chats
sequence | footnote
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3.16k
| meta
dict |
---|---|---|
[
[
"麿が此の山へ登ったのは、三つの歳であったそうだが、そなたは四つになるまで在家に居たと云うではないか。そんなら少しは浮世の様子を覚えて居てもよさそうなものだ。外の女人は兎に角として、母者人の姿なりと、頭に残っては居ないか知らん。",
"まろは時々、母者人の俤を想い出そうと努めて見るが、もうちっとで想い出せそうになりながら、うすい帳に隔てられて居るようで、懊れったい心地がする。まろの頭にぼんやり残って居るものは、生暖いふところに垂れて居た乳房の舌ざわりと、甘ったるい乳の香ばかりだ。女人の胸には、男の体に備わって居ない、ふっくらとふくらんだ、豊かな乳房があることだけはたしからしい。たゞそれだけがおり〳〵おもい出されるけれども、それから先は、まるきり想像の及ばない、前世の出来事のようにぼやけて居る。………"
],
[
"そなたも麿も、その恐ろしい女人を母に持って、一度は膝に掻き抱かれた事もあるのに、こうして今日まで恙なく育って来た。それを思うと、女人は猛獣や大蛇のように、人を喰い殺したり毒気を吐いたりする物ではないだろう。",
"女人は地獄の使なりと、唯識論に書いてあるから、猛獣や大蛇よりも、もっとすさまじい形相を備えて居るのだろう。われ〳〵が女人に殺されなかったのは、よほど運が好かったのだ。",
"だが、"
],
[
"そなたは唯識論の、其の先の方にある文句を知っているか。女人地獄使、永断佛種子、外面似菩薩、内心如夜叉、―――こう書いてある所を見ると、たとい心は夜叉のようでも、面は美しいに相違ない。その證拠には、この間都から参詣に来た商人が、うっとりと麿の顔を眺めて、女子のように愛らしい稚児だと独り語を云うたぞや。",
"まろも先達の方々から、そなたはまるで女子のようだと、たび〳〵からかわれた覚えがある。まろの姿が悪魔に似て居るのかと思うと、恐ろしくなって泣き出した事さえあるが、何も泣くには及ばない、そなたの顔が菩薩のように美しいと云うことだと、慰めてくれた人があった。まろは未だに、褒められたのやら誹られたのやら分らずに居る。"
],
[
"そなたはまだ、出家をするのに一二年間があるが、まろはことし得度するのだと、上人が仰っしゃっていらしった。だが、この忌まわしい根性が直らぬうちは、菩提の道へ志したとて何の効があろう。たとい六波羅蜜を修し、五戒を守っても、頭の中の妄想が一期の障りとなって、まろは永劫に、輪廻の世界から逃れる事は出来ないだろう。成る程女人は、虚空にかゝる虹のような、仮の幻であるかも知れない。しかしわれ〳〵のような愚かな凡夫が、虹をまぼろしと悟るのには、有り難い説教を聴くよりも、いっそ雲の中へ這入って見た方が、容易に合点が行くものだ。それ故まろは、出家をする前に一遍そっと山を下って、女人と云うものを見て来ようと決心した。そうしたらきっと幻の意味が分って、立ちどころに妄想が消え失せるに違いない。",
"そんな事をして、上人に叱られはしないだろうか。"
],
[
"恙なく帰って来られゝばよいが、たとい半日の旅にもせよ、そなたの身に若しもの事があったら、いつの世に再び会えるだろう。命を捨てゝも厭わないと云うそなたと、今こゝで別れるような不人情な真似は出来ない。まして上人にそなたの行くえを尋ねられたら、まろは何と云って答えたらよいだろうか。どうせ叱られるくらいなら、そなたと一緒に山を出て見たい。そなたの為めに修行になるなら、まろの為めにも修行になるに極まって居る。",
"いや〳〵、妄想の闇に鎖されたまろの心と、そなたの胸の中とは、雪と墨ほどに違って居る。浄玻璃のように清いそなたは、わざ〳〵危険を冒して、修行をするには及ばないのだ。そなたの体に間違いがあったら、それこそ麿は上人へ申し訳がないではないか。面白い所へ出掛けるのなら、そなたを捨てゝ行きはしない。浮世はどんなにいやらしい、物凄い土地なのか、運よく命を完うして帰って来たら、まろの迷いの夢もさめて、きっとそなたに委しい話をして聞かすことが出来るだろう。そうすればそなたは、自分で浮世を見るまでもなく、幻の意味が分るようになるのだ。だから大人しく待って居るがよい。もし上人がお尋ねになったら、山路に蹈み迷って、まろの姿を見うしなったと云って置いてくれ。"
],
[
"上人さま、どうぞわたくしの愚かさを憐んで下さいまし。今ではわたくしも、千手どのを嘲笑うことが出来ない人間になりました。どうぞ私に、煩悩の炎を鎮める道を、女人の幻を打ち消す方法を、授けて下さいまし。解脱の門に這入る為めには、どんなに辛い修行でも厭わぬ覚悟でございます。",
"お前は其れを、よくわしに懺悔してくれた。見上げた心がけだ。感心な稚児だ。"
]
] | 底本:「潤一郎ラビリンス※[#ローマ数字5、1-13-25]――少年の王国」中公文庫、中央公論新社
1998(平成10)年9月18日初版発行
2007(平成19)年5月30日再版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第五巻」中央公論社
1981(昭和56)年9月刊
初出:「中央公論」
1918(大正7)年4月号
入力:しりかげる
校正:まりお
2018年3月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057346",
"作品名": "二人の稚児",
"作品名読み": "ふたりのちご",
"ソート用読み": "ふたりのちこ",
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"原題": "",
"初出": "「中央公論」1918(大正7)年4月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2018-04-10T00:00:00",
"最終更新日": "2018-03-26T00:00:00",
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"姓": "谷崎",
"名": "潤一郎",
"姓読み": "たにざき",
"名読み": "じゅんいちろう",
"姓読みソート用": "たにさき",
"名読みソート用": "しゆんいちろう",
"姓ローマ字": "Tanizaki",
"名ローマ字": "Jun'ichiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1886-07-24",
"没年月日": "1965-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "潤一郎ラビリンスⅤ――少年の王国",
"底本出版社名1": "中公文庫、中央公論新社",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年9月18日",
"入力に使用した版1": "2007(平成19)年5月30日再版",
"校正に使用した版1": "2007(平成19)年5月30日再版",
"底本の親本名1": "谷崎潤一郎全集 第五巻",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
"底本の親本初版発行年1": "1981(昭和56)年9月",
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} |
[
[
"ねえ、三平さん。そんなに妾に惚れて居るのなら、何か證拠を見せて貰いたいわ。",
"證拠と云って、どうも困りますね。全く胸の中を断ち割って御覧に入れたいくらいさ。",
"それじゃ、催眠術にかけて、正直な所を白状させてよ。まあ、妾を安心させる為めだと思ってかゝって見て下さいよ。"
]
] | 底本:「潤一郎ラビリンス※[#ローマ数字1、1-13-21]――初期短編集」中公文庫、中央公論社
1998(平成10)年5月18日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第一巻」中央公論社
1981(昭和56)年5月25日
初出:「スバル」
1911(明治44)年9月号
※表題は底本では、「幇間《ほうかん》」となっています。
※底本は新字新仮名づかいです。なお旧字の混在は、底本通りです。
入力:砂場清隆
校正:門田裕志
2016年3月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "056644",
"作品名": "幇間",
"作品名読み": "ほうかん",
"ソート用読み": "ほうかん",
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"初出": "「スバル」1911(明治44)年9月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-06-25T00:00:00",
"最終更新日": "2016-03-04T00:00:00",
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"名": "潤一郎",
"姓読み": "たにざき",
"名読み": "じゅんいちろう",
"姓読みソート用": "たにさき",
"名読みソート用": "しゆんいちろう",
"姓ローマ字": "Tanizaki",
"名ローマ字": "Jun'ichiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1886-07-24",
"没年月日": "1965-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "潤一郎ラビリンスⅠ――初期短編集",
"底本出版社名1": "中公文庫、中央公論社",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年5月18日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年5月18日初版",
"校正に使用した版1": "2012(平成24)年7月10日3刷",
"底本の親本名1": "谷崎潤一郎全集 第一巻",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
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} |
[
[
"じゃあ、あの、親狐の皮で張ってあるんで、静御前がその鼓をぽんと鳴らすと、忠信狐が姿を現わすと云う、あれなんだね",
"うん、そう、芝居ではそうなっている",
"そんなものを持っている家があるのかい",
"あると云うことだ",
"ほんとうに狐の皮で張ってあるのか",
"そいつは僕も見ないんだから請け合えない。とにかく由緒のある家だと云うことは確かだそうだ",
"やっぱりそれも釣瓶鮨屋と同じようなものじゃないかな。謡曲に『二人静』があるんで、誰か昔のいたずら者が考え付いたことなんだろう",
"そうかも知れないが、しかし僕はちょっとその鼓に興味があるんだ。是非その大谷と云う家を訪ねて、初音の鼓を見ておきたい。―――とうから僕はそう思っていたんだが、今度の旅行も、それが目的の一つなんだよ"
],
[
"君、あの由来書きを見ると、初音の鼓は静御前の遺物とあるだけで、狐の皮と云うことは記してないね",
"うん、―――だから僕は、あの鼓の方が脚本より前にあるのだと思う。後で拵えたものなら、何とかもう少し芝居の筋に関係を付けないはずはない。つまり妹背山の作者が実景を見てあの趣向を考えついたように、千本桜の作者もかつて大谷家を訪ねたか噂を聞いたかして、あんなことを思いついたんじゃないかね。もっとも千本桜の作者は竹田出雲だから、あの脚本の出来たのは少くとも宝暦以前で、安政二年の由来書きの方が新しいと云う疑問がある。しかし『大谷源兵衛七十六歳にて伝聞のままを書記し』たと云っている通り、伝来はずっと古いんじゃないか。よしんばあの鼓が贋物だとしても、安政二年に出来たものでなく、ずっと以前からあったんだと云う想像をするのは無理だろうか",
"だがあの鼓はいかにも新しそうじゃないか",
"いや、あれは新しいか知れないが、鼓の方も途中で塗り換えたり造り換えたりして、二代か三代立っているんだ。あの鼓の前には、もっと古い奴があの桐の箱の中に収まっていたんだと思うよ"
],
[
"―――何か、その伯母さんに用事でも出来たのかい?",
"いや、今の話には、まだちょっと云い残したことがあるんだよ。―――"
],
[
"―――その、始めて伯母の家の垣根の外に立った時に、中で紙をすいていた十七八の娘があったと云っただろう?",
"ふむ",
"その娘と云うのはね、実はもう一人の伯母、―――亡くなったおえい婆さんの孫なんだそうだ。それがちょうどあの時分昆布の家へ手伝いに来ていたんだ"
],
[
"さっきも云ったように、その女の児は丸出しの田舎娘で決して美人でも何でもない。あの寒中にそんな水仕事をするんだから、手足も無細工で、荒れ放題に荒れている。けれども僕は、大方あの手紙の文句、『ひびあかぎれに指のさきちぎれるようにて』と云う―――あれに暗示を受けたせいか、最初にひと眼水の中に漬かっている赤い手を見た時から、妙にその娘が気に入ったんだ。それに、そう云えばそう、どこか面ざしが写真で見る母の顔に共通なところがある。育ちが育ちだから、女中タイプなのは仕方がないが、研きようによったらもっと母らしくなるかも知れない",
"なるほど、ではそれが君の初音の鼓か",
"ああ、そうなんだよ。―――どうだろう、君、僕はその娘を嫁に貰いたいと思うんだが、―――"
],
[
"じゃあ、巧く行くと僕もお和佐さんに会える訳だね",
"うん、今度の旅行に君を誘ったのも、是非会って貰って、君の観察を聞きたかったんだ。何しろ境遇があまり違い過ぎるから、その娘を貰ったとしても果して幸福に行けるかどうか、多少その点に不安心がないこともない、僕は大丈夫と云う自信は持っているんだが"
]
] | 底本:「ちくま日本文学014 谷崎潤一郎」筑摩書房
2008(平成20)年4月10日第1刷発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十三巻」中央公論社
1982(昭和57)年5月25日
初出:「中央公論」中央公論社
1931(昭和6)年1月~2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:酒井裕二
2016年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "056867",
"作品名": "吉野葛",
"作品名読み": "よしのくず",
"ソート用読み": "よしのくす",
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"原題": "",
"初出": "「中央公論」1931(昭和6)年1月~2月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2016-02-04T00:00:00",
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"名": "潤一郎",
"姓読み": "たにざき",
"名読み": "じゅんいちろう",
"姓読みソート用": "たにさき",
"名読みソート用": "しゆんいちろう",
"姓ローマ字": "Tanizaki",
"名ローマ字": "Jun'ichiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1886-07-24",
"没年月日": "1965-07-30",
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"底本名1": "ちくま日本文学014 谷崎潤一郎",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年4月10日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年4月10日第1刷",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年4月10日第1刷",
"底本の親本名1": "谷崎潤一郎全集 第十三巻",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
"底本の親本初版発行年1": "1982(昭和57)年5月25日",
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} |
[
[
"やあ、お待たせして失礼を。",
"はッ、お休みちゅうのところをどうも、………却って恐縮に存じます。"
],
[
"―――しかし、此の辺は非常に閑静で、いゝ処のようでございますな。先生はもう長いこと、此方にお住いでいらっしゃいますので?",
"長い―――えゝ、―――そんなに長いことは、―――",
"もう何年ぐらい?………二三年?………三四年ぐらい?",
"えゝ、まあ、―――"
],
[
"あの、唯今拝見いたしますと、お庭の方に花壇があるようでございますが、………",
"うん、ある。"
],
[
"花壇には主に、どう云う花をお作りになるのでございましょう?",
"さあ、別段どうと云って、………",
"先生御自身で種をお蒔きになりますので?",
"う、………あゝ、………",
"はあ、左様で、"
],
[
"何かもう少うし、そう云う方面のお話を伺えませんでしょうか? 花の話、園藝趣味と云ったような事でも、―――",
"うん、………そう云うことには餘り興味がないもんだから、………",
"でも、どう云う花がお好きだとか、お嫌いだとか云うようなことは?",
"好きと云えば大概な花は好き―――と云うより外はない。………"
],
[
"いかゞでございましょう? お忙しいところを御迷惑ではございましょうが、―――",
"いや、忙しいことはないんだが、",
"はあ、左様で。―――すると、お眼覚めになりますのは大概何時頃?―――朝は御ゆっくりの方だと伺ってはおりますけれど、",
"朝は遅い。",
"はあ、―――では何時頃? 十一時? 十二時頃?",
"うん、",
"はあ、はあ、"
],
[
"それでは自然、夜分おそく迄お眼覚めでございましょうな。",
"夜は遅い。",
"はあ、何時頃?",
"三時頃。",
"はあ、三時頃。―――しかし、大学の方へお出かけになる日は、朝もいくらかお早いのではございませんか。",
"う、………あゝ、………なあに、そんなでもない。",
"そういたしますと、先生の講義はいつも午後なのでございましょうか。………はゝあ、いつでも午後に。………それで、大学の方は一週に何度ぐらい?",
"二度。",
"はゝあ、それは何曜日と何曜日に?………はあ、水曜と金曜。………で、その外の日は、日課としては主にどう云うような事を? 矢張書斎で読書をなさいます時が一番多いのでございましょうな。",
"うん、まあ、そんなような事が、………",
"書物はどう云う種類のものを? 矢張専門の、哲学の方の物ばかりを?",
"う、………あゝ、"
],
[
"そう云えば先生は、近々大学をお罷めになると云うような噂がございますが、事実なのでございましょうか。",
"うん、事に依ったら、………",
"どう云う理由で?………学校に対して御不満なことでもおありになると云うような?………",
"さあ、………出ても詰まらんもんだから。",
"すると今後は、御著述の方へ全力をお盡しになりますので?",
"さあ、気が向いたら、………何か雑誌へでも書くかも知れんが、………",
"はゝあ"
],
[
"定めし此の、家庭の煩累などがおありにならないと、思索などをなさいますには、却ってよくはございますまいか。",
"うん、それはいゝ。",
"しかし、一面に於いて淋しさをお感じになるようなことは?",
"淋しいのには馴れちまったから、………",
"すると、こう云う独身の御生活の方が、サッパリしていて気持がいゝと云う風に?",
"うん、サッパリしている。",
"で、気持がいゝ?",
"うん。",
"はあ、成る程、………それでも時々訪問者はございましょうな、学生だとか、又は友人の方々であるとか。",
"めったにない。",
"はゝあ、―――それから、あのう、お宅は何でございますか、お見受け申しましたところ、お掃除などがよく行き届いて居りますようですが、こう云う事は誰方がおやりになりますので?",
"書生にやらせる。",
"はあ、書生さんがお掃除を?―――で、女中さんはお幾人?",
"二人おる。",
"では、書生さんが一人に女中さんが二人、それに先生と、四人暮らしでいらっしゃいますので?",
"そう、四人暮らし、………",
"尤も何でございますな、先生お一人のことですから、それで十分でございますな。―――いや、こう云うところを拝見しますと、サッパリしていて気持がいゝと仰っしゃいますのが、わたくし共にもよく分るような気がいたします。",
"………"
],
[
"そう云えば此の頃、過激思想の取締りと云うことが、大分政治家や学者の間でやかましいように存じますが、あれに就いて先生のお考えは?",
"う、………う"
]
] | 底本:「潤一郎ラビリンス※[#ローマ数字2、1-13-22]――マゾヒズム小説集」中央公論社
1998(平成10)年6月18日発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第十卷」中央公論社
1982(昭和57)年2月25日初版発行
初出:「改造」
1925(大正14)年4月号
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。
入力:悠悠自炊
校正:まりお
2021年7月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059510",
"作品名": "蘿洞先生",
"作品名読み": "らどうせんせい",
"ソート用読み": "らとうせんせい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「改造」1925(大正14)年4月号",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-07-30T00:00:00",
"最終更新日": "2021-07-09T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/card59510.html",
"人物ID": "001383",
"姓": "谷崎",
"名": "潤一郎",
"姓読み": "たにざき",
"名読み": "じゅんいちろう",
"姓読みソート用": "たにさき",
"名読みソート用": "しゆんいちろう",
"姓ローマ字": "Tanizaki",
"名ローマ字": "Jun'ichiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1886-07-24",
"没年月日": "1965-07-30",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "潤一郎ラビリンスⅡ――マゾヒズム小説集",
"底本出版社名1": "中公文庫、中央公論社",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年6月18日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年6月18日",
"校正に使用した版1": "2007(平成19)年7月30日再版",
"底本の親本名1": "谷崎潤一郎全集 第十卷",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
"底本の親本初版発行年1": "1982(昭和57)年2月25日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "悠悠自炊",
"校正者": "まりお",
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"テキストファイル最終更新日": "2021-07-09T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"うん、事実らしいよ、何でも泥坊は外の者ぢやなくて、寮生に違ひないと云ふ話だがね。",
"なぜ。"
],
[
"たしかに寮生に違ひない事を見届けた者があるんだ。―――つい此の間、真ツ昼間だつたさうだが、北寮七番に居る男が一寸用事があつて寝室へ這入らうとすると、中からいきなりドーアを明けて、その男を不意にピシヤリと殴り付けてバタバタと廊下へ逃げ出した奴があるんださうだ。殴られた男は直ぐ追つかけたが、梯子段を降りると見失つてしまつた。あとで寝室へ這入つて見ると、行李だの本箱だのが散らかしてあつたと云ふから、其奴が泥坊に違ひないんだよ。",
"で、その男は泥坊の顔を見たんだらうか?",
"いや、出し抜けに張り飛ばされたんで顔は見なかつたさうだけれども、服装や何かの様子ではたしかに寮生に違ひないと云ふんだ。何でも廊下を逃げて行く時に、羽織を頭からスツポリ被つて駈け出したさうだが、その羽織が下り藤の紋附だつたと云ふ事だけが分つてゐる。",
"下り藤の紋附? それだけの手掛りぢや仕様がないね。"
],
[
"―――これは秘密なんだが、一番盗難の頻発するのは風呂場の脱衣場だと云ふので、二三日前から、委員がそつと張り番をして居るんだよ。何でも天井裏へ忍び込んで、小さな穴から様子を窺つてゐるんださうだ。",
"へえ、そんな事を誰から聞いたい?"
],
[
"委員の一人から聞いたんだが、まあ余りしやべらないでくれ給へ。",
"しかし君、君が知つてるとすると、泥坊だつて其の位の事はもう気が附いて居るかも知れんぜ。"
],
[
"さう云へば君、泥坊はまだ掴まらないさうだね。",
"あゝ"
],
[
"どうしたんだらう、風呂場で待つて居ても駄目なのか知らん。",
"風呂場の方はあれツ切りだけれど、今でも盛んに方々で盗まれるさうだよ。風呂場の計略を洩らしたと云ふんで、此の間樋口が委員に呼びつけられて怒られたさうだがね。"
],
[
"ナニ、樋口が?",
"あゝ、樋口がね、樋口がね、―――鈴木君、堪忍してくれ給へ。"
],
[
"―――僕は今まで君に隠して居たけれど、今になつて黙つて居るのは却つて済まないやうな気がする。君は定めし不愉快に思ふだらうが、実は委員たちが君を疑つて居るんだよ。しかし君、―――こんな事は口にするのもイヤだけれども、僕は決して疑つちや居ない。今の今でも君を信じて居る。信じて居ればこそ黙つて居るのが辛くつて苦しくつて仕様がなかつたんだ。どうか悪く思はないでくれ給へ。",
"有難う、よく云つてくれた、僕は君に感謝する。"
],
[
"だけど此の話は、口にするのもイヤだからと云つて捨てゝ置く訳には行かないと思ふ。君の好意は分つて居るが、僕は明かに耻を掻かされたばかりでなく、友人たる君に迄も耻を掻かした。僕はもう、疑はれたと云ふ事実だけでも、君等の友人たる資格をなくしてしまつたんだ。孰方にしても僕の不名誉は拭はれツこはないんだ。ねえ君、さうぢやないか、さうなつても君は僕を捨てないでくれるだらうか。",
"僕は誓つて君を捨てない、僕は君に耻を掻かされたなんて思つても居ないんだ。"
],
[
"樋口だつてさうだよ、樋口は委員の前で極力君の為めに弁護したと云つて居る。『僕は親友の人格を疑ふくらゐなら自分自身を疑ひます』とまで云つたさうだ。",
"それでもまだ委員たちは僕を疑つて居るんだね?―――何も遠慮することはない、君の知つてる事は残らず話してくれ給へな、其の方がいつそ気持が好いんだから。"
],
[
"君はその人と、何か僕の事に就いて話し合つたかね?",
"そりや話し合つたけれども、………しかし、君、察してくれ給へ、僕は君の友人であると同時にその人の友人でもあるんだから、その為めに非常に辛いんだよ。実を云ふと、僕と樋口とは昨夜その人と意見の衝突をやつたんだ。さうしてその人は今日のうちに寮を出ると云つて居るんだ。僕は一人の友達の為めにもう一人の友達をなくすのかと思ふと、さう云ふ悲しいハメになつたのが残念でならない。",
"あゝ、君と樋口とはそんなに僕を思つて居てくれたのか、済まない済まない、―――"
],
[
"僕は君等にそんな心配をかけさせる程の人間ぢやないんだよ。僕は君等が僕のやうな人間の為めに立派な友達をなくすのを、黙つて見て居る訳には行かない。あの男は僕を疑つて居るかも知れないが、僕は未だにあの男を尊敬して居る。僕よりもあの男の方が余つぽど偉いんだ。僕は誰よりもあの男の価値を認めて居るんだ。だからあの男が寮を出るくらゐなら、僕が出ることにしようぢやないか。ねえ、後生だからさうさせてくれ給へ、さうして君等はあの男と仲好く暮らしてくれ給へ。僕は独りになつてもまだ其の方が気持がいゝんだから。",
"そんな事はない、君が出ると云ふ法はないよ。"
],
[
"僕だつてあの男の人格は認めて居る。だが今の場合、君は不当に虐げられて居る人なんだ。僕はあの男の肩を持つて不正に党する事は出来ない。君を追ひ出すくらゐなら僕等が出る。あの男は君も知つてる通り非常に自負心が強くつてナカナカ後へ退かないんだから、出ると云つたらきつと出るだらう。だから勝手にさせて置いたらいゝぢやないか。さうしてあの男が自分で気が付いて詫りに来るまで待てばいゝんだ。それも恐らく長いことぢやないんだから。",
"でもあの男は強情だからね、自分の方から詫りに来ることはないだらうよ。いつ迄も僕を嫌ひ通して居るだらうよ。"
],
[
"なあに、まさかそんな事はないさ、斯うと云ひ出したら飽く迄自分の説を主張するのが、あの男の長所でもあり欠点でもあるんだけれど、悪かつたと思へば綺麗さつぱりと詫りに来るさ。そこがあの男の愛すべき点なんだ。",
"さうなつてくれゝば結構だけれど、―――"
],
[
"さあ出せ、貴様が今懐に入れた物を出して見せろ!",
"おい、おい、そんな大きな声を出すなよ。"
]
] | 底本:「谷崎潤一郎全集 第八巻」中央公論新社
2017(平成29)年1月10日初版発行
底本の親本:「谷崎潤一郎全集 第七巻」中央公論社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
初出:「改造 第三巻第三号」
1921(大正10)年3月1日
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:黒潮
校正:友理
2023年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "060725",
"作品名": "私",
"作品名読み": "わたくし",
"ソート用読み": "わたくし",
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"副題読み": "",
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"初出": "「改造 第三巻第三号」1921(大正10)年3月1日",
"分類番号": "",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2023-07-24T00:00:00",
"最終更新日": "2023-07-17T00:00:00",
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"姓読み": "たにざき",
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"姓ローマ字": "Tanizaki",
"名ローマ字": "Jun'ichiro",
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"底本出版社名1": "中央公論新社",
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"入力に使用した版1": "2017(平成29)年1月10日初版",
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"底本の親本名1": "谷崎潤一郎全集 第七巻",
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"底本の親本初版発行年1": "1981(昭和56)年11月25日",
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"入力者": "黒潮",
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} |
[
[
"酔ひましたね",
"酔ひました",
"歩きませうか",
"歩きませう",
"飲みませうか",
"飲みませう",
"面白いですな",
"面白いですね",
"帰りませうか",
"帰りませう",
"休みませうか",
"休みませう",
"さよなら",
"さよなら"
]
] | 底本:「山頭火全集 第七巻」春陽堂書店
1987(昭和62)年5月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
※「騒」と「騷」の混在は底本通りにしました。
※縦組み時の文字の重なりを防ぐため、長い縦中横を含む行の前後に、底本にない改行を入れました。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2009年9月9日作成
2012年10月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049258",
"作品名": "其中日記",
"作品名読み": "ごちゅうにっき",
"ソート用読み": "こちゆうにつき",
"副題": "09 (九)",
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"名読み": "さんとうか",
"姓読みソート用": "たねた",
"名読みソート用": "さんとうか",
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"底本名1": "山頭火全集 第七巻",
"底本出版社名1": "春陽堂書店",
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[
[
"人得咬菜根百事可做",
"勿躰ないも卑しいから"
]
] | 底本:「山頭火全集 第九巻」春陽堂書店
1987(昭和62)年9月25日第1刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※複数行にかかる中括弧には、けい線素片をあてました。
入力:小林繁雄
校正:仙酔ゑびす
2010年7月4日作成
2012年5月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "049782",
"作品名": "其中日記",
"作品名読み": "ごちゅうにっき",
