chats
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| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"冗談じゃあない。私がどうしてあんなところに行っているものですか。かりに行くことがあるとしても、今はけっしてあすこにいなかったのです。そんなはずはありませんよ",
"わたしもそう思います。はい、確かにおいでにならないとは思いますが……"
],
[
"なんで……。何を困っているのです",
"それがなかなか説明できないのです。それが実に……実にお話しのしようがないので……。またおいでになった時にでもお話し申しましょう",
"わたしも、また来てもいいのですが……。いつごろがいいのです",
"わたしは朝早くここを立ち去ります。そうして、あしたの晩の十時には、またここにいます",
"では十一時ごろに来ましょう"
],
[
"あしたの晩おいでの時にも呼ばないで下さい。それから少しおたずね申しますが、どうしてあなたは今夜おいでの時に〈おぅい、下にいる人!〉と、お呼びになったのです",
"え。私がそんなようなことを言ったかな",
"そんなようなことじゃありません。あの声は私がよく聞くのです",
"私がそう言ったとしたら、それは君が下の方にいたからですよ",
"ほかに理由はないのですな",
"ほかに理由があるものですか",
"なにか、超自然的の力が、あなたにそう言わせたようにお思いにはなりませんか",
"いいえ"
],
[
"わたしが困っているということについて、あなたが重ねておいでになろうとは思っていませんでした。実は昨晩は、あなたをほかの者だと思っていたのですが……。それが私を困らせるのです",
"それは思い違いですよ",
"もちろん、あなたではない。そのある者が私を困らせるので……",
"それは誰です",
"知りません",
"わたしに似ているのですか",
"わかりません。私はまだその顔を見たことはないのです、左の腕を顔にあてて、右の手を振って……激しく振って……。こんなふうに……"
],
[
"それがなんとか呼びましたか",
"いえ、黙っていました",
"手を振りませんでしたか",
"振りません。燈火の柱に倚りかかって、こんなふうに両手を顔に当てているのです"
],
[
"そこへ行って見ましたか",
"いえ、私は内へはいって、腰をおろして、自分の気を落ちつけようと思いました。それがために私はいくらか弱ってしまったからです。それから再び外へ出てみると、もう日光が映していて、幽霊はどこへか消え失せてしまいました",
"それから何事も起こりませんでしたか"
],
[
"あの灯のところに……?",
"あの危険信号燈のところにです",
"どうしているように見えますか"
],
[
"では、私がゆうべ来ていたときに、そのベルが鳴ったのですか。君はそれがために戸のところへ出て行ったのですか",
"そうです。二度も鳴ったのです"
],
[
"わたしは今までベルを聞き誤まったことは一度もありません。わたしは幽霊が鳴らすベルと、人間が鳴らすベルとを混同したことはありません。幽霊の鳴らすベルは、なんともいえない一種異様のひびきで、そのベルは人の眼にみえるように動くのではないのです。それがあなたの耳には聞こえなかったかも知れませんが、私には聞こえたのです",
"では、あのときに外を見たらば、怪しい物がいたようでしたか",
"あすこにいました",
"二度ながら……?"
],
[
"いえ、いません",
"わたしにも見えない"
],
[
"信号手が、けさ殺されたのです",
"この信号所の人ですか",
"そうです",
"では、わたしの知っている人ではないかしら"
],
[
"トンネルの曲線まで来たときに、そのはずれの方にあの男が立っている姿が遠眼鏡をのぞくように見えたのですが、もう速力をとめる暇がありません。また、あの男もよく気がついていることだろうと思っていたのです。ところが、あの男は汽笛をまるで聞かないらしいので、私は汽笛をやめて、精いっぱいの大きい声で呼びましたが、もうその時にはあの男を轢き倒しているのです",
"なんと言って呼んだのです",
"下にいる人! 見ろ、見ろ。どうぞ退いてくれ。……と、言いました"
]
] | 底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年9月4日初版発行
2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042302",
"作品名": "世界怪談名作集",
"作品名読み": "せかいかいだんめいさくしゅう",
"ソート用読み": "せかいかいたんめいさくしゆう",
"副題": "06 信号手",
"副題読み": "06 しんごうしゅ",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933 908",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-10-27T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000914/card42302.html",
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"姓": "ディケンズ",
"名": "チャールズ",
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[
[
"何時だろうね、ジョー?",
"十一時たっぷり十分過ぎてるよ。"
],
[
"それあドーヴァー通いの馬車なのかい?",
"どうしてそんなことを知りてえんだ?",
"もしそうなら、わっしはお客さんに用があるんだよ。",
"何というお客さんだい?",
"ジャーヴィス・ロリーさんだ。"
],
[
"そうですよ、ロリーさん。",
"どうしたのだい?",
"あっちの向うからあなたの後を追っかけて急ぎの書面を持って来ましたんで。T社で。"
],
[
"何も懸念することはない。わたしはテルソン銀行のものだ。ロンドンのテルソン銀行はお前さんも知っているに違いない。わたしは用向でパリーへ行くところなのだ。酒代に一クラウン★あげるよ。これを読んでいいね?",
"速くして下さいますんならね、旦那。"
],
[
"おうい、ジョー。",
"あの伝言を聞いたかい?",
"聞いたよ、ジョー。",
"お前あれをどう思ったい、トム?",
"まるでわかんねえよ、ジョー。"
],
[
"あなたは掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?",
"ずっと以前に。",
"あなたは御自分が甦っていることを御存じなのですね?",
"みんながわたしにそう言ってくれる。",
"あなたは生きたいとお思いでしょうね?",
"わしにはわからない。",
"あの女をあなたのところへお連れして来ましょうか? あなたの方からあの女に逢いにいらっしゃいますか?"
],
[
"どれくらいの間埋められていたんです?",
"ほとんど十八年。",
"あなたは生きたいとお思いでしょうね?",
"わしにはわからない。"
],
[
"どれくらいの間埋められていたんです?",
"ほとんど十八年。",
"掘り出されるという望みはすっかり棄てておられたのですね?",
"ずっと以前に。"
],
[
"明日カレー★行きの定期船は出るだろうね、給仕?",
"さようでございます、旦那、もしお天気が持ちまして風が相当の順風でございますればね。潮は午後の二時頃にかなり工合よくなりますでしょう、はい。で、お寝みですか、旦那?",
"わたしは晩になるまでは寝まい。しかし、寝室は頼む。それから床屋をな。",
"それから御朝食は、旦那? はいはい、畏りました。は、どうぞそちらへ。和合の間へ御案内! お客さまのお鞄と熱いお湯を和合の間へな。お客さまのお長靴は和合の間でお脱がせ申すんだぞ。(上等の石炭で火が燃やしてございますよ、旦那。)床屋さんを和合の間へ呼んで来ておあげなさい。さあさあ、和合の間の御用をさっさとするんだよ!"
],
[
"若い御婦人が今日ここへ何時来られるかもしれないが、その方のために部屋を用意しておいてもらいたい。その御婦人はジャーヴィス・ロリーさんはいないかと言って尋ねられるかもしれないし、それとも、ただ、テルソン銀行から来たお方はいないかと尋ねられるかもしれない。そしたらどうか知らせて下さい。",
"は、畏りました。ロンドンのテルソン銀行でございますね、旦那?",
"そうだ。",
"は、承知いたしました。手前どもでは、あなたさまのところの方々がロンドンとパリーの間を往ったり来たりして御旅行なさいます時に、たびたび御贔屓にあずかっております、はい。テルソン銀行では、旦那、ずいぶん御旅行をなさいますようで。",
"そうだよ。わたしどもの銀行は、イギリスの銀行であると同じくらいに、全くフランスの銀行ででもあるようなものだからね。",
"は、なるほど。でも、旦那、あなたさまはあまりそういう御旅行はしつけてお出でになりませんようでございますが?",
"近年はやらない。わたしどもが――いや、わたしが――この前フランスから戻ってから十五年になるよ。",
"へえ、さようでございますか? それでは手前がここへ参りましたより以前のことでございますよ、はい。ここの人たちがここへ参りましたよりも以前のことで、旦那。このジョージ屋はその時分は他の人の経営でございました。",
"そうだろうねえ。",
"しかし、旦那、テルソン銀行のようなところになりますと、十五年前はおろか、五十年ばかりも前でも、繁昌していらっしったということには、手前がどっさり賭をいたしましてもよろしゅうございましょうね?",
"それを三倍にして、百五十年と言ったっていいかもしれんな。それでも大して間違いじゃないだろうよ。",
"へえ、さようで!"
],
[
"あたくし昨日銀行からお手紙を頂きましたのでございますが、それには、何か新しい知らせが――いいえ、発見されましたことが――",
"その言葉は別に重要ではありません、お嬢さん。そのどちらのお言葉でも結構ですよ。",
"――あたくしの一度も逢ったことのない――ずっと以前に亡くなりました父のわずかな財産のことにつきまして、何かわかりましたことがありますそうで――"
],
[
"――そのために、あたくしがパリーへ参って、あちらで、その御用のためにわざわざパリーまでお出で下さる銀行のお方とお打合せをしなければならない、と書いてございましたのですが。",
"その人間というのがわたしで。",
"そう承るだろうと存じておりました。"
],
[
"あなたの帰化なさいましたこの国では、あなたをお若いイギリスの御婦人としてマネット嬢と申し上げるのが一番よろしいかと存じますが?",
"ええ、どうぞ。",
"マネット嬢、わたしは事務家でございます。今わたしには自分の果さなければならん事務の受持が一つございますのです。あなたがそれをお聴き取り下さいます時には、わたしをほんの物を言う機械だというくらいにお思い下さい。――全くのところ、わたしなぞはそれと大して違ったものじゃありません。では、お嬢さん、御免を蒙って、わたしどもの方のあるお得意さまの身の上話をあなたにお話申し上げることにいたしましょう。",
"身の上話ですって!"
],
[
"ボーヴェー★出身の方ではございませんの?",
"そうですねえ、ええ、ボーヴェー出身の方です。あなたのお父さまのムシュー★・マネットと同じように、その紳士はボーヴェー出身の方でございました。あなたのお父さまのムシュー・マネットと同じように、その紳士もパリーでなかなか評判の人でした。わたしがその方とお近付になりましたのはそのパリーだったのです。わたしたちの関係は事務上の関係でございましたが、しかし非常に親しくして頂いておりました。わたしはその頃わたしどものフランスの店におりまして、それまでには――そう! 二十年間もそこにおりましたのですが。",
"その頃――と仰しゃいますと、いつ頃なのでございましょうかしら?",
"わたしは、お嬢さん、二十年前のことをお話申しておるのです。その方は御結婚なさいました、――イギリスの御婦人とでした。――そしてわたしは財産管理人の一人になりました。その方の財務上の事は、他のたくさんのフランスの紳士方やフランスの御家庭の財務と同様に、すっかりテルソン銀行に任せてございましたのです。そんな風にして、わたしは現在、いや以前から、たくさんのお得意さまのあれやこれやの管理人になっております。これは皆ただの事務上の関係ですよ、お嬢さん。それには友情とか、特別の関心とかはなく、感情といったようなものは何もないのです。わたしは事務の人間として今日までの生涯を送って来ました間に、そういうのの一つから他のにと移って参りました。それは、ちょうど、わたしが毎日事務を執っています間に、一人のお得意さまから他のお得意さまへと移ってゆきますようなもので。手短に申しますと、わたしには感情というものがございませんのです。わたしはほんの機械なんです。で、話を続けることにいたしますと――"
],
[
"今申しましたように、ですね。もしもムシュー・マネットが亡くなられたのではないとしますと、ですよ。もしもあなたのお父さまが突然に人にも言わずに姿を消されたのだとしますと、です。もしも神隠しか何かのようにされたのだとしますと、です。どんなに恐しい処へ行かれたか推測するのはむずかしくはないが、どんなことをしてもお父さまを探し出すことは出来ないのだとしますと、ね。お父さまには同国人の中に一人の敵があって、その敵が、この海の向うでわたしが若い時分どんな大胆な人でもひそひそ声で話すことも恐しがっていたということを知っているような特権を――例えばですね、書入れしてない書式用紙にちょっと名前を書き込んで、誰をでも牢獄へどんなに永い間でも押しこめておけるという特権★を――使える人間だったとしますと、ですね。お父さまの奥さんに当る人が、王さまや、お妃さまや、宮廷や、僧侶に、何か夫の消息を聞かしてくれるようにと歎願なすったが、みんな全く何の甲斐もなかったとしますと、ですね。――もしもそうだったとしますと、そうすると、そのあなたのお父さまの身の上は、ボーヴェーのお医者である、今の不幸な紳士の身の上になるのです。",
"どうかもっとお聞かせ下さいますように。",
"お聞かせいたしますよ。しようとしているところです。あなたは御辛抱がお出来になりますね?",
"今のようなこんな不安な気持でいるのでさえなければ、あたくしどんなことでも辛抱が出来ますわ。"
],
[
"その子供と仰しゃいますのは女の子だったのでございますねえ。",
"女のお子さんでした。こ――これは――事務ですよ、――御心配なさらないで下さい。お嬢さん、もしそのお気の毒な御婦人が、お子さんがお生れになるまでに非常に御心痛になりまして、そのために、可哀そうなお子さんにはお父さまはお亡くなりになったものと信じさせて育てて、御自分の味われたようなお苦しみは幾分でも味わせまいという御決心をなさいましたものとしますと――。いやいや、そんなに跪いたりなすっちゃいけません! 一体どうしてあなたがわたしに跪いたりなぞなさるんです!",
"ほんとのことを。おお、御親切なお情深いお方、どうかほんとのことを!",
"こ――これは事務ですよ。あなたがそんなことをなさるとわたしはまごついてしまいます。まごついていてはわたしはどうして事務を処理することが出来ましょう? さあさあ、お互に頭を明晰にしましょう。もしあなたが今、例えばですね、九ペンスの九倍はいくらになるか、あるいは二十ギニーは何シリングかということを、言ってみて頂ければ★、よほど気が引立つんですがねえ。わたしだってあなたのお心の工合にもっともっと安堵が出来るというものですが。"
],
[
"では、あの方はしょっちゅう独りでおられるんですか?",
"そうです。",
"あの方自身のお望みで?",
"あの方自身の余儀ない事情ででさ。あの人たちがわっしを見つけ出して、わっしがあの方を引取るかどうか、またわっしが危険を冒しても慎重にやってくれるかどうかと聞きただした後で、わっしは初めてあの方にお目にかかったんですが、――その時あの方は独りであったように、今でもそうなんですよ。",
"ひどく変っておられるでしょうな?",
"変ってるですって!"
],
[
"どうしてです?",
"どうしてですって! もし扉が開けっ放しになっていようものなら、あの人はあんなに永い間押しこめられて暮して来られたので、怖がって――暴れて――われとわが身をずたずたに引き裂いて――死んでしまうか――どんな悪いことになるかわからないからでさ。"
],
[
"君はムシュー・マネットを見世物にしてるのかね?",
"わっしは、選ばれた少数の者に、あなたが御覧になったようなやり方で、あの人を見せるのです。",
"そんなことをしていいものですかな?",
"わっしはいいと思っています。",
"その少数の者というのはどんな人たちです? 君はその人たちをどうして選ぶのですか?",
"わっしは、わっしと同じ名の者を――ジャークってのがわっしの名ですが――ほんとうの人間として選ぶんです。そういう連中には、あの人を見せてやることはためになりそうなんでね。が、もう止しときましょう。あなたはイギリス人だ。だからそんなことは別問題です。どうか、ほんのちょっと、そこで待ってて下さい。"
],
[
"あれとは? 何のことです?",
"あの方のことですの。あたくしの父のこと。"
],
[
"今日は!",
"相変らず精が出るようですね?"
],
[
"何と仰しゃいましたか?",
"あなたはもう少しくらいの明りは我慢が出来ましょうね?"
],
[
"何と仰しゃいましたかな?",
"今日の中にその一足の靴を仕上げるつもりなのですか?",
"仕上げるつもりだということはわたしには言えません。仕上るだろうと思うだけです。わたしにはわかりません。"
],
[
"何と仰しゃいましたか?",
"お客さんが来ていらっしゃるよ。"
],
[
"あんたのお尋ねになりましたのはどんなことだったかわたしは忘れました。何と仰しゃいましたのですか?",
"この方の御参考に靴の種類を説明してあげることが出来ないか? と言ったのだよ。"
],
[
"わたしの名前をお尋ねになりましたのですか?",
"いかにも尋ねた。",
"北塔百五番。",
"それだけか?",
"北塔百五番。"
],
[
"この場所を覚えていらっしゃいますか、お父さま? あなたはここを上っていらしたことを覚えていらっしゃいますか!",
"何と仰しゃったかな?"
],
[
"わたしはただお祈りを唱えていただけですよ。",
"お祈りを唱えていたと! ひでえ阿魔だよ、手前は! へえつくばりやがって、おれに悪いことになるようにって祈るなんて、どういうつもりなんだ?",
"わたしはお前さんに悪いようになんて祈りやしませんよ。お前さんによいようにと祈ってたんです。",
"そうじゃねえだろ。よしそうだったにしろ、おれあそんな勝手な真似なんぞしてもれえたかねえ。おい! お前のおっ母はひでえ女だぜ、ジェリー坊。お前の父ちゃんの運がよくならねえようにってお祈りをするんだからな。お前は律義なおっ母を持ったもんだよ、お前はな、小僧。お前は信心深えおっ母を持ったもんだぞ、お前はよ、なあ、坊主。へえつくばって、自分の独り息子の口からバタ附きパンをひったくって下さいって祈るんだからなあ!"
],
[
"門番さん御用ですよ!",
"万歳、父ちゃん! 朝っぱらにとっつきから一仕事だい!"
],
[
"よしよし。じゃあな、証人の入って行く戸口を見つけて、そこの門番にロリーさん宛のこの手紙を見せるんだ。そうすれば門番はお前を入れてくれるだろう。",
"法廷へですか、旦那?",
"法廷へだ。"
],
[
"今言ってやるよ。門番は手紙をロリーさんに渡してくれるだろう。そうしたら、お前は何でもロリーさんの目につくような身振りをして、あの人にお前のいる場所を見せてあげるんだぞ。それからお前のしなければならんことは、あの人の用事があるまでそこにずっといるだけだ。",
"それだけなんですか、旦那?",
"それだけだ。あの人は走使いの者を手許にほしいと仰しゃるのだよ。これにはお前がそこにいることをあの人に知らせてあるのさ。"
],
[
"今朝は偽造罪を裁判するんでしょうね?",
"叛逆罪さ!"
],
[
"まだ何も。",
"何が始るとこなんですか?",
"叛逆事件でさ。",
"四つ裂きの事件ですね、え?"
],
[
"証人だとさ。",
"どちら側の?",
"反対側の。",
"どっち側に反対の?",
"被告側にだってさ。"
],
[
"ジャーヴィス・ロリー氏、あなたはテルソン銀行の事務員だね?",
"そうです。",
"一千七百七十五年の十一月のある金曜日の夜、あなたは用向でロンドンとドーヴァーとの間を駅逓馬車で旅行しましたか?",
"しました。",
"その駅逓馬車には他に誰か乗客がありましたか?",
"二人ありました。",
"その二人は夜の間に途中で降りましたか?",
"降りました。",
"ロリー氏、被告を見なさい。被告はその二人の乗客の中の一人ではなかったか?",
"そうであったとお請合いは出来ません。",
"被告はその二人の乗客の中のどちらかに似てはいませんか?",
"二人ともすっかり身をくるんでおりましたし、真暗な晩でしたし、それに私たちは皆一向に口も利きませんでしたので、それさえもお請合いは出来ません。",
"ロリー氏、もう一度被告を見なさい。被告がその二人の乗客のしていたように身をくるんでいると仮定して、彼のかっぷくと身長とに、彼がその中の一人でありそうにもないと思わせるようなところがありますか?",
"いいえ。",
"ロリー氏、あなたは被告がその中の一人ではなかったとは誓わないんですな?",
"それは誓いません。",
"それでは少くともあなたは彼がその中の一人であったかもしれぬと言われるんですね?",
"そうです。ただ一つ違いますのは、その二人とも――私と同様に――追剥を怖がってびくびくしておりましたと記憶いたしますが、この被告には小胆な様子がございません。",
"あなたはいかにも臆病らしく見える人間というのを見たことがありますか、ロリー氏?",
"確かにそういう人間を見たことがございます。",
"ロリー氏、もう一度被告を見なさい。あなたの確かに知っておられるところでは、あなたは以前に彼に逢ったことがありますか?",
"あります。",
"いつです?",
"私はそれから数日後にフランスから帰ろうといたしましたが、カレーで、被告が私の乗っておりました定期船に乗船して参りまして、私と一緒に航海をいたしました。",
"何時に彼は乗船しましたか?",
"夜半少し過ぎに。",
"真夜中にだね。そんな時ならぬ時刻に乗船した乗客は被告一人だけでしたか?",
"偶然にも被告一人だけでした。",
"『偶然にも』などということはどうでもよろしい、ロリー氏。その真夜中に乗船した乗客は被告一人だけだったのですな?",
"そうでした。",
"あなたは一人で旅行していたのですか、ロリー氏、それとも誰か連がありましたか?",
"二人の連がありました。紳士と婦人とです。その二人はここにおられます。",
"その二人はここにおられるのだね。あなたは被告と何か話をしましたか?",
"ほとんどしません。天候は荒れておりましたし、その航海は長くかかって海が荒れましたので、私はほとんど岸から離れて岸に著くまで長椅子に寝ていましたのです。",
"マネット嬢!"
],
[
"マネット嬢、あなたは以前に被告に逢ったことがありますか?",
"はい。",
"どこで?",
"ただ今お話に出ました定期船の中で。同じ折に。",
"あなたは今話に出た若い御婦人ですね?",
"はあ! ほんとに不仕合せなことに、さようなのでございます!"
],
[
"マネット嬢、あなたはイギリス海峡を渡る時のその航海中に被告と何か話をしましたか?",
"はい。",
"それを思い出して御覧なさい。"
],
[
"はい、閣下。",
"では被告と言いなさい。"
],
[
"ちょっと話の途中ですが。被告は一人だけで乗船したのですか?",
"いいえ。",
"何人被告と一緒にいましたか?",
"フランスの紳士が二人でした。",
"三人で一緒に相談していましたか?",
"フランスの紳士たちが御自分たちの艀に乗って陸へ引揚げなければならなくなる最後の時まで、その三人は一緒に相談していらっしゃいました。",
"この明細書に似た何かの書類が、彼等の間で遣り取りされていませんでしたか?",
"何か書類がその人たちの間で遣り取りされておりました。けれどもどんな書類だか私は存じません。",
"形や寸法がこれに似ていましたか?",
"そうかもしれません。でもほんとうに私は存じませんの。その人たちは私のごく近くでひそひそ話をしながら立っていらしたのではございますけれども。と申しますのは、その人たちは船室の昇降段の一番上のところに立っていらしたのですから。それはそこに吊してありましたランプの光を使うためなのでした。そのランプは暗いランプでしたし、それにその人たちはごく低い声で話していらっしゃいましたので、私にはその人たちの言っていらっしゃることは聞き取れませんでしたし、またその方たちが書類を見ていらっしゃるということだけしか見えなかったのでございます。",
"では、被告の話したことについて言って下さい、マネット嬢。"
],
[
"マネット嬢、もし被告が、あなたがそれを述べることがあなたの義務であり――あなたの述べなければならない――またあなたがどうしてもそれを述べずにいる訳にはゆかない――ところの証言を非常に気が進まぬながら述べておられるのだ、ということを完全に理解していないとするなら、彼はここにいる者の中でそのことを理解していないただ一人の人間です。どうか先を続けて下さい。",
"被告は、私に、自分はある面倒なむずかしい性質の用事で旅行しているのだが、その用事はいろいろの人に迷惑をかけることになるかもしれない、だから自分は変名を使って旅行しているのだ、と話しました。また、自分はその用事のために数日前にフランスへ行って来たのだが、これから先も永い間そのために折々フランスとイギリスとの間を行ったり来たりすることになるかもしれない、と申しました。",
"被告はアメリカのことについて何か言いましたか、マネット嬢? 詳細に述べなさい。",
"被告はあの戦争がどうして起るようになったかということを私に説明してくれようといたしました。そして、自分の判断し得る限りでは、あれはイギリス側が間違った愚かな戦争をやったのだ、と申しました。また、常談のように、たぶんジョージ・ウォシントンは歴史上ジョージ三世とほとんど同じくらいの偉大な名声を残すだろう★、と言い足しました。でも、その言い振りには少しも悪気はございませんでした。それは、笑いながら、時間を紛らすために、話されたのでございます。"
],
[
"マネット医師、被告を見なさい。あなたはいつか以前に彼に逢ったことがありますか?",
"一度だけ。彼がロンドンの私の寓居へ訪ねて来ました時に。約三年か、三年半ばかり前。",
"あなたは彼があの郵船にあなたと同船した乗客に相違ないと認めることや、あるいはあなたの令嬢と彼との会話について話すことが出来ますか?",
"閣下、私にはどちらも出来ません。",
"あなたがそれをどちらも出来ないということには何か特別の理由がありますか?"
],
[
"あなたは今問題になっている折に釈放されたばかりだったのですか?",
"皆が私にそう申しております。",
"その折の記憶が少しもありませんか?",
"少しも。私が監禁の身で靴造りに従事しておりましたある時――それがいつであるかということさえ私には言えないのでありますが――その時から、ここにおります可愛いい娘と一緒に自分がロンドンに暮しているのだと気がつきました時まで、私の心は白紙なのです。お恵み深い神さまが私の心の力を囘復して下された時には、娘は私とごく親しくなっておりました。しかし、どんな風にして親しくなって来たのかということを申し上げることさえ私には全く出来ないのです。それまでの経路については少しも記憶がありません。"
],
[
"あの御婦人はいかがです?",
"非常に苦しんでおられます。が、お父さんがいたわっておられますし、法廷から出たのでそれだけ気分がよいようですよ。",
"僕が被告にそう話してやりましょう。あなたのような体面を重んずる銀行員が、公然と被告と口を利いているのを見られては、よくないでしょうからねえ。"
],
[
"君はもちろんあの証人のマネット嬢の様子を聞きたがっているだろうね。あの人はやがてよくなるよ。君の見たのはあの人の興奮の一番ひどい時だったんだから。",
"私がその原因であったことを非常にすまなく思っています。私の代りにあなたからあの方に、私の熱心な感謝と一緒に、そう伝えていただくことは出来ないでしょうか?",
"ああ、出来るよ。君が頼むなら、伝えてやろう。"
],
[
"最悪の事を予期しています。",
"そう予期しているのが一番賢明だし、また一番ありそうなことだね。だが、陪審官たちが退出したことは君に有利だと僕は思うな。"
],
[
"事務がないとはお気の毒なことですな。",
"僕もそう思います。"
],
[
"そいつあ不思議じゃあないよ。何しろ君があの世の方へだいぶ遠くまで行きかけたのはついさっきのことだからな。君は気が遠くなっているようなのに口を利いているね。",
"私は確かに気が遠くなりそうな気がして来ました。",
"それなら一体どうして君は食事をしないんだ? 僕は、あの馬鹿野郎どもが君をどちらの世界に置いたものか――この世か、それともどこか別の世か――と頭をひねっている間に、食事をしたのさ。うまい食事をさせてくれる一番近くの飲食店へ案内しようか。"
],
[
"君はもうこの世の人間に戻ったような気がするかね、ダーネー君?",
"私はまだ時間と場所については恐しく混乱していますが、それくらいの気がするほどには気分がよくなりました。",
"それはさぞかし御満足だろうね!"
],
[
"何の祝杯を? 何の乾杯を?",
"なあに、そいつあ君の口先まで出ているさ。そうあるべきだよ、そうに違いないよ。そうだということは僕は誓ってもいいぜ。",
"では、マネット嬢に!",
"では、マネット嬢に!"
],
[
"どうぞ。あなたの御親切な御尽力に対してわずかな返礼ですが。",
"君は僕が君に特別に好意を持っていると思うかね?"
],
[
"でも今ここで考えてみたまえ。",
"あなたはいかにも私に好意を持っておられるように振舞われました。が、好意を持っておられるとは私は思いません。"
],
[
"あなたはだいぶお飲みになったと私は思いますがね、カートン君。",
"思うって? 君は僕が飲んでいたことは知っているじゃないか。",
"そう言わなければならないのでしたら、私はそのことを知っています。",
"ではなぜ飲むかってことも序に知らしてあげよう。僕はね、失望した奴隷なんだよ、君。僕は誰一人だって好きでもなければ気にもかけないし、また誰一人だって僕を好きでもなければ気にもかけやしないんだ。",
"たいそう遺憾なことです。あなたは御自分の才能をもっと有効に御利用出来ますでしょうに。",
"そうかもしれんさ、ダーネー君。そうでないかもしれんさ。だが、君は酒を飲まんからっていい気になってちゃいけないぜ。どんなことになるか君だってわかりゃしないんだからね。おやすみ!"
],
[
"ううん、どうしたって?",
"十時ですよ、旦那。",
"何だっていうんだい? 夜の十時だっていうのか?",
"そうですよ、旦那。あなたさまが起してくれってわたしに仰しゃいましたんで。",
"ああ! そうだったな。よし、よし。"
],
[
"君は一罎やって来たようだね、シドニー。",
"今晩は二罎だったろう、確か。僕は今まで昼の弁護依頼人と一緒に食事をしていたんだ。いや、あの男の食事をするのを見ていたって言うかな。――どっちだって同じことさ!",
"君があの顔の似ているところへ持って行ったのはね、シドニー、あれは素敵な論点だったよ。どうして君はあんなとこを掴まえたんだい? いつあんなことを思い付いたのかね?",
"おれはあいつはずいぶん美男だなと思ったんだ。それから、おれだって運がよかったなら、奴と同じぐらいの人間になれてたろうと考えたんさ。"
],
[
"どれだけ?",
"たった二口さ。",
"むずかしい奴を先にくれ。",
"ほら、それだよ、シドニー。どしどしやるんだ!"
],
[
"今日のあの検事側の証人の件じゃ、シドニー、君は実にしっかりしてたね。どの質問もどの質問も手応えがあったからねえ。",
"おれはいつだってしっかりしてるさ。そうじゃないかね?",
"僕はそれを否定しないよ。何が君の御機嫌に触ったんだい? まあポンスをひっかけて、機嫌を直したまえ。"
],
[
"なぜやらなかったんだい?",
"なぜだかわかるものか。おれの流儀だったんだろうよ。"
],
[
"僕に給料を払って手伝わせてやってるってとこも少しはあるようだね。だが、僕にそんなことを言ったって、風に言ってるようなもので、無駄だよ。君はやろうと思うことはやる人間だ。君はいつだって最前列にいたんだし、僕はいつだって後の方にいたんだ。",
"僕が最前列へ出るには出るようにしなければならなかったんだ。僕だって最前列に生れついたんじゃないよ。そうだろう?"
],
[
"で、それは誰のせいだったのだい?",
"確かに、それが君のせいでなかったとは僕には請合えないんだ。君はいつだってぶつかって割込んで押し除けて突き進んで、ちっとも休まずにいるものだから、僕はどうしても銹びついてじっとしているより他に機会がなかったのだ。だが、夜も明けかけようってのに、昔のことなんか話してるのは、陰気くさいな。僕の帰る前に何か他の話をしてくれよ。"
],
[
"あの絵のように美しい医者の娘さんの、マネット嬢さ。",
"あの女が美しい?",
"美しかあないかね?",
"ないね。",
"だって、君、あの女は満廷讃美の的だったぜ!",
"満廷讃美の的がなんだい! 誰がオールド・ベーリーを美人の審査員にしたのだね? あれは金髪のお人形というだけさ!"
],
[
"わたしがそんなことを始めたって、プロスさん?",
"あなたがお始めになったじゃありませんでしたか? お嬢さんのお父さまを生き返らせたのはどなたでした?"
],
[
"ええ、一度も。",
"それだのにあの腰掛台とあの道具とを自分の傍に置いておかれるんだね?"
],
[
"何だって想像なぞしたことは一度もありません。想像力なんてちっともないんです。",
"こりゃあ間違ったな。では、あんたの推測するところでは――あんただって時には推測ぐらいはするね?"
],
[
"私は、そのことについては、お嬢さまが私にお話下さいましたことの他には、何も推測したことがありません。",
"で、そのお嬢さまのお話では――?",
"お嬢さまは先生がそれについて御意見を持っていらっしゃると思ってお出でです。",
"ところで、わたしがこんなにいろんなことを尋ねるのに腹を立てないで下さいよ。わたしはただの気の利かない事務家だし、あんたも婦人の事務家なんだからね。"
],
[
"怖がって?",
"なぜ怖がっていらっしゃるかってことはよっくわかる、と思うんですが。それは恐しい思い出ですもの。それにまた、あの方が正気をなくされましたのもそれから起ったことですもの。どんな風にして正気をなくしたのか、またどんな風にして正気に戻ったのかということを御自分では御存じないので、あの方には自分がまた正気をなくしないってことはどうしてもはっきりと請合えないんでしょう。このことだけだってその話はあの方には気持がよくはないんだろうと、私はそう思うんです。"
],
[
"私たちにもぞっとさせて下さい。どんな空想だかどうか私たちに知らしていただきたいものですねえ。",
"あなた方には何でもないことに思われますでしょう。そういう幻想は、私たちがそれを自分で作り出した時だけ印象的なのだと、私思いますわ。それは他人さまにお伝えすることが出来ないものなんですのよ。私時々夕方などに独りきりでここに腰掛けて、じいっと耳をすまして聴いておりますと、あの反響が、今に私どもの生活の中へ入って来るすべての足音の反響だと思われて来ますの。"
],
[
"あの足音がみんな私たちみんなのところへ来ることになっているのですか、マネット嬢、それとも私たちの間であれを分けることになるのですか?",
"私存じませんわ、ダーネーさん。馬鹿げた空想だと申し上げましたのに、あなたが聞かしてくれと仰しゃいましたんですもの。私がその空想に耽りますのは、私が独りきりでおります時なので、その時は、その足音を私の生活と、それから私の父の生活の中へ入って来る人たちの足音だと想像したのでございました。"
],
[
"どうしてあの男はあのような厭わしい声を立てているのじゃ? あの男の子供なのか?",
"失礼でござりますが、侯爵さま、――可哀そうに、――さようでござります。"
],
[
"ドファルジュと申します。",
"何商売じゃ?",
"侯爵さま、酒屋で。"
],
[
"わしは途中でお前の傍を通ったようじゃが?",
"閣下、仰せの通りでござります。お途中で手前めの傍をお通り遊ばしました。",
"丘を登っている時と、丘の頂と、二度じゃな?",
"閣下、仰せの通りでござります。",
"お前は何をあんなにじいっと見ておったのか?",
"閣下、手前はあの男を見ておりましたのでござります。"
],
[
"どの男じゃ、豚め? そしてお前はなぜそこを見ておるのじゃ?",
"御免下さりませ、閣下。奴はその歯止沓★――輪止の鎖にぶら下っておりましたんで。"
],
[
"閣下、あの男のことで。",
"この阿呆どもめは悪魔にさらわれてしまうがいい! その男は何という名前か? お前はこの辺の者を一人残らず知っておるじゃろう。そやつは誰だったのじゃ?",
"へえ、閣下! そいつはこの辺の者じゃござりませなんだ。生れてからこっち、手前はそいつを一度も見たことがござりませなんだ。",
"鎖にぶら下っておったと? 息を詰らすためか?",
"御免を蒙りまして申し上げますが、それが不思議なところでございましたよ、閣下。そいつの頭は仰向にぶら下っておりました、――こんな風に!"
],
[
"そやつはどんな様子をしておったか?",
"閣下、その男は粉屋よりも真白でござりました。すっかり埃をかぶって、幽霊のように白くって、幽霊のように脊が高く★って!"
],
[
"今の他所者が今夜お前の村で宿を取ろうとしたらそやつを捕えておけ。そしてそやつに悪い事をさせぬようにきっと気をつけるのじゃぞ、ガベル。",
"閣下、御命令は必ず遵奉いたしますつもりでございます。",
"そやつは逃げ失せてしまったのか、野郎めは? ――さっきの罰当りはどこにいる?"
],
[
"その男は逃げ失せてしまったのか、この頓馬め、馬車が輪止をかけに停った時にな?",
"閣下、奴は、川の中へ跳び込む人間のように、頭を先にして、丘の坂のとこるをまっさかさまに跳び下りてゆきましてござります。",
"それを調べてみろ、ガベル。馬車をやれ!"
],
[
"どうした! 何のことじゃ? いつもいつもお願いじゃな!",
"閣下。お慈悲でございます! 御猟場番人の、私の亭主のことで。",
"猟場番人の、お前の亭主がどうしたのじゃ? お前らの言うことはいつもいつも同じじゃ。何かが納められないのじゃろう?",
"亭主はすっかり納めました、閣下。亭主は死にました。",
"そうか! では安穏になっておるのじゃ。わしがそれをお前のところへ生き返らせてやれるか?",
"ああ、さようではございません、閣下! しかし亭主は、あそこに、萎びた草が少しばかりかたまって生えているところの下におります。",
"それで?",
"閣下、そういう萎びた草の少しかたまって生えているところがそれはそれはたくさんございます!",
"それで?"
],
[
"閣下、お聞き下さいませ! 閣下、私のお願いをお聞き下さいませ! 私の亭主は貧乏のために死にました。たくさんの者が貧乏のために死にます。もっとたくさんの者が貧乏のために死にますでしょう。",
"それで? わしがその者どもを養えるか?",
"閣下、それは有難い神さまだけが御存じでございます。けれども私はそんなことをお頼みするのではございません。私のお願いいたしますのは、私の亭主の名前を書きました小さな石か木片を一つ、亭主の寝ております場所がわかりますように、その上に置かせていただきたいということでございます。でございませんと、その場所はじきに忘れられてしまいますでしょう。私が同じ病で死にます時にはそこはどうしても見つからないでこざいましょう。私はどこか他の萎びた草のかたまって生えているところの下に埋められますでしょう。閣下、死ぬ者はそれはそれはたくさんでございます。死ぬ者はずんずん殖えて参ります。貧乏な者がそれはそれはたくさんでございますから。閣下! 閣下!"
],
[
"ムシュー・シャルルがわしを訪ねて来るはずじゃが。イギリスから到著しておるか?",
"閣下、まだ御到著ではございませぬ。"
],
[
"閣下? あれと仰せられますと?",
"鎧戸の外じゃ。鎧戸を開けてみい。"
],
[
"どうじゃ?",
"閣下、何でもございませぬ。樹と闇とがあるだけでございます。"
],
[
"昨日。で、お前は?",
"私は真直に参りました。",
"ロンドンから?",
"そうです。"
],
[
"どういたしまして。私は真直に来ましたのです。",
"いや失礼! わしの言うのは、旅行に永くかかったというのじゃない。旅行をする気になるのに永くかかったというのじゃ。"
],
[
"もうしばらく。",
"お前さえよければ、一時間でも。"
],
[
"二つともお前の抛棄出来るものかな? フランスの方はそうかもしれん。が、財産は? それは言うほどの値打もないくらいのものじゃが、それでも、もうお前の勝手に出来るものか?",
"私の今申しました言葉では、私はそれをもう要求するつもりはないという意味なのです。もしその財産が明日にでもあなたから私に譲り渡されるとしましても――",
"明日そうなるということはありそうにもないという自惚れをわしは持っておるが。",
"――あるいは今から二十年後にそうなるとしましても――"
],
[
"私は、生きてゆくためには、わが国の他の人々が、たとい名門の後楯があろうと、いつかはしなければならないかもしれぬことをするより他はありません、――つまり、働くことです。",
"例えば、イギリスで?",
"そうです。そうすれば、家門の名誉がこの国で私のために傷けられる恐れはありませんよ。また、他の国では家名が私のために穢されるはずはありません。他の国では私は家名を名乗っておりませんから。"
],
[
"さっきも申し上げましたが、私があちらでうまくいっていることについては、あなたのお蔭かもしれないと思っていますよ。その他のことについては、あそこは私の避難所なのです。",
"奴らは、あの自慢屋のイギリス人どもは、イギリスはたくさんの人間の避難所になっている★と言うておるのう。お前は同国人であすこを避難所にしている人間を知っておるじゃろう? 医者じゃが?",
"ええ。",
"娘と一緒かのう?",
"ええ。"
]
] | 底本:「二都物語 上巻」岩波文庫、岩波書店
1936(昭和11)年10月30日第1刷発行
1967(昭和42)年4月20日第26刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 恰も→あたかも 或る→ある 如何→いか・いかが 聊か→いささか 何時→いつ 一層→いっそう 今更→今さら 謂わば→いわば 所謂→いわゆる 於て→おいて 大凡→おおよそ 於ける→おける 恐らく→おそらく 己→おれ 却って→かえって 彼処→かしこ か知ら→かしら 難い→がたい 且つ→かつ 嘗て→かつて かも知れ→かもしれ 位→くらい 極く→ごく 此処→ここ 毎→ごと 悉く→ことごとく 此→この 而→しかし 然る→しかる 屡々→しばしば 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 是非→ぜひ 其奴→そいつ・そやつ 大層→たいそう 大体→だいたい 大分→だいぶ・だいぶん 唯→ただ 但し→ただし 直ち→ただち 忽ち→たちまち 度→たび 度々→たびたび 多分→たぶん 給え→たまえ 給う→たもう (て)頂→いただ (て・で)貰→もら・もれ 何処→どこ・どっ 乃至→ないし 尚・猶→なお 尚更→なおさら 何故→なぜ に拘らず→にかかわらず 筈→はず 甚だ→はなはだ 甚し→はなはだし 程→ほど 殆ど→ほとんど 正しく→まさしく 将に→まさに 先ず→まず 益々→ますます 亦→また 間もなく→まもなく 勿論→もちろん 以て→もって 尤も→もっとも 易→やす 已むを得ず→やむをえず 故→ゆえ 漸く→ようやく 俺→わし 僅か→わずか」
※読みにくい漢字には適宜、底本にはないルビを付しました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年6月16日作成
2015年4月16日修正
青空文庫作成ファイル:
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"副題読み": "01 じょうかん",
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"名ローマ字": "Charles",
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"町の掃除人が持って参ったのでございます。その男の妻が拾ったそうでございます。四十ペンニヒ頂戴いたしたいと申しておりました。",
"そんなら出しておいてくれい。あとで一しょに勘定して貰うから。"
],
[
"もういいもういい。そこで幾ら立て替えておいてくれたのかい。",
"六百マルクでございます。秘密警察署の方は官吏でございますから、報酬は取りませんが、私立探偵事務所の方がございますので。どうぞ悪しからず。それから潜水夫がお心付けを戴きたいと申しました。"
],
[
"なんだい、それは。その角に持って行ってどうするのだい。",
"質店でございます。勲章なら、すぐに十マルクは御用立てます。官立典物所なんぞへお持ちになったって、あそこではせいぜい六マルクしかよこしません。なかなかずるうございますから。"
]
] | 底本:「諸国物語(上)」ちくま文庫、筑摩書房
1991(平成3)年12月4日第1刷発行
底本の親本:「鴎外全集」岩波書店
1971(昭和46)年11月~1975(昭和50)年6月
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2007年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"ノーリスさんが円満なる友情と題する詩の美しい写本を持っていられましたが、ほんとうに立派なものだと思いました。あなたはあの本をご覧になりましたか",
"いいえ。しかし私は自分で写したのを持っています"
]
] | 底本:「世界怪談名作集 上」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年9月4日初版発行
2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042304",
"作品名": "世界怪談名作集",
"作品名読み": "せかいかいだんめいさくしゅう",
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"副題": "07 ヴィール夫人の亡霊",
"副題読み": "07 ヴィールふじんのぼうれい",
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"姓読み": "デフォー",
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"姓読みソート用": "てふおお",
"名読みソート用": "たにえる",
"姓ローマ字": "Defoe",
"名ローマ字": "Daniel",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1659",
"没年月日": "1731-04-26",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "世界怪談名作集 上",
"底本出版社名1": "河出書房新社",
"底本初版発行年1": "1987(昭和62)年9月4日",
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[
[
"それは、東洋人は、安い給金で雇えるからだろう",
"うん、それもある。だが、もっと他にも理由があるよ。だいち、この船は、どろぼう船だってことを、君は、知ってやしまい",
"え! どろぼう船?",
"叱ッ!……この船はね、表面は、カナダから日本の北千島へ、紅鮭を買いにいく冷凍船とみせかけているが、じつは、千島の無人島で、ラッコやオットセイを密猟する、国際的どろぼう船なのさ",
"へえ。じゃ、僕等も、どろぼうの手下にされたのかい",
"まアそうだ。しかも、さんざ、コキ使ったあとで、密猟が終り、満船して本国へ帰る途中、臨時に雇った水夫や、君たちのようなボーイを海ン中へ放り込んでしまうに都合がいいからだよ。つまり、東洋人を人間扱いにしていないのだ",
"どうして、海ン中へ放り込むのさ",
"この船の船員は、みんなピコル船長の乾児だろう。だから安心だが、臨時に雇った水夫やボーイたちは、上陸すると、この船の悪事を、みんな洩してしまう。それが怖ろしいので、毎年横浜や函館で、東洋人の水夫や、ボーイを雇って、北洋へ連れて往き、うんとコキ使って、不用になると、帰航の途中、海ン中へ放り込んでしまうのだ"
],
[
"ひどいことをするなア。こんな船に、一刻も乗ってられやしない。途中で、脱船しなくちゃ……",
"そうだよ。僕は、毎日そのことを考えているのさ",
"だって君は、船長に可愛がられているから、海ン中へ放り込まれる心配は無いじゃないか",
"いや、僕も東洋人だ。同じ東洋人のために、兇暴な白人と戦わねばならない"
],
[
"君、奴等の密猟も、あと二、三日だぜ。いまのうちに何とかしないと、生命があぶないぞ",
"うむ。僕も、あせっているが、妙案がないので弱っている。僕は、最後の手段として、火薬庫に忍込んで、日本の領海を荒し廻るこの船を、一挙に爆破してやりたいくらいだ",
"なるほど……。だが、爆破したら、君も僕も、木葉微塵になってしまうじゃないか",
"仕方がない。みすみす奴等に殺されるよりか……",
"爆弾勇士は、僕は、不賛成だ",
"え! どうして?",
"もっと、旨い考えがあるからさ。僕なら、この船を奪ってやるよ",
"へえ、船を奪う?……。いったい、そんなことが出来るかい",
"出来るとも、見ていたまえ"
],
[
"どうして、この船を奪うのさ",
"なアに、わけはないよ。今から、君は運転士になればいいのさ。僕は、機関士。いいだろう。奴等の留守の間に、二人で、この巨船を動かして、一路横浜へ凱旋するンだ。愉快じゃないか",
"なるほど、海賊たちを、北洋に置去りして、そのまに横浜へ往くのか。こいつは妙案だ"
],
[
"君は、むざむざ、太平洋の真ン中で、鱶の餌食になりたいのか",
"いや、そいつも真ッ平だ",
"じゃ、僕の計画どおりにしたまえ。君は、一等運転士、そして、僕は、機関士。いいかい。僕は、すぐに機関室へ降りて往って、機関を動かすぜ。絶好の機会だ"
],
[
"山路君。とうとうやっちゃったよ",
"えッ! 何をやった?",
"機関が急に停ったのだが、どこが故障か、てんで解らないよ",
"そいつは、困ったなア",
"僕が、機関の故障を発見できないくらいだから、君にだって解るはずはないし、もちろん、水夫たちにも解るまい。……山路君、仕方がないから、運を天に任して漂流しよう",
"まア、それよりほかに、手段もないじゃないか"
],
[
"故障で動かないのだ。このうえは、潮流に乗って漂うまでさ",
"漂流?……よろしい。……で、小僧、てめえたちは、このピストルが怖くはねえのか。怖かったら、乃公に降伏しろ",
"降伏?",
"そうだ。本船では、乃公が一番の強者だ。何故なら、乃公はピストルを持っている。そこで、強者の乃公は、ピコル船長に代って、今から船長様だ。てめえたちも、乃公の命令に従うがいい"
],
[
"さア来い。小僧!",
"何を! 大僧!"
],
[
"船長の乃公の自由さ",
"何に! てめえが船長だと?",
"むろんさ。ピコル親分に代って、きょうから乃公が船長様だ。つまり、この船で一番強い人間が、宝物を独占していいわけだ",
"よし、じゃ誰が一番強いか、腕ずくでいくか",
"やるか!"
],
[
"何だ!",
"僕等は、冷凍室のラッコなど欲しかないよ、……何よりも、君の勇気に感心した。改めて君の部下になろう",
"…………"
],
[
"や、山路君。……く、口惜しい",
"しっかりしろ",
"おなじ、東洋人に、や、やられるとは、……く、口惜しい",
"陳君! か、讐は討ってやるぞ。しっかりしろ",
"た、たのむ……。もう、僕は、だ、駄目だ……"
],
[
"陳の奴は、油断がならねえからやっつけたのだ。小僧、てめえだけは、たすけてやろう",
"いや、断じて妥協はせんぞ。陳君の讐を討ってやろう",
"ハハハハハ。無手で、このピストルに立向うつもりかい。いくら、日本の少年でも、そいつはいけねえ。乃公に降伏しろ",
"黙れ! 日本男児の、鋼鉄のような胸を、射貫けるものなら、討ってみろ",
"ハハハハハ。慈悲をもって、たすけてやろうとおもったが、陳と一緒に、冥途へ往きていなら、一思いに眠らしてやるさ。観念しろ"
],
[
"わしこそは、この船の主人じゃ。おまえたち、生命のやり取を、止めて、はやく、この船を退散しろ",
"何を!"
],
[
"ワハハハハハ。若いの、そいつは無駄さ。おまえが、わしの胸を射貫いても、この船には長く居られまいぞ",
"え! 何故だ",
"船底の、火薬庫が、あと三分で、爆発するだろ",
"えッ!",
"わしは、たった今、火薬庫に、導火線を投入れ、その先に火を点けて来たのさ。導火線は、あと三分。いや二分で、燃え尽きるだろう",
"えッ!"
],
[
"あの、怪老人に、一杯喰わされたぞ",
"うむ",
"火薬庫が、一向に爆発しないじゃないか。あの怪老人、うまく僕等をだましたのだ",
"なるほど……"
],
[
"だが、船は、潮流に乗って、あの速さで走っているぜ。とうてい追いつけまいよ",
"だが、口惜しい。あんな、老人にだまされたかとおもうと……",
"それに、あの老人は、ひょっとすると、亡霊かもしれんぜ",
"どうして?",
"だって、本船には、最初からあんな老人が乗組んでなかったはずだ。……そ、それに、乃公ア見たが、あの老人には、足が無かったようだぜ",
"そんなことがあるものか。亡霊など出てたまるものか",
"いや。虎丸は、これまで北洋で、たくさんの東洋人を殺したので、その亡霊が、老人の姿になって現われたのだろう。乃公は、たしかに見たよ。あいつには、足が無かった",
"じゃ、亡霊が、何のために、僕等を、船から追出したのだ",
"亡霊だって、冷凍室のラッコが欲しいだろう",
"そんな、莫迦なことがあるものか。亡霊が、ラッコの皮を売ってどうするンだ",
"なるほど、そいつもそうだ"
],
[
"僕は、日本人です",
"うむ……それはいかん。日本人であることが不幸だった。せっかく救けてあげたが、このまま帰りたまえ",
"え!",
"われわれは、外国の漂流者を救助する義務はないのだ。すぐに、島を退去したまえ"
],
[
"どうして、僕を追払おうとするのです",
"われわれは、水難救済事業に携っているのではない。しかも、君が、日本の少年であることが不幸だった。君を、この島に滞在させるわけにはいかんのだ",
"……",
"その理由というのはつまり、この島は、人造島だからだ",
"えッ、人造島?",
"そうだ。これは、アメリカの兵器会社の技師が発明した人造島で、われわれ技術員は、その耐熱試験をやっているのだ。氷の島が温帯で、いや熱帯圏内に入っても、果して耐久力があるか否かを試験しているのだ。そこで、この島の秘密を、日本の少年に盗まれては、せっかくの、秘密特許の人造島も、無価値になるじゃないか",
"僕は、少年です。断じて人造島の秘密を盗むようなことはありません。日本へ帰るまで、この島に置いてください",
"いかん。君を救けたのは、君の労働力を必要としたからだ。つまり、君に、炊事やそのほかの仕事をして貰おうとおもったのだが、不幸にして君は、模倣の巧みな日本人だったじゃないか、一刻も、この島に置くわけにはいかん"
],
[
"何を、お手伝したらいいですか",
"まア、仕事は、だんだんにはじまるよ。きょうは、ゆっくり体を休めたまえ"
],
[
"君は、日本人だといったね",
"そうです",
"日本人は、科学の才能において、ドイツ人に劣らぬ。そこで、わしは、わしの研究室の助手として君を所望したのじゃ",
"あなたは、何を研究なさいますか",
"わしは、人造島を研究している",
"あなたは、この氷の島をつくられたのですか",
"そうじゃ",
"人造島というのは?",
"なるほど、少年には殊のほか、興味があろう。かんたんに説明してあげよう。人造島というのは、ドイツのゲルケ博士の考案したものが始りである。浅い海底へ、組合した太い管を、無数に取付け、それに海水を凍らせる凍結剤を、絶えず送るという仕組になっている。つまり、そうして海上に、ぽっかり氷の島を浮べ、飛行機の着陸場にしようというのじゃ。ところが、わしの人造島は、浅い海ではなく、太平洋の真ン中でも、自由自在につくられるのだから、ゲルケ博士のものとは、規模、構成において、おのずから異っている",
"どうして、氷の島が、暖かい海でも溶けないのでしょうか",
"氷上に動力所があるだろう。あの動力所から、鉄管で絶えず凍結剤を送っているから、よしんば島の表面が溶けても、急凍する海水が、新陳代謝するから大丈夫。それに、この氷は、化学的に急凍したものだから、大理石のように硬いのじゃ",
"人造島が、自由自在に、どこにでもつくられるようになると、飛行機は、安心して飛べますね",
"そうだ。戦争になると、人造島を各処につくって、そこを艦隊や、航空隊の基地とし、不安になれば、忽ち溶かしてしまうことが出来る",
"へえ、おどろいた。じゃ、人造島を発明した国は、戦争に絶対勝つというわけですね",
"人造島をつくったのは、わしだが、わしはまた、人造島に、ある種の人工霧を放射すると、忽ち溶けてしまうという、新しい兵器を発明したのだ。完成の一歩前だが、その研究をやっているのだよ"
],
[
"あなたは、科学者ですね。博士ですね。そして、この島の主権者ですか",
"主権者?……。なるほど、この島の創造主だから、主権者であっていいわけだ。ところが、わしは、哀れな奴隷なのじゃ",
"えッ!"
],
[
"日本の少年よ。われわれは、人造島の耐熱試験をするために、大平洋の真ン中へやって来たが、試験は大成功。そこで数日ののちに、この島を元の水に還して、本国へ引揚げるのだが、わしの科学の頭脳を、さんざん使った兵器会社の奴等は、不要になったわしを、この老ぼれ博士を、海洋に棄てて去るだろう",
"それじゃ、僕と同じ運命なのですか",
"そうじゃ、わしは、古ぼけた兵器製造機として、もう不要になったのじゃ。そこで、海へ棄てられてしまう。……わしは、たった一人で死にたくはないので、せめてもの道連れにとおもって、君の命乞いをしたのじゃ"
],
[
"いや、ぜひこの老人と一緒に死んで貰いたい。……それとも、君は、あの麻袋に詰められて海ン中へ叩き込まれたいのかい",
"…………",
"わしと一緒に死んでくれるか、それとも、名もない雑役夫のために、海に叩き込まれるか。その二途よりないのだが……"
],
[
"あんな雑役夫に殺されるよりか……",
"おお、やっぱり、わしとこの島に残されるか",
"はい",
"うむ。それでこそ、義も情もある日本人じゃ。君は、わしの唯一の味方じゃ……では、わしの本心を明してあげよう",
"え! 本心ですって?",
"そうじゃ。わしは、いかにも古ぼけた兵器製造機じゃ。けれども、むざむざと、アメリカの兵器会社の奴等のために、海洋の真ン中に棄てられはしないぞ。君と協力して、彼等の暴力に抵抗するのじゃ",
"では、僕とともに、この島を脱け出そうと仰しゃるのですか",
"脱出ではない。この島に住む狼共に、戦いを挑むのじゃ。わしは、最初からその決意でいたが、君を味方に得て、いよいよ勝算が十分だ",
"でも、味方は、わずかに二人、敵は、それに十倍する人数、たいてい勝てますまい",
"ところが、わしは、科学者じゃ。科学の力は百人、千人の凡人の比ではない",
"作戦を洩してください",
"わしの作戦はこうじゃ。まず、この人造島の心臓ともいうべき、動力所を襲うて、これを占拠するのじゃ。われわれは、動力所に拠って、敵を迎える。動力が停って、凍結剤を海中の鉄管に送ることが出来なくなれば、この島は、忽ち溶けてしまうのだから、それを怖れて、敵も手出しは出来まい",
"でも、動力所を占拠して、人造島の心臓を抑えても、数台の飛行機が、彼等の手中にある以上、動力を停めて、人造島を溶かすと威かしても、彼等は、そのままに、飛行機に分乗して、危機を脱することが出来るじゃありませんか",
"なアに、その前に、ちゃんと飛行機を焼いて、敵の足を奪っておくのさ",
"えッ! 飛行機を焼いたら、僕達も、結局、人造島と運命を倶にするだけじゃありませんか",
"冒険に心配は禁物じゃ。科学のともなわぬ冒険は、もう古い。わしの人造島は、自力をもって、時速十三海里の航海が出来る。つまり、この人造島は、大洋の浮島であるとともに、一種の方船なのさ。しかも、海中深く潜んでいる、すばらしい幾つかの推進機は、動力所の押ボタン一つで、猛然と回転してくれるのじゃ。動力所の心臓部を抑えながら、わしと君は数十人の敵を同伴して、一路日本へ針路を向けようじゃないか……。なアに、万一、この冒険が失敗したら、そのときは、潔く、海中の藻屑となったらいい",
"よくわかりました。僕はやります",
"では、君は、夜半に格納庫を襲うてもらおう。わしは、同時刻に動力所を襲うて、彼処を占拠してみせる。君は、格納庫に火を放つのじゃ",
"爆弾がございますか",
"爆弾のような化学兵器が、手に入るくらいなら、こんな命がけの冒険はせんよ。爆弾があれば、宿舎に投げつけて、技術員も、雑役夫も、みんな一気にやっつけることが出来るじゃないか。われわれは、敵に監視されている、全くの無力者だ。そこで、非常手段をとらねばならぬ"
],
[
"よいか、わしの味方の一人はいま、格納庫を襲うて、おまえたちの唯一の足である飛行機を焼こうとしている。そこで、わしは、この動力所を襲うて、人造島の心臓部を握るのだ。われわれは、兵器会社の技術員たちに、戦いを挑まねばならない。おまえは、わしの味方になるか、それとも反抗するか",
"味方になります",
"よろしい。では、おまえの任務に忠実であれ"
],
[
"此処を動いてはならない。でないと、人造島が溶けてしまうのだ。飛行機が焼けてしまったし、島が溶けたら、どうなるとおもうか",
"…………"
],
[
"あなたも……",
"うむ、動力所も、首尾よく手に入れたよ"
],
[
"博士をやっつけろ",
"おやじを殺せ"
],
[
"わア!",
"老ぼれを殺つけろ"
],
[
"済みませんでした。機関を破壊したりなんかして……",
"いや、この場合、君の果断の行為は、結局、われわれを救ってくれたのじゃ",
"でも、そのために、みんな溺死します",
"が、動力所を、あいつ等の手に渡せば、君とわしが殺されるだけじゃないか……。おお、そういううちにも、島が溶けてくるだろう。死の直前に、人造島の溶けるさまを実際に見ておこうか"
],
[
"博士。どうか、われわれを救ってください",
"われわれの生命をたすけてください"
],
[
"生命が惜しかったら、わしの云うとおりになるか",
"なります",
"救けてください"
],
[
"博士は?",
"わしは、この人造島と、運命を倶にするとしようか",
"いけません、博士。僕と一緒に、あなたも、あの方船へ帰らなければなりません"
],
[
"あッ!",
"驚くことはいらぬ。わしは、亡霊ではない。このとおり、足もくっついているよ。ハ……",
"あなたは、何処から来たのです?",
"わしは、元からこの船にいたよ。このどろぼう船の船医じゃ",
"山路君は?",
"わしに怖れて、海へ飛込んで死んだよ",
"えッ! では、豹のような水夫は? 僕をピストルで射殺したあの水夫は……",
"あれも、ボーイと一緒に、海へ飛込んだ。いまごろもう、鱶の餌食になったことだろう",
"では、もうこの船には?",
"そうじゃ、おまえと、わしと二人きりじゃ",
"僕は、ほんとうに生きているのですか",
"ハ……。疑うのも無理はない。心臓を射貫かれ、死んだはずのおまえが、そこに生きているのだからなア……",
"誰が、僕を生かしてくれたのです",
"生かしてもらって、不服かな",
"いいえ、感謝します",
"生かしてあげたのはわしだが、わしに感謝するより、科学の偉力そのものに感謝したがいい",
"あなたは、僕の胸を手術してくれたのですか",
"そうじゃ。おまえの、砕かれた心臓を、海へすて、あの大男の安南人の心臓を、移植してやったのさ。おまえの心臓は、あの大男から貰ったのじゃ",
"えッ! それじゃ、僕のこの心臓は、安南人の心臓なのですか",
"不満かな……。いや、不満とは云わさんぞ。犬の心臓と取替えたのではないからのう。ハ……",
"あなたは、死んだ人間を、勝手に生かすことが出来るのですね",
"そうじゃ。死んだ人間を生かすことが出来るが、生きた人間を殺しはせん。わしは、本国ドイツにいたころから、心臓移植の実験を、しばしば動物によって試みたものだが、人間を試みたのが、こんどが初めだったのさ",
"心臓移植は、あなたが初めて試みられたのですか",
"まず、そうじゃ。しかし、一九三三年に、ポロニーという学者が、一女性の腎臓を摘出して、新しい屍体の腎臓を移植して、毒死の危急を救ったことがある。いや、その翌年には、フイラトフという学者が、新しい屍体の眼球を摘出して、十一年間も失明していたある女に移植して成功したという事実もあるのじゃから、わしの心臓移植も、けっして珍しい手術ではあるまい",
"でも、奇蹟です。そして、神の業です",
"おだてるなよ、わしは、奇蹟を信じない科学者だからのう。ハ……"
],
[
"いや。まだすてるには惜しいよ",
"また、実験に使うためですか",
"そうかも知れん。ことによったら、おまえの肉体も、必要になるか知れんよ",
"えッ!",
"驚いてはいけない。わしは、大男の心臓を、おまえに移植したのは、おまえをこの世に還したいためではなかった。わしの学説の実験に使うためだ。だから、必要になれば、いつでも、おまえの肉体を貰うまでさ",
"あなたは、生きた人間を殺さぬと、仰しゃったではありませんか",
"そうじゃ、わしは、生きた人間を殺さぬ。そんな殺生はせぬ",
"でも、僕をまた、殺すつもりでしょう",
"いや、誤解してはいけない。わしは、死んだおまえを、元通りに死なしてやるまでさ。けっして、死んだ人間を生かしたままにはせぬよ"
],
[
"わしはまた、人間の肉を裂きたくなったのさ",
"えッ! では、僕の心臓を、また抉り取ろうというのですか",
"いや、心臓が欲しいのではない。その二つの眼じゃ"
],
[
"おまえは、また、わしを信じないのか。わしは、学術研究のために、おまえを試験台とするのだ。コマ切れにして、煮て食おうというのではないから、安心して、わしに料理されるがいい",
"試験台にされて堪るものですか。僕は、あんたの奴隷ではありません"
],
[
"ハハハ。それだ、わしの求めていたことは",
"え!",
"つまり、わしは、心臓は、動物の生命の原動力であるかどうかを実験したのじゃ。小僧、おまえの小さな心臓の代りに、あの安南人の大きな心臓を移し替えてみると、わしの学説のとおり、おまえは、あの大きな安南人のように、勇敢に、力強くなったじゃないか。ハハハハハ。もうそれでよい。わしと妥協しよう",
"それじゃ、いまのは嘘ですか。眼球を取替ようというのは",
"嘘ではないが、しばらく中止さ。ハハ……"
],
[
"海水なぞ、呑めやしないじゃありませんか",
"心配することはない。わしが、海水から塩分を取りのぞいて、旨い飲料水をつくってやる……それよりかどうだ、小僧。冷凍室のものが腐り、飲料水まで腐りかけたというのに、中甲板にころがっている四つの屍骸が、少しも腐敗せんじゃないか",
"なるほど、妙ですね",
"妙ではない、当然のことなのだ。わしの創案した防腐剤の偉力は、このとおりじゃ。何なら、おまえにも、防腐剤を注射してやろうか",
"え!",
"生きながら、偉効のある防腐剤を注射すると、おまえの肉体は、永遠に死なぬぞ",
"冗談じゃありません。防腐剤は、死んでからねがいます",
"ところが、わしは、生きた人間に、それを試みたいのじゃ。小僧、おまえの肉体を、わしに貸してくれぬかな",
"僕は、お断りします",
"そうか、厭か。……しかし、油断するなよ。真夜中ごろ、おまえの隙をうかがって、おまえの二つの腕に、注射せぬともかぎらぬからのう。ハハハ"
],
[
"生きた人間に、防腐剤を試みると、どうなりますか",
"死ぬまでさ。けれど、ほんとうに死んだのではないから、いつでも生き還らせることが出来る",
"そ、そんな莫迦なことは信じられません",
"信じられないなら、ひとつ、試みようか"
],
[
"もし、わしの実験が失敗して、おまえが、そのまま生き還ることがなかったら、わしも、責任を負うて、この甲板で、おまえのあとを追って死ぬ。わし一人が、おめおめと生き永えはせぬぞ。わしに見込まれて、不幸だとあきらめてくれ",
"わかりました。僕が学問の犠牲に、よろこんで成りましょう",
"おお、よく理解してくれた。それでこそ、わしの見込んだ少年だった"
],
[
"いけません。元気を出しなさい。僕がついていますよ",
"いや、わしのような老体を、かばっていては、君も死んでしまう。わしにかまわずに、君はあくまでも生きてくれ",
"いや、博士が死ねば、僕も死にます。人造島で約束したじゃありませんか。死ぬときは、一緒に……と",
"なるほど、その約束を忘れず、わしをかばってくれるのか、ありがたい。わしは、日本人の仁侠の精神に涙ぐまれる",
"そんなことはありません。僕は、あなたの科学の才能を、もっと、世界人類のために働かしてもらいたいとねがうのです。そのために、懸命に、あなたをたすけているのです",
"ありがとう、ありがとう。わしは、きっと、生き抜いてみせる"
],
[
"パーム・パームリックというのは、何ですか",
"南海の魔の海だ。珊瑚礁が群生して、おまけに潮流の渦巻く、おそろしい死の海ともいわれるところじゃ"
],
[
"妙な船ですね",
"難破船かも知れない"
],
[
"難破船の乗組員が、みんな死んで、その亡霊が船を動かしているということを、物語にきいたが、あの船は、それにちがいない",
"それは、船乗たちの迷信さ"
],
[
"博士、ひょっとすると、幽霊船かもしれませんよ",
"ハハハハハハハ。君までが、……"
],
[
"いや、真ッ平だ",
"あんな船に乗移ると、生命が奪われる"
],
[
"博士! あの生々しい屍骸をごらんなさい",
"なるほど、三ヶ月も経過して、生々しい屍骸が横わっているとは奇怪だ。まさしく幽霊船かな",
"博士、あれに倒れているのは、安南人の大男です。ごらんなさい。その男の胸が抉られています",
"なるほど、……惨酷なことをしたものだな。亡霊の仕業かな",
"あッ! 博士。僕の味方が、やっぱり倒れています。船長附のボーイ、陳君です",
"おお、あの少年が、陳君というボーイかい。無惨な屍骸となって横たわっているではないか"
],
[
"ハハハハハ。亡霊を退治に来たというのかい。なるほど、それもよかろ。……だが、その少年の屍骸に触れてもらいたくはない",
"何故だ",
"おまえの味方だが、また、わしの愛するモルモットじゃ。一指も触れてはならぬぞ",
"黙れ、亡霊!",
"いや、わしの実験の済むまでは、一指も触れてはならぬのじゃ。強いて、屍骸に近寄ろうというのならば、おまえも、屍骸にしてやろう"
],
[
"実験といったね。何の実験かね",
"つまり、科学の実験なのじゃ",
"えッ! 科学",
"そうじゃ。亡霊が、死の船の甲板で、科学の実験をするとは、奇怪だとおもうだろう。わしは生きた人間を料理する科学者だが、みだりに生きた人間を取扱うと、陸では、法律上の罪人となるからのう",
"なるほど"
],
[
"そこで、わしは、実験室を、北洋のどろぼう船に選んだのじゃ。わしは、船医に化けて、この虎丸に雇われ、横浜から乗船した。そして、生体解剖の実験の機会を狙っていたのじゃ。するうち、それにいるボーイたちが、わしのために、絶好の機会をつくってくれたのじゃ。そこに斃れている少年の心臓が、ピストルに射貫かれ、打砕かれたのを摘出し、それにいる安南人の健全な心臓と取替えたのじゃ。すると、どうじゃ。少年の屍骸は、たちまち、むくむくと起き上ったのだ",
"うむ。……しかし、少年は、屍骸となっているのではないか",
"待ちたまえ。心臓の入替を実験するだけではなく! そのあとで、もっと重大な実験をなしたのじゃ。人間の生命を永遠に保存することだった",
"えッ! 生命の保存?……それは、考えられぬことだ。空想に過ぎない"
],
[
"空想が実現した例は、むかしから無数にある。まして、わしの、生命保存の真理は、空想ではなく、三十年来の実験の結果、到達したものじゃ。わしは、一旦死んだ少年の、左胸部を抉って心臓を取替えて蘇生せしめたので、少年の生命は、わしの所有といってよい。そこで、蘇生した少年に、わしの創案した防腐剤を注射し、そして、ふたたび殺してみたのじゃ。なるほど、少年は死んでいる。が、それは、仮死の状態にあるので、生命は、永遠に保存されてあるのじゃ",
"うむ。……事実とすれば、まさしく科学の奇蹟じゃ",
"どうじゃ、疑うなら、もう一度、少年の屍骸に息を吹込んで見ようか"
],
[
"いや、ほかの奴等は、死んだものに防腐剤を施したのだから、肉体のみを防腐したに止って生命は再び肉体に還っては来はせぬ。この少年は、生きたまま防腐剤を施したのじゃから、それを解消すると、この白蝋のような顔が、忽ち紅潮してくれるだろう",
"はやく、注射して下さい",
"よろしい"
],
[
"ああ、先生!",
"おまえの友人が、見舞に来てくれているぞ"
],
[
"あなたを、亡霊とおもったのは、われわれの不明でした",
"いや、亡霊であるかもしれない。何故なら、この船は、足を失った死の船だからねえ",
"そうだ、死の船!",
"わしは、人間の心臓を取替えることが出来、死んだ人間を生き還らせることさえ出来るが、死んだ船を蘇生さすことは出来なかったよ。ハハハハハ"
],
[
"炭水はあるかね",
"あります。この三ヶ月、一塊の石炭も使わなかったので□",
"機械油は?",
"それも十分です"
],
[
"どうしたのだ",
"運転士! どうしたんだ"
],
[
"大渦巻だ!",
"救けてくれ!"
],
[
"いや、わしも、手の下しようがなく、呆然としているよ。しかし、何という壮観だろう。あの大きな渦巻は……",
"まったく。太平洋の真ン中に、こんな大鳴門があるとはおもわなかった。潮流は、四方から、急流をなして、あの大渦巻に、吸寄せられているさまは、見事なものですな……"
],
[
"君は、日本人だろう。日本人は、鉄のような心臓を持っているからだ",
"では、二老人は?",
"二老人は、ドイツの科学者だ。ドイツ人の沈着、剛毅な精神力が、この心理的な残虐に堪え得るだろうとおもう",
"なるほど……君は?"
],
[
"君は、海へ飛込もうといったが、それは無茶だ。海よりか、大空へ脱れる方が、はるかに容易じゃないか。大空には、こんな渦巻がないだろう",
"ああそうだ。大空へ脱れよう。……でも、博士。翼もない僕等は、どうして大空へ脱れることが出来ますか"
],
[
"でも、博士、この麻袋の中へ、瓦斯を填めなければ浮びませんよ",
"勿論さ。瓦斯の代りに、冷凍室で使う圧搾空気を入れたらいい",
"ああ、そうだ圧搾空気をつくろう"
],
[
"この、不完全な風船に、われわれが乗れやしないじゃないか",
"でも、僕等だけ……",
"何を云うのか、おまえたちは、前途有為な少年じゃ。この魔の海を脱れなければならないが、われわれ老人は、もう任務が終ったので、この幽霊船と運命を倶にするのじゃ"
],
[
"それはいけません。僕等は、あなた方を見殺には出来ません",
"またそんなことを云う。この風船は、四人の人間を乗せることが出来ないのだ。君たち二人が乗っても、危険なくらいだ。が、この船で死ぬよりか、ましだとおもって乗りたまえ",
"でも",
"まだ躊躇するか。いかん。せっかく充填した圧搾空気が効力を失い、浮揚力を失ってしまうじゃないか。それ、もっと圧搾空気を填めろ"
],
[
"風船が水に沈まないぜ",
"ほんとうだ。……麻袋に蝋を塗ってあるからだろう",
"それにちがいない。試しに、あの風船に乗って見ようか"
],
[
"贅沢いうなよ。あの大渦巻に捲き込まれて、独楽のように廻っている老博士たちのことを考えたら、贅沢は云われないぜ",
"そうだ",
"怪老人も、博士も、じつに偉大な科学者だ。あの魔の海で死なしたくはないね",
"まったくだよ。僕は、何とかして救けてあげたいとおもっている",
"そうだな。何とか、この辺で、飛行機にでもめっからないかな。そうすると、飛行機の人に救助して貰うンだが……",
"そんな旨い具合にいくものか",
"でも、運命って奴は、わからんよ。こうして漂流しているうちに、ひょっとして、この上空を飛行機が通らぬとも限らんよ",
"夢みたいな話さ"
],
[
"だって、随分お腹を空かしているンですよ",
"だが、そんなに食べると、胃袋がびっくりするぜ"
],
[
"では、訂正します。大尉殿。僕等を救けて下すってありがたいが、ついでに、もう二人救けて下さい",
"もう二人?",
"そうです。いまもいったとおり、魔の海の大渦巻に捲き込まれた、幽霊船にいる、二人の科学者を、一刻もはやく救助して下さい。この大型の飛行機は、まだ二人ぐらい収容できましょう",
"おう、その二人か。むろん救助したいが、その渦巻く大鳴門の方向が、小僧には、わかるかい",
"さア……夢中で脱れて来たので、方向は、わかりませんが、あまり遠くはないですよ"
],
[
"何だ、小僧。大渦巻なンか、この近海にありゃしないじゃないか",
"でも、たしかに僕等が、そこを脱けて来たのです",
"夢でも見たんじゃないか",
"そんなことは、ありません",
"とにかく、もう少し探し廻ろう。暗くならないうちに探し当てなければ、救助が出来ないからなア"
],
[
"はやく、博士たちを救って下さい",
"はやくしないと、死んでしまいます"
],
[
"だって、妙じゃないか。幽霊船が、やっぱり、ほんとうの幽霊船なら、あの白衣の老人も亡霊にちがいないよ",
"じゃ、君だって、亡霊かい",
"どうして?",
"君は、あの船の甲板で、豹のような水夫のために、左胸部を背後から射貫かれて、死んだのじゃないか。僕は、たしかにそれを目撃したのだ。だのに、また生き還るなンか、ふしぎだよ。やっぱり、亡霊かもしれないよ",
"そ、そんなことがあるものか。僕は、いったんは殺されたが、あの白衣の老人の手術で、心臓を取替てもらって生き還ったのだ",
"じゃ、白衣の老人の腕前を信じることが出来るだろう。そしたら、あの人を亡霊というのはまちがっている。君が亡霊でないなら、あの科学者だって亡霊じゃないよ。もちろん、人造島をつくった博士だって、亡霊じゃない",
"うむ……。可笑しいね。何が何だか解らなくなって来たぞ。……待てよ。じゃ、あのどろぼう船だけが、亡霊だったのかもしれないね"
],
[
"いくら探しても無駄さ。あのとおり、八ツの眼で、下界を隈なく探したが、見つからなかったのだから、もうあきらめた方がいいぜ",
"でも、あの科学者が、行方不明になったのが、ほんとに惜しいンですもの",
"われわれだって、惜しい人物を、魔の海で失って、残念におもうよ。何しろ、人造島をつくった博士や、心臓を入替たり、生命を永久保存することを発見した大科学者だからね",
"それに、僕等の恩人です",
"まったくだ。しかし、幽霊船の犠牲になって、あの大渦巻に吸込まれ、海底深く没してしまったのだから、あきらめるより外はあるまい",
"ひょっとすると、博士たちは、火薬を爆発さして沈んだのかも知れませんよ",
"うむ、そうかも知れん……君たちも、うんと勉強して、将来御国のために、人造島ぐらい、わけなくつくる大科学者になってくれることだね。世界人類のために、生命の保存法を、君たちこそ、ほんとうに発見してくれるンだね",
"僕は、きっと、人造島を発明します"
],
[
"何だ",
"この海軍機は、ドイツから輸入したのですか",
"いや、国産だよ",
"へえ、素晴しいなア。こんな優秀機が、もう日本でも出来るンですか",
"出来るとも。もっと素晴しいのが出来かかっているよ。これは、東京帝国大学の航空研究所で設計したものだ。太平洋なぞ、無着陸で往復できるよ",
"ほう、愉快だなア",
"小僧たちも、うんと勉強して、これに負けない飛行機をつくってくれよ",
"つくるとも。大丈夫",
"何だぜ。もう、どろぼう船になンか、乗るんじゃないぜ",
"あれは、横浜で、船乗たちに騙されたのだよ。もう、北洋へなぞ往かずに、うんと勉強するよ",
"よし。陳君、君も、うんと勉強したまえよ",
"はい",
"中国も、日本と協力して、もっと強くならなくてはいかんなア。東洋平和のために、日本と協力して、進むンだなア",
"僕は、山路君の、忍耐と、勇気と、仁侠に感動させられました。日本人と、中国人とは、兄弟のように仲好くなるのが、ほんとうだと、こんどの冒険旅行で、しみじみ感じました"
]
] | 底本:「少年小説大系 第8巻 空想科学小説集」三一書房
1986(昭和61)年10月31日第1版第1刷発行
初出:「日本少年 付録」
1937(昭和12)年8月号
※底本に、初出誌での原題は「幽霊船」との記載がありました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:阿部良子
校正:小林繁雄
2006年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042294",
"作品名": "怪奇人造島",
"作品名読み": "かいきじんぞうとう",
"ソート用読み": "かいきしんそうとう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「日本少年 付録」1937(昭和12)年8月号",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-09-06T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001084/card42294.html",
"人物ID": "001084",
"姓": "寺島",
"名": "柾史",
"姓読み": "てらしま",
"名読み": "まさし",
"姓読みソート用": "てらしま",
"名読みソート用": "まさし",
"姓ローマ字": "Terashima",
"名ローマ字": "Masashi",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1893-10-24",
"没年月日": "1952",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "少年小説大系 第8巻 空想科学小説集",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1986(昭和61)年10月31日",
"入力に使用した版1": "1986(昭和61)年10月31日第1版第1刷",
"校正に使用した版1": "1986(昭和61)年10月31日第1版第1刷",
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"入力者": "阿部良子",
"校正者": "小林繁雄",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"……。ちょっと見たところでは別に堂々とした様子などはない。中背で、肥っていて、がっしりしている。四十三にしてはふけて見える。皮膚は蒼白に黄味を帯び、髪は黒に灰色交じりの梳らない団塊である。額には皺、眼のまわりには疲労の線条を印している。しかし眼それ自身は磁石のように牽き付ける眼である。それは夢を見る人の眼であって、冷たい打算的なアカデミックな眼でない、普通の視覚の奥に隠れたあるものを見透す詩人創造者の眼である。眼の中には異様な光がある。どうしても自分の心の内部に生活している人の眼である。",
"彼が壇上に立つと聴衆はもうすぐに彼の力を感ずる。ドイツ語がわかる分らぬは問題でない。ともかくも力強く人に迫るある物を感ずる。",
"重大な事柄を話そうとする人にふさわしいように、ゆっくり、そして一語一句をはっきり句切って話す。しかし少しも気取ったようなところはない。謙遜で、引きしまっていて、そして敏感である。ただ話が佳境に入って来ると多少の身振りを交じえる。両手を組合したり、要点を強めるために片腕をつき出したり、また指の端を唇に触れたりする。しかし身体は決して動かさない。折々彼の眼が妙な表情をして瞬く事がある。するとドイツ語の分らない人でも皆釣り込まれて笑い出す。",
"不思議な、人を牽き付ける人柄である。干からびたいわゆるプロフェッサーとはだいぶ種類がちがっている。音楽家とでもいうような様子があるが、彼は実際にそうである。数学が出来ると同じ程度にヴァイオリンが出来る。充分な情緒と了解をもってモザルト、シューマン、バッハなどを演奏する……。"
]
] | 底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「改造」
1921(大正10)年10月1日
※初出時の署名は「吉村冬彦」です。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
2011年11月27日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "043074",
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"ソート用読み": "あいんしゆたいん",
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} |
[
[
"人間は『鋭敏に反応する』(subtil zu reagieren)ように教育されなければならない。云わば『精神的の筋肉』(geistige Muskeln)を得てこれを養成しなければならない。それがためには語学の訓練はあまり適しない。それよりは自分で物を考えるような修練に重きを置いた一般的教育が有効である。",
"尤も生徒の個性的傾向は無論考えなければならない。通例そのような傾向は、かなりに早くから現われるものである。それだから自分の案では、中等学校の三年頃からそれぞれの方面に分派させるがいいと思う。その前に教える事は極めて基礎的なところだけを、偏しない骨の折れない程度に止めた方がいい。それでもし生徒が文学的の傾向があるなら、それにはラテン、グリーキも十分にやらせて、その代り性に合わない学科でいじめるのは止した方がいい……"
],
[
"偶然に支配されるような火の試練でなく、一体の成績によればいい。これは教師にはよく分るもので、もし分らなければ罪はやはり教師にある。教案が生徒を圧迫する度が少なければ少ないほど、生徒は卒業の資格を得やすいだろう。一日六時間、そのうち四時間は学校、二時間は宅で練習すれば沢山で、それすら最大限である。もしこれで少な過ぎると思うなら、まあ考えてみるがいい。若いものは暇な時間でも強い興奮努力を経験している。何故と云えば、彼等は全世界を知覚し認識し呑み込まなければならないから。",
"時間を減らして、その代りあまり必須でない科目を削るがいい。『世界歴史』と称するものなどがそれである。これは通例乾燥無味な表に詰め込んだだらしのないものである。これなどは思い切って切り詰め、年代いじりなどは抜きにして綱領だけに止めたい。特に古い時代の歴史などはずいぶん抜かしてしまっても吾人の生活に大した影響はない。私は学生がアレキサンダー大王その外何ダースかの征服者の事を少しも知らなくても、大した不幸だとは思わない。こういう人物が残した古文書的の遺産は、無駄なバラストとして記憶の重荷になるばかりである。どうしても古代に溯りたいなら、せめてサイラスやアルタセルキセスなどは節約して、文化に貢献したアルキメーデス、プトレモイス、ヘロン、アポロニウスの事でも少し話してもらいたい。全課程を冒険者や流血者の行列にしないために発明家や発見家も入れてもらいたい。"
]
] | 底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
入力:Nana ohbe
校正:浅原庸子
2004年12月13日作成
2005年10月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "043075",
"作品名": "アインシュタインの教育観",
"作品名読み": "アインシュタインのきょういくかん",
"ソート用読み": "あいんしゆたいんのきよういくかん",
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"初出": "「科学知識」1921(大正10)年7月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2005-01-08T00:00:00",
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"人物ID": "000042",
"姓": "寺田",
"名": "寅彦",
"姓読み": "てらだ",
"名読み": "とらひこ",
"姓読みソート用": "てらた",
"名読みソート用": "とらひこ",
"姓ローマ字": "Terada",
"名ローマ字": "Torahiko",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1878-11-28",
"没年月日": "1935-12-31",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "寺田寅彦全集 第六巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"いかに速く動くよ、六月の雨は、寄せ集められて、最上川に",
"大波は巻きつつ寄せる、そうして銀河は、佐渡島へ横切って延び拡がる"
],
[
"お汁粉取りましょうか、お雑煮にしましょうか。",
"もうたくさんです。",
"でも、なんか……。"
]
] | 底本:「柿の種」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年4月16日第1刷発行
1997(平成9)年10月15日第9刷発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 第十一巻」岩波書店
1961(昭和36)8月7日第1刷発行
※無題の短章の冒頭に添えられている「花のようなマーク」は、「*」で代えた。
※「*」には、見出し注記しなかった。
※「十四、五」「二、三」など、連続する数字をつなぐ際に底本が用いている半角の読点は、全角に変えた。
※底本の編集にあたっては、親本に加えて、「柿の種」小山書店、1946(昭和21)年、第12刷、「栃の実」小山書店、1936(昭和11)年も参照されている。
※「自序」から「曙町より(十一)」までは「柿の種」に、その他は「栃の実」に集録された作品である。
入力:山口美佐
校正:田中敬三
2003年7月2日作成
2010年11月8日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "001684",
"作品名": "柿の種",
"作品名読み": "かきのたね",
"ソート用読み": "かきのたね",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-07-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
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"人物ID": "000042",
"姓": "寺田",
"名": "寅彦",
"姓読み": "てらだ",
"名読み": "とらひこ",
"姓読みソート用": "てらた",
"名読みソート用": "とらひこ",
"姓ローマ字": "Terada",
"名ローマ字": "Torahiko",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1878-11-28",
"没年月日": "1935-12-31",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "柿の種",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1996(平成8)年4月16日",
"入力に使用した版1": "1997(平成9)年10月15日9刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "寺田寅彦全集 第十一巻",
"底本の親本出版社名1": "岩波書店",
"底本の親本初版発行年1": "1961(昭和36)8月7日",
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} |
[
[
"手紙のほうが小包よりさきに来そうなものだが。",
"だって、そりゃあ、……あとから来る事だってあるじゃありませんか。",
"……この『様』の字をちょっと比べて見てくれ。どうも同じ手だと思うんだが……。",
"ええ、そうですよ。……きっとそうですよ。"
]
] | 底本:「寺田寅彦随筆集 第一巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年2月5日第1刷発行
1963(昭和38)年10月16日第28刷改版発行
1997(平成9)年12月15日第81刷発行
入力:田辺浩昭
校正:かとうかおり
1999年11月17日公開
2003年10月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "002333",
"作品名": "球根",
"作品名読み": "きゅうこん",
"ソート用読み": "きゆうこん",
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"副題読み": "",
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"初出": "「改造」1921(大正10)年1月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "1999-11-24T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/card2333.html",
"人物ID": "000042",
"姓": "寺田",
"名": "寅彦",
"姓読み": "てらだ",
"名読み": "とらひこ",
"姓読みソート用": "てらた",
"名読みソート用": "とらひこ",
"姓ローマ字": "Terada",
"名ローマ字": "Torahiko",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1878-11-28",
"没年月日": "1935-12-31",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "寺田寅彦随筆集 第一巻",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1947(昭和22)年2月5日、1963(昭和38)年10月16日第28刷改版",
"入力に使用した版1": "1997(平成9)年12月15日第81刷",
"校正に使用した版1": "1997(平成9)年12月15日第81刷",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "田辺浩昭",
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"テキストファイル最終更新日": "2003-10-22T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2333_13492.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-10-22T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"しょうべえに描くのですか、娯楽のために描くのですか。",
"養生のためにやっています。",
"肖像などは、あれはずいぶんかかるものでしょうね。",
"さあ。一時間でも二十日でも、切りはありますまいね。",
"小さいのよりも、やっぱり大きい絵の方が、何だか知らねえが、ねうちがあるような気がするね。",
"そうですかね。"
]
] | 底本:「寺田寅彦全集 第三巻」岩波書店
1997(平成9)年2月5日発行
入力:Nana ohbe
校正:noriko saito
2004年8月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "042222",
"作品名": "断片(Ⅰ)",
"作品名読み": "だんぺん(いち)",
"ソート用読み": "たんへんいち",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「明星」1922(大正11)年8月",
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[
[
"それから船便を求めてあてのない極東の旅を思い立ったが、乗り組んだ船の中にはもうちゃんと一人スパイらしいのが乗っていて、明け暮れに自分を監視しているように思われた。日本へ来ても箱根までこの影のような男がつきまとって来たが、お前のおかげでここへ来てから、やっとその追跡からのがれたようである。しかしいつまでのがれられるかそれはわからない。",
"これだけの事を一度だれかに話したいと思っていたが、きょう君にそれを話してこれでやっと気が楽になった。"
]
] | 底本:「寺田寅彦随筆集 第五巻」岩波文庫、岩波書店
1948(昭和23)年11月20日第1刷発行
1963(昭和38)年6月16日第20刷改版発行
1997(平成9)年9月5日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:多羅尾伴内
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002515",
"作品名": "B教授の死",
"作品名読み": "ビーきょうじゅのし",
"ソート用読み": "ひいきようしゆのし",
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"初出": "「文学」1935(昭和10)年7月",
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"姓読み": "てらだ",
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"底本名1": "寺田寅彦随筆集 第五巻",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1948(昭和23)年11月20日、1963(昭和38)年6月16日第20刷改版",
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[
[
"明治四十四年十一月二十八日――昨日青山の宿から本郷の下宿へ移った。朝押し入れから蒲団や行李を引き出して荷造りをしている間にも、宿を移ったとて私はどうなるだろうと思う。叔父さんや弟は、宿でも変えて気分を新たにしたら学校へ行けるような心持ちになるだろうという。私は学校のほうへ一歩も向かう勇気はもうない。いやだいやだと思う。室いっぱいに取り散らした荷物を見るとやはり国へ帰りたい念が強く起こる。今宿へ払う金が十円ばかりある。これで、きょう思い切って帰ろうとしきりに思う。しかし国へ帰っても自分のうちへ帰るのではない――兄と嫂の家――苦しい事は同じだ。私は自分をどうする事もできない。しかし私はこうしていても、ついには田舎で貧しくとも静かに生活するという、私が自分を省みてのただ一つの望みが満たさるる時が来る事はないように思われる。この望みが、もう全く活力のない私を自分に捨てかねる原因になっている。こんな望みもなくなってほしい。前途が全く暗くなってしまったら、とこんな事を思ってポカンとしていると、弟が来てくれた。そしてただもうなんという事なしに移ってしまった。",
"夜弟と叔父さん所へ行く。こいつはもうだめだと思いながら、そのものに対する責任は尽くして行くといったような態度や弱き者に対する軽侮の笑いに対しては、生きている私は屈辱を感ぜずにはいられなかった。"
],
[
"……近ごろ身内のものから手紙が来ると、父の病気が悪くなったのかとなんだか恐ろしい。……父の病気に対して、私の心持ちは、ただなんだか恐ろしいというにとどまる。それでいつも考えまい考えまいと努め、またそうしていられる。見舞いの手紙も一度も出した事はない。不孝の子だ。……",
"弟と通りを散歩しながら、いつになく、自分の感情の美しからざる事などを投げ出すように話した。おれは自分をあわれむというほかに何も考えない。こんな事を言った。そして弟の前に自分を踏みつけた時に少し心の安まるような心持ちがした。しかしこの絶望の声に対して少しの同情を期待したというような弱い心持ちもあったようだ。……自分は自分の生命を左右するような大事は、恐れて忘れよう忘れようとつとめる。そして日々 trifles によって苦しめられている。",
"高等学校の校医の○○も、○○という体操教師も『君のにいさんはとても高等学校もよう卒業しまいと思っていたが、大学へ行くようになったから、存外かまわないものだ』と言ったと弟が話した。それを聞いてなんだか一種自分というものに対する責任が多少軽くなったような安心を覚えた。"
]
] | 底本:「寺田寅彦随筆集 第二巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
1947(昭和22)年9月10日第1刷発行
1964(昭和39)年1月16日第22刷改版発行
1997(平成9)年5月6日第70刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "002447",
"作品名": "亮の追憶",
"作品名読み": "りょうのついおく",
"ソート用読み": "りようのついおく",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"分類番号": "NDC 916",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-07-05T00:00:00",
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"名": "寅彦",
"姓読み": "てらだ",
"名読み": "とらひこ",
"姓読みソート用": "てらた",
"名読みソート用": "とらひこ",
"姓ローマ字": "Terada",
"名ローマ字": "Torahiko",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1878-11-28",
"没年月日": "1935-12-31",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "寺田寅彦随筆集 第二巻",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1947(昭和22)年9月10日、1964(昭和39)年1月16日第22刷改版",
"入力に使用した版1": "1997(平成9)年5月6日第70刷",
"校正に使用した版1": "1997(平成9)年5月6日第70刷",
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[
[
"レーリーの全集に収められた四四六篇の論文のどれを見ても、一つとしてつまらないと思うものはない。科学者の全集のうちには、時のたつうちには単に墓石のようなものになってしまうのもあるが、レーリーのはおそらく永く将来までも絶えず参考されるであろう。",
"レーリーの仕事はほとんど物理学全般にわたっていて、何が専門であったかと聞かれると返答に困る。また理論家か実験家かと聞かれれば、そのおのおのであり、またすべてであったと答える外はない。"
]
] | 底本:「寺田寅彦全集 第六巻」岩波書店
1997(平成9)年5月6日発行
底本の親本:「寺田寅彦全集 文学篇」岩波書店
1985(昭和60)年
初出:「岩波講座 物理学及び化学」岩波書店
1930(昭和5)年12月30日
※誤植を疑った箇所を、「寺田寅彦全集 第五巻」岩波書店、1961(昭和36)年2月7日第1刷発行の表記にそって、あらためました。
※〔〕内の編集者による注記は省略しました。
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2006年7月13日作成
2014年6月9日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043083",
"作品名": "レーリー卿(Lord Rayleigh)",
"作品名読み": "レーリーきょう(ロード レーリー)",
"ソート用読み": "れえりいきようろおとれえりい",
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"初出": "「岩波講座 物理学及び科学」岩波書店、1930(昭和5)年12月",
"分類番号": "NDC 289",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓": "寺田",
"名": "寅彦",
"姓読み": "てらだ",
"名読み": "とらひこ",
"姓読みソート用": "てらた",
"名読みソート用": "とらひこ",
"姓ローマ字": "Terada",
"名ローマ字": "Torahiko",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1878-11-28",
"没年月日": "1935-12-31",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "寺田寅彦全集 第六巻",
"底本出版社名1": "岩波書店",
"底本初版発行年1": "1997(平成9)年5月6日",
"入力に使用した版1": "1997(平成9)年5月6日",
"校正に使用した版1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "Nana ohbe",
"校正者": "松永正敏",
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"テキストファイル最終更新日": "2014-06-09T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "2",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/43083_23775.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2014-06-09T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"いや、全く御無理もありません。ところがこう見えても私にも、良心と云うものがあります。私はあなたがこのお家にお入りになるのを見たので、跛を引きながら、あなたの後を追っかけて伺った次第です。と云うのは、先きほどの御親切な紳士に親しくお目にかかって、さっきの私の態度に、もし乱暴すぎたと思召されたところがあるなら、それは決して何も悪意のあったわけではなかったことを申し上げて、またその上に、わざわざ本までも拾って下さった御親切に、お礼を申そうと思ってのことですよ",
"いや、それはあんまり御叮嚀すぎますな、しかし失礼ですがあなたは、どうして私を御存じなのでした?"
],
[
"一たい本当に君なのかえ? 君が生きているなどと云うことは、有り得ることなのかえ? 君はあんな恐ろしい深淵から、這い上ることが出来たのかえ?",
"まあ、待ちたまえ"
],
[
"一たい君は、物を云っても大丈夫かね? 僕は全くつまらない、劇的な出現などをして、しっかり君を驚かしてしまったが、――",
"いや、もう大丈夫だ。しかし、しかしホームズ君、僕はどうしても自分の目を信ずることは出来ないよ。おいこればかりは助けてくれよ。だって君、人もあろうに、シャーロック・ホームズが、僕の書斎に、現われるなどと云うことは、どうして信じられよう"
],
[
"君、この脊の高い男が、何時間かの間を、一呎も身体を縮めていなければならないと云うことは、全く冗談ごとではないからね。しかしわが親愛な相棒君、――この種々の話をする前に、もし君が協力してくれるなら、ここに一つの困難な、かなり危険な夜の仕事があるのだが、いずれそれをすましてからの方が、君に一切の顛末を話すのに、好都合だと思われるんだがね",
"いやしかし僕は、好奇心で一ぱいなんだが、今すぐにききたいものだがね",
"じゃ君は今夜、僕と一緒に来てくれるかね?",
"ああ行くとも、――いつでもどこにでもゆくよ",
"さて、これでまた昔通りになったわけだね。しかしまだちょっとした食事をとるだけの時間はあるのだが、出かける前にちょっとすまそうじゃないかね。さてそうしていよいよ、断崖談としようさ。ところがね君、僕はあすこから遁げ出すのには、決して大した苦労はしなかったのだ。と云うのは、実は僕は、あの中に落っこちはしなかったのさ",
"落っこちはしなかったって?",
"もちろんさ、ワトソン君、僕は実は落っこちなかったのだ。僕が君に与えた通諜は、たしかに正直正真のものさ。しかし僕もあの遁げ道の途中で、死んだモリアーティ教授の、何となく不吉な顔に目が止まった時は、ちょっと、これはいよいよ俺もこれまでかなとも思われた。彼の目には確に、凄愴な決心が充ち充ちていた。それで僕は彼とちょっと二三語応酬し、あの短い通諜を書く、好意ある許しを得たのだった。が、つまりその時書いたのが、後に君のところに届いたものさ。それから僕はそれを、自分の煙草入れとステッキと一緒に置いて、その小径に沿うて歩き出した。モリアーティ教授は、すぐに僕の後に尾いて来る、――それから僕はいよいよ道がつきた時に、湾の縁に立ち止まった。彼は武器の類はとらなかったが、僕に跳りかかって来て、その長い腕を僕に巻きつけた。彼はもう自暴自棄になり、ただひたすら復讐の念に燃えていた。われわれ二人は、滝の縁で揉み合ったままよろめいた。僕は、いわゆる日本の柔道と云ったようなものに、多少の心得があるが、これは一再ならず僕には有効であったものである。僕がするうっと彼の把握から抜け出ると、彼はもう死に物狂いの金切声を上げながら、ものの数秒間も無茶苦茶に僕を蹴り、それから両手で虚空をつかんだ。しかしそうして彼が、死に物狂いの努力をしたにもかかわらず、身体の平均はますます崩れて、遂に転落してしまったと云う始末さ。僕は断崖の縁から顔をのぞかせて、長い距離を転落してゆくのを眺めた。彼の身体は一度は、大きな岩に打ちつけられ、それから大きく跳ね上りざま、ざんぶと水に落ちて行ってしまったのだ"
],
[
"どこに来たかわかるかね?",
"確にベーカー街だろう"
],
[
"そうだ。俺たちは俺たちの古巣の向いの、カムデンハウスに居るのだ",
"しかしどうしてこんな処に来たのだ?"
],
[
"とにかく似ているかね",
"似ているも何もない、――僕はてっきり君自身と思わされてしまったほどだ",
"そうか、しかしこの成功の栄誉は、グレノーブルの、オスカー・ミュニアー氏に帰すべきものだよ、氏は数日を費して模型してくれたのだ。あれは蝋の半身像だよ。今日の午後、ベーカー街に行っている間の、俺の安息している姿さ",
"それはまたどうしたことなの?",
"うむ? いやワトソン君、実は僕はどこに出ても、常にあの室に居るものとある者に思わしめなければならない、重大な理由があるのだ",
"それではあの室は監視されていると云うのかね?",
"うむ。あの連中はたしかに監視していることを知ったのだ",
"それは一たい誰のことさ?",
"ワトソン君、それは僕の旧怨の者共さ。あのライヘンバッハ瀑布の水底に横わっている屍を主領とする、例のお歴々たちさ。君も知っている通り、あの連中だけが、僕の生存を確認しているのだからね。彼等はいずれ僕の帰還を信じ、不断の監視をなし、しかも今朝は僕の帰還したのを目撃したのだ",
"君はまたそれをどうしてわかったのだね?",
"僕はちらりっと窓の外を見た時に、彼等の見張りを見止めたのだ。その者の名前はパーカーと云い、咽喉を締めて追剥するのが稼業、別に大して害意のある男でもなく、口琴の名手だ。僕はもちろんこんな男は意にも介しないが、しかしその背後には、もっともっと怖ろしい人物が居るのだ。あのモリアーテー教授の腹心の友で、かつて僕に断崖の上から、大石をころがして落した男、――ロンドン中で最も狡智な、そして恐ろしい犯罪者さ。この人間がすなわち、今夜、僕に尾けたのだが、ところがワトソン君面白いことには、その人間がかえってこの俺たちに尾けられていることは知らないのだ"
],
[
"そうです。ホームズさん、職業柄、自分でやって来ました。しかしロンドンにお帰りになったのは、全く御同慶の至りに堪えません",
"いや、君は僕の非公式の助力が要りそうだと思ってさ。レストレード君、何しろ未検挙の殺人事件が一年に三つもあるのではないかね。しかしモルセイの怪事件だけは、日頃の君らしくもなかったね。いや実に見事なお手際だったと云うことさ"
],
[
"小ざかしい悪魔め!",
"はははははは、大佐、――"
],
[
"しかし僕は少なくとも、この人間の嘲笑を、我慢してきいていなければならないと云う理由はないと思う。僕はいずれ、法の適用を受けるのであったら、あくまで合法的にやってもらいたいものだ",
"なるほどそれは当然のことだ。ホームズさん、私達はゆくまではどうぞ、何も仰らないで下さい"
],
[
"僕はあの独逸の盲目の機械師の、フォン・ヘルダーを知っていたが、この銃は彼が、死んだ、モリアーテー教授の注文で、組み立てたものだ。僕も長年の間、この存在には深く注意していたが、しかしついぞ今日まで、これを手にする機会はなかったものだ。レストレード君、この銃とそれからこれに添えた弾丸とは、君の最善の注意に委托しますよ",
"それはもう御安心下さい。ホームズさん、――"
],
[
"まだ何か仰ることがありますか?",
"いや、一たい君はどう云う罪名にしようと云うんだね?",
"どう云う罪名ですって? それはもちろん、シャーロック・ホームズ氏謀殺未遂事件でしょう、――",
"いやいや、レストレード君、僕はこの事件の中には、一切関わりを持ちたくないんだがね。この特筆大書すべき逮捕の名誉は、すべて君に帰すべきものだ。そうだ、レストレード君、僕は君を衷心から祝福する。君の日頃の幸運に賦まれている、巧妙と大胆とは、彼を見事に逮捕することになったのだ",
"彼をですって? ホームズさん、彼をって一たい誰をです?",
"それこそ誰あろう、――あらゆる捜査を、五里霧中に葬り去らせていた、セバスチャン・モラン大佐、――すなわち先月の三十日の夜、レーヌ公園第四百二十七番で、表二階の開いている窓から、柔軟弾を使用した空気銃で、ロナルド・アデイア氏を射殺した、大犯人さ。レストレード君、これがすなわちこの犯人の罪名だよ。さて、それからワトソン君、――もし君が、破れた窓から入る隙間風に我慢が出来るなら、せめて三十分も僕の書斎に上って、一服やってくれたら、また何か一興を供することが出来ると思うんだがね"
],
[
"わたしはあなたから云われた通り、膝で歩いてやりましたわ",
"上出来です。あなたは実によくやって下さいました。あなたは弾丸がどこに飛んだか、御覧になりましたか?",
"え、見ましたわ。弾丸はあなたの美しい半身像を、痛ましく損ねたようでございますよ。弾丸は右から頭部を貫通して、後の壁に当って、平べったくなりましたの。わたしはそれを床敷の上から拾ってここにございますわ"
],
[
"後頭部の中央に正確に的中り、脳を貫通しているよ。彼は印度では第一の名射手であったが、しかしこのロンドンでも、彼の右に出ずる者は、はなはだ少なかろうと思うな。それとも君は誰かきいたことがあるかね?",
"いや、――",
"そうだよ。彼はそれほどに定評者だよ。さてそれからたぶん君は現世紀で最も偉大な頭脳の所有者の一人である、ゼームス・モリアーティ教授の名前を、まだ知らなかったと思うがね。ちょっとその伝記索引を、本棚からとってくれたまえ"
],
[
"これは驚いた。とても立派な軍人の経歴じゃないかね!",
"そうだよ"
],
[
"ある程度までは、彼も精進してるよ。彼は鉄のような神経の持ち主だ。彼には負傷した人食虎を追跡して、下水溝にまで這い下りたと云う逸話が、今でも印度で話題になっているほどなんだよ。木にもある処までは、非常にいい形で伸びて来ながら、急に変な恰好に変化してしもうのがあるが、君、ああしたことはやはり人間の上にもあることなんだね。これは僕の持論なんだが、つまり個性の進展と云うことも要するに、その先祖の一貫した全過程を表現しているもので、また途中で急激に、善悪いずれかの方面に転換するとも、やはり血統の上の、強いある影響が、そうさせるのだと思うよ。つまり云ってみれば、人間と云うものは、それぞれの家庭史の梗概なんだね",
"そうかね、しかしそれはあまりに牽強附会ではないかね"
],
[
"君はまだ、モラン大佐が、どうしてロナルド・アデイア氏を殺害したかと云う動機については、一言も触れないではないか",
"ああそうか、しかしワトソン君、これから先はもうどんなに理論的な推理でも、結局は臆測と云わなければならない世界になるんだがね。まあ双方で、解っているだけのことを基本として、仮説を立ててみよう。そしてお互に訂正し合おうじゃないかね",
"君にはもう出来ているだろう?",
"うむ。いやまあ、事実を想定することも、そう至難なことでもないと思うがね。第一、モラン大佐とアデイア青年とは、その仲間の間で、かなりの金を勝ったと云うことは、もう明かになっているのだ。そこで僕が考えるには、モラン大佐はもちろん不正をやっていたに相違なかったのだ。この事は僕は以前から、気がついていたことであった。それでこのアデイア青年殺害の日は、モラン大佐はアデイア青年に、その不正行為を看破されたに相違ない。そこで実によく想像されることは、アデイア青年は、そーっとモラン大佐に、早速倶楽部員たることを辞し、併せて今後は一切骨牌を手にしないと云うことを条件とし、もしこれを容れない場合は、その不正事実を暴露すると嚇したに相違ないことだ。何しろアデイア青年のような若い者に、その親しく知っている、しかもごく年長の者を、現に誹謗すると云うことは考えられないことだからね。まあおそらくはこの想定は大差無いと思う。しかし倶楽部からの除名と云うことは、その骨牌の不正利得で生活しているモラン大佐にとっては、まさしく身の破滅である。そこでモラン大佐は、アデイア青年が、相手の不正行為のために、誤魔化された利得の計算を、正しく計算し直している時に、殺害してしまったのである。アデイア青年がドアに鍵をかけたのは、夫人たちが闖入して来ないように、――なお更に、自分が書きつけている人々の名前や、貨幣などについて、五月蝿い追求を避けるためであったと思う。以て如件なんだが、さてこれで級第かね?",
"ふむ、なるほど、そう云われれば、ずいぶんよく筋道が立っているね"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第四卷 シヤーロツク・ホームズの歸還」平凡社
1929(昭和4)年10月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方・貴女→あなた 凡ゆる→あらゆる 或る→ある 或→あるい 如何→いか・いかが 些少か→いささか 何れ→いずれ 何時→いつ 愈よ→いよいよ 所謂→いわゆる 於て→おいて 臆らく→おそらく 却って→かえって 且つ→かつ 曾て・曾つて・嘗つて→かつて 可成り→かなり 彼の→かの かも知れ→かもしれ 屹度→きっと 位→くらい 極く→ごく 併し→しかし 而も→しかも 然らば→しからば 屡々→しばしば 随分→ずいぶん 直・直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 凡て→すべて 折角→せっかく 其の→その 多寡が→たかが 多分→たぶん 一寸→ちょっと て居→てい で居→でい て置→てお て居→てお て見→てみ で見→でみ て貰→てもら 何処→どこ 何方→どちら 猶→なお 仲々→なかなか 成る程→なるほど 筈→はず 甚だ→はなはだ 程→ほど 殆んど→ほとんど 先ず→まず 益々→ますます 亦→また 迄→まで 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 以て→もって 尤も→もっとも 矢張り→やはり 漸→ようやく 妾→わたし」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(句点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本中、混在している「モリアーティ」「モリアーテー」、「バカテル」「バガテル」はそのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年11月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"さあワトソン君、ぐうの音が出まいがね",
"いや、全くその通りだ",
"それではね君、とにかくきれいに参ったと云う一札を入れたまえ",
"それはまたどうしてさ?",
"いや、実はもう五分の後には、君はきっと、それは馬鹿馬鹿しくわかり切ったことだと云うに相違ないからだよ",
"いやいや、僕は決して、そんなことは云わないよ",
"ワトソン君、それでは御説明に及ぶとしようかね"
],
[
"先人の研究材料を基本として、それを単純化して、推論の系統を立てると云うことは、決してそう難しいことでもないのだ。そしてもしこう云う試をして、誰かが中心思潮となっている論説を覆して、更にその聴衆に、新な出発点と結論とを与えたら、それはたしかに、キザたっぷりなことではあるが、しかし一つの驚歎すべき結果をもたらしたと云ってよかろう。さて、君の左の人差し指と拇指の間の皮膚の筋を見て、君が採金地の株を買わなかったと云うことが、あまり首をひねりまわさない中に解ったと云うわけさ",
"どうも僕には何の事か解らないね",
"いや誠に御もっとも至極――しかしこれはごく手短に説明することが出来るんだ。ここにそれぞれ取り外れていた、鎖の輪があるからね。第一には、君が昨夜倶楽部から帰って来た時は、君の左の手の指のあたりに、白いチョークがついていたこと。第二には、君が玉を突く時は棒の辷りをよくするために、チョークをつける習慣のあること。第三には、君はサーストン氏との外には、決して玉を突かないこと、――第四には君が四週間前に、サーストン氏は、南アフリカの採金地の株式募集をやっているが、その締切りまでは一ヶ月あるので、君にも加入してくれと云って来たと話したことのあったこと、――第五には、君の小切手帳は、僕の抽斗に入って錠が下りているが、しかし君はその鍵を決して僕に請求しなかったこと、――第六には、君がこのようにして、この株式に申込をしなかったと云うこと、――",
"ははははははは、何と云う馬鹿馬鹿しく解り切ったことだ!"
],
[
"ははははははは、そんなものに見えるのかね!",
"じゃ何なんだね?",
"これは、ノーフォークのリドリング公領のヒルトン・キューピット氏が、しきりに知りたがっていることなんだがね。この謎のような問題は、第一回の郵便配達で来て、その人は二番列車でその後から来ることになっているのだ。ああワトソン君。ベルが鳴っているが、あるいはその人かもしれない――"
],
[
"あなたは大変、奇妙な神秘的なことをお好きでいらっしゃるそうですが、しかしこれはまた一段と、奇妙不可思議なものでしょう。私はあなたが、私が来る前に研究しておかれるようにと思って、前もってお送りしたわけです",
"これはたしかに奇妙なものですな"
],
[
"ちょっと見れば、子供の悪戯画のようにも思われるし、また、紙の上を踊りながらゆく、でたらめな小さな姿の、絵のようでもありますね。一たいこんな変な、得体の知れないものに、どうしてそんな勿体振った意味をつけようと仰有るのですか?",
"いや、私は決してそう云うつもりではないのですが、ただ私の妻が大変なのです。実は妻が全く気絶するほど、これに驚かされたのです。彼の女は何にも云いませんが、しかし私はその目の中に、非常な驚怖を見て取りました。それでそれを穿鑿してみたいと思ったわけです"
],
[
"ヒルトン・キューピットさん、あなたはお手紙の中では、二三具体的なことを書かれてありましたが、しかしこの友人のワトソン博士のために、もう一度一通りお話し下さいませんか",
"どうも私は説明は拙劣いのですが、――"
],
[
"ホームズさん、約束はどこまでも約束ですからね。もしエルシーが、話していいと思うくらいでしたら、彼から話してくれるでしょう。そしてまたもし話したくないことでしたら、私は彼の女に対して強要はしたくはありません。しかしそれと離れても、私には私で取るべき道はあるはずです。そしてそれを私は大にやろうと思うのです",
"いや、そう云うのでしたら、私も全力をつくして御相談に与りましょう。まずお訊ねしますが、この頃からあなたの御近所に、新に来た者があるようなことはお聞きになりませんか?",
"いえ",
"大変閑静なところだろうと思われますが、新顔などが現われて、人々の噂に上るようなことがありますか?",
"えい、そうそうごく近所にありました。しかし私共の近所には、湯治場があるので、よく田舎者共が宿をとります",
"この象形文字は、たしかに意味がありましょう。もし全く出鱈目なものだとすれば、それはもうとても解釈が出来ませんが、しかしこれが組織的なものだとすれば、きっとどうにかして解くことが出来ますよ。しかし何しろこれはひどく短いもので、どうにも仕様が無いし、またあなたが持って来られた事柄も、はなはだ漠然としたことで、考査の基本にはなりませんからね。やはりこれはあなたが、一度ノーフォークにお帰りになって、注意深く監視をして、もう一度この踊り人の姿が現われた時に、正しく写し取った方がいいと思いますがね。先に窓硝子に画かれたものの写しを、見ることの出来ないのははなはだ遺憾ですが、いずれ近所に最近に現われた者に対しても、慎重の注意を向けなさい。そして新な証拠が得られたら、またお出で下さい。これがもうあなたに対しての、僕の最善のお答えです。それでヒルトン・キューピットさん、もし何か新な展開がありましたら、その時は私はいつでも早速出発して、ノーフォークのお宅でお目にかかりましょう"
],
[
"ワトソン君、出ないでいる方がよかろうと思われるんだがね",
"なぜ?",
"今朝ヒルトン・キューピットから電報が来たのだ。そらあの舞踏人形のヒルトン・キューピットを知っているだろう。彼は一時二十分にリバプール街に着くと云っているのだ。で、もうやがてここに見えるだろうと思うのさ。その電報を綜合すると、どうも何か重大な新らしい出来事があったように思われるのだ"
],
[
"どうでしょう、――自分の周囲に未知の未見の人間が、何か策動していて、しかもその上に妻がもう一寸刻みに、殺されてゆくと考えては、とても我慢が出来ませんでしょう? いやこれこそ全く生きた気持はありませんよ。いや私の妻は刻々に、弱っていきます。もう刻々に弱って私の前から消えてしまいそうなんです",
"奥さんは何も仰有いませんか?",
"いえ、何も云いません。しかし彼の女は、云おうとしたこともあったようでしたが、やはり遂に云い出し得ませんでした。私は妻を助けようとしました。しかし私はまずかったので結局彼の女を怖れすくませてしまうだけでした。彼の女は私の古い家庭のこと、私の家庭の地方においての名聞、またその汚れない名誉と云ったようなものについて、言葉を触れさせることもありましたが、その時は私は、いよいよ大切な要点にゆくのだと思うと、もうその中に、話は外に外れてしまうのでした",
"しかしあなた御自分で、気のついたものはありませんでしたか?",
"いやホームズさん、それはたくさんあります、私はぜひあなたにお目にかけたい、新な舞踏人の絵を持って来ました。そして更に重大なことは、私はある者を見たのです",
"ある者を、――それはその絵を画いた当人ですか?",
"そうです。私はその者が画いているところを見ました。いやとにかく、最初こう順序を立てて申しましょう。私がこの前にお訪ねして帰ってからまず、次の朝に新な舞踏人の絵を見たのでした。それは芝生の横にある、物置の真黒い扉の上に、白墨で画かれたものでしたが、私のところの正面の窓から目に止まったのでした。私はそれを正確に写し取って来ましたが、これがそれです"
],
[
"その新らしいのも写し取りましたか?",
"えい、とても短いものですが、これです"
],
[
"これは最初ののに、ただ附けたしに画かれてありましたか、それとも全く別のものに離して画かれてありましたか?",
"これは扉の別の鏡板にかかれてありました",
"素敵だ! これは我々にとっては、最も重要なものだ。これではなはだ有望になった。さてヒルトン・キューピットさん、とても面白いですが、その先を云って下さい",
"ホームズさん、もう何も云うことはないのですが、――ただ私は、その夜妻が、私が悪漢をつかまえるために、飛び出るのを引き止めたことについて怒りました。そうすると妻は、私が怪我をしてはいけないと思ったからと云いわけするのでした。しばしの間は私に、妻はその者の何者であるかを知っていて、またその変な相図もわかっていて、彼の女の案じているのは、私ではなく、向うの者の怪我であると云うことが、閃きましたが、しかしまたよく考え直してみると、ホームズさん、彼の女の声の調子にも、また目の色にも、この疑念をかき消させるものがありました。それで私はやはり、彼の女が本当に心配したのは、私自身の身であったのだと考えるのです。これでもう話は終りました、が、さてどうすればよろしいのか、これに対する方法を教えていただきたいのですが。――まあ私の考えとしては、百姓の若者共を五六人も待ち伏せさせておいて、その者が出て来た時に、したたか打ちのめして、以後私共に近寄れないようにしようかとも思っていますが、――",
"いや、そんな簡単なことで、収りのつくことではないでしょう"
],
[
"一たいあなたはどのくらい、ロンドンに滞在することが出来ますか?",
"私は今日中には、帰宅しなければなりません。私はどんなことがあっても、妻を一人で夜を暮させることは出来ません。彼の女はもう非常に神経質になっていて、どうしても僕に帰宅するようにと云うのです",
"いや、それは御もっともです。しかしもしあなたが、滞在しておられるなら、一両日中にはあなたと一緒に出かけることが出来ると思いますが、――とにかく、この紙は置いて行って下さい。私はごく最近にお訪ねして、この事件に対しては、多少の吉報を齎すことが出来ると思いますから、――"
],
[
"どうしてそう思うのです?",
"いえ実はじき今し方、検察官のマーチンさんが、ノーアウィッチから来て、ここを通過して行ったばかりなのです。しかしあるいはあなた方は、外科医でいらっしゃるかもしれない。――彼の女はまだ死にませんよ。いやさっききいた容子では、たしかにまだ死なないとのことでしたがね。あなた方は間に合うでしょう。――もっともどうせ絞首台にゆくことですがね"
],
[
"これはまた、ホームズ先生、――犯罪は今朝の三時に行われたばかりなのですが、ロンドンで、どうしてこんなに早くお聞きになったのですか? 私と同時にこの現場にお出でになると云うことには全く驚きました",
"私はこのことを予想したのでした。実はそれを防止するためにやって来たのでしたが",
"それではあなたは、われわれの知らない、重大な証拠をお持ちになっていられるでしょう、――彼らは大変琴瑟相和した夫婦だったと云うことですがね、――",
"私はただあの舞踏人の話を知っているだけなんですが、――"
],
[
"いずれ後刻、そのことはお話しましょう。いずれにしても、もう手遅れしてしまいましたが、しかし僕は、多少持ち合せている智識を、この事件の解決のために、出来るだけ提供し、利用したい希望なのですが、あなたはこの事件の調査については、私と協同して下さいますか、、またそれとも別々に行動しましょうか?",
"いえホームズ先生、協力してやらせて下されば光栄の至りですが、――"
],
[
"いいえ、奥さんの外は、何も動かしません。怪我をしている者だけは、そのまま床の上に放っておくわけにはゆきませんからな",
"あなたはいつ頃ここに来られました?",
"四時でした",
"外に誰かいましたか?",
"巡査が来ています",
"では何にも手を触れないわけですな?",
"えい、決して、――",
"なかなか慎重におやりになりましたな。誰があなたをお迎えにゆきました?",
"女中のサウンダーでした",
"最初に見つけたのはその女だったのですか?",
"その女とそれから、料理女のキングさんと云うのと二人だそうです",
"その人たちはどこにいますか?",
"たぶん台所にいるでしょう",
"そう、それでは早速、その人たちからきいてみよう"
],
[
"何しろ非常な大手術をしなければなりませんな。しかし実弾は四発ありますから、二発で二人が撃たれ、弾丸の勘定はよく合いますがな",
"そう思いますか?"
],
[
"どうしてあんなものに目が止まったのですか?",
"いや私は探していたのです",
"これは怖ろしい!"
],
[
"いや確に仰せの通りに相違ありません。それでは、第三弾が発射されてるわけですから、第三者がいなければならないわけですな。しかしそうしたら、どんな者がここに現われて、そしてどうして遁げ出したのでしょう?",
"そのことがすなわち、これからの我々の問題ですがね"
],
[
"ね――検察官のマーティンさん、女中たちは室を出るや否や、火薬の臭がしたと云った時に私はそれはとても重要なことだと云ったでしょう?",
"えい、たしかに仰有いました。しかし私は正直のところ、あまりそれに同感も感じていませんでした",
"このことはつまり、発射された時には、室のドアも窓も開いていたのだと云うことを暗示しているのです。もしそうでないとしたら、そんなに早く、火薬の臭が家中に、ただよい渡るはずはないからね。それにはどうしても一陣の隙間風を必要とする。ドアも窓も、ほんのちょっとの間開かれたのだ",
"それはどうして証明なさいますか?",
"ローソクが傾いてへっていなかったから、――",
"ああこれは敵わない!"
],
[
"ああ、大したものだ!",
"この悲劇の時は、窓は開いていたと云うことを認めてみると、この事件には第三者があって、その開いていた窓を通して、窓の外から射撃したに相違ないと云うことが考えられる。それからその者を撃った弾丸のどれかは窓縁に当ったに相違ない。私は見渡したら果して、弾痕があった!",
"しかしそうしたとしたら、窓が閉められて、しかも内側からしっかりと締めつけられたのはどう云うわけでしょう?",
"女と云うものは、本能的に窓を閉めて、しかも締めつけるものではないですかね。ああ、おやおや、――これは何だろう?"
],
[
"さて今度はこの第三弾の正体をつき止めなければならないことになった、――もっともこれは木の裂け具合から見て、明かに内側から発射されたものだが、――さて料理女のキングさんにちょっとききたいが、あのキングさんあんたは、とても高い爆音に目をさまされたと云ったが、これは最初の一弾が、次の爆音よりも大きかったと云うことかね?",
"はあ、左様でございます。わたしはその音で、目を醒ましたのでございましたが、どうもはっきりとはいたしませんが、とにかく大変大きな音でございました",
"君は一度に二発うたれたのだと云うようには感ぜられなかったかね?",
"さあ、それははっきりとは申し上げられないんでございますが――",
"しかしそれはきっとそうだったろう。さて検察官のマーティンさん、もうこの室で調査することは、全く尽きてしまったと思われるが、何でしたら今度は庭の方を歩きまわって、新たな証拠をさがそうじゃないかね"
],
[
"いやその事はいずれ後にしましょう。実はこの問題には、まだあなたにはっきりと説明しかねることが二三点あるんですがね。とにかくここまで来たのですから、僕はこの上もひた押しに押し切った方がいいと思われるのです。それから全部を明瞭に発表しましょう",
"犯人があがるまでは、ホームズ先生、あなたの御自由におやり下さい",
"いや別に秘密主義でゆこうと云う意味でもないのですが、いずれ事件の進行中に、長い込み入った説明をすることは難かしいことですからね。まあ僕はこの事件のすべての鍵は持っています。もし夫人が遂に意識を回復しなくっても、この事件は明瞭にすることが出来ますよ。まず第一に、この近所に、エルライジと云う名前で通っている旅館があるかどうか、確かめたいものだがね"
],
[
"そこはとても人里離れた農場かね?",
"えい、とても寂しいところです",
"どうだろう、――そこの人達は、まだここの事件について知らないだろうか?",
"さあ、たぶんまだきこえてはいないだろうと思いますが、――"
],
[
"失礼して卒直に申しますが、あなたはあなた御自身が御満足なさればおよろしいのですが、私は上官に対して、私の職責を全うしなければなりません。それでもしそのエルライジにいる、アベイ・スラネーなる者が、本当に下手人であるとすれば、私がこうしている中に、逃亡でもしてしまうと、とても大問題になりますが、――",
"いや御心配はいらない、――彼は逃亡などはおそらくしないから、――",
"どうしてそう仰有います?",
"逃亡することはもう、犯罪を自白していることだからね",
"それでは逮捕に向おうではございませんか?",
"いや、もうじきにここに来る",
"ではどうしてここになぞ来るのでしょう?",
"さっき手紙を書いて、招んでやったから、――",
"いやホームズ先生、それはちょっと当にはなりますまい。あなたがお招びになったって、その者は来ると云うわけはございますまい。それどころかかえって、感づいて逃亡することになりはしませんでしょうか?",
"いや私も、その手紙のこしらえ方は知っているつもりだがね"
],
[
"いや各々方、なかなかうまく、仕組んだと云うわけですか、――これはとんだ災難に遭ったものだ。しかし僕はヒルトン・キューピット夫人の手紙に答えるために来たのです。夫人はここに居るかどうか、教えてくれないですか? 夫人は僕を陥れることに与ったのですか?",
"ヒルトン・キューピット夫人は、瀕死の重傷を負うているのだよ"
],
[
"負傷したのはヒルトン・キューピットで、彼の女のはずはない。誰があの可愛いエルシーなどを傷つけるものか! 私は彼の女を威かしはしたかもしれないが、それは神様もお許し下さろう。――しかし私は彼の女の美しい頭の、髪の毛一本にさえも触れはしないのだ。さあそれを取り消しなさい。彼の女は決して負傷しないと云って下さい!",
"彼の女は死んだ夫の側に、ひどく怪我をしているのを発見されたのだ"
],
[
"もし私が彼を撃ったと云うなら、彼もまた私を撃っているのです。ここに殺人罪はありません。またもしあなた方が、私があの女を撃ったのだとお思いになるなら、それはあなた方が、私とあの女とをよく知らないからです。私は断言して憚りませんが、私はいかなる男性の愛情よりも、彼の女を深く愛していました。私は彼の女に対しては、権利を持っています。私達は数年前に、それぞれ誓った間柄です。それだのに我々の間に入って来た英国人などは、全くどこの馬の骨でしょう? 私は断言しますが、私こそは彼の女に対して、第一の優先権を持っている者で、ただ私はその正統の権利を要求しただけです",
"夫人は君のそう云う人となりを知ったので、君の把握から遁げ出したのだ"
],
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"夫人は君を避けるために亜米利加から遁げ出して、英国の立派な紳士と結婚したのだ。それに君は未練がましくも追かけて来て、彼の女にその敬愛する夫を捨てて、憎悪し恐怖している君と、遁げ出すことを強迫したので、彼の女は、不幸極まるものになってしまったのだ。君も一人の貴人を殺し、しかしてその妻を自殺させて、もうそれで万事休矣というものさ。君のお手柄の一切はこれだけだが、さてアベー・スラネー君、この上はただ法の適用を受けるだけさ",
"もしエルシーが死ぬなら、そりゃもうこの身体などは、どうなったっておかまいなしだ"
],
[
"君をここに来させるために、僕が書いたのだ",
"あなたが書きましたって? この世界中でわれわれの仲間の外は、誰もこの舞踏人の秘密を解るものが無いのですよ。どうしてあなたなどが書けるものですか?",
"君、誰かが案出したものとすれば、また誰かがそれを解くことが出来るさ"
],
[
"さてスラネー君、君をノーアウッドに、連れてゆく馬車が来た。しかしまだ、君の悪業に対して、多少の罪滅しをする時間はある。君は気がついているかどうか、――実はヒルトン・キューピット夫人は、夫君の殺害に対して、非常に重大な嫌疑を受けていたのだが、幸いに僕が現われて、たまたま持ち合せていた智識で、夫人は告発されることを免れることとなったのだ。それで君の夫人に対する、最後の償として、夫人はこの大悲惨事に対しては、直接にも間接にも、全然責任はないものであると云うことを、全世界に明瞭にしたまえ",
"もうどうにでもなるがよい"
],
[
"えい一そのこと、何もかも有りのままにさらけ出してしまいましょう",
"そうだ。それが一番君のためなのだ。本職もそれを君にすすめる"
],
[
"さあ行こう、――",
"ちょっと彼の女に逢わせて下さいませんでしょうか?",
"いや、夫人はまだ意識が回復しないのだ。シャーロック・ホームズ先生、――何卒この後も重大事件が突発した時は、よろしく御助力下さいますよう、幾重にもお願い申します"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第四卷 シヤーロツク・ホームズの歸還」平凡社
1929(昭和4)年10月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 汎ゆる→あらゆる 或る→ある 或→あるい 如何→いか 聊か→いささか 何時→いつ 一層→いっそう 愈→いよいよ 何れ→いずれ 於て→おいて 却って→かえって 可成り→かなり かも知れ→かもしれ 屹度→きっと 位→くらい 極く→ごく 此→この 併し→しかし 而も→しかも 直・直き→じき 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 凡て→すべて 是非→ぜひ 其処→そこ 其の→その 沢山→たくさん 唯→ただ 度々→たびたび 多分→たぶん 丁度・恰度→ちょうど 一寸→ちょっと (て)居→い・お (て)置→お (て)見→み (て)貰→もら 何処→どこ 何方→どちら 仲々→なかなか 何故→なぜ 成る程→なるほど 計り・許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 不図→ふと 程→ほど 殆んど→ほとんど 略々→ほぼ 先ず→まず 亦→また 間もなく→まもなく 見す見す→みすみす 若し→もし 勿論→もちろん 以って→もって 尤も→もっとも 矢庭に→やにわに 矢張り→やはり 漸く→ようやく 宜しい→よろしい 妾→わたし」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本中、混在している「マーティン」「マーチン」「マーテン」は、そのままにしました。
※原作品では、図版のミスにより暗号の解読が困難なものになっています。この底本はその誤りを「図4」「図7」において踏襲しておりますが、原作および底本を尊重し、そのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(前田一貴)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年6月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045340",
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"原題": "THE ADVENTURE OF THE DANCING MEN",
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"分類番号": "NDC K933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2005-07-24T00:00:00",
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"姓読み": "ドイル",
"名読み": "アーサー・コナン",
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"名読みソート用": "ああさあこなん",
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"名ローマ字": "Arthur Conan",
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[
[
"君に会えて嬉しいよ。――君は例の『四つの暗号』事件以来、からだはすっかりいいんだろう?",
"有難う。――お蔭さまで二人とも丈夫だよ"
],
[
"医者の仕事に本気になりすぎて、僕たちの推理的探偵問題に持っていた君の興味が、全然なくなっちまわないとなお結構なんだけれどね……",
"ところがその反対なんだよ"
],
[
"つい昨夜、僕は古いノートを引っぱり出して調べて、やって来た仕事を分類したばかりなんだよ",
"今までを最後にして、君の蒐集を分類してもう仕事を止めちまおうと思ったわけじゃないんだろうね",
"全然そうじゃないさ。それどころか、もっといろいろな経験を積みたいと思ってるくらいだもの。僕にはそれ以上に望ましいことは何もないよ",
"じゃ、きょうからでも、すぐ仕事にかかってくれるかい?",
"やるとも。きょうからでも、君が必要だと云うなら……",
"遠くってもいいかい? バーミングハムなんだ",
"いいとも。君がそこへ行けと云うなら",
"けれども商売のほうはどうする?",
"隣の家に住んでる男がどこかへ出かける時はいつも僕が留守を預かってやっていたから、その代り僕が留守をする時は、その男が代りをしてくれることになってるんだ",
"ハハア、そりア至極好都合だ"
],
[
"君は最近風邪をひいたらしいね。――夏の風邪って云う奴はどうもいかんね",
"先週三日ばかり、馬鹿に寒気がしてね、家に閉じこめられちまったよ。けれどもうすっかりいいつもりなんだ",
"そうらしいね。丈夫そうに見えるよ",
"けれど、どうして僕が最近風邪をひいたって云うことが分かったんだい?",
"君は、いつもの僕のやり方を知ってるじゃないか",
"じゃ、やっぱり推定したんだね",
"無論さ",
"じゃ、何から?",
"君のスリッパから……"
],
[
"原因の分らない結果と云う奴のほうが、実際深く印象されるからね。――それはそうと、君はバーミングハムへ来てくれられるんだね?",
"無論行くとも。――どんな事件なんだい?",
"汽車の中で話すよ。――この事件の依頼人が表の四輪馬車の中にいるから。すぐいかれるかい?",
"ああ、すぐ"
],
[
"ああ、そうだ。僕と同じように、医院を買ったんだ",
"だいぶ古くからあった医院だったのかい?",
"僕が買った医院と同時に開かれたものだ。家が建てられて以来、ずっと二軒とも医院だったらしい",
"ハハア、すると君はそのうちではやるほうを買ったんだね",
"ああ、そうしたつもりなんだ。けれどどうしてそれが分かる?",
"玄関の階段を見れば分かるさ、君。君の家のは隣ののよりは三インチも余計にへってるもの。――ところで馬車の中にいる男は、依頼人のホール・ピイクロフトと云う男だがね、今、君を紹介するから。――オイ、馭者君、汽車にカチカチに間に合うくらいしか時間がないから、いそいで飛ばしてくれ"
],
[
"最近までコクソン・ウッドハウスの店にいらっしゃいましたか?",
"ええ、おりました",
"で、ただいまは、モウソンの所に?",
"そうです",
"ああそうですか"
],
[
"ええ、毎朝、株式取引の高低表は見ております",
"そうだ、それが本当の適不適を示してくれる"
],
[
"これが一番いい方法だ。――あなたを試験するようなことをしても気にしないで、私にやらせて下さい、ね。――アイルシャイアーの株はどのくらいですか?",
"百五磅から百五磅四分ノ一まで",
"では、ニュウジーランド国庫公債は?",
"百四磅",
"ブリティッシ・ブローラン・ヒルは?",
"七磅から七磅六まで",
"素適だ!"
],
[
"世間の人はあなたが考えるようには、私を買い被ってくれませんよ。ピナーさん。――私はこの地位を得るのにずいぶん苦労したんですから、私はこの職にありつけたのを喜んでおりますよ",
"馬鹿な、世間の人、こんなものからは超越すべきですね。あなたはあなたの真価に応しい位置にはいませんよ。――そこで私はあなたに御相談があるんですが、私と一しょに仕事をしていただきたいと思って。――そりア私があなたについていただきたいと思ってる地位だって、あなたの才能に比しては不充分なものなんですけれど、でもモウソンの所の地位と較べたら、暗と光ほどの相違です。まあ、お話しましょう。――あなたはいつモウソンの所へいらっしゃいますか?",
"月曜日です",
"ハッハッ!――あなたはあそこへは断じていらっしゃいませんよ。賭をしてもいいと思いますね",
"モウソンの所へいかないって?",
"そうですよ。――その日までに、あなたはフランス中部鉄器株式会社の営業支配人におなりになるでしょう。その会社はフランスの町や村に百三十四の支店と、その他に、ブラッセルに一つとサン・レモに一つ支店を持っています"
],
[
"そりア、話をきこうわけはありません。それは非常に秘密にされたんです。なぜなら資本家がみんな匿名だったからですが、しかし公にしたほうがいいんです。――私の兄弟のハリー・ピナーは発企人なんですが、選挙の結果、専務取締として評議員に加わっています。彼は私がこちらへやって来ることを知ってたものですから、私に申しました。不遇な才能ある人間を抜擢して来てくれとね。――元気のいい前途有望な若い人をね。――あなたのことはパーカーが話してくれたんです。そして今夜こちらへつれて来てくれた人です。私たちは初任給として、あなたに五百磅さし上げることが出来るにすぎませんが――",
"五百磅、一年に!"
],
[
"それは最初だけの話です。しかしあなたの周旋でされた取引に対してはすべて、一パーセントの過勤割戻しをとることが出来るんです。そして正直の所、これがあなたの俸給より多くなることは受合いです",
"けれど私は鉄器類のことについては何も知りませんよ",
"しようがないな、君は。――形は分かるでしょう"
],
[
"モウソンは私に二百磅くれるだけです。けれどモウソンのほうは確かなんです。が、真実の所、私はあなたの会社についてはほとんど知らないのですからね、――",
"ああ、あなたは実にきびきびしている!"
],
[
"あなたは私たちがほしいと思ってた通りの方です。それ以上おっしゃらなくても、ちゃんと分かっています。さあ、ここに百磅の小切手があります。――もしあなたが私達の仕事をしようとお思いになったら、これを給料の前渡し分としてお納めになって下さい",
"分かりました。大変結構なお話です"
],
[
"で、いつから私は仕事にかかったらいいんでしょう?",
"すぐに明日、バーミングハムへいってもらいたいんです"
],
[
"ポケットの中へ、私は手紙を持って来てますから、それを私の兄弟の所へ持って行って下さい。コーポレーション街一二六番地ですから、分かります。そこに会社の仮事務所があるんです。――もちろん、あなたとのお約束は彼が確実に取きめてくれるでしょうが、しかし私たちの間にはちゃんと話がしてあるんですから……",
"本当に、私は、あなたにどう云ってお礼を申上げたらいいか分かりません。ピナーさん"
],
[
"もう生涯あいつん所へは行くものか。どんな点から云ったって、何故私は彼に気兼ねをしなくちゃならないでしょう。――私は何も云ってやりますまい。あなたがそうすることに賛成して下さるなら",
"賛成! じゃ、お約束しましたよ"
],
[
"ああ、そうですか。私はあなたをお待ちしてたんです。けれどあなたのほうがお約束の時間より少し早くいらっしったんです。――けさは、私の兄弟から手紙を貰らいましてね、兄弟はその手紙の中で大変あなたのことをほめておりましたよ",
"あなたがいらしった時、ちょうど、事務所をさがしてたんです",
"まだ名前を出しとかないもので。先週からここへ仮事務所をおくことにきめたばかりだものですからね。――一しょにおいでになって下さい。お話致しましょう"
],
[
"だが、私の兄弟は本当に鋭い批判家です。――私の兄弟はあなたとロンドンでお約束をしたんで、私はバーミングハムでするわけなんですが、しかし今度は、彼の云う通りに従いましょう。――では、どうぞそのおつもりで、お願いします",
"私の仕事はどんなことなんでしょう?"
],
[
"つまり、フランスにある百三十四軒の代理店へ、英国製の器具を送り出す所のパリの本店を支配して下さればいいんですよ。取引きの約束は一週間のうちにきまりますから、その間あなたはバーミングハムにいて下すって、あなたの仕事をしていて下さればいいんです",
"と云いますと、どんなことをしたら?"
],
[
"名前の下に職業が書き込んであります。これをお宅へお持ちになって、この中にある鉄器商を全部住所と共に書き抜いていただきたいんです。そうして下されば、私たちに非常に役に立つんです",
"かしこまりました。この中に分類目録がありますね"
],
[
"思ったより仕事がむずかしかったかと恐れてた所です。この表は実によい私の助手になってくれますよ",
"だいぶひまがかかって……"
],
[
"家具商の表をつくっていただきたいんです。家具商もみんな鉄具類を売りますからね",
"よろしゅうございます",
"それから明日の夕方七時にいらしって下さい。そしてどのくらい仕事をなすったか私に見せていただきとうございます。――労働過度にならないように。夕方二時間ばかりミュジック・ホールへいらっしゃるのは、一日働いたあとに害にはなりませんよ"
],
[
"これには僕を喜ばせる点があるよ。君も賛成するだろう。二人でアーサー・ハリー・ピナー氏に、そのフランス中部鉄器株式会社の仮事務所で会見することは、むしろ我々に興味のある経験だと云うことに",
"しかしどうしたら会えるだろう?"
