さず紀州殿には恩人、喜んで紀州殿におかれては、光殿のご忠告を聞かれましょうよ。……がしかしこれとても、機会を待たなければなりませんなあ。……それはそれとして湛慶滝へは、まだ道のりがありましょうかな?"
],
[
"ナニ一目? 待てませんねえ",
"是非待ってくれ。おれがたのむ",
"いけませんね。待てませんよ",
"たのんでいるのだ。待ってくれ!"
],
[
"徳川の天下をひっくり返す、というのがわれわれの目的の筈で。……これは素晴らしい大欲望でござる",
"さようさよう大欲望でござる",
"で、悠長な遊戯などにふけり、美的情操を養ったり、心を静めたりすることは、逆行的態度でございますよ。……去勢されてはいけませんなあ。うんと物欲をたくましゅうし、俗中の俗になるのが本当で"
],
[
"とりようがござらぬ。これ以外にはな",
"が、ただご短気と解しては?"
],
[
"拙者自身を高祖に引くは、あたらぬもまた甚だしいもの。しかし貴殿だけは張子房でござる",
"薄ッきたない張子房で",
"武田家における山本勘介",
"跛者でなくてみつ口でござんす",
"アッハハハ",
"アッハハハ"
],
[
"しかし、あの際お目にかかり、一言二言お話しするうち、これは素晴らしい器量人、拙者なんどの及ぶところでない、こう存じて客間へ招じ、義党へお加わりくださるよう、懇願した筈ではござらぬか",
"そこで拙者は加わりました",
"で現在は謀将とはいえ、その実立派なお客人で"
],
[
"いい得べくんば一世の山師! それにさ風采がまことによろしい。だまって坐っておられると、十万石のお大名でござんす",
"いや貴殿におかれても"
],
[
"どっちみち拙者より貴殿の方がおえらい",
"どういたしまして貴殿の方がおえらい",
"なかなかもって貴殿の方が!",
"いや貴殿こそ!",
"貴殿こそ!"
],
[
"で、ことごとくたのみある武士で?",
"まずその辺。……貴殿においては?",
"拙者の見どころ、いささか違う"
],
[
"一徹短慮の丸橋氏と、女性的性質の奥村氏、二人を斬ってお捨てなされ",
"それは不仁、なりますまい",
"やむをえませぬ。下世話の金言、もう一つお聞かせいたしましょう。千丈の堤も蟻の一穴……"
],
[
"私でございます、裏切ったのは!",
"だからお前は非常に賢い!"
],
[
"イマニエル司僧の亡霊よ。では人間はこの世では、何を拝んだらよいのでしょう",
"そいつはおれにもわからないよ。おれも探しているのだからな",
"お教えくださいまし! お教えくださいまし!",
"おれをあんまりせめないでくれ",
"お教えくださいまし! お教えくださいまし!",
"お前は悩んでいるようだな",
"悩んでいるのでございます!",
"その後平和ではなかったのかい",
"ひどい目にばかり合わされました",
"どっちを向いてもひどい目に合うよ",
"力をお授けくださいまし!",
"わしからお前へお願いしよう",
"イマニエル司僧の亡霊よ! ……",
"また拝む物をか? 教えてくれか! 教えてやろう! 第三の者だ! 神と悪魔を踏まえているものだ!",
"それは何物でございましょう?"
],
[
"でもお祖父様はご自分のためには、しまいまでお祈りをしませんでした",
"お嬢様のおためには祈られました",
"神よ、私をおにくしみください。しかし憐れな孫娘ばかりは、どうぞお守りくださいまし! こうお祖父様はいいましたのね",
"はいさようでございました。でも神様は司僧様の霊をも、天国へ導かれるでございましょう",
"でもお祖父様はいいましたわ、『ああ俺だけは地獄へ堕ちよう』と",
"だから天国へ参られます",
"どうぞ天国へ行かれますよう"
],
[
"そうしてお看護をなさいました",
"ああそうしてお葬式をね",
"滝壺の中で司僧様、天童様とご一緒に、眠られることでございましょう",
"お二人ながら唐櫃の中で",
"原の城から逃げられた時、身を隠されて来た唐櫃の中で",
"ああ何もかも元へ帰った"
],
[
"あの二本の巻軸の秘密も、どうやら解けたようでございますね",
"みんなお祖父様の細工でしたのね",
"それも悪気からではございませんでした。布教のおため! でございました",
"そうしてお祖父様はその『ため』に、心を食われてしまいました",
"ご熱心からでございます",
"そうして背信者になったのね",
"人間性があり過ぎましたからで",
"あのむごたらしい懺悔生活も。……",
"人間性があり過ぎましたからで"
],
[
"そうしてご遺言とおっしゃるのは?",
"『お前のお母様のメダルと一緒に、故国の土へうずめるように』これがご遺言でございました"
],
[
"海のあなただ! 遠い国だ!",
"妾そこへ参ります"
],
[
"どうぞね、お願い致します",
"参りますとも、僕となって",
"いいえ、仲のよいお友だちとして",
"そうしてスペインでくらしましょう",
"ええ、神様にお仕えして",
"まずとりあえず江戸へ帰り、旅の仕度をいたしましょう",
"花ちゃんとそうしてネロちゃんを連れてね",
"そうして南蛮屋を片付けて",
"東海道を下りましょう",
"まず長崎へ! それから船で!"
],
[
"そうしてそこで私達も、幾月かくらしたではございませんか",
"それが私達をかえてくれました。よい人間へ! 真面目な人間へ!",
"そうして私達に教えてくれました、懺悔生活というものを",
"懺悔しながら暮らしましょうねえ",
"そうして前途へ希望を持って"
],
[
"大猷院様にもご薨去のみぎり、天下なんとなく騒がしく、人心恟々のおりからでござれば、なにとぞ伯父上におかれましても、由縁の知れぬ浪人など",
"ああ正雪、丸橋の徒か",
"あまりお近づけ遊ばさぬよう"
],
[
"安心いたしましてございます",
"南海の龍、衰えたよ",
"いえいえ龍は沈潜してこそ、尊くもあれば人にも恐れられ",
"朱舜水先生のお仕込みだの"
],
[
"物騒千万に存じます",
"ナニ落っこちたから平和だよ",
"落っこちになりました原因は?",
"やくざな二本の巻軸のためさ"
],
[
"はい、死蝋を発見しました",
"ほほう、死蝋? それは珍しい。話には聞いたが、見たことはない。もちろん持って帰られたろうな"
],
[
"ああそうそう、そういったよ",
"里人がそれを聞いておりまして、最近に知らせてくれました"
],
[
"が、それでは同じことだ",
"朱舜水先生のお手もとで"
],
[
"お京様をご存知ではありますまいか?",
"存じませんでございます。……君尾様をご存知ではございますまいか?",
"存じませんでございます"
],
[
"珍しい人からでございます。飛脚が持って参りました。袴広太郎殿とお京との連署で……",
"なるほど、珍しい。どれ拝見"
],
[
"舞二郎や、地図を持っているだろうね",
"はいはい持っておりますとも。……敦盛草をお持ちですか",
"持っているとも持っているとも。娘から送ってくれた花だからな"
]
] | 底本:「剣侠受難(上)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年4月12日第1刷発行
「剣侠受難(下)」国枝史郎伝奇文庫、講談社
1976(昭和51)年4月12日第1刷発行
初出:「東京日日新聞」
1926(大正15)年5月28日~11月14日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:酒井裕二
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047342",
"作品名": "剣侠受難",
"作品名読み": "けんきょうじゅなん",
"ソート用読み": "けんきようしゆなん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「東京日日新聞」1926(大正15)年5月28日~11月14日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-04-08T00:00:00",
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"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
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"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
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"生年月日": "1887-10-10",
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"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "剣侠受難(下)",
"底本出版社名1": "国枝史郎伝奇文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月12日",
"入力に使用した版1": "1976(昭和51)年4月12日第1刷",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年4月20日第2刷",
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"底本名2": "剣侠受難(上)",
"底本出版社名2": "国枝史郎伝奇文庫、講談社",
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} |
[
[
"この水のために、俺んとこの植木は精がよくなるのさ",
"まるで珠でも融かしたようですねえ。明礬水といっていいか黄金水といっていいか",
"まあ黄金水だなア",
"滝も立派ですねえ。第一、幅が広いや",
"箱根の白糸滝になぞらえて作ったやつよ"
],
[
"でもねえ、親方、この庭の作りからすれば、あの滝、少し幅が広過ぎやアしませんかね",
"無駄事云うな"
],
[
"俺、ほんとは、手前の眼付、気に入らねえんだぜ",
"何故ね",
"女も欲しけりゃア金も欲しいっていうような眼付していやがるからよ",
"ほいほい。……あたりやした。……だがねえ親方、こんなご時世に、金なんか持っていたって仕方ありませんね",
"何故よ",
"脱走武士なんかがやって来て、軍用金だといって、引攫って行ってしまうじゃアありませんか。……親方ア金持だというからそこんところを余程うまくやらねえと。……",
"うるせえ。仕事に精出しな"
],
[
"誰だ",
"は、はい、通りがかりの者でございますが……不意の斬合で……ここへ逃込みましたが……お願いでございます……どうぞ暫くお隠匿……",
"うむ。……しかし、もう斬合いは終えたらしいが……",
"いえ……まだ彼方で……恐ろしくて恐ろしくて……",
"そうか。……では……"
],
[
"忝けない",
"いえ"
],
[
"苅込ってむずかしいものね",
"そりゃア貴女……",
"鋏づかい随分器用ね",
"これで生活ているんでさア",
"ずいぶん年季入れたの",
"へい"
],
[
"何よ",
"沖田さんのご介抱によく毎日……",
"生命の恩人だものね",
"そりゃアまあ",
"あの晩かくまっていただかなかったら、斬合いの側杖から、妾ア殺されていたかもしれないんだものね",
"そりゃアまあ……",
"それに沖田さんて人、可愛らしい人さ",
"へッ、へッ、そっちの方が本音だ",
"かも知れないわね",
"あっしなんか何んなもので",
"木の端くれぐらいのものさ"
],
[
"いえ、先生、私は体は大丈夫なのです。……いえ、私は、決して、大名になりたいの、恩賞にあずかりたいのというのではありません。……私は、ただ、腕を揮ってみたいのです。……ですから何うぞ是非従軍を。……それに今度の相手は、随分手答えのある連中だと思いますので。……それに新選組の人数は尠し……そうです、先生、新選組は小人数の筈です。京都にいた頃は二百人以上もありました。それが鳥羽伏見二日の戦で、四十五人となり、江戸へ帰って来た現在では、僅か十九人……",
"いやいや"
],
[
"それがの、今度、松本先生のお骨折りで、隊土を募ったところ、二百人も集まって来た。いずれも誠忠な、剣道の達人ばかりだ。……それに、勝安房守様より下渡された五千両の軍用金で、銃器商大島屋善十郎から、鉄砲、大砲を買取り、鎮撫隊の隊士一同、一人のこらず所持しておる、大丈夫じゃ。……そればかりでなく、駿河守殿は、生粋の佐幕派、それに、城兵も多数居る。……人数にも兵器にも事欠かぬ。……だから君は充分ここで静養して……",
"先生、私の病気など何んでもないのです",
"それが然うでない。松本先生も仰せられた……",
"良順先生が……",
"そうだ、松本良順先生が仰せられたのだ。沖田だけは、従軍させては不可ないと",
"…………",
"松本先生には、君は、一方ならないお世話になった筈だ",
"現在もお世話になっております",
"柳営の御殿医として、一代の名医であるばかりでなく、豪傑で、大親分の資を備えられた松本先生が、然う仰せられるのだ。君も、これには反対することは出来まい",
"はい"
],
[
"京都にいた頃、懇意にした娘だが……町医者の娘で……",
"ただご懇意に?"
],
[
"まあまあそのお若さで、一人しか女を。……でもお噂によれば、新選組の方々は、壬生におられた頃は、ずいぶんその方でも……",
"いや、それは、他の諸君は……わけても隊長の近藤殿などは……土方殿などになると、近藤殿以上で。……ただ私だけが、臆病だったので……",
"これ迄に、二百人もお斬りになったというお噂のある貴郎様が臆病……",
"いや、女にかけてはじゃ。人を斬る段になると私は強い!"
