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[ [ "そんなら、あの羊羮一きれおくなはれ。そいたらうまいこと言ひまツせ。", "よし、やらう。言うてみい。", "庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹……" ], [ "和尚さん、返しとくなはれ。", "何を。", "羊羮を。" ], [ "あれや何んぢやい、あんなもん連れて行ツとる。", "あんな小ツぺいにお女郎買ひが出けるやろか。" ], [ "はい。……", "…………", "何んです。……何んとか言うとくなはれ。" ] ]
底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年11月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第4刷発行 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051226", "作品名": "石川五右衛門の生立", "作品名読み": "いしかわごえもんのおいたち", "ソート用読み": "いしかわこえもんのおいたち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-07-05T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card51226.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鱧の皮", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年11月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51226_ruby_42835.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51226_43443.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "見合ひをなすツたんでございますか。", "いゝえ、そんなことはしません。" ], [ "それはさうでせう、あなたの女房ぢやない、天南さんの女房でせう。人間は品物ぢやないから、さう勝手に行きませんよ。", "勝手ぢや? ……怪しからん、親が子の嫁をきめてやるのが、何んで勝手ぢや。", "あなたは家の中に電燈を點けても、頭の中に行燈をとぼしてるからいけない。何百年も昔しの人だつて、さういふ場合には、一應本人の了簡を訊いてからと挨拶して、親の一存で子の縁談は決めなかつたものでせう。況して今時そんな亂暴な。" ] ]
底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年11月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第4刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051227", "作品名": "ごりがん", "作品名読み": "ごりがん", "ソート用読み": "こりかん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-06-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card51227.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鱧の皮", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年11月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51227_ruby_42740.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51227_42908.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "太政官て何のことやいな、一體。", "知らんのかいな、阿呆。……教へたろか、新田の茶瓶のこつちや。", "そら知つてるがな、言はんかて。……其の太政官て何のことやね。", "太政官ちうたら、太政官やがな。お上の役人のこつちや。" ], [ "重衡ちう奴も、悠長な奴や。何時殺されるか知らんのに、散財してよる。……酒もげんさい(美人の事)も向ふ持ちで、腹の痛まん散財や。", "鼓なんぞぽん〳〵やりやがつて、工藤左衞門て、幇間やないか。……幇間一人殺さうおもて、曾我兄弟は長いこと一生懸命になりよつたんやなア、阿呆らしい。" ], [ "……頼朝が更に名姫、……………名高い白拍子、……藝妓やなア、其の名妓の伊王といふ女を重衡のところへやつて、千手と伊王と二人で、更直した、……交る〴〵お伽をした。……", "ひよー、耐まらんな。" ], [ "わたし。………", "わたしちう名はおまへん。", "ほゝゝゝゝ。………", "ほゝゝゝゝ、ちう名もおまへん。", "先生嫌ひ、わたしだすがな。……お夜食持つて來ましたんや。……仙さん。……" ], [ "あれ見いや、金の垣の頭に字が附いてるやらう。あんなえゝ垣、町の縣廳にもあらへん。", "どえらいもんや。これから町へいても、俺アえらさうに言ふたるんや。" ], [ "あかんなア、脆いもんや。", "矢ツ張り天滿宮や光遍寺の方が、古うても丈夫や。" ], [ "太政官みたいに、いろはのいの字も知らんほどで、我れが名前も書けんかて、村で一といふて二のない羽利きになつたやないか。……錢儲けは上手やし。……あの寺田の息子見い、大學校の一年生までいたいふけど、薩張り阿呆で人が相手にせんやないか。", "さう言や、さうだすけど。", "さう言はいでも、さうや。" ], [ "野口さん、役場もわやだすな。", "こんなぼろくそ學校潰して了へ。", "役場の輕業。……", "役場が上から墮ちて、下の學校へ夜這ひに行きよつたんや。" ], [ "俺んとこのちいとあつた田もあの青六に取られ、家屋敷も青六のもんになつてゐるが、村中で青六にやられて、田地持ちから小前に落ちたもんが何人あると思ふ。", "あいつの金借つたが最後屁や。……蟒に捲かれたやうなもんで、もうあかん。田から畑から家屋敷道具まで吸ひ込まれて了ふんやさかいな。", "百兩の代もんを、十兩か高々二十兩でせしめるんやさかいなア、證文に物言はして。……あの手にかけたら、あいつ上手なもんや。" ], [ "おい兵太、太政官の生靈が取り憑くぞ。", "なんまんだぶつ、なんまんだぶつ。" ], [ "お前は阿呆やけど、東京へいてたさかい江戸ツ兒(東京辯の事)がえらう上手やな、譽めたる。", "お前のお母ん間男してなア、お父つあんに足切られて、跛足になつたん知つてるか。" ] ]
底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年11月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第4刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051228", "作品名": "太政官", "作品名読み": "だじょうかん", "ソート用読み": "たしようかん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-07-05T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card51228.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鱧の皮", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年11月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51228_ruby_42834.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51228_43444.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "大變に頂戴しました。……結構ですな、御子息は、お幾つだすか。", "十二になります、柄ばつかりで薩張りあきまへん。……死んだ母親は醫者にしたがつてましたが、本人は軍人になるいうてますよつて、軍人にしようおもてます。……親の跡を襲いでこんなとこで神主してても仕樣がおまへん。" ] ]
底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年11月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第4刷発行 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051229", "作品名": "父の婚礼", "作品名読み": "ちちのこんれい", "ソート用読み": "ちちのこんれい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-06-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card51229.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鱧の皮", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年11月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51229_ruby_42739.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51229_42909.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "まツさら嫌ひでもあるまい。頭が禿げてても、旦那は親切やろ。", "うだ〳〵いうとくなはんな。あんたとこのお時はんに恨まれまんがな。" ], [ "明日何時頃に行きなはる。お駒に竹を送らしておこしますわい。", "八時頃から行きまへうかい。わたへが行きにお家へ寄つて、竹さんを連れて行きますさかい、竹さんに支度さして待つてて貰とくなはれ。" ], [ "ずツと前に診てもろた醫者が、リョーマチやいうて、其の藥ばかり呉れてたんが惡おましたんや。子宮だしたんやもんなア、此處の院長さんが診やはつて、餘ツぽどわるなつたるいうて、喫驚してゐやはつた。", "前に診てもろた醫者て、片岡だツしやろ。片岡なら確かだす。日本人の身體には矢ツ張り漢法醫がよいので、西洋醫者はあきまへんわい。" ], [ "定はんはもう五斗俵が持てるのん。", "やいや、まだ持てん。膝まで來るが腰が切れん。あかん。" ], [ "何家やろ。", "誰れが死んだんやろ。" ], [ "俺んとこは今親類に病人もなかつたんぢや。心配することはない。", "けんど、急病頓ころちふこともあるさかいなア。きんのまでピチ〳〵してて、ケンビキが肩越して死ぬ人もあるやないか。" ], [ "わたへが行きます。", "いゝえ、わたへが。" ], [ "奧さん死なはつたのん。", "まだ生きてやはるんやらう。……狂氣にならはつたんらしい。" ], [ "負けるもんか、長いこと病み呆けた人に。……出て來たらギユウと押へ付けてあげる。健康な時でもわたへの方が強い。", "どうや知らん。" ], [ "わたへらのまだ生れん前に、村で狂言(素人芝居の事)があつた時、あんたは近江源氏の花賣佐々木を演なはつたさうだすな。……今ならわたへが盛綱を演て、あんたに時政を演て貰ひますなア。", "そんな臆病な盛綱では、和田兵衞の鐵砲の音で眼を廻すやろ。" ], [ "起してえ。", "寢さしてえ。" ] ]
底本:「現代日本文學全集 53 齋藤緑雨 内田魯庵 木下尚江 上司小劍集」筑摩書房    1969(昭和32)年10月8日初版第1刷発行 初出:「中央公論」    1914(大正3)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:いとうたかし 校正:小林繁雄 2012年5月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "053539", "作品名": "天満宮", "作品名読み": "てんまんぐう", "ソート用読み": "てんまんくう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」1914(大正3)年9月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-07-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card53539.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本文學全集 53 齋藤緑雨 内田魯庵 木下尚江 上司小劍集", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1957(昭和32)年10月8日", "入力に使用した版1": "1969(昭和32)年10月8日", "校正に使用した版1": "1969(昭和32)年10月8日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "いとうたかし", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/53539_ruby_47858.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-05-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/53539_47967.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-05-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お前、先きい読んだらえゝやないか。……お前とこへ来たんやもん。", "私、何や知らん、怖いやうな気がするよつて。", "阿呆らしい、何言うてるのや。" ], [ "まア一寸でよいさかい、其の手紙を読んどくなはれ。それを読まさんことにや話が出来まへん。", "福造の手紙なら読まんかて大概分つたるがな……眼がわるいのに、こんな灯で字が読めやへん。何んならをツさん、読んで聞かしとくれ。" ], [ "御寮人さん、お出でやす。", "御寮人はん、お久しおますな。" ] ]
底本:「現代日本文學大系 21 岩野泡鳴 上司小劍 眞山青果 近松秋江集」筑摩書房    1970(昭和45)年10月5日初版第1刷発行    1975(昭和50)年3月5日第5刷発行 初出:「ホトトギス」    1914(大正3)年1月 入力:鈴木厚司 校正:林 幸雄 2001年3月2日公開 2011年6月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001334", "作品名": "鱧の皮", "作品名読み": "はものかわ", "ソート用読み": "はものかわ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「ホトトギス」1914(大正3)年1月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-03-02T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card1334.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本文學体系21 岩野泡鳴・上司小劍・眞山青果・近松秋江集", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1970(昭和45)年10月5日", "入力に使用した版1": "1975(昭和50)年3月5日第5刷", "校正に使用した版1": "1985(昭和60)年11月10日第14刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "鈴木厚司", "校正者": "林幸雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/1334_ruby_20717.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-06-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/1334_20718.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-06-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "お前、先きい讀んだらえゝやないか。……お前とこへ來たんやもん。", "私、何や知らん、怖いやうな氣がするよつて。", "阿呆らしい、何言うてるのや。" ], [ "まア一寸でよいさかひ、其の手紙を讀んどくなはれ。それを讀まさんことにや話が出來まへん。", "福造の手紙なら讀まんかて大概分つたるがな……眼がわるいのに、こんな灯で字が讀めやへん。何んならをツさん、讀んで聞かしとくれ。" ], [ "御寮人さん、お出でやす。", "御寮人はん、お久しおますな。" ] ]
底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年11月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第4刷発行 初出:「ホトトギス」    1914(大正3)年1月 ※表題は底本では、「鱧《はも》の皮」とルビがついています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月7日作成 2011年6月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051230", "作品名": "鱧の皮", "作品名読み": "はものかわ", "ソート用読み": "はものかわ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「ホトトギス」1914(大正3)年1月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-06-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card51230.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鱧の皮", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年11月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51230_ruby_42741.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-06-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51230_42910.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-06-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "違ひない、碌なことやおまへんで。……今夜あんたんとこへ、もう三人兵隊さんを泊めて貰ふんだすて。", "うだ〳〵言ひなはるな、猪のはん。女護の島へ十人も荒くれ男を泊めるんで、今朝から二人がテンテコ舞をしてるやおまへんか。お母あはんは居やはれへんし。……", "そら分つてまんがな。けど總代さんも弱つてはりまんのや、今日の今になつて手違ひが出けたんで、役場へ打ち合はせに行く閑もあれへん。仕樣がないさかい、大黒屋へいてお光つあんに押し付けて來いて言やはりますのや。", "押し付けられて耐りまツかいな。……何んぼ人を泊めるのが商賣やかて、一人前二十錢やそこらでお辨まで拵へて、………大黒屋は商賣やさかいよいわで、毎も家へばツかりドツサリ割り付けやはるんだすやろけど、商賣やさかい餘計難儀だすがな。……他のお客さんは斷わらんならんし、たとへ一晩でも商賣の方は上つたりだす。" ], [ "お光つあんの子、あら養子の子かいな、いきり玉かいな。", "あの子だけは、養子の子に相違これなく候や。……眼元なら口元なら、似たとは愚か、チンツンシヤン、瓜二つ……やないか。" ], [ "何んだツしやろ、何處に居ますのや。……", "惚けてるんかいな。お前んとこへ泊るんや。……かどに書いて貼つたるやないか。" ], [ "わるさやなア、彼奴は。……", "可笑しいおもたんや。八時過ぎといふ通知やのに、まだ七時にならんもんなア。……畫工、彼奴は喇叭が上手やよつて、欺されたんも無理はないわい。" ] ]
底本:「鱧の皮 他五篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年11月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第4刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051231", "作品名": "兵隊の宿", "作品名読み": "へいたいのやど", "ソート用読み": "へいたいのやと", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-06-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/card51231.html", "人物ID": "000248", "姓": "上司", "名": "小剣", "姓読み": "かみつかさ", "名読み": "しょうけん", "姓読みソート用": "かみつかさ", "名読みソート用": "しようけん", "姓ローマ字": "Kamitsukasa", "名ローマ字": "Shoken", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1874-12-15", "没年月日": "1947-09-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "鱧の皮", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年11月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51231_ruby_42742.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000248/files/51231_42911.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "K君、君を澁谷まで送つて行くべえ、二十圓ほど飮まうや……。玉川にしようか", "また、そんなことを言ふ、Kさんだつて、お歸んなすつて奧さんにお見せなさらなければなりませんよ。いつも人さまの懷中を狙ふ、惡い癖だ!" ], [ "何んだ、八十圓はちと多過ぎらあ、二十圓パ飮んだかつていゝとも、さあ、着物を出せ", "お父さん、そんな酷いことどの口で言へますか。Kさんだつて、七十日間の電車賃、お小遣、そりや少々ぢやありませんよ。玉川へでも行つたら八十圓は全部お父さん飮んじまひますよ。そんなことをされてKさんどう奧さんに申譯がありますか!" ], [ "いや〳〵、のちほど、どつさり荷物自動車でお屆けいたしますから", "さうですか。たんもり持つて來て下さい。ハヽヽヽハ" ], [ "君、しつかり……", "先生から……" ] ]
底本:「日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集」新潮社    1962(昭和37)年4月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:伊藤時也 校正:小林繁雄 2001年2月21日公開 2005年12月4日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001337", "作品名": "足相撲", "作品名読み": "あしずもう", "ソート用読み": "あしすもう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-02-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1337.html", "人物ID": "000249", "姓": "嘉村", "名": "礒多", "姓読み": "かむら", "名読み": "いそた", "姓読みソート用": "かむら", "名読みソート用": "いそた", "姓ローマ字": "Kamura", "名ローマ字": "Isota", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-15", "没年月日": "1933-11-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集", "底本出版社名1": "新潮社", "底本初版発行年1": "1962(昭和37)年4月20日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "伊藤時也", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/1337_ruby_20684.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/1337_20685.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "夢をごらんなすつたのね", "あゝ、怕ろしい夢を見た……" ], [ "乳はもう飮ますな、お前が痩せるのが眼に立つて見える", "下がをらんと如何しても飮まないではきゝません", "莫迦言へ、飮ますから飮むのだ。唐辛しでも乳房へなすりつけて置いてやれ", "敏ちやん、もうお止しなさんせ、おしまひにしないと父ちやんに叱られる" ], [ "父ちやんの馬鹿やい、のらくらもの", "生意氣言ふな" ], [ "わたし達も子供が欲しいわ。ね、お願ひですからあんな不自然なことは止して下さいな", "…………", "手足の自由のきく若い間はそれでもいゝけれど、年寄つてから、あなた、どうなさるおつもり? 縋らう子供のない老い先のことを少しは考へて見て下さい。ほんたうにこんな慘めなこつたらありやしませんよ。とりわけ私達は斯うなつてみれば誰一人として親身のもののない身の上ぢやありませんか。わたし思ふとぞつとするわ" ] ]
底本:「日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集」新潮社    1962(昭和37)年4月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:伊藤時也 校正:小林繁雄 2001年3月9日公開 2005年12月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001336", "作品名": "崖の下", "作品名読み": "がけのした", "ソート用読み": "かけのした", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-03-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1336.html", "人物ID": "000249", "姓": "嘉村", "名": "礒多", "姓読み": "かむら", "名読み": "いそた", "姓読みソート用": "かむら", "名読みソート用": "いそた", "姓ローマ字": "Kamura", "名ローマ字": "Isota", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-15", "没年月日": "1933-11-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集", "底本出版社名1": "新潮社", "底本初版発行年1": "1962(昭和37)年4月20日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "伊藤時也", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/1336_ruby_20679.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/1336_20680.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "大江さん、お手紙", "切拔通信?", "いゝえ。春子より、としてあるの、大江さんのいゝ方でせう。ヒツヒツヒヽ" ], [ "父ちやん、僕んにも三輪車買うとくれ", "うん", "こん度戻る時や持つて戻つとくれよう。のう?", "うん", "何時もどるの、今度あ? のう父ちやん", "…………" ], [ "咲子、お前は處女だつたらうな?", "何を出拔けにそんなことを……失敬な" ], [ "ほんたうに處女だつた?", "女が違ひますよ", "縱令、それなら僕のこの眼を見ろ。胡魔化したつて駄目だぞ!" ], [ "そんなに疑ぐり深い人わたし嫌ひ……", "駄目、駄目だ!" ], [ "とに角、明日も一度來て見ろと言つたんですよ", "ぢや、屹度、雇ふ考へですよ" ] ]
底本:「日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集」新潮社    1962(昭和37)年4月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:伊藤時也 校正:小林繁雄 2001年2月27日公開 2005年12月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001335", "作品名": "業苦", "作品名読み": "ごうく", "ソート用読み": "こうく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-02-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card1335.html", "人物ID": "000249", "姓": "嘉村", "名": "礒多", "姓読み": "かむら", "名読み": "いそた", "姓読みソート用": "かむら", "名読みソート用": "いそた", "姓ローマ字": "Kamura", "名ローマ字": "Isota", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-15", "没年月日": "1933-11-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文學全集 34 梶井基次郎 嘉村礒多 中島敦集", "底本出版社名1": "新潮社", "底本初版発行年1": "1962(昭和37)年4月20日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "伊藤時也", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/1335_ruby_20681.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-04T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/1335_20682.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-04T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "そ、それは母のであります", "お母さんのなら、何故、舎から註文した?", "お父さんに隠したいから、日曜日に持つて帰つてくれちうて母が言ひました……" ], [ "僕、香川です。四月からW大学に来てゐます。前々からお訪ねしようと思つてゐて、ご住所が牛込矢来とだけは聞いてゐましたけれども……", "香川……あ、叉可衛さんでしたか。ほんとによく私を覚えてゐてくれましたねえ" ], [ "いづれ、後日お会ひして、ゆつくり話しませう。……今日は急ぐので", "えゝ、どうぞ訪ねて来て下さい。僕も、ご迷惑でなかつたら上つてもいゝです。あなたには、いろ〳〵お世話になつてゐるので、一度お礼旁々お伺ひしようと思つてゐました" ] ]
底本:「現代日本文學大系 49」筑摩書房    1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行    2000(平成12)年1月30日初版第13刷発行 初出:「中央公論」    1932(昭和7)年2月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:岡本ゆみ子 校正:林 幸雄 2009年5月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049655", "作品名": "途上", "作品名読み": "とじょう", "ソート用読み": "としよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」1932(昭和7)年2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-06-06T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card49655.html", "人物ID": "000249", "姓": "嘉村", "名": "礒多", "姓読み": "かむら", "名読み": "いそた", "姓読みソート用": "かむら", "名読みソート用": "いそた", "姓ローマ字": "Kamura", "名ローマ字": "Isota", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-15", "没年月日": "1933-11-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本文學大系 49", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1973(昭和48)年2月5日", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年1月30日初版第13刷", "校正に使用した版1": "1985(昭和60)年11月10日初版第12刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "岡本ゆみ子", "校正者": "林幸雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/49655_ruby_34886.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-05-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/49655_35078.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-05-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "もう秋だね", "さうだとも、秋だよ" ], [ "こんなところに隱れてゐたんですか。よく見つからなかつたものですね。", "その當時の銀杏はもつと〳〵大きかつたのだらう。何しろ、將軍樣のお通りに、警護の武士の眼をかすめるなんて、屹度、銀杏の幹に洞穴でもあつて、隱れてゐたんでせうよ。" ], [ "天井からは水が落ちるだらうが、冬は、どうしてお過ごしなされたのだらう。お食事なんか何ういふ風にして差上げてゐたのだらう。", "定めし、女の宮人が毒試をして差上げてゐたのでせうよ。その人は殺されなかつたのでせう?", "あゝ、さうらしい。" ], [ "あなた、あの親王樣のお召物といふのは、あれをほんたうに着てゐられたのでせうか。わたし、どうも信じられませんの。", "そんなことが分るものか、馬鹿。", "一體、どういふ譯で牢屋へお入りになるやうになつたのですかね?", "馬鹿だなあ。それを知らんのか。女學校の時、歴史で教はつた筈ぢやないの。", "もう學校を出てからずゐぶんになるものですから、忘れましたの。同窓會の時は、いつでも安藤先生が、琵琶を彈いて十八番の護良親王を歌はれるのを、度々聞かされたのですけど……", "馬鹿だね。やつぱし、學問してない奴は、駄目、駄目。", "そんなに馬鹿々々おつしやらずに、話して下さればいいぢやありませんか。忘れたものは仕樣がないんですもの。" ], [ "あのお坊さん、よほど出來るのですね。わたし、びつくりしましたわ。", "あゝ、あゝいふところには、西洋人が始終來るから、それだけの人が置いてあるらしい。", "あなたなんかも、今のうち語學の勉強をして下さいな。田舍に居る時は、東京へ出さへしたら〳〵と思つてゐたのに、東京へ出ると、つい怠けてしまふんですからね。ほんとに寶の山に入つて手を拱くとは、このことですよ。いくらでも夜學にだつて行けるぢやありませんか。" ], [ "精神文化といふ奴も、唯その發生に意義があるだけで、形式に墮したら、これぐらゐ下らないことはない。長谷の大佛なんて、實に阿呆なもんだな。馬鹿にしてら。", "早く江の島へ行きませうよ。" ], [ "觀音樣の境内から見た海が、由比ヶ濱といふのですね。わたし、海水浴場が見たいんですの。", "僕も見たい。江の島へ一應行つてから又引き返すことにしよう。" ], [ "こんな恰好をお眼にかけて……", "あの、只今、お噂してゐたところなんでございますの。" ], [ "もう行くまい、こはくなつた。", "えゝ、行きますまい。地震でも來たら大へんですよ。" ], [ "今度は、橋を渡らずに砂濱を歩いて、片瀬の海水浴場に行きませう。", "うん。" ], [ "棧橋を渡る人は、誰でも三錢とられるでせうか。島の人は朝に晩に大變ですね。", "まさか、土地の人は出さないだらう。" ], [ "あなた、こゝですね腰越といふのは、義經の腰越状といふのは、此處で書いたのですね。", "腰越状? どういふのであつたかな……", "あれを知らないんですか。義經が兄の頼朝の誤解をとかうと思つて書いた手紙ぢやありませんか。……幼い時からわれわれ兄弟はお母さんのふところに抱かれて悲しい流浪生活をし、それから皆はちり〴〵ばら〳〵に別れ、自分は自分で鞍馬の山に隱れたり、それ〴〵苦勞のすゑ、兄さんを助けて源氏再興を計り、自分は西の端まで平家を迫ひ詰めてやうやく亡ぼして、兄さんに褒めて頂かうと思つて此處まで歸つて見ると、兄さんは奸臣の言を信じて、弟を殺さうとしてゐられる、兄さん、どうぞ弟の眞心を分つて下さいつて、義經が血の涙で書いたといふんでせう。中學校の時、國語の教科書でならつた筈でせうに、あなたつて忘れつぽい人、駄目ですね。" ], [ "七里ヶ濱ですか。ほれ中學の生徒のボートが沈没したといふのはここですね。……眞白き富士の嶺、みどりの江の島、仰ぎ見るも今は涙――わたしたちの女學生時代には大流行でしたよ。", "なるほど、僕らも歌つた、歌つた。古いことだね。" ], [ "で、頼朝は、どうした?", "使の者が、駒に跨がつて、鞭を當てて、錬倉の頼朝のところへ手紙を持つて行くと、頼朝は封も切らずに引き破いて、直に召し捕れと部下のものに言ひ付けたんですつて。頼朝つて何處まで猜疑心の強い人間だつたのでせうね。あんなに、血族のものを、誰も彼も疑ぐらずにはゐられないなんて……" ], [ "もう、いいだらう。", "えゝ、十分ですとも。いろいろ見せて頂いて、どうも有り難うございました。" ] ]
底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版    1976(昭和51)年8月1日初版発行 初出:「文学時代」    1931(昭和6)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:林 幸雄 校正:松永正敏 2004年5月1日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004661", "作品名": "滑川畔にて", "作品名読み": "なめりがわほとりにて", "ソート用読み": "なめりかわほとりにて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-05-31T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/card4661.html", "人物ID": "000249", "姓": "嘉村", "名": "礒多", "姓読み": "かむら", "名読み": "いそた", "姓読みソート用": "かむら", "名読みソート用": "いそた", "姓ローマ字": "Kamura", "名ローマ字": "Isota", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1897-12-15", "没年月日": "1933-11-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本紀行文学全集 東日本編", "底本出版社名1": "ほるぷ出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "松永正敏", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/4661_ruby_15313.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-05-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000249/files/4661_15552.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-05-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "私は此の頃はどうも私の両親の家にゐるのがアンイージーで仕方がないのです。両親を親しくそばに見ていると胸が圧し付けられるやうです。私はあなた――母親思ひのやさしい人に申すのは少し恥しいけれど、どうも親を愛することは出来ません。そしてまた母の本能的愛で、偏愛的に濃く愛されるのが不安になつて落ち付かれません。それでおもしろい顔を親に見せることはできず、そのために両親の心の傷くのを見るのがまた辛いのです。", "私は此の頃熟〻出家の要求を感じます。私は一度隣人の関係に立たなくては親を愛することが出来ないやうに思ひます。昔から聖者たちに出家するものの多かつたのは、家族といふものと、隣人の愛といふものとの間にある障礙があるためと思はれます。" ] ]
底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社    1994(平成6)年8月25日第1刷発行 底本の親本:「亀井勝一郎全集 第十四巻」講談社    1972(昭和47)年5月 入力:大久保ゆう 校正:noriko saito 2018年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "右手に聖典をとり、左手に酒盃を持ち、正と邪との間に戦慄せよ。そのごとく我らは全く信仰の徒ともまた全く不信仰の徒ともならずして蒼穹の下に坐すべきなり", "我らは無窮を追ふ無益の探究を捨てなむ。而うして我らの身を現在の歓楽に委ねむ。竪琴のこころよき音にふるふ長き黒髪に触れつつ", "汝は地の上を逍遥ひ歩きぬ。されどすべて汝の知りしところのものは無なり。すべて汝の見たるもの、すべて汝の聞きたるものは無なり。たとへ汝は世界の涯より涯まで歩めばとて、すべてのものは無なり。たとへ汝の家の隅に止まりたればとて、すべて在るものはみな無なり" ] ]
底本:「大和古寺風物誌」新潮文庫、新潮社    1953(昭和28)年4月5日発行    2015(平成27)年12月5日84刷改版 入力:酒井和郎 校正:阿部哲也 2017年1月20日作成 2022年2月23日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "057496", "作品名": "大和古寺風物誌", "作品名読み": "やまとこじふうぶつし", "ソート用読み": "やまとこしふうふつし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 702", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2017-02-06T00:00:00", "最終更新日": "2022-02-23T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001870/card57496.html", "人物ID": "001870", "姓": "亀井", "名": "勝一郎", "姓読み": "かめい", "名読み": "かついちろう", "姓読みソート用": "かめい", "名読みソート用": "かついちろう", "姓ローマ字": "Kamei", "名ローマ字": "Katsuichiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1907-02-06", "没年月日": "1966-11-14", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "大和古寺風物誌", "底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社", "底本初版発行年1": "1953(昭和28)年4月5日", "入力に使用した版1": "2015(平成27)年12月5日84刷改版", "校正に使用した版1": "2015(平成27)年12月5日84刷改版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "酒井和郎", "校正者": "阿部哲也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001870/files/57496_ruby_60770.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-02-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "3", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001870/files/57496_60805.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-02-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "3" }
[ [ "諸君の中には、今日児童の大多数が食物なしに、または営養不足の状態の下に、通学しつつある事を否認さるるかたはあるまい。今この法律案の目的とするところは、すなわちかかる児童に向かって食事を給与せんとするにある。けだし児童養育の責任を有する者の何人なるべきかについては、もちろん諸君の中に種々の異説があるであろう。すなわち諸君のうちある者は、自分の子供を養うのは親たる者の義務ではないかと言うかたもあろう。しかしながら、もしかくのごとき論者にして、これら両親のある者の現に得つつある賃銭の高を考えられたならば、彼らがその家族に適当なる衣食を供給すという事の、絶対に不可能事たることを承認さるるであろう。……", "私は諸君がこれをば単に計算上の損得問題として考えられてもさしつかえないと思う。これは必ずしも人道、慈悲ということに訴える必要のない問題だと考える。けだしいろいろな肉体上及び精神上の病気や堕落は、子供の時代に充分に飯を食べなかったという事が、その大部分の原因になっているのである。さればもし国家の力で、飢えつつ育ったという人間をなくすることができたならば、次の時代の国民は皆国家社会のため相当の働きをなしうるだけの人間になって来るので、そうなれば今日国家が監獄とか救貧院とか感化院とか慈善病院とかいろいろな設備や事業に投じている費用はいらなくなって来るのであって、かえってそのほうが算盤の上から言っても利益になるのである。", "人あるいは、かかる事業はよろしくこれを私人の慈善事業に委すべしと主張するかもしれないが、私は、このたいせつな事業を私人の慈善事業に一任せしこと、業に已に長きに失したと考える者である。私は満場の諸君が、人道及びキリスト教の名においてこの案を可決されん事を希望する*。" ], [ "余はギゾーのためフランスより追われたるにより、パリーにて始めたる経済上の研究はこれをブリュッセルにおいて継続した。しかして研究の結果、余の到達したる一般的結論にして、すでにこれを得たる後は、常に余が研究の指南車となりしところのものを簡単に言い表わさば次のごとくである。", "人類はその生活資料の社会的生産のために、一定の、必然的の、彼らの意志より独立したる関係、すなわち彼らの物質的生産力の一定の発展の階段に適応するところの生産関係に入り込むものである。これら生産関係の総和は社会の経済的構造を成すものなるが、これすなわち社会の真実の基礎にして、その基礎の上に法律上及び政治上の上建築が建立され、また社会意識の形態もこれに適応するものである。すなわち物質的生活上の生産方法なるものは、社会的、政治的及び精神的の生活経過をばすべて決定するものである。" ] ]
底本:「貧乏物語」岩波文庫、岩波書店    1947(昭和22)年9月5日第1刷発行    1965(昭和40)年10月16日第30刷改版発行    1978(昭和53)年11月10日第47刷発行 初出:貧乏物語「大阪朝日新聞」    1916(大正5)年9月11日~12月26日    ロイド・ジョージ「大阪朝日新聞」    1916(大正5)年7月14日、1917(大正6)年1月9日~11日 ※注釈記号「*」は底本では、直前の文字の右横にルビのように付いています。 ※底本で区切りに使われている「*」は注釈記号と重複するので「×」に変更しました。 ※2行にわたる波括弧はけい線素片で代用しました。 ※「二の二」の「ローンツリー『貧乏』縮刷版」と「ボウレイ『生計と貧乏』」の表のレイアウトを、読みやすさを優先して調整しました。 ※「需要はすなわち本《と》で」は、校正に使用した第63刷の表記に従って「需要はすなわち本《もと》で」とあらためました。 ※添付の画像ファイルは「貧乏物語」(弘文堂書房、大正6年3月1日発行、大正6年4月20日改訂第7版)のものを使用しました。 入力:sogo 校正:鈴木厚司 2008年4月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "018353", "作品名": "貧乏物語", "作品名読み": "びんぼうものがたり", "ソート用読み": "ひんほうものかたり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 331", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-05-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000250/card18353.html", "人物ID": "000250", "姓": "河上", "名": "肇", "姓読み": "かわかみ", "名読み": "はじめ", "姓読みソート用": "かわかみ", "名読みソート用": "はしめ", "姓ローマ字": "Kawakami", "名ローマ字": "Hajime", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1879-10-20", "没年月日": "1946-01-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "貧乏物語", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1947(昭和22)年9月5日、1965(昭和40)年10月16日第30刷改版", "入力に使用した版1": "1978(昭和53)年11月10日第47版", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年1月10日第63刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/18353_ruby_28946.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-04-07T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000250/files/18353_30892.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-04-07T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "此女は外に恋して居る男があるんだ", "否、此女は見掛けによらぬ淫婦なんだ。悪党なんだ" ], [ "貴女は今彼処の店で買物をなさった様ですねえ", "致しましたが、夫れがどうだと被仰るんです" ], [ "私は……私は別に何でもないんです。只彼の店に行って偶然此お方を見たんです……", "偶然だなんて皆嘘なんです。私が停車場で省線電車を降りた時から、私の後を跟け覗って来たんです。そして探偵だの刑事などと云って……" ] ]
底本:「「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10」光文社文庫、光文社    2002(平成14)年2月20日初版1刷発行 初出:「新青年」博文館    1926(大正15)年2月号 入力:川山隆 校正:noriko saito 2009年1月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047475", "作品名": "偽刑事", "作品名読み": "にせけいじ", "ソート用読み": "にせけいし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」1926(大正15)年2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-02-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001306/card47475.html", "人物ID": "001306", "姓": "川田", "名": "功", "姓読み": "かわだ", "名読み": "いさお", "姓読みソート用": "かわた", "名読みソート用": "いさお", "姓ローマ字": "Kawada", "名ローマ字": "Isao", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1882", "没年月日": "1931", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "「新青年」傑作選 幻の探偵雑誌10", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2002(平成14)年2月20日", "入力に使用した版1": "2002(平成14)年2月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2002(平成14)年2月20日初版1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001306/files/47475_ruby_33425.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-01-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001306/files/47475_34292.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-01-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "今日は大層温順しいのねえ", "何時だって温順しいじゃないか" ] ]
底本:「探偵小説の風景 トラフィック・コレクション(上)」光文社文庫、光文社    2009(平成21)年5月20日初版1刷発行 初出:「探偵趣味」    1926(大正15)年2月 入力:sogo 校正:noriko saito 2018年5月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056513", "作品名": "乗合自動車", "作品名読み": "のりあいじどうしゃ", "ソート用読み": "のりあいしとうしや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「探偵趣味」1926(大正15)年2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2018-06-06T00:00:00", "最終更新日": "2018-05-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001306/card56513.html", "人物ID": "001306", "姓": "川田", "名": "功", "姓読み": "かわだ", "名読み": "いさお", "姓読みソート用": "かわた", "名読みソート用": "いさお", "姓ローマ字": "Kawada", "名ローマ字": "Isao", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1882", "没年月日": "1931", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "探偵小説の風景 トラフィック・コレクション(上)", "底本出版社名1": "光文社文庫、光文社", "底本初版発行年1": "2009(平成21)年5月20日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年5月20日初版1刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年5月20日初版1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001306/files/56513_ruby_64883.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-05-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001306/files/56513_64929.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-05-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それでは、ジヤリアンワラ事件をどう思ふか。若し君たちが一九一九年四月十三日にあの場處にゐて、ダイヤー將軍から君たちの慴えてゐる同胞を射撃せよと命ぜられたら、君たちはどうしたか。", "勿論、私はそんな命令には從はなかつたでせう。", "しかし、ダイヤー將軍は國王の定めた制服を着てゐるではないか。", "ええ、けれども、將軍は役所の人です、私は役所とは關係はありません。" ] ]
底本:「ガンヂーは叫ぶ」アルス    1942(昭和17)年6月20日初版発行 初出:「ヤング・インデイア」    1921(大正10)年3月23日 入力:田中敬三 校正:小林繁雄 2007年4月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047025", "作品名": "神、国王、国家", "作品名読み": "かみ、こくおう、こっか", "ソート用読み": "かみこくおうこつか", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「ヤング・インデイア」1921(大正10)年3月23日", "分類番号": "NDC 126 225", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-06-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001277/card47025.html", "人物ID": "001277", "姓": "ガンジー", "名": "マハトマ", "姓読み": "ガンジー", "名読み": "マハトマ", "姓読みソート用": "かんしい", "名読みソート用": "まはとま", "姓ローマ字": "Gandhi", "名ローマ字": "Mahatma", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1869-10-02", "没年月日": "1948-01-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "ガンヂーは叫ぶ", "底本出版社名1": "アルス", "底本初版発行年1": "1942(昭和17)年6月20日", "入力に使用した版1": "1942(昭和17)年6月20日初版", "校正に使用した版1": "1942(昭和17)年6月20日初版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "田中敬三", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001277/files/47025_txt_26739.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-05-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001277/files/47025_26799.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-05-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それでは風景と人物とのうちで、どつちを好いと思ひますか", "それは無論人物の方がおもしろいのです" ] ]
底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房    1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行 底本の親本:「飛雲抄」書物展望社    1938(昭和13)年12月10日 初出:「早稻田文學」    1910(明治43)年8月 ※「就て」と「就いて」の混在は底本通りです。 入力:広橋はやみ 校正:岡村和彦 2015年12月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "045684", "作品名": "七月七日", "作品名読み": "しちがつなのか", "ソート用読み": "しちかつなのか", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「早稻田文學」1910(明治43)年8月", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2016-03-15T00:00:00", "最終更新日": "2015-12-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001055/card45684.html", "人物ID": "001055", "姓": "蒲原", "名": "有明", "姓読み": "かんばら", "名読み": "ありあけ", "姓読みソート用": "かんはら", "名読みソート用": "ありあけ", "姓ローマ字": "Kanbara", "名ローマ字": "Ariake", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-03-15", "没年月日": "1952-02-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1980(昭和55)年8月20日", "入力に使用した版1": "1980(昭和55)年8月20日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1980(昭和55)年8月20日初版第1刷", "底本の親本名1": "飛雲抄", "底本の親本出版社名1": "書物展望社", "底本の親本初版発行年1": "1938(昭和13)年12月10日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "広橋はやみ", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001055/files/45684_txt_58038.zip", "テキストファイル最終更新日": "2015-12-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001055/files/45684_58069.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2015-12-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あの静岡の乗杉さんね。その後はどうしていることか。こちらからも、済まないとは知りながら、そのままになってしまっているが。", "ええ。その乗杉さんでございましたのでしょう。あの小さな紙切れに俳句とかを書いて、焼け瓦の間に挿んでお置きになったのを、わたくしが見つけ出して持ってまいりました。それなりになっていますね。", "おれも今それを見直そうと思っているところだ。あった、あった。その紙切れはここに貼りつけてあるよ。" ], [ "そうですか。あの時のことですか。あなたがあれぐらいのことで、ほんとうに死ぬものとは信じていなかったからです。ちと仰山すぎましたな。それはそうとして、この窮屈な世の中で困った困ったといったって方図がありません。ないものもあるようにしたいものですが。", "不可能を可能にするのかな。これは皮肉でも何でもないよ。おれもな、ないものをあるようにしようと試みたことがあるのだ。" ], [ "まあ、聞いてからのことだ。それからおれの発明ぶりを讃歎するなり嘲笑するなり、勝手にしろよ。手っ取り早くいえば、おれは酒の代用品を思いついたのだ。どんな思いつきだというのかね。それはもとより簡単だ。直接でもあり純真でもあるようなものはいつでも簡単なのだ。どうも代用品としてはそうなくてはならぬように思われる。余り技巧を凝らさぬところに実用価値があるからな。それはこうだ。番茶を熱く濃く出して、唐辛子を利用して調味すること、ただそれだけの手順で結構刺戟性に富んだ飲物が得られる。この節酒が容易に見当らないからな。自慢だが、この代用品はどうしたものだろう。", "なんだ。おおかたそんなものかと思っていました。人を馬鹿にしたものですね。あなたはそれで満足ができるのですか。", "満足どころか、今もいった通り、自慢物なのだよ。" ], [ "随分おめでたい話ですな。もう好い加減にしておつもりにしましょう。", "何ね。そんなに痺れをきらさないで、もう少し我慢して聞いているのだね。しかし今度は本物の方だよ。" ], [ "そうですか。それではあなたも、その高い教養とやらの重荷を背負っている一人なのですな。窮屈ではないでしょうか。", "いや。おれだって多少の教養は持っているよ。そうだね。それを重荷とも思っていないが、そのちとの教養のためにとかく自省心が起りがちで、実践力が鈍らされる。それは認めるね。それかといって、教養を欠いては本当の芸術の芽も出ないのだ。矛盾といえば矛盾さ。例えばだね。あの『万葉』の東歌だ。あれなどもその時代の教養人が、遠国にいて、その地方の俗言を取り入れたものだ。ただ名もなく教養もない人々の手で、いわゆる素朴と直情だけで、あの東歌が成ったものとは、おれは信じていない。教養とはそんなものなのだ。この教養が製作を促がすと共に実行を妨げる。この矛盾には悩まされるよ。", "あなたもかぶとを脱ぎましたね。その自省心とかが曲者ですよ。", "そうだ。過度の自省心は確に曲者だ。", "そんなことを繰り返していって見たところでなんにもなりませんよ。そのうちに妥協して万事を解決しようとでもするのですな。そんな言訳なぞするようなことをせずに、拙いものは拙いものとして、堂々と吐き出してしまったらどうです。そして心を新たにするのですな。" ], [ "何、無理なんぞするものか。おれは今面白いことを考えている最中だ。今までの主食はクラシックで、この節毎日のように遣っている粉食はロマンチックだ。いいかね。米の飯は国粋かね。先ず固有なもので、メリケン粉の蒸パンは外来的のものだ。少し当らぬところもあるが、手っ取り早くいえばそういうことになるのだ。", "それはどうでもお考えどおりで好いも悪いもないでしょう。わたくしは無理をなさってはいけないといっているのです。", "そうか、それほど疲れて見えるのか。" ], [ "よしや。よしやってば。どこへ往くのだい。", "よしやはこれからお使にまいります。坊ちゃんも一しょにお出でになりますか。" ], [ "藤村も花袋もきみの先輩でかつまた友人であった。その二人のプロフィイルを、どういう考があって、あんな風に描いてみたのだね。素人くさいのはしかたがないとしても、陰影のとりかたなど、まずいね。対比もおもしろくないよ。それはそれとして、二人とも好い死かたをしたという、あのことをきみはどんな意味で言い出したのかそれが聞きたいな。", "別になんでもないのさ。そう改まって聞かれるとかえって言いにくくなる。藤村は旅に出て死んだというのじゃないが、自分の庵室の静の廬を離れて他の地方で死んでいる。宗祇にしても芭蕉にしてもそうじゃないか。みんなああいう人たちは好い死かたをしている。おれはそう思っているのだ。", "芭蕉から宗祇へ遡ってみればよくわかるように、人の死かたにも伝統があるね。それでは宗祇からどこに遡れるか、そう問われればぼくは直に定家卿というね。", "いかにも――。" ], [ "わしはよく夢ばかり見るが、その中でもきょうの夢は夢の中の夢のような気がするな。わしがふだんよくよく注意してそちに教えていた、あの海印三昧だがな。その海印三昧がこの畑地の鏡のおもてに実現しておるのじゃ。華厳の教理に関して、わしがむずかしいことばかり言っていたように、喜海、そちは思っていたろう。そんなことではいけないのだ。まずこの畑をようく見極めること。それが修行だ。いいか。", "はい。仰せのとおりに一所懸命になって、見きわめておりますところでございます。", "よし、よし。もう一遍見わたすこと。" ], [ "ナイネ。", "モチタイ。", "ナイスット。", "カマクラノオバサントコヘオクル。", "インニャ、タッタソイシコネ。", "オバサントコハ三人ジャモン。", "ウウ、ソイギイヨカネ。" ] ]
底本:「夢は呼び交す」岩波文庫、岩波書店    1984(昭和59)年4月16日第1刷発行    2000(平成12)年11月8日第2刷発行 底本の親本:「夢は呼び交す」東京出版    1947(昭和22)年11月30日 初出:「藝林間歩」    1946(昭和21)年6月~1947(昭和22)年5月 ※初出時の表題は「默子覺書」です。 ※巻末には竹盛天雄氏による「注」が付されていましたが、竹盛氏の著作権が継続中のため本文中の注番号も含めて割愛しました。 入力:広橋はやみ 校正:土屋隆 2007年11月27日作成 2016年1月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043739", "作品名": "夢は呼び交す", "作品名読み": "ゆめはよびかわす", "ソート用読み": "ゆめはよひかわす", "副題": "――黙子覚書――", "副題読み": "――もくしおぼえがき――", "原題": "黙子覚書", "初出": "「藝林間歩」1946(昭和21)年6月~1947(昭和22)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-12-25T00:00:00", "最終更新日": "2016-01-30T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001055/card43739.html", "人物ID": "001055", "姓": "蒲原", "名": "有明", "姓読み": "かんばら", "名読み": "ありあけ", "姓読みソート用": "かんはら", "名読みソート用": "ありあけ", "姓ローマ字": "Kanbara", "名ローマ字": "Ariake", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1875-03-15", "没年月日": "1952-02-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "夢は呼び交す", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1984(昭和59)年4月16日", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年11月8日第2刷", "校正に使用した版1": "1984(昭和59)年4月16日第1刷", "底本の親本名1": "夢は呼び交す", "底本の親本出版社名1": "東京出版", "底本の親本初版発行年1": "1947(昭和22)年11月30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "広橋はやみ", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001055/files/43739_ruby_28306.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-01-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001055/files/43739_28818.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-01-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "なにしてるんだい。", "え、あの、ローズものを少しやったんです。" ] ]
底本:「赤い鳥代表作集 2」小峰書店    1958(昭和33)年11月15日第1刷    1982(昭和57)年2月15日第21刷 初出:「赤い鳥」赤い鳥社    1928(昭和3)年7月号 入力:林 幸雄 校正:川山隆 2008年4月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046983", "作品名": "水菓子屋の要吉", "作品名読み": "みずがしやのようきち", "ソート用読み": "みすかしやのようきち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「赤い鳥」赤い鳥社、1928(昭和3)年7月号", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-05-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000872/card46983.html", "人物ID": "000872", "姓": "木内", "名": "高音", "姓読み": "きうち", "名読み": "たかね", "姓読みソート用": "きうち", "名読みソート用": "たかね", "姓ローマ字": "Kiuchi", "名ローマ字": "Takane", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1896-02-28", "没年月日": "1951-06-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "赤い鳥代表作集 2", "底本出版社名1": "小峰書店", "底本初版発行年1": "1958(昭和33)年11月15日", "入力に使用した版1": "1985(昭和60)年2月15日第21刷", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000872/files/46983_ruby_29722.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-04-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000872/files/46983_30977.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-04-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "ひょっとしたら、モーティは盗まれて、古自動車屋へでも売られたんではないでしょうか。", "よし、その内、御主人のおともをして、下町の方へ出ることがあるだろうから、その時は、思い切ってガラクタ屋の店でも何でも探して見よう。……なに、きっと見つかるよ。" ] ]
底本:「赤い鳥傑作集」新潮文庫、新潮社    1955(昭和30)年6月25日発行    1974(昭和49)年9月10日29刷改版    1989(平成元)年10月15日48刷 底本の親本:「赤い鳥」復刻版、日本近代文学館    1968(昭和43)~1969(昭和44)年 初出:「赤い鳥」    1926(大正15)年11月号 入力:林 幸雄 校正:鈴木厚司 2002年1月3日公開 2005年9月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003046", "作品名": "やんちゃオートバイ", "作品名読み": "やんちゃオートバイ", "ソート用読み": "やんちやおおとはい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-01-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000872/card3046.html", "人物ID": "000872", "姓": "木内", "名": "高音", "姓読み": "きうち", "名読み": "たかね", "姓読みソート用": "きうち", "名読みソート用": "たかね", "姓ローマ字": "Kiuchi", "名ローマ字": "Takane", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1896-02-28", "没年月日": "1951-06-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "赤い鳥傑作集", "底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社", "底本初版発行年1": "1955(昭和30)年6月25日、1974(昭和49)年9月10日29刷改版", "入力に使用した版1": "1989(平成元)10月15日48刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "赤い鳥 復刻版", "底本の親本出版社名1": "日本近代文学館", "底本の親本初版発行年1": "1968(昭和43)~1969(昭和44)年 ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000872/files/3046_ruby_19537.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-09-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000872/files/3046_19538.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-09-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "君、マインレンデルというのを知っているか。", "知らない。君は。", "僕も知らないんだ、あれは人の名かしらん。" ] ]
底本:「「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻」文藝春秋    1988(昭和63)年1月10日初版発行 底本の親本:「文藝春秋」    1927(昭和2)年9月号 入力:山田豊 校正:二宮知美 2001年1月18日公開 2005年10月10日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001340", "作品名": "芥川の事ども", "作品名読み": "あくたがわのことども", "ソート用読み": "あくたかわのこととも", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 910", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-01-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1340.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "「文藝春秋」にみる昭和史 第一巻", "底本出版社名1": "文藝春秋", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年1月10日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "山田豊", "校正者": "二宮知美", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1340_ruby_19831.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-10-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1340_19832.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-10-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "左様、左様!", "ごもっとも", "御同感!" ], [ "御道理!", "まさに、お説の通り!" ], [ "成田殿に、個人として、我々はなんの恨みもない。頑固ではあるが、主家に対しては忠義一途の人じゃ。が、一藩の名分を正し、順逆を誤らしめないためには、止むを得ない犠牲だと思う。成田殿一人を倒せば、後には腹のあるやつは少ない。明日の出陣も、総指揮の成田殿が亡くなれば、躊躇逡巡して沙汰止みになるのは、目にみえるようだった。その間に、尊王の主旨を吹聴して、藩論を一変させることは、案外容易かと存ずる。慶応二年以来、我々同志が会合して、勤王の志を語り合ったのも、こういう時の御奉公をするためだと思う。成田殿を倒すことは、天朝のおためにもなり、主家を救うことにもなる。各々方も、御異存はないと思う", "異議なし", "異議なし", "同感" ], [ "そうかな。そういえば、高松などは立ち遅れであったからな。しかし、会津のように朝敵になりきってしまわなくてよかった。貴公たちの力で、早く朝廷へ帰順したのは、何よりであった。お国の連中も、今では貴公たちの功績を認めておるぞ", "そうですか。それは、どうもありがとう" ], [ "国から客! ほほう、なんという名前だ", "成田様といっておられます" ], [ "貴君方の噂も、時々上京して来る国の人たちからもきき、陰ながら案じていたが、御両人とも御無事で、何より重畳じゃ", "お兄さまも、御壮健で、立派に御出世遊ばして、おめでとうございます" ], [ "今度は、いつ上京なされた?", "昨日参りました", "蒸汽船でか", "はあ。神戸から乗りまして", "それは、お疲れであろう。お八重殿は、一段と難儀されたであろう" ], [ "只今は、どこに御滞在か", "蘆沢様に、お世話になっております", "左様か。拙者の屋敷も、御覧の通り無人で手広いから、いつなりともお世話するほどに、明日からでもお出になってはどうか", "ありがとうございます。そうお願いいたすかも知れませぬ" ], [ "貴公は、姉弟にいつからでも家へ来いといったそうだが、ただ家へ呼ぶなんて、生殺しにしないで、ちゃんと女房にしてやったらどうだ", "はあ……", "はあじゃ、いけない。はっきり返事をしてもらいたい。お八重殿も、もう二十三だというではないか。女は、年を取るのが早い。貴公はいくら法律をやっているからといって、人情を忘れたわけではあるまい。昨日も、ちょっとお殿様に申し上げたら、それは是非まとめてやれとの御意であった。昔なら、退引ならぬお声がかりの婚礼だぞ。どうだ、天野氏!" ], [ "御配慮ありがとうございます。あの姉弟のことは、拙者も肉親同様、不憫に思うております。されば家に引き取り、どこまでも世話をいたすつもりでございます。しかし、お八重殿と婚礼のことは、今しばらく御猶予を願いたいのでござりまする", "頑固だな。権妻でもあるのか", "いいえ、そんなことは、ございません", "それなら、何の差し支えもないわけではないか", "ちと、思う子細がございまして……", "世話はするが、婚礼はしないというのか", "はあ" ], [ "貴公も少し変人だな。じゃ、家人同様に面倒は見てくれるのだな", "はあ、それだけは喜んで……", "そうか。じゃ、とにかくあの姉弟をこの家へ寄越そう。そのうち、そばに置いてみて、お八重殿が気に入ったら、改めて女房にしてくれるだろうなあ" ], [ "お兄様には、まだ申し上げませんでしたが、子細あって、剣法の稽古をいたしておりまする", "子細とはなんじゃ", "万之助は、敵討がしたいのでございます" ], [ "父頼母を殺された無念は、どうしても諦めることができません", "……" ], [ "敵は分かっているのか", "分かっております。父が殺された翌日出奔した小泉、山田、吉川など五人に相違ござりませぬ", "しかし、あの中でも、三人までは死んだが……", "山田と吉川とが生き残っておりますのは、天が私の志を憫んでいるのだと思います" ], [ "そのうち、誰が下手人か、分かっているか", "分かっておりません。お兄様は、あの連中とは御交際があったとのことでござりまするが、お兄様にはくわしいことは分かっておりませんか" ], [ "いや、わしにも分からぬが……", "誰が、直接手を下したかは、問題ではござりませぬ。ただ山田も吉川も、敵であることに間違いござりませぬ" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:大野 晋 2000年8月26日公開 2004年2月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001038", "作品名": "仇討禁止令", "作品名読み": "あだうちきんしれい", "ソート用読み": "あたうちきんしれい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-08-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1038.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "菊池寛 短篇と戯曲", "底本出版社名1": "文芸春秋", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年3月25日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "大野晋", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1038_ruby_4500.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-02-14T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "3", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1038_14608.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-02-14T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "貴僧にききたいことがある", "なんじゃ" ], [ "お言葉の通りじゃ", "しからば重ねて尋ね申す。貴僧は松江におわした時、同家の山村武兵衛を打った覚えがござろうな" ], [ "三十年の辛抱に比ぶれば、八年の辛苦がなんじゃ", "八年探して、根の尽きる武士に、幸太郎兄弟の爪の垢でも、煎じて飲ませたい" ], [ "親方、俺はそんなもんじゃまだるっこい! これで、ぐいとやりてえ!", "いよう豪勢だ!" ], [ "道理で、包丁の味が違ってらあ!", "この三杯酢の味なんか、お大名料理の味だ!" ], [ "よくあるやつだ! それで相手を見事にやりなさったのだな!", "まったく……" ], [ "うむ!", "なるほど", "うむ!" ], [ "口論の始まりというのはな。その男が、槍術が自慢でな。その日も、俺と槍術の話になったのじゃが、つい議論になってなあ。相手が、『料理番の貴殿に、武術の詮議は無用じゃ』と、口を滑らしたのが、お互いの運の尽きじゃ。武士として、聞き捨てならぬ一言と思ったから、『料理番の刀が切れるか切れぬか、受けてみい!』と斬りつけたのじゃ", "うむ!", "うむ!", "うむ!" ], [ "うむ!", "うむ!" ], [ "ほほう!", "うむ!" ], [ "持っていた懐剣を放させて、そこへ突き放したまま悠々と出てきたが、さすがに、後を追うて来るものはなかった。その足で、すぐ退転いたしたが、もう二十年に近い昔じゃ。今から考えると短慮だったという気もするが、武士の意地でな。武士としてこれ堪忍ならぬところじゃ!", "道理じゃなあ。が、御身様の仕儀に、一点のきたないところもない。それをいい立てて、立派な主取りでもできるくらいじゃ", "料理人などをさせておくのは、まったくもって惜しいものだ! 推挙さえあれば、その腕で三十石や、五十石はすぐじゃ!" ], [ "こう年が寄ると、仕官の望みなぞは、毛頭ないわ。御身たちにこうして昔話などするのが、何よりの楽しみじゃ", "嘉平次殿のお杯を頂戴しよう" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:大野 晋 2000年8月26日公開 2005年10月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001039", "作品名": "仇討三態", "作品名読み": "あだうちさんたい", "ソート用読み": "あたうちさんたい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-08-26T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1039.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "菊池寛 短篇と戯曲", "底本出版社名1": "文芸春秋", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年3月25日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "大野晋", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1039_ruby_6063.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-10-16T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "4", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1039_19883.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-10-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "まあ、しずかにしていらっしゃい。……あなたはいったい、だれですか。どこからいらっしったのですか。私どもはこの国の者です。たんぼへ出て働いていますと、いかだが流れて来て、その上にあなたがねむっていらっしゃるので、お助けしたのです。さあ、どうか、ここまでいらっしゃったわけを話してください。", "ありがとう、いや、どうもありがとう。お話ししましょう。ですけれども、その前に、何かたべる物をくださいませんか。お腹がへって、声が出そうもないのです。" ] ]
底本:「アラビヤンナイト」主婦之友社    1948(昭和23)年7月10日初版発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 入力:大久保ゆう 校正:京都大学点訳サークル 2004年11月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "それが、こうなんだよ。この間ね、華族会館へ侯爵の写真を撮りに行ったんだ。すると写真がすんでから、侯爵が、『どうだ、いっぺん御馳走をしてやろうか』というんだ。僕はしめたと思ったから、『是非願います』といったんだ。すると『こんどの金曜日に麻布の家へ来い。うまいフランス料理を食わしてやるから』というんだ", "それで早速行ったんだねえ", "ところが、昨日行ってみると、家令のやつが、威張りやがって取次ぎしないんだ。侯爵から、何も御沙汰がないといってね。だから、僕はうんと家令をやっつけてやったよ、侯爵が御馳走してやるからといったから来たのだ。それに、取次ぎをしないなんて、けしからん、侯爵にお目にかかって、免職させてやるからといってやると、家令のやつ、何かブツブツいっていたよ", "それでも、とうとう取次いだんだね。それで侯爵は何といったんだ", "侯爵は、つい家令にいっておかないで悪かった、といって、すぐ食堂へ案内してくれたよ。僕と侯爵と差し向いさ。フランス料理は、材料の関係でできないから、すっぽんを食わせようというんだ。何でも、土浦から送って来たすっぽんを二匹料理したそうで、一匹が十三円もするそうだよ", "素敵だね" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:久保あきら 1999年9月19日公開 2005年10月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000491", "作品名": "M侯爵と写真師", "作品名読み": "エムこうしゃくとしゃしんし", "ソート用読み": "えむこうしやくとしやしんし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-09-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card491.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "菊池寛 短篇と戯曲", "底本出版社名1": "文芸春秋", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年3月25日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "久保あきら", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/491_ruby_19859.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "3", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/491_19860.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それもしかとは、分かりませぬ。何様、洞窟の奥深くいられるゆえ、しかとは分かりませぬ", "その者の俗名は、なんと申したか存ぜぬか" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:伊藤祥 1999年2月1日公開 2005年10月13日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000496", "作品名": "恩讐の彼方に", "作品名読み": "おんしゅうのかなたに", "ソート用読み": "おんしゆうのかなたに", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-02-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card496.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "菊池寛 短篇と戯曲", "底本出版社名1": "文芸春秋", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年3月25日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "伊藤祥", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_ruby_19865.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-10-14T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "5", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-10-14T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "又右衛は?", "お長屋におりますから、すぐ参ります" ], [ "例の京都からの勅使が下られるが、また接待役だ", "はっ!", "物入りだな", "しかし、御名誉なことで、仕方がありませんな" ], [ "又右衛門、公儀から今度御下向の勅使の御馳走役を命ぜられたが、それについて相談がある", "はい", "この前――天和三年か、勤めたときには、いくら入費がかかったか?" ], [ "四百両か! その時分と今とは物価が違っているから、四百両では行くまいな。伊東出雲にきくと、あいつの時は、千二百両かかったそうだ", "あの方のお勤めになりましたのは、元禄十年――たしか十年でしたな", "そうだ", "あのとき、千二百両だといたしますと、今日ではどんなに切りつめても、千両はかかりましょうな" ], [ "少なすぎるか", "さあ!" ], [ "第一、近頃の世の中はあまり贅沢になりすぎている。今度の役にしても、肝煎りの吉良に例の付届をせずばなるまいが、これも年々額が殖えていくらしい", "いいえ、その付届は、馬代金一枚ずつと決っております", "それだけでも、要らんことじゃないか。吉良は肝煎りするのが役目で、それで知行を貰っているのだ。わしらは、勅使馳走が役の者ではない。役でない役を仰せつかって、七、八百両みすみす損をする。こっちへ、吉良から付届でも貰いたいくらいだ" ], [ "吉良上野という老人は、家柄自慢の臍曲りだからな", "家柄ばかり高家で、ぴいぴい火の車だからなあ", "殿様は、賄賂に等しい付届だと、一口におっしゃるが、町奉行所へだって献残(将軍へ献上した残り物と称して、大名が江戸にいる間、奉行の世話になった謝礼として、物品金子を持参することをいう)を持ち込むのだからな。大判の一枚や小判の十枚ぐらいけちけちして、吉良から意地の悪いことをされない方がいいがな。もしちょっとした儀式のことでも、失敗があると大変だがな", "しかし、前に一度お勤めになったから、その方は大丈夫だろうが、七百両で仕切れとおっしゃるのは、少し無理だて", "無理だ", "勅使の御滞在が、十日だろう", "そうだ", "一日百両として、千両。前の時には日に四十両で済んでいるが、天和のときの慶長小判と今の鋳替小判とでは、金の値打が違っているし、それに諸式が上っているし……", "御馳走の方も、だんだん贅沢になってきているし……", "そうさ。出雲だって千二百両使っているのに、浅野が七百両じゃ……ざっと半分近いのでは、勅使に失礼に当るからなあ", "困った", "困ったな。急飛脚でも立てて、国元の大野か大石かに殿を説いてもらう法もあるが、大野は吝ん坊で、七百両説に大賛成であろうし、大石は仇名の通り昼行灯で、算盤珠のことで殿に進言するという柄ではないし……", "困ったな。できるだけ切りつめて、目立たぬところは手を抜くより法はない", "黙って家来に任しておいてもらいたいな、こんなことは", "いくらか、こんなときにいつもの埋合せがつくくらいにな", "悪くすると、自腹を切ることになるからな", "そうだ!" ], [ "吉良殿に、ちょっとお手すきなら、といって来い!", "はっ!" ], [ "この頃の七、八百両は、こたえます", "しかし、貴殿は塩田があって裕福だから", "そう見えるだけです" ], [ "七百両がで、ございますか", "そうだ", "しかし、これまでのがかかりすぎているのではありませんか、無用の費は、避けたいと思いますので" ], [ "かかりすぎていても、前々の例を破ってはならん。前からの慣例があって、それ以下の費用でまかなうと、自然、勅使に対して失礼なことができる", "しかし、礼不礼ということは、費用の金高にはよりますまい!", "それは理屈じゃ。こういうことは前例通りにしないと、とかく間違いができる", "しかし、年々出費がかさむようで……", "仕方がないではないか。諸式が年々に上るのだから、去年千両かかったものが、今年は千百両かかるのじゃ", "しかし、七百両で仕上りますものを、何も前年通りに……", "どう仕上る?" ], [ "それは、とくと見た。しかし、そうたびたびの勤めではないし、貴公のところは、きこえた裕福者ではないか。二百両か五百両……", "一口に、おっしゃっても大金です。出す方では……" ], [ "じゃ、この予算は認めていただけませんか", "こんな費用で、十分にもてなせると思えん", "おききしますが、饗応費はいくらの金高と、公儀で内規でもございますか" ], [ "後の人のためにもなりますから、私このたびは七百両で上げたいと思います", "慣例を破るのか", "慣例も時に破ってもいいと思います。後の人が喜びます", "ばか!", "ばかとは何です" ], [ "それだけか", "はい", "外に、何にも添えてなかったか", "添えてございません", "彼奴め、近年手元不如意とか、諸事倹約とか、内匠と同じようなことをいっていたが、そうか" ], [ "主も主なら家来も家来だ", "何か、申しましたか", "ばかだよ。あいつらは。揃いも揃って吝ん坊だ!", "どういたしました", "浅野は、表高こそ五万三千石だが、ほかに塩田が五千石ある。こいつは知行以外の収入で、小大名中の裕福者といえば、五本の指の中へはいる家ではないか。それに、手元不如意だなどと、何をいっている!", "まったく", "下らぬ手土産一つで、慣例の金子さえ持って来ん。大判の一枚、小判の十枚、わしは欲しいからいうのじゃない。慣例は、重んじてもらわなけりゃ困る。一度、前に勤めたことがあるから、今度はわしの指図は受けんという肚なのだろうが、こういうことに慣例を重んじないということがあるか。馳走費をたった七百両に減らすし、わしに慣例の金子さえ持って来ん。こういうこと、主人が何といおうと、家の長老たるべきものが、よきに計らうべきだが、藤井も安井も算勘の吏で、時務ということを知らん。国家老の大石でもおれば、こんなばかなことをすまいが。浅野は、今度の役で評判を悪くするぞ。公儀の覚えもめでたくなくなるぞ" ], [ "どこも、手落ちはないか", "無いと思う", "思うではいけない", "じゃ断じてない", "でも、七百両ではどこかに無理が出よう", "相役の伊達左京の方は、いくら使ったかしら?", "それはわからん!", "伊達より少ないと、肩身が狭いぞ" ], [ "内匠頭は?", "只今参上いたします" ], [ "はっ!", "取換えた畳か?", "はっ!", "何故、繧繝縁にせぬ?" ], [ "内匠を呼べ!", "はい只今!", "殿上人には、繧繝縁であることは子供でも知っている。この縁と繧繝とでは、いくら金がちがう?" ], [ "繧繝です", "繧繝にもいろいろある。これは、何という種類か", "それは知りません。しかし、畳屋には、繧繝といって命じました。確かに繧繝です", "模様が違う。取り換えなさい!", "取り換える?", "そうだ!", "今から", "作法上定まっている模様は、変えることにはなりませぬぞ。いくら、貴殿が慣例を破っても、こういうことは勝手には破れんからな。即刻、取り換えなさい。次……" ], [ "吉良殿は?", "おられます" ], [ "明日、模様替えがありますそうで、どういう風に……", "知らないのか", "ききもらしましたが、どうかお教えを!", "ききもらした! 不念な。どこで何をしていた?", "ちょっと忙しくて", "忙しいのは、お互いだ" ], [ "教えて下さらんのか?", "教えて下さらんというのか、内匠、貴殿、わしが教えてきいたことがあるか?", "明日のことは、儀式のことにて、公事ではござらぬか", "公事なればこそ、先刻通達したときに、なぜききもらした?", "それは、拙者の不念ゆえ、お教えを願っているのに" ], [ "それは、貴公だろう。金の惜しさに、前例まで破って!", "何!" ], [ "お上では、乱心者としてもっと寛大な処置を取ろうとなさいましたが、内匠頭は、乱心でない、上野は後の人のために生かしておけんなどと、いろいろ理屈をいったそうで、とうとう切腹に……", "あの意地張りの気短め、どこまで考えなしか分かりゃしない。そして、殿中ではどう評判をしている。どちらが悪いとかいいとか", "ええ、内匠頭の短慮と吝嗇はよく知っていますが、殿中で切りつけるには、よくよく堪忍のできぬことがあってのことだろうというので、やはり同情されています。梶川の評判はよくないようです。どうしてもっと十分にやらせてから、抱きとめなかったかと……", "無茶なことをいう、十分にやられてたまるものか。わしは軽い手傷だし、向うは切腹で家断絶だから、向うに同情が向くだろうが、といって、わしを非難するのは間違っている", "いや、父上を一概に非難してはいませんが", "いや、事情の分かっている殿中でそのくらいなら、ただことの結果だけを見る世間では、きっとわしをひどくいうだろう。わしは、今度のことでわるいとは思わん、わしは高家衆で、幕府の儀式慣例そういうものを守って行く役なのだ。その慣例を無視されたのでは、わしにどこに立つ瀬があるか。ことの起りは、あちらにある。ところが、殿中でわしに斬りつけるという乱暴なことをやったために、よくよくのことだということになって、たちまち彼奴が同情されることになるのだ。わしが、あの時殺されていても、やっぱり向うが同情されるだろう。あいつが、でたらめのことをやったということが、世間の同情を引くことになるのだ。ばかばかしい", "しかし、わけを知っている人は、よく分かっています", "そうだろう。だから、お上からも、わしはお咎めがなくて、あいつは切腹だ。しかし、世間は素直にそれを受け入れてくれないのだ。彼奴が乱暴なことをしただけで、向うに同情が向くのだ。思慮のない気短者を相手にしたのが、こちらの不覚だった。まるで、蝮と喧嘩したようなものだ。相手が悪すぎた", "まったく", "内匠も内匠だが、家来がもっと気が利いていれば、こんな事件にはならないのだが。わしは、迷惑至極だ。斬られた上に世間からとやかくいわれるなんて。こんな災難が、またとあるか" ], [ "どんな?", "内匠頭のために、御隠居を討つという" ], [ "何でわしを討つ? 内匠頭に斬られそこなった上に、まだその家来に斬られてたまるか", "なるほど、内匠頭が切腹を命ぜられたのは自業自得のようなもので、恨めば公儀を恨むべきで、老公を恨むところはないはずですが、ただ内匠頭が切腹のとき、近臣の士に、この怨みを晴らしてくれと遺言があったそうで、家臣の者の中に、その遺志を継ごうというものが数多あるそうで……", "主が、自分の短慮から命を落したのに、家来がその遺志を継ぐという法があるものか", "ところが、世間の者は、くわしい事理は知らずに、ただ敵討というだけで物を見ます。こういう衆愚の力は、恐ろしいものです。その吹く笛で踊る者が出てきます。それに、浅野浪人も、扶持に放れた苦しみが、この頃ようやく身にしみてきましたから、何かしらやりたいのです。仕官も思い通りにならないとすると、局面打開という意味で、何かやり出すにきまっています。彼らは、位置も禄もありませんから、強いのです。何かしてうまく行けば、それが仕官の種になりますし、失敗に終っても元々です。だから、この際、思い切って上杉邸へお引き移りになったらいかがですか" ], [ "わしは、ちっとも悪いことをしたと思っていない。わしと内匠頭の喧嘩は、七分まで向うがわるいと思っている。それを、こんな世評で白金へ引き移ったら、吉良はやっぱり後暗いことがあるといわれるだろう。わしは、それがしゃくだ", "御隠居も、なかなか片意地でございますな", "うむ。だが、わしはつまらない喧嘩を売られたとしか思っていない。わしは、喧嘩を売った内匠の家来たちに恨まれる筋はないと思っている", "理屈は、そうかも知れませぬが", "一体、浅野浪人の統領は誰だ!", "大石と申す国家老でございます", "大石内蔵助か。あの男なら、もっと事理が分かっているはずだ。わしを討つよりか、家再興の運動でもすると思うが。わしを討ってみい、浅野家再興の見込みは、永久に断たれるのだが", "さようでございましょうが、禄を失いました者どもは、それほどの事理を考える暇がございますまい。公儀という大きい相手よりも、手近な御隠居を……", "分かった! 分かった! しかし、内匠頭をいじめたようにとかく噂されている上に、今度はその敵討を恐れて逃げ回っているといわれて、わしの面目にかかわる。来たら来たときのことだが、千坂、結局噂だけではないか", "なれば結構でございますが。しかし、万一の御用意を", "だが、引き移るのはいやだよ", "それならば、、お付人として、手の利いたものを詰めさせる儀は", "うむ。それもいいが、なるべく世間の噂にならぬように", "はは" ], [ "狼籍者が、押し込みました", "浅野浪人か", "そうらしいです。すぐお立退きを" ], [ "こちらへ!", "どこへ行く", "お早く、お早く" ], [ "大勢か", "五、六十人。裏と表から", "五、六十人!" ], [ "外の加勢でもあるのではないか", "さあ", "別に悪いことをせん人間が、喧嘩を売られて傷を受け、世間からは憎まれた上に、また後で敵として討たれるなんて、こんなばかなことがあるものか" ], [ "本当に、浅野浪人か", "そうらしいです", "これで、俺が討たれてみい、俺は末世までも悪人になってしまう。敵討ということをほめ上げるために、世間は後世に俺を強欲非道の人間にしないではおかないのだ。俺は、なるほど内匠頭を少しいじめた。だが、内匠頭は、わしの面目を潰すようなことをしている。わしの差図をきかない上に、慣例の金さえ持って来ないのだ。これはどっちがいいか悪いか。しかし、先方が乱暴で、刃傷といった乱手をやるために、たちまち俺の方が欲深のように世間でとられてしまった。あいつはわしを斬り損じたが、精神的にわしは十分斬られているのだ。それだのに、まだ家来までがわしを斬ろうなどと、主人に斬られそこなったからといって、その家来に敵と狙われる理由がどこにあるか。まるで、理屈も筋も通らない恨み方ではないか。わしに何の罪がある。ひどい! まったくでたらめだ!" ], [ "行ったのかな", "いいえ。まだまだ" ], [ "誰だ! 貴公は", "大石がいたら……", "いなさる" ], [ "未練な!", "卑怯者め!" ] ]
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:大野 晋 2000年2月8日公開 2005年10月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "あなたの義務も、やはりそれを、要求するのだ、お帰りなさい", "お前こそ", "あなたこそ" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:らぴす 1999年5月18日公開 2005年10月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "男ですか、女ですか。", "どうも女らしいですよ、今髪が見えたようですから。", "こんな水の浅い川で死ねるのでしょうか。", "夜通し、這入っていると、凍え死に死ぬのですよ、もう水の中が冷いですからね。" ] ]
底本:「世界は笑う〈新・ちくま文学の森13〉」筑摩書房    1995(平成7)年9月25日第1刷発行 底本の親本:「現代日本文學大系 44 山本有三・菊池寛集」筑摩書房    1972(昭和47)年10月20日初版第1刷発行 初出:「中央文學」    1918(大正7)年6月号 ※表題は底本では、「死者を嗤《わら》う」となっています。 入力:hitsuji 校正:友理 2022年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "060760", "作品名": "死者を嗤う", "作品名読み": "ししゃをわらう", "ソート用読み": "ししやをわらう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央文學」1918(大正7)年6月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-03-06T00:00:00", "最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card60760.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "世界は笑う〈新・ちくま文学の森13〉", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年9月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年9月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年9月25日第1刷", "底本の親本名1": "現代日本文學大系 44 山本有三・菊池寛集", "底本の親本出版社名1": "筑摩書房", "底本の親本初版発行年1": "1972(昭和47)年10月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "hitsuji", "校正者": "友理", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/60760_ruby_75120.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/60760_75158.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "うむ! B社から、それはいゝね。幾ら刷るのだ。", "二千五百部。", "そうだろう。僕のも同じだった。装幀はやっぱり右田茂かい。あっさりしていゝね。", "校正は、自分でやらなきゃいけないのかね。", "B社なら、初校さえ見て置けば、再校は向うで見て呉れるよ。" ], [ "おい! ソーダ水でも飲もうじゃないか。", "うむ飲もう。" ] ]
底本:「菊池寛文學全集 第三巻」文藝春秋新社    1960(昭和35)年5月20日発行 初出:「電氣と文藝」    1920(大正9)年9月号 入力:卯月 校正:友理 2022年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "君の方で分かっていようがいまいが、札をくれるのが規則だろう", "いや間違えやしません。あなたの顔は知っています", "知っていようがいまいが問題じゃない。札をくれたまえ。規則だろう" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:鈴木伸吾 1999年3月8日公開 2005年10月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "判官どの、のう! 今一言申し残せしことの候ぞ。小舟なりとも寄せ候え", "基康どの、僧都をあわれと思召さば、せめて九国の端までも、送り届け得させたまえ" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:真先芳秋 校正:大野 晋 2000年8月28日公開 2005年10月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001101", "作品名": "俊寛", "作品名読み": "しゅんかん", "ソート用読み": "しゆんかん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-08-28T00:00:00", "最終更新日": "2023-06-22T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card1101.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "菊池寛 短篇と戯曲", "底本出版社名1": "文芸春秋", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年3月25日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1988(昭和63)年3月25日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "真先芳秋", "校正者": "大野晋", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1101_ruby_19884.zip", "テキストファイル最終更新日": "2023-06-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "4", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1101_19885.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2023-06-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "何処までいらっしゃいます。", "湯河原まで。", "湯河原までじゃ、十五円で参りましょう。本当なれば、もう少し頂くのでございますけれども、此方からお勧めするのですから。" ], [ "じゃ、東京からいらっしたんじゃないんですか。", "そうです。三保の方へ行っていたのです。" ], [ "三保と云えば、三保の松原ですか。", "そうです。彼処に一週間ばかりいましたが、飽きましたから。", "やっぱり、御保養ですか。" ], [ "学校の方は、ズーッとお休みですね。", "そうです、もう一月ばかり。" ], [ "いや、若し遅くなれば、僕も湯河原で一泊しようと思います。熱海へ行かなければならぬと云う訳もないのですから。", "それじゃ、是非湯河原へお泊りなさい。折角お知己になったのですから、ゆっくりお話したいと思います。" ], [ "いや何うもしないのだ。たゞ、自動車が崖にぶっ突かってね。乗合わしていた大学生が負傷したのだ。", "貴君は、何処もお負傷はなかったのですか。", "運がよかったのだね。俺は、かすり傷一つ負わなかったのだ。", "そしてその学生の方は。", "重傷だね。助からないかも知れないよ。まあ奇禍と云うんだね。" ], [ "それじゃ、青木君とあの瑠璃子夫人とは、そう大したお交際でもなかったのですね。", "いやそんな事もありませんよ。此半年ばかりは、可なり親しくしていたようです。尤もあの奥さんは、大変お交際の広い方で、僕なぞも、青木君同様可なり親しく、交際している方です。" ], [ "じゃ、可なり自由な御家庭ですね。", "自由ですとも、夫の勝平氏を失ってからは、思うまゝに、自由に振舞っておられるのです。" ], [ "実は、私は青木君のお友達ではありません。只偶然、同じ自動車に乗り合わしたものです。そして青木君の臨終に居合せたものです。", "ほゝう貴君さまが……" ], [ "これは、何処からお買いになったのです。", "いや、買ったのではありません。ある人から貰ったのです。" ], [ "妾来なければよかったわ。でも、お父様が一緒に行こう〳〵云って、お勧めになるものですから。", "僕も、妹のお伴で来たのですが、こう混雑しちゃ厭ですね。それに、此の庭だって、都下の名園だそうですけれども、ちっともよくないじゃありませんか。少しも、自然な素直な所がありゃしない。いやにコセ〳〵していて、人工的な小刀細工が多すぎるじゃありませんか。殊に、あの四阿の建て方なんか厭ですね。" ], [ "でも、何か召し上ったら何う。折角いらしったのですもの。", "僕は、成金輩の粟を食むを潔しとしないのです。ハヽヽヽ。" ], [ "お前は、今年の正月俺が云った言葉を、まさか忘れはしまいな。", "覚えています。", "覚えているか、それじゃお前は、此の家にはおられない訳だろう。" ], [ "兄さん! 待って下さい!", "お放しよ。瑠璃ちゃん!" ], [ "一体どんなお話が、ございましたの。妾の事を、杉野さんは何う仰しゃるのでございますか。", "訊くな。訊くな。訊かぬ方がいゝ。聞くと却って気を悪くするから。あんな賤しい人間の云うことは、一切耳に入れぬことじゃ。" ], [ "じゃ、何うして侮辱になりますの、あの方から、侮辱を受ける覚えがないのでございますもの。", "それを侮辱するから怪しからないのだ。俺を侮辱するばかりでなく、清浄潔白なお前までも侮辱してかゝるのだ。" ], [ "本当でございますの? 杉野さんが、本当に荘田と仰しゃったのでございますの?", "確かに、あの男だと云わないが、何うも彼奴の事らしい。杉野はお前の話を始める前に、それとなく荘田の事を賞めているのだ。何うも彼奴らしい。金が出来たのに、付け上って、華族の娘をでも貰いたい肚らしいが、俺の娘を貰いに来るなんて狂人の沙汰だ!" ], [ "まあ、何を仰しゃるのでございます、死ぬなどと。まあ何を仰しゃるのでございます。一体何うしたと云って、そんな事を仰しゃるのでございます。", "あゝ恥しい。それを訊いて呉れるな! 俺はお前にも顔向けが出来ないのだ! 彼奴の恐ろしい罠に、手もなくかゝったのだ。あんな卑しい人間のかけた罠に、狐か狸かのように、手もなくかゝったのだ。恥しい! 自分で自分が厭になる!" ], [ "金は、人の心を腐らすものだ。彼奴までが、十何年と云う長い間、目をかけて使ってやった彼奴迄が、金のために俺を売ったのだ。金のために、十数年来の旧知を捨てゝ、敵の犬になったのだ。それを思うと、俺は坐っても立ってもおられないのだ!", "木下が、何うしたと云うのでございます。" ], [ "あれは誰のものでもない、あの荘田のものなのだ。荘田のものを、空々しく俺の所へ持って来たのだ。", "何の為でございましたろう。何だってそんなことを致したのでございましょう。でも、お父様はあの晩、直ぐお返しになったではございませんか。" ], [ "なるのだ! 逆に取って、逆に出るのだから、堪らないのだ。預っている他人の品物は、売っても質入してもいけないのだ。", "でも、そんなことは、世間に幾何もあるではございませんか。", "そうだ! そんなことは幾何でもある、俺もそう思ってやったのだ。が、向うでは初から謀ってやった仕事だ。俺が少しでも、蹉くのを待っていたのだ。蹉けば後から飛び付こうと待っていたのだ。" ], [ "が、瑠璃子! 法律と云うものは人間の行為の形丈を、律するものなのだ。荘田が、悪魔のような卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れていなければ、大手を振って歩けるのだ。俺は切羽詰って一寸逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止むを得なかったのだ。が、俺の行為の形は、ちゃんと法律に触れているのだ。法律が罰するものは、荘田の恐ろしい心ではなくして、俺の一寸した心得違の行為なのだ。行為の形なのだ!", "若し、法律がそんなに、本当の正義に依って、動かないものでしたら、妾は法律に依ろうとは思いません。妾の力で荘田を罰してやります。妾の力で、荘田に思い知らせてやります。" ], [ "はゝゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はそう易々とは、死なないよ。いや待っていたまえ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、先方が泣きを入れさえすれば、そうは苛めないよ。もと〳〵、一寸した意地からやっていることだからね。", "それでも、もしお嬢さんをよこすと云ったら御結婚になりますかね。", "いや、それだがね。俺も考えたのだよ。いくら何だと言っても、二十五六も違うのだろう。世間が五月蠅からね。只でさえ『成金! 成金!』と、いやな眼で見られているんだろう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、俺が花婿になることは思い止まったよ。倅の嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年丈は似合っているからね。その事は先方へも云って置いたよ。", "御子息の嫁に!" ], [ "それがね。令嬢が、案外脆かったのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽したらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思うのです。私の所へ、今朝そっと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄して呉れるのなら荘田家へ輿入れしてもいゝと云うのです。", "なるほど、うむ、なるほど。" ], [ "いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいと仰しゃるのです。", "あゝ分った! 杉野さん! 貴君の御子息なら、僕の所へ来る理由が、大にあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈伏しようと云う今の場合、是非とも来なければならない方です。そうだ! 私も会いたかった。そうだ! 私も会いたかった! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしていましたと云ってね。貴君方は、別室で待っていたゞくかね。いや、立会人があった方が、結局いゝかな。そうだ! 早くお通しするのだ!" ], [ "お前さんの知ったことじゃない。お前さんは、そんなことは、一切考えないで、気を落着けているのだ。いゝか。いゝか。", "いゝえ! いゝえ! 妾を打ったために、あの方が牢へ行かれるようなことが、ございましたら、妾は生きては、おりません。お父様! どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。" ], [ "お母様と申上げるのでございますよ。お父様のお嫁になって下さるのでございますよ。", "何んだ、お父様のお嫁! お父様は、ずるいや。俺に、お嫁を取って呉れると云っていながら、取って呉れないんだもの。" ], [ "水に流すと云うことがございますね。妾達は、此の証文を火で焼いたように、これまでのいろいろな感情の行き違いを、火に焼いてしまおうと思いますの……ほゝゝゝ、火に焼く! その方がよろしゅうございますわ。", "あゝそう〳〵、火に焼く、そうだ、後へ何も残さないと云うことだな。そりゃ結構だ。今までの事は、スッカリ無いものにして、お互に信頼し愛し合って行く。貴女が、その気でいて呉れゝば、こんな嬉しいことはない。" ], [ "いゝえ! 妾が自身で掛けたいと思いますの。", "自身で、うむ、それなら、其処に卓上電話がある。" ], [ "あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代えられない。直ぐ自動車で行って、しっかり介抱して上げるのだ。", "そう言って下さると、妾本当に嬉しゅうございますわ。" ], [ "ゆっくりと行っておいで、向うへ行ったら、電話で容体を知らして呉れるのだよ。", "直ぐお知らせしますわ。でも、此方から訊ねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申しているそうでございますから。", "うむよし〳〵。じゃ、よく介抱して上げるのだよ。出来る丈の手当をして上げるのだよ。" ], [ "何時って、何時でも云っている。部屋の前になら、何時まで立っていてもいゝって、番兵になって呉れるのならいゝって!", "じゃ、お前は今夜だけじゃないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!" ], [ "お庭でございます。", "庭から、早く帰って来るように云って来るのだ。俺が起きているじゃないか。" ], [ "勝彦さんに、連れて行っていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。妾一人だと買物をするのに何だか定りが付かなくって困りますのよ。表面丈でもいゝからいゝとか何とか合槌を打って下さる方が欲しいのよ。", "それなら、美奈子と一緒に行らっしゃい。" ], [ "妾、本当に早く帰って下さればいゝと思っていましたのよ。男手がないと何となく心細くってよ。", "はゝゝ、瑠璃子さんが、俺を心から待ったのは今宵が始めてだろうな、はゝゝゝゝ。" ], [ "好きです。高等学校にいたときは、音楽会の会員だったのです。", "ピアノお奏きになって?", "簡単なバラッドや、マーチ位は奏けます。はゝゝゝゝ。", "ピアノお持ちですか。", "いいえ。", "じゃ、妾の宅へ時々、奏きにいらっしゃいませ。誰も気の置ける人はいませんから。" ], [ "みんなが、妾を探しているようですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下の食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでしょうね。", "はあ! 結構です。" ], [ "おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでいますと、遅くなってしまいますわ。如何でございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいゝでございましょう。", "はあ! それで結構です。" ], [ "貴君! お宅は何方!", "信濃町です。", "それじゃ、院線で御帰りになるのですか。", "市電でも、院線でも孰らでゞも帰れるのです。", "それじゃ、院線で御帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでしょう。妾の自動車で万世橋までお送りいたしますわ。" ], [ "いゝえ恐れ入ります。電車で帰った方が勝手ですから。", "あら、そんなに改まって遠慮して下さると困りますわ。妾本当は、お茶でもいたゞきながら、ゆっくりお話がしたかったのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなってしまったのですもの。せめて、一緒に乗っていたゞいて、お話したいと思いますの。死んだ青木さんのことなども、お話したいことがございますのよ。", "でも御迷惑じゃございませんか。" ], [ "先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変仏蘭西語が、お上手でいらっしゃいますね。", "まあ! お恥かしい。聴いていらしったの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云う方、大変感じのいい方よ。大抵お話が通ずるのですよ。", "何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。" ], [ "まあ! お賞めに与って有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した丈なのですよ。貴君は仏法の出身でいらっしゃいますか。", "そうです。高等学校時代から、六七年もやっているのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西人が来ると、私丈が仏蘭西語が出来ると云うので、応接を命ぜられるのですが、その度毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直ぐ外交官夫人として、巴里辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思います。" ], [ "やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。", "はい、近代のものとか、古典とか申し上げるほど、沢山はよんでおりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌いでございますわ。何うも日本の文壇などで、仏蘭西文学とか露西亜文学だとか申しましても、英語の廉価版のある作家ばかりが、流行っているようでございますわね。" ], [ "モウパッサンが、お嫌いなのは僕も同感ですが、じゃ、どんな作家がお好きなのです?", "一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌いではありませんわ。", "メリメは、どんなものがお好きです。", "みんないゝじゃありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になってしまいましたが、原作はほんとうにいゝじゃありませんか。", "あの女主人公を何うお考えになります。", "好きでございますよ。" ], [ "何かお宅に御用事があるかどうか、お伺いいたしましたのよ。", "いゝえ! 別に。" ], [ "もし貴女さえ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思います。", "あらそう。付き合って下さいますの。それじゃ、直ぐ、丸の内へ。" ], [ "失礼ですが、奥様おありになって?", "はい。", "御心配なさらない! 黙って行らしっては?", "いゝえ。決して。" ], [ "本当に御迷惑じゃございませんでしたの。芝居はお嫌いじゃありませんの。", "いゝえ! 大好きです。尤も、今の歌舞伎芝居には可なり不満ですがね。", "妾も、そうですの。外に行く処もありませんからよく参りますが、妾達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違っているのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云えば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のような女ばかりでございますのね。", "同感です。全く同感です。" ], [ "暫く御無沙汰致しました。", "ほんとうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになったって、新聞に出ていましたが、行らっしゃらなかったの。", "いや、何処へも行きやしません。", "それじゃ、やっぱり例の長篇で苦しんでいらしったの。本当に、妾の家へいらっしゃる道を忘れておしまいになったのかと思っていましたの。ねえ! 三宅さん。" ], [ "やあ!", "やあ!" ], [ "そう云う観方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いているじゃありませんか。何も、紅葉一人丈じゃないと思いますね。", "いや、徳川時代文学の糟粕などを、少しも嘗めないで、明治時代独特の小説をかいている作家がありますよ。", "そんな作家が、本当にありますか。" ], [ "一葉! 妾スッカリ忘れていましたわ。そう〳〵一葉がいますね。妾が、今まで読んだ小説の女主人公の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利ほど好きな女性はないのですもの。", "御尤もです。勝気で意地っ張なところが貴女に似ているじゃありませんか。" ], [ "『たけくらべ』! ありゃ明治文学第一の傑作ですね。", "ありゃ、僕も昔読んだことがある。ありゃ確にいゝ。", "あゝそう〳〵、吉原の附近が、光景になっている小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがいたじゃありませんか。", "女主人公が、それを潜に恋している。が、勝気なので、口には云い出せない。その中に、一寸した意地から不和になってしまう。", "信如とか何とか云う坊さんの子が、下駄の緒を切らして困っていると、美登利が、紅入友禅か何かの布片を出してやるのを、信如が妙な意地と遠慮とで使わない。あの光景なんか今でもハッキリと思い出せる。" ], [ "先刻は大変失礼しましたこと。あの方達を帰してしまった後で、ゆっくり貴君とお話がしたかったのよ。差し上げました御手紙御覧下すって?", "見ました。" ], [ "貴女の本当のお心持が、分らないものですから、何うお答えしてよいか当惑する丈です。", "あれでお分りにならないの。あれで、十分分って下すってもいゝと思いますの。妾が、貴君のことを何う考えていますか。" ], [ "奥さん! 帰るときが来れば、お指図を待たなくっても帰ります。が、只今伺ったのは、貴女のお手紙の為ばかりじゃないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴って帰った以上、貴女のお召状丈で、ノメ〳〵とやっては来ません。", "おや! それでは、妾はその点でも飛んだ思違いをしていましたのね。" ], [ "貴女に申し上ぐべきこと、当然お願いすべき用事があればこそ参ったのです。それが済むまでは、貴女が幾ら帰れと仰しゃったって、帰れません。貴女も一度僕と会った以上、自分の用事丈が、済んだと云って、そう手軽に僕を追い返す権利はありません。", "大変御尤もな仰せです。それではその用事とかを承わろうじゃありませんか。" ], [ "死人に口がないと思って、そんなことを仰しゃっては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と云う海軍大尉があった筈です。まさか、ないとは仰しゃいますまいね。", "よく御存じですね。" ], [ "でも、死んだ方に悪いのですもの。", "死んだ方に悪い! 貴女はまだ死者を蔑もうとなさるのですか。死者を誣いようとなさるのですか。" ], [ "いや! 奥さん、僕は貴女のお心が、始めて解ったように思います。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女に忠告がましいことを言ったのを、お詫します。貴女が、一身を賭して、貴女の思い通り、生活なさることを、他からかれこれ云うことの愚さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇する前に、たった一つ丈お願いがあるのです。聴いて下さるでしょうか。", "どんなお願いでございましょうか。妾にも出来ることでございましたら。" ], [ "だって! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのじゃないの。", "でも、今日も何だか行きたかったの。妾楽しみにしていたのです。", "そう! じゃ、自動車で行って来てはどう。自動車を降りてから、三十間も歩けばいゝのですもの。" ], [ "軽井沢は去年行ったし、妾今年は箱根へ行こうかしらと思っているの。今年は電車が強羅まで開通したそうだし、便利でいゝわ。", "妾箱根へはまだ行ったことがありませんの。", "それだと尚いゝわ。妾温泉では箱根が一番いゝと思うの。東京には近いし景色はいゝし。じゃやっぱり箱根にしましょうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合を訊き合せましょうね。" ], [ "そう〳〵。あの方を美奈さんに紹介して置くのだったわ。貴女まだ御存じないのでしょう。", "はい! 存じませんわ。", "学習院の方よ。時々制服を着ていらっしゃることがあってよ。気が付かない?", "いゝえ! 一度もお目にかゝったことありませんわ。", "青木さんと云う方よ。" ], [ "おや! 何うして御存じ?", "はゝゝ、お駭きになったでしょう。お隠しになったって駄目ですよ。我々の諜報局には、奥さんのなさることは、スッカリ判っているのですからね。" ], [ "使っておりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちゃいけませんよ。", "じゃ! 行先も判って?", "判っていますとも。箱根でしょう。而も、お泊りになる宿屋まで、ちゃんと判っているのです。" ], [ "云っても介意いませんか。", "介意いませんとも。" ], [ "まあ! 何とでも仰しゃいよ。でも青木さんのいらっしゃらないのは本当よ。論より証拠青木さんは、お見えにならないじゃありませんか。", "奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際に姿を現して、我々がアッと云っている間に、汽笛一声発車してしまうのじゃありませんか。貴女のなさることは、大抵そんなことですからね。" ], [ "いゝえ! いけませんよ。此の夏は男禁制! 誰かの歌に、こんなのが、あるじゃありませんか。『大方の恋をば追わず此の夏は真白草花白きこそよけれ』妾も、そうなのよ、此の夏は、本当に対人間の生活から、少し離れていたいと思いますの。", "ところが、奥さん。その真白草花と云うのが、案外にも青木弟だったりするのじゃありませんか。" ], [ "いらっしゃるのよ。", "後からいらっしゃるの?" ], [ "お父様やお母様が、そうした御心配をなさるのは、尤と思いますわ。でも貴君迄が、それに感化れると云うことはないじゃありませんか。縁起などと、云う言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。", "でも、奥さん! 肉親の者が、命を殞した殆ど同じ自動車に、まだ一月も経つか経たないかに乗ると云うことは、縁起だとか何とか云う問題以上ですね。貴女だって、もし近しい方が、自動車であゝした奇禍にお逢いになると、屹度自動車がお嫌いになりますよ。", "そうかしら。妾は、そうは思いませんわ。だってお兄さんだって妾には可なり近しい方だったのですもの。" ], [ "そうですね。でも、荷物なんかが邪魔じゃない?", "荷物は、このまゝ自動車で届けさえすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思いますわ。", "そうね。じゃ、乗り換えて見ましょうか。青木さんは、無論御賛成でしょうね。" ], [ "お母様は、却々お帰りになりませんね。", "はい。" ], [ "やっぱり空気がいゝのですね。東京の空と違って、塵埃や煤煙がないのですね。", "山の緑が映っているような空でございますこと。" ], [ "あの時、僕は本当に貴女の態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥しいし、お母様も意地になって、あゝうまくは行かなかったのでしょうが、貴女の自然な無邪気な申出には、遉の荘田夫人も、直ぐ賛成しましたからね。僕は、今まで荘田夫人を、女性の中で最も聡明な人だと思っていましたが、貴女のあの時の態度を見て、世の中には荘田夫人の聡明さとは又別な本当に女性らしい聡明さを持った方があるのを知りました。", "まあ! あんなことを。妾お恥かしゅうございますわ。" ], [ "今に御結婚でもなされば、今のような寂しさは、自然無くなるだろうと思います。", "あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考えて見たこともございませんわ。" ], [ "いや、実はこんな噂があるのです。荘田夫人は、本当はまだ処女なのだ。そして、将来は屹度再婚せられる。屹度再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろ〳〵な噂があるものですから、貴女にでも伺って見れば本当の事が分りゃしないかと思ったのです。", "妾、ちっとも存じませんわ。" ], [ "証拠と云って、品物を下さいと云うのじゃありません。僕が、先日云ったことに、ハッキリと返事をしていたゞきたいのです。たゞ『待っていろ』ばかりじゃ僕はもう堪らないのです。", "先日云ったことって、何?" ], [ "返事を待て、返事を待って呉れと、仰しゃる。が、その返事がいゝ返事に定まっていれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待って、その返事が悪い返事だったら、一体何うなるのです。僕は青春の感情を、貴女に散々弄ばれて、揚句の端に、突き離されることになるのじゃありませんか。貴女は、僕を何ちらとも付かない迷いの裡に、釣って置いて、何時までも何時までも、僕の感情を弄ぼうとするのではありませんか。僕は、貴女のなさることから考えると、そう思うより外はないのです。", "まさか、妾そんな悪人ではないわ。貴君のお心は、十分お受けしているのよ。でも、結婚となると妾考えるわ。一度あゝ云う恐ろしい結婚をしているのでしょう。妾結婚となると、何か恐ろしい淵の前にでも立っているようで、足が竦んでしまうのです。無論、美奈子が結婚してしまえば、妾の責任は無くなってしまうのよ。結婚しようと思えば、出来ないことはないわ。が、その時になって、本当に結婚したいと思うか、したくないか、今の妾には分らないのよ。" ], [ "明後日! 本当に明後日までですか。", "嘘は云いませんわ。" ], [ "一体今の人は誰です。御存じじゃありませんか。", "いゝえ! ちっとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑しな人ですわね。妾達を、じっと見詰めたりなんかして。" ], [ "お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると云っているのじゃありませんか。", "何! 何! 何と仰しゃるのです。" ], [ "いゝえ! 妾、美奈さんにも、是非とも聞いていたゞきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合っていたゞきたいと思ったのです。あんなお話は、二人切りで、すべきものではないと思いますもの。たゞさえ、妾色々な風評の的になって、困っているのですもの。あゝいうお話はなるべく陰翳の残らないように、ハッキリと片を付けて置きたいと思いますの。ねえ、美奈さん、貴女このお話の、証人になって下さるでしょうねえ。", "あ! 奥さん! 貴女は! 貴女は!" ], [ "文字通に、そう云われたとは云いません。が、それと同じことを私に云われたのです。", "何時! 何処で?" ], [ "貴君さえお差支えなけれや。", "じゃ、僕の部屋へ来て下さい。丁度妻は、湯に入っていますので誰もいませんから。" ], [ "実は、お兄さんが遭難されたとき、同乗していたと云う一人の旅客は私なのです。", "えゝっ!" ], [ "ありましたとも。それは、貴君にも直ぐ判りますが。", "自殺! 自殺の意志。もしあったとすれば、それは何のための自殺でしょう。", "ある婦人のために、弄ばれたのです。" ], [ "ありますとも。お兄さんの遺言と云うのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄さんの恨みを伝えて呉れと云うことだったのです。", "うゝむ!" ], [ "其処に白金の時計のことが、書いてあるでしょう。お兄さんは、死なれる間際に、その時計を返して呉れと云われたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物は、お兄さんの血で、真赤に染められていたのです。衝突のときに、硝子が壊れたと見え、血が時計の胴に浸んでいたのです。", "それを何うしました。それを何うしました。" ], [ "無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持を酌んで、それを叩き返してやろうと思ったのです。それを返しながら、お兄さんの怨みを、知らせてやろうと思ったのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲き上げられてしまったのです。あの方は、妖婦です。僕達には、とても真面に太刀打は出来ない人です。", "妖婦! 妖婦!" ], [ "お母様! そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。", "いゝえ! わたし、覚悟していますの。美奈さんには、すみませんわね。" ], [ "願いって何です?", "聴いてくれますか。", "聴きますとも。" ] ]