"ソート用読み": "こちゆうにつき",
"副題": "14 (十三の続)",
"副題読み": "14 (じゅうさんのつづき)",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"名": "山頭火",
"姓読み": "たねだ",
"名読み": "さんとうか",
"姓読みソート用": "たねた",
"名読みソート用": "さんとうか",
"姓ローマ字": "Taneda",
"名ローマ字": "Santoka",
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"生年月日": "1882-12-03",
"没年月日": "1940-10-11",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "山頭火全集 第九巻",
"底本出版社名1": "春陽堂書店",
"底本初版発行年1": "1987(昭和62)年9月25日",
"入力に使用した版1": "1987(昭和62)年9月25日第1刷",
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"入力者": "小林繁雄",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"誰でもいい",
"何しに来た",
"遊びに来た",
"遊びに?――島へ遊びになんか来られちゃ困る"
],
[
"うん、うん",
"そうか、たのむ。今夜遊びに来たまえ。すぐそこの家だからな"
],
[
"神経衰弱なんかじゃないだろう",
"えへエ、にいさんったらあれだ。そんなんじゃありませんよ"
],
[
"えへえ、そんなことを。まさかお前もこのまま牛の尻を追ったり山へ芋掘りに行ってばかりもいられまい",
"私は山が好きですよ、村はうるさいからね。山へ行ってる時がいちばんいい。牛の尻を追ったって、そんな暮しはちっとも悪いなんて思いやしない",
"まだ、あんなことを言う。そんなこと言っているとまた猫イラズだよ"
],
[
"どうってねえ、どういう気もないのよ。つい変な気になってねえ、のんだところがまずくてまずくて、吐きだしちゃった",
"あれですからね"
],
[
"これ、マグサだ。牛は好きだ",
"どこ行く? ウン海か"
]
] | 底本:「日本文学全集 88 名作集(三)」集英社
1970(昭和45)年1月25日発行
入力:土屋隆
校正:林幸雄
※底本の「突拍手」を、田畑修一郎「石ころ路 短篇傑作集」人文書院、1940(昭和15)年8月30日発行を参照して、「突拍子」に修正しました。
2003年5月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "004355",
"作品名": "石ころ路",
"作品名読み": "いしころみち",
"ソート用読み": "いしころみち",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2003-06-11T00:00:00",
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"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000273/card4355.html",
"人物ID": "000273",
"姓": "田畑",
"名": "修一郎",
"姓読み": "たばた",
"名読み": "しゅういちろう",
"姓読みソート用": "たはた",
"名読みソート用": "しゆういちろう",
"姓ローマ字": "Tabata",
"名ローマ字": "Shuichiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1903-09-02",
"没年月日": "1943-07-23",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本文学全集 88 名作集(三)",
"底本出版社名1": "集英社",
"底本初版発行年1": "1970(昭和45)年1月25日",
"入力に使用した版1": "1970(昭和45)年1月25日発行",
"校正に使用した版1": "",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "土屋隆",
"校正者": "林幸雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000273/files/4355_ruby_10196.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000273/files/4355_10281.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2003-05-18T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"どうでせう。いつそあの障子も脇戸もとり払つて、曇り硝子に高間医院といふ字を抜きましてね、厚い二枚戸でも入れたら――",
"うん"
],
[
"別に何日からでもないんです。今日からでも――",
"挨拶みたやうなことはもうしたかの",
"まあ、葉書でざつと町内に出しときましたがね",
"ふうん"
],
[
"あれですかね、やつぱり自分で歩かなくちやいけませんかね",
"いかんと云ふわけもあるまいさ"
],
[
"まあ、――上の町の大石さんとこ位は行つとくのもよからうが",
"なるほどね"
],
[
"お忘れかもしれませんが、高間道平の息子でございます。――今度、医者としてこの町へ戻りました者で――",
"へえ、――どうもごていねいなことで――"
],
[
"いや、どうぞ構はんで下さい",
"どういたしまして。お茶位さし上げんと"
],
[
"さあ、どうぞ。仇の家へ行つても朝茶はのめ、と云ふことがありますよ。お茶ぐらゐはのんでもらはんと――",
"いやあ、全く"
],
[
"いや、挨拶まはりですよ。どうぞよろしく",
"はあ――ふむ、うちへもかね"
],
[
"それに、永い間この土地をはなれてゐたもんですから、土地の事情にもすつかり疎くなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つてゐる次第ですが――",
"はあ、はあ"
],
[
"どうぞよろしくお願ひします",
"はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな"
],
[
"先づそのうちには、町内の様子もいろいろお解りになることでせう。これでなかなか面倒なこともありましてな",
"はゝあ"
],
[
"ゐるかね。ゐたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――",
"はあ、見て参ります"
],
[
"あの、さきほど往診に出かけましたさうで",
"往診? ふむ、ふむ"
],
[
"お前、往診に出てた?",
"え? いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――"
],
[
"どこか悪いですかな",
"へえ。ちよつとばかし――"
],
[
"失礼ですが、もしか、あなたは高間さんではありませんか",
"さうです"
],
[
"さうですね。さつきからどうもさうらしいと思つてゐたんですが、失礼しました",
"いや、わたくしもね、すぐさう思つたんですが、どうも、こんなところで、思ひがけなかつたもんで――さう、さう、先日は失礼しました、つい出てゐたもんですからお目にかかれなくつて、そのうち伺はうと思つてゐたんですが"
],
[
"さうですよ、ですが、何年ぶりでせう。これがもつと他の所だつたらおたがひ気がつかなかつたかもしれませんよ",
"さつき、はじめは、はてな、見慣れない男がゐるな、と思つたくらゐですからな"
],
[
"これからどちらへ?",
"杉倉まで――",
"往診ですか"
],
[
"それでは、又あらためて伺ひます",
"どうぞ",
"や、失礼、おさきに"
],
[
"これはあなたがお乗りになるので――?",
"さうです、さうです。さつきも少し遠乗りをやりましてね。帰つて来たばかりなんです。どうしてもこの辺は馬ででもないと、用達しが不便でしてね。町へもこれで出かけます"
],
[
"あれですな、さういふお話をうかゞふと、貴方ほどの努力家は東京に残つて研究をつゞけられた方がよかつたかもしれませんな。よく又、こんな田舎に帰る気になりましたね",
"まあ、生れ故郷ですから",
"私もこれで元は法律書生でしてね。司法官か弁護士試験でも受けるつもりで、神田の私立大学に通つてゐたもんです",
"はあ、それは――",
"先代がぽつくり死にましてね。おかげでこんな所へ引つこむやうになつてしまつたんですが",
"それは惜しかつたですな。私などとちがつて学資の心配はなかつたでせうし",
"いや、それが――"
],
[
"時に、お宅は鍵屋の分家の後ださうですな。あすこは大分前から空家になつてゐたと聞いてゐましたが",
"さうなんです。ちやうどいゝ案配でした",
"分家の当主は今は、若い人の代で、たしか喜作といふ筈ですが、あれも随分永いこと県外に出てゐるさうですな",
"さうです。農林学校の先生だとかをしてゐられると聞きましたが",
"もう河原町へは当分帰る気はないんですかね。貴方にお貸したところをみると",
"さあ、くはしいことは判りませんね",
"すると、何ですか、十年契約といふやうなことにでもなすつたんですか",
"いや、そこまで確かなことにはしませんでしたが",
"はあ、なるほど"
],
[
"ホリウチ?",
"うん。青島陥落の、ほら、旅団長閣下だよ",
"あゝ、さうか。ふうん"
],
[
"捕虜が内地へ送られるさうだよ",
"ホリョ?",
"うん、ドイツ兵の捕虜だ",
"へーえ"
],
[
"それとも、あれかね。やつぱり日露戦争のときみたいに、船で吉賀の先の浜へ上つてそれからやつて来るんかね",
"あ、ちがふ、ちがふ。さういふんぢやないんだよ。この辺へ来るわけぢやないよ。船は船だらうが、四国の松山といふ所へ収容所ができるらしいんだな。そこへ運ばれるんだ。――こんな所を通るわけぢやないよ"
],
[
"いや、これから往診に行くところだ",
"ほう、往診かね"
],
[
"さうかね、梨地へ行くんなら、やつぱりこゝを渡つた方が近道だ。井出下の渡しはもうないからね",
"ほう、いつから",
"一昨年の水で流れちやつたからそのまゝになつてるね――ずつと下にはあるが、さあ、そこへ廻ると半路以上ちがふかな"
],
[
"梨地から水神淵へ降りる路ができたからね、そこへ出れば、帰りはずつと楽だ",
"や、ありがたう"
],
[
"あんたの犬かね",
"さうだ"
],
[
"すまんでしたな、長話をして",
"いや、そのうち又ゆつくり話さう"
],
[
"――へえ、まだお帰りぢやないのかね",
"さうなんですよ。まあだ帰らないの"
],
[
"おい、早く早く",
"早く早くつたつて、もうお支度はちやんとできてますわ。あなたが遅くかへつて来といて――",
"何でもいゝから早くしてくれ。路をまちがへて大廻りしちやつたんだ"
],
[
"袴はそこですよ。足袋を先きにはくのよ",
"うん、うん。あ、さうだ、顔を一寸洗はなくちや"
],
[
"これから又お出掛けかね",
"さうだ、鍵屋の法事へ行くんでね。さつきは、君にさう云ふのを忘れてゐたが――まあ、上りたまへ"
],
[
"あんたは鮒をたべなさるかね",
"鮒?――それあ喰べるとも"
],
[
"大きいかね",
"大きいとも、こんなのを見たのは久し振りだ"
],
[
"それあ、もう、掘つても掘つても屑みたいなものしか出ないつて云ふんだがね。まあ、天領の時分に良いところはそつくり掘り上げてしまつたんだらうね。その山をまだ見所があるつて云ふんだから、あてになるやうなならんやうな話だあね",
"君は昨日その九州から来た連中を赤山へ案内して行つたちふぢやないか"
],
[
"いやネ、誰か赤山のことに精しい者はゐないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ",
"何だらう、山師を煽てて又一儲けしようてんだらう"
],
[
"何かの、いつたいあの山を掘つても引合ふのかな",
"さあね、そいつは今のところ何とも判らんでせうな。何しろこの前に手をつけたのは十年前だつたでせうかね、その時の礦石のかけらも残つちやゐませんよ",
"坑には入つてみたんかね。あすこはもう何年も入つた人がないちふことだが",
"入りましたよ。それがねえ、穴の中は苔が生えたやうな、水たまりもあつてね、やつとこさ奥まで行つてみたんだが、まはりの土はぼろぼろ落ちるし、何のことはない洞穴でさあね、――それでも連中はあつちこつち突ついてみてたがね、含有量はまあもつと試掘してみなけりや判らんさうですよ"
],
[
"相沢さんも見えないな",
"誰? 相沢の知吉さんかね"
],
[
"あの人は来まいて",
"どうして? 血はつゞいてゐなくてもこゝの家とは親類ぢやありませんか",
"それが、その、来ないわけがあるのさ",
"へえ、どういふわけでせう"
],
[
"本当も本当でないもありやしませんよ。財産譲渡無効、その返還を請求したのだよ",
"相手は誰です? こゝの御隠居ですかい",
"いや、それあ貰つたのが分家だから、相手はやつぱり分家の喜作さんさね",
"だつて、喜作さんはこの土地にはゐないでせう",
"居なくたつて訴訟はいくらでもできらあね"
],
[
"あなたは御存知ないんですかね",
"どういふことです、わたしにはさつぱり――"
],
[
"さあね、もうかれこれ二十年にもなるだらうかね",
"えらい昔話が又ぶり返したんだな",
"あれは何でせう、知吉さんといふ人は悪く云ふと娘をひつかけて相沢の家に入りこんだやうなもんでせう",
"さうだな、相沢の先代はひどく知吉さんを毛嫌ひしてゐたさうだな。だが娘がくつついてゐるから仕方がないといふわけでね。――だから、甥にあたる喜作さんを養子にして、それに老後をかゝるつもりだつたのだらう。その時、喜作さんの方に財産を分けたんだよ。ところが、娘が男の子を産んだ。今の市造といつたかな。嫌ひな知吉の子でも、孫にはちがひない、孫は可愛いゝといふわけでね、喜作さんにはそのまゝ財産をつけて神原の方へ籍をもどしたんだな。――それを今かへせといふわけよ",
"どうして又今まで黙つてゐたのかね",
"相沢の先代が生きてゐる間は知吉さんも手が出なかつたのさ。目の上の瘤がなくなつたから、いよいよ本性を出したといふところだらう",
"それあ、しかし、何だな、知吉さんも今まで不服だつたのをこらへてゐたんだな、何分かの理窟はあるわけだね",
"ふむ、毛嫌ひされて、孫ができてからやつとこさ婿養子になつたんだからね。――しかし、今ぢや正当な相続人だから、喜作さんに分けた分も自分の物だといふ理窟なんだね",
"何でも大分前からこゝの御隠居にかけ合つてゐたさうぢやありませんか",
"理窟があるやうな無いやうな話でね。こゝの隠居は相手にならなかつたから、たうとう訴訟といふ所まで来たんだらうが、何しろ相沢の先代とこゝの隠居とは兄弟だしね、――どんな理窟があるにしてもあまり賞めた事ぢやないね",
"知吉さんはこれまで散々踏みつけられて来たんだから、自分が戸主になつてみるとこれまでの腹いせといふ気もあるんでせうな",
"まあ、それあ――"
],
[
"どうですか、掛りさうかね",
"いや、まだ",
"あなたの追鮎は元気らしいなあ",
"さう。――いゝやうだ"
],
[
"ハッパもいゝが、近頃は土方がいたづらをするとか云うて、女の子が下の方を恐はがつて通らんていふぢやないかね",
"さうだつてねえ"
],
[
"いや、人目がなきあそれどころぢや済まんでせう",
"困つたもんだね",
"何しろ、わや苦茶だ"
],
[
"ズブリと相手の眼の中へさしこんでしまつたさうでね。――親方すみません、とあやまつたと云ふんだが、どうもね、――何しろ他の人の見てる前でやるんだから、たまつたもんぢやない",
"へえ。――ズブツとね"
],
[
"眼が潰れちまふ――ねえ、先生",
"ふうん、潰れるだらうな"
],
[
"鬼倉といふのは女を二人置いとるさうぢやないか",
"それがね、どうも本妻と妾を二人いつしよだといふ話だが、――なにしろ荒いのでね、二人ともぐうの音も出ないで温和しくしとるらしい。――うん、さうだ。こないだ店へ買物に来た在の者が話して行つたが、その家の前を通るとね、どうも女の泣声らしいものが聞える。それもただの泣き声ぢやない、ヒイヒイいふ、まあ恐いもの見たさでそつとのぞきながら通ると、多分妾の方があんまり痛められるんで逃げ出さうとでもしたらしい、それで片足土間に降りて片手を畳の上についたところを小柄みたいなもので、何のことはない手の甲からズカツと畳まで刺しつけて動けんやうにした。だもんで、女の方はどうにもならんのだね、そこへしやがみこんだまゝヒイツヒイツて泣いとつた。見た男は足がふるへたつていふが、それあ誰でもふるへるだらう",
"ふうん。ひどい奴だねえ"
],
[
"いや、高間さんは大漁ですがね。わたしの方はさつぱり駄目ですよ",
"さうですか。それは――"
],
[
"何んにも訊かんといて下さい。ちよつと間違ひが起きたんやで、――それは、後でお話しますわ――とにかく、手当を頼みます",
"ふうむ。いや、よからう"
],
[
"もう一人後から来るかもしれませんが、そしたらよろしく頼んます",
"――?"
],
[
"それあ、いかん。こんなに多くはいらんよ",
"いや、まあ。――後の分もありますよつて、黙つて預つといて下さい"
],
[
"もう帰つたんかね",
"――?",
"小倉組の連中が来たちふぢやないかね。ほんとうかね",
"うん、もうさつき帰つたよ",
"さうか、惜しかつたな"
],
[
"なあ、先生",
"うん?",
"怪我人ができたのかね",
"さうだ。大したことはない",
"ふうむ"
],
[
"何かね、わしがどうしたといふんかね",
"いや、何もしたといふわけぢやない。これから先きのことだよ。かゝり合つちやいかんと云ふんだ",
"いや、そんなこたあ、――そんなこたあしませんよ",
"あいつらと来たら、すぐこれ! だからね"
],
[
"あのう、笹井へ往診がございますが",
"笹井?――御隠居さんが云つたのかい"
],
[
"いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうも老よりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへんのことが僕にはよく判らないんだ",
"ふむ、ふむ"
],
[
"まあ、とにかく、御迷惑かもしれないが、一度御足労を願ひたいと思つてね",
"あ、いゝ、いゝ。なんでもありやしない。今すぐ行かう"
],
[
"印度洋の方では、何とかいふ軍艦がたつた一隻で荒ばれまはつてゐるんだつてね。それがちつとも捉まらないと云ふから面白いねえ",
"うむ、うむ",
"それあ、さうだらうなあ。なんしろ広い海のこつた!――ねえ、君"
],
[
"何でもないぢやないかね、君から聞いたとほりだ。心配することはないと思ふな",
"血圧は少し下つたしね",
"さうだ",
"脚気の方は?",
"うん、あの程度だと別に影響はないんだらう",
"ふむ"
],
[
"うん",
"徳さんが、――今、そこに、おかみさんが来てるんですわ",
"うん、何かア"
],
[
"きさまか、鬼倉ちふのは",
"なに?"
],
[
"鬼倉ちふのはきさまかと云ふんだよ。あんまり、この近所の者をいためてもらひますまい",
"いためた?"
],
[
"いや、私はすぐこの近くで医者をしとる、高間といふ者ですが",
"あゝ、お医者?"
],
[
"高間さんと云ふと、――ふむ、そんなら、わしとこの者が度々御厄介になつとる先生ですかな",
"さうです、小倉組の方ですな"
],
[
"いや、どうも。――この男は私のごく懇意な者ですが、酒癖がわるいので、まあ今夜のところは大目に見てやつて下さい",
"いや、いや"
],
[
"お礼ですか",
"さうぢや",
"あれなら、私の方からいゝやうにしときます",
"さうかの。だが、さう云うても――"
],
[
"いや、あれは私が勝手に頼んで来てもらつたんですからな、御心配はいりませんよ",
"さうか、――そんなに何もかも、こつちでして貰つてもえゝか"
],
[
"何かの、それは",
"これですか――?"
],
[
"さうか。うちの方では山車を引いて出るさうだ。それから、みんな紋付に羽織袴といふことだの",
"それあ、あつさりしていゝですな。こつちでは山車が生憎こはれて、満足なのは一つしかないんでね。あんまり淋しいからと云ふんで、こんな思ひつきをやらかしたらしいですがね"
],
[
"もう着てみましたか",
"いゝや、まだ"
],
[
"一つ着て見せたらどうです? 高間さんにはきつと似合ひますよ",
"まさか!"
],
[
"さうなんですよ。ですが、よく考へたもんだと思ひましたね、足もとから鳥が立つ、といふでせう、――あれとそつくりにね、かうひよいとカワラケがとび出すんですよ",
"さう、カワラケ、カワラケ云ひなさんな",
"はゝゝ、でもカワラケにはちがひない、それがかうひよつとね"
],
[
"まあ、のみなさい",
"買収ですかな"
],
[
"昨日、君とこの奥さんがバスに乗るところを見かけたが、――",
"うむ"
],
[
"ほう、さうか。それはちつとも知らなかつた",
"うん"
],
[
"なんだね、クレーの射撃なんてものは昔はなかつたもんだが、こなひだの競馬は僕も見たけれども、子供の時以来十何年ぶりのわけだが、あれはちつとも変つてゐないね。優勝の景品が米俵だなんてね",
"去年はなかつたんですよ。何でも博労同士のうちわ揉めがあつたとかでね"
],
[
"僕はクレーが済んでから行つたんでね、もう終りで相沢の馬が勝つところだけをちよつと見たよ。――相沢、得意さうだつたぢやないか",
"御機嫌だつたね"
],
[
"まだつて、はじまつたばかりですよ",
"まだ? ふん! よせ、よせ。阿呆らしい"
],
[
"どこだ、どこだ。もう消えたのか",
"ほんとうに火事があつたのかい",
"さあ、知らん",
"なんだ、さつぱり判らんぞう",
"いや、鳴つた。出張所の鐘がたしかに鳴つてゐた"
],
[
"をかしいから笑つたのだ",
"なに?"
],
[
"こゝの消防演習をやつたのだ。そんなに騒ぐことはない",
"なに、消防演習?"
],
[
"何しに来た!",
"何しに来た?"
],
[
"それは、小規模な演習だからして居らん",
"ふむ、さうすると――"
],
[
"このまゝでは責任者を出さなくてはならなくなる。手落ちは向ふにあるとしてもですよ",
"ふむ",
"それに――"
],
[
"いつこちらへお帰りでしたか",
"いや、あの晩の、ほんの三二日前です",
"ちつとも知りませんでしたよ",
"なに、ろくでもない用事で帰つたもんですから、どこへも失礼してゐたんです"
],
[
"さうです。相談があるからと云ふんで帰つて来たんですが、僕なんか何も問題はありませんよ。返すものがあれば、いつでも返します。何もないんですよ。家と、田地が少し。それも抵当に入つてゐますよ。僕がしたわけぢやない。兄貴が選挙の費用だの何だので金が要つたのでせう",
"さうですか"
]
] | 底本:「筑摩現代文学大系 60 田畑修一郎 木山捷平 小沼丹集」
1978(昭和53)年4月15日初版第1刷発行
1980(昭和55)年7月30日初版第2刷発行
初出:「医師高間房一氏」砂子屋書房
1941(昭和16)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:松永正敏
2005年4月12日作成
2012年3月18日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"それ、僕のですよ。僕がもらつたんですよ。もらつたんですよ",
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]
] | 底本:「現代日本文學全集79 十一谷義三郎 北條民雄 田畑修一郎 中島敦集」筑摩書房
1956(昭和31)年7月15日初版発行
初出:「早稲田文學」
1935(昭和10)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「邊」は底本では、「穴」の一点目を欠いた「あみがしら」でつくってあります。これをJIS X 0213規格票「6.6.3.2 漢字の字体の包摂規準の詳細 d)1点画の増減の違い」に該当するものとみなしてよいか判断が付かなかったので、本文は「邊」で入力した上で、その旨をここに記載します。
入力:篠森
校正:川向直樹
2004年6月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"どこへ行く。",
"内へ帰る。書きものがある。"
]
] | 底本:「於母影 冬の王 森鴎外全集12」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年3月21日第1刷発行
入力:門田裕志
校正:米田
2010年8月14日作成
2011年4月23日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "050917",
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[
[
"駄目。駄目。何所へ行つても原稿も賣れなかつた。",
"いゝわ。仕方がないわ。"
],
[
"お腹は?",
"何も食べないんだ。何軒本屋を歩いたらう。"
],
[
"おい。行つてくるの?",
"えゝ。だつて何うする事も出來ないもの。"
],
[
"僕も一緒に行く。",
"ぢや着物を着代へなくちや。洋服ぢやおかしいから。"
],
[
"うまくいつた?",
"大丈夫よ。"
],
[
"××にね。僕の作の評が出てゐたんだ。",
"なんだつて。",
"陳腐で今頃こんなものを持ち出す氣が知れないつて云ふのだ。"
],
[
"仕方がないわね。",
"仕方がない?"
],
[
"君も然う思つてるんだね。",
"然うだわ。"
],
[
"僕見たいなものにくつついてゐたつて、君は何うする事も出來やしないよ。僕には女房を養つてゆくだけの力はない。自分だけを養ふ力もないんだから。",
"知つてるわ。"
],
[
"ぢや別れやうぢやないか。今の内に別れてしまつた方がお互ひの爲だ。",
"私は私で働きます。その内に。"
],
[
"君は何を泣いてるんだ。",
"だつて悲しくなるぢやありませんか。復讐をするわ。あなたの爲に私は世間に復讐するわ。きつとだから。"
],
[
"そんな事が當てになんぞなるもんか。働くなら今から働きたまへ。こんな意氣地のない良人の手で遊んでるのは第一君の估券が下る。君が出來るといふ自信があるなら、君の爲に働いた方がいゝ。",
"今は働けないわ、時機がこなけりや。そりや無理ぢやありませんか。"
],
[
"いくらなの。",
"五圓。"
],
[
"あなたの服裝は困つたわね。",
"まあいゝさ、君さへちやんとしてゐれば。"
],
[
"私たちみたいに困つてゐる人はお友達の中にもないと見えるわ。",
"然うだらう。"
],
[
"幾度でも云ふさ。君なんぞは駄目だつて云ふんだ。君なんぞに何が分る。",
"何故。どうして。"
],
[
"君は何と云つた。働くと云つたぢやないか。僕の爲に働くと云つたぢやないか。それは何うしたんだ。",
"働かないとは云ひませんよ。けれども私が今まで含蓄しておいた筆はこんなところに使はうと思つたんぢやないんですからね。あなたが何でも働けつて云なら電話の交換局へでも出ませうよ。けれどもそんな賭け見たいな事に私の筆を使ふのはいやですから。"
],
[
"到底駄目だから止すわ。",
"駄目でもいゝからやりたまへ。",
"私は矢つ張り駄目なんだ。"
],
[
"私が若し何うしても書かなければあなたは何うするの。",
"書けない事はないから書きたまへ。",
"書けないんです。氣に入らないんです。",
"そんな事はないからさら〳〵と書き流してしまひたまへ。",
"氣に入らないからいやなの。",
"惡るい癖だ。そんな事を云つてる暇に二枚でも三枚でも書けるぢやないか。"
],
[
"何だい。",
"もう一度芝居をやらうと思ふの。",
"君が? へえゝ。"
],
[
"君はだまつて書いてゐればいゝぢやないか。",
"何を書くの。",
"書く樣な仕事を見付けるさ。",
"文藝の方ぢやいくら私が考へても世間で認めてくれないぢやありませんか。今度はいゝ時機だからもう一度演藝の方から出て行くわ。私には自信があるんですもの。それに酒井さんや行田さんが、ステージマネジヤならきつとやれるわ。"
],
[
"僕は君は書ける人だと思つてゐる。だからその方で生活を助けたらいゝぢやないか。第一そんな事をするとしても君の年齡はもうおそいぢやないか。",
"藝術に年齡がありますか。",
"そりや藝術の人の云ふ事だ。君はこれからやるんぢやないか。",
"それならよござんす。私は私でやりますから。あなたの爲の藝術でもなければあなたの爲の仕事でもないんですから。私の藝術なんですから。私のする仕事なんですから。然う云ふ事であなたが私を支へる權利がどこにあります。あなたがいけないと云つたつて私はやるばかりですから。"
],
[
"そんな準備の金は何所から算段するんだ。",
"自分で借金をします。"
],
[
"今夜はどんなだつたかしら、少しはうまく行つて。",
"今夜は非常によかつた。"
],
[
"これで別れなくつても濟むんだわね。",
"それどころぢやない。これから君も僕も一生懸命に働くんだ。"
]
] | 底本:「田村俊子作品集 第1巻」オリジン出版センター
1987(昭和62)年12月10日発行
底本の親本:「木乃伊の口紅」牧民社
1914(大正3)年6月15日発行
初出:「中央公論」中央公論社
1913(大正2)年4月
※「場」と「塲」の混在は、底本通りです。
入力:小鍛治茂子
校正:小林繁雄
2006年9月15日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "005006",
"作品名": "木乃伊の口紅",
"作品名読み": "ミイラのくちべに",
"ソート用読み": "みいらのくちへに",
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"初出": "「中央公論」1913(大正2)年4月",
"分類番号": "NDC 913",
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"姓読み": "たむら",
"名読み": "としこ",
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} |
[
[
"つい、此間まで、大連の本社で庶務課長をしてゐたんだがね?",
"庶務課長! Sさんが――? それぢや、今、Y氏がやつてゐる役だね?",
"さうだ。あ、君もあそこに行つて見ましたね。S氏はあそこについ半年ほど前までゐたんですよ。そのあとに、今のY氏が行つたんですよ",
"庶務課長から此処の事務所長では、左遷ですね?"
],
[
"え……",
"あの今ゐる女ぢやないですけれどもね。Sさんは、そのタイピストを可愛がつてね。たうとう孕ませて了つたもんですからね?"
],
[
"さうですよ",
"さうかな……。さういふことが沢山あるんですかね?"
],
[
"それで何うしたね? 今では囲つてでもあるのかね",
"いや、本社から此方に来る時、すつかり解決をつけて来たらしいね。何でも、もう女も子供を産んだとか言つた――",
"よく早く解決が出来たね?"
],
[
"そこに行くと、あゝいふ人達は、金があるから、何うにでもなる……",
"さうかな――"
],
[
"来てるよ、君……",
"え?"
],
[
"何うしたんだ!",
"あの女があいつの嚊になるとは思はなかつたな?",
"あれが、それ、S氏の子供を生んだ女だツて言ふんだらう?"
],
[
"君は知つてゐるのかえ? あの男を?",
"知つてゐますとも――あれは君、僕等と同じく刷毛や絵具を弄る奴ですよ"
],
[
"あれは、君、旅客課の慰藉掛と言つてね、満洲に来て働いてゐる若い青年達に画を教へるために、本社から嘱託されてゐる男なんですよ。……僕等は別に交際もしてゐないから、詳しいことは知りませんけれどもね、何でも、つい一月ほど前に、細君が情夫と遁げて、先生、えらく失望してゐるといふ話でしたよ。それが何うでせう? もうちやんとあゝいふ風に出来上つたんですからな。君、世の中は、何も心配することはないといふ気がしますね?",
"大いに祝すべしぢやないか? 君、二人とも新しい生活に入つたんだもの…………",
"それはさうですよ"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
初出:「東京 第一巻第一号」実業之日本社
1924(大正13)年9月1日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "048969",
"作品名": "アカシヤの花",
"作品名読み": "アカシヤのはな",
"ソート用読み": "あかしやのはな",
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"初出": "「東京 第一巻第一号」実業之日本社、1924(大正13)年9月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2009-04-26T00:00:00",
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"姓読みソート用": "たやま",
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"姓ローマ字": "Tayama",
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} |
[
[
"えらく荒れてますな!",
"どうも……好い住職がないもんですから……それに、もとの住職が寺の借金を沢山残して行つたもんですから……",
"もう、長くゐないのですか、住職は?",
"八九年になります。"
],
[
"何も他には残つてはゐませんかな。",
"何も……旧家といふのも大抵潰れて了つたものですから……",
"ふむ……"
],
[
"寺に、先代の弟子と言ふものもなかつたのですか?",
"大勢あつたのですけれども……。それも先々代のですが……。先住にはありませんけれども……。何うも皆な還俗したり何かして了ひましてな……。しかし、いづれは住職を置かないでは困るんですから、そのうち好いのがあつたらと思つてはをりますのです。無住でおきましたから、もう先住の拵へた借金もあら方ぬけました……",
"兎に角、由緒のある寺をかうして置くのは惜しい。",
"さやうですとも……"
],
[
"あとで、あとで……",
"そんなことを言つちや、いや――"
],
[
"娘の片附いたのは、老僧が死んでからですか?",
"いえ〳〵、貴方が寺をおいでになつてから二年ほど経つか経たないほどです。",
"さうですか……"
],
[
"穴は掘つてあるのか?",
"今、掘つてらあ!"
],
[
"あゝもう沈んだ!",
"救けてやれ、おい船頭!"