],
[
"お千代さんという娘さんが、その一人の女の方なのでしょうね",
"左様"
],
[
"いや……",
"いや?",
"矢っ張り左様じゃ",
"よっぽど可い娘さんだったんでございましょうね",
"うん"
],
[
"初心で、情が濃やかで……",
"神様のようで……",
"うん。……いや……それ程でもないが……親切で……",
"そのお方、只今は?",
"切れて了った!"
],
[
"切れて……まあ……でも……",
"近藤殿の命でのう",
"何時?",
"江戸への帰途。……紀州沖で……富士山艦で、書面に認め……",
"左様ならって……",
"うん",
"可哀そうに",
"大丈夫たる者が、一婦人の色香に迷ったでは、将来、大事を誤ると、近藤殿に云われたので",
"お千代様、さぞ泣いたでございましょうねえ。……いずれ、返書で、怨言を……",
"返書は無い",
"まあ、……何んとも?……それでは、女の方では、あなた様が想っている程には……",
"莫迦申せ!"
],
[
"細木永之丞というお方は、どういうお方なのでございますの?",
"ナニ、細木永之丞⁉ どうしてそのような名をご存知か"
],
[
"矢張りお眠ったままで『済まん、細木永之丞君、命令だったからじゃ、済まん』と、仰有ったじゃアありませんか",
"ふうん"
],
[
"さようなこと申しましたかな。ふうん。……いや、心に蟠となっていることは、つい眠った時などに出るものと見えますのう。……細木永之丞というのは、わしの親友でな、同じ新選組の隊士なのじゃが、故あって、わしが討取った男じゃ",
"まア、どうして?……ご親友の上に、同じ新選組の同士を?",
"近藤殿の命令だったので……",
"近藤様にしてからが、同士の方を……",
"いや、規律に反けば、同士であろうと隊士であろうと、斬って捨てねば……細木ばかりでなく、同じ隊士でも、幾人となく斬られたものじゃ。……近藤殿の以前の隊長、芹沢鴨殿でさえ――尤もこれは、何者に殺されたか不明ということにはなっているが、真実は、土方殿が、近藤先生の命令によって、壬生の営所で、深夜寝首を掻かれたくらいで。……だがわしは細木を斬るのは厭だったよ。永之丞は可い男でのう、気象もさっぱりしていたし、美男だったし……尤も夫れだから女に愛されて、その為め再々規律に反き、池田屋斬込みの大事の際にも、とうとう参加しなかった。これが斬られる原因なのだが、その上に彼が溺れていた女が、どうやら敵方――つまり、長州の隠密らしいというので……",
"まあ、隠密?",
"うむ。それで、味方の動静が敵方に筒抜けになっては堪らぬと、近藤殿が涙を呑んで、わしに斬ってくれというのだ。しかし私は『細木を斬ることばかりは出来ません。あれは私の親友ですから。……もし何うしても斬ると仰せられるなら、余人にお申付け下さい』と拒絶たのじゃ。すると近藤殿は『親友に斬られて死んでこそ、細木も成仏出来るであろうから』と仰せられるのじゃ。そこで私も観念し、一夜、彼を、加茂河原へ連出し、先ず事情を話し『その女と別れろ、別れさえしたら、私が何んとか近藤殿にとりなして……』と云ったところ……"
],
[
"何と仰有いました?",
"別れられないと云うのだ",
"…………",
"そこで私は、では逃げてくれ、逃げて江戸へなり何処へなり行って、姿をかくしてくれと云うと、俺を卑怯者にするのかと云うのだ。……もう為方がないから、では此処で腹を切ってくれ、私が介錯するからと云うと、それでは、近藤殿から、斬れと云われたお前の役目が立つまいと云うのだ。私は当惑して、では何うしたらよいのかというと、お前と斬合ったでは、私に勝目は無いし、斬合おうとも思わない、私は向うを向いて歩いて行くから、背後から斬ってくれと云い、ズンズン歩いて行くのだ。月の光で、白く見える河原をなア。背後から何んと声をかけても、もう返辞をしないのだ。……そこで私は、……背後から只一刀で……首を!……綺麗に討たれてくれたよ"
],
[
"妾を何う覚召して?",
"何うとは?",
"嫌いだとか、好きだとか?",
"怖い",
"怖い? まあ",
"親切な人とは思うが……何んとなく怖い!……それにわしにはお千代というものがあるのだから……",
"お切れなされたくせに",
"強いられたからじゃ。……心では……",
"心では?",
"女房と思っておる。……それでもうお力殿には今後……",
"来ないように",
"済まぬが……",
"妾は参ります。……貴郎様はお嫌いなさいましても、妾は、あなた様が好きでございますから。……それがお力という女の性でございます"
],
[
"新選組の方々が、こちらさまに、お居でと承りましたが……",
"はい、近藤様や土方様や、新選組の方々が、最近までこちらで療治をお受けになっておられましたが、先日、皆様打揃って甲府の方へ――甲州鎮撫隊となられて、ご出立なさいました",
"まア、甲府の方へ! それでは、沖田様も! 沖田総司様も⁉"
],
[
"あのう、お前様は?",
"はい、千代と申す者でございますが、京都から沖田様を訪ねて……",
"まあ、お前様がお千代さん……",
"ご存知で?",
"いえ"
],
[
"うん。……お力、何を愚図愚図しているのだ",
"あせるもんじゃアないよ",
"ゆっくり過ぎらア",
"それで窓へ石なんか投げたんだね",
"悪いか",
"物には順序ってものがあるよ",
"惚れるにもか",
"何んだって!",
"お前の身分は何なんだい",
"長州の桂小五郎様に頼まれた……",
"隠密だろう",
"あい",
"そこで細木永之丞へ取入った",
"新選組の奴等の様子さぐるためにさ",
"ところが永之丞にオッ惚れやがった",
"莫迦お云い。……彼奴の口から新選組の内情聞いたばかりさ……池田屋の斬込へも、彼奴だけは行かせなかったよ",
"手柄なものか。……彼奴の方でも手前にオッ惚れて、ウダウダしていて、機会を誤ったというだけさ",
"そのため永之丞さん斬られたじゃないか。……新選組の奴等を一人でも減らしたなア妾の手柄さ",
"ところが手前、今度は永之丞を斬った沖田総司を殺すんだと云い出した",
"池田屋で人一倍長州のお武士さんを斬った総司、こいつを討ったら百両の褒美だと……",
"懸賞の金を目宛てにして、総司を討ちにかかったというのかい。体裁のいいことを云うな。そいつア俺の云うことだ。手前は、可愛い永之丞の敵を討とうと、それで総司を討ちにかかったのさ。……そんなことは何うでもいいとして、その手前が何処がよくて惚れたのか、総司に惚れて、討つは愚、介抱にかかっているからにゃア、埒があかねえ。……お力、総司は俺が今夜斬るぜ!"
],
[
"そりゃアお前がその気なら……",
"委せておくれかえ。それじゃア妾は今夜沖田さんを、こんな塩梅に……"
],
[
"わッ",
"殺すのさ!"
],
[
"沖田総司様は、……討死にしましたか?……それとも……",
"ナニ、沖田総司?"
],
[
"沖田様は⁉",
"お千代か!"
],
[
"沖田さんの敵!……妾の怨み!",
"お千代!"
]
] | 底本:「新選組興亡録」角川文庫、角川書店
2003(平成15)年10月25日初版発行
底本の親本:「新選組傑作コレクション・興亡の巻」河出書房新社
1990(平成2)年5月
初出:「講談倶楽部」大日本雄弁会講談社
1938(昭和13)年7月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2004年8月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043066",
"作品名": "甲州鎮撫隊",
"作品名読み": "こうしゅうちんぶたい",
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"初出": "「講談倶楽部」1938(昭和13)年7月",
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[
[
"いよいよ俺の所へ廻って来たそうな。ところでなんぼと書いてあるな?",
"五万両と書いてございます"
],
[
"ご主人にお目にかかりとう存じます",
"ええ何人でございますな?",
"五万両頂戴に参りました"
],
[
"先ずお寄りなさりませ",
"いえ少し急ぎます故……"
],
[
"五万両の黄金は重うござるに、どうしてお持ちなされるな?",
"魚屋様は商人でのご名家、嘘偽りないお方、それゆえ現金は戴かずとも、必要の際にはいつなりとも用立て致すとお認し下されば、それでよろしゅうございます",
"それはそれはいと易いこと、では手形を差し上げましょう"
],
[
"それでよろしゅうござるかな?",
"はい結構でございます。ではご免下さりませ",
"もうお帰りでございますかな?",
"はい失礼致します"
],
[
"磔柱の郷介と宣る凄じい強盗のあることは私も以前から聞いては居たが、貴郎までを襲おうとは思い設けぬことでござった。打ち捨て置くことは出来ませぬ。早速殿下に申し上げ詮議することに致しましょう",
"いやいや打ち捨てお置きなされ、障らぬ神に祟りなし。なまじ騒いだその為に貴郎にもしもお怪我でもあってはお気の毒でございます"
],
[
"は、遣わすのでござりますか?",
"うん、そうだ、くれてやれ",
"木隠は名器にござります",
"千金の子は盗賊に死せず。こういう格言があるではないか。茶碗一つを惜んだ為、俺や其方に怪我があってはそれこそ天下の物笑いだ",
"とは云え殿下のご威光までがそのため損つきはしますまいか?"
],
[
"そんな事ぐらいで損つく威光なら、それは本当の威光ではない",
"いよいよ遣わすのでござりますか?"
],
[
"賊に茶碗を望まれて、そいつを俺がくれてやったと知れたら、俺の方が大きく見られる。……それに俺にはその泥棒がちょっと恐くも思われるのだ",
"殿下が賊をお恐れになる?"
],
[
"世間で何が恐ろしいかと云って、我無洒羅な奴ほど恐ろしいものはない",
"ははあ、ごもっともに存じます"
],
[
"や、綺麗な娘ではないか",
"こいつはとんだ好い獲物だ",
"それ誰か引担いで行け"
],
[
"他人の娘を手籠めにして置いて謝罪せぬとは何事だ!",
"なるほど、これはもっともだ"
],
[
"ご坊、どうしたらよかろうな?",
"仕事の首尾はどうなのかな?"
],
[
"それを訊いてどうするつもりか?",
"金に積ってなんぼ稼いだな?",
"たんともない、五千両ばかりよ",
"それだけの人数で五千両か",
"大きな事を云う坊主だ",
"それだけ皆置いて行け"
],
[
"ははあこいつ狂人だな",
"五千両みんな置いて行け"
],
[
"こいついよいよ狂人だ。俺達を何者と思っているか!",
"俺は知らぬ。知る必要もない",
"一体貴様は何者だ?",
"見られる通りの乞食坊主さ",
"そうではあるまい。そんなはずはない"
],
[
"幸と云おうか不幸と云おうか、忘れ物をして来たよ",
"忘れ物をした? それは何だ?",
"磔柱だ。磔柱だよ"
],
[
"ははあ左様か。そうであったか。磔柱の郷介法師か",
"ところでお主何者かな?",
"私は五右衛門だ。石川五右衛門だ"
],
[
"うん、そうか、無徳道人だったか",
"郷介法師、奇遇だな",
"いや、全く奇遇だわえ",
"私はお主に逢いたかった",
"私もお主に逢いたかったものさ",
"で、五千両入用かな?",
"五右衛門と聞いては取られもしまい",
"せっかくのことだ、半金上げよう",
"金には不自由しているよ",
"私の所へ来てはどうか?",
"今どこに住んでいるな?",
"洛外嵯峨野だ。いい所だぞ。……ところでお主はどこにいるな?",
"私は雲水だ。宿はない",
"私の所へ来てはどうか?",
"まあやめよう。恐いからな",
"ナニ恐い? 何が恐い?",
"恐いというのは秀吉の事さ",
"成り上り者の猿面冠者か",
"私はあいつから茶碗を貰った",
"それが一体どうした事だ",
"そこで恐くなったのさ",
"何の事だか解らないな",
"彼奴、殿下にもなれるはずだ。底の知れない大腹中だ。で私は立ち退く意だ。そうだよ近畿地方をな",
"なんだ、馬鹿な、郷介程の者が、あんな者を恐れるとは恥かしいではないか!",
"その中お主にも思い当たろう",
"私は彼奴をやっつける意だ",
"悪いことは云わぬ、それだけは止めろ",
"私はある方に頼まれているのだ",
"はて誰かな? 家康かな?",
"いいや違う。狸爺ではない",
"およそ解った、秀次だろう?",
"誰でもいい。云うことは出来ぬ",
"止めるがいい。失敗するぞよ。彼奴用心深いからな"
],
[
"この娘も本当に可哀そうだ",
"ではどうでも立ち退くつもりか?",
"うん、どうでも立ち退くよ",
"旅費はどうかな? 少し進ぜよう",
"私には五万両の貸がある",
"え、五万両? 誰に貸したのか?",
"堺の魚屋利右衛門へな",
"それではこれでお別れか",
"行雲流水、どれ行こうか"
],
[
"余人はともかく治部殿は殿のご縁者ではございませぬか",
"だから一層残念だ",
"これは許しては置けませぬな",
"許しては置けない! 許しては置けない!"
