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[ [ "それが、東経百六十度南緯二度半、ビスマルク諸島の東端から千キロ足らず。わが委任統治領のグリニッチ島からは、東南へ八百キロくらいのところだ。つまり、わが南洋諸島であるミクロネシアと、以前は食人種の島だったメラネシア諸島のあいだだ。そこに、世界にもう其処だけだという、海の絶対不侵域がある", "ほう、まだ未踏の海なんてこの世にあるのかね。で、名は?", "それが島々でちがうんで色々あるんだがね。ここでは、いちばんよく穿っているニューギニア土人の呼びかたを使う。Dabukkū――。つまり『海の水の漏れる穴』という意味だ" ], [ "その、島々というのはどういう意味だね。“Dabukkū”のなかには、島があるのか?", "そうだ、大小合して七、八つはあるらしい。その何百、何十万年かはしらぬが隔絶した島のなかを、君は一番覗きこみたいとは思わないかね" ], [ "ニューギニア土人は、その黒点のようにみえる島を穴と見誤った。海水が、ぐるりから中心にかけて、だんだんに低くなってゆく。それを、勾配のゆるやかな大漏斗のように考えた。つまり、その穴から海水が落ちる。そのため、こんな大きな渦巻ができると、いかにも奴等らしい観察が“Dabukkū”の語原だよ", "ふうむ、太平洋漏水孔か……" ], [ "想像もつかんよ、地球の熱極というのがあれば、『太平洋漏水孔』のことだろう", "ふむ、ところでだ。ここに、独木舟に乗って入りこんだ、人間がいると仮定しよう。渦は、毎時周縁のあたりが三十カイリの速さ。そして、ぐるぐる巡りながら最初の島までゆくのに、どう見積っても半日は費る。するとそれまでに、その人間の命が保つかどうかということが、まず第一の問題になってくる。僕は、医者じゃないが、受け合い兼ねますといいたいね", "分ったよ" ], [ "おいおい、話というものはしまいまで聴くもんだ。僕が、何百、何十万年秘められていたかもしれぬ『太平洋漏水孔』の大驚異――それを話そうと思う矢先、早まりやがって……", "そ、そうか", "それみろ。とにかく『太平洋漏水孔』のなかに何かしらあるらしいことは、君に作家的神経がありゃ、感付かにゃならんところだ。といって、僕が往ったわけじゃない。じつは、ひとりそこへ入り込んで奇蹟的に生還したものがいる。そしてその人物と、僕のあいだには奇縁的な関係がある", "なんと云うんだ! そして、どこの国のものだ", "日本人だ。しかも、頑是ない五歳ばかりの男の子だ" ], [ "君、ドイツ語のようだね", "そうです、読みましょうか。最初に、この子の仮りの父となって暮すこと一月。いま『太平洋漏水孔』中にある独逸人キューネより――とあります" ], [ "オジチャン、ここ、ジャッキーちゃんのお家じゃないんだね", "そうだよ。だが、もうじきに帰してやるからね。ときに、坊やはどこの子だね", "お父ちゃんは、日本人でジョリジョリ屋だい", "ジョリジョリ⁉ ああ理髪屋さんだね。で、坊やはどこで生れたんだ", "シドニーだよ。お母ちゃんは、去年そこで死んじまったんだ。お父ちゃんは、それから兵隊附きのジョリジョリ屋になって、今度も、隊と一緒にここへ来たんだがね。それも、先週の土曜にマラリアで死んじまったよ。ボクは、宇佐美ハチロウっていうんだよ" ], [ "オジチャンの、このお舟はどこへゆくんだね。坊やのお国の、日本へゆくの?", "行ってもいいよ" ], [ "だけど、坊やはジャッキーちゃんのお家へゆくんじゃないのかね", "うん、だけどね。ジャッキーちゃんはとっても威張るんだもの。あたいを、いつも慾ばりの悪殿様にして、ジャッキーちゃんの海賊が退治にくるんだもの。だけど、あたいのお国の日本なら虐められないだろうね" ], [ "坊やは、ウンチがでないかね", "また、オジチャン、泥亀をとるんだろう。だけど、坊やだってそうは出ないよ" ], [ "坊や、ここが当分、私たちのお宿になるんだよ", "日本かね、オジチャン", "いや、日本へゆく道になるのさ。坊やが、ここで幾つも幾つもおネンネしていると、そのうちにお迎いの船がくるよ" ], [ "どうして、分るね", "ホラ、蒼黒い筋が水平線にあるでしょう。あれが、凪がちかい証拠だというんです。じきに、北の星が見えるかもしれませんわ" ], [ "私、どこでも島さえ見つければ、一生懸命に働きますわ。あなたの、ズボンも椋梠毛でつくれますわ。それに、珊瑚礁の烏賊刺しは、サモア女の自慢ですもの", "僕は、君の不幸にならなけりゃと思うがね" ], [ "オジチャン、もう日本へ来たのかい", "まだまだ、坊やがそう、百もおネンネしてからだね", "じゃ、オジチャンとオネエチャンがお父ちゃんとお母ちゃんになって……、坊やは、唯今って日本へいくんだね" ], [ "ナエーア、やはりここも不可ない島なんだ。疫病がある。それで、ここの島には誰も住むものがないと云うんだ", "あァあァせっかく見付けたのに、不可ないんでしょうか" ], [ "ああ、なんというところへ来たんだ。ナエーア、こりゃ大変な渦だよ。ああ、太平洋漏水孔!", "だから、だから、云わないこっちゃないんですわ" ], [ "そのハチロウという子は助かったわけだね。で、今は?", "あいつかね。あいつは、時々いま重慶へ飛んでゆくよ。そして、爆薬のはいったおそろしいウンコを置いてゆく。まったく、ニューギニアといい『太平洋漏水孔』といい、よく方々へウンコを置いてゆく奴さ" ] ]
底本:「世界SF全集 34 日本のSF(短篇集)古典篇」早川書房    1976(昭和51)年7月15日再版発行 初出:「新青年」博文館    1940(昭和15)年2月号 ※初出時の表題は、「“太平洋漏水孔”漂流記」です。 ※「〔Dabukku_〕」と「Dabukku」の混在は、底本通りです。 入力:網迫、土屋隆 校正:Juki 2007年8月29日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046636", "作品名": "「太平洋漏水孔」漂流記", "作品名読み": "「ダブックウ」ひょうりゅうき", "ソート用読み": "たふつくうひようりゆうき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新青年」博文館、1940(昭和15)年2月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-11-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/card46636.html", "人物ID": "000125", "姓": "小栗", "名": "虫太郎", "姓読み": "おぐり", "名読み": "むしたろう", "姓読みソート用": "おくり", "名読みソート用": "むしたろう", "姓ローマ字": "Oguri", "名ローマ字": "Mushitaro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-03-14", "没年月日": "1946-02-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "世界SF全集 34 日本のSF(短篇集)古典篇", "底本出版社名1": "早川書房", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年7月15日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年7月15日再版", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年7月15日再版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "網迫、土屋隆", "校正者": "Juki", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/46636_ruby_28108.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-08-29T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/46636_28155.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-08-29T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "手紙はたびたび貰っているが、君はあまり考え過ぎると思うね。だいたい自問自答というやつは、自分で自分の心を解釈するんだから、いつも標準が狂いがちなものなんだよ。だから、対象となる自分の心の状態が、どうも誇張されやすいのだ。ところで、しばらく来ない間に、だいぶ顔触れが変ったようだが……", "ええ、最近に仮髪師を一人拾いましてな。ちょっとした端役もやりますんで、それに、浅尾為十郎という、ど偉え名をくっつけましたんですが……" ], [ "ねえ先生、たしかクイロスの文書の中には、あの不思議な神秘的な生物――人魚のことが記されてありましたっけね。ところが、上陸するとその姿は見えず、その夜上った栰の裏側には、胴体だけの女の屍体がくくりつけてあったというじゃありませんか。里虹は、赦免の条件をあまり周到に考え過ぎた結果、この世にないもの、厭わしい一切のものを、自分の身近から葬り去ろうとしたのです", "なるほど明察だ。とんとあの栰の趣向は、戸板がえしそっくりだからね。これで、里虹が『四谷怪談』を、本気で禁めていたという理由が分ったよ" ], [ "ところで、もう一つ訊きたいのは、いまの君の考えだが、それを最近思いついたのならいいがね。もしあの晩だとすると、君が里虹を殺したといっても、けっして心理的に不自然ではないのだ", "それは、同時に久米八もでしょう" ], [ "わっしが、侏儒だって、冗談じゃねえ。小六さんは、まだ正気に帰らねえんですよ。それよりか、豊竹屋さん(逢痴の事)が双生児とは、そりゃまた、どうしたってことなんです", "なあ、私が双生児なんですって。でももっとも、いま小六さんの前を通ったのは、私だけなんですけど……" ], [ "つまりなんでさあ、本水口に使うのと、お岩を入れるのと、杉戸が二枚いるんですよ。そして、最初は下手の方から、菰を被せたのを流して来るんですが、さて伊右衛門の前に来ると、それを浪幕の陰から、手際よく引っ張り込むんです。そして今度は、役者の入っている方を、みんなでかつぎ上げて、きっかけと同時に、ぬうと突き出すという寸法なんですよ。ところが御覧のとおり、浪幕があるものですから、奈落はせいぜい二燭の電球ぐらいで、人の顔なんぞ、てんで見分けがつくもんですか。つまり、そんな具合で、間の悪い時だと、杉戸の所在が分らなくなるものですから、こうして同じ孔をあけたやつを二つ作っておくのです。ところで、この杉戸ですが、御覧のとおり、少し幅広に作られてあるでしょう。そして、間に役者が入って孔から顔だけを、突き出すんですよ。なあに他愛のねえもんで、外側は括り付けの衣裳なんでさあ。ですが、今日はなんとも不思議なことで、誰か取り違えて押し込んだのかも知れませんが、豊竹屋が後向きに入ってしまったんです。なんですって、それが豊竹屋じゃねえって――とうに殺されていたっておっしゃるんですか。じょ、冗談じゃねえ、わっしらはちゃんと、台詞までも、聴いているんですからね", "なに、逢痴の台詞を聴いたって――" ] ]
底本:「潜航艇「鷹の城」」現代教養文庫、社会思想社    1977(昭和52)年12月15日初版第1刷発行 底本の親本:「地中海」ラヂオ科学社    1938(昭和13)年9月 初出:「中央公論」中央公論社    1935(昭和10)年8月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:ロクス・ソルス 校正:安里努 2013年4月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043679", "作品名": "人魚謎お岩殺し", "作品名読み": "にんぎょのなぞおいわごろし", "ソート用読み": "にんきよのなそおいわころし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」1935(昭和10)年8月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-05-04T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/card43679.html", "人物ID": "000125", "姓": "小栗", "名": "虫太郎", "姓読み": "おぐり", "名読み": "むしたろう", "姓読みソート用": "おくり", "名読みソート用": "むしたろう", "姓ローマ字": "Oguri", "名ローマ字": "Mushitaro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-03-14", "没年月日": "1946-02-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "潜航艇「鷹の城」", "底本出版社名1": "現代教養文庫、社会思想社", "底本初版発行年1": "1977(昭和52)年12月15日", "入力に使用した版1": "1977(昭和52)年12月15日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1994(平成6)年8月30日初版第3版", "底本の親本名1": "地中海", "底本の親本出版社名1": "ラヂオ科学社", "底本の親本初版発行年1": "1938(昭和13)年9月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ロクス・ソルス", "校正者": "安里努", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/43679_ruby_50056.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-04-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/43679_50606.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-04-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "末起、お前かね? お祖母さまに、あの髷を結わせたのは……", "いいえ", "だけど、お祖母さまは作りもののような人なんだよ。むろん、書けも喋りも出来んのだから、通じるはずはないし……。誰だね、とき……霜やかね? 末起は、誰が髪結いを連れてきたか知ってるだろうが" ], [ "あれは、お父さま、私が結ったのです。霜やも、ときやも、誰も知りませんの", "なに、お前がか……" ], [ "いけないね末起、想いだすのもいいが、あんなことはいかんよ。なるほど、お母さまとお祖母さまとは親子なんだから、あの髷を、結ったらそりゃ似るだろう。だが、お祖母さまはなにをした方だ。いけません、ああなって刑をうけるより、より以上の苦しみをなされている。その方に、わざわざ想い出させ苦しめるようなもんだ。末起、おまえはお祖母さんを、そんなに憎いかね", "あたし……どうして、そんなこと" ], [ "あれは父さま、お祖母さまがそうしろと仰言ったんですわ", "なに、お祖母さまが……" ], [ "では、お祖母さまが、どうしたというのだね。口が、自由になったのか、指か……", "いいえ", "では、どうなったのだ⁉" ], [ "ねえ末起、今日は何日だろう?", "十七日ですわ", "そうだ、月はちがっても、お母さまの命日だ。おれは、いつもは抑えているが、この日には出来なくなる" ] ]
底本:「航続海底二万哩」桃源社    1975(昭和50)年12月5日発行 初出:「週刊朝日読物号」朝日新聞社    1938(昭和13)年5月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:ロクス・ソルス 校正:土屋隆 2007年1月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043620", "作品名": "方子と末起", "作品名読み": "まさことまき", "ソート用読み": "まさことまき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「週刊朝日読物号」朝日新聞社、1938(昭和13)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-02-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/card43620.html", "人物ID": "000125", "姓": "小栗", "名": "虫太郎", "姓読み": "おぐり", "名読み": "むしたろう", "姓読みソート用": "おくり", "名読みソート用": "むしたろう", "姓ローマ字": "Oguri", "名ローマ字": "Mushitaro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-03-14", "没年月日": "1946-02-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "航続海底二万哩", "底本出版社名1": "桃源社", "底本初版発行年1": "1975(昭和50)年12月5日", "入力に使用した版1": "1975(昭和50)年12月5日", "校正に使用した版1": "1975(昭和50)年12月5日", "底本の親本名1": "週刊朝日読物号", "底本の親本出版社名1": "朝日新聞社", "底本の親本初版発行年1": "1938(昭和13)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ロクス・ソルス", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/43620_ruby_16749.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-01-16T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/43620_25743.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-01-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "何んとなく僕には、これが梵字のように思われてならないのですが", "明らかにそうで御座います。これは、囉)の二つで御座いまして、双方ともに、神通誅戮と云う意味が含まれて居ります" ], [ "判ったのは、たったこれだけさ。一時十五分に発見した時消えていたと云う油時計が、何故二時を指しているか――なんだ。その気狂い染みた進み方からして、犯人が小窓を開いた時刻が判るのだがね", "そうすると、多分消えたのは、金泥が散った時じゃないだろうか" ], [ "では、探して見給え――決してありっこないからね。梵字の形が、左右符合しているのを見ただけでも、とうに僕は、人間の手で使うものでない――と云う定義を、この事件の兇器に下しているんだ。それよりも支倉君、孔雀の趾跡が一体どうして附けられたか――じゃないか。たとえば、推摩居士を歩かせたにした所で、たかが膝蓋骨の、三角形ぐらい印されるだけだからね", "すると、何か君は?", "うん、これは非常に奇抜な想像なんだが、さしずめ僕は、推摩居士に逆立ちをさせたいんだよ。それも掌を全部下ろさずに、指の根元で全身を支えるんだ" ], [ "誅戮などと云う怖ろしい世界が、御仏の掌の中にあろうとは思われませんでした。私は推摩居士が悲し気に叫ぶ声を聴いたのです", "なに、声をお聴きでしたか?", "そうです。夢殿から庵主が出る網扉の音が聴こえて、それから間もなくの事でした。笙が鳴り出すと、それにつれてドウと板の間を踏むような音が聴こえました。そして、その二度目が聴こえると同時に、ブーンと云う得体の判らない響きがして、それなり笙も止んでしまったのです。それから二十分ほど後になってから、推摩居士が四本の手と叫ぶのを聴きましたが、二階のはそれだけで、今度は階下の伝声管から響いて参りました", "すると、伝声管は二本あるのですね" ], [ "ハア、先刻寂蓮さんと一所に……。それで、すっかり疲れてしまいましたのですが", "すると貴女は、推摩居士の行衣の袖に、何を御覧になりましたね" ], [ "莫迦らしいとはお思いになりませんか。推摩居士が、真実竜樹の化身ですのなら、何故南天の鉄塔を破った時のように、七粒の芥子を投げて、密室を破らなかったのでしょう", "成程、それは面白い説ですね。所で貴女は、浄善の死因に就いて何か御存知なようですが", "実は、誰にも云いませんでしたが、私、犯人の姿を見たのですわ" ], [ "それで、何か?", "その中に斯う云う記述があるのです。――予の湖畔に於ける狩猟中に、朝食のため土人の一人が未明羚羊猟をせり。然るに、クラーレ毒矢にて射倒したる一匹を、捕獲したる鬣狗の檻際へ置けるに、全身動かず死したりと思いし羚羊の眼が、俄かに瞳孔を動かし恐怖の色を現わしたり――と。ねえ支倉君、浄善は最初に、微量のクラーリンを塗った矢針で斃されたんだよ。つまり、羚羊と同じに、運動神経が痲痺して動けなくなったまでの事で、その眼は凝然と、怖ろしい殺人模様を眺めていたんだ" ], [ "所で支倉君、そこに推摩居士を導いたものと、もう一つ、傷跡に梵字の形を残したものがあったのだ。勿論、犯人が、赤色の灯を使って、推摩居士を導いた事は云う迄もないだろう。そして、三階の階段口にある突出床から、下に方形の孔を開いている玉幡の中へ落し込んだのだ。また、それ以前に犯人は、繍仏の指の先に、隠現自在な鉤形をした兇器を嵌め込んで置いたのだが、その兇器は、その場限りで消え失せてしまったのだよ。で、最初まず、如何にして梵字形の傷跡が出来たか――それを説明しよう。一口に云えば、最初に向き合った二つの鉤が、推摩居士の腰部に突き刺り、それが筋肉を抉り切ってしまうと、続いて二度目の墜落が始まって、それまで血を嘗めていなかった残り二つの鉤が、今度は両の腕に突っ刺ったのだ。つまり、そこには到底信ぜられない、廻転がなければならない。けれども、それは勿論外力を加えたものではなくて、その自転の原因と云うのは、推摩居士の身体に現われた、斑点様の知覚にある事なんだよ。最初腰に刺さった二本がどうなったかと云うと、体重が加わって筋肉を上方に引裂いて行くうちに、左右のどっちかが、知覚のある斑点の部分に触れたのだ。そうすると、当然その部分に触れる度毎に、それから遠ざかろうとして身体を捻るだろうから、偶然そうして描かれて行った梵字様の痕跡が、左右寸分の狂いもなく、符合してしまったのだよ。つまり一口に云えば、推摩居士の自転が、轆轤の役を勤めたと云う事になるのだけれど、最後に筋肉をかき切って支柱が外れた際――その時、捻った余力で直角に廻転して墜落したのだった。そして、その肩口をハッシと受け止めたと云うのが、残り二側の玉幡だったのだよ", "そうすると、傷の両端が違っているのは?" ] ]
底本:「小栗虫太郎全作品4 二十世紀鉄仮面」桃源社    1979(昭和54)年3月15日発行 底本の親本:「二十世紀鉄仮面」桃源社    1971(昭和46)年11月15日初版 初出:「改造」改造社    1934(昭和9)年1月号 入力:ロクス・ソルス 校正:Juki 2006年7月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "045230", "作品名": "夢殿殺人事件", "作品名読み": "ゆめどのさつじんじけん", "ソート用読み": "ゆめとのさつしんしけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「改造」1934(昭和9)年1月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-08-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/card45230.html", "人物ID": "000125", "姓": "小栗", "名": "虫太郎", "姓読み": "おぐり", "名読み": "むしたろう", "姓読みソート用": "おくり", "名読みソート用": "むしたろう", "姓ローマ字": "Oguri", "名ローマ字": "Mushitaro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-03-14", "没年月日": "1946-02-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "小栗虫太郎全作品4 二十世紀鉄仮面", "底本出版社名1": "桃源社", "底本初版発行年1": "1979(昭和54)年3月15日", "入力に使用した版1": "1979(昭和54)年3月15日", "校正に使用した版1": "1979(昭和54)年3月15日", "底本の親本名1": "二十世紀鉄仮面", "底本の親本出版社名1": "桃源社", "底本の親本初版発行年1": "1971(昭和46)年11月15日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "ロクス・ソルス", "校正者": "Juki", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/45230_ruby_26898.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-07-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000125/files/45230_27729.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-07-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "もう湯は抜けるのかな", "へい、松の内は早仕舞でございます" ], [ "好い、好い、全く好い! 馬士にも衣裳と謂ふけれど、美いのは衣裳には及ばんね。物それ自らが美いのだもの、着物などはどうでも可い、実は何も着てをらんでも可い", "裸体なら猶結構だ!" ], [ "まあ、あの指環は! 一寸、金剛石?", "さうよ", "大きいのねえ", "三百円だつて" ], [ "金剛石!", "うむ、金剛石だ", "金剛石⁇", "成程金剛石!", "まあ、金剛石よ", "あれが金剛石?", "見給へ、金剛石", "あら、まあ金剛石⁇", "可感い金剛石", "可恐い光るのね、金剛石", "三百円の金剛石" ], [ "それはどうも飛でもない事を。外に何処もお怪我はございませんでしたか", "そんなに有られて耐るものかね" ], [ "唯今絆創膏を差上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございませう。故々御招申しまして甚だ恐入りました。もう彼地へは御出陣にならんが宜うございます。何もございませんがここで何卒御寛り", "ところがもう一遍行つて見やうかとも思ふの", "へえ、又いらつしやいますか" ], [ "ございましたらう、さうでございませうとも", "何故な", "何故も無いものでございます。十目の見るところぢやございませんか" ], [ "さうだらうね", "あれは宜うございませう", "一寸好いね", "まづその御意でお熱いところをお一盞。不満家の貴方が一寸好いと有仰る位では、余程尤物と思はなければなりません。全く寡うございます" ], [ "酷く負けて迯げて来ました", "それは好く迯げていらつしやいました" ], [ "なあに、宜い", "宜いではございません。純金では大変でございます" ], [ "時にあれの身分はどうかね", "さやう、悪い事はございませんが……", "が、どうしたのさ", "が、大した事はございませんです", "それはさうだらう。然し凡そどんなものかね", "旧は農商務省に勤めてをりましたが、唯今では地所や家作などで暮してゐるやうでございます。どうか小金も有るやうな話で、鴫沢隆三と申して、直隣町に居りまするが、極手堅く小体に遣つてをるのでございます", "はあ、知れたもんだね" ], [ "それでも可いさ。然し嫁れやうか、嗣子ぢやないかい", "さやう、一人娘のやうに思ひましたが", "それぢや窮るぢやないか", "私は悉い事は存じませんから、一つ聞いて見ませうで" ], [ "宮さん、あの金剛石の指環を穿めてゐた奴はどうだい、可厭に気取つた奴ぢやないか", "さうねえ、だけれど衆があの人を目の敵にして乱暴するので気の毒だつたわ。隣合つてゐたもんだから私まで酷い目に遭されてよ", "うむ、彼奴が高慢な顔をしてゐるからさ。実は僕も横腹を二つばかり突いて遣つた", "まあ、酷いのね", "ああ云ふ奴は男の目から見ると反吐が出るやうだけれど、女にはどうだらうね、あんなのが女の気に入るのぢやないか", "私は可厭だわ", "芬々と香水の匂がして、金剛石の金の指環を穿めて、殿様然たる服装をして、好いに違無いさ" ], [ "私は可厭よ", "可厭なものが組になるものか", "組は鬮だから為方が無いわ", "鬮だけれど、組に成つて可厭さうな様子も見えなかつたもの", "そんな無理な事を言つて!", "三百円の金剛石ぢや到底僕等の及ぶところにあらずだ", "知らない!" ], [ "どうしたの", "ああ寒い", "あら可厭ね、どうしたの", "寒くて耐らんからその中へ一処に入れ給へ", "どの中へ", "シォールの中へ", "可笑い、可厭だわ" ], [ "遅かつたかね。さあ御土産です。還つてこれを細君に遣る。何ぞ仁なるや", "まあ、大変酔つて! どうしたの", "酔つて了つた", "あら、貫一さん、こんな所に寐ちや困るわ。さあ、早くお上りなさいよ", "かう見えても靴が脱げない。ああ酔つた" ], [ "君に勧む、金縷の衣を惜むなかれ。君に勧む、須く少年の時を惜むべし。花有り折るに堪へなば直に折る須し。花無きを待つて空く枝を折ることなかれ", "貫一さん、どうしてそんなに酔つたの?", "酔つてゐるでせう、僕は。ねえ、宮さん、非常に酔つてゐるでせう", "酔つてゐるわ。苦いでせう", "然矣、苦いほど酔つてゐる。こんなに酔つてゐるに就いては大いに訳が有るのだ。さうして又宮さんなるものが大いに介抱して可い訳が有るのだ。宮さん!", "可厭よ、私は、そんなに酔つてゐちや。不断嫌ひの癖に何故そんなに飲んだの。誰に飲されたの。端山さんだの、荒尾さんだの、白瀬さんだのが附いてゐながら、酷いわね、こんなに酔して。十時にはきつと帰ると云ふから私は待つてゐたのに、もう十一時過よ", "本当に待つてゐてくれたのかい、宮さん。謝、多謝! 若それが事実であるならばだ、僕はこのまま死んでも恨みません。こんなに酔されたのも、実はそれなのだ" ], [ "可厭よ、もう貫一さんは", "友達中にもさう知れて見ると、立派に夫婦にならなければ、弥よ僕の男が立たない義だ", "もう極つてゐるものを、今更……", "さうでないです。この頃翁さんや姨さんの様子を見るのに、どうも僕は……", "そんな事は決して無いわ、邪推だわ", "実は翁さんや姨さんの了簡はどうでも可い、宮さんの心一つなのだ", "私の心は極つてゐるわ", "さうかしらん?", "さうかしらんて、それぢや余りだわ" ], [ "ああ、吃驚した。何時御帰んなすつて", "今帰つたの", "さう。些も知らなかつた" ], [ "宮さん、お前さんどうしたの。ええ、何処か不快のかい", "何ともないのよ。何故?" ], [ "だから僕は始終水臭いと言ふんだ。さう言へば、直に疑深いの、神経質だのと言ふけれど、それに違無いぢやないか", "だつて何ともありもしないものを……", "何ともないものが、惘然考へたり、太息を吐いたりして鬱いでゐるものか。僕は先之から唐紙の外で立つて見てゐたんだよ。病気かい、心配でもあるのかい。言つて聞したつて可いぢやないか" ], [ "然し心配する事は無いさ。気に為ては可かんよ。可いかい", "ええ、心配しはしません" ], [ "可羨いわ", "可羨ければ、お前さんの事だから分けてあげやう", "何卒", "ええ悉皆遣つて了へ!" ], [ "はあ、それは。何だか夢のやうですな", "はあ、私もそんな塩梅で", "然し、湯治は良いでございませう。幾日ほど逗留のお心算で?", "まあどんなだか四五日と云ふので、些の着のままで出掛けたのだが、なあに直に飽きて了うて、四五日も居られるものか、出養生より内養生の方が楽だ。何か旨い物でも食べやうぢやないか、二人で、なう" ], [ "お前どうぞ為なすつたか。うむ、元気が無いの", "はあ、少し胸が痛みますので", "それは好くない。劇く痛みでもするかな", "いえ、なに、もう宜いのでございます", "それぢや茶は可くまい", "頂戴します" ], [ "お前がさう思うてくれれば私も張合がある。就いては改めてお前に頼があるのだが、聴いてくれるか", "どういふ事ですか、私で出来ます事ならば、何なりと致します" ], [ "それぢや翁様の御都合で、どうしても宮さんは私に下さる訳には参らんのですか", "さあ、断つて遣れんと云ふ次第ではないが、お前の意はどうだ。私の頼は聴ずとも、又自分の修業の邪魔にならうとも、そんな貪着は無しに、何でもかでも宮が欲しいと云ふのかな", "…………", "さうではあるまい", "…………" ], [ "嫁に遣ると有仰るのは、何方へ御遣しになるのですか", "それは未だ確とは極らんがの、下谷に富山銀行と云ふのがある、それ、富山重平な、あれの息子の嫁に欲いと云ふ話があるので" ], [ "それで、この話は宮さんも知つてゐるのですか", "薄々は知つてゐる", "では未だ宮さんの意見は御聞にならんので?", "それは、何だ、一寸聞いたがの", "宮さんはどう申してをりました", "宮か、宮は別にどうといふ事は無いのだ。御父様や御母様の宜いやうにと云ふので、宮の方には異存は無いのだ、あれにもすつかり訳を説いて聞かしたところが、さう云ふ次第ならばと、漸く得心がいつたのだ" ], [ "はあ、宮さんは承知を為ましたので?", "さう、異存は無いのだ。で、お前も承知してくれ、なう。一寸聞けば無理のやうではあるが、その実少しも無理ではないのだ。私の今話した訳はお前にも能く解つたらうが、なう", "はい", "その訳が解つたら、お前も快く承知してくれ、なう。なう、貫一", "はい", "それではお前も承知をしてくれるな。それで私も多きに安心した。悉い事は何れ又寛緩話を為やう。さうしてお前の頼も聴かうから、まあ能く種々考へて置くが可いの", "はい" ], [ "どうせうたつて、お前の心一つぢやないか。初発にお前が適きたいといふから、かう云ふ話にしたのぢやないかね。それを今更……", "それはさうだけれど、どうも貫一さんの事が気になつて。御父さんはもう貫一さんに話を為すつたらうか、ねえ御母さん", "ああ、もう為すつたらうとも" ], [ "お前がそれ程に思ふのなら、何で自分から適きたいとお言ひなのだえ。さう何時までも気が迷つてゐては困るぢやないか。一日経てば一日だけ話が運ぶのだから、本当にどうとも確然極めなくては可けないよ。お前が可厭なものを無理にお出といふのぢやないのだから、断るものなら早く断らなければ、だけれど、今になつて断ると云つたつて……", "可いわ。私は適くことは適くのだけれど、貫一さんの事を考へると情無くなつて……" ], [ "貴方がたもお掛けなさいましな。今朝です、東京から手紙で、急用があるから早速帰るやうに――と云ふのは、今度私が一寸した会社を建てるのです。外国へ此方の塗物を売込む会社。これは去年中からの計画で、いよいよこの三四月頃には立派に出来上る訳でありますから、私も今は随分忙い体、なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らん事があるので、呼びに来た。で、翌の朝立たなければならんのであります", "おや、それは急な事で", "貴方がたも一所にお立ちなさらんか" ], [ "はい、難有う存じます", "それとも未だ御在ですか。宿屋に居るのも不自由で、面白くもないぢやありませんか。来年あたりは一つ別荘でも建てませう。何の難は無い事です。地面を広く取つてその中に風流な田舎家を造るです。食物などは東京から取寄せて、それでなくては実は保養には成らん。家が出来てから寛緩遊びに来るです", "結構でございますね", "お宮さんは、何ですか、かう云ふ田舎の静な所が御好なの?" ], [ "これはもう遊ぶ事なら嫌はございませんので", "はははははは誰もさうです。それでは以後盛にお遊びなさい。どうせ毎日用は無いのだから、田舎でも、東京でも西京でも、好きな所へ行つて遊ぶのです。船は御嫌ですか、ははあ。船が平気だと、支那から亜米利加の方を見物がてら今度旅行を為て来るのも面白いけれど。日本の内ぢや遊山に行いたところで知れたもの。どんなに贅沢を為たからと云つて", "御帰になつたら一日赤坂の別荘の方へ遊びにお出下さい、ねえ。梅が好いのであります。それは大きな梅林が有つて、一本々々種の違ふのを集めて二百本もあるが、皆老木ばかり。この梅などは全で為方が無い! こんな若い野梅、薪のやうなもので、庭に植ゑられる花ぢやない。これで熱海の梅林も凄い。是非内のをお目に懸けたいでありますね、一日遊びに来て下さい。御馳走を為ますよ。お宮さんは何が所好ですか、ええ、一番所好なものは?" ], [ "で、何日御帰でありますか。明朝一所に御発足にはなりませんか。此地にさう長く居なければならんと云ふ次第ではないのでせう、そんなら一所にお立ちなすつたらどうであります", "はい、難有うございますが、少々宅の方の都合がございまして、二三日内には音信がございます筈で、その音信を待ちまして、実は帰ることに致してございますものですから、折角の仰せですが、はい", "ははあ、それぢやどうもな" ], [ "お前お出かい、どうお為だえ", "貴方、お出かいなどと有仰つちや可けません。お出なさいと命令を為すつて下さい" ], [ "ではお前お供をおしな", "さあ、行きませう。直其処まででありますよ" ], [ "御母さんも一処に御出なさいな", "私かい、まあお前お供をおしな" ], [ "ああ、大きに良いので、もう二三日内には帰らうと思つてね。お前さん能く来られましたね。学校の方は?", "教場の普請を為るところがあるので、今日半日と明日明後日と休課になつたものですから", "おや、さうかい" ], [ "丁度宅から人が参りましてございますから、甚だ勝手がましうございますが、私等はこれから宿へ帰りますでございますから、いづれ後程伺ひに出ますでございますが……", "ははあ、それでは何でありますか、明朝は御一所に帰れるやうな都合になりますな", "はい、話の模様に因りましては、さやう願はれるかも知れませんので、いづれ後程には是非伺ひまして、……", "成程、それでは残念ですが、私も散歩は罷めます。散歩は罷めてこれから帰ります。帰つてお待申してゐますから、後に是非お出下さいよ。宜いですか、お宮さん、それでは後にきつとお出なさいよ。誠に今日は残念でありますな" ], [ "はい", "お前さん翁さんから話はお聞きでせうね、今度の話は", "はい", "ああ、そんなら可いけれど。不断のお前さんにも似合はない、そんな人の悪口などを言ふものぢやありませんよ", "はい", "さあ、もう帰りませう。お前さんもお草臥だらうから、お湯にでも入つて、さうして未だ御午餐前なのでせう", "いえ、滊車の中で鮨を食べました" ], [ "其処に花が粘いてゐたから取つたのよ", "それは難有う※(感嘆符三つ)" ], [ "堪忍して下さい", "何も今更謝ることは無いよ。一体今度の事は翁さん姨さんの意から出たのか、又はお前さんも得心であるのか、それを聞けば可いのだから", "…………" ], [ "病気と云つてここへ来たのは、富山と逢ふ為だらう", "まあ、そればつかりは……", "おおそればつかりは?", "余り邪推が過ぎるわ、余り酷いわ。何ぼ何でも余り酷い事を" ], [ "操を破れば奸婦ぢやあるまいか", "何時私が操を破つて?", "幾許大馬鹿者の貫一でも、おのれの妻が操を破る傍に付いて見てゐるものかい! 貫一と云ふ歴とした夫を持ちながら、その夫を出抜いて、余所の男と湯治に来てゐたら、姦通してゐないといふ証拠が何処に在る?", "さう言はれて了ふと、私は何とも言へないけれど、富山さんと逢ふの、約束してあつたのと云ふのは、それは全く貫一さんの邪推よ。私等が此地に来てゐるのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのだわ", "何で富山が後から尋ねて来たのだ" ], [ "そんな悲い事をいはずに、ねえ貫一さん、私も考へた事があるのだから、それは腹も立たうけれど、どうぞ堪忍して、少し辛抱してゐて下さいな。私はお肚の中には言ひたい事が沢山あるのだけれど、余り言難い事ばかりだから、口へは出さないけれど、唯一言いひたいのは、私は貴方の事は忘れはしないわ――私は生涯忘れはしないわ", "聞きたくない! 忘れんくらゐなら何故見棄てた", "だから、私は決して見棄てはしないわ", "何、見棄てない? 見棄てないものが嫁に帰くかい、馬鹿な! 二人の夫が有てるかい", "だから、私は考へてゐる事があるのだから、も少し辛抱してそれを――私の心を見て下さいな。きつと貴方の事を忘れない証拠を私は見せるわ" ], [ "私が悪いのだから堪忍して下さい", "それぢや婿が不足なのだね", "貫一さん、それは余りだわ。そんなに疑ふのなら、私はどんな事でもして、さうして証拠を見せるわ" ], [ "宮さん、何を泣くのだ。お前は些も泣くことは無いぢやないか。空涙!", "どうせさうよ" ], [ "ええ、こんな事はかまはないから、貴方は何処へ行くのよ、話があるから今夜は一所に帰つて下さい、よう、貫一さん、後生だから", "話が有ればここで聞かう", "ここぢや私は可厭よ", "ええ、何の話が有るものか。さあここを放さないか", "私は放さない", "剛情張ると蹴飛すぞ", "蹴られても可いわ" ], [ "宮さん!", "あ、あ、あ、貫一さん!" ], [ "不思議に好い天気に成つた、なあ。この分なら大丈夫じや", "今晩雨になるのも又一興だよ、ねえ、甘糟" ], [ "甘糟は一興で、君は望むところなのだらう", "馬鹿言へ。甘糟の痒きに堪へんことを僕は丁と洞察してをるのだ", "これは憚様です" ], [ "風早、君と僕はね、今日は実際犠牲に供されてゐるのだよ。佐分利と甘糟は夙て横浜を主張してゐるのだ。何でもこの間遊仙窟を見出して来たのだ。それで我々を引張つて行つて、大いに気焔を吐く意なのさ", "何じやい、何じやい! 君達がこの二人に犠牲に供されたと謂ふなら、僕は四人の為に売られたんじや。それには及ばんと云ふのに、是非浜まで見送ると言うで、気の毒なと思うてをつたら、僕を送るのを名として君達は……怪しからん事たぞ。学生中からその方は勉強しをつた君達の事ぢやから、今後は実に想遣らるるね。ええ、肩書を辱めん限は遣るも可からうけれど、注意はしたまへよ、本当に" ], [ "いやさう言れると慄然とするよ、実は嚮停車場で例の『美人クリイム』(こは美人の高利貸を戯称せるなり)を見掛けたのだ。あの声で蜥蜴啖ふかと思ふね、毎見ても美いには驚嘆する。全で淑女の扮装だ。就中今日は冶してをつたが、何処か旨い口でもあると見える。那奴に搾られちや克はん、あれが本当の真綿で首だらう", "見たかつたね、それは。夙て御高名は聞及んでゐる" ], [ "おお、宝井が退学を吃つたのも、其奴が債権者の重なる者だと云ふぢやないか。余程好い女ださうだね。黄金の腕環なんぞ篏めてゐると云ふぢやないか。酷い奴な! 鬼神のお松だ。佐分利はその劇なるを知りながら係つたのは、大いに冒険の目的があつて存するのだらうけれど、木乃伊にならんやうに褌を緊めて掛るが可いぜ", "誰か其奴には尻押が有るのだらう。亭主が有るのか、或は情夫か、何か有るのだらう" ], [ "それに就いては小説的の閲歴があるのさ、情夫ぢやない、亭主がある、此奴が君、我々の一世紀前に鳴した高利貸で、赤樫権三郎と云つては、いや無法な強慾で、加ふるに大々的媱物と来てゐるのだ", "成程! 積極と消極と相触れたので爪に火が熖る訳だな" ], [ "驚いたね、君にしてこの言あるのは。荒尾が女を解釈せうとは想はなんだ", "何故かい" ], [ "所謂一朶の梨花海棠を圧してからに、娘の満枝は自由にされて了つた訳だ。これは無論親父には内証だつたのだが、当座は荐つて帰りたがつた娘が、後には親父の方から帰れ帰れ言つても、帰らんだらう。その内に段々様子が知れたもので、侍形気の親父は非常な立腹だ。子でない、親でないと云ふ騒になつたね。すると禿の方から、妾だから不承知なのだらう、籍を入れて本妻に直すからくれろといふ談判になつた。それで逢つて見ると娘も、阿父さん、どうか承知して下さいは、親父益す意外の益す不服だ。けれども、天魔に魅入られたものと親父も愛相を尽して、唯一人の娘を阿父さん彼自身より十歳ばかりも老漢の高利貸にくれて了つたのだ。それから満枝は益す禿の寵を得て、内政を自由にするやうになつたから、定めて生家の方へ貢ぐと思の外、極の給の外は塵葉一本饋らん。これが又禿の御意に入つたところで、女め熟ら高利の塩梅を見てゐる内に、いつかこの商売が面白くなつて来て、この身代我物と考へて見ると、一人の親父よりは金銭の方が大事、といふ不敵な了簡が出た訳だね", "驚くべきものじやね" ], [ "では、今はその禿顱は中風で寐たきりなのだね、一昨年から? それでは何か虫があるだらう。有る、有る、それくらゐの女で神妙にしてゐるものか、無いと見せて有るところがクレオパトラよ。然し、壮な女だな", "余り壮なのは恐れる" ], [ "ふう、それは不思議。他は気が着かなんだかい", "始は待合所の入口の所で些と顔が見えたのじや。余り意外ぢやつたから、僕は思はず長椅子を起つと、もう見えなくなつた。それから有間して又偶然見ると、又見えたのじや" ], [ "何方へ?", "何方でも、私には解りませんですから貴方のお宜い所へ", "私にも解りませんな", "あら、そんな事を仰有らずに、私は何方でも宜いのでございます" ], [ "まあ、何にしても出ませう", "さやう" ], [ "本当に、貴方、何方へ参りませう", "私は、何方でも", "貴方、何時までもそんな事を言つてゐらしつてはきりがございませんから、好い加減に極めやうでは御坐いませんか", "さやう" ], [ "それでは、貴方、鰻鱺は上りますか", "鰻鱺? 遣りますよ", "鶏肉と何方が宜うございます", "何方でも", "余り御挨拶ですね", "何為ですか" ], [ "まあ、何為でも宜うございますから、それでは鶏肉に致しませうか", "それも可いでせう" ], [ "間さん、貴方どうぞお楽に", "はい、これが勝手で", "まあ、そんな事を有仰らずに、よう、どうぞ", "内に居つても私はこの通なのですから", "嘘を有仰いまし" ], [ "貴方、嘘をお吐きなさるなら、もう少し物覚を善く遊ばせよ", "はあ?", "先日鰐淵さんへ上つた節、貴方召上つてゐらしつたではございませんか", "はあ?", "瓢箪のやうな恰好のお煙管で、さうして羅宇の本に些と紙の巻いてございました" ], [ "貴方、お一盞", "可かんのです", "又そんな事を", "今度は実際", "それでは麦酒に致しませうか", "いや、酒は和洋とも可かんのですから、どうぞ御随意に" ], [ "時に小車梅の件と云ふのはどんな事が起りましたな", "もうお一盞召上れ、それからお話を致しますから。まあ、お見事! もうお一盞" ], [ "いやそんなに", "それでは私が戴きませう、恐入りますがお酌を", "で、小車梅の件は?", "その件の外に未だお話があるのでございます", "大相有りますな", "酔はないと申上げ難い事なのですから、私少々酔ひますから貴方、憚様ですが、もう一つお酌を", "酔つちや困ります。用事は酔はん内にお話し下さい", "今晩は私酔ふ意なのでございますもの" ], [ "もう止したが可いでせう", "貴方が止せと仰有るなら私は止します", "敢て止せとは言ひません", "それぢや私酔ひますよ" ], [ "間さん、……", "何ですか", "私今晩は是非お話し申したいことがあるので御坐いますが、貴方お聴き下さいますか", "それをお聞き申す為に御同道したのぢやありませんか" ], [ "私何だか酔つてをりますから、或は失礼なことを申上げるかも知れませんけれど、お気に障へては困りますの。然し、御酒の上で申すのではございませんから、どうぞそのお意で、宜うございますか", "撞着してゐるぢやありませんか", "まあそんなに有仰らずに、高が女の申すことでございますから" ], [ "間さん", "はい", "貴方失礼ながら、何でございますか、鰐淵さんの方に未だお長くゐらつしやるお意なのですか。然し、いづれ独立あそばすので御坐いませう", "勿論です", "さうして、まづ何頃彼方と別にお成りあそばすお見込なのでございますの", "資本のやうなものが少しでも出来たらと思つてゐます" ], [ "さう遊ばせよ", "それはどう云ふ訳ですか" ], [ "別に申上げなくてもお察し下さいましな。私だつて何時までも赤樫に居たいことは無いぢやございませんか。さう云ふ訳なのでございます", "全然解らんですな", "貴方、可うございますよ" ], [ "お給仕なれば私致します", "それは憚様です" ], [ "未だお早うございますよ。もうお一盞召上れ", "もう頭が痛くて克はんですから赦して下さい。腹が空いてゐるのですから", "お餒いところを御飯を上げませんでは、さぞお辛うございませう", "知れた事ですわ", "さうでございませう。それなら、此方で思つてゐることが全で先方へ通らなかつたら、餒いのに御飯を食べないのよりか夐に辛うございますよ。そんなにお餒じければ御飯をお附け申しますから、貴方も只今の御返事をなすつて下さいましな", "返事と言はれたつて、有仰ることの主意が能く解らんのですもの", "何故お了解になりませんの" ], [ "解らんぢやありませんか。親い御交際の間でもない私に資本を出して下さる。さうしてその訳はと云へば、貴方も彼処を出る。解らんぢやありませんか。どうか飯を下さいな", "解らないとは、貴方、お酷いぢやございませんか。ではお気に召さないのでございますか", "気に入らんと云ふ事は有りませんが、縁も無い貴方に金を出して戴く……", "あれ、その事ではございませんてば", "どうも非常に腹が空いて来ました", "それとも貴方外にお約束でも遊ばした御方がお在なさるのでございますか" ], [ "うむ、解りました", "ああ、お了解になりまして⁈" ], [ "又ですか", "是非!" ], [ "お了解になりましたら、どうぞ御返事を", "その事なら、どうぞこれぎりにして下さい" ], [ "では何でございますか、私の心もやはり頼にならないとお疑ひ遊ばすのでございますか", "疑ふ、疑はんと云ふのは二の次で、私はその失望以来この世の中が嫌で、総ての人間を好まんのですから", "それでは誠も誠も――命懸けて貴方を思ふ者がございましても?", "勿論! 別して惚れたの、思ふのと云ふ事は大嫌です", "あの、命を懸けて慕つてゐるといふのがお了解になりましても", "高利貸の目には涙は無いですよ" ], [ "どう云ふお話ですか", "そんな事はどうでも宜うございます。間さん、私、どうしても思切れませんから、さう思召して下さい。で、お可厭ならお可厭で宜うございますから、私がこんなに思つてゐることを、どうぞ何日までもお忘れなく……きつと覚えてゐらつしやいましよ", "承知しました", "もつと優い言をお聞せ下さいましな", "私も覚えてゐます", "もつと何とか有仰りやうが有りさうなものではございませんか", "御志は決して忘れません。これなら宜いでせう" ], [ "気分はどうです", "いや、なあに、寝てゐるほどの事は無いので。これは色々御馳走様でございます", "冷めない内にお上んなさい" ], [ "旦那は何時頃お出懸になりました", "今朝は毎より早くね、氷川へ行くと云つて" ], [ "はあ、畔柳さんですか", "それがどうだか知れないの" ], [ "あの赤樫の別品さんね、あの人は悪い噂が有るぢやありませんか、聞きませんか", "悪い噂とは?", "男を引掛けては食物に為るとか云ふ……" ], [ "さうでせう", "一向聞きませんな。那奴男を引掛けなくても金銭には窮らんでせうから、そんな事は無からうと思ひますが……", "だから可けない。お前さんなんぞもべいろしや組の方ですよ。金銭が有るから為ないと限つたものですか。さう云ふ噂が私の耳へ入つてゐるのですもの", "はて、な", "あれ、そんな剥きやうをしちや食べるところは無い、此方へお貸しなさい", "これは憚様です" ], [ "些と見たつてそんな事を為さうな風ぢやありませんか。お前さんなんぞは堅人だから可いけれど、本当にあんな者に係合ひでもしたら大変ですよ", "さう云ふ事が有りますかな", "だつて、私の耳へさへ入る位なのに、お前さんが万更知らない事は無からうと思ひますがね。あの別品さんがそれを遣ると云ふのは評判ですよ。金窪さん、鷲爪さん、それから芥原さん、皆その話をしてゐましたよ", "或はそんな評判があるのかも知れませんが、私は一向聞きません。成程、ああ云ふ風ですから、それはさうかも知れません", "外の人にはこんな話は出来ません。長年気心も知り合つて家内の人も同じのお前さんの事だから、私もお話を為るのですけれどね、困つた事が出来て了つたの――どうしたら可からうかと思つてね" ], [ "おや、これは大変な虫だ。こら、御覧なさい。この虫はどうでせう", "非常ですな", "虫が付いちや可けません! 栗には限らず", "さうです" ], [ "これは本当にお前さんだから私は信仰して話を為るのですけれど、此処きりの話ですからね", "承知しました" ], [ "そんな馬鹿な事が、貴方……", "外の人ならいざ知らず、附いてゐる女房の私が……それはもう間違無しよ!" ], [ "旦那はお幾歳でしたな", "五十一、もう爺ですわね" ], [ "何ぞ証拠が有りますか", "証拠と云つて、別に寄越した文を見た訳でもないのですけれど、そんな念を推さなくたつて、もう違無いの‼" ], [ "それはもう男の働とか云ふのだから、妾も楽も可うございます。これが芸者だとか、囲者だとか云ふのなら、私は何も言ひはしませんけれど第一は、赤樫さんといふ者があるのぢやありませんか、ねえ。その上にあの女だ! 凡の代物ぢやありはしませんわね。それだから私は実に心配で、心火なら可いけれど、なかなか心火どころの洒落た沙汰ぢやありはしません。あんな者に係合つてゐた日には、末始終どんな事になるか知れやしない、それが私は苦労でね。内の夫もあのくらゐ利巧で居ながらどうしたと云ふのでせう。今朝出掛けたのもどうも異いの、確に氷川へ行つたんぢやないらしい。だから御覧なさい。この頃は何となく冶れてゐますわね、さうして今朝なんぞは羽織から帯まで仕立下し渾成で、その奇麗事と謂つたら、何が日にも氷川へ行くのにあんなに靚した事はありはしません。もうそれは氷川でない事は知れきつてゐるの", "それが事実なら困りましたな", "あれ、お前さんは未だそんな気楽なことを言つてゐるよ。事実ならッて、事実に違無いと云ふのに" ], [ "はあ、事実とすれば弥よ善くない。あの女に係合つちや全く妙でない。御心配でせう", "私は悋気で言ふ訳ぢやない、本当に旦那の身を思つて心配を為るのですよ、敵手が悪いからねえ" ], [ "さうして、それは何頃からの事でございます", "ついこの頃ですよ、何でも", "然し、何にしろ御心配でせう", "それに就いて是非お頼があるんですがね、折を見て私も篤り言はうと思ふのです。就いてはこれといふ証拠が無くちや口が出ませんから、何とか其処を突止めたいのだけれど、私の体ぢや戸外の様子が全然解らないのですものね", "御尤", "で、お前さんと見立ててお頼があるんです。どうか内々様子を探つて見て下さいな。お前さんが寝てお在でないと、実は今日早速お頼があるのだけれど、折が悪いのね" ], [ "いえ、一向差支ございません。どういふ事ですか", "さう? 余りお気の毒ね" ], [ "御遠慮無く有仰つて下さい", "さう? 本当に可いのですか" ], [ "それではね、本当に御苦労で済まないけれど、氷川まで行つて見て来て下されば、それで可いのですよ。畔柳さんへ行つて、旦那が行つたか、行かないか、若し行つたのなら、何頃行つて何頃帰つたか、なあに、十に九まではきつと行きはしませんから。その様子だけ解れば、それで可いのです。それだけ知れれば、それで探偵が一つ出来たのですから", "では行つて参りませう" ], [ "はい、今日は急ぎまするので、これで失礼を致しまする。主人は今朝ほど此方様へ伺ひましたでございませうか", "いいえ、お出はありませんよ。実はね、ちとお話が有るので、お目に懸りたいと申してをりましたところ。唯今御殿へ出てをりますので、些と呼びに遣りませうから、暫くお上んなすつて" ], [ "どうも飛んだ麁相を致しまして……", "いいえ。貴方本当に何処もお傷めなさりはしませんか", "いいえ。さぞ吃驚遊ばしたでございませう、御免あそばしまして" ], [ "あれ、恐入ります", "可うございますよ。さあ、熟として", "あれ、それでは本当に恐入りますから" ], [ "どうぞ此方へお出あそばしまして。ここが一番見晴が宜いのでございます", "まあ、好い景色ですことね! 富士が好く晴れて。おや、大相木犀が匂ひますね、お邸内に在りますの?" ], [ "那処に遠く些の小楊枝ほどの棒が見えませう、あれが旗なので、浅黄に赤い柳条の模様まで昭然見えて、さうして旗竿の頭に鳶が宿つてゐるが手に取るやう", "おや、さやうでございますか。何でもこの位の眼鏡は西洋にも多度御座いませんさうで、招魂社のお祭の時などは、狼煙の人形が能く見えるのでございます。私はこれを見まする度にさやう思ひますのでございますが、かう云う風に話が聞えましたらさぞ宜うございませう。余り近くに見えますので、音や声なんぞが致すかと想ふやうでございます", "音が聞えたら、彼方此方の音が一所に成つて粉雑になつて了ひませう" ], [ "私は急いで推付けましたのでございます", "まあ!", "なに、ちつとも聞えは致しませんのでございますから、さやう申上げますと、推付けやうが悪いと仰せられまして、御自身に遊ばして御覧なさるのでございますよ。何遍致して見ましたか知れませんのでございますけれど、何も聞えは致しませんので。さやう致しますると、お前では可かんと仰せられまして、御供を致してをりました御家来から、御親類方も御在でゐらつしやいましたが、皆為つて御覧遊ばしました" ], [ "殿様はお面白い方でゐらつしやいますから、随分そんな事を遊ばしませうね", "それでもこの二三年はどうも御気分がお勝れ遊ばしませんので、お険いお顔をしてゐらつしやるのでございます" ], [ "あれ、如何が遊ばしました", "いえ、なに、私は脳が不良ものですから、余り物を瞶めてをると、どうかすると眩暈がして涙の出ることがあるので", "お腰をお掛け遊ばしまし、少しお頭をお摩り申上げませう", "いえ、かうしてをると、今に直に癒ります。憚ですがお冷を一つ下さいましな" ], [ "あの、貴方、誰にも有仰らずにね、心配することは無いのですから、本当に有仰らずに、唯私が嗽をすると言つて、持つて来て下さいましよ", "はい、畏りました" ], [ "ちよいと、那処に、それ、男の方の話をしてお在の所も御殿の続きなのですか", "何方でございます。へ、へい、あれは父の詰所で、誰か客と見えまする", "お宅は? 御近所なのですか", "はい、お邸内でございます。これから直に見えまする、あの、倉の左手に高い樅の木がございませう、あの陰に見えます二階家が宅なのでございます", "おや、さうで。それではこの下から直とお宅の方へ行かれますのね", "さやうでございます。お邸の裏門の側でございます", "ああさうですか。では些とお庭の方からお邸内を見せて下さいましな", "お邸内と申しても裏門の方は誠に穢うございまして、御覧あそばすやうな所はございませんです" ], [ "他は番町の方の鰐淵と申す、地面や家作などの売買を致してをります者の手代で、間とか申しました", "はあ、それでは違ふか知らん" ], [ "番町はどの辺で?", "五番町だとか申しました", "お宅へは始終見えるのでございますか", "はい、折々参りますのでございます" ], [ "まだ御気分がお悪うゐらつしやいますか", "いいえ、もう大概良いのですけれど、未だ何だか胸が少し悪いので", "それはお宜うございません。ではお座敷へお帰りあそばしました方がお宜うございませう", "家の中よりは戸外の方が未だ可いので、もう些と歩いてゐる中には復りますよ。ああ、此方がお宅ですか", "はい、誠に見苦い所でございます", "まあ、奇麗な! 木槿が盛ですこと。白ばかりも淡白して好いぢやありませんか" ], [ "大相お顔色がお悪くてゐらつしやいますが、お座敷へお出あそばして、お休み遊ばしましては如何でございます", "そんなに顔色が悪うございますか", "はい、真蒼でゐらつしやいます", "ああさうですか、困りましたね。それでは彼方へ参つて、又皆さんに御心配を懸けると可けませんから、お庭を一周しまして、その内には気分が復りますから、さうしてお座敷へ参りませう。然し今日は大変貴方のお世話になりまして、お蔭様で私も……", "あれ、飛んでもない事を有仰います" ], [ "はい……かう云ふ物を……", "可うございますから取つて置いて下さい。その代り誰にもお見せなさらないやうに、阿父様にも阿母様にも誰にも有仰らないやうに、ねえ" ], [ "先程からお座敷ではお待兼でゐらつしやいますさうで御座いますから、直に彼方へお出あそばしますやうに", "おや、さうでしたか。随分先から長い間道草を食べましたから" ], [ "可けない! 那処に居て下さらなければ可けませんな。何、御免を蒙る? ――可けない! お手間は取せませんから、どうぞ", "いや、貴方は巧い言をお覚えですな。お手間は取せませんは余程好い", "この位に言つて願はんとね、近頃は写してもらふ人よりは写したがる者の方が多いですからね。さあ、奥さん、まあ、彼方へ。静緒、お前奥さんを那処へお連れ申して" ], [ "どうしたのだい、おまへ、その顔色は? 何処か不快のか、ええ。非常な血色だよ。どうした", "少しばかり頭痛がいたすので", "頭痛? それぢやかうして立つてをるのは苦いだらう", "いいえ、それ程ではないので", "苦いやうなら我慢をせんとも、私が訳を言つてお謝絶をするから", "いいえ、宜うございますよ", "可いかい、本当に可いかね。我慢をせんとも可いから", "宜うございますよ", "さうか、然し非常に可厭な色だ" ], [ "八十五よ", "五とは情無い! 心の程も知られける哉だ", "何でも可いから一ゲエム行かう", "行かうとは何だ! 願ひますと言ふものだ" ], [ "唯今些と塞つてをりますから", "ぢや、君、二階へどうぞ" ], [ "鰐淵から参つてをりますよ", "来たか!", "是非お目に懸りたいと言つて、何と言つても帰りませんから、座敷へ上げて置きました、些とお会ひなすつて、早く還してお了ひなさいましな", "松茸はどうした" ], [ "貴方、まあ松茸なんぞよりは早く……", "待てよ。それからこの間の黒麦酒な……", "麦酒も松茸もございますから早くあれを還してお了ひなさいましよ。私は那奴が居ると思ふと不快な心持で" ], [ "蒲田、君一つ談判してやり給へ、ええ、何とか君の弁を揮つて", "これは外の談判と違つて唯金銭づくなのだから、素手で飛込むのぢや弁の奮ひやうが無いよ。それで忽諸すると飛んで火に入る夏の虫となるのだから、まあ君が行つて何とか話をして見たまへ。僕は様子を立聞して、臨機応変の助太刀を為るから" ], [ "命に別条は無くても、名誉に別条が有るから、紳士たるものは懼れるだらうぢやないか", "ところが懼れない! 紳士たるものが高利を貸したら名誉に関らうけれど、高い利を払つて借りるのだから、安利や無利息なんぞを借りるから見れば、夐に以つて栄とするに足れりさ。紳士たりといへども金銭に窮らんと云ふ限は無い、窮つたから借りるのだ。借りて返さんと言ひは為まいし、名誉に於て傷くところは少しも無い", "恐入りました、高利を借りやうと云ふ紳士の心掛は又別の物ですな", "で、仮に一歩を譲るさ、譲つて、高利を借りるなどは、紳士たるもののいとも慚づべき行と為るよ。さほど慚づべきならば始から借りんが可いぢやないか。既に借りた以上は仕方が無い、未だ借りざる先の慚づべき心を以つてこれに対せんとするも能はざるなりだらう。宋の時代であつたかね、何か乱が興つた。すると上奏に及んだものがある、これは師を動かさるるまでもない、一人の将を河上へ遣して、賊の方に向つて孝経を読せられた事ならば、賊は自から消滅せん、は好いぢやないか。これを笑ふけれど、遊佐の如きは真面目で孝経を読んでゐるのだよ、既に借りてさ、天引四割と吃つて一月隔に血を吮れる。そんな無法な目に遭ひながら、未だ借りざる先の紳士たる徳義や、良心を持つてゐて耐るものか。孝経が解るくらゐなら高利は貸しません、彼等は銭勘定の出来る毛族さ" ], [ "濡れぬ内こそ露をもだ。遊佐も借りんのなら可いさ、既に借りて、無法な目に遭ひながら、なほ未だ借りざる先の良心を持つてゐるのは大きな悞だ。それは勿論借りた後といへども良心を持たなければならんけれど、借りざる先の良心と、借りたる後の良心とは、一物にして一物ならずだよ。武士の魂と商人根性とは元是一物なのだ。それが境遇に応じて魂ともなれば根性ともなるのさ。で、商人根性といへども決して不義不徳を容さんことは、武士の魂と敢て異るところは無い。武士にあつては武士魂なるものが、商人にあつては商人根性なのだもの。そこで、紳士も高利などを借りん内は武士の魂よ、既に対高利となつたら、商人根性にならんければ身が立たない。究竟は敵に応ずる手段なのだ", "それは固より御同感さ。けれども、紳士が高利を借りて、栄と為るに足れりと謂ふに至つては……" ], [ "それは少し白馬は馬に非ずだつたよ", "時に、もう下へ行つて見て遣り給へ", "どれ、一匕深く探る蛟鰐の淵と出掛けやうか", "空拳を奈んだらう" ], [ "どうも甚だ失礼を致しました", "蒲田は座敷へ参りましたか" ], [ "はい、あの居間へお出で、紙門越に様子を聴いてゐらつしやいます。どうもこんなところを皆様のお目に掛けまして、実にお可恥くてなりません", "なあに、他人ぢやなし、皆様子を知つてゐる者ばかりですから構ふ事はありません", "私はもう彼奴が参りますと、惣毛竪つて頭痛が致すのでございます。あんな強慾な事を致すものは全く人相が別でございます。それは可厭に陰気な韌々した、底意地の悪さうな、本当に探偵小説にでも在りさうな奴でございますよ" ], [ "不相変麁相かしいね、蒲田は", "どうぞ御免を。つい慌てたものだから……", "何をそんなに慌てるのさ", "落付れる訳のものではないよ。下に来てゐる高利貸と云ふのは、誰だと思ふ", "君のと同し奴かい", "人様の居る前で君のとは怪しからんぢやないか", "これは失礼", "僕は妻君の足を蹈んだのだが、君は僕の面を蹈んだ", "でも仕合と皮の厚いところで", "怪しからん!" ], [ "間貫一、学校に居た⁈", "さう! 驚いたらう" ], [ "本当かい", "まあ、見て来たまへ" ], [ "さうです。我々と高等中学の同級に居つた男なのですよ", "まあ!", "夙て学校を罷めてから高利貸を遣つてゐると云ふ話は聞いてゐましたけれど、極温和い男で、高利貸などの出来る気ぢやないのですから、そんな事は虚だらうと誰も想つてをつたのです。ところが、下に来てゐるのがその間貫一ですから驚くぢやありませんか", "まあ! 高等中学にも居た人が何だつて高利貸などに成つたのでございませう", "さあ、そこで誰も虚と想ふのです", "本にさうでございますね" ], [ "どうだ、どうだ", "驚いたね、確に間貫一!", "アルフレッド大王の面影があるだらう", "エッセクスを逐払はれた時の面影だ。然し彼奴が高利貸を遣らうとは想はなかつたが、どうしたのだらう", "さあ、あれで因業な事が出来るだらうか", "因業どころではございませんよ" ], [ "まるで喧嘩に行くやうだ", "そんな事を言はずに自分も些と気凛とするが可い、帯の下へ時計の垂下つてゐるなどは威厳を損じるぢやないか" ], [ "お羽織をお取りなさいましな", "これは憚様です。些と身支度に婦人の心添を受けるところは堀部安兵衛といふ役だ。然し芝居でも、人数が多くて、支度をする方は大概取つて投げられるやうだから、お互に気を着ける事だよ", "馬鹿な! 間如きに", "急に強くなつたから可笑い。さあ。用意は好いよ", "此方も可い" ], [ "何方でも可うございます、御親友の内で一名", "可かんよ、それは到底可かんのだよ", "到底可かんでは私の方が済みません。さう致すと、自然御名誉に関るやうな手段も取らんければなりません", "どうせうと言ふのかね", "無論差押です" ], [ "三百円やそこらの端金で貴方の御名誉を傷けて、後来御出世の妨碍にもなるやうな事を為るのは、私の方でも決して可好くはないのです。けれども、此方の請求を容れて下さらなければ已むを得んので、実は事は穏便の方が双方の利益なのですから、更に御一考を願ひます", "それは、まあ、品に由つたら書替も為んではないけれど、君の要求は、元金の上に借用当時から今日までの制規の利子が一ヶ年分と、今度払ふべき九十円の一月分を加へて三百九十円かね、それに対する三月分の天引が百十七円強、それと合して五百円の証書面に書替へろと云ふのだらう。又それが連帯債務と言ふだらうけれど、一文だつて自分が費つたのでもないのに、この間九十円といふものを取られた上に、又改めて五百円の証書を書される! 余り馬鹿々々しくて話にならん。此方の身にも成つて少しは斟酌するが可いぢやないか。一文も費ひもせんで五百円の証書が書けると想ふかい" ], [ "第一今日は未だ催促に来る約束ぢやないのではないか", "先月の二十日にお払ひ下さるべきのを、未だにお渡が無いのですから、何日でも御催促は出来るのです" ], [ "さう云ふ怪しからん事を! 何の為に延期料を取つた", "別に延期料と云つては受取りません。期限の日に参つたのにお払が無い、そこで空く帰るその日当及び俥代として下すつたから戴きました。ですから、若しあれに延期料と云ふ名を附けたらば、その日の取立を延期する料とも謂ふべきでせう", "貴、貴様は! 最初十円だけ渡さうと言つたら、十円では受取らん、利子の内金でなしに三日間の延期料としてなら受取る、と言つて持つて行つたぢやないか。それからついこの間又十円……", "それは確に受取りました。が、今申す通り、無駄足を踏みました日当でありますから、その日が経過すれば、翌日から催促に参つても宜い訳なのです。まあ、過去つた事は措きまして……", "措けんよ。過去りは為んのだ", "今日はその事で上つたのではないのですから、今日の始末をお付け下さいまし。ではどうあつても書替は出来んと仰有るのですな", "出来ん!", "で、金も下さらない?", "無いから遣れん!" ], [ "さあ、十六日まで待つてくれたまへ", "聢と相違ございませんか", "十六日なら相違ない", "それでは十六日まで待ちますから……", "延期料かい", "まあ、お聞きなさいまし、約束手形を一枚お書き下さい。それなら宜うございませう", "宜い事も無い……", "不承を有仰るところは少しも有りはしません、その代り何分か今日お遣し下さい" ], [ "銭は有りはせんよ", "僅少で宜いので、手数料として", "又手数料か! ぢや一円も出さう", "日当、俥代なども入つてゐるのですから五円ばかり", "五円なんと云ふ金円は有りはせん", "それぢや、どうも" ], [ "どうかね、君", "勘弁と申しますと?", "究竟君の方に損の掛らん限は減けてもらひたいのだ。知つての通り、元金の借金は遊佐君が連帯であつて、実際頼れて印を貸しただけの話であるのが、測らず倒れて来たといふ訳なので、それは貸主の目から見れば、そんな事はどうでも可いのだから、取立てるものは取立てる、其処は能く解つてゐる、からして今更その愚痴を言ふのぢやない。然し朋友の側から遊佐君を見ると、飛んだ災難に罹つたので、如何にも気の毒な次第。ところで、図らずも貸主が君と云ふので、轍鮒の水を得たる想で我々が中へ入つたのは、営業者の鰐淵として話を為るのではなくて、旧友の間として、実は無理な頼も聴いてもらひたいのさ。夙て話は聞いてゐるが、あの三百円に対しては、借主の遠林が従来三回に二百七十円の利を払つて在る。それから遊佐君の手で九十円、合計三百六十円と云ふものが既に入つてゐるのでせう。して見ると、君の方には既に損は無いのだ、であるから、この三百円の元金だけを遊佐君の手で返せば可いといふ事にしてもらひたいのだ" ], [ "さうすれば遊佐君は三百九十円払ふ訳だが、これが一文も費はずに空に出るのだから随分辛い話、君の方は未だ未だ利益になるのをここで見切るのだからこれも辛い。そこで辛さ競を為るのだが、君の方は三百円の物が六百六十円になつてゐるのだから、立前にはなつてゐる、此方は三百九十円の全損だから、ここを一つ酌量してもらひたい、ねえ、特別の扱で", "全でお話にならない" ], [ "間君、まあ少し待つてくれたまへよ。恥を言はんければ解らんけれど、この借金は遊佐君には荷が勝過ぎてゐるので、利を入れるだけでも方が付かんのだから、長くこれを背負つてゐた日には、体も一所に沈没して了ふばかり、実に一身の浮沈に関る大事なので、僕等も非常に心配してゐるやうなものの、力が足らんで如何とも手の着けやうが無い。対手が君であつたのが運の尽きざるところなのだ。旧友の僕等の難を拯ふと思つて、一つ頼を聴いてくれ給へ。全然損を掛けやうと云ふのぢやないのだから、決してさう無理な頼ぢやなからうと思ふのだが、どうかね、君", "私は鰐淵の手代なのですから、さう云ふお話は解りかねます。遊佐さん、では、今日はまあ三円頂戴してこれに御印をどうぞお早く" ], [ "待ち給へと言ふに! 先から風早が口を酸くして頼んでゐるのぢやないか、銭貰が門に立つたのぢやない、人に対するには礼と云ふものがある、可然き挨拶を為たまへ", "お話がお話だから可然き御挨拶の為やうが無い", "黙れ、間! 貴様の頭脳は銭勘定ばかりしてゐるので、人の言ふ事が解らんと見えるな。誰がその話に可然挨拶を為ろと言つた。友人に対する挙動が無礼だから節めと言つたのだ。高利貸なら高利貸のやうに、身の程を省みて神妙にしてをれ。盗人の兄弟分のやうな不正な営業をしてゐながら、かうして旧友に会つたらば赧い顔の一つも為ることか、世界漫遊でもして来たやうな見識で、貴様は高利を貸すのをあつぱれ名誉と心得てゐるのか。恥を恥とも思はんのみか、一枚の証文を鼻に懸けて我々を侮蔑したこの有様を、荒尾譲介に見せて遣りたい! 貴様のやうな畜生に生れ変つた奴を、荒尾はやはり昔の間貫一だと思つて、この間も我々と話して、貴様の安否を苦にしてな、実の弟を殺したより、貴様を失つた方が悲いと言つて鬱いでゐたぞ。その一言に対しても少しは良心の眠を覚せ! 真人間の風早庫之助と蒲田鉄弥が中に入るからは決して迷惑を掛けるやうな事は為んから、今日は順く帰れ、帰れ", "受取るものを受取らなくては帰れもしません。貴下方がそれまで遊佐さんの件に就いて御心配下さいますなら、かう為すつて下さいませんか、ともかくもこの約束手形は遊佐さんから戴きまして、この方の形はそれで一先附くのですから、改めて三百円の証書をお書き下さいまし、風早君と蒲田君の連帯にして" ], [ "うん、宜い", "ではさう為つて下さるか", "うん、宜い", "さう致せば又お話の付けやうもあります", "然し気の毒だな、無利息、十個年賦は", "ええ? 常談ぢやありません" ], [ "何を為るのです", "始末をして遣つたのだ", "遊佐さん、それでは手形もお出し下さらんのですな" ], [ "手形の始末はそれで付いたか知りませんが、貴方も折角中へ入つて下さるなら、も少し男らしい扱をなさいましな。私如き畜生とは違つて、貴方は立派な法学士", "おお俺が法学士ならどうした", "名実が相副はんと謂ふのです", "生意気なもう一遍言つて見ろ", "何遍でも言ひます。学士なら学士のやうな所業を為さい" ], [ "蒲田の言ふ通りだ。僕等も中学に居た頃の間と思つて、それは誓つて迷惑を掛けるやうな事は為んから、君も友人の誼を思つて、二人の頼を聴いてくれ給へ", "さあ、間、どうだ", "友人の誼は友人の誼、貸した金は貸した金で自から別問題……" ], [ "おい蒲田、可いかい、死にはしないか", "余り、暴くするなよ" ], [ "さあ、間、返事はどうだ", "吭を緊められても出す音は変りませんよ。間は金力には屈しても、腕力などに屈するものか。憎いと思ふならこの面を五百円の紙幣束でお撲きなさい", "金貨ぢや可かんか", "金貨、結構です", "ぢや金貨だぞ!" ], [ "急には此奴帰らんね。いつそここで酒を始めやうぢやないか、さうして飲みかつ談ずると為う", "さあ、それも可からう" ], [ "ここで飲んぢや旨くないね。さうして形が付かなければ、何時までだつて帰りはせんよ。酒が仕舞になつてこればかり遺られたら猶困る", "宜い、帰去には僕が一所に引張つて好い処へ連れて行つて遣るから。ねえ、間、おい、間と言ふのに", "はい", "貴様、妻君有るのか。おお、風早!" ], [ "ええ、吃驚する、何だ", "憶出した。間の許婚はお宮、お宮", "この頃はあれと一所かい。鬼の女房に天女だけれど、今日ぢや大きに日済などを貸してゐるかも知れん。ええ、貴様、そんな事を為しちや可かんよ。けれども高利貸などは、これで却つて女子には温いとね、間、さうかい。彼等の非義非道を働いて暴利を貪る所以の者は、やはり旨いものを食ひ、好い女を自由にして、好きな栄耀がして見たいと云ふ、唯それだけの目的より外に無いのだと謂ふが、さうなのかね。我々から考へると、人情の忍ぶ可からざるを忍んで、経営惨憺と努めるところは、何ぞ非常の目的があつて貨を殖へるやうだがな、譬へば、軍用金を聚めるとか、お家の宝を質請するとか。単に己の慾を充さうばかりで、あんな思切つて残刻な仕事が出来るものではないと想ふのだ。許多のガリガリ亡者は論外として、間貫一に於ては何ぞ目的が有るのだらう。こんな非常手段を遣るくらゐだから、必ず非常の目的が有つて存するのだらう" ], [ "おつと、麦酒かい、頂戴。鍋は風早の方へ、煮方は宜くお頼み申しますよ。うう、好い松茸だ。京でなくてはかうは行かんよ――中が真白で、庖丁が軋むやうでなくては。今年は不作だね、瘠せてゐて、虫が多い、あの雨が障つたのさ。間、どうだい、君の目的は", "唯貨が欲いのです", "で、その貨をどうする", "つまらん事を! 貨はどうでもなるぢやありませんか。どうでもなる貨だから欲い、その欲い貨だから、かうして催促もするのです。さあ、遊佐さん、本当にどうして下さるのです" ], [ "ああ、待つた待つた。蒲田君、待つてくれ、何とか話を付けるから", "ええ聒い。君等のやうな意気地無しはもう頼まん。僕が独で遣つて見せるから、後学の為に能く見て置き給へ" ], [ "まあ、余り穏でないから、それだけは思ひ止り給へ。今間も話を付けると言つたから", "何か此奴の言ふ事が!" ], [ "間、貴様は犬の糞で仇を取らうと思つてゐるな。遣つて見ろ、そんな場合には自今毎でも蒲田が現れて取挫いで遣るから", "間も男なら犬の糞ぢや仇は取らない", "利いた風なことを言ふな" ], [ "まあ、貴方、お蔭様で難有う存じました。もうもうどんなに好い心持でございましたらう", "や、これは。些と壮士芝居といふところを", "大相宜い幕でございましたこと。お酌を致しませう" ], [ "弱つた! 君がああして取緊めてくれたのは可いが、この返報に那奴どんな事を為るか知れん。明日あたり突然と差押などを吃せられたら耐らんな", "余り蒲田が手酷い事を為るから、僕も、さあ、それを案じて、惴々してゐたぢやないか。嘉納流も可いけれど、後前を考へて遣つてくれなくては他迷惑だらうぢやないか", "まあ、待ち給へと言ふことさ" ], [ "何と凄からう。奴を捩伏せてゐる中に脚で掻寄せて袂へ忍ばせたのだ――早業さね", "やはり嘉納流にあるのかい", "常談言つちや可かん。然しこれも嘉納流の教外別伝さ", "遊佐の証書といふのはどうして知つたのだ", "それは知らん。何でも可いから一つ二つ奪つて置けば、奴を退治る材料になると考へたから、早業をして置いたのだが、思ひきやこれが覘ふ敵の証書ならんとは、全く天の善に与するところだ" ], [ "それぢや参りませう。貴方は何方までお出なのですか", "私は大横町まで" ], [ "何といふお寒いのでございませう", "さやう", "貴方、間さん、貴方そんなに離れてお歩き遊ばさなくても宜いぢやございませんか。それではお話が達きませんわ" ], [ "これぢや私が歩き難いです", "貴方お寒うございませう。私お鞄を持ちませう", "いいや、どういたして", "貴方恐入りますが、もう少し御緩りお歩きなすつて下さいましな、私呼吸が切れて……" ], [ "疾から是非お話致したいと思ふ事があるのでございますけれど、その後些ともお目に掛らないものですから。間さん、貴方、本当に偶にはお遊びにいらしつて下さいましな。私もう決して先達而のやうな事は再び申上げませんから。些といらしつて下さいましな", "は、難有う", "お手紙を上げましても宜うございますか", "何の手紙ですか", "御機嫌伺の", "貴方から機嫌を伺はれる訳が無いぢやありませんか", "では、恋い時に", "貴方が何も私を……", "恋いのは私の勝手でございますよ", "然し、手紙は人にでも見られると面倒ですから、お辞をします", "でも近日に私お話を致したい事があるのでございますから、鰐淵さんの事に就きましてね、私はこれ程困つた事はございませんの。で、是非貴方に御相談を願はうと存じまして、……" ], [ "なあに、此方が余程近いのですから", "幾多も違ひは致しませんのに、賑かな方をいらつしやいましよ。私その代り四谷見附の所までお送り申しますから", "貴方に送つて戴いたつて為やうが無い。夜が更けますから、貴方も早く買物を為すつてお帰りなさいまし", "そんなお為転を有仰らなくても宜うございます" ], [ "ああ! 間さん些と", "どうしました", "路悪へ入つて了つて、履物が取れないのでございますよ", "それだから貴方はこんな方へお出でなさらんが可いのに" ], [ "ああ、危い", "転びましたら貴方の所為でございますよ", "馬鹿なことを" ], [ "常談しちや可かんですよ。さあ、後から人が来る", "宜うございますよ" ], [ "あ、痛! そんな酷い事をなさらなくても、其処の角まで参ればお放し申しますから、もう少しの間どうぞ……", "好い加減になさい" ], [ "ああ新聞で、さうだつたかい。なあに阿父さんはどうも作りはしないわね", "はあ? 坂町で大怪我を為つて、病院へ入つたと云ふのは?", "あれは間さ。阿父さんだとお思ひなの? 可厭だね、どうしたと云ふのだらう", "いや、さうですか。でも、新聞には歴然とさう出てゐましたよ", "それぢやその新聞が違つてゐるのだよ。阿父さんは先之病院へ見舞にお出掛だから、間も無くお帰来だらう。まあ寛々してお在な" ], [ "ああ、さうですか、間が遣られたのですか", "ああ、間が可哀さうにねえ、取んだ災難で、大怪我をしたのだよ", "どんなです、新聞には余程劇いやうに出てゐましたが", "新聞に在る通だけれど、不具になるやうな事も無いさうだが、全然快くなるには三月ぐらゐはどんな事をしても要るといふ話だよ。誠に気の毒な、それで、阿父さんも大抵な心配ぢやないの。まあ、ね、病院も上等へ入れて手宛は十分にしてあるのだから、決して気遣は無いやうなものだけれど、何しろ大怪我だからね。左の肩の骨が少し摧けたとかで、手が緩縦になつて了つたの、その外紫色の痣だの、蚯蚓腫だの、打切れたり、擦毀したやうな負傷は、お前、体一面なのさ。それに気絶するほど頭部を撲れたのだから、脳病でも出なければ可いつて、お医者様もさう言つてお在ださうだけれど、今のところではそんな塩梅も無いさうだよ。何しろその晩内へ舁込んだ時は半死半生で、些の虫の息が通つてゐるばかり、私は一目見ると、これはとても助るまいと想つたけれど、割合に人間といふものは丈夫なものだね", "それは災難な、気の毒な事をしましたな。まあ十分に手宛をして遣るが可いです。さうして阿父さんは何と言つてゐました", "何ととは?", "間が闇打にされた事を", "いづれ敵手は貸金の事から遺趣を持つて、その悔し紛に無法な真似をしたのだらうつて、大相腹を立ててお在なのだよ。全くね、間はああ云ふ不断の大人い人だから、つまらない喧嘩なぞを為る気遣はなし、何でもそれに違は無いのさ。それだから猶更気の毒で、何とも謂ひやうが無い", "間は若いから、それでも助るのです、阿父さんであつたら命は有りませんよ、阿母さん", "まあ可厭なことをお言ひでないな!" ], [ "さうねえ……別に何とも……私には能く解らないね……", "もう今に応報は阿父さんにも……。阿母さん、間があんな目に遭つたのは、決して人事ぢやありませんよ", "お前又阿父さんの前でそんな事をお言ひでないよ", "言ひます! 今日は是非言はなければならない", "それは言ふも可いけれど、従来も随分お言ひだけれど、あの気性だから阿父さんは些もお聴きではないぢやないか。とても他の言ふことなんぞは聴かない人なのだから、まあ、もう少しお前も目を瞑つてお在よ、よ", "私だつて親に向つて言ひたくはありません。大概の事なら目を瞑つてゐたいのだけれど、実にこればかりは目を瞑つてゐられないのですから。始終さう思ひます。私は外に何も苦労といふものは無い、唯これだけが苦労で、考出すと夜も寝られないのです。外にどんな苦労が在つても可いから、どうかこの苦労だけは没して了ひたいと熟く思ふのです。噫、こんな事なら未だ親子で乞食をした方が夐に可い" ], [ "然し私の仕打も善くはありません、阿父さんの方にも言分は有らうと、それは自分で思つてゐます。阿父さんの家業が気に入らん、意見をしても用ゐない、こんな汚れた家業を為るのを見てゐるのが可厭だ、と親を棄てて別居してゐると云ふのは、如何にも情合の無い話で、実に私も心苦いのです。決して人の子たる道ではない、さぞ不孝者と阿父さん始阿母さんもさう思つてお在でせう", "さうは思ひはしないよ。お前の方にも理はあるのだから、さうは思ひはしないけれど、一処に居たらさぞ好からうとは……", "それは、私は猶の事です。こんな内に居るのは可厭だ、別居して独で遣る、と我儘を言つて、どうなりかうなり自分で暮して行けるのも、それまでに教育して貰つたのは誰のお陰かと謂へば、皆親の恩。それもこれも知つてゐながら、阿父さんを踏付にしたやうな行を為るのは、阿母さん能々の事だと思つて下さい。私は親に悖ふのぢやない、阿父さんと一処に居るのを嫌ふのぢやないが、私は金貸などと云ふ賤い家業が大嫌なのです。人を悩めて己を肥す――浅ましい家業です!" ], [ "もう少し先でした。貴君は大相お早かつたぢやありませんか、丁度好ございましたこと。さうして間の容体はどんなですね", "いや、仕合と想うたよりは軽くての、まあ、ま、あの分なら心配は無いて" ], [ "本にお前どうした、顔色が良うないが", "さうですか。余り貴方の事が心配になるからです", "何じや?", "阿父さん、度々言ふ事ですが、もう金貸は廃めて下さいな", "又! もう言ふな。言ふな。廃める時分には廃めるわ" ], [ "どうですか", "勿論", "勿論? 勿論ですとも! 何奴か知らんけれど、実に陋い根性、劣な奴等です。然し、怨を返すといふ点から謂つたら、奴等は立派に目的を達したのですね。さうでせう、設ひその手段は如何にあらうとも" ], [ "善し、解つた。能う解つた", "では私の言を用ゐて下さるか", "まあ可え。解つた、解つたから……", "解つたとお言ひなさるからはきつと用ゐて下さるのでせうな", "お前の言ふ事は能う解つたさ。然し、爾は爾たり、吾は吾たりじや" ], [ "俺が居ると面倒ぢやから、些と出て来る。可えやうに言うての、還してくれい", "へえ? そりや困りますよ。貴方、私だつてそれは困るぢやありませんか", "まあ可えが", "可くはありません、私は困りますよ" ], [ "お前なら居ても可え。さうして、もう還るぢやらうから", "それぢや貴方還るまでゐらしつて下さいな", "俺が居ては還らんからじやが。早う行けよ" ], [ "それぢや私はもう帰ります", "あれ何だね、未だ可いよ" ], [ "もうお中食だから、久しぶりで御膳を食べて……", "御膳も吭へは通りませんから……" ], [ "おや、お帰来でございましたか", "寒かつたよ", "大相降つて参りました、さぞお困りでしたらう", "何だか知らんが、むちやくちやに寒かつた" ], [ "どうしてこんなに降るのでせう", "何を下らんことを言ふんだ。さあ、行かう行かう" ], [ "さう? でも、何処も悪い所なんぞ有りはしません。余り体を動かさないから、その所為かも知れません。けれども、この頃は時々気が鬱いで鬱いで耐らない事があるの。あれは血の道と謂ふんでせうね", "ああ、それは血の道さ。私なんぞも持病にあるのだから、やつぱりさうだらうよ。それでも、それで痩せるやうぢや良くないのだから、お医者に診てもらふ方が可いよ、放つて措くから畢竟持病にもなるのさ" ], [ "そんな事はありはしませんわ", "さう何日までも沙汰が無くちや困るぢやないか。本当に未だそんな様子は無いのかえ", "有りはしませんよ", "無いのを手柄にでもしてゐるやうに、何だね、一人はもう無くてどうするのだらう、先へ寄つて御覧、後悔を為るから。本当なら二人ぐらゐ有つて好い時分なのに、あれきり後が出来ないところを見ると、やつぱり体が弱いのだね。今の内養生して、丈夫にならなくちや可けないよ。お前はさうして平気で、いつまでも若くて居る気なのだらうけれど、本宅の方なんぞでも後が後がつて、どんなに待兼ねてお在だか知れはしないのだよ。内ぢや又阿父さんは、あれはどうしたと謂ふんだらう、情無い奴だ。子を生み得ないのは女の恥だつて、慍りきつてゐなさるくらゐだのに、当人のお前と云つたら、可厭に落着いてゐるから、憎らしくてなりはしない。さうして、お前は先の内は子供が所好だつた癖に、自分の子は欲くないのかね" ], [ "欲くない事はありはしませんけれど、出来ないものは為方が無いわ", "だから、何でも養生して、体を丈夫にするのが専だよ", "体が弱いとお言ひだけれど、自分には別段ここが悪いと思ふところも無いから、診てもらふのも変だし……けれどもね、阿母さん、私は疾から言はう言はうと思つてゐたのですけれど、実は気に懸る事があつてね、それで始終何だか心持が快くないの。その所為で自然と体も良くないのかしらんと思ふのよ" ], [ "私ね、去年の秋、貫一さんに逢つてね……", "さうかい!" ], [ "何処で", "内の方へも全然爾来の様子は知れないの?", "ああ", "些も?", "ああ", "どうしてゐると云ふやうな話も?", "ああ" ], [ "さう? 阿父さんは内証で知つてお在ぢやなくて?", "いいえ、そんな事は無いよ。何処で逢つたのだえ" ], [ "さうして貫一はどうしたえ", "お互に知らん顔をして別れて了つたけれど……", "ああそれから?", "それきりなのだけれど、私は気になつてね。それも出世して立派になつてゐるのなら、さうも思はないけれど、つまらない風采をして、何だか大変羸れて、私も極が悪かつたから、能くは見なかつたけれど、気の毒のやうに身窄い様子だつたわ。それに、聞けばね、番町の方の鰐淵とかいふ、地面や家作なんぞの世話をしてゐる内に使はれて、やつぱり其処に居るらしいのだから、好い事は無いのでせう、ああして子供の内から一処に居た人が、あんなになつてゐるかと思ふと、昔の事を考へ出して、私は何だか情無くなつて……" ], [ "好い心持はしないわ、ねえ", "へええ、そんなになつてゐるのかね" ], [ "そんなに言ふのなら、還つて阿父さんに話をして見やうけれど、何もその所為で体が弱くなると云ふ訳も無かりさうなものぢやないか", "いいえ、全くその所為よ。始終そればかり苦になつて、時々考込むと、実に耐らない心持になることがあるんですもの、この間逢ふ前まではそんなでもなかつたのだけれど、あれから急に――さうね、何と謂つたら可いのだらう――私があんなに不仕合な身分にして了つたとさう思つて、さぞ恨んでゐるだらうと、気の毒のやうな、可恐いやうな、さうして、何と無く私は悲くてね。外には何も望は無いから、どうかあの人だけは元のやうにして、あの優い気立で、末始終阿父さんや阿母さんの世話をして貰つたら、どんなに嬉からうと、そんな事ばかり考へては鬱いでゐるのです。いづれ私からも阿父さんに話をしますけれど、差当阿母さんから好くこの訳をさう言つて、本当に頼んで下さいな。私二三日の内に行きますから" ], [ "私の考量ぢや、どうも今更ねえ……", "阿母さんは! 何もそんなに貫一さんを悪く思はなくたつて可いわ。折角話をして貰はうと思ふ阿母さんがさう云ふ気ぢや、とても阿父さんだつて承知をしては下さるまいから……", "お前がそれまでに言ふものだから、私は不承知とは言はないけれど……", "可いの、不承知なのよ。阿父さんもやつぱり貫一さんが憎くて、大方不承知なんでせうから、私は凴拠にはしないから、不承知なら不承知でも可いの" ], [ "まあ、お聞きよ。それは、ね、……", "阿母さん、可いわ――私、可いの", "可かないよ", "可かなくつても可いわ", "あれ、まあ、……何だね", "どうせ可いわ。私の事はかまつてはおくれでないのだから……" ], [ "何もお前、泣くことは無いぢやないか。可笑な人だよ、だからお前の言ふことは解つてゐるから、内へ帰つて、善く話をした上で……", "可いわ。そんなら、さうで私にも了簡があるから、どうとも私は自分で為るわ", "自分でそんな事を為るなんて、それは可くないよ。かう云ふ事は決してお前が自分で為ることぢやないのだから、それは可けませんよ", "…………", "帰つたら阿父さんに善く話を為やうから、……泣くほどの事は無いぢやないかね", "だから、阿母さんは私の心を知らないのだから、頼効が無い、と謂ふのよ", "多度お言ひな", "言ふわ" ], [ "私貴方に些とお話をして置かなければならない事があるのでございますから、お聞き下さいまし", "あ、まだ在しつたのですか", "いつも長居を致して、さぞ御迷惑でございませう", "…………", "外でもございませんが……" ], [ "別に言ふ事はありません。第一貴方のお見舞下さるのは難有迷惑で……", "何と有仰います!", "以来はお見舞にお出で下さるのを御辞退します", "貴方、何と……‼" ], [ "お内にも御病人の在るのに、早く帰つて上げたが可いぢやありませんか。私も貴方に度々来て戴くのは甚だ迷惑なのですから", "御迷惑は始から存じてをります", "いいや、未だ外にこの頃のがあるのです", "ああ! 鰐淵さんの事ではございませんか", "まあ、さうです", "それだから、私お話が有ると申したのではございませんか。それを貴方は、私と謂ふと何でも鬱陶しがつて、如何に何でもそんなに作るものぢやございませんよ。その事ならば、貴方が御迷惑遊ばしてゐらつしやるばかりぢやございません。私だつてどんなに窮つてをるか知れは致しません。この間も鰐淵さんが可厭なことを有仰つたのです。私些もかまひは致しませんけれど、さうでもない、貴方がこの先御迷惑あそばすやうな事があつてはと存じて、私それを心配致してをるくらゐなのでございます" ], [ "おや、お出あそばしまし", "ほほ、これは、毎度お見舞下さつて" ], [ "毎度お訪ね下さるので、却つて私は迷惑致すのですから、どうか貴方から可然御断り下さるやうに", "当人もお気の毒に思うてあの様に申すで、折角ではありますけど、決して御心配下さらんやうに、のう", "お見舞に上りましてはお邪魔になりまする事ならば、私差控へませう" ], [ "いや、いや、な、決して、そんな訳ぢや……", "余りな御挨拶で! 女だと思召して有仰るのかは存じませんが、それまでのお指図は受けませんで宜うございます", "いや、そんなに悪う取られては甚だ困る、畢竟貴方の為を思ひますじやに因つて……", "何と有仰います。お見舞に出ますのが、何で私の不為になるのでございませう", "それにお心着が無い?" ], [ "ございません", "それは、お若いでさう有らう。甚だ失敬ながら、すいぢや申して見やう。な。貴方もお若けりや間も若い。若い男の所へ若い女子が度々出入したら、そんな事は無うても、人がかれこれ言ひ易い、可えですか、そしたら、間はとにかくじや、赤樫様と云ふ者のある貴方の躯に疵が付く。そりや、不為ぢやありますまいか、ああ" ], [ "それは御深切に難有う存じます。私はとにかく、間さんはこれからお美い御妻君をお持ち遊ばす大事のお躯でゐらつしやるのを、私のやうな者の為に御迷惑遊ばすやうな事が御座いましては何とも済みませんですから、私自今慎みますでございます", "これは太い失敬なことを申しましたに、早速お用ゐなさつて難有い。然し、間も貴方のやうな方と嘘にもかれこれ言るるんぢやから、どんなにも嬉いぢやらう、私のやうな老人ぢやつたら、死ぬほどの病気したて、赤樫さんは訪ねても下さりや為まいにな" ], [ "そんな事が有るものでございますか、お見舞に上りますとも", "さやうかな。然し、こんなに度々来ては下さりやすまい", "それこそ、御妻君が在つしやるのですから、余り頻繁上りますと……" ], [ "さやうでございます。お年寄は勿論結構でございますけれど、どう致しても若いものは若い同士の方が気が合ひまして宜いやうでございますね", "すぢやて、お宅の赤樫さんも年寄でせうが", "それでございますから、もうもう口喧くてなりませんのです", "ぢや、口喧うも、気難うもなうたら、どうありますか", "それでも私好きませんでございますね", "それでも好かん? 太う嫌うたもんですな", "尤も年寄だから嫌ふ、若いから一概に好くと申す訳には参りませんでございます。いくら此方から好きましても、他で嫌はれましては、何の効もございませんわ", "さやう、な。けど、貴方のやうな方が此方から好いたと言うたら、どんな者でも可厭言ふ者は、そりや無い", "あんな事を有仰つて! 如何でございますか、私そんな覚はございませんから、一向存じませんでございます", "さやうかな。はッはッ。さやうかな。はッはッはッ" ], [ "間、どうぢやらう。赤樫さんはああ言うてをらるるが、さうかの", "如何ですか、さう云ふ事は" ], [ "お前も知らんかな、はッはッはッはッ", "私が自分にさへ存じませんものを、間さんが御承知有らう筈はございませんわ。ほほほほほほほほ" ], [ "それでは私もうお暇を致します", "ほう、もう、お帰去かな。私もはや行かん成らんで、其所まで御一処に", "いえ、私些と、あの、西黒門町へ寄りますでございますから、甚だ失礼でございますが……", "まあ、宜い。其処まで", "いえ、本当に今日は……", "まあ、宜いが、実は、何じや、あの旭座の株式一件な、あれがつい纏りさうぢやで、この際お打合をして置かんと、『琴吹』の収債が面白うない。お目に掛つたのが幸ぢやから、些とそのお話を", "では、明日にでも又、今日は些と急ぎますでございますから", "そんなに急にお急ぎにならんでも宜いがな。商売上には年寄も若い者も無い、さう嫌はれてはどうもならん" ], [ "鰐淵さんの事なのでございますの。私困りまして、どういたしたら宜いのでございませう……間さん、かうなのでございますよ", "いや、その事なら伺ふ必要は無いのです", "あら、そんなことを有仰らずに……", "失礼します。今日は腰の傷部が又痛みますので", "おや、それは、お劇いことはお在なさらないのでございますか", "いえ、なに", "どうぞお楽に在しつて" ], [ "此方へお通し申しませうで……", "知らん!", "はい?", "こんな人は知らん" ], [ "御存じないお方なので?", "一向知らん。人違だらうから、断つて返すが可い", "さやうでございますか。それでも、貴方様のお名前を有仰つてお尋ね……", "ああ、何でも可いから早く断つて", "さやうでございますか、それではお断り申しませうかね" ], [ "睡てをりますですかな", "はい、如何でございますか" ], [ "お客様がいらつしやいましたよ", "今も言ひました通り、一向識らん方なのですから、お還し申して下さい" ], [ "はあ、は、さやうですかな", "先程から伺ひますれば、年来御懇意でゐらつしやるのを人違だとか申して、大相失礼を致してをるやうでございますが、やつぱり熱の加減で前後が解りませんのでございますから、どうぞお気にお懸け遊ばしませんやうに。この熱も直に除れまするさうでございますから、又改めてお出を願ひたう存じます。今日は私御名刺を戴いて置きまして、お軽快なり次第私から悉くお話を致しますでございます", "はあ、それはそれは", "実は、何でございました。昨日もお見舞にお出で下すつたお方に変な事を申掛けまして、何も病気の事で為方もございませんけれど、私弱りきりましたのでございます。今日は又如何致したのでございますか、昨日とは全で反対であの通り黙りきつてをりますのですが、却つて無闇なことを申されるよりは始末が宜いでございます" ], [ "さう云ふ訳では話も解りかねる。では又上る事に致しませう。手前は鴫沢隆三と申して――名刺を差上げて置きまする、これに住所も誌してあります――貴方は失礼ながらやはり鰐淵さんの御親戚ででも?", "はい、親戚ではございませんが、鰐淵さんとは父が極御懇意に致してをりますので、それに宅がこの近所でございますもので、ちよくちよくお見舞に上つてはお手伝を致してをります", "はは、さやうで。手前は五年ほど掛違うて間とは会ひませんので、どうか去年あたり嫁を娶うたと聞きましたが、如何いたしましたな" ], [ "さやうな事はついに存じませんですが", "はて、さうとばかり思うてをりましたに" ], [ "甚だ失礼でございますが", "はい、これは。赤樫満枝さまと有仰いますか" ], [ "何者か知らんて、一向心当と謂うては無い。名は言はんて?", "聞きましたけれど言ひませんの。あの様子ぢや名なんかも解りは為ますまい", "さうして今晩来るのか", "来られては困りますけれど、きつと来ますよ。あんなのが毎晩々々来られては耐りませんから、貴方本当に来ましたら、篤り説諭して、もう来ないやうに作つて下さいよ", "そりや受合へん。他が気違ぢやもの", "気違だから私も気味が悪いからお頼申すのぢやありませんか", "幾多頼まれたてて、気違ぢやもの、俺も為やうは無い" ], [ "まあ、そんなに騒がんとも可え", "騒ぎはしませんけれど、私は可厭ですもの", "誰も気違の好えものは無い", "それ、御覧なさいな", "何じや" ], [ "貴方、来ましたよ", "うん、あれか" ], [ "はい何方ですな", "旦那はお宅でございませうか", "居りますが、何方で" ], [ "何方ですか、お名前は何と有仰るな", "お目に掛れば解ります。何に致せ、おおお、まあ、梅が好く咲きましたぢやございませんか。当日の挿花はやつぱりこの梅が宜からうと存じます。さあ、どうぞ此方へお入り下さいまし、御遠慮無しに、さあ" ], [ "鰐淵は私じやが、何ぞ用かな", "おお、おまへが鰐淵か!" ], [ "この大騙め!", "何ぢやと!", "大、大悪人! おのれのやうな奴が懲役に行かずに、内の……内の……雅之のやうな孝行者が……先祖を尋ぬれば、甲斐国の住人武田大膳太夫信玄入道、田夫野人の為に欺かれて、このまま断絶する家へ誰が嫁に来る。柏井の鈴ちやんがお嫁に来てくれれば、私の仕合は言ふまでもない、雅之もどんなにか嬉からう。子を捨てる藪は有つても、懲役に遣る親は無いぞ。二十七にはなつても世間不見のあの雅之、能うも能うもおのれは瞞したな! さあ、さあさ讐を討つから立合ひなさい" ], [ "金や、今晩は到頭来ないね、気違さんさ", "好い塩梅でございます", "お前には後でお菓子を御褒美に出すからね。貴方、これはあの気違さんとこの頃懇意になつて了ひましてね。気違の取次は金に限るのです", "あら可厭なことを有仰いまし" ], [ "間さんですか", "おお、貴方は! お帰来でしたか" ], [ "何とも不慮な事で、申上げやうもございません", "はい。この度は留守中と云ひ、別してお世話になりました", "私は事の起りました晩は未だ病院に居りまして、かう云ふ事とは一向存じませんで、夜明になつて漸く駈着けたやうな始末、今更申したところが愚痴に過ぎんのですけれど、私が居りましたらまさかこんな事にはお為せ申さんかつたと、実に残念でなりません。又お二人にしても余り不覚な、それしきの事に狼狽される方ではなかつたに、これまでの御寿命であつたか、残多い事を致しました" ], [ "何もかも皆焼けましたらうな", "唯一品、金庫が助りました外には、すつかり焼いて了ひました", "金庫が残りました? 何が入つてゐるのですか", "貨も少しは在りませうが、帳簿、証書の類が主でございます", "貸金に関した?", "さやうで", "ええ、それが焼きたかつたのに!" ], [ "それでは、貴方真人間に成損つたとお言ひのですな", "さうでございます", "さうすると、今は真人間ではないと謂ふ訳ですか", "勿論でございます" ], [ "はい、難有うございます", "どうですか", "折角のお言ではございますが、私はどうぞこのままにお措き下さいまし", "それは何為ですか", "今更真人間に復る必要も無いのです", "さあ、必要は有りますまい。私も必要から貴方にお勧めするのではない。もう一度考へてから挨拶をして下さいな", "いや、お気に障りましたらお赦し下さいまし。貴方とは従来浸々お話を致した事もございませんで私といふ者はどんな人物であるか、御承知はございますまい。私の方では毎々お噂を伺つて、能く貴方を存じてをります。極潔いお方なので、精神的に傷いたところの無い御人物、さう云ふ方に対して我々などの心事を申上げるのは、実際恥入る次第で、言ふ事は一々曲つてゐるのですから、正い、直なお耳へは入らんところではない。逆ふのでございませう。で、潔い貴方と、拗けた私とでは、始からお話は合はんのですから、それでお話を為る以上は、どうぞ何事もお聞流に願ひます", "ああ、善く解りました", "真人間になつてくれんかと有仰つて下すつたのが、私は非常に嬉いのでございます。こんな商売は真人間の為る事ではない、と知つてゐながらかうして致してゐる私の心中、辛いのでございます。そんな思をしつつ何為してゐるか! 曰く言難しで、精神的に酷く傷けられた反動と、先づ思召して下さいまし。私が酒が飲めたら自暴酒でも吃つて、体を毀して、それきりに成つたのかも知れませんけれど、酒は可かず、腹を切る勇気は無し、究竟は意気地の無いところから、こんな者に成つて了つたのであらうと考へられます" ], [ "お話を聞いて見ると、貴方が今日の境遇になられたに就いては、余程深い御様子が有るやう、どう云ふのですか、悉く聞して下さいませんか", "極愚な話で、到底お聞せ申されるやうな者ではないのです。又自分もこの事は他には語るまい、と堅く誓つてゐるのでありますから、どうも申上げられません。究竟或事に就いて或者に欺かれたのでございます" ], [ "どうも取んだ麁相を致しまして、何とも相済みませんでございます。おや、お顔を! お目を打ちましたか、まあどうも……", "いや太した事は無いのです", "さやうでございますか。何処ぞお痛め遊ばしましたでございませう" ], [ "貴様は善くないぞ。麁相を為たと思うたら何為車を駐めん。逃げやうとするから呼止めたんじや。貴様の不心得から主人にも恥を掻する", "へい恐入りました", "どうぞ御勘弁あそばしまして" ], [ "以来気を着けい、よ", "へい……へい", "早う行け、行け" ], [ "荒尾さんでゐらつしやいましたか!", "はあ? 荒尾です、私荒尾です", "あの間貫一を御承知の?", "おお、間貫一、旧友でした", "私は鴫沢の宮でございます", "何、鴫沢……鴫沢の……宮と有仰る……?", "はい、間の居りました宅の鴫沢", "おお、宮さん!" ], [ "まあ大相お変り遊ばしたこと!", "貴方も変りましたな!" ], [ "直この近くに懇意の医者が居りますから、其処までいらしつて下さいまし。唯今俥を申附けました", "何の、そんなに騒ぐほどの事は無いです", "あれ、お殆うございますよ。さうして大相召上つてゐらつしやるやうですから、ともかくもお俥でお出あそばしまし", "いんや、宜い、大丈夫。時に間はその後どうしましたか" ], [ "その事に就きまして色々お話も致したいので御座います", "然し、どうしてゐますか、無事ですか", "はい……", "決して、無事ぢやない筈です" ], [ "それではこの上どんなにお願ひ申しましても、貴方はお詑を為つては下さらないので御座いますか。さうして貴方もやはり私を容さんと有仰るので御座いますか", "さうです" ], [ "どうぞもう暫くゐらしつて下さいまし、唯今直に御飯が参りますですから", "や、飯なら欲うありませんよ", "私は未だ申上げたい事が有るのでございますから、荒尾さんどうかお坐り下さいまし", "いくら貴方が言うたつて、返らん事ぢやありませんか", "そんなにまで有仰らなくても、……少しは、もう堪忍なすつて下さいまし" ], [ "うむ、面白い! 逢うて間に殺されたいとは、宮さん好う言れた。さうなけりやならんじや。然し、なあ、然しじや、貴方は今は富山の奥さん、唯継と云ふ夫の有る身じや、滅多な事は出来んですよ", "私はかまひません!" ], [ "かまはんぢや可かん", "いいえ、かまひません!", "そりや可かん!", "私はもうそんな事はかまひませんのです。私の体はどんなになりませうとも、疾から棄ててをるので御座いますから、唯もう一度貫一さんにお目に掛つて、この気の済むほど謝りさへ致したら、その場でもつて私は死にましても本望なのですから、富山の事などは……不如さうして死んで了ひたいので御座います", "それそれさう云ふ無考な、訳の解らん人に僕は与することは出来んと謂ふんじや。一体さうした貴方は了簡ぢやからして、始に間をも棄てたんじや。不埓です! 人の妻たる身で夫を欺いて、それでかまはんとは何事ですか。そんな貴方が了簡であつて見りや、僕は寧ろ富山を不憫に思ふです、貴方のやうな不貞不義の妻を有つた富山その人の不幸を愍まんけりやならん、いや、愍む、貴方よりは富山に僕は同情を表する、愈よ憎むべきは貴方じや" ], [ "さう有仰つたら、私はどうして悔悟したら宜いので御座いませう。荒尾さん、どうぞ助けると思召してお誨へなすつて下さいまし", "僕には誨へられんで、貴方がまあ能う考へて御覧なさい", "三年も四年も前から一日でもその事を考へません日と云つたら無いのでございます。それが為に始終悒々と全で疾つてをるやうな気分で、噫もうこんななら、いつそ死んで了はう、と熟くさうは思ひながら、唯もう一目、一目で可うございますから貫一さんに逢ひませんでは、どうも死ぬにも死なれないので御座います", "まあ能う考へて御覧なさい", "荒尾さん、貴方それでは余りでございますわ" ], [ "こりや然し却つてお世話になりました。それぢや宮さん、お暇", "あれ、荒尾さん、まあ、貴方……" ], [ "私はどうしたら可いのでせう", "覚悟一つです" ], [ "覚悟とは?", "読んで字の如し" ], [ "あ、拙い手付……ああ零れる、零れる! これは恐入つた。これだからつい余所で飲む気にもなりますと謂つて可い位のものだ", "ですから多度上つていらつしやいまし", "宜いかい。宜いね。宜い。今夜は遅いよ", "何時頃お帰来になります", "遅いよ", "でも大約時間を極めて置いて下さいませんと、お待ち申してをる者は困ります", "遅いよ", "それぢや十時には皆寝みますから", "遅いよ" ], [ "遅いよ", "…………", "驚くほど遅いよ", "…………", "おい、些と", "…………", "おや。お前慍つたのか", "…………", "慍らんでも可いぢやないか、おい" ], [ "何を作るのよ", "返事を為んからさ", "お遅いのは解りましたよ", "遅くはないよ、実は。だからして、まあ機嫌を直すべし", "お遅いなら、お遅いで宜うございますから……", "遅くはないと言ふに、お前は近来直に慍るよ、どう云ふのかね", "一つは病気の所為かも知れませんけれど", "一つは俺の浮気の所為かい。恐入つたね", "…………", "お前一つ飲まんかい", "私沢山", "ぢや俺が半分助けて遣るから", "いいえ、沢山なのですから", "まあさう言はんで、少し、注ぐ真似", "欲くもないものを、貴方は", "まあ可いさ。お酌は、それかう云ふ塩梅に、愛子流かね" ], [ "もう飲めんのか。ぢや此方にお寄来し", "失礼ですけれど", "この上へもう一盃注いで貰はう", "貴方、十時過ぎましたよ、早くいらつしやいませんか", "可いよ、この二三日は別に俺の為る用は無いのだから。それで実はね今日は少し遅くなるのだ", "さうでございますか", "遅いと云つたつて怪いのぢやない。この二十八日に伝々会の大温習が有るといふ訳だらう、そこで今日五時から糸川の処へ集つて下温習を為るのさ。俺は、それお特得の、「親々に誘はれ、難波の浦を船出して、身を尽したる、憂きおもひ、泣いてチチチチあかしのチントン風待にテチンチンツン……" ], [ "たまたま逢ひはア――ア逢ひイ――ながらチツンチツンチツンつれなき嵐に吹分けられエエエエエエエエ、ツンツンツンテツテツトン、テツトン国へ帰ればアアアアア父イイイイ母のチチチチンチンチンチンチンチイン〔思ひも寄らぬ夫定……", "貴方もう好加減になさいましよ", "もう少し聴いてくれ、〔立つる操を破ら……", "又寛り伺ひますから、早くいらつしやいまし", "然し、巧くなつたらう、ねえ、些と聞けるだらう", "私には解りませんです", "これは恐入つた、解らないのは情無いね。少し解るやうに成つて貰はうか", "解らなくても宜うございます", "何、宜いものか、浄瑠璃の解らんやうな頭脳ぢや為方が無い。お前は一体冷淡な頭脳を有つてゐるから、それで浄瑠璃などを好まんのに違無い。どうもさうだ", "そんな事はございません", "何、さうだ。