],
[
"あなた二人は職をさがしている私の友達で、何かに使ってもらおうと思って専務取締役に引き合せるためにつれて来た、と云うこれより自然な方法はないでしょう?",
"もちろん、そうだ!"
],
[
"明かに、彼は私に合うだけにあそこへ来るんです。なぜって、時間が来るまでは、事務所はガラ空きになってるって、彼が言明してますもの",
"何か曰くがありそうだな"
],
[
"あなたが連れて来たその方たちはどなたですか?",
"一人はハリス君と云ってバーモンドセイのもので、もう一人のほうはプライス君と云うこの町のものです"
],
[
"みんな私の友人で、経験もある者たちなんですが、しばらく失業してるんです。そんなわけで、もしかしたらあなたに、会社の空席へ雇っていただけはしないだろうか、と二人は希望してるわけなんです",
"幾らでも出来るとも!"
],
[
"よござんす。確かに、何かあなたがたのためにお計らい出来ると思います。――ハリスさん、あなたの御専問はなんです?",
"私は会計師でございます"
],
[
"ああ、なるほど。私たちはそんな方も何か入要でしょう。それからあなた。プライスさんは?",
"事務員です"
],
[
"気づかれて逃げられたかな?",
"逃げられませんよ"
],
[
"どうして?",
"あのドアは、中の部屋へ行く口なんです",
"そこに出口はないの?",
"ありません",
"その部屋は飾つけがしてありますか?",
"昨日はからっぽでした",
"そうとすれば、一体、何をすることが出来るだろう? どうも私に了解出来ない何ものかがある。――もし恐怖の余り気を変にしたものがあったとしたら、それはピナー自身だ。何が彼奴をこわがらせたんだろうね?",
"僕たちが探偵だと云うことに感づいたんだよ"
],
[
"そして実は、巡査が来たら、終りになったこの事件をこのまま向うへ引渡してしまいたいと思ってるんだけれどね",
"私には忌わしい謎だ。――何の目的で、あいつ等は私をわざわざここまで連れ出したんだろう。そしてそれから――"
],
[
"分からないのは、この最後の急な自殺騒ぎです",
"じゃ、他のことはみんなお分かりになってるんですね",
"極めて明瞭に分ってるつもりです。君の意見はどうかね、ワトソン?"
],
[
"そうかね。だが、最初に、事件をよく注意して見れば、解決はただ一点に帰着するだけだよ",
"君はどんな風に解決したんだい?",
"いいかね、この事件のすべては、二つの点が中心となっている。第一の点は、ピイクロフトがこの盛大なる結構な会社の職にありつく時、宣誓書を書かされたと云うことだ。――君は、そこが実に怪しいとは思わないかね",
"どうもよく分からないね",
"じゃ、なぜあいつ等は、ピイクロフトにそんなものを書かせたんだろう?――それは事務的な目的ではない。なぜなら普通これらの約束は言葉だけでやってるんだから。とすれば何か他に目的がない限り、事務の上ではそんなことをする理由は絶対にないんだ。――ね、ピイクロフト君、お分かりになりませんか? あいつ等はあなたの手跡の雛形をとりたいと苦心していたので、あの時、あなたにそうさせるより他に方法がなかったのだと云うことが、――",
"だが、なぜそんなものがほしかったのでしょう?",
"そこです。なぜ? それにお答えすれば、この事件の解決も少し進むわけなのです。なぜそれがほしかったか? それにはうなずける理由はただ一つしかありません。誰かがあなたの手跡の真似をするために習おうと思ったのです。そしてそのためには、まずその見本をせしめなければならなかったのです。そこで第二の点に行くわけですが、そうなればこの二つの点が、お互いに重大な関係を保ち合ってると云うことが分かるんです。――第二の点と云うのは、あなたに辞表を出させないで、しかも有望なこの堂々たる商売の支配人と云う地位をそのまま手もふれずに残させるようにした、ピナーの要求です。ピナーから云えば、その支配人と云う地位は、彼が会ったこともない、ホール・ピイクロフトと云う人間が、月曜日の朝から来ることになっていたのです",
"ああ神様よ"
],
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"私は何と云う盲目野郎だったんだろう!",
"これであなたは、その手跡のことを想像してごらんなさい。何者かがあなたの代りになって、あなたがとっておいた就職口に行くのです。無論、たくらみはうまく行くでしょう。その男はあなたとは似てもつかない字をかくのです。しかしその悪漢は、ひまひまにあなたの字の真似を習います。そしてそのために彼の位置は安全になります。少くもその事務所に誰一人、前にあなたを見たものがいないかぎりは",
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],
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"まったくですよ。――もちろん、あなたに、あなたが得た就職口をよく思わせないようにすることが、非常に大切なことだったんです。それからまた、あなたが誰か、モウソン事務所であなたの名をかたってる奴があなたの代りに働いていると云うことを、あなたに話すような男と寄りさわらないようにすることも。そこであいつ等は、あなたに給料の前払いをして、バーミングへ追っ払ったんです。そうしてあなたがロンドンへ行かないように、そこであなたに仕事をやらせたわけです。けれどあなたは彼等のたくらみを見破ることが出来たんです。――からくりの全部はこうなんですよ",
"けれどなんだってこの男は、兄弟に化けたりなんかする必要があったんでしょう?",
"なるほど、それは分かりきってますよ。この事件には、判然と、人間は二人いるきりです。一方では、モーソンの事務所で、あなたの代りになっています。それからこっちのほうでは、あなたの雇主として活躍したわけです。ところが、あなたを雇うのに、誰か第三者を彼のこの計画の中に入れて、その人にあなたを推薦させないでは工合が悪るかったのです。けれど第三者を中に入れることは、いやだったんですよ。そこで彼は出来るだけ自分の容貌をかえたんですね、そしてそれでもまだ似ている所は、あなたも見破れなかったように、兄弟だから似ているのだと云うように思わせてしまったのです。しかし不幸なことに、金の入れ歯で、あなたに疑いを起されたのです"
],
[
"私がこんな馬鹿を見ている間に、もう一人のホール・ピイクロフトはモウソンの事務所で働いていたんだ! ホームズさん、私たちはどうしましょう。どうか話して下さい",
"モウソンの所へ手紙をやるのですね",
"土曜日は十二時に店をしめちまうんです",
"大丈夫です、誰か門番かでなければ留守番がいるでしょう――",
"ええいます。――いろんな株券だとか保証金だとかがありますから、いつも番人がおいてあります。そんなことをちょっと耳にしてたように記憶してます",
"好都合だ。モウソンに手紙をやりましょう。そして変り事はないか、またあなたの名前を使ってる事務員がそこで働いているかどうかきき合せましょう。それでこの事はハッキリします。けれどハッキリしないのは、なぜこの悪漢が、私たちを見た瞬間部屋から逃げ出していって、首をくくったかと云うことです",
"新聞"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
1930(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 貴方→あなた 或→ある 如何→いか 一旦→いったん 於て→おいて 於ける→おける 位→くらい 極→ごく 而して→しかして 随分→ずいぶん 即ち→すなわち それ所か→それどころか 大分→だいぶ 沢山→たくさん 只今→ただいま 多分→たぶん 給え→たまえ 丁度→ちょうど て戴→ていただ て見→てみ て貰→てもら 所が→ところが 所で→ところで 尚→なお 乍ら→ながら 成程・なる程→なるほど 憎い→にくい 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦→また 迄→まで 寧ろ→むしろ 勿論→もちろん 漸く→ようやく 余程→よほど 僅か→わずか」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年9月21日作成
2005年12月17日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043497",
"作品名": "株式仲買店々員",
"作品名読み": "かぶしきなかがいてんてんいん",
"ソート用読み": "かふしきなかかいてんてんいん",
"副題": "",
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"原題": "The Stock-broker's Clerk",
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"分類番号": "NDC K933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-10-06T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"人物ID": "000009",
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"名": "アーサー・コナン",
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"底本名1": "世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶",
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[
[
"それで、そのお客さまは帰っちまったのか?",
"ええ",
"中へ這入ってお待ちするようには言わなかったのかね?",
"いえ、中へお通ししたんです",
"どのくらい待ってたのかね"
],
[
"こりゃアちょっと厄介だね、ねえワトソン君。どうもよほどむずかしい事件らしいよ。訪ねて来たと云う男がイライラしていたと云うことから推察しても、重大な事らしいね。――オヤ、テーブルの上にあるパイプは君のじゃないだろう。今来た男が置き忘れていったに違いないな。こりゃよく使いこんである。煙草吸いが琥珀と云っているものだが、これはなかなか上等な品だ。僕はそう思うんだが、ホン物の琥珀のパイプが、いくつロンドンにあるかね。なかには、『琥珀の中の蝿』がホン物のしるしだと思っているものもあるようだけれどもしかし贋物の琥珀の中には贋物の蝿を入れとくくらいのことは、商売の常識だからね。――しかしそれはそれとしといて、今来た男はよほど気が顛到していたに違いないな。何しろ大切にしていたに違いないパイプをおき忘れてくくらいなんだから……",
"君にはどうしてそのパイプを大切にしてたってことが分るんだい?"
],
[
"そりゃ分るよ。そのパイプは買った時は七シルリングくらいしたろう。けれど君にも分るようにそれから二度修繕してあるね。一度は木の所を、一度は琥珀の所を。――しかもホラご覧の通り両方とも銀で修繕してあるだろう。だからパイプの値段は買った時より遥かに高くなっているよ。それに人間って奴は、同じ金を払って新しいものを買うより、むしろ修繕したりなんかしたパイプのほうをずっと大切にするものだからね",
"それから?"
],
[
"よし半分の値段の煙草を吸ったとしても、贅沢だ",
"なるほど。それから……?",
"この男は煙草の火をランプやガスでつけてたようだね。その片がわがすっかりコゲてるのが分るだろう。マッチじゃこんな風にはならないよ。マッチの火じゃパイプのへりは焼けないからね。しかしランプではどうしたって穴をこがさずにはつけられないよ。しかもこいつは右側がこげている。そこで僕はこの男が左利きだと推察したんだ。――君のパイプをランプの所へ持ってってみたまえ。右の手でだよ、すると自然にパイプの左側が穴にあたるようになるから。けれどその反対にすると、それと同じようにゃいかないから。つまりこれを始終やってたんだね。――それからこの男は琥珀の所を噛みつぶしている。それは体格のいい勢力家がよくやるし、また歯の丈夫な人がよくやることだよ。――オット、奴さんたしかに階段を登って来るらしいぞ、さあこうなるとパイプの詮議立てなんかしているより面白くなるて……"
],
[
"それが労働よりも歓楽よりも一番からだにこたえますよ。――何か私で出来ることがあったらご遠慮なくおっしゃって下さい",
"あなたに相談にのっていただきたいんです。私は途方に暮ているんです。私の生涯は滅茶滅茶になろうとしているんです",
"あなたは私を探偵顧問にお雇いになりたいんですか?",
"それだけじゃアありません。世界的な人物のあなたに、――頭のすぐれているあなたに判断していただきたいんです。これからどうすべきか云っていただきたいんです。そうしていただければ私はあなたをおがみます"
],
[
"二人の男と関係した人妻の品行の善悪をきめるってえことは、恐ろしいことです。しかもその男と私はまだ会ったことがないんです。それなのにそうしなければならないってことは、恐ろしいことです。私はもうどうしていいか分からなくなってしまいました。私は助けてもらいたいんです",
"ねえ、君。グラント・マンローさん……"
],
[
"私は移転して三年になるんですが、その間私たちは、大概の新婚夫婦がそうであるように、お互に深く愛し合って、幸福に暮しておりました。私たちは何一つ違ったところはありませんでした。ただの一所も、――思想でも、言葉でも、動作でも。――ところが、先週の月曜日以来と云うもの、私たちの間には急に隔たりが出来たんです。私は彼女の生活に何物かのあることに気がついたんです。そしてまた彼女の心に関しては、街で行き違う見ず知らずの女の心と同じように、何も私は知っていなかったんです。――私たちは全く赤の他人になってしまいました。私はその原因が知りたいんです。――そう、そう、その前にあなたにぜひ記憶しておいていただきたいことがあります、ホームズさん。――エフィは私を愛しております。この点については絶対に間違いはありません。彼女は彼女の全身を捧げて私を愛しております。しかも今ほど愛していたことはないでしょう。私はそれを知りました。私はそれを感じます。――私はその点については議論をしたくありません。男と云うものは女が自分を愛してくれている時には、容易にそれを話すことが出来るものです。――しかし私たちの間には秘密があるんです。私にはそれを拭わずにほうっておくことは出来ません",
"どうもまだはっきりしないんですが、マンローさん"
],
[
"いつか私の財産をあなたの名にした時、あなたはそうおっしゃったわね、もしお前がどれだけでも入要になったら、そう云えって……",
"そう云ったとも、あれは全部お前のものだもの"
],
[
"何に使うの?",
"まあ。あなたは、俺はお前の銀行家だってそうおっしゃったじゃアないの。――銀行家って、何にお金を使うかなんて訊ねるものじゃないのよ、分かったでしょう"
],
[
"ええ、本当に入るのよ",
"それなら、何に使うのか云わなくちゃいけないね",
"いつかは申上げるわ、たぶん。でも今は云えないのよ、ジャック"
],
[
"ちょうどお越しになっていらしったのを見ましたもので、何かお手伝いでもするようなことがあったらと思いましたもので……",
"いえ、お願いしたい時はこちらから上がります"
],
[
"おやすみなんだろうと思ったのよ",
"どこへいって来たの?"
],
[
"お前は来た。それは確かだ。――一体、お前がそうやって一時間ばかり会いにやって来なければならない人間って、何者なんだ?",
"私、今ままでにここへ来たことなんかありませんわ",
"どうしてお前は私に嘘をつくんだ?"
],
[
"お前のしゃべる声はまるで変ってるじゃないか。お前は今までに、私に何かものをかくしていたことがあるか?――よし、私はこの家の中へ這入ってって、徹底的に調べてやる!",
"いけません、ジャック、お願いですわ"
],
[
"それはこの不快な事件を、きょうを最後にすると云う条件だ。――お前はお前の秘密をかくしていたいならそれはお前の自由だ。けれどただこれだけは約束しなくちゃいけない。もう二度と夜中によそへ出て行かないと云うことと、私に知らせないでは何もしないと云うことだけは。――そして、もうこれからこんなことはしないと云うなら、出来ちまったことは忘れてやってもいい",
"たしかに私を信じて下さるわね"
],
[
"けれどもしあなたが、すべての事情を知って下すったら、きっと私を許して下さると思うわ",
"じア、すっかりお話し"
],
[
"その窓で見たのは、確かに人間の顔だと断言出来ますね",
"ところが、それを私が見た時はいつも、かなり離れていたので、確かにそうだと云うことは出来ないんです",
"けれどあなたはそれを見ていやな気がしたとおっしゃいましたね",
"うす気味の悪るい色をして、硬ばった顔をしていました。そして私が近寄って行くと、急に、かくれてしまうのでした",
"それはあなたの奥さんが、あなたに百磅請求してから、どのくらい後でしたか?",
"二ヶ月ばかり",
"あなたは、奥さんの最初の檀那さんの写真を見た事がありますか?",
"いいえ。――彼女の初めての夫が死んでからまもなく、アトランタに大きな火事があったんです。それで、彼女の持っていた写真はみんな焼けてしまいました",
"奥さんは死亡証明書を、持ってる。――あなたはそれを、御らんになったと、おっしゃいましたね",
"ええ。彼女は火事の後、複写をとったのです",
"あなたは、アメリカであなたの奥さんを知ってる人に、誰かお会いになった事はありませんか",
"いいえ",
"奥さんは、またアメリカへ行きたいなどと、おっしゃってはいませんか",
"いいえ",
"でなければ、アメリカから手紙が来ませんか",
"私のしってる範囲ではない様です",
"有難うございました。――ところで、その事件について考えてみなけりアならないんですが、もしその離れ家がそのまま空家になっているとすると、これはちょっと困難な問題ですね。しかしその反対に、実はそうあってほしいんですが、もしその離れ家に住んでた人が、あなたのやって来るのを前以って知っていて、きのうあなたが這入って行く前にその離れ家から出ていって、今はまた戻って来ているのだとすると、これは案外容易に片がつくと思うんです。――で、それについてあなたにお願いしたいのは、ノーブリーへお帰りになって、もう一度その窓を調べていただきたいんです。そしてもし確かに誰か中に住んでいるらしいことがお分かりになったら、あなた御自身で中へ這入っていくようなことはなさらないで、私の友人と私に電報を打って下さい。そうすれば私達は一時間以内にはそこへいって、大いそぎで事件を徹底的に解決してしまうことが出来るでしょう",
"もしまだ空家のままでしたら?",
"その時については、明日、またあなたとよく相談しましょう。――じアさよなら。特に確実に根拠をつかんでしまうまでは充分慎重にやって下さい"
],
[
"そうだ。――脅喝している奴がいる。いないとなると僕の非常な思い違いになるんだが……",
"とすると脅喝している奴は何者だろう",
"無論、その離れ家の例の気持ちよく飾った寝室だけに住んでる、あの男の妻の肖像を暖炉棚の上に飾っとく男さ。――僕に云わせると、ワトソン君、窓に現れる例の蒼白い顔に目星をつけるべき何物かがあると思うんだ。それにしても事件の真相を誤ってはならないからね",
"で、君には対策があるのかい?",
"ああ、自分だけで考えてるのはあるんだが、事件が私の考えてる通りにいってくれないと困るんだ。――とにかくこの女の最初の夫と云うのが、その例の離れ家の中にいるんだよ",
"なぜそう思うんだい?",
"だって、今の亭主をその離れ家の中に入れまいとして、彼女が気違いのような騒ぎをしたと云うことについて、僕たちはどう説明したらいいだろう。僕が想像した所によると、事実はこうなんだよ。――この女はアメリカで結婚した。ところがその夫は、何かいやな性質を持っていたんだ。あるいは、何かいやな病にかかった、たとえば癩病とか痴呆症とか、そんなものになったと云ってもいい。彼女はたまらなくなって、亭主から逃げ出して、名前をかえて英国に帰って来たんだ。そして彼女が考えた通りに新しく生活をし直したんだ。――彼女は三年間の結婚生活をした、そして誰かの死亡証明書を彼女の今の夫に見せて、自分の位置が怪しくないことを信じさせたのだ。しかも彼女はその死亡証明書の人間の名前をそのまま名乗っていたんだ。――ところが、ふと、彼女の先の夫に、彼女の居場所を見つけられた。――でなけりゃ、またこうも想像出来るんだ。その病気の男と一しょになった淫奔女があってそれに見つけられたんだ。そこでその二人は彼女に手紙を書いて、やって来て事実を暴露するぞ、とおどかしたんだね。で彼女は百磅を夫からもらって、それで彼等を追払おうとした。ところがそれにもかかわらず彼等はやって来た。そして彼女の夫が、例の離れ家に新しい人が引越して来たと云って話した時、彼女はそれが彼女の脅迫者たちだと云うことを直感したんだよ。で、彼女はその夜、夫の寝入るのを待って、その離れ家に出かけていって、彼女をそのまま平和にしておいてくれるように彼等を説得しようと努めたんだ。しかし成功しなかったので翌朝また出かけていって、その時、彼女の夫が僕たちに話したように、そこから出て来て、パッタリ彼女の夫に出会ったのだ。そこで、もう再びそこへは行かないと云う約束をすることになった。しかしそれから二日の後、彼女はこの恐ろしい隣人たちを、どうしても追い払ってしまおうと決心して、もう一つの計画を立てた。そこで彼女は例の肖像画、――それは確かに彼女が自分で描かせてもらったものなんだが――それを持ち出していった。するとこの間に、女中が追いかけて来て、彼女の夫が帰って来たことを知らせた。で彼女は、突嗟に、その女中の話をきいて、これは夫がいきなりこの離れ家にやって来るに相違ないと想像し、いそいでその中の人間を裏口から出して、たぶんそのすぐそばに生えている樅の林の中に這入らせちまったんだ。――こう云うわけで、あの男が這入っていった時には、家の中は空っぽだったのさ。けれど、もしきょうの夕方、あの男がもう一度様子を見にいって、やっぱりまだ空家のままだったら、お目にかかるよ。――君はどう思うね",
"僕もそう思うよ",
"とにかく、事件の真相はこうらしいね。しかしもし何か新事実が発見されて、それが僕たちの予想外のことだったとしても、まだもう一度考え直してみる時間は充分あるからね。――現在としては、ノーブリーへいったあの男から電報の知らせが来るまでは、何もすることはないわけさ"
],
[
"私がいった時、例の離れ家に明りがついているのを見ました。すぐいって、ひと思いにすっかり解決しちまいましょう",
"あなたはどうしたらいいと思いますか"
],
[
"私はあの家の中へ這入って行って、あそこに住んでいた奴を、見つけ出してやろうと思います。無論ご一しょに行って下さるでしょうね",
"あなたは、あなたの奥さんの、この秘密をあばき出さない方がよいと云う忠告を無視しても、そうしようと決心したんですか?",
"ええ、私は断然やります",
"結構です。当然だと思います。不安な疑いは明らかにするに限りますよ。――すぐ出かけた方がいいでしょう。もちろん、法律的に云ったら人のうちへ無断で入ると云うことはよくない事です。しかし、やったっていいと思います"
],
[
"あなたがきょうの夕方ここへいらっしゃることを、私ちゃんと知っていたの。――ね、ようく考えてちょうだい。もう一度私の云うことを信じて、あとで悲しまなければならないような原因を作らないでちょうだい",
"俺はお前を信じすぎていた、エフィ"
],
[
"しゃべるまいと思っていたのに、とうとう話させられる様なことに、なってしまいました。けれど今こそ、私達は最善の方法でそれを解決しなければなりません。――私の夫はアトランタで死んだのです。そして私の子供は生きながらえました",
"お前の子供!"
],
[
"あなたはこの箱を開けて御らんになったことはありませんね",
"それは開かないものだと思っていたよ"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
1930(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 或いは→あるいは 如何なる→いかなる 於て→おいて 彼→か 位→くらい 呉れ→くれ 此→こ 此処→ここ 而→しか 然し→しかし 直き→じき 知れない→しれない 随分→ずいぶん 其→そ 度く→たく 沢山→たくさん 只→ただ 多分→たぶん 給え→たまえ 爲→ため 頂戴→ちょうだい 丁度→ちょうど ちゃあ居→ちゃあい て戴→ていただ て置→てお て見→てみ 所→ところ 尚→なお 乍ら→ながら 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦・又→また 間もなく→まもなく 見る見る→みるみる 寧ろ→むしろ 勿論→もちろん 貰→もら 漸く→ようやく 余程→よほど」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本中、混在している「途方」と「途法」はそのままにしました。また「アトランタ」「エトラント」「アトラント」は「アトランタ」に統一しました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年5月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043028",
"作品名": "黄色な顔",
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"ソート用読み": "きいろなかお",
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"原題": "THE YELLOW FACE",
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"名": "アーサー・コナン",
"姓読み": "ドイル",
"名読み": "アーサー・コナン",
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[
[
"私にはこんな手紙が、どうして恐怖を引き起こしたのかどう考えても分からないね。ただ奇怪だと思われるだけだよ",
"まあ、その通りだ。しかも事実は、それを読んだ男は、その通達書が、まるでピストルの台尻ででもあったかのように、そのためにすっかりたたきのめされてしまったのだ。その男は上品な剛直な老人だったが……",
"面白そうだね"
],
[
"けれどなんだって君は、この事件を研究しておく必要があるなんて云うのかね",
"そりア、これが僕の初めてやった事件だったからさ――"
],
[
"私は大事件にぶつかっとるんじゃが、それがどんなことか分かるかね",
"うまく当らないかもしれませんよ"
],
[
"あの密猟者隊を解散させた時、あいつ等が私を殺ろすと云ったのを。――そうしてエドワード・ホビー君は本当にやられたのじゃ。だから私はそれ以来、常に自分の身を用心しとる。――だが、君はどうしてそれが分かったのかね",
"あなたは実に素晴らしいステッキを持ってらっしゃるじゃありませんか"
],
[
"僕はそこにある銘刻を見て、まだそれはあなたがお持ちになって一年とはたたないと思ったのです。だがあなたはそのステッキの頭に穴をおあけになって、それを頑丈な武器にお作りになるため、その穴の中に鉛をおつぎ込みになるには、ずいぶんお骨折りになったでしょう。――そんなわけで、もしあなたが何か身に危険を持っていらっしゃらない限り、そんな御用心をなさるわけはないと思ったのです",
"それからまだほかには?"
],
[
"あなたはお若い頃に、かなりはげしくボキシングをなさった",
"それも君の云う通りじゃ。――どうしてそれが分かったかね? 私の鼻すじでも少しねじれとるからね?",
"いいえ、そうじゃありません"
],
[
"あなたのお耳です。それはボキシングをやる人特有の、独特な平たさと薄さとを持っていますよ",
"それからまだほかには?",
"あなたは鉱山で採鉱をかなりなすった。その手のタコで分かります",
"私は私の財産は金鉱でつくったのです",
"ニュウジーランドにいらしったことがおありでしょう",
"それもその通りじゃ",
"日本へいらしったでしょう",
"行きました",
"それからあなたは、頭文字がJ・Aと云う方と、非常に近しくなすっていらっしゃったでしょう。そうしてその後あなたは、その方のことはほとんどお忘れになっていらしった"
],
[
"あなたが魚をボートの中に引上げようとして腕をおまくりになった時、僕はあなたの肱の所にJ・Aと刺青してあるのを見たんです。その字は今でも読めます。けれども字をブルブルさせて分からないようにしてあったり、その字の周囲の皮膚を汚してあったりしてある所から見ると、確かにそれを消してしまおうとなすったことがハッキリ分かります。そこで、それらの頭文字は、かつてはあなたに大変親しい方であったが、後にはそれを忘れようとなすったと云うことが明かになります",
"君は何と云う眼を持ってるんだ"
],
[
"何ともおっしゃらないのでございます",
"なんだって云わないのじゃ?",
"あなたが御存じだと云っております。そしてただ、ちょっとお話したいんだって",
"こっちへ通してくれ"
],
[
"三十年、もっとにもなるな、お前さんに別れてから。お前はこうやって今じゃお前の家にいるが、おいらまだ塩漬樽の中から、塩臭え肉をつまみ出して喰ってるのよ",
"チェッ。君は、僕が昔のことを忘れとりアせんと云うことが分かったろう"
],
[
"そして充分食べたり飲んだりしたまえ。何か君の仕事をきっとさがしてやるよ",
"有難えなア、檀那"
],
[
"ひょいと考えなしに荷物船に乗っかって、三年余り突っ走っちゃったもんでね、おいらぐっすり休みてえんでさあ。で、お前さんとこか、ベドウスの所か、どっちかへ行こうと思ってね",
"あ、君はベドウスがどこにいるか知ってるのか?"
],
[
"どうしたって云うんだい?",
"卒中。――神経性虚脱だ。――一日中昏睡状態なんだ。とてももうだめだろうと思ってるんだ"
],
[
"ああ、問題はそれなんだよ。――まあ、乗りたまえ。馬車の中で話せるから。――ホウ、君は、君が帰る前の日の夕方、やって来た男を覚えているだろう?",
"ああ、覚えている",
"あの日、僕たちの家に入れてやったあの男を、君は何ものだと思うね?",
"分からないね",
"彼奴は悪魔なんだよ、ホームズ"
],
[
"そうなんだ。――彼奴は悪魔そのものなんだ。あれ以来と云うもの、僕たちはただの一日だって、平和だったことはありアしないんだ。親じはあの夕方以来、頭を上げたことがないんだ。そして今や、命をなくそうとしている。親じの心はこの呪うべきハドソンのおかげですっかり滅茶々々になってしまったんだ",
"どんな力を彼奴は持ってるんだろう?",
"それこそ、僕が知りたいと思ってることなんだよ。――ああ、あの親切な、情深い、人のよかった老いた親じ。――一体、どうしてあの親じが、あんな無頼漢につかまったんだろう? ――だが、僕は君が来てくれたので本当に嬉しいよ。ホームズ。――僕は君の判断と分別とに絶対信頼しているんだ。そして君は僕に、きっと一番いい方法を教えてくれるだろうと信じているんだよ"
],
[
"おいらハンプシャイアのベドウスさんとこへつっ走ろうかと思うんだ。あの人もたぶんお前さんと同様、おいらに喜んで会ってくれるだろうと思うんだよ",
"君は、何か感情を害して僕ん所から出て行くと云うんじゃないだろうね、ハドソン?"
],
[
"全く思いもかけなかったようなことが起きて来たんだ。きのうの夕方だった、フォーディングブリッジの消印のある手紙が父親の所へとどいたんだが、それを読むと父親は、まるで気が違った人間のように、頭を両手で押えたまま、部屋の中をグルグルグルグル輪を書いて廻り初めたんだ。そうして僕が捕えてやっとソファの上へ腰かけさせた時には、親じの口も目も片一方引き吊って、まるですっかり気が顛倒していることが分かった。ですぐフォードハム博士に来てもらって、寝床の中へ運びこんだわけだ。けれど痲痺はいよいよひろがる一方で、意識を取り返えしそうもないのだ。僕は、もう到底だめだろうと思ってるんだよ",
"おそろしい話じゃないか、トレヴォ"
],
[
"その手紙に、何かそんな怖ろしいことを引きおこすようなことでも書いてあったのかしら?",
"なんにもないんだ。その中にはわけの分からないことが書いてあるんだ。文句は下らない、つまらないことなんだ。――僕はこんなことになりはしないかと、ひそかに恐れていたんだよ"
],
[
"あなたがお出かけになるすぐでしたよ",
"意識を取り戻しませんでしたか?",
"御最後の前に、ちょっと……",
"私に何か遺言でも?",
"ただ日本箪笥の後ろの曳出しに書類がある、――とそうおっしゃっただけでした"
],
[
"それは死よりももっと恐ろしいことだ。なぜならそれは恥辱に等しいからね。だがしかし、これらの『主任看視人』だの『雄鳥の雉』だのって云うのは何の意味だろう?",
"それはこの手紙では何の意味も持っていないね。けれども、もし僕たちが、この手紙以外に、この手紙の差出人をさがすよい方法がないものとすれば、それらの文句はかなりいろいろな意味を持っているよ。――この手紙は『計画は……なされたり……』とそう云う風に書き出されているだろう。そう云う風にさきに書いといて、あらかじめ定めてあった暗号通りに、そのあいた所へ意味の通じるような適当な文字を二字ずつあてはめたんだね。その時は、心に浮んだ最初の文字を自然に使ったんだ。ところが、そこには猟に関係した言葉がずいぶんたくさんあるのを見ると、この人はかなり熱心な銃猟家で、鳥を飼うことに趣味を持ってる男だと云うことが分かるだろう。――君は何かこのベドウスと云う人について知ってるのかね?",
"なるほど、君の云う通りだ"
],
[
"秋になると、死んだ親じは、ベドウスから彼の地所で猟をするように招待状を貰うのが常だったことを、僕は覚えているよ",
"それで、この手紙は、彼から来たものであることが、いよいよ疑いなくなった"
],
[
"そこで、僕たちに残されたことは、この船乗りのハドソンが、このお金持ちの尊敬すべき二人の男の頭を押さえているように見える所の、その秘密は何かをさがし出すことだけだ",
"ああ、ホームズ。――僕はそうすることは、一種の罪悪であり、また恥辱じゃないかと思うんだよ"
],
[
"ええよく知っていますよ",
"じゃア、君はその事件で何か不思議なことのあったのを、覚えているだろう",
"さあ、何でしたっけね?",
"俺は二十五万両ばかり取ったんだ",
"そんな話でしたね",
"しかしちっとも、取戻されなかったんだぜ。え?",
"知りませんでした",
"そうだろう。君はそれはどこにあると思う"
],
[
"その男は珍らしい真面目な男で、充分まいてあるゼンマイのように正確な男なんだ。その男が謀をめぐらしているんだが、君はこの瞬間、その男がどこにいると思うかね?――その男と云うのは、外でもない、この船の牧師さ。――牧師、その人なんだよ。奴は黒い僧服をまとって、堂々とこの船に乗りこんだ。奴はポケットの中に、この船の大帆柱から竜骨まで、すべて何から何まで買い占められるだけの充分なお金を持ってるんだ。それから水夫達はみんな奴の五体や精神なんだ。奴は水夫達を、成功謝礼附きの莫大な現金で買収しちまったのさ。それからまた二人の番兵も、二等運転手のマーサーも手なずけられてる仲間なんだ。だから奴は、なりたいと思えば船長になれるんだ",
"それで私たちは何をしたらいいんですか?"
],
[
"この船に乗ってる兵隊の服を、服屋がこしらえたより、もっと真赤に染めてやろうじゃねえか",
"だが、あいつ等は武装してますよ"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
1930(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 恰も→あたかも 貴方→あなた 如何→いか 所謂→いわゆる 得様→得よう 於いて・於て→おいて 於ける→おける 恐らく→おそらく 可成・可なり→かなり か知ら→かしら かも知れ→かも知れ 位→くらい・ぐらい 極→ごく 此処→ここ 随分→ずいぶん 是非→ぜひ 其の→その それ所か→それどころか 沢山→たくさん 唯→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 丁度→ちょうど て居→てい て呉→てく て見→てみ て貰→てもら 疾うに→とうに 何処→どこ 所が→ところが どの道→どのみち 尚→なお 乍ら→ながら なる程→なるほど 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 正に→まさに 先ず→まず 亦・又→また 迄→まで 間もなく→まもなく 若し→もし 余程→よほど」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本中、混在している「ビクター」「ヴクトウ」、「エヴァンス」「エバンス」、「フォーディングブリッジ」「フォーデングブリッジ」、「トレヴォ」「トレボウ」、「オーストラリア」「オーストラリヤ」はそのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043498",
"作品名": "グロリア・スコット号",
"作品名読み": "グロリア・スコットごう",
"ソート用読み": "くろりあすこつとこう",
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"原題": "The \"Gloria Scott\"",
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"分類番号": "NDC K933",
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"名ローマ字": "Arthur Conan",
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[
[
"これはタイピストには見られないものだ。この御嬢さんは音楽家さ",
"その通りでございます、ホームズ先生、私は音楽を教えておりますの",
"それも田舎ででしょう、――あなたの御血色では、――",
"そうです。サーレーの外れの、ファーナムの近くでございます。",
"それはとても美しい近郊ですな。私どももあの地方にはたくさんの面白い聯想を持っていますよ。そらワトソン君、俺たちがあの文書偽造犯人の、アーチェ・スタンフォードを捕えたのは、あの近所だったよ。さてヴァイオレットさん、そのサーレーの外れのファーナムの近くに、どんなことがあったのですかお話し下さい"
],
[
"ホームズ先生、――父は亡くなりましたが、ジェームズ・スミスと申しまして、古い帝室劇場の、オーケストラのコンダクターをしておりました。そして私は母と二人生きのこったのでございますが、私たちには、身寄りの者と云うものも無く、ただラルフ・スミスと云う叔父が一人あるだけでございましたが、それも二十五年も前に、アフリカに渡って行ったっきり、その後は何の消息もございませんでした。父が亡くなった時は、私どもは大変貧乏でしたが、ある日私どもは、タイムス紙上に私たちの住所を求めている広告が出ていたときかされたのでございました。まあ私たちの喜は御想像にお委せしますが、実は私たちは誰か私たちに遺産でものこしてくれたのかと、本当に喜びました。私たちは早速、新聞に出ていた弁護士のところにゆきました。そこで私たちは、カラザースとウードレーと云う二人の方にお目にかかりました。この人達はどちらも、南アフリカから帰国していた人たちでした。その人たちの云うには、その人たちは私達の叔父の友だちで、叔父は二三ヶ月前に、ヨハネスブルグで貧困のうちに亡くなったが、その最後の際に、その親戚の者で、大変困っている者があるかどうかを、調べてみてくれと云ったとのことでした。生前はちっとも交渉の無かった叔父のラルフが、その死後に気にかけてくれるなどと云うことは、全く不思議なことでございましたが、なおカラザースさんの云うには、叔父のラルフが私の父の死をきいたので、私たちの上に責任を感じてそう言ったのだと云うことでした",
"ちょっと――"
],
[
"その会見はいつでした?",
"去年の十二月――つまり四ヶ月前でございます",
"さあ、その先を、――",
"ウードレーと云う人は、私にはとてもいやな男に思われました。始終私に失礼な目つきをして、――下品な膨れっ面の、赤い髭をした、テカテカ光らせた髪を、額の両側に垂れ下げた、いやらしい奴ったらありませんでしたわ。私はこんな男と知り合いになることは、とてもシイリールに対してすまないと思いましたわ",
"おやおや、シイリールと云うのは、そうすると、あの人の名前なのですか!"
],
[
"あなたが道の曲り角をまがってから、道路の上に誰も居なくなったのを見たのは、どのくらいの時間がたってからでした?",
"まあ、せいぜい二分か三分だと思いましたが、――",
"それではその者は、道を真直ぐに遁げ帰ったはずはないが、――またそこには全く、横道もないと云うのですな?",
"ございません",
"それではその者は、どっちかの側に、遁げこんだのでしょう、――",
"もしそうだとすれば、それは荒地の方なはずはありません。もしそうでしたら、私から見えたはずでしたから、――",
"それでは我々は結局、その者はチァーリントン廃院の中に遁げこんだに相違ないと、考えることが出来ますな。いや私も知っていますが、あのチァーリントンの廃院は、すぐ道路の側になっていますからね。その外に何かありましたか?",
"ホームズ先生、もうそれだけでございますが、どうも私は先生にお目にかかって、いろいろと伺わない中は安心が出来ませんので、――"
],
[
"コヴェントリーの、ミドランド電気会社に居りますの",
"不意にあなたを訪問して来るようなことは、ありませんでしたか?",
"あら、ホームズ先生、それでは私がまるであの人を知らないようではございませんの?",
"その他にまだあなたを好きな人がありましたか?",
"シイリールを知る前に、少しございましたわ",
"その後には?",
"その後でしたら、あの怖ろしいウードレーでございます。まあもしあの男もそうだとお思いになるならでございますが、――",
"その他にはありませんか、――その他には?"
],
[
"ああ、――でもこれはただ私だけの想像なんでございますけれど、私にはあの主人のカラザースさんは、とても興味を持っていると思われることが時々ございましたわ。私たちは、全く開けっ放しで、夜は私はあの方の伴奏を弾きました。もちろんしかし彼はいつも、何にも云いませんでした。彼はたしかに立派な紳士ですがしかし、女の心と云うものは、いつもよく解っているものでございます",
"ははあ!"
],
[
"生計の方はどうして立てているのですか?",
"あの人はお金持ちですもの",
"馬車や馬は持っていませんか?",
"ええ、しかし何しろとてもいい生活でございますよ。あの方は毎週二三度はロンドンに出ますが、何でも南アフリカの採金地の株に、非常に興味を持っているようでございますわ",
"それではスミスさん、いずれこの上にも変ったことがありましたら、また入らして下さい。私は実は今は非常に忙わしいのですが、しかしいずれその中にあなたの御依頼のことにも、研究を進めてみましょう。しかしこの間に、私に断りなしに、事を進めてはいけませんぞ。ではさようなら、――あなたから吉報が来るようにいのっていますよ",
"あんな美しい娘さんを追いまわすと云うことは、あまりに自然の命ずるままのいたずらだ"
],
[
"寂しい田舎道までを、自転車などに乗って歩かなければいいものをね。まあいずれ誰か、人知れず懸想している者も、あるには相違ないが、しかしこの事件には、ちょっと奇妙な、暗示的な変な性質が潜んでいるように思われるよ、ワトソン君、――",
"と云うのは、その者は同一の場所にだけ現われると云うためにかね?",
"そうだ。我々はまず、チァーリントンの廃院に、どんな者が住み込んでいるか、それを探り出さなければならない。それからカラザースとウードレーの関係を調べてみなければならない。この二人はどうもとても性質が相背馳しているようだからね。それからこの二人がどうして、ラルフ・スミスの親類に、熱心に注目するようになったか? それから更にもう一つは、女家庭教師に普通の二倍もの給料を払いながら、停車場まで六哩もあると云うのに、馬一頭飼ってないと云うのは、一たいどう云う家政なのだろうね? ワトソン君、これはおかしいよ。これはどうしたっておかしいよ",
"君はしかし出かけるだろう?",
"いや相棒君、君が出かけてみてくれたまえ。これは案外つまらないものかもしれないし、僕はこのために、他の重大なものを、中絶させることは出来ないのだ。月曜日に早く、ファーナムに行って、チァーリントンの森の中に、隠れていてごらん。そうしたらいずれ君は事実を目撃するだろうが、その時君の独断専行で、善処してみるさ。それから廃院の住人たちを調べて来てくれること、――これだけをやって来てもらえば、大に助かるんだがね。そしてワトソン君、――あとはもうこの問題の解決の、牢固たる足がかりを得るまでは、何にも云わないことにするよ"
],
[
"そりゃ君は、生籬の蔭にかくれるべきだった。そうすればその目的の人物を間近くで見ることが出来たわけじゃないかね。君も何百碼と云うものを離れて見たので、あの娘さんのスミス嬢以下の報告っきり出来ないじゃないか、あの女は自分が知らない者だろうと云っていたが、しかし僕の見るところでは、あの女が知っている者に相違ないと思うのだ。だってもしそうでないとしたら、何もあの女が接近するのを、そんなに一生懸命で遁げる必要はないと思うからね。君はその者がハンドルの上に身をこごめたと云うが、それもすなわち、顔をかくしたのだろう。君は全く徹頭徹尾間違ったよ。その者は家に帰り、君はその者の正体をつき止めようとして、ロンドンの、貸家の差配人のところに来る、――",
"じゃ僕は、どうすればよかったのだね?"
],
[
"それこそこっちが聞きたいことなんだ。君たちこそ彼の女の馬車に乗っているから、君たちこそ知っているはずだ",
"いや、我々は道でこの馬車に逢ったんだが、中は空っぽだったんだ。それであの娘さんを助けようと思って、引き返してゆくところなのだ",
"ああ神様、神様、――私はどうすればいいのですか?"
],
[
"いかにも俺は、ボッブ・カラザースだ。俺は命に賭けても、この女に間違いのないように護るつもりだ。俺は君に云ったろう、――もし君がこの女を苦しめたら、俺はどう云う仕返しをするかと云うことは、――俺は神明に誓って、俺の言葉を実行するよ!",
"いや何しろ君は遅すぎた! この女はもう僕の妻なのだ!",
"いやこの女の方は、君の寡婦だよ"
],
[
"ピストルを棄てろ!",
"ワトソン君、拾ってくれたまえ! そしてそれを頭につきつけて! いや有難う。君、カラザース君、そのピストルをこっちにくれたまえ。もう乱暴者は無いだろう。さあ、こっちに渡して、――",
"しかし、あなたはどなたですか?",
"僕はシャーロック・ホームズです",
"ああ、そうでございましたか!",
"いずれ私のことは知っているでしょう。警官が来るまで、私はその代理をつとめる。ああ君が来ていたのか!"
],
[
"私は二階に行って、あいつに止めを刺して来ましょう。あなたはあの女が、あの天使が、あの吼えつくようなジャック・ウードレーのために生涯しばりつけられるのだと仰るのですか?",
"いやそれはもう君のかかわったことではない"
],
[
"ここにあの女の方が、彼の妻になることのない立派な理由が二つあるんだ。まず第一に、ウィリアムソン君の、結婚式の執行権について追求すると、これにまず我々は、安心が出来るのだ",
"私は僧職は授けられていますよ"
],
[
"そしてまた、その僧職は、剥脱されているだろう",
"一度牧師になった者は、いつまでも牧師ですよ",
"そんな馬鹿なことはない。では免許証はどうした?",
"私たちは結婚の免許証は貰い受けました。それはポケットにあります",
"それじゃ君は、詐欺をしてそれを手に入れたんだ。しかしとにかくこれは、強制結婚じゃないか、――強制結婚は結婚ではないよ。それどころか大変な重罪だよ。そのことはいずれ君にもじきにわかるよ。まあ僕にして誤ちなしとすれば、君がこのことをよく考えてみるために、この後十年以上もの年月が、君のために与えられるだろう。それからカラザース君だが、君はピストルは出さん方がよかったね",
"いやホームズさん、今僕はそれを後悔しております。しかし私が彼の女を保護するために取った手段を考えた時に、――いえ私は実は、彼の女を愛していたのですが、ホームズさん実は私は恋と云うものを、この時こそ初めて知ったのでしたが、――私は彼の女が、あの南アフリカ第一の残忍な悪漢で、キムバーレーから、ヨハネスブルグまでの間で、人々から震怖されているウードレーの手中にあるのかと考えた時は、私は全く前後不覚に逆上してしまったのでした。いえホームズさん、御信用下さらないかもしれませんが、私はこの娘さんを雇入れてからは、私はこの家には悪漢共の住んでいるのは知っていますから、いつも自転車で彼の女の後に遠くついて、彼の女の無事なのを見届けるようにしたほどでした。私は彼の女からは、相当の距離をとり、また髭もつけていたので、彼の女には私がわからなかったのですが、強いてこんなことをさしたのも、あの善良で潔白な彼の女が、もし私が田舎道で彼の女をつけるなどと云うことがわかったら、もう私のところには居なくなるだろうと思ってのことでした。",
"じゃどうして君は、彼の女にその危険を教えてくれなかったのだね?",
"つまりそれも、やはり彼の女に、私のところを去られてしまうと思ったからです。このことだけは私は、とても堪え切れませんでした。例えば彼の女は、私を愛してはくれなくっても、せめて彼の女の美しい姿を、私の家のあたりに見、彼の女の声をきくことが、私にとっては、絶大のことでした。",
"なるほど"
],
[
"君はそれを愛と呼んでいるが、しかしカラザース君、それは利己主義と云うものだよ",
"いやそれは結局、一致するものかもしれませんがしかし、とにかく私は、彼の女を去らせることは出来ませんでした。その上に周囲はああした連中ですからね。彼の女には誰か、側に居てよく見てやるとよいのだがなと思いましたが、その時私は海底電信を受け取りましたので、彼等は策動を始めようとしていることを知ったのでした",
"どんな電信だね?"
],
[
"もしお前が俺たちを裏切るなら、ボッブ・カラザース、お前がジャック・ウードレーに逢わしたと、同じ報をしてやるから、――お前があの娘に、心のたけの泣きごと云うのは、お前のことだからかまわないが、しかしこの私服刑事に俺たち仲間のことにまで口をすべらしたら、それこそお前が臍の緒を切ってから今までにやったことの中で、一番ひどい悪業だぞ",
"いや尊師よ、そう昂奮しては困りますな"
],
[
"この事件と君との関係は、もう十分明瞭になっている。私のききたいのは、ただ自分の好奇心の満足のため、少しばかり細々しいことを耳に入れたいだけなのだ。いやしかし、それは君の口からは話しにくいと云うことなら、僕の方から話してやろう。こんなことを秘密にしようたって、それはいかに、難しいかを、よく考えてみるがいい。まず第一にだ、君達は三人で、この獲物のために、南アフリカから来たのだろう、ね? ウィリアムソン君、ね、カラザース君、ウードレー君、――",
"いや、その第一番目のは嘘だ。"
],
[
"私は二ヶ月前までは、この二人を全く知らなかったし、また私は生れてからまだ、南アフリカなんて云うところには、行ったこともありませんよ。おせっかい屋のホームズさん、篤とお考えなさって、冗談も休み休み仰有って下さい",
"彼の云うことは本当です"
],
[
"彼の女はもちろん最も近い血縁の者であるが、君たちは、その老人は遺言状を作るまいと考えたろう",
"彼は読むも書くも出来なかったのです"
],
[
"そこで君たちは二人で帰国して、その女を狩り出したのだ。しかもその方針をなおつきつめてみると、君たちの中の一人は、彼の女と結婚し、それから他の方は、そうして得た獲物の、分け前を取ると云うことであったろう。そして更に、何かの理由からウードレーがその夫に選ばれたんだね。その理由は何だったんだね?",
"私たちは航海中に、カルタで賭けて、彼が勝ったのです",
"ふうむ、そんなことか、――そこで君はあの娘さんを雇い入れて、ウードレーはそれに、持ちかけると云うことだったんだね。しかしあの娘さんはウードレーを、飲んだくれの悪漢ときめてしまって、てんで相手にはならない、――その中に君があの娘さんに恋をしてしまって、君たちのお膳立ては、すっかりと覆ってしまうこととなった。君はもうあの娘さんを、あの悪漢に渡すことが出来なくなってしまった",
"えい、私は金輪際、渡すことが出来ませんでした",
"そこで君たちの中には喧嘩がおっぱじまってしまった。そして喧嘩分れとなって、彼は今度は君にはかかわりなく、勝手に計画を立てた",
"ウィリアムソン、この方は何もかもちゃんと知っているには驚いてしまったね。"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第四卷 シヤーロツク・ホームズの歸還」平凡社
1929(昭和4)年10月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 貴女・貴方→あなた 彼の→あの 或→あるい 如何→いか 何れ→いずれ 何時→いつ 愈よ→いよいよ 所謂→いわゆる 於ける→おける 却って→かえって 難い→がたい 曾て→かつて かも知れ→かもしれ 屹度→きっと 位→くらい 極く→ごく 此方→こっち 毎→ごと 左様なら→さようなら 併し→しかし 而も→しかも 直→じき 屡々→しばしば 暫く→しばらく 直・直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 其処→そこ 其・其の→その 大分→だいぶ 沢山→たくさん 多分→たぶん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居→てい で居→でい て居・て置→てお て見→てみ て貰→てもら 何処→どこ 処→ところ 何方→どっち 何誰→どなた 兎に角→とにかく 猶→なお 仲々→なかなか 成る程→なるほど は居→はい 許り→ばかり 筈→はず 甚だ→はなはだ 不図→ふと 程→ほど 先ず→まず 未だ→まだ 見たい→みたい 見る見る→みるみる 寧ろ→むしろ 若し→もし 勿論→もちろん 尤も→もっとも 専ら→もっぱら 矢張り→やはり 稍々→やや 漸く→ようやく 僅→わずか」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本中、混在している「チルターン・グランジ」「チルタアーングランジ」、「チャーリントン」「チァーリントン」「チューリントン」、「シイリール」「シリル」はそのままにしました。「燈」は同底本から作られたファイルと同様に、そのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2005年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "043523",
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"行くってどこへ?",
"ダートムアだ――キングス・パイランドだ"
],
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"今ちょうど速力は一時間五十三哩半だ",
"四分の一哩標が見えなかったようだが"
],
[
"僕はそんなものは見やしないよ、だが、この線路の電柱は六十ヤードごとに立ってるのだから計算は極めて簡単に出来るんだ。ところで、ジョン・ストレーカ殺しと白銀号失踪事件については、もう十分知ってるんだろうね?",
"テレグラフ紙とクロニクル紙との記事は読んだ",
"この事件も探究の方法としては、新らしい証拠を求めるよりも、既に知れている些末な事実を分析し淘汰して行く方が、賢い方法かも知れぬ。今度の事件は非常に珍らしい事件で巧妙に行われ、その上多大の人々に重大な関係を持ってるものだから、いろいろと揣摩臆説が行われるんで困らされてるんだが、要するに問題は事実の骨組を、絶対に動かすべからざる事実の骨組を、諸説紛々たる報道の中から掴み出せばいいんだ。そして、それが出来たら、そのしっかりとした根底の上に立って、そこからいかなる推論が出て来るか、事件の秘密はどの点にかかっているかということを発見するのが我々の役目だ。僕は火曜日の晩に、馬の持主のロス大佐と事件担当のグレゴリ警部との両方から、来て一緒に調べてくれという依頼の電報を受け取ったんだ"
],
[
"僕がどじを踏んだんだよ君、そうした失敗は、君の記録によってのみ僕を知る人々が考えているよりもはるかにちょいちょい僕にはあるんだよ。こういうわけさ、――イングランド一流の名馬がそう長く行方の知れないわけがない、殊にダートムアの北部のような人口の稀れな地方にあっては、そんなことはあり得ないと考えたんだ。だから、昨日は、今に馬盗人が知れた、そしてストレーカ殺しもその馬盗人と同一人だったと知らせて来るかと、そればかり待ち暮したんだよ、しかし、また一日が空しくすぎて、今朝になってみると、フィツロイ・シンプソンという青年が捕まったきりで、事が少しも捗らないようだから、いよいよ自分の出場が来たと思ったんだ。とはいっても、昨日だって決して空費したわけではないがね",
"じゃ、見込でもついたのかね?",
"少くとも事件の主要な事実だけは掴んだ。それを君に話してきかそう。他人に事件の経緯を話してきかせるくらい自分の考えをはっきりさせ得ることはないのだし、それに事件をよく知ってもらって、どこから手をつけるべきかを話しておかないと、君にしても助力のしようがあるまいからね"
],
[
"仕方がないからこの荒野で野宿をしようと決心してるところへ、お前さんの灯が見えたんでホッとしたわけですよ",
"ここはキングス・パイランド調馬場のすぐ側です"
],
[
"有り得ないことではないね。あるいはそんなことかもしれぬ。そうだとすれば、シムソンに有利な材料が一つだけなくなるわけだ",
"それにしても、警察ではどんな見込を立てているか、今からだけれどどうも分りかねるね",
"警察の見込なんかどうせ我々の考えることとは大に違うにきまってるんだよ。それはおそらくこうだと思う。フィッロイ・シムソンは厩番を薬で眠らせ、どうかして合鍵を手に入れて、誘拐し去る目的で馬をつれ出した。手綱の見えなくなっているのは、シムソンが使ったからだ。厩舎の戸を開け放しにしたままシムソンは荒地の方へ馬をつれ出していったが、その途中で調馬師に出会ったか、または追いつかれた。そこですぐ争いになり、シムソンは太いステッキでストレーカの頭を叩き潰したが、小さなナイフを持って立向って来たストレーカからは、擦傷一つ受けなかった。馬はシムソンが首尾よく秘密の隠し場所へかくしてしまったか、さもなくば二人の男の闘争中勝手に逸走したまま、いまなお荒地のどこかをうろついてるのかもしれない――警察の考え方はおそらくこんなことだろう。これでは一向得心のゆく解釈とはいえないが、といって外の解釈はこれよりまだまだ信じられない。とにかく、現場へ着いたらすぐに調べてみることにしようが、それまでのところはまずこれ以上どう考えてみようもない"
],
[
"ここにおいでの警部殿も出来るだけの手をつくして下すっていますが、気の毒なストレーカの復讐のため、かつは馬を取戻すためには草の根を分け石を起し、あらゆることをやってみたいと思って、それであなたの御出張をお願いいたした次第です",
"その後何か新発見でもおありでしたか?"
],
[
"フィツロイ・シムソンはそういうわけで、四囲の状況が非常に不利なわけです。私一個としても彼が犯人であることを信じています。同時に、その証拠が全く情況証拠ばかりですから、何か新事実が現われればいつでもこの嫌疑は覆えされるものであるということも認めなければなりませんが",
"ストレーカのナイフについてのお考えは?",
"あれはストレーカが倒れる時、自分で自分を傷つけたための血痕だと決定しました。",
"ワトソン君も来る途中で、そうじゃないかしらといっていましたが、それが事実だとすると、シムソンにとっては不利な材料になるわけですね",
"その通りです。シムソンはナイフも持っていなければ、身体に傷一つなかったです。彼に対しては極めて有力な不利な証拠があります。第一に白銀の消失は彼に莫大な利益をもたらします。彼には厩番のハンタに薬を盛った嫌疑があります。同夜雨が降り出してから屋外にいたことも争われぬ事実です。兇器としては太いステッキを持っていました。そして最後に、死人が彼の襟飾を掴んでいました。これだけ材料があれば、十分陪審員たちを承伏させることが出来るに違いありません"
],
[
"上手な弁護士にかかったらそれくらいのことは難なく論破されてしまうでしょうね。シムソンはなぜ白銀を厩舎の外へつれ出さなければならなかったんですか? 傷つけて競馬に出られなくしたければ厩舎の中でも出来ることじゃないですか? 捕えられた時、厩舎の合鍵を持っていましたか? 阿片末を売り渡したのはどこの薬種商です? とりわけ土地不案内なシムソンが、馬のような大きなものを、しかもこうした有名な馬をどこへかくせるというんです? 上手な弁護士ならこれ等の点を捕えて、巧みに論破してしまうでしょう。シムソンは女中に頼んで厩舎に届けさせようとした紙片を何んだといってるんですか?",
"十ポンドの紙幣だったといっています。そういえばポケットの中へ十ポンドの紙幣を一枚持っていました。しかし、あなたの仰しゃった反駁はそう有力なものとも思われませんね。シムソンは土地不案内の者じゃないです。夏時分二度、タヴィストックに泊っていたことがあります。阿片はおそらくロンドンから持って来たものでしょう。合鍵は目的を達した上は、どこへかすててしまったものと考えられます。馬はどこか荒地の中の凹みか、廃坑の中に殺されているかもしれません",
"襟飾のことはどう弁明していますか?",
"自分のものには相違ないけれど、遺失したのだといっています。しかし、シムソンが馬をつれ出したのだという新らしい事実が一つ発見されています"
],
[
"たしかに有り得ないことではありませんね",
"いまこのジプシーの行方を尋ねて荒地を捜索中です。同時にタヴィストックを中心に、十哩の円を描いてその中にある厩という厩、小舎という小舎をことごとく調べました",
"すぐ附近にも一つ調馬場があるということでしたね?",
"あります。その調馬場も見逃してはならないものの一つです。そこにいるデスボロという馬は第二の人気馬なんですから、白銀が失踪すれば非常な利益を得るわけです。そこの調馬師のサイラス・ブラウンという男は自分の方の馬に大金を賭けているということですが、死んだストレーカとも仲がよくなかったともいいます。で、一応その厩舎をも調べてはみましたが、この事件に関係のありそうなものは何一つ見付かりませんでした。",
"そのケープルトンの調馬師の利害とシムソンと何か関係はないんですか?",
"全然ありません"
],
[
"いや、それよりもしばらくここにいて二三の細目について訊ねたいと思います。ストレーカの死体はいったんここへつれて帰ったんでしょうね?",
"そうです。まだ二階に置いてあります。検死は明白ですから",
"ストレーカは永年あなたのところに働いていたんですか、ロスさん?",
"はい、いつもよく働いてくれました",
"警部さん、ストレーカの死体のポケットに何が入っていたか、お調べだったでしょうね?",
"ごらんになるなら居間の方に全部まとめてありますから",
"ぜひ見せていただきたいものです"
],
[
"血がついているようですが、ストレーカが握っていたというのはこれなんですか? ワトソン君、このナイフはむしろ君の領分らしいね",
"これは医者の方で白内障メスという奴だ",
"そうだと思った。極めて緻密な仕事をするために、極めて尖鋭に作られているんだ。荒っぽい仕事をしに出て行った男が、こんなものを持っていたというのは不思議ですね。殊にポケットにかくすわけにもゆかないこんなものを",
"現に死体の傍に落ちていましたが、刄の先はコルクを当ててあったんです"
],
[
"妻君の話では、このナイフは前から化粧台の上に置いてあったのを、出がけにストレーカが握って行ったんだということです。護身用としても、攻撃用としても貧弱なことは貧弱ですが、その時手近にあったもののうちでは、これが一番よかったんでしょう",
"そんなことでしょうね。この書附はどうですか?",
"その中三枚は乾草商人の清算書で、受取済になっています。一つはロス大佐からの命令の手紙で、もう一枚残っているのはロンドンのボンド街のマダム・ルスリエという帽飾店から、ウィリアム・ダービシャ宛に出した、合計三十七ポンド十五シルの勘定書です。ストレーカの妻君の話によれば、ダーヴィシャというのは夫の友達で、ここへもちょいちょいダーヴィシャ宛に手紙が来たということです",
"ダーヴィシャ夫人の帽子だとすると、夫人はなかなか贅沢家だな"
],
[
"あの、捕まったんですか?",
"いや、まだですよ奥さん。しかし、このホームズさんがロンドンからわざわざ加勢に来て下さいましたから、一同で出来るだけはやってみるつもりです",
"ああ、あなたにはいつぞやプリマスで園遊会の時お目にかかりましたね、ストレーカさん"
],
[
"さあ、いいえ、それは何かのお間違いでございましょう",
"おや、そうですかいやいやたしかにお目にかかりましたよ。あの時あなたは鳩色絹の服に駝鳥の羽根の飾りをつけて、来ていらしったじゃありませんか",
"いいえ、私はそんな服はもってはおりません",
"ああ、それでは間違いでした"
],
[
"風はちっともありませんでしたが、雨はどしゃ降りでした",
"そうすると、外套は風に吹き上げられたんじゃなくて、誰かがそこへおいたんだということになりますね",
"そうです。灌木の上へちゃんとのせておいたものです",
"ふむ、面白いですね。地面はひどく踏みにじられているようですが、兇行以来いろんな人が歩き廻ったんでしょうね?",
"いいえ、ここんところへ莚を敷いて、みんなその上にいることにしました",
"そいつはよかったです",
"この鞄の中にストレーカの穿いていた靴を片っ方と、フィツロイ・シムソンのを一つと、それから白銀の蹄鉄の型を一つ持って来ました",
"ほう! それあ大出来でしたな、グレゴリさん!"
],
[
"泥に埋もれていたから分らなかったんですよ、私はこいつを探すつもりでいたから見つかったんです",
"えッ! 初めからあるものと思って探しにかかったんですか?",
"あってもいいはずだと思ったんです"
],
[
"百ヤード四方は私が念入りに調べてみたんですからな",
"ですがね"
],
[
"警部さんは私と一緒にお帰りを願いたいですな。あなたに御相談願いたいことがいろいろありますから。そして白銀の名を今度の競馬から取除いてもらうことが、公衆に対する義務ではないかと思うもんですからな",
"その必要は絶対にありません"
],
[
"ジョン・ストレーカは誰が殺したかの問題はしばらく措いて、馬はどうなったかを専ら考えてみよう。いま、馬は、ストレーカが殺されているうちまたは殺された後で逸走したものとすると、一体どこに逃げるだろう? 馬というものは非常に群集性の強い動物だ、だから、もし自由に放り出しておいたら本能的にキングス・パイランドへ帰るか、ケープルトンへ行くかするに違いない。どうしてこの荒地をうろついているものか! それだったら今までにちゃんと発見されているに決まっている。また、ジプシーがどうして馬を誘拐するものか、ジプシーというものは警察にいじめられるのを厭うから、何か事が起ったときけばすぐにその場所を引き払うものだ。あんな名馬は売ろうたって売れもしない。だから馬をつれて逃げるなんてことは、非常な危険があるばかりで、何等利益がない。これは間違いのないところだ",
"じゃ一体どこにいるんだろう?",
"いまいった通り、キングス・パイランドへ帰ったか、ケープルトンへ行ったに違いない。しかるにキングス・パイランドへは帰っていないんだからケープルトンへ行ったものに違いない。これを差当り実行的仮定として、それがどういうことになるか、研究してみよう。荒地のうちでもこの辺は警部もいってるように極めて土地が固くて乾燥しているけれども、ケープルトンの方へ行くに従って低くなっていて、見たまえ、あそこに細長く凹んだところがある。あの辺は兇行のあった月曜日の晩には、非常にぐしょぐしょだったに違いない。もし我々の想像が当ってるなら、馬はあそこを通っているはずだから、あそここそ足跡が残っている場所でなければならない。"
],
[
"ここは用のない者の来るところじゃねえだよ",
"いや、ちょっとものを伺いたいのだがね"
],
[
"明日の朝五時に来たいと思うんだけれど、サイラス・ブラウンさんに会うにはちと早すぎるかね?",
"ようがしょうとも。来さえすれば会えますだ。旦那はいつでも朝は一番に起きるだから。だが、そういえば旦那が出て来ましたぜ。お前さまじかにきいてみなさるがいいだ。はあれ、とんでもねえ、お前さまからお金貰ったことが分れば、たちまちお払い箱だあ。後で――なんなら後でね"
],
[
"どうしたんだ、ドウソン? べちゃべちゃと喋らずと、早く仕事を片付けるんだ! そして君達は? 一体何の用があってこんなところへ来たんですい?",
"御主人、ちょっと十分ばかりお話がしたいんですが"
],
[
"嘘だッ! それあとんでもねえ大うそだッ!",
"よろしい! それじゃここで大きな声でそれを証拠立ててみようか? それとも中へ入って客間で静かに話し合いますか?",
"いや、それじゃ中へ入ってもらいましょうか"
],
[
"それではお指図の通りに致します。必ず致しますから",
"必ず間違わないようにしてもらいたい"
],
[
"いや、そのままがいい。それについては後で手紙を出そう。もう狡るいことをするじゃないよ。さもないと――",
"大丈夫です! どうぞ私を信じて下さい",
"当日はあくまでもお前さんのもののように扱ってくれないと困る",
"どうぞ私にお任せ下さい",
"よろしい、安心していよう。では明日手紙を上げるから"
],
[
"じゃ、あの馬を持っていたんだね?",
"初めはつべこべと誤魔化そうとしたから、あの晩、いや朝のあいつの行動を正確に話してやったら、図星を指されたと見えて、とうとう兜を脱いだよ。僕が見ていたとでも思い込んだらしく。君はあの足跡が妙に爪先が角ばっていたのも、ブラウンの穿いていた靴がちょうどそれに適合する形だったのも、無論気がついたろう。そして部下の使用人にはこんなことが出来るものじゃないことも――だから、僕は毎朝あいつが一番に起きる習慣であること、あの朝も早く起きてみると、荒地によその馬がうろうろしているので、出て行ってみたところ驚いたことには、それが白銀号だった――白銀というのは額が真白なところから出た名なんだが、自分が大金を賭けてる馬の唯一の強敵が手に入ったんでびっくりしただろうと、そのことについて委しく話してやった。最初は、キングス・パイランドへつれて行こうとしたが、急に魔がさして、競馬のすむまでかくしておいたらという考えを起し、そっとケープルトンへつれ戻ってかくしておいただろうといってやったもんだから、あいつもとうとう降参して、どうかして自分が罰せられないですむ方法はないかと考えるまでになったんだ",
"だって、あの厩舎はグレゴリ警部が調べたんだろう?",
"馬の扱いもあいつぐらいになると、どうにでもぺてんの利くもんだよ",
"だって君は、ブラウンに馬を預けておいて心配はないのかい? あの馬に傷をつければ、どの点から見てもブラウンの利益になるんだのに",
"安心したまえ。ブラウンは掌中の玉のように馬を大切にするから。少しでも罪を軽くしてもらうには馬を安全にしておくのが、唯一の方法だと、ちゃんと心得ているんだ",
"だが、ロス大佐のあの様子じゃどんなことをしたって、寛大な処置をとりそうもないね",
"この事件は大佐の一存じゃきまらないんだ。僕は自分の思う通りに歩を進めていいように話しておく。そこは警察の役人でない有難さ。君はどう思ったか知らないが、大佐の態度は僕には少々素気なさすぎた。だから費用は先持ちで、ちょっとばかり面白いことをしてやろうと思うんだ。馬のことは大佐には何んにもいわずにおきたまえ",
"いいとも、君が許すまでは黙ってるよ",
"もっともこんなことはジョン・ストレーカ殺しの犯人問題に比べれば、ごく些細なことだがね",
"じゃ、これからその方に専念するつもりなのか?",
"いいや、夜行列車で一緒にロンドンへ帰ろう"
],
[
"ロンドンなんかからわざわざ探偵を呼んでどうも馬鹿を見ちゃった。あの男が来てからこればかりも捗ったことか!",
"少なくとも白銀が競馬に出ることだけはホームズは保証しましたよ"
],
[
"調馬場の柵の中に羊が少しいるようだが、誰が世話するのかね?",
"私がやりますんで",
"近頃何か羊に変ったことはなかったかね?",
"へえ、大したこともございませんが、三頭だけどういうものか跛になりましたんで"
],
[
"極めて重大視します",
"その他何か私の注意すべきことはないでしょうか?",
"あの晩の犬の不思議な行動に御注意なさるといいでしょう",
"犬は全然何もしなかったはずですが",
"そこが不思議な行動だと申すのです"
],
[
"私は二十年来競馬場に出入りしているが、只今のようなお訊ねを受けるのは始めてです。あの馬の純白の額と、斑の前脚とを見れば、子供にだって分ることです",
"賭けはどんな模様です",
"その点だけはどうも妙です。昨日なら十五対一でも売り手があったのに、だんだん差が少くなって、今では三対一でもどうですかな"
],
[
"おや、これはどうだ! 白銀はちゃんと出ているな!",
"白銀は五対四!"
],
[
"白銀は五対四! デスボロは十五対三! 場に出れば五対四!",
"ぞろぞろ出て行くぜ"
],
[
"ああ、六頭全部いる!",
"六頭全部だ! してみると私の馬もいるんだな!"
],
[
"だが、白銀はいない! 黒帽赤短衣はここを通らなかった",
"いや、まだ五頭通っただけです。今度のがそうに違いありません"
],
[
"あいつには額に白い毛がない! ホームズさん、あんたは一体何をやったんですッ?",
"まあ、まあ、あの馬がどんなことになるか見ていましょう"
],
[
"しかし、正直なところ私には何が何んだかさっぱり分りません。ホームズさん、もういい加減に教えて下すってもよくはありませんか",
"申し上げましょう。何もかも申し上げましょう。みんなであっちへ行って馬を見てやりましょう。ここにいますよ"
],
[
"この馬の顔と脚とをアルコールで洗っておやりなさい。そうすればもとのままの白銀だということが分りますから",
"えッ! これあ驚きましたな!",
"あるいかさま師の手に入っていたのを見つけ出して、勝手ながらその時のままの姿で出場させたわけです",
"どうもあなたの慧眼は驚くべきものです。馬は非常に調子がいいようです。全く今までになかったいい調子です。あなたの手腕を疑ぐったりして、なんと謝罪していいか分りません。こうして大切な馬を取戻して下すったのですから、この上はジョン・ストレーカ殺しの犯人を見つけて下されば、これに越す幸いはありません",
"加害者も捕えておきました"
],
[
"えッ! 捕まったって? どこにいます? それでは?",
"ここにいます",
"ここに? どこです?",
"今現に我々と一緒にいます"
],
[
"不届きな奴め! そんなことを企みおったのかッ",
"そこでジョン・ストレーカがなぜ馬を荒地へつれ出したかは説明がつきます。馬のような敏感な動物はナイフの先をちくりと感じただけでも烈しく騒ぎたてて、どんなによく眠っている者をでも起してしまいます。だから、その手術は屋外の広い場所ですることが、絶対に必要だったのです",
"私が盲目だった。だから、蝋燭を持っていたり、マッチをすったりしたんですな"
],
[
"驚いた! 実に驚きました。まるで傍で見ていたようです!",
"正直に申すと、私の最後の断定は極めて大胆でした。ストレーカのような狡猾な男が、この難しい腱の手術をするに、少しも練習なしにいきなりやるはずはないと気がついたのです。ではどうしたら練習が出来るでしょう? その時、私はふと羊のことを思い、訊ねてみると、自分でも驚くほど私の推定が当ってるのを知りました",
"これで何もかも完全に判明しました",
"ロンドンへ帰ってから帽飾店へ行ってみますと、ストレーカはダービシャといって、特に高価な服の好きな、見栄坊の妻を持ったその店の上客だということが分りました。この女がストレーカを借財で首のまわらぬまでにし、遂にこの悲惨な結果に終った陰謀を企ませたことは申すまでもありません",
"すっかり分りましたが、一つだけまだお話し下さらないことがあります。馬はいったいどこにいたのですか?",
"馬ですか、馬は逸走してしまって、あの附近のある人の保護を受けていたのです。その辺のことは大目に見ておかなければなりますまい。ああ、ここはどうやらクラパムの乗換駅ですね? ヴィクトリア・ステーションまではもう十分とかかりません。大佐、私のところへお寄り下すって、葉巻でもおやりになりませんか? この他に何かお訊ねになりたいことでもありましたら、何んなりと喜んでお答えいたします"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
1930年(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の書き換えをおこないました。
「彼奴→あいつ 飽くまでも→あくまでも 彼方→あっち 或は→あるいは 如何→いか 何時→いつ 一旦→いったん 恐らく→おそらく 彼→か 且つ→かつ 可成り→かなり かも知れ→かもしれ 位→くらい・ぐらい 毎→ごと 悉く→ことごとく 而・然→しか 暫く→しばらく 即ち→すなわち 是非→ぜひ 只→ただ 但し→ただし 忽ち→たちまち 度→たび 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て頂・戴→ていただ て居→てお て見→てみ て貰→てもら 何→ど 何処→どこ 何方→どっち 兎に角→とにかく 止度なく→とめどなく 飛んでもねえ→とんでもねえ 尚お→なお 何故→なぜ 筈→はず 殆んど→ほとんど 正しく→まさしく 又→また 間もなく→まもなく 満更→まんざら 尤も→もっとも 僅か→わずか」
※底本中、混在している「フィツロイ」「フィッロイ」、「シンプソン」「シムソン」、「ウェセックス」「ウェセクス」、「灯」「燈」はそのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(天野まい)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年6月1日作成
2005年11月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"そんなこともあります",
"何かそのほかに徴候はないかね。一番最初の徴候は何かね",
"頭痛、耳鳴り、眩暈、幻想……まあ、そんなものです"
]
] | 底本:「世界怪談名作集 下」河出文庫、河出書房新社
1987(昭和62)年9月4日初版発行
2002(平成14)年6月20日新装版初版発行
入力:門田裕志、小林繁雄
校正:大久保ゆう
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043471",
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"副題": "09 北極星号の船長 医学生ジョン・マリスターレーの奇異なる日記よりの抜萃",
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} |
[
[
"それはこの問題を解決するのには、ちと無理な方法のようだね",
"最も不自然な方法だよ"
],
[
"君は、僕が、もうだいぶ前に、ポーの書いた写生文の一つの中にある一節を、読んだことを覚えてるだろう。あの中に、用意周到な推論者が、その友達の腹の中の考えを見抜いてそれに従う所が書いてあったが、この場合もそれと同じことなんだ。――僕に云わせれば、僕は君が怪しいと疑っているような癖がいつもあるんだよ",
"いや、そんなことはないよ",
"たぶん、これは君の言葉からじゃなくって、君の目つきから気づいたことなんだろうと思うのだけど、ワトソン君。――君は今新聞をほうりなげて、何か考え出したろう。それを見た時、僕はそれに気がつくことが出来たんだ。そして結局君の意見に同意することになったんだよ"
],
[
"今、君は、ある推理家が、彼が注意して見守っている一人の男の動作から、彼の結論を引き出したと云う例をひいていたね。もし僕の記憶に間違いがないとしたら、たぶんその場合には、その相手の男は石につまずいたり、星を眺めたり何かそんなことをしたはずだ。ところが僕は静かに僕の椅子に腰かけていたのだけれど、でも、何か手がかりになるようなものを、君にあげることが出来たのかしら?",
"君は故意にゆがめて考えているよ。――一体人間の顔と云うものは、感情を現わす道具として人間に与えられたものなんだ。そのうちでも君の顔なんかは、最もよく感情を現わす顔なんだよ",
"と云うと、つまり君は、僕の顔から僕の思索の筋みちを読んだと云うわけなんだね",
"そうだ、君の顔から、と云うよりも特に君の目からだ。――君はどんな風にして君の瞑想が始まったか、もう一度思い出してくれることは出来ないかしら?",
"そうだね、出来ないなあ",
"それなら君に話して上げよう。――君は、新聞をほうりなげてから、――実を云えば君がそうしたからこそ、僕は君に注意したのではあるが、――ぽかんとしたような表情をして、しばらく坐っていた。その時君の両眼は、新しく額縁に入れたゴルドン将軍の絵の上にじっとそそがれていたろう。そして君の顔を見ると、たしかに何か瞑想しているらしい表情の流れのあるのに気がついたんだ。――やがて君は、君の本棚の上にあるヘンリー・ワァード・ビーチャーの額縁なしの肖像画へ目を移した。それから壁へ目をやった。無論、君がそう云う風に目を移していった目的はハッキリしているさ。君はその肖像画を額縁に入れたら、壁のむき出しになっている所へかけて、ゴルドンの肖像画とつり合いのとれるようにしようと思っていたんだろう",
"実に君は気味の悪いように僕の気持ちをよく見といたんだね"
],
[
"迷うことなくハッキリ分かったよ。――いいかね、それから君の考えはまたビーチャーに戻って来た。そして君はビーチャーの性格を研究でもするかのように、じっと熱心にそれを見詰め出したろう。がやがて君は目をすぼめるのをやめにした。しかし君は依然としてその肖像画を眺めつづけていたが、その時の君の顔は何かものを考え耽ってる顔つきだった。――君はビーチャーの生涯におきたいろいろな出来事を思い起していたに違いないんだ。僕には、君が、ビーチャーがあの革命戦争の時、北方の利益のために企てた使命のことを考えていたと云うことが、確かに分かってるんだよ。なぜなら君はいつだったか、彼が我々国民の動乱を蒙らされたと云うことについて、ひどく慷慨していたことのあったのを、僕は覚えてるから。だから君が、もしビーチャーのことを考え起こす時は、必ずそのことを考えないではいられないと、僕は思うんだ。――それからその次の瞬間だが、僕は君がその肖像画から目を離したのに気がついたんだ。僕は君の心が、革命戦争のことにむいて来たな、と推測したね。とそう思うと、君は唇を固く結んで、眼を輝かし、両手をきつく握りしめていたじゃないか。僕はそれを見て、君はあの革命戦争の戦いの時、両軍によって示された華々しさを夢見てるんだな、とそう想像したよ。――ところがその時、君の顔は再び物悲しそうになった。そして君は頭を振ったろう。君はその時たしかに、悲しさと恐ろしさと、それから人生の淋しさを感じていたに相違ないんだ。君の手は君の古い傷痕のほうへのびていった。そして君の唇にはかすかな笑いがふるえていた。こうしたことは僕に、君の心の上におかれたこの国際的な問題を解決する上に、不思議な珍らしい一面を見せてくれたんだ。――つまりこういう点から、僕はそれが不自然なやり方だと云う君の意見に同意したわけなんだが、僕は喜んでいるよ、僕の推断の間違いをすべて正された事を……",
"全くその通りだ"
],
[
"君にそう説明されてみると、僕は実際前の時と同様、驚かされるね",
"ワトソン君、それは表面だけのことだよ。もし君がこの間、君の注意深い所を見せてくれなかったら、僕はおそらく君の注意の動きなんかに目をつけやしなかったろう。――それはそうと、夕方になったら、少し風が出て来たらしいね。どうかね、ロンドン中をぶらつくのは?"
],
[
"あまりお待たせしなかったようで、幸いでした",
"別当におききになりましたか?",
"いや、サイド・テエブルの上の蝋燭を見れば分かります。――まあ、どうぞ、おかけ下さい。――どんな事が起きましたかな",
"私は医者のペルシー・トレベリアンと申すものです"
],
[
"ブルック街四百三番地に住んでおります",
"あなたは神経傷害について論文をお書きになった、あの方ではありませんか?"
],
[
"私の本の発行者は、その売行きが悪いと言って、すっかり私の勇気をくじいてしまいました。――ですが、あなた御自身も、やはり医業をおやりなのですか?",
"私は退職外科軍医ですよ",
"そうですか。私はずっと精神病ばかりをやっております。私はそれをうんと研究してみたいと思っているのですが、無論なんですよ、人間は最初に初めた事をやり通すべきなんですがね。――しかし、こんなことをしゃべっている時じゃありませんね、シャーロック・ホームズさん。――実はこうなんです。最近、私のブルック街の家に、実に奇妙な事件が持ち上ってるんです。で、今夜はとうとう、明日まで待つことが出来ずに、あなたのお力を拝借にやって来たわけなんです"
],
[
"どうか、あなたをなやましていると云うその事件を、こまかく詳しくお話しになって下さいませんか",
"その一つ二つは実際つまらない事なんです"
],
[
"では何か悪い習慣は?――お酒をお飲みになるなんてことはないんでしょう?",
"もちろん、飲みません",
"至極結構。そりア結構です。――しかしもう一つきかなくちゃならないことがあるんです。それなら、それだけの条件が揃っているのに、なぜ開業なさらないのですか?"
],
[
"私は何もかも洗いざらいかくすことなく卒直に申しますよ。そのほうが、あなたにもいいでしょうし、また私にも大変都合がいいんですから。――実は、私はここに数千ドル何かに投資したいと思ってるお金があるんです。そこで私はそれをあなたにかけてみたいと思ってるわけなんです",
"しかしそれはどう云うわけでそうお思いになったのですか?"
],
[
"理由ですか?――それはつまり他のものの投機をやるのと同じような理窟からです。でもその中でこれは一番安全ですからね",
"で、もしそうして下さるとしたら、私はどう云うことをしたらよいのでしょう?",
"それをお話ししましょう。――私は家を建てて、それをすっかり飾りつけて、召使いたちの給料を払って、ほうぼうへ宣伝をする、――それは私がやります。――ですからあなたはただ診察室にすわっていさえしたらいいのです。――おお小使いやその外身の廻りのものは私がみんな心配してあげます。その代り、あなたが稼いだ四分の三を私に下さい。そしてその残りはあなたの収入と云うことに……"
],
[
"私はいつも例の発作が起きた後は、心に雲がかかったようになって、その前にあったことをすっかり忘れちまうのです。だものですから昨日も発作からさめてみますと、見たことのない変な部屋におりますでしょう。で、これは怪しいぞと思いながら、立ち上って、ふらふらと表の通に出ていってしまったんでございます。ちょうど先生が部屋にお見えにならない最中に……",
"私はまた……"
],
[
"見ていると親じが待合室の入口からフラフラと這入って来るんでしょう。ですから、これはてっきりもう診察が終っちまったことだろうと思いましてね、――家へ帰って親じから事情をいろいろきいてみるまで、ちっとも気がつかずにいたんです",
"そうでしたか、そりゃどうも……"
],
[
"もしそれから一歩でも近よってみろ、俺はブッ放すから……",
"ブレシントン氏、何を乱暴なことをなさるんです"
],
[
"実は大事件が起きましてね、どうしてもあなたに御足労願わなければならなかったのです。おそらく今まで、私ぐらい、あなたのお力を必要としていたものは、この世界中に一人だってないでしょう。――たぶん、もうトレベリアン博士が、このけしからん闖入者について、あなたにお話ししたこととは思いますが……",
"ええ、もう大体のことはうかがいました"
],
[
"だが、一体その二人の男と云うのは何者なんですか? ブレシントンさん。そうして一体、なんのためにあなたにそんな迫害を加えようとするんですか?",
"そうです、そうです、そのことです"
],
[
"それは無論、云いにくいんです。ホームズさん、私はそれについて、あなたにお答えすることは出来ないでしょう",
"とおっしゃるのは、あなたは知らない、と云う意味なんですか?",
"どうぞ、まあ、こちらへいらしって下さい。――まあどうか、こっちへお這入りになって下さい、お願いですから"
],
[
"しかしあの問題のどん詰りまで行けば、面白い事件なんだよ",
"そうかねえ、僕には全然分からない"
],
[
"とにかく何かの理由で、このブレシントンをつけねらってる男が二人、――いや、ことによるともっといるかも知れないが、少くも二人いる、と云うことはたしかなんだ。僕は最初の時もそれから二度目の時にも、例の若い男がブレシントンの部屋に忍び込んだに違いないと思ってるんだ。そしてその間片方では、共謀者が、実に巧みな計略で、例の医者を診察室の中へとじこめちまっていたんだ",
"だがしかし一人の男は顛癇病の患者だったのじゃないかね!",
"なあに、君、ありア仮病さ、ワトソン君、なんだか専問家に僕のほうで教えるような形になって変だけれど、その真似をして仮病をつかうぐらいのことは何でもないんだよ。僕にだって出来る",
"ふむ、――で、それから?",
"それからだね、前後二回とも、ブレシントンが外出中のことだったのは、偶然にそうなったのだと云うことだ。それは、つまり診察してもらうのに、殊更に夕方のそんな変な時間を選んだと云うのは、そんな時間なら待合室には誰もいないのに相違ないからだったのだ。ところが、それが偶然にもブレシントンの毎日の規則と合ってしまったわけなんだ。その二人の男は全くブレシントンが毎日夕方になると散歩に出ることなどは知らなかったのだ。――無論、もしその二人の男が、何か略奪をする目的でやって来たのだとしたら、あのブレシントンの部屋に少くもその辺を探し廻ったらしい形跡がなくてはならない。その上、僕は、大ていの場合、人の目を見れば、その男が何か心に恐怖を持ってる場合には、ちゃんと見抜くことが出来るんだ。――そこで僕はこう見当をつけた。その二人の男は、ブレシントンを讐とねらってる男に相違ない、とね。――とすれば、その二人の男が何者だか、ブレシントンは知っていなければならないはずだし、それだからこそ彼はそれを隠して知らないような顔をしているのに違いないのだ。だが、見たまえ、あしたになると、あの男はきっと正直に何もかも打ちあけて話すようになるから……",
"なるほど、それはたしかにそうかもしれないね"
],
[
"何か起きたのかい",
"いいや、例のブルックストリートの事件だよ",
"ああ、――じゃ、何か新しい知らせでもあったんだね",
"悲劇的な、しかも至ってまぎらわしい知らせなんだ"
],
[
"一体、どうしたと云うんです?",
"ブレシントンが、自殺をしちまったんですよ"
],
[
"巡査はもうとうに来て二階にいます。私はただもうふるえているばかりです",
"あなたが自殺を見つけたのはいつ頃ですか?",
"彼は毎朝早く、きまってお茶を一杯飲むのが習慣だったんですが、今朝も七時に女中がお茶を持って部屋に這入って行くと、その時には既に、彼は部屋の真ん中にブラさがっていたのだと云うことです。――いつもあの重いランプをかけることにしていた鈞に、紐をむすびつけて、昨日私たちに見せたあの箱の上から飛んでぶらさがったものらしいですね"
],
[
"あなたがいらしって下すったのは、大変有難いです",
"お早う、レーナー君"
],
[
"余計な奴が闖入して来たと思わないでくれたまえよ。――君はこの事件を引き起こした原因になるべきいろいろな出来事について、きいたかね?",
"ええ、大体はききました",
"で、君の意見はどうかね?",
"私の見ました限りでは、この男は何かの恐怖のために精神に異常を来たしたものじゃないかと思うんです。――ごらんのようにベットには寝ていたらしい形跡があり、しかも彼のからだの形がそのまま深く残っています。――普通、自殺と云うものは、朝の五時頃に行われるのが一番多いと云うことはあなたも御存じの通りですが、彼の自殺もやはりその頃に行われたのじゃないかと思うんです。――しかしいずれにしてもこれは、慎重に考うべき事件らしいような気がします",
"筋肉のかたまりかたから見ると、死んでから三時間ぐらい経過していますね"
],
[
"螺旋まわしと二三の螺旋を手洗い台の上で見つけました。それから前の晩にはよほどひどく煙草を吸ったらしい紙を見ました。ここに暖炉の中からひろい出した葉巻の吸いさしが四つあります",
"ふーむ"
],
[
"彼の葉巻パイプを持ってますか?",
"いいえ。そんなものは見えないようでしたよ",
"じゃ、葉巻入れは?",
"ああそれは上衣のポケットの中にありました"
],
[
"それから二つの口はあんまり鋭くない刄物で切ってあるけれども、他の二つは丈夫な歯でくい切ってある。――レーナー君、これは何だね、自殺じゃないね。これは実に巧妙に仕組んである、冷酷な殺人だよ",
"そんなことはないでしょう"
],
[
"なぜさ?",
"なぜって、そうじゃありませんか、首をくくらせるなんて、そんな気のきかない人殺しの仕方なんてあるものですか",
"いや、それは僕たちが発見した時の死人の様子なんだよ",
"しかしそれならどこから這入って来たんでしょう?",
"前の入口からさ",
"でも今朝は、そこにはちゃんと閂がかかっていましたよ",
"そりア仕事がすんでからかけたからさ",
"だが、あなたはどうしてそれをご存じなんです?",
"その跡がちゃんとあるよ。――ちょっと待ちたまえ、今、君にもっと不思議なことを見せて上げるから"
],
[
"ブレシントンは無暗に火事をこわがったんです。だものですから、もし火事がおきて来て階段が燃えるようなことがあった場合、窓から逃げられるようにと云うのでこの綱を、いつも自分の側においといたんです",
"なるほどね、その綱が、彼の生命を救うどころかかえって奪ってしまったと云うわけなんですね"
],
[
"それで大体事件は想像がつきましたよ。――きょうの午後までには、すっかり判明させることが出来ると思います。――あの暖炉の上のブレシントンの肖像をとりおろしてもいいでしょう。ちょっと調べてみたいことがあるんですが……",
"けれど私にはまだ、何も話して下さらないじゃありませんか"
],
[
"この事件の中には、三人の男がいると云うことです。――若い男と年をとった男とそれからもう一人、――その男についてはまだどんな男か、私は手がかりがつかないでいるんですが。――しかしとにかくその初めの二人の男ですね、それは例のロシア貴族とその息子とに化けて来た男であることは、申上げるまでもないことでしょう。その男たちは、誰か家の中に加担した男がいて、その男の手引きで、仕事をしたらしいと思うんですがね――探偵、あなたにちょっと御注意しておきたいことは、ここの、案内のボーイですね、あれを捕えてお調べになってみたら。――なんでも最近お雇いになったったと云うお話でしたね、博士……",
"ええ、あの若僧が見えないんですよ。今朝から"
],
[
"三人の男たちは、爪さきで階段を昇って来たんですね、――年をとった奴が最初で、それから若い男、それからその分からないもう一人の男が一番あとから……",
"確かにそうだね、ホームズ君"
],
[
"何か変ったことがありましたかな、探偵",
"例のボーイを捕えましたよ",
"そりア素適な手柄です。――私はまた例の奴等の正体をひっつかんで来ました",
"何者だか分かったんですか"
],
[
"少くも奴等が何者であるかと云うことだけは内偵して来ました。――私の睨んだ所によると、このいわゆるブレシントンと云う男も、それからブレシントンを殺ろした男も、共に探偵本部ではよく知られている男だったんです。――奴等の名前は、ビッドルとヘイワード、それからモーファット、とこの三人です",
"ああ、それじゃ、あのウォーシントン銀行事件の発頭人じゃありませんか"
],
[
"そうするとブレシントンはシュウトンに違いありませんね",
"そうなんですよ"
],
[
"あの事件の中には五人の人物がいる。すなわち今いった四人と、それから五人目の男はカートライトと云ったんだ。トビンと云うその銀行の留守番を殺ろして、七千磅を奪って逃たんだが、それは一八七五年のことだったんです。ほどなく五人のものはみんな捕まったんですが、相憎なことに証拠がすこぶる不充分だった。ところがこのブレシントンすなわちシュウトンなる男が、この男がまあ一番悪がしこかったわけなんでしょうが、たちまち寝返って密告しちまったんです。そこでブレシントンの密告のおかげでカートライトはとうとう主謀者と云うので死刑にされ、他の四人のものはそれぞれ十五年間ずつの刑を着せられたわけです。――が、やがてそれらのものも、各々特赦などに会って、十五年たたないうちにまた社会へ出て来ることになったわけです。そこで彼等は、自分たちを売って刑を着せたり、また仲間の一人を死刑にしてしまったりした男に、復讐をしようと計画したわけなんです。――彼等は二度計画して、二度とも失敗したんです。そして三度目にようやく成功したわけなのです。――と、まあ以上のようなわけなんですけれど、まだどこかお分かりにならない所がありますから、トレベリアン博士",
"いえ、実によく分かりました"
],
[
"そう云えば思い出します。彼等が助かってまた社会へ出て来たと云う記事が新聞へ出た日、彼はひどく神経をいためていました",
"そうでしょう。――ですから彼が起こした強盗騒ぎなんか、みんな嘘なんですよ",
"けれど、どうして彼はそれを打ちあけなかったんでしょう?",
"それはなんですよ、自分の昔の仲間がどんなに復讐心が強いかと云うことをよく知っていたんで、出来るだけ長く、誰からも自分の正体をかくしておきたかったんでしょう。――それに彼のその秘密は実際破廉恥なものですからね、それを漏らす元気はなかったんですよ。――しかしこうして彼が殺ろされてみると、彼は英国の法律によって保護されて生きていた人間なんですから、よし一度はその保護の盾を破られて殺されたとは云え、英国の正義の剣は、彼のために正当な仇を報じてやらなくてはなりますまい、ねえ探偵"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶」平凡社
1930(昭和5)年2月5日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「恰も→あたかも 貴方→あなた 或る→ある 如何→いか 所謂→いわゆる 於て→おいて 恐らく→おそらく 彼→か 返って→かえって か知ら→かしら 難い→がたい かも知れ→かもしれ 位→くらい、ぐらい 極く→ごく 即ち→すなわち 是非→ぜひ その癖→そのくせ 大分→だいぶ 沢山→たくさん 只今→ただいま 忽ち→たちまち 度→たび 多分→たぶん 給え→たまえ 丁度→ちょうど て見→てみ で見→でみ 疾うに→とうに 所が→ところが 所で→ところで 尚→なお 乍ら→ながら 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦→また 迄→まで 勿論→もちろん 余程→よほど」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※底本中、混在している「ペルシー」「ペルシイ」、「ロシア」「ロシヤ」はそのままにしました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(畑中智江)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043524",
"作品名": "入院患者",
"作品名読み": "にゅういんかんじゃ",
"ソート用読み": "にゆういんかんしや",
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"原題": "The Resident Patient",
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"分類番号": "NDC K933",
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"公開日": "2004-10-03T00:00:00",
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"名": "アーサー・コナン",
"姓読み": "ドイル",
"名読み": "アーサー・コナン",
"姓読みソート用": "といる",
"名読みソート用": "ああさあこなん",
"姓ローマ字": "Doyle",
"名ローマ字": "Arthur Conan",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1859-05-22",
"没年月日": "1930-07-07",
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"底本名1": "世界探偵小説全集 第三卷 シヤーロツク・ホームズの記憶",
"底本出版社名1": "平凡社",
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[
[
"……何せ、早く買わねどすぐ売り切れてしまうで……。",
"んだどもや。この頃は何でもそうだ。"
],
[
"……んなら兄ちゃ、ついでに加藤鍛冶屋に寄って貰うべかや。お父さが注文してた餅わたし、はァ出来た頃だと思うでな。",
"いいとも、寄ってくるべ。"
],
[
"実はなお母さ、お母さに嘘言をついてすまなかったげんと、今日俺が八軒町さ出たのは大事なわけがあったでなん。",
"ふ、おなご(女子)にでも会って来たのかや。"
],
[
"んだぞいお母さ、ほんとにお母さの言う通りだで……んでも俺の女子でねえ、惣の女子だ。",
"なにや?"
],
[
"兄ちゃ、それほんとかや。",
"俺、今日ちゃんと会って来たで。",
"ど、どこの女子だべ?"
],
[
"兄ちゃにばかり心配させてなや。惣の奴ったら、なんつ奴だかま……。",
"お母さ、俺の心配なんど問題でねえでなん。何てたって惣は戦地だし……そらァお父さにもお母さにも文句はあるべが、こうなってからははァ、何とかきまりをつけねなんねで。",
"んでもな……。"
],
[
"んでもな……お母ァと友の前だがな、はははは、俺のな、俺のしくじりを惣の野郎がまたやるとなったらどうしたもんだ? や? 俺の失敗をよ。",
"そ、そうだこと今更言って!"
],
[
"ユミちゃんもはァ知ってるべが……今日、惣の嫁様つれて来るで、これからよろしく頼むぞや。",
"あら、今日連れて来んの?"
],
[
"惣兄ちゃのあれっていうと、みんな大騒ぎをするもんだ。",
"はははは。"
],
[
"全くだ、大騒ぎをするもんだで。",
"どうせ早く連れて来てしまうといいわ。そしたらみんな落ちつくべから。"
],
[
"決して無理な仕事なんどはさせないで、お父さんもその点は安心して貰いやす。",
"なァにお前様、からだはうんと動かした方が、かえって丈夫な嬰児が生れるもんでがすて。"
],
[
"石鹸、俺の分まで持ってけよ、俺ァ友達から何とかして貰うからいいんだぜ。",
"そう、なら善ちゃんの分まで貰ってくわ。"
],
[
"姉さん、毛布持ったのか。",
"善ちゃんが困るったら。"
],
[
"なあに、村の生活にもすぐ馴れるでな。",
"わたし、何でもするつもりですから。",
"んだげんと、惣が帰るまでは大事な預りものだで。"
],
[
"……まあ、紙漉きの方なんどは手伝うに及ばねえで、縫い物でもして貰うことにするべや。",
"わたし皆さんに気に入られるかどうか心配ですの。"
],
[
"俺が背負うべか。",
"いや、あねさの荷物を持ってくれ。"
],
[
"工場に行きたいの?",
"ん、高等科を出たら行きてえんだ。"
],
[
"惣はどうしてるべやな?",
"元気ですわきっと、わたし、夢も見ませんもの。"
],
[
"ユミちゃんが駄目としたって、ほかにいくらもあると思うわ。",
"ユミちゃんだったらいいんだがなァ。",
"兄さんはうちのひとなんかと違って堅いから……。"
],
[
"やっぱりはァ、おらのようなおなごのものでは駄目ですべか。",
"お母ァがか。"
],
[
"ネリもやっぱり今までの半分にして置くべかない?",
"んだでな……。"
],
[
"おらな兄ちゃ、夏中ずっと漉いてみるべと思うでな。いろいろ考えてみたが、そうでもしねえと……。",
"夏紙なんどお母さ……。"
],
[
"だがなお母さ、あんまり無理はしねえことだでなん。",
"ん、おらは大丈夫よ。兄ちゃこそ気をつけろや。"
],
[
"これからどうだことがあったって……兄ちゃの前だがな、三つ骨が並んで来たって、お母さは決して動顛しねえでな。",
"んなら俺も安心した。"
],
[
"あした行くってのに漉いてんの?",
"んだから漉いてるで。"
]
] | 底本:「芥川賞全集 第三巻」文藝春秋
1982(昭和57)年4月25日第1刷
底本の親本:「和紙」築地書店
1946(昭和21)年7月発行
初出:「東北文學」
1943(昭和18)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※(第十八回 昭和十八年下半期)芥川賞受賞作品です。
入力:kompass
校正:持田和踏
2023年5月8日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "059020",
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"作品名読み": "わし",
"ソート用読み": "わし",
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"初出": "「東北文學」1943(昭和18)年4月",
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"名": "薫",
"姓読み": "とうのべ",
"名読み": "かおる",
"姓読みソート用": "とうのへ",
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"姓ローマ字": "Tonobe",
"名ローマ字": "Kaoru",
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"没年月日": "1962-06-25",
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[
[
"さうお前は海?",
"山は大人の人と歩いてばかりゐて詰んないんですもの。"
],
[
"子供さんは無邪気ですからね。",
"京子ちよつとお見せ。開けてみよう。"
],
[
"何に、それ。",
"債券だよ、きつと。ほらね。復興債券だ。"
],
[
"京ちやんは運がいいぞ。この債券が又当るかも知れないぞ。事によると三千円くらゐ。",
"それはいつ抽くの。",
"いつだか判らないけれどもね。",
"厭だ!",
"兎に角お父さん、京ちやんの洋服はただになつてしまつた訳ですからね。パンツや何か少しばかり買つたにしても、一円いくらかのお釣が来たことになるんだからな。",
"さう。買つた家へちよつと見せてやらうよ。"
],
[
"お父さんの夏の寝蒲団がないんで、何か買つてあげたいといふもんですから……",
"夏蒲団? 大変だね。"
],
[
"暑くて暑くて、私卒倒しさうでしたわ。頭脳が変になつてしまひましたわ。",
"さう。何か冷たいものでも飲んだら。"
],
[
"すみませんがお冷を一杯。",
"さう。しかし何だつて、こんなことするんだい。",
"冷蔵庫か扇風機をとも思つたんですけれど、あんなものお嫌ひだから。",
"一体何だい。"
],
[
"好いた抦がありませんでね。若しお厭でしたら取替へる約束をして来ましたの。",
"好いでせう。さつぱりしてゐて。"
],
[
"へえ――そんなものを僕は着ないよ。",
"好いですよ。お父さんなんか……",
"夏は少しさつぱりしていらした方がね。"
],
[
"ありますけれど、随分汚れてゐますから。",
"さう。出してごらん。"
],
[
"これ洗濯したら何うかね。",
"去年しようと思つたんですけれど。"
],
[
"え、それも釈いて洗張りしたまゝ仕舞つてありますの。去年の夏する積りで、あのお婆さん、してくれなかつたものですから。",
"みんな出してごらん。"
],
[
"あるぢやないか。それなら新しく買ふ必要はなかつた。綿もあるかね。",
"ございます。打返して、足りない分を買ひ足しませば。"
],
[
"ああ、さう。持つて行くものは纏まつてゐるのか知ら。",
"え、もう大概よろしいんでせう。小さいお嬢さんは御自分のものを、ちやんとお纏めになつて……"
],
[
"それから二番目のお坊ちやんが入らつしやいました。お出かけになると直ぐその後へ。",
"さう。そして何うした?"
],
[
"こゝならお前もさう退屈しないだらう。",
"こゝにゐれば、僕は海へ行かなくとも可いです。"
],
[
"さう、何だつて……",
"若旦那からお電話で、先生にちよつと電話口まで出ていただきたいと仰やるんださうです。仕事の都合もあるんだから、強ひておいでにならなくともいいけれど、お小遣がすつかり無くなつてしまつたんですて。"
],
[
"お帰りになつたら、京橋のお家へちよつとお電話をおかけ下さいつてお言伝でした。",
"さう、ぢやちよつとかけて見るかな。"
],
[
"さう。だつて一切通ひで取ることにしてあるんだがね、小遣も春代において来たんだけれど。",
"さうですか。でも何だか助舟がほしいやうな声でしたよ。",
"子供のお相手が詰らんからだよ、しかし明日は行かう。"
],
[
"それにしても、そんな黒いのはないだろ。",
"笑談でせう。まだまだ焦げたのが沢山ゐますよ。"
],
[
"こんなところは、缶詰なんか持込むよりか、やつぱり新らしい魚をうんと食べた方がいいですね。",
"ところで都会といふものは悪いもんで、汽車がついてから、好い肴はみんな東京の人に食はれてしまふんでね。早晩こゝいらも逆輸入つてことになるかも知れないよ。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「新潮 第二十六年第十号」
1929(昭和4)年10月1日発行
初出:「新潮 第二十六年第十号」
1929(昭和4)年10月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "055395",
"作品名": "青い風",
"作品名読み": "あおいかぜ",
"ソート用読み": "あおいかせ",
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"初出": "「新潮 第二十六年第十号」1929(昭和4)年10月1日",
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"底本名1": "徳田秋聲全集 第16巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
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} |
[
[
"もっともこの砂礫じゃ、作物はだめだからね",
"いいえ、作物もようできますぜ。これからあんた先へ行くと、畑地がたくさんありますがな",
"この辺の土地はなかなか高いだろう",
"なかなか高いです"
],
[
"ここの村長は――今は替わりましたけれど、先の人がいろいろこの村のために計画して、広い道路をいたるところに作ったり、堤防を築いたり、土地を売って村を富ましたりしたものです。で、計画はなかなか大仕掛けなのです。叔父さんもひと夏子供さんをおつれになって、ここで過ごされたらどうです。それや体にはいいですよ",
"そうね、来てみれば来たいような気もするね。ただあまり広すぎて、取り止めがないじゃないか",
"それああなた、まだ家が建てこまんからそうですけれど……",
"何にしろ広い土地が、まだいたるところにたくさんあるんだね。もちろん東京とちがって、大阪は町がぎっしりだからね。その割にしては郊外の発展はまだ遅々としているよ",
"それああなた、人口が少ないですがな"
],
[
"気立のいい女のようだが……",
"それあそうですが、しかしあれでもそういいとこばかりでもありませんね",
"何かいけないところがある?"
],
[
"この辺でも海の荒れることがあるのかね",
"それあありますとも。年に決まって一回か二回はね。そしてその時に、刳り取られたこの砂地が均されるのです"
],
[
"叔父さんは海は嫌いですか",
"いや、そうでもない。以前は山の方がよかったけれども、今は海が暢気でいい。だがあまり荒い浪は嫌いだね",
"そうですか。私は海辺に育ちましたから浪を見るのが大好きですよ。海が荒れると、見にくるのが楽しみです"
],
[
"だが会社の方へ悪いようだったら",
"それは叔父さん、いいんです"
],
[
"彼らは彼らで、大きくなったら好きなところへ行くだろうよ",
"それあそうや。私も東京へ一度行きます"
]
] | 底本:「日本文学全集 8 徳田秋声集」集英社
1967(昭和42)年11月12日発行
初出:「サンエス」
1920(大正9)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:岡本ゆみ子
校正:米田
2010年4月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050115",
"作品名": "蒼白い月",
"作品名読み": "あおじろいつき",
"ソート用読み": "あおしろいつき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「サンエス」1920(大正9)年7月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-05-26T00:00:00",
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"人物ID": "000023",
"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本文学全集 8 徳田秋声集",
"底本出版社名1": "集英社",
"底本初版発行年1": "1967(昭和42)年11月12日",
"入力に使用した版1": "1967(昭和42)年11月12日",
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"入力者": "岡本ゆみ子",
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[
[
"こんな流しは私ア初めて見た。東京には田舎のような上流しはありましねえかね。",
"ないこともないが田舎は何でも仕掛けが豪いで。まア東京に少し住んで見ろ。田舎へなぞ帰ってとてもいられるものではないぞ。"
],
[
"それに一昨日神田の方で、少し頼んでおいた口もありますで。",
"そうですかえ。けど、そんな人頼みをするより、いっそ誰にでも出来る氷屋でも出せアいいに。氷屋で仕上げた人は随分あるぞえ。綺麗事じゃ金は儲からない。",
"氷屋なぞは夏場だけのもんですッて。第一あんなものは忙しいばっかりで一向儲けが細い。"
],
[
"浜の弟も、酒で鼻が真紅になってら。こんらの酒じゃ、もう利かねえというこんだ。金にしてよっぽど飲むらあ。",
"あの衆らの飲むのは、器量があって飲むだでいい。身上もよっぽど出来たろうに。",
"何が出来るもんだ。それでも娘は二人とも大きくなった。男の子が一人欲しいようなことを言ってるけれど、やらずかやるまいか、まアもっと先へ寄ってからのことだ。"
],
[
"独りじゃどうだかね。",
"何、行けるとも。それは豪いもんだ。"
],
[
"小言でも言われただかい。",
"いいえ。"
],
[
"いいえ。",
"それじゃあすこが厭で逃げて来ただかい。逃げて来たって、お前の家はもう東京にゃないぞえ。"
],
[
"それにあすこはお父さんが、ちゃんと話をつけて預けて来たものだで、出るなら出るで、またその話をせにゃならん。お前は黙って出て来ただかい。",
"…………。"
],
[
"お茶屋ってどんなとこだか知らないが、堅気のものはまアあんまり行くところじゃあるまい。",
"ちゃんとした家なら、行ったっていいじゃないの。"
],
[
"その人はやっぱりあすこへ出入りする人でもあるだか。",
"一緒に働いている人さ。その人も近いうちにあすこを出るでしょうと思うの。",
"じゃ、その人はお前より年とった人ずら。自分が出るでお前も一緒に引っ張って行かずかという気でもあるら。"
],
[
"そろそろいい着物でも着たくなって来たら、そして先アどこだえ。",
"何だか浅草に口があるそうで……。"
],
[
"あんなにいびるくらいなら、余所へくれた方がいいわ。",
"あの年をしていて、わが子よりは内儀さんの方が可愛いなんて、お爺さんも随分だわね。"
],
[
"道理で似ていると思った。",
"同胞だって似るものと決まってやしないわ。",
"当然さ。親子だって似ないものもあるじゃないか。"
],
[
"お安さあのところへ時々送るという話だったじゃないかえ。",
"それはそうなんですけれど、ああしておれば何だ彼だと言ってお小遣いもいりますから……。",
"それじゃお前、初めの話と違うぞえ、そのくらいなら日本橋にいた方がまだしも優だ。続いて今までおればよかったに。"
],
[
"今下で、お婆さんにさんざん油を絞られましたよ。",
"お前のいるところはどこだえ。"
],
[
"それに私も、この年になるまで子がないもんですからね。",
"まだないという年でもござんすまいがね。弟だって、四十には三年も間のあることだもんだから……。"
],
[
"どっちにしても、叔父さんが今に資本を卸して、店を出さしてやるというこんだから、何が正雄の得手だか、それが決まると口を見つけて、すぐそっちへ行くことになっているだけれどね……。",
"正ちゃんは何がいいていうんです。"
],
[
"私三十なんて厭ですね。",
"厭だってしかたがない、もう目擦る間だから。それにお嫁にでも行って自分で世帯を持ってごらん、それこそすることは多くなって来るし、苦労は殖えるばかりだし、年を拾うのがおかしいくらい早いものですよ。"
],
[
"後を貰うものとすれば、やっぱりお寺まで行くべきものでしょうかね、弟もまだ四十にゃ二、三年間のある体だもんですからね、これぎり貰わないっていうわけにも行きませんか知らんて。",
"それアそれどころじゃない。",
"それとも、田舎から姑も来ているものですから、お葬式の時だけは遠慮すべきもんでしょうか。"
],
[
"それでお庄ちゃんは香炉持ち、正ちゃんがお位牌、それアようござんすね。",
"まアそういった順ですかね。"
],
[
"あの人たちは、あれでなかなか金目のものを挿していますよ。",
"何しろある身上だでね。"
],
[
"あの家に辛抱しておりさえすれば、今になってまごつくようなことはなかったに。",
"どうして辛抱しなかったの。"
],
[
"その家じゃ機もどんどん織るし、飯田あたりから反物を売りに来れば、小姑たちにそれを買って着せもしたが、私には一枚だって拵えてくれやしない。万事がそれだで私も欲しくはなかったけれど、いい気持はしなかった。それで初産の時、駕籠で家へ帰ったきり行かずにしまったというわけせえ。",
"その人はどんな人さ。",
"どんなって、馬飼うような人だで、それはどうせ粗いものせえ。それでも気は優しい人だった。今じゃ何でもよっぽどの身上を作ったろうえ。私はその時分は、身上のことなぞ考えてもいなかったで、お産のあと子供が死んでから、どう言われても帰る気になれなかった。それでも、その子が育ってでもいれば、また帰る気になったかも知れないけれど。",
"そうすれば、私たちだっていなかったかも知れないわ。"
],
[
"なあにそうでもない。あの男にとっては、大切な金だでやっぱり気を揉むだ。",
"金を返せという話にでも来たろう。"
],
[
"あなたの叔父さんは真実に深切よ。",
"深切だか何だか知らないけれど、家の叔父さんはもうお爺さんよ。",
"お爺さんだっていいじゃないの。一生一つにいやしまいし……。"
],
[
"そんなに酒を飲んでもいいらか。あの医師がああ言うくらいだで、どこかよい医師に診てもらうまで、むやみなことをしない方がいい。",
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],
[
"どうしてあんな病気が出たものかな。家にゃ肺病の筋はなかったがな。",
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],
[
"東京に育ったものには、百姓家にとても辛抱が出来まいらと思うが――。",
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"それでも、やれ田の草取りだことの、やれ植えつけだことの、養蚕だことのと言って、ずぶ働かないでいるわけにも行かないでね。",
"そんなことくらい何でもないじゃないか。気に苦労がないだけでもいい。またあのくらいよく出来た養子もないものせえ。働くことも働くし姑も大事にする。"
],
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"いいじゃありませんか。私は磯野さんに用事があって来たんですから。あなたこそ誰に断わって磯野さんなどをこんなところへ引っ張り込んでいるんです。",
"引っ張り込もうとどうしようと私の勝手ですよ。そのために、あなたにもお断わりしたんじゃありませんか。",
"いいえ、私はまだ磯野の口から、一言も断わりを言われたことはありません。あなただって、芳村さんという人があるじゃありませんか、あんまりずうずうしいことをなさると私がいいつけてやるからいい。",
"ええいいんですとも。芳村が帰って来たって、私逃げも隠れもするじゃありません。よけいな心配などして頂かなくとも、私が綺麗に話をつけて別れますよ。憚りながら、そんな意気地のないお増じゃありませんよ。"
],
[
"磯野さん、ちょっとそこまで私と一緒に来て頂戴。",
"お気の毒ですが行きゃしませんよ。磯野は私の良人です。"
],
[
"私もこれからちょいちょい寄せてもらいましょう。こんなところで一日も遊ばしてもらえると、どんなに気が晴れ晴れするか知れやしない。",
"ええ、東京から皆さん随分いらッしゃいますよ。"
],
[
"でもまア辛抱していさえすれば、あの家も始終はお前たち夫婦のものだでね。",
"そうは言っても、欲ばかしにかかってもいられませんよ伯母さん。"
],
[
"あの人が私を知っているとでも言うの。",
"何ですか、ただお目にかかりさえすれば解るからって……。"
],
[
"お前の親類が、座敷へあがって酒を飲むなんて、変じゃないか。",
"え、だから皆さんにもお目にかかるって、そう言ったんですけれど、阿母さんは加減がわるいし、あなただって、今まで寝んでいらしったじゃありませんか。またそれほど近しい親類でもないんですもの。あの人が思いがけなくここを通って、ちょっと寄ったまでなんです。",
"うまく言ってら。四ツ谷へ行って聞いて見るからいいや。",
"え、いいんですとも。私そんな嘘なぞ吐きゃしませんよ。"
],
[
"まアそんなことはどうでもいいや、お前にごまかされるような己じゃないんだからな。",
"それはそうですとも。私もこんなつもりでこちらへ来たんじゃないんですよ、話と実際とは、随分違っていたんですからね。"
]
] | 底本:「日本の文学 9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
初出:「読売新聞」
1910(明治43)年7月30日~11月18日
※初出時の表題は「足跡」です。
※「べッたり」と「べったり」の混在は、底本通りです。
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2003年2月27日作成
2017年7月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"好い気前だ。その根性骨だから人様に憎がられるのだよ",
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],
[
"いいえ真実。私この頃つくづくあの家が厭になってしまったんです",
"でも貴方にぬけられちゃ、お家で困るでしょう"
],
[
"嫌う嫌わないは別問題さ。左に右結婚したと云うのは事実だろう",
"だから、それが親達の勝手でそうしたんですよ。そんな届がしてあろうとは、私は夢にも知らなかったんです",
"しかもお前達夫婦の籍は、お前の養家じゃなくて、亭主の家の方にあるんだから可怪しいよ"
],
[
"此方の身も可哀そうだ",
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],
[
"子供を産んだ人とは思われないくらいですよ",
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"それにしたって、旦那のことは忘れられないでしょう",
"そうですね。がさがさしてる癖に、余り好い気持はしませんね",
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],
[
"私が暴れて打壊したようなもんですの。あの人はまたどうして、あんなに気が多いでしょう。些いと何かいわれると、もう好い気になって一人で騒いでいるんですもの。その癖嫉妬やきなんですがね",
"でも能く思切って了ったわね",
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"それもそうね。――私も思切って、どこか働きに行きましょうかしら",
"御笑談でしょう。そんな可愛い坊ちゃんをおいて、何処へ行けるもんですか"
],
[
"解ってますよ",
"可笑な人だね。解っていたら可いじゃないの",
"そんな事をしても可いんですか",
"いいも悪いもないじゃないか。感違いをしちゃ困りますよ"
],
[
"そうなんでしょう。事によったら、田舎へ行くて言ってるわ",
"芸者を引張込むようじゃ、長続きはしないね。散々好きなことをして、店を仕舞うがいいや"
],
[
"いつ来ました?",
"十一時頃だったろう。着くと直ぐ、連れて帰ると言うから、お島さんが此方へ来ている話をすると、それじゃ私が一人で行って連れて来るといって、急立つもんだからな",
"ふむ、ふむ"
],
[
"それでどうしました",
"今あすこで一服すって待っているだが、顔さえ見れば直ぐに引立てて連れて行こうという見脈だで……"
],
[
"でも、ここに居ることを打明けてしまったからね",
"ふむ……拙かったね",
"とにかく些と逢った方がいいぜ。その上で、また善く相談してみたらどうだ"
],
[
"だって山のなかで、為方のないところだというじゃないか",
"私もそう思って行ったんだけれど、住んでみると大違いさ。温泉もあるし、町は綺麗だし、人間は親切だし、王子あたりじゃとても見られないような料理屋もあれば、芸者屋もありますよ。それこそ一度姉さんたちをつれていって見せたいようだよ",
"島ちゃんは、あっちで、なにかできたっていうじゃないか。だからその土地が好くなったのさ"
],
[
"資本があってする商売なら、何だって出来るさ。だけれど、些とした店で、どのくらいかかるのさ",
"店によりきりさ。表通りへでも出ようと云うには、生やさしい金じゃとても駄目だね"
],
[
"何といって買うのさ",
"何だって介意いません。あんたが何処かで見たものとか聞いた事とか……見た夢でもあれば尚面白い"
],
[
"全く木村さんのいうことは当ったよ。して見ると、私は何でもヤマを張って成功する人間かも知れないね",
"お上さんの気前じゃ、地道なことはとても駄目かも知れませんよ",
"面倒くさい洋服屋なんか罷めて、株でも買った方がいいかも知れないね",
"そうですね。洋服屋なんてものは、とても見込はありませんね。私は二日歩いてみて、つくづくこの商売が厭になってしまった"
],
[
"これは軍艦ですよ",
"軍艦をどうするの",
"これでもって海軍将棋を拵えようというんです",
"海軍将棋だって? へえ。そしてそれを何にするの",
"高尚な翫具を拵えて、一儲けしようってんですがね……この小いのが水雷艇です",
"へえ、妙なことを考えたんだね。戦争あて込みなんだね",
"まあそうですね。これが当ると、お上さんにもうんと資本を貸しますよ。どうせ私は金の要らない男ですからね"
],
[
"私ゃ子供の時分から、こんな事が好きだったんですから、この外にまだ幾箇も考えてるんですが、その中には一つ二つ成功するのが急度ありますよ",
"じゃ木村さんは発明家になろうというんだわね。発明家ってどんな豪い人かと思っていたら、木村さんのような人でもやれるような事なら、有難くもないね",
"笑談言っちゃ可けませんよ",
"まあ発明もいいけれど、仕事の方もやって下さいね、どしどし仕事を出しますからね"
],
[
"私は働かないではいられない性分ですからね。だから、どんなに働いたって何ともありませんよ",
"そう"
],
[
"ですから私も熟々厭になって了ったんです。あの時疾に別れる筈だったんです。でもやっぱりそうも行かないもんですからね",
"小野田さんと二人で、ここでついた得意でも持って出て、早晩独立になるつもりで居るんだろうけれど、あの腕じゃまず難しいね",
"そうですとも。これまで散々失敗して来たんですもの",
"どうだね、それよりか小野田さんと別れて、一つ私と一緒に稼ぐ気はないかね"
],
[
"それどころか、私はこの店のために随分働いてやっているじゃありませんか",
"でも何か言ったろう"
],
[
"だがそうは行かないよ。お前がその調子でやるから衝突するんだ",
"ふむ。私よりかお前さんの方が、余程間抜なんだ。だから川西なんかに莫迦にされるんです。もっとしっかりするが可いんだ"
],
[
"それでミシンはどうしたんです",
"それどころか、川西はお前のことを大変悪く言っていたよ。そして己にお前と別れろと言うんだ"
],
[
"間男の子でも何でも、あんな御父さんなんかに肖ない方が可いんですよ",
"ひどいことを言うなよ。あれでも己を産んでくれた親だ"
],
[
"一生職人で終る人間だね。それでも田を踏んで暮す親よりかいくらか優だろう",
"生意気を言うな。手前の親がどれだけ立派なものだ。やっぱり土弄りをして暮しているじゃないか",
"ふむ、誰がその親のところへ、籍を入れてくれろと頼みに行ったんだ。私の親父はああ見えても産れが好いんです。昔はお庄屋さまで威張っていたんだから。それだって私は親のことなんか口へ出したことはありゃしない",
"お前がまた親不孝だから、親が寄せつけないんだ。そう威張ってばかりいても得は取れない。ちっとはお辞儀をして、金を引出す算段でもした方が、逈に悧巧なんだ"
],
[
"意気地のないことを言っておくれでないよ。私は通りへ店を持つまでは、親の家へなんか死んでも寄りつかない意だからね",
"だから、お前は商売気がなくて駄目だというのだよ"
],
[
"あれはああ云う男です。人が悪いっていうんでもないけれど、人情はないんですね",
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],
[
"あの地面も、今はどうなっているんだか。あの御母さんの生きているうちは、まあ私の手にはわたらないね",
"それもお前が下手だからだよ"
],
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"へえ、そんな事があるんですか。私はちっとも知りませんよ",
"男だけには、それぞれ所有を決めてあるという話ですけれどね"
],
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"真実は、私はあの人が初めじゃないんですよ",
"それじゃ旦那が悪いんでしょうよ",
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"そんな莫迦なことってあるもんじゃ有りませんよ、お医者に診ておもらいなさい"
],
[
"そうすればお上さんもお勤めがなくて楽でしょう",
"莫迦なことを言って下さるなよ。妾なんかおく身上じゃありませんよ"
],
[
"私はこの病気が起ると、もうどうすることも出来ないんです。それに家も、これから夏は閑ですから、お欵待しをしようと思っても、そうそうは為きれないんです",
"そうともそうとも、それどこじゃない。私は一時のお客に来たものでないから"
],
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"どこが悪いというでもないが、肺がちっと弱いから用心しろと言われたから、東京で二三専門の博士を詮議したが、事によったら当分逗留して、遊び旁注射でもしてみようかと思う",
"それじゃ奥さんのが移ったのでしょう。私は一緒にならないで可かったね"
],
[
"あんたが肺病になれば、私が看病しますよ。肺病なんか可怕くて、どうするもんですか",
"今じゃそうも行かない。これでも山じゃ死うとしたことさえあったっけがね"
],
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"今夜も酔っぱらっているんだろう",
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],
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"おごって下さい",
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"だって可恥しいじゃないか。お前さんの前だけれど、あの御父さんに出られて堪るもんですか。お前さんの顔にだってかかります",
"昔しの旦那だと思って、余り見えをするなよ"
],
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"それには女唐服を着て、お前が諸学校へ入込んで行かなければならぬのだがね",
"駄目です駄目です。制服なんかやったって、どれだけ儲かるもんですか"
],
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"安いね",
"洋行がえりの洋服屋だとさ"
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[
"夫婦の交際なんてものは、私にはただ苦しいばかりです。何の意味もありません",
"それは貴女がどうかしてるのよ"
],
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"あっしが十六ぐらいのときでしたろう",
"その女はどうしたの",
"どうしたか。多分大阪あたりにいるでしょう。そんな古い口は、もう疾のむかしに忘れっちゃったんで……"
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] | 底本:「あらくれ」新潮文庫、新潮社
1949(昭和24)年10月31日発行
1969(昭和44)年6月20日21刷改版
1982(昭和57)年9月15日38刷
入力:久保あきら
校正:湯地光弘
2000年6月23日公開
2011年9月12日修正
青空文庫作成ファイル:
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"だが、来て見て、びっくりするだろうな。何ぼ何でも、まさかこんな乱暴な宅だとは思うまい。けど、まあいいや、君に任しておくとしましょう。逃げ出されたら逃げ出された時のことだ。",
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"義理だから、己から出て行けと言うわけにも行かないが、いずれお国にも考えがあるだろう……。それでお前はいつごろ帰って来られるね。",
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]
] | 底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
2011年5月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"底本出版社名1": "中央公論社",
"底本初版発行年1": "1967(昭和42)年9月5日",
"入力に使用した版1": "1971(昭和46)年3月30日第5刷",
"校正に使用した版1": "1974(昭和49)年6月30日第10刷",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "田古嶋香利",
"校正者": "久保あきら",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"ちよい〳〵こんな処へ来るの。",
"いや、僕は初めてだ。",
"お前さんなんかの、余り度々来るところぢやありませんよ。"
],
[
"商人かね。",
"さうね。一人は日本橋の木綿問屋の旦那だし、一人は時々東京へ出てくる田舎のお金持だけれど、どつちもお爺いさんよ。木綿問屋の方は、まあそれでもまだ四十七八だから、我慢のできないこともないのよ。その代り上さんも子供もあるから、行けばどうせ日蔭ものさ。子供のお守なんかもして、上さんの機嫌を取らなくちやならないから、なかなか大変よ。田舎の隠居の方は、それにかけては気楽だけれど、お爺いさんは世話がやけて為方がないでせう。だから孰も駄目さ。"
],
[
"ほんとうに夢中になつて、君に通つてくるやうな若い男はないのか。",
"まあ無いわね。有つても長続きはしないのさ。",
"でも一度や二度商売気を離れて、恋をしたと云ふ経験はあるだらう。",
"それあ、そんな人は家にも偶にはあるのさ。それあ可笑しいのよ。七おき八おきして、終ひにその男のために年期を増すなんて逆上せ方をして、そのためにお客がすつかり落ちてしまつて、男にも棄てられてしまふつて言つた風なの。そんなのが江戸児に多いのよ。第一若いお客といへば、まあお店者か独身ものの勤め人なんだから、深くでもなれば、お互ひの身の破滅ときまつてゐるんですからね。それかといつて、貴方のやうなお母さんの秘蔵息子を瞞せば尚罪が深いでせう。先のある人を、学校でもしくじらせてごらんなさい、それこそ大変だわ。",
"だけれど、先きで熱情を以つてくれば為方がないぢやないか。"
],
[
"わたし幾許も借金がないのよ。",
"幾許あるの。",
"さうね、御内所の方は勘定したら何のくらゐあるかしら。それに呉服屋の借金がね、これが一寸あるわ。出るとなれば、少しは派手にしたいから、それにも一寸かゝるのよ。"
],
[
"僕母に言つてやれば、その位は出来ると思ふ。母は僕の言ふことなら、何でも聴いてくれるんだから。僕の母はほんとうに寛容な心をもつた人なんだ。",
"それでも女郎と一緒になるといへば、きつと吃驚するわ。"
],
[
"しかし能く来てくれたね。まさか君が今頃来ようとは思はないもんだから、ふつと顔を見たときには、君の幽霊か、僕の目のせゐで幻が映つたのかと思つて、慄然としたよ。",
"さう。私はまた自分の気紛れで、飛んだところへ来たものだと思つて、何だか悲しくなつてしまつたの。夢でも見てゐるやうな気がしてならなかつたんですの。でも貴方に会へて安心したわ。道がまた馬鹿に遠いんですもの、私厭になつちまつたわ。",
"夜だから然う云ふ気がしたのだよ。"
],
[
"いや、いづれ明朝僕が紹介しよう。それに親父は浦賀の方の親類へ行つてゐるんだ。多分二三日は帰らないだらうと思ふ。当分ゐたつて可いんだらう。",
"さうね、御内所の方は幾日ゐたつて介意やしませんわ。私貴方のお手紙で、海へでも遊びにいかうと思つて、来たんですけれど……それには色々話したいこともあるにはあるんですの。でも私こゝにゐても可いの。"
],
[
"母に話したら、是非お目にかゝるから此方へおつれ申せと言つたんだけれど、僕は今夜はもう遅いから明朝にしたら可いだらうと言つておいたよ。",
"さう、貴方のお妹さんもいらつしやるの。"
]
] | 底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「中央公論」
1920(大正9)年4月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2006年1月27日作成
2016年2月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004762",
"作品名": "或売笑婦の話",
"作品名読み": "あるばいしょうふのはなし",
"ソート用読み": "あるはいしようふのはなし",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論」1920(大正9)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2006-03-14T00:00:00",
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"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
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"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
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"生年月日": "1872-02-01",
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"底本名1": "現代文学大系 11 徳田秋聲集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1965(昭和40)年5月10日",
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[
[
"さうね、好いものなら。",
"何だか大変好いんですて。私メイ原田からF――さんのとこへまはつて武蔵野館へ行つて電話をおかけしますわ。いゝでせう。"
],
[
"幌がないんだな。",
"先刻西洋人を載せましたら、取つてくれと言ふものですから。"
],
[
"そこ見にくかつたら代りませうて。原田さんが。",
"いや。",
"見えないこともないわね。",
"いゝとも。"
],
[
"何だかちつとも解んない。喜劇だね。",
"まあさうですね。ちよつと面白いものなのよ。"
],
[
"どこへ?",
"煙草を買ひに。",
"私買つて来てあげるわ。",
"いゝんだよ。"
],
[
"そんな事いゝんだよ。",
"さう!"
],
[
"原田さんをお送りして、ギンザまで出ようと思ふんですけれど。",
"雨が少し落ちかゝつて来た。",
"先生はお厭?",
"厭なこともないが、ギンザまで送ることもないやうだな。",
"ほんとに結構よ。",
"ぢやあ何処かこの辺でコーヒでも飲みませうか。",
"それがいゝだらう。お送りしたりして反つて……。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「文芸春秋 第五巻第五号」
1927(昭和2)年5月1日発行
初出:「文芸春秋 第五巻第五号」
1927(昭和2)年5月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:久世名取
2018年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "055372",
"作品名": "ある夜",
"作品名読み": "あるよる",
"ソート用読み": "あるよる",
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"初出": "「文芸春秋 第五巻第五号」1927(昭和2)年5月1日",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-11-18T00:00:00",
"最終更新日": "2018-10-24T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card55372.html",
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"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳田秋聲全集 第16巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月18日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月18日初版",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月18日初版",
"底本の親本名1": "文芸春秋 第五巻第五号",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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[
[
"お父さんが使はなければ、僕が持つて歩いてもいゝよ。",
"それも可いだらう。"
],
[
"今用意させましたから。",
"さうですか。それなら入つても可いですが……。"
],
[
"好いのがないんだ。",
"上等ですわ。これなら暖くて……。",
"スリツパがよかつたかな。"
],
[
"やつぱり風月がいゝのかね。",
"何うだかわからんが、M―なんか一番旨いと言つてゐるね。あの連中は西洋にゐて、洋食の味は知つてゐるだらう。××屋(俳優)もよく行くよ。",
"僕も久しく行つてみないから。"
],
[
"こゝのビステーキが有名なんださうだ。",
"ビステーキは確かに好いな。まあ食つたあとの腹工合の好いところを見ると、調理の好いことだけはわかるやうだ。さう云ふ点が好いんじやないかな。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「改造 第八巻第四号」
1926(大正15)年4月1日発行
初出:「改造 第八巻第四号」
1926(大正15)年4月1日発行
※「買い」と「買ひ」、「ベツド」と「ベツト」、「子供」と「小供」、「ほんたう」と「ほんとう」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055359",
"作品名": "折鞄",
"作品名読み": "おりかばん",
"ソート用読み": "おりかはん",
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"初出": "「改造 第八巻第四号」1926(大正15)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-12-23T00:00:00",
"最終更新日": "2021-11-27T00:00:00",
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"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳田秋聲全集 第15巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年3月18日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年3月18日初版",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月18日初版",
"底本の親本名1": "改造 第八巻第四号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年4月1日",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "きりんの手紙",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/55359_ruby_74586.zip",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"このしないの方が、品位がありますな。",
"さうだ。味もその方がいゝとも言ふな。",
"私も動物は犬も猫も嫌ひですが、小鳥は好きです。小鳥や草花がなかつたら、ずゐぶん淋しいと思ふ。",
"子供に小鳥を飼つたら何うだ。",
"それも考へたこともあつたが、今時の子供はなか〳〵忙しいですから。私たちの時代とまるで違ふんで……。"
],
[
"東京からA――が応援に来てゐるんだが、来たときは大変な景気で、歓迎されたもんだが、何しろ時機が悪いのでな。",
"そいつは一つ今夜の演説を聞かうかな。貴方はそのA――に逢つたことがありますか。",
"今度はまだ逢はん。いつも私が衝に当るんだが、今度は若い連中のお手並を拝見しようと思つて、傍観してゐたんだ。けれど孰にしてもこつちの事情が要求に応じかねるんで、実は人減しをしようと思つてゐた際だから、重立つた連中だけ罷めさしてしまつたんだ。"
],
[
"罷められた連中は何うなるんですかね。",
"この近くのものは、帰つて百姓をするものもあるが、今度やられたのは旅のものが多いんで、いづれ何処かへ立つて行くだらうが、他の仕事には余り融通のきかない性質のものだからな。"
],
[
"どうだ、今日一つ山へ行つてみんか。ストライキもほゞ静つて、職工もそれ〴〵持場々々に就いたやうだから。",
"さうですね。では。"
],
[
"偶には危険もあるが、まあ爆薬でも爆発した場合でなければね。それも爆薬をかけておいて、爆発がおそいので、見に行つたり何かするからだ。",
"爆薬といふのは爆薬のことですね。",
"さう。礦山には礦山特有の言葉があるんでね。人に乗せられたことを、彼奴はつぱにかけられたなんて言ふんだ。",
"あんたはもう穴へは入りませんか。",
"いや、さうでもないが、私もO―の山を開拓して、あすこの設備がほゞ緒についたとき、罷めさせてもらふつもりだつたのを、此方が少し出なくなつたので、また戻つて遣ることになつたとき、何にもせんでも可いからといふので……しかし今は銅が安いから、手もつけないが、去年この近くに買つた山もあるので、こゝ少くも百年ぐらゐは脈の絶えるやうなことはない。さう云ふ見込みだけはついてゐるんで……。"
],
[
"今日はみんな変な顔をしてゐた。あのなかには表面運動に賛成して、その実参加しないのもゐる。今下へ寄つてみると、こいつは直ぐそこにゐる奴だが、A―が東京からやつて来たとき、真先に旗をもつて景気をつけてゐたんだが、運動は失敗するし、首は馘られるといふんで、こゝを立つにも借金で、身動きがならないところから、蒼くなつて泣きを入れに来たんだ。無理もないことで、参加しなければ、成功したとき肩身が狭いし、成功しなければ口が干あがるんだから、彼奴等としても実は向背に迷ふんだ。",
"弱いもんですね。"
],
[
"F―がそんなに豪いんですか。",
"どこへ行つたつて立派なもんだ。礦業界で知らないものはない。"
],
[
"S―や何かも一つになつて、独立でやるのも可かつたですな。",
"私は若しやれば、大阪の兄さんを呼ばうと思つてゐたんだが、到頭その機会もなかつた。"
],
[
"は、どうかかうか。",
"どのくらゐ書けた。"
],
[
"どのくらゐになる。",
"いくらにもなりやしません。でも、近頃は好いんです。一頃のやうな貧乏はしなくともすみますから。しかしなか〳〵遣切れないんで。"
],
[
"ほゝ、好いもんだな。",
"しかし怠けてゐる時が多いんで。それに生活に追はれがちですから、本を読む隙もないし、その日〳〵を胡麻化して行くに過ぎないのですから。"
],
[
"急に用事ができて、帰ることになつたから、これから立たう。",
"さうですか。僕も余り長くなつてもと思つてゐたところですから。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「新潮 第三十八巻第六号」新潮社
1923(大正12)年6月1日発行
初出:「新潮 第三十八巻第六号」新潮社
1923(大正12)年6月1日発行
※「鉱山」と「礦山」、「云ふ」と「言ふ」、「淋しい」と「寂しい」、「工夫」と「坑夫」、「A――」と「A―」、「目を見張」と「目を※[#「目+爭」、第3水準1-88-85]」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、生前刊行の「籠の小鳥」文藝日本社、1925(大正14)年5月20日発行と「現代日本文學全集 第十八篇」改造社、1928(昭和3)年11月1日発行の表記にそって、あらためました。
※誤植を疑った箇所が、生前刊行の「籠の小鳥」文藝日本社、1925(大正14)年5月20日発行と「現代日本文學全集 第十八篇」改造社、1928(昭和3)年11月1日発行の表記で異なっている場合はママ注記にとどめました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:えにしだ
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネツトの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055326",
"作品名": "籠の小鳥",
"作品名読み": "かごのことり",
"ソート用読み": "かこのことり",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「新潮 第三十八巻第六号」新潮社、1923(大正12)年6月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-02-01T00:00:00",
"最終更新日": "2019-01-29T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card55326.html",
"人物ID": "000023",
"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳田秋聲全集 第14巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年7月18日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年7月18日初版",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年7月18日初版",
"底本の親本名1": "新潮 第三十八巻第六号",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
"底本の親本初版発行年1": "1923(大正12)年6月1日",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "えにしだ",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/55326_ruby_66902.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2019-01-29T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/55326_66948.html",
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} |
[
[
"あの二人はどうかなりそうだね。",
"かも知れませんね。"
],
[
"そうお。じゃあ私が行って話をつける。",
"うっかり行けないわ。姉さんが殺されるかも知れないことよ。"
],
[
"あまり感心しない相手だけれど……。",
"そうでしょうか。でも、もう結婚してしまいましたの。",
"じゃあいいじゃないか。",
"山路が先生にお逢いしたいと言っておりますのよ。",
"一緒に来たんですか。",
"万藤の喫茶店におりますの。もしよかったら先生もお茶を召し食りに、お出でになって下さいません?"
],
[
"あんたに家庭がやれますか。",
"私家庭が大好きなんですの。",
"それあ刺繍や編物はお得意だろうが、僕の家庭と来たら…………。",
"あら、そんな! 私台所だってお料理だってできますの。子供さんのお相手だって。",
"そうかしら。"
],
[
"先生の今までの御家庭の型や何かは、そっくりそのまま少しも崩さずに、先生や子供さんのために、一生懸命働いてみたいんですのよ。それで先生の生きておいでになる間、お側にお仕えして、お亡くなりになったら、その時は子供さんたちの御迷惑にならないように、潔く身を退きます。",
"貴女はどうするんですか。",
"私ですの? 私母からもらう財産がいくらかございますの。先生のお宅にいることになれば、着物や何かも仕送ってくれますの。今度来る時、母にもその話をしましたの。無論母も同意ですの。",
"さあ。何しろ僕は家内が死んで間もないことだし、ゆっくり考えてみましょう。そう軽率に決めるべきことでもないんですから。"
],
[
"静かな晩ですね。もう帰ってお寝みなさい。",
"遅くまでお邪魔しまして。では先生もお寝みなさい。"
],
[
"山路草葉から僕んとこへまで渡り歩こうという女なんだ。あれが止まなくちゃ文学なんかやったって所詮駄目だぜ。",
"そいつあ困るな。実際悪い癖ですよ。いや、僕からよく言っときましょう。"
],
[
"梢さんからお電話です。",
"そう。"
],
[
"先生ですの。何していらっしゃる。",
"君は。",
"私あれからお宅へ行って、子供さんたちと童謡なんか歌ってお相手していましたの。皆さんお元気よ。",
"今飯を食べようかと思っているんだけど、来ない?",
"先生のお仕事のお邪魔にならないようでしたら、すぐ行きますわ。"
],
[
"先生がそんなこと心配なさらなくともいいのよ。お気持悪ければいつでも清算することになっていますのよ。",
"もしかしてここへ来たら。",
"あの人決してそんなことしない人よ。"
],
[
"自動車を迎いによこすから、ちょっと附き合ってくれと言うんですのよ。先生さえ気持わるくなかったら、話をつけに行こうと思いますけど……。",
"そうね、僕はかまわないけど。",
"私悪い女?"
],
[
"行ってもいい? 断わった方がいいかしら。",
"とにかく綺麗にしなけりゃ。",
"きっとそうするわ。ではお待ちになってね。九時にはきっと帰りますから、お寝みになっていてね。きっとよ。げんまん!"
],
[
"すみません。あれからずっとお寝っていらして。",
"少しうとうとしたようだが……よく帰って来れたね。"
],
[
"それでどうしたの。",
"その話を持ち出したのよ。すると一色さん何のかのと感情が荒びて来て仕方がないものですから、私早く切り揚げようと思って、つい……。",
"君風呂があったら入ってくれない?",
"ええ、入って来るわ。"
],
[
"綺麗な男じゃないか。",
"そう思う?"