],
[
"ああ原因か。原因は女だ!",
"ははあ女子でございますか",
"俺の娘月姫だ"
],
[
"言語道断でございますな。……たしか治部殿は五十歳、月姫様はお十八、どうする意でございましょう?",
"治部は昨年妻を失した",
"ははあそれでは後妾などに?"
],
[
"主筋にあたるこの俺へ姫をくれえと申して参った",
"すぐにお断りなさいましたか",
"するとたちまち今度の謀叛だ",
"憎い男でございますな"
],
[
"其方は今年二十二歳、姫とはちょうど年恰好だ",
"殿、何を仰せられます"
],
[
"治部さえなくば月姫は、其方に嫁わせないものでもない",
"私は臣下でございます",
"秘蔵の臣下だ。疎かには思わぬ",
"忝けのう存じます",
"治部はどうしても生かして置けぬ"
],
[
"私、治部めを討ち取りましょう",
"娘月姫は其方のものだ",
"忝けのう存じます"
],
[
"私は乞食でござります。お父様などとはとんでもない。何かのお間違いでござりましょう",
"いえいえ貴郎はお父様です。夢のお告げがござりました。……昨夜のことでございますが、神々しい老人が現われ出で、『汝明日光善寺へ参れ、そこに老年の乞食がいよう、それこそ汝が年頃尋ねる実の生の親であろうぞ』と、お告げ下されましてござります。……何と仰せられても貴郎は父上。どうでも邸へお迎え致し孝養を尽くさねばなりませぬ"
],
[
"ところで貴郎のお姓名は?",
"岡郷介と申します"
],
[
"岡郷介? しかと左様かな?",
"何しに偽りを申しましょう",
"……ああもう遁れぬ運命じゃ。……さあどこへでもお連れ下され。……"
],
[
"其方馬術は鍛練かな?",
"は、いささか仕ります"
],
[
"適当の逸物ござりましょうか?",
"馬か? 馬ならいくらもある",
"私、駻馬を好みます",
"荒馬がよいか。それは面白い。では月山に乗って見ろ",
"失礼ながら月山などは、私の眼から見ますると、弱気の病馬に過ぎません",
"ほほう左様か。玄海はどうだ?",
"やはり弱気に過ぎまする",
"其方随意に選ぶがよい",
"殿のご愛馬将門栗毛を、拝借致しとう存じます",
"何、将門? ううむ将門か?"
],
[
"それも恋からでござります",
"おお左様々々、そうであったな。もう月姫はお前の物だ",
"はい、忝けのう存じます",
"今日は愉快だ。実に愉快だ",
"はい愉快でございます。しかしたった一つだけ。……",
"心がかりの事でもあるか?",
"罪もない乞食の老人を、鎗玉の犠牲にしましたこと、決してよい気持は致しませぬ",
"戦国の常だ。構うものか",
"それは左様でございますとも。しかし、この頃何となく、鎗玉に上げられたあの老人が、私の実の父かのように思われてならないのでございさます",
"アッハハハハ馬鹿なことを申せ。それはお前の心の迷いだ",
"……私は捨児でございましたそうで?",
"うん、そうだ、当歳の頃、光善寺の門前に捨られていたよ"
]
] | 底本:「国枝史郎伝奇全集 巻六」未知谷
1993(平成5)年9月30日初版発行
初出:「ポケット」
1925(大正14)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043770",
"作品名": "郷介法師",
"作品名読み": "ごうすけほうし",
"ソート用読み": "こうすけほうし",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「ポケット」1925(大正14)年7月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2005-10-05T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"姓": "国枝",
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"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
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"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
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"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "国枝史郎伝奇全集 巻六",
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"校正者": "小林繁雄、門田裕志",
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} |
[
[
"無礼な態度! 不埒千万! 見逃がしては置けぬ! 身分を宣らっしゃい!",
"黙れ!"
],
[
"なにさ、近頃評判の高い、白縮緬組の悪戯をフイと思い出したと云うことさ",
"ああ彼奴らでございますか。いや面白い手合いですな。さすがの北条安房守様も手が出せないということですな",
"相手が千代田の御殿女中と来ては町奉行には手は出せまいよ",
"と云って見す見す打遣って置くのも智恵がないじゃございませんか"
],
[
"石町、焼きが廻ったの。それが解らぬとは驚いたな",
"お前には解っているのかえ?",
"解っているとも大解りじゃ",
"一つ教えて貰いたいな",
"生類憐れみのあのお令な。あれに触れたら命がない。それはお前にも解っていよう?",
"それがどうしたというのだえ?",
"これはいよいよ驚いた。これまでいっても解らぬかな……今の話の白縮緬組、南都の悪僧が嗷訴する時春日の神木を担ぎ出すように、お伝の方の飼い犬を担ぎ出して来ると云うではないか。だから迂濶には手が出せぬ。変にうっかり手を出して犬めに傷でも付けたが最後、玄龍先生のおっしゃられたように、軽いところで遠島じゃ"
],
[
"それにしても彼奴ら何者であろうの? いつも三人で出るそうじゃが",
"いやいやいつもは二人じゃそうな。一人は若衆、一人は奴、紅縮緬で覆面して夜な夜な現われるということじゃ。もっとも時々若い女がそれと同じような扮装をして仲間に加わるとは聞いているが",
"さようさよう、そうであったの……何んでもその中の若衆が素晴らしい手利きだということじゃの。暁杜鵑之介とかいう名じゃそうな"
],
[
"お前がそれで一句出来たら、私が一筆それへ描こう",
"いや面白い面白い"
],
[
"お助けお助け! どうぞお助け! 髪を剃られてなるものか! ハテ皆様も見ておらずとお執成しくだされてもよかりそうなものじゃ!",
"やい、これ、吉兵衛の二心め! よも忘れてはいまいがな! 今年の一月京町の揚屋で俺が雪見をしていたら、紀文の指図で雪の上へ小判をバラバラばら蒔いて争い拾う人達の下駄でせっかくの雪を泥にしたのは、吉兵衛貴様の仕業でないか。その日から今日まで気が射すかして、一度も顔を見せなかったので、怨みを晴らす折りもなかったが、今日捉えたからは百年目、どうでも坊主にせにゃならぬ! さあさあ皆、吉兵衛めを動かぬように抑えてくれ。俺が自分で手を下ろしてクリクリ坊主にひん剥いてやる!"
],
[
"やあ汝は紅縮緬組の杜鵑之介とかいう奴よな。しつこくまたもや現われて、止めだてするとは無礼の痴人! とくそこを退け! 退きおろう!",
"痴人というのはそち達がことじゃ。先夜上野の山下で初めて汝らに巡り合い滾々不心得を訓したにも拘わらず、今夜再び現われ出で、押し借りの悪行を働くとは天を恐れぬ業人ばら。今宵こそ容赦致さぬぞよ"
],
[
"やあ源氏太郎様を犬といったな!",
"犬といったが悪いと申すか。では畜生と申そうかの",
"お犬様を畜生とは吠いたりな!",
"畜生で悪くば獣といおうぞ",
"問答無用、やあ方々、お令を恐れぬ叛逆人を、討ち取り召されい討ち取り召されい!"
],
[
"千代はどうした。見て参れ",
"おおそうじゃ。お嬢様……"
],
[
"北条安房守配下の与力、鹿間紋十郎と申す者でござる",
"む。ご貴殿が鹿間殿か――してあの女人は何人でござるな?",
"あれこそ、お伝の方でござる",
"…………"
],
[
"いかにもお譲り致しましょう",
"お譲りくださるか。忝けない。いざお妹ごをお渡し申す",
"千代、袖平、参ろうかの"
],
[
"や、これは某が人相書き!",
"今夜のお礼に差し上げ申す――貴殿の今宵の働きに懲りて、白縮緬組の悪行も自然根絶やしになろうと存ずる。管轄違いの我らの手では取り締まりかねたこの輩を天に代わってのご制裁、お礼申さねば心が済まぬ。寸志でござればお収めくだされい"
]
] | 底本:「銅銭会事変 短編」国枝史郎伝奇文庫27、講談社
1976(昭和51)年10月28日第1刷発行
初出:「サンデー毎日 夏季増刊号」
1924(大正13)年7月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿和泉拓
校正:湯地光弘
2005年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043660",
"作品名": "紅白縮緬組",
"作品名読み": "こうはくちりめんぐみ",
"ソート用読み": "こうはくちりめんくみ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「サンデー毎日 夏季増刊号」1924(大正13)年7月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
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"底本名1": "銅銭会事変 短編",
"底本出版社名1": "国枝史郎伝奇文庫27、講談社",
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[
[
"ところが俺は退屈でな",
"こまったものでございます",
"趣向は無いか、変った趣向は?",
"美人でもお集めになられては?",
"少々飽きたよ、実の所"
],
[
"ぜひお聞かせを。なんでございますな?",
"茶ノ湯をやろう、大茶ノ湯を"
],
[
"いかさま近来のご趣向で",
"場所は北野、百座の茶ノ湯",
"さすがは殿下、大がかりのことで"
],
[
"一興ある茶湯者でございます。堺の住人とか申しますことで",
"おおそうか、寄って見よう",
"竹柱にして、真柴垣を外に少しかこひて、土間をいかにも〳〵美しく平させ、無双の蘆屋釜を自在にかけ、雲脚をばこしらへて、茶椀水差等をば、いかにも下直なる荒焼をぞもとめける。其外何にても新きを本意とせり。我身はあらき布かたびらを渋染にかへしたるをば着、ほそ繩を帯にして、云々"
],
[
"これは、よく気が付いた。百座の茶、湯で満腹だ。かるがると香煎を出したのは、言語道断云うばかりもない。……名は何んというな、其方の名は?",
"無徳道人石川五右衛門。京師の浪人にございます",
"おおそうか、見覚え置く"
],
[
"で、どんな時、隙があった?",
"ご退座という其の瞬間、お体が斜になられました時",
"うむ、その時隙が見えたか?",
"はい、左様でございます"
],
[
"よく申した、味のある言葉だ。斜? 斜? 側面だな?……いや全く世の中には側面ばかり狙う奴がある。とりわけ徳川内府などはな。……どうだ五右衛門、俺に仕えぬか",
"これは何うも恐れ入ったことで",
"得手は何んだ? お前の得手は?",
"はい、些少、伊賀流の忍術を……",
"ほほう忍術か、これは面白い。細作として使ってやろう。……これ、此の者に屋敷を取らせろ"
],
[
"で、誰の耳を嗅いだんだ?",
"殿下の耳を、云う迄もねえ",
"へえ、それで金儲けか?",
"加藤、黒田、浅野、生駒、そいつらの顔を睨め乍ら、殿下の耳を嗅いだやつさ。すると早速賄賂が来た。告口されたと思ったらしい。尤もそいつが付目なのだが",
"アッハハハ成程な。お前らしい遣口だ。人生の機微も窺われる。……それはそうとオイ新左、お前この釜に見覚えはないか?",
"どれ"
],
[
"どうするものか、借りて来たのさ。無断拝借というやつよ",
"それじゃお前、泥棒じゃアないか",
"なぜ悪い、可いじゃないか。どうせ無駄に遊んでいる釜だ。二、三日借りて立ててから、こっそり返えしたら、わかりっこはない"
],
[
"隙を狙うには相違無いさ。が、尋常の隙では無い。……用心から洩れる隙なのだ。固めから崩れる隙なのだ。開けっ放しの人間には、仲々忍術は応用出来ない",
"ははあ然うか、これは驚いた。頓智のコツとそっくりだ。……頓智とは弱点を突くことさ。用心堅固の奴に限って沢山弱点を持っている。その弱点をギシと握り、チョイチョイ周囲をつっ突くのさ。……まともに突くと皮肉になる。皮肉になると叱られる。そこで軽くつっ突くのさ。……そうだ或る時こんなことがあった。『余の顔は猿に似ているそうだ。どうだ、ほんとかな、似ているかな?』こんなことを殿下が仰せられた。列座の面々一言も無い。こいつァ何うにも答えられない筈さ。事実猿には似ているのだが、相手が殿下だ、そうは云えない。で、いつ迄も無言の行よ。そこで俺が云ったものさ。『いえいえ然うではございません。つまり猿の顔なるものが、殿下に似ているのでございます』とな。すると大将大喜びだ。早速拝領と来たものさ。アッハハハこの呼吸だよ"
],
[
"俺を連れて飛べるかな?",
"いと易いことでございます",
"都は祇園会で賑わっているそうだ。ひとつ其奴を見せてくれ",
"かしこまりましてございます"
],
[
"五右衛門、一働き働いてくれ",
"よかろう、何んでも云い付けるがいい",
"伏見の城へ忍んでくれ",
"…………"
],
[
"何時何処から這入って来たな? いやいやお前は忍術の達人、これは訊くだけ野暮かもしれない。……で、何か用事かな?",
"今夜、先刻より、石川五右衛門、忍び込みましてございます"
],
[
"只今苦戦中でございます",
"ナニ苦戦? なんのことだ?",
"我等十人十方に分れ、厳重に固めて居りますものの、五右衛門は本邦無雙の術者、ジリジリ攻め込んで参ります"
],
[
"そこで御注意致し度く、参上致しましてございます。……如何様な不思議がございましても、決してお声を立てませぬよう",
"声を上げては不可ないのか?",
"決して決してなりませぬ。誰人様にも申し上げます。決してお声を立てませぬよう。おお夫れから最う一つ、是非とも何か一つの事を、熱心にお考え下さいますよう。他へお心を移しませぬよう。……では、ごめん下さいますよう"
],
[
"足をごらんなさりませ",
"人間の足だ、異ったこともない",
"白くて滑らかで細うございます。百姓の足ではございません",
"そう云えば百姓の足では無いな",
"瓜が傍に置いてあります",
"さようさ、瓜が置いてあるな",
"蠅が真黒にたかって居ります",
"蠅や虻がたかっている"
],
[
"夜働きに疲労れた盗賊が、瓜の二つ割で毒虫を避け、昼寝をしているのでございます",
"うん、成程、そうかも知れない。それ者共召捕って了え!"