お前は一体冷淡さ", "愛子はどうでございます", "愛子か、あれはあれで冷淡でないさ", "それで能く解りました", "何が解つたのか", "解りました", "些も解らんよ", "まあ可うございますから、早くいらつしやいまし、さうして早くお帰りなさいまし", "うう、これは恐入つた、冷淡でない。ぢや早く帰る、お前待つてゐるか", "私は何時でも待つてをりますぢや御座いませんか", "これは冷淡でない!" ], [ "今日三時頃でございました、お客様が見えまして、明日又今頃来るから、是非内に居てくれるやうにと有仰つて、お名前を伺つても、学校の友達だと言へば可い、とさう有仰つてお帰りになりました", "学校の友達?" ], [ "どんな風の人かね", "さやうでございますよ、年紀四十ばかりの蒙茸と髭髯の生えた、身材の高い、剛い顔の、全で壮士みたやうな風体をしてお在でした", "…………" ], [ "さうして、まあ大相横柄な方なのでございます", "明日三時頃に又来ると?", "さやうでございますよ", "誰か知らんな", "何だか誠に風の悪さうな人体で御座いましたが、明日参りましたら通しませうで御座いますか", "ぢや用向は言つては行かんのだね", "さやうでございますよ", "宜い、会つて見やう", "さやうでございますか" ], [ "考へるまではなからう。親友と思うてをるなら、をる、さうなけりや、ないと言ふまでで是か否かの一つじや", "そりや昔は親友であつた" ], [ "さう", "今はさうぢやあるまい", "何為にな", "その後五六年も全く逢はずにゐたのだから、今では親友と謂ふことは出来まい", "なに五六年前も一向親友ではありやせんぢやつたではないか" ], [ "腹は立たん!", "腹は立たん? それぢや君は自身に盗人とも、罪人とも……", "狂人とも思つてゐる。一婦人の為に発狂したのは、君に対して実に面目無いけれど、既に発狂して了つたのだから、どうも今更為やうが無い。折角ぢやあるけれど、このまま棄置いてくれ給へ" ], [ "さうか。それぢや君は不正な金銭で慰められてをるのか", "未だ慰められてはをらん", "何日慰めらるるのか", "解らん", "さうして君は妻君を娶うたか", "娶はん", "何故娶はんのか、かうして家を構へてをるのに独身ぢや不都合ぢやらうに", "さうでもないさ", "君は今では彼の事をどう思うてをるな", "彼とは宮の事かね。あれは畜生さ!", "然し、君も今日では畜生ぢやが、高利貸などは人の心は有つちやをらん、人の心が無けりや畜生じや", "さう云ふけれど、世間は大方畜生ぢやないか", "僕も畜生かな", "…………", "間、君は彼が畜生であるのに激してやはり畜生になつたのぢやな。若し彼が畜生であつたのを改心して人間に成つたと為たら、同時に君も畜生を罷めにやならんじやな", "彼が人間に成る? 能はざる事だ! 僕は高利を貪る畜生だけれど、人を欺く事は為んのだ。詐つて人の誠を受けて、さうしてそれを売るやうな残忍な事は決して為んのだ。始から高利と名宣つて貸すのだから、否な者は借りんが可いので、借りん者を欺いて貸すのぢやない。宮の如き畜生が何で再び人間に成り得るものか", "何為成り得んのか", "何為成り得るのか", "さうなら君は彼の人間に成り得んのを望むのか", "望むも望まんも、あんな者に用は無い!" ], [ "彼もさうして悔悟してをるのぢやから、君も悔悟するが可からう、悔悟する時ぢやらうと思ふ", "彼の悔悟は彼の悔悟で、僕の与る事は無い。畜生も少しは思知つたと見える、それも可からう" ], [ "僕は彼の事は言はんのじや。又彼が悔悟した為に君の失うた者が再び得らるる訳でないから、それぢや慰められんと謂ふのなら、それで可いのじや。要するに、君はその失うた者が取返されたら可いのぢやらう、さうしてその目的を以つて君は貨を殖へてをるのぢやらう、なあ、さうすりやその貨さへ得られたら、好んで不正な営業を為る必要は有るまいが。君が失うた者が有る事は知つてをる。それが為に常に楽まんのも、同情を表してゐる、そこで金銭の力に頼つて慰められやうとしてゐる、に就いては異議も有るけれど、それは君の考に委する。貨を殖ゆるも可い、可いとする以上は大いに富むべしじや。けれど、富むと云ふのは貪つて聚むるのではない、又貪つて聚めんけりや貨は得られんのではない、不正な手段を用んでも、富む道は幾多も有るぢやらう。君に言ふのも、な、その目的を変へよではない、止だ手段を改めよじや。路は違へても同じ高嶺の月を見るのじやが", "辱ないけれど、僕の迷は未だ覚めんのだから、間は発狂してゐる者と想つて、一切かまひ付けずに措いてくれ給へ", "さうか。どうあつても僕の言は用られんのじやな", "容してくれ給へ", "何を容すのじや! 貴様は俺を棄てたのではないか、俺も貴様を棄てたのじやぞ、容すも容さんも有るものか", "今日限互に棄てて別れるに就いては、僕も一箇聞きたい事が有る。それは君の今の身の上だが、どうしたのかね", "見たら解るぢやらう", "見たばかりで解るものか", "貧乏してをるのよ", "それは解つてゐるぢやないか", "それだけじや", "それだけの事が有るものか。何で官途を罷めて、さうしてそんなに貧乏してゐるのか、様子が有りさうぢやないか", "話したところで狂人には解らんのよ" ], [ "解つても解らんでも可いから、まあ話すだけは話してくれ給へ", "それを聞いてどう為る。ああ貴様は何か、金でも貸さうと云ふのか。No thankじや、赤貧洗ふが如く窮してをつても、心は怡然として楽んでをるのじや", "それだから猶、どう為てさう窮して、それを又楽んでゐるのか、それには何か事情が有るのだらう、から、それを聞せてくれ給へと言ふのだ" ], [ "貴様如き無血虫がそんな事を聞いたとて何が解るもので。人間らしい事を言ふな", "さうまで辱められても辞を返すことの出来ん程、僕の躯は腐つて了つたのだ", "固よりじや", "かう腐つて了つた僕の躯は今更為方が無い。けれども、君は立派に学位も取つて、参事官の椅子にも居た人、国家の為に有用の器であることは、決して僕の疑はんところだ。で、僕は常に君の出世を予想し、又陰にそれを祷つてをつたのだ。君は僕を畜生と言ひ、狂人と言ひ、賊と言ふけれど、君を懐ふ念の僕の胸中を去つた事はありはせんよ。今日まで君の外には一人の友も無いのだ。一昨年であつた、君が静岡へ赴任すると聞いた時は、嬉くもあり、可懐くもあり、又考へて見れば、自分の身が悲くもなつて、僕は一日飯も食はんでゐた。それに就けても、久し振で君に逢つて慶賀も言ひたいと念つたけれど、どうも逢れん僕の躯だから、切て陰ながらでも君の出世の姿が見たいと、新橋の停車場へ行つて、君の立派に成つたのを見た時は、何もかも忘れて僕は唯嬉くて涙が出た" ], [ "うう、それぢや君は何か、僕のかうして落魄してをるのを見て気毒と思ふのか", "君が謂ふほどの畜生でもない!" ], [ "段々の君の忠告、僕は難有い。猶自分にも篤と考へて、この腐れた躯が元の通潔白な者に成り得られるなら、それに越した幸は無いのだ。君もまた自愛してくれ給へ。僕は君には棄てられても、君の大いに用られるのを見たいのだ。又必ず大いに用られなければならんその人が、さうして不遇で居るのは、残念であるよりは僕は悲い。そんなに念つてもゐるのだから一遍君の処を訪ねさしてくれ給へ。何処に今居るかね", "まあ、高利貸などは来て貰はん方が可い", "その日は友として訪ねるのだ", "高利貸に友は持たんものな" ], [ "これは不思議な所で! 成程間とは御懇意かな", "君はどうして此方を識つてゐるのだ" ], [ "そりや少し識つてをる。然し、長居はお邪魔ぢやらう、大きに失敬した", "荒尾さん" ], [ "かう云ふ処で申上げますのも如何で御座いますけれど", "ああ、そりや此で聞くべき事ぢやない", "けれど毎も御不在ばかりで、お話が付きかねると申して弱り切つてをりますで御座いますから", "いや、会うたところでからに話の付けやうもないのじや。遁げも隠れも為んから、まあ、時節を待つて貰はうさ", "それはどんなにもお待ち申上げますけれど、貴方の御都合の宜いやうにばかり致してはをられませんで御座います。そこはお察しあそばしませな", "うう、随分酷い事を察しさせられるのじやね", "近日に是非私お願ひ申しに伺ひますで御座いますから、どうぞ宜く", "そりや一向宜くないかも知れん", "ああ、さう、この前でございましたか、あの者が伺ひました節、何か御無礼な事を申上げましたとかで、大相な御立腹で、お刀をお抜き遊ばして、斬つて了ふとか云ふ事が御座いましたさうで", "有つた", "あれ、本当にさやうな事を遊ばしましたので?" ], [ "本当とも! 実際那奴砍却つて了はうと思うた", "然しお考へ遊ばしたで御座いませう", "まあその辺ぢや。あれでも犬猫ぢやなし、斬捨てにもなるまい", "まあ、怖い事ぢや御座いませんか。私なぞは滅多に伺ふ訳には参りませんで御座いますね" ], [ "僕が美人を斬るか、その目で僕が殺さるるか。どれ帰つて、刀でも拭いて置かう", "荒尾君、夕飯の支度が出来たさうだから、食べて行つてくれ給へ", "それは折角ぢやが、盗泉の水は飲まんて", "まあ貴方、私お給仕を勤めます。さあ、まあお下にゐらしつて" ], [ "全で御夫婦のやうじやね。これは好一対じや", "そのお意で、どうぞお席にゐらしつて" ], [ "間、貴様は……", "…………", "…………" ], [ "一体貴方はどうして荒尾を御存じなのですか", "私よりは、貴方があの方の御朋友でゐらつしやるとは、実に私意外で御座いますわ", "貴方はどうして御存じなのです", "まあ債務者のやうな者なので御座います", "債務者? 荒尾が? 貴方の?", "私が直接に関係した訳ぢや御座いませんのですけれど", "はあ、さうして額は若干なのですか", "三千円ばかりでございますの", "三千円? それでその直接の貸主と謂ふのは何処の誰ですか" ], [ "貴方は実に現金でゐらつしやるのね。御自分のお聴になりたい事は熱心にお成りで、平生私がお話でも致すと、全で取合つても下さいませんのですもの", "まあ可いです", "些とも可い事はございません", "うう、さうすると直接の貸主と謂ふのが有るのですね", "存じません", "お話し下さいな、様子に由つてはその金は私から弁償しやうとも思ふのですから", "私貴方からは戴きません", "上げるのではない、弁償するのです", "いいえ、貴方とは御相談になりません。又貴方が是非弁償なさると云ふ事ならば、私あの債権を棄てて了ひます", "それは何為ですか", "何為でも宜う御座いますわ。ですから、貴方が弁償なさらうと思召すなら、私に債権を棄てて了へと有仰つて下さいまし、さう致せば私喜んで棄てます", "どう云ふ訳ですか", "どう云ふ訳で御座いますか", "甚だ解らんぢやありませんか", "勿論解らんので御座いますとも。私自分で自分が解らんくらゐで御座いますもの。然し貴方も間さん、随分お解りに成りませんのね", "いいや、僕は解つてゐます", "ええ、解つてゐらつしやりながら些ともお解りにならないのですから、私も益す解らなくなりますですから、さう思つてゐらつしやいまし" ], [ "まあさう云ふ事を言はずに、ともかくもお話をなすつて下さい", "御勝手ねえ、貴方は", "さあ、お話し下さいな", "唯今お話致しますよ" ], [ "貴方の債務者であらうとは実に意外だ", "…………", "どうも事実として信ずる事は出来んくらゐだ", "…………", "三千円! 荒尾が三千円の負債を何で為たのか、殆ど有得べき事でないのだけれど、……", "…………" ], [ "さあ、お話し下さいな", "こんなに遅々してをりましたら、さぞ貴方憤つたくてゐらつしやいませう", "憤つたいのは知れてゐるぢやありませんか", "憤つたいと云ふものは、決して好い心持ぢやございませんのね", "貴方は何を言つてお在なのです!", "はいはい恐入りました。それぢや早速お話を致しませう", "どうぞ" ], [ "はあ成程。然し、あれが何で三千円と云ふ金を借りたかしらん", "それはあの方は連帯者なので御座います", "はあ! さうして借主は何者ですか", "大館朔郎と云ふ岐阜の民主党員で、選挙に失敗したものですから、その運動費の後肚だとか云ふ話でございました", "うむ、如何にも! 大館朔郎……それぢや事実でせう", "御承知でゐらつしやいますか", "それは荒尾に学資を給した人で、あれが始終恩人と言つてをつたその人だ" ], [ "貴方本当にこの夏にはお帰んなさいますのですか", "盆過には是非一度帰ります。然しね、お話をした通り尊父さんや尊母さんの気が変つて了つてお在なのだから、鈴さんばかりそんなに思つてゐておくれでも、これがどうして、円く納るものぢやない。この上はもう唯諦めるのだ。私は男らしく諦めた!", "雅さんは男だからさうでせうけれど、私は諦めません。さうぢやないとお言ひなさるけれど、雅さんは阿父さんや阿母さんの為方を慍つてお在なのに違無い。それだから私までが憎いので、いいえ、さうよ、私は何でも可いから、若し雅さんが引取つて下さらなければ、一生何処へも適きはしませんから" ], [ "だつて、尊父さんや尊母さんが不承知であつて見れば、幾許私の方で引取りたくつても引取る訳に行かないぢやありませんか。それも、誰を怨む訳も無い、全く自分が悪いからで、こんな躯に疵の付いた者に大事の娘をくれる親は無い、くれないのが尤だと、それは私は自分ながら思つてゐる", "阿父さんや阿母さんがくれなくても、雅さんさへ貰つて下されば可いのぢやありませんか", "そんな解らない事を言つて! 私だつてどんなに悔いか知れはしない。それは自分の不心得からあんな罪にも陥ちたのだけれど、実を謂へば、高利貸の※((箆-竹-比)/民)に罹つたばかりで、自分の躯には生涯の疵を付け、隻の母親は……殺して了ひ、又その上に……許婚は破談にされ、……こんな情無い思を為る位なら、不如私は牢の中で死んで了つた……方が可かつた!", "あれ、雅さん、そんな事を……" ], [ "私も破談に為る気は少も無いけれど、これは私の方から断るのが道だから、必ず悪く思つて下さるな", "いいえ……いいえ……私は……何も……断られる訳はありません", "私に添へば、鈴さんの肩身も狭くなつて、生涯何のかのと人に言れなけりやならない。それがお気毒だから、私は自分から身を退いて、これまでの縁と諦めてゐるので、然し、鈴さん、私は貴方の志は決して忘れませんよ" ], [ "それは、鈴さん、言ふまでもありはしない。私もこんな目にさへ遭はなかつたら、今頃は家内三人で睦く、笑つて暮してゐられるものを、と思へば猶の事、私は今日の別が何とも謂れないほど情無い。かうして今では人に顔向も出来ないやうな身に成つてゐる者をそんなに言つてくれるのは、この世の中に鈴さん一人だと私は思ふ。その優い鈴さんと一処に成れるものなら、こんな結構な事は無いのだけれど、尊父さん、尊母さんの心にもなつて見たら、今の私には添されないのは、決して無理の無いところで、子を念ふ親の情は、何処の親でも差違は無い。そこを考へればこそ、私は鈴さんの事は諦めると云ふので、子として親に苦労を懸けるのは、不孝どころではない、悪事だ、立派な罪だ! 私は自分の不心得から親に苦労を懸けて、それが為に阿母さんもああ云ふ事に成つて了つたのだから、実は私が手に掛けて殺したも同然。その上に又私ゆゑに鈴さんの親達に苦労を懸けては、それぢや人の親まで殺すと謂つたやうな者だから、私も諦められないところを諦めて、これから一働して世に出られるやうに成るのを楽に、やつぱり暗い処に入つてゐる気で精一杯勉強するより外は無い、と私は覚悟してゐるのです", "それぢや、雅さんは内の阿父さんや阿母さんの事はそんなに思つて下すつても、私の事は些も思つては下さらないのですね。私の躯なんぞはどうならうと、雅さんはかまつては下さらないのね", "そんな事が有るものぢやない! 私だつて……", "いいえ、可うございます。もう可いの、雅さんの心は解りましたから", "鈴さん、それは違つてゐるよ。それぢや鈴さんは全で私の心を酌んではおくれでないのだ", "それは雅さんの事よ。阿父さんや阿母さんの事をさうして思つて下さる程なら、本人の私の事だつて思つて下さりさうな者ぢやありませんか。雅さんのところへ適くと極つて、その為に御嫁入道具まで丁と調へて置きながら、今更外へ適れますか、雅さんも考へて見て下さいな。阿父さんや阿母さんが不承知だと謂つても、そりや余り酷いわ、余り勝手だわ! 私は死んでも他へは適きはしませんから、可いわ、可いわ、私は可いわ!" ], [ "そんな事をお言ひだつて、それぢやどう為うと云ふのです", "どう為ても可う御座います、私は自分の心で極めてゐますから" ], [ "お客様でございます", "お客? 誰だ", "荒尾さんと有仰いました", "何、荒尾? ああ、さうか" ], [ "お通し申しますで御座いますか", "おお、早くお通し申して。さうしてな、唯今起きましたところで御座いますから、暫く失礼致しますとさう申して" ], [ "何ぞ御用でございますか", "…………" ], [ "どう云ふ御用向でございますか。伺ひませう", "…………" ], [ "早く帰れ!", "…………", "宮!" ], [ "貫一さん、私は今日は死んでも可い意でお目に掛りに来たのですから、貴方の存分にどんな目にでも遭せて、さうしてそれでともかくも今日は勘弁して、お願ですから私の話を聞いて下さいまし", "何の為に!", "私は全く後悔しました! 貫一さん、私は今になつて後悔しました‼ 悉い事はこの間からの手紙に段々書いて上げたのですけれど、全で見ては下さらないのでは、後悔してゐる私のどんな切ない思をしてゐるか、お解りにはならないでせうが、お目に掛つて口では言ふに言れない事ばかり、設ひ書けない私の筆でも、あれをすつかり見て下すつたら、些とはお腹立も直らうかと、自分では思ふのです。色々お詑は為る意でも、かうしてお目に掛つて見ると、面目が無いやら、悲いやらで、何一語も言へないのですけれど、貫一さん、とても私は来られる筈でない処へかうして来たのには、死ぬほどの覚悟をしたのと思つて下さいまし", "それがどう為たのだ", "さうまで覚悟をして、是非お話を為たい事が有るのですから、御迷惑でもどうぞ、どうぞ、貫一さん、ともかくも聞いて下さいまし" ], [ "六年前の一月十七日、あの時を覚えてゐるか", "…………", "さあ、どうか", "私は忘れは為ません", "うむ、あの時の貫一の心持を今日お前が思知るのだ", "堪忍して下さい" ], [ "ああ、さやうで御座いますか", "折角お出のところを誠にどうもお気毒さまで御座います", "唯今些と支度を致しますから、もう少々置いて戴きますよ", "さあさあ、貴方御遠慮無く御寛と遊ばしまし。又何だか降出して参りまして、今日はいつそお寒過ぎますで御座います" ], [ "それではお暇を致します。些と御挨拶だけ致して参りたいのですから、何方にお寝つてお在ですか……", "はい、あの何でございます、どうぞもうおかまひ無く……", "いいえ、御挨拶だけ些と", "さやうで御座いますか。では此方へ" ], [ "貫一さん!", "何を為る、この恥不知!", "私が悪かつたのですから、堪忍して下さいまし", "ええ、聒い! ここを放さんか", "貫一さん", "放さんかと言ふに、ええ、もう!" ], [ "さあ、早く帰れ!", "もう二度と私はお目には掛りませんから、今日のところはどうとも堪忍して、打つなり、殴くなり貫一さんの勝手にして、さうして少小でも機嫌を直して、私のお詑に来た訳を聞いて下さい", "ええ、煩い!", "それぢや打つとも殴くともして……" ], [ "そんな事で俺の胸が霽れると思つてゐるか、殺しても慊らんのだ", "ええ、殺れても可い! 殺して下さい。私は、貫一さん、殺して貰ひたい、さあ、殺して下さい、死んで了つた方が可いのですから", "自分で死ね!" ], [ "死ね、死ね。お前も一旦棄てた男なら、今更見とも無い態を為ずに何為死ぬまで立派に棄て通さんのだ", "私は始から貴方を棄てる気などは有りはしません。それだから篤りとお話を為たいのです。死んで了へとお言ひでなくても、私はもう疾から自分ぢや生きてゐるとは思つてゐません", "そんな事聞きたくはない。さあ、もう帰れと言つたら帰らんか!", "帰りません! 私はどんな事してもこのままぢや……帰れません" ], [ "これ、人が来る", "…………" ], [ "ああ、今其方へ行くから。――さあ、客が有るのだ、好加減に帰らんか。ええ、放せ。客が有ると云ふのにどうするのか", "ぢや私はここに待つてゐますから", "知らん! もう放せと言つたら" ], [ "お豊さん、もう一遍旦那様にさう申して来て下さいな、私今日は急ぎますから、些とお目に懸りたいと", "でも、私は誠に参り難いので御座いますよ、何だかお話が大変込入つてお在のやうで御座いますから", "かまはんぢやありませんか、私がさう申したと言つて行くのですもの", "ではさう申上げて参りますです", "はあ" ], [ "旦那さま、旦那さま", "此方にお在は御座いませんよ" ], [ "今し方其方へお出なすつたのですが……", "おや、さやうなので御座いますか", "那裡のお客様の方へお出なすつたのでは御座いませんか", "いいえ、貴方、那裡のお客様が急ぐと有仰つてで御座いますものですから、さう申上げに参つたので御座いますが、それぢやまあ、那辺へいらつしやいましたらう!", "那裡にもゐらつしやいませんの!", "さやうなので御座いますよ" ], [ "此方へもいらつしやいませんで御座いますか", "何が", "あの、那裡にもゐらつしやいませんので御座いますが", "旦那様が? どうして", "今し方這裡へ出てお在になつたのださうで御座います", "嘘、嘘ですよ", "いいえ、那裡にはお客様がお一人でゐらつしやるばかり……", "嘘ですよ", "いいえ、どういたして貴方、決して嘘ぢや御座いません", "だつて、此方へお出なさりは為ないぢやありませんか", "ですから、まあ、何方へいらつしやつたのかと思ひまして……", "那裡にきつと隠れてでもお在なのですよ", "貴方、そんな事が御座いますものですか", "どうだか知れはしません", "はてね、まあ。お手水ですかしらん" ], [ "何方にもゐらつしやいませんで御座いますが……", "あら、さやうですか。ではお出掛にでも成つたのでは御座いませんか", "さやうで御座いますね。一体まあどうなすつたと云ふので御座いませう、那裡にも這裡にもお客様を置去に作つてからに。はてね、まあ、どうもお出掛になる訳は無いので御座いますけれど、家中には何処にもゐらつしやらないところを見ますと、お出掛になつたので御座いますかしらん。それにしても……まあ御免あそばしまして" ], [ "はい親類筋の者で御座いまして", "おや、さやうでゐらつしやいますか。手前は赤樫満枝と申しまして、間様とは年来の御懇意で、もう御親戚同様に御交際を致して、毎々お世話になつたり、又及ばずながらお世話も致したり、始終お心易く致してをりますで御座いますが、ついぞ、まあ従来お見上げ申しませんで御座いました", "はい、つい先日まで長らく遠方に参つてをりましたもので御座いますから", "まあ、さやうで。余程何でございますか、御遠方で?", "はい……広島の方に居りまして御座います", "はあ、さやうで。唯今は何方に", "池端に居ります", "へえ、池端、お宜い処で御座いますね。然し、夙て間様のお話では、御自分は身寄も何も無いから、どうぞ親戚同様に末の末まで交際したいと有仰るもので御座いますから、全くさうとばかり私信じてをりましたので御座いますよ。それに唯今かうして伺ひますれば、御立派な御親戚がお有り遊ばすのに、どう云ふお意であんな事を有仰つたので御座いませう。何も親戚のお有りあそばす事をお隠しになるには当らんぢや御座いませんか。あの方は時々さう云ふ水臭い事を一体作るので御座いますよ" ], [ "お久しぶりで折角お出のところを、生憎と余義無い用向の使が見えましたもので、お出掛になつたので御座いますが、些と遠方でございますから、お帰来の程は夜にお成りで御座いませう、近日どうぞ又御寛りとお出で遊ばしまして", "大相長座を致しまして、貴方の御用のお有り遊ばしたところを、心無いお邪魔を致しまして、相済みませんで御座いました", "いいえ、もう、私共は始終上つてをるので御座いますから、些とも御遠慮には及びませんで御座います。貴方こそさぞ御残念でゐらつしやいませう", "はい、誠に残念でございます", "さやうで御座いませうとも", "四五年ぶりで逢ひましたので御座いますから、色々昔話でも致して今日は一日遊んで参らうと楽に致してをりましたのを、実に残念で御座います", "大きに", "さやうなら私はお暇を致しませう", "お帰来で御座いますか。丁度唯今小降で御座いますね", "いいえ、幾多降りましたところが俥で御座いますから" ], [ "おお、傘を持つて来たのか", "はい。此方にお在なので御座いましたか、もう方々お捜し申しました", "さうか。客は帰つたか", "はい、疾にお帰になりまして御座います", "四谷のも帰つたか", "いいえ、是非お目に掛りたいと有仰いまして", "居る?", "はい", "それぢや見付からんと言つて措け", "ではお帰りに成りませんので?", "も少し経つたら帰る", "直にもうお中食で御座いますが", "可いから早く行けよ", "未だ旦那様は朝御飯も", "可いと言ふに!" ], [ "ああ、未だ御在でしたか", "はい、居りました。お午前から私お待ち申してをりました", "ああ、さうでしたか、それは大きに失礼しました。さうして何ぞ急な用でも", "急な用が無ければ、お待ち申してをつては悪いので御座いますか" ], [ "然し、間さん、遉に貴方で御座いますのね、私敬服して、了ひました。失礼ながら貴方のお腕前に驚きましたので御座います。ああ云つた美婦人を御娯にお持ち遊ばしてゐながら、世間へは偏人だ事の、一国者だ事のと、その方へ掛けては実に奇麗なお顔を遊ばして、今日の今朝まで何年が間と云ふもの秘隠に隠し通してゐらしつたお手際には私実に驚入つて一言も御座いません。能く凄いとか何とか申しますが、貴方のやうなお方の事をさう申すので御座いませう", "もうつまらん事を……、貴方何ですか", "お口ぢやさう有仰つても、実はお嬉いので御座いませう。あれ、ああしちや考へてゐらつしやる! そんなにも恋くてゐらつしやるのですかね" ], [ "何なりと有仰い", "私もう貴方を殺して了ひたい!", "何です⁈", "貴方を殺して、あれも殺して、さうして自分も死んで了ひたく思ふのです", "それも可いでせう。可いけれど何で私が貴方に殺されるのですか", "間さん、貴方はその訳を御存無いと有仰るのですか、どの口で有仰るのですか", "これは怪からん! 何ですと", "怪からんとは、貴方も余りな事を有仰るでは御座いませんか" ], [ "貴方はそんなにも私が憎くてゐらつしやるのですか。何で又さうお憎みなさるのですか。その訳をお聞せ下さいまし。私それが伺ひたい、是非伺はなければ措きません", "貴方を何日私が憎みました。そんな事は有りません", "では、何で怪からんなどと有仰います", "怪からんぢやありませんか、貴方に殺される訳が有るとは。私は決して貴方に殺される覚は無い" ], [ "有ります! 立派に有ると私信じてをります", "貴方が独で信じても……", "いいえ、独で有らうが何で有らうが、自分の心に信じた以上は、私それを貫きます", "私を殺すと云ふのですか", "随分殺しかねませんから、覚悟をなすつてゐらつしやいまし", "はあ、承知しました" ], [ "貴方、もうお帰りに成つたが可いでせう、余り晩くなるですから。ええ?", "憚り様で御座います", "いや、御注意を申すのです", "その御注意が憚り様で御座いますと申上げるので", "ああ、さうですか", "今朝のあの方なら、そんな御注意なんぞは遊ばさんで御座いませう。如何ですか" ], [ "貴方は気でも違ひは為んですか", "少しは違つてもをりませう。誰がこんな気違には作すつたのです。私気が違つてゐるなら、今朝から変に成つたので御座いますよ。お宅に詣つて気が違つたのですから、元の正気に復してお還し下さいまし" ], [ "就きましては、私一言貴方に伺ひたい事が有るので御座いますが、これはどうぞ御遠慮無く貴方の思召す通を丁と有仰つてお聞せ下さいまし、宜う御座いますか", "何ですか", "なんですかでは可厭です、宜いと截然有仰つて下さい。さあ、さあ、貴方", "けれども……", "けれどもぢや御座いません。私の申す事だと、貴方は毎も気の無い返事ばかり遊ばすのですけれど、何も御迷惑に成る事では御座いませんのです、私の申す事に就て貴方が思召す通を答へて下されば、それで宜いのですから", "勿論答へます。それは当然の事ぢやないですか", "それが当然でなく、極打明けて少しも裹まずに言つて戴きたいのですから" ], [ "さうですな……そりや或はさうかも知れませんけれど……", "何を言つてゐらつしやるのですね、貴方は、或はもさうかもないでは御座いませんか! さも無ければ、私何も貴方に憥がられる訳は御座いませんさ、貴方も私を憥いと思召すのが、現に何よりの証拠で。漆膠くて困ると御迷惑してゐらつしやるほど、承知を遊ばしてお在のでは御座いませんか", "それはさう謂へばそんなものです", "貴方から嫌はれ抜いてゐるにも関らず、こんなに私が思つてゐると云ふ事は、十分御承知なので御座いませう", "さう", "で、私従来に色々申上げた事が御座いましたけれど、些とでもお聴き遊ばしては下さいませんでした。それは表面の理窟から申せば、無理なお願かも知れませんけれど、私は又私で別に考へるところが有つて、決して貴方の有仰るやうな道に外れた事とは思ひませんのです。よしんばさうでありましても、こればかりは外の事とは別で、お互にかうと思つた日には、其処に理窟も何も有るのでは御座いません。究竟貴方がそれを口実にして遁げてゐらつしやるのは、始から解り切つてゐるので。然し、貴方も人から偏屈だとか、一国だとか謂れてゐらつしやるのですから、成程儀剛な片意地なところもお有なすつて、色恋の事なんぞには貪着を遊ばさん方で、それで私の心も汲分けては下さらんのかと、さうも又思つたり致して、実は貴方の頑固なのを私歯痒いやうに存じてをつたので御座います……ところが!" ], [ "貴方は何を為るのですか! 好い加減になさい", "…………", "さうして早くお帰りなさい", "帰りません!", "帰らん? 帰らんけりや宜い。もう明日からは貴方のここへ足蹈の出来んやうに為て了ふから、さうお思ひなさい", "私死んでも参ります!", "今まで我慢をしてゐたですけれど、もう抛つて置かれんから、私は赤樫さんに会つて、貴方の事をすつかり話して了ひます" ], [ "はあ、お話し下さい", "…………", "赤樫に聞えましたら、どう致すので御座います" ], [ "貴方は……実に……驚入つた根性ですな! 赤樫は貴方の何ですか", "間さん、貴方は又赤樫を私の何だと思召してゐらつしやるのですか", "怪からん!" ], [ "定てあれは私の夫だと思召すので御座いませうが、決してさやうでは御座いませんです", "そんなら何ですか" ], [ "男勝りの機敏な貴方にも似合はん、さすがは女だ", "何で御座います?", "お聞きなさい。男と女が話をしてゐれば、それが直ちに逢引ですか。又妙齢の女でさへあれば、必ず主有るに極つてゐるのですか。浅膚な邪推とは言ひながら、人を誣ふるも太甚い! 失敬千万な、気を着けて口をお利きなさい", "間さん、貴方、些と此方をお向きなさい" ], [ "ええ、もう貴方は", "お憥いでせう", "勿論" ], [ "さうして貴方が満足するやうな一言?……どう云ふ事を言つたら可いのですか", "貴方もまあ何を有仰つてゐらつしやるのでせう。御自分の有仰る事を他にお聞き遊ばしたつて、誰が存じてをりますものですか", "それはさうですけれど、私にも解らんから", "解るも解らんも無いでは御座いませんか。それが貴方は何か巧い遁口上を有仰らうとなさるから、急に御考も無いので、貴方に対する私、その私が満足致すやうな一言と申したら、間さん、外には有りは致しませんわ", "いや、それなら解つてゐます……", "解つてゐらつしやるなら些と有仰つて下さいましな", "それは解つてゐますけれど、貴方の言れるのはかうでせう。段々お話の有つたやうな訳であるから、とにかくその心情は察しても可からう、それを察してゐるのが善く解るやうな挨拶を為てくれと云ふのぢやありませんか。実際それは余程難い、別にどうも外に言ひ様も無いですわ", "まあ何でも宜う御座いますから、私の満足致しますやうな御挨拶をなすつて下さいまし", "だから、何と言つたら貴方が満足なさるのですか", "私のこの心を汲んでさへ下されば、それで満足致すので御座います", "貴方の思召は実に難有いと思つてゐます。私は永く記憶してこれは忘れません", "間さん、きつとで御座いますか、貴方", "勿論です", "きつとで御座いますね", "相違ありません!", "きつと?", "ええ!", "その証拠をお見せ下さいまし", "証拠を?", "はあ。口頭ばかりでは私可厭で御座います。貴方もあれ程確に有仰つたのですから、万更心に無い事をお言ひ遊ばしたのでは御座いますまい。さやうならそれだけの証拠が有る訳です。その証拠を見せて下さいますか", "みせられる者なら見せますけれど", "見せて下さいますか", "見せられる者なら。然し……", "いいえ、貴方が見せて下さる思召ならば……" ], [ "この女で御座いませう", "貫一さん、私は悔う御座んす。この人は貴方の奥さんですか", "私奥さんならどうしたのですか", "貫一さん!" ], [ "これで突けば可いのです", "…………", "さては貴方はこんな女に未だ未練が有つて、息の根を止めるのが惜くてゐらつしやるので御座いますね。殺して了はうと思ひながら、手を下す事が出来んのですね。私代つて殺して上げませう。何の雑作も無い事。些と御覧あそばせな" ], [ "これを放せ、よ、これを放さんか。さあ、放せと言ふに、ええ、何為放さんのだ", "貫、貫一さん", "おお、何だ", "私は嬉い。もう……もう思遺す事は無い。堪忍して下すつたのですね", "まあ、この手を放せ", "放さない! 私はこれで安心して死ぬのです。貫一さん、ああ、もう気が遠く成つて来たから、早く、早く、赦すと言つて聞せて下さい。赦すと、赦すと言つて!" ], [ "これ、宮、確乎しろよ", "あい", "赦したぞ! もう赦した、もう堪……堪……堪忍……した!", "貫一さん!", "宮!", "嬉い! 私は嬉い!" ], [ "待て、待て待て! ともかくもこの手を放せ", "いいえ、止めずに", "待てと言ふに", "早く死にたい!" ], [ "ああ、姐さん、この花を那裏へ持つて行つておくれでないか", "はあ、その花で御座いますか。旦那様は百合の花はお嫌ひで?", "いや、匂が強くて、頭痛がして成らんから", "さやうで御座いますか。唯今直に片付けますです。これは唯一つ早咲で、珍う御座いましたもんですから、先程折つてまゐつて、徒に挿して置いたんで御座います", "うう、成程、早咲だね", "さやうで御座います。来月あたりに成りませんと、余り咲きませんので、これが唯一つ有りましたんで、紛れ咲なので御座いますね", "うう紛れ咲、さうだね", "御案内致しませう" ], [ "内にはお客は今幾箇有るのだね", "這箇の外にお一方で御座りやす", "一箇? あのお客は単身なのか", "はい", "先に湯殿で些と遇つたが、男の客だよ", "さよで御座りやす", "あれは病人だね", "どうで御座りやすか。――そんな事無えで御座りやせう", "さうかい。何処も不良いところは無いやうかね", "無えやうで御座りやすな", "どうも病人のやうだが、さうでないかな", "ああ、旦那様はお医者様で御座りやすか" ], [ "成程、好い事を言ふな。俺は医者ぢやないけれど、どうも見たところが病人のやうだから、さうぢやないかと思つたのだ。もう長く来てゐるお客か", "いんえ、昨日お出になりやしたので", "昨日来たのだ? 東京の人か", "はい、日本橋の方のお方で御座りやす", "それぢや商人か", "私能く知りやせん", "どうだ、お前達と懇意にして話をするか", "そりやなさりやす", "俺と那箇が為る", "旦那様とですけ? そりや旦那様のやうにはなさりやせん", "うむ、さうすると、俺の方がお饒舌なのだな", "あれ、さよぢや御座りやせんけれど、那裏のお客様は黙つてゐらつしやる方が多う御座りやす。さうして何でもお連様が直にいらしやる筈で、それを、まあ酷う待つてお在なさりやす", "おお、伴が後から来るのか。いや、大きに御馳走だつた", "何も御座りやせんで、お麁末様で御座りやす" ], [ "はあ、飯も食はんで? 何処へ行つたのかね", "何でも昨日あたりお連様がお出の筈になつてをりましたので御座いませう。それを大相お待ちなすつてゐらつしやいましたところが、到頭お着が無いもんで御座いますから、今朝から御心配遊して、停車場まで様子を見がてら電報を掛けに行くと有仰いまして、それでお出ましに成つたので御座います", "うむ、それは心配だらう。能く有る事だ。然し、飯も食はずに気を揉んでゐるとは、どう云ふ伴なのかな。――年寄か、婦ででもあるか", "如何で御座いますか", "お前知らんのか", "私存じません" ], [ "旦那も大相御心配ぢや御座いませんか", "さう云ふ事を聞くと、俺も気になるのだ", "ぢや旦那も余程苦労性の方ですね", "大きにさうだ", "それぢやお連様がいらしつて見て、お年寄か、お友達なら宜う御座いますけれど、もしも、ねえ、貴方、お美い方か何かだつた日には、それこそ旦那は大変で御座いますね", "どう大変なのか", "又御心配ぢや御座いませんか", "うむ、大きにこれはさうだ" ], [ "成程、これは恐入つた。今度から善く心得て置く事だ", "今度なんて仰有らずに、旦那も明日あたり電信でお呼寄になつたら如何で御座います", "五十四になる老婢を呼んだつて、お前、始らんぢやないか", "まあ、旦那はあんな好い事を言つてゐらつしやる。その老婢さんの方でないのをお呼びなさいましよ", "気の毒だが、内にはそれつきりより居ないのだ", "ですから、旦那、づつと外にお在んなさるので御座いませう", "そりや外には幾多でも在るとも", "あら、御馳走で御座いますね", "なあに、能く聴いて見ると、それが皆人の物ださうだ", "何ですよ、旦那。貴方、本当の事を有仰るもんですよ", "本当にも嘘にもその通だ。私なんぞはそんな意気な者が有れば、何為にこんな青臭い山の中へ遊びに来るものか", "おや! どうせ青臭い山の中で御座います", "青臭いどころか、お前、天狗巌だ、七不思議だと云ふ者が有る、可恐い山の中に違無いぢやないか。そこへ彷徨、閑さうな貌をして唯一箇で遣つて来るなんぞは、能々の間抜と思はなけりやならんよ", "それぢや旦那は間抜なのぢや御座いませんか。そんな解らない事が有るものですか", "間抜にも大間抜よ。宿帳を御覧、東京間抜一人と附けて在る", "その傍に小く、下女塩原間抜一人と、ぢや附けさせて戴きませう", "面白い事を言ふなあ、おまへは", "やつぱり少し抜けてゐる所為で御座います" ], [ "お早う御座りやす", "睡さうな顔をしてゐるな", "はい、昨夜那裏のお客様がお帰になるかと思つて、遅うまで待つてをりやしたで、今朝睡うござりやす", "ああ、あのお客は昨夜は帰らずか", "はい、お帰が御座りやせん" ], [ "些と旦那、参りましたよ、参りましたよ! 早くいらしつて御覧なさいまし。些と早く", "何が来たのだ", "何でも可いんですから、早くいらつしやいましよ", "何だ、何だよ", "早く階子の所へいらしつて御覧なさい", "おお、あの客が還つたのか" ], [ "さうなの、だから私はどんなに心配したか知れやしない。なかなか貴方がここで想つてゐるやうな訳に行きは為ませんとも。そりや貴方の心配もさうでせうけれど、私の心配と云つたら、本当に無かつたの。察しるが可いつて、そりや貴方、お互ぢやありませんか。吁、私は今だに胸が悸々して、後から追掛けられるやうな気持がして、何だか落着かなくて可けない", "まあ何でも、かうして約束通り逢へりや上首尾なんだ", "全くよ。一昨日の晩あたりの私の心配と云つたら、こりやどうだかと、さう思つたくらゐ、今考へて見れば、自分ながら好く出られたの。やつぱり尽きない縁なのだわ" ], [ "貴方は直に悪縁だ、悪縁だと言ふけれど、悪縁ならどうするんです!", "悪縁だからかうなつたのぢやないか", "かう成つたのがどうしたんですよ!", "今更どうするものか", "当然さ! 貴方は一体水臭いんだ‼", "おい、お静、水臭いとは誰の事だ" ], [ "俺の事だ⁈ お静……手前はそんな事を言つて、それで済むと思ふのか", "済んでも済まなくても、貴方が水臭いからさ", "未だそんな事を言やがる! さあ、何が水臭いか、それを言へ", "はあ、言ひますとも。ねえ、貴方は他の顔さへ見りや、直に悪縁だと云ふのが癖ですよ。彼我の中の悪縁は、貴方がそんなに言なくたつて善く知つてゐまさね。何も貴方一箇の悪縁ぢやなし、私だつてこれでも随分謂ふに謂れない苦労を為てゐるんぢやありませんか。それを貴方がさもさも迷惑さうに、何ぞの端には悪縁だ悪縁だとお言ひなさるけれど、聞される身に成つて御覧なさいな。余り好い心持は為やしません。それも不断ならともかくもですさ、この場になつてまでも、さう云ふ事を言ふのは、貴方の心が水臭いからだ――何がさうでない事が有るもんですか", "悪縁だから悪縁だと言ふのぢやないか。何も迷惑して……", "悪縁でも可ござんすよ!" ], [ "おい、お静、おい", "貴方きつと迷惑なんでせう。貴方がそんな気ぢや、私は……実に……つまらない。私はどうせう。情無い!" ], [ "何だな、お前も考へて見るが可いぢやないか。それを迷惑とも何とも思はないからこそ、世間を狭くするやうな間にも成りさ、又かう云ふ……なあ……訳なのぢやないか。それを嘘にも水臭いなんて言れりや、俺だつて悔いだらうぢやないか。余り悔くて俺は涙が出た。お静、俺は何も芸人ぢやなし、お前に勤めてゐるんぢやないのだから、さう思つてゐてくれ", "狭山さん、貴方もそんなに言はなくたつて可いぢやありませんか", "お前が言出すからよ", "だつて貴方がかう云ふ場になつて迷惑さうな事を言ふから、私は情無くなつて、どうしたら可からうと思つたんでさね。ぢや私が悪かつたんだから謝ります。ねえ、狭山さん、些と" ], [ "狭山さんてば、貴方何を考へてゐるのね", "知れた事さ、彼我の身の上をよ", "何だつてそんな事を考へてゐるの", "…………", "今更何も考へる事は有りはしないわ" ], [ "もうそんな溜息なんぞを呴くのはお舎しなさいつてば", "お前二十……二だつたね", "それがどうしたの、貴方が二十八さ", "あの時はお前が十九の夏だつけかな", "ああ、さう、何でも袷を着てゐたから、丁度今時分でした。湖月さんのあの池に好いお月が映してゐて、暖い晩で、貴方と一処に涼みに出たんですよ、善く覚えてゐる。あれが十九、二十、二十一、二十二と、全三年に成るのね", "おお、さうさう。昨日のやうに思つてゐたが、もう三年に成るなあ", "何だか、かう全で夢のやうね", "吁、夢だなあ!", "夢ねえ!", "お静!", "狭山さん!" ], [ "ゆ……ゆ……夢だ!", "夢だわ、ねえ!" ], [ "かう成るのも皆約束事ぢやあらうけれど、那奴さへ居なかつたら、貴方だつて余計な苦労は為はしまいし。私は私で、ああもかうも思つて、末始終の事も大概考へて置いたのだから、もう少しの間時節が来るのを待つてゐられりや、曩日の御神籤通な事に成れるのは、もう目に見えてゐるのを、那奴が邪魔して、横紙を裂くやうな事を為やがるばかりに大事に為なけりや成らない貴方の体に、取つて返しの付かない傷まで附けさせて、私は、狭山さん、余り申訳が無い! 堪……忍……して下さい", "そりやなあに、お互の事だ" ], [ "生木を割いて別れるよりは、まあ愈だ", "別れる? 吁! 可厭だ! 考へても慄然とする! 切れるの、別れるのなんて事は、那奴が来ない前には夢にだつて見やしなかつたのを、切れろ切れろぢや私もどの位内で責められたか知れやしない。さうして挙句がこんな事に成つたのも、想へば皆那奴のお蔭だ。ええ、悔い! 私はきつと執着いても、この怨は返して遣るから、覚えてゐるが可い!" ], [ "馬鹿も大馬鹿よ! 方図の知れない馬鹿だわ。畜生! 所歓の有る女が金で靡くか、靡かないか、些は考へながら遊ぶが可い。来りや不好な顔を為て遣るのに、それさへ解らずに、もう憥く附けつ廻しつして、了局には人の恋中の邪魔を為やがるとは、那奴も能く能くの芸無猿に出来てゐるんだ。憎さも憎し、私はもう悔くて、悔くて、狭山さん、実はね、私はこの世の置土産に、那奴の額を打割つて来たんでさね", "ええ、どうして!" ], [ "さう云ふ訳ぢや、猶更内ぢや大騒をして捜してゐる事だらう", "大変でせうよ", "それだと余り遅々しちやゐられないのだ", "どうで、狭山さん、先は知れてゐ……", "さうだ", "だからねえ、もう早い方が可ござんすよ" ], [ "お静、おい、お静や", "あ……あい。狭山さん!" ], [ "膳を持つて来ないか", "ええ" ], [ "狭山さん、私は何だか貴方に言残した事が未だ有るやうな心持がして……", "吁、もうかう成つちやお互に何も言はないが可い。言へばやつぱり未練が出る" ], [ "貴方、その指環を私のと取替事して下さいね", "さうか" ], [ "ああ、大相降つて来た", "貴方は不断から雨が所好だつたから、きつとそれで……暇……乞に降つて来たんですよ", "好い折だ。あの雨を肴に……お静、もう覚悟を為ろよ!", "あ……あい。狭山さん、それぢや私も……覚……悟したわ", "酒を持つて来な", "あい" ], [ "どうしたのだ", "なあにね、帯がこんなに結ばつて了つて", "帯が結ばつた?", "ああ! あなた釈いて下さい、よう", "何か吉い事が有るのだ", "私はもしも遣損つて、耻でも曝すやうな事が有つちやと、それが苦労に成つて耐らなかつたんだから、これでもう可いわ", "それは大丈夫だから安心するが可い。けれど、もしもだ、お静、そんな事は無いとは念ふけれど、運悪く遅れたら、俺はきつと後から往くから――どんなにしても往くから、恨まずに待つてゐてくれ。よ、可……可いか" ], [ "その代り、偶としてお前が後になるやうだつたら、俺は死んでも……魂はおまへの陰身を離れないから、必ず心変を……す、するなよ、お静", "そんな事を言はないで、一処に……連れて……往つて……下さいよ", "一処に往くとも!", "一処に! 一処に往きますよ!", "さあ、それぢやこ、この世の……別に一盃飲むのだ。もう泣くな、お静", "泣、泣かない", "さあ、那裏へ行つて飲まう" ], [ "猪口でなしに、その湯呑に為やう", "さう。ぢや半分づつ" ], [ "おまへの酌で飲むのも……今夜きりだ", "狭山さん、私はこんなに苦労を為て置きながら、到頭一日でも……貴方と一処に成れずに、芸者風情で死んで了ふのが……悔い、私は!" ], [ "もうそ、そ、そんな事……言つて……くれるな! 冥路の障だ。両箇が一処に死なれりや、それで不足は無いとして、外の事なんぞは念はずに、お静、お互に喜んで死なうよ", "私は喜んでゐますとも、嬉いんですとも。嬉くなくてどうしませう。このお酒も、祝つて私は飲みます" ], [ "お静、覚悟は可いか", "可いわ、狭山さん", "可けりや……", "不如もう早く" ], [ "さあ、その酒を取つてくれ。お前のには俺が酌をするから、俺のにはお前が", "ああ可うござんす" ], [ "ああ! 貴方は", "お見覚ありませう、あれに居る泊客です。無断にお座敷へ入つて参りまして、甚だ失礼ぢや御座いますけれど、実に危い所! 貴下方はどうなすつたのですか" ], [ "勿論これには深い事情がお有んなさるのでせう。ですから込入つたお話は承はらんでも宜い、但何故に貴下方は活きてをられんですか、それだけお聞せ下さい", "…………", "お二人が添ふに添れん、と云ふやうな事なのですか" ], [ "はい御深切に……難有う存じます……", "さあ、お話し下さい", "はい", "今更お裹みなさる必要は無からう、と私は思ふ。いや、つい私は申上げんでをつたが、東京の麹町の者で、間貫一と申して、弁護士です。かう云ふ場合にお目に掛るのは、好々これは深い御縁なのであらうと考へるのですから、決して貴下方の不為に成るやうには取計ひません。私も出来る事なら、人間両個の命を拯ふのですから、どうにでもお助け申して、一生の手柄に為て見たい。私はこれ程までに申すのです", "はい、段々御深切に、難有う存じます", "それぢや、お話し下さるか", "はい、お聴に入れますで御座います", "それは忝ない" ], [ "何からお話し申して宜いやら……", "いや、その、何ですな、貴下方は添ふに添れんから死ぬと有仰る――! 何為添れんのですか", "はい、実は私は、恥を申しませんければ解りませんが、主人の金を大分遣ひ込みましたので御座います", "はあ、御主人持ですか", "さやうで御座います。私は南伝馬町の幸菱と申します紙問屋の支配人を致してをりまして、狭山元輔と申しまする。又これは新橋に勤を致してをります者で、柏屋の愛子と申しまする" ], [ "はあ、成程", "然るところ、昨今これに身請の客が附きまして", "ああ、身請の? 成程", "否でもその方へ参らんければ成りませんやうな次第。又私はその引負の為に、主人から告訴致されまして、活きてをりますれば、その筋の手に掛りますので、如何にとも致方が御座いませんゆゑ、無分別とは知りつつも、つい突迫めまして、面目次第も御座いません" ], [ "ははあ。さうするとここに金さへ有れば、どうにか成るのでせう! 貴方の費消だつて、その金額を弁償して、宜く御主人に詑びたら、無論内済に成る事です。婦人の方は、先方で請出すと云ふのなら、此方でも請出すまでの事。さうして、貴方の引負は若干ばかりの額に成るのですか", "三千円ほど", "三千円。それから身請の金は?" ], [ "何やかやで八百円ぐらゐは要りますので", "三千八百円、それだけ有つたら、貴下方は死なずに済むのですな" ], [ "成程⁈", "と申すのには、少し又仔細が御座いますので。それは、主人の家内の姪に当ります者が、内に引取つて御座いまして、これを私に妻せやうと云ふ意衷で、前々からその話は有りましたので御座いますが、どうも私は気が向きませんもので、何と就かずに段々言延して御座いましたのを、決然どうかと云ふ手詰の談に相成りましたので。究竟、費消は赦して遣るから、その者を家内に持て、と箇様に主人は申すので御座います", "大きに", "其処には又千百事情が御座いまして、私の身に致しますと、その縁談は実に辞るにも辞りかねる義理に成つてをりますので、それを不承知だなどと吾儘を申しては、なかなか済む訳の者ではないので御座います", "ああ、さうなのですか", "そこへ持つて参つて、此度の不都合で御座います、それさへ大目に見てくれやうと云ふので御座いますから、全で仇をば恩で返してくれますやうな、申分の無い主人の所計。それを乖きましては、私は罰が中りますので御座います。さうとは存じながら、やつぱり私の手前勝手で、如何にともその気に成れませんので、已むを得ず縁談の事は拒絶を申しましたので御座います", "うむ、成程", "それが為に主人は非常な立腹で、さう吾儘を言ふのなら、費消を償へ、それが出来ずば告訴する。さうしては貴様の体に一生の疵が附く事だから、思反して主人の指図に従へと、中に人まで入れて、未だ未だ申してくれましたのを、何処までも私は剛情を張通して了つたので御座います", "吁! それは貴方が悪いな" ], [ "え⁉ 何……何……何ですか!", "御承知で御座いますか、あの富山唯継と云ふ……", "富山? 唯継!" ], [ "その富山唯継が身請の客ですか", "はい、さやうで御座いますが、貴方は御存じでゐらつしやいますので?", "知つてゐます! 好く……知つてゐます!" ], [ "はい、さやうなんで御座います", "で、貴方は彼に退かされるのを嫌つたのですな", "はい", "さうすると、去年の始から貴方はあれの世話に成つてをつたのですか", "私はあんな人の世話なんぞには成りは致しません!", "はあ? さうですか。世話に成つてゐたのぢやないのですか", "いいえ、貴方。唯お座敷で始終呼れますばかりで", "ああ、さうですか! それぢや旦那に取つてをつたと云ふ訳ぢやないのですか" ], [ "私には、さう云ふ事が出来ませんので、今までついにお客なんぞを取つた事は、全然無いんで御座います", "ああ、さうですか! うむ、成程……成程な……解りました、好く解りました" ], [ "それではかう云ふのですな、貴方は勤を為てをつても、外の客には出ずに、この人一個を守つて――さうですね", "さやうです", "さうして、余所の身請を辞つて――富山唯継を振つたのだ! さうですな", "はい" ], [ "ふむ、それで富山はどうしました", "来る度に何のかのと申しますのを、体好く辞るんで御座いますけれど、もう憥く来ちや、一頻なんぞは毎日揚詰に為れるんで、私はふつふつ不好なんで御座います。それに、あの人があれで大の男自慢で、さうして独で利巧ぶつて、可恐い意気がりで、二言目には金々と、金の事さへ言へば人は難有がるものかと思つて、俺がかうと思や千円出すとか、ここへ一万円積んだらどうするとか、始終そんな有余るやうな事ばかり言ふのが癖だもんですから、衆が『御威光』と云ふ仇名を附けて了つて、何処へ行つたつて気障がられてゐる事は、そりや太甚いんで御座います", "ああ、さうですか", "そんな風なんですから、体好く辞つたくらゐぢや、なかなか感じは為ませんので、可けもしない事を不相変執煩く、何だかだ言つてをりましたけれど、這箇も剛情で思ふやうに行かないもんですから、了局には手を易へて、内のお袋へ親談をして、内々話は出来たんで御座んせう。どうもそんなやうな様子で、お袋は全で気違のやうに成つて、さあ、私を責めて責めて、もう箸の上下には言れますし、狭山と切れろ切れろの聒く成りましたのも、それからなので、私は辛さは辛し、熟くこんな家業は為る者ぢやないと、何も解らずに面白可笑く暮してゐた夢も全く覚めて、考へれば考へるほど、自分の身が余りつまらなくて、もうどうしたら可いんだらう、と鬱ぎ切つてゐる矢先へ、今度は身請と来たんで御座います", "うむ、身請――けれども、貴方を別にどう為たと云ふ事も無くて、直に身請と云ふのですか", "さうなので", "変な奴な! さう云ふ身請の為方が、然し、有りますか", "まあ御座いませんです", "さうでせう。それで、身請をして他へ囲つて置かうとでも云ふのですか", "はい、これまで色々な事を申しても、私が聴きませんもんで、末始終気楽に暮せるやうにして遣つたら、言分は無からうと云つたやうな訳で、まあ身請と出て来たんで。何ですか、今の妻君は、あれはどうだから、かう為るとか、ああ為るとか、好いやうな嬉がらせを言つちやをりましたけれど" ], [ "妻君に就いてどう云ふ話が有るのですか", "何んですか知りませんが、あの人の言ふんでは、その妻君は、始終寐てゐるも同様の病人で、小供は無し、用には立たず、有つても無いも同然だから、その内に隠居でもさせて、私を内へ入れてやるからと、まあさう云つたやうな口気なんで御座います", "さうして、それは事実なのですか、妻君を隠居させるなどと云ふのは", "随分ちやらつぽこを言ふ人なんですから、なかなか信にはなりは致しませんが、妻君の病身の事や、そんなこんなで余り内の面白くないのは、どうも全くさうらしいんで御座んす", "ははあ" ], [ "そんな捫懌最中に、狭山さんの方が騒擾に成りましたんで、私の事はまあどうでも、ここに三千円と云ふお金が無い日には、訴へられて懲役に遣られると云ふんですから、私は吃驚して了つて、唯もう途方に昧れて、これは一処に死ぬより外は無いと、その時直にさう念つたんで御座います。けれども、又考へて、背に腹は替へられないから、これは不如富山に訳を話して、それだけのお金をどうにでも借りるやうに為やうかとも思つて見まして、狭山さんに話しましたところ、俺の身はどうでも、お前の了簡ぢや、富山の処へ行くのが可いか、死ぬのが可いか、とかう申すので御座いませう", "うむ、大きに", "私はあんな奴に自由に為れるのはさて置いて、これまでの縁を切るくらゐなら死んだ方が愈だと、初中終言つてをりますんですから、あんな奴に身を委せるの、不好は知れてゐます", "うむ、さうとも", "さうなんですけれど金ゆゑで両個が今死ぬのも余り悔いから、三千円きつと出すか、出さないか、それは分りませんけれど、もし出したらば出さして、なあに私は那裏へ行つたつて、直に迯げて来さへすりや、切れると云ふんぢやなし、少の間不好な夢を見たと思へば、それでも死ぬよりは愈だらう、と私はさう申しますと、狭山さんは、それは詐取だ……", "それは詐取だ! さうとも" ], [ "成程。そこで貴方が?", "私は今更富山なんぞにどうしやうと申したのも、究竟私ゆゑにそんな訳に成つた狭山さんが、どうにでも助けたいばかりなんで御座いますから、その人が死ぬと言ふのに、私一箇残つてゐたつて、為様が有りは致しません。貴方が死ぬなら、私も死ぬ――それぢや一処にと約束を致して、ここへ参つたんで御座います", "いや、善く解りました!" ], [ "さうかね", "あら、さうかねぢや御座いませんよ、どうあそばしたのです", "別にどうも為はせんけれど、何だかかう気が閉ぢて、惺然せんねえ", "惺然あそばせよ。麦酒でも召上りませんか、ねえ、さうなさいまし", "麦酒かい、余り飲みたくもないね", "貴方そんな事を有仰らずに、まあ召上つて御覧なさいまし。折角私が冷して置きましたのですから", "それは狭山君が帰つて来て飲むのだらう", "何で御座いますつて⁈", "いや、常談ぢやない、さうなのだらう", "狭山は、貴方、麦酒なんぞを戴ける今の身分ぢや御座いませんです", "そんなに堅く為んでも可いさ、内の人ぢやないか。もつと気楽に居てくれなくては困る" ], [ "この上の気楽が有つて耐るものぢや御座いません", "けれども有物だから、所好なら飲んでもらはう。お前さんも克くのだらう", "はあ、私もお相手を致しますから、一盃召上りましよ。氷を取りに遣りまして――夏蜜柑でも剥きませう――林檎も御座いますよ", "お前さん飲まんか", "私も戴きますとも", "いや、お前さん独で", "貴方の前で私が独で戴くので御座いますか。さうして貴方は?", "私は飲まん", "ぢや見てゐらつしやるのですか。不好ですよ、馬鹿々々しい! まあ何でも可いから、ともかくも一盃召上ると成さいましよ、ね。唯今直に持つて参りますから、其処にゐらつしやいまし" ], [ "はい、お肴を", "まあ、一盃上げやう", "まあ、貴方――いいえ、可けませんよ。些とお顔に出るまで二三盃続けて召上れよ。さうすると幾らかお気が霽れますから", "そんなに飲んだら倒れて了ふ", "お倒れなすたつて宜いぢや御座いませんか。本当に今日は不好な御顔色でゐらつしやるから、それがかう消えて了ふやうに、奮発して召上りましよ" ], [ "薬だつてさうは利かんさ", "どうあそばしたので御座います。何処ぞ御体がお悪いのなら、又無理に召上るのは可う御座いませんから", "体は始終悪いのだから、今更驚きも為んが……ぢや、もう一盃飲まうか", "へい、お酌。ああ、余りお見事ぢや御座いませんか", "見事でも可かんのかい", "いいえ、お見事は結構なのですけれど、余り又――頂戴……ああ恐入ります" ], [ "召上りますの?", "飲む" ], [ "お静さんはどう思ふね", "私共は固より命の無いところを、貴方のお蔭ばかりで助つてをりますので御座いますから、私共の体は貴方の物も同然、御用に立ちます事なら、どんなにでも遊してお使ひ下さいまし。狭山もそんなに申してをります", "忝ない。然し、私は天引三割の三月縛と云ふ躍利を貸して、暴い稼を為てゐるのだから、何も人に恩などを被せて、それを種に銭儲を為るやうな、廻り迂い事を為る必要は、まあ無いのだ。だから、どうぞ決してそんな懸念は為て下さるな。又私の了簡では、元々些の酔興で二人の世話を為るのだから、究竟そちらの身さへ立つたら、それで私の念は届いたので、その念が届いたら、もう剰銭を貰はうとは思はんのだ。と言つたらば、情無い事には、私の家業が家業だから、鬼が念仏でも言ふやうに、お前さん方は愈よ怪く思ふかも知れん――いや、きつとさう思つてゐられるには違無い。残念なものだ!" ], [ "それも悪木の蔭に居るからだ!", "貴方、決して私共がそんな事を夢にだつて思ひは致しません。けれども、そんなに有仰いますなら、何か私共の致しました事がお気に障りましたので御座いませう。かう云ふ何も存じません粗才者の事で御座いますから", "いいや、……", "いいえ、私は始終言はれてをります狭山に済みませんですから、どうぞ行届きませんところは", "いいや、さう云ふ意味で言つたのではない。今のは私の愚痴だから、さう気に懸けてくれては甚だ困る", "ついにそんな事を有仰つた事の無い貴方が、今日に限つて今のやうに有仰ると、日頃私共に御不足がお有なすつて", "いや、悪かつた、私が悪かつた。なかなか不足どころか、お前さん方が陰陽無く実に善く気を着けて、親身のやうに世話してくれるのを、私は何より嬉く思つてゐる。往日話した通り、私は身寄も友達も無いと謂つて可いくらゐの独法師の体だから、気分が悪くても、誰一人薬を飲めと言つてくれる者は無し、何かに就けてそれは心細いのだ。さう云ふ私に、鬱いでゐるから酒でも飲めと、無理にも勧めてくれるその深切は、枯木に花が咲くやうな心持が、いえ、嘘でも何でも無い。さあ、嘘でない信に一献差すから、その積で受けてもらはう", "はあ、是非戴かして下さいまし", "ああ、もうこれには無い", "無ければ嘘なので御座いませう", "未だ半打の上有るから、あれを皆注いで了はう", "可うございますね" ], [ "いいえ、どうぞお話をお聞せなすつて下さいまし", "肴に成るやうな話なら可いがね", "始終狭山ともさう申してをるので御座いますけれど、旦那様は御病身と云ふ程でも無いやうにお身受申しますのに、いつもかう御元気が無くて、お険いお顔面ばかりなすつてゐらつしやるのは、どう云ふものかしらんと、陰ながら御心配申してをるので御座いますが", "これでお前さん方が来てくれて、内が賑かに成つただけ、私も旧から見ると余程元気には成つたのだ", "でもそれより御元気がお有なさらなかつたら、まあどんなでせう", "死んでゐるやうな者さ", "どうあそばしたので御座いますね", "やはり病気さ", "どう云ふ御病気なので", "鬱ぐのが病気で困るよ", "どう為てさうお鬱ぎあそばすので御座います" ], [ "究竟病気の所為なのだね", "ですからどう云ふ御病気なのですよ", "どうも鬱ぐのだ", "解らないぢや御座いませんか! 鬱ぐのが病気だと有仰るから、どう為てお鬱ぎ遊すのですと申せば、病気で鬱ぐのだつて、それぢや何処まで行つたつて、同じ事ぢや御座いませんか", "うむ、さうだ", "うむ、さうだぢやありません、緊りなさいましよ", "ああ、もう酔つて来た", "あれ、未だお酔ひに成つては可けません。お横に成ると御寐に成るから、お起きなすつてゐらつしやいまし。さあ、貴方" ], [ "ここを富山唯継に見せて遣りたい!", "ああ、舎して下さいまし! 名を聞いても慄然とするのですから", "名を聞いても慄然とする? さう、大きにさうだ。けれど、又考へて見れば、あれに罪が有る訳でも無いのだから、さして憎むにも当らんのだ", "ええ、些の太好かないばかりです!", "それぢや余り差はんぢやないか" ], [ "さう、さう、さう!", "さうして富山みたやうなあんな奴がまあ紛々然と居て、番狂を為て行くのですから、それですから、一日だつて世の中が無事な日と云つちや有りは致しません。どうしたらあんなにも気障に、太好かなく、厭味たらしく生れ付くのでせう", "おうおう、富山唯継散々だ", "ああ。もうあんな奴の話をするのは馬鹿々々しいから、貴方、舎しませうよ", "それぢやかう云ふ話が有る", "はあ", "一体男と女とでは、だね、那箇が情合が深い者だらうか", "あら、何為で御座います", "まあ、何為でも、お前さんはどう思ふ", "それは、貴方、女の方がどんなに情が", "深いと云ふのかね", "はあ", "信にならんね", "へえ、信にならない証拠でも御座いますか", "成程、お前さんは別かも知れんけれど", "可う御座いますよ!", "いいえ、世間の女はさうでないやうだ。それと云ふが、女と云ふ者は、慮が浅いからして、どうしても気が移り易い、これから心が動く――不実を不実とも思はんやうな了簡も出るのだ", "それはもう女は浅捗な者に極つてゐますけれど、気が移るの何のと云ふのは、やつぱり本当に惚れてゐないからです。心底から惚れてゐたら、些も気の移るところは無いぢや御座いませんか。善く女の一念と云ふ事を申しますけれど、思窮めますと、男よりは女の方が余計夢中に成つて了ひますとも", "大きにさう云ふ事は有る。然し、本当に惚れんのは、どうだらう、女が非いのか、それとも男の方が非いのか", "大変難く成りましたのね。さうですね、それは那箇かが非い事も有りませう。又女の性分にも由りますけれど、一概に女と云つたつて、一つは齢に在るので御座いますね", "はあ、齢に在ると云ふと?", "私共の商買の者は善くさう申しますが、女の惚れるには、見惚に、気惚に、底惚と、かう三様有つて、見惚と云ふと、些と見たところで惚込んで了ふので、これは十五六の赤襟盛に在る事で、唯奇麗事でありさへすれば可いのですから、全で酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。それから、十七八から二十そこそこのところは、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、扮装の奇なのなんぞには余り迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合が嬉いとか、何とか、そんなところに目を着けるので御座いますね。ですけれど、未だ未だやつぱり浮気なので、この人も好いが、又あの人も万更でなかつたりなんぞして、究竟お肚の中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも二十三四からに成らなくては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申しますが、そんなものかも知れませんよ。この齢に成れば、曲りなりにも自分の了簡も据り、世の中の事も解つてゐると云つたやうな勘定ですから、いくら洒落気の奴でも、さうさう上調子に遣つちやゐられるものぢやありません。其処は何と無く深厚として来るのが人情ですわ。かうなれば、貴方、十人が九人までは滅多に気が移るの、心が変るのと云ふやうな事は有りは致しません。あの『赤い切掛け島田の中は』と云ふ唄の文句の通、惚れた、好いたと云つても、若い内はどうしたつて心が一人前に成つてゐないのですから、やつぱりそれだけで、為方の無いものです。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいの言れた日には、殿方は御難ですね" ], [ "誠に面白かつた。見惚に気惚に底惚か。齢に在ると云ふのは、これは大きにさうだ。齢に在る! 確に在るやうだ!", "大相感心なすつてゐらつしやるぢや御座いませんか", "大きに感心した", "ぢやきつと胸に中る事がお有なさるので御座いますね", "ははははははは。何為", "でも感心あそばし方が凡で御座いませんもの", "ははははははは。愈よ面白い", "あら、さうなので御座いますか", "はははははは。さうなのとはどうなの?", "まあ、さうなのですね" ], [ "さうだつたらどうかね。はははははは", "あら、それぢや愈よさうなので御座いますか!", "ははははははははは", "可けませんよ、笑つてばかりゐらしつたつて", "はははははは" ] ]
底本:「金色夜叉」新潮文庫、新潮社    1969(昭和44)年11月10日発行    1998(平成10)年1月15日第39刷 初出:「読売新聞」    1897(明治30)年1月1日~1902(明治35)年5月11日 入力:柴田卓治 校正:かとうかおり ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、「市《いち》ヶ|谷《や》」「児《ちご》ヶ|淵《ふち》」「竜《りゆう》ヶ|鼻《はな》」は小振りに、「一ヶ年分」は大振りに、つくっています。 2000年2月23日公開 2015年10月26日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000522", "作品名": "金色夜叉", "作品名読み": "こんじきやしゃ", "ソート用読み": "こんしきやしや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「読売新聞」1897(明治30)年1月1日~1902(明治35)年5月11日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-02-23T00:00:00", "最終更新日": "2015-10-26T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000091/card522.html", "人物ID": "000091", "姓": "尾崎", "名": "紅葉", "姓読み": "おざき", "名読み": "こうよう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "こうよう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Koyo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1868-01-10", "没年月日": "1903-10-30", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "金色夜叉", "底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社", "底本初版発行年1": "1969(昭和44)年11月10日", "入力に使用した版1": "1998(平成10)年1月15日第39刷", "校正に使用した版1": "1999(平成11)4月10日第40刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "柴田卓治", "校正者": "かとうかおり", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000091/files/522_ruby_3355.zip", "テキストファイル最終更新日": "2015-10-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "4", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000091/files/522_19603.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2015-10-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "4" }
[ [ "ちょっと待っておいで、――探してくるからね", "そいじゃあ、すまんがな、ここでやるからの――" ], [ "どうしたの?", "いや" ], [ "待て。――おれは今お前におふくろと話をしてもらいたくないんだ", "何故?", "俺の心はおふくろに対する憎しみで一ぱいになっているのだ。そりゃあ苦しい時には死にたくもなるし、実際死ぬ事ができたらその方がいいにきまっているさ。しかし、若しおふくろを自殺させたとしたら俺は一体どうしたらいいんだ。おふくろには自分の死骸の前に立っているおれの姿が見えないのかな。自分の苦痛につながりを持っている人間の姿が……" ] ]
底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「秋風と母」日東出版社    1946(昭和21)年8月 初出:「新小説」    1926(大正15)年9月 入力:入江幹夫 校正:フクポー 2019年1月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059027", "作品名": "秋風と母", "作品名読み": "あきかぜとはは", "ソート用読み": "あきかせとはは", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新小説」1926(大正15)年9月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2019-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2019-01-30T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card59027.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎士郎短篇集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2016(平成28)年4月15日", "入力に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "校正に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "底本の親本名1": "秋風と母", "底本の親本出版社名1": "日東出版社", "底本の親本初版発行年1": "1946(昭和21)年8月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59027_ruby_66934.zip", "テキストファイル最終更新日": "2019-01-30T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59027_66980.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-01-30T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "実は無理なお願いにあがったんですが", "何ですか?" ] ]
底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「悪の序章」近代文化社    1948(昭和23)年10月 初出:「文藝時代」    1926(大正15)年12月 入力:入江幹夫 校正:フクポー 2021年1月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059028", "作品名": "運命について", "作品名読み": "うんめいについて", "ソート用読み": "うんめいについて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文藝時代」1926(大正15)年12月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-02-05T00:00:00", "最終更新日": "2021-01-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card59028.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎士郎短篇集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2016(平成28)年4月15日", "入力に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "校正に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "底本の親本名1": "悪の序章", "底本の親本出版社名1": "近代文化社", "底本の親本初版発行年1": "1948(昭和23)年10月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59028_ruby_72597.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-01-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59028_72641.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-01-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "夢なんか気にしない方がいいよ", "いや、それがね、おかしいじゃないの、うちのルビ(猫の名)がわたしの蒲団の上に乗っかっているの、しかし、よく見ると、やっぱりルビじゃないのよ、その猫が、みるみるうちに金色に光りだしてきたの、へんだなと思っているうちにその猫が、そのまま私の身体の中へはいってしまったのよ", "そうかい、おもしろい夢だな", "ところが、まだ、そのつづきがあるの、ハッと思って眼がさめると家政婦さんが枕元に坐っていて、おくさん、あなたの頭が半分になりましたというんじゃないの、私、どきっとして慌てて頭へ手をあててみると頭はちゃんとあるのよ、ああよかったと思ったとたんに、こんどはほんとうに眼がさめたの" ] ]
底本:「親馬鹿読本」鱒書房    1955(昭和30)年4月25日初版発行 入力:sogo 校正:持田和踏 2022年1月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ねえ、あなた、――わたしたちはこうやって暮しているうちに自分をすっかり擦り減らしてしまうような気がするじゃないの、それがわたし急におそろしくなったの。だからね、わたしいいことを考えたのよ。わたしたちはすっかりわかれてしまうことにするの。そうしてね、勝手な空想をするの。空想の中であなたがほかの女と一所に何処かへ逃げていってしまったっていいわ。わたしがひとりのこされる。ね、そうするとわたしたちの生活がもっと生々してくるわ。ほんとうにわかれるんじゃないのよ。世間体だけそうするの", "なるほど、そいつはいい方法だ。早速はじめることにしよう。だがね、おれはお前ほど空想的でないから動くのが厭だ。――おれの方に残される役を振りあててくれ", "あなたは莫迦に冷淡なのね、あなたはそんな風な言い方をして平気なの、――わたしはもうあなたにはまるで要らないものになってしまったのね、あなたはわたしがほかの男と逃げていったりするのを黙って見て居られるの?", "お前は自分勝手な奴だな。――お前がおれにとって要らないものになってしまっているよりも以上に、おれはお前にとって要らないものになってしまっているじゃないか。おれたちの生活はそんな子供だましのような方法でゴマ化すことはできなくなってしまっているんだぞ。――だから", "だからどうしたの?", "だからおれはもっと根本的なことを考えているんだ――", "根本的なこと? じゃあ、わたしたちはもうほんとうにすっかりわかれてしまうの?", "そんなことはおれにもわからないさ。兎に角だ、おれはもうこういう話をすることにも疲れているんだ。おれは一人きりになりたい。そしておれの生活をとり戻したいのだ。おれはお前のかげを背負って歩いているようなものだ。お前がおれの敵だったら、おれは未だしも救われるだろう、だが、そうじゃない。おれたちは味方同志だ。憎み合っている味方同志だ。それにこんな古ぼけた痴話喧嘩のテーマを幾つ積みあげたところで同じことだ。お前は何にもおれに遠慮する必要はないのだからな、お前の新しいきずなにとびつけばいい。――こういうときには人間は自分を不幸にすることを恐れてはいけない", "とんだ御説法だわね。そんなに自分を不幸にしたければ、あなたが御自身で決行なさるがいいわ。あなたは何時だって、自分のことだけしか考えていらっしゃらないくせに", "おれが?、――なるほど、おれは自分のことを考えているさ。だが、お前がおれよりも以上に自分のことを考えていないと言えるか", "あなたは理窟がお上手なのね。わたしは一度だって、あなたとわたしとを別々のものにして考えたことなんかないのよ。それだのにあなたは何時もわたしのことと御自身のこととの間にはっきりとした境界をつけていらっしゃる。――わたしから離れよう離れようとなさるのがよくわかるわ。それを考えるとわたしはほんとにあなたにお気の毒でならないと思うのよ。ね、あなた。わたしたちはもうおしまいになってしまったのね" ], [ "ねえ、あなた、ほんとうなの?", "ほんとうだ", "じゃ、わかれてしまうのね?", "そうだ。――" ] ]
底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「鶺鴒の巣」新潮社    1939(昭和14)年5月 初出:「新潮」    1927(昭和2)年9月 入力:入江幹夫 校正:フクポー 2020年1月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059029", "作品名": "河鹿", "作品名読み": "かじか", "ソート用読み": "かしか", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新潮」1927(昭和2)年9月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-02-05T00:00:00", "最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card59029.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎士郎短篇集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2016(平成28)年4月15日", "入力に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "校正に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "底本の親本名1": "鶺鴒の巣", "底本の親本出版社名1": "新潮社", "底本の親本初版発行年1": "1939(昭和14)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59029_ruby_70122.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59029_70171.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "えっ、――ほんとにどうしたんだい?", "新政府が、――新政府が出来るんですよ、今朝いよいよ" ], [ "新政府?", "じゃあ――" ], [ "とにかくあがったらどうかね。そんなところに立っていないで", "そうしちゃあいられないんですよ、今日一日が勝敗の瀬戸際なんです、いざとなったら僕も一役買って出なくっちゃあ", "買って出るって――?", "何も彼も根こそぎに変ってしまうんですよ、ああ何も彼も、とにかくバタバタと事は決ってしまうんですからね", "まア、それにしても" ], [ "大へんよ、――今ね、あそこで電話をかけているひとのはなしをきいたんだけど、今朝、総理大臣も教育総監もそれから大蔵大臣もみんな殺されてしまったんですって", "ほんとうかい?" ], [ "紹介しよう、――鷺野伍一君じゃ", "やあ、これは" ], [ "今夜は大へんなことになるかも知れないぜ", "だからどうなの?", "君たちも早くかえらなくっちゃあ", "だって" ], [ "うれしいって、――一向うれしそうでもないじゃないか?", "そりゃあ" ], [ "とにかく、一つの錯覚は民衆が動いてくることを信じたところにある", "いや" ], [ "どこへゆくんです、今頃?", "それがね" ], [ "それよりも兄貴のことで心配しているんですよ", "丈ちゃん――?", "それがね、昨日まではハッキリしなかったのが、だんだん外部関係がわかってきたらしいんですよ、――今朝も民衆聯合を指導していた根本という人が夫婦で僕の家へ逃げこんできたんですがね、兄貴は兄貴で夕方出たきりかえってこないんですよ、今のところではまだ兄貴の関係していることは警察にも憲兵隊にもわかっていないらしいけれど、やがてわかることはきまっているんですからね" ], [ "それで、丈ちゃんは一体何処にいるの?", "そいつがわからないんですがね、しかし、兄貴はしっかりしていますよ、唯、いよいよとなったときの用意だけは今のうちにしておかないと" ], [ "それで、どうしたんだい、将校たちは?", "ハッキリしたことはまだわからんがね、代表者の野村大尉が悲壮な訣別演説をしたそうだ、――それからみんな一斉に自決したという説もあるんだがどうもこいつは怪しいね、生き残ったとしたら何だか少し寂しいよ、死刑になることはわかりきっているんだし", "あんなときにはやっぱりひと思いに死ねないものかね?", "そりゃあ――" ], [ "それでどうするの、丈ちゃんは?", "そのことでね" ], [ "しかし、情報といったってもう大勢はきまっているんだからね", "ええだけど" ], [ "それにしたって、今となっちゃどうしようもないじゃないか、――それより問題は丈ちゃん自身の進退だね", "そいつがどうしていいか見当がつかないんですよ、やっぱり自首して出るか、それともどこかへ逃亡しようかと考えあぐんでいるんですが", "どっちとも僕には言えないが、どうせつかまるもんなら自首してしまった方がいいんじゃないかな?", "それも考えるんですがね" ], [ "だけど君、――そのことはまた別じゃないか、すくなくとも僕の認識の中では今度の事件についての君の役割は終っているよ。それにもし君が逃亡したとなったら家の方じゃ大へんなことが持ちあがるぜ", "そうなんだ" ], [ "今日、来なかったかしら、多吉は?", "じゃあ会わないんだね、――夕方かえった筈なんだが", "夕方?" ], [ "とにかく最初の日の威勢のよさったら大へんなものですよ、近所に住んでいる自動車の運転手をうまくだまして、一日じゅう危険区域を乗り廻していたんだそうですからね、運転手もまた妙なやつで、多吉といっしょにいさえすれば何かいいことがあると思ったんですね、到頭二日目の午後になってから大損をしたといってさわぎだしたというんですが", "なるほどね" ], [ "鰻を――?", "前に僕が届けてやったことがあるんで、そいつを思いだして" ] ]
底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「悪の序章」近代文化社    1948(昭和23)年10月 初出:「中央公論」中央公論社    1937(昭和12)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:入江幹夫 校正:フクポー 2021年1月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059030", "作品名": "菎蒻", "作品名読み": "こんにゃく", "ソート用読み": "こんにやく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」中央公論社、1937(昭和12)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2021-01-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card59030.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎士郎短篇集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2016(平成28)年4月15日", "入力に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "校正に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "底本の親本名1": "悪の序章", "底本の親本出版社名1": "近代文化社", "底本の親本初版発行年1": "1948(昭和23)年10月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59030_ruby_72619.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-01-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59030_72663.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-01-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "試験って?", "高等文官さ" ], [ "何か遺書のようなものはないんですか?", "さあ、それが、――何が何だかわたしにも少しもわからないんだよ。一昨日の朝なぞ、とても機嫌がよくてはしゃぎ廻っていたんだがね。別に気にかけているようなこともなかったようだし、夜も此処で一人で本を読んでいたようだったがね。そいでも虫が知らせるというものか、あの晩にかぎってわたしはどうしても寝就かれんのじゃ。一時過ぎじゃったと思うが大きい声で春代を呼んでいたがそれも二、三度呼ぶと止めてしまった。それから暫く経って忍び足でわたしの室までやってきて蚊帳を覗くようにするので、わたしが声をかけると笑いながら、お前は未だ起きていたのか、おれは今夜は調べ物があるからもう少し起きているのじゃが急須が無いんで探していると言うから、急須はたしかお前の室にあった筈じゃがと言うと、ああそうか、それはうっかりしていたと言いながら行ってしまった。そのときは気にもとめなかったが今から考えるとあのときの様子が変じゃった。それから十分とたたない間におそろしいピストルの音が聞えたのじゃ。驚いて行ってみると机の前にぶっ倒れていた。血が額からどくどくと出ての、それでも呼吸だけは長い間続いていたが、もう物を言っても何にもわからんのじゃ。わたしは思いだすのもおそろしい――" ] ]
底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「鶺鴒の巣」新潮社    1939(昭和14)年5月 初出:「早稲田文学」    1923(大正12)年3月 ※初出時の表題は「短銃」です。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:入江幹夫 校正:フクポー 2020年1月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059032", "作品名": "三等郵便局", "作品名読み": "さんとうゆうびんきょく", "ソート用読み": "さんとうゆうひんきよく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「早稲田文学」1923(大正12)年3月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card59032.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎士郎短篇集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2016(平成28)年4月15日", "入力に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "校正に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "底本の親本名1": "鶺鴒の巣", "底本の親本出版社名1": "新潮社", "底本の親本初版発行年1": "1939(昭和14)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59032_ruby_70149.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59032_70198.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いよいよはじまるんですってね?", "何がです?" ], [ "どうです、この頃の握り飯一つ宛では、お子さんがたはお困りでしょう、どうですか、ひもじいとはいいませんかね?", "そりゃあ、ひもじがるですよ" ] ]
底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「中央公論」中央公論社    1944(昭和19)年4月 初出:「中央公論」中央公論社    1944(昭和19)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:入江幹夫 校正:フクポー 2020年1月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059033", "作品名": "十三夜", "作品名読み": "じゅうさんや", "ソート用読み": "しゆうさんや", "副題": "――マニラ籠城日記", "副題読み": "――マニラろうじょうにっき", "原題": "", "初出": "「中央公論」中央公論社、1944(昭和19)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2020-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card59033.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎士郎短篇集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2016(平成28)年4月15日", "入力に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "校正に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "底本の親本名1": "中央公論", "底本の親本出版社名1": "中央公論社", "底本の親本初版発行年1": "1944(昭和19)年4月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59033_ruby_70148.zip", "テキストファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59033_70197.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2020-01-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "殿様にはいつもながら御機嫌うるわしく、恐悦のいたりに存じあげます", "まア、まア" ], [ "それは何よりじゃ", "おそれながら、それにつきまして", "何じゃ?", "格別の御慈悲におすがり申したき出来事が発生いたし、某の一存にて計り定めがたく、ぜひとも殿様の御判断を仰ぎたいと存じまして", "いや、何でもいうがよい、――その方一存で計えぬというのはよくよくのことであろう。人命にでもかかわることか?", "ありがたく存じあげます。事の仔細は名主利右衛門より言上いたすことと存じまするが、おそれながら今日持参の嘆願書、ひととおりお眼どおし下さりまするよう、つつしんでお願いいたします" ], [ "お絹、そっと裏から出あ、藤作さんに、栗がよう焼けたからおいでといってな", "うん" ], [ "藤左衛門さんとこへ風呂をもらいにいったよ、何度も呼びにきてくれたもんでな、ほっといてもわるいと思って", "まア、いいやな、そのあいだにひとやすみするかな" ], [ "春次郎が寝ついたばかりで、お前さん、音を立てちゃすぐ眼がさめちまうよ", "今夜はいやに嫌うじゃねえか――よし、ほいじゃ、用談の方を先きに片づけちまうべい" ], [ "もう、お前さん、そんなに酔っとるのに、いいかげんにしといた方がいいよ", "いやに突っかかるじゃねえか――どうせ、今夜は帰れやしねえんだ、来る早々素っ気ないことをいうなよ", "だって、お前さん、春次郎だって、もう七つになるよ、バカなことを", "何をバカな――おれのいっているのはお絹のはなしだぜ、ハッキリと返事をきかなきゃ帰れやしねえじゃねえか、桔梗屋の旦那はかんかんになっているんだ、あれから何日経つと思う、これじゃ、仲に入ったおれの立つ瀬がねえよ、子供の使いじゃあるめえし" ], [ "おれにまかしときゃ、わるいようにはしねえよ、何しろ隠居の気の短いことじゃ、このおれだって手こずっているんだからな、どうだい、明日といわずいっそのこと今夜、とにかく、すぐ帰ったっていいんだからな、お目見得だけにでもつれてゆこう、なアに着物なんぞ着替えるにも及ばねえや、ふだん着で結構だよ、風呂にいったというんならちょうどいいじゃねえか", "そんなこと、お前さん" ], [ "藤やん、栗が焼けたから来いって", "栗?", "うん、おっかアが来てくれって", "栗なんか喰いたかねえや", "そいだがね", "何だい?" ], [ "わるいやつが来とるんだよ", "誰だ?", "こび権がね――いやなやつ、おっかアをいじめるんだよ、それで、帰るまで藤やんが来てくれたらいいって", "ふうん、こび権が何しに来とるのかや?", "藤やん、来ておくれよ" ], [ "いやだよ、おらア", "おい、声をだすなよ" ], [ "すみません、藤やん", "仕方がねえや、おれ、今から名主さまのところまでいってくる" ], [ "いろいろ苦労が多いのう", "お言葉ありがたく存じます、殿様の御苦労とくらべたら、利右衛門ごときものの苦労なぞは", "いや、そうでもあるまい――この藤作と申す小伜を、すぐさまつれてまいるがよいぞ", "こちらでござりますか?", "苦しゅうない、十五歳で村随一の力持ちといえば、さぞかし身体も大きいであろうな", "おそれながら、骨格衆にすぐれ、見るからに逞しく存じあげます" ], [ "某より申上げます。唯今、仮牢にて吟味中でござりまするが、それも野良着のままにて御前へ推参いたさせますることはいかがかと存じまするが", "いや、その心配には及ぶまい、すぐつれてまいれ" ], [ "あれだよ", "えっ――あれが", "馬子にも衣裳というが、あれが藤作か", "あれが、のう" ], [ "会えねえなんて、そげんなことがあってたまるかい、――藤やんはこっちを向いてニコリと笑ったのをお前も見たずら", "おれ、もう涙が出て、人の顔もようわからんかった", "藤やんだって、お前、きっと昔のことをおもいだすことがあるべえよ" ], [ "勅使接伴のことは愚老なぞの知るところではない、指図なぞとは余計なこと、貴下の御一存で取計らわれたらよろしかろう", "いや、某も不肖の身をもって、万一のことがあっては申し訳ないと考え、再三御辞退申上げたるところ、その儀ならば上野介殿の指図をうけたらよろしかろうとの仰せにて止むなくおひきうけいたしたる次第、何卒若年の拙者をお引き廻し願いとう存ずる", "それほどまでに申さるるならば是非もござらぬ、指図はともかく御助言だけは申し上ぐることにいたそう、何につけても御進物が肝要でござる、饗応にあずかる柳営内の重役にはもとよりのこと、勅使御二方に対しては日々御進物をお届けなさることをお忘れなきようにされねばならぬ" ], [ "近頃、浅野の痩浪人どもが江戸の街をうろついているそうだ、それについて新らしい噂は聞かぬか?", "このあたりでも怪しいやつが、しきりにお屋敷の様子をうかがっているようですな、小林(平八郎)様なぞもこの頃では夜もおちおち眠られぬ御様子で" ], [ "いや、来るときには来るよ、やつ等にしてみれば、それも尤なはなしだ、浪人どもが乗り込んできたら、おれはいつでもいさぎよく斬られてやる", "だまって斬られるのですか?", "バカめ、だまって斬られるやつがどこにある、痩浪人が何百人来たところで防ぐ気になればおれ一人で充分だ、しかし、あれだけ苦心して仇敵を討とうとしているやつをみると進んでやっつける気にはならぬ" ] ]
底本:「仇討騒動異聞 時代小説の楽しみ※[#丸10、1-13-10]」新潮社    1991(平成3)年2月5日 底本の親本:「特集 文藝 臨時増刊号」河出書房    1956(昭和31)年12月25日発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:sogo 校正:フクポー 2018年1月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "055844", "作品名": "本所松坂町", "作品名読み": "ほんじょまつざかちょう", "ソート用読み": "ほんしよまつさかちよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2018-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2018-01-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card55844.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "仇討騒動異聞 時代小説の楽しみ⑩", "底本出版社名1": "新潮社", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年2月5日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年2月5日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年2月5日", "底本の親本名1": "特集 文藝 臨時増刊号", "底本の親本出版社名1": "河出書房", "底本の親本初版発行年1": "1956(昭和31)年12月25日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "sogo", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/55844_ruby_63813.zip", "テキストファイル最終更新日": "2018-01-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/55844_63893.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2018-01-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "先ず同じ船に乗り合せてもらったと思うよりほかに仕方があるまいな――海の上で暴風にあっていっしょに海底の藻屑となったと思えば何とかあきらめのつく道もあるでしょう", "何も彼も運命です" ], [ "一時間でいいんだが、君のはからいで何とか――", "五分間も余裕がありません", "そうか、原稿の書きかけが監房の中にあるんだが、せめてそれを整理するあいだだけでも", "駄目です" ] ]
底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店    2016(平成28)年4月15日第1刷発行 底本の親本:「鶺鴒の巣」新潮社    1939(昭和14)年5月 初出:「中央公論」中央公論社    1934(昭和9)年4月 入力:入江幹夫 校正:フクポー 2023年1月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059040", "作品名": "蜜柑の皮", "作品名読み": "みかんのかわ", "ソート用読み": "みかんのかわ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」中央公論社、1934(昭和9)年4月", "分類番号": "", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2023-02-19T00:00:00", "最終更新日": "2023-02-10T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/card59040.html", "人物ID": "001753", "姓": "尾崎", "名": "士郎", "姓読み": "おざき", "名読み": "しろう", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "しろう", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Shiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1898-02-05", "没年月日": "1964-02-19", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎士郎短篇集", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2016(平成28)年4月15日", "入力に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "校正に使用した版1": "2016(平成28)年4月15日第1刷", "底本の親本名1": "鶺鴒の巣", "底本の親本出版社名1": "新潮社", "底本の親本初版発行年1": "1939(昭和14)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "入江幹夫", "校正者": "フクポー", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59040_ruby_76855.zip", "テキストファイル最終更新日": "2023-01-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001753/files/59040_76856.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2023-01-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それで貴女とう〳〵離婚れてしまいましたので……丁度、昨年の春の事で御座いました", "まーとう〳〵。ほんまに憎らしいのは其女の奴どすえなー、妾なら死んでも其家を動いてやりや致やしませんで、" ], [ "それから貴女神戸に腹更りの兄が一人御座いますので それに今では厄介になつて居るので御座います", "第一貴女が御ゆるいのどすえなー、れつきとした女房で居やはつてなー、そんな何処の馬の骨だか牛の骨見たやうな女に、何程御亭主が御好ぢや云ふたつて、自分から身を御引きやすと云ふ事が御ますか、ほんまに、……" ], [ "…………どをせ貴女……妾は泣きに生れて来たやうなもので御座います………それも妾の不運と存じては居りますが………まだ一しよで居りました時に信太郎と云ふ男の子が一人御座いましたので……丁度今年で六つで御座います、……それを貴女離嫁れる折に置いて行けと申しましたので、しかたなく置いて帰つたので御座います", "まー御ぼんさん迄御有りやしたので" ], [ "その御婆さんの処から今朝、貴女、信太郎が大病でむづかしいと云ふてよこしたので御座います……まー其時の私の心は……………それで貴女、家に居た処で何事も手に付きはしませず、家には一寸そこまでと云ふて置いて出て参たので御座います………", "まーそれで、御可憐さうなは信太郎とやら云ふ御子どすえなー、大方其女に毎々〳〵、いぢめられて居やはりなはつたでしやろ、妾の家の隣にも貴女継子がありましてなー、ほんまに毎日〳〵たゝかれて泣かぬ日はないのどすえ、", "まーそうで御座いますか、" ] ]
底本:「尾崎放哉全句集」ちくま文庫、筑摩書房    2008(平成20)年2月10日第1刷発行 入力:蒋龍 校正:成宮佐知子 2013年8月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049787", "作品名": "夜汽車", "作品名読み": "よぎしゃ", "ソート用読み": "よきしや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-09-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000195/card49787.html", "人物ID": "000195", "姓": "尾崎", "名": "放哉", "姓読み": "おざき", "名読み": "ほうさい", "姓読みソート用": "おさき", "名読みソート用": "ほうさい", "姓ローマ字": "Ozaki", "名ローマ字": "Hosai", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-20", "没年月日": "1926-04-07", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "尾崎放哉全句集", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2008(平成20)年2月10日", "入力に使用した版1": "2008(平成20)年2月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2008(平成20)年2月10日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "蒋龍", "校正者": "成宮佐知子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000195/files/49787_ruby_51187.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-08-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000195/files/49787_51188.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-08-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "オオ、面白い試験方法が胸に浮んだ", "何んな試験方法です", "他でも無い、あの流星と云うものは何んだか気味の悪いもので、それが落ちたと覚しき場所へは、余程の勇士でも其夜直ぐに行くのは厭がると云う、爾して昔からの口碑にも、流星の消えた場所には何か不思議な物が落ちて居ると云われて居る、夫れは本当か嘘か分らぬが、兎に角今あの淋しい森林の中へは流星が落ちた、和女等は未だあの森林の中へ入った事はあるまいが、随分変った場所だから、誰でも今夜あの森林を一番奥まで探検して、果して其様な不思議な物が落ちて居るか否か、最も正確に林中の模様を私に報告した者をば、今夜一番勇ましい振舞をした者と認め、私は玉村侯爵に代り此腕環を与える事としよう" ] ]