底本:「真珠夫人(上)」新潮文庫、新潮社    2002(平成14)年8月1日発行    「真珠夫人(下)」新潮文庫、新潮社    2002(平成14)年8月1日発行 初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」    1920(大正9年)6月9日~12月22日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「甲斐々々《かいがい》しく」と「甲斐甲斐《かいがい》しく」の混在は、底本通りです。 入力:kompass 校正:トレンドイースト、門田裕志、Juki 2014年5月14日作成 2016年9月7日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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法律と云ふものは人間の行為の形丈を、律するものなのだ。荘田が、悪魔のやうな卑しい悪事を働いても、その形が法律に触れて居なければ、大手を振つて歩けるのだ。俺は切羽詰つて一寸逃れに、知人の品物を質入れした。世間に有り触れたことで、事情止むを得なかつたのだ。が、俺の行為の形は、ちやんと法律に触れてゐるのだ。法律が罰するものは、荘田の恐ろしい心ではなくして、俺の一寸した心得違の行為なのだ。行為の形なのだ!", "若し、法律がそんなに、本当の正義に依つて、動かないものでしたら、妾は法律に依らうとは思ひません。妾の力で荘田を罰してやります。妾の力で、荘田に思ひ知らせてやります。" ], [ "はゝゝゝ、大丈夫だよ。人間はさう易々とは、死なないよ。いや待つてゐたまへ。今に、泣きを入れに来るよ。なに、先方が泣きを入れさへすれば、さうは苛めないよ。もと〳〵、一寸した意地からやつてゐることだからね。", "それでも、もしお嬢さんをよこすと云つたら御結婚になりますかね。", "いや、それだがね、俺も考へたのだよ。いくら何だと言つても、二十五六も違ふのだらう。世間が五月蠅からね。只でさへ『成金! 成金!』と、いやな眼で見られてゐるんだらう。それだのに、そんな不釣合な結婚でもすると、非難攻撃が、大変だからね。それで、俺が花婿になることは思ひ止まつたよ。倅の嫁にするのだ。倅の嫁にね。あれとなら、年丈は似合つてゐるからね。その事は先方へも云つて置いたよ。", "御子息の嫁に!" ], [ "それがね。令嬢が、案外脆かつたのですよ。お父様が、監獄へ行くかも知れないと聞いて、狼狽したらしいのです。父一人子一人の娘としては、無理はないとも思ふのです。私の所へ、今朝そつと手紙を寄越したのです。父に対する告訴を取り下げた上に、唐沢家に対する債権を放棄して呉れるのなら荘田家へ輿入れしてもいゝと云ふのです。", "なるほど、うむ、なるほど。" ], [ "いゝえ! 御主人にお目にかゝりたいと仰しやるのです。", "あゝ分つた! 杉野さん! 貴君の御子息なら、僕の所へ来る理由が、大にあるのです。殊に今の場合、唐沢のお嬢さんが、私に屈服しようと云ふ今の場合、是非とも来なければならない方です。さうだ! 私も会ひたかつた。さうだ! 私も会ひたかつた! おい、お通しするのだ。主人もお待ちしてゐましたと云つてね。貴君方は、別室で待つていたゞくかね。いや、立会人があつた方が、結局いゝかな。さうだ! 早くお通しするのだ!" ], [ "お前さんの知つたことぢやない。お前さんは、そんなことは、一切考へないで、気を落着けてゐるのだ。いゝか。いゝか。", "いゝえ! いゝえ! 妾を打つたために、あの方が牢へ行かれるやうなことが、ございましたら、妾は生きては、をりません。お父様! どうぞ、どうぞ、内済にして下さいませ。" ], [ "お母様と申上げるのでございますよ。お父様のお嫁になつて下さるのでございますよ。", "何んだ、お父様のお嫁! お父様は、ずるいや。俺に、お嫁を取つて呉れると云つてゐながら、取つて呉れないんだもの。" ], [ "水に流すと云ふことがございますね。妾達は、此の証文を火で焼いたやうに、これまでのいろいろな感情の行き違ひを、火に焼いてしまはうと思ひますの……ほゝゝゝ、火に焼く! その方がよろしうございますわ。", "あゝさう〳〵、火に焼く、さうだ、後へ何も残さないと云ふことだな。そりや結構だ。今までの事は、スツカリ無いものにして、お互に信頼し愛し合つて行く。貴女が、その気でゐて呉れゝば、こんな嬉しいことはない。" ], [ "いゝえ! 妾が自身で掛けたいと思ひますの。", "自身で、うむ、それなら、其処に卓上電話がある。" ], [ "あゝいゝとも、いゝとも。お父様の大事には代へられない。直ぐ自動車で行つて、しつかり介抱して上げるのだ。", "さう言つて下さると、妾本当に嬉しうございますわ。" ], [ "ゆつくりと行つておいで、向うへ行つたら、電話で容体を知らして呉れるのだよ。", "直ぐお知らせしますわ。でも、此方から訊ねて下さると困りますのよ。父は、荘田へは決して知らせてはならない。大切な結婚の当夜だから、死んでも知らしてはならないと申してゐるさうでございますから。", "うむよし〳〵。ぢや、よく介抱して上げるのだよ。出来る丈の手当をして上げるのだよ。" ], [ "何時つて、何時でも云つてゐる。部屋の前になら、何時まで立つてゐてもいゝつて、番兵になつて呉れるのならいゝつて!", "ぢや、お前は今夜だけぢやないのか。馬鹿な奴め! 馬鹿な奴め!" ], [ "お庭でございます。", "庭から、早く帰つて来るやうに云つて来るのだ。俺が起きてゐるぢやないか。" ], [ "勝彦さんに、連れて行つていたゞいたらいけませんの。一人だと何だか心細いのですもの。妾一人だと買物をするのに何だか定りが付かなくつて困りますのよ。表面丈でもいゝからいゝとか何とか合槌を打つて下さる方が欲しいのよ。", "それなら、美奈子と一緒に行らつしやい。" ], [ "妾、本当に早く帰つて下さればいゝと思つてゐましたのよ。男手がないと何となく心細くつてよ。", "はゝゝ、瑠璃子さんが、俺を心から待つたのは今宵が始めてだらうな、はゝゝゝゝ。" ], [ "好きです。高等学校にゐたときは、音楽会の会員だつたのです。", "ピアノお奏きになつて?", "簡単なバラッドや、マーチ位は奏けます。はゝゝゝゝ。", "ピアノお持ちですか。", "いゝえ。", "ぢや、妾の宅へ時々、奏きにいらつしやいませ。誰も気の置ける人はゐませんから。" ], [ "みんなが、妾を探してゐるやうですから、失礼いたしますわ。会が終りましたら、階下の食堂でお茶を一緒に召上りませんか。約束して下さいますでせうね。", "はあ! 結構です。" ], [ "おやもう、六時でございますわ。お茶なんか飲んでゐますと、遅くなつてしまひますわ。如何でございます。あのお約束は、またのことにして下さいませんか。ねえ! それでいゝでございませう。", "はあ! それで結構です。" ], [ "貴君! お宅は何方!", "信濃町です。", "それぢや、院線で御帰りになるのですか。", "市電でも、院線でも孰らでゞも帰れるのです。", "それぢや、院線で御帰りなさいませ。万世橋でお乗りになるのでせう。妾の自動車で万世橋までお送りいたしますわ。" ], [ "いゝえ恐れ入ります。電車で帰つた方が勝手ですから。", "あら、そんなに改まつて遠慮して下さると困りますわ。妾本当は、お茶でもいたゞきながら、ゆつくりお話がしたかつたのでございますよ。それだのに、ついこんなに遅くなつてしまつたのですもの。せめて、一緒に乗つていたゞいて、お話したいと思ひますの。死んだ青木さんのことなども、お話したいことがございますのよ。", "でも御迷惑ぢやございませんか。" ], [ "先刻、一寸立ち聴きした訳ですが、大変仏蘭西語が、お上手でいらつしやいますね。", "まあ! お恥かしい。聴いていらしつたの。動詞なんか滅茶苦茶なのですよ。単語を並べる丈。でもあのアンナと云ふ方、大変感じのいゝ方よ。大抵お話が通ずるのですよ。", "何うして滅茶苦茶なものですか。大変感心しました。" ], [ "まあ! お賞めに与つて有難いわ。でも、本当にお恥かしいのですよ。ほんの二年ばかり、お稽古した丈なのですよ。貴君は仏法の出身でいらつしやいますか。", "さうです。高等学校時代から、六七年もやつてゐるのですが、それで会話と来たら、丸切り駄目なのです。よく、会社へ仏蘭西人が来ると、私丈が仏蘭西語が出来ると云ふので、応接を命ぜられるのですが、その度毎に、閉口するのです。奥さんなんか、このまゝ直ぐ外交官夫人として、巴里辺の社交界へ送り出しても、立派なものだと思ひます。" ], [ "やはり近代のものをお好きですか、モウパッサンとかフローベルなどとか。", "はい、近代のものとか、古典とか申し上げるほど、沢山はよんでをりませんの。でも、モウパッサンなんか大嫌ひでございますわ。何うも日本の文壇などで、仏蘭西文学とか露西亜文学だとか申しましても、英語の廉価版のある作家ばかりが、流行つてゐるやうでございますわね。" ], [ "モウパッサンが、お嫌ひなのは僕も同感ですが、ぢや、どんな作家がお好きなのです?", "一等好きなのは、メリメですわ。それからアナトール・フランス、オクターヴ・ミルボーなども嫌ひではありませんわ。", "メリメは、どんなものがお好きです。", "みんないゝぢやありませんか。カルメンなんか、日本では通俗な名前になつてしまひましたが、原作はほんたうにいゝぢやありませんか。", "あの女主人公を何うお考へになります。", "好きでございますよ。" ], [ "何かお宅に御用事があるかどうか、お伺ひいたしましたのよ。", "いゝえ! 別に。" ], [ "もし貴女さへ、御迷惑でなければお伴いたしてもいゝと思ひます。", "あらさう。付き合つて下さいますの。それぢや、直ぐ、丸の内へ。" ], [ "失礼ですが、奥様おありになつて?", "はい。", "御心配なさらない! 黙つて行らしつては?", "いゝえ。決して。" ], [ "本当に御迷惑ぢやございませんでしたの。芝居はお嫌ひぢやありませんの。", "いゝえ! 大好きです。尤も、今の歌舞伎芝居には可なり不満ですがね。", "妾も、さうですの。外に行く処もありませんからよく参りますが、妾達の実生活と歌舞伎芝居の世界とは、もう丸きり違つてゐるのでございますものね。歌舞伎に出て来る女性と云へば、みんな個性のない自我のない、古い道徳の人形のやうな女ばかりでございますのね。", "同感です。全く同感です。" ], [ "暫く御無沙汰致しました。", "ほんたうに長い間お見えになりませんでしたのね。箱根へお出でになつたつて、新聞に出てゐましたが、行らつしやらなかつたの。", "いや、何処へも行きやしません。", "それぢや、やつぱり例の長篇で苦しんでゐらしつたの。本当に、妾の家へいらつしやる道を忘れておしまひになつたのかと思つてゐましたの。ねえ! 三宅さん。" ], [ "やあ!", "やあ!" ], [ "さう云ふ観方をすれば、明治時代の文学は、全体として徳川時代の文学の伝統を引いてゐるぢやありませんか。何も、紅葉一人丈ぢやないと思ひますね。", "いや、徳川時代文学の糟粕などを、少しも嘗めないで、明治時代独特の小説をかいてゐる作家がありますよ。", "そんな作家が、本当にありますか。" ], [ "一葉! 妾スツカリ忘れてゐましたわ。さう〳〵一葉がゐますね。妾が、今まで読んだ小説の女主人公の中で、あの『たけくらべ』の中の美登利ほど好きな女性はないのですもの。", "御尤もです。勝気で意地つ張なところが貴女に似てゐるぢやありませんか。" ], [ "『たけくらべ』! ありや明治文学第一の傑作ですね。", "ありや、僕も昔読んだことがある。ありや確にいゝ。", "あゝさう〳〵、吉原の附近が、光景になつてゐる小説ですか、それなら私も読んだことがある。坊さんの息子か何かがゐたぢやありませんか。", "女主人公が、それを潜に恋してゐる。が、勝気なので、口には云ひ出せない。その中に、一寸した意地から不和になつてしまふ。", "信如とか何とか云ふ坊さんの子が、下駄の緒を切らして困つてゐると、美登利が、紅入友禅か何かの布片を出してやるのを、信如が妙な意地と遠慮とで使はない。あの光景なんか今でもハツキリと思ひ出せる。" ], [ "先刻は大変失礼しましたこと。あの方達を帰してしまつた後で、ゆつくり貴君とお話がしたかつたのよ。差し上げました御手紙御覧下すつて?", "見ました。" ], [ "貴女の本当のお心持が、分らないものですから、何うお答へしてよいか当惑する丈です。", "あれでお分りにならないの。あれで、十分分つて下すつてもいゝと思ひますの。妾が、貴君のことを何う考へてゐますか。" ], [ "奥さん! 帰るときが来れば、お指図を待たなくつても帰ります。が、只今伺つたのは、貴女のお手紙の為ばかりぢやないのです。僕がどんなに軽薄な人間でも、一度席を蹴つて帰つた以上、貴女のお召状丈で、ノメ〳〵とやつては来ません。", "おや! それでは、妾はその点でも飛んだ思違ひをしてゐましたのね。" ], [ "貴女に申し上ぐべきこと、当然お願ひすべき用事があればこそ参つたのです。それが済むまでは、貴女が幾ら帰れと仰しやつたつて、帰れません。貴女も一度僕と会つた以上、自分の用事丈が、済んだと云つて、さう手軽に僕を追ひ返す権利はありません。", "大変御尤もな仰せです。それではその用事とかを承はらうぢやありませんか。" ], [ "死人に口がないと思つて、そんなことを仰しやつては困ります。貴女を、今日訪問した客に村上と云ふ海軍大尉があつた筈です。まさか、ないとは仰しやいますまいね。", "よく御存じですね。" ], [ "でも、死んだ方に悪いのですもの。", "死んだ方に悪い! 貴女はまだ死者を蔑まうとなさるのですか。死者を誣ひようとなさるのですか。" ], [ "いや! 奥さん、僕は貴女のお心が、始めて解つたやうに思ひます。僕はそのお心に賛成することは出来ませんが、理解することは出来ます。貴女に忠告がましいことを言つたのを、お詫します。貴女が、一身を賭して、貴女の思ひ通り、生活なさることを、他からかれこれ云ふことの愚さに気が付きました。が、奥さん、僕は、今お暇する前に、たつた一つ丈お願ひがあるのです。聴いて下さるでせうか。", "どんなお願ひでございませうか。妾にも出来ることでございましたら。" ], [ "だつて! 美奈さんは、前の日曜にもお参りしたのぢやないの。", "でも、今日も何だか行きたかつたの。妾楽しみにしてゐたのです。", "さう! ぢや、自動車で行つて来てはどう。自動車を降りてから、三十間も歩けばいゝのですもの。" ], [ "軽井沢は去年行つたし、妾今年は箱根へ行かうかしらと思つてゐるの、今年は電車が強羅まで開通したさうだし、便利でいゝわ。", "妾箱根へはまだ行つたことがありませんの。", "それだと尚いゝわ。妾温泉では箱根が一番いゝと思ふの。東京には近いし景色はいゝし。ぢややつぱり箱根にしませうね。明日でも、富士屋ホテルへ電話をかけて部屋の都合を訊き合せませうね。" ], [ "さう〳〵。あの方を美奈さんに紹介して置くのだつたわ。貴女まだ御存じないのでせう。", "はい! 存じませんわ。", "学習院の方よ。時々制服を着ていらつしやることがあつてよ。気が付かない!", "いゝえ! 一度もお目にかゝつたことありませんわ。", "青木さんと云ふ方よ。" ], [ "おや! 何うして御存じ?", "はゝゝ、お駭きになつたでせう。お隠しになつたつて駄目ですよ。我々の諜報局には、奥さんのなさることは、スツカリ判つてゐるのですからね。" ], [ "使つてをりますとも。女中さんなんかにも、気を許しちやいけませんよ。", "ぢや! 行先も判つて?", "判つてゐますとも。箱根でせう。而も、お泊りになる宿屋まで、ちやんと判つてゐるのです。" ], [ "云つても介意ひませんか。", "介意ひませんとも。" ], [ "まあ! 何とでも仰しやいよ。でも青木さんのいらつしやらないのは本当よ。論より証拠青木さんは、お見えにならないぢやありませんか。", "奥さん! そんなことは、証拠になりませんよ。発車間際に姿を現して、我々がアツと言つてゐる間に、汽笛一声発車してしまふのぢやありませんか。貴女のなさることは、大抵そんなことですからね。" ], [ "いゝえ! いけませんよ。此の夏は男禁制! 誰かの歌に、こんなのが、あるぢやありませんか。『大方の恋をば追はず此の夏は真白草花白きこそよけれ』妾も、さうなのよ、此の夏は、本当に対人間の生活から、少し離れてゐたいと思ひますの。", "ところが、奥さん。その真白草花と云ふのが、案外にも青木弟だつたりするのぢやありませんか。" ], [ "いらつしやるのよ。", "後からいらつしやるの?" ], [ "お父様やお母様が、さうした御心配をなさるのは、尤と思ひますわ。でも貴君迄が、それに感化れると云ふことはないぢやありませんか。縁起などと、云ふ言葉は、現代人の辞書にはない字ですわね。", "でも、奥さん! 肉親の者が、命を殞した殆ど同じ自動車に、まだ一月も経つか経たないかに乗ると云ふことは、縁起だとか何とか云ふ問題以上ですね。貴女だつて、もし近しい方が、自動車であゝした奇禍にお逢ひになると、屹度自動車がお嫌ひになりますよ。", "さうかしら。妾は、さうは思ひませんわ。だつてお兄さんだつて妾には可なり近しい方だつたのですもの。" ], [ "さうですね。でも、荷物なんかが邪魔ぢやない?", "荷物は、このまま自動車で届けさへすればいいわ。特等室へ乗れば自動車よりも、楽だと思ひますわ。", "さうね。ぢや、乗り換へて見ませうか。青木さんは、無論御賛成でせうね。" ], [ "お母様は、却々お帰りになりませんね。", "はい。" ], [ "やつぱり空気がいゝのですね。東京の空と違つて、塵埃や煤煙がないのですね。", "山の緑が映つてゐるやうな空でございますこと。" ], [ "あの時、僕は本当に貴女の態度に、感心したのです。あの時、露骨に僕の味方をして下さると、僕も恥しいし、お母様も意地になつて、あゝうまくは行かなかつたのでせうが、貴女の自然な無邪気な申出には、遉の荘田夫人も、直ぐ賛成しましたからね。僕は、今まで荘田夫人を、女性の中で最も聡明な人だと思つてゐましたが、貴女のあの時の態度を見て、世の中には荘田夫人の聡明さとは又別な本当に女性らしい聡明さを持つた方があるのを知りました。", "まあ! あんなことを。妾お恥かしうございますわ。" ], [ "今に御結婚でもなされば、今のやうな寂しさは、自然無くなるだらうと思ひます。", "あら、あんなことを、結婚なんて、まだ考へて見たこともございませんわ。" ], [ "いや、実はこんな噂があるのです。荘田夫人は、本当はまだ処女なのだ。そして、将来は屹度再婚せられる。屹度再婚せられる。僕の死んだ兄などは、夫人の口から直接聴いたらしいのです。が、世間にはいろ〳〵な噂があるものですから、貴女にでも伺つて見れば本当の事が分りやしないかと思つたのです。", "妾、ちつとも存じませんわ。" ], [ "証拠と云つて、品物を下さいと云ふのぢやありません。僕が、先日云つたことに、ハツキリと返事をしていたゞきたいのです。たゞ『待つてゐろ』ばかりぢや僕はもう堪らないのです。", "先日云つたことつて、何?" ], [ "返事を待て、返事を待つて呉れと、仰しやる。が、その返事がいゝ返事に定まつてゐれば、五年七年でも待ちます。が、もし五年も七年も待つて、その返事が悪い返事だつたら、一体何うなるのです。僕は青春の感情を、貴女に散々弄ばれて、揚句の端に、突き離されることになるのぢやありませんか。貴女は、僕を何ちらとも付かない迷ひの裡に、釣つて置いて、何時までも何時まで、僕の感情を弄ばうとするのではありませんか。僕は、貴女のなさることから考へると、さう思ふより外はないのです。", "まさか、妾そんな悪人ではないわ。貴君のお心は、十分お受けしてゐるのよ。でも、結婚となると妾考へるわ。一度あゝ云ふ恐ろしい結婚をしてゐるのでせう。妾結婚となると、何か恐ろしい淵の前にでも立つてゐるやうで、足が竦んでしまふのです。無論、美奈子が結婚してしまへば、妾の責任は無くなつてしまふのよ。結婚しようと思へば、出来ないことはないわ。が、その時になつて、本当に結婚したいと思ふか、したくないか、今の妾には分らないのよ。" ], [ "明後日! 本当に明後日までですか。", "嘘は云ひませんわ。" ], [ "一体今の人は誰です。御存じぢやありませんか。", "いゝえ! ちつとも、心当りのない方ですわ。でも、可笑しな人ですわね。妾達を、ぢつと見詰めたりなんかして。" ], [ "お約束? お約束を忘れないからこそ、今夜お返事すると云つてゐるのぢやありませんか。", "何! 何! 何と仰しやるのです。" ], [ "いゝえ! 妾、美奈さんにも、是非とも聴いていたゞきたいのですわ。一昨夜も、あんなお話なら美奈さんに立ち合つていたゞきたいと思つたのです。あんなお話は、二人切りで、すべきものではないと思ひますもの。たゞさへ、妾色々な風評の的になつて、困つてゐるのですもの。あゝいふお話はなるべく陰翳の残らないやうに、ハツキリと片を付けて置きたいと思ひますの。ねえ、美奈さん、貴女このお話の、証人になつて下さるでせうねえ。", "あ! 奥さん! 貴女は! 貴女は!" ], [ "文字通に、さう云はれたとは云ひません。が、それと同じことを私に云はれたのです。", "何時! 何処で?" ], [ "貴君さへお差支へなけれや。", "ぢや、僕の部屋へ来て下さい。丁度妻は、湯に入つてゐますので誰もゐませんから。" ], [ "実は、お兄さんが遭難されたとき、同乗してゐたと云ふ一人の旅客は私なのです。", "えゝつ!" ], [ "ありましたとも。それは、貴君にも直ぐ判りますが。", "自殺! 自殺の意志。もしあつたとすれば、それは何のための自殺でせう。", "ある婦人のために、弄ばれたのです。" ], [ "ありますとも。お兄さんの遺言と云ふのも、お兄さんを弄んだ婦人に対して、お兄さんの恨みを伝へて呉れと云ふことだつたのです。", "うゝむ!" ], [ "其処に白金の時計のことが、書いてあるでせう。お兄さんは、死なれる間際に、その時計を返して呉れと云はれたのです。偶然にも、その時計は、その偽りの贈物は、お兄さんの血で、真赤に染められてゐたのです。衝突のときに、硝子が壊れたと見え、血が時計の胴に浸んでゐたのです。", "それを何うしました。それを何うしました。" ], [ "無論、それを返したのです。私は、お兄さんの心持を酌んで、それを叩き返してやらうと思つたのです。それを返しながら、お兄さんの怨みを、知らせてやらうと思つたのです。ところが、残念にも、私はそれを、手もなく捲き上げられてしまつたのです。あの方は、妖婦です。僕達には、とても真面に太刀打は出来ない人です。", "妖婦! 妖婦!" ], [ "お母様! そんなことを! 大丈夫でございますわ、大丈夫でございますわ。", "いゝえ! わたし、覚悟してゐますの。美奈さんには、すみませんわね。" ], [ "願ひつて何です?", "聴いてくれますか。", "聴きますとも。" ] ]
底本:「菊池寛全集 第五巻」高松市菊池寛記念館刊行、文藝春秋発売    1994(平成6)年3月15日発行 底本の親本:「菊池寛全集 第六巻」中央公論社    1937(昭和12)年9月21日刊行 初出:「大阪毎日新聞」、「東京日々新聞」    1920(大正9)年6月9日~12月22日 初収単行本:「真珠夫人(前編・後編)」新潮社    1920(大正9)年12月28日刊行 ※外来語に限って、片仮名に小書きを用いる本文の表記に合わせ、ルビも処理しました。(ただし「希臘《ギリシヤ》」には、小書きを用いませんでした。) ※旧仮名遣いから外れると思われる表記にも、注記はしませんでした。 ※「唐澤」「唐沢」、「愈々《いよ/\》」「愈《いよ/\》」、「…だけ」「…丈」「…丈《だ》け」「…丈《だけ》」、「此の青年」「此青年」、「面魂《つらだましひ》」「面魂《つらたましひ》」などの混在は、底本通りです。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:kompass 校正:松永正敏 2005年3月8日作成 2012年10月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "升屋の土蔵の封印を破つて、武具を奪ひ去つた者がある!", "三條小路の旅宿池田屋惣兵衛方、及び縄手の旅宿四国屋重兵衛方に、長州人や諸浪士が集合して何やら不穏の企みをしてゐる" ], [ "乃美乃ち杉山松助、時山直八をして、状を探らしむ。二人帰り報じて曰く、俊太郎逮捕の為め、或ひは不穏の事あらん。宜く邸門の守を厳にすべし、と同夜有志多く池田屋に集ると聞く、其の何人たるを詳かにせず", "夜に入り杉山松助、窃に槍を提げ、外出すと云ふ。未だ久しからずして、松助片腕を斬られ鮮血淋漓として帰邸し、急変ありと告げ、邸門を閉ざし、非常に備へしむ。乃美、何故に外出せしやと問ふ。池田屋に赴かんとして、途中斯の如し、遺憾に堪へずと答ふるのみ" ] ]
底本:「菊池寛全集 第十九巻」高松市菊池寛記念館、文藝春秋    1995(平成7)年6月15日発行 底本の親本:「大衆維新史読本」モダン日本社    1939(昭和14)年10月16日 初出:「オール讀物」文藝春秋    1937(昭和12)年8月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:大久保ゆう 校正:小林繁雄 2006年7月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "村川さん、かくれんぼしない?", "かくれんぼですか、また!" ], [ "ええ似ているわ。でもナヴァロよりは顔が短いわ。", "そうかしら。でも、眼付なんか、そっくりだわ。" ], [ "美智子さんにあっちゃ、敵いませんよ。", "苦手ね。" ], [ "お庭はなしよ。", "お庭に降りたら鬼。", "でも、この間のように、僕の入れないお母さまのお居間の押入の中なんか、いやですよ。日本館でも、お父さまとお母さまのお居間だけはなしにしましょう。" ], [ "なぜ、石を出したら馬鹿です?", "だって、石と紙とホイといっているじゃありませんか。石と紙とに制限して石を出せば負けるにきまっているわ。" ], [ "そんな不当な制限はありゃしない!", "口惜しがってもダメよ。" ], [ "しゃがんでいてちょうだいよ。", "さんざんだな。" ], [ "まあだだよ!", "まあだだよ!" ], [ "ご免なさい!", "おや、また村川さん鬼ですか。", "そうです。" ], [ "また、美智子がおねだりしたのでしょう。本当にご迷惑ですね。", "いいえ、そこの押入をちょっと開けてもいいですか。", "はい、どうぞ。" ], [ "いやだ! いやだ! お母さまがいいつけるんだもの。", "まあ。誰も、いいつけはしませんよ。", "だって、どいちゃいやだよ。お母さまにここにいてちょうだいといったじゃないの。", "だって、そんな事は、無理ですよ。ねぇ、村川さん!" ], [ "つまんないなあ。", "ずるいわ。兄さん!" ], [ "そうですか、どこに。", "あなたの書斎に。", "それじゃ、二階に上ったのですか。", "もちろん。", "驚いた。まさか二階へは上るまいと思った。", "あなたの机の上の手紙読んでよ。", "ひどいな、そんな事をするのは。", "松井芳枝って、誰?", "誰だって、いいじゃありませんか。", "女から、たくさん手紙が来るのは不良のしるしよ。", "京子、失礼なことをいってはいけませんよ。" ], [ "そんなに、僕が不良に見えますか。", "見えるわねぇ、倭文子さん。" ], [ "そうかな。これだって、品行方正ですよ。", "そんなに、ムキになって弁解なさるから、なお怪しまれるのよ。", "おやおや。", "宗ちゃん。あなたが、見つかったの。じゃ、ちゃんと鬼になりなさい。いい、そこに坐っているのですよ。さあかくれましょう。" ], [ "いいえ。", "ちっとも知らなかったものですから。" ], [ "僕出ましょうかしら、ご迷惑じゃありませんか。", "いいえ。" ], [ "ねぇ、お姉さま、ずるいんだよ。村川さんが、倭文子さんと一緒にかくれていたのよ。", "まあ! どこに?", "このカーテンのかげにさ。くっついてかくれているのよ。" ], [ "倭文子さんが、かくれているのに気がつかないで、僕が後から飛込んだのですよ。いいじゃないか。一緒にかくれたって!", "いけないや、ずるいや。大人同士が一緒にかくれるなんて、おかしいや。ねぇお姉さま。" ], [ "あたしは、ようした。", "いやだな。よすの。" ], [ "京子さんに僕がよくいっておきましょう。怒らないように。", "まあ! いいえ。" ], [ "京子さん。入ってはいけませんか。", "いいわ。" ], [ "とんでもない。", "じゃ。心配しなくってもいいじゃないの。", "だって、あなたがいきなり、およしになるのですもの。", "よしちゃ、悪いの。", "悪くはないけれど。" ], [ "ねぇ、村川さん。あなた、わたしの部屋へ入るときは、感心にノックするわねぇ。", "だって婦人の私室ですもの。", "そう、じゃ倭文子さんのカーテンの中に入ったときもノックしたの。" ], [ "まだ、あんなことにこだわっているのですか。", "だって、あなただってこだわってるから、わたしの所へ来たのでしょう。", "僕は、こだわっていないのですよ。でも倭文子さんが、あなたが怒ったので心配しているからさ。", "ご親切ね。ただし、わたしにではありませんよ。", "つまらない。機嫌を直して下さいよ。", "大きなお世話。" ], [ "倭文子さんはかわいそうに心配していますよ。", "そう。ご心配でしょうね。", "何がです。", "何でもないの。", "京子さん、ほんとうにこだわらないで下さい。倭文子さんが、かくれていたところへ僕が飛込んだといって、それが何だというのです。僕が、気がつかなかったからじゃありませんか。", "だから、わたし何とも思っていやしないわ。" ], [ "それが、何とも思っている証拠ですよ。", "そう、お気の毒さま。でも、わたしあなたや倭文子さんのお気に入るように、自分の心持の調子を変えることは出来ませんわ。" ], [ "でも、倭文子さんはたいへん、しょげていますよ。", "そう。でも、あの方は何にでもしょげる人よ。泣き虫よ。あの人はしょげることによって、人に甘えているのよ。あなたになんか、きっとそうよ。いいから甘えさせてあげなさい、ね、村川さん。あなただって甘えられるのは、悪い気持ではないでしょう。", "困ったな!" ], [ "いいお団子ですね。", "ううん。これお芋よ。", "おいしそうですね。", "村川さん、寝坊ね。", "どうして。あなただって、今ご飯食べているのでしょう。", "だって、わたし仕方がないんですもの。" ], [ "もう、かくれんぼしないのですか。", "ええ。だって、お姉さまが、お怒りになるんですもの。", "まだ、お姉さま怒っているの。", "ねぇ、村川さん、いいこと教えてあげましょうか。", "何です。" ], [ "ほんとうですか。", "ほんとうですとも。", "どこで。", "ご自身のお部屋で。", "どうしてでしょう。", "どうしてだか知らないわ。", "でも、ただお泣きになるわけはないでしょう。", "ええ。そうよ。きっと、お姉さまがおいじめになったのよ。", "そんなに、お姉さまは倭文子さんを、いじめるのですか。", "ううん。でも、時々。", "時々でもいけないな。悪いお姉さまだな。", "だって、わたし仕方がないんですもの。" ], [ "びっくりなすったのですか。どうも、失礼しました。", "いいえ。" ], [ "お話をする間、ちょっと一緒に歩いて下さいませんか。", "でも、わたくし。" ], [ "でも、こんなに遅く……", "ご迷惑だとおっしゃるのですか。", "いいえ、でも……", "ご迷惑はかけないつもりですが。" ], [ "何か京子さんが、あなたにいったのではありませんか。", "いいえ……" ], [ "僕はあんなことのために、あなたにご迷惑をかけやしないかと、心配していたのです。", "いいえ、そんなこと、ございませんわ。それではまた……" ], [ "京子さんと同じようにあなたも僕を不良青年だと思っていらっしゃるのですか。", "まあ!" ], [ "僕のいったことが、お気にさわりましたか。", "いいえ。わたしうれしいのです。" ], [ "僕と結婚して下さる気はないのですか。", "いいえ。でも、わたし京子さんが、こわいわ。" ], [ "なぜです。", "あなたと一緒にカーテンの陰にかくれたといって、それはそれはいやなことおっしゃるのよ。", "そうですか。" ], [ "こんな所で話している所を、誰かに見つけられて、京子さんにいいつけられたら、わたしこの家にいられませんわ。", "いられなくなれば、出ようじゃありませんか。", "でも。", "ほんとうに、愛し合っている二人の前には、何の障害もないはずです。障害が障害らしく見えるのはお互の愛が足りないからだと思うのです。", "でも、わたくし京子さん恐ろしいわ。" ], [ "だって、この家を出さえすれば、京子さんなんか、恐がる必要はちょっともないじゃありませんか。", "でも、あんな執念ぶかい方なんですもの。", "じゃ、あなたは京子さんが恐いから、僕と逢うのはいやだというのですか。", "いいえ。" ], [ "僕達の心さえ、しっくり合っていれば、京子さんの反対なんか何でもないじゃありませんか。勇気を出して下さい。", "わたしも、そう思いたいのです。でも……", "そんなに恐いのですか。ね、僕を信じて安心していらっしゃい。" ], [ "僕は、生涯きっとあなたを愛しつづけます。", "でも、わたくし京子さんが……", "京子さんなんか鬼に食われてしまえ! です。京子さんの反対なんか何です。それとも、あなたは僕が、不満なのですか。", "まあ! わたし、もったいないと思っていますわ。", "僕こそ、もったいないと思っているのです。", "まあ!", "ね、僕はどんなことがあっても、あなたを捨てませんよ。捨てませんじゃない、離れませんよ。あなたが僕から逃げようとしても決して逃がしませんよ。いいですか、僕が一生涯付きまとうものと覚悟して下さいよ。" ], [ "おいやですか。", "いいえ。でも恥しいわ。", "恥しいって。" ], [ "絶対にいやですか。", "いいえ。でも。", "恥しいことはないじゃありませんか。", "どうぞ。この次に。", "じゃ、明日また会って下さいますか。", "ええ。" ], [ "どうもすみませんでした。", "すみませんもないものだわ。いやな村川さん。いきなり接吻なんかしてさ。" ], [ "え、なぜ黙っていらっしゃる?", "僕、僕は……とにかく、帰して下さい。今日は、とにかく。", "まあ。変な方! わたしに接吻して急に後悔したの?", "とにかく、僕は考えたいのです。", "まあ、考えてからしたのじゃないの! いいわ、お考えなさい。でも、わたしもうすっかり安心したわ。" ], [ "わたしの気のむいたとき、あなたのお部屋へ行ってもいいでしょう……。でも、この四阿もいいわねぇ。しずかで、誰も来ないし……", "とにかく、今日は失礼します。" ], [ "ねぇ、頼みたいことがあるんだがね、きいてくれるかね。", "ええ。どんなことです。", "電話をかけてもらいたいんだがね。", "ええ何番です。", "小石川の五百三十六番だ。川辺という家なんだ。そこへ、電話をかけてね、山内さんのお嬢さんは、いらっしゃいますかというんだ。", "まあお安くないのですね。", "馬鹿! そんなのとは違うんだ。" ], [ "それでこちらは何というのです。", "岡野といってくれないか。本人が出れば僕が代るから。", "まあ。何だか変ですね。" ], [ "つまらないことを疑わずにかけてくれたまえ、お願いだ。", "ええ。かけますわ。" ], [ "倭文子さんですか。僕です。村川です。", "ええ。" ], [ "僕の声がわかりますか。", "ええ。", "昨夜は失礼しました。昨夜はあなたは、どうなすったのです。あすこへ来て下さったのですか。" ], [ "もし、もし。もし、もし。", "ええ。" ], [ "もしもし。", "ええ。", "僕のいっていることおわかりになりますか。", "ええ。" ], [ "どうして、ハッキリ返事をして下さらないのです。出て来て下さるのですか。下さらないのですか。", "ええ。" ], [ "横に誰かいるのですか。", "ええそう。" ], [ "いるって誰です。女中ですか。", "いいえ。", "じゃ、京子さんですか。" ], [ "京子さんですか。", "そうです。" ], [ "何か強くないカクテルを貰おうかね。ミリオンダラーか何か。", "やっぱりお安くないのですね。", "馬鹿なことをいうなよ。" ], [ "どうだ、会社の方は、毎日行ってるか。", "はあ。", "少しは容子がわかったか。", "はあ。少しはわかりました。", "今井は毎日出て来るか。", "お見えになっているようです。", "女房が死んでいくらか、元気を落しているだろう。" ], [ "どうですか。私にはわかりません。", "女房といえば、君は女房をもらう気はないか。" ], [ "あまり、突然で急にお答えが出来ません。", "うむ、それもそうだろう。じゃよく考えてからにしてくれ。それから、ちょっと念を押しておくが、これは主に当人の希望だからな。わしは、子供のことは一切子供の思い通りにさせる主義だからな。その点もよく考えてくれ!", "はあ。" ], [ "村川さん、お電話でございます。", "誰から。", "川辺さんからです。" ], [ "もし、もし、村川です。", "村川さん? わたくし、おわかりになりまして。" ], [ "どこから、かけているのです。", "白山の自動電話です。" ], [ "それは、どうもありがとう。一昨日いいました通り、ぜひ、どこかでお話ししたいのです。", "わたくしも、急にお話ししなければならなくなったのです。", "じゃ、どこで待って下さいます。今すぐで大丈夫ですか。", "今、京子さんお留守なの、それでわたくし出ましたの。", "そう。それは万歳ですね。どこがいいでしょう。植物園は?", "ええ、いいわ。", "じゃ門の所で待っていて下さい。" ], [ "すみません。お呼び出しして。", "いいえ。僕こそ、どんなにお会いしたかったかわからないのです。" ], [ "一昨日の晩、四阿へ来て下さいました?", "ええ。", "京子さんがいたでしょう。", "ええ。わたくしびっくりしてしまいましたの。", "それで、私達の話ききましたか。", "いいえ。わたくし驚いて、とんで帰りましたの。", "その後、京子さんが何かいいましたか。", "いいえ。何も。" ], [ "それで、あなたのお話というのは。", "わたくし恥しくていえませんの……" ], [ "そんな事をいっていた日には、お話が出来ないじゃありませんか。何でもハッキリいって下さい。", "でも……" ], [ "何の話です。", "あの、縁談ですの。", "縁談! 突然ですね。", "いいえ。今までに、二三度ありましたの。", "いつも、断っていたのですか。", "ええ。この話も一月も前から、ある話なの。でも、今度は伯父さまでも、ぜひにとおっしゃるの。それに京子さんが、いい口だいい口だとおっしゃるの。わたくしが、倭文子さんだったら、喜んで行くなんておっしゃいますの。", "馬鹿にしていらあ。そんなこというより自分が行けばいいや。それで、あなた、むろん断ってくれたでしょう。", "でも、折角いって下さるのですもの。その場では断れませんでしたの。" ], [ "ハッキリ、断って下さい。それに、もうお互に曖昧なことは、いっていられなくなったのです。私は、あなたと一緒に川辺家を出なければならないかと思うのです。", "なぜ。" ], [ "そのわけは、後でいいますが、あなたはどんなことがあっても、どんな障害があっても、どんな人の反対があっても、必ず私の所へ来てくれますか。それを一番に誓っていただきたいのです。", "ええ。" ], [ "その程度じゃ、駄目です。もっと真剣にもっと本気に誓ってくれなけりゃ駄目です。", "だって……" ], [ "あなたが、本当に誓って下さらなきゃ、とてもお話なんか出来ないことです。", "どんなお話ですの。" ], [ "どうです。誓って下さいますか。", "ええ。", "もっと、ハッキリ誓って下さい。", "でも……" ], [ "もっと、心をこめて誓って下さい。", "ええ誓いますわ。" ], [ "じゃ、いいますが、本当は僕、川辺のご主人から京子さんを貰ってくれといわれたのです。", "まあ!" ], [ "ほんとうですか。", "嘘なんかいうものですか。" ], [ "じゃ、僕は断りますよ。その結果、どんな事件が起っても、あなたはちゃんと僕につかまっていてくれますね。", "でも……", "何が、でもです……" ], [ "ああ、そうそう先刻の縁談の話ですね。先方はどんな人です。", "そんな事申し上げられませんわ。", "参考のため、ききたいですね。", "でも、もうわたしもすぐ断ってしまうのですもの。", "でも、名前だけくらいいって下さい。", "かえって、お気を悪くするといけませんわ。", "じゃ、僕の知っている人ですか。" ], [ "どうぞ、どうぞ、これだけはきいて下さいますな。", "いやだな、気持がわるいな。", "でも、わたしすぐ断るのですもの。", "でもどんな方面の方です。", "どうぞ。どうぞ。" ], [ "わたし、もう帰らなきゃなりませんわ。", "そうですか。じゃ、途中まで一緒に行きましょう。" ], [ "村川さんもいいけれども、あんなおとなしい方と結婚すると、お前のわがままが、一生なおらないねぇ。", "うそ! わたしだって、ご主人ときまれば、何でもいうことを聴くわ。", "どうですか。怪しいものだねぇ。", "お母さまのいうことだって、この頃はよく聴いているじゃありませんか。", "そうねぇ。自分に都合のいいことだけはねぇ。", "あら。この間だって宗ちゃんの袷、縫ったじゃありませんか。", "そうね。何日かかったかしら。あれでも縫ったことになるかしら。", "だって、ピアノのレッスンもあるし、お花のお稽古もあるし、お縫物ばかりは出来ないわ。", "お前、お台所の稽古も、少しはしておかないといけませんよ。お世帯を持っても、まるきり、女中まかせじゃ。", "わたしだってご飯ぐらい、炊けるわ。そりゃわたし上手よ。去年逗子へ行っていたとき、毎日炊いたのよ。" ], [ "もっともだよ。二つ返事で承諾するような男なら、頼もしくもないよ。", "そうかしら。だって。", "何も、そう急ぐことはない。同じ家にいるんだもの。" ], [ "ねぇ。お母さま。わたし銀座まで行ってもいい。", "何のご用?", "いつかの指輪なおしてもらうの。", "一人で。", "いけない?", "倭文子さんと、いらっしゃいよ。", "倭文子さんなんかいや!", "じゃ、暮れない中に帰っていらっしゃい。" ], [ "そこでお会いになりませんでしたか。今お出になったばかりですよ。", "いいえ、気がつきませんでした。", "お出かけになったばかりですよ。", "そうですか。" ], [ "エレベーターで、おすれ違いになったのでしょう。", "もう、帰ったのでしょうか。", "もしかすると、お茶でも飲みにいらっしったのかもしれません。" ], [ "まあ。ちょっと、私の部屋へお通り下さい。受付の者が、大変失礼しました。村川君にご用だったのですか、ちょうど今帰ったばかりだそうですよ。何でもお宅から電話がかかって来たとかで。まあ、ちょっと休んでいらっしゃいませ。こんな殺風景な事務室でも、お茶くらいはございますから。", "宅から電話がかかりましたって。そんなはずはないんでございますが。", "まあ。とにかくお入り下さい。調べさせましょう。" ], [ "どうぞ、おかけなさいませ。一昨日でしたかその前の日でしたか、お父さまにお目にかかりましたっけ。", "さようだそうでございますねぇ。", "今日は村川君に、ご用事ですか。", "ええ。" ], [ "そうそう、さっき村川さんに、どこから電話がかかって来たか、よく訊いておいで。", "あの、川辺さんとおっしゃいましたよ。私が、電話に出たのでございます。" ], [ "この間、お父さまにお目にかかったのは、山内倭文子さんのご縁談です、お聞きになりましたか。", "ええ承りました。もうよっぽど進んだそうでございますね。", "こっちの方は、すっかり定まっているのですけれども、倭文子さんの方が。", "倭文子さんも、きっとご承諾なさいますわ、わたし、極力すすめていますの。", "この次は、あなたの順番ですな。", "いいえ。わたしの方がさきへきまりますわ。" ], [ "僕も、このまま独身では行かれないのですが。いい候補者はないでしょうかな。", "ございますわ。きっと、ありすぎて困るくらいでしょうよ。", "どうですか。再婚ですし、子供が一人あるんですからね。", "いいじゃございませんか。そんなこと、考えようでは何でもありませんわ。", "そうですかね。でも、あなたや倭文子さんのような美しい方は、来ていただけませんね。", "いいえ。そんなこともございませんでしょう。" ], [ "すぐお宅へお帰りですか。", "いいえ。ちょっと銀座へ出まして。", "あの私が、お送りいたしましょう。今、私も帰るところですから、自動車で銀座からお宅へ、お送りしましょう。", "いいえ。それには及びませんわ。", "いいじゃありませんか。たまにはあなたのような美しいお嬢さんを送らせて下さい。", "いやな方。", "ご立腹ですか。" ], [ "そう。では送っていただくわ。", "じゃ、そろそろ出かけましょうか。" ], [ "どうです、お嬢さん。この辺のカフェでお茶でも飲んで行きましょうか。折角銀座まで来たのですから。", "いいえ結構でございます。" ], [ "ほんのちょっとでいいですから、交際って下さいませんでしょうか。", "わたし、すぐ帰らしていただきたいのです。", "そうですか。カフェなんかお入りになると、お家で叱られますか。" ], [ "そんなねんねぇじゃ、ございませんわ。父でも母でも、わたしのことは干渉なんか一切いたしませんわ。", "じゃ、ちょっと交際って下さってもいいじゃありませんか。", "ええ、お供いたしますわ。" ], [ "どうです。日吉町に地震後出来たカフェでうまい家があるのですが。", "エー・ワン・カフェでしょう。", "よくご存じですね。ついでにあそこへ行って、晩餐をご一緒にいただきましょうか。別にお宅でご心配になることはないでしょう。", "いいえ。決して。" ], [ "今あすこに新橋の芸妓が三人いたの。ご存じですか。", "存じています。あなたにあいさつした人達でしょう。", "それまで、気がついていらっしゃるのですか。これは恐れ入りました。", "わたしだってその位なこと、気がつきますわ。", "ああいう連中を、あなたはどういう風にお考えになりますか。", "美しい人達だと思いますわ。", "そうですかね。僕は教養のない美しさにはあきあきしました。女性も、頭のない美しさは時代遅れですね。精神的品位と教養、それがなければ泥人形ですね。", "そんなことをおっしゃる資格がおありになるの?" ], [ "そこへ行くと、あなたや山内のお嬢さんの美しさは……", "およしなさいませ。倭文子さんを賞めるのにわたしを引き合いに出すのは。", "いや、私が賞めたいのは、あなたです。", "どうもありがとうございます。" ], [ "いや、あなたは才気縦横というところがおありになりますね。あなたのようなお嬢さんが……", "今井さん。よっぽど酔っていらっしゃいますね。", "いや、本気です。現代の婦人美は、玄人からすっかり素人に移りましたね。今の十七八歳から二十歳までのお嬢さんの美しさは……", "今井さん、わたしは二十一なのよ。", "これは失礼いたしました。この頃のお嬢さんは、二十四五でも、十七八にしか見えません。僕は、本当に美しいお嬢さんと……" ], [ "京子さん。これで僕はまだ三十二歳です。あなたとは十一違いです。もっとも子供は一人ありますがね。女の子だし、乳母をつけておけば、結婚生活の邪魔には少しもなりません。僕は、頭のいい、教養のある、音楽や美術のわかる、それで美しい……", "それじゃ、わたしなど、とても資格はございませんね。", "いや、どういたしまして、僕は実はその……" ], [ "今井さん、あたし、芸妓じゃございませんのよ。", "なるほど。これは恐れ入りました。", "ああ、運転手さん、そこの角で止めて下さいな。わたくしここから歩きますから。交番で断ってもらうのは面倒だから。" ], [ "今井さん。どうもありがとう。", "いや、これは恐れ入りました。" ], [ "まあ! どうしたの。こんなに遅く。ご飯食べて来たの。", "それよりも、お母さま!", "何ですの! あなた、立ちながら、親に口をきいて……" ], [ "お母さま! 村川さんの会社に電話かけて?", "いいえ。かけませんよ。なぜ? いきなりそんなこと訊いて。" ], [ "そう。家の者だれもかけやしないかしら。", "お母さんがいいつけないんだもの、誰もかけるわけがないじゃないか。どうしたの、そんな険しい顔をして。", "いいの。それよりも、村川さんいて?", "いらっしゃるよ。でも、お前、何をそんなに腹を立てているの?" ], [ "実は、先刻あなたの会社へ伺ったのよ。いらっしゃいませんでしたね。", "ああ、そうですか。それはどうも。" ], [ "電話が、かかってからお出かけになったそうですね。", "そうです。友人から、電話がかかったものですから。" ], [ "何というお友達なの。", "岡野という男です。" ], [ "だれがです。", "あなたの会社の女事務員よ。川辺さんから電話がかかったというのよ。幾度聞いてもそういうのよ。わたし、おかしいと思ったわ。家からあなたに電話がかかるわけはないのですものねぇ。ねぇ。そうでしょう。" ], [ "わたし、何もいうことはないわ。お父さまの所へすぐいらしって下さい。そして、すぐ承諾の返事をして下さい。何をお考えになるのです。今更お考えになる権利も必要もないと思うわ。", "京子さんゆるして下さい。" ], [ "おほほほほ、わたし、許す許さないといっているのではないわ、わたし、許しているじゃありませんか。許しているから、お父さまに、すぐお願いしたのじゃありませんか。", "いいえ。そうじゃありません。僕のあやまちです、僕は……僕は……" ], [ "じゃ、あなたは、結婚する意志がなくて、ただ一時のなぐさみに……", "いいえ。そうじゃありません。" ], [ "そう。それじゃ、いいじゃありませんか。でも結婚する時期を延ばしてくれとおっしゃるの。", "ああ、京子さん。何もかもいってしまいます。どうぞ、僕をゆるして下さい。僕は……実はあなたをあやまって、あなたをある人と取り違えて……" ], [ "どうぞ、ゆるして下さい。", "もう一度、お願いするわ。ねぇ、村川さん、わたしを愛して下さい。わたし、心からあなたを愛しているのよ。ねぇ、村川さん、どうぞわたしを愛して下さいませ。これが、最後の……わたしの一生のお願い、ねぇ、村川さん、わたしあなたを愛しているのよ。" ], [ "僕が、こんなにあやまっても許してくれないのですか。", "許せませんとも。", "しかし、倭文子さんと僕との問題はまるで別問題じゃありませんか。", "何が、別問題です。一人の男は、一生に一人の処女の唇しか得られないのです。", "しかし、それがあやまって……", "あやまった場合は、あなたの一生で、お償いなさいませ!", "そんな馬鹿な。倭文子さんを、僕から……" ], [ "奪りますとも。そんなことくらい、何でもないわ。", "だが、あなたはそんな事をして、いつかは僕があなたと結婚するとでも思って待っているのですか。", "うぬぼれも、たいていになさいませ! わたしは、あんなにわたしを侮辱したあなたと、結婚なんかするものですか。だれが、そんな事を待つものですか。わたし、明日にでも、外の男の人と結婚するわ。そしてあなたに接近するあらゆる女を、あなたから奪って、あなたを、のたうち廻らせてあげるわ。そんな復讐くらい、あなたに対する一番かるい復讐よ。" ], [ "馬鹿な夢を見るのはおよしなさい。あなたのすべての努力は、愛している者の力がどんなに強いかを証拠立てるだけでしょう。", "そうかしら。あんまり、そうでもございませんでしょう。しっかり倭文子さんをつかまえていらっしゃい。今に、倭文子さんが、煙のように、あなたの手から消えてなくなるでしょう。さようなら、お邪魔いたしましたわ。ねぇ村川さん、お休みなさいませ。" ], [ "ええもうちょっと。", "どうせ、僕が後で手を入れますから、ある程度でよろしいのです。", "そうですか。" ], [ "今日僕は……", "断りなんかいうものじゃないよ。社長が、折角君と話がしたいといっているんだもの。" ], [ "君とは、一度ゆっくり話したいと思っていたんだよ。でも、暇がなくってねぇ。", "いや、私こそ一度ゆっくりお礼を申したいと思っていたのです。" ], [ "おせまいことはございませんか。", "いやけっこうだよ。" ], [ "昨日、君の留守に川辺のお嬢さんが、君を訪ねて来たぜ。", "あ、そうだそうですね。", "君とは、よっぽど親しいのかねぇ。", "いいえ。別に。", "だが、一緒の家にいるのだから、よく顔を合すだろう。", "それはそうです。", "京子さんは、どういう人なんだ?" ], [ "それにとても、シャンじゃありませんか。", "美人だねぇ。ねぇ、村川君、まだ愛人とか婚約者などはないでしょうねぇ。", "ございませんでしょう。" ], [ "そんなことはないでしょう。", "いや、とても。" ], [ "あります。", "僕は、一二度見かけただけだが、あの方はどうですかね。性格は?" ], [ "わかりませんねぇ。", "そうですかねぇ。", "しかし、倭文子さんの方は、おとなしそうだねぇ。", "そうらしいです。" ], [ "村川君には、いってもいいだろう。実は、ここにいる宮田君と倭文子さんとの間に縁談が持ち上っているんだよ、あはははは。", "困りますね。そんなことをすっぱぬいちゃ。" ], [ "どうせ、まとまればわかることじゃないか。それに、今更花婿になるからといって、恥しがる柄でもないじゃないか。", "どうして僕だってこれで……", "あはははは。素人にかけちゃ初心だというのかねぇ。あはははは。" ], [ "いけませんねぇ。そう頻々と、すっぱぬいちゃ。", "いろいろ悪いことをしたが、急に一念発起して、結婚に志すというのだろう。", "冗談いっちゃ困ります。これでまだあなたほど悪いことは……", "いや、どっちがどっちだか。" ], [ "まず九分通りはたしかだろう。川辺先生ご夫婦が、のり気になっていらっしゃるのだから、当人だって、いやおうはないだろう。それは京子さんだって、至極賛成だし……", "そうですね。" ], [ "今晩はどうも。", "おや、いーさま、わたしどなたかと思ったわ。", "みーさん、あなたは、うそつきね。" ], [ "女中さんにいうといいわ。", "あら、わたし自分で行って来るわ。" ], [ "なかなかきれいです。", "この人が、今新橋第一の美人……", "ほかがなかったらでしょう。" ], [ "ううむ。ほかがあっても第一だよ。この人が美佐子というんだ。今出て行った人が、この人の本当の妹で、なみ子というんだ。二人とも名実兼備の美人だよ。", "そうですか。" ], [ "そうですかはないだろう。何とかほめてやりたまえ。", "あらご迷惑ですわねぇ。" ], [ "ええ。私の好きな人に似ているの。", "お前の好きな人ったら誰だ。", "なみ子さんの好きな人ったら、きまっているわ。活動の役者よ。" ], [ "だってこの方、わたしの岡ぼれに似ているんですもの。", "おれは、誰かに似ていないかなァ。", "似ているわ。みーさんは、尾張町にいる交通巡査に似ているわ。", "馬鹿! お前は、どうしてそう口がわるいんだ。ねぇ、美佐子。おれだって、これでいい男だろう。", "ええ、いい男ですとも。わたしは、みーさん大好き。", "でも、みーさんは、交通巡査のようにすましているから、嫌い。時々ストップとこういう風に、手をあげると似合うわ。" ], [ "おい! お前はお客を何だと思っているんだ。ご祝儀をやらないぞ。", "ああいいわ。お前は芸妓を何だと思っているんだ、お酌をして上げないよ。", "こいつ!" ], [ "馬鹿! お前の味方なんかするものか。", "そんなことないわねぇ。活動写真でも、バァセルメスやナヴァロは、きっとレディを助けて奮闘するわ。", "それがどうしたというんだ。", "でも、この方わたしの好きなナヴァロに似ているんですもの。" ], [ "じゃ、かんにんしてやる代りに、手を握らせる?", "ええ。いいわ。握手しましょう。", "じゃ、手をお出し。", "どこ、みーさんの手?" ], [ "おおいたい! そんなにひどく握っちゃいやよ……放してよ。おおいたい!。だから、みーさん嫌い。", "残念! 握ったついでに、うんとつねってやろうと思っていたのだ。", "ひどい人……ねぇ、こちら。" ], [ "村川君、そんな奴と握手したら駄目だよ。", "いいわねぇ。大きなお世話。明るくなるまでこうしていましょうね。", "馬鹿! 村川君、うんとつねってやりたまえ……", "誰が……あなたのような邪慳な方とは違いますわねぇ。" ], [ "わたしがあまり、図々しいので驚いていらっしゃるの。", "そうさ。お前のようなおてんばにあっちゃ、誰だって驚くさ。一つ、うんとつねってやりたまえ、村川君。" ], [ "お宅の電話番号教えて下さいな。", "教えてやろうか。" ], [ "ええ教えて。", "小石川の五百番だよ。", "ウソ! 五百番は電話局じゃないの。", "五百番で訊けばわかるんだよ。", "ヨタねぇ。", "だって、五百番で訊けば何だって教えてくれるじゃないか。", "じゃ訊いてみようかしら。みーさん以上の浮気者があるかって?", "それはお前がよく知っているじゃないか。女でいえばお前さ。", "ウソ! こちら、そんなこと信じないわねぇ!" ], [ "君も、つきあいたまえ、いいじゃないか、まだ九時前だよ。", "あの、僕はちょっと用事がありますから。", "そうか。じゃ、自動車を呼ぼう。", "いいえ。それには及びません。電車で帰ります。", "そう遠慮したもうな、いいじゃないか。" ], [ "いや、僕は帰りたいのです。", "いやに堅くるしい坊やねぇ。いい子だからもっといらっしゃい!", "おい誘惑したらダメだよ。" ], [ "ううん。わたし、誘惑するの。わたし、こう見えても妖婦よ。", "そんな日本物の妖婦はダメだよ。", "だって、こちらだって日本物の色魔よ。だからいいじゃないの。あなたのお帽子これ……" ], [ "ああわかった。村川さんとおっしゃるの。", "お前のように、初めて会ったお客に、そうそう図々しい奴はないねぇ。" ], [ "そう、悪かったわねぇ。すみません、これから気をつけます。でも、いーさんも偶には気の利いたお客を連れて来るわねぇ。これから、きっとこの方連れて来てねぇ。", "ああ連れて来るとも。その代り、お前を呼んでやらないよ。", "いいわ。だまって押しかけて来るから、いいわ。ねぇこちら、またいらっしゃいねぇ。" ], [ "お宅どちら。", "小石川です。", "そう。わたし、送っていただくの、うそよ。わたしに送らせて下さいね、いいでしょう。ねぇ。運転手さん、小石川へ。", "駄目です。僕は一人で帰るのです。前の車の行くところへ行って下さい。", "うそよ、運転手さん、小石川へ!", "いや、それは困ります。向うの車の通りにやって下さい。", "うそ! ねぇ運転手さん小石川へね。", "駄目です。駄目です。", "いいの。いいの。わたしのいう通りしていればいいのよ。" ], [ "かしこまりました。", "困るな、あなたはあちらへ行かなければいけないのでしょう。", "いいえ。今井さんのお座敷なんか、誰がつとめてやるものですか。あんな、鼻摘み。", "だって僕が困るんですよ。", "あなた、おいや、わたしがご一緒じゃ。", "でも、僕は、困ったな……", "いいじゃありませんか。わたしをこわがっていらっしゃるの? わたし、これでおとなしいのよ。", "それは、そうでしょう。でも僕は……" ], [ "小石川は、どちらです。", "小石川はどちら?" ], [ "困ったな、君、僕はここで降りたいな。", "まあ。おどろいた! そんなにわたしがお嫌い?", "そうじゃありませんよ、決して。", "じゃ、いいじゃありませんか。あなたも度胸をきめなさいよ。", "別に度胸をきめるほどの事でもないけれども……", "そう、そう、その調子その調子。ね、もうそんなこといいっこなし、仲よくしましょうね。" ], [ "いいえ。僕は行かれません。", "なぜ。", "だって、僕は今日招待されて行ったのです。", "一人じゃいらっしゃれないの?", "むろんです。", "まあ。", "………", "じゃ、これっきり?", "だって、何も僕は……", "ええ、そうだわ。あなたはご用はないでしょう。でも、わたしはお目にかかりたいの。", "そのうち、お目にかかれるでしょう。", "そのうちは、心細いわ。ねぇ、わたしの家の電話銀座の五五五よ。あなたお暇のときかけて下さいな。わたし、カフェでもどこへでも行くわ。ねぇ、かけて下さいね。" ], [ "何だ、君か!", "あれ、芸妓ですか。いい女ですな。" ], [ "倭文子姉さま。お姉さまが、ちょっといらして下さいって。", "どこにいらっしゃるの?", "西洋館の方のお部屋。" ], [ "一つ上げますわ。赤がいいの、青がいいの。", "どちらでもけっこうですわ。", "じゃ、赤いの上げましょうね。", "どうもありがとう。" ], [ "ねぇ、美智子、あなたいい子だから、お母さまのところへ行っていらっしゃい。", "ええ。" ], [ "ご用していらしたの。", "いいえ。", "ねぇ、倭文子さん。わたし、面白いものを拾ったのよ。" ], [ "何でございますの。", "いい当ててご覧なさい。" ], [ "どなたの手紙?", "面白いの。とても面白いの。" ], [ "どんな面白い手紙ですの。", "秘密の手紙、しかもラブレターよ。" ], [ "ね。ちょっと見てご覧なさい。とても面白いのよ。", "でも、わたし何だか恐いわ。", "いいじゃないの。あなたに責任はないのですもの。ねぇ、ちょっとご覧なさいね。" ], [ "ね、あなた誰が書いたと思って?", "わかりませんわ。", "そう、わたし、初めあなたじゃないかと思ったの。", "まあ!" ], [ "でも、あなたにしては、字がまずいでしょう。", "いいえ、わたしだってまずいわ。", "いいえ。あなたは、お上手だわ。それにあなたの字とは丸きり違っているでしょう。", "ええ違っているわ。", "で、わたしよく考えたの。ところが、驚くじゃないの。これ一枝なのよ。", "まあ!", "でも、文句はうまくない?", "ええお上手だわ。", "なまいきね。十七のくせに、こんなラブレターなんかかいて。", "ほんとうに。", "それで、あなた相手は誰だと思うの。" ], [ "いって悪いかしら、でも野村さんよりほかにはないでしょう。", "そう! わたしも、そう思ったの。ところが、驚くじゃないの。この封筒ご覧なさいよ。" ], [ "だって、わたしわからないわ。", "わからないことないじゃないの。この家でMさまといえば、村川さんよりほかないじゃないの。" ], [ "そんなことありませんわ。", "まあ! なぜ。", "でも村川さんが、まさかそんなことなさらないわ。", "だから、あなたはお人好しだわ。それともあなた、村川さんのことよくご存じ?", "いいえ。", "じゃ、しないということがなぜ、おわかりになるの。", "でも。" ], [ "何もなさりませんわ。", "そう。それなら、いいわ。あの方、とてもひどい方よ、いつかの晩……四五日前の晩だわ。あたしが、夜お庭の四阿にいると、あの方がやって来たのよ。それで、いきなりわたしにキスなさろうとするのですもの。わたしびっくりしたの。びっくりしたよりも、腹が立ったわ。わたし思いきり、突きとばしてあげたのよ。" ], [ "わたしも、村川さんを信じてあげたいの。まさか、一枝のような子供を弄ぶ人だとは思いたくないの。", "何かの間違いですわ。その手紙だけは。" ], [ "そうね。こんな手紙だけで、疑っては悪いわねぇ。あたし、いっそ一枝を呼んでしらべてみようかしら。", "かわいそうですわ。そんなことなさるの。" ], [ "でも、これだけで信じるのは、村川さんにすまないわ。一層のことわたし、村川さんのお部屋へ行ってしらべるわ。", "まあ。およしなさいませ! そんなことあそばすの。", "いいじゃありませんか。こんなこと、ハッキリときめておきたいわ。一枝の身体だってわたしがあずかっているのでしょう。万一のことがあるといけないわ。あなた一緒に立ち合ってくれない?", "まあ!", "おいや?", "いいえ、でも。", "わたしが、一人でしらべるの。あなたはただ一緒に来て下さればいいの。" ], [ "いいえ。存じませんわ。", "そう。だれでしょう、こんなもの村川さんにあげるの……ないわ。手紙らしいもの、ちっともないわ。" ], [ "やっぱり、村川さんじゃございませんのよ。", "いいえ。きっと村川さんよ。でも、こんな手紙は引出なんかには入れないのよ。わたし、きっと探し出すわ。わたし、名探偵よ。" ], [ "倭文子さん。これ一つ一つ見ましょうね。随分あるわ。ちょうど五つあるわ。", "いいえ。わたし、失礼しますわ。" ], [ "いいえ。", "ちょっと話があるの。電灯つけてもいいでしょう。" ], [ "いいえ。わたし、まだ寝ていませんでしたの。", "ねぇ、倭文子さん。わたしまた村川さんのあること聞いたのよ。" ], [ "ほんとうですの。", "ほんとうですもの。野村が見つけたんですって。", "まあ!", "それでも、まだあなた、あの方をお信じになるの。" ], [ "ええ、おつき合いしますわ。", "そう。それはありがたいわ。ねぇ、わたし家の別荘よりも、今井の別荘へ行こうと思うのよ。あすこなら留守番がいるからご飯こさえてくれるのよ。", "ええ結構ですわ。", "あした早く行かない。なるべく早くね、七時半頃に家を出ましょうねぇ。", "ええ。", "あなた、今夜中にこしらえしなくってもいい?", "ええ、少ししましょうかしら。", "カバンでも、バスケットでもあるわ。女中に持ってこさせるわ。" ], [ "あの一枝帰って来た?", "いいえ、まだでございます!", "そう。", "探してまいりましょうか。", "いいの。", "もし帰ったら、わたしのお部屋へよこしてね。", "はい!" ], [ "君は、何だって今頃こんな所にいるのだ。", "あの、ちょっと考えごとしていましたの。", "そうか。" ], [ "考えごとをするなんて、どうしたんです。もう遅いんだから、行って寝たらどうです。", "でも、お部屋だと何も考えられませんもの。" ], [ "お姉さま、どこへいったかご存じ?", "いいえ。", "教えて上げましょうか。", "どうぞ。" ], [ "わかりませんね。", "そう、じゃ待っててね。" ], [ "あなた寝台にねられて?", "どうですか、わたしはまだねたことありませんの。", "そんなら、こっちでおやすみなさいね。" ], [ "これ今井さんの奥さまが、読んでいたの。とても、おとなしい美人だったのよ。あなた一度会いやしなかった。", "いいえ。", "そうかしら、家へも一二度来たことがあるのよ。", "そうですか。", "いい奥さまよ、今井さんなんかに、惜しかったのよ。あんな馬鹿なお坊ちゃんなんかに。", "まあ!", "こんな別荘だって惜しいわねぇ。あんな馬鹿息子がこんな財産をつぐのが、今の資本主義制度の弊害ねぇ。", "まあ!" ], [ "あのお嬢さま。あの東京のこちらのご主人から、お電話でございますの。", "そう!" ], [ "ああもし、もし。", "ああ京子さんですか。先日はどうも失礼いたしました。" ], [ "いいえ。", "昨日は、またどうもお電話をありがとうございました。今実はお宅の方へ、電話をおかけしたのですが、もうとっくにそちらへいらっしゃったとのことでしたから。あれきりご立腹になって、つきあって下さらないことかと思っていました。", "どういたしまして。", "別荘を使って下さって、こんな光栄なことはございません。", "いつもわがままばかり申しましてすみません。", "いいえ。いかがです。この頃の葉山は?", "たいへん、けっこうでございますよ。こちらへ来てほんとうにせいせいしていますの。", "何日頃まで、ご滞在ですか。", "一週間ばかり、お邪魔するつもり。", "どうぞ、ごゆっくり、あなた方のいらっしゃる間に、僕も一度お邪魔いたしたいですね。" ], [ "ええ、どうぞ。ぜひ。", "お邪魔じゃないですか。", "いいえ。決して。あのね、いらっしゃる時、ぜひ宮田さんをお連れして下さいね。倭文子さんとの話、早くまとめてあげたいの。その意味でもっと、婚前交際をさせてあげたいわ。", "ええ何ですって。", "婚前交際、おわかりになりません?", "わかりませんな。", "結婚前の交際よ。", "なるほどね。けっこうですな。", "ぜひいらして下さいね。", "伺いますとも。", "さようなら。", "さようなら。" ], [ "今井さんが、別荘を使って下さって、光栄ですって。倭文子さんにもよろしくって。", "そう。", "わたし達のいる間に、一度来たいんですって。", "まあ。", "誰がいやなことと思ったので、わたしハッキリ断っておいたのよ。でも、図々しいから、わからないわ。", "おいでになったら、困りますわねぇ。" ], [ "まだおやすみになれなかったの。", "ええ、ちっともねむれないわ。", "倭文子さん、何か煩悶がおありになるの。", "いいえ。" ], [ "わたし、けっこうだと思うわ。申し分ない方じゃないの。", "でも……", "あの方のどこがお気に入らないの。", "まあ。気に入らないなんて、もったいないわ。でも、わたし何だか気が進まないんですもの。", "そう。父や母は、それはそれは心配しているのよ。父なんか倭文子には義理があるから、あれの縁談をきめてしまわないうちは、京子の方の話は一切しないといっているのよ。" ], [ "やあ。お帰りなさい。先刻からお待ちしていました。", "ちょっと散歩に出ていたものですから。", "お嬢さん、しばらく。" ], [ "まあ、今井さんおかけなさい……", "ええかけます。どうぞ、あなたも。" ], [ "ご迷惑じゃありませんか。押しつけがましくやって来まして。", "いいえ。わたし達二人で、そろそろあきかけていたところですの。二人じゃ、何も遊びごとは出来ないし。", "ごもっともです。それで実はあなた方に一つ麻雀をお教えしようと思って、東京から道具を持って来たのです。", "まあ、ご親切さま。でも、麻雀なら、わたしの家にもございますのよ。", "じゃ、むろんやり方もご存じですか。", "え、存じていますわ。美智子でも、よく存じていますのよ。この間も、四喜臨門をして皆を驚かせましたのよ。", "おや、おや、こいつは恐れ入りましたな。じゃ、あなたもむろんエキスパートでいらっしゃるのですか。", "いいえ。わたし、カラ駄目でございますわ。", "いやどうして。そんなご謙遜は信じられませんな。宮田君、こいつは参ったね、少々。あなた方を牛耳るつもりで来たのが、スッカリあべこべになりそうですね。", "いや、どうして。こうなれば、お互に実力を発揮して堂々と覇権を争うほかはありませんな。はははは。" ], [ "お見忘れになんか、ならないわ。ねぇ、倭文子さん。今も、二人でおうわさしていたの。", "光栄ですね。まことに。" ], [ "ところが、あまりいいうわさじゃないのよ。", "おや、おや。" ], [ "ご飯いただいてから、散歩に出ましたの。", "そうですか。じゃ、早速一ゲームなさいませんか。", "ええ。けっこうですわ。倭文子さん麻雀なさらない。" ], [ "そんなに賞めておいて油断させようとしても、その手にはのらないことよ。", "おや、おや。これは計略を見破られましたな。" ], [ "とっくにツーチャンスになっていましたの。", "それで上れないのですか、お気の毒ですね。" ], [ "宮田さんは、いやに倭文子さんのひいきをするのね。でも、お金をかけていないから、規則だけでも厳重にしないとつまらないわ。", "ごもっともです。でも、そこをその……情状酌量というわけには行きませんか。", "いけませんわ。ねぇ、倭文子さん罰金お出しになるのでしょう。" ], [ "まあ。わたしこんなにあるわ。", "どうも我々の及ぶところでありません。" ], [ "けっこうですとも、どうぞ、ご自由に。", "じゃ、倭文子さん。先へおやすみなさいね。" ], [ "まあ。あなたは、そんな紳士?", "というわけではありませんが。", "わたし達、不良少女じゃありませんから、そんなご心配ご無用よ。" ], [ "おい。村川君。京子さんはまだ帰って来ていないかい。", "いいえ、帰っておられません。", "今日あたりまだ帰って来そうにないかな。", "まだそんな容子はありません。", "ああそう。" ], [ "葉山はどちらにおられるのでしょう。", "僕の家の別荘にいるんだよ。" ], [ "村川さんという方です。", "村川さん!" ], [ "何か急なご用?", "ええ。急に倭文子さんにお会いしたいことがあるのです。" ], [ "倭文子さんは、もうお休みになっているわ。", "こんなに早くお休みになるわけがないでしょう。", "いいえ。もうとっくに。", "まだ八時十分じゃありませんか。", "時計が何時だか、そんなことわたし知らないわ。" ], [ "京子さん、僕はあなたに遠慮するために、葉山へ来ているのではありませんよ。", "そう。でも、ここの家はわたしが借りてる家よ。お入れしようとしまいとあたしの考え一つだわ。", "卑怯なことをなさいますな。", "そんなこと初めから、断ってあるじゃありませんか。" ], [ "いや、それはわかっていないことはありません。だが、僕は倭文子さんに会って直接にあの方の気持をききたいのです。", "そんなこといったって無理よ。その男が、どんなに嫌いになったって、その人の前で直接そんなことがいえるかどうかお考えになればわかるじゃありませんか。" ], [ "六時三十五分です。", "じゃ、おれ達より一汽車遅れたんだね。", "さあ。村川君、こちらへ来たまえ。" ], [ "まだ、おやすみにならない。", "ええ。" ], [ "ちゃんとお休みになったらどう。", "ええ。", "羽織だけでも、お脱ぎになったらどう。脱がせてあげましょうか。" ], [ "いいえ。わたし自分でぬぎますわ。", "そう。" ], [ "何です。今お歌いになっていた歌は。", "むかし幼稚園で覚えた歌を、ひょっくり思い出したのよ。(ソリャウソだろう、家の庭でケッケッ鳴いてるのが、欲しいのだろう)というのよ。", "何です。それは。", "つまりね。狐が鶏をねらって来たのを、犬が見破って、狐を追いかける歌なのよ。", "それが、どうしたのです。", "どうもしないの。ひょっくり思い出したの、意味もなく。", "僕達のことを皮肉っているのじゃありませんか。" ], [ "なあぜ。", "僕達が、つまり狐だというのでしょう。", "あら。", "そうでしょう。つまり、村川君が犬ですな。犬も、ポインターか、セッターか形のいい猟犬だ。村川君の役まわりからいって、きっとそうだ。つまり、悪漢を追いかける色男役ですな。" ], [ "まあ、邪推ぶかい方ね。", "だって、そうですよ。そうじゃありませんかね。ね社長! だから僕はここへ来ることは、賛成しなかったんだ。", "あははははは。まあ、そう悲観しなさんな。時々は追いかけられてみるのもいいじゃないか。村川君どうぞお手やわらかに。" ], [ "じゃ、鶏はだれ?", "むろん、あなたと倭文子さん。", "あたしなんか、鶏じゃなくってよ。狐なんかにねらわれないわ。", "じゃ、倭文子さんだ。" ], [ "まあ、あなた、倭文子さんをねらっていらっしゃるの。だって、あなた、ねらう必要なんかないじゃありませんか。もうちゃんとね、ねぇ、ねぇ……", "ねぇ、ねぇというのは、どういう意味ですか。", "あらご自分でわかっていらっしゃるくせに。", "あんまり、わかってもいないが、わかっていることにしましょうか。", "どうぞ、ぜひ。", "じゃ、狐の持って行きどころがなくなりましたねぇ。", "そう。だって、狐だってこの頃は、ほほほほほ狐だっていろいろあるわ。", "なるほどね、昔はよく色若衆といって美少年に化けたものだが、この頃は背広を着たオールバックのハイカラな青年紳士にでも化けますかね。というと、村川君にわるいな。とにかく、我々男性は皆女性に対してある程度まで、狐かもしれませんな。" ], [ "今までここにおられたんですよ。どうです、もう一度倭文子さんを起して来ては。村川君が来たというと、喜んで起きて来られるかもしれませんよ。", "ううむ。あまりそうでもないの。", "おやおや、これは少し手きびしい。", "じゃ、僕の方がまだ脈がありますかね。" ], [ "そうですか。", "今度も、そんな意味で結婚前のお交際をしていただくために、宮田さんにわざわざ来ていただいたの。" ], [ "京子さん。冗談いっちゃ困りますね。村川君、本当にしてくれては困りますよ。そんなありがたい話で来たわけじゃないのですからね。あはははは。もっともそんな話だと、どんなに結構だかわからないがねぇ。", "あら。わたしも倭文子さんもそのつもりよ。", "これは、耳よりの話ですな。", "あら、おとぼけになったら、いけません。", "じゃ、僕もそのつもりになりますかな。", "どうぞ。", "あはははは。" ], [ "お泊りなんかならないわねぇ、わたし達が泊っている上に、村川さんまでご厄介になったら、すまないわ。", "そんな馬鹿なことがあるものですか。下にだって、部屋はたくさんあるし。", "お部屋がたくさんあるなんて、そんなことはおっしゃらないでもよく存じています。", "おやおや、すぐ皮肉ですね。京子さんに会っちゃ敵わない。" ], [ "いいえ。ただちょっと鎌倉の友人を尋ねて来たついでに。", "じゃ、これから鎌倉へいらっしゃるのでしょう。" ], [ "そうです。僕はこれで失礼します。", "どうです。麻雀でもやって、泊って行ったらどうですか、ちっとも、遠慮はいりませんよ。" ], [ "そうですか。なるほど、僕は倭文子さんから、絶縁状のようなものをもらいました。でも、それがあの方の本心だとは、どうしても思えないのです。", "おめでたいわねぇ。" ], [ "どちらが、おめでたいか。今にわかってよ。", "ほんとうです。僕は、倭文子さんに会えなくて、失望して帰ります。あなたの下等な妨害にあって、帰ります。だが、倭文子さんと僕との間があなたの妨害で本質的に少しでも変ろうとは思えないのです。", "あなたくらい、うぬぼれがつよいと、一生幸福に暮せますわねぇ。" ], [ "倭文子さんは、あなたの飼っている犬ころじゃありませんよ。", "同時に、あなたにすぐさらわれるような鶏でもありませんよ。" ], [ "どうしたのです。いやに、つらく当るじゃありませんか。", "なぜ。", "だって、わざわざ来たものを、追い返すにも当らないじゃありませんか。", "でも自業自得だわ。", "そんなに村川君は、悪い人ですか。", "とてもいけないの。", "なぜです。", "でも、倭文子さんにうるさくつきまとっているのですもの。", "おやおや。", "よく葉山くんだりまで来られたわねぇ。", "それは少し耳がいたいですね。", "あなたは別ですわ。", "あんまり、別でもありませんね。", "まあ、そうご謙遜遊ばすな。", "村川君が倭文子さんに、つきまとうなんて、じゃ、倭文子さんは嫌っているのですか。", "まあ、そうですわ。", "そうですかね。あんな好男子でも、嫌われますかね。", "でも、心がけがわるいのですもの。", "なぜです。", "だって、最初はわたしに、うるさくしたのでしょう。わたしが、はねつけると、今度は倭文子さんよ。それじゃだれだって相手に出来ないわ。", "なるほどね。だが、僕達がいて、とんだ邪魔でしたな。", "いい気味だったわ。", "ああさっきおっしゃいましたね。結婚前の交際って。", "ええ申しましたわ。" ], [ "結婚前の交際って、あれは宮田君と倭文子さんとの間だけですか。", "ええ。そのつもりだわ。なぜ。", "そいつは少し参りましたな。電話ではそうは聞えませんでしたがな。", "まあ。わたし、なにか別の意味のこと申し上げまして。", "そう正面からおっしゃられると、困りますな。僕は婚前交際ということはあなたと僕とにも適用することと思っていましたよ。", "まあ。" ], [ "でなければ、僕はわざわざ葉山まで伺ったのが……", "まあお気の毒さま。", "これはごあいさつですね。", "でも、あなたとわたしなど。", "問題になりませんですか。", "でも、何だかおかしいわ。", "恐れ入ります。でも、こう見えても、なかなか誠意のある頼もしい男ですよ。", "それはよく存じております。", "あはははははあなたにかかっちゃ。いやどうも、でも全然お考えになることは出来ませんか。" ], [ "いいえ。考えられないこともありませんわねぇ。あなたとわたしだって、結婚する可能性がないともかぎりませんわねぇ。", "可能性は、かわいそうですね。せめて蓋然性といって下さい。" ], [ "駄目ですかね。", "ちょっと今井さん。あなたの奥さんにはこんな方がいい事よ。" ], [ "からかっちゃ困りますねぇ。なるほど、キレイだな。実業家河井栄一氏令嬢優子十九か。でも、あなたには遠く及ばない。", "まあ、そんなに、おだてて下すっても、駄目ですわ。", "ねぇ。京子さん、そんなにちゃかさないで、真面目に考えては下さいませんか。" ], [ "ちょっと、今井さん。あんなに、火が見えていますわ。あれが、いさり火でしょう。", "古語にいういさり火ですな。", "何を捕っているのでしょう。", "烏賊じゃありませんか", "烏賊? 烏賊をどうして捕りますの。", "そんなこと、どうでもいいじゃありませんか、それよりも……", "婚前交際の話ですか。あなたそんなにお気に入ったならラジオで講演なさいませ。婚前交際の話並びにその心得。", "ああそう、この別荘へもラジオを取りつけるのだった。", "旅行用のオザァカという機械がありますわねぇ。", "あれは駄目ですよ。乾電池がすぐなくなりますから、それよりか……", "また婚前交際ですか。", "そうです。そうです。あはははははその話ですよ。" ], [ "ああ困った。今井さんなどに、あんな言葉教えなければよかった。", "阿呆の一つ覚えになりましたかね。", "わたし、倭文子さんのために、つくしてあげなければいけませんの。", "といいますと、どういうことですかね。", "はやく宮田さんとのお話まとめてあげたいわ。", "結構ですね。僕も及ばずながらご尽力いたしますよ。", "どうぞ、ぜひ。", "その代り、話がまとまったら、何かごほうびがあるのでしょうな。", "まあ。もうごほうびのことを考えていらっしゃるの。" ], [ "ずいぶん功利的な方ですわね。", "これは参りました。すぐ本心を現してしまいましたかな。", "いいわ。ごほうび上げますわ。", "きっとですか。", "ええ、きっと。", "何です。ごほうびの品は。", "考えておきますわ。それとも、何かお望みがあって。", "望みはいろいろありますね。", "あまり、欲ばっても駄目ですよ。", "おや。おや。", "ねぇ、今井さん。" ], [ "何です。", "あのね。倭文子さんも、早く結婚なさりたいのよ。あれでわたしの家にいるのは、かなり気がねしていらっしゃるのよ。", "なるほどね。それに、あなたがいじめるだろうし。", "まあ。わたしいじめたりなんかしませんわ。", "いや冗談です。失礼。", "だから、倭文子さんはすぐにでも結婚なさりたいのよ。", "じゃ何も問題はないじゃありませんか。宮田君は、十分乗気だし。", "でもね、あの方たいへんな内気な方でしょう。", "あなたと、つき合せるとちょうどいいんですね。", "まあ、わたしそんなにお転婆に見えまして。これから慎みますわ。", "いや、失礼、決してそんな意味で……", "まあ。そんなことどちらでもいいわ。とにかく倭文子さんは内気な方でしょう。だから、村川さんが、うるさくすると、やっぱり村川さんに気がねしていらっしゃるのよ。それで、宮田さんとの話に、すぐハイとおっしゃらないのよ。", "なるほどね。だが、村川君との間は何もないのですか。", "何もないですとも。ただ嫌っていらっしゃるだけ。", "じゃ、どうすればいいとおっしゃるのです。", "あのね、だからわたし倭文子さんを、もっとハキハキ決心なさるように導きたいの。", "ちょっと問題がデリケートですね。", "わたし、それについてちょっと考えがありますの。", "何か名案がありますかね。", "あなた、きっと賛成して下さる。", "賛成しますとも。つまり、あなたと二人で、結婚促進運動をすればいいのでしょう。", "ええ。そう。", "やりますとも、あなたとご一緒なら、何でもやりますよ。", "たのもしいわ。", "初めて、おほめに預かったわけですね。" ], [ "京子さん。何時頃帰っていらっしゃるのです。", "六時頃。", "じゃ、僕ものせて行ってくれませんか。海浜ホテルにいる外人に、ちょっと用談があるんですがね。", "迷惑だわ。", "そんなにおっしゃらないで。", "そう! じゃ、仕方がない。乗っていらっしゃい。" ], [ "おそいですね、京子さんは。", "ええ。" ], [ "一体京子さんは、何の買物に行ったのでしょうかな。", "何でございますかしら。" ], [ "わたし、京子さんのお帰りになるまで、お待ちしますわ。", "そうでございますか。あなた様は?" ], [ "僕もまだたべたくありません。ご一緒でけっこうです。", "じゃ、しばらくお待ちしましょうか。もうおっつけお帰りになることでございましょう。" ], [ "七時三十分だ。どうもおそいな。どうしたのでしょう。", "さあ。", "こんなに待たせるなんて、ほんとうにいけませんな。だが、今井さんの用事が長びいているのかな。待ち遠しいですな。どうです、こちらへいらっしゃいませんか。お話でもなさいませんか。", "ええ。" ], [ "川辺さんとはどういうご関係ですか。", "わたしの母が川辺から参っているのでございます。" ], [ "じゃ、川辺さんは母方の伯父さんですね。", "はい。", "じゃ、なかなか深いご関係ですね。それで、お母さまはおたっしゃですか。", "いいえ。", "じゃ、とっくになくなられたわけですね。お父さまは。" ], [ "いかがでございます。もう、ご飯めし上ったら。お帰りになるにしても、ご飯をおすませになってからだろうと思いますが。", "そうですね。じゃ、いただきましょうかな。いかがです?" ], [ "ええ。", "じゃ、先へいただきましょう。" ], [ "いや、あなたとご一緒にご飯をいただけるなど、全く思いがけないことです。ご迷惑でしょうが、これも交際だと思って、一緒に召し上って下さい。", "おつけいたしましょう。" ], [ "いいえ。", "どなたからの電報です。", "京子さんから。" ], [ "もう、東京へ帰る汽車は、ございませんでしょうか。", "そんなに、僕と一緒にいらっしゃるのがおいやですか。" ], [ "お帰りになりますかね。お帰りになるとしても、お伴しないわけには行きませんね。もう遅いし、お一人じゃ心配ですからね。", "いいえ。" ], [ 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"なに、大丈夫ですよ。あんな先生は、もっともっとやっつけておくといいのです。", "宮田さんが、もしこのままになったら、どうなるのでしょう。" ], [ "もしかすると、落ちたときに、どこかを打ったのかな。", "打ったとしたら。", "気絶するか、運がわるければ、それきり死んでいるかですな。", "まあ!" ], [ "仕方がないですな。", "でも、あなたはどうなるの?", "さあ、僕が殺したことになるのですかな。殺意がなくたって。", "ああ、わたしどうしましょう。" ], [ "だが、僕はどうなったっていい。あなたとこうして会っただけでも満足だ。", "まあ。なぜ、こんな所へいらっしゃったの。こんな所へいらっしゃるから、とんでもないまきぞえに会ったのよ", "だって、あなたがあんな手紙をくれるんですもの。来ずにはいられないじゃありませんか。" ], [ "どんな手紙? わたしがお手紙なんか、さしあげたこと、ないわ。", "ないことがあるもんですか。" ], [ "まあ。こんな手紙……わたしの名前で。", "頭字だけでも。消印は葉山だし。" ], [ "まあ! わたし、あなたに手紙なんか書いたことありませんわ。", "だって、これはあなたの手蹟じゃありませんか。この間、僕の机の上に置いてあった書付と同じですよ。", "そんな書付、わたし知りませんわ。" ], [ "そう。それで、あなたはこの手紙にかいているようなこと思っていらっしゃるの。", "どんなこと書いてありまして。", "なるほど、あなたは知らないはずだな。明るいところへ行って、スッカリ読んで下さい。あなたが少しでもこんなことを疑っていらっしゃるのでしたら、いくらでも弁解しますから。", "いやですわ。わたし、そんなもの読むのは恐ろしいわ。" ], [ "あなた、お寒くございません?", "ちっとも。それよりも、僕と別れるなどと思っていらっしゃったのですか。", "もう、何もおっしゃいますな。みんなわかりましたわ。", "そうですか。じゃ僕を信じてくれますか。", "ええ。" ], [ "死んだら、死んだときのことですよ。", "どうなりますの。", "僕が、過失殺傷罪で二三年刑務所へ入ればいいのですよ。", "まあ恐いわ。", "何が恐いことがあるものですか。あなたさえしっかりして下されば、きっと一緒になれますよ。", "わたし、もういや、いや。わたし、京子さんと一緒に暮すのなら死んでしまいますわ。あなた、わたしのそばをはなれないで。ねぇ、ねぇ。" ], [ "僕だけじゃありませんよ。あなただって、冷え切っているのでしょう。", "あの、とにかく別荘へいらっしゃいません?", "大丈夫ですか。", "大丈夫ですわ。別荘番のいる家は、別になっていますの。", "そうしましょうか。これじゃ、宿屋には帰れないし。", "まあ、宿屋に泊っていらっしゃいますの。いつ、いらっしゃいまして。", "昨日の晩、僕が別荘へ訪ねて行ったのを話しませんでしたか。", "いいえ!", "ちぇっ! 馬鹿にしていやがる!", "京子さんとお会いになったの?", "そうですよ。あの人のやり方は、滅茶苦茶ですね。人の事などは何も考えないんだから、ひどい! 全くかなわない!", "わたし、こわいわ。京子さん、とても恐いわ。だって、どうして、わたしに意地のわるいことなさるのでしょう。" ], [ "宮田さんは、駄目でしょうか。", "案外、先まわりして別荘へ帰っているかもしれませんよ。", "でも、いよいよ駄目でしたら。", "まあ! そんなことは考えないことにしましょう。" ], [ "お上りなさいませ!", "大丈夫ですか。", "大丈夫ですわ。もう別荘番の人達は寝たらしいわ、ちゃんと戸締りがしてありますの。" ], [ "残念だが、石炭がありませんね。", "とって参りますわ。お湯殿の傍に積んでありますの。", "僕がとって来ましょう。", "見つかるといけませんわ。わたし、行って参りますわ。" ], [ "なかなか力がありますね。", "だって、故郷にいましたときは、お台所もしていましたのよ。" ], [ "まあ! お寒いでしょう。何か着物を持って参りますわ。", "いいですよ。いいですよ。" ], [ "そんなもの持って来て大丈夫ですか。", "でも仕方がありませんもの。", "悪いなあ。", "いいえ。大丈夫ですわ。わたし覚悟していますもの。", "覚悟って、どんな覚悟です。" ], [ "駄目ですよ。マッチからすぐじゃ、つきませんよ。マッチですぐ石炭につけるようじゃ、あなたがお台所をしたというのも怪しいですね。何か薪ありませんでしょうか。", "そう! ありますわ、お菓子箱でいいかしら。", "そんなものをなるべくたくさん持って来て下さい。" ], [ "京子さんは、どうして東京へ帰ったのです。", "なぜだか知りませんの。", "今井君と一緒にですか。", "ええ。鎌倉まで、いらっしゃるといってそのまま東京へお帰りになったのです。", "みんな策略ですね。あの人のでたらめな策略ですね。", "まあ! そうでしょうかしら。", "まだ、あなたはあの人をいくらかでも信じているのですか。" ], [ "無理にでも、宮田と結婚させようとする京子さんの姦計ですよ。でも、最後まであなたが反抗して下さったのは、嬉しいですね。僕はあなたがそんな強いところがあるとは思わなかった。", "京子さんが本当にそんなことをなすったとしたら、わたしどうしましょう。わたし、死んでしまいたいわ。", "何をいうのです。僕がついているじゃありませんか。", "じゃ、どんなことがあってもわたしからお離れにならない?", "離れませんよ。", "いつまでも。", "むろんですよ。", "いつでも、一時間でも。", "それは無理ですな。", "でもわたし一人でいるのは恐いわ。どうしたら、いつでもあなたのそばにいられるのでしょう。" ], [ "まあ!", "いつでも一緒にいられるのは夫婦だけですよ。", "でも、結婚なんか出来ませんわ。", "なぜです。", "二人きりで、そんなこと出来まして。", "出来ますとも、二人以外には、何がいるのです。", "そう。川辺の伯父さんなんかが承諾して下さらなければ。" ], [ "そうすれば、いつまでもわたしの傍にいて下さる。", "そばにいられるかどうか。でも、永久にあなたは僕のものですし、僕はあなたのものです。", "傍にいて下さらなきゃ、いやですわ。わたし、明日のことを考えると、恐ろしくてたまりませんの。先刻のようないやな思いをするくらいなら、死んだ方が、よっぽどましですわ。宮田さんが、死んでいるときのことを考えると、恐ろしいわ。", "あなたの覚悟さえ、しっかりしていれば、何も恐ろしいことはありませんよ。あなたさえ、事情をよく話して下されば、僕だって罪になることはありませんよ。どんな困難が、ふりかかって来ても、あなたさえ堪えて下されば、二人はすぐ一緒にいられるようになりますよ。", "でも、その間は、わたし、あなたとお別れしていなければならないのでしょう。", "三月か四月か長くて半歳の辛抱ですよ。", "でも、いやですわ。わたし、もう絶対にいやですわ。もう京子さんとは、一日だって一緒にいるのはいやですわ。わたし、もうすぐ死にたいの。でなければ、どこかへ逃げたいわ。", "だって、逃げたりなんかすればすぐ僕達に嫌疑がかかるじゃありませんか。", "じゃ死んでしまいたいわ。", "困りましたなあ。そんな気の弱いことで、何も僕が宮田君を殺したのじゃなし。", "でも、わたし恐いわ。そんな疑いが、あなたにかかって、わたしが証人になるなんて、考えてもいやですわ。ああ死んでしまいたい。死にたいわ!", "そんなに、宮田君を死んだことにきめないで、もっと待ってみようじゃありませんか。", "でも、今まで帰って来ないとしたら、もう十一時頃じゃないかしら、先刻から二時間も経っていますわ。", "とにかく明日まで待ってみましょう。", "でも、ここにいることは、いやですわ。", "でも、ここにいなければ、あの男の生死はわかりませんよ。", "でも、恐いわ。あの人が、生きて帰って来ても死んでいても、いやですわ。ねぇ、村川さん、わたしをつれて、逃げて下さい。わたしあなたと結婚でも何でもしますわ。", "ここにいて、すべてに堂々と向うことは出来ませんかな。逃げたり、死んだりしないで、お互の愛を力として、あらゆる現実と戦うわけには行きませんか。", "じゃ、あなただけそうなさいませ。", "そして、あなたは?", "わたし、ひとりで死んでしまいますわ。", "馬鹿なッ! 何をおっしゃるのです。" ], [ "生きるにしても、死ぬるにしても、あなた一人ということはありませんよ。死ななければいけないのだったら僕も一緒に死にますよ。", "いやですわ。あなたに死んでいただいたら、もったいないわ。", "じゃあ、一緒に強く生きて下さい!", "でも、離れているのは、いや。あなたと離れて、いろいろいやな目にあうのはいやですわ。", 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"まあ!" ], [ "お前が焚いてあげたのじゃないの。", "いいえ、ちっとも存じません。" ], [ "今井さんは、まだお見えになっていないそうでございます。", "それならいい。" ], [ "警察へでもお届けいたしましょうか。", "何をいうの。だまっておいで。" ], [ "倭文子さんを、一緒に置いてはいけないわ。どこか別な部屋へ移してあげたいわ。", "はい。ごもっともでございます。先刻、ボーイに申しつけました。" ] ]
底本:「第二の接吻」文春ネスコ    2002(平成14)年10月4日第1刷 底本の親本「第二の接吻」改造社    1925(大正14)年12月10日 初出:「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」朝日新聞社    1925(大正14)年7月30日~11月4日 ※表題は底本では、「第二の接吻[#1段階小さな文字]ザ・セカンド・キス[#小さな文字終わり]]」となっています。 ※誤植を疑った箇所を、底本の親本「第二の接吻」改造社、1925(大正14)年12月10日(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1220198)の表記にそって、あらためました。 入力:岡山勝美 校正:岡村和彦 2021年2月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ストッキングが、みんなどれも満足なのがなくなっちゃったのよ。", "日曜くらい、お家にいらっしゃいよ。それに、もうご飯よ。雨は降っているし……", "だってえ、家にいたら、呼吸がつまりそうなんですもの。渡辺さんとこへ行くって約束してあるんですもの。一時の約束よ、もう支度しなければ、遅くなるわ。", "じゃ着物になさいよ。" ], [ "これくらい、大丈夫よ。マニキュアのエナメルを塗っておくと、毛が抜けないから。洋服でかくれちゃうわ。", "うん、そうする。でも、帰りに新しいのを買って来なくっちゃ、お金頂戴!", "この間上げた五円、どうなったの?", "少し残っているけれど、ストッキングを買えば、バスにも乗れないわ。" ], [ "それは、どういう意味?", "貴女には、聖母のような清らかさと、娼婦のようなエロがあるんだって! 恋愛でもしたら、男殺しという役だって!", "へえ。そんなこといった? だって、佐山さん、一度しか私と会いもしないくせに、分るもんですか。" ], [ "もっと、するのじゃないの。", "十一円五十銭まで行きましたが、このところ一円ばかり下っていますので……" ], [ "どう致しまして、それにお母さまが、ちゃんと古い書付を持っていらっしゃいます。ごまかしがきかないんですよ。", "へえ。どんな書付?" ], [ "どうですか。女子大なんか出たって、今年なんか十人に一人くらいしか、就職出来ないそうですよ。それに、お姉さまのような人働けるかしら。", "だって、そのために学問をしているのじゃないのかい。", "そうは行かないのよ。お母さん、この頃は男の大学を出たって十人に二、三人しか口がないんですもの。お姉さんなんか、芝居なんかを熱心に研究したって、どうにもなるもんですか。", "じゃ、お前だんだんお金が減るばかりだし、先々どうなるのだろうね。私は、圭子が学校を出るまで、どうにかして喰べつなげばいいと思っていたんだが……", "妾が、働くつもりよ。" ], [ "だって、美沢さんは、随分お前と親しそうじゃないか。", "私が、今結婚してしまったら、お母さん達どうなるの。", "それも、そうだけれど……" ], [ "いいえ。まだ。", "一度、相談してみたら、どう? 圭子には、また何かいい考えがあるかもしれないもの。", "いいですわよ。", "なぜ。圭子は、長女だもの、お前を一番に働かすなんて法はないわよ。", "いいのよ。お母さん! お姉さんには、またお姉さんとしての考え方があるのよ。", "だって、そりゃ――お前の決心を聴いたら、圭子だって、何というか分りませんよ。", "私、話がきまってから、お姉さんに報告するわ。お姉さんはお姉さん、私は私だわ。じっとしていられない性分ですもの、つまり苦労性なのよ。私は、おおいに働くわ。" ], [ "今年小学校五年になる兄の子が、あまり甘やかしたせいか、頭はそんなにわるくないんだけれども、学校が出来ないの。", "男のお子さん……", "ええそう。いたずらっ子だけれども、性質は素直なの。それから、小学校三年の女の子、この方は、どちらでもいい。この方は、面白いかわいい子よ。二人とも、貴女がてこずるような子じゃないけれど、問題は姉よ。" ], [ "お姉さまって?", "つまり、子供のお母さまよ。", "じゃ、お兄さまの奥さま!" ], [ "それは、どういう意味で!", "貴女、私の義姉とお会いになったことないかしら。" ], [ "ほら、国語の杉原先生が、新子さんのことをいつか、賞めたじゃないの。貴女なら、どんなむずかしいお姑さんだって、勤まるだろうって、南條さんは、お姑さんの機嫌ぐらいとるのは朝飯前だろうって、それで私は貴女ならきっと見事つとめて下さるだろうと思ったのよ。", "いやだわ。あれは、杉原先生が私を皮肉ったのよ。", "皮肉の意味もあったかしらん。でも、結局は貴女が、クラスで一番悧巧だということを認めていたのじゃない?", "まあ、路子さんは、いろいろなことを覚えていらっしゃるわねえ。" ], [ "この子は、まだ家庭で勉強させる必要はないんですが、兄がやるもんですから自分もしたがってきかないんです。この方は、オマケですな。", "まあ、かわいいお嬢さん!" ], [ "さっちゃん、貴女、お使いが出来るかしら……出来ないわねえ。きっと。", "ううん。出来る、何でも出来るわ。何……" ], [ "とても、今日ラッキイなのよ。お兄さまのお友達で、新音楽協会の練習所にいる人で、とてもハンサム・ボーイを、お兄さまが呼んであるんですって……", "へえ――" ], [ "これは失礼! でも、貴女がお出かけになるときは、お家にいらっしゃいましたか?", "ええ。それはいたわ。", "じゃ、今日多分お家にいらっしゃるでしょうね。", "いるかどうか、今日帰るとき私を送っていらっしゃれば! 分りますから。" ], [ "美沢さん、家へ送って下さるんでしょう?", "そうね。遅くなったからな……" ], [ "これから、銀座へ出ても、もうお店起きてないかしら?", "まだ大丈夫ですよ。", "ねえ、美沢さん。一しょに銀座へ行かない?", "何か用事があるのですか?" ], [ "でも、僕はあした早いから……", "いいじゃないの。私、円タクをおごるわ。", "円タク賃ぐらい、僕が出してもいいけれども。" ], [ "さよなら。", "気をつけてね。" ], [ "貴女は、お若いのに早起きですな。今朝だけですか、それとも習慣ですか。", "今朝は、特別でございますけれども、家におりましても、朝は早い方でございます。" ], [ "お子さま達も、お眼ざめのようですわ。", "そうですな、後で、貴女の授業ぶりを拝見したいですな。", "お恥かしいけれども、どうぞ。" ], [ "貴女は、ダイヤモンド・ゲームをおやりになりますか。", "はあ。", "じゃ、一つお相手しましょう。", "どうぞ!" ], [ "ええ。", "私の妻なんか、自分の子供でも、あまり可愛くないと見えますね。" ], [ "貴女がながくいて下さるといいですな。", "なぜで、ございます。", "貴女が、子供と一しょにいて下さったこの三日、僕は何となく安らかな思いでいましたよ。" ], [ "今日から、別室で召し上って頂くことにしましたの。", "なぜさ、こちらでは、一しょでもいいじゃないか、その方が賑やかで……", "でも、家族と雇人とは、ハッキリ区別した方が、よろしいようですわ。" ], [ "どなたかお悪いの?", "はア、お嬢さまが――", "まあ、祥子さまが……どこがお悪いの?" ], [ "そうかもしれません。しかし、僕達がそんなことを云い出してはいけません。妻が聴こうものなら、僕と貴女とで、病気にしたようなことを云い出しますからねえ。", "でも、わるかったわ。アメリカン・ベイカリで、もっと休んでいればよかったのですわね。" ], [ "眠ったようですな。どうぞ、引き取ってお休み下さい。もう十一時過ぎですから。女中が、附き添っていますから。", "ええ。でも、もう少しお傍にいたいと思います。ほんとうにはよくお休みになっていないようですもの。" ], [ "今、僕部屋をのぞきに行ったの、知っていますか。", "いいえ、存じません。" ], [ "僕は貴女にお礼をしたいんです。", "お礼なんて――私が、何を致しましたかしら、祥子さんのご病気を、私が看病するくらい当然じゃございませんかしら。", "いや、当然なことをしない女だって、沢山いますからな。僕にお礼をさせて下さい、でないと、僕の感情が、どんなふうに爆発するか分りませんよ。", "そんなこと、おっしゃっては困りますわ。" ], [ "貴君こそ疲れたのじゃない? 弱虫ね。", "ご冗談を! 僕は学習院にいたとき、これで伊豆半島一周の遠乗りをしましたよ。" ], [ "逸郎さん、貴君、当分宿って行くでしょう。", "当分って、二、三日のつもりですよ。", "お家へ電話で断ればいいじゃないの。貴君は、いつまでも子供ね。" ], [ "前川のことなんか、もう結構よ。私、二人の子供と、たった一人の男を相手に、もう十五年も暮して来たのよ。前川なんか、何の刺戟でもないわ。あの人は、英国流の温厚な紳士で、そして無精で、本ばかり読んでいて。", "それでけっこうな旦那様じゃありませんか、貴女の自由をちっとも束縛しない……", "貴君は、なぜいやがらせばかりおっしゃるの。若い方は、そんなふうな物云いはしないものよ。" ], [ "ほんとうに、長くいて、私の遊び相手になってよ。でないと、私身体をもてあましてしまうのよ。主人とばかり顔を見合わせているのじゃ、息がつまりそうよ。", "だって、祥子さんが、ご病気だというじゃありませんか。", "いつもの風邪よ。あの子は、土地が変ると、きっと熱を出すのよ。ちっとも、心配することないわ。", "見馴れない若い女の方が、付添っていらっしゃいましたね。", "今度来た家庭教師よ。", "勝気そうな、美しい人じゃありませんか。", "おや、そんなことまで、いつ見たの。", "チラと見たばかりですけれど。", "ああいう人、私すかないの。ちょっと、乙にすましている女。だから、私思いきり、いろいろな用をさせようと思っているの。私は、一般に同性は、嫌いなのね。同性を見ていると、何だかいらいらして来る性分なんだわ。" ], [ "何?", "キャメル……" ], [ "私、三、四日のうちに、伊香保へ行ってみたいんだけれど、貴君も行ってみない。", "さあ! 貴女と二人で……ですか。", "逸郎さん。貴君、前川を恐がっているようね。" ], [ "どちらも、恐いわけではありませんが……", "ねえ。一しょに行ってみない。佐竹の伯母さんとこへ訊ねて行くといえばいいでしょう。私、ここもいいけれど、観るものも聞くものもないから退屈するのよ。前川と話しすることなんか何にもないし……" ], [ "貴君は私の家に居るの窮屈?", "なぜ? 決してそんなことありませんよ。", "じゃ、長くいらっしゃい! そして、私の相手をして頂戴! 前川だけじゃつまんないわ。", "僕だって、あまり面白い人間じゃないことをご存じじゃありませんか。東京じゃ、子供扱いで、まるで相手にもして下さらないじゃありませんか。", "ほほほほほほ。じゃ軽井沢だけの男友達でいいじゃないこと、ほほほほほ。" ], [ "でも、よかったですね。蹴られたりなんかすると、たいへんですよ。", "あんまりあわてたもんですから、もっと落着いていればよかったんですわ。", "誰でも、あわてますよ。こんな道で、あんなに駈けさせるんですもの……" ], [ "これじゃ我々自身が『落伍者の群』になりそうじゃ。衣裳代をかけすぎましたな。もっと筒井を頼りにしていたんだが、あれが三、四百円は切符を売るといっていたんだが、『第二の亡霊』だけじゃ厭じゃというて、逃げ出してしまうなんて、あまり万事筋書通り過ぎるですなあ。", "………", "この分じゃ、五日間はムリですな。第一、小屋代の工面が、つかんですな。" ], [ "初めての試みなんですから、誰の責任でもございませんもの。私、出来るだけ、お金作りますわ。", "貴女の『彼女』は予想以上の成功ですし、中途でなんか止したくないだろうな。さっき、久能さんが、賞めていましたよ。", "まあ! 久能さんも、見物にいらしっていたんですの。" ], [ "お金のこと、ほんとうに私、どうにか致しますわ。", "それは、一番良いことのようで、一番悪いことですよ。", "なぜですの。", "それは、貴女独りに、あらゆる負担を転嫁することですもの。", "だって、私が自発的にやるんですから、いいじゃありませんか。私、舞台に出てみて、初めて自分の生きる道が分ったような気がしますの。", "なるほど、貴女は情熱家だ。そうした気持で『彼女』をやるんだから、成功するはずですな。しかし、貴女にムリをさせて、僕達が傍観するわけには行きませんからな。", "先生。大丈夫だと申し上げましたのに。私、母に話せばどうにかなると思いますの。" ], [ "お金がいるのよ。それも沢山なの。私、学校をよしてもいいから、私の学資にとっておいたお金を、今一度に出してくれない!", "まあ。お前何をいうんですか。だしぬけに……" ], [ "ねえ、お母様。そのお金がないと、研究会の仕事が、駄目になってしまうのよ。ねえ、私学校を出て就職するにしても、この頃は口なんか、てんでないのよ。だから、研究会の方で、一生懸命劇の方を勉強して、いっそ舞台に立とうと思っているの。", "それじゃ、女優さんにでもなろうというの?" ], [ "まあ! とんでもないことばかりいうのね。研究会なんか潰れてもいいじゃありませんか、潰れたらいい機会だから、学校の方を真面目に勉強して、卒業したら新子のように働いてくれなければ……。私達はどうなって行くのですか。", "それが、お母さんの考え違いよ。学校を出るより、舞台の方を勉強した万が、どのくらい世の中へ出るチャンスがあるか分らないというのよ。", "その女優になって世の中へ出るということが、お母さんは、嫌いなんですよ。", "なにいってるの。お母さんは、分らず屋ね!", "お前こそ分らず屋ですよ。五百円なんて、まとまったお金を出せば、明日から私達は飢えますよ。", "家に、そのくらいな余裕がないなんて考えられないわ。", "家の経済は新子がお前にもよく話したはずじゃないの。", "新子ちゃんのは、あれは誇張よ。あの人は、ああいう風に考えて、自分が一家のために奮闘するといったような気持を味わいたいのよ。", "まあ、お前は新子や私の気も知らずに……" ], [ "いいえ。誰も……", "でも、玄関が開きやしなかったかって?" ], [ "知っているわ。小太郎さんでしょう。さっきから知っていたんだから、駄目よ。", "ウソいっている。随分驚いたくせにねえ、驚いたでしょう……", "ええ。ええ。" ], [ "もう、お痛みにならないんですか。", "ええ、もう。すっかりよくなりました。いろいろご心配をかけまして……", "外人達のテニスのトーナメントがありますよ。見にいらっしゃいませんか。", "ええ。" ], [ "だって、レディにご親切だから……", "じゃ、今までは僕に愛人なんかいないだろうと、心配していて下さったんですか。", "だって、あまりお閑のように、お見受けしましたの、ほほほほ。" ], [ "貴女がさっき愛人とおっしゃったのは、愛人か許婚かのつもりで、おっしゃったのですか……そんな深い意味じゃないんでしょう。それなら、いろいろありますよ。", "ほほほほほ。だから、安心したと申し上げたじゃありませんか。", "何もなかったら、心配して下さるんですか。" ], [ "僕の方こそ、心配していますよ。貴女のような方が、こんな腕白坊主の相手ばかりしていらっしゃるんだったら……", "まあ。ひどいことをおっしゃるわねえ。ねえ、小太郎さん!" ], [ "ございましてよ。貴君のように複数でなく、単数で……ほほほ。", "は、はア。これはたいへん失礼致しました。失礼ですが、先刻のハンカチーフをお返し下さいまし……" ], [ "マダムは、難物ですが、前川氏は、きっといい味方になってくれるでしょう。あの人は、元来女性尊重主義者だから……", "まあ、なぜ……貴君はそんなことをおっしゃるのですの。" ], [ "今日はもうよむご本ありませんよ。", "動物園見物。", "でも、これは三度目でしょう。", "三度目だっていいの。" ], [ "じゃ、姉さんが、用事があるから、すぐにでも東京へ帰れとでもいうのですか。", "いいえ、そんなことでもございませんの。" ], [ "依頼って、どんな性質のものですか。", "つまらない、出鱈目な事なんでございますの。" ], [ "じゃ、先生電報が来ても、ここのお家にいるんでしょう。", "ええ。いますとも、祥子さんと一しょでなければ、東京へ帰りませんわ。" ], [ "四谷のお宅は、谷町でしたね。谷町の何番地ですか。", "二十七番地でございますの。", "お姉さんのお名前は?", "圭子でございます。", "ケイ、どんなケイです。", "土を二つ重ねた。" ], [ "そう。じゃ、先生もパパ好き。", "ええ大好き。", "祥子も好き、ママよりもズーッと好きよ。" ], [ "姉妹って、どこか似ているもんだなあ! 貴女と新子姉さんとは、顔立ちはまるで違うから、面と向って話していたんじゃ、ちっとも気づかなかったけれど、声だけ聞くとまるで同じだ……", "そうお、そんなに似ている?", "似てるよ。さっき、姉さんかと思ってびっくりしたよ。それに美和ちゃんらしくもなく気取っていたからさ……", "だって、貴君の家へ来るの初めてだし、小母さんいるんだし、少し気取っていったのよ。" ], [ "貴君も見たの。", "ああ、一昨日。", "なあんだ! じゃ、あれ見に行かなくってもいいわ。ズー・イン・ブダペストって、活動見に行かない?" ], [ "お客様には、お茶というものがいるからさ。", "厭やン。いやだわ。初めて来たお部屋に、一人になるの嫌い。ここにいて、ねえ! お茶なんか飲みたくないわよ。お婆さんじゃないんだもの……" ], [ "靴下がとても、汗ばんで気持がわるいの。ちょっと、取っていてもいいかしら。", "いいさ。" ], [ "ねえ。随分毛深いでしょう。", "うん。" ], [ "立派ね。あら、あら、白髪があるわよ。", "ウソをつけ、光線のせいで光っているんだよ。", "あんなこといっている。二本あるわよ。取ってあげるから、ジッとしていらっしゃい。" ], [ "痛っ!", "それ、ごらんなさい。これ、白髪でしょう。白髪よ。", "なるほどね。後は取らないでよろしい。", "なぜ?", "若白髪は金持になるんだろう。", "そう云うわね。でも迷信よ。白髪なんか、ない方がいいわよ。" ], [ "美沢さんのところには、ジャズがないのね。", "有る。二、三枚なら、テレジイナのカスタネットでもかけようか。", "そんなのいや。もっと、ウットリとのびのびするようなの、ないの。どら。" ], [ "そりゃジャズじゃないぜ。", "これの方が、ましだわ。", "へえー。君、ちゃんと知っているんだねえ。", "そりゃア知ってるわよ。新協なんか、もうせんから、シーズンになれば欠かさないのよ。" ], [ "君が、音楽が好きだとは思わなかった!", "あたし何でも好きよ。音楽も、文学も、恋愛も。", "へえ! 剛気だな。でも、恋愛だけは余計じゃないか。", "三人姉妹でしょ。三つの階級があるのさ。上のお姉さまは、貴族よ。新子姉さまは平民で、あたしは芸術家よ。", "なるほど、そうかもしれないな。", "上のお姉さま、少しいやよ。家では、お高く止まって、結局皆に何かさせてしまうのよ。新子姉さまは、あまりに家のことを心配しすぎるのよ。つまり、貧乏性の損な性分なのよ。", "君は?", "ボクはね。とっても素敵さア。" ], [ "君は、正直だからいいね。", "そこなんか、つまり素敵なんさ。正直でうぬぼれが強くって、だから失恋なんかしたことないの。", "失恋なんかしたことないって、第一恋愛したことあるのかい。", "無いわ、でも、すぐあるかもしれないわ。", "美和子ちゃんの好きなタイプの男って、どんな人?" ], [ "こんな真昼に、暑いじゃないか。", "冷房装置のある所へ行けば、ここよりは、よっぽど涼しいわ。" ], [ "美和子ちゃん、僕も不良だぜ。あんまり、くっついていると、こわいぜ。", "どうするの?", "さあ! 何をするか……", "美沢さんなんか、こわくないわ。新子姉さんに、甘いところ、さんざん見ているんだもの。そんなおどかしきかないわ。ねえ、シネマへ行きましょうよ。" ], [ "まだ散歩するの。", "だって、これからすぐ帰っても暑いわ。", "どんなプラン?", "私に委せて下さらなきゃいや、貴君のお家の近くで蜜豆を喰べるのだけれど、その前にちょっと散歩したいの。" ], [ "どこへ行くの。", "訊いちゃいや。出来たら、眼をつむっていて……", "僕を誘拐するの。" ], [ "私、動物園とても好きよ。だから、今の活動もとても見たかったの。ほんとうに、今日は楽しかったわ。私、お友達がみんな避暑に行っているから、とてもつまんないの。新子姉さんはいないし、圭子姉さんは、芝居に夢中だし……", "しかし、美和子ちゃんは不良だね。ここから、弥生町へ抜ける道を知っているし、四谷に住んでいて、梅月の蜜豆なんかたびたび喰べに来るのかい?", "だってえ、そりゃ西片町にお友達があったのよ、それから桜木町にも仲よしがいたんだもの。だから、この道は随分歩いたのよ。", "だって、西片町から桜木町なら、逢初橋へ出た方が近いじゃないか。", "そら、用事のときはあっちを歩いたわよ。散歩のときは別よ。散歩って近道することじゃないでしょう。" ], [ "なぜさ……?", "なぜでも、それに臆病ね。", "何を生意気な、子供のくせに……", "皆、私を子供と云うわ。でも、私もう子供じゃないわよ。何でも分っているのよ。" ], [ "ねえ。美沢さんも、新子姉ちゃんがいないで、寂しいでしょう。だから、私ちょっと慰問に来て上げたのよ。ほんとうはそうなのよ。", "何を下らんことを!" ], [ "貴君、覚えていない?", "覚えているよ。麹町の家でだろう。お茶を出して、すぐ逃げてしまったじゃないか。それから二、三度会ったけれど、いつも居るなと思う瞬間にパッと逃げて行ったりなんかして、ふざけたお嬢さんだと思っていたよ。", "どうして、逃げたか知っている?", "そんなこと知るもんか。", "貴君に顔を見られるのが、とてもきまりが悪かったからよ。その頃から、私貴君に顔を見られると変だったのよ。" ], [ "何だい。", "貴君が欲しいと云えば、私あげるものがあるのよ。", "ええ。" ], [ "ママの嘘つき!", "何が……", "仕度って字は、こう書くんじゃないって!" ], [ "じゃね、貴君の勉強の時間が了ったら、先生にお話があるから、この部屋に見えるようにいって頂戴!", "うん。" ], [ "うん。", "じゃ、今の方がいいわ。すぐ、先生にママの部屋に来るように云って頂戴!" ], [ "ああ書きますと、誰にも通じませんかしら……", "いいえ、通じますわ。", "そうでしょう。通じれば、それでいいじゃありませんか。", "はあ。" ], [ "はあ。", "でも、パトロンはパトロンでいいじゃありませんか。もう、それは日本語なんですもの。それを知ったかぶりで直すのこそ、おかしいと思いになりません。それから、大統領のリンコルンだって、本当はリンカーンでしょう。でも、リンコルンというのも、それで何だか、昔風でなつかしくっていいじゃありませんか。", "はあ!", "日本の言葉にだって、間違ってそのまま通用している言葉が、沢山あるでしょう。殊に仕度という字なんか、十人の中で七、八人まで、仕度とかいていやしませんかしら。", "はあ。", "十二、三の子供の綴方に、仕度と書いてあったからといって、それを一々直すには及ばないと思いますが。", "はあ。", "もっとも、子供の間違いを直すのと同時に、親の間違いを直してやろうと、おっしゃるのなら、これはまた別の問題ですが……", "まあ! 私に、そんな……", "だって、小太郎を、私のところへおよこしになったのは、貴女でしょう。", "まあ決して……" ], [ "そう? だって、私も少し驚いているんですよ。あの人くらい、高慢で、しかも自我の強い人ったらありゃしないわ。私が小太郎に仕度という字を仕ると教えたのが、違っていると云って……", "支度は仕ると書いたら、間違いか……", "ほら、貴君だって、仕るとお書きになるでしょう。それを支える度が正しいと云って、小太郎をわざわざ私の処へ訂正によこさなくってもいいじゃありませんか。それじゃ、私だっていい加減不愉快になるじゃありませんか。それに、あの人子供と少し馴れすぎるし、逸郎さんなんかと、すぐ散歩するのだって、どうかと思いますのよ。だから、その点も、ちょっと注意しましたの。すると、もう開き直ってよすというんですもの。" ], [ "私だって、今までの家庭教師よりは、あの人よっぽど、いいと思っていますわ。でも、ああ高慢で素直でないとなると考えますわねえ。それに、私がちょっと注意したら、すぐ跳ね返して来て、お暇を頂きたいというんですもの。(どうぞご自由に)というほかないじゃありませんか。", "しかし、子供達は、とても南條さんに馴れているじゃないか。南條さんが来たために、小太郎なんか、ずーっと勉強するようになったと思うが……", "ですから、私もあの人に出て行ってくれなんて、ちっとも云いませんのよ。でも向うから暇をくれと云う奉公人に、主人が頭を下げて、どうぞ居てくれとも云えないじゃありませんか。あの人も、少し高慢なところが、瑕ですわ。もう、少し素直だとほんとうにいい人なんですけれど。" ], [ "今日はよそうと思っていますの!", "なぜ? 今日、村山夫人と勝負をつけるのじゃなかったのか。", "あの人のお相手は、真平だわ! あんな汚いプレイをする人きらいだわ。", "たいした気焔だね。", "貴君一人でどうぞ!" ], [ "パパ!", "何だい。", "南條先生泣いているよ。泣いちゃったよ。", "先生どこに居る?", "お部屋にいる。僕、先生のお部屋をのぞきに行ったら、お机のところにこうしているの、きっと泣いているんだよ。ママこわいから厭さ。", "お前が、余計なことを云うからいけないんだよ。" ], [ "妻は、もう何でもありませんよ。貴女も、さっきのこと、もうお忘れになって下さいませんか。", "はア。奥さまにお詫びに行こうと思っておりますの。" ], [ "あの強い風にたまるものか。持って行かれてしまったよ。", "夕立の中を、よっぽど歩いていらっしったのね。妙な方。" ], [ "沢山集まるのかい。", "ええ、フランス大使のお嬢さまや、松平侯爵夫人なんかいらっしゃるらしいわ。……貴方は、この頃少しもお踊りにならないわねえ。ゴルフも一時ほど熱心じゃないし、今に肥っておしまいになるわ。", "肥ったら、わるいだろうか。", "肥った男なんて意味ないわ。私、嫌いよ。ダンスにも、お出かけなさいましよ。たまには。" ], [ "違うでしょう。まだ七時ですもの。", "じゃ、誰だろう。お客さまか。" ], [ "先生は、七時半の汽車でお帰りになりましたんですが。ああ、まだ申し上げも致しませんでしたが、先生からお心づけを頂戴致しましたんで……", "杉山いるかい。", "ただ今奥さまのお伴で……", "こまったな。旧道の何とか云うタクシ、あすこへ電話をかけて一台急にと云ってくれ。", "はい。" ], [ "ねえ、お化粧品だけは、いつでもこんなの使っていたいわ。ねえ。お姉さま。私、指輪だの時計だの帯どめなんか、ちっともほしくないの。", "貴女、随分お洒落になっちまったのね。", "ええ。" ], [ "いつこさえたの、お手製じゃないわね。", "相原さんの作る銀座のクロバーよ。", "あんなところじゃ、木綿ものだって、シルクと同じくらい、仕立代がかかるんでしょう。", "布地は、全部で三円五十銭しかしないのよ。仕立代は、相原さんの方の、つけにしておいてもらったの。", "そんなことしたら、悪いじゃないの。仕立代いくらくらいなの。", "十円くらいでしょう。……ねえ、似合うわね、シルヴィア・シドニイみたいじゃない?……", "何を、そうお調子に乗って、浮々しているの。貴女少しおかしいわねえ。" ], [ "だってえ。この頃とても、楽しいんだもの。今日は、そら日曜でしょう。日曜は坂を上ることに決めたのよ。", "何を云ってるのか、お姉さんにはちっとも分らないわ。", "お姉さまなんか、軽井沢へ行って、先生なんかしているからいけないのよ。日曜日には坂の上にある家を訪ねることになっているのよ。まだ解んないのかなア。" ], [ "もう行かないわ。九月になったら、会社か雑誌社のようなところに、就職を頼んでみるつもりよ。", "お姉さまが、もうずーと、家にいらっしゃるんだったら、私お願い……って、話があるんだけれど……今日じゃなくってもいいのよ。" ], [ "おや、こわいのね。私、結婚しようなんて思ってる人なんかないわ。あったって、なかなか出来ないもの。どうして、そんなこと訊くの?", "ほんとうに、本心からそう思ってらっしゃるの?", "気味がわるいわ。もちろん、本心からよ。", "で、安心したわ。私、お姉さまは、美沢さんと結婚するつもりかと思っていたのよ。で、なんだったら……" ], [ "美沢さんて、いけないのよ。", "どうして!", "だって、日曜日ごとに会おうって、約束しちまうんですもの。", "いつ、そんな約束したの。", "この前の日曜日よ。あんまり、色々訊かないでよ。お姉様。" ], [ "それは、私がわるかったわ。でも、あのことで、前川さんの方がダメになったのじゃないでしょう。だって、あの無心は快く聴いて下さったんでしょう。あの翌日、お使いの人がちゃんと届けて下さったんですもの。私、随分感心したのよ。前川さんて、何といういい方かしらって、ご主人がいい方? 奥さまがいい方?", "………" ], [ "ねえ。", "………" ], [ "貴女、ほんとうに前川さんのところよすつもりで帰ったの。一体、どうして?", "お願いだから、今訊かないで……" ], [ "何でもないって! 昨夜だって、あんなに突然帰って来て、顔色もよくなかったし、こっちだって心配で、昨夜はろくすっぽ眠りもしなかったのよ。話しておくれ、ほんとうに、どうおしだい?", "どうもしないわ。ただね、前川さんの方、もうダメになってしまったの。どうも、奥さまと、うまく行かないの。今朝起きてそのことを考えていたら、つい悲しくなって! でも、もうなんでもないの。" ], [ "いやだわ。大金よ、お母さま。", "いくら。いつ頃送ってくれたの?", "百四十円、十日くらい前。" ], [ "ほんとうは、私奥さまと喧嘩をしてしまったの。ご主人にご挨拶もしないで帰ってしまったので、心配していらっしゃるの。でも、どうにもなりやしない!", "だって、折角手紙下さるんですもの、行って会っていらっしゃい。今度は、関係していらっしゃる会社の方にでも、使って下さるわよ。", "いやよ。もう、前川さんのお世話なんかに二度とならないことよ。", "そうお、それでも、ご主人だけには、挨拶して来るといいわ。私のためにだって、あんなにして下さったんですもの。", "………" ], [ "応接室へ――暑いだろうね、どこも……", "はあ。" ], [ "あのお金を届けて下さいましたときは、ほんとうに大助かりでございましたの。みんな学生ばかりですから、お金はちっともございませんでしたの。あの日も、劇場の借賃が払える払えないで、騒いでいましたの。ところへ、あのお金が来たものですから、みんな躍り上って欣びましたの。あの奥さまも、劇がお好きなんでございましょう。", "いや、妻は……", "まあ、お好きじゃございませんの、それは残念でございますこと……私また奥さまもお好きで、奥様のお口添もあったと思っていましたの……", "いや。しかし、大変よい評判で、結構でした。軽井沢に居りましたので、新聞の批評だけで、舞台は拝見しませんでしたが……", "それは、残念でございましたわ。初舞台ですから、充分工夫が出来ませんでしたの。あんな風に賞められると、かえって何だか頼りない気が致しますの。九月には、モルナールのものをやることになっていますの、その方が私の柄にあうんじゃないかと思っていますの。" ], [ "じゃ、劇団には基本金というものが、ちっともないんですか。", "はア。", "稽古を始めるのにも、いろいろお金がいるでしょうな。", "交通費なんか、自弁なんですの。でも、貸席の費用とかお弁当とかそれに宣伝もしなければなりませんし……準備に四、五百円は……" ], [ "お収めになって下さい。失礼ですけれども。", "だって、いけませんわ。今日はほんとうにお礼にだけ、伺ったんですもの。困りますわ。公演が近づきましたら、ご無心に上るかもしれませんけれど、今からこんなにして頂くなんて、いけませんわ。", "いいじゃありませんか。公演の時は、公演の時として、また切符をお買いしましょう。これは、基金のような意味で……" ], [ "貴女に、内緒にしておこうと思ったんだけれど、いわずにいられないわ。ねえ。", "何? 一体。", "私ね、やっぱり、前川さんのところに、お礼に行くことにしたのよ。", "お止しなさいったら……" ], [ "嘘でしょう。いつ? 行く暇なんかないじゃないの。", "今行って来たのよ。" ], [ "分っていればこそ、貴女の代りにお礼に行ったじゃないの。", "だったら、なぜ、お礼を云っただけで帰って来ないの、物ほしそうな顔をして、そんな大金を貰って来るの、まるで、泥棒猫が、投げてくれた魚の骨に味をしめて、ノコノコお座敷へ上り込んで行くような恰好じゃないの。図々しいにも程があってよ。" ], [ "私が、前川さんから、いつ乞食みたいに、お金を頂いたと云うの……。貴女は、お金というものに対して、俗人根性を持っているから、そんなことを云うんだわ。前川さんは、演劇の愛好者だわ。その方が芸術のために、下さったお金は、浄財よ。それを頂くことなんか、恥でも何でもないわ。だから、私前川さんに、個人で頂くのではない。会として頂くと云ってお断りしておいたわ。だから、個人としての私が、恩に着ることはないし、まして私の妹である貴女が、眼に角を立てて、ワイワイ云うことではないわ。", "おだまりなさい。下らないわ。前川さんは、私の姉としての貴女だから、会ったのよ。私の姉の貴女だから、お金を呉れたのよ。あの方、演劇愛好者でも何でもありゃしないわ。そんな、空論で私をゴマかそうとしても、駄目だわ。", "貴女の云っていることの方が、よっぽど空論だわ。俗人の余計なおせっかいだわ。", "私の云っていることが、おせっかいと思うのなら、私お姉さんを軽蔑するわ。お姉さんみたいのが、役者馬鹿と云うのだわ。昔の千両役者のように、お給金を沢山取っているのなら、お金の勘定も知らないような役者馬鹿も愛嬌よ、他人に迷惑がかからないんだから。お姉さんなんか、まだ役者になり切らない先に、役者馬鹿になられたら、傍の者がたまらないわ。私が送ったお金をゴマかすなんて辛抱するわ。私の迷惑になるようなお金を、他人様から貰って来ることだけは、かんにんしてもらいたいわ。……お金が、そんなに必要でしたら、私の知らない演劇愛好者から、いくらでもお貰いになるといいわ。前川さんからだけはよして頂戴ね。", "………" ], [ "ね、返して来て頂戴! 家へ持って帰ったら、新子に叱られましたからと云って!", "バカバカしい。あんたの指図なんか受けないわよ。" ], [ "やあ。", "私の方が、早いつもりでしたのに、お待たせしてすみません。" ], [ "何でも。嫌いなものございませんから……", "僕と同じでかまいません?", "どうぞ……" ], [ "姉に、あんなことをして頂くと、ほんとうに困りますわ。姉は、演劇狂なんですもの、そのためには、どんなことをしても許されると思っているらしいんですもの。この先、どんなご迷惑をおかけするか……", "いいじゃありませんか。僕は、ああいう方も好きですよ、一本気で……貴女よりもずーっと、子供みたいで……", "いやでございますわ。そんな比較なんかなすって? もう、どうぞ私達姉妹のことは、捨てておいて頂きたいんですの……" ], [ "なぜでございます。", "なぜって、僕は今まで、あまり道楽のない男だったんですから、月々ある程度の出費は、何とも思いませんし、貴女のお姉さんを後援するなんて、僕にとっては嬉しいことですし……それに圭子さんは、僕を演劇愛好家に定めてしまっているんだし……" ], [ "それに考えてみると、僕という悪い人間は、貴女を失業させたことに、なっているんだから、どんなにしても、その償いをしなければいけないし……", "あら、そんな理窟なんか、ございませんわ。", "ありますとも、大有りですよ、圭子さんが見えた次の日、僕は貴女の手紙を見て、悄げてしまいましたよ。これぎりじゃ、僕は貴女を、たいへん不幸にしたことになるんですもの。だから、これぎりになるなんて、僕はたまらないと思いましたよ。だから、貴女がもし、あのまま、僕と会って下さらないとすれば、せめて縁につながるお姉さんの仕事でも、後援して貴女に対する自責の心を、少しでも慰めようと思っていたくらいです。" ], [ "お姉さんの外に、妹さんもおありになるんでしょう。", "はア。", "あのお姉さんは、生活なんて、てんで考えない方でしょうし、妹さんはどうですか……" ], [ "僕も、どんな商売が女性に向いていて、有利か研究したことはありませんが、まあ場所を撰んで『酒場』を出すか、『洋品店』をするか、洋裁の心得のある方だったら、婦人、子供洋服の店を持つとか……", "………", "婦人雑誌に、そんな記事が時々出ているようですが、レコードを売る店なんてどうでしょう。小ギレイで……" ], [ "因循姑息な地味な商売より、当りさえすれば儲けのある水商売の方が、やはり女の人には向いていると、云わなくてはいけないでしょうな。思い切って、『酒場』か『喫茶店』――この頃、銀座に流行っていますな――ああいうものを、やってみては如何ですか。", "はア。", "もっとも、お始めになる意志が、おありになれば、僕がよく人に頼んで、場所も経営方法も調べさせておきましょう。" ], [ "お姉さんの演劇熱の後援も、僕は欣んでやりますよ。しかし、僕はその十倍も、百倍もの熱心さで、貴女の生活の後援がしたいんです。そして、貴女の生活を安定して、貴女に幸福になっていただきたいんです。でないと、僕は一生寝ざめがわるいですからな。", "そんなに、お世話になる筋はございませんもの……今までだって、余分なことをして頂いたんですもの。" ], [ "僕の、前によく友人と行っていたクララという小さい酒場ですが、客がとても多いんですよ。二十三と二十の兄妹が、二人限りで三千円ばかりの資本ではじめたというのですが、この頃なんぞ兄の方は金廻りがよくて、競馬などに行ってるという話……食物商売は確かにうまく行きさえすればいいんですよ。", "はア……そのお話、私よく考えさせて頂きますわ。" ], [ "どこがお好きなんですか……?", "帝劇なんかで観るのが好きなんですけれど、……いま、何を演っておりますかしら……?" ], [ "『裏街』ってのを、演っておりますよ。", "あ、それは、たいへん評判の映画でございますわ。" ], [ "一ト月に、二十円で足らなくて……この頃は三十円くらい使うって、お母さまがこぼしていらしたわよ。使い過ぎるわよ。", "使い過ぎるも、過ぎないもないわ。実際けちくさいンだもの。お友達に気がひけて仕方がないわ。" ], [ "だって、お友達は、みんな避暑に行ったと云って、こぼしていたんだが……", "じゃ、避暑地へでも誘われたんじゃない。今日、出がけに、お小づかいを欲しがっていましたもの……" ], [ "しばらく。どうです、少しはお気に召しましたか。", "まあ、こんなに何から何まで、して頂いて……相すみません、軽井沢からは、いつお帰りになりました?", "四、五日前ですよ。毎日ここへ寄っていたんですが、すっかり仕上ってからと思って、お電話しなかったんです。" ], [ "電話は、やっぱり奥の方がいいね。四畳半の上り口の壁にとりつけてもらいたい。", "へえ――。板だけでも、とりつけておきましょう。" ], [ "バーテンダーは、頼んでおきましたよ。フランスにしばらくいた男で、カクテルには、自慢の腕を持っています。偏屈ですけれど、人間はごく正直な男ですから、洋酒の仕入れなど、一切委せたらいいでしょう。貴女は、カウンターをやって、女給は気持のいい少女を二人くらい傭ったらどうですか。", "はア。", "開業も、縁起のよい日がいいと思って、そんなことをよく知っている人に聞いたんですが、貴女は六白だから、今月は縁談金談はいいんです。十二日が大安でしたけれど、貴女の年には凶の日で、二十日の先勝がいいんですって……", "まあ……そんなこと、お気になさいますの?" ], [ "ええ、お道楽でおやりになるんですって。", "素敵なんでしょうね。", "ええ、とても気持のいい家よ。", "新聞広告なんかしたって、なかなか美人なんて来ないわよ。私のお友達に、適当なのがあるわ、つれて来てあげるわ。" ], [ "だって、貴女のお仲間、そんなところで働くような境遇の人いないじゃないの?", "いるわ、一人。働きたい働きたいっていっているの。もう先、仲のよかった人よ。ちょっと、可愛い人よ。" ], [ "美和子なら、いいじゃないの。お互に監督し合えばいいわ。前川さんは、スマートで、お金持なんでしょう。お姉さん、一人じゃ危いわ。", "何を云っているの! 貴女は、美沢さんと結婚するのじゃないの。" ], [ "たいへんな景気よ。ちょっといらっしゃらないこと?", "もう、家へ帰ってしまったのです。", "まあ、お家から?", "はあ。", "つまんないわ。" ], [ "大有りさ。美和子、今に結婚するかもしれないのよ。", "おや。誰とさ。" ], [ "ウィスキイ。オールド・パーがいいね。", "皆さん?", "ああ。" ], [ "君幾つ!", "十八……", "何て云うの――", "まだ名前、ついてないの。多分ミミということになるでしょう。", "本当の名は……", "只では教えない! ここイかけさしてね。" ], [ "ええ、唄なら大抵知っているわよ。音楽家よ、わたしは……", "何か歌って下さいよ。", "いやよ。私『歌わせてよ』じゃないわよ。まだ、お酔いになっていないのに、聴かせるものですか。", "じゃ、酔ったらきかせてくれますか。" ], [ "まあ。カナリヤですの……可愛いこと。", "いま来がけに、そこでフラフラと買っちゃって、水盤の上へでも吊ろうかと思っているんですが……", "可哀想ですわ。お店じゃ。夜更しをして、煙草にむせて、お酒に酔って……", "じゃ、貴女のお部屋にしますか。" ], [ "会社の方、まだお仕事があるんじゃございませんの?", "いや、別に。帽子やステッキを持ってくれば、会社へ帰らなくってもよかったんです。でも、今日は六時までに、家に帰らなければ……", "祥子さんや小太郎さん、お元気なんでしょう。", "ええ、しょっちゅう、貴女のことを云って、会いたがっていますよ。それに、路子も、たいへん貴女に、すまながっています。今度、何か機会を作りますから、子供をご覧になりませんか。", "ぜひ、どうぞ。" ], [ "晩に、またいらっしゃるでしょう。", "いや、晩には来られません。" ], [ "ええ、僕ノウ・ハットだから、会社へ、帽子を取りに行かなければ……", "あら、帽子なんかいいじゃありませんか。今晩、いらっしゃらない罰に、これから銀座で何かご馳走して下さらない。私、あわててお家で、何も喰べて来なかったの。お腹、ペコペコなの。ねえ、お姉さまも、一しょにお出かけになるでしょう。", "何を云っているの。前川さんにご迷惑なことを云っちゃ。" ], [ "それが、とてもおかしいの。あんまり、その人と遊び過ぎてしまって、私お家へ帰らなかったの。それで、その人のママさんに、お家へことわりに行ってもらったの。するとそのママさんが、気を廻してしまって、お母さんや新子姉さんと、縁談なんか始めてしまったの。少し困っているのよ。", "いいじゃありませんか。遊び過ぎるくらいなら、貴女だってその方だって、お互に好きなんでしょう。" ], [ "だってェ……", "だってじゃないわよ。私だって前川さんに、お世話になる筋はないのを、眼をつむって、お世話になっているのに、貴女までがご迷惑をかけるなんて、手はないじゃないの。貴女が、あの方にあまりウルサクするのなら、私あのお店なんかよしてしまうわ。" ], [ "美和子さんは、貴女とはまるで違う。明るくて、無頓着で、超人的な魅力を持っていますよ。それだけに、誘惑されたり、征服慾を誘われたりするものの、心の底からの愛情の動きなんかちっとも感じられませんね。あの人は、心を持たない女ですよ。結婚するには、感覚的な刺戟や、性的魅力の有無などということよりも、心の愛情が一番大切なんじゃありませんか。あの人は、ただあそびのお友達ですよ。ほんとに、心を委せておけるような……", "でも……貴君のお母様のお話では……", "母のことなんか云わないで下さい。美和ちゃんは、あんな年寄なんか、掌中に丸め込むのは、お手のものじゃありませんか。それも、僕をほんとうに愛しているからじゃなく、ただ興味本位の一時のお芝居なんですよ……だから、もう飽きてしまって、僕のところへなんか寄りつかないじゃありませんか。" ], [ "貴方のお気持よく分っていますの。でも、私軽井沢から帰ると、いきなり美和子から聞かされてしまったんでしょう。その上お母さままでいらしったんでしょう。それですっかりもう決心しましたの……それに、私も母を抱えておりますし、あんな出鱈目な妹を持っていますし、姉は家のことなんか、かまってくれませんし……結局、独立して何か商売がしたくなってしまって……", "じゃ、つまり貴女は前川さんに、この店を出してもらったんですか……" ], [ "お姉さまかと思ったわ。今日は、お早いのね。", "お姉様は、どうしたんです! 今日は、まだ来ていないんですか。商売不熱心ですね。" ], [ "買物にでも……", "そうでもないの。", "ほほう。じゃ、お友達でも……", "ええ。つまりお友達だわねえ。" ], [ "じゃ、貴女が軽井沢へ来ていられた間に、その方と美和子さんが仲よくなってしまったわけですか。", "ええ。", "じゃ、こんなことは、僕として自惚れているか、しれませんが、僕があんな軽はずみなことをしたために、貴女と美沢さんとの間が、変になったというのじゃないでしょうか。もしそうだと僕はたいへん心苦しいんですが……" ], [ "そうでもありませんの。", "じゃ、……" ], [ "今度は、またどうしたと云うんですか……", "今度は……羞かしいわ。" ], [ "あのう、劇の方の後援をして頂いておりますの。", "何でございますって……", "劇、あのお芝居でございますの。私達、お芝居をやっておりますの。", "新子さんも……", "いいえ。私だけ……", "まあ……それは。", "はア、前川さんには、随分お世話になっておりますの。九月の公演にも、切符を沢山引き受けて頂きましたの……" ], [ "でも、夜分でございますから……", "こっちは、少しも構いませんわ。どうぞ……その代り、なるべく三十分以内にね。" ], [ "いいえ、どう致しまして、奥さまにお目にかかれて光栄ですわ。", "失礼ですけれど、舞台の方に関係していらっしゃるだけあって、おなじご姉妹でも、あなたの方が、ずっとお美しいのねえ。" ], [ "おや、そんなこともございましたの? 主人は、無口な方ですから、私に何にも申しません。だから、ちっとも存じませんでしたわ。ですから、お電話だけじゃ、よく呑み込めないんで、お呼びしましたのよ。私も、新劇はとても好きでございますの……", "まあ、うれしい!", "もと、新興座が分裂しない前に、後援者達で作った火曜会というのが、ございましたでしょう。私、あれに、はいっておりましたの。だから新興座の公演は、替り目ごとに、見に参ったものですわ。", "まあ。左様でございますか。じゃ、ぜひ私達の劇団も、後援して下さいませんでしょうか。まだ、学生が多くて、未完成でございますけれど……" ], [ "じゃ、貴君もご用が済んだし、私もお義理を果してしまったんだからこれを見たら、一しょに出ましょうか。銀座へ、一しょに行ってほしいわ。", "ええ。お供しましょう。僕は、もう出てもいいんですよ。" ], [ "春を踊った人、岸田千枝子と云ったわねえ。どこのお嬢さん?", "いや、ちょっと……", "おかしいわねえ。その人の踊りをわざわざ見に来るなんて! だから、逸郎さんは、近頃私のところへなぞ、寄り付かなくなったんだわ。", "いや、そんな訳じゃないんですよ。ちょっと、縁談のある相手ですが、僕はもちろん断るつもりでいるんですが、仲人が、内山の伯母さんだもんだから、ちょっと当人くらいは見ておかないと、ウルサイんでね。", "じゃその方とは会ったことないの?", "もちろん……", "それなら、かんにんしてあげるわねえ、逸郎さん、とてもニュースがあるの。降りてから話すわ。" ], [ "さっきいったニュースって、何ですか。誰のニュースですか。", "今夜聞きたてなんだけれど……誰のことだと思う?", "分りませんよ。そんなこといったって!", "ほら、この夏、貴君が軽井沢に見えたとき、南條って、家庭教師がいたでしょう!" ], [ "あの女が、銀座のバーに出ているんですって!", "女給にですか?", "カウンターという説もあるけれど、おなじことじゃない、どうせ。" ], [ "貴君、酒場へよく行くらしいから、知ってるかと思った……案外逸郎さんあたりが、どこかへ紹介したのじゃないかと思ったわ。", "ご冗談でしょう。僕は、夢にも知らなかった!", "じゃ、貴君、あの人が、どこにいるか、探してご覧になったら、どう?", "探して、どうするんです。また家庭教師になさろうとするんですか。", "いやな人! だって、男の人って、知っている女が、バーへなんか出ると、とても興味を持つんじゃない? だから、貴君も、かの女に会って、かの女の変り方を見るのも面白いんじゃないかと思って……", "うむ。" ], [ "前川さんもそれと知ったら、探しそうですか。", "その危険もあるし、ほかに私が考えていることがあるの。とにかく、あなたあの女の在家を突き止めてくれない?" ], [ "うむ。ちょっと、お客したもんだから……", "へえー珍しいのね。" ], [ "踊りの会、面白かった?", "面白いはずがないじゃありませんか。" ], [ "厭よ。用事の話じゃないんですもの。貴君ったら、いつでも私が話をしようとすると、鹿爪らしくお取りになるけれど、たまには無駄話だってしたいわ。私眠くないんですもの。眠れそうにもないし、少しの間、話し相手になって下さるご親切が、あってもいいと思うわ。", "だって、遅いよ。もう十二時過ぎてるし……", "それは、貴君が遅くお帰りになるからいけないのよ。意地悪ね。" ], [ "ねえ。", "………", "下世話に云うでしょう。ほら、四十を過ぎて始まった道楽は、なかなか止まないって! 心配だわ、私……" ], [ "そんな冗談にも洒落にもならないことを云うものじゃありませんよ。そんなことを云えば、貴女だって、この頃は頓に、美しく若々しいじゃありませんか。", "嘘おっしゃい" ], [ "でもなぜ新子さんを、もう一度呼んだらいけないの?", "そんなハッキリした理由はないさ。あるはずがないじゃないか、しかも一度、貴女と感情の衝突をした人を……", "だって、それは私が悪いと思うから、謝るつもりなの……", "しかし、謝ってもらって、来たところが、あの人もいい気持はしないだろうし、貴女だって、きっと何となくそれに拘泥るだろうし……" ], [ "知らない……ちょっと、出かけたんじゃない。", "煙草が欲しいんだけど……" ], [ "昨夜、私が帰ったら、まだあの子寝てないで、階下でガヤガヤ云っていたの……", "そうお、ちっとも知らなかったわ。", "私、美和子から、貴女の酒場のこと、いろいろ訊いたわ、美和子のところへ来るお客も、随分あるんだってねえ。" ], [ "それに、新子ちゃん。貴女、少し嘘つきねえ。", "なぜ……", "前川さんの関係している酒場に勤めているなんて、本当は、前川さんが貴女のために作ってくれたお店だっていうじゃないの?" ], [ "かくされると、いい気持はしないわよ。", "何を云っているの。美和子のような子供に、何が分るもんですか。", "あの子は、あれで子供じゃないわよ、そんなことにかけちゃ私達より、ずーっとカンがいいんですもの。私、美和子の云ったことを信ずるわ。", "だって……あの店、誰のものだか私知らないわ。ただ、前川さんが、経営しろとおっしゃるから私引き受けているだけよ。私、勤めているつもりだわ。", "だって、貴女のお部屋はあるし、電話はあるし、立派なものだと云うじゃないの。私、小池さんなんかを連れて行ってもいい?" ], [ "そう、それならいいわ。私だって、貴女が世の中にあるように、前川さんを卑しい意味でパトロンにしているとは、考えたくないの。そんなことをすると、前川さんの奥さんにだってすまないと思うわ。", "………" ], [ "こんなところで、新しい酒場を出せば、すぐ僕に分りますよ。", "だって、私が居りますのが……" ], [ "それは、貴女の六感に委せる。多分、当る!", "まあ!" ], [ "僕、もう貴女は結婚してしまわれたのではないかと思った。軽井沢で、この一筋と思うような人でなければならんというような気焔だったが、まだ見つからないんですか。この一筋が見つからんので、ちょっと道草ですか。", "さあ……", "案外、見つかっているのですか。", "ご想像に委せますわ。", "こりゃ、いかん、南條さんも、人が悪くなりましたな。じゃ、見つかっているものと考えていいですか。", "おほほほ……", "案外、前川さんあたりじゃありませんか。" ], [ "そりゃ、時々いらっしゃいます。でも、それとこれとは違うじゃございませんか。", "もちろん違うし、たとい前川さんが、貴女の後援をしているにしても、僕は変な風には、考えませんよ。前川氏は、紳士だし、たいへんな女性尊重主義者だし……そりゃ清らかなものだと思っていますよ。しかし、それだけに、貴女が、いつかは前川氏をこの一筋と考え込んでしまいそうだな。そこに危険がある!" ], [ "まあ、そんなに想像を逞しくなさるもんじゃ、ございませんわ。まるで、私が前川さんのお世話にでもなっているように……", "いや、そう思うのは、僕だけではありませんよ。" ], [ "もし、そんな誤解をしていらっしゃる方がございましたら、貴君がよろしく、弁解しておいて頂きたいわ。", "そりゃ、頼まれなくってもやりますよ。しかし、前川さんがこの店へ時々来るとすると、そう誤解される危険は、充分あるですな……。それに、あの爆弾夫人は……" ], [ "誰ですかな。しかし、僕が来たことは安心して下さい。僕は、夫人のスパイを勤めるよりも、必要によっては、貴女のために、策動しますよ。", "………" ], [ "何だ! 朝湯に行って来たの。じゃ、美和ちゃん、一日だけの我慢で、今日はまた、新子ちゃんとこのお手伝いするつもり?", "ううん。" ], [ "じゃ、どっか外へ出かけるの?", "ううん。", "じゃ、どうしてそんなに、お洒落するの。", "別に、当はないの。でも、街を歩いていて、さる人に会った時、相手を少し口惜しがらせるお化粧するの。振られちゃった女の化粧ってのよ。これは……", "何を云ってるのよ。" ], [ "どうかと思うわ。せいぜい少女歌劇のクレオパトラくらいだわ。あんたのようなのを、ベビー・エロというのかしら。", "ううん。この頃は、チビ・エロというんだって? でも綺麗なことは、お姉さんだって認めるでしょう。", "あんたが、うぬぼれなければねえ。でも、あんたのようなお化粧は、お化粧の範囲を通り越しているわ。化粧だわ。", "だって、ネオン・サインの街を歩くのには、私のようなお化粧でなければ、刺戟がないって! この間、雑誌に出ていたわ。", "ねえ、どこも、出かける当がないんなら、私の方へお手伝いに来ない? でも、私は新子ちゃんじゃないんだから、お給金なんか上げないわよ。", "ええ、行って上げようか。私今日から毎日一度ずつ、銀座を歩くことにしたの。だから、ちょうどいいわ。私、銀座で会ったら、示威をしてやりたい人があるの。", "下らない。来てくれるのなら、一しょに出かけるから、サッサと洋服着てよ。" ], [ "それどころじゃないわ。前川さんの奥さんが来たのよ。", "えっ! 貴女が連れて来たの。", "だって、圭子姉ちゃんが、無理に、私に案内させるんだもの。お姉さん、困るでしょう……" ], [ "お姉さま、私を恨んじゃいやよ。圭子姉ちゃんが悪いのよ。", "………" ], [ "この店を前川が出したことを貴女否定なさらないでしょう?", "………" ], [ "どういうことだか、貴女の胸に手を当てて、訊いてごらんなさい!", "だって、奥さま、私前川さんと何も邪しい!" ], [ "まあ! 私いじめてなんかいませんよ。", "いいえ。いじめていらっしゃるんですわ。きっと、お姉さまに、いろいろな疑いをかけて!" ], [ "疑わしいことって、何ですの。", "貴女のような、小イちゃい人には、話せないことだわ。", "それなら、分っていますわ。お姉さまと、前川さんとの間を、疑っていらっしゃるんでしょう。", "おませね、貴女は……" ], [ "あら、それは、奥様のひどい考え違いですわ。お姉さまなんか品行方正よ、ちゃんとしているわ。", "品行方正で、こんなに前川の世話になっているんですか、前川と何でもなくて、こんなにまで前川の世話になれますか。", "あら、お姉さんは、前川さんの何でもないわ、ただ、前川さんがお姉さんを、トテも好きなだけだわ。" ], [ "へえ――。不思議なことを聞くものね。それなら、なおのこと、こんなベッドのある部屋で、前川と会うことなんか、慎むべきですわ。", "そんなことは、お姉さんに、おっしゃる前に、前川さんに、おっしゃるべきだわ。", "貴女の指図は受けなくっても、むろん前川を責めますよ。しかしそうするためにも、このいかがわしい場所を、確かめておく必要があるじゃありませんか。" ], [ "あら、奥さまは、そんな権利をお持ちにならないはずだわ。", "おや、どうして……良人のものは、私のものですわ。", "だって、このお店、前川さんのものじゃないわ。" ], [ "だって、みんな前川が買ったものじゃありませんか。", "お金は、誰から出ているか、私知らないわ。しかし、今では、みんなお姉さんのものだわ。だって、お店の名義は、お姉さんの名前ですもの、そりゃ、みんな前川さんから貰ったものかもしれないわ。でも、貰い物は貰った人のものよ。", "まあ! 図々しい!", "図々しいよりも、こんなこと云い合うの、下品だわ。あさましいわ。だから、お姉さんは、だまっていらっしゃるのよ。奥さまが、愚図愚図と云えばだまって出て行くつもりよ。だからお姉さんの方が、奥さまや、私よりも人間が上よ、一言も云わないんだもの。", "ヒドイ!" ], [ "だって、貴女、ほんとにひどいこと云うんだもの。", "ひどいって、どちらが……。あれは、一体何をして生きている人種ですか。苦労知らずの奥様で、お金があって、暇があって、旦那様をお尻に敷いて威張っている上に、ちょっと貧しい同性は、目の敵にして、こっちの困ることなんか、おかまいなしに、すぐ出て行けだなんて……人を馬鹿にしているじゃないの、もっと苛めてやればよかった。あたし、あんなのと喧嘩するの大好きだわ。" ], [ "あら、そう、どのくらい前。", "たった今でございます。" ], [ "おや、あべこべじゃないですか。そちらこそ、取り込みがあったというのに、のん気な顔をしているじゃありませんか。", "あら、取り込みなんて、よし子がいったの? 取り込みなんかじゃないわよ。ただ、前川さんが、会いたくない人が来ていたのよ。", "じゃ、昔お姉さんの恋人であった人で、今度貴女と結婚するという人?" ], [ "自分のお蔵に、火がついたのも知らずに、何を云ってんの。私達の恋人じゃないわよ。貴君の恋人よ!", "嘘、おっしゃい!", "嘘なもんですか。前川夫人が乗り込んで来たのよ。", "僕の女房? ウソでしょう。", "そらそら、すぐ色を失うくせに、……嘘なもんですか。" ], [ "どうしてだか、お家へ帰って奥さんに訊くといいわ。", "綾子が、あの家を知ってるわけはないんですよ。冗談にも、そんなことを云うものじゃありませんよ。", "そんなに、興奮しないで、落着いて、落着いて! とにかく、私がどうにか帰したんだから。", "本当ですか。" ], [ "そうだわ。だって、新子姉さんは、何にも云わないんだもの。だから、マダム、俄然威張っちゃって、お姉さんを泣かしてしまったんだから……", "お店で、ですか。", "お店で、始まりそうだったから、二階へ上げちゃったの……" ], [ "しかし、こんなに早くどうしてあの店が分ったんでしょう。", "圭子姉さん、ご存じ?", "知っています。", "あれが、マダムに籠絡されているんだから、世話はないの。私が圭子姉さんに頼まれて、だらしなく案内してしまったの。", "圭子姉さんか、ウッカリしていた……" ], [ "それに、お姉さんを、心では二っちも三っちもないほど、好きんなっていながら、いつまでも穏便主義でやろうなんて、ムリだわ。ムリというよりも、意気地がないわ。四十男の感傷主義なんていやだわ。女学生の作文のような恋愛なんか、いやだわ。そんな中途半端だから、お姉さんも苦しみ、貴君も苦しむのよ。やるのなら、ハッキリした方がいいわ。", "ははははは。" ], [ "まあ、迷惑だなんて、そんなことをおっしゃるのなら、私このままどこかへ身をかくしてしまいますわ。さっきから、そんな気持で、申し上げているのではありませんのに……ただ、奥さまにだって、わるいし、……お子さま達にだって……", "そんなことを貴女に考えさせていたのは、僕が卑怯だからなんだ、今後、どんなことが起って来ても、僕のことで貴女にご迷惑はかけないことにします。僕は、その決心をしました。" ], [ "いいどころじゃない。僕達が別れたくないためには、そうしなければならない。理性にだけつけば、僕達は軽井沢で、もう別れて路傍の人になっていますよ。あんな酒場なんか出さないし、今度の事件なんか起らないんですよ。理性と感情と中途半端だから、ゴタゴタするんですよ。僕は、今度は貴女を失いたくないという自分の感情本位で行動しますよ。", "私だって、感情だけで行動できたら、どんなに幸福だろうかと思いますの……、美和子のように……" ], [ "お腹すかない?", "何だか分りませんの。胸が一杯でご飯頂けるかしら……" ], [ "でも、そこまで行ってしまうの、なかなか勇気がいりますわねえ。", "よろしい。今までは、僕がいけなかった。僕も勇気を出す、そして貴女にも勇気を出してもらうようにする。それでやってみて、もし日本が、住みにくかったら、一緒に三、四年外国へ行っていようじゃありませんか。" ] ]
底本:「貞操問答」文春文庫、文藝春秋    2002(平成12)年10月10日第1刷 底本の親本:「菊池寛全集 第十三巻」高松市立菊池寛記念館    1994(平成6)年11月 入力:kompass 校正:土屋隆 2007年8月10日作成 2012年3月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "口を以て書を読むことなく、心を以て読め。", "士は弘毅でなければならぬ。弘なるが故に之に安んじ、毅なるが故に少しも撓まない。" ] ]
底本:「菊池寛全集 第十八巻」高松市菊池寛記念館、文藝春秋    1995(平成7)年4月15日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:kamille 校正:成宮佐知子 2013年1月2日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046289", "作品名": "二千六百年史抄", "作品名読み": "にせんろっぴゃくねんししょう", "ソート用読み": "にせんろつひやくねんししよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 210", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-02-05T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card46289.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "菊池寛全集 第十八巻", "底本出版社名1": "高松市菊池寛記念館、文藝春秋", "底本初版発行年1": "1995(平成7)年4月15日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年4月15日", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年4月15日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kamille", "校正者": "成宮佐知子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/46289_ruby_49071.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-01-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/46289_49775.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-01-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "両親はないか", "ございません", "いつ別れた?", "父は十一歳の時存生して居りました。母は覚えて居りません", "近隣の貧しい者達に、時々金銭を合力していたのか", "へい。おはずかしうございます。時折、煙草銭ぐらいは……", "うん、何人ぐらいに……", "覚えて居りません、ホンの四、五人でございます" ], [ "二分とか一分とか、まとまったものを与えたことはないか", "あるようでも、ござりまするが、忘れました", "いや、盗みとった金を貰ったからと云って、別に貰った人達は、罪にならない。ありていに、云ったらどうだ" ], [ "怖れ入ります。仕事のみいりがよかったときとか、ばくちで当りましたとき、つい身祝いの気持で、少しはバラまいたことがございます", "それはどう云う気持でか?" ], [ "向後、盗みを止めようとは思わないか", "思って居ります。今までも、時々思いましたが、それがどうも……" ], [ "長吉面をあげい……", "へえ、へえ、申しわけございません" ], [ "そんなに盗みがしたいのか……", "半月ばかりも辛抱しましたが、どうもダメでございました。へえ、へえ", "うむ" ], [ "いや、そうはいかぬ。下郎のそちに、仔細は云えぬが、そちの命が助かるようになっているのだ。長吉、そちはよほど、人に善根を施しているのだな", "善根とは……", "人に情をかけたことじゃ。そちは、よほど人を助けていると見えるぞ。ありていに、云って見たらどうだ", "こんなケチな野郎に、たいした事は、出来ません。ホンの煙草銭ぐらいは……", "いや、そうじゃあるまい。お前の恩を、泣いて喜んでいる者が、いく人か居るに違いない。思い出して見い" ], [ "その都度合力もいたしたか……", "ところが、御奉行さま、なかなかしっかりした小僧で、わけのない金はなかなか取ろうと致しませんので、手こずりました。そのうち、母親が死んだとかで、京橋の方の店に奉公したようでございます", "左様か。長吉、まだその外にあるだろう、そちは人命を助けたことがないか……" ], [ "……そうおっしゃるとございました。古いことでつい忘れて居りました。もう五年前、私が盗みを始めた頃でございます。両国橋の上で、身投げをしようとする老人を助けました", "うむ", "何でも、村の貧しいお百姓達が、御年貢を収めないので、庄屋殿が入牢している。それを救い出すために、村中が五十両と云う大金を蒐めて、村中で一番物がたいその老人に、あずけて江戸へよこした。所が、その金を盗まれたので、申訳ないと云うための身投げでございました", "そちが、その金を才覚してやったのか", "五日と云う期限を切って、その間に盗み集めてやりました。御奉行さまの前ですがあのときほど、盗みが面白かったことはございません" ], [ "よし分った。そちを、再度ゆるしてやるについては、江戸お構いにしよう。そちは江戸にいることがいけない。わしの知行所である越前へ送ろう。が、庄屋へ添状をつけてやるから、百姓をいたすがよかろう。わしの知行所の村は、わしが貧乏人の出来ないように、数年来心を用いたから、お前が恵んでやりたいような貧乏人もいない、またそちが金を取りたくなるような金持もいない筈だ。その上、ここ十数年来盗難など一度もない、もし今度あったら、直ぐそちがやったと云うことになる。どうだ、長吉、そこへ行って見るか", "怖れ入りました。ありがとうございます" ] ]