],
[
"南無阿弥陀仏――",
"可哀さうだわねえ。",
"まだ若いのに……"
],
[
"何うして、さうだらう。何か和尚がいやなことでもするのかな?",
"いゝえ。"
],
[
"出て来ねえか。",
"出て来ねえどころか、飯に呼んでも、それがすむと、すぐ居間に入つて行つて了ふだでな。",
"本でも読んでるのか?",
"いや、本なんか一冊もねえ。",
"ぢや、物でも書くのか?",
"書きもしねえ。",
"それぢや唯ごろ〳〵してゐるのか?",
"唯、一日中ちやんと、机に向つて坐つてゐるだ。"
],
[
"朝のおつとめは?",
"朝のおつとめなんかしねえ。",
"ぢや、葬式の時きり、お経はよまねえんだな?",
"さうだな、まア、よまねえつて言ふ方が好いだんべいな。それでも、此間、雨のふるさびしい日に、何うした拍子か、大方和尚さんも淋しかつたんだんべい。本堂でお経を上げてゐる音がするから、不思議に思つてそツと行つて見ると、本尊様の前で、一生懸命にお経を読んでゐるだ。それもいつもの葬式の時などに読むやうな小さな声ぢやねえだ。大きな声で、後に私が行つて見てゐるなどは夢にも知らねえで、一生懸命に読んで御座らつしやる。……不思議な気がしたにも何にも……",
"淋しいんだな、矢張……",
"淋しかんべいよ。"
],
[
"いや――",
"何うも矢張、お寺はさびしいと見えて、落附いてゐるものがなくつて困りましたな。",
"いや――",
"さぞ御不自由でせうな。",
"いや、別に……"
],
[
"まア、暫く、かうやつて、落附かせて置いて下さい。……イヤ、世話するものなぞはなくつても好う御座んすから。",
"でも、相応なのがあつたら、一人お貰ひになる方が好う御座いませう。貴方だつてまだお若いんだから。",
"まア、その話は、もう少し先に寄つてからにして戴きませう。"
],
[
"志ばかりで御座いますから、何うか……",
"これは難有いお志だ。"
],
[
"その和尚、慈海ツて言ひやしねいかえ?",
"何ツて言ふか名は知らねえが、何でも先代の弟弟子だツて言ふこつた。",
"それぢや、慈海さんに違ひない。何時から来たんだ?",
"何でも去年あたりだんべ。丸つきりお経べい読んでゐるツていこつた。",
"へえ?"
],
[
"今日からは、仏の道に、まことの道に……",
"難有う御座います。"
]
] | 底本:「現代文学大系10 田山花袋集」筑摩書房
1966(昭和41)年1月10日発行
※疑問箇所の確認にあたっては、「定本花袋全集 第九巻」臨川書店、1993(平成5)年12月10日復刻版発行(元本は、内外書籍、1923(昭和12)年10月15日初版発行)を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年10月4日公開
2013年6月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043269",
"作品名": "ある僧の奇蹟",
"作品名読み": "あるそうのきせき",
"ソート用読み": "あるそうのきせき",
"副題": "",
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"初出": "「太陽」1917(大正6)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2004-11-08T00:00:00",
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"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
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} |
[
[
"そんなにして遊んでゐて好いのかね?",
"大丈夫よ"
],
[
"でもあとで困るといけないよ",
"心配なさらなくつて好いのよ……。それよりも、私、東京に帰りたくなつちやつた!",
"馬鹿な!"
],
[
"……………………",
"駄目?"
],
[
"どうしてかう人間と云ふものは思ひのまゝにならないものなんでせうね!",
"…………",
"だつて、さうぢやないの? こんなに思合つてゐるものが何故一緒になれずに、こんなに遠く離れて暮さなけりやならないの? それがこの世の義理?",
"…………",
"男ツてのんきね。何とも思つてゐないんですものね?",
"…………",
"ね? 伴れて行つて下さい!"
],
[
"それで、そのアンナといふ女はこのハルピンにゐるの?",
"さう――",
"ハルピンの何処に?",
"何でも郊外ださうだ。エスカスとかいふところがあるかね?",
"あるわ",
"何処だえ、それは?",
"川の向うですがね。避難民などがゐるところですがね……。そこにゐるんですか?",
"さうだ。それを是非訪ねなければならないのだ……。このハルピンに来るについて、二つの目的――ひとつはお前に逢ふといふこと、それはかうして思ひ通りになつたが、もうひとつはそのアンナに是非逢つて行かなければならない",
"それで貴方のお友達から手紙でもことづかつていらつしやつたの?",
"手紙ばかりぢやない、金も少し許り頼まれて来た――そのアンナといふ女がね、それは不思議な女でね。何うしても、僕の友人を忘れないんだ。東京にも一度来たことがあるんだがね。何と言つたつて外国人だからね。友達も負けずに深くは思つてゐるにはゐるのだけれども、周囲が喧ましくつてね。それで半年ほどゐてウラジホに帰つたんだがね? いくらなだめても、賺しても、友達でなくちやいやなんださうだ。女といふものは、思ひ込むと、あゝいふ風になるもんかも知れないな……。多少その恋が宗教的になつてゐるんだからね……",
"そんな人なの? それで矢張商売をしてゐる人?",
"何でも、ウラジホではアンナつて言へば、大したもんだつたさうだ……。踊りも唄も非常に旨いつていふ話だよ。一度、東京でも新聞に大々的に書いたことがあつたよ",
"それで、今でもその友達ツていふ人から、お金が来てるの?",
"はつきりは知らんが、いくらかは来てるらしいね? ウラジホにゐる中は、友人も一年に二度や三度は、行つたらしいからね?",
"此方にはいつから来てるの!",
"何でも向うがすつかり赤化しちやつて、ゐられなくなつて、それで此方へ来たんだが、去年の冬あたりから来てるんぢやないかな……",
"へえ……そんな女がゐるの? それは私ちつとも知らなかつた――。矢張私と同じね?",
"だつて、旦那なんかありやしない――",
"それはあるわよ……。屹度あるわよ。でなくつちや生きてゐられないもの……。私と同じね……。それで、明日貴方行くの?",
"是非行かなくつては――",
"ぢや、私も伴れて行つて下さいね?",
"それは伴れて行つてやつても好いけれども。ロシアの女なんかに逢つたつてしやうがないぢやないか?",
"さうぢやないのよ……。私、身につまされたんですもの……。女ツていふものは皆なさうですが、さうと思ひ込むと、忘れやしませんわね。一緒にゐたツてゐなくつたツて、同じことになるのね。旦那だつて、何だつて、皆なその人になつて了ふんですもの……。いゝことをきいたわ、妾。私、そのロシア人と友達になりたいわ",
"相変らず空想家だな?",
"だつて貴方にだつて、私の心はわかつたでせう? 二年、三年経つても、私の心は少しも変つてゐなかつたといふことが――? 矢張、私の心の中には、貴方ツきりゐないんですもの……。でも、さびしい時がありますのよ、つく〴〵さびしくなつて、ひとりでゐることが悲しくつて、心細くつて、いくらかヤケになつて、悪酔ひなんかすることがありますけども……あゝさう云へば、かういふことがあります。それはさう去年の冬でした、ハルピンにはめづらしく雪が積つて――此方は雪が降つても灰のやうにサラ〳〵して皆な吹き飛ばされて積ることなんかないんですけども、いくらか暖かだつたのでそれで積つたんですね。酔ぱらつてお座敷から帰る途中でしたがね、私は悲しくつて悲しくつて、涙が出て涙が出て仕方がないんです。もう此の世もなにもないやうな気がして、夢中で雪の中を歩いてゐたんです。ところが、そこに明るい灯が一杯に輝いて、ロシア人の大勢集つてゐる教会堂があるのが眼に入つたぢやありませんか。私はいきなりそこに入つて行つて手を合せましたが、あの時のことは今でも忘れずにゐます。その時はさうも思ひませんでしたけれども、矢張貴方に向つて手を合せたやうなものだつたんです――だから、そのアンナつていふ人の心持もよくわかりますの……。ね、いゝでせう。是非、一緒に伴れて行つて下さい――",
"でもね……行くのは好いけれどもね。一緒に歩いて、旦那に見られたり何かして、問題になると困るよ",
"私の旦那は、そんな旦那ぢやないの。一緒に歩いてゐるところを見られたつて、怒つたり何かする人ぢやないの――もつと思ひやりの深い人なのよ……。一緒に歩いたつて、三日か四日ぢやありませんか。あとはまたいつ逢はれるかわからないんですもの……大目に見て呉れますの……",
"…………"
],
[
"これが松花江だね?",
"さう――",
"大きいね?"
],
[
"こゝで下りるのかえ?",
"え……こゝで下りて、川を渡らなくては?",
"川を渡るのかえ? この川を?"
],
[
"あゝ……",
"あれがエスカスですの",
"大変だね"
],
[
"あぶないね? 大丈夫かね?",
"大丈夫ですとも……",
"深いんだらう?",
"それは深いですけれども、そんな心配はありませんの……"
],
[
"私も、夏になると、抱への妓などゝ一緒に来るんですの……",
"漕げるのかね?",
"え、漕げますとも――よくひとりで漕いで行くこともあるんですもの――でもかうしてこの舟に貴方と一緒に乗らうなどゝはいつ考へたでせうね? それを想ふと、もうこれで十分だ! ツて云ふ気がしますねえ。矢張、あの雪の夜の十字架のお蔭ね?",
"矢張、お互ひに心をなくさずに持つてゐたからだね?",
"本当ですね"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
初出:「北海タイムス」
1925(大正14)年1月15、17、19、21、23日
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"ちよつと見るだけ見たいんだが、さういふわけには行きませんか",
"それは行きますとも……",
"買つて見るなどといふ興味は無論ないんですから――",
"好う御座んす……"
],
[
"そんなことはありますまい。廉くつて、親切で、一度はまり込むと、生涯忘れられないといふぢやありませんか?",
"さういふ人もあるかも知れませんけれども、何うも汚なくつていやだね。不愉快だね。H君は何うだえ?",
"僕もイヤだね?",
"しかし、それは始めの中だけでせう。深くなれば、同じことでせう。色恋は汚ないものぢやないですか? また汚ない方が好いつていふぢやないですか?",
"変態性慾の方ならさうかも知れないでせうけれど――"
],
[
"いや、芸者屋です――",
"ちよつと女郎屋のやうな感じがするぢやないか"
],
[
"何うも、これが――この寝室が感じが好くないね。何処に行つても皆これだからな",
"本当だね。矢張、先生方は寝る専門なんだなあ!"
],
[
"支那人はかういふ小さいのが好きなんですよ。もう二十五六になると、老娘として相手にされやしません。小さい、弱々しいものを酷めるやうにして可愛がるといふのが、かれ等の性慾ですよ。だから小さければ小さいほど好いんです、……",
"さうですかね?"
],
[
"好いな……。矢張、支那だな。何んな場末でも、支那は支那だな。本家だな! といふ気がするな。啇女不知亡国恨、隔江猶唱後庭花、多恨な杜樊川でなくとも、これをきくと涙を誘はれるよ",
"本当ですな、わるく感情的ですな",
"これで好い心持になつた――"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"どうかしたのか",
"病気で、昨日まで大石橋の病院にいたものですから",
"病気がもう治ったのか"
],
[
"病気でつらいだろうが、おりてくれ。急いで行かんけりゃならんのだから。遼陽が始まったでナ",
"遼陽!"
],
[
"もう始まったですか",
"聞こえんかあの砲が……"
],
[
"鞍山站は落ちたですか",
"一昨日落ちた。敵は遼陽の手前で、一防禦やるらしい。今日の六時から始まったという噂だ!"
],
[
"今度の戦争は大きいだろう",
"そうさ",
"一日では勝敗がつくまい",
"むろんだ"
],
[
"脚気なもんですから",
"脚気?",
"はア",
"それは困るだろう。よほど悪いのか",
"苦しいです",
"それア困ったナ、脚気では衝心でもすると大変だ。どこまで行くんだ",
"隊が鞍山站の向こうにいるだろうと思うんです",
"だって、今日そこまで行けはせん",
"はア",
"まア、新台子まで行くさ。そこに兵站部があるから行って医師に見てもらうさ",
"まだ遠いですか?",
"もうすぐそこだ。それ向こうに丘が見えるだろう。丘の手前に鉄道線路があるだろう。そこに国旗が立っている、あれが新台子の兵站部だ",
"そこに医師がいるでしょうか",
"軍医が一人いる"
],
[
"様子はわからんかナ",
"まだやってるんだろう。煙台で聞いたが、敵は遼陽の一里手前で一支えしているそうだ。なんでも首山堡とか言った",
"後備がたくさん行くナ",
"兵が足りんのだ。敵の防禦陣地はすばらしいものだそうだ",
"大きな戦争になりそうだナ",
"一日砲声がしたからナ",
"勝てるかしらん",
"負けちゃ大変だ",
"第一軍も出たんだろうナ",
"もちろんさ",
"ひとつうまく背後を断ってやりたい",
"今度はきっとうまくやるよ"
],
[
"どうした? 病気か",
"ああ苦しい、苦しい……"
],
[
"十八聯隊の兵だナ",
"そうですか",
"いつからここに来てるんだ?",
"少しも知らんかったんです。いつから来たんですか。私は十時ころぐっすり寝込んだんですが、ふと目を覚ますと、唸り声がする、苦しい苦しいという声がする。どうしたんだろう、奥には誰もいぬはずだがと思って、不審にしてしばらく聞いていたです。すると、その叫び声はいよいよ高くなりますし、誰か来てくれ! と言う声が聞こえますから、来てみたんです。脚気ですナ、脚気衝心ですナ",
"衝心?",
"とても助からんですナ",
"それア、気の毒だ。兵站部に軍医がいるだろう?",
"いますがナ……こんな遅く、来てくれやしませんよ",
"何時だ"
],
[
"何時です?",
"二時十五分"
],
[
"気の毒だナ",
"ほんとうにかわいそうです。どこの者でしょう"
]
] | 底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
※混在している「満州」と「満洲」、「輌」と「輛」は底本通りです。
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
2011年5月19日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ、現にこの間も、『おおいに悟った』ッて言うから、ラヴのために一身上の希望を捨ててはつまらないと思って、それであきらめたのかと思ったら、正反対だッたんだね",
"そうさ",
"不思議だねえ",
"この間、手紙をよこして、『余も卿等の余のラヴのために力を貸せしを謝す。余は初めて恋の物うきを知れり。しかして今はこのラヴの進み進まんを願へり、Physical なしに……』なんて言ってきたよ"
],
[
"知ってるさ",
"君は先生にラヴができるかね"
],
[
"Aのほうは?",
"そんな考えはない"
],
[
"もし君が Art に行けば、……そうさな、僕はちょうど小畑と Miss N とに対する関係のような考えで、君と Art に対するようになると思うね",
"じゃ僕はその方面に進むぞ"
],
[
"どんなことでも人の力をつくせば、できないことはないとは思うけれど……僕は先天的にそういう資格がないんだからねえ",
"そんなことはないさ",
"でもねえ……",
"弱いことを言うもんじゃないよ",
"君のようだといいけれど……",
"僕がどうしたッていうんだ?",
"僕は君などと違ってラヴなどのできる柄じゃないからな"
],
[
"助役さんは出ていらっしゃいますか",
"岸野さんかな"
],
[
"お母、加減が悪いって聞いたが、どうだい。もういいかな",
"ああ",
"風邪だんべい",
"寒い思いをしてはいけないいけないッて言っても、仮寝なぞしているもんだから……風邪を引いちゃったんさ……",
"お母、いい気だからなア",
"ほんとうに困るよ",
"でも、お種坊はかせぎものだから、お母、楽ができらアな"
],
[
"お客様の弁当は、明日も持って来るんだんべいか",
"そうよ",
"それじゃ、お休み"
],
[
"そうでしたか、少しも知りませんものでしたから……",
"それはそうですとも、貴君は知るわけはない。岸野さんがいま少し注意してくれるといいんですけれど、あの人はああいうふうで、何事にも無頓着ですからな",
"それじゃその教員がいたんですね?",
"ええ",
"それじゃまだ知らずにおりましたのですか"
],
[
"貴下はまだ正教員の免状は持っていないんですね?",
"ええ",
"じゃ一つ、取っておくほうが、万事都合がいいですな。中学の証明があれば、実科を少しやればわけはありゃしないから……教授法はちっとは読みましたか",
"少しは読んでみましたけれど、どうもおもしろくなくって困るんです",
"どうも教授法も実地に当たってみなくってはおもしろくないものです。やってみると、これでなかなか味が出てくるもんですがな"
],
[
"下駄を一つ貸していただきたいんですが……、弥勒から雨に降られてへいこうしてしまいました",
"お安いご用ですとも"
],
[
"あいにくだッたねえ、お前。昨日の工合いでは、こんな天気になろうとは思わなかったのに……ずっと歩いて来たのかえ",
"歩いて来ようと思ったけれど、新郷に安いかえり車があったから乗って来た"
],
[
"どこから借りて来たえ、足駄を?",
"峰田で"
],
[
"雑巾ではだめだよ。母さん。バケツに水を汲んでくださいな",
"そんなに汚れているかえ"
],
[
"そうだってねえ、手紙が今朝着いたよ。どうしてそんな不都合なことになっていたんだろうねえ",
"なあに、少し早く行き過ぎたのさ",
"それで、話はどうきまったえ?",
"来週から出ることになった",
"それはよかったねえ"
],
[
"まア……さあ、どうぞ",
"いいえ、ちょっと、湯に参りましたのですが、帰りにねえ、貴女、お宅へあがって、今日は土曜日だから、清三さんがお帰りになったかどうか郁治がうかがって来いと申しますものですから……いつもご無沙汰ばかりいたしておりましてねえ、まアほんとうに",
"まア、どうぞおかけくださいまし……、おや雪さんもごいっしょに、……さア、雪さん、こっちにおはいりなさいましよ"
],
[
"さア、こんなところですけど……",
"いいえ、もうそうはいたしてはおりませんから",
"それでもまア、ちょっとおかけなさいましな"
],
[
"お帰りになりましたね、郁治が待っておりますから……",
"今夜あがろうと思っていました",
"それじゃ、どうぞお遊びにおいでくださいまし、毎日行ったり来たりしていた方が急においでにならなくなると、あれも淋しくってしかたがないとみえましてね……それに、ほかに仲のいいお友だちもないものですから……"
],
[
"来年の春、高等師範を受けてみることにした。それまでは、ただおってもしかたがないからここの学校に教員に出ていて、そして勉強しようとおもう……",
"熊谷の小畑からもそう言って来たよ。やっぱり高師を受けてみるッて",
"そう、君のところにも言って来たかえ、僕のところにも言って来たよ",
"小島や杉谷はもう東京に行ったッてねえ",
"そう書いてあったね",
"どこにはいるつもりだろう?",
"小島は第一を志願するらしい",
"杉谷は?",
"先生はどうするんだか……どうせ、先生は学費になんか困らんのだから、どうでも好きにできるだろう",
"この町からも東京に行くものはあるかね?"
],
[
"どういう方面に?",
"工業学校にはいるつもりらしい"
],
[
"僕は苦しくってしかたがない",
"どうかする方法がありそうなもんだねえ"
],
[
"君のシスタアが友だちだし、先生のエルダアブラザアもいるんだし、どうにか方法がありそうなもんだねえ",
"まア、放っておいてくれ、考えると苦しくなる"
],
[
"君はそういうけれど、それは境遇の束縛の恐ろしいことを君が知らないからだよ、つまり君の家庭の幸福から出た言葉だよ",
"そんなことはないよ",
"いや、僕はそう思うねえ、僕はこれっきり埋れてしまうような気がしてならないよ",
"僕はまた、かりに一歩譲って、人間がそういう種類の動物であると仮定しても、そういう消極的な考えには服従していられないねえ",
"じゃ、どんな境遇からでも、その人の考え一つで抜け出ることができるというんだねえ",
"そうさ",
"つまりそうすると、人間万能論だね、どんなことでもできないことはないという議論だね",
"君はじきそう極端に言うけれど、それはそこに取り除けもあるがね"
],
[
"それから、羽生の成願寺に山形古城がいるアねえ。あの人はあれでなかなか文壇には聞こえている名家で、新体詩じゃ有名な人だから、まず第一にあの人に賛成員になってもらうんだね。あの人から頼んでもらえば、原杏花の原稿ももらえるよ",
"あの古城ッていう人はここの士族だッていうじゃないか",
"そうだッて……。だから、賛成員にするのはわけはないさ"
],
[
"寄ってみたかね?",
"あいにく、雨に会っちゃッたものだから",
"そうだったね",
"今度行ったら一つ寄ってみよう",
"そういえば、今日荻生君が羽生に行ったが会わなかったかねえ"
],
[
"これからずッと長く勤めているのかしら",
"むろんそうだろう。羽生の局をやっているのは荻生君の親類だから",
"それはいいな",
"君の話相手ができて、いいと僕も思ったよ",
"でも、そんなに親しくはないけれど……",
"じき親しくなるよ、ああいうやさしい人だもの……"
],
[
"君のところに今寄って来たよ",
"そうか"
],
[
"いよいよ来月の十五日から一号を出そうと思うんだがね",
"もうすっかり決まったかえ",
"東京からも大家では麗水と天随とが書いてくれるはずだ……。それに地方からもだいぶ原稿が来るからだいじょうぶだろうと思うよ"
],
[
"もう見てる。違ったもんだね、崇拝者は!",
"だって実際いいんだもの",
"何がいいんだか、国語は支離滅裂、思想は新しいかもしれないが、わけのわからない文句ばかり集めて、それで歌になってるつもりなんだから、明星派の人たちには閉口するよ"
],
[
"清三かえ?",
"ああ",
"まだ寝ずにいるのかえ",
"今、寝るところなんだ"
],
[
"もう何時だえ",
"二時が今鳴った",
"二時……もう夜が明けてしまうじゃないか、お寝よ",
"ああ"
],
[
"今度はいつ来るな、お前",
"この次の土曜日には帰る",
"それまでに少しはどうかならんか",
"どうだかわからんけれど、月末だから少しはくれるだろうと思うがね",
"少しでも手伝ってもらうと助かるがな"
],
[
"それじゃ気をつけてな",
"ああ"
],
[
"どうも田舎だから、格好なところがなくって……",
"ここでなくっても、少しは遠くってもいいんですけれど……",
"そうですな……一つ考えてみましょう。どこかあるかもしれません"
],
[
"どうです、これでわかりますか",
"いま少しゆっくり読んでください"
],
[
"先生、あとのはよくわかりました",
"いま少し早くってもようございます"
],
[
"今までは先生にいく度読んでもらいました。二度ですか。三度ですか?",
"二度",
"二度です"
],
[
"どうでした、一時間おすみになりましたか",
"え……",
"どうも初めてというものは、工合いの悪いものでしてな……私などもつい三月ほど前にここに来たのですが、始めは弱りましたよ",
"どうもなれないものですから"
],
[
"私の前に勤めていた方はどういう方でした",
"あの方はもう年を取ったからやめさせるという噂が前からあったんです。今泉の人で、ずいぶん古くから教員はやっているんだそうですが……やはり若いものがずんずん出て来るものだから……それに教員をやめても困るッていう人ではありませんから",
"家には財産があるんですか",
"財産ということもありますまいが、子息が荒物屋の店をしておりますから",
"そうですか"
],
[
"あれでなかなかいい人ですよ",
"僕はこんな田舎にあんな人がいようとは思わなかった。田舎寺には惜しいッていう話は聞いていたが、ほんとうにそうだねえ。……",
"話対手がなくって困るッて言っていましたねえ",
"それはそうだろうねえ君、田舎には百姓や町人しかいやしないから"
],
[
"どうだろうねえ、君。あそこでおいてくれないかしらん",
"おいてくれるでしょう……この間まで巡査が借りて自炊をしていましたよ",
"もうその巡査はいないのかねえ",
"この間岩瀬へ転任になって行ったッて聞きました",
"一つ、君は懇意だから、頼んでみてくれませんか、自炊でもなんでもして、食事のほうは世話をかけずに、室さえ貸してもらえばいいが……"
],
[
"それにいろいろ教えてももらえるしねえ、君。弥勒あたりのくだらんところに下宿するよりいくらいいかしれない",
"ほんとうですねえ、私も話相手ができていい"
],
[
"今度は貴嬢も浦和にいらっしゃるんでしょう?",
"私などだめ"
],
[
"女がそんなことをしたッてしかたがないッて父親は言いますけれどもな……当人がなかなか言うことを聞きませんでな……どうせ女のすることだから、ろくなことはできんのは知れてるですけど……",
"でもお変わりはないでしょう"
],
[
"雪さんどうしてござるな",
"相変わらずぶらぶらしています",
"ちと、遊びにおつかわし。貞も退屈しておりますで……"
],
[
"どうした、いやにしょげてるじゃないか",
"どうかしたか",
"まだ老い込むには早いぜ!",
"少しは何か調べたか",
"なんだか顔色が悪いぜ!"
],
[
"Lはどうした",
"まだいる! そうかまだいるか",
"仙骨は先生に熱中しているが、実におかしくって話にならん",
"先生、このごろ、鬚など生やして、ステッキなどついて歩いているナ",
"杉はすっかり色男になったねえ、君"
],
[
"相変わらずご熱心さ",
"もうエンゲージができたのか",
"当人同士はできてるんだろうけれど、家では両方ともむずかしいという話だ"
],
[
"先生、足利に行った",
"会社にでも出たのか",
"なんでも機業会社とかなんとかいうところに出るようになったんだそうだ"
],
[
"浦和にいるよ",
"それは知ってるさ。どうしたッて言うのはそういう意味じゃないんだ"
],
[
"大島孤月が死んだ!",
"孤月さんが――"
],
[
"もう今日は行かれませんな",
"そう、馬車はありませんしな、車じゃたいへんですし……それに汽車に乗っても、あっちへ着いてから困るでしょう"
],
[
"明日にしましょうかな",
"明日でいいなら――明日朝の馬車で久喜まで行って、奥羽線の二番に乗るほうがいいですな",
"行田から吹上のほうが便利じゃないでしょうか",
"いや、久喜のほうが便利です"
],
[
"世の中は蝸牛角上の争闘――私は東京にいるころには、つくづくそれがいやになったんですよ。人の弱点を利用したり、朋党を作って人をおとしいれたり、一歩でも人の先に出よう出ようとのみあくせくしている。実にあさましく感じたですよ。世の中は好いが好いじゃない、悪いが悪いじゃない、幸福が幸福じゃない。どんな人でもやっぱり人間は人間で、それ相応の安慰と幸福とはある。それに価値もある。何も名誉をおって、一生をあくせく暮らすには当たらない。それよりも、人間としての理想のライフを送るほうがどれほど人間としてえらいかしれない。どんなに零落して死んでもそのほうが意味がありますからなア",
"ほんとうにそうですとも"
],
[
"一杯飲みたまえ、一杯ぐらい飲んだってどうもなりやしないから",
"いいえ。もうほんとうにたくさんです。酒を飲むと、あとが苦しくって……"
],
[
"まだいいよ、君",
"でも、今日夏帽子を買うから",
"買うまでかぶっていたまえ、おかしいよ",
"なアに、すぐそこで買うから",
"足元を見られて高く売りつけられるよ",
"なアに大丈夫だ"
],
[
"まだ、考えていないけれど、ことによると、日光か妙義に行こうと思うんだ。君は?",
"僕はそんな余裕はない。この夏は英語をいま少し勉強しなくっちゃならんから"
],
[
"この近所に森という在郷がありますか",
"知りませんな",
"では高木というところは",
"聞いたようですけど……"
],
[
"このごろのこともご存じ?",
"このごろッて……この冬休みになってからですか",
"ええ"
],
[
"知りません",
"そう……"
],
[
"いったいどうしたんです?",
"どうしたっていうこともないんですけど……"
],
[
"変なことおうかがいするようですけど……貴郎は兄と北川さんとのことで、何か思っていらっしゃることはなくって?",
"いいえ",
"じゃ、貴郎、二人の中にはいってどうかしたッていうようなことはなくって",
"知りません",
"そう"
],
[
"私、小畑さんから変なこと言われたから、……",
"変なことッて? どんなことです",
"なんでもありませんけどもね"
],
[
"やあ!",
"どこに行った?",
"北川へちょっと"
],
[
"何が?",
"しらばっくれてるねえ、君は? 僕はちゃんと聞いて知ってるよ",
"何を?",
"大いに発展したッていうじゃないか",
"誰が話した?",
"ちゃんと知ってるさ!"
],
[
"ちゃんと材料は上がってるさ",
"誰だろうな!",
"あててみたまえ"
],
[
"わからん",
"小畑が君、君のシスタアに何か言ったことがあるかえ? 僕のことで",
"ああ、妹がしゃべッたんだな、彼奴、ばかな奴だな!",
"まア、そんなことはいいから、僕のいうことを返事しまたえ",
"何を",
"小畑が君のシスタアに何か言ったかッていうことだよ",
"知らんよ",
"知らんことはないよ、僕が君と Art の関係について、中にはいってるとかどうしたとか言ったことがあるそうだね"
],
[
"君のシスタアについても何か先生言いやしなかったか",
"戯談は言ったかもしらんが、くわしくはよく知らん"
],
[
"お前にはほんとうに気の毒だけれど……",
"父さんにもいま少しかせいでもらわなくっちゃ――"
],
[
"喜平さんな、とんでもねえこんだッてなア",
"ほんにさア、今朝行く時、己アでっくわしただアよ、網イ持って行くから、この寒いのに日振りに行くけえ、ご苦労なこっちゃなアッて挨拶しただアよ。わからねえもんただよなア",
"どうしてまアそんなことになったんだんべい?",
"ほんにさ、あすこは掘切で、なんでもねえところだがなア",
"いったいどこだな",
"そら、あの西の勘三さんの田ン中の掘切で死ねていたんだッてよ。泥深い中に体が半分突っささったまま、首イこうたれてつめたくなったんだッてよ",
"あっけねえこんだなア",
"今日ははア、御賽日だッてに。これもはア、そういう縁を持って生まれて来たんだんべい",
"わしらもはア、この春ア、日振りなんぞはよすべいよ"
],
[
"鮒はいらんなア",
"やすく負けておくで、買ってくんなせい"
],
[
"幾がけだね?",
"七なら高くはねえと思うんだが",
"七は高い!",
"目方をよくしておくだで七で買ってくんなせい",
"五ぐらいならいいが",
"五なんてそんな値はねえだ。じゃいま半分引くべい"
],
[
"やア、先生だ、先生だ!",
"先生が何か書いてらア",
"やア画を描いてるんだ!",
"あの雲を描いてるんだぜ"
],
[
"うまいなア、先生は",
"それは当たり前よ、先生じゃねえか",
"あああれがあの雲だ",
"その下のがあの家だ"
],
[
"林さん!",
"いい男の林さん!"