]
] | 底本:「蔦葛木曾棧」桃源社
1971(昭和46)年12月20日発行
初出:「大衆文芸 第一巻第一号」
1926(大正15)年1月号
※「※[#「封/帛」、第4水準2-8-92]」と「幇」との混在は底本通りにしました。
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也、小林繁雄
2007年4月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "046450",
"作品名": "五右衛門と新左",
"作品名読み": "ごえもんとしんざ",
"ソート用読み": "こえもんとしんさ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「大衆文芸 第一巻第一号」1926(大正15)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-04-30T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card46450.html",
"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "蔦葛木曾棧",
"底本出版社名1": "桃源社",
"底本初版発行年1": "1971(昭和46)年12月20日",
"入力に使用した版1": "1971(昭和46)年12月20日",
"校正に使用した版1": "1971(昭和46)年12月20日",
"底本の親本名1": "大衆文芸 第一巻第一号",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年1月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "伊藤時也",
"校正者": "伊藤時也、小林繁雄",
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"テキストファイル最終更新日": "2007-04-05T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/files/46450_26538.html",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"おい、いったいどうしたんだい、大声が自慢にゃあならないぜ",
"シェーネス・フロイラインが通るのだよ"
],
[
"探偵小説家としてはいけないさ。だが、ぼくは場合によっては探偵小説家なんか廃業したっていいよ、彼女さえぼくを愛してくれたらね",
"不心得だね、食えないぜ",
"なに、そうしたら新聞記者になる",
"ぼくのお株を奪うのだね",
"あっ、なるほど、そういうことになるか",
"探偵小説家でいたまえよ",
"探偵小説家でいる以上は、詠嘆ばかりしてはいられないね。よろしい、ひとつ研究してみよう。彼女は動乱の渦中にいる、煩悶していなければならないはずだ。いや、今朝会った様子では、事実ひどく煩悶していたよ。それなのにどうしたんだろう、暢気らしく午後二時になると散歩している",
"だめだなあ、そういう見方は"
],
[
"あれだけ首をかしげていれば、暢気らしいとは言えないよ。そうして、ぼくの観察によれば、散歩などとは思われないね。目的があって歩いていくのさ",
"いったい、どんな目的だろう?",
"きみ、きみ、そいつが知りたいのかい。それは非常に簡単にできる。艶子さんに訊けばいいじゃあないか",
"だって、そいつは不作法だよ",
"ではもう一つ、尾行するほうがいい",
"紳士的でないよ、ごめんこうむろう",
"どうもね、きみが紳士にしては洋服の型が少し古い",
"日本じゅうの雑誌社へ怒鳴り込んでくれ、もう少し原稿料を上げるようにって。こう貧乏じゃあ流行は追えない"
],
[
"いけねえ。こいつめ、おれより上手だ",
"無駄を言うなよ。黙っておいでよ、あとで詳しく説明してやるから"
],
[
"艶子は診察券を買わなかったのだ",
"前に買って持っているのかもしれない",
"もし持っているなら受付へだね――うん、レントゲン科の受付へだ、少なくも出さなければならないはずだ。なるたけ早く出したほうが、早く治療をしてもらえるからさ",
"面会に来たんじゃあないかしら?",
"もし面会に来たのなら、すぐに病室へ行くはずだよ。ところが、艶子は病院へ入るとうろうろ廊下を歩いた末、あの腰かけへかけたのさ。それっきりちっとも動かないのだ。だれかにあの位置を指定され、それであそこへ行ったようにね",
"それはそうと、ぼくには不思議でならない。洋食屋のちらしを利用して、ぼくを引っかけたのはきみだろうが、どこにきみはいたのだい? ちっとも姿が見えなかったが",
"ああ、それか。なんでもないことだ。……おや!"
],
[
"あっ、驚いたなあ、お蝶って女だ",
"へえ、あいつがお蝶なのかい?"
],
[
"殺された西村の愛人のね、舟木新次郎の姉に当たるね",
"どうしてきみは知っているんだい?",
"社でも警察でも張り込んでいるのだ、舟木が立ち回るに相違ないとね。ぼくも一度張り込みに行って、それであの女を知っているのさ"
],
[
"面白いことを聞いてきた。将校マントのあの男はね、昨日、入院したんだそうだ",
"なんていう名だい? 舟木新次郎かな?",
"いや、松本正雄っていうそうだ",
"で、病名はなんなんだい?",
"それが非常におかしいのだ。入院するほどの病気なんか、持っていないということだ",
"ふーん、こいつはおかしいね",
"無理につければ神経衰弱、強迫観念に捉えられているそうだ",
"舟木新次郎じゃあないだろうか?",
"ぼくもそんなように思うのだ。……犯罪人の隠れ場所としては病院なんか絶好だからなあ",
"それに舟木の姉に当たるお蝶という女が会いに来た以上はね……",
"だがあの女、張り込みをまいてよくこんなところへ来られたなあ。……それはそうと接近してみよう"
],
[
"おい見つかるぜ、危険だぜ",
"あいつらの利用している情景を、逆用してやるのだから大丈夫さ",
"そりゃあいったいどういう意味だい?",
"将校マントの男はだね、入院しているから部屋を持っている。面会人の場合にはそこで話すのが普通じゃあないか。ところが、あいつらそいつをしない。というのには理由がある。一室にこもって密談すれば、かえって人に怪しまれるからさ。で、あの場所を選んだのさ。人通りがあって、薄暗くて、レントゲンの音がごーごー聞こえる。あそこでこそこそ話していればまずめったには怪しまれないよ。安心して話しているに相違ない。そこをこっちで利用するのさ。ね、部屋の戸が開いているだろう。あそこで二、三人の患者がもの珍しそうに覗き込んでいる。そこで、ぼくたちもあそこへ行き、レントゲンを見ているような様子をして立ち聞きしたら感づかれはしないよ"
],
[
"西村工場の工員長、桝本順吉っていうやつらしいね",
"うん"
],
[
"あの四人、ぐるとみえる",
"目で見るなよ、耳だけで聞こう"
],
[
"きみたち三人揃っていると、やはり姉弟は争われないなあ。よく似ているぜ、そっくりだ",
"ふーん"
],
[
"あいつら三人姉弟なのか、では、いよいよ将校マントの男は舟木新次郎に定まったね",
"艶子が二人の妹だとは、まったくどうも意外だったなあ。……おい、もう少し接近しよう"
],
[
"ぼくじゃあないよ! 断じて違う!",
"きみでなくてだれなものか"
],
[
"そんな必要もなかったのですもの",
"だって、怨みがあるはずじゃあないか"
],
[
"三人姉弟の復讐ってやつさ",
"着々遂げられていたんですからね"
],
[
"あの人、人に殺されずとも、自分で首でもくくらなければ立ち行かなくなっていたんですからね",
"そいつも知っていましたよ"
],
[
"内では永年お蝶さんが絞って絞って絞りまくるし、外では最近この人がストライキを起こして攻め立てるし、事務所ではお艶ちゃんが澄ました顔をして、奇麗なところをちらつかせるし、大将だってふらふらしますよ。それに、業界の不況でね",
"艶ちゃんだけはかわいそうですよ。……最近までそんなこと知らなかったんですもの"
],
[
"きみこそいちばんの悪党だぜ!",
"あるいはそうかもしれないね"
],
[
"工員を煽動してストライキを起こさせ、そいつを種に社長を強請る。……きみのような人間がいるからだよ、運動が途中で挫折するのは",
"二千円を出せよ、二千円を",
"知らないと言ったら知らないんだ",
"密告するぜ、きみの居場所を"
],
[
"言うがいいや、ぼくは平気だ",
"では、なぜこんなところに隠れているのだ",
"きみが隠れろって言ったからさ",
"きみに嫌疑がかかっているからさ",
"嫌疑をかけさせたのはきみじゃあないか",
"ぼくが警察で言ったことは、ありゃみんなほんとのことじゃあないか",
"ねえ、桝本さん"
],
[
"持っていないと思いますよ、この人そんな大金はね……",
"だが"
],
[
"後ろから殴ったのはきみだろうね?",
"いいや!……しかし!……しかしだね……"
]
] | 底本:「五階の窓」春陽文庫、春陽堂書店
1993(平成5)年10月25日初版発行
初出:「新青年」博文館
1926(大正15)年9月号
※この作品は、「新青年」1926(大正15)年5月号から10月号の六回にわたり六人の作者によりリレー連作として発表された第五回です。
入力:雪森
校正:富田晶子
2019年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058753",
"作品名": "五階の窓",
"作品名読み": "ごかいのまど",
"ソート用読み": "こかいのまと",
"副題": "05 合作の五",
"副題読み": "05 がっさくのご",
"原題": "",
"初出": "「新青年」博文館、1926(大正15)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-05-26T00:00:00",
"最終更新日": "2019-04-26T00:00:00",
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"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
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"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
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"底本名1": "五階の窓",
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"入力者": "雪森",
"校正者": "富田晶子",
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} |
[
[
"大分学問もやられたようだが、何処で修業なされたな?",
"東京で少々漢籍の方を……",
"これから何方へお出でなさるな?",
"実は東京の人心が益々軽佻浮華に流れ見るさえ不愉快に存じますので修業を廃し故郷へ帰えり鋤鍬を持つ意りでございますが、偖故郷というところは案外予言者を入れぬもので、襤褸を纏った私などはさぞ虐待されることでございましょう",
"いやいやそんな事もござるまいが、もし帰えるのがお厭なら此処へお止りなさるがよい。恰度教員が不足でしてな。代用教員の欲しいところでござるよ",
"それはそれは有難いことで、是非お願い致します"
],
[
"そうですか、そう迄仰有るなら、出来ない迄もやって見ましょうか。",
"場所はこっちで見付けますから"
],
[
"お前の部屋に脇差があるが、あれは一体何に為るのじゃな?",
"はい"
],
[
"破邪の剣でござります。……例えば不動の降魔の剣。……",
"アッハッハッハッ。よく答えたの"
],
[
"いいえ、一向存じませんが",
"私も明瞭とは覚えていないが確か何処かで逢った筈だ。お前の顔に見覚えがある"
],
[
"署長! 偉い者を見付けましたぞ! 破獄囚赤井景韶が、坊主となって広教寺に……",
"えッ"
],
[
"岳南自由党の発生地ね、何処だか君は知っているかね?",
"静岡県でございます",
"君、静岡へ急行して呉れ給え",
"…………"
],
[
"警視庁の刑事、大井というものです",
"清水さん! もう迚も不可せん!",
"そうか、併し、残念だなあ"
]
] | 底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「講談倶楽部」
1925(大正14)年1月
初出:「講談倶楽部」
1925(大正14)年1月
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2020年6月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047420",
"作品名": "国事犯の行方",
"作品名読み": "こくじはんのゆくえ",
"ソート用読み": "こくしはんのゆくえ",
"副題": "―破獄の志士赤井景韶―",
"副題読み": "―はごくのししあかいかげあき―",
"原題": "",
"初出": "「講談倶楽部」1925(大正14)年1月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-07-27T00:00:00",
"最終更新日": "2020-06-30T00:00:00",
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"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
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"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
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"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
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"底本名1": "国枝史郎探偵小説全集 全一巻",
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"校正に使用した版1": "2005(平成17)年9月15日第1刷",
"底本の親本名1": "講談倶楽部",
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} |
[
[
"オーイ、風見、どうした?",
"喧嘩して、頭、割られたのか"
],
[
"禿頭病! フーン、そうかい",
"なおる見込みあるのかい?"