底本:「少年小説大系 第2巻 押川春浪集」三一書房    1987(昭和62)年10月31日第1版第1刷発行 底本の親本:「春浪快著集 第二巻」大倉書店    1916(大正5年)年9月11日発行 初出:「少年世界」    1907(明治40)年1月号 入力:田中哲郎 校正:noriko saito 2005年8月19日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "043669", "作品名": "黄金の腕環", "作品名読み": "おうごんのうでわ", "ソート用読み": "おうこんのうてわ", "副題": "流星奇談", "副題読み": "りゅうせいきだん", "原題": "", "初出": "「少年世界」1907(明治40)年1月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2005-08-31T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/card43669.html", "人物ID": "000077", "姓": "押川", "名": "春浪", "姓読み": "おしかわ", "名読み": "しゅんろう", "姓読みソート用": "おしかわ", "名読みソート用": "しゆんろう", "姓ローマ字": "Oshikawa", "名ローマ字": "Shunro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1876-03-21", "没年月日": "1914-11-16", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "少年小説大系 第2巻 押川春浪集", "底本出版社名1": "三一書房", "底本初版発行年1": "1987(昭和62)年10月31日", "入力に使用した版1": "1987(昭和62)年10月31日第1版第1刷", "校正に使用した版1": "1987(昭和62)年10月31日第1版第1刷", "底本の親本名1": "春浪快著集 第二巻", "底本の親本出版社名1": "大倉書店", "底本の親本初版発行年1": "1916(大正5年)年9月11日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "田中哲郎", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/43669_ruby_19281.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-08-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/43669_19226.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-08-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "万歳※(疑問符一つ感嘆符二つ)", "秋山男爵の成功を祝す。", "雲井文彦君万歳※(感嘆符三つ)" ], [ "若旦那様、今日でもう一週間になりますがまだ何も見えませんのは、もしや方角でも取り違えたのじゃありありましねえか。", "そんな事はあるまい。確かにこの方角に向って行きさえすれば決して間違うはずはない。", "それにしても秋山様はどうなさりましただか是非この勝負には若旦那様をお勝たせ申しましねえでは、私の気が済みましねえ。それに第一あの秋山様は世間の噂では、随分性質の悪いお方だそうでおざりまするで、どうぞ貴方のお身に万一の事がなければよろしいがと老爺はそればかりを案じておりまする。", "そんな心配はない。先方も爵位を持っているほどの人物だから……" ], [ "月だ!……月だ!", "え? 月でございますか。", "そうだ。難有い。もう数時間の後には着けるぞ。", "左様でござりますか、どうぞ篠山の大旦那様がお無事でお出で下さればよろしゅうござりますが。" ], [ "若旦那様これが月の世界というでござりますか。", "そうだ。", "それじゃいよいよ篠山のお旦那様もここにいらっしゃるでがすね、もしあの秋山様に探し出されねえ中に少しも早く……", "そうお前のように急々したって仕方がないじゃないか、それよりも第一にどこか適当の場所を探して一まず落着く場所を拵えなければならん。", "成程。それも御道理でがす。" ], [ "どうしたんだろう。それとも途中で方角を取り違えて他の星へ行かれたのではないかしら。", "左様でござります。場合によりましてはそんな事でもありましたかも知れましねえ。しかし折角ここまで来たものでござりますれば、今少し辛抱してお捜しなされて……" ], [ "少し寒けがして来たが何か焚火をするものはないか。", "どれ私が拾い集めて参りましょう。" ], [ "やッ※(感嘆符三つ) 手懸りがあった。", "え?" ], [ "これは叔父さんの飛行船に着けてあった飾りだ。これがあるくらいなら、どうしても叔父さんはここへ来られたものには違いないが、飛行船が壊れたため地球へ帰る事が出来ないでここにそのまま止まっていらっしゃるんだ。難有い。これこそ天の与えだ。", "じゃいよいよ大旦那様はここにお出でなされましたに違いねえ。さあそれじゃ一刻も早くお在処を探し出して……", "それにしても方角が判らないから、一まずこの木の落ちていた附近を検べて見たら、も少し何か判然した手懸りがあるかも知れない。" ], [ "やッ飛行船だ※(感嘆符三つ)", "月宮号※(感嘆符三つ)" ], [ "若旦那様、この様子じゃもう篠山の旦那様は、とても助かりっこはありません、この様子を申し上げたら、さぞ嬢さまは吃驚して気絶してお終いなさるでしょう。若旦那様どうしたらようがしょう。", "しかしまだそう落胆するには及ばない。如何にも飛行船はこの通り壊れて終っているけれど、叔父さんのお姿が見えない処を見れば、どこか他に安全な処におらるるに違いない。その上助手の杉田も一伴だのに、二人ながら居ないとすればきっと、この附近に逃れておらるるだろう。" ], [ "あの声は何でしょう。", "さあ。" ], [ "薬‼ 水を早く※(感嘆符三つ)", "はい。" ], [ "叔父さん。お気が付きましたか。文彦です。僕です。", "おお文彦か。", "はい。", "篠山の旦那様! お気がつかれましたか。", "よく来てくれた。" ], [ "叔父さん。杉田はもう駄目です。とても助かりません。", "そうか。可哀相な事をした。" ], [ "それでは僕はこれから行って来るから、留守を確然預かっていてくれ。", "よろしゅうございます。どうも御苦労様でござります。", "じゃ後をよろしく頼むよ。" ], [ "若旦那様※(感嘆符三つ) 残念でござります。", "どうした。叔父さんはどうした。" ], [ "私がお預かりしていながら、何とも申訳はありませぬが、貴方様のお出発ちなされた後、大旦那様の御介抱を致しておりますると、二日目の晩になって、入口の方で何やら足音が致しまするで、必然貴方様が御帰りなされた事と存じまして、早速御迎に出ますると、貴方様ではのうて、", "えッ?", "あの面憎い秋山男爵。", "何? 秋山男爵?", "はい。下僕と二人で這入って参ります。", "うう。それからどうした。", "ここだここだといいながら、闇で見えなかったのか、私の方にも目もくれず、二人でずんずん奥へ行きますからどうするかと、私も後から蹤いて参りますると、大旦那様のお姿を見るが早いか、『やや篠山博士ですか、秋山が月子さんの御言葉でお迎に上りました』と申しますから、私は矢庭にそこへ飛び込んで、旦那様はもう私の若旦那が二日も前にお会いになって、今道具を取片付けてこちらへお越しになるはずだと申しますると……", "うん。それからどうした。", "秋山の畜生め。思い懸けない私を見て吃驚したようでござりましたが、供の平三に何かいい付けると、乱暴にも平三が、あの御衰弱なされた旦那様を引担いで逃げようと致しますから……", "何平三が?", "はい。それ逃がしてなるものかと私も一生懸命に争いましたが悲しい事には二人に一人、いよいよ洞穴を出ようと致しますので、せめてこの上は鉄砲で打ち殺してなりとやろうと思って追かけて出かける処を、秋山男爵に乳の辺りに当身を喰わせられて、それから後は前後不覚、只今貴方様のお声で始めて正気になりましたような次第でござりまする。" ], [ "東助、こうなっては腕づくでも叔父さんを取り返さなければならない。叔父さんを無事に連れ帰るのは誰でもいいが、このままにしておいては奸佞邪智の秋山男爵だ、この上如何なる悪計を持って我らを苦しめ、かつ鳩のような月子さんを翫ぶか知れない。さあ今から出かけるからお前も蹤いて来い。", "どうぞこの敵を取って下さい。私はもう死んでもきっと秋山めを打ち懲らしてやらずにはおく事ではござりませぬ。" ], [ "秋山男爵。改めて申しますが僕は叔父を受取りに参ったのです。", "叔父? 叔父というのは篠山博士の事ですか。", "左様。" ], [ "僕は命賭けて得た博士だ。それが欲しくば貴様も生命を賭して奪うがいい。", "よろしい。決闘※(感嘆符三つ) 用意をなさい。", "生意気な口を利く二才だ。さあ相手になってやろう。" ] ]
底本:「懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説」中央公論新社    2001(平成13)年6月10日初版発行 初出:「探檢世界秋季臨時増刊 第四巻第三號 月世界」成功雜誌社    1907(明治40)年10月 ※「ランプ」と「洋燈《ランプ》」と「洋火《ランプ》」、「慥《しっか》り」と「確然《しっかり》」の混在は、底本通りです。 入力:田中哲郎 校正:川山隆 2006年7月20日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "045208", "作品名": "月世界競争探検", "作品名読み": "げっせかいきょうそうたんけん", "ソート用読み": "けつせかいきようそうたんけん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「探檢世界秋季臨時増刊 第四卷第三號 月世界」成功雜誌社、1907(明治40)年10月", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-09-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/card45208.html", "人物ID": "000077", "姓": "押川", "名": "春浪", "姓読み": "おしかわ", "名読み": "しゅんろう", "姓読みソート用": "おしかわ", "名読みソート用": "しゆんろう", "姓ローマ字": "Oshikawa", "名ローマ字": "Shunro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1876-03-21", "没年月日": "1914-11-16", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "懐かしい未来――甦る明治・大正・昭和の未来小説", "底本出版社名1": "中央公論新社", "底本初版発行年1": "2001(平成13)年6月10日", "入力に使用した版1": "2001(平成13)年6月10日初版", "校正に使用した版1": "2001(平成13)年6月10日初版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "田中哲郎", "校正者": "川山隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/45208_ruby_23514.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-07-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/45208_23841.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-07-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "そんな洒落は未醒(未製)品じゃ", "ドッコイ、来たな、駄洒落は止しに春浪" ], [ "とにかく夜釣は危い危い。横断旅行が海底旅行になっては大変じゃ", "ナアニ、危いもんか。そう信敬(神経)を起すな" ], [ "飯はねえよ", "無ければ炊いてくれ", "暇が掛かるだよ", "三十分や一時間なら待とうが。何か菜があるか", "菜は格別ねえだよ。缶詰でも出すべえか", "缶詰ならこっちにもある。そんな物は食いたくない。芋でも大根でも煮てくれないか", "芋も大根もねえだよ" ], [ "何時だ何時だ", "まだ三時だが、もうそろそろ出立と致そう" ], [ "これはいかん! これはいかん! 淫売屋などへ泊れるものか、堅いという花月へ行こう", "荷物はどうする", "荷物なんか構うものか。△△屋の前は知らん顔に素通りして、後から宿屋の者を取りに遣る。ぐずぐずいったら査公に持って来て貰うさ" ] ]
底本:「〔天狗倶楽部〕快傑伝 ――元気と正義の男たち――」朝日ソノラマ    1993(平成5)年8月30日第1刷発行 底本の親本:「冐險世界 第四卷第拾貳號」博文館    1911(明治44)年9月1日発行 初出:「冐險世界 第四卷第拾貳號」博文館    1911(明治44)年9月1日発行 ※表題は底本では、「本州横断|癇癪《かんしゃく》徒歩旅行」となっています。 入力:H.KoBaYaShi 校正:伊藤時也 1999年11月30日公開 2017年12月17日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000449", "作品名": "本州横断 癇癪徒歩旅行", "作品名読み": "ほんしゅうおうだん かんしゃくとほりょこう", "ソート用読み": "ほんしゆうおうたんかんしやくとほりよこう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「冐險世界 第四卷第拾貳號」博文館、1911(明治44)年9月1日", "分類番号": "NDC 915", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-11-30T00:00:00", "最終更新日": "2017-12-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/card449.html", "人物ID": "000077", "姓": "押川", "名": "春浪", "姓読み": "おしかわ", "名読み": "しゅんろう", "姓読みソート用": "おしかわ", "名読みソート用": "しゆんろう", "姓ローマ字": "Oshikawa", "名ローマ字": "Shunro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1876-03-21", "没年月日": "1914-11-16", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "〔天狗倶楽部〕快傑伝 ――元気と正義の男たち――", "底本出版社名1": "朝日ソノラマ", "底本初版発行年1": "1993(平成5)年8月30日", "入力に使用した版1": "1993(平成5)年8月30日第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "冐險世界 第四卷第拾貳號", "底本の親本出版社名1": "博文館", "底本の親本初版発行年1": "1911(明治44)年9月1日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "H.KoBaYaShi", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/449_ruby_2853.zip", "テキストファイル最終更新日": "2017-12-17T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "5", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000077/files/449_20631.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2017-12-17T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "あ、ちょっと……。宿はどこですか。どの道を行くんですか。ここ真っ直ぐ行けばいいんですか。宿はすぐ分りますか", "へえ、へえ、すぐわかりますでやんす。真っ直ぐお出でになって、橋を渡って下されやんしたら、灯が見えますでござりやんす" ], [ "蜘蛛がいるね", "へえ?" ], [ "ええ、とても……", "……温るおまっか。さよか" ], [ "どないだ(す)? 退屈でっしゃろ。飯が来るまで、遊びに来やはれしまへんか", "はあ、ありがとう" ], [ "ええ", "とても痩せてはりますもの。それに、肩のとこなんか、やるせないくらい、ほっそりしてなさるもの。さっきお湯で見たとき、すぐ胸がお悪いねんやなあと思いましたわ" ], [ "あんた、知りはれしまへんのんか。肺病に石油がよう効くということは、今日び誰でも知ってることでんがな", "初耳ですね", "さよか。それやったら、よけい教え甲斐がおますわ" ], [ "いいえ、上手と違いますわ。この頃は気持が乱れていますのんか、お手が下ったて、お習字の先生に叱られてばっかりしてますんです。ほんまに良い字を書くのは、むつかしいですわね。けど、お習字してますと、なんやこう、悩みや苦しみがみな忘れてしまえるみたい気イしますのんで、私好きです。貴方なんか、きっとお習字上手やと思いますわ。お上手なんでしょう? いっぺん見せていただきたいわ", "僕は字なんかいっぺんも習ったことはありません。下手糞です。下品な字しか書けません" ], [ "私、お花も好きですのん。お習字もよろしいですけど、お花も気持が浄められてよろしいですわ。――私あんな教養のない人と一緒になって、ほんまに不幸な女でしょう? そやから、お習字やお花をして、慰めるより仕方あれしません。ところが、あの人はお習字やお花の趣味はちょっともあれしませんの", "お茶は成さるんですか", "恥かしいですけど、お茶はあんまりしてませんの。是非教わろうと思てるんですけど。――ところで、話ちがいますけど、貴方キネマスターで誰がお好きですか?", "…………", "私、絹代が好きです。一夫はあんまり好きやあれしません。あの人は高瀬が好きや言いますのんです", "はあ、そうですか" ], [ "貴方は誰ですの?", "高瀬です" ], [ "いや、べつに……", "嘘言いなはれ。隠したかてあきまへんぜ。僕のことでなんぞ聴きはりましたやろ。違いまっか。僕のにらんだ眼にくるいはおまっか。どないだ(す)? 聴きはれしめへんか。隠さんと言っとくなはれ" ], [ "――あの人、なんぞ私のこと言いましたか。どうせ私の悪ぐち言うたことやと思います。それがあの人の癖なんです。誰にでも私の悪ぐちを言うてまわるのんです。なんせ肚の黒い男ですよって、なにを言うか分れしません。けど、あんな男の言うこと信用せんといて下さい。何を言うても良え加減にきいといて下さい", "いや、誰のいうことも僕は信用しません" ], [ "ほんまに、あの人くらい下劣な人はあれしませんわ", "そうですかね。そんな下劣な人ですかね。よい人のようじゃありませんか" ], [ "もう直き、汽車が来るよって、いまのうち挨拶させて貰い", "はい" ], [ "どないだ(す)。石油の効目は……?", "はあ。どうも昨夜から、ひどい下痢をして困ってるんです" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日初版発行    1995(平成7)年3月20日第3版 初出:「大阪文学」    1942(昭和17)年1月号 入力:奥平 敬 校正:小林繁雄 2008年11月16日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047505", "作品名": "秋深き", "作品名読み": "あきふかき", "ソート用読み": "あきふかき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「大阪文学」1942(昭和17)年1月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-12-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card47505.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第二巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "奥平 敬", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47505_ruby_32719.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-11-16T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47505_33438.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-11-16T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "……そんなわけで、下肥えのかわりに置いて行かれたけど、その日の日の暮れにはもう、腫物の神さんの石切の下の百姓に預けられたいうさかい、親父も気のせわしい男やったが、こっちもこっちで、八月でお母んのお腹飛びだすぐらいやさかい、気の永い方やない。つまり言うたら、手っ取り早いとこ乳にありついたいうわけやが、運の悪いことは続くもんで、その百姓家のおばはん、ものの十日もたたんうちにチビスにかかりよった。なんぼ石切さんが腫物の神さんでも、チビスは専門違いや。ハタケは癒せても、チビスの方はハタケ違いや。さア、藪医者が飛んできよる。巡査が手帳持って覗きに来よる。桃山(の伝染病院)行きや、消毒やいうて、えらい騒動や。そのあげく、乳飲ましたらあかんぜ、いうことになった。そらそや、いくら何でもチビスの乳は飲めんさかいナ。さア、お腹は空いてくるわ、なんぼ泣いてもほっとかれるわ。お襁褓もかえてくれんわ。踏んだり蹴ったりや。蹴ったくそわるいさかい、オギアオギアせえだい泣いてるとこイ、ええ、へっつい直しというて、天びん担いで、へっつい直しが廻ってきよって、事情きくと、そら気の毒やいうて、世話してくれたンが、大和の西大寺のそのへっつい直しの親戚の家やった。そンでまア巧いこと乳にありついて、餓え死を免れたわけやが、そこのおばはんいうのが、こらまた随分りん気深い女子で、亭主が西瓜時分になると、大阪イ西瓜売りに行ったまンま何日も戻ってけえへんいうて、大騒動や。しまいには掴み合いの喧嘩になって、出て行け、ああ、出て行ったるわい。おばはんとうとう出て行きよったが、出て行きしな、風呂敷包持って行ったンはええけど、里子の俺は置いてきぼりや。おかげで、乳は飲めん、お腹は空いてくる、お襁褓はかえてくれん、放ったらかしや。蹴ったくそわるいさかい、亭主の顔みイみイ、おっさんどないしてくれまんネいうて、千度泣いたると、亭主も弱り目にたたり目で、とうとう俺を背負うて、親父のとこイ連れて行きよった。ところが、親父はすぐまた俺を和泉の山滝村イ預けよった。山滝村いうたら、岸和田の奥の紅葉の名所で、滝もあって、景色のええとこやったが、こんどは自分の方から飛びだしたった。ところが、それが病みつきになってしもて、それからというもんは、どこイ預けられても、いつも自分から飛び……", "……だすいうても、ちょっと、あんた、あんたその時分はまだ赤子だしたンやろ? えらい早熟た、赤子だしてンナ……。" ] ]
底本:「日本文学全集72 織田作之助 井上友一郎集」集英社    1975(昭和50)年3月8日発行 初出:「新文学」    1946(昭和21)年3月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:土屋隆 校正:米田 2011年10月12日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042688", "作品名": "アド・バルーン", "作品名読み": "アド・バルーン", "ソート用読み": "あとはるうん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新文学」1946(昭和21)年3月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card42688.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文学全集72 織田作之助 井上友一郎集", "底本出版社名1": "集英社", "底本初版発行年1": "1975(昭和50)年3月8日", "入力に使用した版1": "1975(昭和50)年3月8日", "校正に使用した版1": "1980(昭和55)年1月30日2版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "米田", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/42688_ruby_45446.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/42688_45503.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "泣きやまんと、池の中に放りこんだるぞ。かめへんか", "かめへんわい。放りこんだら着物よごれて、母ちゃんが洗濯せんならんだけや。そないなったら困るやろ" ], [ "勝手なお世話です", "子供のくせに……" ], [ "いいなさい", "強情ね、いったい何の用", "用はない言うてまんがな。分らん人やな" ], [ "用がないのに踉けるのん不良やわ。もう踉けんときでね。学校どこ?", "帽子見れば分りまっしゃろ", "あんたとこの校長さん知ってるわ", "いいつけたらよろしいがな", "いいつけるよ。本当に知ってんねんし。柴田さんいう人でしょう", "スッポンいう渾名や" ] ]
底本:「日本文学全集72 織田作之助 井上友一郎集」集英社    1975(昭和50)年3月8日発行 初出:「海風」    1938(昭和13)年11月 入力:土屋隆 校正:米田 2011年10月15日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042689", "作品名": "雨", "作品名読み": "あめ", "ソート用読み": "あめ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「海風」1938(昭和13)年11月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card42689.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文学全集72 織田作之助 井上友一郎集", "底本出版社名1": "集英社", "底本初版発行年1": "1975(昭和50)年3月8日", "入力に使用した版1": "1975(昭和50)年3月8日", "校正に使用した版1": "1980(昭和55)年1月30日2版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "米田", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/42689_ruby_45447.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-15T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/42689_45501.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-15T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あの銀行はこの頃ややこしい", "あの二人の仲はややこしい仲や", "あの道はややこしい", "玉ノ井テややこしいとこやなア", "ややこしい芝居や" ] ]
底本:「日本の名随筆75 商」作品社    1989(平成元)年1月25日第1刷発行 底本の親本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日 入力:土屋隆 校正:noriko saito 2006年10月17日作成 2013年8月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046499", "作品名": "大阪の憂鬱", "作品名読み": "おおさかのゆううつ", "ソート用読み": "おおさかのゆううつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-11-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46499.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆75 商", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1989(平成元)年1月25日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年1月25日第1刷", "校正に使用した版1": "1989(平成元)年1月25日第1刷", "底本の親本名1": "定本織田作之助全集 第八巻", "底本の親本出版社名1": "文泉堂出版", "底本の親本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46499_ruby_24381.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-08-12T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46499_24602.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-08-12T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "莫迦をいえ。金を借りるんだ", "家でも買う金が足りないのか", "からかっちゃ困るよ。闇屋に二千円借りたんだが、その金がないんだ", "二千円ぐらいの金がない君でもなかろう。世間じゃ君が十万円ためたと言ってるぜ", "へえ? 本当か?" ], [ "十万円あれば、高利貸に二千円借りる必要はなかろうじゃないか。デマだよ", "十万円は定期で預けていて、引き出せんのじゃないかね", "しつこいね。僕は生れてから今日まで、銀行へ金を預けたためしはないんだ。銀行へ預ける身分になりたいとは女房の生涯の願いだったが、遂に銀行の通帳も見ずに死んでしまったよ", "ふーん" ], [ "――二千円で何を買ったんだ", "煙草だ", "見たところよく吸うようだが、日に何本吸うんだ", "日によって違うが、徹夜で仕事すると、七八十本は確実だね。人にもくれてやるから、百本になる日もある", "一本二円として、一日二百円か。月にして六千円……" ], [ "それだけ全部闇屋に払うのか", "いや、配給もあるし、ない時は吸殻をパイプで吸うし、しかし二千円はまず吸うかな", "じゃ、いくら稼いでも皆煙にしてしまうわけだ。少し減らしたらどうだ", "そう思ってるんだが、仕事をはじめると、つい夢中で吸ってしまう。けちけち吸っていると、気がつまって書けないんだ", "いっそ仕事をへらしたらどうだ。仕事をへらせば、煙草の量もへるだろう。仕事をしてもどうせ煙になるんだから、しない方がましだろう。百円の随筆を書くのに百円の煙草を煙にしては何にもならない" ], [ "あ、そうだ、煙草だけじゃない。たまに珈琲も飲む", "砂糖がよく廻るね", "闇屋が持って来るんだが、ない時はサッカリンを使う", "煙草に砂糖、高いものばかしだ。少し贅沢じゃないかな", "いや、贅沢といえば贅沢だが、しかしこりゃ僕の必需品なのだよ。珈琲はともかく、煙草がないと、一行も書けないんだからね。その代り、酒はやめた。酒は仕事の邪魔になるからね", "仕事を大事にする気はわかるが、仕事のために高利貸に厄介になるというのも、時勢とはいいながら変な話だ。二千円ぐらい貯金があってもよさそうなものだ。随分映画なんかで稼いだんだろう", "シナリオか。随分書いたが、情報局ではねられて許可にならなかったから、金はくれないんだ。余り催促すると、汚ないと思われるから黙っていたがね", "しかし、汚ないという評判だぜ。目下の者におごらせたりしたのじゃないかな", "えっ" ], [ "へんな老婆心を出すようだが、料理屋なら話して為替で払えばいいじゃないか", "そうも思ったんだが、実はその為替期間が切れて無効になってるんだよ", "無効になるまで、放って置いたのか", "忙しいから、つい……" ], [ "どうして、そうズボラなんだ", "いや、ズボラというのじゃないんだ。仕事に追われていると、忘れてしまうんだ", "煙草と同じでんで、折角仕事しても、それじゃ何にもならんじゃないか。仕事をへらして、少しは銀行へも足を運んだ方が得だぜ", "へらしてみたところで同じことだよ。今の半分にへらしても、やはり年中仕事のことを考えてるし、また年中仕事をしているだろう。仕事がなければ、本を読んでるだろうしさ" ], [ "徹夜して原稿を書いてたんだ。朝までに出来る積りだったが、到頭今まで掛った。顔も洗わずに飛んで来た", "顔も洗わずに結婚式を挙げるのは、君ぐらいのものだ。まアいい。さア行こう" ], [ "一寸待ってくれ。これから中央局へ廻ってこの原稿を速達にして来なくっちゃ、間に合わんのだ", "原稿も原稿だが、式も間に合わないよ", "いや、たのむから、中央局へ廻ってくれ" ], [ "喧嘩はせんがね。どうもうまく行かん", "立ち入ったことをきくが、肉体的に一致せんとか何とかそんな……", "さアね" ], [ "――そういわれてみて、気がついたが、まだ一緒に寝たことがないんだ", "へえ……?", "忙しくてね、こっちはあれから毎晩徹夜だろう。朝細君が起きてから、寝るという始末だ", "そんなこったろうと思った。しかし、初夜は一緒に寝たんだろう", "ところが、前の晩徹夜したので、それどころじゃない。寝床にはいるなり、前後不覚に寝てしまったんだ" ], [ "何だか元気がないね", "新券になってから、煙草が買えないんだ", "旧券のうちに、買いためて置くという手は考えたの", "考えたが、外出する暇がなくってね。仕事に追われていたんだ" ], [ "へらすと言ったって、途中でやめるわけに行かぬ連載物が五つあるんだ。これだけで一月掛ってしまうよ。あと、ラジオと芝居を約束してるし、封鎖だから書けんと断るのは、いやだ。もっとも、文化文化といったって、作家に煙草も吸わさんような政治は困るね。金融封鎖もいいが、こりゃ一種の文化封鎖だよ。僕んとこはもう新円が十二円しかない", "少しはこれで君も貯金が出来るだろう" ], [ "おい、隠匿紙幣が出て来たぞ", "おや、出て来たのか。しかし、隠匿じゃない、忘却紙幣だ。入れたまま忘れてしまっていたんだ。どっちにしても、旧紙幣だから、反古同然だ", "どうしてまたこんな所へ入れて忘れたんだ", "前の細君が生きてた頃に入れたのだから、忘れる筈だよ、実はあの頃、まだ競馬があったろう", "うん、ズボラ者の君が競馬だけは感心に通ったね", "その金はその頃競馬の資金に、細君に内緒で本の間へかくして置いたんだ。あいつ競馬というと、金を出さなかったからね", "たった百円か", "いや、あっちこっち入れて置いたから、探せばもっとある筈だ。旧円の預け入れの時想いだしたんだが、どの本に入れて置いたのか忘れてしまったから、探すのはやめた。いちいち探してると、朝まで掛って、その間原稿は書けんからね", "しかし、奥さんにそう言って、探して貰えばよかったに", "原稿を書いてる傍で、ごそごそ本をひっくりかえされるのは、仕事の邪魔だと思ったので、それもよしたよ", "君のことだから、合服のポケットなんかに旧円がはいってやしないか。入れ忘れたままナフタリン臭くなってね", "そうだ。そう言われてみると、はいってるかも知れんね" ], [ "――以前は、財布を忘れて外出して弱ったものだが、しかし、喫茶店なんかのカウンターであっちこっちポケットを探っているうちに、ひょいと入れ忘れた十円札が出て来たりして、助かったことが随分あったよ", "忘れて弱り、忘れて助かるというわけかね", "しかし、これからはだめだ。探して出て来ても、旧円じゃ仕様がない", "みすみす反古とは、変なものだね。闇市で証紙を売っていたということだが、まさかこんな風に出て来た紙幣に貼るわけでもないだろう" ], [ "へえ……? 証紙を売ってるって? 闇市で、そうか。たしかに売ってるのか。どこの闇市?", "いやに熱心だが、買いに行くのか" ] ]
底本:「聴雨・蛍 織田作之助短篇集」ちくま文庫、筑摩書房    2000(平成12)年4月10日第1刷発行 初出:「新風」    1946(昭和21)年5月 入力:桃沢まり 校正:松永正敏 2006年7月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046300", "作品名": "鬼", "作品名読み": "おに", "ソート用読み": "おに", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「新風」1946(昭和21)年5月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-09-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46300.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "聴雨・蛍 織田作之助短篇集", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2000(平成12)年4月10日", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年4月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2000(平成12)年4月10日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "松永正敏", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46300_ruby_23884.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-07-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46300_23893.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-07-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "駄目じゃないか。こんな商売をしてると、ますます悪くなるよ", "だって、こんなことでもしなければ薬代も稼げないわ。あたし罹災したのよ" ] ]
底本:「織田作之助全集 5」講談社    1970(昭和45)年6月28日第1刷 入力:丹生乃まそほ 校正:惣野 2021年9月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "060126", "作品名": "蚊帳", "作品名読み": "かや", "ソート用読み": "かや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-10-26T00:00:00", "最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card60126.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "織田作之助全集 5", "底本出版社名1": "講談社", "底本初版発行年1": "1970(昭和45)年6月28日", "入力に使用した版1": "1970(昭和45)年6月28日第1刷", "校正に使用した版1": "1970(昭和45)年6月28日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "丹生乃まそほ", "校正者": "惣野", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/60126_ruby_74193.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/60126_74230.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-09-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "これで頼み方がお判りでしょうがな", "――はア" ], [ "――実は、あれから、朝鮮へ行って、砂金に手を出したりしましたんですが、一杯くわされましてな、到頭食いつめて、またこちらへ舞い戻って来ました", "――そりゃ大変だったね" ], [ "――薬屋をしているんです", "――へえ?" ], [ "――それもあんた、自家製の特効薬でしてね。わたしが調整してるんですよ", "――そいつア、また。……ものによっては、一服寄進にあずかってもよいが、いったい何に効くんだい?", "――肺病です。……あきれたでしょうがな", "――あきれた" ], [ "――こんな木でも、二万円もするんですからな、あはは……", "――いっそ木の枝に『この木一万三千円也』と書いた札をぶら下げて置くと良いだろう" ] ]
底本:「夫婦善哉」講談社文芸文庫、講談社    1999(平成11)年5月10日第1刷発行    2002(平成14)年10月25日第3刷発行 底本の親本:「織田作之助全集 第三巻」講談社    1970(昭和45)年4月 初出:「大阪文学」    1942(昭和17)年9月、10月 入力:桃沢まり 校正:松永正敏 2006年7月25日作成 2006年8月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "――しやけど、脱走したら非国民やなア", "うん。しかし、蓄音機の前で浪花節を唸ったり逆立ちをしたり、徴発に廻ったりするのが立派な国民というわけでもないだろう", "そない言ったら、そやなア", "しかし、何だか脱走はいやだなア。卑怯だよ、第一……", "ほな、撲られに帰るいうのやなア", "いや" ], [ "撲りに帰る", "えっ、誰をや", "蓄音機さ" ], [ "蓄音機に撲られるより、蓄音機を撲る方が気が利いてるよ。あの蓄音機め、こわしてやる。脱走よりは男らしいよ", "えっ? 本まか?" ], [ "白崎はん、あんた蓄音機を撲るんやったら、俺も撲る! さア、行きまひょ。撲りに", "よし、行こう!" ], [ "おい、隊長はどこだッ? 隊長はどこだッ? 蓄音機はどこだッ?", "蓄音機は司令部へ行ったぜ" ], [ "今、司令部から電話掛って来て、あわてて駈けつけて行きやがった。赤鬼みたいに酔っぱらっとったが、出て行く時は青鬼みたいに青うなっとったぜ。どうやら、日本は降伏するらしい。明日の正午に、重大放送があるということだ", "えっ? 降伏……? 赤鬼が青鬼になった……? ふーん" ], [ "どうもありがとうございました", "いや、しかし、勇敢ですな", "でも、窓からでないと……。プラットホームで五時間も立ち往生してましたわ。おかげで……", "しかし、驚きましたなア。もっともロミオとジュリエットは窓から……" ], [ "あのウ、失礼ですが、あなたはいつか僕らの隊へ、歌の慰問に来て下すった方ではないでしょうか", "はあ……?" ], [ "いやア、実は僕は元来歌というものが余り好きじゃないんですが、あの歌は僕の高等学校の寮歌だったもんですから、ついなつかしくって……", "あら、じゃ、学校は京都でしたの", "ええ、三高です" ], [ "私、京都ですの。沼津の田舎へ疎開していたのですけど、これから……", "京都へ……?", "ええ" ], [ "大丈夫ですか。降りる方がむつかしいですよ", "でも、やってみます。荷物お願いします" ], [ "どうも、ありがとうございました", "いやあ、――あ、荷物、荷物……" ], [ "これだけですか", "はあ、どうも……", "じゃ、気をつけて、ごきげんよう", "ごきげんよう、どうもいろいろと……" ], [ "――おかげで退屈しないで済みました。汽車の旅って奴は、誰とでもいい、道連れはないよりあった方がいいもんですなア。どんないやな奴でも、道連れがいないよりあった方がいい", "あらッ、じゃ、私はそのいやな奴ですの?", "いや、そんなわけでは……。いや、断じて……", "べつに構いませんわ" ], [ "さよなら", "さよなら" ], [ "おやッ! このトランクは……?", "あッ、あの娘さんのや" ], [ "渡すのを忘れたんだ。君、あの人の名前知ってる?", "いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ", "それもそうだな。そう言えばたしかに、トランクを渡すのを忘れたのはうかつだったが、名前をきくのを忘れたのも、うかつだったな" ], [ "やあ、うちもやられたんですか", "やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ" ], [ "荷物はそれだけか", "少ないでしょう?", "いや、多い。多すぎる。どうも近所に体裁が悪いよ。もっとも近所といっても、焼跡ばかしだが……", "そう言われるだろうと思って、大阪駅の浮浪者に、毛布だとか米だとかパンだとか、相当くれてやって来たんですよ", "ほう、そいつは殊勝だ", "もっとも市電がなかったので、背中の荷を軽くしなければ焼跡を歩いて帰れませんからね", "そんなことだろうと思ったよ。しかし、ついでにそのトランクもくれてやって来たのなら、なお良かったんだが……", "いや、これはだめですよ。こりゃ僕のじゃありませんからね", "じゃ、誰のだ", "あはは……", "変な笑い方をするなよ。あはは……。何だか胸に一物、背中に荷物ってとこかな。あはは……", "あはは……" ], [ "よっしゃ、はいりイ。寒いのンか。さア、はいりイ", "おおけに、ああ、温いわ。――おっちゃん、うちおなかペコペコや", "おっさんもペコペコや。パン食べよか", "おっちゃん、パン持ったはるのン?", "うん。持ってるぜ", "ああ、ほんまに。うちに一口だけ噛らせて", "一口だけ言わんと、ぎょうさん(沢山)食べ!" ], [ "ミネちゃん、おっさんの子になるか", "なる。おっちゃん、ミネちゃんのお父ちゃんやな。ほな、ミネちゃんのお母ちゃんは……?", "…………" ], [ "おい、第二放送に変えようか", "いや、この方がいいですよ", "歌はきらいだった筈だが……", "あはは……" ], [ "お父さん、今日の新聞は……?", "お前の膝の上だ", "あッ、そうか" ], [ "……もしもし、放送局ですか。実は今放送しておられる杉山節子さんに急用なんですが、電話口へ呼んで下さいませんか", "うふふ……" ], [ "放送中の人を、電話口に呼べませんよ", "あッ、なるほど、こりゃうっかりしてました。もしもし、じゃ、杉山さんにお言伝けを……。あ、もしもし、話し中……。えっ? 電熱器を百台……? えっ? 何ですって? 梅田新道の事務所へ届けてくれ? もしもし、放送局へ掛けてるんですよ、こちらは……。えっ? 莫迦野郎? 何っ? 何が莫迦野郎だ?" ], [ "もう、落語はおやりにならないんでやすか", "へえ。もうさっぱりやめました。やる気になれまへんねッ", "はあ、そうでやすか。しかし、惜しいですな。どうです、一度放送してみませんか。新作ものを一つ……" ], [ "それもそやなア。ほな、一つ佐川さんにお願いしまひょかな", "そうでやすか。じゃ、上へ行って打ち合わせましょう" ], [ "やア", "あらッ", "トランク持って来ました", "まア" ], [ "このトランクには、音楽会に要るイブニングや楽譜がはいってましたの。これから、音楽会へも出られますわ。ほんとうに、ありがとうございました。ほんとにお世話ばかし掛けて……", "いやア。お礼いわれるほどの……。第一、僕が京都駅でうっかりしてたのが悪かったのですよ。しかし、もし僕にお礼して下さるのなら、これからあなたの音楽会の切符を送って下さいませんか。僕はそそっかしいので、あなたの音楽会の広告が出ていても、うっかり見逃しそうですから……", "はあ。でも、歌はおきらいなのでしょう?" ], [ "いや、あれは取消しです。速記録から除いて貰いましょう。本員の失言でした", "まア" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「キング 三月号」    1946(昭和21)年3月 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2007年4月13日作成 2011年6月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046299", "作品名": "昨日・今日・明日", "作品名読み": "きのう・きょう・あす", "ソート用読み": "きのうきようあす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「キング 三月号」1946(昭和21)年3月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-05-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46299.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第五巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46299_txt_26604.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-06-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46299_26613.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-06-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "あのう、一寸おたずねしますが、荒神口はこの駅でしょうか", "はあ――?", "ここは荒神口でしょうか", "いや、清荒神です、ここは" ], [ "この辺に荒神口という駅はないでしょうか", "さア、この線にはありませんね", "そうですか" ], [ "たしかここが荒神口だときいて来たんですけど……", "こんなに遅く、どこかをたずねられるんですか", "いいえ、荒神口で待っているように電報が来たんですけど……" ], [ "じゃ、荒神口に御親戚かお知り合いがあるわけですね", "ところが、全然心当りがないんです。荒神口なんて一度も聴いたことがないんです", "しかし、おかしいですね。荒神口に心当りがあれば、たぶんそこで待っておられるわけでしょうが、そうでないとすれば、駅で待っておられるんでしょうね。しかしスグコイといったって、この頃の電報は当てにならないし、待ち合わす時間が書いてないし、電報を受け取られたあなたが、すぐ駈けつけて行かれるにしても、荒神口というところへ着かれるのが何時になるか、全然見当がつかないでしょう。それまで駅で待っているというのはなかなか……。せめて何時に待つと時間が書いてあれば、あれでしょうが……", "私もおかしいなと思ったんですけど、とにかく主人が来いというのですから、子供に晩御飯を食べさせている途中でしたけど、あわてて出て来たんです" ], [ "近所の人に見て貰いましたら、これは大阪の中央局から打っているから、行って調べて貰えと教えて下すったので、中央局で調べて貰いましたら、やっぱり主人が打ったらしいんです", "お宅は……?", "今里です" ], [ "旧券の時に、市電の回数券を一万冊買うた奴がいるらしい", "へえ、巧いことを考えよったなア。一冊五円だから、五万円か。今、ちびちび売って行けば、結局五万円の新券がはいるわけだな", "五十銭やすく売れば羽根が生えて売れるよ。四円五十銭としても、四万五千円だからな", "市電の回数券とは巧いこと考えよったな。僕は京都へ行って、手当り次第に古本を買い占めようと思ったんだよ。旧券で買い占めて置いて、新券になったら、読みもしないで、べつの古本屋へ売り飛ばすんだ", "なるほど、一万円で買うて三割引で売っても七千円の新券がはいるわけだな", "しかし、とてもそれだけの本は持って帰れないから、結局よしたよ。市電の回数券には気がつかなかった", "もっとも新券、新券と珍らしがって騒いでるのも、今のうちだよ。三月もすれば、前と同じだ。新券のインフレになる", "結局金融措置というのは人騒がせだな", "生産が伴わねば、どんな手を打っても同じだ。しかもこんどの手は生産を一時的にせよ停めるようなものだからな。生産を伴わねば失敗におわるに極まっている。方法自体が既に生産を停めているのだからお話にならんよ" ] ]
底本:「聴雨・蛍 織田作之助短篇集」ちくま文庫、筑摩書房    2000(平成12)年4月10日第1刷発行 初出:「真日本」    1946(昭和21)年6月 入力:桃沢まり 校正:松永正敏 2006年7月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046302", "作品名": "郷愁", "作品名読み": "きょうしゅう", "ソート用読み": "きようしゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「真日本」1946(昭和21)年6月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-09-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46302.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "聴雨・蛍 織田作之助短篇集", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2000(平成12)年4月10日", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年4月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2000(平成12)年4月10日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "松永正敏", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46302_ruby_23885.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-07-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46302_23894.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-07-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "おのれは、正月の餠がのどにつまって、三カ日に葬礼を出しよるわい", "おのれは、一つ目小僧に逢うて、腰を抜かし、手に草鞋をはいて歩くがええわい", "おのれこそ、婚礼の晩にテンカンを起して、顔に草鞋をのせて、泡を吹きよるわい", "おのれの姉は、元日に気が触れて、井戸の中で行水しよるわい", "おのれの女房は、眼っかちの子を生みよるわい" ], [ "楓どの、佐助は信州にかくれもなきたわけ者。天下無類の愚か者。それがしは、今日今宵この刻まで、人並、いやせめては月並みの、面相をもった顔で、白昼の往来を、大手振って歩いて来たが、想えば、げすの口の端にも掛るアバタ面! 楓どの。今のあの言葉をお聴きやったか", "いいえ、聴きませぬ。そのような、げす共の言葉なぞ……", "聴かざったとあれば、教えて進ぜよう。鷲塚の佐助どんみたいな、アバタ面の子を生むがええわい、と、こう言ったのじゃ。あはは……。想えばげすの口の端に、掛って知った醜さは、南蛮渡来の豚ですら、見れば反吐をば吐き散らし、千曲川岸の河太郎も、頭の皿に手を置いて、これはこれはと呆れもし、鳥居峠の天狗さえ、鼻うごめいて笑うという、この面妖な旗印、六尺豊かの高さに掲げ、臆面もなく白昼を振りかざして痴けの沙汰。夜のとばりがせめてもに、この醜さを隠しましょうと、色男気取った氏神詣りも、悪口祭の明月に、覗かれ照らされその挙句、星の数ほどあるアバタの穴を、さらけ出してしまったこの恥かしさ、穴あらばはいりもしたが、まさかアバタ穴にもはいれまい。したが隠れ穴はどこにもあろう。さらばじゃ", "あッ佐助様。待って", "この醜くさ、この恥かしさ、そなたの前にさらすのも、今宵限りじゃ" ], [ "誰だ? 笑うのは", "あはは……", "うぬッ! またしても笑うたな。俺のアバタ面がおかしいか", "あはは……", "無礼な奴! 姿を見せずに笑うとは高慢至極! さては鳥居峠の天狗とはうぬがことか。鼻をつく闇に隠れて俺をからかうその高慢な鼻が気にくわぬ。その鼻へし折って、少しは人並みの低さにしてくれるわ。やい。どこだ。空ならば降りて来い。二度と再び舞い上れぬよう、その季節外れの扇をうぬが眼から出た火で焼き捨ててくれるわ。どぶ酒に酔いしれたような、うぬが顔の色を、青丹よし、奈良漬けの香も嗅げぬ若草色に蒼ざめてくれるわ!" ], [ "すりゃ人間か", "人間にして人間にあらず。人間を超克した者だ。天も聴け、地も聴け! 人間は超克さるべき或る物である" ], [ "汝、朝ニ猿ト遊ブト言フ。ソノ所以ハ", "サレバ、友ヲ選ベバ悪人、交レバ阿諛追従ノ徒ニ若クハナシトハ、下界人間共ノ以テ金言ト成ス所ナリ。サルヲ、最悪ノ猿ト雖モ、最善ノ人間ヨリ悪ヲ行フ所尠ク、マタ猿ハ阿諛ヲ知ラヌナリ。猿ニ似テ非ナル猿面冠者ハオノガ立身出世ノタメニハ、主人ヨリ猿々ト呼ビ捨テラレルモ、ヘイヘイト追従笑ヒナド泛ベタルハ、即チ羞恥ヲ知ラザル者ト言フガ如シ。サルヲ、猿ノ赤キ雙頬ハ羞恥ノ花火ヲ揚ゲシ故ナリ。サレバ朝ニ猿ヲ友トセリ", "昼ニ書ヲ読ミシハ?", "サレバ、書ハ読ミタル者ヲ聰明ニ成ストハ限ラザルモ、読マザル者ハ必ズ阿呆ニナラン", "夕ニ武道ノ稽古ヲ成ス所以ハ", "サレバ、今ヤ天下麻ノ如ク紊レ、武ヲ知ラザレバ皆目知ラザルニ等シキ世ナリ。武芸者ノミココヲ先途ト威張リ散ラシ、武ニアラザレバ人ニアラズトイフガ如キ今日、武ヲ知ラザレバ卑屈ノ想多シ", "山中ニ濁世厭離ノ穴ヲ見ツケテ、隠棲成ス所以ハ", "ワレ信州ニカクレモナキアバタ面、即チ余人月並連中トハ、些カ趣ヲ異ニセル面相ノ故ヲ以テ、ゲス俗顔ノ眼ニ触レンコトヲ避ケタリ" ], [ "――海野、お主か", "いんや", "穴山、お主か", "いんや", "筧、お主だろう", "知らぬ", "さては、望月だな", "違う。大方貴様の弟だろう", "おい。伊三、お前も。現在の兄貴を嘲笑するとは、太い奴だ", "莫迦をいえ。わしが昨日から歯痛で、笑い声一つ立てられないのは、先刻承知じゃないか", "ふーむ" ], [ "どうだ、病気は", "ありがとう。今日あたり起きられそうだ。どうも下界の風という奴は、俺の性に合わぬと見える。いっそ風をくらって、逃げてやろうと思っていたが、どっこい、くらった風が無類の暴れ者、この五体中を駈けずり廻り、横紙破って出たのは、咳やら熱やら、ひどい目に会うてしまったよ。あはは……" ], [ "――ところで、些か変なことを訊くようだが、貴公、忍術のほかには何も出来ぬのか", "風邪をひくことも出来る。ごらんの通りよ" ], [ "何? もう一ぺん言ってみろ。出来ぬのかとは、何事だ。人生百般――と、敢えて大きく出ぬまでも、凡そ人間の成すべきことにして、不正、不義、傲慢のこの三つを除いたありとあらゆる中で、この佐助に能わぬことが、耳かきですくう程もあれば言ってみろ!", "まア、そう怒るな。じゃ、出来るのか", "憚りながら、猿飛佐助、十八歳の大晦日より二十四歳の秋まで、鳥居峠に籠っていた凡そ六年の間、万葉はもとより、古今、後撰、拾遺の三代集に、後拾遺、金葉、詞花、千載、新古今の五つを加えて、世にいう八代集をはじめ、源実朝卿の金槐集、西行坊主の山家集、まった吉野朝三代の新葉集にいたるまで、凡そ歌の書にして、ひもどかざるは一つも無かったのみか、徒然なるままに、かつは読み、かつは作ってみた歌の数は、ざっと数えてこのアバタの数ほどあるわい", "判った、判った。道理で日頃の貴公の言葉づかいが、些か常人とは異っていると思っていたよ。ところで、そうときまれば、好都合だ。というのは、外でもない、実は今夜城中に奥方の歌の会があるんだが、今夜の会には、ちと俺の気にくわぬ趣向がたくらまれているんだ", "ほう? 下手糞な歌を作った罰に、三好清海入道に、裸おどりでもさせようという、趣向か。こりゃ面白い", "莫迦をいえ。実は、一番いい歌を作った女を、一番いい歌を作った男にくれてやろうという、趣向なんだ。ところが、女の中で一番歌の巧いのは、奥方附きの侍女で、楓という女なんだ", "楓……? きいたような名だな" ], [ "ところで、男の方の歌の巧い奴は、家老の伜の伊勢崎五六三郎だ", "すると、何だな。その五六三郎が、楓とやらを、貰いそうなんだな。それがどうして、気に染まぬのだ。貴公、その楓とやらに、思いを寄せておるのか", "あらぬことを口走るな。俺ア毛虫の次に嫌いなのは、女という動物だ。つまり、今夜の歌の会で俺の気にくわぬ理由が、ざっと数えて三つある。一つは、五六三郎という奴が虫が好かんのだ", "向うでも、貴公を好きとは言っておらんだろう", "そうだ、そうだ" ], [ "――この五六三郎という奴は、家老の家に生れたのを、笠に着て威張りよるのは、まず我慢出来るとして、のっぺりした顔をしやがって、頭のてっぺんから夏蜜柑のような声を出す。俺ア虫唾が走るんだ。第二の理由は、こ奴かねがね楓に横恋慕して、奥方を通じて、内々の申し入れ、それを楓がはねつけたものだから、奥方に入智慧して、歌の会の趣向など、たくらみおって、うむを言わさず、楓を娶ろうというその魂胆が気にくわぬ。第三の理由というのは……", "おのれが一番いい歌を作るものと、はなから極めこんでいる、その鼻ッ柱が気にくわぬというのだろう" ], [ "そうだ。その通りよ。そこで貴公、病気の全快祝いだと思って、今夜の歌の会に出て、五六三郎の鼻を明かしてくれんか", "俺ア断るよ。貴公出て、珍妙なる歌でも作るさ" ], [ "ところが、俺ア笛と法螺なら、人並以上にうまく吹くが、歌と来た日にゃ、からきしだめなんだ。いや、こりゃ法螺じゃない。正直なところを、恥をしのんで言ってるんだ。頼む。貴公出てくれ", "いやだ" ], [ "親分、肩の凝りなら、灸よりも蛭に血を吸わせた方が効きますぜ", "いや、蛭よりも鼠の黒焼きを耳かきに一杯と、焼明礬をまぜて、貼りつけた方が……" ], [ "やい、猫真似! 何をしている?", "猿飛の奴の足跡を探しますんで" ], [ "しかし、俺はきっと猿飛をつかまえて見せるぞ", "何か妙策が……?", "うん。二つはないが、一つはある。子分共もっと傍へ寄れ……" ], [ "――妙策というのは外でねえ。手めえたちは、今から京の町を去って、一人ずつ諸国の山の中に閉じこもって、山賊となるんだ。そして手下を作って、仕たい放題の悪事を働けば、手めえたちの噂はすぐ日本国中にひろがって、猿飛の耳にもはいろう。猿飛という奴はオッチョコチョイだから、山賊の噂をきけば、直ぐノコノコと山賊退治にやって来るに違いねえ。そこをふん縛るんだ", "しかし、親分、猿飛という奴は、親分にも大火傷、いやお灸を据える位の忍術使いですから、下手すると、こっちがやられてしまいますぜ", "莫迦をいえ! いかな猿飛といえど、俺の秘策に掛っては……", "秘策というと……?", "松明仕掛けの睡り薬で参らすんだ。その作り方は、土龍、井守、蝮蛇の血に、天鼠、百足、白檀、丁香、水銀郎の細末をまぜて……" ], [ "それがしは、信州真田の郎党、猿飛佐助幸吉と申す未熟者、御教授を仰ぎたい", "上られい!" ], [ "当院は宝蔵院流といって、一度び試合を行えば必ず怪我人が出るというはげしい流儀じゃ。町道場の如き生ぬるい槍と思われては後悔するぞ。まった、当院は特に真槍の試合にも応ずるが、当院に於いて命を落した武芸者は既に数名に及んでいる。寺院なれば殺生を好まずなどと、考えては身のためにならんぞ!", "なるほど、当院は人殺し道場でござるか。いやいや、感服致した。寺院なれば葬式の手間もはぶけて、手廻しのよいことでござるわい", "…………" ], [ "したが、それがし目下無一文にて、回向料の用意もしておらぬ故、今ここで死ぬというわけには参りませぬて。あはは……", "何ッ!" ], [ "あはは……。薬鑵頭から湯気が出ているとは、はてさて茶漬けの用意でござるか。ても手廻しのよい", "黙れ!" ], [ "失礼仕った!", "やや、こ奴!", "あはは……。お手前の眼から出た火で、薬鑵頭の湯気が煮え立っておるところを見れば、茶の用意も整ったと見えた。――どれ、茶漬けの馳走にあずかりましょうかな" ], [ "知っておる", "お顔を見せて下さりませ", "たわけめ! 汝のような愚か者に、見せる顔は、持たぬわ!", "えッ?", "汝ははや余が教訓を忘れしか", "えッ?", "忍術とは……?" ], [ "忍ぶの術なり", "忍ぶとは……?", "如何なる困苦にも堪うる、これ能く忍ぶなり。まった、火遁水遁木遁金遁土遁の五遁を以って、五体を隠す。これまた能く忍ぶなり", "忍術の名人とは……?", "能く忍び、能く隠す、これ忍術の名人たり" ], [ "はッ! あのウ……", "答えられまい。汝は能く隠すも能く忍ばざる者じゃ。徒らに五遁の術の安易さに頼って、勝ち急ぐ余りの、不意討ちの卑怯の術にうつつを抜かし、試合に望んでは一太刀の太刀合わせもなさず、あまっさえ、天下一の強者を自負するばかりか、わが教えし飛行の術をも鼻歌まじりに使うとは、何たる軽佻浮薄、増長傲慢、余りの見苦しさに、汝の術を封じてやったが、向後一年間、この封を解いてはやらぬぞ。これ汝への懲罰じゃ――。さらばじゃ", "あッ、先生!" ], [ "お侍様、そりゃおよしなさいませ。あの峠には、木鼠胴六といって、名高い石川五右衛門の一の子分が山賊となって、山塞にとじこもり、旅人を見れば、剥ぎ取って、殺してしまいます", "何ッ! 山賊が……?" ], [ "――こりゃ面白い。雨でも越さずばなるまい", "まア、命知らずな。悪いことは申しませんから、およしなさいませ。昨日も坊様かお侍様かわからぬような、けったいな方が、俺が退治て来てやると言って、山の中へはいって行かれましたが、今に降りて見えぬところを見ると……", "あはは……。退治られたと申すか。いや、この俺は、そんな坊主か侍かわからぬような、宝蔵院くずれとは、些か訳がちがう。忍術は封じられても、猿飛佐助、石川五右衛門の子分共に退治られるような、弱虫ではないわ。――おや、何をそのようにそれがしの顔を見ておるのじゃ。そのように穴のあくほど見つめずとも、既にアバタの穴があいているわい。あはは……" ], [ "我こそは信州真田の鬼小姓、笛も吹けば法螺も吹く、吹けば飛ぶよな横紙を、破った数は白妙の、衣を墨に染めかえた、入道姿はかくれもなき、天下の横紙破り三好清海入道だ", "なアんだ、三好か" ], [ "貴様を縛り首にする為だ", "えっ? なんだと?" ], [ "――したが、ここで会ったとは何が幸せになるやら、やい、猿飛、上意だ、繩に掛れ、……といいたいが、壁をへだてた牢の中。――おい、猿飛、貴様忍術が使えるのだろう。えいと九字をきって、ドロドロと鼠に化け、チョロチョロと穴を抜け出して、この俺を救い出してくれ", "その忍術が使えるなら、今時、貴様の下手糞な笛など聴いておるものか" ], [ "お久しゅうございます", "…………" ], [ "何をそのように黙っておられます", "余りのことに言葉も出なかったのじゃ。思いも掛けぬそなたとの対面、牢屋の中とは面目ないが、この暗闇がアバタの俺を隠してくれたとは、もっけの幸い" ], [ "ま、そのようなことは後で。一刻も早うお逃げなさいませ", "いや、逃げはせぬ。女人のそなたに助けられて逃げたとあっては、アバタ以上の恥でござる" ], [ "楓どの、あの月を見やれ、綺麗な月ではござらぬか", "ほんに、十六夜の月はおぼろに鈴鹿山……" ], [ "月も怖いが、お主も怖い。どこへという当てもないが、月にアバタをまごまご曝していては、お主の繩目に掛らざなるまい", "法螺だ、法螺だよ。ありゃ皆おれの法螺だ。返せ、返せ! おい、猿飛待たんか。おい" ], [ "俺のこのしわがれ声が判るか", "判らないで何と致しましょう、師の恩は海よりも高く、山よりも深……、おっと間違えました。山よりも高く、海よりも……", "何をうろたえている。落着きなさい、見苦しい。走りながら口を利くからじゃ。だいいち師匠に口利くのに走りながらとは何事じゃ", "はッ! 失礼しました。――ごらんの通り停まりました", "汗を拭きなさい。アバタの穴からおびただしい汗の玉が飛び散っているわ。醜態じゃ", "はッ! 只今!" ], [ "したが、飛行の術は卑怯の術ではない。めったなことに卑怯はならぬ。まった忍術とは……", "忍術とは……?" ] ]
底本:「織田作之助 名作選集4」現代社    1956(昭和31)年5月20日初版発行 ※「南禪寺」と「南禅寺」の混在は底本通りです。 ※誤植の確認に、「織田作之助作品集 第二巻」沖積舎、「ちくま日本文学全集 織田作之助」筑摩書房を使用しました。 入力:生野一路 校正:浅原庸子 2001年8月2日公開 2005年9月29日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001325", "作品名": "猿飛佐助", "作品名読み": "さるとびさすけ", "ソート用読み": "さるとひさすけ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-08-02T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card1325.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "織田作之助 名作選集4", "底本出版社名1": "現代社", "底本初版発行年1": "1956(昭和31)年5月20日", "入力に使用した版1": "1956(昭和31)年5月20日初版", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "生野一路", "校正者": "浅原庸子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/1325_ruby_2695.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-02-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "5", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/1325_19602.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-02-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "話て、どんな話や", "…………" ], [ "話っていうのはね。……あなた、入山さんとお友達でしょう?", "うん。友達や" ], [ "あたし恥かしくて入山さんに直接言えないの。あなたから入山さんに言って下さらない?", "何をや!", "あたしのこと" ], [ "天下茶屋まで五円で行け!", "十円やって下さいよ", "五円だと言ったら、五円だ!", "じゃ、八円にしときましょう", "五円!", "じゃ、七円!", "行けと言ったら行け! 五円だ!", "五円じゃ行けませんよ!", "何ッ? 行かん? なぜ行かん?", "行かんと言ったら行かん!", "行けと言ったら行け!" ], [ "満州へ行かれるんですか。旅行日記はぜひ頼みますよ", "うえへッ!" ], [ "まず、満州へ行く感想といった題で一文いただけませんか", "誰が満州へ行くんだい?", "あなたが――。今日のうちの消息欄に出てましたよ", "どれどれ……" ], [ "――なるほど、出てるね。エヘヘ……。君、こりゃデマだよ", "えッ? デマですか。誰が飛ばしたんです", "俺だよ、俺がこの部屋で飛ばしてやったんだよ。この部屋はデマのオンドコだからね。エヘヘ……", "オンドコ……?", "温床だよ" ], [ "二円五十銭にしときましょう", "たったの……?" ], [ "えッ? どこに……", "向うの部屋に罐詰中です" ], [ "――なんだ、君か。いつ来たの?", "罐詰ですか", "到頭ひっくくって連れて来やがった。逃げるに逃げられんよ。何しろエレヴェーターがきゃつらの前だからね。――ああ眠い" ], [ "どうです。書けましたか", "書けるもんか。ビールがあれば書けるがね。――たのむ、一本だけ!" ], [ "だめ、だめ! 一滴でもアルコールがはいったら最後、あなたはへべれけになるまで承知しないんだから折角ひっくくって来たんだから、こっちはあくまで強気で行くよ。その代り、原稿が出来たら、生ビールでござれ、菊正でござれ、御意のままだ。さア、書いた、書いた", "一本だけ! 絶対に二本とは言わん。咽が乾いて困るんだ。脳味噌まで乾いてやがるんだ。恩に着るよ。たのむ! よし来たッといわんかね", "だめ!", "じゃ、十分だけ出してくれ、一寸外の空気を吸って来ると、書けるんだ。ものは相談だが、どうだ。十分! たった十分!", "だめ! 出したら最後、東西南北行方知れずだからね、あんたは", "あかんか" ], [ "あかん。今夜中に書いて貰わんと、雑誌が出んですからね。あんたの原稿だけなんだ", "火野はまだだろう?", "いや、今着きましたよ", "丹羽君は……?", "K君がとって来た。百枚ですよ", "じゃ、僕のは無くてもいけるだろう。来月にのばしちゃえよ", "だめ! あんたが書くまで、僕は帰らんからね", "泊り込みか。ざまア見ろ" ] ]
底本:「世相・競馬」講談社文芸文庫、講談社    2004(平成16)年3月10日第1刷発行 底本の親本:「織田作之助全集 第六巻」講談社    1970(昭和45)年7月 初出:「光 五・六月合併号」    1946(昭和21)年6月 入力:桃沢まり 校正:富田倫生 2006年4月21日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046168", "作品名": "四月馬鹿", "作品名読み": "しがつばか", "ソート用読み": "しかつはか", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「光 五・六月合併号」1946(昭和21)年6月", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-06-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46168.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "世相・競馬", "底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社", "底本初版発行年1": "2004(平成16)年3月10日", "入力に使用した版1": "2004(平成16)年3月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2004(平成16)年3月10日第1刷", "底本の親本名1": "織田作之助全集 第六巻", "底本の親本出版社名1": "講談社", "底本の親本初版発行年1": "1970(昭和45)年7月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "富田倫生", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46168_ruby_22647.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-04-21T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46168_22668.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-04-21T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "どんな訓練ですか", "第一回だから、整列の仕方と、敬礼の仕方を教えて、あとは講演です" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第八巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「新生日本」    1945(昭和20)年11月 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2007年4月25日作成 2007年8月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "皆で金出し合うて、地蔵さんを祀ったげよか", "そやそや、それがええ。祀ったげぜ、祀ったげぜ" ], [ "チャー坊はまだ子供だからな", "そうかな。俺アもうチャー坊は一切合財知ってると思ってたんだが……", "しかし、まだ十七だぜ", "十七っていったって、タカ助の奴なんざア、あら、今夜はシケねなんて、仰有ってやがらア。きゃつめ、あの二階を見るのがヤミつきになりやがって、太えアマだ", "太えアマは昨日の娘だ。ありゃまだ二十前だぜ", "二十前でも男をくわえ込むさ", "ところが、一糸もまとわぬというんだから太えアマだ", "淫売かも知れねえ", "莫迦、淫売がそんな自堕落な、はしたないことをするもんか。素人にきまってらア", "きまってるって、ははあん、こいつ、一糸もまとわさなかった覚えがあるんだな。太え野郎だ" ], [ "お馴染みはんは……?", "ない", "ほな、任しとくれやすか", "うん" ], [ "ほな、おとなしい、若いええ妓呼んで来まっさかい、お部屋で待っとくれやすか", "うん" ], [ "なんだ、これ。――ああ飴か", "昼間京極で買うたんどっせ", "京極へ活動見に行ったの?", "ううん" ], [ "飴買いに行ったんどっせ", "飴買いに……? 飴だけ買うたの? あはは……" ], [ "おや、こりゃ紫蘇入りだね", "美味おっしゃろ?" ], [ "君は飴が好きだね", "好きどっせ。こんどお出やす時、飴持って来とおくれやすか", "うん。持って来る" ], [ "――花屋のおっさんにもあの雑誌見せたりました", "へえ? 見せたのか", "花屋も防空壕の上へトタンを張って、その中で住んだはりま。あない書かれたら、もう離れとうても千日前は離れられんいうてましたぜ" ], [ "文春は……?", "文芸春秋は貰ったからいい", "あ、そうそう、文春に書いたはりましたな。グラフの小説も読みましたぜ。新何とかいうのに書いたはりましたンは、あ、そうそう、船場の何とかいう題だしたな" ], [ "あはは……。ぜんざい屋になったね", "一杯五円、甘おまっせ。食べて行っとくれやす", "よっしゃ", "どないだ、おいしおますか。よそと較べてどないだ? 一杯五円で値打おますか", "ある。甘いよ" ], [ "チョイチョイ来とくなはれ", "うん。来るよ" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「文明 春季号」    1946(昭和21)年4月 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2007年4月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046304", "作品名": "神経", "作品名読み": "しんけい", "ソート用読み": "しんけい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文明 春季号」1946(昭和21)年4月", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-06-02T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46304.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第五巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46304_ruby_26605.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-04-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46304_26615.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "不良中学生! うろうろしないで、早くお帰り", "勝手なお世話です" ], [ "K中ね。あんたとこの校長さん知ってんのよ", "言いつけたら宜しいがな", "言いつけるわよ。本当に知ってんねんし。柴田さん言う人でしょ?", "スッポンいう綽名や" ], [ "そうか。じゃあ相談してみたまえ。なるべく行くよう。中学校だけで止めるのは惜しいからね", "僕もそう思います" ], [ "先輩だよ。先輩といったのが何が悪い?", "何期生か言って見ろ!" ], [ "怖いことはない!", "じゃ、ついて来給え" ], [ "そうや、下手やなあ", "全部の中でいちばん下手だろう", "そや、そや。いちばん下手や" ], [ "生意気言うと撲るぞ!", "撲れ!" ], [ "君さえ構へんかったら、なんとかするぜ", "当あるのか?" ], [ "あるぜ", "そうか。そんなら僕どこで待っていようか?" ], [ "僕は朝から算盤を手から離したことがないんで。点数の勘定で忙しいんだよ。用件を早く言ってくれ給え", "はあ、その点数のことなんですが", "点数のことは致し方ないよ、どうにもならないよ" ], [ "赤井と野崎の点をあげてくれというわけだね?", "はあ", "君はどうなんだ?" ], [ "すると、三人とも落第――?", "異議なし" ], [ "ほんま言うたら、六十円でもやって行かれしまへんネん。子供が二人も居よりまんネん。きょう日物が高おまっさかいな", "二人もね", "ええ、二人もいよりまんネ。もう直き三人ですわ。さっぱりわやです。しかし、ここの会社アはえらい家族主義や言いまっさかい、まさか社員が食て行かれんようなことはしまへんやろ。その代り、よう働かしよりまっしゃろな" ], [ "高等学校の制服はあるでしょうね", "はあ、しかし、もう学生じゃありませんから", "なぜ退学したのですか?", "つまらなかったからです", "赤じゃなかったんですか?", "いや、落第したんです", "理由は?" ], [ "僕に出来ることでしたら", "いや。あんたやったら文句無しに出来ますわ。三高を途中でやめはったそうでんな。惜しいこっちゃ。兵役は? ああ、なるほど、未だ十八、さよか" ], [ "こない日が射し込んで来よったら、毛利君かなわんやろ。もう直き簾をはりこむぜ。――どないや、帯封何枚ぐらい書けた?", "六百枚位でしょう", "そら早い。商売人なみや" ], [ "月給を貰うのやさかい、お前も洋服こしらえたらどないや?", "いや、構へん。これで結構や" ], [ "八十一、八十二、八十三、……", "らっしゃいませ", "珈琲ワン", "ありがとうございます", "ティワン" ], [ "傑作があるぜ、これどないや。Lumpen(ルンペン)を合金ペンと訳しとるねんや", "だいぶ考えよったですな", "まだある。やっぱり同じ男や。Platon(プラトン)はインクの名前やいうとるねや", "文房具で流したところは、なかなか凝ってますな。まだありませんか。傑作は――", "室内楽を麻雀やぬかしとる", "こら良え。なるほど麻雀やったら、部屋のなかで鳴りますな", "部屋の中の楽しみやと考えよったのやろ", "A la mode(アラモード)に傑作がありまっしゃろ", "あるぜ。献立表というのがある。あ、そう、そう、これはどないや。モーデの祈りとはどないや", "新聞記者にするのは惜しいですな", "吉本興業に頼んでやると良えな" ], [ "外勤でも結構です", "――そうか。そんならひとつ気張ってやってんか。――そんなら今日はこれで帰って良えぜ。あした朝九時に来てんか。いま皆外へ出てるよって、あした皆に紹介することにしよう" ], [ "じゃあ、あした来ます。九時ですね", "そうしてエ" ], [ "君、入社したんですか", "はあ", "今日は用事ないんでしょう?", "はあ" ], [ "降りますかね", "降りまんな" ], [ "おい、美根ちゃん、そんなにおれの顔を見ないでくれ!", "まあ、失礼!", "監視せんでも良えぞ。勘定はこの人が払ってくれる。食逃げはせんからね。いつものようには……" ], [ "珈琲もう一杯のみましょう!", "ああ、飲もう。よくぞ言った。人生の無常がわかるとは、良いところがある。君はいくつだ?" ], [ "おれがここにいるとよくわかったな", "どうせ近くだとにらんだわい" ], [ "本当か?", "遺憾ながら本当だ", "なるほど、遺憾ながらでっか。そんなら、誰だ?", "わからん。わかろうとは思わん。わかると一層辛い。わかっているのは、銀子が失われたという、痛ましい事実だけなんだ", "…………" ], [ "いい気持だ。焼酎禿のくせに踊子にうつつを抜かしやがって……。あはは……。恥しくねえのか?", "うむ、いったな", "どうだ、恥しくねえのか", "うーむ", "さあ、さあ、返答、返答!", "さあ、それは……", "返答、なんと? なんと?", "恥しいのは、お互いさまだ。てめえの歳はいくつだと思ってやがるんだ", "おお、よくきいてくれた。五十だ。隠しはせん", "隠せるもんか?", "なにをッ、こののんだくれ!" ], [ "いったい、誰に行かせたんや", "土門です", "土門君をここへ呼びなはれ" ], [ "もうガソリンが切れてまんねん。どこまででっか?", "下寺町だ" ], [ "本当に知らないの?", "ええ" ], [ "あのう、ちょっとお話したいことがありますの。いま、お手すきでしょうか", "はあ", "では、会っていただけます?", "はあ", "心斎橋の不二屋でお待ちしていますわ", "はあ", "すぐ来ていただけます?" ], [ "お珈琲にお菓子、……それから、私はクリーム、……クリームはなに……?", "ヴァニラだけでございます" ], [ "毛利て誰やねん?", "はあ。あの社会部見習の毛利豹一です", "なんや、君か? なんぞ用か?", "はあ、あのう、さっきの原稿もう印刷に廻ってますか?", "まだやぜ。それがどないしてん?", "まだですか。そうですか。そんなら、大変勝手ですけど、あれを没にして下さいませんか?", "なんでや?", "はあ。あのう、ちょっと事情がありまして……" ], [ "はあ。心斎橋の不二屋に……", "誰といるねん? 恋人とか?" ], [ "好きになったんだろう? 誰か……", "そりゃ、少しは……。しかし、たいしたことはなかったわ", "どんな人?", "やっぱり踊りの上手な人ね。リードのうまい人だったら、踊ってる間だけ、ちょっと迷わされるわ" ], [ "あら、すみません", "そない、あら、すみませんテあっさり言われたら困りまっせ。いったい来てくれはるんでっか、くれはれしまへんのか、どっちだんねん?", "すみませんが、やめさせていただきます" ], [ "レコード会社で使って下さるの?", "うん。大体あらかじめの話はついているんだ。どうだ? これから会社の人に会おうじゃないか", "ええ" ], [ "恋人なんかありませんよ", "ぬかしたな。村口多鶴子はどうした? ――そんな顔せんといて頂戴んか。ちゃんと聴込みがあるんでっさかい。惚れてるか、惚れられてるか、そこまでは知らんがね", "惚れてませんよ" ], [ "こんな生活をどう思う?", "馴れてますわ" ], [ "利子をつけてお渡しします", "いつくれるんね?", "今夜お渡しします", "そうか? 間違いなや" ], [ "どこへ行くねや?", "社へ金もらいに行くねや", "真っ直ぐ帰っといでや" ], [ "構へん。構へん。気にしなや。よその新聞に書かれたぐらいで気にしたらあかん", "でもあんな風に書かれましたら、……" ], [ "そうだろう? おれの言うことに間違いはないだろう? 感心したろう?", "はあ、感心しました", "二円貸してくれ" ], [ "失踪したんだ。行方不明なんだ。余り皆んながひどい目に会わせやがったんで、到頭小屋を逃げ出したんだ。悲しいこった。――ところで、このことでいちばん悲観してるのは、いったい誰だと思う?", "北山さんでしょう?" ], [ "乳母車を買わんならんな", "そやな", "まだ乳母車は早いやろか" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:小林繁雄 校正:伊藤時也 2000年3月18日公開 2013年8月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000732", "作品名": "青春の逆説", "作品名読み": "せいしゅんのぎゃくせつ", "ソート用読み": "せいしゆんのきやくせつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-03-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card732.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第二巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7) 年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小林繁雄", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/732_ruby_19840.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-08-12T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/732_19841.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-08-12T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "千箱だと一万円ですね", "今買うて置かれたら、来年また上りますから結局の所……", "しかし僕は一万円も持っていませんよ" ], [ "今隣へはいりかけたんだよ", "浮気者! おビール……?", "周章者と言って貰いたいね。うん、ビールだ。あはは……" ], [ "帰れなきゃ野宿するさ。今宮のガード下で……", "へえ……? さては十銭芸者でも買う積りやな", "十銭……? 十銭何だ?" ], [ "今書いてらっしゃるのは……?", "千日前の大阪劇場の裏の溝の中で殺されていた娘の話だ。レヴュに憧れてね。殺されて四日間も溝の中で転がっていたんだが、それと知らぬレヴュガールがその溝の上を通って楽屋入りをしていたんだ。娘にとっては本望……" ], [ "またとは何だ。あ、そうか、『十銭芸者』も終りに殺されたね", "いつか阿部定も書きたいとおっしゃったでしょう。グロチックね" ], [ "女房の客……? じゃ細君に商売をさせてるの?", "そうですよ。女房が客を取ってるんですよ。あの男に言わせると、女房の客を物色して歩くようになってからはじめてポン引の面白さがわかったと、言っとりましたがね。あんたも社会の表面の綺麗ごとばかし見ずに、ああいう男の話を聴いて、裏面も書いて見たらいい小説が生れるがなア" ], [ "どうぞ。いいタネって何……? アナゴ……? 鮹かな", "いえ、天婦羅のタネじゃありませんよ。あはは……。小説のタネですよ" ], [ "借りていい", "その代り大事に読んで下さいよ。何しろ金庫の中に入れてるぐらいだから。もっともあんた方は本を大事にする商売の人ですから、間違いないでしょうが。大事に頼みますよ" ], [ "はいれ。寒いだろう", "へえ。おおけに、済んまへん。おおけに" ], [ "闇屋の天婦羅屋イはいって食べたら、金が足らんちゅうて、袋叩きに会いましてん。なんし、向うは十人位で……", "ふーん。ひどいことをしやがるな。――おい、餅が焼けた。食べろ", "へえ。おおけに" ], [ "泊めんことがあるものか。莫迦だなア。電車賃のある内にどうしてやって来なかったんだ", "へえ。済んまへん", "途中大和川の鉄橋があっただろう", "おました。しかし、踏み外して落ちたら落ちた時のこっちゃ。いっそのことその方が楽や、一思いに死ねたら極楽や思いましてん" ], [ "ふーん。しかし五倍と聴くと、何だかまた博奕にひっ掛りそうだな。あれはよした方がいいよ。人に聴いたんだが、あれは本当は博奕じゃないんだよ。博奕なら勝ったり負けたりする筈だが、あれは絶対に負ける仕組みだからね。必ず負けると判れば、もう博奕じゃなくて興行か何かだろう。だから検挙して検事局へ廻しても、検事局じゃ賭博罪で起訴出来ないかも知れない、警察が街頭博奕を放任してるのもそのためだと、嘘か本当か知らんが穿ったことを言っていたよ。まアそんなものだから、よした方がいいと思うな", "いや、今度は大丈夫儲けてみせます" ], [ "面白い家って、怪しい所じゃないだろうね", "大丈夫ですよ。飲むだけですよ。南でバーをやってた女が焼けだされて、上本町でしもた家を借りて、妹と二人女手だけで内緒の料理屋をやってるんですよ", "しもた屋で……? ふーん。お伴しましょう" ], [ "――どないしてはりましたの", "どないもしてないが……", "痩せはりましたな", "そういうあんたも少し", "痩せてスマートになりましたやろ", "あはは……" ], [ "――実はお二人の前だけの話だけど、あのお定という女は私と一寸関係がありましてね……", "えっ?", "話せば長いが……" ], [ "――うちの禿げ婆のようなものも女だし、あの女のようなのもいるし、女もいろいろですよ", "で、その女がお定だったわけ……?", "三年後にあの事件が起って新聞に写真が出たでしょうが、それで判ったんですよ。――ああえらい恥さらしをしてしまった" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版株式会社    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「人間」    1946(昭和21)年4月号 入力:小林繁雄 校正:伊藤時也 2000年3月17日公開 2011年6月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000737", "作品名": "世相", "作品名読み": "せそう", "ソート用読み": "せそう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「人間」1946(昭和21)年4月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-03-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card737.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第五巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7) 年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "小林繁雄", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/737_ruby_3433.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-06-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/737_43615.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-06-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "実は千恵さんのことやが、あんた千恵さんの居所知ってるのやろ", "……………………" ], [ "何をさらしてた、今迄。廻しの女郎みたいに出て行ったら一寸やそこらで帰って来ん", "…………" ], [ "ほんまに、何でんな、こないして、兄弟が集ってお正月するいうのは良いもんでんな", "そうやのし。何が良えちゅうたかてのし。兄弟が仲良うお酒のんでお正月出来るちゅうのが一番良えのし" ], [ "まあ〳〵嫂さん", "兄さん、あんたも" ] ]