],
[
"それじゃ戴いときますわ。――思いがけないお金ですから、このお金で私質へ入っているものを請け出したいと思うんですけれど。",
"いいとも。君もそういうことを知っているのか。",
"そうですとも。松川と田端に世帯をもっている時分は、それはひどい困り方だったのよ、松川は職を捜して、毎日出歩いてばかりいるし、私は私で原稿は物にならないし、映画女優にでもなろうかと思って、せっかく話をきめたには決めたけれど、いろいろ話をきいてみると、厭気が差して……第一松川がいやな顔をするもんで……。"
],
[
"私これ一枚、大変失礼ですけれど、もしお気持わるくなかったら、お嬢さんに着ていただきたいと思うんですけれど。",
"そうね。学生で、まだ何もないから、いいだろう。"
],
[
"いいとも。どこで……。",
"銀座の曽根といって、素晴らしい芸術的な写真撮るところよ。すぐ帰って来るわ。先生家にじっとしていなきゃいや。きっとよ。じゃあ、げんまん!"
],
[
"もしもし私よ、解って?",
"うむ、僕だよ。都合上ちょっと遠いところへ行く途中、ごく秘密に逢いたいと思って寄ったんだが、久しぶりでいろいろ話もあるし、貴女のことも心配しているんだ。それでぜひ逢って渡したいものがあるから、ちょっとここまで来てもらいたいんだ。",
"そう、じゃすぐ行くわ。"
],
[
"あの先生も君を好きだろう。始終傍にいるのかい。",
"ううん……それに先生はお年召していらっしゃるから。"
],
[
"あの人もう私をすっかり他人行儀の敬語を使ってるくらいよ。――私に千円くれたの。私貰って来たわ。秘密にしてね。",
"銀行へ預けときたまえ。",
"そうするわ。"
],
[
"僕の田舎の海よりも、ずっと綺麗で明るい。",
"そう。"
],
[
"君泳げる?",
"海へ入ると父が喧しかったもんで……。",
"何だか入ってみたくなったな。"
],
[
"そうじゃないけど、少し話も残して来たし、私後から行っちゃいけない?",
"そうね。",
"先生はいいのよ。だけどお子さんたちがね。"
],
[
"君芝居嫌い?",
"大好き。連れてって。"
],
[
"さあね、君が行きたいなら。",
"だからお訊きしたいのよ。先生がいけないというなら断わるわ。",
"僕は何ともいうわけにいかない。",
"じゃ断わるわ。",
"断わる必要はない。君が行きたいんだったら。"
],
[
"先生のお子さんで悪いけれど、咲子さん少しわがままよ。あれを直さなきゃ駄目だと思うわ。",
"君が言えば聴くよ。"
],
[
"おばちゃんは?",
"おばちゃんは出て行った。",
"瑠美子ちゃんも?",
"そう。",
"もう帰ってこないの。",
"帰ってこないよ。"
],
[
"葉子君んとこへ行かなかった?",
"梢さん? いいえ。お宅にいらっしゃるんじゃないんですか?"
],
[
"梢さんですか、あの方昨日ちょっと見えましたよ、いつもの処へ仕立物を取りにおいでになって……。",
"どこにいるでしょう。",
"さあ、それは知りませんですよ。"
],
[
"スタムプは猿楽町の局ですよ。",
"ふむ――じゃ神田だ。しかし神田も広いから。",
"ひょっとしたら、一色さんが知ってやしないかな。"
],
[
"お前ちょっと一色んとこへ行って、様子を見て来てくれるといいんだけど。",
"そうですね。行ってもいいけれど……じゃちょっと電話かけてみましょうか。"
],
[
"それですと、替り目の活動館を捜すのが一番早いんだ。替わるのは木曜ですからね。あの人の行きつけは南明座ですよ。",
"南明座かしら。"
],
[
"もしそれでも知れなかったら、私、神田の警察に懇意な男がいますから、調べてもらえばきっと知れますがね。",
"いや、そんなにしなくたって……。",
"いずれそのうち現われるでしょうけれど。"
],
[
"どうしたんだい。誰かいるの、下の部屋に。",
"職人ですの。――あの部屋が落着きがいいもんですから、今壁紙を貼ってもらっていましたのよ。",
"それでどうしたんだね。",
"近いうち一度お伺いしようと思っていましたの。私瑠美子を仏英和の幼稚園へ入れようと思うんですけれど、あすこからではこの人には少し無理でしょうと思って……。咲子ちゃんどうしています。",
"泣いて困った。それに病気して……。君は酷いじゃないか。僕が悪いにしても、出たきり何の沙汰もしないなんて。"
],
[
"でも随分大変だとは思うの。",
"やっと初まったばかりじゃないか。今に子供たちも仲よしになるよ。どうせそれは喧嘩もするよ。",
"瑠美子も咲子さんの噂していますの。",
"家の子供だって、あんなにみんなで瑠美子を可愛がっていたじゃないか。",
"貧しいながらも、私ここを自分の落着き場所として、勉強したいと思ってましたの。そして時々作品をもって、先生のところへ伺うことにするつもりでいたんですけれど、いけません。",
"駄目、駄目。君の過去を清算するつもりで、僕は正面を切ったんだから。",
"ここの主人夫婦も先生んとこ出ちゃいけないと言うんですの。――ここの御主人、先生のことよく知ってますわ。死んだ親爺さんは越後の三条の人で、呉服物をもってよく先生のとこへ行ったもんだそうですよ。その人は亡くなって、息子さんが今の主人なんですの。",
"色の白い、温順しい……。",
"いい人よ。",
"君はまたどうして……。",
"ここ秋本さんの宿ですもの。あの人に短歌の整理をしてもらったり何かしたのも、ここですもの。"
],
[
"じゃ、もうちょっとしたら行きます。きっと行くわ。",
"そう。"
],
[
"誰か話の面白い年増はいない。",
"いますわ。一人呼びましょうか。"
],
[
"今お宅にいらっしゃいますの。",
"ちょっと田舎へ行っているんだがね。僕も実はどうしようかと思っている。",
"田舎へ何しにいらしたんですの。",
"子供を継母の手から取り戻すためらしいんだ。"
],
[
"貴女はどうしてこんな商売を始めたんです。",
"私もいろいろ考えたんですの。クルベーさんも、もう少し辛抱してくれれば、もっとどうにかすると言ってくれるんですけれど、あの人も大きな山がはずれて、ちょっといけなくなったもんですから。"
],
[
"貴女の過去には随分いろいろのことがあったらしいね。",
"私?",
"新橋にいたことはないんか。",
"いました。あの時分文芸倶楽部に花柳界の人の写真がよく出たでしょう。私のも大きく出ましたわ。――けどどうしてです。",
"何だか見たような気がするんだ。いつか新橋から汽車に乗った時ね、クションに坐りこんで、しきりに刺繍をやっている芸者が三人いたことがあるんだ。その一人に君が似ているんだ。まだ若い時分……。",
"刺繍もやったことはありますけれど……。何せ、私のいた家の姐さんという人が、大変な人で、外国人の遺産が手に入って、すっかり財産家になってしまったんです。お正月のお座敷へ行くのに、正物の小判や一朱金二朱金の裾模様を着たというんでしたわ。それでお座敷から帰ると、夏なんか大した椅子に腰かけて、私たちに体を拭かせたり煽がしたり、寝るときは体を揉む人に小説を読む人といったあんばいで……。",
"ああ、それで君なんかも……。"
],
[
"その人どうしたかね。",
"姐さんですか。それが先生あの有名な竹村先生と軽井沢で心中した芝野さんの旦那を燕にしているんですよ。",
"なるほどね。",
"お金がうんとありますから、大森に立派な家を立てて、大した有閑マダムぶりですよ。",
"芝野というのを、君知っている?",
"ええ、時々三人で銀ぶらしますわ。こう言っちゃ何ですけれど、厭味な男よ。それあ多勢の銀座マンのなかでも、あのくらいいい男はちょっと見あたらないかも知れませんがね。赤いネクタイなんかして気障よ。それでショウウインドウなんかで、いいネクタイが見つかると腐るほどもってるくせに、買ってよう、ようなんて甘ったれてるの。醜いものね、あんなお婆さんが若い燕なんかもってるのは。私つくづくいやだと思いますわ。"
],
[
"耳が痛いね。",
"いいえ、男の方はいいんですよ。男の方はいくらお年を召していらしても、決して可笑しいなんてことはありませんね。"
],
[
"銀水と浪花屋とどっちにしましょうか。",
"そうね、どっちも知らないけれど……。",
"浪花屋の方が、お値段はお恰好な割りに、評判がいいようですから。"
],
[
"先生何か召し食ります? トストでも。",
"そうね。",
"私御飯いただいたんですよ。これからお山へお詣りに行くんですけれど、一緒に来て下さいません?",
"お山って。",
"待乳山ですの。",
"変なところへお詣りするんだね。何かいいことがあるのかい。",
"あすこは聖天さまが祀ってあるんですの。あらたかな神さまですわ。舟で行くといいんですけれど。"
],
[
"これをどこか出してくれる処がないものかと思いますけれど……。",
"そうね、ちょっと僕ではどうかな。",
"ほんとうは私自費出版にしたいと思うんですけれど、そのお金ができそうもないものですから。",
"そうね、僕も心配はしてみるけれど……。"
],
[
"先生も大変ですね。お子さまが多くて……。梢さんどうなさいましたの。",
"葉子は今田舎にいますけど……。",
"私のようなものでよかったら、お子さんのお世話してあげたいと思いますけれど。",
"貴女がね。それは有難いですが……。事によるとお願いするかも知れません。",
"ええいつでも……。"
],
[
"ある人がね、私は麹町の屋敷を出たばかりで、方針もまだ決まらない時分なの。するとその人がね、君ももう三十を過ぎて、いろんなことをやって来ている。鯛でいえば舐りかすのあらみたいなもんだから、いい加減見切りをつけて、安く売ったらいいだろうって、私に五百円おいて行ったものなの。",
"それが君のペトロンなの。",
"ペトロンなんかないけど。",
"一体君いくつなの?"
],
[
"その男は?",
"それきりですの。",
"金は。",
"金は使っちゃいましたわ。"
],
[
"その男は――株屋?",
"株屋じゃありません。株屋ならちょっと大きい人の世話に、この土地で出ていた時分にはなったこともありましたけれど、その人も震災ですっかりやられてしまいましたわ。"
],
[
"結構。",
"私支度しますから、先生もお宅へ着物を取りにおやんなすっては。",
"そうね。"
],
[
"何を着て行っていいか、お神さんが先生に来て見て下さいって。",
"そう。"
],
[
"あまり派手じゃいけないでしょう。",
"そうね。あまり目立たない方がいいよ。"
],
[
"北海道時代に私が目をかけて使っていた女中なんですよ。その時分は子供にもよくしてくれて、醜い女ですけれど、忠実な女中だったんですのよ。松川は相当のものを預けて行ったものらしいんですの。上海で落ち着き次第、呼び寄せることになっているらしいんですけれど、あの子たちは食べものもろくに食べさせられなかったんですの。",
"君がつれて来たのか。",
"私が乗り込んでいって、談判しましたの。私には頭があがらないんですの。",
"それでこれから……。",
"先生にご迷惑かけませんわ。",
"…………。",
"先生怒らないでね。私あの人に逢ったの。"
],
[
"誰れに?",
"私には子供を育てて行くお金がいるんですもの。"
],
[
"苦しい?",
"とても。熱が二度もあるのよ。それにお尻のところがひりひり刃物で突つくように痛んで、息が切れそうよ。",
"やっぱり痔瘻だ。"
],
[
"あんた手術うけたことありましたかね。",
"北海道でお乳を切ったんですのよ。また手術ですの、先生。",
"これは肛門周囲炎というやつですよ。こうなっては切るよりほかないでしょうね。",
"外科の病院へ行って切ったもんでしょうかね。",
"それに越したことはないが、なに、まだそう大きくもなさそうだから、Kさんにも診てもらったというなら、二人でやって上げてもいいですね。",
"局所麻酔か何かですの?",
"さあね。五分か十分貴女が我慢できれば、それにも及ばないでしょう。じりじり疼痛を我慢していることから思えば、何でもありませんよ。"
],
[
"私は何でもやってできないことはないつもりだけれど、小説だけはどうもむずかしいらしいですね。",
"男を手玉に取るような工合には行かない。",
"あら、そんなことしませんよ。"
],
[
"随分呑むんだね。そう呑んでいいの。",
"大丈夫よ、あれっぽっちのウイスキイ。私酔うと大変よ。",
"お神さん!"
],
[
"先生、今日お閑でしたら、神田まで附き合ってくれません? 私あすこで占てもらいたいことがありますの。",
"いいとも、事によったら僕も。――君は何を占てもらうんだい。",
"差し当たり何てこともないんですけれど、私、妙ね。随分長いあいだの関係で、昔は一緒に世帯をもったこともありましたの。今は別に何てこともないんです。だけど、相手が逃げるとこっちが追っ駈け、こっちが逃げると、先方が追っ駈けて来るといったあんばいで、切れたかと思うと時たってまた繋がったりして……変なものですね。"
],
[
"どんな人?",
"それが近頃ずっとよくないんですの。"
],
[
"先生に私、何か書いていただきたいんですけれど。",
"書くけれど、僕のじゃ君んとこの部屋にうつらない。そのうち何かもって行って上げるよ。あれじゃ少し酷いからね。追々取り換えるんだね。"
],
[
"この家もどうかしなきゃ。",
"そうですね、もしお建てになるようでしたら、あの大工にやらしてごらんなさいましよ。あれは広小路の鳥八十お出入りの棟梁ですの。"
],
[
"僕もつくづくいやになった。止そうと思う。",
"止しておしまいなさい。",
"あと君が引き請ける?"
],
[
"先生、すみませんが、鏡じゃとてもやりにくいのよ、ガアゼ取り替えて下さらない。",
"ああいいとも。"
],
[
"そうだね。",
"お金はあるの。先生に迷惑かけませんわ、二人分四百円もあったら、二週間くらい居られない?"
],
[
"ここに玉突き場があったものだ。主人は素敵な腕を持っていて、僕はその男にキュウをもつことから教わったんだが、幾日来ても物にならずじまいさ、君はつけるかい。",
"北海道では撞いたもんでしたけれど。あの時分は奥さん方のいろいろな社交もあって、ダンスなんかもやったものなのよ。S――さんの弟さんの農学士の人の奥さんに教わって。"
],
[
"お帰りでございますか。",
"ちょっと用もできたから。"
],
[
"いいのよ、有るところには有るものなのよ。",
"いや、もう大して無いという話だぜ。",
"ないようでも田舎の身上っていうものは、何か彼か有るものなのよ。"
],
[
"でもよかった。今中幕が開くところだ。",
"そう。"
],
[
"あの男、情熱家のようだね。",
"そうよ。私が部屋へ入ると、いきなり飛びついて天井まで抱きあげたりして……でもあの人何だか変なところがあるの。"
],
[
"今度どこで逢うのさ。",
"どこか水のあるところがいいようなことを、あの人も言っていたけれど……。"
],
[
"何時ごろ帰る?",
"十時――遅くも十一時には帰って来るわ。"
],
[
"どこへ行くんです。",
"ううん、ちょっと飯くいに……。"
],
[
"どうかしたの。",
"後でよく話すけれど、私喧嘩してしまったのよ。"
],
[
"約束の家で……。",
"うーん、家が気に入らなかったから、あすこを飛び出して、土手をぶらぶら歩いたの。そして別の家へ行ってみたの。それはよかったけれど、お酒飲みだすと、あの人の態度何だか気障っぽくて、私忿って廊下へ飛び出しちゃったものなの。そうなると、私後ろを振り返らない女よ。あの人玄関まで追っかけて来たけれど。",
"それじゃまるで喧嘩しに行ったようなものじゃないか。",
"いいのよ、どうせ明日上野まで送るから。"
],
[
"余計な細工はいらない。とにかくがっちりしたものを造ってもらいたいんで。",
"ようがす。ちょうど材木の割安なものが目つかりましたから。"
],
[
"家を見るだけさ。",
"それならいいけれど。"
],
[
"面白いや、あの女。",
"どうした。",
"番町の独逸人の屋敷へ行くというから、一緒に乗りつけてみると、ドアがぴったり締まっているんだ。いくら呼び鈴を押しても、叩いても誰も出てこないもんだから、あの人硝子戸を叩き破ったのさ。出て来たのは立派な禿頭の独逸人でね、暴れこもうとするのを突き出すのさ。そして僕の顔を見て、貴方は紳士だから、この酔っぱらいを家まで連れて行ってくれ。こんなに遅く、戸を叩いたりして外聞が悪いからと言うもんだから、まあ宥めて家まで送りとどけたんだけれど、自動車のなかで滅茶苦茶にキスされちゃって……。手から血が流れるし、ハンケチで括ってやったけれど。いや、何か癪にさわったことがあるんですね。――それにしても、あの独逸人は綺麗なお爺さんだな。"
],
[
"先生今お忙しい?",
"いや格別。",
"先生という人薄情な人ね。"
],
[
"どうして?",
"いいわ。先生の生活は先生の生活なんですから。"
],
[
"女が病院へでも入ってる場合には、男ってものはたまにお金くらい持って来るものよ。",
"金が必要だというんだね。",
"決まってるじゃないの。"
],
[
"すみません。",
"どうしまして。"
],
[
"結核じゃないか。",
"それも幾らかあるらしいわ。沃度剤も買わせられたの。"
],
[
"また先生のとこへ来ようかな。子供をお母さんに預けて、田舎へ還して……。",
"来てもいいよ。"
],
[
"先生を好きなんでしょう。",
"まあ……たまにはね。",
"いつからですの? 何とも言い置きもなさらないんですの。",
"昨夜かららしいね。"
],
[
"先生これから日本橋のI探偵社に行ってみません?",
"君も行く?",
"え。でも、ちょっと電話をかけてみましょう。"
],
[
"私何だか五反田の××閣あたりのような気がしますね。",
"××閣? それは何さ。",
"震災後できた大きな料理屋ですの、連れ込みのね……あすこに籠もっていれば絶対安全ですからさ。"
],
[
"初めいるような返事だったんですよ。梢さんなんて名前そうざらにあるはずじゃないんですもの。無駄だと思ってドライブしてみません?",
"そうね。"
],
[
"でも私あすこ駄目なのよ。",
"ああ、そう。",
"私麹町の屋敷にいる時分、病気で一月の余もあすこにいたことがあるんですの。そこへある人が来て寝そべっているところへ、突然やって来たものなんですの。女中がそのことをしらせに、ばたばたとやって来たもんですから、彼は大狼狽で、洋服を引っ抱えたまま庭へ飛び降りたのはよかったけれど、肝腎の帽子が床の間に置き忘れてあるじゃありませんか。",
"ある人とは?"
],
[
"私頭が大事よ。食って行かなきゃならないのよ。",
"何だ、そんな頭の一つ二つ。"
],
[
"困ったな。悪いところへ来てしまった。",
"あの人たちみんないい感じよ。帝大の人たちだわ。"
],
[
"お見舞いに上がったのですが……。",
"お忙しいところ恐縮でした。どうぞ。"
],
[
"こんなものに何が書けるものか。",
"いや、しかし先生の目が通れば……。",
"僕は御免ですよ。"
],
[
"まあ神経衰弱でしょうね。よく眠れるように薬を加減して差しあげましょう。",
"どうもこういう生活が怖いんですが、いけないんでしょうな。",
"それかと言って、この部屋も独りじゃ随分寂しいですからね。"
],
[
"ああいう人たちの生活は、本当に単純で罪のないものなのよ。私たちの生活がどんなにか花やかで面白いものだろうかと思っているの。あの人は職業上の関係で、下谷のある芸者を知っていたの。私と同じ痔の療治で入院していて、退院してからちょいちょい呼んでやったことがあったものよ。その人の面差しが私によく肖ているというのよ。",
"ふむ。君との関係は、いつから?"
],
[
"初めは……どこへ行った?",
"夜、遠いところへドライブしたら、あの人びっくりしてた。",
"退院してからね。",
"そうよ。遅くまで残っていた時、あの人の部屋でキスしてもらったの。"
],
[
"面白い手紙もあるわよ。人格者らしく真面目で、子供のように単純なのよ。",
"見せてごらん。",
"それももっと後に。"
],
[
"およそどのくらいのものさ。",
"あまり吝なこともできないでしょう。葉捲どう?",
"よかろう。",
"三十円くらいで、相当なものある?",
"僕は知らんけど……。"
],
[
"楽しくはない?",
"そうね。"
],
[
"なに、結構ですよ。",
"少し熱っぽい感じですが。"
],
[
"何かあるんだぜ。",
"そうね。今のところそれは無いでしょうよ。このごろ何だか少し変だけれど。エロ話なんか随分するのよ。"
],
[
"ハインツェルマンって……。",
"先生はまだ御存じなかったんでしたっけ。ハインツェルマンという独逸人と同棲している尼さんよ。",
"その独逸人は?",
"若い技師よ。"
],
[
"そうね。また鴨にしようというんだろうが、おれも家内のいるうちは、どじばかり踏んで叱られたもんだが、このごろ少し性格に変化が来たようなんで。",
"元はもっと下手だったわけね。"
],
[
"二階のホール御覧になりましたか。",
"さあ、どうだったかしら。",
"それあ綺麗ですよ。ここではあすこの趣味が一番いい。",
"そう、見たい。"
],
[
"先生は? いらっしゃらない。",
"いいや、見てくるといい。"
],
[
"私たち先生を捜していたのよ。ここへ還ってみると、いらっしゃらないもんだから、方々捜しまわりましたわよ。",
"まあいい。",
"よかないわ。貴方に不機嫌になられて、ダンスを見る気分も壊れてしまったわ。だからお誘いしたら素直に来て下さるものよ。"
],
[
"いくらくらい?",
"五百円おろして、うち三百円を一晩に使っちゃったんですがね。",
"どこで使ったんだ。",
"吉原です。それも日本堤の交番から知らせがあったので、実は昨日小夜子さんと一緒に身元を証明して引き取って来たんですけれど、使い方が乱暴なので怪しいと睨まれたらしいんです。"
],
[
"ちょっとお父さんの耳に入れておかなきゃならないことが起こったので……。",
"逗子で?",
"ええ。"
],
[
"僕は二人に送られて、汽車に乗り込んだんですがね。",
"ふむ、やっぱりね。"
],
[
"じゃあ……今何時だい。汽車はまだあるね。",
"あります。",
"今夜のうちに話をつけてしまおう。これから行こう。"
],
[
"どうしたんだ。",
"いずれある時機に御相談しようとは思っていたことなんですけれど。",
"それで……。",
"先生にいつかお話ししましたかしら、メイ・ハルミのこと。",
"いや聞かない。",
"そうお。じゃあこれはごく内証よ。お書きになったり何かしちゃ駄目よ。あの人たちの名誉に係ることですから。",
"話してごらん、大丈夫だから。",
"ハルミさん一昨年の夏とかに、避暑かたがた軽井沢へ美容院の出張店を出していたのよ。そこへおばさんおばさんと言っちゃ、懐いて来る一人の慶応ボオイがあったんですって。するとあの人も、商売がああいうふうに発展すれば発展したで、無論やり手の旦那さまのリイドの仕方も巧いんでしょうけれど、それだけにまた内部に苦しいこともあるものらしいので、ついその青年に殉ずる気持になって、結婚しようと思ったんですって、それでそのことを旦那さまに打ち明けて、今までの夫婦生活を清算してから、一緒になろうとしたものなの。"
],
[
"夜があけたらあの人をここへ呼びますから、先生から聴いていただきたいと思うんですけれど……。",
"そんな芝居じみたことは僕にはできない。"
],
[
"いけません?",
"僕はそんな厭味なことは嫌いだ。"
],
[
"もう一時間もしたら、あの人のところへ使いをやりますから、一度逢って下さらない。お願いしますわ。",
"あの男から何か話させようとでも言うのか。"
],
[
"さあね、洋服は止した方がいいんじゃないかね。支那服ならいいがね。",
"異った意味で、あの人もそう言ったのよ。日本の女が何も身についた和服を棄てて、洋服を着る必要ないって。でも着てみたいのよ。"
],
[
"さあどうしたかね。",
"行ってみましょうか。"
],
[
"さっそく金に困ってるんじゃないかと思うがね。相手はブルジョウアの一人子息だけれど、何しろ学生のことだからね。",
"どんな様子か、僕行ってみましょうか。",
"そうね、もし金が入用なら、少しぐらいやってもいいんだが……。"
],
[
"私たちのことは、当分新聞社へ何もお話しにならないようにね。",
"それは僕もそのつもりで……。",
"あの兄さんと言っても、従兄ですけれど――黒須という人がいるのよ。もと外務省畑の人で、今は政党関係の人らしいわ。乾分も多勢あるらしいの。でも立派な紳士よ。その人が園田家のことは、何でも相談に乗っているという関係から、今度のこともその人が引き受けてくれているの。いずれ時機を見てお父さんにも承諾させるが、差し当たり牛込にある家が売れると、そのうちの一万か二万かの金をそっと融通するから、当分それで家庭をもつようにしようと、そう言ってくれるのよ。その人、奥さんと鵠沼にいますけれど、ちょっといい暮しよ。奥さんも教養のある人よ。"
],
[
"素敵だな。",
"でも今は困るの。あの人財布を投げ出して行ってくれはしますけれど、それに手を着けたかないの。何かがつがつしているようで、さもしい感じでしょう。あの人たちお金に苦労したことのない人だけに、なおさらなの。"
],
[
"ああ、先生。私よ。",
"どうしたんだ。どこにいるんだい。",
"安栄旅館よ。先生にお話ししたいことがあって、今出て来たばかりよ。御飯食べながら聴いていただこうと思って。",
"何だろう。",
"来てよ。すぐよ。"
],
[
"スウト・ケイスどうしたの。旅行?",
"そのつもりでしたのよ。私たちを保護してくれることになっている、園田の従兄の黒須さんね。あの人がどうも不安なのよ。",
"どう不安なのさ。",
"あの人が私に色気をもつからいけないのよ。"
],
[
"それにあの人こわいのよ。もと外務畑の人だそうだけれど、今は院外団か何かでしょうか、乾分も多勢あるらしいの。別に悪い人でも乱暴な男でもなさそうだけれど、ちょっと気のおけないところがあるのよ。男前も立派だし、年も若いわ。奥さんもインテリでいい人なんだけれど、どうもあの人、私に対する態度が変なのよ。この間も縁側で園田の膚垢を取ってやっていると、あの人が傍へ来て、冷やかし半分厭味を言ったりするの。",
"そんなこと気にすることないじゃないか。",
"それあそうだけれど……。"
],
[
"だけどあの人こんなこと言うのよ。世間の噂も煩いし、牛込の家を売るたって、今すぐというわけにもいかないから、人目にふれない処に当分隠れていろというの。それにちょうどいいところがある。沼津とかの町端れの高台の方に、懇意な古い宿屋とか別荘とかがあるから、そこへ行っていろと言うの。",
"二人で?",
"ううむ、私一人でよ。",
"引き分けるつもりなのか。",
"そうでもないらしいんだけれど、後から黒須さんが行くから、とにかく先きへ行っていろというの。何でも大分田舎らしいのよ。その時は私もその気になったんだけれど、黒須さんと園田さんに送られて駅へ来てから考えたの。行ったものか止したものかと。でも黒須さんが切符を買ってくれたものだから、まさか乗らないわけにも行かないでしょう。仕方なし乗ったは乗ったけれど、何だか気が進まないの。それでふと止す気になって、次ぎの駅でおりてしまったの。そこへちょうど上りが来たものだからそれに乗ってここへ来てしまったの。"
],
[
"逢ってみてもいいね。こっちから行くのか、それともどこか会見の場所でも決めてあるんだったら……。",
"あの人がここへ来ることになっているのよ。それも明日のお昼ごろということにしたの。あの人、ほんとうに先生と手が切れているかどうか、それも心配らしいんだわ。なおさら先生に逢っていただく必要があるわけなのよ。",
"つまり君がその男に見込まれたというわけなんだね。",
"それもどうだか解らないけれど……。",
"いずれにしても君がしっかりしていさえすればいいわけなんだが、しかしそういう人の取扱いじゃ園田君も可哀そうじゃないか。",
"しかし条件は園田本位でしょうから、私の立場があまり有利じゃないかもしれないのよ。あの人自身の気持の動きはまた別よ。それにあの人だって、私を不利益な立場に陥れて、そこに附けこんで来ようというほど非紳士的でもないでしょうけれど、そういう打算は別としても、とにかく、私に対する条件はあまりよくないでしょうと思うの。"
],
[
"ほかに空いた部屋ありますわね。",
"あいにく一杯でございますけれど……。"
],
[
"無論結婚の取り決めでしょうと思いますが、それについて何か……。",
"いや、それもありますが、それに先立って、失礼ながら梢さんに果してそれだけの誠意があるか否かが問題なのであって、その見究めがつくまで、私も園田の後見役として、とくと梢さんのお心持なり態度なりを見届けなければならない立場にあるので。",
"そのことでしたら、今後葉子自身が証明するでしょうが、今が葉子の過去を清算するのに絶好の時機じゃないかと思うのです。"
],
[
"だって先が何も言ってくれないじゃないか。僕として何も言うところはないんだ。",
"先生はいつだってそうなのよ。大切なことといったら何一つ考えてもくれなかったじゃありませんか。先生の落ち目になった社会的信用で、この上私を持って行こうったって、それは無理だわ。"
],
[
"もし先生がお差支えないようでしたら。",
"そうですね。今ならお話ししてもいいかと思うんですけど。"
],
[
"どうでしょう、今度の事件は巧く行くでしょうか。先生のお見透しは?",
"そうですね。僕にもわからないんですが、巧く行くようにと思っています。今度は本物かも知れませんよ。",
"そうですか。僕は葉子さんが、あの断髪にした時に、あの人の心の動きというか、機微というか、何かそういうものを感じましたよ。"
],
[
"お書きになるんだったら、この話が巧く進行するように書いて下さい。葉子は世間が言うほど悪い女でもないんですよ。もちろん打算もあるし、野心的なところもありますが、大体が最初の結婚の出発点が悪いんで、あんなふうに運命が狂って来ているんです。文学的才能だって、伸ばせば伸びるはずなんですが、夢というか慾望というか、いつもそれに負けてしまうんです。",
"しかし先生のお心持はどうですか。今までじっとあの人を見詰めておいでになって……。",
"いや、見詰めてもいなかったんですが、何か始終求めて止まないものがあるんですね。"
],
[
"これじゃ何だか葉村君の呑込みがよすぎたようだ。",
"葉子さんに気の毒ですよ。それに毒の花なんて出ているけれど、これはボオドレイルのあれだけれど、意味が全然違いますよ。"
],
[
"居ると言った?",
"え、坊っちゃんが……。"
],
[
"どうしたんです。",
"来てくれと言うんだ。",
"行ったらいいでしょう。"
],
[
"私今メイフラワにいるんですのよ。",
"どうして?",
"旅館ではちょっと都合が悪いのよ。先生だって危険よ。",
"どうしてだろう。",
"黒須さんが私たちを誤解しているのよ。先生も共謀でやってる仕事だというふうに。",
"ヘえ。",
"でも、ちょっと上がって。マダムいい人よ。"
],
[
"何か食べたい。先生どう。",
"食べてもいいね。"
],
[
"みんなそう言ってたわ、あの記事少し酷いって。日頃の先生にも似合わない仕打ちだって。",
"あれは葉村君の感違いだよ。",
"だからいつも言ってるじゃありませんか。新聞社の人には一切逢わないことにして下さらなくちゃ困りますって。",
"それも場合と相手によるんだ。葉村君ならきっと有利に書いてくれると思ったんだ。僕も繰りかえしてそれを言ったんだが、後で少しばかりの君の批評はしたんだ。しかしあれも今まで新聞に書かれた以上に悪いとも思えないな。",
"世間は何と言ってもいいのよ。先生の口から出たということが重大なのよ。",
"しかしそれが不当な悪口だったら、非難されるのは僕じゃないか。",
"先生は大家よ。私なんかと一つには言えないじゃありませんか。こんな時こそ、私を庇護ってくれなきゃいけない人なのに、先生は私を突き落とすようなことをしたのよ。先生の言葉一つで、私の運命は狂わせることもできるのよ。",
"僕の言ったことに、そんなに悪意があるとは思わないな。"
],
[
"これから新聞社へ行ってね。",
"そうね。行ったところで恥の上塗りをするようなことになるんじゃないかと思うけれど。それに取り消しを出すったってほんの形式だけだから。",
"じゃ私はどうすればいいんでしょう。先生の気持はよく解るけれど、ジャアナリストの手に乗るということがありますかよ。あの人たちだって、まさか先生のしゃべりもしないことを書き立てはしないですもの。このままじゃ、私の運命は滅茶々々だわ。先生のおしゃべり一つで、私が世の中から葬られるなんて惨めじゃないの。",
"しかし結婚は……。",
"それどこじゃないわ。私あの人たちに顔も合わせられないわ。それにああいうブルジョウアは、中へ入ってみるとやはりいやなものなのよ。あの人だってどこの株がどうだとか、そんな話しているのよ。"
],
[
"葉村君は私の気持を少し好意的に酌みすぎたんですよ。あれじゃ全然葉子を叩き潰すようなもので、私も寝醒めが悪くて仕様がありませんから。一つ取り消していただきたいと思って……。",
"そうですかね。しかし取消しはどうですかね。社の方でもよくよくの間違いでもなければ、一度出したものは取り消しはしないことになっているんですがね。あれはあれでいいじゃありませんか。",
"いや、困るんです。葉子よりも僕の立場がなくなるんで。"
],
[
"そう、行ってもいい。",
"じゃすぐね。きっとよ。"
],
[
"結婚はどうなったかしら。",
"家がいつ売れるか知れないんですもの。その間私たち黒須さんの家へお預けでしょう。"
],
[
"逗子の海ももうすっかりさびれてよ。もうあの人もやって来ませんから、先生お仕事をお持ちになってまたいらしてね。私の名誉恢復のためにも当分それが必要だとお思いにならない? 御飯たべたら活動でも見て、一緒に行って下さるわねえ。",
"行ってもいいけれど……。"
],
[
"そうそう、あの男あの事件の直後、僕の留守へ三四人でやって来て、ひどく子供を脅かして行ったそうだよ。留守をつかうんだろうとか、お前の親父の名声ももう地に墜ちたとか言って……。あの朝の旅館の会見が、悪い印象を与えたんだ。あの恋愛も、僕が君の背後にいて画策したんだというふうに気を廻してしまったんだ。",
"今は何でもないんだけれど。"
],
[
"これでいいね。",
"どうもありがとう。"
],
[
"先生、ほんとうにすみませんけれど、ちょっと外へ出て下さいません? いろいろお話ししたいこともあるのよ。",
"いや、しかし……。"
],
[
"ちょっとそこまでならいいでしょう。子供さんに秘密で……。",
"それだったら。"
],
[
"一体どこにいるの? やっぱり逗子?",
"いいえ、あすこは最近引き払いましたのよ。それで今は渋谷に一軒手頃な家をかりていますの。どうせ手狭なものですけれど、でもちょっと手のかかった落着きのいい座敷もございますのよ。お庭も隣りの植木屋さんのにつづいて、さざん花や碧梧や萩など、ちょっと風情がありますのよ。あすこでしたら、きっと落ち着いてお書きになれますわ。だからぜひ一度先生をお迎いしたいと思いまして……。これから行きましょう。",
"さあね。"
],
[
"そのうち一度二日会のピクニックおやりになりません?",
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"玉川あたりどうですの。網船を僦って一日楽しく遊びましょう。私もしばらく皆さんにお目にかからないわ。ぜひやりましょう。私通知出すわ。"
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"だって仕方がない。君とは別れていたのだから。",
"それにしても私が気持悪くおもうくらいのことは、考えてくれたってよかったじゃないの。あんな女にもったいないわよ。",
"じゃ一反買えばいい。",
"買ったのは欲しくはないわ。あれを取り戻してよ。",
"今でなくてもいいじゃないか。"
],
[
"でもいらっしゃいませんか。今どこですの。",
"そうね。"
],
[
"どこへかけたの。",
"どこだっていいじゃないか。君は渋谷へ帰りたまえ。僕は一人で帰る。"
],
[
"春日君に委せよう。あの人ならかねがね僕たちに好意を示してくれているのだし、別れた後も君のことは心配してくれるから。春日君が入ってくれたら、後をいさぎよくしたいから、千円ぐらい上げてもいい。",
"そうお。"
],
[
"でも人に話さないでね。",
"いいとも。僕だって甘すぎるようでいやだから。"
],
[
"そうですね、梢さんは別に物質を望むような人でもないでしょうから、差閊えはないと思いますけれど、籍を入れるのだけはどうかな。",
"いけないと思う。",
"まあね。"
],
[
"庸太郎さんが相続者という立場て、そんなこと言うなら、私も止します。",
"しかし戸籍上の手続きをするというのは、お互いに縛ることだから、君にも不利益じゃないか。",
"それが先生の利己主義というものよ。私もうここにいられない。"
],
[
"それも先生の口から出たことですって? 梢さんはどうしても貰いたいと言ってるんですが――。",
"いや、僕も実は後をいさぎよくしたいと思うから。",
"そうですね。"
],
[
"さあ、僕にもわからないが、そんなことないでしょう。しかし言っときましょう。",
"いずれにしても金は明日お届けします。"
],
[
"びっくりした?",
"いや大して。"
],
[
"どうしたんだい。",
"ううん、着いて間もなくお母さんと喧嘩しちゃったのよ。手当り次第汚ない下駄を突っかけたまま、飛び出して来たものなのよ。",
"瑠美子は?",
"泣いて追い縋って来るから、瑠美子も一緒よ。下で北山さんとお風呂に入っているところよ。"
],
[
"奥さんも、顔は少々二の町だけれど、派手な訪問着なんか着て、この人はただ人柄がいいというだけのものなの。小説や映画のことも私などと話のピントが合わないんだもの。あの旦つくにしては少し退屈な奥さんかも知れないけれど、感じは大変いいの。",
"そんなのいいね。何とかならないものかね。",
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[
"ええ、でも目つからないのよ。",
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"私じゃ駄目だわ。お姉さんの真似できないわ。"
],
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],
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"そうね。僕が一々顔出すのもどうかね。",
"でも先生が行ってくれないと可笑しいわよ。お師匠さんも先生に見てもらいたがっているのよ。"
],
[
"僕がここまで引き摺って来たというんだろ。",
"そうじゃないのよ。私は結果を言ってんのよ。",
"そう、解ったよ。じゃ別れようよ。"
],
[
"なに怒ってるのよ。寝てよ。意地悪ね。",
"早く下宿へ行って寝たまえ。"
],
[
"まあ、そんなに?",
"しかし私も後の気持が悪いから。",
"ではお預かりしておきますわ。あの人のことですから、一時にあげてもどうかと思いますがね。",
"それも貴女にお任せします。",
"いや、それはやはり貴女の保管すべきものじゃないだろうね。"
],
[
"このごろ誰か来たでしょう。",
"え、来ました、二三度。",
"何て男です。",
"さあ、お名前はおっしゃいませんが、若い方です。鼻の隆い目の大きい、役者みたいなねえ。",
"ふふむ、なるほど。"
],
[
"今日行ってみましたら、清川さん本を売るのだそうで、部屋中取り散らかしていました。",
"どうして?",
"あすこは先輩の山上さんの奥にある借家ですから、何かにつけ窮屈なんでしょうか、今度田端の方へ家を見つけて、そこへ引き移るそうですから、金がいるんでしょう。"
],
[
"そんなことないだろう。",
"いや、そうです。重に舞踊や美術に関する書物で、売るのは実に惜しいと言っていました。"
],
[
"ハンドバッグか化粧品のようなものでも。",
"そうね。だけど、あの人支那服着ていましたね。"
],
[
"それで、足の寸法もありますから、あの人にも行っていただきたいんですの。それとなくみんなで遊びに行くことにして。支那料理くらい奢りますわ。",
"よかろう。"
],
[
"どう、これから銀座へ出て、耳飾りでも買って贈ったら。",
"それもそうね。"
],
[
"少し痩せたね。",
"ぞうよ、毎日働くんですもの。ほら手がこんな。節々が太って。"
],
[
"あの人が水を汲んでくれたり、食器を洗ったりしてくれるけれど。",
"女中なし?",
"ええ。あの人このごろますますあれだもんだから、手の美しいのなんか真平だというのよ。労働者のように硬くならなくちゃ駄目なんだって。",
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"ところがあまりよくもないのよ。"
],
[
"けどその程度でやって行かなくちゃあ。十分じゃないか。",
"でも私は寂しいの。何しろ田舎のことで、それは大して贅沢ではないにしても、食べたいものはお腹一杯食べて来たんですもの。"
],
[
"先生霊枝さんと何かありゃしない。",
"笑談じゃない、何もないよ。",
"そう。"
],
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"あの人も可哀そうよ。番町にいる時、私一度飛び出したことがあるの。先生の処へ行こうと思って、濠端の電車に乗ったら、あの人も追い駈けて来たので、水道橋で降りててくてく真砂町の方へ歩いて行ったの。そうするとあの人も見え隠れに後からついて来て、あの辺の横町でしばらく鼬鼠ごっこしているうちに、諦めて帰って行ったものなの。私よほど赤門前の自動で先生へお電話しようと思ったんですけれど、そうなると先生の家の雰囲気がふっと浮かんで来たりして、急いで番町へ引っ返したものなの。あの人はいなかったけれど、やがて帰って来て私を見ると、赭靴のまんま上がって来ていきなり私に飛びついて泣いたのよ。阿母さんとこへ寄って泣いて来たらしいの。",
"お株がはじまったわけだ。"
],
[
"なかなか出て来る隙がなかったもんで、八百屋へ買いものに行くふりして、途中で捩ぎ放して来たの。あの人は私が先生にお金もらうことを、大変いやがってるの。",
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"そうじゃないけれど。"
],
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"私たちは書く時は二階と下なのよ。私は下で書くのよ。清川は書けなくて困ってるの。私がぐんぐんペンが走るもんだから、なお苛つくらしいの。",
"君が仕事させないんだろ。",
"ううん、書く時はやっぱり独りがいいと思うわ。",
"君の書くものは気に入るまい。ペしゃんこにやられるんじゃないか。",
"ううん、よく議論はするけれど――。"
],
[
"瑠美子は。",
"あの人が厄介がるから、ここのところよそへ預けておきますけれど、あれほど愛していたのに同棲してみると、ちっとも可愛くないんですとさ。",
"はっきりしてるな。",
"真実よ。このごろの若い人、みんながっちりしたものよ。先生なぞには想像もされないくらい。",
"そこへ君がめそっこと来てるから。",
"それにあの人、このごろ皿洗いもしてくれないのよ。私も御飯たきしてると、本も読めなくて頭脳がぱさぱさしてしまうでしょう。いっそ別れようかと思うけれど、どう、いけない?",
"そうね。君が僕の娘だったら辛抱させるけれど。",
"そう――。"
],
[
"じゃ出るの止すの。",
"そうじゃないんですの。ただあの男が可哀そうなだけよ。"
],
[
"ちょっとそこまで行って来るとおっしゃって、そとへ出ていらしたばかりですよ。宅の庭下駄を突っかけて、番傘をお差しになって。",
"担がれたんだ。"
],
[
"どうしたんだ。",
"私到頭清川さんに棄てられてしまったのよ。",
"ふうむ。"
],
[
"僕はまたあれから巧く行っていることとばかり思っていた。",
"ええ、そうなの。そのことで最近田舎から兄もわざわざ出て来たくらいなのよ。何しろあの人なら三田の秀才だし、今度こそは過去を清算して名誉を恢復するのにいい機会だからというので、結婚してもらうように清川さんに話しこんでくれたりしたの。あの人は二三日考えさしてくれということで、その返辞を今日まで待っていたんですよ。そうするとその返辞がこれでしょう。"
],
[
"やっぱり私は悪い女なの?",
"さあ。君自身が判断しなくちゃ。",
"そうお。"
],
[
"そうだね。",
"駄目?",
"でもあるまい。"
],
[
"作品はいいんだが、新聞の読みものとしては、柄が少し悪いし、楽屋落ちも多いから、一般の読者には不向きかも知れない。それに後半がだれてる。",
"そう――。"
],
[
"いや、どうも梢さんはいけませんよ。あの人は先生のような方がしっかり監督なさらないと、何をするか解りませんな。",
"何かやってますか。",
"それは解りませんけれど、どうもあの人は普通ではありませんね。",
"敷金は持って行きましたか。",
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] | 底本:「現代日本文学館8 徳田秋声」文藝春秋
1969(昭和44)年7月1日第1刷
入力:久保あきら
校正:湯地光弘
2001年5月17日公開
2012年1月26日修正
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"私にも説明のしやうがないんです。聞くところでは、宿でも問題になつてゐるらしいんです。この頃外へ出れば、きつと連れてあるいてゐますが、宿でも少しも目を放さないやうです。虐待はずゐぶん酷いやうです。或晩なぞ、鉄瓶の煮湯をぶつかけて、首のあたりへ火焦をさしたんでせう。さすがに驚いて、私のところへやつて来たんです。打つたり蹴つたりするのは、始終のことでせう。私も言つても見ましたけれど、頭脳が普通ぢやないやうです。お兄さんもお有りのやうですが、何うしてあれを傍観してゐらつしやるのかと、寧ろ不思議に思つてゐるくらゐです。",
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] | 底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「婦人の國 第一卷第三號」新潮社
1925(大正14)年7月1日発行
初出:「婦人の國 第一卷第三號」新潮社
1925(大正14)年7月1日発行
※表題は底本では、「彼女《かのぢよ》の周囲《しうゐ》」となっています。
※「狂暴《きやうばう》」と「兇暴《きようばう》」、「其《その》」と「其《そ》の」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"叔父さんが丈夫で東京にいるとよかったんですがね。小説なんか好きでよく読んでましたがね。……遊んでいる時分は、随分乱暴でしたけれど、病気になってからは、気が弱くなって、好きな小清の御殿なぞ聞いて、ほろりとしていましたっけ。",
"東京で多少成功すると、誰でもきっと踏み込む径路さ。"
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"ただ安いから買っておかないかと、叔母さんから勧められたから……。",
"でも誰か、的がなくちゃ……おかしいわ。いくらに買ったのこれを……私簪屋で踏まして見るわ。"
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"……それがお前の幾歳の時だね。",
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"叔父さんが世話をした人ですから、事情を言って話せば、引き受けてくれないことはないと思います。あなたからお鳥目さえ少し頂ければね。",
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"どうでした。",
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"お医者はいきなり体を見ると、もう判ったようです。これが病気なものか、確かに妊娠だって笑っているんですもの。それに少し体に毒があるそうですよ。その薬をくれるそうですから……。",
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"そんなことなら二階があいているから、いつでも来てもいいって、そう言ってくれるんですがね。――だけど女ばかりで、そんなことをして、後で莫迦を見るようなことでも困るから、よく考えてからにした方がいいって言うんですの。正直な人ですから、やはり心配するんでしょうよ。",
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"随分ひどいわね。私やたら腹が立ったから、新ちゃんに皆な話してしまった。あなたはあまり新ちゃんのことも言えませんよ。",
"莫迦。少いものには少し気をつけてものを言え。",
"新ちゃんだって、叔父さんは今夜帰らないって、そう言っていましたわ。昨夜はお友達も来ていましたからね。三人で花を引いて、いつまで待っていたか知れやしない。――私ぐんぐん蹤いて行ってやればよかった。どんな顔して遊んでいるんだか、それが見たくて……。"
],
[
"私前に持っていたのは、もっと大きくて光沢がありましたよ。それにコートだって持ってたんですけれど……叔父さんが病気してから、皆亡くしてしまいましたわ。",
"そうかい。お前贅沢を言っちゃいかんよ。入らなけア田舎へ送ろう。"
],
[
"痛ござんしょう。",
"いやかまわんよ。",
"なるほど大分大きゅうござんすですな。"
],
[
"それで問題は、切開するかしないかということなんだがね。Jさんなどは、どうせそのままにしておいていけないものなら、思いきって手術した方がいいということを言っているんだ。",
"そうすれば確かに効果があるのかね。",
"それが解らないんだそうだ。体も随分衰弱しているし、かえって死を早める危険がないとも限らんと言うのだからね。",
"それに切開ということはどうもね……先生もそれを望んではいらっしゃらないようだ。"
],
[
"もう病気がすっかり根を張っている。",
"手術の効はないですか。"
],
[
"笹村は野菜は好きか。",
"慈姑ならうまいと思います。"
],
[
"まアあまり軽い方じゃなさそうですね。",
"医者を呼ぶようなことはないだろうか。",
"さあ……産婆がああ言って引き受けているから、間違いはあるまいと思いますけれどね。"
],
[
"あれがBさんだったからいいようなものの、ほかの人だったら、随分変に思うだろう。あんなことをしてお前ははずかしいとも思わんのか。",
"……ちッとも気がつきませんでしたよ。私そんなことをして。それは花を引いているんですから、そう硬くばかりもしていられませんから、調子に乗ってしたかも知れませんけれど……。"
],
[
"そう言うけれど、ちょっといいじゃありませんか。子供にはこういうものがいいんですよ。それに有片だから、不足も言えませんわ。",
"医師の話のところへ、くれてやればよかったんだ。",
"でもまアいいわ。いくら物がなくたって、他人の手に育つことを考えれば……。"
],
[
"先生は自覚しているんだろうか。",
"家族の人たちを失望させたくないために、わざとああした態度を取っていられるようにも見えるね。しかし病人の頭は案外暗いからね。"
],
[
"もし行くなら、一度坊やにお詣りをさせたいから成田さんへ連れて行って下さい。お鳥目がかからないでよござんすよ。",
"あすこなら人に逢う気遣いがないから、それもよかろう。鉱泉だけど、一晩くらい泊るにちょうどいい湯もあるし……",
"いつ行きます。",
"今日はもう遅いだろうか。",
"向うへ行けば日が暮れますね。"
],
[
"裏へ家が建つようでは、ここにもいられませんね、おまけに二階家と来てるんですもの。",
"出来あがったらそっちへ移ってもいいね。"
],
[
"お前たちはまるで妾根性か何かで、人の家にいるんだ。",
"ええ、どうせ私たちのような物の解らないものは、あなたのような方の家には向かないんです。"
],
[
"叔父さんがなぜ行らなかったろう。",
"叔父ですか。どうしてですかね。景気のいい時分は、自分で遊んでばかりいたんでしょう。それにその時は、私ももう年を取っていたのですから学問なぞは、私の柄になかったんでしょう。",
"でも手紙くらいは書けるだろう。",
"いいえ。",
"少しやって御覧。僕が教えてやろう。"
],
[
"一体田舎で何しているんだ。",
"このごろは体もよくなって、町で仕事をしているという話ですがね。女が出来たという噂もあるんですけれど……そのことは、去年欽一兄さんが養家先へ帰った時聞いて来たんですの。"
],
[
"いいえ、そんなことはないでしょう。随分元気がいいんですよ。お父さんはと聞くと、電車ちんちん餡パン買いに行ったなんて、それは面白いことを言いますよ。",
"ふとしたら、僕甥が一人来るかも知れんがね。とうとうまた推っつけられた。"
],
[
"敷の厚いのは困る。",
"そうですかね。私はどんな場合にも蒲団だけは厚くなくちゃ寝られませんよ。家でも絹蒲団の一ト組くらいは拵えておきたい。"
],
[
"あなたと一緒に歩いている時、いつか菊坂の裏通りで出会したじゃありませんか。あれがそれですよ。",
"へえ。"
],
[
"あれがそうですよ。お銀って、私の名を呼びましたわ。",
"へえ。",
"あの時あなたがいなかったら、私はどうかされていたかも知れないわ。それは乱暴な奴なんです。酒さえ飲まなければ、不断はごく気が小さいんですけれどね。"
],
[
"……私行った時から厭で厭で、どうしても一緒にいる気はしなかった。日が暮れると、裏へ出てぼんやりしていましたよ。裏は淋しい田圃に、蛙が鳴いてるでしょう。その厭な心持といったら……私泣いていたわ。そして何かといっちゃ、汽車に乗って逃げて来たの。",
"その家を、僕は一度たずねてやる。"
],
[
"それをとにかく借りることにしようと思うんですがどうでしょう。父はそこからどこかへ勤めるんだそうです。芳雄も、今いるところは暑苦しくてしようがないとかで、やはり通いにしたいと言っていますから、二人で稼げば、そんなにむずかしいことじゃないと思うんですがね。",
"それじゃお爺さんもこっちに永住か。",
"やれるかやれないか、まあそういうつもりなんでしょう。",
"まあやって見たらよかろう。",
"そうすれば、私もお産をするところができて、大変に都合がいいんです。近くにいれば、赤ン坊の世話もしてもらえますから。"
],
[
"まあ大学か順天堂へでも行って診ておもらいなすった方がいい。ひょっとすると、肺に少し異状がありゃしないかとも思う。",
"何だか少しおかしいぜ。"
],
[
"私死んでもいい。子供さえなければ……。",
"何大丈夫だよ。きッと癒してやる。"
],
[
"して見ると、あなたの方が丈夫なんですかね。",
"けれど、女の方はお産があるから……。"
],
[
"どこへ行こうかな。",
"三崎町へ行って一幕見でもしようか。"
],
[
"とにかく僕はお前を解放しようと思う。今までにそうならなければならなかったのだ。",
"ですから、あなたも深山さんとよく御相談なすったらいいでしょう。"
],
[
"一体あの時、お前というものが、己のところへ飛び込んで来なければ、こんなことにはならなかったんだ。",
"……厭なもんですね。",
"けど今からでも遅くない。お互いに、こうしていちゃ苦しくてしようがない。"
],
[
"私ほんとにしばらく出ない。子供が二人もあっちゃ、なかなか出られませんね。",
"何なら出てもいい。"
],
[
"お家へ帰ろう。",
"病気がよくなったらね。いい児だからここへ寝んねするんですよ。お医師さまに叱られますよ。"
],
[
"何て綺麗なお寺なんでしょう。あすこへ入っていると自然に頭が静まるようですよ。だけど坊やは厭なんですって。",
"僕も子供の時分は寺が厭だった。"
],
[
"へえ。じゃまたお前に逢おうとでも思っているんだね。",
"そんなことかも知れませんよ。あの男は、一旦別れた女を、一、二年経つとまた思い出して来るのが癖なんです。今は何かあるかないか解りませんけれど、一人決まった女と関係していると、ほかの女のことが、やっぱり気になると見えるんですね。そして先方の忘れた時分に、ふっと逢いに行って謝罪ったり何かするんです。妙な男ですよ。",
"面白いね。",
"やっぱり気が多いんでしょうね。",
"今はどこにいるね。",
"どこにいるんですか。むろん学校の方も失敗ってしまったんですから。",
"どこかで一度くらい逢っているだろう。",
"逢えば逢ったとそう言いますよ。"
],
[
"気がつくもんですか。私のいることすら知らなかったでしょう。それに私も、あの時分から見るとずッと変っていますもの。口でも利けば知らず途中でちょッと逢ったくらいじゃ、とても解りっこはありませんよ。",
"だけど、お前の目が始終先方を捜していると同じに、先方の目だってお前を見遁すもんか。",
"そんなことは真実にありませんよ。"
]
] | 底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
初出:「東京朝日新聞」
1911(明治44)年8月1日~11月3日
※表題は底本では、「黴《かび》」となっています。
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
2002年1月30日公開
2017年7月30日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"お爺さんはいつも元気すね。",
"なに、もう駄目でさ。今日もこの歯が一本ぐらぐらになってね、棕櫚縄を咬えるもんだから、稼業だから為方がないようなもんだけれど……。"
],
[
"どうして未だなかなか。",
"七十幾歳ですって?",
"七十三になりますがね。もう耳が駄目でさ。亜鉛屋根にパラパラと来る雨の音が聞えなくなりましたからね、随分不断に使った躯ですよ。若い時分にゃ宇都宮まで俥ひいて、日帰りでしたからね。あアお午後ぶらぶらと向を出て八時なら八時に数寄屋橋まで著けろと云や、丁と其時間に入ったんでさ。……ああ、面白えこともあった。苦しいこともあった。十一の年に実のお袋の仕向が些と腑におちねえことがあって、可愛がってくれた里親の家から、江戸へ逃げて来てから、色々なことをやりましたが、火事にも逢や、女房にも死別れた。忘れもしねえ、暑い土用の最中に、餒じい腹かかえて、神田から鉄砲洲まで急ぎの客人を載せって、やれやれと思って棍棒を卸すてえとぐらぐらと目が眩って其処へ打倒れた。帰りはまた聿駄天走りだ。自分の辛いよりか、朝から三時過ぎまでお粥も啜らずに待っている嬶や子供が案じられてなんねえ。",
"兵隊にいっていた息子さんは、幾歳で亡くしましたね。"
],
[
"何に、戦地じゃねえがね。それでも戦地で死んだぐらいの待遇はしてくれましたよ。戦地へやらずに殺したのは惜しいもんだとかいうでね。自分の忰を賞めるのは可笑しうがすけれど、出来たにゃ出来た。入営中の勉強っていうものが大したもんで、尤も破格の昇進もしました。それがお前さん、動員令が下って、出発の準備が悉皆調った時分に、秋山大尉を助けるために河へ入って、死んじゃったような訳でね。",
"どうして?"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
1955(昭和30)年3月31日初版発行
1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月17日公開
2012年9月13日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"先生の家なんか、いつでも行けるから詰らないわ。私色々なとこ見たいわ。先生は以前M、N―さんなんかと吉原へ入らしたことがあるんですてね。",
"さあ。行つたといふほども行かないけれど、地震前に二三度、M、N―君とT―君と三人づれで老妓の歌なんか聴きに行つたことはある。けど、今は知つたお茶屋もないから。"
],
[
"わたし小唄を聴くのが大好きよ。手近に聴くところがないから加賀寿々なんか聴きに、時々寄席へ行くのよ。",
"それ好いの?",
"上手よ。ねえ先生巧いわね。――一芸に秀でた人はどこか態度にぴたりと極つたところがあるのね。音曲でも舞踊でも、優れた芸を見てゐると刺戟されるのね。――好い唄を聴きたい。新らしい女で吉原へ行つた人があるでせう。",
"お茶屋ならね。己は駄目だけれど。",
"M・N―さんが今日来ると可かつたわ。お金持だから。",
"今度おごつて貰つたら可いだらう。",
"え、是非。ね、I―子さん!",
"え、あの方なら屹度おごつて貰へてよ。",
"まづい唄なら聴かしても可いけれど。その代り泊らなけあ。",
"いゝわ、泊つても。",
"けど鮎が……。"
],
[
"偶にはいゝさ。",
"さうよ。",
"けど余り歌の巧い芸者はゐませんよ。それに此方がやれないんだから、謳はせるのに気骨がをれて。"
],
[
"さうなさい。静かで好いのよ。萩や芙蓉が沢山あるのよ。――先生、木がづゐぶん繁りましたよ。",
"さうね。月があると好いけれど。"
],
[
"いゝえ、軽井沢にしようと思ひますの。",
"洒落れてるわね。",
"さう云ふ訳ぢやないけれど……近頃は生きるのもなか〳〵大変ね。暑くなれば私達だつて人並みに避暑にも行きたくなるし。",
"さうよ。でもY―さんは好いわ、一人だから。私なんか前の結婚生活がどこまで祟つて来て。",
"でも好いぢやないの。この間まで逗子にいらしたぢやないの。",
"病気だつたんですもの。それに都会的な享楽から脱れて、みつちり勉強したいと思つたからよ。子供をもつてゐると、これでなか〳〵大変なものよ。子供さんの多い先生の家にも色んな生活上の複雑した煩累も多いんですもの。",
"I―子は悪いわよ。S、Sは可哀さうよ。"
],
[
"何うして?",
"何うしてつて……。"
],
[
"え、飲むわ。お酒いたゞかうか知ら。先生は。",
"私も酒なら少し飲んでもいゝ。",
"I子さんは?",
"わたしは駄目。一口でも飲むと、ふら〳〵するの。"
],
[
"唄を聴きませうよ。あの、吉原から来てゐる人居ないか知ら。",
"さうね。"
],
[
"さう。いつの間にお稽古したの。",
"なあに、お稽古といふほどぢやないけれど……。",
"私も先生にかう云ふ趣味があるから、少し遣れると好いと思ふのよ。でもそんな事するよりか、矢張ひと向きに小説を勉強した方がいゝと思ふの。おやんなさい、聴かして。",
"さうよ、ブルヂヨウアの奥さんのする事よ。",
"奥さん稼業も遊んでゐられて好いもんだと思ふけれど、それぢや矢張り空虚で生きて行けないのね。"
],
[
"勧進帳よ。",
"大きく出るな。"
],
[
"駄目よ、みな忘れちやつて。S、S―は謳はない?",
"先生は太い方なのよ。",
"さう。",
"I―子、追分をやらないか。",
"駄目よ。"
],
[
"なか〳〵飲むんだね。",
"今夜は格別よ。づつと罷めてゐたんだけれど。",
"先生、水菓子をさう言つちや悪い?",
"枇杷?",
"何でもいゝの。"
],
[
"Z、H―子さんそんなに悪口を言つた?",
"言つたわ。"
],
[
"何だかこわくなつたから、私席をはづしてしまつたの。",
"あの時もさうだつたけれど……今だから言つて可いと思ふの。私は決してそれに雷同はしなかつたのよ。だけど、I―子も悪いのよ。私はS、S―のお宅へは随分古くから上つてゐるのよ。"
],
[
"I―子さんが一言、私に打明けてくれさへすれば、謂はゞ私は貴女の先輩だし、決して貴女の不利益になるやうなことはしなかつたのよ。それあ私だつてI―子さんのやうな人がゐてくれゝば、先生のところへ行くのに、何んなに気持が自由だか知れないのよ。苦い顔してるS、S―ぢや窮窟だけど、I―子さんだつたら、御飯時には御馳走してちやうだいつて、遠慮なく言へるし、何んなに楽しいか知れないのよ。貴女の思案に余るやうなことがあつた場合に、私に一言話をすれば、私だつて何んなことだつてしてあげられるのよ。",
"さう! さう言つていたゞくだけでも有難いわ。",
"私も今は力がなくて駄目だけれど、小説だつて私がもつと豪くなれば――勉強してきつと豪くなるつもりだから、さうしたら貴女のところも引立てゝあげられるのよ。",
"さうお!"
],
[
"私は十年も前に、作家としてS、S―に発見されたのよ。あの時の選評は今でも大事に仕舞つてあるけれど……それはS、S―だけのお蔭とも言へないかも知れないけれど、私のより外に取るのがないと言ふので、わざ〳〵点を殖してくれたりしたことを、後で社の人に聞いて、何のくらゐ感謝したものだか。",
"U、Iさんの点が少かつたからね。あの人は忙しくて全部読まなかつたんぢやないかと思つたね。でなくてあんな点の附方つてあるものぢやない。あれは好かつたな。"
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"あの女主人公私大好きよ。",
"緑だつたね。",
"兎に角奥さんの亡くなられた時、私なんかもつと早く駆けつけて可いのよ。行つてみると、Z―さん夫妻が……殊に細君のH―さんが、私が一切遣つてゐるんだと云ふ風に、づゐぶん威張つてゐたものよ。",
"いや、それは外にちよつと頼みたいことがあつて、Z―君に電報をうつたので、それが自然通知にもなつたからなのさ。私にして見れば、働いてもらふのが遠慮で……。",
"家の先生はいつでも然うなのよ。それが可けないのよ。先生が思つていらつしやるやうなものぢやないのよ。あゝ云ふ時は、誰れにしても一ツ端し働かしてもらひたいものなのよ。",
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],
[
"有難いもんだな。",
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"私なんかも、あのお葬式の日、T―さんが来て、女の人も一人弔辞を読んだ方がいゝから、Y―さん貴女お読みなさいつて言つたのよ。私も読んでもいゝと思つてゐたんだけれど、脇を見ると、O―子さんが変な顔をしてるやうに見えたのよ。年上ではあるし、私O―子さんに、貴女お読みになつたらと言つたのよ。結局あの方が起つことになつたんだけれど、だつてそれは自惚でも何でもない、あの方のもよかつたには好かつたけれど、私の方がもつと好かつたのかも知れないと思ふわ。",
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],
[
"飲み過ぎちやつた!",
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"少し吐気がするの。"
],
[
"酒は止すと可いね。",
"え、この頃飲んだことはないんですけれど……。",
"苦しい?",
"少しね。"
],
[
"何か薬がないか知ら。賓丹か清心丹か。",
"さあ。"
],
[
"いらつしやいね。私達も亦来ますわ。こゝは先生の気に入つてゐるのよ。",
"家をあけて遠くへ出ることが出来ないからね。"
],
[
"もつと入らつしやいよ。一緒に帰るから。",
"有難う。また。"
],
[
"だけど昨夜のN―子は可憐だね。",
"みんなあんな風に思つてゐるのよ。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「新潮 第二十四年第十号」
1927(昭和2)年10月1日発行
初出:「新潮 第二十四年第十号」
1927(昭和2)年10月1日発行
※底本の親本で一字脱字の文字を底本は□で表示しています。
※「N、Y―子」と「Y・N子」と「Y、N―子」、「M、N―」と「M・N―」の混在は、底本通りです。
※「I―子はまだ酒を切り揚げなかつた」の「I―子」は「N―子」と思われるが初出も「I―子」なので、注記はつけていません。
※「感じであつたか、」は「感じであつたが、」と思われるが初出も「感じであつたか、」なので、注記はつけていません。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "055396",
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"作品名読み": "くさいきれ",
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} |
[
[
"ぢや女給ぢやないんだね。",
"先生にまでお話してもいゝと思ひますが、I子さんには何うか秘密に。",
"大丈夫だよ。寿美子かね。",
"え、さうです。"
],
[
"大分前から?",
"いゝえ、つい此の頃。",
"いつから?",
"そんな事は聞かないで下さい。まあ友情以上のものぢやないんですから。",
"あの女の家へ行つたことがある?",
"え、二三度。一度なんかK――君に来られて、ちよつと困りましたけれど、寿美子さんはK――君を愛人として見られるのを厭がつてゐるやうです。愛人ぢやないつて言つてゐますね。",
"さう云ふことは善く口にするやうだね。それに生活の保証を得てゐない。漸とのことで今度千葉の家の側にアトリヱを建てゝもらふことになつて、工事も進んでゐるけれど、父も頑固だし、小姑も沢山あるし、迚も音楽の勉強どころではないだらうから、寿美子は行くのを厭がつてゐる。あの女も家庭婦人ぢやないんだからね。",
"煙草も酒もやりますね。",
"さうのやうだね。",
"酒はづゐぶん飲みますね。",
"あんなに若くて、僕達のことなんか、よく知つてゐてくれる。僕達を力づけてくれたり、泣いてくれたりするんだ。乱視とか聞いたが、あの目にちよつと魅力がある。まあ綺麗な方だね。接吻くらゐなの?"
],
[
"しかし初めて僕の宿へやつて来て、告白されたときには、ちよつと驚きましたよ。しかしI子さんには何うか秘密に。",
"さう言はない方がいゝだらうね。寿美子がI子に何か話をするまでは。",
"それよりも、新橋駅で、S君に見つかつて困りました。S君が何か言つてませんでしたか。"
],
[
"いや、何にも。",
"ちやうど二人とも殆んど文無しで、カフヱへも入れない始末だつたもんですから、あすこへ入つて、ベンチに腰かけてゐたのです。",
"何でもないぢやないか。",
"生活がづゐぶん苦しさうですね。K――君から何等の保証もされてゐないらしいんですね。僕も少し何うかすれば可いんですけれど。"
],
[
"K――君には気の毒だと思ひましたけれど……。",
"舞台へ立ちたいつて?",
"若い人のことですからね。",
"何んな劇団?",
"いや、未だほんの試みに過ぎないものですけれど。外の職業を捜してあげました。"
],
[
"今日あたり来るだらう。",
"多分来てくれるでせうと思ひますけれど。"
],
[
"寿美子さん武村と少し可笑しいんぢやないかい。",
"さう。武村さんが何か言つてゐましたか。",
"詳しいことは聞かないけれど、往来はしてゐるやうだね。僕のところで二人落合つて寿美子が帰りがけに目配せをするから、武村も直ぐ出て行くと、あの辺のカフヱで待つてゐたと言つたやうなこともあるんだつて。お前は気づかない。",
"私も薄々感づいてはゐましたさ。だけど、私そんな事口へ出さない女よ。",
"さう。どんな場合に。",
"はつきり覚えてもゐないけれど。",
"武村の話では、最初寿美子の方から進んだものゝやうにも思へるんだ。それから舞台に立ちたいと言ふから、劇団に紹介したとか言ふやうなことも言つてゐたけれど。",
"何んな劇団?",
"さあ、何んな劇団だか。",
"寿美子さんも考へなしね。舞台に立ちたいのなら、私達にさう言へば可いぢやないの。",
"さう本気でもないのだらう。",
"それなら尚困るわ。尤もK――さんが生活の心配をしてやらないし、千葉へ引込むのを大変厭がつてはゐました。それに私達が始終武村さんを讃めてゐるでせう。寿美子も芸術家ですからね。けれど武村さんに行つて何うする積りだらう。あの人がK――さん以上に、寿美子の生活を保証できないことは解り切つてゐるぢやないの。"
],
[
"さうは言つても、書く人は矢張り可恐いですよ。私が一番立場に困つたのは、何かと言へば貴方に書かれたことぢやないの。それあ、寿美子さんも可哀さうなのよ。このあいだも阿佐ヶ谷へ行つてみると、晩にたくお米がないつて始末なの。私がお米も入れて来ましたけれど。寿美子さんも生活となると、私以上にだらしがないけれど、それも芸術をやるんだから仕方がないでせうが、障子は破けてゐるし、電燈は薄暗いし、よく一人であんな寂しい一軒家に寝るもんだと思ひますね。質のわるい泥棒でも入つて来たら何うするでせう。アトリヱの建築も大事ですけれど、K――さんが幾日も〳〵あすこに女一人棄てゝおくのも好いことゝは言へませんね。あの人も純真なだけに、さう云ふことのお察しがなくて困るの。私でも幇助してやらなかつたら、何うして食べたり着たりして行くでせう。寿美子さんが悶踠くのも無理はないぢやないの。でもあの女綺麗なところがあるのよ。私からお金をもらふのさへ気兼なのよ。買ひものをしたつて、計算は一々几帳面よ。だから武村さんとこへ行つた気持も解るけれど。……行くなら行くでも可うござんすさ。でも其方此方渡りあるくのは困りますからね。あの女にはづる〳〵と引摺られて行くやうなところがあるの。",
"だけど武村も、恋愛関係だとも言つてゐないんだよ。",
"私もそこまでは行つてないと思ひますけれど。それはあの人も、あすこまで進んだんだし、芸術家としては尊敬もしますけれど、あんな貧乏でも寿美子さんが可哀さうだと思ふの。"
],
[
"寿美子さんの家は、もとは好かつたの。お父さんは代議士もした人なのよ。東京の叔母さんも、来い〳〵と言つてるらしいんですけれど、矢張り行きたくないのね。K――さんとは、矢張別れないつて言つてますわ。",
"この頃少しぐらついたんだね。",
"音楽家として自分の才分にも疑ひが起つて来たらしいの。様子が変だとは思つてましたけれど、音楽で立つて行けるか何うかと云ふ不安もあるの。生活をK――さんに寄れないとすると、考へなけあならないでせうから。でも矢張りK――さんは自分でも好きだと言つてゐますね。"
],
[
"だから寿美子さんの方でも、早く一人前の音楽家になることさ。",
"えゝ。それが大変ですもの。",
"いや、豪くなればなるほど、家族達とは巧く行かないね。",
"でもK――さんを愛してゐるのだつたら……。",
"何だか解りませんわ。",
"武村さんは?"
],
[
"ぢや誰が好き?",
"さうね。私Y――先生が好きなの。"
],
[
"さう。そんな大家?",
"だけど子供さんが多いの。",
"生活は?",
"貧乏ですわ。",
"へえ! 恋愛があるの。それなら己が援助する!"
],
[
"それは私達の、初めたものなのです。まだほんの初めたばかりの、微力なものなんですから、さう云ふ事情でしたら、決しておすゝめは出来ません。私達も止めても可いんです。",
"いや、そんな必要もないぢやありませんか。折角お初めになつたのでしたら、お遣りになつた方がいゝぢやありませんか。寿美子さんが一人ぬけたつて、代りの女優がゐない訳ぢやないんでせうから。",
"それ程のこともないんですよ。",
"もう稽古にでもかゝつたんですか。",
"え、やつてゐるんです。けど、もう止めます。",
"寿美子さんも稽古したんですの。",
"え、二三度。"
],
[
"それで寿美子は何うなんです、女優として……。",
"まあ、正直なところあの女に舞台は何うかと思ひますね。せりふなんかも何うも……。"
],
[
"若し遣るとしたら、報酬がもらへるんですの。",
"いや、そんな訳にも行かないでせう。"
],
[
"寿美子が来てやしないかと思つたもんですから。",
"それからづゝとお逢ひにならないの。",
"逢ひません。私が悪いんです。アトリヱの方へかゝつてゐて、出て来る隙がないものですから。夜だけでも来ようと思ふんですけれど、今のところ、別に入口がないものですから、門が早く締つてしまふと、出る訳に行かないんです。",
"ちつとも出て来ないんですか。",
"一週間前に行つて見ました。その時はゐました。",
"武村さんと逢つたさうですね。",
"え、其の人とも其の前に逢ひましたが、一週間前に行つたときには、何でも牛込にゐる人だとか云ふ、早稲田の人が来てゐました。",
"はゝ、どんな人?",
"痩方の脊の高い……。",
"顔のさう大きくない、頭髪を分けた蒼い色した人ぢやなくて?",
"さうです。",
"はゝ。あの人だわ。この間三人で来た。",
"さうらしいな。",
"始終黙つてゐたから、変だと思つてゐたら。そして何んな風でしたか知ら。",
"私が入つて行つても、別に挨拶もしず、胡坐を組んでゐますから、私も避けるやうにしてゐたんです。寿美子は一体、誰の前でも愛人といふ振をしないでくれと言ふんですから。"
],
[
"その時もそんな風?",
"え。",
"で、その男に対して寿美子さんは?",
"親しい口の利き方をしてゐました。",
"可笑しいな。"
],
[
"これは駄目ぢやないか。こんな女のために貴方の悩むのは詰らない。",
"みんな僕が悪いんです。僕はあの女のために、当分又アトリヱを棄てようと思ふんです。あのまゝにしておいてくれる約束で、父にも其の話をしたのです。"
],
[
"それをK――さんに言ふと可けないから、わざと絶望のやうなことを言つたんですけれど……。",
"さうか知ら。しかし此の二週間ばかりが、寿美子の危険期であつたのは事実だね。",
"寂しいから、少し自棄になつたといふ程度のものよ。女は皆なさうよ。誰だつて、あんな寂しいところに、明日のパンもなしに独りで放抛つておかれゝば、あゝなるのが当然よ。年が行かないんですもの。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「新潮 第二十五年第二号」
1928(昭和3)年2月1日発行
初出:「新潮 第二十五年第二号」
1928(昭和3)年2月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2020年11月27日作成
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[
[
"芝居へつれて行つておくれやすや。",
"あゝ、行きませう。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「文芸日本 第一巻第三号」文芸日本社
1925(大正14)年6月1日発行
初出:「文芸日本 第一巻第三号」文芸日本社
1925(大正14)年6月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年11月26日作成
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[
[
"今度はいつ帰るんです。",
"明日帰らうと思ひます。",
"どこにゐるんです。",
"つひ御近所なんですけれど……。",
"私も一度おたづねしませう。",
"え、何うぞ。先生なぞのおいでになるやうなところぢやございませんけれど、何時でも是非。"
],
[
"ごめんなさいね、こんなに寝坊をして。今起きますわ。",
"いや、寝てゐてもいゝ。"
],
[
"先生さういふ風にお取りになるの。私の気持がおわかりにならないの。それあ先生のお心持は有難いんですけれど、先生のお金なんか迚も勿体なくて。",
"僕もさう余計なことは出来ないよ。しかし君の生活を好くするためには、僕自身にもしなければならないことがあると思ふ。僕の金が勿体ないなら、生活を質素にしてね。",
"質素にしますとも。私もう何にもいらない。着物なんかちつとも慾しいとは思はない。こんな宿屋生活なんかも、つく〴〵厭になつた。先生のお宅へ行くと、ほんとに落着いた気持になれる。先生のお傍でお仕事の邪魔をしない程度で、編物をしたり本を読んだりして静かに暮らせるやうな日が来たら、私何んなに幸福でせう。私この此頃余所から帰つて、この部屋へ入つてくると、つく〴〵厭になつて来るの。今までの生活が呪はしくなつて来るの。",
"世間はさうは思つてゐないやうだね。",
"一と頃はそれは私も自暴自棄になつてゐましたから、仕方がないわ。",
"僕が若し牛込時代に、もうちよつと何とか出来たらばね。一度でもあの宿を訪ねてゐたら、何うにか出来たかも知れなかつたけれど、何しろ若くて美しい人なんだし、家内が敏感なんで、無い腹を探られるのが厭だつたから。",
"あの時先生がおいでになるといふので、Kさんがこの火鉢を買つて下すつたんだわ。あの方だけよ、真実の好い意味で私を見て下すつたのは。",
"それが何うして可けなくなつたんだらう。"
],
[
"おばさんとこへ行つてもいゝ。",
"あゝ可いとも。"
],
[
"何んなことさ。",
"先生にいたゞいたお金ね。",
"何だ、あれつぱかしの物に、いつまで拘泥はつてゐるんだらう。",
"まだお話しもしないうちに、そんな事を仰つちや可けないわ。"
],
[
"ねえ先生、私の田舎では古着が相当いゝ値で売れますのよ。着られないものは、御母さんに売つてもらつても可いと思ふわ。",
"東京だつて皆んな飽きの来たものは売つて、新しいものを買ふのさ。",
"とにかくあのお金で出して来ますわ。先生さへお気持わるくなければ、そのなかで若し、とし子さんに似合ふやうなものがあつたら、一枚でも二枚でも着ていただければ、私何んなに嬉れしいか。",
"さう。とし子にも羽織を拵へてやる約束なんだけれど。あれは和服といつては、何にもないからね。僕が作らせなかつたんだ。",
"皆さんさうですわ。卒業間際に作るんですの。私なんぞも矢張りさうでしたわ。"
],
[
"それあ可いだらう。しかし其だけで足りるかね。",
"ちやうど其の位だつたと思ふわ。",
"質屋へ自分で行くの。",
"えゝ、東京では何でもありませんわ。でもさう度々行つたことはないの。番頭さんは私が行くと皆んな笑つてゐるの。",
"僕も以前は三軒もの質屋とお馴染だつた。質屋から足を洗つたのは、つひ此の六七年からのことですよ。"
],
[
"お待たせしてすみません。少し買ひものをして来たものですから。",
"何だかこて〳〵買つて来たもんだね。"
],
[
"この花なら、そこの窓ぎわにおくといゝ。赤いカアテンによく移るぢやないか。",
"でも此処では水をやらないから、花が可哀さうよ。"
],
[
"M―夫人時代から見ると、変つたものだね。",
"さうですつてね。あの時分ほんとうにぽつとして可かつたけれど、今は目が鋭くなつたつて、御母さんがよくさう言ひますわ。",
"その羽織にも覚えがあるな。",
"え、これもあの時分着てゐたものですわ。たしか先生のところへも着て行つたと思ふわ。だけど、私あの時分から見ると、可けなくなつた?",
"いゝや、そんな事はない。箇性が出て来たんだらう。顔が近代的になつて来たんだ。しかし僕は夫婦で入つて来たとき美しい夫婦が、僕の汚ない書斎へ入つて来たものだと思つて、目を睜つたものさ。M―さんは寧ろ君よりも美しかつた。",
"あの人の姉さんは、評判の美人だつたんですのよ。",
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],
[
"私これ重くて困るの。物は好いんですけれど、多分二百五十円ばかりだと思ふわ。これを二つに切つて、とし子さんに半分締めていたゞきたいと思ふわ。いけない!",
"いけないことはないが、いくら派手でも、子供には少し可笑しくはないか、まあ切らずにおきなさい。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「文芸春秋 第四年第五号」
1926(大正15)年5月1日発行
初出:「文芸春秋 第四年第五号」
1926(大正15)年5月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "055363",
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"さう。何処でも可いのよ。出た以上は少し旅行気分を味はつて帰りたいわ。",
"A―で一泊して、それから又途中どこかへ寄らう。何んなところか軽井沢へおりて見ようかしら。",
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],
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"さう。",
"前に来たとき、下の部屋で、女中が火をもつて来て、十能を引くら返して、取替へたばかりの青畳を台なしにして了つたんで、其の上へ火鉢を置くやうにしてゐたけれど、帰つたあとで多分僕の所為になつてゐやしないかと思ふんだ。",
"ほ。",
"四月のことでその辺に菜花が咲いてゐたが、風邪が癒らないんで、M―市の親類の家へ、予定より早く引揚げたんだがね。後からわざ〳〵主人の弟が自身豆腐を運んでくれたりして……豆腐はこゝの名物だ。",
"さう。食べたい。けど、介意はないわ、そんな事!"
],
[
"強いて引立てるのも何うかと思ふんだね。",
"でも寂しさうだつたわ。今に東京へ出てくるでせう。先生のお子さん方には、先生の家よりよいところはないんですよ。",
"しかしあれはあれで可いんぢやないかな。そんな気もする。"
],
[
"死んだ家内はあれ一人を頼りにしてゐた。",
"葉子ちやん似てるといふぢやありません?",
"いくらか似てゐるけれど……。"
],
[
"豆腐はどうだ。",
"おいしいわ。でも少し硬いのね。鳥鍋の方がずつと好い。",
"何んにもないね。",
"これで沢山だわ。気分よ。余所の家で食べものを遠慮なんかするの厭! 食べた〳〵としなくて。先生の家ではそんな事ないけれど。"
],
[
"いつか書いたときより、いくらか上手になつたかな。",
"里村先生にも何うぞ。",
"ふ。私なんか。",
"この人は歌です。字は此頃一茶を稽古してゐます。",
"さうですか、是非どうぞ。",
"こゝは一茶の本場だからね。",
"さう。",
"一茶のやうな字は書けないね。"
],
[
"好いわね。",
"字も面白い。",
"さうよ。"
],
[
"さうね、かう云ふ町はどこも型が極まつてゐるからね。天主閣でも見るかね。",
"どこでも可いわ。"
],
[
"さうでもないわ。ガーゼの肌襦袢がじつとりよ。帯といふものが又何といふ厄介なものなんでせう。でも洋服は貴方は厭でせう。",
"いや、さうでもないけれど……。",
"さう。",
"おれは矢張体が悪いね。",
"そんな事ないわよ。暑さに疲れたのよ。私も目がくら〳〵するの。"
],
[
"方向を転じて、いつそ赤倉へでも行つてみれば可かつた。",
"赤倉て知らないわ。",
"僕も行つて見たことはない。しかし懐かしい北の海が見えるといふから……。"
],
[
"行つても可いけれど、呼んだら何うかね。悪いか知ら。",
"悪いことないでせう。直ぐ使をやりませう。それからY、N子さんにも逢ひたい。",
"さうだ。"
],
[
"やあ。",
"いらつしやい。お呼立てして。"
],
[
"遠いんですの。",
"え、ちよつと有りますよ。いつお着でした。",
"もうちよつと先き。Sの親類へ行つた帰りですよ。外套なんか着てるんだね。",
"風邪をひきますからね。",
"そんなに凉しくはないぢやないか。"
],
[
"みんな好いもんだな。",
"先生もいらしたら何うです、私なんか東京にゐるよりかかゝらないんです。"
],
[
"さうでもないですけれど。",
"あすこらにゐる外人は、何となし日本人に対して優越感をもつてゐるらしいわね。己達の領域だと言つた風に。",
"何とかしたら可いぢやないかね。"
],
[
"Aの俳句は好いのかね。",
"好いですね。",
"僕は思つたほど感心しなかつた。干からびてゐるぢやないか。"
],
[
"さうですか。でも歌も好いぢやありませんか。",
"僕も歌はわからなかつたけれど、近頃はさうでもないな。女性のものとしては歌も情感があつて好いぢやないか。"
],
[
"S君は郷里に庭を作つてゐると言ふぢやないか。軽井沢がひどく気に入つた訳だね。",
"一頃は郷里へ引込もうかと思つて、土地も買つたんですけれど……。"
],
[
"此処がそんなに好いかね。",
"居なじむと、それあ好いところよ。愛子さん何う。",
"私? 今来たばかりだから解らないけれど、来る途中汽車の中から見た此の辺の自然が素敵に好かつたわ。こゝも急度好いと思ふの。"
],
[
"水もあるのよ。翌朝方々お歩きになつて見ると可いわ。私たちお誘ひに来てよ。",
"いやまあ……。"
],
[
"今M、Sさんが入らして見たら、先生がよく眠つていらしたので、そつとしてお置きになつたんですの。",
"体がわりいですか。可けませんね。",
"いや、大したこともないんです。歯齦に膿をもつてゐるんで。",
"それあ可けませんね。",
"今皆さんで散歩に誘つて下すつてゐるのよ。行きませう。",
"行つておいで。僕はこゝにゐよう、これから立たうと思ふ。",
"さう。それでも可いわ。",
"御気分が悪くちやね。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「中央公論 第四十三年第一号(我国文化の最高標準号)」
1928(昭和3)年1月1日発行
初出:「中央公論 第四十三年第一号(我国文化の最高標準号)」
1928(昭和3)年1月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2020年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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"さあ、もう遅いだろ。",
"そうね、じゃ早く帰って風呂へ入りましょう。"
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"そうね、止しましょうか。",
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"それはそうなのよ。世話のやける抱えなんかおくより自分の体で働いた方がよほど気楽だというんで、いい姐さんが抱えをおかないでやってる人もあるし、桂庵に喰われて一二年で見切りをつけてしまう人もあるわ。かと思うと抱えに当たって、のっけからとんとん拍子で行く人もたまにはあるわ。"
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[
"いや、均一が富士見へ行ってるそうで、己に逢いたいそうだ。",
"よほど悪いのかしら。",
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"いずれにしても、加世子さんからそう言って来たのなら、行ってあげなきゃ……何なら私も行くわ。中央線は往ったことがないから、往ってみたいわ。",
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"そう。"
],
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"療養所はこの町なかですか。",
"いいえ、ちょっと離れとりますが、歩いてもわけないですよ。何なら子供に御案内させますですが。"
],
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"そうですか。今年一杯もかかるような話ですか。",
"何でも本当に丈夫になるには、来年の春まで病院にいなければならないそうですよ。"
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"あら。",
"今帰って来たのか。",
"え、ちょっと療養所へ行って来ましたの。",
"どんな様子かしら。"
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"お手紙ありがとう。",
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"お兄さまそう心配じゃないんですけど……多分この一ト冬我慢すればいいんでしょうと思います。",
"そうですか。すぐ行ってみようかと、実は思ったけれど、興奮するといけないと思って。",
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],
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"お父さまも頭髪が大分白くなりましたわ。",
"己もめっきり年を取ったよ。皆さんお変りもないか。老人はどうだ。",
"お祖父さまですか。このごろ少し気が弱くなったようだけれど、でも大丈夫よ。",
"貴女も丈夫らしいが、結婚前の体だ、用心した方がいいね。",
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"どんなふうって別に……北沢の叔母さまの近くに、小さい家を借りているんですわ。",
"借家に?",
"そうです。おばさまの監督の下に。なるべく均一お兄様の月給でやって行くようにというんでしょう。",
"均一の月給でね。それじゃ均一もなかなかだね。",
"ええ。今度の入院費なんかは別ですけど。",
"あんたはずっといるつもりか。",
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"明日晴れるかしら。ここはお天気のいい日はとてもいいんですわ。お父さんしばらくいらしてもいいんでしょう。",
"さあ、それでもいいんだが、誰か東京から来やしないか。それに己もここは一日のつもりで来たんだから。"
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"それあありがとう。俺も光栄だよ。",
"光栄だなんて……。上諏訪へいらしたことがおありになって?",
"いや、こっち方面はどこも知らない。旅行はあまり好きじゃなかったし、隙もなかった。しかし、上諏訪へ行くんだったら、ちょっと訪ねたい処もある。"
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"どこですの。",
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"ホテルに誰方か……。"
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"何なら紹介しよう。",
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"何しろこの病院は素晴らしいね。ここにいれば大抵の患者は健康になるに決まっているよ。",
"ここまで持って来れる患者でしたら、大抵肥って帰るそうです。",
"とにかくじっと辛抱していることです。一年と思ったら二年もいる気でね。……戦争はどうだった?",
"戦争ですか。何しろ行くと間もなく後送ですから、あまり口幅ったいことは言えませんが、何か気残りがしてなりません。病気でもかまわず戦線へ立つ勇気があるかといえば、それはできないけれど……。死の問題なぞ考えるようになったのは、かえってここへ来てからです。"
],
[
"俺も何か物質的に援助もしたいと思うのだが、今のところその力はない。お前たちのためには、まことに頼りのない父だが、これもどうも仕様がない。辛抱も大事だが金も必要だからね。",
"いや、そんな心配はありません。",
"丈夫になったら、元通り勤めることになってるのだろうね。",
"まあそうです。しかし三年も四年も休んでいると、すべてがそれだけ後れてしもうわけです。この損失を取り還すのは大変です。僕はもし丈夫になったら、今度は方嚮をかえるつもりです。",
"方嚮をかえるって……。",
"向うで懇意になった映画界の人がいますから、あの世界へ入ってみようかとも思っています。",
"それもいいだろうが、三村の老人や他の皆さんともよく相談することだね。",
"お祖父さんは僕のことなんか、そう心配していません。",
"とにかく体が大事だ。偉くなる必要もないから、幸福にお暮らしなさい。",
"は。"
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"感謝!",
"それからお兄さまこのごろになって、お父さまの心持がやっと解るような気がすると言っていましたけれど。",
"可哀そうに病気して気が弱くなったんだろう。",
"それもあるでしょうけれど、あれで随分しっかりしたところもあるわ。",
"何しろあの時分は、お母さんが少し子供に甘くしすぎたんだよ。己は子供の時から貧乏に育って、少しいじけていたもんだから、お母さんのやることが気に入らなかった。学生のくせに毛糸のジャケツを買ったり、ゴムの雨靴を買ったりさ。己は下駄箱のなかで、それを見つけてかっとなって引き裂いてしまったものだよ。あの時分は己も頭脳が古かったし、今から思うと頑固すぎたと思うよ。明治時代に書生生活をしたものには、どうかするとそういうところがあったよ。そのころから均一はコオヒーを飲んだり、音楽を聞いたり、映画や歌劇を見たりしたものだ。もっとも己も最近では若いものに感染れて、だんだんそういうものの方が好きになった。",
"そうね。映画御覧になります?",
"時々見る。退屈凌ぎにね。しかしこのごろはいい画がちっとも来ないじゃないか。",
"え、御時勢が御時勢だから。でもたまには……。",
"ひところは均一も、音楽家にでもなりそうで、どうかと思っていたが、そうでもなかった。己も明治時代の実利主義派で、飯にならんものはやっても困ると思っていたものだ。近代的な教養というものに、まるで理解がなかった。",
"けれど今はまたそういう時代じゃないんでしょうか。",
"そうも言えるが、それとはまた違うようだ。もっとも世の中にはそういう階層もないとはいえん。しかしみな頭脳がよくなって、単に古いものを古いなりに扱っているのではなく、時代の視角で新しい解釈を下そうとしているようだ。己は一切傍観者で、勉強もしないから何も解りはしないけれど。",
"そういえばお兄さまも少し変わって来たわ。",
"どういうふうに。",
"どうといって説明はできないけれど、何しろ一年の余も大陸の風に吹かれていましたから。"
],
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"どうしましょう、私お腹がすいたんですの。フジ屋へでもお入りになりません?",
"食事ならホテルでしよう。買物はその後になさい。"
],
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"お嬢さんでしょう。",
"そうだよ。上諏訪へ遊びに行くというから、連れて来たんだ。あすこは病院だけは素敵だが、何しろ荒い山で全くの未懇地だ。"
],
[
"均一さんは。",
"心配するほどのこともなさそうだよ。",
"ここも一杯よ。一番上等の部屋が一つだけしかなかったんですの。でも皆さん食事は。",
"あすこのホテルではひどいものを食わされて、閉口したよ。昼はこっちで食うつもりで。"
],
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"そういうわけでもないんですわ。あの病院は割と陽気ですから、心配ないんですの。いつでも帰ろうと思えば帰れますの。",
"私今日あたりお電話して、事によったら行ってみようかと思ってたんですけれど、出しぬけでも悪いかと思って。",
"いらっしゃるとよかったわ。いらしたことありませんの。",
"ええ、こっち方面はてんで用のない処ですから。この辺製糸工場が多いんです。何でも大変景気のいい処だって……。"
],
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"いいお部屋ね。",
"よかったら加世子さん、今夜ここにお泊まりになっては。"
],
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"私も今生きていると、いい年増の姉が二人もいたのよ。だけど、それは二人とも結核でしたわ。大きい方の姉は腕の動脈のところがぽつりと腫れて、大学で見てもらっても、初めははっきりしたことが解らなかった。そのうちにだんだんひどくなってとても痛んで、夜だっておちおち眠れないもんですから、一晩腕をかかえて泣いていましたわ。朝と晩に膿を吸い取るために当ててある山繭とガアゼを、自分でピンセットで剥がしちゃ取り替えていましたけれど、見ちゃいられませんでしたわ。",
"動脈の結核なんてあるの。恐いわね。",
"もう一人は肺でしたけれど……、でもそういう時は、女の子ばかり五人もいて、家も貧乏でしたからできるだけのことはするつもりでも、仕方がないから当人も親たちもいい加減諦めてしまうのね。"
],
[
"おばさんもお出でになりません。",
"そうね、行きましょうか。私も何かお土産を買いたいんですの。",
"罐詰でしたらかりんに蜂の子、それに高野豆腐だの氷餅だの。",
"ああ、そうそう。何でもいいわ。小豆なんかないかしら。",
"さあどうだか。"
],
[
"このごろはどこの有閑マダムでも、掘出しものをするのに夢中よ。有り余るほど買溜めしていてもそうなのよ。お父さんは買溜めするなと言うんですけれど、この稼業をしていると、そうも行かないでしょう。足袋なんかもスフ入りは三日ともちませんもの。だから高くても何でもね。",
"そうよ。"
],
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"風呂へでも入って、ゆっくりしていらしたらどう。",
"ええまた。黙って帰っても悪りんですけれど、あまり遅くなっても。",
"そうお。"
],
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"どうした?",
"方々買いものして駅で別れてしまいましたわ。",
"そう。"
],
[
"帰るというものを、強いて引っ張って来ても悪いと思ったから。でも富士屋で曹達水呑んだり何かして。",
"まあいいさ。一度逢っておけば。"
],
[
"君はこの土地の人のようには見えんね、それに芸者色にもなっていないじゃないか。",
"商売に出ていたのは、前後で六年くらいのものですから。それも半分は芳町でしたの。"
],
[
"別にお金の無心でもないの。坊っちゃん育ちだから、金を貸してくれとも言えないのね。ただ今までは悪かったと言ってるの。",
"君は甘いから小遣でもやったんだろう。",
"まさか。さんざん無駄奉公させられたんですもの。その辺まで付き合ってくれないかと言うから、お金はいけないから、靴足袋の一足も買ってやりましょうと思って、上野の松坂屋まで行って、靴足袋とワイシャツを買って、坊やと三人で食堂で幕の内を食べて別れたけれど、男もああなると駄目ね。何だかいい儲け口があるから、北海道へ行くとか言ってたけれど、その旅費がほしかったのかも知れないわ。",
"未練もあるんだろう。",
"そんなこだわりはないの。それがあればいいけれど、ただ何となしふらふらしてんのね。"
],
[
"北海道のどこさ。",
"どこだか忘れてしまったけれど、何でも、病気をして、お金もなくなるし、帰る旅費がないから、一時立てかえてくれというような文句だったわ。",
"いくらぐらい?",
"それがほんの零細金なの。よほど送ろうかと思ったけれど、癖になるから止した方がいいと父さん(抱えぬし)が言うから、仲の町のお母さんの処へ電話で断わっておいたわ。"
],
[
"あれからすぐ病院へ担ぎこんだのよ。けどその時はもう駄目だったのね。お小水が詰まって、三日目にお陀仏になってしまったの。入院する時私も送って行ったけれど、姐さんのことを、あれも年がいかないし、商売のことはわからないから、留守を何分頼むと言っていましたっけが、三人も子供があるし、お祖母さんもあるし、後がどうなりますか。でも姐さん年が若いし、泣いてもいなかったわ。",
"父さん父さんて、君の口癖にいうその親爺さんどんな人なんだい。",
"何でもお父さんが佐倉の御典医だったというから、家柄はいいらしいんだけれど、あの父さんは確かに才子ではあるけれど、ひどい放蕩者らしいのよ。"
],
[
"あら。",
"今病院からお棺で帰って来るところよ。貴女を方々捜したんだけど、どこへ行ったんだか、お出先でも知らないというんでしょう。",
"あら、私金扇(鳥料理)からお客と涼みに行ってたのよ。"
],
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"小菊さんですか。小菊さんなら昨日新橋で一人でぼんやりしていたと言うわ。",
"一人で……。",
"そうらしいのよ。"
],
[
"大の男がそんなまだるいことがしていられますか。よしんばそれをやってみたところで、行き立つ商売じゃないよ。",
"第一あんな人がついていたんじゃ、いくら儲かったって追い着きませんよ。どうせ腐れ縁だから、綺麗さっぱり別れろとは言いませんけれど、何とかあの人も落ち着き、貴方もそうせっせと通わないで月に二度とか三度とか、少し加減したらどうですかね。",
"むむ、おれも少し計画していることもあるんだがね。何をするにも先立つものは金さ。"
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"今日はおめでとう。それにお天気もよくて。",
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"でもいいあんばいに、こんな所が見つかりましたからね。",
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"何だってまた己の帰るのを見かけて、房州なんか行ったんだ。",
"すみません。何だか急にあの家が見たくなったもんですから。"
],
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"さあね。やっぱり芝居にあるような義理人情に追いつめられたんじゃないか。",
"そうね。",
"とにかく松島を愛していたんだろう。よく一人で火鉢の灰なんか火箸で弄りながら、考えこんでいたというから。",
"でもいくらか面当てもあったでしょう。",
"それなら生きていて何かやるよ。",
"そういえば父さんも、時々姐さんの幻影を見たらしいわ。死ぬ間際にも、お蝶がつれに来たって、譫言を言っていたらしいから、父さんも姐さんには惚れていたんだから、まんざら放蕩親爺でもなかったわけね。初めて真実にぶつかったとでも言うんでしょうよ。",
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"父さんもお金がなかったからだと言う人もあるけれど、不断注意ぶかいくせに、入院が手遅れになったのも、死ぬことを考えていたからじゃないの。"
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"それでその電話はどうしたのさ",
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"あの時分から政党も、そろそろケチがつき出したんじゃないか。",
"岩谷は今ここにいるから、来いというのよ。来るか来ないか、はっきり返辞をしろというんで、さっきからの電話のごたごたで、少し中っ腹になっているの。"
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"私もその時分はこれでなかなか肯かん坊だったから、ああこれなら安心だと監視の手が緩んだ時分に、ちょっとそこまで行くふりして、不断着のまま蟇口だけもって飛び出してしまったんです。そして東京駅でちょっと電話だけかけて、何時かの汽車に乗ってしまったの。",
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"それから別に……。三保の松原とか、久能山だとか……あれ何ていうの樗牛という人のお墓のある処……龍華寺? 方々見せてもらって、静岡に滞在していたの。そして土地の妓も呼んで、浮月に流連していたの。まあ私は罐詰という形ね。岩谷もあの時分は何か少し感染れていたようだわ。お前さえその気なら、話は後でつけてやるから、松の家へ還るなというのよ。少し父さんに癪にさわったこともあったのよ。私だってそれほどの決心もなかったんだから、このままここにいたところで、岩谷が入れるつもりでいても、家へ入れるわけではないし、入ったところで先は格式もあるし、交際も広いから、私ではどうにもならないでしょう。第一親にもめったに逢えないんだもの。私も心配になって、実は少し悲しくなって来たのよ。独りでお庭へ出て、石橋のうえに跪坐んで、涙ぐんでいたの。すると一週間目に、箱丁の松さんとお母さんが、ひょっこりやって来たものなの。随分方々探し歩いたらしいんだけれど、とにかく後でゆっくり相談するから、一旦は帰ってくれって言うんですの。内々私も少しほっとした形なの。第一岩谷もあの時分お金に困っていたんだか何だか、解決するなら前借を払うのならいいんだけれど、そうでもないし、帰るも帰らないも私の肚一つだというんだから、わざわざお母さんまで来たのに、追い返すのもどうかと思って、一緒に帰ってしまったの。何とか言って来るかなと思って、私も何だか怏々していると、とても長い手紙が来たの。何だかむずかしいことが書いてあったけれど、結局、女は一旦その男のものとなった以上、絶対に信頼して服従しなければいけない。すべてのものを擲って、肉体と魂と一切のものを――生命までも捧げるようでなかったら、とても僕の高い愛に値しないというような意味なのよ。結局それでお互いに手紙や荷物を送り返してお終いなの。――大体岩谷という男は、死んだ奥さんの美しい幻影で頭脳が一杯だから、そこいらの有合せものでは満足できないのよ。何だかだととても註文がむずかしくて、私もそれで厭気も差したの。自殺したのも、内面にそういう悩みもあったんじゃないの。"
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[
"松の家の方は。",
"父さんも少し怖くなって来たらしいの。そんなことをたびたびやられちゃ、使うのに骨が折れるから、何なら思うようにしてくれというの。結局松さんやお母さんが口を利いて、私も一生懸命働くということで納まったの。そのために借金が何でも六百円ばかり殖えて、取れるなら岩谷から取れというんだけれど、出しもしないし言ってもやれないし、そのままになったけれど、とかくお終いは芸者が背負いこみがちのものよ。私も借金のあるうちは手足を縛られているようで、とてもいやなものだから、少し馬力をかけて、二千円ばかりの前借を、二年で綺麗に切ってしまったの。荷が重くなった途端に、反撥心が出たというのかしら。"
],
[
"みんなどうして、あんなに色っぽくできるのかと思うわ。",
"恋愛したことはあるだろう。",
"そうね、商売に出たてにはそんなこともあったようだわ。あんな時分は訳もわからず、ぼーっとしているから、他哩のないものなのよ。先だって若いから、恋愛ともいえないような淡いものなの。"
],
[
"どうしたんだい、今ごろ。",
"夜風に当たっちゃいけないんだよ。"
],
[
"含嗽してるの。",
"してるわ。",
"今夜は何かあったのかい。変じゃないか。"
],
[
"蜜柑はよくないが、少しぐらいいいだろう。",
"そうお。"
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"君も十七になったわけだね。",
"十七だか十八だか、私月足らずの十一月生まれだから。",
"ふむ、そうなのか。それにしてはいい体してるじゃないか。僕も一度君を描いてみたいと思っているんだが、典型的なモデルだね。",
"そうかしら。",
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"芸者嫌いよ。",
"嫌いなのどうしてなったんだ。親のためか。大抵そう言うけれど、君は娼婦型でないから、それはそうだろう。"
],
[
"いくらでもないわ。",
"…………。",
"千円が少し切れるぐらいだと思うわ。それに違約の期限が過ぎているから、親元身受けだったら、落籍祝いなんかしなくたっていいのよ。",
"じゃ、それだけ払ったら、君僕んとこへ来るね。よし安心したまえ。"
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"来月になると、休暇を貰って田舎へ行って来るよ。親爺は田舎へ帰って来いと言うんだけれど、僕もそんな気はしないね。",
"遠いの? どのくらい?",
"遠いさ。君も一度はつれて行くよ。実はその話もあるしね。"
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"しかしいつかの晩ね、僕も三年がかりで、聞いてみようと思いながら、まだ訊かなかったけれど、あの晩は何だかよほど変だったね。",
"そうお。",
"まさか毒薬を捜していたわけじゃないだろうね。",
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"私だって靴縫うのよ。年季入れたんですもの。",
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"お父さんの怪我は?",
"馬から落ちたの。お父さんは馬マニヤなの。いい種馬にかけて、仔馬から育てて競馬に出そうというんだけれど、一度も成功したことないわ。何しろ子供はどうなっても馬の方が可愛いんだそうだから。",
"靴が本職で馬が道楽か。けどあまり親に注ぎこむのも考えものだね。"
],
[
"もういいの。",
"ああお前か。まだよかないけれど、註文の間に合わそうと思って、今日初めてやりかけの仕事にかかってみたんだが、少し詰めてやるてえと、頭がずきんずきん痛むんでかなわねえ。"
],
[
"誰もいないの。",
"お母さんは巣鴨の刺ぬき地蔵へ行った。お御符でも貰って来るんだろう。"
],
[
"時ちゃんや光ちゃんは?",
"時ちゃんたちは、小山の叔母さんとこへ通ってる。あすこも大きくしたでね。"
],
[
"こないだ用があって、三里塚へ行ってみたが、今年は寒かったせいか、桜がまだいくらかあったよ。今年は三里塚へお花見に行くなんて、時ちゃんたち言っていたけれど、あの雨だろう。",
"もう菖蒲だわ。"
],
[
"あんばいでも悪くて来たのじゃないかい。",
"ううん、ただちょっとふらりと来てみたのさ。",
"そうかい、それならいいけれど……。"
],
[
"色黒いわね。いつ産まれたの。",
"お前んところのお母さんが亡くなるちょっと前だよ。"
],
[
"この子お父さん似だわ。",
"誰に似たか知らないけれど、この子は目が変だよ。ほかの子は一人もこんな目じゃなかったよ、みんな赤ん坊の時から蒼々した大きい目だったよ。この子の目だけは何だか雲がかかったようではっきりしないよ。おら何だか人間でないような気がするよ。",
"そうかしら。こんなうちは判んないわよ。"
],
[
"お前どこへ行ってた。",
"家へ行ったんだわ。",
"行くなら行くと言って行けばいい。お前お父さんに何か話しだろ。",
"別に何にも。",
"もっとこっちへおいで。"
],
[
"それじゃ何しに行ったんだ。",
"お父さんがぶらぶらしてると言うから、ちょっと行ってみたの。",
"どうせ己も一度話に行こうとは思っているんだが、どういうふうにしたらいいと、お前は思う。",
"そうね。私にも解んないわ。お父さん仕事ができないで困っているの。それに赤ん坊が産まれたでしょう。私も事によったら、しばらく家へ帰っていようかと思ったんだけれど……それよりも、いっそ新規に出てみようかと、汽車のなかで考えて来たの。"
],
[
"呑むわ。どうしたの?",
"どうもせんよ。",
"だって……田舎はどうだったの。",
"ああ田舎か。田舎は別に何でもないんだ。ああ、そう、妹がよろしくて。着物の胴裏にでもしてくれって、羽二重を一反くれたよ。ここには持って来なかったけれど。しかし君は相変わらずかい。",
"そうよ。",
"何か変わったことがあるんだろう。",
"何もないわ。どうして。",
"朗らかそうな顔しているところを見ると、別に何でもなさそうでもあるね。君がそんな猫冠りだとは思えんしね。"
],
[
"僕も君を信用したいんだ。無論信用してもいるんだが、変なことを言って僕に忠告するものがいるんだ。",
"世間はいろいろなこと言いますわ。私が養女格で別扱いだもんだから、変な目で見る人もあるのよ。"
],
[
"でもいいわ、クーさんがそう思うなら。",
"いや、そんなわけじゃないんだ。だから君に訊こうと思って。"
],
[
"お代り取って来るわ、お呑みなさいよ。",
"いや、今夜はそうしていられないんだ。明朝早く大手術があるんだ。"
],
[
"用があるのよ。",
"何の用だかそれを言いなさい。己に言えない用があるわけはない。"
],
[
"父さんお神さん貰うといいわ。いい人があるから貰いなさいね。",
"うむ、貰ってもいいね。いい人って誰だい。"
],
[
"うむ、あの師匠か。子供があるじゃないか。",
"女の子だからいいでしょう。",
"お前話してみたのか。",
"ううん、お父さんよかったら、今日にでも話してみるつもりだわ。いい?",
"ああいい。お前のいいようにしろ。"
],
[
"そう。私に? 何でしょうね。",
"お師匠さん。家のお嫁さんに来てくれません?",
"私が? お宅の後妻に?",
"お父さんも承知の上なのよ。",
"愛ちゃんがいるからね。",
"いたっていいわよ。",
"それはね、私も商売人あがりだから、この商売はまんざら素人でもないんですよ。だから旦那が御承知なら行ってもよござんすがね。でもそんなことしてもいいんですか。",
"どうしてです。",
"真実か嘘か、世間の噂だから当てにはならないけれど、お銀ちゃんとの噂が立っていますからね。"
],
[
"そうお。そんなら私の方は願ったり叶ったりだけれど、旦那がよろしくやっているところへ、私がうっかり入って行ったら、変なものが出来あがってしまいますからね。",
"そんなことないわ。父さんにお神さんがないから、そんな噂も立つんでしょう。お師匠さんに来ていただければ、私も助かるわ。"
],
[
"そうよ。",
"この赤ちゃんは。",
"私の赤ん坊よ。"
],
[
"そんなことありません。全然嘘です。",
"そうかね。しかし君の親たちも家中あの近くへ引っ越して来て、君はその隣に一軒もっているそうじゃないか。",
"お父さん馬で怪我して、商売できなくなったもんですから、呼び寄せたんですわ。離れは栄子さんたちが入っていて家が狭いんです。それで裏続きの家があいていたから、私が時々寝みに行くだけですの。"
],
[
"だから私きっぱり断わったのよ。こんな処にいるもんかと思ったから。そしたら、あの男も今まで拵えてやったものは、みんな返せと言っていたわ。",
"ああ、みんな返すがいいとも。そんなものに未練残して、不具にでもされたんじゃ、取返しがつかない。"
],
[
"いくらくらいいるんだ。",
"千二三百円ほしんだけれど。",
"芳町の姐さんとこどうだろう。この間もあの子どうしたかって聞いていたから、もっとも金嵩が少し上がるから、どうかとは思うがね。",
"そうね。"
],
[
"やっぱり知らない家がいいわ。",
"それだとちょっと遠くなるんだが、頼まれている処がある。少し辺鄙だけれど、その代りのんびりしたもんだ。そこなら電報一つですぐ先方から出向いて来る。"
],
[
"今日の夜立って、着くのは何でも明日のお昼だね。それにしたところで、台湾や朝鮮から見りゃ、何でもないさ、遊ぶつもりで一年ばかり往ってみちゃどうかね。いやならいつでもそう言って寄越しなさい。おじさんがまたいいところを見つけて、迎いに行ってあげるから。",
"じゃ行ってみます。"
],
[
"お前も寂しいだろ、当座の小遣少しやろうか。",
"いいわよ。私行きさえすればどうにかなるわ。"
],
[
"ちょっと訴訟用でね。貴方方はまたどうして。",
"私かね。私らも商売の用事をかね、この五日ばかり東京見物して今帰るところでさ。"
],
[
"大変だね。冬中こんなですの。",
"ああ、そうだよ。四月の声を聞かないと、解けやしないよ。私もここの寒の強いのには驚いたがね。慣れてしまえば平気さ。東京へ行ってみて雪のないのが、物足りないくらいのものさ。"
],
[
"どうして、この土地へ来たのかね。",
"どうしてでもないのよ。私は上州産だから、西の方は肌に合わないでしょう。東北の方ならいいと思ったまでだわ。来るまではI―なんて聞いたこともなかったわ。でも来てみると、暢気でいいわ。"
],
[
"これすっかり読んでしまったわ。とても面白かったわ。",
"解った?",
"解った。",
"じゃ明日また何かもって来てやろう。"
],
[
"あらどうしたの、遅がけだわね。",
"むむ、ちょっと銀行に用事があって、少し手間取ったものだから、途中自転車屋へ寄ったり何かして……。"
],
[
"そんなことしていいんですの。",
"僕は君を商売人だとは思っていないからそれを贈るんだ。受けてくれるだろう。",
"え、有難いと思うわ。"
],
[
"妾だわね。",
"いや、そういう意味じゃないよ。結婚の一つの道程だよ。",
"あたし貴方の家の財産や門閥は、どうでもいいのよ。妾が嫌いなのよ。私をそうやっておいて、どこかのお嬢さんと結婚するに決まっているわ。きっとそうよ。貴方がそのつもりでなくても、そうなります。いやだわそんなの。",
"僕を信用しないのかな。"
],
[
"君がこんなところへ来ていようとは思わなかったよ。",
"私もくウさんがこんな処へ来ようとは思わなかったわ。",
"いつ来たんだい。",
"この正月よ。"
],
[
"こちら貴方が大好きだといった銀子さんよ。",
"ああ、そうですか。初めまして、僕はこういう海賊みたいな乱暴ものです。"
],
[
"真珠を取るんですって?",
"そうです。鼈甲なんかも取りますがね。こんどは何にも持って来ませんでしたけれど……大概良いものは途中で英国人や米国人に売ってしまうんです。",
"どの辺まで出かけるんですの?",
"随分行きますね。委任統治のテニヤン、ヤップ、パラオ、サイパンはもちろん、時々は赤道直下のオーシャン付近からオーストラリヤ近くまでも延しますが、もちろん冒険ですから、運が悪いとやられてしまいます。それに水を汲みに、無人島へ上がることもありますが、下手まごつくと蛮人にやられますね。"
],
[
"そのまたアイス・クリームのうまさと来たら、持って来れるものなら、ここへもって来て、貴女方に食べさせたいくらいだね。僕今度東京へも寄って来たけれど、あんなアイス・クリームはどこにもないね。",
"そんなおいしいの、食べたいわね。",
"どうです、今度パラオへ行ってみませんか。横浜から二週間で行けますよ。",
"行ってみたいわね。"
],
[
"わんさんどうしたの?",
"酷い目に逢いましたよ、高野山で……。",
"高野山へ行ってたの。",
"そうですよ。高野山で崖から落っこちて怪我したですよ。ほらね、足も膝皿を挫いて一週間も揉んでもらって、やっと歩けるようになったですよ。",
"まあどうして……。",
"高野山に肺病なら必ず癒るという薬草があるのです。これは誰にも秘密だがね、僕の祖父時代までは家伝として製法して人に頒けてやっていたもんです。僕も十四五の時分に見たことがありますが、今は大概採りつくして、よほど奥の方へ行かないと見つからないということは聞いていたです。僕は寿々さんのためにそいつを捜しに出かけたんだがね、なるほど確かにそれに違いないと思う薬草はあるにはあるんだが、容易なことじゃ採れっこないですよ。何しろ深い谿間のじめじめした処だから、ずるずる止め度もなく、辷って、到頭深い洞穴のなかへ陥ちてしまったもんですよ。",
"まあ。私また兄さんがしばらく見えないから、どうしたのかと思って……。",
"お山の坊さんに聞いてみたら、やはりそうだというから、二日がかりで採集したのはいいけれど、二日目に崖から足を踏みはずして、酷い目に逢ってしまいましたよ。しかし成功だったね。"
],
[
"そんなにまでしていただかなくてもよかったのに。お気の毒したわ。",
"なに、僕も一度は捜しに行こうと思っていたからね。寿々さんがそれで癒ってくれれば、僕の思いが通るというもんです。"
],
[
"しかし僕が案じたより、何だか快さそうじゃないんだかね。",
"ええ、大分いいのよ。",
"そんならいいですが、これは僕を信じて、ぜひ呑んでもらいますよ。わざわざ東京へ寄って、製剤して来たもんだからね。",
"あとで戴くわ。それにそんな良い薬なら、東京の妹にも頒けてやりたいんです。このごろ何だかぶらぶらしているようだから。"
],
[
"しかし貴女も、この商売はいい加減に足を洗ったらどうです。商売している間は、夜更かしはする、酒は呑む、体を壊す一方だからね。",
"…………。",
"僕も写真をやるくらいなら、いっそ東京へ出て、少し資本をかけて場所のいいところで開業してみたいと思っておるんだが、そうすれば親父に相談して、貴女の借金も払うから、ぜひ結婚してもらいたいもんだね。貴女はどう思うかね。",
"そうね。そんなこと考えたこともないけれど……。",
"やっぱり倉持がいるから駄目かね。"
],
[
"いや、そういうわけじゃないが、何だか家の形勢が変だから、僕の名義の株券を全部持ち出して来たんだ。",
"そう、どうして?",
"どうも母が感づいて、用心しだして来たらしいんだ。この間山を少しばかり売ろうと思ってちょっと分家に当たってみたところ、買わないというから、誰か買い手がないか聞いてみてくれないかと頼んでみたけれど、おいそれとすぐ買手がつくものでないから、止した方がいいだろうと言うんだ。分家の口吻じゃ、渡の叔父が先手をうって警戒網を張っているものらしいんだ。",
"それで株券を持ち出したというわけなのね。",
"叔父は肚が黒いから、おためごかしに母を手懐けて、何をするか知れん。これを当分君に預けておくから、持って帰ってどこかへ仕舞っておいてくれ。",
"そんなもの置くとこないわ。第一家の人たちと叔父さんとなあなあかも知れないから、このごろ少し使いすぎるくらいのことを言っているかも知れないわ。",
"そんなはずはないと思うけどな。君んとこも半季々々に僕から取るものはちゃんと取っているからね。",
"何だか解んないけど、そんなもの持ち出しても仕様がないでしょう。"
],
[
"それでは随分御苦労なさったのですね。",
"大変長話で貴女も御迷惑でしょうけれど、そういう訳で、私もあの子には世間から後ろ指を差されるようなことはさせたくありません。女親は甘いからあんな子息が出来たといわれても、御先祖へ相済まんことです。決して真吾と貴女のしていることが、悪いというのではありません。真吾もいろいろ家の都合で高等の教育を受けておりませんが、人間はあの通りまんざら馬鹿でもないようです。貴女もお逢いしてみると、あまり商売人らしくもないようにお見受けしますし、評判も悪くないようで、そこらの商売屋か何かでしたら、芸者を家へ入れるということも、無いことではありませんから、そうしてやりたいとは思いますけれど、そこが今お話しした門閥の辛さで、側の目が多いし、世間の口も煩いというわけで、入ってからがなかなか辛抱できるものじゃございません。私の経験から申しても、貴女の不幸になればとて、決して幸福になる気遣いはありません、若い同志で好き合ったから、家へ入れよう入りましょうと、気軽に約束しても、結果は必ずまずいに決まっておりますから、家へ入ることだけは思い止まっていただきましょう。その代り、私も生木を割くようなことはしません。貴女さえ承知なら、借金を払って、どこか一軒小さい家でも借りて、たんとのこともできませんが、月々の仕送りをしてあげましょう。"
],
[
"真吾も詳しいことは話しませんが、貴女も迹取り娘のようなお話ですね。",
"そうですの。",
"それじゃなおさらのことです。どっちも相続人ということであれば、貴女が結婚しようと思っても、親御さんが不承知でしょう。"
],
[
"随分長たらしいお談義だったじゃないか。何を話してたんだい。",
"ううん別に……後で話すわ。"
],
[
"何といっていた?",
"そうね。詰まるところ門閥も高いし、血統も正しいから、私たちのような身分のないものは、家へ入れられないというようなことじゃないの。",
"そうはっきり言ったかい。",
"家へ入るのは駄目だけれど、どこか一軒外に家をもつなら、そうしてあげてもいいといったような話もあったわ。",
"君は何と言ったの?",
"そう言われて、私もそれでもいいから、お願いしますとも言えないでしょう。だから考えさしていただきますと、返辞しておいたわ。",
"しかし大丈夫だと思うよ。母も株券持ち出し一件でほ、大分驚いたようだからね、今すぐ家へ入れるということはできなくとも、外において世話すると言うんだから結局僕がちょいちょい家をあけることになって、母も困るんだ。つまり時機の問題だよ。――君のことは何とか言わなかった。印象はどうだった。",
"そんなことわからないわ。",
"母の印象は?",
"そうね、一度ぐらいじゃ解らないけれど、何だか悪くなかったわ。入って来ても、周囲が煩いから、かえって不幸になるというようなことも言ったわ。そう言われると、何だかそんな気もするけれど、御大家というものは、一体そんなむずかしいものなの。",
"そんなこと気にすれば、どこの家だって同じだよ。僕の家なんか母と僕と二人きりで、小姑一人いるわけじゃないんだから、僕さえしっかりしていれば、誰も何とも言やしないよ。君は花でも作って、好きな本でも読んでいればいいさ。少しは母の機嫌も取って、だんだん家事向きの勉強もしてもらわなきゃなるまいと思うがね。それに君は田舎が好きだと言っていたね。",
"え、好きよ、お父さんもお母さんも、田舎でお百姓をしたり、養蚕したりしていたんですもの。",
"僕の家じゃ、畑仕事はしてもらう必要はないけれど、養蚕や機織くらいは覚えておいてもいいね。"
],
[
"寿々ちゃん、あんた今日倉持さんのお母さんに逢っただろう。",
"逢ったわ。",
"お母さん帰りに、見番へ寄って行ったそうだよ。",
"そう。",
"貴女のことをね、顔にぺたぺた白粉も塗らず、身装も堅気のようで、あんな物堅い芸者もあるのかと、飛んだところで、お讃めにあずかったそうよ。"
],
[
"今朝の新聞見ないの?",
"だって今塩釜から帰ったばかりだもの。"
],
[
"大きく出ているわよ。",
"そうお。ちっとも知らない。"
],
[
"新潮楼へ電話をかけると、二時間も前に帰ったというし、一時にもなるのにどこをうろうろしているのかと思って、方々捜したんだよ。まさかこんな処へ来ていようとは思わないしさ。あんた死ぬつもりだったの。",
"いいえ。少し呑みすぎて、苦しかったもんですから、河風に吹かれていたんです。"
],
[
"そんなことしたって、私貴方の奥さんにならないわよ。",
"いや、僕はおもむろに時機を待つですよ。"
],
[
"どういう事情か知りませんが、この土地もちっと居辛くなったそうで、本人が急に東京へ帰りたいと言ってよこしましたから、お父さん同道で、昨夜の九時の夜行で立って来ましたよ。",
"あら、そうですか。"
],
[
"あんた住替えですて?",
"何だかいやになったのよ。",
"無理もないと思うけれど。こっちは寝耳に水でね。もしお父さんにお金の入用なことがあるなら、何とか相談してもいいんですよ。それともこれじゃ働きにくいから、こういうふうにして欲しいとか何とかいうのでしたら、聴いてあげてもいいんですがね。せっかく馴染んだのに、あんた少し気が早すぎやしない?",
"すみません。別に理由はないんです。でもお父さんも来たもんですから。",
"じゃやっぱりあのことね。何もそんなに気にすることもないと思うがね。"
],
[
"ううん、何ということなしいやになったの。",
"結婚してくれるという人はどうしたい。",
"あれはあれぎりさ。あの家の十倍もお金のある家から嫁さんが来たという話だけれど。",
"そうだろう。こちとらと身分が違うもの。本人が結婚しようと思っても、傍が煩かろうよ。それよりかあの温順やかな写真屋さんな――あの人も一度東京へ用があって来たとか言って、寄って行ったけれど、罐詰屋さんと違って、なかなか人品もいいし、何かによく気もつくし、何だかお前をほしいような口吻だったが、あの人はどうしたろう。"
],
[
"いるわよ。",
"あの人なら申し分なしだが、何か話があったろう。",
"何だかそんなこといっていたけれど、私あんな男大嫌いさ。",
"どうしてさ。ああいう大金持よりも、あんな人の方がよほどいいと思うがな。",
"お銀が嫌いなものを、お前がいくら気に入ったって仕様があるもんか。"
],
[
"お金ないのよ。",
"この間やった金、もう無いのか。",
"買いものして、みんな使っちゃいましたわ。",
"何を買ったんだ。",
"……………。",
"お前は金使いが荒いね。"
],
[
"だから私たちは気晴らしの翫具だわ。",
"そう思うからいけないんだ。いつ僕がお前を翫具にしたと言うんだ。このくらい愛していれば沢山じゃないか。"
],
[
"どうぞお買いなさいまし。",
"入って見てもいい?",
"ああいいよ。どれでもいいのを。",
"わーさん見てよ。",
"君の好きなの買えばいいじゃないか。ただし買うならいいのにおし。"
],
[
"何だか変ですよ。私この間から気になって、聞こう聞こうと思っていたんだけれど、貴女の年頃にはとかく気が迷うもんですからね。ひょっとしたら、今の家に居辛くて、住替えでもしたいんじゃないんですか。",
"別にそういうこともないんですけれど。",
"それなら結構ですがね。住替えもいいけれど、借金が殖えるばかりだから、まあなるべくなら辛抱した方がよござんすよ。",
"そうだわね。",
"それとも何か岡惚れでも出来たというわけですかね。",
"あらお師匠さん、飛んでもない。",
"それにしても何だか変ですよ、もしかして人にも言えない心配事でもあるんだったら、私いいこと教えてあげますよ。",
"どんなことですの。",
"日比谷に桜田赤龍子という、人相の名人があるんですがね、実によく中りますよ。何しろぴたりと前へ坐ったばかりで、その人の運勢がすっかりわかるんですからね。その代り見料は少し高ござんすよ。",
"そう。",
"瞞されたと思って行ってごらんなさい。"
],
[
"人相なんて中るもの?",
"中るね。他のへっぽこ占ないは駄目よ。見てもらうのなら、桜田さんとこへ行ってごらんなさい。私が保証するから。"
],
[
"君も若ーさんという人があるんだろう。",
"そうよ。",
"だからせっかくだけれど、己はそういうことは大嫌いさ。ただ友達として清く附き合う分にはかまわないと思う。",
"どうでもいいのよ、私だって。"
],
[
"何が生意気なのさ。",
"若ーさんの前ですがね、晴子という奴はね、家のお帳場さんの伊ーさんに熱くなって、世間の噂ではちょいちょい、どこかで逢曳しているんだとさ。",
"何ですて? 私が伊ーさんと逢曳してるって? 春早々人聞きの悪いことを言うもんじゃないわよ。",
"大きにすまなかったね、みんなの前で素破ぬいたり何かして。",
"貴女は素破ぬいたつもりかも知らないけれど、私は平気だわ。貴女は一体ここを誰の座敷だと思っているの。仮にも人の座敷へ呼ばれて来て、気の利いたふうな真似をするもんじゃないわよ。",
"悪かったわね。貴女のお座敷へ来て貴女の顔を潰すなんて。何しろ貴女には若ーさんという人が附いているんですからね。お蔭で少し恰好がついたかと思うと、もうこの始末だ。",
"悪いわよ、有りもしないことを言って、貴女若ーさんの気持を悪くするばかりじゃないか。"
],
[
"いいわよ。私何も有りもしないことを言ってるんじゃないんだから。",
"それは貴女の誤解だよ。後で話せば解ることだよ。もういいからお帰んなさい。"
],
[
"どうかしたの晴ちゃん。今朝からどうも元気がないと思ったんだけれど、何だか変だよ。",
"風邪よ。"
],
[
"ちょいとどうしたというの。歩けないの。",
"これあいけない。よほど悪いんだよ。"
],
[
"時ちゃん、焼鳥の屋台なんか入るの。",
"焼鳥は栄養があるでしょう。だから私大好き。"
],
[
"お前はんに纏まった金を拵えろと言ってみたところで、出来る気遣いはありゃしない。芸者の痩せ腕で男の難儀を救う、そんな無理なことは言わないが、お前はんにできることだったら、してあげたらどうだろう。なるほど晴子という女は、芸者にしては見所がある、心掛けのいい奴だと、あの人が感心するようだったら、そこは若ーさんも肚のすわった男だから、この先きお前はんのためにも悪いはずはないにきまっている。",
"どうすればいいんです。"
]
] | 底本:「現代日本文学館8 徳田秋声」文藝春秋
1969(昭和44)年7月1日第1刷
※「パトロン」と「ペトロン」の混在は、底本通りです。
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2000年12月11日公開
2012年1月22日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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] | 底本:「徳田秋聲全集 第7巻」八木書店
1998(平成10)年7月18日初版発行
底本の親本:「趣味 第三巻第一号」趣味社
1908(明治41)年1月1日発行
初出:「趣味 第三巻第一号」趣味社
1908(明治41)年1月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※「背負揚」と「脊負揚」、「針函」と「針箱」の混在は、底本通りです。
※「畳半」に対するルビの「でうはん」と「でふはん」、「想像」に対するルビの「さうざう」と「さうぞう」、「部分」に対するルビの「ぶぶん」と「ぶゞん」、「事実」に対するルビの「じゞつ」と「事実談」に対するルビの「じじつだん」、「始終」に対するルビの「しゞう」と「しゞふ」の混在は、底本通りです。
※表題は底本では、「背負揚《しよいあげ》」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "055437",
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"初出": "「趣味 第三巻第一号」趣味社、1908(明治41)年1月1日",
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"底本名1": "徳田秋聲全集 第7巻",
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} |
[
[
"私も書くから、あんたもお書きなさいね。",
"よし、書く。"
],
[
"あのう奥さまが、××社の記者の方と御一緒のお客さまと二人で、後でこちらへ参りますからと仰しやいました。",
"さう。お客さまの一人は。",
"さあ誰方ですか。"
],
[
"今何時頃?",
"三時半頃でございませう。",
"ほう。"
],
[
"さう。そいで……。",
"高利でもかまはないから借りようと言ふから、それだけは止した方がいゝだらうつて言つたんだけれど、到頭借りてしまつたね。その高利貸が又た飛んだ赤樫満枝で……しかも男気のある一風かはつた女で、T子の江戸ツ児風の気象にすつかり惚れこんで、素敵な座蒲団を作つてくれたり、終ひには借金を棒引きにしてくれたりしたといふ事もあつたな。",
"さう。何だかT子といふ人が解るやうな気がするけれど。",
"書くものゝ評判が悪くなつて、経済的に行きつまつてくると、本屋だつて相手にしなくなつて来るからね。",
"けど何うしてあのくらゐ物の解つた人が、自分といふものをそんなに粗末に扱つたもんでせうね。",
"あの人には江戸末期の血が流れてゐたからね。それで坐つて話してゐると、江戸ツ児式のちよつと憂鬱なところもあつたけれど、一応は素直で、すいとしてゐたやうだが、それだけではなかつたやうだ。伝法で意地ツ張りで、棄鉢気分もあつたやうだ。"
],
[
"T子さんが舞台に立つてゐた時分、その拙いことつたらなかつたんですて。",
"さう、おれも一度見た。舞台に棒立になつて硬張つてゐたものさ。妙な熱意はあつたけれど……。",
"何でしたか筋は忘れたけれど、何でも勘吉さん……つて呼びながら花道を追つかけて行くところがあるんですて。それが薩張り調子に乗らないもんだから、T子さんのことを皆が勘吉さん勘吉さんつて笑つたもんですて。それから又たこんなこともあつたんですて。朝、汚ない寝乱れ顔を見られるのが厭だとか言つて、素敵に美しい手紙を置いて、逃げ出したんですて。その文章が余りにも幽婉なので、あれが好い女だつたら、この手紙も効果があつたらうにて、男の人達が嗤つたものですて。そんなに醜い女、T子さんて。",
"いや……その頃はどうだつたか。懸賞に当つた時分はぐつと見直したものだよ。"
],
[
"全く見それてしまつたほど、T子は鼻が隆くなつて、顔もふくよかになつてゐたものさ。そしてぐつと取澄まして。おれは面喰つてしまつたものだ。",
"それからFさんのところへ、其後も偶に遊びに来たものですて。Fさんも其の時分は余り楽でもなかつたらしいので、お酒でも飲みませうつて、お酒を出すと、T子さんはFさんの飲むところを、黙つて頬杖ついてじつと見てゐたもんですて。",
"さう云ふ女だ。Fさんの美しいところに見惚れてゐたんだ。",
"舞台の人ではなかつたのね。小説なら今居たら、ずゐぶん好いものが書けたらうと思ふわ。",
"さうね。",
"あれこそ本当の女流作家よ。私ならさう思ふ。現在ではC――子さんなんかゞ作家だとおもふけれど、外にはあれほど板についた本格的な人は一人もゐないのね。",
"さうも言へるね。",
"時代がちがふけれど、I女史があんなに大家に祭られて、T子さんのことなんか、皆な忘れてしまつてゐるのは、随分不公平だと思ふわ。"
],
[
"Tさんもう日本へ帰つてこないでせうか。",
"来られないんだよ。",
"メー、ウシヤマの主人が、アメリカでTさんに逢つたんですて。大変讃めてゐたわ。世話にもなつたさうよ。今なら少しは御恩返しもできるだらうにと、そんなことも言つてるの。八百とか千とかしか売れない新聞の雑報を書いてるんですて。ずゐぶん困つてゐるんださうだわ。可哀さうね。皆さんで呼戻して上げられないもの?",
"呼び戻せないこともないが、男がついてゐるんぢやね。"
],
[
"先生、また後ろの方を少しやつてちやうだい。",
"さう。やつてもいゝ。"
],
[
"よくも舶来映画の末梢的技巧ばかりを拾つたもんだと思ふわ。",
"それももつと不断に行かなけあ。余り勿体をつけすぎる。日本人の頭はやつぱりバネが利いてゐないんだよ。",
"さうよ。色々の不便はあるでせうけれど、もつと何とか出来さうなものね。"
],
[
"帰りませうか。",
"帰つてもいゝね。"
],
[
"迚も巧いわ。苦心の痕があり〳〵見えるぢやないの。",
"その時分はそんなにも思はなかつたけれど、今になつて見るとね。"
],
[
"T子ももう四十幾歳と言ふんだからな。",
"でも芸術て有難いものね。私達も好いものを書いておかなけあ。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「新潮 第二十四年第四号」
1927(昭和2)年4月1日発行
初出:「新潮 第二十四年第四号」
1927(昭和2)年4月1日発行
※「I――女史」と「I女史」、「F――さん」と「Fさん」、「Y・O」と「O・Y子」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※「T子は少し熱があつた」の「T子」は「栄子」と思われるが初出も「T子」なので、注記はつけていません。底本の校訂覚書(p.16上)にも記載されています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055383",
"作品名": "女流作家",
"作品名読み": "じょりゅうさっか",
"ソート用読み": "しよりゆうさつか",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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[
[
"何しろ七月はばかに忙しい月で、すっかり頭脳をめちゃくちゃにしてしまったんで、少し休養したいと思って",
"それなら姉の家はどうですか。今は静かです"
],
[
"とにかく腹が減ったね",
"え、どこか涼しいところで風呂に入って御飯を食べましょう。途中少し暑いですけれど、少しずつ片蔭になってきますから"
],
[
"あれはどうしたかね、彦田は",
"ああすっかり零落れてしまいました。今は京都でお茶の師匠をしているそうですが……"
],
[
"伯父さんの病気でね",
"ああ、松山さんでしょう。あの体の大きい立派な顔の……二三日前に聞きましたわ。もう少し生きていてもらわんと困るって、伊都喜さんが話していらしたわ"
],
[
"この家も久しいもんだね。また取り戻したんだね",
"え、取り戻したというわけじゃないけれど、お母さんが長くつかっていた処ですから"
],
[
"古びのついたところがいいね",
"もうだめや。少し金をかけるといいけれど、私の物でもないんですから",
"おひろさんのかね",
"ええまあ"
],
[
"おいでなさい。離れでのうても、二階は広いから、どこでもかまいません",
"そうお決めになったらどうです。そうすれば荷物を取りにやりますから",
"そうしてもいいが、温泉へ行くとしたらどこだろう",
"ごく近いところで、深谷もこのごろはなかなかいいですよ",
"石屋ならいい座敷がありますけれど、あすこも割に安くつかんぞな"
],
[
"何しろあの連中のすることは雲にでも乗るようで、危なくてしようがない",
"ふみ江ちゃんが琴やお花のお稽古で、すましているものですから、先でも買い被っていたに違いないんです。東京へ言ってやりさえすれば、金はいくらでも出るようなことも言っていたようです。こっちには松山の伯父さんもいられるし、これもうんと力瘤を入れているように吹聴したでしょう",
"どうもそうらしいね。ふみ江のいけないのはむろんだが、姉にもそういうところはあるね。それに姉も先方の身上を買い被っていたらしいんだ。そこは僕も姉を信じたのが悪かったけれど、大変いいような話だったからね"
],
[
"それでごたごたしているんだがね",
"あの方もいい縹緻でしたね。しばらく見ませんけれど、山やに商売に出ているお友だちがあって、ちょいちょいおいでた。その縁談がうまくゆかないんですの。そんなら逢うてお話してあげなすったらいいでしょうに。お婿さんはどんな方です"
],
[
"昨夜はお客は一組か",
"え、一組、四時ごろに帰ってしまいました",
"それじゃ商売にならんね"
],
[
"そんなことも考えるけれど、私のものでもないんですから",
"誰のものなんだ",
"いったん人手に渡ったのを、京ちゃんの旦那が買ったんです。あの人はここへお金をかけるのは損だから、売ってしまおうと言っているんですけれど、何しろお母さんが長くやっていた所ですから",
"じゃ絹ちゃんが借りてやっているわけだね"
],
[
"お芳さんの旦那ってどんな人なの",
"青物の問屋。なかなか堅いんですの。旧は夜店で果物なんか売っていたんですけれど、今じゃどうして問屋さんのぱりぱりです。倶楽部へも入って、骨董なんかもぽつぽつ買っていますわ。それで芳ちゃんが落籍される時なんか、御母さんはああいう人ですから、いくらも貰わなかったんですよ。いいわいねといったいつもの調子で、だけれど、いい人なの。なかなか解っているんです",
"じゃまあ芳ちゃんは仕合せだね",
"でも旦那は躯が弱いから"
],
[
"独りで食べてうまいかね",
"わたい三度の御飯は、どんなことがあっても欠かさずきちんきちん食べる方なの。御飯も三膳ずつに極めているの"
],
[
"鶴来なら鮎もおいしいし、岩魚や鮴料理もありますよ",
"それからあの奥に吉野谷という仙境があるだろう。子供の時分遠足に行ったことがあるんで、一度行ってみようと思いながら、いつもどこへも行かずに帰ってしまうんだ。まだ山代さえ知らないくらいだ"
],
[
"軸ものも何やら知らんけれど、いいものだそうだ。たぶん山水だったと思う。それも辰之助が表装をしてやると言うて、持っていったきり、しらん顔をしているんですもの",
"蕪村じゃないかな",
"何だか忘れたけれど。今度そう言って持ってきてもらおうかしら"
],
[
"私何だってそんなこと言うもんですか。でも京ちゃんはいっしょに行くことに決めているさかえ",
"だからいいじゃないか。辰之助にそう言っておけば",
"それも工合がわるい。あの人もいっしょに行くつもりにしているのやさかえ"
],
[
"けれど少し腕のあるものは、皆なあちらへ行ってしまうさかえ",
"そうや。このごろでは西の方にどうしてなかなか美しい子がいる"
],
[
"いつ見ても何となしぱっとしないようだな",
"ぱっとできるようなら、今時分こんな苦労していませんよ。それでいいもんや。さんざ男を瞞した人の行末を見てごらんなさい。ずいぶんひどいもんや"
],
[
"あれでも歌のつもりですよ。お稽古の真似や",
"己もだんだん長くなってしまったね。まだ誰もここにいるとは思っていないようだけれど",
"ちっとどこぞへ遊びにおいでたら",
"そうするとまたここへ訪ねてくるからね。この間も兄にきかれて困った。嫂はたぶん感づいていても知らん顔をしているけれど、嫂の兄さんがばかに律義な人でね、どこだどこだってしきりに聞くんだ",
"そんな秘し隠しをしなくともいいじゃありませんか。別に悪いところにいるというのじゃないし、女を買うわけでもないんですもの。山中なんかへ行ってるよりか、よほど安心なもんや",
"それにもうしばらく兄の容態も見たいと思っているんだ。今日いいかと思うと、明朝はまた変わるといったふうだから、東京へ帰って、また来るようなことになっても困る"
],
[
"お茶をいれましょうか",
"そうね。何んだかんだと言って、毎日菓子ばかり食っているね",
"ほんの少ししかあがらんじゃありませんか。このごろはそれでもよくあがるけれど",
"辰之助もよく食べるね"
],
[
"今でもやっぱり遊ぶのかね",
"どうやら。家へあまりいらしゃらんさかえ。前かって、そうお金を費ったという方じゃないですもの"
],
[
"ただあの人はああいう人ですから、どこでも知っているんですわ。それに妓たちにもてる方や。今は男ぶりもちょっと悪るなったけれど。若いとき綺麗な人は、年取ると変になるものや。でもなかなか隅っこにおけんのや。何しろ胡蝶さんが、あの人に附文をしたんですさかえ",
"胡蝶は僕も一番芸者らしい女だと思う",
"神田で生れたんですもの。なかなか気前のいい妓や。延若を喰わえだして、温泉宿から電報で家へお金を言ってこようという人ですもの。ああいうのが芸者でしょうね。どうして腕っこきですよ。あの人が……それもこの家で、ちらと辰之助さんを見て、すぐ呼出しをかけたわけなんです",
"なるほどね。それじゃ家に燻ぶっちゃいられないわけだね。今でも続いているの"
],
[
"あれは兄弟じゅうで一番素直だ。僕の家でも評判がいい",
"十円もする香水なんか奥さんに貰ってきたんですて"
],
[
"そう、少し喇叭の方かもしれん",
"家のやつも人を悦ばせるのは嫌いな方じゃないけれど",
"庄ちゃん(お絹たちの弟)が讃めていたから、いい人でしょうね。けど奥さんもずいぶん骨が折れますわ。幾歳だとか……",
"絹ちゃんより少し若い。巳年だ"
],
[
"こんな地味なもの著るの。僕なんかにいいもんだ",
"私は人のように派手なこと嫌いや。それにたんともないさかえ、こんなものなら一枚看板でも目立たんで、いいと思って"
],
[
"僕も何かお礼をしなけあならんけれど、いずれ後にしよう",
"何のお礼をいに、あほらしい。芝居でたくさんや。多勢短冊も書いてもらいましたし",
"おれも金があると、資本ぐらい少し助けてもいいんだが、金に縁のない方で"
],
[
"あんたももう二三年やろがいに",
"そうかもしれない"
],
[
"大阪の方はよほどいいのかね",
"あの子は誰にでも可愛がられる質やさかえ。御主人にも信用がありますけれど、お祖母さんという人に、大変に気に入られているんです。嫁さんも御主人の親類筋の人で、四国でいい船持ちだということです。庄ちゃんなんか行って、私をむずかしい女のように言っていたんですけれど、逢ってみればそんなじゃないなんて、ずいぶんよくしてくれるんです。それやどうして、学校出のちゃきちゃきですから気の利いたもんや。だけれど健ちゃんこのごろ少し遊びだしたようで……今年の春も、えらいハイカラな風してきたのや。洋行でもするようなお荷物でもって。ちょっとも私なんかと話しちゃいないですわ。方々飲みあるいてばかりいるんです。年もゆかないのに大酒飲みやさかえ、私も心配でこの間少しいることがあって千円ばかり送るように言ってやったけれど、何とも返事がない",
"ここに借金かね"
],
[
"とにかくここを続けようというんだね",
"先きのことはわからないけれど、お婆さんのいるうちはね",
"お婆さんは庄ちゃんがみればいいじゃないか",
"どうして、あべこべにお婆さんが出す方や。庄ちゃんが困っていると、そんなら私のお金が少しあるさかえ、あれ使うことや、といったようなもんや"
],
[
"けれども、たまに行けばお互いに懐かしいが、大阪の家だって、長くいればおもしろい日ばかりは続かないだろう",
"だから私も自分の小遣ぐらいもってゆかなければ。子供を連れだしたって、いちいち嫁さんから小遣もらうのは厭やし、お寺詣りするにしても、あまりけちけちした真似をしたくないと思うから",
"月々大阪からいくらか仕送ってもらって、こっちで暮らすわけにゆかない。商売するにしても、何か堅気なものでなくちゃ。お絹ちゃんなんかには、こんな商売はとてもだめだ",
"けど女のする商売といえば、ほかに何にもないでしょう",
"さあね"
],
[
"芳沢さんってお爺さんのことか",
"ううん、運転士。どこも景気が悪いとみえて、芳ちゃんとお神さんと二人しか来んのや",
"けどこの上二人も来ちゃやりきれないじゃないか。僕は明朝辰之助にも断わろうと思っている",
"あの人たちはあの人たちで、どうかなりますわ",
"そんな気楽なことを言っていちゃ困るじゃないか"
],
[
"それは演舞場へお稽古に行くときのお弁当や",
"しかし芝居見物もこんなふうにしてゆくとおもしろいね"
],
[
"これあいい。こんな所があるなら、二人くらい来たって平気だ。ここを取っておいて、辰ちゃんを呼ぼう。このくらいなら、何もそう案じることはなかったじゃないか",
"一人や二人どうにでもできますよ",
"せっかくこういう処があるんだから、辰之助に電話をかけよう。それとも車をやるか"
],
[
"お芳さんがあすこに立っていたから、行って見てきましたの。いい塩梅に平場の前の方を融通してくれたんですよ",
"そう。お芳さんも久しく見ないが、どこにいる"
],
[
"勧進帳なんかむりだもんね。舞台も狭いし、ここじゃやはり腕達者な二三流どこの役者がいいだろう",
"そうかもしれません",
"鴈治郎はよくかけ声か何かで飛びあがるね",
"ほんとうにおかしな人。私あの顔嫌いや",
"おもしろい役者じゃないか"
],
[
"何しろ暑いんでね",
"越後獅子は誰が踊るのや"
],
[
"そうはゆかない。勘定は勘定だ。だいぶ長くなったから、もうそろそろ御輿をあげるとしよう",
"お仕事はもうおしまいですか。何だかちょこちょことやって、もうそれでいいの",
"まあね",
"まだ何か食べたいものはないんですか",
"もう食べあきた。どこへ行っても同じものばかりで。女を買おうと思えば、少しいいのは皆んな封鎖だろう",
"そういったような工合だけれど、この節はあながちそうとも限らんのや"
],
[
"子供はどうなんだ。脚が悪いそうじゃないか",
"え、それで……"
],
[
"それに話しがちがうとか支度がないとか言って、このごろ老人たちが私に当たってばかりいるんです",
"万事は僕がよく話しておいたんだが、そんなことを言えば、こっちだって当てが違ったんじゃないか。ばかにいいような話だったからね"
],
[
"ふみ江ちゃんなんかの仕事は、とかく山かんだから困るよ。どうせ人の厄介にならないでやろうというのなら、もっと何とかいうのを見たてるがいい。あんな吝ったれな百姓なんかしかたがないじゃないか。だから財産はなくても、ちゃんと独立のできる男でなければ。青木も意気地がないじゃないか。あれほど望む結婚なら、もっと何とかできそうなものだ。あれではまるでこっちの親類を背景にして、ふみ江さんをもらったようなもんだからな",
"え、あの人両親の前では、何にも言えないんです",
"しかし、もうそうなっちゃ、どちらもおもしろくなかろう。動機がお互いに不純だから、とうていうまくゆくまい"
],
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"どうも僕じゃ少し工合がわるい。つい厭なことも言わなけあならないから",
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"まあしかし、円くゆくものなら、このまま納めた方がいい。そうなれば、金の方は後でどうにか心配するけれど、今はちょっとね",
"二度ばかり、松山の伯父さんとこへお尋ねしたそうですが、青木さんが叔父さんに逢ってお話したいそうですがいずれ私たちの悪口でしょうと思いますけれど"
],
[
"奥さんもえらい年をお取りになって。ふみ江さんも縹緻が少し下がった",
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"誰でもそうや。なかなか思うようにゆくもんじゃないんです。おひろさんだって、森さんのとこへ納まったにしたところで、姑さんもあるし、あの体で、あの大屋台の切りまわしはとてもできませんわ"
],
[
"しかしいくつです",
"もう七十四です。このお婆さんより二つ上です。少い時分私がこの人を始終お負ぶしてね"
],
[
"いったい何時だろう",
"四時です"
]
] | 底本:「日本文学全集 8 徳田秋声集」集英社
1967(昭和42)年11月12日発行
初出:「中央公論」
1925(大正14)年1月
入力:岡本ゆみ子
校正:米田
2010年5月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050188",
"作品名": "挿話",
"作品名読み": "そうわ",
"ソート用読み": "そうわ",
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"初出": "「中央公論」1925(大正14)年1月",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"名": "秋声",
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"没年月日": "1943-11-18",
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"底本名1": "日本文学全集 8 徳田秋声集",
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[
[
"ここは大変いゝですが、物を書くには少し暗いやうですね。",
"さやうでござりますか。お暗ければ日当たりの好い部屋が二階にござりますでな。"
],
[
"けれどいつも今夜のやうに遊んでゐるのか。",
"いゝや、酒は一時止めてゐたんだ。夜なかに心臓が変になつて、何だか今にも死にさうになるんだ。さう云ふことが時々ある。",
"脳溢血がこわい。",
"さうだよ。だからおれは毎朝夙く起きて畑へ出て働く。田園は実に愉快だぞ。果樹も作つてゐる。野菜も新鮮なのが喰へる。朝、日の出ないうちに、おれは南瓜の花の人工交尾なんかやるんだ。それあ面白いもんだぜ。"
],
[
"ちよつと好いな。",
"お気に召したら、又ちよい〳〵お出でになりましたら。あすこの女将は、こちらでも極近しうしてをりまして、画かきさんや何か、送つておよこしなさります。",
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"仰山ござります。"
],
[
"そら好いぞ。地所は五百坪ある。帰るまでに隙があつたら一度来てくれたまへ。",
"細君にも久しく逢はんからね。"
],
[
"こゝはいゝぞ。君もこつちへ来ちや何うだ。東京なんか駄目だぜ、地震があつて、こゝは大丈夫だ。まだ〳〵発展する。おれは永住するつもりだ。",
"もう根をおろしてしまつたからな。",
"余り根も卸さんけれど、色んな引つかゝりもあるから、ちよつと動けないことになつてゐる。君もこつちでやつたら何うだ。東京へ往くたつて、六時間だ。京都大阪は直ぐだ。",
"永住は困難かも知れないが、時々来てもいゝと思ふな。",
"おれは遷都論者なんだが、何うしても首府をあゝ云ふところにおいちや駄目だよ。",
"首府を西へもつて行つたら、東はしびれてしまやしないか、一体君の趣意は……。",
"おれの趣意か。だつて文明はいつでも西漸するものぢやないか。おれのは東洋経綸策から来てゐるんだ。"
],
[
"いゝえ、もう家が古うござりましてな。",
"これを改築するとなると大仕事ですね。",
"ひよつとしたら、市区改正で少し削られるか知らと思ひまして、もう手もつけませんやうな事で。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「文芸春秋 第四年第一号」
1926(大正15)年1月1日発行
初出:「文芸春秋 第四年第一号」
1926(大正15)年1月1日発行
※「こゝ」と「ここ」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年1月28日作成
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"嘘だよ。",
"みんな聞いてしまいましたよ。前に京都から女が訪ねて来たことも、どこかの後家さんと懇意であったことも、ちゃんと知ってますよ。"
],
[
"その京都の女からは、今でも時々何か贈って来るというじゃありませんか。",
"くだらないこといってら。",
"私はうまく瞞されたんだよ。"
],
[
"喘息ですって。喘息って何なの。",
"咽喉がぜいぜいいう病気さ。",
"ううん、そんなお客があったよ。あれか。"
],
[
"でも、そんなに世話になった人を、そうは行きませんよ。そんな薄情な真似が出来るもんですか。",
"なに、要するに金の問題さ。",
"いいえ、金じゃ出て行きませんよ。それに、そんな人は他へ片着くてわけに行かないでしょう。"
],
[
"それに、こんなことが知れると、出すにしても都合がわるい。",
"やはりあなたはお神さんがこわいんだよ。",
"こわいこわくないよりうるさい。",
"じゃ、あなたのお神さんはきっと嫉妬家なんだよ。",
"お前はどうだい。",
"ううん、私はやきゃしない。こうやっているうちに、東京見物でもさしてもらって、田舎へ帰って行ったっていいんだわ。"
],
[
"それで浅井さんはどう言っていなさるのです。",
"出すというんですよ。",
"どうかな、それは。書生時分から、あの人のために大変に苦労した女ですよ。それに今じゃとにかく籍も入って、正当の妻ですからの。",
"でも喘息が厭だから、出すんですって。",
"そんなことせん方がいいがな。あなたもそれまでにして入り込んだところで、寝覚めがよくはないがな。",
"私はどうでもいいの。あの人がおきたいなら置くがよし、出したいなら出すがいいんだ。"
],
[
"さあ、そいつも決まっていないね。しかし生活には何ほどもかかりゃしない。ただ彼奴は時々酒を飲む。それから余所へ出て花をひく。それが彼の道楽でね。",
"たまりゃしないわ、それじゃ。あなたのお神さんは、きっと何かにだらしがないんですよ。"
],
[
"何だか当ててごらんなさい。",
"相場?",
"そんな気の利いたものじゃないんだよ。"
],
[
"会社?",
"あの男に、堅気の勤務などが出来るものですか。"
],
[
"この暑いのに、よく出て来たわね。",
"何だかつまらなくてしようがないから、遊びに来たのよ。",
"へえ、お前さんでもそんなことがあるの。"
],
[
"へえ、あの人お神さんがあるの。でもいいやね。そんな人の方が、伎倆があるんだよ。",
"いくら伎倆があっても、私気の多い人は厭だね。車挽きでもいいから、やっぱり独りの人がいいとつくづくそう思ったわ。"
],
[
"ごらんの通りの廃屋で、……私もすっかり零落れてしまいましたよ。",
"でも結構なお商売ですよ。",
"は、この方はね、好きの道だものですから、まあぽつぽつやっているんですよ。そのうちまた此奴の体を売るようなことになりゃしないかと思っていますがね。"
],
[
"ああすっかり相が変ってしまったよ。更けて困る困ると言っちゃ、自分でも気にしているの。それに私もっと、あの社会で幅が利くんだと思っていたら、からきし駄目なのよ。以前世話したものが、皆な寄りつかなくなっちゃったくらいだもの。",
"でも何でも出来るから、いいじゃないの。",
"いいえ、どれもこれも生噛りだから駄目なのよ。でも、こんな商業をしていれば、いろいろな家へ出入りが出来るから、そこで仕事にありつこうとでもいうんでしょう。それもどうせいいことはしやしないのさ。"
],
[
"どうしてそこへ行かないの。",
"もう駄目さ。寄せつけもしやしない。その時分ですら、話がつかなかったくらいだもの。"
],
[
"それがこうなのさ。黒田……その男は黒田というのよ。狆のくさめをしたような顔をしているけれど、それが豪いんだとさ。今じゃ公使をしていて、東京にはいないのよ。そこへその時分、始終遊びに来て、碁をうったりお酒を飲んだりしていた男があったの。いい男なのよ。それが黒田の留守に、私をつかまえちゃ、始終厭らしいことばかり言うの。つまり私がその男を怒らしてしまったもんだから――そういう奴だから、逆様に私のことを、黒田に悪口したのさ。やれ国であの女を買ったと言うものがあるとか、やれ男があったとか、貞操が疑わしいとか、何とか言ってさ。黒田はそれでも私に惚れていたから、正妻に直す気は十分あったんだけれど、何分にも阿父さんが承知しないでしょう。そこへ持って来て、私の母があの酒飲みの道楽ものでしょう。私を喰い物にしようしようとしているんだから、たまりゃしない。黒田だって厭気がさしたでしょうよ。",
"あなた子供に逢いたくはないの。",
"逢いたくたって、今じゃとても逢わせやしませんよ。それでもその当座、託けてあった氷屋の神さんに、二度ばかりあの楼へつれて来てもらったことがあったよ。私も一度行きましたよ。もちろん母親だなんてことは、噯にも出しゃしなかったの。",
"つまらないじゃありませんか。",
"しかたがない。私にそれだけの運がないんだから。",
"ちっとお金の無心でもしたらいいじゃないの。",
"どうして、奥さんが大変な剛毅ものだとさ。"
],
[
"それでもちっとは東京の町が行けるようになったかい。",
"ううん、何だかつまらなかったから、浅草のお雪さんの家を訪ねて見たの。"
],
[
"何か食べるの。",
"そうだね、何か食べに出ようか。",
"ううん、つまらないからお止しなさいよ。"
],
[
"こんなことが、あなたいつまで続くと思って? 私だって、夜もおちおち眠られやしないくらいなのよ。第一肩身も狭いし、つくづく厭だと思うわ。あなただって、経済が二つに分れるから、つまらないじゃないの。",
"けれど、あの女もよくないよ。彼奴さえ世帯持ちがよくて、気立ての面白い女なら、己だってそう莫迦な真似はしたくないのさ。実際あれじゃ困る。",
"でもあなたのためには、随分尽したという話だわ。",
"尽したといったところで、質屋の使いでもさしたくらいのもので、そう厄介かけてるというわけじゃないもの、己も今では相当な待遇をして来たつもりだ。"
],
[
"じみでないかえ、ちっと。",
"私じみなものがいいんですよ。もうお婆さんですもの。"
],
[
"さあどうぞ。",
"有難うございます。"
],
[
"そうですってね。お貰いなすったってね。",
"何ですか。料理屋とか、待合とかの女中と、情夫との間に出来た子だそうですよ。子供がないから、貰って来たっていうんですけれど、何だか解りゃしませんよ。こちらへはちょいちょい伺いますの。",
"たまあに見えますがね。"
],
[
"お増さんも、あんなに長く引き留めておくというのが悪いわな。",
"私を何だと思っていたでしょう。"
],
[
"今のうち、もっと派手なものを着た方がいいじゃないの。",
"ううん、派手なものは私に似合やしないの。それにそんなものは先へ寄って困るもの。"
],
[
"へえ。家内の方じゃ何とも言やしなかったよ。少しは変に思ったらしいがね。",
"そこが素人なんですよ。"
],
[
"じゃ、なぜ大事にして上げないんです。",
"そうも行かんよ。女はそればかりでもいけない。むしろそんな伎倆のない方が、私にはいいんだ。"
],
[
"人のことばかり責めないで、一体私の留守のまに、お前は何をしている。",
"それはあなたが、何かを包みかくしているから、私だってつまらない時は、たまにお花ぐらい引きに行きますわ。",
"私はそれを悪いと言やしない。自分の着るものまで亡くして耽るのがよくないと言うのだ。"
],
[
"まるで狂気だ。",
"しようがないね、そんなじゃ……。"
],
[
"よくは判らなかったけれども、何だか老けた顔していましたわ。背の高い痩せた人ですよ。それで、私がお二人ともお留守だとそう言いましたらば、名も何も言わずに、じきに帰って行きましたよ。",
"てっきりお柳さんですよ。"
],
[
"何、知れるものなら、こっちがどんなに用心したっていつか知れる。向うはお前一生懸命だもの。",
"それにしても、あの人きっとまた来ますよ。ことによると、どこかそこいらにまだいるかも知れませんよ。"
],
[
"じゃまあ今度談がつくんでしょう。",
"どうなるか解りゃしませんよ。"
],
[
"貰って下さいよ一人。私のところでは、どしどし出来るそうですから。",
"ううん、くれるものか。大事に育てなけアいけないよ。"
],
[
"話を持ち出して見たのですか。",
"それも口を切って見たけれど、ああなると女は解らなくなるものと見えて、さっぱり要領を得ない。",
"それはそうですよ。それでどう言っているんです。",
"要するにお前を突き出してくれと言うに過ぎない。"
],
[
"どうせ当人同士じゃ話の纏まりっこはありませんよ。誰か人をお入れなさいよ。",
"それにしても、目と鼻の間じゃ仕事がしにくい。早く家を見つけなくちゃ。"
],
[
"青柳が少し仕事をするんだとさ。",
"仕事って何さ。",
"大変な仕事さ。"
],
[
"後家さんでも瞞すのかい。",
"まあそういったようなもんさ。その相手がよそのお嬢さんなの。",
"へえ、罪なことをするね。"
],
[
"家へ引っ張り込むの。",
"多分そうでしょうよ。"
],
[
"芸じゃ駄目だから、色で金儲けをするなんて、あの男も堕落したものさ。あんな男に引っかかるお嬢さんがあるのかと思うと、気の毒のような気がするわ。それアお前さん、先は名誉のある人だもの、そんなことが新聞にでも出てごらんなさい、たまったもんじゃありゃしないわ。そこが青柳の附け目なのさ。",
"そのお嬢さん見たの。",
"いいえ。"
],
[
"あんな娘を傍におくと、険難だよ。",
"ううん、まさか。",
"初めて見た時から見ると、まるで変ったよ。――あんな時分が一番いいわね。何の気苦労もなさそうで。私なんか、長いあいだ何をして来たんだろうと、そう思うよ。――こうしてこんなことして終いに死んじまうんだわね。"
],
[
"私まだあすこにいた時の方が、いくらか気に引っ立ちがあったよ。出てしまって、かえってつまらなくなってしまいましたよ。",
"でも青柳さんが、そんなことしていれば、やっぱりいい気持はしないでしょうね。",
"何でもありゃしませんよ。"
],
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"月が変ったら、お柳の兄さんが田舎からその談に出て来ることになってはいるんですけれどね。",
"家の青柳も、堅気になって、何かこんなようなことでも出来ないものかしら。"
],
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"やっぱり体が弱っているんだよ。",
"とてもやりきれないと思うことがあるものね。"
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"お柳さんの兄さんという人が、田舎から出て来たもんだから、急に話をつけることになったの。",
"へえ、その兄さんが来たの。",
"いいえ、間へ入る人――弁護士よ。",
"うまく行きそう。",
"ううん、どうだか。"
],
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"今度私にも加勢しろと、青柳がそう言うんだけれど、いくら何でもそんな罪なこと私に出来やしませんわ。つまり、私が現場へ呶鳴り込むかどうかするんでしょう。",
"へえ、そんな人の悪いことするの、まるでお芝居のようだね。"
],
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"そんなことして、法律の罪にならないの。",
"どうだか解りゃしないわ。"
],
[
"己は他に人から非難を受けるような点はないんだ。あれに懲りて、女には今後断然手を出さんということにしよう。",
"そうは行きませんよ。"
],
[
"でも、私は一生あの人に祟られますよ。",
"莫迦言ってら。"
],
[
"後悔するのが当然だ。今でこそ話すが、あの女が二日も三日も家をあけて、花を引いてあるく裏面には、何をしていたか解るものか。あの女の貞操を疑えば疑えるのだ。",
"何かそんなことでもあったんですか。",
"まあさ……そういうことはないにしてもさ。とにかくこれでさっぱりしたよ。己はこれまでに、幾度あの女のために、刃物を振り廻されたか知れやしない。それに、あの持病と来ている。まず辛抱できるだけして来たつもりだ。",
"お鳥目がなくなったら、また何とかいって来ますよ、きっと。"
],
[
"それもやっぱり欲にかかっているからですわ。",
"それもあるが、子供に対する愛情もある。",
"それは腹を痛めた子ですもの、どうしたって違いますわ。"
],
[
"お前さん、よっぽど幅がついたよ。",
"めっきり女ぶりがあがった。"
],
[
"若いものはやっぱり違いますよ。私なぞ、いくら旅行したって駄目。",
"あら、あんな……田舎の女ばかり見ていらしったせいでしょう。私こんなに肥って、どうしようかと思いますわ。"
],
[
"え、別に……姉さんがいないと、家はそれはひっそりしたものよ。それにどうしたって兄さんがお留守がちでしょう。",
"浮気しているのよきっと。鬼のいない間にと思って。"
],
[
"嘘よ。",
"旦那に、何か揶揄われたんだろ。"
],
[
"あなたがちやほやするから、なおさらなんですよ。",
"まさか。世間がそうなんだよ。",
"あなたはやっぱり若い女がいいものだから。"
],
[
"だから、いい加減に田舎へ還す方がいいんですよ。せっかく世話して、喧嘩でもしちゃつまらないから。きっとそうなりますよ、終いには……。",
"それもよかろう。"
],
[
"こんな手紙を貰って、どんな気がするの。",
"悪い気持はしないさな。"
],
[
"だって、先方から破談にしたのじゃありませんか。",
"けど、軽卒なことは出来やしないよ。その人のためにもよくない。"
],
[
"いや、そうでもないですよ。浅井さんという後援者のあることも、知れて来ましたからね。",
"田舎の方の談がつきさえすれば、良人だってうっちゃっておくような人じゃありませんよ。もちろん大したことは出来やしませんけれど、相当なことはするつもりでいるんでしょうよ。"
],
[
"いけませんよ。あなたがあんまりちやほやするから、増長してしようがないんです。このごろ大変渝って来ましたよ。あなたが悪いんです。",
"けど、それはしかたがないよ。見込んで託けられて見れば、こっちだって相当のことはしなければならん。これから室の方の話が纏まるものとすればなおさらのこと、うっちゃってはおけない。"
],
[
"へえ、そんなものが出来るの。",
"どうせ真似事さ。ことによったら、それを持って北海道の方へ廻るかも知れないのよ。そうすれば、お金がどっさり儲かるから、その時は借りたお金を、あなたにもお返しするでしょうよ。"
],
[
"私なぞ一度もそんなことはなかったよ。",
"己もないな"
],
[
"そうするにはまずお前の体から癒してかからなけあならない。入院して、思いきって手術をしてみたらどうだ。一ト月の辛抱だ。",
"厭々。"
],
[
"どこでもいいわ、私まだ見ないところが、たくさんあるから。",
"婚礼がすんだら、方々室さんに連れて行ってもらうといい。",
"それはそうだけれど、その前に……。"
]
] | 底本:「日本の文学9 徳田秋声(一)」中央公論社
1967(昭和42)年9月5日初版発行
1971(昭和46)年3月30日第5刷
入力:田古嶋香利
校正:久保あきら
ファイル作成:
2003年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "001703",
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[
[
"あたい一度子供産んでみたい。",
"いや、真平だ。",
"療治すれば出来るといふわ、森元さんが……。",
"その時は相手をかへなけあ。"
],
[
"今までどこにゐたの。",
"あたい? お父ちやんとこにゐたんです。",
"お父ちやん何してゐるんだい。",
"お父ちやんね、おでんやしてんだけど、体が悪いんです。",
"お母さんは?",
"お母ちやん私の三つの時死んだんです。"
],
[
"私はしのだ巻ですよ。知つてる?",
"えゝ、知つてますとも。お父ちやんおでんやだつたんですもの。",
"さうか。駆出して行くんぢやないよ。"
],
[
"駄目よ、駄目よ。",
"むゝん、ちよつと聞かさして……。"
],
[
"あたいお父ちやんに教はつたんだから……。",
"下駄そろへときなさい。",
"母ちやん私も蝶子さんについて行つて可いでせう。",
"さうね、お出先き覚えときなさい。"
],
[
"こいつは大したもんだ。何だか子供らしくないね。",
"でも少し気の利いた子は、皆んな面白がつて、あの位のことするものよ。",
"どこか商売屋にゐたんだね。",
"さうかも知れないわ。あの子の姉さんが十五で余所へ仕込みに住みこんでるさうだから、そこで覚えたんでせう。"
],
[
"あゝ、さうすると一時間が三本で、二時間になると四本ですか。それから三十分、三十分に一本ですね。",
"さうよ。",
"一本いくらですか。",
"貴方子供の癖に、そんなこと聞かなくたつて可いわよ。"
],
[
"お父ちやんお医者さまですか。",
"お父ちやんといふんぢやないよ。"
],
[
"だつて此方がお母ちやんでせう。",
"でも、をぢさんといへば可いの。をぢさんには沢山子供さんがあるのよ。",
"あゝ、さうか。ぢやをぢさんとお母ちやん結婚してないの。解つた。ぢやをぢさんに奥さんがあるんだ。",
"ないんだ。",
"ないの! 死んぢやつたんですか。",
"さうよ。"
],
[
"ぢやをぢさん先刻家から来たの。こゝにゐるんぢやないの。",
"ゐることもあるし……。"
],
[
"お母ちやん今に棄てられる。",
"馬鹿!",
"さお早くお寝なさい。蒲団出してあるから、自分で敷いて……。",
"むうん、眠くないんです。"
],
[
"抽斗頭だね。おれもさうだが……。鼻も変だね、こゝんとこが削いだみたいで。",
"をぢさんの鼻だつてさうですよ。"
],
[
"もう田舎へ帰つたでせう。",
"でも、帰る前に屹度一度は私に逢ひに来ると言つてゐたんです。",
"でも、あの時直ぐにも立つやうに言つてゐたでせう。渡辺のをぢさんが……。",
"ぢや私のお父ちやん嘘吐きだ。私を瞞したんだ。"
],
[
"お父ちやん私を売つたんでせう。",
"別に売つた訳ぢやないわよ。お金がなくちや田舎へ帰れないといふから上げたのよ。"
],
[
"お前、芸者には駄目だよ。",
"何故ですか"
],
[
"雛子姐さん学校何年やつた?",
"そんなこと聞かなくとも宜しい。芸者はラブ・レタさへ書ければいゝんだ。",
"あゝ、ラブ・レタ、雛子姐さんも彼氏のところへラブ・レタやる?"