],
[
"そういえば貴官もその頃、同じ大学にいたように思うが……",
"さようでございます。……ですから私は、陛下とは同校のよしみある者でございます"
],
[
"さようさよう同校生じゃ",
"陛下は、数学の天才の他に、もう一つ天才があるというので評判でございました",
"何かな?",
"陛下が、乳屋の娘へおやりになりました恋文が、たいへん名文だというので……"
],
[
"陛下は、数学の他に、文章の天才だという大評判だったのでございます。……特に婦人におつかわしになる文章が……",
"もうその辺でよろしい"
]
] | 底本:「国枝史郎歴史小説傑作選」作品社
2006(平成18)年3月30日第1刷発行
底本の親本:「外交」
1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日
初出:「外交」
1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2010年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "047250",
"作品名": "今昔茶話",
"作品名読み": "こんじゃくさわ",
"ソート用読み": "こんしやくさわ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「外交」1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-12-22T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "000255",
"姓": "国枝",
"名": "史郎",
"姓読み": "くにえだ",
"名読み": "しろう",
"姓読みソート用": "くにえた",
"名読みソート用": "しろう",
"姓ローマ字": "Kunieda",
"名ローマ字": "Shiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1887-10-10",
"没年月日": "1943-04-08",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "国枝史郎歴史小説傑作選",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "2006(平成18)年3月30日",
"入力に使用した版1": "2006(平成18)年3月30日第1刷",
"校正に使用した版1": "2006(平成18)年3月30日第1刷",
"底本の親本名1": "外交",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年3月1日、3月11日、3月21日、4月1日、5月1日、5月21日、6月1日、6月21日、7月1日、7月11日",
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"入力者": "門田裕志",
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} |
[
[
"つまり眼の縁だけ燐光を放す昨夜あらわれた怪獣と、去月十日にあらわれた全身に燐光を放す獣と、都合二匹というのだろうね……君もなかなか眼敏くなった。僕も新聞を見た時からこいつをおかしく思ったんだ――燐光を放った獣なんか一匹いるさえ不思議だのに、二匹もいるということはどう考えてもちと腑に落ちないね……なあにやっぱり一匹だろう",
"記事からいくと二匹だがね"
],
[
"おっしゃる通り奥様はあの米国の大統領のハージング夫人とそっくりで、社交嫌いだとか申しますことで――けれどたった一度だけ招待会には出られました筈で",
"そうそうたった一度だけ――主人が印度から当地へ参り市長の職に着きました時、きわめて少数の知人でしたが、お招きしたことがございました。きっとあの時でございましょう?",
"さよう、あの時でございます。あの時私は舞踏室で、奥様をお見かけいたしました",
"それは少し変じゃございませんか――あの時およびした人達の中に、あなたのお名前はなかった筈で",
"レザールという名はございませんでした。しかしマドリッド日刊新聞の社長の名前はありました筈で"
],
[
"ポンピアド様という名前の六十過ぎた立派な方?",
"獅子のような頬髯を生やした人で",
"たしかにお招き致しました",
"それが私でございます",
"まあ"
],
[
"そうでございましょうね、よくわかりました。――ただ今お話しのラシイヌ様、知っているどころではございません。ただ今お逢いして参りましたので",
"ああそれじゃもうお逢いでしたか",
"そうしまするとラシイヌ大探偵が私にこのように申しました――レザールにもご依頼なさるようにって"
],
[
"どうしてそんな事ご存知でしょう? 良人の心臓のよくないことは、私以外どなたも知らない筈ですのに",
"しかし探偵というものはこれと思う人と逢った時、ただぼんやりとその人を見守っているものではございません――顔の特徴、体の様子、そしてまた握手などする場合には、その人の脈膊をさえ計ります……市長閣下にお目にかかった時、さすがは有名な探検家として阿弗利加を初め印度、南洋、中央亜細亜、新疆省と、蕃地ばかりを経巡ぐられて太陽の直射を受けられたためか、お顔の色の見事さは驚くばかりでありましたが、さてかんじんの脈膊はというと、どうやら乱れ勝ちでございました。ハハア心臓がお悪いな。その時私は思いましたので"
],
[
"ところで目下のご容態は?",
"危険というほどではございませんけれど……医者が私に申しますには、もう一度こんなような驚愕を――神経と心臓とをひどく刺戟する病気に大毒な驚愕を最近に経験するとなると、生命のほども受け合われないなどと――あるいは脅かしかも知れませんけれど……",
"ははあそのように申しましたかな?"
],
[
"そういう訳でございますので、燐光を放す怪獣が二度と窓の辺へ来ないように、致したいのでございますけれど、しかしこれを警視庁へ届け、警官の方に来て戴いて邸宅を守ってなどいただいては、事があんまり大仰になり、世間一般に知れましたら良人が意気地なしに見えますし……",
"いかにもさようでございますね――世間一般に知れますより、敵党の連中に知られることが閣下にとっては不得策の筈で"
],
[
"はいその通りでございます……良人が市長になるに付いては大分反対者がございまして、選挙も苦戦でございました……ですから良人が今になって心臓の悪い病人だなどと敵党の人達に知られましたら、乗ぜられないものでもなし、それに犬のようなそんな獣に脅かされたなどと思われましたら、市長の威厳に関しますので",
"それで私達民間探偵にご依頼なさろうとなすったので? いやよく事情はわかりました。出来るだけお力になりましょう",
"どれほど費用はかかりましても、その点はご心配くださいませんように"
],
[
"はい、ただそれだけでございます",
"怪物の正体は何であるか? 何故窓の側へあらわれたか? 閣下が怪物を見られた時、何故独り言を洩らしたか? そして何故卒倒なされたか? 調べる必要はございますまいか?"
],
[
"奥様、あなたはご良人といつ頃結婚なさいましたな?",
"はい、今から一年前、印度に主人がおりました時に……私も印度におりましたので",
"それでは奥様はそれ以前の閣下の行動に関してはご存知ないわけでございますな?",
"良人が話してくれませんので",
"そこでもう一つ最近において――先月十日以前において、誰か様子の怪しいような訪問客はございませんでしたかな? 閣下に対する訪問客で……",
"いいえ、一人もございませんでした。素性の解った方達ばかり他にはどなたも参りませんでした",
"そこでもう一つ閣下におかれては、どなたと一番お親しいので?",
"私と違いまして良人は誰とでも快よく逢いますので来客も多うございますが、探検好きでございますから、やっぱりこれも探検好きのエチガライさんとは特別に親しいようでございます",
"ははあエチガライさんでございますか? 動物園長のエチガライさん?",
"はい、さようでございます"
],
[
"大変親しいのでございます。すぐと書斎へ引っ込んで内から扉へ錠を下ろし、一時間でも二時間でも話し合うのでございます。良人がこれまで探検したいろいろの地方から発掘した動物の骨とか瓦とかそんなものを二人で研究したり、それについて二人で議論したり、そしてどうやら二人して著述にでもかかっておりますようで",
"いいことを聞かしてくださいました。大変参考になりそうで"
],
[
"ところで園長のエチガライさんは、たしか閣下のご周旋で今の位置につかれたということですが?",
"さようでございます。私達が印度を引き揚げて当地へ参り、ものの一月と経たない頃訪ねていらしったのでございまして……",
"どちらから来たのでございましょうな?",
"あの方は良人の友人で、私とは関係がございませんし良人も私にあの方については何とも話してくれませんので、どちらから参られたか存じません――けれど良人にとりましては、大事な人と見えまして、ただ今の地位も見つけてあげるし、金銭上の援助なども、時々するようでございます",
"もう一つお訊ね致しますが、印度から当地へ参られてから、盗難とかまたは紛失とか、そういう種類の災難におかかりなすったことはございますまいか?"
],
[
"先月の初めでございましたが、新米の女中が誤まって良人の書斎を掃除しながら、捨ててはならない紙屑を掃きすててしまったとかいうことで、良人が大変な権幕で叱りつけたことがございました",
"すててはならない紙屑を女中が掃きすてたというのですな? ハハアこいつは問題だ! 閣下が憤慨なさる筈だ! そして女中はどうしました? もちろんお宅にはおりますまいが?",
"短気な女中でございまして、叱られたのが口惜しいと云って暇を取って帰ってしまいました",
"行衛は不明でございましょうな?",
"女中の行衛でございますか。いいえ判っておりますので",
"え、何んですって? わかっている? そうしてどこにおるのですかな?",
"エチガライ様のお宅ですの――エチガライ様がその女中を最初にお世話してくださいましたので"
],
[
"どうだなダンチョン、この事件は? 面白い事件とは思わないかな?",
"面白そうな事件だね、どうやら怪物の正体が君には解っているようだね"
],
[
"ところが僕には解らない",
"よっぽど君は鈍感だよ。しかし素人だから仕方がない。……ところで夫人の話しの中で、怪しいと思った人間が君には一人もなかったかな?",
"エチガライという男が怪しいね",
"すなわち動物園長だ! 動物園長が怪しいと見たら君はどういう処置をとるね?",
"何より先に動物園へ行って、園長の様子をうかがうね",
"まずそれが順序だろう……ところで既にラシイヌさんが動物園へは行ってる筈だ……もうすぐ電話のかかる頃だ"
],
[
"見たまえ、先頭のあの男を! 女中に化けて市長の家へ住み込んだのが彼奴だよ",
"それでは女ではないのですね?"
],
[
"なんの彼奴が女なものか。それに決して西班牙人でもない",
"ではいったい何者なので?",
"長く欧羅巴にはいたらしいが、たしかに彼奴は東洋人だよ。回鶻人という奴さ",
"回鶻人ですってあの男が? しかし現代の社会には回鶻人という奴はいない筈じゃありませんか",
"歴史上では滅びているが、しかしあの通りいるのだよ",
"いったいどこから来たのでしょう?",
"新疆省の羅布の沙漠、羅布湖のある辺の流沙に埋められた昔の都会! そこから彼奴らはやって来たのだ!",
"で、どこへ行くのでしょう?",
"檻を開放しに行くのだよ。猛獣や毒蛇を檻から出して、マドリッドの市中へ追い放し、深夜の市中を騒がすためにね",
"いずれ理由があるのでしょうな?"