],
[
"貴郎、どうしたんですよ、このごろは",
"だッてしかたがない、忙しいからナア",
"ちゃんと種は上がってるよ、そんなこと言ったッて",
"種があるなら上げるさ",
"憎らしい、ほんとうに浮気者!"
],
[
"学校の先生!",
"林さん!",
"いい男!",
"林先生!"
],
[
"荻生さんなア来さしゃったが、会ったんべいか",
"いや――",
"行田に行ったんなら、ぜひ羽生に寄るはずだがッて言って、不思議がっていさっしゃったが、帰りにも会わなかったかな",
"会わない――",
"待っていさッしゃったが、羽生で待ってるかもしんねえッて三時ごろ帰って行かしった……",
"そうか――羽生には寄らなかったもんだから"
],
[
"いくらいるんです?",
"三円ばかり",
"僕はちょうどここに三円しか持っていないんですが、少しいることもあるんだが……",
"それじゃ二円でもいい"
],
[
"だッて、自分が食べることさえたいていじゃないんだから",
"それはそうだろうけれど、お前ぐらいの月給で、女房子を養っている人はいくらもあるよ。いっしょになって、学校の近くに引っ越して、倹約して暮らすようにすれば、人並みにはやっていけないことはないよ",
"でもまだ早いから"
],
[
"それに、お前だッて不自由な思いをして、いつまで学校にいたッてしかたがないじゃないか",
"お母さん、そんなこと言うけれど、僕はまだこれで望みもあるんです。いま少し勉強して中学の教員の免状ぐらいは取りたいと思っているんだから……今から女房などを持ったッてしかたがありゃしない",
"そんな大きな望みを出したッてしかたがないじゃないかねえ",
"だって、僕一人田舎に埋もれてしまうのはいやですもの。一二年はまアしかたがないからこうしているけれど、いつかどうかして東京に出て勉強したいと思っているんです。音楽のほうをこのごろ少しやってるから、来年あたり試験を受けてみようと思っているんです。今から女房など持っちゃわざわざ田舎に埋れてしまうようなもんだ",
"だッて、はいれたところで学費はどうするんのさねえ?",
"音楽学校は官費があるから",
"そうして家はどうするのだえ?",
"その時は父さんと母さんで暮らしてもらうのさ。三年ぐらいどうにでもしてもらわなくっちゃ",
"それはできないことはないだろうけれど、父さんはああいうふうだし、私ばかり苦労しなくっちゃならないから"
],
[
"お前、加藤の雪さんをもらう気はない?",
"雪さん? なぜ?",
"くれてもいいような母さんの口ぶりだッたからさ",
"どうして?",
"それとはっきり言ったわけじゃないけれど、たって望めばくれるような様子だッたから",
"いやなこった。あんな白々しい、おしゃらくは!",
"だッて、郁治さんとはお前は兄弟のようだし、くれさえすりゃ望んでも欲しいくらいな娘じゃないかね",
"いやなこった",
"このごろはどうかしたのかえ? 加藤にもめったに行かんじゃないか?",
"利益交換なぞいやなこった!"
],
[
"どうも思うようにいかんもんですから、ついそういうことになるんでしょうけれど……",
"校長からお聞きですか",
"いいえ、校長からじかに聞いたというわけでもないんですけれど……借金もできたようですし、それに清三君が宿直室にいると、女がぞろぞろやって来るんだッて言いますからねえ",
"いったい、あそこは風儀が悪いところですからなア",
"ずいぶんおもしろいんですッて……清三君一人でいると、学校の裏の垣根のところから、声をかけたり、わざと土塊をほうり込んだりするんですッて。そうして誰もいないと、庭から回ってはいって来るんだそうです",
"そして、その中に誰か相手ができてるんですか",
"よくわかりませんけれど、できてるんだそうです",
"どうせ、機織かなんかなんでしょう?",
"え",
"困るですな。そういう女に関係をつけては"
],
[
"早くかみさんを持たせたら、どうでしょう",
"この間も行田に行きましたから、ついでに寄ったんですが、お袋さんもそう言っていました",
"加藤君のシスターはもらえないのですか",
"先生がいやだッて言うんです……",
"だッて、前にラブしていたんじゃないですか",
"どうですか、清三君、よく話さんですけれど、加藤君と何か仲たがいかなんかしたらしいですな",
"そんなことはないでしょう",
"いや、あるらしいです"
],
[
"独身もいいが――そんなことをしてはしかたがない",
"ほんとうですとも"
],
[
"やっぱり胃病ですか",
"え、相変わらず甘いものばかり食っているんですから。甘いものと、音楽と、絵の写生とこの三つが僕のさびしい生活の慰藉だなどと前から言っていましたが、このごろじゃ――この夏の試験を失敗してからは、集めた譜は押し入れの奥に入れてしまって、唱歌の時間きりオルガンも鳴らさなくなりましたから",
"よほど失望したんですね",
"え……それは熱心でしたから、試験前の二月ばかりというものは、そのことばかり言ってましたから"
],
[
"私みたいにのんきだといいんですけれど……",
"ほんとうに、君とは違いますね"
],
[
"絶望と悲哀と寂㝠とに堪へ得られるやうなまことなる生活を送れ",
"絶望と悲哀と寂㝠とに堪へ得らるるごとき勇者たれ",
"運命に従ふものを勇者といふ",
"弱かりしかな、ふまじめなりしかな、幼稚なりしかな、空想児なりしかな、今日よりぞわれ勇者たらん、今日よりぞわれ、わが以前の生活に帰らん",
"第一、体を重んぜざるべからず",
"第二、責任を重んぜざるべからず",
"第三、われに母あり"
],
[
"過去は死したる過去として葬らしめよ",
"われをしてわが日々のライフの友たる少年と少女とを愛せしめよ",
"生活の資本は健康と金銭とを要す",
"われをして清き生活をいとなましめよ"
],
[
"先生、ご病気だって聞きましたから",
"誰に?",
"関先生に――",
"関さんにどこで会ったんです?",
"村の角でちょっと――"
],
[
"もう芽が出ましたね、早いもんだ、もうじき春ですな",
"ほんとうに早いこと!"
],
[
"体が少し悪いもんだから",
"どうしたんだ?",
"持病の胃腸さ、たいしたことはないんだけれど……",
"大事にしないといかんよ"
],
[
"昨夜、君はあれからまた起きたね",
"どうも眠られなくってしかたがないから、起きて新聞を読んだ"
],
[
"どうも寝られんで困る",
"やはり神経衰弱だねえ"
],
[
"林君、どうかしてますね、体がどうもほんとうじゃないようですね?",
"僕もじつは心配してるんですがね",
"何か悪い病気じゃないだろうか",
"さア――",
"今のうちにすすめて根本から療治させるほうがいいですぜ。手おくれになってはしかたがないから",
"ほんとうですよ",
"持病の胃が悪いんだなんて言ってるけれど――ほんとうにそうかしらん",
"町の医師は腸が悪いんだッて言うんですけれど",
"しっかりした医師に見せたほうがいいと思うね",
"ほんとうですよ"
],
[
"いい記念ですな",
"え、こういう花がたくさん戦場に咲いてるとみえますな",
"戦記にも書いてありましたよ"
],
[
"どうしたの?",
"少し手伝ったら、呼吸がきれてしかたがない",
"お前は無理をしてはいけないよ。父さんがするから、あまり働かずにおおきよ"
],
[
"約束をきめておくなんて、君、つまらぬことだよ",
"どうして?",
"だッて、お互いに弱点が見えたりなんかして、中途でいやになることがないとも限らないからね",
"そんなことはいかんよ、君",
"だッてしかたがないさ、そういう気にならんとも限らんから",
"そんなふまじめなことを言ってはいかんよ、君たちのように前から気心も知れば、お互いの理想も知っているのだから、苦情の起こりっこはありゃしないよ。僕なども同じ仲間だから、君らの幸福なのを心から祈るよ、美穂子さんにも久しく会わないけれど、僕がそう言ったッて言ってくれたまえ"
],
[
"どうもいかんね",
"うむ、治らなくって困る"
],
[
"どこから?",
"なんでも川越の財産家で跡見女学校にいた女だそうだ。容色望みという条件でさがしたんだから、きっと別嬪さんに違いないよ",
"先生も変わったね?",
"ほんとうに変わった。雑誌をやってる時分とはまるで違う"
],
[
"どうも病気がよくねえかね?",
"どうもいかんから、近いところに転任したいと思っているよ……今度の学期にはもう来られないかもしれない。長い間、おなじみになったが、どうもしかたがない……",
"それまでには治るべいかな",
"どうもむずかしい――"
],
[
"林さんなア、どうかしたかね",
"どうも病気が治らなくって困る",
"それア困るだね"
],
[
"病気でないと、政一(弟の名)のところにもお参りに行ってもらうんだけれど……今年は花も上げてくれる人もないッてさびしがっているだろう",
"ほんとうにさ……",
"父さんがつごうがよければ行ってもらいたいと思っていたんだけれど……",
"ほんとうに、遠くなって淋しがっているだろう"
],
[
"明日あたり私がお参りに行こうかと思っているけれど……",
"ナアに、治ってから行くからいいさ"
],
[
"そんなことを思わないほうがいいよ。それより養生して!",
"ナアに、こんな病気に負けておりゃせんから、母さん。心配しないほうがいいよ。今死んでは、生まれて来たかいがありゃしない",
"ほんとうともねえ、お前",
"世の中というものは思いのままにならないもんだ!"
],
[
"やっぱり、肺でしょうか",
"肺ですな……もう両方とも悪くなっている!"
],
[
"旅順がどうも取れないですな",
"どうしてこう長びくんでしょう",
"ステッセルも一生懸命だとみえますな。まだ兵力が足りなくって第八師団も今度旅順に向かって発つという噂ですな",
"第九に第十二に、第一に……、それじゃこれで四個師団……",
"どうもあそこを早く取ってしまわないんではしかたがないんでしょう",
"なかなか頑強だ!"
],
[
"遼陽のほうは?",
"あっちのほうが早いかもしれないッていうことですよ。第一軍はもう楡樹林子を占領して遼陽から十里のところに行ってますし、第二軍は海城を占領して、それからもっと先に出ているようですし……",
"ほんとうに丈夫なら、戦争にでも行くんだがなア"
],
[
"原さんから便りがありますか?",
"え、もう帰って来ます。先生も海城で病気にかかって、病院に一月もいたそうで……来月の初めには帰って来るはずです",
"それじゃ遼陽は見ずに……",
"え"
]
] | 底本:「田舎教師 他一編」旺文社文庫、旺文社
1966(昭和41)年8月10日初版発行
1985(昭和60)年重版発行
初出:「田舎教師」佐久良書房
1909(明治42)年10月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「苧殻《おがら》」と「績殻《おがら》」、「蠶豆」と「蚕豆」の混在は底本どおりです。
※「毛布」に対するルビの「けっとう」と「けっと」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※本文中の編者による語注は省略しました。
※本文中の挿画は省略しました。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年2月2日作成
2020年3月7日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品名読み": "いなかきょうし",
"ソート用読み": "いなかきようし",
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"初出": "「田舎教師」佐久良書房、1909(明治42)年10月",
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"名": "花袋",
"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
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"名ローマ字": "Katai",
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"没年月日": "1930-05-13",
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"そうだよ",
"いつ死んだんだえ?",
"つい、この間だ。遼陽の落ちた日の翌日かなんかだったよ",
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"肺病だよ",
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]
] | 底本:「田舎教師 他一編」旺文社文庫、旺文社
1966(昭和41)年8月10日初版発行
1985(昭和60)年重版発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年4月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "046594",
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[
[
"赤峰にやられてね",
"赤峰――それは大変ですね? それで奥さんも一緒ですか?",
"さうだよ",
"それは大変だ――",
"でもな、あゝいふ人達はさういふところから階段を経なくてはならないからね? まア一二年仕方がないさ――",
"それでも奥さんがえらいですな。まだ若いのに、赤峰つていへば北京から十日もかゝるつていふぢやありませんか?",
"でもな、細君でも一緒につれて行かなければ、一月だつてあんなところにゐられやせんからね",
"それはさうですな。それにあの奥さん子供はないし、美しいし、置いて行くわけにも行かないでせうからな"
],
[
"そこに立つてゐましたらう?",
"あ、女ですか?",
"さうです……あれは大連でも売れ妓でしたんですがね?",
"御存じですか?",
"え、二三度……。何でも大きな油房か何かを持つてゐる人の持ものだつてきいてゐましたがね? 何うして天津になんか行くんですかな?",
"もうあつちに行つたきりなんですか。何か用事でもあつて行くんぢやないんですか?",
"行つたきりださうです? さつきちよつときいたら、さう言つてゐました……",
"無論いろいろなことがあるんでせう?",
"割合に評判のわるくない妓でしたんですけど……矢張、あゝいふ人には、わるい虫がつきやすいですからな",
"何うもしやうがありませんな。矢張、女だつて、何うかしてひとりをしつかりつかまうとしますからな",
"本当ですよ。あゝいふ社会でも存外さうですな",
"浮気な稼業だけに猶ほさうですよ。そして、あの女にもさういふ虫がついてゐるんですか?",
"いやさういふわけぢやないでせうけども――私はさう深く知つてゐるわけでもないんですけども",
"何つていふんです?",
"名ですか? 徳子です",
"それでも、大連にも随分好い芸者がゐますか?",
"私なんかにはよくわかりませんけれど、随分好いのがゐるやうです?",
"あなた方の仲間にも随分遊ぶものがありますか?",
"駄目ですな。まだ巣立つたばかりですから……。もう少し経てば、さういふことも出来ますが、今では――",
"お子さんがあるんでせう?",
"え、二人あります――"
],
[
"あれは犬ですかね? さつきから鳴いてゐますが――?",
"さうです――さびしがつて鳴いてゐるんです。大きな犬ですよ"
],
[
"向うに着いても、誰も迎へには来てゐないだらうつていふんです。為方がありませんから、私が伴れて行つてやることにしました",
"それは大変ですね?"
],
[
"何でも無理に出て来たんださうです……。矢張、いろんなことがあるらしいんですな。ひとりきりで、案内がわからなくつて困つて了ふつて言つてゐるもんですから",
"それで行くところはわかつてゐるんですか?",
"え、それはわかつてゐるんですがね。苦力の車にひとりで乗せてやるわけには行かないのです。何うもしやうがありませんよ",
"まア、然し、そのくらゐの義務は負つても好いでせう。同じ船に乗つた好みだけでも……",
"さうですかなア"
],
[
"今日は天津にお泊りですか?",
"一夜泊つて行かうと思ひます。貴方は?",
"何うしようかと思つてゐます……。都合に由つて北京に行きたいと思つてをりますけれども――"
],
[
"そんなに乞食が多う御座んすか?",
"え、え、あそこは――。汚ない恰好をして近くへ寄つて来るので御座いますもの――",
"あゝいふ時には、かういふ奴は役に立ちますよ"
],
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"いや、もう行かなければならないのですけれども、丁度、今、節がわるくて、馬車が御座いませんものですから……",
"此方からいつでも馬車を仕立てゝ行けるのではないんですか?",
"北京にゐる奴は、何うも行くのをいやがりましてな。何しろ遠いんですから。向うから来てゐる奴でないと、何うしても行かうとは言はないんです?",
"それは大変ですな……。それにしても、その赤峰といふところまで一体幾日かゝるんです?",
"さうですな……。路がわるいですから、内地のやうなわけには行きませんから。里程はそんなにないですけれども、百里足らずですけれども、十二三日は何うしてもかゝりませうね――",
"大変ですな――。それにしても、赤峰といふところは、錦州からも行けるやうにきいてゐますが、あつちの方が近くはないのでせうか?",
"あつちの方がいくらか近いですけれども、馬車が北京よりももつと乏しいさうですから",
"さうですかな。何にしても大変ですな。あなたはまア好いとしても、奥さんが大変ですな",
"え……"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
初出:「婦人公論 第九年第九号」中央公論社
1924(大正13)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "048827",
"作品名": "犬",
"作品名読み": "いぬ",
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"初出": "「婦人公論 第九年第九号」中央公論社、1924(大正13)年8月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"底本名1": "定本 花袋全集 第二十一巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年1月10日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日",
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"底本の親本名1": "アカシヤ",
"底本の親本出版社名1": "聚芳閣",
"底本の親本初版発行年1": "1925(大正14)年11月10日",
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} |
[
[
"朝はちよつと無理ですね。何うしても夜のになりますね?",
"さうですかな?",
"まア、T温泉でゆつくり休んでいらつしやる方が好いですね"
],
[
"本当に厄介をかけた。お蔭で、どんなに楽に廻れたか知れやしませんよ",
"いゝえ"
],
[
"…………",
"貴方には意想外だつた",
"何と言つて好いのかな? お気の毒でしたツて言つて好いのかな?",
"この前に来たO君なんか盛んなものでしたね? あれでも困るが――",
"僕でも困るといふわけですね"
],
[
"まア為方がありませんや。場所に対して苦情を言ふわけにも行きませんからな。今度の旅行のお別れの一夜を送るとしてはやゝ物足りないが、まア我慢するのですな!",
"為方がないですな"
],
[
"よく来るには来るところです。やめて国に帰る家族なんかは、よく此処に一夜泊つて行くやうです……。この家が好くなかつたんでせう。U屋にすれやよかつた――",
"まア、好いでさ――"
],
[
"本当だね",
"朝鮮人もあゝいふのがあるんだな? 非常だね?",
"形が好かつたね? それに――"
],
[
"え――",
"二三枚呉れ給へな?"
],
[
"町を少し歩いて見やうか?",
"さうですね……",
"何か用があるかね?",
"いや、別に用といふこともありませんけどもね……。ちよつと此処をもう少し片附けて……。もうすぐです"
],
[
"ぢや、一足先きに出てるよ",
"どうぞ――すぐあとから僕も行きます"
],
[
"何うしたんです?",
"これさ――"
],
[
"あ、さうですか。さうとは気が附かなかつた。あそこの床屋ですね。それぢやゐない筈だ。何うしたかと思つてあちこち捜し廻つたんですよ。たしかに出たに相違ないのに、何うしてゐるんだらう。不思議なこともあるものだと思つて、ずつと向うまで行つたんですよ……",
"それは気の毒だつた"
],
[
"さういふわけでもないがね?",
"内地に行けば、何でも好いものがありますからなアー",
"わるくひやかすね!"
],
[
"内地はもう五月雨で、びしよびしよ降つてゐますな",
"さうだらうね?",
"こつちももう雨期に近づいて来てゐますからな",
"でも、満州は五月雨でも、さう毎日つゞいて降るやうなことはないでせう?",
"それはさうですな……。二三日降るぐらゐなもんですな"
],
[
"それぢや君の汽車の方があとになるんだね?",
"さうです――",
"一体何時なんだえ?",
"たしか直行は十時二十分です。あそこは連絡船の出帆するのは八時半ですが、九時になりますから、まだ、あなたを見送つてから一時間ほどあそこいらを彷徨しなければなりませんね?",
"そいつはたまらんね",
"なアに、わけはありはしません。馴れてゐますから……",
"でも、本当に、君にはお世話になりましたね。こんなに世話にならうとは思はなかつた――",
"私だつてさうです。お蔭で御一緒に旅行が出来て、多年心にかけてゐた金剛山までも行けたんですから――",
"でも、此処まで来て貰ふのは気の毒だつた。隅から隅だからね",
"なアに、馴れてゐますから"
],
[
"来ましたね……",
"早いもんですね……"
],
[
"いや、それほどではないさうです。さつきよりはぐつと凪ぎになつたさうですから……。何アに、この間は危ないことなんかありやしません。たとへ何んなにしけたつて大丈夫です。この連絡船がちよいちよいとひつくりかへるやうではそれこそ大変です。なアに大したことはありますまい",
"さうですかな。それなら好いですけども……",
"岸近くには少しは波はあるかも知れないさうですけれど、沖は凪いでゐるだらうといふことでした",
"いや、何うも難有う。鞄はもう船に積んだのですね!",
"さつき積込ませました。そらあの一二等の上り口の欄干のところに置いてあります……",
"どうも難有う……。本当にいろ〳〵お世話になりました。此処まで見送つて戴いては本当にすまないのですけれど……",
"いや――"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日
初出:「週刊朝日 第七巻第十五号」
1925(大正14)年4月1日
※「頻りに」と「頻に」の混在は、底本通りです。
※初出時の表題は「海を渡る」です。
※誤植を、底本の訂正表の表記にそって、あらためました。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048830",
"作品名": "海をわたる",
"作品名読み": "うみをわたる",
"ソート用読み": "うみをわたる",
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"原題": "",
"初出": "「週刊朝日 第七巻第十五号」1925(大正14)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-05-13T00:00:00",
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"姓": "田山",
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"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 花袋全集 第二十一巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年1月10日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日",
"校正に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日",
"底本の親本名1": "アカシヤ",
"底本の親本出版社名1": "聚芳閣",
"底本の親本初版発行年1": "1925(大正14)年11月10日",
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} |
[
[
"馬賊ツて、別にやつて来るんぢやなくつて、あいつ等がすぐそれになるのかも知れないからな……こんなところにとても泊れないよ。こんな山の中では、殺されたつて、永久にわかりやせんからな。第一日本の官憲の力だつて、あそこまでは入つて行けないからね……",
"本当だとも――"
],
[
"これはさつき通つて来た路ぢやないね?",
"さうだ……さつきは、向うだつた",
"これで好いのかね?"
],
[
"何しろ今日帰つて来るのは無理でしたからな?",
"でも、君間に合うだらうか? 石灰発掘所のトロコには?"
],
[
"七時までに行けますかね?",
"是非行かなけりやなりませんね。それに間にあはないとすると、今夜一夜歩かなくつてはなりませんから"
],
[
"この人達もK、Sまで行くんでせう?",
"それはさうだらう?",
"それは丁度いい道伴れだ……。せめて峠の上までも一緒に行つてもらはう。さうする方がいい。この母子づれと一緒に行けば、あやしいものに出会しても、ことわりをいうてもらうことが出来るから……",
"さうだ、それがいい――"
],
[
"ちよつと好い上さんぢやないか?",
"さうだね",
"色が白いね。それに、まださう大して年をとつてゐないね?",
"いくつくらゐだらう?",
"さうさな、二十七八といふところだらうね? 娘が十一二だから、丁度その位ゐだよ。支那の女は十五六になると結婚するからね?",
"丁度いゝうば桜といふところだね?"
],
[
"それでも、かうしてこんな山の中をひとりで歩くのは、大胆だね?",
"本当だね",
"矢張、馴れた土地だから平気なんだな?",
"でも、野郎がひとりだつたら、娘が一人ぐらゐくつついてゐたつて、何をやるかわかりやしないね?",
"さうかな――そんなもんかな"
],
[
"本当だね。何か怒つてゞもゐるのかしら?",
"だつて怒るわけがないぢやないか?",
"さうだな……別に怒るわけはないな――"
],
[
"何でもないですよ。心配しないでも大丈夫ですよ。あの女の方で恐れてゐるんだよ。あの日本人何かしやしないか。大事ないかつて聞いてゐるんださうだよ",
"さうか。それはわるいことをしたな",
"何うして先きに行かないんだつて言つてゐるんださうですよ",
"矢張、怖いんだな? 野郎がかう大勢ゐるから大丈夫だけれど、僕ひとりなら何をやるかわからんからな。無気味に思ふのも無理はないよ。",
"ところが、大勢ゐるから却つてこわいんだよ。輪姦でもされやしないかと思つてゐるんだよ。何といつてもかよわい女の身だからね――",
"それに異人種だし、さう思ふのは無理はないな",
"先きに行かう――"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048842",
"作品名": "草道",
"作品名読み": "くさみち",
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"校正に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日 ",
"底本の親本名1": "アカシヤ",
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"底本の親本初版発行年1": "1925(大正14)年11月10日",
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} |
[
[
"大丈夫かえ?",
"え、大丈夫ですとも――"
],
[
"大丈夫かね?",
"大丈夫ですよ。それよりも貴方は?"
],
[
"これからは、もうあんなところはありませんか?",
"平生なら、あそこだつて、何でもないんですけども……。今日は女の方には少し無理でした――",
"もう、いくらもないでせう?",
"え、もう、湯の瀬まで十町とはありません!"
],
[
"後悔したらう?",
"さうでもないけど……",
"でも、あの滑つた時には、はつと思つたね?",
"本当ねえ。あの時、あそこに樹の枝があつたから好いのねえ……"
],
[
"さう……そんなに沢山――",
"まア、行つて見てお出でよ"
],
[
"本当ねえ。綺麗ねえ。何とも言はれないわ。こんなに蛍がゐるのを見たことは、私、生れて始めてよ……。それに、不思議ね。よく見てゐると、蛍は皆な二つづゝ飛んでゐるのね。それに、中には負さつてゐるのもあるわ。だつて、ひとつで二つ光つてゐるのが中に交つてゐるんですもの……",
"矢張、恋の闇と言つたやうなわけなんだね?",
"さうね、屹度……。でなくつては、あんなに二つづゝ二つづゝ飛んでゐるわけはないんですもの……。不思議な気がするわねえ……?",
"だつて、為方がない。矢張生きてゐるものだもの――",
"それはさうね"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日
初出:「行楽 第一巻第一号(創刊号)」行楽社
1925(大正14)年4月1日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年4月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048873",
"作品名": "山間の旅舎",
"作品名読み": "さんかんのりょしゃ",
"ソート用読み": "さんかんのりよしや",
"副題": "",
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"原題": "",
"初出": "「行楽 第一巻第一号(創刊号)」行楽社、1925(大正14)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-05-13T00:00:00",
"最終更新日": "2020-04-28T00:00:00",
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"人物ID": "000214",
"姓": "田山",
"名": "花袋",
"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 花袋全集 第二十一巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年1月10日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日",
"校正に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日",
"底本の親本名1": "アカシヤ",
"底本の親本出版社名1": "聚芳閣",
"底本の親本初版発行年1": "1925(大正14)年11月10日",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "tatsuki",
"校正者": "hitsuji",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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} |
[
[
"ちよつと、そこいらを彷徨してゐてお呉れね。いくら田舎でもお役所だからね。お前を一緒に伴れて行くのも変だからね?",
"ぢきでせう? そんなに長くかゝるんぢやないんでせう?"
],
[
"何してゐたの?",
"いゝえ、ね、今ね、そこに五六人ゐるからお銭をやらうつて言つたら、お銭は貰つてはいけないつて先生が言つたから、いらないつて言ふのよ、それぢやね、お銭でなけりや! お菓子なら好いんでせうと言つたら、うんツて言ふから、一番大きな子供に、その子ならお菓子を買ひに行けると言ふから、五十銭やつてパンだの何かを買つてわけさせたのよ。のんきなものね、こゝいらの子供は――。とても内地では、何んな田舎に行つたつて、あんな無邪気な子供はゐませんねえ……",
"そいつは面白かつたね……",
"それで、案内の本はあつて?",
"貰つて来た"
],
[
"好いもの?",
"そんなに好くはないけれども……これでも参考にはなるよ",
"それで、何うして? 名刺を出したの? 知れやしなくつて?",
"大丈夫だよ"
],
[
"さア",
"そんなこと出来ないの?",
"さびしいだらうね。それに退屈だらうな。お前にしてはとてもそれは出来ないよ",
"私はさうでないと思ふわ。出来ると思ふわ。現に、今日から、さういふ気持に貴方がなれゝば、私だつて、さうなれないことはないわ",
"むづかしいね……",
"貴方が難かしいでせう? とても出来ないでせう。それ、御覧なさい",
"人間といふものは、さう簡単には出来ないものだよ。お前にだつて、母さんもゐるし、父さんもゐるし――",
"でも、私、貴方がさうなれば、私、きつとさうするわ。親は何うにだつて出来ますもの……。私の考では、男つていふものは中途半端なものなのね。ことに、貴方がさうね。ふんぎりがつかないのね?",
"まア好いよ、そんなこと……",
"男ツて、女を玩弄具にさへすれば好いのね?",
"そんなことはないよ"
],
[
"ひどい雨ね?",
"本当だね。でも、こゝに着いてからで好かつた――",
"さうね"
],
[
"こゝに娘さんがゐるのね?",
"え……………………",
"さうでせう。さつき、あそこにゐたのは?",
"えゝさうです――",
"別品さんですね。もう旦那さんはきまつてゐるんでせう?"