底本:「捕物時代小説選集6 大岡越前守 他7編」春陽文庫、春陽堂書店    2000(平成12)年10月20日第1刷発行 底本の親本:「新今昔物語」芝書店    1948(昭和23)年 入力:岡山勝美 校正:noriko saito 2009年9月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046591", "作品名": "奉行と人相学", "作品名読み": "ぶぎょうとにんそうがく", "ソート用読み": "ふきようとにんそうかく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-10-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/card46591.html", "人物ID": "000083", "姓": "菊池", "名": "寛", "姓読み": "きくち", "名読み": "かん", "姓読みソート用": "きくち", "名読みソート用": "かん", "姓ローマ字": "Kikuchi", "名ローマ字": "Kan", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1888-12-26", "没年月日": "1948-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "捕物時代小説選集6 大岡越前守他7編 ", "底本出版社名1": "春陽文庫、春陽堂書店 ", "底本初版発行年1": "2000(平成12)年10月20日 ", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年10月20日第1刷", "校正に使用した版1": "2000(平成12)年10月20日第1刷", "底本の親本名1": "新今昔物語", "底本の親本出版社名1": "芝書店", "底本の親本初版発行年1": "1948(昭和23)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "岡山勝美", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/46591_ruby_35920.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-09-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/46591_36752.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-09-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "さればさ、それは、三、四の方々からも尋ねられたことでござる。なれど、われら答え申すには、ただ御無用になされと申すほかはござらぬ。いかほど辛労なされても、所詮及ばぬことでござる。有様を申せば、われら通辞の者にても、オランダの文字を心得おるものは、われら一両人のほかは、とんとござらぬ。余の者は、音ばかりを仮名で書き留め、口ずからそらんじ申して、折々の御用を弁じておるのでござる。彼の国の言葉を一々に理解いたそうなどは、われら異国人には、所詮及ばぬことでござる。例えて申そうなら、彼の国のカピタンまたはマダロスなどに、湯水または酒を飲むを何と申すかと、尋ね申すには、最初は手真似にて問うほかはござらぬ。茶碗などを持ち添え、注ぐ真似をいたし、口に付けてこれはと問えば、デリンキと教え申す。デリンキは、飲むことと承知いたす。ここまでは、子細はござらぬ。なれど、今一足進み申して、上戸と下戸との区別を問おうには、はたと当惑いたし申す。手真似にて問うべき仕方はござらぬ。しばしば、飲む真似をいたして、上戸の態を示し申しても、相手にはとんと通じ申さぬ。さればじゃ、多く飲みても、酒を好まざる人あり、少なく飲みても好む人あり、形だけにては上戸下戸の区別は、とんとつき申さぬ。かように、情の上のことは、いかように手真似を尽くしても、問うべき仕方はござらぬ", "なるほどな。ごもっともでござる" ], [ "至極じゃ。至極じゃ。蘭書の絵図と、寸分の違いもござらぬ。和漢千載の諸説は、みな取るに足らぬ妄説と定まり申した。医術はもはやオランダに止めを刺し申した", "至極じゃ。至極じゃ!" ] ]
底本:「菊池寛 短編と戯曲」文芸春秋    1988(昭和63)年3月25日第1刷発行 入力:真先芳秋 校正:丹羽倫子 2000年1月14日公開 2011年4月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "まあさうだらうね", "だつて、君、なんにもこれといふものを売つてやしないぜ。たかが、クリームとローションの……", "理窟はさうだけれども、お客に――毎度ありがたうと云ふぢやないか" ], [ "旦那は理髪屋へいらしつて、いつたい、何をもつてお帰りになりますか", "うむ……なんだらうな、まあ、好い気持ぐらゐのもんかな", "それだ" ], [ "すると、ほかの商売に例へるとなんでせう", "芸術家さ", "芸術家?", "彫刻家だよ", "彫刻家?" ], [ "やつと送り出した。あゝあ、僕は、もう巡査は勤まらんと思つた", "どうして?" ], [ "だつて、立派に職責は尽したんだらう?", "うむ、尽したと云へば云へるが、さうでないと云へば、さうでないとも云へる", "お巡りさんとしての?" ] ]
底本:「岸田國士全集26」岩波書店    1991(平成3)年10月8日発行 底本の親本:「文学界 第十巻第一~三号」    1943(昭和18)年1月1日、2月1日、3月1日発行 初出:「文学界 第十巻第一~三号」    1943(昭和18)年1月1日、2月1日、3月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2010年3月1日作成 2016年4月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044700", "作品名": "空地利用", "作品名読み": "あきちりよう", "ソート用読み": "あきちりよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文学界 第十巻第一~三号」1943(昭和18)年1月1日、2月1日、3月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-04-19T00:00:00", "最終更新日": "2016-04-14T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44700.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集26", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年10月8日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年10月8日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年10月8日", "底本の親本名1": "文学界 第十巻第一~三号", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1943(昭和18)年1月1日、2月1日、3月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44700_ruby_37625.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-04-14T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44700_38410.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-04-14T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "手間をかけねえで、ぱりツとした仕事をするのが腕のいゝ職人だ。てめえみてえに、柱一本、一日がかりで、ためつすかしつ、いぢくつてたんぢや、見積りどころか、とんでもねえ足が出るばかりだ", "手をぬく仕事な、わしにやでけんとたい", "手をぬけと誰が言つた? この腑抜け野郎、見るものが見て、文句がなけれや、それでいゝんだ。いゝ年をしやがつて、ふざけるない!" ], [ "若いもんは、みんな出払つちまつて、この通り、散らかしたまんまなんですよ。うちはいまぢき帰つて来ますから……", "はあ、たつた今、そこで会ひましたけん。どうぞもう、かまはんで……" ], [ "え、忠さん、まあ、聞きなよ。ゆきつていふアマは、おれの、れつきとした娘だ。その娘がだぜ、事もあらうに、毛唐の真似だかなんだか知らねえが、ひとの目の前で、尻ふりダンスたあ、なんだい?", "へゝゝゝゝ" ], [ "へゝゝゝ、は、ねえだらう? おれの言ふことが可笑しいか?", "いえ、可笑しうはありまッしぇん", "当りめえよ。そんな娘つ子は、おめえだつて女房にしたくはねえだらう?" ], [ "実は、仕事のことなんですが、近頃、まるつきり暇なんで……", "うん、だから、おれにどうしろつていふんだい?", "もうちつと、棟領の顔で、口の方を世話してもらへまッしえんぢやろか……", "うむ、世話をするなあいゝが、おめえも、もうちつと、仕事が早くねえと、なあ。第一、この将棋をみたつて、わからあな。考へるのもいゝが、夜が明けるぜ、夜が、……" ], [ "それが、さうはいきませんのですよ。うちのひとと来たら、いつたんかうと言ひ出したからにや、誰がなんと言はうが、聴きやしませんのですよ。ですから、ご迷惑でも、旦那がちよつと顔をお出しになつて、ひと言、娘を家へ入れてやれつて、さうおつしやつてくだされば、これやもう、誰の言ふことより利き目があるんでござんすよ", "しかし、ほんとなら、どうもそいつは、警官の出る幕ぢやなささうですなあ", "でも、旦那、この娘が可哀さうだと思召して……", "いや、娘さんが、町の衆と一緒に踊りを踊つたつていふことは、べつだんかまはんと思ふですがね。それがおやぢさんの気に入るか入らんかは、わたしの干渉すべきことぢやないですから……" ], [ "では、ゆきさんといつたね、あんたも、これで、お父っつあんの意見はお父っつあんの意見として、あくまで、これから尊重することを約束して、家へいれてもらひなさい。いゝかね、わたしは、今夜はじめて、この町内の巡回に当つたんだが、これからまた、ちょいちょい寄せてもらひます", "どうも、とんだお手数をかけまして……" ], [ "どうしても、ダメか? もう一度、一緒になつてみてくれんか?", "ダメ……ダメ、ダメ、ダメ……" ], [ "だから、当分、あんた一人で働いて、女房子供にひもじい思ひをさせないだけのみいりが出来たら、そん時、また、こゝへ来てみたらいゝわ", "それまで、お前は、待つてゝくれるか?", "待てたらね" ], [ "へえ、乗気がせんか。給料は月ぎめでも年ぎめでも、どつちでもいゝつて言つてござるんだ。この土地にゐて、君、固定した現金収入があるつていふことは、なによりの強味だぜ。東京にゐる奥さんにだつて、さうすれやいくらかは仕送りができやせんか", "それほどのもんが、もらへるかね?" ], [ "それや、君、どういう約束だつてできるさ。食べさせてもらつて、いくらとか……", "いやですたい、わしは、食べさしてもらふのは……。あとは煙草銭ぢや、これや、なんともなりもッしえんたい", "待ちたまへ。なにも、今、さうきめると言つてやしないよ。だからさ、ともかく、一度、日張先生に会つてみたらどうだね。今、ちようど春休みで、奥さんとお嬢さんとを連れて来とんなさるんだ", "大学の先生つていふのが、わしや、苦手たい", "どうしてね? べつに、君が英語の試験を受けるわけぢやあるめえ", "わしや、威張りくさる人間は、きらひぢやけん………" ], [ "それでは、こちらから、条件を出してみませう。実は、いろいろ考へたんだが、かういふことでどうでせう。熊川君なら熊川君が、わたしのところの仕事を手伝つてくださるとして、だいたい、一年を通じて必要な収入の半分をわたしの方で持つといふこと。それに対して、君の方は、君の労力の半分をこちらへ提供してくれる。そして、なほ、こちらへ提供してもらふ労力は、全部こちらのためにならなくつてもいゝ。例へば、畑を作るにしても、土地はごらんの通り、可なりあります。仮に三段歩の畑を作るとしたなら、こちらは、季節季節の新鮮な野菜が口へはいれば、それでいい。あとは、君の方で、なにを作つて、それをどうしようとご自由だ。また、仮に鶏を飼ふとします。わたしの方で、生みたての卵が毎日数個と、時たま、つぶして肉を食ふこともあるぐらゐで、その余つた卵からヒナをとつて、そいつを大きくするのは、君の勝手だ。要するに、こちらは、約半人前の労働力がほしいんです。君の方は、現在の炭焼きの労働貸金と、わたしの方からの手当みたいなものとで、生活の全体をまかなつていけるか、どうか、そこが問題だ。現在の経済事情で、どんなものでせう、君としてこれだけあれば家族が養つていけるという収入の額は……?", "…………" ], [ "加室さん、公平にみて、このへんの土地で、この年配のひとの労働貸金は、平均どれくらゐになりますか?", "平均、まあ、五、六千円でせう", "五、六千円……。すると、わたしの方で、土地を無償で提供し、肥料などの実費を負担すれば、月、三千円も出せばいゝか知ら?", "結構でせう。なあ、忠さん、それだけあれば、やつていけるだらう", "必要な農具も、こつちで揃へます", "どうぞ、よろしく……" ], [ "やあ、なかなか、なんでもよくできてゐますな。かういふ土地のお百姓仕事は、並大抵ぢやありませんよ。このトウモロコシは、ぢか蒔きですか、移植ですか?", "そのよく伸びた方がぢか蒔で、むかうのヒヨロヒヨロした方が苗を移植したもんです" ], [ "種を蒔いた時期は?", "四月二十一日です、昼から大雪が降りました" ], [ "いつたい、旦那の地所つていふのは、どれくらゐあるのかね?", "え? 坪数かい? それをまだ、君は知らんのか? いつか話したと思ふが全体で、九百坪ばかりさ", "へえ、九百坪……。もつとあると思つたが……", "あゝ、隣の空地を譲つてもらへば、いくらだつて広げられるわけだ" ], [ "旦那、こゝで二日ほど暇をもらひたいんだが……", "あゝ、それやかまはないが……どうするの?", "いや、ちよつと……" ] ]
底本:「岸田國士全集18」岩波書店    1992(平成4)年3月9日発行 底本の親本:「サンデー毎日 第三十年第三十七号(新秋特別号)」    1951(昭和26)年9月10日発行 初出:「サンデー毎日 第三十年第三十七号(新秋特別号)」    1951(昭和26)年9月10日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043860", "作品名": "秋の雲", "作品名読み": "あきのくも", "ソート用読み": "あきのくも", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「サンデー毎日 第三十年第三十七号(新秋特別号)」1951(昭和26)年9月10日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43860.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集18", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1992(平成4)年3月9日", "入力に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "底本の親本名1": "サンデー毎日 第三十年第三十七号(新秋特別号)", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年9月10日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43860_ruby_45459.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43860_45506.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "けふは、いやに帰るのを急ぐぢやないの。だれかと約束でもあるの?", "うん、弟を芝居に連れてく約束したの", "弟のやうにみえる大学生でせう?", "下品なこといふもんぢやないわ" ], [ "ちよつと、安倍さんのネクタイ見た? 変ね、男が新調のネクタイ締めた日の顔つて……", "へえ、あたし気がつかなかつたわ。あんた、安倍さんのこといふの、今週、これで三度目よ。こんど言つたら、もう、怪しいわよ", "うるさいつちやないわね。憚りながら、興味のもち方があんたと違ふのよ。と、言つたところで、男性の品定めぐらゐ、もう、おほぴらにしてもいい年ぢやないの、お互さまに……" ], [ "どう思ふつて、別にさしたる興味は起らないわ。ただ、見たとこ、野暮で、低脳みたいね", "子供臭い威張り方するから、をかしいぢやないの", "この前のひとは、そこへいくと、違つたわね。どつか、学者らしいとこがあつたわ" ], [ "ないこともないわ。どうして?", "あたしも、一二度、口きいたけど、わりに丁寧な言葉使ひぢやない?", "さうかしら?" ], [ "さうかしらつて、あんたにはさうぢやないかしら? 学習院出ですつてね", "そんなこと、どうだつていいぢやないの。あんな若造に、なにができるの?", "あら、若造だつて、バカにならないわ。外交官の試験にも通つてるんですつて", "どこで聞いて来るの、そんなこと……。そんなら、ここは畑違ひぢやないの", "だからさ、大臣のお眼鏡で、是非つていふわけだつたのよ", "ふうん、あんた好みの青年紳士だわ", "あべこべ言つてるわ。ああいふタイプぢやないの、あんたがいつも憧れてるのは……" ], [ "そつちこそ、どうかしてるわ。あたしは、あんなマネキン・ボーイに用はないつていふだけよ", "あたしだつて、あんなスヰート・メロンみたいなの、まつぴらだわ", "わかつたわよ。なにもそんなにおこることないぢやないの", "だつてさ、あんたの言ひ方が変だからよ。ひとをからかふのも、いい加減にしなさい", "よし、両者の意見が一致したんだから、もう遠慮はいらないわ。ひとつ、ついでのことに、結城秘書官を完膚なきまでに批判しませうよ。あたしの方が、すこしはよけいに、あのひとに接してるつもりよ" ], [ "さうかもしれないわ。あんたはリーディングがお得意だから、そつちのご用が多いわけね", "あのひとの発音ときちや、なつてゐないのよ。それを自分ぢや、得意でゐるのよ", "いつたいに、英語だかフランス語だかが多すぎやしない、あたり前の話をしてても……?" ], [ "あたしたちには、ことにさうらしいわ。それと、不思議なのは、経済観念が、とても普通と違ふことよ", "あら、どういふ風に?", "ちよつとうまく言へないけど、鷹揚さとケチ臭さが、チャンポンになつて、バランスがとれてないの" ], [ "謙遜が、そのまま傲慢にみえるのとおんなじね。育ちのせゐだわ", "よく見てるわね。その通りよ。熱があるやうで、どつか冷たいし、バカに気のつくわりに、我儘この上なしでせう" ], [ "さうかもしれないわ。でも、それだけなら、ちよつと、男として魅力になるかもわからないけど、あたしなんか、さういふ面より、もつと、だれにでもすぐに気のつく、キザッポさが目についてしやうがないの。いきなり反撥を感じさせるんだから、もう、おしまひよ", "それやさうよ。反撥を感じさせるけど、やつぱり、見てゐて、面白い男性の一典型だと思ふから、がまんしてつき合つてるだけよ", "あたしは、個人的なつき合ひなんて、頼まれてもしたくないわ" ], [ "まあ、さう言ひなさんな。男はだれだつて、ドン・ファンに見えやしないんだから……", "弁護なの、それ? 弁護の余地なんかありやしないわ。不潔よ、あんな表情……", "それや、まあ、たしかに宗教的なもんぢやないけど、人間の上半身と下半身とが、別々のものでなければならないわけはないでせう?", "そんなこと問題外よ。とにかく、聞いた話だけど、あのひと、評判の人妻荒しだつてさ", "人妻荒し? ああ、さうか。それくらゐのことはするでせうよ。荒される方も、荒される方よ。それと、あんた、聞いた? 今までタイピストを、いくたり誘惑したかつていふこと?" ], [ "いやだわ、人聞きのわるいこと……。仲間の恥ぢやないの", "だつて、それや、ほんとらしいのよ。この役所ではどうだか知らないけど、今までゐたところでは、きつと二三人の被害者があつたらしいわ。参議院に勤めてるあたしの友達が、さう言つてたわ" ], [ "食事、すんだ?", "ええ。でも、あなたは?", "茶漬ぐらゐ食へば食へるが、まあ、どうでもいいや。果物でもとりますか?" ], [ "ええ、それやちよつとぐらゐございますけど……その方、女の方ですの?", "はつきり言へば、さうです? おわかりでせう。しかも、君は、相当詳しく僕のことを知つてるやうな印象を、相手に与へましたね", "さあ、それはどうですか……別にこれといつて……", "いや、いや、隠さなくつてもようござんす。僕は、君がなにをしやべつたかを問題にしてゐるんぢやありません。あんまり、君が僕のことを知つてゐちや、実は、困るだけです。さうでせう? 知つてる筈はないんだから……表向きは……", "でも、その女のひと以上に知つてなんかゐないんだから、かまはないと思ひますわ" ], [ "ところが、さうぢやないんです。その女性は、君の名前なんかむろん、はつきり出しはしなかつたけれど、なんでも、僕のことについて、驚くべき観察をしてゐる同僚がゐるつていふ話をするんです。そして、本気だかどうだか知りませんが、僕をむやみにからかふんだ。うんとのろけを聴かされたなんて言ふんだ", "うそです、それはうそですわ" ], [ "だつて、それも、向うが先に言ひ出したからですわ。合槌をうつておかないと、却つて変だと思つたんですもの", "それは、その通りだと思ひます。しかし、単に合槌を打つただけですか? 向うに言はせると、非常に熱心に、僕の特徴を指摘したさうぢやありませんか", "まあ、なんて嘘ばつかり言ふんでせう。それはさうと、なんの必要があつて、そのひとはあなたに、そんなおしやべりをするんですの?", "それは、事のはずみです。茶飲み話です。相手が愉快な女だから、僕の方もなれなれしい口のきき方をする。と、調子に乗つて、彼女はなんでもしやべるんです", "どんなことをしやべつたか、それを先に伺はせていただくわ", "さあ、いちいち覚えてはゐませんが、なんでも、君は、僕のことを、スヰート・メロンだつて……", "いえ、いえ。それは、あのひとが、あなたのことをマネキン・ボーイだつて、言つたからですわ。まあ、ひどいわ……", "それから、あなたは、たしか、僕のことを、ドン・ファンで、人妻荒しとかなんとか、言つたらしい", "まあ、だつて、それは……", "よろしい、よろしい……僕はそんなこと平気ですよ。どうして、そんなことになつたか、説明をきかなくつても、わかりますよ。君は、僕のことを糞味噌に言ひさへすれば、相手が二人の関係を気づかないですむだらうと思つたんでせう。その意図はわかります。ただ、それなら、もうすこし、でたらめな、見当違ひな悪態をついてほしかつただけです。ちつと、穿ちすぎてやしませんか?", "あら、だつて、あたくし、ちつともそんな風に、あなたのこと思つてやしませんもの……", "ほんとですか? そんならありがたい。しかし、あの女は僕のことを、なんて言つてますか? マネキン・ボーイだけですか?" ], [ "それは、あたしの口から申しあげる必要ないと思ひますわ。向うがなんのために、あたしのことをそんな風に言ふのか、それはおわかりになるでせう?", "まあ、わかります。それはわかるとして、君が、あの女の言つたことを、僕に話したくない理由を、僕は、君の慎み深さと、とつて差支へありませんか?", "どうとでも、おとりになつてかまひませんわ。それはさうと、あなたは、あのひとのことをどうお思ひになつて? あたしのお友達としてでなく、公平にごらんになつて、どんなひとだとお思ひになるか、それを率直におつしやつてみてくださらない?", "公平にみて、僕は、さつきも言つたとほり、面白い女性だと思ひます。面白いといふ意味は、友達としてよし、恋人としてよし、妻としてよし……ただ、長くはどうかと思ふだけです。だから、僕は君を選んだんです。正直なところ、僕には、現在、なんの興味もない婚約者がゐますが、いづれは妻にしないわけにいかんでせう。それまでに、なにか突発事件でも起つて、婚約の解消ができればこれは別です。さういふわけで、僕は、ほんとに好きになれる女性を求めてたんです。君と彼女とが、眼の前に現れた時、僕は、しばらく二人を比べてみてゐました。そして、あなたと決めたんです", "そんなこと伺ふつもりはなかつたの。あのひとのことだけ、もつときかしてちやうだい", "それだけですよ。ただ面白いの一語につきます。君より聡明ではないが、ひと通りの常識があり、君のやうに素直ではないが、その代り君とちがつた勘のよさと、派手な身ぶりがある。それに、あの調子を外さない受けこたへが、僕は好きだ", "社交家だわ", "うむ、いい意味のね。上ずつたところのない、ほんとにひとを楽しませるこつを心得てゐる珍しい女性の一人だ", "やけてきたわ", "だが、あのひとが、多くの男を楽しませるとすれば、君は、おそらく、これと思ふただ一人の男を、ほんとに楽しくさせてくれる女性かもしれません", "お上手ね", "あのひとの眼は、ちよつと類のないほど美しい眼だけれど、君の眼のやうに、静かに澄んではゐない。いつも波立つてゐる。そして、相手を落ちつかせない", "おそろしい眼ね", "それは、さう言へるだらう。君は、あのひとと、そんなに仲がいいの", "まあ、仲のいい方だわ。でも、これから先、どうだかわからないつて気がするわ。けふのお話伺つて、あたし、考へてしまつたわ", "どうして……? あの女は、君のことをいろいろ話して、なにかかぎ出さうとしたに違ひないさ。それも、結果はまづ、むだだと言つていいがね", "あなたも、あたしの悪口をおつしやつた?", "それほど、僕は単純ぢやないよ。第一、そんな時、君だなんてことは、気がつかないやうなふりをしてたもの", "さうね、さうだわ……。あたしは、単純だわ。褒めちやいけないとばかり、思ひ込むなんて……" ] ]
底本:「岸田國士全集17」岩波書店    1991(平成3)年11月8日発行 底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店    1951(昭和26)年11月5日発行 初出:「オール読物 第六巻第一号」    1951(昭和26)年1月1日発行 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2020年10月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043858", "作品名": "悪態の心理", "作品名読み": "あくたいのしんり", "ソート用読み": "あくたいのしんり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「オール読物 第六巻第一号」1951(昭和26)年1月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-11-02T00:00:00", "最終更新日": "2020-10-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43858.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集17", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年11月8日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年11月8日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年11月8日", "底本の親本名1": "ある夫婦の歴史", "底本の親本出版社名1": "池田書店", "底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年11月5日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43858_ruby_72061.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-10-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43858_72102.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-10-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "もう一つちよ……もう一つちよ……待てよ……来い、もう一つちよ", "畜生、やれやがつた。それでいゝか", "こゝへ来い……小さいの", "大きいの出ろ、糞。ざま見やがれ" ] ]
底本:「岸田國士全集19」岩波書店    1989(平成元)年12月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 初出:「文芸春秋 第二年第十一号」    1924(大正13)年4月1日発行 入力:tatsuki 校正:Juki 2006年2月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044334", "作品名": "あの顔あの声", "作品名読み": "あのかおあのこえ", "ソート用読み": "あのかおあのこえ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文芸春秋 第二年第十一号」1924(大正13)年4月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-04-06T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44334.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集19", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年12月8日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "底本の親本名1": "言葉言葉言葉", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年6月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "Juki", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44334_ruby_21502.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-02-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44334_21826.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-02-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "私共は仏蘭西の劇壇に対して、少しでも、教訓を垂れやうと云ふやうな野心は持つて居りません。私共がなしつゝある事を、たゞ、見て頂けばいゝのであります", "こゝで、お断りして置きたい事は、私共が露西亜語で芝居をやる為に、多くの方々は、多くの露西亜語を解しない方々は、それでは興味の大部分が失はれやうとお思ひになるでせう。然し、其の御心配は無用であります。私共は、露西亜語を使ふ以上に人類共通の言語によつて、皆様に七分通りの興味を与へる事が出来ると確信して居ります" ] ]
底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 初出:「演劇・映画 第一巻第三号」    1926(大正15)年3月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2006年2月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044367", "作品名": "あの日あの人", "作品名読み": "あのひあのひと", "ソート用読み": "あのひあのひと", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「演劇・映画 第一巻第三号」1926(大正15)年3月1日", "分類番号": "NDC 771", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-03-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44367.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集20", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年3月8日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "底本の親本名1": "演劇・映画 第一巻第三号", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年3月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44367_ruby_19902.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-02-17T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44367_21775.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-02-17T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "かういふ連中が五十人ゐる教室は、ちよつと想像がつかんね", "ルナ子は特別ですよ。不思議だわ。だれに似たのかしら?" ], [ "それもよからう。ただ、彼女が君への愛情を大切に、まだしまつてゐることを告げたかつたのだ。どうだね、君の細君に紹介してくれますか?", "お望みなら……" ], [ "奥さんの写真を十年前に見ました。それは美しい絵を見た如くの感動でした。私の日本に関する夢においては、奥さんの和服でのすがたと、それから雨のなかの鳥居とが、いつでも浮びました", "おやまあ、ほんとですか", "それ、ほんとです。外国語では、なかなか嘘は言へないものです。非常にこまかいことが言へないだけ、ねえ、内海さん", "それだけこまかけれや、たくさんだ。僕の経験では、外国語では、お世辞は言ひ易いね", "ノン、ノン、あなたは一度も、私にフランス語で、お世辞言つたことはないでせう", "このひとの一番下手なのは、お世辞ですわ。女は、それがすきなんですのにねえ" ], [ "おいくつですか? お嬢さん?", "十五です", "西洋式では十四ね。花ならば蕾、お母さんの蕾……" ], [ "お母さんの蕾、フランス語に直訳すると、ブートン・ドウ・ラ・メエル……お母さんのおできだ", "あら、おできにちがひないわ" ], [ "さうね、その方がよければ、行かうかしら?", "いいか、わるいかぢやない。行きたいか、どうかだ", "あら、別に、是非行きたくもないわ" ], [ "しかし、今は、健康を取りもどすことが第一だね。少し長くかかるかもわからないが、日本の医学は決して馬鹿にならないから、心配することはないよ。この病院には、僕の同僚がゐる筈だから、あとでよく話を聴いておくよ", "風土病なら、なほさら、日本の医者を信用するほかない" ], [ "外人が感染したケースは、ごく稀なんですがね。今のところ危険はないと思ひますが、面白い研究材料ですよ。パリ時代からご存じだとすると、文字どほり旧友ですね。日本語が達者だから助かります。まあ、できるだけのことはやつてみませう", "お願ひします。何か連絡の必要があつたら、大学の教室の方へ電話をいただきます" ], [ "一度ぐらゐ、顔を出しとかないといけないわね", "なにかのついでに行つてやれよ" ], [ "志村の鈴ちやんと、学習院の名画展覧会つていふのを見に行つたの。あたしが、コンシャアルさんの話をすると、自分も連れて行けつて言ふの。あのひとさういふところ、ものずきよ。丁度いいから一緒に行つたの。わりに近かつたわ。鈴ちやんつたら、ろくにしやべれもしないくせに、フランス語使ひだすから、あたしヒヤヒヤした", "鈴江さんのこと、なんて紹介したんだ", "それが困つちやつたの。西洋人には、ミスかミセスかをはつきり言はなければいけないと思つてたもんだから、あたし、わざわざ、マドゥムアゼル・シムラつて紹介したのよ。志村さんつてば、さうしたら、あたしの背中を、いやつていふほどぶつんですもの。あたしは、ひやつとするし、コンシャアルさんはオウつて、眼を白黒させるし、……変ぢやない、そんなの?", "マドゥムアゼルを皮肉にとつたんだね。ああいふ階級の三十ばあさんには、そんなところがあるよ", "普通は、独身主義を得意でふりまはしてるくせに……", "コンシャアルのやつ、もう女をこしらへてやがる。君には言はなかつたが、初めて病院へ行つた日、偶然、来てたよ" ], [ "へえ、ひとりで……相変らず勇敢ね", "ひとりの方がよつぽどいいわ。遠慮がいらなくつて……", "あたしに遠慮してんの?", "遠慮よ。あたしは、フランス語でおしやべりがしたいのよ", "あ、さう……ぢや、どうぞお一人で、たびたびお越し遊ばしませ" ], [ "少しどころぢやないわ。あんなの、パリジャンだなんて、うそだわ", "パリジャンぢやないことよ。ボルドオへんの生れよ", "どうりで……。葡萄の搾り粕みたいなとこがあるわ。いくつ、あれで?", "三十六ですつて、向う流によ", "頭の毛は五十だし、言ふことは二十だし、その平均つていふわけね", "気持が若いのね、第一……。みんなさうらしいけど、なぜでせう?", "気持は若くつてもいいのよ。センスが幼稚なの、やつぱり田舎者のせゐね", "教養もあんまりないらしいわ。商人の通訳ですもの" ], [ "あなたのやうな方は、最後まで召使ひが必要なのよ。一緒に餓ゑ死をしたつていいぢやないの。そこまでは、ごめんだつて言ふんでせうけれど……", "追んでて行くまで使つてろつて言ふのね。それができれば仕合せね。見事だわ。ああ、わらはも近代の女性なれば、か。実は、倹約のためより、先々が可哀さうなのよ", "ひとりになつたら、家でも売つて、あたしのところへいらつしやい", "それも考へてるの。でも、だれからも注意されてゐない気楽さつてものを、一度は味つてみたい。外国旅行のさばさばした身軽さはそこにあるんぢやない? 死んだ父が、だれかとそんなふうな話をしてたわ" ], [ "そんなこと、あたし、考へたことないけど、男によりけりぢやない?", "相手のあるなしにもよるわね。商売女まで下落すれば別よ" ], [ "さうよ。あなたはお忙しいし、奥さまはなかなかお家をおあけになれないから、あたくしが、代りにちよいちよい病院へ、お見舞にあがつたのよ。そしたら、こんなにお仲好しになつてしまつて……", "それはどうも……。ねえ、ロベエル君、マドゥムアゼルは立派な家柄の日本女性だから、君の研究のいい助言者であり、対象でもあると思ふよ。一番都合のいいことは、彼女がまつたく自由だといふことだ", "それは知つてゐる" ], [ "時に、どう、健康は大丈夫かね? 医者の手をはなれても、急に無理をするといけないぜ", "ありがたう。無理は、人がさせなければ、決してしません。私、通訳だから、自分ですることはなんにもない" ], [ "お仕事で無理をなさらなくつても、ほかのことで無理をなさるから、ダメよ", "ほかのこと? 私、酒少ししか飲みません。タバコ喫はない。ご馳走たべるお金ない", "それより、もつとわるいことがあるわ", "恥しいこと、言はないでください" ], [ "それはさうと、この次の日曜日に、ロベエル君、昼飯を食ひに来てくれませんか? 家内からも是非といふことだから……それから、マドゥムアゼル・志村も、その時おつき合ひにどうぞ……。賑やかでいいから……", "だつて、奥さまは、そのおつもりぢやないんでせう?", "いや、かまひませんよ。却つてよろこびますよ。こいつは、僕の手柄にしませう" ], [ "あのひとには、はじめもおしまひもないんだらう。ロベエルだつて、あの相手はちよつと手ごわいよ", "あゝあ、ひとつて、信用できないわ。どこで何をしてるか、わからないんですもの" ], [ "どうして、そんなこと、今更、お訊きになるの?", "なんとなく、さつぱりしないからだ。君の心の中にわだかまつてゐるものが、僕の心の中にも、やつぱりわだかまつてゐる。これぢやいけないと思ふんだ。コンシャアルといふ男がやつて来てから、お互に、なにか、このわだかまりを、意識しはじめたやうな気がするんだ。はつきり言つてくれ。僕は、君のどういふ疑問に答へればいいんだい?", "疑問なんかないわ", "うん、さうだ。それはもう疑問のかたちぢやない。なんといふか、むしろ、僕の口からはつきりそれを言はないことに対する不満なんだ。さうだらう?", "いいえ、さうぢやないわ。そんなことぢやないの。もう、そのお話、よしませうよ", "どうして? しかし、なにかあるね。もやもやしたものが、なにか、二人の間にある。それを取りのけたいんだ", "どうすることもできないんぢやないかしら? あなたにそれを感じさせるのは、ほんとはあたしがダメだからよ。もう、とうに過ぎ去つたことと思へば思へるんだわ", "だからさ、それを僕が率直に白状すればいいんだらう?", "いいえ、いいえ。そんなこと、あたし、もう、してほしくない。あなたは、弱味なんかお見せになる必要ないのよ。あたしは、ほんといふと、どうかして、あなたのすべてを信じたいと思つてるんだから……", "さう言ひながら、泣いてるぢやないか。僕を信じたいといふなら、信じられるやうにしようぢやないか。秘密は、たとへ、過去の秘密でも、全部、君の前にさらけ出せばいいんだらう? それなら、僕は、できるよ", "もうたくさん……けつこうよ。秘密は秘密のままで、その人を信じることだつてできる筈だわ。秘密のない人間はゐないつていふ意味でよ。あたしにも、心の中の秘密はあつてよ、だれにも言へない、言ひたくないある想ひを、罪として責めることはできないわ。ある種の慾望は、人間のよろこびやかなしみとおんなじよ。もうすこし眠らせてほしいと思ふことだつてあるわ" ], [ "君の言ふこともわかるやうな気がするよ。しかし、僕の君に対する愛情からいへば、君がだれにも言へない秘密だつて知りたいんだ", "あたしはどういふのかしら? 事柄によつて、ギリギリ結着のところまで行つてしまふのはいやなの。卑怯かもしれないけれど、なんにもならないつていふ気がするの" ], [ "僕が日本へ帰るんだと思へば、いいぢやないか", "それは、たしかに約束したわ。でも、やつぱりパリにゐるんでせう? あと二年は、ゐるはずでせう? その二年は、あたしのものだと思つてたんだわ。それを、みすみすひとにとられるのはいや……いやよ。そんなこと……", "ひとつて、それや、僕の女房だよ。女房があることは、ちやんと言つてある", "さうよ、トオキヨオにゐる奥さんのことは知つてるわ。パリに来る奥さんなんて、あたし、知らないわ", "どこにゐたつて、女房は女房さ", "パリの奥さんは、あたしぢやないの。あんたのパリの生活は、あたしがそばについてゐて、はじめてできるのよ。あなたがいよいよパリを引上げる時は、あたし、笑つて送つてあげるつもりよ。ほんとに笑へるかどうか、知らないけど……。とにかく、美しい別れかたをするわ。パリの女の別れかたよ。でも、二年たたなけれや、いや……", "しかしだね、女房は、二年のつもりでゐたのが、また二年延びたんだ。来たいのも無理はないぢやないか", "二年だつて、四年だつて、おんなじよ。二年も待てるんだつたら、四年ぐらゐ平気よ。あたしだつたら、半年でもいやだわ。さういふ奥さんと、あたしとをいつしよくたにしないでちやうだい", "それが、エゴイストつていふんだ", "いいわ、エゴイスト、けつこうだわ", "無茶言ふなよ。なんとか考へてくれよ。君は自由なんだから、いくらだつてアミをこしらへたらいいぢやないか", "よけいなお世話よ。あんたが嫌ひになつたら、さうするわ、言はれないでも……", "嫌ひになつてくれ", "それも、こつちの勝手にさしてほしいわ", "僕の方で、嫌ひだつて言つたらどうする?", "証拠がないもの", "女房を呼びたいつていふのは?", "…………", "別れようつて言つてるんだぜ", "…………", "どうだい?" ], [ "ヘマなことさへしなければいいんだわ。パリでは、さういふ内証事がどんなに安全に行はれてるか知つてる? 三角関係のドラマは、いつでも例外の事件よ", "僕たちにはさういふ訓練がないんだよ。恋人に会つて来た夫の顔には、ありありとそれが見えるんだよ。さうぢやないかと思ふ。だから、日本では、習慣として一夫多妻がまだ厳然としてあるんだ。但し、僕は、その主義には反対なんだ。第一、必要も感じないよ", "必要はよかつたわ。奥さん一人でたくさんなわけね。ぢや、かうしない? 試しに、ちよつと別れてみませうよ。どつちかが降参したらおしまひ……。頑張れたら、それでいいわ。ここはあたしの借りたアパートだから、あんたが出て行く方が早いわ。荷物も少いんだし……。部屋捜しに行つてらつしやい。あたし、ついてつてあげてもいいわ" ], [ "いや、いや、そんなことしちや……一と月だけ待つて……一と月たつて、どつちもどうもなかつたら、電報打つていいわ。それまでは、後生だから、あたしを絶望させないで……。自分で自分にちやんと言ひきかすんでなけれや、あたしは気ちがひになるわ", "よし。一と月だけ待つてもいい。お互に、しかし、最善の努力だけはしようね" ], [ "やつぱり一人で行くの?", "来るなら来てもいいよ" ], [ "なにしてるの、タツロ?", "…………", "そんなこと、あとで、あたしがするわ" ], [ "僕以外に、だれか身内の者がゐないと困るが、さういふひとは、あなたは知らないかなあ", "独り暮しの女は、たいてい、親兄弟のことはしやべらないね。しやべつたつて、死んでるか、遠くにゐるかだ。わしらにも、見てゐて交際の範囲はわかるがね。マダムはフランス人とは言つてるが、どこの生れだか、わしは知らん。ムッシュウは、日本人だといふんだが、わしらにや、ほんとかどうか、わからんやうなものさ" ], [ "なんだか、がつかりしちやつたわ", "鈴江さんつて、さういふひとぢやなかつたのかい?", "ううん、それやどんなことしてもいいわ。ただ、あたしに隠してるのがいやなの。だつて自由ぢやないの。堂々とやつてほしいわ。第一あのひと、別に好奇心以上のものをもつてるとは信じられないんですもの。恋愛関係なんか絶対にないつて言ふのよ。さういふところはまた、とてもガッチリしてるんだから……", "さうだらうさ。いくらものずきで、相手がいくらすばしつこくつても、まさか旅先でのなぐさみものになりはすまいさ", "ええ、だからよ、あたしに黙つてそんなことする必要ないと思ふわ。もともと、あたし達が紹介したんぢやないの", "だからさ、先生に言はせると、僕たちが忙しいから、代りに遊び相手をしてるんだつて言ふにきまつてるよ。まつたく、僕ときちや、頼りにならない友達だからなあ。東京の街を連れて歩いたこともないんだぜ", "そんなことぐらゐ、おできになれるでせう?", "したくないんだよ。どこへ連れてけばいいんだい? 僕が東京で、彼に見せたいものといへば、この廃墟以外にはない。しかし、彼もフランスで、そいつは見あきてゐるはずだ", "あつちのひとは、日本へ来ると、すぐにゲイシャ・ガールを見せろつて言ふらしいわね。あのひと、さう言はない?", "僕には言はないね。むろんもう、どつかで見せられてるだらうがね" ], [ "ねえ、真帆子、僕はどうしても君に聴いてもらひたいんだ。ほら、あのことさ……", "いやねえ、まだそんなこと考へてらつしやるの? あたし、絶対に伺ひたくないわ", "しかしだよ……", "しかしもなにもないわ。そんなことが、なんになるの?", "僕の気がすめば、それでいいぢやないか", "ああ、あなたの気安めなの? でも、あたしはどうなるの? わからない方ね" ], [ "あなたこそ、疲れた顔してるぢやないの?", "なんのこと、それ?", "ううん、この頃、どこでなにしてるのか、さつぱりわからないからさ", "そんなことないわ。この頃、もつぱら、コンシャアル氏の案内役よ。ああ、こないだ来てくだすつたんだつてね。あん時は、箱根までのしたの。よけいな路をてくつたりして、くたびれちやつた", "どうなの、いつたい、さういふ役目は? 人目がうるさくない?", "別にさうでもないわ。いくらなんでも、パンパンにはみえないからね。堂々としてるから……", "ぢや、なんと思ふかしら?", "そんなこと考へたことない。なんとでも思ふがいいわ。宿ではちやんと部屋を別にとるしさ。あたしは奥さま、向うはただの外人さん。白いお伴をつれた黄色貴婦人つてところよ" ], [ "のんきね、あんたも", "あたり前よ、コーヒー召上る? 召上らない?", "いただくわよ" ], [ "あたし、この部屋、わりに好きなの。嫂が、和室がひとつどうしても欲しいつて作らせたんですつて……。だんだんお婆ちやんになると、あたしも、坐るとこが性に合ふんだわ", "ハイカラなあなたでもね", "ハイカラはよしてよ。ことに、近頃は、外人とつきあふでせう。身についたもんで太刀打ちをしなけれや、うつとしくつてしやうがないの。コンシャアル氏が遊びに来ても、ここへ通すのよ。気が楽で、好きなことが言へるの", "ほんと言ふとね、怒つちやいやよ、あたしたち夫婦で、カケしてるのよ。コンシャアルさんとあなたと、どうなつてるかつてこと……", "どうなつてるとは? だから、さつき言つたぢやないの。向うは、それやうづうづしてるわよ。面白いわ", "大丈夫? あんまり罪なことしない方がいいわ", "まさか。どうせ相手は曲者よ。でも、おんなじ口説くにしても、はじめつから、遊びのつもりでかかつて来るから、始末がいいのよ。ただ、その遊びが真剣な調子なの。つまり芝居がかりなのよ。こつちもその気で芝居をしてやるの。キッパリ刎ねつけるなら事は簡単よ。それぢや芸がないでせう。ちつとはぢらさなきや、こつちの遊びにならないわ。それも、娼婦の型にはまらないやうにね。これで、なかなかやるのよ。いつでも、小説の場面が眼に浮ぶわ。アンナ・カレーニナだとか、ベル・アミだとか……。あつちの男は、それや素直にこつちの演出どほりになるわ。心得がもともとあるから、呼吸が合ふのね", "でも、くたびれるでせう?" ], [ "昔の恋人の名前を、時々ポスタアで見るなんて、ちよつと何かになるぢやないの。さうかなあ、あのひとダメになつたの?", "知らないわよ、あたし。ただ、そんな気がするの。映画つていへば永くみないわ", "行つたなあ、あの頃は……。さうさう、またフランスものが出はじめたわね", "パリの屋根の下……", "女ばかりの都……。どうもいささか懐古的ね、われわれは", "さうだ。けふは、折入つたご相談があつて来たの" ], [ "これは、まだあなたにも内証にしてたんだけどね、ほら、内海が留学の期限を延ばしたでせう? 二年のところを四年にしたでせう? そん時のいきさつ、覚えていらつしやる?", "うん……覚えてるやうな気がするな", "うちの父が費用を出すつてことから、さうなつたんでせう。それで、そのついでに、あたしもあつちへ行かうとしたでせう?", "さう、さう、どうしてダメになつたんだつけ?", "内海が反対したからよ", "反対の理由は、聞いたかしら?", "ええ、それがなのよ。その時からどうしても納得のいかないところがあつてさ、あたしそんなもんぢやないと思ひながら、ともかく諦めはしたんだけれど、まあ、ちよつと、この手紙、読んでみて……。あんとき見せれば……と、言つたところで、その頃のあんたは、まだやつと十九のお嬢さん……", "ちよつと待つて……これは軽々しく手にとるべきもんぢやないわ。さうすると、念を押すやうだけれども、このお手紙は、ムッシュウ・ウツミが、はるか異郷の空から、最愛の妻真帆子に宛てためんめんたる便りね。わかりました" ], [ "なかなかいい手紙ぢやない? 内海博士の面目躍如たりだわ", "そのなかに、どの程度真実があるとお思ひになる?", "さあ、さう言はれると困るな。第一なんだつてわざわざ今頃、こんなものを持ち出して来たの?", "だからよ。あたしを来させまいとして、いろいろ理由をならべてるでせう? どれも苦しい理由だと思はない? なにかほかにわけがあるつて、だれでも気がつくでせう?", "奥さんの身になつてみればね。さうかもしれないわ。それで、そのことが、今頃、どうして問題になるの?", "今頃になつてぢやなく、それ以来ずつとなの。こつちも突つこんで洗ひ立てる気はしなかつたし、向うから言ひ出すわけはないし……それが、近頃になつて、急に、お互に、そのもやもやを意識しはじめたのよ。あのコンシャアルつてひとが来てから、内海が変にあたしの顔色を見るやうになつたんですもの。むろん、あたしの方が先に、暗い気持になつちやつたの。だつて、どうしやうもないわ。内海のパリ生活を想像するつていふだけで、あたしには、なんかピンとくるもんがあるの。実は、あたしのさういふ様子に気がついたからでせう。内海は、なんべんも、そのことに触れようとするの。秘密の告白までしようつて言ふのよ。あたしは、一方で、それが知りたいくせに、内海の口から直接、それを聞かされるのが、とてもたまらないつていふ気がして、そのたびに、耳をふさいで聞かうとしないの。どう言つたらいいかしら……あとで引つ込みがつかなくなるのが怖いのかしら……?" ], [ "だつて、旦那さまがそんな告白をなさる以上、あなたは黙つてゐてさ、その態度によつて、罪を赦すかどうか、きめればいいぢやないの", "態度によつてなの? 罪そのものの性質によつてぢやないの? どつちにしろ、あたしは、はつきりそれを知らされたら、もう、あのひとの顔をみるのもいやになると思ふわ", "それぢや話にならないや。そんなら、疑ふのはよしたらどう?", "もう疑つてやしないわ。なにかがあると信じてるわ", "その、なにかが、やつぱり、疑ひでせう?", "ううん、わかつてるわ、女との関係よ", "だから、どうなの? あと、何を知る必要があるの?", "あのひとの感覚では決してわかりつこない、その女の正体よ。それから、その女に対してもつてゐるあのひとの感情よ", "弱つたな。それは、神秘の彼方にあるものよ。知らうたつても無理だわ", "それが知りたいの。今のあたしの救ひは、それだけよ", "どうしたらいいだらう?", "そこで、お願ひなの。コンシャアルさんは、その女を知つてる筈よ。だから、あなたから何気ない風で聞きだしてみてくださらない? あたしがもう、そのことをあらまし知つてることにして……" ], [ "ぢや、あたし、直接、聞いてやらうかしら?", "できたら、やつてみるといいわ。しかし、下手をすると恥をかくわよ" ], [ "さう、藻ぬけの殻……わたしひとりで、なにもすることないです", "ねえ、コンシャアルさん、このお部屋、そんなにお気に召したのなら、ひとつ、写真にとつてお置きなさいよ。機械、おもちになつてるでせう?" ], [ "マダム・ウツミ、どうぞ、そこへ……", "いやですよ、あたしは……", "どうして?", "それ、フランスへ、持つてお帰りになるんでせう?", "もちろんです", "奥さまにお見せになるんでせう?", "見せない理由はありません", "ええ、でも、なんて説明なさいますの?", "マドゥムアゼル・シムラの部屋におけるマダム・ウツミ……", "信用なさるかしら?", "信用、ああ、妻はわたしを信用してゐます", "日本の女なら、信用しません。婦人部屋にゐる婦人の肖像を、あなたが持つてゐらつしやることが不思議ですもの。マドゥムアゼル・シムラはまつたく例外的に、あなたをこの部屋へお通しになるのよ", "よくわかります。わたし、そのこと光栄に思ひます。妻にも、それはよく言ひきかせます", "お笑ひになつてらつしやるけど、それほんとですのよ。フランスの婦人の方は、あたしたちより、きつと、嫉妬深いと思ひますわ", "シット、シット" ], [ "ねえ、ちよつと……嫉妬つて、フランス語でなんだつけ……", "ジャルウジイ……形容詞なら、ジャルウ……女性はジャルウズ……" ], [ "オオ、ジャルウズ、わかりました。フランスの女、日本の女より、ジャルウズ……。わたしまだくらべることができない", "そんなら、かういふ例をおみせするわ" ], [ "聖女のやうに心のひろい、マダム・ウツミに敬意を表します", "ただね……" ], [ "あなたの権利は尊重しますわ。しかし、この三人の、ここでの話は、決して他に漏れるやうなことはありません。マダム・ウツミは、あなたから何を聞いたといふことを、絶対に、ムッシュウの耳に入れるはずはありません。あたしがそれを誓ひます。いつか、あたしにしてくだすつたお話で、あなたは、ムッシュウ・ウツミと、なんとか夫人と、三人でスペイン国境の、ポオでしたか、なんでもそのへんへ旅行なすつたことがありましたね?", "ああ、その旅行の話はしました", "遠慮なくおつしやつてください。一緒にいらしつた婦人は、なんていふお名前でしたつけ", "マダム・アメリイ・ホチムスキイ……しかし、これは、ウツミのアミだとは言ひませんでした", "おつしやいました。おつしやらなくても、お話の様子で十分察せられましたわ。お忘れになつたのです。さあ、このあとは、真帆子さん、ご自分でお訊きなさい。でも、ムッシュウ・コンシャアルがあんまり困るやうなことはよしませうね" ], [ "その女のひとは、チャアミングな方でしたの?", "ムッシュウ・ウツミとまつたく関係ないものとして、それぢやお答へしませう。パリの女としては、別に目立つほどのひとではありません", "聡明な方ですか? 頭のいい方ですか?", "普通だと思ひます。考へ深いとはいへません。が、ものわかりのいいひとです", "愛情の深い方ですか?", "それはわかりません。愛されたことがありませんから。しかし、わたくしの知つてゐる限りでは、激しく愛し、そして、愛情をAからBに移すことが、自然にできる女のひとりでした", "マダムとおつしやつたのは、もちろん、未亡人でせうね", "たしかさうです。ホチムスキイといふのは、フランス人ならユダヤ系、多分、ポオランドにある姓です", "もうよかない、それくらゐで……" ] ]
底本:「岸田國士全集15」岩波書店    1991(平成3)年7月8日発行 底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店    1951(昭和26)年11月5日発行 初出:「苦楽 臨時増刊第四号」    1949(昭和24)年7月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年9月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044302", "作品名": "ある夫婦の歴史", "作品名読み": "あるふうふのれきし", "ソート用読み": "あるふうふのれきし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「苦楽 臨時増刊第四号」1949(昭和24)年7月20日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-11-25T00:00:00", "最終更新日": "2019-12-26T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44302.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集15", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年7月8日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年7月8日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年7月8日", "底本の親本名1": "ある夫婦の歴史", "底本の親本出版社名1": "池田書店", "底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年11月5日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44302_ruby_44997.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-12-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44302_69894.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-12-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "まあ、ちつとも変らないで……。でも、よかつたわ、ほんとに……", "慰問袋を二度もいただいたに……一度しかお礼を出しませんで……", "あら、四度よ、たしか……そいぢや、あとの二つはどつかへ紛れたんだわ", "そいつはどうも……" ], [ "あなたは戦争するために生れて来たやうな人だもの、どんな凄い手柄を立てたか、聞きたいわ。第一、辛いなんて思つたことないでせう、あつちへ行つて……", "さうでもありませんね" ], [ "腹がすいても食ふものがないんですからね、時にや……", "あゝ、それや、いくらあんたでも辛いわ。そいぢや、怖いと思つたことある?" ], [ "支那兵も強いのになると強いからね", "へえ、あんたがさう思ふの? ぢや、ほんとなんだわ。さういふことで、なんかあんたの眼で見た話を聞かしてよ。今日はゆつくりしてつてもいゝんでせう? いまお茶いれるわ。腰かけない、ちよつと……", "いや、別に話つていふやうな話もないでね。まただいぶ土鼠が出るね" ], [ "伯爵がお帰りになつたら、きつとまた毎日あなたにご用があるわ。そこの谷へ降りる道を、もつと楽につけ換へたいつておつしやつてたから……", "あゝ、さうかね、わけやありませんよ。さつきどつかで崖が崩れたやうだが、ちよつくら見て来べえ", "さつきの音は、それだつたの? 危いこと。……人死にでもあつたら、いやねえ" ], [ "そこへは、どこから行けるの?", "ここへ来ても駄目です。道が通れません", "あんた、なにしてるの、そこで?", "………" ], [ "万さん、お前はどつち側の人間かおれにやわからんけえ、この話にや口を出さんでくれ", "さうか、おれもなんのことかわからんけえ、口は出すめえ。だが、お前の面みたら、これだけは云つとくがよ、立花さんなら五十銭で売れる菜をよ、わざわざ中ノ条まで売りに出て、いゝか、十五銭にしかならんて言つとる娘つ子に、おれや昨日会つたぞ", "セツ子のことなら、お前の世話にやならんよ。あいつは別荘の残飯を食はんでもえゝんだから……", "小峯君は何か誤解しとると思ふがね。われわれは決して農村を脅かしはせん" ], [ "すると、さしあたり、ご用はありませんね。鎌はまたそのうちに研ぎに来ます。山女魚釣りはほかでちつとばかり年期をいれるだねえ。この川はいきなりぢや、てんで食ひませんから……", "ふむ、そんなもんか。自給自足は言ふべくして行ひ難いな" ], [ "あゝ、さう云へば、今年はあの娘、野菜を持つて来んね。ほら、とても声の可愛い……十六七の……", "あゝ、セツちやんとかつていふ娘ですよ", "購買がやかましいでね。勝手に別荘へ売りに歩くことはできんやうになつたですよ。わしや、それや無理だつて云ふだ。購買は、あんた、勝手に値をきめて、それで引き取るだからね。村の方ぢや相手にせんですよ。今年なんぞ、野菜を作つたのは、みなこぼしとるでね" ], [ "ぢや、すべて君に委せよう。今日はまだ早いね。少し採集をして歩くか? ドーランは持つて来てるね?", "小さい方だけ、はあ" ], [ "いや、いや、さう深入りはしません。その谷がちよつと面白さうだから、ぶらぶら……", "崖崩れのあとが、まだそのまゝになつてをりますでせう。お危うございますわ" ], [ "いつまでもつて、まだ四年にしかなりませんわ。やつと、今ごろ自分の仕事がわかりかけて来たやうに思ひますの。東京のお邸ですと、時間がきまつてをりますし、それに、すべてが事務的にかたづきますけれど、こちらでは……", "こつちでは、なるほど、主婦代理だな。まあ、それでいゝぢやないか。僕は、さう長生きもせんだらうが、急に君がゐなくなると、さあ、どうしていゝかわからんぞ" ], [ "君はそんなこと云つたつて、二十七の女がみんな君ぐらゐに若く、みづみづしいかどうか知らない筈はないだらう? なんだい君の、その青春を保つ秘訣は? お化粧かい? それとも、いはゆる心の持ちやうか?", "あたくしが若し、年のわりにお婆さんでないとすれば、それは、伯爵のおかげでございますわ。なぜだか、それを申しあげませうか? 伯爵が、あたくしの子供臭いところをおとがめにならないからですわ", "子供臭いかい、君が? おい、おい、そんなことを云つて僕をはぐらかしちやいかんよ。あゝ、子供臭いつて云へば、僕なんか、どういふもんだらうね。よく人から坊ちやん扱ひをうけるだらう。それや自分でも気がついてる。しかし、大人がなんだつていふんだ。知つてることと、知つてると思ふこととは、これやまつたく大違ひだからね。僕はこれで、世の中のことを知りつくしてゐる。それこそ大概の奴が知つてると思ふ以上のことを、実際に知つてる。僕は殊に、男女の問題については、深くその真理をつかんでゐるつもりだが、君にいつか話してきかせよう" ], [ "あら、いつでもさうおつしやつてながら、つい伺ふ機会がございませんのね。あたくしも、受売りならすこしは致しますけど……", "あゝ、受売り結構……。それで双方意見の一致をみたら、また問題を先へ進められるしね。あゝ、しかし、植物学などやつてる先生は、相手がうるさくなくていゝな" ], [ "お帰り遊ばせ。いゝ収穫がおありになりまして?", "えゝ、まあ、手あたり次第に集めて来ましたが……。この下の谷は、あれで道がもうすこしちやんとついてゐれば、随分いゝ谷ですね。渓谷美といふやつを、日本では非常に狭く考へてゐるやうですが、僕は、いろんなタイプがあつていゝと思ふんです。奇岩怪石型に限る必要はないですよ", "あたくし、まださういふいゝところ存じませんの。よつぽど歩かなければならないんでございませう?", "さうですね、二キロも上ればいゝでせうね。なんでもありませんよ。道がわるいつて云ふのは、道を歩かうとするからで、草のなかや石ころの上を歩くつもりなら、決して困難なコースぢやありません。大沼先生は春さきにもう一度来たいつておつしやつてます。標本を作るのには、季節の制限があるもんですから……", "あら、そのおシヤツお着替へになりません? お着替お持ちでいらつしやいませう?", "いや、こんなの、平気ですよ。一日か二日のつもりでしたから……" ], [ "先生、お先へどうぞ……。僕、これから採集したものを整理して、あとから参りますから……", "整理か。まあ、そいつはゆつくりでいゝぢやないか。急ぐものはないよ。それよりねえ、斎木さん、あんたは伯爵のセクレタリイだな。よろしい。伯爵の秘書といふ資格で、わしの方も時々、手伝つて下さらんか。幾島君の方は、どこへ行つても、女の子にはもてるんだ。わしらは、さうはいかん。ところで、わしが一番淋しいのはだ、女性の無関心といふやつでね。つまり、妙齢の婦人たちは、わしを見て、なんの感じもおこらんのぢやね", "先生……" ], [ "なんだ。君の意見を訊いとるんぢやない", "いや、意見は申しませんが、斎木さんは、いつも、先生の助手のまた助手をして下さつてるわけなんです", "そんなことは問題ぢやないよ。僕が云ふのは、君にできないやうなことを、このお嬢さんに頼みたいんだ。つまり、伯爵の許可があればだよ、僕と二人きりでたまには散歩するとかね……", "はゝゝゝ" ], [ "をかしいね、こつちも出ないよ。爺やさん、今日は別に水道を止めるなんて話なかつたね", "熱い、熱い……これや、どうにもならん" ], [ "水源地のことでまだ揉めてるんだらうが、事務所に委しておいて大丈夫かね。粕谷のやり口も相当なもんだからなあ", "わしや、まだ何も聞いとりませんが、今年はえらい旱魃でして、別荘へ水を取られるのがこたへますから" ], [ "さあ、なんでも百尺以上掘らなけれやなりませんのですつて……。それも場所によつてだめらしうございますわ", "なるほど、さうでせうね、谷があれだけ深いんだから……。水源地つていふのは、よつぽど遠いんですか?" ], [ "なんですか、先生?", "なんですかぢやないよ。講演のことを云つてるんだよ。なるべく早く題をきめて前触れをしとかんとまた集まりがわるいつていふことになるぞ。こんどは、ひとつ、なんだな、ぐつと砕けたところでいくかな", "はあ、いゝですな。しかし、さういふことになると、先生、僕は全然御用がなくなりますね。先生独得の植物学的漫談は、それだけで光彩陸離たるもんですから、助手なんか邪魔つけです。いゝなあ、僕はみんなと一緒に、たゞお話を拝聴できるわけですね", "そんなずるいことを考へちやいかん。今日の講演会の不成功は、大半君の責任だ。名誉恢復をせにやいかん。それにはだ、ひとつ、今度は、二人でやらうぢやないか。君、前座をいけ! うん" ], [ "おい、粕谷はどうした? 呼んでらつしやい。序に車もさう云つとくといゝな", "はい" ], [ "大丈夫だ。そんなことはさせやせん。たゞ、君とはいくら話をしても埓が明くまいと云ふんだ。今、代表を三人だけ寄越すやうにしたがね。こつち側でも、責任のある方に出て貰ひたいんだ", "責任はすべてわたしが負うとるですが……", "そんなら責任のある返答をしてやつてくれ給へ。別に悪質の暴動とは見とらんがね、君の方で誠意を示さんと、これでどういふ結果になるかわからんよ。純真な青年たちが非常に激昂しとるでねえ" ], [ "わしは曾根在の小峯といふもんだがね、せんだつてうちから、粕谷さんになんべんも話しとるこつたが……", "おい、小峯君、そんなことを伯爵に申上げたつて駄目だよ。問題は法律上の手続に関することで……" ], [ "あんたはちよつと黙つとんなさい。法律のなんのといふのは嘘だべ。少くとも最初はさうでなかつただ。これは純然たる徳義上の問題だべ。われわれ農民の立場に立つて考へたら、あの水源地を二つともとられるつていふことは、立派にわれわれが干乾しになるつていふことだべ。それや、姑息な方法で……", "もうわかつた" ], [ "とにかく、さういふ話は、此処でちよつと聞いたつて、どうするわけにも行かんのだから、何れ事務所の方の云ひ分も聞いてだ、ゆつくり諸君と話し合はうぢやないか。今日はお客様もあることだし、これで失敬しよう", "そんなら、新しい水源地の工事を、ちやんと話のつくまで中止させて貰へんですか?", "粕谷君、どうだ、そいつは?" ], [ "しかし、この先生たちは、村全体の意見を代表してるわけではないのでして、村会議員などをやつてをる有力な個人に当つてみますと、今度の水源地は一応こちらの名義にしておいて差支ないと申しますんです。つまり、この騒ぎといふものは、決して水源地がどうかうといふ限られた問題ではなく、村の青年たちの一部に、なんと申しますか、われわれの事業に対する極端な反感があるのでして、その反感がいろいろな形で、これまでも表面化してをりますし、今後もそいつは続くだらうと思ひます。この小峯君などが、その一派の代表的人物でございます", "ふむ、この人が……?" ], [ "お手伝ひいたしませうか?", "いや、これはもういゝんです。むやみに荷物がふえちまつて……。たいがい採集旅行つていふのはかうですがね。今度は別にそのつもりでもなかつたんだけれど……一週間になりますからね、たうとう……", "ちやうど、さう、一週間ですわ。此処でお客さまつていふのは、まつたく珍しいんですのよ。あなたがたが最初で最後かも知れませんわ", "最後つていふのはどういふんです? よつぽど懲りたと見えますね" ], [ "一番誰が懲りたとお思ひになる?", "さあ、あなたですか?", "こんな山の中で、ほかに気を紛らすつていふことのできないところでせう。お客さまのために此処にゐるやうなもんですわ。例へば、あなたお一人なら、これは、さう云つちやなんですけれども、すぐお友達になれるわ。ところが、あちらの先生と来ては、なに、あれは……。天下の大学者は、女にどんなサーヴイスをさせてもいゝと思つてらつしやるんだから……。お腹の虫をおさへるつて、ずゐぶん、心の疲れるものよ、あなた" ], [ "先生にご予定を伺つてみませう。明日あたり帰るつておつしやるかも知れませんよ。ほんとに、此処にかうしてゐれば、僕なんか東京へ帰ることを忘れちまひさうですからね", "そんなにお気に召しまして? でも、随分、ご旅行はなさるんでせう?", "旅行はしよつちうしてゐます。ですから、場所が変るつていふことは、そんなに刺戟にはなりません" ], [ "草津の五万分ノ一、持つて来てないか?", "草津は持つて来てゐませんが……。何処をごらんになるんですか?", "草津を見たいんだよ。まあいゝや。そこへ斎木君が来とるね。あとで、ちよつとこつちへ来て貰つてくれ", "はあ、承知しました" ], [ "今夜村の青年がやつて来る筈ですね。差支なかつたら、僕も立合ひたいんですが、伯爵のお許しを得て下さい", "かしこまりました。さう申上げてみますわ。では、また後ほど……" ], [ "さあ、いかがでございませう。先生は、でも、この聴衆ならこれくらゐにつていふ、加減をあそばすんぢやございません? 今日はまた、お子さんたちが、どういふものか、いつぱいで……", "さう、さう、子供が多かつた。しかし、子供にはなんと云つても無理だ、わたしの話は……" ], [ "では、これからお話を伺ふことにするが、予めお断りしておきたいのは、この泰平郷建設事務所といふのは、立花家とは全然表向きの関係はないといふことです。従つて、私一個としては泰平郷建設の事業に直接なんら責任を負うてゐないばかりでなく、寧ろ、この事業に対して、批判的な立場にあるものです。その点、今日お集まりの村民諸君と利害が一致するかも知れんと思ふし、少くとも、相方の主張を、公平な判断のもとに検討できる極めて自由な位置にあると云へるのです", "ちよつとお尋ねしますだが、立花さんは、泰平郷の顧問ではなかつたかね?" ], [ "いや、はじめからのことは云ふ必要ないだらう。結局、われわれの方で今年から使用権を得た第二の水源をだな、君らの方で、どうしても使はせんと云ふんだらう", "それや、つまり、もうわれわれの方で使つとる水なんで、それをあんた方にとられてしまふと、曾根部落の水田の半分は……", "だからさ、それは君たちの方の手落ちで、そんなに大事な水源ならばだ、この前も云つたやうに、どうしてもつと早く使用権を獲得しておかなかつたか。第一、あの水源の所在地といふもんは、曾根部落と関係のない、これは個人の所有で、われわれとしては、既に買収の契約もしてあるのだし、君たちがなんと云はうとだ、こればかりは喧嘩にならんのだ" ], [ "まあさういふわけです。わしどもの力でどんだけのことができるか、それはわからんけんどが、わしどもは日本の農村をどうせにやならんかといふことを真剣に考へて、夜昼働いとるだ。百姓は好きだとか嫌ひだとか、工場で働いた方が割に合ふとか合はんとか、さう云ふものが一人でもふえるのを、わしどもは心配しとるだ。ところが、こゝに別荘地ができて、村の気風がぐつと変つて来たのは、これや嘘でねえだ。わしどもにや、そいつが我慢ならんでなあ", "村の気風がどう変つたつていふんだね?" ], [ "よく晴れてますね、空が……", "夜、ひとりで外が歩けるくらゐになつてるといゝんですけれど……かう道が暗くつては……", "分譲地の方もこんな風ですか?", "まあ、こんなもんだと思ひますわ。ですから、夜のない都会だつて、みなさん云つてらつしやるさうですわ", "夜のない都会か。……さう云へば、僕なんか東京にゐてさへ、夜街へ出るつてことは殆どありませんからね。縁日なんていふのは、子供の時の記憶以外にないくらゐです", "まあ、そんなにお堅くつていらつしやるの? ぢや、ここでせいぜい夜遊びをなすつてらつしやるといゝわ" ], [ "そつちへ登つて行くと何処へ行くんです?", "峠を越えると北軽井沢へ出るんですつて……", "へえ、そんな方角ですかね。あなたは、失礼ですが、お生れはどこですか?" ], [ "ずつと外は車ですもの、平気よ。でも、いゝ毛皮は欲しいわ", "またそんな贅沢……。文句を云はいで、あたしの狐をしてつたらえゝのに……", "ママの狐はどこの狐でしたつけ? 南米、だつたか知ら?", "パパさんがシドニイで買つて来ておくれたんや。内地へ引上げるつていふ年の冬……大した景気やつたよ", "だうりで、移民色濃厚な狐だわ。折角ですけど、またのことにするわ。はい、お土産……" ], [ "ジヤーマン・ベーカリイ……。ベーカリイなんて云うたかて、二十年前には、誰も知らなんだよ、ほんまに……", "東京で?", "あゝ、さうとも", "今日は、あたし、とつてもママによろこんでいたゞきたいことがあるの", "ふむ、よろこぶことなら、なんぼでもえゝわ", "だつて、ママに直接関係はないのよ。でも、あたしのために、よろこんでよ、ね、いゝでせう?" ], [ "とにかくね、ママ、あたしは、まだまだ……有望ね", "なんのことさ、それ?", "だつて、女には、もうこれでおしまひつていふやうな、すべてのことがきまつてしまふ時機があるでせう? つまり、自分が自分でなくなるのよ", "結婚してしまへばつていふんでせう?", "結婚ね、さうだわ、結婚だつておんなじこつたわ。あたし、今日、第二号つていふもの、はじめて見たの。綺麗なひと……利口さうで……。あれで、正式のお嫁さんだつたら、どうなんだらう? 馬鹿ね、あたし……結婚つてこと忘れてたわ……" ], [ "だつて、さも、その道の素人は来るに及ばずつていふやうな風でしたから……", "あら、そんな風におとりになつた? うそよ。第一、展覧会つてそんなものぢやありませんわ", "しかし、僕にそれだけの自由を与へて下すつたのは非常にありがたかつたですよ。おかげで、久しく会はない先輩の顔を見て来ました" ], [ "お勤先が横浜だとずゐぶん往復に時間をおとられになるわね", "えゝ、ですから、向うへ引越したいんだけれど、どうも、さういふ工合に簡単にいかないんですよ、僕のうちは……", "簡単にいかないと思ひ込んでらつしやるところがありやしないの? あなたつてさういふ方のやうにみえますわ", "つまり、融通が利かないつていふんですか?" ], [ "さうかも知れませんね。自分ぢやさうでもないつもりなんですが、今までの境遇と云ひ、やつてる仕事と云ひ、どうもさうなりがちでせうね", "そんなことより、早く肝腎なこと伺はなくつちや……。その候補者つていふのはどんな方?", "まあ、さうせかないで下さいよ。お話をするのには順序がありますからね。あ、こんなに歩いてばかりゐていゝんですか?", "あたくしは、ちよつと休みたいわ", "こいつはいかん、うつかりしちやつた。さあ、こゝからだと、どつちが近いかな" ], [ "いゝえ、存じませんでしたわ", "さうでせう。知つてるものは少いんですよ。覚えといて下さい" ], [ "それがね、どうも……だんだんさういふ機会がなくなりさうなんです。僕の専門の範囲ぢや日帰りの採集なんてのにはあんまり縁がないですから……", "また、夏、あそこへ講演にでも来ていただかなければね……", "あゝ、講演で思ひ出しました。例の水源の問題はどうなつたでせう? 僕は、あれから、小峯といふ青年に一度手紙を出さうかと思つたんですが……" ], [ "あん時も、会つて話してみたいつておつしやつてましたわね。あなたがさういふ方面に興味をもつてらつしやること、あたくし、なんだか不思議でしたけど……やつぱりさうなのね", "そんなに感心しないでくださいよ。僕は何にでも興味をもち過ぎるんです。しかし、結局、科学者の領域を出ないところがまた特徴なんで、ある種の問題に対しては、自分ながら微温的で、歯痒いくらゐですよ", "それがつまり冷静な態度つていふことにはならないんですの?", "自分ではそのつもりでゐることもあるんですね。しかし、やつぱり違ふんです。敢然と起ち上らなけれやならんといふやうな時にですよ、自分は科学者だから、まあまあそれには及ぶまいつていふやうなところがないとは云へないんです。実際むづかしいところですがね" ], [ "あなたはご自分が都会人だから、都会人の弱点をよく知つてゐるつておつしやつたわね。さういふ眼でごらんになつて、あの上州の田舎の人たちに、どんないゝところがあるとお思ひになる?", "さういふ風に訊かれると、ちよつと返事に困るんですが、僕は農村の特色といふものを飽くまで尊重するんです。農村は農村として純粋な、そして理想的な発達のしかたがあることは、いつかの青年代表が云つたとほりだと思ひます。それはしかし、都会的なものの影響を受けないといふことだけが条件ではない。やはり、都会と農村との間には、経済的な面ばかりでなく、文化的な面でも、互に有無相通ずる意味での交流作用が必要です。これを、単純な頭で考へると、常に、都会が農村をリードするやうに見えるんです。これは都会人の優越感といふものを植ゑつけた、古来の文明観に罪があるんだと僕は信じるんですが、そこを僕は、あの曾根の青年たちに話してみたいんです", "あなたにご紹介しませんでしたかしら、うちへしよつちう来てる石屋さんで、兵隊に行つてたひと……?", "あゝ黒岩君でせう、知つてますとも……。あれはまた利口者ですね。一種の……" ], [ "あの石屋も、たしかに面白いですね。しかし、あゝいふタイプはそんなに珍しくはないでせう。兵隊に行つて来て、ちよつとかうハキハキしてるところが、あなたにはいゝんだなあ", "あら、別にそんな意味で云つてるんぢやありませんわ。今の都会人の優越感といふやうなものね、それを、農村のある種の人たちが不都合だつていふんでせう? つまり、都会人に対して反感をもつ理由が、自分たちに自信がないつていふところにあるんでせう? それが、あたくし、をかしいと思ふの", "その自信がないつていふのが、彼等の罪ばかりぢやないとしてね", "えゝ、でも、とにかく、あの石屋さんなんかをみてると、そこが実に気持よくはつきりしてると思ふのよ。そんな、都会とか田舎とかにこだはらないで、自分の能力に十分の矜りをもち、それを利用するものに好意を寄せるといふ、あの感情は一番自然ぢやないかと思ふの", "なかなか派手なところもあつてね", "さう……それは、あたしたちが見物になつてるから……。しかたがないのね", "それにしても、先生は、戦争の話をあんまりしたがりませんね。これも、意識してかどうか知らないけれども、要領がいゝと思つたな", "さう、さういふところがあるわね。どういふの、あれは? 本能でなんか嗅ぎ分けるみたいなところ。凄いわ", "それも、野生美のなかへはひるんですか?", "それだけがどうかうつていふんぢやないわ。野生美だなんて、あたくし、そんな言葉使つたかしら?", "さて、そこで、僕の話ですがね、真面目に聴いて下さい" ], [ "をかしくないわ", "いや、をかしけれや嗤つてもいゝですよ。僕は自分の信念としてこれは云ふんです。この相手と結婚して、果して自分は幸福だらうか、そんなことを考へながら、男と女とが一緒に道を歩いてゐるとしたら、こんな滑稽はありませんよ", "そんなことをしろつて、あなたに誰が云ふの?", "え? 誰がつて、つまり、仲介者にしろ、その花嫁候補者の親にしろ、或は当人自身、それを云ふんです。僕は、それはいやだから、会つた以上は必ず貰ふ。その代り、会はせるのはすこし待つてくれつて云つてるんです", "そんな理窟つてあるか知ら? 会つて、向うがいやだつて云つたらどうなさるの?", "………", "オホヽヽヽヽ、それは考へてもみなかつた、でせう?" ], [ "さういふ意地のわるい調子で、僕の失言を笑ひ飛ばさうつていふんなら、もうなにも頼みませんよ", "あ、さう。意地わるだつたらごめんなさい。だつて、さういふお話をちやんと聴くのつて、それやむづかしいもんよ", "聴く方より、云ふ方がずつとむづかしいですよ", "それや、まあ、さうね。あたしはいけないの、すぐ揚げ足をとる癖があつて……" ], [ "ちよつと、ちよつと、ちよつと、ちよつと……その方は幾島さんつておつしやるの? 幾島さんね、たしかにさうだ、で、そのお嬢さんの方は? 久保幸枝さんつておつしやりやしないかい?", "さあ、それや聞かなかつた", "理学士で、片手が不自由で……しかし、立派な方だつてね", "ママ、それ、なんの話?", "なんもかんもあれやせん。あたしが頼まれてどつかへお世話をしようと思つてるお嬢さんなのさ。それが……、つい一と月ほど前から、その口がかゝつたのはいゝんだけれども、あんまりおいそれとこつちが乗り気になつちまつたもんだから、先方でも少し首をひねりだしたらしいんだよ。なにしろ理学士つていふんで、すつかり有がたがつちやつてね、やれ、家を持たせる、研究費は出すで……", "まだ見合もしないんですつて?", "ところが、こつちぢや、ちやんと見ちまつてあるんだよ。これやまあ、あたしがお膳立をしたやうなもんだけど……" ], [ "ママは、そんなら、その娘さん識つてるの?", "あゝ識つてるどころぢやない。可哀さうに、二十三で肋骨が二本ないんだつて。これや、ま、内証だけどさ" ], [ "どなた?", "僕、幾島です。ちよつとお目にかゝりたいんですが……" ], [ "あたくしに? えゝ、それやいゝけど、今すぐ?", "早い方がいゝんです。若しできたら、伯爵にもちよつと会へるやうにしてください、これや、しかし、今日でなくつても……", "ぢや、こちらへいらしつてよ、お待ちしてますわ。伯爵のご都合はあとで伺つてみますから……" ], [ "いや、ところが、かういふ風にぶつかつて行くと、そんな係り合ひなんていふことぢやなくなつて来るんです。僕、今迄、こんなに全身的に生き甲斐を感じたことはないですよ", "あらあら、そんなに……ぢや、あなたは政治か社会運動の方へ行く方だつたんだわ", "いや、いや、さういふこととは違ひますね。僕はやつぱり学問が好きです。それも直接応用の利かないやうな学問、まあ、早い話が、植物学のなかでも分布学つていふやうなものをやつてませう。これは、僕の本質的な傾向なんです。しかし、一方で、人間としての、或は、日本人としての、現代に処する生き方といふ問題があります。これは、学問なら学問の領域で、自分が担当してゐる部分を如何に育て上げるかといふことと混合してはならないと思ひます。僕は第一に、植物学者の資格で役所の雑用などしてゐては駄目だと思ひました。その次に、僕は、自分を駆りたてる熱情の方向へ、躊躇せずに足を踏み出さうと決心しました", "………" ], [ "えゝと、二度行つたんですが、最初は、この月はじめでした。二度目の時は、あそこから峠を越えて、軽井沢の方を廻つて来ましたよ。もう木の葉がすつかり落ちて、満目蕭条といふ眺めでしたけれども、いゝお天気で……", "あら、ずるいわ……", "曾根の青年諸君が二人、峠まで道案内をしてくれました", "意気投合ね、すつかり?", "まあ、そこまではね。しかし、その後はどういふことになるかわかりません。僕は、わざと向うの事務所の人には何もいはずに来ました。これが結局、事を面倒にしてるんですから……" ], [ "差出がましいとは思ひましたが、この夏、あの会見に立会はせていただいた関係もありますし、問題の性質上、僕がひとつ第三者として、最も合理的に解決の道を探し出してみようといふ気を起したんです。もちろん、僕はまだ自分の経験にも技術にも頼ることはできませんが、この問題に限つて、えらく、自分の常識と熱情とが物を言ふだらうといふ風に、ひそかに信じてゐました。一方で、お前の出る幕ぢやないつていふ声は、しきりに耳のそばで聞えてゐるんです。しかし、今度といふ今度は、なにか知ら大きな力にぐんぐん押されて、そんな声は問題ぢやなく、ごく自然に、起ち上ることは起ち上りました。そして、結果は、だいたい、僕としては満足なんです", "ほゝう、それやご苦労でした。しかし、あの問題はね、僕は実は迷惑しとるんでね。この間も、あそこの経営を委せてある田沢といふ男に会つたから、うるさい問題をこつちへ持ち込まんやうにしてくれ、さもなけれや、僕はあの別荘へはもう行かん、と云つてやつたんだ。すると、――いや、もうあの問題はとうに片づいた。一部の青年がぐづぐづ云ひよるのは、あれやつまり、農村のインテリといふ新興階級の幼稚な示威運動だ。相手にせんでえゝ、と、まあかう云ふんだがね。こゝのところは、しかし、いろいろ立場によつて意見も違ふだらう。で、君の今度のお骨折りはどういふ形で表面に表はれて来るかな? 僕はもうどんなことがあつても口は出さんつもりだが、参考のために伺つといてもよからう、なあ、斎木君" ], [ "それやまあ、泰平郷建設事務を指導する委員会といふものがある。これは云はばあそこに家を持つてゐる連中の協議機関です", "あなたが顧問をしてをられるのはそれですね?" ], [ "なるほど、よくわかりました。村の青年たちは泰平郷建設の事業といふものを、宣伝通りに解してゐるんです。つまり、都会に於ける無産知識階級の夏季保健道場が、立花伯爵始め有力な名士の後援で出来上るのだと信じてゐるんです。従つて、最初は相当の期待を以て、この企てを歓迎するやうな気持でゐたんださうですが、いざ、現実にそれがだんだん形をとりだすと、自分たちの期待したものとは遥に違い、軽佻浮薄な都会色の誇示が全部だつたと云ふんです", "彼等は恐らく避暑地らしい避暑地といふものを知るまいからね" ], [ "しかし、僕の感じたところでは、ちよつとそこに面白い矛盾があるやうなんですが、……", "うん、矛盾だらけさ。第一、そんな抗議がなにになるといふんだ。われわれに向つてさうして肩を怒らしてるひまにだ、彼等は、もつと眼に見えん力で、予想もしない方向へ押し流されつゝあるんだ" ], [ "すぐそこだ、寄つてけよ。かういふ時でなけれや、お互の家庭をのぞくなんてことはまづないからな", "うん、しかし、今日はやめとかう", "どうしてだ? あの話はもういゝよ。済んぢまつたことにしとくよ。とにかく、茶を一杯飲んで行くだけならいゝだらう?" ], [ "君細君と二人きりか?", "いや、子供が一人ゐる。早いもんだらう", "早いな。しかし、君は昔からなんでも早かつたよ", "馬鹿云へ。そんなこと云や、君が恋愛小説なるものをはじめて僕に読ましたんだぜ", "うゝん、そんなことぢやなくさ。君は、おれたち仲間のうちで、誰よりも一番思慮分別があつた", "だから子供を早くこさへるつていふのは、どういふ論理だい?" ], [ "うん、さうかも知れないね。さうすると、外科だね", "しかし、わからないよ。先づ内科の医者に早く診せるんだな。誰か近所にかゝりつけはないの?", "あゝ、内科小児科つていふのがあるんだ。子供が時々世話になるんでね", "内科小児科か! ぢや、内科の方でしつかりやつて貰ふんだな。どこだ? おれが呼んで来てやらうか?" ], [ "えゝ、それについて先生にもご諒解を得たいと思ふんですが……", "事後諒解はなんにもならん。君たちはどうも就職といふもんを甘く考へすぎとるぞ。まあ、一杯やれ" ], [ "それはそれとしてだ、今後の問題だがね、僕としては、少くとも当分は君の世話はできんからな。そのつもりでゐてくれ。ほかの連中への見せしめといふわけだ。これや、私情のほかだよ", "はあ、やむを得ないと思ひます。しかし、以前のやうに先生のお手伝ひはさせていただけませんか?", "うむ、それも今云つたやうに、すぐといふことでなくだ、いづれ機会を見て、また頼むことにしよう。僕は、怒つとるんぢやないぞ、そこを誤解しちやいかん。いゝか。君の人物、才能を愛することに於て、ちつとも変りはないんだ。たゞ、世の中といふものはさういふもんだ。まあいゝ。もうわかつた、なあ。さ、駄目ぢやないか。ぐつといけ" ], [ "おやおや、先生からあたしに? でもよく覚えてゝくだすつたねえ", "それや、お母さん、あの先生はなんでも一度見ると覚えちまふひとなんですもの。殊に研究室へ菓子折なんか提げて来る女は、忘れる気づかひはありませんよ。簡次郎は?", "まだ帰らない。九時だもの", "万千子は? さつきゐましたね", "お勝手よ。いまお茶をいれるやうに云つたから……" ], [ "大沼先生はなんておつしやつた?", "別になんとも……。たゞ、先生のお世話ではひつたのに、先生に無断でやめたつていふんで、多少お冠のやうでした", "しかし、お前の気持はわかつてをられるんだらう?", "むろんです", "そんならまあいゝ。あ、そこへ端書が来てたよ" ], [ "えゝ、これがお父さん、現代の日本ですよ。何処を突つついても血が吹きだすんです。が、その血の循環がおそろしく悪いと来てますからね。名医の手術が必要ですよ", "それやわかつとるが、お前がまさかその名医ぢやあるまい", "さあ、さうでないと保証ができますかねえ" ], [ "どうしてか知ら……。とても今夜は疲れてらつしやるみたいね、兄さま……", "うむ……さうだ、忘れてた……電話をかけなくつちや……。おい五銭、五銭……" ], [ "やあ、また捕つたかい?", "うむ" ], [ "これで何頭になるね、万さん?", "さあ、はつきり覚えとらんが、でけえのが十頭ぢやきくめえ", "わあ……三千両がとこ稼えだか、へえ" ], [ "なぜ、返事をしねえだ? おらにや知らせてなンねえことか?", "そんなこたあねえだ。ゆんべは正式の布令を廻したんぢやあんめえ。東京から喬さを訪ねて幾島つていふひとが来ただよ。この前に来た時や万さんにも知らせたづら。そんで、近所のもんが五六人集つただ", "近所のもんていふが、お前たちや、勝手に仲間を作つて、ごそごそなにを企んどる? 幾島つていふ人は、どこにゐるだ、いま?", "ゆんべは集会所へ泊つて、今朝早う、水源地を見に行くつて話ぢつやつた", "水源地を? 喬の案内でか?", "喬さは、今日はからだがあかんと云つとつた。多分、彦太が行つたづら", "よしツ" ], [ "あゝ、それも向うの出方ひとつだで。わしどもの云ふことを徹頭徹尾馬鹿にしてかゝつとるだでねえ。そんならそれでいゝつていふことになるだよ。なんべん木管を掘り出してみたところで、向うで人夫を入れりやそれまでのことで、致命的な報復手段といふのは、どうせ誰か一人ぐらゐ犠牲を出して、あの水を気持よくは使へんやうにしてしまふのが一番えゝと思つとるんです", "といふと、どうするんだらう?" ], [ "黒岩君でしたね。どうです、この冬はなんか大きな獲物はありませんか?", "今年は熊も出ねえやうだね。こゝいらもだんだん開けて来ただからね" ], [ "なあ、万さん、今夜は幾島さんになんか御馳走しようと思ふとつたんだが、生憎、かしはをつぶす暇もなかつたで、おらの家の味噌汁で我慢して貰はんならん。お前に雉でも撃つて来てもらふとよかつたな", "あ、さうか、そんなら今日の狸を一匹残しとくとよかつたなあ。そいで、何時までゐなさるね" ], [ "いや、いゝですよ。僕はもう明日引きあげるつもりです。少しこのへんを歩いてみたいと思つてるんだけれども、地図だけぢや無理ですね、山越えは", "道案内なら、わしがいくらでもしますよ。立花の旦那が猟に見えるまぢやあ、わたしのからだはあいとるですから……", "立花伯爵が来るの、近いうち?", "はあ、さつき留守番の爺さんがさう云つとつたです。うんと薪を切つとけつていふ手紙ださうだで、こつちで年越しをされるぢやあるめえかね" ], [ "こつちの云ひ分つて、わしどもはたゞわれわれの田に水を与へよつて云ふとるだけぢや", "うん、それには夏分だけ掘抜をこさへれば間に合ふとは思はんのか? あれくらゐの田なら……", "掘抜で水を上げるのには、二人分の手がいるだでね", "それを村で持つことに話がきまつたづら", "どうして村で持つ義務があるかだ。無駄な費用でねえか。おまけに、男にしろ女にしろ、その二人は、こいつは機械になるだ。人間が機械になり下るだ。ポンプを買ふつていふなら、これや別だ。しかし、村にそげな金はねえだ。とにかく、楽に、自然に引ける水があるのに、それをほかへ取られてしまふ理窟は、どんなことをしてもねえだ。これが、つまり、農村の敗北、自滅だと、わしは云ふだ。それも日本の全体的な発展のためなら、いくらでも我慢するだ。田んぼの上に飛行機工場を建てにやならんつていふ場合なら、わしどもは、満洲へでも何処へでも行く。だけんど、東京の安月給取が、避暑の真似事をするために、われわれに小さくなつとれと云ふなら、われわれは死ぬまで闘ふだ、これや" ], [ "お前のその議論はもうわかつた。死ぬまで闘ふちうは、誰が死ぬだ、いつたい?", "まづ第一におらが死んでみせる", "ふむ、おめえが死ぬか? それでこの村がどうなる?", "さあ、どうなるかは、あとから来る奴次第だ", "さうか。おめえにそんだけの腹があるなら、もうちつとでけえことを考へてみちやどうだ?", "おれや別に、でけえことをしようたあ思つとらんのぢや" ], [ "それが駄目だね。この村に正しい輿論つていふやうなものがあるくらゐなら、わしなんかが、こんなに騒ぐことはねえだから", "黒岩君なんかは、さうすると、どういふ立場なの? 小峯君とは全然反対ですか?", "それやわしの口からは云へんけんどが、つまり、自分はなんだ、といふ、そこが違ふだね" ], [ "小峯君のお父さんとあなたのお父さんとが……?", "いゝえ、あたしの母とが……", "あゝ、さう……。あなたはお父さんもお母さんもお達者?", "えゝ", "ご兄弟はいくたり?", "四人……わたくしが一番うへ……みんなまだ小さいですわ", "あなたは、だつて、もう……ずゐぶん大きいぢやないの? いくつ? 十八?" ], [ "あなたは農家の仕事はどうなの? 別に嫌ひぢやないんですね?", "好きでもないわ" ], [ "東京へ出たいとは思はない?", "………" ], [ "馬鹿野郎、そんなことをぶつくさ云ふならさう云つてやれ――てめえ自分でひと晩、あそこへ寝てみろつて……。なに吐かす、それで村の為めもヘチマもあるか! お前は、心配せんでえゝ。どうだ、しばらく温まつてつたら?", "いやだよ、あとがまたうるさいから……。ほれ、奈良漬ちつとばかり切つて来たよ", "貰ふばつかりぢやねえか" ], [ "今夜は、別荘でゆつくり寝られるだに……。山鳥の瓦焼ちうが奥さんのお得意だで、いつちやう……", "え、奥さん?" ], [ "奥さんぢやねえ、秘書ちうださうだが、まあ、さう云つとくだよ、ほかに呼びやうがねえだから……", "うん、斎木さんだね。……一緒に来るの?", "一昨年の冬、一度きりだがね、わしのゐる間は……", "へえ、すると、女中も連れないで?", "たつた二た晩だつたでね。豊次の婆さんが結構働くだで……" ], [ "小峯君の家へちよつと寄つて行かう", "山へへえつとつて、家にやをるめえ", "なに、家のひとに挨拶だけして……" ], [ "その炭焼小屋つていふのはどのへんですか?", "この上ぢやが、さあ、道がわかるめえ" ], [ "明日は早くから出掛けるぞ。もうこつちはいゝから休め", "それぢやね、万さん、今夜はあんた、下の女中部屋が空いてるから、あそこへ寝んでちやうだい。婆やさんに夜具だけ敷いとくやうに云つといたから……。お風呂へも遠慮しないではひつてね" ], [ "僕はもうたくさん……。君はなんにも食べてないね。それやいかん。さ、やりたまへ", "あたくし、もう十分いただきましたわ", "うそばつかり……。皿もなんにも汚れてないぢやありませんか。尤も自分で料理をすると食ひたくなくなるつて云ふね。しかし、これはどつちかつていふと婦人向ぢやないな", "お茶漬、召しあがります?", "うむ、まあ、もつとあとでいゝ。どうも、君つていふひとは不思議なひとだな。かうして、こんな山奥へ僕と一緒に来て、あと二週間も此処で暮さうつて云ふんだ。これや、君、誰が考へても容易ならんことだよ。君の方のことは先づおいて、僕の身になつて考へてみたまへ。僕は当然、君との距離の接近を感じる。それは平生の僕の決意を裏切るものではない。露骨に云へばだよ、僕が如何に君といふ女性に心を惹かれても、君だけは――だけはといふ言葉はをかしいが、要するに、君だけはだ、決して手を触れてはならんと心に誓つた。もちろん、僕の生涯の最後の心の歴史としてさ。ねえ。それだけは公明正大な事実として、僕は世間に向つて約束をしたいのだ。さうだらう、君のやうな、失礼ながら美しすぎる秘書をだ、僕がなんのために連れ廻るかといふことを、ほんとに知つてゐるものはないのだからさ……。さあそこだ。僕はそんなことはまだ誰にも約束をしてをらん。君にだつて、僕は一と言も、保証はしてをらんぜ。いや、待ちたまへ、それにも拘らずだ、君には恰も、一切の危険から完全に予防されてゐるかのやうな、無警戒に近いところがある。いや、寧ろ、僕自身が、すべての行動を生れながら封じられてゐるとでも、君は勘違ひをしてゐやせんかと思ふ節々がある。どうです? 別にこんなことを酔つて云つてるわけぢやない。今夜は、僕は最大の悦びをもつて、最大の苦情を吐かうと思ふまでだ" ], [ "これは、君にはつきりさう云つておくが、僕はなにも今日、積極的な意思表示をしようといふつもりはない。さういふことのためにもつと適当なチヤンスがこれまでにいくらもあつたが、むろん僕は、故らそれを避けた。君の方ではうまく逃げたと思つてるかも知れんが、それは僕がただ追ひかけなかつたといふまでの話で、その点、僕はたゞ僕の意志に従つてゐるに過ぎんのさ。どうだ、僕は負け惜みを云つてるみたいかい?", "いゝえ、ちつとも……" ], [ "ふむ、といふと、僕には過失さへ犯すことはできんといふのかい?", "そんな、はつきりしたこと考へてみもいたしませんけれど……まあ、さう申してよろしいかと思ひますわ", "君はそれほど男つていふものを知つてるのかい?", "でも自分の知つてゐていゝ範囲のことでございますもの……。それに、本来は、それほど知識と関係のないことでございませう、ですから……", "僕は今、君にそれほど男つていふものを知つてゐるのかと訊いたんだ。返事にならんぢやないか", "えゝ、ですから、男つてどういふものか、だアれも、ちつとも、ほんたうのことを、あたくしたちに教へてはくれないやうな気がいたしますの。昔から、何時の時代でもかうなんでせうかしら?" ], [ "試す? いや、そんな卑怯なことはせんぞ、僕は……。だから、さつきもはつきり云つたぢやないか! ねえ、世の中にかういふ男も一人ぐらゐあつていゝと思ふがどうだ、え? 僕みたいにさ、好きな女性を自分の身近において、しかも、その純潔を保証してだ、一方的な愛情のひそかな表示によつて満足するといふこと、これは、君、そんなにおいそれと出来ることぢやないぞ", "………" ], [ "もうこゝの火はいゝ。斎木君、寝室が温たら、僕は寝るから……。湯タンポを入れさせてくれ", "はい" ], [ "いゝえ。でも、あたくしはたくさん下に着てをりますから……。温度はどれくらゐでございませう? 伯爵は、それではお風邪をめすといけませんわ", "あゝ、風呂からあがりたてで、暑かつたから……。ぢや、すまないが、ガウンをちよつと出してもらはうか", "さあ、このトランクあたくしに開きますかしら?" ], [ "僕は今夜、かうして起きてゐるから、君、その寝台へやすみたまへ", "………" ], [ "………", "なにを考へてるの、さうして?" ], [ "あたくしが若し眠つてしまつたら、伯爵はお困りになりはしません?", "いゝや、困らんよ。それより、君はほんとに勇敢だね。驚いたよ", "あら、どうしてですの? あたくしにできないことを、させようとなすつたんですの? 伯爵ともあらう方が、そんなことをなさる道理がございませんわ" ], [ "疲れるもなにもないわ。自分のからだぢやないみたいですもの。何時、もう?", "十一時ちよつと過ぎ……" ], [ "素子さんは? やつぱり明日一緒にたつんですか?", "えゝ、さうするわ。向うでまたいろんなわからないことがあるといけないから……。それやさうと、あなた、どうして、いついらしつたの、こゝへ?" ], [ "だから、どうしてそんな時間に、わざわざいらしつたのよ? あなた、その朝、薬師へいらしつたんでせう? 万さんの小屋へ泊つたんですつて?", "をかしいな、僕、さう云つたぢやありませんか、道に迷つたんだつて……" ], [ "しかし、あれから、僕は、あなたと口をきくなんてことが殆どできなかつたから……。僕の方からも訊きたいことがいつぱいあるんだけれども……今はまだよしませうね", "誰でも、あたしにいろんなことが訊きたいらしいわ。訊かれた、訊かれた、いやになるほど訊かれたわ。あたしつてそんなに秘密がありさうな女にみえて?" ], [ "さういふことを今詮議なさりたいの、あなたは? 警察でも、ちやんとした理由はつかめなかつたんだから、それでいゝぢやないの。ね、それでいゝと思ふのよ。だつて、事実をどう追つてみたつて、普通の心理ぢやないんですもの。あの方独得の心理について、あたくし流の解釈をしてみろつておつしやれば、それや、できないことはないけど……さあ、あなたがそれで納得なさるかどうか、……", "いゝえ、僕はね、実をいふと、伯爵の自殺そのものには大して興味はないんです。それがあなたとどう関係があるかつていふことだけ、あなたの口から直接聴いておきたいんです。物好きすぎますか?", "物好きなのはあなただけぢやないから……" ], [ "さうですとも……僕は新聞がどう書くか、こいつは見ものだと思ひますね。しかし、田沢さんが大分その方面へは運動されたんでせう?", "さあ、どうですか。書きたいやうに書けばいゝんですわ。こんな問題で騒ぐ時節ぢやないんですもの", "あなたはもつと伯爵の運命を悲しんでいゝんぢやないんですか?" ], [ "おや、変なことをおつしやるわね。ひとの悲しみの程度がどんな風にしておわかりになるんでせう?", "それやまあ、僕にはいろんなところでわかりますがね、あなたは伯爵を随分苦しませたんでせう、ほんとのところ……?" ], [ "明日は大雪になるらしいが、自動車がうまく通るかどうだかね。夜つぴて積つたとなると、ちよつくら、へえ、人夫の二人や三人で掻えたぐれえぢや追つつくめえ", "自動車が通らないとなると、どうするんでせう?" ], [ "なあに、二晩や三晩起きてたつてどうもねえですよ。それより、幾島さん、あんたの部屋にや火がねえだね、まだ……", "いゝんだよ、黒岩君、僕は、こゝでかうしてると、いゝ気持なんだ。別に手伝ふ用件はないし、邪魔にならないやうにしてゐるんだから……" ], [ "幾島です。昨日粕谷さんに紹介していただいたばかりですが、まあ、それやいゝです。植物の方をやつてる関係で、今年の夏、大沼博士のお伴をしてこちらの別荘でご厄介になりました。泰平郷の建設にはいろんな意味で非常な興味をもつてゐます", "いやあ、それやどうも……。まあ、そこへお掛けなさい。ふむ、さうですか……。立花伯といふ相棒をなくして、わしもがつかりしてゐます。なにしろ、かういふ事業は算盤を弾くだけぢや、まるで意味をなさんですからなあ", "大へんいゝことを伺ひました。田沢さん、泰平郷の画期的な事業の性質についてですけれども、ひとつ是非、これは地元農村の将来といふことと関連して考へていただきたいのです。僕からなぜかういふことをあなたに申上げるかといふと、地元の青年たちの正当な要求が、あなたの配下の事務員の手心で、甚だ軽々しく扱はれてゐる事実を、僕は知つてゐるからです。例へば、この夏から問題になつてゐる水源地の権利のことでも……" ], [ "一人ぢや淋しいこんだね", "いや、却つて、たまには、これが薬なんだ。さもなきや、わざわざゐろつたつてゐやしない。君は明日からまた猟だね?", "わしもなんだか気ぬけがしたね。たゞ、銃を錆びさしちやならんで取りに来ただが、……" ], [ "危いよ、君……。どうも僕は苦手だ、さういふ玩具は……", "まだ二発へえつとる" ], [ "水源へ小便でもひらうつちふんだべ", "非常に陰性なんだな、先生らの流儀は……" ], [ "ねえ、ちよつとこれ見てくれない? この印のつけたるところね、みんな水が出てるところなんだ。むろん、出るつたつて、滲み出す程度のところが多いんだけれど、もう少し丁寧にしらべてみたら、地下水の相当の分量が、どつかにありやしないかと思ふんですよ。現在の水源だつて、岩の割れ目から湧き出してゐたんでせう。その岩の割れ目を、人工でこしらへさへすれやいゝんだもの、若し、下に大きな水脈があればね。いちいち掘つてみるのは大変だけれども、こゝと、こゝね、この二つは、今でも相当、飲めるのが流れ出してゐて、地形から云つても、面白いところなんだ。僕は道具がなくつて、それに片手ぢや駄目だけれども、君、一度、僕といつしよに来て、見てくれない。少し掘つてみると、たいがい見当はつくんだがなあ……", "そんなことして、どうするだね?" ], [ "だつて、君、水源の問題で、あんなに騒いでるんぢやないか。要するに、もう一つ水源を見つけれやいゝんだらう? どつちで使ふにしても、このへんなら水を引くのに便利だらうと思ふんだ。とにかく、それだけの努力はしてみようぢやないか", "それやいゝが、その程度の湧き水ぢや、ちつとばかり掘つてみたところで、へえ、いくらも出やしめえ" ], [ "しかし、絶対に望みはないとは云へないだらう? 場合によつたら、多少大仕掛な工事をしても……", "井戸を掘るやうなもんだね", "いや、そんなことはないさ。井戸は君、何処へでも掘れるさ。僕の云ふのは、水脈が近くつて、自然の力でも噴き出さうとしてゐるやつをだぜ、人工でちよつと助けてやるだけの話さ。水源として利用するのには、どうせ、君、金と労力がいるんだからね。問題は水量が十分あるかどうかといふことだか、これは、相当湧きだしたら、専門家に鑑定させる。それより手はないよ", "まあ、そんなところだね" ], [ "ちよつと、幾島さんからはまだお返事ないわ。どうしてでせう?", "あいつは来やしないよ。普段そんなに交際つてもゐないで、こんな時更まつて、へんだよ。マチ子さんは来るんだつて?", "えゝ、それやむろん……", "幾島だつて、勘づいてるよ、きつと……。もう小細工はよした方がいゝよ" ], [ "あら、あら、そんな大袈裟な恰好、よしてよ。なんにもこさへるもんなんかありやしないわ。それより、ちよつと手かして。本箱がこんなとこにあつちやをかしいから、……", "あんた、なに、そんな、力いれちや駄目ぢやないの。もしもし、先生、新聞はあとにあそばして、お手を拝借……" ], [ "いや、実はお断りの返事を出すかはりに伺つたんです。今日、ついさつき旅行から帰つて来たもんですから……。とにかく、ご全快、おめでたうございます", "はあ、ありがたうぞんじます。でも、そんなことおつしやらないで、用意もなんにもないんでございますから、ちよつとおあがりくださいませ。安藤もよろこびますですから……", "おい、幾島君、なに云つてるんだい、君は! 此処まで来てあがらないの? そんなのつてないよ" ], [ "上州の山の中です", "温泉はどちらで?", "いや、温泉ぢやありません。季節外れの避暑地なんですが、ちよつと用事がありまして……", "上州つて申しますと、高崎からずつと奥へはひりましたところに、泰平郷とかなんとかいふ近頃開けた別荘地がございますさうですね", "はあ、そこなんです、私の参つてをりましたのは……", "へえ、それはそれは……。私の知合ひが毎夏そちらへ出掛けますもんで……。たいへん好いところださうでございますね。私どもにも是非来い来いと云つてすゝめてくれますんですけれども……", "さあ、まあ、おひとつ……" ], [ "さう云へば、先日亡くなられた立花伯爵の別荘がたしか、その泰平郷でしたな。新聞で見て、おやと思ひました", "あゝ、さうです、泰平郷ではないんですが、すぐ近所です。新聞にはどういふ風に出てをりました?", "たしか脳溢血でしたかな。猟から帰られて、食事中、発作が起つたとか、よく覚えてをりませんが、なんでもそんな記事でした", "失礼ですが、お勤めは?", "あ、わたくし……かういふところで、走り使ひをやらされてをります" ], [ "すると僕は、その恰度真ん中ですね、麹町ですから……", "あら、でも、麹町なら、四谷の途中ですわ。いゝわねえ、町子さん、お連れがあつて……", "さうですか?" ], [ "もの凄いひとだ、あれや……", "あたくしもタクシイを拾ひますわ" ], [ "四谷はどの辺ですか?", "右京町ですの", "右京町?", "えゝ信濃町、ごぞんじでございませう、あのすぐそば……", "知つてます。僕の親爺が子供の頃住んでゐたつていふんですよ、あすこは。そんな町ですか?", "まあ、そんな町つて、あなたのお父様、あたくしどういふ方かぞんじあげませんもの", "区役所の書記です。五十九歳、勤続四十年……" ], [ "バスになさいませんか?", "もうすこし待つてみますわ。でも、あなたはどうぞおかまひなく……", "僕は、むろん、バスで帰ります。どうせその方が早さうだから……", "ぢや、どうぞ、ほんとに……", "安藤君の細君とご同級でしたね。あのひとは、その上の学校は?", "あの方、女高師の中途退学でいらつしやいますの", "結婚のためにね", "えゝ、たぶん……", "あなたは、卒業後、どつかへ……?", "はあ、ちよつとだけ田舎の女学校へ……" ], [ "だいたいお話はわかりました。あなたのおつしやるその新しい水源といふのは、それや早速調べさせてみませう。わしの方でも分譲地域の拡張に伴つて、現在の水源だけでは不十分だといふことは予めわかつてゐるんです。しかし地元農村の水利といふことはですよ、これは、あなたのお耳にははひつてをらんかも知れんが、わしとしては、とつくに県当局と談合の上、善処してゐるつもりです。その証拠に、責任もない一知半解のやからが、それも一人二人売名的な反抗を試みるといふだけで、村民の大部、殊に、有力者は挙つて、わしどもの権利行使に承認を与へとるです。当節、この種の問題はさう単純に上から抑へるといふことはできんですからな。わしも永年、地方政治では苦労をして来とる人間です。お見受けするところ、あなたはまだお若いやうだが、農民の代弁者として一生を捧げようといふおつもりならだ、先づ彼等の素朴な要求を、なんらの先入見なしに見究められることが絶対必要です。これは学問だけぢやいかん。彼等の生活を通して……", "いや、僕はそんなはつきりした立場をもつてゐるわけぢやないんです" ], [ "どうなすつたの、いつたい……ずつとあつちにいらしつたの?", "昨日帰つて来ました。立花伯爵のお葬式にも行かなきやわるいと思つたんですが、向うでちよつとやりかけたことがあつたもんだから……", "お葬式はどうでもいゝけど、向うでなんか面白いことおありになつて?", "別に面白いことなんかありやしませんよ。水源を一人で探して歩いたんです。一日平均二十粁は歩きましたね、山の中をですよ", "でも、その方は慣れてらつしやるんでせう、だから……", "それやまあ、あなたに感謝してもらはなくつたつていゝですよ。しかし、田沢つていふ男は失敬な男ですね。僕がその調査の結果をもつて、ある意見を述べに行つたところが、てんで見向きもしないんだ", "植物学者がさういふ問題に熱心なのをへんに思つてるんぢやないこと?", "あなたと同様にですね? なるほど僕の専門は植物学です。しかし、僕の感情は人間一般の倫理を基礎として動くのに不思議はないでせう!", "もちろんだわ。たゞ、さうね、なんていふのかしら……田沢さんは田沢さんとして、あたくしはよ、あなたのさういふところ、とても好きなくせに、やつぱり柄にないみたいで、危つかしい気がするの。ごめんなさい。これは間違つてるかも知れないわ。女のさういふ判断には、どうせ狭いところがあるんぢやないかと、自分でも確信はもてないのよ。でも、さういふ風にみえることが、好意からだとすれば許していただけるでせう" ], [ "伯爵の秘書つていふ肩書はなくなつたわけですね", "肩書だつて……。いやだ" ], [ "すると、これからなにをします?", "さあ、なにをしようかと思つて、考へてるの。結婚でもしようかしら", "どうぞご随意に……。しかし、そんなことなら、別に訊く必要はなかつたんです", "あら、今日はひどく気むづかしいのね、あなた……。よつぽど田沢が癪にさはつた?" ], [ "あなたに当つたとすれば、理由があるんですよ。云つてみませうか?", "えゝ" ], [ "ぢや、やつぱりさうなんですか?", "その手紙はどうか知らないけれど、あたくしも出すには出したわ。――それには面白いことがあるの。お話ししませうか?" ], [ "伯爵の死因について、新聞は穏やかに真相を伏せてゐるやうですね", "えゝ……。でも、そのことはもうおつしやらないで……。あなたにはいつか詳しくそん時の事情を聴いていただかうと思つてるんだけど、今でなく、ね。今はまだ、あたくしの気持としては早すぎるの。お葬式はとても盛大で、あたくしなんか隅つこで小さくなつてゐるくせに、それでも、これだけの会葬者の誰よりも伯爵の悲劇的な性格を知つてゐるんだと思ふと、自分も一緒にこの世から葬られてしまつてもいゝやうな気がしたわ。どういふんでせう……" ], [ "あゝ、その返事? それはね、まづかう書いたわ――わたくしもなにか自分の性に合つた仕事を見つけたいと思つてゐる矢先でございますから、先日のお話はほんとに耳寄りなお話だとぞんじますけれども、なにぶん、第一の宣伝部次長といふ方は、どうやら責任が重すぎますし、第二のプライヴエイトの秘書といふ方は、経験によりますと、仕事の範囲がとかく曖昧になり勝ちで気苦労が多すぎますし、どちらも進んでお受けすることはむづかしいやうにぞんじます……", "へえ、断つたんですね", "まあ、ちよつと、しまひまでお聴きになつて……。しかし、折角の御思召しゆゑ、こちらの希望だけを申述べさせていたゞきますと……" ], [ "あ、さうさう、その前にかう書いたわ――折角の思召しゆゑ……こちらの我儘は許していただけるものとして、ほんの希望だけを申上げれば、わたくしは寧ろ、宣伝部の一員でけつこうでございます。それも補助部員といふ資格で働かせていただければうれしいとぞんじます。さうすればきつと、自分でなにかお役に立つやうな仕事を作りだせるだらうといふ自信がございます。そして、条件は、他の社員の方々との振合ひはいかがかとぞんじますけれども、黙つて月三百二十五円……", "え、三百二十五円……" ], [ "まあいゝです。それから?", "……それだけ出していただければ、これまでの勤めと比較して、差引そんなに違はない結果が得られやしないかと、自分で胸算用をいたしてみました。但し、それほどの値打はないと思召せば、こちらも、ご尤もと引さがるより外ございません。不躾けな手紙でおそれいります。どうかあしからず、わたくしの意のあるところをお汲みくださいますやう……", "そいつはむづかしいや、あなたの意のあるところを汲むのは……", "だつて、どうして? さう書くよりしやうがないんですもの。向うが向うなら、こつちもこつちだわ" ], [ "こんなものこさへましたんですが、お口に合ひますかどうか……", "母ですの" ], [ "幾島です、突然伺ひまして……。甘酒ですね。やあ、こいつは久しぶりだ", "素子からよくお噂を伺つてをりました。なるほどお若くつていらつしやる" ], [ "たいへんな事業家ですワ、ほんまに……。でも、お若い方相手ですから、思つたほど年をとりませんのや", "あんなこと云つて、駄目よ、母さん、幾島さんはお世辞がお上手なんだから……" ], [ "あ、お世辞なんか云つた覚えないですよ、僕は。たゞ、かうして、お母さんにお目にかゝつて、はじめて、素子さんの一面がわかつたやうに思ひます", "あらあら、たいへんだ、それや……。もう引つ込んでゐませう" ], [ "それで、山の方はどうなりましたの? 水源をお探しになつて、その結果は?", "有望なところが一ヶ所見つかりました。しかし、僕ひとりぢや掘つてみることもできませんからね。それで、田沢氏に、人夫を使つてこれならといふところを確めるやうに勧めてみたんです。だいたい、僕のさういふ意思が相手に通じないんだからしかたがありません", "つまり、商売人なんだわね", "悪い意味の……" ], [ "でも、何か新しい仕事をしようと思へば必然的に、いくらかの犠牲者がでるんぢやないかしら? その犠牲者に同情するものもむろんあつていゝわけだけど……", "あなたは、その仕事をする側につきますか?", "あなただつて、その犠牲者のことしきやお考へにならないわけぢやないでせう?", "僕は、それでもいゝと思つてゐます" ], [ "おわかりになる、このチビ?", "あなたでせう? わからないなあ。六つぐらゐの時……?", "えゝ、小学校へあがる前の年だから……" ], [ "それはさうと、その後、ご縁談はない?", "だれ? 僕? まあ、あると云へばあり、ないと云へばないです", "へんなお返事……。あのね、今まで内証にしてたけど、今日いらしつたからお喋りしちまふわ。あたくしの母がね、あなたにお嫁さんをお世話しかけたことがあるのよ。去年、あなたからお手紙いただいて、上野でお会ひしたでせう。あん時、お話のあつた候補者つていふ方がさうかぢやないかと思ふの。面白いでせう?", "へえ、わからないや、僕には……。まあ、そんなことはどうでもいゝですよ。僕には、もつと緊急な問題が眼の前にあるんです。これは、あなたかな?", "いゝえ、二番目の姉……", "あゝ、香港にいらつしやる……" ], [ "いや、いや、そんなことはない。率直に云つてもらつた方が、わしは気持がえゝです。すると、まあ、だいたい、なんですね、あの条件で承知といふことにしてくださるか?", "はあ、でも、すこし虫がよすぎやいたしません?", "ふゝゝゝ、それやまあ、あんたにどれだけの腕があるか、それをみてみんとわからんが、しかし、人間にはほんと云ふと、相場といふもんがないんぢやから、望み手があればいくらにでも買はれるわけです。ワツハツハハハ" ], [ "お手がご不自由で、ほんに……。お小さい時に怪我をなすつたとかで……", "いやあ、もう慣れました。こんな手が一方にぶらさがつてるもんだから却つて目障りなだけです。自分より人にわるいやうな気がしましてね", "あほらし。さぞご難儀やろ思ふて、わたくし……" ], [ "すると、わしの方は明日からでもえゝが、あんたの方はどうかな。明日一日出てもらつたら、今週はもうそれでよろしい。わしはちよつと関西へ行つて、来週早々帰つて来ます。正式には来週からといふことにして、幹部にだけご紹介しておかうと思ふがどうです?", "社長は、ご本宅はどちらでいらつしやいましたつけ?", "わしの本宅か? なるほど、こいつはまづかつたな。あんたはなにもかも知つとるわい" ], [ "まあ、さあ、お崩しなさいませ。お洋服で畳はほんにいけませんワ。素子の部屋がちやんとなつてれば、あちらでお待ち願つてもえゝんやけど……", "いや、こゝで結構です。お宅でお貸しになる部屋はみんな洋式ですか?", "半分半分にしてございます。近頃はやつぱり洋風をお望みの方が多いかして、その方は満員ですワ", "僕もひとつ、勤め口でもきまつたら、ご厄介になるかな。ちよつと明いてゐる部屋を見せて下さい" ], [ "こゝ、素子の部屋ですのや", "ちよつと覘かせてください" ], [ "ふむ、すると、女学校二年までは紀州の田辺で……?", "さうでございます", "伯爵から伺つとつたところによると、あんたは、タイプ、速記、美容術、なんでもやるんだつてね。文章もうまい、なかなか……", "あらそんな……。宣伝文の試験をなすつてごらんになりません?", "うむ、その方は追つてやるとして、さしあたりあの泰平郷ですがね、あの事業の宣伝方法をひとつ研究してみてくれたまへ。立花伯爵の別荘ありといふことは、今後歌へんやうになるかもわからんのでね、これは痛手だよ、きみ" ], [ "それがさ、まだ遺書の内容もわしの耳にははひつておらんしね、あの土地の委託分譲の形式も、完全とは云へんのでね。まあ、ことによつたら、あの別荘だけは、わしが個人で買取つてもいゝと思つとるんです。あんたは気に入つとるかね、あの別荘は……?", "と申したところで、どうなるもんでもございませんわ", "伯爵があれは君にといふ遺書でも作つてをられやせんかな" ], [ "もうお帰りになつたのかい? あたし、お送りもしないで、わるかつたね", "いゝのよ" ], [ "どこへ行つてらしつたの?", "ちよつと部屋を見せてもらつたんです、参考のために……", "もの好きね。あつちへいらつしやらない?" ], [ "どういふことになりました?", "こつちの云ふとほりにするんですつて", "それで、あなたは承知したんですか?", "だつて、しやうがないわ" ], [ "あなたの云ふとほりにするといふことは、いつたいどういふことだかわかつてますか? あなたはむろん、不可能と思はれる条件を持ち出したつもりなんでせう? それはつまり、拒絶の一手段だつたんでせう? 男ならばしないことだけれども、あなたのやうな女がさういふ場合、ちよつと相手をからかつてみることは、まあ、許されるべきでせう。僕は、さうとばかり思つてゐました。あなたの肚さへきまつてゐれば、たとへ向うが、全部の条件を容れると云つたところで、まだいくらも逃げ路はある筈です。いや、逃げ路なんていふことを考へる必要はない。最後には堂々と断つたらいゝぢやありませんか! あゝいふ男が、月三百円の月給を出してあなたを雇はうといふのには、どんな魂胆があるか、それがわからないあなたぢやないでせう。寧ろはつきり云へば、あなたは、向うの不潔な野心を黙許して、それに対する代償を自分で書付にして出したやうな結果になるんだ。僕の云ふことは間違つてますか?", "こつちをちやんとお向きになつたら?" ], [ "返事をして下さい、ちやんと……", "えゝ。でも、その前に伺つとくけれど、あなたはどういふ標準で、あたくしの月給が高すぎるとお思ひになるの?", "世間一般の標準です" ], [ "殿方のでせう?", "いゝえ、娼婦を除いた職業婦人を含めてです", "例外はお認めにならない?", "………" ], [ "どれでもないわ。しかし、例外はいくらあつてもいゝんぢやない?", "だから、あなたは、どういふ例外だつて訊いてるんです", "まあ、そんなこはい顔なさらなくつたつていゝわ。――さうかしら、あたくしにだつてすこしは例外なところがあつていゝと思ふんだけれど……駄目?" ], [ "だつて、さうでせう、あたくしをどういふ風にみて、それだけの月給を出す気になつたか、それは向うの勝手ですもの。自分で自分をすこし例外扱ひにしてるのは、しかし、そんな意味ぢやないの。そこをほんとにわかつていただきたいわ。あたくしは別に何かしなれや食べていけないわけぢやないし、営利会社なんかへ勤めるのは、どつちかつて云へば気が進まないのよ。たゞ、うんといゝ条件なら、そこで何かしら埋め合せがつくみたいに考へたの。鑑賞料だとかなんだとか、あなたがそれを汚れたものゝやうにおとりになるのは、をかしいわ、商売人がそんな余計なお金払ふもんですか", "だから、なほ、あなたは身動きができなくなるんだ" ], [ "あたくしがちつとばかり例外だつていふ、もうひとつの理由はね……云つもいゝ?――つまりかうしていつまでも結婚もしないでぶらぶらしてゐることにも関係があるらしいの。だから、異性との問題に限つてるんだけれど、あたくし、とつても慾張りなのね。このへんつていふ諦めがどうしてもつかないのよ。抵抗力つていふのか知ら……自分でもさういふ抵抗力みたいなものに、驚いてるくらゐなんですもの、実は……", "さういふ自信、ありがたくないな" ], [ "たゞ、これはあなたに誓ふみたいなものよ、さうして心配してくださるから……", "それやどうも……" ], [ "それやどうもだが、いゝですか、素子さん、その説明を言葉どほりに受けとつたとしてもですよ、あなたの今度の進退について、僕が非難したいと思ふ気持に変りはありません。あなたは主観的にばかりさういふ問題を考へてゐられるやうだけれど、第三者の眼は現象として外部に表はれた事実から、あなたの何者であるかを判断するんです。文華土地株式会社の老獪な社長が、美貌の一女社員に月三百なにがしの給料を払つてゐるといふことは、たとへあなたがどんな腕をもつてゐられようと、あなたの女性としての純潔を保証することにはなりません。断じてならんのです", "へえ、あの社長とね。第三者は、まさかと思つてくれないかしら?" ], [ "なんにもならないから", "なんにもなりません、たしかに……" ], [ "どうしたん、お前、急にへんやないの、両方ともむつつりして……", "へんよ。あの人がへんなのよ。子供臭いつたらないわ……", "喧嘩かい、みつとむない", "喧嘩する理由がないぢやないの。だあれも来てくれつて頼みもしないのに、のこのこやつて来て……。ひとの顔そんなに見ないでよ、母さん……" ], [ "いゝえ、さつぱり呑み込めないで困つてをりますわ", "ふむ、そいつはこつちの方が困つたな。もう三週目でせう? どういふところが呑み込めんの、いつたい?", "ほんとと嘘との境がどうもはつきり……" ], [ "はあ、存じてはをりますけれども、……", "こゝに図面はあるんだが……どうもこのまゝぢやホテルにもならんし、将来クラブかなんかにするにしても、大改造を要するんでね。君、なにか名案はありませんか?" ], [ "急に思ひつかんなら、考へといて下さい", "はあ……いまひよつと考へついたんでございますけれども、あれを会社でお買ひになるとすると、夏中、社員が交代で参れやしませんかしら?" ], [ "土地を見て参りましてからでよろしうございますね", "さう、土地を見てですな、周囲の風物、つまり環境を、最上級の言葉で讃美するといふのが、まあわれわれの常識です。前例をみられたらわかります", "拝見いたしました" ], [ "実はこんど、わしどもの要求を聴いてもれえに、本社とかいふのを訪ねようと思つて上京しただが、なにせ勝手がわからんで、今朝幾島さんのところへ行つて、誰に会つたらえゝか相談してみただよ", "幾島さん?" ], [ "はあ、さうです。あん時一緒に立会つてくれた……", "えゝ、それやわかつてるけど、幾島さんが、それで、あたしに会へつておつしやつたの?", "うゝん、さういふわけぢやねえが、とにかくあんたに電話で頼んでみろつて云はれるだ。わしども代表二人が社長さんかなにかに会へるやうに……", "あゝ、さう、お取次ぎだけはするわ。で、あなた方、今どこにいらつしやるの?", "幾島さんとこの近所の薬屋にゐるだがね、幾島さんもこゝにゐなさ……" ], [ "その話はもうずゐぶん前のことぢやないか。まだぐづぐづ云つとるのかね。まあ、しかし会ふだけ会はう。序に、君に云つときますがね、かういふ問題は、君の領分ぢやありませんよ。女の感情が紛争事件のなかに挟まることは、百害あつて、一利なし。よろしいか", "わかりました", "立花さんは、別に彼等に言質を与へてはをられないだらうな", "伯爵は、飽くまでも会社側の責任者としてでなく、第三者として話をお聞きになり、意見もお述べになつたやうでございます", "うん、ところで、あの別荘の処置について、なにか考へつきませんか?" ], [ "現在の儘利用するとすれば、やはり、土地を見にいらしつたお客様を、ある撰択を加へてお泊めすることにいたしましたらどうでございませう、つまり片道の旅費以外に会社のサーヴイスとして――ほんとは日帰りでは少し無理な旅行なんでございますから、それくらゐのことをしてもよろしいんぢやないかとぞんじます。あそこの夜と朝とを十分に味はなければ、百パーセント値打がわからないつていふことも、この案の基礎になつてをります。それほど費用をかけないで、田園風の饗応を工夫いたします。専務のお言葉どほり、夢の翼はどこまでもひろがりませう。土曜から日曜へかけて、それこそ、三四家族、十名内外の団体一泊旅行を計画しても、結果はたぶん出費を償ふやうになりはしないかと、わたくし、ぞんじますけれど……", "ふむ、なるほど……。しかし、その別荘がいくらで手にはひるかだ。よろしい、ご苦労さん" ], [ "町子さんからまた手紙が来たわ。もうそんなに悲観してる風でもないけれど、まつたく可哀さうになつちやふわ", "そんなこと云つたつて、あれだけの工作をしてやつて、それで駄目なら、こつちを恨む手はないよ", "あら、恨んでなんかゐやしないのよ。ほら、せんの手紙に、帰りの自動車へ一人で乗せられちまふとこ、おどけた調子で書いてあつたでせう。あのことをだんだん深刻に考へて来たらしいの。ちよつとまあ、読んでごらんなさいよ", "あゝ、それより、今日はガマ口を忘れてつて、西村に煙草代十三銭借りたよ", "いゝわよ、そんなこと……。まめね、だけど、こんな長い手紙、いくども書くなんて……。あたしなら、出掛けてつて喋るわ", "それや人各々得意ありさ" ], [ "なんだ、陽気な書き出しぢやないか。――いざ万年筆を取り上げ、さてどう書いたものだらうと、ぼんやり胸の想ひをほぐしてみると、つい誰に宛てゝこの手紙を書かうとしてゐるのか、わからなくなつてしまふの。正直云ふと、初めてあの人に手紙書くみたいな錯覚に陥つてゐるのよ。はつとわれに返つて、自分をこつぴどく叱りつけてやるんだけけど、ほら、もうこんなに動悸が激しいぢやないの。いやになつちやふわ", "そんなところはなんでもないのよ" ], [ "もうかうなつたら、しかたがないぢやありませんか。とにかくあの晩のことをさうおつしやつて、幾島さんに、実はあのお嬢さんなんだが、君どう思ふつて、あつさり印象を訊いてごらんになつてよ", "やつ、怒るよ、きつと", "だつて、別に瞞したわけぢやないでせう? 二人とも、招ぶべきだから招んだだけぢやありませんか", "町子さんが来ると知つたら、先生、来なかつたかも知れないよ", "そんなのつてあるもんですか、男のくせに……。あの方はそんな方ぢやありませんよ", "いやに幾島党だね、君も……。やつぱり僕から訊く方がいゝかねえ……君ぢやどうだ、その役は?", "あたし? さうね……あなたが許してくだされば、行つてみてもいゝわ。女の気持を伝へるのには女の方がうまいつてわけね。あゝあ、自分のことでなくつてよかつた" ], [ "あなただつて、どなたかお友達のために、女のひとのところへお使ひにいらつしやるんだつたら、そんな気がなさるわ、きつと、……さういふ経験おありにならない?", "…………" ], [ "お妹さんですね、おいくつでいらつしやいましたつけ……", "二十になつたんだね" ], [ "それはさうと、お妹さんは、マチ子さんつておつしやいますの? さつきお母さまが呼んでらつしやるお声が聞えたから……", "えゝ、万千と書きます。どうして?", "不思議ですわ。あたくしの友達にやつぱりマチ子つていふ名のひとがあるんですの。マチは二長町の町ですけれど……。実は、その方のことで伺ひましたのよ、今日は……" ], [ "もうおわかりでせう? 弁解じみたことは申しあげませんわ。あの大里さんが、二年間もあなたのことを忘れずに、ぢつとあゝいふ機会を待つていらしつたんですの。二年前に、どうしてあなたつていふ方をぞんじあげたか、うちのひと、お話しましたか知ら?", "いゝえ。しかし、僕はもうわかつてゐるつもりです。奥さん、とにかく、その話はもうやめてください。なんだか妙にこじれた気持ですし、それに、結婚のことは、もうしばらく考へないことにしようと思つてるんです。折角ですけれども……" ], [ "それ以上訊かないでください。自分でもまだはつきり処理できない感情なんです。行きがゝり上、こんな告白をしたんですから、どうかそのおつもりで……", "えゝ、それやもうなんですけれど……でももうひと言、伺はせていただきたいんですの、あたくし……。ぢや、今のところ、その話はご結婚の方へ進んでをりますの?" ], [ "いつまでも愚痴みたいになりますけど……主人から最初あの方のことお話し申しあげた時分はまだそんなことおありにならなかつたんでせう?", "えゝ、まあそんなとこです。あの頃は女房を探してたと云つてもいゝんです", "あら惜しかつたわ" ], [ "主人がお人好しなんですわ。あなたのご気性ぐらゐわかつてゐさうなんですのに、……", "いや、僕の方がわるいかも知れませんよ。素直に聞けばなんでもないことなんでせう。子供の時分から、僕にはさういふところがありましてね、お前は利口だつて云はれると、馬鹿な真似がしてみたくなるんです。近頃はすこしはなほりました" ], [ "どうしなすつた、弥生さん、この天気に……", "あら、お仕事中ですの、をぢさま……", "珍しいこつてせう? 町子は風邪を引いて寝てますよ、奥で……", "いやねえ、弱虫で……。よつぽどわるいのかしら?", "なに、本を読んでるくらゐぢや。まあ、おあがんなさい。今、おみよ婆さんをちよつと使ひに出したもんだから……" ], [ "…………", "あんた、へんな顔してる。なにかあつたのね?", "…………", "なに? 黙りつくら? よしてよ、そんな事……早くなんかおつしやいよ、お見舞でもなんでも……", "…………", "あら、あら、このひと泣いてるわ……。ヒスみたい……なんだ、嘘か" ], [ "えゝ、読んだわ。それであたしどうしたか知つてる?", "知らない" ], [ "まあいゝわよ、そんなこと……。あの手紙のことはもう話しつこなし。だつて、あんなもの、あなたの顔が見えないから書けたのよ。そんなに真面目にとつちやいや。だけどさ、それで、どうしたつていふの、あんた……?", "そんなら嘘なの、あの手紙?" ], [ "わかつた、わかつた、ぢや、あたしがどうしたかつていふことだけ云ふわ。安藤はほら、あゝいふ人でせう。この役目はもう落第と自分できめてかゝつてるの。だから、しかたがないわ。あたしが自分で出掛けてつたの……", "あの方のとこへ?" ], [ "うゝん、それどころぢやないの。早く云つちまふとね、ほかに好きな方ができたらしいの……。それも、つい最近のことなんですつて……。あなたのお話がでてから間もなくぢやないかと思ふの。それでわかるでせう、あの晩のこと……", "をかしいわね、そんなこと今まで考へてもみないなんて……" ], [ "あたし、また学校勤めをするわ。岐阜の家政女学校だけれど、行かないかつていふ話があるの。どうかしら?", "…………", "岐阜つて、知つてる? ほら、名和昆虫研究所のあるところさ。甲斐先生がよくご自慢なすつたぢやないの――日本は世界一の昆虫国だつて……。さうおつしやる時の先生のお顔が、まるでバツタみたいだつてみんなが笑つたの覚えてない?", "…………", "ねえ、覚えてない?" ], [ "なんですか、そのお話は?", "うん、君の就職のことだがなあ。順番を待つとつてもなかなか好い籤は引けんから、思ひきつて変つたところはどうかと思ふんだ。実は京都からこつちへ廻つて来た口なんだが、どうも君以外にうんていふ奴はゐさうもないんだよ。まだ出来たてのホヤホヤつていふ博物館でね。ところは和歌山県の白浜つていふ海岸だ。ほら、神島のそばだよ、『はかまかづら』で有名な……。むろん県内の寄附かなんかで建つた小規模のものさ。しかし、自然科学と限つてあるし、特に植物には力を入れるらしいよ。といふのが、館長が君、高杉君だよ、『紀州植物研究の栞』を書いた。その館長の名で、植物専攻の青年学徒を一人是非世話してくれつていふ申込なんだから。紀州は君、知つての通り、われわれには面白い土地だ。あそこを根城に、君の研究を完成してみたまへ。地方つて云つたつて、京都も近いしさ、われわれも大いに声援するからどうだ、頑張つてみんか" ], [ "えゝ、待ちましたとも……。今が……", "三時十分よ", "え? をかしいな" ], [ "あたしが専攻科にゐる時分、女学校の一年へはひつて来た子なのよ。それに、あたしを覚えてるんですつて……", "それやさうでせう。あなたはさういふひとですよ" ], [ "ほんとに、よく出て来てくだすつたわ。あたくし、どういふのかしら、喧嘩つてきらひよ。それや、喧嘩してもいゝ相手なら別だけど……あなたはどう?", "そんなことより、どうしてあんな喧嘩になつたか、研究してみようぢやありませんか?", "いや、また喧嘩になるから。でもあたくしにだけ云はしてくださるなら、云つてもいゝわ。云つてみませうか? お互に好きでゐて、それで、どうにもならないからよ。さうぢやない?" ], [ "云ふわ。もう云つても大丈夫だと思ふから……。あなたがはじめてあたくしのことをおつしやつたの覚えてらつしやる? それから、二人の間には、さういふ道を踏まない約束のやうなものがあるんだともおつしやつたわね。さうして、おしまひに、かういふこともたしかおつしやつたわ――あなたの未来の方が、あたくしに少しでも近い事をお望みになるつて……さうでしたかしら?", "えゝ、たしかにさう云ひました", "あたくし、とても意外だつたの、その時は……。だつて、あなたつていふ方は、たゞ弟みたいに思へてたんですもの。ごめんなさい、年が違ふつていふばかりぢやないのよ。あなたに対して、あたくしの女としての興味はまるでなかつたつて云つていゝの。それが、だんだんさうはいかなくなつたわけは、これは云ふ必要ないと思ふわ", "ありません。しかし、あなたはさういふところを僕に一度も見せなかつた。なぜです?", "あら、さうか知ら?" ], [ "しかし、僕としては話がこゝまで来たんだから、はつきり云ひますが、たゞさうせずにはゐられなくつて、あなたのことばかり考へてゐました。俗な云ひかたをすれば、僕は完全にあなたの虜になつてゐたんです。しかし、それなら、思ひ切つてあなたの愛を求める手段をとるべきなんだが、さて、そこまでどうしても踏み込んで行けない。その理由は簡単です……", "ちよつと、そんなこと、もうおつしやらなくつていゝわ" ], [ "いや、もう少し喋らしてください。僕にその勇気がないんだなんて思はれるのはいやですから……", "だあれもそんなこと思やしないわ。あたくしにその資格がないからでせう? まあ、お待ちになつて……。そんなら、あたくしも白状するけど、もしあなたからさういふお話がでた時、なんてお返事しようかと思つて、ずゐぶん前からいろいろ考へてたのよ。むろん、お断りする理由をだわ。自分にもちやんと納得できる理由は、そんなに簡単に探せやしないんですもの" ], [ "あ、さうさうこないだ、あなたがおよこしになつた山の人たち、専務に会はせましたわ。なんか、その時のことお聞きになつた?", "いや、別になんにも聞きませんが、僕も、あの問題にはこれ以上深入りはしないつもりです。やり出したらきりがないつていふことがわかつたからです。第一に、その方面の専門知識がないこと、運動そのものが片手間なんかぢや駄目だといふこと、それだけでもう、僕には自信がなくなつたんです。あなたに云はれたとほりの結果になりました。しかし、こんな誤算は失敗のなかにはひらないと思ふんですが、どうでせう?", "それや、人によつていろんな見方ができると思ひますわ。あなたは、失敗つていふこと、おきらひね。あたくしと違ふわ" ], [ "違ふでせうね。さういふところですか、あなたが僕を不満に思はれる点は?", "不満に思ふつて?", "いや、いや、さつき、さう云つたぢやありませんか、僕がもしあなたにプロポーズするやうなことがあるとして、それを断る理由をいろいろ考へたつて……", "あゝ、そのこと? だつて、なんにもないうちから、そんなこと云ふ必要はないわ?", "ぢや、仮にあつたとして、云つてみてください", "まあ、ずゐぶん無理な注文だわ。そんなら、あなたから先におつしやいよ――あたくしのどこが気に入らないつて……" ], [ "ほんと? あゝそれやいゝわ。で、田舎つてどちら?", "紀州の海岸に白浜つていふ温泉がありませう。そのすぐそばの江津良つていふところに、最近行幸記念としてできた自然科学博物館があるんです", "紀州……へえ" ], [ "そこで植物の方の係りを担当するわけですが、ひとつ、浮世をはなれて……", "さうさう、浮世をはなれて、論文を書いて、大いに天下に乗りだしてくださらなければ……" ], [ "えゝ、正月からずつとこゝにゐます", "さう" ], [ "なにしてる人、あれは?", "どういふ人にみえて?", "やつぱり華族ですか?", "ほら、加納大将つてあつたでせう、その息子さんよ。イギリスの大学で建築をやつて、今、ぶらぶら遊んでるんですつて。設計を頼まれても、自分の思ひ通りにでなくつちや図を引かないんだつていふの。だから、これまでに建てた家は、伯爵の山の別荘一軒きりつていふんだから変つてるでせう?", "伯爵つて云へば、僕、あなたに一度ほんとのことを聞かしてもらはうと思つてたんだけれど……" ], [ "さうさう、あたくしもそんなこと考へたことあるわ。でも、なんだかもう済んぢまつたことみたいで……", "だから、いゝぢやありませんか。伯爵はなぜあんな死に方をしたんです?" ], [ "ご自分でおつしやつたことをご自分で取消すやうなことをなさるもんぢやないわ。あなたには、もつと大きな希望がおありになるぢやないの。ね、さうでせう、今日は折角いゝ気持でお別れできると思つてゐたのに……", "しかし、僕たちがこゝにゐるのは、別れるつていふことを目的にしてるんぢやないでせう? 僕はこの瞬間の感情を絶対なものと信じます。それはもう善悪を超えた意志です。僕はいま、それに従ふことが幸福なんです……" ], [ "あたしたちは、きつと後悔するわ", "あなたが? 僕が?" ], [ "二人とも……。だつて、さうでなけれや、今までこんな風にしてやしないわ。ね、後生だから、もう一度落ちついてお話をしませうよ。あたしたちがなぜこれ以上接近してはいけないかつていふわけ、ごぞんじ?", "そんなわけが、ある筈ないぢやありませんか", "ところが、あるの。大いにあるのよ。いゝこと? ほんと云ふとね、今まで、あたし、あなたぐらゐ好きになつた男のひと、ないと思つてゐたのよ。ところが、違つた意味でやつぱり、おんなじぐらゐ好きだつたひと、ないことないつていふ気がして来たの", "それは、過去のことでせう?" ], [ "えゝ、それやまあさうだけれど……。でも、さういふ場合、いつでも、どつかしら、いやなところとか、物足りないところとかがあつて、いよいよ向うから積極的に出て来られると、いつでも、こつちは逃げたの。逃げるはをかしいけど、つまり、それつきり、あたしの方で関心をもたなくなつてしまふのよ。それや、不思議なくらゐ、きれいさつぱり、忘れてしまへるんだから、ほんとに世話はないわ。どういふんでせう、かういふ性質は……?", "それで、僕の場合もおんなじだつて云ふんですね?" ], [ "それや、あなたは、ほかの誰とも違ふわ。あなたなら大丈夫だと思つたからよ。あなたは、いやなところつていふのがないわ。ほんと、それだけは。たゞ、どうにもならないことは、あなたは、あんまり……若すぎるの。張合ひがないの。かへつてあたしが草臥れるの", "…………" ], [ "それに、もつと困ることは、あなたは、心の心まで都会のお坊ちやんなの。おわかりになる? あたしは、これで、なんだとお思ひになつて?", "…………" ], [ "親代々の田舎者よ", "なんです、それや……? 卑下ですか?", "己惚れなの" ], [ "いやだ。お勘定はもう済んだのよ。それより、かういふ手紙をあたしに読めつていふ男が、このホテルにゐるんだから、あなたどうお思ひになる? 許してくだされば、あたし、封を開けるわ。どうしませう?", "なんのこつたか、僕にはわかりませんよ。勝手に読んだらいゝでせう" ], [ "だから、今云つたことを、そんな風にとらないでください。僕はつい言葉が荒つぽくなるんです。このまゝでは、あなたとかうしてゐることが苦しいばかりです。希望はあつてもその希望が、すぐに、暗い影のやうなもので、曇つてしまひます。なぜだかはつきりわからない。さうなるんです。多分、あなただから許せると思ふやうなことでも、僕とその事柄との間には、大きな距りがあるんですよ。互に相容れない風習とでも云ふんですかね。これは、理窟ぢやないと思ふ……", "さうよ、理窟はよしませう。あたしもなんだか苦しいけれど、かういふ苦しみは無駄ぢやないつていふ気がするわ。自分のためにだけ考へてるんぢやないから……", "さうです。今日は僕、これで帰りますから……。十日前後に東京を発つつもりです。またお目にかゝれるかどうか……これぎりになるものとして、ご機嫌よう" ], [ "だつて、これから東京へお帰りになるんでせう? ご一緒ぢやいけない?", "一人で帰してください" ], [ "なにか新しい情報はないかね? まさか今夜おつぱじめるなんてこたあ、なからうな", "わしやなんにも知らん。局長は縁側で居眠りをしてござつたよ", "うん、そんなら安心だ" ], [ "さういふ見込のあるとこは、わしやねえと思ふだよ。だがいつたい、どれくらゐ金をかけるだね? 掘つてみて、水が思ふやうに出んとなれやこれや、無駄なこんだね?", "金はいくらでもかける。本社の方針できまつたんだから、あとで文句は云やせんよ", "そんなら、わしのこゝならと思ふところを、ひとつ、ぶつこはしてみるかね?", "ぶつこはすとは?", "爆破よりほかねえだ", "爆破か。ふむ、よからう" ], [ "それより、あたしすこし草臥れたから、早く休ましていただきたいのよ。別荘には留守番はまだゐますの?", "をります、をります" ], [ "ちつとも知りませんで……。何時来なすつたね?", "たつたいまよ……" ], [ "ぢや、あたし、見物してるわ。そうつとしてればかまはないでせう?", "奴らにや眼があるだでね。違ふにや違ふが、まあ、えゝですよ" ], [ "そんなら、向う側には道はあるの?", "まあ、あるにやあるが、そんでも、時々や水にへえらんことにや……", "冷たいでせう、水は?" ], [ "雪が解けた水だでねえ。ちよつくら、脚がしびれるだよ", "ぢや、こつから見てるからいゝわ" ], [ "わしにどうしてそんなこと云ふだね?", "さあ、どうしてでせうね……。云ひたかつたのよ、それだけのことが……" ], [ "まさか、わしをからかつとるぢやあるめえね?", "なにが?" ], [ "なにがつて、わしは面倒なことは好かんで、思つたとほりのことを云ふだ。わしと一緒に来るかね、どこへでも?", "一緒につて、どこへ?", "どこつてこたあねえ。いやかね? いやなら、今のうちに、早く帰るだね" ], [ "今朝は中宿の平で、岩をぶつこはすちうこんで、そんで、うちの爺さんもちよつくら見に行きましただ", "岩をなんでこはすの?", "ハツパとかいふ、えれえ音のするもんだちうが……", "あゝ、ハツパね、火薬でバアンとやるんでせう。へえ、それ、どうするためなの?", "それが、なんでも、事務所でまた新たに水を引きなさるちうこんです。わしや、ようは知らんけど……" ], [ "道のりはどれくらゐあるの?", "まあ、一里そこそこだね", "そいぢや、あたしも自転車のうしろへ乗せてつて。いゝでせう?" ], [ "それだけでねえ、言ひてえことは山ほどあるだ。お前はおらたちが、なんのために事務所に楯ついとるか、誰のためにわれわれ青年が死を決して先輩の反省を求めようとしとるか、それをわからん筈はねえと思ふだが、どうしてさう、ひとりつきり呑気に構へてゐられるだ?", "その返事は、おらにやできん。たゞ云つとくが、今日の仕事の邪魔を、これ以上するならしてみろ。おら、お前らの指図は受けん。事務所で取止めると云やあ、おら、いつでもやめる、粕谷さんに掛け合つて来い。さあ、そこどいてくれ。時間が来ただ" ], [ "へんなことを云はないでちやうだい。会社はあなた方を欺したことなんぞないわ。たゞ、お金の力で無理を通したといふだけよ。でも、今度の計画は、会社があなたがたの主張を容れる第一歩なのよ。むろん、あなた方の要求が直接に通つたとは云へないけれど、去年からその問題でこゝへ度々来なすつた幾島さんね、あの方の提議で、会社は泰平郷と地元との水利の関係を、真面目に考へてみることになつたの。双方の立場から円満に問題を解決するのには、どうしても、別の水源を探さなけれやならないでせう。会社では、どの水をどうするといふことはまだきめてゐないけど、とにかく、みんなが要るだけの水を、なんとかして手に入れようつていふわけで、かうして、一生懸命になつてるのよ。事務所では、どうしてそのことをはつきり発表しないんでせう?", "そこに魂胆があるだ", "いゝえ、魂胆なんぞ決してありません。ことによると粕谷さんは、詳しいことを知らないのかもわからないわ。とにかく、あたしは本社から来たものです。責任をもつてそれだけのことをお伝へするわ", "だけんどが、それを幾島さんが黙つとるのは、をかしいでねえか?" ], [ "だから、さう云てつてるぢやないの。泰平郷は今のところ、あれ以上水はいらないんだから……", "だが、万一、今度の場所が駄目だつたらどうするだね?", "あとを探すわ", "探してもねえ時は?", "あゝ、しつつこいのね。なけれやない時の話よ。さういふ風に云ふなら、あんたたちの方が誠意がないことになつてよ" ], [ "やられたな、奴さん", "馬鹿、今いくやつがあるかツ", "あツ、ゐる、ゐる" ], [ "頭に傷はねえか?", "ある、あるどころぢやねえ" ], [ "ぢつと見ててもしやうがないでせう? みんなで別荘へ連れてつてちやうだい。それから、誰かお医者を呼びに行かなくつちや……", "助かるですか?" ], [ "時期が時期ですから、なかなか説得がむつかしいでせう。不急事業といふやつのなかへはひりますね、こいつは……", "まあ、その口だらうな。しかし、そんなことを云へば学問の大部分がさうぢやないか。国威の宣揚といふことを考へても、国民のうちの誰かが、どんな場合にでも、科学の戦士として世界文化のレヴエルを抜く働きをつゞけてゐなければならんのぢやないか。早い話が、君、日本の植物学は、個人として偉い学者がゐるにはゐるが、全体としての研究からみれば、まだまだ幼稚なんだぜ", "はあ、それやわかつてゐます" ], [ "いや、君はわかつてゐるだらうが、そのことを、一般国民、殊に、金持の頭に入れさせておかんといかんのだよ。例えばだ、日本全国の植物について、われわれの知識がどの程度かといふこと、これは是非、ほかの文明国との比較に於て一応国民に知つておいて貰はなけれやならんと思ふ。これこそ物心両面に於ける国民全体の協力が必要なんだから。日本人は茸を盛んに食ふ。よろしい。その茸について云つてもだ、英国本土を通じてほゞ三千種といふ数が挙げられてゐるね。ところが、日本全国ではどうだ? われわれの間では、単にその三倍、約一万種といふ推定が施されてゐるだけで、実際知られてゐる数はたかだか千二三百種に過ぎんぢやないか。さうだらう。これはどういふことだ? 日本は英国より茸の種類が多いといふだけで自慢になるかい?", "なりません", "ならんとも……。そこを云ふんだよ。僕らだつて、金がありさへすれば採集にでかける。一年に一つや二つ、新種の発見もする。これが君、学界の至宝と云はれる専門の大家が自腹を切らなければ採集旅行もできんといふ状態は、いつたい、日本の名誉か、これが?", "いゝえ" ], [ "今迄、かういふ時は、誰が説明したんですか?", "館長先生がいらつしやるときは、ご自分でなさいましたけれども、お留守の間は、あたくしが……", "さうでせう。君、できるならやつてもらひたいなあ。僕は、動物の方は専門ぢやないんだから……", "あら、でも、女ではやつぱり……", "いけませんね、君がそんなこと云つちや、……ぢや、かうしませう、僕は植物の方だけやつて、君にあとを委かせます。女学生に科学的興味を吹き込むためには、女性科学者の存在といふことがひとつの大きな力ですからね", "キユリー夫人ならさうかも知れませんけれど、まさかあたくしなんか……", "いゝえ、君はさういふ自負をもつてゐていゝです", "引率の先生があたくしの先輩なんかでしたら、きまりがわるいから……", "へえ、さういふことまで考へるんですか? ところで、その女学校つていふのは、どこでしたつけ?", "岐阜ですの。お手紙に××実科女学校つてございましたわ", "岐阜か、ずゐぶん遠くから来るんだなあ。幾日のコースか知らないけれども、瀬戸船山村は今や天下の名所になつたわけですね" ], [ "いや、さういふわけでもないんですが、たゞちよつと廻り道をして、船の出るところでも見ようと思つたんです。海は静からしいですね", "うむ。君もそろそろホームシツクぢやないかい?" ], [ "あら、士はをかしいですわ", "士はをかしいか。ぢや、なんです? でも、女博士つていふぢやありませんか" ], [ "えゝ標本としてはまあこんなもんですが、あとは外へ出て、花壇をひとつ……", "それも結構ですが、実は、生徒たちにまだ食事をさせてをりませんので、どこかお邪魔にならんところで弁当をつかはせていただきたいのですが……", "あ、さうですか。それぢや……" ], [ "いま、お忙しい?", "えゝ、昼間は勤務がありますから" ], [ "いえ、別に用はないんだけど、大阪まで来た序に故郷へ寄つてみる気になつたの。……昨日は田辺の親類へ泊つたわ。でも、こゝまで来て、あなたに声をかけないで帰る法はないと思つて……", "それやどうも……。僕は元気でやつてゐます。あなたもずつと、あそこで活躍ですか?" ], [ "しかし、とにかく、こんな遠いところへ、わざわざよく来てくださいました。