],
[
"理由はつまり復讐だ!",
"マドリッドへ復讐するのですか?",
"マドリッドの住人のある一人が、彼らを憤怒させたからさ"
],
[
"話はゆっくり後で聞くが……君はいったい怪物を――燐光を放す怪獣を――何の贋物だと思ったかね?",
"恐らく犬か狼へ、燐光を放す薬品類を塗ったものだと思いました",
"犬か狼かいずれ直きに彼奴の正体は解るだろう。……見たまえ見たまえ回鶻人が、猛獣の檻を開いたから"
],
[
"府庁へ行く道の中央で。……いや飛んでもない怪獣だ",
"レザール君、見るがいい。これが怪物の正体よ"
],
[
"こりゃ園長のエチガライだ!",
"すなわち怪獣の正体さ――よろしい、諸君、では怪獣を病院へかまわず運んでくれたまえ"
],
[
"さぐって見ようと思いましたけれど、ラシイヌさんのことですから、私より先に動物園へ行っていらっしゃるに違いないとこの友人のダンチョン君とも噂していたのでございます。するとはたしてあなたから電話がかかったというものです――しかし私はエチガライが、自分で犬の皮を着てマドリッド市中を駆け廻って市長の窓まで行ったとは夢にも想像しませんでした。私はこのように思いましたので――市長もエチガライも探検家だ。ところが市長は財産家で選ばれて市長の職にもついた。そこへエチガライが訪ねて来ると市長は熱心に周旋して園長の職につけてやった。時々金銭の援助もする。普通の友人の情誼としては少しく親切に過ぎるようだ。あるいは二人の間には他人に云われない利害関係が……つまり市長が探検先で不正財宝の発掘でもしてそれで財産家になったのを、あのエチガライが知っていて、世間へ発表しない代りに動物園の園長という立派な位置を得たのではないか? こう思っているとまた夫人が、市長の書斎の紙屑を、エチガライの世話した新米の女中が、掃き出してしまったと云ったのですから、ハハアそれではその紙屑は、不正財宝と関係のある、地図か証書かに相違ない。それを女中に盗ませたのはそれを種にしてきっと市長を脅迫して金でも取ろうとしたのだろう――そうして例の怪獣は、動物園の犬か狼へ人工で燐光を纒わせたもので、それを市長の眼前へ出して、驚かせたというのも、やっぱり脅迫の意味からで、すなわち燐光の怪獣と、不正財宝の間には何らかの脈絡があるのだろう。それを市長が見た以上厭でも応でも脅迫者の自由にならなければならないという、奇怪な弱点であるのかも知れない。そして市長が怪獣を見るや、ROV、湖、埋もれた都会と絶叫したということだから、不正財宝を発掘したのは、支那新疆の羅布の沙漠の、羅布湖のほとりに相違ない。そして市長は尚叫んで、恐ろしい狛犬といったというから、燐光を纒った怪獣はあるいは羅布湖の岸の辺に住民の尊敬する神殿でもあって、そこの社頭の狛犬と深い関係でもあるのかも知れない。とにかく事件の張本は園長エチガライに相違ないとこう睨んだのでございますが、しかしまさか園長自身が怪獣であるとは思いませんでした",
"夫人の話を聞いただけでそこまで看破したところに君の天才が窺われるね"
],
[
"しかしどういう方便で回鶻人のあの男が園長と知るようになったのでしょう?",
"そんなことどうだっていいじゃないか。そこが学究の馬鹿な点さ。実はね、ここへ来る前に病院へちょっと寄ったものさ。エチガライ氏にいき逢ってその点について訊いて見ると、その説明が面白い――それはある時エチガライ氏が町を散歩していると、若い女の乞食が来て手の中を乞うたというものだ。と見ると女の容貌が微妙な雑種を呈していて氏の好奇心をそそったので、そのまま家へ連れて来て女中に使っているうちに、友人の市長に懇望され譲ってやったということだった",
"聞いてみれば何んでもありませんなあ"
],
[
"神秘でそして幽幻で大変面白い材料です。空想画として面白い。燐光を放って走って行く、獣のような人間を、一つ油絵で描きましょうかな",
"獣人というような題にしてね"
],
[
"お前はこの景色をどう思うな? 林泉、宮殿、花園、孤島、春の月が朧ろに照らしている。横笛の音色が響いて来る……美しいとは思わぬかな? ――もっともお前は打ち見たところまだ大変若いようだ。自然の風景の美しさなどには無関心かも知れないが",
"美しい景色だと思います。雄大ではありませんが華麗です。自然というよりも人工的で技巧の極致を備えています",
"君はなかなか批評家だ。いかにも君の云う通り技巧に富んだ風景じゃ。君はこういう庭園を所有したいとは思わぬかな?",
"所有ってみたいとも思いますし、所有ってみたくないとも思います"
],
[
"君はなかなか皮肉屋だね。ところで君のその言葉の、意味の説明を聞きたいものじゃ",
"これという意味もありませんが、こういう庭園を持つ者は王侯以外にはございません。こういう庭園を持つという意味は王侯になることでございます。男子と生まれて王侯となるのは目覚ましいことでもございますし願わしい限りでもございますが、さて王侯になって見たら側目で見たほどには楽しくもなく嬉しくもないかも知れません。楽しくも嬉しくもないのならこんな庭園を所有するような王侯になっても仕方がない。こう思うからでございます"
],
[
"この国で一番不幸な男! それがすなわちこの私じゃ",
"この国で一番不幸な男? それがご老人だとおっしゃいますか?",
"世間の人達は反対にこの国で一番幸福者がこの私じゃなどと云っている"
],
[
"あなたは! そうだ! わかりました!",
"わしは寂しい人間だよ! 一人の味方もない人間だよ"
],
[
"君の描きたいねも久しいものだ。描きたい描きたいというばかりで何一つ君は描かないじゃないか。だから皆が君のことを描かざる画家のダンチョンだなんて下らない綽名をつけたのさ――あれほど君が意気込んでいた『獣人』の絵だってまだ描かない。ほんとに君はなまけ者だ……それはそうと向こうのあの女だが、君は変だとは思わないかね?",
"変だって何が変なんです?",
"そういう返辞が出るようなら君には向こうのあの女の変なところが解らないと見える。いいかいよっく見てみたまえ、今あの女は下を向いて熱心に新聞を見てはいるが、その実新聞を見ているのではなく僕らの様子を見ているのだよ",
"なんで僕らを見るのでしょう?",
"さあね、そいつは解らない。わからないから不思議なのさ。いったいどこからあの女はこの列車へ乗り込んだのだろう?",
"チェリアビンスクからだと思います"
],
[
"ふうん、あの女がぶつかった? たしかに君にぶつかったんだね? 実は僕にもぶつかったのさ。クルガンの停車場へ停車く前に煙草を喫もうと思ってね、喫煙室へ出かけたものさ。あの女の前を通った時だ。不意に女が立ち上がって僕の腰の辺へぶつかったよ。その時僕は敏捷に働く手の触覚を感じたものだ。ズボンのポケットの辺にだね",
"きっと偶然にさわったんでしょう。あんなに美しい若い女がまさかに掏摸はやりますまい"
],
[
"手首だけ陽に焼けるわけがないよ",
"土耳古婦人はいつの場合でも面紗で顔を隠すそうです。顔や頸が焼けなくて手首だけ焼けるのはそのためでしょう"
],
[
"明日は早朝五時頃にオムスクへ汽車がつきますからそこで解雇を云い渡しましょう",
"よかろう"
],
[
"お前は回鶻語が読めるのか? 袁世凱のくれたという手箱の中の羊皮紙をどうしてお前は読んだのじゃ?",
"鉄の手箱には原文と一緒に訳文がはいっておりました。袁世凱の勢力で回鶻語の学者を呼びよせてひそかに訳させたのかもしれません"
],
[
"そしてたった今湖水を指して発足したばかりです",
"湖水というのはどこにある?",
"南方十里の彼方です"
],
[
"それはどういう意味でしょうね? そうしてどうしてあの苦力は、あなたの本名を知っているのでしょうね?",
"どうして本名を知っているか、全く合点が行きません。私の本名を知っている限りは、恐らくあなたの本名だって知っているに違いありませんよ",
"紅玉、紅玉、これが本名ね。私は名ぐらい知られたって、何んとも思やしませんよ",
"本名を知られたということは、あまり苦痛ではありませんけれど、どうして本名を知られたか、本名を知っているあの苦力はいったいどういう身分の者か、それが私には不思議です。不思議といえば、苦力の云った、十歩。二十歩。いや三十歩かな。この言葉の意味こそ不思議です"
],
[
"怖くもなければ驚きもしない。いったい君は何者だね?",
"怖くないとは豪勢だね。が、しかしすぐに怖くなるよ。何者かと僕に訊くのかね。さあ僕はいったい何者だろう。僕が何者かはどうでもいい。僕は僕より偉大な者の使命を帯びて来たのだから、使命さえ果たせばいいのだよ"
],
[
"そんならご大層のその使命をさっさと果たすがいいじゃないか!",
"それなら、そろそろ果たそうかね。君のためには急ぐよりも、ゆっくりした方がいいのだがね"
],
[
"その斟酌には及ぶまいて。君の方でゆっくりするようなら、僕の方で事件を急がせるまでだ!",
"事件を急がせるってどうするんだね?",
"君に飛びかかるということさ! 君を撲るという事さ!",
"なるほど、君は勇敢だね"
],
[
"こいつが使命だって云うんだな。つまり人殺しの使命だな。そんな事だろうと思っていた",
"殺人の使命と云うよりも、決闘の使命と云った方が、紳士らしくてよさそうだね"
],
[
"僕は使命に従って、君と決闘せにゃならぬ",
"君は使命に従って、それじゃ僕を殺したまえ。そうして君の親玉に、決闘して殺したと云いたまえ。僕はこうして坐っているから、その短刀で斬るがいい。理由の知れない決闘は、僕は断じてやらないからね"
],
[
"……私あなたを知っています。張教仁さんね。そうでしょう……かすかに覚えておりますわ。沙漠であなたと逢ったことも! そして、そうそう、金雀子街で不意にあなたと別れたことも――遠い遠い昔のことよ! 五年も十年も二十年も――そして私はその頃は、あなたを愛しておりましたわ! そして、あなたも、私をね……でももう駄目よ! そうでしょう! 私は他人の物ですもの。ですから二人は諦めて赤の他人になりましょうね……泣いては厭よ、ねえあなたや……それよりも阿片でも飲みましょうよ。阿片を飲んで、飲んで、飲んで、涙を忘れましょうね",
"紅玉! 紅玉! ああ紅玉! お前は阿片に酔っているよ! お前の本心は麻痺している! それとも本当に無垢のお前を、穢した人間があるというなら、そいつを私に明かしておくれ! そうだ、そいつを明かしておくれ!"
],
[
"あなたはその人を知っている筈よ。少くもあなたはその人の銅像を知っている筈よ",
"銅像だって⁉ どんな銅像?",
"廊下に立っていたでしょう",
"あれは袁世凱の銅像だ!",
"昔はそういう名でしたわね",
"袁世凱は、とうの昔、この世から死んでしまった筈だ!",
"世人はそう云っていますけれど、ほんとは生きているのですよ",
"夢だ夢だ! くだらない、夢だ!",
"いいえそんな事はありません! いいえそんな事はありませんわ!"