],
[
"さう、それはお目出度いワね。いくつなの",
"お嬢さん? あれで二十……",
"若いのね。十八九にしか見えないのね……"
],
[
"それは綺麗よ",
"そんなのがゐたのかえ?",
"私がね、さつき湯殿から着物を着て出て来たら、ちやんとその娘が見てゐるのよ。鳩のやうな眼をして……。無邪気で好いわね?",
"それぢや此処は、あの上さんとその娘とやつてゐるんだね。その娘に婿がねが来るといふわけだね?"
],
[
"矢張、あの爺さんの言つたことは本当だつたね。ちやんとさういふ人がゐるんだね?",
"さうね。あの話をしてからよ。こゝのお上さんが私達を此方に案内するやうになつたのは――",
"さうらしいね",
"あのお爺さんの言ふ通り、そのお妾さんには、こゝのお上さん、姉妹のやうにしてゐるのね? 面白いわね",
"本当に面白いな。小林ツて言つたけかね?",
"さう――小林秀"
],
[
"えらい暴風雨ね。これでは汽船はとても向うまで行きませんね。何処か途中でとまつたでせうね?",
"さア",
"それとも行つたでせうか?",
"G港の手前で、このしけに逢へば、無論そこに碇を下したらうけれども、かういふひどいしけになつたのは、夜半過ぎからだから、G港からずつと向うに行つてから打突つたんではないかな?",
"さうすると随分大変ね"
],
[
"本当だね?",
"ひつくり返りはしないでせうね?",
"さア",
"だから、海はきらひよ。こんなところに来るのは命がけですわね"
],
[
"ひどい雨ね",
"これはひどい! すつかり吹込んで来てゐる!"
],
[
"いゝえ、田舎もので――",
"こちらに、こんな綺麗なお子さんが沢山をるのですか?"
],
[
"あ、新潟から……。道理で、美しいと思ひました。私はまたこちらにあゝいふお子が沢山おゐでなのかと思つて……?",
"何も出来は致しません"
],
[
"矢張、あのUの爺さんもえらいのね……",
"それはさうだ……",
"それにあの人だツて感じのいゝ人ぢやありませんか。矢張、終ひにはあゝなるんでせうね? それを思ふと心細い……",
"…………"
],
[
"これは何うしたんです? 持主があるんでせうね?",
"それはさうサ――",
"よく盗むものがありませんね",
"それは田舎だからね――",
"東京では、とてもこんなことは出来ませんね。一つでも流れて来れば、これは好いものだなんて、すぐ持つて行つて了ひませうね?",
"それはさうだ――"
],
[
"面白いわね。見てゐると、棒杭が頭を振り振りやつて来るわね",
"さうだね"
],
[
"一体何処から流して来るんでせうね。遠いんでせうか?",
"さア"
],
[
"それで、かうして支えたのは何うするんでせう。そのまゝにして置くんぢやないでせうね?",
"それはさうぢやないだらうね? いづれ何うかするんだらうね?",
"のんきね、田舎は――。一生此処にゐたくなつた……",
"ゐるサ",
"ゐませうか。もう東京に帰るのは止しませうか?"
],
[
"疲びれたね、もう",
"いゝえ"
],
[
"いや、くたびれたらしいな",
"まだそんなにくたびれはしませんよ。一里ぐらゐしきやまだ来はしないでせう?",
"もう、もつと来たよ",
"さうですかね"
],
[
"あ、あそこが壊れてゐるのね",
"あ、さうだ――"
],
[
"しかし、こゝいらの人足は人が好いのね。東京近くの田舎なら、とてもこんなに無事に通しはしない――",
"本当だね",
"あの位、人数がゐれは、屹度何か言ふにきまつてゐますよ",
"それはさうだね",
"人気の好いところなのね。本当に此処に落附いて了ひませうか?"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日
初出:「新小説 第三十年第三号」
1925(大正14)年4月1日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "048882",
"作品名": "島の唄",
"作品名読み": "しまのうた",
"ソート用読み": "しまのうた",
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"原題": "",
"初出": "「新小説 第三十年第三号」1925(大正14)年4月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-12-13T00:00:00",
"最終更新日": "2020-11-27T00:00:00",
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"人物ID": "000214",
"姓": "田山",
"名": "花袋",
"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 花袋全集 第二十一巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年1月10日",
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"底本の親本名1": "アカシヤ",
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[
[
"塩町つて、……僕はよく知つてるが、塩町の何処です、君達の居る家は……",
"塩町の……湯屋の二階に来て居るんでさア",
"湯屋つて言へば、あの角に柳のある?",
"左様でがさア",
"それぢや僕も入つた事がある湯屋だ。彼処には背の低い、にこ〳〵した妻君が居る筈だ",
"好く知つて居やすナア"
],
[
"それぢや、いつでも僕が帰る道だから、これから一所に帰らうぢやありませんか",
"さう願へりや、はア結構だす……"
],
[
"それで君達の国は一体何処です?",
"私等の国ですか、私等の国は信州でがすが……",
"信州の何処?",
"信州は長野の在でがすア",
"何時東京に来たのです",
"去年の十二月、来たんですが、山中から、はア出て来たもんだで、為体が分らないでえら困りやした",
"塩町の湯屋は親類ですか",
"親類ぢやありやしねえが、村の者で、昔村で貧乏した時分、私等の親が大層世話をした事がある男でさア。十年前に国元ア夜逃げする様にして逃げて来たゞが、今ぢやえら身代のう拵へて、彼地処でア、まア好い方だつて言ふたが、人の運て言ふものは解らねえものだす"
],
[
"僕、僕、富山!",
"富山君か、上んなはれ"
],
[
"一体汝は何処だね? 塩山かね",
"いんにや、塩山ではごへん、その一つ前の村の倉沢でごわす",
"もう根本は女房を持つたらう",
"嚊さまでごわすか、持ちましたとも、……えいと……あれは確か三年前で、芋子村の大尽の娘さアだ",
"子供は?",
"まだごわしねえ、もう出来さうな者だつて此間も父様えらく心配のう為で御座らしやつたけ",
"それでは山県といふのも知つてるだらう",
"山県――はア学校の先生様だア、私等が餓児も先生様の御蔭にはえらくなつてるだア。好い優しい人で、はア",
"それでは杉山は何うしてるね",
"えらく、貴郎ア、塩山の人の名前知つて御座らつしやるだア。貴郎ア、若い者等が東京に出た時懇意に為すつて居た先生だかね……"
],
[
"……杉山の子息……あれア、今は徴集されて戦争(日清戦争)に行つてるだ。あの山師にや、村ではもう懲々して居るだア。長野に興業館といふ東京の山師の出店見ていなものを押立てて、薬材で染物のう御始めるつて言つて、何も知らねえ村の者を騙くらかして、何でもはア五六千円も集めただア。それを皆な妾を置いたり、芸妓を家に引摺込んだり、遊廓に毎晩のやうに行つたり、二月ばかりの中に滅茶〳〵にして仕舞つたゞア。……恐ろしい虚言家でナ、私等も既の事欺騙かされる処でごわした",
"家は今何うしてるね",
"家でごすか、余程あれの為めに金のう打遣つたでがすが爺様まだ確乎して御座らつしやるし、廿年前までは村一番の大尽だつたで、まだえらく落魄ねえで暮して御座るだ"
],
[
"塩山つていふ村は、昔からえらく変り者を出す所でナア、それが為めに身代を拵へる者は無えではねいだが、困つた人間も随分出るだア",
"今でも困つた人間が居るかね"
],
[
"また寝そべつたか、困るだなア、汝、余り劇く虐使ふでねえか",
"虐使ふどころか、此間も寝反つただから、四俵つけるところを三俵にして来ただアが",
"何処へ寝反つてるだ",
"孫右衛門どんの垣の処の阪で、寝反つたまゝ何うしても起きねえだ。己あ何うかして起すべい思つて、孫右衛門さん許へ頼みに行つただが、少い娘つ子ばかりで、何うする事も為得ねえだ",
"仕方の無え奴等だ"
],
[
"いゝえ、静かどころでは、……此頃は、はア、えらく物騒で……",
"何うしてゞす"
],
[
"此頃は、はア、えらく火事があるんで、夜もゆつくり寝ては居られないで、はア",
"何うしてゞす?",
"何うしてといふ訳も無えだすが……"
],
[
"放火なのですか",
"はア",
"誰か悪い者でもあるんですか",
"はア、悪い者があつて、どうも困り切りますだア"
],
[
"貴郎さアも見て御座らしやつたゞか、火事が、はア、毎晩のやうにあつて、物騒で、仕方が無えものだで、村で、割前で金のう集めて、漸く東京から昨日喞筒が出来て来ただア",
"東京から喞筒?"
],
[
"本当に因つて了ふですア、夜も碌々寝られないのですから",
"それで、一体、犯罪者が解らんのかね?",
"それア、もう彼奴と極つて、居るんだが……",
"何故、捕縛しないのだね?"
],
[
"十五六軒!",
"この小さい村、皆な合せても百戸位しか無いこの小さい村に、十五六軒ですだで、村開闢以来の珍事として、大騒を遣つて居りますだア",
"それは左様だらう"
],
[
"で、一体、その悪漢は何者だね、村の者かね",
"はア、村の者でさア",
"村の者で、それでそんな大胆な事を為るといふのは、其処に何か理由がある事だらうが……",
"何アに、はア御話にも何にもなりやしやせん。放蕩者で、性質が悪くつて、五六年も前から、もう村の者ア、相手に仕なかつたんでごすから",
"まだ若いのかね",
"いや、もう四十二三‥…",
"それぢや分別盛だのに……"
],
[
"十何回も放火を為るのに、一度位実行して居るところを見付けさうな者ですがナア",
"それが、彼奴が実行するのなら、無論見付けない事は無いだすが、彼奴の手下に娘つ子が一人居やして、そいつが馬鹿に敏捷くつて、丸で電光か何ぞのやうで、とても村の者の手には乗らねえだ",
"それは奴の本当の娘なんですか",
"否、今年の春頃から、嚊代りに連れて来たんだといふ話で、何でも、はア、芋沢あたりの者だつて言ふ事だす。此奴が仕末におへねえ娘つ子で、稚い頃から、親も兄弟もなく、野原で育つた、丸で獣といくらも変らねえと云ふ話で、何でも重右衛門(嫌疑者の名)が飯綱原で始めて春情を教へたとか言んで、それからは、村へ来て、嚊の代りを勤めて居るが、これが実に手におへねえだ。重右衛門が自身手を下すのでなく、この獣のやうな娘つ子に吩附けて火を放けさせるのだから、重右衛門と言ふ事が解つて居ても、それを捕縛するといふ事は出来ず、さればと言つて、娘つ子は敏捷つて、捕へる事は猶々出来ず、殆ど困つて仕舞つたでがすア",
"年齢は何歳位?",
"まだ漸つと十七位のもんだせう",
"それが捕へる事が出来ないとは! 高が娘つ子一人",
"知らない人はさう思ふのは無理は無いだす。高が娘つ子一人、それを捕へる事が出来ぬとは、余り馬鹿〳〵しくつて話にも何にも為らない様だが、それを知つて御覧なされ、それは実に驚いたもので、今其処に居たかと思ふと、もう一里も前に行つて居るといふ有様、若い者などがよく村の中央で邂逅して、石などを投りつけて遣る事が幾度もある相だすが、中々一人や二人では敵はない。反対に眉間に石を叩き付けられて、傷を負つた者は幾人もある。それで此方が五人六人、十人と数が多くなると、屋根でも、樹でも、する〳〵と攀上つて、丸で猫ででもあるかのやうに、森と言はず、田と言はず、川と言はず、直ちに遁げて身を隠して了ふ。それは実に驚くべき者ですア"
],
[
"本当とも……総左衛門どんの家の角の処で、莞爾笑ひながら見てけつかるだ。余り小癪に触るつて言ふんで、何でも五六人許で、撲りに懸つた風なもんだが、巧にその下を潜つて狐のやうに、ひよん〳〵遁げて行つて了つたさうだ。……それから重右衛門も来て見物して居たぢやないか",
"重右衛門も?",
"あの野郎、何処まで太いんだか、見物しながら、駐在所の山田に喧嘩見たやうな事を吹懸けて居たつけ。何んだ、この藤田重右衛門が駐在所の巡査なんか恐れやしねえ、何んだ村の奴等ア、喞筒なんて、騒ぎやがつて、それよりア、この重右衛門に、お酒でも上げた方が余程効能があるんだ。ツて、大きな声で呶して居やがつたつけ。何でも酒を余程飲んで居た風だつた",
"誰が酒を飲ましたのか知らん",
"誰がツて……野郎、又威嚇文句で、又兵衛(酒屋の主人)の許へ行つて、酒の五合も喰つて来たんだ",
"困り者だナア"
],
[
"熱つくて堪らねえ",
"まご〳〵して居ると、焼死んで了ふア",
"何うしやがつたんだ。一体、喞筒は? 気が利かねえ奴等でねえか"
],
[
"喞筒確かり頼むぞい!",
"確かり遣れ",
"喞筒!"
],
[
"本当にかう毎晩のやうに火事があつては、緩くり寝ても居られねえだ。本当に早く何うか為て貰はねえでは……",
"駐在所ぢや、一体何を為て居るんだか、はア、困つた事だ"
],
[
"駐在所で、仕末が出来ねえだら、長野へつゝ走つて、何うかして貰ふが好いし、長野でも何うも出来ねえけりや、仕方が無えから、村の顔役が集つて、千曲川へでも投込んで了ふが好いだ",
"本当に左様でも為て貰はねいぢや……"
],
[
"まご〳〵してると、己が家もつん燃されて了ふかも知んねえだ。本当にまア、何うしたら好い事だか",
"困つた事だ"
],
[
"重右衛門は火事の中何処に行つて居たツて?",
"奴か、奴ア、直き山県さんの下の家に行つて、火事見舞に来たとか、何とか言つて、酒の馳走になつてけつかつた。あの位図太い奴ア無いだ",
"さういふ時、思ふさま、酒喰はして、ぐつと遣つて仕舞へば好いんだ",
"本当にそれが一番早道だア、と我ア、いつでも言ふんだけど、まさか、それも出来ねえと見えて、それを遣つて呉れる人が無えだ",
"忌々しい奴だなア"
],
[
"私なども……それア、随分酷い眼に逢つた。親には見放される、兄弟には唾を吐き懸けられる、村の人にはてんから相手にされぬといふ始末で、夜逃の様にして村を出て行つたが、其時の悲しかつた事は今でも忘れない。あの倉沢の先の吹上の水の出て居る処があるが、あそこで、石に腰を懸けて、もうこれで村に帰つて来るか何うだかと思つた時は、情なくなつて涙が出て、いつそこゝで死んで了はうかとすら思つた程であつた。けれど……思返して、何うせ死ぬ位なら、江戸に行つて死ぬのも同じだ、死んだ積りで、量見を入れかへて、働いて見よう……とてく〳〵と歩き出したが、それが私の運の開け始めで、それでまア、兎に角今の身分に為つた……",
"私なんざア、駄目でごす…‥"
],
[
"何も貴様が豪くねえと言ひやしねえだア、貴様のやうな豪い奴が、この村に居るから困るつて言ふんだ",
"何が困る……困るのは当り前だ。己がナ、この藤田重右衛門がナ、態々困るやうにして遣るんだ"
],
[
"勝手に爪弾しやアがれ、この重右衛門様はナ、奴等のやうなものに相手に為れねえでも……ねつから困らねえだア……べら棒め、根本三之助などと威張りやアがつて元ア、賽銭箱から一文二文盗みやがつたぢやねえだか",
"撲つて了へ"
],
[
"撲れ! 撲れ!",
"取占めて了へ"
],
[
"六千年来の歴史、習慣。これが第二の自然を作るに於て、非常に有力である。社会はこの歴史を有するが為めに、時によく自然を屈服し、よく自然を潤色する。けれど自然は果して六千年の歴史の前に永久に降伏し終るであらうか",
"或は謂ふかも知れぬ。これ自然の屈伏にあらず、これ自然の改良であると。けれど人間は浅薄なる智と、薄弱なる意とを以て、如何なるところにまで自然を改良し得たりとするか",
"神あり、理想あり、然れどもこれ皆自然より小なり。主義あり、空想あり、然れども皆自然より大ならず。何を以てかくいふと問ふ者には、自分は箇人の先天的解剖をすゝめようと思ふ"
],
[
"重右衛門の最期もつまりはこれに帰するのではあるまいか。かれは自分の思ふ儘、自分の欲する儘、則ち性能の命令通りに一生を渡つて来た。もしかれが、先天的に自我一方の性質を持つて生れて来ず、又先天的にその不具の体格を持つて生れて来なかつたならば、それこそ好く長い間の人生の歴史と習慣とを守り得て、放恣なる自然の発展を人に示さなくつても済むだのであらうが、悲む可し、かれはこの世に生れながら、この世の歴史習慣と相容るゝ能はざる性格と体とを有つて居た",
"殊に、かれは自然の発展の最も多かるべき筈にして、しかも歴史習慣を太甚しく重んずる山中の村――この故郷を離るゝ事が出来ぬ運命を有して居た"
],
[
"何アに、其様に心配した程の事は無えでごす。警官も奴の悪党の事は知つて居るだアで、内々は道理だと承知してるでごすが、其処は職掌で、さう手軽く済ませる訳にも行かぬと見えて、それで彼様な事を言つたんですア",
"それで死骸は何うしたね",
"重右衛門のかね。あの娘つ子が引取つて行つたけれど、村では誰も構ひ手が無し、遠い親類筋のものは少しはあるが、皆な村を憚つて、世話を為ようと言ふものが無えので、娘つ子非常に困つて居たといふ事です……。けれど、今途中で聞くと、娘つ子奴、一人で、その死骸を背負つて、其小屋の裏山にのぼくつて、小屋の根太やら、扉やらを打破して、火葬にしてるといふ事だが……此処から烟位見えるかも知れねえ"
],
[
"けれど重右衛門の身に取つては、寧ろこの少女の手――宇宙に唯一人の同情者なるこの自然児の手に親しく火葬せらるゝのが何んなに本意であるか知れぬ。否、これに増る導師は恐らく求めても他に在るまい",
"村の人々、無情なる村の人々、死しても猶和睦する事を敢てせぬ程の冷かなる村の人々の心! この冷かなる心に向つて、重右衛門の霊は何うして和睦せられよう。さればその永久に和睦せられざる村人の寺に穏かに葬られて眠らんよりは、寧ろそのやさしき自然の儘なる少女の手に――"
],
[
"自然児は到底この濁つた世には容られぬのである。生れながらにして自然の形を完全に備へ、自然の心を完全に有せる者は禍なるかな、けれど、この自然児は人間界に生れて、果して何の音もなく、何の業もなく、徒らに敗績して死んで了ふであらうか",
"否、否、否、――",
"敗績して死ぬ! これは自然児の悲しい運命であるかも知れぬ。けれどこの敗績は恰も武士の戦場に死するが如く、無限の生命を有しては居るまいか、無限の悲壮を顕はしては居るまいか、この人生に無限の反省を請求しては居るまいか"
]
] | 底本:「筑摩現代文学大系 6 国木田独歩 田山花袋集」筑摩書房
1978(昭和53)年11月25日初版第1刷発行
1980(昭和55)年2月20日初版第2刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力者:kompass
校正:伊藤時也
2004年8月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "004712",
"作品名": "重右衛門の最後",
"作品名読み": "じゅうえもんのさいご",
"ソート用読み": "しゆうえもんのさいこ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-09-18T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card4712.html",
"人物ID": "000214",
"姓": "田山",
"名": "花袋",
"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "筑摩現代文学大系 6 国木田独歩 田山花袋集",
"底本出版社名1": "筑摩書房 ",
"底本初版発行年1": "1978(昭和53)年11月25日",
"入力に使用した版1": "1980(昭和55)年2月20日初版第2刷",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
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"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "kompass",
"校正者": "伊藤時也",
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"テキストファイル最終更新日": "2004-08-16T00:00:00",
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} |
[
[
"どうも不思議だ。一種の病気かもしれんよ。先生のはただ、あくがれるというばかりなのだからね。美しいと思う、ただそれだけなのだ。我々なら、そういう時には、すぐ本能の力が首を出してきて、ただ、あくがれるくらいではどうしても満足ができんがね",
"そうとも、生理的に、どこか陥落しているんじゃないかしらん"
],
[
"生理的と言うよりも性質じゃないかしらん",
"いや、僕はそうは思わん。先生、若い時分、あまりにほしいままなことをしたんじゃないかと思うね",
"ほしいままとは?",
"言わずともわかるじゃないか……。ひとりであまり身を傷つけたのさ。その習慣が長く続くと、生理的に、ある方面がロストしてしまって、肉と霊とがしっくり合わんそうだ",
"ばかな……"
],
[
"僕は性質だと思うがね",
"いや、病気ですよ、少し海岸にでも行っていい空気でも吸って、節慾しなければいかんと思う",
"だって、あまりおかしい、それも十八、九とか二十二、三とかなら、そういうこともあるかもしれんが、細君があって、子供が二人まであって、そして年は三十八にもなろうというんじゃないか。君の言うことは生理学万能で、どうも断定すぎるよ"
],
[
"そうですか",
"あいかわらず、美しいねえ、どうしてああきれいに書けるだろう。実際、君を好男子と思うのは無理はないよ。なんとかいう記者は、君の大きな体格を見て、その予想外なのに驚いたというからね",
"そうですかナ"
]
] | 底本:「蒲団・一兵卒」角川文庫、角川書店
1969(昭和44)年10月20日改版初版発行
1974(昭和49)年11月30日改版8版発行
入力:久保あきら
校正:伊藤時也
2000年9月28日公開
2013年5月8日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001098",
"作品名": "少女病",
"作品名読み": "しょうじょびょう",
"ソート用読み": "しようしよひよう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2000-09-28T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-17T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1098.html",
"人物ID": "000214",
"姓": "田山",
"名": "花袋",
"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "蒲団・一兵卒",
"底本出版社名1": "角川文庫、角川書店",
"底本初版発行年1": "1969(昭和44)年10月20日改版初版",
"入力に使用した版1": "1974(昭和49)年11月30日改版8版",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "久保あきら",
"校正者": "伊藤時也",
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"テキストファイル最終更新日": "2013-05-08T00:00:00",
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} |
[
[
"素敵だね?",
"何とも言はれんね!",
"あゝいふものがあるんだからな!",
"本当だな――"
],
[
"兎に角、えらゐ作だな。あの全体から発散して来る気分は何とも言へないぢやないですか。その冴えた鑿のあとがはつきりと線になつて残つてゐるぢやないですか? 僕はスケツチしながら、情けなくなつて来ましたよ",
"僕もさつき涙が出て来てしやうがなかつた。……"
],
[
"もう一度、あとに戻つて、あの石窟のところにゐたいやうな気がしますね。あゝした静寂な芸術の世界もあるのにあれを捨てゝ、一歩々々娑婆に下りて行くのは、残念なやうな気がしますね",
"本当ですね"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"それでは明日はゆつくり上つて好いですね? 僕はちよつと私用もありますししますから",
"え、何うぞ――",
"先生も静かにお休みなさい。東京の奥さんの夢でも御覧なさい……"
],
[
"そんなことはありません。いくら僕がハルピンが好きでも、さういふものはありませんよ。矢張、先生と同じですよ。東京の郊外に置いて来た嚊の夢でも見るだけですよ",
"何うだかわからんね? でなくつては、いくら好きでもハルピンに年に三四度もやつて来る筈はないよ"
],
[
"――――?",
"電話は三階にもあるんだらうね?"
],
[
"御座います――――",
"何処だね?"
],
[
"お!",
"まア、貴方!"
],
[
"……………………",
"さつきの電話で、貴方の声を聞いた時にはわく〳〵して了つたんですもの……。変だつたでせう?",
"それに、あの電話のわきに皆ながゐるんだらう?",
"それもあるんですけれどもね。そんなことは構はなかつたんですけれども……。これで私あそこでは割に自由にしてゐますの。義理でも叔母は叔母ですからね。それよりも、唯、わく〳〵して言葉も何も出ないんですもの……。変なものですね。嬉しいんだか、悲しいんだか、何も彼もごつちやになつて了つたんですもの"
],
[
"それでも痩せたね?",
"さうですか――かういふ気風ですから、別に苦労もしないんですけれども……。あの時分は肥つてゐましたもの……",
"病気をしたんぢやないか",
"来た時に、一度わづらひましたけれども、それからずつと丈夫で暮してゐますの……。どつちかと言へば、土地が異つても別に何ともない方ですの――",
"面白いことがあるかね",
"別に面白いつていふこともありませんけれどもね。でも生きてゐさへすれば、もう一生お目にはかゝれまいと思つた貴方にも逢へるんですから……。それを思ふと、矢張り生きてゐる方が好いんですね。でもよく来て下すつたのね。私、本当にお礼を申上げるわ……",
"だつて、そのために、お前に逢ひたいばかりに、かうして話が出来なくつても好い、一目でも好い、さう思へばこそ、こんな満洲のやうな赤ちやけた殺風景な山や野ばかりあるところにやつて来たんだもの……。でも、今夜は帰らなくつてはならないんだらう?"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日発行
初出:「現代 第六巻第一号」実業之日本社
1925(大正14)年1月1日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "048928",
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"作品名読み": "ときこ",
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"初出": "「現代 第六巻第一号」実業之日本社、1925(大正14)年1月1日",
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[
[
"誰のって言うことはありましねえ。此間、お客様が忘れて置いて行った小説本だ。",
"ちょっと借りて行くよ。",
"え、ようがすとも……。"
],
[
"何うだったね。",
"駄目だ、駄目だ。",
"ちっとは、それでも……。"
],
[
"御飯は?",
"今、食う……。"
]
] | 底本:「日本プロレタリア文学大系 序」三一書房
1955(昭和30)年3月31日初版発行
1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:松永正敏
2003年9月11日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002950",
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"没年月日": "1930-05-13",
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"底本名1": "日本プロレタリア文学大系 序",
"底本出版社名1": "三一書房",
"底本初版発行年1": "1955(昭和30)年3月31日",
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[
[
"お留守番ですの",
"姉は何処へ行った?",
"四谷へ買物に"
],
[
"え、先程、湯に入りましたのよ",
"大変に白粉が白いから"
],
[
"出て来たのですね",
"うむ",
"ずっと東京に居るんでしょうか",
"手紙に書いてあるじゃないか、すぐ帰すッて……",
"帰るでしょうか",
"そんなこと誰が知るものか"
],
[
"この頃はどうか為ましたね",
"何故?",
"酔ってばかりいるじゃありませんか",
"酔うということがどうかしたのか",
"そうでしょう、何か気に懸ることがあるからでしょう。芳子さんのことなどはどうでも好いじゃありませんか",
"馬鹿!"
],
[
"だって、余り飲んでは毒ですよ、もう好い加減になさい、また手水場にでも入って寝ると、貴郎は大きいから、私と、お鶴(下女)の手ぐらいではどうにもなりやしませんからさ",
"まア、好いからもう一本"
],
[
"おい、帯を出せ!",
"何処へいらっしゃる",
"三番町まで行って来る",
"姉の処?",
"うむ",
"およしなさいよ、危ないから",
"何アに大丈夫だ、人の娘を預って監督せずに投遣にしてはおかれん。男がこの東京に来て一緒に歩いたり何かしているのを見ぬ振をしてはおかれん。田川(姉の家の姓)に預けておいても不安心だから、今日、行って、早かったら、芳子を家に連れて来る。二階を掃除しておけ",
"家に置くんですか、また……",
"勿論"
],
[
"何アに、其処でちょっと転んだものだから",
"だッて、肩まで粘いているじゃありませんか。また、酔ッぱらったんでしょう",
"何アに……"
],
[
"芳さん、何処に行ったんです",
"今朝、ちょっと中野の方にお友達と散歩に行って来ると行って出たきりですがね、もう帰って来るでしょう。何か用?"
],
[
"そう、それは好いですよ。本当に芳子さんはああいうしっかり者だから、私みたいな無教育のものでは……",
"いや、そういう訳でも無いですがね。余り自由にさせ過ぎても、却って当人の為にならんですから、一つ家に置いて、十分監督してみようと思うんです",
"それが好いですよ。本当に、芳子さんにもね……何処と悪いことのない、発明な、利口な、今の世には珍らしい方ですけれど、一つ悪いことがあってね、男の友達と平気で夜歩いたりなんかするんですからね。それさえ止すと好いんだけれどとよく言うのですの。すると芳子さんはまた小母さんの旧弊が始まったって、笑っているんだもの。いつかなぞも余り男と一緒に歩いたり何かするものだから、角の交番でね、不審にしてね、角袖巡査が家の前に立っていたことがあったと云いますよ。それはそんなことは無いんだから、構いはしませんけどもね……",
"それはいつのことです?",
"昨年の暮でしたかね"
],
[
"もう帰って来ますよ",
"こんなことは幾度もあるんですか",
"いいえ、滅多にありはしませんよ。夏の夜だから、まだ宵の口位に思って歩いているんですよ"
],
[
"芳子さん?",
"ええ"
],
[
"何ですか……お土産? いつもお気の毒ね?",
"いいえ、私も召上るんですもの"
],
[
"先生、私の帰るのを待っていて下さったの?",
"ええ、ええ、一時間半位待ったのよ"
],
[
"昨日の話さ、まだ居るのかね",
"今夜の六時の急行で帰ります",
"それじゃ送って行かなくってはいけないじゃないか",
"いいえ、もう好いんですの"
],
[
"それが好いです。今、余り騒ぐと、人にも親にも誤解されて了って、折角の真面目な希望も遂げられなくなりますから",
"ですから、ね、先生、私は一心になって勉強しようと思いますの。田中もそう申しておりました。それから、先生に是非お目にかかってお礼を申上げなければ済まないと申しておりましたけれど……よく申上げてくれッて……",
"いや……"
],
[
"東京に来て、何をするつもりなんだ?",
"文学を遣りたいと――",
"文学? 文学ッて、何だ。小説を書こうと言うのか",
"え、そうでしょう……",
"馬鹿な!"