館長に代つてお礼を申します", "や、どうも……いろいろありがたうございました。たいへん有益な見学をさせていただきまして、一同この上もなく満足いたしてをります" ], [ "はあ、それが急にこの春あたりから動きだしたらしいです。なんでも、地元との微妙な脈絡もあると聞いてゐますが、そんなことはかまはんと、私は云つとるんです。水源の懸賞踏査も、只今では少し熱がさめたやうですが、結局あれで部落民の感情は軟化したかたちです。僅か十町歩足らずの水田が将来また問題の種を蒔くと云ふんなら、この際、山ぐるみ買つてしまつてもいゝと思つて、内々、調べさせてはゐます。それから、これはもう、お耳にはひつてゐると思ひますが、立花伯の旧別荘の利用価値は満点です。統計をお目にかけますが、最近二ヶ月の宿泊人員一日平均九・二五。子供を半人と計算してあります。そのうち現地に於て即座に契約を了したるもの、一・六三。一ヶ月以内に契約をなしたるもの、〇・七七……", "この九・二五といふのは、夫婦連れも入れてだね?", "人数の平均ですから、むろんさうです。こゝに家族数になほしたものが出てゐます。えゝと、四・三七ですか", "ふむ……さうすると、一日四・三七家族のうち、殆ど二・五以上を直接引つ張り込んどる割合ぢやな。いくたりぐらゐ泊れるかい?", "えゝと、今、ベツドだけぢや間に合はんとふんで畳の部屋もこさへたらしいんですが、二十人は楽らしいです", "へゝゝゝゝゝ、温泉がほしいのう" ], [ "社ではなかなかゆつくり話ができん。どうだね、今夜、どこかで飯を食はうか?", "いゝえ、ほんのちよつとしたことでございますから……", "ほんのちよつとしたことだつて、話はさう簡単にいかん場合もあるぜ。はつは、はつは……" ], [ "へえ、あんたがパラグアイへでかけて行くと、どうなるつていふのかね? 日本にゐて好きなことができるぢやないか、あんたなら? なにもわざわざ……", "いゝえ、ところが、好きなことなんぞなんにもできませんわ、今までみたいな風ですと……。自分で、なにがしたいのか、それさへはつきりわからないつていふのが、正直なところ、一番情けなうございますわ。あたくしやつぱり、移民の娘らしく、珈琲畑を馬車で乗り廻すのが一番しつくりするつていふことがわかりましたの" ], [ "ねえ、僕だけにほんとを云ひたまへ。この会社にゐにくゝなつたのは、あの専務の高野先生がござるからだらう。え? ちがふかい?", "専務さんがつて、どうしてでございますの?", "いや、その、どうしてかは君の胸にあるわけだ。僕は是非聴かなくてもいゝが、聴いても喋るやうなことは決してせん。今度の旅行で、君は懲りるやうな目に会つたんぢやらう?" ], [ "折角でございますけれども、あたくし、さういふ風なことにはまつたく興味ございませんわ。それより、社長こそ、お金儲けはいゝ加減にあそばして、移民事業にひと肌おぬぎになりません?", "うむ、それやほんとだね。もう少し纏つた金でも出来たらさうするよ。今だつて、君、土地会社つていふもんは、半分は道楽だよ。泰平郷を見給へ、最近の景気は、これやどうかしとるが、もともと、算盤に合ふ仕事ぢやないんだ", "あんなことおつしやつて……。あれは、時代の要求に投じた名プランでございますわ。みすみす会社に儲けさせるんだといふことがわかつてゐながら、あゝいふ条件でなければ別荘が建たないといふ階級の弱味につけ込んだ、ほんとに憎らしいやり方ですのに、やつぱり、それで満足し、生活に何か豊かさと弾みみたいなもんを与へられてゐる人達の幸福を考へますと、あたくし、商売つていふものはやつぱりこれでいゝのか知らと、ついへんな気持になつてしまひますの……" ], [ "なるほど、活動家か。謙遜なしに云へば、それに違ひないが、その活動家なるものにとつて、なにか一番必要だと思ふね?", "それや、お仕事以外にございますまい", "うむ、仕事自体面白いには面白いが、しかし、それ以外にわき目もふらんといふのは、ちと、人間ばなれがしとる。僕のこれや持論だがね、活動家の最後の目標は、天下の美女をわが物にするといふことだ。俗に英雄なんとやらと云ふが、英雄などといふもんは、これ活動家に毛の生えたやうなもんでね。ところで、僕も、これまで、金で自由になる女はいくたりとなくそばへ置いてみた。が、どうも、さういふ女の頭の貧弱さには、我慢がならんのでね。なんとか、僕も、まだ活動力の旺盛なうちにだ、才色兼備といふ女性の知遇を得たいと念じとるわけだ。君は決して、金力や権力に屈するやうなひとではないと見込をつけて、敢て僕の希望を申出るんだが、どうだらう、完全に自由な立場でだな、僕と特別な交際を結んでくれる気はないかしらん?" ], [ "僕は君になんにも義務を負はしやせん。たゞ、会ひたい時に会へればそれでよろしい。新京に君の気に入つた家を一軒建てよう。東京へ遊びに来たければ、飛行機でその日に来られるからね。無条件で月千円の生活費を出さう。まあ、ひとつ考へておいてくれたまへ。だが、この会社をやめるといふことは、これや、専務にも正式に云つとくといゝな", "はあ、それはいづれ……では、只今のお話は伺つとくだけでよろしいんでございませう?" ], [ "えゝ、でも、朝になつて霽れるかもしれませんわ。あたくしはどうせお昼の汽車ですから、ともかく一旦、こちらへ寄つてみますわ。駅へはどなたが行つてくださるの?", "僕がずつと向うまで行くことになつてるんですか、日帰りは辛いですよ。一泊つていふことにして貰へないかなあ" ], [ "ふむ、それで、その人にくつついて行かうつていふわけか、君が?", "いゝえ、その人はもう隠居ですわ。息子がもう一人前になつたものですから、今度お嫁を探しかたがた郷里へ帰つて来たつていふわけなんですの" ], [ "おひとつ、お酌いたしませう", "や、や、これやどうも……" ], [ "そんなことは君の考へ過しだよ。どうして君が日本の女でないと云へる? 僕に云はせれば、君こそ日本の女ぢやないか。淑やかとか控へ目とか、世間ではそれだけを日本女性の美点のやうに云ふが、なあに、それも程度があつてね、君のやうにずばずば物を云つたつて、男を男と思はなくつたつて、そこに云ふに云はれん艶と品とがあればだ、これやもう、君……", "あら、そんなよろこばせをおつしやつても駄目ですわ。男の方のおつしやることは、きまつてるから、あたくしつまりませんの。でも、さういふ風にはつきりおつしやるところは、やつぱり、さすがだと思ひますわ。今の若い人は、それをもぢもぢ云ふんですの、云へば損みたいに……", "どうも気むづかしいんだね、君は……。ぢや、僕みたいな風に若いのが云へば気に入るつていふわけか?", "それぢやまた、うま味がありませんわ" ], [ "あたくしの父が今生きてゐれば、丁度七十二ですかしら? 今度帰つて来た友達つて申しますのが六十五で……。社長は、失礼ですけれども、おいくつでいらつしやいましたつけ?", "え? 僕?" ], [ "うむ、まあ、そんなとこかな。だが、さう見えんでせう?", "ほんとに、女もさうですけれども、人間の年の取り方つて不思議なものですわ。ある面では年相当に老けてゐながら、ある面だけその割りでないつていふやうなことがございますのね。逆にまた、こんなに若いくせに、どうしてそんな年寄じみた考へ方をするのかと思ふやうな、さういふひともゐますし、……社長は、どちらかと云へば、平均にお年を召していらつしやるから、ごく自然な落ちついた感じで、なにか安心できますわ。さういふ方、でも、少うございませう、近頃は……。あたくしさう思ひますわ" ], [ "どうしたんだ、いやに、黙り込んぢまつたね。僕はそんなつもりで云つたんぢやないよ。伯爵はそれや、君には参つてた、たしかに……。だが、一方で奥方といふもんも、これや、先生にとつては……", "もう、わかりましたわ" ], [ "あゝ、上の娘二人はとつくに嫁づいて、孫も両方で五人ゐる。その下が男で、これや出来物ぢやが、今、兵隊に行つとるんだよ", "その方はまだお一人でいらつしやいますの?", "うむ、ぼつぼつ相手を探してと思つとるうちに、召集が来てね。帰つて来るまでには適当なのを物色しといてやらうと思つとるが……", "ほんとに、いろいろとお大変ですのね" ], [ "えゝ、あたしはもう、是非行きたいと思つてるの。今、室井さんと県の移民協会へ問ひ合せを出してあるんだけれど、女はお嫁さんの資格でないと、はひれないつていふやうな規則がありやしないかと思つて……", "それかて、あたしがついて行けばえゝやろ", "それや、いゝわ" ], [ "室井さんのお話ぢや、今度小学校もできるし、購買組合だとか、共同宿泊所なんかをこさへるのに、女手がどうしてもいるんですつて……。あたしが一と足先へ行つて、その都合で母さんをお呼びするわ。ね、いゝでせう?", "あほらし、あたしはもうあの土地には馴れてるし、知合ひも多いさかい、いきなり行つたかて困ることあらへん", "それやさうだけど、母さんはなにも、今急にあんな不自由なところへ、いらつしやる必要ないぢやないの。あたしがちやんとお膳ごしらへをして、これでいゝつていふところで来ていただくわ" ], [ "あら、そんなでもないわ。簡次郎兄さんがこんだは暴君ぶりを発揮するから……", "あ、あいつ、たまには家にゐるのかい?", "えゝ、前とすつかりあべこべよ。勉強してらしつてよ" ], [ "友達で誰か訪ねて来た奴ないかい? 殆どまだ知らせを出してないから……", "えゝ、いらしつた方あるわ。安藤さんも一度いらしつたわ。田舎へ行くつていふだけで、何処とは云はないから訊きに来たつておつしやつて……。お教へしちやいけなかつたかしら?", "別にいけなくもないが、何時頃のことだい、それや?", "さあ、兄さまがお発ちになつてから間もなくよ" ], [ "なんですか、お手紙を差上げようなんて申してをりましたわ。きつとよろこびますわ。でも、ずゐぶん思ひ切つたところへおいでになりましたのね", "そんな大へんなところぢやありませんよ。山あり海あり、温泉あり、おまけに世間はうるさくなく、月給は安いですが、ひと足外へ出れば研究材料がころがつてるんですから、僕としては申し分ないんです", "そんなら、まあ、ちよつとお茶でも……", "いや、また出直して来ます。まだ一週間はこつちにゐますから……", "でも、折角いらしつていただいて……。今日は学校の方は三時に退けますんですよ。どうしたんでせう。せんはこんなことございませんでしたのに、近頃は、ちよくちよく黙つてほかへ廻ることがございますのよ。いちいち呼出し電話なんか掛けられるかつて、それやまあさうですけれど……", "安藤君がわざわざ家へ向うの処を訊きに来てくれたつていふんで、僕、ことによつたら先生に怒られるんぢやないかと思つて……", "まあ、どうしてでせう?" ], [ "あんたは、なんておつしやるね?", "僕、幾島つていひます。おタキさん、おツルさん、それから、以前ゐた秘書の斎木さん、みんな識つてゐますよ", "ふむ。奥方は?", "奥方は知らない" ], [ "えゝ、なんにも用ぢやありません。たゞ、かうして邸のなかを見せてもらへばいゝんです。この建物は相当古いんでせうね", "先々代がイギリスの技師に設計させられたもんだからね。その時代のもんは、東京にもさういくつも残つとらんよ", "あゝ、さうですか。今、さうすると、空いてるわけですね?" ], [ "やつぱり、お病気がいけなかつたんですね", "いや、さうなら仕方がないが、懐剣で、見事にご自害だ", "えツ?" ], [ "どうしてです?", "明日の朝刊にもう出るだらうが、やはり、その、なんぢやな、殿様の後を追はれたといふことになる。あんたは新聞社の仁ぢやあるまいね?", "いゝえ、さうぢやありません。へえ、それが昨日の朝ですか。奥方はどんな方なんですか?", "そんなことまで、わしはお喋りはできんよ。さ、誰か来るといかんから、帰つておくんなさい" ], [ "幾島ですよ。いつかはご厄介になりました。今日は偶然、ご不幸があつたことを聞いたもんだから、お悔みに伺ひました", "ちよつとお待ちくださいませ" ], [ "なんですか?", "実は、あたくし、この春から、奥方のお付を仰せつかりましたんですが、つい四五日前、突然あたくしに、斎木さまのことをお訊ねになり、誰にも知らせずに、これをすぐあの方のところへお届けするやうにつて、小さな包みをあたくしにお手渡しになりました。それであたくし、変だとは思ひながら、お処がわかつてをりましたから、早速、持つて伺ひましたんですの。生憎、お留守で、お母さまとおつしやる方にお預けして参りましたんですが、それからすぐあとで、かういふことが起りましたもんですから、あたくし、なんですか気がかりで、まだどなたにもそのことは申しあげてございませんのです。今度のことも多分、斎木さまにはご通知はしてないとぞんじますんですが、いかゞなもんでございませう? ほかにご相談申しあげる方もないもんでございますから、あゝしてお山で、斎木さまともお近づきにおなり遊ばしたご縁もおありなさいますし、あたくしの立場もおわかりくださいませうとぞんじまして、ほんとにぶしつけでございますけれども、あたくしとして、どうしたらよろしうございませうか、お智恵を拝借さしていたゞけませんでせうか?" ], [ "いつ頃お帰りになるかわかりませんか", "さあ今度は一週間ぐらゐかゝるとか申してをりましたが……もうかれこれさうなりますよつて……" ], [ "えツ、あの奥方が……それやいつのことですやろ?", "昨日の朝ださうです。なんでも、自殺だといふことです" ], [ "それでしたら、あの娘にも早う知らせんなりませんわ。四五日前でしたか、突然、奥方からのお使ひやいうて、女中さんがわざわざ、こまい品物の包みを届けておくれましたんです。なにやろおもて、まだそのまゝにしてますのやが、これや困つたことになつた", "いや、おくれたからどうつていふこともないでせうが、お帰りの日取がおわかりにならなければ、僕、明日、山へ持つて行つてさしあげませうか? 久しぶりであつちの様子も見ておきたいと思ひますから……", "ほんまにご迷惑やなかつたら、さうしていただきましよか?" ], [ "百姓もでけん女に、なにもすることあらしまへんな。知合ひのところへでもころがりこんで、台所の邪魔するのが関の山ですわ。わたしどもの苦労を、あの娘らはひとつも知れしまへんよつてな", "しかし、そんなことぐらゐ考へてるでせう。僕はなるほど素子さんの空想しさうなことだと思ひますね。それや面白いな。素子さんに必要なのは、新しい生活の空気ですからね", "それやもう、空気は、このへんと違うて、飛切りよろしいわ" ], [ "さういふわけで、幾島家といふのは、関東ではもういく軒も残つちやゐまい。本家の断絶が、今云つたやうに、元禄二年……幾島姓を名乗つてから十八代目で表向き家名を襲ふものがないといふことになつたんだが、それやつまり、公儀への申訳で、十六代政右衛門さんの末子が一人、津軽へ養子に行つて、当時医者をやつてた。この人が元禄四年だつたかな、江戸へ出て、その……", "お母さん、僕の床は敷かないでおいてください。十一時の汽車で、ちよつと高崎へ行つてきますから……" ], [ "暑いとは贅沢だな、え、東京がそんなに暑いか?", "東京がといふわけぢやないんですよ。たゞ、山のことを考へたら、かうしてるのが『暑いなあ』と思つただけです。どうでせう、昔と今と、東京はどつちが暑いですか? 僕は、子供の時分から比べると、今の方が暑いやうな気がしますね", "そんなことは寒暖計の度を比べてみれやわかるぢやないか。昔は、挨拶以外に、暑いとか寒いとかは滅多に云はなかつたよ。そんなことを、今のやつらみたいに、いちいち気にしなかつたんだ。簡次郎のやつまで、夏になると、やれ山へ行く、海へ行くで、小遣をせびりやがるが、ひとつ、今年は台湾へでも行けつて云つてやらう", "それやいゝでせう" ], [ "早く起してすまなかつたが、なにしろ、腹がペコペコなんだ。冷飯でもなんでもいゝ。あるのかないのか、どつちなんだ?", "…………" ], [ "おい、面倒なら面倒だとはつきり云つてくれよ。もうちつと我慢して歩くから……", "さあ、なんにもねえだでねえ", "あゝ、なんにもいらんよ", "飯をこれから炊かにやならんで……", "それくらゐ待つとも", "なにしろ、バスの来んことにやマツチがへえ一本も……" ], [ "やあ、幾島さんぢやありませんか? お珍しいですなあ", "珍しいでせう? 高崎から夜行軍ですよ。朝飯を食はしてください", "へえ、これや驚いた。泰平郷開闢以来、あそこから歩いたのは、あなたがはじめてでせう。さて、その朝飯ですが、わしどものとこのはお口に合ひますまい。それより、ひとつ、倶楽部の食堂はどうです?", "そんなものができたんですか?", "なるほど、あなたはまだご存じない。実は立花伯爵の別荘ですな、あいつを、会社が今度買ひ取つて、お客さんのサーヴイス用に使つてゐるわけです。ほれ、伯爵の秘書の斎木さん、あの別嬪さんがうちの社員の資格で、この倶楽部のマネージメントをやつてゐますがね。これがどうして、大当りですよ。まあ、行つてごらんなさい。下手なホテルなんかかなひませんぜ" ], [ "それにですな、わしも現場を見て来ましたが、これやちよつと素人には、見当がつかんです。あなたはまあ、どういふところから見てさう云はれたか知りませんが、その青年は一晩あの水の浸み出してゐるところに耳を当てゝですな、地の中の音を聞いてをつたといふんです。さう深くないところに、きつと大きな水脈があると云つて、これはもう、頑として動かんのですよ。しかし、あそこはあの通りの岩山でして、やはり爆破でないとどうにもならんでせう。ところが、その爆破で、この前一人怪我人を出したもんですから、警察でなかなか許可をしてくれんです", "怪我人が? そいつはあぶないな。事務所の人ですか?", "いや、例の黒岩万五ですよ。背中と頭をやられましてね、奇蹟的に軽くてすんだですが……", "水は出ないでね", "はじめはえらく噴き出しましたよ。場所は中宿の平ですがね。それがあんた、どういふもんか、だんだんに勢ひがなくなりましてね", "ふむ、果してその青年の云ふ場所が僕の目をつけたところかどうかわからないけれども、若しさうだとすれや、いろんな点からみて、やつぱり有望なんぢやないかな。もちろん、僕にや水の音なんか聞えやしなかつたが、まあ、直感みたいなもんですよ。僕もお願ひするから、一度専門家に調べて貰ひませうよ", "斎木さんにもそのことをお話しましたらね、あの幾島さんに水源のことなんぞわかる筈ないつて、笑つておいででしたよ", "笑ふのは勝手だけれども、自分でなんにもしないのはなほいけないさ。こゝの別荘に来てる人で、さういふことのわかる人ないかしら?", "あ、さう云へばたしか、六条通の野口さんが、ボーリングの会社へお勤めだつたと思ひます", "そら、そら、さういふ人物を利用しなくつちや駄目ですよ。今来てますか?", "今夜おいでになりませう、土曜ですから……" ], [ "はい、ゐなさいます。まだやすんでのやうだが……", "そんならあとでいゝんだ。とにかく腹が空いてるから飯を食はしてもらはうと思つて……" ], [ "不意に来て、食事できるの?", "別荘の方ですか?" ], [ "いや、別荘のものぢやないが、事務所から来たんだ。朝飯はどういふことになつてるの?", "土地を見にいらしつたんですか?", "いや、さういふわけでもない。どうして?", "土地を見にいらつしつた方は、食事のお代はいただかないことになつてゐます", "僕は、たゞ遊びに来たんだから金は払ふよ", "和食の定食が三十銭、パン牛乳なら二十五銭です", "ふむ。どつちでも早く出来る方をくれ" ], [ "こゝは泊れるやうになつてるんだね?", "はい。本社の紹介か事務所の伝票があればお泊めします" ], [ "今、いくたりぐらゐ泊つてるの?", "昨夜は十六人です。もうお部屋がないんです", "ほう、十六人で満員か。今夜はあかないかな?", "さあ、あとで事務所の方へ訊いてみますわ", "うん。僕も斎木さんに相談してみよう。斎木さんは支配人だらう?", "支配人つていふのかどうか知りませんけど……。斎木さんがいゝつておつしやれば、事務所で伝票を出しますわ", "さうか。君たちは斎木さんの指導を受けてるわけだらう? なかなかしつかりしたもんだね。まるで兵隊さんだ" ], [ "味噌汁のお代りはできるの?", "えゝ、よろしければ……", "ぢや、頼む" ], [ "あのひと、君、識らないかな。なんて云つたつけ、ほら、君ぐらゐの年のひとで、小峯喬君の従妹だとかいふ……?", "セツちやんですか?", "あゝ、さうだ、セツちやん……あのひとどうしてる?", "今月、お嫁に行きますわ" ], [ "そんなものがはひつてたんですか? あなたのことをそんなに考へてたのかなあ。むろん非常に好意をもつてゐたことになりますね。こいつはどうも複雑で、僕にやわからないや。とにかくお葬式に間に合ふやうにあなたは東京へ帰るでせう?", "さあ、どうしたもんかしら? 別にその必要ないと思ふけど……。あとでお墓詣りでもした方が気がすむわ。それに、今日はどうしても手がはなせないの。昼から自治委員会つていふのがこゝであるのよ。社長代理であたし顔を出さなけれやならないし、――今晩までに契約を取る筈になつてるお客さんもあるし……", "忙しいんだなあ。ぢや、ゆつくり話なんかしてる暇ありませんね", "うゝん、今、土地を見るお客さんを事務所へ送り出してしまひさへすれば、お昼まで暇なの。今夜は部屋があくわ。泊つてらつしやつてもいゝのよ", "まる一年か。ずゐぶんいろんなことがあつたなあ" ], [ "で、あなたのパラグアイ行き、どの程度にきまつてるんです、いつたい", "どの程度つて……方法を研究中なの。手続きが面倒なんですもの", "実現不可能つていふおそれはないんですか?", "名目さへ作ればいゝんだから……", "例へば?", "例へば、向うにゐる誰かのお嫁さんになるつていふんなら、簡単だわ", "ただ名目だけですか?", "だつて、ほんとに当てがなければ、しかたがないぢやないの", "なるほど、さういふことができるんなら、わけないですね。名義を貸してくれる人はゐるんでせう?", "それやゐると思ふわ、独身の男なら誰でもいゝんだし、向うへ行つたら、どうもありがたうですむんだから……", "面白いなあ、そいつは……。あなたを見て、名義だけぢやいやだつて云ひだしますよ。そしたら、どうします?", "そしたら、また相談に乗つてもいゝわ。それよりも、あなた、パラグアイつて、どんなところかご存じ? ブラジルよりも気候がよくつて、暮しは楽だし、移民の天国つて云はれてるところよ。野生の蜜柑がどこにでもあるんですつてね。それから、女がうようよしてるんですつて。むろん土人の女だけど、これがスペインの血が交つた美人ぞろひで、日本の男をしよつちゆう追ひまはすんですつて。だから、息子がお嫁をほしがらないで、親たちは困るつていふ話があるの。ほんとかしらと思ふわ。あ、ちよつと失礼……事務所からお客さまを迎ひに来たやうだわ" ], [ "どうしてつて、そんなこと別に考へてもみないけど……かうしててもつまらないから……", "パラグアイつていふところは、そんなにあなたの性に合つてると思ひますか?", "だつて、さう思つて行けばいゝんぢやない? だんだんいろんなものを失くしていくばかりですもの、かうして日本なんかにゐると……", "そんなら、何処へ行つたつておんなじですよ。あなたは、何を得たいつていふんだらう? 何があなたにとつて一番大事なんです? 余計なことかも知れないが、僕の友情が、あなたに訊くんですよ", "それや、わかつててよ" ], [ "考へるつたつて、具体的なことは、当事者でなくつちやわからないから……。さうすると、例の小峯なんていふ連中がたうとう自治委員会に働きかけたわけですね?", "あなたの示唆でよ", "うん、それやそんなこともあるでせうが、いつたいその自治委員会のメンバーのなかに、さういふ問題を真剣にとりあげる人間がゐるんですかねえ?", "えゝ真剣だかどうだか、とにかく、この春東京で委員の二三人が集まつて、そのことを話題にはしたらしいわ。結局、地元の人たちは、それでもつて会社を牽制しようとしてるんでせう。あなたの理想主義が政治的に利用されたかたちだわ", "僕の理想主義つて、なんです? 僕ははじめから政治的な意味でその方法を勧めたんですよ。水源問題の解決には、新しく別の水源を見つけるか、別荘に住んでる連中の道徳的関心にうつたへるか、それ以外に彼等の執るべき平和手段はないとみたからです", "会社では今、地元の青年たちと協力して別の水源を探してますわ", "その話は聞きました。ところが、僕の想像だけれども、それは単なる会社の巧妙な策略にすぎないんぢやありませんか? 当てのない希望をもたせて、解決をできるだけ遷延させてゐるといふ印象を受けますね", "あら、どうして?", "だつて、さうでせう? いよいよ水源を探さうつていふのに、素人ばかりで山をほつつき歩いて何がわかります。懸賞付だつていふことも聞きましたが、そこが怪しいもんだ。一度や二度、怪我人の出るやうなまづい爆破作業をしてみて、それでお茶を濁してるぢやありませんか。さつき粕谷君の話だと、僕が有望だと思つて黒岩万五に話しておいた場所を、また誰か地元の青年がこゝならといふんで、非常な自信をもつて申出て来たさうですよ。僕のことなんか愚図々々持ちだすことはないと思ふんだ。さつさと試掘してみたらいゝんです。言を左右に託して、未だに実行してない。これで誠意があると云へますか?" ], [ "さうよ、あたしが来ないと、事務所ではほつたらかしにしてるんですもの", "会社がさういふ風に命じてるからですよ", "さあ、そこまではどうかと思ふけど……" ], [ "明日にすればよかつたですなあ。もう少し出席率がよかつたでせう", "いや、日曜は絶対にいかんですよ。折角、一日だけ骨休めに来た連中が、かういふ会に引つぱり出されちや、元も子もないですからな", "あなたはこちらへはもう何年……?", "わたしは第一期ですからして、つまり最初の年からです。もう五年、いや、今年で六年目です。みんな丈夫になりました、家内も子供も……", "さうでせう、まつたく、類のない健康地ですなあ。わたしもお蔭で、三年続けて来てゐるうちに、長年の胃病がすつかりよくなりました。それに、冬、風邪を引かんことは不思議です", "さやう、さやう……この紫外線といふやつが……" ], [ "さやうでございます。只今は関係ございません", "さあ、始めませう" ], [ "われわれはいつたい、こゝへ何しに来てゐるのかといふと、休養に来てゐるんです。休養といふのにもいろんな意味がある。まづ仕事から逃れ、刺戟から逃れ、殊に、他人との接触から逃れたい。一口に云へば、なにもしたくないために来るんです。お互の間に問題があればこれやしかたがない。かうして集つて相談もしなけれやなりますまいが、わざわざ規則を設けて、あれもしちやいかん、これもしちやならんといふのは、私は絶対に不賛成である。また、言ふべくして行はれない。少しばかりお互が嗜みをよくしてみたところで、人間同士の感情の融和などといふものはうまく行くもんぢやない。境遇の相違が反感嫉妬、軽侮憎悪を生むのは当り前です。こゝにゐるお互だつて腹の中ぢやなにを考へてるかわかりやしません。それでいゝんです。さつきもお話がありましたが、われわれはこの分譲地を月賦で買つてゐる。会社はそれで儲けてゐる。儲けすぎてゐるかも知れない。ところが、それでも、考へやうによつては、大いに会社を徳とすることもできる。……", "はゝゝゝ。いやまあ、それは別の話だ。ご意見として伺つておきませう" ], [ "君からひとつ、なにか気のついたことを云つてくれたまへ。地元の空気といふやうなものは君が一番よく知つてるわけだから……。わたしのところへ寄越した彼等の連名の手紙といふものは、これや非常に穏かならんもんだつたが……", "いえ、私から別に、なにも申上げることはございませんが、あまり奴らを甘やかしてご機嫌をとるやうなことになりましてもどうかと思ひますんで……。現に、只今新たな水源をみつけるために、会社から懸賞を出すことにしてをりますが、これなども、明かに会社の譲歩とみて奴らは気勢をあげてをるです" ], [ "いやつていふ法ないわ。ご自分の考へをぢつとしまつておおきになつて、どうなさるの? そのためになんべんも地元の青年たちとお会ひになつたんでせう? その結果、あなたが会社に対して忠告をなすつたやうに、別荘の人たちにも、第三者としておつしやりたいことがきつとあると思ふの", "だつて、そんなことは僕から云ふべきぢやない。別荘の人たちが自発的に考へるべきことです", "考へる人がゐなかつたら?", "事が面倒になれば考へるでせう", "事を面倒にしないためにはどうすればいゝの?", "知りません。僕一人でなにができます?", "一人ではなにもできません。しかし、誰かがはじめなければならないのです……" ], [ "人、各々畑あり、です", "道はすべての人のためについてゐるんですわ" ], [ "あなたは大へんお強いやうですが、競争と摩擦との違ひをご承知でせうか? 云ふまでもなく競争は互に伸び、摩擦は共に滅びるのです", "そんな摩擦がどこにあるといふんです。われわれとこの土地の人との間に? 第一、接触する面なんていふものは殆どない。若しあるとすれば、すべて金銭的に解決できる。ないものがあるものを妬むといふ現象を、あなたは避け得られる摩擦と考へられるのか?" ], [ "あれだけおつしやれば気がおすみになつたでせう? 別に決議はしなかつたけれど、通じるものには通じてるわ", "………", "どうして、そんなこはい顔してらつしやるの? 不意にお起ししたから?" ], [ "どうでした?", "今夜九時に着かれるさうです。しかし、近藤さんにお願ひするのはかまひませんが、本格的な水源踏査つていふことになると、これや一日仕事ですぜ。お気の毒ですなあ", "あたしがお願ひに行くわ。なんなら、正式の依頼つていふことにして、相当のお礼をしませうよ。今度こそ徹底的にやらなくつちや……" ], [ "僕ともう一人、例の土地の青年でせう? そいつはありがたい。……しかし、僕は棄権しますよ。そんなもの、をかしいや", "あ痛ツ! この靴ぢや歩きにくいわ。あなたつてへんな方ね。なんでも一度はごねてみるのね" ], [ "ごねるか、あなたが云ふからなんのことかと思つた。さうさう、このへんを歩いたなあ、去年の冬は……。木の葉があるのとないのとぢや、こんなに違ふかなあ", "お化粧をしてるのとしてないのとの違ひだわ", "ところが、僕は、その冬景色つていふやつが、なかなか好きですね。あなたはお化粧の価値を重く見すぎてますよ", "あなたに女のお化粧のことなんかわかつて?", "それやわからないけど、あなたはとにかく目立ちすぎるんだ。僕に云はせると、あなたがそこにゐるつていふ、それ以上のものを、いつでもあなたはからだにくつつけてますよ", "待つてちやうだい、考へるから……" ], [ "いや、珍しい『こもちしだ』があるから、標本に持つて帰らうと思つたんだけれど……", "どれ? 教へて" ], [ "およしなさい、あぶないから。無理に採らなくつたつていゝんです。またどつかにありますよ", "でも、珍しいものなんでせう?", "あゝいふ風な標本があると便利だつていふだけなんです" ], [ "ありがたう、素子さん……。あの羊歯はいろんな意味で記念になります", "ほかの誰にもとらせたくなかつたのに……", "今日は、僕は、自分の力が倍になつたやうに思ひます。いや、三倍かな……", "三倍つて?", "僕の手が一本、あなたの手が二本……", "そんな戯談はいや……" ] ]
底本:「岸田國士全集14」岩波書店    1991(平成3)年4月8日発行 底本の親本:「泉」三学書房    1943(昭和18)年8月25日発行 初出:「東京朝日新聞、大阪朝日新聞」    1939(昭和14)年10月7日~1940(昭和15)年3月11日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2012年8月7日作成 2012年11月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "そんなものはいらん", "いるかいらないかを聞いてるんではない" ] ]
底本:「岸田國士全集19」岩波書店    1989(平成元)年12月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 初出:「都新聞」    1924(大正13)年4月20日、22日発行 入力:tatsuki 校正:Juki 2005年11月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "お前はさつき眠つていたのか?", "いゝえ", "自分がはいつて行つたことは知つていたのだろう", "知つていました", "どうしてすぐに起きないんだ", "生徒監殿がはいつて来られるから起きていたような風をするということは偽善的な行為だと思います。それまで寝ていたなら、やつぱり寝ていて……" ] ]
底本:「岸田國士全集27」岩波書店    1991(平成3)年12月9日発行 底本の親本:「知識人 第二巻第一号」    1949(昭和24)年1月1日 初出:「知識人 第二巻第一号」    1949(昭和24)年1月1日 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2010年7月1日作成 2011年5月30日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044754", "作品名": "いわゆる「反省」は我々を救うか", "作品名読み": "いわゆる「はんせい」はわれわれをすくうか", "ソート用読み": "いわゆるはんせいはわれわれをすくうか", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「知識人 第二巻第一号」1949(昭和24)年1月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-07-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44754.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集27", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年12月9日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年12月9日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年12月9日", "底本の親本名1": "知識人 第二巻第一号", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "1949(昭和24)年1月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44754_txt_39622.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44754_39641.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "本をお読みになれば、何かお貸しゝませうか", "小説? あたし小説は嫌ひですの" ] ]
底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 初出:「女性 第八巻第一号」    1925(大正14)年7月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年9月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "律動が自らの不変のいはば機械的な歩みをあくまで肯定しつつ、しかもその事物の在り方に従つて表現し得た時には、あだかも不変の自然がわれわれの自由意志を肯定せる時の如く、その一致から宗教的な偉大さをもつ効果が生じて来る。これこそ詩の本格的秘訣である。", "脚韻(詩の)は意味に屈従すべきでなく、また意味は脚韻に屈従すべきでないことを知るのである。しかも美しい脚韻と美しい意味との応和が喜びを与へる。反対に苦労のあとが感じられるか、又は恩恵を請ひ求めるやうなものは、すべて醜悪である。", "雄弁の特色は時間の法則の下に思考するといふことである。ここに於ては、一つの発展は他の発展を消して行くことを忘れてはならない。演説は聴官によつて幻覚されるものだからである。", "演説的語句の構造は方向を含められてをり、誘ひゆくものであるに対し、散文の構造は注意力を分散させ、拡大させながら、しかも常にそれをしつかと把持することを忘れない。このことによつて、散文と雄弁との間には、推論と判断との間に於けると同様の相違が存することが解るのである。" ], [ "演劇は決して日常生活から拾ひ集めた感動的な、又は愉快な会話から作られるものでないことを、明かにしなければならない。", "これは、舞踊、音楽、建築、デッサンがさうであるやうに、自己本来の方法及び条件に従つて発展するものである。", "独白が行はれ、聴き役が現はれるといつたやうな、場所についての、つまり規則通りに行はれる邂逅に関するさまざまの約束は、決して勝手気儘なものではなく、正に反対に演劇の形式そのものに属するものであることは明白である。演劇精神がそれを課するのである。", "すべて言葉を使用する芸術に於て、言葉の質料、即ち騒音、擦音、咿軋音などの支配力が大きくなれば、それだけ表親は貧弱になる。演劇も亦一つの言語なのである。", "私は対話について語らねばならない。これはドラマの主要なる、しかも亦最も明瞭な方法である。", "劇作家は、対話、独白、及び呼び返し得ない時の歩み以外の方法を有たない。", "時の歩みが事物に価値あらしめるのである。フィガロの結婚の最後のフィガロの長台詞にしても同様である。フィガロをしてハムレットと共に不朽ならしめるこの台詞は、演劇的躍動の完璧の範例として、あらゆる雄弁に優るものであるが、しかも雄弁とは別の方法によつてゐる。ドラマを支へるために、人物の性格や思想に頼ることが如何に誤つてゐるかが理解されたであらう。それは画家が画題によつて人を喜ばさんとするのと同じ謬ちである。実際はその反対にその画題はその描線によつて喜ばすのでなければならない。同様に演劇に於ては、思想は状況と動きによつて人の心を持つのでなければならない。何ごとかを証明せんとするドラマほど世に冷いものはないのは、この故である。", "詩がドラマのうちにおいて容易に発展し得ることは、シェイクスピヤの洞察した通りである。その舞台装置の見すぼらしさや場面の移り変りが大目に見られるのは、この鋭い詩の力によつてであり、第一、時の法則さへ尊重されてゐれば、そんなものは眼につかない筈である。しかしまた同一理由によつて、場面はいつも同一の特長のないものであつてもよく、また舞台に全く動作が欠けてゐてもかまはないことにもなるわけである。対話によるドラマの展開と、常に感じられる時の歩みが、全世界の附随し来るべきことを十分に保証するのだ。", "身振りはどうかといふに、これは自ら言葉に従ふものである。", "身振りや態度に変化を与へようとする幼稚な苦心ほど、まことに演劇の言葉から遠いものはない。", "演劇の所作は時の法則に従ひ、その真実が表現されるのは継起のうちにおいてであつて、個々の部分においてではない。", "拙劣な演劇に於いては、窮極に於ける道徳の勝利によつて、文体の欠如が救はれてゐるといふことさへできよう。" ] ]
底本:「岸田國士全集22」岩波書店    1990(平成2)年10月8日発行 底本の親本:「現代演劇論」白水社    1936(昭和11)年11月20日発行 初出:「新潮 第三十二年第三号」    1935(昭和10)年3月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044521", "作品名": "演劇論の一方向", "作品名読み": "えんげきろんのいちほうこう", "ソート用読み": "えんけきろんのいちほうこう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新潮 第三十二年第三号」1935(昭和10)年3月1日", "分類番号": "NDC 770", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-11-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44521.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集22", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年10月8日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年10月8日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年10月8日", "底本の親本名1": "現代演劇論", "底本の親本出版社名1": "白水社", "底本の親本初版発行年1": "1936(昭和11)年11月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44521_ruby_36613.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44521_36706.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "……私は、此の牢屋のやうな暗い処で蠢いてゐる人間のために一つの窓を明けて、人間の貴さを見せてやる、それが芸術家の仕事ではないかと思つてゐる。真暗な牢屋の壁に一つの穴をあけて、明るい世の中を見せる。そこでは人間が獣でもなければ、神様でもない、人間は人間であつて同時に超人である。私はそれを見せて貰ひたい", "私の標準は甚だ狭いかも知れない。人道主義的だと云はれるかも知れない。けれども、若し劇といふものが、単に芸術家の為めにのみ存在するものでなく好事家の為めにのみ存在するものでなく、一般公衆のために存在するものであつて、一般公衆の意志に力を与へ感情を浄化するのが目的であるとしたならば、さういふ脚本でなければ価値はないと思ふ" ] ]
底本:「岸田國士全集19」岩波書店    1989(平成元)年12月8日発行 底本の親本:「演劇新潮 第一年第十号」    1924(大正13)年10月1日発行 初出:「演劇新潮 第一年第十号」    1924(大正13)年10月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044319", "作品名": "小山内君の戯曲論", "作品名読み": "おさないくんのぎきょくろん", "ソート用読み": "おさないくんのききよくろん", "副題": "――実は芸術論――", "副題読み": "――じつはげいじゅつろん――", "原題": "", "初出": "「演劇新潮 第一年第十号」1924(大正13)年10月1日", "分類番号": "NDC 775", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-10-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44319.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集19", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年12月8日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "底本の親本名1": "演劇新潮 第一年第十号", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "1924(大正13)年10月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44319_ruby_36561.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44319_36654.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "すぐ教へてね、叔母さま……。いやだわ、いろんな人が顔を突き出して……", "ああ、お待ちなさいつてば……。あたしだつて間違ふかも知れないよ" ], [ "ふむ……キスしてもいいかい?", "ええ" ], [ "おや、変だぜ、さつきは、さうでもなかつたやうだが……", "いいえ、よく見るとよ……それや、お髭なんか前とはすつかり……", "写真は送らなかつたかね", "パパは、何時でも小さく写つてるんですもの……景色ばつかり大きくつて……" ], [ "ええと、女学校の四年だつたね。どうも忘れつぽくなつて困るが、何を訊かうと思つてたんだつけな……。ああ、いろんなことが訊きたいよ。今日は、お祖母さんは風邪でも引いたのかい?", "ええ" ], [ "大したことぢやないらしいんですけど、さつきお出かけになる支度最中に、なんでも、眩暈がなすつて……", "眩暈? 危いぞ、それや……。医者は呼んだんだね!", "加治先生がすぐ来て下すつたわ……", "へえ、あの先生、まだ生きてるか", "大丈夫でせう、脳貧血よ、きつと……" ], [ "東京も変つたな。しかし、震災前より、好いとは云へないね", "早速悪口ね……。どんなところがお気に召さないの?" ], [ "いや、東京ばかりぢやない。何処も、都会といふ都会は近頃台なしだ。しかし、これは少しひどいよ。統一がなさすぎる", "新しいものに興味がおありにならないんだから、それや駄目よ" ], [ "もう少し早く帰つてくれたら……。先生、ひと目だけ……", "いけません、奥さん、そんな元気のないことぢや……" ], [ "あら、家ん中が、どう滅茶苦茶なの?", "いろんなものが、もう少し残つてると思つてたんだよ。おれも遣ふには遣つたが、こんな筈ぢやなかつた。この屋敷まで抵当にはいつてること、お前知らないのか?", "あら……そんなことちつとも知りませんわ。でも、それをお兄さまがご存じないのは、どういふわけ?", "おれに相談しないからさ。何時帰るかわからないと思つて、印鑑も何も、一切、婆さんに預けてあつたんだ。金を送れと云つたつて、家を抵当にまで入れろたあ云やしない", "だつて、それや、兄さま、ご無理よ。家の財産がどれくらゐだつてことは、ご承知ない筈ないんですもの……。お母さま、兄さまのおつしやる通りのことをなすつただけよ", "ないものはないと云やいいんだ", "でも、旅先で兄さまが不自由なすつちやいけないとお思ひになつたんだわ", "とにかく、これぢや、明日から食ふに困るんだからね。お前もそのつもりでゐてくれよ" ], [ "あたしにも責任があるかも知れません。でも、ほんとに、そんなことは、ちつとも知らずにゐましたの。ぢや、これから、どうすればいいんでせう。あたしたち、兄さまのおつしやる通りにしますわ", "今、すぐどうしろとは云はないさ。お前の方の財産は別に手をつけないであるんだらう", "ええ、まあ、それだつて知れたもんだけど……", "お前たちだけは、それでとにかくやつて行けるね", "さあ……。それやまあ、今まででも、弘の学費はあたしの方から出してるんですから……", "この家は早晩、引き払ふよ。さうしたら、別々になるんだね", "それや、もう、ご都合で、どちらでも……" ], [ "今日はこれくらゐでよさうよ。また、レコードかけない?", "いやあよ、ママに叱られるから……", "だから、ポータブルの方を、林ん中へ持つてけばいいぢやないか", "だつて、喪中は音曲禁止よ", "無宗教葬に、喪中なんてあるかい", "あら、それに関係ないわ。ぢや、もう、テニスはしないのね", "やるなら、やつてもいいさ。ただ、少し休ましてくれよ、苦しくつてしやうがない", "生気地なし、やあい" ], [ "やあ、失敬……。黙つて仲間入りをしてゐます", "ずるいのよ。跫音をさせないで来たりなんか……。でも遠くから、あたしたちだつていふこと、おわかりになつた?" ], [ "ああ、今日は、あいつ、家で拗ねてますよ", "あら、どうかなすつたの?", "お袋と喧嘩したんでせう。僕にまで当り散らすもんで、癪にさはつたから、こら、あいつの草履、穿いて来てやつた", "まあ、いやだ" ], [ "からだもからだですけれど、若しか、この家を解散するやうなことになつたら、いろいろ相談もしなけれやなりませんし……", "その時はその時で、呼び戻すこともできる。遊び癖をつけるとおしまひだぜ", "ええ、わかつてますわ" ], [ "泣いたね、母さん", "あんた、妙に黙つてるね。どうして、もつと話をしてくれないの?", "そんな無理云つたつて、母さん、用がなけれやしやうがないでせう", "用はいくらだつてあるさ。そんなにじろじろ顔を見てないで、ここへお坐んなさい" ], [ "学校の方はどう? 勉強できる? 疲れやしない?", "大して勉強もしてないけど、及第はできるでせう。伯父さんは、それやさうと、あんなんだつたかなあ……。もつとにこにこしてたと思ふんだが……", "伯父さんには、大変な心配事がおありになるんだから……", "へえ、なんです、それや……", "もう云つてもいいだらうと思ふけど、この家は、おつつけ人手に渡るんですつて……", "すると、僕たちは……", "だからさ、それを考へておくれよ。あたしは京城へついて行つてもいいと思つてるんだけど、あんた、いやでせう", "いやつてことはないさ。母さんさへよけれや……。でも、梨枝ちやんが可哀さうだなあ。世話をしてやる人がないぢやないの", "お父さんがゐれば、それでいいさ。もう、あんなに大きいんだもの", "大きくつたつて、女の子は、お父さんだけぢやどうかなあ", "男の子がお母さんだけでも育つぢやないの", "男の子は、何がなくたつて育つさ", "馬鹿お云ひ、母さんがゐなくつてごらん", "それごらんなさい。だから、云つてるぢやありませんか。ねえ、母さん、僕のお願ひ聴いてくれる? あのね、母さん、梨枝ちやんの母さんにもなつてやらない?", "すると、あんたの妹にするわけね", "妹つて云ふより、つまり、なにさ、僕のお嫁にするのさ", "えツ!" ], [ "どうして戯談なの? 僕、本気で云つてるんですよ", "だつて、あんた、従兄妹同士で、そんなことできると思つて?", "できないことないでせう。例がいくらだつてあるもの", "悪例よ、あれば……", "悪例でかまはないよ", "かまはなかありませんよ", "僕がどうしてもつて云つたら?", "知らない……。野蛮ね、あんたは……" ], [ "泣かないだつていいでせう、母さん。どうしていけないのか、ちやんとした訳を云つてごらんなさい。従兄妹同士つていふことは、絶対の理由になりませんよ", "…………", "梨枝ちやんが混血児だから、それが困るつていふんでせう、ほんたうは……", "…………", "さうでせう。混血児ぢやどうして困るんです? 僕だつてさう云や支那人の血が混つてるかも知れやしない。つまらない迷信みたいなことはよさうぢやありませんか。梨枝ちやんの女としての価値と、眼の色とどう関係があるんです? 理由にならない理由は、僕、絶対に受けつけませんよ" ], [ "ああ、そいぢや、ほんたうの理由を云つてあげようか? いいかい、梨枝子は、あんたなんか、好きになりやしないよ", "僕を……" ], [ "おい、弘、あとでちよつと話があるから、書斎へ来てくれんか。食後の散歩をするならして来てからでもいい。うん、それとも、その辺を一緒に歩かうか", "ええ、さうしてもようござんす" ], [ "何時頃、お発ちになります?", "さあ、まあ、この秋頃になるかな", "梨枝ちやんもですか", "あいつ一人、置いてくわけにも行くまい。向うの学校にでも入れよう。どうかな、仏蘭西語の方は……もう、話もろくに出来ないんぢやないかな……", "伊太利でも仏蘭西語ならいいんですか", "いや、学校は仏蘭西人のやつてる学校があるから、それでいいわけだ。ひとつ、試験をしてみてやらう……", "お祖母さんは、伊太利語もおできになつたんですね", "ああ、あれや、語学の天才だつたよ。お祖父さんが通訳に連れて歩いたくらゐだから……ラテン系統の言葉なら、どれも自由だつたね", "しかし、日本が一番いいつて云つておいででしたよ", "さう云はなきや、しかたがあるまい。僕だつて、日本へ帰つたら、西洋のいいとこなんか忘れようと努めてゐる。自分の損だからな。しかし、学者どもの偏狭さ、唯我独尊振りには、聊かあきれたよ。うん、ところで、こつちのことばかり話してゐてもしやうがない。それでだね、弘、われわれも、今月いつぱいであの家を引き払ふが、君たちも手頃な住居を見つけて貰はうぢやないか。二人きりなら、アパートなんか、どうだい。お母さんにも勧めようと思ふんだが、取りあへず、君の耳にそのことだけ入れておくからね。実は、近頃、お母さんと話をするのが辛くてかなはん。女つていふものは、先廻りばかりして、人の云ふことを、そのまま受け取らんので困るよ", "へえ、お母さんにもそんなところがありますかねえ。あれで、なかなか聡明な部類だと思つてたんですが……", "いや、聡明は聡明だ。しかし、その聡明さの用ひどころがないといふ形だね、今の生活では……。退屈だらう、第一……。その次ぎに、こんなことを君の前で云つていいかどうか知らんが、早く独りになりすぎたね。なんとかならんもんかな", "さうですかね、再婚の必要がありますかね", "本人はどういふか、第三者の眼からは、必要、大いにあるね", "どういふところがですか?", "息子にはわかるまい。また見せもすまいが、あれや、君、完全なヒステリイだよ" ], [ "どうでせう、もう少し待つてごらんになつたら……? それとも、どうしてもお急ぎなら、少し無理だと思ふけど、一時、あたしがこの家お預りしますわ。二万五千以上は、今のところ、つけるものないにきまつてるんですから、それをもうちつと負けて下されば、あたしの方で、なんとかそれだけを都合してみますわ", "うむ……" ], [ "といふと、お前に、そんな金があつて、この家を買つてくれるといふわけだね", "そんな金つて、別に、あり余つてるわけぢやありませんけど、ほかをつめれば、しばらく融通がつけられるかと思ふだけですわ。弘の洋行費にと思つて、手をつけないである債券が、丁度それくらゐ、銀行にある筈ですから……それも、少しづつ、お金にしてはゐたんですけれどね", "さうか、その親切は有難いが、あとで困りやしないだらうな。よし、さうなら、こつちへ、二万ほど出してくれれやいいよ。それなら文句はないだらう" ], [ "弘さん、また帽子を忘れた。日中は気をつけなきや駄目よ", "大丈夫ですよ。ハンケチをかぶつてくから……" ], [ "母さんと一緒になると面白いね", "叔母さまは、きつと帝劇よ" ], [ "いけないなあ、女学生が勝手に夜遅くなるなんて……", "あたしが、あんまりやかましく云ふわけにも行かないしね", "そんなことありませんよ。母さんが云はなきや誰が云ふの? あれで、もうぢき、不良になるから……はふつとくと……", "責任は負へないよ、あたしは……", "僕が負はうか?", "また、始つた。あんたにはいいお嫁さんをみつけてあげるから、もうしばらく辛抱なさい" ], [ "なに、母さん、それや……。僕が何時、お嫁なんか欲しいつて云つた? 辛抱しろとはなんのこつてす? 下品ですよ、そんな云ひ方をするのは……", "あら、怒らなくたつていいわ、変な子……" ], [ "まあ、静かになさいよ。あたしに、あの子が教育できると思つてるの? お祖母さんがあんなに甘やかしてしまつてさ、お父さんは、あの通り我れ関せずでゐるしさ、可哀さうなことはわかつてるけど、人の云ふことなんか聴かないんだからしやうがないでせう", "聴かせる方法がありますよ", "どんな方法! 云つてごらん", "熱ですよ……愛ですよ……母さんは、梨枝ちやんに冷淡なんだ", "それや、あんたとは違ふでせうよ", "皮肉ですか? そんな皮肉が何になるんです? 叔母として姪に対する愛は、本来なら、母親のそれと違はない筈です。さういふことは不思議でもなんでもないと思ひます。なるほど、母さんは、伯父さんとの兄妹仲もよくないやうですね。だから、自分の息子だつて、ほんとに愛してるかどうかわかりやしないんだ" ], [ "菊子さん菊子さんつて、そんなにお邪魔していいの? 熊岡さんつてお家は、たいへん厳格なお家ださうだから、あんまり、だらしなく遊びにばかり行くと、しまひにいやな顔をなさるよ", "大丈夫よ" ], [ "その大丈夫がいけません。あんたなんか、まだ世の中のことを知らないからよ。日本の旧式な家庭では、さういふことをやかましく云ふんですよ", "あら家は旧式なの?", "家はまあいいとしてさ。向うさんのことさ", "をかしいわ……菊子さんだつてさうだけれど、お兄さんなんか、とつてもハイカラよ。弘お兄さん、かなやしないわ", "どうかなはないんだい" ], [ "それで、母さんたちはどうするの?", "どうするつて、母さんは、此処にゐますよ。別に避暑なんてする必要ないんだから……", "ぢや、僕だけ、どうしてその必要があるの", "いやな人……あんたは、なるたけ空気のいいとこが好いんでせう。とにかく、土地を変へるつてことだけでも、あんたのからだには好いのよ", "わかつてますよ、母さん……。その間に梨枝ちやんをどうかしようつていふんでせう" ], [ "そんならさうと早く云へばいいのに……。ぢや、僕、明日からでも出掛けますよ。何処つてきめないで、方々歩いてみるんだ。海だつていいね、少しは泳いでみたいしなあ", "海は駄目よ。泳ぎなんかもつてのほかだわ。山で静かに、本を読んだり、散歩をしたりするぐらゐでなけや……。嶺太郎さんを誘つてごらん", "ううん、先生は、もう房州へ行くことにきめてるの。家を借りたんだつて……", "みなさんいらつしやるの?", "ああ、さうだつて。梨枝ちやんにも来ないかつて云つてたから、行きたいつて云ひ出すかも知れませんよ。行かない方がいいなあ" ], [ "お祖母様にいただいたの。それが、変でせう。おなくなりになる二三日前なのよ", "それやいいけどさ、ねえ、梨枝ちやん、かういふパパやママのお写真みて、あんた、どんな気がする?" ], [ "あのね、あたし、学校よして、ステイジ・ダンスかなんか習ひたいの", "ピアノはどうするの?", "ええ、ピアノもだけど、もう本式にやるの、遅いわ。今まで怠けちやつたから……。ダンスなら、まだ平気だわ。そんなにうまい人ゐないから……", "そいで、ダンスをやつて、踊子になるつもり?", "踊子つて、舞踊家よ。そんならいいでせう", "さあ、パパがなんておつしやるか", "パパなんか、なんでもないわよ。いまに、びつくりさせてやるんだわ。欧羅巴、亜米利加を廻つて、支那へ渡るでせう。そしたら、パパのゐるところへも行くでせう。そしたら、パパが見に来て、どんな顔するか、とつても楽しみなの" ], [ "そんなことを云つて、あんた、ダンスが一人前踊れるやうになるまで、幾年かかると思つて?", "十年と思つてればいいでせう? もつと?", "それまでパパが支那にいらつしやるかしら……", "いらつしやるわよ。だつて、日本にはご用なんかないんですもの" ], [ "そんなこと、おつしやる気づかひないわ。あたし、この前、パパに、日本が一等好きだつて、さう云つたんですもの", "そんなこと云つたの? へえ……" ], [ "ああ、お母さんのおなくなりになつた時、それや伺ふには伺ひましたが、あんな時は、夢中でね。緊張してましたからなあ", "あらまあ、今日は、そんなに寛いでらつしやるの。結構ですわ" ], [ "二万なら、これや高くないですな", "土地つきよ" ], [ "さやう、あなたには、阿久津君のオフィスで一度お目にかかつた筈です。いや、旧いことですから……", "ほんとに……。弘がまだ小学生の時分ですもの" ], [ "なんしろ、暢気な未亡人ですからな", "ええ、さうでせうとも……。暢気に見えれば、それで本望だわ" ], [ "お互の年配なら、もうこんな話はなんでもないと思ふが、夫人はですよ。お産の時に絶対旦那さんを部屋の中へ入れないんです。いや、そればかりぢやない。僕たちにも、マスクをかけろと云ふんです", "弘さんの時ですか" ], [ "いや、まさか……その時分は、僕なんか、子供がどうして生れるか知らずにゐた", "あなた、失礼ですが、そんなですか?", "そんなとは、そんなに若いかといふ意味ですか" ], [ "あら、逃げやしませんよ。なんだか少し眩暈がしたから……", "どら、どら……" ], [ "ねえ、マダム、今夜は、もうこれつきりですか。あと、何か面白いことでもあるんですか!", "さあ、面白いことつて、あなた方がそれを考へて下さらなくちや……", "そいつは難題だね。女一人に男五人で、どんな面白いことができる?" ], [ "ぢや、これから、吾輩がいいところへ案内しよう。女城主、どうです、あなたは新橋の芸者といふものを見たことはないでせう", "見たことぐらゐあつてよ。銀座を歩いてるぢやありませんか", "いや、歩いてることを云ふんぢやない。ちやんとお座敷でサーヴィスするところ、つまり、彼女らを彼女らに応はしいバックの前に坐らせたところですよ", "それは、きつとないね、阿久津君は、さういふところを細君なんかに見せる男ぢやないよ" ], [ "よし、ぢや、今日は吾輩が是非とも連れて行く。諸君も監視の意味でお附合ひを願ふ。なに、監視はあつてもなくつてもおんなじだが、吾輩はまだ諸君にそれだけの信用はない、それやわかつとる。マダム、支度はよろしいか。車の用意をさせて下さい", "まあ、いいわよ、そんなとこへ行かなくつたつて……。ねえ、郷さん、芸者がゐなけれやお酒がまづいなんて、そんな法はないわ" ], [ "どう、みなさん。いらつしやる?", "行きますとも……" ], [ "瀬戸さんは?", "わたしは、どつちでも……", "郷さんは、真面目ね", "僕は、行くなら一人で行きますよ", "まあ、凄い。かういふ方はどうしたらいいんでせう", "あ、お医者さんはどうした?" ], [ "あら、新宿まで……? 序でに家まで送つて下さらない。それにはね、わけがあるのよ。ほら、津留つていふお医者がゐたでせう", "ゐなくなつたですよ", "ええ、それがよ、あん時、女中の話で、まだ家ん中にゐたことがわかつたの。ホールへ寝そべつてたんですつて……", "そんなに酔つてたかなあ", "酔つてもゐたでせうけどさ、あたし、一人で帰るのに、ちよつと気味がわるいわ。まだゐたらどうするの。だからさ、あなたがゐて下されば、変なことないでせう。お部屋はちやんと用意させるわ。明日はお早いの?", "泊るんですか? そいつはちつと考へもんだなあ", "奥さんにわるい?" ], [ "奥さん……? いやだなあ……。まだ知らないんですか、女房に死なれちやつたことを……?", "それや、知つてますよ。あとをお貰ひになつたんでせう、どうせ……?", "どうしまして。女房は一生に一度もてば沢山ですよ", "恋愛は一度で懲り懲りつていふ意味?", "まあ、さういふ意味もありますね。なんて、あの女房は、あなたのお母さんがきめて下すつたんですよ", "自分の女房を人にきめて貰ふなんてないわ。そんなこと云つて、あたしがなんにも知らないと思つてるの? 乗馬のお稽古を度々拝見しましたからね。今、生きてらつしやれば、おいくつかしら?", "死んでからあとの年なんか訊かないで下さいよ。折角、若くつて死んでるのに……。いいなあ、あいつは、いつまでたつても二十三だ……", "いいわね、ほんとに……。未亡人もそれとおんなじに、亭主をなくした年からあとを勘定しないことにするといいんだわ" ], [ "母さんは?", "まだおやすみになつてらつしやいます", "梨枝子は?", "あの、房州の海岸とかへおでかけになりました", "何時? 誰と?", "若旦那さまがお発ちになるとすぐでございます。熊岡様とご一緒にたしか……", "いいから、早く飯を食はしてくれ。それから、母さんを起して来いよ。おれ、またすぐ出掛けるから……。おや、これ、誰の帽子だい?" ], [ "まあ、弘さん……。なにを騒いでるのさ? どうしてこんなに早く帰つて来たの……", "どうして? それや、母さん、自分に訊いてごらんなさい。この家には、何か僕の知らない、僕に知らせない秘密があるに違ひないんだ。梨枝子を房州へやつたんですつてね。たしかに家にはゐないんですね?", "ゐませんよ、をかしな人……。菊子さんたちと一緒だからいいぢやないの。あんたも遊びに行つて来るといいわ、そんなに云ふなら……", "行きたけれや勝手に行きますよ。母さんは僕の意見を尊重しないんですね。そんなら、ようござんす" ], [ "いいかい?", "ええ" ], [ "それ、東京へお土産に持つてくといいや", "ああ、それ、面白いわ" ], [ "いやよ、まだ一週間にしきやならないわ。二週間の約束よ", "それや、二週間でもいいけどさ……。よその家つてことを忘れちや困るよ。海でいい加減遊んだら、今度は僕が上高地へ連れてつてやらう", "二人つきりで?", "うん、いやかい?", "いやぢやないけど……二人つきりぢやつまんないわ", "誰が来ればいいんだい、それぢや……", "菊子さんたちは?", "菊子さん一人でいいかい?" ], [ "あんな風に云はなくつたつていいんだわ。兄さんは、すぐあれなのよ。ごめんなさい、あたしがあやまるわ。泣かないでさ、ねえ、そいぢやつまんないわ、あたし……", "なに? 喧嘩したの?" ], [ "おや、二人で先へ帰つて来たの? 兄さんは……?", "お母さん、あのね、兄さんにさう云つてよ、あたし、梨枝子さんにわるくつて……", "なにがさ?", "兄さんつてばね、威張つてしやうがないの。今日なんか、梨枝子さんが少し深いところへ行つたつて、いきなり、もう東京へ帰れなんて云ふの。本気で云ふのよ。そんなの、失礼ねえ。梨枝子さん、だから、泣いちやつたのよ" ], [ "電報ぢやよく話がわからないと思つて、とにかく来てみたんですが、をかしいなあ、黙つてほかへ廻るなんて……", "何処かへ行きたいなんて云つてませんでした? あの子……", "いいえ、なんにもそんなことは聞いてませんよ。ただ、弘君は上高地へ行くつて、そん時はみんなでバスまで送つてつたんです。ただ、かういふことがあつたもんで、僕、ちよつと心配なんですが……" ], [ "だから、僕には怒つてましたよ。口もろくに利かなくなつちやつたし、海がつまらなくなつたことは事実でせうね。僕、だけど、そんなつもりぢやなかつたんですよ。をばさんにも大丈夫だつて引受けた手前、万一のことがあつたら、それこそ申訳がないと思つて……", "それやさうですとも。……あたり前ですわ、そんなこと……。よく叱つて下すつたわ、ほんとに……", "いやあ……叱り方がまづかつたことは認めますよ。ついどうも、一生懸命になるもんだから……", "自分が悪いんだけど、でも、がつかりしたんでせう、叱られたのがあなただから……" ], [ "それにしても、どうしませう。僕、方々探して歩いてもいいんだけど……何処どこへ見当つけてつたらいいでせうね、上高地は別として……", "さあ……お金だつて、そんなに持つてないのよ。遊ぶつもりで行つたなら、ぢき帰つて来るでせう", "遊ぶつもりでないとすると、どんなつもりかしら……。いやだなあ、そんなこと考へるの", "考へなくつたつていいわよ。あなたはまあ、責任を解除してあげるから、ゆつくり海でからだを鍛へてらつしやい。なに、あの子、あれでしつかりしてますよ。何時までもめそめそしてやしませんよ", "ええ、だけど、あの様子ぢや、僕を恨んでるなあ。もつと早くあやまれやよかつた。だつて、をばさん、それまでは、がみがみ僕が呶鳴つたつて、平気で笑つてたんですよ。まだいい、まだいいつて、僕、思つたのが失敗さ。東京へ帰れつて云つたのが、こたへたんだなあ", "それやこたへるわ。今のうちは、もつと優しくしてやつて頂戴よ。ああいふなんだから、甘へる相手が欲しいんぢやないの。あなた、好きなんでせう、あの娘?" ], [ "よしておくれよ、馬鹿なこと云ふのは……。あたしが、そんなことを云ふわけがないぢやないの。それや、ああいふ境遇の娘だから、むつかしいにはむつかしいけど、なにひとつ、こつちの意見を押しつけようとしたことはなしさ、家にゐる時は我儘放題にさせてあるのを、あんたも知つてるでせう。こないだも、踊りを習ひたいつていふから、それもよからうつて返事をしたくらゐよ。あれでなかなか空想家だからね", "踊りを習つてどうするんだらう?" ], [ "ああ、そいつは、梨枝子さんらしい思ひつきだなあ。ステーヂ・ダンサーはいいよ、一番国際的で……", "あの年ぢや、もう遅いだらう。母さんは、さういふ時、ちやんと云つて聴かせてやらないから駄目なんだ。無責任すぎるよ。ほんとに舞踊家として立つなら、五つぐらゐから始めなきや物にならないんだぜ。どうして、好い加減な返事したの、母さん……", "だつて、それとこれとはなんにも関係ないでせう。こんどの家出とどんな関係があつて?", "ないとは限らないさ", "あら、いやだ、そん時、反対してたら、あんた、なんて云ふつもり? なんでも母さんのせゐにするのは、よしてよ。それより、今思ひ出したけど、お祖母さまの古いお友達で、ピッコロミリつていふ伊太利人の奥さんだつた女がゐるのよ。梨枝子もよくお祖母さまに連れられて遊びに行つたことがあるし、それに日本人だけど、羅馬で本式に踊りを習つて、バレエ団かなんかに加はつて世界中を廻つたとかつていふ話だから、ことによつたら、梨枝子がそこへ訪ねて行つてやしないかねえ。まさかとは思ふけど、一度、聞き合せてみようかしら……?", "何処なの、家は?", "待つとくれ……横浜のどこだつけ……名簿を調べてみなくつちや……" ], [ "未亡人なんだね。ピッコロミリ・ツネコか。何してるの、今?", "さあ、なんにもしてないんでせう。旦那さんはもと領事だつたか、商務官だつたか……。なんでも、上海で結婚して、日本へ来ると、間もなく亡くなつたつていふ話……。だから、その人の遺産と、扶助料かなんかで、日本にゐながら外国で暮すやうな暮し方をしてるらしいね。あたしもちよいちよいこの家で会つたことあるよ。うちのお祖母さんをもう少し若くしたやうな、わりにさつぱりした女だよ" ], [ "嘘をついたつて……それやいけませんね。家へ黙つて出て来たの? さうでせう", "…………" ], [ "だつて、一枝叔母さんは、別にあんたに辛くあたるわけぢやないんでせう? 可愛がつて下さるんでせう", "ええ……でも、それや、違ふわよ、をばさま……。あたし、なんだか、怖いのよ。あたしには、それや、優しい顔をなさるわ。でも、パパとお話してらつしやる時のお顔みたら、あたし怖くなつちやつたの。それと……ほら、あたし混血児でせう、なんだか、それが、はつきりは云へないけれど、一枝叔母さま、おいやなんぢやないかと思ふわ……", "そんなことないですよ。それや、あんたのひがみですよ。いくらか遠慮みたいなものはあるかも知れないけど、あのひと、そんなひとぢやないですよ" ], [ "へえ、そんなに家にゐるのがいやなの? ぢや、いつそ、あたしの子供にしちまはうか", "ええ、いいわ" ], [ "さうね、いけないつておつしやるかしら……。ぢや、いいことがあるわ。パパも独りでせう。をばさまもお独りでせう。だから、若しかしたら……", "もしかしたら?", "変だから、云はない", "変でもなんでもいいから、云つてごらん" ], [ "パパは今、どこにいらつしやるんだつけ……。誰かから聞きましたよ。あのお家を一枝叔母さんがお買ひになつて、パパはまた旅へお出になるとかならないとか……", "さうよ。いま支那よ", "支那……へえ……支那ぢや、あなたを連れてらつしやるわけにいきませんね", "どうして、をばさま?", "学校がないでせう、まあ、ところにもよるけど……。どうせ、辺鄙なところでせう、古いものを掘り出したりなさるんぢや……" ], [ "あたし行つてもよくつて、をばさま?", "ぢや、またお仲間入りをさせていただくのね。あたしは、ちよつと新聞を読んで、あとから行きます" ], [ "行つて参りまあす", "お待ちしててよ" ], [ "ピッコロミリ夫人のお宅はこちらですか?", "はあ……さやうです。あなたはどなたさま?", "僕、阿久津弘つていふもんです。あの、郷田下枝子の孫にあたるんですが……", "あら、まあ、さうでしたか。ぢや、おはいりになつて……さあ、さあ……" ], [ "へえ、あなたが、そいぢや、一枝さんのご子息さん……おちいさい時分に一度、たしかお目にかかりましたよ。どうも、年を取ると忘れつぽくなつて……。さうさう、朝鮮の方へなんでしたね、京城大学ですか? もうご卒業でしたかしら……", "いいえ、まだ一年あります。母からもよろしくつていふことでした。それから、早速ですが、うちの梨枝子がこちらへお邪魔に上つてやしませんか" ], [ "で、今、ゐるんですか?", "ゐますよ。そのへんでテニスでもしてるでせう。行つてごらんになる?", "ちよつと此処へ呼んで来ていただけませんか?", "連れて帰らうつておつしやるの?", "話次第では、さうします。母の云ひつけですから……", "お母さまには、まあ、あなたから、よろしく取りなしていただくとして、いいぢやありませんか、あたしに夏中預けてお置きなさいよ、折角来てるものを……", "僕は、それや、かまひませんけど、母がなんて云ひますか。行先を暗ますなんて、どうも、みんなに迷惑がかかりますから……", "おや、おや、あなたまで怒つてらつしやるの? そいつは困つた。では、ちよつと呼んで来ませう。まあ、そのへんで、涼んでらつしやい。喉がお渇きになつたら、女中におつしやつて、お冷でもお番茶でも召上れ" ], [ "降参つて云ひなさい", "…………", "云はないの", "…………", "ぢや、何時までも放さないわよ" ], [ "君がゐるかどうか見に来たんだ", "ゐたから、どうなの? それでいいんでせう", "いいもわるいもないさ。僕たちは、ただ、心配しただけさ", "さう。ぢや、ごめんなさいね。誰が一番心配した?", "誰だと思ふ?", "知らないわ" ], [ "いやだ、そんな怒つたやうな顔して……。菊子さんたちも心配してた", "菊子さんはどうだか、僕、遭やしないよ。嶺太郎君と会つただけだよ。あいつは、心配して家へやつて来たよ。母さんが電報打つたんだ", "弘兄さま、何処にいらしつたの、あれから……", "何処だつていいよ", "あたしがここにゐるつてこと、どうしてわかつた?", "何処にゐたつてわかるよ、そんなこと", "名探偵ね。叔母さま、なんて云つてらしつた?", "そんなこと訊いてなんになるんだい? 僕と一緒に帰れよ", "…………" ], [ "ねえ、弘さん、そんなに心配なら、あなたもしばらくここにゐたらどう? 部屋はまだありますよ。お母さんにちよつと断つとけばいいでせう。そのうちにこの娘も飽きて来ますよ", "あら、あたし、飽きないわ" ], [ "テニスもいいけど、明日は、みんなでピクニックしませうよ。お弁当をもつて……", "何処へ行くの!" ], [ "いいとこへ連れてつてあげます。鬼押出しつていふところ知らないでせう", "僕知つてる" ], [ "銀黒狐つていふのは巴里ぢやあんまり流行らないんですけど、いいのはやつぱりよろしいですね", "あなたがなすつてらつしやるの、あれやなんでしたつけ?" ], [ "あたくしの持つてるの、あれ、青狐", "さう、さう……あれ、なかなかいいです" ], [ "弘君、いつぱいどうです", "いや、僕は……。うん、それぢや、少し下さい。酔ふかなあ" ], [ "なんだい、素敵なもんて……", "梨枝子は?", "こつち、こつち……" ], [ "あれ、なんだか知つてるかい? あの実さ……。今まで瑠璃鳥が一生懸命で食べてたんだぜ。人間にだつて食へるんだよ。ひらくちつていふんだ。取らうか?", "まだ青いぢやないの" ], [ "いいかい? 今度は大きいよ", "ちよつと待つて……手がいつぱいだから……" ], [ "その、なにかのなかへ、テニスがはいつてゐるうちは大丈夫ですよ。あなたなんぞ、息子さんのお母さんと見る人はなし、旦那さまの方で若くなつて貰はなきやいけませんよ", "それが、これですもの" ], [ "これで、安里にはお行儀をやかましく云ふんですからね。それも、日本式で、をかしいんですよ", "おや、日本式つて、どういふの? あなたのとこは、みなさん巴里仕込みぢやありませんか", "とまあ、見せかけてゐるだけですよ。主人は他処行きと不断とを、はつきりさせるんですよ。日本人に向つては日本式でやれ、これがプリンシプルなんです", "それぢや、安里さんも、なかなかね" ], [ "梨枝子も、誰かちやんとした人に救はれるといいんですわ。ねえ、梨枝ちやん", "え?" ], [ "でも、学問をするのにはお金がかかりますからね。パパ一代でたくさんでせう", "お金のあんまりかからない学問だつて、ありさうなもんね。さういふ方面はあたしぢやわからないけれど、パパがお帰りになつたら、ひとつご相談してみるといいわ" ], [ "これからもう、一人でよそへ行つちやいやよ。あたしいろんなご相談があるのに、パパはいつもお留守なんですもの。つまらないわ", "どんな相談があるんだい。云つてごらん" ], [ "でも、それは今日でなくつてもいいのよ。パパはずつとこの家にいらつしやるの? あたしたち、どつかへ行くんぢやない? 叔母さまも、市内へ引越したいつて云つてらつしやるわ", "動くのは面倒臭いよ。旅は別だけどね。お前も学校を出たら、パパが一緒に何処へでも連れてつてあげるよ。それまではおとなしくしといで" ], [ "梨枝ちやん、パパはね、叔母さんのことを吝嗇坊だつておつしやるのよ。あたし、そんなに吝嗇坊かしら?", "おい、さういふ云ひ方はやめてくれ。梨枝子にはほんとのことを云ひ聞かしてやつて貰ひたいんだ。ねえ、梨枝子、それぢや、パパから云ふがね……さうだ、寒くないかい? それぢや、一緒に散歩をしながら話をしよう" ], [ "それで、パパは、どうしようとお思ひになるの?", "パパかい? パパは実は、もうしばらく一人でゐたいんだ。仕事の都合もあるし、向うへ行つて、すぐ楽な暮しができるかどうかわからないからね。お前を学校へ入れることもできないやうぢや困るからな" ], [ "いやだわ、パパは、あたしが働けるつてことごぞんじ? なんだつてできるわ、一人で食べて行ければいいんでせう……", "ほほう" ], [ "なんだつてできる? どんなこと、例へば? 云つてごらん", "バスの車掌だつてなんだつて……", "羅馬でかい? そんなことまでする必要はないさ。それはまあいいとして、パパは当分、お前を叔母さんに預けといて、学校でも出たら呼び寄せるつもりでゐたんだ。ところが、叔母さんは、反対なんだ", "一緒に行つた方がいいつておつしやるんでせう。それやあたりまへよ", "いや、ところがだよ。お前を連れて行くなら、それだけお金を余計出して貰はんけれや困るつて云つたんだ", "パパが叔母さまにそんなことおつしやつたの?", "ああ、だつて、叔母さんはお金持だもの" ], [ "それで、どうなのよ。叔母さまは、お金をそんなに出して下さらないつておつしやるの?", "まあ、さうだ。だから、叔母さんが無理なんだよ。吝嗇坊つていふのは云ひ過ぎかも知れないが、それくらゐのことはしていい筈なんだ。お前から頼んでみても駄目かなあ、パパは、もう、これ以上、叔母さんに頭をさげるのはいやだ" ], [ "あたし、もうぢき伊太利へ行くかも知れないのよ。パパが連れてつて下さるんですつて、若しかしたら……", "伊太利? どうして仏蘭西へ行かないの? 君のママ、パリジェンヌでせう?", "あら、伊太利だつていいぢやないの。西洋は西洋よ。巴里より羅馬の方が古い都なのよ", "古いばかりぢや、駄目だよ。僕も近いうち巴里へ行くんだ。僕と一緒に行かない?" ], [ "僕たちは愛し合つてゐるんだらう、心の中で……。二人とも、それをどうして黙つてなけれやならないの? 君にはじめて会つた時、僕はもう決心したんだ。誰がなんて云つても、梨枝ちやんは僕のもんだ、さう思つたのさ。だから、僕は、毎日が楽しみだつたのよ。君もさうでせう、ほんとのこと云ふと……。僕たちが、さういふ風に仲よしになるわけは、二人にだけはわかつてるんだ。ね、さうでせう? だつて、二人ともおんなじ境遇だしさ……", "わかつてるわよ" ], [ "梨枝ちやん……リエット……お嫁さんがそんなこと云ふもんぢやないよ", "あら、まだお嫁さんぢやなくつてよ", "そいぢや、いつお嫁さんになる?", "パパに訊いてみなけやわかんないわ", "パパつて、君のパパは、いつでも家にゐやしないぢやないか", "晩に帰つて来たら、そのこと話してみるわ。でも、あなたのママから叔母さまに話して下さるといいんだけどなあ", "若し、パパがいけないつて云つたら?", "いけないつていふかしら……" ], [ "どうして? え、どうして? ぢや、もう、仲よしぢやないんだね。僕はこのまま帰つてもいいんだね。あとで泣いたつて知らないよ", "はなして……よう……はなしてつたら", "はなしたら、行つちやうぢやないの", "ええ、だから、あつちへ行くのよ。さあ、行きませうよ" ], [ "今もそのお話をしてたんだけど、まだきまつたわけぢやないの。どうして? あなたも、いらつしやりたい?", "ううん、さういふわけぢやないけど……ほんとかしらと思つて……" ], [ "さつきのお話ですけどね、あたくしは、別に異議ございませんわ。兄がなんて申しますか……多分、これも、賛成するだらうと存じますけど……", "では、ともかくお考へあそばして……。安里もまだやつと二十二やそこらですし、そんなに急ぎはいたしませんのですけれど……。まあかういふご縁はめつたにないと存じまして", "ほんとですよ" ], [ "あら、かまはないぢやありませんか。どうせさういふ問題が起るんですもの。晩かれ早かれ、耳に入れといた方がいいんですよ。ねえ、梨枝ちやん、あんたはどうなの、あの安里つていふ人、好きなの? 嫌ひなの?", "馬鹿だなあ、それとこれとは話が違ふよ" ], [ "わかりますとも……。さあ、はつきり云へるでせう、あんた……好きか嫌ひか", "云へるわ" ], [ "どんな青年だい、その安里つていふのは?", "まだ二十そこそこの坊つちやんですよ" ], [ "学校は?", "どこだつけ?" ], [ "横浜の中学を出て、あとはお父さまのお店を手伝つてらつしやるんですつて……。でも、フランス語はとてもうまいのよ", "ぢや、まあ、あんたの気持はわかつたから、あとは、叔母さんたちに委してお置きなさい。さ、もういいわ、お部屋へ行つて勉強してらつしやい" ], [ "だから、油断はできないつて云つてるんです。早熟なのね", "早熟だかなんだか知らんが、娘のああいふところを見せられるのはいやだな。こつちが惨めになる。それだけでも相手の男に反感が起るよ。こいつもどうかしてるが……" ], [ "おい、一枝、電話……", "どつから?" ], [ "さうなら、あたしにばかりそんなことおつしやらないで、国家とやらにさうおつしやいな。夫の遺産で楽に暮すのがいけなかつたら、妹の懐ろをあてにしてぶらぶら好きなことをしてるのがいいんですかねえ", "お前がさういふ気なら、おれはいつでも出て行つてやるよ。梨枝子だつて世話にならなくつていい。おれたちは、施しを受けてゐるんぢやないんだ" ], [ "ムッシュウ・安里は、さういふ科学的な方面より、芸術的な方面の興味がおありなのね。梨枝子さんも、映画はお好きね。あたつたでせう?", "ええ、でも……。めつたに、行くことなんかないわ", "ムッシュウ・安里は、それや映画通なんですよ。ほら、いつかだつてさうでせう……" ], [ "これ、あなたのお祖母さまが大好きな歌よ。なんべんも弾かされましたつけ……", "もう一度、どうぞ……" ], [ "ううん、あたしにはまあいいとしてさ、そこで、ちやんと梨枝子さんに、これから決してこんな悲しい目に遭はせるやうなことはしないつて誓ひなさい。それだけ、真面目に、あたしの前で、このひとに誓つて頂戴……", "そんなこと面倒臭いや。だつて、梨枝ちやんはもう、僕を赦すつて云つてるんぢやない? だから、をばさんは、あつちへ行つてらつしやいよ。二人で、二人つきりで話すことがあるんだから……", "いいえ、今日はさういふわけに行きません。話があれば、あたしはかうしてるから、二人で勝手に話したらいいでせう。をばさんに秘密な話つてない筈よ" ], [ "そんなこと云つたつて、無理よ。学校にゐる間は、学校のことしか考へちやいけないつてパパに云はれてるんですもの", "学校のことしか……? ぢや、僕のことは考へないでいいつていふの、君のパパは?", "ううん、さうぢやないのよ。考へるだけならいいけどさ……。知らない、それからさきは……" ], [ "もつと、ほかのお話しませうよ。いつでもおんなじこと、つまらないわ", "話つて、どんな話? ただかうしてちや、話なんかありやしない" ], [ "ぢや、あたしが、学校のお話したげませうか? 寄宿舎のお話……。いいこと、あたしの部屋にはね、あたしとも二人ゐるのよ。ほら、いつか云つたでせう、間部福子つていふ、上の級のひとよ。すごく出来るひとなのよ。四年の時、ほかの学校から変つて来たんだけど、ずつと級長よ", "君だつて、間部福子のことばかり云ふの、よしてよ", "あら、よしてよだつて……。よせよつていふのよ、男は……" ], [ "あ、やつぱりさうだつた。たいへん粋な恰好でいらつしやるから、ついおみそれしました。よくおわかりになりましたね。梨枝子がお知らせしたんですか?", "こんなに早く伺つて、どうかと思つたんですけれど……。ええ、梨枝ちやんからも伺つてましたよ。あたしや、このホテルははじめて……。なかなかよろしいぢやありませんか", "シシリイといふわけには行きませんな", "やつぱり、そんな風な比較をなさりたいですかねえ……。あたしは、もう、さういふ癖がなくなりましたよ。それも、ルナアトの教育ですよ。あの人は、どこへ行つても、その土地の特色を発見する人でしてね。足りないものに決して不服を云ひません。さうです、ここなら、寧ろ、かう云つてほめるでせう――なるほど、シシリイには、この瓦の色はないねえつて……", "日本に住まなけれやならんとなつたら、さうでも云ふよりしかたがないでせう", "あの人は、上海も好きでしたよ。それから、廈門……。あんなところのどこがいいのか、あたしにやさつぱりわからなかつたんですよ。壁と水溜りと毒々しい看板の街ぢやありませんか。それを、あの人々に云はせると、亜細亜大陸の裾を飾つてゐる古びたレースなんださうです" ], [ "さうせかせかしないで……もつと落ちつきなさい。どうだ、勉強はできるかい? この間の日曜は、何処へ行つた? もち横浜か?", "もち、さうよ。どうして?", "来ない時は来ないつて、電話でもかけてよこさなきや、パパは待ちぼうけを喰はされるぢやないか", "あら、待つてらしつたの? ごめんなさい。ぢや、これから、行くときは電話をかけるわ。黙つてたら、横浜へ行くわ、それでいい?", "それやまあ、どうでもいいが……。今日は、お前にひとつ相談があつて来たんだ。パパはね、また、しばらく旅行に出ようと思ふんだ。今度は、急に帰れるかどうかわからんので、お前のことはピッコロミリのをばさんに頼んで行かうと思ふ。それとも、やつぱり阿久津の叔母さんの方がいいか? 若し、その方が望みなら、今から井荻町へ寄つてみるんだが、どつちにしよう?", "旅行つて、どこへいらつしやるの?", "うん、それがまだはつきりきめてないんだ。が、ともかく、一週間以内に発ちたいんでね", "何処だかわからないところへ、そんなに急にいらつしやるの、どういふわけ?" ], [ "おれは、日本の土地で野たれ死はしたくないよ", "あたしも従いてくわ" ], [ "まあ、ちつとも知らなかつたわ。で、どうなすつたの?", "菊子はなんにも云はなかつたのかなあ。どうするもかうするもないですよ。親爺が愚図愚図云ふもんだから、勝手にしろつて家を追ん出てやつた。ところが、仕事つてやつがなかなかないのさ。今はどうかかうかやつてますけどね、悪戦苦闘ですよ", "顔色がわるいわ" ], [ "毎日歩くお仕事つて、なあに?", "さあ、当ててごらんなさい。お巡りさんぢやありませんよ", "そんなこと、わかつてるわ" ], [ "ぢやね、歩く商売つて、どんなのがあるか考へてごらんなさい。先づ、なんです?", "知らないわ、あたし、そんなこと……", "知つてなくつちや困るでせう。現代の職業は凡そ複雑だからなあ。ハズバンドを選ぶんだつて、第一条件は、それぢやありませんか", "さうかしら……" ], [ "随分待つた?", "ううん……誰さ、あれ……?" ], [ "あれはね、お友達の兄さん……熊岡嶺太郎つていふ人……もと商大にゐたのよ。家がご近所だつたし、よくテニスをしたわ……。いい人……とつてもいい人……", "そんなに力を入れて云はなくたつていいよ。なるほど、さうらしいや。横目でこつちを見てやがるぜ", "やがるなんて云ふもんぢやないわ。あれで、家はいいのよ、お父さんは少将よ", "少将なんてなんでもないや。なんだい、あの洋服の恰好は……見世物の猿だ、まるで……", "どうしてそんな悪口云ふの。いま自分で働いてるんですつて……。なにか変つた商売らしいわ。そんなにぢろぢろ見るもんぢやなくつてよ" ], [ "梨枝ちやん、そんなこと云つてると、ほんとに遅れますよ", "いやだつたら、いやよ。もう、学校へ行くのもいや、あたし……", "どうしてさ" ], [ "困つたね。どうする、安里さん……? 一人で帰るのが淋しけれやもう一度ついてつてあげなさいよ", "淋しいんぢやないわよ。どこにゐたつて、そんなことおんなじだわ" ], [ "さあ、なんて云つたらいいかしら……。だつて、おんなじことばつかり、云つたり、したり……あの人つたら、あたしの面白いと思ふこと、ちつとも面白がらないのよ。映画だつて、さうよ。可笑しくなけれやつまんないんですつて……", "おや、おや、もう意見の衝突ね。だからさ、もつと会ふ時間を短く、今のうちは、まあ、三日に一度ぐらゐにしとかなけや駄目よ。でも、明日になると、また会ひたいんでせう?" ], [ "なにが変なのさ?", "なにもかも……。月日が自然に流れてゐないやうな気がするの" ], [ "面白いことを云ふのね、あんたは……。さういふことつて、よくありますよ。あたしも、主人をなくした当座は、丁度そんな風に思つたね", "どうしてでせう……", "さあ、どうしてだか……まあ、急に年を取るとでも云ふんですかね。それやさうよ。あんたなんか、女学生から急に奥さんになつたんだもの……" ], [ "ぢや、読んどいてね。あたし、あつちへ行くから……", "ばあさん、まだ帰らないのかい?", "シツ! サロンでママとお話してらつしやるのよ" ], [ "あなたも一緒に行つて下さるの? そんなら、あたし、お見舞に行きたいわ", "戯談云ふなよ" ], [ "でも、仲の好い時は、それや仲が好いんですからね。親の眼からですけれど、安里だつてさう野蛮な人間ぢやありませんし、ただおそろしく神経質なんですよ。さう云へば、梨枝子つていふ娘はどうかすると冷たく見えることがありますね。気を使つてないわけぢやないんだけど、男にしてみれば、物足りないところがあるかも知れませんよ。尤も、まだ年が年だから……", "さうですかね、あんな人懐つこい娘は少いと思つてたんだけど……やつぱり年ですかねえ" ], [ "わたし、マケドニヤの生れです。ナポリに永くゐました。それからポートセード、ヂブチ、それから一度マルセイユへ行つて、こんどはハノイ……どこもおなじですよ。マダムのお話、廉介からよく伺つてゐます。あなたは仕合せですね。気楽な未亡人が一番よろしい", "あなただつて、お金溜めようと思へば溜められたでせうに……", "自分で稼いだお金は、使はなけれやつまりません。今のわたしはどんなに辛いことでせう。きまつた男をもてばお金は一文もはいらないし、稼げば楽になるとわかつてゐながら、それはあんまりあの人が可哀さうだし……やつと旅費だけこしらへました、内証で……" ], [ "どうだい? 落ちつけさうもない? ぢやしかたがないから、方面を変へるかな", "うん……仕事は楽なんだけど……ただお酒飲みつてこわいね" ], [ "自分でも飲むやうにならなきや駄目さ", "なんて、あんた飲める?", "飲めるさ、飲まうと思や……", "不良ね", "そんなに用心するみたいな顔しなくつていいよ。いくら不良でも、芯はこれでも、淑女だからね。下品な真似はしないよ" ], [ "熊岡さん……ええと……井荻の家でご近所だつた、あの熊岡さんか?", "ええ、さうです。思ひがけないところでお目にかかります。実は、昨日ここへやつて来たんですが、今朝、東洋博物館で、館長にあなたのお話を伺つて……", "ああ、さうですか、それはそれは……。ご旅行は、どういふ目的で? あ、そこの椅子へかけて下さい。うむ、やつとはつきりして来た。お妹さんがいらしつたな、梨枝子とお友達の……" ], [ "ええ、よくお邪魔にあがつたんですが、小父さんは書斎にばかりいらしつて、あんまりお目にかかる機会がありませんでしたから……。ご病気はよほどお悪いさうですが……如何ですか?", "ありがたう。病気も病気だが、この通り貧乏になつちまつてね。なつちまつたもをかしいが、旅先ぢやどうすることもできんのでね。で、君はしばらく滞在ですか? 失敬、大儀だから横にさせてもらふ。君もどうか楽に……", "どうぞ……。いいえ、さうゆつくりは出来ないんです。ある経済関係の雑誌に勤めてるもんですから、今度統計を作る必要上、社長の命令で南洋方面のスピード視察をやらされたんです" ], [ "パパ……ママ……淋しかつたら、いらつしやいね", "ほんとに行くかも知れないよ。不意に行きますよ" ], [ "これは、お前、小さなマダムに云ふのだが、この小さなムッシュウは、世界一の美男子だ。好い眼をしてゐる。わたし、かういふ眼、大好き。ヨーロッパ人とアラビヤ人の混血児に多い眼。わたし、どこの国の男でも知つてゐる。支那人と黒ん坊を除いて。年を取つて独りでゐたら、支那人の奥さんになる。そのわけ知つてゐるか", "もういいよ" ], [ "わしが合図をするから、みんな一緒にバンザイをいふんだよ", "着陸した時かね", "いや、飛行機の姿が見えたらぢや", "そんなの聞えやせんが……", "なに云うてる。日本人の元気なところを、ここにゐる奴等にみせてやるんぢや" ], [ "何処ぢや、なんにも見えやせん", "かまはんから、バンザイをやらう" ], [ "あ、どうしたんです。よくおでかけになれましたね。そんならお誘ひに行くんでしたのに……", "何時雲南から帰つたの?", "昨日です。しかし、お歩きになつて大丈夫なんですか?", "さあ……途中で何度も休んだから……。雨で埃がたたんでいい。これが外へ出る最後だらうと思つてね。日本へ飛んで行く飛行機にちよつと挨拶がしたかつたんだ", "超スピードらしいですね。どうです、乗せてつてお貰ひになつたら……?" ], [ "いや、あいつが来ようとは思はなかつたよ。会ふのも億劫だ。なんとかならんもんかと思つてるんだが……", "梨枝子さんの嫁かれた先は、この間伺ひましたが、やつぱり、うまく行つてるぢやありませんか。洋行は洒落てるな。しかし、一と船遅らすとなるとたいへんですね。僕も、その間ずつと此処にはゐられないでせうけれど……", "また、何処かへ行くの?", "ええ、もうそろそろ引上げる時機ですから……。予定が一と月以上延びちまつて、弱つてるんです", "さうですか" ], [ "だから、僕は、自分の生れ、育つた日本といふ国に、ちつとも愛情を感じないんだ。かういふ言葉は君を悲しませるだらう。或は怒らせるかもわからない。が、それはしかたがない。従つて、梨枝子といふ娘の将来を考へると、寧ろ、日本においておきたくない気がするんだ", "それを、小父さんは、どうして僕に向つておつしやるんですか?" ], [ "どうしてとは?", "いいえ、あなたのやうな方が一人や二人ゐてもそれやかまはないと思ふんですが、僕はやつぱり日本へ帰つて、日本のために働きたいと思ふんです。そんなことは当り前なことで、わざわざ云ふ必要はないんですが、返事をするとなると、まあ、そんなことしか云へませんね" ], [ "やつぱり昨夜の汽車ですか?", "汽車はボロ汽車だつていふから、自動車を飛ばしたのよ。長いでせう。着いたらへとへとなの。でも、昨夜のうちに、ちよつと父のところへは顔をだして来ましたわ。随分あなたにご厄介になつたんですつてね。どうも……。だけど、不思議だわ……", "お父さんは、こつちへいらつしやらないんですか?", "あの女が反対するんですもの。お聞きにならない? マダム・クラビンスキイつていふ女のこと……", "ああ、お名前は聞いてませんが……お父さんのなんでせう?" ], [ "案外、父は元気ですわ。もつと病気がひどいのかと思つてましたけど……", "いや、実際はひどいんぢやないかと思ひますが……。無理をしておいでになることはたしかです、昨日も……", "さうですつてね。あたしたち、今朝、もう飛行機の出るところ見て来たのよ" ], [ "で、あなた方は船をひとつ延ばされたわけですね。さうすると……", "まあさういふわけですけど、丁度、香港からシャルジュウル・レユニつていふ会社の船が明後日はいるんですの。それへ乗ると、西貢で前の船に追ひつける予定なんですわ。二日もゐればたくさんね" ], [ "君のいいだけゐるよ。熊岡さんは、何時頃までご滞在ですか", "僕はまだきめてないんですが……もう、引上げたいと思つてます。用事は済んだんですから" ], [ "覚えてますわ。それと、ルュクサンブウル公園でせう。なんだか一度行つたことあるみたいな気がしてしやうがないの。やつぱりそのせゐよ", "それに、あなた方は、文字通り、お母さんのお国なんだから、洋行つて云つたつて、半分帰省みたいなもんですね" ], [ "おい、大変だ。パパが……", "パパがどうしたの?" ], [ "この令嬢が、死者の娘さんなんですか?", "令嬢ぢやない。夫人だ" ], [ "大丈夫ですよ。領事館へなら僕がかけてみてもいいですよ。細君のゐる男をそんなに引止めやしませんよ。先生、パラスでルーレットでもやつてるんぢやありませんか", "そんなものあるの?", "ええ、あのホテル一軒でやつてるんです。フランス人はああいふもんがないと街にゐるやうな気がしないらしいですね" ], [ "やあ、失敬、失敬、遅くなつちやつた。領事館の奴がむやみに引留めやがるもんだから……。トランプがはじまつてね", "細君のゐる男をそんなに引留める筈ないわ" ], [ "堂々とつて、どういふ風に?", "わかりませんか? しかし、それを僕が云ふのはをかしいなあ。例へば、先生があなたよりもあの女を愛してゐるといふことをちやんと告白してですよ、あなたを先づ自由にし、それから自分の道を歩いて行くやうにするとか――" ], [ "だから、みんなわからせるんですよ。つまり、二人ですべてを諒解しあつた上で……", "諒解なんかしないわ。はいさうですかつて、誰が云ふもんですか。あたしにはさういふことはできないわ。向うがさういふ立派な態度だつたら、あたし、泣いて、泣いて、縋りついて、きつと自分の方へあのひとの心を取戻してみせるわ" ], [ "いや、寝坊した罰に、すぐ行きます", "いやよ、そんなの" ], [ "ありがたう……。でも、そのお心持はどなたかのためにとつてお置きになるといいわ。あたしは、もう、こんなだから駄目よ。ほんとに、もう、駄目なの……", "こんなだからとは?" ], [ "ええ、あつてよ、ずつと昔……。あなたは知らん顔してらしつたわね。だから、あたし、怒つたの。今から考へるとをかしいわ。ほんとに怒つたのよ。でも、あたしはそれとあべこべのこともしたわ。弘兄さんは、さうだつたの、あたしに怒つて、だから、死んだのよ。これは、考へると悲しいわ。あたしつていふ女は、さういふ風になつて行くんだと思ふわ。向うから離れるか、こつちから離れるか、生きてゐるものでも、死んで行くものでも、みんな、あたしの眼にはさう見えるの。ママもさう、お祖母さまもさう、パパもさう……弘兄さん……あなた……", "安里君……" ], [ "あ、さうさう、日本にお帰りになつたら、一度井荻の家を見に行つて下さらない? そして、できたら、あの家の写真を一枚、撮つて送つて頂戴。今、たしか閉めてある筈だから、外からでいいわ。景色も入れてね", "ええ、ひとつ、傑作を送りませう。十一月と……。丁度、裏の柿がなつてる頃ですよ。うまかつたな、あの柿は……", "掃除をしないから、落葉がきつと大変だわ。いいの、落葉の積つた庭なんて、此処ぢや見られないから……" ] ]
底本:「岸田國士全集11」岩波書店    1990(平成2)年8月9日発行 底本の親本:「岸田國士長篇小説集第七巻」改造社    1939(昭和14)年7月17日 初出:「婦人公論 第二十一巻第六号~第二十二巻第五号」1936(昭和11)年6月1日発行~1937(昭和12)年5月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「アパート」と「アパアト」、「スエタア」と「スェータア」の混在は、底本通りです。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2018年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "今日はこれくらゐにしとかう。メリメがすんだら、久生十蘭をやらう。いつか読んでもらつた、そら、チベットへ行く話さ、あれを是非やらう", "まだ、おなかおすきにならない?", "すいた。いまなん時だらう?", "五時半です。夕食の支度はもうできてるのよ。ちよつと温めさへしたらいゝんだから……", "カレーはうんと辛くしてくれよ", "あら、もうご存じなの?" ], [ "いくら秀才でも、眼が不自由では、さきざきが困りますね。按摩さんなら、よく、眼のわるい同志が一緒になつてますけどねえ……", "いや、それが、ちやんと眼の見えるお嫁さんがほしいらしいんだ。本を読んでもらふといふことが、一番大事な条件なんだから……" ], [ "佐伯がまた今日店へやつて来ての話に、息子の見合ひに立ち合つて、実に困つたといふんだよ。相手は看護婦をしてゐた娘ださうだが、ふた眼とは見られない器量で、口だけはなかなか達者なんだとさ。息子は、はじめのうちはおとなしかつたが、しまひに、だんだん図々しくなつて露骨にメンタルテストをやりだすんだつて……。――あんたは女学校を出てるといふ話だが、それぢや、教室で居眠りばかりしてたんでせう……なんて、やるんださうだ", "まあ、変なお見合ひだこと……。眼のわるいひとは、癇が強いつていひますからね。気むづかしいでせうよ、きつと……。まあ、さういふひとのお世話は、あたしたち、したくないわね" ], [ "あたし、やつぱり間違つてなかつたわ。立派な方だと思ふわ", "まあ、お待ち……あちらさんがどうおつしやるか……", "うゝん、もう、お返事はちやんとわかつてるわ。イエスよ。だつて、そんなことぐらゐ、すぐわかるわ", "おや、おや、たいへんな自信だこと……。でも、あゝいふひととしては、品はわるくないね", "さうよ、ベートーヴェンだつて、めくらになつたのよ" ], [ "ねえ、あなた、あたし、ちよつとうかゞひたいことがあるの。よくつて……あたしは、あたしがあなたを愛してるやうに、あなたからも愛されてゐると信じてるわ。それはそれでいゝのよ。たゞ、あなたは、あたしを、どういふふうに愛してゐてくださるの?", "妙な質問だね。かういふふうにぢや、いけないのかい?", "かういふふうぢやわからないわ。女は、やつぱり、美しいから愛されるんだつていふ自信がもちたいのよ。美しいつていふ意味は、それやいろいろだけれど、それが、肉体的にもつていふことなの? あたしを、まあ、まあ、綺麗だと、思つてゐてくださる?", "そんな返事は僕にはできないよ。僕の求めるものを、みんな君がもつてゐれば、それでいゝぢやないか。実のところ、君は、女として、普通の人間の眼に、美しいか、どうか、僕には想像がつかない。多分、美しい方の部類だと、信じてはゐるけれども、さう信じる理由は、僕の視覚以外のもの、つまり、自分の眼以外のものが、さう信じさせるにすぎないんだ。君の肌は弾力があつて、なめらかだ。君の声はやさしく、澄んでゐる。君は趣味のいゝ香料を使つてゐる。君の寝呼吸は静かだ。そして、君は、女としての自尊心をもつてゐる。それだけで、僕には十分なんだ。君が天下の美人だなんていふ評判を一度もきかなくつたつて、僕は、ちつとも悲観しやしないよ", "でも、あなたのいまおつしやつたやうなことは、あたしが、世にも稀な不美人ぢやないつていふ証拠にはならないわ", "え? なんだつて? 不美人ぢやないつていふ証拠? そんな証拠が必要かねえ?", "それごらんなさい。あなたは、むしろ、あたしが不美人だつていふ証拠をみせられやしないかと思つてびくびくしてらつしやるんでせう……ひとの噂が気になつてしやうがないのね?", "ひとの噂とはなんだい? 僕がいつ、そんなものを気にしたことがある?", "だつて、たつたいま、一度も美人だつていふ評判をきいたことがないつて、おつしやつたぢやないの", "たとへばつていふ話さ、それは……。お袋なんか、くどいほど、君がどんなに可愛らしい娘かつていふことを、僕に話したよ", "お母さまは、それや、いろんな点からいゝ縁談だとお思ひになつたかも知れないわ。だからあなたもまあまあ及第点をおつけになつたのよ。あなたは、まさか、それを、言葉どほりにお取りにならなかつたでせう?", "もう、よさうよ、そんな話は……。僕がめくらで、せつかくの君の美しさがわかるまいといふ、君の不満も、一応、尤ものやうだが、しかし、考へやうによつては、君がどれほど美人であつたにしても、僕は、君を、それ以上美しいひととして心に描く力、或は、権利をもつてゐるんだぜ。それに抗議するほど、君も、己惚れてはゐないだらう", "えゝ、己惚れてはゐないわ。ごめんなさい、うるさいこといつて……" ], [ "いや、僕は、芸術家になりたかつたんです", "ふむ、芸術家か、おんなじ芸術家でも、お花の先生だね、ちかごろ、とんと楽でないらしいのは……", "いま、温室の花では、なにがいちばん出盛つてゐるんですか?", "さあ、このへんぢや、まあ、桜草だね。値段も手頃だしね", "桜草もいゝな。おい、美津子、あとで、おぢさんのところから、桜草を一鉢、もらつて来てくれたまへ。お金はちやんと払つてね", "なに、そんなことは、どつちだつて……" ], [ "あの、僕、右脚を捻挫したんですが、マッサージをやつてみろつて、言はれましたので……こちらで、してもらへるでせうか?", "はあ、ちよつとお待ちください" ], [ "警官か。……どんな警官だい?", "若い、おとなしさうな方よ", "ちよつと拝見しませうつて……。応接でしばらく待たしておきたまへ" ], [ "どこがおわるいですか? あ、脚の捻挫でしたね", "はあ、パトロール中に不審尋問をしてゐた相手が、いきなり逃走を企てましたので、その後を夢中で追ひかけました。そのとき、石につまづいて転んだんですが、あとで、気がついてみると、膝つぷしがバカに痛むんです……", "ちよつと、ズボンを脱いで、こゝへおやすみになつてください", "ズボン下も脱ぎますか?", "脱げるものはみんな脱いでください", "医者にみせたんですが、医者のいふことがどうもあてにならんのです。レントゲンの結果は、別に異状ないといふんですが……とにかく、マッサージが一番いゝと思ふから、毎日病院へ通つて来れば……", "わかりました。医者の見たてはべつに参考にはなりません。僕が拝見して、どうすればよいかきめませう。かうすると痛みますか", "痛みます", "かうすると……?", "それほどでもありませんが……", "よろしい。捻挫といふほどのものではありません。一種の打撲です。二週間もたてばなほります", "ひとつ、なにぶんお願ひします", "時間のご都合はどうですか? 僕は、月水金は今ごろの時間にしてほしいんです。火木土は、午後七時から八時頃までにいらしつてください。日曜は休みます", "けつかうです", "勤務には差支へありませんね。なんなら、証明書を書きませうか?", "いえ、それより、費用はどれくらゐかゝりませうか?", "僕は保険医ぢやありませんが、あなたの収入と相談といふことにしませう。一回五十円はつらいですか?", "さうすると約六百円ですな。なんとかなるでせう", "普通は一回二百円もらつてゐます。公務のための傷害ですから、特別にしませう", "自発的に、さういふ手心を加へてくれる按摩さんは、これや珍しいですな", "僕は按摩ぢやありません", "これは失礼、マッサージ屋さんですか", "屋といひません。師です。これもいゝ名ぢやないけれど……", "商売にいゝ名は少いですよ。警官なんていふのも、いやな名ですな", "お巡りさんといへば、親しみがあつていゝぢやないですか?", "――そら、お巡りさんに連れていかれるよ、これや子供をおどかす文句です", "いつから警察の方へはいられましたか?", "はゝ、まだやつと一年になつたばかりです。僕は、かうみえて、終戦直前に海兵を出たんです。軍人といふ名も、現在ではぞつとしませんな", "へえ、それぢや、世が世なら、君は海軍青年士官か。今より威張つてたらうな。問答無用の口ぢやありませんか", "僕はたゞ、おしやれがしたくつて、海兵を志願したんですよ。警官の制服ももうちつとスマートならいゝんですがねえ、ハヽヽヽ" ], [ "おそれ入りますが、お名前とご住所を……", "藤岡重信です。住所は……勤め先でいゝですな。〇〇警察署としといてください。生年月日、大正十年六月二十日、本籍はいらんですか?", "いえ、それはよろしうございます。では、病名は?" ], [ "おかげで、もうすつかりいゝと思ふんですが、なんだか、これつきり、お宅へ来られなくなると思ふと、ちよつと淋しいんです、実は……", "あら、どうしてですの? そんなおめでたいことつてないと思ひますわ。いつまでも痛いところがおありになつたら、それこそ、お困りでせう?" ], [ "いえ、脚の痛みは我慢できますが、我慢のできない痛みが、今の僕にはあるんです。先生にそれを言へば叱られるでせうがね", "あたくしには、なんのことだか、わかりませんわ。ごめんあそばせ……もうぢき、帰つて来ると思ひますわ" ], [ "今日で、だいたい、いゝと思ひますが……", "念のために、もう、少しつゞけていたゞけたらどうでせう?", "他覚的には、もう、全治とみて差支ないんですが……ご希望ならあと一週間もつゞけませうか" ], [ "あたくしなんか、そんな値打あるもんですか。でも、あなたの気まぐれをとがめる資格も、あたくしにはないわ。たゞそれだけのことでしたら、誰の迷惑にも、損害にもならないことですもの。あたくしは、今のお言葉を伺つて、わざとお礼は申しあげません。それはもう、人妻として、ふたしなみなこと、危険なことですから……", "お礼なんか言つてほしくありませんよ。でも、不愉快だとはおつしやらないでせう? さうですよ、僕の察するところ、あなたのご主人は、あなたがどんなに美しい方かといふことを、自分で判断されることはできないでせうからね" ], [ "それごらんなさい。あなたは、そのことをひそかに悔んでゐられる。あなたが美しいといふことは、誰かのためでなければならないのだ。それをちやんと知つてゐる誰かのためでなければならないのだ。さうでせう?", "いゝえ" ], [ "あら、どうして、こんなにお早かつたの?", "午後の授業が休みになつたんだ。生徒をどこかへ見学に連れてくつていふんだ。誰か来てるの?", "いゝえ" ], [ "あら、どこへいらつしやるの?", "寒いからちよつと火にあたりたいんだ。ストーヴをつけてくれ" ], [ "火がついてゐるのか、こいつは有りがたいや。今日はしかし、誰も来る日ぢやないだらう?", "えゝ、さつき、あたしが、ちよつと……", "あゝ、さうか。しかし、変だな。アルコールを使つたかい、この部屋で?", "あゝ、さつき、葡萄酒の瓶をふいた雑巾でこのテーブルを拭いたんです", "美津子、ダメだよ、嘘をついちや……この家のなかに、もう一人人間がゐるよ", "まあ、変なことおつしやつちや、いやだわ。誰がゐるんですの、いつたい?", "それをはつきり知りたいんだ、僕は……。教へたつていゝだらう?", "誰もゐないのに、お教へするわけにいかないわ。あなたは、今日は、どうかしてらつしやるわ", "君もどうかしてる" ] ]
底本:「岸田國士全集18」岩波書店    1992(平成4)年3月9日 発行 底本の親本:「オール読物 第七巻第四号」    1952(昭和27)年4月1日発行 初出:「オール読物 第七巻第四号」    1952(昭和27)年4月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043864", "作品名": "髪の毛と花びら", "作品名読み": "かみのけとはなびら", "ソート用読み": "かみのけとはなひら", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「オール読物 第七巻第四号」1952(昭和27)年4月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43864.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集18", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1992(平成4)年3月9日", "入力に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "底本の親本名1": "オール読物 第七巻第四号", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1952(昭和27)年4月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43864_ruby_45464.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43864_45507.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "リデエ!", "リデエ!", "リデエ!" ], [ "僕は、リデエなんか知らないよ", "来ればわかるのよ" ], [ "いゝえ", "あら、風景だけ……", "それから、静物も…………" ] ]
底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 初出:「婦人公論 第十年第七号」    1925(大正14)年7月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2006年2月18日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044359", "作品名": "カルナツクの夏の夕", "作品名読み": "カルナックのなつのゆう", "ソート用読み": "かるなつくのなつのゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「婦人公論 第十年第七号」1925(大正14)年7月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-03-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44359.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集20", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年3月8日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "底本の親本名1": "言葉言葉言葉", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年6月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44359_ruby_19950.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-02-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44359_21789.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-02-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "だつて、予定は来月初めぢやないか。まだ二週間はたつぷりあるぜ", "あたしもそのつもりだつたのよ。だから、なんにも用意なんかしてないわ。でも、病院へ行くひまあるかしら……。苦しい、とても苦しい" ], [ "すぐそこの活版屋の横を入つた鈴村といふものですが、家内が、今、急に腹が痛いと言ひだして、実は困つてゐるんです。大至急来ていたゞけないでせうか?", "予定日はいつになつてをりますですか?", "それが、すこし早すぎるには早すぎるんです。医者は来月初めと言つてたんです", "お医者におかゝりになつてるんですね", "それが、本郷の病院でして、医者はもう間に合はないと思ふんで……", "先生はたゞ今、ご近所へ往診中ですから、早速、さう申しあげてみます" ], [ "やあ、どうもすみません。まつたくお産なんていふもんは、人騒がせなもんですなあ", "それや、さうですわ、みんな旦那様のせいですもの" ], [ "心配しないでいゝよ。万事、心得てるよ。あと、病院に電話をかけてさ、産後の手当を間違ひなくやつてもらへばいゝんだらう", "だつて、あなた、それぢや、産婆さんにわるかない?", "そんなこと言つてる場合ぢやない。まあ、おれに委せとけよ" ], [ "ほんとは、旦那さまには、どこかでお待ち願ふとよろしいんですけれどね。おそばにお顔がみえると、それが癖になつて、今度からはどうしてもつていふことになりますんですよ", "えゝ、さういふ話は聞いてますが、それもわるくないと思ひましてね" ], [ "もつと、ちやんと、あなたからもお礼をおつしやつて……", "あゝ、さうだ" ], [ "さうですか。やはり、さういふこともあるんですなあ。しかし、失礼ですが、拝見してゐて、なんと言ひますか、大したもんだと思ひました。専門家もよほどの経験をもたれないと、あゝは行きますまい。自信満々とけふところが、実に、こつちを大船に乗つた気持にさせますからなあ", "あら、さうお褒めにあづかるほどの腕前ぢやございませんけれど、産婆に大事な勘は、自分の力でうまくいくかどうかを、早く、見てとることですの。手遅れが一番、恐ろしうございます", "もう、よほど永く、この土地で……?" ], [ "はあ、もう、かれこれ、二十年になりませうか。お宅さまも、ずゐぶん、おふるくつていらつしやいますわね", "えゝ、えゝ、二十年にはなりませんが、このへんでは古顔になりました。さうしますと、その以前は、どちらで……?" ], [ "東大の附属病院にしばらく勤めてをりました。免状だけは早くに取つておきましたんですけれど、なんですか、独立するのがこわいみたいで……", "なるほど……良心的な医者が、たいてい学校の医局勤めをなん年かやるやうなもんですな。いろいろ伺ふやうだけれど、ご郷里は?……" ], [ "あたくし? あたくし、生れは西の方でございます。田舎者ですの", "西の方とおつしやると……関西ですか" ], [ "兄さん、ダメだわ、しよつちうそばにばかりついてらしつちや……。お産のあとの手当てがあるのよ。奥さんにだつて、すこしは遠慮なさるもんよ", "さうかなあ。別に、そんな必要ないと思ふが……。順子がいやだつたら、あつちへ行けつて云ふだらう", "順子さんも順子さんだわ。あたしだつたら、まつぴらだわ" ], [ "あなた、いつか考へてらしつたぢやありませんか? あれ、男の子の名前だけ?", "うむ、別に、本気で考へたわけぢやない。しかし、名前つてものは、変なもんだよ。遠い昔に聞いた名前で、不思議に忘れられない名前があるもんだ。顔は思ひ出さなくつてもだぜ。そんな名前が、誰にだつて、一つや二つはあるだらうな" ], [ "へえ、やつぱり、その子供さんは、鈴村つておつしやいますの?", "それが、鈴村ヒロシ、そのヒロシつていふ字まで、どこで知つたのか、あたくし、ちやんと覚えてますのよ。お宅の旦那様の博志、そのまゝなんですもの", "それは、このわたしにちがひありません。あなたのその頃のお住ひは、名古屋の撞木町ではありませんか" ], [ "まつたく奇妙な廻り合せです。しかし、あなたは、そのヒロちやんなる腕白小僧を、ちつとも覚えてゐませんか?", "それと申すのが、あたしは、そこに一年あまりしかをりませんでしたし、ご近所に、おんなじやうな男のお子さんがいくたりもいらしつて……", "いや、そのおんなじやうな男の子のうちでも、特別にあなたの注意をひかうとしてゐたのは、このわたしですよ。あなたが、わたしの家の前を通られると、わたしは、わざわざ門から飛び出して、トンボ返りをしてみせ、石を拾つて電信柱にぶつけ、水の溜つた溝の中へじやぶじやぶはいり、あげくの果ては、あなたの後ろから全速力であなたを追ひ越し、そのまゝ大光寺といふお寺の境内へ逃げこんだものです", "まあ、あきれた。でも、どうして、それが、さうだつていふことが、あなたにおわかりになるの? いつたい、いくつの時なの?" ], [ "そんなことは、おれは忘れたよ。とにかく、おれにとつては、バカに懐しい時代だよ。あの頃、わたしは、あなたのお年なんていふものは、まるつきり考へてもみなかつたが、それでも、ずゐぶん、距たりがあることだけは感じてゐましたよ。いつたい、おいくつぐらゐでしたか?", "さあ、あれで、十八九でしたかしら? なにしろ、田舎の両親が早くお嫁に出さうつていふんで、名古屋へ稽古ごとをさせに連れて来たわけですから……", "すると、あれからすぐ、おかたづきになつたわけですね", "はあ、でも、それがあたくしの不仕合せのもとでした。一年でその主人とは別れました。実家へは帰れず、思ひ切つて、上京いたしましたの、看護婦にでもなるつもりで……", "ぢや、その後、なんですか、ずつとおひとりで……?" ] ]
底本:「岸田國士全集16」岩波書店    1991(平成3)年9月9日発行 底本の親本:「スタイル読物版 第二巻第四号」    1950(昭和25)年4月1日発行 初出:「スタイル読物版 第二巻第四号」    1950(昭和25)年4月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年9月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "あら、二人とも、親を親とも思はないやうなところは、ちつともありませんよ。やつぱり、なんでもかんでも、お父さん、お母さん、ですよ。ただ、お行儀つてものを、まるで知りませんね。あれで、当節は、通用するらしいんですよ。あたしたちも、戦争ですつかり、お行儀なんてこと、言つてられませんでしたからねえ", "ふむ、お行儀か……君は、さう解釈するんだね。たしかに、さういふ一面もある。だが、行儀なんてものは、一軒の家で教へたつてダメだな。ぢや、万事、成行にまかせるか" ], [ "お早う、よく眠れたかい?", "そんなことより、お父さん、学校の寄附どうするの? 早く決めてよ。お母さんになんべんも言つてるのに、待つて待つてつて、ばかり言ふのよ", "よし、けふきめる。朝飯がすむまでにきめる" ], [ "先生、その考へは現実を無視したもんだと思ひます。大学の卒業免状が、そもそも、われわれには先づ必要なんです。それは、比較的安全な生活の保証だからです。先生の時代には、さうぢやなかつたんですか?", "伏見君、現実といふものを、さういふ風にばかりみてはいけない。なるほど、現実の一面はたしかに君の言ふとほりだ。しかし、わたしが言ひたいのは、大学の卒業免状を比較的安全な生活の保証だといふ風にだけ考へないで、もう少し、大学の精神と実質とに結びつけた見方をしてほしいのだ。わたしたちの時代には、少くとも、原則としてそれがあつた。今でも、諸君のうちに、きつと、いくらかはそれが残つてゐると、わたしは信じてゐる。君をして、公然とさういふ言をなさしめるのは、いつたい何か? 時代だといふのか? 否、断じて、否だ。敢て言ふが、それこそ、時代におもねり、時代に甘え、時代を見くびつてゐる者の軽薄な態度にすぎんと、わたしは思ふ" ], [ "それなら、先生は、今日の大学といふもんを、頭から肯定してゐられますか? これが大学の在るべきすがたですか? 歴史的必然を無視して、徒らに資本主義の走狗を養成する大学になんの権威が認められるでせう。僕たちは、それなら、なぜ、さういふ大学へはいつたか、と、言はれるでせうが、それはただ、方便にすぎません。卒業免状は、いはば、入国困難な国へ足を踏み入れる、パスポートでしかないんです", "講義をはじめる" ], [ "しばらく顔をみせなかつたやうだが、どうしたの? 病気? アルバイト?", "アルバイトが祟つて、しばらく医者にかかつてゐました" ], [ "アブ蜂とらずとはそのことだ。アルバイトは、なにをしてゐたの?", "僕には無理だと思つたんですが、船の荷役をやりました。条件がわりにいいもんですから……", "ふむ、重労働ぢやないか。下宿代まで稼がなくつちやいけないの?", "ええ、時々、おやぢからの送金が途絶えるもんですから……", "まあ、かけたまへ" ], [ "それで、からだの方は、どういふの? 胸ぢやあるまいね?", "やつぱりさうらしいんです。でも、学校へ出るぐらゐ、注意をすれば差支ないつて、医者は言ひました", "気胸でもやつたらいいんだらうな。僕から、医学部のだれかに話してみてあげようか。費用なんか、さうはかからない筈なんだ", "僕はもう、それどころぢやありません。一日生きるつていふことで精いつぱいですから……。それに、そんなに生きてゐたくもないんです" ], [ "いや、ただ、そんなことが言つてみたかつたんです。すべて、今の僕にはわからないことだらけで、しかも、そのわからないことが、疑問のかたちで自分に解決をせまつて来ないのが、むしろ、やりきれないんです。先生、ご用はそれだけですか?", "ああ、別に用事といふわけではないんだが、君のやうな優秀な学生が、落ちついて勉強できない状態にゐるのを、わたしは黙つて見てゐられないんだ。なにか、わたしで役に立つことがあつたらと思つたんだが……まあ、十分健康に注意して、手遅れにならないやうに注意したまへ", "ええ、けふ、教室で先生の言はれたことを、もう一度よく考へてみます" ], [ "学生さんをですか? 部屋だけでせう?", "うん、部屋も部屋だが、実は……" ], [ "でも、あなた、さういふ学生さんは、ほかにもたくさんゐるんでせう? なにか、特別の義理でもおありになるんですか?", "ない。ただ、どこか見どころのある青年だといふだけだ", "そんなら、なにも……", "いや、わかつてるよ。一人でもなんとかならんかと思つてさ。が、まあ、諦めよう。力足らず、だ" ], [ "へえ、珍しい男が出て来るぞ。ほら、一度家へもやつて来たぢやないか、あの八女陸郎だよ、九州のB大学にゐる……。あれからもう十年になるなあ。覚えてるだらう、年賀状だけは欠かさず寄越す男だから……", "さうでしたつけ? さうおつしやれば、そんな気もしますわ。その方が、どうして出てらつしやるの?", "だからさ、心理学会の総会が今月末にあるからさ。宿をしてやらう、宿を……。なにしろ、私費旅行は、今時、つらいだらう。あいつも、わたしとおんなじで、ほかに芸なしだから……" ], [ "酒もあるさ。君は、昔からそんなに飲んだか", "昔は昔、今は今さ。しかし、愉快だよ、君とかうして、久しぶりに会へたのは……。今夜はうんと若返らう" ], [ "なるほど、変つたといへば変つたし、変らんといへば変らん場所だな。ははあ、これが評判のストリップ・ショウか。はいつてみよう", "なに? ここへはいるのか?" ], [ "うん、だが、これでなくちやいかん連中もゐるんだらう", "第一、裸体つていふもんは、君……" ], [ "曰く、複雑だね。見た瞬間、こいつはしまつたと思つたが、馴れてくると、いろいろの見方ができて面白かつた。人間はなんといつたつて、動物だよ", "一言にして言へば、か。しかし、おれは旅の恥はかきずてのつもりだが、君を誘つたのは、いささか乱暴だつたかな。学生にみつかつたら、どうする?" ], [ "学生つていへば、君の方なんかどうだい。ずゐぶん、戦前と気分が変つてきただらう", "変つたといへば変つたが、変らんといへば変らんね" ], [ "その変つた面について言ふんだが、地方ぢやアルバイトとかなんとかで、学校をサボる奴は少いわけだな", "さうだ、比較的少い。東京はその点、昔から苦学生の本場みたいなもんだから……。かく言ふおれも、その一人だぜ、おい……", "そこなんだよ、昔と今の違ひは……。昔の苦学生は、ほとんど例外なく、勉強家だつた", "さうかもしれん。だが、そのうちの多くは、勉強倒れつてやつさ。おれも一時は、学問で身を立てるつもりでさ、こつこつやるにはやつたが、学校を出たらおしまひさ。ごらんの通り、碌々として、論文も書けずじまひだ", "そんなことは、どうだつていいさ。おれも、教師の職分に徹する覚悟がやつとついた頃、もう、五十を過ぎてゐたよ。われわれは、なによりも次の世代に対して、償ひをしなけれやならんからなあ", "それを、どういふかたちにおいてやるかだ", "われわれのもつてゐるもののうち、なにが彼等のプラスになるかつていふことだらうが……むつかしい問題だ", "おれは、絶対に弱音を吐かんことにしてるよ。なまじつか、自分の旧さなどを認めて、彼等を甘やかすことは、百害あつて一利なしだ", "おれは、決して旧いとは思はない。しかし、なにか時代の責任みたいなものを感じるんだ、個人的な問題でなく……", "そこが、君の盲点だよ。自縄自縛に陥る所以さ" ], [ "は? これですか? へへ、アルバイトです、希望者に売るんです", "友達から頼まれたんだね?", "僕が考へついたんです", "そんなものが、金になるのかい?", "買はうといふやつがゐるんです", "一回いくら、でね?", "ええ、講義によつて違ひますけれど……", "コピーは、いくつぐらゐとれる?", "せいぜい四枚です。慣れませんから……", "その思ひつきはまあいいとして、それから、君一人の場合は、仮にそれがゆるせるとしてだ、そんなことみんながやり出したら、学生はどの講義にも五分ノ一出席すればいいことになるね", "さうです", "さうですぢやないよ。それでもいいわけかねえ?", "しかたがないと思ひます", "うむ。さうなれば、もう、しかたがない。わたしは、教師として、どうもそいつは困ると思ふんだ。今すぐ、君にそれをやめろとは言はないが、すこし、研究させてくれたまへ。どら、そのコピーを一つ、見せてごらん" ], [ "先生、そのコピーの代をいただきます。それ、一部五十円です", "え?" ], [ "あ、さう……五十円かね……?", "計算は計算ですから……" ] ]
底本:「岸田國士全集17」岩波書店    1991(平成3)年11月8日発行 底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店    1951(昭和26)年11月5日発行 初出:「別冊文芸春秋 第十九号」    1950(昭和25)年12月25日発行 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2021年2月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043857", "作品名": "計算は計算", "作品名読み": "けいさんはけいさん", "ソート用読み": "けいさんはけいさん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「別冊文芸春秋 第十九号」1950(昭和25)年12月25日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-03-05T00:00:00", "最終更新日": "2021-02-26T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43857.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集17", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年11月8日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年11月8日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年11月8日", "底本の親本名1": "ある夫婦の歴史", "底本の親本出版社名1": "池田書店", "底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年11月5日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43857_ruby_72754.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-02-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43857_72806.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-02-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "さあ、早く支度をしろ。ブレンネル・ホテルから迎ひが来てゐる。", "ブレンネル・ホテル……あら、今時分……?", "えらいお客様だ。国境画定委員とかいふ、あれさ、同勢二十人からの団体らしい。一と月ぐらゐゐるつて話だ。手伝つて来な。", "外国人ばつかりでせう。", "当り前さ。英吉利、仏蘭西、日本……。", "マカロニイもゐるの。", "伊太公か、うん……。" ], [ "大佐殿、もうおやすみになりましたか。", "いゝや、君もまだ起きとつたのか。まあはひれ。" ], [ "誰にそんなことを云ひつかつた?", "…………", "黙つてゐると、お父つあんを引つ張つて来るよ。", "あら……。誰にも言ひつかりはしませんわ。父はなんにも知りません。それだけは神様に誓ひます。", "よし、では、どういふつもりで、あんなことをやつた? はつきり答へてごらん。", "墺太利のためです。", "うむ、お前はまだ子供だからなんにも知るまいが――。いゝか、お前のしたことは、墺太利のためどころか、却つて、その反対だ。墺太利は、明日から一層不利な立場に立つだらう。莫大な賠償金を出さなけれやならん。ことによると、また戦争が始まつて、ウインナまで伊太利に取られてしまふぞ。", "いゝえ、そんな法はありません。墺太利は、もう、チロルの半分を失はうとしてゐるのです。あたしたちを、墺太利から引離したのは誰です? あなたがたです。伊太利人です。ああ、神様はそんなことをお許しになるでせうか。", "馬鹿を云へ……伊太利人に罪はないよ。戦争つていふものはかういふもんだ。お前たちも悲しい思ひをしたらう。我々も同様に苦しいんだ。お前は、僕までも殺す気だつたのか?" ], [ "とにかくお前は、伊太利人を憎んでゐるんだね。それで、復讐をしようと思つた。よろしい。で、われ〳〵を殺すために、あゝいふ仕掛をした。珍らしいことを思ひついたもんだが、あの仕掛は一体、誰にをそはつた?", "自分で考へました。", "嘘つけ!" ] ]
底本:「岸田國士全集6」岩波書店    1991(平成3)年5月10日発行 底本の親本:「花問答」春陽堂書店    1940(昭和15)年12月22日発行 入力:kompass 校正:門田裕志 2011年5月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046851", "作品名": "けむり(ラヂオ物語)", "作品名読み": "けむり(ラジオものがたり)", "ソート用読み": "けむりらしおものかたり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 912", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-07-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card46851.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集6", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月10日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月10日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月10日", "底本の親本名1": "花問答", "底本の親本出版社名1": "春陽堂書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年12月22日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kompass", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/46851_ruby_43364.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/46851_43491.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "では、常会を終る前に、組長としてみなさんにご相談しますが、今日限り僕は、隣組長の役をごめん蒙りたいと思ひます。足掛け二年、正味十七ヶ月ばかりでしたが、僕と家内とは、不敏ながら誠心誠意、お役に立ちたいと心掛けて来ました。しかし、その間、みなさんのご協力をありがたく思ふこともありましたが、案外張合のないものだと思はせられることも屡々ございました。自分たちの不注意や、徳の足りないところ、さういふことのために、時々はお叱りを受けたり、絶えず反省させられることもありました。要するに、この仕事は、誰でも一度やつてみるといいと思ふのです。そこで、今日はこの席上で、僕の辞任を聴き届けてもらふと同時に、次の組長を決めて、早速事務引継ぎをやりたいと思ひます。どうしますか? 僕は一つ時、席を外した方がいいと思ひますが。……", "そんなことしなくつてもいいでせう" ], [ "それが一向わからんのですが、多分、もう疲れたといふところらしいですよ。どうです、みなさん", "それや、お疲れになりますよ" ], [ "楠本君の辞任はやむを得ないものと認めますか、どうですか", "止むを得んでせう" ], [ "投票ですか。そんなら僕は棄権しますよ。隣組で多数決といふことが行はれたら、それこそ隣保精神の破壊だと思ひますが……", "いや、いや、さういふ意味ぢやないのさ。ただ参考にするといふだけさ。しかし、それも名案とは云へないな" ], [ "貫太はまたお隣りの姉さんたちに遊んでいただいてるんでせう。近所に学校のお友達がないから、つい……", "お隣りならお隣りでいいさ。お前が時々はのぞいてやらなけれや……。主婦のゐない家なんていふものは、子供を委せちやおけないよ。変なもんでも食はされてみろ" ], [ "ええ、食べものだけは気をつけてます。こないだもお隣りのお祖母さんにいただいたつて、すこし黴の来た干甘藷をみせましたわ。田舎の方つて、呑気ね", "だいたい、あの田丸君つてひとが呑気だよ。あんな婆さん一人に子供を預けて、よく旅行なんかに出られたもんだ", "でも、加寿ちやんたちは、もう大きいから……。ぐつと違つて来ましたわ。お母さまがおなくなりになつてから……", "なんだか知らないけれど、二人とも、けろつとしてるぢやないか" ], [ "今日はお家でたべませう。ライスカレーよ", "ライスカレーなんか大嫌ひだ" ], [ "へえ、お勤めつて、今度はどういふ方面なの?", "よく知らないけれど、やつぱりなんとか連盟よ。東京にはそんなに用がないんですつて……", "ああ、それで……" ], [ "ぢや、ストライキはいいから、先生の渾名のお話……", "それもいや。そんな話は聞いても、すぐに忘れてしまふもんよ。小母さんだつて、もつといいお話できるわよ" ], [ "さうよ、田舎へ行つて、馬小屋の入口で、『ご免下さい、ご免下さい』つて云つたお話でせう", "バカね、世津子さんは……" ], [ "ぢやね、今晩は、小母さんがこの家へはじめてお嫁に来た時のお話をするわ。ね、いいこと、人には内証のことばつかりよ", "うん、早く、早く……" ], [ "一生に一度の厚化粧を、されるまゝにさせて、えゝい、どうにでもなれと思ひながら、迎への自動車に乗つたわ。式場へ連れてかれるのよ。式の時神主さんが祝詞を読みあげるのを聴いてゐて、だんだん頭がはつきりして来たわ。さうさう、あたしはこれからお嫁さんになるんだつけ……。可笑しかないわ、ほんとなんですもの。どんなひとのお嫁さんになるんだつけ? あゝ、このひとか。真ん前に、紋付羽織袴で畏つて坐つてる男のひと……変だなあ、こんなひとだつたか知ら? もつと瘠せてやしなかつたか知ら? あ、眼鏡をかけてるわ。おや、髪があんなに縮れてやしなかつたのに……。だつて、会つたのはたつた二度、そん時が三度目なんですもの", "それが、小父さまでせう" ], [ "さうよ、あの小父さんよ。今と変つてないわ、ちつとも。仲人さんがその次ぎに、夫婦になつた以上は、いつまでも仲善く、助け合つて参ります、つていふ意味の宣誓文をお読みになるの。もうその時は、立派にお嫁さんになる覚悟ができて、それでも胸がどきどきして、うれしいやうな、恥かしいやうな気がしたわ。式がすんで、ご披露の席へ出ると、あつちにもこつちにも知つた顔が並んでゐて、その顔がみんな一種特別な他処行き顔で、笑ひたいのを我慢してるみたいな、妙ちきりんな顔なのさ。こつちがくすぐつたくなるわ。それから、お料理がおしまひになる頃……", "洋食でせう?" ], [ "ええ、ところが、一人分だけ、和食のお膳が出てるの。当ててごらんなさい。うちのお祖母ちやんのお母さん。その頃八十いくつよ。田舎からわざわざそのために出て来て、帰ると、ぽくりと死んぢまつたの。いゝお婆さんだつたわ。えゝと、なんだつけ……", "お料理が出てしまつて……" ], [ "お姉さん、ほら……あれは……?", "なあに?" ], [ "あのね、小母さま、うちのお母さまの写真をこんど焼増しして、親戚やお友達に差上げるんですつて……。それでね、お父さまがね、お前たち好きなのを撰り出せ、それを焼増しするからつて、さうおつしやるの。あたしたち、よくわからないから、小母さまにご相談しようと思ふの。いいこと?", "うん、それやかまはないけど、あなたたちのお祖母ちやまにも一度ご相談してみたら?", "だつて、お祖母ちやまつたら、ちつとも似てないのを、『いい、いい』つておつしやるの" ], [ "遠山さんの三番目の……ああ、日本精器とかへ勤めてる……", "さう、さう" ], [ "茂ちやん、もうぢき兵隊さんだわ", "裕君は、どうしてるんです? まだ学校?" ], [ "いやですわ、この春もう卒業なさつたんぢやありませんか", "ご病気でいまお勤めを休んでらつしやるのね、たしか" ], [ "いや、大したことはないやうですよ。ああ、子供のことはどうも……あなたによくお礼を申上げてくれつて云つてました", "それどころぢやありません。僕がもつとよく注意すべきだつたんです" ], [ "上つて遊んでますよ。いいぢやありませんか", "すぐ帰るやうにつて、どうぞ……" ], [ "君たちとゆつくり話をする機会がなかつたけれど、どうです、今夜、暇だつたら僕の家へやつて来ませんか", "伺ひます" ], [ "今日の勤労奉仕は、案外はかどりましたよ。この分なら、今年中に畑の恰好だけはつきさうです。ハウレンサウの種ぐらゐ蒔けるでせう", "それやまあ結構ぢや。でも、大きな木を伐つたりする時は、子供がゐると危いけに……" ], [ "血が止まらないつて、どこの?", "頸筋と、それから、左手のここんところ……" ], [ "久保君は来年卒業だね", "いやいや、まだ専門部の一年ですから……" ], [ "よく聴いてくれたまへ。僕がね、その問題に触れておきたいと思ふわけはだよ、これは決して、久保さんと君たちとの間の言葉の行違ひではすまされない問題を含んでゐるからだ。こいつはね、僕はかねがね心配してるんだが、現在の日本にとつて、国内の問題としてだけ考へてみても、みんなが反省しなければならない重大な現象の一例で、特に君たち青年の立場から、よくその辺の事情を弁へ、慎重に、そして勇敢に身を処する術を心得てゐてほしいのだ。今日の事件を、最初から想ひ出してみよう。大西君と遠山君だつたね、いつたい、誰からあの桜を伐れと云はれたの?", "誰からも云はれません。ただ、僕たち二人の手があいたもんで、今度はどれにしようかと思つてると、あの桜の木に、伐採の印がついてゐたんです。やらう――つてんで、そばまで行くと、二人でなんとなく気おくれがしたんです。若し畑に蔭を作つて邪魔なら、どつか北の隅へでも移せないかなあ、と思つたら、とたんに、ああ云ひたくなつたんです", "なんて云つたんだつけ!", "この桜、やつぱり伐りますかあ、つて……", "そしたら、久保さんが……?", "伐る、伐る、伐るべきものはさつさと伐る――言葉通り覚えてます", "うむ。そしたら、どうだつけ?", "遠山君が――惜しいなあ、つて云つたんです" ], [ "惜しいとはなんだ。君は誰だ。梅だ桜だなんて云つてる時期ぢやない――と来た", "――と来た、は余計だよ。それだけだね", "いや、僕がそのあとで――惜しいものはし惜しいと云つたつていいだらう。誰も梅だ桜だなんて云つてやしない、とやり返したんです、癪にさはつたもんで……。", "さういふ風な調子でこの話をするのはよさう。僕は君たちと一緒になつて久保さんの蔭口を利くつもりはないんだ。はつきり断つとくが、若しこれが勝負だとすれば、君たちの方の負けだよ。さうとも……君たちは、君たちの大事な矜りをむざむざ棄ててしまつてるぢやないか" ], [ "いや、わかるにはわかります。しかし、そんなら、僕たちに過ちはないのだし、久保さんの方にだけ、青年を識らんといふ罪があるんぢやないですか", "馬鹿なことを云ひたまへ。君たちは、どんな場合でも、先づ、今日の時代、もつと日本人を信用してかからなけれやいけないんだ。――この桜、やつぱり伐りますか、そんな問ひは第一どこから出るんだい。実際は気軽に口から出た言葉だらう。しかし、こいつは、全体に眼を配る責任者がゐる以上、余計な念の押し方だ。善意にとつても、責任者がうつかり桜を伐らせてしまふんぢやないかといふ心配からだらう。僭越この上もない心配だ、と云はれても、君たちは文句は云へないんだ。あの桜を伐るのは惜しいぐらゐのことは日本人なら誰でも考へる。それは十分考へた上での裁決だ、と、君たちには信じてほしい。さう信じられたら、黙つてやれんこともないだらう。また、仮に、惜しいといふ嘆声を漏らすにしても、その言ひ方が違つて来る。久保さんの胸には、少くとも、違つて響く。すると、久保さんの同じ返事が、君たちになんの反撥も感じさせないんだ。素直な激励の調子、お互の決断を促す明朗な語勢を帯びて来る" ], [ "いや別に……。ただ、さうだとすると、うちの共同菜園は大したもんだつて、父なんかが話してましたから……", "さう?" ], [ "その代り、おシヤウガがどうしても手にはいらなくつて……我慢なすつてね、お義母さま……", "ええええ、そんな贅沢はもう云ひませんよ", "なんだ、シヤウガなしの湯豆腐か!" ], [ "まだとつときが二三本ありますわ", "一本開けろよ", "白? 赤?", "白はなんだつけ?", "さあ、持つて来てみませうか" ], [ "加寿子さんとこへ遊びに行つていい?", "駄目よ、今日は……。それよりお父さまに算数の宿題をみていただきなさい" ], [ "勝手に約束なんかする法ないわ", "いやだあ、約束を守らなきや、なほわるいや。僕、行くよ、どうしても……" ], [ "こいつに見つかつたら、もうおしまひだ。おい、グラスをもう一つ出せ。大きい方がいい", "やあ、ブルゴーニユですね。しめしめ", "お前んところに、チーズはないか", "そんなもの、とつくにありませんよ。僕んところぢや、大々的な生活革命ですよ。一切西洋式は廃止。フオークもナイフも、鉄屑として献納です。料理も片仮名料理は禁制といふことにしました。面白いですよ、女房の奴まごまごして……", "へえ、それや、お前の発案か!", "僕の発案といふわけでもないんですが、まあ、どつちからともなく、さうしようといふことになつたんです。勢ひの赴くところですな、早く云へば……", "勢ひの赴くところ、ひとの家でなら、ブルゴーニユでもなんでもござれ、か", "それやさうですよ、別に逃げてるわけぢやないんだから……。生活の単純化が本旨です", "単純化、即ち、経済化だな", "むしろ、戦力化と云つて下さい" ], [ "なににでも、一つの型つていふもんが必要ですね。あれもいい、これもいいはいかんですよ。さういふと嫂さんにはわるいけど、もう洋服なんかに用はないですね。女房は和服型標準服、僕はこの通り、筒つぽに狩袴です。いいでせう", "いいわ、ほんとに……" ], [ "それで、商売の方はどうなんだい。まだ転業はしないのか?", "人ごとみたいに云ふなあ、兄さんは……" ], [ "実は、そのことでご相談があるんですが、今日はさういふ話、いやですか?", "別にいやでもない。が、まあ、あつちへ行かう" ], [ "可笑しいのは兄さんの方ぢやありませんか。僕がもし興奮してるとすれば、兄さんはどうなんです。少くとも、冷静だとは、僕は見ませんよ。不感性か、さもなければ、立派なニヒリズムだ。兄さんは、日本のことが心配にならないんですか? この戦争の実体がなんであるか、それを考へないんですか? ぢつとしてなんかゐられない筈ですよ。むろん、軽薄な手合と一緒に、騒ぎ廻るのはいやでせう。そんなことは別問題です。なぜ、兄さんの能力を、直接、国の役に立てようと思はないんです。例へば国策宣伝の写真展覧会に一度でも出品しましたか? それより何より、今度の写真家の大同団結に、兄さん一人、参加を拒んでるつていふのは、どういふわけです?", "そんなこと、お前に話したつてわかりはしないよ" ], [ "お前が一体そんなことを言つて、なにになるんだい? しかも、おれの前で、なにをどうしようつて云ふんだ? 新しい仕事を始めるのに、金が欲しいつていふことはわかつた。それならそれで、おれにその金があるかないか、若しあれば、そいつをおれが出すかどうかを知ればいいんだらう?", "違ひますよ、兄さん、だから僕はさつきから言つてるぢやありませんか。使ひ過ぎた穴を埋めるんだとか、一と儲けするために資本がいるとか、そんなことなら、わざわざ兄さんに相談をもちかけやしませんよ。僕は、自分もこの際、もつとぢかに戦争に関係のある仕事ができ、兄さんにも、現在の日本人として、男らしく起ち上つてほしい、さういふつもりで、兄さんの肚の中を見せてもらひに来たんです。最初に企業整備のことを持ち出したもんだから、兄さんはそれにばかりこだはつてるけれど、僕は、続けて出版をやつて行く自信もあるし、軍需工場の新設は、ほかに金の当てもないことはないんです。僕の一番望んでゐたことは、兄さんが――おれは金は出せない。しかし、お前の考へてることはよろしい。おれは、おれの立場でこんな計画を立ててゐるんだ――さういふ調子の返事を聴きたかつたんです" ], [ "そんな、誰にでもできるやうなことに、僕を煩はさないでくれよ。そのへんの写真屋を呼んでくればいいぢやないか。いくらもかかりやしない", "それとはまた、話が違ひますわ。あなたがお撮りになつたつていふところが値打ぢやありませんか", "いやだよ。それやどういふ意味だい?", "ですから、わざわざそんな商売人に……", "商売人? 商売人がいけなけれや、素人だつてゐるだらう、いくらも……。写真機ぐらゐ持つてない奴はないよ", "えゝ、それやさうでせうけれど……" ], [ "あら、もうお眼覚めだつたの!", "煙草を喫はうと思つたら、マツチがないんだ" ], [ "なにが?", "いやにすつとしてるぢやないか", "とてもいゝ気持なの、早くお起きになつてよ", "起きてどうしろつていふんだい?", "いゝからお起きになつてよ。なんだか、こんな爽やかな気分の日は、もうないつて気がするの。お願ひだから、今日一日は、なんにもお叱りにならないでね" ], [ "どつちでも……あなたのおよろしい方……", "肖像なら、やつぱり部屋のなかだなあ" ], [ "あなたも、ひとつとつてお置きになつたら……? 教へてくだされば、あたしがやつてみるわ", "この恰好でかい?", "いいぢやありませんか。それとも、ジヤケツをお召しになれば……?", "お前には無理だよ。それより外のを庭で一枚、どうだい? 逆光線が面白いかも知れない" ], [ "写真機、それでよろしいの?", "いや、こつちのにする" ], [ "ちよつと、ちよつと……困つちやつたわ。すぐいらしつてよ", "なんだい" ], [ "ありがたうございました", "みなさん、ご苦労さま", "あたし、どんな風にとれてるか知ら?" ], [ "舞台は、小高い砂丘の上へ国民学校の教壇を据ゑるんださうだ。ところで、学校はあの山の向ふ側だつていふから、誰が運ぶか知らんが、こいつはひと骨だよ", "とにかく電線と出入の幕だけ張つとかう" ], [ "さういはれるあなたご自身は?", "むろん、その例に漏れずや", "ご謙遜ですか?", "阿呆いひなはれ、ただわしはこれで、いくぶん芝居が上手な方やと思ふとる" ], [ "信仰も信仰やが、第一この村は寺いふものが成り立たん。和尚もなかなか苦労やて", "成り立たんと言はれるのは?", "読んで字の如し", "それなら、お寺なんかどうなつてもいいぢやありませんか! 仏のお弟子がさういふことを言はれるのはちよつと……" ], [ "お早う。よく眠られましたか?", "えゝ、ぐつすり……", "あんなに蚊がゐてもねえ", "あら、そんなでもございませんでしたわ、なんて……さういへば、方々、痒いわ" ], [ "だからさ、別に旦那さんとか恋人とかに限らずさ、お母さんにしても、お父さんにしても……", "初めのうちは、心配らしかつたわね" ], [ "さう。だんだん信用がついて来たからね", "君たちの? それとも劇団の?", "さうおつしやられると困るけど、まあ、あたしたちのだわ" ], [ "でも、学校のこと聴いたつて、なんにも出来ないつていふのよ", "それや、先生みたいなわけにいかないさ。若し、さういふ必要があるなら、家庭教師を頼まなくつちや……", "それに……" ], [ "でも、やつぱり、お母さんて呼ぶの?", "さう呼べるひとがいいぢやないか", "結城さんぢやないんでせう?" ], [ "さうぢやない。それははつきりいつとく", "そんなら、どうでもお父さまのいいやうに……あたしはいいわ" ], [ "どうしてでも、いや", "どうしてでもいや……ふむ、ほんとのお母さん以外のひとを、お母さんと呼ぶのはいやなんだね", "お母さんみたいにされるのがいや" ], [ "申上げよう申上げようと思つて、ついそのままになつてをりますんですけれど、あたくし、なんにもお役に立ちませんし、それに妹からあんなにいはれましたもんですから、取敢へずどなたかいらつしやるまでと思つて、かうして伺つたわけなんでございますよ。ですから……なんて申しませうか、自分でも中途半端な気持ちで精いつぱいのことができませんし、それではまた先へ行つて、こちらさまのお為めにならないことはわかつてをりますので、あんまり長くなりませんうちに、そろそろお暇をいただかうかと存じますの。最近は急にご様子がお変りになりましたけれど、それでも、やつぱりもうあれだけのお年になりますと、余計な気兼ねを遊ばしたり、さもなければ、あたくしの方で差出たことをしてしまつたり、なかなか、むづかしうございますわ。実を申しますと、只今のやうなお取扱ひでなく、女中なら女中としてお使ひ下さいますなら、また別でございますけれど……", "わかりました。考へておきませう。だが、子供たちの様子が変つて来たつていふのは、あなたの方からいへば、楽なんでせう?" ], [ "それや、ずつと楽になりましたわ、先生からなにかおつしやつて下さいましたの……", "いや、いや別に……そんなことはなんにもいひやしない。僕だつて細かいことにさう気がついてゐないから……", "それやさうでございませうとも……。いいえ、なんですか、急に打ち融けたやうなところをおみせになりますんですよ。小さいお嬢さまなんか、わざとでせうけれど、お甘えになりますの……" ], [ "あたし貫ちやんに図画を描いたげなくつちやならないわ", "図画を? 学校のかい?", "ええ" ], [ "お食事のお支度ができましたです。なんにもございませんですが……", "まあ、とんだお手数をかけてしまつて……" ], [ "随分疲れたらう", "あなたこそ……もつとよくお眠みにならなくつちや……", "うん……" ], [ "お母さん、貞爾が来てますね", "ゐますよ" ], [ "ご病気はそんなに悪いんですか?", "は?" ], [ "あ、もう亡くなられたんですか?", "これをあなた様のところへお届けしろと申す遺言がございましたものですから……。まだお目にかかつたこともございませんのに……それにたいへん厚顔ましいお願ひをいたしまして……" ], [ "すると、あなたが奥さんですか?", "はあ、さやうでございます……どうぞ、なにぶんよろしく……" ], [ "すると、なんですか、その百五十円を出した残りは移動本部で負担されるわけですか?", "さうしたいのは山々ですが、まだ政府の補助金がそこまで出てゐません。従つてその負担は、政府は別として、第一に劇団をもつてゐる興行会社又は公共団体、第二に特志家の寄付、第三に、これは重要なことですが、さつきの利用組合の組織自体です。つまり、一村だけでなく、最寄りの数ヶ町村が同時に相談をして呼ぶといふ形にするのです。それによつて移動経費の割当が著しく軽減されるわけです", "さうすると、必ずしもこの村で呼びたい劇団を呼ぶといふわけにいきませんね" ], [ "わしらの村では大事なことでまだちつとも手をつけてないことがいくらもあるだが、それを後廻しにして、芝居を東京から呼ぶ算段をせにやならんといふわけが、なかなかみんなにはわかるまいと思ふだ。そこんところを、どういふ風に言つたらええか、ひとつ教へてもらへんですか?", "なるほど……これは深刻な質問だ" ], [ "ふむ、ぢや、今のお訊ねに答へる前に、こつちからちよつと訊きたいんですが、あなた、保健婦になられてから、もうどれくらゐ?", "あの……まだ新米ですの" ], [ "原口女史は、一昨年の秋、県の養成所を出て、東京で一年ばかし修行して帰つて来ただ。県の方で是非つて望まれただが、女史は、自分の村のために保健婦になる決心をしただから、それは断つたちうだ。まだ仕事を始めて間はねえだが、どうして、優秀なもんさ", "うそですで……そんなこと……", "うそなもんか。なあ、おしげさん" ], [ "いま、旅行から帰つて、はじめて承知しました。なんとも申しあげやうがありません。組長としても、ちつともお役に立ちませんでした。おゆるしください", "いいえ、そんなこと……" ], [ "だけど、そんな二列縦隊で通れるやうな路を開ける必要があるのかなあ", "いやだわ、あなたはお礼をおつしやればよろしいのよ。せつかく田丸さんが、すつかりやつて下すつたのに……お疲れのところ……を……" ], [ "時に、立ち入つたことを伺ふやうですが、お隣に住んでゐながら、矢代さんとはゆつくりお話をする機会がなくつて、実は、お仕事の方面のことは、皆目見当がつきません。いつたい、写真と云つてもどういふ方面の研究をしてをられたんです?", "さあ、あたくしにもよくはわかりませんの。アトリエへ引込んだきり、ひとりで何かこつこつ調べてはゐたやうですけれど……" ], [ "あの、あたくし、これでもうお暇させていただきますわ。明日また早うございますから……", "あ、さう" ], [ "ちよつとお隣へ行つてね、貫太君のゐどころがわかつたかどうか、訊いて来てくれ", "あら、加寿子ちやんたち、お隣へいらつしつてるんぢやございませんの?" ], [ "いいえ……そんなでもないわね。昨夜なんか、遅くまで五人でトランプをして遊びましたの", "五人とは?" ], [ "お隣の坊つちやんが来てらしつて……", "まあ、それはそれとして、留守中別に変つたことはありませんね、子供たちのことで……" ], [ "おひろさんは?", "さあ、やつぱり、探しにいらしつたんでせう。なにせ、このへんは勝手がわからなくつて、あたくしぢや……。でも、電車通りまでは出てみましたの。まさか、電車で遠くへ行くなんて、そんなことはないだらうつて、みなさん、おつしやつてましたわ" ], [ "あ、田丸の小父さん……。加寿ちやんたち、まだ見つかりませんか?", "君も探してくれてるの? それはそれは……" ], [ "僕は洗足池の方を見て来ました。一と廻り廻つてみることはみたんですが、わかりません", "あんな方まで……?", "なんべんも僕たちと遊びに行きましたからねえ。ことによると、と思つて……", "やあ、どうもありがたう。お家へも、ご心配をかけてすまないつて、さう云つてください", "ええ、でも、僕、見つかるまで探しますよ" ], [ "交番へなんべんも寄つてみたんだけど、まだなんの通知もないさうだ", "あ、久保君……ご苦労さんだなあ。君はどつちの方を見て来てくれたの?", "僕は出鱈目にぐるぐるそのへんを走り廻つたんです。横町をいちいち通つて、待避壕はみんなのぞいてみました", "それや、また、大変だ" ], [ "知らないよ、そんなこと……", "うそつけ。いつでも加寿ちやんを誘ひにくるの、誰だい、あれや?", "そんなら、雅ちやんだつて知つてるぢやないか。今村菊江さん", "家も知つてるだらう", "知つてるさ。雅ちやんだつて知つてるだらう。よせやい" ], [ "子供は平気ですよ、そんなこと……", "あら、あたくしだつて、ちかごろ、雨ぐらゐなんでもなくなつてますわ……でも……" ], [ "ええ、なんですか、風邪ばつかり引いてをりますの、お宅の加寿子ちやんたちは、そのわりに、しつかりしてらつしやいますわね", "そうですかね。さうかも知れないな。滅多に寝ませんから……。さう云へば、子供が病気をしないつてことは、たいしたことでせうね。つい、あたり前のことだと思つてるけれど、これは、なるほど大したこつた。女房が生きてるつていふことが、既に大したことなのと、おんなじですね。こいつはご主人の場合も同様だと思ひますが、人間は、当り前のことには、すぐ馴れてしまつて、そのなかにどんな大きなものがあるかを忘れてゐるんですね" ], [ "若し失礼になりましたら、ごめん遊ばせ、加寿子ちやんたちと仲好しになれたら、その上でお母さまに、といふやうな方は、絶対に、加寿子ちやんたちと仲好しになれつこないと思ひますわ。仮にさういふ方がお母さまにおなりになつたら、その方にもほんたうにお気の毒だと思ひます。さつきのお話のやうに、母親つて、そんなもんぢやございませんもの。子供にとつて、母親が好きだなんていふ意識は、却つて邪魔なものですわ。ゐてもそれに気がつかないものが母親ぢやございません……?", "父親はゐなくつても、それに気がつかないものかな" ], [ "あんまり不意におどかさないで……", "大丈夫……" ], [ "そこにゐますよ、三人とも……。あなた、行つて下さい", "ええ" ], [ "わかつた? え? 貫ちやん、まだわからない? いや、返事しなくつちや……", "ちよつと、誰か来たわよ" ], [ "ぢや、あたしが叱つたげるから、明日、学校から帰つたら、ちよつと来るやうにおつしやつてちやうだいよ", "そんなこと申上げなくつたつて、さつさとお自分からいらつしやいますよ" ], [ "ご心配をおかけして、すみません。八幡様へカウモリを見に参りましたんですつて……。そしたら、雨が降りだしましたもんですから……", "へえ、カウモリを……。カウモリだつて、もう眠る時間ですよ。早くおやすみ。初瀬、あんた、びつしよりぢやないの。お湯を沸しとくんだつたね", "いいえ、お母さま、もう乾きましたの。『おやすみ』は、貫ちやん?" ], [ "熱くない?", "熱いもんか", "へえ、これで?" ], [ "世津子さんは、頭、だれに洗つてもらふの?", "自分で洗ふわ", "洗へる?", "洗へるわよ。やつてみませうか?", "うそよ、お父さまに洗つていただくのよ" ], [ "たつた一度きりぢやないの", "銭湯ぢやなかなか洗へないわね。これから、うちへ来た時洗ふといいわ。貫ちやん、動いちや駄目よ" ], [ "ねえ、世津子さんとこ、どうしてお風呂沸かさないの?", "焚くものがないからよ" ], [ "うちへ貰ひに来りやいいのに……ねえ、お母さん", "うちだつて、そんなにありやしないわ。だから、うちで沸かした時、はいりに来ればいいのよ" ], [ "あたし、自分で洗ふ", "待つてらつしやい、あんたも……。寒ければ一度漬かつて……" ], [ "だつて、僕のお母さんはゐなくなりやしないよ。加寿子さんたちのお母さんはもうゐないんだから、僕のお母さんが、加寿子さんたちのお母さんにもなればいいぢやないか", "ほんと?" ], [ "そんなこと云へば、貫ちやんは、もう、矢代貫太ぢやなくなるわよ", "さうさ。矢代と田丸を合して、半分に割ればいいよ。矢田貫太だ" ], [ "うそだい。田丸でなくつたつていいんだねえ、お母さん。世津子さんだつて、矢田世津子でいいんだよ", "矢田世津子……あら、をかしい。さういふひと、小説書くひとにゐるわ。雑誌に名前が出てるわ" ], [ "加寿子さんも世津子さんも、ほんとに、うちのお母さんの子供になる?", "貫ちやんも、ほんとに、うちのお父さんの子供になる?" ], [ "小母さん、このクリームすこしちやうだいな", "あんた、もうクリームなんかつけるの? ええ、いいわ" ], [ "加寿子ちやんは、もう来年は十七ね。女の十七と云へば、どういふ年だか知つてる?", "知つてるわ。昔ならお嫁に行つた年でせう。うちのお祖母ちやんがさう云つたわ" ], [ "なに、もつと大事なことつて?", "教へてあげる代り、ただ聞きつ放しにしちやいやよ。自分でそのあとをよく考へるのよ。いいこと? あのね、今迄のやうに、ただのお嬢さんでなくなること。お嬢さんつて、どんなもんだか知つてるでせう?" ], [ "なに、いつたい? まあ、お上りになつたら?", "だから、ここの方がいいの、目立たなくつて……" ], [ "ぢや、早くおつしやいよ", "今云ふから待つて……。どう云へばいいか知ら……。順序を考へて来て、忘れちやつたわ……ええと……今日ね、あたし、午前中、二時間ばかり家を明けたの。子供たちを連れて親類へ顔出しをして来たんだけれど、その間の出来事よ……" ], [ "間違ひであつてくれればと、どんなに祈つたか知れないわ。でも……事実の前に眼をつぶることはあたしにはできないから……", "隣組の問題には違ひないけど、それよりもつと大きな問題もあるんぢやない? もちろんたつた一人の例外だわ。でも、あたしたち、女の仲間から、大事な時に、弱い犠牲を出したつてことね" ], [ "お早う", "お早うございます", "典二さんは?", "いや、今すぐ……" ], [ "それならそれで、そのことを、もつとはつきり、国民に云つてほしい。具体的な例を挙げてもらへれば、なほ国民は奮ひ立ちます。増産も貯金も、ただ勝つためには違ひありませんが、国民の心理は実に微妙です。必勝の信念と云ひますけれども、それは国力に対する絶対の信頼なしには生れません。軍隊への信頼にひとしい信頼が、政治に対して、特に、さつき云ひました、すべてのものを戦力化して、敵の物量を誇る機械力に当らしめる方策に対して、ひとしく払はれなければならないと思ふんです。その努力だけは十分認められます。が、少しは、その結果を、匂はせてほしいもんです。国民がさう思ふ以上に、当局が、鞭撻の意味にもせよ、事毎に、まだ足りない、まだ足りないを、口癖のやうに繰り返すのは、どうも感心できませんな。おまけに、ドイツがちよつとした新兵器を使つたといふので、まるで自分のことみたいに新聞にはやし立てるんですから、国民は、日本の科学者は何をしてるんだらうと思ひます。別に、科学に限つたわけではありません。生産の隘路とか、運輸の隘路とか、あの隘路といふ言葉も面白くない。一般国民がそんなことを知つたつて、なんにもならんでせう。なんにもならんどころぢやない。却つて、当路者への不信を増すばかりです。先達、ある地方の人と話をした時、その隘路の問題に触れたんですが、その人は、『われわれとしては、ただ玉砕あるのみです』と云つた。それを聞いて、僕はひやりとしました。玉砕といふ言葉がとんでもない意味に使はれてゐる……", "おい、君、君、田丸君……さう、君ひとりで喋つちや困るよ" ], [ "誰に?", "笠間先生……。でも、どう書いていいかわからないわ" ], [ "子供たちを早く寝させてくれたまへ", "はい" ], [ "だからさ、小母さんに、なんて云つたんだい? それを先へ云ひなさい。加寿子、お前、姉さんだから、はつきり云ひなさい", "あのね……あのね……", "あのねばかり云つてないで!" ], [ "連れてけつたつて、あなたたちは、お父さまの側でなくつていいの?", "だからよ、うちのお父さまと小母さまと二人で、疎開のことを相談なさつたら?" ], [ "僕、ちつとも、小父さんなんか怖くないよ。お母さん、それぢや、うちのお父さんと、小父さんとどつちが怖い?", "え? うちのお父さんと? なに云つてんの! うちのお父さんが怖いなんて、お母さん、云やしませんよ", "お父さんだから怖くないんでせう? 小父さんだつて、僕のお父さんになれば、お母さん、怖くないよ、きつと" ], [ "それが、なんでもいいつてわけにいかないのよ。読みかけて、つまらないと、すぐに、――あ、もうたくさん。なんかほかにないかい、ですもの", "あたしだつたら困るわ。なんにも読んでないから", "をかしいのよ、あれで、近頃は翻訳ものをつて、時々云ふの、唐人はづけづけものを云ふから面白いんですつて", "あら、さうでせうか。でも、名前なんかよくお覚えになれるわねえ" ], [ "こんなこと云つちやお嫂さまにわるいけど、あたし、ここの兄さまは、きつと、いい時に死んだと思つてらつしやるだらうと想像するの。だつて、あとの心配はなんにもないし、ご自分が生きてらしつても、周囲がかういふ風になつて来れば、ただいらいらなさるばかりですもの。好きなことはなにひとつ出来ない世の中でせう", "さあ……" ], [ "ところが、やつぱり、女だといふこともあるけれど、田丸さんの奥さんは、お気の毒ね、どんなにはらはらしながら、お家のなかを見てらつしやるかわからないわ。さう思ふと、人間の生きてる間の幸不幸なんて、当てにならない気がするわ", "それやさうだわ。でも、幸福つて、なんでせう? 梅代さんの幸福と、あたしの幸福と、ずゐぶん違ふんぢやないかしら?" ], [ "それや、貫ちやんは、あたしの手許で大きくしたいわ。それを条件にしてよ、むろん……", "おばあちやんもあたしも普通とあべこべね。子供は小ちやいほど苦手だつて、二人で話してるの", "どんな子供でも、だんだん大きくなるから、まあよかつたわね" ], [ "そちらもやつぱり栓が抜いてございますの?", "いや、こつちは、栓はちやんとなつてるんだが、いやに減つてるから……", "ホースがもうすこし長ければ……", "ひとの家まで届くホースなんか、用意しとくのは、消防隊ぐらゐなもんでせう" ], [ "お宅は疎開をなさるつて、ほんとですか?", "さういふ話も出ましたんですけれど、義母がいやだつて申しますの", "へえ、おかあさんが……。で、あなたはどうなんです? すべて、お宅はあなた次第のやうに伺つてゐますが……", "おや、さうでもございませんわ。義弟がなんども急き立てに参りますのよ。あたくしは、でも、子供のことを考へて……", "年寄と子供のためでせう、第一、疎開の問題は……", "それはさうですけれど……もしさうなら、お宅の加寿子ちやんたちは、どうなさいますの……", "逆襲ですか。母親のない娘は別です", "…………" ], [ "父親のない男の子は、なほさら考へものですわ", "…………" ], [ "ところで、うちの娘たち、なにかあなたに無理なこと云ひませんでしたか?", "無理もないことをおつしやいました。なんべんも、なんべんも、それをおつしやいますの", "それで、どういふ風に云つて聞かせてくださいました?", "どう云つてお聞かせしても、駄目ですの。うちの貫太までが、しり馬に乗つて、――僕、田丸の小父さんの子供になつてもいい、なんて……", "これや、もつとも難題でせう。しかし、そのことだけなら、云つて聞かせやうがありますね。仮にあなたが加寿子たちのお母さんになつてやつて下さるにしても、貫太君は、れつきとした矢代家の長男として、わたしが大事にお預りすることも考へられないことはない。あなたも、その方を望まれるでせう", "…………" ], [ "大きな意志が、どこかで働きさへすればよろしいんですわ。自分の意志よりも、もつと大きな意志が……。女の感情は、いつでもさびしい子供の母親になりたいんですもの", "その感情をはばむものはなんでせう? 世間の思惑ですか? 未亡人の道徳ですか?", "あたくしの場合は、どつちでもございません。ただ、意志の弱さですわ" ], [ "敵はもう玄関まで来てるつて云ふぢやないか。サイパンつて云や、お前、裏の時計屋さんの親類がお巡りさんになつて行つてるとこだ。冗談ぢやない。わしはもうご近所の迷惑になりさへしなきや、このまま爆弾でも油脂焼夷弾でもなんでも頂戴するよ。だが、東京はいつたいどうなる? 畏れ多いことだが、お膝元はしつかりしてるか? 如才なく護つてはあるだらうが、とにかくひと騒動だ。なにを笑つてるんだ!", "笑つてなんかゐませんよ、お父さん……あんまり暑いからよ" ], [ "暑いからにやにやする奴もないもんだ。だからさ、そのうへ、お前まで面倒なことを持ち込むなつてことさ", "ええ" ], [ "あら、嫂さんに活けていただかうと思つたのよ。だつて、むづかしいんですもの", "なんだい、花は?" ], [ "いくつだい、相手は?", "相手だなんて……。四十五よ", "十二違ひなら、まあまあだ" ], [ "だが、こいつは、さう、おいそれといく話ぢやないぜ。後取りを連れてつて云ふのは、そんなに聞かない話だ。矢代さんの婆さんが承知すまい", "お婆ちやんは、梅代さんと二人で、結構やつてらつしやれるわ", "子供が嫌ひだつて云ふからな", "あら、嫌ひつてことはないでせうけど……", "ううん、このわしにさう云つたよ。ひでえ婆だ", "お父さん、あたし、さういふ意味で云つたんぢやないのよ。梅代さんがゐなけれや、あたしの決心だつてつかないわ、きつと" ], [ "で、お前がそれを婆さんに云ふか? どうする?", "さうしてもいいけど……やつぱりお父さんからちよつとお手紙でも出していただかうか知ら?", "わしからか。わしからぢやまづい。順序を踏むとすれや、浅見の爺さんにひと口上述べてもらはにやなるまいが、仲人もこの役はまつぴらだと云ふだらう。とにかく、お前の籍は一旦帰るわけだ。わしから云や、まあ頭をさげて、かうかう娘が申します、まことに不都合な次第だが、反対する元気もないので、と、あの婆さんに、詫び入る一手だ。喧嘩さ、きつと……最後は……むかつとして……いい顔はしないにきまつてるから……それで差支へないか?" ], [ "いくらなんでも、このままでは、お暇をいただくわけに参りませんわ。ですから、せめて、笠間先生のやうな方でもお見えになれば、早速、あたくし、入れ替りに引取らせていただかうと思ひますの", "笠間君のやうな人つて、どういふこと? あのひとの場合は例外さ。今度は、後妻なら後妻で、初めから、さうきめて家へ入れるよ", "それや、さう遊ばすのがほんとでございますわ。かう申しちやなんですけれど、笠間先生は、ずゐぶん御苦労なさいましたでせう。あたくしだつて、ほんとに、あの方の前でどういふ風になにしていいか、困りましたですわ", "みんな困つたんだから、それでいいさ。ところで、僕があとを貰ふとして、君は、その話がきまるまでゐてくれるかい?", "…………" ], [ "お姑さんにぢかにぶつかるのがいいか、誰か適当な人を立てた方がいいか、どうしたもんだらうと思つてゐます", "それや、君がぢかにお姑さんにぶつかる手はないさ。先づその細君の実家へ話をもつて行くんだね。それから後は、実家の人と相談すればいい。さあ、お父さんがゐるとしたら、そのお父さんがなんて云ふか、難関はそこらだね" ], [ "突然なやうな、突然でないやうなお話ですわ。ずゐぶんお考へになりましたでせう? お察しいたしますわ。でも、あたくしのお答はもうきまつてをりますの。実家の父にも相談いたしましたわ。父は、まあ、黙つてゆるしてくれるさうでございます。それから、ここの義妹にもそれとなく、耳に入れましたの、そしたら、義妹だけの考へでせうけれど、子供を置いて行くんでなければつて申しますの。義母はまだなんにも知らないと思ひます。しかし、子供の籍はちやんと残すといふことと、主人の一周忌をすましてからといふことと、これさへはつきりすれば、異議はございませんでせう。さういふ気がいたしますわ", "では、お義母さんには、どなたから話していただきませう? あなたからではまづいでせう? さういふ手はないから……" ], [ "うむ? ちよつとお隣りまで……", "矢代さんとこ?", "うむ。ほらほら、箸をもつたまま茶碗を出すやつがあるか" ], [ "義妹の話ですけれど、義母はもう知つてるさうでございますわ。別に大して問題にもしてゐない様子ですの。結局、義妹と二人つきりの生活の方が暢気でいい、なんて申してますんですつて……", "それで、あなたには直接なんにもおつしやらないんですか?", "なんにも申しませんの。普段とちつとも変りない顔をしてゐますわ" ], [ "大宮島つて、グアム島のことね", "さうよ。こつちが初めに奪つたとこよ。癪ねえ", "だつて、まだ奪られやしないんでせう。上陸を開始せりつて云ふんだから……", "でも、敵はまた優勢だつていふぢやないの。いつでも、優勢なのねえ", "それやしかたがないわ。向うは攻めるんだし、こつちは守るんですもの。攻める方は自分の都合のいいところへ、いくらでも兵力を注ぎ込めるのよ", "あんた、詳しいのね、さういふこと", "あら、いやだ。みんなさう云つてるぢやないの" ], [ "順序もへちまもないよ。この家を出たいつていふことに変りないんだもの。そんな話を片つ方で進めながら、よくここの門が潜れたね、矢代の家の門がさ", "申しわけございません" ], [ "加寿子さん、今日はゐないよ。学校の防空訓練なんだつて……新しい防空服着てつた", "ふむん、加寿子さんゐなけれや、世津子ちやんでもいいのよ。世津子ちやんもゐなかつたら、小父さんにぢかにお渡し" ], [ "小父さんに? ぼくが? おひろさんぢやいけない?", "いけません" ], [ "さあ、どんなご用か知らないが、年寄りのあたしぢや、面倒なお話はわかりかねるから……。なんなら、ちやうど貞爾も来てるし……。ねえ貞爾、お前さんもお話をそばで伺つておくれよ", "それや、僕がゐてよけれやゐますが、あんまり会ひたくもないな" ], [ "お目にかかるさうでございます。義弟も同座させていただきます。あたくしは、どういたしませう?", "さあ、どつちでも……。僕の云ふことが間違つてゐたら訂正してください", "では、後ほど……" ], [ "さあ、それは保証できませんわ。でも、今度、貫太が学校の集団疎開で甲府の方へ参ることになりましたので、あとは、あたくしひとりでございますから……", "あなたおひとりだから……?", "ええ、ですから、なにか外の仕事でもさがしますわ", "…………" ], [ "へえ、泊り込みで……", "つまんないわ。あたしたち、疎開もできないし、寮にもはいれないし……" ], [ "あらいやだ。あんたは、今のうちに学校の勉強をうんとすればいいぢやないの", "先生もお父さまもさうおつしやるんだけど、あたしたちに勉強させるつもりなら、もつとみんな騒がないでほしいわ。うるさくつて……" ], [ "騒いでるぢやないの。お姉さんだつて、工場へはいる工場へはいるつて、一日になんべんも云ふんですもの", "ああ、さう……さういふことなの" ], [ "もうちやんと地ならしがでけとるだで、わしや助かるです", "ぢや、お序に副組長の指名をして下さい" ], [ "あたくし、駄目ですわ。多分来月から勤めるやうになると思ひますの", "へえ、それはそれは……" ] ]