],
[
"……ほほう、そんなに美人かね。ところで君はその美人をモデルにしたいとでも云うのかね。モデルにするのもいいけれど、これまでの君の態度を見れば、どんなに良いモデルがあったところで、『描かざる画家』ダンチョンたる君は、それを描かないんだからつまらないよ。それとも今度からは描くのかね?",
"それはもちろん描きますとも。あんな素晴らしい美人がですね、モデル台の上へ立ってくれたら、自然とブラシだって動きますよ",
"美人美人と云うけれど、君の言葉を聞いていれば、美人は面紗に隠れていて、顔を見せないって云うじゃないか",
"顔は一度も見ませんけれど、美人であるということはその体付きで解ります。飛び離れて優秀たあの体には、飛び離れて美しい容貌が着いていなければ嘘と云うものですよ。美人に相違ありませんな",
"なるほど、君は画家だから、そういうことには詳しいだろう。ところで素晴らしいその美人が君に手紙を手渡したというが、少し変だとは思わないかね?",
"無論変だと思います。つまり変だと思えばこそ、あなたにお話したのですが……",
"君の様子をおかしいと見て僕が質問したればこそ、君はその事を打ち明けたので、そうでなければ、君は黙って、美人の手紙に誘惑されて今夜一人で公園の音楽堂へ行ったに相違ないよ。全く今日の君の様子は、変梃と云わざるを得なかったよ。蛮的の君がお洒落をする。頭髪を香油で撫でつけるやら、ハンカチへ香水をしめすやら、そしてむやみにソワソワして腕時計ばかり気にしている。正気の沙汰じゃなかったね……平素の日ならそれでもいいさ。君も充分知っている通り、埋もれた宝庫を尋ねようと、西域の沙漠を横断して支那の首府まで来て見れば、一行での一番大事な人のマハラヤナ博士が風土病にかかって北京から一歩も出ることが出来ず、それの看病をしているうちに、北京警務庁に頼まれて、袁更生の事件に関係して、むだに日数を費してしまった。それでもようやく博士の病気が曲がりなりにも癒ったので、陸路を上海まで来たところで博士がまたも悪くなった。それもようやく恢復したので、明日はいよいよ南洋を指して出帆という瀬戸際じゃないか。そいつを君にソワ付かれちゃ、誰だって質問かずにゃいられないよ。訊いたからこそ話したのさ。君が進んで自分から、僕に話したんじゃない筈だよ"
],
[
"……何ね、僕は、それ前から――描かざる画家のダンチョン君を、誘惑している貴婦人があると君から明かされないそれ前から、君のみならず僕ら皆んなが、袁更生の一団から狙いをつけられているという事を、ちゃあんと知っていたのだよ。どうして僕が知ったかと云うに、教えてくれた人があったからさ。誰かというに他でもない北京警務庁の連中さ。つまり彼らは僕のために暗号電報を打ってよこして、北京警務庁の依頼によって、袁更生の阿片窟を僕が暴露いたのを怨みに思って僕に怨みを晴らすため袁更生の一味徒党が僕の行先に着きまとい上海に渡ったということを知らしてくれたというものさ。その電報を見た時に僕は直覚的にこう思ったね。いやいや彼らが僕らを追って事実上海へ来ているなら、その目的は僕なんかに危害を加えようというのではなくて、僕らが抱いているある目的――云うまでもなく南洋へ行って埋もれている宝を探そうという、その目的を僕らの手から奪い取ろうということがすなわち彼らの目的であって、僕に向かっての復讐などは眼中にあるまいとこう思ったのさ。何故そう思ったかというにだね、南洋に埋もれている宝について、彼らは僕らとおんなじくらいの知識の所有者だということを、僕が発見したからさ。どこで発見したかというに他ならぬ彼らの阿片窟さ。どうして阿片窟で知ったかというに意外にも阿片窟の女部屋で、沙漠の娘と自称している紅玉という美しい土耳古娘を発見したからに他ならない。どうして紅玉がそんな所に捕虜になっていたかというに袁更生の魔術によって引き寄せられたものと思われるね。一旦魔術にかかったからは、紅玉といえども袁更生の意志のまにまに動かなければならん。で僕は紅玉は問われるままに例の埋もれた宝の所在を袁更生に話したと思う。さてそれが事実だとすればだね、爾余のことは自と解釈出来る。真っ先に彼らは僕らの中の誰かをうまく捕虜にして、宝物の所在をもっと詳しく聴き取りたいとこう思って、君に白羽を立てたのさ。君が、モデルにしようとした面紗の女は囮なのさ",
"それにしても面紗のあの女が紅玉であろうとは思いませんでした",
"僕だって最初は知らなかった……本来なれば紅玉は、阿片窟征伐のあの晩に張教仁に助けられて安全の所にいる筈だが、その後袁更生の魔術の手にまた奪い返されたものと思われるね",
"紅玉ばかりか張教仁まで飛び出して来ようとは思いませんでした"
],
[
"どんな手段を使いました?",
"二隻の支那船を綱で繋いで、その綱を水中に張り渡したまま獲物の掛かるのを待つという、これが彼らの手段だったのさ。はたして汽船が引っかかったね。汽船は綱を引っかけたままずんずん先へ進んで行く。汽船が進むに従って二隻の支那船は近寄って来る。とうとう汽船の横腹へ二隻の支那船がピッタリと左右から寄って来てくっついたものさ。一旦くっついた支那船は綱に引かれて容易のことでは汽船の腹から離れようとしない。そこで縄梯子を引っかける。それを伝たわって甲板の上へ螽斯のように躍り込む。拳銃を五、六発ぶっ放す。これで仕事は終えたのさ。どうやら僕の見たところでは、敵の大将袁更生殿は、僕の立っていた反対の側の支那船の中にいたらしかった"
],
[
"どうも私には解りません",
"どうやら僕の袁更生観は最初とは多少変ったらしい。最初は僕はあの男を催眠術師と思っていた。しかしそいつは違っていた。彼は道教の方士らしい。方士は自分の身代りに悪獣を使うということだ。その悪獣に法術を加えて獣の本性を失わせ、反対に自分の意志を注いで自己化した獣にするということだ。そうして自己化したその獣を馽馽※(くさかんむり/(歹+昜))なのさ。だから猩々は袁更生に代わって袁更生の役目を務めたのさ。紅玉を操つっていたのさ"
],
[
"唄を聞きたまえ! 土人乙女の唄を!",
"さっきから聞いてはおりますがね……"
],
[
"樹から人間は作れないよ",
"石からも人間はつくれないよ",
"水と土とで作ろうか",
"おおきにそいつはいいだろう"
],
[
"おお、君はレザール君か!",
"博士ご無事で結構でした",
"君は濠州の方にいる筈だが?",
"さよう、濠州の方にもおりました。ただし只今申し上げたようなああいう事情がありましたので少し前からこのボルネオのサンダカン市に来ていました"
],
[
"絶対の秘密を保つため今まで申し上げないでおりました",
"それじゃ僕らが海賊に襲われてこのボルネオへ避難したのはあまり損でもなかったのだね",
"天の祐けというものでしょう"
],
[
"飾り玉を百個くれるなら敵の土人と和睦して、火事を消し止めてお目にかけるとこの酋長が云っているのです",
"飾り玉で和睦が出来るなら二百でも三百でもくれてやりましょう"
],
[
"これは最近の発見だが、博言博士のマハラヤナ老がダイヤル土人の捕虜の口からこういうことを聞いたそうだ――それは湖底のその宝庫を有尾人という原始人が守っているという事だがね。それが獰猛の人種でね、さすが兇暴のダイヤル族も有尾人にだけは恐れていて接近することを忌むそうだ",
"有尾人なら僕は見たよ"
],
[
"そっちへはもう火が廻っている!",
"黙って従いて来い! 黙って従いて来い!"
],
[
"岩です、岩です、この大磐石です! この中へ水は落ち込みました",
"それでは君は岩を砕いて水の在所を示すがよい",
"ご覧の通りダイナマイトを掛けても大磐石は砕けようともしない。この大岩さえ砕けましたら水の在所はすぐに知れます",
"いやいや、岩の砕けないのがすなわち神の御心なのじゃ!"
],
[
"あなたはどなたでございます?",
"わしは岩窟の老人じゃ",
"動物学者のご老人?",
"そうだ。そうして人猿国の国王と云ってもよいだろう"
],
[
"ここはいったいどこなのです?",
"ここは水底の地下室じゃ!",
"宝物庫でございますな?",
"いかにもさようじゃ。羅布人のな",
"え、羅布人でございますって!",
"回鶻人と云ってもよい",
"回鶻人でございますって? ――それでは私はようやくのことで目的をとげたというものだ! 羅布人の宝庫! 羅布人の宝庫!",
"しかしお前が発見けるより先に私がいち早く見付けていた。危険の多い湖底から沙漠の地下室へ人猿と一緒に宝を移したのもこのわしじゃ",
"それでは渦巻を起こしたのも湖水の水を涸らしたのも皆あなたでございますか?"
],
[
"それにしてもあなたはこの宝庫を何故世の中へ発表して用に立てないのでございます?",
"ただわしがそれを欲しないからだ。地下には四十の部屋があってあらゆる宝石貴金属が一杯そこに詰まっている。何億あるか何十億あるか、現代の貨幣に換算したらそれこそ大陸の二つや三つは優に買うことが出来るだろう……"
]
] | 底本:「沙漠の古都」国枝史郎伝奇文庫26、講談社
1976(昭和51)年7月12日第1刷発行
初出:「新趣味」博文館
1923(大正12)年3月~10月
※「探検」と「探険」の混在は底本の通りです。
※「烏魯木斎《ウルマチ》」「庫魯克格《クルツクタツク》」は、それぞれ「烏魯木斉《ウルマチ》」「庫魯克塔格《クルクタク》」が正しい形であると思われますが、底本の通りとしました。
入力:阿和泉拓
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年12月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045269",
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"作品名読み": "さばくのこと",
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"初出": "「新趣味」博文館 、1923(大正12)年3月~10月",
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[
[
"ほんとに君はそう思っているのか?",
"こう思うより思いようがないよ"
],
[
"ほんとに君はそう思っているのか?",
"こう思うより思いようがないよ",
"左様なら"
],
[
"君は王昭君をどう思うね?",
"まあK君これを見てくれたまえ"
],
[
"いずれは君も詩を書くんだろう?",
"うむ、まあ、そりゃァそうだがね",
"で、長いかね短いかね?",
"そうだなァ鳥渡長い",
"君、まことに済まないが、要点ばかりを書いてくれたまえな",
"要点? こうと、では書こう"
],
[
"君、なるだけ短い所をね",
"え?"
],
[
"なんだね、一体、短い所をというのは?",
"いずれは君も詩を書くんだろう?",
"これは驚いた、よく知ってるね",
"君を入れてこれで四人になるの。詩には、さっきから退屈しているのだ。……が、どうしても書くというのなら要点ばかりをお願いしよう",
"要点? こうと、では書こう"
],
[
"……という所が要点なのだが",
"左様なら"
],
[
"画家の毛延寿を利用したのよ。沢山お金をやりましてね",
"という意味はどういう意味なのです",
"わざと醜婦に描かせたのよ",
"あああなたの絵姿をね",
"ええそうよ、わたしの絵姿をね",
"なぜそんなことをしたのです",
"呼韓邪単于を恋したからよ",
"それがどうしたというのでしょう?",
"一番醜い後宮の女を、呼韓邪単于の妾にやるのだと、そういう噂が立ったからよ",
"成程、それで、醜婦に描かせて、後宮を出ようとしたのですね",
"ええそうして呼韓邪単于と一緒に、砂漠へ行こうと思ったのですよ",
"単于は男らしい男ですからね",
"そうして何んて壮麗なのでしょう。この沙漠と沙漠の住民とは",
"兎に角漢の後宮とは、似ても似つかない有様ですね",
"無気力な淫蕩、狡猾な小細工、権勢の奪い合い、寵愛の取り合い、腐った空気、弱々しい人工美、……それが後宮の一切よ",
"活気ある性殖、力と力との戦い、雄大な自然美、すがすがしい空気……これが沙漠の一切ですね"
],
[
"ねえKさん、どうしたものでしょう?",
"次ぎの単于へお嫁しなさいよ",
"矢張りそれが普通でしょうね",
"あなたはあなたの青春の喜びを寡婦という厭な名の下に、犠牲にする必要はありませんよ",
"ええ、そうですとも、そうですとも",
"更に新鮮な性殖が、きっとあなたを充たせましょうよ",
"ええ、そうですとも、そうですとも"
],
[
"素敵よ、そりゃァ素敵ですよ",
"今の単于の方が若いからね",
"腕の力が強いのよ",
"いやそれはお芽出度い"
],
[
"日本の大衆作家ではね、匈奴の美しい娘さんには、愛されそうもありませんよ。それに私の肉体は、随分いたんでおりますのでね。都会文明の阿片の毒が、骨にまで滲み込んでいるのです。逞い腕なんかで捲かれようものなら、ハッ、ハッ、ハッ、窒息をします",
"可哀そうね、可哀そうな人ね",
"それに少し倦きましたよ",
"何が?"
],
[
"匈奴の国の生活にですよ",
"あなたは少し倦きっぽいのね",
"いや寧ろそれはこういった方がいいので。生活力が弱いのだとね。――或点までは適させて行くが、度を越すと反動的に隠遁的になります",
"それでは出世しませんよ",
"中位には出世もします",
"敢為の気象をお出しなさいよ",
"何等かの感激でも来ましたらね",
"何う? 接吻は? 私の接吻は?"