],
[
"君のやうなおませは、学校の先生も嘸手甲摺つたことだらう。",
"え、さうです。それに誰も私と遊んでくれないんです。"
],
[
"咲ちやん表へ出ました。余り言ふこと聞かないから、出て行けつて言つたら、さつさと出て行つたんです。",
"どこへ行つたらう。",
"今に帰つて来ますよ。"
],
[
"大分前?",
"え、ちよつと……一時問くらゐ。"
],
[
"え、気永にやれば少しづゝ矯正できるかも知れませんけれど、何しろ始末にいけないチビさんですよ。私のいふことだけは、幾許かきくんだけれど、松子なんか頭から馬鹿にして、昨日も奥のお火鉢を綺麗に掃除したあとへ行つて、わざと灰を引掻き廻して、其処らぢう灰だらけにしたんですよ。松子がちよつとした用事を吩咐けても、いつだつて外方むいて返事もしないつて風なんです。松子は泣いてしまつたんです。",
"成程ね。",
"だけれど面白い子ですわ。今日私が机に頬杖ついてぢつとしてゐると、あの子が傍へ来て、私の顔を覗きこんで、姉さんでも何か心配があるかと訊くのよ。それあ私だつて心配があるわよ。大人には小さい人にわからない心配があるのよと言ふとね、姉さんなんか些とも心配することなんかないぢやないか。をぢさんが死んでも、この家もアパートもあるんだから、ちつとも困りやしないつて言ふのよ。その癖自分のことは何も言はないの。敵はないわ。"
],
[
"へえ、チビの主観だ。",
"勝手で横着なだけに、可哀さうなところもあるの。だけど何だか少し厭な子ね。松やと一緒に寝かさうと思つても、何うしても厭だと言つて頑張るし、煙草でも買はせにやれば、入りこんで油を売つてゐるし、長くゐるうちには近所隣り何処へでも入りこんで、困ると思ふわ。",
"何しろ時々凄いこと言ふよ。"
],
[
"お前は馬鹿だね。この姐さんとこにゐられないやうなら、何処へ行つたつて駄目だぞ。――お父ちやんが好い家へ行つたと言つて、安心して田舎へ帰つたのにさ。",
"親父さんも手甲摺つたものらしいのですね。",
"いや、私も余り深いことは知らないので、講中の附合で知つてゐるところから、是非心配してくれといはれましてね。"
],
[
"雛子さん矢張り出るね。今日はこれで二つだ。",
"生意気いふな。あんたが儲かる訳ぢやないだろ。"
],
[
"うむ、雛子姐さん矢張り美しい。",
"美しくなんかあるもんか。"
],
[
"臭い!",
"お前のお父さんの部屋は、迚も臭かつたぜ。あんな汚ない蒲団のなかで、熟柿くさいお父さんに抱かれて寝てゐても臭くなかつたのか。",
"臭くないんです。好い匂ひなんです。",
"あれは何の臭気だい。",
"私ね、おしつこすると、お父ちやんが翌朝外へ出して干すの。さうすると綿がふか〳〵して、迚もいゝ気持なんです。",
"寝小便するのか。",
"することもあるんですけれど、目がさめた時は、下へ行くの暗くて恐いから、七輪のなかへするんです。",
"それだとお灸もんだね。",
"をぢさんは?",
"子供の時から一度もしない。"
]
] | 底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「改造」
1935(昭和10)年6月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"あの人何でもないんですわ。",
"紅茶でも呑まない? あの学生さんも来てもいゝ。",
"いゝえ、ちよつと断ればいゝんですもの。"
],
[
"ホテル経営といふと、僕がマネヂヤアになるんですか。",
"少し失礼ね。",
"いゝや、ちつとも。",
"これで女に出来ないことが沢山あるんですから。今藤倉はよく働いてくれますのよ。でも何も彼も委せつきりつて訳には行かない。私がしつかりしてゐなかつた日には、何をするか解りやしないんですもの。何と言つても男でなくちや駄目ね。私旦那さまを持たうか知らなんて、時々そんな事も思つて見るのよ。だけど、さうなると又何だ彼だと言つて世話かけるでせう。お負に遊びたい時に遊べないんですもの。それに生意気のやうですけれど、私なんか世間の男を見尽くして来てゐますから、なか〳〵好い人が見つからなくてね。こつちの財産を当てにして来るやうなのは厭ですからね。",
"貴女ならへい〳〵してゐる男でなくちや嫌ひでせう。",
"飛んでもない、そんな男は嫌ひよ。主人となれば矢張り私が妻として従順に仕へるやうな男でなくちやあ。女は何と言つてもさう云ふ人が好いのよ。"
],
[
"何うしたの。",
"新庄さん、私の顔こんなになつてしまつた。"
],
[
"まあ、大変ですわ奥さん。",
"硼酸があつたわね。",
"ございますでせう。",
"医者へ行つた方がいゝ。",
"えゝ、でも極りがわるくて。"
],
[
"無論癒るだらうさ。余りいぢらない方が可いでせう。",
"私の目がつぶれたら、坊ちやん何うするつもりでせう。私を殺すなんて……。",
"井沢があんな気の荒い男だとは……。",
"若い人はこわいのよ。坊ちやん何処へ行きました。",
"ホテルへやつた。"
],
[
"もう来ないでせうか。今あすこへ入つて見ると、私の写真をずた〳〵に引裂いてしまつて……。",
"何うしたんです。",
"私しも悪かつたのよ。だつて私だつて先月も今月も不景気で、欠損つゞきなんですもの。",
"そんなですかね?"
],
[
"それだもんですから、以前の古いお馴染で今でも私を思つてくれてる人があるんですの。",
"さう。",
"その人が久振りでやつて来ましたの、今朝東京から。安い地所の売りものがあるから、それなら四五年持つてれば少なくとも三四倍になるから、お葉さんが持つてゐてもいゝし、住宅を作つてもいゝからと言つてくれますの。半分づゝ買はうかといふんですの。私も年取つてホテルも厭ですから、こゝ二三年もやつて……。こんな不景気ぢや、遣り切れませんもの。そしたらこれを売つて、そのお金で東中野あたりへ引込んで、お茶でも立てゝ、暢気に暮さうとおもふのよ。"
],
[
"私も悪かつたけれど、そんな話をしてゐるうちに、その人から私少し今月の経済を助けてもらはうと思つたの。",
"時々来るの?",
"いゝえ、ずつと逢はなかつたんですわ。"
],
[
"この目がつぶれたら、私どんな顔になるでせう。そしたら私死んでしまふわ。",
"結局嫉妬ですね。"
],
[
"あれから何うしたの、医者へ行つたの。",
"入らつしやいました。",
"井沢は来ない?",
"何だか井沢さんが何うしてるだらうつて、心配してるんですの"
],
[
"晩にまたお泊りにいらつしやらない?",
"いや、止さう。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「文芸春秋 第七年第五号」
1929(昭和4)年5月1日発行
初出:「文芸春秋 第七年第五号」
1929(昭和4)年5月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:久世名取
2019年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"何うしてゐたの。",
"うん、ちよつと……。"
],
[
"これ何?",
"何だか開けてごらん。奥さんへ贈物だつて",
"へえ、誰から。",
"先きは君を知つてるよ。"
],
[
"二階にゐますがね、晴ちやんが来てもゐない積りにしてゐてくれと言はれてゐるのよ。",
"これでせう。"
],
[
"あんたも遣るんですかい。",
"何うせ皆さんには敵ひませんけど、役くらゐは知つてますよ。"
],
[
"止せよ、二人だと負けるから。",
"あんたの景気何う?",
"今夜は大曲りだ。ちつとも手がつかない。"
],
[
"僕は彼奴の変心を詰つてやらうと思つて、ナイフを忍ばせてアパアトへ行つたもんですよ。ところが其の晩彼奴は何処かで、男と逢つてゐたんだね。彼奴の友達の部屋で夜明かし飲んで、朝まで頑張つてみたが、到頭帰つて来ないんだ。その相手の男も大凡見当がついてゐるんだ。此処へも二三度来た歯医者なんだ。",
"止した方がいゝでせうね。そんな人追つかけて見たつて仕様がないぢやないの。それに貴方は奥さんも子供もあるんでせう。",
"晴代さんでも逃げますか。",
"第一瞞されないわ。"
],
[
"今日は一日何してゐたの。",
"春から一度も行かないから、ちよつと家へ顔出して来たよ。",
"何か言つてゐた。私のカフヱへ出てること。",
"晴ちやんのことだから、何処へおつ投り出しておいても、間違ひはないだらうけれど、余り褒めた事でもないつて言つてゐたよ。"
],
[
"兄いさんて誰れよ。",
"あら厭だ、お宅の兄いさんよ。",
"何処で。",
"若竹だわ。"
],
[
"あの男、何だか見込がないやうな気がするの。寧そ別れてしまはうかとも思ふけれど……。",
"晴ちやんがさう思ふなら、別れきりでなしに、当分別れてみるのも、却つて緑さんのためかも知れないよ。"
],
[
"あの人まだ帰つて来ないのよ。",
"可いぢやないか。お前の物を持ち出すのに、木山に断ることもなからう。"
]
] | 底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「中央公論」
1937(昭和12)年3月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"これは好いですね。",
"兄の設計なんですが、夏だけのもので、一年中風雨に曝らしておくんですから。"
],
[
"さう。何ういふ成分の……",
"さあ、それはよく知りませんけれど。"
],
[
"△屋の近くでせう。あすこで聞けば解るでせう。いらつしやる?",
"行つて見ようよ。",
"ぢや御飯でもすんだら。"
],
[
"どこに?",
"H氏の別荘にゐるんで。娘に附いて来たのです。男の子供は海へやつてありますが、事によつたら此処で一軒借りようかとも思つて……。",
"まだ家はありますよ。",
"しかし去年の海水浴で子供が一年病気をしなかつたから、矢張り海が可いんだらうと思ふ。",
"海は散漫で。",
"僕等にはね。"
],
[
"少し散歩しませんか。",
"しませう。"
],
[
"明後日のお昼頃は如何でせう。",
"結構です。"
],
[
"楓何うです一本お持ちになつては。",
"面倒で。",
"歯朶もいゝですよ。",
"素敵な歯朶だね。",
"これ持つて行けますよ。",
"さあ。"
],
[
"Mホテルの近くです。",
"鵝鳥や七面鳥の啼声が聞えるから直ぐわかる。",
"貴方のところの?",
"いや、隣りの西洋人が飼つてるんですが、九月の半ば頃になると、一羽もゐなくなつてしまふ。ちよつと変な気持ですが、西洋人はあゝ云ふことに、実に徹底してゐる。尤も気にするのがセンチメンタルなんでせうけれど。",
"遣り切れない。あの太い腕を剥出しにして、すて大い図体をした外国婦人に出逢ふと、僕等は参つちまふな。洋行なんかする気になれない。",
"行つていらしたら何うです。",
"子供があるもの。S君は幼い人達を人にあづけて、よく二年も三年も外国にゐたと思ふね。"
],
[
"ブルジヨウアですな。",
"厭ですわ、ブルジヨウアなんて――ぢや此方へ仕舞つておきますわ。"
],
[
"海岸の方へも何うぞ。二人が寂しがつてゐるだらうと思ふんで。",
"え、行きます、いづれ九日に点呼に帰りますから。僕も今日から勉強します。づゐぶん遊んだから。兄が来ると、兄は社交家だから、人が来て勉強が出来なくなるんで。",
"どうかお祖母さんによろしく。京子ちやんも寂しくなるね。",
"しかしお友達が来ますから。",
"僕も事によると、もう一度来るかも知れないけれど。",
"何うぞ。今度はお天気が悪くて可けませんでした。"
],
[
"お茶は如何ですか。",
"飲まうか。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「中央公論 第四十三年第十号」
1928(昭和3)年10月1日発行
初出:「中央公論 第四十三年第十号」
1928(昭和3)年10月1日発行
※「ベツド」と「ベツト」、「……」と「………」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2020年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "055390",
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"没年月日": "1943-11-18",
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[
[
"随分づうづしい女ですよ。自家でもべちやくちやと、厭がらせを言つて行きましたが、吾妻さんのところでも、随分色々なことを言つたさうですよ。まるで此の家が自分の家でもあるやうに、……私が好い着物を着てゐたとか、何かが殖えてゐるとか、私松をつけて、吾妻さんとこへ遣つた処ですから。その結果を聞きに、吾妻さんとこへ行つて、今帰つて来たところですよ。",
"金をやつてないのか。"
],
[
"あんなに又金をほしがる奴はないからね。",
"なか〳〵片づきませんよ。確かに誰かついてゐるんです。",
"どんな身装で来た。",
"え、それでも子供には縮緬なんか着せてね。",
"それだと厄介かも知れないね。困つてゐると遣りいゝが。"
],
[
"さうだらうとは思ふがね。無論さうだらう。",
"まあ可かつた。"
],
[
"今度駄目だつたら、もう御父さんには心配かけない、自分で何うかすると言つてゐましたけれど。",
"おれも学校なんか止めさせて、皆で何か商売でもして、一緒に働かうかと思つた。"
],
[
"坊ちやん好かつたんですか。",
"え、お蔭さまで。"
]
] | 底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「改造」
1924(大正13)年4月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004763",
"作品名": "花が咲く",
"作品名読み": "はながさく",
"ソート用読み": "はなかさく",
"副題": "",
"副題読み": "",
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"初出": "「改造」1924(大正13)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-06-11T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card4763.html",
"人物ID": "000023",
"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代文学大系 11 徳田秋声集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1965(昭和40)年5月10日",
"入力に使用した版1": "1965(昭和40)年5月10日",
"校正に使用した版1": "1965(昭和40)年5月10日",
"底本の親本名1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "高柳典子",
"校正者": "土屋隆",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"キヤンニユスピイキイングリシユ?",
"アイ、キヤントスピイク。",
"キヤンユゲルマン。",
"ノー。"
],
[
"今夜はどんな人が来るんですか。",
"あとMさんが来るだけでせう",
"さう!"
],
[
"私あの方のもの読みました。",
"面白いですか。",
"面白いのもございました。"
],
[
"私お正月部屋へかけておきたいですが、何か書いて下さい。",
"何をです。",
"何でもよろしうございます。書いて送つて下さい。きつとですよ。ようございますか。",
"書きませう。"
],
[
"さうね、行つてもいゝね。",
"行きませう。"
],
[
"お危うございますわ。お大事のお体ですからね。",
"大丈夫ですよ。",
"段々お友達が亡くなつて、ほんとに寂しいんですものね。お体を大事にして下さいね。",
"大丈夫です。私はそんなに……。",
"どうかして、思ひ切つてお別れになれないものですかね。"
],
[
"まあ、お宜しいぢやございませんか。",
"いや、もう遅いですから。",
"I子さんがお待ちになつていらつしやいますの。お呼びになつたら可いぢやございませんか。",
"そんな訳でもないんです。では失礼――。"
],
[
"お帰んなさい。づいぶん遅かつたぢやありませんか。",
"ちよつとホテルへ寄つたものだから。ホテルは今夜も大変な騒ぎさ。",
"さう。今夜の会合は何んな人達でしたの。"
],
[
"そんなことないわ。貴方の言ひ方がいけないのよ。どう言つたのよ?",
"どうつて、行きたがつてゐると……",
"それだから可けないのさ。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「時事新報」
1928(昭和3)年1月19日~25日
初出:「時事新報」
1928(昭和3)年1月19日~25日
※「SH氏」と「S、H氏」、「MH氏」と「M、H氏」、「MK氏」と「M、K氏」、「I子」と「LI子」の混在は、底本通りです。
※「私」に対するルビの「わたし」と「わたくし」、「卓子」に対するルビの「てーぶる」と「たくし」、「繰返」に対するルビの「くりかへ」と「くりかえ」、「段々」に対するルビの「だん/\」と「だん/″\」の混在は、底本通りです。
※主人公の「彼」と「私」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※「皆な」、「謙《けん》遜の」、「慵い」にルビがないのは、底本通りです。
※作中を通して一度しか出てこない人名「MR氏」は「MH氏」の誤植が疑われるためママ注記しました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年1月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055404",
"作品名": "微笑の渦",
"作品名読み": "びしょうのうず",
"ソート用読み": "ひしようのうす",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「時事新報」1928(昭和3)年1月19日~25日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-02-01T00:00:00",
"最終更新日": "2021-05-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card55404.html",
"人物ID": "000023",
"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳田秋聲全集 第16巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月18日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月18日初版",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月18日初版",
"底本の親本名1": "時事新報",
"底本の親本出版社名1": "時事新報社",
"底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年1月19日~25日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "きりんの手紙",
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} |
[
[
"ほう、何だか不思議なものですな。",
"一体これは何に使用するものだらうな。"
],
[
"××さんが、今○○大学のなかを通つて来られる際に、誰かゞこれを見つけて、騒いでゐたんださうだがね、これが有名な独逸のテツペレンから盛んに投げた爆弾ださうだよ。ちよつと見ると、何でもないやうなものだが、実に恐るべきもんぢやないか。",
"ほう、これがね。"
],
[
"さあ、そこが我々日本人の頭脳では、ちよつと想像のつかない点ですがね。いづれ其は民間の会社で、秘密に売つてゐるものと見んければならんが……勿論学術上研究の自由は、迚も我々の想像に及ばないところがあるので、使用法さへ知つてゐれば、危険のないこともわかつてゐる訳だが、多分不逞の鮮人が、秘密に買ひ取つたものでせうよ。いづれにしても今はそんな詮索をしてゐる場合ぢやない、一つ皆さんで厳しく捜索していたゞいて……まさか是を使用してはゐまいが、事によると火の手がかう大きくなつたのも、これの効果かも知れませんから、何をおいてもこれだけは厳重に取調べていたゞかんと困りますよ。とにかく是は危険物ですよ。取調べる価値は十分ありますよ。でなくて是が何でせう。",
"いや、早速捜索させますが、そんな猛烈な爆発性をもつてゐるものだとすると、それを何う処置していゝか、それもちよつと伺つておいた方がよささうです。",
"これを捻りさへしなければ、何のこともありませんがね、まあそこいらに置いておくのも危険ですから、このまま不忍池の真中へでももつて行つて深く沈めて口を開けておくですよ。",
"そんな事でよければ……。",
"大丈夫ですよ。一週間もすれば気がぬけてしまひますからな。間違つて爆発したところが、水のなかです。"
],
[
"まあ、テツペレンの真物ぢやなささうだから、あれほどに危険はないかも知れないけれど、とにかく危険は危険ですから、一刻も早く出来るだけ手をまはして、取除いた方が安心といふものです。",
"全くですよ。",
"たとひ彼等がそれを使用しないにしても、落して歩かれては大変ですからな。"
],
[
"さうさ、己も何だかをかしいと思ふんだがね、学者の言ふことだから、間違はなからう。",
"それにしても怪しいな。いくらアメリカだつて、そんな危険物に会社の名をかいたレツテルを貼つて売出すのは変だな。単に博士の想像に止まるんぢやないかな。何しろこの際のことだからね。常はいくら頭脳の冷静な人間でも、かうなつてみると、たゞの人間だからね。",
"ほんとうだね。",
"博士だつて、そこらの八百屋の親爺だつて、何しろ避難民は一体に玄米の握飯を食つてゐるんだからね。博士の権威も何にもあつたもんぢやない。僕たちにしたところで、皆なと一つの人間だといふことを、今度くらゐ痛切に感じたことはないからね。"
],
[
"どこで。",
"たしか石崎さんとこで見たぞ。あすこの請願巡査のとこに備へつけてあるのは、たしかにあれだ。何でも最新式の消火器だとかいふ話だつたがね、どうも似てゐるよ。",
"いよ〳〵怪しくなつて来たぞ。誰か行つてそつとそれを借りて来る訳に行かんかね。"
],
[
"どうもね、僕は英語は知らんけれど、何だか博士の説明ぶりが可笑しいと思ふよ。",
"さうさ、己も変だとは思つたが、見たことがないからな。",
"三千度の熱もあやしいぞ。",
"三百メートル四方火の海だなんて、真物のテツペレンだつてまさかそんな爆弾は投げやしまい。",
"とにかく石崎のものを見れば分るさ。"
],
[
"何だ、ひどく脅かしたもんだね。いくら博士でもこれは知らなかつたんだね。",
"何しろ余程あわてゝゐるね、語学の力だつてまるで成つてやしないぢやないか。火の基をねらへと言つたろ、基をねらふ筈だ、消火器だもの。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「中央公論 第三十八年第十二号」中央公論社
1923(大正12)年11月1日発行
初出:「中央公論 第三十八年第十二号」中央公論社
1923(大正12)年11月1日発行
※初出時の表題は「「フアイヤガン」」です。
※表題は底本では、「フアイヤ・ガン(『「フアイヤガン」』を改題)」となっています。
※表題は「籠の小鳥」文藝日本社、1925(大正14)年5月20日収録時の題名によります。
※「みんな」と「皆な」、「其」と「其れ」、「巻ゲートル」と「捲ゲートル」、「判る」と「解る」と「分る」、「簡短」と「簡単」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、生前刊行の「籠の小鳥」文藝日本社、1925(大正14)年5月20日発行と、「現代小説全集」新潮社、1926(大正15)年10月5日発行と、「現代日本文學全集 第十八篇」改造社、1928(昭和3)年11月1日発行の表記にそって、あらためました。
※誤植を疑った箇所が、生前刊行の「籠の小鳥」文藝日本社、1925(大正14)年5月20日発行と、「現代小説全集」新潮社、1926(大正15)年10月5日発行と、「現代日本文學全集 第十八篇」改造社、1928(昭和3)年11月1日発行の表記で異なっている場合はママ注記にとどめました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:えにしだ
2019年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネツトの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055324",
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"姓読み": "とくだ",
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"姓ローマ字": "Tokuda",
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"生年月日": "1872-02-01",
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"底本名1": "徳田秋聲全集 第14巻",
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"底本初版発行年1": "2000(平成12)年7月18日",
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[
[
"どこへ行くんですか。",
"四谷まで行かうと思つたんですけれど、もう遅いでせうね。",
"四谷ですか。",
"四谷の本村なんですの。",
"さう、もう十時半ですからね。"
],
[
"四谷は貴女の家なんですね。",
"いゝえさうぢやございません。家は小石川なんですけれど……",
"小石川から四谷ぢや大変ですね。それに今夜は莫迦に寒いぢやありませんか。"
],
[
"お酒ですか。",
"え、どこか其処いらのカフエでも何でもいゝんですよ。",
"でも、私何にも存じませんのよ。",
"それあ判つてゐますよ。",
"それに私今夜は、お友達に少し相談したいことがあつて、わざ〳〵来ましたの。",
"相談つて、何ですか。",
"だつて、初めてお目にかゝつた方に、そんなお話できませんわ。",
"いゝぢやないですか。どこの誰だかも知れないんですから。"
],
[
"僕にだつて良心はありますよ。",
"でも私もさうですけれど……それは何といはれても為方がないけれど、貴方も、随分大胆ね。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「中央公論 第三十六年第五号」
1921(大正10)年5月1日発行
初出:「中央公論 第三十六年第五号」
1921(大正10)年5月1日発行
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055306",
"作品名": "復讐",
"作品名読み": "ふくしゅう",
"ソート用読み": "ふくしゆう",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論 第三十六年第五号」1921(大正10)年5月1日",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-11-18T00:00:00",
"最終更新日": "2022-10-26T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card55306.html",
"人物ID": "000023",
"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳田秋聲全集 第14巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "2000(平成12)年7月18日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年7月18日初版",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年7月18日初版",
"底本の親本名1": "中央公論 第三十六年第五号",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "きりんの手紙",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"お一人でいらつしやいますか。",
"いや、女の人が後から一人……。"
],
[
"繁昌してますか。",
"お蔭さまでぽつ〳〵……有難いことには、私のところは御贔負の御定連さまばかりで、この界隈華族様方や政治方面の方々が多うございますので。",
"ダンスは……。",
"もと私も遣つたことはございますけれど、ワンステツプで体をゆすつたものですの。今は皆さんお上手で……。ホールへ行きますのは、大抵、お客様の御伴ですが、家の若い人達にも習はせておかうと思ひまして。時勢がかはりましたね。お料理だけでは、今のお客さまが来て下さらないのです。ヱロサアビスとやらでございませんと。",
"へえ! 一体みな話好きになつたからね。",
"私も銀座へ進出して大衆食堂を出したいと、思つてゐますけれど今のところそんな資本もございませんし……大したものは入らないんですけれど……。",
"お宅は何だか家庭的ですね。"
],
[
"さうですね、何うなすつたんでせう。",
"来ないんだろう。あんな連中は何をいふか。",
"でも、も少しお待ちになつたら……まだお早いんですの。",
"さうね。",
"何か召食つたら……。",
"さうですね。昼は余り食べないことにしてゐますから、何か……。",
"え、軽いものを差しあげますわ。"
],
[
"何も意味はないんだから。",
"あつたつていゝわ。でも無くたつていゝのよ。"
],
[
"失恋にはまだ早いわよ。",
"君はサアビスがうまい。",
"どう致しまして。",
"兎に角一度御飯を食べよう。",
"結構よ。"
],
[
"けど貴方どちらへ入らつしやいます? ホールへ?",
"さうね、ちよつと寄つてみようかと思ひますけれど……。",
"それでしたら、うちの車でお送りしませう。私歯医者へ行きますから、ホールまでお送りしますわ。",
"さう!"
],
[
"有難う!",
"では又どうぞ。"
],
[
"牡蠣ももうおしまひですね。",
"は。それでも未だ来月一杯くらゐは……。"
],
[
"さう、それはいゝね。どんな人? いつか来てゐたモダアンボオイ……あれ?",
"いゝえ。あれは雑誌社の人よ。あれは何でもないんだけれど、一人は迚も美貌なの。私矢張り美しい人好きですけれど考へてるの。その人には奥さんも子供もあるんですもの。結婚できないわ。",
"今一人は。",
"好い人なの。独逸文学に明るい人なの。だからお話は其の人の方がぴつたり来るんですけれど、年が若いのよ。",
"あゝ、さう!",
"お友達が言つてくれるの、奥さんのある方が長持がするし、却つて気安くていゝつていふの。若い方の人だつたら、そのうち誰かと結婚しないとも限らないから、その時私が苦しむだらうつて……。",
"その人と貴女が結婚したら!",
"しないこともないでせうけれど、結婚したら評論家としての私の今迄の生活が、すつかり崩されてしまふでせう。またさうしなければ、現実に家庭生活がうまく行きよう筈はないでせう。私は家庭に凋んでしまふのも厭ですわ。",
"みんなさういふことを言ふね。",
"だから私迷つてるの。",
"しかし何処まで進んでゐるんだか……。",
"奥さんのある方の人は、私がお嬢さんなのに驚いてんの。"
],
[
"その人を見ないことだから、僕は何ともいへない。まあ、今俄かに決定したり、一つを選択したりする必要はないんぢやないか。結婚となれば別だけれど。",
"それもさうね。だけど、私若い人不安だわ。年取つた人の方がいゝんだけれど。"
],
[
"大橋さんださうですが……。",
"あ、さう。"
],
[
"あら!",
"どうもさうだと思つたんだけれど……。"
],
[
"誰か待合す人があるんでせう。",
"えゝちよつと。だけど可いんですわ。",
"いつかの人?"
],
[
"八時! もう八時ぢやないか。",
"え、もう来ますわ。赤阪に宴会があるんで、そこへ行つてるんですけれど、真面目な人ですから、芸者さんが来て、騒がれるのは厭だから、今夜一緒にホールへでも行つて遊びませうつて約束したものですから。",
"僕も今ちよつとAホールで三四回踊つて来たんだけれど、何だか踊り足りないやうだから、どこかへ行かうかと思つてゐたの。",
"なら、入らつしやいな。",
"邪魔だらう。",
"いゝえ。何でもないんですもの。",
"何する人?",
"何にもしてゐないんですわ。三田出ですけれど、田舎がいゝものですから。",
"しかし遅いね。",
"え。でも、もう少し待つてみませう。"
],
[
"どこにしたら可いでせう。私どこでも可いんですわ。",
"さあ、僕もどこでも可い。しかし帰つた方がいゝかも知れない。",
"でも……。"
],
[
"ぢや、二人で行つていらしたら……。",
"いゝんですよ。一人で行つて来ますから。"
],
[
"何うしたんです。",
"いや、ちよつとやつて来ました。近所のお鮨屋で間に合はしました。"
],
[
"え、好いお坊つちやんよ。",
"あの人だつたら、十分結婚してもいゝぢやないか。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「創造 十一月号」
1931(昭和6)年11月1日発行
初出:「創造 十一月号」
1931(昭和6)年11月1日発行
※「気持」と「氣持」の混在は、底本通りです。
※下記の括弧の不整合は、底本通りです。(頁数-段-行数は底本のものです)
頁
315頁-下段-19行 行かないやうなもので……。」【始まりの「なし】
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:久世名取
2018年10月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055384",
"作品名": "二つの失敗",
"作品名読み": "ふたつのしっぱい",
"ソート用読み": "ふたつのしつはい",
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"原題": "",
"初出": "「創造 十一月号」1931(昭和6)年11月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-11-18T00:00:00",
"最終更新日": "2018-10-24T00:00:00",
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"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳田秋聲全集第16巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月18日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月18日初版",
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"底本の親本名1": "創造 十一月号",
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"底本の親本初版発行年1": "1931(昭和6)年11月1日",
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"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"なぜ自分の子供を自分のものとして、所有しなければならないか。",
"なぜ近よつて来る青年を、自分の子供のやうに愛することができないか。"
],
[
"先生もいらつしやいませんか。",
"行つてもいゝね。"
],
[
"百合子ちやん、そんな顔をするもんぢやないのよ。丸子ちやんも寝んねしたんだから、貴女もおとなしくお寝んねするんですよ。今夜中に洋服を出来してあげるからね。あれを着て、丸子ちやんと一緒に花の会へ行くんでせう。",
"いゝぢやないか、起きてゐるものはつれて行つても。",
"そんな事いけませんよ先生。余りやさしくしては駄目ですの。"
],
[
"それあさうね。だから私決して不平を言つてるんぢやないのよ。",
"解つてゐるさ。"
],
[
"大変およろしいやうよ。今朝は六度と少し……。",
"やつぱり風邪かね。",
"私も今朝頭が痛いのよ。咽喉がちく〳〵痛いの。淋巴腺が腫れてゐますの。"
],
[
"早く診てもらいなさい。",
"何でもありませんのよ。たゞ少し疲れが出て来たやうなの。"
],
[
"ちよつと短かい材料はないかな。",
"あれをそつちへ廻してはいけませんの。"
],
[
"あれは長くもあるし惜しい。好子のものとして発表した方がいゝ。もつと手軽に書けるものはないか。",
"ありますわ、いくらでも。"
],
[
"私どうしても離れられない。",
"ぢや矢張離れるつもりでゐたの。",
"さうぢやないけれど。"
],
[
"だけど私何だか変よ。頭が痛いの。",
"それならお休みなさい。",
"こゝへ寝てはわるい。",
"いゝとも。その方が僕も書ける。"
],
[
"さあ、お舟にのつたまゝ小さい声で謡ふの。",
"ぱらツ、ぱらツ……。"
],
[
"どつさりあるからいくらでも上げるけれど、丸子はやつと病気が癒つたばかりだからね。百合子は少し余計食べてもかまはない。",
"さあ、皆んなあつちへ行つて遊ぶのよ。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第15巻」八木書店
1999(平成11)年3月18日初版発行
底本の親本:「不同調 第三巻第一号」
1926(大正15)年7月1日発行
初出:「不同調 第三巻第一号」
1926(大正15)年7月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2021年11月27日作成
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"作品ID": "055361",
"作品名": "二人の病人",
"作品名読み": "ふたりのびょうにん",
"ソート用読み": "ふたりのひようにん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「不同調 第三巻第一号」1926(大正15)年7月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-12-23T00:00:00",
"最終更新日": "2021-11-27T00:00:00",
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"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
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"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
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"底本名1": "徳田秋聲全集 第15巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年3月18日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年3月18日初版",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年3月18日初版",
"底本の親本名1": "不同調 第三巻第一号",
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"底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年7月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"底本の親本名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"何です。",
"あんな調子づいた声を出して、どんな湯殿を作るつもりなんだ。",
"別に大きな声なんか出しやしませんよ。",
"こゝまで筒ぬけに聞えるぢやないか。隣りぢや何んな普請をするかと思つたに違ひないんだ。"
]
] | 底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「改造」
1924(大正13)年8月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
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| {
"作品ID": "004764",
"作品名": "風呂桶",
"作品名読み": "ふろおけ",
"ソート用読み": "ふろおけ",
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"原題": "",
"初出": "「改造」1924(大正13)年8月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-06-08T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代文学大系 11 徳田秋声集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1965(昭和40)年5月10日",
"入力に使用した版1": "1965(昭和40)年5月10日",
"校正に使用した版1": "1965(昭和40)年5月10日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "高柳典子",
"校正者": "土屋隆",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/4764_ruby_26652.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-04-24T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"風呂はあるね。",
"ございます。お入りになるのでしたら、今ちよつと見させますから。"
],
[
"鮎を食べに来たんだが、あるだらうね。",
"あります。"
],
[
"鮎は何にしませうか。",
"言ふのを忘れたが魚田が食べたいんだ。"
],
[
"しかしそんなに大きくなくたつて……どのくらゐなの。",
"さあ……ちよつと聞いてまゐります。"
],
[
"鮎はございませんさうですが……。",
"小さいのも。",
"は。",
"だから先刻きいたんだ。それぢや仕様がないな。"
],
[
"お祖父そつくりやぞな。",
"さうや。"
],
[
"お父さんはいくらだとお思ひになります。",
"さあな。"
],
[
"しばらく御滞在ですか。",
"いや、明後日の夜行で帰るつもりです。こゝには誰も話相手がゐないので……。"
],
[
"私は兎に角正しい踊りを教へるつもりで、遣つてゐますが、この町にも社交ダンスは拡まるだらうと思ひます。",
"床が板でないので、少し憂欝ですね。",
"さうしようかと思つたんですけれど……。",
"どんな人が踊りに来ますか。",
"いろ〳〵です。あすこにゐるのはお医者さまと、弁護士です。"
],
[
"さうです、貴方は誰方でしたつけ。",
"私山岡ですの。つい先生のお近くの……。"
],
[
"こちらの三越の婦人部にをりますの。お序があつたら、お寄り下さいまし。",
"は、ことによつたら……。お踊りにならないんですか。",
"えゝ、ちよつと拝見に。"
],
[
"こゝは何ういふ風にすればいゝですか。",
"いや、やつぱりクウポン制度です。",
"あのお嬢さんたちに申込んでも構はんですか。",
"いゝんですとも。"
]
] | 底本:「現代文学大系 11 徳田秋聲集」筑摩書房
1965(昭和40)年5月10日発行
初出:「経済往来」
1933(昭和8)年3月
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2007年4月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "004765",
"作品名": "町の踊り場",
"作品名読み": "まちのおどりば",
"ソート用読み": "まちのおとりは",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「経済往来」1933(昭和8)年3月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2007-06-08T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card4765.html",
"人物ID": "000023",
"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代文学大系 11 徳田秋声集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "1965(昭和40)年5月10日",
"入力に使用した版1": "1965(昭和40)年5月10日",
"校正に使用した版1": "1965(昭和40)年5月10日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "高柳典子",
"校正者": "土屋隆",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/4765_ruby_26653.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2007-04-24T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/4765_26671.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2007-04-24T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"それもさうね。",
"その人の柄だね。顔の派手なものは渋いものは駄目さ。好子さんなんかも……。"
],
[
"先生は好子さんに余り甘いつて評判よ。",
"さうかね。"
],
[
"人をこんなに苦しめてもいゝものなの。大芸術家は違つたものね。何をしたつて好いんでせう。一体いつからそこにいらつしやるの。私二タ晩も苦しんだわ。",
"苦しむのはお互ひさ。僕は今まで余りにも君の前にへたばつて来たからね。",
"ほゝ、貴方は皮肉を言つてらつしやるの。咋夜も一昨晩もそこに泊つたんでせう。",
"笑談ぢやない。今朝までホテルにゐたのさ。あの晩あんなに電話をかけたぢやないか。ホテルにきいて御覧なさい。",
"貴方が電話をおかけになつて、間もなく帰つて来ましたわ。そこに泊つたんでせう。",
"いゝや。泊るものか。僕は苦しかつたんだ。持つて行きところがないから……。",
"私田舎へ帰つてよ。",
"帰るつて。まあ、そんな事を言はないで、こつちへ来ない。来れば判つてもらへるよ。何でもないんだよ。",
"そつちへ。さうね。……行つてもいゝけれど。",
"来なさい。主婦も見たがつてゐるから。",
"行つてもいゝけれど、何を着ていくの。",
"何でもいゝさ。せい〴〵美しくして",
"ほゝ",
"今M―さんも来るかも知れない。花を引きに。"
],
[
"お呼びなさいよ。",
"さう言うたんだがね。"
],
[
"……大急ぎで……二十五分以内に帰つていらして下さい。",
"ぢや帰らう。"
],
[
"一昨日の晩から先生はゐなかつたのね。",
"そんな事はない。昨日の朝出たのさ。ホテルでは極りが悪かつた。君が来ないんで。",
"さう。勘忍して!貴方のお電話のすぐ後へ帰つたのよ。",
"僕は我慢ができなかつたからね。"
],
[
"私何かおいしいもの食べたい。支那料理か何か。",
"ぢや行かう。",
"行きませう。"
],
[
"どの着物にしませう。",
"何でもいゝよ。"
],
[
"羽織は黒ね。",
"いゝね。"
],
[
"電車で好いわ。",
"さうね。"
],
[
"結構。",
"ちまつとして好い部屋ね。",
"さう。"
],
[
"先生、水ぎはの家へ行つちや厭よ。",
"行かないよ。行つたつて何でもないんだけれど。先刻くれば可かつたぢやないか。己がいつも自惚を言ふもんだから、主婦が見たがつてゐる。来てくれると、却つてよく解つたんだ。",
"M―さんもつれて行つたの。",
"いゝや。今日花を引かうと思つて、初めて呼んでみたのさ。だけど来なかつた。",
"さう。"
],
[
"でも行くんでしたら、着物を……。このまんまでも好い。",
"可いとも。"
],
[
"今日は指環もないのよ。だけど此の方が却つてきつとして可いわね。",
"さう。"
],
[
"先程は",
"どうなすつたの。",
"好子をつれて行かうと思ふんだ。",
"どうぞ……。"
],
[
"あんな女にも逢つておいて好よ。ちよつと小説なんかも解るんだからね。",
"さう。私水を見たいわ。水の見えるところは好きよ。",
"水の見えるところは思出があるからね。"
],
[
"私しんみりした唄が聞きたいのよ。聞かしてね。",
"あゝ、可いとも。"
],
[
"さう、あれが! 背の高い。",
"背は高くない。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「中央公論 第四十二年第三号」
1927(昭和2)年3月1日発行
初出:「中央公論 第四十二年第三号」
1927(昭和2)年3月1日発行
※見出しの「一」がないのは、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:久世名取
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "055380",
"作品名": "水ぎわの家",
"作品名読み": "みずぎわのいえ",
"ソート用読み": "みすきわのいえ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論 第四十二年第三号」1927(昭和2)年3月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2019-02-01T00:00:00",
"最終更新日": "2019-01-29T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/card55380.html",
"人物ID": "000023",
"姓": "徳田",
"名": "秋声",
"姓読み": "とくだ",
"名読み": "しゅうせい",
"姓読みソート用": "とくた",
"名読みソート用": "しゆうせい",
"姓ローマ字": "Tokuda",
"名ローマ字": "Shusei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-02-01",
"没年月日": "1943-11-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳田秋聲全集第16巻",
"底本出版社名1": "八木書店",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年5月18日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年5月18日初版",
"校正に使用した版1": "1999(平成11)年5月18日初版",
"底本の親本名1": "中央公論 第四十二年第三号",
"底本の親本出版社名1": " ",
"底本の親本初版発行年1": "1927(昭和2)年3月1日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "特定非営利活動法人はるかぜ",
"校正者": "久世名取",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/55380_ruby_66903.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2019-01-29T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000023/files/55380_66949.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2019-01-29T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"こんな危険な国でも、海外へ移すと言ふこともできないんだからね。",
"それあさうさ。遷都論なんかも、やはりさういふ処から来てゐるのさ。徳川の政策さへなかつたなら、日本ももつと〳〵海外へ発展してゐたらうからね。",
"西の方へ首都を遷すのもいゝかも知れんね。",
"それもちよつと困難でね。"
],
[
"さう思ふと子供もつまりませんね。",
"だつて、それあ仕方がないぢやないか。"
],
[
"お前がさう思つても、子供は親の傍にばかりはゐないんだよ。また居るやうぢや困るんだよ。",
"まあ可いさ。みつ子さんは死んでよかつたかも知れないしね。みんなが又何ういふ目に逢ふか知れないんだから。",
"だから何時までも一緒にゐたいぢやないか。"
],
[
"不忍の池にも人死があつたつて?",
"不忍の池! なあに、そんなことは大嘘。蓮が青々してゐますよ。"
],
[
"私たちは御飯もたべず、三日も四日も寝もしないで、立詰めで働いてゐるのに、あの婆さんといへばづゐぶん無遠慮だつたんですよ。年寄りなんか自分の親でも、場合によつては介意つてゐられない時なんですもの。",
"とにかく甲斐性ものさ。",
"えゝ、それあ何うしたつてあんな強いお婆さんですから。荷物は取扱ひがはじまり次第荷造りをして、出さうと思つてゐます。その事をくれ〴〵も頼んでいきましたから。さぞ不自由をしてゐることでせう。私もあれまで同情してゐて、こゝのところであんな風で帰つたんですから。",
"まあいゝさ。"
],
[
"田舎で吉村さんの親類に、奥さんの評判がわるくても、決して私がしやべつたと思つてはならんよつて、そんなことを言ふんですもの。だから私は別に悪く言はれるやうなことはしてゐない積りですと言つてやりましたわ。",
"いや、みんな分つてゐる。",
"え、それにあのお婆さんも、威張るには威張りますけれど、さうまたべちやくちやと人の悪口を言ふつていふ方ぢやありませんわ。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第14巻」八木書店
2000(平成12)年7月18日初版発行
底本の親本:「改造 第六巻第一号」
1924(大正13)年1月1日発行
初出:「改造 第六巻第一号」
1924(大正13)年1月1日発行
※「流義」と「流儀」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:きりんの手紙
2020年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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"作品名": "余震の一夜",
"作品名読み": "よしんのいちや",
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"初出": "「改造 第六巻第一号」1924(大正13)年1月1日",
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} |
[
[
"ではお父さんは三ちやんと一緒に寝台自動車に乗つて行つて下さい。僕は電車で行きますから。",
"あら、さう。",
"病院までは僕も一緒に乗つて行きますから。",
"よし〳〵。",
"T老院長は患者に愛著をもつてゐます。どうしても癒さうとしてゐます。あの海岸の療養所にこの夏一杯もゐたら、づつと快くなるでせう。費用もかけさせないやうにと、心配してくれてゐるんです。あゝ云ふ患者が、一家のうちに一人出ると、中産階級のちよつとした家は大概へたばつてしまふもんだからつて、そこまで思つてくれてゐるんです。",
"何しろ長いからね。"
],
[
"若し癒らないものだつたら、ガーゼの捲替へなぞ、張合がなくて迚もやれやしませんよ。",
"だが癒つてからが……。",
"歩けますよ。"
],
[
"私厭ですわ。田舎へ還してもらいます。",
"さう、ぢや仕方がない。",
"昨日も誰方もおいでにならないもんですから、私一人で困つてしまひました。",
"病人が気むづかしくて……。"
],
[
"まあ可いですけれど……。",
"これから銀座へ出ます。御一緒にいらつしやい。いゝでせうお父さん。"
],
[
"まあ、あのくらゐの熱でしたら……。もう少し落着いたら下るでせう。老院長が一度来ました。胸なんかちつとも悪くないといふんです。それあ誰でもレントゲンで見れば、八パーセントまで故障があるんだから、心配する必要はないんださうです。",
"さう、それなら可いけれど。",
"君捲きかへやつて見給へつて、到頭老院長の前で大体やらされてしまつて……。この新体詩祭に出席したとかで、あの頃の詩壇の懐旧談を聴かされました。大人は文章を作られるがつて、お父さんのことを……一度逢つてごらんになると可いですね。実に好い感じの老人です。昔の人は何だかやつぱり好いな。"
],
[
"さうか。",
"納戸へ入つて荷物を纏めてゐるから、何だか変だと思つたんですけれど、私がももちやんをつれて買ひものに行つた留守に出て行つてしまつたんですの。",
"道理で昨日三十日でもないのに、買いものがあるから給料をもらいたいなんて……あいつ矢張り可けないんだね。"
],
[
"あんな剽軽なやうなことばつかり言つて、大変づるい奴だつたと三ちやんは初めから言つてゐましたよ。",
"さうかも知れないな。多分田舎へ帰つたんぢやないだらうよ。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第16巻」八木書店
1999(平成11)年5月18日初版発行
底本の親本:「文芸春秋 第八巻第九号」
1930(昭和5)年9月1日発行
初出:「文芸春秋 第八巻第九号」
1930(昭和5)年9月1日発行
※「矜」と「矜り」の混在は、底本通りです。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:久世名取
2018年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "055385",
"作品名": "老苦",
"作品名読み": "ろうく",
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"初出": "「文芸春秋 第八巻第九号」1930(昭和5)年9月1日",
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"名": "秋声",
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"名読み": "しゅうせい",
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"底本出版社名1": "八木書店",
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[
[
"何うして?",
"それが実に乱暴なんです。壮士が十人も押掛けて来て、お巡りさんまで加勢して、否応なしに……。"
],
[
"アパアトは一杯だぜ。三階の隅に六畳ばかり畳敷のところはあるけれど、あすこに住ふのは違法なんだから。",
"そこで結構です。小島弁護士も、後で行つて話すから、差当り先生のアパアトへ行くより外ないといふんです。",
"小島君が何うかしてくれさうなもんだね。",
"かうなつては手遅れだといふんです。防禦策は講じてあつたんだけれど、先方の遣口が実に非道いんです。",
"ぢや、まあ……為方がないね。"
],
[
"お出かけ?",
"いや、ちよつと。"
],
[
"九度とか四十度とか……ちよつと立話でしたから。",
"医者にかけたか知ら。",
"さあ、そこのところは存じませんけれど。",
"風邪ならいいけれど……。"
],
[
"細君に、早速医者に診てもらふやうに言つてくれませんか。",
"さう言ひませう。",
"かういふ時、渡瀬さんが丈夫だといいんだがな。",
"さうですね。",
"しかし浦上さんも、医者としては好いんだ。至急あの人を呼ぶやうに言つて下さい。そして診察の様子を見よう。",
"さう申しておきませう。"
],
[
"T―君診てもらつたかしら。",
"ええ、あの時さう申しましたんですが、知らない人に診てもらふのは厭なんですて。それで、牛込の懇意なお医者を呼びにいつたんだけれど、その方も風邪で寝ていらつしやるんで、多分明日あたり診ておもらひになるんでせう。",
"呑気なことを言つてるんだな。何うして浦上さんを呼ばないんだらうな。"
],
[
"失礼ですが、ちよつと私の部屋までおいで願ひたいんですが。",
"よろしうございます。"
],
[
"ぢやT―君が、最近瘭疽を癒していただいたのは貴方ですか。",
"さうですよ、は、はい。"
],
[
"病気はどんなですか。",
"は、は……実は昨日もちよつと来て診ましたが、その時は分明わかりませんでしたが、今診たところによりますと、肺炎でも窒扶斯でもありませんな。原因はよくわかりませんが、脳膜炎といふことだけは確実ですよ、は、は。",
"脳膜炎ですか。",
"今夜あたり、もう意識がありませんよ、は。兎に角これは重体です。去年旅先で、井戸へおちて、肋骨を打たれたので、或ひは肺炎ではないかと思つてをりましたが、どうも其れらしい症状は見出せません。",
"窒扶斯でもないんですか。",
"その疑ひもないことはなかつたのですが、断じてさうぢやありませんな。"
],
[
"兄さんこの頃何うしてるのかね。",
"兄ですか。家に引こんで本ばかり読んでゐますよ。もう大分白くなりましたよ。",
"兄さん白くなつたら困るだらう。",
"でも為方がないでせう。"
],
[
"突然ですが、T―さんが私のところで、病気になつたんです。可なり重態らしいのです。",
"T―さんがお宅で。まあ。",
"電話では詳しいお話も出来かねますけれど、誰方か話のわかる方をお寄越しになつて戴きたいんですが……。",
"さうですか。生憎主人が風邪で臥せつてをりますので、今晩といふ訳にもまゐりませんけれど、何とかいたしませう。お宅でも飛んだ御迷惑さまで……。",
"いや、それはいいんですが……では、何うぞ。"
],
[
"大分悪いやうだから、病院へ入れなけあいけないと思ふが、浦上さんの診断は何うなんかな。診察がすんだら、こちらへ寄つてもらふやうに言つておいたんだが……。",
"さあ、それは聞きませんでしたが……。",
"すまんけれど、浦上さんへ行つてきいてみてくれないか。"
],
[
"あの医者はひどいですね。ベルをいくら押しても起きないんです。漸と起きて来て、戸をあけたかと思ふと、恐ろしい権幕で脅かすんです。医者も人間ですよ、夜は寝なけあなりません、貴方のやうに夜夜中ベルを鳴らして、非常識にも程がある、と、かうなんです。",
"結局何うしたんだ。",
"あんな病人を、婦人科の医者にかけたりして、長く放抛らしておいて、今頃騒いだつて、私は責任はもてません、と言ふんです。私は余程ぶん殴つてしまはうかと思つたんですけれど、これから又ちよいちよい頼まなけあならないと思つたもんだから……。"
],
[
"あんたが来てくれれば。",
"いや、K―先生が来るとこだけど、ちやうど私がお訪ねしたところだつたもんだから。",
"K―君に来てもらつても、方返しがつかないんだ。",
"貴方には飛んだ御迷惑で……T―君何処にゐるんですか。"
],
[
"いや、あんた預つて下さい。",
"孰でも同じだが、預つておいても可い。しかし貴方差当り必要だつたら……。",
"え少し戴いておきますわ。"
],
[
"……それから自宅へ行つてみたんですが、矢張り居ませんでした。",
"そいつあ困つたな。"
],
[
"今度の細君はよささうだね。",
"あれはね……僕も初めて見たんだが、感心してゐるんだ。",
"兎角女房運のわるい男だつたが、あれなら何うして……。先生幸福だよ。ところで、何うでせうかね。あの病気は?",
"さあね。"
],
[
"病気は何ですか。",
"私の見たところでは、何うも敗血病らしいですね。"
],
[
"さうぢやありませんね。",
"それで何うなんでせう、病院へ担ぎこんだ方が、無論いいんでせうが、迚も助からないやうなら、あすこで出来るだけ手当をしたいとも思ふんですけれど。",
"さうですね。実は寝台車に載せて連れて行くにしても、途中が何うかとおもはれる位で……。しかし近いですから、手当をしておいたら可いかも知れません。"
],
[
"今度はどうもT―の奴が思ひかけないことで、御厄介かけて……。",
"いや別に……。行きがかりで……。",
"何かい、君んとこにアパアトがあるのかい。僕はまた君の家かと思つて。",
"さうなんだよ。T―君家がなくなつたもんだから。"
],
[
"さうさ。",
"またさういふ奴にかぎつて、自分勝手で……。",
"人が好いんだね。"
],
[
"山の神をよこさうかと思つたんだがね、あれは病院へ行つてるんだ。僕もこれから行くところなんだ。",
"これから……又僕も行くが、君も来てくれたまへ。",
"ああ、来るとも。"
],
[
"夏は山がいいぢやないか。",
"ところが其奴がいけないんだ。例のごろごろさまがね。",
"家を建てた方がいいね。",
"それも何うもね。"
],
[
"これは牛込の名物として、保存すると可かつた。",
"その当時、その話もあつたんだが、維持が困難だらうといふんで、僕に入れといふんだけれど、何うして先生の書斎なんかにゐられるもんですか恐かなくて……。"
]
] | 底本:「徳田秋聲全集 第十七巻」八木書店
1999(平成11)年1月18日初版発行
初出:「新潮」
1933(昭和8)年6月
入力:kompass
校正:高柳典子
2003年10月23日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "003512",
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"初出": "「新潮」1933(昭和8)年6月",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"名読み": "しゅうせい",
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"名ローマ字": "Shusei",
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[
[
"妻の眼色を読もうとしても、主人の貌色に気をつけても、唯疑念ばかりで証拠を押えることが出来ません。斯様な処に奉公するじゃないと幾度思ったか知れません。また其様妻に云ったことも一度や二度じゃありません。けれども妻は其度に腹を立てます。斯様にお世話になりながら奥様のお留守にお暇をいたゞくなんかわたしには出来ない、其様に出たければあなた一人で勝手に何処へでもお出なさい、何処ぞへ仕事を探がしに御出なさい、と突慳貪に云うンです。最早私も堪忍出来なくなりました",
"そこである日妻を無理に大連の郊外に連れ出しました。誰も居ない川原です。種々と妻を詰問しましたが、如何しても実を吐きません。其れから懐中して居た短刀をぬいて、白状するなら宥す、嘘を吐くなら命を貰うからそう思え、とかゝりますと、妻は血相を変えて、全く主人に無理されて一度済まぬ事をした、と云います。嘘を吐け、一度二度じゃあるまい、と畳みかけて責めつけると、到頭悉皆白状してしまいました"
],
[
"それから私は主人に詰問の手紙を書きました。すると翌日主人が私を書斎に呼びまして『ドウも実に済まぬ事をした。主人の俺が斯う手をついてあやまるから、何卒内済にしてくれ。其かわり君の将来は必俺が面倒を見る。屹度成功さす。これで一先ず内地に帰ってくれ』と云って、二百円、左様、手の切れる様な十円札でした、二百円呉れました",
"君は其二百円を貰ったンだね、何故其短刀で其男を刺殺さなかった?"
],
[
"それから?",
"それから一旦内地に帰って、また大連に行きました。最早主人は私達に取合いません。面会もしてくれません",
"而して今は?",
"今は東京の場末に、小さな小間物屋を出して居ます",
"細君は?",
"妻は一緒に居るのです"
],
[
"夕立が来るかも知れん",
"然、降るかも知れんですな"
],
[
"それじゃ",
"じゃ又"
],
[
"じゃァ、しっかりやり玉え",
"色々お世話でした"
],
[
"それじゃ",
"失礼"
],
[
"勝田慶三郎",
"松居千代"
],
[
"螢を捕ったね",
"え"
],
[
"綺麗だ喃",
"綺麗だ喃"
],
[
"お寺は東覚院ですか",
"否、上祖師ヶ谷の安穏寺です"
],
[
"何しろむつかしい事がありゃ一番に飛び込もうと云うンだからエライや",
"全くだね。寺本さんはソノ粕谷の人物ばかりじゃねえ、千歳村の人物だからね"
],
[
"それはソウと、上祖師ヶ谷の彦さんは分ったかな",
"分からねえとよ。中隊でも大騒ぎして、平服で出る、制服で出る、何でも空井戸を探してるちゅうこンだ",
"窘められたンですかね?",
"ナニ、中隊では評判がよかったンですよ。正直でね",
"正直者が一番危ねえだ。少し時間に後れたりすると、直ぐ無分別をやるからな",
"違えねえ"
],
[
"月に六円宛、其れは大変だね",
"岩もね、其当座は腹が減って困ったてこぼして居ましたっけ。何しろ麦飯の七八杯もひっかけて居ったンだからね。酒保に飛んで行き〳〵したって話してました。今じゃ大きに楽になったってますよ。最早あと一年半で帰って来ますだよ"
],
[
"旗が先に行くかね、提灯かね?",
"冥土の案内じゃ提灯が先だんべ",
"東京じゃ旗が先きに行くようだね、ねえ先生"
],
[
"炬火が一番先だよ",
"応、然だ、炬火が一番先だ"
],
[
"実は――隣の勘五郎さんでございますが、其の――勘五郎さん処の次郎さんが亡くなられまして――",
"エッ、次郎さんが? 次郎さんが死んだんですか"
],
[
"おい、饂飩を一つくれんか",
"へえ"
],
[
"三間前ならトメます。運転手は中々頭がなければ出来ません",
"随分神経を使うですね",
"エ、然し愉快です――力ですから"
],
[
"降ったね",
"えゝ〳〵。ひどい降りでした。上では雹が降ったてます"
],
[
"旦那は重うございますね。二十貫から御ありでしょう",
"なまけるからね",
"エ、如何しても体を烈しく使うと、ふとりませんな。私ですか、私は十四貫しかありません"
],
[
"何の光だろう?",
"写真を撮るマグネシウムの光でしょうか",
"否、弔砲の閃光かも知れん"
],
[
"此処らも予定地の内ですか",
"え、彼道路からずっとなんですよ。彼処に旗が立ってますだ"
],
[
"如何するのかね",
"何、安田の炭鉱へかゝってたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰になってます。エ、最早廃しちゃったんです"
],
[
"随分色々な者が入り込んで居るだろうね",
"エ、其りゃ色々な手合が来てまさァ",
"随分破落戸も居るだろうね",
"エ、何、其様でもありませんが。――一人困った奴が居ましてな。よく強淫をやりァがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない様にしますからな。何時ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅りに往ってたのを、奴が捉えましてな。丁度其処に木を伐りに来た男が見つけて、大騒ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追い出されて、今では大津に往って、漁場を稼いで居るってことです"
],
[
"何だ",
"義仲寺どす"
],
[
"如何だ、舟で渡って見ようか",
"えゝ、渡りましょう"
],
[
"あの塔は何かね、先には見かけなかった様だが",
"近頃掘り出したンどす。宝塔たら云うてナ、あんたはん"
],
[
"如何だ、上って見ようか",
"え、上りましょう"
],
[
"服部さん、おやすみ。",
"野村さん、長々ありがとう。随分御達者で"
],
[
"先生、復活に着手したいと思いますが、先生は何書からお始めになります?",
"君は何から出したい?",
"『みみずのたはこと』は如何でしょう?",
"『みみず』―『みみず』は好い。みみずは土の福音だ。すべては土からはじまる。『みみずのたはこと』からやろう。"
],
[
"先生、御本の復興にかゝりたいと思いますが、先生は何からお出しになります?",
"君は何からやる?",
"『みみずのたはこと』は如何でしょう?",
"みみず?――みみずは好い。あれは土の福音だ。すべての復興は土からはじまる。好、みみずからやろう"
]
] | 底本:「みみずのたはこと(上)」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年4月15日第1刷発行
1977(昭和52)年8月16日第24刷改版発行
1996(平成8)年12月10日第30刷発行
「みみずのたはこと(下)」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年6月1日第1刷発行
1977(昭和52)年11月16日第20刷改版発行
1996(平成8)年12月10日第25刷発行
底本の親本:「みみずのたはこと」岩波書店
1933(昭和8)年5月8日第1刷発行
※「徳冨健次郎」と「徳富健次郎」、「みみず」と「みゝず」と「み※[#二の字点、1-2-22]ず」の混在は、底本通りです。
入力:奥村正明、小林繁雄
校正:小林繁雄
2002年9月27日作成
2016年2月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "001704",
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"名読み": "けんじろう",
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"底本の親本初版発行年1": "1933(昭和8)年5月8日",
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"底本出版社名2": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年2": "1938(昭和13)年4月15日、1977(昭和52)年8月16日第24刷改版",
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[
[
"まあ、如何しませう",
"縫あげするさ",
"一寸と糸を持つて御出"
]
] | 底本:「日本の名随筆 別巻75 紳士」作品社
1997(平成9)年5月25日第1刷発行
底本の親本:「蘆花全集 第三巻」蘆花全集刊行会
1929(昭和4)年2月
入力:浦山 敦子
校正:noriko saito
2009年6月18日作成
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"作品ID": "048204",
"作品名": "燕尾服着初めの記",
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"名": "蘆花",
"姓読み": "とくとみ",
"名読み": "ろか",
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"姓ローマ字": "Tokutomi",
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"生年月日": "1868-12-08",
"没年月日": "1927-09-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の名随筆 別巻75 紳士",
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"底本初版発行年1": "1997(平成9)年5月25日",
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"底本の親本名1": "蘆花全集 第三巻",
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} |
[
[
"如何するのかね",
"何、安田の炭鑛へかゝつてたんですがね。エ、二里ばかり、あ、あの山の陰になつてます。エ、最早廢しちやつたんです"
],
[
"隨分色々な者が入り込むで居るだらうね",
"エ、其りや色々な手合が來てまさア",
"隨分破落戸も居るだらうね",
"エ、何、其樣でもありませんが。――一人困つた奴が居ましてな。よく強淫をやりアがるんです。成る可く身分の好い人のかみさんだの娘だのをいくんです。身分の好い人だと、成丈外聞のない樣にしますからな。何時ぞやも、農家の娘でね、十五六のが草苅りに往つてたのを、奴が捉へましてな。丁度其處に木を伐りに來た男が見つけて、大騷ぎになりました。――其奴ですか。到頭村から追ひ出されて、今では大津に往つて、漁場を稼いで居るつてことです"
]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 北日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本では作者名を「徳富蘆花」としています。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年8月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "018326",
"作品名": "熊の足跡",
"作品名読み": "くまのあしあと",
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"分類番号": "NDC 915",
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"姓": "徳冨",
"名": "蘆花",
"姓読み": "とくとみ",
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"姓読みソート用": "とくとみ",
"名読みソート用": "ろか",
"姓ローマ字": "Tokutomi",
"名ローマ字": "Roka",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1868-12-08",
"没年月日": "1927-09-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代紀行文学全集 北日本編",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
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"入力者": "林幸雄",
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} |
[
[
"お嬢――おやどういたしましょう、また口がすべって、おほほほほ。あの、奥様、ただいま帰りましてございます。おや、まっくら。奥様エ、どこにおいで遊ばすのでございます?",
"ほほほほ、ここにいるよ",
"おや、ま、そちらに。早くおはいり遊ばせ。お風邪を召しますよ。旦那様はまだお帰り遊ばしませんでございますか?"
],
[
"本当に冷えますこと! 東京とはよほど違いますでございますねエ",
"五月に桜が咲いているくらいだからねエ。ばあや、もっとこちらへお寄りな"
],
[
"いや、御苦労、御苦労。その花は、面倒だが、湯につけて置いてもらおうか",
"まあ、きれい!",
"本当にま、きれいな躑躅でございますこと! 旦那様、どちらでお採り遊ばしました?",
"きれいだろう。そら、黄色いやつもある。葉が石楠に似とるだろう。明朝浪さんに活けてもらおうと思って、折って来たんだ。……どれ、すぐ湯に入って来ようか"
],
[
"あなた、お手紙が",
"あ、乃舅だな"
],
[
"まあ、さようでございますか、ありがとう存じます",
"さあ、飯だ、飯だ、今日は握り飯二つで終日歩きずめだったから、腹が減ったこったらおびただしい。……ははは。こらあ何ちゅう魚だな、鮎でもなしと……",
"山女とか申しましたっけ――ねエばあや",
"そう? うまい、なかなかうまい、それお代わりだ",
"ほほほ、旦那様のお早うございますこと",
"そのはずさ。今日は榛名から相馬が嶽に上って、それから二ツ嶽に上って、屏風岩の下まで来ると迎えの者に会ったんだ",
"そんなにお歩き遊ばしたの?",
"しかし相馬が嶽のながめはよかったよ。浪さんに見せたいくらいだ。一方は茫々たる平原さ、利根がはるかに流れてね。一方はいわゆる山また山さ、その上から富士がちょっぽりのぞいてるなんぞはすこぶる妙だ。歌でも詠めたら、ひとつ人麿と腕っ比べをしてやるところだった。あはははは。そらもひとつお代わりだ",
"そんなに景色がようございますの。行って見とうございましたこと!",
"ふふふふ。浪さんが上れたら、金鵄勲章をあげるよ。そらあ急嶮い山だ、鉄鎖が十本もさがってるのを、つたって上るのだからね。僕なんざ江田島で鍛い上げたからだで、今でもすわというとマストでも綱でもぶら下がる男だから、何でもないがね、浪さんなんざ東京の土踏んだ事もあるまい"
],
[
"ふふふふ。華族女学校の体操じゃ仕方がない。そうそう、いつだっけ、参観に行ったら、琴だか何だかコロンコロン鳴ってて、一方で『地球の上に国という国は』何とか歌うと、女生が扇を持って起ったりしゃがんだりぐるり回ったりしとるから、踊りの温習かと思ったら、あれが体操さ! あはははは",
"まあ、お口がお悪い!",
"そうそう。あの時山木の女と並んで、垂髪に結って、ありあ何とか言ったっけ、葡萄色の袴はいて澄ましておどってたのは、たしか浪さんだっけ",
"ほほほほ、あんな言を! あの山木さんをご存じでいらっしゃいますの?",
"山木はね、うちの亡父が世話したんで、今に出入りしとるのさ。はははは、浪さんが敗北したもんだから黙ってしまったね",
"あんな言!",
"おほほほほ。そんなに御夫婦げんかを遊ばしちゃいけません。さ、さ、お仲直りのお茶でございますよ。ほほほほ"
],
[
"ばかを言うな。負け惜しみをするね。ははは。今日は実に愉快だ。いい天気じゃないか",
"きれいな空ですこと、碧々して、本当に小袖にしたいようでございますね",
"水兵の服にはなおよかろう",
"おおいい香! 草花の香でしょうか、あ、雲雀が鳴いてますよ"
],
[
"すこし残しといてくれんとならんぞ――健な姥じゃないか、ねエ浪さん",
"本当に健でございますよ",
"浪さん、くたびれはしないか",
"いいえ、ちっとも今日は疲れませんの、わたくしこんなに楽しいことは始めて!",
"遠洋航海なぞすると随分いい景色を見るが、しかしこんな高い山の見晴らしはまた別だね。実にせいせいするよ。そらそこの左の方に白い壁が閃々するだろう。あれが来がけに浪さんと昼飯を食った渋川さ。それからもっとこっちの碧いリボンのようなものが利根川さ。あれが坂東太郎た見えないだろう。それからあの、赤城の、こうずうと夷とる、それそれ煙が見えとるだろう、あの下の方に何だかうじゃうじゃしてるね、あれが前橋さ。何? ずっと向こうの銀の針のようなの? そうそう、あれはやっぱり利根の流れだ。ああもう先はかすんで見えない。両眼鏡を持って来るところだったねエ、浪さん。しかし霞がかけて、先がはっきりしないのもかえっておもしろいかもしれん"
],
[
"武男君",
"やあ! 千々岩君か。どうしてここに?"
],
[
"だしぬけで、びっくりだろう。実は昨日用があって高崎に泊まって、今朝渋川まで来たんだが、伊香保はひと足と聞いたから、ちょっと遊びに来たのさ。それから宿に行ったら、君たちは蕨採りの御遊だと聞いたから、路を教わってやって来たんだ。なに、明日は帰らなけりゃならん。邪魔に来たようだな。はッはッ",
"ばかな。――君それから宅に行ってくれたかね"
],
[
"おれがさっき電報かけて加勢に呼んだンだ",
"おほほほ、あんな言をおしゃるよ――ああそうで、へえ、明日はお帰り遊ばすンで。へえ、帰ると申しますと、ね、奥様、お夕飯のしたくもございますから、わたくしどもはお先に帰りますでございますよ",
"うん、それがいい、それがいい。千々岩君も来たから、どっさりごちそうするンだ。そのつもりで腹を減らして来るぞ。ははははは。なに、浪さんも帰る? まあいるがいいじゃないか。味方がなくなるから逃げるンだな。大丈夫さ、決していじめはしないよ。あはははは"
],
[
"何でございます?",
"男爵に金、はやっぱりいいものですよ。へへへへへ、いやおめでとう",
"何をおっしゃるのです?",
"へへへへへ、華族で、金があれば、ばかでも嫁に行く、金がなけりゃどんなに慕っても唾もひッかけん、ね、これが当今の姫御前です。へへへへ、浪子さんなンざそんな事はないですがね"
],
[
"へへへへ、御迷惑ならお返しなさい",
"何をですか?",
"何が何をですか、おきらいなものを!",
"ありません",
"なぜないのです",
"汚らわしいものは焼きすててしまいました",
"いよいよですな。別に見た者はきっとないですか",
"ありません",
"いよいよですか",
"失敬な"
],
[
"なに、浪子さんはね、君があまりひま取ったもンだから、おおかた迷子になったンだろうッて、ひどく心配しなすッたンさ。はッはははは",
"あはははは。そうか。さあ、そろそろ帰ろうじゃないか"
],
[
"やあ、千々岩さん",
"やあ、これは……"
],
[
"こらあどうだね?",
"そいつは話せないやつだ。僕はよくしらないが、ひどく頑固なやつだそうだ。まあ正面から平身低頭でゆくのだな。悪くするとしくじるよ",
"いや陸軍にも、わかった人もあるが、実に話のできン男もいるね。去年だった、師団に服を納めるンで、例の筆法でまあ大概は無事に通ったのはよかッたが。あら何とか言ッたッけ、赤髯の大佐だったがな、そいつが何のかの難癖つけて困るから、番頭をやって例の菓子箱を出すと、ばかめ、賄賂なんぞ取るものか、軍人の体面に関するなんて威張って、とどのつまりあ菓子箱を蹴飛ばしたと思いなさい。例の上層が干菓子で、下が銀貨だから、たまらないさ。紅葉が散る雪が降る、座敷じゅう――の雨だろう。するとそいつめいよいよ腹あ立てやがッて、汚らわしいの、やれ告発するのなんのぬかしやがるさ。やっと結局をつけはつけたが、大骨折らしアがッたね。こんな先生がいるからばかばかしく事が面倒になる。いや面倒というと武男さんなぞがやっぱりこの流で、実に話せないに困る。こないだも――",
"しかし武男なんざ親父が何万という身代をこしらえて置いたのだから、頑固だッて正直だッて好きなまねしていけるのだがね。吾輩のごときは腕一本――"
],
[
"?",
"なにさ、播かぬ種は生えんからな!"
],
[
"はははは。山木さん、清正の短刀は子供の三尺三寸よりか切れるぜ",
"うまく言ったな――しかし君、蠣殻町だけは用心したまえ、素人じゃどうしてもしくじるぜ",
"なあに、端金だからね――",
"じゃいずれ近日、様子がわかり次第――なに、車は出てから乗った方が大丈夫です",
"それじゃ――家内も御挨拶に出るのだが、娘が手離されんでね",
"お豊さんが? 病気ですか",
"実はその、何です。この一月ばかり病気をやってな、それで家内が連れて此家へ来ているですて。いや千々岩さん、妻だの子だの滅多に持つもんじゃないね。金もうけは独身に限るよ。はッははは"
],
[
"千々岩さんはもうお帰り?",
"今追っぱらったとこだ。どうだい、豊は?"
],
[
"いよいよもって巣鴨だね。困ったやつだ",
"あんた、そないな戯談どころじゃございませんがな。――でもかあいそうや、ほんまにかあいそうや、今日もな、あんた、竹にそういいましたてね。ほんまに憎らしい武男はんや、ひどいひどいひどいひどい人や、去年のお正月には靴下を編んであげたし、それからハンケチの縁を縫ってあげたし、それからまだ毛糸の手袋だの、腕ぬきだの、それどころか今年の御年始には赤い毛糸でシャツまで編んであげたに、皆自腹ア切ッて編んであげたのに、何の沙汰なしであの不器量な意地わるの威張った浪子はんをお嫁にもらったり、ほんまにひどい人だわ、ひどいわひどいわひどいわひどいわ、あたしも山木の女やさかい、浪子はんなんかに負けるものか、ほんまにひどいひどいひどいひどいッてな、あんた、こないに言って泣いてな。そないに思い込んでいますに、あああ、どうにかしてやりたいがな、あんた",
"ばかを言いなさい。勇将の下に弱卒なし。御身はさすがに豊が母さんだよ。そらア川島だッて新華族にしちゃよっぽど財産もあるし、武男さんも万更ばかでもないから、おれもよほどお豊を入れ込もうと骨折って見たじゃないか。しかしだめで、もうちゃんと婚礼が済んで見れば、何もかも御破算さ。お浪さんが死んでしまうか、離縁にでもならなきゃア仕方がないじゃないか。それよりもばかな事はいい加減に思い切ッてさ、ほかに嫁く分別が肝心じゃないか、ばかめ",
"何が阿呆かいな? はい、あんた見たいに利口やおまへんさかいな。好年配をして、彼女や此女や足袋とりかえるような――",
"そう雄弁滔々まくしかけられちゃア困るて。御身は本当に馬――だ。すぐむきになりよる。なにさ、おれだッて、お豊は子だもの、かあいがらずにどうするものか、だからさ、そんなくだらぬ繰り言ばっかり言ってるよりも、別にな、立派なとこに、な、生涯楽をさせようと思ってるのだ。さ、おすみ、来なさい、二人でちっと説諭でもして見ようじゃないか"
],
[
"たれ? 竹かい",
"うん竹だ、頭の禿げた竹だ"
],
[
"どうだ、お豊、気分は? ちっとはいいか? 今隠したのは何だい。ちょっと見せな、まあ見せな。これさ見せなといえば。――なんだ、こりア、浪子さんの顔じゃないか、ひどく爪かたをつけたじゃないか。こんな事するよりか丑の時参りでもした方がよっぽど気がきいてるぜ!",
"あんたまたそないな事を!",
"どうだ、お豊、御身も山木兵造の娘じゃないか。ちっと気を大きくして山気を出せ、山気を出せ、あんなけちけちした男に心中立て――それもさこっちばかりでお相手なしの心中立てするよりか、こら、お豊、三井か三菱、でなけりゃア大将か総理大臣の息子、いやそれよりか外国の皇族でも引っかける分別をしろ。そんな肝ッ玉の小せエ事でどうするものか。どうだい、お豊"
],
[
"どうだ、お豊、やっぱり武男さんが恋しいか。いや困った小浪御寮だ。小浪といえば、ねエお豊、ちっと気晴らしに京都にでも行って見んか。そらアおもしろいぞ。祇園清水知恩院、金閣寺拝見がいやなら西陣へ行って、帯か三枚襲でも見立てるさ。どうだ、あいた口に牡丹餅よりうまい話だろう。御身も久しぶりだ、お豊を連れて道行きと出かけなさい、なあおすみ",
"あんたもいっしょに行きなはるのかいな",
"おれ? ばかを言いなさい、この忙しいなかに!",
"それならわたしもまあ見合わせやな",
"なぜ? 飛んだ義理立てさするじゃないか。なぜだい?",
"おほ",
"なぜだい?",
"おほほほほほ",
"気味の悪い笑い方をするじゃないか。なぜだい?",
"あんた一人の留守が心配やさかい",
"ばかをいうぜ。お豊の前でそんな事いうやつがあるものか。お豊、母さんの言ってる事ア皆うそだぜ、真に受けるなよ",
"おほほほ。どないに口で言わはってもあかんさかいなア",
"ばかをいうな。それよりか――なお豊、気を広く持て、広く。待てば甘露じゃ。今におもしれエ事が出て来るぜ"
],
[
"そねエな殺生したあて、あにが商売になるもんかよ。その体格で日傭取りでもして見ろよ、五十両は大丈夫だあよ",
"月にかい?",
"あに! 年によ。悪いこたあいわねえだから、日傭取るだあよ。いつだあておらが世話あしてやる",
"おう、それはありがたい。また頼みに来るかもしれん",
"そうしろよ、そうしろよ。そのでけえ体格で殺生は惜しいこんだ"
],
[
"どうだ、小試験は? でけたか?",
"僕アね、僕アね、おとうさま、僕ア算術は甲",
"あたしね、おとうさま、今日は縫い取りがよくできたッて先生おほめなすッてよ"
],
[
"おう、こら立派にでけたぞ",
"それからね、習字に読書が乙で、あとはみんな丙なの、とうと水上に負けちゃッた。僕アくやしくッて仕方がないの",
"勉強するさ――今日は修身の話は何じゃッたか?"
],
[
"どっちもエライさ",
"僕アね、おとうさま、正行ア大好きだけど、海軍がなお好きよ。おとうさまが陸軍だから、僕ア海軍になるンだ",
"はははは。川島の兄君の弟子になるのか?",
"だッて、川島の兄君なんか少尉だもの。僕ア中将になるンだ",
"なぜ大将にやならンか?",
"だッて、おとうさまも中将だからさ。中将は少尉よかエライんだね、おとうさま",
"少尉でも、中将でも、勉強する者がエライじゃ"
],
[
"またおとうさまに甘えているね",
"なにさ、今学校の成績を聞いてた所じゃ。――さあ、これからおとうさんのおけいこじゃ。みんな外で遊べ遊べ。あとで運動に行くぞ",
"まあ、うれしい",
"万歳!"
],
[
"でもあなた、厳父慈母と俗にも申しますに、あなたがかあいがッてばかりおやンなさいますから、ほんとに逆さまになッてしまッて、わたくしは始終しかり通しで、悪まれ役はわたくし一人ですわ",
"まあそう短兵急に攻めンでもええじゃないか。どうかお手柔らかに――先生はまずそこにおかけください。はははは"
],
[
"駒さん、何の話だったかい?",
"あのね、おかあさま、よくはわからなかッたけども、何だか幾の事ですわ",
"そう? 幾",
"あのね、川島の老母がね、リュウマチで肩が痛んでね、それでこのごろは大層気むずかしいのですと。それにね、幾が姉さんにね、姉さんのお部屋でね、あの、奥様、こちらの御隠居様はどうしてあんなに御癇癪が出るのでございましょう、本当に奥様お辛うございますねエ、でもお年寄りの事ですから、どうせ永い事じゃございません、てね、そんなに言いましたとさ。本当にばかですよ、幾はねエ、おかあさま",
"どこに行ってもいい事はしないよ。困った姥じゃないかねエ",
"それからねエ、おかあさま、ちょうどその時縁側を老母が通ってね、すっかり聞いてしまッて、それはそれはひどく怒ってね",
"罰だよ!",
"怒ってね、それで姉さんが心配して、飯田町の伯母様に相談してね",
"伯母様に!?",
"だッて姉さんは、いつでも伯母様にばかり何でも相談するのですもの"
],
[
"それから?",
"それからね、おとうさまが幾は別荘番にやるからッてね"
],
[
"おかあさま、大層おそなはりました",
"おおお帰りかい。大分ゆっくりじゃったのう。"
],
[
"そうかな。そいはにぎやかでよかったの。赤坂でもお変わりもないじゃろの、浪どん?",
"はい、よろしく申し上げます、まだ伺いもいたしませんで、……いろいろお土産をいただきまして、くれぐれお礼申し上げましてございます"
],
[
"御猟の品かい、これは沢山に――ごちそうがでくるの",
"なんですよ、母さん、今度は非常の大猟だったそうで、つい大晦日の晩に帰りなすったそうです。ちょうど今日は持たしてやろうとしておいでのとこでした。まだ明日は猪が来るそうで――",
"猪? ――猪が捕れ申したか。たしかわたしの方が三歳上じゃったの、浪どん。昔から元気のよか方じゃったがの",
"それは何ですよ、母さん、非常の元気で、今度も二日も三日も山に焚火をして露宿しなすったそうですがね。まだなかなか若い者に負けんつもりじゃて、そう威張っていなさいます",
"そうじゃろの、母さんのごとリュウマチスが起こっちゃもう仕方があいません。人間は病気が一番いけんもんじゃ。――おおもうやがて九時じゃ。着物どんかえて、やすみなさい。――おお、そいから今日はの、武どん。安彦が来て――"
],
[
"千々岩が?",
"何か卿に要がありそうじゃったが――"
],
[
"なぜ? ――そんな事はあいません――なぜかい?",
"いや――少し聞き込んだ事もあるのですから――いずれそのうちあいますから――",
"おおそうじゃ、そいからあの山木が来ての",
"は、あの山木のばかですか",
"あれが来てこの――そうじゃった、十日にごちそうをすっから、是非卿に来てくださいというから",
"うるさいやつですな",
"行ってやんなさい。父さんの恩を覚えておっがかあいかじゃなっか",
"でも――",
"まあ、そういわずと行ってやんなさい――どれ、わたしも寝ましょうか",
"じゃ、母さん、おやすみなさい",
"ではお母様、ちょっと着がえいたしてまいりますから"
],
[
"浪さんこそくたびれたろう、――おおきれい",
"?",
"美しい花嫁様という事さ",
"まあ、いや――あんな言を"
],
[
"本当に浪さんがこう着物をかえていると、まだ昨日来た花嫁のように思うよ",
"あんな言を――そんなことをおっしゃると往ってしまいますから",
"ははははもう言わない言わない。そう逃げんでもいいじゃないか",
"ほほほ、ちょっと着がえをいたしてまいりますよ"
],
[
"本当に――永い間母様も――どんなにおさびしくッていらっしゃいましてしょう。またすぐ勤務にいらっしゃると思うと、日が早くたってしようがありませんわ",
"始終内にいようもんなら、それこそ三日目には、あなた、ちっと運動にでも出ていらっしゃいませんか、だろう",
"まあ、あんな言を――も一杯あげましょうか"
],
[
"あなたいらっしゃいますの、山木に?",
"山木かい、母さんがああおっしゃるからね――行かずばなるまい",
"ほほ、わたくしも行きたいわ",
"行きなさいとも、行こういっしょに",
"ほほほ、よしましょう",
"なぜ?",
"こわいのですもの",
"こわい? 何が?",
"うらまれてますから、ほほほ",
"うらまれる? うらむ? 浪さんを?",
"ほほほ、ありますわ、わたくしをうらんでいなさる方が。おのお豊さん……",
"ははは、何を――ばかな。あのばか娘もしようがないね、浪さん。あんな娘でももらい人があるかしらん。ははは",
"母さまは、千々岩はあの山木と親しくするから、お豊を妻にもらったらよかろうッて、そうおっしゃっておいでなさいましたよ",
"千々岩?――千々岩?――あいつ実に困ったやっだ。ずるいやつた知ってたが、まさかあんな嫌疑を受けようとは思わんかった。いや近ごろの軍人は――僕も軍人だが――実にひどい。ちっとも昔の武士らしい風はありやせん、みんな金のためにかかってる。何、僕だって軍人は必ず貧乏しなけりゃならんというのじゃない。冗費を節して、恒の産を積んで、まさかの時節に内顧の患のないようにするのは、そらあ当然さ。ねエ浪さん。しかし身をもって国家の干城ともなろうという者がさ、内職に高利を貸したり、あわれむべき兵の衣食をかじったり、御用商人と結託して不義の財をむさぼったりするのは実に用捨がならんじゃないか。それに実に不快なは、あの賭博だね。僕の同僚などもこそこそやってるやつがあるが、実に不愉快でたまらん。今のやつらは上にへつらって下からむさぼることばかり知っとる"
],
[
"あなた",
"何です?",
"おとっさんが御案内して庭をお見せ申せってそう言いますから",
"案内? 案内はいらんです",
"だって",
"僕は一人で歩く方が勝手だ"
],
[
"逃げる? 僕は何も逃げる必要はない。行きたい方に行くのだ",
"あなた、それはあんまりだわ"
],
[
"千々岩はまだ来ないか、お豊さんちょっと見て来てくれたまえ",
"千々岩さんは日暮れでなけりゃ来ないわ",
"千々岩は時々来るのかね",
"千々岩さんは昨日も来たわ、おそくまで奥の小座敷でおとっさんと何か話していたわ",
"うん、そうか――しかしもう来たかもしれん、ちょっと見て来てくれないかね",
"わたしいやよ",
"なぜ!",
"だって、あなた逃げて行くでしょう、なんぼわたしがいやだって、浪子さんが美しいって、そんなに人を追いやるものじゃなくってよ"
],
[
"さあ、もうかるのを下手にやり崩したんだが、うまく行ったらすばらしい金鉱ですぜ",
"それは惜しいもんだね。素寒貧の僕じゃ仕方ないが、武男君、どうだ、一肩ぬいで見ちゃア"
],
[
"じゃ、君、証書はここにあるから――で、金はいつ受け取れるかね",
"金はここに持っている",
"ここに?――戯談はよしたまえ",
"持っている。――では、参千円、確かに渡した"
],
[
"いや、これは――",
"覚えがないというのか。男らしく罪に伏したまえ"
],
[
"いや、君、そういわれると、実に面目ないがね、実はのっぴきならぬ――",
"何がのっぴきならぬのだ? 徳義ばかりか法律の罪人になってまで高利を借る必要がどこにあるのか",
"まあ、聞いてくれたまえ。実は切迫つまった事で、金は要る、借りるところはなし。君がいると、一も二もなく相談するのだが、叔母様には言いにくいだろうじゃないか。それだといって、急場の事だし、済まぬ――済まぬと思いながら――、実は先月はちっと当てもあったので、皆済してから潔く告白しようと――",
"ばかを言いたまえ。潔く告白しようと思った者が、なぜ黙って別に三千円を借りようとするのだ"
],
[
"これさ、若旦那、まあ、お静かに、――何か詳しい事情はわかりませんが、高が二千や三千の金、それに御親戚であって見ると、これは御勘弁――ねエ若旦那。千々岩君も悪い、悪いがそこをねエ若旦那。こんな事が表ざたになって見ると、千々岩君の立身もこれぎりになりますから。ねエ若旦那",
"それだから三千円は払った、また訴訟なぞしないといっているじゃないか。――山木、君の事じゃない、控えて居たまえ、――それはしない、しかしもう今日限り絶交だ"
],
[
"絶交はされてもかまわんが、金は出してもらうというのか。腰抜け漢!",
"何?"
],
[
"そ、そいがいかん、そいがいかん。他人じゃなし、遠慮がいッもンか。そ、そ、そ、また編み物しなはるな。いけませんど。病人な養生が仕事、なあ浪どん。和女は武男が事ちゅうと、何もかも忘れッちまいなはる。いけません。早う養生してな――",
"本当に済みません、やすんでばかし……",
"そ、そいが他人行儀、なあ。わたしはそいが大きらいじゃ"
],
[
"伯母様も、伯父様も、おかわりないの?",
"あ、よろしくッてね。あまり寒いからどうかしらッてひどく心配していなさるの、時候が時候だから、少しいい方だッたら逗子にでも転地療養しなすったらッてね、昨夕も母さんとそう話したのですよ",
"そう? 横須賀からもちょうどそう言って来てね……",
"兄さんから? そう? それじゃ早く転地するがいいわ",
"でももうそのうちよくなるでしょうから",
"だッて、このごろの感冒は本当に用心しないといけないわ"
],
[
"そうそう、昨日の同窓会――案内状が来たでしょう――はおもしろかってよ。みんながよろしくッて、ね。ほほほほ、学校を下がってからまだやっと一年しかならないのに、もう三一はお嫁だわ。それはおかしいの、大久保さんも本多さんも北小路さんもみんな丸髷に結ってね、変に奥様じみているからおかしいわ。――痛かないの?―ほほほほ、どんな話かと思ったら、みんな自分の吹聴ですわ。そうそう、それから親子別居論が始まってね、北小路さんは自分がちっとも家政ができないに姑がたいへんやさしくするものだから同居に限るっていうし、大久保さんはまた姑がやかましやだから別居論の勇将だし、それはおかしいの。それからね、わたしがまぜッかえしてやったら、お千鶴さんはまだ門外漢――漢がおかしいわ――だから話せないというのですよ。――すこしつまり過ぎはしないの?",
"イイエ。――それはおもしろかったでしょう。ほほほほ、みんな自己から割り出すのね。どうせ局々で違うのだから、一概には言えないのでしょうよ。ねエ、お千鶴さん。伯母様もいつかそうおっしゃったでしょう。若い者ばかりじゃわがままになるッて、本当にそうですよ、年寄りを疎略に思っちゃ済まないのね"
],
[
"何度見てもこの襟止はきれいだわ。本当に兄さんはよくなさるのねエ。内の――兄さん(これは千鶴子の婿養子と定まれる俊次といいて、目下外務省に奉職せる男)なんか、外交官の妻になるには語学が達者でなくちゃいけないッて、仏語を勉強するがいいの、ドイツ語がぜひ必要のッて、責めてばかりいるから困るわ",
"ほほほほ、お千鶴さんが丸髷に結ったのを早く見たいわ――島田も惜しいけれど"
],
[
"あ、ほんに、萩原さんね、そらわたしたちより一年前に卒業した――",
"あの松平さんに嫁らっした方でしょう",
"は、あの方がね、昨日離縁になったンですッて",
"離縁に? どうしたの?",
"それがね、舅姑の気には入ってたけども、松平さんがきらってね",
"子供がありはしなかったの",
"一人あったわ。でもね、松平さんがきらって、このごろは妾を置いたり、囲い者をしたり、乱暴ばかりするからね、萩原さんのおとうさんがひどく怒つてね、そんな薄情な者には、娘はやって置かれぬてね、とうとう引き取ってしまったんですッて",
"まあ、かあいそうね。――どうしてきらうのでしょう、本当にひどいわ",
"腹が立つのねエ。――逆さまだとまだいいのだけど、舅姑の気に入っても良人にきらわれてあんな事になっては本当につらいでしょうねエ"
],
[
"同じ学校に出て同じ教場で同じ本を読んでも、みんなちりぢりになって、どうなるかわからないものねエ。――お千鶴さん、いつまでも仲よく、さきざき力になりましょうねエ",
"うれしいわ!"
],
[
"こんなに寝ていると、ね、いろいろな事を考えるの。ほほほほ、笑っちゃいやよ。これから何年かたッてね、どこか外国と戦争が起こるでしょう、日本が勝つでしょう、そうするとね、お千鶴さん宅の兄さんが外務大臣で、先方へ乗り込んで講和の談判をなさるでしょう、それから武男が艦隊の司令長官で、何十艘という軍艦を向こうの港にならべてね……",
"それから赤坂の叔父さんが軍司令官で、宅のおとうさんが貴族院で何億万円の軍事費を議決さして……",
"そうするとわたしはお千鶴さんと赤十字の旗でもたてて出かけるわ",
"でもからだが弱くちゃできないわ。ほほほほ",
"おほほほほ"
],
[
"あまり話したからいけないのでしょう。胸が痛むの?",
"時々せきするとね、ここに響いてしようがないの"
],
[
"ついごぶさたいたしました",
"ひどいお見限りようですね",
"いや、ちょっとお伺い申すのでしたが、いろいろ職務上の要で、つい多忙だものですから――今日はどちらへか?",
"は、ちょっと逗子まで――あなたは?",
"何、ちょっと朋友を迎えにまいったのですが――逗子は御保養でございますか",
"おや、まだご存じないのでしたね、――病人ができましてね",
"御病人? どなたで?",
"浪子です"
],
[
"それは――何ですか、よほどお悪いので?",
"はあ、とうとう肺になりましてね",
"肺?――結核?"
],
[
"明日いらッしゃるの? このお天気に!――でもお母様もお待ちなすッていらッしゃいましょうねエ。わたくしも行きたいわ!",
"浪さんが※(感嘆符三つ) とんでもない! それこそまっぴら御免こうむる。もうしばらくは流刑にあったつもりでいなさい。はははは",
"ほほほ、こんな流刑なら生涯でもようござんすわ――あなた、巻莨召し上がれな",
"ほしそうに見えるかい。まあよそう。そのかわり来る前の日と、帰った日は、二日分のむのだからね。ははははは",
"ほほほ、それじゃごほうびに、今いいお菓子がまいりますよ",
"それはごちそうさま。大方お千鶴さんの土産だろう。――それは何かい、立派な物ができるじゃないか",
"この間から日が永くッてしようがないのですから、おかあさまへ上げようと思ってしているのですけど――イイエ大丈夫ですわ、遊び遊びしてますから。ああ何だか気分が清々したこと。も少し起きさしてちょうだいな、こうしてますとちっとも病気のようじゃないでしょう",
"ドクトル川島がついているのだもの、はははは。でも、近ごろは本当に浪さんの顔色がよくなッた。もうこっちのものだて"
],
[
"ひどい暴風雨でございますこと。旦那様がいらッしゃいませんと、ねエ奥様、今夜なんざとても目が合いませんよ。飯田町のお嬢様はお帰京遊ばす、看護婦さんまで、ちょっと帰京ますし、今日はどんなにさびしゅうございましてしょう、ねエ奥様。茂平(老僕)どんはいますけれども",
"こんな晩に船に乗ってる人の心地はどんなでしょうねエ。でも乗ってる人を思いやる人はなお悲しいわ!"
],
[
"なに? すがすがしくも散る? 僕――わしはそう思うがね、花でも何でも日本人はあまり散るのを賞翫するが、それも潔白でいいが、過ぎるとよくないね。戦争でも早く討死する方が負けだよ。も少し剛情にさ、執拗さ、気ながな方を奨励したいと思うね。それでわが輩――わしはこんな歌を詠んだ。いいかね、皮切りだからどうせおかしいよ、しつこしと、笑っちゃいかん、しつこしと人はいえども八重桜盛りながきはうれしかりけり、はははは梨本跣足だろう",
"まあおもしろいお歌でございますこと、ねエ奥様",
"はははは、ばあやの折り紙つきじゃ、こらいよいよ秀逸にきまったぞ"
],
[
"伊香保はうれしかったわ!",
"蕨狩りはどうだい、たれかさんの御足が大分重かッたっけ"
],
[
"もうすぐ蕨の時候になるね。浪さん、早くよくなッて、また蕨狩りの競争しようじゃないか",
"ほほほ、それまでにはきっとなおりますよ"
],
[
"いいお天気、こんなになろうとは思いませんでしたねエ",
"実にいい天気だ。伊豆が近く見えるじゃないか、話でもできそうだ"
],
[
"千々岩の夢?",
"はあ。千々岩さんがお母さまと何か話をしていなさる夢を見ましたの",
"はははは、気沢山だねエ、どんな話をしていたのかい",
"何かわからないのですけど、お母さまが何度もうなずいていらっしゃいましたわ。――お千鶴さんが、あの方と山木さんといっしょに連れ立っていなさるのを見かけたって話したから、こんな夢を見たのでしょうね。ねエ、あなた、千々岩さんが我等宅に出入りするようなことはありますまいね",
"そんな事はない、ないはずだ。母さんも千々岩の事じゃ怒っていなさるからね"
],
[
"不動まで行きましょう、ね――イイエちっとも疲れはしませんの。西洋まででも行けるわ",
"いいかい、それじゃそのショールをおやりな。岩がすべるよ、さ、しっかりつかまって"
],
[
"あなた!",
"何?",
"なおりましょうか",
"エ?",
"わたくしの病気",
"何をいうのかい。なおらずにどうする。なおるよ、きっとなおるよ"
],
[
"浪さんが亡くなれば、僕も生きちゃおらん!",
"本当? うれしい! ねエ、二人で!――でもおっ母さまがいらッしゃるし、お職分があるし、そう思っておいでなすッても自由にならないでしょう。その時はわたくしだけ先に行って待たなけりゃならないのですねエ――わたくしが死んだら時々は思い出してくださるの? エ? エ? あなた?"
],
[
"いや、一向捗がいきませんじゃ。金は使う、二月も三月もたったてようなるじゃなし、困ったものじゃて、のう安さん。――こういう時分にゃ頼もしか親類でもあって相談すっとこじゃが、武はあの通り子供――",
"そこでございますて、伯母様、実に小甥もこうしてのこのこ上がられるわけじゃないのですが、――御恩になった故叔父様や叔母様に対しても、また武男君に対しても、このまま黙って見ていられないのです。実にいわば川島家の一大事ですからね、顔をぬぐってまいったわけで――いや、叔母様、この肺病という病ばかりは恐ろしいもんですね、叔母様もいくらもご存じでしょう、妻の病気が夫に伝染して一家総だおれになるはよくある例です、わたくしも武男君の上が心配でなりませんて、叔母様から少し御注意なさらんと大事になりますよ",
"そうじゃて。わたしもそいが恐ろしかで、逗子に行くな行くなて、武にいうんじゃがの、やっぱい聞かんで、見なさい――"
],
[
"そうとも",
"それはいいですが、心配なのは武男君の健康です。もしもの事があったらそれこそ川島家は破滅です、――そういううちにもいつ伝染しないとも限りませんよ。それだって、夫婦というと、まさか叔母様が籬をお結いなさるわけにも行きませんし――",
"そうじゃ",
"でも、このままになすっちゃ川島家の大事になりますし",
"そうとも",
"子供の言うようにするばかりが親の職分じゃなし、時々は子を泣かすが慈悲になることもありますし、それに若い者はいったん、思い込んだようでも少したつと案外気の変わるものですからね",
"そうじゃ",
"少しぐらいのかあいそうや気の毒は家の大事には換えられませんからね",
"おおそうじゃ",
"それに万一、子供でもできなさると、それこそ到底――",
"いや、そこじゃ"
],
[
"はあ、ちょっと寄って来ました。――大分血色も直りかけたようです。母さんに済まないッて、ひどく心配していましたッけ",
"そうかい"
],
[
"さあ、そう思っとるじゃろうが、病気が病気でな",
"でも、大分快方になりましたよ。だんだん暖かくはなるし、とにかく若い者ですからな",
"さあ、病気が病気じゃから、よく行けばええがの、武どん――医師の話じゃったが、浪どんの母御も、やっぱい肺病で亡くなッてじゃないかの?",
"はあ、そんなことをいッてましたがね、しかし――",
"この病気は親から子に伝わッてじゃないかい?",
"はあ、そんな事を言いますが、しかし浪のは全く感冒から引き起こしたンですからね。なあに、母さん用心次第です、伝染の、遺伝のいうですが、実際そういうほどでもないですよ。現に浪のおとっさんもあんな健康な方ですし、浪の妹――はああのお駒さんです――あれも肺のはの字もないくらいです。人間は医師のいうほど弱いものじゃありません、ははははは"
],
[
"浪じゃがの――",
"はあ?"
],
[
"浪を――引き取ってもろちゃどうじゃろの?",
"引き取る? どう引き取るのですか"
],
[
"実家に? 実家で養生さすのですか",
"養生もしようがの、とにかく引き取って――",
"養生には逗子がいいですよ。実家では子供もいますし、実家で養生さすくらいなら此家の方がよっぽどましですからね"
],
[
"離縁、そうじゃ、まあ離縁よ",
"離縁! 離縁‼――なぜですか",
"なぜ? さっきからいう通り、病気が病気じゃからの",
"肺病だから……離縁するとおっしゃるのですな? 浪を離縁すると?",
"そうよ、かあいそうじゃがの――",
"離縁※(感嘆符三つ)"
],
[
"母さん、今そんな事をしたら、浪は死にます!",
"そいは死ぬかもしれン、じゃが、武どん、わたしは卿の命が惜しい、川島家が惜しいのじゃ!",
"母さん、そうわたしを大事になさるなら、どうかわたしの心をくんでください。こんな事を言うのは異なようですが、実際わたしにはそんな事はどうしてもできないです。まだ慣れないものですから、それはいろいろ届かぬ所はあるですが、しかし母さんを大事にして、私にもよくしてくれる、実に罪も何もないあれを病気したからッて離別するなんぞ、どうしても私はできないです。肺病だッてなおらん事はありますまい、現になおりかけとるです。もしまたなおらずに、どうしても死ぬなら、母さん、どうか私の妻で死なしてください。病気が危険なら往来も絶つです、用心もするです。それは母さんの御安心なさるようにするです。でも離別だけはどうあッても私はできないです!",
"へへへへ、武男、卿は浪の事ばッかいいうがの、自分は死んでもかまわンか、川島家はつぶしてもええかい?",
"母さんはわたしのからだばッかりおっしゃるが、そんな不人情な不義理な事して長生きしたッてどうしますか。人情にそむいて、義理を欠いて、決して家のためにいい事はありません。決して川島家の名誉でも光栄でもないです。どうでも離別はできません、断じてできないです"
],
[
"そ、そうせき込まんでも、まあ静かに考えて見なさい。卿はまだ年が若かで、世間を知ンなさらンがの、よくいうわ、それ、小の虫を殺しても大の虫は助けろじゃ。なあ。浪は小の虫、卿――川島家は大の虫じゃ、の。それは先方も気の毒、浪もかあいそうなよなものじゃが、病気すっがわるかじゃなッか。何と思われたて、川島家が断絶するよかまだええじゃなッか、なあ。それに不義理の不人情の言いなはるが、こんな例は世間に幾らもあります。家風に合わンと離縁する、子供がなかと離縁する、悪い病気があっと離縁する。これが世間の法、なあ武どん。何の不義理な事も不人情な事もないもんじゃ。全体こんな病気のした時ゃの、嫁の実家から引き取ってええはずじゃ。先方からいわンからこつちで言い出すが、何のわるか事恥ずかしか事があッもンか",
"母さんは世間世間とおっしゃるが、何も世間が悪い事をするから自分も悪い事をしていいという法はありません。病気すると離別するなんか昔の事です。もしまたそれが今の世間の法なら、今の世間は打ちこわしていい、打ちこわさなけりゃならんです。母さんはこっちの事ばっかりおっしゃるが、片岡の家だッてせっかく嫁にやった者が病気になったからッて戻されていい気持ちがしますか。浪だってどの顔さげて帰られますか。ひょっとこれがさかさまで、わたしが肺病で、浪の実家から肺病は険呑だからッて浪を取り戻したら、母さんいい心地がしますか。同じ事です",
"いいえ、そいは違う。男と女とはまた違うじゃなッか",
"同じ事です。情理からいって、同じ事です。わたしからそんな事をいっちゃおかしいようですが、浪もやっと喀血がとまって少し快方に向いたかという時じゃありませんか、今そんな事をするのは実に血を吐かすようなものです。浪は死んでしまいます。きっと死ぬです。他人だッてそんな事はできンです、母さんはわたしに浪を殺せ……とおっしゃるのですか"
],
[
"なぜ? なぜもあッもンか。妻の肩ばッかい持って親のいう事は聞かんやつ、不孝者じゃなッか。親が育てたからだを粗略にして、御先祖代々の家をつぶすやつは不孝者じゃなッか。不孝者、武男、卿は不孝者、大不孝者じゃと",
"しかし人情――",
"まだ義理人情をいうッか。卿は親よか妻が大事なッか。たわけめが。何いうと、妻、妻、妻ばかいいう、親をどうすッか。何をしても浪ばッかいいう。不孝者めが。勘当すッど"
],
[
"何があんまいだ",
"私は決してそんな粗略な心は決して持っちゃいないです。母さんにその心が届きませんか",
"そいならわたしがいう事をなぜきかぬ? エ? なぜ浪を離縁せンッか",
"しかしそれは",
"しかしもねもンじゃ。さ、武男、妻が大事か、親が大事か。エ? 家が大事? 浪が――? ――エエばかめ"
],
[
"だれ? ――何じゃ?",
"あの! 電報が……"
],
[
"あなた、もういらッしゃるの?",
"すぐ帰ってくる。浪さんも注意して、よくなッていなさい"
],
[
"それじゃばあや、奥様を頼んだぞ。――浪さん、行って来るよ",
"早く帰ってちょうだいな"
],
[
"うう朝鮮か……東学党ますます猖獗……なに清国が出兵したと……。さあ大分おもしろくなッて来たぞ。これで我邦も出兵する――戦争になる――さあもうかるぜ。お隅、前祝いだ、卿も一つ飲め",
"あんた、ほんまに戦争になりますやろか",
"なるとも。愉快、愉快、実に愉快。――愉快といや、なあお隅、今日ちょっと千々岩に会ったがの、例の一条も大分捗が行きそうだて",
"まあ、そうかいな。若旦那が納得しやはったのかいな",
"なあに、武男さんはまだ帰って来ないから、相談も納得もありゃしないが、お浪さんがまた血を喀いたンだ。ところで御隠居ももうだめだ、武男が帰らんうちに断行するといっているそうだ。も一度千々岩につッついてもらえば、大丈夫できる。武男さんが帰りゃなかなか断行もむずかしいからね、そこで帰らんうちにすっかり処置をつけてしまおうと御隠居も思っとるのだて。もうそうなりゃアこっちのものだ。――さ、御台所、お酌だ",
"お浪はんもかあいそうやな",
"お前もよっぽど変ちきな女だ。お豊がかあいそうだからお浪さんを退いてもらおうというかと思えば、もうできそうになると今度アお浪さんがかあいそう! そんなばかな事は中止として、今度はお豊を後釜に据える計略が肝心だ",
"でもあんた、留守にお浪はんを離縁して、武男はん――若旦那が承知しなはろまいがな、なああんた――",
"さあ、武男さんが帰ったら怒るだろうが、離縁してしまッて置けば、帰って来てどう怒ってもしようがない。それに武男さんは親孝行だから、御隠居が泣いて見せなさりア、まあ泣き寝入りだな。そっちはそれでよいとして、さて肝心要のお豊姫の一条だが、とにかく武男さんの火の手が少ししずまってから、食糧つきの行儀見習いとでもいう口実で、無理に押しかけるだな。なあに、むずかしいようでもやすいものさ。御隠居の機嫌さえとりアできるこった。お豊がいよいよ川島男爵夫人になりア、彼女は恋がかなうというものだし、おれはさしより舅役で、武男さんはあんな坊ちゃんだから、川島家の財産はまずおれが扱ってやらなけりゃならん。すこぶる妙――いや妙な役を受け持って、迷惑じゃが、それはまあ仕方がないとして、さてお豊だがな",
"あんた、もう御飯になはれな",
"まあいいさ。取るとやるの前祝いだ。――ところでお豊だがの、卿もっと躾をせんと困るぜ。あの通り毎日駄々をこねてばかりいちゃ、先方行ってからが実際思われるぞ。観音様が姑だッて、ああじゃ愛想をつかすぜ",
"それじゃてて、あんた、躾はわたしばかいじゃでけまへんがな。いつでもあんたは――",
"おっとその言い訳が拙者大きらいでござるて。はははははは。論より証拠、おれが躾をして見せる。さ、お豊をここに呼びなさい"
],
[
"お嬢様、お待ち兼ねでございますよ",
"いいよ、今行くよ"
],
[
"あんた!",
"目じりをもう三分上げると女っぷりが上がるがな――",
"あんた!",
"こら、お豊何をふくれるのだ? ふくれると嬢っぷりが下がるぞ。何もそう不景気な顔をせんでもいい、なあお豊。卿がうれしがる話があるのだ。さあ話賃に一杯注げ注げ"
],
[
"さあ、どうかおかけください。あなたが山木君――お名は承知しちょったですが",
"はッ。これは初めまして……手前は山木兵造と申す不調法者で(句ごとに辞儀しつ、辞儀するごとに椅子はききときしりぬ、仰せのごとくと笑えるように)……どうか今後ともごひいきを……"
],
[
"はあ?",
"実は川島の御隠居がおいでになるところでございますが――まあ私がまかりいでました次第で",
"なるほど"
],
[
"なるほど。で御要は?",
"その要と申しますのは、――申し兼ねますが、その実は川島家の奥様浪子様――"
],
[
"はあ?",
"その、浪子様でございますが、どうもかような事は実もって申し上げにくいお話でございますが、御承知どおりあの御病気につきましては、手前ども――川島でも、よほど心配をいたしまして、近ごろでは少しはお快い方ではございますが――まあおめでとうございますが――",
"なるほど",
"手前どもから、かような事は誠に申し上げられぬのでございますが、はなはだ勝手がましい申し条でございますが、実は御病気がらではございますし――御承知どおり川島の方でも家族と申しましても別にございませんし、男子と申してはまず当主の武男――様だけでございますンで、実は御隠居もよほど心配もいたしておりまして、どうも実もって申しにくい――いかにも身勝手な話でございますが、御病気が御病気で、その、万一伝染――まあそんな事もめったにございますまいが――しかしどちかと申しますとやはりその、その恐れもないではございませンので、その、万一武男――川島の主人に異変でもございますと、まあ川島家も断絶と申すわけで、その断絶いたしてもよろしいようなものでございますが、何分にもその、実もってどうもその、誠に済みませんがその、そこの所をその、御病気が御病気――"
],
[
"さようでございます。実もって申し上げにくい事でございますが、その、どうかそこの所をあしからず――",
"で、武男君はもう帰られたですな?",
"いや、まだ帰りませんでございますが、もちろんこれは同人承知の上の事でございまして、どうかあしからずその――",
"よろしい"
],
[
"はッ",
"山木君、あなたは子を持っておいでかな"
],
[
"山木君、子というやつはかわい者じゃ",
"はッ?",
"いや、よろしい。承知しました。川島の御隠居にそういってください、浪は今日引き取るから、御安心なさい。――お使者御苦労じゃった"
],
[
"ねエ、ばあや、ちょっとも東京のたよりがないのね。どうしたのだろう?",
"さようでございますねエ。おかわりもないンでございましょう。もうそのうちにはまいりましょうよ。こう申しておりますうちにどなたぞいらっしゃるかもわかりませんよ。――ほんとに何てきれいな花でございましょう、ねエ、奥様。これがしおれないうちに旦那様がお帰り遊ばすとようございますのに、ねエ奥様"
],
[
"まあ。よく……ちょうど今うわさをしてましたの",
"本当によくまあ……いかがでございます、奥様、ばあやが言は当たりましてございましょう",
"浪さん、あんばいはどうです? もうあれから何も変わった事もないのかい?"
],
[
"は、快方ですの。――それよりも伯母様はどうなすッたの。たいへんに顔色が悪いわ",
"わたしかい、何ね、少し頭痛がするものだから。――時候のせいだろうよ。――武男さんから便がありましたか、浪さん?",
"一昨日、ね、函館から。もう近々に帰りますッて――いいえ、何日という事は定まらないのですよ。お土産があるなンぞ書いてありましたわ",
"そう? おそい――ねエ――もう――もう何時? 二時だ、ね!",
"伯母様、何をそんなにそわそわしておいでなさるの? ごゆっくりなさいな。お千鶴さんは?"
],
[
"どうぞごゆるりと遊ばせ。――奥様、ちょいとお肴を見てまいりますから",
"あ、そうしておくれな"
],
[
"およしな。今日はゆっくりされないよ。浪さん――迎えに来たよ",
"エ? 迎え?",
"あ、おとうさまが、病気の事で医師と少し相談もあるからちょいと来るようにッてね、――番町の方でも――承知だから",
"相談? 何でしょう",
"――病気の件ですよ、それからまた――おとうさんも久しく会わンからッてね",
"そうですの?"
],
[
"でも今夜はお泊まり遊ばすンでございましょう?",
"いいえね、あちでも――医師も待ってたし、暮れないうちがいいから、すぐ今度の汽車で、ね",
"へエー!"