底本:「岸田國士全集15」岩波書店    1991(平成3)年7月8日発行 底本の親本:「荒天吉日」開成館    1945(昭和20)年11月5日発行 初出:「中部日本新聞」    1944(昭和19)年3月18日~28日、30日、31日、4月1日~26日、28日、29日、5月1日~7月18日、7月20日~8月31日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2012年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044090", "作品名": "荒天吉日", "作品名読み": "こうてんきちじつ", "ソート用読み": "こうてんきちしつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中部日本新聞」1944(昭和19)年3月18日~28日、30日、31日、4月1日~26日、28日、29日、5月1日~7月18日、7月20日~8月31日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-12-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44090.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集15", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年7月8日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年7月8日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年7月8日", "底本の親本名1": "荒天吉日", "底本の親本出版社名1": "開成館", "底本の親本初版発行年1": "1945(昭和20)年11月5日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44090_ruby_48735.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-10-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44090_49150.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-10-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "なんだね、信濃屋さん、また心中じやあるまいな", "心中でもなんでも、宿賃をきちんと払う客なら大いに歓迎するがね。当節、一と月あまりも只食いをされたんじや、商売はあがつたりだよ", "そんな客がいたかね", "それごらん、駐在さんの耳にだつてはいつとらんじやろう。これは、わしの腹ひとつで今まで我慢しとつた。相手が若い絵かきと来とるでね。昔、なんたらいう立派な絵かきが、貧乏しとる頃、ある宿屋に泊つて宿賃が払えんようになつた。主人が追い立てたあとで、なんと屏風に描きなぐつてあつた松の絵を、さる大名が見つけて千両で買いとつたつていう話を、わしは聞いとるでね", "なるほど、信濃屋さんはさすがに抜け目がないな。宿賃の代りに絵を貰つとくつていう寸法だね", "いや、いや、わしもちつとは書画骨董の眼は利かんわけじやないが、あの絵は、増田さん、油絵ちうやつだでな。ちよつと日本じや金にならんて。そいつをはじめからたしかめとくとよかつたんだ", "しかし、信濃屋さん、油絵だつて、わしの聞いたところじや、大家になると万という値打ちのもんだそうだよ", "あれが大家の顔かね、あの顔が……。よだれ垂らさんのが不思議さね", "大賢は大愚に似たりか。天才は気狂いと紙一重なんだよ、信濃屋さん", "そうかも知れん。しかし、今日の経済事情はですよ、増田さん、あの岡本某なる三文絵かきが天下に名を出すまで、誰も待つちやおらんのですよ", "わしはその岡本さんと口を利いたことはたつた一度だ。戸籍調べに行つた、あん時だけだ。なるほど風変りな人物だとは思つたが、決してインチキをやるような男じやないね", "正々堂々と無銭宿泊をするなら、罪にならんのですかい", "逃げも隠れもしないんだろう", "逃がさんもの、こつちが", "いずれ払うとはいうんだろう", "すぐ払つてもらいたいんだ、こつちは", "払えるもんなら払わせたらいゝな", "払えんとなると、どうなるね", "そこは相談さ。いつまで待つとか、代りに品物を置いて行かせるとか……", "待つ当てもなく、これという金目のものはお持ちにならんとすると?", "信濃屋さんの義侠心に訴えるか、警察の手に引渡すか、どつちかだよ", "警察の方で立て替えてもらえるかね", "多分そいつは無理だと思うが、本人の意志はどうなんだね", "それがなんともはや、わしにはわからんのさ。昨夜から今朝にかけて、待て、待たんを繰り返すばかりだ。いつたい、何時まで待てばいゝのかと訊くと、奴さん、にやにや笑いながら、それが自分にも見当がつきかねると吐かすんだ。そんな法つてあるかね。え、増田さん、笑いごつちやねえよ。何かこれというもんを持つてるかつて訊くと、ふところから何を出したと思うね。手拭だかフンドシだかわからねえ煮しめたような切れつ端を出しやがつた", "だがね、信濃屋さん、そんなに金のない客をどうして一と月も黙つて泊らしておいたんだい", "どうしてつて、増田さん、そこが、つい、絵かきつてものを、信用しちまつたのさ。絵かきつていう前触れで、ピンと頭に来たのがさつきの話さ。なにしろ、家じや、絵かきを泊めるなあはじめてだからね。こいつは面白くなつて来たと思つたのさ", "それが、そろそろ面白くなくなつて来た原因は?", "煙草代を貸せ、が、毎日のようになつたからだよ。それに、一ヶ月もいて、一度も宿賃のことを口に出さないなんて、千万長者にも珍しいと思つたからさ", "で、今までで、どれくらい溜つてるね", "昨夜計算してみたら、宿泊料だけで一万九千六百なにがしさ。酒代はむろん別、そのほかに、新聞、煙草、甘いもの、薬代、なにやかやの立替が三千いくら、入浴科は特別に只にしてある、めつたに風呂はへえらない様子だから……", "弱つたな。すると、なにかね、信濃屋さんは最後の手段として、警察へ訴え出たつてわけだね", "まあ、そういうわけになるかも知れねえが、その前に、増田さん、表向きに引つ張るなんてことでなくさ、あんたから、忠告みたいに、なんとか一言、言つてみてくれないかね。わしはもう手を焼いちまつたよ。よつぽど横つ面ぶん撲つてやろうかと思つたよ", "いや、なんなら、引つ張つてもいゝがね、そいつは横つ面ぶん撲るのと、結果はおんなじだろうな。信濃屋さんのお望みとあれば、わしが出てもいゝが、なんでも話をつけるのは信濃屋さんのお手のものだとばかり思つとつたが……", "ひとの話ならつけ易いつてことがわかつたよ。だが、たいていの奴なら、わしの凄文句で顫えあがるんだが、この貧乏絵かきばかりは、歯が立たねえんだから、あきれるよ" ], [ "わからない方がいゝ場合もあるんですがね。そこへ行くと、絵かきさんは、仕事をしているか、道具をさげていないと、わからん方が多くはないですか", "さあ、僕なんかゞみればたいがいわかりますよ。もつとも、会社員みたいな絵かきも大分ふえて来ましたがね", "岡本さんは、どういうグループに属しておいでゝすか", "僕は、まつたく無所属、展覧会へは何処へ出しても落選。個展を二度やりました。絵は一枚も売れませんでした", "失礼ですが、やはり、絵で生活しておいでなんですか", "まあ、そうでしようね。ほかに収入はありませんから", "これもたいへん立ち入つた話ですが、そこにある、浅間だと思いますが、あれくらいの絵はどれくらいするもんでしよう", "公定相場はありません。僕がいゝと思う値段で売ります。但し、買手があればです。君買つてくれますか。安くしときますよ", "いやあ、わしなんか、そんな……" ], [ "わしは絵のことはなんにも知りませんが、やはり、昨日までは無名でも、突如として有名になるような場合もあるんでしような", "その例はありますね。尤も、有名になる、なり方にはいろいろありますがね。絵そのものゝ値打ちはわかるものにしきやわからんのです。また、それでいゝんです。芸術家に不遇なんてものはありませんよ", "はあ、そうすると、よほど自信がなければいかんわけですな", "君、廻りくどい訊き方はよして、どうして宿賃が払えんのか、と訊いてくれたまえ" ], [ "いや、実のところ、まだわしらの出る幕じやないと思うんですが、ですから、個人としてお話を、とお断りしたわけです。お差つかえなかつたら、そのへんの事情を聞かせてください。今日は、たゞ、あなたにお目にかゝつて、どういう方だかを知つておきたいと思つたんです。ほんとに、それだけが目的でした。金がある都合で払えないことは誰にでもあることですから……", "どうも、そう言つちまわれると、こつちが恐縮するけれども、いつたい、こういう場合、警察が仲にはいると、どういう効果があるんです。僕の場合は、強制力じや、どうしても駄目なんで、この宿の主人が、そう急ぐわけはないんだから、もう少し待つてくれるのが一番いいんですよ", "待つことは待つと思うんですが、その期限が知りたいつていう話です。これも無理のないことでしようから……", "いやね、こゝへ来る時は、一週間分の金は持つてたんだ。宿賃を催促しないもんだから、それをいゝことにして、飲んじまつたんですよ。だもんだから、早速、友達にそういつて、東京にある僕の絵を二三点、すぐに金にしようと思つて、頼んではあるんです。そう当てになりませんがね。いよいよダメなら、僕自分でちよつと出掛けてみるつもりです。なに二万や三万、どうにかなりますよ、一年も待つ気なら……" ], [ "お話はよくわかりますが、あなたも気持よくこの宿に泊つていられた方がいゝんですから、主人の宿料請求に対しては、向うで納得するように、十分ご相談なすつたらどうです。場合によつては、金策のために上京される必要があるとしたら、例えば、借用証書を一札入れるとか、出来れば、相当な保証人をお立てになるとか……", "ないですよ、そんな保証人なんか" ], [ "じや、わしはなんにも言いません。このまゝ引きさがります。まだ正式の訴えが出てるわけじやありませんから、わしの立場としては、たゞ個人間の貸借の問題としか認めません。しかし、解決の方法がまずいと面倒なことになるかも知れませんから、その点、ご注意申しあげておきます", "わかりました。君はなかなか話せるお巡りさんだ。またちよいちよい、それこそ、個人の資格で遊びに来てください。時々は退屈してるから、粗茶でも差し上げましよう" ], [ "なるほど、新しい絵というもんはこういうもんですかなあ。実際と空想とが火花を散らしてるんでしような", "面白いことをいうね。君もひとつ絵をやつてみたまえ、絵を……", "わしは、小学校の時から、図画が不得手でね。丙ばかりもらつとつたですよ", "僕もそうだ。その方がいゝんだ。世の中で一番つまらん絵は、お手本の絵……", "そうなると、ますますわからんぞ。いや、お邪魔になるでしようから、これで失礼します。今夜はお暇ですか", "今夜でなくつても、夜はたいがい暇だよ" ], [ "いよいよ妥協成立というところらしいですね", "うむ、まあ、しかたがないさ。おれの絵はおれの絵の好きな奴に買つてもらいたいんだが、そうばかりもいかんよ。まあ、一杯行こう。ところで、君は、いつたい、いくつ? 僕の兄きか、弟か?", "二十七です。多分、弟でしよう", "いけねえ、同い年だ。じや、お前、おれで、これから話そう。岡本さんなんて呼ぶなよ。岡本でいゝ。こつちも、なんだつけ?", "増田です", "です、は、いかんよ。おい、増田、お巡りなんぞになりやがつて、いつたいどういう量見だ。まず、それを言え" ], [ "そんな、無理言つても困るよ。職業を撰ぶ自由は誰にでもあるからな", "当りめえよ。だからさ、どんな量見でお巡りなんぞになつたんだ、と訊いてるんだ", "そんなら、そつちも、どんな量見で、絵かきになんぞになつたんだ?", "とぼけるねえ。絵かきになるのが、どこがわるい?", "お巡りになつたのが、わるいというのか、やいこら", "よくもあるめえ、糞面白くもねえ、罪人をふん縛る商売なんぞ、人に任せとけ", "誰かがやらにやなるめえ", "おい、おい、やりたい奴にやらしたらどうだ。おめえはだぞ、そんなことより、ほかにやりたいことがあつただろう?", "いやなこと言うなよ。人間には出来ることと出来んこととがあるでな。おれにはな、そうたんと出来そうなことはねえ。せいぜい、兵隊で鍛えたからだでもつてな、弱いものを助けたかつたんだ。世の中の邪魔になるものを取りのけたかつたんだ", "えらそうにいやがる。おめえらは、そう言いながら、知らず知らず、強い者の味方をし、世の中の進歩の邪魔をしてるのに気がつかねえのか", "そういう奴もたしかにいた。そういう場合もないとはいわん。しかしだ、それは、どんな制度にも弊害はつきものだつてこととおんなじだぜ。近頃は軍人の悪口を云いさえすれば、いつぱし世間に通用するように思つてる奴がいるが、どんな文明国にだつてちやんと軍人はいるんだ。進歩の親玉みてえに己惚れてる国が、ちやんと、警察を抱えてござるからな", "そんな話をしてるんじやねえよ。おめえ自身のことを問題にしてるんだ。おめえは、評判のいゝお巡りだそうだが、お巡りなんてものは、憎まれ役になるのが当り前だと、おれは思うんだ。評判のいゝなんてこたあ、どこかに隙のある証拠だ。おい、それで役目がちやんとつとまるのかい。泥棒をみつけて、おい、早く逃げろなんていうお巡りじやねえのかい?", "やれ、やれ、絵かきなんてものは、物事を単純に考えるもんだな", "おや、単純と来やがつた。そうだ、おれは単純派だよ。人生なんてものは、単純なもんさ。それをいやに複雑にしたり、複雑に考えたりする奴がいるから、人間がこすつからくばかりなるんだ。すべて単純で行け、すべて……。平和と進歩、いや、進歩なんて、ほんとは、人騒がせに過ぎん。言わばマンチヤクだ。平和と自由、これならいゝな。おい、増田のあんちやん、貴様はなかなか美男子じやないか。この家のフウ公は毎週パーマネントをしに行くが、貴様に色目を使つてるぞ。気をつけろ、やい" ], [ "なんだ、その手は、どうもスパイの臭いがするぞ。いかん、スパイはいかん、争われんもんだ、お里は………", "脛に傷もつなんとやら……後暗くなければそれでよろしいが……", "よし、こういこう。単刀直入、一戦を交えよう", "戦にも法則がある。玉砕の覚悟と見えたがどうじや" ], [ "ねえ、増田さん、二軒茶屋のほら、滝の見える坂道のところに、行き倒れがいるんですつて……。たつた今、駐在へ知らせに来た子供がいるのよ。大丸屋のお神さんが、それをまたうちへ連れて来てくれたの", "なんだ、慌てゝ言いに来たのは、そんなことかい。行き倒れと……二軒茶屋か……チヨツ、旅のもんだろう", "そんなこと知らないわ。早くしてね、下で子供が待つてるから" ], [ "おれは、ゆうべは、たしかに参つた", "将棋のことか?", "いや、人生の勝負でだ。人間とはお前のことなのだ", "おそろしくおだてるな。おれがいつたいなにをしたというんだ?", "あの握り飯……おれはあんな握り飯がこの世の中に在ることを、すつかり忘れていたんだ", "代用食の癖がついてるんだ", "おれの頭は警察法規の活字でいつぱいだつた。たしかに、お前が、握りめしをといつた言葉は耳にはさんだ記憶がある。しかし、あの時、それがなんのことだか、さつぱり、ぴんと来なかつたんだ", "おれの頭は蛙のように空つぽなんだ。飲むこと食うことばかり考えてる人間なんて、あんまり感心はできないよ。それより、お前は、およそ立派なお巡さんだ。いや、皮肉じやない。こうして、おれのところへ、そんなことを言いに来る奴が、ほかにいるかい。なんでもいゝ、おれは上州の生れじやないが、人間、人前であつさり兜が脱げるようなら、まずつき合えるとみてるよ。まして、よそう、もう警官のことを云々するのは、おい、そんなのおかしいよ、はなをかめ、はなを……" ] ]
底本:「岸田國士全集16」岩波書店    1991(平成3)年9月9日発行 底本の親本:「日光 第三巻第一号」    1950(昭和25)年1月1日発行 初出:「日光 第三巻第一号」    1950(昭和25)年1月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年9月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "然り。だが、日本の海軍がこの正面から砲撃を開始する前に、彼等は此処を去つた。それについて君に知つてもらひたいことは、この場所を支那軍に利用させるやうなことは、決してわれわれはしなかつたといふことだ。最初、支那兵の一隊が此処へ侵入して、無断で陣地を構築しはじめた。自分は、厳重に抗議した。隊長は聴き入れない。命令だからやるといつて動かない。自分は、その命令が何処から出たかを知る必要はない。早速漢口の領事館へ電報を打つた。支那当局に向つてかゝる行為の禁止を要求してもらふためである。領事から返事が来た。その返事はこれだ。支那当局は直ちに要求を容れた。必要な手配がとられる筈だが、極力実行を監視せよといふのだ。自分は殆ど腕力に訴へて、支那人を追ひ払つたのだ。しかも、彼等に、破壊した部分を修復せよと迫つたが、彼等は、この通り申訳のやうなことをして立ち去つて行つた", "この外観は、依然として陣地である。日本軍の砲撃は受けなかつたか?" ], [ "さうか、こんなところにゐたのか。怪我はどこだ", "胸であります", "大丈夫か?", "はあ" ], [ "生徒は日本軍がこの土地へはひつて来て以来、しばらくは怖がつて落ちつきがありませんでしたが、近頃では大分慣れて来た様子です", "父兄はみな九江にゐるのか" ], [ "鎮江から河を渡つて来るといふことは、よほど臆劫なことゝみえますな", "それはさうかも知れませんね。詳しく様子を聞いたうへでなければ、ちよつと決心がつきますまい", "いや、揚子江の北はまだ危いといふことになつてゐますから……", "匪賊は相当にをりませうな", "何れ詳しくお話をします。が今も実は、部下を集めて会議をしてゐたんですが、近々、やゝ大仕掛けな討伐をやらうと思つてゐます。情報も可なりあがつてゐますし、もういい時分だと思ひますから……" ], [ "宣撫といふのは、そんなに危険なところまで行くんですか?", "いや、さうまでしなくてもいゝですが、この隊長が連れて行かんと承知せんのでしてね。しかし、占領後すぐといふのが一番効き目があるんです。住民の気持がまだ動揺してますからな。なに、どうせ、国家に捧げた命です。覚悟はしてゐます。たゞ、われわれは仕事の性質が違ふだけです" ], [ "弁当と鉄兜は私が持つて参りますから", "どうもありがたう" ], [ "上海でどういふ日本人のところにゐたの?", "船の会社……わたしの主人、船の会社……えへゝゝゝゝ", "あゝ、さうか、あんたの御主人が日本人で、船の会社をやつてゐるんだね", "いえ、さう、わたし、一と月前にこゝへ来た。またすぐ上海へ帰る。戦争困つたね", "ふむ、さうすると、あんたの両親の家が此処にあるわけだね", "わたし、一人、こゝにゐる。誰もゐない。旦那さん死んだ", "おや、さうか。なんだかわからなくなつた" ], [ "いや、却つて得難い経験をしました。それにしても、弾丸はなかなか中らないもんですね", "さうでせう、敵は狙つてなんぞ射つてはゐません。だから、弾丸がみんな高い。馬に乗つてゐてさへさうです。だから、弾丸が低くなつて来れば、それに応じて姿勢を低くすればいゝ。これは馴れないとわかりません。たゞ、わたしがマントを着てゐたもんだから、馬からおりると弾丸が集つて来た", "さうですか。僕もマントを着てゐましたが途中で脱ぎました", "まつたく済まんことをしました。万一のことでもあつたらと心配しましたよ", "そんなご心配はいりません。が、僕も始めからこんなこともあらうかと覚悟してゐました。ところで、兵隊はなかなかみんな勇敢ですね。頼もしい気がしました。かういふ戦だから、却つて隊長は気をおつかひになるでせう。まるで演習そつくりぢやありませんか" ], [ "敵の逃げる時はきつと住民も一緒に逃げるもんですから、後ろから射撃するのにとても厄介なんです。住民を殺すまいと思ふと、つい敵を射ち損ひますから……", "だから、かういふ部落で宣撫をする時は、日本軍が攻めて来ても、決して支那兵と一緒に逃げてはいかんと云ひふくめておきます。逃げる奴は命の惜しくない奴だ" ], [ "あのクリークから百五十米ぐらゐのところにゐました。霧でよくはわかりませんでしたが、敵が近いのには驚きました", "うん、あの、クリークですがね、対岸の陣地をごらんでしたか? いよいよあれを渡らなければ突撃ができない。その時、船が向う岸に一艘つけてあるんです。立石といふ軍曹が、それをみて、上着を脱ぎすてゝ、ざんぶりと水の中へ飛び込みました。すると一人の兵隊も後につゞいた。二人で敵の猛射を浴びながら、悠々とその船をこつちへ引つぱつて来るぢやありませんか。かういふのがゐます", "いゝですね。しかし、船でみんなが渡つたとすれば、随分危険なわけですね。よく損害がなくてすみましたね", "さういふもんですよ。この喬野のクリークでも、あの橋を渡る時、○隊長の園田が先頭に立つて突つ込んで行くんです。橋の袂からはバリバリ撃つ。わたしは、その瞬間○隊長を殺しちやならんと思つた。で、うつかり先へ出てしまつたんですが、この時は、やられたかなと思つた。橋を渡つて、あの狭い通りを突きぬける時も、真正面から、弾丸を浴びました。中れば串ざしです。しかし、中らない。かうして生きてゐる。まつたく不思議なものです" ], [ "今日みたいに暇ができると、捕虜もゆつくり調べられますがね。前進前進となると、いちいちかまつちやゐられませんからね", "それやさうだが、この捕虜は、いよいよ敵ときまれば連れて帰るんでせう?", "こゝではさうしてをります" ], [ "お前の孫だといふのは、たしかにほんとだらうね", "ほんたうだ", "軍隊と関係はないといふが、そんなら、何の商売をしてゐたのだ?", "家は元来呉服屋だつたのだが、あれの親の代に失敗して、今は薬屋をしてゐる。あの子は徐州の薬学校に通つてゐて、事変後、こゝへ帰つて来てゐたのだ" ], [ "もう逃げられないと思つたから", "日本軍はそんなにこはいと思つてゐたのか", "かねがねさういふ噂を聞いてゐたし、自分は日本のことをなんにも識らなかつたから、なほどうしていゝかわからなかつた", "匿した銃を自分で持つて来たといふ以上、お前はやはり日本軍に抵抗するつもりだつたのだらう?", "いや、あの銃は一緒に逃げた兵隊が、クリークの中へ投げ込んで行つたのを見てゐたから、それを拾ひあげたまでだ", "さうではなからう。そんなら、どうして軍隊手牒を首にさげてゐたのだ?", "あれは、たゞ自分の隠れてゐた場所に落ちてゐたのを、自分のにされてしまつたのだ" ], [ "そしたら、おめえ、鉄兜の縁がぴよこんとへこんでやがんのさ", "隊長殿が、おれのそばへ寄るな、離れろ離れろつて云はれるぢやねえか。あゝいふ時は、つい間隔のことは忘れて、みんな隊長の方へかたまつて行くだらう。妙なもんだなあ", "あゝ、腹がすいた。おい、あの豚はどうだ。うまさうでやがら、畜生" ], [ "道を迷ふな", "銃を持つてけ、銃を", "懐中電燈はないかなあ", "えゝと、うちはいくつあればいゝんだ?" ], [ "だいたい三万人ぐらゐ行列に加はる予想です。体育場まで繰り込んで、大々的に気勢をあげます", "小川さんも出掛けられますか", "もちろん、将校は全部列席してもらふ筈です", "行列の中へはひるんですか", "われわれは馬に乗つて行きますから" ], [ "今日、街を歩いてゐましたら、あの東門をはひつた十字路のところで、例のアメリカの宣教師が住民を集めて説教をしてゐました", "どんなことを喋つてた?" ], [ "いや、遠くから見たきりで、話は聴きませんでしたけれど……", "ふむ、心細いな" ], [ "上海の外国租界以外では絶対に見かけない中流以上と想はれる女が、平気で門口に出たり、街をぶらついたりしてゐるやうですが、あゝいふのは、もう安全だといふ見当がついたからでせうね", "はゝあ、さういふのがお目にとまりましたか。私も実は、めつたに街などは歩かないもんだから……" ], [ "そいつはまだわからない。しかし君たちのやうな青年がこの土地に沢山ゐるかどうか、それによつて早くもなり遅くもなるだらう。楊州の青年で抗日軍に参加してゐるものがまだ随分ありはせぬか?", "多少はあると思ふが、現在楊州にゐないものでも、たゞ両親と一緒に避難してゐるものがたくさんある。何れは還つて来ると思ふ", "避難してゐるところは何処が多いか?", "上海、香港だ", "小学校は現在どの程度に開いてゐるか?", "まだごく少い。こゝでは私塾が大部分である。日本軍の許可を得なければ開校できないことになつてゐるから、今、その手続をしてゐる向きが多い。なかなかむつかしいらしい", "新しい教科書はもう出来てゐるのか?", "県教育局で目下編纂中だとのことで、自分のところでは臨時に刷物をこしらへてゐる", "維新政府編纂のものがもう出版されてゐやしないか?", "それは知らない" ], [ "変へないといふんです。その通りだから変へる必要はないといふんです", "局長といふのは、あの頤髭を生やした老人でせう? 学者なんですか?", "歴史家ださうです。以前から県の教育局長をしてゐた男です", "それで、あなたはどうしました?", "変へなければ辞めてもらうよりしやうがありません", "辞めましたか?", "いや、辞めるわけにもいかんと云ふんです", "さうすると、どうなります?" ] ]
底本:「岸田國士全集24」岩波書店    1991(平成3)年3月8日発行 底本の親本:「従軍五十日」創元社    1939(昭和14)年5月8日発行 初出:「文芸春秋 第十六巻第二十一号」    1938(昭和13)年12月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第一号」    1939(昭和14)年1月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第三号」    1939(昭和14)年2月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第五号」    1939(昭和14)年3月1日発行    「文芸春秋 第十七巻第七号」    1939(昭和14)年4月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2010年1月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044618", "作品名": "従軍五十日", "作品名読み": "じゅうぐんごじゅうにち", "ソート用読み": "しゆうくんこしゆうにち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文芸春秋 第十六巻第二十一号」1938(昭和13)年12月1日、「文芸春秋 第十七巻第一号」1939(昭和14)年1月1日、「文芸春秋 第十七巻第三号」1939(昭和14)年2月1日、「文芸春秋 第十七巻第五号」1939(昭和14)年3月1日、「文芸春秋 第十七巻第七号」1939(昭和14)年4月1日", "分類番号": "NDC 393 916", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-02-22T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44618.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集24", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年3月8日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年3月8日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年3月8日", "底本の親本名1": "従軍五十日", "底本の親本出版社名1": "創元社", "底本の親本初版発行年1": "1939(昭和14)年5月8日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44618_ruby_37276.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44618_38001.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "先生、如何です、町の小屋に出る女優がお気に召しましたか", "いや、申し分ありませんな。気だてはよし、淑やかではあり、才能も十分あり……" ] ]
底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2006年2月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044382", "作品名": "女優と劇作家", "作品名読み": "じょゆうとげきさっか", "ソート用読み": "しよゆうとけきさつか", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 771", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-03-31T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44382.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集20", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年3月8日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "底本の親本名1": "言葉言葉言葉", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年6月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44382_txt_19957.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-02-19T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44382_21800.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-02-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "でも、ほんとによかつたわ。野溝さんがこつちへ出てらつしやるまでに、うちぢや大概のものが揃つたんですもの。あの女つたら、それや見栄坊なのよ。何か少し高いものを買ふと、きつとそれとなしに値段をいはないぢやゐないの。お実家から補助があるつてことが、そんなに自慢になるか知ら……。", "自慢になるもんか。そのあべこべだ。お前のやうに、おれの少い月給のなかゝら、十円づつも貯金をする方がどんなに偉いかわかりやしない。", "あら、そんなこと褒められるなんて変だわ。あなたにも不自由を忍んでいたゞいてるんですもの。", "別に不自由はしてないな。どうしてつて、お前は愛情を節約しないもの。", "だつて……。" ], [ "つまんないの。今日みたいな日に、旦那さんをお役所なんかへやるつて法ないわ。友あり遠方より来る。あんたばかりに会ひに来やしないわよ。", "あら、あら、そいつは気がつかなかつた。でも、よろしくつていつてたわ。今夜は生憎遅くなるのよ。でも、あんた、泊つてけない? こんなところでよけれや……。", "なあに、それほど見たくもないさ、ひとの旦那さんなんか……。今年は転任だと思つたらまた駄目さ。役があがつただけ……。癪だから、ひとりで出て来てやつた。母さんがうるさく呼ぶんだもの。", "よくそんなことできるわね。あとが心配ぢやない?", "どつちさ? 亭主? 子供?", "どつちにしろよ。", "亭主はのろ〳〵してゐるし、子供はあたしよりパパの方が好きなんだもの。", "相変らず、皮肉ね、あんたは……。世の中をさういふ風に見るのが、結局悧巧なのか知ら? 気持がかるいでせう?", "なにいつてんの。あんただつて、鬱いでるみたいぢやないぜ。", "鬱いでやしないわ。たゞ、このまゝでいゝのか知らと思ふだけよ。なんだか、先々のことを考へるのが怖いやうだわ。", "あゝ、小鳩の如き彼女を、神よ、護り給へ。", "二十六の小鳩か。これで隼の爪をもつてること、知らないでせう。あたし、時々、さう思ふわ。自分のほんとの力が試してみたいつて……。生きるか死ぬかの戦ひつて、一生になけれやならないわ。早いか晩いかよ、きつと……。" ], [ "十九ですつて……田舎の女は、年がちよいとわからないわね。", "うぶなところもあるし、成熟したところもあるし……つまり、都会とあべこべなのよ。肉体が精神を追ひ越すつていふ理窟ぢやない?", "理窟は知らないけれど、たしかに力はあるわ。なにしてたの、早くお茶を入れかへなさい。" ], [ "なるほど、彼氏の青年時代つていふとこね、見合の写真はこれぢやないの?", "ふ、ふ、ふ。" ], [ "なんぢや、これは……魚の卵か?", "ムツ子ですわ。おいしいでせう。" ], [ "ご飯、お代り?", "いや、ぬるいお茶くれ。", "折角熱いんだけど、うめますか? 遠慮してらつしやるんぢやない?", "熱いのか? うん、熱いんでもいゝ。", "どつちがよろしいの、ほんとに……。", "実は、ぬるい方がいゝ。", "初や、これへおひや少し……。" ], [ "どうしたい?", "こゝへ貼つたつた写真がなくなつてるわ。こら、こんなに剥がした跡があるでせう。さつき、和歌子さんが来た時、見せたばつかりだのに……変ね……どうしたんでせう。", "どんな写真だい?", "どんなつて……あなたのお写真よ……。ほら、はじめて背広を新調なすつた時おうつしになつたつていふ、あれ……。いやだわ、一枚きりで、大事なのに……。", "をかしいぢやないか。和歌子さんが持つて帰りやしないだらう……。", "そんならさうでいゝわ。写真ですもの、そんなにほしけれや、やるわ。なんて……。そんな、この人黙つて持つてくはずないわ。第一、これ剥がすの、大変よ。" ], [ "初や……。さ、あの写真を持つてるならお出し……。", "あたくし、存じませんです。", "存じませんことないわ。あんたよりほか、そんなことするものないのよ。", "でも、あたくしぢやございません。", "さ、そんなに強情張らないで、素直に返して頂戴……。さうしたら、怒らないわ、あたし……。" ], [ "君は、何か誤解してるね。僕に責任でもあるつていふのかい? 僕に後ろ暗い行為でもあるやうに疑つてるのかい?", "さうはつきりおつしやらなくつてもいゝわ。誤解なら誤解だつていふことを、あたしに誰が知らしてくれるの? あなたがさうおつしやる時、なぜそんな風に、変な照れ方をなさるの? こんな真剣な問題を、どうして、わざと軽く扱はうとなさるの?", "別に軽く扱はうとするわけぢやないが、僕もこれで国家の官吏だ。相手もあらうに……。", "女中風情つておつしやるんでせう。さういへば人聞きはいゝけれど、あなたのことだから、それはわからないと思ふの。あなたは、ほかの男と、まるで違ふんですもの。まさかと思ふことが、かへつてさうなのかも知れないわ。", "こゝでそんな押問答してゝもしやうがない。あれをこゝへ呼びなさい。僕が訊いてみてやらう。", "ご自分とのことを訊いてみてやらうはないでせう。訊くなら、あたしが訊きますよ。" ], [ "僕から訊くがね、初、ありのまゝを、つゝみ匿さず返事をするんだよ。いゝかい。あの写真を手に入れて、どうするつもりだつた?", "…………", "旦那さまのお写真を、どうして黙つて取つたの? 旦那さまにさういへば、いつでも下さるぢやないの?", "奥さんにいつたつていゝんだ。" ], [ "あたしだからかまはないわ。せめて写真でもと思ふ気持はわかつてよ。でも、おんなじ所にゐれば今にこれだけですまなくなるわよ。あんたも苦しいわ、きつと……。さういふ時、まづ、自分つていふものを考へなくつちやね。あんたがいくら想つたつて、うちの旦那さまがどうなるものぢやなし、こんなことをいふと可笑しいけど、あたしがゐるうちは駄目よ。", "あら、奥さま……。" ], [ "これは誰? 友達?", "はい。", "見てもいゝ?" ] ]
底本:「岸田國士全集 9」岩波書店    1990(平成2)年4月9日発行 底本の親本:「花問答」春陽堂    1940(昭和15)年12月22日 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2019年10月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "今晩は", "どなたでしたかね", "初めてお目にかかるんです。君は支那の方でせう", "…………" ], [ "君は北京か、広東か", "どつちでもない。おれはトウケウだ", "トウケウ、トンキンか", "日本の東京だよ", "君は日本人か", "当り前さ", "そんなはずはない", "なけりや、勝手にし給へ" ], [ "それぢや、君の両親のどつちかが、支那人だらう", "…………", "僕は東洋の植民地に永く勤務してゐたので、東洋人の骨格はちやんとわかる。支那人、日本人、安南人、みんなちがつてゐる", "なるほど。それで、僕の骨格が支那人だといふんだね", "疑ひの余地なし" ], [ "さうだ", "僕は貴国の聖人を知つてゐます", "孔子だらう" ], [ "貴国の方は、それにみんな詩人ださうですね", "さうでもない", "僕は、貴国の留学生を二三人識つてゐます。名前は忘れたが、いづれも極めて愛すべき人達でした" ], [ "僕は、ポオランド人です。学生です。貧乏な学生です。苦学をしてゐるのです。自分でパンを得なければならないんです", "僕もさうだ", "然し、君は、政府から補助があるんでせう。いくらもらつてゐるんですか", "一文ももらつてやしない", "ほんとですか。しかし、レストランで食事ができるんでせう、毎晩", "できることもあり、できないこともある", "僕は、昨日から、飲まず、食はずです", "おれは、明日から飲まず食はずだ", "冗談でせう。君は時計をもつてゐますね", "君は服を著てゐる", "…………", "君はまだおしやべりができる。おれは、今、ものをいふことさへいやなんだ。あつちへ行つてくれ", "僕は、一昨日まで、写字と翻訳をやつてゐたんです。写字は一行一文、翻訳は一行二文です。それでやつとパンにありつけるのです。それさへ、もう、だれも仕事をくれないんです" ], [ "ちつとも召上りませんね。こんなもので、お口に合ひますまいけれど……", "いいえ、飛んでもない……" ], [ "さうさう、君はまだドイツの現状を御存じないんですね。肉がないんですよ。今日は殊に、なんにも手にはいらなかつたんです", "ほんとにねえ、折角いらつしつて頂いて、これぢやあんまりですわ。ね。でも、こちらは、これが当り前なもんですから……", "さうでしたか。そんなら……" ] ]
底本:「岸田國士全集21」岩波書店    1990(平成2)年7月9日発行 底本の親本:「時・処・人」人文書院    1936(昭和11)年11月15日発行 初出:「東京朝日新聞」    1928(昭和3)年1月24~29日、2月1~2日 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2007年5月1日作成 2016年5月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044540", "作品名": "世界覗眼鏡", "作品名読み": "せかいのぞきめがね", "ソート用読み": "せかいのそきめかね", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「東京朝日新聞」1928(昭和3)年1月24~29日、2月1~2日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-06-19T00:00:00", "最終更新日": "2016-05-12T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44540.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集21", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年7月9日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年7月9日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年7月9日", "底本の親本名1": "時・処・人", "底本の親本出版社名1": "人文書院", "底本の親本初版発行年1": "1936(昭和11)年11月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44540_ruby_26750.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-05-12T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44540_26806.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-05-12T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "あら、泣いたとこ、見たの?", "見たどころぢやないわ。素敵だつた、たしかに……", "まあ、どうして?", "あそこは、ああ行くとこよ。感激の場面だもの", "人をッ……" ], [ "一緒に遊べないからでせう……あんなにお忙しくつちや……", "外では遊んでて、家へ帰ると忙しい忙しいつて吹聴するのさ。昨夕もママと喧嘩した話、したげようか", "いいわよ、それより、今夜はずつと家へ帰るの?", "まだ九時だらう。戯談ぢやない。これから新宿へ廻らなくつちや……", "新宿へ廻つて、何すんの?", "人を待たしたるんだよ", "今時分?", "女のアミだから心配しなさんな", "なほ心配ぢやないの", "妬いてるな", "そんなんぢやないけど、近頃、あたしのところへちつとも来ないんだもの。お友達がだんだんなくなつて、淋しいわ", "よし、よし、たまには誘つてやるよ。その代り、旧式のお嬢さんぢや駄目だよ。近頃面白いグループを作つたのさ。男も女もはいつてるんだけどね、まあ、何れその話はゆつくりするよ" ], [ "もう済んだらしいわ。あつちへ行かなけやわるいかしら……", "あたりまへよ" ], [ "お顔は覚えてますけど……まあ、あたし、いやだわ……", "名前は忘れましたね。云はうか、どうしよう……?" ], [ "ええ、近いうちに出て来るさうですわ。子供を連れて来るんですつて……。家が賑やかになりますわ", "ぢや、また遊びに行かうかな" ], [ "神谷? ああ、あいつは、なんでも、農科を途中で止めて、たしか、化粧品の製造かなんかやつてる筈ですよ", "まあ、化粧品の? どんな化粧品?", "どんなつて、どうせ、ろくなもんぢやないでせう。何時か、変な匂ひのする香水を人に嗅がせて、得意になつてましたよ。白粉みたいなもんも作るんださうです。君なんか、知らずにつけてるんぢやないかな", "へえ、そんなこと、あの方が、おできになるの?", "だれにだつてできるでせう、白粉ぐらゐ……。容れものさへ綺麗なら、女は買ふつていふぢやありませんか", "さういふ女も、あるかしれないわ" ], [ "眠つとつたかい? 実にいい気持だ、今日は……", "大成功でした。しかし、会のはじまる前に、みんなと話し合つたんですが、祝賀会だけぢや、あとになんにも残らないから、ひとつ記念になるやうな物を、先生に差上げようぢやないかつていふことになつたんです。いけませんか", "何をくれるんだい?", "鬼頭君の案では、先生の隠退所を作りたいつていふんです", "隠退所? 隠退はまだ早いよ", "将来のためにです", "そんなことより、諸君にはまだ大事な仕事が沢山ある。老人のことなんか心配せんでよろしい" ], [ "うん、それや妙に興奮はしたさ。芝居を見て泣くやうなもんだ。嬉しくもなんともありやせん", "あら、そんなこと……みなさんに悪いわ。鬼頭さんだつて、ほんとに一生懸命よ。お父さんはあんまり懐疑的すぎるんだわ", "さうかも知れん。例外は例外として認めるさ。だがなあ、千種、お父さんはなにも、人の好意とか、情誼とかいふものを軽蔑する気はない。ただ、そんなものを取巻いて、お互に自分を甘やかす気持がいやなんだ", "それはわかつてますわ。でも、人にさういふ弱点がなければ、なかなか好いことつて出来ないんぢやないかしら……" ], [ "いいえ、さきほど、お友達が見えて、何処かへお出掛けになりました", "なあんだ、仮病か" ], [ "今日は、お昼はどうなさいます。おかずは竹の子と蕗のお煮つけですよ。大阪漬がおいしく漬かりましたでせう", "食つてもいいね。下の連中は?", "今、さう云ひましてす" ], [ "肉が大分遠のいたやうだね。あんまり虐待するなよ", "でも、お野菜は、うけがいいんですよ" ], [ "はい、なんかご用ですか? こちらへ、ご飯持つて参りませうか", "いや、よろしい。すまないが、そこにあるもの、洗つといてくれ" ], [ "別にやつてもゐないが、ざつとこんなもんだ。無資本の工場といふ格さ。現代の継つ子とは如何なるものか、まあ、参考に見てくれ。君は、今日は、午前だけかい?", "といふわけでもない。教員室でランチを食ふのに、そんなに手間は取りやしないよ。時間が余つたから、ぶらりとやつて来たんだ。ちよつと相談したいこともあつたしね", "まあ、ゆつくりしてけ。紅茶でも取らうか", "取るとはなんだい。君は、まだ独りか?", "相変らず察しがいいな。女房を貰ふ条件がまだ備はらんのでね", "君がそんなことをいふのは可笑しいよ。産を成して、多少、ブルジョア気質が出て来たな", "僕は昔から、俗人だ。世間並の野心家だよ", "それもいいがだ、をととひ、君の評判はなかなかよかつたぜ。鬼頭少佐も感心してたよ。君なんかああいふ会には、凡そ興味がないだらうつて、誰でも思つてたよ", "さうかなあ。ふらふらと出てみる気になつたんだ。山羊先生、大分、よぼよぼになつたね", "それなんだよ。ああして記念祝賀会をやつた序に、もう少し何かしてあげたいつていふ気がするだらう。賛成者も大分あるんだが、君はどうかなあ。めいめい、大した負担でなけれや、この際、老後の慰安といふやうなことを考へてあげたいんだ。この間五六人で、ちよつと話したんだが、浦川子爵なんか非常に乗気でね、知つてるだらう、先生の藩主だよ。是非、その計画を立てろといふんだ。今夜、そのことについて相談会を開くんだが、みんな方面が違ふんで、意見を纏めるために、君も一人、委員に加つて欲しいんだ", "僕なんか出る幕ぢやないよ。もつとお歴々がゐるだらう", "お歴々は金を余計出しやいいんだ。われわれは、適当な案を立てて、先生にうんと云はせれやいいんだ。ところが、あの山羊さん、なかなか手強くつて、おだてに乗らんから困る", "無慾恬淡を標榜しとるかい、未だに……", "あれや、主義でなくつて、趣味だよ。だから、痩我慢も張らない代り、理窟で行つても駄目なんだ。あの年で、月々生計に追はれてゐるのは気の毒だが、また、なかなか考へてもゐるらしいね。下の男の子は、二人とも官費の学校へ入れちまつたよ。師範と幼年校だ", "あの娘はどうして、まだぶらぶらしてるんだい?", "千イ坊かい? 僕は知らん。これも、お嫁に行く条件が備はつてないんだらう" ], [ "歴史の教師も、やつぱりさういふことを云ふのかい、教場で……", "学生の顔を見ると云ひたくなるね。僕の信念は、やつぱり、学問の上にも反映させなけれやならんと思つてゐる。これが、歴史をやつてるんだつたら、日本精神とか、大和魂とか云つたところで、学生が、ふん、またかと思ふけれどね、こつちは、さうぢやないからね。西洋を識つて、西洋崇拝に陥らないといふことは、これや、相当、学生も信用すると思ふんだ。現に、われわれ以後のヂェネレーションを見給へ、その点案外自覚がないからね。社会の罪も大いにある。それにしても、頭を使つてゐないよ。考へることを怠けてゐるよ。自由主義も結構だが、考へない自由なんて、凡そ不思議なもんだよ", "うん……考へてゐることを、みんな云はなけれやならんといふ義務もないが……" ], [ "なにを云つても、どうもならんといふ気持が支配してるんだな。君は、それぢや、一体、さういふ主義をだね、誰に吹き込んで、誰にどうさせようといふんだい?", "一人ではなんにもできやしないさ。影響といふもんは、さう目に見えなくつたつて、何時か結果が現れる。それだけの役割は僕にだつて負へるよ", "伴先生の影響を、何時の間にか、君が受けたやうにね", "僕は、むしろ、伴先生とは、思想的には相容れないところが多い。ただ、あの人物は面白いからね。先生の自由思想といふ奴は、非常に古風で、悠長だ。十六世紀的ヒューマニズムだ。ただ、先生は、英吉利紳士と、日本武士と支那の聖人とを一緒にしたやうなところがある。勿論、その三つにアルファを加へたものだが、そのアルファは、極く平凡な苦労人といふところだ" ], [ "ほう、君もさう思ふか。まあ、それはそれでいいとして、どうだい、今夜、鬼頭君の家へ集るんだが、出掛けて来ないか?", "まさか、伴先生をだしに使つて、不穏な計画をやるんぢやあるまいな" ], [ "亭主ばかりが大事だつていふやうな女は、今時、ゐないわよ。世帯の切り廻しなんて、一種の職業ぢやないの", "さうよ、男にさせたつてかまはない職業だわ。女の天職でもなんでもないわ", "だからさ、亭主とか子供とか、そんな限られた対象を考へなくつたつていいでせう。もつと、大きな社会の一単位としての家族、いや、夫婦と子供といふ一共同体をですよ、誰が完全に管理し、撫育し発展させるんです?" ], [ "ああ、あとで草案を出すから、審議して貰はう", "それやよかつた。あなたがた、会の名前、考へて来ましたか?" ], [ "いいですよ。そんなことは規則違反になるぜ。たしか、必要以上の儀礼は排斥するといふ項目も入れる筈だつた", "ぢや、あなた、何処に坐るの?", "座蒲団なんかいらないよ。ここへ坐るよ", "あら、それも規則違反よ、人のハンド・バックの上へあぐらなんかかいて……。必要な礼儀は厳守する筈よ" ], [ "そんな理窟張つたもんぢやいけないな", "文章が、ちつと古臭いわね", "自分たちだけえらがつてるみたいだわ" ], [ "いつたい、そんなものが必要なのかい", "お互にわかつてれやいいぢやないか", "会員も、これだけあれば沢山だね" ], [ "へえ、さつきからのお話で、あれで責任がもてるんですか", "もてる", "ぢや、もつて下さい。どうもつてくれますか", "どうつて、だから、さつきから云つてるやうに、今すぐどうかうつて云つたつて……", "それごらんなさい。こつちは、そんなことは云つてられませんからね……" ], [ "おい君は十九だね", "さうです", "向うは……?", "…………" ], [ "なんだい、はつきりしろよ。北見せん子はいくつだつて訊いてるんだぜ", "いくつでもいいんです。僕、今日からお暇をいただきます", "さうして、どうするんだい?", "…………", "とにかく、どうするか云つてみろよ", "もう決心してるんです", "どんな?", "最後のです……" ], [ "あらまし想像はついてるが、詳しい話を聴かうぢやないか。いつたい、どうしたんだい。いくらなんでも、お前の年ぢや女房はもてないぞ。子供ができるつてことは知らなかつたのかい?", "済みません", "馬鹿だなあ。済みませんつて、おれに云ふ奴があるかい。それより、自分が、出来たらかうしたいと思ふことを、ちやんと云つてみろよ", "わかりません", "北見から、その話は聞いたんだらう", "いいえ", "明日会つて話をしてみろ。場合によつてはおれも考へてやるが、二人ともしばらくこの家は出て貰はなけれや困る。お前の仕事口だけは世話してやつてもいい。二年たつたら、またここで働いて貰はう。結婚はその時といふ約束にしといたらどうだ?" ], [ "あたし、よすわ、なんだかこわい", "ぢや、僕と乗らう" ], [ "あるなしは別さ。亭主の出せない金を親が出すといふ法はない。ただ、おれがすぐ返事を出さなかつたのは、その事情がわからないから、もつとはつきりするまで待つてゐたのさ。まあ、さういふわけなら、信次郎に頭をさげて始末をつけてもらふといい", "だから、そんなことはできないつて云つてゐるぢやありませんか" ], [ "うむ、主観的にはできんかも知れんが、そいつは、おれの知つたことぢやない。第一、信次郎にはなんて云つて出かけて来たんだい?", "ちよつと遊びに行つて来るつて云つたら、序に恋人にも会つて来いつて、平気なもんよ" ], [ "ええ、それやもう……二百人以上お集りになつたわ。あたしなんか顔も知らない人が随分ゐるのね。忘れてた人もあるし……姉さまだつたら、きつと面白かつたわ。お父さんの演説で、あたし泣いちやつた", "へえ、それがみたかつたね" ], [ "園子さんはもう赤の方はやめたの?", "赤々つて、あの方、赤ぢやないわよ。ただお友達の関係で調べられただけよ。勿論それだけであの方の不名誉にはならないと思ふけど……", "それやさうよ。あたしだつてそれくらゐの理解はあるわ。つまり、保守的なものに対する反抗でせう。さういふ気持なら、あたしにだつてあるわ。第一、古くさい頭をもつた亭主の云ふことなんか聴いてられないわ", "あら、だつて、信兄さまのことなら、流石は外人と交際つてるだけあつて、なかなかハイカラだつて、何時かおつしやつたぢやないの?", "そこが可笑しなとこなのよ。どうすればハイカラだつてことは知つてるのよ。だから、さうする必要がある時だけ要領よくやるんだわ。自分の都合で、それがあべこべになるんだから……。さういふ時はまるで野蛮つて云つていいわ。社交なんていふものの意味は、打算を離れて存在しないと思つてゐるらしいの", "おい、それで、お前は、何時までこつちにゐるんだい?" ], [ "ねえ、お父さん、ほら、蓮沼さん……たうとう次官におなりになつたぢやないの。出世頭ね。尤も、学者の方面ぢや、いくらも名前の出た人がゐるけど……", "まあ、いいや、そんなことはどうでも……。ぢや、今晩はどうせ泊るんだらうから、着物でも着替へて来なさい。千種、お前のなんかがあるだらう", "ええ、さうなさる? でも、着替へもつてらしつたんでせう。今、あたし、お昼のおかずのことを考へてたとこなの。それとも、久しぶりでおすしどう?", "うん、結構だけど、あたしまだお腹すかないんだ。さうさう、鬼頭さんは、時々いらつしやる? 今東京でせう。あの方だけよ、信次郎とあたしとの連名で、ちやんと年賀状を下さるのは……。あのお母さんさへなけれや、あんたに丁度いいんだけどなあ……。どう、お父さん? 海軍少佐ならわるくないわ", "なんでも独りできめてしまふ奴だな。千種はこれでなかなか理想をもつてるんだよ" ], [ "あの……先程、若旦那様とご一緒に、自転車で戸山ヶ原を一と廻りするんだつて、出かけたやうでございます", "誰の自転車?", "さあ、御用聴きにさう云つて、借りたんぢやございませんかしら……" ], [ "あの始めたばかりの組がございますので、それをすましてからに願ひたいつて申しますの、いけません?", "さうすると、あと、小一時間待つわけですね。僕たちはかまひませんよ。なあ、深水君……将棋でもやらうか" ], [ "それより、神戸の姉が今日出て参りましたの。今ご挨拶に伺ひますわ", "へえ、早くなつたんですね。秋の筈ぢやなかつたんですか" ], [ "ええ、まづ第一に、浦川子爵、司法次官蓮沼泰三氏、椎野海軍中将、黒部陸軍少将、松下工学博士、荘司医学博士……", "ちよつと……" ], [ "発起人は誰もまだ知らずにゐるんだらうと思ふが、そんな話はなんとしてもやめてもらはなけれや困る。筋道も立たんし、気持も許さない。別に体裁を云々するわけぢやないが、師弟といふものの関係には自ら限度がある。友情があつてもよし、なくてもよし、恩を被てもよし、被ないでもよしなんだ。酬いられない仕事だなどと、先達の会でも誰かが云つたが、そんなことはあるもんか。これや、自分が食へさへしたら、ただでやつてもいい仕事だ。僕がさういふと、なんの権威もないが、まあ、教壇に立つといふ職業はだね、良心に問うてやましくさへなければ、こんな楽な、得のいく職業があるもんか。教師といふものは、渡し船みたいなもんで、通行人は当然それに乗つて、河を渡る権利がある。きまつた賃金を払ひ、おとなしく坐つてゐる以上、船頭の方で、お前は乗せんといふわけには行かんのだ。向う岸へ着けば、それまでさ。後をふり返つてみる必要もないやうなもんだ。弟子の立場からはさうはいかんと云ふかもしれん。さうはいかんやうにさせた習慣を考へて見給へ。ほめたことぢやないよ、これや……。恩義なるものが若しありとすればだ、そして、それが、結構なものであり、忘るべからざるものであるとすればだよ、例ひ万分の一にもせよ、それに酬いるなどは寧ろ惜しい話で、出来れば差引勘定零にしておかうといふ、甚だ水臭い了簡だと云へないこともない", "それや、先生、詭弁ですよ" ], [ "旦那さまの分は、どういたしませう。もうお二階へおあがりになりましたんですよ", "ああ、さう、ぢやいいわ、そのままにしといて……", "でも、神戸の奥様が、お麦酒を召しあがつてらつしやいますから……", "だから、それでいいのよ。あんた、兄さんところへ行つてね、鬼頭さんたちがいらしつてますが、お麦酒のお相手をなさいませんかつて、伺つて来て頂戴" ], [ "で、なんて云つてらしつた?", "麦酒なんか家で飲めるかつて……", "あら、いやだ、外の麦酒つて、どう違ふのかしら……" ], [ "ちよつとご挨拶だけなさいよ。今頃から何処へいらつしやるの?", "何処だつていいぢやないか、おれはゐないことにしとけよ" ], [ "なんだ、これや、神谷ぢやないか。君、近頃、あいつと交際つてるのかい?", "ううん、さういふわけぢやないんだけど、昨日、不意にこんな手紙を寄越したのさ。――そのうち遊びに行きたいと思ふが、何時が都合がいいか。あんまりご無沙汰してるから、君のゐる時に行きたいつて云ふんですよ。あいつ、家の親爺は苦手だつたからなあ。そいで、僕、今夜、寄つてみてやらうと思ふの。こないだの会に、それでも出たんだつてね" ], [ "奴さん、だんだん昔懐しくなつて来やがつた。ね、僕が行つた時は、まだ、そんな風は見せなかつた、さう云つたでせう、鬼頭さん……。しかし、あれからですよ、大いに論じたからなあ……", "それぢや、序に、今度の委員にしちまはうや。相当やつとるんだらう、あれは……" ], [ "うむ、ああいふ商売は、どの程度がやつとるといふのか、実はわからんよ。人はだいぶ使つてるが、まあ、元気は元気だつた", "人物はしつかりしとつたなあ" ], [ "神谷さんつて……ああ、あの仙ちやんのこと? へえ、珍しい人物が現はれたのね。生意気つたらなかつた……あの少年、今なにしてるの?", "それがね、姉さま、化粧品の製造なんですつて……驚いたわね" ], [ "よせよせ、そんなにゆつくりしてゐられないぞ。早速あとの仕事にかからなけれや、君は名簿を作るんだつたらう", "そいつは引受けた。おい、久馬ちやん、行かう……", "ちよつと待つて……。あたしも行くわ。いいでせう" ], [ "お暑いでせう、上着おとりになつたらつて申上げたいんだけど……兵隊さんは、さういふわけにいかないのね", "どうしてですか。お許しが出たら、何時でも脱ぎますよ。家へ寄る暇がなかつたもんだから、こんな窮窟な恰好でやつて来たんです。ぢや、失敬して……" ], [ "海の生活から陸へおあがりになると、なんだか変ぢやありません?", "魚ほどぢやありませんが、まあ変ですね、当座は少くとも……。馬には髀肉の嘆つていふやつがあるけれども、艦はなんていひますかね。とにかく、物足らんですなあ", "どういふところでせう、その物足りないつていふのは……。水平線が見えないなんてことも、その一つかしら?", "うむ、なるほど、それもあるでせうね。しかし、もつと散文的な面白さがありますよ", "例へば……?", "さうですね、例へば、こんなユーモアも陸上勤務ぢや味はへません――艦の上ぢや、第一に水を節約します。だから、風呂へはいるなんて贅沢ですからね。南洋方面なんかだと、ほら、時々驟雨があるんで、そいつを利用する。雲が出たッといふと、みんな真つ裸になつて、からだ中へシャボンをぬりつけるんです。そして、その雲が艦の上を通るのを待つてゐる。艦が雲の下を通るのをと云つてもいいでせう", "あら、詩的ぢやないの", "さうですか、まあお待ちなさい。すると、その雲が、頭の上をすつと通り過ぎてしまふ――雨は一滴も落ちて来ない", "あら……", "日がかんかん照つてるんですよ。からだ中のシャボンがぱりぱりに硬ばつて、爪で剥がさなけれや落ちないつていふ始末です" ], [ "なにつてこともないが、あなたを軍艦へ乗せて、方々引つ張り廻したら愉快だらうなあつて、ちよつと思つただけです", "あら、そんなことできるのかしら……?", "できませんよ、できないから空想してみるんです", "ぢや、仮にできたとして、先づ第一に、何処へ連れてつて下さる?", "さうですねえ……先づ演習を見せますね", "あら、戦争ぢやないの?", "戦争たつて、こいつはどうも……", "どうせ空想なんでせう。あたしのために何処かの国と、戦争して見せて下さるつてわけに行かないの?", "横暴ですね、あなたは……。ぢや、ひとつやりませう。そこで、若し僕が戦死したら、それでおしまひ……。助かつたら、そのあと南洋の無人島へ連れて行きませう", "無人島ぢやつまらないわ", "ぢや、鬼ヶ島……いや、ほんとに、鬼ヶ島つていふのがあるんですよ" ], [ "それより、ちよつとここへ来てごらんなさい。ほら、そこへ蛍が飛んで来た", "うそ……今時分……" ], [ "何処? ゐないぢやないの、そんなもの……", "まあ、さう慌てないで、ゆつくりごらんなさいよ。いいですか、そら……" ], [ "この方向……もつと右……あの達磨みたいな恰好した木ね、葉の大きな……その下に饅頭みたいな木が、二つ並んでますね……真ん中に石が白く見える……石ですよ……わかつた? よし。あの石の上端を水平に左へ見て行きますよ……", "わかつた……" ], [ "あの時代は、なんと云つても、羊頭塾華やかなりし頃ですからな。われわれが中心にならなけれや駄目ですよ。神谷君は、えらく方面違ひのやうに見えて、決してさうぢやないんです。これでやつぱり科学者ですよ。なあ、おい、さうだらう", "いやあ、僕は商売人だよ。しかも、まだ海のものとも、山のものとも、わからんのだ。先生、僕はうんと金儲けをして、その金をどえらいことに使つてやらうと思つてるんです", "まあ、使ふ方はゆつくり考へてもいいな" ], [ "その話はいいや。それで、今日はどういふ相談があるの?", "相談はすんぢまつた。あとは実行だ。君は忙しいやうだから、委員会に顔だけ出せばいいよ。事務所は、先生、此処にしておいてかまひませんか?", "なんの事務所?", "基金募集のです", "変なもんだが、かまふまい", "幾らぐらゐ集まるかなあ" ], [ "侮辱になるならなつたで構はん。おれは寧ろ、鬼頭さんを信じて云つてるんだ。軍人の神経過敏はいかん。国民は軍隊の有難さを百も承知してゐるんだから、君たちは大いに頑張つて差支ない。治にゐて乱を忘れない心掛けは、乱にゐて治を忘れない心掛けと相通じるのだ。さういふおれだつて補充兵だ。一朝事あれば武器を取つて、君たちの指揮に従ふ人間だ。なんのために戦ふのか、そんなことを誰も彼も二六時中考へてゐなけれやならんかどうか。進めと云はれた方向からは、何か恐ろしいものが押寄せて来るに違ひないのだ。後ろには命がけで護らなければならんものが、あるに違ひないのだ。日本人ならそれはお互暗黙のうちにわかつてゐる筈だ。日本といふ国は、一度も外国に負けたことがないから尊い国だといふのは間違ひだ。どうしても負けられないほど大事にしてゐるものがある、それがあることだけが尊いのだ。ところが戦争、戦争とそれに気を取られて、知らず識らず、国民の精神的栄養がお留守になるとしたら、これはどうすればいいんだ。それを君たちの責任だとは云はん。しかし、実際に責任をもつて、そのことを考へる奴がゐないんだ。それは、なぜだ。君たちほどに日本のためを思ふ人間が、ほかにゐないのか。さうだとしたら、これは大変だぞ。おれを殴つて解決がつくなら、いくらでも殴れ", "貴様の云ふことはよくわかる。おれの家へ来い、もつと話をしよう" ], [ "親爺は何処へ行きました? 呼んで来て下さい", "もういいわ。疲れてますから、あんまり起しとくの可哀さうよ" ], [ "おい、仙ちやん、おれの部屋へ行かう", "ああ、おれはもう少しゐてもいいだらう。鬼頭さん、帰つてくれ。そのうちゆつくり会はう" ], [ "今日はいいところへ連れてつてあげるわ、ついて来なさい", "何処よ", "何処つて訊くなら連れてかない。いいぢやないの、別に困るところぢやないから……", "いやよ、そんな、子供みたいな……", "あら、子供ぢやないの、あんたは? ぢや云はうか、実はお金の工面に行くのよ。お父さんはどうしても出して下さらないから、自分で奔走してみるわ。一人ぢや心細いんだよ。あんたもそばについててよ", "心当りがあるの、姉さま", "ないこともない。ぶつかつてみなけれや……", "でも、その入用なお金つていふのは、いつたいどういふお金なの? あたしにはわからないわ", "だからさ、それは詳しく云ふと、信次郎に内証であたしが、ある関係筋から受け取つたお金なのさ。商売をやつてれや、そんなことは当り前なんだけど、信次郎つていふのは馬鹿正直だからね。知らせると、うるさいのさ。そのお金は、あたし一人で遣つたわけぢやないわよ。信次郎の洋服代や、子供の入院費にだつてなつてるわ。ところがさ、そのお金の効き目が一向現れて来ないつて、それを出した男が、あたしを責めるんだよ", "お父さんにその話くはしくしたの?", "しない", "どうして?", "馬鹿つて云はれるから", "だつて、馬鹿なことしたんだから、しやうがないぢやないの", "ひと口にさうも云へないさ。事情つてものがあるからね", "そんなら、旦那さんに打明けるのが一番だわ。どつちみち、お父さんは無理よ。千里兄さんに毎月五十円だか送るのが大変らしいわ。骨董を売つたりなんかしてるんですもの", "わかつてるわよ。どうせ他処へ出た娘のことまで心配してたらきりがないからね" ], [ "そのへんを見て来い。神戸の奥さんがまだ帰らんのだ", "はあ、どの辺まで……?", "どの辺つて……電車通りのへんから、ずつと……", "お父さん……それより、あたしが行くわ。ひよつとしたら、あそこかもしれないから……" ], [ "倉さん、あんた深水さんの下宿知つてる?", "深水さんの下宿ですか。いや、存じません", "ぢや、しかたがないから、あんたそうつと裏口からはいつてつて、お父さまのお部屋にある知人名簿を、大至急持つて来て頂戴。いやだなあ、寒くなつて来たわ", "序に、お嬢さんの羽織持つて参りませうか", "そんな芸当できないでせう、さ、待つてるから急いで……" ], [ "いいのよ、不良マダムで……。男はかういふ時、お酒が飲めるから羨ましいわ", "姉さんは、いつたいどうしたんです? 今日はいやに悄げてるんですよ" ], [ "名簿はどうしても見えませんですよ。先生に伺ひましたら、深水さんが持つてお帰りになつたさうです", "ふうん" ], [ "兄さん、なにしに来たんだらう", "さあ……。早くお上んなさいよ" ], [ "今日はもう晩いから、わしは先へ寝まして貰はう", "すみません" ], [ "おい、あつちへ行かう。やつぱり話を聞いとかんと眠られやせん。おれはなんとも思つてやせんぜ。ただ、ちやんとしたことを云ふてくれよ", "変な方ね……。明日でいいぢやありませんか。今時分、見つともないわ", "見つともないのは、お前の方ぢやないか。亭主をひとり放つたらかしといて、どこがえらいんぢや。そんなら、ここでもええ。その金つていふのは、どういふ金か、はつきり云ふてみい。僕に云へんとは可笑しいぢやないか", "だから、明日ゆつくりお話するわよ。いいのよ、あなたにご迷惑はかけないから……", "それがいかん。ご迷惑はかけんと云はれて、僕がお前のすることを安心して見てゐられるか、そこをよう考へてみい。辰郎は食ひ過ぎをやりよるし、雛子はぴいぴい泣いてばかりゐるんぢや", "不断からさうぢやないの", "あツ! ああいふ無茶云ひよる。おお、寒い……ちよつといれてくれ……", "駄目ですよ、そんな馬鹿な……妹がそこにゐるぢやありませんか" ], [ "封は委員全部立会の上で開けようね。だが、もう少しあつてもいいな", "まだ一と月あるんだもの", "それやさうだ。誰だつて、かういふことは急がんからね", "ところで、姉さんは?" ], [ "今朝発ちましたわ", "今朝? 神戸へ?", "君はいかんなあ、人の女房のことばかり心配して……" ], [ "異性の友達として最も安全なのは人の細君ですよ。僕は恋愛も結婚もしたくないんだ。お互に或る程度以上の関係を否定し、寧ろ、忌避して、友情と少しばかりの夢を与へ合ふことは、男女の間の健全な道徳だと思ふんだ。遊戯的だつていいさ。それが若し、相手を傷けないなら、ちつとも非難すべきことぢやない。過ちのないことを確信して、火遊びができるといふのは、こいつは精神の鍛へられてゐる証拠ですからね……", "ほう……君は、何時の間にそんな精神を鍛へたんだ?" ], [ "お友達つて、どういふ? うちへいらつしやる方以外に?", "うちへ来る連中だつていいでせう。特別に交際してる男性と云ひますかね。一緒に映画を見たり、お茶を飲んだりする……?", "そんなの、ありませんわ", "ないさ、それや……" ], [ "この家は妙な家だよ。親爺さんが自由主義、放任主義で、子供たちがみんな融通の利かん引込思案ばかりだ。千里氏があれでいくらか、無鉄砲なところがあるかな。久野夫人の如きは、表面は明けつぱなしみたいで、その実なかなか用心堅固ですからね。女の友達つて奴はやつぱり女であることは絶対必要な条件だよ", "当り前のことを云ふな" ], [ "此処ははじめてですか、あなた?", "いいえ、以前二、三度、来たことがありますわ。たしか、ここだと思ふけど……" ], [ "音楽会へ誘つていただいたもんだから……", "ああ、さう……" ], [ "覚えてらつしやらないかしら……さうね、時代が違ふわね……やつぱり、うちへいらつしやつた方よ……鬼頭さん……深水さん", "あたくし、新島園子……序に、こちらは、女流作家の津幡秀子さん……どうぞ……" ], [ "いや、何時でも結構です。僕も思ひ出しました。あの会で、途中から見えなくなつたのは、あなたでしたね", "まあ、知つてらしつたの? ずるい方……。流石は名司会者ね、八方に気がおつきになるわ" ], [ "ねえ、園子さん……今夜お暇なら、そちらとご一緒に、あたしたちの方へ参加しない?", "あんたたちの方つて……音楽会? なんだつけ?" ], [ "ほら、わたしは駄目よ、会が七時からだから……", "さうか。よく会のある人だなあ" ], [ "馬鹿ね、ちがふわよ。きめたんなら、二人つきりで出掛ける筈よ", "カムフラアジュつてこともあるからね。もう一人の、なんだつけ……よくあんたんちへ来てたね、あれも怪しいと思つてたんだけど……", "深水高六よ。あれで凄いのよ", "あんなの、知れたもんさ。だけど、あれでなくてよかつたよ", "あんたも嫌ひね。どういふとこなんだらう、シャンのつもりでゐるからかしら……", "男はみんな、なんかのつもりでゐるからね。面倒臭いよ" ], [ "あんな歌、聴いてられる?", "だつて、わざわざ誘はれたんだから、ちつとはおつきあひをしなくつちや……", "訊くの忘れたけど、海軍少佐のご招待なの? どつち?", "さうよ、お友達の妹さんなんだつて……。切符を買はされたのよ、きつと……", "よくあるこつたよ。だけどさ、おつきあひおつきあひで、あたしたちは自分のしたくないことばかりさせられてるんだもの……。あたしは、もう、うんざりだ。折角だけど、ごめん蒙るわ。あんたは、さうもいかないだらう、なんかの義理があるんだらうから――なんて、いぢめるんぢやないよ。本音を吐け、本音を……。今帰つちや、どうしても海軍少佐にわるいか、どうか、はつきり云つてごらん", "はつきりつて、なにを? あたしの平凡な社交常識で云つてるのよ", "時には、これに反抗してみる気にならないか?", "時にはね、それやあるわ。程度の問題よ", "ぼくはもう一切、譲歩しないんだ。君にわるいかも知れないけど、怒るなよ。あの女、気ちがひだつて云つとけよ", "気分がわるくなつたつて云つとくわ", "よし、よし……だけど、あの海軍少佐なら、まあ及第点だよ。僕の意見はそれだけ……。きまつたら、報告しなさい", "ええ、それやむろん……" ], [ "ほんとだ……さう云や、陽気な歌は少なかつたね", "どつかで休みませうか?" ], [ "安心してらつしやい。決して、僕は女の人は殴りません。もつとも、殴つてくれつてのがあるさうですがね、僕の友人の女房がさうださうです。何時までも不機嫌でゐられるより、一と思ひに横つ面をはり飛ばされた方がせいせいするさうですよ。あとはなんでもないですからね。どうだい、深水君、さういふ細君は?", "変態だな、それや……。僕はどつちかつていへば、女に殴られたい方ですね", "それはどういふの、なほ変態ぢやないの?" ], [ "これで、おいくら?", "見本として進呈します。この次から買つて下さい", "約束はしないわよ。ただし、もつとうんと洒落たもの、お作んなさいよ", "和製で高いと売れないんです", "原料は、あたしが買つてもいいから、あなたの思ふやうなもん、ひとつ、調合してみない? あたしの方からも註文出すわ", "面白いですね。だけど、あなたにさういふ趣味あるんですか?", "女に向つて、なに! 失礼ぢやないの! あたしが不断使つてるの、あててごらんなさい", "気がつかなかつた。あなたはお化粧なんかしないとばかり思つてたもんだから……", "する時はするのよ。ほら、今日はしてるでせう" ], [ "しかし、なんですよ。さうしてるあなたとは、こんな話ぐらゐしかできませんよ", "へえ、あなたも現金ね。ぢや、香水の用はないから、帰つて頂戴……", "帰るもんですか。生活と芝居とをごつちやにしないで下さい", "ごつちやになさるのは、あなたの方でせう", "園子さん、僕を見損つちやいけませんよ。世の中に、あなたのやうな女を利用しようとするものは多いでせう。僕もその一人だと思つてるんですか? あなたに商売の話をしないですますぐらゐ、これこそ、なんでもないこつた。友達だと思はれなけれや、この家へこんなもん売りつけに来やしないんだ" ], [ "そんなもん、読みたかないよ", "あら、受け取つた当人が許すんだからいいぢやないの", "書いた人が迷惑するでせう" ], [ "あの伴様のお嬢様がおみえになりましてございます", "へえ、千種さんが……" ], [ "園子さんは、僕の仲間で、同時にお華客なんです。尤も、お華客は今日からですが……", "まあ、その話はゆつくりするとして、どう、この方のお店の品物は? 使つてる? つかつてない?", "さあ、知らずに使つてるかも知れないけど……ああ、これがさうね……。いろんなもんがあるのね……みたことない、あたし……", "どうして千種さんのとこへ持つてかないの?", "追々と思つてるんです。確実な方面はあと廻しでいいでせう", "あら、そんなに信用があるの?" ], [ "うん、ちよつと……話したいことがあつたから……。でも、何時だつていいのよ。今日はお邪魔かしら?", "どうして? この人ならかまはないんぢやない? それとも、絶対秘密か? そんなら、あつちへ行かう、あたしの部屋……", "それより、僕はもう帰つてもいいんですよ。何れは、三人でどんな話でもできるやうにしたいもんだなあ", "それや、あんたの心掛け次第よ" ], [ "いやだわ、あたしが来たから、帰るつておつしやるんぢや……。もう少しいらしつたら、神谷さん……。三人でお話のできることが、いくらだつてあるんですもの", "さう云へばさうだ。千イ坊がゆつくりしてけばいいんだから……。あんた達は、近頃あんまり、なんていふか、交際してないんでせう。話してごらんよ、二人で……面白いから……", "この調子ですからね、かなはんですよ" ], [ "想像はできるでせう、どんなんでもよければ……", "あら、どんなんでもいいつて云つてやしないわ" ], [ "あたし、また来るわ。今日は少し急ぐから……", "だつて、なんか話があるんだらう。すぐ来るよ", "いいの、もうすんぢやつたから……" ], [ "ええと、僕が靴を脱いだのはどつちだつけな", "あんた、どつから上つたの?", "知らない", "ぢや、玄関へ廻させるから、待つてらつしやい" ], [ "駄目よ、駄目よ、五時に帰る約束だから……", "五時に帰しますよ", "今からぢや、そんな暇ないわ。また何時か見せていただくわ" ], [ "鬼頭から、何かもう話があつたのか", "ええ、それが変なのよ。ぢかにさういふこと云つちやいけないと思つてるらしいの。をかしくつて……", "それやいいが、一体、お前の方はどうなんだ? 行く気があるか、ないか?", "お父さんさへいいと思ひになれば……あたしは……", "よし、わかつた。さう返事をしておかう" ], [ "ちよつと待つて……。そんなにすぐ返事をしないだつていいんでせう。あたし、もう少し、あの方のいろんなところ識つときたいわ", "うん、それもよからう。まあ、二人で一度ゆつくり会つてみるさ。しかし、なんとしても、わからんところはわからんのだから、そんなに先の先まで考へなくつたつていいよ。お前が結局鬼頭のところへ行くといふのは、こいつは面白い。お父さんは、無論、反対はせんが、時節柄、よほど腹を据ゑてかからんといかんな。軍人とはどういふものか、その仕事が世間一般の仕事とどう違ふか、どんな考へ方をすれば、彼等を心から尊敬の眼で見ることができるか、さういふ風な点で、あやふやなところがあつちやいかん" ], [ "あたくし、そんなに従順に見えるかしら……", "要するに聡明ならいいんですよ" ], [ "さあ……あたくし、そん時のこと、ちつとも覚えてないわ", "それやさうさ、僕だつて覚えてやしない", "あら、覚えてらつしやらない、あなた?", "ううん、君のことをさ。あの時分は、お母さんがゐて、のこのこ出て来るとやかましかつたんでせう" ], [ "あなたが家を出ると、お父さんがお困りになるといふやうなことはないでせうね", "ええ、多少は不自由だらうと思ひますけど……でも、そのつもりになれば……" ], [ "僕として、何かお話しておくべきことがありますかねえ? 当分、この程度の生活で、不満はありませんか?", "そんなこと別に……", "ぢや、僕のからだは国家に捧げたものだつていふことも考へて下さつてますね" ], [ "いや、別にむづかしいことぢやないんですよ。ただ、軍人は何時死ぬかもわからないし、艦へでも乗り込むやうになると、長く留守もさせなきやならず……", "それや、わかつてますわ。そんなこと、軍人でなくつたつてあることですもの。それより……", "それより、なんです?", "それより、まだ伺ひたいことは……でも、よすわ……お話だけぢやわからないから……", "話だけでわからんといふのは、どういふんだらう?" ], [ "僕があなたにそれを云ふのは変ですよ。だつて、あなたは、その全部を備へてゐると僕が認めたんだもの", "ぢや、さういふ資格が備はつてゐることが第一条件なのね?", "だと、思ひますがね。僕が好きになるとしたら、当然さういふ女ですよ", "さういふもんかしら……" ], [ "おお、君か、どうしたい?", "いや、実はね、ちよつと調べ物があつて、ついそこにゐる先輩の家を訪ねたんですがね。あなたのところへ寄つてみようか、どうしようかと考へてたとこなんです", "役所へかい、うん、今日は少し遅くなつたんだよ。何か用? さういふわけでもないの?", "ええ、ほら、羊頭塾の基金募集ね、あのことも相談しなけれやならないし、一度委員会を開かうと思ふがどうですか", "いいだらう。ただ、僕は、今えらく忙しいんでね。まあ、みちみち話さう" ], [ "申込口数が六百十七、人数にして三百人足らずです", "すると、金額では……?", "ええと、三千いくらかですね。まだ少しは、来ると思ふんですが、どうも成功とは云へませんね" ], [ "僕も実は、今の学校をやめて満洲へでも行つてやらうかと思つてるんです。向うの大学ならいきなり教授ですからね", "だつて、口はあるのかい" ], [ "それやありますよ、話しとけば……。日本にゐては食へないといふ決定的事実の前に、だれが悠然としてゐられますか?", "なんだい、君は月給ぢや足らんのかい?", "月給ぢやない、時間給ですよ。まあ、しかし、そんな話はどうでもいいや。ぢや、あなたが忙しけれや、僕たちだけで、事務は取りますよ。あとは集金だけですからね。それと、山羊さんの希望を訊いて、とにかくそれだけで建つ家を建てようぢやありませんか", "なるほど、三千円ぢや大きなことは云へないな。まあ、いづれ、その相談はゆつくりするとして……。僕はここ一と月ばかり役所の用事で地方へ出掛けるんだがね、その前に暇がとれたら、一度寄つて話をしよう。多分駄目だと思ふが……" ], [ "さあ、新島さんからお迎への車が来て、そのままお出掛けになつたんですが……", "新島つて……あの伯爵の令嬢かい?", "さうです。多分映画かなんか観にいらつしつたんでせう", "ぢやね、この名刺をおいてくから、お嬢さんに渡しといてくれ給へ" ], [ "先生の意見を、あなたからひとつ、はつきり訊いてくれませんか。さつきもちよつと相談してみたんですがね、どうもまるで手応へがないんですよ。なにもかも君たちがいいやうにしてくれつていふんだけど、さう云はれたつて、何処へどんな家を建てたらいいか、僕たちには見当がつかないからなあ", "だから、僕が云ふんだよ" ], [ "駄目だ。そんな失礼なことはできない。よし、おれが談判してやる。第一、それぢや委員たるものの責任が果せないぢやないか。例へばだよ、先生が大工に誤魔化されてその家が手にはいらなくなつたつていふ場合、われわれが知らん顔をしてゐられるか。やつぱりこつちで信用のできる大工を撰んで、こつちで十分監督をして、一切の煩はしいことに先生を関係させないやうにしなきやいかん。それでなきや、無意味さ。さうだらう、神谷君……", "それができりやいいさ。ところで、若し、家は建つた、金が足りないといふことになつたら、どうする? それもわれわれの責任か?", "なるほど、さういふこともあるなあ" ], [ "むろん、われわれの責任だ。そこが、事務的経済的才幹を要するところさ。おれにはそんなものはない。深水君にもない。おい、そのために、神谷君、君がゐるんだぜ", "はゝゝゝゝ" ], [ "僕は、別に意見はないよ。へゝゝ、南米へ行く旅費を残しといて貰ひたいなあ", "こいつ!" ], [ "僕も一緒にそこまで……。あ、先生、土地、そんなら、調べといてみませうか?", "うん、まあまあ……" ], [ "ねえ、鬼頭さん、僕少し、突つ込んだ質問しますよ。いいですか?", "なんだい? 返事のできることならするよ", "少し歩きますか?", "歩いてもいい", "いや、実は、僕自身の問題なんですがね、それが、ちよつと自分だけで判断のつけにくい点があるもんだから、あなたの智恵を借りようと思つて……。それはそれとして、若しかしたら、こいつは、あなたにも関係が及びはしないかと、そこを確めておきたいんです", "どういふの? 早く云ひ給へ", "ええ、そんなら訊きますが、あなた、近々、千種さんと結婚されるんぢやありませんか?" ], [ "どうしてそんなこと訊くんだい、君が? 結婚したらどうなんだい? できないわけでもあるのかい?", "いかんですよ、さういふ風に取つちや……。僕の訊き方がわるかつたかな。決して、そんな意味ぢやないんです。あの女は、あなた以外のところへ行くべき女ぢやないですよ。僕は、とつくにもう、にらんでた。話はどこまで進んでるんです、物好きなやうだけど……", "まだ、進んでやしないよ。僕が申込んだだけだ。正式の返答はまだない。それだけさ", "むろん、二つ返事ですよ。ただ、ちよつと勿体をつけてみるかな。直接申込んだんですか?", "おい、つまらんことを訊くなよ。どうだつていいぢやないか。で、それが何と関係があるの?", "それがですよ、あなたに若し千種嬢を貰ふ意志があるなら、ひとつ、僕の問題を考へて欲しいんです。かまはないから、遠慮なく云つて下さい。ほら、神戸の久野夫人ね、今までは、それこそ絶対になんでもないんですよ。ところが先生、最近家出をして、関西のある温泉場に隠れてるらしいんです。それで、僕にちよつと来いと云つて来てるんですが、まさか、行けやしませんや。濡衣を着せられちやいやだからなあ。さうかつて、こいつを山羊さんの耳に入れる手はないでせう。女はこれだから困るんだ" ], [ "それや、僕に来いつていふのはね、必ずしも、僕の懐へ飛び込まうつていふ意味に解釈はできないと思ふんだ。ただ、何か重大な、何か厄介な相談があるんぢやないかと思ふんです。この前からどうも変だと思つたんだ。多分、久野氏との間のことで、親爺にも打ち明けられないやうな煩悶があるに違ひないですよ。なにしろ、この僕ぢや、そんな役は勤まりさうもないんでね。弱つちやつた", "さうでもなからう。君は、割にさういふことは好きだらう" ], [ "もういいよ、その話は。それでおれに何をしろつていふんだい?", "だからですよ、あなたにも関係があることだとしたら、僕はいつたい、どうしたらいいでせう? それを相談したいと思つて……", "おれや、しらん" ], [ "君が行くのは、どつちにしろ、穏当でない。さうかつて、君から先生なり、久野氏なりに……といふわけにも行かんね、これや……。厄介だなあ、ほつといたらどういふもんだ。相手がなけれや、また家へ帰るだらう", "その先は?", "どうかするだらうぢやないか。君は、とにかく引つ込んでろよ。だから、何時かも云つたらう、ひとの女房のことばかり気にするなつて……" ], [ "おあがりよ、姉さん", "あらッ、あんたもゐたの?", "あんたもぢやない、おれだけだよ", "深水さんは?", "臨時に夜学の講義を頼まれて、今日は遅くなるんだとさ。姉さんが来たら、僕と話してくれつて、わざわざ呼びつけられたんだよ。まあ、あがつたら……。家へは顔を出さないつもりなんだらう?", "さういふわけでもないけど、この前、変だつたからさ。ぢや、ちよつと上つて、待たして貰ふわ" ], [ "電報は何時頃著きましたの?", "さあ、お昼すぎ早くでしたかしら……", "今日は何時までですつて、学校は?" ], [ "知つてるんだから、ほかへ廻りやしないよ。それより、姉さん、いつたい、どうしたの? 宝塚にゐるんだつていふぢやないか? 一人で行つてるのかい?", "一人でとは?", "子供も連れないでかい?", "当り前ぢやないの? 子供たちはあたしの自由になりやしないもの", "自分だけは自由になるつもりなのかい?", "あんたこそ、なにを知つてるの? 深水さん、どんなこと云つた?", "みんな云つたよ。なにもかも白状したよ", "あら、いやだ、白状だつて……。白状することなんかありやしないぢやないの", "家出したんだらう? 喧嘩かい?", "だれと?", "亭主とさ" ], [ "亭主とはなに? いくらああしてても、あんたよりや、ましな人間よ", "畜生! 自尊心を出しやがつた。おれよりましなら、それでいいぢやねえか。どうして、その亭主を捨てる気になつたんだい?", "知つた風な口を利くひとね。亭主を捨てて、ほかの男になんか会ひに来れや、それや、あんた、不義ぢやないの!" ], [ "深水が、金を持つてると思つてんのかい? なんの金だい、それや?", "ううん、なんでもない、つまらないお金よ。あんたに聞かせるやうなことぢやないけどさ、あたしや、意地でも義兄さんにだけは云へないお金なのよ" ], [ "なんて云はれても、あの、からつきし人情つてもんのわからない、堅くさへしてれや人が尊敬すると思つてる男に、あたしがそんなお金を受け取つたなんて、どうしたつて云ひ出せやしないわ。方々に借りができたのを、自分で形をつけたつて、さう云つてやつたのよ。でも、その相手のやつつていふのが、あたしを甘くみて、なんのかんのて脅かすぢやないの。もうかうなつたらしかたがないと思つて、十日までのうちにきつとこしらへて返すつて云つてやつたのさ。あと幾日? 七、八、九……三日でせう? 若しできなけれや、あたし……", "姉さん……" ], [ "僕はね、そんな場合、姉さんがどうすればいいか知らないよ。多分、独りで苦しまなくつたつていいんだらうと思ふよ。しかし、まだあと三日あるなら、姉さんの気の済むやうにしようぢやないか? 僕が、なんとかしてみるよ", "えッ! あんたが?" ], [ "ねえ、お父さんに云ふと、今度こそ、義兄さんの耳へはいるわ……。そんなら、おんなじよ……。それがあたし、死ぬほど怖いのよ……", "わかつてゐるよ" ], [ "深水に相談するよりや、神谷に頼む方が気が利いてるよ。あいつきつと、どうかすらあ。おれから話してやらう", "でも、あとで返さなけれやならないとなると……", "いいよ、姉さんは知らん顔してろよ。おれがあとは引受けるよ" ], [ "いやだわ、黙つて人の部屋へはいつて来て……", "だまつてなもんか。ちやんと名前を呼んでるぢやないか。なんだい、地理なんか勉強してやがつて……", "今日はプールへはいらつしやらないの?", "親爺、ゐるか?", "ええ、いらしつてよ、なに?", "いいこと話してやるから、大きな声出すな" ], [ "云つてやるけどさ。その前に、ひとつ、訊いときたいことがあるんだ", "なあに?", "いいか、おれの親友がだぜ、ある事業に失敗したと仮定してだよ、そいつを、おれがどうしても救つてやらなきやならないやうな時さ……。さうだな、もつと事態は急なんだ……さうしなきや、その友達もおれも、二人とも破滅だつていふやうな場合だとしてさ……。親爺はそんな金、出せないだらう。出せたつて、出しやしないよ。あの親爺……。おれに南米行の旅費をどうしても出さうと云はないんだ……", "兄さん……それや、だつて……", "まあ、聴け!" ], [ "なあ、頼む……それを云つてくれ……。お前の自由になる金があるだらう", "自由になるお金つて、いくらぐらゐ?" ], [ "二千円だよ", "えッ!" ], [ "あつたつて、あれや、みんな人のお金よ。あたしがみなさんから預かつてるお金よ。うちのなんか、郵便局に六、七十円しきやないわ", "大きな声、出すなよ……" ], [ "あれは、お前、人の金つてこたあないぜ。親爺のための寄附ぢやないか。親爺の金とは云へるかも知れないが、そんなら、別に他人のものでもなからう", "馬鹿なことおつしやいよ" ], [ "あれはね、いいこと、お父さんの隠退所を建てるために、みなさんがお集めになつてるお金よ。それを、便宜上、うちで保管してるだけよ。全部集まつたところで、委員のどなたかにお渡しして、それを、あの方たちが、相談の上で建築費におあてになるのよ。お父さんは、さうして建つた家を、家としてお貰ひになるのよ。そんなこと、わかつてるぢやないの、兄さん……", "わかつてるさ、なるほど、形式はさうさ。だけど、親爺は、家なんかいらないつて云つてるんだぜ。気がきいた奴なら、そんなら金で渡さうつて云ふ筈だよ。神谷なんかさう云つてらあ", "神谷さん一人の意見ぢや駄目よ。あの人は、心持よりお金が大事なのよ", "なんだい、それや……。神谷に云ひつけるぞ。神谷が物質主義だつて云ふのかい。お前は、あいつを知らないなあ。家は物質ぢやないのか? 動産と不動産の違ひぢやねえか", "とにかく、あたしにそんなことおつしやつたつて、どうにもならないわ。委員の方たちが、出せつておつしやれば、あたし、何時でも銀行から出して来てあげてよ" ], [ "委員つていふと、神谷と深水とそれから鬼頭だらう。よし、おれが説き伏せてやらう。但し、事後承諾だ……", "そんなこと、できるもんですか。あたしが第一、反対だわ", "面白い……反対しろ。しかしだぜ、お前は同胞つてものを、どう思つてるんだい。死ぬか生きるかの問題なんだぜ、親爺の別荘が大事か、兄貴の命が大事か?", "あたしをおどかすのね。いいわ、待つてらつしやい……お父さまを呼んで来るわ" ], [ "もう手許には一文もない", "で、今、後悔してらつしやるの?" ], [ "おれが、全責任を負ふよ。覚悟はしてるんだ", "ほんとに、そんなに要るお金だつたの?", "ああ、少くとも親爺の家を建てるよりはね", "罪を犯してまで、手に入れなけれやならないお金なの?", "おれは、良心に恥ぢないつもりだ", "良心に恥ぢないつておつしやるのね。ぢや、二人でお父さんのところへ行きませう。そうして、一緒にお詫びしませう", "ああ、いいとも……。だが、云ひに行くんなら、おれ一人で行くよ" ], [ "そんなことできるもんか。渡した人間はもう東京にはゐないよ", "だつて……" ], [ "姉さんは、あれがどんな金だか知りやしないんだ。おれが友達のところで作つて来た金だと思つてるんだ", "嘘……嘘……兄さんに、そんなお金、できる道理がないわ……そんなお金、貸してくれる友達なんかゐるわけがないわ……。姉さんつたら……なんて、ほんとに!" ], [ "場所はわかつてますか? 今、何処にゐるんです?", "家のそばの郵便局ですの", "ぢや、すぐいらつしやい。お茶の水からぢきです。主婦之友社、ご存じでせう。あの横をはいつて二つ目の通りを右へ曲ると、最初の角にフランス人形の材料を売つてる店がありますよ。そこをまた右へはいつて、その並びで四軒目です。ヤヌス化粧品研究所つていふ看板に気をつけて下さい" ], [ "あれ、みんな化粧品の原料なんですの?", "さうです。つまり天然香料といふやつですね" ], [ "天然香料には、植物性と動物性とがあるんですが、普通知られてゐないもので、なかなか研究すると面白いものがあるんですよ。これは、南洋産の猫の糞です", "え?" ], [ "あ、たつた今、帰つて来ましたやうです", "なにしてるんだ", "喉が渇いたつて、おひやをがぶがぶ飲んでましつたつけ" ], [ "あのう……深水さんはお留守でした。昨日からお帰りにならないさうです。手紙だけおいて来ました", "よし" ], [ "姉さんとこなんかへ行くのは無駄だな。勿論、旦那さんの久野氏に責任を負つてもらふつていふ手はありますよ。そんなら別だけど、そこまでやるんですか?", "姉の出方ひとつだと思ひますけど、気の毒なやうな気もしますわ。さういふ姉の自尊心をあたくしは認めないんですけど……。兄は大へん重大に考へてるらしいんです。どんな悲劇が起るかもわからないつていふ風に……。でも、父に犠牲を払はせることから考へれば、姉の贅沢な見得なんか、どうだつていいと思ひますわ", "あなたは、姉さんと仲好しぢやないんですか", "あら、それとこれとは問題が違やしないかしら……。あたくしの力でなんとかなるものなら、どんなにでも姉のために尽したいと思ひますわ", "むづかしいとこですね。どうです、僕が姉さんに会つて来ませうか? あなたも行くなら行つてもいいですよ。しかし、姉妹でとことんまでそんな談判ができますか" ], [ "ねえ、さうしようぢやありませんか。その代り……と云つちや変だけど、若し、それで駄目だつたら、あとは僕が引受けますよ。あなたにもお父さんにもご心配はかけません。僕が千久馬君に代つて二千円の穴埋めをすることにしませう", "あら、そんなこと……" ], [ "憤慨なら、誰だつてしますわ。だつて、弁護の余地なんかないんですもの……", "それで千久馬君は今どうしてます?", "家にゐましたわ。結局自分ではいいことをしたつもりでゐるらしいんですの。まつたく、どういふんでせう", "まあ、あの先生を責めるのはそれくらゐにしておおきなさい。僕はね、近頃こんなことを考へてるんです。但し、今のところ、空想ですがね。それはね、まづさつきお話した香料の発見を目的として、一度是非南洋を廻つて来るんです。例へばフイリッピン群島の北、つまり台湾に近い部分の小さな島あたりにすばらしい動物か植物がありさうに思ふんです。それを見つけたら、今度は、人工的にそいつを繁殖させなけやならないでせう。土人を使ふにしても、監督がいります。僕は何時までもそこにゐるわけには行かないから、ひとつ、千久馬君をおびき出さうと思ふんですよ。ブラヂルなんて云つたつて、先生何時行けるかわかりやしないんだ。それより、太平洋の孤島で、酋長みたいに威張つてる方がいいでせう、ねえ、あなたはどう思ひます?", "さあ……" ], [ "おい、その机の上の電報を読んでごらん", "何処から?" ], [ "お前に来てくれとあるだらう。行つてやるか?", "それや、むろん行くけど……なんでせう、病気は……", "わからん。今夜の汽車で発つか? さうなら寝台を買はせとかう", "ええ、あたしは何時でもいいけど、お父さんは?", "おれはやめよう。電報でキトクとあるのは、もう駄目といふことだ。葬式に間に合へばいいだらう", "姉さんのことで、何か怒つてらつしやるんぢやないの?", "うん、そんなわけでもない。さあ、時間を調べて、早く用意をしなけれや……。倉太をちよつと呼んでくれ" ], [ "あててごらんなさい", "待つて下さいよ。まさか鬼頭に会ひに行くわけぢやないでせう" ], [ "さうか、姉さんとこか。一人でなかなか元気ですね", "あなたは? やつぱりお一人?", "むろん、一人です。京都にちよつと用があつて行くんですが、あなたがゐるなら、神戸へ寄つてみようかな。なんか面白い手はありませんか、姉さんをおどかしてやるのに……" ], [ "おどかしたつて、もう効目がないわ。危篤なんですもの", "危篤? 姉さんが?" ], [ "病気は何時からなんだらう?", "なんでも、急病らしいわ。今日電報が来て、あたしに来いつて云つて来たの", "その割に落ちついてますね、あんた", "あら、これ以上、どう慌てればいいの" ], [ "やつぱり京都でお降りになる?", "さあ、どうしようかな。久野氏に変ぢやないかな", "変だわ、むろん……", "ね、さうでせう。残念だけど、僕は遠慮すらあ。好い機会があつたら、僕の名前をそつと姉さんの耳へ入れといて下さい" ], [ "自殺だつてことはたしかなんだらう", "それは警察でもはつきりさう云うとるやないか。問題は、その動機やて。東京にラヴァアがをつたていふ噂やぜ", "いや、おれが聞き込んだところによると、久野氏の方に何か秘密があるらしい" ], [ "世間を見るつて、いつたいどうすればいいんだい? 今時の人間は、だれでも、幾分づつは世間見ずなんだよ。といふ意味は、昔のやうに標準になる世間といふものがないんだ。自分の棲んでゐる世間と隣の世間とがだんだん離れて行く、そいつに気がつけばよし、気がつかずにゐると、人に馬鹿にされるか、こつちが腹を立てるか、さもなければ身動きができなくなる。お前なんかさういふことはわかつてると思つてたが……", "ところが、あんまりわかつてゐないのよ。何処かに、ほんとの世間があるやうな気がしてるわ。でもそれは、やりきれない世間だつてことは想像がつくんだけど……" ], [ "うむ、帰つてれば、顔を出すだらう。あれは大阪からだつたか、悔みの電報を寄越したくらゐだから……", "あら、大阪から……? そいぢや、新聞をごらんになつたんだわ" ], [ "でも、散歩ならお伴しますわ、よろしかつたら……", "いや、今日はどうでもいいんです。お母さん、座敷をちよつと片づけて下さい" ], [ "新聞をごらんになつたんでせう", "あの大学教授つていふのは深水のことですね。あんなのはもう出入り差止めだ", "新聞は、だつて、好い加減なのよ。姉さんの気持は、そんなことと関係ないらしいわ", "ぢや、なんと関係があるんです?" ], [ "千久馬君ていつたつて、あれの保管はあなたがしてるんでせう", "さうよ、だから、どうしようかと思つたんですわ。神谷さんにだけは、ちよつとお話しときましたけど……", "弱つたなあ。僕たちの責任問題になるな。お父さんにはまあ諦めてもらふとして、金を出した連中が承知しないでせう。少くとも応募の趣旨にそむいたわけなんだから、委員は、これや切腹だ" ], [ "こつちへ行くと、どこへ出るんですの?", "海岸ですよ", "まあ、そんなに近くに海があるのかしら……", "あんまり綺麗な海ぢやないけど、涼しいことは受け合ひです" ], [ "あら、あたくし、歩くんなら平気よ。女学校の頃、箱根へ遠足に行つて、六里だか歩かされたことがありますわ。一番元気だつて先生に褒められたんですもの", "へえ、一日に六里……強行軍だなあ" ], [ "まあ、今の、なに?", "犬か猫でせう。驚いたの?" ], [ "だからですよ、まあ、しまひまでお聴きなさい。僕が若し軍人でなかつたら、さういふことは問題にしないでせう。世間体なんていふことと、凡そ関係はないんですから。ただ、われわれの仲間の常識として、かういふ事件のあつた直後、あなたとの婚約を公にするといふことは慎みたいんです。勿論、式を急ぐわけには行きません。そこで、いろいろ考へたんですが、あなたの方のお返事を、もうしばらく保留しておいて下さい。いづれ機会をみて、もう一度僕の方から話を持ち出します。その時は、きつと承知して下さいよ。変な云ひ方だけど、今すぐ約束をしてしまふといふことは、僕個人としては熱望するところですが、周囲の情況がそれを許さないといふわけです。つまりなんといふか……", "ちよつと、そんなに一人で喋つておしまひにならないで……" ], [ "いや、さうはつきり云つた訳ぢやないんです。僕たちの仲間はね、女房を貰ふのに、必ず当局の許しを受けなけやならないんです。今迄のあなたは、無論、及第にきまつてたんです。ところが、今度の事件が相当新聞で書かれてますからね。恐らく調べて行くうちに、伴直人次女、ああ、それぢや、あの……といふことになつて、ちよつと面倒だと思ふんです。こんなことは、だれがなんと弁解しても無駄なんですよ", "でも、さういふ時は、さういふ時で、なんとかなりさうなもんだけど……", "なるほど、そこをはつきりさせておかなくつちや……。あなたは、僕に軍服を脱いだらと云ふんでせう? そして自由なからだになれと云ふんですか? お待ちなさい。さういふ気を起してもいいぐらゐ、僕はあなたをかけ替へのない女だとは思つてますよ。ところが、日本の将校は、昔の武士とも違ひ、西洋の軍人とも違ひ、こいつは、なんと云つていいか、自分でえらんだ道でありながら、自分で棄てることのできない義務を負つてゐるんです。そこが、所謂、職業でないところでせう。お役に立つ間は自分の都合でやめるわけに行かない。名を棄てて恋に生きるなんていふ洒落た真似はしたくてもできないところに、われわれの信念が置かれてゐるんです" ], [ "葉山なんかより、ここの方が静かで本も読めるしさ、第一、外へ出るとお辞儀ばかりしてなけやならないだらう。そんな生活ないよ。ところで、これなんだ? あててごらん", "布片ぢやないの", "あたり前なこと云ふなよ。なんにする布片か、それを云はなけや", "なんかの袋にすんの?", "この襞の取り方でわからないかなあ", "カーテンでもないわね", "かうすんだよ。どうだ、似合ふだらう", "なに? 著物", "古代希臘の布衣つてやつだよ。ほらソクラテスが着てるだらう。あれさ", "ソクラテスのとヴィナスのと、どう違ふかしら?", "おんなじらしいね。この布片はわざわざ手織にさせたんだけど、まだ感じが出ないや。うまく襞がつかないんだよ", "著かたが下手いからよ" ], [ "なに? いよいよ、希臘まで後がへりするつもり?", "まづ外形を整へてね。第一に雄弁術の稽古をするよ。その次に悲劇を書く……", "演じないで頂戴……" ], [ "ああ、さう云へば、昨日聞いたんだけど、神戸の姉さんのこと、ほんとかい? 新聞にも出てたつて……", "ええ、新聞は少し違ふけど、死んだことは死んだのよ。そのことで、あたしの縁談も一時お流れになつちやつた", "鬼頭少佐? ふむ、そいつはわかるね。で、諦められないつていふわけだね", "まだ諦めようとはしてないけど、なんだか、希望はなささうだわ。何れ時機を見てつていつてるの。そんな時機が来るかしらと思ふわ", "だから、君は駄目なんだよ。向うの都合ばかり考へてたら、こつちはどうなるんだい。ちよつとでも二の足を踏む男なんか、どんなに惜しくつたつて、あつさり思ひ切るのさ。いつたい、好きになり方が早いんだよ、君は。好きになつてもいいから、それを相手に知らせる時は、もう愈々つていふ時でなけれや駄目だよ。第一、見つともないぢやないか、おめおめ引退るなんて……" ], [ "そんなこと云つてゐられるフランスの女は、まだ仕合せだつていふ証拠になるだけぢやないか。日本の女がそんなこと云つたら、可笑しいよ", "あら、どうして?", "だつて、君だつてさうぢやないか" ], [ "ねえ、秀子さん、あんたどう思ふ? この人は、それでもまだその海軍少佐を諦められないんだとさ", "諦めなくつたつていいぢやないの。それやいつたい、恋愛の話? それとも結婚だけの話?", "いやなひと、両方さ" ], [ "毎晩十二時にならなけや帰つて来ませんわ。その後、お会ひにならない?", "その後つて……ああ、あれからね、会ひましたよ。ちよつと上つていいでせう。ご飯はもうすんだの? 僕はすまして来ました" ], [ "深水の奴、近頃神妙な顔をしてますよ。新聞記者に追つかけられたんですつてね。よくわかつたもんだな", "そのデマは全然信じられないわ。少くとも直接の原因ぢやないことよ", "しかし、あの事件の前の日か、姉さんが深水の下宿へ現れたのを知つてますか", "へえ、それで?", "深水は逃げを打つたらしいんだ。久馬ちやんが、そこで一役持たされたんです。まあ、いいや、そんなことはどうでも……。僕はただ、みんなが真相を半分づつしかつかめないでゐることが愉快なんだ。僕だつて恐らく、さうなんだ。あなただつて、一番詳しいつもりでゐながら、案外、眼が届いてゐないことがわかつたでせう。それはそれでいいんぢやないかな。時に、金の方はどうです。無事に受取りましたか?" ], [ "こんな厄介な仕事は早く片づけちまつた方がいいな。どうです。土地なんか何処でもかまはないぢやありませんか。早く家を一軒建てちまひませう", "これでも、近頃は、父もちよくちよく地図なんか引つぱり出して、土地の物色をはじめたらしいわ。あなたから、早く決めるやうにおつしやつてよ", "それより、鬼頭少佐に云はせたらどうです。あの人は、ものを云ふ時だけは、はつきりしていいや。それに、こいつは号令で行かんと、進捗しませんよ" ], [ "うむ、行つてみたわけぢやないが……おい千種、ちよつと東京近郊の地図を持つて来なさい", "やつぱり郊外ですか" ], [ "ええと、ここが五反田……池上線……洗足池……まあ、このへんに空地があれば、ひとつ見に行つてもいいな", "よろしい、先生、今から見に行きませう。みんなで行きませう。暑いですか?" ], [ "女性的見地からもいろいろ条件があらうから、千イ坊を是非連れてかうぢやないか。鬼頭さんどうですか", "え?" ], [ "かまひませんよ。なんか急用ですか?", "ええ、実は、先日お手紙にありました土地のことでね、父が一度あたくしに見て来てくれつて申しますの。場所、わかりますわね。ちよつと地図でも書いていただければと思つて……", "一人で行きますか? それや無理だな。ご案内してもよござんすよ。しかし、深水も、神谷も、そこは知らないんですよ。みんな別々に手分けをして見たんですから……。まだ、なんとも云つて来ませんか?", "いいえ、べつに……", "ぢや、今度集まつた時報告するつもりなんだらう。あんまりいいところは残つてないですよ", "でも、父はなんですか、興味がありさうでしたわ。ぢや一緒に行つていただかうかしら……さうしてくだされば、あたくしは、有りがたいわ" ], [ "もう少し周りの広々としたとこはないのかしら……。あの辺にいくらだつてあるみたいだけど……", "あの辺つて、あれは畑です。今はよくつても、あとで周りに何ができるか、それこそ飛行機のモオタア工場でも建てられてごらんなさい。昼寝もできやしませんよ", "さう云へばさうだけど……" ], [ "ぢや、いつそ、周りへなんにも建ちさうにないとこを探したらどうでせう。せめて、前だけでも、海か河か、深い谷にでもなつてれば……", "そんなら、この辺ぢや駄目だ。いつそ、多摩川べりまで範囲を延長しますか? 先生はどうだらう", "多摩川は、ここから、そんなに遠くないわね" ], [ "あら、もつと歩くんぢやないの? この次の渡しまで行つてみませうよ。おいや?", "もうわかりました。あなたの健脚に敬意を表して、あそこで一杯ビールを飲むと……", "ずるいわ" ], [ "ご判断に委せませう。僕としては、今、さうするよりほかしかたがないぢやありませんか。今日みたいな機会を与へて下されば別ですが……", "今日みたいなつて……ぢや、あたくしの方から伺へばいいんですの? そんなこと、一度もおつしやらないぢやないの?", "それは云へませんよ、やつぱり……。いいですか? 僕は、こないだも云つたやうに、あなたとの結婚については、慎重に考へ直さなければならない時だと思つてゐるんです。自分の感情も、それがためには抑制すべきであるし、あなたの気持も、できるだけ自由に保たせておきたいんです。つまり、二人を今迄以上に接近させるやうな機会は、絶対に避ける必要があると考へたからです。わかりますか? これは自分自身のためといふよりも、あなた、即ち、感情に支配され易い女性たるあなたのために、僕が当然負はなければならない義務なんです。さうぢやないですか?" ], [ "千種さん、今日はいつたいどうしたんです、まるで不断のあなたぢやないですね", "さうでせう……" ], [ "なあに、明日はなほつてますよ。病気は日曜にやつて、一日で追つ払ふことにきめてるんです", "まあ……そんな勝手な病気つてあるかしら……?", "病気の方で遠慮するらしいですよ", "大事なお仕事もつてらつしやるから? そんなら、今日も遠慮して欲しかつたわ" ], [ "よし、そんなら、君が儲ける代りに、おれに儲けさせてくれ", "どういふんだ、それや?", "詳しいわけは云へないが……" ], [ "で、おれにいくらぐらゐ儲けさしてくれるんだい?", "その上君に儲けられちや、かなはんな。公平にみて、三千円ぢや安いといふ家を建てて貰ひたいんだぜ", "二千円でね。そいつは見る人間次第さ。おれが当り前に儲けても千円はどうかと思ふが……", "ぢや、一度だけ損をしろよ", "馬鹿云へ。お前も商売人ぢやないか", "その商売人が腹を割つて頭を下げて、かうやつて頼みに来たんだがな", "なるほど、君がそんなに弱音を吐くのは珍しい。だが折角だけど、こいつはできないとはつきり断らう。相手がほかの奴なら、黙つて引受けるかも知れないが。現代の友情とはそのへんのところぢやないかな", "さうか、わかつた。ぢや、君はいくら儲ければいいんだい? 友情を計算に入れてだ", "まあ、おれは儲けなくつてもいいよ。実費で我慢しよう", "実費二千なにがしで、三千円の家を建てるのはなんでもないだらう。おれなんか三十銭でできる香水を一円五十銭で卸してるよ。ぢや、大体この間取りで設計と見積りを出してくれ。土地は、洗足池のそばの石川台つていふところだ。おれが案内する" ], [ "予算が予算だから、まあこんなものでせうか。場所はなかなかいいですね", "はあ" ], [ "いや、かう申しちやなんだが、三千円そこそこでは、当節、これだけの家は建ちませんぞ", "まつたく……" ], [ "いや、大家を煩はすほどの建築でもありませんから、それはこつちで遠慮したんですよ。しかし、ご批評は、参考のために承はつておきます", "なに、専門家は、どんなものでも批評したくなるんでね。しかし、その批評はあなた方のお耳に入れてもなんにもならん", "なるほど、先生がおいで下さるんだつたら、設計者を連れて来るんでした" ], [ "類はないさ。第一、こんなことを考へる鬼頭少佐といふ男は、演説をしに生れて来たやうなところがあつて面白いよ。ねえ、鬼頭閣下、軍人と儀式について、僕は若干意見があるんだ。云つてもいいかい?", "云つてもいいさ。君は儀式軽蔑派なんだらう。予め断はつておくがね、儀式無用論なら聴きたくないよ。無用か、有用か、それは議論にならん" ], [ "さうさ、有用だとか無用だとか云ふんでなくね、僕は、軍人と役者には共通したものがあると思ふんだ。好んで軍人になるといふこと、軍人の職分に忠実であること、殊に、軍人らしく振舞ふといふことは、結局は、自分が芝居のなかの一人物になりきつて、堂々とその役を演じてみせようといふ熱情にほかならんと思ふ。芝居といふ言葉の悪い意味は別としてですよ。要するに、日常の散文的な生活以外に、一つの舞台、真剣だが、また考へやうによつては、ひどく空想的な舞台といふものを離れて軍人の世界はないのだ。彼等の身振りは、云はば芸術家の身振りだといふことを世間は忘れすぎてるよ。ねえ、鬼頭少佐、僕は軍人つていふものがだんだんわかつて来ましたよ。近代の戦争が如何に科学的であらうと、優秀な指揮官は、みなこれ一個の名優でなければならん。先生、どうですか、兵を語るには、絶対に神が必要なんですね", "酒神を失つた軍人は惨めさ" ], [ "いや、それはまあ、比喩みたいなもんだがね、それはさうと、さつきの儀式の話だが……", "もう、いいよ、その話はよせ" ], [ "もう、喋りたくなくなつたよ。自分で云つてることが可笑しくなるやうぢや駄目だ。先生、僕たちは、いつたい、どうなるんでせう。鬼頭少佐は恐らく艦隊司令長官になり、海軍大臣になるでせう。僕や深水は、どうなるんです。深水なんていふ男は教場で出鱈目を云つてれや、気の済む男ですよ。怒るな、深水、実際さうだらう。こいつの日本主義なんて屁みたいなもんだ。僕も商売をやる以上、インチキもやりますが、それでなけれや生きて行けないとなると、やつぱり腹が立つんです。今日のこの会だつて、インチキですよ、これや……。名目なり趣旨なりには反対しません。僕も先生は尊敬してます。しかし、金を集めて家を建てるなんて、インチキですよ。発起人を呼んでわざわざ家を見せて、先生の前で代る代る演説するなんて、インチキですよ。第一、これを儀式にしようつていふのがインチキだ。変なもんだつたよ、あの光景は……。僕は二度とこんな真似はしたくないね", "うるさいぞ。そんならどうして最初から反対しないんだ。発起人をみんな呼ばうつて云ひ出したのは貴様ぢやないか" ], [ "おい、先生はもうそれくらゐでいいよ。近頃酔はれると、あとがいかんのださうだから……", "うん、いかんといふこともないが、昼間からぢや、どうも……。さうだ、諸君は、何処かで飲み直したらいいだらう。ええ、神谷君、会計の残りで、ひとつ、慰労会をやつたらどうだ", "ええ、さうしてもいいですが、まだ、庭の方へ相当かけなけりやなりませんから、残額は先生の方へ納めていただくつもりなんです。なあ、諸君、その方がいいだらう" ], [ "千種の話だが、君の商売はなかなか面白さうぢやないか。どうだい、儲かるかい? 不思議なもんだね、僕は昔から家へ来る連中の志望を聞いて、ひと通り、なるほどと肯いたもんだが、君だけは、農科へ行くつていふ、その理由がどうしても呑み込めなかつたんだ。なるほど、農科にもさういふ畑があることは知らなかつたよ。しかし、はじめから、香水を作るつもりぢやなかつたんだらう?", "農科をやることは、先生に勧められたんぢやなかつたかなあ", "いや、君が自分でさう云ひだしたよ。中学を出る年か、その前の年だ。君のお母さんが相談にみえたことを覚えてる。さう云へば、あのお母さんはどうしてをられるか?", "僕が大学へはいつた年に、再婚しました。それから子供が二、三人できて、今、大阪にゐます。滅多に訪ねもしませんが……", "さうか。いや、その農科で思ひ出したが、千久馬の奴は、これや僕が、無理にやらせたやうなもんで、今更どうすることもできんが、なんかあいつに向く仕事を考へてやつてくれんか、君……", "僕がですか……" ], [ "お父さん、もうそろそろ時間ですわ。駅までお歩きになる?", "ああ、歩くとも……" ], [ "あとはどうするんだい。兄貴の世話になるよりしかたがあるまい", "うん……今度の家を売るつていふ話が出てるよ、幾らに売れるかなあ。そのことで君にも相談したいつて云つてたよ", "おれや、もう知らんよ。今、それどころぢやないんだ。まあ、そのへんを見てくれ", "いやにひつそりしてるね。休みかい?" ], [ "笑はなくなつたぐらゐのものだ。あいつは鬼頭おやぢの顔さへ見れや、元気がでるらしいよ。兄貴にはまだ黙つてろつて云やがんのさ。だもんだから、兄貴の奴、福岡へ連れてくつもりでゐるよ", "で、お前はどうするんだい?", "おれのこたあ、心配いらないさ", "一番心配だらう" ], [ "あ、さうさう、親爺が遺書つてものを書いてたの、知つてるかい?", "知らない。何時書いたんだ?", "ちやんと、机の抽斗から出て来たぜ。おれのことも書いてるよ。――同胞に決して迷惑をかけるな。その代り、若し遺産と名のつくものがあつたら、その半分をやるから、そいつをもつて海外で暮せ、とあるんだ", "海外で暮せ、か", "うん、親爺はやつぱり親爺だよ", "兄貴も承知したのかい", "するもしないも、親爺の遺言ぢやないか。だからさ、あの家が売れたらつて云ふんだよ。お前、なんとかしてくれ" ], [ "いつたい、なんなの、今時分? 明日ぢや駄目?", "明日になると、気が変りさうなんでね。ちよつとでいいから時間を作つて下さい。何処かへでかけるんですか?", "ううん、さうぢやないけど、家へ人を大勢招んでるのよ。あたしの誕生日なのさ。うんと騒いでやらうと思つて……", "丁度いいや。僕も紛れ込んでやる", "あら、あんたなんかにや面白くないのよ。でも、のぞきに来る? 五分や十分なら話できるわ" ], [ "友達なんて言葉をさう簡単に使ふもんぢやないわ。かういふ時には、かういふ連中が集るのよ。あたしだつて退屈なことがあるさ", "ちやんと連絡がついてるんだね。あの黒ん坊は、念入りだなあ。あれや、だれ?", "だれつたつて、名前知らないでせう。姫岡つていふ男爵よ。もつとも養子だけど……。あら、なに感心してんの?", "何時か香水の見本を送つた、姫岡田鶴子つていふのは、あれの細君だな。さうでせう", "さう。註文とつた?", "たしか二壜だつたか、届けましたよ。あツ凄いのがゐるなあ……なんだ、津幡秀子ぢやないか", "津幡秀子よ。芝居の衣裳を借りて来たらしいわ", "畜生! あいつも仲間にはいつてるのか。ここへ呼んで来給へ", "呼んで来てどうすんの? ほら、どうしたのさ、何時までもかうしちやゐられないのよ", "あ、さうさう、実はね……" ], [ "親譲りの財産を、なにに使はうかと迷つてゐるやうな男はゐませんか?", "いまどき、そんなのゐるもんですか", "ぢやあ、こんなのはどう? いくらかの金をもつててですよ、いろんなことに、手を出してみたが、どれもこれも思はしく行かんので、何か新手でぼろい儲け口はないかと、そればかり考へてるやうなのは?", "それや、あるだらうけど、あたしの耳へちよいとはいらないなあ", "さうか。そんなら、かういふ風なのは? 今ここに、一万円だけ何に使つてもいい金があるとしてね、亜米利加を廻つて来てもよし、感化院へ寄附してもよし、競馬で棄ててもよし、だが、同じことなら、有望な科学的研究を補助して、日本の産業文化のために……", "ない、ない、そんなの", "弱つたなあ。よし、これならあるだらう。誰か相当な奴の次男坊なんかでね、何をやらしても駄目、親爺はもう諦めかけてゐるが、万一、しつかりした協力者があつて、才能と労力とを提供してくれるなら、こののらくらに資本をつけて、社長とか重役とかの肩書をもたせ、なんとか世間へ顔向けをしようなんていふのは?", "ざらぢやないの。ただ、その協力者つていふのがまた、ざらにゐるんだから" ], [ "さういふ相談は、あたしぢや、ちよつと困るなあ。いつたい、いくらぐらゐいるの、その資本つていふのは?", "小は五千円から大は……", "なんだ、五千円ぱつちか", "さういふけど、なかなか、そのぱつちがぱつちでないんだ", "あたしが頼めば、出しさうなのがゐるけどなあ", "頼んで下さい", "一生に一度頼むんなら、そんなけちなのいやさ", "もつと豪勢に頼んだらどう?", "あんたのために? ところで、それだけの理由があるかしら……", "理由ならいくらでも作れますよ", "どんな理由? 例へば?", "例へば……。さあ、そいつは、僕の口からは云へないや", "あたしの恋人だ、とでも云ふかな", "気が向いたら、それでも結構……", "へえ、気が向くとでも思つてるの?", "ははあ、自尊心がなんか云ひましたか?" ], [ "初めまして……", "やあ……" ], [ "ひとつ、ゆつくりご相談してみようぢやありませんか。わたしもかねがね、化粧品には目をつけとつたんですが、なにぶん信用のおける技術者がをらんでしてね。原料の研究に重点を置いてをられるのはまことに面白いと思ふから、及ばずながら、ひと肌ぬぎませう。と云つて、あんたをただ補助するとかなんかと云ふんでなくだ、大いにこつちも儲けようといふわけさ。ね、さうでせう、お嬢さん、これは亜米利加式ですぞ", "みんな、亜米利加式にしておしまひにならなくつてもいいわ", "いやあ、進藤八十吉も、これで当てなけれや、暢気に踊りなんか踊つてゐられませんや", "おや、おや、そのご謙遜は日本式ね。では、何時、何処でお会ひになる? それをおきめになつといたらいかが?", "オーケー、ミスタ神谷のご都合は? わたしは明日午前なら、オフィスにをります。大阪ビル新館の五階で、進藤商会とおつしやればわかります。どうか参考資料をおもちになつて……", "はあ、承知しました" ], [ "どう? あの鴨は?", "鴨だか家鴨だか僕にやわからん", "家鴨つてなによ。でも、ちよつと変つてるでせう。紐育にゐたことはゐたらしいんだけど、商売の方は振はずじまひで、ただ、日本から行つた名士を自分の自動車で案内して歩くのが得意だつたつていふ人物よ", "今、なにしてるの?", "さあ、よく知らないけど、うちのパパなんか、わりに重宝がつててよ。西洋下手ものを掘り出すのがうまいんですつて" ], [ "今、先生の日誌を読んでたとこです。あなたも読みたくない?", "ええ、それや、読みたいどころぢやないわ。あなた方お二人が、先へお読みになるつて法ないくらゐだわ……。深水さんて、だから嫌ひよ、どこまでも自分勝手だから……", "まあ、さう怒り給ふな……。僕がすんだらあなたに廻しますよ。ほら、こんなことが書いてある――昭和二年七月……", "まあ、そんなこと、あとでいいわ。ねえ、それより、もつと急ぐことで、ご相談があるの! 聴いて下さる?", "聴きますとも。但し、話は冷静にしませうね。それでないと、僕もあなたも、今一番興奮し易い時だから……。話つて云へば、どうせ事務的なことでせう?", "さあ、さうとは限らないけど、事務的にでも、お話しようと思へばできますわ。その方がよくつて?" ], [ "千種さんがみえとんなはる?", "さうです、早くお茶を出して下さい。どうも日本の家つてやつは、恋愛には不向きだなあ。これならまだ、船のキャビンの方がましだ、少しは窮屈でも……" ], [ "ああ、兄さんとこへでせう。それや、しばらくならしやうがないさ。家長の意思に、この際、従はんといふわけにいかんからな", "兄は、是非つていふんぢやないんですの。東京にゐる理由と、その方法さへ立てば、それはかまはないつて云つてますわ。でも、理由はとにかく、方法は、ちよつとね……。何か仕事口でも見つければ別ですけど……", "そんなことは、僕がやめてもらひたいな。家庭をはなれて東京でぶらぶらしてるより、僕の考へぢや、少しは窮屈でも兄さんのとこへ行つてた方がいいと思ふな。だつて、もうしばらくなんだもの……", "しばらくつて……それがわからないでせう。何時までつておつしやつて下されば、それこそ、安心なんだけど……無理だわねえ" ], [ "一年でも二年でも、それやかまひませんけど、その間、兄のところでぶらぶらしててもしやうがありませんわ。ですから、しばらく、一人つきりになつて世間を歩いてみようと思ふんですの。駄目かしら?", "世間を歩くとは?" ], [ "ほら、今まで、家にばかりゐて、あんまり世の中のことを知らないでせう。自分ながら、これぢや、なんの役にも立たないと思ひだしたんですの", "そんなこと云つて、あなたは、学校生活も普通より長いんだし、なかなか話せるぢやありませんか", "おやおや、何処が? うそよ、とても意気地がないのよ。父が割にいろんなことに干渉しない方でしたから、我儘にはなつてますけど、なんだか、いざつていふ場合に、てきぱき物が考へられないし、まあ、早く云へば、頼みにならない女だらうつていふ気がしてしやうがないんですの", "淑女はそれでいいんぢやないかなあ。少くとも、僕の求めてる女房は、あなたぐらゐで丁度よろしい", "あら、丁度よろしいなんて、まだなんにもごぞんじないくせに……。ぢや、かういふ理由でならどう、結婚までになるだけ年を取らないやうにつていふ理由なら……さうぢやない? 少しでも気持の新鮮さを失はないために、外で働くつてことはいいんぢやないかしら?……この上、退屈な家庭生活の中へ捲き込まれてしまつたら、それこそ大変だつていふ気がするわ", "お待ちなさい。僕はあべこべに考へてますよ。職業婦人の方が、早く年を取るんぢやありませんか。どうもさうのやうだな", "さう、早く大人になるかも知れないわね。でも、子供臭いのと、溌剌としてるのと、どつちがいいかしら?", "職業婦人は、溌剌となんかしてませんよ。ぎすぎすしてるだけですよ。無論、例外は認めます。ただ、細君になる資格は、半分なくしてるのが普通だ。そこは微妙な問題です。恐らく、過渡期的な現象でせう。将来はどうなるか知りません" ], [ "久馬兄さんがね、こんど台湾へ行くことになつたんですつて……詳しくいふと、台湾の南にある小さな島なんださうですけど、それがとても面白い島らしいの。紅頭嶼とかつていふのよ。紅の頭つて書くんでせう。土人も、まあ生蕃なんかより、原始的だし、動物や植物の種類が、日本の領土のなかでは、全く例がないくらゐ違ふんですつてね", "紅頭嶼なら、僕、知つてますよ。上陸したことはないけど、そばを艦で通つたことがある。千久馬君、あんなとこへ何しに行くんです?", "ええ、だから、それが羨ましくつて、あたし……。なんでも、香水の原料を探しに行くんですつて……", "神谷と一緒に?", "ええ" ], [ "何時発つの?", "さあ、まだはつきりわからないんですけど、もう船をきめるやうな話でしたわ。なんだか、こわいみたいね……" ], [ "もつと早くご挨拶に上る筈でしたが、どうも上を下への混雑で……。なにしろ、一家を畳むといふ仕事は、これで面倒なもんですな……。自分勝手になるやうでならんのが実に閉口です", "さうでせう。いろいろお察ししてます。で、あなたも明日はお発ちですか", "はあ、やつとこちらも片づきましたから……。あ、実は、あの今度の家ですがな、あれは当分貸家にしようかと思つとるんですが、また、お友達かなにかで確かな方がありましたら、ひとつ、お世話ねがひます", "いやな兄さん、そんなこと鬼頭さんにお願ひするの変だわ" ], [ "うん、だけど、神谷に云はした方がいいな。あいつ、おれにも詳しいことは云はないんだよ。なんでも、あいつの調べたところぢや、蜥蜴の種類が十以上もあつて、どれかがものになるらしいんだ。それから、蘭さ、眼をつけてるのは……", "いいえ、そんなことでなく……そんな専門的なことはいいわ。向うに二週間ぐらゐゐるのね、たしか?" ], [ "あら、沈んでなんかゐないわ。ただ、あんまり珍しいことだらけで、ぼんやりしちまつたのよ。だけど、もう慣れたわ", "とにかく、酔はなかつたのは感心だ。鬼頭少佐にも、こいつは威張つていいな" ], [ "おい、カリヤル、でかけるぜ", "シナロン、靴、靴、そこにある三人の長靴……" ], [ "あれは海岸で女たちが踊つてゐるのです。今夜は満月ですから。ごらんになりますか? つまらない踊りです", "ああ、ぢや、あの黒髪踊りつていふやつだ。見に行かう" ], [ "久馬兄さん、早くいらつしやいよ", "面倒くさい", "あら、面白さうだわ。一度見とくもんよ", "まあ、行つてこい。おれは少し疲れた" ], [ "おんなじでせう、そばへ行つたつて……。どうせ歌の文句はわかりやしないんだ", "でも、ここぢやよく節もわからないし、第一、どんな顔して踊つてるか見たいわ", "遠くからの方が美しいことはたしかだ。しかし、ご希望なら、近くで見物しませう" ], [ "素敵だわ……。ああいふ風な気持に、一度なつてみたいわ", "原始に帰るといふことですか?", "帰らなけれや駄目かしら?", "さあ……少くとも、半文明人には真似はできませんね", "ほんとに、半文明人なんていやね。シナロンもこの踊りを軽蔑してたわ。あたしだつて、たつた今、軽蔑できないつてことがわかつたんだわ。あああ、あたしもシナロンも、そんなに違やしないわ", "馬鹿に悟りましたね。しかし、あなたは同族の青年と恋愛ができるから仕合せですよ", "同族の青年つて? ああ、さう……恋愛つて云へるかしら、あんなの……", "なんです? あんなのとは? もつと自信をもたなけやいけませんよ", "自分にだけ自信があつたつて……", "さう云ふなら、訊きますがね、鬼頭少佐とは、どうしてすぐに結婚しないんです。先生の喪中だからですか?", "ええ、まあ、それもあるけれど……", "それもあるけれど……ほかの理由もある。なんです? 僕は随分前からあなた方の、なんていふか、精神的交渉でもいいや、それを嗅ぎつけてゐたんです。一度、先生の前で、ばらしたことがあるでせう。あの時の鬼頭少佐は可笑しかつた。あなたも可笑しかつた。婚約の行悩みみたいな形が、ちやんと目に見えたんです。どうしたんです、一体……。今度この旅行にあなたが参加することだつて、僕は実は不可解なんだ。千久馬君を通じて、あなたを誘つたのは、深い意味はないが、その問題を確めるための間接の手段でした。あなたは行くといふ。鬼頭少佐は行けと云ふ。なんです、それや? あなたは自由だといふんですか?" ], [ "あたくしのことを心配して下さるのはありがたいけど、さういふお話、なんだか、あなたとするの変だわ。変つて……つまり、不自然だわ。ね、さうお思ひにならない?", "さう逃げなくつてもよろしい。僕は非常に自然だと思ひます。かういふ機会は、またとないからです。これやなんと説明していいか。僕は結局、鬼頭少佐に先手を打たれてしまつたんだからな" ], [ "まだお帰りにならない?", "ええ、帰りませう" ], [ "もうひと言云はせて下さい。僕は、鬼頭少佐に先手を打たれて、がつかりしたことは事実です。しかし、一方では、なるほど、さうなるのが当り前で、あなた方二人は、最も好い相手を撰んだのだと、負け惜しみでなく、蔭ながら、祝意を表してゐました。そんなことは嘘だと思ふでせう? ところが、僕には、自分ながら信じられないほど、使徒的と云ふか、殉教者的といふか、さういふ傾向があるんです。こいつは、妙な話で、自分で自分を偽善者扱ひにするやうな結果も生じるくらゐで、まして、人にそんなことを云ふ必要はないんですが、あなたのことに関しては、是非、それだけ、知つてゐてほしいんです。それも、鬼頭少佐との縁談がすらすらと運ぶんなら、なにもわざわざ、僕自身の心境なんか吹聴しやしません。あなたは、また、それをかうして聴いてゐる筈もないんです", "ええ、だから、もう沢山よ、その話は……" ], [ "まあ、まあ、落ちついて、その先を聴いてごらんなさい。鬼頭少佐がですよ、なぜ、一旦心にきめたあなたとの結婚を、今更躊躇してゐるか、その理由をあなたはたしかめましたか?", "あら、躊躇していらつしやるんぢやないと思ふけど……" ], [ "躊躇はしてゐない。しかし、延ばさうとしてますね。その理由を僕は知つてるんです。第一に神戸の姉さんの事件、第二に千久馬君の事件……", "久馬兄さんの事件つて?", "例の金の問題ですよ。あとの方はどうやら誤魔化したけど、千久馬君に対しては相当憤慨してるらしいですね", "あたし、そのことはなんにも聞かないけど……", "それはまあ深水から聞いた話ですがね。要するに僕らの想像では、久馬君の人物をまるで信用してないんでせうね。だから、過去の行為よりも、将来、妻の同胞として、家庭的に厄介な問題を惹き起しやしないか、それが引いて自分の公の地位に累を及ぼしてはと、その点を一番心配してる様子ですね。かういつてしまふと、ひどく露骨だけども、海軍少佐としては、無理もないでせう。僕は、だから、お父さんからのお話もあつたし、今度の仕事に、なんとかして久馬ちやんを利用してと思つたんです。あれでまつたく、使ひ道のない男ぢやないんだから……。失敬、こんなことをいつて……", "あら、どうして? 兄さんだつて、とてもよろこんでますわ。――希望つて、どんなものかと思つてたら、かういふものなんだねつて、発つ前なんか、それや、興奮のしやうつたらなかつたわ" ], [ "およしなさい、そんなこと……。それより、まだ、後があるんだから真面目に聴いて下さい。お礼なんか云はれちまうと、もうなんにも喋れなくなるぢやありませんか", "さう? ぢや、そのあとは、この次ぎ伺ふわ。今日はこれくらゐにして、家へはいりませうよ。ね、なんだか、からだがじとじとして来たわ" ], [ "クマサン、ビヨウキデス、ネツ、タイヘンアリマス", "しまつたッ! マラリヤだ" ], [ "やあ、ほんとに済まなかつた。おれも、これからは大丈夫だ。大いにやるよ。だから、君たちは先へ帰れ。おれは島に残つてゐて、奴等を監督するよ。それでなけや、成績はあがらないよ", "うむ……君がそのつもりなら、さうしてくれるとありがたい。帰つたら早速、進藤氏とも相談して、君の待遇を決めるよ。その病気は大体免疫になるつていふんだから、気が強いね。だけど、予防だけは怠つちや駄目だよ", "ああ、わかつてるよ。安心しろよ", "またさう簡単に片づけないでさ。今度は、このおれに対して責任を負つてくれなけや……。病気も病気だが、一旦引受けた以上、どんなことがあつても帰りたいなんて云はないでくれ", "云はないよ" ], [ "さあ、それぢやお別れだ。しつかり頼むぜ。当分は健康恢復に努めるんだね。雨期が明けたら、早速例の計画を実行してくれ給へ。あんまり無鉄砲をやつちやいけないよ。こつちの準備ができたら、ほら、時機を見計つて、高雄へ渡るんだつたね。こいつはうまく行くかどうかわからん。とにかくポンポン蒸汽がルソンの近くまで漁に出ることはたしかなんだらう、そいつに乗つてさ、是非ともそのへんの島で、蘭の根と、それから大蜥蜴を大量に手に入れる工夫をしてくれ給へ。こいつが成功すれや紅頭嶼万歳だ", "ああ、引き受けた。二三年したら、もう一度やつて来るだらう?", "用があれば何時でもやつて来るさ。あ、なんか君の方に用はないかい? 内地から送るもんがあつたら送るぜ。云はれなくつても気をつけるがね。差しあたり、どうだね?", "菓子でも時々送つてくれ、ほかのものは間に合ふ" ], [ "千尋兄さまになんかおことづけない?", "ないなあ。あいつから受け取る金があるんだが、それやお前にやるよ。嫁入道具でも買へ", "あら、そんなことなさる必要ないわ。お父さんの遺言の、あれでせう。ちやんとしてお貰ひなさいよ。やつぱり、いざつてことがあるから……。ねえ、神谷さん", "おやぢの遺産かい? 結構ぢやないか。おれが管理してやつてもいいぜ", "ははあ、管理を頼むかな、ひとつ" ], [ "ああ、千種さん、あの話はどうします。いつか千久馬君に返事しといたんだけど、あなた、僕の会社でずつと働いてもいいつて、さう云つたんでせう?", "ええ、はじめね。でも、なんかお役に立つかしら……? あたしに出来ることつて、どんなこと、例へば?", "しかし、それは真面目なんですか。やる気があるなら、どんなことでもできますよ。さうだ、僕は、その話を聞いた時も、変だと思つたんだ。鬼頭少佐に相談してみたんですか? 相談したら、許さないでせう?", "…………" ], [ "でも、あたしにだつて、それくらゐの自由はあると思ふわ、さうお思ひにならない?", "さあ、自由なんて、どうせ相対的なことで、鬼頭少佐の認める自由はどのへんまでか、僕にはわからない。少くとも、あなた以上にはわかりませんよ" ], [ "風が冷たくなつて来たわね", "われわれは今、空間的に冬に向つて行くんだから面白いな。ぢや、あなたは、そのことをはつきり決めてから、僕に云つたんぢやないんですね。すると、また僕は迷ふんだ。あなたはいつたい、なんのために、僕たちの旅行に参加を申込んだんです? ただ、かはつた土地を見ておくためですか? 旅行そのものを楽しむためですか?", "だつて、それよりほか、女がついて行つて、なんのお役に立つとも思つてませんわ。いやだ、今頃になつてそんなこと……" ], [ "なぜ僕がこんなことを云ふかわかりますか。わからないだらうな。あなたは家庭生活といふもんをどう思つてるか知らんが、僕に云はせると、恐ろしく矛盾したものを含んでゐることに間違ひはない。その矛盾解決をしないで、結婚する人間があつたら、それこそ、結婚は恋愛の……どころぢやない、人生の墳墓ですよ。われわれはまづ、どういふ男であり、どういふ女であればいいんですか? それを誰が、権威をもつてわれわれに教へましたか? 現在、日本の男が、女に望むところと、女が男に求めるところとを、どういふ教育が、どういふ形式で、これを完全な調和に導きましたか。西洋の男が日本の女を讃美する理由と、日本のある種の女が西洋の男に興味をもちはじめた理由とは、まつたく別々な方向から日本の男の虚を衝いた形ですが、それをいつ、いかなる場所でわれわれは問題にしましたか? 