],
[
"本当に困って了うんですの",
"貴嬢はそんなことを勧めたんじゃないか"
],
[
"どうして?",
"神戸の信者で、神戸の教会の為めに、田中に学資を出してくれている神津という人があるのですの。その人に、田中が宗教は自分には出来ぬから、将来文学で立とうと思う。どうか東京に出してくれと言って遣ったんですの。すると大層怒って、それならもう構わぬ、勝手にしろと言われて、すっかり支度をしてしまったんですって、本当に困って了いますの",
"馬鹿な!"
],
[
"今来た手紙に、もう手紙をよこしてくれても行違いになるからと言ってよこしたんですから",
"今来た手紙ッて、さっきの端書の又後に来たのか"
],
[
"本当か?",
"え"
],
[
"よう解っております……",
"けれど出来んですか",
"どうも済みませんけど……制服も帽子も売ってしもうたで、今更帰るにも帰れまえんという次第で……",
"それじゃ芳子を国に帰すですか"
],
[
"私の東京に参りましたのは、そういうことには寧ろ関係しない積でおます。別段こちらに居りましても、二人の間にはどうという……",
"それは君はそう言うでしょう。けれど、それでは私は監督は出来ん。恋はいつ惑溺するかも解らん",
"私はそないなことは無いつもりですけどナ",
"誓い得るですか",
"静かに、勉強して行かれさえすれァナ、そないなことありませんけどナ",
"だから困るのです"
],
[
"そして一体、どうして生活しようというのです?",
"少しは準備もして来たんでしょう、一月位は好いでしょうけれど……"
],
[
"実は先生に御縋り申して、誰も知ってるものがないのに出て参りましたのですから、大層失望しましたのですけれど",
"だッて余り突飛だ。一昨日逢ってもそう思ったが、どうもあれでも困るね"
],
[
"今日来てよ",
"誰が",
"二階の……そら芳子さんの好い人"
],
[
"そうか……",
"今日一時頃、御免なさいと玄関に来た人があるですから、私が出て見ると、顔の丸い、絣の羽織を着た、白縞の袴を穿いた書生さんが居るじゃありませんか。また、原稿でも持って来た書生さんかと思ったら、横山さんは此方においでですかと言うじゃありませんか。はて、不思議だと思ったけれど、名を聞きますと、田中……。はア、それでその人だナと思ったんですよ。厭な人ねえ、あんな人を、あんな書生さんを恋人にしないたッて、いくらも好いのがあるでしょうに。芳子さんは余程物好きね。あれじゃとても望みはありませんよ",
"それでどうした?",
"芳子さんは嬉しいんでしょうけど、何だか極りが悪そうでしたよ。私がお茶を持って行って上げると、芳子さんは机の前に坐っている。その前にその人が居て、今まで何か話していたのを急に止して黙ってしまった。私は変だからすぐ下りて来たですがね、……何だか変ね、……今の若い人はよくああいうことが出来てね、私のその頃には男に見られるのすら恥かしくって恥かしくって為方がなかったものですのに……",
"時代が違うからナ",
"いくら時代が違っても、余り新派過ぎると思いましたよ。堕落書生と同じですからね。それゃうわべが似ているだけで、心はそんなことはないでしょうけれど、何だか変ですよ",
"そんなことはどうでも好い。それでどうした?",
"お鶴(下女)が行って上げると言うのに、好いと言って、御自分で出かけて、餅菓子と焼芋を買って来て、御馳走してよ。……お鶴も笑っていましたよ。お湯をさしに上ると、二人でお旨しそうにおさつを食べているところでしたッて……"
],
[
"そしていつ帰った?",
"もう少し以前",
"芳子は居るか",
"いいえ、路が分からないから、一緒に其処まで送って行って来るッて出懸けて行ったんですよ"
],
[
"御飯は?",
"もう食べたくないの、腹が一杯で",
"余りおさつを召上った故でしょう",
"あら、まア、酷い奥さん。いいわ、奥さん"
],
[
"何故も無いわ",
"いいことよ、奥さん"
],
[
"先生、今日田中が参りましてね",
"そうだってね",
"お目にかかってお礼を申上げなければならんのですけれども、又改めて上がりますからッて……よろしく申上げて……",
"そうか"
],
[
"奥で呼んでいますよ",
"でもね、奥さん、私はどうして父に逢われるでしょう"
],
[
"だッて、父様に久し振じゃありませんか。どうせ逢わないわけには行かんのですもの。何アにそんな心配をすることはありませんよ、大丈夫ですよ",
"だッて、奥さん",
"本当に大丈夫ですから、しっかりなさいよ、よくあなたの心を父様にお話しなさいよ。本当に大丈夫ですよ"
],
[
"それは……",
"全速力で進行している中に、凄じい音がしたと思いましたけえ、汽車が夥しく傾斜してだらだらと逆行しましてナ、何事かと思いました。機関が破裂して火夫が二人とか即死した……",
"それは危険でしたナ",
"沼津から機関車を持って来てつけるまで二時間も待ちましたけえ、その間もナ、思いまして……これの為めにこうして東京に来ている途中、もしもの事があったら、芳(と今度は娘の方を見て)お前も兄弟に申訳が無かろうと思ったじゃわ"
],
[
"それは危険でした。それでも別にお怪我もなくって結構でした",
"え、まア"
],
[
"お父様、家では皆な変ることは御座いません?",
"うむ、皆な達者じゃ",
"母さんも……",
"うむ、今度も私が忙しいけえナ、母に来て貰うように言うてじゃったが、矢張、私の方が好いじゃろうと思って……",
"兄さんも御達者?",
"うむ、あれもこの頃は少し落附いている"
],
[
"で、貴方はどうしても不賛成?",
"賛成しようにもしまいにも、まだ問題になりおりませんけえ。今、仮に許して、二人一緒にするに致しても、男が二十二で、同志社の三年生では……",
"それは、そうですが、人物を御覧の上、将来の約束でも……",
"いや、約束などと、そんなことは致しますまい。私は人物を見たわけでありませんけえ、よく知りませんけどナ、女学生の上京の途次を要して途中に泊らせたり、年来の恩ある神戸教会の恩人を一朝にして捨て去ったりするような男ですけえ、とても話にはならぬと思いますじゃ。この間、芳から母へよこした手紙に、その男が苦しんでおるじゃで、どうか御察し下すって、私の学費を少くしても好いから、早稲田に通う位の金を出してくれと書いてありましたげな、何かそういう計画で芳がだまされておるんではないですかな",
"そんなことは無いでしょうと思うですが……",
"どうも怪しいことがあるです。芳子と約束が出来て、すぐ宗教が厭になって文学が好きになったと言うのも可笑しし、その後をすぐ追って出て来て、貴方などの御説諭も聞かずに、衣食に苦しんでまでもこの東京に居るなども意味がありそうですわい",
"それは恋の惑溺であるかも知れませんから善意に解釈することも出来ますが",
"それにしても許可するのせぬのとは問題になりませんけえ、結婚の約束は大きなことでして……。それにはその者の身分も調べて、此方の身分との釣合も考えなければなりませんし、血統を調べなければなりません。それに人物が第一です。貴方の御覧になるところでは、秀才だとか仰しゃってですが……",
"いや、そう言うわけでも無かったです",
"一体、人物はどういう……",
"それは却って母さんなどが御存じだと言うことですが",
"何アに、須磨の日曜学校で一二度会ったことがある位、妻もよく知らんそうですけえ。何でも神戸では多少秀才とか何とか言われた男で、芳は女学院に居る頃から知っておるのでしょうがナ。説教や祈祷などを遣らせると、大人も及ばぬような巧いことを遣りおったそうですけえ"
],
[
"それにしても、結局はどうしましょう? 芳子さんを伴れてお帰りになりますか",
"されば……なるたけは連れて帰りたくないと思いますがナ。村に娘を伴れて突然帰ると、どうも際立って面白くありません。私も妻も種々村の慈善事業や名誉職などを遣っておりますけえ、今度のことなどがぱっとしますと、非常に困る場合もあるです……。で、私は、貴方の仰しゃる通り、出来得べくば、男を元の京都に帰して、此処一二年、娘は猶お世話になりたいと存じておりますじゃが……",
"それが好いですな"
],
[
"どうです、返事を為給え",
"私などはどうなっても好うおます。田舎に埋れても構わんどす!"
],
[
"それではいかん。そう反抗的に言ったって為方がない。腹の底を打明けて、互に不満足のないようにしようとする為めのこの会合です。君は達って、田舎に帰るのが厭だとならば、芳子を国に帰すばかりです",
"二人一緒に東京に居ることは出来んですか?",
"それは出来ん。監督上出来ん。二人の将来の為めにも出来ん",
"それでは田舎に埋れてもようおます!"
],
[
"それにしても、君はどうして京都に帰れんのです。神戸の恩人に一伍一什を話して、今までの不心得を謝して、同志社に戻ったら好いじゃありませんか。芳子さんが文学志願だから、君も文学家にならんければならんというようなことはない。宗教家として、神学者として、牧師として大に立ったなら好いでしょう",
"宗教家にはもうとてもようなりまへん。人に対って教を説くような豪い人間ではないでおますで。……それに、残念ですのは、三月の間苦労しまして、実は漸くある親友の世話で、衣食の道が開けましたで、……田舎に埋れるには忍びまへんで"
],
[
"どうも形式的で、甚だ要領を得んです。もう少し打明けて、ざっくばらんに話してくれると好いですけれど……",
"どうも中国の人間はそうは行かんですけえ、人物が小さくって、小細工で、すぐ人の股を潜ろうとするですわい。関東から東北の人はまるで違うですがナア。悪いのは悪い、好いのは好いと、真情を吐露して了うけえ、好いですけどもナ。どうもいかん。小細工で、小理窟で、めそめそ泣きおった……",
"どうもそういうところがありますナ",
"見ていさっしゃい、明日きっと快諾しゃあせんけえ、何のかのと理窟をつけて、帰るまいとするけえ"
],
[
"そうですな。関係があると思わんけりゃなりますまい",
"今の際、確めておく必要があると思うですが、芳子さんに、嵯峨行の弁解をさせましょうか。今度の恋は嵯峨行の後に始めて感じたことだと言うてましたから、その証拠になる手紙があるでしょうから",
"まア、其処までせんでも……"
],
[
"焼いた?",
"ええ"
],
[
"御帰国になるんでしょうか",
"え、どうせ、帰るんでしょう",
"芳さんも一緒に",
"それはそうでしょう",
"何時ですか、お話下されますまいか",
"どうも今の場合、お話することは出来ませんナ",
"それでは一寸でも……芳さんに逢わせて頂く訳には参りますまいか",
"それは駄目でしょう",
"では、お父様は何方へお泊りですか、一寸番地をうかがいたいですが",
"それも僕には教えて好いか悪いか解らんですから"
],
[
"折角支度したから、食ったらどうです。もう暫くは一緒に飯も食べられんから",
"先生――"
],
[
"奥さん、左様なら……私、またきっと来てよ、きっと来てよ、来ないでおきはしないわ",
"本当にね、又出ていらっしゃいよ。一年位したら、きっとね"
]
] | 底本:「蒲団・重右衛門の最後」新潮文庫、新潮社
1952(昭和27)年3月15日発行
1997(平成9)年5月25日72刷
初出:「新小説」春陽堂書店
1909(明治40)年9月号
入力:細渕真弓
校正:細渕紀子
2003年1月8日作成
2022年10月31日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "001669",
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"初出": "「新小説」春陽堂書店、1909(明治40)年9月号",
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"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名ローマ字": "Katai",
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} |
[
[
"大丈夫とも、丸で鏡のやうぢやないか? 何でもありやしないよ",
"急に荒れて来るやうなことはありやしない?",
"保証するよ"
],
[
"どうしたの",
"だつて、怖いんですもの"
],
[
"大丈夫ね?",
"心配はないよ"
],
[
"何でも二三千年前の住民の横穴だの、その時分に書いた絵見たいなものだのがあるんださうだ――",
"そんなもの見てどうするの?",
"別に、どうするつていふこともないけどもね。さういふものを見に行くのも面白いぢやないか?",
"さう",
"三千年前に住んでゐた人間の住宅を見るのは面白いぢやないか?",
"さう――?",
"何でも五六年前に発見されたんで、今では県で保護してゐるさうだ。非常にめづらしいものださうだ"
],
[
"さうしたら好いでせうね?",
"本当だね?"
],
[
"イヤ",
"奥さんにはことにさうでしたらう"
],
[
"いゝえ",
"何しろかういふところですからな――",
"でも、かういふところにお住ひになつたら何も面倒がなくつておよろしいでせうね?"
],
[
"それはさうでせうけども――",
"何しろ、さつき貴方がお出になつた時だツて大変なんですもの――。めづらしくモウタアの音がする。また県庁の役人でも来たかなと思つてゐると、どうもさうでない。別品さんが乗つてゐるといふので、大騒ぎなんですもの――何しろ、東京から来て下さる方なんかはいくらでも歓迎して好いんですけども、何も御馳走するものもありませんでね?",
"いゝえ、もう、その御好意だけで十分です"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日
初出:「サンデー毎日 第四巻第四十三号」
1925(大正14)年10月1日
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "048986",
"作品名": "モウタアの輪",
"作品名読み": "モウタアのわ",
"ソート用読み": "もうたあのわ",
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"原題": "",
"初出": "「サンデー毎日 第四巻第四十三号」1925(大正14)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2021-01-22T00:00:00",
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"姓ローマ字": "Tayama",
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[
[
"天気になりさうね。",
"なるかも知れないよ。"
],
[
"今のは津民ですか?",
"さうです……"
]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2004年11月24日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "004987",
"作品名": "耶馬渓の一夜",
"作品名読み": "やばけいのいちや",
"ソート用読み": "やはけいのいちや",
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"分類番号": "NDC 915",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"公開日": "2004-12-19T00:00:00",
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"姓": "田山",
"名": "花袋",
"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本紀行文学全集 南日本編",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日",
"入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月1日初版",
"校正に使用した版1": "1983(昭和58)年12月1日第4刷",
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"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "林幸雄",
"校正者": "鈴木厚司",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/files/4987_ruby_16966.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2004-11-24T00:00:00",
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} |
[
[
"何処でせう? あの花火を揚げてゐるのは?",
"さア……何でも裏の方だね?",
"賑やかね?"
],
[
"別に変つたことはないんだらう?",
"でも、いろんなものが出来てゝよ。舞台なんかも出来てゐてよ",
"そんなものが出来たのかえ?",
"何でも、あそこで、この町の芸者達が常盤津か清元をやるらしいのよ。いろんなものを運んでゐますよ",
"ほう"
],
[
"ほ! 成ほど、すつかり舞台が出来てるんだね?",
"ね、さうでせう。中々大がゝりでせう。ホラ、あの自動車がいろいろなものを運んで来た"
],
[
"見物席をつくるんだね?",
"さうね",
"今夜やるんだらうね?",
"さうらしいわね"
],
[
"大変なお祭だね?",
"え――"
],
[
"今夜やるのかね?",
"さやうで御座いませう",
"行つて見るかな?",
"何でも、今夜は賑やかなさうで御座いますよ。K町からも芸者衆がまゐるさうですから――",
"あそこに立つてゐるのは、此処の芸者かね?"
],
[
"さやうで御座います。あの此方に立つてゐるのが、こゝで一番評判の君奴といふのです――",
"…………"
],
[
"何処?",
"そら、あそこ? 山の裾のところから此方へ来たところに、そら、芝にそつてゐるところがあるでせう? あの此方?",
"あゝわかつた――"
],
[
"何うしたの?",
"…………"
],
[
"三番のお客はまだ寝てゐた?",
"えゝ",
"お前さん入つて行つても知らずにゐた?",
"え",
"よく寝るお客ねえ? 二人とも丸で死んだやうになつて寝てゐるぢやないの? もうお前さん、四時だよ。余程疲れたのね?"
],
[
"だつて、さうぢやない? あんなによくねてゐるのはめづらしいもの……。私が入つて行つたつて目なんか覚ましやしないんだもの……あゝ暑い",
"そんなことを考へるからだよ",
"ひる間、あゝして寝てゐて、夜になると、よつぴて起きてゐるんだからね。昨夜だつて、あそこからよつぴて話声がきこえてゐたといふぢやないか?"
],
[
"さうかしら?",
"たしかにさうよ……。さうかと言つて芸者にしちや地道すぎるし、きつと、何かわけがあるのよ",
"さうかしら",
"あゝいふのは、気をつけないといけないのよ",
"さうかしら――"
],
[
"もう、そんなことは言はない方が好い。考へない方が好い",
"…………"
],
[
"こんな設備は、他の温泉にはちよつとないな",
"本当ですな――",
"何でも、この湯はこれがあるんで、急に人気が出て来たといふことですな",
"さうでせう。これで、この設備をするには、中々金がかゝつたと言ひますからな――",
"それで、このラジユムはきゝますやろか?"
],
[
"中々手間が取るね?",
"何しろ、今日は大入だからね。三組もあるんだもの――"
]
] | 底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
1925(大正14)年11月10日
初出:「苦楽 第二巻第四号」プラトン社
1924(大正13)年10月1日
※初出時の表題は「浴室《ゆどの》」です。
入力:tatsuki
校正:hitsuji
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "048963",
"作品名": "浴室",
"作品名読み": "ゆどの",
"ソート用読み": "ゆとの",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「苦楽 第二巻第四号」プラトン社、1925(大正14)年10月1日",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-05-13T00:00:00",
"最終更新日": "2021-04-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card48963.html",
"人物ID": "000214",
"姓": "田山",
"名": "花袋",
"姓読み": "たやま",
"名読み": "かたい",
"姓読みソート用": "たやま",
"名読みソート用": "かたい",
"姓ローマ字": "Tayama",
"名ローマ字": "Katai",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1872-01-22",
"没年月日": "1930-05-13",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "定本 花袋全集 第二十一巻",
"底本出版社名1": "臨川書店",
"底本初版発行年1": "1995(平成7)年1月10日",
"入力に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日",
"校正に使用した版1": "1995(平成7)年1月10日",
"底本の親本名1": "アカシヤ",
"底本の親本出版社名1": "聚芳閣",
"底本の親本初版発行年1": "1925(大正14)年11月10日",
"底本名2": "",
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"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
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} |
[
[
"どうしたい。お前の方の大将は。",
"しっかり走れ。しっかり走れ。"
],
[
"しっかり走れ。しっかり走れ。",
"いや、やめさせてしまえ。"
]
] | 底本:「小學生全集第十八卷 外國文藝童話集(下)」興文社、文藝春秋社
1929(昭和4)年4月20日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「此の→この 大分→だいぶ 沢山→たくさん 丁度→ちょうど 何故→なぜ (て)参→まい 間もなく→まもなく (て)見→み 勿論→もちろん」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
※表題は底本では、「兎《うさぎ》と亀《かめ》」となっています。
入力:大久保ゆう
校正:The Creative CAT
2021年6月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059435",
"作品名": "兎と亀",
"作品名読み": "うさぎとかめ",
"ソート用読み": "うさきとかめ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "The True History of the Hare and the Tortoise",
"初出": "",
"分類番号": "NDC K933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-07-24T00:00:00",
"最終更新日": "2021-06-28T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001722/card59435.html",
"人物ID": "001722",
"姓": "ダンセイニ",
"名": "ロード",
"姓読み": "ダンセイニ",
"名読み": "ロード",
"姓読みソート用": "たんせいに",
"名読みソート用": "ろおと",
"姓ローマ字": "Dunsany",
"名ローマ字": "Lord",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1878-07-24",
"没年月日": "1957-10-25",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "小學生全集第十八卷 外國文藝童話集(下)",
"底本出版社名1": "興文社、文藝春秋社",
"底本初版発行年1": "1929(昭和4)年4月20日",
"入力に使用した版1": "1929(昭和4)年4月20日",
"校正に使用した版1": "1929(昭和4)年4月20日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "大久保ゆう",
"校正者": "The Creative CAT",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001722/files/59435_ruby_73660.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-06-28T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001722/files/59435_73699.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-06-28T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"いいえ、音楽学校へはまだこれからはいるところですの。只今のところはここのマダム・ザヴローフスカヤに習っておりますの",
"あなたはここの女学校をお出になったのですか?"
],
[
"*ピーセムスキイを読んでいましたわ",
"と仰しゃると何を?"
],
[
"あなた墓地へいらしったの?",
"ええ、行きましたとも、おまけに二時ちかくまでも待っていました。えらい目に逢いましたよ……",
"たんとそんな目にお逢いなさるがいいわ、冗談の分からないような方は"
]
] | 底本:「可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇」岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年10月5日第1刷発行
2004(平成16)年9月16日改版第1刷発行
※底本では「訳注」に底本の頁数が書かれています。
入力:佐野良二
校正:阿部哲也
2007年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043647",
"作品名": "イオーヌィチ",
"作品名読み": "イオーヌィチ",
"ソート用読み": "いおおぬいち",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "JONYCH",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-01-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card43647.html",
"人物ID": "001155",
"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "可愛い女・犬を連れた奥さん",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "1940(昭和15)年10月11日",
"入力に使用した版1": "2004(平成16)年9月16日改版第1刷",
"校正に使用した版1": "2004(平成16)年9月16日改版第1刷",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "佐野良二",
"校正者": "阿部哲也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/43647_ruby_29260.zip",
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} |
[
[
"五日ほどですの",
"私はまもなく二週間というところまで、どうにかこうにか漕ぎつけましたよ"
],
[
"まるで言いわけでもしているみたいだなあ",
"なんでわたしに言いわけなんぞができましょう? 私はわるい卑しい女ですもの。自分を蔑みこそすれ、言いわけしようなんて考えても見ませんわ。わたしは良人をだましたのじゃなくって、この自分をだましたのです。それも今に始まったことじゃなくって、もうずっと前からのことなんです。わたしの良人は、そりゃ正直でいい人間かも知れません。けれど、あの人と来たらまったくの従僕なんですの! わたくし、あの人がお役所でどんな仕事をしているか、どんな勤めぶりをしているかは存じません。ただあの人が従僕根性なことだけは知っていますわ。わたしがあの人のところへ嫁いだのは二十の年でした。わたしは好奇心でもって苦しいほどいっぱいで、何かましなことがしたくてなりませんでした。だって御覧、もっと別の生活があるじゃないか――って、わたしは自分に言い言いしました。面白可笑しい暮しがしたかったの! 生きて生きて生き抜きたかったの……。わたしは好奇心で胸が燃えるようでしたの……こんな気持はあなたには分かっていただけますまいけれど、本当に私はもう自分で自分の治まりがつかなくなって、頭がどうかしてしまって、なんとしても抑えようがなくなってしまったの。そこで良人には病気だと言って、ここへやって参りましたの。……ここへ来ても、まるで酔いどれみたいに、気違いみたいに、ふらふら歩きまわってばかりいて……挙句の果てにはこの通り、誰に蔑まれても文句のない、下等なやくざ女に成りさがってしまったの"
],
[
"ドミートリイ・ドミートリチ!",
"ええ?",
"いや先刻あんたの言われたのは本当でしたな。いかにもあの鱘魚は臭みがありましたわい!"
]
] | 底本:「可愛い女・犬を連れた奥さん 他一篇」岩波文庫、岩波書店
1940(昭和15)年10月5日第1刷発行
2004(平成16)年9月16日改版第1刷発行
※底本では「訳注」に底本の頁数が書かれています。
入力:佐野良二
校正:阿部哲也
2007年12月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043644",
"作品名": "犬を連れた奥さん",
"作品名読み": "いぬをつれたおくさん",
"ソート用読み": "いぬをつれたおくさん",
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"原題": "DAMA S SOBACHKOI",
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"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2008-01-04T00:00:00",
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"名": "アントン",
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"姓読みソート用": "ちええほふ",
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[
[
"船が魚とぶつかると思えば、風が鎖から抜け出す。……鎖から抜け出すって、一体風は獣かってことよ。",
"正教徒はそんなふうに言うんですよ。",
"じゃ正教徒ってのは、お前も同然物を知らねえ。……勝手な熱ばかり吹きやがって、胸にこう手を当てて、考えてから言わなくちゃいけないねえ。お前さんはわからず屋だよ。"
],
[
"だんだんわかって来たぞ。……ふむ。……もうすっかりわかったぞ。",
"なんのことですかね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。",
"つまりだ。……どうも腑に落ちなかったんだよ。君らのような重病人が、安静にしているどころか、こんなむんむんして、焼け焦げるようで、揺れ通しで――つまり一口に言うと、お墓のすぐ手前みたいな船の中にいるのがさ。だが今じゃもうすっかりわかったぞ。……ふむ。……軍医が君らを船に乗せたのは、厄介払いがしたかったのさ。君たちみたいな、犬畜生の世話を焼くのが、もう真平になったのさ……金は一文だって払わないし、煩さい文句は並べるし、それで死なれりゃ矢張り成績にかかわるし、だからつまり犬畜生だな。ところで厄介払いをするとなりゃ造作はない。……まず良心と博愛心に眼を瞑らせておいて、それから船の役人を騙しさえすりゃいい。もっともこの第一のほうは問題じゃない。何しろその道にかけちゃ、俺たちはみんな達人だからな。第二のほうだってちょっと骨を覚えりゃなんでもない。四百人もの丈夫な兵隊や水兵のなかに、五人やそこら病人がいたって目につくものかね。で君らを船へ追い上げる。丈夫な奴の中へ混ぜちまう。大急ぎで点呼をする。どさくさ紛れになんの異状も気づかない。ところが、いざ船を出して見ると、中風だの肺病の三期だのが、甲板にごろごろしている……。"
],
[
"なあに辛い事なんかありませんや、パーヴェル・イヴァーヌィチ。朝起きると長靴を磨く、サモヷルの支度をする、部屋の掃除をする、それだけ済ませりゃ、もうなんの用事もありゃしません。中尉さんは、一日じゅう図面を引いてござる。こっちはお祈りを上げようと、本を読もうと、町へ出ようと、好きに出来まさ。全く、誰もかもこうして暮せたらと思いますね。",
"ふむ、そりゃいい。中尉は図面を引く。君は一日じゅう台所に坐って、くよくよ故里のことを考える。……なるほど図面か。……いや図面どころじゃない。人間の生活のことだ。人生二度とは生れて来られない。大事につかわなくちゃならん。",
"そりゃ勿論、パーヴェル・イヴァーヌィチ、悪い人間はわが家にいたって兵隊に出たって、どこだって大事にされやしません。だがきちんとした生活をして、よく人の言いつけを守りさえすりゃ、誰が酷い目に逢わせるものかね。士官さん達は教育のある、物のわかった人間だもの。……五年が間、営倉へぶち込まれたことなんぞ一度だってないさ。殴られたことも、忘れもしねえが、たった一度きりでさ……。",
"なんで殴られたのだ。",
"喧嘩をしたんでさ。どうもこの拳固が苦労の種なんでね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。シナ人の苦力が四人、家の中庭へはいって来たんです。薪を運んで来たんだったかどうだったか、覚えちゃいませんがね。とにかく退屈だったんで、ちょいとこの拳骨を使って見たんでさ。一人なんざ鼻血まで出しやがってね、始末の悪い奴でさ。……それを中尉さんが窓から見て、怒っちまって、耳ん所へがんと来ました。"
],
[
"グーセフ、俺が奴らに一杯喰わせてやったのを知ってるかい?",
"奴らって誰ですかね、パーヴェル・イヴァーヌィチ。",
"つまりその、あいつらさ。……この船には一等と三等しかないんだ。しかもその三等へは、農民――つまり下層民しきゃ乗せないんだ。背広でも着込んで、遠目だけでも紳士かブルジョアに見える奴にゃ、どうぞ一等へと来るんだ。血の出る思いをしようがしまいが、五百ルーブリ積んで出さなくちゃならない。なぜそんな規則になってるんですと訊きたくなる。つまりそりゃ、ロシヤ知識階級の威信を高めてやろうとの思召しですかね?『いや決して。ただ品格ある人士には、三等ではとても我慢がなされないから、お通ししないまでです、どうも大変に不潔で乱雑ですから。』なるほど、品格ある人間のことをそれまでに御配慮下さるとは有難いことです。だがたとい不潔だろうが不潔でなかろうが、とにかく私には五百ルーブリなんかありません。私はお上の金を掠めたこともなく、土民を搾ったこともなく、密輸入をやったこともなく、人間をぶん殴って半殺しにした覚えもありません。だから御判断下さい――私は一体一等に乗る権利があるでしょうか? いやそれどころか、ロシヤのインテリと自認する権利がありましょうか? だが奴らの前じゃ理窟なんか通るものか。……こうなったら騙しちまうほかはない。おれは百姓外套を着て、だぶだぶな長靴をはいて、酔っぱらいの下種面をして船会社へ行った。――『閣下さあ』とそう言ったんだ、『切符をひとつお貰いしてえで。』……"
],
[
"そりゃ好かった。パーヴェル・イヴァーヌィチ。",
"自分のことに引き較べて、つくづく君らが可哀そうになるよ。……なあ、可哀そうに。おれの肺はしっかりしてるんだ。この咳は胃から来るんでね。……おれは地獄だって堪え通せる。まして紅海なんかなんでもない。そのうえおれは、自分の病気にも奴らのくれる薬にも、批判的な態度を取ってるんだ。だが君らは……君ら暗愚な人間は……。辛いだろうよ。さぞ、辛いことだろうよ。"
],
[
"グーセフ、お前の司令官は泥棒をしたかね。",
"そんなこと誰が知るもんですか、パーヴェル・イヴァーヌィチ。知りませんよ。あっしらの耳にゃとどかねえもの。"
],
[
"誰のことだね?",
"パーヴェル・イヴァーヌィチよ。",
"往けるだろうさ。……長い苦しみだったからな。それに何しろ坊主だからな。坊さんというものは身内が多い。それがみんなで祈ってくれる。"
],
[
"うん、そういう規則だ。",
"だが郷里の土の中のほうがいいなあ。とにかくお袋がお詣りに来て、泣いてくれる。",
"知れたことよ。"
],
[
"知らねえ。きっと大洋だろうよ。",
"陸地が見えない……",
"そりゃそうよ。何しろ七日しなきゃ見えないって話だ。"
],
[
"死ぬのが厭かい?",
"厭だとも。家の奴らが可哀そうなんだ。なあ、家の兄貴はやくざ者だ。大酒は喰うし、女房はやたらに叩くし、親を敬わねえ。俺がいなけりゃ何もかもわやだ。きっと親父やお袋が乞食をするようにならあ。だが兄弟、俺の脚はもう立っちゃいられねえ。それに、ここだって蒸暑いや。……降りて寝よう。"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 8」中央公論社
1960(昭和35)年2月15日初版発行
1980(昭和55)年6月20日再訂再版発行
※「寝」と「寐」の混在は、底本通りです。
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年9月6日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051424",
"作品名": "グーセフ",
"作品名読み": "グーセフ",
"ソート用読み": "くうせふ",
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"原題": "ГУСЕВ",
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"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
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"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
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"底本名1": "チェーホフ全集 8",
"底本出版社名1": "中央公論社",
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[
[
"これはお幾らですな?",
"二十五コペイカでございます。"
],
[
"あの年寄りの婦人にお辞儀をしてくれ。",
"だって私、あの方存じませんわ。"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 10」中央公論社
1960(昭和35)年4月15日初版発行
1980(昭和55)年9月20日再訂再版発行
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年12月5日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052177",
"作品名": "頸の上のアンナ",
"作品名読み": "くびのうえのアンナ",
"ソート用読み": "くひのうえのあんな",
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"副題読み": "",
"原題": "АННА НА ШЕЕ",
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"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-01-26T00:00:00",
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"人物ID": "001155",
"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "チェーホフ全集 10",
"底本出版社名1": "中央公論社",
"底本初版発行年1": "1960(昭和35)年4月15日初版発行、1980(昭和55)年9月20日再訂再版",
"入力に使用した版1": "1980(昭和55)年9月20日再訂再版",
"校正に使用した版1": "1980(昭和55)年9月20日再訂再版",
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"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "米田",
"校正者": "阿部哲也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/52177_ruby_41275.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
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"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"至極簡単だね。さあ、どこへなりと出ておいで。――それだけの話だよ。",
"言うは易しさ。だがその女に出て行きどころがなかったらどうする。その女に身寄りも、金も、働く腕もないとしたら……。",
"なあに、そんなら五百ルーブリで綺麗さっぱりと行くか、さもなきゃ月二十五ルーブリの仕送りで行くか、それで文句なしさ。簡単至極だ。",
"よし、じゃその五百ルーブリがあるとする。乃至は月々二十五ルーブリ仕送れるとする。だがその女が教育のある気位の高い女だった場合、君はよもや金を突きつけるような真似はできまい。やるとしても、どういう具合にやるかね。"
],
[
"脳軟化症というのはどんな病気かね。",
"それは、さあ何と言ったらいいかな――つまり脳が軟くなる病気さ。……まあ溶け出すんだね。",
"癒るかね。",
"癒る、手遅れでさえなければ。冷灌水浴、発泡膏。……それから何か内服薬と。",
"ふむ。……これでもう僕の現状がわかってくれたろうね。僕はとてもあの女といっしょにはやって行けない。それは僕の力にあまる。こうして君と話しているうちは、僕もこのとおり哲学を並べて笑ってもいられるが、家へ帰ったら最後もう駄目だ。厭で厭でたまらないんだ。仮りに、どうしてももう一と月あの女と一緒にいろと言う人があったら、僕はいっそこの額へ一発やってしまうね。それでいて、あの女と別れるわけにも行かない。身寄りのない女だし、働く腕もないし、金と来たら僕にも彼女にも一文だってない。……一体あれにどこへ行けというのだ、誰にたよれというんだ。考えたって出てくるものか。……ええ、君、一体どうすればいいんだい。"
],
[
"ヷーニャ、本当に君は今日はどうかしている。――睡眠不足なんだろう。",
"いかにも睡眠不足だ。……それどころか、からだ具合が全体に悪い。頭の中はがらん洞だ。圧さえつけられるような感じで、どうも気力がない。……このぶんじゃ逃げ出さなきゃなるまい。",
"どこへかね。",
"あっちへだ、北へだ。松林のあるところ、蕈の生えるところ、人間の住むところ、思想のあるところへさ。……ああ今、どこかモスクヷ県かトゥーラ県かで、小川でぼちゃぼちゃやる、冷たくって顫えあがるね、それから一番びりっこの学生でもなんでもいい、そいつを相手に三時間ほど歩き廻わる、喋る、大いに喋りまくる――それが出来たら、命の半分ぐらいは投げ出しても惜しくはないね。……ああ、乾草の匂い。憶えてるかい? それから夕暮庭を歩いていると、庭の中から漏れてくるピアノの音。遠くで汽車の通る音がする。……"
],
[
"なぜだ。",
"あの立派な婦人に対する君の義務を果たすのさ。あの人の夫は死んだ。つまりこれで、摂理の指し示すところがわかるはずだ。",
"妙な奴だな。それができんと言ってるじゃないか。愛のない結婚をするのは、信仰なくして礼拝するのと同じく、人間として恥ずべき卑劣な行為だ。",
"でも君には義務がある!"