底本:「俗臭 織田作之助[初出]作品集」インパクト出版会    2011(平成23)年5月20日初版第1刷発行 底本の親本:「海風 第五巻六号」海風社    1939(昭和14)年9月 初出:「海風 第五巻六号」海風社    1939(昭和14)年9月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:kompass 校正:小林繁雄 2012年8月17日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "どこイでも、ぼんぼんのお行きやすところへ……", "だめだ!", "なんぜどす……" ], [ "それ一等じゃないの", "へえ……?" ], [ "ぼんぼんの相手はわてやおへん", "ほな、ぼんぼんに好きな女子はんおすのンどっか" ], [ "大ありのコンコンチキ……", "ふーん。そうどっか。誰どっしゃろ" ], [ "――なんぞ証拠おすか", "おすもおさぬも逢坂の関や" ], [ "――だいいち、鈴子はんが桔梗屋はんにはいりはるたんびに、ぼんぼん奥の間で、そわそわして、赧うなっといやす言うことどっせ", "こりゃ聞き捨てならん" ], [ "まずさし当って、誰とおしやすか。ヤーさんどっか、オーさんどっか", "ヤーもオーもない、そこらにうじゃうじゃしてる男という男、片っ端から……" ], [ "姐さん、どちらまで……?", "…………" ], [ "お伴しましょうかね", "うふふ……" ], [ "――どこまで……?", "どこへでも、姐さんの行く所まで……", "ぷッ!" ], [ "――誰方でしょう……?", "お名前はおっしゃいませんでしたが、高等学校の学生はんです" ], [ "どうぞ!", "ああ" ], [ "御用事は……?", "実は……" ], [ "取り戻しに来たんでしょう……?", "そうだ" ], [ "いや、これじゃない。サイコロだ", "えっ……?", "この百円はあんたのものだ", "あら、どうして……?" ], [ "僕にはこの百円を受けとる権利はない", "判らないわ", "僕はあのスピード籤を破りかけてたんだ。それをあんたが教えてくれた。この百円は教えてくれたあんたが受け取る権利がある。僕は金に未練があって、やって来たんじゃないんだ" ], [ "――どうして、ロジックになっていないと言うんだ", "だって、教えたのはあたしだけど買ったのはあなたでしょう。破る破らないは、あなたの勝手だけど、所有権はたしかにあなたにある筈よ。もっとも、掏るという行為によって、一時この百円の所有権はあたしに移っちゃったけど、それもあくまで一時に過ぎないわよ。だから、取り戻しに来られたら、当然の権利として、あなたに返すわけよ", "あんたは立候補すればいい" ], [ "ありがとう、お妾出身の女代議士もあるんだから、掏摸出身の女代議士だって不思議じゃないわね", "かえって乙かも知れない" ], [ "――とにかく、この百円は僕は受け取りませんよ", "あら、どうして……?", "僕は金を貰いにやって来たんじゃない。そんな風に思われるのは心外だ。あの百円は掏られた途端に、あきらめたんだから、今更返して貰おうと思わない", "へんな人ね" ], [ "――じゃ、何しにここへいらしたの……?", "だから、言ってるじゃありませんか。サイコロを返してほしいと……" ], [ "ますます変な人ね。サイコロそんなに必要なの……?", "必要だ" ], [ "必要なわけ、ききたいわ", "つまらぬ好奇心を起さずに、さっさと返して下さい", "言わなければ、返さない", "なぜ、そんなに好奇心を起すんです", "なぜ……?" ], [ "――僕はあのサイコロがなかったら、東へ行っていいか、西へ行っていいか、判らないんだ。サイコロにきいてみなくちゃ、何にも行動できないんだ", "ふーん" ], [ "そ、それだけだよ", "嘘おっしゃい!" ], [ "あのサイコロ、誰かいい人に貰ったんでしょう?", "そんなことないよ" ], [ "そりゃ売ってるさ、しかし、買うたって、金がない", "あたしが掏っちゃったから……?", "うん" ], [ "じゃ、お返しするわ", "ありがとう", "あらッ?", "……? ……", "だって、おかしいわ、もともとあなたのものじゃないの、礼を言うのはおかしいわね", "じゃ、礼を言うのは止そう", "その代り、この百円もいっしょに持って行って頂戴!", "いや、そりゃ困る", "困るのはあたしの方だわ、だいいち、後味が悪いし、それに、それじゃ何だかあたしがみじめだわ", "しかし、この金あんたはいるんだろう?", "お金のいらない人は今時ないわね" ], [ "それ見ろ", "何がそれ見ろなの?", "あんたはただの掏摸じゃないんだろう。ねっからの掏摸じゃないんだろう", "誰だって、生れた時から掏摸じゃないわ", "いや、僕の言ってるのは、そんな意味じゃない" ], [ "――つまり、何といったらいいかな。――そうだ。つまり、あんたのようなひとが……", "あんたのようなひとって、どういう意味……?", "つまり、スタンダールを読んでるようなひとっていう意味だ" ], [ "しかし、ただの読み方じゃない。あんたは『赤と黒』に心酔してるんだろう?", "まア、そうね", "僕だってそうだ。僕はスタンダールは世界で一番えらい作家だと思っているが、しかし、あんたは僕以上に『赤と黒』が好きだろう。その証拠に……" ], [ "――よくよくの事情……? あはは……そんなものないわよ。あたしはただスリルを求めているだけ。その方がスタンダール好みじゃない……?", "スリのスリルか、洒落だね。――しかし、よくよくの事情と僕が言った時、あんたはなぜ眼をうるませたんだ?" ], [ "千枝子はん、今晩お泊りやすか", "えっ?" ], [ "お客さんには今わてがよう謝っといたさかい、ほな、お客さんに挨拶だけしてお帰りやす", "おおきに、お母さん、かんにんどっせ" ], [ "姉さん、昨夜ここで泊ったのね。――男の方と一緒……?", "…………" ], [ "――あたし、姉さんに相談があって来たのよ", "相談……?", "叔父さんち、飛び出そうと思ってるの。だって叔父さんたら、姉さんがいなくなると、こんどはあたしにいやなことをしようとするのよ。昨夜よ。あたし、夜があけるとすぐ出て来たの。ところが、倶楽部へ行ったら、姉さんは昨夜からまだ帰らないというでしょう。貸席っていうの? 名前をきいて、路地の表まで行って、姉さんの出て来るのを待ったのよ", "ごめんね", "謝ることはないわ。でも、あたし、姉さんと一緒にヤトナになるつもりだったけど、よすわ。ヤトナってお酌だけじゃないのね、莫迦ね、姉さんは……", "…………", "どうして、泊ったりなんかしたの……?", "…………", "その男の方好きなの……?", "ううん……" ], [ "つまり生意気なようだけど、悲願なの", "なるほど、ただの掏摸じゃなかったわけだね。僕の思った通りだ" ], [ "くどいようだが、この百円はあんたに進呈する", "あらッ、だめよ" ], [ "悲願っておっしゃったでしょう。悲願といえばね、僕はこの百円はどうせ悲願救援同盟に寄附するつもりだったんだ。あんたも戦災者の一人でしょう、だから、受け取る権利がある", "権利はあっても、受け取らねばならぬ義務はないでしょう", "しかし、姉さんを救う義務はあるでしょう" ], [ "じゃ、いただきます。いえ、お借りして置きます。ありがとう", "その代り、サイコロ下さい", "ああ――" ], [ "あら、もうお帰り……?", "ええ" ], [ "用ってわけではないが、隣に泊っているよしみで、一寸顔を出したわけですよ", "無断で、女ひとりの部屋へはいって来ていいんですか。ダブルの洋服が泣きますよ", "しかし、無断でひとの懐中を掏るひともいますからね、赤いブラウスが泣きますよ" ], [ "聴いたのね", "まアね", "密告しようというの", "まさか、そんな野暮な", "口止め料がほしいのね", "いや、そんなものはほしくない、しかしほかにほしいものがある", "えっ……?", "君だ、君がほしい……" ], [ "お名前は……?", "梶です" ], [ "あのウ、おつりが……", "あら、いいのよ" ], [ "今の方、どなたですか", "さあ知りませんが……。ただ電話をお貸ししただけで……", "そうですか……" ], [ "もしもし、山吹先生のお宅でいらっしゃいますか", "はあ、左様でございます", "僕、三高文三丙の梶鶴雄ですが、先生御在宅でしょうか", "只今、世界文学社の方へ参っておりますが……", "そうですか" ], [ "――それでは、世界文学社の方へ参ることに致します――。あ、もしもし、世界文学社ってどこでしょうか", "寺町通りの錦ビルの四階だったと思いますが", "はあ、錦ビルですね。――どうもありがとうございました" ], [ "あ、済みません", "いや、なに……。尻に敷いても構わぬけどね……君は女じゃないから" ], [ "――君にいい人を紹介しよう", "……? ……" ], [ "云われたよって、誰にだ……?", "誰もかれもそう云ってたよ。もっとも、君を除いてだが……。あはは……" ], [ "――君は何年ですか", "三年です", "文科……?", "ええ" ], [ "じゃ、もしかしたら君は僕と同じクラスになるかも知れないよ", "えっ……", "僕はもう一ぺん三高へはいるかも知れないんだ" ], [ "――僕は三高に五年間いて、追い出されたんだよ。つまり追放だね。理由は出席日数不足だよ。ところが、三高もこの頃民主的になって、出席簿をとらないらしい。――ねえ、そうでしょう、山吹さん", "そうだよ" ], [ "してみると、こんどは僕も及第する見込みがありそうだ。僕は断然復校しますよ。復校願を出します。出席日数不足で放校するというのは、反民主的ですからね。僕は十年前の僕の放校処分に、異議を申立ててもいいんでしょう。あはは……", "あはは……。こりゃいい。僕も君の復校に尽力するよ" ], [ "じゃ、復校願を出しましょう。しかし、登校に及ばず、名誉卒業にして置こうということにならないかな。そしたら、こんどは大学へ入学願書を出します", "ところで、小田君" ], [ "――君、先斗町のことを書くんだろう?", "ええ", "じゃ、先斗町のことは梶君にきき給え" ], [ "――梶君、小田君はこんど京都の新聞に『それでも私は行く』という妙な題で、小説を書くので、京都へ来てるんだが、どうやらそれに先斗町が出て来るらしいんだ。君教えてあげ給え", "はあ、でも……" ], [ "君、恋人あるの", "いいえ" ], [ "遊んだことは……", "いいえ" ], [ "――そんなことどうだっていいじゃありませんか", "いやどうだっていいっていう訳にはいかないよ", "僕をモデルにするからですか", "うん" ], [ "――放浪していたんだよ。そして、毎日この喫茶店へやって来て、一時間も二時間も頬杖をついて、ぼんやり寂しそうに窓の外を眺めているんだね。ここのマダムが気になって、あんた一体どうしたのってきくと、何もすることがないし、また、する興味もないので、こうして、ぶらぶらしてるんだというわけだね", "ふーん" ], [ "若いのにそんなことでどうするの、いくらお家にお金があるからって、働かないでいるっていうのはいけないわ――とマダムが言うと、だって、僕は何にも出来ないんだ。――じゃ、退屈で困るでしょう。――うん。退屈だよ。じゃ、この店のお手伝いでもしてみない? ――いや、僕には出来ないよ。――出来ないって、やってみなくちゃ判らないわよ。――それもそうだな、じゃ、一ぺんやってみようかな、っていう訳で、この店のボーイになったというんだが、やり出してみると案外働くことが面白いので、ああして一生懸命一日も休まず働いてるんだよ。しかし、金のありがたさというものが判らない。つまり銭勘定が判らない。欲がないんだね、面白いだろう", "なるほど、じゃ、あの人もモデルになるわけですか" ], [ "うん。まア、出来ればね。もっとも、こんどの小説であの人がどれだけ活躍するか、こりゃ僕にも判らない。あの人が登場人物として事件の渦中にひき込まれるか、どうかによって、それがきまるわけだよ", "事件というと……?" ], [ "そりゃ僕にも判らない、しかし、何にも事件がなければ、この小説は書けないわけだから、僕は今、一生懸命事件を探しているんだよ", "じゃ、つまりこうですか" ], [ "僕なら僕に、何か事件が起るでしょう。すると、それを中心に小説を運んで行くっていう計画ですか", "そうだよ" ], [ "――しかし、事件でなくってもだ。たとえば、今日一日の君の行動だね、それからでも小説は発展させて行けるわけだ。どうだ、構わなければ僕と世界文学社で落ち合うまでの、君の今日の行動を話してみないか", "ええ" ], [ "――ところで、そのサイコロは誰に貰ったの……?", "いや、それは言えません" ], [ "――それだけは想像でやって下さい", "よし、想像で行こう。大体見当はつきそうだ" ], [ "ところで、君はこれからどうするの……。あ、そうだったね。……山吹さんに用事があったんだね", "ええ", "失敬、失敬。用事のある君を引張り出して……。じゃ、もう一度、逆戻りだ" ], [ "文壇進歩党の文学は俳句の写実と、短歌の抒情以外に一歩も出ないんだよ。もっとも文壇社会党には便乗的民主主義が多くていかん。昨日までの戦争便乗者が、頬かむりして、いえ、もともと私は左翼でしてと、文壇社会へ仲間入りしている", "ところで、小田君" ], [ "君、こんな話知ってる", "知りません", "知りませんって、まだ何にも話してないよ。あはは……" ], [ "亀がね、――三匹おったんだ", "四匹でも構わんのでしょう", "べつに差しつかえはない。四匹ということにしよう。四匹の亀がね、咽喉が乾いたな。なんぞ飲みに行こうやないかと言ってね、喫茶店へ珈琲を飲みに行ったんだよ。ボーイが四人分の珈琲を持って来て、いざ飲もうとすると、雨が降って来た。そこで、三匹の大きい方の亀が一番小さい大人しい亀に、お前一走り行って傘を取って来いと言うと、小さい亀が言うのには、おれが傘を取りに行ってる間、おれの珈琲飲んでしまう積りやろ。――いや、大丈夫だ。お前が帰るまで残して置いてやるから行って来い。じゃ、行って来ると、小さい方の亀は傘を取りに出て行ったんだね。ところが、一週間たっても帰って来ないんだ。おかしいな、あの男どうしたんだろう、いっそこの珈琲のんでしもてやろか、三匹の亀が言った途端、喫茶店の入口にじっとかくれてなかの様子を見ていた小さい方の亀が、いきなり、こらッ、飲んだらあかんぞ――と言ったというんだ。中の連中が珈琲をどうするか見てやろうと思って、一週間入口で待機しとったんや。一寸面白いやろ。あはは……" ], [ "――この間お願いしました……", "ああ、家庭教師のこと……?" ], [ "――あることはあるんだが、どうも君は家庭教師になるには美少年すぎるのが一寸心配だね", "…………" ], [ "――小郷さんというお宅なんですが……", "小郷……?", "ええ", "じゃ、あなたは小郷という人をこれから訪ねて行くの……?" ], [ "そうです", "小郷はあたしの家よ。そこ曲ったところ。うふふ……。いやでも御一緒ってわけね。うふふ……" ], [ "お客様に紅茶とチョコレートを差し上げて頂戴! ――兄さんは……?", "お留守どす", "姉さんもまだでしょう……?", "はい", "幹男は……?" ], [ "お出掛けどす", "ふーん。じゃ、誰もいないのね" ], [ "――お風呂沸かして頂戴!", "はい", "大急ぎで……", "はい" ], [ "だったらいいけど……", "…………" ], [ "チョコレート召し上らない……?", "いや結構です" ], [ "ご用件は……? あたし代りに伺ってもいいでしょう", "はあ、実は……" ], [ "拝見してもいい……?", "どうぞ" ], [ "じゃ、あんた、幹男の家庭教師になりにいらしたのね", "ええ", "幹男、来年三高を受けるんだけれど、あの子ちっとも出来ないのよ、たぶん落第だと思うわ" ], [ "――でも、あんたが教えてやって下されば、何とかなるかも知れないわよ。よく教えてやってね", "はあ、でも……", "今日から教えてやって下さる……?", "はあ", "じゃ、幹男が帰るまで待っていて頂戴ね" ], [ "あんた、お風呂にはいらない……?", "いや、結構です", "でも、あんた首筋が垢だらけよ、折角の美少年が台なしよ", "構いません" ], [ "――何しろはじめての経験でしょう?", "はじめてとは、何がはじめてなの" ], [ "なるほど、はじめてだろうね。でそれからどうなったの? ほかになにかはじめての経験があった……?", "…………" ], [ "小郷宮子は、君に、あんたはうぶなのね……と言ったんだろう? それから? 君は何と答えたの?", "黙っていました", "ふーん。なるほど黙っていた……のか。すると?", "すると、相手は……", "つまり宮子がだね", "ええ。いきなり、あんた首筋真っ黒じゃないの、洗ったげるわと言って手を伸ばして……" ], [ "咄嗟に、手をひっこめて湯槽から逃げ出して、浴室を出ました", "なるほど、出たのか", "ええ", "宮子は何と言ったの……?", "卑怯者! と言いました", "なるほど、卑怯者か。あはは……" ], [ "僕が小郷虎吉の家の人間である筈がないじゃないか。僕はただの訪問客に過ぎないんだよ", "それもそうね" ], [ "お掛けになったらどう……?", "うん" ], [ "うん", "こんなところでお眼に掛れようとは思わなかったわ", "偶然というやつは続き出すと、きりがないんだよ" ], [ "なあに、家庭教師に雇われて来たんだよ", "ふーん。こいつは面白い" ], [ "――人生って面白いわね", "で、君は……?" ], [ "そりゃ判ってる", "何のために会いに来たのかと、ききたいんでしょう……?", "うん", "当ててごらんなさい" ], [ "――まさか、姉さんがひどい眼に会わされたので、その抗議に来たのだとは思えないね", "無論" ], [ "そんなばかげた用事で来やしないわ", "だいいち、小郷って男は、よく知らないが、そんなことを取り合うような男じゃないだろうからね" ], [ "しかし、小郷虎吉も案外可哀相な男ね", "えっ……? どうして可哀相だというの" ], [ "じゃ、あなたにだけ言うわ。あなたにも少し関係のある話だから……", "へえ?" ], [ "離してよ", "離さない" ], [ "そりゃよした方がいい。声を出すと、君のためにならん", "へえん。古い科白ね" ], [ "声を出して、人を呼べば、その人にあたしが掏摸だってことをバラすっていうわけね", "そんな野暮なことはしたくないが、しかし万一そんなことになれば、君のためにならんというわけよ", "構わないわ。バラしなさい。その代り……" ], [ "――あなたにもためにならん結果になってよ。いいえ、望月三郎という人気歌手にとって……", "えっ……?" ], [ "――やっぱり効果があったのね", "効果っていうと……?" ], [ "つまり、あたしが声を立てて、人を呼ぶと、あたしのことをバラすと言っておどかすから、あたしの方でも逆に望月があたしを脅迫したことをバラしてやる――とほのめかしたのよ", "なるほど、奴さん、自分の人気に疵がつくのが怖いんだね", "そうよ。ああいう男は人気だけが生命なのよ。あたし、それを利用してやったのよ", "ふーん。君は鋭いね" ], [ "いやよ、お世辞なんかいって、あなたらしくないわ", "いや、お世辞じゃないよ。――ところで、望月のやつは思わずどきんとしたまでは判ったが、それからどうなったの……?", "それからが問題なのよ" ], [ "――どきんとして、まず手を離したのよ", "それから……?", "望月のやつ、ばつの悪そうに暫らくもじもじしていたけど、いきなり、じゃまたあとで……と言って、あたしの部屋を出て行ったのよ", "あはは……。じゃまたあとで……はよかったね", "どうせ、あたしの秘密握っているので、いつでも誘惑する機会はあると思ったんでしょうね", "ふーん。ちょっと薄気味悪いね" ], [ "で、望月は部屋を出て行って、それきり……?", "いいえ、それからが問題なのよ", "一難去ってまた……?", "いいえ、その逆よ" ], [ "望月に電話が掛って来たのよ", "誰から……", "小郷虎吉のワイフ、真紀子夫人……", "ああ" ], [ "――で、それから……?", "小郷夫人、小野屋へやって来たわ", "望月に会いに……?", "そうよ", "じゃ、小郷夫人は望月と……?", "そうなの……", "なるほど……。で、無論小郷はこのことを知らないだろうね", "……と思うわ。だから、それを小郷にきかせてやりに来たのよ", "それで判った。なるほど、小郷虎吉、真青になるだろうね" ], [ "…………", "…………" ], [ "なんぜ泣くねン……?", "…………", "一体どないしたんや", "…………", "言うてみイ" ], [ "何もかも勘づいておしまいどした", "え……?", "今さっき、お前妊娠しているのと違うか――ちゅうておききどした", "叔母さんが……" ], [ "うちもうここに居られしめへん。どないしたら、よろしおすやろ……?", "さア、どないしたらええやろ" ], [ "お雪!", "……? ……" ], [ "おれは学校を追い出されるだろう。もう憧れの三高にはいれない", "もうこの家に居れない", "友達がこのことをきいたら、何と思うだろう" ], [ "お雪、おなかの子をおろしてしもたらどないや。おれ友達の親父に頼んだる", "え……?" ], [ "――いやどす、いやどす……そんなおそろしいこといやどす!", "頼むからおろしてくれ", "いやどす、いやどす!" ], [ "お雪! お前いま何をしていたの……?", "…………", "応接室にいる女の方、誰なの……?" ], [ "はい、お名前はお言いはれしめへんどした", "なんぜ、あたしに黙って通したの?", "はア、あの、若奥様はお風呂どしたさかい……", "じゃ、断ればいいじゃないの" ], [ "京洛日報の相馬弓子です", "あ、新聞社の方ですか" ], [ "お客様は……?", "学生はんどすか", "そう、学生さん", "たった今、お帰りにならはりました", "あたしに言づけはなかった?", "はア、何にも……" ], [ "――あ、そうそう、あのお客様にこれを渡してくれいうて、ことづかりました", "お見せ?" ], [ "もうじき来やはりますえ", "来る来るって来んじゃないか", "いま貰い掛けましたさかい、じきどす", "一体どこの座敷へ行っとるんだい、君勇のやつは……" ], [ "祇園の何という店だ", "知りまへん" ], [ "――何がなるほどどんネ……?", "あはは……" ], [ "へえ、呼べます。お馴染はんおいやすのンどっか", "いや、なに一寸会うてみたいんだ、いや、顔を見るだけでいい" ], [ "君、一緒に歌うたおうか", "へえ、歌いまひょ", "何うたおう。紅燃ゆる知ってるか", "へえ" ], [ "おい、島野、なぜこのジンゲル(芸者)が赧くなったか知ってるか", "おれに気があるからだろう……?", "莫迦をいえ! 紅燃ゆるが君勇女史の頬を紅燃ゆるにしたんだよ" ], [ "何どす……? 姐さん……?", "お貰いどんネ", "どこから……?", "桔梗家はんどす。お受けやすか" ], [ "――しかし、まアいいや。貰いなら仕方がない。後日また会おうよ", "へえ、おおーけに。当てにしてますえ" ], [ "川端さんの雪国だよ", "ああ、お駒か" ], [ "おれのお駒……? ああ、あの君勇を書くのか", "君も書いてやる。実物以上にスマートに書いてやる。スマートかズマートか知らんがね。あはは……" ], [ "ほんまに暫らくどしたなア――お達者どすか", "うん。まア生きてはいるけど、あんまり達者とはいえん", "そんなこと……", "いや、ほんまや、いっそ死んだ方がましや思ってるくらいや" ], [ "――しかし、ごらんの通りすっかり落ちぶれてしもて、お茶屋へ行く金もない。というて、折角お前に会うて立ち話だけで別れるいうのも、未練たらしい言い方やが、心残りや。どや、おれの一生のたのみや、せめてこのあたりで、お茶でもつき合うてくれへんか", "へえ、おおーけに" ], [ "――でも今お貰いが掛ってせかれてまっさかい、今夜のとこはかんにんしとくれやす。こんどまたお伴させて貰います", "そうか" ], [ "まア、飲め、うんといわなきゃ帰らないぞ", "へえん……おおーけに" ], [ "旦那はん、お宅からお電話どす", "電話……? うるさいな。どんな用事じゃ。お前きいとけ!", "ぜひ旦那はんに出て貰ってくれと、お言いやすのどっせ", "気の利かん奴じゃ" ], [ "なんだ……?", "あ、あたし宮子。随分あっちこっち心当りへ掛けてみたのよ。今新聞社の方が見えて、ぜひお目に掛りたいとおっしゃってるのよ", "どんな用事じゃ、お前きいとけ!", "それがね、ここじゃちょっと言いにくいけど、とにかく会った方がいいわ。――うちのことで投書がはいってるのよ", "今、帰れん", "そんな事言っても……。困ったなア。じゃそっちへ行って貰いましょうか。でも、婦人記者だし、先斗町へなんか行って貰えないし……", "婦人記者……?" ], [ "いくつだ……?", "十七どす" ], [ "君勇姐さん、ええ扇子お持ちどんな", "えッ?" ], [ "それどこでお買いやしたんどす……?", "河原町で……" ], [ "――ほしかったら、あんたにあげる", "おおーけに……" ], [ "さア、どうぞ、敷き給え。ビールはどうじゃ。酒の方がいいかね", "あたし、いただけませんの", "じゃ、料理でも……" ], [ "芸者はおきらいですの……?", "うん", "じゃ、ヤトナは……?", "ヤトナなんて問題にならん", "あたしの姉さんヤトナですの" ], [ "ところで、今日お伺いしたのは、あたしの社へ、お宅のことで投書が参っておるのですが……", "ほう……? 投書の内容は……?" ], [ "――事実ですか", "事実じゃよ", "じゃ、投書をのせても構いませんわね" ], [ "それから、もう一つ投書が来てるんですが……", "あはは……小郷虎吉ついに投書欄の人気者になったか", "投書の内容は、実は……" ], [ "――実は、奥様のことなんですが……", "家内……?" ], [ "はア", "家内がどうした……?", "…………" ], [ "――どうだ、皆んなホールへ行かんか。相馬君、君も一緒にどうだ", "ええ、お伴しますわ" ], [ "お前はどうだ……?", "かんにんどす……" ], [ "あたし、この頃ダンスを習っているのよ", "そう。じゃ今夜でも踊りに行こうか", "ええ", "でも、見つかったら悪いんじゃないかな", "あたしが……? 構わないわ。見つけられたって、あたしは行くわよ。それよりあんたの方こそ、あたしのようなばアさんと踊っているところ見つけられたりしちゃ、顔にかかわるんじゃない――", "ばアさんにしちゃ、若さがありすぎるよ。あはは……", "ばかねえ!" ], [ "投書が来るのも無理はありませんわ", "…………", "同情しますわ", "…………" ], [ "ねえ、もう一曲踊りましょうよ", "うん" ], [ "この手で姉さんが……", "この酒くさい息を姉さんに……" ], [ "あの男の人、誰だかご存知ですか", "知らん!", "流行歌手の望月三郎!", "…………", "美男子ですわね", "…………", "随分女たらしだと言いますのよ", "…………", "木屋町の小野屋旅館ってご存知ですか", "いや、知らん", "お行きになったんじゃないんですか。今日の昼間――", "わしが……?", "ええ", "いや行かん", "そうですか。でも、おかしいですわね。あたし、今日、小野屋旅館に人を訪ねて行ったんですのよ。そしたら、小郷さんが御面会ですって、番頭の声が隣の部屋で聴えていましたわ", "いや、行かん" ], [ "――隣の部屋って誰の部屋だ?", "たしか望月の泊っている部屋だったかしら……? そういえば、女の方の声も聴えていましたわ" ], [ "――鈴子が小郷に……", "――鈴子が小郷に……", "――鈴子が小郷に……" ], [ "何だ……?", "坊ン、坊ン!" ], [ "――おうち、何ともおへんか", "何がだ……?", "坊ン、坊ン!", "うるさいな、坊ン坊ン、坊ン坊ン言うな" ], [ "――あんた何にもお知りやおへんのか。鈴子はんのこと……", "…………", "鈴子はん今晩どないなるか知っといやすか" ], [ "それがどうした。そんなこと知るもんか", "ほな、あんた、鈴子はんが好きやおへんのか", "…………", "好きどすやろ" ], [ "好きだ", "ほな、やっぱし……" ], [ "坊ン坊ン、あて坊ン坊ン好きどす", "…………" ], [ "なんだ、お前か", "あてで悪おしたな" ], [ "オーさん。あんた、あてに恥かかして、それで何ともおへんか", "何で恥をかかした。莫迦をいえ!" ], [ "――あてをさし置いて、鈴子はんとお寝やして、それであてが黙ってられますか", "えッ……?" ], [ "――何が悲しいんだ……?", "…………" ], [ "じゃ、どうしたんだ……?", "君勇姐さんが……" ], [ "君勇姐さんが……どうしたんだ……?", "君勇姐さんが叱らはったんどす", "なぜ……?", "なんぜや知りまへんのどすけど、出て行けお言いやして、撲らはったんどっせ", "撲った……?" ], [ "――撲られて、出て来たのか", "うん" ], [ "行かんでもいい。はよう屋形へ帰れ", "帰っても大事おへんか", "構わん、おれが責任もつ" ], [ "坊ン坊ン……", "なんだ! ……" ], [ "好きだ", "ほな、あて、あした、べにやの饀みつおごらせて貰てもかめしめへんどっか", "饀みつ……?" ], [ "そうか。じゃ、おごって貰おう。しかし、あしたはだめだ", "なんぜどす……?", "…………" ], [ "なんぜどんにゃ……?", "あしたは勉強だ", "ほな、あさってにしまっさ", "うん" ], [ "嘘おっしゃい", "えっ……?" ], [ "はア、まア……", "でも、いらっしゃらないわよ", "どうして……" ], [ "あたし、昨日の女の人からことづかって来ましたのよ。べにやで会うように御手紙いただいたけど、都合が悪くて、行けないから、ちぎり家の別館へ来てくれるように、ことづけてくれって……", "ちぎり家……?", "ええ", "変だなア……" ], [ "あたし、たのまれたので、町へ出たついでにここへ来て、あんたを待っていたのよ", "そうですか、そりゃどうも……", "いいえ、お安いご用よ" ], [ "――ちぎり家ご存知……?", "いいえ", "じゃ、あたし今暇だから、御案内しましょう", "でも……" ], [ "――何をしてるんだ、こんな所で……", "う……? うん。まア……" ], [ "あ、そうか。小田策を訪ねるつもりか", "えっ……?" ], [ "新聞社できいたんだ。訪ねようと思ってね", "で、訪ねたの……?", "うん", "会ってくれたか", "会うてくれたよ。しかし、呆れたよ。小田策さん、サルマタの紐を通しながら話をしやがるんだ。奴さん、女房の家を追い出されて、京都へ流れて来てるらしいね。とにかく呆れたよ。――君、はいるんだろう。じゃ、失敬!" ], [ "――だけど、おひるにここへいらっしゃるって、おっしゃったんだから、今にいらっしゃるわよ。――いやねえ、怖い顔をして、突っ立ってなんかして……。お坐りになったらいかが……", "はア" ], [ "――僕はビールなんか飲めませんよ、だいいち、僕はビールを飲みにこんな所へ来たのじゃない!", "判ってるわよ、あの人に会いにでしょう" ], [ "――あんたが飲まなきゃ、あたしが飲むわよ", "女だてらに……" ], [ "僕は飲みません", "あら、どうして……", "飲まないと言ったら、飲まない!" ], [ "ビールなんかどうして飲みたいんです。日本には、いま、ビールどころか、米も芋も食べられない人間がどれだけいるか知っていますか", "知ってるわよ", "知っていて、よくビールが、しかも白昼女だてらに飲めますね", "だって、その人達は結局落伍者じゃないの。いつの時代にも落伍者はいるわよ。生活能力のない落伍者のことまであたしたちはいちいち考えなくちゃいけないの", "みんな同じ日本人じゃないか", "だって……" ], [ "――ひとのことは放って置いたらどう……? 日本人て、大体他人のことを干渉しすぎるわよ。結局島国根性なのね。修身の教科書だけしか生き方を知らないのね。人の悪口さえいってれば、気がらくなのね", "何……?" ], [ "あんた、怒ると、本当に可愛いいわね", "撲るぞ! こいつ!", "撲ってよ! 撲ってよ! 思い切り撲ってよ。よウ!" ], [ "何をするんです", "構わないでしょう……?" ], [ "よく追い出されますね", "えっ……?" ], [ "――ああ三高のことか。うん。三高は追い出されるし、女房には家を追い出されるし……さんざんだよ", "どうしてまた奥さんに……?" ], [ "家がないんで、女房の親たちと一緒に、養子みたいに暮していたんだが、おれのものの考え方がデカダンスだというんだね。デカダンスな男とは一緒に暮せないというんだ", "デカダンスというと……?", "頽廃のことだと、ひとは思っているらしいが、デカダンスというのは高級な思想なんだ。つまり、デカダンスというのは、あらゆる未熟な思想からの自由という意味だ。何ものにも憑かれない精神のことだよ。たとえばだね" ], [ "――併し、その当り前のことを当り前の顔もせず、得々と太陽説をふりまわしている連中を見ていると、僕アむかむかして来るんだ。みんな自分が聖人みたいな顔をしてやがる。ジイドが言ってるよ。健康とは即ち病気が不足している状態の謂いだ――と。誰だって健康になりたいよ。しかし本当に健康になりたがっているのは病人だけなんだ。誰だって日まわりのように太陽の光線に憧れたいよ。しかし、夜をへなくちゃ太陽は登らないんだ。夜の青白い光を知っている者だけが、本当に太陽の光線に憧れるんだ", "…………" ], [ "――ところで、昨日のつづきをきこうじゃないか", "つづき……?", "小郷の家へ行ったろう……? それからだ……" ], [ "君、散歩しないか。京都で一番いい散歩道を教えてやろう", "どこですか", "高台寺だ" ], [ "着物の袂にはいってませんか", "なるほど、昨日は着物だったね" ], [ "落したのかな", "掏られたんじゃないですか" ], [ "――じゃ、賭けをしよう", "賭けましょう" ], [ "何を賭けよう", "何でも……" ], [ "――君、賭けというやつは大きい方がいいね、五円や十円を賭けるのは、下足番共か太陽先生のする賭けだ。われわれ夜光虫派はもっとでかいスリルのあるやつを賭けようじゃないか", "ええ、スリルのあるやつ賛成ですな" ], [ "――しかし、今われわれ夜光虫派とおっしゃいましたが、僕はデカダンス派の仲間入りはごめんですよ", "そりゃ自由だ。しかしジュリアン・ソレルに憧れて、スリルを求めるのは太陽派じゃないよ", "一体何を賭けるんですか。命でも賭けますか", "まさか命を賭けるなんて言葉は、戦争中の標語みたいじゃないか。もっとも、命を賭けた恋って言葉もあるがね", "早く言って下さいよ" ], [ "近いうちに旧作の印税がはいることになっている。金なんか持ってたって、落すだけだ", "あくまで、落したと決めてるんですね" ], [ "で、君は何を賭ける……?", "僕は、そうですね……" ], [ "――僕は何もないから、このサイコロを賭けましょう", "サイコロ……?" ], [ "しかし、落したのと、掏られたのと、いつどうして判るんです", "ふーむ。それが問題だ" ], [ "御面会どす", "誰だ", "女の方どっせ。きれいな……", "よし。通せ!" ], [ "判ってます。弓子さんでしょう", "あらどうして……" ], [ "あなた、あたしのことおっしゃったの。お喋りね", "…………" ], [ "――じゃ、あたしが掏摸だってこともご存知ですの", "知ってます" ], [ "それに、あたし、今日は掏摸として参ったのです", "えッ……?" ], [ "――先生は落したと思ってらっしゃるらしいから、おかしいわ", "えっ……?" ], [ "――落したッて、何をですか", "これでしょう……?" ], [ "――どこに落ちてました。どこで拾って下さったんですか", "先生のふところから、拾いました", "えっ……? じゃ……", "ええ" ], [ "――掏ったんです", "負けたッ!" ], [ "先生だと知らずに掏ったんですの、ごめんなさいね", "いや、掏るのは君の自由です。しかし、どうして、わざわざ返して来てくれたんですか", "先生のお名刺がはいっていましたから……", "それだけで……?", "ええ" ], [ "だいいち、返すくらいなら、何もはじめから掏る必要はない。第二に、あなたは金が要るでしょう……?", "金の要らない人なんて、ありませんわ", "なるほど……。誰だって金はほしいや。金というより、新円だね。新円なんていやな言葉だが……" ], [ "――とにかく、金は要る。しかし、あなたは要り方がちがうんだ。姉さんを身受けしなくちゃならないでしょう", "何もかもご存知なのね" ], [ "姉さんのことなら、もういいんですの", "どうして……?", "もう身受けしちゃいました", "誰が……?" ], [ "まさか、あなたじゃないでしょうな", "ところが残念ながら……" ], [ "さア、判らないね。もっとも男からだということはたしかだが……", "そう。男から……。京都中で一番いやらしい男からよ" ], [ "――小郷だ! 小郷からだろう……?", "ええ" ], [ "――あたしホールで小郷と踊ったのよ", "ふーん", "見ものだったわ", "何がさ……?", "小郷のやつ真青になったわ", "掏られて……?", "まさか……。小郷夫人が望月三郎と踊っているところを、掏ったのよ", "望月三郎……?" ], [ "残念だが、通俗小説だね。夕刊新聞小説は通俗小説でなくっちゃ読まれないし、だいいちこう偶然が多くっちゃね", "すると、小郷は必らず殺されるんですね", "まアね", "しかし、現実に殺されないとしたら、どうします……? こんどの小説は本当にあったことしか書かないとおっしゃったでしょう?", "そこだよ、問題は……" ], [ "――この問題は、外へ出て考えようじゃないか", "ええ" ], [ "僕たち今高台寺へ行くところだったんですよ。よかったら、あなたも一緒に行きませんか", "はア、お伴しますわ" ], [ "京都の文化なんて美術工芸を除いてはだめだね、京都の文化人は京都の文化、京都の文化といっているが、京都という井戸の中で蛙が鳴いている感じで、日本の文化――というもっと大きな問題、いや世界の文化ということを考えなくっちゃだめだね", "京都は文化都市だと云われているが、雑誌一つ見ても、京都から出ている雑誌は、一二の例外はあるけれど、東京の雑誌にくらべると、文化感覚が十年おくれてるね。執筆者にしたって京都の中だけでものをいってる感じだ。おっとりして上品で、ふてぶてしさがない。高台寺のこの辺のような、なごやかな美しさを持っているのが、結局京都の不幸かも知れんよ。本当に仕事をしようという人間の住むところじゃないね" ], [ "あたし、ここでおわかれしますわ", "あ、そうですか" ], [ "小郷でございます", "わしじゃ", "あ、旦那様ですか" ], [ "いくら呼んでも電話口へ出て来ないじゃないか。莫迦ッ!", "はい済みません" ], [ "――旦那様ッ! 坊ン坊ンが……", "幹男が……?" ], [ "――幹男がどうしたんじゃ", "おなくなりになりました" ], [ "えッ! 死んだッ……?", "はいッ!", "泣いてちゃ判らん", "奥さんを呼べ! 奥さんを……", "はいッ!" ], [ "坊ン坊ン、お留守どす", "どこか行先きは判りませんか", "あのウ……" ], [ "――警察へ呼ばれて、行かはりました", "えっ……? 警察へ……?" ], [ "どこから……? 新聞社なら原稿はまだだと断ってくれ", "新聞社やおへんえ、警察からどす", "警察……?" ], [ "小田ですが……", "あ、小田さんですか。こちらは五条署ですが、一寸おききしたいことがあるんですが……", "小郷事件でしょう?", "そうです。よく御存知ですね。御足労ねがえませんでしょうか", "すぐ行きましょう" ], [ "――実は梶鶴雄のことで、一寸おききしたいんですが……", "はあ。小郷事件ですね。梶君に嫌疑がかかってるんですか", "ええ、まア、有力な嫌疑者ですね", "どういうわけで……", "とにかく、本人が自白したんですから……", "えッ……?" ], [ "ええ。そこで、あなたに、一つ鶴雄君のことを、ききたいんですが、あなたは昨日鶴雄君に会われましたか", "ええ", "宿屋で……?", "そうです", "何時頃……?", "たぶん一時頃でしょうね", "それから……?", "高台寺の方へ散歩しました", "二人で……?", "いや、三人で……", "三人とおっしゃると、もう一人の人は誰ですか", "…………" ], [ "かくさずに言って下さい", "もう一人というのは、相馬弓子という女性なんです", "で、何時頃まで散歩なすったんですか", "夕方まで……", "えっ……?" ], [ "――夕方まで……? たしかに夕方までですか", "ええ、たぶん午後五時頃だと思います。鶴雄君と、四条で別れたのは", "それまでずっと一緒に行動されてたんですね", "ええ", "ふーん" ], [ "――ちゃんと、アリバイが出来ています", "もし、あなたのおっしゃったことが、本当だとすれば、そうですね" ], [ "嘘だとお思いになるんですか", "いや、嘘だとは思いませんが……", "とにかく、これを見て下さい" ], [ "このノートは、梶君をモデルにして書こうと思っている小説の覚書です。言って置きますが、空想は混っていません。全部、梶君の口から聴いたことと、僕自身見聞したことばかりです", "そうですってね", "どうして、それをご存知なんですか", "いや、実は山吹先生からききました" ], [ "――山吹先生は梶鶴雄の受持の先生でしょう", "ええ", "だから梶君のことをききに行ったんですよ。そしたら、梶君の行動は小田君が知っている筈だから小田君にきけばいいでしょう――と小田さんの小説の計画のことを伺ったんです", "なるほど……", "じゃ、ちょっと拝見" ], [ "あ、これですね。(梶鶴雄と五時頃四条河原町で別れる)――とありますね", "ええ。完全なアリバイでしょう", "そうですね" ], [ "そうです、掏摸です", "このノートによると、弓子はあなたと梶鶴雄と一緒に高台寺の方を散歩していたが、途中で一人さきに帰っていますね", "ええ" ], [ "あなたは一応お引取り下さいませんか。どうも御苦労でした", "そうですか。じゃ、用事があれば、いつでも来ますから……" ], [ "弓子が自白したって本当ですか", "ええ", "殺してから、財布を奪ったというんですね", "しかし、このノートには……" ], [ "――弓子はダンスホールで踊っている時、小郷から財布を掏ったとありますよ", "なるほど、しかしこの話は、あなたが弓子自身の口からきいて、書いたのでしょう", "そうです" ], [ "弓子が自分の口で語ったことが、全部本当だとは限らないでしょう", "えっ……?", "例えば、弓子は犯行を計画していたとしますね。とすれば、財布は殺す前に掏って置いたと思わせて置く方が、有利じゃないでしょうか", "いや、そこまで考えて、嘘を言ったとは思えませんよ" ], [ "小郷は君勇と二人で映画館へはいったのでしょう。切符を買う時、財布を持っていたかどうか、君勇にきいてみれば判るでしょう", "なるほど……" ], [ "あてが払いました", "映画館へ行く前プルニエへ行ったんだろう", "へえ", "その金は……?", "あてが払いました。財布持ったはれしめへんどしたさかい" ], [ "先斗町の鈴子いう舞妓はんどす", "ふーん" ], [ "これを売ってもらえますか", "どうぞ" ], [ "――わざわざお呼び立てして、実は小郷事件が遂に解決しましたので、一寸お知らせしようと思って……", "ほう……? それやわざわざどうも……。で、犯人は……?" ], [ "犯人は誰だと思います?", "まさか、君勇じゃないでしょうね" ], [ "ええ、君勇じゃないんです", "梶君ではむろん、ないでしょう" ], [ "もちろんです", "相馬弓子は……?", "ああ、あの女摸掏。あなたのノートの通りです", "じゃ、一体誰なんです", "君勇の旦那です", "えっ……? 一寸待って下さいよ" ], [ "――君勇の旦那というと、小郷じゃないですか。小郷が小郷を殺すというのは、こりゃおかしいですよ", "あはは……" ], [ "――君勇の旦那といっても、元の旦那ですよ", "元の旦那……? そいつは知りませんね", "三好という男なんです", "ほう……" ], [ "どうして……?", "僕、あの店を休んでるんです", "へえ……? 君は一日も休まなかった筈だろう……?", "ええ。しかし、もうやめようと思うんです。じゃ、内緒にたのみますよ" ], [ "今日は事件が解決した祝いだから、ビールでもやりますかな。小田さんはいけるんどすか", "いや、コップに二杯以上はだめです。――ところで、三好とかいいましたね……", "ええ。君勇の元の旦那――。自首したんですよ", "へえ……?", "君勇が犯人だと新聞に出ているのを見て、自首したんですね。君勇に嫌疑が掛ってなければ自首しなかったかも知れないが……つまり惚れてたんですね", "じゃ、嫉妬からやったんですか", "そうです。君勇は小郷が殺される前の晩、祇園から先斗町への帰り途で、元の旦那の三好に会うたんですよ。三好は君勇に今夜つき合えといったんだが、君勇はお座敷から呼ばれているし、別れた旦那とコソコソ会っているところを見られると、芸者としての立場が苦しくなるので断ったんですね。――さア、ぐっとあけて下さい", "いや、僕はもう飲めません。――で、断られてカッとなったんですか", "そうでしょうね。その晩一晩中君勇につきまとったんですね。そして、君勇が小郷と泊ったことを知ったわけです。凶行の日も、つけていたんですよ。映画館の中へもつけて行って、小郷が電話室へはいったところを、やったんですね", "へえ……? 併し、君勇が自白したというのはどういう訳です", "君勇は三好の姿を映画館で見たんですね。だから、小郷が殺されているのを見ると、てっきり三好だと思って、三好をかばうつもりで、自分だと言ったんですね。小郷に身を任せたのも、鈴子の身代りという気持のほかに、小郷から金を取って落ちぶれた三好に貢ごうという、しおらしい気持もあったんだが、これがかえって悪かったんですね", "じゃ、梶君が自白したのは……", "君勇をかばうつもりだったんですよ。とにかく君勇は自分の好きな鈴子の身代りになってくれたんですからね。それに、一度は小郷を殺そうとしたこともあるんですからね", "弓子が自白したのは……?", "梶鶴雄をかばうつもりだったんですよ" ], [ "三好の刑はどれくらいでしょう", "さア、自首したのだし、ものを取ったわけではないし、そう重くはならないでしょう。――それに、三好は小郷を殺してすぐ自殺するつもりだったし、少しぐらいはいっていても、自殺するよりはましでしょう。君勇は三好のために弁護士をつけると言ってますよ。着物を全部売ってね、芸者をやめるそうですよ", "へえ、芸者をやめるんですって", "ええ。つくづく芸者稼業がいやになったといっていましたよ", "ほう……?", "鈴子も舞妓をやめてしまいました。母親がびっくりしましてね", "えっ……? 鈴子が……? 僕は梶君に鈴子を身受けする約束をしたんだが……" ], [ "あはは……。もう手おくれですよ", "ところで……?" ], [ "弓子は……? 出来れば、罪にしたくないですな", "そうですね、しかし、とにかく掏摸ですからね", "有罪ですか", "さアね" ], [ "しかし、一応書類は作りますが、事情が事情だし、不起訴とまでいかなくても、執行猶予にはなるでしょう", "そうですか。それをきいて、安心しましたよ。あはは……。一杯いただきましょう" ], [ "僕、鈴子を身受けしてやれなくなったよ。鈴子は舞妓をよしたんだってね", "いや、いいんです。それに僕はもう京都にいませんから", "どうして……?", "どうしてって……。君勇にも弓子にも鈴子にも、もう会いたくないんです", "ふーん", "それに、京都という土地がつくづくいやになりました", "じゃ、どこへ行くの……?", "友人が北海道にいるんです。そいつを頼って牧場で働きます", "学校は……?", "よします。どうせ、食糧難で満足に授業は受けられないし、北海道の牧場で、独学する方が気が利いています", "そうか。それもよかろう。学校なんてくだらないからね。行きたまえ。――だいいち僕がとめても、それでも君は行くだろう", "ええ。それでも私は行きますよ、あはは……" ], [ "それに、もうサイコロで決めてしまいましたから", "サイコロ……?" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行 初出:「京都日日新聞」    1946(昭和21)年4月25日~7月25日 入力:林清俊 校正:小林繁雄 2011年3月10日作成 2016年3月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "……それに、随分お痩せになったわね。", "ううん、なんでもあれへん。痩せた方が道ちゃんに似て来て、ええやないの。" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 ※本文末に「(第五巻「姉妹」の原型・昭和十八年作 推・未発表)」という編集部注が入っています。 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2009年8月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "女だてらに自転車に乗るなんてけしからん。女は男の真似はよした方がいい", "だって、今は女だって男の方のすることを……" ], [ "しかし、あんたは働いてない", "しかし、あんたは働いてない" ], [ "ものは相談だが、お前もここへ来て……", "……一緒に暮すとも" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「週刊朝日」    1944(昭和19)年10月22日号 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2009年8月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047838", "作品名": "電報", "作品名読み": "でんぽう", "ソート用読み": "てんほう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「週刊朝日」1944(昭和19)年10月22日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-10-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card47838.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第六巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年4月25日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47838_txt_35774.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-08-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47838_36044.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-08-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "京ちゃん、君も行って、踊ったらどうかね", "おれか。冗談言うねえ" ], [ "昨日の昼間、おれ京極で、ひょっくり茉莉と会ったんだよ。茉莉ベソをかいてやがったから、だらしがねえぞ、ゴムまりが泣くぞ。こう言ってやると、奴さん、いきなりおれの手を掴んで、――おれ、照れたよ。京極の真中だろう……?", "ふーン。で……?", "京ちゃん、明日あたいと踊ってくれ、明日だけは誰とも踊らずに、一晩中あたい一人と踊ってくれ――と言うんだ。じゃ、踊ってやらア。その代り、明日、おれ茉莉ン家で泊めてくれるかい。――うん、泊めてあげるッてんで、借り切られたんだよ", "あんた、茉莉が好きなの……?", "好きでもきらいでもないよ。好きな女は一人だけいるが、口がくさっても言えない" ], [ "じゃ、どうして茉莉の所で泊るの……?", "だって、今日――つまり昨日の明日の今日は土曜日だろう。おれは土曜の晩は泊る所がねえんだよ", "あらッ、どうして……? 土曜日の晩……" ], [ "ママお二号さんなの……?", "うん。旦那は土曜だけ来るんだ。おれ居候みたいだろう。だから、旦那に見つからない方がいいんだ" ], [ "いいじゃないの。どうせ年上ならいっそ……", "二十違っても……? あはは……。まるで怪奇映画だ。おれの趣味じゃないよ", "どうだか……", "どうして、そんなにこだわるんだ" ], [ "だって、不潔じゃないの。燕だなんて。もし燕だったら、断然絶交よ", "じゃ、燕でなかったら、おれを泊めてくれる……?" ], [ "ねえ。泊めてくれよ", "…………", "今夜……。いけない……?", "呆れたッ!" ], [ "――どうしてあんたを泊めなくっちゃならないの……?", "だって、土曜の晩という奴は、たいていの女は差し障りがあるんだよ。ママみたいに……。茉莉と陽子ぐらいだよ。土曜でも清潔なのは……", "だって、あんた茉莉に借り切られてるんでしょう", "だから、茉莉に万一のことがあった時の話さ。死んじゃったりしたら、おれ今夜泊る所が……。おれ、茉莉が死んじゃうような気が……", "する……? あんたもそんな気がするの……?" ], [ "君、学習院の女学部だろう。そうじゃない……?", "えッ……? はあ、いいえ……" ], [ "君は、中瀬古さんのお嬢さんでしょう……?", "違います", "いや、隠してもだめです。妹の卒業アルバムで、僕は君の写真を見ましたよ", "…………", "学習院で妹と同じクラスだったそうですね", "たぶん、他人の……", "……空似だなんて、随分君らしくもないエスプリのない科白ですね。どうして君は……" ], [ "――そんなに隠すんです。もっとも僕が新聞記者なら、隠す必要はあるかも知れない。君のお父さんはとにかく政界の第一人者ですからね。その中瀬古鉱三の令嬢が十番館のダン……", "誰にもおっしゃらないで! お願いです", "じゃ、やっぱし……" ], [ "茉莉は……? お医者様来た……?", "来た。来たけど……" ], [ "来たけんど、手おくれどすわ", "じゃ、茉莉やっぱし……?", "青酸加里! 茉莉ばかだなア!" ], [ "……クンパルシータを踊ってたんです。すると茉莉が、京ちゃんのリードでクンパルシータで死ねたら本望だわと言ったので、なぜだいとききましたが、だまってました。するうちに、茉莉の顔色が急に変ったかと思うと、真青になってぱったり倒れたんです", "何か口の中へ入れる所は見なかったか", "入れる所は見なかったけど、何だかモグモグしていたようです。茉莉はチュウインガムをしゃぶったり、仁丹をたべたりしないと、口がさびしいというダンサーでしたから、おかしいとは思わなかったけど、今から思うと……" ], [ "おれとうとう泊る所がなくなったよ。今夜泊めてくれよ", "だめよ。あんた今夜茉莉に借り切られてるんでしょう。お通夜してあげなくちゃ……。お通夜すれば、茉莉のアパートに泊れるわよ", "それもそうだな。じゃ、そうしよう。その代り、こんどの土曜日泊めてくれるだろう。ねえ、おれ泊る所がねえんだよ。ねえ" ], [ "お通夜、おれ一人じゃ心細いや。陽子もお通夜に行くんだろう……?", "ええ。でも、あたし、ちょっと遅れるかも知れなくってよ", "どっかへ行くのかい", "田村", "田村……? まさか木屋町の田村では……", "木屋町よ", "行っちゃいけない、田村はよせ。行くな!" ], [ "――しかし、陽子も田村へ出入りするようになったのか", "お料理屋へ行くのがいけないの……?" ], [ "うぶな女教員は、田村をただの料理屋と思ってるから可愛いいよ。――もっとも料理は出るがね。何でも出る。ボラれて足も出る。枕も二つ出る。寝巻も二つ出る。出るに出られん籠の鳥さ。ただの待合とは違うんだ", "へえん……? よく知ってるわね" ], [ "――それより、田村の帰り、お通夜には来ない方がいいぜ。仏がよごれるからな", "それ、どういう……?" ], [ "まだ、何か用か……?", "夜道は物騒やさかい、そこまで送って行ってくれたかテ、かめへんやろ", "そこまでって、どこまでだ……?", "おっちゃんは……?", "清閑寺の方だ", "うちもその辺や", "嘘をつけ!" ], [ "――君の家はどこだ。まさか、あの山の中でもないだろう。帰れ!", "そんなン殺生や。こんなとこから……", "怖くて帰れんのか。ついて来るのがわるいんだ。幽霊は出んから、走って帰れ!", "おっちゃん、アパートでひとり……?" ], [ "いやだ!", "そんなこと言わんと、泊めて!", "…………", "うち、帰るとこあれへんねン", "どうしてだ……?", "うち、家出してん", "ふーん、なぜそんな莫迦なことをしたんだ", "…………", "帰るところはなくっても、泊るところはあるだろう。宿屋で泊ればいい", "うち、泊るお金あれへん" ], [ "帰らんのか", "うん" ], [ "お父さんは……?", "監獄……。未決に……" ], [ "――お蒲団一つしかないの……?", "枕も一つだ。大阪で罹災したから、これだけだ", "うち、眠とうなった。ここへ横になったかテかめへん……?" ], [ "君のような女がいる限り、男はみなそない思うやろ。君は男と金を同じ秤ではかってる女やさかいな", "いやにからむのね", "いや、ほめてるんや。女はみなチャッカリしてるが、しかし君みたいに、徹底したのはおらんな。男に金を出させといて、その男を恨んどるンやさかい、大したもンや", "女ってそんなものよ。自分の体を自由にする男は、ハズだってどんなに好きなリーベだって、ふっと憎みたくなるものよ", "つまり、おれなんか憎くて憎くてたまらんのやろ", "あら。あなたは別よ", "別って、どない別や", "カーテン閉めましょうね。秋口だから、川風がひえるわ" ], [ "来てるのか", "いやな奴よ", "いやな奴テ、どないいやな奴っちゃ……?", "へんな女なんか、連れ込んで……。今来たのがそうよ。男は三十過ぎなくっちゃ、だめね" ], [ "まア、そないお怒りにならんと、泊っとうきやす", "履物どこですの……?", "もう電車おへんえ。泊っとうきやす", "帰ります。履物出して下さらないの?" ], [ "何をしてるんだ……?", "はア……?" ], [ "今時分、何をしてるんだと、きいとるんだ", "歩いているんです" ], [ "歩いてることは判ってる。寝てるとは言っとらん。何のために歩いとるんだ……?", "家へ帰るんです", "家はどこだ……?", "京都ホテルの裏のアパートです" ], [ "今時分まで、何をしとった……?", "お友達のお通夜に行っていました", "商売は何だ……?", "お友達はダンサーです", "お前の商売をきいとるんだ", "ダンサーです", "なぜ、はだしになっとるんだ……?" ], [ "踊ると、足がほてって仕方がないんです。電車があれば、靴をはいて帰りますが、歩くのははだしの方が気持がいいんです", "靴はどうした……? 持っとらんじゃないか", "お友達のアパートへ預けて来ました", "どこだ、そのアパート", "京都ホテルの……いいえ、丸太町です", "丸太町から来たのなら、逆の方向に歩いてる筈だ。来い!" ], [ "そら一丁!", "よし来た!" ], [ "いいのよ。あたし喫めないのよ", "へえん……? 真面目やなア" ], [ "煙草いかがです。どうぞ", "喫めませんの、あたし……", "本当……? 真面目だなア" ], [ "――しかし、この方なら……", "あら、いただけませんの", "そうですか。じゃ、無理にすすめちゃ悪いから……しかし本当に飲めないんですか。少しぐらいなら……、飲むんでしょう……? 半分だけ……注ぐだけです。悪いかな、飲ましちゃ。僕も好きな方じゃないんです" ], [ "東京へお行きになるんですの?", "ええ、明日", "お行きになっても、あたしのこと誰にもおっしゃらないで下さいません……?" ], [ "いいえ、ホールでおっしゃったこと……", "ああ、あのこと……", "もし誰かに知れると、あたしまた姿をくらまさなくっちゃなりませんわ。そしたら、十番館で踊っていただけなくなりますわねえ" ], [ "いや、大丈夫ですよ。あはは……。二人っきりの秘密にして置きましょう。じゃ、かん盃!", "だめですの。本当に……", "そうですか。じゃ、食事……", "済んで来ましたの" ], [ "くるま呼べる……? くるまなければ、この方帰れないんだ", "今時分、おくるまなンかおすかいな" ], [ "姉ちゃん、ブラックガールのわりにきれいな", "ブラックガール……?" ], [ "――ああ。ちがうのよ。間違えられたのよ", "そうやろと思った" ], [ "――そこらにいる奴と大分ちがうと思った。あそこにいる女、あれ常習犯で病院へ入れられとったのに、毎晩こっそり逃げ出して、商売しとってん。病院にいると、親が養われへんそうや。まず親の働き口から見つけたらんと、あの女の病気いつまでたっても癒れへん。うちが警察やったら、あの女が入院してる間、毎日五十円ずつやる。ほな、あの女も安心して病気癒す気になるやろ。けど、巡査でも一日五十円月給取ってるやろかなア", "そうね。――あんた頭いいじゃないの。政治家より頭いいわ", "うちが頭よかったら、日本中みな頭ええわ。たれかテこないしたらええいうこと、判ってる。政治家かテ阿呆ばっかしと違う。けど、政治家が日本中の人間の一人一人のことを考えてたら、演説してまわるひまもないくらい、忙しいさかいに、だれのことも考えんと、自分のことばっかし考えてるンやろ。――うちは阿呆や、阿呆やなかったら、泥棒みたいなもンせえへん。しても、ドジ踏めへん", "あんた泥棒したの……?", "うん、下手売ったワ" ], [ "――監獄にいたはるお父さんを助けたげよ思って、娘が泥棒するなんテ、トックリ味噌つめるより、まだ阿呆や。けど、壺がなかったから、トックリにつめな仕様がない", "一体、何を盗んだの……?", "写真機!", "ふーん" ], [ "あんまりええ写真機持っとるさかい、こんなン盗んだったかテ構めへんやろ思って、アパートまでついて行って、笑って来たってん。ほな、掴まってン", "笑う……?", "笑ういうたら、盗むこっちゃ" ], [ "――豚箱へはいって、面白そうに笑う人がおすか。――喧しゅうて眠られへん", "きつうきつう堪忍どっせ" ], [ "――喧しかったら、独房へはいったらええやないの。ここはあんた一人の留置場とちがう。無料宿泊所や、贅沢いいな!", "何やテ、もう一ぺん言うとオみ!" ], [ "ほんまに、きいてくれはる……?", "ええ、どんなこと……?", "うちが写真機盗んだ人の所へ行って来てほしいねン", "えっ……?", "ねえ、行ってくれはる……?" ], [ "でも、ここを逃げ出して行くわけにいかないわ", "しかし、姉ちゃんは本当のブラックガールと違うさかい、明日になったら、すぐ出して貰えるわ。うちは泥棒したさかい、あかんけど、姉ちゃんは鳩やわ" ], [ "じゃ、ここを出たら、あんたの使をしてくれというわけね", "モチ、コース……" ], [ "――うち、刑事にきかれても、あの写真機盗んだと白状せんつもりや。預かった品やと言うて頑張るつもりやねン", "そんな嘘すぐはげるでしょう" ], [ "――そやさかい、行ってくれと頼んでるんやないの。その人の所へ行って、あの写真機はうちに預けた品やということにしてくれと、姉ちゃんから説き伏せてくれたらそれでええやないの", "ふーん。でも、その人うんと言ってくれるかな", "ええおっちゃんやさかい、うちを助けてくれはるやろ。一寸こわい所あるけど、親切な人やさかい。うち、今でも、あの人の写真機盗んだこと後悔してるねン", "どこにいる人……?", "行ってくれはる……?", "それより、どこにいる人なの、それを先に……" ], [ "木崎さんという人……", "木崎……?" ], [ "ねえ、行ってくれはる……?", "行くわ。で、その写真機は……?", "サツ(警察)で夜明ししてる! 売れば一万五千円の新円のサツやけどな" ], [ "あげられちゃったの", "悪いことしたのか", "ううん。浮浪者狩りにひっ掛ったのよ。寝屋川のお寺に入れられてたんえ", "逃げて来たのか", "うん" ], [ "――センターがなつかしかったえ", "野宿しても腹一杯食べた方がましか", "うん。それに、収容所にいたら、兄ちゃんに会われへんさかい……", "えっ……?", "あたい、兄ちゃんに会いたかったえ" ], [ "――あたいも一緒に行く!", "…………" ], [ "うん、兄ちゃん誘拐して!", "汽車に乗って、どこかへ行こうか。牛小屋や水車小屋のある百姓家で泊めて貰ったり、どっかの家の軒先で、ラジオの音が家の中から流れて来るのを聴いたり、降るような星空にすっと星が流れるのを見たりしながら野宿したり、行き当りばったりの小さな駅で降りると、こんな所にも小さな町があって、汚い映画館のアトラクションのビラに、ホールを追い出された顔馴染みのアコーディオン弾きの名前が出ているのを見て、なつかしさに涙がこぼれたり、さびれた温泉場の宿屋で宿賃が払えなくなって、兄ちゃんは客引に雇われ、お前は交換手に雇われて……", "兄ちゃん、誘拐して! 誘拐して!" ], [ "京ちゃん、今電話掛ったわよ", "誰から……?", "陽子さん!" ], [ "いつ掛ったんだい", "気になるの。おほほ……。今より約五分前!" ], [ "おれ帰るよ", "あら、電話きかないの……?", "おれポン引じゃねえよ", "ポン引って、何のことなの。やっぱしピンボケみたいなもの……?" ], [ "ピンボケ……? あはは……。朝帰りの女の電話を待つのは、ピンボケかポン引ぐらいなもんだ。おれ趣味じゃねえよ", "あら、あら。本当に帰るの……?", "電話掛ったら、おれもう京都にいねえよと、言っといてくれ", "本当、それ。あたしあんたにリベラルクラブへはいって貰おうと思ってたのよ。知ってるでしょう、リベラルクラブ。同伴者がなければ入会できないのよ。アベック、素敵じゃないの。おほほ……" ], [ "いい部屋じゃないの、この洋室。このままバーに使えるわね", "使ってたのよ。ただのお料理屋や旅館じゃ面白くないでしょう。だから、バーっていうほどじゃないけど、まあ洋酒も飲めるし、女の子もサーヴィス出来るように、この部屋だけ特別に洋室にしたのよ。今はオフリミットになっちゃったけど、開店当時は随分外人も来たわよ。いい子もわりと揃えてたのよ", "京都には女の子つきで一晩いくらっていう宿屋があるときいてたけど、ははアん……", "何がははアんよ。だけど、本当……? 東京までそんなデマがひろがってたの……?", "デマでもないんでしょう。モリモリ儲けてるんじゃない……?", "旧円の時ほどじゃないわよ。警察が喧しいから、女の子もみないなくなったし、この部屋だって今は応接間に使ってるぐらいだから……", "とにかくたいしたものよ。ママは……。どう、出資しない……?", "ああ、さっきのキャバレエの話……? 面白いと思うけど……", "百万円で出来るでしょう。ママ、半分出してくれたら丁度いいのよ。銀座でぱアッと派手に開店するのよ。わーっと来ると思うがな。ママをあてにして、わざわざ東京から飛んで来たんだから……。ねえ、乗らない、この話。……今から準備して、クリスマスまでには、百万円回収出来ると思うがなア", "さア、東京でどうかしら。大阪の赤玉なんか西瓜一個で五千円動かせるって話だけど。……東京じゃ、新円が再封鎖になったりしたら、どかんとバテちゃうんじゃない……?", "見くびったわね。まア一度東京を見ることね。話じゃ判らない。今夜あたしが帰る時、ママも一緒に行かない……?", "あら、今夜もう帰るの……?", "京都見物……? 田村で十分。焼けない都会なんていうおよそ発展性のない所を見物したってくだらないわよ", "ご挨拶ね", "うふふ……。それに、もう帰りの切符三枚買っちゃったの。まごまごしてると、国鉄ゼネに引っ掛ったりして、眼も当てれらない", "首に繩をつけて、あたしを連れて行こうというのね。負けた。だけど、あとの一枚は……?", "どうせママのことだから、途中で一風呂浴びてということになるんじゃない……? 誰か連れて行くでしょう", "ばかね", "エーヴリ・ナイト!", "何よ。それ。エーヴ……。歯むき出して!", "うふふ……。ママのことよ。今でもそう……?", "ばかッ!" ], [ "あら。もうお眼覚め……?", "うん" ], [ "…………", "何だか、銀座でいい場所らしいから、今夜行って見て来ようと思うんだけど……", "誰と……?", "ああ、お友達、来てるのよ。あとで会ってあげてね。ちょっと綺麗よ", "それより、ゆうべ乗竹のとこへ来てた女、あれどこの女や", "さア……", "ここへは……?", "はじめてでしょう。どうせ、どっかの玄人じゃないかしら", "靴とりに来えへんのか", "まだでしょう……?", "乗竹は……? まだ居とるのンか", "侯爵……? 帰ったわ、今……", "ふーん", "あなたは、これからどうなさる……?", "大阪へ帰る", "東京へ行くひまなんか……?", "まア、ないな" ], [ "何時の汽車にするンや", "急行だから、夜の九時頃でしょう", "車よんでくれ。飯はいらん", "あら、もうお帰り!", "急ぐんや。君の友達によろしく。どうせまた会えるやろ" ], [ "なるほど、こりゃひどい!", "そうでしょう。怒ったね、あたしゃ。全くこりゃ怒りもんでさアね。とんがらかる理由がざっと数えて四つはありまさアね。ひでえ話だよ、こいつア……" ], [ "――待ってましたッてとこですね。しかし、あたしゃ、眠いのかい、じゃ、一緒に寝ンねしようや――なんて言わない。夜が更けりゃ泥棒だって眠いや。辛抱、辛抱! 今夜のうちにあげてしまわなくっちゃ、明日の初日は開かんよ――ってね、実にこれ芸人の真随でさアね。すると、奴さん、眠くってたまらないのよ、ヒロポン打って頂戴! よし来た、むっちりした柔い白い腕へプスリ……、これがそもそも馴れ染めで、ヒロポンが取り持つ縁でさアね", "じゃ、あんたのヒロポンは承知の上じゃないか", "そうなんですよ。今更ヒロポンがどうの、こうの……。何言ってやがんだい。男が出来て逃げたに違えねえですよ。どこの馬の骨か知らねえが、ひでえ男だ。まるで、この警官でさアね" ], [ "――捨てられて、孕まされて、ポテ腹つき出して、堪忍どっせと帰って来たって、あたしゃ、承知しませんよ", "しかし、そりゃ一寸気を廻し過ぎじゃないかな", "いや。てっきりでさア。賭けてもいいね" ], [ "――はいってもいい……?", "あ、京ちゃんか" ], [ "へえーん", "京ちゃん、どう思う。女房のやつ男が出来たと、あたしゃ思うんだが、どうかね。おたくの観察は……", "そりゃ、てっきりですよ" ], [ "――京ちゃんもいよいよわが党と来たかね。毎日でも打ってやるよ", "いや、今日だけでいいよ。注射、痛いだろう……? おれ趣味じゃねえや。痛くないやつやってくれよ。ねえ、たのむよ。ねえ、痛いんだろう。しかし、痛くってもいいや。今日は特別だから。麻雀に勝てればおれ我慢するよ。しかし、あんまり痛いの、おれいやだぜ", "大丈夫だ。何でも痛いのははじめのうちでさアね。麻雀するのかい", "うん。昨日寝てないからね。下手すると負けるからね。負けたっていいが、しかし、負けるとおれ東京へ行けないからね。――坂野さん、本当に痛くないね……? あ、チッチッ……" ], [ "――東京へ行く……?", "うん。おれもう京都がいやになったんだよ。坂野さん、金ないだろう。貸しちゃくれんだろう……? だから、麻雀で旅費つくるんだよ" ], [ "痛いや。そら見ろ! 血が出てやがるぜ", "血が出て痛けりゃ、鼻血が出せるか。――どうです、木崎さん。おたくも……", "やって貰おうかな。眠気ざましに……" ], [ "あら、また注射。――木崎さん、お電話ア", "今、手が離せんよ" ], [ "だって、警察からよ", "警察……?" ], [ "だって、警察よ", "じゃ、留守だと言っとけ!", "本当にそう言ってもいいの", "警察もへちまもあるもんか" ], [ "――用事があれば、向うからやって来まさアね。ね、木崎さん。悪いことさえしなきゃア、警察なンて、自転車の鑑札以外に用はねえや。――断っちゃえ。留守だよ、木崎三郎旦那は留守でござんす", "あんたに言ってないわよ。木崎さん早く行ってよ。あたし叱られるわよ" ], [ "あ、もしもし。何でしたっけね", "あなたは……?" ], [ "木崎さんは……", "留守のようです", "昨夜、あなたン所で盗難があったでしょう……?", "はてね", "木崎さんの写真機が盗まれたはずですがね", "へえーん。そんなはずはありませんがね。何にもきいておりませんがね" ], [ "チマ子という娘知りませんか。木崎さんとどんな関係があるんですか", "チマ子……?" ], [ "――さア一向に……。ところで、何かあったんですか。チマ子……という娘……", "いや、べつに……。御面倒でした", "あ、もしもし……" ], [ "昨夜何かあったの……?", "木崎さんのライカがなくなったのよう", "誰が……?", "盗んだのか、木崎さん何とも言わないわ。警察へ届けないのよ", "へえーん。チマ子が盗んだのか", "チマ子、チマ子って、一体誰なの……? あんた知ってるの……?", "いや、べつに……。おれ知るもンか" ], [ "困ってンだろう……?", "はばかりさま。ちゃアんと父親は……" ], [ "お前、東京生れだろう……?", "うん。あたいコビキ町で生れたのよ。あたいのお家煙草屋。あたいの学校、六代目と同じよ。銀座へ歩いて行けたわ", "田舎へ行くより、東京の方がいいだろう。やっぱし東京へ行こう", "うん。こんな汚い恰好で銀座歩くのンいやだけど、兄ちゃんと一緒だったら、いいわ" ], [ "何ですかね……?", "一寸来たまえ! お前も来い!" ], [ "何か用ですか", "名前は……?", "矢木沢京吉!", "年は……?", "二十三歳", "職業は……?", "ルンペン", "何をして食べとる……?", "居候", "その娘は、お前の何だ……?", "…………", "なぜ答えぬ", "お前といわれては、答えられん!", "ふーむ。その娘は君の何だ……?", "妹です", "職業は……?", "見れば判るでしょう……? 靴磨きです" ], [ "こんどの日曜日、夕方の五時に、このアドレスの所へ、自動車で迎えに行きます。よくって……?", "ありがとう" ], [ "――お願い二つございますの。どちらも無理なお願いですの。きいていただけるでしょうか", "とにかく伺いましょう" ], [ "実は、昨夜十番館でおうつしになったフィルムを、わたくしにいただきたいのです", "なぜ……?", "理由は申し上げたくございませんの。言えませんの。――理由を申し上げなくっちゃ、フィルムをいただけないでしょうか", "いや、きいてもきかなくても同じ事です。お譲りすることは、どんな理由があっても、出来ません", "なぜ……?", "理由は言えません" ], [ "なぜ、わたくしをおうつしになられましたの……?", "その理由も、今は言えません", "…………", "それより、あなたはなぜダンスなどしているんです" ], [ "じゃ、おききしますが、ダンサーになってはいけないんですか", "いけない!" ], [ "なぜ、いけないんですの", "…………" ], [ "あなたはダンサーという職業を軽蔑してるんでしょう……?", "軽蔑……?" ], [ "ばか、死ぬぞ!", "死んでもいい! 死んでもいい!" ], [ "――あなたは勘違いしているんだ", "じゃ、どうしてあんなことをおっしゃるんです", "…………", "あなたは、なぜダンサーという職業を軽蔑されますの……?", "軽蔑はしていない。しかし、もし軽蔑しているように聴えたとしたら、それは……" ], [ "木崎さん、わたくしの願いをきいていただけます……?", "ききましょう" ], [ "いえ、なに、ちょっと、そこまで煙草を買いに……。え、へ、へ……", "御機嫌だね", "絶対ですワ" ], [ "――今夜一緒に寝ようか。キャッキャッとは即ち寝ることだよ", "知りまへん" ], [ "ところがまた、そういうのに限って、よく孕みやがるんでね。ひでえ目に会うたよ。いやいや口説いたんだよ", "いやいやねえ……?", "はい。いやいや口説きました。孕みました。キャッキャッですワ。人妻ですワ。亭主にアコーディオン弾きを持つぐらいの女だから、アコーディオンみたいにすぐ腹のところがふくれやがる" ], [ "――済ました顔で、新聞雑誌読んでるが、バイキンみてえに食っついたら離れたがらねえ。パイパンみてえに捨てちゃえよ", "じゃ、おれ拾うよ。パイパンおれの趣味だよ", "ついでに、女も拾ってくれよ" ], [ "はい。おいやすどっせ。どちらはんどすか。――えッ、セント……? あ、セントズイス、セントズイスどんな", "舌を噛んでけつかる" ], [ "何でえ……? 電話ばっかし掛けやがって、株屋の番頭みてえに一日中電話を聴かされてたまりやせんワ", "あら。お門違いよ。あたしは封切よ。誰かさんと誤解してるんじゃない。おほほほ……。認識不足だわ" ], [ "誰かさンて、誰だ", "多勢いるから判らないんでしょう。えーと、あの人じゃないの。えーと、陽子さん! あれからまた掛って来たのよ。もう京都にいないって言ったら、絶望的だったわよ。おほほ……", "…………", "あんた、まだ京都にいたのね", "はい、恥かしながら、パイパンで苦労してます", "パイパン……? 何よ、それ。――京都にいるなら、リベラル・クラブへ一緒に行ってよ。今晩五時、発会式よ", "どうぞ、御自由に", "あら。一人じゃ行けないわ。会員は同伴、アベックに限るのよ。素晴らしいじゃないの", "そんな不自由なリベラル・クラブよしちゃえよ!" ], [ "あ、ちょっと、ちょっと、用事まだ言ってないわよ", "何だ……?", "おほほ……", "ハバア、ハバア!", "せかさないでよ。今、代りますから。あたしはただお取次ぎよ" ], [ "――あたい、判る……?", "うん", "兄ちゃん、あたいなんぜ、こんなところから電話掛けてるか、判る……?" ], [ "――おれ判るもんか。なぜ、セントルイスへ行ったんだい", "判れへん……? ほんまに判れへんのン、兄ちゃん" ], [ "判るもんか。なぜだ。言ってみろ!", "…………" ], [ "――どこまで、つけたんだ……?", "ここで言えないわよ。兄ちゃん" ], [ "じゃ、そいつ、セントルイスにいるのか", "うん……? ――うん!" ], [ "――だから、兄ちゃん、早く来てよ", "よっしゃ", "ハバア、ハバアよ", "オー・ケーッてばさ。あはは……" ], [ "――お前何て名だっけ……?", "あたい……?" ], [ "だって、おれ急ぐんだ", "いいじゃないか! セントルイスはよせ" ], [ "どこかへ行っていてくれ", "どこへ行ったらいいの。行く所ないわ", "活動でも何でも見て来たらいいだろう。三時にセントルイスで会おう。相談はそれからのことだ" ], [ "おれ、セントルイスへ取りに行くものがあるんだよ", "じゃ、おれ行って来てやるよ。どうせ女房を探して……" ], [ "そういうおたくも、からきし元気溌剌じゃないね", "あッしですか。" ], [ "――女房逃げちゃったンでさア", "へえン", "だから、ショボショボしょげてるッてんじゃねえですがね。人間あんまり腹が立つと、目まいがしていけねえ。くらくらッとね", "大事にしてくれよ", "女房をですかい", "いえさ、体を。ヒロポン打ちすぎるンじゃないか", "大丈夫でさア。漫才のワカナは一日六十本打ってもピンピン生きてまさア。それより、銀ちゃん、アルプはいけませんぜ。あれ航空燃料だといいますぜ、しまいにゃ、アップアップ、てっきりでさアね", "うん。てっきりだね" ], [ "あたしが来ては、迷惑なんでしょう……?", "迷惑じゃないが、困るよ", "あたしがきらいなんでしょう……?", "きらいじゃないが、ここにいちゃまずいよ", "それごらんなさい。きらいなんでしょう", "…………" ], [ "――元橋さんの居所知らない……?", "元橋さん……? そんな男……" ], [ "おれ知らねえよ", "あんた、銀ちゃんと会うて来たんじゃな……?", "おれ知らねえよ" ], [ "気ちがいッ!", "おれ気ちがいなら、おめえはキャッキャッだ!", "…………" ], [ "おい、ちょっと待った", "はなしてよ!", "いや、はなさねえ", "やぶけるわよ!", "ねえ、待ってくれよ。祇園荘に行くんだろう……? ねえ、おれ頼むよ。行くのかんべんしてくれよ。ねえ、芳ッちゃん!", "芳ッちゃん、芳ッちゃんって、お安くいわないでよ" ], [ "脱走だッ! 脱走だッ!", "おい、こっちへ逃げろ!" ], [ "ママはお留守どす。いま、東京へ立たはりました", "チマ子は……?", "こないだ(この間)からお居しまへんのどっせ" ], [ "……? ……", "雨がはいるじゃねえか。間抜けめ!", "…………" ], [ "閉めろ!", "…………", "閉めろといったら閉めろ! つんぼか……?" ], [ "兄ちゃんからことづけは……", "ないわよ" ], [ "おばちゃん、お酒のんだの……?", "のんだよ。おばちゃんはもうあかん! おばちゃんは汚れちゃった。おほほ……。でも、いいわよ。あたしは自由、リベラルクラブよ。おほほ……。京ちゃんは東京へ行っちゃったよ", "ほんとね……?" ], [ "芳ッちゃん、そんなに言うなよ。芳ッちゃん泣くと、おれ困るよ", "じゃ、どうすればいいの……?", "おれ知るもンか" ], [ "ほんとに、あたしどうしたらいいの……?", "おれ知るもンか", "どこか、泊るところあるの……?", "おれ知るもンか" ], [ "どこへ行くの……?", "おれの知ってる女の所だよ", "女の……?" ], [ "駄目よ。約束がちがうわよ", "そんなこと言うなよ" ], [ "だって、おれ泊るところねえんだよ。おれ一人じゃねえんだよ。二人だよ。女と一緒だよ。泊めてくれよ", "あたし帰る" ], [ "あたしアもう帰るよ。眠くてたまらんです", "阿呆ぬかせ、女房の逃げたアパートへ帰っても仕様があるまい" ], [ "――眠けりゃ、ヒロポン打つさ", "それもそうでやしたね。――じゃ、早速一発!" ], [ "――こいつアひでえキャッキャッ酒だ", "銀ちゃん、メチルではにゃアですかね", "そうかも知んねえだ。ふんに、おったまげた酒じゃにゃアか。おら、いっそ死ぬべいか" ], [ "――考えてみれば、あの女は……", "京ちゃんの恋人なんでしょう……?" ], [ "恋人……? へんなこと言うなよ。誰かの女房で、誰かのいろおんなだよ。考えてみれば、あの女もひでえキャッキャッだよ。いや、考えてみなくても、キャッキャッだよ", "キャッキャッって何なの……?" ], [ "キャッキャッはアラビヤ語だって、グッドモーニングの銀ちゃん言っていたよ。陽子、銀ちゃん知らんだろう。銀ちゃん与太者だけど、中学校出てるんだ。キャッキャッって、一人寂しく寝ることだって、銀ちゃん学があるよ", "つまらないこと言ってるわねえ。陽子断然軽蔑よ" ], [ "何見てるの……?", "陽子、今夜十番館へ行った……?", "休んだの。あたしもうホールをよそうかと考えてるの", "へえーン", "このアパートも越そうと思うの。京ちゃんどこかアパート空いたら教えてよ", "へえーン。越すの……? そうだろうね" ], [ "何よ、そんな眼をして……", "…………", "京ちゃん、そんな眼をするんだったら、帰ってよ" ], [ "ねえ、帰ってよ", "…………", "帰ってったら! 京ちゃん!" ], [ "――あッ、京ちゃん、あたしに死ねというの、あたしをそんな女と思ってるの……?", "だって陽子昨夜キャッキャッじゃなかったじゃねえか" ], [ "何かご用……?", "ううう? うん" ], [ "いるだけ、持ってらっしゃい", "恐れ入りやの……" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第七巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行 初出:「読売新聞」    1946(昭和21)年8月31日~12月8日(未完) 入力:佐藤洋之 校正:伊藤時也 1999年5月14日公開 2013年8月12日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "君はいくら小遣いをもらうの?", "一日二百円", "へえ……? お父さんの商売は……?", "ジープを作ってる" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2009年8月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "こちらから袖を引くよりも、男がからかいに来たら素人らしくいやですとモジモジしていれば、案外ひっ掛るかも知れないよ", "いやです――と言ったらいいの……?" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2009年8月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047839", "作品名": "報酬", "作品名読み": "ほうしゅう", "ソート用読み": "ほうしゆう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-10-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card47839.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第六巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年4月25日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47839_txt_35777.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-08-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47839_36046.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-08-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "寿子、今の所もう一度弾いてみろ", "うん" ] ]
底本:「聴雨・螢 織田作之助短篇集」ちくま文庫、筑摩書房    2000(平成12)年4月10日第1刷発行 入力:桃沢まり 校正:松永正敏 2006年7月25日作成 2010年7月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046306", "作品名": "道なき道", "作品名読み": "みちなきみち", "ソート用読み": "みちなきみち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-09-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46306.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "聴雨・螢 織田作之助短篇集", "底本出版社名1": "ちくま文庫、筑摩書房", "底本初版発行年1": "2000(平成12)年4月10日", "入力に使用した版1": "2000(平成12)年4月10日第1刷", "校正に使用した版1": "2000(平成12)年4月10日第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "松永正敏", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46306_ruby_23883.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-07-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46306_23892.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-07-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "兄さまだって、はじめて背広着た時は、こうやって……", "莫迦! あの時はネクタイを結ぶ練習をしたんだ。同じにされてたまるかい。ネクタイには結び方があるが、眼鏡なんか阿呆でも掛けられる。眼鏡を掛ける練習なんて、きいたことがねえよ", "はばかりさま、眼鏡にでも掛け方はありますわよ。お婆さんみたいに、今にもずり落ちそうなのもあるし、お爺さんみたいに要らぬ時は、額の上へ上げてしまうのもあるし……", "どっちみち、お前なんか、どう掛けてみたって、似合いっこはないよ。いい加減のところで妥協して、あっさり諦めてしまうんだな", "あら", "それに、元来女の眼鏡といむ奴は誰が掛けたって、容貌の三割がとこは、低下するものさ。おまけに、頭の良い人間は眼鏡なんか掛けんからね。生理学的にいっても、眼の良いものは、頭が良いにきまっている。その証拠に、横光でも川端でも、良い小説家は皆眼鏡を掛けておらん。小説家に眼鏡を掛けたのはすくないからね", "でも、林芙美子さんは、掛けているわ" ], [ "それ見なさい。あんまりひとのことを……", "しかし、僕のお嫁さんの容貌は、三割方落ちても、なおこのくらい綺麗なンだからね。凄いだろう?" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「令女界」    1943(昭和18)年6月号 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2009年8月22日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047831", "作品名": "眼鏡", "作品名読み": "めがね", "ソート用読み": "めかね", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「令女界」1943(昭和18)年6月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-10-13T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card47831.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第六巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年4月25日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47831_ruby_35783.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-08-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47831_36049.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-08-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "家はどこ……?", "…………" ], [ "じゃ、どこへ行けばいいの……?", "どこへでも……。あなたのお家でも……", "だって、僕は宿なしだよ。ルンペンだよ" ], [ "どこか宿屋はないかな", "阿倍野の方へ行ったら、あるかも知れません" ], [ "お一人ですか", "いや、女と一緒です", "どうぞ……" ], [ "――とにかく、寝ることにしよう。君は寝台で寝給え", "ええ" ], [ "困るも何もない。君は一人で寝台に寝るんだ", "でも……", "僕は椅子の上で寝るのは馴れてるんだから……" ], [ "どうして……? 嫌いじゃないよ", "じゃ、なんぜ……?", "…………" ], [ "男と宿やへ来たことがあるのか", "え……?" ], [ "――好きな男と……?", "好きな男なんかあれへん", "じゃ。嫌いな男とか……?", "嫌いな男もあったわ", "嫌いな男とどうしてそんなことをするんだ?" ], [ "――僕に体を売るつもりか", "違うわ。あんたにはお金なんか貰えんわ。あんたはあたしを助けてくれたでしょう。だから……", "だから、どうだっていうんだ", "だから、あんたが何をしてもかめへんと思ったのよ", "そんなお礼返しは真っ平だ。――だいいち僕がそんなことをすると、思ってるのか", "だって……" ], [ "――男って皆そんなンでしょう……?", "そりゃ君の知ってる男だけの話だ", "…………", "莫迦だなア、君は……。僕が好きでもないのに、そんなことをいう奴があるか。さアもう寝よう" ], [ "ほな、何弁を使うたらいいねン……?", "詭弁でも使うさ" ], [ "落ちぶれても、おりゃ魚は食わんよ。生ぐさいものを食うと、反吐が出る", "ほな、何を食うんや", "人を食う。いちいち洒落を言わすな" ], [ "食わん魚釣って売るつもりか", "おりゃ昔から売るのも買うのも嫌いや", "……? ……", "変な顔をするな。喧嘩のことや" ], [ "――洒落もお洒落もあんまり好きやないが、洒落でも言ってんと、日が暮れん。釣もそうやが……", "ほな、失業して暇だらけやいうわけか", "さアなア……", "商売は何や……?", "医者ということになっている", "医者なら人を殺した覚えあるやろな", "ある", "どんな気持や……?", "説明しても判らん。経験がないと判らん", "ほな、今経験してみるわ" ], [ "それでええ", "まだ片足すんどらへんがな", "かめへん" ], [ "こっちの足はお前磨け", "…………", "心配するな。金は両足分払ったる", "オー・ケー" ], [ "なんぜあかんネん……?", "きかんでも判ってるやないか。銭があらへん", "不景気なことを云うな。なんぼ戦争に負けた云うたかテ、珈琲の味ぐらい覚えてもかめへんぞ。どや、おれが飲ましたろか。本物のブラジル珈琲やぞ" ], [ "掏るなら、相手を見て仕事しろ", "豹吉だなア" ], [ "雪子……。名前きいてどないするの……?", "まさか、惚れようと思ってるわけやないが……" ], [ "――ちょっと気になるな", "何が……?", "誰に会いに来た(北)やら南やら……?", "ふん" ], [ "心配するな", "大将、ほんまに新円持ってるのンか", "情けないこときくな" ], [ "あんたも随分物好きな人ね", "今更言わんでも判ってる。おれから物好きを取ってしもたら、おれという人間がなくなってしまうよ", "そりゃ判ってるわよ。だいいち中学校の体操の教師を投げ飛ばして学校を追い出されたくらいだから……", "じゃ黙っとれ!", "いや、喋るわ", "選挙はもう済んだぜ" ], [ "あんた御馳走したげるのはいいけど、寝てる子起すようにならない……? その子たち、やみつきになったらどうするの……?", "兵古帯のくせに分別くさいこと言うな", "あんたは分別くさくなかったわね", "何やと……?", "分別があれば、あんな怪しい素姓の女に参ったりしないわね。何さ、そわそわ時計を見たりして……。", "怪しい……? 何が怪しい素姓だ……?", "あら、あんたあの女の素姓しらないの?" ], [ "――嘘をつけ!", "そんな怖い眼をしないでよウ。――嘘でない証拠には、あたしはちゃんとこの眼で見たんだから。ゆうべ雨の中で男を拾ったところを", "どこでだ……?", "戎橋……相手の男まで知ってるわ。首知ってるどころじゃない。名前をいえば、針が足の裏にささったより、まだ飛び上るわよ", "言ってみろ、どいつだ……?", "ガマンの針助……" ], [ "……に、きいてごらんよ", "じゃ……? あはは……。担いでものらんぞ、あはは……" ], [ "――お前ら掏摸のくせに、千円の金を持ったことないやろ", "持たいでか。それここに……" ], [ "なるほど、持ってやがる。まア二千円ってとこかな", "えッ", "どや、図星やろ。あはは……。それくらいの眼が利かないで、掏摸がつとまるか。まア、掏られぬように気イつけろ" ], [ "何をぬかす。拾った金なら届けるわい", "じゃ、掏った金なら持ってるの……", "そや", "本当に掏ったの……", "当りきシャリキ、もちろん……おまけに、掏ったのが紙一枚、それが二千円とはごついやろう", "また担ぐんじゃない……", "まア、聴け……" ], [ "何が殺生や……?", "そうかテお前、折角掏ったもんを、返しに行け――テ、そンナン無茶やぜ", "おい、亀公、お前良心ないのンか" ], [ "ない", "ない……? 良心がない……?", "あったけど、今はないわい" ], [ "――二人とも死んでしもた", "阿呆、その両親と違うわい。心の良心や", "ああ、それか。それやったら、一寸だけある", "ほな、返しに行け", "…………" ], [ "復員軍人テお前どんなもんか知ってるやろ。たいてい皆いやいや引っ張り出されて、浦島太郎になって帰って来た連中やぞ。浦島太郎なら玉手箱の土産があるけど、復員は脊中の荷物だけが財産やぞ。その財産すっかり掏ってしもても、お前何とも感じへんのか", "…………" ], [ "……良心か。ペペ吉も良心なんて言い出しちゃ、もうおしまいだねえ。女に惚れると、そんなにしおらしいことを云うようになるもんかなア。掏摸をするのに、いちいち良心に咎めたり、同情していた日にゃ、世話はないわねえ", "お前は黙っとれ" ], [ "おれの言うてるのは、そんなけちくさい良心と違うわい", "じゃ、けちくさくない良心テ一体どんな良心なの?", "けちくさい仕事はせんというのが、掏摸の良心や、浦島太郎みたいに、ぼうっとなっている引揚早々の男を覘うのは、お前けちくさ過ぎるわい。――おい、亀公、お前も掏摸なら掏摸らしゅう、もう一本筋の通った仕事をしろ" ], [ "返せと言うたかテ、どこを探したらええか、さっぱり判らんがな", "判らなかったら、一日中駈けずり廻って探して来い――いやか。いやなら、いやと言え!", "返すよ、返すよ。返しゃいいんだろう" ], [ "君、どうする……?", "どうするって……?", "帰れる、その恰好で……", "帰られへんわ" ], [ "宿屋の女中さんに事情話して、著物貸して貰うかな", "いや", "どうして?", "だって" ], [ "じゃ、どこか君の知っている所で著物貸してくれそうな所ないかね。君の使いになって、僕、行ってみるけど……", "…………", "ないのか", "ええ", "じゃ、僕が何とか工面して来てあげよう", "お心当りありますのン?", "まず、買うて来るより仕方がない。闇市……っていうのか、復員したばかりでよくは知らんが、そこへ行ったら売ってるんじゃないかな。金さえあれば、何でもあるってことだそうだから", "でも、そんなお金……", "大阪駅へ荷物預けて置いたんだ。毛布や何やかやあるから売れば金になるだろう", "そんなン……気の毒ですわ", "今から行って来るから、帰るまで待っていろ" ], [ "――チケットなしでも渡して貰えますか", "渡せんな" ], [ "預けた品はわかってるんですが……", "ふん、どうせ闇のもンやろ" ], [ "昨日復員したばかしで、実はその荷物なんです。毛布は麻繩を掛けたやつですから、見ればすぐ……あ、そうだ、名前もついている筈です。小沢十吉です", "なんや、復員の荷物か" ], [ "ないもンはない。――誰ぞ取りに来たんやろ", "取りに来た? ……誰がですか", "そら知らん。――だいいちチケットを落すのが悪い" ], [ "カレーライス出来る……?", "出来ます", "ライス……って米なの……?", "純綿です", "純綿……?" ], [ "今の人、いつも来るの……?", "いいえ、はじめてです" ], [ "にぎり一チョウ!", "あ、二皿にしてくれ" ], [ "――じゃ、また出直しましょう", "あら……", "えッ……?", "あのウ……" ], [ "――どうぞ", "そうですか、じゃ" ], [ "――実は今日お伺いしたのは、著物をお借りしようと思って……", "著物……?", "ええ、女の著物なんです" ], [ "伊部になら、詳しく事情を話せるんですが……、でも、……", "あたしじゃ話せませんの……?" ], [ "執達吏が今うちへ来てるんです", "ああそれで……" ], [ "兄が高利貸に借金したんです", "へえ……? 伊部君が……" ], [ "――あたしにも判らないんです", "ふーん" ], [ "――病院もやめてしまったんですか", "病院から、来てくれ来てくれって、喧しく言って来るんですけど、どうしても……。戦争が終ってから、何んとなく行く気がしないと云うんです。すっかり人間が変ってしまいましたわ" ], [ "――兄さんに忠告して下さい", "で、兄さんは今どこにいるんですか", "たぶん渡辺橋の方だと思います", "何をしに……?", "何もすることがないので、毎日朝早くから魚を釣りに行っているんです" ], [ "――朝暗い内から起きて、出て行くんです。そして、一日中渡辺橋のところで、坐ってるんです", "釣れるんですか" ], [ "――僕これから行って、言いきかせてやります", "お願いします", "じゃ……" ], [ "一体、伊部君はいくら借りたんです", "千円です" ], [ "二万三千円……。元利合計してまっさかいな。へ、へ、へ……", "千円が二万三千円……? そんな莫迦な……", "伊部さんにきいてみなさい。ちゃんと、そうなってまっさかい" ], [ "誰だ……?", "…………" ], [ "――わてだっか。わては……掏摸だんネ", "えっ……?" ], [ "本物……?", "へえ、わては大阪一の掏摸で、五寸釘の亀吉いいまんねン" ], [ "――わては昨日ちゃアんとあんたを掏りましたぜ", "えっ……?" ], [ "莫迦をいえ。おれは君なんかに掏られるもんか。掏られたおぼえは……", "……おまへんか。え、へ、へ、……" ], [ "――チケットも持ったはれしめへんでしたか", "チケット……?", "荷物を預けはった……", "あ。じゃ、貴様だなア……" ], [ "え、へ、へ……", "こいつッ!" ], [ "あ、ちょっと、待っとくなはれ、待っとくなはれ。まア、きいとくなはれ", "よし、きこう", "実は、掏ったことは掏りましたけど、復員のお方のものを掏ったら悪いと、こない思い返しましてな……" ], [ "――あんたを探し出して、返そうと思って、かけずり廻ってましてン。――いま、返しまっさかい、堪忍しとくなはれ", "ふーン" ], [ "――しかし、持ってないじゃないか", "え、へ、へ……。売り飛ばしましてん。買い戻そうと思って、行ってみましたら、もう売れてけつかったちゅうわけで……", "…………", "そんな怖い顔せんとくなはれ。その代り、売った金は返しまっさかい" ], [ "――兄ちゃん、ハナヤのカツレツ美味かったなア", "うん、オムレツも美味かったぜ" ], [ "――しかし、珈琲も美味かったぜ", "わいはあんなにがいもンより、エビフライの方がええ。――ああ、おなかペコペコや" ], [ "そや、そや、食べたあとは包んでもろて母ちゃんに土産にする", "ああ、銭がほしい。――大将、靴みがきまひょ", "大将、みがきまひょ!" ], [ "――あれから、どこイ行きよったか、知らんか", "さア、知りまへんな。用事だっか" ], [ "ハナヤできいても分れしめへんか", "うん。今、ハナヤへ行って来たばっかしや" ], [ "――お前ら、兄貴を見たら、おれが探してる、すぐハナヤか中之島の図書館イ行くように……。いや、中之島は行ったらいかん。ハナヤへ、ハバ、ハバ(早いとこ)行くように、おれが云うてたと、ことづけてくれ", "オー・ケー" ], [ "なア、三郎公、掏摸テ豪勢なもんやなア", "うん" ], [ "――いつでも美味いもんは食べられるし……。フズーズボンチでも何でも……", "阿呆! フルーツポンチや。フズーズボンチとちがうわい" ], [ "――しかし、三郎公、どう考えても掏摸テぼろいな。人の靴のドロとっても一円にしかなれへんけど、掏摸はまるどりやさかいな", "ほな、掏摸になったらええなア", "…………", "兄ちゃん、掏摸になって、わいに兄ちゃんの靴みがかして、二人前の金払ってくれて、ハナヤおごってくれたら、ええなア。兄ちゃん、掏摸になりイ", "ふーん" ], [ "う、う、う、……", "お出しといったら、お出し", "…………", "黙ってちゃ埓が明かないわよ", "何を、唖じゃあるまいし……", "う、う、う、……", "じれったいわね。出さなきゃ、ふんだくるわよ" ], [ "…………", "返事ぐらいしたら、どう……?" ], [ "――その金は返してやれよ", "唖からとるのはいけないって、いうの……?", "そやない。実は、こいつ今日から、身内になりやがったんや", "仲間に……? この唖が……?" ], [ "――青蛇団も随分相場が下落したわね", "まア、そう言うな。これでも……" ], [ "――唖は唖だけの取得があるかも知れんぜ。それに、こいつ案外すばしこいとこがある。今日ちょっと仕込んだだけで、ちゃんともう一仕事しよった", "あ、この端た金が……" ], [ "今はこんな端た金でも、もうちょっと仕込んだら、今に背中の刺青にものを言わすようになるやろ", "じゃ、あんた、もうこの娘っ子に……" ], [ "――刺青をしてしまったの……?", "うん", "一体、どこで拾って来たの", "梅田の闇市や。飯を食べさせるったら、喜んでついで来よった" ], [ "――ほな、この子を頼んだぜ", "いやよ" ], [ "――本当にひどい眼におうたわね。あの針助って奴はね。ガマン(刺青)の針助といってね。刺青にかけては西では一番という名人なんだけど、ああいう名人に限って、悪い癖があるのよ。人間さえ見たら、刺青をしたくてたまらないのよ。つまり刺青のマニアっていう奴ね", "…………", "いやがるのを無理に、脅したり、すかしたり、甘言を弄したりして、家へ連れこんでは、麻薬をかがせて、刺青をしてしまうのよ。あいつのために刺青をされた人間がどれだけいるか判りゃしないわよ。あたしだってその一人さ。――あんた、聴いてる……?", "…………" ], [ "――そうだわ。あんたの耳が聴えるのだったらこんな話はしないわよ。聴えないから、するのよ", "…………" ], [ "――馴れぬ大阪でうろうろしているところを、親切に話しかけて来たのが、あんた、誰だと想う……?", "…………" ], [ "――二階を貸してやるというので、これ倖いとついて行ったら、なんと女気なしの針助の一人世帯、ちいと薄気味わるかったけど、今時空間なんて貸してくれる人は、ざらにいるわけじゃない。早速二階を借りたところが、ある夜到頭……、いえ針助は女なんかに興味のある男じゃない。何もされなかったが、その代り刺青をされてしまったのさ", "…………", "刺青をされるまでは、真面目なタイピストだったけど、会社でちらちら腕の青いところが見えてはもうおしまい、どこへ行っても使ってくれず、背中に背負った刺青という重荷が、到頭あたしの一生を圧しつぶしてしまったのさ。つまり、刺青にものを云わせて生きて行く生活しか、あたしに残らなかったのさ" ], [ "――あら、随分喋っちゃったわね。あんた聴いてた。聴えなかったの。可哀想に……。でもね、聴えないからこんな愚痴を喋ったのよ", "…………", "さア、来たわよ" ], [ "なんぜ待ってくれへんかったんやろなア", "逃げんでもええのになア", "なんぜ逃げるんやろなア", "わいらに掴まったら、もう一ぺんハナヤをおごらされる思てやろか", "阿呆ぬかせ" ], [ "――ひょっとしたら刑事に追われたンかも判れへんぞ", "へえ? ほな、掴まって、カンゴク行きやナ", "掴まるかどないか、まだ判るけえ!", "うまいこと逃げてくれたら、ええのになア", "うん", "しかし、兄ちゃん、掏摸テぼろい商売やけど、怖いなア。カンゴクへ行かんならん。兄ちゃん、それでも掏摸になるか", "…………" ], [ "三郎公、えらいこっちゃ、銭がない", "えっ……? ほんまか" ], [ "――畜生! どいつが盗みやがったんやろ。ひどいことをしやがる", "兄ちゃん、交番へ届けたら、あかんやろか" ], [ "阿呆! 交番へ届けても戻るもんか。強盗もよう掴まえんのに……", "どないしたら、ええやろ", "…………" ], [ "一銭も持たんと、帰るンか", "…………", "いややなア。こんなことなら、ハナヤで美味いもン食べた方がよかったなア、盗まれるより、その方がなんぼええか判れへん", "…………" ], [ "えッ……?", "正直に靴みがきして、母ちゃんを養うてても、悪い奴にみな金を盗まれてしまうやないか。こんな損なことがあるもんか。正直に働いたら、阿呆な眼を見るだけや。よしッ! もうこうなったらやけくそや。掏摸になる" ], [ "お前もやな……?", "…………", "お前も来い!" ], [ "兄ちゃん、どないなるネやろなア", "さアなア……", "カンゴクへ行って、赤い著物著んならんか", "サアなア……", "母ちゃん今頃どないしてるやろなア", "分ってるやないか。わいらの帰り待ってるにきまってる", "母ちゃん心配してるやろなア", "うん" ], [ "どないしよう", "食べよか", "うん" ], [ "…………", "下手くそやぞ、お前らの掏り方は……", "今夜はじめてだす" ], [ "――そやろ、新米でなかったら、あんな下手な掏り方はせん。どや、おっさんが一つ仕込んだろか", "えっ……?", "おっさんとこイ、来たらいつでも仕込んだる。一人前の掏摸になるネやったら、おっさんの云うことをきいたら、間違いない。まず刺青をするこっちゃ。ええ顔の掏摸になれるぜ", "…………", "どや、もっと食べるか" ], [ "おっさんとこイ来たら、いつでもパンを食べさせたる", "おおけに……", "それから……" ], [ "――刺青をしたる", "えっ……?" ], [ "なんぜかテ……。刺青みたいなもンしたら、母ちゃんに叱られま", "なんぜ叱られるねン", "なんぜ言うたかテ、刺青いうたら、まともな人間のするもんと違いまっしゃろ" ], [ "――刺青いうたら、ええもんやぜ。だいいちお前ら掏摸になるネやったら、刺青の一つぐらいしとかんと、幅が利かん。刺青をしてるのンと、してへんのと仲間での顔の売れ方がちがう。ええ兄貴分になろうおもたら、刺青にものを言わすのが一番やぜ", "いやだす、いやだす", "わいもいやや" ], [ "いやなら、いやでもええ、その代り、お前らを監獄イ入れてやる", "カンゴク……?" ], [ "そや、お前らわいを掏りけつかったさかい、監獄イ行かんならんぞ", "かにしとくなはれ。それだけはかにしとくなはれ、カンゴクだけは……", "ほな、刺青をするか" ], [ "――一体どこうろついてたんや。ほんまに探すのンに苦労したぜ", "用事なら早く言え" ], [ "兄貴、わいに千円くれるという約束やったな", "うん。おれを驚かせたらなア", "兄責、びっくりしなや" ], [ "なんや、これは……", "なんや、これは……いうて、済ましてるどころやないぜ、兄貴、これ読んで、びっくりせえへんのか", "お前に千円やるのはまだ惜しいからな" ], [ "ノンキやなア、兄貴は。これ、隼団からの果し状やぜ", "判つてる。しかし、お前どうしてこれを……" ], [ "知らん間にポケットへはいってたんや。その代り、あの復員軍人に返そう思てた二千円掏られてしもた", "間抜けめ!" ], [ "――そやから、昼間ハナヤでお加代が云ったやろ。掏られんように気をつけろって……", "あ、そやった!" ], [ "兄貴、待ってくれ", "なんだ", "兄貴一人で行くのンか", "当りきや。心配するな" ], [ "豹吉、よう来た。用はきかなくても、判ってるやろ", "うん" ], [ "何がおかしい", "ようも、これだけ不細工な男を、よりによって闇市の目刺しみたいに並べたと思って、感心してるんだ", "何ッ……? 生を言うな。散髪屋の看板写真みたいに、規格型の顔をさらしてると思て、うぬぼれるな。一寸は大人並みに歪んだ方が、人間らしいわい。自分で歪みたくなきゃア、こっちの手でお好みの型に歪ませてやるから、そう思えよ。それとも面の歪むのがいやなら、風通しの悪いその脳味噌に、風穴を一つあけてやろうか" ], [ "それとも、手をついて謝るか", "…………", "十かぞえる間に返答しろ", "…………", "一つ!", "…………", "二つ!" ], [ "三つ!", "…………", "四つ! 五つ! 六つ!" ], [ "七つ! 八つ!", "…………", "九つ!", "九つ!" ], [ "射て!", "お待ち!", "一〇!" ], [ "――僕は君たちのように、龍だとか豹だとか虎だとか、親のつけた平凡な名前以外の名前を持っておらん。また、青蛇だとか、隼だとか、まるで動物園まがいの団体にも加盟しておらない", "何ッ……? お前らの出る幕やない。引っ込んでろ" ], [ "なるほど、僕は出番をまちがえて、他の役者の出る幕の舞台へ飛び出した間抜け役者かも知れない。しかし、とにかく舞台へ飛び出したのだ。何とか科白を喋ってから引き下るということにしなければ、恰好がつかないし、今更引っ込みもつかない", "じゃ、何を喋りに来たんや", "結論を先に言おう" ], [ "――喧嘩というものが、いかにくだらぬものであるかということを、君たちに納得させたいんだ", "大きにお世話や。引っ込んだらどうや", "まア、聴け! 日本人はかつては、暴力や喧嘩沙汰の好きな国民だった。だから戦争をおっぱじめて、こんなみじめなことになってしまったんだ。ところが君たちは、これからの日本の再建に一番重大な役割を果さなきゃならない君が、今なお暴力や喧嘩を好み、腕力でことを決しようとしている" ], [ "――こんなことで、一体どうなるんだ。しかも、君たちの中には、携帯を禁じられている銃を、持っている者もいる。君たちは瀕死状態の日本を、ますます窮地に陥入れたいのか", "…………" ], [ "君はどうだ……?", "…………", "君はどうだ……?", "…………", "君は……?", "わては、何にもおまへん" ], [ "君はどうだ……?", "…………" ], [ "君は……? 言い分は……?", "…………" ], [ "まだ何か用か", "うん。――その拳銃、僕に渡してくれ", "何……?", "君たちは、いや、僕ら日本人は警察官以外拳銃を持つことは許されていない。しかも君たちがそれを持っていることは、君たち自身ばかりでなく、日本人全体に迷惑が掛かる。――渡して行ってくれ", "………", "僕は君が拳銃を持っているのを、黙って見てるわけにはいかないんだ。日本人として見るにしのびないのだ。渡して行ってくれ。それとも渡すのがいやだと、云うんなら、僕は、くどいようだが、もう一度君たちの前で……" ], [ "――あんたも渡したら、どう?", "うん" ], [ "ありがとう。それでこそ君たちは……", "日本人だと言うんやろ。おだてるのはやめてくれ" ], [ "――可哀想に刺青の墨の色がまだ濡れてるわよ", "刺青……?" ], [ "――ああ、じゃ、珈琲と、それから何か……、サンドイッチでも……", "おビールは……?", "そうだな" ], [ "みんな、ここで待っていてくれ、おれ一寸行って来る", "どこへ……?" ], [ "――こんなところで、会おうとは思わなかったよ", "いや、案外会うんじゃないかと思っていた" ], [ "ところで、君ひとり……?", "……? ……" ], [ "そう……? しかし、まア、一人でもいいだろう", "一人で十分ですよ", "そりゃ、一人でも悪いとはいえないが……。とにかく、はいり給え!" ], [ "――君、自首しに来たんだろう……?", "自首……?" ], [ "――誰が自首なんかするもんか", "じゃ、何しに来たのだ……?", "…………" ], [ "正直に云ったらどうだ。自首だろう……?", "…………", "年貢の収め時――という古くさい言葉があるが、君もそこへ気がついたのは莫迦でなかったよ。ガマン(刺青)の針助はとっくにつかまったんだから" ], [ "そうだ。針助は何もかも白状したよ。君たち青蛇団はみんな、針助の針にひっ掛って、背中に蛇の刺青をしているそうだね", "…………" ], [ "いずれ一斉検挙になるだろう。今のうちに自首したらどうだ。いや、自首するつもりで来たんだろう", "大きなお世話だ", "いや、世話を焼きたいよ。君たちのように若い青年が、刺青をしたまま、一生悪事を働いて暮すのかと、思うと黙って放って置けない", "ふーん。黙って放って置けんからそれで密告したんやな。ご立派だよ" ], [ "密告……? まさか。密告するくらいなら誰も一人で中之島へ行きやしない。あの時、警察のトラックに乗って行けばよかったんだ。しかし、そんなことしたくないからわざわざ一人で行って、今もこうして自首をすすめているのじゃないか", "ほな、どうしても自首せエいうのやな" ], [ "君たちは敗戦につきものの混乱と頽廃の園に咲いた悪の華だ。が、日本はもう混乱、頽廃から起ち直ってもいい頃じゃないか。それにはまず、悪の華をなくしてしまう必要がある。しかし、僕は何もいきなり刈り取ってしまおうとは思わない。それよりも、むしろ君たち悪の華が向日葵の花のようになることを、望んでいるのだ。悪の華は夜光虫の光に憧れる。が、向日葵は太陽の光線に向って伸びて行くのだ。夜光虫の光と太陽の光と、君たちはどちらを選べばいいのか。……むろん、太陽の光だ。夜光虫の光に憧れた君たちこそ、一層太陽の光に憧れなければならぬ筈だ。いや、君たちは内心ひそかに太陽の光に憧れている筈だ。……と、僕は思う、それとも君たちはあくまで夜光虫の……", "判った" ], [ "――判ったよ。自首しよう", "えっ……", "もう面倒くさくなった。自首すればいいんだろう。自首するよ。自首する勇気もないのかと思われたくないからな" ], [ "いや、一寸待ってくれ。僕は君ひとりやりたくない", "じゃ、誰とや……", "君の仲間と一緒に自首させたい", "おれに、仲間を説き伏せろというのやな" ], [ "……ほかにもう一つ、悪いことをしました", "ふーん。なんだ、どんなことだ", "人を殺しました", "えっ……?" ], [ "今朝、六時頃渡辺橋で釣をしている男を、川へ突き落して、殺しました", "えっ……?" ], [ "兄貴、どないしたんや。顔色変えて……", "どないもこないもない。こんなに、びっくりしたのは、生れてはじめてや", "ほな、千円くれ", "……? ……", "兄貴のびっくりしてる所を見たら、千円くれる約束やったな" ], [ "うん。泳ぎを知ってると、なかなか死ねんもんでね", "あ" ], [ "なアに、一水浴びた勢いで、浴びるようにアルコールを飲んだんだよ。酔っぱらって、素裸で歩いてたらしいね", "泳ぎを知ったはるとは、知りまへんでしたなア", "泳ぎか。およばずながら、亀みたいもんだ。あはは……" ], [ "なんだ、お前は……?", "青蛇団だす" ], [ "――じゃ、お世話になりますかな", "はあ。どうぞ!" ], [ "じゃ、気が向いたら手術をしてやろう", "でも、いつあなたにお会い出来るか知れしません", "じゃ、こうしよう。君のよく行く千日前のハナヤという喫茶店へ午前十時に行って三十分間だけ待ってろ。気が向いたら行く" ], [ "――毎日待ってました。お願いです。刺青をとってやって下さい", "だって、あいつらは留置場へはいってるんだ。留置場へはいってるものを、手術しろはむりだよ" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行 初出:「大阪日日新聞」    1947(昭和22)年5月24日~8月9日 ※「憂鬱」と「憂欝」の混在は底本通りにしました。 入力:林清俊 校正:小林繁雄 2008年3月3日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "立話もなんとやらや、どや、一緒に行かへんか。いま珈琲のみに行こ言うて出て来たところやねん", "へえ、でも" ], [ "いくら返しても、受け取りなさらんので困りますわ", "どもならんな。そら、あんたに気があんねやろ" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第二巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「文芸」    1941(昭和16)年6月 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2008年8月8日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047053", "作品名": "雪の夜", "作品名読み": "ゆきのよる", "ソート用読み": "ゆきのよる", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文芸」1941(昭和16)年6月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2008-08-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card47053.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第二巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47053_ruby_32360.zip", "テキストファイル最終更新日": "2008-08-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/47053_32361.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2008-08-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "だってあんたには健坊がいるじゃないの", "健坊は雪ちゃんをいい娘にすればいいさ" ], [ "入ったらどうするッ", "手を突いて謝ってみせらア", "ふうん……", "手を突いて、それから、シャボン水を飲んで見せらア", "ようし、きっとお飲みよ" ], [ "いいものって何さ……", "来なくっちゃ解らない。一寸でいいから来てごらん", "何さ、勿体振って……" ], [ "どうしたの安ちゃん、こんなに晩く……", "明日田舎へゆくからお別れに来たのよ" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行    1995(平成7)年3月20日第3版発行 初出:「風雪 三月号」    1947(昭和22)年3月 入力:桃沢まり 校正:小林繁雄 2007年4月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "046307", "作品名": "妖婦", "作品名読み": "ようふ", "ソート用読み": "ようふ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「風雪 三月号」1947(昭和22)年3月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-05-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card46307.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本織田作之助全集 第五巻", "底本出版社名1": "文泉堂出版", "底本初版発行年1": "1976(昭和51)年4月25日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "校正に使用した版1": "1995(平成7)年3月20日第3版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "桃沢まり", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46307_ruby_26606.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-04-13T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/46307_26614.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-13T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "エイ!", "オウ!", "エイ!", "オウ!" ] ]