近頃女は結婚を重大に考へすぎ、男はこれを軽く見すぎるといふやうなところはありませんか。そのくせ、いや、それだからこそ、女はまづ疑ひ、男はまづ信じてかかるんです。女の負けです。が、それで結局、男も得をしてはゐないらしい。幸福はさういふ勝利からは生れません。家庭生活の負担の第一歩です。ああ面倒臭い! 日本式か、西洋式か、支那式か、いつたいぜんたい、おれたちは、なに式でやつてるんだ、といふことになる。さうでせう? ほかから見ても、さう云ひたくなる夫婦がいくらもゐますよ", "たいがいさうだわ" ], [ "さういふ風に、癇癪をおこすくらゐなら、まだいいんですよ。自分たちはなんにも気がつかずに、ただ、とんちんかんな応酬で、お互が面喰ひ、照れ合ひ、気を腐らし、精根をなくしてしまつてゐるやうな一対が、三十そこそこのインテリ階級にはざらにある。これが現代一般の家庭風景だと僕は観てゐる。どうです? あなたはさう思ひませんか?", "神戸の姉夫婦なんか、その例ぢやないかしら?", "あれは姉さんの方で癇癪を起したんだな。だから、僕の云ひたいことは、あなたが鬼頭少佐の細君になるなら、なるとしてですよ、個人的な趣味性格といふやうなものを含めて、現代の軍人がもつてゐる社会感覚、生活感情、思想傾向といふやうなものをはつきりつかんでおいて、さて、自分がどの程度までそれに順応できるか、また相手をどういふ範囲で自分に同化させ得るか、そこを大体見極めてから、最後の決心をしなければいけないと思ふんです。おや、おや、何時のまにか、お説教になつちやつた。僕がこんなことを云ふと、をかしいでせう。をかしい、たしかに。自分でもをかしいや。たつたいま急に思ひついたことを、うまく喋れるかどうかと思つて、喋つてみたまでなんだから……。よしやよかつたなあ", "あら、いいぢやないの。たいへん参考になつたわ" ], [ "あれ、なんだかわかりますか? 黒い点みたいなものが四つ、間隔をおいて見えるでせう", "軍艦ね" ], [ "巡洋戦艦といふやつかな。相当なもんだな", "水兵が、あらあら、大勢でこつちを見ててよ", "海軍もいいなあ。かうなると、われら日本男児の血を湧かさせるなあ" ], [ "僕は、どうしてかう楽しいんだらう? 何をみても楽しいな。軍艦はもちろん勇壮だ。ごらんなさい、もうあんなに小さくなりましたよ。想ひ出は澪の如く泡だち……か。大海の、霞に消ゆる、ふね四艘……と", "なに、それ?", "新体詩……", "誰の?", "ははは、僕の……", "いやだ……真面目くさつて……。旧いの!", "ああ、どうせかういふ気持はふるいですよ。だつて、僕は、そいつをなくしたら最後、新しい代りは、もう手にはいらない年なんだもの。何処までも、こいつで押し通しますよ。寒いの?", "いいえ……。手、おはなしになつて" ], [ "ふり放してもよくつて?", "やつてごらんなさい" ], [ "あたし、あとから行くわ。お先へいらしつて……", "いいぢやありませんか、一緒に行つたつて……", "いやなの。さ、いらしつてよ", "変だなあ、今日に限つて……。大丈夫なんですか?", "…………" ], [ "あなたが、大丈夫かつておつしやつた時、丁度、あん時だつたの。人間つて、妙ね、考へがさういふところへ落ち込んで行く瞬間があるのね。生れてはじめて、こんなこと……", "度々あつちや困るですよ" ], [ "本つて、どんな本? 小説なんかもつてませんよ", "雑誌は?", "雑誌も、みんな島へおいて来ちやつた。図書室になんかあつたやうだな。探して来てあげませうか?", "あら、自分で行くからいいわ。今、なにしてらつしやるの?", "え? ちよつと、面白いことをはじめてるんです。まあ、はいりませんか", "雨は止んだかしら……", "こつち側ぢやわからないなあ。風は西風でせう。海は真つ暗だし……。さうしてるならおはいりなさいよ。おんなじこつた。剃刀の修繕はぢきすみますから……" ], [ "久馬君と、たしか、千里君も一緒でしたね、あれはどういふんだつたかなあ……。僕はあなたと仔猫を追つかけたことしか覚えてないんだ。夕方になつて、千里君だつたかが、もうご飯だから帰らうつて云ひ出すと、あなたは、いやだいやだつて泣き出すのさ", "あら、うそばつかり……" ], [ "ちやんとお話をするから、どいて頂戴!……ご自分のことばかりおつしやつて、あたしにはなんにも云はして下さらないんですもの……。あたしだつて、云ひたいことがあるわ……", "ぢや、一度だけ、キスしてもいいでせう" ], [ "お預けですか? 女の戦法はお預けの一手と来てるんだからなあ。その間に、いつたい、何を考へるんです? 待たしておくと、どんな利益があるんです? 後で逃げを打つとき、ああ、あん時許さないでよかつたなんて、胸を撫でおろすためでせう? ただ、それだけのためなら、許しといて逃げるのも面白いぢやありませんか。あん時はあん時つていふ弁解は、十分成り立ちますよ。今は、今の気持に従つて、決して間違ひはありません、少くとも僕が相手である以上……", "ええ、それやわかつてますわ。ただ、いまの気持が、ちやんとすわつてお話しがしたいんだつたら?" ], [ "あたしね、やつぱり、先へ福岡へ行つてみるわ。一度帰らないと、兄さんにもわるいし……", "ぢや、僕も行かう。兄さんにも会つて、先々の話をしといた方がいいでせう", "さあ、それやどうかと思ふわ。まあ、そのことはあたしに委しといて下さらない?", "さうか。で、幾日ぐらゐの予定? すぐ東京へ出て来られるでせう?", "ええ、できるだけ早くつていふことにするわ。あなたの方さへよければ……", "僕の方は、今からでもいいさ。形式的なことは急ぎやしないんだから……。荷物なんかなんにもいりませんよ。なにもかにも新しくやり直しだ" ], [ "福岡まで一緒に乗つて行かうか?", "いいのよ、一人で行つた方が……", "休暇は一週間以内ですよ。東京へ出て来たら、まつさきに僕んとこへ来ますね。それ約束して下さい。前もつて、電報を打つてくれるといいな" ], [ "千種さんからは、その後お便りはないの?", "台東から電報を打つてよこしたのは、あれは何時でしたかね? もう一週間になりますかね。ぢやとつくに内地に著いてる筈ですね。福岡の兄さんのところへ帰つてるに違ひないんですが……", "疲れとりなさるぢやらう。見舞の手紙でもあげたらどう?", "ええ、まあ、いろいろ僕にも考へがありますから、お母さんは黙つてて下さい", "黙つてろちうたて、あんた、急ぐものは急がにやならんし……。はやう、家へ呼んであげるわけに行かんの?", "家へですか? 結婚する前にですか?", "そいぢやつたら、すぐにでも、簡単に式を挙げたらええぢやありませんか", "さう簡単に行きませんよ。ねえ、お母さんはどう思ひます? 僕との話がほぼ決つてゐながら、ほかの男に連れられて、台湾くんだりまで旅行にでかけるやうな女が、立派な細君になれますか?", "あんたが許したからぢやないの。千種さんにしてみれや、兄さんと一緒なら、かまはんと思うてなさるんぢやらう。現代式に云うたら、あたり前かも知れん。あんた、また、今頃になつて、なにいうてんの!", "まつたく、なに云うてんの、には違ひないけど、女房を貰ふつていふのは、実に厄介なもんですね。考へだしたらきりがありませんからね", "軍人らしう、早うきめてしまひなさい。あたしはもう、千種さんを嫁のつもりで可愛うなつとるんぢやぜ", "それはありがたいんだが……どうでせう、お母さん、保証して下さいますか", "なにをね?", "軍人の妻として恥かしくない女だつていふことを", "それや、あなた次第よ。どうにでも教育すればええんぢやから……。器量は飛びきりで、性質もまあ、あれなら優等の部ぢやと、あたしは思うとる。あとは、知らん" ], [ "さうかなあ。僕は、ああいふものもあつていいと思ふんだがなあ。実はある本屋の出版部に勤めてる友人にちよつと話してみたら、そいつは面白いから是非出さうつていふんですよ。別に、だれに悪いつていふところはないでせう", "おれは絶対、出版には反対だ。むろん、出す出さんは、伴一家の自由だが、おれが相談に預る以上、立場はおのづから明らかだ" ], [ "ああ、さう云へば、昨日の朝、神谷に会ひましたよ。もう帰つて来たんですね", "昨日? 何処で?", "神田の通りで。千久馬君は向うへ残つたつていふぢやありませんか", "うん、それは知つてるが……" ], [ "ご飯は?", "椎野さんとこでご馳走になりました。こら、背中みてごらんなさい", "なに、これや、この寒いのに汗なんかかいて……", "すぐに風呂へ行きますから、支度して下さい", "でも、まあ、その手紙を読んでからになさいよ。今、熱いお茶をいれるから……" ], [ "お母さん、いままで面倒なことはお耳に入れませんでしたがね、先生の家庭に実はいろいろ面白くない事件が起りましてね、そのことで僕もいよいよといふ決心をつけ兼ねてゐたんですが、今、向うから、結婚を辞退するつていふ手紙を寄越しました。可哀さうですけれど、しかたがありません。こつちも諦めることにします", "まあ、面白くないことつて、どんなことがあつたの?", "まあ、それやどうでもいいでせう。もう関係のないこつたから……。それより、お母さん、今度は僕、田舎から女房を貰ひますよ。どつかに心当りはありませんか?" ], [ "さうさう、あなたの家はこの辺だつけな。今から行つてもいいですか?", "それや来るなら来てもいいが、どこかでゆつくり飲みながら話さうぢやないか。待てよ、おれは金をもつて来とらんから、とつて来る。まあ、とにかく寄れ", "金なら、僕が持つてるからいいですよ。どこがいいかな", "いや、君におごらすはふはない。それではと、面倒だからかうしよう。少し遠いが、暢気なところがあるんだ。附き合ひ給へ" ], [ "この家はね、役所の連中が飲み荒しに来るんだ。女なんかゐない方がいいだらう", "ゐたつてかまはないぢやないですか。いや、話の都合では二人つきりの方がいいかな" ], [ "ざつくばらん、いいですね。どんなことでも訊いて下さい。その前に、僕の方から云ひますが――云つた方がいいと思ふから云ふんですが――実は千種さんのことね、僕はあなたに対してかういふ立場に立つことは予期してゐなかつたことだけ、はつきりさせておきます。千種さんから、なにか云つて来ましたか?", "君、さういふ云ひ方はないよ。もつと順序を立てて云ふなら云ひ給へ。今、君から何を聞かされたつて、僕は驚かないよ。あの女はもう、僕にとつては路傍の女だ。君がどうしようと勝手さ。君自身は、僕の前で平気な顔はできんのぢやないか? 信ずるに足る友人として、僕を肯かせるやうな説明をしてもらひたいんだ" ], [ "できるかできないか、それはやつてみてもいいですが、あなたは……どういふことを僕に云はせたいんです? 問題はデリケートだと思ふんだ。あなたの方もざつくばらんにならなきや駄目だ", "むろんさうさ。要するに、あの女は、僕との結婚を破棄して……その先は明瞭でないんだが、ともかく自由になりたいといふ希望を漏らして来た。理由は、恐らく複雑なんだらう。体裁のいいことしか書いてないが、これは、女だから仕方があるまい。君の名前も全然出てゐない。これはそれでよろしい。おれは、何も追求しようと思はなかつた。ところが、さつき、君の顔を見た途端に、おれはすべてを察した。いや、察したと云つてはいかん。正確に云ふと、君の口から、彼女がどうなるのかといふことを聴いて、おれ自身の気持に解決を与へたくなつた。君にはその義務があるんぢやないか?" ], [ "別に義務はないと思ふな。しかし、お互に探り合ひみたいなことは、よさうぢやないですか。ぢや、かう云へばいいんでせう。僕は、千種さんとあなたとの結婚問題が行き悩んでゐることを知つて、その責任をあなたが負ふべきであると信じた結果、僕は、今迄抑へてゐた自分の心持を彼女に打ち明けたんだ。勿論、あなたとの友情を犠牲にするつもりでさ", "待ち給へ、おれとの友情なんかどうでもいいが、男の面目はどうなるんだい?", "さういふ言葉は、僕の辞書にないよ", "道徳的な反省が、君にはないといふんだね", "僕には良心があるだけだ。その良心が下らんものなら、そいつは僕の罪ぢやない", "おい、あんまり興奮するなよ。それでわかつた。彼女は、それで君のいふことを聴いたんだな" ], [ "もうお話はおすみになつたんでせう。だれか呼びませうか?", "うん、呼べ" ], [ "さうか、有りがたくないか。別にさういふつもりでもなかつたんだが、おれはただ、匹夫野人の真似をしたくなかつただけさ。女を横取りされて血眼になるのが君の好みだとしたら、生憎だが、おれは不合格だ。おれにはもつと血眼になつて然るべき仕事の方面がある。それくらゐのことは君だつてわかるだらう。ちつとも廻りくどいことを云つてるわけぢやない。多少の努力は必要でないとは云はんが、この困難な立場を、堂々と切り抜けてみせたいんだ。こいつは、断じて芝居でもなければ、偽善的態度でもない。日本人の伝統的な嗜みだ。お互なら暗黙のうちに理解し合はなければならないもんだ。君は所謂新時代をもつて自ら任じてゐるらしいが、文明といふものは西洋の特産物ぢやないぜ", "それやまた話が違ふさ" ], [ "なにしろ原料を欧羅巴から買つてゐる間は駄目さ。南洋で採れるものを、わざわざフランスへもつて行つて、そのマークをつけて輸出するんだからね。われわれは、そいつを高い金を出して買ふつていふ手はないさ", "でも、近頃は日本人で南洋に工場をもつてる方があるんですつてね。こないださういふお話を伺つたわ。ほら、なんとかいふえらい坊さんですつて……", "ああ、ヂャヴァにね、その工場はもうその坊さんの手を離れてる筈だよ。今、和蘭人と日本の商人とが共同出資でやつてるんだよ。なにしろ、初めは坊さんが三十人で出掛けて行つて、さつき云つたシトロネラの製造をはじめたんだ。油をしぼる機械だけはフランスから仕入れたんだけれど、元来経験もない上に、専門の技術家を無視したもんだから、土人の作つてるものより数等品質が悪い。従つて検査も通らないつていふ始末で、たうとう、その坊さんたちは幾年かの間に何十万円かの資本を食ひつぶして、命からがら日本へ帰つて来たつていふ滑稽な話があるよ。ところが、その坊さんは、なかなか強情で、今度は土其古へ行つて、大々的に薔薇の栽培をはじめたもんだ。むろん香水の原料さ。すると、これも素人の杜撰な頭で、結果は見事失敗に終つた。まつたく、勿体ない話さ。国家の財宝は、この通り無能な野心家の手で、非合理的に消費されてゐるんだ" ], [ "おにいさんの造つてらつしやる香水は、なんていふんですの?", "それをもつと早く訊かんといふ法があるか。東京のデパートなら何処でも売つてるぞ。ヤヌスと云へばわかる。香水ばかりぢやない。白粉、クリーム、ローション、白粉には、粉と水がある。水には新式の調合白粉、ミクス白粉、この意匠はちよつとほかに類がないから、一度試してごらん", "まあ宣伝がお上手だこと" ], [ "おい、神谷、お前はちつとも紅頭嶼の話をせんぞ。何か面白い話はないか?", "あ、さうさう、帰りの船でね、軍艦四艘とすれちがつたよ。あとで聞いたら、第三戦隊とか云ふんだつて……。ちよつと興奮したよ。君が乗つてゐると愉快だつたな", "なに云つてやがる。どこが愉快なんだい。紅頭嶼で貴様たち、センチになつたな。あのギラギラ光る星かなんか眺めやがつて、世の中の無情を語り合つたつていふわけか。それならわかるぞ。やい、白状しろ。貴様は口がうまいからな" ], [ "笑ひごとぢやない。蛮人にも劣る奴が内地にごろごろゐるぢやないか。おい、神谷、それで紅頭嶼は、お前の見込みぢやどうなんだ? 産業的に開発できるのか?", "できるね", "よし、そんなら大いにやれ。これでもう当分会ふ機会はあるまいが、事業家としてのお前の前途におれは注目しとるぞ。個人としては、なんと云つても、お前は怪しからん奴だ。一刀両断に処すべきところだが、そこはおれも、ほんとを云ふと、自分が大事なんだ。嗤ふなよ。恨みを呑んで分別の声に従つた。かう云へばお前にも通じるだらう。ところが、どうも、これではまだ、引つ込みがつかんのだ。おい、外へ出て飲み直さう" ], [ "いやだわ、二人ともそんな深刻な顔して……。ねえ、鬼頭さん、何時かの、ほら、カロリン音頭とかつていふの教へてよ", "そんなもの、知らん", "あら、みなさんで歌つてらしつたぢやないの、この前の会の時……", "おれは歌はん。大谷だよ、あんなもの作つたのは……。今度あいつに会つたら訊け", "そいぢや、なんでもいいわ、歌つて……" ], [ "なに、帰る? どうしてだ", "こんなことしてたつて、つまらないぢやないか", "おやおや……" ], [ "もう今日はいいことにしよう。僕はこれから仕事があるんだ。話があれば、また今度にしてくれよ", "なあに、話なんかないさ。貴様がその態度をかへない以上、おれは赦さん。こら、女どもは階下へ降りてろ" ], [ "なにするんだい", "なにするも糞もないさ。おれは酔つちやをらんぞ。この眼をみろ。いいか、貴様は幸運児だ。それはそれでいい。だが、そんなに威張るなよ。武士は相身互だ。わかつたか。よし、帰れ!" ], [ "わかつた。なんにも云ふな。僕の横つ面を気のすむだけ、殴つてみないか。いいからやれよ。さあ、思ひきり殴つてくれ", "うむ" ], [ "あつたわ。でも、お断りしたの", "断つた。ふむ……どういふわけで?", "どういふわけつて……いろいろわけはあるけど、まあ、気が進まないからよ", "しかし、一時は進んでたこともあるんぢやないか? どうもさういふ風におれには見えたぞ", "まあ、はつきりおつしやるぢやないの" ], [ "どうみえたつて、あたしの知つたことぢやないわ。ともかく、今はなんでもないんだから、それでいいでせう", "うん、いいわるいを云つてるわけぢやないさ。すると、なんだね、その他、先方から申込中といふやうな縁談はないんだね" ], [ "あなた、さういちいち念をお押しにならなくつたつていいわよ。どんどん云つておしまひになつたら……? 無駄なら無駄で、はいさうですかつて云へばいいんぢやないの", "ああ、さうか" ], [ "印度のどこなの、その方のいらつしやる大学つて……?", "ええと……なんだつけな?", "バンガロアのセントラル・カレッヂでせう", "バンガロアか、さうか、なんでも中部の山岳地方ださうだよ。気候もいいらしいね。なにしろ天竺だからな。極楽浄土に近いわけだ" ], [ "こげな別嬪ひやんなら、なんも云ふこたなかつて云つたよ", "千種さん、今のおわかりになる? さうよ、さういふ調子なのよ。聴いててをかしくつて……", "とにかく、それ以上どうかうといふ話もまだしてないが、お前が帰つたら、意向を訊いてみるつてことにはなつてるんだ。どうだい、興味ないか? 実家の方のことは役所で調べさしたところによると、まあ、農村としては中流の地主で、財産の割に声望があるつていふところをみると、なるほどと思へるんだ。息子の学費に田地を売つた親爺の一人さ", "問題は印度ね。これが紐育とでも云ふなら、なんでもないんだけど……", "そんなことないさ。だつて紅頭嶼を讃美する女が、印度に怖ぢ気をふるつてどうするんだ", "ぢや、問題はやつぱり、ご本人つてことになるかしら? あの写真出してみませうか" ], [ "なんかおつしやいよ、千種さん……", "あら、なんて云へばいいの?", "だからさ、この写真みて、どうお思ひになるか、それ、あたしたち伺ひたいのよ", "瘠せてるわね", "うん、それから……? でも、今はもつと肥つてらつしやるんですつて……。それから?", "さうね……眼のつけどころが違ふつておつしやるけど、この写真、どうしたんでせう。影のつけ方がめちやね。修整が下手なんだわ" ], [ "おいおい、誤魔化さないで、ちやんと批評しろよ。お前のは、実は、家にあるやつを貸さうと思つたんだが、嫂さんが反対するからやめたよ", "無断ぢやあんまりだと思つたから……。それに、写真で第一印象をきめられるの、女は損だわ", "そんなこと云つたつて、お前、写真も見ずに……" ], [ "ちよつと、お待ちになつてよ。さういふお話、急に伺つたつて、あたし困るわ。これで、いろいろ考へてることもあるんだけど、ただ、云ひだしにくくつて……でも、それ、云つてしまはうかしら?", "なるほど、そいつは聞いておく必要があるな" ], [ "その話もいいけど、少し冒険すぎるわ。それより、今度台湾へ一緒に行つた神谷さんね、まだ独身なのよ。今度の旅行で、お互に気心も呑み込み合つたし、将来結婚の話が持ち上るかも知れないんだけど、それまでとにかくお交際してみるつもりだわ。どうかしら、当分自分の仕事を手伝つてくれないかつておつしやるんだけど……。東京へ行つたら、あたし、お友達で宿をしてくれる人がゐるから、そこから事務所なり工場なりへ、通へばいいと思ふわ。賛成して下さらない?", "なんだ、そんなことならもつと早くさういへばいいのに……。神谷といふ男はよくは知らんが、汽車の中だけの印象では、少し、なんといふか、未成品ぢやないのかなあ", "未成品つて?", "さあ、ちよつと説明に困るが、事業家として世間に通用するのかえ、あれで?" ], [ "だれに聞いたの……", "深水さん……。兄のとこへ下すつたお手紙にさうあつたから……", "実は、今病院を抜け出して来たとこですよ。もうなんでもないんです", "だつて、マラリヤでせう", "さういふ疑ひもあつたんだけど、どうも風邪らしいですよ。なに、この繃帯? これや別さ。ちよつと耳をね", "どうなすつたの?" ], [ "いやね。無理なすつちや……。熱はおありにならないの?", "大丈夫", "大丈夫つたつて、まだふらふらなすつてらつしやるぢやないの" ], [ "知らん", "さあ、ここにゐてもしやうがないから、出かけませう。号外がでるだらう" ], [ "あなたも疲れてるだらうし、僕もちよつと楽になりたいから、何処かホテルで休みませうね", "あら、ホテルなんかぢやない方がいいわ。お宅、どうしていけないの?", "人が来てうるさいから……" ], [ "あたし、電報なんか打つんぢやなかつたわ。でも、いきなり鞄をさげてお宅へ伺ふの、どうかと思つたもんだから……。だつて、病院はどこだかわからないんですもの", "だから、それでいいぢやありませんか。実は、僕はまだ安心ができなかつたんだ。一週間つていふのが、今日は九日目でせう。待ちくたびれて病気になつたんですよ" ], [ "昨夜はよく眠てないんでせう。風呂へでもはいつて、ひと休みしたらどうです。僕もあつちへ行つて、しばらく横になりますから……。お昼には起してもいいでせう", "ええ、でも、こんな時間に眠られるかしら……。それより、これから、あたしどうすればいいのか、そのことを先にきめていただきたいわ。なんだか落ちつかないから……", "だつて、それやわかつてるでせう。僕んとこへ来るつもりぢやないんですか", "いきなりご迷惑ぢやないかしら……", "なにがご迷惑です? いやだなあ、居候のつもりですか、君は?", "あら、さうぢやないけど、あんまり簡単に考へてらつしやるから……。ぢや、どういふ名義で行けばいいの?", "名義? さあ、そいつは考へてない。やつぱり、名義がいりますか? お嫁さんはまだ早いですか?", "かういふの、いけないんでせうけど、あたしやつぱり、それはそれできちんとした形式を踏みたいわ。だから、女事務員ぢやいけないこと?", "今、自宅とオフィスと別ですからね。しかしまあ、そいつは……" ], [ "それ、どういふ意味? はつきりおつしやつてよ。卑怯だわ、遠まはしに人の気持を探つたりなんかなすつちや……", "はつきり云ふと、僕は妬けるんだ。君はなんと云つても英雄崇拝だからな。ほら、泣いてるぢやありませんか。その涙は、だれにそそぐ涙なのか、僕はそれが知りたいんだ。今日は、いつたい、どういふ日だと思つてるんです。僕は、いつたい、なんのためにここにゐるんだ! 僕は!" ], [ "怒つたの?", "…………", "怒つたんだな。よし、だから、あやまつてるでせう。取消すつていふのは、あやまることですよ。あやまつても駄目ですか?" ], [ "あやまるなんて、をかしいわ。ご自分のどこが悪いか、わかつてもいらつしやらないくせに……", "わかつてる。第一に、君を怒らしたのがいけないんでせう" ], [ "あたし、ちつとも怒つてなんかゐないわ。あなたのお気持もよくわかつてよ。でも、あんな風におつしやると、悲しくなるぢやないの。ほんとを云ふとね、鬼頭さんのことなんか、あたしもうとつくに忘れてたのよ。だつて、さうでせう、あなたがかうしてそばにゐて下さるんですもの。ところが、今、この号外をみて、ふつとあの方が……", "気の毒になつた……" ], [ "家との旧い関係もあるし、結婚の話とは別に、ちやんとするだけのことはしておきたいわ。こんな場合に、知らん顔してるの、なんだか気がすまないんだけど……", "はつきり云つてごらんなさい。こんな場合に、君は、どうすれば気がすむんだらう", "お見舞に行つて来たいと思ふの……" ], [ "お見舞にね……さうか、さういふもんかなあ", "あなただつて、お見舞にいらしつてもいいんだわ。その方が正々堂々としてるわ" ], [ "正々堂々は、僕に関係はないよ。行つて来給へ、そんな偽善を平気でやれるなら……。偽善だよ、それや……。鬼頭はよろこぶだらう。涙を流して君を拝むだらう。感激の場面つてやつは、さういふもんだ。さあ、行つて来給へ。今頃は、東京駅の駅長室で、輸血かなんかやられてるだらう", "もうたくさんよ……" ], [ "ええ", "意識はあつたの?", "ええ" ], [ "どうしたの? さ、もうなんにも訊かないから、食堂へ行く用意をし給へ。それとも、ここへ運ばせようか?", "お腹おすきになつた? ごめんなさい、遅くなつて……", "どら、そんなこと云ふ、君の眼を見せてごらん。うん……" ] ]
底本:「岸田國士全集11」岩波書店    1990(平成2)年8月9日発行 底本の親本:「岸田國士長篇小説集第五巻」改造社    1939(昭和14)年5月18日 初出:「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」    1936(昭和11)年5月19日~10月5日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「ベット」と「ベッド」、「カフェー」と「カフエー」、「フィリッピン」と「フイリッピン」、「素ツ気」と「素ッ気」、「悪戯ツ児」と「悪戯ッ児」、「馬鹿ツ」と「馬鹿ッ」、「チヤブ台」と「チャブ台」、「そうして」と「さうして」、「引退つた」と「引き退つた」、「四谷見付」と「四谷見附」、「菜ッ葉服」と「菜葉服」、「くらゐ」と「ぐらゐ」の混在は、底本通りです。 ※新仮名によると思われる外来語のルビの拗音、促音は、小書きしました。 入力:門田裕志 校正:岡村和彦 2018年10月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043804", "作品名": "双面神", "作品名読み": "そうめんしん", "ソート用読み": "そうめんしん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」1936(昭和11)年5月19日〜10月5日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2018-11-02T00:00:00", "最終更新日": "2018-10-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43804.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集11", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年8月9日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年8月9日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年8月9日", "底本の親本名1": "岸田國士長篇小説集第五巻", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1939(昭和14)年5月18日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43804_ruby_66258.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-10-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43804_66305.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-10-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "高度二千", "始め", "航速十五秒", "航路角六百", "六発" ] ]
底本:「岸田國士全集6」岩波書店    1991(平成3)年5月10日発行 底本の親本:「花問答」春陽堂書店    1940(昭和15)年12月22日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:kompass 校正:門田裕志 2011年7月6日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046855", "作品名": "空の悪魔(ラヂオ・ドラマ)", "作品名読み": "そらのあくま(ラジオ・ドラマ)", "ソート用読み": "そらのあくまらしおとらま", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 912", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-08-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card46855.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集6", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年5月10日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年5月10日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年5月10日", "底本の親本名1": "花問答", "底本の親本出版社名1": "春陽堂書店", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年12月22日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kompass", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/46855_ruby_43542.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-07-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/46855_44412.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-07-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "やるさ。毛皮はものにならんが、口を減らすのが目的さ", "いくらも食はんでなあ" ], [ "それが不服なら、どうしようつていふんだ? いゝ気になりやがつて……", "いゝ気になつてるのは、そつちのことぢやないかね? 煙草銭にも事を欠いて、それで仕事をする張合があるか、どうか……", "ねえなら、はつきり、ねえと言ひな。いつでも、どこへでもやつてやるから……。いゝ年をしやがつて、餓鬼の手間にも追つつかねえぢやねえか!" ], [ "どこかほかへ、働き口をみつけたらどうだ。今のまゝぢや、どうにもなるまい", "働かしてくれるところが、ほかにあれば、だが……", "なくはないぜ。君さへその気なら、わしが世話するがどうだ? ほれ、楢沢の別荘地に疎開してござる神田さんちふを知つとるだらう?", "知らん", "知らんこたねえよ。誰でも知つとるえれえ学者だ。もうえゝ年で、隠居も同然だが、ちつとばかり畑を作つたり、薪を割つたりするに、男手がほしいつて言つてござるんだ。奥さんと、お嬢さんと、三人暮しだで、用心もわるかんべえ。たしかな留守番にもなるやうな、ひとり者の男はねえかつていふ話を、ついきのふ聞いたばかりさ。君、行つてみる気はねえか?", "わしはひとり者ぢやねえ", "ひとり者も同然ぢやないか", "いくら出すちふかね?", "さあ、それが、話のしやうだと思ふがね。現在よりわるいことはねえと、わしは保証するよ", "そんなら、行つてみるか" ], [ "ねえ、あなた、あのひとは、てんでダメですよ。第一、呼んでも返事をしませんよ。用事を頼むと、きまつてそつぽを向きますよ。わかつたか、つて念を押してごらんなさい、眉間に皺を寄せて、へえつていふだけですよ。それから、ちよつと面倒な仕事を言ひつけでもすると、しばらく考へて、なにやら、ぶつぶつ、口の中で言ふんです。それが、きまつて、かういふことなんです。だいたい自分にこんなことをさせるやうになつた原因はどこにある? はじめから、気をつけて、こんな面倒なことにならないやうにすべきではないか? 今ごろになつて、やいやい言ふのは、言ふ方がをかしい。この仕事がどんなにバカげた仕事かといふことは、実際に手をつけるものでないとわからない。簡単なことだと思はれては、甚だ迷惑だ。つまり、さういふことなんです", "まさか、その通り言やすまい" ], [ "もちろん、言葉どほりぢやありませんけれど、あのひとの言ひたいことは、さうなんです。顔つきでわかりますもの", "うん、多少、頑固なところはあるやうだね。だが、とにかく、頼んだことを、一度で、すぐやつてくれんのは困るな。わたしが、門柱が曲つてるから直しておけと言つたこと、鶏小屋を鷹がねらはないやうに、上へ十文字に綱を張つておけといつたこと、そのどつちも、もう三日になるが、まだやつてない", "さうなんですよ。いやに勿体ぶるところがあるんですよ。自尊心が強いんでせうか?", "さういふところもないぢやないね。しかし、結局、スローモーションなのさ", "スローでもいゝから、すぐにかゝつてくれゝばいゝんですがねえ", "だからさ、次の仕事に移る、その移り方もスローなのさ。さうだらう、どこも平均してスローでなければ、スローとは言へんからね", "さうですよ、あなたみたいに、あることだけ、せつかちなひとがありますものね", "まあ、わたしにまで当りなさんな。為木のことは、折をみて、わたしから注意してみよう", "注意ぐらゐでなほるもんなら、あたくしはこんなにぢりぢりしませんわ。もう、匙を投げました、匙を……", "それに、百姓のことは、てんで興味がないらしいね。どうも、畑仕事をみてると、われわれよりうまいとは言へんね。どうだい、肥タゴを担いでるのを見たことがあるかい?", "ありません。それも、あたくしが、再三、お茄子とキウリに薄い下肥をやつてくれるやうにつて、言つてあるんです。かうなると、スローなんていふ問題ぢやありませんわ。むしろ、怠慢そのものですわ。横着以外のなにものでもありませんわ", "いや、いや、そこまで言ふと言ひすぎだ。ねえ、ゆかり、わたしはね、あの男の、かくれた美徳を、たつた一つ発見したんだ", "なんですの?", "いゝかい、昨日のことだがねえ、家の前をトラックが一台通つた。夕方のことだ。君は多分台所にゐたから知るまいが、そのトラックが炭をいつぱい積んでゐるんだ。ところが、丁度家の曲り角で、車輪が石ころかなにかに乗りあげて、えらく揺れたんだ。その途端、積んである炭俵の口があいたらしく、炭がばたばた道の上へ落ちこぼれた。拾ひ集めたら、あれでも一貫目以上あつたらう。わたしは、もつたいないな、と思つた。すると、すぐ道ばたの畑でジャガイモの土寄せをしてゐた為木のやつが、ちらとそれを見て、あとは知らん顔をしてゐる。実は、わたしは、彼が後で、それをどう始末するかと思つて、今朝、ちよつと散歩の序でに、たしかめてみた。驚くぢやないか。この炭代の高い時代に、彼は、その炭に手をつけようともしないのだ。ひとの落したものは、自分のものぢやないと信じきつてゐるんだ。どうだい、ゆかり、かういふ人物なんだよ、あの為木といふ男は", "感心なさるほどのことぢやないわ。それほど、頭の廻転が鈍いんですよ", "鈍きものに幸あれ、か。わたしは、ちよつと見どころがあると思つてるんだ" ], [ "土地はいくらでもあるんだから、ひとつ、せつせと開墾してもらふんだな。できたら、果樹なんかもやつてみようと思つてる", "いゝですなあ。このへんなら、まづ、桃と梨でせうな", "いや、林檎もいゝでせう。だが、なによりもまづ、ジャガイモと小麦だよ、現在は。給料の希望はありますか?", "どうだね?" ], [ "べつにありません。前とおなじで結構です", "前つていふと、神田さんのところでは、いくらもらつてたの?" ], [ "音さんは正直ないゝ男だが、百姓は無理だとわかつたよ。えらい誤算だが、しかたがない", "だから、気の毒でも、いくらか間に合ふひととかへませうよ。女でも、慣れてれば、もうちつと気の利いた畑を作りますよ", "わかつてるよ。だけど、すぐに代りが見つかるか、どうかだ", "お米代だつて、バカになりませんからねえ", "そのことも考へてる。一番いゝのは、かうなつたら、君とわしと二人で、ひつそり暮すことだ。戦争はなん年続くかわからないが、二人でカユをすゝつてる分には、さう急にへたばりもすまい", "いやですわ。あたしは、そんな消極的なことを言つてるんぢやありませんよ。せつかくこれだけの土地があるんですもの。いくらだつて、やり方によれば、生産的に使へると思ひますわ。あなただつて、あゝもしたい、かうもしたいとお思ひになるでせう。音さん相手ぢや、なんにもおできにならないぢやありませんか", "その通りだ。その通りぢやあるが、まあ、考へてごらん。少し働きのある人物が、今どき、休業中の養狐場へ傭はれて来るかね? 日傭取りの稼ぎだつて、当節、けつこう、家族をまかなつていけるんだぜ。音さんは、どこへ行つても、あれは、使ひもんにならんのだよ。だから、かうして、こゝにゐるんだよ。ゆつくり、わしが、仕込んでみるよ", "気の長いことをおつしやるわ" ], [ "音さん、これはなんだい? 綱で首がくゝれてるぢやないか。綱は短かくしとけつて、あれほどふだん、注意しといたらう?", "でも、旦那……", "でも、ぢやない。君の責任だよ。まあ、死んでしまつたものはしかたがない。序でだから、もうひとつ言ふがね、大根の葉を一度にこんなにぶちこんぢや、丈夫なやつだつて病気になるよ。これも、いつだつて言つてることだ。兎にキャベツをやり過ぎて、あぶなく殺すところだつたのを忘れてやしないだらう", "あれだけは、知らんぢやつたもんで……", "あれだけぢやない。君はすぐ、さういふ風に言ふが、鶏の餌だつて、二度に分けて、朝晩やらなけれや、なんにもならんのだよ。面倒だから、一度に余計、はふり込んでおけぢや、鶏を飼つてるとは言へないんだ。それに、カキの殻が、ちつとも減つてないぜ", "…………", "なんとか返事をしたらどうだ", "旦那、わしは、いろんなことをいつぺんに言はれるのが、どうもきらひでな" ], [ "いつぺんに言はれると、なにがなんだか、わからんやうになるでなあ。頭がぼうとなるでなあ", "いつぺんに言つたのは、今日はじめてだ。この三年間、こんなことはなかつたと思ふが、どうだらう? わしは、今日といふ今日、ちよつと我慢がならなかつたんだ", "山羊が死んだのは、綱のせゐばかりぢやねえと思ふだよ。子持の山羊つてやつは、ヤケに首ばかり振るでなあ", "その話は、もうよろしい。鶏には、いつカキの殻をやつたね?", "まだ小屋の中に、たんと落ちとるでなあ", "ひとかけでも落ちてる間は、やらないつもりかい?", "わしは、なにかしはじめとる時に、別のことを言ひつけられるのが、とてもいやなんでござんす" ], [ "いやかもしれないが、こつちも、思ひついた時に、すぐ言はないと忘れることがあるからねえ。ぢつと君の仕事がすむまで待つてるわけにいかんのだ", "わしは、まつたく、ノロマだでなあ", "それがわかつてれば、まあ、いゝさ。仕事が遅いのは、丁寧にやるからでもあるんだ。心配することはない。たゞ、わしが一度言ひ、二度言ひすることは、大事なことなんだから、ちやんと守つてもらはんと困る。朝飯はまだなんだらう。食つて来なさい" ], [ "村の女の子を、時々、通ひで雇ひませう。その方がずつと安くつくし、気骨が折れなくつていゝわ", "やつぱりさうするよりしやうがないか。ちよつと残酷のやうでもあるな", "これだけ我慢すれば、もういゝでせう。こつちの誠意は十分尽したことになるわ", "ひとつ、今夜あたり、呼んで話してみよう" ], [ "旦那、わしはなにを言はれたか、ようわからんぢやつたが、つまり、わしに暇を出すちふわけかね?", "まあ、さういふことになるかな。但し、円満にだよ。神田さんから暇を取つた時と、おんなじだ", "わしは、なんと言はれても、暇を出されるやうな、わるいことをした覚えはねえだ", "わるいことをした、なんて、誰が言つた? 気に入らん、とも、言つてやしないぜ", "気に入らんことは、わかつてるだ", "いや、少くとも、気に入らんから出て行けとは、決して、わたしは言つてゐない。はつきり言へば、もう用事がないといふこと、こつちの経済がゆるさないといふこと、理由はこの二つだ", "用事はいくらでもあるだ。間に合はんくらゐあるだ", "さういふ用事は、これから、一切、なくなすつもりなんだ。山羊も緬羊もアヒルも兎も、一切合切、手のかゝるものは飼はないことにするんだ", "鶏もかね?", "え? 鶏? それや、わたしたちで飼へる範囲で、二三羽は飼ふかも知れない。とにかく、君のやうな男手を煩はす必要のない生活をしようつていふんだ", "わしはそんなことかまはねえだよ", "わからないかなあ。君のためぢやないんだ。こつちのためなんだ", "女房をもうぢき呼んでやるつていふ手紙を、ついこなひだ、出したばかりだでなあ", "それは君の自由だ。わたしは、さつき言つた通り、退職金として、だいたい、これまでの食費を含めた月額を、月五千円と見積つて、その六ヶ月分を一度にあげようと思つてるんだ", "三万円かね", "さう、三万円、それぢや足らんか?", "第一、寝る家がねえで、そいつをこさへるに、ざつと三万はかゝるでなあ", "どつかへ、住み込みで働くんなら、家はいらんぢやないか", "もう、住み込みはこりこりだ" ], [ "あんまり贅沢を言はん方がいゝぜ。しかし、わたしは、君に出ていつてもらひさへすればいゝんぢやない。君の将来のことも心配してるんだ。率直な話、君ひとりが働いて、君ひとりが食ふ分には、まあ、なんとかなるだらうが、それぢや、いつまでも、細君や子供の顔が見られないね。どうだね、いつそ、細君を呼んで、一緒に働いてみちや?", "旦那のところでかね?", "いや、いや、独立に家を持つてさ。三万円あれば家が建つと言つたね。そんなら、あと二万円奮発するから、家族の旅費と、すこしは、当分の生活費をそれから出すやうにしてさ、ひとつ、がんばつてみたらどうだね?" ] ]
底本:「岸田國士全集18」岩波書店    1992(平成4)年3月9日 発行 底本の親本:「新潮 第四十九巻第一号」    1952(昭和27)年1月1日発行 初出:「新潮 第四十九巻第一号」    1952(昭和27)年1月1日発行 ※初出時の表題は「それができたら(コント)」です。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043862", "作品名": "それができたら", "作品名読み": "それができたら", "ソート用読み": "それかてきたら", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新潮 第四十九巻第一号」1952(昭和27)年1月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-24T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43862.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集18", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1992(平成4)年3月9日", "入力に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "底本の親本名1": "新潮 第四十九巻第一号", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1952(昭和27)年1月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43862_txt_45461.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43862_45508.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "降りやすまいな", "大丈夫でせう", "この馬は、前脚はたしかだね", "大丈夫ですとも", "君は弁当をもつて来たか", "大丈夫です" ], [ "おい、君、大丈夫か、これでも……", "さあ……", "僕は、着替へがないんだ。濡れると風邪を引くよ" ] ]
底本:「岸田國士全集23」岩波書店    1990(平成2)年12月7日発行 底本の親本:「専売 第二九八号」    1937(昭和12)年6月1日発行 初出:「専売 第二九八号」    1937(昭和12)年6月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年11月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044461", "作品名": "旅の苦労", "作品名読み": "たびのくろう", "ソート用読み": "たひのくろう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「専売 第二九八号」1937(昭和12)年6月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-12-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44461.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集23", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年12月7日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年12月7日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年12月7日", "底本の親本名1": "専売 第二九八号", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "1937(昭和12)年6月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44461_ruby_37187.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-11-12T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44461_37229.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-11-12T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いくつお突きなります", "さあ、しばらく突かないんですが……" ], [ "どうぞ", "さうですか" ], [ "おきみちやん、ぼく、あといくつ?", "まだ一本返りません", "むかうさんは?", "十八ゲーム", "むかうさんも、お当りにならないな", "おつと、そこには、お茶碗があつてよ" ], [ "大まわし…………", "いや、まづ、こつちから…………" ], [ "引つ張つた!", "先玉が帰つて来ない" ], [ "当りゲーム", "どうぞ", "失礼" ], [ "いざ", "いざ" ], [ "どうぞ", "お先へ" ], [ "今日は如何です", "…………", "お当りですか" ], [ "お神さんは、一体いくつ……", "へ?" ], [ "今のは、なんだい", "あれはねえ…………" ] ]
底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 底本の親本:「言葉言葉言葉」改造社    1926(大正15)年6月20日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※片仮名の拗促音の大書き、小書きは底本通りにしました 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2006年2月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044381", "作品名": "玉突の賦", "作品名読み": "たまつきのふ", "ソート用読み": "たまつきのふ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 911", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-03-31T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44381.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集20", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年3月8日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "底本の親本名1": "言葉言葉言葉", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年6月20日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44381_ruby_19956.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-02-19T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44381_21799.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-02-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "またおよつてらつしやるの?", "うむ、たゞ眼をつぶつてるだけだ", "夜また、ねつかれないつて、おつしやらないでね" ], [ "光一は?", "おもてゞ遊んでます", "復習はやらせたかい?", "大丈夫ですよ。自分でしたくなつたら帰つて来ますよ", "そんなこと言つて、お前は、子供を買いかぶつてるよ。あいつの算数ぎらひは、今のうちになんとかしないと困るぜ", "母親に似たんだから、仕方がありませんわ。お熱はかりませう" ], [ "はい、お熱……もう時間ですわ", "はさませてくれ" ], [ "おこるもおこらないもないわ。ほとほと、あんたには兜をぬいだわ", "どうして?", "えゝえゝ、あんたは良妻賢母の模範よ。なにひとつ、ほかのことには興味ないのよ。友情なんかどうでもいゝのよ。大庭常子の歌なんか、牛がほえるぐらゐに思つてるのよ", "誰も牛がほえるなんて思つてやしないわ。まあ、そんなこと云つてないで、おあがんなさいよ", "もちろんあがるわよ。お宅はおひろいんだから、おしやべりがあんまり旦那さまの方へ筒ぬけにならないお部屋へ案内してちようだい", "さうもいかないけど、ぢや、お茶の間にしようかしら?", "お茶の間でも特別応接室でもいゝから、風通しのわるくないところがいゝわ。日蔭もろくにない道をてくてく一時間も歩かされてさ、喉がひつつりさうだわ", "一時間はひどいわ。駅から、あたしの足で十五分よ", "感じでいふのよ。あたしは、あんたのやうに物事をわり切るのはきらひなのよ。一日が三年に思へたり、十年が半年ぐらゐにしか思へなかつたりするもんよ。あゝ、長かつた、長かつた、あたしの半生は……" ], [ "あたしね、今だから云ふけど、ほんとは、ひとつ一生の念願があるの!", "え? ネンガン?", "ネンガン、わからない? ねがひよ。神さまにどうぞお授けくださいつて、祈るでせう、あれよ、そのお願ひよ", "へえ、なに、いつたい?", "笑はないね。――あたし、おそろしくでつかい恋愛がしたいの、そこいらにある、誰でもが誰とでもできるやうなもぢやない、もつと、すばらしい、偉大なる恋愛よ。いけねえ声まで大きくなつた" ], [ "さう云へば、あの頃、グラン・タムールつて、はやつたわね。あたし、よく覚えてないけど、誰が云ひだしたの?", "英語の教師で、大学を出たてのフラちやんつてのがゐたぢやないの。あたしたちが卒業の年に来たのよ。誰だかの詩の訳をしてる最中、これが、フランス語でいふ、グラン・タムール、大いなる恋、といふやつです、……なんて、見得を切つたのえ", "さう、さう、思ひだしたわ。それから、それを学校ぢうにひろめたのは、井沢さん、井沢のレイちやん……", "二十一で死んぢやつた", "処女のまゝ……" ], [ "あつても、なくても、あたしはするの", "なけれや、できないでせう?", "じようだん言はないでよ。ないからこそするのよ。あたしが、それを、あらしめるのよ", "できるかもしれない、あんたには、但し相手があればね", "相手? 相手は、それや、必要よ。でも、どんな相手だつて、理想の相手にまで引上げるのは、こつちの力よ。それでなきや、グラン・タムールなんて云へないわ", "あら、あたしはまた、相手が、なにかの意味で、立派な、偉大な人格でなけれや、ダメかと思つてたわ", "それや、それに越したことはないわ。恋愛は男女の合作ですからね" ], [ "こんなお値段でいゝのかしら?", "もちろん、お宅は特別です。奥さんはわしのお得意さまだとは思つてやしません", "そいぢや、なんだと思つてらつしやるの" ], [ "お恥かしい話だけど、どうしても、そんなことにでもしなけれや、やつていけないの。ご近所からの頼まれものは、急に上げるといふわけにもいかないでせう。だから、こつちの手持だけ、その値段でやれると大助かりだわ", "わかりました。お安いご用です。序に、奥さん、もうちつと儲かる方法をお教へしませうか? 第一は、毛糸の仕入値段をもつと引下げること……", "あら、だつて、あなたより安い口があるの", "あります。わしは、細かく云ふと、あれでまだ毛糸を高く買つてゐます。原毛が間に合はんからです。仮にわしが、自分で原毛を買ひつける時に、奥さんの分として、いくらかきめて割り当てゝおけば、あとは、加工賃だけで、製品として工場から卸値で買ふより、何割か安くなる計算です。奥さんの方は、月、だいたい何ポンドあれば十分ですか", "さうね、三日でスエーター一着として、まあ、十ポンドもあればいゝわ", "なるほど、すると、どういふことになりますか。十ポンドの毛糸は、原毛でざつと二貫五百目とみなさればなりません。一貫目、現在の相場は、四千から四千二百です。加工賃一貫目千六百として、まあ四千円、原毛の仕入を一万四百とみて、合計一万二千円。運賃をおまけにして、毛糸撚上もの一ポンド千二百円につきます。いかゞです。わしの持つて来るものよりや、ぐつと安くあがるでせう", "それやさうだけど、原毛を仕入れたり、加工に出したりするのに、いくらか資本がゐるわけね", "資本? わづか五、六万のね。奥さんは、資本といふものを、現金に限ると思つておいでですね。大間違ひです。奥さんの腕が立派な資本ぢやありませんか。若し、こゝでわしと奥さんで合資会社をこしらへるとしますぜ。わしは、ポンと十万、投げ出します。奥さんは、涼しい顔で、編棒を動かしてゐてください。……奥さんの能率給を別にして、利益配当は、山分けです", "そんなうまい話つてあるかしら!", "あるからしかたがないですよ。――もつとうまい話をしませうか?", "もう、たくさん……。頭がぼうツとするわ" ], [ "福代はあなたを唯一人の女友達だと云つてゐました。……いくら会はなくつても心が通じてゐればいゝとも言つてゐました", "たしかお子様がお一人おありになつたやうに伺つてをりましたが……", "死にました。疎開先で川にはまつて死にました", "まあ、ご運のわるい……", "さうです。運とでも思ふよりしかたがありません。あなたもご主人が長くお患ひになつてゐるさうですが……", "これも運でございませう。生きてゐてくれましたら、あたくしには、なにか張合ひがございます", "さうも云へませうが……なかなかむづかしいもんです。その問題は……。福代はあゝいふ女ですから、なにひとつそんな気配はみせませんでしたが、僕にはわかつてゐました。僕たちの結婚はやつぱり失敗でした。――福代は女の幸福といふものを、遂に知らずに死んで行つたのです。僕の責任でもあり、彼女の宿命でもあつたのです", "さういふご事情はわたくしにはわかりませんけれども、福代さんが幸福でなかつたなんていふことは、あたくし、信じられませんわ", "このことは僕一人の胸におさめておくつもりでしたが、福代の心の友であられたあなたに、かうしてお目にかゝつてみると、やつぱりあなただけには聴いていただきたくなりました。実は、かういふものが出て来たんです。整理をする暇もなく、そのまゝ残して行つた手紙の束のなかに、これを見てください、こんなものがあるのです" ], [ "ねえ、常ちやん、僕の『蜜蜂の女王』ね、君の歌はまあいいけどさ。どうも伴奏が、あれぢや、困るんだ、伴奏が……", "あたしの知つたこつちやないわ。第一黙つてはいつて来るの、どうして?" ], [ "ドアがあいてたからさ", "ドアのせいにしないでよ。あんた、こゝを自分のうちだと思つてんの?", "へんなこと云ふなよ。どうしたんだい、今日に限つて……", "あたし、すこし、考へてることがあるの。目障りにならないやうにしてほしいわ", "へえ、そんなに目障りになるかねえ、神戸で僕に先へ帰れつて云つたのは、そのためかい?", "あんたの作つたものは、これからも歌はしてもらふわ。はつきり云ふと、あんたのほかのものはね、もうあたしに用はないのよ", "なるほど、はつきり云つたね。――ちかごろ、誰かできたのかい?", "うゝん、まだ……" ], [ "さわつちや、いや。あたしはもう三十五よ。をかしいやうだけど、さうなのよ。いつまでも、こんなことしてられる、いつたい! わからない? こんなことつて、あんたとしてるやうなことよ", "だから、君さへその気になつてくれれや……", "なによ、その気つて? そんな気なんかないわよ。あつてたまるもんですか。早く帰つて、奥さんにさうおつしやい大庭常子とは手を切つたつて……", "奥さんはなんにも知りやしない", "知らなきや、知らせてあげてもいゝ", "おい、おい、もつと静かに物は云へないのかい", "しづかに言ふ時は、ほかにあるさ" ], [ "あんた、もう一度ご苦労だけど、下へ行つて電話かけて来て……。下田さんにね、今夜八時からいつものところで練習をいたしますからつて……それから、忘れないでかう云つてちようだい――『蜜蜂の女王』もうちよつとどうかなりませんかつて……", "あ、そいつは……" ], [ "脳貧血も軽微なものなら、すぐなほりますがねえ。この脈搏では……ことにピヤノと来ちや……", "どうしませう? すぐ代りの誰か頼めないかしら?", "誰にします。といふより、誰がすぐ間に合ふかだが……", "今、誰か来てない? 郡山先生、ダメかしら", "先生はむづかしいからなあ、急ぢや、うんと云ひませんよ。あ、見えた、郡山先生、ひとつ、お助け願ひます。この通りの状態です", "いや、それやわかつてますがね、大庭さんの伴奏は、どうも、僕ぢやまづいよ。それに、いきなりぢやね", "それやもう、ごもつともですが、そこをまげて……", "藤本さん、もういゝわ。あたし、今日はやめるわ。聴衆の方に、わけを云つて、あやまつてちようだい" ], [ "批評なんか……それより、母も一緒に出て来る筈だつたんですけど、汽車が閉口だから、こんどは失礼するつて云つてました", "さうよ、軽井沢からわざわざなんて、こつちが恐縮しちやうわ。で、あなた、もうすぐお帰りになるの?", "僕、ついでに病院でレントゲンをかけて、レコオドを二三枚買つて帰るつもりです", "あたし、今晩はダメだけど、あしたの午後から、からだあいてるの。とにかく、三時頃、よかつたら、いらつしやいよお待ちしてますわ" ], [ "どういふの、それや?――喪中に音曲はどんなものだらうね", "知つてゝよ。そんなこと知つてるけど、ちよつとわけがあるのよ", "云つてごらん" ], [ "うん、わかつた。案じられるね。で、それと音楽会の切符と、どう関係がある?", "だからよ、福代ちやんの旧友のあんたの歌でも聴いて、もんもんの情をお慰めなさいつてわけよ", "親切だね。さういふもんかねえ。どんなひと、その旦那さんつて?", "学者よ。大学の先生よ。なんか書いてもゐるんでせう。あら、あんたまだ知らないの?", "それくらゐのことは、あたしだつて知つてるさ。福代ちやんも罪な死に方をしたもんだなあ。お寺はどこさ?", "お墓は多摩墓地なんだつて……いつか、私達一緒にお参りしない?", "お墓参りつて、ありや、遺族のためにするもので、死んだ人間は、お前さん、あすこにゐやしないもの", "軽井沢で、なんかあつたらしいぢやないの", "そんなこと書いたかねえ。まだ本もんとは云へないけどね。あるにはあつたさ", "グラン・タムールの口なの?", "まあ、そのへんだね。さうさう、あれを云はなくつちや、グラン・タムールの条件つてやつをね。いゝかい。第一はまつたく打算をはなれること。つまり、功利的ぢやないこと。第二は、唯一人が相手だといふこと……", "あたり前だわ", "黙つてなさい。そんなこと云ふけどさ、実際の交渉は一人に限られてゐてもさ、時によつて、ほかの相手がちらちら眼にうつるなんていふのはダメなのさ", "うん、それやさうね、第三は?", "第三は、なんだつけな、さうだ、第三は、相手の欠点が全然見えなくなること。つまり、アバタもエクボつていふ、あれさ。スタンダールの云ふ、『結晶作用』が完全に行はれてゐるといふ状態、これさ", "それだけ?", "いや、ここまでは、まあ、初歩の原則みたいなもんさ。第四はだよ、これが大事なんだけど、相手のためにはだね、一切を棄てられるといふことさ。むづかしいよ、これは。あたしは、今まで、恋愛とは、与へることぢやなくつて、奪ふことだと思つてたよ。よく考へてみると、さうじやない。やつぱり、グラン・タムールは与へることだね", "おや、おや、バカに神妙なのね", "それさ、神妙であること……敬虔な心と結びつかない恋愛は、小恋愛だよ", "変ね、今日は……お説教ぢやない?", "まぜかへすなら、よすよ。なにも、誰にでも、それをしなけれやいけないつて云つてるわけぢやないよ。猫や杓子は、なにをやつたつていゝさ。たゞ、なにをやつても面白くないもんが、それを考へりやいゝんだよ", "なあんだ、さうなの? はじめから、それはできないものなの?", "できたら、その方がいゝにきまつてるよ。運のいゝやつはそれにぶつかるのさ。古今の語りぐさによくある、あれさ。うそだらうがね", "それが最後で、最大の条件ね", "いや、もう一つある。これはちよつと微妙なところだがね。一番、第三者にものぞきにくいところで、神のみぞ知り給ふ秘中の秘だよ。それはね、早く云へば、霊肉一致さ。精神と感覚とのそれぞれの完全な融和、均衡のとれたどつちにも片寄らない、両性結合の満足を云ふんだよ。こゝは、すこし、受け売りだがね", "わかるやうな気もするわ", "そこまで行つてない証拠だ" ], [ "大きな声で、おやかましかつたでせう。あたしくせなの。すぐ調子に乗るんですの", "いつも切符をいたゞくんださうだけれども、僕がなほるまでつて、こいつが遠慮するんですよ。こないだの放送は伺ひました。天下一品だな、あなたのカルメンは", "おや、褒めていたゞいて、なんだけど、あれはとんだ出来損ひ。いま、保枝ちやんと恋愛論をしてましたの", "いやだ" ], [ "大いにやつてください。家内とは、そんな話は金輪際できませんからね", "あら、さうかしら? 保枝ちやん、これでなかなか意見がおありなのよ", "さ、行きませう、行きませう" ], [ "さう、さう、もう一つ、大事な条件……これを忘れちやなんにもならない。さつき云つた五つのほかによ、第六、眼の前に、非常な困難が横はつてゐること。ね、無理をしなければ遂げられないつてやつさ。手が届きさうで届かないとか、つまり、道が嶮しいこと、これは絶対に必要だわ。坦々たる恋愛の道なんて決して、偉大な恋愛の道ぢやないの。『グラン・タムール』つて、だからさ、その意味ぢや、命を賭けた冒険をふくんだ、悲しい恋愛のことさ", "なむあみだぶ……アーメン" ], [ "あたし、お肉すこし買つて来たんだけど、ご飯たべさしてもらへる?", "あら、どうせ、そのつもりよ。お肉、なににする?", "あたしに委せなさい" ], [ "それが甘いつていふんだよ。そんなの、おとぎばなしだよ、抵抗のないところに、美しいものはないんだよ、……この人生にはね", "そんなことを云へば、心中は、みんな偉大な恋愛になるのかしら?", "うん、いや、それはちよつと違ふ。例外はあるけれどね。心中、片想ひ、刃傷沙汰、みんな、グラン・タムールに似て非なるもんさ。深刻さうにみえたつてダメ……。迷信、憶病、短慮、一徹、――どれも、これも、偉大な行為とはなんの関係もないぢやない", "なかなか、よく調べてあるわね", "調べてあるは、痛かつたね、ちつとばかり、本を読んだよ。でも、自分でさうだと思つたことしか、あたしは言はないよ……", "で、どうなの? だいたい条件のそろつた相手がみつかつたの?", "はじめから条件なんかそろやしないよ。たゞ漠然と見当をつけるのさ。ぶつかつてみなきや……", "はい、キヤベツと玉葱……二つに切つたわよ。あと、どうするの?", "どうもしないでよろしい。七輪の火、よくおこつてるか、みてちようだい。塩と胡しよう、出てるね" ], [ "あなたのこと同情して、それや大変よ", "へえ、それやまた、どういふんです?" ], [ "あのひとも、そんなに仕合せぢやないの、だからでせう。熱情をかくした、聡明なひと……もがいてますわ", "……" ], [ "どうもないの、それを聴いて、あなた?", "どうもかうも、しやうがないぢやありませんか", "あのひとが、あなたを好きでも? それがはつきりわかつてゝも?", "あなたの前で、僕にその返事をしろと、おつしやるんですね?", "できたら、おつしやい", "歌をもつと聴かせてください……あなたの歌を……" ], [ "大きい栗でせう。味はどうかしら。焼いて召しあがる? それとも、栗御飯しませうか?", "一つ生で食ふ", "ダメですよ、そんなこと……おなかおこはしになるわ", "一つだけ食はせろ", "ぢや、半分ね" ], [ "それがなんのことだかわからんのです。やつぱり多少、頭へ来てゐるからでせうな", "でも、むやみに人を疑ふわけにも行きませんわね。いつたい、どんな方、今日みえたつていふ三人の方は……", "それが、あたくしはずつとお使ひに出てゐて、よく存じませんのですが……", "下の事務所で、いちいち訪問者の訪ね先だけ聞くことになつてゐますからね。われわれはもう木戸御免だが……" ] ]
底本:「岸田國士全集15」岩波書店    1991(平成3)年7月8日発行 底本の親本:「苦楽 臨時増刊第二号」    1948(昭和23)年11月10日発行 初出:「苦楽 臨時増刊第二号」    1948(昭和23)年11月10日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年9月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "第一に、僕は貧乏です。第二に、学者とも教育者ともつかぬ中ぶらりんな存在で、たいした仕事ができるとは思つてゐません。第三に、趣味らしい趣味がありません。至つて野暮です。第四に……もう、よしませう、それくらゐで、あとは、どんなボロがでるか、お楽しみといふことにしておきませう", "結構ですわ。そんなこと、ちつとも、男の方の欠点ぢやありませんわ。あたくしも、仲人さんはたしか二十四とおつしやつたと思ひますけれど、実は二十六ですの。それに、あたくしこそ、きつと家庭で片寄つた教育を受けてゐると思ひますわ。たゞ、父が、軍人のところへだけはお嫁にやりたくないと申してをりました。母も、それに正面から賛成する代りに、かう申してをりました――お父さんのやうな軍人がほかにゐればだけれどねえ", "申分のないご家庭のやうに思はれます。僕はきつと仕合せだと信じてゐます", "あたくしは、結婚の幸福といふものは、二人でつくり出すものだと思ひますの。いけません?", "約束されてゐる限りは、です。僕が言ふのは、その希望がもう既に大きいといふことなんです", "言葉では、なんにも言へませんわ。あなたのおそばで一生を送るために、このことだけは守つてほしいとお思ひになること、なんか、ございません、それを、おつしやつて……。どんなことでも、きつと守りますわ", "考へておきませう。僕にも、さういふ註文があれば出してください。実行できることなら、やつてみませう" ], [ "いつかお願ひしたこと、まだおつしやつてくださらないわ", "それがどうも、僕には、言ふ資格がないんだよ。君だけに、あることを守れつていつたつて、君が僕になんかを註文するのとは、おそらく性質が違ふだらうからね。君はおそらく、それを固く守ることによつて、僕へのひとつの愛情のしるしにするつもりでせう? 僕は、実際、我儘で、おまけに、ぼんやりと来てるから、さういふかたちで、君に愛の証拠をみせるわけにいかないんだよ", "わかつてますわ。いゝえ、あたしは、それだけぢやないの。それもあるけれど、あなたのお望みになることを、ひとつだけでも、後生大事に努めることで、やつぱり、自分が少しでも、あなたに近づきたいんだわ。生意気だけど、えらくなりたいんだわ", "それを聞いて、僕も、すこし安心した。ぢや、君が想像してることゝずいぶん違ふかも知れないけれど、かういふことを、ひとつ、約束しようぢやないか。いゝ? 僕は国文学者だね。むつかしいことは別として、言葉つていふものに、普通のひと以上、興味をもつてるわけだ。僕は、かねがね、現代の日本語に疑問をもつてゐる。いや、疑問どころぢやない、不信にちかい気持をもつてゐます。つまり、このまゝぢやいけないといふことだ。いろんな厄介な問題はあるけれども、いつたいどこから手をつけたらいゝか? 漢字制限もいゝでせう。新仮名づかひもいゝでせう。しかし、これはむしろ、書かれる言葉としての枝葉末節で、根本は話し言葉の機能、つまり、働きを強めるといふこと、それには、なんとしてもまづ、第一に、余計なものを取除くことが必要だ。言葉の綾にも、必要なものと、まつたく不必要なものとがあることは、すこし世界の文学をのぞいたものにはすぐわかる。僕は、もう議論をしてもはじまらないと思ふ。誰かゞ、自分で、その不必要なもの、邪魔なものを取除く試みをしてみなくてはならないと思ふ。僕は、それをやつてみたい。が、僕ひとりではダメなんだ。日本語には、知つての通り、女言葉といふやつがある。これがまた、余計な、ロクでもない装飾語に重きをおいた、世界に類のない面倒な言葉使ひの連続です。僕と協力するつもりで、君にもひとつ、この言語改革の一役を買つて出てもらひたいんだ。これは、もちろん、まづ、われわれ二人の間だけで、試みてみよう。試みだから失敗するかもわからない。しかし、次ぎの試みがそれで、できるわけだ。そこで、僕が考へたのは、今日、この記念すべき日を出発点として、以後、次ぎの二つを、言葉使ひのうへで注意することにしよう。第一は、うるさく敬語を使はないこと。なるだけ男女平等でいかう。ことに名詞や動詞や形容詞の上に、むやみに、丁寧なつもりでおとか、ごとかいふ接頭語をつけないこと。第二に、一番厄介な代名詞を外国語なみに簡単にするために、一人称単数、つまり、私とか、僕とかいふ代りに、たゞ、古語を生かして、わと言はう。それから、二人称、つまり、あなたとか、君とかいふ代りに、これも、なと言はう。三人称はしばらく、預ることにして、お互に、これだけを守つてみよう", "待つてちやうだい。女らしい言葉使ひはいゝのね。ただ、お上品ぶらなけれやいゝんでせう。おとか、ごとかいふ敬語は程度問題でせうけれど、なるべくつけないやうにするわ。それから、あなたの代りに、な、あたしの代りに、わね。これは、ちよつと面白さうだわ。第一、感じがあつてよ。いゝわ。慣れるまでむつかしさうね。でも、やつてみませう。二人きりの時だけね。あゝ、をかしい", "わは喉がかわいた", "おビール、ぢやなかつた、ビール、さう言ひませうか?", "いや、水を飲む", "水を飲むと、腹をこわしますよ", "うまい、うまい。それでいゝんだ。そんなら茶をくれ", "はい、茶碗に残つたカスをどこへ捨てませうか? 外へ捨てゝもよろしいか", "なんだい、それや、へんに固いな" ], [ "ねえ、けふは、相談があるの。やつとこれで、なとだけは楽に話ができるやうになつたと思つたら、こんどは、よそのひとゝ、それは話がしにくゝなつたわ。ちかごろ、ひとが変な顔して、わの顔をみることがあるの。はつと思つて気がつくと、ちやんと、さうなの。なとの話の調子でそのまゝ喋つてるんだもの。それに、めつたに使はない言葉は、つい、おをつけるのを忘れて、平気で失礼な言ひ方をしてしまふのよ", "いゝよ、大丈夫だよ。わが聞いてゝも、そんなに変ぢやないよ。自然にさうなるなら、それでいゝぢやないか", "けふも、船木さんがゴン(子供の愛称)の診察に来てくだすつたんだけれど、相手は大先生だと思つて、ずいぶん気をつけたのよ。たうとうヘマなことを言つちまつたわ", "どんなことだ?", "それがね、あゝいふ先生でせう、わたしはこれでいくつだと思ひます? つて、かうなの。先生の年のことなんぞ考へたことございません、つて、返事しちやつたわ", "満点だよ" ], [ "なるほど……。昼間拝見したときは、なんでもないと思ひましたが、ともかく、尿をしらべてみませう。ことによると、自家中毒かも知れません", "それみなさい。ながバナヽを食べさせたのがいけなかつたのよ", "わのせいにするなよ。なだつて、あとからやつたぢやないか。やりすぎたんだ", "そんなバカな……わは指の先ぐらゐよ。なは一本をやつたうへに、自分のを半分やつたぢやないの。なは機嫌がいゝ時は、すぐ調子に乗るくせがあるわ", "あゝいふ場合は、一方が責めらるべきではない。協同で責任をとるべきだと、わは思ふ", "もちろん、それはさう……たゞ、一応、わが、どうでせうね、と言つたことは事実よ。先生、やつぱり、バナヽがいけなかつたんでございませうね" ], [ "この十年は、二人にとつて、ある意味では幸福な十年だつた。ことに、わにとつては、一民族が数百年の歴史を経て成し遂げ得るやうな、大きな進歩のしるしをみることができた。これは、まつたく、なの努力と、ことに、なの愛情に負ふものだと思ふ。あらためて礼を言ふのも変だが、新年のわの挨拶だ。ところで、考へてみると、この十年、二人で楽しい旅をしたこともない。このへんで、若し、財政がゆるせば、一二泊でもいゝ。例の湯河原にでも、ゴンを連れて出掛けてみちやどうだ?", "いゝことを思ひついてくだすつたわ。わのたつたひとつの今の願ひは、十年の間に、知らず知らず積つた、夫婦生活の塵を払ふことよ。どうすればそれができるかわからないけれど、ゴンを間にはさんで、汽車にでも乗れば、ひよつとすると、十年前の、あの、いくらか浮き浮きした気分になれるかもわからないわ", "よろしい。予算を立てなさい。わは、ヒゲを剃つて来る" ], [ "さう、そいつは豪勢だ。旅行はどつち?", "さあ、湯河原あたりぢやないか知ら", "なるほど、ゆかりの地だな、羨望にたへません" ], [ "正月にこんなところへ来るんぢやなかつた。伊豆へ行つてみよう、伊豆へ……。あゝ、それより、三浦半島の油壺はどうだ。有名な水族館のあるところだ", "わはもう、どこでもいゝわ。ゴンさへゐなかつたら、田舎道をぶらぶら歩きたい", "なんでもない。油壺へ行かう。バスを降りると、あとは畑の中の道だ。名案だね" ], [ "ゴンが眠ましたね", "さうらしい。重くなつた", "あら、あら、二人で汗なんか、かいて……" ], [ "まあ、どうなすつたの?", "なにが?" ], [ "なの鼻は真つ赤よ", "え? 菜の花?" ] ]
底本:「岸田國士全集18」岩波書店    1992(平成4)年3月9日発行 底本の親本:「別冊文芸春秋 第二十五号」    1951(昭和26)年12月25日発行 初出:「別冊文芸春秋 第二十五号」    1951(昭和26)年12月25日発行 ※初出時の表題は「菜の花は赤い(コント)」です。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "今日はこれくらゐにしておかうか", "うむ、無理をせんがいゝ。どれ、おまへ、顔色がよくないぞ。早う、帰らう、帰らう" ], [ "わあ、太郎のとこは、もう、しまひか", "えらく急いで、なにしに行くだ" ], [ "これより面白いいたづらつていふと、なにがあるね、浦島のをぢさん", "この野郎、大人をからかやがッて……。さ、さ、その亀は、をぢさんが駄賃をやるから、海へ放つてやりな。そら、飴でも買つて、みんなで、しやぶれ" ], [ "どうも、今年の椿油は、サラッとしないな。手はべたつくし、櫛は重いし……", "だから、毎日そんなになすくらなくつたつて、いゝんだよ。おまいさんのおしやれもあきれるわ", "そんなこと言つたつて、男の髪は、油つ気がなくなると、すぐにさゝけるんだよ", "うまいことばつかり……浜で娘つ子になんとか言はれたいもんだから……", "うるせえな、病人なら病人らしく、黙つて寝てろよ。おれや、やきもちなんぞ焼く女は、でえきれえだ", "おや、さうかい。すまなかつたわね。ぢや、いゝから、今朝は、ゆつくり、丸ポチャでも、瓜ざねでも、たんのうするまで釣ッといで……", "あゝ、いゝとも……おまへの世話にやならねえよ" ], [ "煎じ薬は、ヰロリのそばに置いてあるからな。まだ、三度分は残つてるはずだ", "薬なんぞ飲まずに、死んでしまへばいゝと思つてるくせに……" ], [ "命の綱を預けてる亭主に向つて言ふことか、それが……", "その綱の引きあげ方が、だうりでのろくさしてると思つたよ", "あきれたことを吐かす女だ。頭が狂つてるなら、それでいいが、まさか正気ぢやあるめえ", "頭が狂つてるなら、それでいゝのかい? え、あたしの頭が狂つてても……", "だから、毒下しを飲んで、頭の血をキレイにしなよ。おれや、もう、おまへの相手はごめんだ" ], [ "な、おい、喧嘩はおしまひにしようよ。さみしかつたら、誰か話し相手をよこさうか。砥ぎ屋の婆あでも、針仕の背むしッ子でも……", "いや、いや……誰とも話しなんかしたくない。おまいさんが帰るまで、ひとりで待つてる……ひとりで……忘れないでおくれ……忘れないで……", "なにを忘れるもんか……お前をひとり待たしといて……日暮れまでにさつさと帰つて来るよ" ], [ "今日は一人かい?", "…………" ], [ "おや、今朝は、トヽカヽ船は出さないのかい?", "…………", "おまい、きのふは、うちの餓鬼に銭くれたつてな。また亀の子をつかまへて、をぢさんに買つてもらふつて言つとつたぜ" ], [ "お神さんはどうしたい? 加減でもわるいのか? おまいをあんまり可愛がりすぎて……さうだらう? だが、言つとくけど、亀の子を助けてやるのもいゝが、お神さんを粗末にするぢやないぞ", "…………" ], [ "珍らしいこつたな、ひとりぼつちで……", "あたしや、なんでもいゝから、一度亀の子になつてみたいよ" ], [ "だが、竜宮といや、海の底だらう。息がつまつたらどうする、わしはさう、息の長い方ぢやないからなあ", "なるほど、人間の考へさうなこつた。ところが、浦島どん、わしの背中に乗ッたが最後、海の水は、大気とおなじになる。竜宮では、風も吹けば、雨も降る。たゞ、着物は、濡れることがないから、かわかす手数もいらんといふわけだ", "そんなら、わしは、ちよつと家へ帰つて、女房に留守を頼んで来よう" ], [ "ようこそ……。まづ、亀の命を助けてくださつたお礼を申します。さて、世にもやさしい心をもたれ……ぶしつけながら、稀にみる美男におはすそなたを、かうして、この竜宮にお招きできたのは、乙姫のこの上もないよろこびです", "おそれいります。どうぞよろしく……" ], [ "さやうですな。べつだんこれといつてございませんが、まあ、若いものには、祭りの市、盆踊り、それから、歌合ひと申します男女の遊びくらゐなものでございませうか", "カガイといふ遊びはどんなことをするのですか", "それは、その、男と女とが、暗闇で、たがひに歌を読み合ひ、誰とも知れず、心ひかれた相手と……", "心ひかれた相手と……?", "一夜を……", "一夜を……?", "契るのでございます……。失礼なことを申しあげました", "ちつともかまひません。それはさぞ面白いでせう。でも、暗闇だと、声だけで、顔やすがたはわかりませんね", "そこが、なによりの楽しみでして……。声も声ですが、読み聞かされる歌のおもむき、味ひが、身にしみてうれしいと申すもので……", "すると、なによりも、空しい言葉に酔ふといふわけですね。おめでたい人たちだこと", "しかし……", "しかしもなにもありません。この竜宮では、誰もかれも、口下手です。お世辞は決して使ひません。物事をおほげさに言つたり、口先で相手をまるめこんだりしようとしません", "なるほど……", "そのかはり、みんな、思つてゐることを、そのまゝ、顔色に出し、かたちに現はすのです", "けつこうなことで……", "それでは、そなたの国で、一番いやなこと、我慢のならないことはなんですか", "さて、そいつは数かぎりなくございます。と、いつて、何が一番といふことになりますと、ちと弱りましたな……", "自分で自分に聞いてみたら、すぐわかるでせう", "おほきに……さやうですな、まづ女がやきもちをやくことでございませうかな", "そなたの国の女は、みな慎みぶかく、決して、男の気持に逆はないといふ話ではありませんか", "いえ、それが、その、当節、さういふ女がだんだん少くなつてまゐりましたんで……", "では、そのつぎにいやなことは?", "弱い者いぢめをすることでございます", "はて、それも初耳です。そなたの国の人々、わけても男たちは、弱きをたすけ、強きを挫くのが、持つて生れた気象と聞いてゐましたが……", "いや、できればさうしたいといふのが本心でございませう。それが、なかなか、さう参りませんので……", "ちつとも珍しくないことです。もつと、もつと、そなたの国に限つていふ、いやでいやでたまらないことはありませんか", "かうつと……では、こんなのはいかゞでせう。ほかの国のことはよく存じませんが、年寄りがとかく頑固で、口うるさく、けちんぼうで、疑ひ深い上に、なんと申しますか、からだも心もひからびて、若い者の目障りにしかなりません。年寄りとゲジゲジは、実によく似てをります。たゞ、ゲジゲジは、草履で踏みつぶせるといふだけの違ひでございます", "へえ、それこそ不思議なお話です。竜宮には、年寄りもゐますが、みな、気だてのいゝものばかりです。それに、こゝでは、顔を見ただけでは、年はわからないくらゐです", "ごもつとも……。大人と子供の区別がつけば、それでたくさんでございます", "いろいろ、まだ、面白いお話を伺ひたいけれど、もう、お疲れのやうだから、また、いづれゆつくり……。お部屋へご案内しませう", "やすませていたゞくなら、どんなところでも結構でございます", "だから、乙姫の行くところへついておいでなさい" ], [ "もうちつと後にしていたゞくやうに、さう伝へて下さい", "でも、さきほどから大分、時がたちました。まだか、まだかと、お姫さまはしびれをきらしておいでになります", "すこし考へごとがあつて、たゞいまはまだ、お相手はできかねます、と申し上げればよいでせう", "ちかごろは、よく考へごとばかりなすつて……。たまには、すぐに行つておあげになればよろしいのに……", "余計なおせつかいだ", "おや、おや、わたしまで叱られてしまつた。では、どうぞごゆつくり……" ], [ "いや、なに、そんなわけぢやございませんが、やはりその、変つた土地で、慣れない暮しをいたしますと、しんが疲れると申しますか、ちよつとしたことを考へるのにも、それはそれは暇がかゝります", "そなたが、どんなに暇をかけて、いくら考へごとをしても、それは勝手です。乙姫がいつたんかうと望むことを、そなた以外に、誰ひとり、手をかけさせるものはないのです。それも、はじめの頃は、そんなでもなかつたはずです", "ですから、いま申しあげましたやうに、昨今、いくらか……", "竜宮も珍しくなくなつた……", "いえ、いえ……それより……", "乙姫が鼻につきだした……", "滅相な……どういたしまして", "嘘つき! 大嘘つき!", "ヘッ?", "そなたの考へてゐることぐらゐ、わからない乙姫ぢやありません", "さういたしますと……", "さういたさうと、かういたさうと、そなたは、国に残して来た、家内のことを想ひ出してゐるのです", "え? カヽアのこと? あの、やきもちやきのスベタのことを?", "スベタとはなに?", "ヘヽヽヽ、スベタとは、見目かたちよからぬ女房のことで……", "わかつた、わかつた……。そなたも、やつぱり、竜宮の気風は呑みこめぬとみえる", "と、申しますと……?", "帰してあげよう……そのスベタとやらのそばへ……", "では、早速にも……?", "特別の計らひです。乙姫は、いつまでも、そなたをそばからはなしたくないのだけれど……そなたのうれはしげな顔を、もうこれ以上、見るに忍びなくなつた。まことの愛は、そなたの国のかつての女人のやうに、すべて相手の意に添うてこそ、とげられるといふことを、乙姫は身をもつて示します", "かたじけなうぞんじます。このご恩は一生忘れません", "ご恩はどうでもいゝから、乙姫のことだけ、忘れないでください", "もつたいない……。どうして、どうして、お姫様の……なにひとつとして、てまへの肝に銘じないものがございませう。花のかんばせ、玉の肌……", "もう、けつこう……。早く支度をなさい。送らせます" ], [ "いえ、わたくしは、お姫さまのお気持は充分にわかるつもりでございます。さぞかし、おつらうございませう。いえ、こんなことを申しては、かへつてお気に召しますまいが、女心は、老ひも若きも、貴きも、賤しきも、決して差別はございません", "そんなことはどうでもいゝ。たゞ、乙姫が、あの男を、どういふ風にして帰してやつたらいゝか、そのことでお前の智恵がかりたかつたの", "つまり、お姫さまのお気のすむやうにでございませう", "気がすむことなんぞありはしないさ。たゞ、もの笑ひにならないやうにしたいの", "なにを遊ばしたつて、誰ひとり、お姫様をわらふものなんぞ、ございません。たゞ、旅におでましのお父竜王さまが……", "お父さまが、なんておつしやるか……", "かしこまりました。おまかせくださいまし" ], [ "お姫さま、お心尽しの品々、竜宮土産として、お持ち帰りねがひます", "いえ、いえ、ながながお邪魔をさせていたゞき、手厚いおもてなしにあづかりながら、その上、かやうな……", "ご遠慮には及びません。さ、お姫さまに、お礼を……" ], [ "さて、この手函でございますが、これには、ちと込み入つたいはれがございますので、そのことだけは、とくとお耳に入れておきます……", "それは、乙姫から言ひませう" ], [ "さやう……どんなに距たつてゐる間柄でも、たとへば、いかほど冷やかな相手であらうと、この一つを、その手に渡しさへすれば、おのづから、こちらへ靡いて来るのでございます", "まさかの時には、おためしなさい" ], [ "それから、この手函……中味はなにか、それは申しあげられません", "言つてもいゝぢやないの、中味は、これも不思議な力をもつた眼には見えないものなのです", "さやう……そして、その力と申しますのは、この函を持つてゐるものが、未来永劫、失ひたくない、といふ相手ができた時、そつと開けてみさへすれば、たちどころにその望みが満足に叶へられるといふ、魔法の小函でございます" ], [ "さあ、そんな名前は聞いたことがないね", "実は、その浦島太郎は旅に出てゐて、女房のサヾエといふのがひとり留守をしてゐたわけですが……", "へえ、亭主を旅に出して、ひとりでぢつとしてゐる女衆なんぞ、この村にはゐたためしがないね。念のために、お向ひの婆さんに聞いてごらん" ], [ "お前さんは、この浦島太郎の、なにに当るんだね、曾孫ぐらゐかね", "曾孫でもなんでもいゝが、わしは、やつぱり、この村に住みつきたいが、差支へないかね", "今迄どこにゐた?", "わしかね……竜宮だ" ], [ "なにをお祈りしてゐるんだい", "…………", "好きなひとと添へるやうにか、それとも、好きな人ができるやうにか?", "知らん、そんなこと……", "毎日、さうして願をかけてゐるお前のすがたが、寝ても覚めても、わしの眼の底にこびりついて、はなれないのは、どうしたわけだらう?", "いや、いや、もうそんなこと言ひつこなし……。わしは、男から口を利かれるのは、だいきらひ……", "ほう、そんならもう、口をきくまい。その代り、お前の望みがかなふ、ありがたいお護りをやらう。この、この艶のいいマダマをみてごらん。これさへ肌身につけてゐれば、口を利かれてもいやでないひともできようし、もし、誰かを仕合せにしたいならきつと、その通りになる" ], [ "わたしは、いつでもお前さんのそばについてゐたいのだよ。だから、別々に仕事に出るより、船をなんとか都合して二人で一緒に働けるやうにしておくれ", "おれもその方がいゝとは思ふが、船は、当節、値が張るし、それに、あの、トヽカヽ船といふやつは、亭主が女房をこき使ふやうに見えて、おれの性に合はんのだ。それも、胆つ玉をひやすことばかりでさ……", "お前さんにこき使はれれば、わたしは本望さ。あんまりやさしくしてくれると、わたしは、つけあがるよ", "かわいゝことを言ふやつだ。お前にまさかのことがあつたら、それこそ、わしは、気が狂ふよ。だが、おれの身は大丈夫、みろ、年はとつても、この若さだ", "わたしの方がお婆さんになつて、お前さんが、その通りでは、さぞ気がもめるだらうね", "そら、また、おれをうれしがらせる。待て、待て……肝腎なことを忘れてゐたぞ", "なにさ、いつたい?", "いや、いや、こればかりは内証、内証……。お前があんまり、そんなことばかり言ふから、おれはかへつて、心配になつて来た" ], [ "これで、気だけは相変らず若いつもりだが、どうも、ひとから老人あつかひをされると、つい、自分でもそのつもりになつてしまつて……", "あたしだけは、別にお前さんを年寄り扱ひしたおぼえはないよ", "だからさ、こつちも、お前と年の違ふことなんぞ考へたことはないのだが、どうかした時に、つくづくお前の顔をみてると、おれは、なんだか、かう、ぐつと胸がつまつて来るんだ", "水臭いことを言ふのは、およしよ。あたしたち夫婦は、それこそ、ほかの夫婦よりずつと仕合せだと思ふよ、だつてさ、世間の夫婦は、似たやうな年恰好で、似たやうな楽しみしか知らないだらう。たゞ、違ふところは、男か女かつていふだけだもの", "それや、さうだ。男同志、女同志ぢや、これや、夫婦にはなれない理窟だ", "それがさ、あたしたちは、どうかつていふとまあ、男と女つていふほかに、あんたの忘れてるものをあたしが思ひ出させてさ、あたしがまだ知らずにゐることを、あんたが、どつさり教へてくれるんだもの", "うむ、なるほど、さう言へばさうだ。うまくできてるなあ、まつたく……" ], [ "さあ、さあ……。あいにくな天気だね", "あぶないと思つたんだが、先を急ぐもんだから……。では、ちよつと荷をおろさせてもらひます" ], [ "わしかね、都からさ。尾張を振り出しに、伊勢路を廻つて紀の国へはいらうと思つて……", "ほう、それは……。商ひは、なんだね", "なに、ちよつとした品物だが、なんなら、見るだけ見てくれるかね?" ], [ "こんなのは、どうだね? ちよいちよい着にもなるし、値は頃合ひだし……。ねえちやんによく似合ふことうけあひだ。ひとつ、おぢいさんにねだつて、買つておもらひよ", "あたしは、着物は、さうほしくないのよ", "おや、ねえちやんの年頃で、そんなはずはないさ。なあ、おぢいさん、そのねえちやんは、孫だか、息子の嫁だか、そいつは知らんが、たまに、都染の晴衣ぐらゐこしらへてやりなさいよ", "このひとは、あたしの亭主だから、そのつもりでゐておくれ" ], [ "お前さん、そんなことたづねて、どうするつもりなの?", "どうする? お前に着せたらどうかと思つてさ。なんとかなるものなら、おれは、なんとでもするよ", "まつたく、その通りだ。わしは、実は、この土地で、なることなら、マダマを仕入れていきたいんだよ。アハビ玉、アコヤ玉は、このへんがいちばんだと聞いてゐるから……", "なににするんだい?", "大粒なら、飾り玉さ。小粒なら、こいつは薬のもとさ。都で、おほはやりなんだ", "ふむ。アハビ玉が、そんなに珍重されるのか?", "おぢさん、持つてるなら、見せておくれよ", "いや、大きいのを一つ二つ持つてはゐるが、ちよつと手放すわけにいかんよ。ほかのものぢや、どうだ", "ほかのものか? 漁師の家に、わしの欲しいものが、ほかにあるかしらん、まあ、さう言はずに、そのマダマを見せるだけ見せておくれよ", "そんなら、見せるだけ見せようか", "あたしがもらつたのなら、いやだよ" ], [ "どうだね、珍しく艶のいゝ大きな玉だらう?", "えらいものを持つてるね。これだけかね?", "女房がそれとおんなじものを、持つてるんだが……", "ぢや、それとこれと、二つで、このキキョウの花模様をおいていかう", "やめておかう。どれ、返してくれ", "そんなこと、言はずに……思ひきりなよ", "だめ、だめ……そいつは、家の宝なんだ。おれたち夫婦のお護りなんだ。返しなつたら、返しな" ], [ "いゝことは、いゝね、地の色といひ、このキキョウを散らした具合ひといひ……", "なあ、おぢさん、この通り、おかみさんにはうつてつけだ。なんともはや、もち前のいゝ器量が一段と引立つて来る。えゝい、こいつ、そのマダマ一つに、まけておかう。わしは、気の弱い方ぢやないが、こゝの夫婦をみたら、むたいなことは言へなくなつた" ], [ "浦島のおぢい、やい、まだ、かみさんの行衛は知れずかい?", "その話は、もうしてくれるな" ], [ "待て。その意味がお前にはわかるか", "はい、わかりますけれども、つまらぬことを言つたものだと思ひます", "一応は誰でも、首をひねる文句だ。人は、易きについてはならぬ、といふ誡めが、その一句の精神だ。臣とか、子とかいふ言葉に囚はれてはいかん", "しかし、お父さま、かういふ教へを形の上の教へと申すのでせう? 言はゞ、人を縛る結果になると思ふのですが……", "人の心は、常にゆるみ易い。縛るくらゐで丁度よいのだ", "それでは、商人が品物を高く売らうとするのとおなじではありませんか?", "お前までが、さういふ物の考へかたをするやうになつたのか。おそろしい世の中だ" ], [ "あの、また催促に参りました。なんと返事をしておきませう!", "さう急いでも、こちらは、日に一束以上は作れぬと言ひなさい。あと、三日はかゝる", "ちかごろは、また、雲行がけはしくなつて参りました。安閑とはしてゐられません。あなたも早く、どちらの方へおつきになるか、ご決心をなさらないと……", "わしの肚は、とうにきまつてる。口外をせぬだけだ" ], [ "さやうでございます", "主人はをられるか?", "はい、をります", "こゝへ出られるやうにお取次ぎください", "どちらからのお使ひで……?", "知れたこと、木曾殿の使ひです" ], [ "わたしが当家の主人です。なんのご用ですか?", "用事は後でわかります。即刻、木曾殿の陣屋へ同道ねがひたいのです", "参りませう。すぐに支度いたします", "逃げ隠れをされると、あとのためになりませんから……" ], [ "木曾方では、お父さまのことをどう思つてゐるのだらう。法皇さまにいちばん近い人物とにらんでゐるにちがひない", "田舎武士は、無作法で、鈍感だから、わたしはきらひです", "でも、歌子、お父さまは、もう覚悟をなさつておいでのやうだね。――仏壇においてあつたご自分の珠数を腕にとほして、ぢつとわたしの顔をごらんになつた。それで、すべてが読めたやうな気がした", "さう言へば、わたくしも、信仰の道にはいらうか知ら? 世の中の、なにもかも、信じられなくなつたんですもの", "それはいゝところに気がつきました。仏法へは、学問からだけでははいれないのだから……。では、金剛寺の上人さまにお話を伺ふなり、なになりして、はやく、信心深い女人におなりなさい。では、いゝ機だと思ふから、お母さんの使つてゐる由緒のある珠数を、あなたにあげます" ], [ "美しい珠……これは、白玉でせう?", "さうです。アハビ玉とも言ふのです。その珠数は、そなたのおばあさんが宮仕へをしてゐた時分、さるやんごとなきお方から賜はつたものださうです。大切になさいよ" ], [ "ねえ、歌子、いつまでかうしてお父さまのお帰りを待つてゐてもしやうがないから、いつそ、都をはなれて、吉野の山奥へでも引つこんだらどんなものだらう?", "それで、もし、そのうちにお父さまがお帰りになつたら?", "わたしたちの消息がお耳へはいればよし、さもなければ、まだ、あのお年だから、ひと花お咲かせになるのもよし……", "頼りないお母さま……", "でも、ねえ、歌子、そなたにはもう、そなたにはもう、わかつてもらへると思ふけれど、わたしの一生は迷ひの一生だつた。そもそも、お父さまのところへ来たのが、ほんとをいふと、わたしの本心からではなかつたのさ", "ほかに想ふかたでもおありになつたの?", "いえ、それが、はつきり、それといふひとはなかつたのだけれど……どこかに、さういふひとがゐて、いつかめぐりあふ時があるやうな気がしてゐたの", "お父さまでなく?", "えゝ、お父さまのほかに……、それが、娘のころは、たゞもう、夢中でさう思つてゐたのだけれど、お父さまのところへ来てからといふもの、たとへさういふひとが現れても、もうどうなるものでもないといふ、暗いあきらめが先にたつて……。あとは、心にそまぬひとのそばで、明け暮れ女の勤めをはたすのが苦しくて苦しくて……。そなたが生れ、文彦が生れ、わたしは、そなたたちがいとしいと思ふにつけ、自分の業の深さに、身をふるはせ通しだつたのです", "そんなこと、すこしも知らなかつたわ", "さうともさ、そんなことと、誰にだつて、気づかれるやうなことがあつては、たいへんです。今になつて、そなたに、こんな内証ごとを打明けるのも、そなたがもう、年頃になり、そろそろ、婿さだめをしなければならない時節になつたからです。お母さんの二の舞ひをしないやうに、くれぐれも、そなたに、言ひふくめておかうと思つて……", "その方には、たうとう、お会ひにならなかつたのね?", "その方……その方とはどこの誰のこと? わたしは、知りません。知らないから、なほ、知りたかつた……。でも、お父さまのお姿が目のあたり見えなくなつた、その日から、わたしの苦しみは、ずつと軽くなつた。不思議なやうに、気持が楽になりました。今までおひかぶさつてゐたものが、急に、とりのぞかれたやうに、晴れ晴れとし、心の落ちつきをとりもどして来ました", "では、その、お母さまの幻のひとは?", "もう、みえない、あとかたもなく、消えてしまつたやうだ", "かへつて、お淋しくはない?", "さあ、さうでもないね" ], [ "今のは、せんだつて、お父さまがおでかけになつた日に、お布施をした坊さんですわ", "よく覚えてゐたね" ], [ "急ぎの写し物は、もうこりこりだ。字くばりもなにも考へてゐられやしない", "でも、お母さまの行書は、やつぱり習ひこんでおありになるから……。わたしのなんぞ、ひとにみられるの恥かしいわ", "あなたは、仮名だけは、なかなか上手になつた。お父さまの血を引いただけあつて……", "では、ちよつと、ひと走り、行つて来ます。あとの分も、もらつて来ますわ" ], [ "お若い婦人のひとり歩きは、当節、物騒ですよ。ことに、このへんは、ごらんのとほり、寺のほかは、人の住ひもないところです", "家の菩提寺がついこの先にございますので……。それに、あの山の紅葉が、ふと見たくなりまして……", "紅葉が、なるほど、美しく色づきました。お父さまの消息は、まだわかりませんか?" ], [ "その節は失礼いたしました。はい、まだわかりませんが、もうこの世にはゐないものと諦めてをります", "諦めるのは、まだ早いでせう。信心はなさいますか?", "したいと思つてをります。お導きくださいまし", "いや、わたくしなどは、そんな柄ではありません。こゝに庵を結んで、やつと、二年足らずです。こんな身なりはしてゐますが、まだ、眼の前はまつくらです。どれ、わたしがここにゐる間に、早く、この道をまつすぐにお帰りなさい", "町へおでましになつたら、是非、お立ちよりになつて……" ], [ "まだ温かいぜ。やられて間がないとみえる", "肩先を見事に斬られてゐる", "この顔は見たことのない顔だ。旅の者かな", "これや、長居は無用だ", "そら、出たッ!" ], [ "けふは、どうしてこんなに遅く……", "これには、深い訳があるのです。思案につきて、ふらふらと出て来ました", "その訳といふのを、お聞かせくださることはできませんか", "お聞かせしたいのは山々です。今の身分がそれをゆるしません", "いえ、いえ、お聞かせくださいまし、是が非でも伺ひます。わたしからも、申しあげたいことが、すこしはあるやうな気がいたします", "しかし、こゝで長くお話はできません。といつて……", "では、どこそこへ、いつとおつしやつてくださいまし。どんなことをしてでも出向いて参ります", "明日までよく考へてみませう" ], [ "うまくいつたやうです。誰にも気づかれずにこゝまで来れば、もう安心です。たゞ、わたくしには、あざむくことのできないものが、たゞひとつある。それをおそれるばかりです", "仏さまには、あとでお詫びをなされば、それでよろしくはございませんか", "まあ、まあ、それはこつちのことです。それより、あなたに、よくこんな決心がついたものと、わたくしは驚いてゐるのです", "あら、どうしてでせう。わたくしは、なにもわるいことをしてゐるとは思ひません。世間がとやかくいふのは、間違ひではございませんか", "世間を強くわたれるものだけが、さういへるのです。女人と出家だけは、世間を敵として戦ふわけにいきません。それはさうと、かうしてあなたとお話しができたのは、思ひがけない仕合せですが、互に心が通じ合つた以上、これを限りに、人目を忍ぶやうな行ひをつゝしみ、すべてを因縁と考へて、清い信仰の友としておつきあひをしたらと思ひますが、どうでせう?", "これを限りにですつて……? そんなこと、わたくしにはできません。このまゝ、おそばをはなれたくもございません。いやです、いやです、そんなことおつしやつては……", "わたくしにとつても、それは忍びがたいところを忍ぶのです。どうか、わたくしが何者であるかといふことを考へてみてください", "それは、かねがねわかつてをります。あなたがどんなご身分であらうと、わたくしに、なんの差障りもございません。わたくしは、たゞ、あるがまゝのあなたをお慕ひ申しあげてゐるのでございます", "お言葉は身にしみてうれしく思ひます。さればこそ、わたくしは固い戒めを破つて、あなたをこんなところへお連れしたのです。といつて、これから一歩を踏みだすことは、お互の苦しみをますことだとお思ひになりませんか?", "それがもし苦しみをますものなら、わたくしは、その苦しみこそ、願はしいことでございます", "わたくしは、もう、分別を失ひかけた人間です。たゞ、一旦、思ふところあつて、僧籍に身をおいた手前、こゝで、最後の自分を棄ててしまひたくありません。誓ひはいつでも立てられます。もう二、三日、とくと考へさせてください", "なにもお考へにならない方がいゝのではございませんか? かうして、たつた二人きりで、この水の面を眺めてゐれば、ひとりでに物事が進んでいくやうな気がいたします。人のいのちは、二つとはないもの、生きる道が、いくつもあるとは思へません" ], [ "あら、この珠数、わたくしのと、おなじもの……", "どれ?" ], [ "なるほど、こゝにアハビ玉を使つてあるところまで、そつくりおなじです。おそらく、出所がひとつといふことでせう。わたくしのは、祖父が鳥羽上皇から賜はつたものです", "わたくしのは、母方の祖母が、やはりさるやんごとなき方から拝領したものださうでございます", "これも不思議な因縁といふものでせう", "仏さまのお引き合せ……", "いや、まさか、そこまでの粋をきかされる仏さまでもありますまい", "おや、どちらがわたくしのか、わからなくなりましたわ" ], [ "これがわたくしのです", "どうして、それが……?", "手ざはりでわかります", "では、わたくしの指も、手さぐりでおわかりになりますやうに……" ], [ "母がなかなかやすまないものですから……", "この一帯がこんなに焼けたのに、お宅はよく火の手が廻りませんでしたね", "この少将さまのお邸はねらはれてゐたのです。ついご近所のわたくしどもは、身分もちがひますし、父もをりませんので、見逃がしてくれたものと思ひます", "しかし、われわれには、よい逢びきの場所ができました。こゝなら夜稼ぎの賊も眼をつけはしますまい", "母が眼をさましさへしなければ……", "草の褥も、おつにはおつですが、かう露がしげくては、腰をおろすわけにもいきませんね", "ぬれにぞぬれてかわくまもなし。ですわ", "冗談はさておいて、わたくしも、あれから、あなたのお顔をみるたびに、心がぐらついて、読経にも身がいらぬといふ始末、まことにもつて、情けない坊主になつてしまひました。この上は、仏にもさうさうお詫びばかりしてゐるわけにいきませんから、いつそ、再び僧籍をはなれようと、肚をきめ、その証拠をあなたにもお目にかけて、将来のご相談をしようと、今夜は出かけて来たのです", "まあ、うれしい。では、早速、その証拠とやらをおみせくださいまし" ], [ "ちよつとお待ちになつて……。わたくし、なんだか、急に、気分がわるくなりました……", "気分がわるい? どこが、どうわるいのです……?", "どこと、口で言へません……たゞ、精がなく、胸の底がひやりとするのです", "夜風にあたつたからではありませんか? 寝つくやうなことがあつてはいけないから、今夜は、早く帰つて、おやすみなさい", "では、さうさせていたゞきます", "いづれ、また……", "おやすみなさいまし" ], [ "京都の公卿の家から出たものださうだ", "珠数か。そいつは、売物にはならんが、この真珠は、外して、なにかに使へば使へるな" ], [ "ちよいと、カンザシにする面白い珠はないかしら?", "さやうさな……サンゴなら珍しい渋い色のものがあるが……", "サンゴはいくつも持つてるから、なんか変つたものがほしいんだよ。ヒスイも、今ぢや、はやりすぎててね", "あ、姐さん、これはどうだ、これは……? このまんまぢや値打ちはないが、この珠は、これで、類のない代物だよ。日本ぢやアハビ玉、今は真珠ともいふが、唐人はえらく欲しがるもんださうだ。コーガイにしたのを、ちよいちよい見るだけで、カンザシは思ひつきだ。この大きさなら、そんなに姐さんにだつて地味ぢやないよ", "なんだい珠数だらう、これや……縁起でもない", "おや、冗談言つちやいけない。勿体ないつていふんならわかるが、縁起をかつぐ法はないよ。なにも、坊主がもつてたものと限つちやゐないんだから……", "さうかねえ……カンザシになるかねえ? 台はやつぱり銀だね。ひとつ、飾り屋さんに持つてつてみせてみよう" ], [ "久能が亡くなつたとき、書庫の本は全部そのまゝ大学へ寄附したんですが、専門書以外は、息子もまだゐましたし、この通り、残しておいたもんですから……", "先生のご蔵書は、学界の話題になつてゐました。しかし、これだけは、われわれ業者にも、金額にしてどうかといふ見当がまるでつかなかつたものです", "えゝ、さういふものだから、久能も、あれだけは私すべき財産でないと、はつきり言ひのこして、呼吸を引きとりましたの。それはさうと、続いて、息子も戦死してしまふし、わたしも、今度、この家を引きはらふことにしましたので、残り少い道具類といつしよに、こゝにある書物を処分してしまはうと思つて……。それで、実は古いおなじみのお店へご相談したやうなわけですわ" ], [ "あの、奥様、今朝電話いたしました銀座の大平堂から、番頭さんらしい方がみえましたですが……", "さう、かまはないから、こちらへ通してちやうだい。あ、お高さん、今夜、あたし、ちよつと出かけるから、夕食を早めにして……", "かしこまりました" ], [ "さあ、どうぞ……。わざわざおいでねがつてすみませんでした", "主人が伺ふ筈でございますが、ともかく、一応拝見して参れといふことで……", "いえ、さう、たいした品物はないんですよ。ぼつぼつ手放しはじめてゐたんですけれど、いつまでもそんなことをしてはゐられないもんだから、ひとまとめに、まあ、こゝでお金にしておかうと思つて……", "主に宝石類でございますか?", "さうね、貴金属は、戦争中、供出してしまつたし、今、手元にあるのは、たいてい、鼈甲や珊瑚の、旧くさい日本の装身具ですの、値打があるのかないのか、あたしにはさつぱりわからないから……" ], [ "なるほど、時代のついたものばかりでございますな。手前どもでは、実は、あまりかういつた風のものは取扱ひませんのですが……", "でも、お店の広告に、貴金属宝石美術品とあつたから……", "いや、全然扱はないわけではございませんが、なにぶんにも、かういつた品は、お好み範囲が限られてをりますんで……", "だから、無理にとは言ひませんよ。そちらの希望をおつしやつていただければいゝの", "それが、その、当節は、細工のよしあしと申しますより、材料のつぶし値段が標準になりますもんですから……", "前おきはそれでわかりました、もし、そちらで引取つていたゞけるなら、いつたいおいくらぐらゐ……", "これ、全部で?", "えゝ全部で……" ], [ "お話中ですが、だいたいのところを申し上げてみたいと思ひますが……", "えゝ、言つてください", "なかには、それだけで相当お高く頂戴できるのもありますが、全部まとめてといふことになりますと、まず、二万五千……どまりでせうか", "二万五千……へえ、そんなもの? しかたがないわ、明日にでも、引取つてちやうだい" ], [ "ひと通り拝見いたしましたが、手前どもといたしましては、あんまり御期待に添はないやうな御値段をおつけいたすのも、どうかと思ひまして……", "あ、さうですか。別に、どれくらゐつていふ期待なんかしてませんよ、遠慮なく言つてくださつたらどう?", "へえ、みなで、二十一点ございますが、こちらに分けました三点だけは、いくぶんまとまつたお値段でちやうだいできると思ひます。こちらの方は、一つ一つ、いくらいくらでなく、込みで値をつけさせていたゞいてよろしうございますか?", "どうぞ……", "この鼈甲は質も極上ものでございますから、三千円、この珊瑚が七千、それからこのカンザシは真珠でございませうが、たゞいま、ちよつと値が出てをりますから、二千きつかりまで奮発いたしておきます。あとのお品は、ひつくるめて一万といふことでいかゞでございませう?" ], [ "どう、お高さん、これ全体で、いくらになると思ふ?", "やつぱり、お手放しになるんでございますか? もつたいない……", "二万いくらですつて", "えゝと……二万と二千になりますかな", "戯談ぢやございませんよ、奥さま……こんなお家の宝みたいなものを、そんなことで、いくらなんでも……", "まあ、いゝぢやないの、あたしが持つてたつてしやうがないんだから……" ], [ "それで、番頭さん、このカンザシは、おいくら?", "えゝと、二千と申しあげましたかな", "奥さま、およしあそばせ、この品だけはせめて、お手許におおきになつた方がよろしうございます。わるいことは申しあげません", "さうかしら……。ぢや、考へてもきりがないから、よかつたら、これだけ残して、あと、その値段で持つてつてちやうだい" ], [ "いま店にある一番大きな真珠をみせてください", "さやうですな、大きいと申しますと……どのくらゐの……" ], [ "へえ、これはまた、たいしたものを……、失礼ですが、どちらでおもとめになりました?", "北京で、ある支那人に譲つてもらひました。なんでも、むかし、日本から渡つて来たものださうです" ], [ "いや、店も工場もかなりいろいろなサイズのものを作つてゐますが、これよりひと廻り小さいのが限度です。なにしろ養殖に手数がかゝるのと、需要の点から言ひましても、まつたくと言つていゝくらゐ、このサイズのものは一般向きがしません", "それはわかつてゐます。一般向でないから、ほしいんです。パパ、ほかをたづねてみませう", "この店にないとすると、もう、日本を探してもだめかも知れないよ", "ダメでせう、おそらく……。しかし、是非といふご希望なら、念のために、同業者や、工場の方を、一応こちらから当つてみてもよろしいですが……", "さうしてください。トウキョウ・ホテルに泊つてゐる、かういふものです" ], [ "三十年もおそばにおいていたゞいて、今さら、あたくしは、はい、さやうならつて申しあげる気にはなりませんのです", "さう言つてくれるのはありがたいんだけれど、この先、あたしと一緒につまらない苦労をさせたくないからよ、それとも、行く先がない人なら別だけれど、ちやんと郷里には兄弟もゐることだし、思ひきつて言ふと、あたしは、もう、自分の始末をするだけで精いつぱいなんだから……", "でも、奥さま、このお宅が仮りに、九十万に売れるといたしませう? 奥さまは、簡単にアパート住ひでもしてつて、おつしやいますけど、九十万ぐらゐのお金では、どんなにつゝましくあそばしても、十年は持ちこたへられませんですよ", "わかつてるわ、だから、わたし、遊んでなんかゐないのよ、できることなら、なんでもするわ、いゝこと……あたしの計画はかうなの。この家がいくらにでも売れたら、その金の半分を、お高さんに餞別にあげるわ。まあ、聴いていらつしやい。残りの半分で、小さな家を買つて、その家を一間だけ自分で使つて、あとを全部、ひとに貸すの。よくつて? 定収入がいくらかあるわね。足りない分を、近頃流行のアルバイトで埋めるのよ", "奥さまがアルバイトをなさいますんですか? それもよろしうございませう。おからださへおつゞきになれば……、それが第一あたくしには心配でございます。いかゞでせう。たゞいまのお話で、奥様のご決心はわかりましたが、今度は、あたくしの、夢みたいな望みを、ひとつ、お聴きあそばしてください" ], [ "ねえ、いつかの話に聞いたトバの真珠養殖をやつてる工場に、ほとんど同じサイズのが一つ、標本用にしまつてあるさうだが、そいつを見に行くかといふんだ。どうする? 色ははつきりしたことは言へないらしい。虹色の部類にはいつてゐるとはいつてるがね", "行きませうよ、ついでに、養殖真珠つてどんなことをするのか見ておきたいわ" ], [ "まあ、まあ、待ちな、伊賀倉さん、そんならどうすればいいんだね?", "怪しげな建築請負に、工事一切を委せる契約をまづ取り消すのさ", "だが、それは、伊賀倉さん……やはり、県会の有力者から推薦があつて……", "その有力者を、引つこませなさい" ], [ "そんなことをしたら、結果は、えらいことになるで……", "かまはん、かまはん。村民がよろこべば、それでいい。わしは、ちよつと、急ぐから……お先へ……" ], [ "あの先代も頑固爺だつたが、せがれは、また、それに輪をかけたつむじ曲りだ", "強いことが言へるのは、実力のある証拠さ", "税金を、村中総がかりでもかなはんほど納めるやつにかゝつちや、誰だつて歯は立たん" ], [ "おはやう、村長さん", "よう、これは、これは、伊賀倉さん、わざわざこんなところへ……なんの御用です?", "自分の村の役場だから、いろいろ用があります。今日は、村長さんに、ひとつ、相談があるんだが……", "この、わしに……はて、なんだらう? あ、公会堂のことで、村会の衆がお宅へ行つた筈だが……", "今、会つて来ました。それやまあ、それで話はすんだが、まつたく別の話です。わしの家はな、村長さん、おやぢの代から、村の物持ちといふことになつてゐて、実はなにひとつ、村のために金を出してゐないことを誰よりも知つてゐます。おやぢが、一切、村の寄附といふものは受けつけなかつた理由を、村長さんはわかつておいでかどうか。おやぢは、村に復讐してやるといふのが、口癖だつた。貧農の家に生れ、乞食同然の少年時代を送り、ろくに学校へも通へず、職を得たくも得られず、毎日毎夜、貝殻を拾つて町へ売りに出た時代の、村全体の冷やかな眼を、生涯忘れることができなかつたらしい。真珠の養殖で産を成した人間は、土地にもいくたりかゐるが、おやぢは、幸運だつたといふこと以外、なにひとつ、自分に恃むところのなかつた、平々凡々な人物です。その息子の、わしはどうだ。村長さん、やつと三十になつて、自分は何物だといふことがわかつたですよ。わしは、たゞ、おやぢの遺産と、今またどうやら芽を吹きだした、数多くない事業とを受けついで、いつぱし物持ちらしい顔をしてゐられる、甘ちよろい田舎青年にすぎないんです。いゝかね、村長さん、わしは、謙遜して、こんなことを言ふんぢやない。それどころか、だからこそ、村長さんの前に来て、臆面もなく、法螺を吹かうつていふんだ" ], [ "おや、伊賀倉さん、こんなところへ来てるのかい", "大急ぎで、どこへ行くのかと思つた" ], [ "なんのお話だね、それは?", "では、村長として、伊賀倉さんにお答へしますが、道路改修費のご寄附は、これはむろん、願つてもないことだから、村会に一応はかつて、受諾の決議をしてもらひます。第二の、真珠の飾り云々は、わし個人に関係はないし、村の利益に反するとも考へられんので、そこは、どうか、ご自由に、青年諸君におはかりください" ], [ "いま、そこへ集まつてゐる若い人たちは、みんなこゝで働いてゐるのですか?", "ちがひます。あれは、この村の未婚の青年たちです。今日は、わしの望みがかなつて、あの若い連中に、一つづつ、わしから、真珠の贈物をさせてもらふことになつてゐるのです", "真珠の贈物……?", "さうです、大昔は、この地方で天然真珠がずゐぶんとれたらしいのですが、はじめは、それをみんな、めいめいが、自分の飾りにして身につけた。真珠は、決して、贅沢品ではなかつた。さういふ時代を、わしは、この村に復活させたいと思つたのです。わしのおやぢは、真珠で金儲けをしました。わしも、いまなほ、真珠で飯を食つてゐる。しかし、こいつは、ちよつと淋しい。世界中といふわけにはいかんが、せめて、わしの村だけは、真珠の村にしたい。真珠の美しさが、一番ぴつたりするのは、夢多き、純潔な胸の上に、それがなに気なく輝いてゐる時です", "真珠の村とは、なかなかいゝ思ひつきだわ" ], [ "ところで、早速、われわれの探してゐるものを見せて下さい", "お見せしますが、その前に、もう時間が来ましたから、あの連中に贈物を配るところを、ちよつとごらんください" ], [ "覚えてゐるかい、あのチロルの帽子を……ほら、緑の紐を巻いたのが、未婚のしるしで、赤い紐を巻いたのが、既婚のしるしだといふ、あの話を……?", "えゝ、あたしも、それを想ひ出してゐたの" ], [ "あんたは、なんだね", "わしも、バッヂをもらふ資格がある", "しかし……", "年の制限はないはずだ", "青年といふことになつてゐますから……", "あゝ、心はいつまでも青年だ、早くつけてくれ", "どうしませう?" ], [ "どうだね? エレーヌ、合格か?", "…………" ], [ "どう、見せてごらん。まあ、まあ、これなら、区別はつかんといつてもいゝぢやないか", "ちよつと拝見……" ], [ "これとおそろひの珠なんぞ、どこを探したつてみつかりませんよ。ごらんなさい、大きさはほゞ同じだとしても、第一、この光りかたが、まつたく、違ふ。こつちは、赤の強い虹、こつちは緑の強い虹、朝の虹と、夕方の虹です", "それは、天然ですか、養殖ですか?" ], [ "あなたのをこつちへ譲つていたゞきたいくらゐですが……どうしませうかな……? いつたい、その二つをどうなさるんです", "耳環にするんです", "娘は、真珠以外には、なにもいらないといつてゐます。ロンドン、ニューヨーク、パリ、ペーピン、どこへ行つても、真珠です。現在では、たゞ、耳環にするもう一つを探すのに夢中なんです", "よろしい、お気に入つたら、お持ちください、値段は、五千ドルにしておきませう", "ありがたう。わたしもほつとした。ところで、このへんにホテルはないでせうか?", "日本風の貧弱な宿屋しかありません。しかし、それでいゝなら、いつそのこと、わたしの家へ泊つてください。土地の田舎料理を一度ためしてごらんなさい" ], [ "また、すぐどこへ行くんだい、お前は?", "お墓へ花持つて行くの", "命日でもないのに、いゝ加減にしときなよ", "うむ……" ], [ "たゞいま。……また、お花、すこしちやうだい", "こんなに遅くなつてから……" ], [ "なんだか、あの娘つていふのは、あたくしにはよくわからないんでございますよ。あんなことをするかと思ふと、一方では、いやに勝気で、ひとのいふことなんぞききやしないんでございますからね", "さうかしら? 短い間に、あたくしとはとても仲よしになつたのよ。でも、この家のひと、みんないゝひとだから、あたしは仕合せよ。母屋のをばさんだつて、あんたは、いろいろ言ふけど、田舎のひとにしちや、お愛想がいゝ方だわ", "でもねえ、両親をなくした姪を引きとつたのはいゝんですけど、年頃の娘を、あなた、朝から晩まで海へ追ひやつて……", "そりや、しかたがないわ、当人だつて、別にそれを苦にしてはゐないんだから……。働き者で、器量がよくつて、気性もしつかりしてるんだから、今に、いゝお嫁さんになれるでせう。あたしがひとり暮しで、もうちつと余裕があつたら、養女にもらつてもいゝと思ふくらゐよ", "あ、もう、陽がこんなにかげつてしまひました。どれ、お食事にいたしませう" ], [ "ねえ、ちやんと、かういふものが用意してあつたのよ、お高さん、この真珠、覚えてるでせう。あたしが、こゝへ来ると、すぐ、静ちやんから、今度、村の若い娘さんたちが、みんな真珠のブローチをつけるんだつて聞いたから、大急ぎで、名古屋へ注文して、これを作らせたのよ", "まあ、これがあの、おカンザシになつてゐた真珠でございますか?" ], [ "さうよ、でも、これが出来て来る前に、もう、そのブローチは、会社からお揃ひのを貰ふんだつていふ話だつたから、実は、あたし、がつかりしてゐたの。でも、まあ、もうひとつ、別のがあつても邪魔にならないからと思つて、いつか、機会があつたら、静ちやんにあげようと思つてゐたんだけれど……とにかく、これでよかつたら、使つてちやうだい", "いゝどころぢやございませんよ。こんなすばらしいもの、誰もつけようたつて、つけられやしません。静ちやん、この珠は奥さまのお家に代々伝はつた宝物なのよ", "こんなの、あたし、見たことないわ", "あたり前だよ、お金ぢや、絶対に買へやしないよ" ], [ "あたし、もう一度、トバへ寄つてみたいわ", "まだ、真珠がほしいのか?", "ほしくない、たゞ、もつと、もつと、あの真殊のたくさんあるところを見たいの。飽きるほどひとつひとつを見くらべたいの。……きのふ、ナチの滝をぢつと眺めてゐたら、あの飛沫をあげて落ちる水の帯が、真珠の束みたいに思へたわ", "どうかしてるね、おまへは……。しかし、あの、イガクラといふ人物は、面白い人物だ。家も、気持がよかつた。もう一晩、厄介になるか", "それもそうだけれど、あたし、あの村が、第一、どことなく気に入つたわ、東洋で、一番いゝ村かも知れないわ", "真珠の村か……お前が好きになる筈だ", "イガクラの、単純な夢も、なかなか、笑へなくなつたわ" ], [ "お母さん、さう大騒ぎをしないでもいゝよ。もう初めてのお客さんぢやないんだから……", "でも、できるだけ、気を配つておかないと、ちよつとしたぬかりがあつても、西洋の人は、さういふものだと思ふだらうからね", "さういふものだと思ふなら、それでいゝぢやないか", "いや、いや、それぢや、あたしだけのおちどですまなくなるからね" ], [ "今日は、イセエビの生きづくりは、よさうな。あれだけは、親子とも手をつけなかつたから……たゞの刺身にして出しなさい。刺身は感心に食ひなれたらしい", "なんでも食べてくださるから、うれしいよ。あたしは、どうも洋食つてものができなくつて……", "それでいゝんです。洋食のつもりみたいなものは作らない方がいゝよ" ], [ "やあ、また、来ました、娘がどうしても、もう一度、この村へ寄りたいつていひますし、わたしも、お宅のなにからなにまでが気に入つてしまつて……", "大阪へ廻るのをやめて、引きかへして来ましたの" ], [ "この村のどういふところに興味をもたれたのです?", "たゞなんとなく……", "真珠の養殖ですか", "えゝ、それもむろん……。でも、それだけなら、ほかでも見たし……", "景色ですか?", "景色は、もつといゝところが、いくらもあります" ], [ "ねえ、イガクラさん、娘は、なんといつても、二年この方探してゐたものを、こゝでやつと手に入れることができた悦びを、この村と、それからあなたのおかげだと思つて、感謝してゐるのです", "いや、わしはまた、あの真珠は、まだまだ、お嬢さんが求めてをられる、一対の一つとしては、不十分なものだと思ふのです。あの時、言ひ忘れましたが、若し将来、全く同じものがどこかでみつかつたら、いつでも、あれをわたくしに返して下さい。必ずご希望の値段で買ひとります" ], [ "あれはなんですか、あの音は?", "太鼓の音です、今日から、村の祭りがあるのです" ], [ "いや、これは、西洋では古いものでせうが、日本では最新式といへるのです。今年の夏から、はじめたばかりです。わしの発案です……", "前の方が面白いわ" ], [ "仲よしになりませう。あなた、なんていふ名……?", "シヅエ……マキ・シヅエ……", "あたし、エレーヌ……シーグフリード……。エレーヌだけ覚えればいゝわ。あしたゆつくりお話しませうよ。イガクラさんの家にゐるから、朝のうちに遊びにいらつしやい" ], [ "あら、姉さんぢやつまらないわ、世界一仲のいゝお友達でなくちや……", "でも、お友達はつまらないわ。しじゆう一緒にゐられないんですもの" ], [ "それはしかたがないわ。遠くはなれてゐて、長い長いお手紙をたびたび書くの。そして、その返事を、毎日毎日、待つてるの。いゝものよ", "あたし、お手紙、上手に書けないわ", "お喋りだつて、あんまり上手でもないくせに……", "さうよ", "ぢや、あなたの想つてることを、どうしてあたしに知らせてくれるの?", "それが、できないから、悲しいわ" ], [ "こんな真珠が、あのなかに混つてたの?", "いゝえ、あの時もらつたのは、あたし、どつかへ落してしまつたの。うちにゐる東京の奥さんが、代りに、これくださつたの", "トウキョウの奥さんつて?", "東京であたしの伯母さんが勤めてゐたうちの奥さん……大学の先生の未亡人なの", "こら、ごらんなさい、あたしのこれと、全然、おんなじぢやないの", "さうね、不思議だわ", "実は、あたし、これとおんなじのを、もう一つ欲しいと思つて、方々、探して歩いたの。どこにもないのよ。さうよ、不思議よ……それを、あんたが持つてるなんて……", "そんなに欲しいなら、あげてもいゝわ", "むろん、お金でよければ、いくらでも出すけれど……", "うゝん、お金なんかいらないわ", "ぢや、ね、かうしませう。イガクラさんに相談して、ちやんとしたことをするわ", "そんなことしなくたつてあたしが、あげるつていふんだから、それでいゝぢやないの" ] ]
底本:「岸田國士全集7」岩波書店    1992(平成3)年2月7日発行 底本の親本:「群像 第九巻第七号(増刊号)」    1954(昭和29)年6月15日発行 初出:「群像 第九巻第七号(増刊号)」    1954(昭和29)年6月15日発行 入力:kompass 校正:門田裕志 2011年8月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "以前にゐたやつは、わしらも慣れんもんだで、子供の時分から乳を撫でてやるちうことをせなんだでなあ。やつぱり、さうせんと、かうやつておとなしうしとりませんのな", "なるほど……" ] ]
底本:「岸田國士全集27」岩波書店    1991(平成3)年12月9日発行 底本の親本:「日本人とは?」目黒書店    1951(昭和26)年3月5日発行 初出:「大事なこと」とは?「玄想 第一巻第一号」    1947(昭和22)年3月1日発行    日本人畸形説「玄想 第一巻第二号」    1947(昭和22)年5月1日発行    平衡感覚について「玄想 第一巻第三号」    1947(昭和22)年6月1日発行    精神の健康不健康について「玄想 第一巻第四号」    1947(昭和22)年7月1日発行    恐怖なき生活について「玄想 第一巻第五号」    1947(昭和22)年8月1日発行    悲しき習性について「玄想 第一巻第六号」    1947(昭和22)年9月1日発行    「人間らしさ」といふこと「玄想 第一巻第七号」    1947(昭和22)年10月1日発行    歪められた「対人意識」について「玄想 第二巻第一号」    1948(昭和23)年1月1日発行    いはゆる教育について「玄想 第一巻第八号」    1947(昭和22)年12月1日発行    風俗の改革について「玄想 第二巻第二号」    1948(昭和23)年2月1日発行 ※「「大事なこと」とは?」初出時の表題は「宛名のない手紙」です。 ※「日本人畸形説」初出時の表題は「日本人畸形説 宛名のない手紙二」です。 ※「平衡感覚について」初出時の表題は「宛名のない手紙 平衡感覚について」です。 ※「精神の健康不健康について」初出時の表題は「宛名のない手紙四 精神の健康不健康」です。 ※「恐怖なき生活について」初出時の表題は「「恐怖なき生活」について――宛名のない手紙五」です。 ※「悲しき習性について」初出時の表題は「悲しき習性について――宛名のない手紙6」です。 ※「「人間らしさ」といふこと」初出時の表題は「「人間らしさ」といふこと 宛名のない手紙(7)」です。 ※「歪められた「対人意識」について」初出時の表題は「歪められた「対人意識」について 宛名のない手紙9」です。 ※「いはゆる教育について」初出時の表題は「いはゆる教育について――宛名のない手紙7[#「7」はママ]」です。 ※「風俗の改革について」初出時の表題は「風俗の改革について――宛名のない手紙完」です。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2010年5月25日作成 2016年8月13日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044732", "作品名": "日本人とは?", "作品名読み": "にほんじんとは?", "ソート用読み": "にほんしんとは", "副題": "――宛名のない手紙――", "副題読み": "――あてなのないてがみ――", "原題": "", "初出": "「玄想 第一巻第一~八号」1947(昭和22)年3月1日~12月1日、「玄想 第二巻第一~二号」1948(昭和23)年1月1日~2月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-07-04T00:00:00", "最終更新日": "2016-08-13T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44732.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集27", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年12月9日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年12月9日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年12月9日", "底本の親本名1": "日本人とは?", "底本の親本出版社名1": "目黒書店", "底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年3月5日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44732_ruby_38403.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-08-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44732_39410.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-08-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "あら、だあれも出なかつた?", "呼んでもみなかつた。", "物騒ね。", "ねらつてゐる奴がゐるからな。" ], [ "へえ、今日は日本の着物を着てるんだな。似合ふよ、なか〳〵。", "和服が似合はなかつたら、大変だわ。", "自信がある人は違ふよ。", "さういふ風に取るのは、いけないわ。", "おい、ピンポンしよう。", "駄目よ、相手に取つて不足だわ。", "生意気云つてらあ。しかし、今日あたり、奥村がやつて来さうなもんだなあ。", "あの方、あんまり真剣で、こはいわ。でも、今度は決勝戦なの。", "あいつ、なんでもむきになる性だからなあ。お父さんは何処へ行つたの?", "舞鶴よ。姉さんのとこの子供が、見たいらしいのよ。", "さう〳〵、男の子だ。民ちやんも早く見せてあげるといゝや。" ], [ "兄貴はどうしたの。", "球突でせう。あ、さうだわ。まだ御存じないのね。兄さん、また外国行よ。", "今度は何処?", "土耳古なの。悦んでるわ。文明国はもう厭き厭きだつて……。", "大きく出たね。しかし、土耳古のモダン・ガールと来たら凄いんだぜ。で、何時発つの。", "まだ内命だけでわからないんだけど、来月早々らしいわ。", "来月つて云つたつて、もう幾日もないぢやないか。", "さうよ。桜が散つてしまつた頃、送別会をするつてことになるんでせう。" ], [ "民ちやん、どうしたんだい。いやに考へ込んぢまつたね。", "うそよ、今、この花の特徴を探してんのよ。", "ふうん、さうして女理学博士にでもなるのかい。" ], [ "あら、お客様……。ちつとも存じませんで……。", "お紅茶でもおいれしてね。それから……まあいゝわ、あとで頼むから……。", "紅茶より麦酒の方が結構だな。いけませんか、民ちやん。", "構はないわ。それぢや、お麦酒を……。ピーナツかなんかあつたでせう。", "はい。" ], [ "今、手があいてたら、大急ぎで曾根さんところまで、一と走り行つて来てくれない? 松代さんと鋭市さんに、お遊びにいらつしやいませんかつて……。ブリツヂのいゝお相手がいらしつてるからつてね。名前を云つちや駄目よ。", "僕だつていふと、来ないか?" ], [ "松代さんより弟の鋭市さんが羞み屋なのよ。あなたの前へ出ると、なんだか頭がしびれるみたいだつて云つてたわよ。", "文科をやらうなんていふ男の頭は、ぶよ〳〵に出来てるんだ。" ], [ "鋭ちやんたら、きつと奥村さんだらうつて云つてきかないの。", "どつちでもいゝぢやないの、早くしませう。" ], [ "鋭市さん、しつかり頼むわよ。", "ひとつ、頭をしびれさしてやるかな。" ], [ "女が男に戦ひを挑むといふ時代は、もう過ぎた筈ですぜ。", "おや、さうか知ら、何時の間に過ぎたの。" ], [ "もう五十年ばかり前です。奴隷時代、玩具時代、反抗時代、独立時代、そして、今は、協力時代にはひつてゐます。", "競争時代つていふのは、なかつたのか知ら……?" ], [ "それは、独立時代の中に含まれてる。", "なるほどね。" ], [ "へえ、さうしたら、荻窪へ行つたつてさう云つたらう。", "あゝ、さう云つた。", "僕はまた、君がこゝへ来てるだらうと思つてやつて来たんだ。いや、さういふと若干正確でないが、こゝへやつて来る時、君も来てやしないか、或ひは来やしないかと思つたことは思つたんだ。", "科学的だなあ。" ], [ "今、男女敵味方で一と勝負やらうつていふところだ。君がはひるなら、僕は棄権してもいいよ。", "いや、いや、僕は見物だ。おや、速男君はゐないんですか。" ], [ "もう帰つて参りますわ。土耳古行き、御存じでせう。", "えゝ、こなひだ電話の序に聞きました。", "御目にかゝりたいつて申してましたわ。", "僕も早く会ひたいんですけれど、近頃、役所が馬鹿に忙しいんで……。", "気をつけろよ、あんまり無茶なことをするなよ。" ], [ "大丈夫だよ。それより、君は今度の異動に関係はないの。", "ない。まあ当分、都住ひだ。艦の上は呑気は呑気なんだがなあ。" ], [ "松代さんたちは、御飯どうなさる? 先決問題よ。", "あたしたち、帰りまあす。", "よし。紳士諸君は、また玄米御飯で御異議ありませんか。あら、いやなあたしだこと。奥村さんを速男だとばかり思つてた。いらつしやい。" ], [ "御留守に伺つて……。僕は、時間でちよつと外へ参らなければなりませんから、今日は失礼します。", "ほんと、奥村さん?" ], [ "速男君は、そんな遠くへ出掛けたんですか。", "散歩に行くつて出たんですけれど、多分、駅のそばの球突ぢやないかと思ふのよ。今迎へにやりますわ。ゆつくりなされるんだとばかり思つてましたの。", "いゝさ、いゝさ、ゆつくりしたつて……。外へ参るつて、何処だい、云つて見給へ。" ], [ "それぢや、僕が帰りに、その球突をのぞいてみますよ。", "いゝえ、それぢやなんにもならないわ。" ], [ "いやね、袂が邪魔つけで……。", "今日は、腕が鳴つてますから、そのおつもりで……。", "あら、こはいわ。" ], [ "今日はどうかしていらつしやるわ。それとも、あたしがどうかしてるのか知ら……。", "両方ともどうかしてる。さあ、来い、民ちやん。" ], [ "慌てちや駄目ですよ。松代さんは、こゝにぢつとしていらつしやい。お家ぢや御存じなんでせう。あら、鋭市さんはもう行つちやつたの。義一さん、あなた済まないけれど、ちよつと様子を見て来てあげて下さいよ。", "今、どうしようかと思つてたとこなんです。御役に立つかどうか、そんなら、行つてみませう。" ], [ "あら、奥村さんは。", "今、鋭市と一緒にいらしつたらしいわ。" ], [ "あたし、御案内するわ。", "民ちやん……。" ], [ "おやおや、民子さんまで……。元気なお嬢さんもあつたもんだ。", "御見舞にあがりました。" ], [ "松代にすぐ帰るやうに云つて下さい。", "はい。" ], [ "一緒に出て来たんですけど、途中で、別々になりましたの。火事場へ真つすぐにいらしつたから……。", "待つてないでもいゝですか。", "かまひませんわ。寒いんですもの。", "ほんとに、それぢや寒さうですね。僕の外套を貸してあげませうか。", "あなたがお寒いわ。", "なあに、さつき走つたら暑くなりましたよ。" ], [ "僕も、そのうちに外国へやつて貰はうと思つてます。研究も研究ですが、実際、息抜になりますからね。", "今のお仕事は、そんなにお苦しいんですの?", "いや、仕事は面白いです。周囲ですよ。生活ですよ。なにひとつ、思ふやうにならないぢやありませんか。", "さうお思ひになるだけぢやありません? 御自分で、かうしようとなされば、おできになるんぢやないの?", "勇気がないんですかねえ。", "用心深くつていらつしやるんだわ。", "まあ、そんなことはどうでもいゝんですが、この暮は、何処かへいらつしやるんでせう。", "えゝ、どうなりますか、母はやつぱり温泉へ行きたいつて申してますわ。", "僕もちよつと正月に郷里へ帰るかも知れません。その間に速男君が発つてしまふやうなことはないでせうね。", "そんなこと、ないと思ひますわ。兄が留守になつても、お遊びにいらしつて下さいますわね。", "さあ、そんなことをしてもいゝでせうか。", "どうして?", "おツと、危い。こつちは水溜りですよ。" ], [ "東さんと御一緒にいらつしやれば、なんでもないでせう。", "東君が誘つてくれゝば、それや……。", "あたくしが御招待するんぢや、駄目ですの?" ], [ "大分離れてるつていふぢやないか。さつき薬屋の小僧が来て、それがわかつたから、それぢやお帰りなさいつて、さう云つたの。義一さんは?", "あたし、奥村さんと御一緒に帰つて来たの。でも、兄さんがゐなけれや上らないつておつしやるのよ。どうしませう。", "お急ぎなら仕方がない。でも、こんなに遅くなつたんだから……。" ], [ "やあ、ひどい目にあつたよ。家がわからなくつて探してるうちに、火事場の手伝ひをやらされちまつたんだ。赤ん坊を出し忘れたつていふお神さんにとつつかまつて、命懸けの仕事をやつたよ。", "助かつたか、子供は?", "それが面白いぢやないか。子供を僕の手から引つたくると、そのお神さん、礼も云はずに何処かへ行つちまつた。母親の本能が文明を抹殺したんだ。僕は僕で、その瞬間、人間的感情を軽蔑した。火と闘ふ快感に自分を投げ込んだ。何をしたか知らん。たゞなんべんも焔と煙と、ホースの雨の中を潜り潜りした。お蔭で、この通りだ。" ], [ "どうしてだ。訳を云へ、民子に対する君の感情は、誰にだつてわからん筈はないぞ。", "感情は兎も角、結婚の問題なんて考へてゐない。僕は、速男君が外国へ行つたら、それつきり、あの家へは出入しないつもりだ。訳は、今云ひたくない。ぢや、また会はう、失敬……。", "待て、民子とは、さういふ話をしたことはないんだね?", "あゝ、誓つてない!" ], [ "こんなかに、ひよいと識つてる人の名が出てたらどうでせうね。通知を貰ふほど親しみはないけれど、黒枠の中で、何々儀なんて書かれてるのを見ると、急に胸がつまるやうな、そんな人はいくらだつてあると思ふわ。", "誰だい、例へば?" ], [ "誰つて、学校時代のお友達やなんか、いろ〳〵あるわ。あなただつておんなじでせう? おありになつてよ。考へてごらんになれば……。", "奥村圭吉か、さしあたり……。" ], [ "奥村さん、さうよ。あの方のことは、でも、お互に云はない筈でしたわ。", "もう云つたつていゝさ。僕は、この頃、なんとも思つてやしないよ。君だつて、名前を聞かされたぐらゐ平気だらう。一度訪ねてやるかな。", "およしになつた方がいゝわ。あなたは御自分の気持で、人になんでも押しつけておしまひになるから……。", "なるから……どうなんだい?", "困る人がゐるのよ。あら、もう、お時間よ。この時計五分ばかり遅れてますのよ。", "待てよ、気になり出した。向うから来なくつても、こつちが知らん顔してる法はない。今日、役所の帰りに、ちよつと様子を見に行つてやらう。" ], [ "電話ですよ。", "何処からでせう。" ], [ "……さつき、待てと云つた、その病気のことだがね、これは、多分あの役所で秘密にしてることだと思ふが、君は軍人の妻だから云つて聴かせるんだぞ……。", "……。" ], [ "あいつはね、その毒瓦斯を自分でこしらへて、自分のからだへ試験してたんだよ。おれもその話は今日初めて聞いたんだ。尤も、この春からださうだ。試験のしかたはいろ〳〵あるんだが、動物試験はまどろつこいし、皮膚の組織が人間と違ふから、正確な計算が出来ない。そこで、奴さん、自分の脚へ一定量の薬を塗つて、反応の比例を出さうとしたんださうだ。少量のうちは、痺れた部分を治療するのに暇はかゝらなかつたが、だん〳〵、極量に近くなつて来ると、全身に薬が廻つて、その度毎に、一週間、二週間、一と月つていふ具合に病院へはひらなけれやならない。今度がその最後だつたんだね。いや、最後とまでは、自分で思つてゐなかつたらう。しかし、事実上、最後だつたんだ。薬が極量に達したんだ。命と交換つていふ放れ業を演じやがつた。凄い奴さ……。", "でも、この春つて云へば……。", "さうさ、荻窪の家へ遊びに来てた時分さ。" ] ]