]
] | 底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「サンデー毎日」
1928(昭和3)年4月22日
初出:「サンデー毎日」
1928(昭和3)年4月22日
入力:門田裕志
校正:阿和泉拓
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "047422",
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[
[
"あなたも日本の方でしょうな",
"そうです"
],
[
"上海に長くお住居ですか",
"ええ、相当永く居ります",
"何か研究でもなされているので?",
"研究? それは昔のことです"
],
[
"内地の大学に居りました頃にはね、私も何かしら研究したものです。……流行の社会科学なども。……が、今じゃあメチャクチャです",
"よろしかったら私の宿へ来て、いかがです茶でも召しあがったら"
],
[
"この上海にいるのですか?",
"そうです、上海にいるのです。……どんなに私がそのお嬢さんを――お嬢さんの名は初枝と云います。ええ然うです、柵初枝と。どんなに私はその初枝さんを、愛して愛して愛していることか! 云う必要も無い程です。……ところが私はそのお嬢さんを、どうしても殺さなければならないような……",
"おい待ちたまえ、何を云うのだ",
"いえ私はどうあろうとも、そのお嬢さんの命を取る! どうしても取らなければならないような、そんな境遇になっているのです",
"…………",
"私は大変悲しいのです",
"…………",
"一体、どうしたら可いでしょう",
"…………",
"お父さん! 先生! 教えて下さい!",
"…………"
],
[
"そんなつまらないこと止めたまえ!",
"絶対に止めることは出来ないのです",
"そんな馬鹿なことあるものか! 恋人の命を取るなんて!",
"絶対にそれが出来ないのです",
"何故だろう。云って見たまえ",
"命令されているのですから",
"命令? 誰に? 云って見たまえ!",
"或る恐ろしい権力者から!",
"誰だ? 其奴は? その悪党は?",
"それは一言も云われません",
"云えば云えるさ、云って見たまえ!",
"云ったら私の方が殺されます。……この支那の国に居る限りは",
"…………"
],
[
"じゃァ青幇か紅幇か、白幇か黒幇の連中だな",
"…………",
"おい、そうだろう、云ったがいい",
"…………"
],
[
"敵は、先生、青幇なのです",
"そうだろうそうだと思ったよ"
],
[
"私、貴郎にお願いいたします。娘の家へ行って下さい。初枝さんの家へ。私の恋人の家へ",
"場合によっては行ってもいいが、僕が行ってどうするんだね",
"私と初枝さんとを助けて下さい。お願いでございます。お願いでございます",
"だが、果たして、僕のような者に",
"先生、貴郎には何んでも出来ます。私には解っているのです!"
],
[
"行こう、君の愛人の家へ、そうして何とかしてあげよう",
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],
[
"お嬢様おいででございましょうか",
"はい、おいででございますが。……",
"細川繁君の友人なのですが、細川君のことに就きまして、ちょっとお嬢様にお眼にかかりたいので……松城昌三という者です",
"ちょっとお待ちを"
],
[
"お体のお加減がお悪いのでしょうね",
"はい。……いいえ。……でも矢っ張り",
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"…………",
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"併しお嬢さんご自身には、それがお解りになりますまい。却ってお嬢様は眼を覚ました時に――朝、床から起きられた時に、体の悪さをお感じなさるでしょう",
"はい、そうなのでございますの。……特にこの頃はそうなんですの。……でも、大変失礼ですけれど、どうして貴郎にはそんなことを。……あの、お医者様でいらっしゃいまして"
],
[
"或る場合には医者にもなります。……或る場合には心理学者にも……",
"でも繁さんのお友達には……",
"いや、私と細川君とは、つい最近の交際なので、おそらくお嬢様には私の噂を、これ迄一度も細川君の口から、お聞きになったことはありますまいよ",
"…………",
"それは然うと貴女のお父様が、行衛不明になられたのは、恰度今から五年先の、八月二十日のことでしたな",
"まあ、どうしてそんな事まで……",
"総領のお姉様が変死なされたのは、恰度今から二年前の八月二十日のことでしたな",
"どうしてご存知なのでございましょう。……そうして貴郎はどういう方です?",
"二番目のお姉様が変死なされたのは、恰度今から一年前の、八月二十日のことでしたな",
"云って下さい、貴郎って人、どういうお方なのでいますか!",
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"お母様! お母様! 早く来て下さい!",
"お嬢さん、騒いじゃァ不可ません。何んでも無いことじゃァありませんか。貴女のお屋敷に門礼がある。柵鉄也と書いてある。多少上海の事情通なら、柵家に起こった今云ったような事件は、誰でも知っている筈です。で、私も知っているだけです。……そうして現在お嬢様が、殺されかかっているというそのことは、たった今貴女の愛人にあたる、細川君から聞いたので、これだって間違いありません"
],
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"細川君の友人でございまして、松城昌三と申す者です。今後は何卒お心安く……",
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],
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"はい、そうなのでございます。……それで妾はまあ何んなに、この日頃心配して居りますことか! ……どうしたらよいのでございましょう⁉",
"いや、ご心配なさいますな、大概私にお嬢様のお命を、取り止めることが出来そうですから",
"そうして戴けましたらまァ妾は、どんなに嬉しゅうございましょう。……でも、本当に、貴郎のお力で?",
"まず大概は大丈夫でしょう。……そこで一二お訊ねいたしますが、浦路さんと潮子さんとが変死なさいました時、ああいう変死をなされる直前に、何か変わった出来事が――つまり二人のお嬢さんのご様子に、変わったところはございませんでしたか?",
"さあ"
],
[
"そういえば娘達は変死の前ごろから、夢でも見ているような茫然とした様子を……",
"で、如何です初枝さんも、そうです初枝さんの昨今も、そうなっては居りませんかな?",
"はい、そうなのでございます。矢張り同じように、そんな様子に……ですから妾は気が気でなく……",
"お二人ながら同じ黄浦河で、同じように溺死なされたという、この点に就いて何かお考えが……",
"それもその当時から変なことだと、妾は思って居りましたが……",
"お二人ながら何者かに誘惑されて、黄浦河の方へ出て行かれ、何かの事情で河へ投ぜられたと、こんなようにお思いになりませんかな?",
"誘惑されてと申しますと?",
"誘惑には二通あるようですな。……意識的の誘惑と無意識の誘惑と",
"…………",
"で、二人のお嬢さんの場合は、後者にあたると思われるのです",
"無意識的の誘惑だと、こう仰有るのでございますね"
],
[
"そうです、無意識誘惑なのです。云い換えると不可抗的誘惑なのです。……ところで現在初枝さんが、それにかかっているのです",
"まあ"
],
[
"どうしたらよろしゅうございましょう。……それに無意識、不可抗的って、どんな誘惑なのでございましょう?",
"精神科学、心理学、そんなものに属しているものです。が、私にはその誘惑も、大概破壊することが出来そうですから、ご心配せずにお任かせ下さい",
"どうぞお願いいたします",
"召使も大勢でございましょうね。お屋敷が大分手広いようですから",
"はい、女中が三人に、支那ボーイが一人、爺やが一人、五人の召使を使って居ります"
],
[
"何か事件が起こりましたか?",
"初枝が変なものを受け取りましたので",
"何んですか、変なものとは?",
"手紙なのでございますよ",
"手紙? ははあ、誰からの手紙?",
"差し出し人が解らないのです",
"…………",
"花売娘が持って来たのです",
"花売娘、こいつは詩的だ",
"まあ、そんなご冗談を。……今朝初枝が寝巻のままで、裏庭を歩いて居りますと、可愛らしい花売の娘が来て、花を買ってくれと云ったのだそうです。それで初枝が買いましたところ、花束の中に有りましたそうで。手紙があったのでございます"
],
[
"どんなことが書いてありましたかな?",
"申し上げにくいのでございますが……",
"私に関することですかな?",
"はい、そうなのでございます",
"では、私には見当がつきます。私という人間を近づけるな、近づけると恐ろしい目に逢うぞと、こんなことが書いてあったのでしょう",
"よくご存知でございますのね。そのとおりなのでございます",
"そこで夫人にお訊ねしますが、いかがです私を追っ払いますか",
"飛んでもない、そんなことを……",
"では結構、それでよろしい",
"でも、妾は恐ろしくて……",
"恐ろしいのは当日だけです",
"…………",
"八月二十日だけが恐ろしいのです",
"…………",
"いずれお訪ねしてお話ししましょう"
],
[
"云えないことはあるまい、云って見たまえ!",
"城内です、城内の……",
"それだけでよろしい、城内だけでよろしい。……で、会長は何んていう奴かね",
"知りません、知らないのです!"
],
[
"汝の兄弟",
"何のために来たれる?",
"公所(本部のこと)の会合に列せんがために来たる",
"剣と頸といずれか堅き?",
"頸堅し",
"幾人か汝と共に来たれる?",
"一人",
"汝、何を以ってか一人来たれる?",
"秘密を保たんがために"
],
[
"紳士、兎に角参りましょうよ。屹度ご失望はなさいますまい",
"成程、そうかも知れないね。……が、一体どの辺なのかね",
"たいして遠くはありません",
"君の家かね? ホテルかね?",
"いいえ、どっちでもありませんわ",
"ははあ、そうすると石畳の上か",
"まあ、そんな、そんな下等な。……よい氈が敷いてございます",
"よい氈が、そりゃア素的だ。……ベッドのスプリングも利いているだろうね",
"ホ、ホ、ホ、その通りですわ。……そうして可い音楽も……",
"よい音楽も聞かせてくれるって。そいつは豪勢な話じゃアないか。……ところで代価は? いくらなんだ?",
"ね、行ってからにしましょうよ。ね、そういうご相談は",
"いけないね、そいつはよくない、すべて取引は率直の方がいい。……で、率直にうかがうが、君の体を自由にするには、いくら程の資本が入用なのだい?",
"駄目よ、あなた、そんな無作法なこと。……ご案内すればいいんですわ。……だからご一緒に参りましょうよ。……上等のバス、上等のお酒、……妾一人だけじゃアありませんのよ。他にも女の人居るんですわ。……ですからお好み次第ですわ。……よい絵画、よい盆栽、よいシガー、よい光線……一切が備えてありますのよ"
],
[
"お気に入りまして、え、貴郎?",
"気に入りました、よい所ですね",
"お食事は如何? 何か召しあがっては?",
"ではご案内願いましょうか",
"いらっしゃいまし、こちらなのよ"
],
[
"妾の処へいらっしゃいましな",
"うん"
],
[
"ひとつ款待にあずかろうかね",
"妾で勿論いいんでしょうね",
"いいとも、結構、君が好きだもの",
"でも他にも美しい人が、随分いると思わなくって",
"居りますね、ふんだんにいる",
"どの人だろうと大丈夫なのよ。……でも約束の出来ている人はねえ",
"いや君で充分だよ"
],
[
"しかしもう少し見て廻り度いから",
"ではその後でいらっしゃいな。……妾の所、知っていらっしゃるわね",
"後で行こう。知っているとも"
],
[
"どうぞお助け下さいまし! 此処から出して下さいまし!",
"…………"
],
[
"何んでございますの、大丈夫かとは?",
"貞操のことです、貴女の貞操……",
"守ります! 屹度、守って見せます!",
"何時貴女ここへいらっしゃった?",
"はい、今から三日前に",
"三日前に、それはあぶない、彼等は彼等の掟として、三日以上は待ちませんよ",
"でも妾、きっと頑強に……",
"いや夫れよりこうなさいまし"
],
[
"私の恋人におなりなさい",
"…………",
"私に今夜買われなさい",
"不可ません! 貴郎も、まあそんなこと!",
"いや誤解しては不可ません。只それは形式なのです。つまり然ういうことにして、貴方の貞操を守ってあげましょう"
],
[
"ラウンジダンスがはじまっているよ",
"そうね、行って踊りましょうよ"
],
[
"ね、今夜は飲み明かしましょうよ",
"うん、よかろう、シャンパンでも抜こう"
],
[
"君は何時頃から此処にいるのだね?",
"そりゃア随分以前からだわ",
"以前からって、何時頃からだい",
"そうですねえ、三年も前から",
"三年も前から。こいつは古いなあ。……それでは一つ聞きたいことがあるが、去年の八月二十日という日に、一人の日本のお嬢さんが、此処へ入り込んでは来なかったかね?",
"去年の八月二十日ですって? 随分昔のことなのね、何うだったかしら、……でも何んなお嬢さんですの?",
"美しい上品な上流の家庭の、典型的のお嬢さんなのだ。柵潮子さんという人だ",
"あ、その人なら知っていますわ",
"ほー、知っているか、それは有難い",
"変った事件がありましたのでね、それで妾おぼえているんですわ"
]
] | 底本:「国枝史郎探偵小説全集 全一巻」作品社
2005(平成17)年9月15日第1刷発行
底本の親本:「探偵」
1931(昭和6)年7月~11月
初出:「探偵」
1931(昭和6)年7月~11月
入力:門田裕志
校正:北川松生
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "047423",
"作品名": "さまよう町のさまよう家のさまよう人々",
"作品名読み": "さまようまちのさまよういえのさまようひとびと",
"ソート用読み": "さまようまちのさまよういえのさまようひとひと",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「探偵」1931(昭和6)年7月~11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-06-15T00:00:00",
"最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000255/card47423.html",
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"没年月日": "1943-04-08",
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