底本:「俗臭 織田作之助[初出]作品集」インパクト出版会    2011(平成23)年5月20日初版第1刷発行 底本の親本:「映画評論 第一巻四号」    1944(昭和19)年4月 初出:「映画評論 第一巻四号」    1944(昭和19)年4月 入力:kompass 校正:小林繁雄 2013年5月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "雨はきらいだけど、雨男は好きよ", "どうして……?", "だって、雨ぐらい降らせることの出来る男じゃなくっちゃ詰らないわ" ], [ "新聞ですか", "はあ", "新聞なんか見てどうするんです?", "はあ……?" ], [ "新聞なんか見ても詰りませんよ。近頃の新聞は嘘しか書いてないから", "そりゃ同感ですが、しかしあなたは御覧になっているじゃありませんか", "僕は記事を読んでいるわけじゃない。暗号を読んでるんだよ", "え……? 暗号……?", "この新聞の第二面に鉛筆で印をつけた文字がある。その文字を辿ると……" ], [ "どういうことになるんですか", "辿るとね、三五二号室という数字と午後三時という数字が出ますね。これは三五二号室へ午後三時に訪問すると、美人が歓迎してくれるという暗号ですよ", "誰がいってもいいんですか", "誰がいってもいい。僕でもいい。君でもいい", "あなたは行く積りですか", "君はどうですか", "さあね。スリルはありますね。しかし、あなたとかち合うと拙いですな", "大丈夫。かち合うことはない", "どうして……?", "午後三時には君か僕か、二人のうちのどちらかにきっと故障がはいる", "あなたは運命論者ですか", "でなければ、君にこんなことは教えはしないよ。あはは……" ], [ "はあ。あなたもですね", "はあ。――はじめてホテルへ泊ったので退屈で困っていますの。お部屋にいても詰らないし……", "外へ出られないんですか", "日中は暑くて……", "なるほど……" ], [ "夕方なら涼しくなるでしょう。どうです、僕の芝居の稽古を見に行きませんか", "芝居にお出になりますの", "いや、役者じゃありません", "はあ。じゃ脚本を……", "え、まア", "あのウ稽古何時頃ですの", "四時半からです", "あら残念ですわ。あたし四時半までに日本橋へ行かなくっちゃなりませんの", "そうですか。じゃ明日の初日を見て下さい。切符とって置きます", "明日の朝もう発ちますの。残念ですわ", "そうですか。そりゃ……" ], [ "あら、あたしが……", "いや、面倒ですから一緒に……", "御馳走さまでした" ], [ "暑いですね", "お部屋へ行ってお話しましょうか" ], [ "涼しいんですか、あなたのお部屋", "とっても……", "でも、女の方の部屋へ行くのはどうも……", "じゃ、あなたのお部屋へ参りますわ" ], [ "煙草随分おのみになりますのね", "一日に百本。――あなたはやらないんですか", "のみますのよ" ], [ "あ、それだけは堪忍して……", "どうして……?", "あたしこんなこと始めてなのよ" ], [ "あたしを笑わない……?", "笑わない", "だったらいいわ。――名前きかせて頂戴!", "須賀信吉……", "須賀さん! 須賀さん!", "え、何……?", "何でもないのよ。ああ、須賀さん――須賀さん!" ], [ "三十……? これからですな。どしどし書いて下さいよ。脚本を書く人が少くってね。――映画の方はどうです、興味ありますか", "興味って言うと……?", "撮影所でね、あなたの脚本を読んで、問題にしてましたよ。シナリオを頼むとか言ってましたが……" ], [ "僕は駄目です。僕は時局物が書けませんから……", "いや、生じっか時局物でない方がいい。やっぱり柔いものが喜ばれるのでね。情報局推薦なんて肩書がつくと、かえって受けませんね。こんどのあなたの脚本も、あれだけでは色気がないので、一幕だけラヴシーンを追加しましたよ", "え……?" ], [ "この幕がそうです。まア、見ていて下さい", "…………" ], [ "随分びっくりなさったでしょう。こんな場面がはいっちゃって……実際ひどいわ", "上演をやめて貰いたいくらいですよ。――でもまア、新米らしく大人しく黙っているか。どうせ商業劇団に書いたのがそもそもいけなかったんですよ", "田村先生も同情してらっしたわ。折角の作者のデヴュに気の毒だって" ], [ "――でも、田村先生も奥役の言うことはきくのね。随分変ったわ", "田村さん、いつもあんな風ですか" ], [ "この劇、映画になるんですってね", "へえ? そうですか" ], [ "おききになりませんの", "いや、さっき一寸そんな話出てたが……ところであなたはどこまで……?", "本郷ですの", "じゃ、三原橋まで着せていただけるわけですね。僕、新橋ですから、三原橋で……", "第一ホテルですって……?", "ええ。よく知ってますね", "楽屋中で評判よ", "えっ?" ], [ "――もう綽名までついていますわよ", "煙突……?" ], [ "いいえ、芥川龍之介", "へえ――?", "若くって、才人で、スタイルがよくって……いや、眼よ、眼よ。眼が似てるのね", "何にしろ、芥川龍之介が生きておれば僕に決闘を申し込むでしょう" ], [ "どうぞ――。遅くなると悪いから……", "ええ。でも電車が来るまで……" ], [ "あなた、マッチ持ってませんか、ホテルへ帰っても煙草が吸えないんで……", "今、持ってませんけど……明日楽屋へ持って来てあげますわ", "楽屋入りは何時……?", "三時……", "三時……か。三時までマッチが手にはいらぬとは情けない。売ってないんでね" ], [ "町へ出て来るのは、もっと早いんでしょう。その時ホテルの受付へでも届けてやるという親切があなたにあれば、一生恩に着ますよ", "まア、そんなにマッチが……", "凄いニコチン中毒でね", "じゃ、届けてあげますわ、仕方がない", "何時頃……?", "さア、お午を食べて出るから、一時かな" ], [ "ありがとう。じゃ、明日待ってます。ロビイで……。何時……?", "正午でいい……?", "ええ。じゃ、明日正午" ], [ "電話掛りまして?", "いや、すぐ取り消したから……" ], [ "誰も来ない……? 誰も来ない……?", "来ない、大丈夫だよ" ], [ "まるで女みたいな手ね", "ほかに取得はないけど、手だけは綺麗だよ", "この手、想いだすわ" ], [ "明日はもうお別れね。私、後悔しないわ。明日の朝、一緒に食事してくれません?", "朝食九時までだろう? 起きられるかな。僕、朝寝坊だから……", "電話で起しますわ" ], [ "――御食事にいらっしゃいません……?", "ああ、ありがとう" ], [ "ええ", "僕も両親はないんです" ], [ "同感です。死亡広告以外には真実の記事は一行もないんですからね、近頃の新聞は……", "あはは……。巧いことをおっしゃる。しかし、あなたはまだ信用し過ぎている", "どうして……?" ], [ "死亡広告にも嘘がある", "例えば……?", "例えばですか。あはは……いい質問だ" ], [ "ここに、蜂谷重吉の死亡広告が出ているでしょう", "ええ", "元衆議院議員蜂谷重吉昨七月卅一日永眠仕候。――とあるでしょう。あなたは蜂谷と言う代議士を知っていますか", "いえ、聴いたこともありません", "そうでしょう、私も聴いたことがない。蜂谷重吉という男は代議士じゃありませんよ", "じゃ、何者ですか", "何者でもないが、しかし、蜂谷重吉は即ちこのわたしです", "えっ?", "この新聞によれば、蜂谷重吉は昨日死んだことになっている。ところが、わたしはげんにこの通り生きている。新聞なんて凡そ出鱈目だ", "なるほど。ところでこの死亡広告主はつまり、あなたなんでしょう" ], [ "――二箱持って来たわ。おふくろに叱られたわ。そんなに沢山マッチ持って出て、どうするんだって……。作者にあげるんだといったら、じゃ、三つ持って行けだって……", "あはは……" ], [ "――今まで何度も誘われたけど、たいてい断ったわ", "じゃ、今日は例外だね", "まア、そうね", "なぜ、断らなかったの……?" ], [ "なぜって……?", "うん" ], [ "じゃ、ロビイで話でもするかな", "ホテルのロビイなんかで、男の方とお話をするなんて、いやだわ。噂が立つし……" ], [ "じゃ、どうする……?", "お部屋へ行きましょうよ" ], [ "よく煙草吸うのね", "日に百本。――" ], [ "煙草って、そんなにうまいものかしら……", "君は喫まないの……?", "喫んでみようかしら……?", "いや、そりゃよした方がいい" ], [ "――煙草って好奇心で喫むものじゃないからね。喫まれる煙草が泣くよ。泣くっていえばね、僕は寝しなに、珈琲をのむ癖がある。珈琲をのまなくちゃ、眠れないんだ。珈琲にとっちゃ、随分自尊心を汚されて、泣きたいところだろうね", "お酒は……?", "いや、こんな話よそうじゃないか。『あなたは煙草が好きですか、酒は好きですか何が好きですか、私も好きです』くだらないよ。お互の嗜好をたずね合い、趣味を語り合い、それで一致してみたところでつまらない。べつに僕ら結婚しようってわけではないからね", "どうして結婚しないの……?", "あなたと……?", "まア", "いや、失敬、失敬。――ええと、結婚しない理由……? そうだね。自由を束縛されるのはいやだから。戦争なんかはじまったおかげで、四方八方束縛されてるのにこれ以上結婚で束縛されるのはいやだよ", "恋愛は……?", "目下していない。君は……?", "…………", "なんだか、していそうだね" ], [ "するなら、どんな恋愛をしたいの?", "そうね。プラトニックラヴね" ], [ "プラトニックだけで済むかね", "ベーゼ……? ベーゼなんてくだらないと思うわ。そう思わない……?", "まア、そうだね" ], [ "どうして、にやついてるの……?", "どうして……?" ], [ "――どうしてだか判らない。何だか笑いたくてたまらないの", "照れてるんじゃない……?", "そうよ。あたし、物凄い照れ症なのよ。――こりゃたまらない" ], [ "僕があんまり見るから……?", "そうよ。あたし人に顔を見られると、すぐ照れちゃうの", "それでよく女優になれたね", "舞台じゃ平気なんだけど……" ], [ "マッチありがとう", "え……? ああ……" ], [ "――もっとお話したいんだけど、今日はだめ。照れちゃっていたたまれないの。ごめんね", "照れて帰るんならかまわないけれど……僕がいやで帰るんなら辛いね。蛇蝎の如くきらったんじゃない……?", "きらいだったら、来ないわ", "それで安心した……" ], [ "僕が悪い男に見える……?", "どうして……? いいひとよ。あなたは……", "いいひとだって……?" ], [ "ベーゼしないことがいい子なの……", "そうだ。つまり僕は女たらしだからね。やはり、しちゃ悪いよ", "女たらしに見えないわ", "じゃ、僕がベーゼしたらどうする……? 撲るかね", "こんな話よしましょう", "よそう" ], [ "いいところで会いましたね", "失礼ですが、あんたは……?", "あんたは……? あはは……。あんただなんて……" ], [ "――どこまで……", "東京劇場まで……", "じゃ、あたしと同じだ。ご一緒に参りましょう", "失礼ですが、どなたですか", "名前は明かせない……", "えっ?", "いや、名前は明かせないと言ってるんですよ", "なぜ明かせないんですか", "明かすと、あなたは土下座しなくちゃならない", "えっ……?" ], [ "――執行猶予でした。山上さん(演劇集団の座長)が証人になってくれてね、例の朴訥な調子で、私は思想のことは何にも判らないが、田村君は日本の演劇のために貴重なんです――と言ってくれたのが、大変よかったんだ。下手すると戦争中ほうり込まれたかも知れなかったですよ", "そりゃよかったですね" ], [ "――転向しなければ、一生出られないじゃないか。出ている連中はみんな転向しているよ", "なるほど、しかし、本当に転向しているんですか" ], [ "さあ、そりゃねえ……", "たとえば、田村さんはどうなんです?", "…………" ], [ "転向といえば、これまで抱いていた左翼思想のあやまちを認めることでしょう……?", "まア、そうね", "あやまちを認めて戦争に協力する事を誓えば、こりゃ右翼になりますね、そんなに簡単に左翼から右翼になれるんですか", "右翼になった方が、戦争をしている以上便利なんだろうね", "すると便乗ですね", "まア、そんなところだ", "じゃ、左翼も左翼はなやかなりし時代には、便乗だったんですか" ], [ "いや、左翼は便乗じゃない。とにかく情熱はあったからね", "しかし、情熱なら右翼の阿呆共も負けずに持っていますよ。情熱というより狂熱ですね" ], [ "――左翼と右翼は、結局正反対ですが、二つの極端というものは、どこかで一致点があるのですね。だから、旧左翼の連中なんか右翼に転向して、たとえば翼賛会の仕事をしていると、昔やっていた組織を作るという運動が、そのまま翼賛会でやれるという点に、案外張り合いを感じてるんじゃないですか。いわば、思想の内容なんか問題じゃないんですね。自分の仕事の型さえ似てりゃ、それでいいのじゃないですか。型というより感覚ですね。つまり、思想よりも感覚……", "まア、そんな見方もあるでしょうね" ], [ "なるほど。じゃ、思想を持てない人間っていうのは、どうです", "あなたは、思想を持てないと言うんでしょう", "そうです" ], [ "…………", "文久三年に品川沖であんたという名前の鯨がとれたことがある。あんたという名前ですよ。あはは……" ], [ "――どこまで……?", "東京劇場まで……", "じゃ、あたしと同じだ。ご一緒に参りましょう", "失礼ですが、どなたですか", "名前は明かせない……", "えっ……?", "いや、名前は明かせないと言ってるんですよ", "なぜ明かせないんですか", "明かすと、あなたは土下座をしなくちゃならない", "えっ……?" ], [ "逃げやしませんよ", "そうでしょう。あたしがあなたに金を貸しているわけでもないから" ], [ "――しかし、貸せと言ったって、ありませんよ。金なんか", "…………", "金なんかありませんよ" ], [ "金のことなんかどうでもいい。とにかくその腕をはなしてくれませんか。急いでるんですから", "楽屋へ何をしに行くんです。そんなに急いで……", "女優に会いに行くんです" ], [ "なるほど、しかし、八時ですよ。忘れちゃ困りますよ", "何が……ですか", "八時、三三三号室!" ], [ "一体あんたはどなたですか", "あたしですか", "名前は明かせないとおっしゃいましたね", "明かすと、土下座しなくちゃならない……? 冗談ですよ、ありゃ。なアに、明かしてもよござんす" ], [ "そうです。あたしが語ってたんですよ", "そうですか、ちっとも知らなかったもんですから、つい……", "いやア、――ところで新内はお好きですか", "好きですね", "どうして……?", "新内って叫びですね。からだごと投げ出してしまうような芸術ですね。デカダンス音楽はもう新内に尽きますな" ], [ "いや、好ききらいの問題じゃないですな", "なるほど、デカダンスにしかもうなりようがないっていうわけでしょう。こんな世の中ではね", "世の中……?" ], [ "――いや、世の中なんて言葉はよしましょう。日本が戦争してようと、してまいと、そんなことはどうだっていいじゃありませんか", "われわれがはじめた戦争じゃない――っていうわけ……?" ], [ "あの三三三号室の女は、あたしの何だと思います", "まさか、あんたの奥さんじゃないでしょうね", "ところが、残念ながら、あたしの女房なんです" ], [ "下手な芝居見物みたいに、幕のあく前に下手な筋書を読んで置きたいんですか", "いや、なかなかどうして……。下手な筋書どころか、本物の芝居より、筋書の方が芝居になってるかも知れませんよ。すくなくとも、僕には興味がある", "なるほど、外国の芝居ではコキユが出て来るのが多いですな。コキユ……。知ってますか、そう、女房に姦通された哀れな男のことです。つまりあたしのことですね。けッ、けッ、けッ!", "一体、誰があなたをコキユにしたんですか" ], [ "ご存知でしょう……?", "ええ" ], [ "いや、ものを書く人間は、どんな目立たぬことにも一応驚くナイーヴな感受性を持っていますがね。しかし、どんな破天荒なことにも驚かない図太さも同時に持っているわけですよ", "そりゃ、どういう意味ですか" ], [ "――この諦めに達するまでには、あたしは随分苦しみましたよ。人並みにね。――あんたは、女が亭主のほかに男をこしらえても驚かないと言いましたね。しかし、あんたは奥さんに姦通されたことがありますか", "人に吹聴するほどは、ありません。しかし嫉妬の感情は判ります" ], [ "――ところが、突然あいつがあたしの女房と姦通したんです。あたしはその現場を見つけた時、まるで自分の眼を疑いましたよ。女房が姦通したという事実には、そんなに驚かなかったが、その相手が蜂谷だということは、げんにこの眼で見ながら、信じられなかった。人間というものは、あてにならないですね。いや、蜂谷もやっぱし人間だと思いましたね。あたしは二人を殺してしまおうと思った。が、思い直して、もっと残酷に二人をいじめてやろうと思って、考えついたのが、第一ホテルのロビイの新聞の暗号なんです", "なるほど" ], [ "普通なら、殺すか、姦通罪として訴えるか、離縁するか、それとも、もう二度としませんと、女房に改心させて、蜂谷とは絶交する――まア、このうちの一つを選んだでしょうが、あたしは、女房に改心させる代りに、ますます姦通させることによって、女房と蜂谷を苦しめる――という方法を採りましたよ。え、へ、へ……", "具体的に言うと……?", "まず、女房は新聞の暗号によって、毎日誰か一人を相手に姦通しなければならない。蜂谷はその暗号を人に教える義務がある。もっとも、誰も女房の待っている部屋へ行かない時は、蜂谷が行かねばならない", "なるほど、しかし、よく奥さんや蜂谷氏がそれを承諾しましたね", "犯した罪の報いですよ。けッ、けッ、けッ……" ], [ "予備知識はもう充分でしょう。さア、どうぞ女房がお待ちしておりますよ", "じゃ……" ], [ "僕が悪い男に見える……?", "どうして……? いいひとよ。あなたは……", "いいひとだって……?" ], [ "ベーゼしないことがいい子なの……?", "そうだ。つまり僕は女たらしだからね。やはり、しちゃ悪いよ", "女たらしに見えないわ", "じゃ、僕がベーゼしたらどうする……? 撲るかね", "こんな話よしましょう", "よそう" ], [ "何か本を貸してあげようか。『クレーヴの奥方』は読んだ……?", "ええ", "じゃ、スタンダールは?", "まだ……", "スタンダールを読まないのは、けしからん。『赤と黒』だけでも読むべきだね。読まないと一生の損になるという本は、そうざらにはないが『赤と黒』だけは、読む前と読んだ後とで、人生観がころりと変ってしまうね" ], [ "今、お持ちですの……?", "いや、ホテルにあります。あした持って来てあげようか" ], [ "でも、お忙しいんでしょう。あたしがホテルへ拝借に伺いますわ", "いつ……?" ], [ "いつって……。四五日うちにでも……", "だって、僕は明後日の朝、大阪へ帰っちゃうんです", "じゃ、明日お伺いしますわ", "何時頃……", "…………" ], [ "今日と同じ時間だったらいいでしょう……?", "正午……?", "そう。それより早いと僕はまだ寝ているし、それより遅いと、二時に出掛けなくちゃならないし……" ], [ "あたしは自分のしたいと思うことは、何でもしてみなくっちゃ、気が済まない性分なの。――汽車に乗ってると、無性にあなたに会いたくなったの。こんないやな男と結婚しなくちゃならないのかと、思って、許嫁の顔を見ていると、余計あなたに会いたくなったの。許嫁、すっかり旦那気取りなの。あなたのこと、嫉妬して、くどくどときくのよ。あたし、すっかり本当のこと話してやったのよ。怒ったわよ", "そりゃ怒るだろう" ], [ "でも、しまいには、過ぎ去ったことは仕方がない、僕は許します――と言ったわ。あたし、その言葉をきいて、むかッとしたの。許してなんかほしくないわ、だいいちまだ過ぎ去ってないわよ、これからあの方に会いに行きます――と、こう言って、静岡でひとりで降りてしまったの", "で、東京へ引き返して来たの……?" ], [ "――いけなかった……?", "いや、いけなかないさ" ], [ "どうして……?", "だって、明日の朝、あたしやっぱり帰るわ。だから……", "帰りたい……?", "帰りたくないわ。それに、帰れないわ。許嫁なんか怒ったって、構わないけど、伯父さんを怒らせてしまったんだもの。でも帰るより仕方がないわ", "僕と一緒に大阪へ行きたいとは思わないの……?", "そりゃ、思うわ。行きたいわ。一生、あなたと会っていたいわ。一緒に居りたいわ" ], [ "でも、あたし押し掛け女房になりたくないわ", "僕が来いと言わないから……?", "ええ" ], [ "言ったら来る……?", "だって、あなたは、言うような人じゃないわ" ], [ "もし、もし……", "須賀さんでいらっしゃいますか" ], [ "はあ", "只今、江口さんが御面会に来られましたが――", "江口……?" ], [ "今、何時ですか", "只今、零時三十分でございます", "ありがとう。すぐロビイへ行きますから" ], [ "はあ", "御面会の方は、喫茶室にいらっしゃいます", "ありがとう", "いいえ" ], [ "今日の新聞見た――?", "いえ、まだです" ], [ "しかし、あの芝居には人の心を打つものがない。真山青果の芝居は、とにかく人の心を打つからね。モラルがある", "そうです。しかし、僕はモラルのない芝居を書こうとしているんです", "なるほど、しかし、普遍的な人生や、偉大な思想は感じられないからね。君の芝居は……", "普遍的な人生や、大きな思想を感ずる芝居とはどんな芝居ですか", "外国のいい芝居はみんなそうだよ。例えば――" ], [ "一流の恋愛とはどんな恋愛ですか", "プラトニックに、お互いを向上させて行く恋愛だね。恋愛を人生の崇高な目的である人間完成にまで高めるために、精神的に結合させるのが、一流の恋愛だ", "まア、僕にはむつかしいですな。せいぜい二流の恋愛しか出来ない", "じゃ、君と恋愛する女は不幸だね。君は結局、その女を誘惑するだけなんだ。恋愛じゃない。遊戯だ" ], [ "――じゃ、また後で会おう。二流恋愛家に誘惑されるなよ", "まア" ], [ "『赤と黒』を取りに、部屋へ来る……?", "…………", "それとも、ここで待ってるなら、僕が取って来てもいいです", "行きますわ!" ], [ "読む前と読んだ後とで、人生がすっかり変っちゃう小説だと、昨日おっしゃった様ですけど……", "無論そうです。いや、人生観が変るだけじゃない。『赤と黒』を借りるという事があなたの人生をすっかり変えてしまうかも知れない" ], [ "僕が恐い……?", "ちっとも……", "二流恋愛家だよ。僕は……", "自分でそうおっしゃるんだから、恐くないわ。今迄男の方を、恐いと思った事なんか一度もないわ", "それが間違いだったという事、やがて気がつくかも知れない", "うふふ……" ], [ "――あたし今迄人を好きになった事がないのよ。お友達なんか一人も出来ない", "つまらないだろう?", "何もかも……。軍人がはびこるし、戦争なんか始ったおかげで、何もしたい事出来ないわ。こんな事言うと、非国民みたいだけど、あたし、みんなの様に夢中になれないの", "したいことって、どんな事……?", "考えてみたらないのね。芝居もあんまり好きじゃないわ。才能がないからだめ。薦められて女優になったけれど、どうせ大女優になれっこないんですもの", "でも、一生懸命じゃないか、舞台では……" ], [ "学芸会へ出ているようなものよ。学芸会はみんな鼻の上に汗をためてるわ。それだけよ。女優なんかよそうかしら。人生ってつまらないのね", "やがて、変るさ" ], [ "そうかしら", "心細い声を出すなよ。僕が変えてやろうか", "おや、おや", "不良少女みたいな声を出したな", "あたし不良よ", "誘惑された事ある……?", "ないわ。絶対よ。あたし、人よりか手や足が小さいのよ。子供みたいな体なの。誰も誘惑しないわ", "僕が誘惑したらどうする……?", "誘惑……? どうするの……?", "例えば、ベーゼする", "出来るの……?", "出来る! したらどうする!", "泣き出すわ!" ], [ "――どうして、ふるえてるの……", "判らないわ。あたし、こんなことはじめてなの", "ふるえるのが……?" ], [ "どうして、そんなことおっしゃるの……?", "…………" ], [ "判らないわ。何も判らないわ", "好きかきらいか、それも判らない……?", "好きよ。好きでなかったら、あんなこと……。あたし、今までベーゼなんか……" ], [ "本当にはじめて……?", "あたし、露悪家ぶったり、不良少女みたいに男の子に取り巻かれて、銀座をのし歩いたりしたこともあるわ。でも、こんなことはじめてよ" ], [ "恋愛もしたことないの……?", "ええ", "どうして……?", "そうねえ" ], [ "――好きな人がなかったのね。いい人だと思ったことはそりゃあったわ。好感も持ったわ。でも、それ以上にはピンと感じなかったわ", "好きになったのは……" ], [ "ふーん。すると、あの時好きになったの……?", "ええ", "今もやっぱし好き……?", "ええ", "じゃ……" ], [ "やア、今日の新聞見ましたか", "いいえ、見ません!" ], [ "どうして……?", "僕の劇の悪口をいっている劇評がのってるらしいんです。新聞なんか見たくない", "なるほど。しかし、暗号はべつでしょう", "いいえ、見たくありませんねえ", "なるほど……。見たくない。あなたは実に賢明だ", "……? ……", "だいいち、見たいと思っても、もう暗号は見つからない", "出ていないんですか。よしたんですか", "やむを得ざる事情があってね。実は女が逃げたんですよ。恋人をこしらえてね", "ほう……? 相手は……?", "気になるんですか", "まさか。儀礼的にきいてみただけです。相手が東条であっても、僕は驚かない。東条だって、女には手を出すでしょう", "ところが、残念ながら、総理大臣じゃない。学生ですよ。あの女の従弟でね。若い男なんてやつは、すぐ女に同情したがるんでね。置手紙によれば、プラトニックラヴを双方しているそうですよ。信じられますか", "あなたはどう思うんです", "わざわざプラトニックだと断ってますからね", "かえって、怪しい……?", "しかし、まア、女というものや学生というものは、理想家ですね。九分九厘まで行って、ギリギリの一点を残して、あとは大いに享楽して、それでプラトニックだと称している手合いが多いんだ。一種の性的錯倒ですな。しかし、どっちでもいいや。プラトンはインキの名です。とにかく逃げた。それだけです。じたばたしたってはじまらない。失敬!" ], [ "あたし、もう女優をよすわ", "どうして……?" ], [ "あなたのことしか考えられないの。芝居に打ち込めないの。あたしのしたいことって、何にもないって、昼間言ったけれど、本当ね。何にもしたくないわ。ただ、あなたのことだけ考えて、ぼんやりして暮していたいわ", "考えるだけでいいの……?", "結婚したいわ", "誰と……?", "あなたは冷静ね", "そうかな" ], [ "ねえ。あたしを大阪へ連れて行って下さらない", "いやだッ!", "どうして……?" ], [ "来れば、不幸になる", "不幸になってもいい。どんなにひどい目に会ったって、かまわないわ。あなたと一緒に行きたいの。傍にいたいの。それだけでいいわ。――ねえ、いけない……?", "はっきりいうがね。僕は、何にも誓えない人間なんだ", "あたしがきらい……?", "きらいだとは、言っていない。僕は、あんまり、人をきらいになれない人間だ。腹は立てるが、きらいにはなれない。憎めない。だから、女を誘惑しても、捨てるということが出来ない。しかし、一生捨てないということは、誓えないんだ" ], [ "僕は結局女たらしだからね。ついて来ちゃいけない", "それなら、なぜ、あたしを誘惑なすったの", "だから、女たらしだといっているじゃないか", "本当の女たらしは、そんな風に自分は女たらしだとおっしゃらないわ", "つまり、僕がいい子になろうとしている証拠だ" ], [ "何を考えてらっしゃるの……?", "女って一皮むけば、みんな古いものだ、――ということを、ちらと考えたんだ", "どういう意味……?" ] ]
底本:「定本織田作之助全集 第六巻」文泉堂出版    1976(昭和51)年4月25日発行 初出:「婦人画報」    1946(昭和21)年5月号~12月号 入力:林清俊 校正:小林繁雄 2013年9月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "よつしや。デカダンでやる。", "煙草飲め!" ], [ "母さん、なんぜ妾なんかになつたんです。", "…………" ], [ "あんたには僕の心を調べる権利はない筈や。人間が人間を実験するのは侮辱や。", "これ、楢雄、何を言ふのです。", "お母さんもお母さんです。あんたは自分の子供が蛙みたいに実験されてゐるのを見るのンが、そんなに面白いのですか。だいいち、こんな所イ連れて来るのが間違ひです。" ], [ "ぢや、お前は木山さんのやうになりたいんですか。", "木山さんには私淑してゐます。時々会うて世渡りの秘訣を拝聴してゐますよ。", "お母さんのことはどう成つても構はぬのですか。", "いや、もし何でしたら、お母さんも一緒に北井の家へ来て貰つても構ひませんよ。" ], [ "しかし、千円だけはお前の結婚の費用に預つて置きますよ。", "そんな金は兄さんにあげて下さい。" ], [ "ぢや、お母さんはお前に月々十円宛、お母さんの金を上げます。", "要りません。食へなかつたら家庭教師します。" ], [ "僕にはもういただく金はない筈です。", "いいえ、お前の金はまだ千円だけ預つてあります。", "あれは兄さんにあげたお金です。", "ぢや、これはお母さんがお前にあげます。" ], [ "とにかく一度会はう。", "その必要はない。時間の無駄だ。", "ぢや、一度将棋をやらう。俺はお前に二回貸しがあるぞ!" ] ]
底本:「現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集」筑摩書房    1967(昭和42)年3月初版第1刷発行 ※「日本文学全集39」新潮社、1967(昭和42)年9月の確認結果にもとづいて、疑問の箇所をあらため、その旨を注記しました。 入力:山根鋭二 校正:Tomoko.I 1999年10月15日公開 2006年5月20日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000701", "作品名": "六白金星", "作品名読み": "ろっぱくきんせい", "ソート用読み": "ろつはくきんせい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-10-15T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card701.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代文学大系 44 武田麟太郎・島木健作・織田作之助集 ", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "山根鋭二", "校正者": "Tomoko.I", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/701_ruby_19623.zip", "テキストファイル最終更新日": "2006-05-20T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/701_19624.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2006-05-20T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "――しかし、他あさん、よう帰って来たな。いったいいつ帰って来てん? 言や言うもんの、お前、もう足掛け六年やで", "いま帰ったとこや" ], [ "――今日はお午の夜店やさかい、そこイ行ったはんネやろ", "さよか。――" ], [ "お鶴はんが、何の夜店見物に行くひとかいな。お鶴はんはな、お初つぁんと一緒に夜店へ七味唐辛子を売りに行ったはるねんぜ", "えっ? ほな、なにか。夜店出ししとんのんか" ], [ "さいな。おまはんがヘリピンとかルソンとか行ったはええとして、ちっとも金は送っては来んし……", "送ったぜ", "はじめの二三年やろ? あとはお前鐚一文送って来ん、あとに残った二人がどないして食べて行けるねん? 夜店出しなとせんと、餓死してしまうやないか。ほんにお前は薄情な亭主やぜ。お鶴はんは築港に二階つきの電車が走っても、見に行きもせんと、昼は爪楊子の内職をして、夜はお前、夜店へ出て、うちのくそ親爺め言うて、ぽろぽろ涙こぼしこぼし、七味混ぜたはんねんぜ" ], [ "阿呆んだら!", "御機嫌さん。達者か" ], [ "家の中でごろごろして借金がかえせる思てるのか。いったい、これからどないする気や。もちっと、はんなりしなはれ", "さあ、どないしたらええやろ。もう、こうなったら、冷やし飴でも売りに歩かな、仕様おまへんな。ほんまに、えらい災難や" ], [ "――それとも、よっぽど冷やし飴が売りたけりゃ、マニラへ行きなはれ", "なんぜまた、マニラへ……?" ], [ "マニラは年中夏やさかい、モンゴ屋商売して、金時(氷)や冷やし飴売ってても、結構商売になる。大阪にいてては、お前、寒なったら、冷やし飴が売れるか", "冬は甘酒売ったら、ええ" ], [ "情けないこと言う男やな。新太郎、よう聴きや、人間はお前、若い時はどこイなと、遠いとこイ出なあかんネやぜ。――お初はわいが預っててやるさかい、マニラへ行って、一旗あげて来い", "…………" ], [ "行くか、行けへんか。どっちやねん? 返事せんか。行かんと言うネやったら、わいにも考えがある。お初を……", "お父つぁん。何言うてんねん。死んだお母はんの……" ], [ "お前は黙ってエ", "黙ってられるかいな" ], [ "さあ。どないしょ? ここが思案の四ツ橋……", "子供だてらに生意気な言い方しイな。――どや、しかしもう、犬に吠えられたかて、怖いことあれへんか", "犬か、犬はもう馴れたわ", "そか、そらええ。次郎ぼん、なんぼでも、せえだい働きや。人間はお前、苦労して、身体を責めて働かな、骨がぶらぶらしてしまうぜ。おっさんら見てみイ。六年まえ、ベンゲットで……" ], [ "他あやん、もっとほかの話してんか。ベンゲットの話ばっかしや。〆さんの落語の方がよっぽどおもろいぜ", "そら、下手は下手なりに、向は商売人や。――どや、しんどいやろ。豆糞ほど(少しの意)俥に乗せたろか", "なんじゃらと、巧いこと言いよって……。そないべんちゃら(お世辞)せんでも、他あやん喧嘩したこと黙ってたるわいな" ], [ "やったかて、読めるのんかいな。おっさんら新聞見ても、新聞やのうて珍ぷん漢ぷんやろ?", "殺生な。そんな毒性な物の言い方する奴あるか。――ほんまはな、夕刊でなこの鼻の穴の紙を……" ], [ "〆さんは寄席だっせ", "さよか。――ところで、おばはん、けったいな事訊くけど、おまはん字イはどないだ?", "良え薬でもくれるのんか。なんし、わての痔イは物言うても痛む奴ちゃさかい" ], [ "敬さん。また無心や", "なに貸してほしいねん?", "さいな。今日は剃刀とちがう。あんたの学を貸してほしいねん", "安い御用やが……" ], [ "――お前読んでみたりイ", "へえ" ], [ "なんやて? さっきのとこもういっぺん読んで見てんか。一昨日の……?", "一昨日の午前二時、到頭看護及ばず逝去されました", "セイキョてなんやねん", "死ぬこっちゃ" ], [ "おやっさん、どないしてん? 泣いてるのんと違うか", "泣いてまんねん", "えっ?" ], [ "――こらまたえらい罪な俥に乗ってしもたもんや。これから落語ききに行こちゅうのに、無茶苦茶やがな。一体どないした言うねん?", "へえ。娘の婿めが、あんた、マニラでころっと逝きよりましてな", "マニラ……? マニラてねっから聴いたことのない土地やが、何県やねん", "阿呆なこと言いなはんな" ], [ "さよか、しかし、なんとまた遠いとこイ行ったもんやなあ", "マラソンの選手でしたが……", "ほんまかいな、しかし、可哀相に……。そいで、なにかいな。その娘はんちゅうのは子たちが……?" ], [ "まあ、おまっしゃろ", "まあ、おまっしゃろや、あれへんぜ。男の子オか", "それがあんた、未だ生れてみんことにゃ……" ], [ "めずらしいこっちゃな。あんな下手糞な落語ようきく気になったな。そんなら、俥誰ぞに見てもろてるさかい、はよ、聴いてきなはれ", "いや、もう、やめとくわ。それより、ちょっとお前に話があるねん" ], [ "ほな、なんぞ泣かんならんようなことがあるのんか", "…………" ], [ "――藪から棒にこんなこと言うのは、なんやけったいやけど、その子どこぞイ遣るあてがもうあるのんか", "いえ、そんなもんおまへん", "そか、そんなら話がしやすい。早速やが、他あやん、その子うちへ呉れへんか", "ほんまだっかいな", "嘘言うもんか。おまはんも知ってる通り、うちは子供が一人も出けへんし、それにまた、わしもそうやが、うちの家内と来たら、よその子供が抱きとうて、うちに風呂があるのに、わざわざ風呂屋へ行きよるくらい子供が好きやし、まえまえから、養子を貰う肚をきめてたんや。ほかにも心当りないわけやないけど、それよりもやな、気心のよう判ったおまはんの孫を貰たらと、こない思てな。それになんや、その子は両親ともないさかい、かえって貰ても罪が無うて良えしな", "……………" ], [ "旦さん、えらい変骨言うようでっけど、わたいは孫を酒にかえる気イはおまへん。眼に入れても痛いことのない孫でっけど、酒に代えて口の中へ入れたら舌が火傷してしまいま", "そない言うてしもたら、話でけへんがな。――そらまあ、おまはんが私は要らん言うのやったらそいでええとせえ。しかし、他あやん、おまはんはそいでええとしても、ひとつその子のことを考えてみたりイな。河童路地で育つ方が倖せか、それとも……" ], [ "あんたのそう言うのんはそら無理もないけど、ほんまに男手ひとつで育てられまっか。あんた、お乳が出るのんか", "出まへん、なんぼわたいの胸を吸うても、そら無理だす。胃袋で子供うめ言うのと同じだす", "それ見なはれ", "しかし、御寮はん、ミルクいうもんが……" ], [ "――他あやん、うちはその子貰たらお乳母をつけよ思てまんねんぜ。それに他あやん、あんたその子背負ろうて俥ひく気イだっか", "ほな、こいで失礼さしてもらいま。えらいおやかまっさんでした" ], [ "鮭という魚や", "魚て何なら?", "あッ、それでは……" ], [ "青木道子", "ハイ", "伊那部寅吉", "ハイ", "宇田川マツ", "ハイ", "江知トラ", "ハイ" ], [ "笹原雪雄", "ハイ" ], [ "佐渡島君枝", "…………" ], [ "さあ、お前読んだりイ", "あのう、えらい鈍なことでっけど、わたいは親爺の遺言で、チラシを断ってまんのんで……", "えらいまた、けったいなもん断ってんねんなあ。仕様ない。次へ廻したりイ", "へえ", "さあお前の順番や、チラシぐらい読めんことないやろ。読んだりイ", "大体このチラシがわいの手にはいるという事は、去年の秋から思っていた。死んだ婆さんが去年の秋のわずらいに、いよいよという際になって、わいを枕元に呼び寄せて、――伜お前は来年は厄年やぞ。この大厄を逃れようと思たらよう精進するんやぞと意見してくれたのを守らなかったばっかりに、いま計らずもこの災難!", "おい、あいつ泣いて断りしとる。お前代ったりイ", "よっしゃ。――読んだら良えのんやろ?", "そや、どない書いたアるか、読んだら良えのや", "書きよったなあ。うーむ。なるほど、よう書いたアる", "書いたアるのは、よう判ってるわいな。どない書いたアるちゅうて、訊いてんねんぜ", "どない書いたアるちゅうようなことは、もう手おくれや。そういうことを言うてる場席でなし、大体このチラシというもんは……", "おい。あいつも怪しいぜ、もうえ、もうえ、次へ廻したりイ" ], [ "難儀な子やなあ。笑いんかいな", "わてのお父ちゃんやお母ちゃんどこに居たはんねん?", "こらもう、わいも人情噺の方へ廻さして貰うわ" ], [ "どないしてん? 家で遊んどりんかいな", "…………", "誰も遊んでくれへんのんか" ], [ "君チャンノオカアチャン", "君チャンノオトウチャン" ], [ "ほんまに情けない奴ちゃな。どない言うてええやろ。げんくその悪い。自分が優等にもならんと、よその子の褒美うれしそうに預って来る阿呆が、どこの世界にある? 阿呆んだら! ちっとは恥かしいいうことを知らんかい。来年からきっと優等になるんやぜ。えッ? 優等になるなあ。なれへんか。どっちや。返辞せんか", "わて優等みたいなもんようならん。それよか空気草履買うてんか。よそのお子皆空気草履はいたアる", "阿呆んだら。何ちゅう情けない子や、お前は。こっちイ来い。灸すえたるさかい" ], [ "他あやん、お前なに泣かしてるねん?", "灸すえたろと思たら、お前、泣きだしよったんや", "当り前や。どの世界にお前、灸すえられて、泣かん子があるかい。大人のわいでも涙出るがな、だいいちまた、すえるにことかいて灸すえる奴があるかい", "ほな、なにをすえたら良えねん?", "さいな" ], [ "――阿呆! 嬲りな。だいたいおまはんは、人の背中ちゅうもんを粗末にするくせがあっていかん。男のおまはんなら、背中になにがついてても良えとせえ。しかし、女の子の背中に灸の跡つけてみイ、年頃になって、どない恨まれるか判れへんぜ。難儀な男やなあ", "そない言うたかて、お前、まあ、聴いてくれ、笹原の小伜も古着屋の子も、みな優等になってんのに、この子はなんにも褒美もろて来よれへんねん。こんな不甲斐性者あるやろか", "そない皆褒美もろたら、だいいち学校の会計くるうがな。だいたいお祖父やんのお前が読み書きのひとつもよう出来んといて、孫が勉強あかんいうて、怒る奴があるかい。なあ、君ちゃん他あやんちょっとも字イ教てくれへんやろ?" ], [ "――お前はどこがいちばん好きや。〆さんとこか、お祖父やんとこか", "わて狭山のお婆んのとこが好きや", "あッ" ], [ "――そいでも、お祖父やんとこかて、好きやろ?", "灸すえへんか", "すえへん、すえへん", "ほんなら好きや", "そか、好きか" ], [ "なんや、ここに居てたんかいな。ああ、びっくりした。ひとの悪い子やぜ、ほんまに", "おまはんは鼾かくさかい、いやや言うとるぜ。お祖父やんとこの方がええなあ、君枝", "そんな殺生な――" ], [ "他あやん、あんたこの間新世界で三味線をもった五十くらいの婆さんを乗せなかったかね", "なんや、刑事みたいなものの言い様するねんなあ、気色のわるい。玉堂はん、眼鏡かけてる思て威張りなや", "ははは……" ], [ "――なにが僕が刑事なもんか。僕は今日は仲人ですよ", "仲人……? そら、お門ちがいや、うちの孫はまだ十やさかいな、おまはん仲人したかったら、散髪屋のおばはんとこイ行きなはれ", "聴こえるがな、聴こえたら、また朝日軒のおばはん頭痛を起しまっせ" ], [ "――実は他あやん、その婆さんというのが、僕のいる館の伴奏三味線を弾いている女でね", "それがどないしてん? なんぞ、俥のなかに忘れもんでもしたんか? そんなもん見つかれへんかったぜ", "まあ、聴きイな" ], [ "年甲斐もないちゅうのは、こっちのことや。阿呆なことを言いだして、年寄りを嬲りなはんな。わいはお前、もう五十四やぜ", "ところが、先方だって五十一、そう恥かしがることはないと思うがな" ], [ "うちは手伝いさん頼んだ覚えおまへんぜ", "ああ、わてかて頼まれた覚えおまへんけど、なにも銭もらお言うネやなし、そないぽんぽん言いなはんな" ], [ "――いま、おばちゃん、御飯たいたげるさかいな、待っててや", "おばちゃん、今日からうちへ来やはるの?" ], [ "行った", "千日前のどこイ行ってん?", "楽天地いうとこイ行った", "おもろかったか", "うん、おもろかったぜ。おばちゃん泣いたはった", "なんぜや", "芝居がかわいそうや言うて、泣いたはった。――ほんまに、おもろかったぜ" ], [ "なんぜいままで黙ってたんや?", "そない言うたかテ……", "おばちゃんが黙ってエ言うたんやろ?" ], [ "仕様のない婆やな", "痛い、そないこすったら痛い!" ], [ "――芸は身を助けるいうこと、あんた知らんのんか。斯やって、ちゃんと三味を教とけば、この子が大きなって、いざと言うときに……", "……芸者かヤトナになれる言うのか。阿呆! あんぽんたん" ], [ "――そんなへなちょこな考えでいさらしたんか。ええか、この子はな、痩せても枯れても、ベンゲットの他あやんの孫やぞ。そんなことせいでも、立派にやって行けるように、わいが育ててやる。もう、お前みたいな情けない奴に、この子のことは任せて置けん。出て行ってくれ。出て行け! 暗うなってからやと夜逃げと間違えられるぜ。明るいうちに荷物もって出て行ってもらおか", "ああ、出て行くとも" ], [ "他あやん、さっきから黙ってきいてたら、お前えらい良え気なことを言うてたな", "藪から棒に何言うてんねん? 羅宇しかえ屋のおばはんみたいな声だして……", "お前うちのことあてこすってたやろが……", "どない言うねん? いったい……訳わかれへんがな。――まあ、あがりイな", "ここで良え!" ], [ "さあ、なんぞ言うたかな", "芸者がどないか、こないか言うたやろ。他あやん、お前わいになんぞ恨みあんのんか。えッ? お前に腐った天婦羅売ったか", "ああ、そのことかいな。そう言うた" ], [ "――それがどないしてん?", "芸者がなにが悪いねん?――そら、他あやんとわいとは派アがちがう。しかし、なにもわいが娘を芸者にしたからというて、あない当てこすらいでもええやないか。だいいち、お前あの時どない言うた……?" ], [ "……わいも今まで沢山の芸子衆を乗せたが、あんな綺麗な子を乗せたことがない、種はん、ほんまに綺麗やったぜエ――と、言うたやないか", "そやったな" ], [ "きついことテ、そら種はん邪推や。わいはなにもそんな気イで言うたんとちがう。当てこすったんとちがう。悪う思いなや。お前が因業な親爺や思たら、わいかテあの時ただの俥ひくもんかいな。だいいち、お前はなにもあの娘を無理に芸子にだしたんとちがうやないか", "そら、そう言えば、そやけど……", "そやろ? お前がいやがる娘を無理にそうしたんやったら、そらわいの言うた言葉に気がさわらんならんやろ。しかし、お前はかえってあの娘が芸子になる言うたのを反対打ったぐらいやないか。お前かテもと言うたら、わいと派アが一緒や。本当は大事な娘を水商売に入れるのんはいややねんやろ?", "そや。ええこと言うてくれた。他あやん、ほんまにそやねん。わいはなにも娘を売って左団扇でくらす気はないねん。げんに、わいはあの子が出る時、あの子に借金負わすまい思て、随分そら工面したくらいやぜ、そらお前も知っててくれるやろ", "知ってるとも。――まあ、掛けえな。そない立ってんと" ], [ "い、い、い、いま、この向いの、か、か、剃刀屋に働いてまんねん", "さよか、そら宜しおまんな。蝶子はんも喜びはりまっしゃろ、あんたが働く気になって……。どないだ? 餅ひとつ", "い、い、いや、もう、毎日向いでな、な、ながめてたら、食う気起りまへんさかい。た、た、た、種はんによろしゅう言うとくなはれ", "よろしおま。ちとまたどうぞ路地へも遊びに来とくなはれ。蝶子はんによろしゅう" ], [ "お父ちゃん、いたはる、しやけど、髭生やしたはれへんな", "当り前や。二十六やそこらで髭生やすのは東西屋だけや", "あ、お父ちゃん、お父ちゃん" ], [ "居てる、居てる、これや、ここをよう見てみイ、ほら、この幕のうしろからちょびっと顔だしてるやろ? わい、君ちゃんとこのお母んよう知ってるぜ。これや、これや、なあ、〆さん", "そや、そや" ], [ "――他あやん、まあ考えてみイ。この子まだ十やぜ。こんな歳でお前、下足番が出来るかいな。わいが頼むさかい、堪忍したりイ", "〆さん、言うとくけどな、わいはこの子が憎うて、下足番させるのんと違うぜ。この子が可愛いさかい、させるねんぜ。君枝、お前もようきいときや。人間はお前、らくしよ思たらあかんねんぜ。子供の時からせえだい働いてこそ、大きなったら、それが皆自分のためになるねや。孔子さんかテそない言うたはる", "ほんまかいな、他あやん、孔子さんがそんなこと言うたはるて、こら初耳や。おまはんえらい学者やねんな", "言うたはれいでか。楽は苦の種、苦は楽の種いうて、言うたはる", "阿呆かいな" ], [ "――そら、お前、大石内蔵之助の言葉や", "まあどっちでもええ、とにかく、人間はらくしたらあかん。らくさせる気イやったら、わいはとっくにこの子を笹原へ遣ったアる。しかし、〆さん、笹原の小倅みてみイ、やっぱり金持の家でえいように育った子オはあかんな。十やそこらで、お前、日に二十銭も小遣い使いよる言うやないか、こないだ千日前へひとりで活動見に行って、冷やし飴五銭のみよって、種さんとこの天婦羅十三も食べよって、到頭下痢になって、注射うつやら、竹の皮の黒焼きのますやら、えらい大騒動やったが、あんな子になってみイ、どないもこないも仕様ない。親も親や、ようそんだけ金持たしよるな" ], [ "おいでやす", "毎度おおけに" ], [ "十姉妹や", "十姉妹や" ], [ "――君枝お前は感心な奴ちゃな。文句もいわんと毎日よう動いてくれる。それやのに、わいはなんちゅうど阿呆やろ。ほんまに子供のお前に恥かしいわ", "お祖父やん、どないかしたんか。草履買うて釣もらうのん忘れたんか", "それどころの騒ぎやあるかい" ], [ "どや似合うか", "よう似合てるわ" ], [ "他あやん、おまはんその方がよう似合てるぜ。声もわるないな", "そやろか" ], [ "このお仕事の前は、なにしたはりましたんでっか。――ずっとお家に……?", "近所の風呂屋で下足番してました" ], [ "お祖父さんと二人です", "まあ、そうでっか。そら寂しおまんな。ほいでお祖父さんはいま何したはるんです?", "俥ひきしてます" ], [ "そうでっか? それはそれは……。御両親は早くなくなられはったんでっか?", "はあ", "ずっと以前にね? そうでっか。それはそれは……。そいで、お父さんは……?" ], [ "息子が居たやろ?", "……さあ?", "さあとはえらいまた頼りない返辞やな" ], [ "昨日あんたの留守中に、あそこの御寮人が事務所へ来やはったんよ。うち運よく帰ってたさかい傍できいてたらね……", "……御寮人の言うのには、――藪から棒にこんな話をするのは何だけれど、実はお宅に勤めていらっしゃる方で、色の白い、小柄な、愛嬌のある、……ああ、佐渡島君枝さんとおっしゃるのですか、……ところでその君枝さんのことですが、ざっくばらんに申せば、うちの倅がお恥かしいことに君枝さんに、……なんといってよいやら、……とにかく、まあ見染めたというのでしょうか……", "……しとやかで、如何にも娘さんらしゅうて、そのくせ、働いてる動作がきびきびして、とても気持がええ――贅らなあかへんし、――そこを息子さんが見染めたと言やはるのんよ……" ], [ "――どんな息子さんだったの?", "さあ……?" ], [ "ほんまに奢ってもらうし。――というのはな、今日あんたがあの質屋へ行ってちょっとしてから、主任さんとこイ御寮人さんから電話が掛って来たそうやねん", "ふーん", "頼りない返辞やな。聴いてんのんか、あんた。よう聴きぜや。その電話いうのがね――今日はわざわざ寄越していただいて、ありがとう、いずれお礼かたがた挨拶に伺うけど、ほんまに思った以上の良い娘さんで、すっかり感心したちゅうて、掛って来たんやし", "嘘ばっかし", "そない照れんかてええやないの。ああ、あんたはええな。質屋いうたら、あんた、お金が無かったら、でけん商売やろ? もうじきあんたはお金持ちの奥さんや。ええなあ。うち、入れに行ったら、沢山貸してや。いまから頼んどくし" ], [ "なんぜやのん?", "うち、お嫁入りみたいなもんせえへん" ], [ "今日は五時までに帰って来てんか?", "はあ……?", "大西さんが親子でいっぺんあんたと御飯をたべたい言うのでな。わしも一緒に行くさかいな", "でも、そんなこと……。お祖父ちゃんが……", "お祖父さんにはあとでまた話しするから" ], [ "阿呆らしい、ひとを年寄り扱いにしくさって……。去年着られたもんが、今年着られんことがあるかい。暑い言うたかて、大阪の夏はお前マニラの冬や", "そんなこと言うたかて、歳は歳や。羅宇しかえ屋のおっさんかて、こないだ流してる最中にひっくりかえりはったやないか。お祖父やんにもしものことあったら、どないすんのん?", "げんのわるいこと言いな。あんな棺桶に半分足突っ込んだおっさんと同じようにせんといて……。生国魂はんのお渡御の中にはいるもんが、斃れたりするかいな、ちゃんと生国魂はんがついてくれたはる――ああ、今年もベンゲットの他あやんが来とるなあ言うて、守ってくれはるわいな" ], [ "――〆さんに連れられて、この写真いっしょに見たのは、あれはもう十年も前でんなあ。――お君ちゃんはいつもこれ見に来るの?", "ええ。もう十日にあげず……" ], [ "そんでも、なんや厚かましゅうて……", "そんなら僕がそう言って、貰ってあげましょうか。ちょっと待って下さい。どこイも行かんと……。行ってしもたら、駄目ですよ" ], [ "いまだに俥ひいてますねん。今日は生国魂さんのお渡御や言うて……", "……鎧着て出たはるんですか" ], [ "しかし、現像の方かてころっと忘れてしもたという訳じゃないですよ。いまだに仲間の撮したのを時々現像してやってるけど――そうそう、お君ちゃん、あんたの今の写真、なんやったら僕が味善う引伸したげよか、それ大分剥げてるから……", "おおけに、でも、そんなことして貰たらお気の毒ですわ", "お気の毒なんて、水臭い。同じ河童路地に住んでた仲やないですか" ], [ "はあ、おおけに", "どこが良いかな", "……?……", "中之島公園が良いだろう。中之島公園で渡してあげます。来られますか" ], [ "はあ、五時に交替ですねん", "そんなら、五時半頃来られまっしゃろ?" ], [ "そら、行かれんことあれしめへんけど……", "そんなら、待ってます" ], [ "蝶子はんて、あの種さんとこの?", "そうだす", "維康さんどないしたはりまんねん? さっき千日前の剃刀屋覗いたら、居たはれへんかったけど……" ], [ "まいどおおけに", "どうぞごひいきに" ], [ "それから、なんでも三年ほど蝶子はんが食うやのまずの苦労して貯めはった金と、維康さんが妹さんから無心して来やはった金で、また商売はじめはったんです", "どんな商売……?", "関東煮屋……" ], [ "あんたはそれで良うても、わてがあんたのお父さんに笑われま。二人で、苦労してこれだけの人間になりました言うて、お父さんの前へ早よ出られるようにしよ思て、一所懸命になってるわての気持は、あんたには判れしめへんのんか。いつになったら、真面目な人間になってくれまんねん", "も、も、も、もうわかった。お、お、おばはん、わかった" ], [ "しかし、維康さんにはお子さんがあるやろ? その子ひきとったはんの?", "さあ、それは……" ], [ "――活動でも見る", "今日は紋日で満員でしょう?" ], [ "そや、良いものがある。あんたの喜ぶもん見せたげよ", "どんなもん? うちの喜ぶもんて……", "黙って随いといぜ。ついこの近所や。僕昨日見て、ああ、これをお君ちゃんに見せたげたら喜ぶやろと、ほんまに思ったんや", "そうオ? いったい、なんやの?" ], [ "――朝日軒の人みな達者ですか。義枝さん死んだのは知ってるけど……", "ええ、皆達者です", "やっぱり皆まだ嫁いてないんですか", "難儀な家やて、お祖父ちゃんも言うてはります" ], [ "――〆さん、おまはん一ぺんぐらい、寄席の切符くれても良えぜ。わいもおまはんと長いこと附合うてるけど、今まで一ぺんだって切符くれたことがあるか? ほんまにけちんぼやぜ", "そない毒性な言い方しイな。いまに遣るわいな", "遣る、遣るて、おまはんはなんぼ口が商売か知らんけど、日の丸湯の鑵といっしょで湯(言う)ばっかしや。――なあ、お婆ん、そやろ?", "そうだすとも。大体〆さんは宣伝たら言うもんが下手くそや。みんなに切符くばって、寄席へ来てもろて、あんたが出る時、ようよう〆団治いうて、パチパチ手エ敲いて貰うようにせなあかん。そういう心掛けやさかい、あんたはいつまでたっても前座してんならんネやぜ、それに、なんだっせ、いつまでも『無筆の片棒』一点張りではあきまへんぜ。今どき無筆やいうようなこと言うてたら、一生うだつがあがれへんぜ。――なあ、君ちゃん、そやろ?" ], [ "なに。おばちゃん。おばちゃん今なんぞ言うたやろ?", "聴えへんかったんか。難儀な娘やな。――〆さんがな、いつまでも……" ], [ "――いつまで、あんた足洗てなはんネ、水は只やあらへんぜ。冷えこんだらどないすんねん?", "そない言うたかて、良え気持やもん" ], [ "〆さん、あんたアンドロメダ星座いうのん知ったはる?", "なんや? アンロロ……? 舌噛ましイな――根っから聴いたことおまへんな。そんな洋食できたんか?", "阿呆やな。洋食とちがう、星の名や" ], [ "――ほな、南十字星は……?", "学がないおもて、そない虐めなや。しかし、おまはんはえらいまた学者になったもんやなあ", "そら、もう……" ], [ "阿呆! いま何時や思てる。もう直きラジオかて済む時間やぜ、若い女だてらちゃらちゃら夜遊びしくさって。わいはお前をそんな不仕鱈な娘に育ててない筈や。朝日軒の娘はんら見てみイ。皆真面目なもんや。女いうもんは少々縁遠ても、あない真面目にならなあかん。今までどこイ行てた?", "中之島へ行ててん", "やっぱり、そやな" ], [ "――それやったら、声掛けてくれはったら、良かったのに。次郎さんかて喜びはったのに……", "次郎さんてどこの馬の骨や?", "蝙蝠傘の骨を修繕したはった人の息子さんや" ], [ "次郎ぼん――かいな", "そや", "ほんまに次郎ぼんか" ], [ "こらまた、えらい大きに伸びたもんやなあ。ほんまに、これ次郎ぼんが引伸したら言うもんしよったんか。ふうん。ほな、次郎ぼん、もう一人前の写真屋になっとるんやなあ。――銭渡したか", "そんなもん受け取りはるかいな", "なんぜや? なんぜ受け取れへんねん? 商売やないか。うちだけただにして貰たら、済まんやないか。きちんと渡しときんかいな。どうせ、口銭の薄い商売やさかい……", "何言うてねん? なにも写真屋が商売とちがう。写真は道楽にやったはるだけや" ], [ "――ほんなら、何商売して食べとんねん、あいつは……?", "潜水夫したはんねん" ], [ "――それにしても、君枝、若い男と女がべたべたボートに一緒に乗って良えちゅう訳はないぜ。だいいち、ボートがひっくりかえったらどないすんねん?", "それは大丈夫や。次郎さんは潜水夫さかい、ひっくり返ったかて……。潜水夫の眼エから見たら、中之島の川みたいなもん、路地の溝みたいなもんや言うてはった。大浜の海水浴は池みたいなもんやて……", "いちいち年寄りに逆らうもんやあれへん。次郎ぼんであろうが、太郎ぼんであろうが、若い娘が男とちゃらちゃら会うたりするもんと違う。だいいち、次郎ぼんの仕事に差しつかえる。ええか。こんどめから会うたらあきまへんぜ" ], [ "――うちと夫婦になりたいと言やはんねん", "…………" ], [ "――他あやん、いつまで俥ひいたはる気やろな。なんぼえらそうなこと言っても、やっぱり歳は歳やさかい……", "――隠居してくれ言うても、なかなか隠居してくれしめへんねん。うちに甲斐性が無いさかい……", "――そんなことは無いやろけど……。他あやんにしてみたら、早よあんたに良えお婿さんを貰て、それから隠居しよ思たはるのんと違うやろか", "――さあ。いつぞやそんなことも言うてましたけど……。お前の身がかたづいたら、わいはもういっぺんマニラへ行こ思てるねんて……", "そんなら、余計はよ結婚せないかんね", "――まあ。意地悪なことよう言やはるなあ", "――そうかて、そうやないか。好きな人あったら、はよ結婚して、他あやんを安心さしたらな、いかんぜ", "――知らん。うち結婚みたいなもん、せえへん。好きな人みたいなもんちょっともあれへん。それに、うちひとりやったらともかく、お祖父ちゃんの面倒まで見てくれるいう人今時あれへんわ。うち、お祖父ちゃんの生きてる間、結婚せえへん", "――そんなこと言うたら、余計他あやんを苦しめるもんや", "――そやろか。しかし、それよか仕様ない。ほかに仕様があれへんわ", "――ないこともないがな。たとえばやな……。たとえば、僕と結婚したら……", "――あんた、平気で冗談言やはんねんなあ", "――冗談や思てるのん?", "――ほな……?", "――うん" ], [ "お前ももう年頃や。悪い虫のつかんうちにお祖父やんのこれと見込んだ男と結婚しなはれ。気に入るかどないか知らんけど、結婚いうもんは本人同志が決めるもんと違う。野合にならんように、ちゃんと親同志で話をして、順序踏んでするもんや。明日の朝が見合いいうことに話つけて来たさかい、今晩ははよ寝ときなはれ", "うち、いややわ" ], [ "なんぜ、いややねん? なんぞ不足があるのんか?", "そらそやわ。そない藪から棒に見合いせえ言うたかて、何したはる人かわからへんし……", "お前にはわからんでも、お祖父やんには判ってたらそいで良え。まさか、肥くみもしとれへんやろ?", "写真もまだ見てへんし……", "写真、写真て、写真がなにが良えのや。次郎ぼんに写真きちがいを仕込まれやがってエ……" ], [ "――なんでも良え。とにかく見合いしなはれ", "…………" ], [ "雨が降っても、見合いの場所は地下鉄のなかやさかい、濡れんでも良え。どや、お祖父やんは抜目がないやろ?", "…………" ], [ "――それに何ですよ。時局がこういう風になって来ると、花井君などもうわれわれ個人会社にいつまでも居る人じゃない。いつなんどき海外へ出て、沈船作業に腕をふるって貰わねばならんようになるかも知れない。だから、余程しっかりした奥さんでなくっちゃ", "いや、その心配は要りまへん。わたいもこう見えても、もとは比律賓のベンゲットで働いて来た人間だす。婿をマニラで死なしても居ります。その点は、よう君枝に仕込んでありまっさかい" ], [ "お祖父やん、今日は家で泊ってくれはれしまへんのんか?", "当り前やないか" ], [ "ちょっともそんな遠慮要らへん。今夜は泊ってくれはるやろ思て、ちゃんと寝床もとっといたのに……もう、帰りの電車もあれしまへんやろ", "無かったら、歩いてかえる", "ここから河童路地まで何里ある思てんのん? お祖父ちゃん、〆さんにひとり帰ってもらうのん気の毒やったら、あとさしででも一緒に寝て貰たらええがな……", "いや、帰る。何里あろうが、俥ひいて走るよりは楽や。なあ、〆さん。退屈したら、お前の下手な落語でもきかせて貰いながら歩くわな", "どついたろか、いっぺん" ], [ "何言うたはりまんねん。そらお祖父やんがマニラへ行きたい気イはわかるけど、その歳でひとりマニラまで行けるもんですか? なあ、〆さん", "当りきや", "それに、お祖父やん、昔とちごて、こんな時局になったら、日本人がおいそれとたやすく比律賓へ渡れますかいな。移民法もなかなかむつかしいし……", "ベンゲットの他あやんが比律賓へ行けんいう法があるかい", "あるかい言うたかて、法律がそうなってるんやから、仕方ない。嘘や思たらその筋へ行ってきいて見なはれ", "そやろか?" ], [ "それに、よしんば行けたとしても、いま、お祖父やんに行かれてしもたら、淋しゅうて仕様ない。なあ〆さん", "そやとも、他あやん、お前が行かんでもマニラは治まる。お前が行てしもて見イ、わいはひとりも友達が無いようになるがな" ], [ "五や", "六十五にもなって、若い者相手に喧嘩する奴があるかいな。しかし、また、なんぜお前はそう頑固にあの二人の厄介になるのを断るねん。君ちゃんかて今孝行せなする時がない思て、やきもきしてるにきまってるぜ", "孝行してもらうために、育てて来たんとちがう" ], [ "なるほど、お前が厄介になって、君ちゃんに気兼ねさしたら、可哀想や言うわけやな", "それもあるけど……" ], [ "――危険は危険だが、それだけにまた、やり甲斐はあらアね。それに、君、説教するようだけど、もう今日じゃ、引揚げ事業ってやつは、一鶴富組の金儲けじゃないんだからね。女房も可愛いだろうが、そこをひとつ……", "そう言われると辛いんです。おっしゃられるまでもなく、引揚げって奴は国家的な仕事だってことは、よう判っています。判ってはいるんですが……", "やっぱり女房は可愛いかね", "いや、女房だけじゃ良いんですが、祖父さんのことを考えると、うっかり……。そりゃ、あの祖父さんのことですから、僕が死んでも立派にやって行ってくれるでしょうけど、しかし、あの祖父さんもこれまでに一度婿を死なしていますから……" ], [ "――鋳物の手伝いをさせるために、女学校へやったんとちがいます", "さよか" ], [ "あんた、ぼやぼやしてたら、あかんしイ", "いったい何やの?", "何やのて、ほんまに、えらいこっちゃ。あんたとこの人が、昨夜うちの店へ来て、散財しやはってん", "えッ?" ], [ "――何よりも他あやんがあんたを連れ戻したことを、だいぶ根に持ってはるらしかった。うちの主人も言うてたが、やっぱり男は女房に去られるほど、淋しいもんは、ないらしい。ここを、君ちゃん、よう噛み分けて考えなああきまへんぜ", "そんなら、潜る気はちょっともおまへんねんな" ], [ "――良う肥えたはりまんな", "へえ、そらもう、郊外で空気はよろしおまっさかい" ], [ "――ここに八百円あるねん。この金ここぞという時の用意に、いや、君枝の将来を見届けた暁に、死んだ婿の墓へ詣りがてら一ぺんマニラへ行って来たろ思て、その旅費に残して置いたんやが、もうこうなったら今が出し時や。この金で病院の払いをして、残った分を君枝のお産と、次郎ぼんの養生の費用にしてくれ", "いや、そんなことをして貰たら困る。それはお祖父ちゃんの葬式金に残しといて" ], [ "そんなら、マニラ行きの旅費に……", "知らん土地やなし、旅費はのうても、いざという時になったら、泳いででも行くわいな" ], [ "早いことせな間に合えしまへん。早いとこ飛行機に乗せとくなはれ", "爺さん、いったい幾つやねん" ], [ "――どうせマニラも陥落したこっちゃし、マニラへも行くんやろ。うまいことしやがんな", "一足さきに、えらい済まんなあ", "何がさきや。わいは飛行機で行くさかい、お前の乗ってる船追い抜いて、お前より早よ着くわい。マニラへ着いたら、他あやんが出迎えに来てへんか、眼のやにを拭いて、しっかり見んとあかんぜ。――ところで、何日出発や", "明後日や" ], [ "いや、おおけに。そうなったら、わいも一生一代の人力で、えらい晴れがましいとこやけど、他あやんなんぜまたこんな時に病気したんやねん。わいの師匠の初代春団治ちゅう人は朱塗りの人力で寄席をまわって、えらい豪勢やったけど、わいはこの歳になるまで、エレヴェーターには乗ったけど、人力いうもんには、到頭いっぺんも乗らずじまいやった", "その代り、お前の落語も日本じゃ一ぺんも受けずじまいやったな" ], [ "その代り、向うでは受けるわいな。なんし競争相手が無いさかいな。それにわいの黒い顔は丁度南向きや", "南向きやて、なんやこう、貸家探してるみたいや" ], [ "――もう、南十字星てどの方角に出てる星やねんちゅうような、ぼけたことは言わへんぞ。実はな、向うへ行て、空を見て、どれが南十字星か判らんかったら恥やさかいな、昨日うちの会社の文芸部の男に案内してもろて、四ツ橋の電気科学館へ行て、プラ、プラ、プラチナ……", "プラネタリュウム" ], [ "まあ洋食焼きみたいなもん……", "そうだっせ、ほんまに情けない。主人ももうあんた、そろそろ五十や言うのに、いまだにあんな子供みたいなもん食べたがりまんねん。みっともないこっちゃ" ], [ "――この辺にどこぞ夜店出まへんか", "さあ……? 今日は何の日でしたかな", "えーと……" ] ]
底本:「織田作之助 名作選集9」現代社    1956(昭和31)年10月31日初版発行 ※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫) ※底本に混在している「狭」と「狹」、「髪」と「髮」、「寝」と「寢」、「奥」と「奧」、「労」と「勞」、「来」と「來」、「潜」と「潛」、「プラネタリュウム」と「プラネタリウム」は、それぞれ「狭」、「髪」、「寝」、「奥」、「労」、「来」、「潜」、「プラネタリュウム」に統一しました。また、「伜」と「倅」は底本のママとしました。 ※底本に使われている「勘忍」は「堪忍」の間違えと思われるため、すべて「堪忍」に直しました。 入力:生野一路 校正:小林繁雄 2001年9月18日公開 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001326", "作品名": "わが町", "作品名読み": "わがまち", "ソート用読み": "わかまち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-09-18T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card1326.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "織田作之助 名作選集9", "底本出版社名1": "現代社", "底本初版発行年1": "1956(昭和31)年10月31日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "生野一路", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/1326_ruby.zip", "テキストファイル最終更新日": "2001-09-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/1326.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2001-09-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お初に告わんといてや。", "さあ。どないしよ?", "子供だてら生意気な言い方しイないな。――どや、しかしもう、犬に吠えられたかて、怖いことあれへんか。", "もう馴れた。", "そか、そらええ。次郎ぼん、なんぼでもせえだい働きや。人間はお前苦労せな嘘やぜ。おっさんら見てみイ。ベンゲットで……。", "他あやんもっとほかの話してんか。ペンケトの話ばっかしや。〆さんの話の方が余っ程おもろいぜ。" ], [ "そら、向うは商売人や。――どや、豆糞ほど(少しの意)俥に乗せたろか。", "なんじゃらと巧いこと言いよって……。心配せんかて良え。他あやん喧嘩したこと黙ってたるわいな。" ], [ "ほな、おっさんに夕刊一枚おくれんか。", "やったかて、読めるのんかいな。", "殺生な。ほんまはな、夕刊でな、鼻の穴の紙を……。" ], [ "〆さんは寄席だっせ。", "さよか。――ところで、おばはん、けったいな事訊きまっけど、おまはん字ィはどないだ?", "良え薬でもくれるのんか。なんし、わての痔ィは物言うても痛む奴ちゃさかい。", "あれくらい大きな声出したら、なるほど痛みもするわいな。" ], [ "おやっさん、どないしてん? 泣いてるのんと違うか。", "泣いてまんねん。", "えッ。こらまたえらい罪な俥に乗ってしもたもんや。これから落語ききに行こちゅうのに……。一体どないした言うねん?", "娘の婿めがマニラでころっと逝きよりましてな。", "マニラ? なんとまた遠いとこで……。", "マラソンの選手だしたが……。", "なんとなア、可哀相に。そいでなにかいな、娘はんちゅうのは子たちが……?", "まあ、おまっしゃろ。" ], [ "まあ、おまっしゃろや、あれへんぜ。男の子オか。", "それがあんた、未だ生れてみんことにゃ……。" ], [ "鮭いう魚や。", "魚て何なら?" ], [ "わてのお父ちゃんやお母ちゃん何処に居たはるねん。", "こらもう、人情噺の方へ廻さして貰うわ。" ], [ "お母ちゃん居たはれへんわ。", "居てる、居てる。これや、ここをよう見てみイ、ほら、この幕のうしろに、ちょびっと顔が……。", "ああ、居たはる、居たはる。お父ちゃんもお母ちゃんもいる。" ], [ "――さて、皆さん、ここに南十字星が現れて、いよいよ南方の空、今は丁度マニラの真夜中です。しんと寝しずまったマニラの町を山を野を、あの美しい南十字星がしずかに見おろしているのです。", "あ。" ], [ "〆さん、おまはん一ぺんぐらい、寄席の切符くれても良えぜ。――なあ、お婆ん、そやろ?", "そうだすとも。大体〆さんは宣伝たら言うもんが下手くそや。みんなに切符くばって、あんたが出る時、パチパチ手ェ敲いて貰うようにせなあかん。そういう心掛けやさかい、あんたはいつまでも前座してんならんねやぜ。――なあ、君ちゃん、そやろ?" ], [ "君ちゃん、あんたいつまで足洗てなはんネ。水は只やあらへんぜ。冷えたらどないすんねん。", "そない言うたかて、ええ気持やもん。" ], [ "〆さん、あんたアンドロメダ星座いうのん知ったはる?", "なんや? アンロロ……? 舌噛ましイな。根っから聴いたことないな。", "ほな、南十字星は……!", "えらいまた、おまはんは学者やねんなア。", "そら、もう……。" ], [ "阿呆! いま何時や思てる? 若い女だてら夜遊びしくさって、わいはお前をそんな不仕鱈な娘に育ててない筈や。じゃらじゃらと若い男と公園でボートに乗りくさって……。", "お祖父ちゃん見てたの?" ], [ "ボートがひっくり返ったら、どないするねん?", "次郎さん潜水夫やさかい、ひっくり返ったら……。", "いちいち年寄りの言うことに逆うもんやあれへん。次郎ぼんであろうが、太郎ぼんであろうが、若い娘が男とべらべら遊ぶもんと違う。こんどめから会うたらあきまへんぜ。ええか。わかったか。" ], [ "あそこはたしか三十三尋はありましたね。今までなら、身寄りの者はなし、喜んで潜ったんですが、どうも女房を貰うと三十三尋ときくと、ちょっと……。", "そりゃ、なるほど危険なことは危険だが、それだけにまた、これまでどの解体業者もこいつには手を出せなかったんだが、しかし、君、説教するようだけど、もう今じゃ、引揚事業って奴はただの金儲けじゃないんだから。女房も可愛いだろうが、そこをひとつ……。", "女房だけじゃ良いんですが、祖父さんのことを考えると、うっかり……。そりゃ、祖父さんは僕が死んでも立派にやって行ってくれるでしょうけど、しかし、祖父さんはこれまでに一度婿を死なしていますから……。" ], [ "今までこれを何べん出そ、出そ思たか判らへんけど、いや待て、今出してしもたら、二人の気がゆるんだらいかん、死金になってしまう――こない思て君枝の苦労を見て見ぬ振りして来たんやが、ほんまにわいはど阿呆やった。君枝が子オ産むいうのん、さっぱり知らんかったんや。そうと知ったら、君枝を自転車に乗せるんやなかった。――ここに八百円あるねん。この金はここぞという時の用意に、いや、君枝の将来を見届けた暁に、死んだ婿の墓へ詣りがてら一ぺんマニラへ行って来たろ思て、その旅費に残して置いたんやが、今が出し時や。この金で病院の払いをして、残った分を君枝のお産と次郎ぼんの養生の費用にしてくれ。", "いや、そんなことして貰たら、困る。それはお祖父やんの葬式金に残しといて。" ], [ "一足さきに、えらい済まんなア。", "何がさきや。わいは飛行機で行くさかい、お前より早よ着くわい。" ] ]
底本:「俗臭 織田作之助[初出]作品集」インパクト出版会    2011(平成23)年5月20日初版第1刷発行 底本の親本:「文藝 第十巻年十一号」改造社    1942(昭和17)年11月 初出:「文藝 第十巻年十一号」改造社    1942(昭和17)年11月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:kompass 校正:小林繁雄 2013年5月9日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "053808", "作品名": "わが町", "作品名読み": "わがまち", "ソート用読み": "わかまち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文藝 第十巻年十一号」改造社、1942(昭和17)年11月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2013-07-19T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/card53808.html", "人物ID": "000040", "姓": "織田", "名": "作之助", "姓読み": "おだ", "名読み": "さくのすけ", "姓読みソート用": "おた", "名読みソート用": "さくのすけ", "姓ローマ字": "Oda", "名ローマ字": "Sakunosuke", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1913-10-26", "没年月日": "1947-01-10", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "俗臭 織田作之助[初出]作品集", "底本出版社名1": "インパクト出版会", "底本初版発行年1": "2011(平成23)年5月20日", "入力に使用した版1": "2011(平成23)年5月20日第1刷", "校正に使用した版1": "2011(平成23)年5月20日第1刷", "底本の親本名1": "文藝 第十巻年十一号", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1942(昭和17)年11月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kompass", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/53808_ruby_50551.zip", "テキストファイル最終更新日": "2013-05-09T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000040/files/53808_50752.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-05-09T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "私は北海道よ", "私は東京よ", "ミーは大阪", "この頃東京の盛り場は、ど――オ", "しごく盛んで景気がいいよ", "帰りたいわ", "モー、サセボも駄目よ", "不景気なんですもの、私達には休戦が一番いけないよ" ], [ "こういう絵描きさん、知っている", "知っているどころじゃない、飲み仲間だよ" ] ]
底本:「猿々合戦」要書房    1953(昭和28)年9月15日発行 入力:鈴木厚司 校正:伊藤時也 2010年1月27日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048575", "作品名": "エキゾチックな港街", "作品名読み": "エキゾチックなみなとまち", "ソート用読み": "えきそちつくなみなとまち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-02-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/card48575.html", "人物ID": "001293", "姓": "小野", "名": "佐世男", "姓読み": "おの", "名読み": "させお", "姓読みソート用": "おの", "名読みソート用": "させお", "姓ローマ字": "Ono", "名ローマ字": "Saseo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1905-02-06", "没年月日": "1954-02-01", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "猿々合戦", "底本出版社名1": "要書房", "底本初版発行年1": "1953(昭和28)年9月15日", "入力に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "校正に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "鈴木厚司", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48575_txt_37321.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-27T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48575_38048.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-27T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "おじさん素晴しいわ、やっぱりラグビーやるだけあって、あの物凄い切符売場で買えたわね", "すごいね、御覧よ、おかげでワイシャツやぶいちゃったよ、なんてものすごい人だろう" ], [ "はずかしいよポッポちゃん、しっかりしてくれよ", "うるさいわよ、私のレッスンの時間の中でも一番大事な時なのよ" ] ]
底本:「猿々合戦」要書房    1953(昭和28)年9月15日発行 入力:鈴木厚司 校正:伊藤時也 2010年1月26日作成 2010年11月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048576", "作品名": "ジャズ狂時代", "作品名読み": "ジャズきょうじだい", "ソート用読み": "しやすきようしたい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-02-28T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/card48576.html", "人物ID": "001293", "姓": "小野", "名": "佐世男", "姓読み": "おの", "名読み": "させお", "姓読みソート用": "おの", "名読みソート用": "させお", "姓ローマ字": "Ono", "名ローマ字": "Saseo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1905-02-06", "没年月日": "1954-02-01", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "猿々合戦", "底本出版社名1": "要書房", "底本初版発行年1": "1953(昭和28)年9月15日", "入力に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "校正に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "鈴木厚司", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48576_txt_37320.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-11-02T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48576_38050.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-11-02T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "これでお宅の踊り子さん全部ですか", "いや、よいところが二、三欠けておりますよ。何にしろこの温泉旅行が無軌道なもので、ついている男が心配ではなさないのですよ、それに一年にたった二回のお休みで、仲間どころか、二人でしん猫をきめこんで価千金というところでしょうなアー。無理もありませんや、十日変りの舞台のあいまに次の御稽古、徹夜こそすれ一年中休むひまがない、生活ですからなアー" ], [ "その男ていうのがすぐついてしまうのですかなアー", "いや彼女達は特別純情派ですよ。すぐ情にほだされちまうんですなアー。それにストリッパーというものは、寿命が短いですよ、五年がせいぜいですなあー。この時代にうんと稼ごうとあせっています、内でも引っこぬきなんかされないように高給を無理していますよ。彼女達大した金のつかい道がないのでなかなかの金持ちですよ", "そこで男道楽が始まるというわけなの", "いやその彼女達はいつも束縛があるし、なにか自分で思いきりいうことを聞く、自由にしたいものがほしいのですよ。そこで何んでも自由になる男がほしい気持ちで金をつかうのですなアー" ], [ "何んです、そんなにYシャツを用意して、まるで永の旅に出るようじゃありませんか、案外お洒落ですな、あんたは", "いやーこれにはわけがありましてな、彼女達今夜の宴会から夜明けまで、そりゃ大変なのですよ、酒がまわるにつれて勇ましくなりまして、いつも私達は裸にされているんだ、今夜は、ぎゃくに男性を裸にしてしまうんだと、ワァーとあつまって来てアレヨアレヨと云うまに素っ裸にされちまうんですよ。まったくこっちはたまりませんや、抵抗するのでYシャツやパンツは、ずたずたに破かれましてな、その用意にこれこの通りなんですよ" ], [ "わたし、ストリップ・ガールに見える", "そうだなアー、そおやって浴衣を着ているところは、お人好しのオモチャ屋のお姉さんといったところかな", "オホホホ、わたし、とても子供が好きなの、無茶苦茶に好きなの、いつでも道を歩いて子供に会うといっしょに遊びたくなるの。おんぶしている赤ちゃんがいるとあやしちまうの。とてもとても可愛くなってしまって持ってっちまおうかな――と思うのよ。わたしの一番やりたいと思っていることわかる", "ストリッパーでしょう", "ちがうちがう、幼稚園の先生なの、どーしてもなりたいの、サアー一ぱい、ついで、ちょうだい……" ], [ "幼稚園が駄目なら保姆さんになりたいの、なりたいわ、泣きたくなるくらいなりたいわ私! 舞台に出る前保姆養成所に願書出したの、いつまでたっても返事が来ないのよ。くやしくってくやしくって泣いちゃったわ。あとで聞いたら途中で握りつぶされたの、でも一生死ぬまでになりたいわ。子供ダーイー好き、小野の旦那、あんたお子さんある", "ウン! 三人いるよ", "一人くれない", "やだよ", "くれなけりゃ、そっと盗んじまうから" ], [ "今日は逃げても駄目、裸にしちまうから", "おどかすなよ", "おどかしじゃないわよ、吉例のいけにえだもの……あたしあたし、とても悲しいのよ" ], [ "あたし蛇の踊りがしたいの、蛇大好きなの、うちに三匹飼ってんだわ、とても可愛いわよ、だけれど社長さんは、蛇はグロテスクでお客がいやがるから、やっちゃあいけないというのよ、わたしとても悲しいわ", "僕も蛇はあんまり好かなかったのだけれど南方にいた時、長さ十五尺もある錦蛇を飼っていたんだよ、鵞鳥をのみに来たのをみんなで生捕りにしたのだけれど、これが思ったよりおとなしくってね、マヤさんがいうようにこっちが可愛がると蛇はまるで犬のようになつくものだね", "あらあんたも蛇好き、マアーうれしい" ], [ "僕は熱帯地でとても熱いでしょう。だから大蛇といっしょにベットに寝ていたんだよ、大蛇め僕の手枕をして、いびきをかくのだもの驚いてしまった。だからうるさいッて頭を軽くたたくと、すみませんてな顔をして寝がえりをしたよ", "アハハハハ、ほんとね、蛇っていびきをかくわねー、アハハハハ" ], [ "サアサアサア今度はかくし芸かくし芸", "ナニいってるのさ、こう真っぱだかじゃかくすところなんかありゃしないわよー" ] ]
底本:「猿々合戦」要書房    1953(昭和28)年9月15日発行 入力:鈴木厚司 校正:伊藤時也 2010年1月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "モシモシ、小野の旦那ですか、こちらはラキ子です。すごいニュースなのよ、浅草のひょうたん池の端で女一人に男十三人と果合いがあるんですって", "ほんとですか", "ほんとよ! 今日の午後三時", "あの六区の池はいま権利あらそいで問題となっている、それだなア", "なんだか知らないけれどすごいニュースよ。ではお待ちしているわよ、サヨナラ" ], [ "オホホ、来たわね", "こら、ラキ子、うそつき", "うそじゃないわ、ソーラ、そこのロック座で筑波澄子劇団が、振袖姿で荒くれ男十三人と、いま流行の女剣戟をやっているじゃない?", "チェッー、 一ぱいくわされた" ], [ "マア! すごい入りね", "だいじょうぶかいラキ子ちゃん、日本刀でバッタバッタと斬りまくるんだぜ。脳貧血を起してぶったおれたりしちゃ僕いやだぜ", "へいちゃらよ、こう見えても江戸ッ子よ、松竹少女歌劇の川路龍子や小月冴子のお小姓姿で刀をぬくとこも見たことあるわよ", "S・K・Dのようななまやさしいもんじゃないよ、まかりまちがえれば、プッツリ頬ぺたにささっちまうんだから" ], [ "マア! わたしどうしましょう", "ホーラもうはじまった。いくじなしだなアー", "ちがうのよ、見廻したところ男ばっかりよ、女はあたし一人きりよ。パチンコの十八歳未満はいけないと同じように、女剣戟は女性が見物しちゃいけないのじゃない", "そんなことあるもんか、入口に女性は御遠慮下さいなんて書いてないよ", "ソーオ", "でも男性としてはあんまり見てもらいたくないね、ただでさえアプレ娘は気が強くて男性を馬鹿にしているんだから、これ以上女剣戟なんか見て男をポンポンなぜ切りされてはかなわないからネエ", "マア!" ], [ "ソー見やぶられたらしかたがねエー、ただの小間物屋とは真赤ないつわり、耳の穴をかっぽじってようく聞けよ、わっちゃあ、極悪非道の野郎から盗み取り、こまった人にはほどこしをする、泣く子もだまるいま名代の弁天お蝶とは、わたしのことよ", "ゲェッ" ], [ "まってました。スス、スミーちゃん", "トウリョーウ" ], [ "うーぬ弁天お蝶! 野郎共やっちまえ", "合点だ" ], [ "おや、ラキ子ちゃん、すごく張り切っちゃって、ドーしたの、こりゃ驚いた", "わたしはじめて女剣戟みたんだけれど、すっかり気分がよくなって、まるで上等のソーダ水をのんだように胸がスウートしたわ", "何にさ、その腕をまくってふり廻すのは", "そばへよっちゃあぶないわよ、わたしの腕も弁天お蝶のようにムズムズ鳴りだしているのだから", "はずかしいなアー、案内嬢が笑っているよ", "へいちゃらよ、文句があるならやっつけちまうから、サアーコーなったらわたしは女剣戟フアンだから、ソレッ、楽屋へ行って筑波澄子さんに面会……急げッ!" ], [ "失礼ですが、胸は新しいさらしで巻いていらっしゃいますね。肌の色と真新しいさらしの白さがとても清潔な清らかさで気持がいいですね", "アラ、いけませんね。このサラシはあのようにあばれますのでキリリとしめておかないと乳房が飛び出して飛んだ失礼をしてしまうのですよ、オホホ" ], [ "それですね。あの舞台で観客の血をわかす刀は", "そうです、一つお眼にかけましょう" ], [ "その木の身の奴は軽くってあつかいよいのですが、やはり本身のものはずっしりと、腕にこたえて調子がようございます。そちらのジュラルミンは御覧の通りまるで魚の歯のように、はこぼれがしているでしょう。斬り結ぶ時、はがこぼれるのですよ", "こんなになるぐらいでは、すごい力で刄合せをするのですね", "本気ですよ。それでないと気迫がやはりお客様に感じないのです" ], [ "狂人に刄ものというたとえがありますよ、ちょいとその刀をおかえしなさい", "……", "それではおいそがしいところを失礼しました、さようなら" ] ]
底本:「猿々合戦」要書房    1953(昭和28)年9月15日発行 入力:鈴木厚司 校正:伊藤時也 2010年1月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048572", "作品名": "花模様女剣戟", "作品名読み": "はなもようおんなけんげき", "ソート用読み": "はなもようおんなけんけき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-03-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/card48572.html", "人物ID": "001293", "姓": "小野", "名": "佐世男", "姓読み": "おの", "名読み": "させお", "姓読みソート用": "おの", "名読みソート用": "させお", "姓ローマ字": "Ono", "名ローマ字": "Saseo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1905-02-06", "没年月日": "1954-02-01", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "猿々合戦", "底本出版社名1": "要書房", "底本初版発行年1": "1953(昭和28)年9月15日", "入力に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "校正に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "鈴木厚司", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48572_ruby_37325.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48572_38052.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "姉さん!", "………", "おばあさんが出た", "おばあさんだア……" ], [ "ヘエ――", "では又――お出でなさったんですか?", "しばらく現われないで、よいあんばいだなんて申しておりましたが", "ばあーさんですか" ], [ "いやですなア――", "旦那は何もごぞんじなく引越していらっしたんですな?", "この家は有名な化けもの屋敷ですよ" ] ]
底本:「猿々合戦」要書房    1953(昭和28)年9月15日発行 入力:鈴木厚司 校正:伊藤時也 2010年1月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048573", "作品名": "幽霊", "作品名読み": "ゆうれい", "ソート用読み": "ゆうれい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-03-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/card48573.html", "人物ID": "001293", "姓": "小野", "名": "佐世男", "姓読み": "おの", "名読み": "させお", "姓読みソート用": "おの", "名読みソート用": "させお", "姓ローマ字": "Ono", "名ローマ字": "Saseo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1905-02-06", "没年月日": "1954-02-01", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "猿々合戦", "底本出版社名1": "要書房", "底本初版発行年1": "1953(昭和28)年9月15日", "入力に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "校正に使用した版1": "1953(昭和28)年9月15日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "鈴木厚司", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48573_txt_37319.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-01-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001293/files/48573_38053.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-01-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "通辞日本人ゐまするか。アドこれにゐまする。  「唐人相撲", "二郎この上は、こなたへ(亀を)あげまするによつて……  「浦島" ] ]
底本:「折口信夫全集 12」中央公論社    1996(平成8)年3月25日初版発行 初出:「言語民俗論叢」    1953(昭和28)年5月 ※底本の題名の下に書かれている「昭和二十八年五月刊、金田一博士古稀記念「言語民俗論叢」」はファイル末の「初出」欄に移しました 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2009年4月11日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "047175", "作品名": "「さうや さかいに」", "作品名読み": "「そうや さかいに」", "ソート用読み": "そうやさかいに", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「言語民俗論叢」1953(昭和28)年5月", "分類番号": "NDC 818", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-05-12T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/card47175.html", "人物ID": "000933", "姓": "折口", "名": "信夫", "姓読み": "おりくち", "名読み": "しのぶ", "姓読みソート用": "おりくち", "名読みソート用": "しのふ", "姓ローマ字": "Orikuchi", "名ローマ字": "Shinobu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-02-11", "没年月日": "1953-09-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "折口信夫全集 12", "底本出版社名1": "中央公論社", "底本初版発行年1": "1996(平成8)年3月25日", "入力に使用した版1": "1996(平成8)年3月25日初版", "校正に使用した版1": "1996(平成8)年3月25日初版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "門田裕志", "校正者": "仙酔ゑびす", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47175_ruby_34492.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-04-11T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47175_34896.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-04-11T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "そんなことあたしの半分の苦労じゃないわ。あたしは、神経痛で気むずかしいおばあさんに使われてさ。どんなにしてあげても気にいらなくて、いっそのこと窓からとびだそうか、それとも、おばあさんの横っ面をはりとばしてやろうかと思うくらいよ。", "不平、いってもしょうがないけど、皿をあらったり、そこらを片づけたり、そんな家のなかの仕事は、ほんとにいやな仕事だわ。手がこわばって、ピアノひけないわ。" ], [ "こないだ、ねえさんは、キングさんのとこの子は、お金があっても、いつもけんかしたり怒ったりしてるから、あたしたちのほうがずっと幸福だっていったじゃないの?", "ええ、いったわ。あたしたちは、はたらかなければならないけど、ジョウのいうように、たのしいあいぼうですもの。" ], [ "ジョウ、およしなさい。まるで男の子みたい。", "だから、あたしするの。", "あたし、下品な、女らしくない子は大きらい。", "あたし、気どり屋のおすまし、大きらい。" ], [ "二人ともいけないわ。それにジョウは、もう男の子みたいなおいたはやめて、しとやかになさいよ。せいも高いし髪もゆってるのですものもうわかい婦人だわ。", "そんなら二十才まで、おさげにしとくわ。あたし、男の子のあそびごとや仕事や身なりが好きなのに、女に生れてつまらないわ。この頃は、おとうさんといっしょに、戦争がしたくてうずうずしてるのに、家にいてよぼよぼばあさんみたいに、編物をしてるだけなんだもの。", "かわいそうなジョウねえさん、まあ名前でも男の子らしくして、あたしたちのにいさんになって、がまんしておくんだわねえ。" ], [ "あたし今度きりで、もうお芝居なんかしないつもりよ。あんなこと子供くさいもの。", "だって、ねえさんは一ばんの役者ですもの、ねえさんがぬけたらおしまいよ。エミイ、さあ、いらっしゃい。おけいこしましょう。気を失うところをなさい。あんたは火ばしみたいにかたくなるんだもの。", "しかたがないわ。気を失うとこなんか見たことないんですもの。", "こうやるのよ。手を組み合せて、ロデリゴ! 助けて、助けて! と気狂いみたいにさけびながらよろけて部屋を横ぎるの。" ], [ "手紙だ、手紙だ、おとうさん、ばんざい!", "ええ、いいお便りです。おとうさんは、おたっしゃで、案じていたほどでもなく、この寒い冬を元気でお過しなされそうですって。" ], [ "ベスのほかは、みんながじぶんの荷物が、なにか、いいましたよ。ベスは、きっとなにもないのでしょう。", "いいえ、ありますが、あたしのはお皿とはたきと、いいピアノをもっている娘をうらやむしがることですわ。", "それでは、みんなでしましょう。巡礼ごっこというのは、よい人になろうと努めることね。" ], [ "クリスマス おめでとう 本をありがとうございました。もう読みはじめました。まい日読もうと思います。", "みなさん、クリスマス、おめでとう! さっそく読みはじめてうれしく思いますよ。つづけて読むようになさいね、ところで、食事の前に一言いいたいことがあります。すぐ近くに、あかちゃんを生んだ貧乏な女の人がいます。火の気がないので、六人の子供たちが、こごえないように、一つのベッドにだき合ってねています。それに、なにも食物がないので、一ばん上の子が寒くてひもじくて、とても苦しんでいるといいにきました。みなさん、あなた方の朝御飯を、クリスマスのプレゼントにあげませんか?" ], [ "あれは、おじいさんのプレゼントです。", "でも、おじいさんにおっしゃったのは、あなたでしょう?" ], [ "あれは姉のマーガレットです。あなたは、わたしのねえさんをかわいいと思いますか?", "ええ、おねえさんは、なんとなくドイツの少女を思わせます。いきいきして、それでしとやかで、りっぱな淑女みたいに踊りますね。" ], [ "もうじき大学へいらっしゃるんでしょう?", "まだ二三年はだめです。十七にならなくてはいけません。", "では、まだ十五ですか?", "来月、十六です。", "あたしは大学へいきたいけれど、あなたはいきたそうではありませんのね。", "ぼくはいやです。ぼくはイタリイに住んでじぶんの好きなように暮したい。" ], [ "あなたもいけば。", "あたしはだめ。あたし姉さんに踊らないといったの、なぜって、いうと……" ], [ "あたしねえさんのところへ、コーヒーをもっていこうとしましたら、また、やりそこないましたの。", "ちょうどいい。わたしがもっていってあげましょう。" ], [ "おねえさんは、あたしがにげ出したあの赤い髪の人と踊ったのね、あの人、いい人だった?", "ええ、髪はとび色よ。ていねいな方で、あたし気持よく踊ったわ。", "あの人、足を出すとき、ひきつった、きりぎりすみたいだったわ。ローリイさんとあたし笑ってしまったわ。あたしたちの笑うの聞えなかった?", "いいえ、それやぶしつけだわ。あなたたち、そこにかくれて、なにしてたの?" ], [ "運動にいくの。", "今朝、二度も散歩して来たんだもの、たくさんだわ。家にいて火にあたりなさいよ。", "いやなこった。ねこじゃあるまいし、火のそばでいねむりなんかするの大きらい。あたし冒険がすき、これからなにかさがしにいくの。" ], [ "ありがとう。いくらかいいんです。ひどいかぜをひいて、一週間ねちゃいました。", "まあ、お気のどく、なにして遊んでいらっしゃるの?", "なにもしてません。家はお墓みたい。", "本は読まないの?", "あんまり読みません。読ませてくれないんですもの。", "だれにも読んでいただけないの?", "おじいさんに、ときどき。でもぼくの本はおじいさんにおもしろくないし、ブルック先生に頼むのは、いつだっていやだし。", "じゃ、お見舞に来る人もいないの?", "いないんです。男の子はがやがやさわぐし、ぼくは頭がよわってるんです。", "女の子はいないの、本を読んだりなぐさめてくれる女の子は? 女の子は静かだし、看護婦ごっこすきよ。", "そんな女の子知りませんもの。", "あんた、あたしを知ってる?" ], [ "知ってる! あんた来てくれる?", "ええ、あたしは、おとなしくも、やさしくもないけど、おかあさんがいいとおっしゃったらいくわ。" ], [ "ああ、きれいだ、食べるのがおしい。", "たいしたものではないの。ただ、みんながお目にかけたかっただけ。でも、あっさりしてるからめしあがれてよ。それにやわらかいから、のどが痛くても、するっとはいってしまうわ。それはそうとこの部屋なんて気持がいいんでしょう。", "女中が女中なので、片づいていなくて。", "じゃ、あたし二分間で片づけてあげるわ。" ], [ "さあ、今度はぼくがお客さまをよろこばせなくちゃ。", "いいえ、あたしはあなたをなぐさめに来たのよ。なにか本を読んであげましょうか?", "ありがとう、でもそこにある本、みんな読んでしまったんです。だから、あなたさえよかったら、お話のほうがいいんだけど。", "いいですとも、一日だって話すわ。ベスはあたしがおしゃべりをはじめたら、いつやめるかわからないなんていうのよ。", "ベスさんというのは、ときどき小さなバスケットをもって出ていく、あかい顔の。", "ええ、いい子ですわ。", "すると、あの美しいかたがメグさんで、まき毛のかたがエミさんですね?", "どうしてごぞんじ、そんなによく。" ], [ "では、カーテンをおろさずにお好きなだけ見せてあげます。いいえ、それより家へいらっしゃい。おかあさんはいい人よ、ごちそうたくさんして下さるわ。ベスは歌をうたい。エミイはダンスをする。メグとあたしはおかしなお芝居の道具を見せて笑わしてあげるわ。そうして、みんなでおもしろく遊ぶのよ。でも、おじいさん来させて下さる?", "あなたのおかあさんが頼んで下さればね。おじいさんは親切で、ぼくのすきなことをさせてくれます。" ], [ "そうすると、あなたは、わたしがこわくないのかね?", "そんなに。", "あなたのおじいさんほど、きれいではないというのだね?", "ええ、きれいではありませんわ。", "わしは、意地っぱりかね?", "そう思います。", "それだのに、わしが好きだって?", "ええ、好きです。" ], [ "顔はにていなくても、あなたは、りっぱなおじいさんの性質をうけついでいる。おじいさんは勇気があり正直だった。わたしは、あのかたと、友だちであったことを誇りに思っていますわい。", "ありがとうございます。" ], [ "あなたは、家の子と、なにをしていなさったのかね? ええ?", "近所づきあいをしようとしただけです。", "あなたは、あの子を元気づける必要があるとお考えかね?", "ええ、すこしさびしそうですもの。わかいお友だちがあるといいでしょう。わたしたち、女ですけど、お役にたちたいと思います。あなたのとどけて下さったりっぱなクリスマスのプレゼントを、とてもありがたく思っていますのよ。", "いや、あれはあの子の考えたことじゃ。ところで、あの気のどくな婦人はどうしたな?", "らくに暮していますわ。", "そうか、おかあさんのやり口は、いつも貧乏な人たちを恵んだおじいさんのやり口とおなじだ。いつか天気のいい日に、おかあさんをお訪ねしたいといっておいて下され。ほら、お茶のベルだ。さあいっしょにお茶をのんで、近所づきあいをしてもらおう。" ], [ "今、ひいてちょうだい。帰ったらベスに話してやりたいから、聞いていきたいの。", "あなた、さきにひかない?", "あたしだめなの。音楽はすきだけれど。" ], [ "あなたが、よくなったら、家へ来るという約束をすれば。", "ええ、いきます。" ], [ "夜会であったけど、たしかにあなたの話のとおり、ローリイは、お作法を知ってるわ。おかあさんがあげた薬って、ちょっと、気のきいたいいまわしね。", "白ジェリイのことでしょう?", "まあ、なんておばかさんでしょう! あなたのことを、おっしゃったのよ。" ], [ "あんたみたいな人ってあるかしら? お世辞をいわれてわからないんですもの。", "そんなばかなこといいっこなしよ。お世辞をいうなんて考えずに、かあさんのないぼっちゃんをみんなで親切にしてあげましょう。ローリイ、遊びに来てもいいでしょう、おかあさん?", "ええ、ええ、けっこうです。それから、メグさん、子供はできるだけ、いつでも子供でいるほうがいいのよ。" ], [ "ベス、あなたはどう?", "あたし、あの巡礼ごっこのこと考えていたの。おとなしくなろうとして、失望の沼をとおり、試練の門をぬけて、けわしい山をのぼっていくことだの、あのりっぱなもののたくさんあるローレンスさんの家が、あたしたちの美しい宮殿になるかもしれないってことだの、考えていたの。" ], [ "あたしベスです。音楽が好きです。おじゃまでなければ、まいりたいのですが", "どうぞ。どうぞ。半日だれもいないんだから、えんりょなく、ピアノを使ってもらえれば、こちらからお礼をいわねばならん。" ], [ "小生これまでに、かず多くスリッパを使用いたし候が、あなたよりおくられしスリッパのごとく、小生に似合うものこれなく、三色すみれ、すなわち心を安める花は、小生の愛する花にて、やさしきおくり主を常に思い起させてくれるものと存じ候。よって小生は小生の負債をはらいたく、なにとぞこの老紳士の小さき孫のものたりし、あるものを、あなたにおくることをお許し願い上げ候。心よりの感謝と祝福をこめて、あなたのよろこんでいる友だちでもあり、いやしき召使の、ジェームス・ローレンス。", "ねえ、ベス、あなた、じまんしてもいいわ! ローリイが話しだけど、おじいさんは、亡くなったお孫さんがすきで、そのお孫さんのものはちゃんとしまっておおきになるんですって。そのピアノを、あなたに下すったのよ。大きな青い目をして、音楽が好きなためよ。" ], [ "だって、わたしたくさんお金がいるの、借りがあるんですもの、お小遣は、あと一月もしないともらえないし。", "借りがあるって? なんのこと?" ], [ "塩漬のライム、すくなくっても、一ダースは借りがあるの。それに、おかあさんは、お店からつけでもって来るのいけないとおっしゃるし。", "すっかり話してごらんなさいよ。", "今ライムがはやっているの?", "ええ、みんなライム買うわ。メグさんだって、けちだと思われたくなかったら、きっと買うわ。そして、みんな教室で机のなかにかくしておいてしゃぶるの。お休み時間には、鉛筆だの、ガラス玉だの、紙人形やなにかと、とりかえっこするの。また、好きな子にはあげるし、きらいな人の前では見せびらかして食べるの。みんなかわりばんこにごちそうするの、あたしも、たびたびごちそうになったわ。それをまだお返ししてないの、どうしてもお返ししなければねえ、だってお返ししなければ顔がつぶれてしまうわ。", "お返しするのに、どのくらいいるの?" ], [ "二十五銭でたりますわ。あまったぶんで、おねえさんにも、ごちそうできますわ、ライムお好き?", "あまり好きじゃないわ。あたしのぶんもあげます。では、お金、できるだけ長く使うのよ、ねえさんだって、もうそんなにないんですから。", "ありがとう。お小遣のあるの、いい気持ねえ、みんなにごちそうしてあげるわ、わたしこの週は、まだ一度もライム食べないわ。ほんとは食べたいけど、お返しできないのに、一つでもいただくの気がひけるわ。" ], [ "たしかに、もうのこっていませんか?", "うそ、いいません。", "よろしい、それでは、このきたならしいものを、二つずつもっていって、窓からすててしまいなさい。" ], [ "エミイ、退学させました。むちでぶつことには賛成できません。デビス先生の教育方針にも感心できないし、友だちもためにならないようです。けれど、ほかの学校へかわることは、おとうさんにうかがってからでないとできません。だから、まい日、これからベスといっしょに勉強するんです。ただ、あなたがライムを机のなかにいれていたことは、同情できません。規則をやぶったのですから。", "ね、おかあさんは、あたしがあんなふうに、人の前ではじをかかされたのを、あたり前と思っていらっしゃるんですか?", "あやまちを改めさせるのに、おかあさんならば、あんなやり方をしません。ただ、あなたは、このごろ、すこしうぬぼれが強くなっていくようです。なおさなくてはいけません。あなたは、才能もありいい性質ももっているけど、それを見せびらかしてはだいなしです。へりくだるという気持、それがあなたをぐっと美しくするでしょう。" ], [ "メグねえさんがいいっておっしゃったから、あたしいきます。じぶんで切符買うから、ローリイにめいわくかけません。", "あたしたちのは指定席よ。と、いって、あなた一人はなれていられないしさ、そうすると、ローリイがじぶんの席をゆずるでしょう。それじゃ、つまらない。もしかしたら、ローリイが切符もう一枚買うかもしれないけど、それじゃずうずうしいわ。だから、おとなしく待っていらっしゃい。" ], [ "エミイ、あなたですね。", "あたし、持ってないわ。", "じゃ、どこにある?", "知らないわ。", "うそつき! 知らないとはいわさないわ。さあ、早い白状なさい。白状しないか。" ], [ "どうして!", "あたしが焼いちゃったから。", "なに? あんなに苦労して、おとうさんがお帰りになるまでに書きあげるつもりの、あの大切な原稿を、ほんとに焼いたの?" ], [ "おかあさん、だいじょぶでしょうか?", "ええ、けがもしていないし、かぜもひかなかったようです。あなたが、よくくるんで、大いそぎでつれて来てくれたからね。", "ローリイが、みんなしてくれたのです。わたしは、エミイをほっといたから、一人ですべっていって落ちたんです。もしかして死んだら、あたしのせいですわ。" ], [ "みんな、あたしの、おそろしいかんしゃくからですわ。ああ、どうして、こうなんでしょう。おかあさん。どうぞあたしを救って下さい。", "ええ、ええ、救ってあげますよ。そんなに泣かないでね。今日のことよく覚えておいて、二度としないと誓いなさい。おかあさんだって、じつは、あなたとおなじくらい、かんしゃくもちなんですよ。それに、おかあさんはうち勝とうとしているんです。", "まあ、おかあさんが? だって、一度だって、かんしゃくを起しなすったの、見たことがありませんわ。" ], [ "ねえ、おかあさん、どういうやりかたなさるの? 教えて下さい。", "そう、あたしは、今のあなたより、すこし大きくなったころ、おかあさんをなくしました。あたしは、自尊心が強いので、じぶんの欠点をたれにうち明けることもできず、ただ一人で長い年月を苦しみました。なん度も失敗して、にがい涙を流しました。そのうちに、あなたたちのおとうさんと結婚して、しあわせになったので、じぶんをよくすることが、らくになりました。けれど、四人の娘ができ、貧乏になって来ると、またまたむかしのわるい欠点がでて来そうです。もともと、あたしは忍耐心がないので、娘たちがなにか不自由しているのを見ると、とてもたまらない気持になるんです。", "まあ、おかあさん! それじゃ、なにがおかあさんを救って下すったんですか?", "あなたのおとうさんです。おとうさんは、忍耐なさいます。どんなときも、人をうたがうことなく不平なく、いつも希望をもっておはたらきになります。