],
[
"おかあさま、お変わりも……おとうさまは?",
"は、書斎に"
],
[
"お、おとうさま‼",
"おお、浪か。待って――いた。よく、帰ってくれた"
],
[
"ねエ松ちゃん。旦那さまはちっともご存じないようじゃないか。奥様にお土産なんぞ持っていらッしたよ",
"ほんとにしどいね。どこの世界に、旦那の留守に奥様を離縁しちまう母さんがあるものかね。旦那様の身になっちゃア、腹も立つはずだわ。鬼婆め",
"あれくらいいやな婆っちゃありゃしない。けちけちの、わからずやの、人をしかり飛ばすがおやくめだからね、なんにもご存じなしのくせにさ。そのはずだよ、ねエ、昔は薩摩でお芋を掘ってたンだもの。わたしゃもうこんな家にいるのが、しみじみいやになッちゃった",
"でも旦那様も旦那様じゃないか。御自分の奥様が離縁されてしまうのもちょっとも知らんてえのは、あんまり七月のお槍じゃないかね",
"だッて、そらア無理ゃないわ。遠方にいらっしたンだもの。だれだって、下女じゃあるまいし、肝心な子息に相談もしずに、さっさと媳を追い出してしまおうた思わないわね。それに旦那様もお年が若いからねエ。ほんとに旦那様もおかあいそう――奥様はなおおかあいそうだわ。今ごろはどうしていらッしゃるだろうねエ。ああいやだ――ほウら、婆あが怒鳴りだしたよ。松ちゃんせッせとしないと、また八つ当たりでおいでるよ"
],
[
"だッて、あの時あれほど申し上げて置いたです。それに手紙一本くださらず、無断で――実にひどいです。実際ひどいです。今日もちょいと逗子に寄って来ると、浪はおらんでしょう、いくに尋ねると何か要があって東京に帰ったというです。変と思ったですが、まさか母さんがそんな事を――実にひどい――",
"それはわたしがわるかった。わるかったからこの通り親がわびをしておるじゃなッかい。わたしじゃッて何も浪が悪かというじゃなし、卿がかあいいばッかいで――",
"母さんはからだばッかり大事にして、名誉も体面も情もちょっとも思ってくださらんのですな。あんまりです",
"武男、卿はの、男かい。女じゃあるまいの。親にわび言いわせても、やっぱい浪が恋しかかい。恋しかかい。恋しかか",
"だッて、あんまりです、実際あんまりです",
"あんまいじゃッて、もう後の祭じゃなッか。あっちも承知して、きれいに引き取ったあとの事じゃ。この上どうすッかい。女々しか事をしなはッと、親の恥ばッかいか、卿の男が立つまいが"
],
[
"ああ、川島か、いつだッたか、そうそう、威海衛砲撃の時だッてあんな険呑な事をやったよ。川島を司令長官にしたら、それこそ三番分隊士じゃないが、艦隊を渤海湾に連れ込んで、太沽どころじゃない、白河をさかのぼって李のおやじを生けどるなんぞ言い出すかもしれん",
"それに、ようすが以前とはすっかり違ったね。非常に怒るよ。いつだッたか僕が川島男爵夫人の事についてさ、少しからかいかけたら、まっ黒に怒って、あぶなく鉄拳を頂戴する所さ。僕は鎮遠の三十サンチより実際○番分隊士の一拳を恐るるね。はははは何か子細があると思うが、赤襯衣君、君は川島と親しくするから恐らく秘密を知っとるだろうね"
],
[
"川島分隊士、敵艦が見えましたか",
"おう、そうらしい"
],
[
"だれだ? だれだ?",
"西山じゃないか、西山だ、西山だ",
"死んだか"
],
[
"川島君、負傷じゃないか",
"なあに、今のとばしるです",
"おおそうか。さあ、今の仇を討ってやれ"
],
[
"山木さんじゃないか",
"田崎君、珍しいね。いったいいつ来たンです?"
],
[
"帰京? どこにいつおいでなので?",
"はあ、つい先日佐世保に行って、今帰途です",
"佐世保? 武男さん――旦那のお見舞?",
"はあ、旦那の見舞に",
"これはひどい、旦那の見舞に行きながら往返とも素通りは実にひどい。娘も娘、御隠居も御隠居だ、はがきの一枚も来ないものだから",
"何、急ぎでしたからね",
"だッて、行きがけにちょっと寄ってくださりゃよかったに。とにかくまあお上がんなさい。車は返して。いいさ、お話もあるから。一汽車おくれたッていいだろうじゃないか。――ところで武男さん――旦那の負傷はいかがでした? 実はわたしもあの時お負傷の事を聞いたンで、ちょいとお見舞に行かなけりゃならんならんと思ってたンだが、思ったばかりで、――ちょうど第一師団が近々にでかけるというンで、滅法忙しかったもンですから、ついその何で、お見舞状だけあげて置いたンでしたが。――ああそうでしたか、別に骨にも障らなかったですね、大腿部――はあそうですか。とにかく若い者は結構ですな。お互いに年寄りはちょっと指さきに刺が立っても、一週間や二週間はかかるが、旦那なんざお年が若いものだから――とにかく結構おめでたい事でした。御隠居も御安心ですね"
],
[
"さあ、御自身はよくなり次第すぐまた戦地に出かけるつもりでいなさるようですがね",
"相変わらず元気な事を言いなさる。が、田崎君、一度は帰京って御隠居と仲直りをなさらんといけないじゃあるまいか。どれほど気に入っていなすったか知らんが、浪子さんといえばもはや縁の切れたもので、その上健康な方でもあることか、死病にとりつかれている人を、まさかあらためて呼び取りなさるという事もできまいし、まあ過ぎた事は仕方がないとして、早く親子仲直りをしなさらんじゃなるまい、とわたしは思うが。なあ、田崎君"
],
[
"戦争中の縁談もおかしいが、とにかく早く奥様を迎びなさるのだね。どうです、旦那は御隠居と仲直りはしても、やっぱり浪子さんは忘れなさるまいか。若い者は最初のうちはよく強情を張るが、しかし新しい人が来て見るとやはりかわゆくなるものでね",
"いやそのことは御隠居も考えておいでなさるようだが、しかし――",
"むずかしかろうというのかね",
"さあ、旦那があんな一途な方だから、そこはどうとも",
"しかしお家のため、旦那のためだから、なあ田崎君"
],
[
"ほんとにあの方はいい方でございますねエ。あれでも耶蘇でいらッしゃいますッてねエ",
"ああそうだッてね",
"でもあんな方が切支丹でいらッしゃろうとは思いませんでしたよ。それにあんなに髪を切ッていらッしゃるのですら",
"なぜかい?",
"でもね、あなた、耶蘇の方では御亭主が亡くなッても髪なんぞ切りませんで、なおのことおめかしをしましてね、すぐとまたお嫁入りの口をさがしますとさ",
"ほほほほ、ばあやはだれからそんな事を聞いたのかい?",
"イイエ、ほんとでございますよ。一体あの宗旨では、若い娘までがそれは生意気でございましてね、ほんとでございますよ。幾が親類の隣家に一人そんな娘がございましてね、もとはあなたおとなしい娘で、それがあの宗旨の学校にあがるようになりますとね、あなた、すっかりようすが変わっちまいましてね、日曜日になりますとね、あなた、母親が今日は忙しいからちっと手伝いでもしなさいと言いましてもね、平気でそのお寺にいっちまいましてね、それから学校はきれいだけれども家はきたなくていけないの、母さんは頑固だの、すぐ口をとがらしましてね、それに学校に上がっていましても、あなた、受取証が一枚書けませんでね、裁縫をさせますと、日が一日襦袢の袖をひねくっていましてね、お惣菜の大根をゆでなさいと申しますと、あなた、大根を俎板に載せまして、庖丁を持ったきりぼんやりしておるのでございますよ。両親もこんな事ならあんな学校に入れるんじゃなかったと悔やんでいましてね。それにあなた、その娘はわたしはあの二百五十円より下の月給の良人には嫁かない、なんぞ申しましてね。ほんとにあなた、あきれかえるじゃございませんか。もとはやさしい娘でしたのに、どうしてあんなになったンでございましょうねエ。これが切支丹の魔法でございましょうね",
"ほほほほ。そんなでも困るのね。でも、何だッて、いい所もあれば、わるいところもあるから、よく知らないではいわれないよ。ねエばあや"
],
[
"あの方とお話ししてはいけないというのかい",
"耶蘇がみんなあんな方だとようございますがねエ、あなた。でも――"
],
[
"お母さま、死にましたよ、あれが――あの千々岩が!",
"エ、千々岩! あの千々岩が! どうして? 戦死かい?",
"戦死将校のなかに名が出ているわ。――いい気味!",
"またそんなはしたないことを。――そうかい。あの千々岩が戦死したのかい! でもよく戦死したねエ、千鶴さん",
"いい気味! あんな人は生きていたッて、邪魔になるばかりだわ"
],
[
"死んでもだれ一人泣いてくれる者もないくらいでは、生きがいのないものだね、千鶴さん",
"でも川島のおばあさんが泣きましょうよ。――川島てば、お母さま、お豊さんがとうと逃げ出したんですッて",
"そうかい?",
"昨日ね、また何か始めてね、もうもうこんな家にはいないッて、泣き泣き帰っちまいましたんですッて。ほほほほほほようすが見たかったわ",
"だれが行ってもあの家では納まるまいよ、ねエ千鶴さん"
],
[
"源公を見ねえ。狐裘の四百両もするてえやつを着てやがるぜ",
"源か。やつくれえばかに運の強えやつアねえぜ。博ちゃア勝つ、遊んで褒美はもれえやがる、鉄砲玉ア中りッこなし。運のいいたやつのこっだ。おいらなんざ大連湾でもって、から負けちゃって、この袷一貫よ。畜生め、分捕りでもやつけねえじゃ、ほんとにやり切れねえや",
"分捕りもいいが、きをつけねえ。さっきもおれアうっかり踏ん込むと、殺しに来たと思いやがったンだね、いきなり桶の後ろから抜剣の清兵が飛び出しやがって、おいらアもうちっとで娑婆にお別れよ。ちょうど兵隊さんが来て清兵めすぐくたばっちまやがったが。おいらア肝つぶしちゃったぜ",
"ばかな清兵じゃねえか。まだ殺され足りねえてンだな"
],
[
"やッ、閣下は!",
"おッきみは!"
],
[
"これはおいでなせえまし。旦那様アいつお帰りでごぜエましたんで?",
"二三日前に帰った。老爺も相変わらず達者でいいな",
"どういたしまして、はあ、ねッからいけませんで、はあお世話様になりますでごぜエますよ",
"何かい、老爺はもうよっぽど長く留守をしとるのか?",
"いいや、何でごぜエますよ、その、先月までは奥様――ウンニャお嬢――ごご御病人様とばあやさんがおいでなさったんで、それからまア老爺がお留守をいたしておるでごぜエますよ",
"それでは先月帰京ったンだね――では東京にいるのだな"
],
[
"はい、さよさまで。殿様が清国からお帰りなさるその前に、東京にお帰りなさったでごぜエますよ。はア、それから殿様とごいっしょに京都に行かっしゃりました御様子で、まだ帰京らっしゃりますめえと、はや思うでごぜエますよ",
"京都に?――では病気がいいのだな"
],
[
"ちょいと戸を明けますべえ。旦那様、お茶でも上がってまあお休みなさッておいでなせエましよ",
"何、かまわずに置いてもらおう。ちょっと通りかかりに寄ったんだ"
],
[
"いい天気じゃ。すこし歩いて見てはどうか",
"歩きましょう"
],
[
"いいよ、少しは歩いた方が",
"じゃ疲れたら乗るとして、まあぶらぶら歩いて見るもいいじゃろう"
],
[
"駒か。駒にはおわびにどっさり土産でも持って行くじゃ。なあ、浪。駒よか千鶴さんがうらやましがっとるじゃろう、一度こっちに来たがっておったのじゃから",
"さようでございますよ。加藤のお嬢様がおいで遊ばしたら、どんなにおにぎやかでございましょう。――本当に私なぞがまあこんな珍しい見物さしていただきまして――あの何でございますか、さっき渡りましたあの川が宇治川で、あの螢の名所で、ではあの駒沢が深雪にあいました所でございますね",
"はははは、幾はなかなか学者じゃの。――いや世の中の移り変わりはひどいもンじゃ。おとうさんなぞが若かった時分は、大阪から京へ上るというと、いつもあの三十石で、鮓のごと詰められたもンじゃ。いや、それよかおとうさんがの、二十の年じゃった、大西郷と有村――海江田と月照師を大阪まで連れ出したあとで、大事な要がでけて、おとうさんが行くことになって、さああと追っかけたが、あんまり急いで一文なしじゃ。とうとう頬かぶりをして跣足で――夜じゃったが――伏見から大阪まで川堤を走ったこともあったンじゃ。はははは。暑いじゃないか、浪、くたびれるといかん、もう少し乗ったらどうじゃ"
],
[
"まッあなた!",
"おッ浪さん!"
],
[
"で――はどちらにおいでなさいますので?",
"台湾にまいったそうでございます",
"台湾!"
],
[
"伯母さまは――?",
"来ましたよ"
],
[
"届けるよ、きっとわたしが武男さんに手渡すよ",
"それから――この指環は"
],
[
"どうしていらッしゃる――でしょう?",
"武男さんはもう台湾に着いて、きっといろいろこっちを思いやっていなさるでしょう。近くにさえいなされば、どうともして、ね、――そうおとうさまもおっしゃっておいでだけれども――浪さん、あんたの心尽くしはきっとわたしが――手紙も確かに届けるから"
],
[
"ばあや――",
"お、お、お嬢様、ばあやもごいっしょに――"
],
[
"何か",
"山木様とおっしゃいます方が――"
],
[
"山木さん、久しぶりごあんすな",
"いや、御隠居様、どうも申しわけないごぶさたをいたしました。ぜひお伺い申すでございましたが、その、戦争後は商用でもって始終あちこちいたしておりまして、まず御壮健おめでとう存じます",
"山木さん、戦争じゃしっかいもうかったでごあんそいな",
"へへへへ、どういたしまして――まあおかげさまでその、とやかく、へへへへへ"
],
[
"これはいろいろ気の毒でごあんすの、ほほほほ",
"いえ、どうつかまつりまして。ついほンの、その――いや、申しおくれましたが、武――若旦那様も大尉に御昇進遊ばして、御勲章や御賜金がございましたそうで、実は先日新聞で拝見いたしまして――おめでとうございました。で、ただ今はどちら――佐世保においででございましょうか",
"武でごあんすか。武は昨日帰って来申した",
"へエ、昨日? 昨日お帰りで? へエ、それはそれは、それはよくこそ、お変わりもございませんで?",
"相変わらず坊っちゃまで困いますよ。ほほほほ、今日は朝から出て、まだ帰いません",
"へエ、それは。まずお帰りで御安心でございます。いや御安心と申しますと、片岡様でも誠に早お気の毒でございました。たしかもう百か日もお過ぎなさいましたそうで――しかしあの御病気ばかりはどうもいたし方のないもので、御隠居様、さすがお目が届きましたね"
],
[
"昨年来は長々お世話に相成りましてございますが、娘――豊も近々に嫁にやることにいたしまして――",
"お豊どんが嫁に?――それはまあ――そして先方は?",
"先方は法学士で、目下農商務省の○○課長をいたしておる男で、ご存じでございましょうか、○○と申します人でございまして、千々岩さんなどももと世話に――や、千々岩さんと申しますと、誠にお気の毒な、まだ若いお方を、残念でございました"
],
[
"戦争はいやなもんでごあんすの、山木さん。――そいでその婚礼は何日?",
"取り急ぎまして明後々日に定めましてございますが――御隠居様、どうかひとつ御来駕くださいますように、――川島様の御隠居様がおすわり遊ばしておいで遊ばすと申しますれば、へへへ手前どもの鼻も高うございますわけで、――どうかぜひ――家内も出ますはずでございますが、その、取り込んでいますので――武――若旦那様もどうか――"
]
] | 底本:「小説 不如帰」岩波文庫、岩波書店
1938(昭和13)年7月1日第1刷発行
1971(昭和46)年4月16日第34刷改版発行
※1898(明治31)年から翌年にかけて「国民新聞」に連載されたとき、不如帰には「ほととぎす」と読みが示してあった。後に著者は、本作品を「ふじょき」と呼び、巻頭の「第百版不如帰の巻首に」にも、そうルビが付してある。だが、底本は扉と奥付に、「ほととぎす」とルビを振っている。
入力:鈴木伸吾
校正:林 幸雄
2001年2月16日公開
2011年8月27日修正
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このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"目出度く凱旋しとくれよ",
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"どうせ売れないんなら、いい原料つかァいいじゃないかね",
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"そんなことあるもんか、一ノ組から、早川君もいくよ",
"早川って、トリちゃん?",
"そうだ"
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[
"もッとさ、みんなにわかるような……",
"そう、そう"
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[
"それから、局内じゃ、スポーツは、一工場から一人か二人だけ選抜されて、他の人達は指をくわえてなければならないだろう、あんなのも反対して、みんながスポーツ道具をつかっていいようにしろ、なンていいじゃないかなァ",
"それなら……"
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[
"工場に持ってゆくと、ドシドシ売れちゃうわ",
"そうだ、定価一銭ぐらいでね"
],
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"どういう風にして……",
"かまわないから七八人で、こッぴどくいじめてオドカすんだよ、相手は『犬』だから、『赤テロ』だ"
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[
"山本ふみちゃんを馘首にさしたのもおまえじゃないか",
"須田課長のお妾め!",
"この蛍ッ"
],
[
"大丈夫だ。課長は服部フクとの関係が、いくら何でも、公然となると自分が危いから、女の方に泣寝入りさせたらしい",
"だから、出て来ないのかね?"
],
[
"何処で",
"局の西通用門で、『赤煉瓦』を流しこんでいてさ、今日昼間、やっと地区の人と、連絡がとれてわかったのよ"
]
] | 底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「冬枯れ」ナウカ社
1935(昭和10)年5月20日
初出:「新潮」
1932(昭和7)年8月
入力:門田裕志
校正:津村田悟
2020年1月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"ほんとに九本も、折っちまったじゃないか、折角旦那様が丹精なすってるのに",
"……………"
],
[
"どうして日本に戻ってきたの?",
"日本語を勉強するためにさ",
"ヘェ、じゃハワイでは何語を教わっていたんだい",
"英語さ"
],
[
"じゃ、英語よめるんだネ",
"ああ、話すことだってできるよ"
],
[
"とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ",
"フーム",
"いまお父さんは市の収入役してるよ、アメリカ人でも、フランス人でもお父さんのところへ相談にくるんだよ",
"フーム"
]
] | 底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「風」桜井書店
1941(昭和16)年8月20日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049288",
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"姓": "徳永",
"名": "直",
"姓読み": "とくなが",
"名読み": "すなお",
"姓読みソート用": "とくなか",
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"姓ローマ字": "Tokunaga",
"名ローマ字": "Sunao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-01-20",
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} |
[
[
"じゃ、きみあがれ",
"いや、おれもかえるんだ"
],
[
"シゲちゃんは、妾より一つ上よ",
"二十一か"
],
[
"どうだあの子、いままで男なんかあったか?",
"そんなこと――"
],
[
"それともお前がきいてみるか?",
"そうね",
"どっちにせ、青井の奴ァ、三年たっても自分じゃいえない男だから"
],
[
"こないだの、あれな",
"あれって、何だよ"
],
[
"行くんなら、ぼくが紹介状をかきます",
"はぁ――"
],
[
"ええ、でも田甫道あるいていると、作歌ができまして――",
"サクカ?"
]
] | 底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「あぶら照り」新潮社
1948(昭和23)年10月15日
初出:「新潮」
1948(昭和23)年1月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "049290",
"作品名": "白い道",
"作品名読み": "しろいみち",
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"初出": "「新潮」1948(昭和23)年1月",
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"名": "直",
"姓読み": "とくなが",
"名読み": "すなお",
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"名読みソート用": "すなお",
"姓ローマ字": "Tokunaga",
"名ローマ字": "Sunao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-01-20",
"没年月日": "1958-02-15",
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"底本出版社名1": "熊本出版文化会館",
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"底本の親本名1": "あぶら照り",
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[
[
"弱ゴロの赤鬚――",
"剣はどうした?"
]
] | 底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「約束手形三千八百円也」新鋭文学叢書、改造社
1930(昭和5)年11月15日
※「ベチャクチャ」と「ペチャクチャ」の混在は、底本通りです。
入力:門田裕志
校正:津村田悟
2019年1月29日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "049291",
"作品名": "戦争雑記",
"作品名読み": "せんそうざっき",
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"姓読み": "とくなが",
"名読み": "すなお",
"姓読みソート用": "とくなか",
"名読みソート用": "すなお",
"姓ローマ字": "Tokunaga",
"名ローマ字": "Sunao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-01-20",
"没年月日": "1958-02-15",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳永直文学選集",
"底本出版社名1": "熊本出版文化会館",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年5月15日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年5月15日初版",
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"底本の親本名1": "約束手形三千八百円也",
"底本の親本出版社名1": "新鋭文学叢書、改造社",
"底本の親本初版発行年1": "1930(昭和5)年11月15日",
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"底本の親本初版発行年2": "",
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"校正者": "津村田悟",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"さうですよ、津田といふ篤志な人で、いはばパトロンですね、文章を綴つた人も三谷氏ぢやない。三谷氏はこの中にある澤山の開拓者たちの遺蹟を足で探しあるいた人ださうですよ。",
"ホウ!"
],
[
"住所はわかつてゐます。つてはなくてもさきに手紙を出しとけば會つてくれるでせうから、二人で行つてみませんか。",
"いいね、行きませう。"
],
[
"いくつくらゐの人だらう?",
"さア、いづれ年輩でせうネ。"
],
[
"本木の入獄が? いろいろ説があるが、つまり洋書の購入にからんで、他人のために罪におちたといふのが、一ばん妥當だネ。",
"他人といふのは、品川梅次郎のことですか?",
"さうさう――だがね、入獄といつてももつと研究してみる必要があるよ、年代的に繰つても入獄の期間中、本木はいろんな仕事をしてゐることが、事蹟で明らかになつてゐる。それは、おれの本木傳を讀んでくれればわかる――"
],
[
"あんたも本木昌造について何か書きなさいよ、ぼくも書く、宣傳するだけでも何かのためになる。",
"さうだネ。"
]
] | 底本:「光をかかぐる人々」河出書房
1943(昭和18)年11月20日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※京都府立図書館所蔵の徳永直『光をかかぐる人々』第二版に付属する「訂正と正誤」により訂正しました。
入力:内田明
校正:しだひろし、川山隆
2010年1月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050066",
"作品名": "光をかかぐる人々",
"作品名読み": "ひかりをかかぐるひとびと",
"ソート用読み": "ひかりをかかくるひとひと",
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"分類番号": "NDC 022 210 913 914",
"文字遣い種別": "旧字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-02-15T00:00:00",
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"姓": "徳永",
"名": "直",
"姓読み": "とくなが",
"名読み": "すなお",
"姓読みソート用": "とくなか",
"名読みソート用": "すなお",
"姓ローマ字": "Tokunaga",
"名ローマ字": "Sunao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-01-20",
"没年月日": "1958-02-15",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "光をかかぐる人々",
"底本出版社名1": "河出書房",
"底本初版発行年1": "1943(昭和18)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1943(昭和18)年11月20日初版",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "内田明",
"校正者": "しだひろし、川山隆",
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"テキストファイル最終更新日": "2010-01-22T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"なンのああた、あれ位ァ鼻糞にもなろうかいた",
"そうかな……",
"はァいああた、戦争でも無からにゃ景気ァ出んと――"
],
[
"戦争は、どことやるンだね?",
"……ちゅう話ですたい"
],
[
"一家五人がみんなガマ(働く)だしとりますばい、これでああた虎吉が来年は徴兵におっとられたらどぎゃンしまッしゅか⁉",
"成程、成程……"
],
[
"ウンととってやればよかった?",
"そうも不可ンたい、相場があるけンな"
],
[
"幾田君が、何で?",
"たしか腹膜炎とかてち、それも永ァ間、………にひっかかって、監獄へ入っとなはったもん――"
],
[
"世間体が悪かてち、葬式もこッそりでしたばい",
"幾田君だけか、F君は?",
"はァ床屋の息子さんなァ、あの人も一寸引張られなはッたげな",
"それから",
"ようと知らんたい、まだ新聞にも出ンとだけん"
],
[
"たかが一小説かきじゃないか、あンまり眼の仇にするなよ",
"………………"
],
[
"しかし何しろ、君ァこの土地じゃその方の草分だからな",
"………………"
],
[
"ちょッと、だれか呼んでるわよ",
"ど、どこに……"
],
[
"何だ、M君じゃないか",
"ええ、久濶でした……"
],
[
"君ァ、大丈夫だったのかい?",
"は、わしァ去年の夏から、ずッと寝込んどりましたけん……"
],
[
"ま、落つきたまえ、え?",
"…………",
"こんなときゃ、ツイつまらないことを考えるもンだよ、いやホンとだよ"
],
[
"…………、こんどが初めてじゃないんだ。何度もあったもんだよ。――それに君ァ病気じゃないか、落ちついてそれからまず癒したまえ……",
"え――",
"ぼくらはいつも健康でなくちゃいかん。健康な精神こそ……………判断できるんだ。落ちつきたまえ、ねえ、落ちつきたまえ"
],
[
"――竹永愛子てち、知っとんなはりますど。ホラ、町の米屋の――",
"竹永愛子?"
],
[
"ああたが奉公しトンなはったげな……",
"ああ、あの米屋の娘……"
],
[
"それがこんど…………やられましたたい",
"ええあの子が⁉"
],
[
"逢ってみたいな",
"とても家のもンが厳重で、ダメでッしゅ",
"そうかな……"
],
[
"なに、………?",
"ええ、どうもそうらしいが"
],
[
"じゃ、また会いにゆきます",
"ん、そうしよう"
],
[
"第一、世界の資本主義国の何処見渡したッて、景気が回復する材料がないそうだよ",
"はァ、そぎァんですかな……"
],
[
"義兄さんは学者じゃけん、まァ一つ兄弟じゅうば代表して名前ばあげて下はりまッせ",
"ありがとう――"
],
[
"金持の家じゃべつだけれど、貧乏人の工場町じゃ青い草一本ロクに育たないんだ。家と家とがくっつき合って、太陽のめもささんし、老人の茶呑話なンてしたくも出来ァしねえ――",
"はァい、そうでッしゅなァ"
],
[
"ちゃんと食費まで入れてるのにさ、まるで食客みたいにツンツンされるンだもの、たとえ乞食したってまだ東京の方がいいわ",
"…………",
"ゆんべも○○さん(妹)が、毎日米が三升ずつも減るッて、大声で怒鳴っていたのよ",
"あッちち……、もう止せ"
],
[
"君もやられたというじゃないか?",
"うふん……"
],
[
"景気はどうだい?",
"ようなか……"
],
[
"Oは国家社会主義になったげなばい",
"Oが⁈"
],
[
"ぬしゃァ、東京へ行っとるげなが? ふゥン、あっちア景気アよかどだい",
"なンのああた、同じこッてすばい"
],
[
"親方も、元気でよかですな",
"いんにゃ、もう昔のごつぁにゃたい"
],
[
"なァンのぬし、年齢ばかりおッとって――、昨年なァ得知れンこつば仕出来ゃァたもンだけん……",
"はァ?",
"もう早う、嫁れッちまわンと安心されんばい",
"ヘェ、お嫁にゆくんですか"
],
[
"電気会社にいたそうですね",
"ええ…………",
"大変だったですね"
],
[
"ぬしゃァ東京で何ばしとるか?",
"はァい、職工ですたい"
],
[
"おしッこだよウ……",
"よし、よし"
],
[
"ボク癒ったら、東京へ帰るんだねェ",
"ああ、だから早く癒るンだよ"
],
[
"親や子供があるのは、お前一人じゃないぞ",
"それはわかっている……"
],
[
"決心つかないか、どうだ⁉",
"…………"
],
[
"冗談ば云いなはりますな、公休日に寝とられるもンかいた",
"あッはは、そうか、そうか"
],
[
"あの、『ロシアの五ヶ年計画』ば聴かしてくだはり、わしどんが仲間で、そのこつでモメとったい",
"何だ。モメとるとは?"
],
[
"そぎゃン無理なこつば云うたッちゃァ……",
"無理?"
],
[
"ちょッ、ちょッと散歩して来るから頼むぞ",
"はァい、よかたい"
],
[
"Kや、Mや、K・Tなどは勿論えらい、しかし俺だって棄てたもンじゃないぞ",
"…………?"
],
[
"きみ、きみ――何処へ行くんですか",
"東、東京です"
],
[
"怖いわね……",
"……………"
]
] | 底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「冬枯れ」ナウカ社
1935(昭和10)年5月20日
初出:「中央公論」
1934(昭和9)年12月
入力:門田裕志
校正:津村田悟
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049296",
"作品名": "冬枯れ",
"作品名読み": "ふゆがれ",
"ソート用読み": "ふゆかれ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論」1934(昭和9)年12月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-01-20T00:00:00",
"最終更新日": "2019-12-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001308/card49296.html",
"人物ID": "001308",
"姓": "徳永",
"名": "直",
"姓読み": "とくなが",
"名読み": "すなお",
"姓読みソート用": "とくなか",
"名読みソート用": "すなお",
"姓ローマ字": "Tokunaga",
"名ローマ字": "Sunao",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-01-20",
"没年月日": "1958-02-15",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "徳永直文学選集",
"底本出版社名1": "熊本出版文化会館",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年5月15日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年5月15日初版",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年5月15日初版",
"底本の親本名1": "冬枯れ",
"底本の親本出版社名1": "ナウカ社",
"底本の親本初版発行年1": "1935(昭和10)年5月20日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "津村田悟",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001308/files/49296_ruby_69927.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2019-12-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"だけんど、おめえあの娘ッ子が……",
"だけんどじゃねえや、とっさん"
],
[
"で、もとどおりになったかいな",
"ウウン、そうはいかねえ、謝りのしるしに榛の木畑をあのままそっくり取上げるちゅうこって、やっとおさめてきた",
"榛の木畑を?"
]
] | 底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「約束手形三千八百円也」改造社
1930(昭和5)年11月15日
初出:「中外日報」
1930(昭和5)年3月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"検挙られたんですとさ、川村が",
"何時だ、昨日か?",
"昨夜ですとさ、いい気味だね、畜生、恩知らずが、昨夜ひどい目に逢わしたんだってさ",
"フーム"
],
[
"かまやしないじゃないの、あんな恩知らずだもの",
"ウム、そりゃそうだが!"
],
[
"おい止せよ、女の眼前で、そんなの脱がすのは止せよ",
"止せたって……、おいお前たち、女の人は、一寸向うを向いててくれないか",
"アッハハハハ",
"オッホホホ"
]
] | 底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「能率委員会」日本評論社
1930(昭和5)年1月20日
※初出では伏せ字であったことを示す「×」は省きました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"あなたとは九年ほど昔、Tでおちかづきでしたな。それも、――こうしたことを申してお氣に障りませんなら――お互いにすこぶる親しい間がらでしたな。",
"左樣、左樣……まあそんなところで……ですが、今は夜中の三時ですよ、だのにあなたはかれこれ十分間も、このドアがしまってるかあいてるかことことやってみて……"
],
[
"お見受け申すところ、私がこんな時刻に、しかも――こんな妙な工合にして伺ったのが、何よりもまずあなたをお愕かせしたようでして……。つまりその、昔のことどもや、私どもがどんなふうにお別れしたかを思い出しますと――私は今なお不思議でならないくらいで……。それはそうと、私はじつはお邪魔にあがろうなどとは思ってもいなかったのでしたが、それがこんなことになっちまったのは、その――ほんの偶然で……",
"何がほんの偶然です! 現に私はこの窓から見ていたんですが、あなたは爪先だちで往來をつっ切って來たじゃありませんか!",
"ああ、あなたは御覽でしたか! それじゃあなたは、私なんかよりよっぽどお詳しいはずだ!――ですがこんなことを申していては、あなたをますますいらだたせるだけですな……。じつはこういうわけなんです。私は自分の用向きで三週間ほど前から當地に來ているんです……。私があのパーヴェル・パーヴロヴィチ・トルーソツキイだということは、あなたもお氣づきのとおりです。そこで私の出て來た用向きというのは、じつは他の縣へ轉任になるように運動をしていますんで、その椅子がきまればかなりの昇進になるわけなんです……。それはそうと、申し上げたいのはこんなことじゃなかったっけ!……お望みとなら肝腎かなめのところを申し上げますが、じつは私はこれでもう三週間ちかくも、この町をうろつき𢌞っているんでして、それがどうやら、その用向き、つまり轉任の件ですな、それをわざわざどっちつかずに引っぱっているような工合なんですよ。そして實際の話が、そのほうの片がついたにしてもどっち道おなじことで、きっと片がついたことなんか自分で忘れちまって、相變らずのこうした氣持でこのペテルブルグに居坐っているに違いありません。まるで自分の目當てを失ったような、しかもそれが却って嬉しいような――つまりそういった現在の氣持で、私はうろつき𢌞ってる次第なんです……"
],
[
"じゃ、あのナターリヤ・ヴァシーリエヴナが!",
"左樣! ナターリヤ・ヴァシーリエヴナです! この三月のことでした……。胸を惡くしましてな、ほとんどあっという間で、ほんの二三カ月のうちのことでした! そして私は――御覽のとおり一人ぼっちで生き殘ったわけでして!"
],
[
"御同情くだすって有難う。あなたが同情してくださるのを拜見して、しみじみ有難いと思います。それも……",
"それも?",
"つまりその、こんなに永年お會いせずにいたのに、私の悲しみにのみか私個人にさえ、じつに深い同情を寄せていただいて、ただただ感謝のほかはない――と、それを申し上げたかっただけです。もっとも私だって別に親しいかたがたの氣持を疑っていたわけでもないんでして、當地でも探しさえすりゃ今すぐだって心からの親友が見つけ出せるわけです(早い話があのステパン・ミハイロヴィチ・バガウトフですな)。しかしです、アレクセイ・イヴァーノヴィチさん、あなたとの御交際は(いやおそらく親友の交りでしたな――今なお感謝の念をもって思い出されてるところをみると)、何しろ九年間も絶えていたんですからなあ。あなたは私どもの町へは戻っておいでにならなかったし、手紙のやりとりもなかったのですし……"
],
[
"左樣、それなら私も覺えていますよ。いつもあなたのほうでひょっこり私の前に出てらっしゃるんです。――二度でしたか、それとも三度でしたかな……",
"そうじゃないですよ――いつもあなたのほうでひょっこり出てこられるのですよ、私のほうからじゃありません!"
],
[
"あなたが私の顏が思い出せなかったのはですな、――まづ第一にお見忘れだったのでしょうし、それにまた、私はその後疱瘡をやりましたのでね、その痕が少し顏に殘っているせいでしょう。",
"疱瘡ですって? なるほどそう仰しゃれば、あの男には痘痕があったっけ! ですがなんだってまたあなたは……。",
"そんな目に逢いやがったかと仰しゃるんですか? 何がおこるかまったく知れたものじゃありませんよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。よくある圖ですよ!",
"ただどうも、馬鹿に滑稽ですな。まあとにかく先をおつづけください、先をおつづけください、どうぞあなた!",
"私は幸いあなたと行き會えたのですが……。",
"お待ちなさい! なんだってあなたは今、『そんな目に逢いやがった』なんて仰しゃったんです? 私はもっと丁寧な言い方を考えていたんですよ。じゃ、どうぞ先をつづけてください、どうぞ先を!"
],
[
"私は幸いあなたと行き會えたのですが、そもそも當地へ、このペテルプルグへ出かけて參る時から、必らずあなたを探しあてようと思っていたわけでした。ところで、先ほどの話のくり返しになりますが、私はやっぱり御覽のとおりのみじめな氣持でして……三月からこっち私の心はすっかり臺なしになっちまって……。",
"いや、なるほど! 三月からこっちね……。まあちょっとお待ちなさい、あなたは煙草は召上がりませんか?",
"御承知のとおり、ナターリヤ・ヴァシーリエヴナの存命中は。",
"そうそう、そうでしたね。だが三月からは?",
"卷煙草一本ぐらいならばね。",
"じゃ一つこれをどうぞ。まあそれをやりながら、先をおつづけください! どうぞ先を話してください! じつにどうもあなたの話は……"
],
[
"左樣、いかにも言い𢌞しまで妙でしょうて……",
"しかもあなたは……冗談を言っておられるのでもない!"
],
[
"別に不思議はないですよ。何しろ九年ですからね。",
"いや、そうじゃない、年月の問題じゃない! 外見からいうとあなたはまだそれほど變ってはいない。あなたの變ったのはほかの點ですよ!",
"それだって、九年という年月のせいだろうじゃありませんか。",
"それとも、この三月以來ね!"
],
[
"じゃあ、私のほうからもそのうちお訪ねしましょう、きっとお訪ねしましょう、きっとお訪ねしますよ。そしてゆっくり落着いてお話を承わるとしましょう。……ところで、ざっくばらんのところを伺いたいんですが、あなたは今夜醉っておいでじゃありませんかね?",
"醉っている? 飛んでもない……。",
"こちらへお出かけの前か、それともその以前に、召上がったんじゃありませんか?",
"これはまあ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あなたはてっきり熱病にかかっておいでですな。",
"とにかく明日伺いましょう、早目に、そう一時までにね……"
],
[
"おや、申し上げませんでしたか? ポクローフスキイ・ホテルにおりますよ。",
"ポクローフスキイ・ホテルというと?",
"ポクロフ寺のすぐそばです。あそこの横町にあるんですが、――さてと、なんといったかなあ、あの横町は。おまけに番地まで忘れちまった。とにかくポクロフ寺のすぐそばですよ……。",
"いいです、探しましょう!",
"じゃどうぞいらしてください。"
],
[
"思いがけないなんて、なぜです? ちょうど今ごろお伺いすると、昨夜ちゃんとお約束しといたじゃありませんか?",
"來てはくださるまいと思ったのです。今朝目がさめて、昨夜のことを殘らず思い返して見ましたら、もうとても、おそらく永遠に、あなたにお目にかかれる望みも絶えた、とそんなふうに思われたんですよ。"
],
[
"いや、まったくあなたは變りましたなあ!",
"じつは、ひょいとこんな惡い癖がつきましてね。まったく妻が亡くなってからのことなんです。嘘は申しませんよ! なんとも我慢ができんのでしてね。ですが今日は御心配には及びませんよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、大丈夫今日は醉っちゃおりませんし、したがって昨夜お宅でやったような管を卷く氣づかいはありませんからね。とにかく正直の話が、こんなことはみんな妻が亡くなって以來のことなんですよ! まったく假りに半年前に誰かが、私がやにわに心をもち崩して今日のようなぐうたらになると言ったところで、またその私の姿を鏡に映して見せてくれたにしたところで、とても本氣にしやしなかったに違いないでさ!",
"じゃあなたは、昨夜は醉ってらしたんですね?"
],
[
"覺えがないと仰しゃるんですか?",
"覺えがないどころか、殘らず知っていますよ……。"
],
[
"じゃそのあなたは……あなたは本當にこのお子さんとお二人きりの暮らしなんですか?",
"まったくの親一人、子一人です。そのほかは女中が日に一度、身の𢌞りの世話にちょっと來てくれるだけでして。",
"すると外出される時は、お子さんを一人殘して行かれるわけですか?",
"ほかに仕樣もないじゃありませんか? 昨日なんぞは、それ、あの小部屋に閉じこめて錠をおろして出かけたんでして、そのため今日はこうして涙が降りだしたという次第なんです。だってあなた、考えてもみてください、ほかになんとも仕樣がなかったんですよ。一昨日なんかはこの子は私の留守に階下へ降りて行きましてね、男の子に石を頭へぶつけられたという始末ですものね。さもなけりゃまた、おいおい泣き出しちまって、やたらに屋敷うちの人にとびついて、お父さんはどこへ行ったか? って訊き𢌞るんですよ。外聞が惡くってやりきれませんやね。もっとも私のほうも相當なもんでしてね、ちょっと一時間ほどと言って出かけちゃ、朝歸りといったことをやらかすんで、現に昨日なんかもそうだったんです。まあいいあんばいに、ここの主婦が錠前屋を呼んで來て錠前をはずしてくれたから、とにかく助かったようなもんですが、――まったくいい恥っさらしですよ。われながらつくづく人でなしだと思いますよ。それもこれもみんな私の心に締りがなくなったせいでして……"
],
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"それはまたなぜです? なぜできないんです?",
"なぜってあなた、こんな小さな子を、それもいきなり、どうして手放せましょう。――もちろんそりゃあ、あなたのような眞心のこもったかたが仲に立ってくださるのですから心配はないわけでして、そこをとやかく申すのじゃありませんが、それにしてもやはり見も知らぬ家へやるんですからなあ。それにまた、先樣がそういう御大家のことであって見れば、どんな扱いを受けるものやら、この私にもとんと見當がつかんものでして。"
],
[
"でも、やっぱりなんだか……。",
"まだそんなことを! ちゃんと自分で知り拔いているくせに――あなたの惡い癖ですよ! じゃこうしましょう、今日は夕方から私のところへおいでになって、一晩泊ってください。そして明日は、十二時には向うへ着くように、ひとつ早目に出かけるとしましょう。"
],
[
"あのうちの別莊はレスノーエにあるんですよ。",
"ただ、どうしたもんでしょうなあ、この子の衣裳は? 何しろそんなお家柄の邸へ行くんですし、おまけに別莊だときちゃあ、――わかってくださるでしょう……父親の氣持としてですな!",
"衣裳がどうだと仰しゃるんです。ちゃんと喪服を着ていますね。このほかに何か着せたい衣裳があるとでも仰しゃるんですかね? いやいや、これが一番です、これほどお誂えむきの衣裳がほかにあるもんじゃありませんよ! ただその下着だけは、もう少しきれいな奴と取りかえるんですな、その襟あてもね……(襟あても下着の覗いてる部分も、實際ひどく汚れていた。)"
],
[
"あらまあ、マリヤ・スィソエヴナさんだなんて! みんなしてそんな呼び方をして人をおひゃらかすんだよ。ぜんたいお前さんとこが焦熱地獄でないとでもおいいかね? 物ごころのついた子供にさ、恥っさらしの幕ばかり見せてさ、それで濟むとでもお思いですかね? さあ馬車が參りましたよ、旦那。――レスノーエまででしたね?",
"そう、そう"
],
[
"じゃ、お父さんはあんたを可愛がってくれないと思うの、リーザ?",
"可愛がってなんかくれないわ。",
"あんたを酷い目に逢わせたかい? え、逢わせたかい?"
],
[
"あなたは覺えておいででしょうが、――私があなたに、あなたにだけ申し上げて置いたことを。それは御主人さえ御承知ないことなんですが――つまりT市時代の私の生活のことです。",
"ええ、ようく覺えておりますわ。そのことなら、たびたび話してくださいましたものね。",
"いや私はお話ししたのじゃない、懺悔をしたのですよ。しかもあなたお一人にだけね! 私はこれまでついぞ、その女の苗字をあなたに明かしたことがありませんでした。じつは――その女はトルーソツカヤというんです。先刻お話ししたトルーソツキイの女房なんです。亡くなったというのはその婦人なんでして、リーザはその娘――つまり私の娘なんです!"
],
[
"じつはね、例によってあのステパン・ミハイロヴィチに、まんまと一ぱい喰わされたんで……。ほら、あのバガウトフですよ、上流社會出の、ちゃきちゃきのペテルブルグっ兒でさあ。",
"またしても玄關拂いを喰ったんですかね?",
"いいや、そうじゃない。今度はどうぞお上がりくださいってわけでしてな、初めてなかへ通されて、拜顏の榮を得たんです。……ただその、御當人はもう亡者だったんで!……"
],
[
"まさかあの男が、故意と死んだんじゃあるまいし!",
"だから私だって、このとおり哀悼の意を表しながら物を言ってるじゃありませんか。何ものにも代えがたい親友でした。あの男は私にとって、つまりこれだったんです。"
],
[
"それは私が角をお目にかけたからですか? 時にどうです、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、それよか何か御馳走しては頂けませんかなあ! あなたがTにおいでのころは、まる一年というもの毎日のように、あんないい御馳走をしてあげたじゃありませんかね……。一杯飮ませてくださいよ、咽喉がからからになっちまった。",
"ようござんすとも。そうならそうと、早く仰しゃってくださればよかったのに。――時に何を召あがりますかな?"
],
[
"シャンパンにしますか?",
"でなくて何にしますかね? まだヴォトカの出る幕でもなし……。"
],
[
"そりゃまたどんな嬉しさですね? なんだってまた嬉しいんでしょう?",
"私はあなたの氣持になってそう考えるだけですよ。",
"えへへ、その點に關する限り、あなたは私の氣持を誤解してらっしゃるですな。さる賢人の言い草じゃないが、『死せる敵はよし、されど生ける敵はさらによし』ってね、ふ、ふ!"
],
[
"なぜですか? 愉快な乾杯じゃありませんか。",
"ねえ、あなたは今ここへいらしった時、もう醉ってらしたんじゃありませんか?",
"ちょっと飮って來ました。それがどうかしましたかね?",
"いや別になんでもありませんがね。ただ私には、あなたが昨夜も今朝も、わけても今朝などは、亡くなったナターリヤ・ヴァシーリエヴナのことを心から悲しんでおられるように見えたものでね。"
],
[
"じゃ只今すぐ、いかにして私が『一部始終』を嗅ぎつけたかをお話しして、あなたのその火のような熱望を滿たして差上げることにしましょう……だって、何しろあなたは燃えたち易い方ですからね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、おっそろしく燃えたち易い方ですからねえ! えへへ! ときにまず煙草を一本頂きたいですな、というのはこの三月からこっち、私は……",
"さあどうぞ。"
],
[
"と仰しゃると、どんな質問でしたっけ?",
"それ、手文庫の蓋を開いた夫の氣持が、愉快なものかどうかということですよ。"
],
[
"して私はあえて斷言しますがね、あなたは今私のことを、『自分から寢とられの一件をしゃあしゃあと白状するなんて、この汚らわしい豚野郎め』とお考えですね、へ、へ! なんともはや口喧ましい人だな……あなたという人は。",
"そんなことはちっとも思っちゃいませんよ。それどころかあなたのほうが、當の侮辱者に死なれておそろしく氣が立っていらっしゃるんですよ。おまけに酒もやりすぎておられるようだ。もっとも私としちゃ、それもこれもそうそう御無理のない次第だと思いますがね。あなたが生きたバガウトフを求めてらしった氣持は、私にはじつによくわかるんです、だからあなたの御無念さはさぞかしと察し入る次第ですがね。ただ……",
"だが、そのあなたの御見解によると、私はなんでバガウトフを求めていたことになるんですか?",
"それは私の知ったことじゃないですなあ。",
"いや、てっきり決鬪のことを仰しゃってらしたんでしょう?"
],
[
"ほほうなるほど、ですがこの私が紳士なんかじゃないとしたらどうなりますね?",
"それもやはり私の知ったことじゃないですな……それはそうと、そういうことのあったあとで、生きたバガウトフがあなたに入用になったのは一たいどうしたわけなんです?",
"いやそれは、ほんの一目でも友だちの顏が見たかっただけですよ。まあ一本買って、ともに杯をあげたかったんですな。",
"あの男があなたと一杯やろうとは思えませんなあ。",
"そりゃまたなぜね? Noblesse oblige(譯者註。貴族の體面にかかわる)ですかね?――だが、現にあなただって、こうして私と差向かいで飮んでおられるじゃありませんか。あの男のどこがあなたより立派だというんです?",
"私はあなたと一杯やった覺えはありませんよ。",
"なんだってまたあなたは、急にそんなに高慢になられたんです?"
],
[
"ええ、言いましたよ、あなたは『肉食型』だってね。――あなたに對する嘲罵としてね。",
"で、その『肉食型』っていうのは一體どういう意味なんです? 話してくださいよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、お願いです、後生です。"
],
[
"パーヴェル・パーヴロヴィチ、あなたは今夜ここを出て失せてくださるんですか、否ですか應ですか?",
"そりゃ、いかにも出て失せてはあげますがね、その前にまず一杯いきましょうや! あなたはこの私とは飮みたくないと仰しゃったが、私のほうじゃまた、この私と一杯つき合って頂きたいんですよ!"
],
[
"棄てた? なんだってあなたは、棄てたなんてお考えになるんです?",
"だってそうじゃありませんの、あの子をこうして見も知らぬ家へ、それもあなたのような……やっぱり見も知らぬ人同然の方、というより今のような關係にあるかたと一緒に、平氣で手離してよこすんですもの……。",
"だがあの子を連れ出したのはこの私なんですよ、私が力ずくで連れ出して來たんですよ、私には別に不都合があろうとも……。",
"まあまあ、あなたはまだそんなことを! そこに不都合があることくらい、年端もゆかぬあのリーザだって、ちゃんと見拔いていますことよ! 私の考えでは、あの人はてんでここへ寄りつきもしまいと思いますわ。"
],
[
"いやその、まだそれほどでも……。亡友をしのんで一杯やりましたがね、しかし――まだそれほどでも……。",
"私の言うことがわかりますかね?",
"それを伺いにかくは參上……。"
],
[
"あんたの娘さんは死にかけてるんですよ、病氣なんですよ。あんたはあの子を棄てたんですか、棄てたんじゃないんですか?",
"死にかけてるって、そりやまた本當ですか?",
"病氣も病氣、極めて重態なんです!",
"いや多分、例のちょっとした發作で……",
"馬鹿なことを! あの子はき・わ・め・て・重態なんです! それでなくてもあなたは當然、顏を出すべき……。"
],
[
"寢られる段じゃありませんよ、私はもうどこでも……",
"どこでもじゃありません、その安樂椅子になさい! さあ受けとってくださいよ、そうら敷布、それから夜着、枕と(といった物をヴェリチャーニノフは戸棚から引きずり出して、おとなしく手を差し出しているパーヴェル・パーヴロヴィチめがけて、大急ぎでぽんぽんほうり出した)――すぐ床をとるんです、床・を・と・るんですよ!"
],
[
"ええ、私が買いに……。私はその、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、とてももうあなたが買いにやってはくださるまいと思ったもんでね。",
"それを御存じなのは結構。だがついでのことに、その先まで心得て置いて頂きたいもんですね。もう一度くり返して申し上げときますがね、私はもう斷乎たる手段をとることにきめたんですよ。つまりですな、あんな道化芝居の眞似なんかすると、今度こそは承知しませんよ。昨夜みたいな醉ったまぎれの接吻なんか、もう我慢はしませんよ!"
],
[
"醉ったまぎれにあるいは口走ったかも知れませんがね――覺えがありませんな。だがね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、どうもその毒を盛るというやつは、われわれには少々うつりが惡いですなあ。こうみえても歴乎とした官吏だなんてことは二の次にしても、――何しろ私には資産もあるんですし、且つはまた再婚したいとも思ってるもんでしてね。",
"それに、そんなことをすりゃ赤いおべべも着なきゃならんし。"
],
[
"なんですと、どんな影です?",
"あすこに、向うの部屋の、戸口のところに……なんだか幽靈みたいなものが見えたんです。"
],
[
"びっくりしちまったんですよ。あなたのどなりようが物凄かったんで……度膽を拔かれちまったんですよ。",
"その左手の隅の、戸口の近くにある、小さな戸棚のなかです、臘燭をつけて御覽なさい……"
],
[
"吉報?",
"私は結婚することになったんですよ。",
"え?",
"苦あれば樂あり、これが世間の常道でしてね。ところで私は、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、非常にその何したいんですがね……だが、あなたの御都合が――今夜はお急ぎらしいですね。どうやらそんな御樣子がみえるもんで……。",
"ええ、急ぐんです。……それに、からだの工合もよくないんですよ。"
],
[
"だが、まだ奧さんが亡くなって三月にしかならないのに、一體どうしたことなんです?",
"いやそれは、何も今すぐ式をあげるわけじゃないんです。婚禮のほうは九カ月か、もしかすると十カ月のちのことになりましょう。それでちょうど一年の服喪期もおしまいになるわけですからね。そこでこれはもう保證しますがね、萬事はじつに巧い工合に運んでいるんです。何よりも有難いことには、フェドセイ・ペトローヴィチは、子供の時分からこの私という人間を知っているんですし、亡くなった妻のことも知っていましたし、また私の暮らしむきのこと、世間の信用、それから相當の資産のあること、また今度はこうして榮轉することになったことまで、知っていますんで、――何から何までが有利な條件になっているわけなんです。",
"とすると、あの人の娘さんを貰われるんですか?"
],
[
"で、あなたはその一ばん上の娘さんに求婚なすったんですか?",
"いやその、私は……一ばん上のじゃないんです。私が貰おうというのは、その六番目のほうなんですよ、今も申したようにまだ女學校へ通っている。――"
],
[
"今は十五ですがね。しかしもう九カ月すれば十六になりますよ、十六歳と三カ月になる勘定です。別に仔細はないじゃありませんか? もっとも、今すぐこんな話を持ち出すのもどうかと思われるので、まだ公然とは何もきり出してないんです。ただ兩親との話しあいだけなんでして。……何はともあれ、萬事はじつに上首尾なんですよ!",
"すると、まだきまったわけじゃないんですね?",
"いや、きまっているんです、ちゃんときまっているんですよ。まあ安心してください、萬事は上首尾なんですから。",
"で、本人は知ってるんですか?"
],
[
"アレクセイ・イヴァーノヴィチ、まあそう……。",
"まったく、私があなたと馬車に並んで坐って、のこのこ出向いて行けるものかどうか、まあ自分でもひとつ考えて御覽なさるがいい!"
],
[
"ところで私は、じつはもう一つほかにお願いがあるんですがね、アレクセイ・イヴァーノヴィチ。一たん行ってやろうと御承諾くだすったからには、ついでのことに私の引き𢌞し役になってくださいよ。",
"というと?",
"早い話が、例えばこの喪章をいかにすべきか、という大問題があるんです。はずしたもんでしょうか、それともこのままつけて置いたもんでしょうかね?",
"そりゃあ御隨意ですなあ。",
"いや、そこをあなたに決めて頂きたいんですよ。もしあなただったら、どうなさいますかね? つまりその、あなたが喪章をつけておられたらばですな。私一個の考えとしては、喪章をこのままにして置けば、つまり心の操が堅固だという證據になるでしょうし、したがってまた先方の受けもいいはずだと、こう思っていたんですがね。",
"いやもちろん、おはずしになるほうがいいです。"
],
[
"アレクセイ・イヴァーノヴィチ、あなたは寶石の鑑定ができますかね?",
"寶石ってなんですか?",
"ダイヤですよ。",
"そんならできます。",
"贈物を持參したいと思うんですがね。ひとつ御助言を願いますよ、その必要があるでしょうか、それともないでしょうか?",
"私の考えでは、ありませんね。"
],
[
"一體幾らお出しになるつもりなんです?",
"まあ四五百ルーブルですね。",
"ほう!"
],
[
"どうとも御隨意に。",
"じゃ、はずしましょう!"
],
[
"パーヴェル・パーヴロヴィチが先刻そう言ったじゃありませんか。",
"嘘ですわ。あたしのはほんのお座興よ。聲だって惡いんですもの。",
"私だつて碌な聲じゃありませんがね、とにかく歌いますよ。"
],
[
"ちょっとお耳を!",
"まあまあ、この人ったらちょっとお耳をですって!"
],
[
"結構です。ただお斷りして置きますがね、私は非常に氣分が惡いもんですから……",
"いや、長居は致しませんよ、長居は!"
],
[
"いや何、別にその……ただ馭者がね……",
"今夜はお酒は飮ませませんよ!"
],
[
"え? なんです? ああそうか、あなたはまだあのことを……。",
"みんな別莊友だちのせいでさ! それに當人はまだほんのねんねですものね。ついそのお上品なとこを見せようってんで、ああして力み返るんでさ、それだけのことですよ! なあに、却ってもう可愛いくらいのもので。ところで、いざその――いざ結婚したとなったら、私はもうあの娘の奴隷になるつもりなんですよ。世のなかへ出て、ちやほやされて見りゃあ……がらりと人柄が變っちまうもんでさあ。"
],
[
"何を試しにです?",
"その、どんな效果を來たすか……。だって、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、何しろあの家に眼をつけて以來、まだほんの一週間なんですからねえ(彼はますます狼狽してきた)。そこへもってきて、昨夕あなたにお目にかかったので、ふっとこんなことを考えたんです、『そうだ、俺はまだ一度もあの娘を、外部の世界に置いて、というのはつまり、あの娘が私以外の男性と一緒にいるところをですな、見たことがないじゃないか……』とね。いやはや今になって見れば、じつもって馬鹿げきった考えですがね、餘計な考えですがね。ところが例の因果な私の性分で、そうと思ったらもう矢も盾も堪らなくなっちまったんですよ……"
],
[
"そんなことを仰しゃらないでくださいよ、アレクセイ・イヴァーノヴィチ、なんだか悲しい氣持になっちまいますもの。私が申すのもなんですが、つまりそれほどナヂェージダ・フェドセーヴナを尊敬しているんですから……",
"いやどうも、これは失禮、別にそんなつもりはなかったんですよ。――私はただ、あなたがひどくその道にかけての私の腕前を買い被っておられるくせに……しかもその……あれほどまでに誠心誠意わたしの徳義心を信用してかかられたのが……なんだか變に思えるんですよ。",
"私があなたを信用してかかったのは、そりゃあつまり、以前のことに……過去の事實に照らしてですよ。"
],
[
"いや、その私は何も……そんなことを、つまりそういう意味で申したんじゃないんですよ。――私が申したかったのは、あなたがよしどんな……先入主をいだいておられるにせよ……",
"そうです、先入主をいだいているにもせよ、ですよ。"
],
[
"アレクサンドル・ロボフ。",
"なんですか、そのアレクサンドル・ロボフというのは?",
"私です。まだお聞きじゃありませんでしたか?",
"ありませんな。",
"もっともお耳にはいるわけもありませんからね。私はあなた御自身に關係のある重大問題を抱えて來たんです。ところで御免を蒙って掛けさせて頂きますよ、私は疲れて……"
],
[
"お構いなく、私は立ってましょう。",
"くたびれますよ。それからヴェリチャーニノフさん、あなたはもしなんでしたら席をおはずしにならんでも結構ですよ。",
"はずそうにもはずし場がありませんね。何しろ自分の家ですから。",
"じゃ御隨意に。じつをいうと私はこの方と談判をしているあいだ、あなたに立會って頂きたいくらいなんですよ。ナヂェージダ・フェドセーヴナがあなたのことを、私の前でさかんに褒めちぎっていましたっけ。",
"ほほう! そりゃまた、いつのまにそんなことを?"
],
[
"妙ですねえ。",
"なん、なんですと?",
"いや、なんとしても妙ですよ、それだけはあなたもお認めのはずです。もっとも、あなたが何かその――感違いをなすってらしたということも、大いにあり得ることとして許せますがねえ。"
],
[
"その『あまりにもお年のいっていない』というのは、一體どういう意味です? 僕はもう十九歳と一カ月になっているんですよ。法律の上で僕はもうとっくに結婚する權利があるんですよこれだけ言えば澤山でしょう。",
"だが、現在あなたに自分の娘をやる氣になる父親がどこの世界にあるでしょうか――よしんばあなたが未來の百萬長者、もしくは未來の人類の大恩人であるにしてもですよ。――十九やそこらの年ごろでは自分の身の始末だってできやしません。それをあなたはまだそのうえに、他人の將來をまで、あなたとおなじくまだほんの赤ん坊にひとしい少女の將來をまで、背負って立つ氣でいらっしゃる! どうもあんまり見上げた考えとは言えないようですね、え、どうですかね?――私がこんな差出がましいことを申すのも、あなたがさっき御自分でこの私を、あなたとパーヴェル・パーヴロヴィチのあいだの仲介者のようにお扱いになったからですよ。"
],
[
"なんだってそこの紳士は妙な笑いかたをするんだろう! いかにも御察しのとおりです――これはプレドポスィロフの思いつきなんです。それにしてもどうです、巧いもんじゃありませんか。いい加減な法律なんぞは慘として顏色なしですよ。そりゃもちろん、僕はあの女を永久に愛するつもりですし、またあの女も、お腹をかかえてただもう笑い轉げているだけの話です。――しかしなんといったって、いい知惠には違いないですし、また今になってはあなただっても、これが見上げた立派な態度であり、また萬人が萬人敢行しうるものではないことは、御承認くださるでしょうね?",
"私に言わせると、見上げたどころの騷ぎじゃない、むしろ醜惡ですね。"
],
[
"ひとつ用件に戻って頂きたいもんですな。",
"これは出過ぎたことを申して失禮しました、どうぞお腹立ちなく。別に他意あって言ったわけじゃないんです。じゃ先をつづけましょう。僕は決してあなたが仰しゃったような未來の百萬長者でもなんでもありません。(まったくあなたも面白いことを考える人ですね!)僕は御覽のとおり、これだけの人間なんですが、しかし自分の未來についてはこれでも十分の自信は持っていますよ。僕は英雄になるつもりもないし、また人類は愚か、なんぴとの恩人にもなる氣はありませんが、ただ自分と女房の生活は保障するつもりです。もちろん今の僕には一文もないです。それどころか僕は、小さな時からあの家で養われて來た男なんです……。",
"と仰しゃると?",
"つまり僕は、あのザフレービニナ夫人の遠縁にあたる者の息子なんです。僕の一家がみんな死に絶えてしまって、八歳の僕がひとり取殘されたのを見ると、あの親爺さんが僕を引き取ってくれて、やがて中學校に入れてくれたんです。――これも餘計なことか知れませんが、あの人はあれでなかなかいい人ですよ。……",
"それは知っています。……",
"はあ。ただ文句をいえば頭が少々古すぎてね。しかし、いい人には違いないです。今じゃもちろん、もうとうからあの人の後見のもとからは離れているんです。他人の世話にもならずに、一本立ちの生活がしたかったものですから。"
],
[
"もうかれこれ四カ月になります。",
"ははあなるほど、それでよくわかりましたよ。つまり幼な友だちってわけですね! すると就職口は見つかったんですか?",
"ええ、別に官廳じゃないんですが、ある公證人の事務所で、手當ては月二十五ルーブルなんです。もちろんほんの一時の腰掛けのつもりですが、結婚を申しこんだ時にゃ、何しろこれだけの收入だってなかったんですからねえ。その時は鐵道に勤めて十ルーブルもらっていました。だが、こりゃあみんな一時の腰掛けなんですよ。",
"すると、結婚の申しこみまでしたと言うんですか?",
"正式の申しこみをね。それももう三週間も前のことですよ。",
"で、どうでした?",
"親爺さんは大笑いをして、それからかんかんに怒って、あのひとをそのまま中二階に閉じこめちまったんです。しかしナーヂャは健氣にも氣持を變えませんでした。ところでこの散々の不首尾も、もとはといえば親爺さんが前々から僕に含むところがあったからなんです。つまり僕が四カ月前、まだ鐵道に勤めないうちに、あの人の役所に勤めさせてもらっていたのを、自分から追ん出てしまったからなんですよ。もう一度いいますが、あの親爺さんはまったく立派な人間だし、家庭では磊落で面白い人ですがね、いざ役所の閾をまたぐが早いか、途端に人間ががらりと變っちまうんです。その樣子ときたらとても御想像も及びませんよ! まあジュピターよろしくの體でふんぞり返ってるんですからねえ! 僕は自然、あの人の態度が氣にくわなくなったという氣持を、あの人の前で見せるようになりましたが、僕が追ん出ることになった主な原因は、一に課長次席の奴にあるんです。その先生がね、僕が先生の前で『暴言を吐いた』とかいうんで、上申してやるなんて言いだしたんですよ。本當のところはただ頭が足りないって言ってやっただけの話なんですがねえ。そこで僕はあの連中のところを追ん出て、今じゃ公證役場にいるというわけなんです。",
"で、役所じゃ澤山とっていたんですか?",
"なあに、臨時傭いでさ! もっとも親爺さんがそのほかに食扶持をくれちゃいましたがね。――いや實際親切ないい人ですよ。とはいえ、僕たちは斷然頑張り通すつもりです。もちろんそりゃあ二十五ルーブルじゃ生活の保障どころじゃありませんが、まもなく僕は、ザヴィレイスキイ伯爵の亂脈になった領地の整理に一口乘ることになるはずなんです。そうしたらぽんと三千ははいりますからねえ。それが駄目だったら辯護士になります。何しろ人物拂底の當節ですからね……。おや! ひどい雷だな、雷雨が來ますね。だが降りださないうちに來られてよかった。何しろあすこから徒歩って來たんですよ、ほとんど駈けどおしでね。",
"だがしかし、目下そういう雲行きだとすると、いつのまにナヂェージダ・フェドセーヴナと話をする暇なんかあったんです? おまけにあの家じゃあなたを全然寄せつけないとすると?"
],
[
"なんの構わないことがあるもんですか、『コブィリニコフのお腹が痛む』のに。――そんな文句がシチェドリンにありましたね、覺えておいでですか? あなたはシチェドリンがお好きですか?",
"ええ。……"
],
[
"そこで、あなたは――つまり私が可哀そうなあまり腕環を返してくださらなかったんですね――え、そうですか?",
"その暇がなかったもんで……",
"しんから可哀そうなあまり、つまり親友のなかの親友としてですね?"
],
[
"そんなことを仰しゃるのは愚劣ですよ。だがまあ、それも大目に見てあげなければなりますまい。だが今しがた自分で御覽になったじゃありませんか、この事件の張本人は私じゃなくてほかの人間だということを!",
"それにしたって、ぽおっとなったには違いありませんや。"
],
[
"あなたは泊ってってくださいね……今何時です?",
"まもなく二時です、十五分前ですよ。",
"泊ってらっしゃい。",
"泊りますよ、泊りますよ。"
],
[
"いや別に……ただちょっと。――で君のお話は?",
"ちぇっ馬鹿馬鹿しい、あんたという人も隨分おかしな頭の𢌞りかたのする人だなあ! あの人は首なぞ吊りゃしませんぜ。(またなんで首を吊ることがあるもんか?)それどころか、恙がなく退京しちまったんですよ。僕はつい今しがたあの人を汽車に乘っけて、發たせてきたところなんです。いやはや、じつにあの人ときたら飮み助ですなあ! 僕たちは三本も倒しちまったんですよ、もっともプレドポスィロフも一緒でしたがねえ。――がそれにしても、あの人はじつによく飮む、凄い飮み助だ! 車室のなかで何やら歌を唄っていましたっけが、やがてあんたのことを思い出して、ちょいと投げキスをして、あんたに宜しくと言いましたぜ。だが根性の卑しい男ですね、あんたはどう思います、――ええ?"
],
[
"じゃとどのつまり、君たちは兄弟の盃というわけでめでたしめでたしか! あっはっは! 相擁して泣いたというわけか! ああ君たち、シルレルのともがらよ、詩人よだ!",
"まあそうやっつけないでくださいよ、ねえ。それよか、どうでしょう、あの人はあすこのことはさっぱりと諦めちまったんですよ。昨日もあの家へやって來ましたし、今日もやって來たんです。そして厭っとこさ僕たち二人のことを言附けたんです。ナーヂャは閉じこめられて中二階にはいったきりなんです。どなって威かしたり、泣いてすかしたり、そりゃもう大へんな騷動なんですが、なあに僕たち、びくともしませんや! それはそうとあの人はじつに飮みますねえ、あんたの前ですが、じつによく飮みますねえ! それにあの人はじつにモオヴェトン(譯者註。下品なというほどの意)ですよ、いやモオヴェトンじゃまずい、なんて言うのかなあ? ……とにかくしょっちゅうあんたの思い出話をやっていましたが、同じあんたを形容するにしてもその言い𢌞しがじつに下卑てましてねえ! あなたはとにかく紳士に違いないし、また實際ひと昔前には上流社會の一員だったわけなんですし、それがただ最近になって、こうして落ちぶれなければならん羽目に――貧乏のためだったかな、はてな……。ええ忌々しい、じつはあの人の言うことがよく聞き取れなかったんですよ。",
"ははあ、あの男はそんな言い𢌞しで、私のことを君がたに話して聽かせたんですね?",
"そうです、あの人なんです、だから怒らないでくださいよ。身輕な市民になったほうが、上流社會になんぞうろついてるよりはましですものね。僕はまたこう思うんですよ、現代のわがロシヤには誰一人として崇拜に値いする人物がいないとね。この崇拜すべき人物がないということは、すなわち時代の由々しい病弊ではありますまいか? あんただってそうお考えでしょう? え、いかがです?",
"そうです、そうですとも。それからあの男はなんと言いました?",
"あの男? 誰のことだろう! ――あっ、そうそう! なんだってまたあの人は、あなたのことをしょっちゅう、『五十づらを下げて、そのくせ身代限りをしたヴェリチャーニノフ』と言うんでしょうかねえ? 僕にはわかんないなあ。なぜわざわざ、そのくせ身代限りをした、なんて言うんでしょうね。ただ『身代限りをした』で結構じゃありませんか! それをあの人はげらげら笑いながら、千度もくり返して聞かせるんですよ。いざ車室に乘り込むと、何か歌を唄いだしたんですが、それからめそめそ泣きだしちまって――いやどうも胸糞が惡くなっちまいましたよ。それも、醉ったまぎれの醜態だと思えばむしろ氣の毒なくらいでしたよ。ああ厭だ、馬鹿な奴等はじつに厭だ! やがての果てには、リザヴェータの冥福のためだといって、乞食に金をばら撒きはじめたんです。――それはあの人の細君のことなんですか?",
"娘です。",
"あなたのその手はどうしたんです?",
"切ったんですよ。",
"なあに、じきによくなりまさあ。とにかくあいつめ、いいあんばいに發って行っちまいましたがね。だが僕は斷然保證しますぜ、あいつは行き着く先で、すぐまた結婚しちまうに相違ありませんよ。――ね、そうでしょう?",
"そんなことを言って、君だって結婚したいんじゃありませんか?",
"僕ですか? 僕は別問題ですよ――あんたという人は、本當になんて口が惡いんだろう! もしあんたが五十なら、あの人はもうたしかに六十にはなってますね。そこを考えなけりゃ駄目ですよ、ねえ、閣下! ついでだから言っちまいますが、僕はずっと以前には、これでも信念の堅いスラヴ主義者だったんです。だが今じゃ、僕たちは西方から射す曙光を待ち焦れているんですよ。……じゃ、さよなら。あんたの部屋まで行かない先にここでお目にかかれて有難かった。今日はお寄りしませんよ、まあ上がれなんて言わないでください、暇がないんです!……"
],
[
"今も言ったじゃありませんか、行かないってね。――あんたはなんておかしな人だろう!",
"弱ったなあ……もしそうだとすると、もう一週間して、あなたはいらっしゃらない、オリンピアーダ・セミョーノヴナは待っている、ということになったら、私は彼女になんと言ったもんでしょうなあ?",
"なんでもないじゃありませんか! 私が足を挫いたとかなんとか言って置きゃいいですよ。"
],
[
"ところであのミーチェンカという人は、あなたがたの何なんです?",
"ああ、あれはね、私どもの、と言ってもつまり私のほうの、遠縁に當たる者なんです。今では亡くなっている私の從姉の忘れ形見でしてね、ゴループチコフという苗字なんですが、一度は品行不良の廉で一兵卒に貶されましてね、今また改めて士官に昇進したというわけなんです。……今度の任官についても、用意萬端すっかり私どもの手で調えてやりましたがね……。不仕合わせな青年でさ……"
]
] | 底本:「永遠の夫」岩波文庫、岩波書店
1952(昭和27)年9月5日第1刷発行
2006(平成18)年2月23日第7刷発行
※表題は底本では、「永遠の夫《おっと》」となっています。
※「奥」と「奧」、「蝋燭」と「臘燭」、「物凄い」と「物淒い」、「眞」と「真」、「騷」と「騒」、「パーヴェル・パーヴロヴィチ」と「パーヴエル・パーヴロヴィチ」の混在は、底本通りです。
入力:高柳典子
校正:Juki
2017年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "046886",
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"Chevalier って誰のことです?",
"長老のことですよ。すばらしい長老ですて。実にすばらしい……。この修道院のほまれですよ。ゾシマ長老。あのかたはまことに……"
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"むろん、行かないでどうします。僕がここへ来ましたのは、つまり修道院の習慣をすっかり見せてもらうためなんですからね。ただ一つ困るのは、あなたと御いっしょに来たことでしてな、フョードル・パーヴロヴィッチ……",
"それに、ドミトリイがまだ来ませんしな"
],
[
"あなたの知ってるのはそんなことぐらいですよ。……どうしてあの男がフォン・ゾンに似てるんです! あなたは自分でフォン・ゾンを見たことがあるのですか?",
"写真で見ましたよ。別に顔つきが似ておるわけじゃないが、どことなしにそんなところがあるんですよ。正真正銘フォン・ゾンの生き写しだ。わしはいつでも顔つきを見ただけでそういうことがわかるんでしてね"
],
[
"平民の女性は、今でも、そら、あすこの廊下のそばに待っております。ところで、上流の貴婦人がたのためには小部屋が二つ、この廊下に建て添えてありますが、しかし囲いの外になっておりますので、そら、あすこに見えておる窓がそうです。長老は気分のよいときには内側の廊下を通って、婦人がたに会いに行かれるのです。つまり、囲いの外で。今も一人の貴婦人のかたが――ハリコフの地主でホフラーコフ夫人とかいうかたが、病み衰えた娘御を連れて待っておられます。たぶんお会いすると、約束をされたのでございましょう。もっとも、このごろは非常に衰弱されて、一般の人たちにもめったに会いに出られませんが",
"じゃあなんですな、やっぱり庵室から婦人がたのところへ、抜け穴が作ってあるわけですな。いやなに、神父さん、わしが何かその、妙なことでも考えておるなどと思わんでくださいよ。別になんでもないので、ところで、アトスでは、お聞き及びでしょうが、女性の訪問が禁制になっとるばかりか、どんな生物でも牝はならん、牝鶏でも、牝の七面鳥でも、牝の犢でも……",
"フョードル・パーヴロヴィッチ、僕はあなたを一人ここへうっちゃっといて、帰ってしまいますよ。僕がいなかったら、あなたなんぞ両手をつかんで引っ張り出されてしまいますぞ、それは僕が予言しておきますよ"
],
[
"どうすればよいかは、自身で疾うから御存じじゃ。あなたには分別は十分にありますでな。飲酒にふけらず、ことばを慎み、女色、別して拝金に溺れてはなりませんぞ。それからあなたの酒場を、皆というわけにいかぬまでも、せめて二つでも三つでもお閉じなされ。が、大事なことは、いちばん大事なことは――嘘をつかぬということですじゃ",
"と申しますと、ディデロートの一件なんでございますか?",
"いや、ディデロートのことというわけではない。肝心なのは、自分自身に嘘をつかぬことじゃ。みずからを欺き、みずからの偽りに耳を傾ける者は、ついには自分の中にも他人の中にも、真実を見分けることができぬようになる。したがって、みずからを侮り、他人をないがしろにするに至るのじゃ。何びとをも尊敬せぬとなると、愛することも忘れてしまう。愛がなければ、自然と気を紛らすために、みだらな情欲に溺れて、畜生にも等しい乱行を犯すようなことにもなりますのじゃ。それもこれもみな他人や自分に対する、絶え間のない偽りから起こることですぞ。みずから欺く者は何よりも先にすぐ腹を立てやすい。実際、時としては、腹を立てるのも気持のよいものじゃ。な、そうではありませんかな? そういう人はちゃんと承知しておりますのじゃ、――誰も自分をはずかしめたのではなく、自分で侮辱を思いついて、それに潤色を施すために嘘をついたのだ。一幅の絵に仕上げるために、自分で誇張して、わずかな他人のことばにたてついて、針ほどのことを棒のように言いふらしたのだ、――それをちゃんと承知しておるくせに、われから先に腹を立てる。それもいい気持になって、なんとも言えぬ満足を感じるまでに腹を立てるのじゃ。こうして本当の仇敵のような心持になってしまうのじゃ……。さあ、立ってお掛けくだされ、どうかお願いですじゃ、それもやはり偽りの所作ではありませぬかな"
],
[
"それはわたくしもよく存じませんので。いや、いっこうに知りませんよ。なんでもぺてんにかけられたとかいう話ですがな。わたくしも人からのまた聞きでして。ところで、いったい誰から聞いたとおぼしめしますか。このミウーソフさんですよ。たった今ディデロートのことで、あんなに腹を立てたミウーソフさんですよ。この人がわたくしに話して聞かせたのです",
"僕はけっして、そんな話をあなたにしたことはありませんよ。それに全体、僕はあなたとなんか、てんで話をしやしませんよ",
"なるほど、わしにお話しなされたことはありませんが、あんたが人中で話しておられた席に、わしも居合わせたというわけですよ。なんでも四年ばかり前のことでしたなあ。わしがこんなことをもちだしたのも、このおかしな話でもって、あんたがわしの信仰をぐらつかせなされたからですぜ、ミウーソフさん。あんたは何も御存じなしだが、わしはぐらついた信仰をいだいて帰りましたのじゃ。それ以来いよいよますます、ぐらついてきておるんですぜ。ほんとにミウーソフさん、あんたは大きな堕落の原因なんですぜ。これはもうディデロートどころの騒ぎじゃないて!"
],
[
"町の者でございます、神父様、町の者でございます。農家の生まれではございますが、今は町方の者でございます。町に住まっておりますんで。おまえ様に一目お目にかかりに参じました。お噂を聞きましたのでなあ。小さい男の子の葬いをしておいて巡礼に出たのでございます。三ところのお寺へお参りしましたところ、わたくしに、『ナスターチャ、こちらへ――つまりおまえ様のことでございますよ、――こちらへ行ってみろ』って教えてくれましたので。こちらへやって参じまして、昨日は宿屋に泊まりましたが、今日はこうしておまえ様のところへ参じましたんで",
"何を泣いておいでじゃな?",
"倅が可哀そうなのでございます、神父様、三つになる子供でございました、まる三つにたった三月足りないだけでございました。倅のことを思って苦しんでおるのでございます。それも、たった一人あとに残った子でございました。ニキートカとのあいだに四人の子供をもうけましたが、どうもわたくしどもでは子供が育ちません。どうも、神父様、育たないのでございます。上を三人亡くしたときには、それほど可哀そうにも思いませなんだが、こんどの末子だけは、どうにも忘れることができません。まるでこう目の前に立っておるようで、どかないのでございます。まるで胸の中も涸あがってしまいました、あれの小さい着物を見ては泣き、シャツや靴を見ては泣くのでございます。あの子が後に残していったものを、一つ一つ広げて見ては、おいおい泣くのでございます。そこで配偶のニキートカに、どうか巡礼に出しておくれと申しましたのでございます。配偶は馬車屋でございますが、さほど暮らしに困りませぬので、神父様、さほど暮らしには困りませぬので。ひとり立ちで馬車屋もいたしておりまして、馬も車もみんな自分のものでございます。けれど今となって、こんな身上がなんの役に立ちましょう? わたくしがおりませんでは、きっとうちのニキートカはむちゃなことをしているに違いありません。それはもう確かな話でござりますよ。以前もそうでございました。わたくしがちょっと眼を放すと、すぐもうぐらつくのでございますよ、でも今ではあの人のことなど考えはいたしません。もう家を出てから三月になります。わたくしはすっかり忘れてしまいました、何もかも忘れてしまって、思い出すのもいやでございます。それにいまさらあの人といっしょになったところで、なんといたしましょう。わたくしはもうあの人とは縁を切ってしまいました。誰とも縁を切ってしまいました。自分の家や持ち物なんぞ見たいとも思いませぬ。なんにも見たいとは思いませぬ!"
],
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"アレクセイでございます。神父様",
"よい名まえじゃ。アレクセイ尊者にあやかったのじゃな?",
"尊者でございます、神父様、アレクセイ尊者でございます!",
"それはなんという聖い子じゃ! 回向をして進ぜよう、回向をして進ぜるよ! それからそなたの悲しみも祈祷の中で告げてあげようし、配偶の息災も祈ってあげよう。ただ、配偶を捨てておくのはそなたの罪になるのじゃ。帰ってめんどうを見てやりなされ。そなたが父親を見すてたのを天国から見たら、その子はそなたたちのことを思って泣くじゃろう。どうしてそなたは子供の冥福に傷をつけるのじゃ? その子供は生きておるのじゃよ。おお生きておるとも、魂は永久に生きるものじゃもの。家にこそおらねど、見え隠れにおまえがたのそばについておるのじゃ。それなのにそなたが、自分の家を憎むなぞといったら、どうして子供が家へはいって来られよう! おまえがた二人が、父親と母親がいっしょにおらぬとしたら、子供はいったいどっちへ行ったらよいのじゃ? 今そなたは子供の夢に苦しんでおるが、配偶のところへ帰ったなら、子供が穏かな夢を送ってくれるじゃろう。さあ、おっかさん、帰りなされ、今日すぐ帰りなされ"
],
[
"ところがつい先ごろ、ステパニーダ・イリイニシナ・ペドリャーギナという、金持ちの商家のお内儀さんが、『プローホロヴナ、いっそ息子さんの名まえを過去帳へ書きこんで、お寺様へ持って行ってお経をあげておもらいよ。そうすれば息子さんの魂が悩みだして、きっと手紙をよこすようになるよ。それは現金なもので、これまでもたびたび験されたことなんだから』って、そうステパニーダさんが言うんですけど、わたしはどうかと存じますんで!……。神父様、いったい本当でございましょうか、そんなことをしてよろしいものでございましょうか?",
"そのようなことは考えることもなりませぬぞ。尋ねるのも恥ずかしいことじゃ。第一、生きておる魂を、それも現在生みの母が供養するなどということが、どうしてできるのじゃ? それは大きな罪で、妖術にも等しいことじゃ。ただ、そなたは何も知らなんだのじゃからぜひもないが。それよりも、すぐに、たれにでも味方をして助けてくださる聖母様にお祈りをして、息子の息災でおりますように、また間違った考えを起こした罪をお許しくださりますようにと、お願いしたがよろしいぞ。それからプローホロヴナ、わしはそなたにこれだけのことを言っておこう。――その息子さんは近いうちに自分で帰って来るか、それとも手紙をよこすに決まっておる。そなたもそのつもりでおるがよい。さあもう安心して帰りなされ、そなたの息子は息災でおるのじゃよ",
"おありがたい長老様、どうかあなた様に神様のお恵みのありますように! ほんにあなた様はわたくしどもの恩人でございます。わたくしども一同のために、またわたくしどもの罪障のために、代わって祈ってくださるおかた様でいらっしゃいます!"
],
[
"三年になるのじゃな?",
"三年目でございます。初めのうちはなんとも思いませなんだが、このごろは、ぶらぶら病にかかるほど、気がふさいでまいりました",
"遠方かな?",
"ここから五百露里でございます",
"懺悔のとき、話したのじゃな?",
"話しましてございます。二度も懺悔をいたしました",
"聖餐はいただいたかな?",
"いただきました。恐ろしゅうございます。死ぬのが恐ろしゅうございます",
"何も恐れることはない、けっして恐れることはない、くよくよすることもいらぬ。ただそなたが懺悔の心を衰えぬようにしさえすれば、神様は何もかも許してくださるのじゃ。それに、真実心に後悔しておる者を神様が許してくださらぬような、そんな罪業は、けっしてこの世にあるものではない、またあるべきはずもないのじゃ。それにまた、限りない神様の愛をさえ失ってしまうような、そんな大きな罪が犯せるものではない。それとも神様の愛でさえ追っつかぬような罪でもあるというのか? ひたすら怠りなく、懺悔精進して、恐ろしいという心を追いのけるがよい。神様はそなたのとうてい考え及ばぬような愛を持っていらっしゃるぞ、たとえそなたに罪があろうとも、そなたの罪のままに、そなたを愛していらっしゃるということを信じなされ。一人の悔い改むるもののためには、十人の正しきものによってよりも、天国に喜びは増すべけれと、昔から言ってある。さあ帰りなされ、恐れることはない。人の言うことを気にしたり、侮蔑に腹を立てたりしてはならぬ。死んだ配偶がそなたをはずかしめたことはいっさい許して、真底から仲なおりをするのじゃ。もし後悔しておるとすれば、つまり愛しておるのじゃ、もし愛しているならば、そなたはもはや神の子じゃ……愛はすべてのものを贖い、すべてのものを救う。現にわしのようにそなたと同じく罪深い人間が、そなたの身の上に心を動かして、そなたをあわれんでおるくらいじゃもの、神様はなおのことではないか。愛はまことにこのうえもない宝で、これがあれば世界じゅうを買うこともできる。自分の罪はいうまでもなく、人の罪でさえ贖うことができるのじゃ、さあ帰りなされ、恐れることはない"
],
[
"ウィシェゴーリエから参じましたよ",
"それは六露里からあるところを、子供を抱いて、さぞくたびれたじゃろう。何の用じゃな?",
"おまえ様を一目拝みに参じましただ。わしはようおまえ様のところへ参じますだに、お忘れなされましただかね? わしを忘れなされたとすりゃ、あんまり物覚えのええおかたではないとみえるだ。村ではおまえ様がわずらっていなさるちゅうこんだで、ちょっとお見舞いにと思って参じましただ。ところがお目にかかってみれば、なんの御病気どころか、まだこのさき二十年でも生きなされますよ、本当に。どうか息災でいておくんなさりまし! それにおまえ様のことを祈っておる者は大ぜいありますだで、おまえ様がわずらいなどなされるはずがござりましねえだよ",
"いや、いろいろとありがとう",
"ついでに一つ、ちょっくらお願いがござりますだよ。そうら、ここに六十カペイカござりますだで、これを、わしより貧乏な女子衆にくれてやってくださりまし。ここへ来てから考えましただ、長老様に頼んで、渡しておもらい申したほうがええ、あの方は誰にやったらええか、よう御存じじゃから、となあ",
"ありがとうよ、かみさん、ありがとう。わしはそなたの美しい心がけが気に入った。必ずそのとおりにして進ぜよう。抱いておるのは娘かな?",
"娘でござります、長老様、リザヴェータと申しますだ",
"神様がそなたたちふたりに、そなたと稚ないリザヴェータとに祝福をたれたまわんことを。ああ、おっかさん、そなたのおかげで心が晴れ晴れしてきましたわい。ではさようなら、皆の衆、さようなら、大事な愛しい皆の衆!"
],
[
"お嬢さんの御健康はいかがですな? あなたはまた、わしと話がしたいと言われるのかな?",
"ええ、わたくしはむりやりにたってお願いいたしたのでございます。わたくしはあなたのお許しが出るまでは、お窓の外にこの膝を地べたについたまま、三日でもじっとして待っている覚悟でございました。わたくしどもはこの歓びに溢れた感謝の心を、腹蔵なくお目にかけるためにまいったのでございます。あなたは宅のリーザをなおしてくださいました、すっかりなおしてくださいました。それもあなたは、ただ木曜日にこの子のお祈りをしてくださいまして、お手を頭へ載せてくだすっただけではございませんか。わたくしどもはそのお手を接吻して、わたくしどもの心持を、敬慕の念を汲みとっていただくために、急いでまいった次第でございます!",
"どうしてなおしたとおっしゃられるのかな? お嬢さんはやはり椅子に寝ておられるではござりませぬか?"
],
[
"とりわけ何ですかな",
"わたくしの悩んでおりますのは……不信でございます……",
"神を信じなさらぬのかな?"
],
[
"まあ、ほんとにありがとうございます! それで、わたくしはよく目をつぶって、こんなことを考えるのでございます――もしすべての人が信仰を持っているのだったら、どこからそれを得たのでしょう? ある人たちの説くところでは、すべてそれは、初め自然界の恐ろしい現象に対する恐怖の念から起こったもので、本来は何もあるものではないというのだそうでございます。ところで、わたくしそう思いますの――こうして一生、信じ通しても、死んでしまえば急に何もかもなくなってしまって、ある小説家の書いたもので見ましたように、『ただ墓の上に山牛蒡が生えるばかり』であったら、まあどうでございましょう。それは恐ろしいことでございます! 本当にどうしたら信仰を呼び戻すことができましょうかしら? もっとも、わたくしが信じておりましたのは、ほんの小さい子供のころだけで、それもなんの考えもなく機械的に信じていたのにすぎませんけれど……どうしたら、本当にどうしたらこのことが証明できましょうか、今日わたくしはあなたのお前にひれ伏して、このことをお尋ねしようと存じて、お邪魔にあがったのでございます。だって、もしこの機をのがしましたなら、生涯わたくしの問いに答えてくれる人はございませんもの。どうしたら証明ができましょうか、どうしたら信念が得られましょうか? ほんとにわたくしは薄倖でございます。じっと立ってぐるりを眺めましても、みんな、たいていの人が平気な顔をしています、今ごろ誰ひとりそんなことに心を煩わしている人はありません。ただひとりわたくしだけ、それが耐えられないのでございます。本当にそれは死ぬほどつろうございます、死ぬほど!",
"それは疑いもなく死ぬほどつらいことですじゃ! しかし、それについては証明するということはとうていできぬが、信念を得ることならばできますぞ",
"どうしたら? どういう風にいたしたらよろしゅうございましょうか?",
"それは実行の愛じゃ。あなたの隣人を実際に、根気よく愛するようにつとめて御覧なされ。その愛の努力がすすむにつれて、神の存在も自分の霊魂の不滅も確信されるようになりますのじゃ。もし隣人に対する愛において、完全な自我の否定に到達したならば、その時こそ、もはや疑いもなく信仰が得られたので、いかなる疑惑もあなたの心に忍びこむことはできませんのじゃ。これはもう実験ずみの、確かな方法なのじゃから",
"実行の愛? それがまた問題でございます。しかもたいへんな問題でございます! 長老様、わたくしはときどき、自分が持っているいっさいのものを投げすて、リーザも見すてて、看護婦にでもなろうかと空想するくらい、人類を愛しているのでございます。じっとこう眼をつぶって空想しておりますと、わたくしは自分の中に押えることのできない力を感じるのでございます。どんな傷口も、どんな膿だらけの腫瘍も、わたくしを脅かすことはできないでしょう。わたくしは自分の手で傷所を包帯したり洗ったりして、苦しめる人々の看護婦になるでしょう。膿だらけの傷口を接吻することもできるくらいです……",
"ほかならぬそういうことを空想されるとすれば、それだけでもたいへん結構なことじゃ。いや、いや、そのうちひょっくりと、何か本当によいことをなされるときもありましょうわい"
],
[
"ですけれど、どうしたらよろしいのでしょう? そんな場合にはどうしたらよろしいのでございましょうか? それでは絶望するほかないではございませんか?",
"いや、そうではないのじゃ。あなたがこのことについて、そのように苦しみなされる……ただそれだけでたくさんなのじゃから。できるだけのことをなされば、そのうちに、うまく帳尻が合ってきますのじゃ。あなたがそれほど深く、真剣に自分というものを知ることができたからには、もはやあなたは多くのことを行なったわけになりますのじゃ! がもし、今あのように誠実に話されたのも、その誠実さをわしに褒めてもらいたいがためだとすれば、もちろんあなたは実行的な愛の道で、何物にも到達されることはありませんぞ。すべてが空想にとどまって、一生は幻のごとくにひらめき過ぎるばかりなのじゃ。やがては来世のことも忘れ果てて、ついには勝手なあきらめに安んじてしまわれることはわかりきっておりますわい",
"あなたはわたくしをおしつぶしておしまいなされました! たった今あなたにそうおっしゃられて、わたくしははじめて気がつきました。ほんとにわたくしは、恩知らずな仕打ちを我慢することができないと白状いたしました時、自分の誠実さを褒めていただくことばかり当てにしておりました。あなたはわたくしに自分というものを知らせてくださいました。あなたはわたくしの正体を取り押えて、わたくしに見せてくださいました!",
"あなたはしんから、そう言われるのかな? そういう告白をなされたからには、今こそわしは、あなたが誠実なかたで、善良な心を持っておいでだと信じますじゃ。よしや幸福にまでは至らぬにしても、いつも自分はよき道に立っておるということを覚えておって、その道を踏みはずさぬように心がけられたがよい。何より大切なのは偽りを避けることじゃ、あらゆる偽り、ことに自分自身に対する偽りを避けなければなりませぬ。自分の偽りを観察して、一時間ごと、いや一分間ごとにそれを吟味なさるのじゃ。それから、他人に対しても、自分に対しても、あまり潔癖すぎるのもよくありませんぞ。あなたの心の中にあってきたなく思われるものも、あなたがそれに気づいたという一事で、すでに清められておりますのじゃ。恐怖もやはり同じように避けなければなりませんぞ――もっとも、恐怖はすべて偽りの結果にほかならぬのじゃが。また愛の到達についても、けっして自分の狭量を恐れなさるな。そればかりか、その際に犯した自分の良からぬ行ないも、あまり恐れなさることはありませんじゃ。どうもこれ以上に愉快なお話しをすることができないのは残念じゃが、なにしろ実行的な愛は空想的な愛に比べると、なかなか困難な、そして恐ろしいものじゃからな。空想的な愛は急速な功績を渇望し、人に見られることを望むものじゃ。実際、極端なのは、まるで舞台の上かなんぞのように、一刻も早くそれが成就して、人に見て感心してもらいたいが山々で、それがためには命を棒に振っても惜しくない、というほどになるのじゃ。ところが、実行の愛となると、これはとりもなおさず労働と忍耐じゃ。またある人にとっては一つの立派な学問かもしれぬ。しかし前もって言っておきますがの、どのように努力しても目的に達することができぬばかりか、かえってそれから遠のいて行くような気がして、慄然とする時、そういう時、あなたは忽然として目的に到達せられるのじゃ。そして絶えずあなたを愛し、ひそかにあなたを導かれた神の奇跡的な力を、自己の上にはっきりと認められるのじゃ。御免なされ、もうこれ以上あなたとお話しをしておるわけにまいりませぬのじゃ、待っておる人がありますでな。さようなら"
],
[
"あんたがさっき『いとしげに接吻しぬ』の後ですぐ帰らないで、こうした無作法な仲間といっしょに踏みとどまるようになられたのはどういうわけでしょうな? それはほかでもない、あんたは自分が卑しめられ、侮辱されたような気がするものだから、その意趣返しに、一つ利口なところを見せつけてやろうと思って踏みとどまったのでがしょう。もうこうなっては、利口なところを見せないことには、お帰りになるわけにはいきませんからなあ",
"またですか? なんの、今すぐにも帰りますよ"
],
[
"ええ、僕はそう断言しました。もし不死がなければ善行もありません",
"もしそう信じておられるのなら、あなたは幸福な人か、それともまた、恐ろしく薄倖な人かじゃ!"
],
[
"僕はあなたと親類でもないし、これまで親類だったこともありませんよ、本当にあなたはげすな人だ!",
"わしはあんたを怒らせようと思って、わざと言ったんですよ。だって、あんたは親類だと言われるのが、ばかにお嫌いですからな。しかし、あんたがなんとごまかしなさっても、やっぱり親類にはちがいありませんよ。それは寺暦を繰ってみれば証明できまさあね。ところがイワン・フョードロヴィッチ、おまえもなんなら残るがいいよ、わしが時刻を見はからって馬車をよこしてやるからな。ミウーソフさん、あなたは礼儀からいっても、修道院長のとこへ顔を出さなくちゃなりませんて、そしてわしたちがあんたと長老のところで騒いだことを、おわびしなくちゃなりませんて……",
"あなたは本当に帰るんですか? 嘘をおっしゃるんじゃありませんね?",
"ミウーソフさん、あんなことのあった後で、どうしてそんな元気があるものですか。つい夢中になったのです、ほんとに御免なさい、皆さん、夢中になってしまったのです、おまけに打ちのめされたのですからな! ほんとに恥ずかしいことです。ねえ、皆さん、人によっては、マケドニア王アレクサンドルのような心を持っておるかと思えば、また人によっては、フィデルコの犬みたいな根性を持ったのもあります。わしの心はフィデルコの犬のほうでしてな、すっかり気おくれがしてしまいましたよ! あんなろうぜきを演じた後で、どの面さげてお食事に出たり、お寺のソースをたいらげたりできますかい? とても恥ずかしくって、そんなことはできませんよ、失礼します!"
],
[
"寝言って何?",
"あの、君の兄さんの、ドミトリイ・フョードロヴィッチに向かって、地にぬかずいてお辞儀をしたやつさ。おまけに額がこつんといったじゃないか!",
"それは君、ゾシマ長老のことなの?",
"ああ、ゾシマ長老のことだよ",
"額がこつんだって?",
"ははあ、言い方がぞんざいだというのかい! まあ、ぞんざいだっていいやね。で、いったいあの寝言は何を意味するんだ?",
"知らないよ、ミーシャ、何のことだかさっぱり!",
"そうだろう、長老が君に話して聞かせるはずはないと思ったよ。もちろん、何もむずかしい問題ではないのさ。いつもお決まりのありがたいたわごとにすぎないらしい。しかし、あの手品はわざとこしらえたものなんだぜ。今にみたまえ、町じゅうのありがたや連が騒ぎだして、県下一帯にもち回るから。『いったいあの寝言はなんの意味だろう?』ってんでね。ところが、あのお爺さんなかなか観察眼が鋭いよ。犯罪めいたものを嗅ぎ出したんだね。全く君の家は少々臭いぜ",
"犯罪ってどんな?"
],
[
"その二つの質問はまるで別々の問題だが、しかしもっともなことなんだよ。おのおの別々に答えよう。まずどういうところから感づいたかといえば、今日君の兄さんドミトリイ・フョードロヴィッチの赤裸々の正体を、突然、一瞬のあいだにすっかり見抜いてしまったからだ。さもなければ、こんなことを感づくはずはなかったのさ。つまり、何かしらちょっとしたきっかけから、すっかりあの人の全貌をつかんでしまったのさ。ああいう正直いちずで、しかも情欲の盛んな人には、けっして踏み越えてならない一線があるのだ。全くあの人は、いつどんなことで親爺さんを刀でぐさりとやらないとも限らないよ。ところが、親爺さんは酔っ払いの放埒な道楽者で、何事につけてもけっして度というものがわからない――そこでお互いにおのれを制するということがないから、あっという間に溝の中へまっさかさまに……",
"違うよ、ミーシャ、違うよ。もしそれだけのことなら。僕も安心したよ。そこまではいきゃしないから",
"なんだって君は、そんなにぶるぶる震えてるんだい? いったい君にこういうことがわかるかい? よしやあの人が、ミーチェンカが正直な人だとしても(あの人はばかだけれど正直だよ)、しかし、あの人は好色だからね。これがあの人に対する完全な定義だ、あの人の内面的本質だ。これは、親爺さんからあの人が下劣な肉欲を受け継いだからだよ。僕はただ君にだけに驚いてるよ、アリョーシャ。君はどうしてそんなに純潔なんだろう? だって君もやっぱりカラマゾフ一族じゃないか! 君の家では肉欲が炎症ともいうべき程度に達してるんだものね。ところが、今三人の好色漢がどうどうめぐりをやっている……短刀を長靴の中に隠してね。こうして三人が鉢合わせをしたんだが、君はあるいは第四の好色漢かもしれないぜ"
],
[
"じゃあ、なぜ君は今そう言って尋ねながら、僕の返事を恐れてるんだい? つまり僕の言ったことが本当だってことを承認してるんじゃないか?",
"君はイワンが好きじゃないんだね。イワンは金なんかに迷ってやしないよ",
"そうかしら? しかしカテリーナ・イワーノヴナの美貌はどうだね? 金だけが問題じゃないんだよ。もっとも、六万ルーブルといえば、まんざら憎くもなかろうがね",
"イワンはもっと高いところに目をつけてるよ。イワンは何万あろうとも、金なんかに迷わされはしない。イワンは金や平安を求めてはいない。たぶん苦痛を求めてるんだろう",
"それはまたなんという夢だろう? ほんとに君たちは……お殿様だよ!",
"ううん、ミーシャ、兄の心は荒れてるんだよ。兄の頭は囚われているんだ。イワンの考えている考えは偉大だが、まだ解決がついてないのだ。イワンは幾百万の金よりも、思想の解決を望むような人物の一人だよ"
],
[
"ううん、僕は、君がげすだなんて、考えてみようとしたこともないよ。君は賢い人間だよ、だが……許してくれ、僕はただぼんやり何の気なしに笑っただけだから。僕は、君がそう熱するのも無理はないと思うよ、ミーシャ。君があんまり夢中になるので、僕にも見当がついたんだが、君自身カテリーナ・イワーノヴナに気があるんだろう。僕は前からそうじゃないかと思っていたんだよ。それだから、君はイワン兄さんを好かないんだ。君は兄に嫉妬してるんだろう?",
"そして、あの女の金にもやはり嫉妬してるだろう? とでも言うつもりなのかい?",
"ううん、僕は金のことなんか、なんにも言ってやしないよ。君を侮辱するつもりじゃないんだもの",
"君の言うことだから信じるさ。しかしなんと言ったって、君たちや兄貴のイワンなんかどうなろうとかまやしないよ! 君たちにゃわかるまいけれど、あんな男は、カテリーナ・イワーノヴナのことは別としても、虫が好かないんだよ。何のために僕があの男を好きになるんだ、くそおもしろくもない! 向こうだってわざわざ僕の悪口を言ってくれるんだもの。僕にだってあの男の悪口を言う権利がなくってさ!",
"兄が君のことを、いいことにしろ悪いことにしろ、何か言っていたって話は聞かないよ。兄は君のことなんか、てんで話しゃしないよ",
"ところが、あの男は一昨日カテリーナ・イワーノヴナの家で、僕のことをさんざんに、こきおろしたって話を聞いたよ――それくらいあの男はこの忠実なる下僕に興味を持ってるんだよ。こうなると、いったい誰が誰に嫉妬してるんだか、さっぱりわかりゃしないさ! なんでもこんな説を、お吐きあそばしたそうだよ。もし僕がきわめて近き将来に管長になる野心をすて、剃髪を肯んじないとすれば、必ずペテルブルグへ行ってどこかの大雑誌に関係して、必ず批評欄にこびりついて、十年ばかりはせっせと書き続けるが、結局その雑誌を乗り取ってしまう。それから再び発行を続けるが、必ず自由主義的かつ無神論的方向をとって、社会主義的な陰影、というよりは、ちょっぴり社会主義の光沢をつけるのだ。がしかし、耳だけは一心にひっ立てる、というのも実際は敵にも味方にも用心して、衆愚には目をそむけるってわけだ。僕の社会遊泳の終わりは、君の兄貴の解釈によるとこうなんだ……社会主義の色調などにはお構いなく、予約金を流動資本に回して、誰かユダヤ人を顧問に、どしどし回転させて、しまいにはペテルブルグにすばらしい家を建てて、そこへ編集局を移し、残りを貸家に当てるっていうんだ。しかもその家の敷地まで、ちゃんと指定するじゃないか。いまペテルブルグで計画中だとかいう、リテイナヤ街からウイボルグスカヤ街へかけて、ネヴァ川に掛かる新しい石橋のそばなんだそうだよ……"
],
[
"君まで皮肉を言うんだね、アレクセイ・フョードロヴィッチ",
"ううん、そうじゃない、僕冗談に言っただけなんだ、勘忍してくれたまえ。僕はまるで別なこと考えてたもんだから。ところで、ねえ君、誰がいったいそんな詳しいことを知らせたの、いったい誰からそんなことを聞いたの? 兄がそんな話をしたときに、君自身カテリーナ・イワーノヴナのところにいるはずもないからねえ",
"僕はいなかったが、その代わりドミトリイ・フョードロヴィッチがいたのさ。僕はドミトリイ・フョードロヴィッチから自分のこの耳で聞いたんだ。が、しかし実は、あの人が僕に向かって話したわけじゃない、僕が立ち聞きしたのさ、とは言っても、もちろん、心ならずも耳にはいったんだ。そのわけは、僕がグルーシェンカの家へ行ってたとき、ドミトリイ・フョードロヴィッチが来たもんだから、先生が帰るまで寝室を出ることができなかったのさ",
"ああ、そうそう、僕忘れていたが、あの女は君の親類だってねえ……"
],
[
"どうしてさ? じゃ親類ではないの? 僕はそんな風に聞いたんだけれど……",
"いったい君はどこでそんなことを聞いたんだい? よしてくれ、君たちカラマゾフ一統は、しきりに何か偉い古い家柄の貴族を気どっているけれど、君の親父は道化役者のまねをしながら、他人の家の居候をして歩いて、お情けで台所の隅に置いてもらってたんじゃないか。よしんば僕が坊主の息子で、君たちのような貴族から見ればあぶらむし同然かもしれないとしても、そんな風なおもしろ半分な侮辱はよしてもらいたいね。僕にだって名誉心があるからね、アレクセイ・フョードロヴィッチ。僕がグルーシェンカの親類なんかでたまるものか、あんな淫売のさ! どうか御承知おき願いますよ!"
],
[
"でも、わたくしもフォン・ゾンではございません、わたくしはマクシーモフです……",
"いんにゃ、おまえはフォン・ゾンだよ。方丈様、フォン・ゾンというのは、何者か御存じでございますか? これはある犯罪事件に関係したことでございますよ。この男は悪所で殺されたんです――お寺様のほうではああいう場所をこう申すそうですな――殺されたうえに、裸に剥がれて、おまけにいい年をしておりながら、箱の中へたたきこまれて、貨物列車でペテルブルグからモスクワへ発送されたんですよ、しかも番号を付けられましてね。ところで箱の中へたたきこまれるとき、売女どもが歌をうたったり、手琴つまりピアノですな、あれを弾いたりしたそうですよ。これが今申した当のフォン・ゾンなのでございます。それが墓場から生き返って来たのですよ。そうだろう、おいフォン・ゾン?"
],
[
"また、こうも言ってあります。『なんじの上に襲いかかる凌辱をばつとめて耐え忍び、かつなんじを汚す者を憎むことなく、みずからの心を迷わしむるなかれ』われわれもこの教えのとおりにいたしております",
"ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ、ちんぷんかんな寝言とくだらん弁説だよ! お坊さんがたはお好きなことを言っていなされ、わしは御免をこうむりますぜ。ところで、倅のアレクセイは父親の権利で、永久に引き取ってしまいますよ。さあイワン・フョードロヴィッチ、いやさ、わしの尊敬すべき倅や、わしの跡からついて来なよ! フォン・ゾン、なにもおまえだってこんなとこに居残ることはなかろう! さあ、今すぐ町のおれんとこへ来なよ。おれんちはおもしろいぞ! ほんの一露里そこそこだよ。精進油の代わりに、粥を添えた子豚を出すぜ。いっしょに飯を食おうよ。コニャクも出すし、後からリキュールも出る。苺酒もあるぜ……。おいフォン・ゾン、せっかくの幸運を取り逃がさんようにしろよ!"
],
[
"おまえ一人っきりなんだよ、いや、もう一人おれはある『卑しい女』に惚れこんでいる。そのためにおれは破滅してしまったんだ。しかし、惚れこむっていうのは愛することじゃない。惚れるのは憎みながらでもできる。よく覚えとけよ! 今のところおれは話すのが愉快だ! まあ坐れよ、このテーブルの前にさ、おれはこうそばに坐って、横からおまえの顔を見ながら、何もかも話してしまうからさ、おまえは黙ってるんだぜ、おれが何もかも話しちゃうからな。だって、もういよいよ日限が来てしまったんだからなあ。だが、いいかい、おれは実際そうっと話さなきゃならん、と考えたんだよ。だってここには……ここには……どんな意外な聞き耳が立てられないとも限らないからなあ。さあ、すっかりわけを話すよ。以下次号ってやつをさ。いったいおれはどうして、こうおまえのことばかり考えて、この四、五日、いや現に今だって、おまえを待ち焦がれていたんだろう?(おれがここへ神輿をすえてからもう五日目だよ)。この四、五日というもの! それはこうだ、おまえ一人っきりに何もかも話したかったんだ。なぜって、そうしなくっちゃならないからだよ。ぜひおまえが必要だからさ。なぜって、おれは明日にも雲の上から飛びおりるからさ、明日はいよいよおれの生涯がおしまいになって、そしてまた始まるのだからさ。おまえは山のてっぺんから穴の底へ落っこちるような気持を経験したことがあるかい、夢にでも見たことがあるかい? ところが、おれは今、夢ではなく、実際に落っこちてるんだよ。それでいてこわくもないのさ、だからおまえもこわがることはないよ。いや、こわいにはこわいけど、いい気持なんだ。いや、いい気持というより、有頂天なんだ……ええ畜生っ、どっちにしたって同じこった。強い心、弱い心、めめしい心――ええなんだってかまうもんか! ああ自然は賛美すべきかなだ。御覧よ。太陽の光りはどうだ、空は晴れわたり、木の葉はどれも青々として、すっかりまだ夏景色だ、いま午後の四時まえ、なんて静かだろう! おまえどこへ行くとこだい?",
"お父さんのとこへ。しかしその前にカテリーナ・イワーノヴナのとこへ行こうと思って",
"なに、あの女のとこと親父のとこへだって! うふ! なんという符合だろう! 第一おれがおまえを呼んだのはなんのためだろう、おまえを待ち焦がれていたのはなんのためだろう、おれが心の襞の一つ一つ、いや、肋骨の一枚一枚で、おまえの来るのを待ちあぐねていたのはなんのためだろう? それはほかでもない、おれの代わりにおまえをその親爺のところへやって、それからあの女の、つまりカテリーナ・イワーノヴナのところへ行ってもらって、それでもって親爺のほうも、あの女のほうもすっかりけりをつけようと思ってだよ、天使を使いにやろうってわけさ。おれは誰だって使いにやれたのだけれど、どうしても天使に行ってもらわなきゃならなかったんだ。だのに、おまえは自分からあの女と親爺のとこへ行くところだなんて"
],
[
"僕が顔を赤らめたのは、兄さんの話のためでもなければ、兄さんのしたことのためでもありません。僕も兄さんと同じような人間だからです",
"おまえが? そいつは少しおおげさだよ"
],
[
"じゃあ、全然足を掛けないことだね?",
"できるものなら、――全然足を掛けないことです",
"おまえにはできるかい?",
"だめなようです",
"もう言うな、アリョーシャ、もう言うな。おれはおまえの手が接吻したくなった、そう、感激のあまりにさ。あのグルーシェンカのあばずれは人間学の大家だよ。この女は、いつかはきっとおまえを取って食ってみせると、おれに言ったっけ……いやもう言うまい、言うまい! さあ、この忌まわしい、蠅のたかった原っぱから、いよいよおれの悲劇へ移ることにしよう。とはいっても、これもやっぱり蠅のたかった、つまり卑劣なことだらけの原っぱだよ。それは、親爺がさっき、無垢の少女を誘惑したとか、なんとか、でたらめを言いおった、あのことなんだが、事実、おれの悲劇の中にはそいつがあったんだ。もっともたった一度っきりで、それも成立はしなかったんだけど。さっきでたらめを言っておれを決めつけた老いぼれは、その実この話は知ってやしないんだよ。今までおれは誰にも話したことはないんだから。今おまえに明かすのがそもそもの初めだよ、もっともイワンは別だよ、イワンは何もかも知っている。おまえよりずっと前から知っているのだ。しかしイワンは――墓場だよ",
"イワンが墓場ですって?",
"うん"
],
[
"じゃあ、おれはどうだい? おれにはわかってるとでも言うのかい?",
"ちょっと待って、兄さん、ここに一つ大切なことばがあるんです。聞かせてください、いったい兄さんは許婚なんですか、今でも許婚なんですか?"
],
[
"どうしたのです?",
"ところが、おれは、今日おまえを呼んで、ここへ引っぱりこんだのだ、今日という日にな、――それを覚えておいてくれ――そして、やはり同じ今日、おまえをカーチャのところへやって、それから……",
"どうするんです?",
"あの女にそう言ってくれるんだよ――もうけっしておれは行かないから、どうぞよろしくって",
"だって、そんなことがあっていいものでしょうか?",
"よくないからこそ、おまえを代わりにやろうっていうのだ。でなくって、おれ自身どうしてあの女にそんなことが言えるもんか?",
"それで、兄さんはどこへ行くんです?",
"路地へさ"
],
[
"では、ラキーチンの言ったのは本当だったのかしら? 僕はまた、兄さんはちょっと行ってみただけのことで、もう済んでしまってるのだとばかり思っていたのに",
"許婚の男が、あんなところへ行くんだって? そんなことができるもんかい? しかも許嫁がいて、みんな見てるところでさ? おれにだって少しは廉恥心があるはずだよ。ところが、グルーシェンカのところへ行き始めると同時に、おれはもう許婚でもなければ、誠実な人間でもなくなってしまったんだよ。それはおれにもわかってるのさ。どうしてそんな眼でおれを見るんだい? おれは最初、ただあの女をひっぱたきに行ってやったのだよ。それは、親爺の代理人をしてやがるあの二等大尉のやつが、おれの名義になっている手形をグルーシェンカに渡して、おれが閉口して手を引くように告訴してくれって頼んだということを、聞きこんだからだ。それが確かなことは、今でもわかってるよ。おれを脅かそうとしやがったのさ。だから、おれはグルーシェンカをぶんなぐりに出かけたのだ。前にもおれはあの女をちらっと見たことがある。だが別に気にも留めなかったのさ。今病気でひどく弱りこんで寝ているが、とにかくだいぶんの金をあの女に残すらしい例の老いぼれ商人のことも知っていた。それからあの女は金もうけが好きで、ひどい高利で貸しつけてはどしどし殖やしていることも、情け容赦もない悪党の詐欺師だって話も聞いていた。で、おれはぶんなぐりに出かけたのだが、そのまま女の家に神輿をすえてしまったのさ。つまり、雷に撃たれたんだ。黒死者にかかったんだ、いったん感染したっきり、今だに落ちないんだ。もうこれでおしまいなんだ、どうにも変わりようがないってことは、おれにもわかっている。時の循環が完了したのだ。まあ、こんな事情さ。ところが、ちょうどその時、おれみたいな乞食のポケットに故意とのように三千ルーブルという金があったのだ。で、おれは女を連れてここから二十五露里あるモークロエ村へ出かけて、ジプシイの男女を集めるやら、シャンパンを取り寄せるやらして、村の百姓や、女房や娘っ子たちにシャンパンをふるまって、何千という金をまき散らしたものだ。三日たつと丸裸だったが、しかし鷹のような気分だったよ。ところで、その鷹がなんぞ思いを遂げたとでも思うかい? なんの、遠くの方から拝ませもしおらんのだ。曲線美、とでもいうのかなあ。グルーシェンカの悪党には、一つ得も言えない肉体の曲線美があるんだ。そいつが足にも、左足の小指の先にまで現われているのだ。それを見つけて接吻したっきりだ――全く本当のことだよ! あいつは、こう言やがるんだ、『あんたは乞食同様だけど、お望みならお嫁に行ってあげるわ。もしあんたが、けっしてあたしを打ったりなんかしないで、あたしのしたいことをなんでもさせてくれるって言うのなら、お嫁に行ってあげてもいいわ』そういって笑ってやがるのさ。そして今でもやっぱり笑ってやがるんだ!"
],
[
"ミーチャ、あなたは不仕合わせな人ですね、ほんとに! でも、まだ兄さんが自分で考えているほどでありませんよ――あまり絶望して、自分を苦しめないほうがよろしいよ!",
"おまえはその三千ルーブルが手に入らなかったら、おれが拳銃自殺でもすると思うのかい? そこなんだよ、おれは自殺なんかしやしない。今はそんな元気がないんだ。そのうちにあるいはやるかもしれないが、今はグルーシェンカのところへ行くんだ……おれの一生なんかどうなったってかまうものか!",
"あの女のとこへ行ってどうするんです?",
"あの女の亭主になるんだよ、配偶にしていただくのさ。もし情夫がやって来たら次の間へはずしてやるよ。そして彼女の友だちの上靴も磨いてやろうし、湯沸の火もおこそう、使い走りだっていとやしないよ……"
],
[
"どうするのです?",
"あの女に三千ルーブル返してやるのだ。",
"でも、どこでその金を手に入れるんです? ああそうだ、僕の金が二千ルーブルあるでしょう、それにイワン兄さんだってやはり千ルーブルくらい出してくれましょう、それでつごう三千ルーブルになりますよ。それを持って行ってお返しなさい",
"しかし、それがいつ手にはいるんだい、おまえのいうその三千ルーブルがさ。それに第一、おまえはまだ丁年に達していないんだからなあ。いや、どうあってもぜひ今日、あの女のところへ出かけて、よろしくを言ってくれなくちゃならんよ。金を持ってか、それとも持たずにか、とにかく、もうこれ以上のばすわけにはいかぬ。そういうぎりぎりまで差し迫ってしまったのだ。明日ではもう遅いんだ。おれはおまえに親爺のところへ行って来てもらいたいんだ",
"お父さんのところへ?",
"うん、あの女のとこより先に親爺のとこへ。そして三千ルーブルもらって来てくれるんだ",
"だって、ミーチャ、お父さんは出してくれやしませんよ",
"出してくれるはずはない、くれないことは承知のうえだよ。なあ、アリョーシャ、絶望ってどんなものか知ってるかい?",
"知っています",
"まあ聞けよ、親爺は法律的にはおれに一文だって負い目はないさ。おれがありったけ引き出しちまったんだから、それはおれも承知だよ。しかし精神的には、親爺はおれに義務があるよ、なあ、そうじゃなかろうか? 親爺は母の二万八千ルーブルを元手にして、十万からの財産をもうけ出したんだからなあ。親爺がもしその二万八千ルーブルのうち、たった三千ルーブルだけおれにくれさえすれば、おれの魂を地獄から救い出して、親爺にしてもたくさんな罪障の償いになるというものだ。おれはその三千ルーブル――おまえに誓っておくが――きれいさっぱりかたをつけて、この後おれの噂ひとつ親爺の耳へ入れるこっちゃないんだ。つまり、これを最後に、もう一度だけ父となる機会を親爺に提供してやるんだ。親爺にそう言ってやってくれ、この機会こそ神様がお授けになるのだって",
"ミーチャ、お父さんはどんなことがあっても出してくれやしませんよ",
"知ってるよ、出さないってことは百も承知さ。まして、今はなおさらなんだよ。さっきの話のほかに、おれはまだこんなことを知ってるんだ。ついこのごろ、ほんの二、三日前、いや、ひょっとしたらまだ昨日あたりかもしれんが、親爺は、グルーシェンカがほんとに冗談でなしにおれと不意に結婚するかもしれないってことをはじめてまじめに(このまじめにという点に気をつけてくれ)かぎだしおったのだ。親爺もあいつの気性を知ってるんだよ。あの牝猫のさ。だから、あの女にうつつを抜かしている当の親爺が、この危険を助長するために、わざわざおれにお金を出してくるはずはないさ。しかしまだ、それだけじゃない、もっと重大なことを聞かしてやるよ、それはこうだ、もう五日ほど前に、親爺は三千ルーブルの金を抜き出して百ルーブルの札にくずし、大きな封筒に入れて封印をべたべた五つも押した上に、赤い紐を十文字にかけたものだ。どうだい、実に詳しく知ってるだろう! 封筒にはこういう上書きがしてあるのさ、『わが天使なるグルーシェンカへ――もしわがもとに来たりなば』これはしんと寝静まった時こっそり自分で書きつけたのだ。こんな金が寝かしてあることは下男のスメルジャコフの他には誰ひとり知る者はない。この男の正直なことを、親爺はまるで自分と同じくらいに信じきっているんだからな。ところで、親爺はもう今日で三日か四日、グルーシェンカがその金包みを取りに来るのを当てにして、待ちあぐねているんだよ。親爺のほうから知らせてやったので、あの女からも『行くかもしれない』という返事があったそうだ。だからもしあの女が親爺のところへやって来るようなら、おれはあの女といっしょになんかなれやしないだろう? なんでおれはこんな所に内緒で坐っているのか、何を見張っているのか、これでおまえにも合点がいったはずだな",
"あの女を見張ってるんでしょう?",
"そうだよ。ところで、ここのお引摺りの家の小部屋をフォマという男が借りてるんだよ。このフォマは土地の者で兵隊あがりの男なのさ。夜だけ、ここで夜番に使われていて、昼間は松鶏を撃ちに出かけたりしているのだ。おれはまんまとこの男のところへはいり込んでいるんだが、この男も、ここの家の母娘もおれの秘密は知らないのだ。つまり、おれがここで何を見はってるかってことを知らないんだよ",
"スメルジャコフだけが知ってるんですね!",
"あいつだけだよ。もし女が老いぼれのところへ来たら、あいつが知らせる手はずなんだ",
"金包みのことを兄さんに話したのもあの男ですね?",
"あいつさ。だがこれは絶対の秘密なんだよ。イワンにさえ、金のことはおろか、なんにも知らしてないんだから。ところで、親爺は二、三日のあいだ、イワンをチェルマーシニャへやろうとしているんだよ。森の買い手がついて。なんでも八千ルーブルとかで木を切り出させるんだとさ。それで親爺は、『手助けをするつもりで、行って来てくれ』と、イワンを口説いているところだが、二、三日はかかる用事なんだ。これはつまり、イワンの留守にグルーシェンカを引き入れようという肚だよ",
"それじゃ、お父さんは今日にも、グルーシェンカが来るかと待ってるわけですね"
],
[
"奇跡を?",
"うん、神慮の奇跡をさ。神様にはおれの胸の中がよくおわかりだ。神様はおれの絶望を見ぬいていてくださる。この画面を残らず見通しておいでになるのだ。神様が、何か恐ろしいことのもちあがるのをみすみす見のがしておおきになるだろうか? アリョーシャ、おれは奇跡を信じるよ。さあ行って来てくれ!",
"じゃ行って来ます。で、兄さんはここに待っててくれますね?",
"待ってるとも、多少時間のかかることはわかってるし、そういきなり切り出すわけにもいくまいからさ! それに今ごろは酔っぱらっているだろうし。待ってるよ、三時間でも、四時間でも、五時間でも、六時間でも、七時間でも、しかし、いいかい、今日じゅうに、たとえ夜中になっても、金を持ってなり、持たないでなり、カテリーナ・イワーノヴナのところへ行って、兄がよろしく申しましたと言ってくれるんだよ。おれはおまえにぜひこの『よろしく申しました』っていう句を言ってもらいたいんだよ",
"ミーチャ! でも、不意に今日グルーシェンカがやって来たら……今日でなくても、明日なり、明後日なり?",
"グルーシェンカが? 狙っていて見つけ次第踏んごんで邪魔をしてやる……",
"でももしか……",
"もしかなんてことがあったら、打ち殺しちまうさ。指をくわえて見ちゃいないよ",
"誰を殺すんです?",
"爺いをさ。女は殺さないよ",
"兄さん、なんてことを言うのです!",
"いや、おれにはわからない、わからない……もしかしたら殺さないかもしれないし、また場合によっては殺すかもしれん。ただ、いよいよの瞬間に親爺の顔を見て急に憎悪を感じやしないかと、ただそれだけが気になるんだ。おれにはあの喉団子や、あの鼻や、あのふてぶてしい嘲弄が憎らしくてたまらないのだ。全体に虫が好かないのだ。それが心配なんだよ。こればかりは我慢がならないから",
"ミーチャ、僕行って来ます。僕は神様が、そんなに恐ろしいことの起こらないように、じょうずに取りさばいてくださることを信じます"
],
[
"アリョーシャ、アリョーシャ、どんなもんだい? おい驢馬、おぬしゃなかなか理屈こきだな! イワン、こいつはおおかたどこかのエズイタ派のところにいたんだぜ、おい、悪臭い異教徒、いったいおまえはどこでそんなことを教わって来たんだ? だが、ごまかし屋、おまえの言ってることは嘘だよ、まっかな嘘だよ、これグリゴリイ、泣くな、今すぐにわしらがこいつの屁理屈をたたきつぶしてくれるからな、この驢馬先生、さあ返答をしろ、たとえおまえが敵の前で公明正大だとしても、おまえ自身は肚の中で、自分の信仰を否定するのじゃろう、そしてそれと同時に破門者になってしまうのだと、おまえは自分でも言っておるのじゃろう、ところでいったん、破門者になったとすれば、地獄へ行った時に、よくまあ破門者になったと、おまえの頭をなでてくれはせんぞ、そこのところをおまえはなんと思う、立派なエズイタ先生?",
"わたしが肚の中で信仰を否定したということは疑いございませんが、それだからとて別に罪にもなりゃしませんよ、罪になるにしてもごくあたり前な罪ですよ",
"なんでごくあたりまえな罪です、じゃ?"
],
[
"驢馬先生、おまえのこのひと言は金貨一枚だけの値打ちがあるぞ、ほんとに今日おまえにくれてやるわい、だが、そのほかのことは嘘だぞ、まっかな嘘だぞ、なあこら、おばかさん、われわれ一同がこの世で信仰を持たないのは心があさはかなからだ、なにしろ、暇がないからなあ、第一、いろんな用事にかまけてしまう、第二に神様が時間をろくろく授けてくださらないで、せいぜい一日が二十四時間やそこいらでは、悔い改めるはさておき、十分に眠る暇もないからなあ、ところが、おまえが敵の前で神様を否定したのは、信仰のことよりほかには考えられないような場合で、しかも是が非でも自分の信仰心を示さなくっちゃならないような土壇場じゃないかい! おいどうだ、きょうだい、一理あるだろうじゃないか?",
"一理あるにはありますがね、まあ、よく考えて御覧なさい、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチ、一理あればこそ、なおのこと、わたしにとって罪が軽くなるというものです、もしわたしが間違いのない正当な信仰を持っていたとしたら、その信仰のための受難に甘んじないで、けがらわしい回々教へ転んだのは、全く罪深いことに違いありませんよ、しかし、それにしても、責め苦を受けるというところまではいかないで済んだはずですよ、だって、その時、眼の前の山に向かって、さあ動いて来て敵をつぶしてしまえと言いさえすれば、山は即刻動きだして、敵のやつらを油虫かなんぞのように押しつぶしてしまったはずです、そうすれば、わたしは何ごともなかったように、鼻うたでもうたいながら、神の栄光をたたえながら引き上げて行きますよ、ところが、もしその土壇場になって、そのとおりにやってみて、わたしがその山に向かって敵を押しつぶしてくれと、わざと大きな声でどなったところで、山がいっこう敵を押しつぶしてくれそうにないとしたら、わたしだってそんな恐ろしい命がけの場合に、どうして疑いを起こさずにいられるものですか? それでなくても、とても天国へなどまともに行きつけるものでないことを承知していますのに(だって、わたしの声で山が動かなかったところをみると、天国でもわたしの信仰をあまり信用してくれなさそうですから、たいした御褒美があの世でわたしを待っているようにも思われませんからね)、何をすき好んで、そのうえ、役にも立たないのに自分の生皮を剥がせる必要がありましょう? たとえ、もう半分背中の皮を剥がれながらわたしがどなったりわめいたりしてみたところで、山はびくともしやしませんからね、こんな瞬間には疑いが起こるくらいは愚かなこと、恐ろしさのあまりに、思慮分別もなくなるかもしれません、いや、分別を巡らすなんてことは全然不可能です、してみれば、この世でもあの世でも、自分に何の得になることでもなく、たいして御褒美にもあずかれないとわかったら、せめて自分の皮だけでも大事にしようと思ったからとて、それがいったいどれだけ悪いことでしょう? ですから、わたしは神様のお慈悲を当てにして、何事もきれいに許していただけるものと、どこまでもそう思っているのです"
],
[
"前衛に?",
"他にも、もっと立派な人間が出てくるでしょうが、あんなものも出てきますね、初めにあんなのが出て、それからもっといいのが現われるのです",
"で、その『時期』はいつ来るんだね?",
"狼火があがったら、しかし、ことによると、燃えきらないかもしれませんね、今のところ民衆は、あんな煮出汁とりふぜいの言うことには、あまり耳を貸しませんからね",
"なるほどな、ところでおまえ、あのヴァラームの驢馬めはいつもなんだか考えてばかりいるが、いったい、どんなとこまで考え抜くか、知れたもんじゃないぜ"
],
[
"だがな、わしはちゃんと知っとる、あいつは他の者にもそうだが、わしという人間に我慢できないのだよ、おまえにだって同じことだぞ、おまえは『勝手に僕を尊敬する気になった』などと言っておるけれどさ、アリョーシカはなおのことだ、あいつはアリョーシカを小ばかにしておるよ、だが、あいつは盗みをしおらん、そこが取柄さ、それにいつも黙りこくって告げ口をせんし、内輪のあらを外へ持ち出すようなこともない、魚饅頭も手ぎわよく焼きおる、しかし、あんなやつなんぞ、ほんとにどうだってかまやせんわい、あんなやつのことをかれこれ言うがものはないよ",
"むろん、言うがものはありませんよ",
"ところで、あいつが一人腹の中で何か考えこんでおるというと……つまり、ロシアの百姓は一般にいうて、うんとぶんなぐってやらにゃならんのだ、わしはいつもそう言っておるんだよ、百姓なんてものは騙児だから、同情してなんかやるには当たらん、今でもたまにぶんなぐる者がおるから、もったものだ、ロシアの土地は、白樺があればこそ、しっかりしてるんだ。森を切り払ってしまったら、ロシアの国もくずれてしまうのだ、わしは賢い人の味方をするなあ、われわれはひとかど利口ぶって百姓をぶつことをやめたけれど、百姓らは相変わらず自分で自分をぶっておる、それでいいのさ、人をのろわば穴二つ……いや、どう言ったらいいのかなあ……つまり、その、穴二つなんだ、全くロシアは豚小屋だよ、ほんとに、わしがどんなにロシアを憎んでおることだか……いや、ロシアをじゃない、このいろんな悪をだ……、しかし、それはロシアということになるかもしれない、Tout cela c'est de la cochonnerie(それはみんな腐敗から出るの意)いったいわしの好きなものがなんだか知っとるか? わしはその、とんちが好きなのさ",
"また一杯あけましたね、もうたくさんでしょう",
"まあ待ってくれ、わしはもう一杯やるよ、それからもう一杯やったら、それでおつもりにするよ、どうもいかんよ、おまえが途中で水をさすもんだから。わしはな、通りがかりにモークロエ村で、一人の老爺に尋ねてみたことがある、するとその老爺の言うには『わしらあ罰をくわえるとて娘っ子をひっぱたくが、何よりもいちばんにおもしれえだ、ひっぱたく役目は、いつでも若えもんにやらせますだ、ところが、今日ひっぱたいた娘っ子を、明けの日には、若えもんが嫁にするってわけさ、だもんだで、あまっ子らもそれをあたりめえのように思っとりますだよ』と、こうだ、なんというサード侯爵たちだろう? 全くうめえことを言いおったて、ひとつわしらも見物に出かけるかな、うん? アリョーシャ、おまえ顔を赤くするのかい、何も恥ずかしがることはないよ、坊主、さっき修道院長の食事に招ばれて、坊さんたちにモークロエ村の娘っ子のことを話して聞かせなかったのは残念だったよ、アリョーシカ、わしはさっきおまえんとこの修道院長に、うんと悪態をついたけれど、腹を立てないでくれよ、わしはついむらむらっとなってなあ、もし神様があるものなら、ござらっしゃるものなら、そのときはもちろんわしが悪いのだからどんなとがめも受けようさ、しかし、もう神様がまるっきりないとしたら、あんな御連中にはもう用なしじゃないか? おまえんとこの坊さんたちのことだよ、そうなった暁には、あいつらの首を刎ねるくらいじゃ足りないぞ、なぜといって、あいつらは進歩を妨げたんだからなあ、イワン、おまえは信じてくれるかい? この考えがわしの心を悩ましとるんだよ。だめだ、おまえは信じてくれんな、その眼つきでちゃんとわかるよ、おまえは世間のやつらのいうことを本当にして、わしをただの道化者だと思っとるのだ、アリョーシカ、おまえもわしをただの道化だと思うかい?",
"いいえ、ただの道化だなんて思いませんよ",
"それは本当らしいな、おまえが心からそう思っとるということは、わしも信じるぞ、正直な眼つきで、正直な口をききおるからな、ところが、イワンはそうじゃない、イワンは高慢だ……しかし、とにかく、おまえのお寺とはすっかり縁を切ってしまいたいもんだなあ。ほんとにロシアじゅうの神秘主義を残らず引っつかんで、世間のばか者どもの眼をさますために、影も形もないように吹き飛ばしてしまうといいのだ。そうしたら、金や銀がどれだけ造幣局へ流れこむことだろうな!"
],
[
"ちっとでも早く、真理が光りだすようにだ、そのためなんだよ",
"もしもその真理が光りだすとしたら、第一にお父さんをまる裸に剥ぎ取ったうえで……それから吹き飛ばすでしょうよ"
],
[
"僕が笑っているのは、さっきお父さんが、スメルジャコフの信仰、――例の山を動かすことのできる二人の隠者が、どこかにいるっていう、あれについて、なかなかうまい批評をなすったからですよ",
"じゃ、今の話がそれに似とるというのかい?",
"大いに",
"ふん、してみれば、わしもロシア人で、どこかロシア的な特性があるというわけかな、だが、おまえのような哲学者にだって、同じような一面のあることを、とっつかまえて見せてやれそうだぞ、ひとつ押えてみせようか、わしは請け合って、明日にでも取っちめてやるぞ、とにかく、神様があるかないか言ってみい、ただ、まじめにだぞ! わしは今、まじめにならなくてはいけないのだ!",
"そう、神はありません",
"アリョーシカ、神様はあるのか?",
"神はあります",
"イワン、それでは、不死はあるのか、まあ、どんなのでもよいわ、ほんの少しばかりでも、これっばかしでもいい",
"不死もありません",
"どんな風のも?",
"そう、どんなのも",
"つまり全くの零か、それとも何かあるのか? ひょっとしたら、何かありそうなものじゃないか? 何にしても、まるっきり何もないというはずはないぞ!",
"絶対の無です",
"アリョーシカ、不死はあるのか?",
"あります",
"神も不死もか?",
"神も不死もあります",
"ふむ! どうやらイワンのほうが本当らしいぞ、やれやれ、考えるだけでも恐ろしいわい、人間というものはどれだけ信仰を捧げたことか、どれだけいろいろの精力を、こんな空想のために浪費したことか、しかもそれが何千年という長いあいだなのだ! 誰がいったい、人間をこんなに愚弄しているのだ? イワン! もう一ぺん、最後にきっぱり言ってくれ、神は有るものか無いものか? これが最後だ!",
"最後でもなんでも、無いものは無いのです",
"それじゃ、誰が人間を愚弄しおるのだ、イワン?"
],
[
"じゃ、悪魔はあるのか?",
"いや、悪魔もありませんよ",
"そいつは残念だ、ちぇっくそ、じゃあ神なんてものを初めに考え出したやつを、どうしてくれよう? 白楊の木へぶら下げて、絞り首にしてやっても、あきたりないぞ",
"神が考え出されなかったら、文明というものも、てんでなかったでしょう",
"なかったかもしれんというのか? 神がなかったら?",
"そうです、それにコニャクも無かったでしょうよ、が、それはとにかく、そろそろコニャクを取り上げなくてはなりませんね",
"待て、待て、待ってくれ、な、もう一杯だけだ、わしはアリョーシャを侮辱したて、おまえは怒りゃせんだろうな、アレクセイ? わしの可愛い可愛いアレクセイチックや!",
"いいえ、怒ってなんかいませんよ、僕はお父さんのお肚の中を知っています、お父さんは頭より心のほうがよっぽどいいのです",
"わしの頭よりも心のほうがいいだって? ああ、しかもそう言ってくれるのが誰だろう? イワン、おまえもアリョーシカが好きかい?",
"好きです",
"好いてやってくれよ、(フョードル・パーヴロヴィッチはもう、ひどく酔いが回ってきたのである)なあ、アリョーシャ、わしは今日おまえの長老に無礼なことをしたよ、だが、わしは気が立っていたのだよ、しかし、あの長老には、なかなかとんちがあるなあ、おまえはどう思う、イワン?",
"あるかもしれませんね",
"あるとも、あるとも、Il y a du Piron là dedans(あいつの中にはピロンの面影がある)あれはエズイタだよ、ただしロシア式のさ、高尚な人間ってものはみんなそうだが、あの人も聖人様のまねなんかして……心にもない芝居を打たにゃならんので、肚の中ではじりじりしているのだよ",
"でも、あの人は神を信じていられますよ",
"なんの、これっぽっちも信じてるものか、おまえは知らずにいたのかい? あの人は自分の口からみんなにそう言っとるじゃないか、いやみんなといっても、あの人のとこへたずねて来るお利口な連中にだけだけれど、県知事のシュルツには明からさまに、『Credo(信じてはいる)といっても、何を信じておるのか、わかりません』と言ったものだよ",
"まさか?",
"いや、全くだよ、しかし、わしはあの人を尊敬はしている、あの人にはどこかメフィストフェレス式なところ、というより、むしろ『現代の英雄』に出て来る……アルベニンだったかな、……そんな風なところがあるよ、つまりなんだよ、あれは助平爺なのさ、あの人の助平なことといったら、ひょっとわしの娘か女房が、あの人のところへ懺悔にでも行こうものなら、とても心配でたまるまいと思うくらいなんだよ、第一あの人がどんな話を始めると思うかい……一昨年あの人がわしらを茶の会へ呼んだことがある、リキュールつきのさ、リキュールは奥さんたちが持って行ってやるんだよ、そのときにだよ、ひょんな昔話をやりだしたので、わしらはすっかり腹の皮を縒ってしまったわい……別しておもしろかったのは、あの人が一人の衰弱した女をなおした話だ、『足さえ痛くなかったら、わしがひとつ踊りを見せて進ぜるのだが』と言うのさ、それがまたなんの踊りだと思うね? 『わしも若盛りにはずいぶんいろんなまねをしてきましたわい』だとよ、それに、あの人はジェミードフという商人から、六万ルーブルも巻きあげたことがあるんだよ",
"何、盗ったのですか?",
"その商人があの人を善人だと思って、『どうぞ、これを預かってください、明日うちで家宅捜索がありますから』と言うので、あの人が預かったんだよ、ところが後になって『あれはおまえさんがお寺へ寄進なさったのじゃ』と、こうだ、わしがあの人に、おまえさんは悪党だと言ってやったら、わしは悪党じゃない、心が広いのじゃとおいでなすった……、いや、待てよ、これはあの人の話じゃないて……ああ、別の男のことだったよ、わしは、つい他の男の話と混同してしまってな……気がつかなかったのだよ。さあ、もう一杯だけでたくさんだ、イワン、びんをかたづけてくれ、それはそうと、わしがあんな無茶なことを言っていたのに、なんでおまえは止めてくれなかったのだ……それは嘘だとなぜ言ってくれんのじゃ、イワン?",
"自分でおやめになると思ったものですからね",
"嘘をつけ、おまえはわしが憎くて止めてくれなんだのだ、ただ憎いからなんだ、おまえはわしをばかにしておるのだ、のこのこわしのところへやって来て、わしの家でわしをばかにしておるのだ",
"だから僕はもう行きますよ、お父さんはコニャクに飲まれてしまったのですね",
"わしはおまえに、どうか後生だから、チェルマーシニャへ……一日か二日でよいから、行って来てくれと、あれほど頼んでいるのに、おまえは出かけてくれんじゃないか",
"そんなにおっしゃるなら、明日にでも出かけますよ",
"なんの行くものか、おまえはここにおって、わしの見張りがしていたいのだ、そうだとも、それだから行こうとしないのだろ、この意地悪めが!"
],
[
"しかし、あちらの戸口からはいったのかもしれん",
"あちらの戸口には錠がおりていますよ、それに自分で鍵を持っていらっしゃるくせに……"
],
[
"アレクセイ! おまえだけは教えてくれ、おれに信用のできるのはおまえきりだから、今しがたあの女はここへ来なかったかい? おれはあの女が横町から籬のそばをこっちへとすべりこむのを、ちゃんと見届けたんだ、おれが声をかけたら、逃げ出してしまったんだ……",
"誓って、あの女はここへなぞ来ませんでしたよ、第一あの女がここへ来ようなどとは誰も思ってもいなかったのです!",
"でも、おれはちゃんと見届けたんだがなあ……してみると、あいつは……よし、すぐあいつの在所を突きとめてやる……さよなら、アレクセイ! もうけっして、イソップ爺に金のことはひとことも言うな、それよりカテリーナ・イワーノヴナのところへ、これからすぐに行って、間違いなく、『よろしく申しました』と言ってくれ! いいか、よろしく申しましたと言うんだぞ、よろしく、よろしくってな! そしてこの騒ぎのことも詳しく話してくれ!"