底本:「岸田國士全集 9」岩波書店    1990(平成2)年4月9日発行 底本の親本:「花問答」春陽堂    1940(昭和15)年12月22日発行 初出:「婦人之友 第二十九巻第十号」    1935(昭和10)年10月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2020年2月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043847", "作品名": "花問答", "作品名読み": "はなもんどう", "ソート用読み": "はなもんとう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「婦人之友 第二十九巻第十号」1935(昭和10)年10月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-03-05T00:00:00", "最終更新日": "2020-02-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43847.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集 9", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年4月9日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年4月9日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年4月9日", "底本の親本名1": "花問答", "底本の親本出版社名1": "春陽堂", "底本の親本初版発行年1": "1940(昭和15)年12月22日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43847_ruby_70385.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-02-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43847_70443.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-02-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "背広一と揃いと外套がほしいんだ。ちよつと見せてくれ", "おや、あんたはん、復員とちがいまつか", "お察しのとおり。だから、早くこのボロ服を脱いじまいたいんだ。相場はどんなもんか知らんが、現金が足りなかつたら、ちよつと金目のものを持つてるんだ。とにかく、寸法の合うやつを頼む" ], [ "これや、なんや。ようでけとるけど、鍍金やな", "よせやい、じいさん、ふざけないで、早くしろよ。買うのか、買わないのか", "いくらやつたら、よろしおまつか?", "目方をかけたらすぐわかるじやないか。二十八匁きつかりだ。三万ならいゝだろう" ], [ "ふむ、そう見えるか。いゝ勘だ。そういう君は、たしか満洲からの引上げだね。どうだ、そのカールでかくした額に書いてある", "あら、すごい" ], [ "ちよいと、満洲は、あなたどこにいらしつたの?", "僕か、僕は牡丹江からハイラルまでを転々とした。一番長かつたのは、ナラムト、ソ連国境に近い……", "知つてます。ナラムトから来るロシヤ人に、しよつちゆうバタ買つてました。いゝバタでしたわ。あなた、満鉄の方……それとも、特務機関?", "僕は単なる一兵卒さ。死にぞこないの兵隊さ。もう、そんなことどうでもいゝ。黙つて酒をついでくれ", "満洲もわるくないけど、あんたも、いゝとこあるわ。今夜は、あたしと一緒にゆつくり飲みましようよ", "そいつは面白い。今夜、おれも帰るとこないんだ。帰るとこあつても、帰りたくないんだ", "帰りたくつたつて、帰しやしないわよ" ], [ "取締がうるさいから、あかり消したの。さ、もう、二人つきりよ。もつと酔いたいの、あたし……", "さあ、さあ、ご遠慮なく……。お相手ならいくらでもするよ。たゞし、持ち合せはこれつきり、いゝようにしてくれ" ], [ "今、いく時?", "もうダメよ、じたばたしたつて……。電車はとうにおしまいよ", "いく時だつて訊いてるんだ", "だから、時間なんかどうだつていいじやないの。へんなひと、急にむつつりしちまつて……。なにが気に入らないの?", "すべてが気に入らん。第一、この自分が気に入らん。帰るよ、おれ", "へえ、帰りたきや、お帰んなさい。内地へ帰つたら、内地の仁義を心得てほしいわね", "おれは、そんなもんは知らん" ], [ "勘定払いな", "それだけじや足りないか" ], [ "ダメなんだよ。これで夜つぴて飲ませろだから、いゝ気なもんさ。その外套でもおいてかせるんだね", "外套ぬぎな" ], [ "生きちやおるよ。まあ、それより、お前の七年間の戦場生活を、ざつと話せ。思うように便りのできんことはわかつとるが、満洲、華中、それから、どこだ。最後にくれた絵はがきは、多分、仏印からかと思うが……", "えゝ、サイゴンから一度、ハノイから一度です。華中から、マレイ作戦に加わつて、それから、ビルマの飛行基地にやられたと思うと、すぐ仏印へ呼びもどされ、それからずつと、ハノイの基地にいました", "怪我も病気もしなかつたの" ], [ "基地で味方の不時着機に刎ね飛ばされたぐらいのもんです。背中を十針ばかり縫いましたが……", "そんなことですめばいゝさ。内地にいたつて広島みたいなこともある。わしの同僚で、一人、原爆の犠牲になつた奴がいるが、生き死になんていうもんは、こりや天命さ。戦争そのものの不幸は、誰それ個人の上に落ちて来るんじやない。右を向いても左を向いても、罪のない人間が苦しみに喘いでいる。その惨憺たる状態を指すんだ" ], [ "いゝですよ。僕は寝るところさえありやいゝ。どうせ、じつとしてはいないんですから……", "何か仕事のあてでもあるのか" ], [ "えゝ、まあ、なんとかするつもりです", "そう急がんでえゝ。これで、終戦まではどうなるもんかと思つたが、近頃、どうやら、芽が出て来たよ。暮し向きのことは当分心配せんでええ", "そんなに景気がいゝんですか", "いや、それほどでもないがね" ], [ "なんでも、粉の方が当つたらしいんでね", "コナ?", "製粉……ウドン粉を作る会社よ" ], [ "山のようなつておつしやるけど、たいがいお使いにならないものばかりでしよう。物置をちよつと広げればなんとかなりますよ", "それや、そうだ。もう一と間ほしいな、この家も……", "あたしだつて、一人のお部屋ほしいわ" ], [ "母さんは、家全体がお部屋みたいなもんよ", "うまいことを言う" ], [ "母さんは、どうなんだ", "母さんは、お父さんの顔色を見るだけ、自分には発言権はないと思つてるの", "でも、ちよつと愉快じやないか。美佐にそんなひたむきなところができたのかねえ。それだけでもおれは、あいつのために乾盃するよ。お前も同感だろう、ひとつ、美佐の後援会を作つてやろうよ。いや、真面目な話、おれたちにできることは、たゞ、そういうところへ落ちこんで、悪戦苦闘しているあいつをだよ、必要以上に不仕合せにさせないこつた。少しでも勇気をつけてやるこつた。わかるだろう。親同胞なんて、せいぜいそんなもんさ。それができなきゃ、なんになるもんか……" ], [ "実は、この間、関東大学の助教授をしている同郷の後輩に会つたんだ。いろいろ、近頃の学生の話がでてね、どういうはずみだつたか、君の弟の深志君が先生のゼミナールに出てることがわかつたんだ。京野深志つていう学生なら君の弟にきまつてらあ。おれは、すぐにぴんと来たから、ちよつと待て、そいつの兄貴は外語でおれと同級なんだが、応召したきりまだ帰つて来ないらしいつていうとね、バカ言え、もう三月も前に帰つてるはずだ、その京野つていう学生からたしかに聞いた、とこうなんだ。そう言えば、おれがこの家へ君の消息を訊きに来たのは、去年の夏だよ。その時分は、まだ居所もきまらず、それつきりになつてたんだ", "へえ、おれの方は、おれの方で、ずいぶん探したよ。帰つているかいないか、以前の会社へ聞けばわかると思つて、電話をかけてみたんだが、いつこう要領を得ないのさ。そうそう、あの中野の下宿さ、あの焼跡の前で、しばらく君のことを考えたよ。復員して東京へ着いた晩だよ。新宿から家まで歩いた、その途中だからさ", "満洲で君の部隊が牡丹江にいることがわかつたから、一度端書出したんだが、見てないだろうな", "いや、それは、たしかに見た。返事はすぐ出したぜ", "受取らん。もつとも、あれからすぐ、広東へ廻され、着いたとたんに、内地へ帰れだろう。どうするのかと思つたら、九十九里浜の防備さ。終戦と同時に復員はよかつたんだが、おれは、君のことが気がかりでしようがなかつた。やつぱりシベリヤ組かい?", "ところが、そうじやない。仏印で終戦だよ。変な話だが、内地へ引揚げるのがなんだか気が進まなくつてね。しかし、帰つてみると、やつぱり家もわるくないなあ、と思うよ", "君なんかそうだろうな。おれみたいな風来坊で、親も同胞もない人間には、その味はわからんよ。なつかしき我が家なんて、子供の頃の記憶のなかにあるだけさ", "まだ一人か、君は?", "二人になりかけというところだ" ], [ "もう一杯かい?", "いゝえ、もうたくさん", "おなかすいてやしない?", "そうだなあ、なんか、ありますか", "ご飯はあるんだけど、お茶漬けでもどう?", "いゝですとも……下へ行きましよう", "持つて来てあげるよ", "いえ、下へ行きます。用意しといてください。すぐ行きますから……" ], [ "無条件降伏と聞いて、おれは、すぐに考えた。もう祖国に未練はない。一刻も早く日本を離れ、世界放浪の旅に出よう、そう考えた。今もそう考えている。機会をねらつてるんだ。振り出しは中国さ。揚子江に沿つて、まず四川にはいる。アジア大陸横断にどれくらいかゝるか。天山南路はもう眼の前だ", "だからさ、今は何をしてるんだ、今は?" ], [ "む、今か、今は、ちよつとした仕事さ。フランス・ミッションの翻訳の下受みたいなことさ。お前にだつて出来るぞ。紹介してやろうか?", "ごめんだ" ], [ "へえ、そんなに変りましたか?", "あら、あんた気がつかないの。あんなに如才のないひとだつたのに、すつかり、でんと構えちまつて、……でも、貫禄がついたつていうのか、立派にはなんなすつた", "そうですかねえ、年は僕とおんなじだけれど、たしかにオヤジにはなりましたね", "奥さんは?", "まだらしいですよ。許婚かなんかあるんでしようね。そんなことをちらつと臭わせてました" ], [ "それ、あるひとが持つて来たの。お家はちやんとしたお家で、持参金づきなんだつて……。今年、満で二十四だつていうけど、老けてみえるね", "ちよつと面白い顔だな。馬鹿には見えませんね", "すこし悧巧すぎるかも知れないけれど、第一、兄さん、今時の女は、あんまりうじうじしてちやダメ……", "僕にそんなこと言つたつてしようがないですよ", "だから、あんたのお嫁のことを言つてるのさ。強情はいけないけれど、しつかりもんを貰うんだね、なにしろ" ], [ "僕は、まだまだ結婚のことなんか考えてやしませんよ。物事には順序がありますからね。それに、もう少し自由に相手を選ぶひまが欲しいですね", "それやもう、急いじやいけないよ。でも、ゆつくり探せば間違いがないかつていうと、そうもいかないからね" ], [ "美佐ですか。美佐はもういゝですよ。僕が帰つたことだけ知らせてやりました。会いたければいつでもそう言つて来いつて言つてやつたんですが、まだ返事もよこしません。兄貴なんぞに会いたくないんでしよう", "でも、一度、相手の男に会つて、先々どうするつもりか、ちやんと話をつけることはできないか知ら?", "僕がですか? それやできないこともありますまいが、美佐のために、それがどんなもんですかね。美佐からそういう相談を受ければ別ですよ" ], [ "兄さん、ゆうべは遅かつたね", "あゝ、飲みすぎたよ", "僕も、今、修業中なんだ。ずいぶん強くなつたぜ", "ほゝう、家の系統はあんまり強いのはいないらしいな", "おやじは、外で相当に飲むらしいんだが、家じや、そんな気配はみせないからな", "外で飲むこと、どうして知つてるんだい", "わかるよ、そんなこと。おふくろも僕たちにかくしてるんだよ", "好きじやないが、つきあい酒ならつていう口か。おれとおんなじだ", "おやじはどうだかな。偽善だよ。子供の教育によくないと思つてるんだ", "それほどでもあるまい。以前よりはだいぶん砕けて来たじやないか", "うん、もつと砕けりやいゝんだよ。とにかく面白くねえよ、おやじは" ], [ "僕、実は、家庭教師をしてるんです。その家は三丁目なんですが、ちようどお宅の前を通つても行けるんです。ですから、ご迷惑でなかつたら、お宅までお送りします", "まあ、そうでしたの。今日もそちらへ?" ], [ "今日はどうでもいゝんですが、ちよつとのぞいてみます。ほんとは、月水なんです", "月水……あたくしのお稽古とおんなじ日ですわ", "なんのお稽古ですか", "お茶ですの", "学校はもうすんだんですか", "えゝ、女学校だけでたくさんだつて、父がいうんですもの", "あとはお嫁入りの仕度ですか", "あたくしはそんなつもりじやないの。でも、自分でしたいことつて、なかなかできないわ", "なにが一番したいんですか", "…………" ], [ "なんだか知らないけれど、あなたのおつしやること、とても残酷みたいだわ。きつと男の方としては立派なんでしようけれど、あたしに、そういう気持になれつておつしやるの、むりよ。あたしは、たゞ、悲しいだけよ。あなたは、今まで、あたしに待つことを教えてくだすつたの。たゞ、信じて、待つことを、よ。でも、もう、それもいけないのか知ら………", "いけない、というよりしかたがない。いや、あなたが、どこかに、それを求めるということはできる。信じていゝものが、どこかにあるはずです。それを、たゞ待つのでなく、勇敢にお探しなさい。あなたの幸福はそこにあるのだ" ], [ "珍らしい人物が現れたね。なにごとずら、いつたい", "なにごとというほどのこともないが、君の自慢の村を見せてもらいに来た。急に思いたつて、ふらつと汽車へ乗つたんだ", "はてな、わしは村の自慢なんどした覚えはねえが、まあ、よかろう。江戸ッ子京野元軍曹にトロヽ飯でもご馳走せじや", "忙しいようだが、あんまりかまわんでくれ", "なに、忙しそうにみえるだけさ。まあ、ゆつくりして行け。さ、上りなつたら。おれや、足洗つて裏から上るで……。あ、おめえも、さ、ウジさ、上つておくんなんし" ], [ "おい、京野、おめえのことをわしはいつかこのひとの家で話したことがあるだ。このひとの細君がよ、すると驚いてさ、京野等志つていうひとなら、東京で知合いだつたつていうじやねえか。細君は、元の姓は、なんだつけ……", "味岡……" ], [ "うむ、味岡、小萩さつていうだ", "ご存じかね?" ], [ "あの宇治という男は、面白い、風変りな男でなあ。今年三十七になるだが、女房以外の女には眼をくれんという律義者だ", "それだけなら、別に風変りでもなんでもないじやないか", "うん、それがさ、たゞそうならいゝんだが、田舎じやおかしいくらい女房を大事にする男でさ。それも東京の娘ッ子を、しかも、頭のでけとる別嬪をもらつたつていうんで、大自慢なんだ。実際、自慢されても仕方がないくらいの代物じやあるよ、お前も知つての通り……。だが、人の手前つてこともあるしな、ちつと、そばで見ていて、業の煮えるところもないじやないよ", "いゝじやないか、そんなこと……自分で気に入つて貰つた女なら、せいぜい大事にするのが本当だよ", "だが、なあ、野良へ出るのに鍬までかついでやる必要があるかどうかだ", "ほゝう、やつぱり野良仕事はさせるのか", "そいつはしかたがあるめえ。お袋もいるし、弟夫婦もいるだから、義理にも、床の間へ飾つとくわけにやいかんよ", "夫婦仲は、すると、上々つてわけだね", "女房の方はどう思つとるか、わしや知らん。よう勤めるにや勤めとるつていう話だ。たゞ、笑い顔ちゆうもんを見たことがない。これやどういうもんかな", "おかしくないからだろう、そいつは", "百姓の生活に、おかしいことなんぞあるわけがねえ。しかし、根からの百姓女は、よう笑うぜ。なにが楽しいのかと思うほど、よく笑うよ" ], [ "なんでも、細君の実家では、戦争中、娘を大きな百姓へかたずけておけば、どんなことになつても、なにかと都合もいいし、先々、安心だつていう腹があつたらしい。ちよつと都会人の考えそうなこつた。それに、当の相手は、あれでも高等農林を出とるしなあ、普通の百姓よりや、ちつたあ見どころがあつたんずら。しかし、来てみて、話と違うこと、話ばかりじやわからんことが、ずいぶんあるでなあ。それに、なんでも、近頃は、細君の実家と仲たがいをしとる風だよ", "長久保家とか?", "うん、それが原因だろうが、細君も実家とまずくなつとるちゆう話だ" ], [ "昨夜は失礼……ようこそ……", "お忙しいところをお邪魔かと思いましたが、折角こゝまで来て、お訪ねしないのも残念ですから……", "いや、その話ですが、あれから帰つて、小萩にあなたのことをいいますとね、ほんとにしないんですよ。明日は見えるかも知れんといつても、そんな筈はない、百瀬さんのところへわざわざなにしに来なすつたんだ、と、まあ、こういつて、なかなか信用せんのですよ。――そりや、なにしにだかわしは知らんが、とにかく、百瀬君のところに来てござることはたしかだ。いまそこで会つて話して来たんだから、間違いはないといつてやつたんですよ。それでもまだ、腑におちんような顔をして、今も、早くご挨拶に出ろというのに、ぐずぐずしとるんです。女ちゆうもんは、疑い深いもんですなあ、わしや驚いた", "なるほど、そう思われるのは無理もないかも知れません。偶然があんまり重なりすぎると、なんでもないことでも、ちよつと、薄気味がわるくなるもんですよ。ふだん忘れているような奴と、一日に三度、場所をかえてひよつくり出くわしてごらんなさい。そのつぎに、そいつが、またそこにいるといわれても、おいそれと信じられるもんじやありませんよ。一日を、一生涯にしてもおんなじことです。小萩さんとは、まつたく、最初から偶然ばかりでつながつているようなもんですから……" ], [ "兄さん、あの、竹を二十本ばかり伐らしてくれつて、熊川のおじさんが来てなさるが、どうしましよう?", "え、竹を……? じや、わしがいま行くで……。ちよつと、失礼します" ], [ "今の方は、ご主人のお妹さん?", "いゝえ、主人の弟の嫁ですの。あたくしとおない年よ。きれいなひとでしよう?", "と、いうんでしような。典型的な地方美人か。話が合いますか?", "とつても、気だてのいゝひと。たゞ、なかなか親しめなかつたわ。むずかしいものよ、違つた気風を呑みこむのは……", "土地の気風ですか、家の気風ですか?", "両方……。でも、あたくし、わりあい呑気だから……" ], [ "ねえ、京野さん、どうして、こんなところへいらしつたの?", "あなたのお顔を見にです", "お会いしても、なんにもなりませんわ。それや、うれしいことはうれしいのよ。でも、却つて、あとが悲しいだけだわ", "しかし、あなたは、どうして、あんな手紙をくだすつたんです?", "ちよつとご挨拶がしたかつたの。無事にお帰りになつたことを、あたくしが知つていることだけ、お耳に入れたかつたの。それと、あたくしがどうしているかも、まあ、申しあげておく方がいゝと思つたの。それがいけなかつたか知ら?", "いけないとは、どういうんです? なんでも知つていることは大切ですよ。それを知つて僕がどうするかは、僕の責任ですからね。ご心配には及びません", "まあ! 誰が心配だなんていいましたの? あたくしがどうしているか、それを見に来てくだすつたのはいゝのよ。でも、それは単純なご好意と解釈させていたゞきたいわ。あたくしは、もう、なんにも申しあげたくないの。この通り、平凡な農家の主婦として暮しているところをごらんになつて、あなたは安心なすつたか、それとも、興ざめにお思いになつたか、それはどつちでもいゝの。たゞ、今になつて、あたくしが、なにかほかのことを望んでいるようにはお考えにならないでね。それだけお願いするわ" ], [ "もうお帰りですか。ゆつくりしていただくつもりでいましたのに……", "いや、いや、そうしてはいられないんです。またいつか寄せていたゞくかわかりません。お二人ともご機嫌よう", "百瀬君のところ、道はおわかりでしようか?", "さあ、わかると思いますが……" ], [ "おい、小萩、お前ちよつと送つてあげなよ", "でも、おわかりになるわ、ねえ" ], [ "ちよつとやゝこしいで、途中までゞも附いてつてあげるといゝ", "じや、そう願いましようか" ], [ "えゝ、いゝですとも……どこへでも連れてつてください。その方がありがたいくらいです。さあ、これから先は一人で歩けといわれても、僕は、がつかりするだけですよ", "あなたのおつしやることはわかるの。でも、そういうこと、おつしやつてはいけないわ。ほんとに、あたくしはもう、そつとこのまゝにしといてちようだいね。すこしお目にかゝるのが早すぎたわ。だから、十年か二十年先につて申しあげたのよ", "ところが、それじや、もう遅すぎます。結局、丁度いゝ時なんて、ありつこないんですよ。それを作らなければね。しかし、僕には、僕だけでは、それは作れないんです" ], [ "いゝじやないか、みんな、すましたら……", "うん、でも、お父さんはそうお遅いはずはないから……" ], [ "それじや、僕もあとにするよ。腹がへつたにやへつたけれど……", "兄さんは、かまわないのよ。それに疲れてるだろうから……" ], [ "別にどうつてこともないです。お先へはじめてますよ", "さあ、さあ。あ、わし、たつた今、すしを御馳走になつたもんだから、腹はすいとらん。熱い番茶をいれてくれ", "あら、でも、今日はあなたのお好きな湯豆腐ですのよ" ], [ "今日はあいにく沸しませんでした。薪を割るのがつい億劫で……", "薪を割るぐらい、僕が手伝いますよ。なんだ、そんなことまで遠慮してるのか" ], [ "聞いてなけれやいゝさ", "但し、聞いてる風だけはしてね" ], [ "まあ、坐つて話をせえ。いきなりそんなこと言つたつてわからん", "別にそれ以上言うことはないんです", "そつちはないかも知れんが、こつちできゝたいことがある。坐れと言つたら坐れ" ], [ "なんですか、僕にきゝたいことつて?", "どうしたつていうの、あんた、そんなむずかしい顔して……。なんのことだか、もつと穏かにお話したらどうなの" ], [ "お母さんは黙つててください。とにかく、このことは、お父さんの諒解さえ得ればいゝんです。無断家出ということにならなきやいゝんです", "まあ、それはそれでいゝ。どうしてこの家を出たいのか、その理由を言うわけにいかんか" ], [ "理由は、そんならきくまい。下宿をするのもいゝが、学校は続けるのか、やめるのか?", "わかりません", "わしの補助は、いるのか、いらんのか?", "いりません", "いらん? 自分で働く気か?", "そんなこと、わかつてるでしよう", "まるで、その調子は、喧嘩腰だが、どうして、無断家出になつちやいかんのだ? たいした違いはないじやないか?", "そうですか。たゞ、余計な手数をかけないようにしたまでです", "等志、兄の立場から、なにか言つてやることはないか?" ], [ "お父さん、この話はこれくらいにして、あとは僕と深志に委してください。事をもう少し自然に運ぶ方法があるかも知れません。深志、二階へ行こう", "行くさ。しかし、僕は兄さんにだつて、これ以上のことは言わないよ" ], [ "いゝんだよ、僕のことはかまわないでくれよ。兄さんは兄さんで自分のことを考えたらいゝ。なにも、兄弟だからつて、特別な関心を持ち合う必要はないさ。偶然おんなじ両親をもつたつていうことだけで、お互い、なんの責任も負つてやしないんだからね", "うむ、そういう考え方も成り立つだろう。自然の情愛だけが肉親を結びつけるんで、君がもしそれを否定するなら、おれはもう、なんにも言わないよ。たゞ、念のためにきいておくが、君は、おれや、おやじに対してある種の反感をもつているとしても、おふくろや女きようだいに対しては、もつと別な感情をもつてやしないか?", "…………", "ことに、おふくろを悲しませることが、君は平気でできるかい?", "そんな問いに答える義務はないよ", "義務はないさ。君が自分の心にそむき、自分を誤魔化していなけれや、それでいゝんだ", "…………", "この家を出て、ひとりの生活をするという、たゞそれだけの目的なら、もつとほかにやり方がありやしないかい? おやじはなかなか説得できなくつても、せめて、おふくろだけは、しかたがないと諦めさせる手段はなくはないと思う。それも、君は、めんどうだというのかい?", "めんどうよりなにより、そんなことして、らちがあくもんか。結局、喧嘩して飛び出すことになるのさ。いゝじやないか、僕ひとりのことは僕自身で考えるんだから……。おふくろに同情して、こんな陰鬱な生活に一日でもしばりつけられているのは、まつぴらだ", "なるほど、この家の生活は、健康ではない。しかし、どんな明朗な生活が、外で君を待つているか知らんが、他愛のないイリュージョンだけは警戒したまえ。ともかく、なににでもぶつかつてみることだ。それは賛成だ。アルバイトの口は、ちやんとあるのかい", "…………", "それも、答える必要なしか。よろしい。いよいよ、君は、われわれと戦闘開始のつもりだね。但し、断つとくが、おれは、君を敵とみるつもりはないよ。一方的宣戦布告というのは、どういうことかね。それだけのことを頭において、自由行動をとるさ", "余計なこと、しやべらないでほしいな。みんなピントが外れてらあ" ], [ "それにしても、子供臭さすぎるわ。あの態度は、一種の甘つたれよ。第一、ひととあたり前に話ができないの、変だわ", "ふだんから、そうだけれど……" ], [ "まあ、まあ、みんなでそう攻撃しないで、誰か味方になつてやれよ。家をはなれて一人つきりになりたい欲望は、これは責めるわけにいかんよ。その理由を改まつてきいてみたところで、どうにもならんさ。お母さんだけはちよつと面倒だが、多津にしたつて、真喜にしたつて、時々は、自分だけの生活があつたらと思うだろう。深志のやつは、単純にその夢を追つてるというわけだ。そして、誰だつてそうだが、その夢をいちばんわかろうとしないのは、おやじやおふくろだと思い込んでるのさ。そこへ行くと、きようだいは違うんだが、おれにはどうも兄きの資格がないらしいよ。多津、お前、あした、荷物ごしらえの世話をしてやれよ", "下宿つて、いつたい、どこなのさ" ], [ "ぼつぼつ、なにかしようつと思つて、いろいろ考えてみたんですが、時節柄、思うような仕事がないんです。いつかお話があつた、お父さんの会社に適当な席はありませんか", "そうか、そういう気になつたか。ないこともないよ。しかし、言つとくけれど、会社というほどのもんじやない。社員といえば重役をふくめて十人足らずだ。職工は二つの工場を合せれば、あれで、五、六十人もいるか", "お父さんは、その会社の、なんです?", "うむ、わしは、まあ、常務の一人になつとるんだが、主に熊谷の工場の責任者を兼ねているわけだ", "本社はどこです?", "本社といつても別にビルディングがあるわけじやない。仲間の一人を社長ということにして、そいつの私宅を事務所に使つてるんだ。そうさな、お前が来るというなら、熊谷の工場の監督でもやつてもらうかな。ちようど、そういう人間がほしいところなんだ", "できることなら、なんでもやりますよ。専門の知識はたいしていらないんでしよう", "あるに越したことはないが、それより、やつぱり、人間を扱うコツだな、必要なのは。いずれ、形式だけでも重役会議にかけにやならんから、履歴書を書いとけ" ], [ "すこし、おしやべりしてつていゝ?", "あゝ、いゝよ。今のうちにうんとしやべつとけよ。そのうちに、おれは忙しくなるからな。おや、今日はバカにおめかししてるじやないか" ], [ "それや、いざつていう時は、化けるわよ。なんて、戯談なんか言つてる場合じやないのよ。重大問題の相談にのつていたゞきたいの", "おい、おい、また問題を起すのか?", "もう、起つちやつたんだから、しかたがない", "なんだい、早く言えよ", "ちよつと、待つて……。あたし、もう、自分のことは考えないつもりだつたの、ほんとに……。それが一番、自分のことを考えるからだ、ともいえるけど、とにかく、あたしの生涯は一応終つたつもりにして、どこかの隅で、ひとの邪魔にならないように暮して行きたいと思つていたのよ。今でも、そうは思つてるんだけれど……", "聞いてるよ。言いたいだけのことを言つてごらん", "えゝ、言わしていたゞくわ。そうなるまでは、ずいぶん苦しんだの。やつとこさ、気持の落ちつき場所をこしらえたと思つて、ほつとしていたところへ、まつたく困つたことができちやつたの。きのう、新宿の地下道で、ぱつたり、会つてはならないひとに会つてしまつたんです", "天下の公道でなら、誰にだつて会うさ", "会い方にもよるわ。口を利かないわけにいかないような会い方、こつちで避けようにも避けられない会い方なの。そのうえ、あたしは、どうしてだか、そのひとの顔をみて、ぐらぐらッと、意地も張りもなくなつてしまつたの。今日、また、会う約束をしてしまつたんです", "宮坂と別れる原因になつた、例の男かい?", "えゝ、そのお話、まだ詳しくしてないわね", "詳しく聞く必要があるかい? とにかく、宮坂と結婚する前から知つていた男だろう。それが、お前のところへ手紙をよこす。宮坂はそれに因縁をつけて、とやかくいうんだろう。しまいに、双方の感情が爆発してしまつた。それだけじやないか", "それだけにはちがいないわ。たゞ、雲井つていうんだけど、そのひとは前からあたしに結婚を申込んだこともないし、宮坂のところへ行つてからも、手紙をよこしたつて、別にひとにみられてわるいようなところはちつともないの。他愛もない世間話や、自分の書こうとしてる小説の筋や、そんなことばかりなの。宮坂の怒るのが不思議でしようがなかつたのよ", "まあ、それはどつちでもいゝとして、お前が宮坂と別れたことは、その先生、むろん知つてるんだろう?", "知らせるには知らせたわ。その原因もついでに書いて、以後、実家の方へも、手紙は絶対にくれるなつて、言つてやつたの", "どうして?", "宮坂には二人の間がなんでもないことを断言してあるんですもの。もし、これから交際をつゞけていたら、どうなるかわからないと思つたからだわ", "宮坂と別れてからなら、どうなつたつていゝじやないか", "以前から、なにかあつたと思われるのが癪なのよ。それに、籍をまだぬいてくれないの", "よし、わかつた。それで、きのう、偶然、新宿で雲井先生に会つたと……。会つたら、こつちはぐらぐらッとした。そして、向うは? 今日、会うのは、なんのためだ?", "会いたいつていうから、会うのよ。あたしも、会うの、いやじやないの", "いやじやない、と来た。求めよ、さらば与えられん。行つて来い", "行つても、大丈夫ね", "大丈夫という意味にもよるが、幸福つてやつは、向うから追つかけて来るもんでもなく、安全な橋を渡ることでもない。お前の眼は、いきいきと輝いている。幸福とは、これだな、と、おれは思う。よけいな取り越し苦労をするより、堂々と、今の気持を押して行くといゝ、急がず、慌てず、ためらわず……", "ありがとう、兄さま……。行つて来るわ" ], [ "お姉さん、あのことお兄さんにおつしやいよ。お姉さんが黙つてるなら、あたし、言うわよ", "なによ、真喜ちやん、よけいなおせつかいだわ。兄さまはもう、ご存じなのよ", "ほんと、お兄さん、多津姉さん、愛人ができたの、ご存じ?", "知らないね", "それごらんなさい。相手は、雲井秋生、ほら、小説家の……" ], [ "驚かない。それより、早く支度をしろよ", "支度はもうできてる。そうかなあ、驚かないかなあ。美佐ちやんの消息、最近の、知つてるかい?", "美佐の消息? 知らない。死んだか?" ], [ "それがそうじやないんだ、つい、こないだ、おれは、妙なところで、ぱつたり出くわしたんだ。築地の待合だ", "…………" ], [ "芸者になつてる、芸者に……。これでも驚かんか?", "ほんとかい?", "おれがこの眼で見たんだから間違いないさ。まさかと思つた、はじめは。こつちの方がまごついちまつたよ。向うは、どうして、出たてだつていうけれど、落ちついたもんさ。おれを知つて、わるびれるどころか、――とうとう見つかつちやつた。兄が帰つて来てるのご存じ? もうお会いになつた? こうだよ。会社の宴会なんだが、おれは挨拶に困つた" ], [ "お帰りなさい……ご無事で、なによりだつたわ……。あたしのこと、家ですぐお聞きになつたのね", "聞いたさ。どういう風にしてるのか、実は早く知りたかつた。手紙だけ出したが、見てるだろうな", "えゝ、拝見したわ。でも、誰にも、その頃、会いたくなかつたの。兄さんには、ことに、顔みられたくなかつた", "どうしてだい? やつぱり、周囲がわるいんだなあ。あの手紙にも書いたとおり、おれは、そんなこと、なんとも思つてやしない。たゞ、勇気と忍耐がいるなと、同情してただけだよ。肩身の狭い思いをしてやしないか、それだけが心配だつたけど……", "やつぱり、女はダメだわ。自分にいくら元気をつけても、すぐ心細くなるんですもの。意地を張るんだつて、食べるのに困らないうちだけだわ", "うむ、生活の問題は大きいからなあ。結局、そのためだけかい、こんな商売をはじめたのは……?", "えゝ、まあ、そうなの。まとまつたお金もいる事情があつたけど……", "相手の男のためにか?", "そう……。一時しのぎのつもりだつたの。自分だけ食べるお金は、あたし、とうから、自分で稼いでたのよ", "なにしてたんだ?", "はじめは喫茶店、それから、ダンス習つて、ホールにも出てたわ", "相手の男は、なんだ、いつたい?", "…………", "名前を言わなくつていゝから、どんな種類の男か、言えよ", "別に変つた種類の男でもないわ。会社員よ。商事会社の課長よ", "今でも、会つてるのか?", "会つてるわ、どうして?", "どうしてじやないよ。お前を芸者にして平気でみていられる男と、まだ会つてるは、おかしいじやないか", "だつて、そのために、どうこうつてことないわ。女の商売は、なんだつておんなじよ" ], [ "美佐、おれはもう、ほかに言うことはない。女の商売はなんだつておんなじだつていうが、それはお前の本心かしら? 誘惑の多い商売といえばいくらもあるさ。しかし、娼婦といういやしい商売は、はつきり、別にあるね。お前のは、そこまで落ちこんで行きやしないだろうな?", "そのつもりではいるわ。大きな口は利けないけど……。あたしは、まだ、汚れてはいないつもり、心だけは……", "おれも、そう信じたい。いつか、どこかで、もつとゆつくり話をしよう。そんな恰好でなく、あたり前の風をして、上野あたりで会おうよ。金ですむことなら、いつでもおれに相談してくれ。なんとでもするから……。それこそ、おれたちの家を叩き売つたつてかまわない。お前が愛情のために苦しむのは、これやどうすることもできないが、金のために生涯を台なしにするのは、おれたちだつて、黙つてみているわけにいかないよ", "そう言つてくださるのはありがたいけど、あたし、絶対に、うちのひとの世話にはなりたくないの。これだけは、死んでもいやなの。あたしは、もう、こうなつてしまつたんだから、ほうつといていたゞきたいわ。つまらない意地を張るみたいだけど、兄さん、あたし……あたし……親きようだいぐらい、つめたいもの、ないと思うのよ。それが、心の底にいつまでもこびりついてるの。兄さんは別かもしれないわ。でも、でも、あたしは、もう、あのひと以外、だれも信じられなくなつてるの……" ], [ "食べて行くだけなら、東京の真ん中で、なにをやつたつて食べていけるでしよう。それより、肝腎の勉強が、そのためにできるか、できないかでしよう。百瀬君の言うように、適当な先輩であなたの面倒をみてくれるひとがいれば、一番文句はないんだけれど、そういう人物が、おいそれとみつかるかどうか……。それより、僕の考えじや、直接、師事したいと思うひとに、ぶつかつてみたらと思うんだ。君はいつたい、文学つていつたつて、どういう方面へ進みたいの?", "小説を書いてみたいんです", "もう、そういうもの、書いてるの?", "えゝ、どうせつまらないもんですけど……", "じや、そいつを、誰かにみせたらいゝじやないの。君が尊敬してる作家はだれ?", "若い方では、水島祥一先生……", "知らないな", "もうすこしふるい方では、雲井秋生先生なんか……", "雲井秋生か。ふむ……名前は聞いてるが、そんなにいゝの?" ], [ "女流では? 誰かいない?", "わたし、先生につくなら、男の先生にしたいと思いますの", "へえ、それはまた、なぜ?", "言えませんわ、その理由は……。わたし、せんから、そうきめていますの" ], [ "ねえ、多津、おまいは多少おれよりは、その道に明るいらしいが、この方は作家志望で、東京へ出て来たいつていわれるんだよ。そういう娘さんはずいぶんいるんだろう。いつたい、作家なんて、すぐ弟子にしてくれるもんかい? 内弟子をとるなんてことがあるのかい?", "さあ、そういう例もないことはないけど、名目だけのお弟子さんもあるし、ことに、内弟子なんて、そんな形式は表向きはないと思うわ", "そうだろうな。じや、形式はどうでもいゝからさ。お弟子入りを条件にして、それとは別に、家事の手伝いをしたいつて頼んだら、どんなもんだろう? 相手が若くつて、しかも独身だと、こいつは考えもんだな。そうでしよう、百瀬さん", "あら、そんなこと、文学をやるうえにちつとも関係ないわ。ねえ、あなた……" ], [ "そうかね、そういう警戒心は、非文学的か……。すると、相手は、独身でいゝ、と。誰かないかい、君の心当りで……。尤も、百瀬さんの方で、そんなひと、いやだつていえばしかたがないが、一挙両得は、なかなかむつかしいから、ともかく、家に人手がいるつていう文学者なら、どつちみち住み込んで、あとは、利用できるだけ利用したらいゝじやないか。書庫の臭いをかぐだけだつて、なんかの役に立つでしよう", "あたし、こんど、雲井に話してみるわ。お友達だか、先輩だかの家に、文学好きの女中さんがいる話、ついこないだもしてたから……", "雲井秋生先生は、もう女弟子はいらんのだな", "あのひと、女でも男でも、弟子と名のつくようなもんはいやなんですつて……。その代り、自分も先生がいないつていうのが得意なの", "あの、雲井先生をご存じでいらつしやいますの?" ], [ "多津、さつき話に出たんだが、百瀬さんの最も尊敬する作家の一人が、その雲井先生なんだそうだよ。これは、なんとか、いずれは、せにやなるまいね", "あら、ほんと? じや、いつかご紹介するわね" ], [ "えゝ、小萩さん、知つてますとも……。こないだ、久しぶりで会いました。変つたような、変らないような……しかし、今、盲腸の手術で入院してるそうですね。秀人君から知らせてくれたんですが、君は、最近の容態を知つていますか?", "えゝ、こちらへ発つ前にも、ちよつとお寄りして来ましたの。すこし、こじらしておしまいになつたんでしよう……。当分は退院なされそうもありませんわ。わたし、こちらへ伺うこと申しあげたら、くれぐれもよろしくつて、おつしやいました。つい、はじめにお伝えすること、忘れちまつて……", "あゝ、そう……。こじらしたつていうのは、腹膜炎でも起したのかな", "さあ、はつきりは伺わなかつたんですけれど、微熱がとれなくつて……。レントゲンを三度もかけたつておつしやつてましたわ", "そいつは厄介だな。以前から、胸も弱いんだ。今度会つたら、言つといてください、ちやんと養生しなけれや、ダメだつて……。病院には、誰か家のものが附添いに来てるんでしようね", "いゝえ、病院で雇つた看護婦さんだけのようでしたわ。毎日、退屈でしようがないんですつて……。話しに来い、話しに来いつて、おつしやるんです。ご気分はちつとも、なんでもないらしいですわ", "僕も、そのうち、なんとかして見舞に行きます。行つてよければ……", "あら、いゝどころじやありませんわ。きつと、およろこびになるわ", "その前に、僕が最近読んで面白かつた本を、あなたにお願いして、持つてつていたゞくかな。お見舞のしるしだつて、言つてください" ], [ "わたしも、まだ、これ、読んでませんの。奥さまのお読みになつた後、拝借してもいゝかしら", "どうぞ、どうぞ……。長久保夫人がもし、そいつは困る、と言いさえしなければ……", "意味深ですのね", "いや、信州の白百合はね、谷間じやなくつて、火山の噴火口に咲いてるんだ。あぶない、あぶない" ], [ "どうするもこうするもないさ。おれはもちろん、後の責任はもてん。そのことははつきりさせておくといゝ", "警察で、そうはつきり言うんですか。それや、ちよつと、おかしいですよ。そんなら、行かない方がましだ" ], [ "それや、そうさ。まあ、形式的に親父を呼び出したのさ。気にしなくつてもいゝよ。それより、こつちに言わせれば、君がふだん、どんなことを考え、どんなことをしてるかゞわかつていれば、今度だつて、別に慌てないですんだんだ。慌てるつていうのは、つまり、余計な心配をするつていうことだが………", "心配するのは、そつちの勝手じやないか。僕のことより、家のことが心配なんだろう。警察へ引つ張られたつてことは、不名誉だと思つてるんだろう", "誰が?", "親爺だつて、兄さんだつて……", "親爺はどうか知らん。おれのことは、そう甘くみるなよ。たゞ、人がどう思おうと、そんなことを気にする方がおかしかないか。まあ、それはそれとして、久しぶりで会つたんだから、一緒に飯でも食おうか", "…………" ], [ "お父さん、それや違いますよ。困つたから親の名前を出したんじやないんです。嘘をつく必要がなかつたから、聞かれたことを、正直に答えたんでしよう。あいつは、偏屈は偏屈ですが、家を出て行つたことに対して、お父さんも、そう感情的におなりになる必要はないと思いますね", "なに? 感情的になつてるのは向うじやないか。わしは、たゞ、道義的に批判しているだけだ", "道義的ですか? それも変じやないですか。むしろ、あいつの子供つぽい不器用さを、笑つてすませばいゝんじやないですか", "バカ、お前までなにを言うか。大体、家の秩序というもんが、まるで乱れきつとる。そもそも、家長の権限なるものを、わしは最少限度にしか用いておらん。その弊害を重々、知つとるからだ。しかし、長幼の順なくして、共同社会というものが保つて行けるか", "まあ、よしましよう、そういう議論は", "議論なんぞしとりやせん。教えてやつとるんだ", "あ、そうですか。もう、わかりました" ], [ "あゝ、その患者は、重態で、面会謝絶ということになつています。お身内の方ですか?", "いえ、そうじやありませんが……", "お身内の方でも、なるべく遠慮していたゞいた方がいゝんです。この療養所は、その点、特に厳重にやつてるもんですから……", "重態というのは、危険ということでしようか?", "いや、必ずしも、そうじやありませんが、容態としては、楽観をゆるさない、最も慎重を要する時期なんです。絶対安静を要求してあります。些細なショックでも、すぐに影響があるものとみて、一切面会をお断りしてあるわけです", "そういう状態は、当分続くんでしようか、愚問かも知れませんが……" ], [ "さあ、急変がない限り、二、三週間で、面会ぐらい許されるんじやないでしようか。僕は、ちよつと、責任をもつてお答えはできないんですが……", "手紙はどうでしよう? 看護婦さんに読んでもらえば差支えありますまいか?", "そういう制限はしていません。しかし、ちよつと余計なことのようですが、僕の経験だと、手紙によつては、意外に大きなショックを与えられますから……喀血の久しく止つていた患者が、ある種の内容の手紙を読んだとたん、大喀血をした例もあります。医者は、しかし、そこまで患者の生活に立ち入ることはできませんからね" ], [ "なにかご用でしようか?", "見舞に来たんですが、面会謝絶だということは聞きました。しかしそのまゝ帰ることができなかつたんです", "お気の毒ですけれども、ご容態がご容態ですから……" ], [ "わかつてます。僕はたゞ、ひと言、病人に言いたいんです。直接、顔をみて言いたいんです。そのひと言が、病人を死から救うことができたら、それでいゝじやありませんか", "そんなことおつしやつても、わたくし、困りますわ。絶対安静ということは……", "その説明はもうたくさんです。僕は、医学のことはわからない。たゞ、病人を、精神的に力づける役を、僕以外の誰が引受けてくれるか、です。僕がこうしてこゝへ来たことを、はつきり、あの病人に知らせておきたいんです。僕の声が聞えるでしようか?", "そんなに大きな声をおだしにならないで……。今、ちようど、お薬をのんでお眠りになつているところです", "眠つてる?" ], [ "さあ……わたくしからはなんとも申しあげられません。たゞ、こちらへいらしつた時は、これほどとは思いませんでしたの。急におわるくなつて……一時は、絶望かと思いました。でも……", "わりに持ちこたえているというわけですね。それなんです。僕は、自分でも周囲でも、もうダメだと思つたら、それでおしまいだと思うんです。そういう時の心の支えが、この病人にはないんじやないかと思うんです", "失礼ですけれども、あなたは、京野等志さんでいらつしやいますか?", "おや、どうしてそれがわかります?" ], [ "どう生意気なんだい?", "言うことなすことがよ。人を小馬鹿にしたみたいな口の利き方をするし、自分の行動は絶対正しいと思つてるのよ", "その自信はわるくないじやないか", "でも、変じやない、少しは反省つていうもんがなけれや……", "反省に値するようなことをしたのかい?", "どこまでがほんとだか知らないけれど、まるでやつてることが無茶なのよ。男のお友達を作るのはまあいゝとして、その一人一人と、一度ずつ恋愛をしてみるんだ、なんて平気で言うんですもの", "言うだけなら、言わしとけよ", "いゝえ、どうも、本気でそれを実行するらしいの。現に、そういう様子がみえなくもないわ", "おれには別に変つたところもみえないぜ", "そこがあの娘のにくらしいところだわ。まつたく、ボロをみせないのよ。特別にはしやぎもしなければ、妙に沈んだところもないでしよう。家では泰然自若として、学校の勉強ばかりしてるんだから、あきれるわ", "それで、様子が変だつていうのは、どこでわかるんだい?", "自分で喋るんですよ。なにからなにまで、自分であたしに話して聞かせるんですよ。その話しつぷりは、どうも、誇張を割引しても、まつたく嘘とは思えないの", "へえ、しかし、そいつは、黙つて秘してるよりや、ましじやないか。少くとも、お前にとつては、うれしいことじやないか", "それが、いちいち、あたしに相談でもするつていうなら、まだわかるんだけど、決してそうじやないの。まさか、自慢話のつもりじやないんでしようけれど、つまり、そういうことを話題にして、議論の種にするんですよ。あたしに一応反対させて、それを自分で逆に批判しようつていうわけなのよ。驚いちやうわ", "お前の年代と真喜の年代と、そんなに考えがちがつて来たかねえ。やつぱり、お前なんか、戦後派の仲間入りはできないとみえるな", "えゝ、えゝ、戦後派どころですか。あたしはまた、おそろしく旧いのよ。自分でつくづくそう思うわ。でも、どういうんでしようね、真喜ちやんみたいなのも、例外じやないかと思うけど……", "どうせ人間の一人一人は、男だつて女だつて、いわゆる個性なんてものとは別にそれぞれ例外的なもの、つまり、習慣に反する傾向をもつてるんだよ。それが表面に出るか出ないかの違いさ。家族なんてものは、その例外の部分を、努めて、表に出さないようにしていなけれや、成り立つていかない制度なんだ。それが近頃は、誰もそんなことを努めなくなつて来たんじやないか? それでも、真喜なんか、内と外とを区別してるところは感心なもんだ" ], [ "姉さん、いやだわ、早くお食事の支度してくれなきや……遅れちやうじやないの", "わかつてるわよ。もうあらかたできてるのよ。母さんが帰つて来るのを待つてるんだわ", "あたし、そんなの、待つてられないわ。母さん、どこへ行つたの?", "マーケットへほしいもんがあつて行つたのよ。だけど、あんた、そんなに急ぐなら、できてるおかずで、すましていらつしやいよ", "だから、それ、出してよ。あたしにやわからないわ" ], [ "ダンス・パーティーですつて……。お友達の家つていうんだけど、そのお友達が早稲田の建築科の学生なのよ", "どこだい、その家は?", "なんでも池袋の方らしいわ。詳しく知らないけど……。この頃、急に、学校でもそういう仲間ができたとみえて、夢中なのよ。十八や十九やそこらで、おかしいわ", "そのお家ではお父さんもお母さんもダンスなさるんだつてね" ], [ "ところが、兄さん、それだけじや、すまないのよ。こないだも、奥多摩へピクニックするんだつて、その仲間と一緒にでかけたのよ。それがどう、ポータブルなんか持つて……原つぱで踊つたらしいのよ", "まあ、まあ、お前は、そんなこと心配するなよ。お母さんをみろ、ちやんと覚悟をきめてござるよ。お父さんは、まさか、そんなこと知るまいなあ" ], [ "誰もお父さんになんぞ言やしませんよ。だけど、お父さんも案外、腹をきめてるかも知れませんよ。少くとも、それぐらいは大胆に見るんじやないかなあ。そうでしよう、お父さんは、もう二度失敗してるんですからね。三度目は気をつけなくつちや……", "そうだよ" ], [ "いゝわねえ、お母さんは……。時代が変つても、それほどお驚きにならない修業ができていらつしやるから……", "そうともさ。あたしにや、自分の時代なんてものはなかつたんだもの" ], [ "それや、いつたい、どういうわけなんです。僕の工場だけは、立派に採算がとれているはずですよ", "だからさ、結局、工場によつて成績が違うということ、それに、税金の過重負担などもあつて、全体の収支のバランスがとれなくなつたということ、だ", "つまり、僕の考えじや、この会社も、頭でつかちだということですよ。資本金百万足らずの会社に有給の重役が五人もいるなんて、およそ意味ないじやありませんか", "それがどうにもならんのさ。誰がやめるつていうわけにもいかんじやないか。早い話が、このわしだつて……", "それや僕にやよくわからないけど、重役が自分で欲しいだけのものをとつて、あとが足りないじや、ほかの従業員が承知しないと思いますね。僕のところは、人員整理の相談には絶対に応じられませんよ", "まあ、それや、公式の話になつてからでいゝが、だいたい、小資本の製粉事業というもんが、ぼつぼつ行きづまりになつたんだよ。もうちつと早くそれに気がついて、仕事の切り替えをやるべきだつたんだ", "いくたりかの人間が甘い汁を吸えるだけ吸うつていう仕事が永続きするわけはないや。お父さんも、いゝ加減に手を引くこつてすね" ], [ "諸君の不満は尤もだ。この会社の処置を不当として、われわれは受諾できないことを、経営者側に僕は責任をもつて伝える。しかし、僕にはそれ以上のことはできない。できることは、たゞ、僕のこの半分の給料を、諸君の方へまわしてもらうということだけだ", "ずるい責任回避だ。経営者の立場でわれわれの要求にこたえろ!" ], [ "僕は経営者じやない。一介の事務員だ。経営者の代弁はしても、常にその味方としてではない", "そんなことが信用できるか! はつきり、どつちかの側について闘え!" ], [ "こんなことになるんじやないかと、こないだから、思つてましたわ。自分のことばかり言つてすまないんですけれど、わたし、もうすこし、このまゝでいてよろしいでしようか?", "君には関係ないさ、むろん、いるのがあたり前だよ、いやでさえなけれや……", "そりや、具合がわるくないことないんです。でも、我慢できると思いますわ", "そうさ、我慢してくれたまえ、これから、君のことまで背負いこんじや、僕もちよつと閉口だよ", "えゝ、この上、ご迷惑かけたくないと思いますわ。雲井先生が、こんどわたしが書いたもの、どこかの雑誌へ紹介してやるつておつしやいましたの", "へえ、そんなにいゝものができたの? そりや、よかつたね", "雲井先生つて、ほんとにおそろしい方ですわ。先生が、こゝがわるいつておつしやつたところを、ちよつと直すと、自分でもびつくりするようによくなるんですの", "あ、そう……あ、そう……" ], [ "わたし、考えてるんですけど、雲井先生のおかげで、すこしでも原稿でお金がとれるようになつたら、工場の方はやめさせていたゞくつもりですわ。やつぱり、文学はそれだけに打ち込まなくつちやダメだつて、つくづくわかつたんですもの", "ふむ、どうしてそれがわかつたの?", "だつて、雲井先生がそうだし、先生のところでお目にかゝる若い方がみんなそうおつしやるから………", "まあ、君がいゝと思うようにしなさい。僕にはそういう方面のことはまるでわからないんだ。それや、君は天才かもしれないけれど、なんだか、君の小説を買つて読むひとがあるなんて、僕には不思議みたいだよ" ], [ "あら、いやだ、わたしの小説を買つて読むなんて、まだ、そんなところまでは、なかなかいきやしないわ。たゞ、雑誌で、のせてくれるかもわからないだけですわ。それでも、雑誌によつては、原稿料をくれるんですつて……いくらか知らないけど……", "それやそうだろう、その雑誌が売れる雑誌ならね。雲井先生は、君に甘いんじやないか", "そうでもないらしいわ。陰でも、ほめてらつしやるんですつて……。でも、それで、あるひとに冷やかされちやつたわ", "当り前さ、誰だつてそう思うよ。うちの多津なんぞ、すこしやき餅やいてるぞ" ], [ "あら、そんなの変だわ、多津お姉さまは、れつきとした先生の愛人じやないの。それに、なんにもお書きになるつもり、ないしさ", "書く書かないは別としてさ、雲井先生が、君なんかに特別の好意をもつてるとしたら、心穏かでないだろう。あんまりあいつをやきもきさせないように頼むよ", "大丈夫よ、多津お姉さまは、雲井先生を完全にキャッチしてらつしやるわ。そりや見事よ、実にやんわりとですもの", "おい、おい、君に、そんなことがわかるのかい? 驚いたね、やんわりと、か……" ], [ "やめないわけにいかんでしよう。僕は自分でなにか仕事をはじめますよ。勤めるのは、もう、いやです", "贅沢を言つとる。自分でなにができる!", "もちろん、できる範囲のことをやるんです。まあ、すこし考えさしてください。真喜、なにが可笑しいんだ?" ], [ "あら、あたし、笑つてなんかいないわ。できる範囲のこと、なんて、別に自慢にもならないことおつしやるから、ちよつと、兄さまらしくないと思つたのよ", "そうか、自慢にならんか。謙譲の美徳だと思え" ], [ "わしと関係のないところなら、まあ、それでもいゝさ。わしが口を利いて、いわばわしの顔で入れたお前だ。社長の陣内だつて、気をわるくせんとも限らん", "そのへんのことも、考えないわけじやなかつたんです。お父さんの立場は十分尊重して、事を運んだつもりです。社長も、今日、お父さんは実に立派だつて、褒めてましたよ", "それや、褒めるだろう、うまくやつたのは、あいつ一人だ。そんなことより、お前は、みすみす、運を取り逃がしたようなもんだ。あの男に喰い入つとくのは、今なんだ", "僕には、あいにく、そういう興味はないんです。お父さん、僕からこんなこと言うと、変ですけれど、もう好い加減に、つまらん事業から手を引いたらどうですか?", "それで、食つていければ、だ", "そんなに、先が見えてるんですか?", "なにを言つとる! まだまだ、貯えなんぞできとりやせん", "家や土地をだいぶん買つたようじやありませんか", "そんなものが何になる。会社の俸給を棒にふつて、わしは、来月からどうしようかと思つとるんだ", "株の配当で、十分やつていけるでしよう", "バカ! そんな量見だから、うかうかお前までが鷹揚な真似をしたくなるんだ。わしは、なるほど、お前の言うことに一応は従つた。それはなにも、重役の俸給なにがしが不要だというんじやない。こうしておけば、あの社長が、いずれ黙つてほうつてはおかんと思つたからだ。それに、こうなつた以上、わしは、今少しばかりある現金を、なるだけ割のいゝ方面へ廻してみようと思つとるんだ。うまくいくかどうか知らんが……。乗るか、そるかだ", "あとのことは、僕もあんまり考えてはいませんでしたが、とにかく、あの場合、お父さんにあゝ出ていたゞくことは、絶対に必要だつたし、その結果については、十分感謝しているわけです。しかし、僕はもう、家へ物質的な負担はかけない決心でいますし、多津も、ぶらぶらしてないで、再婚するなり、すぐ働きに出るなりした方がいゝんだし、そうすれば、お父さんも、あんまり、金のことであくせくなさらんですむわけでしよう", "わしは、今なら、どうかなると思つとる。たゞ、老後のことだ。結局、足腰立たんようになつて、お前たちに厄介をかけたくないのさ" ], [ "ご家庭のことは、かねがね菊ちやんから伺つておりました。ことに、お兄さまに最近お目にかゝつたなんて、それとなく話していたようですわ。まつたくこういう商売にはもつたいないくらい純情な子で、ご存じかどうか知りませんけど、以前から想つている一人の男のために、尽せるだけ尽している様子は、みていて、気の毒なようでもあり、まつたく、そう言つちやなんですけど、じれつたいほどでしたわ。ねえ、ツタちやん", "ほんと……相手はそれをいゝことにしすぎてたわ", "こゝへ来たのは、その男とじやないんですか" ], [ "これは?", "ですから、それが菊ちやんのいゝひとなんですよ" ], [ "うむ、輪タク、結構。それにしたつて、手蔓はいるだろう", "親方みたいな奴がいるにちがいないよ。面倒なことはないさ、じかに当つてみろよ", "当つてみてもいゝが、そこまで腹をきめたら、別に輪タクには限るまい。もうちつと、スリルのある商売はないか?", "輪タクも、やりようじや、スリル満点らしいぜ。おれの中学時代の同級で、鎌倉にいるのが、土地じやまずいからつて、銀座で稼いでる奴がいるよ。こないだ、ひよつくり会つて、面喰つたよ" ], [ "なに、仕事を探してる? ぼやぼやするなよ。そんなもの、いくらだつてころがつてるじやないか", "選り好みをしなければだろう?", "よろしい。貴様の選り好みを言つてみろ", "平凡な勤めは真つ平なんだ", "平凡と来やがらあ。勤めは、どつちみち平凡を基礎にして成立つもんだ。そいつを、平凡でなくするのは、頭と腕だよ", "また、お説教か。それより、おれは、輪タクでもやろうかと思つてるんだ", "輪タク……おどかすない。あんなもん、貴様にできたらおなぐさみだ。おれも人力を挽いたことはあるが、腕力をあんな風に使うのは損だ、どうだ、ひとつ、面白い商売を教えようか?", "面白くなくつても、自分勝手にできるもんならいゝな", "だからよ、たつた一人で、マンホールの中を歩く商売は、どうだ。夕方から朝までかゝつて、三里近く、あの暗い下水道をぶらぶら歩くだけだ。一晩の収入二千円はどうだ", "そんな商売があるのか?", "からだがじくじくするのと、眼がくらむほど臭いのが難点だが、ほかにうるさい相手はいないしさ。時々、泥鼠が頬つぺたへぶつかるぐらいなもんだ", "毎晩か?", "そいつは、自由勝手だ。いやになつたら、いつでもやめてさ、からだに浸み込んだ臭いがぬける頃、またおつぱじめれやいゝんだ", "二千円は大きいな", "そうよ、贅沢言わなけれや、十日働いて、十日休めるつてわけさ。それがいやなら、今、おれのところで請け負つてる、船の荷役の監督はどうだ。これは、八時間交替で、夜勤は定額の三倍、一と月、夜勤を続ければ、ざつと税ぬき五万だ。わるくないだろう", "わるくないが、楽でもないな", "そんなら、こういうのは、どうだ。ある新興成金の英語個人教授、毎週三日、午前九時から午後一時までの間に三十分乃至一時間、初歩英会話を主として見てやる。時間が不定なのは、暇があつて気が向いた時というのだから、その日は、半日、その別宅で待機しているという条件だ。それで一ヵ月交通費は別として、一万五千、ひと部屋自由に使わせて、昼食はむろん出すというのだが、これは、わりかたいゝだろう", "ちよつと気味のわるい話だが、相手次第では引受けてもいゝな", "なに、当人は三十いくつかの若造で、戦後急にのしあがつた一種の風雲児さ。鼻息は荒いが、さつぱりした、腹のすわつた男だよ。紹介しようか?", "どこだい、場所は?", "その別宅は鎌倉材木座だそうだ。オフィスがこの横浜にもあつて、ちよいちよい会うんだ。待てよ、電話をかけてみよう" ], [ "やあ、ようこそ……浜田君はこの家、はじめてだつたんだねえ", "はじめてさ。こんなところへ呼ばれる身分じやないもの", "まあ、そう言いなさんな。時に、早速、心掛けてくれてありがとう。この方かい?", "あゝ、京野等志君だ。さつき電話で詳しいことは話さなかつたが、外語出の秀才でね、英仏独、なんでもござれだ。窮屈な勤めは性分に合わんのだそうだ。お父さんのやつておられる会社を、自分でおん出たという経歴の持主でね、まあ、あんたの英語の相手なら、我慢できるだろうと思つてさ", "どうも、今更、英語でもあるまいなんて、時々思うんだが、やつぱり、近頃は、片言ぐらい喋れんと不自由でね。元来、勉強ぎらいと来てるんだから、先生、ひとつ、よろしく頼みますよ" ], [ "それが、どうして、金儲けとなると、目をつぶつてても、損得の勘定を間違わないんだから、つまり、その道の天才というわけだ", "バカにおだてるなあ。今晩、飯を食つていけよ。京野先生も一緒にどうです" ], [ "どうだ、遠矢幸造の印象は?", "なに、印象なんかどうでもいゝさ。第一、ほんとにやる気かどうか、おれにはさつぱりわからんよ", "いゝじやないか、向うがやるというんだから……。まあ、どこまで続くか、ちよつと見ものだよ" ], [ "みんなもう寝ましたか", "さつきまで起きてたんだけど……。それがさ、今日、南条さんが来なすつたろう? あの話で、みんな大笑いさ", "真喜をくれつていうんでしよう。どうして、大笑いなんです", "おや、兄さん、それを知つてるの? だつて、真喜が帰つてから、お父さんがその話をなさると、あの娘、なんて言つたとお思いだい?", "真喜がですか? さあ、ちよつと面喰つたでしよう", "それどころじやないんだよ。いきなり、プッつて、吹き出すんじやないの" ], [ "どうだい、等志、あの南条という男は、将来見込みはあるのかい?", "見込みつて、どういう意味ですか?" ], [ "つまり、人物としてさ。大成する人物かどうかというんだ", "しかし、お父さん、真喜は別に大人物を夫に持とうとは思つていないでしよう", "いや、わしの言うのは、真面目に仕事の出来る男かどうか、だ", "いゝわよ、もう、そんな詮議なんかしなくつたつて……" ], [ "それや、お前の意志が第一は第一だ。しかし、お父さんとしてもだ、この際、どつちかにはつきり、肚をきめとかにやならん", "いやだわ。あたしが問題にしてないひとを、お父さんが問題になさる必要ないわ", "問題にするもしないも、お前だつて、あの男のことは、なんにも知りやせんじやないか。ふだん、そうつき合つてもおらんというし……", "だから、知らないから問題にならないのよ。それに、あたし、結婚なんて、まだ、いやよ。そんな話きくと、ぞつとするわ", "まあ、まあ、そうずけずけ言わんでも、話はできるじやないか。昔なら、お前ひとりを前において、それとなくお父さんなりお母さんなりから、意向をたしかめるという具合にするんだが、今どき、ことにお前ほどの現代娘に、そんな改まつた方法をとる必要もないと思つて、実は、昨夜もみんなの前で切り出したんだ。この話は、お前はいろいろ言うけれど、決して、当節、悪い話じやないと、お父さんは思う。相手は兄さんの親友で、家柄は秋田で名の知れた旧家だというし、亡くなつた父親は村長もしたことがあるそうだ。それに、親代りの叔父さんが元陸軍中将で、現に、有名な自動車会社の顧問をしてござるというんだ。田舎にまだかなりの土地もあり、甥の名義で果樹園をやつているというから、どんなことをしたつて、食いはぐれはない。まあ、それはそれとして、昨日、あゝやつて、わざわざ叔父さんを連れて来てさ、二人で、率直に、熱心に、お前を是非くれと言つて、手をつかんばかりにして頼むところをみると、わしは、なんと言つたらいゝか、その意気に感じないわけにいかんじやないか……。礼を尽し、誠意をこめ、しかも、堂々として、臆するところのない態度は、まことに見あげたもんだ。たゞ、一点、慎重を期すべきは、なんといつても、当の相手、南条なる男の、俗にいう頭のよしあし、腕のあるなし、だが、これは、等志が、古くから友人としてすべてのことを知りぬいているわけだから、ひとつ、参考意見を、割引なしに言つてもらおうじやないか", "お父さん、おつゆがさめますよ" ], [ "あら、そんなことないわ。ちかごろの娘は、わりに年とつた男に興味をもつのよ。結婚の相手は、ことに、十以上違わなければつていうのが、常識になつてるくらいよ", "ほんとかい、それや? 驚いた世の中だよ。そんなら、兄さんのお嫁さんも、十八ぐらいの小娘でなけれやつていうわけだね", "それが、年を取るほど開きが大きくなるんですよ。女も三十近くなると、もう、六十以上の男でなけれや、相手にしないんですつて……" ], [ "なあ、今の真喜の縁談だが、いずれ、当人の意向もたゞし、周囲とも相談して、なにぶんの返事をすると、こんな挨拶をしておいたんだが、お前には南条から、なんにもその話はなかつたか?", "それや、ありました。自分で、ちやんと順序を踏んで申込むと言つてました。あいつ、あれで、なかなか、形式家なんです", "形式はそれでよろしいが、真喜があの調子じや、まるで話にならんじやないか", "そいつは、僕の責任じやありませんよ。真喜が南条を知らないように、南条もおそらく、真喜のことがわかつてないんだと思います。箱入娘ぐらいに思つてるのかも知れませんよ", "じや、どうすればいゝか、だ", "まだその時期じやないつていう返事をしたらいゝでしよう", "ちよつと、惜しい気もするな", "お父さんにこんなこと言うのは無理でしようが、僕の考えだけを言うとですよ、大体、両親が子供の縁談を多少、急ぐ傾向があるのは、どうかと思うんです。結局、娘の場合なんか、それは、却つて、不幸の原因になることが多いんじやないでしようか。娘を嫁にやつて、ほつとするのは大間違いで、それより、自分で相手を選ぶ能力と、男によつかゝらないでも、生活していける下地を作つてやるのが、親の責任だという考え方が、僕は、健全だと思うんです" ], [ "うむ、それはわかつとる。わかつとるが、しかし、実際は、そう割り切れた態度はとれんのだよ。まあ、お前だつて、今に、わしの年になつて、娘の二、三人も持つてみろ", "そん時、僕のやり方を、お父さんに見ていたゞきたいですね、できることなら……" ], [ "それが、そうよくないらしいんですの。でも、お家で、そうそう長く病院にいられては、つて、おつしやるんですつて……", "そういうところがわからないんだなあ、あゝいう連中は……" ], [ "どうだい、近頃、工場の方は? 満足に月給をくれるかい?", "えゝ、どうやら、やり繰りをしてるらしいわ", "小説の方は? 傑作ができたらしいな", "あら、どうして? そんなこと、誰か言いました?", "誰から聞かなくつても、君の顔に書いてある。だんだん、新進女流作家みたいな恰好になつて来たよ", "いやだわ、デタラメ言つて……", "しかし、二人でいやにしんみり話してるじやないか。文学の話は、そういう風に、ひそひそと話すもんかい?", "兄さまつたら、変よ。しのぶちやんをそんなにいじめるもんじやなくつてよ", "いじめてやしないさ。だつて、ほんとじやないか、二人は、さつきから、一度も笑わなかつたぜ、ちやんとわかるよ", "だから、真面目なお話してるんだから、そんなに邪魔しないでちようだい。なんか、しのぶちやんにご用なの?" ], [ "こつちも真面目な話だ。ねえ、百瀬君に聞くが、長久保の奥さんから、いつたい、なんて言つて来たの? もうじき退院するつていうだけ? やつぱり松本へ帰るんだろうな", "もちろん、そうだと思うわ。だつて、ほかにいらつしやるところ、ないわけですもの", "汽車へなんぞ乗つて、大丈夫なのか知ら?", "大丈夫でなけれや、お医者さまがおゆるしにならないわ", "なるほど、君は、実に、はつきりしてる。奥さんの手紙には、絶望的というか、どこか、やけつぱちなところとか、妙に諦めきつたようなところ、なかつた?", "あの奥さまは、いつも、静かで、激しいところを表面におだしにならないから、お気持の奥の奥までは、わたしには、よくわかりませんの。でも、絶望的なんてことは、おありにならないと思いますわ。でも、今度のお手紙には、珍しく、京野さんのことは、ちつとも書いてないんです", "多津、お前、そばで、そんな顔してきいてなくつてもいゝ。これは二人だけの話だ", "おや、あたしにもわかつてるお話のつもりでいたのに……", "わかつてれば、それでいゝさ。わかつてるなら、わかつてるようなきゝ方があるだろう。お前の、その、空とぼけたような顔が気にくわんのだ", "しのぶちやん、こんなご機嫌のわるい兄は、今まで見たことがないのよ。きつと、その問題で、じりじりしてるんだわ。ご存じのこと、なんでも詳しく話してあげてちようだい", "そうまた、お前が余計なお節介をする必要はないさ。しのぶ君は、なんにもおれにかくす必要はないんだから……。さ、こつちの話は、これですんだ。どうぞ、あとは、ゆつくり、文学の話でも、恋愛の話でもなさいまし。多津、おれはちよつと出て来る。四五日、帰らないかも知れないから、飯の用意はしなくつていゝよ" ], [ "主人は、昨年からずつと、中風の気味で、臥せつておりますんです。あたくしも、眼をひどく患いまして……こうしていても、あなたのお顔がはつきりいたしませんのですよ", "そうですか、それやお困りでしよう。それから、弟さん、宗重君はどうされました?", "あれは、予科練から無事に帰つて参りまして、たゞ今、父の会社の方に勤めております。それから、小萩は、なんでございます……信州の方へ嫁ずきまして……" ], [ "こちらでご存じないとすれば、これは由々しいことです。その間の事情も、うすうす、友人から聞いてはいましたが、小萩さんになんの罪もない筈です。ご実家の方が、小萩さんの現在をどういう風にみておいでになるか、僕はそれを知りたいんです", "主人の耳にはいるとうるそうございますから、どうぞ、もうすこしお静かに……" ], [ "いや、僕は、お母さんだけでなく、お父さんのご意見も伺いたいんです。別に面倒な問題じやありません。長久保家で、小萩さんの病気治療に責任をもたない場合、ご実家では、どういう処置をお取りになりますか", "さあ、いきなりそうおつしやられても、わたくし一存ではお返事ができかねますけれども、実は、長久保家と、当家とは、まつたく絶縁も同然で、小萩はもう、あちらへやつたものでございますから、わたくしどもの娘とは思つておりませんのです", "それは、お母さんのお考えですか、お父さんのお考えですか?", "…………" ], [ "えゝ、待つてください。面会はできるでしようね、むろん?", "差支えないと思います。お宅の方が見えていますから……" ], [ "僕は、京野という、患者の実家と関係のある者ですが、今までの容態でみると、明日退院というのは、すこし、素人考えにも無理のように思われて、心配なんです。療養所として、まさか、無責任な処置をなさる筈はありますまい。しかし、患者自身なり、その保護者なりが、たつてという場合、ある程度、危険でも、退院をゆるされるようなことはありますまいか?", "そうですねえ、医者の立場からは、もつと入院治療を続けた方がいゝと思つても、家庭の事情やなんかで、どうしてもそれができないといわれゝばしかたがありません", "しかし、それは、たゞ、どちらがいゝかという別の問題で、まだ安静を必要とする患者を、旅行とか生活環境の急変とか、そういう、直接、容態に影響する悪条件の下に、強いておくことは、あなた方の責任で回避するのが当然ではないんですか?", "それは、厳密に言えばその通りです。絶対許可できない状態なら、誰の要求でも絶対に許すわけにいきません。しかし、多少の危険があるかも知れないという程度なら、これはどうも、患者側の意志を尊重しないわけにいかないでしよう。むろん、こつちは、それに対して責任はもち得ません", "多少の危険と言われましたが、それは、生命の危険を含む場合だつてあるでしよう? たとえ、そんなことは、万が一であるにせよ、お医者の権威と人命尊重の精神から、断乎として、患者の行動を制約するという風にしてもらいたいんですが……", "あなたのおつしやることは、よくわかります。しかし、今度の場合は、患者から、家庭の事情で、どうしてもこのまゝ、こゝにいるわけにいかないからと、かなり強い要求があり、その理由はともかく、そういう状態では、仮りにこゝにおいても、満足な療養生活はできないだろう、という見透しで、所長が裁断を下したんです", "では、すこし立ち入つた事情をお話しますが、あの患者は、現在の家庭に帰れば、おそらく、周囲の無理解のために、死を早めることになるだろうと思うんです。今日、家の者が来てるそうですが、あの患者は、不幸な結婚をした女で、夫のそばにいることが、むしろ苦痛といつてもいゝんです。そこで、僕のお願いですが、一度、その家の者と一緒にお話を伺うようにさせてください。今、僕が伺つたとおりのことを、もう一度、家の者と僕と、二人の前で、はつきり、おつしやつていたゞけませんか?", "さあ、それはちよつと……なにしろ、もう、退院の許可が出てるんですから……", "では、もし所長がおられゝば、所長に直接お話し願つてもいゝのです。どうか、それだけ、所長にお取り次ぎ願います。それから、恐縮ですが、看護婦さんにでも、患者の家の者をこゝへ呼ばせていたゞけませんか" ], [ "だつて、退院は、医者がもういゝつて言つてからで遅くないじやありませんか。今、主治医に聞いた話によると、まだ、そんな状態じやないつていうのに……", "なに、医者はいつまでもそんなことを言うのさ。当人も、早く出たいつて言つとるし……", "病人がそう言うから、も、おかしいと思いますねえ。余計なことのようだけれども、僕は、この病気について、多少、聞きかじつてることもあります。療養所以外に、完全な治療のできるところはないそうですよ。僕は、いま、所長に会おうと思つてるところですが、あなたも、一度、挨拶をされたらどうです。まだでしよう", "所長にかね、まあ、そりやどうでもいゝが……", "どうでもよくはないですよ。特別に退院を許してくれたんだそうだから……" ], [ "もちろん、僕には長久保家の事情はさつぱりわからないんですが、それはそれとして、患者が現在の容態でこの療養所から出ることの可否について、先生のはつきりしたご意見を、直接、ご主人の耳にいれておいていたゞきたいんです。どうも、そのへんのところが徹底していないのじやないか、と、僕は、ちよつと気がついたもんですから……", "いや、それは、もう、だいたい石川先生の話で……" ], [ "石川先生は、僕には、今退院させるのは不賛成だと言いましたよ。患者の家庭の都合で、止むを得ず許したと、はつきり言いました。所長のご意見として、そのことが、どういう風にあなたの耳にひゞくか、僕はそれが知りたいんだ", "失礼ですが、京野さんといわれましたね、あなたと長久保さんとはどういうご関係で……?" ], [ "あ、それは、さつき申しあげませんでしたが、僕は、患者の小萩さんの実家をよく知つているものです", "それだけのご関係ですか?", "それで十分じやないでしようか?" ], [ "では、伺いますが、家庭の都合が、どういう都合であつても、それは、あなたがたには、問題でないとおつしやるのですか? 例えば、経済的な負担に堪えられないというような場合、療養所として、採るべき方法はないのですか?", "ないことはありません。そのことが明瞭にされゝばです", "そんなら、家族の者が、容態を軽く見すぎているか、或は、病気に対する理解が薄いために、自宅で多少の雑用ぐらいはできると思い込んでいる場合、医師として、その蒙を啓く義務はありませんか", "それも、患者を通じて、十分に、注意してある筈です", "患者を通じて、それが徹底するとお思いですか? 患者が、ことに、農村の主婦である場合、医師の注意を自分も守り、周囲にもそれを認容させることの如何に困難であるかをお考えになつたことがありますか?", "それは、おつしやるまでもなく、われわれも考えていることです。しかし、われわれの力には、限りがあるのです。医者が、そこまで力を伸すことは、現在の制度では不可能だということを、あなたもお察しくださることはできませんか?" ], [ "失礼ですが、商売に出ていらしつたつていうのは、どこですか?", "あたし? はじめは赤坂、それから、ずつと新橋……つい最近までよ", "へえ、新橋ですか……" ], [ "だれか、ご存じ?", "いや、いや、僕は、その方面とはまつたく縁がありません。たゞ……" ], [ "たゞ、僕の妹が、やつぱり芸者をしていましてね、新橋で……", "あら、なんておつしやるの?", "小菊とかいう名で出ていました。本名は、美佐ですが……" ], [ "失礼ですが、どちらから……?", "名前なぞ申しあげてもしようがございません。熊谷からとおつしやつてくださればわかります", "あの、熊谷? どんなご用事か存じませんけれど、たゞいま、あいにく、出かけておりますんですが………", "では、お帰りになるまで、こゝで待たせていたゞきます" ], [ "えゝと、僕のほかに、両親と妹が二人、妹は、どつちも、もう子供じやありませんが……", "ほんと、小さいお子さんのある方は、絶対にお世話できないわ" ], [ "あたし、ちよつと、浮気がしてみたいの", "へえ、わるい趣味だ、手近なものを利用するのは" ], [ "いゝじやないの、それがそんなに、ざらにあるもんでさえなけれや……", "光栄です。たゞ、そつちが、ざらにないかどうかの問題さ" ], [ "今のは、まつたく戯談だけれど、僕は、あなたのような女性と、しやれたおつきあいはできない男なんだ。浮気というような言葉でさえ、僕には、ほんとの意味がわからないんだからな。ほんとの意味つていうか、むしろ、微妙な意味がね。それで、浮気の相手になれますか、いつたい……", "そんなこと、なんでもないじやないの。男と女とがいてさ、ふつと、どつちかの出来心で、なんとなく、そうなつたら、それでいゝんだわ", "なんのことか、さつぱりわからない" ], [ "送つてちようだい、つて言いたいところだけど、まあ、やめとくわ。じや、おやすみなさい", "どうも、うまい挨拶ができなくつて困るが、ともかく、送りません。気をつけてお帰りなさい。タクシイがあるでしよう" ], [ "大森……いゝ家だぜ。二階の八畳と四畳半二間、それに、台所と風呂は自由に使つてくれつていうんだ", "それで、あちらさんのご家族は?" ], [ "女主人と女中一人、それだけです。二階を貸したら、女中は暇を出すつていうんです。お母さん、まあ、しばらく、我慢してください。赤ん坊は、すぐでなく、一と月たつたら、引取りましよう。赤ん坊のことを、つい、言いそびれちまいましたから……", "それが、兄さん、今朝も、また、催促に来てさ、いつまで待たせるんだつていうんだよ。あたしは、どうせそうときまれば、すぐでもいゝんだけれど、多津が、まあ、このどさくさが落ちつくまで待つてもらえつていうもんだから……", "そうよ、なにもなけれや、お母さん、きつと、倒れちまいなさるわ", "あたしは、どつちみち、赤ん坊の世話なんかごめんだわ。一緒に寝るんだつていやだわ" ], [ "おばさま、今日はとてもすてきだわ。なんの感じかしら……? あゝ、そうだわ、リンドウだわ……", "あら、たいへんな形容ね。どうしても花をもつて来なければわるいと思つて……。でも、秋、一番おそくまで、山道の枯れかけた草むらの中に咲いている花じやないの", "そんな意味をおつけにならなくつていゝわ。たゞ、あの花のかたちと色の感じよ……お着物のせいもあるわ、きつと……" ], [ "それや、眼のためにはいゝにちがいないけれど、あたしはとにかく、一生眼がねはかけないつて決心をしてるの。あなたなんかとちがつて、あたしが眼がねかけたら、とても気障になると思うわ", "迷信よ、おばさま……そんなの、ふるいわ" ], [ "ほんと、ふるいつたらないのよ、あたしは……。眼がねにかぎらず、いろんな、そういう先入見が、頭へしみこんで、なかなかぬけきれないの。子供の時分からそれ式にしこまれてしまつたんだわ", "あら、おばさま、あたしは、眼がねのことだけをいつてるのよ。おばさまは、そのほかのこと、ちつともふるくなんかおありにならないわ。療養所の、女のひとのうちで、一番、進歩的じやないの", "進歩的はおそれいるけど、まあ、せいぜい、自分で気のつく範囲では、旧套を脱しようとつとめてるのよ。これでも、たいへんな革命なの、あたしとしちや……" ], [ "まあ、すてき……。やつぱり、おばさまは勇気がおありになるんだわ。あたしも、うちで、いけないつて教えられたことで、どうしてもなぜだかわからないことがあるの。それが、みんな、女だからいけない、でしよう? そういうの、どうお思いになる、おばさま?", "さあ、それだけじやわからないけど、例えばどういうこと? 言つてごらんなさい", "だから、それがどういうことだかも、うまく言えないのよ。なんだかわからないけど、ちよつとしたところで、もういけないんだわ。うちの父も母も、それでも、みんなから、ハイカラだつて言われてる方なのよ。それなのに、あたしのことになると、すぐに、そんなことするもんじやない、そんなこと言うもんじやない、そんなこと考えるもんじやない……どうすればいゝんだか、しまいにわからなくなるの", "へえ、それにしちや、あなたは、ちつともいじけてなんかいないわ。ちやんと、なにもかもわかつてるじやないの。お父さまやお母さまは、きつと、あなたを上手に教育なすつたんだわ", "いやなおばさま……それじや、まるで、あたしが自慢したみたいじやないの" ], [ "すこしくらいの坂道なら、もう平気よ。ずいぶんお探しになつた?", "今、散歩に出てるつていうもんだから、じつと帰るのを待つてるより、こつちも散歩かたがた、あとを追つかけてみようと思つたんです", "この雪の山道を……? 途中でいやにおなりになつたでしよう?", "もうすこしで……", "よかつたわ。あ、このお嬢さんはね、おんなじお部屋の方、島内京子さん……あたしの一番の仲よしよ。こちら、京野等志さん、いつかお話したわね、あたしの娘時代のお友達……" ], [ "喧嘩別れともいえないわ", "僕はまた、長久保さんが急に死にでもしたのかと思つたくらいだ。じや、生きてることは生きているの?", "ぴんぴん……。でも、ちやんと話合いはつけたの", "すると、双方合意の上の離婚ですか?", "まあ、そうね。言い出したのはあたし、賛成したのは向うなんだから……", "あ、そう、あべこべじやないんだな", "あべこべでもおんなじよ。こつちも、向うがそれを切り出すのを待つてたんだから……。待ちきれなくなつただけ……", "あなたは、どういう風に切り出したの……", "この暮に、あのひとが二度目に療養所へ来たとき、また親戚がどうの、近所がどうのつて言いだしたから、あたし、思いきつて、別れ話を持ちだしてみたの。できるだけ穏やかな言葉で、こういう病気の女は、主婦としても、妻としても、まつたく無資格なんだから、潔よく身をひくべきだと思うつて、言つてやつたの。子供のためにも、結局、今のうちに、早く新しい母親をみつけてやつた方が、仕合せなんじやないか、とも、言つたわ。自分のことはどうでもいゝ。長久保家のために、すべてを忍ぶつもりだ、なんて、神妙なことを言つてしまつたの。すると、長久保は、はじめ、とんでもないつていうような顔はしたけど、そのあとで一生懸命、しよげきつたような顔をして、――お前がそこまでのことを考えてくれるのは、ほんとにわしを愛してくれるからだと思う。それに対して、わしは、夫として取るべき二つの態度のうち、やはり、お前と同様に勇気のいる、困難な方を選ぶのが、お前に対するほんとの愛情だと思う。お前を、そのからだのまゝ、長久保家から去らせるわしの苦痛は、察してもらいたい。しかし、一方、お前もまた、このまゝ、わしどもの世話になつているという心の負担を取除くことができるわけだ。東京の実家でも、ひとりになつたお前を見捨てゝおくようなことはあるまい。こんどこそ、誰にも気兼なく、安心して養生するがいゝ。そう言つて、あと一ヵ月分の費用をおいて行つたわ" ], [ "そうかな。僕は、そういう芝居はきらいだなあ。はつきりさせることは、はつきりさせたらいゝじやないか。先生は、僕のこと、なんか言つてた?", "それが、あなたのことなんぞ、おくびにも出さないの。いつか療養所へいらしつた時、ちらつと暗い顔をしてみせたきりよ。それも、あたし、感心してるの", "感心ばかりしてるんだなあ、旦那さんのことを………" ], [ "だつて、あたしが自由になるか、ならないかは、長久保の出かたひとつなんですもの。いよいよ、話を切りだすまで、それこそ、いろんなことが心配になつたわ。こつちの気持をみすかされたら、もうおしまいだと思つたくらいよ", "見すかされるつて、なにを?" ], [ "それは、いま、言えないわ、あなたの前で……。あたしの果敢ない夢みたいなもの……現実の問題じやない……。たゞ、あのひとの束縛から自由になりたい気持……なにもかも、うるさい世間も、きゆうくつな習慣も、払いのけたい気持……そんなわがまゝな気持を、直接あのひとにぶつけてみたつて、どうにもならないと思つたの。なぜだつてきかれたら、返事はできないんですもの", "じや、僕からきゝますが、あなたは、なぜ、あなたの夢を、現実の問題じやないつて言い張るんです? 僕への手紙にも、なぜ、あんな、生ぬるいことしか書かないんです? どうして、なんの希望もない、とか、僕に会つて、過ぎし日の思い出を語ろうなんて、つまらないことしか書かないんです? どうして、もうひといきという勇気を出さないんです? あなたは、その元気じやないか! いつたい、どこがわるいんだ。あなたは、精神まで結核に侵されてるんですか? 僕は、いま、ここに、あなたのそばにいるんですよ。どうしろ、と言つてください。あなたの、その、逃げ支度みたいな、うさんな影が、僕には目ざわりなんだ" ], [ "うれしいの、あたし……。だけど、もう、いけないわ。あたしは病気なのよ", "病気にさわるかしら……これつぱかりのこと………" ], [ "そういう想像は、あたし、してみたことないけど、やつぱり、からださえ丈夫ならつて、いくど考えたかわからないわ", "欲ばつちやいけない。あなたの肺臓に、病菌がどれほどうようよしていても、僕は、そのあなたが、世の中で一番好きなんだ。どら、僕の顔を、そうしてじつと見ていてごらんなさい。あなたの眼は、もう希望に輝いている。みていたまえ。明日から、めきめきとよくなるから……。医者がびつくりするから……。この三月には、用意万端をとゝのえて、僕が迎いに来よう", "あたし、もう、病院生活は、あきあきしたの。どこか山奥へでも引つ込んで、ひとりで自炊をしながら、誰の邪魔にもならないようにして暮せたらと思うわ" ], [ "ふむ、それも一案だが、そんな生活に堪えられるかなあ、あなたが……", "どんな生活だつて、今までの生活よりは堪えられてよ。娘時代の生活も、やりきれないほどつまらなかつたし……それから後は、お察しのとおりだわ。あたしをもし、一日でも長く生かしておきたいとお思いになつたら、後生だから、医者も薬も、なんにもいらない、たゞ、あなたのことだけ考えて、その日を送れるようなところへ、やつてちようだい。あなたのお声をたまに聞いてさえいれば、人の言葉なんぞひとつも聞きたくない……" ], [ "ねえ、あたしは、ほんとに、困つた女でしよう? これで、自分だけのことを考えてるつもりじやないのよ。それが、つい、今までの反動で、言えることは、みんな言つてしまいたくなるの。でも、言うだけなら、いゝでしよう? あなたが、それを、いちいち本気におとりになるなら、あたしもうちつと、考えてものを言うわ。ふつと頭に浮んだことを、すぐに口に出すと、あゝなるのよ。ほんとに、それも、つい、最近よ、そういう傾向があるのは……", "いやにまた、神妙に自己反省をはじめたもんだなあ。いゝよ、かまわないよ。うんと、難題を出したまえ。その方が張合いができて、いゝくらいだ。空気のいゝ、景色もわるくない、どこか山国の、静かな村か町かで、百姓家かお寺の離れでも借りてさ、のん気に、一年か二年、ひとり暮しをするなら、そんな費用はなんでもないさ。たゞ、僕が始終そばについていて、面倒をみてあげられないのが難点だ、というんだよ。それだけさ、問題は……", "そうよ、それだけよ、問題は……。でも、やつぱり、それでも、療養所にいるよりは、ましだわ、どこからみても……", "お医者がどういうかは別としてね", "あなただつて、その方が、あたしのところへいらつしやり甲斐があつてよ。すこしは、サーヴィスだつて、あたしの思うように、できるしさ。お好きなものぐらい、どうにか、作つてあげられそうだわ", "僕は、野菜があればなんにもいらないんだ", "もつて来いじやないの、お百姓の畑から、とりたてのお野菜を、いつだつて貰つて来れるわ", "戦争中と違つてね", "まつたく……。おトウナス一つをおろしたての博多帯一本で買わされるなんて、どうかしてたわ" ], [ "明り、消してもよろしい?", "あゝ、どうぞ……" ], [ "まだ、いくらでもお話が残つてるみたい……それを、自分ひとりで、あゝ言つたり、こう言つたりしてみているの……。あなたのお返事をむろん想像してよ。あなたは、そうすると、ほんとに、いゝことばかり言つてくださるわ", "すると、その僕は、この僕よりも、大いに歓迎されてるわけですね。嫉妬を感じる権利がありそうだな", "あなたには、そんなものは、おありにならないはずよ", "え? 僕に嫉妬がない? よろしい、ないとしておきましよう。すくなくとも、それがあるという証拠をみせるのは、まだ早いと思うから……", "そんなこと言つてるんじやないわ。あたしが、かりにも、あなた以外の男を夫と呼んだ事実を、黙つておゆるしになるの?" ], [ "そんなことが、言葉で通じるもんか。理屈が通つてれや、それでいゝのさ。僕は、はつきり言うが、そんなことは、なんとも思つてやしない。むろん、君を責めたり、恨んだりする筋合のもんじやない。長久保それがしという男なんぞ、僕は、君の夫だなんて思つてやしなかつたくらいさ。いや、これも、失言にちかい誇張だが、ほんとに、君というひとは、そんな関係からは、まつたく独立した永遠の僕の偶像さ。仏さんの前で坊主がなにをしたつて、それで仏さんのねうちが減るもんじやないからね", "そういうたとえを、いくら上手におつしやつたつて、あたしの胸に、ぴんと来ないから、いや……。あたしは、たかだか女よ。生身の女よ。一度失つたものは、もう取り返すことのできない、あわれな女よ", "そんなことを、あわれがるほど、僕はおめでたくないよ。なんだい、その、一度失つたものつていうのは……? まあ、それも、僕へのいたわりのつもりなら、黙つて聞いておくけど、そういう感傷は、僕たち二人の間には、用はないものとしておこうよ。僕はたゞ、君の善意、情熱、それから、女らしい欲望、それだけでたくさんだ。あとは、たゞ、露骨に言えば、君の、その、ふつくらとした……。よそう、あぶないから……" ], [ "からだがぐつと宙に押しあげられたと思つたら、部屋じゆうの窓はおゝかた外れて、窓ガラスがメチャメチャにわれたのよ。それと、ほとんどいつしよに、爆弾の落ちたような音がして、部屋じゆうが、いつまでもゆれてるの。電燈のカサは落ちる。テーブルの上に立て、あつた薬瓶は倒れる。そのうちに、屋根へバラバラ石のあたる音がするでしよう。もう、その時はおしまいだと思つたわ。だつて、あんな爆発はじめてなんですもの。やつと、浅間だとわかつて、みんな、外へ飛び出してみたの。明け方でしよう、最初の時は。白んだ空に、あの山の輪郭がくつきりと浮んでみえたとたん、頂上から噴きあげた煙が、古綿を丸めたようなかつこうで、末ひろがりにひろがりながら、頭の上へかぶさつて来てるの。それや、気味がわるいつたらないのよ。実際にみたものでないと、あん時のすさまじい感じはわからないわ", "なるほど、それやわからんでしよう。僕だつて、新聞は読んでるけれど、まるで見当はつかないもの。あなたのところなんぞ、まつたく関係はないと思つてた。しかし、まあ、危険つていう点じや、別にどうつてこともないんじやないの、浅間のちよつとした噴火ぐらい……", "いつでも、ちよつとした噴火ですめばいゝけどさ。天明の大爆発みたいなことがないとも限らないわ。鬼押出し、まだ、ご存じない?", "知らない。天明とは、よく歴史をしらべたもんだな", "みんなが言うから知つてるのよ" ], [ "それにちがいないから、それでいゝじやないの", "それでいゝのか、なるほど。わるいといつてみてもはじまるまい" ], [ "おつゆ、冷めちやつたわ。あつたかいのと替えてもらいましようか", "宿屋で、そんな贅沢言えるのかい?", "かまうもんですか、ちよつとそう言うわ" ], [ "えゝ、退院しようと思えばできるわ。でも、退院して、どうするの?", "僕と一緒に家を持つのさ", "こんなからだで、家のことなんかできないわ。あなたの足手まといになるだけだわ", "そんなこと、かまわないよ。君は病気の養生をすればいゝし、僕は、自分でなんでもするよ", "ダメよ、そういうことは……。しまいに、あなたがお疲れになるわ。あたしがおそばにいることがなんにもならないばかりでなく、いつかあなたを不幸にするにきまつてるわ", "そうきめてしまうのは、どうかと思うね。もつと、希望をもとうよ、希望を……。君が健康を取り戻せば、それでいゝんだろう。僕は、そのために、なんでもするつもりだ。君の病気は僕の力でなおしてみせる。それは、医者がなんと言おうと、僕の信念みたいなものだ。僕は、それだけで、勇気がいくらでも出るような気がするよ。君だつて、僕の熱心な看護に対して、是非とも早くなおろうと思うようになるだろう", "そういう風におつしやると、あたしは、もうどうしていゝかわからないわ。はつきり言えば、あなたは、まだ、なんにもご存じないからなの。あたしの病気は、もう、ほんとに、なおらないのよ。こうして、歩けるようになつたこと、まつたく、お医者さまも、不思議だつておつしやるの。自分でも、それはよくわかるわ。なまじつかな希望は、今のあたしには、苦しみの種だつていうことが、あなたにもわかつていたゞきたいわ。でも、あたしは、現に生きているんです。遠い先々の希望はないにしても、決して、暗い絶望のとりこにはなつていません。あなたと、こうしてお会いできたからですわ。まだ生きていて、よかつたと思うわ。でも、欲張らないの。一度、あなたのお顔をみて、言いたいだけのことを言つて、おしまいにするつもりだつたのに……あたしたちは、とうとう、こゝまで来てしまつたのよ。もう、いや……。もう、あたしは、なんとしても、こゝで踏み止まらなくつちや……。あなたを、これ以上、あたしのそばに引きとめておいては、いけないわ……" ], [ "苦しいんじやない?", "大丈夫……" ], [ "すこし、喋りすぎたかな。もう、これで話はすんだ。しばらく横にならなくつてもいゝ?", "うゝん、こうしてればいゝの。なんだか、眼の前がすこしずつ明るくなつて来たわ。やつぱり、あなたは、そういう方なんだわ。あたしは、ほんというと、今まで、愛されるつていうことが、どんなことかわかつていなかつたんだわ", "それはうかつなこつた。しかし、君が、僕をどういう風に愛していてくれるのか、僕にはよくわかつた。しかし、間違わないでくれたまえよ。愛の強さ、深さは、相手の愛を完全に享け容れるか、どうかにもよるんだぜ", "えゝ、わかつたわ。あたしは、たゞ、あなたがお気の毒みたいな気がしたの。そのことだけを考えたの", "それがいけないんだ。その結果は、二人がつまらない議論をしただけじやないか。参考にきいておきたいんだが、笑い話になるから言つてごらん。今日二人が、これつきり別れたとするよ、君の提案どおり……。それからあと、君はどうするつもりだ?", "とにかく療養所へ帰つて、ひと晩、ゆつくり、あなたとお会いしたことをもう一度想い出してみるの。生涯にたつた一度の幸福を、もしできたら、夢のなかで、もう一度味つてみるつもりだつたの", "僕と一緒にいられるだけいようと、どうして思わないの?", "だつて、そんなことしたら、いよいよ、別れられなくなりそうなんですもの", "それじや、一旦、療養所に帰つて、夢でもなんでもみるとしてさ、それから先は、どうするの? 病気がだんだんよくなつたら? それとも、ほかの事情で、療養所を出なけれやならなくなつたら? 君はいつたい、どこへ行くの?", "もう、そんなことはおきゝにならないで……。それこそ、過ぎ去つたことじやないの" ], [ "でも、あんまりご無理なさらないでね。このつぎは、いつ来てくださるの?", "さあ、いつときめてもいゝが、来たくなつたら、いつでも飛んで来るよ。さしあたり、なにか欲しいものはない? あつたら、すぐに送るよ" ], [ "どうしたも、こうしたも、あんた、昨夜おそく、あの女がやつて来てさ、無理矢理に押しつけて行つたんだよ。いつまで待つてもらちが明かないからつていうんだけど、もう、こつちの言うことなんぞ、聴こうとしないんだから……", "多津は?", "きよう一日、あんたの帰りを待つてたんだけど、夕方から、ちよつと出掛けるつて出たつきり、まだ戻つて来ないんだよ", "真喜は?", "あの子が始末にいけないのさ。ゆうべもお父さんをガミガミどなりつけて、今朝になると、もう学校へ行くのはやめるなんて言いだすんだもの", "お母さんもずいぶん苦労をさせられますね。しかし、その赤ん坊以外は、みんな自分で自分のことは考えるんですから、ひとりで心配するのはおよしなさい" ], [ "ところで、兄さん、下の奥さんがね、今朝からおつしやるんだよ――赤ちやんがおありになることは伺つておりませんでしたがつて……。詳しい事情を話すわけにいかず、あたしは、とにかく、親戚の子供をちよつと預ることになりましてつて、いゝ加減にごまかしといたけれど、とにかくお約束が違いますから、なんとかしていたゞかなければつて、それや、強硬なんだよ。どうしたものだろうね", "それやいゝですよ。僕からなんとか話してみましよう。どうしてもいけなけれや、またほかを探せばいゝじやありませんか" ], [ "兄さん、あたし学校やめて、自活しようと思うわ。今日、お友達に頼んで、もう、勤め口をきめて来たの", "うん、それもよかろう。どんな勤め口だ?", "銀座の化粧品店よ。交通費は別で、月に五千円ですつて……。お友達の借りてる部屋へ当分一緒においてもらうことにしたの" ], [ "多津も多津ですが、その前に、僕のことをいいます。僕は、近いうちに結婚するつもりです。相手は、七年前に知り合つた女で、一旦ほかへかたずいたのですが、病気になつて入院している間に、離婚することになつたんです。味岡小萩つていう名前を覚えておいでになりませんか?", "覚えとる。わざわざ病身の女を貰つてどうするんだ", "それはまあ、説明の限りじやありませんが、とにかく、女房を養うだけが僕には精いつぱいだと思いますから、予めそのことをお耳に入れておきます。あゝ、多津はどうするかですが、いずれ、なんとかするでしよう。みんな、けつこう、覚悟はできていますよ。たゞ、僕の場合、さしあたり、お父さんを楽な身分にしてあげられないのが残念です。ほんとに、それだけは申わけないと思つています" ], [ "あなたつて、ほんとに、どういうかた……? こんなこと、いつの間にか、ちよこちよこつとやつておしまいになるなんて……", "今度は、万事好都合に運んだからさ。しかし、いつもこの通りにいくとは限らないぜ。油断は禁物だよ。みたまえ、あの浅間のスロープ、それから、あの、落葉松やナラの芽吹きの色……日光は、たつぷりあるし……買物はちよつと不便だが、なに、そのうちに慣れるさ" ], [ "いゝかい。あの斜面を削つたところね、あそこへ蜜蜂の箱を並べて置くんだ。もうやがて、岐阜から着く時分だ。着いたらすぐに、フタをあけてやる。すると、今頃は、そら、道に白い花が咲いてたアカシヤ、このへんは、一番アカシヤが多いから、みんなその蜜をこゝへ運んで来るんだぜ", "だつて、ほかの花も咲いてるでしよう", "うん、はじめは多少、まじるけれど、すぐ土地の事情に通じて、ひと色の花の蜜を集めるようになるんだよ。普通、二キロ以上、時によると十キロぐらい先まで飛んで行くんだから、たいしたものさ。怠けて腹いつぱいためて来ない奴がいると、番兵がいて、入口で追い返すんだぜ", "へえ、厳しいのね", "厳しいさ。蜜蜂の女王は、飛べないことは知つてるね", "知らない。へえ、飛べないの? なにしてるの、じや?", "じつとして、働き蜂が運んで来た蜜ばかり吸つてるのさ", "あら……でも、卵は生むのね", "当り前さ。そのためにいるんだもの", "働き蜂のなかで、一等お気に入りができるわけね", "いや、それが面白いんだ。働き蜂は男かと思つたらそうじやなくつて、別に、雄蜂なるものがいるんだ。これは、人間が卵のうちに見分けて、一つだけ優秀な奴を残すことにするんだそうだ。こいつは、つまり、女王のお婿さんの役目だけ果して、すぐに死んでしまい、次ぎの代に位を譲ることになる。卵はひとつひとつ、働き蜂が受持をきめて養う制度になるつていうのは、なかなかしやれてるじやないか", "そう、そう、それは、読んだの覚えてるわ。ダメねえ、ずいぶん勉強したつもりなのに、すつかり忘れちやつたわ。ほかのものとこんぐらかるんですもの", "蜜蜂の習性は、実に愉快だね。人間もちつと真似たらいゝと思うところがあるよ。社会とか家族とかいう問題をやかましく考えるより、僕は、人間を蜜蜂式に養成してしまつた方が便利じやないかと、よく考えるんだ", "すると、大部分の人間は働き蜂つていうわけね。ふゝ、恋愛もなんにもないわけ?", "そうさ、そんなもの、誰にだつて必要はないさ。ほんとの恋愛ができる人間なんて、そうはいないもの", "あら、残酷ね", "一人の女王に奉仕する本能が恋愛の代りさ。幼虫を護り養う本能がつまり母性愛の変形だ。要するに、大部分は中性なんだから、それで満足すればいゝんだよ", "家族なき社会つていうことになるじやないの。それ、いゝわ。賛成だわ。だれもかれも結婚して、それぞれに動きのとれない家を作るなんて、人間は自分の手で自分の不幸を準備してるようなもんね", "また、始めたね。今日はまあ、その話は止そう。疲れたろう、それに……だいぶん乗物にゆられて、そのうえ、ずいぶん歩かしたからなあ。さあ、ベッドには蒲団さえのせればいゝんだ。それとも、寝椅子の上へ横になるかい?", "どつちでもいゝわ。でも、もう少し、外を見てたいから、こゝへ寝椅子もつて来るわ", "よし、動かないで……" ], [ "どうして? え、どうしてそんなことが言える? 妻より愛人の方が軽い存在だろうか?", "性質がまつたく違うといつていゝわ。妻に求めるものを愛人に求めるのは無理だし、愛人に求めるものを妻に求めたら、それこそ滑稽だわ", "へえ、それも一応、原則としては成立つかもわからないが、どんな例外だつて、あつて差支ないだろう?", "例外? ダメよ、あたしは、そんな天才じやないんですもの", "いやに割り切るじやないか。そうか、そんなら、まあ、君の望みどおり、僕は譲歩しよう。じや、愛人としてなら、僕のそばにいてくれるね", "それが、どんな結果になるか、試してみてもいゝわ。ごめんなさい、こんな勿体ぶつた言い方するの……。実は、それが、どんなにうれしいことだか……まるで、夢みたいな気がするわ。あんまり、幸福すぎて、それだけが、あたし、心配なの", "いゝさ、いゝさ、取越苦労は、もうよしたまえ。そんなに心配なら、一札入れておいてもいゝ。一、同棲はしても、決して、夫婦にはあらざること。従つて、甲は乙に対して、如何なる場合にも、愛人の礼をつくし、絶対に妻としてこれを取扱わざること", "礼をつくし、は余計だわ。妻として取扱わざること、なんて、それもアイマイよ。解釈に疑義を生じそうだわ", "生じるね。妻としての義務を負わさざることか", "妻としての特権を認めざること、でいゝわ" ], [ "さあ、はつきりわからない。どうも雑草と見分けつかないんだよ。やつぱり苗床を作つた方がよかつたかな", "だから、ハギのいうとおりになさればよかつたのよ。でも、大丈夫よ、少し伸びて来ればわかるわ。これでも、草花は多少、自信があるのよ", "あゝ、その方はハギに委せるよ。僕は、専ら生産的な方面を受持つことにする。但し、野菜なんか、あらまし買つたつて間に合うんだからね。そんなに一生懸命にやる必要ないよ", "まず予防線を張つておいて……。そうよ、お百姓は無理よ。青いものが少し取れゝば、畑はそれでいゝわ" ], [ "結婚なんか、まだしないわ、ねえ、南条さん……。あたしたち、お友達になつたばかり……。だつて、南条さんが、兄さんを訪ねるつていうのよ。あたしも、すこし、お話があるから、連れてつてと頼んだの。それだけよ", "もつとも、そう頼まれたのは光栄だと思つてるがね。とにかく、前触れもしないでやつて来てよかつたかどうか……" ], [ "それやそうだろう。お前の知つてるひとだよ", "小萩さんでしよう、そんなら……", "その通り……今、病気なんだ。よくわかつたな", "へえ、そうか、かつての小萩さんか、あれが……。すつかり変つたじやないか" ], [ "それで、たゞそいつをたしかめるために、来てみたのか?", "あら、そんなつもりじやないわ。あたしは、ちよつと相談があつて来たの。南条さん、こつちの話からかたづけていゝ?" ], [ "さあ、さあ、どうぞ……。僕は、しばらくどつかへ行つてようか?", "その方がいゝわ。呼んだら聞えるところにいらつしやい" ], [ "あたし、とても今、生き甲斐を感じてるの。お店の仕事はまあ、なんていうことはないけど、自分で働いて、自分で勝手なことができるの、とてもうれしいわ。でも、そうなつてみると、こんどは、やつぱり家のことを考えちやうの。第一に母さんが気の毒でしようがないの。あんなかわいそうなひとつてないわ", "たずねてみたかい?", "うゝん、時々、アパートへ会いに来てくれるの。お店の前をのぞき込むようにして通りすぎることもあるのよ。あたし、見つけたら追つかけてつて、お茶おごつてあげるの", "そいつはいゝな。多津はどうしてる、その後……?", "ああ、多津姉さんね、やつぱり雲井さんと別れるんですつて……。それから、ほら、仲よしだつた鷲尾妙子つていう女流作家がいるでしよう。あのひととも喧嘩しちやつたんですつて……。今、なんだか知らないけれど、行商つていうのか、外交員つていうのか、そんなことしてるわ", "なんだい、お前の相談つていうのは?", "うゝん、なんでもないこと……母さんはお父さんと別れちまつたらどうかと思うのよ。だつて、くだらないでしよう、あんな生活は生活つて言えないわ" ], [ "お母さんは、そんなにこぼしてるかい?", "うゝん、それがそうでもないから、あたしなお情けなくなるの。なんとかしてあげられないか知ら?" ], [ "えゝ、すんだわ。こんどは、あなたの番、あたし、あつちへ行つてましようか?", "僕は、君に、なんにも秘密はないんだ。そこにいたまえ。ねえ、京野君、どう思う、君は? 真喜ちやんは、僕のお神さんになれば幸福だろう?" ], [ "ちよつと、ちよつと……早く……さつきから蜂がさわいでると思つたら、なんだか熊ん蜂がいくつも襲つて来てるらしいわ", "え?" ], [ "そうも思つたけど、やつぱり会いたくないの。いゝでしよう? まさか、これ僕の家内じやない、なんて紹介する手はないわ", "そんなこと、なんとでも言えるじやないか。そう言えば、真喜のやつ、はつきり、こう言うんだ。――南条さんはあたしに結婚しろつていうんだけど、そんな話はまだ早い。まず友達としての試験にパスしなけれやつて……。はつきりしてるだろう?", "へえ、ガッチリしてるわ、むしろ。そんなの、あたし嫌いよ。南条さん、それで、なんて言うの?", "なんとも言わないよ。自分と結婚すれば、真喜は幸福になるだろうつて、それを、あいつがはじめに僕に切り出したんだ", "で、トシは、それに、なんて返事なすつたの?", "それをハギにもわかるように言うのはむつかしいよ。僕は、つまり、どうでも勝手にしろつて、言つてやつたんだ", "賛成だわ。トシはいつでもおつしやるじやないの、人おのおの流儀あり、つて……。それを無理に、ひとに押しつけるのが、家族つてもんじやないかしら? あたしは、自分の家つてものに愛想をつかした女よ。だから、つていうこともないけど、なんだか、トシのお家の方が、みんなこわいわ。お一人お一人はいゝ方かもしれないけど、家族の一人つていう意味では、おつきあいはごめんだわ。それ、いけない?", "いけなくないね。ハギの自由だよ。僕は、まだ肉親の愛情つてものを、全面的に否定はしないんだ。こいつは宿命的なもんだと思つてる、人によつてはね。だから、その愛情の、ほんとの活かし方を考えてるんだ。家庭のいざこざなんていうもんは、これや、みんな、肉親の愛情の病的な現われだ。ハギの言うとおり、相手をあんまり自分流に愛し、自分流の愛情を相手に求めすぎるからなんだ", "結局、愛し方が下手つてことになるかしら?", "うむ、下手ということもあるが、それより、すべて、愛情そのものが、光と影の両面をもつてるんじやないかと思う。いや、愛情は常に光さ。しかし、その光がまた、常に影を作る性質をもつてるんだからね。おや、今日は、まだ電気が来ないのか" ], [ "トシ、そこでなにしてらつしやるの? お湯がもう沸いたわ", "あ、そうだ、忘れてた。失敬、失敬……。もう起きるの? 今日はメチャクチャにいゝ天気だぜ", "気のせいかしら? 花の匂いがするわ。なんでしよう?" ] ]
底本:「岸田國士全集18」岩波書店    1992(平成4)年3月9日発行 底本の親本:彼を待つもの「キング 第二十六巻第四号」    1950(昭和25)年4月1日発行    はるかなる青春「キング 第二十六巻第五号」    1950(昭和25)年5月1日発行    〔欠題〕「キング 第二十六巻第六号」    1950(昭和25)年6月1日発行    兄の立場「キング 第二十六巻第七号」    1950(昭和25)年7月1日発行    ある少女の役割「キング 第二十六巻第八号」    1950(昭和25)年8月1日発行    父の孤独「キング 第二十六巻第九号」    1950(昭和25)年9月1日発行    愛と死と生の戯れ「キング 第二十六巻第十号」    1950(昭和25)年10月1日発行    運命に逆うもの「キング 第二十六巻第十一号」    1950(昭和25)年11月1日発行    変転の外に「キング 第二十六巻第十二号」    1950(昭和25)年12月1日発行    この日あるがために「キング 第二十七巻第一号」    1951(昭和26)年1月1日発行    二つの未来図「キング 第二十七巻第二号」    1951(昭和26)年2月1日発行    希望の羽ばたき「キング 第二十七巻第三号」    1951(昭和26)年3月1日発行 初出:彼を待つもの「キング 第二十六巻第四号」    1950(昭和25)年4月1日発行    はるかなる青春「キング 第二十六巻第五号」    1950(昭和25)年5月1日発行    〔欠題〕「キング 第二十六巻第六号」    1950(昭和25)年6月1日発行    兄の立場「キング 第二十六巻第七号」    1950(昭和25)年7月1日発行    ある少女の役割「キング 第二十六巻第八号」    1950(昭和25)年8月1日発行    父の孤独「キング 第二十六巻第九号」    1950(昭和25)年9月1日発行    愛と死と生の戯れ「キング 第二十六巻第十号」    1950(昭和25)年10月1日発行    運命に逆うもの「キング 第二十六巻第十一号」    1950(昭和25)年11月1日発行    変転の外に「キング 第二十六巻第十二号」    1950(昭和25)年12月1日発行    この日あるがために「キング 第二十七巻第一号」    1951(昭和26)年1月1日発行    二つの未来図「キング 第二十七巻第二号」    1951(昭和26)年2月1日発行    希望の羽ばたき「キング 第二十七巻第三号」    1951(昭和26)年3月1日発行 ※本文第三章は初出誌上では題名がなかった。底本では「〔欠題〕」となっている。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2012年12月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043859", "作品名": "光は影を", "作品名読み": "ひかりはかげを", "ソート用読み": "ひかりはかけを", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "彼を待つもの「キング 第二十六巻第四号」1950(昭和25)年4月1日、はるかなる青春「キング 第二十六巻第五号」1950(昭和25)年5月1日、〔欠題〕「キング 第二十六巻第六号」1950(昭和25)年6月1日、兄の立場「キング 第二十六巻第七号」1950(昭和25)年7月1日、ある少女の役割「キング 第二十六巻第八号」1950(昭和25)年8月1日、父の孤独「キング 第二十六巻第九号」1950(昭和25)年9月1日、愛と死と生の戯れ「キング 第二十六巻第十号」1950(昭和25)年10月1日、運命に逆うもの「キング 第二十六巻第十一号」1950(昭和25)年11月1日、変転の外に「キング 第二十六巻第十二号」1950(昭和25)年12月1日、この日あるがために「キング 第二十七巻第一号」1951(昭和26)年1月1日、二つの未来図「キング 第二十七巻第二号」1951(昭和26)年2月1日、希望の羽ばたき「キング 第二十七巻第三号」1951(昭和26)年3月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-02-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43859.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集18", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1992(平成4)年3月9日", "入力に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "底本の親本名1": "キング 第二十六巻第四号~第十二号、第二十七巻第一号~第三号", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1950(昭和25)年4月1日~12月1日、1951(昭和26)年1月1日~1951(昭和26)年3月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43859_ruby_49064.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-12-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43859_49635.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-12-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "しかし、寝てるわけぢやないから、さうはいかんよ。監視係ぐらゐは勤まるだらう", "いゝえ、また熱が出るから駄目……" ], [ "これで約束の時間に間に合ひますか", "さあ、ちよつと怪しいな、もう少し急がう", "地図つてやつはどうも当てにならん", "地図の方でもさう云つてるよ。医者と地図とどう関係があるつて……", "それにしても、この辺は人家がなさすぎますね", "人家無きところ患者あるべき道理なし" ], [ "ご苦労さま。だいぶ暇どれましたよ", "もう準備はいゝんですか", "みんな集つとります" ], [ "おれは不思議なことを発見したんだが、同じ酒でも、近頃のやうに、只の酒ばかり飲んでると、どうも人間がだんだんひねくれて来るやうな気がする", "それごらんなさい" ], [ "ほんとだよ。嘘だと思ふなら来てみろよ", "誰も嘘だなんて思やしないよ。たゞ、かう云ふと、君の方が嘘だと思ふかも知れないが、僕、近頃酒をやめたんだ", "嘘つけ", "嘘だと思ふなら……" ], [ "本当ですか、奥さん?", "はあ" ], [ "さあ、これから決して飲まんと誓へ。旧友の切なる忠告を聴け。貴公は酒ぐらひ思ひ切れんか。貴公はそんな男ぢやなからう……", "わかつたよ、もうその話はわかつた", "なにがわかつた? 酒を、今日限りやめろと云ふんだ", "よし、よし、だから、もう眠ろよ" ], [ "奥さん、どうも遅くなつて……", "そんなこた、かまはん。こら、おれは酔つとるから云ふんぢやないぞ" ], [ "今夜は、なるほど御馳走になつた。おれが飲まんていふ酒を、貴公は言葉巧みにおれを瞞して、たうとう、好い気持にさせちめやがつた。いや、好い気持になつたのは、これや昔のおれだ。いゝか。今のおれは、貴公にわかるまいが、苦いもんで胸がいつぱいなんだ", "ちよつと、あなた。もう好い加減になすつたら……。遠山さんがご迷惑ですわ", "いや、いや" ], [ "浦野はすつかり弱くなりましたな", "余計なことを云ふな。弱いのはお前ぢやないか。人にばかり飲ませて、自分はなんだ。おれは、貴公が心からすゝめてくれる酒を断りかねた。いよいよこれが最後だと思つて、肚をきめて飲んだ。それがどうして悪い。友情は何ものにも代へ難いさ。だから、今度はおれの云ふことを聴け。酒をやめろ。理窟はいゝ。黙つて飲むな。さあ、おれに誓へ、おれの女房に誓へ。ハヽヽヽ明日から酒はアングロサクソンだと、あの冬空の星に誓へ……" ] ]
底本:「岸田國士全集26」岩波書店    1991(平成3)年10月8日発行 底本の親本:「毎日新聞」    1943(昭和18)年3月20日~30日 初出:「毎日新聞」    1943(昭和18)年3月20日~30日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:大野 晋 2004年12月11日作成 2016年4月14日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043595", "作品名": "美談附近", "作品名読み": "びだんふきん", "ソート用読み": "ひたんふきん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「毎日新聞」1943(昭和18)年3月20日~30日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-01-02T00:00:00", "最終更新日": "2016-04-14T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43595.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集26", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年10月8日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年10月8日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年10月8日", "底本の親本名1": "毎日新聞", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1943(昭和18)年3月20日~30日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "大野晋", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43595_ruby_17330.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-04-14T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43595_17338.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-04-14T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "それはそうとね、きようの事件はだね、われ〳〵として簡単に見すごすわけにいかんと思うね", "つまるところはさ、単に児童の群集心理といつて片づけられないわけさ。なにしろ、あの井出という生徒は、二年生にしちや、すこし生意気だでな。わしは前まえからそう思つとる。疎開児童の一種の優越感と、おやじが陸軍大佐だつていうことを妙に鼻にかけるところがあつた。それが全校の生徒の反感を買つて、きようの結果をみたんだ", "その点はおゝいにあるね。第一、家庭そのものが、都会の生活をそのまゝこゝへもつて来て、少しも土地の生活に順応するつていう風がないらしい。そうでねえか、北原君、君は家庭訪問をよくやるようだが……" ], [ "けがはなかつたかね", "あんたは大丈夫?", "ちつとも見えんじやつたもんで", "交通規則を守らないからよ", "一人だけ守る先生が悪いだ" ], [ "ほんとですか?", "えゝ、ほんとですの", "さあ、この町の医者にそんな景気のいいのはいませんよ", "あら、景気と関係ございませんわ", "だつて、そうでしよう、今どき万というもんでしよう?", "先生は、それよりずつとお高いだれとかの絵を最近お求めになつたそうじやございませんか", "はあ、春草ですか? そんなおしやべりをしたかなあ、ワハヽヽヽヽ" ], [ "おや、おや、大変なことになつたわ", "なんていう曲、今のは?" ], [ "北原先生、あなたが遠慮してらしつちやだめよ", "いやだ、また、先生だなんて……" ], [ "もう、八王子へ引返す電車はございませんね", "上りの終電車は時間通り、こゝは廿時廿六分きつかりに出ましたよ。下りはなにしろあの通り延着ですから、こゝから折り返しで終電を出したんです。そうだね、明日の朝まで待つしかないでしようね", "この町には宿屋なんぞございますかしら?", "さあ、この町にはどうかね。あつたにしても、探すのは骨だね。なんしろ、街道まで出にやならんが、これも道がやゝこしいですよ。倉庫ばか、あつちこちに建つとつてね。近ごろはそれも進駐軍が使つとつて、滅多なところは通れんし……" ], [ "やつぱり、これじや駄目だ。お前はどこへ逃げた?", "もうどこにいてもおんなじだと思いましたわ。どこをどう通つたのか覚えていませんけれど、でも、気がついてみたら、お向いの赤ちやんを抱いて線路の土手の蔭にしやがんでいました。お向いの奥さん、お気の毒に大怪我をなすつて……今朝川西病院でお亡くなりになつたんです" ], [ "むろんなんにも出さなかつたろうな。非常持出のトランクは?", "防空ごうまでは持つてはいつたんですけれど……。それから先、どうしたか覚えてませんの", "そいつは弱つたな。大事な書類がはいつてることは、お前も知つとるはずだがなあ" ], [ "ところで、これからどうするか、だ。おれは役所に寝泊りをしてもいゝが、お前はさし当り、目黒のおとうさんのところへでも行くか? あつちはたしかまだ残つてるはずだ", "父のところ? いやですわ、あたくし……。そんならいつそ、信州へ参りますわ" ], [ "うん、わしはどつちでもいゝんだよ。こゝにいさえすれや任務はすむんだから……。あんた眠るなら、あつちの部屋に寝台があるからね。それとも、こつちにいたけれや、わしは向うへ行くで", "あら、あたくしのことなんかおかまいなく、どうぞ……" ], [ "さあ、おつまみ", "えゝ、ありがとう。たくさんですわ", "遠慮せんで……さあ……", "ほんとに、あたくし……歯がわるくつて……" ], [ "どうだね、ちつとあつちで眠らんかね。こゝじや、きゆうくつだろう", "いゝえ、ちつとも……" ], [ "まだすこし早すぎると思いましたけれど、どこつて別に休むところもありませんし……", "そうか。それや可哀そうだつた。電話をかけてよこせばいゝのに。もつともあの駅には普通電話はないのか。まあ、いゝ、無事に来れたんだから……。みんな変りないね? モトムは元気か? かい虫がわいたつていうじやないか? そんなものはすぐ出せる。いなかはどうだい、いなかは? 百姓は日本が負けたつていうことを、実際に感じてないだろう? お前たちだつて、戦さに負けるつていうことは、どういうことか、ほんとにわかつてやしないんだ。情ない国民さ。まあ、すわれよ。荷物はそれだけか?" ], [ "お寒くはないかと思つて、チッキで毛布とお下着を二三枚送りましたの。おいり用のものをちつともおつしやつてくださらないから……", "毛布はいらないよ。この通り何枚でもある。顔を洗つてないだろう、洗面所もあるにはあるが……すぐ行くなら、一緒に来い" ], [ "えゝ、どうしてものどを通りませんの", "そんなにまずいか、この雑炊は?", "いゝえ、それより、きよう、どんなお話を伺うのかと思うと、あたくし、食事どころじやございませんの。早くおつしやつていたゞけないかしら?", "うむ。それやまあ、ゆつくりでいゝさ。あとで腹がすくから、とにかく食え" ], [ "冷えてますけど、これ、およろしかつたら……伊那谷の新米ですのよ", "ぜいたくしよるなあ" ], [ "ちよつとお待ちになつて……。あなた、後生ですから、もうすこし……", "もう少し……なんだ?", "えゝ、もう少し……なんて申すんでしよう……。とにかく、あたくし、まだ、なんにも気持ちの用意なんかできていませんの。いきなり、そんなふうに、冷静に聞け、なんておつしやつたつて、無理ですわ", "やつかいなことを言うなあ。だつて、さつきお前は、早く話をしろつて言つたじやないか" ], [ "ねえ、あなた、ご自分のことだけお考えになつてらしつちや、いやよ。もちろん、あたくしたちは、これから、世間せまく暮らしていかなければならないことはわかつていますわ。それにしても、決して希望がないわけじやないと思いますの", "どんな希望がある?" ], [ "お前の希望というのは、おれにもまんざらわからんわけじやないが……そんな希望は、たゞ、人間が生きているために、生きざるを得ないがために、強いて頭のなかに描く幻影にすぎんさ", "いゝえ、ちがいます。そんなもんじや……", "待て、待て。おれは、おれ一人のことだけ考えてるわけじやないよ。それどころか、おれという一個人は物の数でもない、この日本という国のこと、おれが永年そのなかで育ち、そのために働き、その名誉を名誉として来た軍隊のこと、それから、最後に、家のこと、つまり、お前たちのこと……" ], [ "ふむ、そうか。そんな場所があるかい、いつたい?", "えゝ、ありますわ、どこにでも……。外へおでになれません? このへん、どこを歩いても原つぱみたいですのに……", "原つぱか、よかろう" ], [ "そうか? 信州のいなかとどこか違うか?", "いなかという点ではおんなじかも知れませんけれビ、あんまり外へ出ないのと、なんていうんでしよう、気分がすつかり違いますわ" ], [ "そうよ、冷やかさないでよ。あなたなんかのんきにお百姓相手の仕事をしていられるからいゝわ", "のんきに?" ], [ "だつて、そうでしよう? お米がたくさんとれるかとれないかの問題でしよう、けつきよく。そんなことどうだつていゝじやないの", "無茶だね、先生の言うことは。そう頭ごなしに言わないで、ちやんと話をしたらどうだね", "そりや、するわ、いくらでも……。たゞ、あなたがまじめに聞いてくれそうもないからさ" ], [ "ほんとだ。人の話をまじめに聞かんのはよろしくない。しかし、先生の方にも、まじめに聞かせんようなところがあつたことはたしかだ。そこで、こつちは今度こそまじめに聞くによつて、なんでも話してみておくれんか", "いやだ、そういうまじめはきらい、わたし", "すると、どういうまじめがいゝんだろう?", "知らないわ。まじめくさくないまじめよ", "なるほど、わかりました。しかし、もう手おくれだよ、先生。こりや、どうにもならんよ。すべりだしがわるかつたもんで……" ], [ "うゝん、はつきりしたことはわからんのだけど、あのひとの家へ同じ部隊で戦友だつたつていう人がたずねて来てな、多分そうだつて話したらしいの", "そんなら新聞に出そうなもんだがな", "名前がでしよう。でも、まだ公表しないものだつてあるわ、きつと……", "どこかで調べてもらえんかしら?", "それがたいへんなのよ。今までどこへ行つても、もう少し待て、もう少し待て、ですもの", "しかし、まあ、生きているということの手がかりにはなるわけだね", "生きている……そうね、そう言えばそうだわ。たゞ、その生命のかぎをだれが握つているか、だわ" ], [ "そういうこともあるかも知れんが、浜島君なら大丈夫と思うがなあ。そんなことする男じやないもの。よく調べればきつとわかるよ", "そんなこと言つて、あの人のこと、あんたよう知らんくせに……", "いや、いや、会つたことは一、二度だが、うわさによう聞いとるに。詩も読んどるに。信州日々に、ほら、よう出しよつたもの", "へえ、市ノ瀬さんも詩をよむなんてことがおありなの? うれしくなるわ", "おい、おい、わしはこれでも昔は藤村の愛読者だでなあ。――小諸なる古城のほとり、か。今でもこんなもん暗しようしとるに", "そんなもん、だれだつて暗しようしとるわ。でも、あのひとのものはまさか覚えておいでんなあ", "白状すると、そのとおり。上手か下手かもわからなんだ。しかし、詩人は残忍ではあり得ないということだけわかる", "そうかしら? でも、戦争に行くと、だれでも少し気がへんなるんじやない?", "へんになるね。変にはなるけれども、人間が変わつてしまうということは絶対にないと思う。ふだんはかくされているものが、ふつと現われるだけさ。つまり、いわゆる日本兵の残ぎやく行為ね、あれなんかはだよ、わしの考えでは、どうも、子供の時分から手荒なことをするいたずらぐせが、大人の分別を失つた瞬間、ふつと頭をもちあげて来たもんだよ。その証拠に、そのやり方をみてると、じつに他愛もない、よけいなまね、バカ〳〵しい強がりみたいなものが多いんだ。これはその行為を弁護することにはならないよ。たゞ、そういうことは、できない人間には絶対にできないんだ。道徳的判断がそれをさせないのじやない。そういう習性がないだけの話さ。そうだ、この習性は、ふだんわれ〳〵日本人が、それほど恐ろしい悪質なものと思つていなかつたんだ" ], [ "今だつて、まだそう思つてる男がいるわ。野ばんつていえば、わたし、意地わるも一種の野ばんだと思うわ。人をいじめてよろこぶ癖ですもの。精神的な残ぎやく行為だわ", "嗜ぎやく性というやつだね。いつたいに、日本人は、つまらんところでちよつと意地わるをしてみる癖があるね。変態心理というほどでもあるまいが、これもどうやら習性みたいなもんだ。だから、自分のことはわからない。人のことだけはよくわかる。実にへんなもんだ", "バスの切符売場で、おゝぜいの人が急いでるのに、わざとゆつくりおつりを数えたり、仲間としやべりたくもない口を利いたりしてるの、わたし、くやしくつて……", "そんなこと数えあげたらきりはないさ。母親が赤ん坊に意地わるをすることさえあるんだもの", "それはヒステリーよ", "そうさ、日本人はおゝかたヒステリーなのさ", "野ばん人にヒステリーつてあるかしら", "さあ、そいつは知らん。しかし、ヒステリーは野ばんに近いよ。人間らしくなくなるつていう意味でね。だつてさ、わしはサイゴンではじめて聞いたんだが、フランス人は、極端なはにかみ屋のことを、野ばん人つていうんだぜ" ], [ "さあ、そいつは困つた。ひとつも覚えとらん", "一行も……? 一句も?", "待つてくれ、思いだすから……", "ふゝゝ、わたしのこと歌つた詩があるんだに……" ], [ "いや、いや、それだけはいや……。死んでもいや……", "いやという法はないに、自分で言いだしといて", "だから、いやなのよ。わたし、そんなつもりで言やせんに。ひよつとしたら、あんた、その詩よんどりやせんかと思つて、ためしに言つてみたのよ。もしもそんな詩よまれとつたら、わたし……あゝ、恥ずかしい" ], [ "だめ、だめ、それこそ命がけだ。さ、もうひといき……。村へはいつたらおろすから……", "かまやせん、そんなこと……" ], [ "どうして? まだだいぶあるに", "いゝから、先へ行つてちようだい。ひとりでぶら〳〵帰りたいの", "わしの言つたことが気に入らなんだ?", "うゝん、ほんとはありがたいのよ。でも、急にひとりになりたくなつたの。あなたがいると、わたし、よけいなことばつかり言うから……", "いゝじやないか、なにを言つたつて……。相手がわしなら罪はないさ。ほんとのところ、先生と話をしてると、張合いがあつていゝだ", "そうかしら? わたし、市ノ瀬さんにはなんでも勝手なこと言えるからだわ。そういうお友達はめつたにないもの。でもね、市ノ瀬さん、わたし、もうこの村にながくはいないわ", "学校をやめてどうするの、いつたい?", "どうするつて、どうもしないわ。たゞこうしているより、どこへでも行きたいところへ行けたら、気がまぎれると思うの", "だから、どこへ行つて何をするつてあてでもあるの?", "ない。ありつこないわ。むろん家へなんぞ帰りたくないし……", "わからないなあ。それじやまるで、放浪じやないか", "そう、そうよ、放浪よ、放浪の旅よ", "なに言つてるんだい、先生にそんなことができるもんか", "できるかできないか、やつてみないうちはわからないわ", "そんなこと本気で言つてるんじやないでしよう? わしはすぐ本気にするで", "本気よ、もちろん……。市ノ瀬さんは、わたしが自暴自棄でそんなことを言うと思つておいでりやせん?", "多少はね", "それごらん、それが間違いよ。わたし、これからなにをするにしても、ちやんと最後の目的はあるのよ", "ほゝう、すると、その目的を達するために手段をえらばないというわけ?", "まあそうね?" ], [ "なに、先生があの奥さんを大好きなのはいゝさ。だれに遠慮することもいらんさ。先生とあの奥さんとが仲善しだつていうことは、わしもちやんと知つとるし、みんな知つとるこつた。それはそれでいゝに。しかし、先生が、あんまり大好きだ、大好きだつていうと、すこし変な気のするもんがおりはせんかな", "だれな、それは?", "さあ、だれだろう?", "ふん、まさかだんなさまでもなかろうに" ], [ "では、もうお前に用はないから、すぐに帰れ", "いゝえ、あたくしはこのまゝこゝにいさせていたゞきます", "バカいうな。こゝは役所だ", "でも、プライヴェートのお部屋じやございません? あなたのおそばにいさえすればよろしいんですわ", "なんだ、監視か" ], [ "まだそんなこと考えてらつしやるの? あたくし、もうすつかり忘れてましたのに……", "いや、たゞ聞いておくだけだよ" ], [ "おれのことはおれが考える。お前のことを聞いてるんだ", "えゝ、ですから、あたくしは、自分の力かぎり、あなたを……あなたのいのちを、おまもりすることしか考えておりません" ], [ "母としてのつとめか。うむ、なるほど、それで一応は理くつがたつ。しかし、お前の手で子供が養つていけるか?", "いけてもいけなくつても、養つていかなければなりませんわ", "男の子はうつちやつといても育つ。どうだ、モトムはお母さんに預けといて、おれの行くところへついて来んか? そんなにびつくりするな。無理心中をするつもりなんぞ、おれにはない。お前がその気なら、そうしようといつてるだけだ。いやか? え? いやなら、いやでよろしい。もうこれ以上なにも言わん" ], [ "あなたの申しわけなんぞどうでもいゝわ。ご家族はどこにいらつしやるの?", "え? あゝ、まだご存じないわけですなあ、私、家内をこんど離縁したもんですから、いま、娘と二人暮しであります。娘ですか? ついこの間、家内の実家から鎌倉の親せきへ連れもどしたんですが、いまからちよつとその親せきへ顔を出して、それから……。まあ、そんな話はどうでもいいでしよう。ところで、井出大佐殿は、まだ御用ずみになられませんか?", "えゝ、なんですか、まだH町のほうにおりますの" ], [ "では、お嬢ちやんとお二人きりで? 戦争はどこまでいろんなものをぶちこわすんでしようね……", "すべては、無条件降伏ということにあるのです。家内のおやじはご承知の退役軍人ですが、私に腹を切れといゝます。私はそんなまねはせんという。そこで、絶交ということになつたんですが、そこへいくと、女房なんていうもんは頼りないですなあ。おやじにガンと言われると、もうその気になつて、逃げだして来ようとせんです" ], [ "でも、その浜島つていうひとの名は、おわかりになりませんの?", "えゝ、それが……わしはたゞ、ちよつとした関係で、浜島キヨウジという――ペンネームだろうと思うんですが……" ], [ "浜島峡児が浜島茂ですの。それに違いありません。詩人としてのペンネームですわ", "へえ、そうですか。しかし、わしは会つたことはないんですよ。同じ部隊だということはわかつていたんだけれども、部隊で出していた雑誌に時々作品がのつていたもんで、覚えているんです。たしか本部の当番兵だつていうことは聞いていたんですが、そうだなあ、あれはことしの初めかなあ、ペナンのふ虜収容所へ派遣されて、そこからやつぱり雑誌へ詩を送つて来ていましたつけ。収容所のことを歌つたいゝ詩がありました" ], [ "うれしいわ、そんなお話伺えて……。では、最近まで元気でおりましたんですね", "えゝ、最近まで……そうです、雑誌は六月まで出ていましたから……。しかし、そのあとのことはわかりませんよ。ことにふ虜関係は……" ], [ "こゝは寒いなあ。なにしろこのとおり夏装束ですからね。どこかゆつくり話のできるところはないかなあ。あなたは、それで、この船なら浜島君の消息がわかると思つてこられたんですね?", "えゝ、ことによつたら、ひよつこり会えやしないかと思つて……", "そうだろうな。わしも、ひよつこり帰つて来て、だれか迎えに来てやしないかと思つてるんだから……" ], [ "わし、国は富山の方ですが、勤めが広島だつたもんですから……。家内は広島の実家にずつといた関係で、もちろん生死不明です", "まあ、広島……" ], [ "えゝ、信州からですの。なんでもこの次ぎの船が一週間後になるんですつて……。やつぱり行つてみようと思いますの。それにしても、また出なおすのはやつかいだし……", "あゝ、この次ぎ宇品へはいる船ですね。たしか本部の連中を乗せてくるはずだから、きつとくわしいことがわかるでしよう" ], [ "もうなん時ごろでしよう?", "七時……十五分……" ], [ "ご親切はほんとにありがたいんですけれども、あたしすこし考えがあつて、子供と二人きりでなんとかやつていきたいんですの", "それがですよ、ねえさん、時機が時機ならぼくも反対しませんよ。今はとても女一人で生活をたてるなんていうことは、まつたく空想ですよ。兄貴の遺書には、なるほど、ねえさんは自由な行動をとれとありました。その意味が、ぼくにはよくわからないんですが、これは察するところ、ねえさんの立場を考えてですよ、親せきの無理解な強制をあくまでもしりぞけるという、含みをもたせた一言だと思うんです。母と百々子のことをぼくに面倒をみろと言つてあるのも、そのためじやないですか。それはむろん、兄貴に言われなくつたつて、ぼくの当然の義務ですから、ちつとも文句はないんですが、逆に、ねえさんとモトムのことは、兄貴に頼まれなければ知らん顔ができるかと言えば、決してそんなことはできない。それも生活の問題がなければ、別にぼくなんかの立入る筋じやないと思うけれども、現に……", "えゝ、ですから、そういうご心配をいつさいかけないようにやつてごらんにいれます。ほんとに、あなただつて、お母さまと百々子さんだけで、そりやあたいへんなんですもの。そのうえまた……", "だから、それはつまらん遠慮だつて言つてるじやありませんか。こうみえて、ぼくもちかごろはそんなにぴい〳〵してやしませんから……" ], [ "えゝ、それはわかつていますわ。ですから、モトムのことは、あたしが責任をもちます。あくまでも立派に育てます。兄さんに申しわけがないようなこと、井出家に迷惑が及ぶようなことは決してしません。そのことだけは……", "そう、まあ、むきにならなくつてもいゝですよ、ねえさん、だれもねえさんを信用しないて言つてるんじやない。たゞ、その、なんですよ、これからのねえさんの生活がです、もし、どこかのだれかによつて支えられるということになるんならですね。それは、筋道が違うと、まあ早く言えば、そう思うだけなんです。どういう形式にしろ、ねえさんが子供を抱えて自活をしていかれるというのには、それ相当の、世間の同情と言いますか、そういうものが必要でしよう。ねえ、その場合、いつたい親類はなにをしているということになる。こりやあ当然そうですよ" ], [ "へえ、それは初耳ですねえ。死んだ一徳が聞いたらなんていうか……", "そんなこと、お母さん、むだなせんぎですよ。それより、大事なことはほかにあるでしよう? 兄貴の遺書は、かんたんにねえさんの自由を認めていますね……", "それがさ、あたしは、その自由ということを、もつとほかの意味にとるんですがね。軍人の妻として、以心伝心とでもいうか、あゝいう最期をとげた主人の心持ちは、ほんとなら、ちやんと……" ], [ "なんでもかまいませんの。食べていけさえすればよろしいんですから……。すこし虫のいゝことを申せば、先生のご関係の学校なんかで、まあ、音楽と家政ですけれども、すこし時間をもたせていたゞけるとありがたいですわ。そういう口がございましたら、是非、お骨折ねがいたいと思いますの", "ふむ……" ], [ "さようさな、わしはどうもそういうお世話をする資格があるかどうか、まあ、しかし折があつたら校長に話してみましよう。だが、当てにはなりませんよ。これで、看護婦とかなんとかいうんならね、また、わしの口で推せんのしようもあるが……", "そりやあもうわかつておりますわ、先生、なんなら、たゞご紹介いたゞくだけでも結構でございますわ" ], [ "あゝ、そうでしたつけ、市ノ瀬さんね、そう、そう、おみそれしてしまつて……。主人のことは、もうなんにもおつしやつてくださいますな。みなさんにほんとにお世話になつて、こんなことになるんですものね。農業会……役場……でしたかしら、お勤めは?", "はあ、農業会に籍はおいてるんですが、なんにもしてないようなもんです。そう、そう、けさ、北原先生からハガキをもらつたんですが、そちらへもなにか便りがありましたか?", "北原先生? いゝえ?" ], [ "ハガキにはたゞ、瀬戸内海のある港町にて、と、ばかりで、見当がつかんのですが……", "瀬戸内海のある港町……" ], [ "どうも変だと思つてたんです。急に学校をやめて遠くへ行くようなことを言つてましたが……。なんでも、復員船のはいる港を、片つぱしから歩いてるらしいんです", "まあ、いじらしい……。でも、北原先生らしいわ", "まつたく、情熱家だから……" ], [ "よろしいですか、こゝから?", "えゝ、えゝ、かまいませんとも……", "こんなもの、珍しくもないが、ちつとばかり手にはいつたで……" ], [ "いゝえ、わし、これで失礼します。ほかへまわるところがあるもんで……", "そう、じや、お茶はこんどのことにして、……またお話しにいらつしやいよ。北原先生のおところがはつきりわかつたら教えてちようだい" ], [ "いゝ時候になつたわね。あなたもこれからご用がふえるんでしよう? それに、世間の騒がしさは、あたしなんかにはよくわからないけど、いつたい、どうなるつていうの? あなたには、そんなに関係ないの?", "世間の騒がしさですか? さあ、騒がしいのが当り前でしようが、わし自身は騒いでも、しようがないと思つとるんです。革命つていえば社会制度がひつくり返ることですから、物が落ちたり飛びあがつたりぶつかつたり、こわれたりするわけでしよう。騒がしいわけですよ。しかし、新しい組み立てのプランができ、材料がちやんとそろつていなければ、たゞ、ガヤ〳〵ひつかきまわしてみても、またすぐやり直しつていうことになりますからね。わしは、だから、動きまわりたくない。たゞ、一度、今までのさばつていたものをたゝきのめして、虫食い材料を遠くへ運びだすことは必要だと思うんです。こりやあまあ、だれにだつて出来ることです", "だれにだつて出来るなんて言つてないで、あんたもそれをおやりになつたらいゝじやないの", "え、わしがかね? そりやあ、いざとなりややりますよ" ], [ "そうおつしやるなら言いますけど、わしは奥さんの静かな生活を乱さんように、これでも気をつけて話をしとるんです", "ほんと……あたしの方からそんな話をしかけるなんて……。じや、もう、こゝでは、世間の騒々しいお話はいつさいしないことにして……" ], [ "そうねえ、べつに……", "わしにはどんなものがえゝかわからんで……。じや、ごめんなすつて" ], [ "まつたくお前というひとの気が知れんに。しまいに残りもので我慢せにやならんようになるに", "いゝよ、おつ母さん、そんな心配せんでも……。女の子はあとからあとから生れて来るもんだで" ], [ "そういうふうに仕込まれてしまつたんだから、そうなるのは当りまえですよ。わしもしばらく外地の生活をしてみて、つく〴〵そう思つたね。日本人つてやつは、楽しい夢をみるなんてことを、じつにバカげたことだときめてかゝつてるからね。だが、一方からいうと、それだけ現実のみじめさを平気でうけいれるつていう強味もあるだね", "強味だわ、ほんとに……" ], [ "ボク、勉強しなくちや……", "だから、わしのそばで勉強すればいゝに", "おじさん、教えてくれる?", "あゝ、教えてやるとも……。なんだね、読方かね、算数かね" ], [ "おじさん、なんの用があるの?", "え?", "おじさん、なにしてんの、そこで?" ], [ "おじさんかい? そりやあいろんな用があるさ。きようはワラビをとりにいく相談に来たんだよ。お母さんと君とじや、道がわからんだろう? わしがえゝとこへ連れてつてやるで。君はどれくらい歩ける?", "ボク、十六キロは平気さ。こないだ学校からカナエのプールまで往復歩いたんだもの。おじさん知つてる、カナエのプール?", "知つてるさ。だが、ありやあ平らな道じやないか。山道を登るんだぜ、こんどは", "お母さんがどうかなあ。お母さんはくたびれたなんて言わないけど、すぐくつずれをこしらえるんだよ。足に水ぶくれができて、それがひどいのさ。ボクは一度新しいくつをはいた時できたつきりだ。あ、クロツグミ、クロツグミ……" ], [ "さ、なんにもないけど、お茶にしましよう。トムちやんは、このおにいさん、知つてるわね。市ノ瀬さん、ね、いつか北原先生と……", "うん、うん、そんなこと知つてるよ" ], [ "今年はじめて成功したつて云つてますよ、うちの母は", "あら、あなたのご研究じやなくつて、お母さまのご丹精なのね", "わしは一俵二俵を目当にしとらんからね。去年はこの村で五千貫から腐らかいたで、今年は、わしがやり方をかえてみただが……", "へえ、そうすると、あたしたちの命が市ノ瀬さんの肩にかゝつてるわけ?", "そういうこんだ" ], [ "えゝ、あたしは酔つてなんかいないわ。でも、だるいの。先へ帰つてもいゝかしら?", "勘定さえすめばいゝさ", "あら、あたしの、いますんだんじやない?", "そうか。そんならいゝよ" ], [ "いやか。いやでもしようないわ。そこへ待たせてあるんや", "そんなら、わたし、この部屋出るわ。勝手にしなさい" ], [ "ところが、案外よく眠れたわ。でも、あゝいうこと、もうしつこなしよ", "うちの好き勝手にしたんやないもの。それわかつてもらわんと困るわ。あんた、男いうものどない思てんの? こちらしだいで言うまゝになるもんよ", "あんたなら、そうかもしれないわ" ], [ "あら、ずいぶんまわりくどいんやなあ", "そうよ、これが尾関らしいところよ", "ユキちやん、どないすんの? 病院をきくの? きかんの?", "うるさいわね。そんなこと、あたしの勝手じやないの" ], [ "いま、よろしいでしようか?", "ご面会ですか? どうぞ" ], [ "おや、来たね。座ブトンなんかないんだ。まあ、すわりたまえ", "しばらくおみえにならないと思つたら……どこがおわるいの?" ], [ "どこつて、そいつは想像にまかせるよ。だが、べつに見舞に来てくれたわけじやないんだろう。正木にことずけたとおり、急に君の耳にいれたいことがあつてね。どうも、こうしてちや手紙は書けんし、……ところで、君、新聞みてるかい、ずつと……?", "新聞? えゝ、たいがいみてるわ。どうして? なにか出てた?" ], [ "あるところには、ある、というこつてす", "まつたく……あればそれほどありがたくないつていうこと、かしら? でも、もつたいないから、持てるだけ持つて帰るわ" ], [ "どうです。加減は?", "とてもけつこう。だけど、この分量はちよつと……。ねえ、トムちやん" ], [ "こいつは愉快だ。さつきなべをのぞいてみて、奥さんにはどうかなと思つたんだ。これで安心した", "あら、こういうお料理は指をつかうのが本当なのよ。ちつともご心配はいりません", "なるほど、そういうもんか。やつぱり自然が本当なんだな" ], [ "ずいぶんあるのね。すぐかと思つたら……", "いや、もういくらもないです。たきつて言つたつて、おもちやみたいなもんですよ", "このへんなの、クマが出るつていうの?", "えゝ、冬のうちは、この下の里までやつて来ますよ。イノシヽはいまでも出るでしよう" ], [ "奥さんの知つてる大きいたきつていうと、なんだね?", "あたしは、華厳も、那智も知つてるわ。トムちやんだつて、華厳は覚えてるでしよう?", "あゝ、これの十倍ぐらいだね", "十倍できくもんですか。でも、なんだつて大きいばかりが能じやないわ。それにしても、このたきはねえ……" ], [ "やあ、自慢にはなりませんよ。この土地にはどうも名所つていうもんがないでね。天竜峡つて騒ぐけれども、あんなもの、どこにだつてあるしね", "それでいゝのよ。こゝが名所だつていうようなところに、ろくなところはないわ。ほんとにいゝ景色だつていうところは、なにもかもぜんたいがいゝんですもの", "じや、下伊那はどうだね? ぜんたいがいゝですか?", "さあ……" ], [ "なにか、奥さんには気に入らんところがあるんだね。もう東京へ帰るなんて言いだすんじやないですか?", "東京へ帰るつたつて、家がないんですもの", "たゞそれだけの理由で、こゝにいるのかね?", "えゝ、それだけの理由よ。まさか景色がいゝからいるつてことないわ", "そりや、そうだろうけれども……" ], [ "お母さん、この上に炭焼小屋があるんだつて……ボク、行つてみたいや", "あら、だつて、もうそんな時間ないわ", "うゝん、すぐそこだつて。炭焼つて見たことないんだもの", "市ノ瀬さん、ほんとにすぐそこなの?" ], [ "おやじさんは?", "うむ? おやじはそこにおる" ], [ "なに、わしは、あの家へ一晩やつかいになつてもいゝぐらいに思つとつたで……", "じようだんじやないわ。でも、あんた、おなかがすいたでせう?", "わしはなんでもないが、モトム君はどうだね?", "ボク、すいたさ", "そいじや、さつきのお弁当があるわ。たべる、あんた?" ], [ "市ノ瀬さん、北原先生からお便りあつて、その後?", "いゝや、べつに……" ], [ "あたしのところへは、つい二三日前、二度目の便りがあつたわ。そのお話しようと思つて忘れてたの", "へえ、今度はどこからですか?" ], [ "やつぱり宇品よ。消息がわかつたらしいの。戦犯つていうの? いよ〳〵裁判にかゝるらしいんですつて……。結果を待つ気持、どんなでしよう……", "先生は、しかし、強気だからなあ。そうわかつたら、案外、しつかりするんじやないかなあ", "しつかりはしてゝよ。でも、あたし、すこし心配なところがあるの。長い手紙よ。まあ、苦しみを訴えるつていうような手紙だけど。ほんとは、どうしようもないつていうことね。なにか、支えるものが必要だわ。一所懸命になれることね、つまり……。女ですもの……" ], [ "それじや、わしがおぶるか?", "おぶつてもらつてごらん。一生の恥じだわ" ], [ "あら、どういうこと、これは? お嬢ちやんね、まあ可愛い……", "いや、どうもごぶさたしてしまつて……。こんど子供を連れにちよつと帰つたもんですから、またと言つちやたいへんだと思つて、序にお寄りしてみたんです。お変りありませんか?", "それは、それは……。えゝ、こちらはこのとおり……。でも、ずいぶん不便なところで、びつくりなすつたでしよう?", "不便つて言えば、わたくしのいるところなんぞお話になりませんからね。けさ、着いて、その足で伺つたんですが、停車場を間違いましてね。すこし、まご〳〵したもんですから……", "そうでしよう、駅の名前なんてごぞんじないはずだわ。で、北海道へ、ずつとこれから?", "漁師になりました。さかなの方の漁師です", "まあ、それじや、船で?", "はあ、まあ、自分でも乗つて出ることもありますが、小さな会社みたいなものをはじめましてね。昔の友人が、いつしよにどうだつていうわけです。兵隊上りの失業者にはもつてこいの仕事でして……", "海軍ならわかるけど……", "ところが、今度の戦争では、海軍の陸戦隊の向うを張つて、陸軍の軍艦つていうものをこさえましたからねえ", "それで、お仕事は、好調なの?", "まあ〳〵つていうところです。なにしろ、船一そうがもとでで、まだ雪のなかへバラックを建てたところなんですから……。あ、そんなことより、大佐殿のことは、実になんとも申しあげようがありません。奥さんにあれだけのことを伺つていながら、どうにもしようがありませんでした。面目ない次第ですが、もうあれだけの決心をされている以上、だれがどう言つても歯がたゝんでしよう。相変らずの鋭い頭で、ぴし〳〵やられるんですから、こつちが突つ込むすきがないんです。新聞にはくわしいことは出ていませんでしたが、島大尉から当時の様子をこま〴〵と知らせてよこしました。大佐殿らしい、ご最期だと思いました。しかし、惜しいですなあ。あの頭脳をこれからの日本が失うことは……" ], [ "けつこうです。戦死をされた小倉閣下の奥さんは、なんでも、道ばたでアメ玉を売つておられるそうです。それがほんとじやありませんか。もつとも、板につかんので人がじろ〳〵見るらしいです", "そうでしようね。あたくしの場合は、そんなこと自慢のつもりで申しあげてるんじやないの。どうして暮してるか、ご心配くださるといけないから……", "あゝ、そうですか。しかし、奥さんなら、なんでもおできになるつていう気がします", "そうかしら? そうでもないのよ。でも、親せきのやつかいになるよりいゝわ。あたくし、もう、愛情と関係のない因縁つていうものをいつさい絶ちきりたいの。たゞ、自分で不安に思うことは、これが愛情だときめても、それが、小さな愛情じやないかつていうことね。まあ、どうせそうにちがいないわ。だから、生れかわらなきやだめなのよ" ], [ "お客さまでしよう?", "かまいませんのよ。主人のふるいお友達で……" ], [ "皮は、へえだるらしいが、料理は、奥さん、できるかね?", "カシワみたいなもんでしよう? すこし違うかな", "いや、ニワトリとは違うね。わしがやらずか?" ], [ "お母さん、ヒデ子ちやんはどこへ寝るの?", "さあ、お父さまとご一緒にお座敷へやすんでいたゞきましよう", "こつちじやいけないの?", "こつちは狭いからねえ", "そいじや、ぼくもお座敷へ寝るよ", "いゝえ、あんたはこつちでいゝの", "いやだあ、ボク……" ], [ "あなたもお疲れね。先が長いから、たいへんだわ", "北海道の果てまで子供を連れて行くつてことはひと苦労ですよ。しかし、これからは仕事に身がはいるでしよう。そばにいるべきものがいないつていうことは、今の自分にとつては、張り合いがなくていかんです。娘の顔を毎日みていれば、つまらんことに気をくさらさなくつてすみますから……", "そりや、そうでしようとも……学校なんか出来てるんですの、今いらつしやるところは?", "その学校なんですが、まあ、そのうちになんとかしようつて言つてるんです。なにしろ、町からは三十キロもはなれた海岸ですから……。バラックがやつと四五軒建つたばかりで、電気もつかず道もろくにないような砂つ原です。まあ、無人島へ流れついたと思えば間違いなしです", "想像がつかないわ。ヒデ子ちやんをそんなところへ連れてらつしやるなんて、すこし無茶ね", "そうでしようか。しかし、丈夫に育つてくれさえしたら、面白い女になると思うんですがね", "丈夫に育てる自信、おありになるの?", "育つか育たないかです。運を天にまかせるよりほかにありません", "そんなら、何も言うことないわ。お友達はあるんでしようね", "まだ、子供は一人もいません。第一、女つ気がないんです。事務所の飯たき婆さんをのぞいては……" ], [ "つい、なんだか……じや変だわ。はつきりおつしやいよ", "それがはつきり言えないんですよ。どうも、奥さんの前じや、ぼくは、万年候補生で……", "あら、いやだ、ひとをあんまりおばさん扱いにしないでちようだい" ], [ "そうおつしやるなら、言いますがね。今の奥さんにはぼくの立場がよくわかつていたゞけると思つたからです。さつき、娘が育つか育たないか、運を天にまかせるなんて言いましたけど、その運つていうやつのなかには、よく考えてみると、ぼくたちの将来の……まあ、早く言えば、娘にとつては第二の母……", "あなたにとつては第二の妻でしよう。お探しなさい。きつとちようどいゝ方がみつかつてよ" ], [ "お母さん、きようは学校お休みだよ", "おや、どうして……", "だからきのうそう言つたじやない、開校記念日だつて……", "あら、いやだ、すつかり忘れてたわ" ], [ "そうですね、ぼくの予定では、長野へ朝着くとぐあいがいゝんですが……", "そんなら、こゝをもうお昼にはおたちにならなけりや……", "そんなにかゝりますか", "その方が安全だと思いますわ。今の汽車は時間があてにならないし、混んでると乗りそこなうことだつてありますもの", "そうしますかな", "そうなさい" ], [ "ほんとに、もう一度伺つてもいゝですか?", "えゝ、どうぞ、かまいませんわ", "かまわない、という程度ですか?", "それよりお返事のしようがないわ", "来てほしいとはおつしやらないんですね", "それを言わせないのは、あなたよ", "ごめんなさい。なにもかもやり直しだ" ], [ "ちよつとおたずねします。お宅に井出康子さんはおいでですか?", "イデヤスコさん、あ、こちらの奥さんですか、いらつしやいますよ", "わし、市ノ瀬というもんですが……", "ちよつと、お待ちになつて……" ], [ "でも、よく来て下すつたわね。どうかしらと、実は思つてたの", "なんだか知らないけど、こいとおつしやるから出て来ました。どんなご用ですか?", "それはまあ、ゆつくりお話しするわ。いまお着きになつたの?", "けさ早く着いたんですけれど、宿をきめとく方がいゝと思つて、友達のところへ寄つて来ました。二三日は泊めてくれるでしよう", "あら、どんなところでもよければ、うちへ泊つていたゞくんでしたのに……。これでもいなかの暮しよりはすこしはゆつくりしてますのよ" ], [ "それじや、さつそくご相談にとりかゝりましようね。あなた、ご存じないわね。いま、北原先生がどうしてらつしやるか……", "知りません", "それが、困つたことになつたの。このまゝにしといたら、あの方、どうなるかわからないわ" ], [ "どうしたもこうしたもないのよ。ほら、婚約の方があつたでしよう? とう〳〵戦争裁判の判決があつたらしいの。それが、重労働二十年ですつて……", "二十年!" ], [ "まあ、ちよつと考えてごらんなさい。二十年つていうと、子供が大人になるのよ。娘がお婆さんになるのよ", "わかつてます。こたえるなあ", "北原先生は、それまで、まあ〳〵、希望をもつてらしつたわけよ。死刑よりは軽いつていつたつて、どう、市ノ瀬さん、北原先生にとつて、どつちが辛いとお思いになる?" ], [ "お手紙にはこうあつたわ……五年十年なら待ちます。二十年といえば、わたしは四十六です。待つことが待つことになるでしようか……", "待てないことはないでしよう" ], [ "わかつてます、わかつてます。立派よ、あなたは……ほんとに立派よ……。それにくらべて、あたしは、なんていう女でしよう。なにひとつ、自分の意志でものごとを決められないの。こうしたいからするんじやなくて、こうせずにいられないからするの。つまらないわ、そんなの……", "いや、それがいゝんです" ], [ "わしはそれが好きです。それがほんとだと思うんです。わしはともかく、北原先生に会いましよう。奥さんにそう言われたなんて言わん方がいゝでしような", "さあ、それはあなたのご勝手……。所をお教えするわ" ], [ "とにかく、ひとの洗たく物は勝手に取り込まないでくださいね。部屋代はちやんとお払いしますからね", "部屋代が聞いてあきれるわ。子供の小遣じやあるまいし、大きな顔がよくできたもんさ" ], [ "浜島のこと、あんた、どうお思いる? ほんとにそんなわるいことしたとお思いる?", "そういうことは、こゝで言つてもしようがないさ。問題はもつとべつなところにあるよ。あんたは、信ずべきものを信じ、否定すべきものを否定すればいゝのさ。あんたは、これを自分のことゝして考えるか、浜島君のことゝして考えるか、だ。この二つをはつきり分けろといつたつて無理だろうが、どつちを主として考えるか、だ。わしは、あんたの立場として、あんたはもう自由なんだということを言いたい。それは、いろんな理由からそう言えるんだが、第一に、その若い生命を空なお題目のために犠牲にしちやならんということだ。二十年間帰らぬ恋人を待つなんて、およそこつけいだよ。悲惨を通り越してるよ。人間わざじやないという意味で、神々しい半面があるかも知れないが、そいつは、自分の心をためしてみれば、すぐに、ほんものか、にせものか、わかるはずだ。あんたには、そういうことはできないよ。できないのが当りまえで、不名誉でもなんでもないよ。あんたの、女としてのねうちに決して傷はつかんと思う、わしは" ], [ "いゝとこへ気がついたなあ。それごらん、それが、わしどもの恋愛つてやつさ。そんな恋愛は犬にくわれろだ。わしは、しかし、先生がそれだけの女だとは思つとらんに。そこへ気のつく女は、たいしたもんだに。それじや、ひとつ、心を入れかえて、まともな恋愛をだれかとしてみんかね?", "じようだんじやないわ" ], [ "自分のいうことに自分で酔つちやだめだ。わしらもよく、自分自身にこびた、自分の好みに通した考え、というやつをもてあそんで得意になることがあるが、こいつは警戒せにやならんと思う。真実つていうもんは、どうにもならんもんだでなあ", "あんたは、なんでもぶちこわそうとするから、きらい!" ], [ "こちらに井出さんの奥さんはおいでですか?", "おられますよ", "ちよつとお目にかゝりたいんですが……", "あなたは?", "名前を言つてもご存じないはずです。お会いすれば話はわかると思います" ], [ "井出さんの奥さんですか?", "はあ、さようでございます。あなたさまは?", "ぼく、北原といつしよにいるもんですが……北原ミユキは、こちらに伺つていますか?", "お名前をおつしやつていたゞかなければ、お返事はできませんわ", "ぼくの名前ですか。あゝそうですか。ぼく尾関と言います。北原をこゝへ呼んでいたゞきます" ], [ "会います。しかたがありませんわ。でも、こゝじやご迷惑かしら?", "あがつていたゞく?", "いゝえ、わたしが出ます" ], [ "あるところを教えろよ。おれが自分でとつてくるよ", "あるにはあるが、たゞじやよこさんよ", "江原さんとこから来たつて言やいゝんだろう" ], [ "おい〳〵、そりやあ昔のことだ。今や時代は一変して、江原久作も禁酒党の仲間入りをしようとしてるんだ。尾関のヤツが舞いこんで来て、このアトリエの静寂を破りやがつた。それもすばらしいモデルを連れて来た手柄にめんじて、ゆるしてはいるが、もうそろ〳〵ヤッコさんに出てつてもらおうと思つてるんだ", "出るも出ないもないさ。これは江原久作のアトリエだと思つたら大間違い……" ], [ "そんなら、おれも言つてやるが、この尾関というのは妙な男で、もと〳〵裁判官のむすこと来てるから、人を裁くのがむやみに好きなんだ。その結果、彼は恋愛というものをしたことがない", "よけいなお世話だ。安手な恋愛に満足する手あいはそのへんにごろ〳〵している。おれは、生がいにたつた一度の、命をかけても惜しくないおれの恋愛のために乾杯する" ], [ "ぼくもあゝいう連中と飲むのははじめてだが、アトリエの酒宴もなか〳〵乙なもんだ。君も遠慮なんかしないで飲めばいゝのに", "…………", "あの、なんとかいう女彫刻家は、ありや相当なもんだ。あの社会は才能がものをいうらしいから、みんなをおさえてたじやないか。ところで、君は、本来はモデルという柄じやないし、あゝいう女性と仲よしになりたまえ。どうしてそんなに黙つてるの?" ], [ "君はちかごろ変にぼくをけむたがつてるようだが、君はいつまでも江原のモデルで通すつもりかい? ぼくは、どうでもいゝんだよ。しかし、君は雑誌社かなんかへ勤めたいつて言つてたじやないか。ぼくも今、仕事の口を探してるんだから、ついでに、君のことも考えてるんだぜ。実はこないだ、江原にこう言つてやつたんだ――君は彼女の影をふんだんにとれ。おれは、彼女の実体をつかんでみせるつて……。その意味、わかる?", "…………", "君はしきりに、男の純潔さということを言うね、いつたい、純潔とはなんだい? 女を知らないということかい? 世間には、いくらでも、純潔づらをして、その実、純潔でもなんでもない男がいる。あるいは、自分が偶然童貞であることを純潔のしるしのように思い込んでいるきたならしい男もたくさんいる。しかし、おれはどういう意味でも、純潔とは言えない、と告白する男を、君はどう思う? 純潔ではないが、純潔ならざることを心から悔いている男が、こゝにいるとする。どう思う?", "…………", "返事をしてくれよ、返事を……", "あなたは、いつたい、なにを言いたいの? あたしに、なにを要求なさるの?" ], [ "君の実体をだよ。絵にも彫刻にもならないものをだよ", "どういう資格で、そんなもの要求なさるの?", "なに? 資格? 驚いたね。たゞ、男性の資格においてだよ。うそいつわりのない男の資格においてさ", "…………", "それじや、まずいかね? 君はいつか、男とはなにか、を、知らなければならん。君は、あの、井出夫人などとは違う。君がいくら崇拝したつて、ありや、そのへんにざらにいる、既成の、ちよつと気のきいた家庭婦人にすぎん。君こそは、新しい世代をみごとに典型化し得る女性だ。そういう素質を、ぼくは、君のすべてに認める。井出夫人は、自分の世界を守ることによつて、なるほどある種の美しさを発揮している。君には、年の若さということゝは別に、君自身の世界というものはない。つまり、すべて未知なるものが君の世界なんだ。その未知の世界こそ、君にとつて、永遠の花園だということを、君は無意識に感じている。君の大胆さはそこからくる……" ], [ "なにを言つてやがる。おれは北原君に話があるんだ。お前にも関係があるかも知れんから、そん時はいた方がいゝと思つたんだ。どつちでもいゝよ。お前にはあとで話してもいゝ", "ふむ、そうか。北原君のことでおれに関係があるかもしれんというと、ちよつとおかしく聞えるが、いつも言うとおり、北原君の一身上の問題は、だれがきめるのでもない。北原君自身がきめるんだ。おれは、たゞ、行きたいというところへ、北原君を連れて行くだけの役目だよ。もつとも、どこへ行きたいのか、ご本人にもわからんことがあるがね", "そういう場合、君は、こつちへこいという合図をするのかい?", "いや、しない。決してしない。たゞ、彼女が無意識に求めている方向を、これではないかと指し示すことはある。それに従う従わないは彼女の自由さ", "よろしい。君にそういう役目があるなら、一しよにおれの話をきけ。おれは、北原君が何を欲しているかは知らん。しかし、おれにとつて、北原君は、実際かけがえのないモデルなんだ。いつかどこかへ行つてしまわれると思うと、それだけでもう仕事をする張合いがなくなるくらいなんだ。この間、北原君が三日すつぽかしてどこかへ行つてしまつた時、おれは、あんなにお前に頼んだ――ぜひ探して連れもどしてくれつて、なあ。お前にはそれができるんだ。しかし、北原君のうしろにお前がついているということは、だよ、これは、ちよつと、おれには困るんだ。こゝにお前がいるのはいゝとしてさ、おれの友達としてだけでいるんじやないということね。こいつは、どうだろうね" ], [ "ほうつといて……。わたし、病気じやないんだから……", "病気でなけりやあ、なおさら、ご飯をたべなきや……。先生にしかられなすつたんだね" ], [ "ちよつと、ちよつと、あんたにお客さまですよ。井出さんとおつしやる立派な奥さんですよ", "あら、そう……" ], [ "とつぜんで、びつくりなすつたでしよう。でも、どうしても、きようはお目にかゝりたいと思つて……", "先日はほんとに失礼いたしました。あのまゝお手紙もさしあげないで、どんなにご心配をかけたかと思うと、きようはなんだか、わるくつて、わるくつて……", "いゝえ、ね、いま江原さんからいろ〳〵お話を伺つて、どうやら事情がわかつたもんだから……あんとき、ちやんとおつしやればいゝのに……", "言いそびれましたの、奥さま……。だつて、いろんなお話がたまつてたんですもの。わたし、もう、現在の自分のことを、そんなに考えなくなつてますの。きようとあしたとはなんにも関係がないような気がするんですもの……" ], [ "いまはそれでいゝのよ。でも、これからのことは、あなたもよつぽどお考えにならないと……", "考えるつていつたつて、もう、考える力、わたしにはありませんわ", "いく地がないことおつしやつちやだめよ。だから、あたしに考えろつて? そんなら、約束してちようだい――どんなことでもするつて……", "するわ。えゝ、しますとも……" ], [ "えゝ、ほんと。奥さまのおつしやることなら、わたし、それ以上のことないと思いますわ", "そんなに信用されては困るけど、あたし、あなたのために、前から考えてることがあるの。もうずいぶん前からよ。あなたが宇品からお手紙をくだすつたわね。そのころからなの。今なら、それを思いきつて言つてもいゝと思うわ。いろんな行きがかりをいつさいすてゝ、あなた、結婚なさらない?" ], [ "いつさいの行きがかりをすてるつていうことが、むろん条件よ。あなたにその決心がつきさえすればいゝの。いつかもお許したように、あなたが苦しんでいらつしやるほんとうの原因は、なに? もつともらしい理くつをつけないでさ。それがはつきりすれば、あとはなんでもないでしよう? 早く言えば、美しい夢が破れたつていうことじやないの? あなたのものだと思つてらしつたものが、そうでなかつたつていうだけの話よ。そのあとは、あなたがご自分を殺すか、生かすかよ。しつかりしてちようだい", "…………", "いま、あなたに必要なのは、あなたの苦しみをいつしよに苦しむひとじやなくつて、あなたに新しい希望と力とを与えてくれるひとだわ。そういうひと、いないかしら? あたしは、いると思うの。どこに? つておつしやれば、あたし、すぐにその人をこゝへ呼ぶわ" ], [ "岸づたいじや面白うないで、ぐつと中心まで出てみましよう。それから、まつすぐに見当をつけて、陸へあがりましよう", "あんまり遅くならない方がいゝわ", "ひるまでに着けばいゝですよ。どうせ今日は待つてるわけなんでしよう?", "あたし、酔うかもしれないわ", "しずかにこぎますよ。これで、すこしはゆれてますか", "ゆれてるわ、ずいぶん……", "遠くをみてゝくだざい。あの朝日のあたつてる山のてつぺんをみてごらんなさい。あ、もう、あの山にも雪がくるなあ。冬は早いですよ、このへんは……下伊那よりは、ひと月は早いですよ", "もう冬なの? いやだわ、夏がやつとすんだところだのに……", "秋は、つておつしやるんでしよう? 春も秋もそりやあありますよ。たゞ、短いんです。あつと思う間にすぎるんです。ごらんなさい、あの鳥のむれを……あれが、渡り鳥でしよう? 秋が通りすぎるのは、あゝです。ちよつと、奥さん、水へ手をつけてみてください" ], [ "お湯ね、これは……", "いつか温泉を調べに来た若い学者が、氷の割れ目から落ちて死んだのは、このへんですよ。たしか……。わしは、スキーはちつとばかりやりますが、スケートつてやつはきらいでね", "運動はなんでもなさるの?", "ひと通りやつたね。だが、わしは、どうも競争となると本気になれんたちだで……ひとりでやることなら、相当がんばるですよ", "面白いたちね。負けるのがおいやなの?", "それもあるかもしれんね。しかし、勝つた時の方がなおさみしいね。そんなこと言つてもだれも本気にせんから困るですがね", "あたし、わかるような気がするわ。でも、スポーツつて、ほんとは、そんなもんじやないんでしよう?", "どうだかしらんが、わしはトツプを切るつてことより、なんかしら、ほかのところに自分の本領があるつて気がして……。ほら、ほら、もつとまんなかにいないと、舟がかしぐですよ" ], [ "わたし、もう父とけんかしてしまいましたの", "どうして?", "わたしがあんまり勝手だつていうんですのよ。だから、勝手なのはわたしじやなくつて、家つていうもんがわたしとは縁がうすくなつたんだ、つて言つてやりましたの", "そんなことおつしやつたら、お母さまがきつと悲しくお思いになるわ", "母には感情つていうもんがないんですの。そんなはずないと思うには思うんですけど、まるでそうとしか思えませんわ" ], [ "あたし、午後の汽車で帰ろうかしら? これから何時のに間に合うでしよう?", "今からだと、もう東京へ遅く着く汽車しかありませんわ。お疲れになるわ。ねえ、市ノ瀬さん", "そう、辰野を四時いくらつていうのには、まだ間に合うけれど、東京へ十一時だで……", "いゝわ。それでいゝわ。早く帰らないと困るの、あたし……。市ノ瀬さんは、一日や二日、ぶらぶらしてらしつていゝのね", "ぶら〳〵はできんですが……", "とにかく、そうしてちようだい。さ、行きましよう" ], [ "じや、いずれまた……東京へお遊びにいらつしやいね。それから、あす、市ノ瀬さんが、お迎いに来ますつて……朝……なん時ごろ、市ノ瀬さん?", "…………" ], [ "帰りは、またあんたに送つてもらう", "はよう、乗りない!" ], [ "フィルムが逆にまわつてるようなもんね。結果がもうきまつていて、原因へはいつて行くんだから、気持の整理がお互にできないんだわ。わたしも、あなたも、井出さんの奥さまのことは信じてるんだけれど、あんまり話が簡単すぎて……。それまでにわたし、もつと自分で解決しなければならない問題がたくさんあるし……。あなたが、たとえ、どんなにわたしの力になろうつて言つてくだすつても、それをいゝことにして、当座の苦しみをごまかすなんてこと、どうしてもできんの。あなたには、第一、まだ、わたしつていう女が、ようわかつとらんでしよう?", "そんなことは、わしにはどうでもいゝんだ。はじめ井出の奥さんから話があつた時は、ちよつと意外に思つたし、実をいうと、それどころじやないつていう気持もあつたさ。しかし、よう考えてみると、わしがあんたを好きになれんという理由もほかにないでなあ。げんに、こうしてると、わしはやつぱり、仕合せになるんじやないかと思うよ。わしはあんたのために、なんかしらできるつていう自信がついただ", "わたしがまだ浜島のことを想つていても?", "うん、わしが奥さんのことをあきらめられんのとおなじだもの。事情はいくらか違つても、まあ、ふたりはおんなじ境遇と言つていゝよ。こんなことは普通は考えられんことさ。しかし、すこしもお互に不純な気持でなく、なにものからも強いられないで、そこへ飛びこんで行けるとしたら、これもひとつの人生の生き方だと思うよ。希望はやつぱり、育てなけりやならんのじやないかなあ", "それで、わたし、すこしわかりかけて来たわ。一番わからなかつたところが、わかつて、うれしいわ。もうこれでいゝのかもしれんけれど、言つてしまわなければ、どうしても気になることがあるの。言わしてちようだいね?", "あゝ、なんでも言いない", "わたしねえ……いやだなあ、こんなこと……。でも、言うわ。わたし……ひとつだけ、条件をつけていゝ?" ], [ "あのなあ、浜島のことだけどなあ、二十年たつたら、帰つてくるでしよう? そん時、もし、まだわたしのことを忘れずにいてさ、どうしてもいつしよになつてくれつて言つたとするのよ。わたしがどうなつていてもそれは許すつて言つたとするの。ずいぶん変なことだけれど、わたし、それを考えると、やつぱり決心がつかないの。わたしは、四十六よ。いゝお婆さんだわ。虫のいゝ話ね。でも、そういうことつて、ないとは限らないでしよう。あなた、わたしを自由にしてくださる?", "…………" ], [ "よくも考えたね、君は……。本来なら返事なんかしないところだが、面白いから、わしは、その条件を快諾するよ。よろしい、二十年後を見ようよ。君のロマンスの美しい結末を楽しみに、わしは、君の青春を大事にあずかるよ。しかし、言つとくがね。君の心配はまず無用だね。万が一、そういう事態が生じたとしても、君はもう、その時は完全にわしのもんだよ。わしが行けと言つても、君は行かないよ。行かないようにしてみせるよ", "市ノ瀬さん……" ], [ "なんだ?", "こゝへ来て! もつとそばへ来て!" ], [ "なに?", "立つてないで……", "じや、こうか?" ], [ "もう一度、今のこと、言つて!", "今のことつて、なに?", "今のことよ。万が一……そんなことがあつたら、それから、どうなの?", "二度は言わないよ", "そんならいゝわ。わたし、もう、どうなつてもいゝわ。どうなつてもいゝつて、言つてるのよ" ], [ "もう一と月はやく、こうして、あなたとお会いしたかつたわ……。いつか、東京の奥さんのお宅でお会いしたわね。あの時分だと、まだよかつたんだけれど……", "そりや、どういう意味な?", "わたしのことで、奥さんから、もつとほかになにか特別なこと、聞いておいでん?", "そんなこと言つたつて、わからんよ。わしが知つとらにやならんことは、みんな知つとるつもりだに", "そうかしら? ほんと? そんなら、言つてもむだかも知れないけれど、やつぱり、わたしの口から言うわ。その方がせい〳〵するから……。でも、こわいの、わたし……", "そんなら、言わなくつてもいゝよ", "うゝん、言うわ。そのかわり、わたし、命がけよ。この手をしつかり握つて、ちようだい。そう、もつとしつかり……顔をみちやいや……" ], [ "もういゝ、もういゝ、そんなことはどうだつていゝんだ。君の過去なんぞ、どうせわしとは関係のないことなんだ。きようからの君なんだ、わしに必要なのは……。ほら、そんなこと聞いたつて、わしの手にはこの通り力がはいつとるじやないか", "ほんとだわ、ほんとだわ……あゝ、うれしい……あたし、泣いていゝ? 泣くわよ" ], [ "この家は別にあなたのものになつてるわけじやないでしよう?", "あら、そうですか? あたくしはまた、そのつもりでおりましたのに……", "名義は、ちやんと父の名になつてますよ", "でも、お亡くなりになる前に、そうおつしやつたんですもの――お前にはなんにもやるものはないから、この屋敷でもつてね。へえ、名義はまだ変つておりませんか?", "土屋さんにそう言つて調べておもらいなさい。いやねえ、どうも変だと思つたわ" ], [ "それで、もうあなたは、市ノ瀬さんのところへいらしつてるの?", "えゝ、先月の十日から……", "じや、そのほかのことは、うまく行つてるわけね?", "うまくですか、どうですか……とにかく、夫婦みたいに暮してますわ" ], [ "おや、みたいとは変な言いかたね。すこし立ち入つたことを聞かしてちようだい。あなたの方から、せんのいいなずけの方のこと、なんにもおつしやらないようにしてらつしやる?", "もちろん、なんにも言やしませんわ。市ノ瀬の方から、言いだすくらいですわ", "それでなにもかもわかるじやないの。お二人の気持を早く落ちつくところへ落ちつかせたいと思つて市ノ瀬さんは苦労してらつしやるだけよ。お二人の過去の生活が、別々の歴史になつていてはいけないと思つてらつしやるのよ。そういうところは、女よりも男の方が潔癖だと思うわ。市ノ瀬さんは、それといつしよに、二十年さきのことを、今からはつきりさせておおきになりたいんだわ", "そのことは、はじめに、条件をつけましたの。二十年、あるいはそれ以内に、あの人が帰つて来たら、わたしを自由にしてくれる約束なんですの" ], [ "へえ、それ、市ノ瀬さん、承知なすつたの?", "えゝ。そんなこと平気なんでしよう。でも、こうは言いましたわ――その時になつたら、もう君にはその自由の必要はなくなるだろう、つて……。わしには自信がある、ですつて……" ], [ "あたくしたち? ワッカナイですの、北海道の果ですわ", "わたしたち、樺太からやつと引揚げたばかりなんですけれど、また、行けるようになつたら行こうと思つて……", "それで? 今からどこまでいらつしやるの?", "どこでもいゝんです。すぐ渡れるようなところへ行つて、待つてますわ", "お連れがおありになるの?", "えゝ、わたしたち三人……" ], [ "感心ね。おくには?", "みんな違うん" ], [ "ふん、ほかを知らずにそう思うのかも知れないけど、内地へ帰つてみて、あんまり居心地がよくないもんで……", "今はことにね。北海道はよくご存じ?", "わたしはあんまり知らないの。このひとがよく知つてるわ" ], [ "いゝわ、いゝわ、折角やすんでらつしやるんだから……。ワッカナイつていえば、今ごろは雪が積つてるでしようね", "そりやそうよ。もうこれからは、四月まで雪の中だわ。それに、十一月のガスと来たら……うゝむ、息がつまりそうだ" ], [ "あんた、それでも、ワッカナイは二年もいたくせに……", "だつて、それ、ワッカナイじやないもの。そんな会社の名前、わッし聞いたことないわ", "なんでもワッカナイからずつとはいるらしいのよ。どつちへだか……。海岸なんですつて……さびしい、さびしい……", "海岸はどこだつてさびしいよ" ], [ "いつそ、ワッカナイまでのすか?", "いつしよに行つてちようだいよ、ほんとに……" ], [ "そうきまれば、わッしたちや、こゝでぶる〳〵ふるえてなくつてもいゝんだ。なん時だろう", "時計はだあれも持つてない" ], [ "ヨシ子さんておつしやつたわね。ご姓は?", "え?", "なにヨシ子つておつしやるの?", "あゝ、そんなもの、どうだつていゝのよ。わたしなんか、たゞ、ヨシ子でいゝのよ。どこのヨシ子だつておんなじよ", "そうね、女はどうせすぐに姓なんか変えるんですものね。あたし、井出康子、お聞きにならないけど、自己紹介しとくわ。あつちへ行つたら、中園つていう家に多分落ちつくでしようけれど、なんかのことで、もし思いだしたら、訪ねてちようだいね。北洋海産合資会社の中園方、いゝこと……? こんなこというと変だけど、あたし、一生、あなたのこと忘れられないわ。今までに知つたど人な女のひとよりも、あなたは、美しいわ。いゝえ、そんな、顔だとか、姿だとかいうことでなく……それ、ほんと……信じてちようだい……" ], [ "いや、あすの朝、ひよつとしたらトラックの便がありやせんかな。聞いてみてあげましようか?", "あちらに電話はございませんのでしようね" ], [ "途中までつて申しますと、あとどれくらい歩けばよろしいんでしよう?", "さあ、少しもはつきりしたことは知らんが、なにしろ、あつちの方角に違いないから……" ] ]