おとうさんは、あたしを助けなぐさめ、娘たちの御手本になるように、教えて下すったのです。だから、あたしは娘たちのお手本になろうとしてじぶんをよくすることに努めました。", "ああ、おかあさん。もしあたしが、おかあさんの半分もいい子になれたら本望ですわ。", "いいえ、もっともっといい人になって下さい。今日味ったよりも、もっと大きな悲しみや後悔をしないように、全力をつくして、かんしゃくをおさえなさい。", "あたし、やってみます。でも、あたしを助けて下さいね。あたしね、おとうさんは、とってもおやさしいけど、ときどき真顔におなりになり、指に口をあてて、おかあさんをごらんになるのを見ましたわ。そうすると、おかあさんは、いつも口をむすんで、部屋を出ていらっしゃいます。そういうとき、おとうさんに、おかあさんは、お気づかせになったんですか?", "そうなんです。そういうふうに、助けて下さいとお頼みしたんです。おとうさんは、お忘れにならないで、あのちょっとしたしぐさや、やさしいお顔つきで、あたしがきつい言葉を出しそうになるのを救って下すったのですよ。" ], [ "あたし、あんなふうにいったの、いけなかったでしょうか? でも、あたし思ったこと、おかあさんにみんないってしまうの。とてもいい気持なんですもの。", "ええ、なんでもおっしゃい。そうやって、うちあけてくれると、おかあさんはうれしいのよ。", "あたしは、おかあさんを悲しませたのではないかと思って。", "いいえ、おかあさんは、おとうさんのことを話しているうちに、お留守ということがしみじみさびしくなり、おとうさんのおかげということを思ったりしたので。" ], [ "いくつぐらいでしょう?", "十七八かしら、", "あの娘たちのうちの一人が、そういうことに、なったらたいしたものですよ。サリイがいってましたが、あの人たちは、このごろとても親しくしていて、それに、あの老人は娘たちに、まるで夢中になっているんですって。", "それやマーチ夫人の計略ですよ。娘のほうではそんな気はなさそうだけど、" ], [ "あの子ったら、おかあさんからだなんてうそついて、花がとどいたら顔をあかくしたわ。いい服さえ着せたら、きれいになるでしょうに。木曜日にドレス貸してあげようといったら、あの子、気をわるくするかしら?", "あの子、自尊心は強いけれど、モスリンのひどい服しかないのだから、気をわるくはしないでしょう。それに今晩の服をやぶくかもしれないから、貸してあげる口実になるわ。", "そうねえ。あたしローレンスをよんで、あの子をよろこばしてあげましょう。そして、後で、からかってあげましょう。" ], [ "ねえ、ひな菊さん、木曜日の会に、あなたのお友だちのローレンスさんに招待状を出しましたの。あたしたち、お近づきになりたいし、それに、あなたに対する敬意ですからね。", "御親切にありがとうございます。でも、あのかた、いらっしゃらないでしょう。七十に近い、お年よりですもの。" ], [ "ちっともおかしくないわ。まだ社交界に出ていないのに、たくさんドレスこしらえておく必要ないわ。ひな菊さん、いく枚あっても、お家へとりにいかせなくてもいいわ。あたしの小さくなった、かわいい青色の絹のが、しまってありますから、あれを着てちょうだいな。", "ありがとうございます。でも、あたしみたいな子供には、この前のでたくさんですわ。" ], [ "あたし、階下へいくのこわいわ。なんだか、とてもへんな、きゅうくつな気持で、それに半分、はだかみたいで。", "とてもきれいだからいいわ。あたしなんかとてもくらべものにならない。ベルの趣味はすてき、ただつまずかないようにね。" ], [ "よくいらっしゃいました。お出でにならないと思っていました。", "ジョウが、ぜひいって、あなたのようすを見て来てほしいというので来たんです。", "ジョウに、なんておっしゃるつもり?", "どこの人だかわからなかったといいます。だって、まるで大人みたいで、あなたらしくないんですもの。", "みんなでこんななりにさせたの、あたしもちょっとしてみたかったけど。ジョウびっくりするでしょうね? あなたもこんなの、おいや?", "ぼく、いやです。わざとらしく、かざりたてたの、いやです。" ], [ "失礼なこといって、お許し下さい。いっしょに踊って下さい。", "お気持をわるくするとこまります。", "いいえ、ちっとも、ぼくダンスしたいのです。そのドレスは好きじゃないけど、あなたはほんとうに、すてきです。" ], [ "ローリイ、あたしのお願い聞いてね、家へ帰ってもあたしのドレスのこといわないでね、家の人々は、じょうだんがわからないし、おかあさんには心配させるから。", "どうしてそんなものを着たんです?" ], [ "どんなに馬鹿だったか、自分でお母さんにいうから、あなたいわないでよ。", "いわないと約束します。でもきかれたらどういいましょう!", "あたしがきれいで、たのしそうだったとだけ、いってちょうだい。", "きれいだけど、さあ、たのしそうかしら? たのしそうに見えない。", "ええ、たのしくないの。おもしろいことしてみたかったけど、やっぱり性にあわないわ。あきてしまうわ。" ], [ "今夜は、あたし気ちがいみたいなお人形なの。明日からはいい子になるわ。", "それじゃ、明日もここにいたいんですね。" ], [ "おかあさん、あたし白状することがありますの。", "そうだと思っていました。どんなこと!" ], [ "そんなばかなこと、あたし聞いたことがないわ。なぜおねえさんは、その場でいってやらなかったの?", "あたしにはできなかったの。でもあんまりひどいので、しゃくにさわるし、はずかしいし、帰って来なければならないのに、帰るのも忘れてしまって。", "あたしたちのような貧乏人の子供について、そんなつまらぬうわさ話をしていることを、ローリイに話したら、きっとどなりつけるでしょうね。", "ローリイにそんなこといったら、いけませんわ。ねえ、おかあさん。" ], [ "いけません。ばかなうわさ話は、二度と口にしてはいけません。できるだけ早く忘れることです。あなたをいかせたのは、おかあさんの失敗でした。親切なんでしょうが、下品で、教養があさく、わかい人たちにいやしい考えを持たせる連中ですからね。メグ、今度の訪問があなたにわるい影響があるようなら、かあさんは残念です。", "御心配下さらないで。あたしは、自分のいけなかったことをなおしますわ。けれど、あたしはみんなから、ちやほやされて、ほめられるの、わるい気はしませんの。" ], [ "マフォット夫人のおっしゃったように、計略をたてていらっしゃるの?", "ええ、たくさんたてています。だけどマフォット夫人のいうのとはちがいます。あたしのは、娘たちが、美しくて教養のある、善良な人になって幸福な娘時代をすごし、よい、かしこい結婚をして、神さまの御意により、苦労や心配をできるだけすくなくして、有益なたのしい生涯を送ってほしいのです。りっぱな男の人に愛され、妻としてえらばれることは、女の身にとって一ばんたのしいことです。あたしは、娘たちがこういう美しい経験をすることを、心から望んでいます。そういうことを考えるのはしぜんで、メグ、その日の来るのを望み、その日を待つのは正しいことですし、その支度をしておくことはかしこいことです。あたしは、あなたがたのために、そういう大望をいだいています。けれど、ただ世間へおし出し、金持と結婚させたいのではありません。お金持だからとか、りっぱな家に住めるからとか、そんなことだけで結婚したら、それは家庭といえません。愛がかけているからです。お金は必要で大切なものです。上手に使えばたっといものですが、ぜひとも手にいれるべき第一のものとか、ごほうびとか思ってはこまります。かあさんは、あなたがたが、幸福で、愛されて、満足してさえいれば、自尊心や平和なくして王位にのぼっている王女さまたちになってもらうより、かえって貧乏人の妻になってもらいたいと思います。" ], [ "そんなら、あたしたちは、いつまでも、えんどおい娘でいましょう。", "ジョウのいうとおりです。不幸な奥さんや、だんなさんをあさりまわっている娘らしくない娘よりも、幸福なえんどおい娘でいたほうが、よろしい。なにも心配することはありません。メグ、ほんとに愛のある人は、相手の貧乏などにひるむことはありません。かあさんの知っているりっぱな婦人のなかには、むかしは貧乏だったかたがいくらもあります。けれど、愛をうける、ねうちのあるかたのばかりだったから、人がえんどおい娘にしておかなかったのです。そういうことは、なりいきにまかせておけばいいので、今は、この家庭を幸福にするように努め、やがて結婚の申しこみをうけたらばその新らしい家庭にふさわしい人になるし、もしかしこい結婚ができなければ、この家に満足して暮すのです。それから、もう一つ、よく覚えていてほしいのは、かあさんはいつでもあなたが秘密をうち明けることのできる人ということ、また、おとうさんは、あなたがたのよいお友だちであるということです。そして、おとうさんとあたしは、あなたがたが結婚しても、独身でいても、あたしたちの生活のほこりであり、なぐさめであることを信じ、また望んでもいるということをね。" ], [ "だいじょうぶ、コンビーフも、じゃがいももある。つけ合せに、アスパラガスとえびを買ってくるわ。それから、ちさでサラダをつくりましょう。つくりかたの本を見ればいいわ。デザートは、白ジェリイといちご、もっとぜいたくすれば、コーヒーも出すのよ。", "ジョウ、あなたは。しょうがパンとキャンディだけしかつくれないじゃないの。あたしこの御馳走には関係しないわよ。だって、あなたが勝手にローリイをよんだんだから。" ], [ "あたしも!", "おかあさんは、みなさんが、どんなふうにやるかと思って、わざとなにもかもほうって、出かけました。けれど、今日の経験で、みなさんは、家をたのしくするには、めいめいが、受持の仕事を忠実にやらなければならぬということがわかったと思います。ハンナとあたしが、みんなの仕事をしていれば、あなたがたは、そう幸福で気らくだったとは思いませんが、とどこおりなくやっていけたのです。だから、かあさんは、だれもかれも、じぶんのことばかり思ったら、どんなことになるか、教訓としてみんなに見せておきたかったのです。あなたがたが、たがいに助け合い、まい日のお仕事があれば、ひまになったとき、それがとてもたのしく思えるし、くるしいときにはたがいに、しんぼうし合っていけば、家はどんなにたのしく美しいでしょう。わかりましたか?", "わかりました。よくわかりました。" ], [ "あら、りょうほう忘れて来たのに。お庭に落して来やしない?", "いいえ、郵便局に片っぽしかなかったわ。", "片っぽなんていやだわ。でもそのうちに片っぽ見つかるでしょう。あたしのお手紙は、ドイツの歌の訳したのがはいっているだけ、きっとブルック先生がなさったのね。", "ジョウ博士には、手紙が二通、本が一冊、おかしな古帽子、帽子は大きくて、郵便局からはみ出していました。" ], [ "愛するジョウ――あなたが、かんしゃくをおさえようと努めているのを見て、かあさんはたいへんうれしく思っています。あなたはその試み、失敗、成功についてなにもいわないし、日々あなたを助けて下さる神さまのほかには、だれも見ていないと考えておいででしょう。けれど、かあさんものこらず見ていました。そして、りっぱな実がむすびそうですから、あなたの決心が真心からであることがわかります。愛する娘よ、しんぼう強く勇ましくやり通して下さい。かあさんが、あなたに同情をよせていることを、常に信じて下さい。", "まあ、うれしい。百万円もらって山ほど賞讃されるよりうれしい。かあさんが助けて下さるんですもの、あたしやります。" ], [ "ずいぶん、へんな話でしたね。だけど、練習すれば、もっといいのができそうね。それじゃ、今後はツルースっていうあそびごぞんじ?", "どんなの?", "そうね、みんなで手をかさねておいて、かずをきめて、じゅんじゅんに手をのけていって、そのかずにあたった人が、ほかの人の質問になんでも正直に答えるの。それやおもしろいわ。" ], [ "男の美点のなかで、なにが一ばんだいじ?", "勇気と正直" ], [ "クロッケーでインチキやらなかった?", "うん、ちょっと。" ], [ "そう思わなかったら、イギリス人の自分は、はずかしいですよ。", "それでこそほんとのイギリス人だ。さあ、今度はサリーのばんだ。" ], [ "ええ、あたしアメリカに生れたのをうれしく思いますわ。そのために、たくさんのよろこびを得ているのですから。ただ、あたし、あなたのように教えることが好きになれたら、どんなにいいでしょう。", "ローリイがあなたの生徒だったら、あなたも教えるのがたのしくなります。来年ローリイと別れなければならないので、ざんねんですよ。", "大学へいらっしゃるのでしょう?", "そうです。準備はだいたいできています。ローリイがいけば、ぼくは軍隊にはいります。", "まあ、すてき! わかい男のかたは、兵隊にいきたがるのはほんとですね。お家にのこるおかあさんや、姉妹たちはつらいでしょうが。", "ぼくは一人ぼっちです。友だちもすくないし、ぼくが死のうが生きようが、たれも心配する者はいません。", "ローリイやおじいさんが心配なさいますわ。それに、あたしたちだって、あなたがおけがでもなされば、悲しみますわ。" ], [ "あなたは、どうしてぼくにつらくあたるんです? 今日一日、あなたはあのかたくるしいイギリス人にばかりくっついていて、今度はぼくを鼻であしらうんですね。", "そんなつもりじゃなくってよ。あんまりおかしな顔をなさるので、つい。" ], [ "あの人、すこしも情味のない人ね。", "ちっとも。だけど、かわいい人。" ], [ "だいじょうぶよ、いらっしゃい。お誘いしようと思ったけど、こんな女の遊びなんか、つまらないと思ったのよ。", "あなたたちの遊びなら好きです。でもメグがいやなら、ぼく帰ります。", "いやじゃありませんわ。そのかわり、ここでは怠けてはいけないという規則だから、あなたもなにかしなければいけませんよ。", "どうもありがとう。なんでもします。だって家は、さばくみたいに退屈です。" ], [ "ああ、それで、ふくろをしょい、杖をつき、古い帽子をかぶるんですね。", "あたしたちは、この丘のことを、よろこびの山といってますの。ずっと、むこうまで見わたせるし、あたしたちが、いつかは住んでみたいと思う国も見えるからです。" ], [ "あたしたちの勝手に考える空中楼閣がみんなほんとのものになって、そこに住むことができたら、どんなにおもしろいでしょう。", "ぼくは見たいだけ世界を見物してから、ドイツにおちついて、好きなだけ音楽を勉強して、有名な音楽家になるんです。けれど、ぼくはお金だとか、商売とかすこしも気にかけずに、じぶんの好きなように暮すんです。これがぼくの気にいっている空中楼閣です。" ], [ "ほかには、なにか望みはないの?", "あのかわいいピアノをいただいたから、ほかになんにも望みはありません。" ], [ "ローリイとあたしが二十六、ベスが二十四、エミイが二十二、なんとみなさん、相当の御先輩というわけね。", "ぼくは、それまでになにか、じまんになるようなことしたいな、だけど、ぼくはこんな怠け者だから、だめだろう。ねえ、ジョウ。", "おかあさんが、あなたにはなにかいい動機があれば、きっとすばらしいことなさるって、いってらしたわ。", "そうですか。ぼくやります。ぼくは、おじいさんの、気にいるようにしたいんだが、できないんですよ。おじいさんは、後つぎにして、インド貿易商にしたがっているんです。だけど、ぼくいやだ。大学へ四年いくだけで、満足して下さればいいのに、ああ、おじいさんを世話して下さるかたがあれば、ぼくは明日にも家をとび出すんだがなあ。" ], [ "ええ、おとなしくして、本が好きになれたらね。", "好きになります。", "じゃ、いらっしゃい、あみもの教えてあげるわ。スコットランド人は、男でもあみものするのよ。それに、今とても靴下の注文があるんですって。" ], [ "とても痛かった?", "そんなでもなかったわ。", "早くすんだねえ。ずいぶん。", "ええ、うまくいったわ!", "どうして一人でいったの?", "たれにも知らせたくなかったからよ。", "ずいぶん、かわっているんだね。きみは、それで、なん本ぬいたの?" ], [ "二本ぬいてもらいたいんだけど、一週間も待たなきゃならないのよ。", "なにを笑ってるの? また、なにかいたずらしてきたんだね、ジョウ。", "あんなこそ、玉突屋でなにしてらしたの?", "はばかりながら、玉突屋ではありません。体育館でして。ぼくは剣術を習ってます。", "まあ、うれしい!", "なぜ?", "あたし教えてもらえるもの。そうすれば、今度ハムレットをやるとき、あんなレアティスやれるから、二人であのすばらしい剣術の場がやれる。" ], [ "教えてあげるよ、ハムレットはどうでもいいが、おもしろいよ。やれば身体がしゃんとなる。でもそれだけで、あなたが、まあうれしいって、あんなに強くいったとは思えないが。", "そうよ、あんたが玉突屋にいなかったのがうれしかったの。あんた、いくの?", "そんなに、いきませんよ。", "いかないほうがいいわ。", "なにもわるいことありませんよ。家の玉突では、じょうずな相手がなくてつまらない。だから、ときどきいって、ネッド・マフォットや、そのほかの連中とやるんです。", "いやだわ、だんだん好きになって、時間をお金をむだにして、いけない子になるんでしょう。品行方正でいてほしいわ。", "男は、品をおとさなければ、ときどきおもしろい遊びをしてはいけないかしら?", "それは遊ぶ方法と場処によるわ。ネッドの連中、あたしきらい、交際しないほうがいいわ。あたしの家にも来たがっているけど、おかあさんよせつけないようになさるの。あなたが、あの人みたいなら、今までどおりあなたと遊ばせないでしょう。おかあさんは。" ], [ "では、ぼく申しぶんのない聖人になります。", "聖人なんてまっぴら、すなおな品のある人になってほしいわ。キングの家の息子さんみたいに、お金たくさん持って、よっぱらったり、ばくちをしたり、しまいに、家出しておとうさんの名をかたって、なにか偽造までして、こわいわ。", "ぼくも、そんなことしかねないと思っているんですね? どうもありがとう。", "とんでもない。ただあたし、お金はおそろしい誘惑をするって聞いてるから、あなたが貧乏だったら、心配しないでもいいと思うことがあるわ。だって、あなた、ときどきふきげんだったり、強情だったりするから、いったんまちがったほうへむいたら、ひきとめるのがむずかしいと思うわ。", "そう、そんなに心配していてくれるの。" ], [ "あなたは家へ帰るまで説教するつもり?", "いいえ、どうして?", "説教するつもりなら、ぼくバスにのるし、しないなら、いっしょに歩いて、とてもおもしろいこと聞かせてあげる。", "しない。だから、そのニュース聞かせて。", "よろしい、これは秘密ですよ。ぼくがいったら、あなたのもいわなければだめですよ。" ], [ "あるでしょう。かくしたってだめ、さっさと白状なさい。いわなければ、ぼくもいわない。", "あなたの秘密おもしろいの?", "おもしろいとも! あなたのよく知っている人のこと。あなたが知っていなければならない秘密だから、教えてあげたくてうずうずしているんです。さあ、あなたからですよ。" ], [ "返事なんか来ないわ。このこと、たれにも失望させたくなかったから、いわなかったの。", "なあに、だいじょうぶ、あなたの書くもの、シェークスピアの書いたものくらい、ねうちがありますよ。活字になったらすてきだな!" ], [ "それで、あなたの秘密ってなあに? 公明正大にいいなさい。", "いってしまうと、こまることになるかもしれないんですが、いわないと気がらくになれないし、あのね。メグの片っぽうの手ぶくろのありかを知っているんです。", "それっきり?", "今のところ、それでじゅうぶんだよ、どこにあるかということを教えたら。" ], [ "どうして知ってるの?", "見たんだよ、ポケットに。", "ずっと今でも?", "ええ、ロマンティックじゃない?", "いいえ、こわいわ。きらいだわ。ばかばかしい。たまらないわ。メグねえさん、なんていうかしら?", "たれにもいわないでよ、きみを信用したからいったのさ。", "それじゃ、当分はいわないわ。でも、いやね。聞かしてくれなければよかった。", "ぼくは、きみがよろこぶかと思った。", "たれかがメグをつれ出しに来るっていうことを、あたしがよろこべますか。ああ、あたしには秘密ってものは性に合わない。あなたがそんなこと聞かすものだから、気持がくしゃくしゃしちゃった。" ], [ "あなた、走ったのね、いつになったら、そんなおてんばやまるの?", "年をとって、身体がこわばって、松葉杖をつくるようになるまでやめないわ。あたしを大人あつかいにするのいやよ。おねえさんが、きゅうに変ったのを見るのつらいわ。せめてあたしだけいつまでも子供にしておいて。" ], [ "そんなに、おめかしてどこへ?", "ガーデナアのところへ、サリーは、ベル・マフォットの結婚のことをすっかり話してくれました。とてもりっぱでしたって、お二人はこの冬をパリで送るために、もうおたちになったのよ。どんなにうれしいでしょうね。" ], [ "なに読んでいらっしゃるの?", "はりあう画家という小説。", "おもしろそうね、読んでちょうだい。" ], [ "あたしが、すぐ出発するという電報をうって下さい。つぎの汽車は明日の朝早く出るはずです。それでいきます。", "そのほかには? 馬の用意はできています。どこへでもいきます。なんでもします。", "それから、マーチおばさんのところへ手紙をとどけて下さい。ジョウ、ペンと紙とを下さい。" ], [ "まあ、どこから手にいれたの? 二十五ドル、ジョウ、あんたはとんでもないことしやしませんか?", "いいえ、りっぱなあたしのお金です。じぶんのもの売ったお金です。" ], [ "このほうが、さっぱりして気持がいいわ。じぶんの髪をじまんして、虚栄心を起しそうだったが、これでもいいわ。どうぞお金とってちょうだい。", "ジョウ、おかあさんは、満足とは思いませんが、しかりはしません。あなたが愛のために、虚栄心を犠牲にしたことはよくわかります。でもね、そんなことまでする必要はなかったのです。いつか後悔するでしょうね。" ], [ "切られるとき、こわいと思わなかった?", "床屋さんが道具を出しているあいだに、あたし見おさめに、じぶんの髪をながめたわ。でも、あたしめそめそしないわ。でもきってしまったら、腕か足きられたようなへんな気持したわ、おかみさんはあたしがきられた髪をながめているのに気がついて、長い毛を一本ぬいて、しまっておきなさいといってくれたの。おかあさん、記念にこれさしあげます。きったらさっぱりして、あたしもう二度とのばそうと思いません。" ], [ "ジョウ、おとうさんのことで泣いてるの?", "今はそうじゃないの、あたしの髪のこと。" ], [ "後悔はしていないの。だけど、美しいものをなくしたので、ちょっとばかり泣いただけ。でも、もうすっかりおちついたから、だれにもいわないで。おねえさんは、どうしてねられないの?", "とても心配なので。", "たのしいことを考えてごらんなさい。ねむれてよ。" ], [ "おかあさんは、あなたがたを、ハンナとローレンスさんにお願いしていきます。ハンナは心からの律義者ですし、おとなりのあの親切なかたは、あなたがたを、じぶんの娘のように守って下さいます。ですから、すこしもあたしは心配しませんが、ただ、この不幸をよく理解して、留守中、悲しんだり、いらいらしたり、なまけたりせずに、めいめいの仕事をやって下さい、希望をもってはたらきどんなことが起っても、けっしておとうさんを失わないということを覚えていらっしゃい。", "はい、おかあさん。" ], [ "ハンメルさんのあかちゃん、おばさんの帰って来ないうちに、あたしに抱かれて死んでしまったの。", "まあ、かわいそうに、どんなにこわかったでしょうね。あたしがいけばよかった。" ], [ "こわくはなかったけど、悲しかったわ。ロッチェンが医者をよびにいったというので、あたしがあかちゃんを抱いて、ロッチェンを休ませてあげてたの。そうしたら、あかちゃんが、きゅうに泣き声をたててぶるぶるふるえて動かなくなったの。足をあたためたり、ミルクを飲ませたりしたんですがもうだめ、ちっとも動かないの。", "泣かないでね、それから、どうしたの?" ], [ "ああ、ベス、あなたがかかったら、あたしはどうしたって、じぶんを許せないわ!", "だいじょうぶ、ベラドンナを飲んだら、いくらかよくなったようだわ。", "ああ、おかあさんが家にいて下すったら! あなたは一週間以上も、ハンメル家へいったんだものきっとうつったわ。ハンナをよんで来るわ。ハンナは病気のことなんでも知っているから。", "エミイを来させないでね、エミイはまだかからないから、うつると大へんだわ。あなたとメグねえさんは、もううつらないでしょうか?", "だいじょうぶと思うわ。うつったってかまわないわ。あなたばかりいかせて、くだらないもの書いていて、じぶん勝手のむくいだわ。" ], [ "どうしたの? ベスわるいの?", "ええ、おかあさんに電報うって来たの。もうあたしたちの顔がわからないのよ。おとうさんもおかあさんもいらっしゃらないし、神さまも遠くへいっておしまいになった!" ], [ "ありがとう。もうだいじょうぶ、万一のことがあっても、こらえられるわ。", "ぼくはベス死ぬと思わない。あんなにいい子だし、ぼくたちこんなにかわいだっているんだもの、神さまがつれていらっしゃるわけはない。", "やさしい、かわいい子は、いつでも死んでしまうんだわ。", "きみ、つかれてるんだ、心ぼそく思うの、きみらしくないよ。ちょっと待ってて。" ], [ "あなたいい医者ね。そして、ほんとに気持のいいお友だちね、どうして、お返しできるかしら?", "いずれ勘定書を出すよ。そして、今夜はぶどう酒より、もっときみの心をあたためるものをあげるよ。", "なんなの?", "昨日、電報うったのさ。そうしたらブルック先生から、すぐ帰るという返電さ。だから、おかあさんは、今晩お帰りになる。そうすれや、万事好都合だろう。ぼくのやったこと気にいらない?" ], [ "かまわないさ。ぼくもおじいさんも、とても心配でね。もしもベスに万一のことでもあれば、申しわけない、だけどハンナは、ぼくが電報をうつというと、どなりつけたんだ。それでぼくかえって決心して、うってしまったんだ。終列車は、午前二時につくからぼく迎えにいく。", "ローリイ、あなた天使だわ。どんなにおれいいっていいかわからないわ。" ], [ "あたしも、これが一ばん好きですが、首かざりにはもったいない。あたしのような旧教の信者はおじゅずに使います。", "あなた、お祈りするのたのしそうね。", "ええ、あなたもお祈りなさるといいですよ。化粧室を礼拝堂につくってあげましょう。おばさんがいねむりをなさっているあいだに、じっとすわって、神さまにおねえさんをおまもり下さるように、お祈りあそばせ。" ], [ "マーチおばさんがおなくなりになったら、この宝石はどうなるのかしら?", "あなたと、おねえさんたちのところへいくのですよ。遺言状を見ました。あたしは。", "まあ、うれしい。今、下さればいいのに。", "今は早すぎます。はじめに結婚なさるかたに真珠、それから、あなたがお帰りになるときには、トルコ玉の指輪、おくさまはあなたが、お行儀がいいといって、ほめていらっしゃいました。" ], [ "遺言状には、二伸みたいなものをつけていいでしょうか?", "いいでしょう。追伸というんでしょう。", "じゃ、書きいれてちょうだい。あたしの髪みんな切ってお友だちに分けるって。へんなかっこうになるけど、そのほうがいいわ。" ], [ "ベスは、ほんとに、そんなにわるいの?", "そうらしいんだ。よくなるように祈ろうねえ、泣いちゃだめですよ。" ], [ "ああそうだ。おばさんが、今日キッスしてこれをゆびにはめて下さいました。そして、お前はわたしのほこりになるほどいい子だから、そばへおきたいとおっしゃいました。これはめてても、よろしいでしょうか?", "美しいですね、でもまだ小さいんだから、すこし早すぎるように思えますね。", "虚栄心を起さないようにします。ただ美しいからはめたいのではなく、あることを思い出すためですの。", "マーチおばさんのこと?", "いいえ、利己主義になってはいけないということ。" ], [ "あたし、このごろ、じぶんのわるいお荷物のなかで、利己主義が一ばんいけないと思いました。ベスねえさんは利己主義でないから、あんなにかわいがられ、なくなると思うと、みんなはあんなに心配するんですわ。あたしベスのようになりたいんです。それで、これをはめてみたらと思うんです。", "よござんすよ、だけど、戸だなのすみのほうが、もっといいでしょう。よくなろうとまじめに考えたら、半分やりとげたようなものです。では、おかあさんはベスのところへ帰ります。元気でいなさいね。すぐに迎えに来ますからね。" ], [ "お話したいことがありますのよ。", "メグのことですか?", "まあ、おかあさんの察しの早いこと! そうなんです。あたし気になるもので。", "ベスがねむってますから、小さい声でね。あの、まさかマフォットが来たのではないでしょうね?" ], [ "メグはあのかたを好いていると思いますか?", "まあ! 恋とかなんとか、そんなくだらないこと、あたしわかりませんわ。小説だといろいろ人目にたつ変化があるわけですが、メグにはちっともそんなことはなく、食べたり飲んだり、ふつうの人のように夜もよくねむりますわ。あのかたのこと、あたしがいっても、あたしの顔をまともに見ますし、ローリイが恋人なんかのじょう談をいっても、すこし顔をあかくするだけです。", "それでは、メグがジョンさんに興味を持っていないとお思いなのね?" ], [ "まあ、そんなに怒らないでね、どういう事情か話してあげます。ジョンさんは、ローレンスさんに頼まれて、かあさんといっしょにいって、つききりで看病して下すったので、あたしたちは好きにならずにはいられませんでした。あのかたはメグについては公正明大で、メグを愛しているが、結婚を求める前にたのしく暮せる家を持てるように稼いでおきたいとおっしゃるんです。あのかたは、メグを愛し、メグのためにはたらくことを許してほしい。そして、もしメグにじぶんを愛させるようになったら、その権利を許してほしいとおっしゃった。あのかたは、りっぱな青年です。かあさんたちはあのかたのいうことに耳をかたむけずにはいられませんでした。けれど、メグがあんなにわかくて婚約するのは不承知です。", "もちろんですわ。そんなばかな話。なにかわるいこと起ってると思ってました。これじゃ予想していたよりもっとわるいわ。いっそのこと、あたしがメグと結婚して家庭のなかに安全にしておきたいわ。" ], [ "あなたには、うち明けましたが、メグにはいわないで下さい。ジョンが帰って来て、二人があうようになったら、メグの気持がもっとはっきりわかると思いますからね。", "おねえさんは、とても感じやすいから、あの人の美しい目を見たら、一たまりもありませんわ。すぐに恋におちてしまって、家の平和もたのしみもおしまいになります。ああ、いやだ。ブルックさんはお金をかきあつめて、おねえさんをつれていき、家に穴をあけてしまいます。あたしつまらない。なぜあたしたちは、みんな男の子に生れなかったんでしょう。" ], [ "おかあさんも、あんな人おっぱらって、メグには一言もいわないで、今までのようにみんなでおもしろくしましょうよ。", "ジョウ、あなたがたは、おそかれ早かれ、家庭を持つことが、しぜんな正しいことです。でも、かあさんはできるだけ長く、娘たちを手もとにおきたいから、この話があんまり早く起ったのを悲しく思います。メグは十七になったばかりだし、おとうさんもあたしも、二十までは約束も結婚もさせないことにしました。もしたがいに愛し合うなら、それまで待てるでしょうし、待っているあいだに、その愛がほんものかどうかもわかります。", "おかあさん、おねえさんをお金持と結婚させたほうがいいと思いませんか?", "かあさんは、娘たちを財産家にしたいとか、上流社会へ出したいとか、名をあげさせたいとか考えません。身分やお金があるかたが、真実の愛と美徳を持っていて、迎えて下さるならよろこんでお受けもしましょうが、今までの経験からいえば、質素な小さな家に住んで、日日のパンをかせぎ、いくらか不足がちの暮しのほうが、かずすくないよろこびをたのしいものにしてくれるものです。かあさんは、メグがじみな道をふみ出すのを満足に思います。メグは、夫の愛情をしっかりとつかんでいける素質があって、それは財産よりももっといいものです。", "おかあさん、よくわかりました。あたしはメグをローリイと結婚させて、一生らくにさせてあげようと、計画していたんです。", "ローリイは、メグより年下です。", "そんなことかまうもんですか、あの人は、年よりふけているし、せも高いし、それで、金持で、親切で……", "だけど、かあさんは、メグにふさわしいほどローリイが大人とは思いません。そんなこと計画するものではありません。", "では、よします。人間は、頭にアイロンでものせておけば、大人にならないものならいいけど、つぼみは花になるし、子ねこはおやねこになるし、ああ、つまらない。" ], [ "アイロンとねこが、どうしたの?", "つまらない、おしゃべりをしてたの。あたし、もうねるわ。いらっしゃいな。" ], [ "そうです。あのかたは、家の息子みたいな気がします。あたしたちは、あのかたが、とても気にいりましたよ。", "そう聞いて、うれしいと思いますわ。あの人、さびしいかたです。おかあさん、おやすみなさいませ。おかあさんが家にいて下さると、口でいえないほど安心ですわ。" ], [ "はじめの手紙をローリイから受取って、おかあさんにうち明けるつもりでしたが、ブルックさんが好きだとおっしゃったこと思い出して、四五日くらい秘密にしといてもいいと思いましたの。お許し下さい、ばかなまねをしたばつです。二度とあのかたに顔を合すことができません。", "それで、なんとお返事しましたの?", "そんなことを考えるのはまだ年がわかいし、それにおかあさんに秘密を持ちたくないから、おとうさんにいって下さい、御親切はありがたいと思いますが、ただのお友だちとしてつき合いをしていきたいと申しあげましたの。" ], [ "おねえさんは、つつしみ深いわ、メグ、いってちょうだい、あの人、なんといってよこした?", "恋文なんて出したおぼえはないし、いたずら好きの妹さんが、わたしたちの名を勝手に使うのは遺憾だと書いてありました。親切なお手紙でしたけれど、あたしはずかしくて。" ], [ "いやだわ、おかあさんから聞いた秘密よ。", "いいの、ジョウ、かあさんはメグをなぐさめますから、あなたはローリイをつれていらっしゃい。すっかりしらべて、こんないたずらやめさせます。" ], [ "それで、あなたの気持はどう?あの人があなたのために家庭がつくれるのを待っていますか? それとも、なにもきめないでおきますか?", "今度のことで心配させられたので、これからずっと、もしかしたら、いつまでも、恋人なんかのことにかかわりたくありません。もしあのかたが、こんなばかげたことを御存知ないなら、いわないで下さい。ジョウとローリーにも口どめして下さい。あたし、だまされたり、からかわれたりしたくありません。ほんとに、はじさらしですわ。" ], [ "ぼくは死んでもブルック先生に話しません。どうか許して下さい。だけど、一ヶ月くらいあなたから口をきいてもらえなくても、しょうがないと思っています。", "許してあげますわ、でも、あまり紳士らしくないやりかたですわ、あなたが、こんな意地わるをなさろうとは思いませんでした。" ], [ "そうよ、きっとおじいさんも後悔していらっしゃるわ。仲なおりなさい、あたしもいっしょにいってあげるから。", "だめだ、わるくないのに、二度もあやまるのはいやだ。だいたい、おじいさんは、ぼくをあかんぼあつかいになさる。かれこれ世話をやいてほしくないということを、おじいさんに知らせてやるんだ。", "では、あなたこれからどうするの?", "おじいさんがあやまって、ぼくが、どんなことがあったのか話せないといったら、信用してくれればいい。", "それや、むりだわ。あたしできるだけ説明してあげるわ。あなたも、ここにいつまでもいて、芝居がかったまねをして、なんの役にたつのよ?", "ぼくは、いつまでも、ここにいるつもりはないよ。そっと家出して、旅行にいっちゃうんだ。おじいさんは、ぼくがいなくて、さびしくなったらわかるだろう。", "そうかもしれないけど、とび出しておじいさんに心配かけるのわるいわ。", "お説教はよしてくれ。ぼくはワシントンへいって、ブルック先生にあうんだ。あすこはおもしろいよ。いやな目にあったんだから、うんと遊ぶんだ。" ], [ "おだまんなさい、このうえ、あたしに罪を重ねさせないでちょうだい。それよか、もしおじいさんに、あなたをいじめたお詑びをさせたら、家出をやめる?", "ああ、だけどそんなこと、きみにできないよ。" ], [ "あの子は、なにをしたのかね? なにかいたずらをしたにちがいないが、一言も返事をせぬからおどしつけたら、じぶんの部屋にはいってかぎをかけてしまった。", "あのかた、わるいことをしたのです。けれどみんなで許してあげました。そのことは、母にとめられていますから、申せません。ローリイは白状して、ばつを受けました。わたしたちは、ローリイをかばいません。ある人をかばうために、だまっているのです。ですから、おじいさまも、どうかこのことには立ちいらないで下さい。かえって、いけません。", "だが、あんたがたに親切にしてもらっていながら、わるいことをしたのなら、わしはこの手でたたきのめしてやる。" ], [ "いや、あなたのいうとおりじゃ、わしはあの子をかあいがっているが、がまんのならぬほどわしをじらすようなこともする。こんなふうだと、どうなるかな。", "申しあげましょうか?あの人、家出しますわ。" ], [ "きみは、えらいな。しかられなかった?", "よく、わかって下すったわ。さ、新らしい出発よ。御飯を食べれば気もはれる。" ], [ "そうはいかないわ、おかあさんにもあたしにも、よくわかるけど、おねえさんはちっともおねえさんらしくなくなったわ。遠いところへいっておしまいになったみたい。あたしおねえさんみたいに、ぐずぐずしてるのきらい。だから、そうする気ならさっさときめるといいのよ。", "あたしのほうからいい出せるものではないし、おとうさんはあのかたに、あたしのことわかすぎるとおっしゃったんですもの、あのかたもいい出せないわ。" ], [ "あたしすっかりおちついていうわ。ありがとうございます。ブルックさま、けれど、まだ年がわかすぎますので、今のところ婚約などできませんの。父もおなじ意見でおりますの。どうかなにもおっしゃらずに、今までどおりお友だちとしておつき合い下さいませ。", "ほう、いえるかしら。あのかたの感情を害することを気にして、きっと敗けてしまうわ。", "いいえ敗けるものですか、つんとすまして部屋を出ていくわ。" ], [ "でも、わたしまだわかすぎますから。", "ぼくは待っています。そのうちに、ぼくを好きになるようになって下さい。ぼくは教えてあげたいのです。これはドイツ語よりやさしいのです。" ], [ "ええ、あたし、そんなことで気をもみたくありませんわ。父も気にかけないようにといいました。早すぎますし、そんな気になれませんわ。", "あなたのお気持がかわって来てほしいものです。ぼくは待っています。ぼくをからかわないで下さい。", "あたしのことなんか考えないで下さい。そのほうが、あたし、けっこうなのです。" ], [ "あの、おとうさんのお友だちですの。", "その男が、お前さんの顔をなぜあかくさせたかね? なにかまずいことでもあったね。", "ただお話ししただけです。ブルックさんは、こうもりがさをとりにいらしたのです。", "ほう、ブルック、あの子の家庭教師がね? ああ、わかりました。ジョウがおとうさんのことづけをいいに来たとき、まちがえて口をすべらしたのを聞いた。お前さんは、承知しはしないだろうね?", "しっ! 聞えますわ、おかあさんをよんでまいりましょうか?", "まだいい。お前にいうことがあります。お前がその男と結婚する気なら、わたしはびた一文もあげないからね、よくおぼえておき、そして、りこうにおなりよ。" ], [ "あたしは、好きな人と結婚します、お金はあなたの好きな方にあげて下さいませ。", "なんですって! そんな口のききかたをして、今に貧乏人との恋にあきて後悔しますよ。" ], [ "わたしは親切からいうんです。お前さんはりっぱな結婚をして家の者を助けなければならないのです。", "いいえ。両親ともそんなこと考えません。両親ともジョンが好きです。貧乏ですけれど。", "お前さんの両親は、世間知らずのねんねだからね。そのブルックとやらは、貧乏で、金持の親類もないそうだね。", "でも、親切な友だちがたくさんいますわ。", "友だちがなんの力になるものか、それに、その男には職業もないんでしょう?", "まだ、ありません。ローレンスさまがお世話して下さいます。", "あんな変物が頼みになるものかね。とにかくお前はもうすこしりこうだと思っていたが。", "ブルックさんは、りっぱなかたです。かしこいし、才能もありますし、勇気もおありになります。わたしのこと思って下さるのを、わたしは誇りにしています。", "あの男は、お前に金持の親類があるから、それでお前を好きになったんだよ。", "まあ、どうしてそんなことおっしゃるんですか? わたしは、どうしても、あのかたと結婚します。" ], [ "メグ、ぼくのこと弁護して下すってありがとう。それから、おばさんにはあなたがわずかにしろぼくのこと愛して下さることを証明して下さったお礼をいいますよ。", "おばさんが、あなたのわる口をいい出すまでは、どんなにあなたを思っていたか、わたしにもわかりませんでしたわ。" ], [ "やってしまうんじゃない。半分だけのこることになる。", "ううん、もとのとおりにはならない、あたしは一ばん大切な友だちをなくしたのよ。", "だけど、ぼくがいる。たいしてやくにたたないけど、一生きみの味方をする!" ], [ "さあ、いい子だから、うかぬ顔をするのおよし。メグさんは幸福になるし、ブルック先生は就職なさるし、おじいさまはよくめんどうを見てあげる、メグがいっちまったら、ぼくも大学を卒業するしそしたら、いっしょに外国を漫遊するか、どこかへすてきな旅行をしよう。なぐさめになるよ。", "そりゃ、いいなぐさめねえ、でも、三年のあいだに、どうなるかわからないわ。", "そりゃそうだが、きみは未来をのぞいて、ぼくたちがどうなるか見たかない?", "あたし、見たくないわ、なにか悲しいことが見えるかもしれないもの。今はみんな幸福だけど、これ以上、幸福になれると思わないわ。" ] ]
底本:「若草物語」京屋出版社    1948(昭和23)年6月1日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 その際、以下の置き換えをおこないました。 「勝ち→がち かも知れ→かもしれ 給→たま (て)見→(て)み」 また、底本では一部連濁の「づ」が「ず」になっていますが、「づ」に統一しました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:大久保ゆう 校正:秋鹿 2006年10月16日作成 2010年11月1日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "042307", "作品名": "若草物語", "作品名読み": "わかくさものがたり", "ソート用読み": "わかくさものかたり", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "LITTLE WOMEN", "初出": "", "分類番号": "NDC K933", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2006-12-25T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-18T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001090/card42307.html", "人物ID": "001090", "姓": "オルコット", "名": "ルイーザ・メイ", "姓読み": "オルコット", "名読み": "ルイーザ・メイ", "姓読みソート用": "おるこつと", "名読みソート用": "るいさめい", "姓ローマ字": "Alcott", "名ローマ字": "Louisa May", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1832-11-29", "没年月日": "1888-03-06", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "若草物語", "底本出版社名1": "京屋出版社", "底本初版発行年1": "1948(昭和23)年6月1日", "入力に使用した版1": "1948(昭和23)年6月1日", "校正に使用した版1": "1948(昭和23)年6月1日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "大久保ゆう", "校正者": "秋鹿", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001090/files/42307_txt_24297.zip", "テキストファイル最終更新日": "2010-11-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001090/files/42307_24580.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2010-11-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "病棟の方へ御案内して。右の方です。", "僕は知っている、知っているよ。去年も君たちと一緒に来たことがあるからな。僕らはこの病院を検閲したんだよ。僕は何もかもすっかり知ってるんだから、そう易々とは騙されんぞ。" ], [ "痛くって頸が廻せないんです。まあそんな事はどうでもいい。あれが分かりさえすりゃ文句はないのさ。ところが僕は分かっているんだ。", "いま何処におられるのか御存知ですか。", "そりゃ勿論、ドクトル。僕は癲狂院にいるのです。だがあれが分かってしまえば、そんなことは全くどうでもいいんです。全くどうだっていいことですよ。" ], [ "僕はとても空腹なんです。それに僕はうんと精分をつける必要がある。僕の命を繋いでいるのは食物だけなんです。御存知の通り、僕は一睡も出来ないのですから。", "じゃまあ、たんとお食りなさい。タラス、この方に匙とパンをお上げ。" ], [ "昨日はもうモルヒネも利きませんでした。", "縛れと言って呉れ給え。だが僕は、まず助かるまいと思うよ。" ] ]
底本:「紅い花 他四篇」岩波文庫、岩波書店    1937(昭和12)年9月15日第1刷発行    2006(平成18)年11月16日改版第1刷発行 入力:hitsuji 校正:持田和踏 2022年2月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "060482", "作品名": "紅い花", "作品名読み": "あかいはな", "ソート用読み": "あかいはな", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "КРАСНЫЙ ЦВЕТОК", "初出": "", "分類番号": "NDC 983", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2022-03-11T00:00:00", "最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/card60482.html", "人物ID": "000340", "姓": "ガールシン", "名": "フセヴォロド・ミハイロヴィチ", "姓読み": "ガールシン", "名読み": "フセヴォロド・ミハイロヴィチ", "姓読みソート用": "かあるしん", "名読みソート用": "ふせうおろとみはいろういち", "姓ローマ字": "Garshin", "名ローマ字": "Vsevolod Mikhailvich", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1855-02-14", "没年月日": "1888-04-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "紅い花 他四篇", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1937(昭和12)年9月15日", "入力に使用した版1": "2006(平成18)年11月16日改版第1刷", "校正に使用した版1": "2006(平成18)年11月16日改版第1刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "hitsuji", "校正者": "持田和踏", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/files/60482_ruby_75126.zip", "テキストファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/files/60482_75164.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-02-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "今さら申すまでもないことですが、私たちの国はあなたのお国のように暖かでもありませんし、空も澄みきってはいませんし、また豊かな大雨が降るわけでもありません。けれど私たちの国にだって、空もあれば、太陽も風もありますわ。私たちの国には、あなたやあなたのお友だちのように、大きな葉やみごとな花をたわわにつけた、はなやかな草木は見られませんわ。けれど私たちの国にだって、松だとかもみだとかしらかばだとか、とても立派な木がはえていますわ。私は小っぽけな草ですから、とても自由なんぞ望めそうもありませんが、あなたはそんなになりも大きいし、力もおありですもの! あなたの幹は丈夫ですし、それにあと一伸びすればガラス屋根にとどくんですわ。あなたは屋根をぶち抜いて、ひろびろした天地へ出て行けるに違いありませんわ。そうしたらこの私に、大空の下は今でもやっぱり昔ながらの見事なながめかどうかを、話して聞かせて下さいね。私はそれだけで満足しますわ。", "ねえ小さなつる草さん、お前さんはなぜ私と一緒に出て行こうと思わないの? 私の幹は丈夫でしっかりしているわ。私の幹によりかかって、ここまではいのぼっておいで。お前さんを背負って行くぐらい、私にはなんでもないんだから。", "いいえ、とても私にはだめですわ! だってほら、私はこんなにしなびた弱い草なんですもの、つる一本だって持ちあげる力はありませんわ。いいえ、とても御一緒には参れません。あなたは一人で伸びて、幸福になって下さい。ただ一つお願いは、あなたが自由の天地へお出なすったとき、時たまはこの小っぽけな友だちのことを思い出して下さいね!" ], [ "ええ、励ましては上げましたわ。だってそれほどむずかしいこととは、知らなかったんですもの。お気の毒で見ちゃいられませんわ。さぞ苦しいでしょうにねえ。", "おだまり、いくじなしめ! 私に同情してなんかもらいますまい! 私はもう死ぬか自由になるか、二つに一つです!" ] ]
底本:「あかい花 他四篇」岩波版ほるぷ図書館文庫、岩波書店    1975(昭和50)年9月1日第1刷発行    1976(昭和51)年4月1日第2刷発行 入力:蒋龍 校正:染川隆俊 2009年1月30日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "048128", "作品名": "アッタレーア・プリンケプス", "作品名読み": "アッタレーア・プリンケプス", "ソート用読み": "あつたれえあふりんけふす", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "ATTALEA PRINCEPS", "初出": "", "分類番号": "NDC 983", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-03-29T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/card48128.html", "人物ID": "000340", "姓": "ガールシン", "名": "フセヴォロド・ミハイロヴィチ", "姓読み": "ガールシン", "名読み": "フセヴォロド・ミハイロヴィチ", "姓読みソート用": "かあるしん", "名読みソート用": "ふせうおろとみはいろういち", "姓ローマ字": "Garshin", "名ローマ字": "Vsevolod Mikhailvich", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1855-02-14", "没年月日": "1888-04-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "あかい花 他四篇", "底本出版社名1": "岩波版ほるぷ図書館文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1975(昭和50)年9月1日", "入力に使用した版1": "1976(昭和51)年4月1日第2刷", "校正に使用した版1": "1976(昭和51)年4月1日第2刷 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "蒋龍", "校正者": "染川隆俊", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/files/48128_ruby_33834.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-01-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/files/48128_34445.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-01-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "駈足イ!", "おおい、待って呉れえ待って呉れえ! お願いだ。助けて呉れえ!" ], [ "軍医殿は何と云われました? 到底助かりますまい?", "何を云う? そげな事あッて好もんか! 骨に故障が有るちゅうじゃなし、請合うて助かる。貴様は仕合ぞ、命を拾うたちゅうもんじゃぞ! 骨にも動脈にも触れちょらん。如何して此三昼夜ばッか活ちょったか? 何を食うちょったか?", "何も食いません。", "水は飲まんじゃったか?", "敵の吸筒を……看護長殿、今は談話が出来ません。も少し後で……", "そうじゃろうそうじゃろう寝ろ寝ろ。" ] ]
底本:「平凡 私は懐疑派だ」講談社文芸文庫、講談社    1997(平成9)年12月10日第1刷発行 底本の親本:「二葉亭四迷全集」筑摩書房    1984(昭和59)年11月~1991(平成3)年11月 入力:長住由生 校正::はやしだかずこ 2000年11月8日公開 2005年12月8日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001867", "作品名": "四日間", "作品名読み": "よっかかん", "ソート用読み": "よつかかん", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 983", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2000-11-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/card1867.html", "人物ID": "000340", "姓": "ガールシン", "名": "フセヴォロド・ミハイロヴィチ", "姓読み": "ガールシン", "名読み": "フセヴォロド・ミハイロヴィチ", "姓読みソート用": "かあるしん", "名読みソート用": "ふせうおろとみはいろういち", "姓ローマ字": "Garshin", "名ローマ字": "Vsevolod Mikhailvich", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1855-02-14", "没年月日": "1888-04-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "平凡 私は懐疑派だ", "底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社", "底本初版発行年1": "1997(平成9)年12月10日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "二葉亭四迷全集", "底本の親本出版社名1": "筑摩書房", "底本の親本初版発行年1": "1984(昭和59)年11月~1991(平成3)年11月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "長住由生", "校正者": "はやしだかずこ", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/files/1867_ruby_20715.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-08T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000340/files/1867_20716.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-08T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "エバよ、おまえの夫はどこへ行ったか? ", "煙筒の蔭に隠れております", "ここへ呼び出せ" ], [ "アダムよ。煙筒を作ったのはおまえか? ", "いいえ、あれはエバの罪でございます", "なんだ、エバの罪だ? ", "ハイ、エバが少し子供をたくさん産みすぎました結果で、多量生産が必要となったためでございます", "なに? エバが子供を多く産みすぎたためだ? ", "ハイ、まったくサンガー夫人が、今日教えてくれるような産児制限法を、神様から教えていただかなかったためでございます" ], [ "まア、アダム、そんなに激昂しなくてもよい。おまえはこの煙筒の立てられたことを悲しく思わぬか、エデンの花園に煙筒がよく似合うと思うか? ", "悲しく思います。しかし致し方がありません。神様、すべてが宿命です。この宿命は、神様すなわちあなたでも、動かすことは出来ないことだと思います。これはエバが産児制限法を教えられなかった無知から起った運命です。すべてが運命です! 私らはこれを脱することが出来ないのです。神様、私は、あなたが私を創ったことをすら呪います。私は生れてこなかったほうがズッとよかったのです。罪のない、悪のない世界であれば、生れてきてもよかったのですが、生れさせられた。すぐに罪の罠にかかるは、そのために罰せられるはとくると、私はまったく神様の聡明そのものを疑うものであります。神様、私は疑惑家であります。私は自己の存在すらもこの頃は疑わしくなったのであります。したがって、あなた――神の実在をも疑っているのであります。今日では神を信ずるなどということはまったくこの煙筒文明の邪魔になります", "待て、アダム、神の思想が、煙筒文明に邪魔になるのか、それとも煙筒文明が、神の思想に邪魔になるのか? ", "神様、そんなことはどうでもよいと思います。とにかく、煙のために私はすべてを見失いました。すべては宿命です。今日の煙筒は、神も、人間も、どうすることも出来ない宿命であります" ], [ "松島さん、あなたは煤煙問題について徹底的に戦いになるお積りですか? ", "サア、もし、徹底的というのはどういうことですか? ", "すべての煙筒を倒してしまうということです", "そうすると、風呂屋の煙筒もですか", "まったく! ", "それはどうも困りますな、私も湯屋を三軒ばかり借家にしてもっているのですが、あの煙筒を今取払われるというとちょっと困りますな、じゃ市長さん、私は煤煙反対運動はちょっと見合せます" ], [ "島さん、あなたは私に賛成して徹底的に戦うて下さいますか? ", "いや、実は私も親類に、大きな煙筒を立てているブラッシ屋がありますので、それと相談いたしましたうえで、とくとご返事いたします", "じゃ、船場君、君は徹底的に戦うてくれる勇気があるかね", "私はやります。私は娘の仇討です。大いにやります", "そら、面白い、じゃ一つその説明を今日から始めてもらいたいね。お願いだから、市会の説明を君にお願いしたいね", "よろしい、引受けました。娘の仇討なら、どんなお役でも引受ます" ], [ "私も、その点をさっきから疑問にしていたのでおます。煙筒をいったいにやめるとするといったい船の煙筒もいけまへんのやろな? ", "そうだ、そうだ" ], [ "そんなら、いったい機械は何で動かしますのや", "我らは石炭を使用しないで機械を回すことは出来ないのであります" ], [ "誤解せられては困ります。この案はすぐに煙筒を廃止するという案ではありません。煤煙防止のために、電流によって煤煙の立たないように装置するか、あるいはまったく電力のみを使用せよということにきめようというのであります", "圧制! 圧制! " ], [ "私の宅に娘がありますが、大阪の市内で育てたばかりに肺病にかかって嫁にもやれないのであります。こんな経験は私一人ではないと思います。これもみな大阪の空気が悪いためでありまして、私はこの大阪の空を呪うものであります。しかし我らが少し目覚めて、煙筒に五千ボルトくらいの電力を通ずるならば煤煙は立たなくてすむのであります。我々はこれを実行したいのであります", "それは実行不可能である", "それはユートピアだ", "健康にはよいが煤煙防止は産業を破壊する! " ], [ "しかるにですな、九九、八十一人の市会議員諸君、大阪市の人口増加は出産と死亡の差にはよらないので、みな他の地方から流入するために増加するものであります。大阪市内では死ぬ人の数が生れる人の数よりも多いのであります", "そうなっとりますかな? " ], [ "これはなぜかと算盤を取ってみますと、まったく大阪市が不健康地であるということに起因しているのであります", "このたびの市長は算盤がよほど上手と見えますな" ], [ "松島君に注意します。発言は議長の許可を得てからにして下さい! ", "それでは議長、私に一番やらして下さい" ], [ "それはどうも困りますな、後から大塩平八郎君が来るはずだから大塩君に頼みたまえ! 大塩君は、天保時代から労働問題――いや社会問題には詳しくっておられるのだから、……しかしどうも、賀川君、大阪市の煤煙には困ったものだね", "そこです、太閤さん! その困ったものだねと言われるそこのところをお聞かせ願いたいのです。また大阪市は近き将来において市区改正をせねばなりませぬので、あなたが三百年前にご計画されたあの壮大な大大阪の名を傷つけないように、大阪の市会議員によく言うて聞かせていただきたいのです" ], [ "私を帝国主義のように言う人があるが、それは大きな誤解であって、私は勉めて哲人政治を実行せんと努力したものであります。私は今日の種類のデモクラシーは多数政治であって、どうも思ったような理想的の政治がとれない。私はどうしても、私がかつて大阪で実行したように、会とか組合とかを通じて、代表者の意見をまとめていくがよいと思います。もちろん、朝鮮征伐をしたことなどについては、世間には色々と意見もあるようですが、結局は私が日本の独立を鞏固ならしめんために計ったにほかならないのであります。私は日本を統一しても少しも野心のなかったことは、諸君も理解して下さっていることと思うています。それと同様に朝鮮征伐も別に野心のあったわけではありません。日本をして東洋の一角に地位を安定ならしめるということが、ただ一つの目的であったのです", "太閤さん昔のことはもうよい加減にしてくれ、煤煙問題はどうすればよいのだ! " ], [ "煙筒はやめるがよいと私は思いますね。私は、賀川君の空中征服には大賛成であります", "太閤さんもよほど近頃は過激化しているね" ], [ "ようレニン! ", "直接行動の親分! " ], [ "煙筒は社会の敵である。肺病人を作り、貧民を作り、濫費を助長し、空中を乱す、これ社会万民の敵である。煙筒がなければ産業が発達しないと考えるがごとき野蛮人は、一日も早く死んでしまえ! 煙にも種類がある。私がかつてあげた天満の煙のごときは最も煙の中のすぐれたものである! ", "弁士、中止! " ], [ "あなたとレニンとは少し似たところがありますから、共鳴せられるのはもっともです。しかしあなたがもし、今日のロシアを全部まかされたとして、今過激派の取っているようなやり方をおやりになりますか? ", "いや、私は過激派のやり方は下手なやり方だと思う。あア人心を倦まさせてはいかぬ。人間というものは妙なもので英雄的なところがないと倦んでくるものだ。すべてを凡人にしてしまうものだから、みなが早く倦いてしまったのだ。もう少し理想主義的なところがなくてはいかぬ。僕はこの点は過激派のために惜しむね。むしろこの点はフランス流の英雄心の高調や、新理想主義の加味せられたサンヂカリズムが面白いと思うね" ], [ "おい、船場君、君よい加減にしなくちゃいかぬぜ、あんな危険人物を連れて来て君はどうする積りじゃ、天満を焼けへんか? ", "僕は何にも知らないぜ", "君も知らないのか? " ], [ "君、知っているか? ", "俺は知らない", "私は知らない", "僕も知らない" ], [ "小山健三さんに聴いてみい――大阪財界の元老がよく市長を引っ張ってくるから、小山さんが知っているかも知れぬ", "そうだ、そうだ、府の高等刑事に聴いてみい", "島徳か、宮崎敬介に聞いてみい、株屋は耳が早いから知っているかも知れぬ" ], [ "ただ今市会議員の間に議論が起りましたので、お尋ねいたしますが、いったいあなた様と、市長殿とは、どんな関係がおありになるのでござりまするか、それをちょっとお聞かせ下さるなら、幸いだと存じます", "ウム、友達でな" ], [ "賀川さんは、どうして大阪市長になられたのでござりますか? ", "そら君、君のほうがよく知っているだろう。君のほうが市政には僕より長く関係しているから" ], [ "太閤さんは市長さんと友人関係だそうな", "大塩平八郎は、市政にはあまり通じておらないそうな", "賀川市長はどこから来たか両人に尋ねたかね? " ], [ "僕には、どうもわからぬ。もういったん市長になった以上は仕方がないと思うね。我らに市長が要るとすれば、そのままにしておけばよいじゃないかね……", "そうだ、そうだ! ", "君らはすべて盲従的だからいかぬ" ], [ "五六万人でしょうね", "慶長の頃では、五十万と号せるね" ], [ "賀川さん、いったいこれは何の目的で行列しているのですか? ", "私もまだ聞かないのですが、工場管理を主張しているのだと、私は思います……ちょっと待って下さい……今、聞いて来ますから" ], [ "君、いったい、この示威運動は何の目的ですか? ", "これですか? これは不景気のために資本家の団体が一斉に賃銀値下をしたものですから色々の要求をして示威運動に移ったのです。あなたは賀川さんですね。あなたが知らない理由がないはずじゃありませんか! 市長になるとやはり駄目ですね。やはり、労働運動に政治は禁物ですね、すべて間接行動は駄目です。直接行動でなければラチがあきませんなア" ], [ "アレは、何ですか? ", "アレは示威運動を取締る巡査です" ], [ "助けているのじゃありませんよ。太閤さん、危険人物が多いので、尾行の巡査が一人に一人ずつついているものですから、千人の行列がありとすれば、二千人の行列となり、一万人の行列だと二万人になるのです", "フウム、日本政府は随分、危険思想に金を費しているのですね? ", "監獄費と警察費に、一億一千万円いるそうです" ], [ "おい、賀川、貴様は大阪市の煙筒から煙が少しも出ないようにすると言うじゃないか、いったいそんなことが出来ることか、出来ないことか、やってみるがよい! 煙が出なければどうして機械を回すんだい? ", "電気で回せばよいじゃないか! ", "その電気がさ! 煙が立たなければ起らんではないか! ", "水力で起るじゃないか! ", "水力って、なんぞい! 俺にはちっとも判らねえだ! 貴様は、そんなことを言いやがって、わっちの顔を潰しやがるな――こら賀川、貴様は俺の顔を知っていやがるだろう。俺はな、ヘン、ポンポンながら『おんびき虎』の一の乾分蛇の目の熊五郎と言うもんだ。今日は貴様の首玉一つ貰いに来たんだ! 貴様はよくもまア、大正の今日に大塩平八郎なんて奴を冥途から呼び返して来やがったなア、俺はな、貴様の顔を見るさえも癪にさわって仕方がねえんだい! " ], [ "もちろんですよ、賀川さん、誰だってこんな煙を好むものがあるものですか? ", "ところがね、吉兵衛さん、その煙がよいと言う人があるのです", "そらまたどうしたのです? ", "私はとうとうそのためにこの通りやられましたよ" ], [ "そら大変でしたな……新聞にも何も出ないものですからお見舞にも出ませんで……", "しかし、やりますよ、私は徹底的に戦う積りです", "大いにおやりなさい……それについてですな、実は面白い話があるのです。まア今日はゆっくりして下さい。私が面白い話をして上げます。夕飯を一緒に食いましょう" ], [ "ね、賀川さん、この間の市会であなたに反対した安治川という人があったでしょう。あの人の娘が、うちの娘と女学校で同級なんです", "フウム、そうですか? それがまたどうしたんです", "ところが、その娘さんは肺が悪くて芦屋で保養していらッしゃるのです……もう、よほどおよろしいのですがね。その方があなたのお説によほど共鳴していらっしゃいましてね、あの日からお父様と毎日毎日大喧嘩をしていらっしゃるんだそうです", "その娘さんの言われることはあなたの言われるのとまったく同じでしてね、自分が肺病にかかったのも、まったく大阪市に煤煙が多いからで、その煤煙防止運動をしてくれる賀川市長は実に大阪市の恩人であるはずだのに、お父さんが自分の商売仇のように、市会でいじめるのは実にいけない。そんなわからずやのお父さんなら、私は破門せられても、大阪市民のために、賀川さんの味方の一人に加えてもらって、空中征服運動に参加したいと言われるのです", "フム、それでは私に一人の共鳴者が出来たわけですね" ], [ "ところが、お話したいのは、これから先のことです", "ヘヘエ、話はまだ切れておらないのですか" ], [ "これからなんですよ、あのね、賀川さん、あなたは島村信之という方とご昵懇でおられますか? なんでも早稲田を出られた方で、大阪機械労働組合の主事とかをしておられる方だそうですが……", "ええ、よく知っておりますよ、島村君が……どうしたんです? ", "その方は菊子さんというのですがね、島村さんという方とえらいお熱くなっておられるのだそうです……それでね、賀川さんに一つ話をしてもらって、一緒にしてもらいたいというのがご両人の希望だそうです", "そいつは困りましたなア。安治川君は、あんなに僕に反対しているが、やはり娘は肺が悪いのですか。船場君の娘も悪いのですってね? ", "みなご家庭に一人か、二人か肺の悪い人はあるものです。大阪に住んでいる人にはそれは免れないものと考えなければなりませんな……しかしどうでしょう、あなた、その菊子さんと島村さんとのお仲人になって下さらないでしょうか? " ], [ "恵比須屋さん、安治川君は駄目ですぜ。あの男は僕が言うたら怒って、決して聞きますまい。それよりか、あなたに行ってもらったほうがズッとよいと思いますがね", "いや、ところがね、私だと先方のお父さんが信用してくれないのです。娘の自由恋愛は不良少女のする仕事だと、先方は思うてござるものですからな。私が安治川さんのところに出ますと、私が誘惑したように思いなさるでしょう", "菊子さんて、どんな娘さんです。会いたいものですな", "それはお安いことです。今日も、朝から娘のところへ遊びに来ていらっしゃいましてただ今二階にいらっしゃいますから、お呼び申します……" ], [ "先生、自由恋愛というものは、よいものでございましょうか? 父は非常に反対するのでございますが……", "私は恋愛は自由でなくてはならぬと思います", "うれしい! 私はこれで安心しました。誰に聞いても明確な答えを与えて下さらないものですから、私は煩悶を重ねておりましたのです" ], [ "演説会の帰りにお知り合いになりましたの", "それからたびたび交際を続けていらっしゃるのですか? " ], [ "もうレターが五十本くらい溜まっているそうですよ。ね、菊子さん!", "嘘よ! 常ちゃん、あなた、そんなことまで言っちゃいけないわ", "だって、ほんとだから、みな申上げて、お願いすればよいじゃありませんか! " ], [ "上品な、妙な方です。ご大典の時にでもお召しになるような着物を召していらっしゃいます", "はてな? 誰だろうか? " ], [ "そうすると、淀君、あなたは恋愛の自由をお認めになるのですか? ", "さん候。恋することなくば人の生命は味けなく花に色香なきもののごとくなり候" ], [ "淀君、あなたは太閤さんがどこにいらっしゃるか見当をつけていらっしゃいますか? ", "いや、いや、一週間捜し候えども、見当つかずほとほと講ずる途もなく弱り候" ], [ "僕は自分の人格を蹂躙せられてこの家にいることが出来ないから、今日限り出て行く", "出て行くなら、出て行け。血でも吐いて早くくたばりやがれ", "出て行く代りに、幽子をつれて行きますよ", "勝手に連れて行け! あれは今までに三千円からかけてある代物じゃ、おまえの自由に出来るか、してみい! ", "三千円が何だ! 恋が金で買えるか! ", "やかましい! くそ生意気な、うちの商売は色気商売じゃ! 色気の商売じゃないか! それがわからんか! " ], [ "太閤はんは来ていやはりますか? ちょっと用事があってな、今お連れの方を案内して来ました", "ちょっと待っておくれやす" ], [ "おまえは誰じゃ! ", "おまえって! 正五郎さん、あなたは毛唐屋の吉兵衛を知ってやろがな。あなたもひどい人やな、卑しくも、もったいなくも、正一位関白太政大臣羽柴筑前守秀吉公を籠伏せの刑に仰せつけるとはいったいどうしたのですかい! ", "どうしたって、こうしたって、俺癪に触ったから、太閤さんを生捕りにしておく積りやが! ", "一体どうしただす", "どうしたって、こうしたって、俺たちの商売を邪魔するようなことを太閤さんがするもんやよってにああやって懲らしめのために、七日の間籠伏せにしておきましてん……それでもえらいものだすわ、太閤さんだけあってちっとも泣きよらん", "原因はいったい何だす? ", "そら太閤さんに聞いておくれやす……俺は癪に触って口がもとらんさかい" ], [ "太閤さん、いったいどうしたんです", "なんでもないんだよ、私がこんなにたくさん遊女をひとところに集めておくことがよくないと言うたのがいかんと言うて狂人のようになってわしを責めるのだ", "どうも正五郎さんは近頃気が狂れてるらしいな", "吉兵衛さん、よい加減にしておきなはれよ。わしはちっとも気は狂れておりやしまへんで、ただ世間並にしておりますのじゃ", "世間並って、女郎屋するのが世間並だっか? ", "そうやがな、お金が欲しいさかえ、女郎屋商売をするのやがな。お金が欲しいのは世間並だっしゃろな……あなただって、毛唐屋してござるのはお金が欲しいためばっかりやろな", "いいや、正五郎はん、私はな、これでも近頃は少しもお金儲けということを考えてはおりまへんのやがな", "ごまかしてはいけまへんで", "ごまかしはしまへん。私はこれでも消費組合の理事をしておりまんね", "消費組合っていうのはいったいなんどす? ", "太閤さんを籠から出しなさい、そしたら話をしてあげますわ", "困ったなア……じゃ恵比須屋の吉兵衛さんのニコニコに免じて、お猿さんを逃がしてやりまほか? " ], [ "まアこれで助かった、うちは心配していただろう。ではさよなら", "太閤さん、玄関に淀君さんがお迎えに来ていやはりますわ", "ウム、そうですか? " ], [ "惜しいことした。吉兵衛さんの口車に乗せられて、とうとう太閤さんを逃がした。何やら言いよったな。恵比須さん、金儲けを考えない商売があると言うのやったなア。つまりなんだすか、そうすると銀行の利子などは払わなくてもよいことになるのどすか! 実はな、私ところ二万円の利子に困っておりますのや、太閤さんを止めといたら、空堀に埋めてある千両箱一つでも持って来てくれる忠臣一人くらいがあるだろうかと思うておりましたのや。そこへ、あなたが来はりましたやろ、私はあなたが千両箱一つくらい持ってくれはりましたのやと思っとりましてん", "そらまた欲なことばかり考えていやはるのやな……しかし正五郎さん、太閤さんなんかを籠伏せに会わしたりなんかしやはったら、きっと罰が当りまっせ", "そうだっしゃろかな", "いったいどうしなはったのや? " ], [ "息子さんって、あのこの間安治川の菊子さんを私に貰ってくれとあなたがいやはったあの賢一さんだったか? ", "はい! ", "先刻はえらい大口論をしていやはったやおまへんか! ", "サア、それが罰でおまっしゃろかな。一家がどうしても円満に行きまへんで困ります", "やはり人の娘の血や肉で金儲けをしようというはよいことおまへんぜ……", "しかし吉兵衛さん、あのことは駄目だっか? ", "あのことって、あの菊子さんのことだっか? ", "宅はな、あの娘を貰うて、安治川はんから借りている二万円を棒引にしてもろうと思うとりまんね……どうせ肺病娘だっしゃろ、二万円つけても今日では貰い手なんかおまへんやろ", "買い手はいくらでもおまっせ、第一この松島正五郎! ", "そう冷やかすものやおまへんわ! ", "しかしな正五郎はん、よく聞きなはれ、あなたの息子はんはそのあんたところの三千円とか出した玉と逃げると言うとってだっしゃないか! 誰に嫁さんを貰ってやな? あんたにかいな、息子さんにかいな", "そら息子にやがな", "だって息子さんは肺病人とは夫婦にならんと言うてやないか", "白状すれば、宅も肺病娘はいらんのやけんど、お金だけが欲しいおますさかえ、お金だけ貰うたら、娘は野か山かへ放ってしまってやろと思っとりまんね", "ああ怖ろしや、怖ろしや……正五郎さん、私はもう帰らしてもらいますわ。野や山に放られたら困るさかい" ], [ "菊ちゃん、僕はね、近頃悲観的になって仕方がないのだよ。……どうしたんだろうね", "わたしもよ……わたしね、もう死にとうなりましたわ", "どうしたんだろうね。恋というものは実に苦痛だね", "ほんとにね、……ちょっと、わたしも、今夜から宅に帰らずとおこうか知らん? ", "また、お父様に叱られるだろう! ", "お父様に叱られるくらいなんでもないわ、恋は死よりも強いものじゃないの? " ], [ "菊ちゃん、なぜ泣くの! ", "………………", "菊ちゃん、あんたが泣いたら、私も悲しくなるよ" ], [ "菊ちゃん、あなたのためならこの一生はもちろんのこと私の生命が七つあるなら、七つともみなあげますよ", "じゃ、私と一緒に心中してくれる? ", "あなたとなら、心中でもなんでも喜んでしますよ", "じゃ、お染久松の死んだ川筋で死にましょう" ], [ "信ちゃん、死は勝利ね! ", "そうだよ、菊ちゃん、虚無は最後の休みどころだよ! 一切が無だ! 我らに何者も与えざれば、我らは何者をも受けないまでだ。二人の恋が成功しないとすれば、我らはただ死を選ぶまでだ! 一切か? 無か? 噫! 我らはついに、人生の敗北者だ! ", "敗北者じゃありませんよ。信ちゃん、私は敗北者として死ぬのはいやですよ……そんなこと言うなら、わたしは死なないよ! " ], [ "赦して下さい。菊ちゃんあなたには、死は勝利でしたね", "そうですよ、死は勝利なのですよ。あなたは死が敗北だなど言うものだから、私は死にたくなくなったのよ……そしてあなたは、死を勝利と考えていらっしゃるの? ", "僕には判らない! 何もわからない。一切が無です……私には", "頼りないわ。あなた、死は勝利とおっしゃいよ", "虚無は一切の終点だ", "それでは私死ねないわ……あなたは、ダヌンチオの小説の『死の勝利』の中に出てくるジョルヂと同じことをおっしゃいよ", "僕は、その小説を読んでいないのだ", "たよりないわ、あなた! 現代的に心中するなら『死の勝利』一冊くらいは読んでおかなくちゃいかないわ", "じゃ菊ちゃん、あなたは、その小説の真似をしているの? ", "真似というのじゃないけれど……あの中に出ている気分を私は味わいたいのですよ" ], [ "なんだろうね、土左衛門のようだね", "土左衛門と違うぜ! 私らも心中者じゃ。ちょっと待たっしゃれ。今、私ら二人は岸に上って行くから" ], [ "あなたは語るに足らないわ。ダヌンチオの『死の勝利』さえ知らないのだもの", "娘さん、それがどうしましたの", "あなたたちの心中のやり方はもう旧いということですよ" ], [ "いとさん、私には、あなたのおっしゃることが少しも解りません。あなたがたの心中はどうも本から来ているように思われますが、そうではありませんか? ", "本? 本って何ですか", "あまり西洋の本にかぶれていらっしゃるのじゃないのですか? ", "心中するのが、本にかぶれて? " ], [ "では、お染さん、あなたがた二人の心中はいったい何にかぶれたのですか? ", "私たちのは、何でもありません。それより取る道がなかったのです", "それじゃ、私たちだって、このほかに取る道がないのです! ", "そうは、言わしませんよ! " ], [ "私たちは三百年前に身投げした亡霊ですから……", "亡霊?……亡霊って、幽霊と同じことですか? ひえっ! " ], [ "菊子さん、私たちが幽霊だということだけを聞いて、びっくりするようなことでは、あなたはまだ死ぬ資格はありませんよ! ", "じゃ、私は心中試験に落第したのですか? ", "そうです。あなたは、久松の心中学には落第です……それはあなたが、心中せんとする場合に際して、何ら新機軸を出さないからです。いったい古いじゃありませんか? 私たちの真似をしてみたり、イタリーの小説の真似をしてみたりすることは! ", "じゃ、どうすればよいのですか? " ], [ "あなたは飛び込むところが違っております", "ひえッ、ここじゃいけないのですか? もう少し川上がよいのですか", "そうじゃありません! 私の言う飛び込むところとは、もしも生命の捨て場所を捜してござるなら無産者階級解放の第一線に立って花々しく討死にしてしかるべきだと思います! ", "まあ、久松さん、わたしあなたから、無産者階級解放論なんか聞こうとは思いませんでしたよ! ", "お嬢さん、そこです……時代は変りつつあるのです! 心中情緒も改造を要すべき時代なのです! 命の捨場所を卑怯にもこんな川底に求める必要はありません。川底にそれを求めた時代は、私らの時代でした。今日の時代は解放の途上に、新しき心中の途を発見すべきです。あな方は死線を越えなくてはいけませんよ! ", "まあ、久松さん、あなたは随分色々なことを、ご存知ですね", "もちろんです。私は冥途の世界においてもサラリー・メンス・ユニオンの幹事をしていましてな、丁稚、小僧、番頭、近頃死んで来る腰弁連中を糾合して青鬼赤鬼の圧政に反対しているのです。まず地獄の沙汰も金次第と言われている金銭による差別撤廃を実行する積りでいます。だから近いうちには地獄においても亡者自治の世界が実現すると思うています。ことにこの世において添い遂げられなかった若き恋人同士を添え遂げさせるために地獄で努力しているのは私です", "そうすると、地獄でも今そんな運動が起っているのですか? ", "そうです……", "判りました、久松さん、有難う。私は淀川に身を沈めた積りで、これからあなたが地獄改造運動に専念していらっしゃるように、現世において戦います。有難う。心中は階級戦の中に発見します? 屍はそこに曝すのでしたね? ", "そうそ! 今時の娘らはわかりが早いので面白い! それが新しい心中です! つまり新理想主義の心中というのは、水に溺れないで、男女相愛するものが解放運動のためにともに手を取って戦いつつ倒れることを言うのです! ", "まあ、久松さんは学者ね……私は淀川の蘆辺で、こんな実際教訓をうけるとは思いませんでした", "判りましたね。それでは、私たちはこれで失礼いたします" ], [ "タンクよ、大阪人はな、みなお前によく似ているよ。外側だけは派手でも中は空っぽじゃ、……そして臭いガスが腹の中に詰っている", "お日様、そんな毒性なことを言うのなら私は親類筋の煙筒にいいつけて、今日からはあなたを大阪の煙でこの世界から燻り出しますぜ……今日限りあなたは大阪の土地を一切見ることを許しませんよ" ], [ "市長さん、お怪我はどうです? ", "もう癒りましたか? ", "まだ煤煙禁止運動をやる勇気がありますか? " ], [ "それはよかろう。早速大阪婦人大会を開くことにするから、その時には、ぜひ菊子さんに、話をしてもらいたいものだね", "それは、やります。それに私にはもう一人お友達がありますから、その人にお頼みして演説していただきます", "お友達というのは淀君のことですか? ", "いいえ、油屋染子さんです", "油屋染子さんって、誰のこと? ", "お染さんのことです! 賀川さん、あなたもよほど血の巡りの悪い人ですね", "ああ、そうですか? それは面白い。では、お願いしましょう。明後日くらいでよいでしょうね", "何日でも、お染さんを連れて来ます" ], [ "横暴! ", "横暴! " ], [ "よう、お染さん! ", "恋愛至上主義! ", "心中の神さん! ", "新しき女! " ], [ "アレは、お染の幽霊やったのかいな", "別嬪やったなア", "久松が、一生懸命になったのも道理やな", "やはり、煤煙防止をしなくっちゃいかんな" ], [ "菊子、おまえのような蓮葉ものがようまア家に帰って来られたものじゃなア。出て行ってくれ! おまえのために、この安治川の家が汚された。ことにおまえはあの賀川の馬鹿野郎にそそのかされて女壮士の真似をして、警察に引張られたというじゃないか! この奴畜生が、この安治川の家業が石炭商であることを知らないのか! 煙筒を倒す運動をすればこちらの石炭が売れなくなるではないか! そうするとお前の嫁入道具を誰が買うのじゃ", "お父さん私は嫁入道具なんか要りません! ", "どうしてじゃ。おまえは松島へ行かないんか! ", "あんな人身売買をしている家に嫁入りに行くのはいやです……死んでもあんなところにはまいりません", "そうするとお前は何か、ほかに男でも出来ているのか……", "はい、私はもう約束しています", "こら極道者め! 親の耳にも入れないで一人で情男を造らえるというのは何事じゃ! " ], [ "警察から帰るとね、父が怒りましてね、殴られたり、蹴られたりして、困りましたよ", "いったい、あなたどうするのです? " ], [ "私はあくまで戦う積りでおります。今夜もこれから煤煙禁止運動のために、路傍演説に出かけるつもりで出て来ました。私はね、婦人参政権などのような回り遠いものより、自分が毎日吸うている空気を澄ませる運動を緊急なことと思うているのです。で、会員を募集して、徹底的に戦ってみたいと思います。近き将来に母にならなくてはならぬ私は、胸のないような子供なんか育てたくありませんからね", "ほんとですね。じゃ、どんな運動をおとりになりますか? ", "私はね、主婦の非買同盟を作って、煙筒を立てて市民の健康を害するような工場を経営している悪資本家の製造品を一切買わぬようにしたいと思っています。それが生温ければ、婦人ばかりの示威運動をやることも必要だと思います。そして出来るだけ大阪で生まれた胸のない咳をしている子供を背負って行列に加わり住友伸銅所や、春日出発電所へ直接談判に行けばよいと思いますの", "それは面白いわ。じゃ大示威運動の準備でもしましょうか" ], [ "首はいらぬか? 首一つ!", "首を買うてくれ! 首、安いぞ! " ], [ "君、あの人々は失業者だね", "そうです。もう食うことが出来ないものですから、自分の首を売回っているのです", "気の毒だね、どうにかせねばならぬね" ], [ "君はその首を売るのですか? ", "ハイ、一つ買うてくれませんか", "いくらですか? ", "一日、二円で売ります", "一日二円でもって切売するのですか? ", "そうです。一生でも売りますが少し高いですよ", "いくらですか? ", "いくらとは言いませんが、妻子が食うだけくれさえすればよいのですよ", "君らはどうして首がなくなったのですか", "この間の大示威運動をご存じでしょう", "ウム、知っているよ、それがどうしたのです? ", "あの時に私らが賃銀値下げに反対した指導者であったものですから、首を斬られたのです", "それは気の毒ですね", "我らは一種の奴隷です。……賃銀奴隷です。失業している間はいつも自分の首を身体からはずして売り回っているのです", "随て来たまえ、食うだけのことはするから", "いや、我らは乞食じゃないですから、お情には浴したくないのです。仕事が欲しいのです。仕事を与えて下さい。仕事を与えて下さるなら、私の首は自然繋がれるのです。仕事はありませんか? ", "仕事はないね――" ], [ "別にすることはないだろう", "いや、池上市長が十数年も捨ててある学制統一案を整理するだけでも充分仕事があります" ], [ "これでよろしいでしょうか? ", "大丈夫ですよ、私の印判がありさえすれば", "ハア、そんなものだすかア" ], [ "これは紫宸殿より立派でござりますなア", "昔は事務がありませんでしたから。こんな建築も必要でなかったのですなア", "ほんとうにそうですなア、昔の課長階級すなわち大納言級と言えば、まず歌朝三首、夕三首ときめていたものですからなア、詩的労働と言ってもよかったものです" ], [ "市長さん、あなたに辞職を勧告します", "フウム、君は僕が辞職したがよいと思うかね", "よいも悪いもありません。あなたは国家の基礎を危くするものです。……あ、あ、あ、あなたは市役所の事務を請負制度にすると言われますが、そ、そ、そ、それでは市の主権はどうなるのです", "市の権威者は市民の道義的結束そのものです。そのほかに別に権威はないはずです", "では、あなたはこの大阪市をどうする積りですか", "万国郵便制度のように、人民の公用のために人民の自らの社会性を信じて、すべてを互助中心の自由社会にする積りです", "市長、それでは、我々の首はどうなるのです", "あなたたちが、市民の小使であることを忘れてあまり威張るから馘首したが、小使としてなら採用して上げます", "市長、私は小使にはようなりませぬ。鴻池善右衛門の親類の孫の娘の婿の従弟に当るものです。市役所の小使などにはようなりませぬ", "じゃ、あなたは市役所をやめたがよいでしょう", "やめます……、その代りあなたもおやめなさい", "それはあなたの言うべきことではない。私は金持を本位とする今日の市政を根本的に改革しなければ、市長はやめられない" ], [ "そら、わたいらのような、お多福はあきまへん、太閤さんのお妾さんと比較するのは比較するのが無理だす", "いや、お花さんも、なかなか別嬪や" ], [ "いやわしはあんな別嬪をちょっと生れて見たことがない", "そらそうと、この間の婦人大会にお染久松のお染が演説したと言うが、お染って 別嬪さんかいな? 名高い女は、昔から不綺緻に限っているように思ったが、お染も、私には別嬪と思えないが……" ], [ "つい、惜しいことをしました。とうとうよう見ませんでした。安治川さんはお娘さんから評判をお聞きになったでしょう", "いや、わしはな、教育課長、娘を勘当しましたのや", "まア、そんなことが", "ほんとですぜ、あいつは、近頃、空想ばかり考えて、馬鹿市長の言うことなら、何でも聞くのでなお憎いのです" ], [ "お花さん、もうよい加減にせんといかんぜ、そんなことを言うと安治川さんが怒るぜ", "怒ったって、何だす、娘の恋はかなえたほうがよいと、私はこの間中から申上げているのです", "恋愛学校卒業生は違ったものや" ], [ "安治川さん、もうよい加減に市長排斥のご相談を願いたいものですなア", "サアね、もう、あの男排斥のことはきまっていることだから、取立てて言う必要はないと思うね" ], [ "わたしは、みんなが市長はんを排斥するのは間違っていると思いまんな。あの人は大阪市の恩人やと、わたしは思いまんね", "えらい市長に肩入れしたもんやな" ], [ "まさか、誰れが、そんなことを言うていた? ", "人の噂というのは、早いものでな。わしのような、稼業をしていると、チャンと知らせてくれるものがあるのや", "真面目な顔をしているがなア、いやしかし、今時の教育家は蔭に回ってどんなことしておるか判らへんよ。近頃新聞にちょいちょい教員の失敗の事件が出ているのを見ると、あの男もわからへんなア", "しかし、安治川君、大阪市のカフェーもどうにかせないかんぜ、まるで女郎屋のようだぜ。あれじゃ娘も堕落すれば、お客さんも堕落するな。わしは女給に検黴すればよいと思うなア", "ひどいことを言うな! ", "しかし実際安治川君、近頃のカフェーほど危ないところはないからな。あれじゃとても洋食の一皿も青年一人で食いにやれないなア", "じゃ、女郎屋はいったいどうするんだ", "女郎屋は、まだよいぜ、カフェーでは青年が堕落するように誘惑するからひどいよ。ことに教育課長が引っ懸っているカフェー・アブナイの梅子というのは、鼻毛で放れ馬を繋ぐとまで言われている妖婦なんじゃ", "困ったものに引っ懸ったもんじゃなア、お花――(安治川はお花に向いて)――お前、カフェー・アブナイの梅子と課長さんとの関係を知っておって、今夜あんなことを言うたのか? ", "はア、この間松島さんから聞いて、一度言うてやりましょうと考えておりましたのです。先生は、もう少し先生らしくしなければいかんと思いますね。あれでは、私のような芸者のほうがはるかに真実味があるように自分手に思います" ], [ "実を言えば一燈園のような団体がもう少し積極的に出て、個人の宅の便所の掃除ばかりしないで、市政の便所掃除をしてくれるとよいのだがなア", "頼みに行って来ましょうか。あすこなら、知識階級の人々も大分多いから、市政を完全に運ぶことが出来るでしょうなア……" ], [ "なんですか? また大変なことでも起ったのですか? ", "いや、別に、たいしたこともないのですが……実はね、今日の午後から市役所の吏員が全部ストライキ状態に移ったのです。それでね、一燈園にお願するか、学生団体にお願するかまだ先のことはわからないのですが、婦人団体には奥様方で随分遊んでいる方もあるようだから、一つ一燈園で托鉢に出るつもりで懺悔奉仕の義勇労働をお願いしたいのです", "そら、なんでもないわ" ], [ "やります。決心しました。こんな時にやらなければ女の技量を示すときはありませんから", "やりましょう", "やりましょう" ], [ "必ずおやり下さりますな、弘子さん", "きっとやります。お疑いになるなら、証拠として両袖を差上げましょう" ], [ "あまりに淋しい夜だ! ", "人生に救いはないか! 人生の闇はいつ晴るのだ! " ], [ "洪水だ! 洪水だ! ", "浸水! 浸水! ", "助けてくれ! ", "家が流れる! " ], [ "そうです、どうかしましたか? ", "少し煙が多く出過ぎておりますなア", "少しくらいでしたらやかましく言いたくありませんが、あれではこのあたりの住民の衛生状態に悪いですから、五円の罰金を貰います", "五円の罰金? ", "そうです、罰金を貰うことになっております", "私方では、そんなことを少しも知りません", "五円の罰金はまだ安いのです。あなた方はあれだけの煤煙を送るために、市民がどれだけ迷惑を蒙っているかご存知ないでしょうが、このために大阪市には年々肺病人が増加し、死ぬ人の数が増しておりますから、市民の公安を思わない人は死刑に処してもよいのですが、この後を戒めるために、このたびだけは初犯五円だけで許しておきます", "私のほうではよう払いませぬ", "よろしい、それでは、原動機の運転中止を命じます", "おそろしい権幕じゃなア……煙を出すのが、そんなに悪いことですか? 昨日、一昨日まで、いくら石炭をくべて煙を出しても誰も怒る人がおまへんでしたやないか! いったい、誰がそんなことをきめたのです", "今度の市長です", "今度の市長さんて、誰です", "賀川さんです", "ああ、あの馬鹿野郎ですか……いったい誰が、あんな男を市長にしたのですか? ", "サア、とにかく私の役は罰金を貰う役ですから、罰金だけ貰いましょうかい", "いや、私方ではそんな無法な、罰金なんかはよう払いませぬ", "じゃ、機械の運転の中止を命じますよ", "命じて下さい。そんな乱暴なことが出来るなら、いつでもやってみて下さい。昨日まで煤煙の出し放題であったものが、今日になって出せないという法がどこにあります", "あなたは、あまり自分のことだけを考え過ぎて市民の迷惑というものを少しも考えておられないようだ" ], [ "あほらしい! 自分の煙筒から煙を出すことが出来ないなんか……そんな煙筒をなぜ許しておくのだ! 煙筒は煙を出すためじゃないか、煙が出なかったら煙筒ではないじゃないか! 馬鹿野郎、ちっと考えてものを言え? ", "昨日までは市民は銘々自分の思う通りにしていたのです。しかしそれでは悪いということが判ったので、今日からは煤煙禁止の監視人までが付いているのです。あなたは、そんなわがままを言うことはできませぬ。煙を出さなくするために、少し竃の築き方を直せばいいじゃありませんか! 百円か、二百円で出来るごく安い仕事じゃありませんか、それをしないでいて、市民に迷惑をかけることは、大きな謬です。罰金五円は安いのです" ], [ "おい、大阪の空には毎晩大入道が出るそうじゃぜ! ", "おい、そんなに人を怖がらせるようなことを言うてくれるなよ", "だって、ほんとだよ! 誰一人今じゃ、それを信じないものがあるもんか! ", "じゃ、俺はそんなものを見んように、神信心でもしてやろう" ], [ "駄目ですよ、人もし新に生れずば、めだかの国に入るべからずです", "だって、僕はこのままでは、とても大阪に帰る勇気がないのです。どうか人一人助けると思うて、仲間入りをさせて下さい" ], [ "あなたは、謙遜になりますか? ", "どれくらいでも謙遜になります", "あなたは物知りだと思うていちゃ駄目ですよ。あなたは今までの知識がごく浅薄であったことを認めますか? ", "もちろん、それは認めます" ], [ "人間のつもりで、我らの仲間に入っちゃ駄目ですよ。めだかの仲間入りすりゃ『めだか』の心になれますか? ", "なりたいものですな。それになりたいのです。実は、もう、人間に飽いたところなのです", "そんなに人間に飽いたなら永遠に魚になる希望を持ちますか? " ], [ "返事はまだですか? 一、二、三、四、……", "あなたの質問は、なんですか、私に永遠に魚になる希望があるかと言うのですか? ", "そうです! ", "ちょっと待って下さいよ……", "五、六、七、八、九、十………返事はまだですか?……私が二十と言うまでに答えが出来なければ、あなたは永遠に私たちの仲間入りすることは出来ませぬ。私たちは非常に忙しいのです。夏は我らのかき入れ時で、夏のうちに進化しておかないと、他に機会はないのです……十一、十二、十三、十四、返事はまだですか? ", "〈めだか〉さん、そんなに急いでも、私はまだ決心がつきません……", "そんなことでは宇宙の進化に遅れますよ。植物は動物よりさらに、大きな努力をしておりますよ。私はあなたのような呑気坊を対手にしていることは出来ない、……十四、十五、十六、十七、……もう三秒しかありませんよ", "私はめだかだけにはなりたくない。自然のすべてのものになりたい", "よろしい、それでわかりました。あなたは一筋縄ではゆかないから、縄を七筋半あげます" ], [ "どこ? どこ? ", "あの岸の上に立っておる欅の木の蝸牛よ", "見えた。見えた! ", "戦争をしているのが見えるか? ", "見える。見える" ], [ "またやっていますなア", "今日は、天気がよいですからな、朝からやっています" ], [ "よくもあんなに根気の続いたものですな", "あれは生れつきでしょうな、……よく殺人狂というのがありますが、人間はどうしても殺人狂の血が多量に混っているようですよ" ], [ "今日はどこからいらっしゃいました? 大阪からですか? 京からですか? ここはちょうど京と大阪との真ん中で、どちらへも五里と言われております。あなたは、どちらからお見えでしたか? ", "私は大阪のものです", "そうですか、ようこそお出でなさいました。ついてはお客さん、この川底には二派ありましてなア、ここへ来る人は、どっちかに付かなくちゃならぬことになっています。あなたはどっちにお付きになりますか?", "私はどちらにも付きたくありませぬ。私は昔から党派がきらいです", "それでも、あなたは、どっちかに付かなければ、ここで生活することは出来ませんよ", "そら、また、どうしてです? 私は政党や政治に関係するにはあまりに疲れ過ぎています。川底へ来てまで政党騒ぎをしたくありません" ], [ "では、私方へ養子に来てもらっても差支えはないのですか? ", "それは自由にすることにしましょう、皆様ご異議はありませんね? " ], [ "ここでは一方が承知しなくても、結婚が可能なのですか? ", "いや、なに、魚類の世界では、哺乳動物の間で行われるような結合を必要としないで雌種が腹の中で妊娠しないのですから、あなたにはちっとも責任がないのです。心配はご無用です。勝手にきめて、勝手に騒いでおるのですから捨てておきなさい" ], [ "そうですね、人はみなそう言います。しかし、私は徹底的の抗争論者です。ただその抗争を暴力でしたくないだけです", "暴力のほかは、何でもよいのか? ", "まア、そうです", "そのほうが賢いなア", "私はもう帰りたくなった。帰らせてくれませんか", "もう少し俺に話してくれ。俺はさびしい。軍備縮少の話でもしてくれ。……世界は果して、軍備を縮少して安全であり得るかどうか。それを話してくれ! 生存競争はどの程度まで必要なのだ。それについても教えてくれ、己は今煩悶しているのだ。俺は産れ落ちてから、こんな重い甲冑を着せられているので、そのことばかりが、煩悶の種になっているのだ", "蟹さん、それは私があなたに聞きたいことです。私も、いつもゴロツキにいじめられ通しているものだから、どうしてその脅威から逃れようかと思うておるのです" ], [ "ゴロツキって、何だ? 何類の動物だ? ", "それは寄生虫です", "そいつを、鋏で殺してやろか? ", "そら、あなたの暴力論が出た! ", "ウム、俺はまだ鋏の効能を信ずる! 俺は折々暴力否定論者になって、折々暴力肯定論者になる、俺には議論がない。実行あるのみだ! " ], [ "今日は、水を離れるつもりでおります", "へえ、水を離れる? そらまたどうして? ", "もう時が来ましたから、羽根をつけて飛び上ろうと考えているのでござります", "なるほど、わかりました。あなたは進化なさるのですね", "そうです、飛躍する積りでございます", "私にもその飛躍の方法を教えてくれませんか! " ], [ "あなたは、それを覚えて、どうなさるお積りですか? ", "自分の家に帰りたいのです", "あなたの家というのは、どこですか? ", "大阪です", "あの煙の都ですか? ", "あなたは、よくご存知ですね", "先祖代々伝説がありましてな、大阪の街は煙のあるために危険な街だと教えられております……そこであなたは何をしていらっしゃるのですか? ", "私は役所に出ております", "近頃、大阪では労働問題がやかましいそうですね……着実に発達しておりますか? ", "近頃は大分革命的になったようです", "革命的というのは、どうしようと言うのです? 破壊的な行動にでも出ようと言うのですか? ", "まア、そんなものですね" ], [ "その人たちに、革命の真意義が解っているのでしょうか? ", "さあねエ……", "真の革命は人間の子にはわからないと見えますなア", "じゃ、あなたのお考えではどんなものですか? ", "飛ぶことです! 内側から変化することです。私のように水虫から空中に飛び上る力がなければ駄目です。……しかし人間は私たちのようには飛べないようですね。内質的に変化のないものがいくら蟹や蛙のように暴力や権力で押しつけの革命をやっても駄目ですよ。結局は土地の上を這い回るだけですよ。真の革命は魂の内部からやらなければ駄目です。そうしなければ生命の飛躍などは到底望むことは出来ませんよ。永遠に境遇の奴隷ですよ。しっかりおやりなさい。私も応分のお助けを致します" ], [ "じゃ、先刻お願いしたことは、お願い出来るでしょうか? ", "それはお安いことです" ], [ "君は賀川豊彦君じゃなかったのですか? ", "そうです、私は賀川豊彦です……あなたは誰ですか? どうも見覚えがあるようですが、私はあまり疲れていて意識が判然しませんが……あなたも賀川豊彦さんじゃありませんか? " ], [ "君は魂と肉体とを区別しているようだが、私はそれを区別したくないのです。ただかりに現在の私を〈霊〉の私と呼び、過去の私を〈肉〉の私と呼ぶことには差支はありません。しかし、それはよく誤解されますから、霊肉の二元論でないことを注意して下さい。私は時間の上に延び上る私と、空間の上に拡がる私は一つであると思います。それで、出来るだけ二人は一緒にいるがよいと思います。しかし必要に迫られた場合二人は別々の働きをしましょう。合点してくれましたか? ", "合点しました。何分よろしくお願いします" ], [ "ちょっと社長さんにお目にかかりとうごさいます", "今日は日曜で社長さんはお留守です", "では工場長に……", "工場長もお出になりません", "では主任の方に", "主任もいらっしゃいません……今日は日曜ですから、みんなお休みです", "煙突から煙が出ているのはどういうわけですか? ", "仕事だけはしております", "では当直の方に会わして下さい。私は煤煙の問題でぜひお目にかかりたいのです" ], [ "何のご用でござりますか……本日はちょうどみな休業いたしておりますので、ご用事は明日にしていただきとう存じます", "みな、休みでしたらあの煙はどうして出るのですか? ", "あれは、石炭をくべますと自然に出るのでございます" ], [ "なるほど、私などに較べると故人は徳の高い人でしたなア。私などは随分、お金を貸してもらいましたからなア……しかし、和尚さん、慈厳とお付けになったのは、どういうわけでござりますか? ", "それはもし、故人が実に博愛の人でありまして、下情に通じ、芸娼妓、酌婦に致るまで故人の慈悲に浴しているということをしばしば承わりましたので、そうおつけ申したのでござります" ], [ "フ、ム、なるほど、実際故人のお引立に預かった芸娼妓、酌婦は幾百人と知れないでしょうなア、そうすると和尚さん、なんですか、私のような、女郎屋の商売をやっているものも、死にますと、慈厳院くらいの戒名はいただけまっしゃろかなア? ", "まア、その道理ですなア……あなたなどは、可哀想な貧民の子供によき職業を与え暮し向きの立つようにしていらっしゃるのですから、一種の慈善事業をしていると言えば、言えますなア", "ハア、これは有難いなア、仏の道では女郎屋商売も、一種の慈善事業ですかな?……", "仏の慈悲には善悪の区別がありませんから、すべてが慈悲に変ります、たとい女郎屋商売をしていても、それが救の縁となります", "有難いですなア、そうすると、あなたは女郎屋商売には……ここの菊子さんのようには……反対じゃありませんなア", "私は女郎屋も今日のところでは必要だと思います", "ますますもって有難いですなア。和尚さん、近いうちによい玉を五匹くらい殖やそうと思うとりますのや。また儲けましたらお寺に寄付させていただきます", "まア、どうかそうお願いいたします" ], [ "誰が煽動したのでもない。あれは流行やがな。しかし、まだストライキが続いているのかいな? ", "市長がやめるまで、ストライキをこのまま続けるという話ですな" ], [ "しかしさ、ただ市会の決議だけでは、あの男は動きそうもないぜ、何か刑事問題でも起して牢屋に打込むと一番早いがなア", "そこだって、何か種があるかね", "そら、何でもないよ、安治川君の変死とくっ付けたらよいじゃないかね。安治川君の死は確に、市長にも責任があるからなア" ], [ "まア新しい大本教ですな。彼は加持祈祷の力で万有を動かすことを自信しているそうです。彼が祈ると電車でも汽車でも、ハタと止まるそうです", "まア、あなたは大きな法螺を吹くのね" ], [ "私は信じられないわ。市長が私の父を念じ殺したなどいうことは", "しかし、それにはたしかに信ずべき理由があるのです。その第一の理由は彼が安治川さんを非常に嫌っていたということです。第二の理由は北九州の炭坑夫が非常に安治川さんを憎んでいるということです。第三は大阪の労働団体ことに島村さんの系統の人々が、安治川さんを憎んでいたことです。憎むことは殺すことです。安治川さんは悪者どもに呪い殺されたのです。念力というものは、恐ろしいものじゃありませんか! " ], [ "そら、おまえがよいと思ったら、そうしたほうがよいだろう……しかし島村さんは、あれで生活が出来るのかね。労働組合の仕事などしていて、子供が生れでもしたら困りはしないかい? ", "そら、お母さん、私も一緒に働きますから、大丈夫です", "そんなに、おまえが大丈夫だと言うても、おまえは元来わがままに育てられてきているから私は心配でならない。まだおまえは土鍋でご飯を炊いたことがないだろう? ", "お母さん、土鍋でご飯くらいは炊きますよ", "おまえ、家の仕事はままごととは違うよ! ", "それくらいのことは知っておりますよ", "その覚悟があるなら、島村にやって上げるよ……土鍋でご飯を炊いて、貧乏してもご主人に仕える覚悟があるなら、おまえは島村さんのところで辛抱が出来る。今までと違うから、しっかりやらなければいきませんよ。荒いことを言うて示威行列をやっている調子では、子供育ては、出来ませんよ。わかっておりますか? ", "判っておりますよ", "じゃ、島村さんを呼んで下さい" ], [ "おい天狗、この空はどうだ。やはり酸素吸入器を携帯して来てよかったなア", "あいにく雨で大会に集まる者も困っているだろうなア……しかしこの空には俺もほんとに驚いてしまったよ。君の忠告に従って酸素吸入器を持って来てほんとによかった! ", "雨が降ると煙が上に立たぬと見えて、煤煙が全部降下しているようだなア。どうだこの暗いのは。まるで夜中のようだなア。ついでに提灯も一緒に持ってくればよかったなア!", "ウム、ちょうどよいものを持ってきた。俺は懐中電燈を持っている。これを灯して行こう" ], [ "あれは何だっしゃろなア? ", "サア、昼の日中に電燈をつけて……よほど奇人と見えますなア" ], [ "その背中のものは何だす? ", "これかね、これは酸素発生器だよ", "酸素発生器! ", "君らは酸素発生器がわからないのかね、大阪のね空気が悪いので酸素発生器を持って来たのだよ", "そうだっか? 大阪の空気がそんなに悪うおまっか? " ], [ "おい! モングリや! モングリや! ", "海から出て来たモングリや! " ], [ "おい贅六、俺たちはモングリでも水の中のモングリじゃないぜ、気体の中のモングリだ", "その鉄の兜は何だす? ", "これかい……わからん奴だなア、これは酸素吸入器じゃないか? 大阪の空気があまり悪いから、東京のような森の街から大阪のような煙の街に来ると、これを使用しなければ酸化作用不足で窒息してしまうのだ。……君たちはよくまアこんな悪い空気の中に住んでいるねえ? " ], [ "煙は少しも人体に害はないようです。私はそんなもの持たなくとも平気で活動が出来ますよ", "しかし、大阪人の胸囲は年々減ると言うじゃないか? " ], [ "そうです、そうです、しかし減ってもわずかでしょう。一インチとか一インチ半とか言うておりましたよ。適応すれば大丈夫でしょう", "おい胸囲の一インチと言えば酸化作用で言えば一日、約五万立方フィートの酸素の作用を減少さすわけだぜ! そんなに、君の言うように簡単にゆかないのだぜ", "しかし、私たちはもう慣れているから何ともありません! ", "だから発明家なんか大阪におりやしないよ。みな酸素の不足のためだよ。しかし、こんなにぐずぐずしていても仕方がない。おい行こう" ], [ "そうかい? どこに? ", "これ見ろ! " ], [ "おい! おい! 天狗、これは洋傘のためじゃないぜ、まったく大阪の雨はインキ色をしているのだぜ、おい、みろ、大阪の屋根の色がみなインキ色をしているじゃないか、溝の水も、川の水も、桶から出てくる水も、みなインキ色をしているぜ! こりゃまったく煤煙が雨に溶けて出てくるものと見えるなア", "なるほどなア、それでわかった。どうも東京の雨とくらべてみて、何だか黒ずんだ雨だと思っていた。まったく煤煙が雨に溶解して降ってくるのだな" ], [ "空中の文化村ですって? そらまた一体どうすればよいのですか? ", "それは、別に困難なことではありません。今日の気体力学によって充分空中における安定を得る方法が発見せられておりますから、ゼエフエリンの飛行船を改良して絶対に動揺しない住宅を空中に作ることが出来ます。畑も空中で作ることが出来ます。工場も空中に作ることが出来ます", "へえ? 空中の畑? " ], [ "そうすると、なんですな、もう移民問題などはやかましく言わなくて、足りるわけですか。あなたの説によると空中に新しい島が思っただけ製造出来るわけですね", "まったくそうですよ。一反歩の畑を造りたいと思えば、それだけ飛行機の翼の上に――翼はすべてアルミで造ります――土を平均一尺八寸だけ置くと、それで耕作は充分出来ますよ。で五反作ろうと思えば、そんな飛行機様の平面を五枚だけ空中に繋げばよいのです。あまり広くすると、太陽の光線が前面に射しませんから狭い平面を出来るだけ多く平行的に重ねてゆけばそれでよいでしょう", "そんなことが、出来ますかね? 昔のバベルの塔以上ですね", "それは、バベル以上です。人間は近き将来においてすべて、空中に移住すると思います。地上に這うていると、どうしても生存競争が激しくなることは、きまっています。爬虫類の社会においては今日なお激烈な生存競争が行われておりますが、爬虫類社会から足を洗うて空中に舞い上ったものは、今日鳥類であります。鳥類は実に幸福な生活を送っています。空中に飛び上ると生存競争が減退するからです。……どうかお考え下さいまして、すぐに実行に移していただきたいと思います。" ], [ "私もそれにはまったく同感です……何かそれについてよいお考えでも湧きましたか? ", "さればですな、私は空中共産国家を発明しました", "それはどういう社会組織ですか? " ], [ "それはね、地上の所有権を主張することを好まない人々がみな空中村に移住して一切を愛と相互扶助によってやってゆこうというのです", "それは実行上において可能でしょうか? ", "もちろん、私はそれが真の天国だと思います", "天にあるからですか? ", "冗談言っちゃいけませんよ……私の主張は真面目なのです", "空中には境界がありませんから、所有権を主張しても頼りないでしょうなア? ", "いや、私の言うのは、もう少し根本的なものなのです。空中に住む人々はすべて今日の人間と変った新しい人間であらねばならぬと考えるのです。すなわち、空中人はアダムの子ではなく、羽根の生えた人間でなければならないと思うのです", "なるほど、つまりなんですか? 鳥人ということになりますかね? ", "まったくそうです。新に生れ変るのですな、あたかも〈ぼうふら〉が蚊になり、毛虫が蝶になるごとくに人類も新しく変身するのですなア" ], [ "市長さん、この羽根の方はどなたですか? ", "これはやはり賀川豊彦です", "すると、あなたは? ", "私もやはり賀川豊彦です" ], [ "この方はものを言わないのですか? ", "他人には物を言いませぬ。私にはいつも物を言ってくれますが", "そうすると、私の発明せんとするものとは少し違っておりますなア……私の発明せんとする新案特許の人間は誰とでも物を言う者で、この第二の賀川氏のように窮屈な人ではありません。この第二の賀川氏はまるでトラピストの修道僧のようだね。……これでは新社会に適しませぬよ……しかし、あるいは私の空中村の第一期の住民はこの種類が適当であるかも知れませんね……ちょっと待って下さい。この方……第二の賀川氏の体重を計らせていただきます" ], [ "私には体重がない! ", "理想的! 理想的! " ], [ "市長さん出来ましたよ。畑も造らえてあります。花も植えてあります。大阪市の全住民が移住してもよいような設計も出来ております。どうですか、一つ今日は空中の畑で耕しなさいませんか? 煙はちっともありませんよ。煙より二千尺くらい高くなっていますからそれは実によい景色です。なんならば市役所の全吏員も空中に引越しなされてはいかがですか?", "それはどうも有り難い! では、まず私にその空中村を視察させて下さい" ], [ "これですか?", "これは人間を鋳換える場所です。……これはぜひ空中になくてはならぬものでありまして、今までの人間であれば、必ず空中村で戦争を起したり、革命騒ぎを面白がったりしますから、ここで人間を鋳換えることになっています", "なるほど!", "この機械は何という名がついていますか? ", "ワグネル・フアウンドリーと言います、ゲーテのファウストに出てくるあの人間改造家ワグネルの使用していたものに改良を加えたものです", "なるほど……そうするとここで鋳換えてもらうと、羽根でも生えてきますか", "羽根はもちろんです。第二の賀川氏のように体重をなくすることが出来ます", "まアそれくらいのことですか? ", "いやそればかりではありません。人間が全然新しくなります。つまり魂に生れ変ることが出来ます", "では、私を第一に鋳換てくれませんか? ", "あなたは、もう鋳換られる必要はありません。すでに霊体の第二の賀川氏がおられますから", "あなた方はすでに鋳換られた人々ですか? ", "いや、機械だけは学理によって据えつけたのですが、エネルギーに不足を感じているので私たちは動かす工夫を知りません。これは万有動力――つまり神の力――によって動かさなければ動かない機械です", "妙な機械ですなア", "そうです。哺乳動物の子宮を進化させたものです", "動かしてみせてくれませんか? " ], [ "そこで、この人間改造機械が、必要になってくるのですなア", "ほんとです。ほんとです。私のまわりに大勢いる、怪我で手足を失った人や、人生に失敗してもう一度出直したいと思っている人たちに、大いに利用したいですね" ], [ "この機械で、人種改良学が試みんとしていた人間の改造は出来ます。……そしてそれが出来なければ革命をいくらやっても結局は何にもならないのです", "同感です。今日このままの醜い人間の姿で新しい共産国家を造ったところで、それは少しも幸福ではありますまい。酒乱と脳梅毒と、殺人狂の人々の作ってくれる無産者専制というようなものは結局は地獄の隣に住むようなものでしょう。私は外部的に来る革命を少しも信じたくありません。私はどうしても人間そのものの改造を革命の第一原理として考えたいのです。この意味において私はワグネル・ファウンドリーの発明を心から慶賀します", "私はあなたがそう言うて喜んで下さることだと思っていました。そこで空中村へ移住してくる人々ですな。まず第一に誰を歓迎しましょうかね", "まず私の住んでいる後宮の貧民窟の人々を招くようにしようじゃありませんか! あしこには家さえなくて困っているものがたくさんあるのですから。そして梅毒で鼻の欠けた人や頭蓋骨に穴のあいた人が新らしく鋳換れるのだと言えばほんとに悦ぶことでしょう" ], [ "じゃアそうしましょう。……しかし、それでは一般の市民が怒るようなことはないでしょうか? ", "では、こうしましょう。一般に公告をして希望者は貧民に限らず誰でも空中に移住せしめることにしましょう", "それがよいでしょう" ], [ "さアさア。空中村は広いから、行きたければ誰でも行かせてあげますよ", "わたしのような鼻の欠けた女でもかまいまへんか? ", "そんなことの心配があるもんですか? 空中村には、ちゃんと人間改造機というのがあって、鼻の欠けた人には鼻がつき、足の悪い人には自由に動く足がつき、目の見えない人には見える眼がつくようになるのです", "そうですか? そんな不思議な仕掛がしてあるのですか? ", "この吸上ポンプが、それなんです……これで吸上てもらって、上に行くと漏斗があってそれに受けてもらい、それから先に行くと、人間を溶かす機械があり、そこで錆を落し、いったん湯にとけて、今度鋳型に流し込まれると羽根の生えた天人になって出るのです", "そんなよいところなら、一刻も早くやってもらいますわ。……わたし一人では淋しうおますよってに、仰山友達をつれてきます" ], [ "市長さん! 私もお願いします", "私もお願いします" ], [ "まア、不思議な機械もあったもんやなア! ", "あれは、いったい何だす? ", "あれは天に上る機械だす", "天に行ったら、どうなりますのやろな", "竜に呑まれてしまいますって、ほんまだすか? ", "空中村というところに、住めるのだというのは、ほんとだすか?", "いや、どうやら、あの賀川の手品師にだまされて、竜の餌食になってしまうのだっしゃろ。その証拠には、朝から昇ったものに、まだ一人も帰って来まへんだっしゃないか", "そう言えば、そうだんな、先達ての洪水といい、安治川の旦那の変死といい、みなどうも市長の切支丹伴天連の法と関係があると言うておりますから……どうやら、こんどの空中村も人間改造機も一種の手品ですぜ!……今度の市長ほど人を食うて平気でおる男は、少うおまっせ", "そうすると、やっぱり食わせものだっしゃろかなア" ], [ "おい、市長さんが、また伴天連の呪文を唱えているぜ", "あれが、そうなんかい? 薄気味が悪いなア", "俺たちも、今にあの機械に捕り殺されるかも知れないなア" ], [ "どうしたのですか?", "クーデターが始まったのです", "誰の? ", "松島正五郎一派が、国憲党の連中をそそのかして、約五千人くらいの強漢が手に手に武器を携えて、市庁舎を占領してしまいました……無政府党の連中もその中に混っています。私は生命からがらここまで逃れて来ました", "あなたはどうする積りですか? ", "私は空中村に逃れたいと思っています。島村もすぐ後から来ます。早く、私を空中村にやって下さい", "よろしい! " ], [ "大変だ、賀川さん、みんなやられた。弘子さんも、常子さんも掴まったようだ。その他の幹部もたいてい引ッ張られて行った", "菊子さんだけ逃れられたのは幸運だったね", "菊子が逃げて来たか? ", "もう空中村へ行ったよ……どうして逃げられたのだ", "あれはね、僕と市庁舎の裏で立話しをしていたのだ。その間に松島の一派が乱入したものだから、菊子はすぐ君の所へ逃げて来たのだ", "労働団体はどんな態度を取っているのだね", "労働団体は至極冷静だ。しかしボルセヴィキの一派はあなたに反対しているよ", "そうだろうね。僕の言う、より根本的な改造は唯物社会主義者に理解が出来なかろうね", "あなたの言う社会主義は現実の世界にあてはまらないユートピアン・ソシアリズムだから、かえって邪魔になると言うているよ", "そうだろうね", "しかし賀川さん、あなたも、どこかに逃げなくちゃ駄目だよ。君を第一に掴まえなければ承知せぬと言うているよ", "僕は捕えられてもよいのだ。僕はなすべきことをしているのだから決して暴虐の手に屈しないのだ。真理はかつて破れたことがないからなア", "そら来た!" ], [ "おい、えらいところにやって来たものじゃなア", "どうしようか? 大急ぎに着陸して東京へ帰ろうか? " ], [ "おい、やはり煙がひどいなア、空中村に住んでいて、煙の底に帰ってくると、人間がよほど下等に見えるなア", "我らは一段先に進み過ぎていたようだなア、煤煙防止がまず第一の仕事だなア", "しかし今日の資本家じゃ、とてもそのことがわかるまいよ" ], [ "おまえの、その被りものは何だ? ", "これは酸素吸入器です", "酸素吸入器? 何にするのだ? ", "大阪は煙が多いから、煙よけにこれを使っているのです" ], [ "煤煙防止? ではおまえは市長の味方じゃなア? ", "そうです", "ではちょっと来い……おまえは煤煙防止については一言も言うてはならぬという命令の出ていることを知らないのか? 馬鹿者! 煤煙は決して人体には害にならないのだ。かえって肺を健康ならしめ、空中を消毒し、肺病を少くし、青年の発育を増長せしめるものだ! 馬鹿者! ", "その酸素吸入器を取りはずせ! ", "これをはずすと、私は死んでしまいます" ], [ "おい、賀川、貴様は安治川舟三を呪い殺したのか? ", "……" ], [ "貴様は切支丹伴天連の法を使うて、思うた時に雨を降らせ洪水を出すことが出来るというが、ほんとか? ", "……" ], [ "貴様は煤煙防止を叫んで、産業を破壊し、国家の秩序を乱し、空中国家の設立を思い立ち、わが大和島根の国憲を危くするがごとき態度に出たことは実にけしからぬことである。すでに空中に行った人間は五万人からあるというが、みな空中で飢え死にして、死骸がぼたぼたと天から落ちて来るというが、事実相違はあるまいなア! ", "……", "おまえは天下の婦女子をたぶらかせ、市政を乱し、女子をして政治に携らしめて我国の美風を傷つけ、朝憲を紊乱せしめたものである。すべてこれらは死刑に該当するものであるからおまえを死刑に処す" ], [ "おい、とうとう煽動者が磔刑にかかるそうな", "可哀相になア", "何が可哀相だい、あんな偽善者なんか殺してしまったほうがよいんだよ。あんな奴はいざと言えば必ず反革命に賛成する男に違いないんだ", "そうだ。そうだ。あいつは労働運動界のユダだ! 彼の説く無抵抗主義のために、労働階級の階級意識は鈍れ、戦闘的気分は薄らぎ、労働者は永遠に奴隷の状態に満足せねばならないのだ……あいつが殺されたので、革命は一層たやすくなった。あんなわけのわからぬことを言う男がいなくなったので、俺たちは足腰を延ばせるよ" ], [ "幽霊じゃ! 幽霊じゃ! ", "おい、おれは幽霊じゃないぞ、俺はやはり人間だぞ! そんなに燻るない! " ] ]