],
[
"庭ですよ、頭が痛むんだそうです、あの人が僕らの見張りをしていてくれるんです",
"鏡を取ってくれ、そら、そこに立ててある"
],
[
"イワンはなんと言っとる? アリョーシャ、わしのたった一人の息子や、わしはイワンが恐ろしい、わしはあいつより、イワンのほうが恐ろしいのだ、わしにこわくないのは、ただおまえだけだよ",
"イワン兄さんだってこわがることはありませんよ、イワン兄さんは腹を立てているけれど、お父さんを守ってくれますよ",
"アリョーシャ、それで、あいつはどうしたんだ? グルーシェンカのとこへ飛んで行ったのか! なあ、可愛い天使、ほんとのことを言ってくれ、さっきグルーシェンカはここへ来なかったのかい?",
"誰も見かけた者がないのです、あれは嘘ですよ、来やしませんとも!",
"でも、ミーチカはあれと結婚するつもりなんだよ、結婚する!",
"あの女は兄さんといっしょになどなりませんよ"
],
[
"それはまたよくないことです、お父さん、全くよくないことですよ",
"あいつはさっき、どこへおまえをお使いにやろうとしていたのだ、さっき逃げて行く時、『行って来い』ってどなったじゃないか?",
"カテリーナ・イワーノヴナのところへです",
"金の用だろう! 無心をしにだろう?",
"いいえ、金の用事じゃありませんよ",
"あいつには金がないのだよ、鐚一文ないのだよ、さあアリョーシャ、わしは一晩ゆっくり寝て考えるから、おまえはもう行ってもいいぞ、ことによると、おまえ、あれに会うかもしれんな……しかし、あすの朝、間違いなくわしのところへ来てくれよ、きっとだぞ、わしはそのとき、おまえに一つ話したいことがあるのだよ、来てくれるか?",
"まいります",
"来てくれるのなら、勝手に見舞いに寄ったような顔をしていてくれ、わしが呼んだということは誰にも言うんじゃないぞ、イワンにはなんにも言っちゃならんぞ",
"承知しました",
"さようなら、わしの天使、さっきおまえはわしの味方をしてくれたな、あのことは死んでも忘れんぞ、あすはぜひ、おまえに言わにゃならんことがあるけど……まだもう少し考えてみなければならんから……",
"いま気分はいかがです?",
"あすはもう起きるよ、あすは、すっかりもうなおるわい、すっかり!"
],
[
"はっきりしたことを言い当てるわけにはいかんよ、だが、たいしたこともなしに、立ち消えになるかもしれんよ、あの女は、獣だぜ、いずれにしても、親爺は家の中に引き止めておいて、ドミトリイを家へ入れないことだ",
"兄さん、じゃもう一つ聞きたいんですがね、人間は誰でも、他人を見て、誰は生きる資格があって、誰は資格がない、などとそれを決める権利を持ってるものでしょうか?",
"なんだってここへ資格の決定なんかもちこむんだい! この問題は資格などを基礎に置くべきでなく、もっと自然な、他の理由のもとに、人間の心で決定されるのが最も普通だよ、だが、権利という点では、誰がいったい希望する権利を持っていないだろう?",
"しかし他人の死ぬのを希望するってわけじゃないでしょう?",
"他人の死ぬことだってしかたがないさ、それにすべての人がそんな風な生き方をしている、というよりは、それ以外の生き方がないんだからね、なにも、自分で自分に嘘をつく必要はないじゃないか、おまえがそんなことを持ちだしたのは、『毒蛇が二匹で呑み合ってる』と言った、おれのさっきのことばから思いついたのかい? そういうことなら、おれのほうからも一つ聞きたいね、おまえはこのおれも、ミーチャと同じようにあのイソップ爺の血を流しかねない――つまり殺しかねない人間だと思ってるかい?",
"何を言うのです、イワン! そんなことは僕は、夢にも考えたことがありません! それにドミトリイだってまさかそんな……"
],
[
"兄さんはあの女と結婚すれば、幸福になるでしょうけれど……しかし、平和な幸福ではないかもしれませんよ",
"そのとおりなんだよ、弟、ああいう女はいつまでたってもあのとおりなんだよ、ああいう風な女は、けして運を天にまかせるということがないのさ、じゃあ、おまえは、おれがとても永久にあの女を愛しきれまいと思うんだな?",
"そうじゃありません、たぶん、兄さんは永久に愛するでしょう、けれど、あの人といっしょになっても、始終は幸福でいられないかもしれませんよ……"
],
[
"兄はあなたに……よろしく申し上げてくれ、そしてもう二度とこちらへ足踏みをしませんって……で、あなたによろしく申し上げてくれって言いました",
"よろしくって! あの人がそう言ったんですのね、そのとおりの言い回しで?",
"そうですよ",
"もしかしたら、ひょいと何の気なしにそんなことを言ったのかもしれませんわね、間違って、言わなければならぬことばでなしに、ひょんなことが口から出たのかもしれませんのね?",
"いいえ、兄はこの『よろしく』ということばを、ぜひお伝えしてくれって言いつけたのです、忘れないようにお伝えしてくれって、三度も念を押したのです"
],
[
"でも、あなただって、やっぱりあたしの気持が、本当にはおわかりになっていないらしゅうございますわ、お嬢様、あたしは、あなたの眸に映ってるよりか、ずっと悪い女かもしれませんものね、あたしは肚の悪いわがままな女ですからね、あの可哀そうなドミトリイ・フョードロヴィッチだって、ただからかい半分にちょっとあの時、迷わしてみただけなのよ",
"でも、そのあなたが今では、あの人を救おうとしてらっしゃるんじゃありませんか、あなたはそうお約束なすったでしょう――あなたがもうずっと前から、他の人を愛していらして、その人が現にあなたと結婚することになってるってことを、あの人に打ち明けて、眼をさましておあげになるって……",
"まあ、違いますってば。あたし、そんなお約束なんかした覚えはありませんわ、それはあなたが御自分で勝手にお話しになっただけなんで、あたしお約束なんかしませんでしたわ"
],
[
"ええ、さっきはね! あたし気の弱いばかな女ですから、あの人がこのあたしのために、どんな苦労をしたかと考えてみただけでもね! ほんとに家へ帰ってから、急にあの人が気の毒にでもなったら――その時どうしようかしら?",
"わたし、ほんとに思いもかけませんでしたわ……"
],
[
"それでは、あたしミーチャにもさっそく電話してやりますわ、――あなたはあたしの手を接吻なさいましたけど、あたしのほうはまねもしなかったって、さぞあの人が大笑いすることでしょうよ!",
"けがらわしい、出ておいで!",
"まあ、恥ずかしげもなく、お嬢様、なんて恥ずかしいことでしょう、あなたのお身分でそんなはしたない口をおききになるなんて"
],
[
"それがどうしたというんだい? いけないっていうのかい? おれの分際に不釣り合いだというのかい?",
"いいえ、そうじゃないけど……僕はその……",
"まあ、よせ、この夜の景色を見ろよ、なんという暗い晩だろう! 雲はどうだい、それになんという風だ! おれはこの柳の下に隠れて、おまえを待っているうちに、ふいと考えたんだよ(正真正銘の話だよ!)、この期におよんで、おれは何をくよくよして、何をいったい待っているんだ? ここに柳の木はあるし、ハンカチもあれば襯衣もあるから、おれは繩をすぐになうことができる、おまけにズボン吊りがあるぞ――何もこのうえ、世の中の荷やっかいになって、この卑劣な体で大地の神聖をけがしていることはない! ってな、すると、そこへおまえの足音が聞こえて来たのさ、――ありがたいことに! 何かが急に、おれの上へ飛んで来たような気がしたのだ。そうだ、まだおれの愛している人間があるじゃないか、そら、あれがそうなんだ、あの人間だ、あれこそ世界じゅうでおれのいちばん好きな、たった一人の可愛い弟じゃないか! そう思うと、おれはその瞬間に、おまえが可愛くて可愛くてたまらなくなったのだ。ええっ、あれの首っ玉へかじりついてやれ、と考えたんだよ。ところが、またひょいとばかな考えが浮かんで、『ひとつ、おれの心の浮き立つように、おどかしてやろう』と思ったのさ。それで、『財布か命か!』なんて、気ちがいみたいにどなったんだよ、ばかなまねをして済まなかったよ、――あれはほんの冗談で、胸の中は……やはり正気なんだよ……ええ、そんなことは、まあどうだっていいや、だが、あすこでどんなことが起こったのか聞かしてくれ、あの女は何と言った? さあ、おれを押しつぶしてくれ、ぶんなぐってくれ、情け容赦はいらんぞ! あれは躍起になって怒ったろうな?",
"いいえ、そんなことはありません……まるで違いますよ、ミーチャ、あすこで……僕たった今、二人に会いましたよ",
"二人にって、そりゃ誰と誰だ?",
"グルーシェンカがカテリーナ・イワーノヴナのとこへ行っていたのですよ"
],
[
"あなた様のことがかなりの遠方まで、たいへんな噂が立っておりますのは、本当のことでございましょうか? なんでも、あなた様が、精霊と絶えず交わりをつづけていらっしゃるとか……",
"飛んで来るのじゃ。よく",
"どんなにして飛んでまいるのでございましょう? どんな形をしておりますやら?",
"鳥のようにな",
"鳩の形をした精霊でございますか?",
"精霊が来ることもあるし、神霊が来ることもある。神霊はまた別な鳥の形をして降りて来るのじゃ。ときには燕、ときには金翅雀、ときには山雀の形をして",
"山雀を御覧になって、どうして精霊だということがおわかりになります?",
"物を言うので",
"どんなことを言うのでございましょう。どんなことばで?",
"人間のことばじゃ",
"どのようなことをあなた様に申しますので?",
"今日はこんな知らせがあった、今にばか者がやって来て、つまらんことを聞くじゃろうと。おまえさんはいろんなことを聞きたがるのう"
],
[
"はい、方丈様",
"おまえさんの眼には楡じゃろうが、わしの眼から見ると別の光景じゃ"
],
[
"夜はよくあることじゃ。あの二本の枝が見えるかの? あれが夜になると、ちょうどキリスト様が、わしの方へお手を差しのばされて、その手でわしを捜しておいでになるように、まざまざと見えるのじゃ、それでわしは震えるのだ。恐ろしい、おお、恐ろしい!",
"キリスト様であったなら、なにも恐ろしいことはありますまいに?",
"だって、つかんで連れて行かれるので",
"生きたままでございますか?",
"霊魂とイリヤの光栄の中じゃ! 聞いたことがないのか? かかえて連れて行かれるのじゃ"
],
[
"おまえに用のある人がありはせんか? 昨日、誰かに今日行くと約束はしなかったか?",
"いたしました……お父さんと……兄さん二人と……それからほかの人にも……",
"それ。ぜひとも行きなさい。心配しないがよい。わしはな、おまえのそばで、この世における最後のことばを言わずに死ぬようなことはないんじゃから。この最後のことばはおまえに言うのじゃ、ね、アリョーシャ、おまえに言いのこすのじゃ。なぜというて、おまえはわしを愛してくれるで。しかし、今は約束した人たちのところへ行くがいい"
],
[
"お気分はいかがかと思いまして",
"いいよ。それに昨日、わしが自分のほうから、おまえに来いとは言ったけれど、あんなことはみんなでたらめだぞ。そんな心配をしてもらわなくてもよかったのにな。だが、わしもおまえがのこのこやって来るだろうとは思っていたんだ"
],
[
"ときにな、わしは今日、あのミーチカの強盗を牢の中へ打ちこんでやろうかと思ったが、今またどうしたものかと迷っておるのだ。もちろん、流行を追う今の時世では、親父やおふくろを旧式な人間に見られるのがあたりまえのようになっているが、しかし、いくら今の時世だといったところで、年寄りの親父の髪をつかんで、おまけに靴の踵で顔を蹴飛ばすなんかということは、法律上ゆるされておらん。しかも場所は当の親の家じゃないか、それに、もう一度やって来て、今度こそ本当に殺してやると、証人のおる前で広言するとは何事だ。わしの了簡ひとつで、さっそくあいつを取っちめて、昨日のことを理由にして、今すぐにでも牢に打ちこんでやれるんだが",
"では、告訴する気はないんでしょう、ね?",
"イワンがわしをとめたのでな。なに、イワンなど問題にはしておらんのだが、わしも自分で一つおもしろいことを考えたもんだからな……"
],
[
"あの人はどんなことがあっても兄さんを見すてないでしょうよ",
"そのとおりだ、ああいう優しいお嬢さんがたは、あいつのような極道者や悪党を好くもんだ! わしに言わせれば、あんな顔色の悪いお嬢さんというものは、やくざな代物だ、普通じゃないんだからな……ああ! もしも、わしにあいつの若さと、あの年ごろのわしの顔があったら(なぜといって、二十八時代のわしは、あいつより男ぶりがよかったからな)、それこそ、わしもあいつと同じくらいには、女を泣かせてみせるんだが、畜生め! とにかく、グルーシェンカは手に入れさせはせんぞ、手に入れさせるものか……あんなやつ、へしつぶしてくれるわだ!"
],
[
"ええ拝見しました",
"みんなにひろめてくださいましたか、みんなに見せてくださいましたか、あのおかたは母親に息子を取り戻しておやりなすったのです!",
"あのおかたは今日お亡くなりなさいます",
"そうですってね、聞きましたわ、知ってますわ。ああ、わたしはあなたと話したくてたまりません! あなたでなければ誰かほかの人と、このことを話したくてたまりません! いいえ、やはりあなたと、あなたに限りますわ。ですけれど、わたし、長老様にどうしてもお眼にかかれないのが、残念でたまりません! 町じゅうのものが大さわぎをして、誰も彼も待ち受けているのです。けれど、今……あなた、カテリーナさんが今、ここへ来ていらっしゃるのを御存じ?"
],
[
"ちっとも不思議はないよ、リーズ、おまえの気まぐれのために、わたしまでヒステリイを起こしたからといって、ちっとも不思議はありませんよ。もっとも、あの子はたいへんに体が悪いんですよ、アレクセイさん、昨晩など、夜通し体が悪くって、熱に浮かされながらうなっていましたの! 早く夜が明けて、ヘルツェンシュトゥベが来てくれればいいがと、どんなに待ち遠しかったかしれませんわ。ところがあのお医者様は、どうも手当てがしにくい少し経過を見なくちゃならんとおっしゃるんですの。いつ来てみても、なにもわかりませんの一点張りなんですからね。あなたが家のそばまでいらっしゃると、アレクセイさん、この子はすぐに大きな声を立てて、そのまま発作を起こしましたの。そしてこの部屋へ椅子を引っぱって来てくれと申しましてね……",
"母さん、あたし、アレクセイさんのいらしったことを、ちっとも知らなかったのよ。あたしがこの部屋へ来たいって言ったのは、そんなことのためじゃないわよ",
"嘘を言ってますね、リーズ、ユーリヤ(下女)がはいって来て、このかたのいらっしゃったことを知らせたじゃないの。あれは、おまえに番兵を言いつかってるんだからね",
"まあ、母さんてば、なんてそんな間の抜けたことをおっしゃるんでしょう。もし名誉回復のために、さっそく何かたいへん気のきいたことが言いたかったらね、母さん、今はいってらしたアレクセイ・カラマゾフさんにそう言っておあげなさいな――『昨日のことがあったあとで、あんなにさんざんひやかされたのもおかまいなしに、今日ずうずうしく家へ来る気におなんなすったということ一つで、あなたは自分の間抜けを証明していらっしゃいますね』って……",
"リーズ、あんまり言いすぎますよ。本当に、前から言っておきますが、しまいには容赦してはおきませんよ。いったい、誰がこのかたをひやかしてます? それどころか、わたしはこのかたの来てくだすったのが、たいへん嬉しいんですよ。このかたはね、わたしにはなくてはならないかたなんですよ、ああ、アレクセイさん、わたしは本当に不仕合わせですわ!",
"いったい、母さん、どうなすったの?",
"まあ、リーズ、おまえの気まぐれと、うわついた気持と、おまえの病気と、あの恐ろしい、夜通しの熱と、あの恐ろしいいつまでたっても際限のないヘルツェンシュトゥベと……まあ、何よりもいやなのは、いつまでも、いつまでも果てしのないことです! そのうえに、まだいろんなことがあるじゃないの?……それからまた、あの奇跡までがね! アレクセイさん。わたしはあの奇跡のためにどんなに驚かされ、どんなショックを受けたかわかりません! おまけに、あそこの客間では、とても見ていられないような悲劇が起こってるでしょう。いえ、たまりませんわ、わたし、前からあなたに言っておきます、とても見ていられないんですよ。でも、もしかしたら、悲劇でなくって喜劇かもしれませんわ。ところで、あのゾシマ長老は明日まで大丈夫でしょうか、え、生き延びられるでしょうか? ああ、本当にわたしはどうしたんでしょう! しょっちゅう、こうして眼をふさぐたびに、何もかもみんなつまらない気がするじゃありませんか"
],
[
"お母さん、後生だからガーゼを持って来てくださいな、ガーゼを! それからあの切り傷につける、気持の悪い濁った薬があったでしょう。なんといいましたっけ! 家にあるわ、あるわよ、あるの、あるのよ……母さん、御存じでしょう、あの薬のびんがどこにあるか。ほら、お母さんの寝間の右側にある戸棚よ、あそこにびんとガーゼがあるのよ……",
"すぐ持って来るから、そんなに騒がないでおくれ、そんなに心配することはありませんよ。御覧なさい、アレクセイさんは御自分の不幸を、立派にこらえてらっしゃるじゃありませんか。ですけれど、どこであなたはそんな恐ろしい怪我をなすったんですの?"
],
[
"できますとも、今はそうたいして痛くありませんから",
"それはあなたが指を水の中へつけてるからよ。もう水を入れ替えなくちゃなりませんわ。でないと、すぐに暖かくなってしまいますものね。ユーリヤ、大急ぎで氷のかけらを穴蔵から出して、別のうがい茶碗に水を入れておいで、さあ、あれも行ってしまったから、わたし用事にとりかかってよ。アレクセイさん、今すぐあの手紙を、あたしが昨日あなたに上げた手紙を返してちょうだい。今すぐよ、だってお母さんが今にも帰って来るかもしれませんから。あたしはもう……",
"僕は今あの手紙を持っていないんです",
"嘘おっしゃいよ、持ってるくせに。あたし、そうおっしゃるだろうとは思ってたの。あの手紙はこのポケットにあるわよ。あたし、どうしてあんなばかなことをしたろうと思って、ゆうべ夜っぴて後悔したのよ。さ、すぐに返してちょうだい、返してちょうだい!",
"僕あっちへ置いて来たんです",
"でも、あなたはあんなばかなことを書いた手紙を読んで、あたしをほんの小娘……ちっぽけな、ちっぽけな小娘と思わないではいられないでしょう! あたし、あんなばかなことをしたのは、あなたに済まないと思いますけれど、手紙だけはぜひ持って来てちょうだい。もし本当に今持ってらっしゃらないとすれば、今日にでも来てちょうだい、きっとよ、きっとよ!",
"今日というわけにはどうしてもいきません。なにしろ、寺へ帰りますと、もう二日三日、ことによったら四日ばかり、こちらへはまいりませんからね、だって、ゾシマ長老が……",
"四日ですって、そんなばかげたことを! ねえ、あなたは思う存分、あたしのことを笑ったでしょう?",
"僕は少しも笑いやしません",
"どうしてですの?",
"それはあなたをすっかり信用したからです",
"あなたはわたしを侮辱なさるのね?",
"どういたしまして、僕はあの手紙を読んだとき、すぐにそう思いました――これは本当にこのとおりになるに相違ないって。なぜって、僕はゾシマ長老がおかくれになったら、すぐに寺を出なければならないんです。それから僕はまた学校へはいって試験を受けるつもりです。そして法律で決められた時が来たら結婚しましょう。僕はいつまでもあなたを愛します。これまでに僕は落ち着いて考えてる暇がなかったんですけれど、それでもあなた以上の妻を見いだすことはできないと思いました。それに長老も僕に結婚せよとおっしゃいましたし"
],
[
"まあ、リーズ、そんな声を立てないでおくれ――お願いだから、そんな声を。わたしはそのわめき声を聞くと、……だってしかたがないじゃないの、おまえがまるで別なところへガーゼをしまいこんでるんだもの、……わたしさんざん捜したんじゃないの、……ことによったら、おまえわざとあんなことをしたんじゃないの",
"だって、この人が指をかまれて来ようなんて、まるで知るわけがないじゃありませんか。もしそれが前からわかってたら、本当にわざとそうしたかもしれないわ。母さん、あなたはたいへん気のきいたことを言うようにおなんなすったのね",
"気のきいたことでもどうでもいいけれど、まあ、リーズ、アレクセイさんの指といい、そのほかのことといい、どんな気持がするとお思いだえ! ああアレクセイさん、わたしを困らすのは一つ一つの事柄じゃありません、ヘルツェンシュトゥベなんかのことじゃありません。みんな全体ひっくるめてです。みんないっしょにです。だから、わたしとしてしんぼうがしきれないんですよ"
],
[
"え、どうして結婚なんてことを、リーズ、なんだっておまえはそんなことをだしぬけに言いだすの? そんなことを言う場合じゃありませんよ……それに、その子供はひょっとしたら、恐水病にかかってるかもしれないじゃないの",
"あら、お母さん! 恐水病の子供なんているものなの?",
"いないって、なぜ? まるでわたしがばかなことでも言ったみたいだわね。もしその子供に狂犬がかみついたとしたなら、今度はその子供が、手近の人をかむようになるんですよ。まあ、リーズは、じょうずに包帯をしましたねえ、アレクセイさん。わたしには、とてもうまくできませんわ。今でも痛みますの?",
"もうたいしたことはありません"
],
[
"さあ、もうたくさんよ、リーズ。全くわたしもあんまりあわてて、恐水病の子供なんて言いだしたけれど、すぐおまえはそんなばかなことをもちだすんだもの。ときに、カテリーナさんはあなたのいらっしたことを聞くと、さっそくわたしのところへかけつけてらしったんですよ。あなたを待ちこがれていらっしゃるのよ、たまらないほど……",
"まあ、母さん! あなた一人であっちへいらっしゃいな、この人は今すぐいらっしゃるわけにいきませんわ。だって、あんなに痛がってらっしゃるんですもの"
],
[
"なんですって、あなたいらっしゃるの? じゃあなたは? じゃあなたは?",
"なんですか? なあに、僕はあっちの用をすましたら、またここへ帰って来ますよ。そしたらあなたのお気に入るだけお話ししましょうよ。だって、僕は今、とてもカテリーナさんに会いたいわけがあるんですよ。なにしろ、僕はどっちにしろ今日は、できるだけ早く寺へ帰ろうと思ってますからね",
"母さん、早くこの人を連れて行ってちょうだいな。アレクセイさん、カテリーナさんのあとでここへ寄ろうなんて、そんな御心配には及びませんよ。あなたはまっすぐにお寺へいらっしゃい。そのほうが本当ですよ。わたし眠たくなっちゃったわ。ゆうべちょっとも寝なかったもんですから"
],
[
"五分でもって! ねえ、お母さん、早くこの人を連れてってちょうだいよ、この人はお化けだわ!",
"リーズ、おまえは気でも違ったのかい。さあ、まいりましょう、アレクセイさん。この子は今日あんまり気まぐれがひどすぎますよ、わたし、この子の気をいらいらさせるのがこわくてなりません。ああ、神経質の女を相手にするのはつらいですね。アレクセイさん! でも、本当にこの子はあなたのそばにいるうちに、眠くなったのかもしれませんよ。まあ、よくそんなに早く、この子に眠気をつけてくださいましたわね、本当にいいあんばいでしたわ!",
"あら、まあ、お母さんはたいへん愛想のいいことが言えるようになりましたわね。御褒美にあたし接吻してあげるわ"
],
[
"え、なんですって?",
"兄さんがモスクワへ行くと言うと、あなたはそれを嬉しいとおっしゃるじゃありませんか、――あなたはわざとあんなことをおっしゃったのです! それからまたすぐに、いま嬉しいと言ったのは、まるきり別なことで、反対に、友だちを失うのが残念だなどと弁解し始めるじゃありませんか、――あれはわざと芝居をなすったのですね、……まるで舞台に立って、喜劇をなすったも同然です!"
],
[
"誓って申しますが、何気なくなんですよ。いつも言ったことなんかなかったのでして、長いことスロヴォエルスで話したことなんかなかったのですが、急に落ちぶれて、いつの間にかスロヴォエルスを言い始めていたのです。これは神様のお力でなることでございますよ。お見受けしたところ、あなたは現在の問題に興味を持っていらっしゃるようでございますね。それはそうと、どうしてわたしなんぞに好奇心をお起こしなすったのでしょうね? 御覧のとおり、お客様をおもてなしすることもできないような境遇におりますので",
"僕は……あの例の事件のことでまいったのです……"
],
[
"すると、なんですか、人の鬚を引っこ抜いたあげく、おわびをして、それでもう何もかもおしまいにして、罪滅ぼしをした……とでもいうんでございますね、ね、そうでしょう?",
"いいえ、どういたしまして、兄はなんでもお気に入るようにしましょうし、お望みどおりのことをいたします!",
"そんなら、もし、わたくしがあのかたに、前と同じ居酒屋――屋号は『都』と申しますが、そこでか、または町の広小路で、わたしの前へ膝をついてくださいとお願いしたら、そのとおりにしてくださるでしょうかね?",
"しますとも、むろん、兄は膝をつきますとも",
"ああ、胸にしみました! あなたはわたくしの涙をお絞りになりました、ああ、胸にしみるです! すっかりもう、お兄さんの寛大な心をお察しする気になりました。どうぞ十分に紹介の労をとらしてくださいまし、あれにおりますのが、わたしの家族で、娘が二人に息子が一人――みんな一つ腹のなんでございますよ。もしわたくしが死んだ日には、誰があれらを可愛がってくれましょう? また、わたくしの生きているあいだ、あれらを除けて、誰が、こんないやらしい親爺に目をかけてくれましょう! これこそ、わたくしのような人間に、神様が定めてくだすった大きな事業でございますよ。実際、わたくしのような人間は、誰かに愛してもらわなくちゃなりませんからね……"
],
[
"ええ、ずいぶんひどいんです。それに、坊ちゃんもたいへん気が立っていたようですから。あの坊ちゃんは、僕をカラマゾフの一族として、お父さんのあだ討ちをしたのです、それが今になってよくわかってきました。でも学校の友だちと石の役げっこをしてるところを、あなたが御覧になったら、どうでしたろう? それこそ危なかったですよ。なにしろ子供で、分別もありませんから、皆で坊ちゃんを殺してしまうかもしれませんよ。石が飛んで来たら、頭なんか割れるかもしれません",
"いや、もう当たりましたんでございますよ、頭でなくて、胸をやられたんですが、心臓のちょっと上の辺に石が当たったとかで、あざができて、今日は泣いたり、うなったりして、帰って来るなり、あのとおり病みついたんでございますよ",
"ときに、御承知でしょうが、坊ちゃんは御自分から先にみんなに食ってかかるんですよ。あなたのために憤慨したんでしょう。子供らの話によると、さっきクラソトキンとかいう子供の横腹を、ナイフで突いたそうですよ……",
"そのことも聞きましたが、どうも危ないことでございます。そのクラソトキンというのは、ここの役人ですから、またやっかいなことが起こるかもしれません……"
],
[
"どんな失敗ですの? どうして好都合でしたの?",
"それはねえ、あの人は臆病な、気の弱い人なんですからね。あの人は苦労もして、たいへん気だてのいい人なんです。僕は今どういうわけで急にあの人が憤慨して、金を踏みにじったのかしらんと、いろいろ考えてみましたけれど、それはつまり最後の一瞬まで、金を踏みにじったりしようとは、思っていなかったからです。それで今になってみると、あの人はそのときいろんなことに腹を立てていたんじゃないかと思います。……しかし……あの人の立場になってみたら、そうするよりほかにしかたがなかったのかもしれませんね……第一に、あの人はわたしの眼の前で、あまり金のことを喜んで見せたうえに、それを隠そうともしなかったので、腹を立てたのです。たとい、喜んだとしても、それほどじゃなく、そんな素振りを見せず、ほかの者と同じように気どったまねをして、顔をしかめながら受け取ったとすれば、そのときはしんぼうして受け取ったでしょう。ところが、実際はあんまり正直すぎるほど喜んだものですから、それがいまいましくもあったのです。ああ、リーズさん、あの人は正直ないいかたですよ。こんな場合、やっかいなのは実にこのことなんですよ! あの人は話してる間じゅう、弱々しい力のない声をして、おまけに恐ろしい早口なんです。そして始終妙にひひと笑ったり、泣いたりしてたんですよ……本当にあの人は泣いてたんです、それほど嬉しがっていたのです。……娘たちのことも話しました……ほかの町で周旋してもらえるとかいう勤め口のことも話しました……そうしてほとんどすっかり胸のなかを僕にさらけ出して見せると、今度は、その胸の中をひろげて見せたことが、急にきまり悪くなってきたのです。それで、すぐに僕が憎らしくてたまらなくなったのです。つまり、あの人はひどく恥ずかしがりやの貧乏人の仲間なんです。ところで腹を立てたおもな理由は、あの人があまり早くから僕を友だちあつかいにして、あまり早くから僕に気をゆるしたからです。初め、さかんに僕に食ってかかって、脅していたと思ったら、金を見るやいなや、僕を抱きしめようとするじゃありませんか。なぜって、あの人は僕を抱きしめて両手でさわったりしてたんですからね。そんなぐあいだったものですから、きっと自分の屈辱を感じたに違いありません。ところへ、ちょうどそのとき、僕が失敗をやったのです。それもとてもたいへんなのをね。僕はいきなりこう言ってやりましたよ。もしもほかの町へ行く費用が足りなかったら、まだそのうえにもらえるし、僕だって自分の金の中からお好きなだけ差し上げますからね……すると、これが急にあの人の胸にこたえたのです。なぜおまえまでがおれを助けに飛び出すのかというわけですね。ねえ、リーズさん、見下げられている人間には、みんなに恩人のような顔をされるのを見るのがとてもつらいことなんですよ……僕はこんな話を聞きましたよ。長老が僕に聞かしてくれたのです。どう言っていいかわからないけど、僕は自分でよく見受けました。それに自分でもよくその気持がわかりますよ。ところで、何よりもいけないのは最後の瞬間まで、紙幣を踏みにじろうなどとは、夢にも思ってなかったにしても、やはり予感していたらしいことです。これはもう間違いありません。なぜって、あの人の喜び方があまり激しかったので、あの人はそんなことを予感したのです。……それはたとい、みんないやらしいことであったにしろ、やはり好都合にいったのです。僕のつもりではこのうえもなく都合よくいったとさえ思っていますよ……"
],
[
"『より高い地位』ですって、うまいわねえ、アレクセイさん、でも、それからどうなんですの、話してちょうだい!",
"いや、より高い地位……というのは少し僕の言い方がまずかった……しかし、そんなことはなんでもありません、なぜって……"
],
[
"まあ、アレクセイさん、偉いわね、病人にしてやるようにして、わたしたちは人を見てあげましょうね!",
"そうです、見てあげましょう、リーズさん、僕はいつでも喜んで見てあげますよ。しかし、僕はまだ本当に準備ができてない気がしています。時とすると、ひどく気が短いし、時とすると物を見る眼がないんですからね、だが、あなたは別です",
"あら、そんなこと本当にしなくってよ! アレクセイさん、わたしなんて幸福なんでしょう!",
"そう言ってくださるので、僕もたいへん嬉しく思いますよ、リーズさん"
],
[
"お待ちなさい、リーズさん、僕は二、三日のうちに断然お寺を出ます。いったん世間へ出た以上、結婚しなくちゃなりません、それは自分でよくわかっています。それに長老もそうしろとおっしゃるのです。ところで僕は、あなた以上の妻を娶ることもできなければ、またあなたよりほかには僕を選んでくれる人もありません。僕はこのことをもうよく考えてみました。まず、あなたは僕を小さい時分から知っている。次には、あなたは僕の持っていない多くの能力を持っている。あなたの心は僕の心より快活です。第一、あなたは僕よりはるかに無垢ですからね。僕はもういろんなものに触れました。いろんなものに……だって、僕だってやはりカラマゾフなんだから、あなたにはそれがわかりませんか! あなたが笑ったり、ふざけたりするのが何でしょう……僕のことにしてもね……いや、かえって笑ってください、ふざけてください、僕はそのほうが嬉しいくらいですよ……あなたは表面こそ小さな女の子のように笑っていられるが、心のなかには殉教者の考えをもっていられるのだからね……",
"殉教者のようですって? それはどういうわけ?",
"それはね、リーズさん、さっきあなたはこんなことを聞きましたね――僕たちがあの不仕合わせな人の心をあんな風に解剖するのは、つまりあの人を卑しめることになりはしないかってね――この質問が殉教者的なのです……僕にはどうもうまく言い現わせませんが、こんな質問の浮かんでくる人は、自分で苦しむことのできる人です。あなたは安楽椅子に坐っているうちに、いろんなことを考え抜いたんですね……"
],
[
"僕着物のことまで考えなかったが、あなたの好きなのを着ますよ",
"わたしはね、鼠がかった青いビロードの背広に、白い綿入れのチョッキを着て、鼠色をした柔らかい毛の帽子をかぶって欲しいのよ……ところで、さっきわたしがあなたは嫌いだ、昨日の手紙は嘘だと言ったでしょう、あのことあなたは本当にしたの?",
"いいえ、本当にはしませんでした",
"ああ、なんていやな人だろう、どうしてもそのくせがなおらないのねえ!",
"ねえ、僕は知っていたんですよ……あなたが僕を……愛してらっしゃるらしいことを、……だが……あなたが嫌いだとおっしゃるのを、わざと本当にしたような振りをしたんです。だって、そのほうがあなたには、都合がいいんでしょうからね……",
"あら、そんなこと悪いことだわ! 悪くもあるし、またいちばんいいことでもあるのよ、アリョーシャ。わたしあなたが好きでならないの。さっきあなたがここへいらっしゃったとき、実は、判じ物をしてたのよ。わたしが昨日の手紙を返してくださいと言って、もしあなたが平気でそれを出してお渡しになったら(あなたとしてはそれは全くありそうなことなんですもの)、つまり、あなたはわたしを愛してもいなければ、なんとも思っていないことになる。つまり、あなたはばかなつまらない小僧っ子で……そしてわたしの一生は滅びてしまうと思ったの――ところが、あなたは手紙を庵室へ置いてらしったので、わたしすっかりせいせいしたのよ、だって、あなたは返してくれと言われるのを感づいて、わたしに渡さないように庵室へ置いてらしったんでしょう? ねえ、そうじゃない?",
"おお、ところがそうでないんです、リーズさん。だって、手紙は今ちゃんと持ってるんです、さっきだってやはり持ってたんです。ほら、このかくしに、ね"
],
[
"ただしあなたには渡しゃしないから、そこから御覧",
"え? じゃ、あなたはさっき嘘をついたのね。坊さんのくせに嘘をついたのね、あなたは!"
],
[
"まさかねえ、リーズさん? でも、それは間違っていますよ",
"まあ、どうしましょう! なにも卑しいことなんかありゃしないわ! これが世間なみのお話しを立ち聞きするんだったら、そりゃ卑しいことに相違ないでしょうが、現在生みの娘が若い男と一間にとじこもるなんて……ねえ、アリョーシャ、よござんすか、わたしは結婚したらさっそく、あなただって、こっそり監督してあげることよ。そればかりか、あなたの手紙をみんな開封して、すっかり読んでしまうわよ……前もって御承知を願っておくわね……"
],
[
"アリョーシャ、あなたはわたしに従うつもりなの? そんなことも前にちゃんと決めておかなくちゃならないわ",
"僕は、喜んでそうしますよ。だけど、根本の問題は別ですよ。根本の問題については、もしあなたが僕に一致しなくっても、僕は義務の命ずるとおりに行なうから"
],
[
"ええ、言ったわ",
"ところがね、僕は神を信じてないかもしれないんですよ"
],
[
"ところがね、今そのうえに、僕の大切な友だちが行ってしまおうとしているのです。世界の第一人者がこの土を見すてようとしているのです。僕がどんなにこの人と精神的に結びついているか、それがあなたにわかってくださったらなあ! あなたにわかってくださったらなあ! しかも、僕は今、たった一人でとり残されようとしているのです……僕はあなたのところへ来ますとも、リーズさん。これからさきいっしょにいることにしようね……",
"ええ、いっしょにね、いっしょにね! これから一生涯いつもいっしょにいましょうね。ちょっと、わたしを接吻してくださらない、わたし許すわ"
],
[
"さあ、もういらっしゃい、では、御機嫌よう!(と彼女は十字を切った)。早く生きていられるうちにあのかたのところに行っておあげなさい。わたしすっかりあなたを引き止めてしまったわね。今わたし、あの人とあなたのためにお祈りすることにするわ。アリョーシャ、わたしたちは幸福でいましょうね? ね、幸福になれますわね?",
"なれますとも、リーズさん"
],
[
"いいえ、そんな必要はありません、それよりカテリーナさんの容体はどうなんです、僕それが聞きたくてたまらないのです",
"やっぱりうなされながら寝てらっしゃいます。まだお気がつかれないんですよ。伯母さんたちは来ていても、ただ吐息をついて、わたしに威張りちらすばかりなんですからね。ヘルツェンシュトゥベも来るには来ましたが、もうすっかりびっくりしてしまって、かえって、あのかたのほうへ手当てをしてあげたり、介抱したりするのにあたし見当がつかなくて困ったくらいなんです。別の医者でも迎えにやろうかと思ったくらいですもの。とうとううちの馬車に乗せて帰してしまったうえに、突然あの手紙の一件でしょう。もっとも、それはまだ、これから一年半たってからのことでしょうが、すべて偉大で神聖なものの御名をもって誓いますから――今おかくれになろうとしている長老様のお名をもって誓いますから、どうかその手紙をわたしに見せてください、母親に見せてください! もしなんなら指でしっかりつまんでてください! わたし自分の手に取らないで読みますから",
"いいえ、見せません。あの人が許しても僕は見せません。僕、明日また来ますから、もしお望みなら、そのときいろんなことを御相談しましょう、しかし今日はこれで失礼します"
],
[
"あら、そんなことないわ、わたし、詩が大好きなのよ",
"詩を作ったりするなんて、全くばかげきったこってすよ。まあ、考えて御覧なさい、一体全体、韻を踏んで話をする人が世の中にありますかね? またたとい政府の言いつけであろうと、韻を踏んで話をすることにでもなったら、われわれは言いたいと思うことも満足には言えやしませんからねえ。詩なんて大事なものじゃありませんよ、マリヤさん"
],
[
"小さい時分からあんな貧乏くじさえ引き当てなかったら、僕はまだまだいろんなことができたはずなんですよ。もっともっといろんなことを知っていたはずですよ! 僕のことをスメルジャシチャヤの腹から生まれた父なし児だから根性が曲がった悪党だなんかって言うやつには決闘を申しこんで、ピストルでどんとやっつけてやりたいですよ。モスクワでも面と向かって、そんな風に当てこすりを言われたことがありました。それもグリゴリイ・ワシーリエヴィッチのおかげで、この町から出て行った噂なんですよ。グリゴリイ・ワシーリエヴィッチは僕が自分の誕生をのろうからといって『おまえはあの女の子宮を破ったんだ』なんてとがめるんです。まあ、子宮は子宮でいいとして、僕はこんな世の中へなんか出て来ずに済むものなら、まだ胎の中にいるうちに自殺してしまいたかったくらいですよ。よく市場なんかでぶしつけ千万にも、あの女は雀の巣のような頭をして歩いていただの、背が二アルシンとちょっぴりしかなかったなんかと言うし、あなたのお母さんなぞも、やっぱりずけずけと話されるじゃありませんか。いったい何のためにちょっぴりなんて言うのです? 普通に話すとおり、少しと言ったらよさそうなもんじゃありませんか。きっと哀れっぽく言いたいからでしょうが、それはいわば百姓の涙です、百姓の感情です。いったいロシアの百姓が教育のある人間に対して何か感情を持つことができますか? やつらは無教育なために感情を持つことができないんです。僕はまだほんの子供の時分から、この『ちょっぴり』と言うのを聞くと、まるで壁にでもがんとぶつかったような気がしたものです。ロシア全体を僕は憎みますよ、マリヤ・コンドゥラーチェヴナさん",
"でも、あなたが陸軍の見習士官か、若い驃騎兵ででもあって御覧なさい、そんな言い方をなさりはしないから。きっとサーベルを抜いてロシア全体をお守りなさることよ",
"僕はね、マリヤ・コンドゥラーチェヴナさん、陸軍の驃騎兵になんぞなりたいと思わないばかりか、あべこべに兵隊なんてものがすっかり消えてなくなればいいと思いますよ",
"じゃ、敵がやって来たとき、誰が国を守りますの?",
"そんな必要は少しもありませんよ。十二年に、フランスの皇帝ナポレオン一世が(今の陛下のお父さんですがね)、ロシアへ大軍を率いて侵入して来ましたが、あのときにフランス人たちがこの国をすっかり征服してしまえばよかったんですよ。あの利口な国民がこのうえなしにのろまな国民を征服して、合併してしまってでもいたら、国の様子もがらりと変わっていたでしょうにねえ"
],
[
"そりゃあね、めいめい好き好きがありますからね",
"それに、あなた御自身がまるで外国人のようですわ。生まれのいい外国人にそっくりよ。こんなこと言うの、わたし、きまりが悪いんだけれど",
"よかったら話しますがね、女好きなところはロシア人も外国人も似たりよったりですよ。どちらもしようのない極道どもですよ。ただ外国のやつはエナメルの靴をはいてるのに、ロシアの極道は乞食くさい臭いをぷんぷんさせていながら、自分ではそれを少しも悪いと思わないところが違うだけです。ロシアの人間は、ぶんなぐらなければだめだ、昨日フョードル・パーヴロヴィッチの言われたとおりですよ。もっともあの人も、三人の息子たちといっしょに気がふれていますがね",
"だって、あなたはイワン・フョードロヴィッチを尊敬するっておっしゃったじゃありませんか?",
"しかし、あの人も僕をけがらわしい下男のように扱うのです。僕を謀叛でも起こしかねない人間だと思っていますがね、そこはあの人の思い違いですよ。僕はふところに相当の金さえあれば、とうにこんなところにいはしないんです。ドミトリイ・フョードロヴィッチなんか、身持ちからいっても、知恵からいっても、貧的なことからいっても、どこの下男よりも劣った人間で、何一つできもしないくせに、みんなから崇められている。僕なんかは、よしんばただの料理人にしろ、うまくゆきさえすればモスクワのペトロフカあたりで、立派な珈琲兼料理店を開業することができます。なぜって、僕には特別な料理法の心得がありますが、それはモスクワでも外国人をのけたら誰ひとりできる者はいないんですからね。ところがドミトリイ・フョードロヴィッチが素寒貧でありながら、しかも、一流の伯爵の息子に決闘を申しこんだとすれば、その若様は、のこのこ出かけて行くに相違ないんですよ。いったい、あの男のどこが僕より偉いんでしょう? だって僕よりは、比べものにならんほどばかだからですよ。ほんとにどれだけなんの役にも立たないことに金を使い果たしたかわかったものじゃない"
],
[
"どうして",
"とても恐ろしくって、勇ましいからよ。とりわけ若い将校なんかが、どこかの女の人のためにピストルを持って射ちあうなんて、ほんとにたまらないわ。まるで絵のようね。ああ、もしも、娘にも見せてもらえるものだったら、わたしどんなにそれが見たいでしょう",
"それはね、自分のほうが狙う時はいいでしょうが、こっちの顔のまん中を狙われる時には、それこそひどく気持の悪い話でさあね。その場から逃げ出すくらいが落ちですよ、マリヤさん",
"ほんとに、あなたも逃げ出しなさるの?"
],
[
"わたしはあの人の居どころなんかちっとも知りませんし、べつに知ろうとも思っていませんよ",
"でも、兄さんはたしかに、うちの出来事をなんでもおまえが兄さんに知らせることになってるって、僕に話したんだよ。それにアグラフェーナ・アレクサンドロヴナが来たら知らせるって、約束したそうじゃないか"
],
[
"そのとおりですよ",
"広場の『都』だな?",
"確かにあそこですよ"
],
[
"アリョーシャ、おまえは今すぐにここへはいって来るわけに行かないかえ、どうだい? そうしてくれると実にありがたいんだが",
"ええ、いいのくらいじゃありませんよ、でも、こんな服装ではいって行ってもいいかどうか、それがわからないだけです",
"だって、ちょうどいいあんばいに僕は別室に陣取ってるんだ。かまわずに玄関からはいっておいでよ、僕が今迎えに駆け出して行くから……"
],
[
"桜ん坊のジャムはどうかえ? ここにあるんだよ。覚えてるかな、おまえは小さい時分にポレーノフの家にいて、桜ん坊のジャムが大好きだったじゃないか?",
"そんなことをよく覚えていますね? ジャムもくださいよ。僕は今でも好きなんです"
],
[
"何もかも僕は覚えてるよ、アリョーシャ、僕はね、おまえが十一のときまでは覚えてる、そのとき僕は十五だったんだな。十五と十一という年の違いは、兄弟がどうしても仲よしになれない年ごろなんだな。僕はおまえが好きだったかどうかさえ覚えていないんだ。モスクワへ出てから最初の何年かは、おまえのことなんかてんで思い出しもしなかったよ。その後おまえ自身がモスクワへやって来た時だって、たった一度どこかで会ったきりだったっけ、それにまた、僕はこちらへ来てもう四か月にもなるけど、今まで一度もおまえとしんみり話したことがない。僕は明日立とうと思うんでね、今ここに坐っていながら、ふとどうかしてあれに会えないかしら、しんみり別れがしたいものだと考えていると、そこへおまえが通りかかるじゃないか",
"それでは、兄さんはそんなに僕に会いたかったんですか?",
"とても。一度じっくりとおまえと近づきになって、また自分の腹の中をおまえに知ってもらって、それを土産に別れたかったんだ。僕の考えでは、別れる前に近づきになるのがいちばんいいようだ。僕はこの三か月のあいだおまえがどんなに僕を見ていたか、よく知ってるよ。おまえの眼の中には何か絶え間のない期待、とでもいうようなものがあった。それがどうにも我慢ができなくて、そのために僕はおまえに近づかなかったんだ。ところが、とうとうしまいになって、僕はおまえを尊敬するようになった。やつは相当にしっかりしてるぞというような気がしてきたんだ。いいかい、いま僕は笑ってるけど、言うことはまじめなんだよ。だって、おまえはしっかりした足つきで立ってるじゃないか? 僕が好きなのは、そういうしっかりした人間なんだ。その立場が何であろうと、またその当人が、おまえのような小僧っ子であってもさ。で、しまいには何か期待するようなおまえの眼つきが、ちっともいやでなくなった。いや、かえってその期待するような眼つきが好きになったんだよ……おまえもどういうわけか僕を好いててくれるようだな、アリョーシャ?",
"好きですとも、イワン。あなたのことをドミトリイ兄さんは、イワンのやつは墓だといってるけれど、僕のほうは、イワンは謎だというんです。今でも兄さんは僕にとって謎だけれど、しかし、やっと僕は何か兄さんのあるものをつかんだような気がするんです。それも、つい今朝からのことですよ"
],
[
"で?",
"つまり、兄さんだっても、やはりほかの二十四くらいの青年と同じような青年だということです。つまり、同じように若々しくて、元気のいい、可愛い坊ちゃんです。いわば、まだ嘴の黄色い青二才かもしれませんよ! どうです、たいして気にさわりもしないでしょう?"
],
[
"生の意義以上に生そのものを愛するんだね?",
"断然そうなくっちゃなりません。あなたのおっしゃるとおり論理より前にまず愛するのです。ぜひとも論理より前にですよ。それでこそはじめて意義もわかってきます。そのことはもう以前から僕の頭の中に浮かんでいたんですよ。兄さん、あなたの事業の前半はもう成就もし、獲得もされました。今度はその後半のために努力しなければなりません。そうすればあなたは救われますよ",
"もうおまえは救いにかかっているんだね。ところがね、僕は案外、滅亡に瀕してなんかいないかもしれないよ。ところでおまえのいわゆる後半というのはいったいなんだね?",
"つまり、あなたの死人たちを蘇生させる必要があるというのです。たぶん、彼らはけっして死んではいないのかもしれませんよ。さあ、お茶をいただきましょう。僕はこうしてお話をするのが、とても嬉しいんですよ。イワン",
"見たところ、おまえは何かインスピレーションでも感じているらしいな。僕は、おまえのような……新発意から、そんな Profession de foi(信仰告白)を聞くのが大好きなんだ。おまえはしっかりした人間だね、アレクセイ、おまえが修道院を出るっていうのは本当かい?",
"本当です。長老様が世の中へ僕をお送りになるのです",
"じゃ、また世間で会えるね。僕が三十そこそこになって、そろそろ杯から口を離そうとする時分に、どこかで落ち合うことがあるだろうよ。ところで親父は自分の杯から七十になるまで離れようとしないらしい。いや、もしかすると、八十までもと空想してるのかもしれない。自分でもこれは非常にまじめなことだと言ったっけ。もっとも、ただの道化にすぎないがね。親父は自分の肉欲の上に立って、大磐石でもふまえたような気でいるんだ……が、三十を過ぎたら、それより他には立つ足場がないだろうからね、全く……それにしても七十までは卑劣だ、三十までがまだしもだよ。なにしろ、自分を欺きながらも『高潔の影』を保つことができるからね。今日ドミトリイには会わなかったかな?"
],
[
"兄さんは本当にそんなに急に立つんですか?",
"ああ"
],
[
"弟殺しについてカインが神様に答えたことばかえ? え、今おまえはそれを考えてるんだろう? しかし、どうとも勝手にしろだ。僕は全くあの人たちの番人をしているわけにはいかないよ。仕事がかたづいたから出かけようというのさ。また、僕がドミトリイを妬いてるのだの、三か月のあいだ兄貴の美しい許嫁を横取りしようとしていただのとは、まさかおまえも考えてやしなかったろうな。ええ、まっぴら御免だぜ。僕には僕の仕事があったんだ。その仕事がかたづいたから出かけるのさ。さっき僕が仕事をかたづけたのは、おまえが現に証人じゃないか",
"それは、さっきあのカテリーナ・イワーノヴナのところで……",
"そうさ、あのことだよ。一度できれいさっぱりと身を引いてしまったよ。それがいったいどうしたというんだ? ドミトリイに僕がなんの関係があるんだ? ドミトリイなんかの知ったことじゃないんだ。僕はただ自分自身カテリーナ・イワーノヴナに用があっただけの話さ。それを、おまえも知ってのとおり、ドミトリイが勝手に何か僕と申し合わせでもしたような行動をとったんだ。僕が兄貴に少しも頼みもしないのに、勝手に兄貴のほうでいやにもったいぶって、あの女を僕に譲って祝福したまでの話じゃないか。全くお笑いぐさだよ。いやいや、アリョーシャ、おまえにはわかるまいけれど、僕は本当に今とてもせいせいした気持なんだよ! さっきもこうしてここに坐って食事をしているうちに、はじめて自由になった自分の時を祝うために、すんでのこと、シャンパンを注文しようとしたくらいなんだ。ちぇっ、ほとんど半年ものあいだずるずると引きずられていたが、急に一度で、全く一度ですっかり重荷がおりたよ。ほんとにその気にさえなれば、こんなに造作なくかたづけられようとは、昨日までは夢にも考えなかったからね",
"それは自分の恋についての話なんですか、イワン?",
"そう言いたければ恋と言ってもいいさ。なるほど僕はあのお嬢さんに、あの女学生に、すっかり惚れてたのさ。あの人と二人でかなり苦労したもんだ。そしてあの人もずいぶん僕を苦しめたよ。いや本当にあの人に打ちこんでいたんだ――それが急にすっかり清算がついてしまった。さっき僕はいやに感激してしゃべったけれど、外へ出るなりからからと笑っちゃったよ――おまえ本当にするかい、いや、これは文字どおりの話なんだよ"
],
[
"それに、僕があの人をちっとも愛していないなんてことが、僕にわかるはずはなかったじゃないか、へへ! ところが、はたしてそうでないってことがわかったよ。あの人はひどく僕の気に入ってたんだよ。さっき僕が演説めいたことをしゃべったときでも、やっぱり気に入ってたんだよ。そして実はね、今でもひどく気に入ってるんだ。けれど、あの人のそばを離れて行くのが、とてもせいせいするんだよ。おまえは僕が駄法螺を吹いてるんだとでも思うかえ?",
"ううん、でも、ことによったらそれは恋ではなかったのかもしれませんよ"
],
[
"ホフラーコワが嘘をついたんじゃないか?",
"そうではないらしいんです",
"だって、調べてみなくちゃならないよ、ただ、ヒステリイで死んだものは、一人もないからね、ヒステリイというやつはあってもいいだろう。神様は好んで女にヒステリイをお授けになったのだ。僕はもう二度とあすこへは行かない。何も今さら顔を出すにも当たるまいからな",
"でも、兄さんはさっきあの人にこんなことを言ったでしょう、あの人はついぞ兄さんを愛したことがなかったって",
"あれはわざと言ったんだよ。アリョーシャ、シャンパンを注文しようかね。僕の自由のために飲もうじゃないか。いや、僕が今どんなに嬉しいかわかってくれたらなあ!"
],
[
"ああ、おまえはずっと前から気が滅入ってるようだね、かなり前から僕にも気はついてたよ",
"じゃ、明日の朝はどうしても出立するんですか?",
"朝? 何も僕は朝と言ったわけじゃないよ……けれど、あるいは本当に朝になるかもしれないな。ところで、僕が今日、ここで食事をしたというのはね、ただ親父といっしょに食事をしたくなかったからなんだよ。それほど僕はあの親父がいやでたまらなくなったんだ。僕はそのことだけでも、とうに出立していたはずなんだ。しかし、僕が出立するからって、どうしておまえはそんなに心配するんだ? 僕とおまえとのために与えられた時間は、出発までにまだどのくらいあるかわかりゃしない。永劫だ、不滅だ!",
"明日出立なさるというのに、どうして永劫だなんて言うんです?"
],
[
"いいえ、そんなことのためじゃありません",
"そんなら、自分でも何のためかわかってるだろう。ほかの人たちにはあることが必要だろうが、われわれ嘴の黄色い連中にはまた別のものが必要なんだ。われわれはまず最初に永遠の問題を解決しなければならない。これがいちばんわれわれの気にかかるところなんだ。いま若きロシアはただ永遠の問題ばかり取りあげている。しかもそれが、ちょうど老人たちがみな急に実際問題について騒ぎだした現在なんだからな。おまえにしたって、いったい、何のためにこの三か月のあいだ、あんなに何か期待するような眼つきで、僕を眺めていたんだ? つまり僕に『おまえはどんな風に信仰してるのか、それとも全然信仰を持っていないのか?』と尋問するためだったのだろう――なあ、アレクセイ・フョードロヴィッチ、君の三か月の注目も、結局はこんな意味になってしまうでしょう、え?"
],
[
"ええ、もちろん、もしもいま兄さんが冗談を言ってるんでなければ……",
"冗談を言うって? そりゃあ昨日だって長老のところで冗談を言うってとがめられたけど。そら、十八世紀にある老人の無神論者が、もし神がないとすれば、案出しなければならない、S'il n'existait pas Dieu il faudrait l'inventer. と言ったろ。ところが、実際に人間は神というものを考え出したんだ。しかし、神が本当に存在するというのが不思議でも奇態でもなくって、そのような考え――神は必要なりという考えが、人間みたいな野蛮で性悪な動物の頭に浮かんだということが、実に驚嘆に値するんだ、値するのだ、それほどこの考えは神聖で、感動的で、賢明で、人間の名誉たるべきものなんだ。僕はどうかといえば、人間が神を創ったのか、それとも神が人間を創ったのかということはもう考えまいと、とうから決めているんだ。だから、もちろん、この問題に関して、ロシアの小僧っ子たちが夢中になっている近来のいっさいの原理を詮議だてすることもやはり御免だ。そんな原理はみんなヨーロッパ人の仮設から引き出したものなんだ。なにしろ、あちらで仮設となっているものは、すぐにロシアの小僧っ子どもに原理化されてしまうんだからね。いや、小僧っ子ばかりではなく、どうかすると大学教授の中にさえそんなのがあるよ。だってロシアの大学教授はどうかすると、このロシアの小僧っ子と同然だからね。だからすべての仮設は避けることにしよう。ところで、いったい僕とおまえとは今どんな問題を取りあげたらいいんだ! 問題は、いかにすれば一刻も早く僕の本質、つまり僕がどんな人間で、何を信じ、何を期待しているかを、おまえに説明することができるかということだね、そうだろう? だから、こう明言しておくよ――僕は率直簡明に神を認容するってね。しかし、ここにただし書きがあるんだ。というのは、もしも神があって、本当に地球を創造したものとすれば、われわれにわかりきっているように、神はユウクリッドの幾何学によって地球を創造し、人間の知恵にただ空間三次元の観念だけを与えたのだ。ところが、幾何学者や哲学者の中には、それも最も著名な学者の中にすら、こんな疑いを持っているものが昔も今もあるんだ、つまり、全宇宙、というより、もっと広義にいえば、全存在はだね、どうもユウクリッドの幾何学だけで作られたものではなさそうだということだ。ユウクリッドの法則によると、この地上ではけっして一致することのない二条の平行線も、ことによったら、どこか無限のうちでは一致するかもしれないなどと大胆な空想をたくましゅうする者さえもあるんだよ。そこで僕はもうあきらめたんだ。これくらいのことさえ理解できないのに、僕に神のことなんかが理解できてたまるものかとね。僕はおとなしく白状するが、僕にはこんな問題を解釈する能力がひとつもない、僕の知恵はユウクリッド式の、地上的のものなんだ。それなのに現世以外の事物を解釈するなんてことが、どうしてわれわれにできるものか。アリョーシャ、おまえに忠告するが、こんなことはけっして考えないことだよ。何よりいけないのは神のことだ――神はありや、無しや? なんてことなのさ。そんなことは三次元の観念しか持っていない人間には、どうしても歯の立たない問題なんだ。それで僕は、神は承認する。進んで承認するばかりではなく、おまけに神の英知をも目的をも承認する――われわれには少しもわからないけれどね。それから人生の秩序も意義も信じ、われわれがやがては融和するとかいう永久の調和をも信ずる。また宇宙がそれに向かって進んでおり、それ自体が『神に通じ』またそれが神であるところの道、といったようないろんな数限りないことを信ずる。どうもこのことについては、いろんなことばがしこたまこしらえてあるね。ともかくも、僕はいい傾向に向かってるようだろ――ね? ところが、いいかね、僕は結局この神の世界を承認しないのだよ。この世界が存在するということは知っているけれど、それでいて断じてそれを認容することができないのだ。何も僕は神を承認しないと言ってるわけじゃないよ、いいかい。僕は神の創った世界、神の世界を承認しないんだ、どうしても承認するわけにはいかないんだ。ちょっと断っておくが、僕はまるで赤ん坊のように、こういうことを信じてるんだよ――いつかはこの苦しみも癒えて跡形もなくなり、人間的予盾のいまいましい喜劇も、哀れな蜃気楼として、弱々しく、まるで原子のように微細な人間のユウクリッド的知能のいとうべき造りごととして消え失せ、ついには世界の終局において、永久的調和の刹那において、なんともたとえようのない高貴な現象があらわれて、それがすべての人々の胸に満ちわたり、すべての人々の憤懣を柔らげ、すべての人の悪行や、彼らによって流された血を贖って、人間界に引き起こしたいっさいのことを単に許すばかりでなく、進んでそれを弁護するというんだ――まあ、すべてがそのとおりになるとしてもだね、それでも僕はこれを許容することができないんだ、いや許容しようとは思わないんだ! たとい平行線が一致して、それを自分の眼で見たとしても、自分で見て、『一致した』と言ったとしても、やはり許容しないよ。これが僕の本質なのさ、アリョーシャ、これが僕のテーゼなんだ。これだけはもう大まじめでおまえに打ち明けたんだよ。僕はこのおまえとの話を、わざとこのうえもないばかげた風に始めたけれど、とどのつまり告白というところまで漕ぎつけてしまったよ、だっておまえに必要なのはただそれだけなんだからな、おまえにとっては神様のことなんかどうだっていい、ただおまえの愛する兄貴が何によって生きているかということだけ知ればいいんだからね"
],
[
"僕は、もし悪魔というものが存在しないで、人間がそれを創り出すとしたら、きっと人間そっくりの形に悪魔を作っただろうと思うんだがなあ",
"そんなことをいえば、神様だって同じことですよ"
],
[
"ああ、それは『罪なきただ一人』と、あの手の血のことだろう! どうしてどうして、この人のことを忘れはしなかったよ。それどころか、どうしてこの人を引合いに出さないのかと、長いあいだ不思議に思っていたんだよ。だってたいていおまえたちは論争のときには、何よりも先にまずこの人をかつぎ出すじゃないか。ときには、アリョーシャ、笑っちゃいけないよ、僕はいつか一年ばかり前に劇詩を一つ作ったんだ。もしも、僕につき合ってもう十分間ほど暇をつぶすことができるなら、一つおまえに話して聞かしてもいいんだけれど",
"兄さんが劇詩を書いたんですって?"
],
[
"僕はこんな風に完結させたいと思ったのさ、審問官は口をつぐんでから、しばらくのあいだ囚人がなんと答えるかを待ち設けていた。彼には相手の沈黙が苦しかったのだ。見ると囚人は始終しみ入るように、静かにこちらの顔を見つめたまま、何一つことばを返そうとも思わぬらしく、ただじっと聞いているばかりだ。老人は、どんな苦しい恐ろしいことでもかまわないから、何か言ってもらいたくてたまらないのだ。が、不意に囚人は無言のまま老人に近づいて、九十年の星霜を経た血の気のない唇をそっと接吻したのさ。それが回答の全部なのだ、老人はぎくりとした。なんだか唇の両端がぴくりと動いたようであった。と、彼は扉のそばへ近づいて、それをさっとあけ放しながら、囚人に向かって、『さあ、出て行け、そしてもう来るな……二度と来るな……どんなことがあっても!』と言って、『暗い巷』へ放してやる。すると囚人はしずしずと歩み去るのだ",
"で、老人は?",
"例の接吻が胸に燃えさかっていたのだけれど、やはり、元の理想に踏みとどまったんだ"
],
[
"どんな力が?",
"カラマゾフの力さ……カラマゾフ式の下劣な力なのさ",
"それは淫蕩に溺れて、堕落の中に魂を押しつぶすことですね、ね、ね?",
"まあ、そうかもしれんな……、しかし、ただ三十までだ。ひょっとしたら、逃げ出せるかもしれんが、しかしそのときは……",
"どんな風に逃げ出すんです? どうして逃げ出すんです? 兄さんのような考えを持っていたんでは、とてもだめです",
"こいつもやっぱりカラマゾフ式にやるさ",
"それはあの『すべてが許されている』というやつですか? 本当にすべてのことが許されているというのですか、そうなんですか、そうなんですか?"
],
[
"どうして掛かり合いにならずにいられましょう? それに、すっかりほんとのことを申しますと、けっしてわたくしのほうから掛かり合ったのではございません、わたくしは初めから黙っていて、一口もことばを返す元気もなかったのでございます、ただあの人が勝手にわたくしを自分の召し使いに、いわばリチャルドの役に決めておしまいになったのですよ、そのころから、もうなんぞといえば、『悪党め、もしあの女を見のがしたが最後、打ち殺してくれる!』と、それよりほかには、言うことも御存じないのでございますよ、若旦那、明日もまた確かに長い発作が起こりそうですしね",
"何の長い発作なんだ?",
"長い癲癇の発作でございますよ、おっそろしく長い発作なのですよ、幾時間も、いえ、ことによったら、一日も二日も続くかもしれません。一度、三日間ぶっつづきに続いたことがございます、そのときは屋根裏からおっこちましたんで、やんだかと思うとまたぶり返して、三日のあいだはどうしても人心地に返ることができませんでした。そのとき、フョードル・パーヴロヴィッチがヘルツェンシュトゥベという、この町の医者を呼んでくださいまして、頭を氷で冷やしていただきました、それからまだ何か手当てをしていただきましたっけ……本当に危うく死にそうでしたよ"
],
[
"そりゃあ、全くの話ですよ、前もって知るってわけにはまいりません",
"それに、そのときは屋根裏からおっこちたっていうじゃないか",
"屋根裏へは毎日上がりますからね、明日にもまた屋根裏からおっこちないものでもありませんよ、もし屋根裏でなければ、穴蔵へおっこちるかもしれません、穴蔵へ行く用事も毎日ございますからね"
],
[
"蠅かなんぞのようにたたき殺しておしまいなさいます、まず第一番にわたくしがやられるのです、しかし何より恐ろしいことが別にありますよ――つまり旦那に対して、何かばかなことでもしでかしなすった場合に、あの人と共謀のように思われるのが恐ろしいのでございます",
"どうしておまえが共謀のように思われるんだ",
"わたくしが共謀のように思われるわけは、例の合い図を、ごく内々でお知らせしたからですよ",
"合い図ってなんだ? そして誰に知らせたんだ? 本当にこいつめ、はっきり言わんか?"
],
[
"どうして知れてしまったんだ? 貴様が告げ口をしたのじゃないか? どうしてそんな大それたことをしたんだ?",
"恐ろしいからでございますよ、それにどうしてわたくしがあの人に隠しおおせるものですか? ドミトリイ・フョードロヴィッチは毎日のように、『貴様はおれをだましてるんじゃないか? 何かおれに隠してるんじゃないか? そんなことをしたら貴様の両足をたたき折ってやるからっ!』ておどしなさるじゃありませんか、そこでわたくしはあの人にこの秘密をお知らせしたのです、つまりそれで、わたくしの奴隷のような服従を見ていただいて、わたくしがけっして嘘を申すどころか、かえって何もかもお知らせしている、ということを信じていただくためにでございますよ",
"もし、兄貴がその合い図を利用して押し入りそうだなと思ったら、貴様が入れないようにしなけりゃあならんぞ",
"そりゃ、わたくしにしても、お兄さんが自暴になっておられることは承知していますから、無理にもお通しすまいと思いましたところで、もしわたくしが発作で倒れていましたら、なんともしかたがないではございませんか",
"ちぇっ、勝手にしろ! どうして貴様はまた、発作が起こることに決めてやがるんだ、本当に糞! いったい貴様はこのおれをからかっているのか、どうだ?",
"どうしてあなたをからかうなんて、そんな大それたことができましょう、第一こんな恐ろしいことを眼の前に控えていて、冗談どころじゃございませんよ、なんだか癲癇が起こりそうな気がします、そんな気がするのでございます、恐ろしいと思うだけでも起こりますよ",
"ちぇっ、畜生め! 明日貴様が寝こめば、グリゴリイが見張りをするよ、前からあれにそう言っといたら、あれならけっして兄貴を入れやしないぞ",
"どんなことがあっても、旦那のお許しがない以上、あの合い図をグリゴリイ・ワシーリエヴィッチに知らせるなんていうわけにはまいりませんよ、それにグリゴリイ・ワシーリエヴィッチがお兄さんのおいでを聞きつけて、入れないようにするだろうとおっしゃいますけれど、あの人はなにしろ昨日からかげんが悪くて、明日マルファ・イグナーチエヴナが療治をすることになっておるのです、さきほどそんな相談をしていました、なんでもその療治はずいぶんおもしろいことをするのですよ、マルファ・イグナーチエヴナはある浸酒を知っていていつも絶やさぬようにしまっておりますが、何かの草から採った強いやつで、あの女はその秘法を知っているのでございます、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチは年に三度ほど中風かなんぞのように、腰が抜けてしまいそうなほど痛むのです、そんなときこの浸酒で療治します、なんでも年に三度くらいのものでございます、そのおりマルファ・イグナーチエヴナはこの浸酒で手拭いを濡らして、半時間ばかり病人の背中じゅうを、からからになって赤く腫れ上がるまでこするのでございます、そして何かお呪いを唱えながら、びんに残っている浸酒を病人に飲ませます、もっとも、すっかりではございません、そんなときにはいつも少々残しておいて、自分でも飲むのでございます、そうして二人とも、酒のいけぬ人が酔っ払ったように、そのままそこに倒れてしまって、かなり長いあいだぐっすり寝こむのでございますよ、グリゴリイ・ワシーリエヴィッチは眼をさませば、いつも病気がなおっていますが、マルファ・イグナーチエヴナは眼をさました後できまって頭痛がするのでございます、こういうわけでして、もしマルファ・イグナーチエヴナが明日本当に療治をすれば、あの夫婦が何か物音を聞きつけて、ドミトリイ・フョードロヴィッチを入れないようにするなぞということは、どうもおぼつかない話でございますよ、きっと寝こんでしまいますから"
],
[
"なんだと、おまえ! 変なやつだぜ! 昨日話さないなんて……だがまあ、どっちにしても、今すぐだって話はつくだろう、なあ、おまえ、どうか頼むからひとつチェルマーシニャへ寄って行ってくれないか、ワロヴィヤの宿場からほんのちょっと左へ折れるだけなんだよ、せいぜい十二露里そこそこでもうその、チェルマーシニャなんだから",
"どうしてそんな、とてもだめですよ、鉄道まで八十露里もあるのに、モスクワ行きの汽車は晩の七時に出るんですから、やっとぎりぎりに間に合うくらいなんですもの",
"なあに、明日の間には合うよ、でなきゃ明後日のな、だが、今日はぜひともチェルマーシニャへ寄ってくれい、ほんのちょっとの手間で親を安心させるというものだよ! もしここに仕事さえなかったら、もうとっくにわしが自分で飛んで行ってるところなんだが、なにしろとても急な、大事な用だからな、しかしこちらの都合が……どうもそうしちゃいられないんだ……。な、あの森はベギーチェフとジャーチキンの二区にまたがって、淋しい所にあるんだ。ところで、マスロフという商人の親子が木を切らしてくれと言うんだが、たった、たった八千ルーブルより出しおらんのだ、去年ついた買い手は破談になったけれど、一万二千ルーブル出すと言いおったよ、それはここの者じゃないんだ――そこにいわくがあるのだ、なにしろ、ここの人間には、今とても売れ口がないのだよ、このマスロフというのが親子とも十万分限のやりてで、自分が値をつけたら、どんなことがあっても取らにゃ承知せんというやつで、こちらの商人で、この親子にたち打ちのできる者が一人もないのだ。ところが、先週の木曜日に、不意にイリンスコエの坊さんが手紙で、ゴルスツキンがやって来たことを知らせてくれたのだよ、これもやはりちょっとした商人で、わしは前から知っとるが、一つありがたいことは、この男がこちらの者でなくて、ポグレキウォの人間だってことなのさ、つまりマスロフなんか眼中においてないってわけなんだ、なにしろこの町の者じゃないからな。そこで、あの森を一万一千ルーブルで買うと言ってるのだよ、な、いいかえ? 坊さんの手紙では、その男がもう一週間しか逗留しないということだから、おまえひとつ出かけて、その男と談判してみてくれないか……",
"それじゃあ、その坊さんに手紙を出したらいいじゃありませんか、その人が談判をしてくれますよ",
"とてもあの人にゃできない相談だよ、あの坊さんには見る眼というものがないからなあ、人は好いもので、あの人になら今すぐ二万ルーブルの金を、受け取りなしに平気で預けてみせるよ、しかし眼力というものが少しもないんだ、人間ならまだしも、鴉にだってだまされそうなお人好しだよ、それでいて学者だから驚くて。ところが、そのゴルスツキンというのは、見かけは紺の袖無しなんか着こんで、まるでどん百姓のようだが、肚の中ときたら、まるっきり悪党なんだ、これがお互いの不仕合わせというのさ、つまり、恐ろしい嘘つきなんだ、これが問題なのさ、どうかすると、何のためにあんな嘘をつくのかと、不思議になるような嘘をつくんだ。一昨年なんかも、女房が死んだから、今二度目のをもらっているなどと言いおったが、その実そんなことは根も葉もないでたらめなんだよ、女房が死ぬどころか、今でもぴんぴんしていて、三日に一ぺんはきまって亭主野郎をなぐっているんだ。そんな風だから、今度も一万一千ルーブルで買うというのも、本当か嘘か、それを突き止めないではと思うのさ",
"そんなんじゃあ、僕なんかなんの役にも立ちませんよ、僕には眼力なんかありませんから",
"いや、待て、そうでない、おまえでも役に立つぞ、今わしがあの男の、つまりゴルスツキンの癖をすっかり教えてやるわい、わしはもうだいぶ前からあの男と取り引きをしておるからな。いいか、あの男はまず髯を見なくちゃならんのだ、あいつの髯は赤くてよごれてちょろちょろしとるが、その髯を震わしながら腹を立てて物を言うときは、つまり何も言うことはない、あいつは本当のことをしゃべっているんだ、まじめに取り引きをする気があるんだ。ところが、もし左の手で髯をこうなでながら、笑っているときは、つまり瞞着しようと思って悪企みをしてやがるのだ、あの男の眼はけっして見るのじゃないぞ、あいつの眼では何もわかりゃせんぞ、悪党だからな――つまり髯さえ見ていればいいのさ、わしがあの男に当てた手紙をおまえにことずけるから、そいつを見せてくれ、男はゴルスツキンだが、本当はゴルスツキンじゃなくてリャガウイだ、しかし、おまえあいつに向かってリャガウイなんて言っちゃいかんぞ、怒るからな、もしあいつと談判をして、うまくいきそうだったらすぐ手紙をよこしてくれ、ただ『嘘ではない』と書きさえすりゃいいんだよ。初め一万一千ルーブルで頑張ってみたうえで、千ルーブルくらいは負けてやってもいい。しかし、それよりうえ負けちゃいかんぞ、まあ、考えてもみろ、八千ルーブルと一万一千ルーブル――三千ルーブルの開きじゃないか、この三千ルーブルは全く目つけものなんだよ。それに、またといって、なかなか買い手はつきゃせんし、今さしずめ金には困り抜いてるんだからなあ、もしまじめな話だという知らせさえあれば、その時はわしが飛んで行って片をつけるわい、なんとかして暇を見つけるさ。しかし、まだ今のところでは、坊さんの思い違いかもしれんからなあ、わしがわざわざ出かけてもしようがないよ",
"ちょっと、そんな暇がないんですよ、堪忍してください",
"まあさ、親爺の言うことも聞いてくれ、恩に着るぞ! おまえたちはどいつもこいつも不人情なやつばかりだよ、本当に! 一日や二日どうだというんだい? いったいおまえは今どこへ行こうってんだ、ヴェニスへでも行くのかい? なあに、おまえのヴェニスは二日のあいだになくなりゃあせんよ。アリョーシャをやってもいいのだが、こんなことにかけては、アリョーシャじゃしようがないて、おまえだけだよ、賢い人間は、それがわしにわからんと思うのかい? 森の売り買いこそしまいが、眼力をそなえておるからなあ、ただあの男が本当のことを言っとるかどうかさえ、見抜きゃいいんだ、今も言ったように髯を見るんだ、髯が震えてたら本当なんだから"
],
[
"じゃあ、行ってくれるんだな、行ってくれるんだな! すぐに今一筆書いてやるからな",
"わかりませんよ、行くかどうか、まあ途中で決めましょうよ",
"途中でとはなんだ、今決めるがいい、な、いい子だから決めてくれ! 話がついたら一筆書いて、坊さんに渡してくれ、そうすれば、やっこさんがすぐおまえの書きつけをわしに届けてくれるからなあ、それから後はもうおまえの邪魔はせんから、ヴェニスへでもどこへでも行くがよい、坊さんが自分の馬をつけて、おまえをワロヴィヤの宿場まで送ってくれるよ……"
],
[
"チェルマーシニャ行きは取りやめだ、おい、七時の汽車には間に合うか?",
"間に合いますよ、馬をつけましょうかな?",
"大至急でつけてくれ、ところで、おまえたちのうちで誰か、明日町へ行くものはないかね?",
"なんで行かんことがあるもんですか、このミートリイが行きますだよ",
"じゃ、ミートリイ、おまえに一つ頼みがあるんだがなあ、おまえおれの親父のフョードル・パーヴロヴィッチ・カラマゾフの家へ寄って、おれがチェルマーシニャへ寄らなかったことをそう言ってくれないか、行ってくれるだろうかね?",
"なんの行かねえことがござりましょう、お寄りいたしますだよ、フョードル・パーヴロヴィッチ様なら、ずっと以前から存じ上げておりますだで"
]
] | 底本:「カラマゾフの兄弟 上巻」角川文庫
1968(昭和43)年8月30日改版初版発行
1975(昭和50)年10月30日改版11版発行
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2009年11月21日作成
2012年1月11日修正
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"作品ID": "042286",
"作品名": "カラマゾフの兄弟",
"作品名読み": "カラマゾフのきょうだい",
"ソート用読み": "からまそふのきようたい",
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"副題読み": "01 じょう",
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[
[
"知らないわ",
"それはね、あなたがかわいい子で、この一週間お行儀よくしていたからですよ"
]
] | 底本:「ドストエーフスキイ全集 2」河出書房新社
1970(昭和45)年8月25日初版発行
入力:いとうおちゃ
校正:三輪朋加
2022年11月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "060812",
"作品名": "クリスマスと結婚式",
"作品名読み": "クリスマスとけっこんしき",
"ソート用読み": "くりすますとけつこんしき",
"副題": "――無名氏の手記より――",
"副題読み": "――むめいしのしゅきより――",
"原題": "ЕЛКА И СВАДЬБА",
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"姓読み": "ドストエフスキー",
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[
[
"だって、シーモノフ君、察してもくれたまえ、ぼくはここへ来るとき、そんなことを知るはずがなかったじゃないか……いまいましくってたまらないんだけれども、つい忘れちゃって……",
"よろしい、よろしい、どうだっていいさ。あす食事の時に払ってくれたまえ。ぼくはただ念のために……きみ、どうぞ……"
],
[
"でーえ、現在の内容は?",
"内容とはなんのことだね?",
"つまり、俸給のことかね?",
"全体、きみはぼくを試験しているのかね!"
],
[
"きみはどうやら、自分の知恵を見せようというつもりらしいね?",
"ご心配はいらないよ。それはこの席じゃまったくよけいなことだから",
"いったいきみはどうしたというんだね、え? がやがやと小うるさいことばかりいって、――え? まさか気でも狂ったんじゃあるまいね、きみのお役じょで勤めているうちにさ?"
],
[
"ぼくはきみの友誼を望むんだよ、ズヴェルコフ。ぼくはきみを侮辱したが、しかし……",
"侮辱したって! きーみが! ぼーくを! ねえ、きみ、たとえどんな場合でも、またどんなことがあろうとも、きみがぼくを侮辱することなんかできないよ!"
],
[
"いったいきみもぼくらといっしょにあすこへ行くのかい!",
"そうさ!"
],
[
"いいえ",
"どこから来たの?"
],
[
"ドイツ人かい?",
"ロシヤ人よ",
"前からここへ来てるの?",
"どこへさ?",
"この家へさ",
"二週間まえよ"
],
[
"お父さんお母さんはいるかい?",
"ええ……いいえ……あるわ",
"どこにいるの?",
"あちらに……リガに",
"いったいどういう人なんだい?",
"べつに……",
"べつにって、なんだい? いったい何者で、どういう身分だね?",
"町人なの",
"きみはこれまでずっと両親といっしょに暮らしていたの?",
"ええ",
"年はいくつ?",
"はたち",
"なぜきみは親もとを離れたんだい?",
"べつに、なぜって……"
],
[
"棺ですって?",
"ああ、センナヤ広場でね。穴蔵から運び出していたのさ",
"穴蔵から?",
"穴蔵じゃない、地階からだ……ね、わかるだろう……その、下のほうに住居があるやつさ……怪しい商売の家なのさ……あたりはひどいぬかるみでね……ひまわりの殻だの、ごみだの一杯で……いやな臭いがしてね、胸が悪くなるようだったよ"
],
[
"なぜって、底に水が溜ってるよ、かれこれ一尺くらい。こんな日にゃヴォルコーヴォの墓地あたりで、乾いた穴なんか一つだって掘ることはできやしまいよ",
"どうして?",
"なにがどうしてさ? あんなぐじゃぐじゃした場所じゃないか。ここはどこへ行っても、沼地なんだぜ。だから、水の中へ棺を浸けるわけなのさ。おれは自分でみたよ……何度も……"
],
[
"そりゃ、いつかは死ぬさ。ちょうどさっき話した死人のように、あれと同じ死に方をするのさ。あれもやはり……きみと同じような女だったんだが……肺病で死んだんだよ",
"商売女は病院で死にそうなものだけれど……"
],
[
"いったい病院で死んだほうが楽だとでもいうのかい?",
"どっちだっていいのじゃないの?……それに、なんだってわたしが死ぬことに決めてるの?"
],
[
"いますぐでなければ、やがてそのうちによ",
"ふむ、そのうちにだって、いやなことさ……",
"もしそう注文どおりにゆかなかったら? 現在きみは若くて、綺麗でいきいきしているから、うんと高く買ってもらえるけれど、こんな生活をもう一年もつづけていたら、きみもすっかり変わってしまって、しなびてくるに決まってる",
"一年やそこいらで?"
],
[
"だってかわいそうじゃないか",
"だれが?",
"命がかわいそうなのさ"
],
[
"きみには約束した人でもあったのかい? え?",
"そんなことをきいて何になさるの?",
"いや、ぼくは何も訊問しているわけじゃない。ぼくがそんなことをきいたって、何になるもんかね。なんだって腹を立てるんだ? むろん、きみにはきみでいやなこともあるだろうさ。だが、ぼくにとってなんの関係があるというんだ? ただなんということなしに、かわいそうな気がするんだよ",
"だれが?",
"きみがかわいそうなのさ"
],
[
"いったいきみは、どんな気でいるんだね? まっとうな道を踏んでるとでも思っているのかい、え?",
"わたしなんにも考えてやしないわ",
"つまり、それがいけないんだよ、なんにも考えないということがさ。手遅れにならないうちに、早く目をおさまし。まだ遅くはないよ。きみはまだ若くって、器量もいいんだから、恋をすることもできようし、結婚することもできる、幸福な身の上にもなれるというものだ……"
],
[
"ただ、なんということなしに",
"しかし、親の家に暮らしていたら、どんなにいいかしれないじゃないか! 暖かくて、気ままができてさ。なんといっても自分の巣だからね",
"でも、それほど良くなかったら?"
],
[
"じゃ、身分のいい人は仕合わせだとでもおっしゃるの? 貧乏してたって、正直な人間はちゃんとした暮らしをしていますわ",
"ふむ……そう。そうかもしれない。だがね、リーザ、こういうことも考えてごらん。人間は自分の不幸ばかり数え立てて、仕合わせなことは棚に上げておくものだよ。もしそれを本当に計ってみたら、どんな人だって、それ相当に仕合わせが授かっているものさ。ねえ、家のなかが何もかもうまくいったらどうだろう? 神さまのおかげで、立派な夫が授かってさ、片時もそばを離れないくらい、ちやほやとかわいがってくれたら! そういう家庭は素敵じゃないか! 時によると、不仕合わせとちゃんぽんだってけっこうじゃないか。実際、不幸のないところなんてないんだからね。きみだって結婚したら、自分でそれがわかるだろうよ。その代わり、好きな男と結婚した当座のことを考えてごらん。それこそ本当の幸福で、時によると、背負い切れないほどの幸福がやって来るんだよ! いや、そんなことはざらにあるさ。結婚当座は、夫婦喧嘩だってめでたくけりがつく。女によると、亭主を愛していればいるほど、よけい喧嘩の種をつくるくらいだ。ぼくは事実そんな女を知っているよ。『よくって、わたしはあんたが、好きで好きでたまらないのよ。好きなればこそ、苦しめるんだから、あんたもそれを感じなくちゃ駄目』といったようなわけさ。好きなために、わざと相手を苦しめるってことが、きみにはわかるかい? そんなのは大てい女に多いのだ。そうしておいて、『そのかわりあとでうんと優しくしてかわいがって上げるから。だからいますこしくらい苦しめたって、罪にゃならないわ』と腹の中で考えているんだね。家の者もみんなその様子を見て、喜んでくれる。すべてがけっこうで、楽しくて、平和で道理にかなっているのだ……ところが、なかにはまた、嫉妬ぶかい女もいる。男がどこかへ出かけると、――ぼくは現に、そんなのを一人知っていたがね、――矢も楯もたまらなくなって、よる夜中でも見さかいなく飛び出して、ひょっとあそこにいるのじゃないか、あの家へ行ってるのじゃあるまいか、あの女といっしょじゃないだろうかと、こっそり様子を見に駆け出すのさ。これなんか始末が悪いよ。当人も、自分で悪いと承知しているくせに、心臓が痺れるような思いをして、いわば呵責の苦しみなのだ。なにしろ惚れているんだからな。何もかも愛情から出ることなのだ。そして、喧嘩をした後の仲直り、自分で謝まったり、ゆるしてやったりする気持ちのよさ! 二人とも急になんともいえないいい気持ちで、――まるでまた初対面の蒔き直しをしたような、も一ど結婚式を仕直したような、二人の恋がまた新しく始まったような、素晴らしくいい気持ちになるのだ。夫婦の間のことというものは、二人が愛し合っている以上、だれだって、――どんな人だって、知るわけにはゆかないものなんだ。たとえ二人の間にどんな諍いが持ちあがったにせよ、親身の母親だって仲裁人に入ってもらうべきものでもなし、また自分たちもお互い同士のことを他人に話してはいけないのさ。夫婦は自分の仲裁人なんだからね。愛は神秘なんだから、――よしんばどんなことが起ころうとも、すべて他人の目からはかくしておくのが本当なんだよ。そうすると、愛はいっそう神聖な、いっそう美しいものになるのだ。お互い同士の尊敬も増してくるが、この尊敬というやつは、多くものの根柢になるんだからね。もしいったん愛があって、その愛のために結婚した以上、愛を消滅さすわけにゆかない! 愛は本当に持ちこたえられないのか? 愛が持ちこたえられないなんて場合は、ごくたまにしかありゃしない。運よく、正直で優しい夫にぶっ突かったら、愛がなくなる理屈はないだろう? なるほど、結婚当座のような愛は消えるだろうが、その後でもっと立派な愛がやってくるよ。そうなると、心と心とが一つになって、どんなことでも、みんな相談ずくで決めてゆくから、お互い同士に秘密というものがなくなってしまう。やがて、子供が後から後から生まれるようになると、どんな苦しい時でも、みんな幸福のように思われるんだ。ただ愛情をもって、しかも男々しい気持ちでいればいいのさ。そうなると、仕事も楽しみになって、たとえ時には、子供のために食わずにいるようなことがあろうと、それさえちっとも苦にならない。だって、子供らが後でそれを感謝して、親たちを愛してくれるわけだからな。そんなふうにして、こつこつと金を貯めているうちに、子供らもだんだん大きくなって行く。すると、自分は子供らのために手本ともなれば、杖柱ともなっているのだと感じるだろう。そして、自分は死んでいっても、子供らは自分のもっている感情や思想を、生涯もちつづけてくれるだろう。なぜなら、それは自分から受けついだものだから、自分の姿や面影もうけついでくれるだろう。――こういうことを、しみじみと感じるようになる。つまり、それは偉大な義務なんだ。こうなったら、父親と母親とは、いっそうぴったりと結びつかないというはずがないじゃないか? よく人は子供をもつと苦しいというが、そんなことをいうやつはいったいだれだろう? それこそ天国のような幸福じゃないか! リーザ、きみは小さな子供が好きかい? ぼくはとても好きなんだよ。ねえ、――薔薇色をした小っちゃな男の子が、母親の乳房を、無心に吸っている。妻が自分の子を抱いてすわっている姿を眺めたら、どんな男だって、妻のほうへ引きつけられずにはいられないだろう! 薔薇色にふっくら肥った赤ん坊が、さもいい気持ちそうに手足を伸ばして、うっとりしている。ぽちゃぽちゃしたその手足、綺麗な爪、小っちゃな、見るもおかしいほど小っちゃな爪、そして目といったら、まるでもう何もかもわかるような表情をしているんだ。それがしきりに乳を吸いながら、かわいい手で母親の乳房を引っ張って、おもちゃにしている。父親が傍へくると、――急に乳房を離して、体をぐっとうしろにそらしながら、父親の顔を見て笑いだす、それが、さもさもおかしくてたまらないというふうなのだ。それから、またもう一ど乳房を吸い始める。かと思えば、歯が生えかかるころだと、だしぬけに母親の乳首を噛んで、その顔を横目に見やりながら、『どうだ、噛んでやったぞ!』といったような顔をしている。ねえ、夫婦と子供と三人いっしょにいたら、その時は何もかも幸福に思われようじゃないか? こういう美しい瞬間のためには、かなり多くの過ちも許してやっていいわけだよ。そうだとも、リーザ、つまりまず自分が生活の仕方を学んだ上で、それから他人を責めるのが順なんだよ!"
],
[
"だって、あなたは……",
"なんだよ?"
]
] | 底本:「ドストエーフスキイ全集 5」河出書房新社
1970(昭和45)年1月20日初版発行
1979(昭和54)年4月20日13版発行
※「トルドリューボフ」と「トリドリューボフ」の混在は、底本通りです。
入力:阿部哲也
校正:荒木恵一
2018年10月24日作成
2021年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057393",
"作品名": "地下生活者の手記",
"作品名読み": "ちかせいかつしゃのしゅき",
"ソート用読み": "ちかせいかつしやのしゆき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "ЗАПИСКИ ИЗ ПОДПОЛЬЯ",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-11-11T00:00:00",
"最終更新日": "2021-05-18T00:00:00",
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"人物ID": "000363",
"姓": "ドストエフスキー",
"名": "フィヨードル・ミハイロヴィチ",
"姓読み": "ドストエフスキー",
"名読み": "フィヨードル・ミハイロヴィチ",
"姓読みソート用": "とすとえふすきい",
"名読みソート用": "ふいよおとるみはいろういち",
"姓ローマ字": "Dostoevskii",
"名ローマ字": "Fedor Mikhailovich",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1821-11-11",
"没年月日": "1881-02-09",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "ドストエーフスキイ全集 5",
"底本出版社名1": "河出書房新社",
"底本初版発行年1": "1970(昭和45)年1月20日",
"入力に使用した版1": "1979(昭和54)年4月20日13版",
"校正に使用した版1": "1979(昭和54)年4月20日13版",
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"入力者": "阿部哲也",
"校正者": "荒木恵一",
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} |
[
[
"でも、先の口がもう期限ですよ。おとといで一月たったわけだから",
"じゃ、一月分利を入れます。もう少し辛抱してください",
"さあね、辛抱するとも、すぐに流してしまうとも、そりゃこっちの勝手だからね",
"時計の方は奮発してもらえますかね、アリョーナ・イヴァーノヴナ!",
"ろくでもないものばかり持ってくるね、おまえさん、こんなものいくらの値うちもありゃしないよ。この前あんたにゃ指輪に二枚も出してあげたけれど、あれだって宝石屋へ行けば、新しいのが一枚半で買えるんだものね",
"四ルーブリばかり貸してくださいな。受け出しますよ、おやじのだから。じき金が来るはずになってるんです",
"一ルーブリ半、そして利子は天引き。それでよければ"
],
[
"さてと――一か月十カペイカとして、一ルーブリ半で十五カペイカ、ひと月分天引きしますよ。それから前の二ルーブリの口も同じ割で、もう二十カペイカ差し引くと、都合みんなで三十五カペイカ、そこで、今あの時計でおまえさんの手にはいる金は、一ルーブリ十五カペイカになる勘定ですよ。さあ、受け取んなさい",
"へえ! それじゃ今度は一ルーブリ十五カペイカなんですか!",
"ああ、その通りですよ"
],
[
"おまえさん妹に何かご用かね?",
"いや別に何も。ちょっと聞いてみただけですよ。だのにもうお婆さんはすぐ……さよなら、アリョーナ・イヴァーノヴナ!"
],
[
"ありましたよ……でもつまり、どう当てがないのです?",
"つまり、てんで当てがないので。前からどうにもならないのを承知でやるんですな。たとえば誰それは――その、思想堅固な公民で国家有用の材といわれる誰それは、こんりんざい金なんか貸さんということが、前もってよくわかっている。だって、あんた、なんのために貸すわけがありますね、一つ伺いたいもんで? 先方じゃ、わしが返さんことを承知しとるんですからなあ。惻隠の念からでも貸すだろう、とおっしゃるんですかい? なあに、新思想を追っているレベジャートニコフ氏などは、こんにち同情などというものは学問上ですら禁じられておって、経済学の発達しておる英国ではもうその通り実行しておるって、この間も説明してくれましたよ。そこで伺いますが、そうとしたら、どうしてその先生が貸してくれます? ところがです、前から貸さんことがわかっておりながら、やはりのこのこ出かけて行く……"
],
[
"へん、ひと理屈こねやがったな!",
"どうも吹いたもんだ!",
"よう官員さん!"
],
[
"警察へ? なんのために!",
"お金も払わないし、越しても行かないからさ。なんのためって、わかり切ってるでないか"
],
[
"なら何してるんだね?",
"仕事をさ……",
"どんな仕事を?"
],
[
"靴なしじゃ子供を教えにも行かれない。それに、あんな仕事なんかぺっぺっだ",
"あんたわが身を養う井戸に唾を吐くようなこというもんでないよ"
],
[
"あれ、もっと静かに言いなさいよ。びっくりするでないかね。とっても恐ろしい目をしてさ。いったい、パンはとってくるのかね。それとももういいの?",
"どうでも",
"あっ、忘れてたっけ! 昨日あんたんとこへ留守の間に手紙が来たよ",
"手紙! おれに! どこから?",
"どこからだか知らない。わたし郵便配達に三カペイカ自腹切っておいたよ。返してくれるかね、え?"
],
[
"ここからとっとと行きなさい、とこういうわけなんです!",
"何を生意気な、この野郎!"
],
[
"僕そういってるじゃありませんか、この娘はついその並木通で、僕の前をよろよろしながら歩いてたんです。それがベンチへ着くが早いか、いきなりぶっ倒れてしまったんですよ",
"いやはやどうも、当節の世の中は、なんたる醜態が行なわれるようになったことか! これという変哲もない娘のくせに、もう酔っ払ってるんですからなあ! 誘惑されたんだ、そりゃ一目瞭然だ! やあ、この服の裂けてることは……ああ、なんという堕落した世の中になったものか!……生まれは良さそうだが、きっと落ちぶれた家の子だろう……近ごろはこんなのがざらにふえてきた。様子を見るときゃしゃな育ちらしい、どうやらお嬢さんだがなあ"
],
[
"そんねえなやせ馬で、引いて行けると思うけえ!",
"おい、ミコールカ、わりゃぜんたい正気けえ? そんねえなやせ馬に、こうしたでっけえ車をつけてよ!",
"おい、皆の衆、この葦毛のやつあ、もうきっと二十からになるぞ?"
],
[
"あの馬はもう十年このかた、飛んだこたあねえだ",
"飛ばして見せるだあ!",
"構うこたあねえ、皆の衆、みんな鞭を持って、したくしなせえ!",
"そこだそこだ! 引っぱたいてやれ!"
],
[
"わっしがおすすめしますがね、家へは断わらないでおいでなさい。何しろうまい口なんだからね。姉さんだってあとになりゃわかってくれまさあ",
"じゃ行くとしようかね?",
"七時ですぜ、明日ね、あっちからもやって来ますよ。一つ自分で腹をおきめなさい"
],
[
"なんの、君。だって人間は自然を修正し、指向してるじゃないか。それがなかったら、偏見の中に沈没してしまわなきゃならんことになるよ。でなかったら、一人の大人物も出なかったはずだよ。人はよく『義務だ、良心だ』という――僕は何も義務や良心に対して、とやかく言おうと思わない――だが、われわれはそれをいかに解釈していると思う? 待ちたまえ、僕は君にもう一つ問題を提出する。いいかね",
"いや、君こそ待ちたまえ。僕の方から君に問題を出すから。いいかい!",
"よし!",
"君は今とうとうと熱弁をふるったが、しかしどうだね、君は自分で婆あを殺すかどうだ?",
"もちろん、否だ! 僕は正義のためになにするので……あえて僕に関係したことじゃないよ……",
"だが、僕に言わせると、君が自ら決行するのでなけりゃ、正義も何もあったもんじゃない!――さあ行って、もう一勝負やろう!"
],
[
"六時はとうに回ったぜ!",
"とうに! さあ大変だ!"
],
[
"ちょっとしたもの……巻煙草入れですよ……銀の……まあ見てください",
"だって、どうやら銀らしくないがね……まあ、恐ろしく縛ったもんだねえ"
],
[
"これはどうも! 一昨日ハムブリヌースで球を突いて、続けざまに三度もあなたを負かしたじゃありませんか!",
"ああ、なある……",
"で、二人とも留守なんですか? 変ですね。だが、実に馬鹿げた話ですね。あの婆さんどこに行く所があるんでしょう! ぼく用があるんだけど",
"いや、僕だって、君、用があるんですよ!"
],
[
"むろん引っ返さなくちゃ。だが、なんだって時間まで決めておくんだ! 鬼婆め、自分で時間を決めやがったんですよ。僕にゃ回り道になるんですぜ。いったいあいつどこをほっつき回る所があるんだろう、合点がいかない。鬼婆め、年じゅううちにすわったきり、足が痛むとかってくすぶってやがるくせに、今ごろ急に遊びに出るなんて!",
"庭番にきいたらどうですかね?",
"何を?",
"どこへ行ったか、そしていつ帰ってくるか?"
],
[
"で?",
"つまり、ドアには鍵がかかっているのじゃなくて、栓が、かけ金が掛かってるだけなんですよ! 聞いてごらんなさい、栓がことこといってるでしょう?",
"で?",
"いったいどうしておわかりにならないんです? つまり、二人のうち誰かが家にいるんですよ。もしみんな出て行ったのなら、外から鍵をかけるべきで、中から栓をさすわけがないじゃありませんか。ところがね――聞いてごらんなさい、栓がことこといってるでしょう? 中から栓をさすにゃ、家にいなくちゃならんはずじゃありませんか、そうでしょう? してみると、家にいるくせにして、あけやがらないんだ!"
],
[
"なんですって?",
"ね、こうしましょう! 庭番を呼んで来ようじゃありませんか。あいつに二人を起こさせましょう",
"名案だ!"
],
[
"待ってください! あなたはここに残っててくれませんか。僕はひとっ走り庭番を呼んで来ますから",
"なぜ残るんです?",
"だって、何が起こるかしれませんものね……",
"それもそうだな……"
],
[
"なんの役所だい?……",
"つまり、警察から呼んでるんでさ、役所へね。なんの役所って、わかり切ってまさあ",
"警察へ?……なんのために?……",
"そんなこと、わしの知ったこってすかい。来いというんだから、行きゃいいんでさ"
],
[
"どうも、階段さえおりられそうもないね?",
"行ってくるよ……",
"じゃ、好きにするがいい"
],
[
"どなるのはよしてもらいましょう!",
"僕はどなってなんかいやしません。きわめて平静に言ってるんです。かえってあなたの方こそ、僕をどなりつけてるんじゃありませんか。僕は大学生です、どなりつけられて黙っているわけにいきません"
],
[
"借用証書によって、あなたから返金を請求しているんです、支払の督促です。あなたは科料その他の諸費用をこめて借金を支払うか、それともいつ支払いうるかということを、書面で答えなければならないのです。それと同時に、支払を済ますまでは、首都から外へ出ないこと、財産を売却もしくは隠匿しないということもね。債権者は、あなたの所有品を売却することも自由だし、あなたに対しては、法によって制裁を下すこともできるんです",
"でも僕は……誰にも借金なんかありません",
"それはもはやわれわれの知ったことじゃない。われわれの方へはこの通り、債務取立の告訴が提出されてるんです。つまり九か月前に、あなたが八等官未亡人ザルニーツィナに渡した百五十ルーブリの借用証書です。これがその後ザルニーツィナから、七等官チェバーロフの手へ渡っているが、もう期限がきれて不渡り手形になっている。こういったわけで、あなたに答弁を要求しているんです",
"ああ、そりゃ下宿のかみさんじゃありませんか?",
"下宿のかみさんならどうしたんです!"
],
[
"すると、そいつは文士なんだな?",
"はい、署長さま、全くほんとうに下品なお客でございます、署長さま、お上品な家に来て……",
"うむ、よし、よし! たくさんだ! おれはもう貴様にさんざん言って聞かしておいた。よく言ってあるじゃないか……"
],
[
"そうです……頭がぐらぐらして……さあ、先を言ってください!",
"いや、それだけです。署名なさい"
],
[
"そんなことはあるはずがない、二人とも放免になるさ! 第一、何もかも矛盾してるじゃないか。考えてみたまえ――もしこれが彼らの仕業なら、なんのために庭番を呼ぶ必要があるのだ? 自分で自分を告発するためとでもいうのかね? あるいは瞞着手段なのか? いや、それはあまりたくらみ過ぎるよ! また最後にこういうことが言える――大学生のペストリャコフは、二人の庭番と町人の女房に、門をはいって行くところを見られたんだぜ。この男は三人の友だちと一緒に来て、門の所で別れたんだが、まだ友だちのいる前で、庭番に住まいを尋ねてたということだ。ねえ、もしそんな計画をいだいて来たものなら、まさか住まいを尋ねもしなかろうじゃないか? またコッホの方だが、これは婆さんの所へ行く前に、階下の銀細工屋に三十分もすわり込んで、かっきり八時十五分前に、そこから婆さんの所へ上って行ったんだ。そこで考えてみたまえ……",
"しかし、失礼ですが、どうして彼らの言うことにあんな矛盾が生じたんでしょう? はじめは自分たちがたたいたとき、戸はしまっていた、と自分で断言してるでしょう。それが、わずか三分たって、庭番と一緒に来た時には、ドアがあいていたなんて?",
"そこのところにいわくがあるのさ。犯人はきっと中にいて、栓をさしていたんだ。だから、もしコッホがばかなまねさえしなけりゃ――自分で庭番を呼びに行ったりしなかったら、きっとその場でつかまえてしまったに相違ない。つまりやつはそのわずかな隙に、うまく階段をおりて、どうかして皆の傍をすりぬけたのだ。コッホのやつ両手で十字を切りながら、『もしわたしがそこに残っていたら、奴はいきなり飛び出して来て、きっとわたしを斧で殺してしまったに違いありません』と言ってやがる。ロシア式の感謝祈祷でもやりかねない勢いだぜ――は、は……",
"だが、誰も犯人を見たものはないじゃありませんか?"
],
[
"きのう外出しましたか?",
"しました",
"病気なのに?",
"病気なのに",
"何時ごろ?",
"晩の七時すぎです",
"そしてどこへ、失礼ながら?",
"通りへ",
"簡単明瞭だね"
],
[
"ふん、それくらいなら、貴様なんのためにやって来やがったんだ! 血迷いでもしたのか! だってそれは……ほとんど侮辱じゃないか。僕はこのまま帰しゃしないよ",
"じゃ、聞きたまえ――僕が君んとこへ来たのは、つまり君以外に僕を助けて……始めさしてくれる人を、誰も知らないからなんだ……だって、君は世間の誰よかも一ばん善良で、というより一ばん聡明で、物を判断する力を持っているからさ……けれど今は、なんにもいらないことがわかった、いいかい、まるっきりなんにもいらないんだ、誰の助けもかかり合いもいらない……僕は自分……一人で……いやもうたくさんだ! 僕にかまわないでくれ!",
"まあ、ちょっと待て、この煙突掃除め! まるで気ちがいだ! 僕の言うことを聞いてから、あとはなんとでも勝手にしろ。実はね、出稽古の口は僕にもない。それに、そんなものくそくらえだ。ところがさ、古物市場の本屋で、ヘルヴィーモフという男がいる。これがまあ一種の口なんだ。今じゃ僕は、商人の家の出稽古を五つぐらい持って来たって、こいつととっかえっこしないよ。この男は怪しげな出版をやっていてね、通俗科学の本なんかも出してるんだ――ところが、それがすてきにはけるじゃないか! 標題だけでも大した値うちもんだからね! ほら、君はいつも僕を馬鹿にきめていたが、全くのところ、君、僕に上こす馬鹿がいるぜ! 近頃じゃ奴さん、人並みに傾向がどうとかってなことを言い出したんだからなあ。自分じゃなんにもわからないくせにさ。だが、僕はもちろん、大いに奨励してやってるよ。で、ここにドイツ語の原文が二台分の余あるが――僕に言わせりゃ、ばかげ切った山師論文さ――手っとり早くいえば、女は人間なりや否やという問題を研究して、最後にはもちろん堂々たる論法で、人間なりと証明しているのさ。ヘルヴィーモフはこいつを婦人問題の本に仕立てようてんで、僕が翻訳を引受けたわけさ。先生この二台半ばかりの代物を六台くらいに引のばして、ページ半分も埋まるようなでかでかの標題をつけて、五十カペイカで売り出すんだ。それで立派に立ちいくんだぜ! 僕は翻訳料として一台分六ルーブリもらうから、つまり全部で十五ルーブリ手にはいる勘定だが、もう六ルーブリは前借りしちゃった。これが済むと、鯨の本の翻訳を始めるんだ。それから『懺悔録』の第二部の中からも、思い切ってくだらない無駄話をえり出しておいたから、これもそのうちに訳すわけだ。誰だったかヘルヴィーモフをつかまえて、ルソーは一種のラジーシチェフ(十九世紀の初頭に現われたロシアの先駆的思想家、農奴制度に世人の注意を喚起した第一人者)だなんて言ったからさ。僕はむろん反対なんかしない。あんなやつどうだって勝手にしやがれだ! そこで、君も『女は人間なりや』の一台目を訳してみないか? やる気があったら、今すぐテキストを持っていきたまえ。ペンも紙も持っていくがいい――みんな官費だからね――そして、三ルーブリも持ってっていいよ。僕は第一台の分と、二台目の分も、すっかり前借りしちゃったから、三ルーブリは当然君のものになるわけさ。その一台分を済ますと、また三ルーブリ受け取れるぜ。ああ、それからね、これは僕が君に何か恩でもかけてるなんて、そんなことを考えないでくれよ。それどころか、僕は君がはいってくるが早いか、こいつは僕にとって、ありがたい人になるなと、心の中で決めたんだよ。第一に、僕は正字法が得意でないし、第二には、ドイツ語の方だって全然へなちょこだから、まあどっちかといえば、自分で創作する方が多くなるんだ。もっとも、その方がかえってよくなるもんだから、それを慰藉にしてはいるがね。しかし、ことによったら、よくならないで、悪くなってるかもしれん。そんなことは誰にもわかりっこなしさ……君、引受けるかどうする?"
],
[
"いい気味だ!",
"どっかのやくざ野郎よ",
"わかり切ってらあな、酔っぱらいのまねをして、車の下に敷かれてよ、さあどうしてくれる、ってやつなんさ",
"それが商売なんでさ、お前さん、それが商売なんでさ……"
],
[
"おおかた昨日から何も食べなかったんだろうね。一日ほっつき歩いてさ、しかもおこりで体じゅうふるわしてるんだからね",
"ナスターシャ……どうしてかみさんはぶたれたんだい?"
],
[
"誰がかみさんをぶったの?",
"今しがた……三十分ばかり前に、イリヤー・ペトローヴィッチが、警察の副署長が、階段の上で……なぜあの男があんなにおかみさんを打ちのめしたんだい! そして……なんのために来たんだい?"
],
[
"おれは長いこと耳を澄ましていたよ……副署長がやって来て……みんなが駆け出して、階段の方へ集まったじゃないか。どの住まいからも……",
"誰も来やしないよ。それはあんたの体の中で血が暴れているせいだよ。血の出所がなくなって、鬱して濃くなってくると、いろんなものが見えたり聞こえたりするのだよ……ご飯はどう、食べるかね?"
],
[
"あれはきっと一昨日のことでございましたろう、確かにそうです。アレクセイ・セミョーヌイチがお伺いしたので。やはりわっしどもの事務所に勤めていますんで",
"ですが、あの人は君より多少ものわかりのいい方じゃないでしょうか、いかがお考えですな?",
"さよう、確かにずっとしっかりしております",
"これは感心な心がけだ。さあ、話の続きを願います"
],
[
"つまりその方なんで、ヴァフルーシンさん、アファナーシイ・イヴァーヌイチなんでございます。この人があなたのおふくろさんご依頼で、前にも一度同じようなあんばい式で、こちらへ送金なさいましたが、今度もいなやをおっしゃらないで、一両日前あちらからセミョーン・セミョーヌイチのところへ、三十五ルーブリの金をあなたに渡してくれ、匆々頓首と、こういう通知があったのでございます",
"いや、『匆々頓首』は一番の傑作だ。『あなたのおふくろさん』云々も悪くなかった。ところで、君のご意見はどんなもんでしょう、この人はすっかり正気に返ってるでしょうか、それとも返っていないでしょうか――え?",
"わっしなんかどうでもかまいませんよ。ただ受取りさえきちんとしてればけっこうなんで",
"どうにかこうにか書くだろう! 君の方じゃなんですかね、帳簿にでもなってる?",
"帳簿なんで。この通り",
"こっちへもらいましょう。さあ、ロージャ、起きろよ。僕がささえてるから。奴さんに『ラスコーリニコフ』と一筆ふるってやれよ。ペンを持ちたまえ。だって、君、今のわれわれにゃ金は蜜以上だからね"
],
[
"いらないとは、そりゃまたどうしたことだ?",
"署名なんかしないよ",
"ちょっ、こんちくしょう、受取りを書かないでどうするんだ?",
"いらない……金なんか……",
"えっ、金がいらないって! おい、君、そりゃでたらめだよ、僕が証人だ!――どうかご心配なく、こりゃ先生ただちょっくら……まだ夢の国をうろついているもんだから。もっとも、この先生はうつつでも、時々こういうことがあるんでね……ねえ、君は分別のある方だから、一つ二人がかりで、この男を指導してやろうじゃありませんか。といって何も造作はない、この男の手を持って動かしてやる。すると、この男が署名したわけですよ。さあ、とっかかろうじゃありませんか……",
"ですが、わっしはまた出直して参りましょう"
],
[
"じゃがいもとひきわり米のはいったのか?",
"じゃがいもとひきわりのはいったのよ",
"ちゃんとそらで知ってらあ。じゃ、スープをよこせよ。そして、お茶を持って来てくれ",
"もって来るよ"
],
[
"お茶はいらないかい?",
"ほしいよ"
],
[
"ええ、ふざけるでないよ!",
"じゃ、お茶は?",
"お茶はもらってもいいけど",
"つぎたまえ。いや、待てよ。おれが手ずからついでやろう。テーブルの前にかけたまえ"
],
[
"木いちごはな、お前、店へ行ってとってきてくれるよ。ロージャ、実はこんど君の知らない間に、大した事件があったんだよ。君があんなかたり同然のやり口で、居所もいわずに僕のところから逃げ出したとき、僕はいまいましくっていまいましくってたまらなかったので、君をさがし出して制裁してやろうと決心したのさ。そして、すぐその日から着手して、歩いたわ歩いたわ、たずねたわ、たずねたわ! 今のこの住まいを僕は忘れてたのさ。もっとも初手から知らなかったんだから、覚えていないのがあたりまえよ。だがね、君の前の住まいは覚えていた――五辻でハルラーモフの家と、それだけ記憶に残っている。で、僕はこのハルラーモフの家をさんざんさがし回ったね――ところが、あとでわかったんだが、ハルラーモフの家じゃなくって、ブッフの家だったのさ――どうも音というやつは間違いやすいもんでね! とうとう僕は癇癪を起こしちゃった。癇癪を起こしてさ、あくる日また、むだでもなんでもかまわん気で、警察の住所係へ出かけたんだ。ところが、まあどうだ、一分か二分の間に君の名を見つけてくれたんだ。君の名は警察にちゃんと書き留めてあるぜ",
"書き留めてある?",
"そうともさ。ところが、カベリョーフ将軍という人は、僕もそばで見ていたが、どうしても捜し出せなかったんだからな。いや、話せばずいぶん長いことだがね。僕はここへ乗り込むとすぐさま、君に関係した事件をすっかり聞かされちゃったよ。すっかりだぜ、君、僕はもうなんでも知ってるよ。この女も知ってるよ。僕はニコジーム・フォミッチとも知り合いになれば、イリヤー・ペトローヴィッチ(副署長)にも紹介してもらった。それから庭番とも、ザミョートフ氏――ほら、あのアレクサンドル・グリゴーリッチ、つまりここの警察の事務官とも、それから最後にパーシェンカとも知り合いになった――これなんかは全く僕の功労に対する月桂冠だね。現にこの女も知ってるが……"
],
[
"おい、何を君はそんなに……なんだってそう心配そうな顔をするんだい? 君と近づきになりたいと言い出したんだよ。あの男が自分から言い出したんだ。それってのがね、二人で君のことを色々話したからさ……でなくて、誰から君の事がこう詳しく知れると思う? 君、あれは実にいい男だよ、全くすてきな人間だ……もっとも、むろん、それもある意味においてだがね。で、今じゃ僕らは親友同士の間がらで、ほとんど毎日のように会ってるんだ。だって、僕はこの方面へ引っ越して来たくらいだもの。君はまだ知らないんだね? つい最近引っ越したばかりなんだ。ラヴィーザの所へも、あの男と二度ばかり行って見たよ。ラヴィーザを覚えてるかね、ラヴィーザ・イヴァーノヴナを?",
"僕なにかうわ言を言ったかね?",
"言わなくってさ! まるで君の体が君のものでなかったんだもの",
"どんなうわ言を言った?",
"へえ、これはこれは! どんなうわ言を言ったかって? どんなことかわかり切ってらあね……さあ、君、もうこの上時間をつぶさないように、用件にかかろうじゃないか"
],
[
"どんなうわ言を言ったよう?",
"ええっ、一つ覚えみたいに何いってるんだ! それとも何か秘密でもあって、それを心配してるのかい! ご念にゃ及びません。伯爵夫人のことなんか、なんにもいやしなかったよ。ただどこかのブルドッグがどうとか、やれ耳輪がなんだとか、やれ鎖がどうのと言ってたっけ。それからクレストーフスキイ島のことだの、どこかの門番のことだの、ニコジーム・フォミッチのことだの、副署長のイリヤー・ペトローヴィッチのことだの、いろいろしゃべってたよ。ああ、そのほか君ご自身の靴下のことが、たいそう気がかりのご様子でしたよ、たいそうね! それこそほんとうに哀願するような調子で、靴下をくれ、靴下をくれと、ただその一点ばりさ。でも、ザミョートフが自分で隅々を隈なくさがして、やっとのことで見つけた上、オーデコロンで洗い上げて指輪をいくつもはめた手で、そのぼろを君に渡したんだ。その時はじめてご安心あそばして、まる一昼夜、そのぼろっ屑を両手に握りしめていらっしったっけ。もぎ放すこともできないくらいさ。きっとまだどこか毛布の下にころがってるだろう。かと思うと、今度はまたズボンの切れっ端をねだり出すんだが、ほんとうに涙を流さないばかりなのさ! 僕らはいろいろ頭をひねってみたが、いったいぜんたいどんな切れっ端やら、とんと見当がつかなかったよ……さあ、そこでいよいよ用件に取りかかろう! ここに三十五ルーブリあるから、このうち十ルーブリだけ持ってくよ。二時間もたったら、計算書をこしらえて君に提出する。その間に、ゾシーモフにも知らせてやろう。もっともそうしないでも、あの男もうとっくに来てなくちゃならんはずだがな。もう十一時過ぎだもの。ところで、君、ナスチェンカ、僕の留守中せいぜいのぞいてみてやってくれ、飲みものとか、そのほかなんでも欲しいというものをやるように。パーシェンカには僕が自分で必要な事は言っとくから。じゃ失敬!"
],
[
"いや、すごく寝たもんだ。もう外は夕景だよ。かれこれ六時ごろだろうよ。六時間あまりも寝たわけだ",
"たいへんだ! 僕はなんだってそんなに!……",
"それがどうしたのさ! ようこそお休みじゃないか! どこへ急ぐんだい? あいびきにでも行こうってのかい? 今こそ時間が完全に我々のものになった。僕はもう三時間ばかりも君を待ってたんだよ。二度も来てみたけれど、君が寝てるもんだから。ゾシーモフのところも二度ばかりのぞきに行ったが、留守、留守の一点ばりさ。だが、大丈夫、やがて来るよ!……やっぱり用事で家を明けたんだから。僕じつは今日引っ越したよ。すっかり引っ越しちゃったんだ、伯父と一緒にね。今僕んとこには伯父が来てるんだよ……いや、そんなことどうでもいいや、用件にかかろう! 包みをこっちへくれ、ナスチェンカ。さあ、これから二人で……ときに、君、気分はどうだね!",
"僕は健康だよ、病気じゃない……ラズーミヒン、君は前からここにいたのかい?",
"三時間待ち通したって、言ってるじゃないか",
"じゃない、その前のことさ",
"なんだ、前って?",
"いつごろからここへ通っているんだい?",
"だって、ついさっき君にすっかり話したじゃないか。それとも、もう覚えてないかい?"
],
[
"行ってもいい、ちと遅くなるがね。いったいどんなしたくをしたんだい?",
"いや、別に何も。茶、ウォートカ、にしん。それに肉まんじゅうが出るはずだ。内輪の連中だけの集まりだから",
"といって、誰々だい?",
"なに、みんなこの近くのひとで、ほとんど新しい顔ばかりさ。もっとも――年とった伯父だけは例外だがね。しかしこれだって、やはり新顔といっていいんだ。――昨日ちょっとした用向きで、ペテルブルグへやって来たばかりだからね、僕は五年に一度くらい会ってるのさ",
"どんな人だい?",
"一生地方の郵便局長をじみにやって……わずかな恩給をもらっている六十五の老爺で、問題にする価値はないよ……もっとも、僕は好きなんだ。それからポルフィーリイ・ペトローヴィッチも来る――ここの予審判事で……法律家さ。ねえ、君も知ってるはずじゃないか",
"あれも何か君の親戚かい?",
"ごく遠い何かに当たるんだよ。いったい、君、なんだってそんなしかめっ面をするんだい? 一度あの男と喧嘩したことがあるからね。じゃ、君はたぶん来てはくれまいね?",
"僕はあんなやつ屁とも思ってやしない……",
"そりゃ何よりだ。それからあとは――大学の連中に、教師と官吏が一人ずつ、音楽家が一人、警部、ザミョートフ……"
],
[
"いやはや、どうもしちむずかしい男だなあ! 主義信条の一点ばりだ!……君はまるでぜんまいみたいにすっかり主義で固まってて、自分の意志じゃ体の向き一つ変えることもできないんだからな。僕に言わせると、人物さえよければ、それで理屈が通るのさ。それ以上なんにも知ろうとは思わない。ザミョートフは実にすばらしい男だよ",
"そして、内々ふところを暖めてる"
],
[
"そりゃ安すぎる。僕なら君には二つくらい出すよ……",
"僕は君に一つきゃ出さない! さあ、もっと洒落のめしてみたまえ! ザミョートフはまだ小僧っ子だから、僕はやつを少々いじめてやるんだ。だがね、あの男は突っ放してしまわないで、ひきつけておく必要があるのさ。人間てものは、突き放すことによって、匡正できるもんじゃないからね。ことに小僧っ子においてはなおしかりさ。小僧っ子に対しては一倍の慎重さが必要だ。や、どうも君のような進歩的鈍物ときたら、何ひとつわからないんだからね! 他人を尊重しないで、しかも自分を侮辱してるんだもの……もし君が聞きたいというなら、話してもいいがね、実は僕らの間には、共通の一事件が始まりかかってるらしいのさ",
"聞きたいもんだね",
"といって、やっぱり例の塗り職人、つまりペンキ屋の一件さ……われわれはきっとあいつを救い出してみせる! もっとも、今じゃもう少しも困ることはないんだ。事件はきわめて、きわめて明白なんだからね! ただもう少し我々が尻押ししてやればいいんだ",
"いったいそのペンキ屋ってなんだい?",
"ええ、君に話さなかったかい? そう、話さなかったっけなあ? そうだ、今初めて君に話しかけたばかりじゃないか……ほら、官吏の後家で小金を貸してた婆さんの殺人事件さ……それに今度ペンキ屋が引っかかってるんだよ……",
"ああ、あの殺人事件なら、僕の方が君よりさきに聞いたんだ。そして、この事件に興味さえいだいてるくらいだよ……まあ、多少だがね……ある偶然の機会で新聞でも読んだよ! それで……"
],
[
"何か証拠でもあるのかい?",
"証拠なんかあってたまるもんか! もっとも、つまり証拠があればこそなんだが、この証拠が証拠になっていないのだ。そこを証明しなくちゃならんわけさ! それはね、最初警察があの連中……ええと、なんといったっけ……コッホとペストリャコフ、あの二人を引っ張っていって嫌疑をかけたのと、寸分たがわず同じ筆法さ。ぺっ! こういうことは実に愚劣きわまるやり口で、人ごとながら胸くそが悪くなるくらいだ! ペストリャコフの方は、もしかすると、きょう僕んとこへ寄るかもしれない。時に、ロージャ、君はもうこの一件を知ってるだろうな。病気になる前の出来事だから。ちょうど君が警察で卒倒した前の晩さ。あの時あすこでその噂をしてたはずだ……"
],
[
"まあ、そうむきになるなよ。あの二人はただちょっと拘留しただけなんだもの。それをしないわけにゃいかないよ……時に、僕はそのコッホに会ったよ。聞いてみると、どうだい、やつはあの婆さんのところで流れ質の買占めをやってたんだぜ! え?",
"うん、何かそんな風のいんちき野郎さ! やつは手形の買占めもやってるよ。抜け目のない男さ。だが、あんなやつなんか勝手にしやがれだ! いったい僕が何を憤慨してるか、君わかるのかい? 警察の時代おくれな、俗悪な、古ぼけて干からびた、月並みなやり口を憤慨してるんだぜ……この事件については、ただこの事件一つだけでも、大した新しい道を開拓することもできるんだからね。ただ心理的材料だけでも、いかにして真の証跡を突きとめるべきかということを、証明することができるんだからね。『われわれの方には事実が上がっている!』なんて言ってるが、しかし事実は全部じゃないからね。少なくとも事件の半ばまでは、事実を取扱う腕にあるんだ!",
"じゃ、君にゃ事実を取扱う腕があるんだね?",
"だって、事件に一臂の力を貸すことができるのを感じながら、手さぐりにそれを感じてるのに、黙ってるわけにいかんじゃないか! ただもし……ええ、くそっ! 君はこの事件をくわしく知ってるのかい?",
"だから、ペンキ屋の話を待ってるんじゃないか"
],
[
"まあ待ってくれ! しまいまで聞くもんだ! そこでもちろん全力をあげてミコライの捜索に取りかかった。ドゥーシュキンは拘留して、家宅捜索をやった。ミトレイも同様さ。それから、荷足船の連中もちょっとばかり引っ張られた。――こうしてやっとおととい当のミコライを拘引したんだ。見付け付近の旅籠屋で取り抑えたのさ。やつはその家へ行くと、銀の十字架をはずして、それで一合くれと言うんだ。そこで飲ませてやった。しばらくたって、女房が牛小屋へ行って、何げなく隣の納屋を隙間からのぞくと、やつは小屋の梁へ帯をかけて、輪さを作ってさ、丸太の切れ端に乗っかって、その輪さを首へかけようとしているじゃないか。女房はびっくりして、声を限りにわめき立てたので、たちまち大勢集まって来た。『お前はいったい何者だ!』と聞くと、『わっしをこれこれの警察へ連れてってくれ、残らず白状する』と言うんだ。そこで相当の手続をして、これこれの警察、つまりここの警察へ突き出したのさ。さあ、それから、姓名は、職業は、年齢は、『二十二歳』、云々、云々があって、さてそのあとで尋問だ。『お前は、ミトレイと仕事をしている時に、誰か階段を上って来たものを見かけなかったか、時刻はこれこれだ』答えて曰く、『それゃきっと通って行ったに違いありますまいが、わっしたちは気がつきませんでした』『では、何か変わった物音のようなものを聞かなかったか?』『別に変わった物音も聞きませんでした』『では、ミコライ、お前はその当日、これこれの日の、これこれの時刻に、これこれの寡婦が妹と一緒に殺害されて、金品を強奪された事は知らなかったか?』『一向に存じません。夢にも知りません。わっしは三日目に初めてアファナーシイ・パーヴルイチの居酒屋で、亭主から聞いたばかりでござります』『ではどこで耳輪を取って来た?』『歩道で拾いましたので』『なぜあの翌朝ミトレイと一緒に仕事に出なかったか?』『実は、その、遊んだもんでございますから』『どこで遊んだ?』『これこれこういう所で』『なぜドゥーシュキンの所から逃げ出したか?』『あの時にゃなんだかやたらむしょうにおっかなかったもんで』『何がこわかったのか?』『裁判所へ引っ張られそうで』『もし自分で何も悪い事をした覚えがないのなら、何もこわがる筋はないじゃないか』……ところで、ゾシーモフ君は本当にするかどうか知らんが、こんな問いが提出されたんだぜ。この通りの言い回しでさ。僕は確かに知ってるんだ。正確に聞かしてもらったんだから! まあどうだね、どうだね?",
"そう、だが、しかし、証拠にはなってるね",
"いや、僕が今いってるのは証拠の事じゃなくて、尋問そのもののことだ。彼らがその本質をいかに解釈しているか、それを論じてるんだ! まあ、あんな連中なんかどうでもいいや!……彼らはミコライを責めて、責めて、ぎゅうぎゅういうほどしめつけたので、とうとう白状してしまった。『歩道で拾ったんじゃありません。実は、ミトレイと二人で壁を塗っていた、あのアパートで見つけましたんで』『どんな風にして見つけた?』『へえ、それはこんな風でございました。わっしはミトレイと二人で、いちんち八時ごろまで仕事をして、帰りじたくをしておりますと、ミトレイのやつがいきなりわっしの面へ、ペンキをさっと一刷毛なすりつけました。こんなあんばいに、わっしの面へペンキをべたっとつけて、逃げ出しやがったんで、わっしもそのあとを追っかけて行きました。追っかけながら、ありったけの大きな声でわめきました。ところが、階段から門へ出る口で――いきなりはずみで、庭番と旦那がたにぶっつかりましたんで。旦那がたがいくたりいられたか、覚えがございません。すると、庭番がわっしをどなりつけました。もう一人の庭番も同じようにどなりました。そこへまた庭番のかかあが出て来て、これもやっぱりわっしたちをどなりつけやがるんで、そんなところへ、奥さん連れの旦那が門の中へはいって来て、やはりわっしたちをお叱りになりました。わっしとミトレイが道幅いっぱいにころがってたからなんで。わっしがミトレイの髪の毛をつかんで、引きずり倒してぶんなぐると、ミトレイも下からわっしの髪の毛をつかんで、ぶんなぐるのでございます。もっとも、二人とも本気で怒ったんじゃなくって、つまり仲がいいもんだから、面白半分にやったんで。そのうちに、ミトレイのやつが振りほどいて、通りの方へ逃げ出したので、わっしはまたあとを追っかけましたが、追いつけなかったので、一人でアパートへ戻って来ました――あと片づけをしなきゃなりませんからね。わっしは片づけながら、ミトレイが今くるかくるかと待っておるうちに、入り口の部屋のドアの傍で、小壁のかげの片隅に、ふいとこの箱を踏んづけましたんで。見ると、紙にくるんだものが落っこってる。紙をとって見ると、こんなちっぽけな鉤がついてるんで、その鉤をはずしてみたら、箱の中に耳輪が……』"
],
[
"それからも何もあるものか! やっこさんは耳輪を見ると、たちまちアパートのことも、ミトレイのことも忘れてしまって、帽子をひっつかむなり、ドゥーシュキンの所へ駆けつけたのさ。そして先刻ご承知の通り、歩道で拾ったと嘘をついて、一ルーブリ受け取ると、その足で遊びに出かけちゃったんだ。が、殺人事件については、前と同じように言い張ってるんだ。『いっこうに存じません、夢にも知りません、やっと三日目に聞いたばかりなんで』『じゃ、なぜ今まで出て来なかったか?』『こわかったからなんで』『なぜ首なんかくくろうとしたか?』『思案にくれたからで』『どんな思案に?』『裁判に引っ張り出されそうで』さあ、これが一部始終の顛末だ。そこで、君はどう思う、彼らはこれからいかなる結論を引出したか?",
"何も考えるがものはありゃしない、罪跡はあるんじゃないか。よしそれがいかなるものにもせよさ。そうとも。君がいくら騒いだって、そのペンキ屋を無罪放免にするわけにいかないじゃないか?",
"だって、やつらはもう今じゃ頭から、真犯人にしてしまってるんだよ! もうなんの疑念も持ってないんだぜ……",
"なに、そりゃ嘘だ。君はあまり熱し過ぎてるよ。じゃ、耳輪はどうしたというんだい? 君自身だって同意せずにいられないだろう――同じ日の同じ時刻に、婆さんのトランクの中の耳輪が、ミコライの手へはいったとすれば――ね、わかるだろう、何かの方法で手にはいったに相違ないじゃないか? こういう事件の審理に際して、この事実はけっして些細なものじゃないよ"
],
[
"神聖この上ない事実だって! しかし先生自身も、初めは嘘を言ったと白状してるじゃないか!",
"まあ、僕の言うことを聞きたまえ、よく耳をほじくって聞きたまえ――庭番も、コッホも、ペストリャコフも、もう一人の庭番も、第一の庭番の女房も、庭番小屋にいた女も、ちょうどその時辻馬車からおりて女と腕を組みながら門の下へはいって来た七等官のクリュコフも――誰も彼も、つまり八人ないし十人の証人が口をそろえて証言してるんだ。ミコライがミトレイを地べたへ押しつけて、その上へのしかかってぶんなぐってると、こっちもやつの髪を引っつかんで、同じように相手をなぐりつけていたそうだ。二人は道幅いっぱいにころがって、往来の邪魔をしているので、四方八方から二人をどなりつけるんだが、二人はまるで、『小さな子供みたいに』――これは証人のことばそのままだよ――上になり下になりして、きゃっきゃっわめいたりなぐり合ったり、われ劣らじと大声に笑ったりして、滑稽きわまる面つきをしてるじゃないか。そして、子供みたいに互いに追っかけっこをしながら、通りへ駆け出して行ったんだよ。いいかい? そこで一つしっかり考えてみたまえ――四階の上にはまだ温もりの残った死体がころがってるんだぜ。発見された時には、まだ暖か味があったんだ! もし彼らが、あるいはミコライ一人が、殺人犯をおかして、しかもその際トランクをこわして強盗を働いたとか、あるいは何かで強盗の幇助をしたとすれば、一つ、たった一つだけ君に質問さしてもらいたい――いったいぜんたい今いった心理状態が、つまりきゃっきゃっわめいたり、大声で笑ったり、門の下で子供らしいつかみ合いをするというようなことが、斧だの、血だの、凶暴無比な悪知恵だの、ああした細心の注意だの、強奪などというものと、はたして一致するものかどうか? たったいま人を殺したばかりで、せいぜい五分か十分しかたたないのに――だってそういうことになるだろう、まだ死体が暖かいんだからね――急に死体もおっぽり出したうえ、部屋をあけっ放しにしといて、今そちらへ向けて人がぞろぞろ通って行ったのを承知しながら、獲物をほうり出したまま、道のまんなかで子供のようにころげ回ったり、げらげら笑ったり、みんなの注意をひいたりする。しかも、それには陳述の一致した証人が十人もいるんだからね!",
"もちろん、変だ。むろん不可能な話だ、がしかし……",
"いや、しかしじゃないよ。もし同じ日の同じ時刻にミコライの手にはいった耳輪が、実際かれにとって不利な、重大な物的証拠になるとすれば――もっともその証拠は、彼の陳述によっても釈明がつくんだから、したがってまだ争う余地のある証拠だが――もしそうとすれば、一方の弁護的事実をも、考慮に入れるべきじゃないか。ましてそれは拒み難い事実なんだからね。ところで、君はどう思う。わが国の法律学の性質上、そうした事実を――単に心理的不可能性とか、精神状態とかに基礎をおいている事実を――拒み難い事実として受け入れるだろうか? よしんばいかなるものであろうとも、有罪を肯定するいっさいの物的証拠をくつがえしてしまうような事実として、受け入れてくれるだろうか、いや、受け入れるだけの雅量を持ってるだろうか? なんの、受け入れるものか、こんりんざい受け入れやしない。箱は見つかったし、当人は縊死しようとしたんだもの、『自分に悪事をした覚えがなけりゃ、そんなことをするはずがない!』というわけさ。つまり、これが僕を熱くならせる重大問題なんだ! 少しはわかってくれよ!",
"うん、そりゃ君が熱くなってるのは、ちゃんとわかってるよ。だが待てよ、僕はきくのを忘れてたが、耳輪のはいった箱がほんとうに婆さんのトランクから出たものだってことは、なんで証明されたんだね?"
],
[
"ふむ!……してみると、弁解の方法といっては、ただお互いになぐり合って、きゃっきゃっ笑っていたということだけだね。まあ、仮りにそれが有力な証拠だとしよう。しかし……じゃまたきくがね――君自身はこの事実全体をどう説明する? 耳輪を拾ったのをなんと説明するね? 全く彼が陳述どおり拾ったものとして",
"どう説明するって? 何も説明するがものはないじゃないか――わかりきった話だ! 少なくとも、事件を進捗さすべき経路は明瞭で、ちゃんと証明されてるよ。つまり、箱がそれを証明したのさ。ほかでもない、真犯人がその耳輪を落として行ったのだ。犯人は、コッホとペストリャコフがドアをたたいていた時には、四階のあの住まいにいて、栓をさして息をこらしてたんだ。ところが、コッホがあほうな真似をして下へおりて行ったので、そのとき犯人はいきなり飛び出して、同じく下へ駆けおりたんだ。だって、ほかに逃げ道がないものね。それからやつは階段の途中で、コッホとペストリャコフと庭番の目をさけて、空いたアパートに隠れたんだ。それはちょうど、ミトレイとミコライが駆け出して行った時なのさ。そこで犯人は、三人が上へ行ってしまう間、ドアの陰に立っていてさ、足音の消えるのを待って、悠々と下へおりて行った。それはちょうどミトレイとミコライが通りへ駆け出したあとで、居合せた人は散ってしまって門の下には誰もいなかった時なんだ。もっとも、見た人はあったかもしれないが、かくべつ気にもとめなかったろう。人が通るのは珍しいことじゃないんだからね。箱は、そいつがドアのかげに立っているうちにポケットから落としたんだが、落としたのは気がつかなかったんだ。それどころじゃないんだからな。つまりその箱こそ、犯人がそこに立ってたことを、明白に証明してるじゃないか。そこが手品の種なのさ!",
"うまい! いや、君、実にうまい。だが、それはあまりうま過ぎるね!",
"どうして、え、どうしてだい?",
"だってさ、何もかもあんまり平仄が合い過ぎる……あんまりしっくり過ぎる……まるで芝居のようじゃないか"
],
[
"さよう、貸間ですよ……",
"とてもひどい所さ――きたなくって、臭くって、それに怪しげな家なんだ。ときどき変な騒ぎが持ち上がるよ。およそどんな連中だって、あそこに巣を食っていないやつはないぜ!……僕も一度ある騒動で引っ張り出されたことがある。もっとも、安いにゃ安いよ"
],
[
"何がです?",
"あなたの質問はあまり範囲が広すぎますね。あるいは、わたしの考えが違っているかもしれませんが、若い人にはより明晰な見解、つまり、なんと言いますか、より多くの批判精神があるように思えるのです。より多くの実際的精神……"
],
[
"ああ、それがどうしたんだい?",
"いや、なんでもない"
],
[
"コッホが教えたのもあれば、質物の上包みに名を書いてあったのもあるし、話を聞きつけて自分からやって来たものもある……",
"いや、どうも巧妙な慣れきった悪党に違いないね! なんて大胆な! なんて思い切ったやり口だ!"
],
[
"そう。お聞きになりましたか?",
"そりゃもう、ほとんど隣のことですから……",
"詳しいことをご承知ですか?",
"そうまでは申しかねますが、しかしこの事件については別な事情が、つまり一つの大きな問題が、わたしの興味をそそるんですよ。最近五年間に、下層社会に犯罪が増加したことや、またいたるところにひんぴんとして起こる強盗や放火については、今さらいうまでもないとして、何より奇怪千万なのは、上流社会でも同様に、いわば平行的に、犯罪が増加して行くことです。どこそこでは大学生あがりが大道で郵便物を掠奪したという噂があるかと思えば、またどこそこでは社会的地位からいっても第一線に立っている人々が贋造紙幣を作っている。かと思えばモスクワでは、最近発行の割増つき債券を贋造する連中の一団が検挙されたが――その首謀者の中には、万国史の講師が一人いたとか。それからまた海外駐在の書記官が、何か金のことらしいけれど、謎のような原因のために暗殺されています……で、もし今この金貸しの老婆殺しの犯人が、より高級な社会から出ているとしたら(なぜなら、百姓は金属品など質に入れませんからね)、社会の文化的階級のかかる腐敗堕落をなんと説明したらいいでしょう?"
],
[
"というと、つまり?",
"ほかでもない、モスクワで万国史の講師が言ったことですよ。なぜ債券贋造をしたかという尋問に対して、『みんないろいろの方法で金持になっているから、わたしも手っとり早く金持になりたかったのです』と答えた。正確なことばは覚えていないが、要はたしか、骨を折らないで手っとり早く濡れ手で粟の儲けがしたいというんです! みんな据え膳目当ての生活をしたり、人のふんどしで相撲を取ったり、噛んでもらったものを食うといったようなことに慣れてしまったんですね。ところで、いま偉大なる時が訪れたので、一人一人がその正体を暴露してしまった……",
"しかし、なんといっても、道徳というものがあるでしょう? その、なんというか、戒律が……"
],
[
"どうしてわたしの理論通りに?",
"あなたがさっき主張したことを、極端まで押しつめると、人を斬り殺してもいい、ということになりますよ……"
],
[
"ではなおさら!",
"とっとと出て行け!"
],
[
"あの男いったいどうしたんだろう?",
"何かちょっとした、いい具合の衝動がありさえすればいいんだがなあ! さっきなんか、あんなに元気だったんだもの……ねえ、君、あの男なんだか心に屈託があるんだよ! 何かしらじっと凝って動かない重苦しいようなものが……僕はこいつを非常に恐れてるんだ! きっとそうに違いない!",
"ねえ、ひょっとしたらあの紳士、ほら、ルージン氏のためじゃなかろうか! 話の模様で見ると、先生あの男の妹と結婚するんだよ。そのことについて、ロージャは病気の直前に手紙を受け取っているらしい……",
"そう。折の悪い時に来やがったもんだよ。全く、あのやっこさんが何もかも打ち壊してしまったのかもしれないな。ところで、君は気がついたかい――ラスコーリニコフはほかの事にはいっさい無頓着で、何を言っても黙っているが、ただ一つ興奮して夢中になることがある。それは例の殺人事件だ……"
],
[
"君、その話は晩にもっとくわしく聞かしてくれないか。その上で僕も話すことがあるから。この病人は実に興味があるよ! 三十分もしたらまた寄ってみる……ただし、炎症などは起こるまいがね",
"ありがとう! じゃ、僕はその間パーシェンカのとこで待っていながら、時々ナスターシャにのぞかせて、視察するとしよう……"
],
[
"その男の名はなんというのだろう?",
"洗礼を受けた通りの名でさあ",
"君はザライスクの人間じゃないかね? いったい何県から来たい?"