底本:「岸田國士全集16」岩波書店    1991(平成3)年9月9日発行 底本の親本:「岸田國士長編小説集第三巻」八雲書店    1947(昭和22)年11月15日発行 初出:「時事新報」    1944(昭和19)年1月1日~7日、1月9日~2月25日、3月1日~3月5日、3月7日~3月8日、3月11日~3月15日、3月18日~3月21日、3月25日、3月27日~3月29日、4月1日~4月3日、4月7日~4月11日、4月15日~4月19日、4月24日~5月4日、5月6日~5月9日、5月13日~5月17日、5月20日、5月22日~5月24日、5月27日~5月31日、6月3日~6月8日、6月12日~6月17日、6月19日~6月22日、6月24日~6月26日、6月28日 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2012年12月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043848", "作品名": "火の扉", "作品名読み": "ひのとびら", "ソート用読み": "ひのとひら", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「時事新報」1944(昭和19)年1月1日~7日、1月9日~2月25日、3月1日~3月5日、3月7日~3月8日、3月11日~3月15日、3月18日~3月21日、3月25日、3月27日~3月29日、4月1日~4月3日、4月7日~4月11日、4月15日~4月19日、4月24日~5月4日、5月6日~5月9日、5月13日~5月17日、5月20日、5月22日~5月24日、5月27日~5月31日、6月3日~6月8日、6月12日~6月17日、6月19日~6月22日、6月24日~6月26日、6月28日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-02-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43848.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集16", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年9月9日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年9月9日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年9月9日", "底本の親本名1": "岸田國士長編小説集第三巻", "底本の親本出版社名1": "八雲書店", "底本の親本初版発行年1": "1947(昭和22)年11月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43848_ruby_49056.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-12-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43848_49634.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-12-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "今日は", "いらつしやい。だれかと思つたらあなたですか", "よく雨が降りますな", "ほんとによく降りますな", "みなさんお変りありませんか", "はい、有りがたうございます、お蔭さまでみんなぴんぴんしてゐます。ところで、お宅の方は如何です。さうさう、奥さんがどこかお悪いとかで……", "なあに、大したことはないんですよ。医者は脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性ですから、少しいいと、すぐ不養生をしましてね", "それは御心配ですな。どうも脚気といふやつは……" ], [ "今日は", "おや、こいつはお珍らしい", "降りますね、よく", "どうかしてますね", "みなさん、お変りは……", "ええ別に……。ところで、奥さんがどつかお悪いつていふぢやありませんか", "なあに、大したことはないんです。脚気だと云ふんですが、何しろ、あの気性でせう、無理をするんです、少しいいと", "無理をね……。脚気か……こいつ" ] ]
底本:「日本の名随筆70 語」作品社  1988(昭和63)年8月25日第1刷発行 底本の親本:「新しき演劇のために」創元社  1952(昭和27)年1月発行 入力:大野 晋 校正:多羅尾伴内 2004年12月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043580", "作品名": "舞台の言葉", "作品名読み": "ぶたいのことば", "ソート用読み": "ふたいのことは", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 770 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-01-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43580.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆70 語", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1988(昭和63)年8月20日", "入力に使用した版1": "1988(昭和63)年8月20日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "新しき演劇のために", "底本の親本出版社名1": "創元社", "底本の親本初版発行年1": "1952(昭和27)年1月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "大野晋", "校正者": "多羅尾伴内", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43580_ruby_17331.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43580_17339.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "俳優の才能とは何だ。自己を偽る術ではないか。己れの人格を他人の人格で覆ふ術ではないか。自己を在るがまゝに見せない術ではないか。平然として激し、恬然として心にもなきことを語る術ではないか。他人の位置に己れを置かんとして、己れの位置を忘るゝ術ではないか", "俳優の職分とは何か。金銭の為めに、自己の肉体を公衆に晒すことではないか。公衆は彼等より侮辱と罵詈の権利を買ひ受けるのである。彼等は、その人格を挙げて公に之を売らんとするものではないか。" ], [ "ちよいと、こら、あたしんとこへこんなに花環が……", "へえ、", "大成功ね、あんた、うれしくないの。いくつあると想つて……ひい、ふう、みい、よう、いつ、むう、なゝ、やあ、この……九つ。", "それでみんなか", "まだ少いつて云ふの", "……(独言)畜生、花屋のやつ、一つ誤魔化しやがつたな" ] ]
底本:「岸田國士全集19」岩波書店    1989(平成元)年12月8日発行 底本の親本:「演劇新潮 第一年第八号」    1924(大正13)年8月1日発行 初出:「演劇新潮 第一年第八号」    1924(大正13)年8月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044313", "作品名": "仏蘭西役者の裏表", "作品名読み": "フランスやくしゃのうらおもて", "ソート用読み": "ふらんすやくしやのうらおもて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「演劇新潮 第一年第八号」1924(大正13)年8月1日", "分類番号": "NDC 772", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-11-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44313.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集19", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年12月8日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "底本の親本名1": "演劇新潮 第一年第八号", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "1924(大正13)年8月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44313_ruby_36604.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44313_36697.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それにしても君、君の主張する処によれば、……なんだらう。此の作品では、さういふ処が、まだ、それほどしつかりしたものになつてゐないぢやないか。どうも危なつかしいぢやないか。そこに面白さがあるといふのかい、危なつかしい処に……? さうなつて来ると、僕は僕の審美観念を疑はなくてはならないが、僕は飽くまでも自分の立場を正しいとして物を云へばだね、君の此の作品は、君の主張を完全に生かしてゐない処に、致命的な欠陥があると思ふね。一歩進めて云へばさ、君は君の主張する傾向の為めに、文学そのものを犠牲にしてゐやしないか。まあ、待ち給へ、それも決して悪いとは云はない、そこに止まつてゐることが危険だと云ふまでだ。此の次の作を見せて貰はうぢやないか。芸術家は、絶えず、歩いてゐなくちやいかんさ。しかし、新しい道を探す為めに、方角を誤つたり、同じ処を堂々めぐりしてゐたりするのは考へものだからね。或る完成から脱け出ることも必要さ。しかし、それは次の完成へ向つての脱出でなけれやね、どうしたつて。少しお説教じみたね、処で、君は、僕の作品を旧いといふが……", "旧いよ、全く。物の観方、感じ方、表現のし方、丸で今までのものと変りはないぢやないか", "変りがなくつちやいけないのか", "当り前さ。変らなくつてもいいんなら、今更、君なんかが物を書く必要はないぢやないか", "さういふ議論も成立つね。しかし、おれは、何も、今迄の人がやらなかつたことをやらうと思つてゐやしない。おれの作品はおれから始まつておれに終る、さういふ一つの歴史しかもつてゐないと見てくれたらどうだ。文学をその時代的価値ばかりで判断するのは少し可哀さうぢやないか", "だからさ、君がもつと立派なものを書いてゐれば、それでもいいさ。立派なものの亜流だよ。おれたちが葬つてしまひたいのは", "立派なものなら旧くつてもいいのか", "いいさ、ただ、おれたちに用はないだけの話さ。君たちの書く作品のやうに、あたりの邪魔をしないだけでも、まだいいよ", "冗談云つちやいけない。君達の邪魔をするのは、同じ旧いもので、佳いものなんだよ。その意味で、僕達の書くものが下らないものなら、君たちの作品を、却つて目立たせることに役立つ筈だ", "さうも云へるね。ぢや、君達は僕たちの恩人か", "まあ、そんな処らしいな" ] ]
底本:「岸田國士全集20」岩波書店    1990(平成2)年3月8日発行 初出:「文芸時代 第二巻第七号」    1925(大正14)年7月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年9月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044360", "作品名": "傍観者の言", "作品名読み": "ぼうかんしゃのげん", "ソート用読み": "ほうかんしやのけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文芸時代 第二巻第七号」1925(大正14)年7月1日", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-10-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44360.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集20", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1990(平成2)年3月8日", "入力に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "校正に使用した版1": "1990(平成2)年3月8日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "小林繁雄、門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44360_txt_19386.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-09-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44360_19483.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-09-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "なに? 絵? そんなものはどうだつていいさ。第一、絵なんぞ描いてたんぢや、腹がすくばかりだ", "ふむ。ぢや、どうすれば腹がふくれるんだい?", "腹か、腹はな、これだよ" ], [ "なんだい、それや?", "わからんか。按摩だ" ], [ "相手は、日本人と限つたわけぢやあるまい", "もちろん。どこ人だつて肩は張るし、腰をもんでやると、好い気持だつて言ふよ", "女でもか", "こつちで断る手はないやね" ] ]
底本:「岸田國士全集16」岩波書店    1991(平成3)年9月9日発行 底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店    1951(昭和26)年11月5日発行 初出:「オール読物 第五巻第四号」    1950(昭和25)年4月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043851", "作品名": "放浪者", "作品名読み": "ほうろうしゃ", "ソート用読み": "ほうろうしや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「オール読物 第五巻第四号」1950(昭和25)年4月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43851.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集16", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年9月9日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年9月9日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年9月9日", "底本の親本名1": "ある夫婦の歴史", "底本の親本出版社名1": "池田書店", "底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年11月5日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43851_ruby_44999.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43851_45504.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "で、今度は観戦武官といふわけですか", "はい、まあ、さうです。実は、日本語の試験が迫つてゐるので、気が気でありません。試験に落ちると大変です。国へ返されてしまひます", "王国砲兵といふのは、日本の近衛砲兵と同じですか", "いえ、英国では、砲、工、輜重の特科はみなローヤルといふ名誉の呼び方をします。歩兵と騎兵は、三分の一ぐらゐの聯隊がローヤルです", "観戦武官は、あなたの外にどんな国の将校たちが今度出掛けますか?", "この船で、米国、ポーランド、ペルウ、シヤムの人が行きます。現地で多分、フランスなどが加はるでせう", "君は、今度の旅行で、どういふところを注意して見られるつもりですか?", "戦争は、どんな戦争でもおんなじです。私、北京といふ都、いちばん見たいと思ひます" ], [ "日本語の試験は誰がするんです?", "大使館の人です", "先生は?", "先生、三人ゐて、個人教授をうけてゐます" ], [ "英国ではいゝ革ができるんですね", "はい、英国の革、有名です。専門家が代々特別な技術を受けついで作つてゐます。それにこの革は古いからなほいゝのです。私の父も砲兵将校でした。その父から貰ひました", "日本で隊附はされましたか?", "高田の聯隊に一年ゐました", "聯隊長は誰でした?", "○○大佐です。聯隊の生活は、面白いですけれども、隊附の将校は一般に、いゝ語学の先生ではありません", "それやさうでせう。訛りや方言を何時の間にか教へ込まれますからね", "いゝえ、第一に、間違つたことを言つても直してくれませんから……", "なるほど" ], [ "あなたは天津へお帰りですか?", "さうです", "天津には長くお住ひですか、もう?", "十五年", "……" ], [ "忘れたか。Sだよ", "あゝ、さうか", "何処へ行くんだい", "うむ、従軍記者だ。よろしく頼む", "ほう……それはそれは……。貴様の書くものはうちの嬶が読んどるぞ" ], [ "今度は隊長ですか。今迄は?", "騎兵学校にをりました。さつきから、どうもさうぢやないかと思つて……やつぱり変つてをられませんな" ], [ "君は、どの方面へ行くの?", "わからん○○○へ行けと云ふ命令を受けたゞけで、その先は聞いてない", "新しい部下を渡されるわけだね", "うん、一日一緒にゐれば新しいも古いもないさ。そこが軍隊の有りがたいところだ。なあ、さうだらう", "さうだ" ], [ "あなたは支那人として、今度の日本の行動を全然間違つてゐないと思ふ側の人ですか?", "さう、間違つてゐない。少し遅いくらゐです。もう二年たつたら、駄目、効き目ない", "なぜ?", "支那強くなつて、負かすのむづかしい", "待つて下さい。それぢや、あなたは、日本の行動を是認するばかりでなく、支那が負けることを望んでゐるんですね", "蒋さん、負けるのかまはない。国民党ある間支那幸福になりません", "でも、たつた今、あなたは、もう二年たつと支那は強くなりすぎると云ひましたね", "軍隊だけです。人民は苦しい" ], [ "北支那はどうです? 大学なんか復活するでせうか?", "大学はいりません。共産党の学生をつくつてもなんにもならない" ], [ "ほれ、あそこに造船所があつたらう。あの附近へドカン〳〵と落して行きやがつたよ。やられたのは支那人ばかりさ。馬鹿野郎だ", "こつちに防備はないのか?" ], [ "う? うむ……ないことはない。○○砲が○門ある。当りやせんよ", "逃げ脚が早いでのう" ], [ "あなたのものは、何時か汽車のなかで、『富士はおまけ』といふのを読みましたよ", "あゝ、さうですか" ], [ "いくら?", "……" ], [ "え?", "……", "わからない", "一円五十銭" ], [ "S部隊長は何処にゐますか?", "前線に出られた" ], [ "今日は帰りませんか", "わからん" ], [ "もう駄目でした。タンクが火を吹きだしたと一緒に、機体は墜落です", "操縦者は支那人でしたか?", "えゝ、まだ若い将校のやうでした。いや、場所が丁度この上でしたから、部隊の士気が大いにあがりました。地上勤務のものは退屈してますからね。それだけがよかつたです" ], [ "手前どもは新京で料理屋をやつてゐるものですが、今度、こちらでひとつ、店を開かうと思ひます。如何でせう、あの停車場の前の通りで、只今煙草屋さんがございますな、あの右隣りに恰好な家が空いてをりますんですが……", "家主はわかりましたか?", "へ? 家主はこれから捜しますんで……", "ぢや、家主の承諾を得たら、家賃をきめてあげませう", "どうぞ、なにぶんよろしく……。それからこのお神さんですがな、一緒に出て参つたんですが、この方は、なにか簡単な食堂のやうなものをやりたいと云ふんですが、私は、それより、ドラ焼のやうなもんはどうかと勧めてゐるんです。丁度道具を二つばかり用意して参りましたからな" ], [ "それやいゝ。私が日に何百円でも買ひますよ。兵隊さんにうんと安く売るんですよ。これや大きな商売だ", "さやうですか。ありがたい。なあ、お神さん、ほれ見い、云はんこつちやない。わしの考へはどうぢや。お前さん、運が向いて来た、ほやろ" ], [ "なんのこつた。まるで話が違ふんですよ。あの親爺といふのが、今何処かから手榴弾を盗んだといふんで、首を切られるところだつたんです", "え? 誰に?", "いや、それがね。……僕、ちよつと○○隊に行つて来ます。手落ちはないと思ふが、よく調べてもらはなくちや……。とにかく僕の大家さんなんだから……" ], [ "城内は大丈夫です。一昨夜、ちよつと城外でそんなデマが飛びましたがね。なに、なんでもありませんでした。初めの様子では二千人ぐらゐやつて来たかなと思ひました", "へえ、そんなに?", "城内の住民はたうとう知らずにゐたでせう。日本人が先に騒いではいけません。最後まで知らん顔をしてゐなくちや……" ], [ "大概、大丈夫と思ひますが……。わしの方はなにしろ大勢だから……", "一緒に行けますね", "何処までおいでですか?", "先づ石家荘まで", "わしも石家荘へ行きます。それから、命令でどつちへ出掛けるか……", "僕も、行けるところまで行きますよ。連れてつて下さい", "わしについてゐさへしたら安心です。これから先はあぶないと思つたら、教へてあげます" ], [ "誰のです?", "城内へはひるのには○○○○官の通過許可証がなけれや駄目だ", "そいつは知りませんでした。昨夜はそんなことなかつたんでせう?", "今日から命令が出た" ], [ "警察局へ帰るんですが、それでもいけませんか。お巡りさんがそこにゐますから、なんなら附いて来てもらつても……", "いや、規則は規則ですから、お気の毒ですが、衛兵としては、守則に従ふ以外、何等の権能もありません" ], [ "なにか、御馳走はできないかい?", "わしども、たつたいま来たばかりぢやけん……", "来たばかりだつていゝぢやないか", "なんにも支度がでけとらんですたい", "ほう、支度がいるか。そいぢや、また……", "どうぞ……" ], [ "穀物問屋です。この町では大尽ですよ", "家族はみんなゐるんでせうか?", "男だけは残つてゐるらしいですな。さあ、晩飯の支度にかゝりませう" ], [ "あの年取つた方の王といふのは、以前張学良の部下で、陸軍大尉です。張の失脚後、職に離れてゐたのを、わしが拾ひ上げたのです。もう一人の若い方、賈といふのは、あれは、二十九軍の兵隊だつたのを、途中で逃げ出して、わしのところへ頼つて来たのです。あれの兄といふのをわしが北京で世話してゐたものだから……", "へえ、すると、両方とも玄人ですね", "なかなか役に立ちますよ。賈なんか、今でも敵の歩哨線を公然と通り抜けられるんですからね", "なるほど、暗号も知つてるでせうからね", "いま、第一線でわしの部下が働いてますがみんなよくやつてくれとるですよ。早う行つてやらにや、わしも心配でなあ", "あなたの隊は、日本人はあなた方二人きりですか", "いや、ほかに三四名ゐます。班長はやはり日本人でないといかんです" ], [ "おや、君は……", "えへゝゝ", "ひとり?" ], [ "大変だね。何処まで行くの?", "わからんですたい。おかみが癪にさはつたから跳び出して来た", "あゝさうか。あの晩、夜中に大きな声で怒鳴つてたのは、君だね?", "聞いとんなさつた?", "だつて、僕は、隣の部屋に寝てたんだもの", "あら、ほんと?", "君は満洲から来たの?" ], [ "まあ、とつとき給へ。そのうちにまた腹が空くよ", "うゝん、お昼の分は、ご飯をこゝに持つてるから……" ], [ "さうです", "自分はやはり四十八にをりましたKであります" ], [ "××がやられた", "××が……?" ], [ "支那服を持つとるか?", "いや、こゝには持つとらんですが……", "僕が一着、古いのでよけれや持つてるよ" ], [ "出てゐる飛行機が還つて来るまでは、気が揉めるつちやないよ。しかし、貴様、よくこんなところまで来たなあ。なるほど話を聞けやわかるが、小説家なんて、そんなことまでするのかい", "まあ、酔狂さ。しかし、戦争つていふものは現地でないとわからんね", "うん、それやわからん。おれは、かうしてゐてもまだわからんやうな気がするよ", "どうして? そんなことがあるものか", "いや、まだまだ……" ], [ "当分米が来ない形勢だつたもんだから、二三日前から節約を申渡したんだ。いや、腹いつぱい食ふなといふわけぢやない。代用食と半々にする手筈をきめてゐたところが、やつと今日あとが着いたんだ。さあ、遠慮なく食つてくれ", "酒はどうだ? 不自由はしないか?", "う? うむ……" ], [ "自分で偵察に出かけることもあるんだらう", "あるよ", "よく下が見えるかい?", "見えることもあり、見えんこともある", "それや、高度次第だらうが、一度おれも乗せてみてくれないかなあ。日にちがなくつて前線まで出られないんだ。こゝで引つ返すのは少しいまいましいから", "うむ……" ], [ "まあ、そいつはよせ、見えやせんよ", "しかし、新聞記者は爆撃機にさへ乗せてもらつてるぜ", "貴様はよせ" ], [ "ふゝん、こつちで粘つたんだらう", "こつちとは? 日本軍でかい?", "さうさ", "まるで、向うがやつたやうだね。すると、なんのためかねえ?", "いや、夜になると部落の女どもを集めて番をしてやるんだよ。親切なもんだらう?", "ほう、なるほど、それやよく気がついた。用心をするに越したことはないね" ], [ "水はいゝか?", "はあ、まづいゝ方であります", "どら、汲んでみろ" ], [ "ほつとくとだんだん澄んで来るんであります", "それやさうだらうが、あんまり感心せんな" ], [ "なにしろ、明日出発命令が下るかも知れんのだからな。落ちついちやゐられないよ", "うつかり洗濯もできないね" ], [ "それから、村落内に怪しい支那人が一名潜入してゐるらしいといふ報告を受けました。只今、巡察を二組派遣しておきましたが……", "人間がゐるところは大丈夫だよ。それより、飛行機の方だな。まあ、よろしく頼みます" ], [ "うん、場所によるね。大体穏かだが、なかには油断のならん奴がゐるよ", "ある砲兵隊が舎営してゐる部落で、敗残兵だか匪賊だかの襲撃を受けたところがあるつてね。なんでも部落民のいくたりかゞ焚火をして合図をしたんだつていふぢやないか" ], [ "これから北京へ行かうと思ふんだが、飛行機の序はないかね?", "序? さあ、おれんとこにはないが、待てよ……天津までぢやいかんか?", "いかんことはない。それでもいゝ", "○○司令部の連絡機に席が空いてないか、訊いてみてやらう" ], [ "文芸春秋社特派員で、岸田と云ひます。名刺を生憎、すつかりなくしまして……", "あゝ、やつぱりさうですか。自分は、Cであります" ], [ "やあ、これはお見それしました。で、君は今、こゝの○○に?", "いえ、○○部隊の○○をいたしてをります。○○○○に参りました。あなたはまた、ご苦労なお役目で……", "どうしまして、のんびりと方々を歩いてゐるだけです" ], [ "いつでも飛行機へ乗せてもらへるなら、さうしてもいゝんですが、この機会を逃すとどうなるかわからないから……", "なあに、大丈夫ですよ", "また出直して来ることにしませう" ], [ "この男はわしの部下ですが、負傷して此処の野戦病院にはひつてゐるんです。ところがたつた一人の支那人で、言葉も通じないし、心細いから北京へ返してくれと云ふんです", "北京に実家でもあるんですか?", "あることはあるんですが、北京へ帰すにしても、やはり軍の病院へ入れてやりますよ" ], [ "わたしは、もう支那人みたいなもんですから……。名前も支那風に劉栄正と云つてるくらゐです。郷里の方とはほとんど縁を切つたやうな形でしてね", "ぢや、家族の方は北京にでもをられるんですか?", "えゝ、わたしの姉が○○○の家内になつてましてね、ご承知でせう、○○省の主席をしてゐた、いま行衛不明ですが、むろん、日本軍と戦つてゐるでせう。それも止むを得ずです。わたしも、今度の事変がなかつたら、その○○○の妹を貰ふことになつてゐたんですが、さうすれや、これで○○省秘書ぐらゐの地位につけたんです。さういふわけで、姉がいま北京にゐるもんですから……", "○○○といふのはたしか日本の士官学校を出た人ですね", "それがですよ、事変直後に、日本の新聞が姉のことを書きたてたもんだから、先生、南京に対して立場がわるくなつたらしくてね。それも、姉とわたしとで満洲へ行つたことをなにか日本のためのやうに書いたのが致命的だつたんです。困つたことをするもんですよ、新聞は……。親日家はみんな日本の新聞に親日家と書かれることをひどくおそれてゐるわけがわかるでせう" ], [ "天津行きの○○機に乗りたいんですが……", "あ、新聞の方ですね。まあ、こちらへ……" ], [ "新聞はどちらですか?", "いや、新聞ではありません。文芸春秋といふ雑誌です。生憎、名刺をすつかりなくしてしまひまして……", "あゝ、文芸春秋……。それはそれは……。記事になることがありますか?" ], [ "支那兵の構築した陣地といふものを見られましたか?", "野戦の陣地は見ました。相当大がかりなもんですね", "大がかりだ。その上、労力を惜しげもなく使つてある", "まつたく、私も、作業の丹念なのに驚きました。ちよつとした散兵壕でも立派な細工といふ感じですね", "さうでせう。あれを日本軍なら、さう易々と棄てはしませんよ。支那軍は、あんなに丁寧に作つた陣地を、どうしてあゝ簡単に投げ出すかといふと、それには、わけがある。強い弱いといふ問題以外に、陣地といふものに対する考へ方、観念が違ふんです。いゝですか、どうせ一日か二日で退却するんなら、弾丸さへ防げればよささうなもんだ。なにも、あゝ馬鹿丁寧に、定規をあてたやうに作らなくつてもよささうに思はれる。ところが、支那人は、それ、土といふものに対して、日本人の想像もつかないやうな親しみをもつてゐる。土をいぢるといふことが、ちつとも苦にならないのみならず、それは一種の日常茶飯事です。ごらんなさい、日本の子供は、たとへ百姓の子でも、転んで着物へ土がついたら、起き上つてすぐにそれを払ふでせう。これや習慣でさうなつてゐる。然るに、支那の子供はどうです。転んでも決して土なんか払はうとしない。土のなかで生活してゐるやうなもんだ。泥まみれになることは、汚いことぢやないんです。土工作業でも、日本人なら足で踏みかためるところを、支那人は、平気で手を使ふ。綺麗に仕あがるわけです", "鉄砲を打つより、その方が面白いんでせう", "まあ、さういふわけだ。それに、第一、支那軍はちよつとした陣地を作るのにも、そのへんの農民や苦力を大勢使ひます。たゞで使ふ。兵隊は監督するだけだ。これなら、暇をかけて、いくらでも念入りにやれるでせうよ" ], [ "僕、アスピリンを持つてますが、飲んでみますか?", "いや、熱はないですよ" ], [ "まあ、はいり給へ", "天気がよくつて何よりですな" ], [ "私の学校は行かなかつた。去年お前達の学校が排日のデモンストレーシヨンの時にも私達の学校は行かなかつた。去年お前達は大きな声で旗を振上げながら『みんな起ち上れ(大家起来)』の一句を叫んだではないか。しかし私達の学校は参加しなかつた。それだから今日もやつぱり参加しなかつたのだ", "叔母さんの学校はいゝわね", "去年お前達はどう云つた、私はおぼえてゐるよ、あなたの学校は不好と云つたでせう", "……", "お前達は知つてるの、お前達の排日デモンストレーシヨンが今の戦争を惹き起したんだつてことを" ], [ "ところが、ちつとも減りません。なるほど、例の通州事変の後、一時、この界隈に匪賊化した敗残兵が出没して、夜道はむろん危険ですし、何処の家でも戸を閉めて子供を外に出さないことがありました。それが一週間も続きましたかな。この間、生徒がぐつと減りました。が、それも、だんだん落ちつくに従つて、もともと通りになりました", "すると、生徒の父兄は、この学校を信じきつてゐるわけですね", "事変前の空気にくらべて、今は却つてよくなつてゐるくらゐでせう。私の仕事も、ですから、ずつと楽になると思ふんですが、或る意味では、かういふ特殊な事情を背景に、自分の仕事を発展させる野心など私にはないのです。寧ろ、これからは、もつと奥へはひつて行つて、未墾の土地へ根をおろさうかと思つてゐるくらゐです", "こゝで女学校程度の教育を受けたものは、どういふ将来が約束されるのですか", "なにしろ、殆ど家庭的には恵まれない女の子たちばかりですから、大がいは、職業につきます。希望者は日本へ送つて高等の教育を受けさせるやうにしてゐます", "今、読んでいたゞいた作文で、ほゞ見当はつきますが、日本といふものを、どういふ風に考へさせるかは、なかなか、むづかしい点ですね", "さう、それです。私は、直接に日本の宣伝はいたしません。日本人の一人が、献身的に、支那人の幸福と利益とを計つてやつてゐるといふことが、なにより日本をよく理解させる結果になると思つてゐます。私は、修身の時間に、よく、あなた方はもつと自分の国を愛さなくてはいかん、と云つて、生徒の愛国心についても、良心的な指導をしてゐるくらゐです。実際、こゝに来てゐる女の子たちは、支那といふものに対して無関心なのが多く、私はそれを心配してゐます。今の作文が、まづ例外と云つていゝくらゐ、支那人としての気持を表はしてゐると思ひます", "支那側から学校に対して、何か干渉めいたことをしませんでしたか、事変前など", "いろいろありました。しかし、いやがらせ程度のことで、別にそれ以上の圧迫はありませんでした。とにかく、父兄の支持は今日では絶対です。といひますのが、たゞで学問を教へてやるばかりでなく、家の手助けにレースを編むことを教へてゐますから、それがだんだん一軒一軒ひろがつて、近頃では、この界隈の名物のやうになり、年々相当な金がはひるのです。数年前は貧民窟であつたのが、今では、裕福な暮しをしてゐる家が随分あります", "さうして支那の少女たちにいろいろなことをお教へになつて、これはちよつと勝手が違ふなとお思ひになつたことはありませんか", "さう、一度、ずつと以前ですが、どうも理由がわからずに生徒が減つて来るので、不思議だと思つて調べてみると、父兄の間で、こんな意見がひそかに持ち上つてゐたことがわかりました。といふのは、あの学校はほかに不満はないが、たゞ習字に力を入れんから困る。習字といふのは、支那では大事なんです。私は、それをうつかり忘れてゐました。といふより、今の時代にそれがそんなに必要なこととは思はなかつたんです。ところが、父兄にとつては、子供が、学校へ行きながら字が何時までも上手にならなくては困るんです", "生徒の顔をみると、みんなそれぞれに好い顔をしてゐますね", "どれも可愛らしい顔をしてるでせう" ], [ "何時こちらへおいでになりましたか?", "は、昨日……" ], [ "日本も支那も、この機会に、なすべきことはたゞ二つだと思ひます。即ち、忘れること、反省すること、たゞこれだけです", "先生の御意見は、甚だ東洋的で結構だと思ひます。私は、御国の知識階級が殆ど北京を去つてしまつたといふ話を聞いて、非常に悲しく思ひました。この状態は永く続くでせうか?", "さあ、わたくしにはわかりません", "先生はイタリイにもおいでになつたさうですね", "父が公使をしてをりましたから……", "ずつと北京においでになるおつもりですか", "なんにもすることがなければ、田舎へ引つ込みます。私の眼の前は、いま、真つ暗です" ], [ "われわれが日本人だといふことを君は識別し得たか?", "もちろん" ], [ "われわれは今度の事変で、こつちへ送られて来たのだが、君たちの国へも是非行つてみたい", "君たちの艦長がそれを欲しさへすればいゝのだからね" ] ]
底本:「岸田國士全集23」岩波書店    1990(平成2)年12月7日発行 底本の親本:「北支物情」白水社    1938(昭和13)年5月1日発行 初出:「文芸春秋 第十五巻第十四号」    1937(昭和12)年11月1日発行    「文芸春秋 第十五巻第十六号」    1937(昭和12)年12月1日発行    「文芸春秋 第十六巻第一号」    1938(昭和13)年1月1日発行    「文芸春秋 第十六巻第二号」    1938(昭和13)年2月1日発行    「文芸春秋 第十六巻第三号(事変第六増刊)」    1938(昭和13)年2月18日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年11月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "おい君、役者にならないか", "なつてどうするんだい", "芝居をするのさ", "どんな芝居", "おれたちの書いた芝居さ", "あれを演ると、どういふことになるんだい", "新時代の名優になるさ", "そんなら、もう、誰かゞやつてる筈だよ" ], [ "あなたは俳優にならうとお思ひになるのですね。新劇に対して何か抱負がおありですか", "いゝえ、別に", "それぢや困りますね。新しい作家のうちでは、誰のものをやつて見たいとお思ひです", "さう……あの……××さんのなんかは如何でせうか", "如何でせうかぢやない。××君のものがやつて見たいんですね", "はあ", "××君のなんです、作品は", "なんでもかまひませんの。あの活動になつてをります……何んとか申しましたね、カフェーの女給が主人公で……", "そんなのがあつたか知ら……", "さうさう、あれは××さんぢや御座いませんでした" ], [ "えゝ一度、××小劇場で群集の一人になりました。それから……", "よろしい。君は、どれくらゐ修養したらほんとの役者になれると思ひます", "△△さん(新劇俳優の名)は半年もしたらつて云はれましたけれど、僕、それぢや駄目だと思ひます", "ふん", "ゴオヅン・クレイグは十年間劇場を閉鎖しろと云ひましたが、全くそれくらゐの覚悟は必要と思います", "君は、その覚悟なんですか", "先生たちもその覚悟でおいでゝすか", "僕達には僕達の計画があります。ぢや、君は今までの新劇俳優を標準にして、たゞ舞台に立ちさへすればいゝ、相当な役がつきさへすればいゝと云ふんではないんですね。君は……それなら……", "一寸お尋ねしますが、先生たちは、僕らを、まあ何年かなり教育して下すつて、その上で舞台に立たせようとおつしやるんでせう。処が、その何年か後に、僕達が相当の俳優になるのはよろしいが、その僕等が演りたいやうな脚本を、先生たちは書いて下さる自信がおありなんですか", "君、今少し言葉を慎み給へ。それぢや、何んですか、君は、僕たちの書くものに不満をもつてゐるんですか", "今は不満なんかありません。たゞ、僕が相当な役者になつたら、不満が起るだらうと思ふのです", "どうしてそんなことがわかります", "でも、あなた方は、あなた方のお書きになるやうなものを演るのに適してゐる役者を作らうとなさるでせう。あなた方は決して、理想的な俳優が演つて見たいと思ふやうな脚本をお書きにはならないと思ひます", "どうして", "あなた方は、理想的な俳優といふものを御存じないからです", "君は一体、何にしにこゝに来たのです", "役者になりたいから来たのです", "それなら、僕達をもつと信用したらどうです", "僕は俳優養成者としてのあなた方を試験しに来たのです", "といふと……", "僕はもう帰ります。どうもお邪魔しました" ] ]
底本:「岸田國士全集19」岩波書店    1989(平成元)年12月8日発行 底本の親本:「我等の劇場」新潮社    1926(大正15)年4月24日発行 初出:「文芸日本」    1925(大正14)年5月1日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2009年9月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "044349", "作品名": "幕は開かない", "作品名読み": "まくはひらかない", "ソート用読み": "まくはひらかない", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文芸日本」1925(大正14)年5月1日", "分類番号": "NDC 770", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-11-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card44349.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集19", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年12月8日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年12月8日", "底本の親本名1": "我等の劇場", "底本の親本出版社名1": "新潮社", "底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年4月24日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44349_ruby_36609.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/44349_36702.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-09-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いいえ、どちらでも結構でございます。普通のホテルなみに、ご都合でお部屋へ、お運びいたしてよろしうございます", "ぢや、さうしてもらはうか。日本酒があつたら、熱いところを一本、いや、二本、まあ、それくらゐにしとかう。むろん、食事は洋食だ。めしをつけてくれ、めしを。なあ、お前もその方がよからう。遠慮するこたあねえ" ], [ "ご飯は、さあ、急にはいかがでございますか。なにしろ、ほかにお客さまがお一人きりで、ずつとパンを召上つてらつしやるもんでございますから……。でも、なんとかできますでせう。お時間は、すぐになさいますか?", "ああ、腹がすいてるから、すぐにしてくれ。君は、ずつとこのホテルにゐるの? 何年ぐらゐになるの?" ], [ "あたくしでございますか、はあ、このホテルだけでも、もう、十年近くになります", "その前は、どこにゐたの?", "その前は、船に乗つてをりました", "船つていふと……?", "欧洲航路の客船でございます" ], [ "ほんとに、今時分、珍しいお客さまでございますよ。ご一泊ださうですけれども、おはじめてでは、とんだところへ来たと思召していらつしやいませう", "どうして? まさか、知らずにつてこともないでせう", "それやなんともわかりませんですが、たいがいわたくしどもの眼には、それがわかりますんです。来てみて、おやおやとお思ひになる方、なるほどとお思ひになる方、それはよく見分けがつくんでございますよ。この山の中は、まつたく別世界でございますからね。なにかちやんとした目的がおありにならなければ、普通の方には、面白くもをかしくもございませんもの" ], [ "さあ、そんなことがございましたですか?", "そんな気がしたの、たつた今……", "よく夕方、眼のきかなくなつた小鳥が、窓ガラスにぶつかつて、落ちてゐることがございますけどね………" ], [ "奥さん、しばらく……。僕は自分一人で賭けをしたんですよ。もうとつくにお引上げさ、と、一人の僕は断言するんです。いや、まだ、まだ、と、もう一人の僕が言ひ張るんです。そこで、ちよつと学校をサボつて、確かめに来たんですが、やつぱり、さうだつたのか", "酔興ね、あなたも……。で、負けた方のあなたは、どうなさるの?", "それが困るんですよ。僕は自分自身に公平であるために、つまり奥さんがもういらつしやらなかつたら、一週間、この山の中にゐること、もし、まだおいでになるやうだつたら、ちよつとお目にかかつて、その後、十二時間以内にここを出発することに決めたんです", "あら、ずいぶん変だわ。ぢや、もう、あすの朝はおたちね" ], [ "いえ、お坊つちやま、奥さまは、おからだを休めにいらしつてるんでございますから……", "知つてるよ、そんなことは……。僕は奥さんとランニングをしようなんて言つてやしないよ", "でも、夜ふかしは……", "うるさいつたら……。奥さんは、部屋でなにしてると思ふ? 夜明けまで考へごとをして、それから、アドルムを呑むんだぜ", "うそばつかり……" ], [ "ぢや、なんか静かなものがいいわ", "ペエア・ギュントは、いかがでございます?", "どうぞ……" ] ]
底本:「岸田國士全集16」岩波書店    1991(平成3)年9月9日発行 底本の親本:「ある夫婦の歴史」池田書店    1951(昭和26)年11月5日発行 初出:「スタイル読物版 第二巻第二号」    1950(昭和25)年2月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043850", "作品名": "緑の星", "作品名読み": "みどりのほし", "ソート用読み": "みとりのほし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「スタイル読物版 第二巻第二号」1950(昭和25)年2月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43850.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集16", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年9月9日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年9月9日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年9月9日", "底本の親本名1": "ある夫婦の歴史", "底本の親本出版社名1": "池田書店", "底本の親本初版発行年1": "1951(昭和26)年11月5日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43850_ruby_45002.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43850_45505.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "やい、東吉、お前もそろそろ女房をもて", "いらねえ、そんなもの", "いらねえつたつて、さうはいかねえ。おれはもう店をお前に譲りたくなつた。女房をもらつてやるから、二人でいゝやうにしろ" ], [ "ところで、どうだ、さう話がきまつたら、早い方がよからう。気に入つた娘ツ子があるなら言つてみな", "ねえよ、そんなもの", "あつたつてかまはねえぞ", "ねえつたら、ねえ", "ねえか。そんなら、おれの眼鏡で、これと思ふのをあてがふが、それでいゝか", "お父つつあんのいゝやうにするよ", "さうか。そんならなんでもねえ。内藤の姉娘をもらふべえ", "肉屋のか?", "あれや気だてのいゝ娘だ。見かけはとにかく、女房には、あゝいふ女が理想的つていふもんだ" ], [ "おい、みよ子、泣いてばかりゐないで、ちつたあ、心当りへ電報でも打つてみちやどうだ", "心当りつて、わたしにや、まるでわからんもん", "飴玉の仕入先で、神田に時々泊めてもらふ家があつたつけが……", "また、米を背負つて、見つかつたんぢやあるまいか", "そんなら、二度三度は始末書ですむ筈だ。こんなに長く引つ張られるもんか", "東京が面白うなつたのかも知れん", "なにが面白い、あんなとこ……。第一、遊び廻る金なんぞあるかい", "仕入れのお金を持つてつとるでな", "バカこけ。あの男にそんなことができるか", "ひよつとして、怪我でもしとるんぢやなからうか", "心配するな。それこそ、身元を調べて、すぐ知らせてよこすで……" ], [ "わしの勘ぢや、奴さん、どこかで金を落しただ。帰るには帰れずさ、気が小さいでな、あちこちうろうろして、金の工面をしとるでねえかと、にらんどるんだ", "金はいくらぐらゐ持つてつとるだらう", "まあ、二、三万といふところかな", "親父に内証ちうわけにいかんでな", "あの年で、親父に頭があがらんちうのは、をかしいよ。馬鹿ぢやねえだからなあ" ], [ "大将、近頃、気がすこし変になつとりやせんか? ほれ、いつか熊に出会つたつていふ、あの頃からよ", "なるほど、あの話をした時の眼つきは、たしかに、普通ぢやなかつたなあ" ], [ "あら、さう……そんなら、あたしとお兄さん、同郷つてわけね。なんだか、うれしいわ", "まあ、さうだ" ], [ "たつた五千円といふが、なにしろ旅先で、……", "いゝわ、いゝわ……" ], [ "お父つつあんがなあ、東京へあんたを探しに行つとりなさるんだけど……", "へえ、どこを探すつもりだ" ], [ "このバカ野郎、どこをいつまでもほつき歩いてたんだ!", "心配したかい?", "なに? 心配したか? この薄ノロ! 十日も二十日も黙つて家をあけやがつて、なんていふ口の利き方だ。親には親らしく、挨拶をしろ!" ], [ "あゝ、望みとあれば、挨拶をしよう。今日限り、親子の縁を切つてもらはうよ", "な、な、な、なんだと?" ], [ "そりや、また、なぜね? わけを言ひな、わけを……", "おれや、お前さんのおかげで、えれえことしでかすところだつた。すんでのことに、この女房を……罪もねえ女房を捨てちまふところだつた", "それが、わからねえ、おれにや……", "わからねえか? いゝか、みよ子のあらばかり言ひたてゝ、おれにいや気を起させたなあ、誰だい? おれも、バカにや、バカだつた。とにかく、おれは、みよ子つてやつを、申し分のない女房だと気がついた。小言なんぞ、ひと言だつて言ふこたあねえ。それだけだ", "ふん、さう来なくつちや……。めでてえ話ぢやねえか。たうとう、おれの望みどほりになつたわけだ", "おちやらかすのはよしてくれ。おれや、真面目なんだ", "おれだつて、真面目だ。それを見とゞけたら、おれはもう、この家に思ひのこすこたあねえんだ。まあ、末永く、女房を可愛がつてやりなよ。お前も、ちよつとの間に、いゝ苦労をしたなあ" ] ]
底本:「岸田國士全集18」岩波書店    1992(平成4)年3月9日 発行 底本の親本:「オール読物 第七巻第一号」    1952(昭和27)年1月1日発行 初出:「オール読物 第七巻第一号」    1952(昭和27)年1月1日発行 入力:tatsuki 校正:門田裕志 2011年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043863", "作品名": "山形屋の青春", "作品名読み": "やまがたやのせいしゅん", "ソート用読み": "やまかたやのせいしゆん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「オール読物 第七巻第一号」1952(昭和27)年1月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-24T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/card43863.html", "人物ID": "001154", "姓": "岸田", "名": "国士", "姓読み": "きしだ", "名読み": "くにお", "姓読みソート用": "きした", "名読みソート用": "くにお", "姓ローマ字": "Kishida", "名ローマ字": "Kunio", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1890-11-02", "没年月日": "1954-03-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "岸田國士全集18", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1992(平成4)年3月9日", "入力に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年3月9日", "底本の親本名1": "オール読物 第七巻第一号", "底本の親本出版社名1": " ", "底本の親本初版発行年1": "1952(昭和27)年1月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "tatsuki", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43863_ruby_45462.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001154/files/43863_45510.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お身分は", "在郷軍人だ。これを見て呉れ" ], [ "それが何だ", "勲章だ", "勲章が何だ", "戦功によって天皇陛下から賜わったものだ", "そんなものは泥坊して来ても附けることが出来る。この場合それが何になる" ] ]
底本:「喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌」平凡社    1982(昭和57)年11月25日初版第1刷発行 初出:「社会史研究 第一〇巻第三号」    1923(大正12)年11月 ※〔 〕内は、底本編者による加筆です。 ※底本巻末の編注は省略しました。 ※「鑵詰」と「罐詰」の混在は、底本通りです。 入力:しだひろし 校正:富田晶子 2020年8月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050580", "作品名": "震災日誌", "作品名読み": "しんさいにっし", "ソート用読み": "しんさいにつし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「社会史研究 第一〇巻第三号」1923(大正12)年11月", "分類番号": "NDC 916", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-09-01T00:00:00", "最終更新日": "2020-08-28T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/card50580.html", "人物ID": "001344", "姓": "喜田", "名": "貞吉", "姓読み": "きた", "名読み": "さだきち", "姓読みソート用": "きた", "名読みソート用": "さたきち", "姓ローマ字": "Kita", "名ローマ字": "Sadakichi", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1871-07-11", "没年月日": "1939-07-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "喜田貞吉著作集 第一四巻 六十年の回顧・日誌", "底本出版社名1": "平凡社", "底本初版発行年1": "1982(昭和57)年11月25日", "入力に使用した版1": "1982(昭和57)年11月25日", "校正に使用した版1": "1982(昭和57)年11月25日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "しだひろし", "校正者": "富田晶子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/50580_ruby_71611.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-08-28T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/50580_71657.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-08-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "うぐいすの歌でございますか", "さよう、あのホーホケと啼くうぐいすのことですよ" ], [ "料理だって、まぐろの刺身と、なんとを取り合わせるといっても、やはりいろいろあるとお返事するより仕方がないでしょう", "ホホホ" ], [ "先生", "うん……", "梅にうぐいすでございますか", "さよう", "あの、梅にうぐいすなどは、歌の方で申せば、あまり使い古されておりますんでございますが……いかがなものでございましょう?", "使い古されているのは、歌のほうの話でしょう。梅は年々新しい蕾を持つ、うぐいすは年毎に新しく生まれますよ、奥さん" ], [ "それでは伺いましょう。あなたはなんのために歌を作られるのでしょう。いや、なんのためといって悪ければ、なにを表現しようとなさいますか", "それは先生、真実を表現することでございますわ", "真実を表現するためには、真実を見出すことが必要ではないでしょうか", "もちろんでございますとも", "それならうぐいすはどんな木に止まりますかね", "それは、だからいろいろでございますわ", "うーむ。これはおもしろい。あなたのうぐいすは浮気ものですね。わたしの庭に来るうぐいすは、やはり、梅の木に止まります。毎年春になると、母親のうぐいすが、子供をつれて梅の木にまいりますよ。そして母うぐいすが、子うぐいすに、うたを教えるのです" ] ]
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所    2008(平成20)年4月18日第1刷発行 底本の親本:「魯山人著作集」五月書房    1993(平成5)年発行 初出:「独歩」    1953(昭和28)年 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049960", "作品名": "梅にうぐいす", "作品名読み": "うめにうぐいす", "ソート用読み": "うめにうくいす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「独歩」1953(昭和28)年", "分類番号": "NDC 596", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-01-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/card49960.html", "人物ID": "001403", "姓": "北大路", "名": "魯山人", "姓読み": "きたおおじ", "名読み": "ろさんじん", "姓読みソート用": "きたおおし", "名読みソート用": "ろさんしん", "姓ローマ字": "Kitaoji", "名ローマ字": "Rosanjin", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1883-03-23", "没年月日": "1959-12-21", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯山人の美食手帖", "底本出版社名1": "グルメ文庫、角川春樹事務所", "底本初版発行年1": "2008(平成20)年4月18日", "入力に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "校正に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "底本の親本名1": "魯山人著作集", "底本の親本出版社名1": "五月書房", "底本の親本初版発行年1": "1993(平成5)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49960_ruby_37708.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49960_37760.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "先生、ずい分、立派なカンナですね。まるで、大工が使うような、カンナですね", "これは、大工たちが使うカンナの中でのいちばん上等だよ", "へえ、もったいないですね", "どうしてもったいないのだ" ], [ "先生、そんな立派なカンナなら、なにも、かつおぶしをおけずりにならなくとも、立派に、大工道具につかえるではありませんか", "大工道具に、立派に使えるほどの上等だから、かつおぶしがけずれるんだよ" ], [ "やあ、きれいだな。芸術品ですね、先生", "そうだ、料理は芸術だよ" ], [ "でも、先生、カンナを、上手に使うのはむずかしいでしょうね", "変な、安もののかつおかきで、汗をかいて、かつおぶしをごしごしけずって、木屑や、砂のようなけずり方をするより、上等のカンナでかく方が、どれだけ楽だかしれやしないよ", "そうですかね。先生、オンナも、カンナと、同じですね", "どうして", "いい女房をもらっておけば、一生味がよくて経済的ですね", "ハハ……なるほど落語の落ちだな。オンナとカンナと似ているね" ] ]
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所    2008(平成20)年4月18日第1刷発行 底本の親本:「魯山人著作集」五月書房    1993(平成5)年発行 初出:「独歩」    1953(昭和28)年 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050016", "作品名": "カンナとオンナ", "作品名読み": "カンナとオンナ", "ソート用読み": "かんなとおんな", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「独歩」1953(昭和28)年", "分類番号": "NDC 596", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-01-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/card50016.html", "人物ID": "001403", "姓": "北大路", "名": "魯山人", "姓読み": "きたおおじ", "名読み": "ろさんじん", "姓読みソート用": "きたおおし", "名読みソート用": "ろさんしん", "姓ローマ字": "Kitaoji", "名ローマ字": "Rosanjin", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1883-03-23", "没年月日": "1959-12-21", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯山人の美食手帖", "底本出版社名1": "グルメ文庫、角川春樹事務所", "底本初版発行年1": "2008(平成20)年4月18日", "入力に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "校正に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "底本の親本名1": "魯山人著作集", "底本の親本出版社名1": "五月書房", "底本の親本初版発行年1": "1993(平成5)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50016_ruby_37709.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50016_37761.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "食うために作ることですか、先生。そんなら、なんのために食うのですか", "そりゃ生きるためにだ", "なんのために生きるのですか", "死ぬためにだ", "まるで先生、禅問答のようですね" ], [ "いえ、決して……。では、あたりまえの言葉で伺ったら、先生は本当のことを教えてくださいますか", "うむ、あたりまえの言葉で聞いたら、あたりまえのことをいってやるよ" ], [ "あたりまえのことなら、伺いたくないのです。先生、本当のことをききたいのです", "あたりまえのことが、一番本当のことだよ。君は、本当のものを見ないから見まちがうのだ。耳は、本当のことをききたがらない。舌は本当の味を一つも知らないから、ごまかされるのだ。手は、あたりまえのことをしないから、庖丁で怪我をするのだ", "分ったようで、分りません", "そうだ、なかなか、あたりまえのことは分りにくいものだ。いや、分ろうとしないのだよ。ハハハ……。いろいろききたければ、わたしが、近々本を出すから、それを読んでくれるといい。それには、あたりまえのことしか書いてないが、多分、君の聞きたいことがみんな書いてあると思うよ", "そうですか、ぜひ、読ませていただきます" ], [ "先生、玄関と書いてくださったのですか", "そうだ" ] ]
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所    2008(平成20)年4月18日第1刷発行 底本の親本:「魯山人著作集」五月書房    1993(平成5)年発行 初出:「独歩」    1953(昭和28)年 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049983", "作品名": "尋常一様", "作品名読み": "じんじょういちよう", "ソート用読み": "しんしよういちよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「独歩」1953(昭和28)年", "分類番号": "NDC 596", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-01-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/card49983.html", "人物ID": "001403", "姓": "北大路", "名": "魯山人", "姓読み": "きたおおじ", "名読み": "ろさんじん", "姓読みソート用": "きたおおし", "名読みソート用": "ろさんしん", "姓ローマ字": "Kitaoji", "名ローマ字": "Rosanjin", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1883-03-23", "没年月日": "1959-12-21", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯山人の美食手帖", "底本出版社名1": "グルメ文庫、角川春樹事務所", "底本初版発行年1": "2008(平成20)年4月18日", "入力に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "校正に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "底本の親本名1": "魯山人著作集", "底本の親本出版社名1": "五月書房", "底本の親本初版発行年1": "1993(平成5)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49983_ruby_37701.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/49983_37753.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "先生、料理をするときの心がけについて話していただけませんでしょうか", "なるほど、君はなかなかいいことを聞くね。方法を聞かずに、心がけを聞くところに見どころがあるね。それはね、まず、親切ということだ。親切を欠くなということだ", "ハイ、親切を欠くな……でございますか", "そうだ、真心だね。こんな話がある。あるひとが別荘にいた。別荘にも、いろいろあるが、あまり、ありがたくない別荘だよ", "まあ申せば小菅のようなところですの", "うむ、君はなかなかもの分りがいいな。つまり、そうした別荘だよ。そこでだ、その別荘に、毎日差し入れがくる。弁当がとどけられるのだな。日々いろいろのひとから、差し入れ弁当がとどくのだよ。友人からとどくもの、知人からとどくもの、そのひとが世話してやったひとからとどくもの、また、そのひとが別荘から出た時に、そのひとを利用してやろうと思う奴からとどくもの、いろいろだからね。そのなかで、そのひとが差し入れ人の名を聞かずとも、すぐに分る差し入れ弁当があった。それは、そのひとの、おっかさんからとどけられるものだった。そのひとはすぐに、それが母親からのものだと、分ったそうだよ", "先生、やはり、その母親からとどけられる弁当には親切があるからですね", "そうだ、そうだ、誰の弁当にもまさる真心がそのひとに通じたのだな", "分りました。先生、ではいちばん親切な料理は、母親や女房の作ったものということになりますわね", "そうだとも、そうだとも", "では、先生、伺いますが、恋女房がそれこそ真心をつくしてこしらえてくれた料理がぜったい世の中でいちばんおいしいはずなのに、よそで食べる料理のほうが、はるかにおいしい場合があると思いますが、いえ、たいていの場合、家庭料理より、料理屋の料理のほうがおいしいことが多いのですが、これはどうしてでしょうか、先生", "うむ、君はいいところを突いてくるね。わたしは、親切心、真心がいちばん大事だといったが、それがいちばんおいしいとはいわなかったはずだ", "うまくお逃げになりましたね、先生", "逃げはせんよ、なにも君と鬼ごっこをしているわけじゃない……", "じゃ、先生、説明をしてくださいますわね" ], [ "分りました。たとえば、どんなことでしょうか", "いよいよ、君の聞きたいところへ追い込んできたね、ハハハ", "早く聞きたいものですわ", "では、話そう。日本には今から少し前にお女郎というものがいた", "先生、お女郎の話じゃありません。料理の話です", "待て、待て、ここからいわねば分らん。お女郎はたいへん上手だ、なにが上手か分るか", "分ります。それが料理とどんな関係があるでしょうか" ], [ "先生、よく分りました。もう失礼いたしますわ", "おい、おい、そうあわてなくともいいだろう。話はこれからだよ。つまり、いかにして経済的に、安くおいしいものをつくるか、材料の選択はどうか、とか。たいせつなことはこれからだよ" ], [ "おやおや、あんたは料理のことを聞きにきて、女房の心得を聞いて帰るようなもんだ", "ありがとうございました。それでは……" ] ]
底本:「魯山人の美食手帖」グルメ文庫、角川春樹事務所    2008(平成20)年4月18日第1刷発行 底本の親本:「魯山人著作集」五月書房    1993(平成5)年発行 初出:「独歩」    1953(昭和28)年 入力:門田裕志 校正:noriko saito 2009年12月4日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "050002", "作品名": "筆にも口にもつくす", "作品名読み": "ふでにもくちにもつくす", "ソート用読み": "ふてにもくちにもつくす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「独歩」1953(昭和28)年", "分類番号": "NDC 596", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-01-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/card50002.html", "人物ID": "001403", "姓": "北大路", "名": "魯山人", "姓読み": "きたおおじ", "名読み": "ろさんじん", "姓読みソート用": "きたおおし", "名読みソート用": "ろさんしん", "姓ローマ字": "Kitaoji", "名ローマ字": "Rosanjin", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1883-03-23", "没年月日": "1959-12-21", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯山人の美食手帖", "底本出版社名1": "グルメ文庫、角川春樹事務所", "底本初版発行年1": "2008(平成20)年4月18日", "入力に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "校正に使用した版1": "2008(平成20)年4月18日第1刷", "底本の親本名1": "魯山人著作集", "底本の親本出版社名1": "五月書房", "底本の親本初版発行年1": "1993(平成5)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50002_ruby_37703.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/50002_37755.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "結構だ、結構だ", "何とも言えぬ" ], [ "とてもありがたい", "この高台が何とも言えぬ", "この縁造りが何とも言えぬ" ], [ "この縁造りがどうだの", "のんこうの釉薬は格別ですね、これはほかの茶碗では見られない" ] ]
底本:「魯山人陶説」中公文庫、中央公論社    1992(平成4)年5月10日初版発行    2008(平成20)年11月25日12刷発行 底本の親本:「魯山人陶説」東京書房社    1975(昭和50)年3月 入力:門田裕志 校正:雪森 2014年10月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "055086", "作品名": "私の作陶体験は先人をかく観る", "作品名読み": "わたしのさくとうたいけんはせんじんをかくみる", "ソート用読み": "わたしのさくとうたいけんはせんしんをかくみる", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 751", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2014-11-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-10-13T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/card55086.html", "人物ID": "001403", "姓": "北大路", "名": "魯山人", "姓読み": "きたおおじ", "名読み": "ろさんじん", "姓読みソート用": "きたおおし", "名読みソート用": "ろさんしん", "姓ローマ字": "Kitaoji", "名ローマ字": "Rosanjin", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1883-03-23", "没年月日": "1959-12-21", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "魯山人陶説", "底本出版社名1": "中公文庫、中央公論社", "底本初版発行年1": "1992(平成4)年5月10日", "入力に使用した版1": "2008(平成20)年11月25日12刷発行", "校正に使用した版1": "1992(平成4)年5月30日再版発行", "底本の親本名1": "魯山人陶説", "底本の親本出版社名1": "東京書房社", "底本の親本初版発行年1": "1975(昭和50)年3月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "雪森", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55086_ruby_54742.zip", "テキストファイル最終更新日": "2014-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001403/files/55086_54787.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "しつ。", "しつ。", "しつ。", "しつ。", "しつ。", "しつ。", "しつ。" ], [ "しつしつ。", "しつ。" ] ]
底本:「白秋全集 5」岩波書店   1986(昭和61)年9月5日発行 底本の親本:「海豹と雲」アルス   1929(昭和4)年8月28日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:岡村和彦 校正:大沢たかお 2012年8月24日作成 2012年11月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "お城には誰がいるの", "今は誰もいないんだ。むかしね兵隊がいたんだよ" ], [ "日本ラインという名称は感心しないね、卑下と追従と生ハイカラは止してもらいたいな。毛唐がライン川をドイツの木曾川とも蘇川峡とも呼ばないかぎりはね。お恥かしいじゃないか", "そうですとも、日本は日本で、ここは木曾川でいいはずなんで" ], [ "この高い山は", "継鹿尾山、叡光院という寺があります。不老の滝というのもありますが上って御覧になりますか", "いや、ぐんぐん遡ろう" ], [ "あれが不老閣", "閑静だなも" ], [ "爽快爽快", "富士ヶ瀬です" ], [ "あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね", "小山観音", "縁日でもありますか", "ちょうど七月の九日が御開帳でして、へえ、毎年です", "店も出ましょうね", "ええ、河原は見世屋でそれはもういっぱいになりますで" ], [ "見えた。あの鉄橋からまわりますか", "よし" ], [ "ほら、坊や、さよならだ、帽子をお振り", "さようならァ――", "もひとつ", "さようならァ――" ], [ "坊や、昨夜の花火は奇麗だったね", "うん、奇麗だったね" ], [ "坊や、ほら、お城が見えるよ", "ほんとだ、お城だ" ], [ "まだあかないの、まだあかないの", "坊や、そんなに飲めるかい、待ってくれ" ], [ "呼んでますわァ", "君のとこの林間学校の子供たちだね。幾人ぐらい来る", "昨年は百六十名ほど来ましたが、この夏は六十名くらいでしょうか、それに岐阜加納竹ヶ鼻笠松の子供が一週に四、五回は先生に連られて参りました。そうです。五、七十名ずつ一ノ宮、奥町の子供も遊びに来ますで" ], [ "昨日はおもしろかったかい。岩がたくさんあったろう", "うむ", "お猿がいなかった", "いなかった。僕、奇麗な銀のおしっこをしたよ" ], [ "何でもよく見ておくんだ。今度来てよかったね", "よかったね" ], [ "お坊っちゃん、早くお帰り、今夜はわたしがだいてあげるぞなも", "いやだ、僕、北原白秋と寝るんだ", "へへえ、この子はん、変ってやはりますなあ" ], [ "やれ飛べ観音というのは", "もっと上です。惜いことしました、ゆっくり御案内できないで" ] ]
底本:「日本八景 八大家執筆」平凡社ライブラリー、平凡社    2005(平成17)年3月10日初版第1刷 底本の親本:「日本八景―十六大家執筆」大阪毎日新聞社、東京日日新聞社    1928(昭和3)年8月15日再版 ※「船」と「舟」の混用は、底本通りです。 入力:sogo 校正:岡村和彦 2015年5月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056563", "作品名": "木曾川", "作品名読み": "きそがわ", "ソート用読み": "きそかわ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 915", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2015-08-15T00:00:00", "最終更新日": "2015-08-01T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/card56563.html", "人物ID": "000106", "姓": "北原", "名": "白秋", "姓読み": "きたはら", "名読み": "はくしゅう", "姓読みソート用": "きたはら", "名読みソート用": "はくしゆう", "姓ローマ字": "Kitahara", "名ローマ字": "Hakushu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-25", "没年月日": "1942-11-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本八景 八大家執筆", "底本出版社名1": "平凡社ライブラリー、平凡社", "底本初版発行年1": "2005(平成17)年3月10日", "入力に使用した版1": "2005(平成17)年3月10日初版第1刷", "校正に使用した版1": "2005(平成17)年3月10日初版第1刷", "底本の親本名1": "日本八景―十六大家執筆", "底本の親本出版社名1": "大阪毎日新聞社、東京日日新聞社", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年8月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/56563_ruby_56942.zip", "テキストファイル最終更新日": "2015-05-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/56563_56988.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2015-05-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "何だね。", "あの睾丸抓んだら死ぬんでせうか。" ], [ "だが、一体誰が抓むの誰の睾丸を。", "私が抓むんですがね。" ] ]
底本:「白秋全集 6」岩波書店    1985(昭和60)年1月7日発行 底本の親本:「桐の花 抒情歌集」東雲堂書店    1913(大正2)年1月25日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※図は、底本の親本からとりました。 入力:光森裕樹 校正:岡村和彦 2014年9月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "056857", "作品名": "桐の花", "作品名読み": "きりのはな", "ソート用読み": "きりのはな", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 911", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2014-10-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-26T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/card56857.html", "人物ID": "000106", "姓": "北原", "名": "白秋", "姓読み": "きたはら", "名読み": "はくしゅう", "姓読みソート用": "きたはら", "名読みソート用": "はくしゆう", "姓ローマ字": "Kitahara", "名ローマ字": "Hakushu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-25", "没年月日": "1942-11-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "白秋全集 6", "底本出版社名1": "岩波書店", "底本初版発行年1": "1985(昭和60)年1月7日", "入力に使用した版1": "1985(昭和60)年1月7日", "校正に使用した版1": "1985(昭和60)年1月7日", "底本の親本名1": "桐の花 抒情歌集", "底本の親本出版社名1": "東雲堂書店", "底本の親本初版発行年1": "1913(大正2)年1月25日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "光森裕樹", "校正者": "岡村和彦", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/56857_ruby_54476.zip", "テキストファイル最終更新日": "2014-09-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/56857_54427.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-09-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "この高い山は。", "継鹿尾山、寂光院といふ寺があります。不老の滝といふのもありますが下つて御覧になりますか。", "いや、ぐんぐんのぼらう。" ], [ "あれが不老閣。", "閑静だなも。" ], [ "爽快々々。", "富士ヶ瀬です。" ], [ "あの島にお堂が見えますが、あれは何様ですね。", "小山観音。", "縁日でもありますか。", "ちやうど七月九日が御開帳でして、へえ、毎年です。", "店も出ませうね。", "ええ、河原は見世屋でそれはもういつぱいになりますで。" ], [ "見えた。あの鉄橋からまはりますか。", "よし。" ] ]
底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版    1976(昭和51)年8月1日初版発行 初出:「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」    1927(昭和2)年7月 ※初出紙に「木曽川」と題して連載したものの一部である旨が、底本の巻末に記載されている。 ※底本の「馬+央」(九箇所)は、「駛」に置き換えました。 ※疑問箇所の確認にあたっては、「白秋全集 22」岩波書店、1986(昭和61)年7月7日発行を参照しました。 入力:林 幸雄 校正:浅原庸子 2004年5月11日作成 2007年9月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004639", "作品名": "日本ライン", "作品名読み": "にほんライン", "ソート用読み": "にほんらいん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914 915", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-05-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/card4639.html", "人物ID": "000106", "姓": "北原", "名": "白秋", "姓読み": "きたはら", "名読み": "はくしゅう", "姓読みソート用": "きたはら", "名読みソート用": "はくしゆう", "姓ローマ字": "Kitahara", "名ローマ字": "Hakushu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-25", "没年月日": "1942-11-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本紀行文学全集 中部日本編", "底本出版社名1": "ほるぷ出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日初版", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "浅原庸子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4639_ruby_15116.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-09-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4639_15645.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-09-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
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底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版    1976(昭和51)年8月1日初版発行 初出:「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」    1927(昭和2)年7月 ※初出紙に「木曽川」と題して連載したものの一部である旨が、底本の巻末に記載されている。 ※疑問箇所の確認にあたっては、「白秋全集 22」岩波書店、1986(昭和61)年7月7日発行を参照しました。 入力:林 幸雄 校正:浅原庸子 ファイル作成: 2004年5月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "004631", "作品名": "白帝城", "作品名読み": "はくていじょう", "ソート用読み": "はくていしよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」1927(昭和2)年7月(「木曽川」と題して連載されたものの一部。)", "分類番号": "NDC 914 915", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2004-05-23T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/card4631.html", "人物ID": "000106", "姓": "北原", "名": "白秋", "姓読み": "きたはら", "名読み": "はくしゅう", "姓読みソート用": "きたはら", "名読みソート用": "はくしゆう", "姓ローマ字": "Kitahara", "名ローマ字": "Hakushu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-25", "没年月日": "1942-11-02", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本紀行文学全集 中部日本編", "底本出版社名1": "ほるぷ出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日初版", "校正に使用した版1": " ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "浅原庸子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4631_ruby_15114.zip", "テキストファイル最終更新日": "2004-05-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000106/files/4631_15421.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-05-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いや、大丈夫、僕がついてるから。", "その兄さんがまたあぶないからな。", "そこは俺が引き受ける。", "どうだか、二人ともさぞきこしめすだろうな、こいつあ、どっちも剣呑だ。" ], [ "大丈夫、くれます。", "しめた。どうしたい。" ], [ "話して見ましたもんな。あの爺さん、何でもあれを神戸で買うて来て、たった一度しか手をとおさないちいいましたけんな。なに、ちっとばっかり惜しか如しとりましたたい。そげんかこついうたっちゃでけん、あげなさい、何か書いてもろうてやるけんよかたい。そげんか支那服いつでん金ば出しゃ買わるっじゃろが。よかよか、俺が善うしてやるち、うんと恩着せて置きましたたい。そしたら喜んで進上しますといっとりますばい。", "しかし、惜しがってるのを無理に貰うのはいけないな。" ], [ "そりから、まだえれえ奴がおりますたい。肥前の呼子ち知っとんなはろが。彼処ん王さまん如っとたい。よか親子ですもんな。三等に乗っとりますばってん、そりゃ貴族院議員の資格もあるちいいよりましたばい。鯨ん鑵詰ばこさえとる。全国に出しますもんな。彼ば引っ張って来う。今度呼子においでたなら、そりゃよか、学校ん生徒でん何でんお迎い出すちいよる。", "鯨の髭さ。ありゃうまいや、粕漬だろう。君。", "鯨ん鼻ん骨ですたい。輪切がえらかもんな。そりゃ珍らしか。好いとんなはるなら送らせまっしう。うむむ、後で連れて来う。" ], [ "あのお爺さんどうだい。みんながね、白秋さんはどの人だろうと探している様子だから、ひとつ、あのお爺さんがそうだといってやろうかね。おもしろい。", "莫迦いえ。あんな白髪のお爺さんにされちゃあ困る。" ], [ "まあいいさ。ゆうべですっかりお里がわかっちまったんだから。", "あのお爺さんも余程おもしろかったと見えて、おしまいまで、一緒に飲んだり跳ねたりしていたぜ、君。", "知っとる、知っとる。ほんに酒好きけんな。飲ます事ちなか。とてん偉えお爺さんの如る。", "それでむしょうにうれしがっていたぜ、君。そして君のことをまるでやんちゃの赤ん坊だ、あれでなくちゃ詩も歌もできまいと。", "君の稲葉小僧の新助もだろう。" ], [ "これでいいんですか、この支那服のままで、それならかまいませんよ。", "やあ、結構です。ではお願いします。どうせまた明日引っ張り出しに来ます。" ], [ "紅茶を二つ。", "こんどは珈琲だ。", "菓子、菓子。水菓子。林檎林檎。" ], [ "えろう、早うおまんな。何というてやはるのやな。", "へへん、雲雀の生れ代りだっせ。あかん。", "あやつアくさい。気狂じゃろうのう、あんまり饒舌らすもんな。", "どうしましたい。まだやってますかい。やれやれ。", "驚いたね。よくもあの舌が廻るもんだな。ハーン。", "えれえ、えれっちゃ。" ], [ "ああ、ああ。", "ああ、ああ。", "ああ、ああだ。", "はあ、へえだ。" ], [ "誰だい、いったい、彼奴は、船客かい、船員かい。", "誰だか、何だか、海坊主でも匍い上ったもんらしいぜ。これからそろそろ韃靼海だからね。" ], [ "ほう、何処で見せるんだ、それは。", "道庁の牧場だといっていたぜ。すばらしいんだそうだ。", "そりゃそうだろう。だが、今晩の歓迎会はどうだ。", "それもだが、君が校正を済まさないと、僕は鉄雄さんに申訳がないがね、昼間中は勉強してくれたまえよ、上ったらすぐ旅館に鎮座さして、誰一人寄せつけないことにするからね。", "籠城かい。だが君、今日一日引籠ったところで、とてもできそうにないよ。だから。", "だが、僕は困る、ちゃんと仕事させますと約束して来たんだからな。", "驚いたな。君の監督も怪しいもんだぜ。", "あっはっはっ、僕だけは一杯やりに行く。君の邪魔になる。", "置いてきぼりかい、いやだなア。" ], [ "やあ、Oかい、いたのかい。", "いたのかいもないでしょう。わたしが小樽に来ていることは、兄さんだって知っているはずだ。もう一年にもなるじゃないか。のんきだな。", "のんきだといっても、すっかり忘れていたんだ。あっはっ、いたのかい。", "いたのかいもないもんだ。さっきから二度も三度も呼んでいるじゃないか。", "そりゃあ誰か呼んでるとは思ったさ、だが、俺を呼んでるとは思わなかった。君だったかい。", "そうさ、ランチまで持って来ているじゃないか、早く此方へお乗んなさい。" ], [ "じゃあ、鬼の一種だね。", "うむ、そうだよ、君の方から見れば鬼の一種だろう、やっぱり。" ], [ "吉植君。君も印旛沼を開墾したらトマトをこさえろ。", "こさえるとも。", "五十町歩すっかりトマト畠にしてしまいたまい。", "やああ、それでは飯が食えなくなる。" ], [ "大きいのは俺が食べることにする。", "や、そりゃとにかく、君は仕事はどうしたい。", "もう止した。幽霊の重荷は御免だよ。それにとても間にあいそうにない。第一昔の歌ばかり改訂していたんでは、何のために旅行に出たかわからなくなる。陰鬱になる。君の監督はこれで辞任してもらいたい。将来に生きることをしないでどうするのだ。僕はこの旅行を全然楽しむ。", "そうか。わかった。もう何にもいわぬ。" ], [ "やあ、どうしました。", "定山渓へ行たて来ましたたい。団員は誰でん行た。そりゃあ面白かった盆踊が、ほんによか温泉ですばい。そりから、誰でん知らんばってん、わしだけ上の方に今朝早う行たて見ましたもんな。よかったあ。川に白い鳥が二羽浮いていましたたい。短艇も貸さすもん。お帰りなっとん行たて見なはるとよか。そりばってん、熊ん出ますもんな。うむむ、まだ今は出んちいいよった。" ], [ "先生、札幌はいいです。あかしやがいい。大通りの中に花畑があって、子供が遊んでいて、実際美しかったですよ。東京よりいいです。それに大学や植物園の楡がいいです。素敵。", "ほう、いいな。画いて来た。", "ええ、沢山。" ], [ "先生、ようべはお楽しみ。お盛んでしたな。へへへ。", "や、あんたもあの家へ行っていましたかね、向うで騒いでいたのはきっと、そうだ。", "先生、鎌かけよっとばい。そげんすぐ欺されなはんならでけん。こん爺さん嘘言いいたい。なあん、小樽で遊ぼか、定山渓に行たとらしたですたい。" ], [ "やあ、高麗丸だ、高麗丸だ。", "幽霊退散万歳。", "そうだ、万歳。" ], [ "お腹も空いたようだな。君、何か食べないかい。", "それより、お湯にはいりたいね。", "そうだな、夕飯でまた一杯やるとして、その前にはいっとくかな。それにしても紅茶でも取ろうや。", "よく、君はいけるね。よっぽど健康な胃ぶくろだと見える。", "健康だとも。いいかい。呼鈴を押すぜ。" ], [ "お酒盛ですかい。先生、わしはお恨みを申しに来ましたがな。へへ。", "どうしたのです。まあ、お掛けなさいよ。" ], [ "いや、お恨み申す。それをそのお返しになった。これは理窟じゃが、折角の志。", "そりゃあ、僕も欲しかったんだがね、ちょっと惜しそうに、あんたがしていたというから、お返したまでさ。人が物惜みするのを貰ったってしょうがない。", "物惜しみ。これはおかしい。いったい、どの仁がそう申したか。怪しからん事じゃな。" ], [ "うん、よかたい。一杯飲みなはれ。", "いや、いただきますまい。わしがボーイを呼ぶ。そういう事なら、一倍お恨み申す。わしの面目が丸つぶれじゃ。先生、御用心さっしゃれじゃ。今度こそはどえらい仕返しをし申すで。", "よし、よし、わかった。わかった。", "わかりゃしませんがな。わしの子分を連れて来る。ボーイ、麦酒だ、麦酒だ。――おおい。" ], [ "止すか。", "うむ。御飯にしょう。" ], [ "今夜は妙に湿っぽいじゃないか。", "うむ、僕もどうも工合がわるい。あの、それ、いつか煽風機をかけっぱなしで寝たことがあるだろう。あれからのらしいのだ。咽喉が痛くて、悪寒がする。これはどうもいけない。", "寝たまえ。今から病気だと大変だよ。お、いい薬がある。" ], [ "独逸製の薬品だがね。バイエルアスピリンというんだ。こういう時はありがたいね。", "そりゃいい、貰って見るかな。", "そうしたまえ。それから王様の寝台は君にゆずるよ。交代だ。", "しめた。俺も王様になるかな。あっはっは。" ], [ "や、まあ、おかけなさい。", "へえ、御邪魔なら、どうも失礼で。――帰りましょかな。", "まあ、いいさ。", "坐りましょかな。", "どちらでも。", "どちらでもとはおひどいな。そのなア、支那服の一件じゃで、夕方、申しときましたろが。お恨みに存じ申すと、面目がつぶれた。わしの一分が相立たん。おおい、ボーイ。そこできっとし返しにまいると。なア、そうでしたろがな。いけませんかな。げえっぷ、うう。", "やりましたね。また。", "へえ、どうもなア、いやにその浪の音がな。どもならんというておりますわい。", "ははあ、弱ったね、それじゃ。", "弱りゃしませんがな。支那服のし返しじゃ。飲みましょかいな。おおい、ボーイ。" ], [ "抜け、P公。先生、これはわしの子分でな。いい男でしょうがな。おい、抜け、コップを三つ持って来オい。", "持ってまいっております。", "そうかあ。えらい奴じゃのう。注げ。", "へ、お注ぎいたしてあります。", "やああ、これはどうも恐れ入る。よしよし。おっとっとうと。" ], [ "は、そうであります。", "軍隊式だね。", "へ。" ], [ "そこでと、吉植さんは、おいでならんとかな。吉植さん。", "吉植君は風邪で弱ってますよ。" ], [ "どうもそのね、北原君は已むを得ない仕事があって忙しいんで、困ってる。麦酒は明日にしてもらえんかね。", "これは御挨拶、痛み入る。しかしじゃ、先生はよろしい、飲もうというてござるじゃて、ようござりましょうがな。お邪魔ならおいとま申す。それは失礼。だがな、どもならんそうじゃて、どもならん。" ], [ "ええ、浪の音。そうじゃ、あっはっは。いやにその。", "まあいい。君は寝ていたまえ。障るとわるい。" ], [ "困るなア、それではね。僕がお附き合いしよう。よし、かまわぬ。さあ飲むぞ飲むぞ。", "これはありがたい。夜あかしじゃ。", "夜あかしゃ困るよ。" ], [ "さびしゅうしてならんけん。誰も彼もぐうぐう鼾ばかりかいとって、始末におえん。甲板さん出て見たっちゃ、真っ暗闇で、歩けもせん。星も出とらん。雨でん降りまっしゅごたる。", "どもならんというておりますわいだろう。Sさん。", "へ、浪の音がな。その浪。" ], [ "や、行去した。オートバイででん逃げ出えたそな。", "P公、P公、や、彼奴も行去たかな。", "車輛会社にゃかなわん。護謨輪でん何でんチャアンと持っとる。はっはっは。", "おや、吉植もいないじゃないか。寝たかな。", "寝ましたくさい。弱っとらした。", "弱るなア、僕も、寝ようかな。", "でけん、でけん。行たて見まっしゅう。まだ誰か起きとるか知れん。", "ぐうぐう鼾かいとったというじゃないか。", "うん、あん時ゃぐうぐう云よった。ばってんが、もう誰か醒めとろ。車輛会社もパンクしとらすか知れんくさい。行たて見う行たて見う。", "行ってもいい。だが、ちょっと待ちたまえ。" ], [ "先生、何しとんなはる。行きまっせんか。先生。", "おっ、ちょっと待ちたまい、眠ってるよ、吉植が。", "よか、三等へ行こう。あっちも眠てしまうじゃいわからん。" ], [ "先生。わしも泣く。わしは、わしは子供を棄てて来た。見殺しにして来た。どうなっとるじゃいわからん。わしが出る時なア、もう危篤じゃった。とても助かっとるめえ。行かにゃならん、仕方んなか。死ぬなら死ねちいうて出て来た。葬式は嬶アに頼うで来た。もう死んどろ、死んどるかも知れん。わしはこの胸ん中が張り裂きゅごたる。先生、泣えたっちゃよかろ。", "うむ、泣えたっちゃよかぞ。泣け泣け、おれにつかまれ。" ], [ "もうよし、君のところへ行こう。", "ええ、行こう行こう。", "や、ちょっと待て、一等の船室を廻って見よう。みんなが眠たかどうか見て来よう。", "よかよか、人ん事心配せんちゃよか、金持ちどもは卑俗くしなん、構いなはらんがよかたい。" ], [ "叱っ。", "Hさん夫婦は眠てますかい。", "莫迦。叱っ。" ], [ "今度は二等室だ。おい。", "もうよかろ。もう起きとらん。", "眠ていりゃ幸だ。何だか、それでも寂しいな。行こう行こう。" ], [ "よく眠ている。よく眠ている。", "あっ、起きた。" ], [ "どうした。Sさん。", "ううむ、どもならん。", "浪の音、ソリャ、どっこい、浪の音ウか。どんこつ、おいか。", "ううむ、お恨み申すじゃよ。", "はっはっはっ、P公はどげんどんしたかな。P公。" ], [ "やあ。", "やあ。", "やあ。", "やあ。", "ほう。" ], [ "酒だ、酒だ、やろう、おい。やりまっしゅう、先生、万歳だ。", "やろう、やろう。" ], [ "T君、君たちは起きていたのか。", "え、なに寝てはいたんです。こんな晩にはしょうがないんですからね。でもねむってはいなかったんです。助かった。", "僕も何ですよ、ねむったふりしていたんだ、つまらないんですからね。", "俺だって、そうだ。Sさんのパンクだって知ってらあ。P公が弱りはてていたぜ。", "そうだ、そうだ、どもならんどもならんだろう。", "浪の音ウさ。ふっ。", "や、まあ、いい、それじゃまあ飲もうや。", "有難い。", "歌おう、歌おう、や、やれ。" ], [ "おうい、こっちだ、こっちだ。", "起きて来い。", "行っていいか。", "おいで、おいで。" ], [ "ああ、もう知らねえ。", "草臥れてしまった。", "寝ようや。もう。", "万歳。" ], [ "万歳さよなら。", "万歳さよなら。", "諸君。また明日だ、さよなら、さよなら。" ], [ "泊る。泊れ。だが、どうかな、君は九州っぽうだからな。", "莫迦いいなさい。", "俺はまだ美少年だし。", "ふっ。なんちゅうこつじゃい。", "いうにいわれぬ、その。", "へっ。莫迦いいなさい。わしあ、そげん卑俗きこつ知らん。" ], [ "明日はうまく上陸できましょうかね。", "さあ、どうも、ちとむつかしそうですな。ここの海岸線はかなり荒いようですからね。" ], [ "どうにもこれがいい。", "うむ。やっぱりな。" ], [ "湿布でもするといいんだがな。", "いや、僕には按摩がいちばん利くんだがね。", "あのアスピリンはどうだ。", "やあ、あれも君のをもう半分もいただいたんだがね。熱は下ったようだが、腹の工合がどうもよくない。", "西洋の薬はそうしたものだよ。局部的なんだからね。利くには利くんだが、何かの反応が外へ禍する。いわゆる全科的じゃないんだね。だから僕は草根木皮主義だ。漢法の方が東洋人には適しているよ。", "そうかなあ。", "そうだと思うね。煎薬というものは微妙なものだよ。たとえば風邪の薬にしたって胃の薬も腸の薬も適度につまんで入れるし、十種も二十種も調合して、それは丹念に刻み込むんだからね。あれがまた同じ処法でも、やはりコツがあるそうだよ。極めて精神的なもので、それは創作的なものだそうだ。芸術にしたところで、何といっても東洋精神に限るよ。", "実相観入かい。", "近頃の歌壇の慣用語でいえば、そうさ。だが、写生の語義を伝神とか実相観入とかに転用するのはちょっと変だね。写生は普遍化された語義としてはやはり単なる写生だからね。子規の写生にしてからが、空想味の深い浪漫的な詩歌に対しての写生説だったんだからね。一種の反抗運動として見るべきだろう。写生文にしてからがそうだ。ありのままの平面描写ということになる。南宗画などの象徴的省略とは違う。もし写生という言葉を文字どおりに生命を写すと解して、伝神にまで深めて来るとすると、写真でも写実でも、おなじ意味にとっても差支ないということになるね。だが、写真といえば写真器械によって撮影され現像されたもの、ハイカラにいえば印画のことだろう。写実といえばまたゾラ以降の観法だろう。応挙あたりの精緻な写実もそうだ。だから写生ということも語義としては在来の写生であるはずだ。実相観入にまで及ぼすくらいなら、もっと外の適当な言葉を持って来るのが正しいだろう。殊に写生の語義を内観にまで利用するのは考えものだよ。サンボリズムとリアリズムとは楯の両面だからね。それも主客円融ということは渾然として境涯的のものであって、写生は畢寛写生に過ぎないからね。実感に即する抒情までも写生とするのは、少々牽強附会じゃないかな。そんなこといったらまごころでさえ歌ったものは何でも写生歌ということになるね。だが、芸術上の語彙には一々特殊の色も香いもあり、習慣もあるのだから、伝統的に意義づけられ差別されたものは在来の意義や差別をおとなしく受け継いで置いた方が、混雑しなくてよさそうに思うね。それにむしろ東洋の芸術精神は実を徹して虚に放ったところにあるのだからね。隠約とか省筆とかだ。で、実相の観入といったところで、単なる平面描写の写生とは少くとも格段があるのだからね。もっと立体的な内観的な象徴的なものだからね。ところで、話はまた草根木皮に還るよ。聴くかい。" ], [ "いったい、この頃は芸術でも教育でも何でも彼でもあまりに専科的分業的になり過ぎている。で、いよいよ偏狭になり不統一になりやしないかと思うね。我々にしたところで、詩人とか、歌人とか、やれ民謡作家だとか、童謡詩人だとか、一面からばかり見て、手っ取り早く何かに片づけられてしまうが、これは少々擽ったいものだな。何故一個の芸術家と見ないのかな。とにかく迷惑至極なものだよ。人体からいっても解剖的にばかり見るのは近代医学の悪弊だな。だから肥厚性鼻炎の切開をすると肺や肋膜を悪くしたり、――それはどちらに基因があるかわからないがね――感冒の薬を飲めば胃をこわしたりする。体内の各種の機関は凡てが連絡なしには作用しないのだからね。病源といったところで、それからそれへと繰ってゆかねば、一局部の兆候だけですぐに極めてかかるのは飛んだことになりやしないか。漢法では全的に見るのだ。むしろ直覚的にだね。僕の知っているH老先生なぞは、患者の顔色を見ただけで投薬してしまう。病気の器が面前にあるのだ、何で手を執って診る必要があるというんだ。理窟だね。そういえばそうに違いないさ。それで百発百中だから驚くさ。その先生は観相もやるし、仏典にも通じている、易学なぞは大家だというんだがね。人体を宇宙と観ずるという漢法医の道は術でなくてやはり道であるのだろう。単なる学理でなくて、創造的な直感的なものだろう。つまり心で観るのだ。", "歌とおんなじだね。", "そうだ。実相観入だね。あははは。そこでその先生は自分でコツコツと刻むのだ。一人前の薬を三十分もかかって彼是と調合するのだね。僕らが詩や歌を作る時のように、コツコツとやっている。その事に遊びほれるのだ。色々の草や木の香いを嗅ぎ分けながらだよ。そこがうれしいじゃないか。いったい感冒の薬は杏仁水が何グラムで何が何グラム、一日三回分服といった風に、すっきりと極めてもかかれまいじゃないか。もっと薬剤の配合は霊感的なものだと思うね。そこで面白いのは、こういう青年があるんだよ。もと僕の家にいたのだが、外国語学校の英文科を苦学して出ると、語学の先生になったところで莫迦莫迦しい、漢法医になるというんだ。今時には変っているだろう。学生時代にすっかりH先生に傾倒してしまったのだ。そこで易などに凝り初めて算木を寄せたり筮竹などをジャラジャラやり出した。や、なかなか当るよ。", "あ、あれか。僕も知ってる。それ、君のところで何時か逢った、あのT君だろう。ありゃ、うまく当てたよ。副業線が莫迦に発達しているから、家業は継げなさそうだとか、結局親父の腰巾著だとやったね。どうも、やあ、閉口しちゃったよ。", "そうそう。あの時は君も参ったようだったね。", "ところで、何かい、T君は今どうしている。", "台北へ行っている。中学の英語の先生さ。止むを得ない事情があってね。だが、すぐに帰って来るだろう。H先生の内弟子に住み込む覚悟でいるんだからね。何でも台北で病気をした時、総督府の病院へは行かないで、ないしょで土人の医者のところへ礼を厚うして診てもらいに行っていたとかで、同僚たちからすっかり愛想をつかされてしまったらしい。いや、みんなが呆れてしまって、旧弊も旧弊、頑愚度すべからずと笑われていると消息して来た。それがまだ二十三、四の青年だからね。おもしろい。だから、構わない、やれやれとこちらも激励しているのさ。ところで僕の方もこの頃はすっかり草根木皮で、ぷんぷんさしてる。薬でも日本酒のようにお燗をした方がほんとうの薬らしいからね。ビーターミンAがどうのBがどうのもあるものかい。ほうれん草のひたしでも食べたがずっといいんだぜ。", "そりゃ、こっちでいう事だよ。俺んところの蒜肉や大根のうまさはどうだ。君はいったい美食すぎるよ。あんなに肉ばかし食べては危険だぜ。胃癌だとか糖尿病だとか、おしまいはきまってる。", "そりゃ、君のところの野菜はすばらしいさ。印旛沼は格別だよ。ところで、僕にしたってこの頃はすっかり調味法が変ったね。ほとんど生のままの味で煮出している。それにだんだん菜食党になって来た。そりゃ年齢にもよるだろうが、やはり東洋精神への還元だね。", "なるほど、そこで水墨集ができたわけかね。", "僕ばかしじゃないよ。画の方だって、だんだん還元して来るからおもしろい。とにかく東洋は東洋だよ。真の象徴芸術は東洋にあると思うね。", "ウイスキーより、俺あ日本酒だ。" ], [ "や、安別だな。", "おお、そうか。着いたな。" ], [ "そおれ、あぶないぞ。放せ、放せ。", "やいやい、そのロップを投げろ。", "それっ。ちぇっ。駄目だ駄目だ。", "莫迦、こっちへ寄越せ、なあんだ。あっはっは。" ], [ "や、あなたもいらっしゃるのですか。驚いた。", "ほほ、えらいでしょ。この恰好。", "えらいな。タオルはいい。僕もかぶって見ようかな。もう一つこの上から。", "そうなさいましよ。これ、浴室のタオルですの。" ], [ "これは何です。", "鰊乾場であります。これは廊下と申しまして、ここへ鰊を乾すのであります。", "この小屋は。", "これは納壺であります。網や雑具を入れるのであります。" ], [ "あれは何の実。", "ななかまど。" ], [ "ほう、それが樺太蕗ですか。", "ええ、大きいでしょう。", "何処に生えています。", "やたら一面です。" ], [ "おほほ、それは寂しうございますけれど、馴れればそれほどでもありませんの。", "でも、冬はたいへんでしょう。" ], [ "なに、あれは地声だよ。薩摩人だよ。ほら、あのA爺さんさ。", "そうか。あの人はたしか城山に家があるといっていたね。", "うむ、あれで、汽船も持っていれば自動車も持っている。山も持っているという話だ。何でも富豪だと聞いている。", "えらい元気だね。喧嘩だったらひとつ出てやろうと思ったがね。", "ぬうっとかね。", "あっはっは。", "お得意の剣道も当にはならないよ。尾山の篤二郎と相上段というところでね。", "やあ、これは参った。いつかの歌の会のテエブルスピーチかい。失敬失敬。", "だが、今日はずいぶんみんなが亢奮してるじゃないか。", "草根木皮の祟りだろうよ。", "あははは。まあ紅茶を一杯いただこう。" ], [ "今夜は飲めそうかね。", "いや、どうも咽喉がこれじゃあね。", "困ったね。大切にしたまえ。僕は三等へでも行って遊んで来よう。気楽でいい。", "三等も今夜は亢奮してるぜ。", "何にしろ、あの吹き降りに国境を見て来たんだからね。少々は変になるだろう。", "だが、A博士はなかなか国粋党だね。", "あれでね。まあいいさ。日本精神への復帰ということだろうから。僕はこれで真実の尊皇だからね。", "そうだな。それは知ってる。", "結局日本は日本だよ。日本人は日本人だ。", "となるね。", "何でも東洋芸術に限る。そう思わないのかな。" ], [ "つまらないじゃないか。停車場へ行って待っていよう。", "や、何か目っかるよ。", "目っかったのは、ほれ向うの靴屋ぐらいだよ。少し内地とちがうようだな。" ], [ "とにかく、お昼餐でもやるか。", "や、しめた、蕎麦屋がある。物は試しだ。はいって見ようじゃないか。" ], [ "や、これはひどいな、まるでザラザラの石ころまじりの、赤土ばかりじゃないか。この斜面は。", "それでも上の方に椴松が見えるじゃないか、あっ、空が青え。", "や、虎杖だ、これはどうも驚いた、虎杖ばかりだ。" ], [ "や、唐黍だ、三尺ぐらいしきゃないね。ほう紅い房がもう出てるよ。", "まだほのあかき唐黍の花、か。", "もう歌かい。" ], [ "さようで。", "その部落ばかりですか、アイヌのいるのは。" ], [ "なるほど、今行くんだな。", "ちょうど、同時になるでしょうね。それとも汽船の方が遅いかな。", "そりゃ遅れるでしょうね。向うが。", "だが、心丈夫ですな。" ], [ "わあい。", "わあい。", "わあい。", "ばんざあい。", "べんじゃあい。", "じゃあい。" ], [ "アイヌだ。", "アイヌだ。", "や、なるほど。", "へえ、なある、これはよろしいね、なかなか別嬪やないか。毛深うおまんな、へへん。", "Nさん、本斗がありますよ。", "そやかて、待ちなはれ。へへん。" ], [ "や、アイヌの家だ。", "出ている、出ている。", "どれ。", "ほうら。", "やあ。", "あ。" ], [ "じきだよオ。待ちたまえ。", "頭は済んだかあい。", "済んだよ。これからお面だ。", "洒落れるな、おい。", "洒落れはしねえ。" ], [ "出かけるかな。だが、飲めないでしょう。お酒は。", "麦酒なら少々はいけますよ。" ], [ "ソオレ漕げ、ヤアレ漕げというのです。たしか中国辺の船唄だったと思います。本歌は忘れましたがね、一寸こうした節だったようです。船頭かわいや、穏戸の瀬戸で、エンヤラヤアノヤア、ソオレ漕げ、ヤアレ漕げ、一丈五尺の、一丈五尺の、艪が撓る、エンヤラヤアノ、エンヤラヤノ、エンヤラヤノ、エンヤラヤノ、エンヤラサノサア。もっともこの歌詞は別物ですよ。", "なるほど。でも、何だかちがってやしませんか。あのエンヤラヤラヤアノヤアヤは。", "そう、少々妙ですね。", "や、はるかに見ゆるは本斗の港とやっていますよ。", "ほう、それじゃ替唄でしょう。", "本場じゃないんですね。追分はどうです。", "忍路高島ですか。あれは流石に松前から此方のものですね。信濃の追分とはまた味がちがっていい。", "信濃の追分というと。", "あれこそ追分の本元でしょう。馬方節なのですね。西は追分東は関所せめて峠の茶屋までも。あれです。", "すると、こちらの追分とはどうちがいます。", "こちらのは船頭唄の追分です。節廻しが凡て艪拍子に連れて動いて、緩く、哀調になっています。信濃のは馬子唄ですから、上り下りの山路の勾配から、轡の音、馬の歩調に合せて出来上ったものなのです。シャンシャンと手綱の鈴が鳴ってです。小諸………出て見いりゃ、となります。小諸節ともいいます。", "おもしろい。はは、それで、どっちも追分ですか。文句もおなじな。" ], [ "お洒落だなあ。いつまで面なんぞあたっているんだい。", "なにそのお、海岸へ行っていたんだよ。明日は魚釣りに行くんだぞ。", "見て来たかい。", "うむむ。釣れるそうだ。舟でひとつ出かけるか。" ], [ "樺太横断はどうする。きまったら真岡の自動車屋へ電話を掛けることになっているんじゃないか。", "どうもそのお、この感冒じゃ冒険はむつかしそうでね。明日は半日休養しようと思っている。やはりみんなと一緒に大泊へ直航することにしようよ。", "少々弱ったね。", "今夜は按摩でも呼んでひとつ。", "按摩はさっき通ったよ。白の背広で。だがよく按摩の好きな人だな。僕なぞは擽ったくてしょうがない。", "はっはっはっ。君はとても駄目だよ。", "それにしても飯の遅いには困るな。ベルをひとつ押してくれ。" ], [ "だが随分悠長ですな、ここの家は。北海道から此方は妙にベルが利かない。", "凍っちゃったんでしょうよ。", "ですがね。すこし変ってますよ。じゃないですか。", "まったく、これあ、虐待ですよ。", "それにしても、まるでバラックですね。梯子段だけでもってるような宿屋だ。" ], [ "てめえどもは、御覧のとおり、安普請のバラック旅館にはちがいないのですがア。", "梯子段はえれえよ。" ], [ "何がBB、何が町長でございますだ。昨日も昨日、団体客が三百人も来る、宮様の行啓中だ。さあ騒ぎだ。この潮時に一軒で独占するのも気の毒だ。半分別けてあげよう。へん、別けてあげようが聞いて呆れるじゃありませんかね。さあ収容おぼつかない。自力にあまるならあまるで、SS頼む、弱った、助けてくれでいい。そりゃ平生は平生、そうでがしょう。向うと此方だ。商売敵だ。角突き合いならどっちもどっちだ。だがいざとなりゃお互の公徳心に訴える。相互扶助でがさあね。", "ほほう、相互扶助。", "へえへえ、そうした理窟じゃありますまいか。よしんばプロでもブルでも水平社でもでさあ。" ], [ "そりゃあ押し出しは立派でがしょう。知れたもんじゃありゃせん。お客さんが這入られた。今度は頼むだ。ちぇっ、莫迦にしていやがる。", "まあ怒るなよ。七、八人でも僕らが来たからいいじゃないかい。", "いけません。" ], [ "そりゃ差し上げます。でがすがな。三百人の二分の一で、百五十人だ。よしきた、やっつけで、暗いうちからコツコツコツコツコツ、なにしろ、切り込みでも容易なこっちゃねえんで、やっと用意が出来て、さあいつでも来やがれとなったところで、たった八人、それもあまりものの。", "おいおい、よしてくれ、またまた、あまりものかい。", "へへえ、それでも癪に障りやがるんで。や、こいつあ失礼を、はっはっ。" ], [ "いや、昨日の御行啓の後でして、なにしろ、樺太庁のお役人は来る、新聞記者は騒ぐ、それに軍人、商人、何々団員で、すっかり満員の大盛況で、実は家内中へとへとになったところで、今朝の切り込みで、それで見事にスカ喰ったんですからな。一同張り合い抜けの体でしてな。昨夜だって誰ひとり寝やしません。いったい団体客に碌な……いや、へへえ。", "悲観、悲観。", "おやおや。", "おもしれえ、おもしれえ。" ], [ "ともかく、食べさせるのか、いったい。", "へええ、差し上げますには差し上げますですがな。もう一切合切種切れで、肴も附け合せも何にもありゃしねえでがす。", "それでも百五十人分。", "いや、あれは胸くそがわるいので、根こそぎ外のお客さま方へ御馳走しちゃいました。遺恨骨髄に徹すで。こうなるとさっぱりしたもんでさあ。日本晴れで、へへ。" ], [ "ええ、とんとまだ何ですがな。支度を致させますならこれからでがす。", "ふふむ。", "や、どうも、へへ、それでは宿帳の方をなにぶん。" ], [ "驚いたな、これは。", "おやおや、鑵詰の筍かい。" ], [ "やああ。酸っぱい椎茸だな。これは固い。や、なんだ、大和煮か。", "はは、鯣の附け焼きとは初めてだね。" ], [ "プーアですな。プーアだな。", "おもしれえ、おもしれえ。", "吉植、おもしれえおもしれえで両手を振ってばかりいたって七面鳥の卵が湧いて来るはずはないぞ。ベルをひとつ押してくれ。", "あっはっはっ、美食家の君にはたまるまい。俺はこのトマトで結構。", "トマトだって心がコチコチじゃないか。俺は御免を蒙る。ビフテーキでも取ろう。", "そのビフテーキが小樽式。いや、もっとコチコチだろうよ。" ], [ "いいつけといたはずだがね。あっはっは、とんと貉の道だよ。", "鼬の道とは聞いたが、貉の道とは、これも初めてだね。", "そうかい、鼬かい。あっはっは。", "弱る。俺はもうむぐっちょで、高麗丸へ帰りたくなった。", "印旛沼なら、この頃は鯉のあらいに鯰の丸焼きというところだね。白焼の鰻もおつなものだぜ。", "俺のところだって、この頃は鮎のフライがある。それに鰆は今しゅんだな。コールドビーフが食べたいな。おい。", "茄子、南瓜、隠元、大蒜、うちの畑はいいよ、そりゃ。", "だが、あの大蒜には閉口した。", "あっはっはっ。あの時の君の顰め面ってなかったぜ。うちでは話の種になっている。", "ほう。そうかい。", "ところで、ここの料理だがね。鑵詰物なぞにしなくても、なんでこの土地の新鮮な魚や野菜を附けないのかな。", "内地の物だと何でもいいことにしてるんじゃないかね。これでも優遇のつもりかも知れん。" ], [ "姐さん。や、酒が来た。まあひとつ遣ろう。どうだい。", "うむ、ありがてえ。" ], [ "駄目だな、どうも。", "こりゃいけねえ。" ], [ "どうも手違いばかりいたしまして、今日はすっかり失敗です。こちらは如何でしょうか。", "面白いですよ。なかなか。", "あっはっ、素敵素敵。", "虐待極れりです。", "いや、いいでしょう。まあ。" ], [ "いや、あちらでは団長が怒り出しましてね。", "やっぱり鮨詰めですか。", "ええ、何分昨日行啓の今晩ですから、居残りでかなり混雑していますし、宿でも町の方でもすっかり疲れ切っているので、どうにも行き届きませんでね。団長などは外出中に無断で室を取り代えられましたのでね。御機嫌頗る斜めです。我々観光団の面目に関するというので、困りました。", "鉄道省の方ではあらかじめ何か打ち合せしてあったんでしょう。", "ええ、手筈はよくついていた訳なんですが。", "まあ、いいでしょう。", "と、こちらの方がまだ優待ですぜ。" ], [ "玉子焼きにでもするか。", "玉子焼きとは窮したね。" ], [ "按摩でも呼ぶかな。おい姐さん。", "玉子焼きはまだかい。おい姐さん。" ], [ "おい。二十四匹の黒鶫封じ込まれてパイの中。というマザア・グウスの童謡があるが、この玉子焼きなら三、四十匹の二十日鼠は棲めそうだな。いささか非常識だね。", "おもしれえ、おもしれえ。" ], [ "押しかけますぜ。ないしょごとはすぐ暴露れまさあね。お連れさんは誰方ですい。", "や、これは、上りたまえ。" ], [ "Kさんききなはれ、これが化け猫や。樺太いうところは凄いもんやな。エンヤラヤアノヤアヤや。", "エンヤラヤアノヤアヤはおもしろいね。歌って御覧。", "はるかに見ゆるは本斗の港、エンヤラヤアノヤア、ヤレ漕げソレ漕げ、エンヤラヤノ。", "やはり、何だな、本斗の港だな。", "行啓記念の唄やいいよる。へんな唄やな。", "ははあ、そうか、ほう。" ], [ "ストトンストトンと通わせてえ。これが流行のストトン節や。", "知ってますようだ。", "今さら嫌とはどうよくなや。", "嫌なら嫌だと最初から。でしょう。", "いえばストトンと通わせぬ。", "ストトン、ストトン。", "籠の鳥はどうやな、籠の鳥。", "知ってますよお。逢いたさ見たさに怖さもわすれえ………。", "さあ立とう、立とう、皆さん。", "まあ、まあ、よろしいやおまへんか。ええやええや。" ], [ "夜番しているのです。盗まれるといけないから。", "何を。", "あの鰊や蟹を。" ], [ "俺は、何だそのぉ、日本新聞聯盟の外報部長をしている。", "へへ。", "鉄道省の鉄道会員としても視察に来たものだがね。第一貸切りであるか、そのぉ、乗合いであるか。が問題だろうじゃねえか。貸切りならば約束外の切符制は間違っている。が、そのぉ、乗合いとするとぉ、すでにその規定人員を超過して、しかもなおかつ暴利をぉ………。" ], [ "あ、紫だ、や。", "ブシの花だよ。" ], [ "鮠かしら。", "いや、鯇かもしれない。" ], [ "あ、家が見えて来た。", "どれ、ほう、村だな、村だな。", "や、お祭りらしいよ。" ], [ "やあ、君たちだったの。", "おお。", "ほう。", "M君、や、T君もだね。", "Y君、これは驚いた。" ], [ "さあ、乗りたまえ。諸君。", "つかまっていいですか。" ], [ "昨夜は何処へ泊りましたい。", "逢坂です。", "なるほど、これはおえらい処へ。あっはっ、彼処の後家さん綺麗でしたかい。ことにM君なぞは大もてでごわしたろう。", "僕らはそんな不潔な処へは泊りません。荒物屋です。奥さんは立派な人です。" ], [ "山火事跡かな。", "いや、開墾のために焼いたんだろう。", "だが、少々焼き過ぎたね。", "飛火したかも知れないさ。" ], [ "あっ、パンクだ。", "また、やったな、ちぇっ。" ], [ "危険危険、あっはっは。", "やりきれねえ、やりきれねえ。" ], [ "こりゃ、やい。", "うむ、こりゃ、やい。眼があるか、やい。", "天下の公道だぞ。不届者奴。", "往来だぞ、公道のまん中でパンクする奴ゥがあるかア。", "規則違犯だぞ。", "赤だも、そっち避けい。", "林野局のお通りだぞ。", "下郎くたばれ。", "ばかア。" ], [ "こりゃ、やい、観光団の馬鹿ッ。", "頼母子講。", "竜宮の身投げ。", "助平じじい。", "イヨウ、ハイカラア、ふとっちょう。", "ちきしょう。", "何しに来たア。", "椴松強いぞッ。", "さっさと行きやがれ、へへんへんだ。" ], [ "やいこりゃ、天ン下アの公道だじょッ。", "ひきしょびくじょッ。", "ばきゃやろうッ。" ], [ "待てえッ。", "俺の方を先きへ通せ。", "寄せろ。", "名刺を出せッ。" ], [ "ようし、やれ。", "やっつけぇ。" ], [ "や、や、露西亜人の家だね。いいな、あの丸太組みの建築は。", "いいなあ、広い通りですな。", "や、旗なぞ出してますよ、お祭りですかしら。", "や、豊原だ、豊原だ。", "万歳。", "万歳。", "ぴゅう………うる………る。" ], [ "どうしたい。", "Aさんの官舎へ泊めてもらうことにしました。きさくな人です。飲むとおもしろいんですよ。非常に歓待してくれましてね。そしてずっと泊っていいといってくれます。", "ほう、それはいいね。", "先生を知っていますよ、Aさんは。なんでも弁当箱に書かれたことがあるでしょう。愛翫しているそうです。小田原の親戚からもらったといっていました。Aさんも相州の人だそうです。" ], [ "僕らも家賃の中へはいってるらしいよ。", "や、こりゃ驚いた。逃げよう逃げよう。" ], [ "あっはっはっ。こりゃいい。おもしれえ。", "無邪気だね。子どものうちはみんなああだな。" ], [ "皇后陛下万歳ぁい。", "万歳ぁい。", "摂政宮殿下万歳ぁい。", "皇太子殿下万歳ぁい。", "万歳ぁい。" ], [ "これはすばらしい。このサラダも万歳だ。", "ほんとだ、これはフレッシュだ。しゃきしゃきする。" ], [ "あっはっ、甘いよ、そりゃあ。", "甘くていいじゃないか。僕はこの頃何だよ、詩を作る時には、きっと砂糖を嘗めるよ。", "やっ、こりゃ、初めて聞いたね。君が砂糖を。", "おかしいかい。", "おかしいともぉ、それはお酒でございましょう。", "酒はきらいだ。", "あっはっはっ、そうでしょうとも。", "だがね、砂糖を嘗めるのはほんとだよ。頭が緻密になっていい。疲れが直るよ。だから、紅茶にドッサリ入れて何杯も何杯も飲む。", "驚いたね。", "酒は好きだが、酒を飲んだら僕には詩も歌もできないね。小唄ぐらいはどうだか知らないが、どうしても観照に罅が入るね。慷慨激越の詩ならとにかく、精確な写実をやる時は酒に酔った感覚では駄目だ。心は鏡のように澄んでいなければならないからね。それでも書ならば陶然として書き飛ばすがね。無慾恬淡だね。とすると歌なぞの時は少々固くなり過ぎるかも知れないな。もっとも書はどうでもいいと思う気持ちがあるからだが、詩や歌は本芸だとしているからね。酒の時はまた酒だけでいい。でないと酒の美徳を傷ける、とこうなる。", "やっぱり、酒のみだよぉ。", "いいさ、だが、甘いものもやるよ。" ], [ "よくやるんだね、君は。だがお砂糖はどうしたい。", "そのぉ、お砂糖がア、問題なんだね。それ、どうせ印旛沼だ。あっちに一軒、こっちに二、三軒だ。一日がかりだアね。とう、やっと尋ねあてると、吉植です。それはまあ御鄭寧さまに、さあどうぞ、さて、そこで砂糖を。", "砂糖を。", "お手をどうぞというから、それ、右の手を出すと、お砂糖さ。こいつはたまらねえ。だが、そこは神妙に、ありがとうございますさ。厭な顔でもして見たまえ、何だ吉植威張ってやがる、俺ら百姓だがアとなる。そこで一票フイさ。仕方なくなく嘗めるんだ。あっはっはっ。それがまたそのぉ、次から次へとそうなんだからね。掌はベトベトする、口は甘ったるくなる、胸はむかついてくるしね。悪く行き合せると、田舎の事だから牡丹餅をこしらえてる、餡粉の草餅を揉んでる。まあまあ、どうぞお一つ、それやアお一つ、てこ盛りで、勧め方があくどいからね。それに野天は暑いし。" ], [ "いや、後で気がついたんですがね。そのぉ。", "いつも後で気がつくんだ。", "待ちたまえ。そこで、と。そう嘗めてばかしじゃやりきれねえ。で、嘗めたふりして、こうそっとふところへザラザラザラさ。秘伝だね。だが、こいつも困ったよ。内ふところがそれ汗まみれだろう。ベトベトする、くっつく。とても気持ちがわれえ。" ], [ "ええ、一、二家族居ついていますがね。", "何をやって暮らしています。", "パンを焼いたり、牧畜をやったり、それはおとなしいものです。" ], [ "白系の良民ですな。元は北樺太にいたのですがね、バルチザンの残党や赤化の無頼漢どもの脅迫から、とうとう堪えきれなくて南へ落ちのびて来たのです。気の毒なものですよ。それでも此方へ来てからはすっかり安心して、日本はいいといっています。もっとも、露領時代からの住民もいます、丸太式の小舎に。", "校倉風のでしょう。あれはいい。豊原のはいり口でも見かけましたが。" ], [ "それはいい。ひとつ見に行って見ようか、吉植。", "うむ、いいね。それからそのぉ、ツンドラ地帯というのは。" ], [ "フレップ酒ですか。昨夜一寸やって見ました。甘いんですね。", "でも刺戟は強いでしょう。", "え、あれはアルコールに色をつけたんだとばかり思っていました。あまり紅いんですからね。", "や、生粋の樺太葡萄です。" ], [ "これはいい、庄亮、踊るにはもって来いだな。", "あっはっ、やるかア。", "でも歌えまい、君には。" ], [ "それでも何だよ、踊るぐれえなら、お弟子格でやれるよぉ。", "T君どうだい。踊れるかい。", "何です。伊那ぶしですか、家庭踊でしょう。", "田辺さんの家庭踊じゃないさ。本場の伊那ぶし。", "踊れますとも、僕はこれでも信州人ですからね。", "や、それは失敬、だがもう僕は酔っぱらったよ。", "お砂糖にかい。", "雨にだ、ほら。" ], [ "君の名は何というの。", "イワン。" ], [ "あれはどうにかやっていますか。", "ええ、パンを焼いていますですが、相当にやってゆけるようでございますよ。" ], [ "おい、パン。", "おい、パン。" ], [ "泥棒、写真泥棒。", "帰れ、くそ、畜生ッ。", "がっがっがっがっ、ぶるぶるぶるッ。" ], [ "写真泥棒ッ。", "しっかりやれ、アリョーシャ。" ], [ "あの扉は何と申しますか。", "中門です。" ], [ "はあ。", "としても、やはり出雲系の神様でしょうな。植民地の祭神はよくそうのようで。" ], [ "だが、出雲系と天孫民族とはどうしても僕も同種属ではないと思う。素盞男命からして併合政策として、日本神話の大立物に祭り上げてしまったものらしいな。", "そういう見方もありますね。", "だから、どうしても天照大御神を中心に、お祭りするのがほんとうでないかと思う。植民地にしても、日本である限りはだよ。", "台湾は。", "北白川の宮様を合祀してあります。", "なるほど。" ], [ "あ、あの木は。", "ななかまどと申しています。" ], [ "おれはアイヌだとよウ。", "ふふっ、おれは文化的教養を受けたハイカラアイヌかい。" ], [ "あれは誰ですか。", "Iさんです。あの頬髭のある。", "何を吹いているのです。", "羽衣でしょうか。" ], [ "うまいのですかね。よくやっていますね。", "うまい方でしょうよ。もう十年から稽古しているといっていました。舞台にも出るようですよ。", "金春ですか。", "いや、宝生でしょう。たしか。", "玄人ですかな、あれで。", "素人稽古の時はよく褒められたが、本気に遣り出してから以来、さっぱり褒めてもらえぬと悄気ていましたよ。そんなものでしょうかね。" ], [ "それで何だそうですよ、稽古の時には碌に附けもしないで、いざとなるとヒタリと抑えてゆく豪胆な吹き手もあるそうで、これにはかなわぬといっていました。", "それが腹なのでしょう。天性ですね。そうしてそれが心法にもかなったものでしょう。", "型ばかりに囚われてはあがきがつかないということになるのですか。", "先ず、そうでしょうな。" ], [ "はっはっ、つまらねえでさあ。", "や、ちょっとおもしろい処です。なにしろ、お相手が十六、七の、はっはっ。", "叱ッ。" ], [ "これは聞きものだ、何処でです、いったい。", "豊原のあの、あそこの大通りでだよ。あっはっ。面白うございましたでしょうよ。", "やあ、ありゃ面白かったよ。盆踊りが盛っているというのでね、歌会の後で、歯科医のS君と一寸廻って見たのさ。すばらしかったからね。つい飛び込んで踊ってしまった。S君がヘルメットにステッキで、硬直しきりの、後ろからどっかの国の侍従武官兼警視総監というところだ。踊ったなんて絶対秘密になさいと、帰りに耳うちした。", "はっはっはっ、絶対秘密が自分でばらしちゃ何にもならん。", "そうかな、困ったな。" ], [ "だが、二、三日でも船を離れて、こうして還って来ると、まったく、自分の巣にでも辿りついたという気がしますね。", "そうそう、ほっとしましたい。", "それにどうも陸に上っているうちは、何だか気ぜわしくていけなかった。", "まったく、目まぐるしくてね、何を見たんだか探したか、わかりゃしない。", "はっはっ、こうしていつも揺られているとね、揺られているのがほんとうで、何でもないのがかえって不安心なような気がしたものさ。", "震災後、余震のない日に限って妙に寂しく思えたようにね。", "そうだ、そうだ。", "どすが、こないにしてまた何処へ連れて行かはるか怪態やないう感じはしまへんかな。だんだん日は遠くなるし、曇っては来るし。", "寒ざむともして来るし。", "何処を見たって波と空だしな。", "猥談でもやりますか。", "あっはっ、そこはNさんのお手のものでがしょう。", "ふふ、つまらねえでさあ。", "なにしろこうなると、この船一つがたよりでな。" ], [ "神様という気はしませんかね。", "驚いたな。いやに突拍子もない声を出すじゃないか。" ], [ "で、コワルスさんとかに逢いに行ったのだね。", "うむ、歯科医のS君が羅風の手紙を持って見えたろう。謹厳な硬直した態度で、あの人が下座に畏こまった時には弱ったよ。羅風の紹介文があまり物々しいから僕もたじろいだね。S君はS君で是非コワルスさんに逢ってくれ、三木さんに済まぬという。で、ほれ、日の出温泉から出た足で、僕はS君の家に廻って、同道して天主公教会に訪ねて見た。", "どんな人だったい、その宣教師さんは。", "いい人だった。黒い長服を着て、すっかり宣教師タイプに出来ていた。眼が柔和でね、顔が林檎いろで、頭はつるつると禿げ上って、髭や頬髯のやや赭ちゃけた、どうしても五十四、五と僕は見たね。後で聞いたが実際に驚いた。まだ三十を少々越したばかりだというんだ。どうも西洋人の年齢はわからん。どうも考えるとおかしくなるね。案外も案外僕よりも十歳ちかく若かったんだからね。波蘭土人だそうだ。", "何か話があったのかね、君。", "いや、前から知らしてあったので、すぐに出迎えてくれた。スリッパを出してくれたので、靴を脱いで上った。握手するのかと思って手を出しかけたが、向うは純日本風で挨拶したので、こちらも差し控えた。室は簡素なものだったよ。テーブルに日本の古い本箱が二つばかり隅こに置いてあった。壁には大きな樺太全図の軸を一つ掛けてあったきりだ。私も気軽にテーブルを隔てて対い合って腰掛けた。私はS君の紹介の後で、実は三木君と詩の雑誌を出す事になったので、この際、この旅行をいい機会として、トラピストにおける彼の当時の住居や信仰の生活や、周囲の風物などをよく見て置きたい希望だということなどを話した。それから日本の子供の詩の話などを訊かれるままに話した。僕もすっかり快活な気持ちを持ちつづけていられたよ。三木君のことも訊いた。白秋さんの感じはどうです、いいでしょうなどと、S君が傍から言葉を添えるので、コワルスさんもあかくなって微笑していた。コワルスさんは何でも豊原草分けの宣教師で、独身で、土地の信教の為にはほとんど一人で尽しているのだと、S君はまたあの人を僕に非常に褒めてきかした。僕もいい感じがした。それから僕はさよならをのべて立ち上った。三木さんによろしくとあの人は送って来た。それからね、僕に、また春になったら避暑においで下さいと微笑した。僕も微笑したよ。ね、そうじゃないか。教会を出てからも、いい匂いのする人だと思った。日本人同志にああしたいい匂いの残る面会というのはなかなかないようだね。" ], [ "ああ、あの訪問ですか。", "はっは、あれには驚きましたね。不得要領きわまるんだ、実際。", "風采はあがらないが、あれでなかなか如才ない方でしょう。でも官僚は僕の性に合いませんね。" ], [ "あっはっはっ、こりゃおもしれえ。あっはっ。", "何だい、どうしたんだい。", "おもしれえおもしれえ。" ], [ "これはそのぉ、白秋にぃ一万円贈る、あっはっはっ、じゃあないんだね。君の値段がぁ一万※(小書き片仮名ン)。", "おやおや。", "やあ、は※(小書き平仮名は)ぁ、まだおもしれえぞ、ききたまえ、わて、しりまへん。あっはっ、これがそのぉ、M爺ぃさんのぉ。", "証明かね。", "あっはっはっはっ。" ], [ "なんだい、ありゃ。", "叱ッ。", "あれが君、評判の鴛鴦夫婦でさあ。", "袋叩きにしようという、あれですかい。", "あっは、何でも白粉刷毛まで御亭が叩いてやるんだそうだよ。", "へへえ。", "そして湯殿の御立番でさ。", "いよういよう。" ], [ "後で行くよ、君、今晩。", "来なはれ。かまわん。あん爺さんも寂しかと、いよらっしゃる。吉植さん。", "酒はごめんだよ。まだ咽喉がわるくてね。", "なっちょらん。そんならよか。" ], [ "みんな、変なんだね。", "なまじ陸で浮かれたせいで、妙に落ちつけないんだろう。何だかみんなの影が薄いじゃないか。", "それに北へ北へと渡るんではね。" ], [ "あ、君だったね、絵葉書に写っているのは。", "やだア。知らないよ。", "それは何なの。", "石油。", "君の名は。", "セーニャ。" ], [ "来たね。", "うむ。", "君の家何処なの。", "ショウヒン………ふふっ、あの横。" ], [ "死んだよ。いないよ。", "ママは。", "いるよ。ミルク、初めたよ。牛ね、一匹いるよ。" ], [ "君たちは何処から来たの。", "アレキサンドロフスキー。", "何時。", "去年、去年の前、あ、忘れた。", "パパは何していた、彼方で死んだ。", "うむ、お百姓、牛ね、羊ね、いたよ、沢山、パパ殺された。", "ほう、どうして。", "バルチザン、悪い人。みんな逃げた。お金もって。" ], [ "この小さい子は。", "ムンムック。" ], [ "取っておくれよ。", "そっちから取れない。" ], [ "ベリヴェヤワ。", "ベリヴェヤラ。" ], [ "神戸……いい。", "え、いい。どうして。", "十月行く。此処だめ。", "なぜ駄目なの、いいじゃないか。此処。", "駄目、赤来ます。", "橇ね、乗って来るよ。わるい人。", "だって、ここは日本だろう。", "日本いい。赤わるい、おそろし。" ], [ "じゃあ、待っているよ。", "行くよ、すぐ。" ], [ "おおそうか、金太郎がいるのか。", "金太郎万歳アい。" ], [ "セーニャ、さようなら。", "セーニャ、さようなら。" ], [ "いったい、何羽いるんだ。", "三十万。", "ほう、三十万。", "わかりゃしないさ、計算できるかい。" ], [ "ペンギン鳥とはちがいますか。", "ちがいます。似てはいますがね、海鴉という奴です。", "直立しているんだね。ありゃ、おもしろいな。", "あれで卵を一つずつ両股の間に挟んでいるんですよ、みんな。", "へえ、どんな卵です。", "それは綺麗ですよ。青磁いろで、黒い斑入りで、円錐形に近い楕円で、大きいんです。" ], [ "こりゃひどい、とても上陸れませんよ。この波では。", "決死隊だな。一番やっつけるかな。" ], [ "君、君、白秋くうん、そのぉ、膃肭獣は何処にいるんだね。", "膃肭獣かい。" ], [ "膃肭獣は見えないかね。君。みんな騒いでるがね。", "待ちたまえ、や、赤い家が見える。", "見えてるよ、さっきから。監視人の小舎なんだろうが、膃肭獣がいねえ。" ], [ "なるほど、変だと思った。", "いる、いる、ほら、あれがそうらしい。" ], [ "一杯やるか、麦酒でも。", "祝杯、よかろう。" ], [ "キイキイキイ、待ってた。", "キイキイキイ、来た来た。", "キイキイキイ、万歳。", "キイキイキイ、万歳。", "キイキイキイ、ハーレムの諸王万歳。" ], [ "ロッペン鳥万歳。", "万歳。", "異変ないか。", "無し。" ] ]
底本:「フレップ・トリップ」岩波文庫、岩波書店    2007(平成19)年11月16日初版第1刷発行 底本の親本:「白秋全集 19」岩波書店    1985(昭和60)年6月5日初版発行 初出:「女性」プラトン社    1925(大正14)年12月号~1927(昭和2)年3月号 ※「蹂躙」と「蹂躪」の混在は、底本通りです。 入力:kompass 校正:岡村和彦 2012年10月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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