底本:「空中征服 賀川豊彦、大阪市長になる」不二出版    2009(平成21)年5月1日第1刷発行 底本の親本:「空中征服」日本生活協同組合連合会    1989(平成元)年発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:門田裕志 校正:仙酔ゑびす 2010年12月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "いや、僕の方へは何とも云つて來つこないだらう、あゝして歸したんだから。それにしても君の方へ何とも云つて來ないと云ふのは、をかしいね。また人事相談へでも持込むつもりかね。無茶なことを考へ出されちや、弱るからね", "人事相談とはしかし考へたもんだね。が二度とはもうあんなことしやしないだらう。だいぶ悄げてゐたやうだつたぢやないか", "しかし田舍の人たちのやることはわからないからな。どつちみちあれが歸ると一等いゝんだがね。無理に追出すと云ふ譯にも行かず、實際今度は僕も弱つたよ。仕事は手に附かず、下宿の方は溜るし、いつそどこかへ遁走でもしようかと考へてゐる" ], [ "それが僕にもわからないんだよ。それがはつきりわかつてゐると、どうにも僕の氣持をきめることが出來るんだけれど、幾ら問詰めて行つても更にはつきりした手應へがないんでね。そして何かしら野生の動物めいた感じの執拗な眼付をして、あゝしていちんち部屋の隅つこにうずくまつてゐるんだから、つい酒でも飮むと打つたりなんかするやうなことになるんだよ。ゆうべも夜中に隣りの學生君に怒鳴られたよ。解決は明日俺がつけてやるから、今夜は寢つちまへ、毎晩々々勉強の邪魔ぢやないか、もう二時だぞ、人間には誰にだつて神經と云ふものがあるんだからね――ひどく叱られちやつたね", "神經があるはよかつたな。何しろ下宿でひどく迷惑してゐることだらうから、少し氣をつけるんだね。自分の身から出た錆ぢやないか。それでは兎に角先方から手紙の來次第僕が鎌倉へ行つてどつちかへ話をきめて來るが、その結果で、それでは當分君のところへ預けると云ひ出したら、君にそれだけの責任が持てるか?" ], [ "しかしそれが、確かにさうなのか? さうときまつたとなると、一寸問題だよ", "それが僕にもはつきりしたことがわからないのだ。あいつが何かしら意地くねわるい氣持から俺にまだ隱してゐるのか、さうらしく見せかけてゐるのか、どうもよくわからない、よし! 今夜こそひとつはつきりと訊いて見てやらう……", "そんな話は醉はん時優しく訊いて見る方がいゝから、今夜は止したまへよ。もし何だつたら、うちの細君に訊かして見るから、何とか云つてうちへよこすことにしたまへ" ], [ "いや決してさう云ふ譯ではないんだがね、何しろあの女には親父が死ぬ時も隨分世話になつてゐるし、この春弟の細君の病氣の場合も厄介をかけてゐるし、自分だつて病氣のし通しだつた。夏には赤痢めいたものまでやつて、その揚句が今度の脚氣だ。そんないろんな因縁からも、無理に追ひ出すと云ふわけにも行かないんだよ", "だからわたしの方ではちつとも構やしませんから、今度は伴れていらしつたらいゝでせう。さうなつたら誰にしたつて、おいそれとは素直に出て行きやしないもんでせう", "借金を綺麗に拂つてやつても、出て行かないか知ら?", "それはわかりませんね。先方の親たちはどんな風に考へてゐるか、その娘さんだけの考へではないかも知れませんからね", "そこだて、俺の弱るのは……", "それは仕方がないでせう、あなたご自分の仕出來したことなんだから。そしてもう身持にでもなつてるんぢやありません?……", "そんなことはまだない。兎に角それでは頼む。試驗が受かつて二人とも汽車で通ふことになるんだと、朝も隨分早いんだし、僕の仕事と酒の兩方の面倒はお前だけでは見きれまい。頑固な質だが、働くことは幾らでも働く女だから……" ], [ "讀まなくては、わからない。だが讀みたくないものを讀ませはしないから、それでは明日は歸るか?", "わたし、歸りません!", "歸りません、と云つたつて、俺は歸すよ。もう大抵にして、歸つて貰はうぢやないか。下宿へだつて、迷惑ぢやないか。居催促としては執念深過ぎる!" ], [ "いつ云つたつて……さうぢやないか、そのほか理由がないぢやないか。兎に角迷惑だから、出て行つて呉れ。警察でも、お前はさう云つて來たんださうぢやないか。兎に角明日の朝は、俺の寢てゐるうちに出て行つて呉れ。出て行つて呉れさへすると、文句はないんだから", "あたい、何と云はれたつて、出て行かない。追出されたつて、出て行かない。家へも歸らないし、どこへも出ても行かない。行くもんか!", "惡黨! 何と云ふ剛情な奴かねえ! 如何に因業爺の娘だからつて、ほんとにわからないのかなあ。……それでは一體居催促でないとすると、何なんだ? それをはつきり云つて貰はうぢやないか。また家へ歸つて、茶店の前に立つて、厭らしい聲して、寄つていらつしやい、お歸りなさいまし、お休みなさい、よう――てなことを云ふのも厭だから、それで當分の間何か奉公口でも見つかるまで置いて呉れと云ふのか、それともどこまでも俺のところにゐたいと云ふのか、兎に角それをはつきり云つて貰はうぢやないか。このまゝずる〳〵べつたりでは、俺は迷惑だと云ふんだ。兎に角はつきり云つて、頼むなら頼むで、はつきりして貰はうぢやないか。云つて見たらいゝぢやないか。剛情だなあ……何と云ふ惡黨かねえ。お前と云ふ女は!" ], [ "ム……この獄道者が! 因業爺は爺として、あのおふくろの心配が、貴樣にはわからないのか。だからなぜ最初おふくろが迎ひに來て呉れた時に、素直について歸らなかつたんだ。永い間あのおふくろが、俺たちのことを庇つてゐて呉れたんぢやないか。その義理としても、俺は一日だつて貴樣を置いてやるわけには行かないんだ。たつた今のうち出て行け! 桂庵へなりどこへなり、勝手に出て行け!", "誰が出て行くもんか。老ぼれ! お前さんの方で出て行くがいゝ、あたいは行かないよ。なんだその、眼鏡なぞかけて、鬚なぞ生やかしたつて、ちつとも怖かないんだよ", "何だと、老ぼれ……もう一遍云つて見ろ。……毆ぐられるな!", "何遍だつて云つてやる。云つてやるとも!" ] ]
底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年10月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第9刷発行 底本の親本:「葛西善藏全集」改造社    1928(昭和3)年 初出:「中央公論」    1924(大正13)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051218", "作品名": "蠢く者", "作品名読み": "うごめくもの", "ソート用読み": "うこめくもの", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」1924(大正13)年4月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-06-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card51218.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "子をつれて", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年10月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第9刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第9刷", "底本の親本名1": "葛西善藏全集", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/51218_ruby_42641.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-05-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/51218_42840.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-05-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "さうですね。どうせもう今夜なんか遲れるでせう。それとも弘前あたりで止まりになるか知れませんね", "そんなことだらう。……まだある?", "はい…………" ], [ "俺はどうも今夜は危ぶないらしい。苦しくなりさうだ……", "だからお酒はお止めなさいよ。そして早くお休みになつたら", "馬鹿! 貴樣はまた酒のせゐだと思つてるんだね。……あゝ、どうかして十日も二十日も降り續いて、郵便も電報も一切止まつて呉れないかな。さうなると當分は誰からの怖い手紙も見ずに濟むつて譯だからね" ], [ "併し、今となつては、お金を返せない以上は、それは何と云はれたつて仕方のないことですからね。……それをまた一々氣にして見た處でどう仕樣もないぢやありませんか", "そりやさうさ、何と云はれたつて仕方の無いことだがね、併し友人間の道徳問題にまでされて居るとなつてはね、非常に厭な氣がするよ。そりや勿論、さう云つた性質のものではあるのだらうがね。……兎に角お前も讀んで見い、俺は繰返して讀むのは厭だ。……少し苦しいやうだな……" ], [ "……變な味……", "もう一杯持つて來て見ませうか?", "いやもう澤山だよ……" ] ]
底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年10月5日第1刷発行    1987(昭和62)年4月8日第7刷発行 底本の親本:「葛西善藏全集」改造社    1928(昭和3)年 入力:蒋龍 校正:川山隆 2010年9月11日作成 2011年1月11日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "皆さんが行くの?", "え、うちからもみんな行きますし、よそでも大抵行きませう。それに福引きや何かもあるんですよ" ], [ "湯本には昔から泥棒と云ふものは、はひつたことはないんですつて。だからどこのうちでも戸締りはしないんですの。下りる時も、夜具でも道具でもみんなこのまゝにして行くんですよ", "夏、客の澤山の時でも?", "さうですよ" ], [ "どうしてお仕事をなさらないの? もう十日からになるんでせう。お仕事をなさりにゐらしたんぢやないんですか?", "そのつもりで來たんだけど、出來ないんだね", "どうしてでせう", "まだ土地に慣れないんだね。それに僕熱が出るんだ……", "熱つてどんな熱なんですの?" ], [ "早くお嫁に行つたらいゝでせう", "お嫁に行つたつて、やつぱしお百姓さんでせう。つまらないわ……", "それなら、東京へでも出て、どこかいゝとこへでも奉公して見たらどう?", "奉公したつて、やつぱしつまらないぢやないの。歸つて來ると、やつぱしお百姓さんでせう", "ぢやあ、お百姓さんで結構ぢやないの。お百姓さんは一等いゝですよ……" ], [ "しかし誰しも一度は通る道だからね。そして俺たちはもう何をしたつて、大丈夫だよ。壞れつこないよ。Sだつて大丈夫うまく切り拔けるさ。そして今までのあの堅い殼を打壞せたら、彼の藝術だつてもつと自由な、暢び〳〵したものになるだらう。さう云ふ點では、今度のことは、彼にはいゝことだよ", "さうだね、どうせ一度は、遲かれ早かれ誰の上にも來ることなんだらうからな……" ], [ "しかし歸れあしないでせう、これからひと仕事でもしないことには。……しかし困つたなあ、どうもあぶないらしいな", "やつぱしお友だちの方なんですか? それはその奧さんからの葉書?", "さう。向うでも待つてるらしいんでね、早速歸らなければならないんだが、どうにもならないぢやないか。それに僕も非常に神經を傷めてゐるんでね、さうしたいろ〳〵なことから離れたくて斯うして來てゐるんでね、仕事の出來ないのも、やつぱしひどい神經衰弱のせゐなんだよ", "さうですか。そしてその御病人の方はまだ若いんですの?", "さう若いと云ふ方ではないね、僕より二つ上だから四十か。奧さんの方はまだ二十七だから若い。", "さうですか、そして病氣は何病氣なんですの?" ] ]
底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年10月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第9刷発行 底本の親本:「葛西善藏全集」改造社    1928(昭和3)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年3月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "否もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に來たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでせうな? もう定まつたでせうな?", "……さあ、實は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい" ], [ "……で甚だ恐縮な譯ですが、妻も留守のことで、それも三四日中には屹度歸ることになつて居るのですから、どうかこの十五日まで御猶豫願ひたいものですが、……", "出來ませんな、斷じて出來るこつちやありません!" ], [ "なんだつてあの人はあゝ怒つたの?", "やつぱし僕達に引越せつて譯さ。なあにね、明日あたり屹度母さんから金が來るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴幾ら怒つたつて平氣さ" ], [ "……K君――", "どうぞ……" ], [ "……そりやね、今日の處は一圓差上げることは差上げますがね。併しこの一圓金あつた處で、明日一日凌げば無くなる。……後をどうするかね? 僕だつて金持といふ譯ではないんだからね、さうは續かないしね。一體君はどうご自分の生活といふものを考へて居るのか、僕にはさつぱり見當が附かない", "僕にも解らない……", "君にも解らないぢや、仕樣が無いね。で、一體君は、さうしてゐて些とも怖いと思ふことはないかね?", "そりや怖いよ。何も彼も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活といふものを考へていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さつぱり見當が附かないのだよ", "フン、どうして君はさうかな。些とも漠然とした恐怖なんかぢやないんだよ。明瞭な恐怖なんぢやないか。恐ろしい事實なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事實なんだよ。それが君に解らないといふのは僕にはどうも不思議でならん" ], [ "何と云つて君はヂタバタしたつて、所詮君といふ人はこの魔法使ひの婆さん見たいなものに見込まれて了つてゐるんだからね、幾ら逃げ𢌞つたつて、そりや駄目なことさ、それよりも穩なしく婆さんの手下になつて働くんだね。それに通力を拔かれて了つた惡魔なんて、ほんとに仕樣が無いもんだからね。それも君ひとりだつたら、そりや壁の中でも巖の中でも封じ込まれてもいいだらうがね、細君や子供達まで卷添へにしたんでは、そりや可哀相だよ", "そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていふ奴、そりや厭な奴だからね", "厭だつて仕方が無いよ。僕等は食はずにや居られんからな。それに厭だつて云ひ出す段になつたら、そりや君の方の婆さんばかしとは限らないよ" ], [ "あ貰つたよ。さう〳〵、君へお禮を云はにやならんのだつけな", "お禮はいゝが、それで別段異状はなかつたかね?" ], [ "だからね、そんな、君の考へてるやうなもんではないつてんだよ、世の中といふものはね。もつともつと君の考へてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理といふものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか要らないといふ譯なんだよ。他に君にどんな好い長所や美點があらうと、唯君が貧乏だといふだけの理由から、彼等は好かないといふんだからね、仕樣がないぢやないか。殊にYなんかといふあゝ云つた所謂道徳家から見ては、單に惡病患者視してるに堪へないんだね。機會さへあればさう云つた目障りなものを除き去らう撲滅しようとかゝつてるんだからね。それで今度のことでは、Yは僕のこともひどく憤慨してるさうだよ。……小田のやうな貧乏人から、香奠なんか貰ふことになつたのも、皆なKのせゐだといふんでね。かと云つて、まさか僕に鐵亞鈴を喰はせる譯にも行かなかつたらうからね。何しろ今の裟婆といふものは、そりや怖ろしいことになつて居るんだからね", "併し俺には解らない、どうしてそんなYのやうな馬鹿々々しいことが出來るのか、僕には解らない", "そこだよ、君に何處か知ら脱けてる――と云つては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、慘めな相手の一寸したことに對しても持ちたがる憤慨や暴慢といふものがどんな程度のものだかといふことを了解してゐないからなんだよ。それに一體君は、魔法使ひの婆さん見たいな人間は、君に仕事をさせて呉れるやうな方面にばかし居るんだと思つてるのが、根本の間違ひだと思ふがな。吾々の周圍――文壇人なんてもつとひどいものかも知れないからね。君のいふ魔法使ひの婆さんとは違つた、風流な愛とか人道とか慈くしむとか云つてるから悉くこれ慈悲忍辱の士君子かなんぞと考へたら、飛んだ大間違ひといふもんだよ。このことだけは君もよく〳〵腹に入れてかゝらないと、本當に君といふ人は吾々の周圍から、……生存出來ないことになるぜ! 世間には僕のやうな風來々坊ばかし居ないからね" ], [ "家も定まつたでせうな? 今日は十日ですぜ。……御承知でせうな?", "これから搜さうといふんですがな、併し晩までに引越したらそれでいゝ譯なんでせう", "そりや晩までゝ差支へありませんがね、併し餘計なことを申しあげるやうですが、引越しはなるべく涼しいうちの方が好かありませんかね?", "併し兎に角晩までには間違ひなく引越しますよ", "でまた餘計なことを云ふやうですがな、その爲めに私の方では如何なる御處分を受けても差支へないといふ證書も取つてあるのですからな、今度間違ふと、直ぐにも處分しますから" ], [ "さうか、警部か。それはえらいね。僕はまたね、巡査としては少し變なやうでもあるし、何かと思つたよ", "白服だからね、一寸わからないさ" ], [ "出來れば無論今日中に越すつもりだがね、何しろこれから家を搜さにやならんのだからね", "併しそんな處に長居するもんぢやないね。結局君の不利益だよ" ], [ "さうかなあ……", "そりやさうとも。……では大抵署に居るからね、遊びに來給へ", "さうか。ではいづれ引越したらお知らせする" ], [ "どうかね、引越しが出來たかね?", "出來ない。家はやう〳〵見附かつたが、今日は越せさうもない。金の都合が出來んもんだから", "そいつあ不可んよ君。……" ], [ "でも近頃は節季近くと違つて、幾らか閑散なんだらうね。それに一體にこの區内では餘り大した事件が無いやうだが、さうでもないかね?", "いや、いつだつて同じことさ。ちよい〳〵これでいろんな事件があるんだよ", "でも一體に大事件の無い處だらう?", "がその代り、注意人物が澤山居る。第一君なんか初めとしてね……", "馬鹿云つちや困るよ。僕なんかそりや健全なもんさ。唯貧乏してるといふだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもさう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも國家社會の爲めに貢獻したいと思つて、貧乏してやつてるんだからね。單に食ふ食はぬの問題だつたら、田舍へ歸つて百姓するよ" ], [ "相變らず大きなことばかし云つてるな。併し貧乏は昔から君の附物ぢやなかつた?", "……さうだ" ], [ "……でな、斯う云つちや失敬だがね、僕の觀察した所ではだ、君の生活状態または精神状態――それはどつちにしても同じやうなもんだがね、餘程不統一を來して居るやうだがね、それは君、統一せんと不可んぞ……。精神統一を練習し給へ。練習が少し積んで來ると、それはいろ〳〵な利益があるがね、先づ僕達の職掌から云ふと、非常に看破力が出て來る。……此奴は口では斯んなことを云つてるが腹の中は斯うだな、といふことが、この精神統一の状態で觀ると、直ぐ看破出來るんだからね、そりや恐ろしいもんだよ。で、僕もこれまでいろ〳〵な犯人を掴まへたがね、それが大抵晝間だつたよ。……此奴怪しいな、斯う思つた刹那にひとりでに精神統一に入るんだね。そこで、……オイコラオイコラで引張つて來るんだがね、それがもうほとんど百發百中だつた", "……フム、さうかな。でそんな場合、直ぐ往來で繩をかけるといふ譯かね?", "……なあんで、繩なぞかけやせんさ。そりやもう鐵の鎖で縛つたよりも確かなもんぢや。……貴樣は遁れることならんぞ! 貴樣は俺について來るんだぞ! と云ふことをちやんと暗示して了ふんだからね、つまり相手の精神に繩を打つてあるんだからな、これ程確かなことはない", "フム、そんなものかねえ" ], [ "……いや君、併し、僕だつて君、それほどの大變なことになつてるんでもないよ。何しろ運わるく妻が郷里に病人が出來て歸つて居る、……そんなこんなでね、餘り閉口してるもんだからね。……", "……さう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思つてるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまふんだな。これは僕が友人として忠告するんだがね、そんな處に長居をするもんぢやないよ。それも君が今度が初めてだといふからまだ好いんだがね、それが幾度もそんなことが重なると、終ひにはひどい目に會はにやならんぜ。つまり一種の詐欺だからね。家賃を支拂ふ意志なくして他人の家屋に入つたものと認められても仕方が無いことになるからね。そんなことで打込まれた人間も、隨分無いこともないんだから、君も注意せんと不可んよ。人間は何をしたつてそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云ふ覺悟を忘れては、結局この社會に生存が出來なくなる……" ], [ "お父さんもう行きませうよ", "もう飽きた?", "飽きちやつた……" ], [ "何處へ行くの?", "僕の知つてる下宿へ", "下宿? さう……" ] ]
底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年10月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第9刷発行 底本の親本:「葛西善藏全集」改造社    1928(昭和3)年 初出:「早稻田文學」    1917(大正6)年8月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年5月5日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "否もうこゝで結構です。一寸そこまで散歩に来たものですからな。……それで何ですかな、家が定まりましたでしょうな? もう定まったでしょうな?", "……さあ、実は何です、それについて少しお話したいこともあるもんですから、一寸まあおあがり下さい" ], [ "……で甚だ恐縮な訳ですが、妻も留守のことで、それも三四日中には屹度帰ることになって居るのですから、どうかこの十五日まで御猶予願いたいものですが、……", "出来ませんな、断じて出来るこっちゃありません!" ], [ "なんだってあの人はあゝ怒ったの?", "やっぱし僕達に引越せって訳さ。なあにね、明日あたり屹度母さんから金が来るからね、直ぐ引越すよ、あんな奴幾ら怒ったって平気さ" ], [ "……K君――", "どうぞ……" ], [ "……そりゃね、今日の処は一円差上げることは差上げますがね。併しこの一円金あった処で、明日一日凌げば無くなる。……後をどうするかね? 僕だって金持という訳ではないんだからね、そうは続かないしね。一体君はどうご自分の生活というものを考えて居るのか、僕にはさっぱり見当が附かない", "僕にも解らない……", "君にも解らないじゃ、仕様が無いね。で、一体君は、そうしていて些とも怖いと思うことはないかね?", "そりゃ怖いよ。何も彼も怖いよ。そして頭が痛くなる、漠然とした恐怖――そしてどうしていゝのか、どう自分の生活というものを考えていゝのか、どう自分の心持を取直せばいゝのか、さっぱり見当が附かないのだよ", "フン、どうして君はそうかな。些とも漠然とした恐怖なんかじゃないんだよ。明瞭な恐怖なんじゃないか。恐ろしい事実なんだよ。最も明瞭にして恐ろしい事実なんだよ。それが君に解らないというのは僕にはどうも不思議でならん" ], [ "何と云って君はジタバタしたって、所詮君という人はこの魔法使いの婆さん見たいなものに見込まれて了っているんだからね、幾ら逃げ廻ったって、そりゃ駄目なことさ、それよりも穏なしく婆さんの手下になって働くんだね。それに通力を抜かれて了った悪魔なんて、ほんとに仕様が無いもんだからね。それも君ひとりだったら、そりゃ壁の中でも巌の中でも封じ込まれてもいゝだろうがね、細君や子供達まで巻添えにしたんでは、そりゃ可哀相だよ", "そんなもんかも知れんがな。併しその婆さんなんていう奴、そりゃ厭な奴だからね", "厭だって仕方が無いよ。僕等は食わずにゃ居られんからな。それに厭だって云い出す段になったら、そりゃ君の方の婆さんばかしとは限らないよ" ], [ "あ貰ったよ。そう〳〵、君へお礼を云わにゃならんのだっけな", "お礼はいゝが、それで別段異状はなかったかね?" ], [ "だからね、そんな、君の考えてるようなもんではないってんだよ、世の中というものはね。もっと〳〵君の考えてる以上に怖ろしいものなんだよ、現代の生活マンの心理というものはね。……つまり、他に理由はないんさ、要するに貧乏な友達なんか要らないという訳なんだよ。他に君にどんな好い長所や美点があろうと、唯君が貧乏だというだけの理由から、彼等は好かないというんだからね、仕様がないじゃないか。殊にYなんかというあゝ云った所謂道徳家から見ては、単に悪病患者視してるに堪えないんだね。機会さえあればそう云った目障りなものを除き去ろう撲滅しようとかゝってるんだからね。それで今度のことでは、Yは僕のこともひどく憤慨してるそうだよ。……小田のような貧乏人から、香奠なんか貰うことになったのも、皆なKのせいだというんでね。かと云って、まさか僕に鉄唖鈴を喰わせる訳にも行かなかったろうからね。何しろ今の娑婆というものは、そりゃ怖ろしいことになって居るんだからね", "併し俺には解らない、どうしてそんなYのような馬鹿々々しいことが出来るのか、僕には解らない", "そこだよ、君に何処か知ら脱けてる――と云っては失敬だがね、それは君は自分に得意を感じて居る人間が、惨めな相手の一寸したことに対しても持ちたがる憤慨や暴慢というものがどんな程度のものだかということを了解していないからなんだよ。それに一体君は、魔法使いの婆さん見たいな人間は、君に仕事をさせて呉れるような方面にばかし居るんだと思ってるのが、根本の間違いだと思うがな。吾々の周囲――文壇人なんてもっとひどいものかも知れないからね。君のいう魔法使いの婆さんとは違った、風流な愛とか人道とか慈くしむとか云ってるから悉くこれ慈悲忍辱の士君子かなんぞと考えたら、飛んだ大間違いというもんだよ。このことだけは君もよく〳〵腹に入れてかゝらないと、本当に君という人は吾々の周囲から、……生存出来ないことになるぜ! 世間には僕のような風来坊ばかし居ないからね" ], [ "家も定まったでしょうな? 今日は十日ですぜ。……御承知でしょうな?", "これから捜そうというんですがな、併し晩までに引越したらそれでいゝ訳なんでしょう", "そりゃ晩までで差支えありませんがね、併し余計なことを申しあげるようですが、引越しはなるべく涼しいうちの方が好かありませんかね?", "併し兎に角晩までには間違いなく引越しますよ", "でまた余計なことを云うようですがな、その為めに私の方では如何なる御処分を受けても差支えないという証書も取ってあるのですからな、今度間違うと、直ぐにも処分しますから" ], [ "そうか、警部か。それはえらいね。僕はまたね、巡査としては少し変なようでもあるし、何かと思ったよ", "白服だからね、一寸わからないさ" ], [ "出来れば無論今日中に越すつもりだがね、何しろこれから家を捜さにゃならんのだからね", "併しそんな処に長居するもんじゃないね。結局君の不利益だよ" ], [ "そうかなあ……", "そりゃそうとも。……では大抵署に居るからね、遊びに来給え", "そうか。ではいずれ引越したらお知らせする" ], [ "どうかね、引越しが出来たかね?", "出来ない。家はよう〳〵見附かったが、今日は越せそうもない。金の都合が出来んもんだから", "そいつあ不可んよ君。……" ], [ "でも近頃は節季近くと違って、幾らか閑散なんだろうね。それに一体にこの区内では余り大した事件が無いようだが、そうでもないかね?", "いや、いつだって同じことさ。ちょい〳〵これでいろんな事件があるんだよ", "でも一体に大事件の無い処だろう?", "がその代り、注意人物が沢山居る。第一君なんか初めとしてね……", "馬鹿云っちゃ困るよ。僕なんかそりゃ健全なもんさ。唯貧乏してるというだけだよ。尤も君なんかの所謂警察眼なるものから見たら、何でもそう見えるんか知らんがね、これでも君、幾らかでも国家社会の為めに貢献したいと思って、貧乏してやってるんだからね。単に食う食わぬの問題だったら、田舎へ帰って百姓するよ" ], [ "相変らず大きなことばかし云ってるな。併し貧乏は昔から君の附物じゃなかった?", "……そうだ" ], [ "……でな、斯う云っちゃ失敬だがね、僕の観察した所ではだ、君の生活状態または精神状態――それはどっちにしても同じようなもんだがね、余程不統一を来して居るようだがね、それは君、統一せんと不可んぞ……。精神統一を練習し給え。練習が少し積んで来ると、それはいろ〳〵な利益があるがね、先ず僕達の職掌から云うと、非常に看破力が出て来る。……此奴は口では斯んなことを云ってるが腹の中は斯うだな、ということが、この精神統一の状態で観ると、直ぐ看破出来るんだからね、そりゃ恐ろしいもんだよ。で、僕もこれまでいろ〳〵な犯人を掴まえたがね、それが大抵昼間だったよ。……此奴怪しいな、斯う思った刹那にひとりでに精神統一に入るんだね。そこで、……オイコラオイコラで引張って来るんだがね、それがもうほとんど百発百中だった", "……フム、そうかな。でそんな場合、直ぐ往来で縄をかけるという訳かね?", "……なあんで、縄なぞかけやせんさ。そりゃもう鉄の鎖で縛ったよりも確かなもんじゃ。……貴様は遁れることならんぞ! 貴様は俺について来るんだぞ! と云うことをちゃんと暗示して了うんだからね、つまり相手の精神に縄を打ってあるんだからな、これ程確かなことはない", "フム、そんなものかねえ" ], [ "……いや君、併し、僕だって君、それほどの大変なことになってるんでもないよ。何しろ運わるく妻が郷里に病人が出来て帰って居る、……そんなこんなでね、余り閉口してるもんだからね。……", "……そう、それが、君の方では、それ程大したことではないと思ってるか知らんがね、何にしてもそれは無理をしても先方の要求通り越しちまうんだな。これは僕が友人として忠告するんだがね、そんな処に長居をするもんじゃないよ。それも君が今度が初めてだというからまだ好いんだがね、それが幾度もそんなことが重なると、終いにはひどい目に会わにゃならんぜ。つまり一種の詐欺だからね。家賃を支払う意志なくして他人の家屋に入ったものと認められても仕方が無いことになるからね。そんなことで打込まれた人間も、随分無いこともないんだから、君も注意せんと不可んよ。人間は何をしたってそれは各自の自由だがね、併し正を踏んで倒れると云う覚悟を忘れては、結局この社会に生存が出来なくなる……" ], [ "お父さんもう行きましょうよ", "もう飽きた?", "飽きちゃった……" ], [ "何処へ行くの?", "僕の知ってる下宿へ", "下宿? そう……" ] ]
底本:「哀しき父・椎の若葉」講談社文芸文庫、講談社    1994(平成6)年12月10日第1刷発行 底本の親本:「日本現代文學全集45 近松秋江・葛西善藏集」講談社    1965(昭和40)年10月19日発行       「葛西善蔵全集 第一巻」文泉堂書店    1974(昭和49)年10月刊 初出:「早稲田文学」    1918(大正7)年3月 入力:任天堂 校正:小林繁雄、門田裕志 2008年3月13日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ばか! 誰がそんなことを言った?……お前の腹の子を大事に思えばこそ、誰も親身のもののいないこうした下宿なんかで、育てたくないと言ってるんじゃないか。それにお前なんかには、とてもひとりで赤んぼうなんか育てられやしないよ。赤んぼがいなくたって、このとおりじゃないか……", "そんな言いわけは聞かないよ、赤んべえだ。……育てれなけりゃ遣っちまえばいいじゃないか、お金をつけて遣っちまえばいいじゃないか", "そんなことできやしないじゃないか。だから仙台へ行け……", "行かないよ。誰が行くもんか、そんなに邪魔にされて。……赤んぼがほしいが聞いて呆れら、自分の餓鬼ひとりだって傍に置いたこともないくせに……" ] ]
底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社    1969(昭和44)年7月12日初版発行 入力:住吉 校正:小林繁雄 2011年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "053042", "作品名": "死児を産む", "作品名読み": "しじをうむ", "ソート用読み": "ししをうむ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card53042.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集", "底本出版社名1": "集英社", "底本初版発行年1": "1969(昭和44)年7月12日", "入力に使用した版1": "1969(昭和44)年7月12日", "校正に使用した版1": "1975(昭和50)年1月8日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "住吉", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53042_ruby_45436.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53042_45580.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "じつはね、Fを国へ帰そうと思ってね、……いや別にそんなことで疳癪を起したというわけでもないんだがね、じつはもうこれ以上やれきれないんだよ。去年もあんなことで年を越せなくて二人で逃げだしてさんざんな目に会ったが、今年はもっと状態がわるい。身体の方ばかしでなく神経の方もだいぶまいっているらしい。毎晩ヘンな夢ばかし見てね、K君のことやおふくろのことや、……俺は少し怖くなった、とにかく早くここを逃げだしたい。僕も後から国へ帰るか、それとも西の方へ放浪にでも出かけるか、どっちにしても先きにFを国へ帰しておきたいから……", "いやそういうわけでしたらなんですけど、三月といってももうじきですからね、Fさんが中学に入りさえすれば、また私たちの方で預ってもどうにでも都合がつきますからね……" ], [ "もうとっくに時が来てるんでしょうから、この間から今日か今日かと待ってるようなわけで、今晩にもどうかというわけなんでしょう", "そりゃたいへんだね。何しろ今年はみんなが運がわるいようだからよっぽど気をつけないと", "身体の方にどこにもわるいところがなさそうだから、だいじょうぶだろうと思うけど" ], [ "おやじが死んだからって、あれが出てくるってのも変な話だが、とにかくただ事じゃないね……", "そうですねえ……" ], [ "やっぱしこんなことだったのか。それにしてもまさかおやじとは思ってなかった。雪子のことばかし心配していたんだが、この間から気になっていた烏啼きや、ゆうべあんなつまらないことでFが泣きだしたのも――たぶんおやじはちょうどその時分死にかけていたんだろうがね、それにしてもなんとか前におやじから手紙の一本もありそうなものだったがなあ……", "それにしても、おやじが死んだからって嫂さんが出てくるっていうのも、どうも変だと思いますがね……", "しかしほかに判断のしようがないじゃないか。とにかく死んだんだとすれば、尋常な死方をしたもんじゃないだろう。それではとにかく今夜お前たちは帰って、明日の朝上野へ出てくれないか。そしてすぐ電報を打ってくれないか。今夜いっしょに行ってもお前とこでは寝るところもないんだし、今夜はよく眠って気を落ちつけて出て行きたいから" ], [ "もう九時でしょう", "何時だってかまわない……" ], [ "おやじどうした?", "いや別にどうもなくて無事で来ましたがね、じつは今度いっさい家の方の始末をつけ、片づける借金は片づけ、世帯道具などもすべてGに遣ってしまって、畑と杉山だけ自分の名義に書き替えて、まったく身体一つになって出てきたんだそうですよ。親戚へもほとんど相談なんかしなかったものらしいですね。行李一つと夜具だけ上野までチッキをつけて、一昨日ほとんどだしぬけに嫂さんところへ行ってすぐ夜汽車で来るつもりだったんでしょうがね、夜汽車は都合がわるいと止められたんで、一昨日の晩は嫂さんところへ泊って、昨日青森まで嫂さんに送られて一時の急行で発ってきたんだそうですがね、私の方の電報はチチアスアサ七ジと間違いなく来てますが、何しろひどく思いきったもんですね", "まあそうだな。でも思いきって出てきてよかったさ。身体の方はだいぶ弱ってるようか?", "いや脚が少し不自由なだけで、ほかはなかなか元気のようですよ。朝からさっそく飲んでましたがね、ようやく寝たもんですから……", "なんにしても思いきって出てきてよかったよ。ああして一人でいたってしようがないんだからね。そうかといって僕らが行って整理をつけるとなると、畑だって山だって難かしいことになるからね、何しろおやじうまくやった、大出来だね", "まあそうでしょう。春になって雪でも消えたら一度桐でも伐りに行こうなんて、なかなか吹いてますよ", "それにしてもおやじとしてはずいぶん命がけの決心だったのだろうからね、電報の間違いぐらい偶然でないのかもしれないが、こんな間違いがあるとかえって長生きするもんだというからそうであってくれるといいがね、おふくろなんかの場合のように、鎌倉まで来たはいいやですぐ死なれたのでは困っちまうなあ" ] ]
底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社    1969(昭和44)年7月12日初版発行 入力:住吉 校正:小林繁雄 2011年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "053043", "作品名": "父の出郷", "作品名読み": "ちちのしゅっきょう", "ソート用読み": "ちちのしゆつきよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-09T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card53043.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集", "底本出版社名1": "集英社", "底本初版発行年1": "1969(昭和44)年7月12日", "入力に使用した版1": "1969(昭和44)年7月12日", "校正に使用した版1": "1975(昭和50)年1月8日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "住吉", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53043_ruby_45437.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53043_45581.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "やっぱし死にに出てきたようなものだったね。ああなるといくらかそんなことがわかるものかもしれないな。それにしても東京へ出てきて死んでくれてよかった。田舎にいられたんだとなかなか面倒だからね。こう簡単には片づけられはしないよ。……そうそう、昨年のおふくろの時も、ちょうどこの汽車で僕らは帰ったんだよ", "そうでしたね。あの時もずいぶん暑かった", "そうだったなあ……" ], [ "おやじはもうどの辺まで往ったろうか。生きているうち脚に不自由したので、死んでからおおいに駈け廻っているんじゃないかな", "いや、まだ引導も渡されてないんだから、どこへも往きやしないでしょうよ。お寺で吾々の行くのを待ってるでしょうよ", "まあそうだろうな。それにしてもなかなかいいおやじだったね。子供らにはずいぶん厄介をかけられ通したが、子供らにはちっともかけていない。死んだ後にだって何一つ面倒なことって残してないし、じつに簡単明瞭な往生じゃないか。僕なんかにはちょっと真似ができそうにないね。考えてみるとおやじ一代の苦労なんてたいへんなものだったろうよ。ただこれで、第一公式なんていうことなしに、ポカポカとすましてこられるんだと申し分ないがなあ……", "たいていだいじょうぶでしょうよ。ほかに来る人ってもないんだから、このままだってかまやしませんよ。また着るとしても、ほんのお経の間だけでしょう", "何しろ簡単なもんだな。葬式という奴もこうなるとかえって愛嬌があっていいさ。また死ぬということも、考えてみるとちょっと滑稽な感じのものじゃないか。先の母の死んだ時は、まだ子供の時分だったせいか、ずいぶん怖かったがね、今度のおやじの場合は、ひどくいじらしく不憫な気はされたが、また死ぬということが何となく滑稽なような気もしたね。すっかり赤んぼみたいになって、仏面になっちまってるのに、まだ未練らしく唇なんか動かしたりして、それがいかにも死んで行くのが情けないといった風じゃないか。あんなおやじがなあと思うと、気の毒でもあり、また、もうよくわかりましたからおとなしく目をお瞑りなさいと、僕はおかしくなったが、この上また葬式まで僕らにかかって滑稽化されたんではおやじの仏も浮ばれないんじゃないかしら", "いやおやじは僕らの行届かないことだって何だって、みんなわかってくれてますよ。往生がよすぎるんで、滑稽にも感じられたんでしょう。年だって六十五というと、そんなに不足という方でもないんだし……", "そう言うとそんなものだがな……" ], [ "それではいよいよ第一公式で繰りだしますか?", "まあ袴だけにしておこうよ。あまり改った風なぞして鉄道員に発見されて罰金でも取られたら、それこそたいへんだからね" ], [ "戒名は何とか言ったな?……白雲院道屋外空居士か……なるほどね、やっぱしおやじらしい戒名をつけてくれたね", "そうですね。それにいかに商売でも、ああだしぬけに持ちこまれたんでは、坊さんも戒名には困ったでしょうよ。それでこういった漠然としたところをつけてくれたんじゃないでしょうか", "いやどうしてなかなか、よくおやじの面目をつかんでるよ。外空居士もう今ごろはどの辺まで往ってるか……" ], [ "登記所の方がすんだら、明日はどうしましょうか", "そうねえ、こんな場合はどこへも寄らないものだというから、また出なおしてくるまでもひとまず帰ろうか。来た時と方面を変えて、奥羽線で一直線に帰ろうじゃないか。葬式を出した後というものはずいぶんさびしいものなんだろうが、こうしたところに引かかっていると、さっぱりヘンな気持のものだね。遠くまで吾々で送ってきたというよりも、遠くへまで片づけにやってきたという方が、どうも適切のような気もするね……" ] ]
底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社    1969(昭和44)年7月12日初版発行 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:住吉 校正:小林繁雄 2011年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "053044", "作品名": "父の葬式", "作品名読み": "ちちのそうしき", "ソート用読み": "ちちのそうしき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card53044.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集", "底本出版社名1": "集英社", "底本初版発行年1": "1969(昭和44)年7月12日", "入力に使用した版1": "1969(昭和44)年7月12日", "校正に使用した版1": "1975(昭和50)年1月8日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "住吉", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53044_ruby_45438.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53044_45582.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "いやけっしてその、そんな風に考えているというわけでもないのだがね……。それでやはり、原口君もいくらか借りてるというわけかね?", "そうだよ。高はいくらでもないが、今朝までにはきっと持ってくるという約束で持って行った金なんだがね" ], [ "そりゃ返す意志だよ。だから……", "だから……どうしたと言うんかね? 君はその意志を、ちっとも表明するだけの行為に出ないじゃないか。いったい今度の金は、どうかして君の作家としての生活を成立させたいというつもりから立替えた金なんで、それを君が間違いなく返してくれると、この次ぎの場合にも、僕がしなくもまたきっと他の誰かがしてくれるだろう、そうなればあるいは君の作家生活もなりたつことになるかしれんというつもりから考えてしてやったことなんだが、そんなことが君という人にはまるで解らないんだからね、しようがないよ、そして何か言うと、書けないから書けない……だ。だから君はお殿様だよ" ], [ "君は何か芸術家というものを、何か特種な、経済なんてものの支配を超越した特別な世界のもののように考えているのかもしれないが、みたまえ! そんな愚かな考えの者は、覿面に世の中から手ひどいしっぺ返しを喰うに極っているから", "いや僕もけっしてその、経済関係を無視するとかそんな大それた気持からではないのだがね、またそれを無視するほどの元気な気持であれば、きっと僕にも何かできるだろうがね、何しろ今度はまったくどうしようもなかったのだよ", "どうしようもないからどうしようもないと言って、すましていられるところが、君の太いところだよ。そこへ行くと原口はとにかく彼の意志を表明したさ……書いたからね。彼もおそらく君以上にぽしゃっているだろう。要するに根本は経済問題からさ。しかしとにかく彼は書いて、それを持歩いているが、金が間に合わないから、明日の僕の会へも出席しないと言ってるじゃないか。ところが君はそうじゃない。一文も僕に返せないでも、三円という会費を調達して出席しようというのだ。君にそれだけの能力があるのなら、なぜ僕にそれだけでも返して、出席の方は断わるという気持になれないのかね? これはけっしてたんなる金銭の問題でないのだよ。そういう点について全然無自覚な君を、僕もまさか憎む気にはなれないが、しかし気の毒に思わずにいられないのだよ。そして単衣を買ったとか、斬髪したとか……いったい君はどんな気持でこの大事な一日一日を過しているのか僕にはさっぱり解らない" ], [ "しかしどうして原口君や馬越君の場合は、問題が別なんかね? もともとそんな性質の会では……", "いや、それは僕は、作家という立場からして、この会の成立ちとか成行きとかいうことには関係しないけれど、しかしたんに出版屋という立場から考えたなら、無名であって同時に貧乏な人間を歓迎しないということは、むしろ当然じゃないか……" ], [ "僕はこれで馬越君のことについては、これまでいろいろと考えてきたつもりだ。どうかして君の生活をなりたたせたい、この活きた生活の流れの上に引きだしたいものといろいろと骨を折ったつもりだが、しかしこのごろになって、始めて、僕は君の本体なるものがどんなんか、少し解りかけた気がする。とにかく君の本体なるものは活きた、成長して行く――そこから芽が吹くとか枝が出るとかいったようなものではなくて、何かしら得体の知れないごろっとした、石とか、木乃伊とか、とにかくそんなような、そしてまったく感応性なんてもののない……そうだ、つまり亡者だね", "……", "……君はひどく酔払っていたから分らないだろうがね、あの洲崎で君が天水桶へ踏みこんで濡鼠になった晩さ、……途中水道橋で乗替えの時だよ、僕はあそこの停留場のとこで君の肩につかまって、ほんとにおいおい声を出して泣いたんだぜ。それはいくら君という人を突ついてみても、揺ぶって叩いても、まるで活きて行けるものといった感じの手応えが全然ないのだからね。それは君もたしかに一個の存在には違いないだろう、しかし何という哀しい存在だ! そしてまた君は君一人の人ではないのだ、細君とか子供とかいうつながりを持った人なのだ……" ] ]
底本:「日本文学全集31 葛西善蔵 嘉村礒多集」集英社    1971(昭和44)年7月12日初版 初出:「新小説」    1918(大正7)年9月 入力:岡本ゆみ子 校正:伊藤時也 2010年7月14日作成 2011年10月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "巡査に話してみたのか?", "話したけれど取上げてくれない", "そんなはずってあるまい。それがもし本当の話だったら、巡査の方でもどうにかしてくれるわけだがなあ。……がいったいここではどうして腹をこしらえていたんだ? 金はいくら持っている? 年齢はいくつだ? 青森県もどの辺だ?" ], [ "やっぱしだめだった? 追いだして寄越した?", "いいんにゃそうじゃない。巡査が切符を買って乗せてやるって、だから誰かに言っちゃいけないって……今にここへ来て買ってやるから待っておれって" ], [ "母さんはいつ来るの?", "もう少しするとじき。今度はね、たアちゃんも赤んぼも皆な来るの。そして皆なでいっしょにここにいるの。……早く来るといいねえ", "あア……" ], [ "私はその時は詮方がありませんから、妻を伴れて諸国巡礼に出ようと思ってたんです。私のようなものではしょせん世間で働いてみたってだめですし、その苦しみにも堪ええないのです。もっとも妻がいっしょに行く行かないということは、妻の自由ですが……", "乞食をしてか、……が子供はどうするつもりか?", "子供らは欲しいという人にくれてしまいます" ], [ "これだけの子供もあるというのに、あなたは男だから何でもないでしょうけれど、私にはおいそれと別れられるものと思って? あなたには子供が可愛いいというのがどんなんか、ちっとも解ってやしないのです。私が間にはいって嘗めた苦労の十が一だって、あなたには察しができやしません。私はどれほど皆から責められたかしれないのですよ。……お前の気のすむように後の始末はどんなにもつけてやれるから、とても先きの見込みがないんだから別れてしまえと、それは毎日のように責められ通したのですけれど、私にはどうしてもこの子供たちと別れる決心がつかなかったのです。つまり私のばかというもんでしょう……", "まあまあそれもいいさ。何事も過ぎ去ったことだ。いっさい新規蒔直しだ。……僕らの生活はこれからだよ!" ], [ "そうかなあ。……しかし僕には昼間はこのとおり静かだからいいけれど、夜は怖い。ひどい風だからねえ、まるで怒濤の中でもいるようで、夜の明けるのが待遠しい。それに天井からは蜘蛛やら蚰蜒やら落ちてくるしね……", "そういったわけでもないですがね、……兄さんには解らんでしょうが、遣繰り算段一方で商売してるほど苦しいものはないと思いますね。朝から晩まで金の苦労だ。だからたまにこうして遊びに出てきても、留守の間にどんな厭な事件が起きてやしないかと思うと、家へ帰って行くのが退儀でしかたがない。だから僕もここへ来てこうして酒でも飲んでいると、つくづくそう思いますね。せめて二三千円の金でも残ったら、こうした処へ引っこんで林檎畠の世話でもして、糞草鞋を履いて働いてもいいから暢気に暮したいものだと。……僕もあまり身体が丈夫でありませんからね。今でも例の肋膜が、冬になると少しその気が出るんですよ" ], [ "そうだろうね、商売というものもなかなかうまく行かんもんだろうからね。僕もせめて三十円くらいの収入があるようになったら、お前も商売を廃めて、皆でいっしょに暮すがなあ。どうせ姨さんには子供はあるまいから、僕の子供を嬶と二人で世話するとして、お前は畠を作ったり本を読んだりするんだね。そして馬を一疋飼おうじゃないか。……お前は馬に乗れるかい?", "乗れますとも! 僕は家で最中困った時には、馬を買って駄賃までつけたんですからね" ], [ "兄さんとは性分が違うというんでしょうね。僕にはとても兄さんのようには泰然としておれない。もっともそれでないと、小説なんかというものは考えられまいからなあ", "そうでもないさ。僕もこのごろはほとんど睡れないんだぜ。夜は怖いからでもあるが、やはり作のことや子供らのことが心配になるんさ。僕は今亡霊という題で考えているんだがね、つまりこの二年間ばかしの生活を書こうと思っているんだ。亡霊といっても他人の亡霊にではないが、僕自身の亡霊には僕はたびたび出会したよ。……お前にはそんな経験はあるまい?" ], [ "……そんな場合の予感はあるね。変にこう身体がぞくぞくしてくるんで、『お出でなすったな』と思っていると、背後から左りの肩越しに、白い霧のようなものがすうっと冷たく顔を掠めて通り過ぎるのだ。俺は膝頭をがたがた慄わしながら、『やっぱし苦しいと見えて、また出やがったよ』と、泣笑いしたい気持で呟くのだ。僕は僕の亡霊が、僕の虐待に堪えかねては、時々本体から脱けでるものと信じていたんだからね", "そうですかねえ。そんなこともあるものですかねえ。……何しろ早く書くといいですねえ", "そうだ。……僕もこれさえ書けたらねえ。何しろ僕もその時分はひどい生活をしていたんだからね。希望も信仰も、また人道とか愛とかいうようなことも解らなかったし、せめてはその亡霊にでも縋ろうと思ったのだ。友だちはそれは酒精中毒からの幻覚というものだったと言ったが、僕にはその幻覚でよかったんさ。で僕は、僕という人間は、結局自分自身の亡霊相手に一生を送るほかには能のない人間だろうと、極めてしまったのだ。……お前はどう思ってるか知らんが、突然妻の家へ離縁状を送ったというのも、ひとつはそんな動機から出てるんだぜ……" ], [ "あれは何者だ?", "あれですかい、あれは関次郎というばかでごいす", "フーム、……そうか" ], [ "私なんかには解りませんけど、後妻というものは特別に可愛いもんだといいますね。……後妻はどうしても若くもあるし、……あなたも私とあのようになっていたら、今ごろは若い別嬪の後妻が貰えてよかったんでしょうに", "そうしたもんかもしれんな。してみると老父へも同情しなければ……。俺はいっこうばかだから、そうしたことさえお前に聴かないと解らないんだ。……俺などには何も書けやせん" ] ]
底本:「日本文学全集31 葛西善蔵 嘉村礒多集」集英社    1969(昭和44)年7月12日初版 初出:「早稲田文学」    1917(大正6)年2月 入力:岡本ゆみ子 校正:伊藤時也 2010年7月14日作成 2011年10月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049755", "作品名": "贋物", "作品名読み": "にせもの", "ソート用読み": "にせもの", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「早稲田文学」1917(大正6)年2月", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-08-01T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card49755.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文学全集31 葛西善蔵 嘉村礒多集", "底本出版社名1": "集英社", "底本初版発行年1": "1969(昭和44)年7月12日", "入力に使用した版1": "1969(昭和44)年7月12日初版", "校正に使用した版1": "1969(昭和44)年7月12日初版", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "岡本ゆみ子", "校正者": "伊藤時也", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/49755_ruby_38657.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/49755_39739.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "ご飯はどうしたんだらう?", "ゆうべも今朝も喰べてないんですつて。お辨當も空でしたわ", "ぢやあまた日が暮れたら歸つて來るだらう。いゝ氣になつてあゝしてゐるんだらうから、ほつて置け。仕樣がない奴だ" ], [ "私はまたもつとわるいのかと思つてゐました。自分でもさう思つて氣がひけてゐたのか、この一二學期は通信簿を私には見せなかつたやうです。東京の中學は迚も受からないと自分でも思ひ込んでゐたやうで、だん〳〵日が迫つて來るし、そんなことからもだいぶ氣を痛めてゐたのかも知れませんが、大體無口な方なもんですから……", "さう云ふと、どの生徒にも特別に懇意なと云ふ友達の一人や二人はあるものですが、Fさんには特にこれと云つて特に懇意にしてる友達はなかつたやうです" ], [ "私はね、あなた方が出たあと八幡前の占ひやに見て貰ふつもりでね、占ひやに寄つてそれから一寸床屋さんに寄つたんですの。するとお内儀さんがね、今朝Fちやんが近所の時計屋さんの幼稚園へ行つてる子の手を引いて、床屋の前を通つたのをたしかに見たんですつて。そんなこととは知らないもんだから、Fちやんがどうしたんだらうとヘンに思つてゐたんですつてね……", "ぢやまだ居るんだね?", "居るんでせう。でもまた私がいきなり突かけて行つて逃げ出されてもたいへんですからね、今床屋のお内儀さんにそつと裏から時計屋へ行つて、時計屋のお内儀さんに譯を云つて逃げられないやうに頼んで置いて、あなた方を搜しに來たんですの", "それではお前が行つて、彼奴に逃げられないやうにして床屋さんまで引張つて來て置いて呉れないか。僕は兎に角逗子の方を調べて來よう、どんなことになつてるのかわからないから。それにしてもうつかりしてまた逃げられちやいけないよ。彼奴ひとりの智慧ぢやないんだらうから油斷出來ないよ" ], [ "それでなんでせうか、その時何か伴れ見たいなものでもその邊に見えなかつたやうでせうか?", "さあ、そこまで氣がつきませんでしたけど、別にそんなものは見えませんやうでしたが……", "それではどうしてこちらで小僧さんが入用だと云ふことがわかつたんでせう?", "さあそれは、そこに小僧入用の札の出てるのを見かけて這入つたのか、それとも鎌倉の停車場前に懇意にしてるうちがあつて、そこへも頼んであつたのでそこからでも聞いて來たものでせうかと、こちらではさう思つてゐましたのですが" ], [ "は、それはその時のご都合で。……それでは兎に角あちらで濟みましたら、歸りに一寸寄つていたゞきますかな", "承知しました。實はさつき山の内の駐在所の方からこちらへ寄つて行くやうにと云ふことでしたので……" ], [ "山の中でゝも見つかつて呉れた方が、まだよかつたがなあ。……その時計を賣らして、それからどうするつもりだつたらう。旅費を呉れてお前のところへでも放してやるつもりだつたか、それともその金のあるうちこの邊を浮浪し𢌞るつもりだつたらうか", "さうですねえ、やつぱしそんなものがついてるんだと、幾らかでも金のあるうちは歩き𢌞つてることでせうよ。それにしても、そんな時計なんかFちやんに賣らせたりしてるやうな不良少年だと、大したもんぢやないと思ひますがなあ……", "何しろ今度は僕も少し油斷し過ぎたものな。留守が少し永過ぎた……" ], [ "この時計どこから出した?", "貰つた……", "貰つた……?……誰に?", "秋山と云ふ子に……", "秋山と云ふ子に? どこの子だそれは? なんだつて呉れたの?", "賣つて來いつて……", "賣つて來いつて、それではその子も腰越までいつしよに來たのか?", "ウム……", "その子はどうした?", "知らない……", "知らないつて、一體どこの子だ、家は知つてるだらう?", "八幡前の裏の方から出て來るが、家は知らない", "その子一人きりか?", "もう一人慶ちやんと云ふ子と……", "それはどこの子だ?", "妙本寺の方から出て來る子だが、家は知らない", "二人とも何んだ、學生か?", "逗子の中學へ行つてる子だ……", "何んと云つてこの時計を賣つて來いつて云つた?", "唯この時計を賣つて來いつて。……云ふこと聽かなけあ、ひつぱたくぞと云つた", "誰が?", "秋山と云ふ子が……", "秋山と云ふ子の時計なのか?", "ウム……", "逗子の藥屋へつれて行つたのも二人なのか?", "ウム……", "なんだつてつれて行つた?", "貴樣小僧になれつて……云ふこと聽かないとひつぱたくぞつて……", "八幡前の時計屋へもか?", "ウム……", "そして今朝又呼び出しに來たのか?", "ウム……", "一體その二人といつから知つたんだ?", "お祖父さんを送つて行つた歸りに……", "どこで?", "八幡樣の裏のところで……", "そしてどうした?", "貴樣俺の乾分になれつて。……云ふこと聽かないとひつぱたくぞつて", "お前はどう云つた? そして一つもひつぱたかれなかつたのか?", "その時はひつぱたかれなかつた。僕は默つて歩いて來た……", "一昨日の歸らなかつた晩は、ひつぱたかれたのか? あの晩蕎麥屋へでもつれ込まれて、蕎麥でも喰はされたのか? お前はおせいちやんにその晩は物置に寢たとか云つたさうだが、それは嘘なんだね?", "物置に寢たと云ふのは嘘ぢやない。蕎麥屋なんかへも行きやしない", "それではあの日學校の歸りに、友達と喧嘩して顏に傷したから、僕に叱られるから歸らなかつたとおせいちやんに云つたさうだが、それは嘘で、その秋山とか云ふ奴等にひつぱたかれたんだね?", "…………", "物置へはお前一人で寢たのか……", "僕一人で寢た……" ], [ "酒臭い息なんかして行つてわるいかな? 巡査なんて氣の小さなもんだらうからな", "そんなこともないだらう。ちつと位いゝでせうよ", "その一緒について來たと云ふ奴はどうしたらう。Fが引張られたのを見て逃げちまつたか、それとも今にFが免されて出て來るかと思つて、時計が惜しくてまだこの邊にうろ〳〵してるんだらうか", "いや無論そんな奴等のこつたから、この邊になんか愚圖々々してるもんぢやないでせう" ], [ "それにしても小僧に押込まうと云ふのはどう云ふ譯だつたらう?", "さあそれは、Fちやんが歸りにくゝなつたんで自分からさう云つたんぢやないでせうか", "さうか知ら?……" ], [ "ではさつきの時計は、あれはどうしたのでせう?", "さあそれも、どうもはつきりしたことがわからないんですがねえ……" ], [ "巡査が何と云つた?", "小僧、貴樣この時計をどこから盜んで來たつて……", "お前は何て云つた?", "秋山と云ふ子に賣つて來いつて……", "それだけのことか。ほかにも何か訊かれなかつた?", "何も訊かれなかつた……", "毆られたか?", "ウム", "幾つ?", "一つ……", "その秋山とか云ふ子が腰越の時計屋までついて來たとか云つたが、さうか?", "さうぢやない、七里ヶ濱まで一緒に來て、その子はそこで待つてるからつて……", "その慶ちやんとか云ふ子もそれでは一緒だつたのか?", "さうぢやない、その子は長谷の停留場の近くで待つてるつて……", "嘘ぢやないのか? 斯うなつてから嘘をついたつて仕樣がないよ。男らしく正直に云つちまふんだな。嘘ぢやないか?", "嘘ぢやない……" ], [ "ではその秋山と云ふ子も七里ヶ濱から長谷へ引返したのか?", "ウム……", "どう云つて?", "貴樣時計を賣つたら長谷へ歸つて來いつて。歸つて來なかつたらひどい目に會はすつて……" ], [ "さあ……氣がつかなかつたが、それは何時頃のことですか?", "何時頃つてはつきりしたことはわからないんだが、この邊で待つてることになつてゐたんで……" ], [ "……そんな譯でして、この時計はどこまでも其奴等に賣つて來いつて云はれたんだと云ひますし、ゆうべ泊つた時計屋では盜まれてゐないと云ふことですし、どうも此奴の云ふことが私たちには譯がわからないんで、何しろ今度は私が永く留守にして、その間學校を休んでゐたさうで、その間にさう云ふ奴等に捲き込まれたのか、此奴の云ふのではほんの此頃だと云ふんですが、何しろさつぱり要領を得ないんで、どうかこちらのなんで調べていたゞきたいと思ひまして、幾日でも留め置いてもよろしいですから……", "時計屋へ泊つた……それはどこの?", "すぐ八幡前のSと云ふ時計屋ださうで" ], [ "ふだん金なぞ持たして置くんですか?", "別に持たして置くと云ふこともないですが……" ], [ "これはどうしたの?", "物置きで寢た時竹で破ぶいた……", "その時はお前さんほんとに一人だつたんだね?", "ほんとに一人だつた" ], [ "それではその秋山と云ふ子は、いつもどんな着物を着てゐるかね?", "飛白の着物……", "飛白は木綿かね、絹かね?", "木綿……", "模樣はどんな模樣かね? 十の字のやうになつてるのか、それともお前さんの着てるやうな模樣かね、どつちだ?", "僕の着てるやうなもののもつと小さいの……", "もつと小さいつてどれ位かね?……こんなもんかね?", "ウム……", "羽織の紐はどんな色だつた?", "茶見たいな……", "太さはどうだ?", "餘り太い方ではない……", "帶は? 木綿か絹か? どんな色をしてゐた?", "…………" ], [ "メリンス……", "色は?", "…………" ], [ "あんなやうなののもつと黒つぽいの……", "フーム……そして下駄はどんなのを履いてる?", "朴齒の日和……", "緒は何だ、革かね布地かね?", "布地見たいな……", "どんな色?", "黒い……", "確かに黒い色かね?", "ウム……" ], [ "確かに黒い色の布地の緒だね?", "ビロード見たいな……" ], [ "それでは帽子はどんな帽子?", "鳥打帽……", "いつも鳥打帽かね?", "ウム……", "どんな色の?", "鼠色見たいな……", "鼠色見たいで、それで格子かなんかあるかね?", "ある……", "ある、……それへ徽章をつけてゐるのかね?", "ウム……", "どんな徽章?", "ペンを交へたやうな……", "ペンを交へたやうな、……足袋はどうだ、いつも穿いてるか穿いてないか……?", "穿いてない……", "いつも穿いてないか?", "いつも穿いてない……", "髮はどうだ、長くして分けてるか、それとも短く刈り込んでるか?", "少し長くしてるが、分けてはゐない……" ], [ "それではその秋山と云ふ方は瘠せて、長い黒い顏なんだね? そしてその慶ちやんと云ふ方が肥えて丸い顏してるんだね、そしてその方が色が白いんだね? さうだつたかね?", "ウム……", "年は二人とも十八位で、それで背丈はどんな方だ、二人とも?", "背丈は普通だ……", "普通つて?" ], [ "それはどつちの方だ、秋山と云ふ方か、慶ちやんと云ふ方か?", "秋山と云ふ方……" ], [ "やつぱしそれでは、さうした不良少年見たいなものがついてゐたんでせうか?", "まあ、よく調べて見んと……", "やはりその何か暴行でも加へられた形跡でも?……" ], [ "さうですか。どうも有難うございます。それでは私たちの方でも、明日から此奴を引張り歩いて、其奴等を掴まへることにしますから。其奴等の掴まるまではそれでは此奴をこつちに置くことにしますから……", "ではさうしてご覽なさい" ], [ "こつちで預かると云ふ譯にも、……まだそれだけの手續きがついてないことだからな", "でもさうした不良少年の品物を私たちが家に持つて歸ると云ふのもなんですから、どうか時計はこちらで……" ], [ "奧で警部さんにどんなことを訊かれた?", "お母さんがあるのかないのかとか、どうしていつしよにゐないんだとか……", "そんなことだけか?", "さうだ" ], [ "何にしろ祭日なんで都合がわるかつたな。それでないと往きか歸りかをこゝで張り込んでゐると屹度掴まるんだがなあ", "さうでしたね。それで警察でも、大體當りがついてるんだが、今日は祭日だからもう一日と延ばして云つたのかも知れませんね", "さうなんだらうな……" ], [ "それで私のことはどんな風に?", "いやあなたのことも、斯う云ふご商賣をしてゐると云ふことも云つてましたが、當人は萬事叔父さんの方へ相談して呉れと云ふので、それで……", "私の住所はどんなことに云つてましたか", "やはり東京のどことか云つてましたが、お父さんには相談しても駄目だから、叔父さんの方へ行つて呉れと云ふものですから……" ], [ "やつぱし彼奴一人で、盜んだもんでせうか?", "まあさうでせうな。……實は今朝刑事がやつて來ましてな、この時計に見憶えがあるかと云ふから、あると云ふとね、もう少しで胡麻化されるところだつたよ、それでは一つこれへ判を押して呉れと云つて、盜難屆に判を押さして持つて行きましたがね、今日は祭日だからこれで休みだとか云つて出て行きましたがな……" ], [ "彼奴が出かける時、誰かほかに呼び出しにでも來たやうな風がありませんでしたらうか?", "別段そんな風は見えませんでしたよ", "この八幡前の裏の方から出て來ると云ふんですが十七八の中學生風だか職工だか、なんでも慶ちやんと云ふんださうですが、そんな名の子供を知りませんでせうか?", "知りませんな……", "その錺屋から出て來た時も、電車に乘る時も、彼奴一人でしたらうか?", "さうでした", "その錺屋と云ふのはどの邊でせうか?" ], [ "このほかには、ほんとにわるいことが何も殘つてないか? あつたら今のうちに云つちまへ。明日警察へ行けば何もかもわかるのだから、あつたら今のうちに云つた方がいゝ。ほんとに何もないのか?", "何もない……", "何もないつて、それが嘘ぢやないのか? 斯うなつたら、何もかも男らしく綺麗に云ふものだよ。どんな人間だつて間違ひと云ふことはあるものだから、一旦斯うなつた以上は卑怯な態度を執るものぢやない。そんな卑怯な人間だつたら、惡黨になつたつて碌な惡黨になれやしないよ。だから何かあつたら、今のうちに男らしく云へ!", "何もない……", "ほんとに嘘ぢやないのか?" ], [ "もうよつぽど經つの?", "まだ三十分位のものでせう、出かけたのはほんのさつきでしたから。叔父さんの方ではまた、叔父さんはゆうべは一寸も睡むらなかつたさうで、今朝私が來ると、何しろ兄もひどく疲れてゐるやうで氣の毒だから、自分ひとりで行つて來ようかしら、警察へはなるべく早く行つた方がいいだらうからと、さうおつしやるもんですから、それではうちのお父さんと二人で行つたらどうでせう、役には立ちますまいけど年寄りだから、さう云つて私はうちへ行つてお父さんを呼んで來たんでしたが、それはどうもわるうござんしたねえ……", "そりや困つたことをして呉れたなあ。今になつて、僕が行かないなんて、警察へ對してだつてわるいし、そんな卑怯なことは出來ない譯なんだからな。どんな病氣だからつて、自分の子のしたことぢやないか、僕が出て行かないと云ふ法がないよ。それに僕が行つてよく頼まないとわからないこともあるし、弟の奴も案外しつかりしてゐるやうで斯うした肝腎の場合に姑息なことをするなんて、やつぱし學問をしてゐないせゐだな。兎に角みんなが警察に居るうちに行かないと、一旦引取つてしまつた以上それきりなんだから、學校や新聞のことなんかもあるんだし、兎に角大急ぎで自動車を呼んで呉れ。何しろ困つたことをして呉れた……" ], [ "君は停車場前の自動車ですか?", "いやさうぢやありません", "さうですか。實は停車場前へ電話をかけて、もう來る時分だと待つてゐたところだつたので、多分さうだらうと思つて停めたのですが……" ], [ "いや大して難かしいことも云はなかつた。簡單な注意だけで濟んだ", "Fの方は?", "奧につれて行かれて、刑事見たいな人に、書いたものを讀んで聽かされて、これに間違ひないかと云ふからないと云ふと、そんならそれに名前を書いて指で判を押せつて……", "それだけか?", "お前は中學へはひるんださうだが、中學どころか、二度とこんなことをすると、すぐ監獄へぶちこまれるんだぞつて……" ], [ "蓄音機の針……", "一箱か?", "半分ばかしはひつてゐたの", "ほかに何かないか?", "ほかには何もない" ], [ "その蓄音機の針はどうしたの?", "七里ヶ濱で鳥居なぞこさへて遊んだ" ] ]
底本:「子をつれて 他八篇」岩波文庫、岩波書店    1952(昭和27)年10月5日第1刷発行    2009(平成21)年2月19日第9刷発行 底本の親本:「葛西善藏全集」改造社    1928(昭和3)年 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:川山隆 校正:門田裕志 2011年3月31日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "051223", "作品名": "不良児", "作品名読み": "ふりょうじ", "ソート用読み": "ふりようし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-05-30T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card51223.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "子をつれて", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "1952(昭和27)年10月5日", "入力に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第9刷", "校正に使用した版1": "2009(平成21)年2月19日第9刷", "底本の親本名1": "葛西善藏全集", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "川山隆", "校正者": "門田裕志", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/51223_ruby_42594.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-03-31T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/51223_42677.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-03-31T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "あの人、兄さんや親御さんたちともちつとも似てゐませんね", "さうですか。僕親御さんたちのことはよく知らないが、兄さんとは似てゐないやうだけど、親御さんたちともさうですか" ], [ "この通りやう〳〵書き始めたところなんだから、もう五六日のところ君から話して呉れよ", "何枚位ゐ出来たんだ?", "いや昨晩から書き出したんでまだ六七枚しか書いてないが、これからずん〳〵書けるんだから", "ぢや兎に角帳場へ行つて話して来よう" ], [ "気に入らなくて破ぶいたが二三日にも二三十枚でも書きあげるつもりだから心配するなよ。どうせ金が足りなければ僕の小さな本の版権でも売つて払ひをするから。何しろこの原稿では実に厭になつてるんで、金の問題でなくどうしても今度は片附けて帰りたいと思つてるんだから……", "いや実は今帳場へも寄つて来たんだがね、何しろ七十円からになつてるさうだからね、それに君は遅くまで酒を飲んでは芸者々々なんて云ふてんで、ひどく厭がつてるやうだから、兎に角ひと勘定して貰ひたいと云ふんだがね……", "そいつは困つたね。兎に角君からもう一度話して呉れよ。何だつたら明日東京の本屋へ手紙を出して交渉してもいゝから" ], [ "そんなら俺の方でも引受けられないよ。何が馬鹿なことなんだ。金が無くて払へなければ、さうするのが当然ぢやないか", "そりやさうかも知れないが、しかし二三日中にも片附けられるんだから、そんなことまでせんだつていゝ", "だつて宿で待たないと云つてるから仕方がないぢやないか", "だからそこを君からもう一度話して呉れたらいゝぢやないか", "俺としてもたゞでは話が出来ないぢやないか。幾らか内金でも入れて、それで後二三日待つて呉れとでも云はなければ、宿でだつて聞き入れやしないよ。だから出せ……", "厭だよ……", "わからないなあ君も。兎に角宿では君のやうなお客さんはご免だと云つてるんだから、金を入れると云つたつて今度は何と云ふか知れやしないんだぜ。だから兎に角品物を出せ" ], [ "外套は暮に百円で拵へたばかしなんだぜ", "だつて質屋へ持込むとなると幾らも貸しやしないよ。この銘仙の羽織なんか幾らになるもんか。時計は幾ら位ゐしたものなんだ?" ], [ "ご免だと云つて、それならば僕の方でも金は拵へて払ふから品物を渡すのはご免だよ", "それならば俺の方でもこゝの保証はご免蒙るよ", "それは勝手だ。僕の方では警察にでも立合つて貰ふから。その方がまだ気持がいゝよ" ], [ "内田さんだから羽織だけでも置いて行つたんで、警察の立合となると何一つだつて残しやしませんよ", "しかしその方がまだ気持がよかつた。それであの品物は内田君が持つて行つたんですね?", "え持つて行きましたよ", "さうですか。それでは兎に角内田の兄さんとこへでも行つて話して見よう。何しろ馬鹿々々しい話だ" ], [ "何しに来たんだ?", "兄さんへでも相談して見ようと思つて来たさ", "兄さんなんか相手にするもんか。それよりも東京へ帰つたらいゝだらう", "帰られはしないよ。それに汽車賃だつてありやしないさ", "汽車賃位ゐなら貸してやらう", "ご免だ" ], [ "幾らに負かるんかね?", "お値段のところはどうも。まつたくお取次ぎ値段でして、昨年の高い時分には十二三円からした品物なんですから、七円と云ふのはまつたくもうお取次ぎの値段を申しあげたんで、他所を聞いてご覧になつて高いやうなことがありましたらいつでもお返しになつて差支えありませんから、まつたくどうもお値段のところは……さうですね、それではほんのお愛嬌に十銭だけお引きしませう", "十銭と云ふと、やつぱし七円だな", "へえ、まつたくどうもお値段のところは……随分お安く申しあげてあるんで" ], [ "君等には普通のことか知れないが、吾々の眼から見てはまるで無茶だね。そんな非常識な人間の相手は出来ないよ。なぜ東京へ帰らないんだ。愚図々々してゐてはもつとひどいことになるんだと云ふことがわからないのかねえ……", "わからないね。それに斯んな態で東京へも帰られはしないよ", "今どこに居るんだ?" ], [ "今夜にも屹度来るんだよ。金の来る来ないが別としても、返事だけは屹度来る筈なんだからな。何しろ手紙を出してる間が無かつたんで、電報でばかし居所を云つてやつてあるんで、そんなことで行違ひが出来てるのかも知れないが、しかし屹度今夜にも来ると思ふから……", "M屋の勘定が幾ら位ゐになつてゐるんだ?", "十円ばかし……", "それではその十円と汽車賃だけあると東京へ帰れるんだね?", "まあまあさうだな", "それでは万年筆をよこせ。あとはM屋の方は俺が引受けるから、すぐ東京へ帰るんだ。S閣の方を早く片附けて貰はないと俺が迷惑するからな", "そりや帰るには帰るけれど、今まで待つたんだからな、明日まで待つて見る。宿料も明日までは払つてあるんだから", "いや今日すぐこれから発つんでなくつちやご免だよ", "ぢや仕方が無い、発つてもいゝ", "それでは今すぐ後から行くから君はさきに帰つてゐ給へ" ], [ "さうですか。では失礼しました。……私はKと云ふ者ですが", "Kさん……?", "さうです。実は初めてあがつた者ですが、……失礼しました" ], [ "こつちではまさかそんなことになつてることゝは思はないし、多分どこかへ飲みにでも行つて、その金まで内田さんに立替へて貰ふ訳に行かなくて電報でも打つたんだらう位ゐに思つてゐたので、大したことに考へてゐなかつたのですよ。それに、やつぱし内田さんにしてもまるつきり商売が違ふんだから、それだけの理解もつかない訳で、どん〳〵勘定が登つてはと心配し出したのも無理もないでせうよ", "いや何しろ大失敗だつた。やつぱし鎌倉を出て来ない方がよかつたかな。それが、今度こそは屹度書けると思つたものだからな、実際金の問題ばかしでなく、あの原稿が気になつて仕様がないもんだからね、ほんとに癪に障るから明日にでも本屋に交渉して金が出来たら、またどこかへ出かけようとも思つてゐる", "もう止した方がいゝでせうよ。金が出来たらばやつぱしお寺へ帰る方がいゝと思ふがなあ、Fちやんもどんなに心配してるか" ], [ "そんならさうしなさい。しかし僕はこれから御殿場の方へ行くつもりなんだぜ。それでもいゝかね?", "よござんすわ。うちでもさう云つてよこしたんですから、構はないわ" ], [ "ぢやあ二枚買ふよ", "いゝわ、汽車賃位ゐはわたしのとこにもありますから" ] ]
底本:「ふるさと文学館 第九巻【茨城】」ぎょうせい    1995(平成7年)年3月15日初版発行 底本の親本:「葛西善蔵全集 2」津軽書房    1975(昭和50)年発行 初出:「国本」    1921(大正10)年5月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:林 幸雄 校正:小林繁雄 2002年12月3日作成 2011年2月18日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003212", "作品名": "浮浪", "作品名読み": "ふろう", "ソート用読み": "ふろう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「国本」1921(大正10)年5月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-12-17T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card3212.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "ふるさと文学館 第九巻【茨城】", "底本出版社名1": "ぎょうせい", "底本初版発行年1": "1995(平成7)3月15日", "入力に使用した版1": "1995(平成7)3月15日初版", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "葛西善蔵全集 2", "底本の親本出版社名1": "津軽書房", "底本の親本初版発行年1": "1975(昭和50)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/3212_txt_7922.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-02-18T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/3212_7923.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-02-18T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "いやけっしてそんなことはないよ。そんな点では、君はむしろ道徳家の方だと、ふだんから考えているくらいだよ", "それならいいが……" ], [ "浪子さんと言っちゃいけないだろうか?", "いけないよ……", "なんて言うの? 奥さんと言うのもあまり若いんで、少し変じゃないか?" ] ]
底本:「日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集」集英社    1969(昭和44)年7月12日 入力:住吉 校正:小林繁雄 2011年10月25日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "053045", "作品名": "遊動円木", "作品名読み": "ゆうどうえんぼく", "ソート用読み": "ゆうとうえんほく", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-12-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/card53045.html", "人物ID": "000984", "姓": "葛西", "名": "善蔵", "姓読み": "かさい", "名読み": "ぜんぞう", "姓読みソート用": "かさい", "名読みソート用": "せんそう", "姓ローマ字": "Kasai", "名ローマ字": "Zenzo", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1887-01-16", "没年月日": "1928-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集", "底本出版社名1": "集英社", "底本初版発行年1": "1969(昭和44)年7月12日", "入力に使用した版1": "1969(昭和44)年7月12日", "校正に使用した版1": "1975(昭和50)年1月8日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "住吉", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53045_ruby_45439.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000984/files/53045_45583.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "先生、あなたは暖かくなれば楽になると言われましたが本当ですか。脚が腫れたらもう駄目ではないのでしょうか", "いいえ、そんなことはありません。これから暖くなるのです。今に楽になりますよ、成る丈け安静にして居なさい" ] ]
底本:「日本の名随筆8 死」作品社    1983(昭和58)年3月25日第1刷発行    1985(昭和60)年9月30日第5刷発行 底本の親本:「作品 梶井基次郎追悼号」作品社    1932(昭和7)年5月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:土屋隆 校正:noriko saito 2007年7月23日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001329", "作品名": "臨終まで", "作品名読み": "りんじゅうまで", "ソート用読み": "りんしゆうまて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 914", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2007-08-07T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000244/card1329.html", "人物ID": "000244", "姓": "梶井", "名": "久", "姓読み": "かじい", "名読み": "ひさ", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "ひさ", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Hisa", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1870", "没年月日": "1946", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本の名随筆8 死", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1983(昭和58)年3月25日", "入力に使用した版1": "1985(昭和60)年9月30日第5刷", "校正に使用した版1": "1999(平成11)年11月20日第23刷", "底本の親本名1": "作品 梶井基次郎追悼号", "底本の親本出版社名1": "作品社", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年5月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "土屋隆", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000244/files/1329_ruby_27366.zip", "テキストファイル最終更新日": "2007-07-23T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000244/files/1329_27721.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-07-23T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それなんです? 顔をコスっているもの?", "これ?" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「詩・現実」    1930(昭和5)年6月 ※表題は底本では、「愛撫《あいぶ》」となっています。 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:高橋美奈子 1999年1月11日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "さあ……僕にはむしろ反対の気持になった経験しか憶い出せない。しかしあなたの気持は僕にはわからなくはありません。反対の気持になった経験というのは、窓のなかにいる人間を見ていてその人達がなにかはかない運命を持ってこの浮世に生きている。というふうに見えたということなんです", "そうだ。それは大いにそうだ。いや、それがほんとうかもしれん。僕もそんなことを感じていたような気がする" ], [ "そうだ。それであなたもなかなか窓の大家だ。いや、僕はね、実際窓というものが好きで堪らないんですよ。自分のいるところからいつも人の窓が見られたらどんなに楽しいだろうと、いつもそう思ってるんです。そして僕の方でも窓を開けておいて、誰かの眼にいつも僕自身を曝らしているのがまたとても楽しいんです。こんなに酒を飲むにしても、どこか川っぷちのレストランみたいなところで、橋の上からだとか向こう岸からだとか見ている人があって飲んでいるのならどんなに楽しいでしょう。『いかにあわれと思うらん』僕には片言のような詩しか口に出て来ないが、実際いつもそんな気持になるんです", "なるほど、なんだかそれは楽しそうですね。しかしなんという閑かな趣味だろう", "あっはっは。いや、僕はさっきその崖の上から僕の部屋の窓が見えると言ったでしょう。僕の窓は崖の近くにあって、僕の部屋からはもう崖ばかりしか見えないんです。僕はよくそこから崖路を通る人を注意しているんですが、元来めったに人の通らない路で、通る人があったって、全く僕みたいにそこでながい間町を見ているというような人は決してありません。実際僕みたいな男はよくよくの閑人なんだ" ], [ "いや、ところがね、僕が窓を見る趣味にはあまり人に言えない欲望があるんです。それはまあ一般に言えば人の秘密を盗み見るという魅力なんですが、僕のはもう一つ進んで人のベッドシーンが見たい、結局はそういったことに帰着するんじゃないかと思われるような特殊な執着があるらしいんです。いや、そんなものをほんとうに見たことなんぞはありませんがね", "それはそうかもしれない。高架線を通る省線電車にはよくそういったマニヤの人が乗っているということですよ", "そうですかね。そんな一つの病型があるんですかね。それは驚いた。……あなたは窓というものにそんな興味をお持ちになったことはありませんか。一度でも" ], [ "どうです。そんな話は。――僕は今はもう実際に人のベッドシーンを見るということよりも、そんな自分の状態の方がずっと魅惑的になって来ているんです。何故と言って、自分の見ている薄暗い窓のなかが、自分の思っているようなものでは多分ないことが、僕にはもう薄うすわかっているんです。それでいて心を集めてそこを見ているとありありそう思えて来る。そのときの心の状態がなんとも言えない恍惚なんです。いったいそんなことがあるものですかね。あっはっはは。どうです、今から一緒にそこへ行ってみる気はありませんか", "それはどちらでもいいが、だんだん話が佳境には入って来ましたね" ], [ "それは、ある日本人が欧羅巴へ旅行に出かけるんです。英国、仏蘭西、独逸とずいぶんながいごったごたした旅行を続けておしまいにウィーンへやって来る。そして着いた夜あるホテルへ泊まるんですが、夜中にふと眼をさましてそれからすぐ寝つけないで、深夜の闇のなかに旅情を感じながら窓の外を眺めるんです。空は美しい星空で、その下にウィーンの市が眠っている。その男はしばらくその夜景に眺め耽っていたが、彼はふと闇のなかにたった一つ開け放された窓を見つける。その部屋のなかには白い布のような塊りが明るい燈火に照らし出されていて、なにか白い煙みたようなものがそこから細くまっすぐに立ち騰っている。そしてそれがだんだんはっきりして来るんですが、思いがけなくその男がそこに見出したものはベッドの上にほしいままな裸体を投げ出している男女だったのです。白いシーツのように見えていたのがそれで、静かに立ち騰っている煙は男がベッドで燻らしている葉巻の煙なんです。その男はそのときどんなことを思ったかというと、これはいかにも古都ウィーンだ、そしていま自分は長い旅の末にやっとその古い都へやって来たのだ――そういう気持がしみじみと湧いたというのです", "そして?", "そして静かに窓をしめてまた自分のベッドへ帰って寝たというのですが――これはずいぶんまえに読んだ小説だけれど、変に忘れられないところがあって僕の記憶にひっかかっている", "いいなあ西洋人は。僕はウィーンへ行きたくなった。あっはっは。それより今から僕と一緒に崖の方まで行かないですか。ええ" ], [ "俺が彼女に対しているときはどうであろう。俺はまるで悪い暗示にかかってしまったように白じらとなってしまう。崖の上の陶酔のたとえ十分の一でも、何故彼女に対するとき帰って来ないのか。俺は俺のそうしたものを窓のなかへ吸いとられているのではなかろうか。そういう形式でしか性欲に耽ることができなくなっているのではなかろうか。それとも彼女という対象がそもそも自分には間違った形式なのだろうか", "しかし俺にはまだ一つの空想が残っている。そして残っているのはただ一つその空想があるばかりだ" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「文芸都市」    1928(昭和3)年7月号 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:多村栄輝 1998年11月17日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000412", "作品名": "ある崖上の感情", "作品名読み": "あるがけうえのかんじょう", "ソート用読み": "あるかけうえのかんしよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「文芸都市」1928(昭和3)年7月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-11-17T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card412.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "多村栄輝", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/412_ruby_19691.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/412_19692.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "知らないじゃないか", "だって、あなたが爪でかたをつけたのじゃありませんか" ], [ "そんなわけやでうちも一生懸命にやってるの。こないだからもな、風邪ひいとるんやけど、しんどうてな、おかあはんは休めというけど、うちは休まんのや", "薬は飲んでるのか", "うちでくれたけど、一服五銭でな、……あんなものなんぼ飲んでもきかせん" ], [ "あんたも帰るのやろ", "うむ" ], [ "電車はまだあるか知らん", "さあ、どうやろ" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「青空」青空社    1926(大正15)年8月号 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:陸野義弘 1998年10月13日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000413", "作品名": "ある心の風景", "作品名読み": "あるこころのふうけい", "ソート用読み": "あるこころのふうけい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「青空」青空社、1926(大正15)年8月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-10-13T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card413.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "陸野義弘", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/413_ruby_19693.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/413_19694.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "先刻あなたはシューベルトの『ドッペルゲンゲル』を口笛で吹いてはいなかったですか", "ええ。吹いていましたよ" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「青空」青空社    1926(大正15)年10月号 ※副題は底本では、「或《あるい》はKの溺死《できし》」となっています。 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:野口英司 1998年10月10日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000419", "作品名": "Kの昇天", "作品名読み": "ケーのしょうてん", "ソート用読み": "けえのしようてん", "副題": "或はKの溺死", "副題読み": "あるいはけいのできし", "原題": "", "初出": "「青空」青空社、1926(大正15)年10月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-10-10T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card419.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "野口英司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/419_ruby_19701.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/419_19702.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "ああかかる日のかかるひととき", "ああかかる日のかかるひととき" ], [ "ハリケンハッチのオートバイ", "ハリケンハッチのオートバイ" ], [ "四十九", "ああ。四十九" ], [ "あんた、扇子は?", "衣嚢にあるけど……", "そうやな。あれも汚れてますで……" ], [ "『カ』ちうとこへ行くの", "かつどうや" ], [ "ようちえん?", "いやらし。幼稚園、晩にはあれへんわ" ], [ "しょうせんかく", "朝鮮閣?", "ううん、しょうせんかく", "朝鮮閣?", "しょう―せん―かく", "朝―鮮―閣?" ], [ "花は", "Flora." ], [ "勝子、あれどこの人?", "あら。お母さんや。お母さんや", "嘘いえ。他所のおばさんだよ。見ておいで。家へは這入らないから" ], [ "一度は北牟婁で", "あの時は弱ったな。近所に氷がありませいでなあ、夜中の二時頃、四里ほどの道を自転車で走って、叩き起こして買うたのはまあよかったやさ。風呂敷へ包んでサドルの後ろへ結えつけて戻って来たら、擦れとりましてな、これだけほどになっとった" ], [ "その時は?", "かい虫をわかしとりましたんじゃ" ], [ "それがあってからお祖母さんがちょっとぼけみたいになりましてなあ。いつまで経ってもこれに(と言って姉を指し)よしやんに済まん、よしやんに済まんと言いましてなあ", "なんのお祖母さん、そんなことがあろうかさ、と言っているのに" ], [ "貸してくれはったか", "はあ。裏へおいといた", "雨が降るかもしれんで、ずっとなかへ引き込んでおいで", "はあ。ひき込んである" ], [ "チン、チン", "チン、チン" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「青空」青空社    1925(大正14)年2月号 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:野口英司 1998年9月8日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000429", "作品名": "城のある町にて", "作品名読み": "しろのあるまちにて", "ソート用読み": "しろのあるまちにて", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「青空」青空社、1925(大正14)年2月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-09-08T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card429.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "野口英司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/429_ruby_522.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "12", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/429_19794.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "3" }