],
[
"君はあの人を夫の手から奪ったじゃないか。それは責任を引受けたということだ。",
"だから僕は愛していないと、ロシヤ語ではっきり言っているのが聞こえないのか。",
"よし、愛せないなら尊敬したまえ、崇めたまえ。……"
],
[
"患者が来ておるか。",
"参っておりません、閣下。",
"なに。",
"参っておりません、閣下。",
"よし、行け。……"
],
[
"どうしてさ? お前が行こうと行くまいと、まさかそのため地震が起こりゃしまいし。……",
"だって私、先生にまた叱られるといけないと思って。",
"じゃ先生に訊いたらいいさ。僕は医者じゃない。"
],
[
"ええ。今日はお出になりますか。",
"さあね。……少し加減が悪いんでね。シェシコーフスキイに、食後にお寄りするって言っといてくれ給え。"
],
[
"毎にち毎にち同じだね。なぜ野菜スープをしないの。",
"キャベツがないんですもの。",
"ふむ、妙だね。サモイレンコのところでもキャベツ・スープをしている。マリヤ・コンスタンチーノヴナのところでも野菜スープが出る。この甘ったるいどろどろした奴を食わされるのは、なぜか知らんがこの僕一人だ、こんなこっちゃ駄目だね、奥さん。"
],
[
"今日はいい方ですの。ただちょっと元気がないだけ。",
"大事にするんだね、奥さん。僕は心配でならないんだ。"
],
[
"波止場で沙魚を釣っていました。",
"まず、そんなとこでしょう。……お見受けするところ、あなたはいっこうお仕事をなさらんようですが。"
],
[
"隣人のことをそんな風に言うのは、君にとって名誉じゃないぞ。いったい何がそう憎らしいんだね。",
"つまらんことを言い給うな。ドクトル。細菌を憎んだって仕方がない。細菌を軽蔑したってはじまらん。いわんや、出会した奴ならどこの馬の骨でも一切合財隣人と看做すにいたっては、ありがたい仕合わせながら、思慮がなさすぎるというものだ。人に対する態度に公正を欠くというものだ。一と口に言えば、僕は御免をこうむる。僕は君のラエーフスキイ氏を、人でなしだと思っている。この考えを敢て匿さず、正々堂々と彼を人でなし扱いにしている。ところが君は彼を隣人と看做す。よし御随意にキスなり何なりとし給え。君が隣人と看做すということは、とりも直さず彼を僕乃至この補祭君並みに扱うということだ。すなわち何扱いにもしないということだ。つまり君は誰に対しても一様に無関心なのだ。"
],
[
"というと?",
"無害な人間にするのさ。もう矯正の見込みはない人間だから、無害にしちまう方法はただ一つ……"
],
[
"いや、暑いからやめです。",
"僕の家へ来給えよ。そして小包をこしらえるなり、清書をするなりして見ないか。ついでに君の仕事のこともいっしょに考えて見よう。補祭君、働かなくちゃいかんよ。そんなことじゃ駄目だ。"
],
[
"それはあなた、そういう質でらっしゃるからですわ。肥らない質の人間ですと、まああたくしみたように、なにを頂いてもいっこう利目がありませんのよ。あらあなた、お帽子がぐしょ濡れよ。",
"かまいませんわ。すぐ乾きましてよ。"
],
[
"なぜ駄目さ。",
"僕は足手まといのある人間ですよ。",
"なあに妻君は出してくれるさ。妻君の生活は僕らが保障しようじゃないか。君が妻君を説きつけて、公益のため尼さんにならせることが出来たら一番いいな。そうなりゃ君も出家できるし、修道僧になって探険に出掛けられるわけだ。その気なら僕も一つ骨を折るぜ。"
],
[
"あんまり明るくもないんです。",
"ふむ。……僕も神学の方は一向御無沙汰だから、それにかけちゃ何の助言も出来ないがね。じゃ君の要る本の目録を作ってくれないか。この冬ペテルブルグから送ってあげよう。行脚僧の旅行記なんかも一通り眼を通す必要があるね。ああいう連中の中には、立派な人種誌学者や東洋語の大家がいるからね。で、彼らの遣り口に親しむと、ずっと仕事がやりよくなる。そこでと、差当っては本がないからといって時間を無駄にしちゃいけない。僕のところへ来て、コンパスの使い方を覚えたり、一通り気象学をやって置くんだね。これはみんな必要なことだ。"
],
[
"誰か? どこの何奴か?",
"僕だよ、アレクサンドル・ダヴィードィチ。遅くなってすまない。"
],
[
"まあ待て。……一体そりゃ何の話なんだ?",
"蝋燭をつけてくれないか。"
],
[
"うん。君のおかげで安心したよ、アレクサンドル・ダヴィードィチ。ありがとう……生き返ったような気持だよ。",
"酸っぱいだろう?",
"そんなこと、僕にわかるもんか。とにかく君はじつに素晴らしい、得がたい人物だ。"
],
[
"僕にはフォン・コーレンという人間がよくわかる。あれは鞏固で強烈な専制的な性格の持主だ。君も聞いたろうが、あの男はしょっちゅう探険旅行の話をしている。あれは決して空言じゃないんだ。彼には沙漠が、月夜が要るのだ。あたりを見廻すと、天幕の中にも野天のもとにも、強行軍に疲れ果て、或いは飢え或いは病んだコサックや案内者や、人夫や医者や僧侶が眠りこけている。そのなかで眼を醒ましているのは彼一人だ。まるでスタンレイのように折畳椅子に腰掛けて、おれは沙漠の王者だ、こいつ達の主人だと感じる、彼はそういう人間だ、彼は行く、彼は行く、どこかを指して行く。部下は呻き、ばたばたと仆れるが、彼はやはり進んで行く。やがては彼も遂に仆れる。だが仆れてのちもなお彼は沙漠の暴君、沙漠の王者なのだ。なぜといって、彼の墳墓の十字架は三四十マイルさきからも隊商の眼にうつり、沙漠に君臨しているからだ。彼が軍籍に身を置かなかったことを僕は切に惜しむ。彼はきっと卓越した天才的な司令官になったに相違ないと思う。その率いる騎兵隊を河中に溺らせて、屍の橋を架け得た人に相違ない。実戦に必要なのは、築城術や戦術よりはむしろかかる剛勇なのだ。そうさ、僕はじつによくあの人間がわかるんだ。ねえ君、一体なんだって彼はこんな所でぶらぶらしてるんだろう。ここに何の用があるんだろう。",
"海洋の動物を研究しているんだよ。"
],
[
"何だい。",
"お願いだ、泊めてくれ給えな。",
"ああいいとも。……なんで悪い?"
],
[
"どうぞ、どうぞおっしゃって。",
"あたくしを信じて下さいましね。この土地の女のなかで、あなたとお附き合いをしたのはこのあたくしだけということは、思い出して下さいますわね。じつを申すと、お初にお目に掛かった日から、これは困った方だと思いましたけど、皆さんのようにあなたを白眼で見ることがあたくしには出来ませんでしたの。あの大好きなイヷン・アンドレーイチがまるでわが息子のように思われて、お気の毒でなりませんでしたの。まだ世の中を御存じない繊弱な若い方が、お母様とも別れて他国に来てらっしゃる――それを思ってあたくし随分苦しみましたの。……主人はあの方とお附き合いしてはならんと申しましたのですけれど、あたくし無理に頼み込んでとうとう説き伏せましたのよ。で、イヷン・アンドレーイチを宅にお迎えすることになりましたが、そりゃ無論あなたも御一緒にでしたわ。さもないとあの方気を悪くなさいますものね。あたくしには息子も娘もございましょう。……子供の柔らかな無垢な心、それは御存じでいらっしゃいますわね。……万一あの小さいのの一人でも汚れに染みでもしたらと、あたくしあなた方お二人をお迎えはしたものの、子供のことでびくびくしてばかりおりましたのよ。あなたもお母さんにおなりになれば、このあたくしの苦労がおわかりですわ。あたくしがあなたを、お気を悪くなさらないでね、淑女扱いに致すと言って、みなさん呆れておしまいになって、当てこすりをおっしゃるのですのよ。蔭口だの邪推だのは無論のことですわ。……あたくし心の底ではあなたを責めておりました。ですけど、あなたが不仕合わせでみじめで向う見ずな方なので、あたくしお気の毒で、一人でくよくよしておりましたの。"
],
[
"どうしてですの?",
"出来ないの。ああ、そのわけをあなたが御存じでしたらねえ。"
],
[
"どこへいらっしゃるの?",
"ロシヤへ行きますわ。",
"でもどうしてお暮らしになるおつもり? だって何にもおありにならないじゃないの。",
"翻訳をしますわ。さもなきゃ……さもなけりゃ小さな図書館でもやりますわ。……",
"そんな夢のようなことを、あなた。小さな図書館だってお金が要りましてよ。でもあたくしもうお暇しますわ。どうぞね気を落ち着けて、よく考えて見て頂戴。明日になったら晴れ晴れしたお顔で宅へいらして下さいましね。素敵ですわよ、きっと。じゃさようなら、天使さん。さ、接吻させて頂戴。"
],
[
"じゃ土曜日には大丈夫だね? そうだね?",
"とにかくやって見るよ。",
"頼むよ、君。金曜の午前中には僕の手にはいるようにね。"
],
[
"うん、僕もそう思うね。",
"この虫には敵を防ぐ毒があるのかね?",
"あるさ。それで防いだり、相手を攻めたりする。"
],
[
"そんなら、あの塀の上に寝ている飢えたトルコ人を助けてやり給え。あれは労働者で、君のラエーフスキイよりも有用かつ有益な人間だ。あの男にこの百ルーブリをやり給え。それとも僕の探険旅行に百ルーブリ寄附するんだな。",
"貸すのか貸さんのか、それを訊いているのだ。",
"じゃぶちまけて言ってしまい給え。あの男はなんでその金が要るのかね。",
"そりゃ秘密でも何でもない。土曜日にペテルブルグへ発つんだ。"
],
[
"いや、僕はやっぱり貸してやる。君は厭なら厭でいい。たんに臆測を楯にして人の申し出でを断る、そんなことは僕には出来ん。",
"それは結構。まあ彼奴を抱いて接吻でもするさ。"
],
[
"俗人に僧正を論ずる資格はないですよ。",
"なぜだい、補祭君。僧正だって僕と同じ人間じゃないか。"
],
[
"いや、まだだ。",
"必ず遠慮し給うなよ。あの連中の厚かましいのにはまったく呆れるよ。ここの一家の人たちが奴らの同棲生活をどんな眼で見ているかはよく承知でいながら、平気の平左でやって来るんだから。"
],
[
"じゃ君は、世間が私通や不品行を擯斥するのを偏見だというのか?",
"そうとも。偏見と憎悪さ。兵隊は尻の軽い娘を見ると笑声を立てたり口笛を吹いたりする。だが訊いて見るがいい。彼ら自身は一体どうだと。",
"いや、彼らの口笛は無意味ではない。娘たちが私生児を窒死させて徒刑地へ行く事実、アンナ・カレーニナがわれとわが身を汽車の下敷にした事実、田舎で門口へタールを塗る〔(その家内の女に不身持があった場合に、村人が侮辱乃至譴責の意を表わす目的で表扉にタールを塗る。一種の道徳的私刑である)〕という事実、君にも僕にもあのカーチャの純真さがなぜとなく好ましく思えるという事実、何人にせよ清純な愛などはあるものでないとは知りながらなおかつ漠然とその要求を心に感ずるという事実――これは果たして偏見だろうかね。いや君、これこそ自然淘汰を無事にくぐり抜けて来た唯一のものなのだ。もしも、両性関係を調整するこの得体の知れぬ力がなかったら、それこそラエーフスキイの徒が時を得顔にのさばって、人類は二年を出でずして退化してしまうだろう。"
],
[
"君も妙な男だな。そんなことが出来るものか。一人はどうしても残らなくちゃならんのだ。さもないと債鬼どもが喚き出すからな。なにしろ方々の店をあわせると少くも七百ルーブリは借りがある。まあ待ち給え、金を送って奴らの口を封じた上で、あの女にここを引き上げさせる。",
"なるほど。……だがなぜあの人を先に発たせないのかね。"
],
[
"ミュリドフの所へ行きましょう。あすこが一番いい。",
"それはどこ?",
"城址のすぐ傍。"
],
[
"ナヂェージダ・フョードロヴナはおいでですか?",
"いいえ、まだお帰りになりませんよ。"
],
[
"アレクサンドル・ダヴィードィチはいますか?",
"ああ、台所にね。"
],
[
"君は、どうして僕の状態を御存じなんです?",
"たった今君が自身で言われたじゃないですか。それに君の友人たちが君のことを大いに気を揉んでいてね、日がな一日君の噂で持ちきりという始末なんでね。",
"どういう友人です? サモイレンコですか?",
"そう、あの男もそうですね。",
"じゃ僕は、アレクサンドル・ダヴィードィチはじめ僕の友人なるものに、人の心配はいい加減にしてくれと頼みたいものですな。",
"ほら、サモイレンコが来た。ひとつその心配はいい加減にしろという奴を頼んで見給え。"
],
[
"どこへ?",
"あなたの御存じの紳士が、お目にかかりたいと言っています。非常に重大な用件があるそうです。一分間でいいからぜひお出でを願いたいと言っています。なにかお話しなければならんことがあるらしいんです。……その人にとって生死の問題らしいんです。……。"
],
[
"名は言わんでくれと頼まれたんです。",
"僕は今忙しいと言ってくれないか。もしよかったら明日……"
],
[
"そうです。",
"じゃなぜ裏から廻わるんです、僕にはわからんな。通りからだって行ける。そのほうが近いんだぜ……。",
"いいんです、いいんです……"
],
[
"道徳律というものはどんな人間にも生まれつき具わっているものだが、あれは哲学者が考え出したものでしょうか、それとも神が肉体といっしょにつくられたものでしょうか。",
"知らないね。しかしその律が、あらゆる民族及び時代を通じて頗る共通性があるところを見ると、どうやら僕には、それが人間と有機的に結合しているものと認むべきもののように思われるな。あれは考え出されたものじゃない、現にあり、将来もあるものだ。僕はなにも、今にそれを顕微鏡にかけて覗ける時が来るなんて言うんじゃないよ。ただその有機的結合については、既に検証的に証明が出来ると言うのだ。つまりだ、重い脳の疾患といわゆる精神病の一切は、僕の知っているかぎりでは何よりもまず最初に、道徳律の倒錯となって現われるね。",
"わかりました。するとこうですね、胃の腑が食物を要求すると同様に、道徳感は隣人を愛することを要求するとね。そうですね? ところが僕らの天性には利己心というものがあって、良心や理性の声に反抗して、そのためいろんな頭の痛くなるような問題が起こるじゃありませんか。哲学的基礎の上に問題を置いちゃならんとおっしゃると、この解決は一体誰にたのんだらいいんでしょうね?",
"われわれの所有している少量の精密科学の知識にたよるんだね。検証と事実の論理とを信じるんだね。そりゃ寥々たるものにはちがいないさ。がそのかわり、哲学みたいに土台のぐらぐらな模糊たるものじゃない。かりにまあ、道徳律が人間を愛せよと要求するものとしよう。かまわんじゃないか。愛はすなわち、あれこれのやり口で人類に害を及ぼしかつ現在及び将来に人類の禍根となるべきものを、一掃することにある筈だ。われわれの知識及び検証は、人類の脅威は精神的肉体的に常軌を逸したる者から来ると告げる。果たしてそうなら、その異常者と闘えばいいじゃないか。彼らを正常にまで高めてやる力が君に無いとしても、彼らの毒を抜く、つまり絶滅するくらいの力と腕ならあるだろう。",
"すると、強者が弱者を征服するところに愛があるんですね。",
"確かにね。"
],
[
"つまりそこなんだが、彼を十字架につけたのは強者じゃなくてじつは弱者なんだよ。人類文化は生存競争や自然淘汰の勢を殺いだし、また現にそれを零に近づけようとしている。そこで弱者の急激な増加となり、彼らが強者を圧倒することにもなるんだ。まあ考えても見給え、もし現在の未熟かつ発育不完全な形態における人道的思想を、蜜蜂にうまく吹き込んだとしたら、どんなことになるだろうね。殺されねばならぬ雄蜂は生き残って蜜を食い尽くす、働蜂を堕落させ絞め殺す――結局は弱者が強者を圧倒して、後者の退化となる。まったく同じ現象が今や人類にも起こりつつあるのだ。すなわち弱者が強者を圧迫しているのだ。まだ文化に接触したことのない野蛮人にあっては、もっとも強く賢く最も道徳的な者が、先頭に立って行くのだ。彼が酋長であり君主であるわけだ。ところがわれわれ文化人はどうだ。キリストを十字架につけ、なお現に続々とつけつつあるのだ。つまりわれわれには何かしら欠陥がある証拠だ。……この『何か』を取り戻さなければならん。さもないかぎり、この謬見のやむ時はあるまい。",
"だが、どんな標準で強者と弱者を別けるのです?",
"知識と検証とさ。結核患者や瘰癧患者はその病状を見ればわかる。悖徳漢や狂人はその行状を見ればわかる。",
"でも、間違うこともあるじゃありませんか。",
"そう。しかし洪水が来ようという時、足の濡れるのを心配するには及ぶまい。"
],
[
"職務上困りますね。でなけりゃ行くけど。",
"なんだい、その職務っていうのは?",
"僕は僧職にある者です。僕には天恵があるんです。"
],
[
"そうそう、補祭君、天に熊手でそう書いたったっけな。",
"仕事を伴わぬ信仰は死物だ。が、信仰を伴わぬ仕事はもっと悪い。ただ時間つぶしにしかならないんです。"
],
[
"拘留さ。が相手が死んだ場合には、三年以下の要塞禁錮だ。",
"要塞ってペトロパーヴロフスク〔(ペテルブルグ、ネヷ河に臨む旧要塞)〕のかね。",
"いや、たしか陸軍のだと思った。",
"だがあの先生、ひとつ懲りさせてやるほうがいいんだが。"
],
[
"明日は天気に邪魔されたくないなあ!",
"さあ、どうかなあ。天気にしたいもんだが。",
"おやすみ!",
"すみがどうしたって? なんと言ったのかよお。"
],
[
"あなたでしたの。もう雷雨はやんで?",
"やんだよ。"
],
[
"だからまあ御覧。……ラエーフスキイの手はぶるぶる顫えておるし云々というわけでしてな。……あれじゃピストルも上げられんです。あの男を相手に決闘をするのは、酔払いかチフス患者を相手にやるのと同じく不人情ですな。もし和解が成立せんまでも、なあ諸君、せめて決闘を延期したらどうでしょうな。……かかる残虐行為は見るに忍びんです。",
"あなたひとつフォン・コーレンと掛け合って見たら。",
"僕は決闘の規則は知らんですし、そんなものは悪魔にくれちまえで、べつに知りたいとも思わんのですが、ひょっとしたらあの男は、ラエーフスキイが怖気づいて僕を差し向けたと思いはすまいかな。だがまあ何とでも思わしときましょう、一つ掛け合って見るとしよう。"
],
[
"いっそ寄って、さよならを言って来いよ。",
"いや、それは困る。",
"なぜ困る。もうこれっきりあの男に逢えんかもしれないぞ。"
],
[
"もう出ました、閣下。",
"税関のは?",
"それも出ました。"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 8」中央公論社
1960(昭和35)年2月15日初版発行
1975(昭和50)年12月10日再訂版発行
入力:阿部哲也
校正:米田
2010年7月22日作成
2012年2月20日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"おい、おかみさん、おまいたちは病人をほつぽり出しておいたんだな。",
"へえ、いや、先生さま、もうおむかへが来るんでさあ、どつちみちもう長いことはありません。",
"馬鹿。おれがなほしてやるよ。",
"お願えしやすだ。へえ、どうもありがとうごぜえますだ。でも、どうせ死ななきやあなんねえだら、やつぱり死ななけきやあなりません。",
"これあ病院にいれなけれやあだめだよ。"
],
[
"うちにや馬がないんで。",
"馬がない? うん、ぢやあ一頭かしてもらふやうに地主にはなしてやらう。"
],
[
"バルカ、ビールをかつてこい。",
"バルカ、酒をとつてこい。",
"コロップぬきはどこだい、バルカ。",
"にしんを洗ふんだつてばよ。早くおしよ。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第八巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1932(昭和7)年7月
入力:tatsuki
校正:浅原庸子
2005年8月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "045196",
"作品名": "子守つ子",
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"没年月日": "1904-07-02",
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"メイン・リードの小説、読んだことがある?",
"いいえ、読んだことありません。……ねえ、チェチェヴィーツィンさん、あなた、馬に乗れるの?"
],
[
"それから、インディアンが汽車をおそう。でも、いちばん手におえないのは、蚊と白ありさ。",
"白ありって、なあに?",
"ありの一種でね、ただ、羽がはえている。ひどくさすんだよ。ねえ君、君は僕がだれだか知ってる?",
"チェチェヴィーツィンさんでしょう?",
"ちがうんだ。僕はね、モンチゴモ・ヤストレビヌィ・コゴッチさ、降参しない土人の酋長の。"
],
[
"顔の青い兄弟、おねがいだから、いっしょに行こうよ! もともと、君は、だんぜん行くと言って、僕をさそったんじゃないか。それを、いざ出かけるときになって、今さらしりごみするなんて!",
"僕……僕、しりごみなんかしてないよ。ただ、僕……ママがかわいそうなんだ。",
"行くのか、行かないのか、はっきり言えよ。",
"行くよ。ただ……もう、ちょっと待ってくれよ。僕うちにいたいんだ。"
],
[
"行く……行くよ。",
"じゃ、支度をしろよ!"
]
] | 底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日第1刷発行
2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「チェーホフ全集 第七巻」中央公論社
1960(昭和35)年発行
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:米田
校正:noriko saito
2010年7月5日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051352",
"作品名": "少年たち",
"作品名読み": "しょうねんたち",
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"原題": "МАЛЬЧИКИ",
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"分類番号": "NDC K983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
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"生年月日": "1860-01-17",
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[
"さあ何て言うのかなあ? 前の方がもっとよかったなあ。",
"ふむ、どうして?",
"わけは簡単なんですよ。前にはソーニャと一緒に唱歌と読み方をやってればよかったんでしょう? ところがこんどはフランス語の詩を暗誦するんですもの。小父さんこの頃お髯を刈ったんでしょう?",
"ああ、この間さ。",
"そうだと思ったんだ。お髯がちゃあんと短くなってますもの。ちょっと触らせてみせてよ。……こうやって痛かない?",
"いいや、痛くなんかないさ。",
"なぜ一本きり引っ張ると痛くって、沢山いっぺんに引っ張るとちっとも痛くないの? ふうん。――でも小父さんは頬髯がないからおかしいなあ。ここんところから剃っちまって、それから横っちょのここんところは残しとくんですよ。……"
],
[
"どうして知ってるの? 君パパに会ったの?",
"僕? ううん、……違うの。僕……"
],
[
"パパに会うんだろう?",
"ううん、……違うの。……",
"いけない、本当のことをお言い、嘘をついちゃいけないよ。……君の顔にちゃんと嘘ですって書いてあるのさ。一ぺん言い出したんだから、もうごまかしても駄目なんだよ。さ、言って御覧、会うんだろう? さ、小父さんと仲好しになろう。"
],
[
"そんなことないさ。",
"ほんとに?",
"ああ、ほんとさ。",
"小父さん、誓うの?",
"やれやれ、困った坊ちゃんだね。この小父さんを何だと思ってるの?"