],
[
"わっしらの方は、お前さま、県じゃなくって区といいます。兄貴は方々旅をしましたがね、わっしゃ家にばかりいたもんで、なんにも存じませんよ……まあ、お前さま、もうこれくらいでかんべんしていただきたいもんで",
"あれはめし屋かね、二階の方のは?",
"ありゃ飲み屋ですよ。玉突きもあります。それに姫ごぜ達もいますぜ……にぎやかなもんでさあ!"
],
[
"なんと面白そうだなあ!",
"おはいりよ、来たくらいなら!",
"はいるよ! さあ、うめえぞ"
],
[
"あら、まあ、なんて気前のいい旦那でしょう!",
"お前なんていうんだい?",
"ドゥクリーダとたずねてちょうだい"
],
[
"いや、お茶をもらおう。それから、新聞を持って来てくれ、古いのを。そうだな、五日ばかり前からそろえて。君には祝儀をあげるからね",
"かしこまりました。これが今日の分でございます。それから、ウォートカを召しあがりますか?"
],
[
"どうもあの男も暴れんぼだな!",
"火薬がですか?",
"いや、君の友人ですよ、ラズーミヒンですよ……",
"君の生活は結構なもんですね、ザミョートフさん。ああいう愉快この上ない所へ木戸御免なんて! いま君にシャンペンをご馳走したのは、ありゃ誰です?",
"あれはみんなで……飲んだんですよ……で、まあ、ご馳走したんですな!"
],
[
"君はどうして知ってるんです?",
"そりゃ僕だって、君より詳しいかもしれませんよ",
"君はなんだかちと変ですね……きっとまだよっぽど悪いんですぜ。外出なんかしたのは乱暴でしたね……",
"君の目には僕がへんに見えますか?",
"見えますね。ときに、君それはなんです、新聞を読んでるんですか?",
"新聞です",
"やたらに火事のことが出ていますね"
],
[
"ちっとも知りたかない、ただ、ちょっときいてみただけですよ。いったいきいちゃいけないんですか? なんだって君はのべつ……",
"ねえ、君は立派な教養のある、文学的な人ですね、え?"
],
[
"熱に浮かされてる? ばかを言っちゃいけない、小雀君!……じゃ、僕は変ですかね? ふむ、それで僕は君にとって興味があるでしょう、え? 興味があるでしょう?",
"ありますね",
"というのは、つまり僕が新聞で何を読んだか、何を捜したかってことでしょう? だって、こんなに古い分をしこたま持って来させたんだからね? うさん臭いでしょう、え?",
"まあ、言ってごらんください",
"喉から手が出るというやつですね?",
"何がいったい喉から手なんです?"
],
[
"悪党でなくってどうします?",
"あれが? あれは子供ですよ、青二才ですよ、悪党なんかじゃありません! あんな仕事をするのに五十人からの人間が寄り合うなんて! そんなのってありますか。三人でも多いくらいだ。それも、お互い同士を自分以上に信用してる場合に限りますよ! さもなければ、中の一人が酔っぱらってうっかりしゃべったら、それでもう万事がらがらといってしまうんですからね! 青二才ですよ! 札を銀行で両替させるのに、あてにもならない男を雇うなんて――これほどの仕事を、行き当たりばったりの人間に任せるって法がありますか? まあ、仮りに青二才連中でもうまくいったとしましょう。そして、てんでに百万ルーブリずつも両替したとする、ね、ところで、それからあとはどうなるんです? 一生涯のあいだ? それこそ一人一人が一生涯、お互い同士制肘を受けるわけじゃありませんか! それなら、いっそ首をくくった方がましなくらいだ! しかも、やつらは両替することもできなかったんですからね。銀行へ行って両替を頼み、五千ルーブリの金を受け取ると、手がぶるぶる震え出した。四千ルーブリまでは数えたけれど、五千ルーブリ目は数えもしないで受け取って、そのままポケットへねじ込むと、あたふた逃げ出してしまった。そこで、嫌疑を招くことになり、たった一人のばか者のお蔭で、万事がらがらといってしまった! え、いったいこんな話ってあるもんですか?"
],
[
"それしきのことが?",
"そりゃ君なら、あるいは持ちこたえられるかもしれませんね? いや、僕だったら持ちこたえられない! 百ルーブリやそこいらの礼金で、そんな恐ろしいことをするなんて! 贋造紙幣を持って――しかも所もあろうに――それで苦労をしぬいて銀行へ行くなんて――いや、僕なんかてれてしまいますよ、君は平気ですか?"
],
[
"そりゃもうつかまえますとも",
"誰が? 君が? 君につかまりますか? くたびれもうけですよ! 君がたの、一ばん奥の手は、金づかいが荒いかどうか、くらいのもんでしょう? 今まで一文なしでいたやつが、急に金をつかい出すと――それこそ犯人だとくる。そんなことじゃ、子供でもその気にさえなれば、君がたをだますのはわけありませんぜ"
],
[
"非常に?",
"非常に!"
],
[
"そんな風だと、なんですね、ラズーミヒン氏、おそらくあなたは親切を尽くしたいという満足感のために、他人に自分を打つことさえ許しておやりになるでしょうね",
"誰を? 僕を? そんなことを考えただけでも、そいつの鼻柱をひん曲げてやるよ! ポチンコフの持家だよ、四十七号で、バーブシキンという官吏の住まいだ……"
],
[
"あすこだ",
"会ったかい?",
"会った",
"話をしたかい?",
"した",
"なんの話を? いや、君なんか勝手にしろだ、言わなくてもいいや。ポチンコフの持家、四十七号のバーブシキンだ。覚えておけよ"
],
[
"血ってなんですね?",
"ほら、ここで婆さんが妹と一緒に殺されたじゃないか。ここはまるで血の海だったのさ"
],
[
"僕かい?",
"そうさ"
],
[
"警察へ行って来たかい?",
"いま行って来ました。あなた何ご用で?",
"向こうには皆いるかい?",
"いますよ",
"副署長もいたかい?",
"ちょっと来ていました。あなた何ご用で?"
],
[
"どの住まいを?",
"おれたちが仕事している所さ。『なんだって血を洗ってしまったのだ? ここじゃ人殺しがあったじゃないか。ところで、おれは借りに来たんだ』なんてよ。それから、呼鈴を鳴らして、まるで綱を引きちぎらないばかりだったよ。それから警察へ行こう、そこで何もかも話してやる、とかなんとかいって、うるさくからんできたのさ"
],
[
"が、なんだってあなたは部屋の中へはいったんです?",
"見るためにさ",
"何を見るものがあります?"
],
[
"わたしはもう前に、ちゃんと断わっておいたじゃありませんか――けっしてわたしの事をアマリヤ・リュドヴィーゴヴナなどと言っちゃいけませんて、わたしはアマリ・イヴァンですよ!",
"あなたはアマリ・イヴァンじゃありません、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナです。わたしはね、いま現に戸の向こうで笑っているレベジャートニコフみたいな、汚らわしいおべっか使いの仲間じゃありませんから(戸の向こうでは実際どっと笑う声と、『さあ、取っ組んだぞ!』という叫びが響き渡った)、いつでもあなたのことを、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナと呼びますよ。もっとも、こう呼ぶのがなぜあなたのお気に入らないのか、わたし一向にわかりませんがね。あなたもご自分で見ておわかりでしょう――セミョーン・ザハールイチはどんなことになりました? あの人は死にかかっているんですよ。どうかお願いですから、今すぐその戸を閉めて、誰もここへ入れないようにしてください。せめて死ぬだけでも静かに死なしてやってください! でないと明日にもあなたの仕打ちが、総督さまのお耳にはいりますよ。公爵はわたしの娘時分からご存じで、主人にもたびたびお目をかけてくださいましたので、ようっく覚えていらっしゃいます。主人に大勢のお友達や保護者があったことは、誰でもみんな知っています。ただあの人があまり潔白で誇りが強いものだから、自分の因果な癖をつくづく感じたので、自分からその人たちを捨ててしまったんです。けれど今度は(と彼女はラスコーリニコフを指さした)、お金もご身分もあるこの親切な方が――主人がお小さい時から存じ上げている方が、わたしたちを助けてくださるんですよ。本当ですとも、アマリヤ・リュドヴィーゴヴナ……"
],
[
"もうほんのちょっとです",
"まるで望みがないんですか?",
"全然ありません! もう息をしているというだけですよ……それに、頭の方もなかなかの重傷ですからな……さよう……放血をやってみてもいいが……しかし……それも無駄でしょう。五分か、せいぜい十分で最期ですな",
"じゃとにかく、放血をやっていただこうじゃありませんか!",
"そう……しかし、前もってお断わりしておきますが、それはぜんぜん徒労ですよ"
],
[
"僕もそう思ったよ――ソーニャ姉さんがよこしたんだろうと",
"母さんも行けって言ったのよ。ソーニャ姉さんが行けってった時に、母さんもそばへ来て、そう言ったのよ。『急いで駆け出しておいでよ、ポーレンカ!』って",
"君ソーニャ姉さんが好き?"
],
[
"君お祈りができる?",
"ええ、そりゃできなくってさ! もう先からよ。あたしはもう大人みたいに、口ん中でお祈りするのよ。だけどコーリャとリードチカは、お母さんと一緒に声を出して唱えるわ。はじめは『聖母マリア』を唱えて、それからも一つのお祈りをするのよ。『主よ姉ソーニャを許し祝福したまえ』っていうの。そのあとでまた『主よ、われらの第二の父を許し祝福したまえ』って。それはね、先のお父さんがもう死んでしまって、今のは違うお父さんだからなの。あたしたち先のお父さんのことも、やはりお祈りしてよ",
"ポーレンカ、僕の名はロジオンていうんだよ。いつか僕のこともお祈りしてちょうだい。『奴隷ロジオンをも』って――それっきりでいいから"
],
[
"じゃね、僕が君を家まで送ろう! 君が自分でそんなに弱ってるというくらいだから……",
"だって客をどうするんだい? あの縮れ毛の男は誰だい、ほら、今こっちをのぞいて見た?",
"あれ? あんなやつ知るもんか! きっと伯父の知人だろう! が、もしかすると勝手にやって来たのかもしれない……とにかく、あの連中には伯父をつけとくよ。伯父は実にいい人間だぜ。君にいま紹介できないのは残念だよ。だが、あんな連中どうだってかまやしないんだ! みんな今ぼくなんかに用はないんだ。それに、僕は少し風に当たらなくちゃならない。だから、君、ちょうどいいところへ来てくれたんだよ。もう二分もいようものなら、僕はやつらとなぐり合いをはじめたかもしれないんだ、ほんとうだとも! 何しろあきれ返るようなでたらめをしゃべり出すんだからな……君、人間てどこまででたらめが言えるものか、想像もつかないだろう! だが、どうして想像ができないんだ? われわれ自身だってずいぶんでたらめをいうじゃないか? まあ、勝手にやらしとくさ、その代わりあとで言わなくなるだろうからな。ちょっと待ってくれ。今ゾシーモフを連れて来るから"
],
[
"ザミョートフが君に何もかも話したのかい",
"ああ、何もかも。そして、話してくれてよかったよ。で、僕はいま底の底までわかったんだ。ザミョートフもわかったよ……で、まあ、一言にしていえばさ、ね、ロージャ……要するに……僕今ほんのぽっちり酔ってるがね……しかし、こんなことはなんでもないさ……要するにあの疑念は……わかるだろう? 実際あいつらの頭にこびりついてたんだ、わかるだろう? といって、やつらも誰一人それを口に出して言うものはないんだ。あまり馬鹿げきった考えだからね。ことにあのペンキ屋がつかまって以来、妄想がすべて一時に崩壊し永久に消えてしまったんだからな。だが、なんだってやつらはあんな馬鹿なんだろう? 僕はその時ザミョートフを少しぶんなぐってやったよ。しかしこれはこの場きりの話だからね、君、知ってるなんてことは、素振りにも出さないでくれよ、いいかね。僕は気がついたんだが、やつは神経質な人間なんだね。ラヴィーザのところであったことなんだ――しかし、今日という今日こそ、すべてが明瞭になった。一番いけないのは、あの副署長さ! やつは君があの時署で卒倒したのを、さっそく種にしやがったんだ。しかしあとでは、自分でも恥かしくなったんだがね。僕はちゃんと知ってるよ……"
],
[
"まだいいわけしてるよ! それに、ペンキばかりじゃないよ。炎症がまる一月も徐々に進行していたんだ。現にゾシーモフが証人だ! だが、今あの青二才がどんなにしょげてることか、君、想像もできないくらいだぜ! 『わたしはあの人の小指ほどの値うちもない』といってるよ。つまり、君の小指のさ。しかしあの男だってどうかすると、善良な感情を持つこともあるよ。だが今日の『水晶宮』であったことは、やつにとっていい教訓だった。あれは完成の極致だ! だって、君は初めてやつをびっくりさせて、震え上がらせたそうじゃないか! 君はまたやつにあの忌まわしい無意味な想像を、ほとんど完全に信じさせておいてさ、それからふいに――舌をぺろりと出して、『へん、どうだ、うまくいったか!』なんて、実に完璧というべきだ! 奴さんすっかりへこんじまって、面目だまをつぶしてしまってるよ! 君は名人だね、全く! やつらはそんな風にやっつけてやらなきゃいけないんだ! 僕がその場にいなくって残念だったよ! やつは今も君を待ちこがれていたっけ。ポルフィーリイ(予審判事)も君と近づきになりたがっているよ……",
"ああ……あの男なんか……だが、なんだって人を気ちがい扱いにしたんだい?",
"といって、気ちがいじゃないのさ。いや、僕はどうやらしゃべり過ぎたようだな……つまり、あの一つの点に君が興味をいだいてるってことが、さっきゾシーモフに異常な印象を与えたんだよ……だが今では、なぜ興味を抱くか明瞭になった。すべての状況を知ってみると……またあの時あの事件が極端に君をいらいらさして、病気と一緒にない合わされてしまったことを知ってみるとね……ところで君、僕はいささか酔っ払ってる。しかし、なんだか知らないけれど、やつには何か考えがあるらしい……だから、僕そういうのさ……やつは精神病で夢中になっているんだよ。まあ君、唾でもひっかけておくさ……"
],
[
"少しめまいがするんだ。しかし問題はそんなことじゃない。問題はただむやみに気が沈むことなんだ。むやみに気が沈むんだ! まるで女のくさったみたいに……全く! おや、あれはなんだ? 見ろ! 見ろ!",
"なんだ、いったい?",
"あれが見えないかい? 僕の部屋にあかりがついてるじゃないか? 隙間からさしてるだろう……"
],
[
"いや、いま時分あれが僕の部屋へ来ることはないんだ。それに、あいつはもうとっくに寝てるよ。しかし……どうだっていいや! じゃ失敬!",
"何をいうんだ? 僕は君を送って来たんじゃないか、一緒にはいろうよ!",
"一緒にはいることは知っている。だが、僕はここで君の手を握って、ここで君と告別したいんだ。さあ、手を出したまえ、失敬!",
"君どうしたんだい、ロージャ",
"なんでもないよ……じゃ行こう……君は目撃者になるがいいさ……"
],
[
"まあ、何をおっしゃるんですの!",
"それに、アヴドーチャ・ロマーノヴナにしても、あなたがいらっしゃらなくては、一人で下宿にいられやしませんよ! が、考えてもごらんなさい、あなた方は、なんて所に泊まっていらっしゃるんでしょう! あの恥しらずのルージンて男も、あなた方のためにもう少しどうかした宿が捜せなかったものかなあ……いや、もっともごらんの通り、僕少し酔ってますから……つい悪口をつきましたが、どうかお気になさらないで……"
],
[
"あの人は全くめちゃ飲みの席からいきなりみえたらしいけど、あれは神様がわたしたちを助けによこしてくだすったんだわ。あの方は頼りになる人よ、わたし受け合うわ。それに、あの方が今まで兄さんのためにしてくだすった事は、みんな……",
"でも、ドゥーネチカ、あの人が来てくれるかどうか、わかったものじゃないよ! どうしてわたしは、ロージャをおいて来る気になれたろう! ほんとに、ほんとに、あんな風で会おうとは、思いもそめなかった! あの子のぶっきらぼうなことといったら、まるでわたしたちの来たのがうれしくないようなんだもの……"
],
[
"僕は何も考えてやしないよ",
"あれは、君、はにかみやで、無口で、引っ込み思案で、その上驚くばかり童貞心を持ってるんだ。しかも、それらいっさいにかてて加えて――悩ましいため息をつきつき、蝋のように溶けちゃう方だからね! 君、この世にありとあらゆる悪魔にかけて頼むが、あの女から僕を救ってくれんか! 実に一風かわった面白い女だぜ! 礼はする、誓ってするよ!"
],
[
"ちょっ、すっかり酔いが回りやがって! いったいなんだって僕があの女を?",
"大丈夫、大して面倒はないよ。何かいい加減なことをでれでれ言ってりゃいいんだ。ただ傍にいてしゃべってさえいりゃいいんだ。それに君は医者だから、何かの療治を始めてやるんだな。大丈夫、後悔するようなことはないよ。あいつのところにゃピアノがある。君も知ってる通り、僕は少しばかりぱらぱらやれるんだ。僕は『熱き涙に泣きぬれて』という純ロシア風の小唄を知ってる……あの女は純粋なのが好きでね――つまり、そもそも小唄から始まったのさ。ところが、君はピアノにかけたら、ルビンシュタインそこのけの名手じゃないか……大丈夫、後悔するようなことはないよ……",
"じゃ何かい、君はあの女に何か約束でもしたんだね? 正式の契約書でも書いて? 婚約くらいしたのかも知れないな?……",
"どうして、どうして、そんなことは全然ない! それに、あれはけっしてそんな女じゃないよ。あの女にはチェバーロフが……",
"そんなら、ただ捨てちまったらいいじゃないか!",
"ただ捨てるわけにはいかないよ!",
"いったいなぜ捨てられない?",
"いや、その、なんだかそうはできないんだ、それっきりさ! そこには、君、なんだかこう、引きずり込まれるような所があるんだ",
"じゃ、なぜ君はあの女を迷わせたんだい?",
"いや僕はちっとも迷わせなんかしないよ。事によると、僕こそもちまえの馬鹿な性分で、迷わされたかもしれないくらいだ。だが、あの女から見ると、君だって僕だって絶対に同じ事だよ。ただ誰かがそばにいて、ため息をついてさえいりゃいいのさ。そこには、君……さあ、なんといったらいいかなあ、そこには――うん、そうだ、君は数学が得意だろう。そして、今でもまだやってるだろう、ちゃんと知ってるよ……そこで、君があいつに積分計算を教えてやるんだ。ほんとうだ、けっして冗談じゃない。まじめな話なんだよ。あの女にはなんだって同じだもの。あの女は君を見て、ため息をついてりゃいいのさ。そうして一年くらい続けるんだ。僕なんかもいつだったか、だらだら長く二日もぶっ通しで、プロシアの上院の話をしたもんだ。(だって、あの女と何を話したらいいんだい?)――それでも、あの女はただため息をつきながら、ぼうっとなってるんだ! ただ恋の話だけはしかけないがいいよ。震え上がるほどはにかみやだからね。――傍が離れられんというような顔だけしていたまえ――それで沢山なんだ。とにかく、めっぽう居心地がいいよ。まるで家にいるも同然だ――読んだり、すわったり、寝たり、書いたりしていたまえ……接吻だってしてもいい、慎重にやりさえすれば……",
"いったいなんのためにあの女が僕にいるんだ?",
"ええっ、どうしてもうまく説明ができない! ねえ、こうなんだよ。君たち二人はおたがいにぴったりはまってるよ! 僕は前にも君のことを考えたくらいだ……どうせ君は結局そういう事で終わる人だよ! してみると、おそかろうが早かろうが、同じことじゃないか? あそこには、君、なんていうか、羽根蒲団的要素が充満してるんだよ――いや! 単に羽根蒲団的要素ばかりじゃない! あすこには人を引きずり込むような所がある。あすこは世界の果てだ、錨だ、静かな避難所だ、地球のへそだ、三匹のくじらにささえられているこの世の基礎だ、薄餅のエッセンスだ、脂っこい魚製菓子パンだ、晩のサモワールや静かなため息や、暖かい女物の不断着や、うんと焚いた暖炉や、そういうもののエッセンスだ――まあ、いってみれば、君は死んでいると同時に、また生きてもいる、一挙両得というもんだ! いや、君、すっかり与太を飛ばしてしまったなあ。もう寝る時刻だ! だがねえ、僕は夜中に時々起きて、病人を見に行くから。しかし、なんでもない、くだらん事だ。だから、君も心配しなくていいよ。まあ、もしなんなら、一度ぐらい行ってみてくれ。しかしね、もし少しでもうなされてるとか、熱があるとか、そんな風のことに気がついたら、さっそく僕を起こしてくれ。もっとも、そんなことあるはずがないけれど……"
],
[
"君はきのう婦人連にまで、その事をしゃべってしまったね",
"いや、馬鹿げていた。自分でもつくづくそう思うよ! なぐられても文句はない! だが、どうなんだね、君は実際それについて、確たる考えがあったのかね?",
"くだらない話だと言ってるじゃないか。確たる考えも何もあるもんか! 君の方こそ、僕を初めてやつの所へ引っ張って行ったとき、偏執狂のようにいって聞かせたじゃないか……それに、つい昨日も僕らは焚火に油をかけたようなもんだ。というより、むしろ君があんな話をしたからさ……ペンキ屋のことなんか。当人がそのために気が変になったかと、思われるくらいのところへ、あんな話はちと乱暴だったぜ! もしあの時僕が知ってたら――警察署であった騒ぎや、そこでつまらない馬鹿野郎があんな嫌疑をかけて……侮辱したことを、正確に知っていたら! 全く……昨日あんな話をさせやしなかったよ。実際この偏執狂ってやつは、一滴の水を大海ほどに考えたり、ありもしない妄想をまざまざと事実に見たりするものだからな……僕の覚えてる限りでは、昨日のザミョートフの話を聞いてから、はじめて事実の真相が半分くらい明瞭になった。いや、何もぐずぐず言うことはないさ! 僕は現にある一つの場合を知っている。四十男のヒポコンデリイ患者がね、八つになる男の子が食事のたんびに浴びせる嘲弄に堪え兼ねて、その子供を斬り殺したという話さ。ところが、今度の場合は、みすぼらしい姿に落ちぶれて、病気が起こりかけていた時に、高慢な警察官があんな嫌疑をかけたんだからね! しかも、相手は恐ろしく気の立ってるヒポコンデリイ患者でさ! そのうえ気ちがいじみるほど自尊心の激しい男だからたまらない! もしかすると病気の出発点は、全部そこにあるのかもしれないよ! まあ、どうでもいいや! ときにあのザミョートフって男は、実に愛すべき小僧っ子だね。ただその……昨日あれをすっかりぺらぺらしゃべってしまったのには困るよ。どうも恐ろしいおしゃべりだ!",
"いったい誰に話したんだい? 君と僕くらいなものじゃないか?",
"それからポルフィーリイにも",
"ポルフィーリイにしゃべったっていいじゃないか!",
"ときに、君はあの人たち――おふくろと妹を左右する力を、いくらか持ってるだろうね? 今日は先生との応対に気をつけさしてくれたまえ……"
],
[
"ドミートリイ・プロコーフィッチです",
"それでですね、ドミートリイ・プロコーフィッチ、わたしはたいへん、たいへん……知りたくてたまらないんですの。全体に……あの子は今どんな考え方でいるんでしょう? つまり、その、おわかりになりますかしら、なんと申し上げたらいいんでしょう。つまり平ったくいいますと、あの子は何が好きで、何が嫌いなんでしょう? いつもあんなにいらいらしているのでしょうか? あの子はいったいどんな望みを持ってるんでしょう、つまり、言ってみれば、何を空想しているんでしょう? 何が今あれの気持を動かすような、特別な力を持っているのでしょう? 一口に言えば、わたしが知りたいのは……"
],
[
"そんなことは僕は言いませんでしたが、しかし、あるいはおっしゃる通りかもしれません、ただ……",
"なんですの?"
],
[
"ねえ、ドゥーネチカ、わたし明け方になって、少しとろとろすると、思いがけなく亡くなったマルファ・ペトローヴナが夢枕に立ったんだよ……何もかもまっ白な着物を着てね……わたしの傍へ来て手をとりながら、かぶりを振って見せるんだよ。それはこわい顔をしてね、まるでわたしを責めでもするように……これはいいしらせだろうかねえ! ああ、そうそう、ドミートリイ・プロコーフィッチ、あなたはまだご存じないでしょう。マルファ・ペトローヴナが亡くなったんですよ?",
"ええ、知りません、いったいマルファ・ペトローヴナって誰です?",
"急なことでねえ! まあ、どうでしょう……"
],
[
"わたしはどうかすると、あまり本気になってお話するもんですから、いつもドゥーニャに直されるんですの……ああ、それはそうと、倅はまあなんというひどい所に住まっているんでしょう! でも、もう起きているでしょうかしら? いったいあのおかみさんは、あれでも部屋だと思ってるんでしょうか? ときに、あなたそうおっしゃいましたねえ――あの子は腹にあることを外へ出して見せるのが嫌いだって。ですからわたしもしかすると……もちまえの……弱い性分で、あの子をうるさがらせはしないかと思いまして!……ねえ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、いったいあれにはどうし向けたらいいのか、教えてくださいませんか? わたしはもうごらんの通り、途方に暮れているんですから",
"もし顔でもしかめるようでしたら、あまりうるさくいろんな事を尋ねないようにするんですね。ことに体のことを聞いちゃいけませんよ、いやがりますから",
"ああ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、母親というものはなんてつらい役目でしょう! ですが、もう階段です……なんという恐ろしい階段だろう!"
],
[
"マルファ・ペトローヴナって誰です?",
"あら、まあ、スヴィドリガイロフの奥さんのマルファ・ペトローヴナさ! ついこの間の手紙で、あんなにいろいろ知らせてあげたじゃないか"
],
[
"いいえ、まるで反対なくらいよ。あの人は奥さんにはいつも我慢づよくて、ていねいなくらいだったわ。たいていの場合、奥さんの気性を大目に見過ぎるくらいだったのよ、まる七年の間……それはどうしたのか急に堪忍袋の緒を切らしたの",
"してみると、七年も辛抱したのなら、それほど恐ろしい男でもないじゃないか! ドゥーネチカ、お前はあの男を弁護してるようだね?"
],
[
"なぐられたばかりで?",
"もっとも、あの人にはいつもそうした……癖があったんだね。で、昼の食事をすますとすぐ、町へ行くのが遅くならないように、さっそく水浴び場へ行ったそうだよ……実は、あの人は何かそんな水浴療法をしていたそうだから。あすこには冷たい泉があってね。あの人はそれへ毎日きまってはいってたんだそうだよ。ところが、水へはいるとたんに、いきなり発作が起こったんだね!"
],
[
"おい、君はどこへ行くんだ?",
"僕もやっぱり……用が",
"君に用があってたまるかい、じっとしていたまえ! ゾシーモフが行ったから、それで君も用ができたのかい。行っちゃいけない……ときに、何時だろう? 十二時かね? おや、ドゥーニャ、すてきな時計を持ってるじゃないか! だが、なぜまたみんな黙ってしまったんです? 僕ばかりに、僕一人にばかりしゃべらしてさ!……"
],
[
"ある程度まではね。ピョートル・ペトローヴィッチの求婚の仕方と形式で、あの人が何を要求しているのか、すぐわかりましたもの。あの人は自分というものを、あまり高く評価しているかもしれません。でもその代わり、わたしも相当に認めてくれるだろうと、それを期待しているんですの……何をまた笑ってらっしゃるの?",
"お前はまた何を赤くなるんだい? お前は嘘をついてる。お前はわざと嘘をついてるんだ。ただ女らしい強情で、おれに我を張り通したいもんだからさ……お前はルージンを尊敬することなんかできやしない。僕はあの男と会いもし、話もしたんだよ。してみると、お前は金のために自分を売ってるのだ、してみると、いずれにしても卑劣な行為だ。僕はね、お前が少なくともまだ赤くなれる、それだけでも喜んでいるよ!"
],
[
"じゃ君は読んだのか!",
"うん"
],
[
"そりゃなんです、『どう決める』って?",
"だってほら、ピョートル・ペトローヴィッチがこの通り、今晩お前が来ないように……もし来れば、すぐ帰ってしまうと書いているじゃないの。だからお前どうします……来るつもり?……"
],
[
"いいえ、すっかり片づきました……だって亡くなった原因が、わかり過ぎるぐらいわかっているものですから、別段うるさい事はございませんでした。ただ同じ家の借家人たちが腹を立てまして",
"なぜです?",
"死骸をいつまでも置いとくって……何分この暑さで、臭いがいたすものですから……で、今日は晩の祈祷式のころに、墓地へ運んで参りまして、明日まで礼拝堂に置いていただくつもりでございます。カチェリーナ・イヴァーノヴナは、最初それをいやがりましたが、今では自分でも、ほかに仕様のない事がわかったようでございます……",
"じゃ今日ですね?",
"母はあす教会のお葬式に、あなたもお出向きくださいますようと申しております。それからあとで宅の方へも、法事にお寄りを願いたいって",
"お母さんは法事をなさるんですか?",
"ええ、ほんのお口よごしですけど。母はくれぐれも、昨日お助けくださいましたお礼を申すようにとのことで……全くあなたがお見えにならなかったら、お葬いをすることもできなかったのでございますから"
],
[
"だって、棺も粗末なのでございますし……それに何もかも手軽にいたしますから、いくらもかかりませんの……さっきカチェリーナ・イヴァーノヴナと二人で、すっかり勘定をしてみましたら、法事をするくらい余りました……カチェリーナ・イヴァーノヴナはぜひそうしたいと申しますの。だって、やはりそういたしませんでは……母にはそれがせめてもの慰めなんでございます……ご存じの通りの人でございますから……",
"わかりますとも、わかりますとも……そりゃもちろんです……なんだってあなたはそんなに僕の部屋を、じろじろごらんなさるんです? さっきもこの母が、棺に似てるなんて言ったところですよ"
],
[
"ああ、ああ、行くとも、むろん……だが、君はちょっと残ってくれないか。お母さん、この男はいま入り用じゃないでしょう? それとも、僕が横取りするようになりますかしら?",
"いいえ、そんなことありゃしないよ! じゃ、ドミートリイ・プロコーフィッチ、どうぞあなたも食事にいらしてくださいまし、ね?"
],
[
"娘って誰、お母さん?",
"ほら、あれさ、ソフィヤ・セミョーノヴナ、今来ていた……",
"どうして?",
"わたしなんだか虫が知らせるようでね、ドゥーニャ。まあ、お前は本当にするともしないとも勝手だけれど、あの娘がはいって来たとたんに、わたしはそう思ったよ――つまりここにこそ本当の曰くがあるって……"
],
[
"じゃ、まあ見ておいで! わたしはあの娘のことが気になって仕様がないんだよ。まあ、今に見ておいで、見ておいで! わたしはほんとにびっくりしてしまったよ。わたしの方を一生懸命に見るその目つきったら、わたしは椅子の上にじっと居たたまらないほどだったよ。覚えておいでかい、あれが紹介を始めた時さ? わたし変な気がしたよ――ピョートル・ペトローヴィッチがあんなことを書いてるのに、ロージャはあの娘をわたしたちに、しかもお前にまで引合せるんだもの! だからつまり、大切な人なんだよ!",
"あの人がいろんな事を書くのは、何も珍しかありませんわ! わたしたちのことだって、世間ではやはり噂したり、書いたりしたじゃありませんか。いったいお忘れになったの? わたしあの娘さんは……立派な人で、そんな陰口は皆でたらめに違いないと思うわ!",
"そうであってくれればね!"
],
[
"そうだな……行ってもいい……",
"あの男も君と近づきになるのは、非常に、非常に、非常に喜ぶよ! 僕も君のことはあの男に、もうたびたび話したよ、いろんな時にね……現に昨日も話したんだぜ。行こう!……じゃ、君はあの婆さんを知ってたんだね? そいつはけっこうだ!……これは、実にうまい都合になって来たぞ!……あっ、そうだ……ソフィヤ・イヴァーノヴナ……"
],
[
"だって昨日ポーレチカに、お住まいをおっしゃったじゃありませんか",
"ポーリャ? ああ、そう……ポーレチカ! あの……小さい女の子……あれはあなたの妹さんでしたね? 僕あの子に住所を教えたかしら?",
"まあ、お忘れになったんですの?",
"いや……覚えています……",
"それに、あなたの事はなくなった父からも、あの当時お噂を伺ったことがありますの……もっとも、その時はまだお名前を存じませんでしたし、父もやはりそうでした……ただいま参りましたとき……昨晩ご名字を伺いましたので、ラスコーリニコフ様のお住まいはどちらかと、尋ねましたのですけれど……あなたがやはり間借りしていらっしゃるとは、思いも寄りませんでした……では、失礼いたします……わたしはカチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ……"
],
[
"なんだってまた非常にだい?",
"つまり、別に何も……実はね、近ごろ病気になってから、僕が話のついでによく君のことをしゃべったもんだから、先生も聞いてたわけさ……それにあの男はね、君が法科にいたけれど、事情があって卒業できないでいるのを知って、なんという気の毒なことだ、などと言ったこともあるよ。で、僕は結論したんだ……つまり、こんなことがみんな原因になってるんで、これ一つだけじゃない……昨日もザミョートフが……ねえ、ロージャ、僕は昨日君を家へ送りながら、酔ったまぎれに何かしゃべったろう……で、僕はね、君が大仰に考えやしないかと、心配しているんだよ。実は……",
"それはなんだい? 皆が僕を気ちがい扱いにしてるってことかい? なに、本当かもしれないさ"
],
[
"いいよ、いいよ、わかったよ、口にするも恥かしいくらいだ……",
"恥かしいなら言わないがいい!"
],
[
"いや。君、まったく目についたよ。さっき椅子に掛けてる様子だって、いつもとまるで違ってたぜ。いやに端っこの方にちょこんと乗っかって、のべつけいれんでも起こしてるようだったぜ。わけもないのに飛び上がったり、へんに怒りっぽいかと思うと、ふいにどうしたのか、甘い甘い氷砂糖のようなご面相になったり、おまけに赤い顔までしたじゃないか。ことに食事に招かれた時なんか、恐ろしくまっかになったぜ",
"そんなことがあるもんか、嘘いえ! いったいなんだってそんなことを言うんだ?",
"じゃ、君はなんだって小学生みたいにもぞもぞするんだよ! ちょっ、こんちくしょう、また赤くなりやがった!",
"きさまはなんて恥しらずだろう、実に!",
"じゃ、なぜ君ははにかむんだい? ロメオ! まあ待ってろ、おれは今日どこかですっぱぬいてやろう、は、は、は! 一つおふくろを笑わせてやろう……それからまたほかの誰かも……"
],
[
"いよう、もういよいよ春のばらという風情だ! またそれの君によく似合うこと、ちょっと君に見せてやりたいよ。六尺ゆたかのロメオときた! だが君、今日はうんとみがき上げたもんだな、爪まで掃除してるじゃないか、え? 今までいつそんなことがあったい? おや、こりゃポマードまでつけてるぞ! 頭をかがめて見せろよ!",
"こんちくしょう!"
],
[
"そうです",
"それはいつのことでした?",
"昨日の夕方です"
],
[
"僕すこし不快だったものですから",
"それも承知していました。それどころか、何かでたいへん頭を悩ましておられたことも聞きました。今でもなんだか顔色がお悪いようですね?"
],
[
"いいことに気がついた! 諸君もつき合ってくださるだろう。だが、どうだね……もっと実のあるものをやったら、茶の前に?",
"早くとっとと行くがいい!"
],
[
"で、どうだった、面白かったかい? 何しろ僕はちょうど興の乗ったところで抜けちゃったもんだから! で、誰が勝ったい?",
"もちろん、誰も勝ちゃしないさ。永遠無窮の問題ととっくんで、天空を駆けたばかりだ",
"おい、ロージャ、昨日われわれはどんな問題ととっくんだと思う? 犯罪の有無という問題なんだぜ。しまいには、とてつもない迷論になっちゃったのさ!"
],
[
"昨夜もやはりこの通りだったんですよ、六人が声をそろえて……しかもその前にポンス酒を飲んでるんですからね――たいてい想像がつきましょう?――ところで、君、そりゃ違うよ、でたらめだ。『環境』というものは、犯罪に重大な意義を持ってるよ。これは僕が証明してみせる",
"重大な意義を持ってるくらいのことは、僕だって知ってるよ。じゃ一つ、僕の質問に答えてみたまえ。四十男が十になる女の子を凌辱したとしたら――それも環境がさせたわざかい?"
],
[
"ところが、『定期新聞』にのったんですよ",
"ああ、全く『週刊新聞』が廃刊したので、そのとき掲載されなかったんです……",
"それはそうに違いありませんが、『週刊新聞』は廃刊すると同時に、『定期新聞』と合併したので、あなたの論文も二月前に『定期新聞』にのったわけです。いったいご存じなかったんですか?"
],
[
"でも、あれが僕のだということが、どうしておわかりになりました? ぼく頭字だけしか署名してなかったのに",
"ふとしたことでね、しかもつい二、三日まえですよ。編集者から聞いたんです。知合いなもんですから……非常な興味を感じましたよ",
"たしか僕は、犯罪遂行の全過程における、犯罪者の心理状態を検討したようにおぼえていますが",
"そうです。そして犯罪遂行の行為は、常に疾病を伴なうものだと、主張していらっしゃる。実に、実に独創的な意見ですな。しかし……わたしが興味を抱かされたのは、あなたの論文のこの部分じゃなくて、結末の方にちょっと漏らしてあった一つの感想なんです。けれど、残念なことに、そこはただ暗示的に書かれてるだけなので、明瞭でないんです……一口に言えば、お覚えですかどうですか、つまり世の中には、あらゆる不法や犯罪を行ない得る人……いや、行ない得るどころか、それに対する絶対の権利を持ったある種の人が存在していて、彼らのためには法律などないに等しい――とこういう事実に対する暗示なのです"
],
[
"ラザロの復活も信じますか?",
"しーんじます。なぜそんなことをお聞きになるんです?",
"文字通りに信じますか?",
"文字通りに",
"ははあ……いや、ちょっと物ずきにおたずねしたまでで。失礼しました。ところで、一つ伺いますが――またさっきの話に戻りますよ――非凡人はいつも必ず罰せられるとは限りますまい。中にはかえって……",
"生きながら凱歌を奏する、とおっしゃるのですか? そりゃそうですとも。中には、生存中に目的を達するものがあります。その時は……",
"自分で人を罰し始める、ですか?",
"必要があれば。いや、なに、大部分そうなるでしょう。全体に、あなたの観察はなかなか警抜ですよ",
"ありがとう。ところで、もう一つどうか。いったいどういうところで、その非凡人と凡人を区別するんです? 生まれる時に何か印でもついているんですか? わたしの言う意味は、そこにもう少し正確さがほしいと思うんです。いわば、いま少し外面的な特徴がなくてはね。これは実際的な常識家たるわたしとして、自然な不安だと思っておゆるしを願います。しかし、どうでしょう、そこにたとえば、何か特殊な制服でも決めるとか、何か身につけるとか、それとも烙印のようなものでも捺すとか、そんなわけにはいかんものでしょうかね……さもないと、もしそこに混乱が起こって、一方の範疇の人間が、自分はほかの範疇に属してるなどと妄想を起こして、あなたのうまい表現を借りると『あらゆる障害を除き』始めたら、その時はそれこそ……",
"ああ、それは実によくあるやつです! このあなたのご観察は、前のより更に警抜なくらいですよ……",
"どうもありがとう……",
"どういたしまして。しかし、こういう事を考慮に入れていただきたいのです。そうした誤解は、ただ第一の範疇つまり『凡人』(これははなはだまずい呼び方だったかもしれませんが)の側にのみ起こりうるものですからね。服従に対する生来の傾向にもかかわらず、牝牛にすら見受けられる自然のたわむれによって、彼らのうちかなり多くの者が好んで自分を先覚者、『破壊者』であると妄想して、『新しいことば』を発しようとしたがる。しかも、それが大まじめなんですからね。と同時に、彼らは実際の新人を認めない場合が非常に多い。それどころか、かえってそれを時代おくれの卑劣な考え方をする人間として、軽蔑しているくらいです。けれど、僕の意見では、そこには大した危険はないと思うんです。だから、あなたも全くご心配には及びませんよ。なぜなら、彼らはけっして、深入りするようなことはないですからね。もっとも、時には前後を忘れた罰として、身のほどを知らせるために、笞で打ってやるのはもちろんよろしい。が、それでたくさんです。刑罰の執行人もいりゃしませんよ。彼らは自分で自分を打ちます。何しろ非常に心がけのいい連中ですからね。お互い同士にその面倒を見合う者もあろうし、中には自分の手で自分を罰する者もあるでしょう……その上、いろいろと公けに悔悟の意を表明するようなこともやるから――美しくって教訓的な効果がありますよ。要するに少しもご心配はいりません……そういう法則があるんですよ",
"いや、少なくともその方面では、多少わたしを安心さしてくだすったが、しかしまだここにもう一つ困ったことがあるんですよ。一つ伺いますが、いったいその他人を殺す権利を持ってる連中、つまり『非凡人』は大勢いるんでしょうか、もちろん、わたしはその前に跪拝するのをいといませんが、しかしねえ、考えてもごらんなさい、そういう連中がやたらにたくさんあった日にゃ、気味が悪いじゃありませんか、え?"
],
[
"じゃ、もし捜し出したら?",
"当人の自業自得です",
"とにかく論理的ですね。ところで、その男の良心はどうなります?",
"そんなことはあなたの知った話じゃないでしょう?",
"なに、ただちょっと人道的感情でね",
"良心のある人間なら、自分の過失を自覚した以上、自分で勝手に苦しむがいい。これがその男に対する罰ですよ――懲役以外のね"
],
[
"君は疑り深いから、それで秤にかけたりなんかするんだよ……ふむ……しかし、実際ポルフィーリイの調子はかなり変だった。それは僕も承認する。ことにあのザミョートフの畜生がさ!……君の言う通りだ、やつには何か臭いところがあった。しかし、なぜだろう? なぜだろう?",
"一晩のうちに考えを変えたのさ",
"いや、そりゃ反対だ、そりゃ反対だよ! もしやつらにそんなばかげた考えがあるのなら、それこそ全力をあげてそれを隠してさ、自分のカルタを伏せておこうと骨折るはずだ。あとで急所を抑えるためにさ……ところが今は――あんなやり方はずうずうしくて、不注意すぎるよ!",
"もし彼らが事実を、つまり正真正銘の事実をつかんでいるか、あるいはいくらかでも根拠のある嫌疑を持っていたら、更に大きな勝利を得ようという期待から、本当に勝負を秘密にしたかもしれないさ(もっとも、本当ならずっと前に家宅捜索をしてるはずだ!)ところが、彼らには事実がない、一つもない――すべてが蜃気楼だ、すべてどっちにでも解釈のできることばかりだ、ふわふわした観念ばかりだ――だから、やつらはいけずうずうしいやり口でまごつかそうと、懸命になってるんだ。が、もしかすると、事実がないのに業を煮やして、いまいましさ半分にやけをやったのかもしれない。それとも、何か思わくがあるのかもわからん……あの男はなかなか聡明らしいからね……もしかすると、知ってるふりをして、僕をおどかそうとしたのかもしれない……そこには、君、またそれ相当の心理があるよ……だが、こんなことを説明するのは汚らわしい。よしてくれ!",
"全く侮辱だ、侮辱だ! 君の気持はよくわかる! しかし……僕らはもう今はっきり言い出したんだから(とうとうはっきり言い出したのは、実にいいことだ、僕は喜んでるよ!)、だから今こそ僕も率直にぶちまけていうが、僕はずっと前から、やつらがそんな考えをいだいているのに、気がついてたんだ、ずっとこの間じゅうからね。もちろん、ほんのあるかなしの疑念で、かすかにうごめいている程度なんだがね。しかし、うごめいている程度にもせよ、いったいなぜだろう? どうしてそんな失敬な考えを起こしたんだろう! どこに、どこにそんな根拠がひそんでるんだろう? それで僕がどんなに憤慨したか、君にはとても想像ができないくらいだよ! いったいなんてえことだ? 貧乏とヒポコンデリイに悩み抜いてる不遇な大学生が、熱に浮かされ通しの恐ろしい大病になる前日、ことによると、もう病気が始まっていたかもしれない時にさ、(いいかい!)この疑り深くって自尊心の強い、おのれの真価をわきまえている男が、もう半年も前から自分の部屋に閉じ籠って、誰にも会わずにいたあげく、ぼろを身につけ底の破れた靴をはいてさ、どこの馬の骨ともしれない警官連の前に立ち、彼らの侮辱をじっと辛抱している。そこへ思いがけぬ借金――七等官チェバーロフに渡った期限の切れた手形を、鼻先へ突きつけられる。それに、腐ったペンキのにおい、列氏三十度の暑さ、しめ切ったむんむんする空気、人混み、前の日にたずねたばかりの人間が殺された話――こうしたものがいっときに、空腹の体へきたんだからね! これがどうして卒倒しないでいられるもんか! ところがこれを、これをいっさいの根拠にしようてんだからなあ! ちくしょう! むろんいまいましい、そりゃ僕もよくわかる。しかしね、ロージャ、僕がもし君だったら、やつらを面と向かって笑い飛ばしてやる。いや、それよりいっそ、やつらの顔へたんをひっかけてやる。せいぜい粘っこいのをね。そして四方八方へ二十くらい頬げたを見舞ってやらあ。これがもっともりこうだ、いつでもこの手をやるといいんだよ。僕ならそれで片をつけてしまうなあ。君、なんのくそ! という気になって、元気を出してくれ! 恥かしいじゃないか!"
],
[
"でも、なんだって自分に不利なことを言うんだい?",
"なぜって見たまえ、尋問のときに何もかもいっさい合切、知らぬ存ぜぬの一点ばりで押し通すのは、ただ百姓かずぶ無経験な新米のすることだよ! 多少でも教養があり経験のある人間なら、必ずできるだけやむを得ない外面的な事実を、すっかり自白しようと努めるに相違ない。ただ別な原因を捜し出して、事実にすっかり違った意味を与え、全然べつな光りに照らし出して見せるような、何かこう思いもよらぬ特性をちょっとはさみ込むのだ。ポルフィーリイも、僕が必ずそういう答弁の仕方をして、本当らしく思わせるために見たと答えた上、説明の意味で何かちょっとはさむだろうと、それを当てにしてたに違いないんだ……",
"だってあの男はすぐその場で、二日前あそこに職人がいるわけはないから、したがって、君はどうしても凶行のあった日の七時すぎに、あそこにいたに相違ないと、こう言いそうなはずじゃないか。つまり、つまらんことでつり出して尻尾を抑えたろうよ!",
"そうなのさ、やつはつまりそれを当て込んでたのさ。僕がよく考える暇がなく、少しでもまことしやかに答えようとあせって、二日前に職人のいるはずのないことを、忘れるだろうというわけさ",
"どうしてそんなことが忘れられるんだ!",
"大きにありがちなこったよ! そういうごくつまらないことで、狡猾な連中が一番よくまごつくものさ。人間が狡猾なら狡猾なだけ、そいった小さなことで尻尾をつかまれようとは、思いもそめないからね。ごく狡猾な人間は、つまり思い切ってくだらないことで、尻尾を抑えなくちゃならないんだ。ポルフィーリイは、君の思ってるほど、まんざらの馬鹿じゃないよ……",
"もしそうだとすりゃ、あいつは卑劣漢だ!"
],
[
"どこへ行くんだ? もう来てしまったんじゃないか!",
"僕ちょっと、ちょっと、用があるんだ……三十分たったらやってくる……二人にそう言っといてくれないか",
"じゃ、勝手にしたまえ、僕も一緒について行くから!"
],
[
"そんなに心配するなんて、いい物好きですね!",
"いったい何をお笑いになるんです? まあ考えてもみてください。わたしは前後を通じてたった二度、鞭で打ったきりですよ。しかも、あとさえつかないくらいなんで……どうか、わたしを恥知らずだなどと思わないでください。わたしだって、あれが愚劣千万なことだくらい、百も承知していますよ。が、それと同時に、マルファがわたしのこの、なんといいますか、前後を忘れた行為を、むしろ喜んでいたらしいのも、わたしは確かに知っております。あなたの妹さんに関する物語も、すっかり滓も残らないほどおさらいしてしまった。で、妻はもう三日も家にくすぶっていなけりゃならなかったんです。何しろ町へ持って行く材料もなくなったし、手紙の朗読も(手紙を読み歩いたことはお聞きになったでしょう!)町の人に飽かれてしまったんでね。そこへふいにこの二つの鞭が、まるで天の賜物のように、降ってきたわけなんですよ! で、あれはまず第一番に、馬車のしたくを言いつけました! わたしはもう今さららしく申しませんが、女ってものは、たとえどんなに怒った顔をしていても、侮辱されるのが非常に、非常にいい気持だ、といったような場合があるものです。もっともそれは、そうした場合は誰にでもありますがね。概して人間は、侮辱されることが大好きなんですよ。これにお気がつきましたか? しかし、女はこれが格別なんです。それどころか、ただそれだけを楽しみに過ごしてる、と言ってもいいくらいですからね"
],
[
"まあそうですね。それがどうしたんです。わたしがこんな調子のいい人間なので、あなたはきっとびっくりなすったんでしょう?",
"いや、あなたがあまり調子がよすぎるのに、驚いてるんです"
],
[
"あなたは、いかさまカルタ師までやったんですか?",
"どうしてそれをせずにいられます? 八年ほど前、われわれはこの上もない立派な仲間を作って、時を過ごしていたもんですよ。それがね、みんな態度や押し出しの堂々たる人間ばかりで、詩人もいれば、資本家もいるという有様でした。それに全体わがロシアの社会では、もっとも洗練された態度や作法は、ちょいちょいやられたことのある連中に属しているものなんですよ――あなたそれにお気がつきましたかね? わたしがこのとおりなりふりかまわなくなったのは、このごろ田舎に逼塞しているからですよ。それでもやっぱり、当時はわたしも借金のことで、牢へぶち込まれようとしたこともあるんです。相手はネージンのギリシア人でしたよ。その時偶然マルファ・ペトローヴナなる人物が現われて、種々掛け合ってくれた上、三万ルーブリでわたしを身受けしてくれたのです(わたしの借金は全部で七万ルーブリだったんで)。そこで、わたしとマルファは正式に結婚しました。マルファはわたしを宝物か何かのようにして、すぐさま自分の田舎へ連れて帰った。何しろ、あれはわたしより五つも年上でしたからね。たいへんわたしを愛してくれましたよ。わたしは七年間というもの、村から外へ出ないで暮らしましたよ。ところで、どうでしょう、あれはずっと死ぬまで、例の三万ルーブリというわたしの借用証文を、他人の名義にして握っていたんですよ。だから、わたしが何かちょっと謀叛気でも起こそうものなら、すぐわなへかかってしまうわけです! またそれくらいのことはしかねない女でしたよ! 何しろ女ってやつは、そうしたいろんな気持が一緒くたに入り交じってるものですからなあ",
"もしその証文がなかったら、あなたは逃げ出しましたかね?",
"それはなんともご返事に困りますね。わたしはそんな証文なんかにはほとんど束縛されてなかった。自分でどこへも出て行きたくなかったんですね。マルファは、わたしがつまらなさそうにしているのを見て、自分から二度も外国行きをすすめてくれたものです。しかし、そんなことをしたって仕様がないじゃありませんか! 外国へは前にもちょくちょく行ったことがありますが、いつもいやあな気がするばかりでした。いやな気がするというのとも違うが、朝、東が白むころ、ナポリ湾の海を見ていると、なんとなく気がめいってくるのです。分けてもいやでたまらないのは、実際、何か気の滅入る原因がありそうなことなんです。いや、やっぱり故郷が一番いいですよ。故郷では少なくとも、万事を人のせいにして、自己弁護をすることができますからね。わたしはいま北極探険にでも出かけたいくらいの気持なんです。何ぶん J'ai le vin mauvais(私は酒癖が悪いもんですからね)しかも、飲むのがいやでたまらないんです。でも、酒をやめたら、あとに何も残りゃしません。もうやってみたんですよ。ときにどうです、この日曜にユスーポフ公園で、ベルグが大きな軽気球に乗って飛ぶので、一定の料金で同乗者を募集してるそうですが、ほんとうですか?",
"じゃなんですか、あなた飛ぶつもりなんですか?"
],
[
"なんだかなくなったマルファ・ペトローヴナが、しきりに懐しく思い出されるようですね!",
"わたしが? そうかもしれません。いや、大きにそうかもしれません。ときに、ついでですが、あなたは幽霊の存在をお信じですか?",
"どんな幽霊です?",
"どんなって、普通の幽霊ですよ!",
"じゃ、あなたは信じますか?",
"さあ、もしなんでしたら、信じないといってもいいかもしれませんな……でも、信じないというのとも違うかな……",
"じゃ、出てくるわけなんですか、え?"
],
[
"ご来訪あそばすって、どうなんです?",
"なに、もう三度もやって来たんですよ。最初は葬式の当日、墓場から帰って一時間ばかり後で、あれに会った。それはこちらへ向けて発つ前の晩でした。二度目はその途中、一昨日の夜明け方に、マーラヤ・ヴィシェーラの停車場で見たし、三度目はつい二時間ばかり前、わたしの泊まっている宿の部屋の中でしたよ。その時わたしは一人きりでしてね",
"夢でなくうつつに?",
"うつつですとも。三度ながらうつつなんです。やって来て、一分ばかり話をすると、戸口から帰っていくんです。いつも決まって戸口から出ていくんです。足音まで聞こえるようでした"
],
[
"申しませんでしたか?",
"そうですとも",
"なんだか言ったような気がしますがね。さきほどはいって来たとき、あなたが目をつむって横になったまま、寝たふりをしておられるのを見て――わたしはこうひとりごとをいったようなしだいです、『これがあの男だな!』と"
],
[
"じゃ以前、それまでに、幽霊をごらんになったことは、一度もなかったんですか?",
"いーいや、見ましたよ。生まれてからたった一度、六年前のことでした。わたしどもにフィーリカという邸奉公の百姓がいましたが、その男を葬ったばかりの時に、わたしはついうっかりしてフィリップ、パイプだ! と大きな声でいいつけると、そいつがいきなりはいってきて、わたしのパイプののせてある隅棚の方へ、つかつかと歩いて行くじゃありませんか。わたしはじっと腰かけたまま、『こいつおれに仕返しに来やがったな』と考えましたよ。というのは、そいつが死ぬ前に、ひどく言い合いをしたからなんです。で、わたしは『よくもきさまは肘の抜けたものを着て、おれのとこへはいってこられたな――とっとと出て行け、このやくざ者!』と言ってやりました。すると、くるりと向き直って出て行ってしまいましてね、それきりもう出ませんでしたよ。マルファにはその時話をしませんでした。わたしはその男のために法事でもしてやろうと思いましたが、気恥ずかしくなって、よしてしまいました",
"医者に見ておもらいなさい",
"そりゃおっしゃるまでもなく、ちゃんと承知しとります。正直、どこが悪いかわからないけど、健康でないことだけは確かですな。が、わたしに言わせれば、わたしの方があなたより確かに五倍は丈夫ですよ。わたしがお尋ねするのは、幽霊の出現を信じなさるかどうか、というのじゃありません。わたしがお尋ねしたのは、幽霊の存在をお信じになるかどうか、ということなんです"
],
[
"承知いたしました、承知いたしました。さて、お妹さんのアヴドーチャ・ロマーノヴナは、ルージン氏と結婚なさるんですね。ピョートル・ペトローヴィッチと?",
"どうかして妹に関する問題はいっさい避けて、あれの名を口にしないようにしていただけないでしょうか? あなたが僕の目の前で、よくもあれの名を口に出されると思って、僕はそれが不思議なくらいです――もしあなたが本当にスヴィドリガイロフだったら?",
"だって、わたしはあのひとのことを話しに来たんですもの、口に出さずにゃいられませんよ!",
"じゃよろしい。お話しください。しかし、なるたけ手っとり早く!",
"実は家内の親戚に当たるあのルージン氏については、あなたご自身もうちゃんと意見をおもちのことと信じます。よし半時間でもあの男と面会なさるとか、あるいは何に限らずあの男について確かな、ほんとうの話をお聞きになるとかすればですね。あの男はお妹さんの配偶になる資格はありません。わたしに言わせると、アヴドーチャ・ロマーノヴナは今度のことについて、きわめて高潔な打算を無視した心持から、その……家族のために一身を犠牲にしようとしていらっしゃるのです。わたしは、これまであなたのことで聞いた噂を綜合して見た上で、利害関係を破壊することなしに、この結婚を破談にできたら、あなたの方でもきっとご満足になるだろう、とこんな気がしたしだいなのです。ところが、今こうして親しくお目にかかってみると、わたしはむしろそれを確信してしまいました"
],
[
"実際わたしは淫蕩無為の人間です。しかしお妹さんは、いろいろ多くのすぐれた点をもっておいでになるので、わたしだってある種の印象に対して、抵抗ができなかろうじゃありませんか。だが、こんなことは皆くだらないことだ、今では自分でもそれがわかりますよ",
"よほど前からおわかりでしたか?",
"わかりかけたのはもう前からですが、いよいよそうと確信したのは、一昨日ペテルブルグへ着いた瞬間でした。もっともモスクワでは、まだアヴドーチャ・ロマーノヴナの愛を求めて、ルージン氏と競争する気でいたのです",
"話の腰を折ってすみませんが、お願いですから、話を少しはしょって、いきなりご来訪の用向きに移っていただけませんか。僕急ぐんですから、ちょっと外出したいんですから……",
"かしこまりました。わたしはここへ着いてから、今度ある……航海をしようと決心したので、その前に種々必要な処置をつけてしまいたい、という気になったのです。わたしの子供たちは伯母の所へ残っていますが、それぞれ財産を持っていますから、わたしという人間は別に用がないのです。それに、わたしなんか父親の資格などありゃしませんよ! わたし自身は、一年前にマルファがくれたものだけを持ってきました。わたしにはこれで十分なんです。ごめんなさい、今すぐ用件に移りますから。ついては、おそらく実現するだろうと思われる航海に出かける前に、わたしはルージン氏との話もつけていきたいと思うのです。あの男はきらいでたまらないというわけでもありませんが、あいつのおかげでマルファとも喧嘩したんですからね。つまり、この縁談もマルファのきもいりだということが、わたしの耳へはいったわけなんです。で、わたしは今度あなたを仲介にして、お妹さんとお目にかかりたいと思うんです。なんなら、あなたも列席してくだすってもいい。まず第一にお妹さんに向かって、ルージン氏との結婚は、けっしてこれっぱかりの利益にもならないのみか、みすみす損になるということを、なっとくのゆくようにお話ししたい。それから、せんだってのいろいろな気まずいでき事についておわびをした上、わたしから一万ルーブリ贈呈することを許していただきたいのです。つまりそれによって、ルージン氏との決裂から生ずる損害を軽減してさしあげたいと思いましてね。もっとも、この決裂にはお妹さんもたいしてご異存はない、ただ機会さえ来てくれれば、とこう思っていらっしゃるのは、わたしの信じて疑わないところです"
],
[
"けっして、けっして。そんなことをおっしゃったら、人間はこの世でおたがい同士、くだらない世間的な形式のために、ただ悪いことばかりし合って、いいことはこれから先もできないことになってしまう。それはばかばかしいじゃありませんか。では、もしかりにわたしが死んで、それだけの金をお妹さんに遺言で残したとしても、それでもやはりお妹さんは拒絶なさるでしょうか?",
"そりゃ大きにありそうなことです",
"いや、それはどうも違いますよ。もっとも、だめならだめでいい、そういうことにしときましょう。しかし、一万ルーブリの金はいざという時、なかなか悪いものじゃありませんがね。いずれにしても、今お話ししたことを、アヴドーチャ・ロマーノヴナにお伝え願います",
"いや伝えません",
"そういうことでしたら、ロジオン・ロマーヌイチ、わたしはやむをえず、自分で無理にも会見の機会を求めます。つまり、ご迷惑をかけることになりますよ",
"じゃ、僕が伝言すれば、あなたは会見を強要しませんか?",
"さあ、なんと申し上げたらいいか、ちょっと困りますね。一度だけはぜひお目にかかりたいと思うんですが",
"あてになさらない方がいいでしょう",
"残念ですなあ。もっとも、あなたはわたしをよくご存じない。やがても少し意気投合するようになるでしょう",
"あなたは、われわれが意気投合するなんて、考えてるんですか?"
],
[
"偶然のことでね……わたしはどうもあなたを見てると、何か自分に似通ったところがあるような、そんな気がしてならないんです……しかし、どうかご心配なく。わたしはしつこい人間じゃありませんから。いかさまカルタの仲間ともうまを合わすことができるし、遠い親戚にあたるスヴィルベイ公爵という高官にもうるさがられなかったし、ラファエルのマドンナに関する感想をプリルーコヴァ夫人のアルバムに書く腕もあったし、マルファ・ペトローヴナみたいな女とも、七年間ひと足も村を出ないで同棲したし、昔は乾草広場のヴィャーゼムスキイ公爵の家に泊まったこともあるし、おまけにベルグと一緒に軽気球にも乗って飛んでみるかもしれないという人間なんですよ",
"まあ、いいです、ときに、伺いますが、あなたはじき旅へお発ちになるんですか?",
"旅って?",
"ほら、あの『航海』ですよ……あなた自分で言ったじゃありませんか"
],
[
"ここで?",
"そうです",
"いつそんな暇があったんです?",
"それにしても、アヴドーチャ・ロマーノヴナには、ぜひ一度お目にかかりたいと思っています。まじめなお願いです。では、さようなら……あ、そうだ! だいじなことを忘れていたっけ! ロジオン・ロマーヌイチ、どうかお妹さんにお伝えください。あの方はマルファの遺言で、三千ルーブリもらえることになっていらっしゃるんですよ。これは全く確かな話なんです。マルファは死ぬ一週間前に、わたしの見てるところで、その処置をしたんですから。二、三週間たったら、アヴドーチャ・ロマーノヴナはその金をお受け取りになれるはずです",
"あなたそれはほんとうですか?",
"ほんとうですとも。どうぞお伝えください。ではごきげんよう。実はわたしの泊まってる所は、ここからごく近いんですよ"
],
[
"あれはスヴィドリガイロフだ。妹が家庭教師を勤めているとき、侮辱を加えた例の地主さ。あいつが妹の尻を追い回しやがったために、妹は細君のマルファ・ペトローヴナに追い出され、あすこの家から暇を取らなきゃならなくなったんだよ。そのマルファ・ペトローヴナは、あとでドゥーニャにわびをしたんだがね。今度突然頓死したんだよ。さっきあすこで話していたのは、その女のことさ。なぜだかしらないが、僕はあの男が恐ろしくてたまらないんだ。やつは細君の葬式をすますと、すぐここへやって来たんだが、実に変わった男で、何か決心したことがあるらしいんだ。どうも何か知っているような風だよ……やつを用心して、ドゥーニャを守ってやらなくちゃならない……このことを君に言おうと思ってたところなんだ、いいかい?",
"守る? あんなやつがアヴドーチャ・ロマーノヴナに対して、何をすることができるものかい? いや、ロージャ、そういう風に言ってくれてありがとう……よし、よし、大いに守るとも!……だが、どこに住んでるんだい",
"知らない",
"なぜきかなかったんだ? ちょっ、惜しいことをしたなあ! もっとも、僕がすぐに探り出してやらあ!"
],
[
"いったい君それはどうしたというんだ?",
"だって、それは誰にもわからないじゃないか! 実際、僕は気ちがいかもしれないさ。そして、この二、三日の間にあったことは、何もかも想像の産物にすぎないかもしれないよ……",
"ああ、ロージャ! 君はまた頭をめちゃめちゃにされたな!……いったいあの男は何を言ったんだ。何用でやって来たんだ?"
],
[
"おかげさまでね、ピョートル・ペトローヴィッチ",
"何よりけっこうなことで。アヴドーチャ・ロマーノヴナもお疲れにはならなかったですか?"
],
[
"わたしはただなくなったマルファ・ペトローヴナから、自分の耳で秘密に聞いたことを言ってるだけなんです。お断りしておきますが、法律上の見地からすると、この事件はすこぶるあいまいなものです。当地にレスリッヒといいまして、小金を貸したり、外の商売にも手を出したりしている外国女がいた、いや、今でもいるらしいのです。このレスリッヒなる女と、スヴィドリガイロフ氏は、昔から一種きわめて親密な、しかも神秘な関係を持っていたんです。この女のところに遠縁の娘、たしかおしでつんぼだったと思いますが、年のころ十五か、ひょっとすると十四くらいかもしれない、姪が一人おりました。それをこのレスリッヒがむやみに憎んで、箸の上げおろしにもがみがみ叱りつける、いや、それどころか、むごたらしく打ち打擲するんです。それがある時、屋根裏で首をくくっているところを、見つかったわけなんです。娘は自殺と判定されて、型どおりの手続で事はすんだ。ところがあとで、その小娘は……スヴィドリガイロフのために無残な凌辱を受けたと、密告する者があったんです。もっとも、その辺がどうもあいまいなんで。というのは、その密告したやつがやはりドイツ女で、信用のおけないあばずれものなんですからね。それに、厳重な意味で密告というほどのことでもなかったので、結局マルファ・ペトローヴナの尽力と金のおかげで、事件はほんの噂だけですんでしまったのです。とはいうものの、この噂は意味深長なものでした。もちろんあなたはね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、あの家で拷問のために死んだ、下男のフィリップの話をご存じでしょう。六年前、まだ農奴制時代の話です",
"わたしの聞いたのはまるっきり違います。フィリップは自分で首をくくったんだそうですわ",
"それは正にそうです。しかしそれは、スヴィドリガイロフ氏の絶え間のない虐待やせっかんが、あの男にそういう不自然な死に方をさせた、いや、もっと適切に言えば、死ぬるようにしむけたわけなんですよ"
],
[
"ええ、話しました",
"なんなの?",
"あとで言いましょう"
],
[
"が、僕に言わせると、あなたなんかありたけの美点をかき集めても、あなたがいま石を投げているあの不幸な娘の、小指だけの価値もありゃしない",
"すると、あなたはあの女をご母堂や、ご令妹と一座させるだけの決心がおありですな?",
"それはもう実行しましたよ、もし知りたいとおっしゃれば申しますがね。僕は今日あの娘を、母とドゥーニャと並んですわらせましたよ"
],
[
"はじめ、お前に伝言などしないと言った。するとあの男は、あらゆる手段を講じて直接会見の目的を達すると声明するのだ。彼の断言するところによると、お前に対する狂気の沙汰は、あれは一時の迷いだった。今ではお前に対して何も感じちゃいないというのだ……あの男はお前をルージンと結婚させたくないんだよ……まあ、全体としても、なんだかあいまいな話ぶりだった",
"兄さん自身は、あの人をどう解釈なすって? どんな風にお思いになって?",
"正直、なんにもわけがわからないんだ、一万ルーブリ提供するというかと思えば、自分は金持じゃないという。どこかへ行ってしまうつもりだと言うかと思えば、十分もたたぬうちに、そういったことを忘れてるんだ。それからまた急に、結婚しようと思っている、相手も世話する者がある、とも言ったっけ……もちろん、何か目的はあるに違いない。そして十中八九、ろくなことじゃないだろう。が、それにしても、もしあの男がお前に対して、よくないもくろみを持ってるとすれば、あんなとんまなやり方をしようなんて、ちょっと想像しかねるし……もっとも、僕はお前に代わって、その金はきっぱり断わっといてやったよ。概してあの男は、僕の目には妙に思われたよ……いや、むしろ……発狂の徴候があるようにさえ思われた。しかし、僕だって間違ってないとも限らない。ことによると、それは単に独自なごまかしにすぎないかもしれん。しかし、マルファ・ペトローヴナの死んだことは、あの男にもがんと来たらしい……"
],
[
"どこかへ……いらっしゃいますの?",
"わかりません……何もかも明日の事です……"
],
[
"家にいる時から?",
"ええ"
],
[
"この部屋はカペルナウモフから借りてらっしゃるんですか?",
"さようでございます……",
"それはあちらに、ドアの向こう側にあるんですか?",
"ええ……あちらにもやっぱりこれと同じ部屋がございますの",
"みんな一つ部屋に?",
"ええ、一つ部屋に"
],
[
"誰を?",
"父ですの。わたし通りを歩いていました。すぐ近所の角のところで、九時過ぎでしたわ。すると、父が前の方を歩いてるようなんですの。それがまるで父そっくりなんですもの。わたし、カチェリーナ・イヴァーノヴナのところへ行こうかと思ったくらいですわ……",
"あなたは散歩してたんですか?"
],
[
"ぶったなんて! いったいあなたは何をおっしゃるんですの! まあ、ぶったなんて! またかりにぶったにしても、それがなんですの? ねえ、それがなんですの? あなたはなんにも、なんにもご存じないんですわ……あの人はそりゃ不仕合せな人ですの。ああ、なんて不仕合せな人でしょう! しかも病身なんですもの……あのひとは公平ってものを求めているんですわ……あのひとは清い人なんですの。あのひとは、何事にも公平というものがなくちゃならないと信じ切って、それを要求しているんですの……たとえあのひとはどんなに苦しい目にあっても、曲がったことなんかいたしません。あのひとはね、世の中のことが何もかも正しくなるなんて、そんなわけにゆかないってことに、自分じゃてんで気がつかないで、そしていらいらしてるんですの……まるで子供ですわ、まるで子供ですわ! けども、あのひとは正しい人ですわ、正しい人ですわ!",
"ですが、あなたはどうなるんです?"
],
[
"皆あそこにずっと続けているんですか?",
"さあわかりませんわ、あの家には借りがあるんですものね。現に今日もおかみさんが立ちのいてもらいたいと言ったところ、カチェリーナ・イヴァーノヴナも、もう一刻だっていたくないと言ったんだそうですの",
"どうしてあのひとはそんなにいばってるんです? あなたを当てにしてるんですか?"
],
[
"やってみましたわ",
"そして、もち切れなかったんですね! いや、そりゃ知れきった話だ! 聞いてみるがものはありゃしない!"
],
[
"誰が持ってきたの?",
"リザヴェータが持ってきてくれましたの、わたしが頼んだものですから"
],
[
"ずっと前……中学校の時分に。さあ読んで!",
"教会でお聞きにならなかったんですの?",
"僕は……行ったことがないんだ。お前はしょっちゅう行くの?"
],
[
"そうだろう……じゃ、明日お父さんの葬式にも行かないの?",
"行きますわ。わたし先週も行きました……ご法事に",
"誰の?",
"リザヴェータ。あのひとは斧で殺されたんですの"
],
[
"リザヴェータとは仲がよかったの?",
"ええ……あれは心の真っ直ぐな人でした……ここへも来ましたわ……たまにね……たびたびは来られなかったんですもの……わたしはあのひとと一緒に読んだり、そして……話したりしましたわ。あのひとは親しく神を見るでしょうよ"
],
[
"……布にて手足をまかれ、顔は手巾にてつつまれて出ず。イエス彼らに言いけるは、彼を解きて歩かしめよ",
"その時マリアと共に来りしユダヤ人イエスのなせしことを見て多く彼を信ぜり"
],
[
"ええ、そのつもりでしたが……",
"でしょう、だから一つあなたに、いわば将来のご参考として――しかし、わたしは生意気にあなたをつかまえて、講義をするなんて思ってくだすっちゃ困ります。とんでもない、あなたはああいう堂々とした犯罪論を発表していらっしゃるんですからなあ! とんでもない、わたしはただ一つの事実としてちょっとした例をご参考に供するだけなんです――そこで、仮りにわたしが、たとえば甲なり乙なり丙なりを犯人と考えたとしましょう。で二つ伺いますが、その場合よしんば多少の証拠を手に入れたにせよ、時機の熟さぬうちに当人を騒がせる必要がどこにあります? もっとも、中には一刻も早く捕縛しなければならん相手もある。ところが、また中には別な性質の人間もありますよ、全く。そんなのに対しては、しばらくの間街を歩き回らしたっていいじゃありませんか、へ、へ! しかしどうやら、あなたはよくおわかりにならんらしいですね。じゃ、もう少しはっきり説明しましょう。たとえばですね、もしわたしがその男をあまり早くから未決へぶち込むと、それによって、わたしはその男に、いわば精神的支点を与える事になるかもしれませんから、へ、へ! あなたは笑っておいでですな? (ラスコーリニコフは笑おうなどとは考えてもいなかった。彼は唇を堅く結んで、燃えるような視線をポルフィーリイから放さず、じっと腰をかけていた)。しかし、実際ある種の連中に対しては、ことにそうなんですよ。人間は多種多様ですが、実地応用の方法は誰に対しても一つしかありません。たった今あなたは証拠といわれました。そりゃまあ、仮りに証拠は必要だとしてもいいですが、しかし証拠というやつは、あなた、大部分両方に尻尾を持っているのでしてな。われわれ予審判事なんて弱い人間ですから懺悔しますが、予審というものは数学的に明瞭にやりたい、二二が四といったような証拠を握りたくてたまらない! 抜きさしのならないまともの証拠を手に入れたくてたまらないんですよ! もしわたしがその男を時期尚早なのに収監してごらんなさい――たとえこれこそそうだという確信を持っていたにせよ――その時わたしはその男に対して、それ以上の証拠を握る方法を、われとわが手で奪うようなものじゃありませんか。なぜとおっしゃる? ほかでもありません、わたしはその男にいわば一定の地位を与える、いわば心理的に一定の方向を与えて、その男を落ち着かせてしまうからです。するとその男はわたしから離れて、自分の殻の中へもぐり込んでしまいます。つまり、いよいよ自分は囚人だと悟るわけなのです。なんでもあのセヴァストーポリでは、アリマ役の直後、今にも敵が正面攻撃で一挙にセヴァストーポリを陥落させるだろうと識者連が恐れおののいたものです。ところが、敵が正攻法による包囲を選んで、最初の平行壕を開鑿するのを見ると、その識者連が大喜びに喜んで、安心したという話です。つまり正攻法による包囲ではいつらちがあくかわからないから、少なくともふた月は先へ延びることになるからです! またあなたは笑っておいでですな、また本当になさらないんですな? そりゃなんです、もちろんあなたが正しいともいえます。正しいですとも、正しいですとも! 今のような話はみな特殊な場合です、あなたのおっしゃるとおりです。こんなことはみんな特殊の場合です! しかし、ロジオン・ロマーヌイチ、この際つぎの事実も観取しなけりゃなりません――つまりあらゆる法律上の形式や規則が適用され、それらのものの対象となり、書物にまでちゃんと書き込まれている普遍的な場合なんてものは、ぜんぜん存在していないんですよ。というのは、すべての事件、たとえば犯罪などでも皆、それが現実に発生するやいなや、直ちにぜんぜん特殊な一個の場合になってしまうからです。時によると、まるっきり前例のないようなものになってしまいます。したがって、そんな意味で滑稽きわまる事件が生ずることも、往々ありますよ。まあ仮りにわたしがある男を勝手に一人でうっちゃっておくとしましょう――逮捕もしなければ、いっさい迷惑をかけるようなこともしない。ただこっちがいっさいの秘密を知り尽くしていて、夜も昼もその行動に注目し、油断なく監視していることを、当人にしょっちゅうたえまなく感じさせる。少なくとも、疑うように仕向けるのです。こうして、その男が絶えずわたしから嫌疑を受け、脅威を与えられているものと意識してごらんなさい。それこそ全く頭がぐらぐらしてきて、あげくの果てには自首するようになります。しかもその上に二二が四といったような、いわゆる数学的に正確な証拠となるようなことをしでかすに決まっています――なかなか愉快なもんですて。こういうことは熊みたいな百姓にもありうる例なんですから、まして我々仲間の現代的頭脳を持った、おまけにある方向に発達を遂げた人間はなおさらです! だから、その男がいかなる方向に発達を遂げた人物か、それを知るのが一ばんかんじんですて。それから神経ですな、神経というやつ、あなたはこいつを忘れていらっしゃる! 現今この種の連中の神経はみな病的で、栄養不良で、おまけにいらいらしているんですからな!……つまり胆汁の作用ですな。彼らにはこの胆汁がどれくらいあるか底がしれないほどですよ! これは実際言ってみれば一種の鉱脈みたいなものでしてな! だから、その男が縄をつけられないで街を歩き回っていても、わたしには別段なんのけねんもありゃしません! なに、勝手にしばらくのあいだ散歩さしとけばいいのです、勝手に。わたしは何をしなくたって、その男が要するにこっちの獲物で、わたしの手からどこへも逃げられないのが、ちゃんとわかっているんですから! それに、どこへ逃げて行く先があります。へ、へ! 外国ですかね? 外国へ逃げるのはポーランド人くらいなもので、その男じゃありません。ことにわたしはしじゅう監視して、相当の手段を講じているんだからなおのことです。では、内地の奥深くへでも逃げ込みますかな? しかし、そこには百姓どもが住んでいるんですぜ。正真正銘のむくつけきロシアの百姓ですよ。教養のある現代人だったら、わが国の百姓みたいな外国人と一緒に暮らすよりは、むしろ監獄の方を選ぶでしょうよ、へ、へ! しかし、こんなことはみんなくだらない、外面的な問題です。いったい逃亡とはなんのことでしょう? そんなことは形式的なものにすぎません。かんじんなことはそれと違います。その男はどこへも逃げる先がないというだけの理由で、わたしの手から逃げないのじゃありません。心理的にわたしの傍を逃げ出されないのです、へ、へ! どうです、この表現は! つまり、その男は自然の法則によって、よしんば逃げる先はあっても、逃げられないのです。あなたはろうそくの火を慕ってくる蛾をごらんになったでしょう? ねえ、ちょうどあれと同じように、その男はわたしのまわりを始終ぐるぐる回るでしょう。ちょうど蛾がろうそくのまわりを回るようにね。自由もうれしくなくなり、考え込んだりうろたえたりしだす。そして、蜘蛛の巣へまきこまれたように、自分で自分をすっかり縛り上げてしまい、死ぬほど一人で苦しい目をするに決まっております!……そればかりか、二二が四といったような数学的に正確な証拠を、自分でこしらえてこっちへ提供してくれます――ただ少しばかり幕間を長くしてやりさえすればね……そして、絶えずひっきりなしにわたしのまわりで圏を描きながら、その直径をだんだん狭くして、最後にぱたっと引っかかる! 真っ直ぐにわたしの口へ飛び込むんです。すると、わたしがそれをがぶりと飲み込むという寸法でさあ。ねえ、これは実に愉快なもんですよ。へ、へ、へ! あなた本当になさいませんか?"
],
[
"知っておられたんですって?",
"知っていました。で、それがどうしたというんです?",
"ほかでもありません、ロジオン・ロマーヌイチ。わたしはあなたのご行跡は、まだこれどころじゃない、大したものを知っておりますよ。何もかも承知しております! もう日が暮れて夜近いころに、あなたが貸間を捜しにお出かけになって、呼鈴を鳴らしたり、血のことをきいたりして、職人や庭番どもを煙にまかれたことまで、ちゃんと知ってるんですからね。そりゃその時のあなたの精神状態はわたしだってわかっております……が、それにしても、あんな事をしていたら、それこそ自分で自分を気ちがいにしておしまいになりますぜ、全くのところ! 頭がぐらぐらしてきますよ! あなたの内部にはさまざまな侮辱――第一には運命から、次には警察の連中から受けた侮辱のために、高潔な忿懣が激しくわき立ったので、そのためにあなたはなんですな、少しも早く皆に口を開かせて、それでもって一時にすっかり片をつけてしまおうというので、あちこちもがき回っておられるんでしょう。つまり、あんな愚にもつかない想像や、ああした嫌疑が、厭で厭でたまらなくなったんですな。え、そうでしょう? あなたの気持をうまくいい当てたでしょう?……そんな風にしておられると、あなたは自分一人だけじゃない、ラズーミヒンまで逆上させてしまいますよ。あの男はそんな役回りにはあまり善人すぎますからね。ご自分だって承知しておいででしょう。あなたのは病気で、あの男のは友情だが、しかし病気ってやつは感染しやすいものですからな……いや、今にあなたの気分が落ち着いたら、わたしがよくお話ししますよ……まず、ともかくおかけなさい、ね、お願いですから! どうか少し休んでください、まるで顔の色ったらありませんよ。さ、少しおかけなさい"
],
[
"それがあなたになんの関係があるんです? どうしてあなたはそれをご存じなんです? なんのためにそんなことに興味をお持ちになるんです? してみると、あなたは僕を監視しておられるんだな。そしてそれを見せつけようとしてらっしゃるんだ!",
"とんでもない! それはみんなあなたから、あなた自身から聞いたことじゃありませんか! あなたは興奮のあまりご自分で、わたしやほかの人たちに、先走りしてお話しなすったのに、お気がつかないんですね。ラズーミヒン君――ドミートリイ・プロコーフィッチからも、昨日いろいろ興味のある詳細な話を聞きましたよ。いや、あなたはわたしの話の腰をお折りになった。で、続けて言いますがね、あなたはその猜疑心のために、鋭い機知を持ちながら、事物に対する健全な判断力までなくしてしまわれたのです。まあ、たとえば、また同じ題目になりますが、あの呼鈴のことだってそうです。あんな貴重な材料を、あんな大きな事実を(全く大した事実ですよ!)わたしは何もかもそっくり、あなたにぶちまけてしまったじゃありませんか。予審判事のわたしがですよ! ところが、あなたはそれになんの意味も認めていらっしゃらんでしょう? ねえ、もしわたしがほんのちょっとでもあなたを疑っていたら、こんなことをしていいものでしょうか? どうしてそれどころか、まず初めあなたの疑念を眠らせておいて、わたしがすでにこの事実を知っているということは、おくびにも出さないようにすべきはずです。あなたの注意をまるで別な方へそらしておいて、ふいに斧で脳天へみね打ちを食わせ(あなたの表現法をかりればですね)、それからやつぎばやに、『いったいあなたは晩の十時、いやもうかれこれ十一時に近い刻限に、殺人のあった住まいで何をしましたか? なんのために呼鈴を鳴らしましたか? なんのために血のことを尋ねましたか? なんのために庭番どもに変なことをいって、警察へ――副署長のところへ行けなどとすすめましたか』ときく。まあさしずめこんなぐあいにやるべきはずなんです。もしわたしが爪の垢ほどでもあなたを疑ってたらね。それから、すっかり正式に口供をとって、家宅捜索をやるばかりか、しだいによっては、あなたを捕縛さえしなくちゃならないかもしれません……してみると、そういう態度に出ない以上、わたしはあなたに対してなんの嫌疑もいだいていないわけです! ところが、あなたは健全な判断力を失っておられるもんだから、くり返して申しますが、何一つお見えにならないんです"
],
[
"思いがけない贈物は、そら、あすこに、ドアの向こうのわたしの住まいの方にいますよ。へ、へ、へ! (と彼は自分の官舎へ通ずる、仕切り壁に設けたしまった戸口を指さした)。逃げて行かないように、鍵をかけてしめ込んどいたのです",
"いったいなんです? どこに? 何ものです?……"
],
[
"いや、もうそのうえ尻尾を出すわけにはゆきませんよ、ロジオン・ロマーヌイチ。あなたはまるで夢中になっておられる。そんなにどなるのはおよしなさい、人を呼びますよ",
"嘘をつけ、何があるもんか! 人を呼ぶなら呼ぶがいい! きさまはおれの病気を知ってるものだから、人を夢中になるまでからかって、尻尾を押えようと思ってるんだ。それがきさまの魂胆なんだ! そんな手はだめだ、証拠を出せ! おれは何もかもわかったぞ! きさまにゃ証拠なんかありゃしない。ただザミョートフ式の愚にもつかぬ、くだらない邪推があるだけなんだ!……きさまはおれの性格を知ってるもんだから、おれを夢中になるほどおこらした上、ふいに牧師や陪審員などを引張って来て、どぎもを抜くつもりだったんだろう……きさまはその連中を待ってるんだろう? おい? 何を待ってるんだ? どこにいるんだ? 出して見せろ!"
],
[
"ちょっ! なんで殺したんだ?",
"斧でございます。前から用意しておいたんで",
"ちょっ! 先ばかり急いでやがる! 一人でか?"
],
[
"一人で殺したのか?",
"一人なんで。ミーチカにゃ罪はありません。あの男はまるっきりこれにかかわり合いがないんで",
"ミーチカのことなんかあわてて言わなくてもいい! ちょっ!……じゃ、お前はどうして、どうしてお前はあの時階段を走っておりたのだ? だって、庭番がお前たち二人に出会ったじゃないか?"
],
[
"あなただって思いがけなかったでしょう。ほうら、手が、こんなに、震えている! へ、へ!",
"それにあなたも震えていらっしゃいますね、ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ",
"わたしも震えていますよ。あまり意外だったもんですからね!……"
],
[
"とはおっしゃるが、そのご当人の口の中じゃ、歯の根が合わずがちがちいってるじゃありませんか、へ、へ! あなたも皮肉な人ですな! ではまた、いずれ改めて",
"僕はもうこれでさようならだろうと思いますが!"
],
[
"葬式です",
"ああ、そうだったっけ、葬式にね! まあ、お体を大切に、お体を"
],
[
"だって、そうじゃありませんか。ほら、あの可哀想なミコールカ(ニコライ)を、あなたはずいぶん責めさいなんだことでしょうね。心理的に、あなた一流のやり方で、あの男が白状するまで、ね。昼も夜も『きさまは人殺しだ、きさまは人殺しだ……』と言っていじめつけなすったに相違ない。ところで今度あの男が白状してしまうと、あなたはまた、『嘘つけ、きさまは人殺しじゃない! きさまにそんなことのできるはずがない! 腹にもないことを言ってやがる!』なんて体じゅうの骨がみしみしいうほど痛めつけようとなさる。ねえ、これでも滑稽な職務じゃないでしょうか?",
"へ、へ、へ! 今わたしがニコライに『腹にもないことばかり言ってやがる』といったのに、ちゃんとお気がついたんですね?",
"どうして気がつかないでいられます?",
"へ、へ! なかなか敏感ですね、実に敏感だ。なんにでも気がおつきになる! 全くユーモアの天分を持っていらっしゃる! 滑稽の真髄を把握なさるんですからな……へ、へ! 作家の中ではゴーゴリが、こういう天分をきわめて豊富に持っていたそうですな?",
"そう、ゴーゴリがね",
"さよう、ゴーゴリがね……じゃいずれまた",
"いずれまた……"
],
[
"何が?",
"悪い了簡を起こしまして"
],
[
"わっしでございます。つまり、あなたにゃ申し訳のない事をしましたんで",
"じゃ、君はあの家にいるんですか?",
"へい、あすこなんで。わっしゃあの時みんなと一緒に、門の下に立っておったんですが、それとももうお忘れになりましたかね? わっしどもはもうずっと昔からあすこに仕事場を持っておりますんで。わっしどもは毛皮屋商売の町人で、家で注文仕事をしておりますんですが……なんともいえないほどいまいましくなりまして……"
],
[
"ポルフィーリイって?",
"予審判事ですよ",
"わっしが話しました。あのとき庭番が行かなかったので、わっしが出かけました",
"今日?",
"あなたのお見えになるほんのちょっと前でございます。そして、あの人があなたをいじめてるところを、すっかり聞いておりましたよ",
"どこで? 何を? いつ?",
"なに、やはりあすこでございますよ。あの仕切り壁のかげで。わっしゃ、ずっとあすこにおりましたんで",
"えっ? じゃ、君があの思いがけない贈物だったんだな? どうしてそんなことができたんだろう? ああ!"
],
[
"君の前でニコライを尋問したのかい?",
"あなたを送り出すと、わたしもすぐに出してしまって、それからニコライの尋問を始めました"
],
[
"あなたは自分が腹が立って、むしゃくしゃするものだから、わざと突っかかってくるんでしょう……あんなのくだらない話で、婦人問題なんかにはけっして少しもふれちゃいません! あなたの解釈は間違っています。わたしはこう考えたんですよ。もし婦人が万事につけて、体力までも男子と同等だとすれば(このことはもう肯定されていますよ)、そうすればしたがって、あの場合だっても平等でなくちゃならんはずです。もっとも、後でよく考察した結果、そんな問題は本質的に存在すべきでない、と論結しました。なぜかといえば、喧嘩はあってはならないもので、喧嘩なんて場合は来るべき社会において、考えることさえできないものだからです……したがって、もちろん、喧嘩の中に平等を求めるのは、奇怪なことに決まっています。わたしもそれほど馬鹿じゃありませんからね……もっとも、喧嘩というものはあります……つまり、今後はなくなるけれど、今はまだある……ちょっ! ちくしょう! どうもあなたと話してると、妙に脱線してしまう! わたしが法事に行かないのは、ああした不快ないきさつがあるからじゃない。ただ主義として行かないだけです。法事などといういまわしい偏見の仲間入りをしたくないからです、そうなんですよ! そりゃ、もっとも、行ったってさしつかえはないですよ。ただ冷笑してやるために。ね……ただ残念なのは、司祭が来ないということです。さもないと、むろん行くんですがね",
"というと、つまり他家へごちそうになりに行って、そのごちそうと一緒に、自分を招待してくれた人たちにまで、その場で唾を引っかけようというんですね。いったいそうなんですか?",
"いや、けっして唾を引っかけるのじゃありません、ただ抗議をするんです。わたしは有益な目的をいだいて行くんです。開発と宣伝を間接に助けうるわけなのです。人は誰でも開発し、宣伝する義務があります。それも峻烈であればあるほど、いいのかもしれませんよ。わたしは思想の種を投ずることができます……その種から事実が生じるというわけですよ。なんでわたしがあの人たちを侮辱することになります? もっとも、はじめは怒るかもしれないけれど、やがてそのうちに、わたしが利益をもたらしてやったことに、自分でも気がつくでしょう。現にわれわれ仲間のテレビヨーワですね(いま共産団にはいっている婦人なんです)、それが家庭を飛び出して……ある男に身を任せた時、自分の両親にあてて、偏見の中に住んでいるのはいやだから、自由結婚をするという手紙を送った。ところがそれではあまり乱暴すぎる、両親にはもう少し斟酌しなくちゃ、手紙だってもう少し穏やかに書かなくちゃと言って、非難するものがあったのです。が、わたしに言わせると、そんなことは全くくだらないことで、穏やかに書く必要は少しもありません。むしろそういう時にこそ抗議する必要があるくらいですよ。あのワレンツなどは七年間も夫と同棲しながら、二人の子供を捨てて、一挙に手紙で夫にこう宣告したものですよ。『わたしはあなたと一緒にいては、幸福でいられないことを自覚しました。あなたは、共産団という手段による、ぜんぜん別な社会組織のあることをわたしに隠して、このわたしをだましていらっしゃいました。それは永久に許すわけにいきません。わたしは最近そのことをある立派な人から聞いたので、その人に身を任せ、一緒に共産団を組織することにしました。あなたをだますのは破廉恥なことと思いますから、率直に申します。あとはどうともお好きなように。わたしを引戻そうなどとは考えないでください。あなたはあまり手遅れにしておしまいなすったのですもの。ご幸福を祈ります』まあ、そうした種類の手紙はこんな風に書くもんですよ!",
"そのテレビヨーワってのは、君がいつか三度目の自由結婚をやったとかいってた、あの女じゃありませんか?",
"いや、厳密に判断すれば、やっと二度目ですよ! しかし、よしんば四度目であろうと、十五度目であろうと、そんなことはくだらない枝葉の問題ですよ! わたしなんか、いつか自分の両親が死んだのを悔んだことがあるとすれば、それはもういうまでもなく今です。もしもまだ両親が生きていたら、それこそプロテストでもって、うんと心胆を寒からしめてやったものをと、そんなことをなん度空想したかもしれないくらいです! わざとでもそうしたはずですよ……子供はいわゆる『切り離されたパンのきれ』で、親のふところへ戻りっこないなんて、ちょっ、そんな旧式の消極主義はだめです! わたしは親たちに思い知らせてやったんだがなあ! びっくりさせてやったんだがなあ! まったく、誰もいないのが残念ですよ!"
],
[
"それがいったいどうしたんです? わたしに言わせると、つまりわたし一個の確信によると、あれは女としてもっともノーマルな状態ですよ。なぜあれがいけないんでしょう? つまり distinguons(特性)なんですものね。現在の社会では、そりゃもちろん、全然ノーマルとはいえません。現在は強制的なものですからね。しかし未来の社会では完全にノーマルなものになります。なぜなら、自由行為なんですもの。それに、今だってあの娘はその権利を持っていたんです。あの娘は苦しんだが、それはあの女の基金、つまり資本で、あの娘はそれを自由にする権利があったんですよ。もちろん、未来の社会では、基金も不必要になるでしょうが、あの娘の役割は別の意味を付せられるようになり、整然とした合理的な条件を与えられるでしょう。ところで、ソフィヤ・セミョーノヴナ一個に関しては、現在わたしは彼女の行為を社会制度に対する勇敢な、具象化された反抗と見ています。そして、このために彼女を深く尊敬しているのです。彼女をながめていると、喜びを感じるくらいです!",
"だが、この家からあの娘をいびり出したのは、ほかでもない君だってことを聞きましたぜ?"
],
[
"じゃ、共産団へでもはいれとすすめたんですかね!",
"あなたは始終ひやかしてばかりいらっしゃる。しかも、それがはなはだまずいんですよ。失礼ながらご注意しときます。あなたはなんにもおわかりにならないんです! 共産団にはそんな役割はありません。共産団はそんな役割をなくするために設立されてるんですよ。共産団になると、この役割は現在の本質をすっかり変えてしまいます。そして、ここで愚劣だったものも、あちらでは賢明なものになる。ここで、現在の状態では不自然なものも、あちらではきわめて自然なものになる。万事はすべて、人間がいかなる状況の中に、いかなる環境の中にいるか、で左右されるものです。すべては、環境のいかんにかかっているので、人間そのものは問題じゃないのです。ソフィヤ・セミョーノヴナとわたしは、今でも円満に交際していますが、これで見ても、彼女がまだ一度もわたしを自分の敵だとか、侮辱者だとかいう風に思わなかった、立派な証拠じゃありませんか。わたしは彼女に共産団入りをすすめていますが、ただしそれはぜんぜん、ぜんぜん別な基礎の上に立つ共産団です! あなた何がおかしいんです? 今われわれは従前のものよりいっそう広い基礎の上に、自分自分の特殊な共産団を創立しようとしているのです。われわれは信念の点からいって、さらに一歩進んでいるのです。われわれはさらに多くを否定するものです! もしドブロリューボフが棺の中からよみがえってきたら、わたしは彼と一論争したでしょう! ベリンスキイなんか一ぺんでやっつけてやりますよ! がまあさしあたり今のところ、ソフィヤ・セミョーノヴナの啓発を続けますよ。あれは実に実に美しい性質の持主です!",
"ふん、つまりその美しい性質を利用しようってんでしょう、え? へ、へ!",
"けっして、けっして! けっしてそんな! まるで反対です!",
"ふん、まるで反対もすさまじい! へ、へ、へ! よく言ったもんだね!",
"ほんとうですというのに! いったいどんな理由があって、あなたに隠す必要があるんでしょう、まあ考えてもごらんなさい! それどころか、わたしは自分でも不思議なくらいなんですよ――わたしとさし向かいになると、彼女はなんだかとくべつ固くなって、恐怖に近いほど純潔なはにかみやになるんですからね!",
"それで君が大いに啓発してるわけなんでしょう……へ、へ! まあ、そういう羞恥なんて無意味なものだと、証明してやってるんでしょうな?……",
"まるで違います! まるで違います! あなたはまあなんてがさつに、なんて愚劣に――いや、これは失礼――啓発という語を解釈していらっしゃるんでしょう! あなたはなあんにもおわかりにならないんだ! ああ、驚いた、あなたは実にまだ……できていないんですねえ! 我々は女性の自由というものを求めているのに、あなたの頭にあるのはただ……わたしは女性の純潔とか羞恥とかいう問題は、それ自体無益な偏見だと思うから、頭から問題にしないことにしていますが、彼女がわたしに対して純潔な態度を持しているのは、十分に十分に認めてやります。なぜって、そこに彼女の意志と権利の全部があるからです。もちろん、もし彼女が自分からわたしに向かって『あなたと一緒になりたい』と言えば、わたしは自分を非常な幸運児と考えるでしょう。わたしはあの娘がとても気に入ってるんですからね。しかし今のところ、少なくとも今までは、わたし以上に礼儀ただしくいんぎんに彼女に対し、彼女の価値に尊敬を示した人間は、かつて一人だってありゃしませんよ……わたしは待っているんです、望みをかけてるんです――ただそれだけです!",
"君それより何かあの女に贈物をしたらいいでしょう。僕は賭けでもするが、君はまだこのことを考えもしなかったに違いない",
"今も言ったことだが、あなたはなあんにもわからないんですね! そりゃもちろん、彼女の境遇はそういったものに違いないです。しかし――これは別問題ですよ! ぜんぜん別問題ですよ! あなたはてんからあの女を侮蔑していらっしゃる。あなたは侮蔑に値すると誤認した事実だけを見て、人間そのものに対してまで、人道的な見方を拒もうとしていらっしゃるんです。あなたはまだあの女がどんな性質を持っているか、よくご存じないんだ! ただ一つ非常に残念なのは、彼女が近ごろどうしたのか、すっかり読書をやめてしまって、わたしのところへも本を借りにこなくなったことです。もとはよく借りてたんですがね。それからもう一つ残念なのは、反抗に対する意力と決心とはありあまっていながら、――しかも一度はそれを実地に証明して見せながら――まだどうも独立心が、つまり自己以外のものに左右されない精神、いっさいを否定する精神が足りないので、ある種の偏見や……ばかげた習慣などから、全く絶縁しきれないことですよ。が、それにもかかわらず、彼女はある種の問題に対してはきわめてすぐれた理解力を示しています。たとえば、彼女は手の接吻に関する問題を立派に理解しました、つまり、男が女の手に接吻するのは、非平等の観念で女を侮辱するものだということですね。この問題は我々仲間で討論されたことがあるので、わたしはすぐ彼女に伝えてやったわけです。フランスにおける労働組合のことも、彼女は熱心に聞きましたよ。わたしはいま未来の社会で、他人の部屋へ自由に出入りができるという問題を、彼女に説明してやっているところです",
"それはまたいったいなんのことです",
"最近われわれ仲間でこういう問題を討論したんです。つまり共産団の団員は、他の団員の部屋へ、それが男であろうと女であろうと、いつでもはいる権利があるや否やの問題ですが……結局、あるということに決議されました……",
"じゃ、もしその時その男なり女なりが、欠くべからざる要求の遂行中だったら、どうするんです、へ、へ!"
],
[
"そしてより高尚なんでしょう、より高尚なんでしょう、へ、へ、へ!",
"より高尚とはいったいなんですか? 人間の活動を定義する意味において、そんな表現はわたしにはわからないです。『より高尚』とか、『より寛大』とかいうような、そんなことはことごとく無意味です、愚劣です、わたしの否定している古い偏見にとらわれたことばです! 人類にとって有益なものはすべて高尚なんです! わたしはただ有益という一語を解するのみです! まあ、いくらでもひひひ笑いをなさい。しかしそれはそうなんですから!"
],
[
"なに、ちょっと用があるんでね。僕は今日明日にもここを立つつもりだから、ちょっとあの女に知らせておきたいことがあるんですよ……もっとも君もその話の間ここにいてさしつかえありませんよ。いや、むしろいてもらいたいくらいだ。でないと、君はどんなことを考えるかわかりゃしないからね",
"わたしはけっして何も考えやしませんよ……ただちょっと聞いてみただけですよ。もし用があるんでしたら、あの女を呼び寄せるくらい造作もないこってす。すぐに行って来ましょう。が、ご安心なさい、あなたのじゃまなんかしませんからね"
],
[
"ラスコーリニコフ? いましたよ。それがどうしたんです? ええ、あすこにいますよ……いまはいって来たばかりです。わたしは見ましたよ……それがどうしたんです?",
"いや、だからこそ僕は特にここに残って、われわれと一緒にいてくれたまえと頼むんですよ。僕があの……娘さんと二人きりになってしまわないようにね。話はくだらないことだけれど、それがためにどんな臆測をされるかわからないからな。僕はね、ラスコーリニコフにあそこですっぱ抜かれるのがいやなんだ……僕が何を言ってるか、わかるでしょう?"
],
[
"あるいはもっと簡単に、もっとわかりやすく言えば――病的状態ですな",
"はあ、もっと簡単に、わかりやすく……そうですわ、病気なのですわ",
"そうですよ。そこでわたしは、あのひとのさくべからざる運命を見通して、人道的な感情――そのう、いわば同情の念に堪えないので、何かお役に立ちたいと思うのです。どうやらあの気の毒千万な家族一同は、今もうあなた一人を命の綱にしているようですな"
],
[
"できますとも。しかし……それはまたあとで……いや、今日でも始めようと思えば始められることです。晩にお目にかかって、ご相談の上、いわゆる基礎を作ることにしましょう。そうですな、七時ころにここへ、わたしのところへ来てください。多分アンドレイ・セミョーヌイチも、われわれの仲間にはいってくれるでしょう……しかし、ここに一つ前もって、ようく申し上げておかなければならないことがあるんです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、つまりそのためにわざわざあなたをお呼び立てして、ご迷惑をかけたわけなんです。ほかでもありませんが、わたしの意見はこうです――金をカチェリーナ・イヴァーノヴナの手へ渡すのはいけません、第一危険ですからね。その証拠は――今日のあの法事です。いわば明日の日なくてはならぬパンの一きれもなければ……はきものとかその他、何もかも不自由な身の上でありながら、今日はやれヤマイカのラム酒だの、やれマデイラの赤ぶどう酒だの、やれ……コーヒーだのと買い込むんですからな。わたしは通りすがりにちょっと見ましたよ。ところが明日はまた、パンの一きれのことまで、あなたの細腕にかかって来る始末でしょう。それはもうばかげた話ですよ。だからその義金募集にしても、わたし一個の考えによると、あの不幸な未亡人には金のことは知らさないで、ただあなただけに含んでいてもらうようにしなければなりません。わたしのいう通りでしょう?",
"わたしにはよくわかりません。でも、母があんなのはただ今日だけなんですの……何分生涯に一度きりのことですから……母はもうちゃんと供養がしたい、立派にあとを祭りたい、法事がしたいの一心でして……でも、母はたいへん賢い人なんですの。もっとも、それはもうどちらでもおよろしいように。わたしほんとうに、ほんとうに……あの人たちも皆あなたに……神様もあなたを……そして父のない子供たちも……"
],
[
"僕はちゃんと正気だが、あなたこそかえって……悪党だ! ああ、なんという卑劣なことだろう! 僕は何もかも聞いていました。僕は万事とっくり了解しようと思って、わざと今まで待っていたんです。というのも、白状すると、今だに十分論理的でないくらいなんだから……いったいあなたはなんのためにこんな事をしたんです……わけがわからない",
"僕が何をしたというんです! 君はそんな愚にもつかないなぞなぞ話を、いいかげんにしてよすつもりはないんですか! それとも、一杯きこし召してるんじゃないかな"
],
[
"もう僕の部屋にあなたのにおいもしないように、すぐどこへでも越して行ってください。それでわれわれの関係はいっさいおしまいです! ああ、思えばいまいましい、僕は一生懸命に汗水たらしながら、この男を啓発してやろうと思って、いろいろ説明してやったものだが……まる二週間も……",
"いや、アンドレイ・セミョーヌイチ、僕はさっき君がしきりに引止めた時だって、もうかならず越して行くと、ちゃんと言っておいたじゃありませんか。今はただ君がばかだということだけつけ加えておきますよ。最後に、僕は君の頭とそのしょぼしょぼ眼を、療治されるように望みます。ちょっとごめんなさい、皆さん!"
],
[
"してみると、ルージンが生きていって、卑劣なことをする方がいいんですね! あなたはそれさえ判決する勇気がないんですか?",
"だってわたし、神様の御心を知るわけにゆきませんもの……どうしてあなたはそんなに、きいてはならないことをおききになるんですの? そんなつまらない質問をして、いったい何になさいますの? そんなことがわたしの決断一つでどうにでもなるなんて、それはなぜですの? 誰は生きるべきで、誰は生きるべきでないなんて、いったい誰がわたしをそんな裁き手にしたのでしょう?"
],
[
"お前は自分でそんな事はないと思うんだね!……でも、僕は真剣で話したんだよ、真実を!",
"まあ、それがなんの真実なものですか! おお、神さま!",
"だって、僕はただしらみを殺しただけなんだよ、ソーニャ、なんの益もない、汚らわしい、有害なしらみを",
"まあ、しらみですって!"
],
[
"ああ、思い出したよ、ソーニャ、それは僕が暗闇の中でねていた時、のべつ頭に浮かんだことなんだよ。じゃ、あれは悪魔が僕を誘惑したのだね? え?",
"お黙んなさい! ひやかすのはおよしなさい、あなたは涜神者です、あなたはなんにも、なんにもわからないんです! ああ、どうしよう! この人はなんにも、なんにもわからないんだわ!"
],
[
"苦しみを身に受けて、それで自分をあがなうんです、それが必要なんです",
"いや! 僕はあんな連中んとこへ行きゃしないよ、ソーニャ"
],
[
"え、なんだってそんな声を出すんだい! お前は自分の方から、僕が懲役に行くのを望んでるくせに、今度はそんなにびっくりするなんて? だがね、お聞き、僕はあんなやつらに屈しやしないから。僕はもっと闘ってやるんだ。そうすりゃ、やつらはどうすることもできやしない。やつらには本当の証拠がないんだ。僕は昨日とても危ない羽目に落ちて、もうだめかと思ったくらいだが、今日はまた事情が一変したんだ。やつらの持っている証拠は、皆どうにでもとれるようなものばかりだ。つまりやつらの起訴材料を、僕は自分に有利なようにふり向けることができるんだ、わかったかい? ほんとうにふり向けてみせるとも。僕はもう要領を覚えちゃった……しかし、監獄へは必ずぶち込まれるだろう。もしある事件が起こらなかったら、今日はぶち込まれていたかもしれないんだ。いや、まだ今日これからぶち込まれるかもわからないんだ……だけど、そんなことはなんでもないよ、ソーニャ。しばらくいたら、また出してくれるよ……だってやつらは一つだって本当の証拠を持っていないんだから、またこれから先も出て来やしないんだから。そりゃきっと受け合うよ。ところで、今やつらの持ってるような証拠では、人間一人台なしにするわけにゆかないんだ。いや、もうたくさんだ……僕はただお前に知っていてもらおうと思って……妹や母にはなんとかして、二人が信じないように、びっくりしないようにするつもりだ。もっとも、こんど妹の身の上は保証されたらしいから……したがって母も同様だ……さあ、これでおしまい。しかしそれにしても、用心しておくれ、もし僕がぶち込まれたら、お前監獄へ面会に来てくれる?",
"ええ、行きますとも! 行きますとも!"
],
[
"あなたは結節のことをあのひとに言ったんですか",
"いや、はっきり結節といったわけでもないんですよ。それに、あのひとはなんにもわかりゃしないんですからね! しかし僕が言いたいのはこうなんです。人ってものは、本質的に何も泣くわけがないのだと、論理的に説伏してやると、泣くのをやめるものですよ。これは明瞭なことです。あなたのご意見はどうです、やめない方ですか?"
],
[
"兄さん、まあそれはなんの事ですの。いったいわたしたちはほんとに、永久に別れでもするんですの、だってわたしに……そんな遺言みたいなことを言ったりして?",
"どっちにしても同じことだ……さようなら……"
],
[
"往来でこんなことは禁じられておるんです、ぶていさいなことをしちゃいけません",
"お前こそ無作法ものじゃないか! わたしは手風琴回しと同じわけだよ、お前の知ったことじゃありゃしない!",
"手風琴回しなら鑑札がいります。ところが、あなたは自分勝手にそんなことをして、人だかりなんかさしているんですからな。お住まいはどちらです?"
],
[
"だって、わたしはここに、壁一重隔てて、レスリッヒ夫人のとこに下宿してるんですからな。こっちはカペルナウモフ、あっちにはレスリッヒ夫人、わたしの古い親友ですよ。だから隣り同士なので",
"あなたが?"
],
[
"いったい君はいま何をしようと思ってるんだい?",
"僕がいま何をしようと思ってたって、君の知ったことじゃないよ!",
"気をつけろよ、君は無茶飲みを始めるんだろう!",
"どうして……どうして君それがわかった?",
"わからなくってさ"
],
[
"あれがここへ来たのさ、一人で。ここに腰をかけて、僕と話したんだ",
"あのひとが!",
"そうだ、あれが!",
"で君は何を言ったんだね……つまりその、僕のことで?",
"僕はあれに君のことを、非常にいい、正直な、よく働く男だといった。君があれに惚れてることは別に言わなかった。だって、そんなことはあれが自分で知ってるからね",
"自分で知ってるって?",
"そうさ! あたり前だ! たとえ僕がどこへ行こうと、僕の身に何が起ころうと――君はいつまでも二人の保護者でいてくれるだろうね。僕は、いわば君に二人を手渡しするんだよ、ラズーミヒン。僕がこんなことを言うのは、君がどんなにあれを愛しているか十分に知り抜いてる上、君の心の純潔を信じているからなんだよ。そのほかに、あれも君を愛するようになるかもしれない、いや、もしかすると、もう愛してるかもしれないのを、ちゃんと承知しているからさ。さあ、これで君自分の好きなように決めるがいい――無茶飲みをやってもいいかどうか",
"ロージカ……実はね……つまり……ええい、くそっ! だが、君はいったいどこへ行くつもりなんだい? まあ、それが秘密だというなら、それはそうでかまわないさ! しかし僕は……僕は今にその秘密を探り出すよ……そして、きっとくだらないばかばかしいことに違いないと信じてるよ。君は始終一人で何かたくらんでるんだよ。が、とにかく、君はすばらしい男だ! 実にすばらしい男だ!……",
"僕さっき言い添えようと思ったのに、君がじゃまをしたので言いそびれたが、君はさっき神秘だの秘密だの、そんなもの知る必要がないと言ったが、あれはすこぶるいい考えだよ。時の来るまではうっちゃっといてくれ、心配しないがいいよ。何もかもそのうちにわかる、つまり必要な時が来ればだ。昨日あの男が僕に向かって、人間には空気が必要だ、空気が、空気がと言ったが、僕はこれからすぐその男のとこへ行って、どういう意味か聞いてこようと思うんだ"
],
[
"手紙って?",
"妹さんがある手紙を受け取ったんだ、今日。で、あのひとはたいへん心配そうな様子だったよ。たいへん。あまりたいへんすぎるくらいだったよ。僕が君のことを言い出すと――あのひとは黙っててくれと言ったっけ。それから……それから、ことによると、我々は遠からず別れるようになるかもしれないと言われた。それからまた、何かしら熱心に僕に礼を言ったあとで、自分の部屋へはいって、鍵をかけてしまわれたんだ"
],
[
"あれ、あんなことをきいてるよ! なぜ僕が興味を持つかって? きいたもんだね!……ほかの人からも知ったが、ポルフィーリイの口からも知ったんだよ。もっとも、おもにポルフィーリイから一部始終を知ったんだ",
"ポルフィーリイから?",
"ポルフィーリイからよ"
],
[
"あの男は実にうまく説明してくれたよ。先生一流の心理的闡明なんだ",
"あの男が説明したのかい? 自分で君に説明したのかい?",
"自分でだよ、自分でだよ。失敬! あとでまた何やかや話すとして、今は少し用があるから。いずれ……僕も実は一時そう思った事があるんだよ……が、まあ、そんなことはいいや。あとにしよう!……僕ももう飲む必要なんかない。君は酒なしで僕を酔わしてくれた。僕は酔ってるんだぜ、ロージカ! 今は酒なしで酔ってるんだよ。じゃ、失敬。またくるよ、じきに"
],
[
"ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、またあなたは古い手を出しましたね! 相も変わらず、例のあなたの手口だ! よくそれで飽きないもんですねえ、実際?",
"ええ、もうたくさんですよ、今のわたしに手口も何もあるもんですか? もしここに証人でもあれば別の話ですが、われわれは二人きり差し向かいで、内証話をしてるんじゃありませんか。ごらんの通り、わたしはあなたをうさぎのように追いかけて、つかまえに来たのじゃありません。自白をなさろうとなさるまいと――今この場合おなじことです。あなたがなんとおっしゃらなくても、わたしの腹の中でちゃんと確信してるんですから"
],
[
"はあ、その質問ですか! よろしい個条を追ってお答えしましょう。第一、あなたをそういきなり逮捕するのは、わたしにとって不利だからです",
"なぜ不利なんです! もしあなたが確信しておられるなら、そうしなくちゃならないはず……",
"ええっ、わたしの確信がなんです? こんな事はすべて今のところ、わたしの空想にすぎないんですからね。それに、あなたを監獄へ入れて落ち着かせる必要が、どこにあるんです? あなたは自分から要求していらっしゃるくらいだから、自分でもおわかりになるでしょう。たとえば、あなたをあの町人に突き合せたって、あなたはただこう言われるだけです。『きさまは酔っ払ってるのかどうだ? おれがきさまと一緒にいたところを誰が見た? おれはただきさまを酔っ払いと思ったんだ。それに実際、きさまは酔っ払っていたじゃないか』――さあ、その場合わたしはこれに対して、なんと言えばいいんです。まして、やつの言うことより、あなたの申し立ての方が本当らしいんですからな。だって、やつの口供は、ただ心理だけですが――そんなことはああいう面をしてちゃ、第一柄に合いませんよ――ところが、あなたの方は急所を突いてるわけですからね。何分あの野郎、大酒呑みで通っておるんですよ。それに、わたし自身がもう幾度となく、この心理主義が両方に尻尾を持っていることを、ちゃんと白状しましたからね。それどころか、うしろの尻尾の方が大きくて、ずっと本当らしいほどですが、今のところわたしはそれ以外、あなたに対抗すべく何一つ持っていないことまで白状しました。それに、結局はあなたを収監することになるでしょうし、第一、こうして何もかもあらかじめあなたに声明するために、自分からわざわざやって来たのですが(世間並みのやり方じゃありませんやね)、それでも結局あなたに向かって(これも世間並みじゃありませんが)、こんな事をするのはわたしにとって不利だと、真っ直ぐに言ってるんですからね。さて第二に、わたしがやって来たわけは……"
],
[
"ねえ。ポルフィーリイ・ペトローヴィッチ、あなたは自分で心理だけだと言いながら、やっぱり数学に入りこんでおしまいになりましたね。それで、もしあなたの考え違いだったらどうします?",
"いや、ロジオン・ロマーヌイチ、考え違いじゃありません。例のほんの毛筋ほどの証拠を握ってるんですからね。その毛筋ほどのやつを、わたしはあの時見つけたのです。神さまが授けてくだすったんです!",
"毛筋ほどのやつって?",
"それは言いますまい、ロジオン・ロマーヌイチ。それにどっちみち、わたしも今はもうこの上ゆうよする権利がないから、いよいよ収監します。だから、あなたもよく分別なさい――今となったら、わたしにとってはどちらでも同じことです。したがって、唯あなたのために言ってるだけなんです。全くその方がいいですよ。ロジオン・ロマーヌイチ!"
],
[
"こうなると、もうおかしいのを通りこしますよ。それは無恥というものです。まあ、仮りに僕が有罪だとしても(そんなことは僕けっして言やしませんが)、あなた自身がもう僕を収監して、落ち着かせてやると言っておられるのに、僕の方からわざわざ自首して出るわけがないじゃありませんか?",
"ええっ、ロジオン・ロマーヌイチ、そうことば通りにおとりなすっちゃいけませんよ。事によったら、そう落ち着くわけにいかないかもしれませんからね! だって、これはただの理論で、しかもわたしの理論なんですよ。え、わたしなんかがあなたに対して、なんの権威になれます? もしかすると、わたしは今でもあなたに、何かかくしているかもしれませんぜ。わたしにしたって、いっさいあなたにぶちまけてしまうわけにはいきませんからね、へ、へ! そこで第二段として、あなたにとってはどんな利益があるかという問題です。ねえ、そうすればどんな減刑を受けることになるか、それはおわかりでしょうな! だってこの自首がどういうとき、どういう瞬間に当たるのか、よく考えてごらんなさい! もうほかの男が自分に罪を引受けて、事件をすっかりこんぐらかしてしまった時じゃありませんか? わたしは神の前に誓って申しますが、あなたの自首はぜんぜん突発的に起こったことのように、『あすこで』(法廷の意)うまくつくろってこしらえて上げますよ。あんな心理はまるでないものにします、あなたに対する嫌疑はみな闇から闇に葬ってしまいます。そうすればあなたの犯罪も、一種の頭脳の混迷という風になります。もっとも、正直なところ、混迷に違いありませんからね。わたしは潔白な人間です、ロジオン・ロマーヌイチ、自分のことばは守ります"
],
[
"何がそんなにあるんです?",
"生活が! いったいあなたは予言者ででもあるんですか、いったいどれだけのことをご存じなんです? 求めよさらば与えられんですよ。おそらく、神もここにあなたを期待しておられるのかもしれませんからね。それに、あれだって永久なものじゃありませんしね、鎖だって……"
],
[
"わたしが何ものかって? わたしはもうおしまいになった人間です、そりゃまあ感じもあれば、同情もあり、何かのこともちっとは心得た人間かもしれませんが、しかしもうおしまいになった人間です。ところが、あなたは別ものです。神はあなたに生命を準備してくだすった(もっともあなたの場合だって、煙のように消えてしまって、何も残らないかもしれない、そりゃ誰にもわかりませんがね)。あなたが別な人間の部類へ移ったからって、それがなんです? まさか、あなたのような心をもっている人が、安逸なんか惜しむのじゃないでしょう? またあまりにも長い間、人があなたを見ないことになるかもしれないが、いったいそれしきのことでなんです? 問題は時にあるのじゃなくて、あなた自身の中にあるのです。太陽におなりなさい、そうすればみんながあなたを仰ぎ見ますよ! 太陽は、まず第一に太陽でなければなりません。あなたはまた何をにやにやなさるんです? わたしがこんなシラーめいたことを言うからですか? わたしは賭でもするが、あなたはきっとわたしのことを、今おべっかで取り入ろうとしていると考えておいでなんでしょう! いや、実際おべっかを言ってるのかもしれませんよ、へ、へ、へ! ロジオン・ロマーヌイチ、あなたはわたしのことばなんか、まあ信じないがいいですよ。けっしてこれっから先も信じないがいいかもしれない――これはわたしの性癖なんだから。それに異存はありません。ただ一言つけ加えておきますが、わたしが、どれほど卑しい人間で、どれほど潔白な人間か、それはあなた自身に判断がつきそうなものですね!",
"あなたはいつ僕を逮捕するつもりです?",
"さあ、まだ一日半か二日くらいは、あなたに散歩をさせてあげましょう。ねえ、よく考えて、神に祈っておおきなさい。それに、その方がとくですよ、全くとくですよ"
],
[
"なぜあなたは率直におっしゃらないんです――これは奇跡だって!",
"なぜって、これはただ偶然にすぎないかもしれないじゃありませんか"
],
[
"そのほかには何もありませんか?",
"だって、それだけでもたくさんじゃありませんか"
],
[
"よろしい、あなたのことは構わんとしましょう",
"それよりも、あなたがここへよく飲みに来られ、しかも僕に来いと言って、自分で二度まで指定してくだすったのなら、なぜいま僕が通りの窓を見た時に、隠れるように行ってしまおうとなすったんです? それを聞かせてください。僕はちゃあんとそれに気がつきましたよ",
"へ、へ! ではいつぞやわたしがあなたの部屋のしきいの上に立った時、なぜあなたは目をつぶって長椅子の上に横になったまま、自分じゃまるで眠ってもいないのに、眠ったような振りをなすったんです? わたしはちゃあんとそれに気がつきましたよ",
"僕には……それだけの理由が……あったかもしれませんよ……それはご自分でおわかりのはずです",
"わたしだって、それだけの理由があったかもしれませんよ。もっとも、あなたはそれをご存じないけれど"
],
[
"そりゃいったいなにを借り出そうというんです?",
"さあ、なんと言ったらいいかなあ? いったいわたしがそれを知ってると思いますか? ごらんのとおり、わたしは始終こういう安料理屋に入りびたっておりますが、わたしにゃこれがいい気持なんで。いや、いい気持っていうのじゃないが、なんということなしにですな。わたしだってどこかにすわらなきゃなりませんからね。まあ、あの可哀いそうなカーチャにしたってごらんになったでしょう?……ねえ、たとえば、仮りにわたしが食いしんぼうだとか、クラブ通いの食道楽だとか、そんな者ででもあればまだ楽なんですが、わたしときたらごらんのとおり、こんなものでも平気で食べられるんですからね! (彼は片隅を指でさして見せた。そこには小さいテーブルがあって、ばれいしょつきのひどいビフテキの残りが、ブリキ皿の上にのっかっていた)時に、あなたは食事は済みましたか? わたしはちょっと一口やったから、もう欲しくないんです。また酒だって、まるで飲みません。シャンパンのほかはいっさいなんにも。ところがそのシャンパンも一晩じゅうかかってたった一杯、しかもそれで頭痛がするんですからね。今これを言いつけたのは、ちょっと景気づけのためなんですよ。というのは、ちょっとあるところへ行こうと思ってるもんですから。だからごらんのとおり、わたしは特別のご機嫌でいるわけなんです。わたしがさっき小学生みたいに隠れたのは、あなたにじゃまされるかと思ったからなんで。しかし、多分(彼は時計を引出した)、まだ一時間くらいご一緒におられるでしょう。いま四時半ですからね。いや、全くのところ、せめてなんでもいいから、何かであるといいんですが、たとえば地主だとか、一家の父だとか、槍騎兵だとか、写真師だとか、雑誌記者だとかね……それが、なあんにもないんですよ、何一つこれという専門が! 時には退屈なことさえありますよ。実際わたしは、何か珍しいことを聞かしてくださることと思っていましたが",
"いったいあなたは何者で、なんのためにこっちへ出て来たんです?",
"わたしが何者かって? あなたはご存じじゃありませんか――貴族で、二年ばかり騎兵隊に勤めて、その後このペテルブルグでごろついていて、それから、マルファ・ペトローヴナと結婚して、田舎に暮らした。これがわたしの伝記でさあ!",
"あなたはカルタ師だったようですね?",
"いや、なんのわたしがカルタ師なものですか。いかさま師でさあね――カルタ師じゃありませんよ",
"あなたはいかさまカルタ師だったんですか",
"さよう、いかさまカルタ師でもあったんで",
"どうです、なぐられた事もあるでしょう!",
"そんなこともありましたよ。それがどうしたんです?",
"じゃ、決闘を申し込むこともできたわけでしょう……まあ、とにかくお目ざましの種になりますね",
"お説に反対はしますまい。それに、わたしは哲学めいた事は不得手ですからな。実のところ、わたしが急いでここへやって来たのは、どちらかといえばおもに女のためなんですよ",
"マルファ・ペトローヴナの葬式をすましたばかりなのに?"
],
[
"というと、つまり僕が淫蕩を悪とみるかどうか、という意味ですね?",
"淫蕩を? へえ、そんな風に話を持ってこられるんですか! もっとも順序として、まず女に関する問題にお答えしましょう。実はね、わたしは今おしゃべりしたい気分になってるんですよ。ねえ、いったいなんのためにわたしは自己を抑制しなくちゃならないんでしょう? もしわたしが仮りに女好きだとすれば、なぜ女色を捨てなければならないんでしょう。少なくとも、一つの仕事ですからね",
"じゃ、あなたはここでただ淫蕩だけに望みをつないでるんですか?",
"ふん、それがどうなんです! まあ、淫蕩にもつないでおりますよ! だが、あなたはよっぽど淫蕩が気になるんですね。それに、わたしは少なくとも正直な質問が好きなんで。この淫蕩ってやつの中にゃなんといっても、自然に根底を持った、空想に堕さない、一種恒久なものがありますよ。絶えずおこっている炭火みたいなものが血の中にあって、こいつが始終焼きつくような働きをする。そして、年を取っても容易に消すことができないんですな。ねえ、そうじゃありませんか、これも一種の仕事でないでしょうか?",
"そんなことをしてみたって、何もうれしがるほどのこともないじゃありませんか? それは病気ですよ、しかも危険なやつだ",
"ああ、またあなたはそんな方へ話を持っていく! そりゃわたしだって、これが一定の尺度を越えたすべてのものと同様に、一つの病気だってことには同意です――しかも、この場合では、必ずや尺度を越えざるを得ないんですからな――がそうはいうものの、こいつは人によって、色々まちまちでしょう。これが第一だし、第二には、何事もむろん程度は守るべきで、たとえ卑屈でも何かと胸算用もしなけりゃならんでしょう。けれど、いったいそれがどうなるんです? 結局こいつがなかったら、ピストル自殺でもするよりか仕方がないじゃありませんか。そりゃわたしだって、相当な人間は退屈する義務がある、ということには賛成ですが、しかしそれでも……",
"あなたはピストル自殺ができますか?"
],
[
"なんです、女でも待ってるんですか?",
"さよう、女が。なに、ちょっとした偶然のことでね……しかし、わたしが言うのは、そんな事じゃないんです",
"ふん、しかしこうした周囲の汚らわしさも、あなたはもう感じなくなってしまったんですか? あなたはもう踏みとどまる力を失ったんですか?",
"あなたは力がご注文なんですか? へ、へ、へ! あなたにゃびっくりさせられますよ、ロジオン・ロマーヌイチ。もっとも、そうだろうとは前から知っていましたがね。あなたは淫蕩だの美学だのっておっしゃる! してみると、あなたはシラーなんですね。理想家なんですね! もちろん、すべてそうあるべきが当然で、もしそうでなかったら、それこそ不思議なくらいだが、しかし実際となると、やっぱり妙ですな……ああ、残念なことに時間がない。けれど、あなたは実に興味のある人物ですな。ときについでですが、あなたシラーがお好きですか? わたしは恐ろしく好きなんで"
],
[
"お話しなさい。しかし改めてお断わりするまでもなく、あなたは……",
"おお、ご心配には及びません! おまけにアヴドーチャ・ロマーノヴナは、わたし如きくだらない空虚な人間にさえも、深い尊敬の念しか起こさせないような方ですからな"
],
[
"さよう、あれが厭でたまらないのは僕も確信しています。しかし、今はそれが問題じゃありません",
"あなたは確信していらっしゃる、厭でたまらないって? (スヴィドリガイロフは目を細めて、にやりと嘲けるように笑った)。おっしゃるとおりです、あのひとはわたしを好いてはおられません、けれど、夫婦間や情人同士の間にあったことは、けっして他人に保証できるものじゃありませんよ。そこにはどんな場合でも、断じて世界中の誰にもしれない、ただ彼ら二人にのみわかっている、小さな片隅があるものです。アヴドーチャ・ロマーノヴナの場合にしても、嫌悪の目でわたしを見ていたなんて、あなた保証ができますか?",
"今まであなたのお話に出て来たちょいちょいしたことばの端で、あなたが今でもドゥーニャに対して何か特別な思わくと、のっぴきならぬ計画を持っておられるものと認めます。もちろん卑劣きわまる計画をね"
],
[
"なに、それは今でも口からすべらせておられますよ。ねえ、たとえば、あなたは何をそう恐れてるんです? いったいどうして今そう急にびくっとしたんです?",
"わたしが恐れてるんですって? びくびくしてるんですって? あなたを恐れてるんですって? むしろあなたの方がわたしを恐れるべきですがね、cher ami(親愛なる友よ)だが、なんてばかばかしい話だ……どうもわたしは酔った、自分でもわかりますよ。またうっかり口をすべらすところだった。もう酒なんかやめだ! おーい! 水をくれ!"
],
[
"それはもう前にもお話ししておられましたよ",
"お話しした? 忘れていましたよ、しかし、あの時はまだ確かなお話はできなかったのです。何しろまだ相手の娘も見ていなかったんで、ただその意向を持っていただけなんですからね。ところが、今じゃもう相手が決まって、話がすっかりまとまってしまったんです。もしのっぴきならん用事さえなかったら、わたしはもちろんあなたをお連れして、さっそくその方へご案内するはずなんですが――なぜって、あなたのご意見が伺いたいんですからね。ええ、ちくしょう! もうあとたった十分しかない。ね、時計を見てごらんなさい。だが、やはりあなたにお話ししましょう。実際この話は、わたしの結婚はちょっと面白いんですから、もちろん、一風かわった面白さですがね――あなたはどこへ? また帰ろうと言うんですか?",
"いや、もう今となったら、僕はけっして帰りません",
"けっしてお帰りにならない? まあ、見てみましょう! わたしはあなたをそこへご案内しますよ、ほんとうに。そして花嫁をお目にかけましょう。しかし今じゃありませんよ。今はもうあなたもお出かけになる時刻でしょうからな。あなたは右とね、わたしは左。ときに、レスリッヒ夫人をご存じですか? ほらあのレスリッヒ、今わたしが下宿している――え? おわかりですか? ね、あなたはどうお考えです、ほら、娘の子が冬水ん中でなんとかしたって噂のある――ね、わかりましたか? わかりました? で、今度の話は、あの女がいっさいきり盛ってくれたんですよ――『それじゃあなたは退屈でたまらない、少し気晴しをなさるがいい』ってね。実際わたしは陰気な、うっとうしい人間なんですよ。あなたは快活な人間だと思いますか? どうして、陰気な人間なんですよ。別に悪い事はしないが、いつも隅っこにくすぶって、どうかすると三日も口をきかないくらいです。ところが、あのレスリッヒなかなかのしたたかものでね、こんな計画を胸に持っておるんですよ。つまり、わたしが飽きてきて、女房を捨ててどこかへ行ってしまう、すると女房はあの女の手にはいるから、それをまた別口へ回す――やはり我々くらいの階級だが、も少し上のところへね。あの女のいうことには、父親はある退職官吏だが、体がすっかり弱り切って、もう足かけ三年安楽椅子に腰かけたきり、自分の足では動いたことがない、母親もあるが、これは分別のしっかりした女だ。息子はどこかの県で勤めているけれど、家計を助けようとしない、娘は嫁入りしてしまって、見舞いにも来ない。しかも、自分の子供だけで足りないで、小さい甥を二人も引取っている。で、一ばん末の娘をまだ卒業もしないうちに、女学校から下げてしまった。これがもうひと月すれば満十六になる。つまり、ひと月たてば嫁にやれるってわけで、その子をわたしに世話しようというんですよ。そこで、わたし達は出かけました。向こうの家じゃ実に滑稽でしたよ。わたしは自分のことをこう触れ出しましたよ――地主で、男やもめで、由緒のある家柄で、これこれの親戚知己があって、財産も持っている――さあこうなると、わたしが五十でその娘がまだ十六にもならないって、それがなんでしょう? 誰がそんなことを気にしますか? ね、大いに食指うごくじゃありませんか、え? 食指うごくでしょう、は、は、は! わたしがその父さん母さんと話し込んだところを、お目にかけたかった! いや、その時のわたしときたら、見料を出しても一目見る価値がありますよ。娘が出て来て、ちょいと小腰をかがめて会釈するんだが、まあどうでしょう、まだ裾の短かい服を着て、綻び初めぬ蕾の花といった風情でね、赤くなって、朝焼けのようにぱっと燃え立つんですよ(もちろん、もうちゃんと言い聞かせてあるんで)。あなたは女の顔のことをどうお考えか知りませんが、わたしに言わせるとこの十六歳という年ごろ、このまだ子供っぽい目、このおずおずした様子と羞恥の涙――わたしに言わせると、これはまさに美以上ですな。しかもおまけにその娘は、まるで絵に描いたようなんですからね。細かくちぢれていくつも小さい環を作っている薄色の髪、ふっくらした真っ赤な唇、小さな足――すてきですなあ……まあ、こうしてわたしは知合いになると、家事の都合で急ぐからと言ったものだから、さっそくその翌日、つまり一昨日、われわれ二人はもう祝福してもらったんですよ。それからというもの、わたしは行くとすぐ膝の上へ娘をのせて、そのままおろそうとしない……すると、娘は朝焼けのように燃え上がる、わたしはひっきりなしに接吻してやる。もちろんおっ母さんが、これはお前の夫で、こうしなければならないのだよと、言い聞かせてやるんですよ。まあ一口に言えば、極楽ですな! で今のこういう許婿なる状態は、実際の夫の状態よりいいのかもしれませんて。これがいわゆる La nature et la vérité!(自然と真実!)ですな! は、は、は! わたしは娘と二度ばかり話をしましたが――いや、どうしてなかなかりこうな子ですよ。どうかすると、こっそりわたしを見るんですが、まるで焼き尽くさんばかりの目をしていながら、その顔はラファエルのマドンナみたいなんですよ。だって、シスチンのマドンナの顔は幻想的で、悲しめる狂信者の顔なんですものな。あなたそれが目につきませんでしたか? まあ、こんな風の顔なんですよ。両親の祝福を受けるとすぐ、その翌日、わたしは千五百ルーブリの贈物を持って行きましたよ。ダイアモンドの装飾品を一つに、真珠を一つに、銀の婦人用化粧箱、これっぱかりの大きさで、いろいろ様々なものがはいってるんです。これには娘も――マドンナも、顔をぽっと赤くしたほどですよ。昨日もわたしはその子を膝の上にのせましたが、きっとあまり無遠慮すぎたのでしょう――すっかりまっかになって、涙がぽろぽろあふれた。けれど、それをけどられまいと思って、体じゅう火のようにほてらしてるんです。そのうちに、ちょっとの間みんなが出て行って、わたしたち二人きりになると、急にわたしの首っ玉にかじりついて(自分でこんなことをしたのは初めてなんで)、両手でわたしを抱きしめて接吻しながら、わたしはあなたのために従順で、貞淑で、善良な妻になって、あなたを幸福にする。そして自分の一生を、自分の生活の一分一秒まであなたにささげて、どんなことでも犠牲にする、その代わりに唯あなたから尊敬だけしてもらいたい、その上はもう『なんにも、なんにもいりません、贈物なんか少しもいりません』とこう誓うんです。ねえ、こんな髪を環のようにちぢらせた、十六やそこいらの天使みたいな娘から、顔を処女らしい羞恥の紅に染め、目に感激の涙をためながら、こんな風の告白を聞かされると、どんな気持がするか、およそお察しがつきましょう、――まったく魅惑的なものですよ! たしかに魅惑的でしょう? どれだけかの値打ちはあるでしょう、え? ねえ? 値打ちがあるでしょう? ねえ……ねえ、どうです……一つ、わたしの許嫁のところへ行ってみませんか……ただし、今すぐじゃありません!",
"手っとり早く言えば、その年齢と発達の恐ろしい相違が、あなたの情欲をそそったんですよ! いったいあなたはほんとうに、そんな結婚をするつもりなんですか?",
"なぜ? そりゃ是が非でも。人間て自分の事をめいめい好きなようにするもので、誰よりも一番うまく自分を欺きおおせたものが、一ばん愉快に暮らしていくわけです。は、は! いったいあなたはなんだって、徳行の一本槍で突っかかっていらっしゃるんです? お手柔かに願いますよ、あなた、わたしは罪業の深い人間ですからね。へ、へ、へ!",
"もっとも、あなたはカチェリーナ・イヴァーノヴナの子供たちの世話を引受けなすった。しかし……しかし、それにはまたそれだけの理由があったんだ……僕はいま何もかも合点がいった"
],
[
"よしてください、そんなげすなきたならしい話はよしてください。なんて堕落した野卑な好色漢だろう!",
"シラーよ、シラーよ、わがシラーよ! Où va-t-elle la vertu se nicher?(徳はいずくに巣くうぞ)実はね、わたしはあなたの叫びを聞きたさに、わざとこんな話を持ち出すんですよ。実に愉快だ!"
],
[
"なんでもありません、僕はもうあなたのそばを離れないということです",
"なあんですと?"
],
[
"これはこれは! なんならすぐ巡査を呼びますぜ?",
"呼ぶがいい!"
],
[
"どうも大したもんだ! わたしはね、好奇心が燃え立っているんだけれど、わざとあなたの事件を言い出さなかったんですよ。幻想的な事件ですからなあ。わたしはつぎの時まであずけておこうと思ったんだが、どうもあなたは死人でも怒らせる腕を持っていらっしゃる……じゃ、行きましょう。だが前もって断わっておきますが、わたしはいま金をとりに、ちょっと家へ寄って行くだけで、それから部屋に鍵をかけて、辻馬車をやとって、ずっと夜おそくまで、島の方へ行こうと思ってるんです。だから、あなた、とてもわたしについて回れっこありませんよ?",
"僕もさし向き家へ行きましょう、ただしあなたの住まいじゃありませんよ。ソフィヤ・セミョーノヴナの家へ、葬式に行かなかった詑びに",
"それはどうでもご勝手ですが、しかしソフィヤ・セミョーノヴナは家にいませんよ。あのひとは子供たちをみんな引きつれて、わたしのずっと古くからの知合いで、ある孤児院の監督をしている、年とった貴婦人のところへ行ったんです。わたしはね、カチェリーナ・イヴァーノヴナの子供三人の養育料として金を届けたり、孤児院の方へも寄付したりして、お婆さんをすっかり丸めこんでしまったのです。それから、ソフィヤ・セミョーノヴナの身の上も、いっさい隠し立てしないで、何から何まで話して聞かせたところ、まんまと素晴しい効果を奏したわけなんです。そういうわけで、今日さっそく、ソフィヤ・セミョーノヴナは、お婆さんが別荘から出て臨時に泊まっているNホテルへ、出頭することになったんで",
"どうだって構いません、とにかく僕は寄ります",
"どうぞご随意に。だが、わたしはあなたの仲間じゃありませんからね。わたしはどうだって平気でさあ。さあ、もう家へ帰りましたよ。ときにどうでしょう、あなたがわたしをうさんくさい目で見ておられるのは、つまりわたしの方があまり遠慮し過ぎて、今までいろんな質問でご迷惑をかけなかったからだと、こうわたしは確信しているんですよ……え、わかるでしょう? あなたはこいつただでないぞ、という気がしたのでしょう。賭をしてもいい、そうに違いないから! ねえ、だから、これからはあなたも気をおきかせになるといい",
"そして、戸口で立聞きをしなさいか!"