[ [ "ホーホケキョ", "あ、鶯かしら" ], [ "まあいいわね", "間違ってるかも知れないぜ" ], [ "今日はまだどこへも出られないよ。こちらから見ると顔がまだむくんでいる", "でも……", "でもじゃないよ", "お母さん……", "お姑さんには行ってもらうさ", "だから……", "だから切符は出すさ" ], [ "何だろう", "それは××が南洋から持って帰って、庭へ植えている○○の木の根だ" ], [ "どうだい、で、研究所の方は?", "まあぼちぼちだ", "落ちついているね", "例のところでまだ引っ掛かってるんだ。今度の学会で先生が報告するはずだったんだが、今のままじゃまだ貧弱でね" ], [ "その章魚の木だとか、××が南洋から移植したというのはおもしろいね", "そう教えたのが君なんだからね。……いかにも君らしいね。出鱈目をよく教える……", "なんだ、なんだ", "狐の剃刀とか雀の鉄砲とか、いい加減なことをよく言うぜ", "なんだ、その植物ならほんとうにあるんだよ", "顔が赤いよ", "不愉快だよ。夢の事実で現実の人間を云々するのは。そいじゃね。君の夢を一つ出してやる", "開き直ったね", "だいぶん前の話だよ。Oがいたし、Cも入ってるんだ。それに君と僕と。組んでトランプをやっていたんだから、四人だった。どこでやっているのかと言うと、それが君の家の庭なんだ。それでいざやろうという段になると、君が物置みたいな所から、切符売場のようになった小さい小舎を引張り出して来るんだ。そしてその中へ入って、据り込んで、切符を売る窓口から『さあここへ出せ』って言うんだ。滑稽な話だけど、なんだかその窓口へ立つのが癪で憤慨していると、Oがまたその中へ入ってもう一つの窓口を占領してしまった。……どうだその夢は", "それからどうするんだ", "いかにも君らしいね……いや、Oに占領しられるところは君らしいよ" ], [ "もう美しい夕焼も秋まで見えなくなるな。よく見とかなくちゃ。――僕はこの頃今時分になると情けなくなるんだ。空が奇麗だろう。それにこっちの気持が弾まないと来ている", "呑気なことを言ってるな。さようなら" ], [ "疲れてますね。どうでした。見つかりましたか", "気の進まない家ばかりでした。あなたの方は……" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「青空」青空社    1926(大正15)年6月号 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:野口英司 1998年10月7日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "やう、やう。", "やう。" ] ]
底本:「梶井基次郎全集 第一巻」筑摩書房    1999(平成11)年11月10日初版第1刷発行 入力:高柳典子 校正:小林繁雄 2002年11月10日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003201", "作品名": "太郎と街", "作品名読み": "たろうとまち", "ソート用読み": "たろうとまち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "旧字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-12-03T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card3201.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "梶井基次郎全集 第一巻", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1999(平成11)年11月10日", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年11月10日初版第1刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "セルバン", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "昭和8(1933)年4月1日印刷納本5月1日発刊", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "高柳典子", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/3201_ruby_7618.zip", "テキストファイル最終更新日": "2002-11-10T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/3201_7619.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2002-11-10T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "お前達は並んでアラビア兵のようだ", "そや、バグダッドの祭のようだ", "腹が第一減っていたんだな" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「青空」青空社    1925(大正14)年7月号 ※表題は底本では、「泥濘《でいねい》」となっています。 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:野口英司 1998年9月12日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000414", "作品名": "泥濘", "作品名読み": "でいねい", "ソート用読み": "ていねい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「青空」青空社、1925(大正14)年7月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-09-12T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card414.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "野口英司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/414_ruby_19797.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "4", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/414_19798.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "4" }
[ [ "なんやらヒヨヒヨした鳥やわ", "そんなら鵯ですやろうかい" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「中央公論」    1932(昭和7)年1月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:二宮知美 1999年6月2日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000425", "作品名": "のんきな患者", "作品名読み": "のんきなかんじゃ", "ソート用読み": "のんきなかんしや", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「中央公論」1932(昭和7)年1月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1999-06-02T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card425.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "二宮知美", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/425_ruby_19811.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "5", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/425_19812.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "××どんあれはいつ頃だったけ", "へい" ], [ "休暇になったから郷里へ帰ろうと思ってやって来た", "もう休暇かね。俺はこんどは帰らないよ", "どうして", "帰りたくない", "うちからは", "うちへは帰らないと手紙出した", "旅行でもするのか", "いや、そうじゃない" ], [ "あと一と衝きというところまでは、その上にいて鶴嘴をあてている。それから安全なところへ移って一つぐわんとやるんだ。すると大きい奴がどどーんと落ちて来る", "ふーん。なかなかおもしろい", "おもしろいよ。それで大変な人気だ" ], [ "しばらく誰も来なかったかい", "しばらく誰も来なかった", "来ないとひがむかい" ], [ "ひがみはしない。しかし俺もこの頃は考え方が少しちがって来た", "そうか" ], [ "俺はそんなときどうしても冷静になれない。冷静というものは無感動じゃなくて、俺にとっては感動だ。苦痛だ。しかし俺の生きる道は、その冷静で自分の肉体や自分の生活が滅びてゆくのを見ていることだ", "…………", "自分の生活が壊れてしまえばほんとうの冷静は来ると思う。水底の岩に落ちつく木の葉かな。……", "丈草だね。……そうか、しばらく来なかったな", "そんなこと。……しかしこんな考えは孤独にするな", "俺は君がそのうちに転地でもするような気になるといいと思うな。正月には帰れと言って来ても帰らないつもりか", "帰らないつもりだ" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「青空」青空社    1927(昭和2)年2月号、4月号 ※編集部による傍注は省略しました。 ※見出しの字下げが統一されてないのは、底本通りです。 入力:j.utiyama 校正:野口英司 1998年10月17日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000417", "作品名": "冬の日", "作品名読み": "ふゆのひ", "ソート用読み": "ふゆのひ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「青空」青空社、1927(昭和2)年2月号、4月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-10-17T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card417.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "野口英司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/417_ruby_19815.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "6", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/417_19816.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "そうね", "僕はいつでもあれくらいの遠さにあるやつを花だと思って見るのです。その方がずっと美しく見えるでしょう。すると木蓮によく似た架空的な匂いまでわかるような気がするんです" ], [ "僕はここへ来るといつもあの路を眺めることにしているんです。あすこを人が通ってゆくのを見ているのです。僕はあの路を不思議な路だと思うんです", "どんなふうに不思議なの" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:Juki 1998年12月14日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000418", "作品名": "闇の書", "作品名読み": "やみのしょ", "ソート用読み": "やみのしよ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-12-14T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card418.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "Juki", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/418_ruby_922.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "6", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/418_13828.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "2" }
[ [ "じゃあの崖を登って行って見ないか", "行けそうだな" ], [ "遠そうだね", "あそこに木がこんもり茂っているだろう。あの裏に隠れているんだ" ] ]
底本:「檸檬・ある心の風景 他二十編」旺文社文庫、旺文社    1972(昭和47)年12月10日初版発行    1974(昭和49)年第4刷発行 初出:「青空」青空社    1925(大正14)年10月号 ※編集部による傍注は省略しました。 入力:j.utiyama 校正:野口英司 1998年9月16日公開 2016年7月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "000426", "作品名": "路上", "作品名読み": "ろじょう", "ソート用読み": "ろしよう", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「青空」青空社、1925(大正14)年10月号", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "1998-09-16T00:00:00", "最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/card426.html", "人物ID": "000074", "姓": "梶井", "名": "基次郎", "姓読み": "かじい", "名読み": "もとじろう", "姓読みソート用": "かしい", "名読みソート用": "もとしろう", "姓ローマ字": "Kajii", "名ローマ字": "Motojiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1901-02-17", "没年月日": "1932-03-24", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "檸檬・ある心の風景 他二十編", "底本出版社名1": "旺文社文庫、旺文社", "底本初版発行年1": "1972(昭和47)年12月10日", "入力に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "校正に使用した版1": "1974(昭和49)年第4刷", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "j.utiyama", "校正者": "野口英司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/426_ruby_19827.zip", "テキストファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "6", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/426_19828.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2016-07-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "3" }
[ [ "みんなは若けえからストライキだって元気でやれるんだ。だが俺は――", "もう好いよ。愚痴は云うな、甲吉" ], [ "これを見ろ、たった百円だぞ。会社のためになくした片腕の代償が、たった百円だぞ。しかもこの片腕は、金持ちの片腕たア少しちがうんだ。この腕以外に何の資本も持たねえ俺たちの腕――", "犠牲者に千円よこせ!" ], [ "お前えのためじゃねえよ。プロレタリアートのために、だよ", "でも、お前えら、俺を憎んでるじゃねえか。憎まれながら、お前えらのおかげで千円貰ったって嬉しかねえよ", "どうしてお前えは、先のストライキの時によ、それだけの意地を出さなかったんだい。裏切者になってまで首をつなぎたかあねえんだとな" ], [ "お前え、共産党か?", "ううん、ちがう" ], [ "何でそんな事云うんだ?", "そんな気がする" ] ]
底本:「日本プロレタリア文学集・20 「戦旗」「ナップ」作家集(七)」新日本出版社    1985(昭和60)年3月25日初版    1989(平成元)年3月25日第4刷 底本の親本:「中央公論」    1931(昭和6)年8月号 入力:林 幸雄 校正:青野弘美 2002年1月29日公開 2005年12月6日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "002698", "作品名": "今度こそ", "作品名読み": "こんどこそ", "ソート用読み": "こんとこそ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2002-01-29T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000491/card2698.html", "人物ID": "000491", "姓": "片岡", "名": "鉄兵", "姓読み": "かたおか", "名読み": "てっぺい", "姓読みソート用": "かたおか", "名読みソート用": "てつへい", "姓ローマ字": "Kataoka", "名ローマ字": "Teppei", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-02-02", "没年月日": "1944-12-25", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本プロレタリア文学集・20 「戦旗」「ナップ」作家集7", "底本出版社名1": "新日本出版社", "底本初版発行年1": "1985(昭和60)年3月25日", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年3月25日第4刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "中央公論", "底本の親本出版社名1": "中央公論社", "底本の親本初版発行年1": "1931年8月号 ", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "青野弘美", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000491/files/2698_ruby_6141.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-06T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "2", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000491/files/2698_20693.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-06T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "菜の花月夜ぢやけん、今に誰かが狐に騙されるぢやろ", "助平が一番騙され易いさうぢや", "一ぺん、別嬪の狐に出会うて見たいわい" ], [ "小作人共には、酒を飲ませちやるに限りますわい", "ふむ。費用はどの位ぢやらう", "まア張り込みなされ。若旦那の婚礼が宜しうござりましよ。早う嫁ごを捜して、この農閑期のうちに、盛大な式をあげなされ、その時、うんと飲ませちやつて、荒つぽい奴らの気持を柔らげちやりなされ", "うん、よし、嫁を早う捜せ" ], [ "さつきから、何度あそこへ出たり入つたりしとるんぢや", "待ちどほしうて耐らんのぢやろ", "俺はまた、早う飲みたいわい", "芸妓は、もう来とるぞ" ], [ "今頃は、うん〳〵唸つてけつかろ", "おかげで今夜は酒がうまいぞ" ], [ "どこい――ほんまかな?", "来た、来た!", "おりよ、仰山な提灯ぢや" ], [ "見えました、見えました、下り藤の定紋ぢや!", "ようし!" ], [ "これは、これは、お目出度いお着きでござります。お迎へに罷り出ました", "御苦労様でござります" ], [ "好えなア", "好え" ], [ "ちゃア、りやア! 人の嫁さんに惚れんさつたんか", "誰も惚れやせんがな。好えけん、好え云うとるだけぢやがな", "それでも、眼の色がちがふ", "どあはうが" ], [ "大事ぢや!", "どがいしんさつた?" ], [ "どがいも、こがいも、ないわい、出てみんさい。もう一つ来よつた、嫁入りぢや!", "もう一つ?", "門の下まで来とる、下り藤の定紋ぢや", "なに?", "それア、狐ぢや。菜の花月夜ぢやけん" ], [ "待て、待て!", "旦那! ごらんの通りぢや", "ふむ" ], [ "尾高の水島? 知らん、わしらは能義郡の母里村の者ぢや、母里の遠藤ぢや。今日が日取りと決めておいて、今更ら怪しからんことを云ひなさる", "でも……" ], [ "秋山家ぢやと、初めから云つとりますがな", "そんなら何が、いけんのぢやな?", "こなたは、母里の遠藤さんと御婚約がありませんもん", "なにう云ふんなら! 安来の島崎を仲にしてあんなに呉れえ〳〵と云うといて……" ], [ "わしらの娘は、何ぼでも貰ひ手があるのに、何ちふことなら、江尾の秋山ともあらうものが何ちふことなら!", "分りました。それで分りました。これやア、えらいことぢやつた、江尾の秋山さんなら違ひますでな。こなたは、溝口の秋山家でござるぞなア", "なに、違ひましたか?" ], [ "ありや、ありや", "どつちが狐か分らんがな" ], [ "何が?", "あんなの!", "あれか? けど、今更ら……", "わしは、祝言しませんけん" ], [ "いなしたら好えけど、初めのがわしは欲しいけん。あれを呼び戻してつかはさい!", "あれはお前、江尾の秋山の嫁さんぢやアがな", "知らん、知らん! 江尾に行かんまに、早う呼び戻して来てえ", "そがいな無理があるか!" ], [ "何うしとりんさる?", "これが、あはうを云ひ出して困るがな。先の嫁を、呼んで来て呉れ云ふんぢや", "ありやアりやア? そのいな事が――無茶ぎり云ふ", "早う行け!" ], [ "違ひますわい!", "嘘うつけえ。お前の責任ぢや", "痛々、痛ア、ちよつと待つてつかはさい。腹がハシつて来ました……" ], [ "分つた! これや、怪しからん。行列を取りちがへて迎へ入れたのはなア、あれア、みな百姓共が、わざとした事でせうぞい", "本当か?", "こなたを困らせちやらう思うて、百姓が、企んだ仕事ぢや", "なに" ] ]
底本:「花の名随筆3 三月の花」作品社    1999(平成11)年2月10日初版第1刷発行 底本の親本:「片岡鉄兵全集」改造社    1932(昭和7)年8月発行 入力:岡村和彦 校正:noriko saito 2011年1月11日作成 2011年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "052349", "作品名": "菜の花月夜", "作品名読み": "なのはなづきよ", "ソート用読み": "なのはなつきよ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-02-21T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000491/card52349.html", "人物ID": "000491", "姓": "片岡", "名": "鉄兵", "姓読み": "かたおか", "名読み": "てっぺい", "姓読みソート用": "かたおか", "名読みソート用": "てつへい", "姓ローマ字": "Kataoka", "名ローマ字": "Teppei", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1894-02-02", "没年月日": "1944-12-25", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "花の名随筆3 三月の花", "底本出版社名1": "作品社", "底本初版発行年1": "1999(平成11)年2月10日", "入力に使用した版1": "1999(平成11)年2月10日初版第1刷", "校正に使用した版1": "1999(平成11)年2月10日初版第1刷", "底本の親本名1": "片岡鉄兵全集", "底本の親本出版社名1": "改造社", "底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年8月", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "岡村和彦", "校正者": "noriko saito", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000491/files/52349_ruby_41555.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-02-22T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000491/files/52349_42015.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-02-22T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "うん、へいご蜂をな!", "俺らほの兄いまがこないだ一巣発見たぞ!" ], [ "わし、昨日晩方通った時御夕飯食べとっつらな!", "何んで?", "何んでもな! お夕飯をあんね明るい時分に食べるんだなあ!" ], [ "真佐子ちゃんも長靴ある?", "ウム、だけどもっと小さいの……" ], [ "わしァ今度お母まが製糸から帰る時買って来て呉れるったの!", "お母まいつ来る?", "今度の公休日!", "芳江さはいつかもさう云っとったぢゃないかな? 一寸も買って来りゃせん……。" ], [ "岡野屋から荷は出とらなんだかな?", "どうだか知らんぜ。俺ら今日は肥料ばっかりだ!", "庄作さ! 中屋の後家が待っとったぞ!" ], [ "まづ毎日肴買はんか何にを買はんかって色々な奴が来やがるよ! 昨日来た菓子屋なんか四里から背負って来るんだでなあ!", "うん、どこも不景気だでぢっとしてをれんのだな。負けとく負けとくっていふで、負けてお呉れでもいいが、ここぢゃァ何んにも買はんきめがあるでって、荷を下さん先におことわりだ!", "いよいよなんにも買へん時節が来ちまったな。そいだがたまにゃァ鰯の一本も食ひたくなるしなあ……" ], [ "俺ァ今日は松下の屋敷引きだ!", "なんだ、何か建てるのか?", "なあに、裏へ石垣取るってんで、あの厩を一寸ずらせるだけだ" ], [ "田地は買込む、普請はする、お蚕は当てる、金は貸せる程有るんだで! 云はっとこねえさ……", "日の出っちふもんさ! あそこらが――", "仕事がどんどん廻るでなあ……。ああなりゃおんなじ仕事でも楽で面白く廻る!" ], [ "賄を拡げちまってどうにも借金だらけだ!", "今日日借金のねえやうな者は無いが、お前のとこは息子も娘も実直でよう精出すでなあ!" ], [ "そいだがかうなりゃ借りた者の方が強いぜ!", "何んちゅったって返せんものは返せんと度胸を据ゑ込んで了ふでなあ……ハハハハ……" ], [ "義一っさは酒を飲まんでお茶でも入れるに!", "お前、酒は駄目か? お父まの子ぢゃねえな", "今とてもいい相談がはじまっとるとこよ……" ], [ "うん、もう十日ばか来とる。あいつも何をしとるんだか……名古屋の方だってどうせいいこたあねえらよ。今時ぶらぶらしとるやうぢァ!", "俺らも此処に居ったってつまらんでどっかへ行かっと思っとる!" ], [ "俺ァどうせ学問の方は駄目だで……、老爺と二人で食へさへすりゃいいんだで!", "お前食ってそこが出て行けさへすりゃ結構よ!" ], [ "俺ァの時分には、朝飯前に六把の朝草はきっと刈ったんだでなあ――。それで夜業にゃ草鞋なら二足、草履なら三足とちゃんと決っとったもんだ!", "……うん、そりゃあ昔の事思ふと今の者はお大名暮しだ。昔の事云ふと若者は機嫌が悪いで俺ァ黙っとるが……" ], [ "それよかお前、早くお嬶っさま貰へよ!", "貰へたって、俺ァまり来て呉れ手がねえよ!", "さう云ふなよ、隣家に丁度いいのが有るぢゃねえか。君子さを貰へよ?", "君子さがどうして来て呉れず! 俺とは身分がちがふもん!" ], [ "なあ! 森田様だ大屋様だって威張りくさったって潰れりゃ、小屋になっちまったぢゃねえか!", "ふんとに森田も小屋になっちまったな!" ], [ "春時分、喜八郎さがえらい大病したってなむ!。肋膜かどっかで死にさうだったって!", "うむ、弱り目に祟り目さ。だが森田も変りや変ったもんだな!" ], [ "こないだ、おふじさが馬鹿に洒落た風をして帰って来たぞ。馬鹿に若々した顔しとった……", "おふじさは製糸で取るで工面がいいな!", "製糸でいくら取れず! 口稼ぎがやっとこだ。又いい金主がついたんずら!" ], [ "だが由公は脆く死にゃがったな……。森田の利国さの好い相手だったが……。ありゃ酒がもとだな……。利国さあたりもさうだが!", "うん、そいだがあの家もこの景気で四人から五人食はせて行かんならんのだで、後家の腕ぢゃえらいことはえらいなあ!" ], [ "似たとこがあるで子ずらよ!", "ちょっとも似たとこが無いぢゃないかな! あの子は! お咲さ酷似の顔しとる!" ], [ "おときさんとこは進んどるらなむ! 飼ひがおいいで……", "昨日桑付けしたとこな。夜跨ぎになって手間が取れちまって……。なんしょ芽桑がちょっともないんで骨が折れてわしァふんと悲しくなったもの!" ], [ "ほんに喜八郎まは如何だな! あのまんまいい向でおいでるらなむ!", "ありがたうございます" ], [ "あれで岡島区へ中電の発電所が出来て、鉄道が通ったりするとなると、福本の山はどえらい値が出ることになるな!", "馬鹿だな貴公は! はじめっからそのつもりだったんぢゃないか。ここらの小狡い奴らが束になってかかったって、福本にかなふもんか。沢渡山だって地続きに欲しかったから手に入れたんぢゃないか……。森田の利国さだって最初っから蛇に見込まれた蛙さ……なんだかだ云って搾りとられてしまったんだ!", "やイやイおだてられてちィっと芸者揚げてさわいで見た位のもんだな!", "そいでも福本もこの頃は大分神妙になって、方々へ寄附したりして、前ほど悪く云はれんやうになったちふぞ!", "県会に野心があるのさ!" ], [ "ん、山持たん者ぢゃ話にならんな。農会あたりぢゃ副業に椎茸作れ白木耳作れって宣伝やっとるが……。なんだって儲け仕事のやれる者はやらでも済んで行ける人達だでな!", "さうだ。今度の低利資金だって、払へる見込の有る者でなけにゃ貸せんちふものな。……払へる見込がつかんでみんな困っとるんぢゃないか!", "ん、岡田村だけで一万八千円の低資申込だっていふが、そんなものは焼石に水なんだで…" ], [ "村会が揉めるったって、無理はない。貧乏な村だでなあ。……みんなどん栗の背っくらべだ。それで要る方はおんなじに要るんだで、小さい者に大きな負担をうんと背負ひ込ますんだ!", "これで岡田村もよその村へ出ると地所だけでも大きいちふでな!" ], [ "一銭、一銭お呉んなったら?", "飼っちまったらやるで……" ], [ "おときさん、今月の分はもうおだしつらなむ?", "お米の方だけなむ!雑巾縫はずもこちとらにゃァ手間も布もありませんで……。ためになることは解っとるけど仲々そこがやかましくて……" ], [ "花を立てて進ぜるんだ。仏さまにな", "お父っさまに灯をつけて進ぜるんだに" ], [ "うん、八百燈をな", "どこへ灯をつけるんな?", "ここのまはりから街道の方へつけて行くやうにするだな" ], [ "こちらと新屋の娘と中屋の老爺と……、窪の由松さは春だったで去年済んだな!", "開土の子も今年ぢゃなかったかしら?" ] ]
底本:「定本金田千鶴全集」短歌新聞社    1991(平成3)年8月20日発行 初出:「つばさ 第二巻第四号」つばさ発行所    1931(昭和6)年4月1日 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 入力:林 幸雄 校正:土屋隆 2009年3月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003203", "作品名": "夏蚕時", "作品名読み": "なつこどき", "ソート用読み": "なつことき", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「つばさ 第二巻第四号」つばさ発行所、1931(昭和6)年4月1日", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2009-04-14T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000873/card3203.html", "人物ID": "000873", "姓": "金田", "名": "千鶴", "姓読み": "かなだ", "名読み": "ちづ", "姓読みソート用": "かなた", "名読みソート用": "ちつ", "姓ローマ字": "Kanada", "名ローマ字": "Chizu", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1902-11-19", "没年月日": "1934-08-17", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "定本金田千鶴全集", "底本出版社名1": "短歌新聞社", "底本初版発行年1": "1991(平成3)年8月20日", "入力に使用した版1": "1991(平成3)年8月20日", "校正に使用した版1": "1991(平成3)年8月20日 ", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "土屋隆", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000873/files/3203_ruby_34283.zip", "テキストファイル最終更新日": "2009-03-26T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000873/files/3203_34764.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-03-26T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "まず、君の原籍は?", "山梨県東山梨郡諏訪村です", "汽車で行くとどこで降りるんだね", "塩山が一番近いようです" ], [ "さあ、そう言われると少し困りますね。実はそこは、つまり諏訪村はですね、私の原籍地とは言い条、今までに二年とはいなかったんですから", "ふむ。君はその原籍地で生れなかったんだね", "そうです。私の生れた処は父や母の話によると横浜だそうです", "なるほど。で、君の両親は何という名前で、どこにいるんだね" ], [ "ふむ、なるほど、そこに何かわけがあったんだね。で、君のお父さんとお母さんとの別れたのはいつ頃のことだね", "もうかれこれ十三、四年も昔でしょう。父と別れたのは私がたしか七つぐらいの時のことです", "そして? その時君はどうなったんだね", "父と別れて母に引きとられました", "ふむ、それでそれからはずっと母の細腕一本に育て上げられたというわけだね", "ところがそうじゃないんです。私は父とわかれてから程なく母ともわかれたんです。そしてそれからはほとんど父や母のお世話にはなっていないんです" ], [ "どうもしないのに中のお金がなくなっているはずはない。途中で何か買ったんだろう", "いいえ", "それでは途中で落したんではないか", "いいえ、鞄の中に入れてあったんですから……" ], [ "じゃあいくら買って来るの", "ちゃぶ台の脚のところに五銭ころがっている。それだけ買っといで" ], [ "私は、……私は、ほんとうは金が欲しくてこの子を娼妓にしようというんではないんです。だからお金のことなんかはどうでもいいんです。ただ、私が余り貧乏しているので、そうした方がむしろこの娘の仕合せになると考えたからなんです", "それはそうだろう。いくら娼妓でも出世すればまたたいしたものだから……" ], [ "何だって? 休ませてくれだって? そろそろお前もずるけたくなったのかい。横着きめたら承知せんぞ", "いいえ、そういう訳じゃございませんのです。どうしても出て来られないことがあるんでございます", "ふん、それじゃ何かい。あしたはお前の家へ、京城からお金持ちの親戚が来るとでも言うのかい?" ], [ "はい……ただいまですか", "そうだ。今すぐ行くんだ……" ], [ "ねえ岩下さん、私がこの間もって行ったもの見て?", "この間もって行ったもの? どこへ?" ], [ "うちのお父さんもそう言ってたわ", "うちのお父さんも……" ], [ "失礼ですが、お昼御飯いただきましたか?", "いいえ。朝から……" ], [ "面白い?", "うん、面白い" ], [ "ちょっと見せて……貸してくれない?", "貸してもいい" ], [ "なるほど良い米ですねえ、どれだけあるのですか", "五升あります", "たしかに五升ありますね、大丈夫ですね" ], [ "まあ、ふみさん、よく帰って来ましたね", "ありがとう。とうとう帰って来ました" ], [ "荷物はどうしたの?", "別に何もないの。行李があるんだけど、今日はもちろん着いていないでしょう", "そうねえ、じゃ、すぐ帰ることにしましょう", "ええ" ], [ "この犬、叔父さんが飼っているの?", "ああそうだ", "何ていうの?", "エス", "エス? 変な名前ね、エス! エス! エスお出で!" ], [ "私が兄さんのところに御厄介になったのは興津ででしたねえ、あの時私は十七でした。だからもう六年になります", "そうそう、わしの興津時代に、あんたが来て遊んで行ったことがあるねえ。あの頃はほんの子供だったッけ……", "だけど、あれで決して不真面目じゃなかったんですよ" ], [ "ふみ子さん、どうかしたんけえ、汽車に酔ったんずら……ひどく気分がわるいけえ……", "ええ、汽車に酔ったところへ雨にずぶ濡れになったものだから……" ], [ "ああ、傘はすぐ借りてあげるが、おなかが減っているずらと思って天ぷら注文しといたで……", "いいえ、私おなかなんか空いていやしませんの、それにまだ胸がわるいんです……", "まあいいやね、日が長いずら……" ], [ "まあ、ふみ子が帰って来てたの、私、締めといた家が開いているのでどうしたのかとびくびくものだったんだよ", "たった今帰ったの……、お腹が空いたから御飯たべているけど、このお肴食べても好いんでしょう?", "ああ好いとも……それで、甲州では皆達者?", "ええ、皆達者だわ……叔母さんどこへ行って来たの", "今夜はそれ、秋葉さんの縁日だろう。で、別に用はなし、暑くもあるから、みんなで出かけたのよ", "そうお、お父さんや賢ちゃんは?", "あの二人は石橋さんとこへ寄るって行った。でも、私はこんななりで行くのはいやだったから先に帰って来たのさ……" ], [ "じゃあ、どうして祖母さんは私と一緒に来たの", "どうしてッてことはない。ただ、元栄がお前をつれて行ってくれと言うから来ただ。わしも久しぶりにたかのにも会いたいから……" ], [ "どうして?", "どうしてって、僕学校に行って見たら、僕の靴、いい方でなくて安い方だったじゃないか" ], [ "ええ、ようござんす。私はもちろん、おじさんに助けていただこうと思って来たのではないんです。自分で苦学の途を探します", "ふむ! まあ、やってみるがいいさ" ], [ "まだ一人だって帰って来てはいないよ。それだのにあんないい場所をもっている君が一番さきに帰るなんて法はないよ", "ええ、ですけど、ちっとも売れないんです。夕方の夕立で人足がすっかり減ってしまったんです" ], [ "すみませんが新聞を二、三枚くれませんか", "はい、何を差し上げましょうか", "いや、何でもいいんです。残っているものを何でも……" ], [ "粉石鹸をもって来ました", "ほおう、しゃぼんやさんだね、まあしっかりやりなされ" ], [ "駄目よ、おじさん。いくら埃をはたいても台がないんだから。品物は往来を通る人の埃をじかに浴びるんだもの。それに今日なんかはもっとひどいよ、私がここに来て見ると、往来に水を撒いたと見えて地べたがびしょ濡れさ、仕方がないから私、地べたの乾くまでしばらく待っていたのよ。それでもなお、これご覧、しゃぼんも新聞も、びしょびしょに湿気てるから……", "ふん、なるほど湿気てるね、そんな按排でいいのかい?", "いけないわよ、おじさん、しけってはいけないって、ちゃんと袋の裏に書いてあるわ", "じゃ、台を拵えたらいいじゃないか" ], [ "まあ、何てうるさいんでしょう、この頃は毎日のように孤児院が来るのねえ。私、初めのうちは可哀相だと思って五銭六銭出してやったが、でもきりがないので、この頃はもう片っ端から断ってやることに決めてるのよ", "ええ奥さん、それが一番ですよ。可哀相だ可哀相だといってた日にゃ、こちらの口が乾あがってしまいますからねえ", "ほんとに、全くだわ" ], [ "へえ……どなたかの紹介でもお持ちでしょうか。手前共の方では初めてのお方とは取引きを致しませんのですが……", "いいえ、紹介は別にもっていませんが、私の住居はすぐそこですから、何なら、ちょっと見届けて下さってもいいんですが……" ], [ "お金ありがとう。だが、あれにはちょっとびっくりしましたねえ。用事があれば僕の来た時話してくれるとして、これからは決して手紙なんか寄越さないで下さい。女から来た手紙だなんてことがわかったら、僕の信用がなくなりますからねえ……", "ええ、でも待ちきれなかったんですもの。それに、だからと思って字も名前も男のように書いたつもりだけど……", "いや、そのお志はありがたいんです。ただ、手紙なんか寄越さないで……" ], [ "どうして知ってるって? それはねえ、この間あなたのところへ、うちの番頭さんが寄って昼寝したでしょう。山本さんは帰って来て、あなたの枕が豚小屋の敷藁よりも汚いって言ってたからよ。座蒲団のないこともその時きいたの", "それで拵えてくれたんですか", "そうです。ほんとうは、私の襦絆の袖ならメリンスでいいと思ったのですけど、紅い色が這入っているのでいけないと思って、よくないけれど更紗を買って来てつくったのよ。でも、座りよいように、普通の寸法よりはずっと大きくそして厚くしておきましたわ。枕の方は、あなたの好きな大きさがわからないからいい加減にしておきましたけれど、気に入らなかったら直しますからそう言って下さい" ], [ "随分待っていたんだぜ、この近所で", "待っていたって? まあ、どうして判ったんでしょう、私がここにいるってことが", "そりゃわかるさ、随分探したんだもの。だが、それはそうと、まあ、こっちへお出でよ。ちょっと話があるんだから" ], [ "一体いつ帰ったの?", "つい四、五日前", "随分永い旅だね、五十日も六十日もどこをうろついていたんだい? 手紙を出そうにもどこにいるのかわからないしさ、一度ぐらい何とか言って来たってよさそうなものじゃないか", "だって別に用事もないんだもの", "用事がない? ふん、するとふみちゃんはあれだね、用事がなきゃ手紙を出さないんだね、離れてりゃ僕のことなんかけろりと忘れてるんだね", "さあどうだか? あるいはそうかも知れないわ、あなたもそうであるようにね……それはそうと、私おなかが空いちゃった、御飯注文して頂戴よ" ], [ "大きなお世話です。私の足で私が歩くのに、何でいけないんです。私の勝手だわ。黙っていらっしゃい", "だって玄さんが迷惑するじゃないか。朝っぱらから邪魔をされては……" ], [ "あなた御飯はもう頂きましたか……実は僕まだ頂いていないんです。下宿の御飯はまずいんでね。それで今、どこかへ何か食べに行こうと思ってるんですが、あなたもつき合いませんか。ひまを取らせはしませんから……", "そうですか、それはありがとう。実は私もまだ頂いていないんです", "じゃあ、ちょうどいい、参りましょう" ], [ "そう? じゃ参りましょう。今行きますから待っててね", "待っています。じゃすぐ来給え" ], [ "ねえ、すみちゃん、あの女一体なんだろう?", "大かた下宿屋廻りの淫売なんだろう?" ], [ "あの、久能さんは?", "久能さん? そんな人知りませんが……" ], [ "さようなら、お大切に", "ありがとう、しっかり勉強おし" ], [ "この詩のどこがいいですか", "どこがってこたあない。全体がいい。いいと言うんじゃない、ただ力強いんです。私は今、長い間自分の探していたものをこの詩の中に見出したような気がします", "馬鹿に感心したんですね。一度会いますかね", "ええ、会わして下さいな。ぜひ" ], [ "どうしてです。あなたは苦学生じゃないんですか", "そう、もとは熱心な苦学生で、三度の食事を一度にしても学校は休まなかったのですが、今はそうじゃありません", "それはどうしてです", "別に理由はありません。ただ、今の社会で偉くなろうとすることに興味を失ったのです", "へえッ! じゃあなたは学校なんかやめてどうするつもりです?", "そうね、そのことについて今しきりと考えているのです……。私は何かしたいんです。ただ、それがどんなことか自分にも解らないんです。がとにかくそれは、苦学なんかすることじゃないんです。私には何かしなければならんことがある。せずにはいられないことがある。そして私は今、それを探しているんです……" ], [ "鄭さん、あの人、何て言うの?", "ああ、あの人? あれはいつかあなたが大変感心した詩の作者朴烈君ですよ" ], [ "あなた話してくれましたか", "ええ、二、三日前の会で会って、話しておきました", "その時、朴さんは何と言って?", "そうねえ、朴君はただ――そうですか、と言ったきり何も言いませんでしたよ。あまり乗り気でもなかったようです" ], [ "今晩学校の前に来ていて下さらない? 些しお話したいことがあるの", "学校ってどこですか", "神田の正則" ], [ "ありがとう、大分待って?", "いいや、ほんの今来たばかりです", "そうですか、ありがとう、少し歩きましょう" ], [ "ところで……私があなたに御交際を願ったわけは、多分鄭さんからおきき下さったと思いますが……", "ええ、ちょっとききました" ], [ "僕は独りものです", "そうですか……では私、お伺いしたいことがあるんですが、お互いに心の中をそっくりそのまま露骨に話せるようにして下さいな", "もちろんです", "そこで……私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか" ], [ "朝鮮の民族運動者には同情すべき点があります。で、僕もかつては民族運動に加わろうとしたことがあります。けれど、今はそうではありません", "では、あなたは民族運動に全然反対なさるんですか", "いいえ決して、しかし僕には僕の思想があります。仕事があります。僕は民族運動の戦線に立つことはできません" ], [ "しかし汚ないですよ、南京虫がいますよ、あなた、辛抱ができますか", "できますとも、そんなこと辛抱できないくらいなら、何もしない方がいいでしょう", "そうです、たしかにそうです……" ], [ "もう三十分はいいでしょう。だって、学校が九時に退けて電車が十分かかると九時十分でしょう。それなら、まだ二十五分や三十分はいいですよ", "どうもありがとう、あなたはいいことを教えてくれます" ], [ "そうね、人は冷たいですからねえ、それにあなたは少しきゃしゃ過ぎるようだけど、今までにひどい病気したことがありますか、東京へ来てから……", "あります。去年の春でした。僕はひどい流感にやられましたが誰も看病してくれるものがないので、三日ばかり呑まず食わずに本所の木賃宿でうんうん唸っていました。その時こそ僕はこのまま死んでしまうんじゃないかと思って心細かったですよ" ] ]
底本:「何が私をこうさせたか――獄中手記」岩波文庫、岩波書店    2017(平成29)年12月15日第1刷発行    2019(平成31)年3月15日第3刷発行 底本の親本:「何が私をかうさせたか――獄中手記」春秋社    1931(昭和6)年6月13日発行 ※「修業式」と「終業式」、「襦子」と「繻子」、「繻絆」と「襦絆」の混在は、底本通りです。 入力:富田晶子 校正:雪森 2021年7月19日作成 2021年10月5日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "059950", "作品名": "何が私をこうさせたか", "作品名読み": "なにがわたしをこうさせたか", "ソート用読み": "なにかわたしをこうさせたか", "副題": "――獄中手記――", "副題読み": "――ごくちゅうしゅき――", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 289", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2021-07-23T00:00:00", "最終更新日": "2021-10-05T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000246/card59950.html", "人物ID": "000246", "姓": "金子", "名": "ふみ子", "姓読み": "かねこ", "名読み": "ふみこ", "姓読みソート用": "かねこ", "名読みソート用": "ふみこ", "姓ローマ字": "Kaneko", "名ローマ字": "Fumiko", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1903-01-25", "没年月日": "1926-07-23", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "何が私をこうさせたか――獄中手記", "底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店", "底本初版発行年1": "2017(平成29)年12月15日", "入力に使用した版1": "2019(平成31)年3月15日第3刷", "校正に使用した版1": "2017(平成29)年12月15日第1刷", "底本の親本名1": "何が私をかうさせたか――獄中手記", "底本の親本出版社名1": "春秋社", "底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年6月13日", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "富田晶子", "校正者": "雪森", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000246/files/59950_ruby_73657.zip", "テキストファイル最終更新日": "2021-10-05T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000246/files/59950_73696.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-10-05T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "お前のとこへ来たのでない。", "へえい……。" ], [ "家へ来たんですか。", "おう。", "何処から?" ], [ "うむ、何も読まん。", "何をヘザモザ言うのやい。浅七が見たのなら、何もお前に読んで呉れと言わんない‼ あっさり読めば宜いのじゃないか。" ], [ "何と言うて来たかい。", "別に何でもありません。八重さのは暑中見舞いですし、弟様のは礼状です。", "それだけか?", "え、それッ限です。", "ふーむ。" ], [ "馬鹿言えッ! それならお前に読うで貰わいでも、己りゃちゃんと知っとるわい。", "でも一つは暑中見舞だし、一つは長々お世話になったという礼状ですもの。他に言い様がないじゃありませんか。", "それだけなら、おりゃ眼が見えんでも知っとるわい。先刻郵便が来たとき、何処から来たのかと郵便屋に尋ねたのじゃ、そしたら、八重さ所からと、弟様とこから來たのやと言うさかい、そんなら別に用事はないのや、はゝん、八重さなら時候の挨拶やし、弟様なら礼手紙をいくいたのやなちゅうこと位はちゃんと分っとるんじゃ。お前にそんなことを言うて貰う位なら何も読うで呉れと頼まんわい。", "だって……" ], [ "もう相手にならんと、蚊が食うさかい、早う蚊帳へ入らっしゃい。お父さんは酔うとるもんで、又いつもの愚痴が始まったのやわいの。", "何じゃ! おれが酔うとる? 何処に己りゃ酔うて居るかいや。", "そうじゃないかいね、お前様、そんなね酔うて愚痴を言うとるじゃないかね。", "何時愚痴を言うたい? これが愚痴かい。人に手紙を読うでやるのに、あんな読方が何処の国にあろい?", "あれで分ってるでないかいね、執拗い!" ], [ "おれ様や! おやまア、こりゃ何ちゅう煙たいこっちゃいの、咽喉ア塞って了うがいの。", "うむ権六さか。何うも早や蚊でならんとこと。お前様たちの所は何うや?", "矢張居って困ったもんじゃ。" ], [ "彼等はお前様、昨夜は夜祭を見ね行くし、明日は角力に行かんならんさかい。", "そうや〳〵、もう弟様らちは若い衆やさかいの。", "まあ上らんかいの。" ], [ "まだや〳〵、今も其話をしとる所やとこと。", "そうか。うちの親爺もまだで、あんまり遅いさかい、どうかと思うて来たのやとこ。", "えーい。そこな親爺様も行ったのかいね。そうかいね、まあ、こりゃ何ちゅうこっちゃ!" ], [ "えいそうかいね、何んせ近年にない豊作やさかい。", "おいね、然う言うて家の親爺も、のこ〳〵と出掛けて行ったのやとこと。もう帰りそうなもんじゃがのう。", "それでも其家の親爺様は幾何飲んでも、家の親爺の様に性根なしにならんさかい宜いけれど。", "そうでも無いとこと、……まあもう暫く待って見ましょう。" ], [ "そりゃそうと、うちの親爺に遇わなんだかいの。", "あのう、神輿様が町尽れに揃わっしゃった時ね、飛騨屋の店に権六の親爺様と一緒でござったが、それから知らんなね。" ], [ "恭三、お前は己の帰るのを飯も食わずに待って居ったのか。", "え。", "浅七もか?", "あい、待って居ました。", "そうか、よく待って居った。さあ己りゃ飯を食べるぞ、いゝか。" ], [ "おりゃ食いとうない。お前等先に食え。", "そんなことを言わんと、一緒に食べんかいね、此人あ、皆な腹減らかいて待って居ったのに。" ] ]
底本:「日本文學全集 70 名作集(二)大正篇」新潮社    1964(昭和39)年11月20日発行 入力:伊藤時也 校正:本山智子 2001年9月10日公開 2005年12月2日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "001333", "作品名": "恭三の父", "作品名読み": "きょうぞうのちち", "ソート用読み": "きようそうのちち", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-09-10T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/card1333.html", "人物ID": "000247", "姓": "加能", "名": "作次郎", "姓読み": "かのう", "名読み": "さくじろう", "姓読みソート用": "かのう", "名読みソート用": "さくしろう", "姓ローマ字": "Kano", "名ローマ字": "Sakujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-10", "没年月日": "1941-08-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "日本文學全集 70 名作集(二)大正篇", "底本出版社名1": "新潮社", "底本初版発行年1": "1964(昭和39)年11月20日", "入力に使用した版1": "", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "伊藤時也", "校正者": "本山智子", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/1333_ruby_20663.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-12-03T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/1333_20664.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-12-03T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "誰もおらなんだ。", "お前一人何していたい?", "沖見とったの。" ], [ "白山が見えてるから。", "白山が見えたって、お前。", "それでも、暴風になる時には、いつでも白山が見えるもの。" ], [ "あの時は、大変な暴風でな。", "矢張り南東風だったね?", "あ、大南東風だった。" ], [ "そんなことは覚えていないけれど、恐ろしい大浪が立って、浜の石垣がみんな壊れてしもうた。", "よう、そんな時に助けに行けたね、――死んだものがおったかね?", "何でも十四五人乗りの大きな帆前船だったが、二人ばかりどうしても行方が分らなかった。何しろお前、あの小が崎の端の暗礁へ乗り上げたので、――それで村中の漁夫がその大暴風の中に船を下して助けに行ったのだが、あんな恐ろしいことは俺ァ覚えてからなかった。" ] ]
底本:「赤い鳥傑作集」新潮文庫、新潮社    1955(昭和30)年6月25日発行    1974(昭和49)年9月10日29刷改版    1989(平成元)年10月15日48刷 底本の親本:「赤い鳥」復刻版、日本近代文学館    1968(昭和43)~1969(昭和44)年 初出:「赤い鳥」    1920(大正9)年8月号 入力:林 幸雄 校正:鈴木厚司 2001年8月27日公開 2005年9月25日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "003032", "作品名": "少年と海", "作品名読み": "しょうねんとうみ", "ソート用読み": "しようねんとうみ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "「赤い鳥」1920(大正9)年8月号", "分類番号": "NDC K913", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2001-08-27T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-17T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/card3032.html", "人物ID": "000247", "姓": "加能", "名": "作次郎", "姓読み": "かのう", "名読み": "さくじろう", "姓読みソート用": "かのう", "名読みソート用": "さくしろう", "姓ローマ字": "Kano", "名ローマ字": "Sakujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-10", "没年月日": "1941-08-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "赤い鳥傑作集", "底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社", "底本初版発行年1": "1955(昭和30)年6月25日、1974(昭和49)年9月10日29版改版", "入力に使用した版1": "1989(平成元)年10月15日48刷", "校正に使用した版1": "", "底本の親本名1": "「赤い鳥」復刻版", "底本の親本出版社名1": "日本近代文学館", "底本の親本初版発行年1": "1968(昭和43)~1969(昭和44)年", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "林幸雄", "校正者": "鈴木厚司", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/3032_ruby_19535.zip", "テキストファイル最終更新日": "2005-09-25T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/3032_19536.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2005-09-25T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それが何や、支那ならどないした言ふんや。", "そんな遠い所へ行かういふのに、何ぼ勘当されてたかて、親に黙つて行けまツかいな。" ], [ "何ぬかしよる。まるで俺が可哀相やいうて会ひに来てやつたみたいに。無茶やがな! 誰の承知でそない所へ行かういふんや。", "…………", "親の恩や義理忘れて来よらんなら、何でその親の言ふこと肯きよらん。親が大切か情夫が大切か。", "そんな殺生なこと……", "何が殺生や。", "嬰児が可哀相どすがな。", "そんなもの誰が生め言うた。", "…………", "そんなもの泥溝へなと捨てて了へ。" ], [ "これ、何をお言ひや。親に向うて、その言ひ方それ何や。早ようお謝り!", "そやかて、あんな殺生お言やすんやもん。", "何言うてや。おまはんが分らず言ふよつてやがな。おまはんさへ、おとなしく親の言ふ通りにしたらいゝんやがな。自分で不仕だらしててからに、親の言ふこともきかへんで、おまけに勝手に男と支那てら上海てら行くいうて、そんな無茶なことおすかいな。旦那はんが、あない言うてお叱りやすのが当り前や。" ], [ "そんなら、おまはんどないしても、親に抗うて、森田と一緒にならう言ふんやな? そして支那へ行く言ふんやな?", "どうぞさうさしてお呉れやす。お願ひどす。" ], [ "どつちどす?", "右どす。" ], [ "治らはつたか。", "へえ、おほきに。", "よかつたえな。これで顔お拭きやす。" ], [ "気持悪るおしたやろ。そやけど、そんなこと言うて居られへん。外と違て、大事な眼どすよつて、愚図々々してたらあかん思うてな。", "おほきに!" ], [ "あんたお信さんを知つてお居やすな。あの人、今どないしてるお思ひどす? 七条新地で娼妓してはるんどツせ。", "えつ! 娼妓? 本当ですか?" ], [ "何といふ名で出てゐるんでせう?", "ねツから覚えて居まへんけれど、乳屋はん何とか言うてはつた。何なら聞いときまほ。" ], [ "あはゝゝ、さうしたら大変でせうな。", "かまやしまへんがな。あんたどしたら気が附かんかも知れへん。お互にあんまりお知りんのどツしやらう?", "ほんの一二度、一寸顔見ただけです。", "そしたら尚更分らへん。わてかてあんたやいふこと気が附きまへんどしたもん。――そりや、いゝ別嬪さんどツせ。色の白い、肌の綺麗な、それに情が深いし、あんな女は男が好くもんや。きつと流行つたるに違ひあらへん。" ] ]
底本:「現代日本文学全集 34」筑摩書房    1955(昭和30)年9月5日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「燈」と「灯」については、軒燈、行燈、灯影、提灯と使い分けてあったので底本通りとしました。 入力:kompass 校正:小林繁雄 2010年7月5日作成 2011年1月19日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "045644", "作品名": "乳の匂ひ", "作品名読み": "ちちのにおい", "ソート用読み": "ちちのにおい", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2010-07-20T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-21T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/card45644.html", "人物ID": "000247", "姓": "加能", "名": "作次郎", "姓読み": "かのう", "名読み": "さくじろう", "姓読みソート用": "かのう", "名読みソート用": "さくしろう", "姓ローマ字": "Kano", "名ローマ字": "Sakujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-10", "没年月日": "1941-08-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本文學全集 34", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1955(昭和30)年9月5日", "入力に使用した版1": "1955(昭和30)年9月5日", "校正に使用した版1": "1955(昭和30)年9月5日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kompass", "校正者": "小林繁雄", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/45644_ruby_38703.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-01-19T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/45644_39676.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-19T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "阿母さんが? どうして解つたのだらう。", "今朝私が市へ買物に行つたら、来てござつたさかい、言うたわいね。", "えーむ。そんなら早く言へばいゝに。" ], [ "昨日電報を打ちましたので、吃驚なさいましたでせう。", "お、お前、吃驚してのう、さあ屹度京の誰かが死んだのに違ひないちて見たら、お前!", "さうでしたでせう。実はあれを打つてから気がついたんですけれど。", "そつでも、読んで見て皆喜んだわの、今年は帰らんちふさかい、一年遇はれんと思うて居つたのに。", "誰方もお変りありませんか。", "うむ、皆息災や――何時頃家へ帰るいの?", "え、今からでも帰ります。昨夜は疲れたもんで大変寐坊しまして。", "さうやらう。昨夜遅かつたかの?", "えいもう大分遅うございました。尤も、昨夜は無理をすれば帰れんこともありませんでしたが、汽車が込んで一眼も眠らなんだのと、一日一晩揺られ通して来て、Hからずつと歩いたもので、もう睡いのと疲れたのとで此家へ一寸休む積りで入つたら、もう動くのが厭になりまして。", "えいイ、歩いたのか? 馬車はなかつたのかいの、お前まあ大層な。" ], [ "比頃は少し快い方でのう。つい今迄此処へ出て涼んで居つたれど、蠅がむしつたりするんで、蚊帳の中へ這入つた。七八日前にはお前、早やもう死ん〳〵になつてのう、親類のものが寄つて二晩も夜伽までしたれど、又少し快くなつたわいの、これでそんなことが三度や。", "随分御心配でしたでせう。", "昨日お前が帰るちふ電報が来たら、お前、大変喜んでのう、『お、嬉しやなア、兄様に会はずに死ぬかと思うたら、そつでも遇はれるかなあ、』つて嬉しがつたわの。", "さうでしたか。" ], [ "なに、そんなことは……俺も今年は帰らぬつもりだつたけれど、何だか帰りたくなつてな……", "昨日、電報が来た時、嬉しかつたわね。もう兄様に会はんと死ぬかと思うてをつたが……" ], [ "うむ、鰹の気がするので皆な外の者共ア看視つて居る。俺等も行かんならんのやれど、誰も人が居らいで、今誰かに頼まうと思うて来たのやが。", "磯二は何うしたいかえ?" ], [ "さうでもないけれど、家の漁場は沖やさかい今まであんまり獲れなんだ。長平などは下手やもんで、今までに大分獲つたれど。", "また少し来て呉れると宜いがねえ。" ], [ "長いつて〳〵! もう満三年やが、ちつとでも宜い目が見えるのなら勢もあれど。おれはもういやになつた!", "本当ですね。", "死ぬことは分つて居るのやさかい、一日でも早う亡くなつて呉れりや宜いと、俺も阿母もさう言つて居れど。", "…………", "家には何も心配のことはないのや。彼の子さへどうかなると淡然とするのやれど、ほんとに困つた。一寸も手を放されんさかい。", "中々長い病気ですからねえ、もと私の学校の先生で十年も肺病に罹つて、もうすつかり肺がなくなつて了つて居たといふのに、矢張り生きて居ましたよ、それには医者も驚いてたといふ程ですからねえ。困つた病気ですよ。", "ほんとに餓鬼病だな、今までに二三度も死にかゝつたれど、矢張り寿命があると見えて、ああして居るが、今までは親の慾目で癒るまいもんでもないと思ふとつたれど、今ではとても駄目やさかいな。" ], [ "駄目だとも! 医者も薬を飲ますのは、気休めのためやと言はつしやるし。", "本人はどう思つて居るでせう?", "あれも覚悟してるよ。一日も早う死にたいと言うては泣いて居るわいの、さうすると又可哀相になつて来るしの、磯二なんか伝染ると言うて、決して一所に飯など食はん、お桐が納戸から出て来るとお膳を持つて広間へ出て行くもんやさかい、あれも何かにつけて気兼するし、それを思ふと可哀相でならぬわいの。あんな病気を貰うて来たのは、あれの不幸やさかい、どうも致方がない、それでまあ俺達は出来るだけ手を尽して介抱してやつてるわいの。今まで十分医者にもかけるし、どんなものでもあれの欲しいといふものは食はさんものはないのやさかいな。どんなことがあつたつて間食は絶やしたことはなし、魚なんか刺身でなけりや食はんしの。こんな網でもあるお蔭で、海さへ凪げば何かかんかあるさかい宜い様なものの、中々大抵なことやないわいの。それやさかい、どうしてあんな介抱が出来るかと人に言はれる位大事にして居る。これだけにしてやつて癒れ得んもの、何ともして見ようがない。", "困りましたねえ。" ], [ "私も帰らぬ積りでしたけれど。", "今年帰らんちふことで俺も内々安心して居たが、昨日電報が来た時、嬉しいはと思うたれど、また、伝染りでもせんかと思うて心配でもあつたよ。勉強中で今が大事な時やさかいなア。" ], [ "何時も言ふ事やれど身体だけは大事にして貰はんと、……お前一人が頼りやさかいな。", "はい。" ], [ "さうかい、有り難いな。", "どつさり獲れると宜いがねえ。", "本当だ、今年も来ることは来ようけれど、去年より漁場が悪いからどうだかな。", "漁場が悪うても、お父さんは運が宜いさかい。", "さうかも知れん。", "いつでも自家が一番沢山獲りますもん。", "さうかな。" ], [ "まあ何でも獲れさいすりや宜いわい。", "去年は五郎平の端まで行つて、獲るのを見て居つたれど、今年は――", "出られないかい?", "呼吸が苦しうて。", "ふむ。" ], [ "いえ。", "それでも、誰も居ないと退屈だらう。", "退屈は退屈やれど何ともありません。慣れとるさかい――兄さん何処かへ行らつしやるの?", "うむ、午後学校へ一寸行つて、それからお寺へ行かうと思つてるんだ……。けれどもお前一人で寂しいけりや行かないし。", "いえ、何ともありません、もう直きお母さんも帰るやらうさかい。", "さうか、ぢや行つても宜いな。", "え。", "何か用はないか。あつたら俺の居る間に言うたがいゝよ。", "へい、おほきに。", "ないか。", "え、何にも。", "遠慮するな。" ], [ "何もありません。", "ぢや俺ア行つて来るからな。もうお母さんも帰るだらうよ、――もしお父さんが用がある様だつたらお寺に居るからな。" ], [ "そら! また来た!", "よしきた!", "うまく取れ、縁を張れ!", "よいしよ〳〵。", "気を注けい、網の胴一ぱいになつとるぞ!", "おや仰山入つたなア!", "網が重くて動かぬ。", "そら飛び出す〳〵!", "えい! 緊りせんかい、撲ん殴るぞ!", "そんなこと言つても。", "馬鹿! こりやかうするんだ、えーい、畜生!", "さあもう大丈夫だ。籠で掻き込め〳〵。" ], [ "さうや相なね。嬉しいわね。", "遅くまで誰も帰らんので寂しかつたやらう。", "いえ、私、皆遅いさかい、屹度大漁してござるのやと思うて喜んで居りました。" ], [ "昨日からのを合せて一万以上になります。", "一疋一銭として百円余か、随分獲つたなあ、自家が一番多かつたらう?", "さうだつたでせう。本家へ持つて行つたのは自家が一番多いといふことでした。", "何にせい思ひがけぬことで大い拾ひ物した様なもんぢや。", "さうですね。たつた二日、それも一日みたいなもんですからね。" ], [ "さうやな、四五十円は何うしても要るな。", "中々要るものですね。", "眼に見えん入費が要るさかいな――借金せんならんと思ふとつたが、それでも其心配は要らん様になつた。嬉しやな。", "都合が好うございましたねえ。" ], [ "あい…………", "こんな汚穢い身ながら、其まゝ仏にして下さるのやぞ、お、可愛! 可愛! 可愛が腹一ぱいなれど、今となつてはどうあつても病に勝たれんさかい、お前も断念めさつしやい。こんな苦しい思して何の娑婆に生きとりたいことがある。阿弥陀様が、お、来たか〳〵と御手を広げて迎へて下さるのやぞ、何も心配は要らぬ。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏……" ], [ "風邪引かぬかな。そして蝿がむしつて煩さからうが。", "…………" ], [ "あんなに弱つて居てもあんなに食べるのが不思議ぢや。", "食べるものが皆何処へ行くのやらう。", "皆な痰になるのや。", "与はつて居る物を食つて了はねば死なれぬと見える。", "よくまあ消化すもんやなア。" ], [ "どうせそんなことをしても駄目やらうけれど……", "さうかつて現在それで治つたものがあるやないかね。", "あんなにお前、医者様が肺が無くなつてると言はしやるもの、どうして治れるもんか。", "さうかも知れねど。" ], [ "もう直に楽な身にして貰へるぞ。", "もう一時の辛抱や。" ], [ "お前も気が晴れんで困つたなあ。", "いーえ。", "折角休みに来たのに、気の毒でならん。", "そんな心配は決して。" ], [ "えい、……何でも夜明までお骨が上らなんださうな。", "どう言ふ工合だつたかねえ。", "身体も大きいにや大きいが……", "それあさうと、何でも死際に大変難儀したといふ話ぢやが、お前さん知らんかね?" ], [ "そんな話もあれど、家の人達は楽な往生やつたと言うて居つた。", "家の人はさう言はうけれど、○○さんの話では死際に誰も側について居らなんだといふことやが、それで息を引取る様になつても誰も呼ぶことが出来ず、身動きも出来ぬ様になつとる者が床から這ひ出して、枕元にあつたサイダー瓶の水を飲んだと見えて、半分床から這ひ出て、瓶を握つたまゝ死んどつたさうやが。" ], [ "これは、お桐が拵へたなりに一度も手を通さずにしまうたのや。", "これ妾に下んせ。", "そんなこと言はんかつて、あれのものは皆お前のものやがな、記念分に少しやれば、後はお前より外に着る者が居らんさかい。" ], [ "否、残ると勿体ないさかい、一掴みで宜い。", "何でいの? 残つても宜いやないか。", "それでも捨てんならんもの、妾の食残しは誰も食べられんさかい。", "なに、構はん〳〵、茲に麿くさかい好きな丈け食べるこつちや、足らなんだら又煎つて呉れるぞ。" ], [ "今時分、何急用が出来たいね?", "あんたまだ知らつしやらんのかいね?" ], [ "えい、先刻貴方を迎に行つたが遇ひませんでしたかいね、何処で道が違うたやら。妾達は今買物に行く処や。", "へえい。" ], [ "折角遠い所から戻つて来て居つて、死目に遇へなんだのが残り惜しいわね、兄さん。", "お前より俺がさうだよ、今日に限つて用があつて、……" ], [ "これが白骨様や。", "これ、歯があつた。おう此の歯に息を引取るまで堅い豆をポリ〳〵噛んで居つたのやが。" ] ]
底本:「現代日本文學全集 34」筑摩書房    1955(昭和30)年9月5日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字にあらためました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「お光」と「おみつ」の混在は、底本通りです。 入力:kompass 校正:大沢たかお 2012年9月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "045645", "作品名": "厄年", "作品名読み": "やくどし", "ソート用読み": "やくとし", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "", "初出": "", "分類番号": "NDC 913", "文字遣い種別": "新字旧仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2012-11-08T00:00:00", "最終更新日": "2014-09-16T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/card45645.html", "人物ID": "000247", "姓": "加能", "名": "作次郎", "姓読み": "かのう", "名読み": "さくじろう", "姓読みソート用": "かのう", "名読みソート用": "さくしろう", "姓ローマ字": "Kano", "名ローマ字": "Sakujiro", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1885-01-10", "没年月日": "1941-08-05", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "現代日本文学全集 34", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1955(昭和30)年9月5日", "入力に使用した版1": "1955(昭和30)年9月5日", "校正に使用した版1": "1955(昭和30)年9月5日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kompass", "校正者": "大沢たかお", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/45645_ruby_48568.zip", "テキストファイル最終更新日": "2012-09-24T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000247/files/45645_48980.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-09-24T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }
[ [ "それ、何や?", "…………", "誰がそんなもん読め言うた! お客さん来やはつたら、どうするんや。", "…………", "何時そんなもん買うて来よつたんや?", "先刻……" ], [ "姐はん、姐はん、瓢箪屋の姐はん、今晩旦那はんがお来なはらへんなら、私泊りに行かうと思ひますが、どうどすやらう。", "へい、おほきに。どうぞお出やしてお呉れやす。此頃旦那がちつとも来て呉れはらしまへんので、淋して叶やしまへんのどつせ。" ], [ "さうえな、大変弱つたえな。", "あんまり道楽しよつた罰えな。今時分からもうこんなに弱つて了ひよるなんて。" ], [ "閑静は閑静やけれど、寂しいえな。よう辛抱出来るかしらん。", "辛抱出来へんことおますかいな。妾がついてますがな。", "お母ンは、私が元気があらへんよつて、心気臭いやらう思うてな。", "戯談お言ひやす? そんなこと気にかけはるもんやおまへん。" ], [ "さうどすかな。可哀相どすが仕様がおへんな。そんなにえらい仕事させへんのどすけれど。", "こんな性やよつて、遊ばして置いたかて治らへん。" ], [ "学問せんでも出世しよう思うたら、なんぼでも出来るんや。", "…………", "俺なんか、手紙一本よう書かへんけど……" ], [ "私が能登へ行つた折も、矢張りあゝやつて寝て居よつたが、同じ病気に違ひあらへん。急に治らへんやらう。", "さうどすかな、困つたえな。ぢき正月やのに、病人が居ては縁喜が悪るいえな。", "仕様があらへん。病院へでも入れてやろか?", "能登へ言うてやつたらどうどす? そして浅はんに来てお貰ひやすな。さうしたら浅はんが連れて帰らはるか、病院へ入れはるか、どつちなと為やはりますやらうえな。" ], [ "お父さまお帰りやして寂しおすやらう?", "なんにも、寂しいことおへん――", "豪ろおすえな。" ], [ "何処へも行かしまへん。家に居ます。", "お嫁にお行きやすのやおへんか?", "嘘お言ひやす! けつたいなことは言ははるえな。" ], [ "どうどす、今からお寄りやすな。", "へい、おほきに。" ], [ "な、有難いえな。南無阿弥陀仏。", "何がどすえな!", "そやおまへんか。こんな小さい鳥でも、ちやんと、食べることやお湯つここと知つてはるやおへんか。" ], [ "お文は気の弱い女やつたよつてにあゝ念仏に凝り固まりよつたんやろが。", "そんなこと思ふもんやおへん!" ], [ "お君は、もう家に居やへんえ。", "えッ! どうしやはつたんどす?" ], [ "お出や――す。おあがりや――す。", "お帰りや――す。" ] ]
底本:「現代日本文學全集 34」筑摩書房    1955(昭和30)年9月5日発行 ※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記を新字にあらためました。 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「燈」と「灯」は、「輪燈」、「行燈」、「アーク燈」、「電燈」、「洋燈」、「提灯」、「灯の光」と使い分けているので底本通りとしました。 ※旧仮名遣いでは「あんぢよう」ですが、底本中「あんじよう」が5回、「あんぢよう」が1回使用されているので、底本通りとしました。 入力:kompass 校正:大沢たかお 2012年9月24日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "しまった、ぼくはトランクのことをすっかり忘れていた!", "どこに置いたのかね" ], [ "そのトランクはとても大切なもんですかい?", "むろんですよ", "それならなぜ知らない人にあずけたりなんかするのかね", "下へ雨傘を忘れたんで取りにきたんですが、トランクをひきずって下りたくはなかったものだから。おまけに道に迷ってしまったんです", "ひとりかね? つれはいなさらないのかね?", "ええ、ひとりなんです" ], [ "船をやめるんですか", "そうだよ。わしらはきょう出発するんだ", "いったい、なぜなんです? 気に入らないんですか?", "そうだな、いろいろ事情があってね。気に入るとか入らんとかいうことでは、いつでもきまるもんじゃないさ。ともかく、あんたのいうことはもっともで、わしには気に入らなくもあるさ。あんたはきっと、火夫になることをまじめには考えてはいないんだ。そんなことならいくらでも手軽になれるだろうよ。だから、わしはきっぱりとやめろというね。ヨーロッパで学問するつもりだったのなら、なぜここでも学問しようと思わないんだね? アメリカの大学はヨーロッパのより比べものにならぬくらいいいんだぜ" ] ]
底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房    1960(昭和35)年4月10日発行 入力:kompass 校正:青空文庫 2010年11月28日作成 2011年1月28日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049859", "作品名": "火夫", "作品名読み": "かふ", "ソート用読み": "かふ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "DER HEIZER", "初出": "", "分類番号": "NDC 943", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-01-09T00:00:00", "最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/card49859.html", "人物ID": "001235", "姓": "カフカ", "名": "フランツ", "姓読み": "カフカ", "名読み": "フランツ", "姓読みソート用": "かふか", "名読みソート用": "ふらんつ", "姓ローマ字": "Kafka", "名ローマ字": "Franz", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1883-07-03", "没年月日": "1924-06-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "世界文学大系58 カフカ", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1960(昭和35)年4月10日", "入力に使用した版1": "1960(昭和35)年4月10日", "校正に使用した版1": "1960(昭和35)年4月10日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kompass", "校正者": "青空文庫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49859_ruby_41875.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "1", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49859_41919.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-28T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "1" }
[ [ "あの男のおやじだって力はあるんです", "くだらない! 君はだれでも力があると思うんだ。私のことなんかもそうだろう?" ], [ "どこでだい?", "宿屋でさ" ], [ "こいつのいうことはもっともです。できませんねえ。許可なしではよそ者は城へは入れません", "どこにその許可を願い出なければならないんだい?", "知りませんが、おそらく執事のところでしょう", "それなら、そこへ電話をかけて願い出ることにしようじゃないか。すぐ執事に電話をかけること。二人でだ!" ], [ "こちらは測量技師さんの助手です", "どの助手ですか? だれですか? どの測量技師ですか?" ], [ "ちがう。昔からのだ", "新しい助手です。私は昔からの助手で、測量技師さんのあとを追ってきょうついたんです" ], [ "うちだって?", "滑らないように注意してください。下り坂ですから", "下り坂だって?" ], [ "このままここにいていいんですか", "オルガといっしょに出ていって下さい。わたしがここにいる人たちを追い払うことができますから。それからすぐにここにもどってきていいのよ" ], [ "なにもおなぐさみに話をしているわけではありませんよ", "面白いというのは、事情によっては一人の人間の生活を決定するようなばかばかしいもつれかたがあるものだ、ということをさとらせられるからなんです" ], [ "ほかにやることを知っていたら、バルナバスは自分が全然満足していない使者の勤めなんかすぐやめてしまうでしょうよ", "弟さんは腕のいい靴屋じゃないんですか" ], [ "おかみさんも何も話しませんでしたか?", "いや、何も", "そのほかのだれも?", "だれもなんともいわなかったですよ", "もちろんそうですわ。だれだってどうして話せるものですか。だれでもわたしたちについて何かを知っています。ほんとうのことが人びとの耳に入るとしてのことですが、ほんとうのことか、少なくとも何か人から聞いたうわさか、あるいはたいていは自分で考え出した評判か、そんなものを知っています。そして、だれでも必要以上にわたしたちのことを考えています。でも、だれもそれを話したりはしないでしょう。そうしたことを口に出すことを遠慮するんです。そして、それももっともなんですわ。このことをお話しするのは、K、あなたに向ってでも、むずかしいことなんです。それに、あなたはこれを聞いてしまうと、よそへいき、それがどんなにあなたに関係がないように思われるにしろ、わたしたちについてもう何も知ろうなんて思わなくなるんじゃないでしょうか。そうなればわたしたちはあなたを失ってしまうわけです。あなたは今ではわたしにとっては、わたし告白するけれど、バルナバスのこれまでの城の勤めよりもほとんど大切なくらいなんですよ。それでも――この矛盾はすでに一晩じゅうわたしを苦しめているんですが――これをあなたに聞いていただかなければなりません。というのは、そうでないとあなたはわたしたちの置かれている状態がさっぱりわからなくて、いつまでもバルナバスに対して不当な態度を取ることでしょう。そして、それがとりわけわたしにはつらいことなんですわ。もしあなたがそれをご存じないとなると、わたしたちは必要な完全な一致をえられないでしょうし、あなたがわたしたちを助けて下さることも、わたしたちのほうからのなみなみでない助力をあなたが受けて下さることも、できないでしょう。でもまだ一つの問いが残っています。それは『いったいあなたはそれをお知りになりたいのですか』という問いです" ], [ "この客室づき女中の仕事はわたしにはふさわしくないのよ。こんなのはほかのどんな女の子だってやれますもの。寝床を上げたり、あいそのよい顔をしたりできる子ならだれでも、そして、客のわずらわしさをいやがらないで、そういうものを誘い出しさえするような子ならだれでも、そんな女の子ならだれでも客室づき女中になれます。でも、酒場ではいくらか事情はちがいますわ。わたしは今度すぐまた酒場へとられました。あのときはあまり名誉といえない飛び出しかたをしたんですけれど。むろん今度はわたしにはごひいきがありました。ところがご亭主は、わたしにごひいきがついていて、それでわたしをまたとることができたというので大よろこびでしたわ。その上、あの仕事を引き受けるように、とわたしはさんざんすすめられました。なぜすぐ引き受けなかったかというと、酒場がわたしに何を思い出させるかということを考えて下されば、その気持はよくわかるはずよ。最後にはわたし、その仕事を引き受けました。今こっちで働いているのは、臨時の手伝いとしてなんです。ペーピーが、すぐ酒場をやめなければならないようなひどい目にあわせないでくれ、って頼んだんです。わたしたちはあの人に、あの人がともかくよく働いていたし、万事を力の及ぶ限りやっていたので、二十四時間の猶予期間をあげたんです", "万事すこぶるうまく手配がついているんだね。だが、君はわたしのために一度酒場を出たんだよ。そして、私たちが結婚式をすぐ眼の前にしている今となって、また酒場へもどるのかね?" ], [ "いったい、そんなことが許されているのかい? きのうも、君たちの廊下で私がつかまったというので、大変なスキャンダルがあったんだよ", "あなたがつかまったからよ。でも、あたしたちのところにいれば、つかまらないわ。だれも、あなたのことを知りっこないわよ。知っているのはあたしたち三人だけよ。ああ、それはきっと愉快よ。もうあたしには、あそこの生活がついさっき思われたよりもずっと我慢ができるもののように思われてきたわ。今ならもう、わたしがここを去らなければならないということで、それほど多くのものを失うことにはならないわ。ねえ、あたしたちは三人きりでも退屈なんかしなかったわ。にがい人生を甘く楽しいものにしなければいけないのよ。人生はあたしたちにとってすでに小さいときからにがくされていたのよ。で、あたしたち三人はいっしょになって、あそこでできる限りすばらしく暮らしているんです。とくにヘンリエッテがあなたの気に入ることでしょうよ。でも、エミーリエもきっとそうだわ。わたしはあなたのことをもうあの人たちに話しておいたわ。あそこではこんな話をしても、信じてくれないわ。まるで部屋の外ではほんとうは何ごとも起こるはずがないっていうようなの。あそこは暖かくて狭いの。そして、あたしたちはたがいにもっとぴったりと身体をくっつけ合っているのよ。いいえ、おたがいにたよりにしてはいるけれど、けっしてたがいにあきることなんかないわ。反対に、あの友だちのことを考えると、あそこへもどっていくことがほとんど正しいことのようにあたしには思われるわ。なぜあたしはあの人たちよりも出世しなければならないでしょう? そんなことはないわ。あたしたち三人のだれにも未来がふさがれていたっていうことが、あたしたちをいっしょにさせていたものなんだわ。ところが、今はあたしだけがあそこから抜け出して、あの人たちから離れたんだわ。むろん、わたしはあの人たちのことを忘れはしなかったわ。どうしたらあの人たちのために何かしてあげられるかということが、あたしのいちばん気がかりなことでした。あたし自身の地位がまだ不安定なときに――どんなにそれが不安定なものであるか、あたしは全然知らなかったの――もうあたしはご亭主とヘンリエッテやエミーリエのことを話しました。ヘンリエッテについては、ご亭主はまったく譲れないというわけでもなかったけれど、そうはいってもあたしたち二人よりずっと年上で、およそフリーダぐらいの年のエミーリエについては、ご亭主はあたしに全然希望を与えてくれなかったの。でも、考えてもみてちょうだい、あの人たちは全然あそこを去りたがらないんですよ。自分たちがあそこで送っているのがみじめな生活だ、ということはあの人たちも知っているけれど、あの人たちはもう順応してしまったのよ。やさしい人たちだこと。あの人たちが別れのときに流してくれた涙は、なによりもあたしがいっしょの部屋を去らなければならないこと、そして寒いとこへ出ていくということ――あそこでは部屋の外のものがなんでも冷たく思われるんです――、そして知らない大きな部屋部屋のなかで、知らない偉い人たちと闘わなければならないこと、しかもその目的が何かというと、ただ命をつないでいくというだけなんだということ(そんなことはあの人たちといっしょに暮らしていたってあたしにはできたんだわ)、そのことを悲しんでくれたんだと思うわ。あたしが今、帰っていっても、あの人たちはおそらく全然驚かないでしょう。そして、ただあたしの機嫌を取ってくれるために、少し泣いて、あたしの運命を嘆いてくれるでしょう。でも、それがすむと、あの人たちはあなたを見て、あたしがあそこを去ったことはやはりよかったんだ、と気づくでしょう。わたしたちが今では一人の男の人を助け手と守り手としてもつということは、あの人たちを幸福にするでしょうし、すべてを秘密にしておかなければならないということ、そしてあたしたちがこの秘密によってこれまで以上に固く結ばれるんだということに、あの人たちをとくに有頂天にすることでしょう。いらっしゃいよ、ねえ、あたしたちのところへいらっしゃい! あなたにはどんな責任も生じることなんかないわよ。あなたはあたしたちのように永久にあたしたちの部屋に結びつけられてしまうわけじゃないのよ。やがて春になって、あなたがほかのどこかに宿を見つけ、あたしたちのところがもう気に入らなくなったら、出ていくことができるんだわ。そうはいっても、秘密だけはそうなってもまだ守らなければいけないし、あたしたちを裏切ったりなんかしてはいけないけれど。というのは、そんなことがあったら、あたしたちは紳士荘を出なければならないでしょうから。それからまた、そのほかのときでも、あなたがあたしたちのところにいるあいだは、用心していて、あたしたちが安全だと見なさないようなところにはどこにも姿を見せてはならないし、およそあたしたちの忠告に従わなければならないわ。これがあなたをしばるただ一つのことです。そして、そのことはあなたにとってもあたしたちにとってと同じように大切なことなんです。でも、そのほかの点ではあなたは完全に自由で、あたしたちがあなたに割り当てる仕事はそれほどむずかしいことじゃないのよ、そんなこと、心配しないでちょうだい。で、あなた、いらっしゃる?" ], [ "いったいあなたはなんなの!", "土地測量技師です", "いったいそれはなんなの?" ], [ "あなたはほんとうのことをいわないのね、なぜほんとうのことをいわないんです?", "あなただってほんとうのことをいいませんよ", "わたしがですって? またそろそろあなたの厚かましい態度を見せるんですか。そして、たといわたしがほんとうのことをいわないとしたって――いったいわたしはあなたに対して弁解しなければならないんですか。でも、どんな点でわたしがあなたにほんとうのことをいわなかったんです?", "あなたは自分でいっているようなおかみさんであるだけじゃないんですからね", "なんですって! あなたはよく発見をする人ね! ではいったい、そのほかになんだっていうの? あなたの厚かましさはほんとうにもういよいよ大きくなっていくのね", "あなたがそのほかのなんであるのか、私にはわかりません。私にわかっているのは、あなたがおかみさんであり、そのほかにあなたの着ている服は、宿屋のおかみさんにはふさわしくなく、また私の知っている限りではこの村ではだれもそんなのを着てはいないということだけです", "それではわたしたちは話の本題へ入ったわけです。あなたはそれをいわないではいられないのね。あなたという人は、おそらく全然厚かましいのじゃなく、ただ、何かばかげたことを知っていて、どんなにいわれてもそのことを黙ってはいられない子供のようなものなんだわ。では、いいなさいな! この服のどこが変っているんです?", "私がそれをいったら、あなたは怒りますよ", "いいえ、それを笑うでしょうよ。きっと子供じみたおしゃべりなんでしょうから。で、この服はどんなだというんです?", "それを知りたいというんですね。それじゃあ、いいましょう。その服はほんとうに高価ないい生地でできていますね。だが、もう古くさくて、ごてごて飾りすぎているし、何度も修繕してあり、着古していて、あなたの年にもあなたの姿恰好にもあなたの地位にもぴったりしません。それは私の眼にすぐつきました、私があなたにはじめて会ったときにね。およそ一週間ばかり前、ここの玄関でした", "ようくわかりましたわ。古くさくて、ごてごて飾りすぎていて、それからなんでしたっけね? で、いったいあなたはどこからそんなことを聞きこんできたっていうんです?", "それは眼に見えているままなんですよ。何も教わる必要なんかありません", "あなたはわけもなくすぐさま見抜きましたね。だれにもきく必要なんかなくて、しかも流行が要求しているものがすぐわかるんですね。それじゃあ、あなたはわたしにとってなくてはならない人になるかもしれないわ。というのは、美しい服についてはわたしは目がないもんでねえ。この戸棚が服でいっぱいなのを見たら、あなたはなんていうでしょうね?" ], [ "みんなわたしの服よ。みんなあなたのいうように古くさくて、ごてごて飾りすぎているわ。でも、これはただ、上のわたしの部屋にはしまうところがない服ばかりなのよ。上にはまだいっぱいつまった戸棚が二つあるわ。戸棚二つよ。どれもこれと同じくらいの大きさなのよ。どう、驚いた?", "いいえ、まあそんなことだろうと思っていました。私はいったはずですよ、あなたはただのおかみじゃなくて何か別なものを目ざしているって", "わたしが目ざしているのは、ただ美しい服を着るということだけですよ。あなたはばかか、子供か、それともひどく性悪で危険な人間かなのだわ。出ていきなさい、もう出ていってちょうだい!" ] ]
底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房    1960(昭和35)年4月10日発行 入力:kompass 校正:米田 2011年12月3日作成 2016年2月22日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ここにいたほうがよくはないですか?", "いたくもありませんし、あなたが身分を明らかにしないうちは、あなたに口をきいていただきたくもないんです" ], [ "なぜ、ことに今日の出来事のようなのにはそうなんだ?", "事のすべてを冗談だと見ている、と言うんじゃないのです。冗談にしては、やられた道具だてがおおげさすぎますからね。アパートの住人みな、そしてあなたがたも、事に加担しておられるようですし、こうなると冗談の範囲を超えていますからね。だから、冗談なんだ、と言うつもりはありません" ], [ "あの方はお芝居ですわ。何かご用ですか? 私からお伝えしておきましょうか?", "いや、ちょっとあの人とお話ししようと思っただけです", "残念ですが、いつお帰りかわかりませんわ。芝居にいらっしゃると、いつもお帰りが遅いんでね" ], [ "九時からお待ちしていたんです", "でも、私は芝居に行っていましたの。あなたがお待ちだなんて少しも存じませんでしたわ", "お話ししようということの動機になっているのは、今日初めて起ったことなんです", "それじゃ、倒れるほど疲れてはいますけれど、それ以外にはどうしてもお断わりする理由もありませんから、ほんの少しだけ私の部屋に来ていただきましょう。こんなところでは絶対にお話もできませんし、みなさんをお起ししてしまうでしょう。そうなったらほかの人たちのためというより、私たちのため不愉快なことになりますわ。私の部屋の明りをつけますから、それまでここでお待ちになってちょうだい。それからここの明りを消してくださいね" ] ]
底本:「審判」新潮文庫、新潮社    1971(昭和46)年7月30日第1刷発行    1990(平成2)年9月5日第37刷発行 ※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。 ※編集注にある「以下三三三ページ十六行まで」は、「この朝は、こうした希望が……まったく必要だった。」の段落をさします。 入力:kompass 校正:米田 2010年11月28日作成 2012年10月3日修正 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[ [ "ええ、わかるわ。それなら、ほかの方法で私たちの結婚のことを知ってもらえないかしら?", "そういうやりかたがいけないとは、ぼくもいわないよ。でも、あの男の生きかたからいうと、とてもできそうにもないな", "ゲオルク、あなたにそんなお友だちがいらっしゃるなら、あなたは婚約なんかなさらなければよかったんだわ" ], [ "窓も閉めてしまったんですね?", "わしはそのほうがいいんだ" ] ]
底本:「世界文学大系58 カフカ」筑摩書房    1960(昭和35)年4月10日発行 入力:kompass 校正:青空文庫 2010年11月28日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
{ "作品ID": "049865", "作品名": "判決", "作品名読み": "はんけつ", "ソート用読み": "はんけつ", "副題": "", "副題読み": "", "原題": "DAS URTEIL", "初出": "", "分類番号": "NDC 943", "文字遣い種別": "新字新仮名", "作品著作権フラグ": "なし", "公開日": "2011-01-13T00:00:00", "最終更新日": "2016-02-22T00:00:00", "図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/card49865.html", "人物ID": "001235", "姓": "カフカ", "名": "フランツ", "姓読み": "カフカ", "名読み": "フランツ", "姓読みソート用": "かふか", "名読みソート用": "ふらんつ", "姓ローマ字": "Kafka", "名ローマ字": "Franz", "役割フラグ": "著者", "生年月日": "1883-07-03", "没年月日": "1924-06-03", "人物著作権フラグ": "なし", "底本名1": "世界文学大系58 カフカ", "底本出版社名1": "筑摩書房", "底本初版発行年1": "1960(昭和35)年4月10日", "入力に使用した版1": "1960(昭和35)年4月10日", "校正に使用した版1": "1960(昭和35)年4月10日", "底本の親本名1": "", "底本の親本出版社名1": "", "底本の親本初版発行年1": "", "底本名2": "", "底本出版社名2": "", "底本初版発行年2": "", "入力に使用した版2": "", "校正に使用した版2": "", "底本の親本名2": "", "底本の親本出版社名2": "", "底本の親本初版発行年2": "", "入力者": "kompass", "校正者": "青空文庫", "テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49865_ruby_41884.zip", "テキストファイル最終更新日": "2011-01-01T00:00:00", "テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS", "テキストファイル文字集合": "JIS X 0208", "テキストファイル修正回数": "0", "XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49865_41928.html", "XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-01-01T00:00:00", "XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS", "XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208", "XHTML/HTMLファイル修正回数": "0" }