],
[
"あなたに聞こえるはずがない、あなたはでたらめばかり言ってるんだ!",
"いや、わたしが言ってるのはそれじゃありませんよ、それじゃありません(もっとも、わたしも多少は聞きましたがね)。わたしが言ってるのは、あなたがしきりに嘆息していらっしゃることですよ! あなたの内部では、絶えずシラーがもだえている。だから今度は、戸の外で立聞きするな、なんてことになるんですよ。もしそうなら、出るところへ出て、これこれこうこうで、こんな事をやらかしました、理論の上でちょっとした間違いができましたと、お上の前で白状したらいいじゃありませんか。ところが、戸口で立聞きしてはならないが、自分のお道楽には、婆さんどもを手当たりしだいなもので殺してもいい、なんていう確信がおありでしたら、少しも早くどこかアメリカあたりへ逃げてお行きなさい! 逃げるんですよ、え、君! 多分まだ間に合いますよ。わたしはまじめに言ってるんですぜ。お金がないとでもいうんですか? 旅費はわたしがあげますよ"
],
[
"わかりました(もっとも、あまり無理をなさらんがいいですよ。もしなんなら、口数をおききにならなくてもいい)。わたしは現在あなたを悩ましている問題がわかりますよ。道徳的問題でしょう? 公民として、人間としての問題でしょう? なに、そんなものは唾でも引っかけておやんなさい。そんなものが今のあなたになんになるんです? へ、へ! つまりなんといっても、あなたはやはり市民であり人間であるからですか? それなら、何も出しゃばることはなかったんですよ。頼まれもしない事に手を出さなけりゃよかったんですよ。まあ、ピストル自殺ですな。どうです、それもお厭ですかね?",
"あなたは僕を追っ払いたいばかりに、わざと僕をからかってるようですね……",
"どうもあなたは変人だな。それにもう来てしまいましたよ。どうぞ階段をお上がりください。ごらんなさい。あれがソフィヤ・セミョーノヴナの部屋の入り口です。ほらね、誰もいないでしょう! あなたは本当になさらないんですか? じゃカペルナウモフにでもきいてごらんなさい。あのひとはあすこの家へいつも鍵をあずけるんだから。ああ、ちょうどあれがマダム・ド・カペルナウモフです。え? なんですって? (あの女は少しつんぼなんでね)出て行ったんですって? どこへ? さあ、今こそお聞きになったでしょう? あの人は留守なんですよ。そしてことによったら、夜遅くまで帰らないかもしれませんぜ。じゃ、今度はわたしの部屋へ行きましょう。だって、わたしのところへも寄るとおっしゃったじゃありませんか? さあ、これがわたしの部屋です。レスリッヒ夫人は家にいません。あの女は年じゅういそがしそうにしていましてね。しかしいい人ですよ、実際……あなたにもう少し分別があったら、あなたの役に立ったかもしれないんだがなあ。さあ、そこでごらんください。わたしは事務卓から五分利つき債券を一枚出しますよ(こいつがまだこんなにあるんですよ)。ところで、この一枚をきょう両替屋で現なまにするんです。さあ、ごらんになりましたか? だが、もうこの上時間をつぶしてる暇がない。事務卓に鍵をかけて、部屋に鍵をかけてと、我々はもう一度階段へ出たわけです。ところで、なんなら辻馬車をやといましょうよ。わたしは島へ行くんですよ。少しばかりドライブはいかがですな? そこで、わたしはこの馬車をやとって、エラーギン島へ行きますが、え、なんですって? おいやですか? とうとう意地が張り切れなかったんですね? 少しばかりドライブしましょう、なんでもありませんよ。どうやら雨がやってきそうだが、なにかまいませんよ、幌をおろしますからな……"
],
[
"ソフィヤ・セミョーノヴナは承知してらっしゃるんですか?",
"いや、あのひとにはなんにも話してありません。それに、いま家にいるかどうか、それさえ不確かなくらいですからね。しかし多分いるでしょう。あのひとも今日は自分の身うちを葬ったばかりだから、お客のところを歩き回るような日じゃありませんからね。わたしは時期が来るまで、このことを誰にも話したくないので、あなたにお知らせしたのさえ、いささか後悔してるくらいなんですよ。この際ほんのわずかな不注意でも、密告と同じになるんですからね。わたしはすぐそこにいるんです、ほらあの家に。さあもうそばまで来ました。ほら、あれがこの家の庭番です。庭番はよくわたしを知っておりますよ。ほらおじぎをしているでしょう。あの男はわたしが婦人同伴で歩いているのを見たわけだから、もうむろんあなたの顔も見覚えたでしょう、もしあなたがひどくわたしを恐れて、疑っていらっしゃるとすれば、これはあなたにとって有利なわけですよ。いや、どうかこんなにずけずけ言うのをお許しください。わたしは借家人から部屋をまた借りしているんですよ。ソフィヤ・セミョーノヴナはわたしと壁一重の隣り合せで、やはり借家人からまた借りなんです。この階はすっかり間借人でいっぱいなんでしてね。あなた何をそう子供みたいにこわがることがあります? それとも、わたしがそんなに恐ろしい人間なんでしょうか?"
],
[
"さあこちらを、この二つ目の大きな部屋をごらんください。そして、このドアに注意していただきます。これには鍵がかかっているんです。それからドアの傍に椅子があるでしょう、二つの部屋を通じてたった一脚きりです。これは聞くのに便利なように、わたしが自分の部屋からもって来たのです。それから、あのドアのすぐ向こう側に、ソフィヤ・セミョーノヴナのテーブルがあるんです。あのひとはそこに腰をかけて、ロジオン・ロマーヌイチと話をしていたわけなので。わたしはこの椅子にかけながら、二晩続けて、しかも二度とも二時間くらい、ここで立聞きしたんですよ――だから、もちろん、わたしも何か少しは知ることができるだろうじゃありませんか。あなたはどうお考えですね?",
"あなたは立聞きなすったんですって?",
"さよう、立聞きしました。さあ、そろそろわたしの部屋へ行きましょう。ここは腰をかける所もありませんから"
],
[
"もしお信じにならないのなら、どうして一人でわたしのところへ来るなんて、そんな冒険がおできになるものですか? いったいなんのためにいらっしたんです? ただ好奇心のためですか?",
"わたしを苦しめないで、言ってください、言ってください!",
"あなたがしっかりしたお嬢さんなのは、申すまでもないことです。わたしは全くのところ、あなたがきっとラズーミヒン氏に頼んで、ここへついて来ておもらいになる事と思っていましたよ。ところが、あの人はあなたと一緒にもいなかったし、あなたのまわりにも見えなかった。わたしはよく見たんですからね。これは全く大胆ですよ。これでみると、あなたはつまりロジオン・ロマーヌイチをいたわりたかったんですね。もっとも、あなたの持っていらっしゃるものは、すべて神々しい……ところで、あなたの兄さんに関しては、この上何を話すことがありましょう? あなたは今ご自分で、あの人をごらんになったじゃありませんか。まあ、どんな格好でした?",
"あなたはまさか、それだけのことを根拠にしてらっしゃるんじゃありますまいね?",
"いや、そんな事じゃありません。あの人自身のことばが根拠ですよ。現にここへ、ソフィヤ・セミョーノヴナのところへ、あの人は二晩つづけてやって来たんですよ。二人がどこに腰かけていたか、それは先刻お目にかけたとおりです。そこで兄さんはあのひとに一部始終を告白したんですよ。兄さんは人殺しです。自分で質を置きに行っていた、ある官吏の後家さんで、質屋をしている婆さんを殺したのです。それから、婆さんの殺されたところへ偶然はいって来た、妹のリザヴェータという古着商売の女もやはり殺してしまったのです。二人とも持って行った斧でやっつけたんです。つまり、もの取りのために殺したんで、それを実行したんですよ、金とそれから何やかやの品物を取ったんです……これを兄さんはそっくり詳しく、ソフィヤ・セミョーノヴナに話したんです。で、秘密を知ってるのはあのひと一人きりですが、しかしあのひとは口でも行ないでも、殺人に関係はありません。それどころか、今のあなたと同じように、ぞっとするほど驚いたくらいです。しかし、ご安心なさい、あのひとはけっして兄さんを売るようなことはしませんから"
],
[
"アヴドーチャ・ロマーノヴナ、こういうことには、幾千、幾百万という組合せや分類があるものですよ。泥棒はものを盗むが、その代わり内心ひそかに、自分は卑劣漢だと承知しています。ところでわたしは、郵便物を掠奪したある高潔な人間のことを聞きましたよ。いや、全くその男はほんとうに立派なことをしたと、思っていたのかもしれませんて! もちろんわたしにしても、これがもし脇から聞いた話なら、あなた同様、けっして本当にはしなかったでしょう。しかし、現在自分の耳を信じないわけにはいかなかったのです。兄さんはソフィヤ・セミョーノヴナに、ありたけの原因を説明なすったけれど、あのひとは初め自分の耳さえ信じませんでしたよ。しかし、とうとう目を信じました。自分自身の目を信用したのです、何しろ兄さんが自分であのひとに話したんですからね",
"いったいどんな……理由なんですの?",
"話せば長い事ですよ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。そこには、さあなんと言ったらいいか、一種の理論があるんですよ。つまり、こういうわけなんです。たとえば、おもな目的さえよければ、一つぐらいの悪業は許さるべきだという、あれと同じ理屈なんですね。一つの悪業と百の善行! その上に、もちろん、はかりしれないほど自尊心の強い才能のある青年にとって、たとえば、三千ルーブリかそこいらの金がありさえすれば、生活の行程も将来もすっかり別なものになってしまうはずだのに、その三千ルーブリがないと意識したら、屈辱を感ぜざるを得ないですからな。そこへもってきて、飢えと、狭苦しい部屋と、ぼろぼろの服と、自分の社会的地位のみじめさに対する明瞭な自覚と、それと同時に妹や母の境遇を思う心、こういうものから起こる焦燥を勘定に入れてごらんなさい。しかし、何よりも一番の原因は虚栄心です、自負心と虚栄心です。もっとも、こりゃあるいはいい傾向のものかもしれませんがね……わたしは何も兄さんを責めてるんじゃありませんよ。どうかそんなことを思わないでください。それにわたしの知ったことじゃないんですからね。そこにはもう一つ独特の理論があったんです――一とおりまとまった理論ですがね――それによると、いいですか、人間は単なる材料と特殊な人間に分類されるんです。そのうち後者は、生存の高い地位のお蔭で掟の制裁を受けないのみか、かえってその他の人間――つまり材料、塵あくたに対して、掟を作ってやるというわけです。なに、一とおりものになった理論ですよ。Une théorie comme une autre(その他の理論と同じような理論です)それに兄さんは、ナポレオンにすっかり参ったんですね。というより、多くの天才が個々の悪にとらわれないで、ためらうことなく踏み越して行った、ということにひきつけられたんですね。兄さんはどうやら、自分も天才だと考えたらしい――つまり、しばらくの間そう確信しておられたんですよ。兄さんはひどく苦しまれた、そして現に今も苦しんでいらっしゃる、というのは、理論を考え出すことはできたが、ちゅうちょなく踏み越えて行くことができない、したがって自分は天才ではない、とそう考えたからです。もうこれなどは自尊心の強い青年にとって、それこそ屈辱ですからね。ことに現代では特別……",
"でも、良心の呵責ってものが? そうすると、あなたは兄に道徳的な感情がまるっきりないと思ってらっしゃるんですね? まあ、いったい兄がそんな人間でしょうか?",
"ああ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、現代は何もかもが溷濁してしまってるんですよ。もっとも、今までだって、特にきちんとしていたことはありませんがね。元来ロシア人てやつはね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ、ちょうどその国土と同じように広漠とした人間で、幻想的なだらしのないことにひきつけられる傾向を、やたらに持っているんです。しかし、特殊な天才もなくて、ただ広漠としてるんじゃ困りものですからね。あなたも覚えてらっしゃるでしょう、毎晩いつも夕食のあとで、あなたと二人、庭の露台に腰かけて、よくこれと同じような題目で、これと同じようなことを、盛んに話したものじゃありませんか。おまけにあなたはその広漠性で、わたしを攻撃なすったものですが、ねえ、もしかすると、兄さんがここで横になって、自分の理論を考えていたのとちょうど同じ時刻に、わたし達もそれをしゃべっていたのかもしれませんよ。われわれ教養階級には、特に神聖な伝統というものがないんですからね、アヴドーチャ・ロマーノヴナ。ただ誰かがどうやらこうやら、本を頼りに組み立てるか……それとも、年代記から何か引張り出して来るのが関の山です。しかし、そんなのはどっちかといえば学者だから、たいていはまあ一種のやぼなまぬけです。従って社交界の人にはぶしつけなくらいですよ。概してわたしの考えはあなたもご承知ですが、わたしはけっして人を責めない人間です。わたし自身が白手で、またそれを固守してるんですからね。しかしこのことは、わたし達もう一再ならずお話ししましたっけ。それどころか、わたしの議論があなたの興味をひいたことすらあったくらいです……あなた、大へん顔色が悪いじゃありませんか、アヴドーチャ・ロマーノヴナ",
"わたしもその理論は知っています。いっさいを許されている人間を論じた兄の文章を、わたし雑誌で読みました……ラズーミヒンさんが持って来てくだすったので……",
"ラズーミヒン氏が? あなたの兄さんの論文を? 雑誌にのった? そんな論文があるんですか? わたしは知らなかった。それはきっと面白いに違いない! ですが、あなたはどこへいらっしゃるんです、アヴドーチャ・ロマーノヴナ"
],
[
"悪党! まだ人をなぶってる。わたしを出してください……",
"あなたどこへ行くんです? どこへ?",
"兄のところへ。兄はどこにいます? あなたご存じでしょう? どうしてこのドアに鍵がかかってるんです? わたし達はこの戸口からはいって来たのに、それが今は鍵がかかってる。いつの間にあなたは鍵をかけたんです?",
"わたし達がここで話し合ったことを、家じゅうの部屋へ筒ぬけに聞かれちゃ困りますからね。わたしはけっしてなぶってなんかいません。唯わたしはあんな調子で話してるのに、あきあきしたのです。ねえ、あなたはそんな風をして、どこへいらっしゃるんです? それとも、兄さんをわたしたいんですか? あなたは兄さんを気ちがいにしてしまって、あの人が自分で自分をわたすようにしたいんですか? 兄さんはもう目をつけられて、手が回ってるんですからね。それを承知してください。そんな事をしたら、兄さんをわたすばかりですよ。まあおかけなさい。一緒によく考えようじゃありませんか。わたしがあなたをお呼びしたのは、あなたと二人きりでこの事を相談して、よく思案をするためなんですよ。まあ、おかけなさいったら!",
"どうして兄を救うことがおできになるんです? ほんとうに兄を救うことができるんですの?"
],
[
"鍵はどこ? すぐドアをあけておくれ、今すぐ、なんて卑怯な男だろう!",
"鍵はなくしてしまいました。どうしても見つかりません"
],
[
"したけりゃ告訴するがいい! 一足だってそこを動いたら! 撃ってしまうから! お前は奥さんを毒殺したじゃないか、わたしはちゃんと知ってる、お前こそ人殺しだ……",
"じゃ、あなたはわたしがマルファを毒殺したと、はっきり確信していらっしゃるんですね!",
"お前だとも! お前が自分でわたしににおわしたじゃないか。お前はわたしに毒のことを話した……お前が毒を買いに町まで行って来たのを……わたしはちゃんと知っている……お前は前から用意していたのだ……それはもうお前に違いない……悪党!",
"もし仮りにそれが事実だとしても、それもお前のためなんだ……やはりお前が因なんだ",
"嘘をつけ! わたしはお前を憎んでいた、いつも、いつも……",
"ええっ、アヴドーチャ・ロマーノヴナ! あなたは伝道熱で夢中になって、つい妙なそぞろ心になったのを、お忘れになったとみえますね……わたしはあなたの目つきでわかりましたよ。覚えてらっしゃるでしょう? あの晩、月が照らして、おまけにうぐいすまで啼いていましたっけ……",
"嘘をつけ! (ドゥーニャの目の中にはもの狂おしい憤怒がひらめいていた)。そんなことはない、嘘つき!",
"嘘だって? いや、まあ嘘かもしれない。わたしは嘘を言いましたよ。女にこんなことを言うものじゃないんだ(と彼は薄笑いを漏らした)。おれもお前がぶっ放すのは知ってるよ、まるで可愛いい野獣だ。さあ、撃て!"
],
[
"ええっ、もうたくさんですよ、たくさんですよ",
"で、この金は、アルカージイ・イヴァーヌイチ、まことに有難うはございますけど、わたし、今のところ差し向き入用ございませんの。わたし一人だけの糊口はいつでもできますから。どうか恩知らずだなどとお思いくださいませんように。あなたはそれほどお情ぶかい方でしたら、どうぞこのお金は……",
"あなたのものです、あなたのものです。ソフィヤ・セミョーノヴナ、どうかもうとかくの押し問答はぬきにしてください。それに私は暇もないんですから。あなたには入用になりますよ。ロジオン・ロマーヌイチの行く道は二つしかありません――額へ弾丸を撃ち込むか、それともウラジーミルカ行きです(ソーニャは気うとい目つきで相手を見て、わなわなと震え出した)。ご心配には及びません。私はあの人自身の口から、何もかも知ったんですが、しかし私はそんなおしゃべりじゃありませんからね。誰にも言やしません。あなたがいつかあの人に、自首しろとおすすめなすったのはいいことでした。その方があの人のためにずっと有利ですよ。ところで、ウラジーミルカ行きの宣告がおりて、あの人がそちらに行ったら、あなたもあとを追っていらっしゃるでしょう? ね、そうでしょう? そうでしょう? ねえ、もしそうとすれば、つまりさっそく金がいるわけじゃありませんか。あの人のためにいるんですよ、わかりましたか? あなたに差し上げるのは、あの人に上げるも同じことなんです。それに、あなたはほらアマリヤ・イヴァーノヴナに、借金を払う約束をなすったじゃありませんか。私は聞いていましたよ。いったいなんだってあなたはいつも無考えに、そんな約束や義務をお引受けになるんです? だって、カチェリーナ・イヴァーノヴナこそ、あのドイツ女に借金しておられたけれど、それはあなたの借金じゃないじゃありませんか。だから、あなたはあのドイツ女なんかには、唾でもひっかけてやればよかったんです。そんな風では世渡りはできやしませんよ。さてそこで、もしいつか、誰かがあなたに――まあ、明日なり明後日なり――私のことでなければ、私に関係した事を尋ねたとしても(あなたは必ずきかれるでしょうよ)、私が今ここへお寄りしたことは言わないように、そして金も見せないようにしてください。また私があなたに差し上げたということを、けっして誰にも言っちゃいけませんよ。では、もうお暇します(彼は椅子から立ち上がった)。ロジオン・ロマーヌイチによろしく。それからついでですが、金は入用の時まで、ラズーミヒン氏のところへでもあずけておおきなさい。ラズーミヒン氏をご存じでしょう? いや、むろんご存じのはずです。なに、なかなかいい男ですよ。あの人のところへ明日にでも、つまり……時が来たら、持っていらっしゃい。それまでは、なるべくしっかり隠しておおきになるといい"
],
[
"どうしてあなたは……どうしてあなたは、今こんな雨の中を出ていらっしゃいますの?",
"なあに、アメリカまで行こうというものが、雨を恐れていてどうしますか、へ、へ! さようなら、可愛いいソフィヤ・セミョーノヴナ! 生きてらっしゃい、いつまでも生きてらっしゃい。あなたは他人のためになる人ですからね。ついでに……どうかラズーミヒン氏に、私からよろしくとお伝えください。どうかこのとおりに伝えてくださいませんか――アルカージイ・イヴァーヌイチ・スヴィドリガイロフがよろしくって。ぜひともね"
],
[
"そりゃできます",
"それから何がある?",
"こ牛肉と、ウォートカと前菜で",
"こ牛肉と茶を持って来てくれ"
],
[
"ここ場所ない",
"僕はね、君、これからよその国へ行こうとしてるんだよ",
"よその国へ?",
"アメリカへ",
"アメリカへ?"
],
[
"いったいなにする、ここそんな冗談、場所ない!",
"どうして場所でないんだろう?",
"どうしても、場所ない",
"なあに、君、そんなことはどうでもいいんだよ。いい場所じゃないか。もし聞かれたら、アメリカへ行ったと答えときなさい"
],
[
"でもねえ、ロージャ、わたしがどんなに馬鹿でも、それでもお前が近いうちに、今の学者仲間で、よしんば一番えらい人でなくても、えらい人の一人になれるってことは、ちゃんと見分けがつくよ。それだのにあの人たちは、お前の気が狂ったなんて、よくも考えられたものだね。ほ、ほ、ほ! お前は知らないだろうけれど――でも、あの人たちはそんなことを考えたんだよ! なんの、あんな卑しい虫けらみたいな連中に、偉い人の頭がどうしてわかるもんかね! でもドゥーネチカがね、ドゥーネチカまでが、すんでのことでそれを本当にするとこだったのさ――ほんとになんということだろう! お前のなくなったお父様もね、二度ばかり雑誌へ原稿をお送りになったことがあるんだよ――初めは詩で(わたしはちゃんと原稿をしまってるから、いつかお前にも見せてあげようね)、二度めのはもうまとまった小説だった(わたしは無理にお父様にお願いして、それを清書させてもらったんだよ)。それからわたしたちは二人で、どうか載りますようにと祈ったんだけれど――載らなかったっけ! わたしはね、ロージャ、六、七日前までは、お前の身なりや、お前の住まいや、食べているものや、はいて歩くものなどを見て、どんなにつらかったかしれないんだよ。でも、今になってみると、これもやはりわたしが馬鹿だったと、合点がいったよ。だってお前はその気にさえなれば、今だってなんでも頭と腕で手に入れることができるんだものね。つまり、お前は今のところ、そんなものが欲しくないので、ずっとずっと偉いことをしているわけだわね……",
"ドゥーニャは家にいないんですか、お母さん?",
"いないんだよ、ロージャ。このごろあの子はしょっちゅう家をあけて、わたしを一人ぽっちにするんだよ。でも、有難いことに、ドミートリイ・プロコーフィッチがちょいちょい来てくだすってね、わたしの相手をしてくださるんだよ。いつもお前の話が出るが、あの人はお前を好いて、そして尊敬していらっしゃるね、ロージャ。妹の方は、大してわたしを粗末にするなんて、そういうわけじゃないんだよ。わたしは別に不足なんかありません。あの子の気性はああだし、わたしの性分はまた別なんだからね。あれには何やら秘密ができたらしいが、わたしはお前たちに隠すことは一つもありません。もっとも、わたしはドゥーニャが十分かしこい人間だってことも知っているし、おまけにわたしやお前を愛していることもよくわかってはいるがね……でも、結局これがどうなることだか、まるで見当がつかないんだよ。今もね、ロージャ、お前はこうして出かけて来て、わたしを喜ばせておくれだけれど、あの子はこのとおりふらふら出てしまった。帰って来たら、わたしそう言ってやるよ――お前の留守に兄さんが見えたが、いったいお前はどこで暇をつぶしておいでだった? ってね。でも、ロージャ、あまりわたしを甘やかさないでおくれ。お前の都合がよかったら――寄っておくれ。悪かったら――どうも仕方がない。わたしは待っているよ。だって、なんといっても、お前がわたしを愛してくれるのは、わたしも知っているから、わたしはそれでたくさんだもの。こんな風にお前の文章を読んだり、みんなからお前の噂を聞いたりしていると、そのうち、ひょっこり自分で訪ねて来てくれる。ね、それよりけっこうなことはないじゃないか! 現に今だってこの通り、お母さんを慰めに来てくれたんだものね。わたしは自分でもわかるよ……"
],
[
"旅に行くんですよ",
"わたしもそうだろうと思っていた! わたしだってね、もしそうした方がよければ、お前と一緒に行ってもいいんだよ。ドゥーニャだってそうです。あの子はお前を愛していますよ、それはそれは愛していますよ。それからソフィヤ・セミョーノヴナも、なんなら一緒に連れて行ってもいいよ。わたしは喜んであの人を娘の代わりにしますよ。ドミートリイ・プロコーフィッチが一緒に出立の手伝いをしてくださるから……だが……いったいお前は……どこへ行くの?",
"では、さようなら、お母さん"
],
[
"わたしが一緒に行ってはいけないの?",
"いや、それよりお母さん、膝をついて僕のため祈ってください。あなたのお祈りはきっと届くでしょうから",
"じゃ、お前に十字を切らしておくれ、お前を祝福して上げるから! これでいい、これでいい。ああ、まあいったいわたしたちは何をしているのだろう!"
],
[
"いいえ",
"お前また来ておくれだろうね!",
"ええ……来ます",
"ロージャ、腹を立てないでおくれ、わたしは別に、くどくどきこうとしやしないから。そんなことができないのは、よく承知しているんだから。でも、ちょっと、たった一言でいいから言っておくれ。お前はどこか遠いところに行くの?",
"非常に遠くです",
"すると、そこに勤め口とか、出世の道とか、何かそんな風のものでもあるの?",
"何ごとも神様の思召ししだいです……ただ僕のために祈ってください……"
],
[
"一生の別れじゃないだろうね? まさか一生の別れじゃないだろうね? ね、お前来ておくれだろうね、明日にも来ておくれだろうね?",
"来ますよ、来ますよ、さようなら"
],
[
"いや、話はしなかった……ことばでは。けれど、お母さんは大分もう察しがついたよ、お母さんはね、夜中にお前の言ったうわ言を聞いたんだよ。お母さんはもう半分くらいわかっていると思うね。僕が行ったのはよくなかったかもしれない。なんのために行ったんだか、それさえわからないほどだ。僕は下劣な人間だよ、ドゥーニャ",
"下劣な人間ですって、でも、苦しみを受けに行く覚悟がついてらっしゃるんでしょう! 兄さんはいらっしゃるんでしょう?"
],
[
"しかし、これはごうまんというものだろうか、ドゥーニャ?",
"ごうまんだわ、ロージャ"
],
[
"ドゥーニャ、お前は泣いてるね。では、お前ぼくに手がのばされるね!",
"兄さんはそんなことまでお疑いになったの?"
],
[
"だって、それは見当ちがいよ、まるっきり見当ちがいよ! 兄さん、それはいったい、なにをおっしゃるの!",
"ははあ! それじゃ形式が違うというんだね、審美的に気持のいい形式じゃないというんだね! だが、僕はまるっきり合点がいかないよ――大勢の人間を爆弾や、正規の包囲攻撃でやっつけるのがより多く尊敬すべき形式なんだろうか? 審美的な恐怖は、無力を示す第一の徴候だよ!……僕は一度も、まったくただの一度も、今ほどこれをはっきり意識したことはない。そして、今までにもまして、いっそう自分の犯罪理由を解しないよ! 僕は一度も、まったくただの一度も、今ほど強くなったことはない、今ほど確信を持ったことはない!……"
],
[
"ラスコーリニコフです",
"ああ、そう、ラスコーリニコフ! あなたはまさか、我輩が忘れたのだなんて、お考えになりゃしないでしょうな! どうかお願いですから、我輩をそんな人間とお思いなさらんように……ロジオン・ロ……ロ…… ロジオーヌイチ、確かそうでしたな?",
"ロジオン・ロマーヌイチです",
"そう、そう、そう! ロジオン・ロマーヌイチ! ロジオン・ロマーヌイチ、それを我輩もいろいろ苦心して、なん度も調べたくらいですよ。我輩は白状しますが、あの時以来、心から遺憾に思っていたのです。あの時われわれがあなたに対して、その……我輩はあとで説明を聞きましたが、あなたは青年文学者というより、学者といってもいいくらいで……いわば……その第一の試みだということで……まったく、そうですとも! ねえ、いったい文学者や学者で、手はじめに奇想天外的な第一歩を踏み出さない人が、およそ誰かあるでしょうか! 我輩も家内も――二人とも文学を尊重している方でしてな、ことに家内などは夢中なくらいですよ! 文学と芸術にね! 人間ただ高潔でさえあれば、ほかのものはすべてなんでも、才能と、知識と、理性と、天才で獲得できますからね! 帽子――たとえば、帽子なんかいったいなんです? 帽子は薄餅も同じことで、そんなものはチムメルマンの店で買えます。けれど、帽子の下に守られるもの、帽子でおおわれるものになると、もう買うわけにいきませんて!……実をいうと、我輩はあなたのお宅へ釈明に上がろうとさえ思ったのです。けれど、また事によったら、あなたもなんだろう……と思いましてな。いや、それはそうと、お尋ねもしないでおりましたが、あなたはほんとうに何かご用ですか? 聞けば、あなたのところへ身内の方がみえたそうですね?",
"え、母と妹が",
"いや、お妹さんにはもう拝顔の光栄と幸福を得ましたよ――教養のある美しい方ですな。実をいうと、我輩はあの時あなたを相手に、ああまで興奮し合ったのを、遺憾千万に思いましたよ。変な事でしたな! あの時我輩はあなたの卒倒を一種特別な目で見ましたが――それもあとで、きわめて明瞭な解釈が得られましたよ! 狂信です、ファナチズムです! あなたが憤慨されたのもごもっともですよ。で、ご家族がみえたのを機会に、住まいでもお変わりになるのですかな!",
"い、いや、僕はただその……僕はちょっとお尋ねしようと思って寄ったんです……ザミョートフ君が来ておられるかと思って",
"ああ、そうですか! あなた方は仲よしになられたんでしたっけね。聞きましたよ。ところが、ザミョートフはここにおりません――お気の毒さま、さよう、われわれはアレクサンドル・グリゴーリッチを失いましたよ! 昨日から現存しないわけです。転任したんで……しかも、転任して行きがけに皆と喧嘩までしたんですからね……もう無作法と言っていいくらいですて……軽率な小僧っ子、それっきりですよ。将来のぞみを嘱するに足りそうでしたがね。しかしまあ、あの連中と――このごろの華々しい青年諸君と、ちょっとしばらく一緒にやってごらんなさい! あの男は何か試験を受けるとか言ってるんだけれど、このごろのはちょっと何かしゃべって、少しばかり空威張りしてみせると、それで試験はおしまいなんですからな。そりゃ全く、たとえばあなたとか、あなたの親友のラズーミヒン氏なんかとはまるで違いますよ! あなたの専門は学問の方だから、けっして失敗なんかにめげるようなことはありゃしません! あなたにとっては人生のあらゆる美も、いわば―― Nihil est(空の空で)で、あなたはつまり禁欲主義者であり、修道士であり、隠者であるわけでしょう!……あなたにとっては、本とか、耳にはさんだペンとか、学術的研究とかが大切なので、こういうものの間に精神が高翔しているんです! 我輩も多少はその……ときに、あなたはリヴィングストンの手記をお読みになりましたか?",
"いや",
"ところが、我輩は読みましたよ。もっとも、このごろやたらに虚無主義者がはびこってきましたな。しかし、それも当然な話で、時代がこういう時代ですからな。え、そうじゃありませんか? もっとも、我輩はあなたと……ねえ、あなたはもうむろん、虚無主義者じゃありますまいね? どうか腹蔵なく答えてください、腹蔵なく!",
"い、いいや……",
"いや、どうぞ我輩には腹蔵なくやってください、どうぞ自分一人きりのつもりで、遠慮なく話してください! 但し、職務は別問題ですがな、こりゃ別問題です……あなたは我輩が友情を言いそこなったとお思いですか。いや、そりゃご想像ちがい! 友情じゃありません。市民として、人間としての感情です。人道的感情、全能なる神に対する愛の感情です。我輩も職務に当たっては、一個の公人にもなり得ますが、しかし、我輩は常におのれを市民であり、人間であると感じ、その責任を完了せんけりゃならんのです……今あなたはザミョートフのことを言われましたが、ザミョートフなんか、あの男はけしからぬ場所へ出入りして、シャンパンやぶどう酒などを飲みながら、フランス風の醜態を演じようというやつです――あなたのザミョートフはこんな男ですよ! ところが、我輩は忠誠と高潔な感情に燃えておりましてな、その上に身分もあり、官等もあり、ちゃんとした地位も占めております! それに家内もあって、子供も持っている。市民として、人間としての義務をも履行しております。ところでお尋ねしますが、あのザミョートフはそもそも何ものです? 我輩はあなたを教養のある、品位の高い人としてお話ししてるんですよ。ときに、あの産婆ってやつがやたらにふえていきますなあ"
],
[
"え! あなたはスヴィドリガイロフをご存じなんですか?",
"ええ……知ってます……ついこのあいだ来たばかりです……",
"そう、このごろ上京したばかりです。細君をなくしたんだが、身持のよくない男でしてね。それが急に拳銃自殺をやったんです。しかも、お話にならないような醜態でしてな……手帳の中には、自分は正気で死ぬのだから、自分の死因で人を疑ってくれるなということが、二言三言書き残してありました。この男は金を持っておったそうですがね。どうしてあなたはご存じなんです?",
"僕は……知合いなんです……妹がその男のところへ家庭教師で住みこんでいたので……",
"おや、おや、おや……してみると、あなたはあの男のことで、何かお話しくださることがおできですね。あなたはそんな風の疑いをいだかれたことはありませんか?",
"僕は昨日あの男に会いました……酒を飲んでいましたが……僕なんにも知りません"
],
[
"僕はただ……僕はザミョートフ君のところへ……",
"わかってます、わかってます。おかげで愉快でした"
]
] | 底本:「罪と罰 上」角川文庫、角川書店
1954(昭和29)年9月30日初版発行
2008(平成20)年11月25日改版初版発行
「罪と罰 下」角川文庫、角川書店
1954(昭和29)年10月10日初版発行
2008(平成20)年11月25日改版初版発行
底本の親本:「罪と罰 上」角川文庫、角川書店
1954(昭和29)年9月30日初版発行
1968(昭和43)年5月13日改版初版発行
「罪と罰 下」角川文庫、角川書店
1954(昭和29)年10月10日初版発行
1968(昭和43)年5月23日改版初版発行
初出:「ドストイエフスキイ全集 第五巻」三笠書房
1935(昭和10)年1月20日発行
※「五辻《ピャーチウグロフ》」と「|五つ辻《ピャーチ・ウグロフ》」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:高柳典子
校正:門田裕志、Juki
2021年10月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "056656",
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"初出": "「ドストイエフスキイ全集 第五巻」三笠書房、1935(昭和10)年1月20日発行",
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"生きてゐるとも。しかも極壮健でゐるのだ。為合せな事には、呑まれる時体に少しも創が付かなかつた。唯一つ気に掛かる事がある。外でもないが己がこんな所に這入り込んでゐるのを、上役が聞いたら、なんと云ふかと云ふのが問題だ。外国旅行の許可を得てゐながら、鱷の腹の中に這入つてぐづ〳〵してゐると聞いては、どうも気の利いた人間のやうには思はれまいて。",
"あの。人に気が利いてゐると思はれようなんぞと云ふ事はかうなればどうでも好いでせう。それよりか、どうにかして早く外へ引き出してお貰ひなさらなくつてはなりませんわ。"
],
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"それはなぜでせう。中々容易に想像の出来ない、非常な事かと思ふのですが。",
"それはあなたの云はれる通りかも知れません。併しあのイワンと云ふ男は役をしてゐる間中見てゐますと、どうもこんな末路に陥りはしないかと懸念せられたのですよ。兎角物事に熱中する癖があつて、どうかすると人を凌駕するやうなところもあつたのです。二言目には進歩と云ふ事を言ふ。それから種々な主義を唱へるのですな。あんな風な思想を持つてゐるとどうなるかと云ふ事が、これで分かるやうなものです。",
"どうもさう仰やつても、この度の事件は実際非常な出来事ですから、それを進歩主義者の末路が好くないと云ふ証拠にするわけには行かないやうに思ふのですが。"
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[
"いや〳〵そんな事はありません。イワンも是非あなたの御意見が伺ひたいと云つてゐました。詰まりあなたの御指導に依つてどうにでも致さうと云ふのです。なんとか云つて戴かうと思つて、そのあなたのお詞を待つてゐるのです。目に涙を浮べて待つてゐるのです。",
"目に涙を浮べて。ふん。それは多分所謂鱷の目の涙でせう。なにもそれを真に受けるには及びません。一体なんだつて外国旅行なんぞを企てたのです。あなたゞつて、それを考へて御覧になるが好い。一体その旅費はどこから出るのです。あの男は財産はないのですからね。"
],
[
"ヰルヘルム・テルの故郷に行くのですね。ふん。",
"それからナポリへ出て春を迎へようと云ふのでした。博物館を尋ねたり、あつちの風俗を調べたり、変つた動物を見たりしようと云ふのですね。",
"ふん。動物ですか。どうもわたしの察しるところでは、あれは高慢の結果で企てたのですね。動物なんて、どんな動物を見るのでせう。ロシアにだつて、動物は幾らもゐまさあ。それに見せ物もある。動物園もある。駱駝もゐる。熊なんぞはペエテルブルクの直傍にもゐる。余計な事を思つて、とう〳〵自分が動物の腹の中へ這入つたのです。お負けに鱷の腹なんかに。",
"どうぞさう仰やらないで、少しは気の毒だとお思ひなすつて下さい。あの男は不為合せになつた今日、平生の御交際を思つて、丁度親類中の目上の人に依頼するやうに、あなたに相談相手になつて戴きたいといふのです。それにあなたはあの男を非難してばかりお出になる。せめては女房のエレナにでも御同情なすつて下さいませんか。"
],
[
"併しどうも不運で非常な事に逢つたのですから。",
"それはさうです。併し。",
"ところでどうしたものでせう。",
"さあ。一体これをわたしがどうすれば好いと云ふのですか。",
"兎に角どうしたら宜しからうか、その辺のお考を仰やつて下さい。御経験のおありになるあなたの事ですから。どう云ふ手続にいたしたら宜しいでせう。上役に申し出たものでせうか、それとも。"
],
[
"でもいつまで待つたら宜しいと云ふお見込でせうか。もしその内に窒息でもいたしたら。",
"そんな事はないぢやありませんか。先刻のお話では、至極機嫌好くしてゐると云ふではありませんか。"
],
[
"ふん。成程。わたしの考へでは外国なんぞをうろ付き廻るより、暫く現位置にぢつとしてゐた方が好いですな。丁度暇が出来たと云ふものだから当人もゆつくり反省して見たが好からう。無論窒息なぞをしては行けないから、多少の摂生上の注意をするが好いでせう。例之へば妄りに咳なんぞをしないが好いです。その外色々注意の為やうもありませう。さてそのドイツ人ですが、わたしの考ではその男の申立には、十分の理由がありますね。兎に角鱷はその男の所有物です。イワンはその中へ、持主の許可を得ずして入り込んだと云ふものです。これが反対の場合だとさうでもありませんがね。そのドイツ人がイワンの持つてゐる鱷の中へ潜り込んだのだとすれば、場合が違つて来ます。勿論イワンは鱷なんぞは持つてゐなかつたのですがね。兎に角鱷は人の所有物ですから、それを妄に切り開ける事は出来ません。と申すのはその持主に代価を辨償せずに、切り開ける事は出来ないのです。",
"併し人命を助けるのですから。",
"さやう。併しそれは警察権に関係します。その問題は警察へ持つて行かなくては駄目です。",
"ところでイワンの行方が分からないと云ふ事になつたらどうでせう。何かあの人に用事でも出来たと云ふ場合は。",
"あの人にとはイワンにですか。ふん。なに、休暇中の事ですから、どこにゐようと、何をしてゐようと構はぬが好いです。ヨオロツパを遊歴してゐようが、ゐまいが、構ふ事はありません。それは時が立つてから、あの男が帰つて来ないとなると、それは別問題です。その時捜索もし取調べもすれば好いです。",
"それは三月も先の事です。余りあの男に気の毒ではありませんか。",
"されば。どうも自業自得ですからな。一体誰があの男に、鱷の中へもぐり込めと云つたのです。どうにかして遣ると云へば、政府が鱷の中へ這入つた男に介抱人でも付けなくてはならんと云ふのですか。そんな費用は予算に見込んでありませんからな。それはさうと要点はかうです。鱷は個人の所有物ですから、所謂経済問題が起るです。何より先に経済問題を考へなくてはなりません。一昨日もルカ・アンドレエヰツチユの宴会の席で、イグナチイ・プロコフイツチユがその点を委しく論じましたつけ。時にイグナチイは御承知ですね。資産家で事業家です。御承知かも知れませんが話上手ですよ。こんな風に云つてゐました。産業を起すのが急務だ。それがロシアでは欠けてゐる。それを起さなくてはならない、新しく生まなくてはならない。それには資本がいる。それには所謂中流社会が先づ成立たなくてはならない。ところで内地にはまだその資本がないから、外国に資本を仰ぐより外ない。現に外人の会社が出来てゐて、盛んに内国の土地を買入れようとしてゐる際だから、彼に十分の利益のあるやうな条件で、土地を買はせて遣るが好い。現在の自治体で、共同工事をしたり、共同財産を持つてゐたりするのは、その所謂財産が無財産と同一だから詰まり毒だ。詰まりロシア人の破産だ。まあ、こんな風に、熱心に云つてゐましたよ。なんにしろ資産家ですから、そんな議論も出来るのですね。官吏なんぞとは違ひますからな。それからかう云ふです。現在の自治体では、工業を起す事も農業を盛んにする事も出来ない。外人の立てゝゐる会社に、出来る事なら全国の土地を買はせるが好い。その上で広い地区を細に、細に分割する。分、割と、一字一字力を入れて云つて、手の平で切る真似をしたです。さて細に分割した上で、望の百姓どもにそれを売る。売らなくても好い。貸しても好い。兎に角全国の土地が外人の立てた会社の所有になつてゐる以上は、借地料は幾らにでも極められる。さうなれば百姓が暮して行くには、今の三倍も働かなくてはならない。怠ければ、いつでも貸した土地を取り上げる。さうなれば百姓だつて気を付けて、従順になる。勉強する。まあ、今と同じ報酬で、今の三倍は働く事になる。今の自治体に対する百姓の考はどうだ。どうしてゐたつて、飢渇に迫る虞はないと見抜いてゐるから、怠ける。酒を飲む。さてさう云ふ風にして諸国から金が這入つて来れば、資本が出来る。中流社会が出来る。この間もイギリスのタイムス新聞が、ロシアの財政を論じてゐた。ロシアの財政が好くならないのは、中流社会が成立つてゐないからだ。大資本がないからだ。労働に耐へる細民がないからだと云つてゐた。まあ、こんな風にイグナチイは論じたです。旨いですな。あの男は生れ付きの雄辯家ですよ。只今も意見書をその筋へ出すと云つて書いてゐるさうです。後にはそれを新聞で発表すると云つてゐました。同じ物を書いても、さういふのはイワンの書く詩なんぞとは違ふですな。"
],
[
"併し如何にも気の毒ですが。どうもあなたの仰やるところでは、あのイワンを犠牲にすると云ふやうになりますが。",
"いや。わたしは何もイワンに要求するところはないのです。先刻も云つた通り、わたしはあの男の上役ではない。ですから、何もあの男にかうしろと云ふ事は出来ない。わたしは只ロシアと云ふ本国の一臣民として云ふのです。或る大新聞の言草とは違ひます。只本国の普通の臣民として云ふのです。それに問題は、誰があの男に頼んで、鱷の腹へ這ひ込ませたかと云ふにあるですな。真面目な人間、殊に役人として相当の地位を得た人間が、妻子まで持つてゐながら、突然そんな事をすると云ふ事があるものですか。まあ、あなただつて考へてお見なさるが好い。",
"併し何も好んでしたわけではありません。つひ過つてしたのです。",
"さうですかな。それもどうだか知れたものではありませんね。それにドイツ人に鱷の代価を払ふとしたところで、その金はどこから出るです。その辺のお見込が附いてゐますか。",
"どうでございませう。あの男の俸給で差引いては。",
"そんな事で足りますか。"
],
[
"倍どころではありますまい。三倍にも四倍にも出来るでせう。多分見物が入場券を争ふやうになるでせう。さう云ふ機会を利用する事を知らないほど、鱷の持主は愚昧ではありますまい。わたしは繰り返して云ふが、兎に角イワンは差当りぢつとしてゐるですな。何も慌てるには及びません。まあ、あの男が鱷の中にゐると云ふ事は、自然に世間に知れるとしても、我々は表向知らない顔をして遣るですな。それには外国旅行の許可を得てゐるから、好都合ですよ。もし誰かが来て、あの男が鱷の中にゐると云つたつて、我々はそれを信用さへしなければ好いです。さうしてゐるのは、造作はありません。要するに時期を待つですな。何も急ぐにも慌てるにも及びません。",
"併しひよつと。",
"なに。心配しないが好いです。あの男は物に堪へる質ですから。",
"ところが愈我慢した挙句は。",
"さあ。わたしだつてこの場合が困難な場合だと云ふ事は認めてゐます。思案した位で、解決は付きません。兎に角難渋なのは、これまで似寄の事もないのです。先例がない。もし只の一つでもさう云ふ例があると、どうにも工夫が付きませうがな。どうも如何んとも為様がないです。考へれば考へる程むづかしくなりますからね。"
],
[
"ふん。さやう。休暇と見做して、給料は払はずにですな。",
"いいえ。給料も払つて貰ひたいのですが。",
"はてね。なんの理由で。",
"それはかうです。まあ、今ゐる所へ派遣せられたと見做しまして。",
"なんですと。どこへ派遣せられたと云ふのです。",
"無論鱷の腹の中へ派遣せられたと見做すのです。謂はば実地に付いて研究する為に派遣せられたと看做したいのです。無論それは例のない事でせうが、これも進歩的の事件で、それに人智開発の一端でせうから。"
],
[
"さやうですね。学術上に実地検査をさせるとしては如何でせう。当世自然科学が盛んに行はれてゐますから。本人が現在の位置に生活してゐて報告いたしたら宜しいではありますまいか。例之へば消化の経過を実地に観察して報告するとか云ふやうなわけには行きますまいか。事実の材料を集める目的で。",
"成程。して見るとそれは一種の分析的統計と云ふやうなものですな。一体そんな事はわたしには好く分からない。わたしは哲学者ではない。併しあなたは事実の材料と云ふ事を云はれたが、それでなくても我々は目下事実の多きに堪へないで、その処置に困る程です。それに統計と云ふものも随分危険なもので。",
"どうして統計が。",
"危険ですとも。それにイワンに報告をさせるにしても、その報告は横に寝てゐてするのでせう。一体横に寝てゐて勤めると云ふ事がありますか。それなんぞも頗る危険な新事実です。それにどうも先例のないのに困りますよ。何か只の一つでも似寄つた事があつたのを、あなたでも御承知なら、それはそんな所へ派遣すると云ふ事も出来るかも知れませんが。",
"併しどうも生きた鱷は今日までロシアにゐなかつたのですから。"
],
[
"そこであの細君は今一人で留守宅にゐるでせうね。さぞ退屈して。",
"お暇に見舞つてお遣りになる事は出来ますまいか。",
"出来ますとも。実はきのふもちよつと見舞はうかと思つた位です。それにかう云ふ好機会が出来ましたからな。ああ。なんだつてあの男は鱷なんぞを見に行つたのですかな。それはさうとわたしも一度は見たいものだが。",
"ええ。気の毒ですからイワンをも一度お見舞ひ下さいまし。",
"好いです。無論わたしが行つたとしても、それを意味のあるやうに取つては困ります。只個人として行くのですからな。そこでわたしはこれで御免蒙ります。今日もちよつとニキフオオルの所へ参る筈ですから。あなたはお出なさらんですか。",
"いいえ。わたくしはもう一遍鱷の所へ参らなくてはなりません。",
"成程。鱷の所へ。まあ、なんと云ふ軽はずみな事をしたものでせうな。"
],
[
"いや。僕は立つてゐるのです。",
"そんならどこかそこらへ腰を掛け給へ。なんにもないなら、為方がないから、地の上にでも坐り給へ。そしてこつちの云ふ事を注意して聞き給へ。"
],
[
"それはさうと薬にしろ食物にしろ、君はどうして有り付く事が出来るね。けふなんぞも午食はしたかね。",
"午食なんぞはしない。併し僕はちつとも腹はへつてゐない。多分今後もなんにも食はなくても済みさうだ。なにもそれに不思議はないよ。僕の体が鱷の内部を全然充実させてゐるのだから、それと同時に僕自身も腹がへると云ふ事はないのだ。鱷だつてもこれから先餌を遣るには及ぶまい。詰まり鱷の方では僕を呑んでゐて満足してゐるし、僕の方では又鱷の体からあらゆる滋養を取つてゐるわけだね。君は話に聞いてゐるかどうか知らないが、器量自慢の女は或る方法を以て自分の容貌を養ふものだ。それはどうするのだと云ふに、晩に寝る時体中に生肉を食つ付けて置く。それから翌朝になると香水を入れた湯に這入つて綺麗に洗ひ落す。さうするとさつぱりして、力が付いて、しなやかになつて、誰が見ても惚々するのだ。それと同じ事で、僕は鱷の滋養になつてやるから、鱷の方から滋養物を己に戻してくれる。詰まり互に養ひ合つてゐるのだ。無論僕のやうな体格の人間を消化すると云ふ事は出来ないから、鱷も多少胃が重いやうには感じてゐるだらう。胃は無いのだがね。それはまあどうでも好い。そこを考へて僕はこゝで余り運動をしないやうにしてゐる。なに、運動しようと思へば、勝手だがね。僕は唯人道の考から運動せずにゐて遣るのだ。併し兎に角勝手に動かずにゐるのだから、僕の現在の状態を不如意だと云へば、先この点位が思はしくないのだ。だからチモフエイが僕の事を窮境に陥つてゐると云つたのも、形容の詞だと見れば承認せられない事もないね。かう云つたからと云つて僕が困つてゐると思ふと違ふよ。僕はこれでもゐながらにして人類の運命を左右する事が出来るものだと云ふ事を証明して見せる積りだ。全体当節の新聞や雑誌に出てゐる、あらゆる大議論や新思想と云ふものは、あれは皆窮境に陥つてゐる人間が吐き出してゐるのだ。だからさう云ふ議論を褒めるには、動かない議論だと云ふぢやないか。まあ、それはなんと云つても好いとして、僕はこれから全然新しい系統を立てる積りだ。それがどの位造作もないと云ふ事が、君には想像が付くまいね。新しい系統を立てるには、誰でも世間の交通を断つて、どこかへ引つ込めば好い。鱷の腹の中に這入つても好い。そこで目を瞑つて考へると、直ぐに人類の楽園を造り出す事が出来る。さつき君がこゝから出て行つた跡で、僕は直ぐに発明に取り掛かつたが、午後の中に系統を三つ立てた。今丁度四つ目を考へてゐた所だ。無論現存してゐる一切の物は抛棄しなくてはならない。なんでも構ふ事はないから破壊するのだね。そんな事は鱷の腹の中から遣ると造作はないよ。万事鱷の腹の中から見れば、外で見るより好く見えるよ。それはさうと僕の今の境遇にも、贅沢を云へば多少遺憾な点はあるさ。なに、けちな事なのだがね。先こゝは少し湿つてゐて、それからねと〳〵してゐる。それに少しゴムの匂がする。丁度去年まで僕の穿いてゐた脚絆のやうな匂だ。苦情を云つたところでそんなもので、それ以上には困る事はないよ。"
],
[
"それは揃へて持つて来るよ。",
"併し実はまだ早いな。あしたの新聞に僕の事が論じてあらうと期待するのは少し無理だ。大抵このロシアでは新事件の論評は、四日目位立つてからでなくては出ないのだからね。それから君は今後は毎晩裏口から僕の所へ来る事にしてくれ給へ。君に僕の書記を勤めて貰ふ積りだからね。君が持つて来た新聞を読んで聞かせてくれる。さうすると僕がそれに対する意見を述べて君に筆記させる。それから必要な処分があれば、それを君に命ずるのだ。何より大切なのは最近の外国電報だから、それを忘れないやうに持つて来給へよ。最近のヨオロツパの電信だね。それは是非毎日いるよ。まあ、けふはこれだけにして置かう、君ももう眠たくなつただらうから。もうそれで好いから君は帰り給へ。そしてさつき僕の言つた批評の事を好く考へて見てくれ給へ。実は僕はさほど批評をこはがつてはゐない。批評家だつて皆窮境にゐるのだからね。兎に角こつちに智慧があつて、それで品行を好くしてゐればあいつ等が持ち上げてくれるに極まつてゐる。まあ、ソクラテエスでなければ、ヂオゲネスと来るのだ。或ひは両方を兼ねたやうな風にするが好いかも知れない。まあ、将来人類の為めに働くには、僕はさう云ふ立場にゐて働く積りだ。"
],
[
"そんな事を考へて溜まるもんですか。",
"さうでせう。さうして見るとあなた方の考は周到だと云はれますまい。未来がどうなるか分からないのに、うか〳〵としてゐるよりは、今の内に一度に金を手に入れた方が好くはないでせうか。金高は小さくても、確実に手に入れる事が出来たら、その方が好いでせう。無論こんな事をわたしが言ふのは、唯個人の物好で言ふに過ぎないのですから、誤解しては行けませんよ。"
],
[
"それはさうと、僕は忘れてゐた事があります。きのふチモフエイさんはあなたの所へ来やしませんか。",
"えゝえゝ。参りましたの。わたしを慰めてくれるのだと云つて、参りましたの。そして長い間トランプをして帰りましたわ。あの方が負けるとボン〳〵入をくれますの。わたしが負けると手にキスをさせて上げますの。可笑しいぢやありませんか。も少しで一しよに舞踏会へ来る所でしたの。可笑しいぢやありませんかねえ。",
"それはあなたに迷はされたのです。誰だつてあなたに迷はされないものはありません。あなたは魔女ですね。",
"またお世辞を仰やるのね。わたし為返しをしてよ。お帰りになる前につねつて上げますわ。痛い事よ。それからなんでしたつけ。さうさう。あの宅がきのふいろ〳〵わたしの事を申しましたのですつて。",
"なに、そんなにいろ〳〵な事は言はれませんでした。わたしの見た所では、イワン君はおもに人類一般の運命と云ふやうな事を考へてゐるのです。",
"さう。そんな事を幾らでも考へるのが好うございます。もう伺はなくつても沢山。いづれひどく退屈してゐますのね。いつかわたしもちよつと行つて見て遣りませう。事に依つたら、あすでも参つて見ませう。けふは駄目ですわ。わたし頭痛がするのですから。それに沢山見物人が寄つてゐる事でせうね。大勢で、あれがあの人の女房だと云つて、わたしに指ざしをするかも知れませんのね。わたし厭だわ。そんなら又入らつしやいな。晩には宅の所へ入らつしやいますの。",
"無論です。新聞を持つて行く筈ですから。",
"ほんとに御親切です事ね。新聞を持つて入らつしやつたら、少しの間側にゐて、読んで聞かせて下さいましな。それからけふはもうわたしの所へはお出なさらなくつても好くつてよ。わたし少し頭痛がしますし、事に依つたら誰かの所へ遊びに行くかも知れませんの。まだ分かりませんけれど。そんなら、さやうなら。あなた浮気をなさるのぢやありませんよ。"
],
[
"なにが。",
"どうも鱷に呑まれたイワンに同情せずに、却て呑んだ鱷に同情してゐるぢやありませんか。"
]
] | 底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「新日本 二ノ五―六」
1912(明治45)年5~6月
原題(独訳):〔Das Krokodil. Eine aus&ergewo:hnliche Begebenheit oder eine Passage in der Passage.〕
原作者:Fyodor Mikhailovich Dostoevski, 1821-81.
翻訳原本:F. M. Dostojewski: 〔Sa:mtliche〕 Werke. 2. Abteilung, 17. Band. Onkelchens Traum und andere Humoresken. (Onkelchens Traum. Die fremde Frau und der Mann unter dem Bett. Das Krokodil.) Deutsch von E. K. Rahsin. 〔Mu:nchen〕 und Leipzig, Verlag von R. Piper u. Co. 1909.
※底本では題名に「※[#「魚+王の中の空白部に口が四つ」、第3水準1-94-55]」が用いられている。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「細君」と「妻君」の混在は底本のママ。
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2002年1月16日公開
2006年1月7日修正
青空文庫作成ファイル:
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],
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],
[
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],
[
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],
[
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],
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"そう、――私も向うで働かせて貰おうかとも思ってるんだけど。一日頸をたれて、カタカタ、カードを鳴らす……それもてんで無意味な仕事でしょう……つくづく嫌になるわ",
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"そうさ。だが僕のは異うんだ。あんな処へ行ったんなら、こんなことにはならないさ、……牧井そめ子が……先月、家を出た時、実は僕の処へすぐやって来たんだ、余り大きくもないバスケットを一つ提げて、いよいよ亭主と別れました、って急に居所にも困る様子だったから、あなたの処を教えてやったんだ、ところが――",
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"兄さんですか? 近頃さっぱり家へ帰ってこんのですよ、あなたの方へは?",
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"おう",
"あら。戻りましょうね――食堂へ行くとこなんだけど",
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"そう",
"なあんだ、そう、なんて――",
"こないだからちっと許り元気がないの、下らない仕事ばっかし毎日しなきゃ不可ないでしょう、頭と手とバラバラな生活をしてる様な気がして",
"元気を出しなよ、元気を、お前は頭だけがお先っ走りやってるんだろうな、そんなの何にもならんぜ、今によくなるさ、どんな仕事をやってるんだ",
"相変らずカードの整理",
"それでも結構じゃないか。それはそうと、俺を少し休ませてくれないか、非常に疲れてるんだ、連日のピケットだろう。今晩刷って明日はまた早くビラ撒きにゆかなくちゃ不可ないんだ、――九時になったら起してくれ"
],
[
"あ、枕を貸してくれんか",
"今布団も布いてあげるわ、九時半までならまだたっぷり眠れるもの"
],
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"どうしたの",
"む、今便所へ行って来たんだ、何だか熱がある様でな――胸が苦しいんだ、アスピリンか何か買って来てくれんか",
"おソバをそう言って来たの、兄さんが好きだから",
"そうか、次手に速達も出して貰おう"
],
[
"僕等、平井君と九時頃此処で落合う約束でした",
"今起して来ましょう、熱があるってアスピリンを飲んだもんですから、ぐっしょり汗をかいて寝てますわ――",
"じゃ、その儘にしといた方がいいですね",
"何しろ碌に寝なかったんだからな、僕らが来たことだけ言っといて下さい、朝またここへ来ますから",
"構わないんですか、一寸起して来ましょうか――"
],
[
"私にもビラ撒きを手伝わしてくれない?",
"そんなことしてお前が首になったら、おっ母さんと俺が困るだけさ――"
],
[
"としちゃんがガソリン屋になったんだって?",
"あ、やってるよ"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学集・23 婦人作家集(三)」新日本出版社
1987(昭和62)年11月30日初版
1989(平成元)年5月15日第3刷
初出:「女人芸術」
1929(昭和4)年6月号
※×印を付してある文字は、底本編集部の推定による伏字の復元です。
入力:林幸雄
校正:hitsuji
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "050295",
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} |
[
[
"大分景気よくやってるな。",
"なあに、今日明日中にきっと売りこみに来るよ、もう一週間にもなるからな。"
],
[
"何しろ、奴等ダラ幹ときたら性質が悪いからな、出来るだけ高く売りこもうという算段をしてやがるんだ。",
"そう言えば此処の工場主なんかも言ってたよ、いっそ極左の奴等の方が仕末がいい位だってんだ、そいつ等だと、私等が何も構わなくても、警察の方が来てすぐ引っこ抜いて行って下さるし、後腹がちっとも痛めないし、――ってんだ、ハッハッハ。",
"ハッハッハ。"
],
[
"実はね、争議団から松金へ内通している者の話によると、奴等今晩辺りデモを起そうという計画を立ててる相だ。",
"それは怪しからん!"
],
[
"火事じゃないのか?",
"さあ、しかし煙が見えん。"
],
[
"松金で一体何があったんです?",
"酷い騒ぎだったよ、つい今しがた、十何人も病院へ担ぎこまれたんだ、何しろ、斬りつけたんだからね。",
"えッ? 誰々がやられたんです?",
"そいつあ、よく分らねいが――小母さんとこのが松金へ行ってでもいるのかい?",
"え。"
],
[
"うちは村田って言うんです。",
"ああ、組合の――村田君だね。"
],
[
"そんなら、たった今も此処へ寄って行った村田君だね、奴は職場職場をアジって歩いている筈だ。",
"おい来たぜ、シッ。"
],
[
"オイ手前ら、何がやがやしてんだ! 何があったって作業時間中は一歩も外へ出ちゃ不可ん、と言ってるじゃないか! オイ、すっこめ! すっこめ!",
"俺ら火事だとばかり思って出て見たんだけど、ちっとも煙りが上らないね、親方。"
],
[
"熱があるの婆さん。",
"熱だか何だか、私ゃ思っても口惜しくてならないから、こうして寝てるんだよ、昨日、乱闘の時、鉄が一番先に立っていたのさ、すると手向いもしない鉄を乱暴にも板裏ぞうりで散々打ちのめし、他の奴は佩剣で頭を突くのさ、それからいよいよ抜いた抜いた、私ばかりじゃない、皆が見たんだよ。"
],
[
"お前村田の女房だろう。",
"はい。",
"一寸訊きたいことがあるから、一緒に来てくれ。"
],
[
"村田は何時から家へ帰らないんだ?",
"はい、松金の争議が始まってからですから、もう十日余りになりましょうか――",
"その間一遍も家へ帰らなかったのか?"
],
[
"じゃ、折角ですから……",
"その方たちに宜しく申上げて下さい――",
"そういう方たちに、お返し出来る時も何時かは来るでしょうから――"
],
[
"いいわね、坊や。――鉄ちゃんのおっ母さん相変らず元気でしょう。",
"ええとても。",
"今度の公判には鉄ちゃんのおっ母さんだの関口の小母さんだの、組合員の家族を全部誘って押しかけましょうね。"
],
[
"もう名代の女だもの。",
"そうお、でも、随分驚かすわね。"
],
[
"ビラだけ? デンタンも出来たのかい。",
"あ、デンタンも出来た。",
"明日中にK署の楼上で、交渉開始ということに決定したんだ! 此方の準備が早くてよかった――"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学集・23 婦人作家集(三)」新日本出版社
1987(昭和62)年11月30日初版
1989(平成元)年5月15日第3刷
初出:「女人芸術」
1930(昭和5)年11月号
※×印を付してある文字は、底本編集部の推定による伏字の復元です。
※**は伏字あるいは復元不可能な削除をあらわしています。
入力:林幸雄
校正:hitsuji
2020年3月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "050296",
"作品名": "鋳物工場",
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"ソート用読み": "いものこうしよう",
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"初出": "「女人芸術」1930(昭和5)年11月号",
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} |
[
[
"お爺さん、お爺さん、とつてもいいものがあるんですよ。何でせうあててごらんなさい",
"グリコ!",
"違ふ"
],
[
"あたしはお人形",
"馬鹿だな。飛行機だつたら、それを売れば、いくらでもお人形が買へるぢやないか。",
"さう言へば、青ちやんだつて、飛行機よりもつと高いものだつてあるよ"
],
[
"青ちやん、どうだい、そらね、お蜜柑出てこいぽんぽん、大きい兄ちやんはお団子が好きなんだね。よし今度はお団子だよ。お団子出てこいぽんぽんぽん",
"馬鹿だなあ、それより打出の小槌を出せばいいぢやないか"
],
[
"嫌だよ、嫌だよ。それを出しちや、たまんないや",
"よし、洋がそんなに慾ばりだつたら、寝てゐる間に、取つてしまふから"
],
[
"いいよ、兄ちやん、兄ちやん、どうだい、お城出てこいぽんぽんぽん、タンク出てこいぼんぽんぽん、飛行機出てこいぽんぽんぽん、チョコレート出てこいぽんぽんぽん、お日さん出てこいぽんぽんぽん……",
"馬鹿な、馬鹿な……"
]
] | 底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社
1994(平成6)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「外村繁全集 第六巻」講談社
1962(昭和37)年8月20日
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2011年11月28日作成
2013年10月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052184",
"作品名": "打出の小槌",
"作品名読み": "うちでのこづち",
"ソート用読み": "うちてのこつち",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC 914",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"名": "繁",
"姓読み": "とのむら",
"名読み": "しげる",
"姓読みソート用": "とのむら",
"名読みソート用": "しける",
"姓ローマ字": "Tonomura",
"名ローマ字": "Shigeru",
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"生年月日": "1902-12-23",
"没年月日": "1961-07-28",
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"底本名1": "日本の名随筆 別巻42 家族",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "1994(平成6)年8月25日",
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"底本の親本名1": "外村繁全集 第六巻",
"底本の親本出版社名1": "講談社",
"底本の親本初版発行年1": "1962(昭和37)年8月20日",
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} |
[
[
"いえ、駄目なんです",
"いや、少し位は、差せるんでせう",
"いえ、駄目なんです。ほんの駒の動かし方が解るくらゐなんです。外村さんは少しもおやりにならないんですか",
"僕も、やつとその駒の動かし方が解る口なんだ",
"いや、駄目だよ君は、ほんとに君が将棋が出来ないのは、玉に疵だよ"
],
[
"では、一度、外村さんとやつて見ませうか",
"やるか"
],
[
"小田、上林と、皆順順に集つて来るんだね、さうして最後が浅見君だ。あつ、あつ、と言ひながら中腰になつて、右手をその度に宙に動かしながら登場する。軈て皆それぞれ盤に向かひ合つて将棋を差し始める",
"初めのうちは、互に何か意味ありげな会話を言交してゐるのだが、そのうちに皆もう夢中になつて来るんだ。何も忘れて将棋を差すんだね。さうして本当の阿佐ヶ谷将棋会になつてしまつたらどうだらう",
"やつと、最後の一番が終つてね。皆、ああ疲れた、とか言つて横になるんだね。その時激しい稲光がして、ざあつと夕立が降つて来る。幕、どうだらう、出来たね",
"どうだらう、しかし見物の人、怒るだらうね",
"そーら怒るよ",
"殴られるね",
"そらきつと殴られるよ"
],
[
"題はね、夕立、ユーモレスク所載、井伏鱒二作、A・C(阿佐ヶ谷クラブ)劇団出演、ああ、もうこれでおしまひだ",
"しかし、本当に馬鹿な話になつたね",
"ほんとに馬鹿な話になつたね"
]
] | 底本:「日本の名随筆 別巻8 将棋」作品社
1991(平成3)年10月25日第1刷発行
2000(平成12)年10月30日第9刷発行
底本の親本:「外村繁全集 第六巻」講談社
1962(昭和37)年8月20日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2015年3月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052185",
"作品名": "将棋の話",
"作品名読み": "しょうぎのはなし",
"ソート用読み": "しようきのはなし",
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"分類番号": "NDC 796",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2015-05-03T00:00:00",
"最終更新日": "2015-03-08T00:00:00",
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"人物ID": "001499",
"姓": "外村",
"名": "繁",
"姓読み": "とのむら",
"名読み": "しげる",
"姓読みソート用": "とのむら",
"名読みソート用": "しける",
"姓ローマ字": "Tonomura",
"名ローマ字": "Shigeru",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1902-12-23",
"没年月日": "1961-07-28",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本の名随筆 別巻8 将棋",
"底本出版社名1": "作品社",
"底本初版発行年1": "1991(平成3)年10月25日",
"入力に使用した版1": "2000(平成12)年10月30日第9刷",
"校正に使用した版1": "2000(平成12)年10月30日第9刷",
"底本の親本名1": "外村繁全集 第六巻",
"底本の親本出版社名1": "講談社",
"底本の親本初版発行年1": "1962(昭和37)年8月20日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "門田裕志",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001499/files/52185_txt_56300.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2015-03-08T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001499/files/52185_56348.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2015-03-08T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"おや、ビールはいけないよ",
"ほんの、一杯だけ"
],
[
"とにかく、あの病院は精神衛生上よろしくないよ",
"そうね、恐しいところね",
"しかし、上顎の人が、あんなに多いとは知らなかったね",
"それに、あれは、直ぐ転移するらしいの。よかったわ、ねえ、お父さん",
"お互に、まずは目出たしだ。今夜は、酒が格別うまいよ"
],
[
"昨夜までのように、ここで、一人で飲んでるのは、侘しいもんだよ。もっとも、退屈すると、直ぐ山形へ飛んで行ったがね",
"飛んで行ったって?",
"いや、酔ってくると、天神山や、太子堂などの、山形の景色が直ぐ浮かんで来るんだ。でも、やっぱり一人だもんな。つまらんよ。そうだ、この夏は、二人で山形へ行こうよ",
"二人で、行きましょう"
],
[
"二人で行くんじゃない。職場の人達には迷惑のかけついでだ。この一夏を、山形で暮そうよ",
"そんなに長くですか",
"山形へ旅行したって、つまらんよ。あの風と光の中で、生活しなくっちゃ、その愉しさは判らんよ"
],
[
"山崎さんって、後から同室だった方だね",
"そうよ。手術して、開腹なさったけれど、手のつけようがなかったので、そのまま塞いでしまったのですって。それから直ぐでしたわ。退院なさったの",
"そうか。そんなことだったね",
"今日、息子さんが、病院へ挨拶に来てなさったわ",
"そうか"
],
[
"はあ",
"では、念のため、内科の方へ行ってみますか"
],
[
"膝を立てて下さい。おや、大分、慄えますね。酒ですか。煙草ですか。それとも両方ですか",
"酒です",
"毎晩ですか。どれほど上がるんです",
"ビール一本と、酒を四合ばかりです",
"随分、飲むんですね"
],
[
"痛くありませんか",
"はあ、痛くはありません"
],
[
"これは、一体、どうなさったんです",
"私も、何だか怪しいんですの。ですから、私はここへ入院して、検査してもらってるんです",
"入院ですか。それは大へんだ",
"あなたは内科へもいらっしゃるんですの",
"それが、この間から、微熱がとれないものですから。何しろ前科があるもんですから、お医者さんの方が大へんなんです",
"全く散散ですわね"
],
[
"お父さん、怖かった",
"どうした",
"また、何やら、できたらしい。傷口の中の粘膜、採られちゃった",
"そうか。しかしくよくよ思ったって始まらないよ",
"でも、怖いわ",
"それより、病院で完子さんに出会ったよ"
],
[
"その風呂敷包みどうなさるんです",
"これかいな、これは古いもんやがな",
"古いものなら、綾ちゃんに始末してもらいます",
"ほんなもん、手がつけれんほどひどいもんやでな、私がぼつぼつとな",
"すると、やっぱり江州へお帰りになるおつもりなんですか"
],
[
"ほやけど、去年の約束とは、大分違うもんやでな。去年は寒い間だけ、ということやった",
"約束とおっしゃるけれど、去年は素子がこんな病気になるとは、夢にも思いませんでしたからね",
"ほれに、夏のもんも取って来たいしな",
"そのお気持はよく判りますよ。しかし若しものことがあれば、今の家の状態では、どうしようもありませんからね",
"ほんなもん、大丈夫やわいな",
"そりゃ、大丈夫でしょう。だから若しも、と言っているんですよ"
],
[
"物は相談やがな、兄さんが帰ってもよいと言いやしたら、よろしいおすやろか",
"兄さんが責任を持って下さる以上、私は何も申しませんよ。しかしそれはおばあさんと兄さんとの間だけのことですよ",
"ほらほうどすわいな。ひとつ兄さんに頼んでみよ"
],
[
"私達が、今どんな状態にあるか、全く理解して下さらないんですもの",
"一から十まで、あんたの言う通りだよ。しかし今のおばあちゃんには、何を言っても通じないんだよ。つまり帰りたい一心、なんだよ",
"そんな無茶な話ってありませんよ。なんぼおばあちゃんでも、気まま過ぎますよ",
"しかしあの家にはおばあちゃんの八十二年の生活があるんだよ。しかもあの家以外にはないんだからね。無理ないかも知れないがね",
"だって、うちの玄関でも、逼ってでないと上れないのですもの。万一のことがあったら、どうするんです。殊に今は農繁期ですよ。おすまさんだって、来てもらえやしません",
"全く、同感。しかしね、事によると、おばあちゃんは、あの『お壇さん』のある江州の家こそ、自分の死場所と、きっと思い定めているのじゃないか",
"仏壇なんか、下らん、だから、宗教なんか、いやだわ",
"おいおい、女史よ、少し話が飛んだんじゃないかな"
],
[
"どうしたんだろうね",
"放射線で、首の神経が痛められたのですって。でも、先生に言っても、あまり相手にされないの",
"そうか。すると、あまり心配しなくてもよいらしいね",
"昨日なんか、もっと左の手を動かさないと、『先になって、困ることになりますよ』って、叱られちゃった"
],
[
"だって、私にも、先があるのか知ら",
"どうやら、あるらしいじゃないか。先になって困るといけないから、これからは、上衣を着る時のお手伝いは、御免蒙ることにしようぜ"
],
[
"だから、言わないことじゃない。でも、お兄さんには悪いけど、まだ名古屋でよかった。これが若し江州だったら、どうすればよいの",
"全くだ。文字通り、万事休したところだったね"
],
[
"カソリック系の病院らしいが、おばあちゃん、どんな顔しているかな",
"それに、完全看護のようでしょう。何も彼も黒衣の天使さんよ。一寸、驚きでしょうね。おばあちゃん、少しかわいそうになって来たわ",
"おばあさんには、生れて初めての入院なんだよ。しかしこればっかりは、『やっぱり長生きはせんならんもんや』とも、言ってられないしね"
],
[
"こんな状態のうちに、再発したら、どうしよう。悔しいな",
"仮定は止そうや。再発するかも知れない。しないかも知れない。それこそ、お釈迦さまでも御存知あるまいからね"
],
[
"どうしても、横になれないな。私って、それほど、悪いことを、した覚えもないのに、どうして、こんなひどい目に、遇わんならんのだろう",
"ねえ、母さんよ、悪いことをした覚えのない人は、皆幸福だときまっていたら、問題はないんだよね。しかし人間の運命は、そう簡単ではないらしい。むしろ複雑怪奇、人間の手には負えないもののようだね",
"ほんとに、人間って弱いもんですね。不断、私はあんまり丈夫だったもんだから、偉そうなこと言ってたけれど、若しもお父さんがいてくれなかったら、私、どうなっていたでしょうね",
"そんなことはない。実によく我慢するものね"
],
[
"せめて、夕立でも来てくれないかな。少しは楽になるでしょうに",
"いや、怪しいね。しかし名古屋は格別に暑いらしいが、おばあさん、どうしてなさるかな",
"ギプスはもう取れたのでしょうか",
"それがまだらしいんだよ。高齢だから、骨も弱っているだろうしね",
"御不自由でしょうね。おばあさんも、大へんだわ"
],
[
"今日は、かなりよく眠れたね",
"そう、そんなに眠ったのか知ら",
"かれこれ五時になるだろう",
"そう。すると、随分、眠れたわけね。嬉し。そう言えば、起きた時、体の調子がいつもと少し違っていたわ"
],
[
"花井さん、お亡くなりになった、そうよ",
"病院で、最初に、同室だった方だね",
"そう、十二年前の乳癌が再発して、肋膜に水が溜っていたのでした",
"病院でも思ったことだが、十二年前のものを、再発と言えるか、どうか",
"それは、どうか知りませんけれど",
"アメリカからの注射とかを、打ってられたのだったね。血色もよくなり、元気になられたようだったがね",
"ひどく病気馴れた方で、退院なさる時、私がお祝を言うと、『どうですか。でも、これで二年ほども持ってくれたら、また新しい薬もできるかも知れませんからね』って、言ってられたものでしたが"
],
[
"残暑がなかなかきついですね。私は太ってるもんだから、暑いのは、どうも苦手でしてね",
"しかしここはいいですね。夏は涼しく、冬は暖い",
"全くですよ。下手な避暑地より涼しいですからね"
],
[
"また少し怪しいらしい。レントゲンを撮られちゃった",
"そう? でも、お父さんはきっと大丈夫ですわ",
"まあ、腹の底では、そう心配してないんだが",
"そうそう、おばあさんが退院なさったんですって。丁度、二ヵ月以上になりましたわね"
],
[
"どちらが先に駆けつくか",
"なんとおっしゃる兎さん"
],
[
"今日は、放射線科へ行かれますか",
"はい。まいりましょう",
"では、これを持って行って下さい"
],
[
"そんなところにも癌ができるのかね。何か別のもんじゃないのかね",
"いや、癌だな",
"そうかね。全く、いやっけな病気だね",
"乳癌は一番直り易いというじゃないか。わしは風呂屋で、うちへも取った人が来るが、ひどく達者なようだぜ"
],
[
"いっそ取ってしまったって、いいじゃないか",
"以前から、×××(ドイツ語)はないようですが",
"じゃ、暫く様子を見ることにしましょう"
],
[
"どうでした",
"検査の結果はマイナスだったよ。ゲシュールも、今日はなくなっていたらしいな",
"そう、よかった。あなたは大丈夫だとは思っていましたけれど",
"でもね、首筋の痼をね、取ってしまおうかって、三雲教授に言われたよ",
"すると、あなたでもまだ無罪放免ってわけにはいかんのね",
"そうらしいね、でも、口腔外科では心配ないと言われてはいるのだがね。そうそう、おばあちゃんがね、早く東京へ帰りたいのだって"
],
[
"流石のおばあさんも、よほどお懲りになったのでしょうね",
"田舎の家こそ死に場所と、気持は張り切っていても、人間というものは肉体的苦痛には至って弱いものだからね",
"全くそうね。でも、これで安心しました。やはり敬三さんに迎えに行っていただくより、他にありませんわね",
"弟のところへは、兄からも手紙を出してくれられたようだが、私も頼みに行ってくるよ"
],
[
"喀血か、吐血か、どちらですか。喀血なら肺、吐血なら胃、潰瘍か、癌でしょうね。しかし心臓は割にしっかりしていますよ",
"そうですか",
"とにかく今日は安静にしておいて、経過によって、明日でもレントゲンを撮ってみましょう。でも、多分喀血でしょう。血がかなり赤いですからね"
],
[
"もうどうもしてもらわいでも、よろしいほんな。何一つ、思い残すことはあらあへんでな",
"それは一寸、気がお早いようですね。とにかく静かあに、休んでて下さいね",
"はいはい"
],
[
"いけないよ。まだ傷口が塞がっていないんだから",
"いいの。いいのよ"
],
[
"いけない。ほんとに、そんな無茶をしちゃ、駄目じゃないか",
"いいの。構ってくれなくってもいいの"
],
[
"もうそんな馬鹿なことを言ってないで、早く寝ようよ",
"寝よう。だけど、馬鹿なことって、馬鹿なことって、何だい"
]
] | 底本:「澪標・落日の光景」講談社文芸文庫、講談社
1992(平成4)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「外村繁全集 第四巻」講談社
1962(昭和37)年3月20日
初出:「群像」
1961(昭和36)年1月
入力:kompass
校正:門田裕志
2013年10月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
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[
[
"ケンペイて、どういう兵隊さんやのや",
"ほうどすな、まあ、悪いことした兵隊をつかむ、兵隊さんの巡査みたいもんどす"
],
[
"赤ん坊はなあし、神さんが授けておくれやすのどす",
"ふうん、誰にでも授けておくれやすのか",
"いんえ、お嫁に行くと、お祝いに、授けておくれやすのどす",
"ほんでも、かねはお嫁になんか、行ってやはらへなんだやないか",
"あれは、悪い神さんどしたんどす",
"ふうん、ほすと、悪い神さんはお嫁に行かん女にも授けやすんか",
"へえ、うっかりしてると、授けやすのどす",
"悪い神さんやな。とよもうっかりせんといてな",
"ほんなもん、わたしら、大丈夫どす"
],
[
"女みたい、白い顔してるな。わしおたつや。この家へ女子衆に来たんや",
"ふうん",
"広い家やな。見せていな",
"おこられやへんか",
"ほやかて、ゆっくり休んでいって、言わはったもん"
],
[
"おまい、何ちゅう名や",
"晋って言うんや",
"ふうん。ほんでも、女みたい顔してるな"
],
[
"梅ならうち家にもあるわ。けんど、梅は酸いさかい、ほない好かん",
"砂の中へ入ると、おこられるぞ"
],
[
"苔を下駄で踏むと、おこられるぞ",
"ようおこる家やな"
],
[
"九居瀬が見えたわ",
"九居瀬てなんや",
"知らんのか、わしの在所やないか。愛知川の上や",
"愛知川やったら、川並山へ登らな見えやへんわ"
],
[
"たつは、はい帰って来たのかいな。手紙は確かに入れて来たのやろな",
"うん、ちゃんと入れて来たが",
"ほれ、また『うん』、ほれがいかん。『はい』とか、『へえ』とか言うのやほん"
],
[
"ほれみ、どうもないやろ。晋さんもこそぼってみたろか",
"ほんなもん、わしらこそばいもん",
"あかんこっちゃな。わしら腋の下かて、こそばいことないわ。ほら、こそぼってもよいわ"
],
[
"わあっ、こそぼ。やっぱりこそばいもんやな。ほうや、晋さん、こそぼり合いしやへんか。じゃんけんで負けた方がこそぼられるんや",
"ほんなこと、かなん",
"晋さんは喉だけやが、なあ、しようまいか"
],
[
"わあっ、こそぼ",
"こそぼいて、手もさわったらへんのに",
"ほやかて、何や知らんが、こそぼかったもん。今度こっさりや"
],
[
"じゃんけん、じゃんけん……",
"もう、わし、せん",
"なんでや。ほんなこといわんと、もっとしようまいか"
],
[
"よし、ほんならやろ",
"やろ、やろ"
],
[
"なんやい、たつて、わりにとろくさいのやな",
"よし、ほんなら、こうや"
],
[
"いやらしやの。ほんなところ立ってんと、早う、向こい行き",
"ひゃあっ、胸がだいこだいこ、腹がかっぶらかっぶら",
"阿呆いうてんと、早う行かんと、唾かけるほん",
"おたつどん、あきんどの節季や。もうけが見えたがな。後に未練はあるけんど……"
],
[
"たつ、たつ、九居瀬が見えるわ",
"もうほれだけは、言わんといておくれやす"
],
[
"今日こっさり、お淑をやったろまいかい",
"うん、やったろ"
],
[
"今夜から、ともるんどすやろか",
"ほうどすて。けんど、あの方が下りやさんと、ともらんそうどす"
],
[
"ええ子やないか",
"どうや、一晩、抱いて寝たろか"
],
[
"新村はんて、江州の新村はんどすか",
"そうですが",
"ほんなとこのおぼんはんに下宿してもろうて、ほんまに光栄や思いまっせ"
],
[
"娘がいるらしいね",
"うん、娘だけじゃない。あのおかみだって、嫌な感じだったじゃないか"
],
[
"君も、一つ",
"おおきに"
],
[
"お客はんどこどすの",
"近くだ"
],
[
"徴兵検査の予備検査を受けたいのです",
"ほんならお上りやす"
],
[
"ええ?",
"つまり皮かむりやね。ちょいとした手術ですむが、まあ、嫁はんでももろたら直るやろ"
],
[
"どうしたんだ",
"マスターと喧嘩して、飛び出して来ちゃったの"
],
[
"そんなことして、どこか、行くところあるの",
"そんなとこないわ"
],
[
"新村さん、私、処女よ",
"それは偉い。大切にするんだよ"
],
[
"新村さん、もう眠ったの。私、なんだか、頼りないわ",
"じゃ、こうして眠ろう"
],
[
"やはりそうなんですって",
"そうか。それじゃ、とにかく体に気をつけるんだよ"
],
[
"休も調べられたの",
"ううん、帯を取っただけ"
],
[
"どうしたんだ",
"寒いわ。寝ましょうよ"
],
[
"どうしたんだい。裸にでもされたんじゃないの",
"そんなこと、どうでもよい。早う"
],
[
"それが、時間表もありませんのよ。田舎の人って暢気ですから、そんなもの、要らないのかも知れませんわ",
"すると、馬車はいつ出るか判らないんだね。呆れたね",
"まあ、そういうことになりますが、あそこで待っている人も、『そのうちに出るべ』って、平気なものですわ"
],
[
"それじゃ、体に気をつけて",
"あなたこそ、お大事にね"
],
[
"はい、診ていただきます",
"では、帯だけおとりなさい"
],
[
"今度は脚をぶら下げていなかった",
"ええ、だって二人も産んでいるんですもの。却っておかしいわ",
"すると、診察台に乗ってから、捲るの。それとも着物を捲って……",
"知らん"
],
[
"しかしもう恥しがる年でもないだろう",
"女というものは、年によって恥しさが違うだけです。こんな皺だらけの肌を見られるの、いやです",
"しかしそんなことを言ってる場合じゃないよ",
"産むのだったら、診てもらっても、診てもらわなくっても、同じです",
"産むのだったら……"
],
[
"ほら、あの木立の中に屋根が見えるでしょう。あれが私達の小学校、その左の上の方に森があるでしょう。あの中に私達の部落がありますのよ",
"そうか"
],
[
"だって、そんなこと厭だわ",
"しかし厭だ、好きだという問題じゃないと思うがね",
"大丈夫よ、私、うまくやってる",
"しかし、自分で自分のサイズは計れまい",
"だって、そんなこと厭だわ。私、金属で触られるの大嫌い",
"やはり女史でも恥しいか。いや、これで安心したよ",
"このお馬鹿さん"
],
[
"どこへ行ってたんだい",
"久し振りで、パチンコをして来ましたよ"
],
[
"涼しいね",
"ほんとに、あら、だめですわ"
],
[
"ね、そう言えば、花時に、山形へ行ったことはないんだね",
"どうしたんです。突然に",
"別に、どうしたってことはないが……"
],
[
"来年の春は、山形へ行こうじゃないか",
"はい、行きましょう",
"梅も、桜も、桃も一時に咲くんだってね。あんな大きな景色の中だと、白梅や、桜だけでは、少し淋しいかも知れないね",
"四月の末でしょうね。みんな一ぺんに咲いて、嬉しかったものですわ",
"上野からだと、全く春が、山に来た、里に来た、野にも来たって、感じだろうからね",
"女学生の時でしたわ、花が満開だというのに、雪が降ってね、その上、夜になると大きな月が出て、素晴らしかったですわ",
"それは凄かったろうな。しかし今の僕には少し壮絶に過ぎる。僕はやっぱり花の村だ。軒端には梅が咲いている。山吹も咲いている。花公方も咲いている。遠く、在所、在所には、桜が白く霞んでいる。あんな大風景の中では、桃の花の色が却ってひどく艶に見えるだろう。ね、きっと、来年の春は山形へ行こうよ",
"はいはい、まいりましょう"
],
[
"少し涼し過ぎやしません?",
"そうだね。一つだけしめてもらおうか",
"はい"
],
[
"そんなことはいいよ。それより、どうだったの",
"やはり、乳癌ですって",
"そうか"
],
[
"最初に、予診で若いお医者さんに診て貰いましたの。それから外科部長の森岡先生の診察を受けました。森岡先生はいかにもがっちりした感じの方でした",
"それで、森岡先生はどう言われたんだい",
"シュミーズも脱いで、スカートだけになって、前から、横から、また前屈みになったりして、診ていただきました。レントゲン写真も撮りましたが、その結果を待つまでもなく、手術はしなければならないそうです",
"そうか。切り取っちゃうんだね。しかし乳癌は大丈夫だよ",
"先生も、乳癌のことだから、とはおっしゃったけど、後は何ともおっしゃいませんでした",
"そりゃそうだよ。僕なんかも、未だに大丈夫とは言われないんだからね",
"でも、私のはかなり進行しているらしいのです",
"えっ、すると、どこかへ転移しているとでも言うのかい",
"ええ",
"えっ、君、それ本当かい",
"本当です。腋の下の方へ転移しているらしい、と言われました",
"それは、君、大へんなことなんだよ。どうして、また、そんなになるまで、隠していたんだ",
"隠してなんかいませんよ。お乳の下にできていたので、気づかなかったんです。上の方は始終注意していたのですけれど"
],
[
"今日だって、こんなに遅くまで、何をしていたんだ",
"だって、入院するとなれば、受継いでもらわなければならないことも、いろいろあるんですもの",
"そうか",
"明日も出勤します。明後日はレントゲンの結果を聞きに行きます。それで、もう私、きっと大人しくしますから。心配かけて、ごめんなさいね"
],
[
"ね、見せてごらんよ",
"怒るから、いや",
"怒らない。昨日は僕が浅慮だった。絶対に怒らない"
],
[
"三十年、いや四十年近くも、大事に附けていたものが、失くなるのかと思うと、変な気持。女というものは、お乳には特別の関心を持っていますからね",
"そら、そうだろうとも"
],
[
"森岡先生が写真を見ながら、『しかし切りますよ。切るには切りますがね』とおっしゃったけど、思ったより、質が悪くなかったんですって。私、それを聞いて、ほんとに生き返ったように思いました",
"そうか、それはよかった"
],
[
"ベッドが空き次第、入院します。そうして、手術をしてから、大塚へ移って、念のためコバルトをかけるんだそうです。いろいろ心配をかけてすみません",
"そんなことお互に当然のことだよ。しかしこの病気では先輩だからね。先輩の言うことは聞かなくちゃいかんよ",
"しかも優等生の先輩ですものね",
"そうだとも",
"それから、病院との連絡場所は郁ちゃんの勤め先にしておきました",
"そう。じゃ、郁子のところへ電話しておかなくちゃいけないね"
],
[
"知っているのですか。奥さんが乳癌だということ、知っているのですか",
"乳癌だということは家内から聞きましたが",
"ところが、奥さんのは発見されるのが遅かった。その上、気づかれてからも、ここへ来られるまでに、かなり日が経っているように思われます。その間、癌はすっかり進行してしまっています"
],
[
"スポーツ新聞でも読んで、待っていて下さい",
"そうするよ"
],
[
"意識が少しだらっとして来た。注射のせいでしょうか",
"そうだろう。昨夜ね、夕御飯の時に、和夫がね、私があんたに癌をうつしたと言うんだよ",
"そんな馬鹿なことありませんわ",
"ところが、新学説でね、癌は一種のビールスだと言うんだが、その媒体は、馬鹿にしているじゃないか、愛情なんだってさ"
],
[
"かぜを引かぬようにして、待ってて下さいね",
"はいはい"
]
] | 底本:「澪標・落日の光景」講談社文芸文庫、講談社
1992(平成4)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「外村繁全集 第四巻」講談社
1962(昭和37)年3月20日
初出:「群像」
1960(昭和35)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2013年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051277",
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[
[
"どうかしたか",
"痛い、痛い。按摩さん、呼んで来てほしい"
],
[
"按摩さん、それは無理だよ。もう十二時だものな",
"そんなら、ちょっとでいいから、揉んでもらえないかな",
"やれやれ。じゃ、ほんのちょっとだよ"
],
[
"じゃ、これぐらいで、止すよ。あんたのは限りがないのだからな",
"そんなら、按摩さん、呼んでもらえないかな"
],
[
"また、時間、間違えているんだね。按摩さんて、もう、そら十二時半だよ。真夜中なんだよ",
"痛いなあ。どうしよう。眠れんなあ",
"あんたなんか、いつ眠ったっていいんだ。夜眠れなかったら、昼眠ったらいいんだからね。無理に眠ろうなどと思わずに。そら、いつかいいこと言ったじゃないか。呻くのは、痛いのを訴えているのではない。痛さに調子を合わせているんだってね。そういう風に、痛さにも眠りにも、抵抗せずに、隙を見て、すうっと眠ってしまうんだね。とにかく、僕は眠るよ"
],
[
"いいなあ。直ぐ眠れて",
"あああ、痛いなあ"
],
[
"何がいけなかったんだろう。小野さん、呼んでこようか",
"もういいの。小野さんなんかいい"
],
[
"ねえ、こんな時には、起こしてくれるんだよ",
"だって、あんまり度度、すまないもの",
"すむも、すまないも、場合によるよ",
"そんなら、ついでにおしっこしようかな",
"よしきた"
],
[
"怖いよう、電気炬燵は怖いよう",
"うん、僕もあんなもの好かんね。子供のやることは、ほんとに油断出来ないよ"
],
[
"寒い、寒い、寒いなあ",
"そうか、炬燵をうっかりしていたわい",
"怖いなあ、電気炬燵は怖いなあ",
"そんな電気炬燵じゃない。父さん式、粉炭こっぽり入れて、ほこほこしたの入れたげようね"
],
[
"父さんが外出などしては、いけませんて",
"へえ、そんなに悪いのかな",
"そうらしいです。いつ、どんなことが起こるかも知れないそうです",
"そうか",
"明日、滋養物を口から注入されるそうです。卵と牛乳を用意しておくように、言われました",
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"そうか"
],
[
"ああ、いけませんね",
"そうですか",
"電報お打ちになる所があれば、直ぐ打って下さい"
],
[
"こんどはとうとういけませんでしたね。臨終は十二時頃になるでしょう。また来ます",
"いよいよきたか"
],
[
"鉱物です",
"加工品ですか",
"違います",
"土の中にあるものですか",
"いいえ、今はありません",
"加工品じゃないんだな。この家の中にありますか",
"あります",
"さてと。台所にありますか",
"ありません",
"十畳にありますか",
"ありません",
"お座敷にありますか",
"あります"
],
[
"加工品じゃないでしょう。そんなものありませんよ。数珠の玉かな",
"カーン、御苦労さまでした。数珠の玉なんか、もちろん、加工品だよ",
"違います",
"空気",
"違います",
"空気は鉱物じゃないよ",
"だって、動物でも、植物でもないだろう",
"頭悪いな。空気なら、十畳にだって、台所にだってあるじゃないか",
"灰、お座敷の火鉢の灰",
"違います",
"あっ、解った",
"何だい。お兄さん、何だい",
"さあ、御明答ですよ。これから土の中へ入るものですか",
"そうです",
"どうだい。それみろ。この間まで、動物でしたか",
"そうです",
"父さんの最愛の動物でしたか",
"やられたな、まあ、そうです",
"まあ、なんて、御遠慮なく。若しも中風でなかったら、足で背中掻けると、言いましたか",
"始終、ぼろぼろの財布持って、お使いに走って行きましたか",
"よいとまけみたいな、襦袢着ていましたか"
]
] | 底本:「澪標・落日の光景」講談社文芸文庫、講談社
1992(平成4)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「外村繁全集 第三巻」講談社
1962(昭和37)年6月20日
初出:「文藝春秋」
1949(昭和24)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2013年10月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "051278",
"作品名": "夢幻泡影",
"作品名読み": "むげんほうえい",
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"初出": "「文藝春秋」1949(昭和24)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
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"公開日": "2013-11-11T00:00:00",
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"人物ID": "001499",
"姓": "外村",
"名": "繁",
"姓読み": "とのむら",
"名読み": "しげる",
"姓読みソート用": "とのむら",
"名読みソート用": "しける",
"姓ローマ字": "Tonomura",
"名ローマ字": "Shigeru",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1902-12-23",
"没年月日": "1961-07-28",
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"底本名1": "澪標・落日の光景",
"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
"底本初版発行年1": "1992(平成4年)6月10日",
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"校正に使用した版1": "1992(平成4年)6月10日第1刷",
"底本の親本名1": "外村繁全集 第三巻",
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} |
[
[
"おや、ここのは取らなかったんですね",
"放射線科の方に任せるようなお話でしたが",
"そうでしたか。じゃ、とにかく取ってしまいましょう。手術といっても、ごく簡単にすみますから"
],
[
"どうでした",
"シードとかいうものを取り寄せる関係で、手術は明明後日くらいになるらしい",
"私、何度でも切ってもらう。徹底的にやってもらう",
"そうだ。切ると言われれば、切ってもらおうね。何も彼も、病気のことは医者まかせだ"
],
[
"そうか。それは、実に、偶然でしたね。辻本君とは高等学校からの、親しい友人なんです",
"そうですってね。しかし、お互に、こんなところで、お目にかかるなんて、ねえ"
],
[
"更に、手術の傷口と睨み合わせ、コバルトを掛けます",
"いろいろ有難うございました"
],
[
"どうかね",
"やっと、痛いのが取れましたわ",
"そうか、それはよかったね",
"家の方、変りありません。今年も鶯、来ています"
],
[
"つい、この間まで来ていたんだが、ここ暫く来ないんだよ",
"でも、去年は四月の初め頃まで、来ていましたのにね",
"そうだったね。今年は暖冬で、山の雪が早く溶けたのかも知れないね",
"お宅へ鶯が来るんですか"
],
[
"そうよ。毎年、きまってやって来て、うちの庭の木でも鳴くのよ",
"まあ、いいわね"
],
[
"今日は、奥さんのお顔の色がとてもいいね",
"そう、奥さんは特殊の注射薬を、アメリカから取り寄せてもらって、注射してられるんですの",
"ええ、その注射薬は四日間しか効果がないのですって。ところが、アメリカから飛行機でどうしても二日かかるそうですから、とっても忙しいお薬ですのよ"
],
[
"この注射をすると、食欲はなくなるし、とっても疲れるので、どうしても入院しなくっちゃなりませんの",
"でも、私が入院した時から見ると、随分、元気になられたわ",
"この注射はとっても高いのよ。あれから、十二年も、命を貰ったのだから、もうどうだってよいようなものだけどね",
"そんなことないわ。絶対に。でも、そんなに高いの",
"一回、一万円もするのよ",
"一万円ですって。安いもんじゃありませんか。だって、太平洋をですよ、越えて来るんでしょう。もう金銭の問題じゃありませんよ。それに、第一、奥さんの顔色がこんなによくなったんですものね"
],
[
"乳癌なんです",
"そうですか。とてもお元気そうですのにね"
],
[
"奥さんはどこが悪いんですか",
"なんだか、顎に腫瘍とかいうものができているんだそうです"
],
[
"ええ、奥さんも上顎腫瘍なんですか",
"ああ、そうでした。よく御存じですね",
"私も、一昨昨年、やったんですよ",
"そうですか。それで、そんなによくおなりになったんですのね"
],
[
"まだ、週に一度は病院へ行っているんですけれど",
"腫瘍というのは、癌ではないのですわね。でも、私、今度は目が少し悪くなりましてね"
],
[
"偶然にね、上顎腫瘍だという奥さんが、僕の横に腰かけていてね",
"そう、ここには上顎腫瘍の方が沢山いますわ",
"目も少し悪いようだったが",
"そうよ、あれは直ぐ眼底に転移するらしいのよ。私のお向いの部屋にも一人おばあさんがいますわ",
"おいおい、嚇しちゃいけないよ。しかしね、素人の『らしい』話ね、つまり素人診断は、あんまり考えない方がいいようだよ",
"だって、癌の本にもちゃんと書いてあったわ",
"そうかね。ところで、今日も病院の食事を御馳走になろうかな。あれ、変においしいんだ",
"父さん、この頃、食欲ありますのね。嬉しいわ。じゃ、私は今日はてんぷらうどんにしよう",
"君だって、なかなか旺盛じゃないか"
],
[
"よくこんな大きなのが、持って来られましたわね",
"今年の花見は、これで我慢してもらうんだね",
"私まで、思いも寄らず、お花見させていただきましたわ"
],
[
"なんだか、『早くあけろ、早くあけろ』って、急きたてられているようで、気持が悪いわね",
"ほんとよ。つまり逆に言えば、『まだか、まだか』ってわけでしょう。厭になっちゃうわね",
"それは何のお話",
"お向かいの部屋のおばあさんが、亡くなったんです",
"そうか。上顎腫瘍で、片目を手術した、おばあさんかい",
"そうですの。もっとも直接の原因は肺炎だったそうですけれどもね",
"そうか",
"昨日の夜中でしたわ、私は眠っていたのでしょうが、廊下が何だか騒騒しかったのを覚えています。でも、明け方、目を覚ますと、廊下はもうひっそりとなっていましたわ。そうして今朝になると、病院はいつものように正確に活動を開始しました。まるで何事もなかったようにね。でも、おばあさんの名前は、やはり名札から消えていましたの",
"ほんとに、あの足音は厭なものですのよ。どんなに眠っていても、あの足音だけは、ちゃんと知っていますからね",
"ところが、私が診察室から帰って来ると、お向かいの部屋の前に、もう蒲団や、荷物が置いてあるじゃありませんか",
"そうか、もう替りの方が来たわけなんだね",
"そうなのよ。三十人の入院希望者に、ベッド一つの割合だそうです。全く、押すな、押すなって、感じですわ",
"そう言えば、あの社長さんも、あまりおよろしくないようね",
"そうね。社長さんのお部屋は東向きでしょう。以前は、毎朝、カーテンを一杯に開いて、朝日が差し入っていたのに、この頃はすっかりカーテンも締め切って、ベッドも隅の方に寄せてしまってね",
"ほんとに、私にも覚えがあるけど、衰弱がひどくなると、外界の生生としたもの、溌剌としたものが、堪えられなくなってくるものなのよ"
],
[
"その方は、社長さんかどうかは知りませんが、立派な紳士で、筋向いの個室に入っていられますのよ。喉頭癌のようですけれど",
"すると、お二人とも、もう大丈夫だと言えそうですね。こんなに生生溌剌たる桜の枝を担ぎ込んで来たのに、あんなに喜んでいただけたんですからね",
"そんなら、とにかく、そういうことにさせていただいておきましょう。ねえ、奥さん"
],
[
"今朝ね、診察室でね、私、順番を待っていましたの。その前で、五十過ぎの男の方が診察を受けていましたが、その方の鼻には管が通してありましたの",
"食道でも悪いのだろうね",
"そうでしょうね。その方がね、お医者さんに何か言われましたの。すると、お医者さんがひどく驚いた表情をなさって、『水、水を持って来てくれ』と看護婦さんにおっしゃって、看護婦さんが持って来たコップを、その方の手に持たせてね、『静かに、静かあに、少しずつ飲んでみなさい』と言われましたのよ"
],
[
"あの方です。ほら、今朝、初めて水が喉を通ったの、あの方ですわ",
"そうか"
],
[
"しかし、あの気持、何だか判るような気がするね",
"そうよ、手を後で組んだりしてね。きっと心に余裕ができたのね",
"そうだろう。よほど嬉しかっただろうからね",
"私なんかも、一時は、そのことで頭が一杯で、何を見ていても、何も目に入らなかったものですわ"
],
[
"奥さん、今日、退院なさるの",
"そうか。それはよかったですね。もっとも、最近はすっかり元気におなりでしたからね",
"しかし、来月には、また入院して、例の注射を更に一二回、打ってもらうのだそうですが",
"その注射は、側から見ていても、大へんよく利くようですね",
"さあ、どうですか。でも、こうして一二年も、どうにか持っていれば、またどんなお薬が発明されるかも知れませんからね。それだけが頼りですわ"
],
[
"あら、もう見えたのかしら",
"そうらしいわね。田口さん、一寸、見てみて頂戴"
],
[
"やはりそうです。お蒲団が置いてありますわ",
"あなた、もう替りの方が見えたのよ",
"全く押すな、押すなの盛況ね",
"実際、この病気の患者の数は、底がないといった感じですね",
"でも、奥さんの場合なんか、めでたく退院なんだから、どんなに急き立てられても、悪い気はしないわね",
"あまりおめでたくもなさそうなんだけれどもね"
],
[
"奥さんはあまり肯定的ではなかったが、アメリカからの注射って、かなり利くらしいね。ほんとに見違えるように元気になられたものね",
"でもね、御本人にしてみれば、心の中ではどう思っていても、口では大丈夫とは言えませんものね",
"それは、そうだ",
"そうそう、そう言えば、いつか話してらっしゃった、上顎腫瘍の女の方ね、今朝、診察室で出会いましたわ",
"そうかい"
],
[
"入院しておられるのだろうか",
"そう、二階ですって。おとなしい感じのよい方ですわ",
"そうだ、そんな感じの方だったね",
"顎には放射線をかけているんですって。そうして目にはね、やはりアメリカから送って来る、目薬をさしているのですって。それで、目を手術しなくてすんだって、喜んでおられましたけれど",
"そうか、目薬ね。やはり飛行機だろうね",
"そうでしょうね。でも、お気の毒に、目もまだ濁っていたし、顔色も青黒くってね、どう見ても、よい按配とは思われませんでしたわ"
],
[
"あの小さい絆創膏はね、放射線をかける範囲を示すもんだとすると、今の人も上顎腫瘍のようだね",
"そうでしょうね。とにかく、この病院には上顎腫瘍の方は多いようです"
]
] | 底本:「澪標・落日の光景」講談社文芸文庫、講談社
1992(平成4)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「外村繁全集 第四巻」講談社
1962(昭和37)年3月20日
初出:「新潮」
1960(昭和35)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:門田裕志
2013年10月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "051279",
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"作品名読み": "らくじつのこうけい",
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"初出": "「新潮」1960(昭和35)年8月",
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"公開日": "2013-11-17T00:00:00",
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[
[
"風呂へ行ってもいい? どうせ、帰らないと思って、今、行こうとしてた処なの",
"駒が続かなきゃ帰らざあなるめえ、とんちき",
"そんな事、妾が知るかい",
"何を"
],
[
"風呂へ行くって、今、何時だと思ってるんだ。賭場を出た時、一時を打ったんだぞ",
"節電で何処の風呂屋も突拍子もない時間にやるのよ。竹の湯は夜の十一時半から二時までだと云うから、今日、初めて行って見ようと思ったの",
"昼間行け、昼間",
"昼間はバイで暇が無いじゃないか、いいから、寝てなよ。すぐ、帰って来るわ"
],
[
"そうは体が持たねえよ",
"ふん、知らねえ人が聞きゃあ、ほんとだと思わあ",
"それより、おい、金になるものは何か無いのか",
"金になるのは十八歳の妾の体だけよ",
"こん畜生、逆う気か",
"ほんとの事じゃないか。酒買いや、煙草買いの鞘で妾達二人が米の飯に有り付こうというんだ。無理にきまってる処をあんたはそっくり博奕に持ってって、妾は昨日、姐御に百両借りて、やっと、コッペパンとおかずと手巻きのモクを買ったんだよ、逆さになったって鼻血も出ねえや",
"聞いた風なことを言うねえ、お前がちっとしっかりすりゃ、こうまで堕ちねえったってすんだんだ",
"だから、組が解散になった時、ダンサーになろうかって言ったら、男に尻を抱かせて踊るなあ嫌いだと言ったろ",
"当り前だ",
"女給はいけない、何はいけないと言い出したら、妾に商売の無いのはきまってるじゃないか"
],
[
"くさくさするのは妾さ",
"へへ、元はお嬢様で居らっしゃる。かたぎで居りゃあ、お嫁に行ってという処か",
"又、言うんだね"
],
[
"あきれたね。いい度胸さ、十八なんだよ。大下組の若いのと一緒になったんだけれど、何時の間にか、あんな凄い刺青をして、一ぱしの姐御なんだからね。妾はあの女が、小学校の時分から知ってるんだよ",
"そうですか"
],
[
"番頭さん、開けられないの",
"とうに閉めましたよ"
],
[
"大下組は解散なんですってね",
"そうよ",
"姐さんは大下組の若い人と一緒ですってね",
"小頭の勇よ",
"ああ、勇阿兄い、よく、そんな風に呼んでるのを聞いたことがありますよ",
"ふふん、今は陸に上がった河童さ",
"私はね、姐さんを子供の時分から知ってますよ、朝日湯の三助をしてましたからね",
"あら、そうなの"
],
[
"明後日は朝の五時からですが、四時には開けて置きますよ。裏から来て下さい。四時半になると、又、別な馴染が入りますからね",
"有難う、頼むわ"
],
[
"藤さん、時間外は眼立つよ、夜はね",
"私もそう思ったんですがね、お内儀さん、例の、大下組の刺青をした女なんですよ。逆うと後がいけませんからね"
],
[
"すまないわね、小父さん",
"なあに、お前さんの刺青の見料さ。気にかけなくったっていいよ"
],
[
"併し、お前さんの唐子は死んでるよ",
"死んでる?",
"うん、死んでるよ"
],
[
"この唐子が死んでるの",
"うむ、脊中のもだよ",
"何故だろう",
"さあ、俺にもわからないね"
],
[
"明日の賭場が立つまでに五千両都合出来ないか。おい",
"借り尽しちゃったのは知ってるじゃないの、千や二千までなら、どうにもなったさ。今迄は……だけど、仏の顔も日に三度だよ。そうそうは言えるものじゃない",
"おい、お前、今迄、千、二千と持って来たなあ、何処の、どいつの金だ",
"妾の口一つさ",
"じゃあ、二千が五千になったって出ねえ事はないだろう",
"そんな、まとまった金を誰が出してくれるものかね",
"出ねえ事はあるまい",
"妾に体を張ってもいいと言うの"
],
[
"ふん、今迄の銭だって、お前の口一つとは思って居なかったんだ",
"そう……妾もいい役廻わりさね。そう思われてまで苦労をするなんて",
"いいやな、今度の五千さえ出来れば、俺も一かばちかの運試しをして、すっぱり止めるからな"
]
] | 底本:「消えた受賞作 直木賞編」メディアファクトリー
2004(平成16)年7月6日初版第1刷発行
底本の親本:「オール讀物」文藝春秋新社
1947(昭和22)年12月号
初出:「オール讀物」文藝春秋新社
1947(昭和22)年12月号
※表題は底本では、「刺青――しせい――」となっています。
入力:kompass
校正:noriko saito
2019年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058812",
"作品名": "刺青",
"作品名読み": "しせい",
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"初出": "「オール讀物」文藝春秋新社、1947(昭和22)年12月号",
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"作品著作権フラグ": "なし",
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"生年月日": "1904-01-01",
"没年月日": "1967-10-16",
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[
[
"日本人の柔道なんて、あれは小人の蹴合いみたいなものさ。ほんとに人がぽんぽん投げられるものか。まして、われわれアメリカ人のこの堂々たる重いからだが、ちッぽけな腕で投げられるはずがないよ。",
"ところが、モンクス。あの柔道の教師トミタの道場には、アメリカ人の弟子も相当あるぜ。",
"ふん、そりゃものずきだな。一つおれの鉄腕でのばしてやろうか。いったい日本人の柔道なんぞを、このサンフランシスコにのさばらしとくのがけしからん。",
"そんならモンクス。おまえひとつ試合を申しこんでみろ。",
"向こうが逃げるよ。",
"よし、そんなら、おれが申しこんでみてやろう。"
],
[
"だめ、だめ。あの日本人め、にっこり笑って『よしましょう』というんだ。なぜだといったら、『日本の柔道は身をまもる術だし、拳闘とはやり方が違う。それに拳闘家との試合を見世物にすることは、日本柔道の道にはずれる』……",
"な、なに、なんだと! 見世物……ううむ、おのれ、こうなったら、どうしても試合をやるぞッ。"
],
[
"どうしてもやらんか。",
"やらん。"
],
[
"柔道は見世物ではない。見物人の前で拳闘と試合をするのはごめんだ。",
"ふん、拳闘と試合のできないような柔道、そんなものは、手先の芸当なんだな。",
"なに!"
],
[
"よろしい、試合をしよう。",
"やるか。ではお互いが打ち倒されて眠ってしまうまでやろう。",
"よろしい。"
],
[
"立て!",
"柔道は寝ていてもよろしい。"
]
] | 底本:「少年倶楽部名作選 3 少年詩・童謡ほか」講談社
1966(昭和41)年12月17日発行
底本の親本:「少年倶楽部」講談社
1935(昭和10)年1月号
初出:「少年倶楽部」講談社
1935(昭和10)年1月号
※表題は底本では、「[#1段階小さな文字][#太字]柔道《じゅうどう》と拳闘《けんとう》の[#太字終わり][#小さな文字終わり](改行)転《ころ》がり試合」となっています。
入力:大久保ゆう
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
2020年5月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058935",
"作品名": "柔道と拳闘の転がり試合",
"作品名読み": "じゅうどうとけんとうのころがりじあい",
"ソート用読み": "しゆうとうとけんとうのころかりしあい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「少年倶楽部」講談社、1935(昭和10)年1月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-01-01T00:00:00",
"最終更新日": "2020-05-03T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001958/card58935.html",
"人物ID": "001958",
"姓": "富田",
"名": "常雄",
"姓読み": "とみた",
"名読み": "つねお",
"姓読みソート用": "とみた",
"名読みソート用": "つねお",
"姓ローマ字": "Tomita",
"名ローマ字": "Tsuneo",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1904-01-01",
"没年月日": "1967-10-16",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "少年倶楽部名作選 3 少年詩・童謡ほか",
"底本出版社名1": "講談社",
"底本初版発行年1": "1966(昭和41)年12月17日",
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"入力者": "大久保ゆう",
"校正者": "富田晶子",
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"テキストファイル最終更新日": "2020-05-03T00:00:00",
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"テキストファイル修正回数": "1",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"では、先々もこのままでよろしいな",
"はい"
],
[
"奈世、昼間、お前に歌をきかせて居た男はなんと言ったな",
"青木さんで御座います",
"そうか、あの男は肺が悪いとか言って、邸へ来たのだったな",
"………"
],
[
"あの新体詩はなんというのか",
"わかりかねます",
"あの様なものは、お前も好きか",
"いえ",
"奇妙な読み方をするの"
],
[
"身投げを……。なんで又",
"はい、私にも、とんと、事情がわかりかねますでございますが、園丁小屋の青木の坊ちゃんも一緒でございました",
"心中か"
],
[
"はい",
"昨夜のことだな",
"はい、抱合心中で御座います。今朝、照ヶ崎の海岸へ引き揚げられまして。なんとも、はや……はい。ただ今、雨戸をお開けいたします"
],
[
"抱合心中というのは、必ず、男が上になって流れつくと言うが、そういうものか",
"へっ?"
],
[
"いえ、青木は園丁小屋の方に、奈世は爺やの家の方に置いてございます",
"そうか、通夜はやってやるのだろうな",
"はい、二人とも、なかなかお邸内では人気がございましたもので",
"ふむ"
]
] | 底本:「消えた受賞作 直木賞編」メディアファクトリー
2004(平成16)年7月6日初版第1刷発行
底本の親本:「オール読物」文藝春秋
1989(平成元)年3月臨時増刊号
初出:「小説新潮」新潮社
1948(昭和23)年5月号
※表題は底本では、「面――めん――」となっています。
入力:kompass
校正:noriko saito
2019年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058813",
"作品名": "面",
"作品名読み": "めん",
"ソート用読み": "めん",
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"副題読み": "",
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"初出": "「小説新潮」新潮社、1948(昭和23)年5月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-01-01T00:00:00",
"最終更新日": "2019-12-27T00:00:00",
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"名": "常雄",
"姓読み": "とみた",
"名読み": "つねお",
"姓読みソート用": "とみた",
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"姓ローマ字": "Tomita",
"名ローマ字": "Tsuneo",
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} |
[
[
"しずかに!……",
"……おや! おや!"
],
[
"……",
"泥がはねかえったの、靴へ。"
],
[
"何か持っていない?",
"……",
"拭くもの!"
],
[
"~~~~ ~~~~ ~~~~",
"~~~~ ~~~~ ~~~~"
],
[
"誰だ?",
"あの男は?",
"誰だ?"
],
[
"影佐君?",
"……?"
],
[
"影佐君ではありませんか?",
"……え!"
],
[
"どなたでしたか?",
"青沼白心です――どうでしょう、コーヒーでも飲みませんか。"
],
[
"居るかね。",
"うむ……"
],
[
"また君は興奮してるね。",
"そうかも知れない、見る人によっては……だが、そんなことは万々あるまい。",
"そうかね、それならいいのだが……少し病気でもありはしまいかとも思った、それとも何か考えごとでもあったのか?",
"うむ、考えたかも知れない……"
],
[
"殺す? 誰が?……君をかね?",
"アハ、ハ、ハ、ハ、解りはしまいね?",
"巻狩りをするのか、困るよ。",
"君はどう考えた?",
"何を?",
"万事休す、そして生きた人間の魂を買収するのだよ。",
"誰の?",
"人間の……つまり確かな証拠を握るために……しかし多分その人間が、いや、その男が捕えられた時には、彼はすでに破産者になっているだろう――狼狽と擾乱と滅亡とそして眼には見えない悲惨との犠牲者になっているだろう……二重の復讎になって……",
"よし給え、君の言っていることは、僕には嚥込みかねるね、一たいそれは憤恨かね、それとも自己侮蔑かね……僕には解らない……君は何かへ対して挑戦でもしていそうだ。そんな健全でない自己嘲笑はよし給え……それとも皮肉かね……君は君自身で妙な秤で評価しようとしている……",
"そうだね、歪んだ秤だよ。",
"もういい加減のところで止すのだね、君はどうかしているのだ?",
"うむ、忘れるな、希望が湧いたのだよ。",
"希望?"
],
[
"伝心?",
"分身?",
"陰謀者?"
],
[
"この家は坂の頂上にあるのだね?",
"そうでもないよ、少しは離れてる。",
"……いまにこの家は坂の上から転落して行くぞ、おれの躯と一緒に……"
],
[
"それはおれだ!",
"それはおれの母親だ!"
],
[
"競争者、決闘だ",
"決闘? 競争者",
"ふむ",
"よし",
"決闘!",
"決闘!",
"今夜、客の前で――",
"客の前で――綱の上で――",
"フレンド・シップ・ダンスの時",
"フレンド・シップ・ダンスの時",
"真剣勝負",
"真剣勝負"
],
[
"マコトノヨ、ヒトリノオナゴ……",
"嘘だ",
"昏倒せえ",
"地獄へ出てゆけ",
"マコトノヨ、ヒトリネミドリゴ……",
"豚の子",
"尻尾をちょんぎれ",
"ハハノウデ……",
"スカートが燃えるぞ",
"金髪をとれ、その鬘だ",
"栗色",
"不快",
"金",
"血",
"肉",
"呼吸",
"ヒッス",
"ヒャア、ヒャア",
"ヒッス"
],
[
"あたしのウィリイは……",
"何だと? 勝手にサアカスなどへやって"
],
[
"……",
"あいつは好くはならんぞ",
"神様、あの子、ウィリイを守り給え"
],
[
"煙草",
"ポケットだ"
],
[
"ペテロ!",
"サルフィユ!"
],
[
"フレンド、シップ、ダンス",
"おいらのサルフィユ、しっかりせえ。足元をしっかりせえ"
],
[
"おいらのペテロ",
"おいらのサルフィユ",
"しっかりせえ",
"それッ",
"右だ"
],
[
"畜生",
"右だ"
],
[
"思いつき……書けるかね?",
"ふむ、イマジナティヴ・コンポジションと言った方がいい、書くとするなら……",
"ふむ、しかしこれは、おれがいままでに見た映画のつぎはぎさ、本心を言うと。で、おれは(夢に見た映画)と題をつけておいたぐらいだ。形式についてもかなり作意したつもりだ。いま話したあのまま書くつもりだ。それにしても純然たる竊盗かも知れないが――くだらないテイマでね、うっかり書いてしまうものなら子供じみたモラル風の味の外はでそうにもない、それともそんな味さえ消えてなくなるかも知れない。焦点がなくなって。つまりやぶにらみになって……"
],
[
"雪だろう!",
"雪だろう!"
],
[
"死?",
"死!"
],
[
"きょうはやめる。",
"どうしてですか。",
"それでは……君の言いなりでは、物の道理に合わない……"
],
[
"うむ、君にしたところで、教室では一面識がないという訳でもなかろう、倫理学の大家の――",
"あ。"
],
[
"君、部屋のなかに閉籠っているので、散歩がてらそこへ行ってみ給え。",
"そこと言うと――",
"困るね、その態度では。中学校の教師にでもなろうという者が。――博士はそこの顧問だ……",
"中学校?",
"うむ、君はリーダーの二を教えるようになるだろう。多分そうだろう。",
"おれが?",
"君、困るな――",
"解った!"
],
[
"宝石です。",
"A GEM",
"A PRECIOUS STONE"
],
[
"胃だ?",
"胃だ!"
]
] | 底本:「書物の王国11 分身」国書刊行会
1999(平成11)年1月22日初版第1刷発行
底本の親本:「改造」改造社
1911(明治44)年5月
初出:「改造」改造社
1911(明治44)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※文中の「~~~~」は底本では繋がった波線です。
入力:土屋隆
校正:山本弘子
2008年5月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001714",
"作品名": "あめんちあ",
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"ソート用読み": "あめんちあ",
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"原題": "",
"初出": "「改造」1911(明治44)年5月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-06-07T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
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"人物ID": "000282",
"姓": "富ノ沢",
"名": "麟太郎",
"姓読み": "とみのさわ",
"名読み": "りんたろう",
"姓読みソート用": "とみのさわ",
"名読みソート用": "りんたろう",
"姓ローマ字": "Tominosawa",
"名ローマ字": "Rintaro",
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"生年月日": "1899-03-25",
"没年月日": "1925-02-24",
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"底本名1": "書物の王国11 分身",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年1月22日",
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} |
[
[
"もう本当に天気がよくなったのでしょう。",
"そうね。"
],
[
"今日は。",
"今日は。今年は作がよく出来て結構でございますね。",
"へえ、天道様はよくしたものでがっせ。去年は不作で米が安かっただが、今年はそのうめ合せだちゅうんで……。"
]
] | 底本:「豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)」未来社
1967(昭和42)年11月10日第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2005年12月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042481",
"作品名": "秋の幻",
"作品名読み": "あきのまぼろし",
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"公開日": "2006-01-16T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
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"名": "与志雄",
"姓読み": "とよしま",
"名読み": "よしお",
"姓読みソート用": "とよしま",
"名読みソート用": "よしお",
"姓ローマ字": "Toyoshima",
"名ローマ字": "Yoshio",
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"生年月日": "1890-11-27",
"没年月日": "1955-06-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "豊島与志雄著作集 第六巻(随筆・評論・他)",
"底本出版社名1": "未来社",
"底本初版発行年1": "1967(昭和42)年11月10日",
"入力に使用した版1": "1967(昭和42)年11月10日第1刷",
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"校正者": "門田裕志",
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} |
[
[
"何を……。",
"穴を掘つてるのを。",
"穴だつて……。",
"栗の木の下にさ……。",
"栗の木……。",
"わたしが栗の木の下に穴を掘つてるのを、お前さんは見たらう。",
"栗の木の下に穴を掘つてる……そんなもの見やしない。",
"ほんとに見なかつたか。",
"見ないよ。だが、そんなことを聞いてどうするんだい。",
"ふむ、その調子ぢや、ほんとに見なかつたらしいな。"
],
[
"おれだよ。センイチだよ。何をとぼけてるんだ。",
"センイチだつて……あゝ、二本の角、手の爪、足のひづめ、それからしつぽ……。悪魔だ、お前は悪魔だ。出て行け。"
],
[
"なるほど、身体に毛が一ぱい生えてゐないところをみると、悪魔ぢやなくて、やつぱりお前さんだね。",
"何を言つてるんだ。本当に悪魔になつてたまるものか。"
],
[
"だが今さらもう仕方がない。悪魔がまだなか〳〵帰つて来ないやうだつたら、どうしたらいゝかしら。",
"ほんとに困つたね、お金ばかりたまつてさ。"
],
[
"分つたの。",
"いや分らない。大きな森の中だ。一日ぢやだめだ。"
],
[
"分つたの。",
"分らない。"
],
[
"まだ分らないの。",
"まだ分らない。"
],
[
"まだ分らないの。",
"まだ分らない。"
],
[
"あゝ、これでさつぱりした。悪魔と約束なんかするものぢやない。明日からもと〳〵どほりに働くんだ。そこで……久しぶりに村の方に行つてみようか。もう長い間、おれは誰にも会はないんだから……。",
"さう、わたしも一しよに行かう。変なうはさがたつてるんだから、村中を歩きまはつてやらうよ。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第一六巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「エミリアンの旅」春陽堂
1933(昭和8)年1月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1929(昭和4)年1月
入力:菅野朋子
校正:門田裕志
2012年4月15日作成
2012年12月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045056",
"作品名": "悪魔の宝",
"作品名読み": "あくまのたから",
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"副題読み": "",
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"初出": "「赤い鳥」1929(昭和4)年1月",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"姓": "豊島",
"名": "与志雄",
"姓読み": "とよしま",
"名読み": "よしお",
"姓読みソート用": "とよしま",
"名読みソート用": "よしお",
"姓ローマ字": "Toyoshima",
"名ローマ字": "Yoshio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1890-11-27",
"没年月日": "1955-06-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第一六巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"底本の親本名1": "エミリアンの旅 ",
"底本の親本出版社名1": "春陽堂 ",
"底本の親本初版発行年1": "1933(昭和8)年1月",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "菅野朋子",
"校正者": "門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000906/files/45056_ruby_47196.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2012-12-19T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
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} |
[
[
"一体、何かある興味のために、と云っちゃ変ですが、まあ或る気持のために、……例えば、人を殺すとしましたら、その人殺しは、他の場合よりも罪が重いものでしょうか。",
"さあ、僕は専門家でないから、罪の軽重は分りませんが、そういう殺人でもやはり、立派な殺人には相違ありませんね。",
"それでも、金を盗むためとか、何かそんな風な人殺しよりは、まだたちのいい人殺しじゃありませんでしょうか。",
"たちがいい……とも云えるかも知れませんが、或はまた、一層たちが悪いとも云えるかも知れませんね。なぜなら、単なる興味や気分のために人殺しをするような奴は、動物に近く人間に遠いとも云って差支えないほど、極端に残忍な性格の者に相違ないからです。それに第一、殺人そのものが罪悪ですから、金銭のためであろうと、興味のためであろうと、そんなことは余り問題にはならないでしょう。興味のために行われる事柄で、立派に罪悪となるのもありますからね。一例を拳ぐれば、強姦なんかは、何のために行われると君は思いますか。",
"それは無論情慾のためでしょう。",
"そうです。所がその情慾というものが、興味というものとどれだけの差がありますか。比較的弱い情慾は単なる興味と同じものです。ただ人間の性質上、殺人は多く金銭や嫉妬や怨恨から行われ、強姦は多く情慾や興味や一時の気分から行われるだけで、そしてどちらも、立派に罪悪を構成するじゃないですか。動機よりも行為の性質が根本の問題でしょう。",
"そうですかね。では人殺しはそれとしまして、例えば、或る気持から他人の品物を毀すとしましたら、それでもやはり重い罪になりますでしょうか。",
"ええ、立派な器物毀損罪ですね。一寸考えると、悪戯に毀してやれというくらいな気持で、他人の器物を毀すようなことはよくありますが、器物と云って軽蔑するのが間違いです。僕一個の考えですが、世の中に凡そ一定の形を具えてるものはみな尊敬すべきです。生命のあるものは勿論ですが、無生の器具でも、それにはみな、それを拵らえ上げた人間の労力が籠っているものです。例えて云えば、貨幣は単なる紙や金属ではなくて、人の労力を具体化したものであると同じように、器物もみな、それを拵らえ上げた人間の労力を具体化してるものです。だから器物を毀すということは、人間の労力を毀すことで、本当の意味から云えば、可なり重い罪悪になるのが当然です。",
"けれどそれを拵らえた人は、もうそれだけの代価を得てるじゃありませんか。",
"それは得ています。その代り、それを買い取った人は、それだけの金を、云いかえれば、それだけの労力を、支払ってるじゃないですか。器物は何処へいっても、その所有者の労力を具体的に示しているものです。",
"そういうことになりますと、世の中のものは何一つ、どんな不用なものでも、少しも毀してはいけないことになりますね。",
"まあそうです。自然と毀れるものは仕方ないが、進んで毀すということは、何についても罪悪です。毀すよりは打捨ててしまう方が本当です。極端に云えば、髯を剃ることだって一の罪悪になるかも知れません。",
"それでもあなたは、二三日おきには髯を剃っていられるじゃありませんか。なぜ長くお伸しなさらないのですか。",
"まだなかなかそこまでの修養は出来ませんね。その代り、僕はこの通り髪を長くもじゃもじゃに伸して、なるべく刈らないようにしています。それに、或る程度までの罪悪は生きる上に仕方ありません。第一物を食うということが罪悪ですからね。まあ、自分のものは自分の勝手に処置して、その代り他人のものには指一本触れない、というくらいの所で妥協するより外はないでしょう。",
"それなら、他人のものに指を触れることが、生きる上に必要だったら、どうでしょう。",
"そんな必要があるものですか。",
"いえ時によるとあるかも知れません。そうしなければどうしても生きてゆけない、といったような気持も……。",
"それは必要な気持ではなくて、贅沢な気持です。贅沢から世の中は面倒くさくなるんです。贅沢心さえなければ、人間は安んじて生きてゆけるものです。",
"そうでしょうかしら?",
"そうですとも!"
],
[
"十四……それにしちゃあよく伸びたものだね。",
"何が?",
"僕はまた十七八くらいかと思った。",
"そう。"
],
[
"十四やそこいらで、どうしてこんな所へ出たんだい。",
"家が困ったからよ。",
"辛くはないかい。",
"そりゃあ辛いわよ、姉さん達が私に苦労かけないようにって、名指しでないお客には、いつも私を先に出してくれるけれど、それが却って私、嫌で嫌で仕様がないわ。いつも疲れてるせいか、眠くって堪らないのよ。",
"おい、滅多なことを云うなよ。客の前でそんな口を利くってことがあるか。",
"あら、御免なさい。"
],
[
"こんな商売を初めてから、どれくらいになるんだい。",
"まだやっと二月よ。",
"嘘だろう。十四というのは本当かも知れないが、二月というのは嘘だ。",
"いいえ、本当よ。"
],
[
"私お腹が空いちゃったから、何か食べさして下さらないこと?",
"そんなら鮨でも取ったらいいだろう。ついでにお酒を一本添えて貰うといいな。"
],
[
"あなた、今晩泊っていっていいんでしょう。",
"いけないよ。",
"なぜ?",
"帰らなけりゃならない。"
],
[
"どうしたのよ、黙りこくってて。何か怒ったの?",
"あんなに待たせられてさ、腹も立とうじゃないか。",
"ほんとに御免なさい。お誂えのものがなかなか来なかったんですもの。"
],
[
"あら、まだ怒ってるのね、こんなに謝ってるのに。",
"謝り方が足りないよ。"
],
[
"ねえ、君は、僕が一緒に連れて逃げると云ったら、ついてくるかい。",
"ええ、いくわ。",
"じゃあ、一緒に死のうと云ったら?",
"死んだって構わないわ。",
"そんなら、君だけを僕が締め殺すと云ったら?",
"いやあよ、一人っきりじゃ!",
"とうとう本音を吐いたね。締め殺してやるからこっちにお出でよ。",
"いくもんですか。",
"屹度来ないね。",
"ええ。"
],
[
"あなた私を打った。",
"打ったさ。いくら揺ぶっても起きないじゃないか。眼が覚めなけりゃも一つ打ってやろうか。",
"なに、打つなら打ってごらん。さあ打てるものなら、打ってごらん。"
]
] | 底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「改造」
1923(大正12)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年8月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"初出": "「改造」1923(大正12)年8月",
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"生年月日": "1890-11-27",
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} |
[
[
"学校に通っておいでになりますの。",
"そうです。",
"学校はどちらの……。",
"明治大学の法科です。",
"お国は……。",
"朝鮮です。"
],
[
"あの、どなたか、こちらを紹介なすった方がおありですか。",
"人から聞いて来ました。",
"私共では大抵、どなたかの紹介がある方にお願いしていますので……。",
"紹介はありません。学校の紹介ならいつでも貰って来ます。",
"いえ、それには及びませんけれど……。"
],
[
"私共は、ほかより少し室代が高くなっていますので、不経済ですよ。",
"それは構いません。",
"それに、御勉強なさるのに自炊ではお困りでしょう。",
"食事は外でも出来ます。",
"外のお食事は、かたよって、身体にいけませんよ。",
"自分でも作られます。時々作っています。",
"それが、学生さんにはなかなかねえ……まあ、よくお考えなすっては如何ですか。"
],
[
"なんですか、昨夜のざまは。",
"済みません。昼間雪が降ったから、嬉しくなって……。"
],
[
"夜はもう解けてましたよ。",
"それでも、昼間降ったでしょう。"
],
[
"何がそれです。",
"そういう夢をみたのを、覚えています。その夢が、外套だったんです。"
],
[
"何が見ぐるしいんだ。",
"みな、凡て、見ぐるしい。"
],
[
"普通のアパートでしたら、止宿人は全く自由でしょうけれど、私共では、よその大事な息子さん達をお預りしてるという気持から、殊に厳重にしておりますし、李さんもそれはよく知っておる筈ですが……。",
"それに、先程申したように、別所君と一緒に、或は別々かも知れませんが、同時に居なくなったということがなんだか、気懸りです。"
],
[
"奥さま、李さんが帰りました。",
"え、李さんが……。いつ?"
],
[
"一体、どこに行ってたんです。",
"だから、これ、軽井沢からのお土産です。",
"軽井沢ですって。",
"ちょっと寄りました。浅間山に登ってきました。",
"そして、別所さんは……。",
"一緒です。"
],
[
"浅間の噴火口はみごとです。ほんとによいことをしました。別所君をあの中に叩きこんでやりました。",
"え、噴火口に……。",
"それがよかったんです。元気になって一緒に帰ってきました。"
],
[
"なぜ断って行かなかったんですか。どんなに気を揉んだか知れませんよ。",
"ひどく急でした。別所君がふいに、行こうと云いました。噴火口にとびこむか、断然あれを思いきるか、どっちかにすると云うんです。だから、見届けについて行きました。"
],
[
"御飯をたべさして下さいよ。おなかがすいています。昨夜から汽車の中でなんにも食べていません。",
"今あげますよ。それよりか、はっきり話してごらんなさい。あなたの話はちっとも分らない。",
"だって、おばさんに分ってるんでしょう。"
],
[
"だけど、ふだんあれほど云っといたんですから、これからは、家を空ける時は断らなけりゃいけませんよ。",
"そうです。それが、家にいる時はよく分っていますが、外に出ると、忘れてしまいます。",
"忘れるなんて……。",
"忘れるんです。ばかです、僕は。"
]
] | 底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「文芸春秋」
1938(昭和13)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2009年1月12日作成
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"作品名": "浅間噴火口",
"作品名読み": "あさまふんかこう",
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[
[
"もっとはっきり言えよ。",
"だから、耳を舐められただけ。"
],
[
"耳をかしてと言うから、あたし、スタンドの上にのりだしてる中野さんの方へ、耳を向けたわ。すると、ただ熱い息だけで、何の声もしやしない。そして、耳朶に何かさわったようで、それから、急にくすぐったくなったから、びっくりして飛び上った……。それだけ。",
"それから……。",
"中野さん、笑ってるから、ばか、と言って、睨みつけてやったら、しょげてたわよ。まるっきり子供ね。"
],
[
"いったい、耳を舐められたのか、噛まれたのか、どっちだい。",
"舐められたのよ。噛まれたんなら、すぐに分るじゃないの。も一度、うっかりしてる時に、舐められたことがあるわ。でも、それっきりよ。もうあたしの方で用心してるんだから。"
],
[
"いつもとまってるじゃないの。",
"でも、酒を飲む時は、時計がとまってる方がよくはないかしら。あたし、そう思うのよ。"
],
[
"酒を飲む時だけ。",
"そうね、酒を飲む時と、音楽を聞いてる時と、映画を見てる時と……。",
"あのひとと逢ってる時。",
"あら、いやあだ。それから、ここのマダムと逢ってる時……。",
"ここのマダムは、お酒でしょう。さあ、お飲みなさいよ。"
],
[
"あれをしてみるのよ。",
"じゃあ、やってごらんなさい。"
],
[
"マダムも、七時に夢をみるでしょう。",
"七時頃、夢なんかみないわよ。",
"でも、今にきっとみるようになってよ。",
"どうして。",
"占いに出たんだもの。七時に夢をみたら、どんな夢だか、あたしに話してね。ちょっと気になることがあるのよ。"
],
[
"いいさ。夜明しで飲むよ。",
"じゃあ、あたしもつきあうわ。"
],
[
"酔っていらっしゃいますか。",
"いや、そう酔ってもいないよ。なぜだい。"
],
[
"怒ってるんでしたら、それは誤解なんですから、あなたからもよく仰言って下さいませんか。",
"いったい、何のことだい。"
],
[
"それをマダムがどうして怒るんだい。",
"誤解してるんです。私とその音楽家と変な仲だと思ったんでしょう。",
"変な仲だっていいじゃないか。",
"だって、私はマダムを好きですし、マダムは私を好きなんです。",
"ほう、相愛の仲か。",
"いいえ、違いますよ。ただ好きなんです。……私はあなたとマダムとのこともよく知っています。けれど、それは別の問題です。私は何とも思ってやしません。そんな問題ではなく、ただ、私はマダムを好きですし、マダムは私を好きです。その私が、ほかに恋人を持ってるなどと誤解されるのは、つらいことです。マダムは誤解してるんです。私からあまり弁解するのもへんですから、あなたからも、口添えして下さいませんか。",
"つまり、その音楽家が君の恋人でないということになれば、それでいいのかい。",
"そうなんです。",
"そして、それが本当なのかい。",
"本当です。",
"そんなら、もうそれで構わないじゃないか。",
"ただ、マダムから誤解されて、怒られてると、私はいやなんです。",
"そんなこと、わけはない。僕からもよく言ってやろう。",
"お願いします。"
],
[
"あのひと、可愛いいところがあるわね。あたしがちょっと拗ねた風を見せると、すぐ本気にするんですもの。",
"中野は君を好きだと言った。君も、中野を好きだと言うんだね。",
"まあ……そうね。",
"それを、僕の前で言うのかい。",
"言ったっていいじゃないの。遊びですもの。"
],
[
"用事ってのは、何のことかしら。",
"さあ、あたしにも分らないわ。"
],
[
"あたし、もう帰ってよ。",
"ええ、それがいいわ。"
]
] | 底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字、1-13-24])」未来社
1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「光」
1947(昭和22)年7月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2008年1月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042737",
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"作品名読み": "あさやけ",
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[
[
"危いですよ。足が落ちかかっていますよ。",
"それは……どうも……有難う。"
],
[
"どこまでおいでになります。",
"下関まで行きます。"
],
[
"昨晩は、どうも……とんだ失礼をしました。",
"え?",
"少し飲んでいたものですから、よう寝込んでしまって、度々どうも……。",
"じゃあ……あの……。",
"え、足を……どうも……。",
"ああそうですか。私こそ失礼しました。",
"いや、どうも……その……習慣になってるものですから。"
],
[
"私はまた、あなたが落っこちでもされたら危いと思って、とんだお節介をしたんですが、初め……足が片方ぶら下ってるのを見た時は、喫驚しましたよ、お化かと思って……。",
"それは……まあ何とも……。"
],
[
"然し、癖もいろいろありますが、膝の下に物をあてがって寝るというのは、珍らしい癖ですね。ずっと以前からそうなすってるんですか。",
"もう五六年にもなりますかな……。私は慢性の胃病で、そのために足がだるい、そう医者は云いますが、どんなもんですか。……家内が心配してくれまして、膝の下に何かあてて寝たらよいと云うて、小さい厚布団を作ってくれましたんで、至極工合がよろしゅうて、それが習慣になりましてな、家では不自由しませんが、旅に出ると、よく困ることがあって、どうも……時々やりぞこないましてな……。"
]
] | 底本:「豊島与志雄著作集 第二巻(小説2[#「2」はローマ数字、1-13-22])」未来社
1965(昭和40)年12月15日第1刷発行
初出:「新小説」
1925(大正14)年9月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "042439",
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"初出": "「新小説」1925(大正14)年9月",
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"姓読み": "とよしま",
"名読み": "よしお",
"姓読みソート用": "とよしま",
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"名ローマ字": "Yoshio",
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[
[
"少しお送りしよう。",
"有難う。さあみんな、出かけようか。"
],
[
"あなたの遠大な計画は、私にはわかりませんが、ナイル河の水源をはつきり探るまでは、帰国しないおつもりでせう。しかし、あなたが満足された時には、本国へ帰つて、皆を喜ばせてやつて下さいよ。",
"全くその通りだ。"
],
[
"まあ一年半はかゝるだらう。",
"それでは、予定が狂ふ場合のことも考へて、人夫たちは、此処へ到着の日から向う二年間といふことにして、雇つておきませう。",
"それはたいへん結構だ。",
"では、これでお別れしませう。神は、これまで常にあなたを助けて下すつたやうに、今後もあなたを助けて、安全に故国へ導いて下さるでせう。",
"君たちも、神が安全に帰して下さるでせう。さよなら。",
"さよなら。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第十六巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「世界探検物語」新潮社
1941(昭和16)年10月
初出:「世界探検物語」新潮社
1941(昭和16)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※図版は、底本の親本からとりました。
入力:菅野朋子
校正:門田裕志
2013年2月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045067",
"作品名": "アフリカのスタンレー",
"作品名読み": "アフリカのスタンレー",
"ソート用読み": "あふりかのすたんれえ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「世界探検物語」新潮社、1941(昭和16)年10月",
"分類番号": "NDC K294",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2013-04-29T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000906/card45067.html",
"人物ID": "000906",
"姓": "豊島",
"名": "与志雄",
"姓読み": "とよしま",
"名読み": "よしお",
"姓読みソート用": "とよしま",
"名読みソート用": "よしお",
"姓ローマ字": "Toyoshima",
"名ローマ字": "Yoshio",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1890-11-27",
"没年月日": "1955-06-18",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第十六巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷 ",
"底本の親本名1": "世界探検物語",
"底本の親本出版社名1": "新潮社",
"底本の親本初版発行年1": "1941(昭和16)年10月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "菅野朋子",
"校正者": "門田裕志",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000906/files/45067_ruby_49629.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2013-02-04T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000906/files/45067_50161.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-02-04T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
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