],
[
"ただお願いですからママに言わないでね。……誰にも言わないでね、秘密なんだから。もしこれがママに知れたら、僕もソーニャもペラゲーヤも酷い目に逢わされるんだから。……じゃ、僕言いますよ。僕とソーニャは毎週火曜と金曜にパパに会うんです。夕飯の前にペラゲーヤが僕たちを散歩に連れて出ると、僕たちはアプフェル喫茶店へ行くんです。するともうパパがそこで待ってるの。……パパはいつも仕切りのついた部屋に坐ってるの。あすこには大理石の素敵なテーブルや、背中のない鵞鳥の恰好をした灰皿があるんですよ。……",
"それから何をするの?",
"何もしないの。はじめに今日はを言って、それからみんなでテーブルの廻りに坐ると、パパは僕たちにコーヒーやパイを御馳走してくれるの。ソーニャは肉のはいったパイを食べるでしょう。けど僕は肉のはいったのは大嫌いなの。僕はキャベツや卵のが好きなんです。僕たちうんと食べちまうものだから、後で夕御飯のときママに見つからないように、一生懸命たくさん食べるんです。",
"それから何の話をするの?",
"パパと? 色んなことを話すの。パパは僕たちをキッスして、抱きしめて、色んなとても滑稽な話をしてくれるの。それからこうも言うの、お前たちが大きくなったら引き取ってやるぞ、って。ソーニャは厭だって言うけど、僕は賛成なの。そりゃママがいないと淋しいけど、僕その代り手紙を書きますよ。それよりか、お休みの日にママの家へお客様に行ってもいいじゃない?――ね、そうでしょう? パパは僕に馬を買ってやるって言うの。パパってとてもいい人ですよ。なぜママが別々に住んで、逢ってはいけないって言うのか僕解らないなあ。パパはとてもママが好きなんですよ。会うたんびに、ママは丈夫かい、何をしてるね、って訊くんですもの。ママが病気だって言うと、パパはこうこんなにして両手で頭を抱えて……それから、そこらじゅう歩き廻るんです。いつでも僕たちに、ママの言うことをきくんだぞ、大事にするんだぞって頼むの。ねえ、小父さん、僕たち不幸せなんでしょう?",
"ふむ……なぜそう思うの?",
"パパがそう言うの。お前たちは不幸せな子供だなあ、って言うの。それを聞くと僕ぞっとするんです。お前たちも不幸せだ、俺も不幸せだ、ママも不幸せだ、って言うの。それから、さあ神様にお前たちのこともママのこともよくお願いおし、って。"
],
[
"そりゃ、知りゃしません。……どうして分かるもんですか。ペラゲーヤはどうしたって言いっこはないし。一昨日パパは梨を御馳走してくれましたよ。とても甘くって、ジャムみたいの! 僕二つも食べちゃった。",
"ふむ、……で、何かね、……ねえ、パパはこの小父さんのことは何にも言わないの?",
"小父さんのこと? さあ何て言ったらいいのかなあ。"
],
[
"何にも変わったことなんか言やしませんよ。",
"じゃ例えば、どう言うの?",
"悪口は言わないの。だけど、つまり……小父さんのことを憤ってるの。ママが不幸せになったのは小父さんのお蔭だって言うの。それから、小父さんが……ママを駄目にした、って。ねえ、パパって変な人じゃない? 小父さんはいい人で、一度だってママを叱ったことなんかない、って僕言ってやるんだけど、パパは頭ばっかり振っているんですもの。",
"すると、この小父さんがママを駄目にしたって言うんだね?",
"そうなの。憤らないでね、ニコライ・イーリイッチ。"
],
[
"自分がぴんからきりまで悪いくせに、この俺が駄目にしただって? 大した無垢の子羊があったもんだ! じゃ、つまり、この俺がお母さんを駄目にした、ってそうお前に言うんだね?",
"そうなの、けど……ねえ、小父さん憤らないって言ったじゃありませんか?",
"俺は憤りはしないさ。……それに、とに角お前の知ったことじゃない。いやはや、……まるでこれは大笑いだ。この俺はまるで、鶏が味噌汁の中に跳びこんだような態だ。おまけに罪は俺にあるんだそうだ。"
],
[
"何の話だって? まあ、おきき。おまえの御亭主がとんでもない話をふれ歩いてるんだよ。この俺は大変な恥知らずの悪漢にされちまったのさ。この俺がおまえや子供たちを駄目にしたんだとさ。おまえたちはみんな不幸せで、俺だけが恐ろしく幸福なんだ。恐ろしく、まるで幸福なんだ!",
"私には何のことやら分かりませんわ、ニコライ。いったい何ですの?"
]
] | 底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日第1刷発行
2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「チェーホフ全集 第五巻」中央公論社
1960(昭和35)年発行
入力:米田
校正:noriko saito
2010年7月5日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "051353",
"作品名": "小波瀾",
"作品名読み": "しょうはらん",
"ソート用読み": "しようはらん",
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"副題読み": "",
"原題": "ЖИТЕЙСКАЯ МЕЛОЧЬ",
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"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2010-07-18T00:00:00",
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"姓読み": "チェーホフ",
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[
[
"いや、あれはフォン=ラッベクじゃない、ただのラッベだ、それにフォンなしだ。",
"だがまあ、なんていい天気だい!"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 7」中央公論社
1960(昭和35)年6月15日初版発行
1976(昭和51)年9月16日改版第1刷発行
入力:阿部哲也
校正:米田
2010年5月18日作成
2010年11月2日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "045762",
"作品名": "接吻",
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"原題": "ПОЦЕЛУЙ",
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"姓読みソート用": "ちええほふ",
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"姓ローマ字": "Chekhov",
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"役割フラグ": "著者",
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"底本出版社名1": "中央公論社",
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"入力者": "阿部哲也",
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} |
[
[
"私の方はとてもの変わりようよ。……ねえ、私、ヤアギチと結婚したの。ヴラヂーミル・ニキートイチよ。あの人憶えてるでしょう。……私、あの人と幸福に暮らしているの。",
"まあ、結構ですわ。お父様も御丈夫?",
"丈夫よ。よくあんたの噂をしているわ。ねえ、オーリャ、お休みには私たちのところへいらっしゃいな。いいでしょう?"
],
[
"とてもよ。",
"そう、いいことねえ。"
],
[
"じゃ、きっといらっしゃいね、オーリャ。",
"参りますわ、参りますわ。"
],
[
"どうしてあなたは、そんなに急に学問の話がしたくなったのです? ひとつ憲法の方は如何です? それとも蝶鮫の山葵漬けなどは?",
"もう結構よ。どうせ私は馬鹿でやくざで考えのない、つまらない女ですわ。……私は精神病で、自堕落で、することといったら間違いだらけで、だから馬鹿になさるのは当り前ですわ。でも、ねえ、ヴォローヂャ、あなたは私より十も年上なのだし、夫は三十も年上なのよ。私はあなたの眼の前で育ったんですもの、もしあなたにその気さえあったら、私をどうともお気に召す通りに、そりゃ天使にだって仕上げることがお出来だった筈よ。だのに、あなたは、(彼女は声を顫わせた)私に辛くお当たりになるのね。私がヤアギチみたいな年寄の所へお嫁に来るときにも、あなたは……"
]
] | 底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日第1刷発行
2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「チェーホフ全集 第九巻」中央公論社
1960(昭和35)年発行
入力:米田
校正:noriko saito
2011年1月4日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "051389",
"作品名": "大ヴォローヂャと小ヴォローヂャ",
"作品名読み": "だいヴォローヂャとしょうヴォローヂャ",
"ソート用読み": "たいうおろおちやとしよううおろおちや",
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"原題": "ВОЛОДЯ БОЛЬШОЙ И ВОЛОДЯ МАЛЕНЬКИЙ",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2011-02-07T00:00:00",
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"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
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"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "カシタンカ・ねむい 他七篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年5月16日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年6月25日第2刷",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年6月25日第2刷",
"底本の親本名1": "チェーホフ全集 第九巻",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
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} |
[
[
"ありゃ何だ。誰がいるんだ。",
"韃靼人が泣いてるのよ。",
"へえ……何て妙な奴だい。"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 9」中央公論社
1960(昭和35)年5月15日初版発行
1980(昭和55)年10月20日再訂再版
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年12月5日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "051735",
"作品名": "追放されて",
"作品名読み": "ついほうされて",
"ソート用読み": "ついほうされて",
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"原題": "В ССЫЛКЕ",
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"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "チェーホフ全集 9",
"底本出版社名1": "中央公論社",
"底本初版発行年1": "1960(昭和35)年4月15日初版発行、1980(昭和55)年9月20日再訂再版",
"入力に使用した版1": "1980(昭和55)年10月20日再訂再版",
"校正に使用した版1": "1969(昭和44)年2月25日",
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} |
[
[
"僕は君に心配をかけたくはなかったんだが、しかしまったくのところ君のほかには、君、持ち掛ける相手は断然一人もないのだ。君も知ってるね、ここの連中がどんなだか。",
"なある、なる、なる……そう……"
],
[
"そのとおりだ。だが人間が頭を授かっているのは、諸々の自然力と闘争するためじゃないか。",
"ええ? ああ……そりゃそうだ、そのとおり。……そう。"
],
[
"どうして無いものか。百姓は農舎の屋根を剥がしているし、もうどこかにチフスが出たとかいう話だ。",
"で、それがどうだと言うのさ。来年はまた豊作で、新しい屋根が出来るだろうよ。また僕らがチフスで死んだとしたって、そのあとには他の連中が住むだろうじゃないか。晩かれ早かれ、どうせ死ななけりゃならんのだ。心配し給うな、なあ君。"
],
[
"さようでございます。皆様お帰りになりました。",
"だがなぜウラーをやったのかね。",
"アレクセイ・ドミートリチ・マーホノフが、難民救済のため麦粉一千プードとお金を一千ルーブリ寄附なさいました。それからお名前は存じませんがさるお年を召した御婦人から、御自分の領地に百五十人分の食堂を設けられる旨お約束がありました。有難いことでございます。……ナターリヤ・ガヴリーロヴナは、皆様が毎週金曜日にお集まりになるよう決議をお出しになりました。",
"この階下に集まるのか?",
"さようでございます。お夜食の前に読み上げられました一札によりますと、八月から今日までにナターリヤ・ガヴリーロヴナは、穀類のほかに八千ルーブリほどお集めになりましたそうで。まことに有難いことで。……私は、閣下、こう考えますのですが、もし奥様が魂の救いのお為に御奔走遊ばしたら、それはそれはどっさりお集めでございましょうよ。ここの方々は物持ちでございますから。"
],
[
"あたくしは頼まれましたの。けどあなたには、誰一人ついぞお願いしたものはありませんわ、本当よ。どこへでもいらして、誰もあなたを知らないところで御援助をなさいまし。",
"お願いだから、僕にそういう物言いはよして貰いたいね。"
],
[
"でもやっぱり私わかりませんわ、何をしようと仰しゃるんだか。",
"君が今までに幾ら集め幾ら費ったか、それが見せて貰いたいのだ。",
"私には秘密はありませんわ。誰が見てもかまいません。さあどうぞ。"
],
[
"君憶えてるかね、イヷン・イヷーヌィチ、君は僕に悪い性質があって、つき合いにくいって言ったっけね。だがその性質を変えるにはどうすればいいのかね。",
"僕にはわからないな、君。……僕は青んぶくれの皮のたるんだ人間だ、とても助言なんかする柄じゃないさ。……そう……。僕があの時それを言ったのは、君も好きだし、君の奥さんも好きだし、親父さんも好きだったからだよ……そう。僕はもうじき死ぬんだから、なんの君に隠したり嘘をついたりすることが要るものかね。だから言ってしまうが、僕は君が大好きだけど、尊敬はしていない、そう、尊敬はしていない。"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 9」中央公論社
1960(昭和35)年5月15日初版発行
1980(昭和55)年10月20日再訂再版
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年12月5日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "051736",
"作品名": "妻",
"作品名読み": "つま",
"ソート用読み": "つま",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "ЖЕНА",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-01-17T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51736.html",
"人物ID": "001155",
"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "チェーホフ全集 9",
"底本出版社名1": "中央公論社",
"底本初版発行年1": "1960(昭和35)年4月15日初版発行、1980(昭和55)年9月20日再訂再版",
"入力に使用した版1": "1980(昭和55)年10月20日再訂再版",
"校正に使用した版1": "1969(昭和44)年2月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "米田",
"校正者": "阿部哲也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51736_ruby_40726.zip",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"なぜって、画家は勿論のこと、一般に芸術に携わる人間は、決して結婚なんかしちゃいけないからさ。芸術家は自由でなければならん。",
"私があんたの邪魔をすると思うの? エゴール・サヴィチ。",
"僕は自分一個のことを言ってるんじゃないのさ。一般的に論じてるんだ。……有名な文士や画家は決して、結婚なんかしないものなんだ。",
"あんたが今に有名になるぐらいのこと、私だってちゃんと知ってるわ。でも、私の身にもなって頂戴な。私はママがこわいの。……ママはあんな口喧しい怒り虫でしょう。だから、一旦あんたが私を貰って下さるおつもりじゃなくって、ただあんなに……と分ったら最後、私をひどい目にあわせるにきまってるわ。ああ、私困るわ。おまけに、あんたまだ間代が払ってないじゃないの。",
"畜生、払っちまうとも。……"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 5」中央公論社
1960(昭和35)年9月15日初版発行
1976(昭和51)年7月10日再訂版発行
入力:米田
校正:阿部哲也
2011年1月29日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "052293",
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} |
[
[
"いいえ、火曜日に利子を入れて置いたのよ。",
"何番だったね?",
"九四九九号の二十六番ですわ。",
"よしよし、……ひとつ探してやろう。……九四九九の二十六と。"
],
[
"そうだ、本当なんだ……本当にあったぞ!",
"でも、札の番号はどう?",
"あ、そうだっけ。まだ札の番号って奴があるんだね。だが、お待ち。……ちょっとお待ち。いいや、それが何だというんだ。どっちみち、俺たちの番号はあるんだ。どっちみちだよ、解るかい?……"
],
[
"そうよ、だから見て御覧なさいよ。",
"待て、待て。幻滅の悲哀を味わうのはまだあとでもいいさ。上から二行目だから、つまり七万五千ルーブルという訳だ。そうなるともうお金じゃない、力だ、資本なんだぞ。今すぐ、ひょいとこの俺が表をのぞいて見る、――すると、ちゃんと二十六なんだ。ええ、どうだね。俺たちが本当に当たっていたら、いったいどうなるんだね?"
]
] | 底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日第1刷発行
2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「チェーホフ全集 第六巻」中央公論社
1960(昭和35)年発行
入力:米田
校正:noriko saito
2010年7月5日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "051354",
"作品名": "富籤",
"作品名読み": "とみくじ",
"ソート用読み": "とみくし",
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"副題読み": "",
"原題": "ВЫИГРЫШНЫЙ БИЛЕТ",
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"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2010-07-18T00:00:00",
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"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
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"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
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"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "カシタンカ・ねむい 他七篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年5月16日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年6月25日第2刷",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年6月25日第2刷",
"底本の親本名1": "チェーホフ全集 第六巻",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
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} |
[
[
"坊さんの息子と一緒にいたのさ。",
"なにを馬鹿なことを。",
"本当だとも。",
"罰当りな。",
"構わないさ……。困りゃしないさ。罰当りなら罰当りでいいさ。こんな暮らしよりゃ雷様にでも打たれた方がましだもの。私は若いし身体も丈夫なのに、亭主は傴僂で厭らしい業つく張りで、ヂューヂャ爺に輪をかけたような悪者さ。娘の頃にはパン一つ満足に貰えず、いつも跣足でいたんで、貧乏が厭さにアリョーシカの小金に眼がくらんだのさ。そいで魚籠の中の魚みたいに捕まっちまった。あんな疥癬やみのアリョーシカと寝るくらいなら、蛇とでも寝た方がましさ。そういう姉さんの暮らしはどうなの。眼も当てられやしない。フョードルはお前さんを工場から追い出して他の女を引き入れるし、伜までお前さんの手から捥ぎ取って、奴隷境涯に売り飛ばしたじゃないか。お前さんがいくら馬みたいに稼いだところで、親切な言葉ひとつ掛ける者はない。……こんなことなら嫁なぞには来ずに、一生くよくよ暮らしをした方がましさ。坊さんの息子から五十銭貰うなり、乞食をするなり、井戸へ飛びこむなりした方が、よっぽど増しさ……。"
],
[
"私なら、アリョーシカを盛り殺しても後悔はしないね。",
"またそんなことを……。"
],
[
"知れるもんか。ヂューヂャは年寄りでもう死んでもいい頃だし、アリョーシカの方なら、飲み過ぎで死んだことになるさ。",
"怖かない。神様が取り殺しなさる。",
"構うもんか。……"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 8」中央公論社
1960(昭和35)年2月15日初版発行
1980(昭和55)年6月20日再訂再版発行
入力:米田
校正:阿部哲也
2010年9月6日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "051423",
"作品名": "女房ども",
"作品名読み": "にょうぼうども",
"ソート用読み": "にようほうとも",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "БАБЫ",
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"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-10-10T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51423.html",
"人物ID": "001155",
"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "チェーホフ全集 8",
"底本出版社名1": "中央公論社",
"底本初版発行年1": "1960(昭和35)年2月15日",
"入力に使用した版1": "1980(昭和55)年6月20日再訂再版",
"校正に使用した版1": "1975(昭和50)年12月10日再訂版",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "米田",
"校正者": "阿部哲也",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "2"
} |
[
[
"どうしたって? なあに旦那、おっ死ぬ時が来ましたんで。……とてももう、助かりっこは……",
"馬鹿を言うじゃない。……直してやるからな!",
"お宜しいように、どうぞ旦那、ありがたい仕合せで。だが、わしらもわかっておりますが……死に神がむかえに来たものは、もうどうにもならないんで。"
]
] | 底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日第1刷発行
2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「チェーホフ全集 第七巻」中央公論社
1960(昭和35)年発行
入力:米田
校正:noriko saito
2010年7月6日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "051365",
"作品名": "ねむい",
"作品名読み": "ねむい",
"ソート用読み": "ねむい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "СПАТЬ ХОЧЕТСЯ",
"初出": "",
"分類番号": "NDC K983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-07-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51365.html",
"人物ID": "001155",
"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "カシタンカ・ねむい 他七篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年5月16日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年6月25日第2刷",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年6月25日第2刷",
"底本の親本名1": "チェーホフ全集 第七巻",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
"底本の親本初版発行年1": "1960(昭和35)年",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "米田",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51365_ruby_38827.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "4",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51365_39698.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "3"
} |
[
[
"僕あマッチを探してるんだよ。君あ……君あ、じゃ未だ睡っちゃいなかったんだね。よおし、そいじゃ君に伝言があったぞ……宜しくって言いやがったっけが……ど忘れしたぞ……ほら、しょっちゅうお前に花束を届けて来る薬罐の先生さ……ザグヴォーズキンよ。……いま奴と一緒だったんだ。",
"あんな人の所へ何しに行ったの?",
"いや、別になんでもないさ……僕たちあこう仲よく坐って話しこんで、一杯やっただけさ。なあナタリイ、お前がなんと言おうと俺ああの男は大嫌いだぞ。断然嫌いだぞ。ありゃ稀にみる大馬鹿だ。奴あ金持の資本家だ。奴にあ六十万からあるんだ、――と言っただけじゃ、お前にあ分るまいな。奴の金と来た日にゃ犬ころに大根をやった程の役にも立たないんだ。つまり、自分でも食いやがらない癖に、他人にも遣らないんだ。金あ、こう循環しなくちあいけない。ところが奴ときたら確り握りこんでやがって、離すのをびくびくしてるんだ。……居眠りしてる資本が何になるもんか。居眠り資本は草の葉っぱも同然さ。"
],
[
"さあ、もう沢山よ。私、睡いんだから。",
"もう直き、もう直き……なんの話をしてたっけなあ? ああ、そうだ……この世智辛え世の中によ、ザグヴォズキンみたいな野郎はぶらんこ往生だって勿体ないくらいさ。……奴あ頓痴気のうえに悪党だ……つまり頓痴気だ。……僕が奴に担保なしの借金を申込んだってそれがなんだ、――え、これほど確かな投資はないことくらいあ三つ児だって御承知だぞ。ところがあの驢馬め、厭だって抜かしやがる。一万出しゃあ十万になって返って来るんだ。一年たちゃあまた十万ほど転りこむんだ。僕あ頼むようにして話してやったんだぞ。……ところが奴あ出しやがらないんだ、大間抜め!",
"あんたは、まさか私からと言って借金を申込んだんじゃないでしょうね?"
],
[
"まあ、……だんだん伺っていますわ。",
"だからそう思ったんだ。……お前にあこの話の大眼目が分るかい? 今じゃ食料品屋も腸詰屋も、腸詰の皮あわざわざ高い金を払って地方から取寄せるんだ。そこだよ、つまりコーカサスじゃあんな皮あ一文もしないんだ、みんな打っちゃっちまうんだから、そいつをコーカサスから持って来るんだ……さあそうなったら、ええお前、腸詰屋はいったいどっちで買うと思うかい? ここの屠殺場か、それとも僕からか? そりゃもちろん僕から買いこむにきまってるさ! だって値段が十分の一だからなあ。そこでひとつ考えてみようじゃないか――ペテルブルグやモスクヷやまた他の中心地で、この皮の取引高が年々……まあ五十万ルーブルだとしてみよう。つまり最小限度に見積ってだ。そうすると、つまりだ……",
"その話、明日でもいいでしょう……後でも……",
"うん、まあそうだ。お前はねむいんだったね、御免よ……僕はもうすぐ……いや、お前が何をしようと望もうと、資本さえありあどこでだって、どこへ行ったって甘い仕事が出来るんだ。……資本さえありあ只の煙草の吸口からだって百万長者になれるんだ。……例えばお前の芝居の方にしてもだ。いったいなぜレントフスキイが痛い目を見たか分るかい? 訳あすこぶる簡単さ。奴あ初手から間違ってたんだ。奴あ資本もないくせに、いきなりたんぺい急に始めやがったんだ。……まず最初に資本の用意をしてから、そろそろと用心深くやりさえすりゃよかったんだ。……いま時じゃ芝居でひともうけするなんざあ、私立だって国民劇場だって易々たるものさね。……立派な脚本を上演して、場代をうんと安くして、それで当りさえすりあ、初めの年に十万は儲かるさね。……お前にあ分らないが、僕の言うことあ本当なんだ。……お前は資本を貯めとくのが好きなんだ。ね、そうだろう? だからお前はつまり、頓痴気のザグヴォズキンと同じことなのさ。ただ積んで置くだけで、どうしようってこともないんだ。……人の言うことなんかてんで聴こうともしないんだ……循環させるつもりがありゃ、いっそ初めから齷齪しない、って連中なんだ。……私立劇場なら、初めは五千ありゃ充分なんだぜ。……だが勿論レントフスキイみたいなへまはやらないぞ……ただ内輪に始めるんだ……小規模にな。僕はもう支配人も探し出してあるし、適当な小屋も物色したるんだ。……無いのは金だけさ。……お前がも少し解りのいい女なら、五分利なんて吝なのとはとっくの昔にお別れができるになあ……あんな優先株なんて……",
"いいえ、有難う……もうあんたには散々騙り取られたことよ……さ、一人にして頂戴、もう罰は充分ですわ……"
],
[
"さ、一人にして下さいったら……ね、向うへ行って、私を睡らして頂戴……あんたの馬鹿げた話はもう沢山よ。",
"ふん……そりゃ極ってるさ……勿論! 騙りだって……掠奪だと……出した物あ覚えてるが、入った物あ忘れるってね。",
"私、あんたから何ひとつ貰いはしなくってよ。",
"本当かい? じゃ僕たちがまだ有名な唄うたいにならない前は、いったい誰の金で暮してたんだ? そいから、もうひとつ、いったい誰がお前を貧乏ぐらしから拾い上げて幸福にしてやったんだ? ひとつ伺いたいもんだね。それとも、もう忘れたのかい?",
"さ、寝床へいらっしゃいよ。向うへ行って、そんな事は綺麗さっぱりと夢に流しておしまいなさいよ。",
"僕を酔払い扱いにしようってんだな?……貴婦人のお眼に僕がそんな卑しく見えるんなら、……僕あさっさとこの家から出て行くさ。",
"じゃそうして。なかなかいいことだわ。",
"こっちも望むところだ。このうえ卑しいものにあなりたくないからな。じゃ出て行くぞ。",
"まあ有難い! さ、さっさと出て行って頂戴! さばさばしちまうわ。",
"そりゃ結構。ひとつどうなるかみようぜ。"
]
] | 底本:「チェーホフ全集 4」中央公論社
1960(昭和35)年10月15日初版発行
1976(昭和51)年8月10日再訂版発行
入力:米田
校正:阿部哲也
2011年1月29日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "052294",
"作品名": "マリ・デル",
"作品名読み": "マリ・デル",
"ソート用読み": "まりてる",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "MARI D'ELLE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-03-13T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card52294.html",
"人物ID": "001155",
"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "チェーホフ全集 4",
"底本出版社名1": "中央公論社",
"底本初版発行年1": "1960(昭和35)年10月15日",
"入力に使用した版1": "1976(昭和51)年8月10日再訂版",
"校正に使用した版1": "1969(昭和44)年7月25日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "米田",
"校正者": "阿部哲也",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/52294_ruby_41750.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "1",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/52294_42206.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "1"
} |
[
[
"でも、こんなにたくさん、一体どなたがお召しになるんです? おふたりだけではないですか。",
"まあ……こんなにたくさん着られるものですか? これは着るのではございません! これは、嫁入り支度ですの!"
]
] | 底本:「カシタンカ・ねむい 他七篇」岩波文庫、岩波書店
2008(平成20)年5月16日第1刷発行
2008(平成20)年6月25日第2刷発行
底本の親本:「チェーホフ全集 第二巻」中央公論社
1960(昭和35)年発行
入力:米田
校正:小林繁雄
2010年5月24日作成
2012年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "051293",
"作品名": "嫁入り支度",
"作品名読み": "よめいりじたく",
"ソート用読み": "よめいりしたく",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "ПРИДАНОЕ",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2010-06-24T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/card51293.html",
"人物ID": "001155",
"姓": "チェーホフ",
"名": "アントン",
"姓読み": "チェーホフ",
"名読み": "アントン",
"姓読みソート用": "ちええほふ",
"名読みソート用": "あんとん",
"姓ローマ字": "Chekhov",
"名ローマ字": "Anton",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1860-01-17",
"没年月日": "1904-07-02",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "カシタンカ・ねむい 他七篇",
"底本出版社名1": "岩波文庫、岩波書店",
"底本初版発行年1": "2008(平成20)年5月16日",
"入力に使用した版1": "2008(平成20)年6月25日第2刷",
"校正に使用した版1": "2008(平成20)年5月16日第1刷",
"底本の親本名1": "チェーホフ全集 第二巻",
"底本の親本出版社名1": "中央公論社",
"底本の親本初版発行年1": "1960(昭和35)年",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
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"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "米田",
"校正者": "小林繁雄",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51293_ruby_38359.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "3",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001155/files/51293_39398.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2012-02-21T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "3"
} |
[
[
"ウールのスカーフを巻いた大男の犯人の死体もまだ打ち上げられないんでしようね",
"ええ"
],
[
"そうだとすれば、あとはすつかりうまくあてはまりますね。顔の似ているのは、むろん、どちらにしても役に立ちますし、犯人が桟橋を出て行くのを見た者は一人もいないんですから……",
"みんなは犯人が桟橋を出て行くのをさがしていなかつたのじや。アストラカンの外套を着た、静かな物腰の、きれいに顔を剃つた紳士をさがせとは、だれにも言われなかつたからですわい。犯人が消えてしまつた秘密は、すべてあなたが、赤い襟巻をしたぶざまな大男だと説明したのが、元でした。したが事実は単に、アストラカンの外套を着ていた役者が赤いスカーフの百万長者を殺したので、そのきのどくな男の死体があるわけです。ちようど赤と青の人形にそつくりです。ただ、あなたが最初に見たというだけで、どつちが復讐で赤くなつていて、どつちがおびえて青くなつているかを、まちがつて想像したのです"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※「鼻の孔」と「鼻の穴」の混在は、底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字5、1-13-25] 青君の追跡」となっています。
※誤植を疑った「荒つぱい」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:時雨
校正:sogo
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059724",
"作品名": "青君の追跡",
"作品名読み": "あおくんのついせき",
"ソート用読み": "あおくんのついせき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "THE PURSUIT OF MR. BLUE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-05-29T00:00:00",
"最終更新日": "2022-04-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/card59724.html",
"人物ID": "001123",
"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"校正に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"底本の親本名1": "",
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"底本の親本初版発行年1": "",
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"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "時雨",
"校正者": "sogo",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/59724_ruby_75448.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2022-04-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
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"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-04-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"さよう。けつきよく、ほんとうの妖精伝説には有名な妖精の出現する話はそれほどたくさんありませんわい……月の光でチターニアを呼び出したり、オーベロンを現わしたりする話はそれほど多くありません。したが人間が消滅する伝説はきりがないくらいです。これは妖精にさらわれるからです。あなたはキルムニーや詩人トマス(十三世紀のスコットランドの詩人)の跡を追つておいでになるのですか?",
"わたしはあなたが新聞でお読みになる平凡な現代人の跡を追つているんです。いや、あなたが目をみはるのは無理もありません。しかしいまのところそれがわたしのねらつている獲物です。それもずいぶん前から追つかけているんです。率直に言つて、わたしは心霊的な出現現象の多くはすつかり説明できると思います。わたしに説明がつかないのは、それが心霊でない場合の、消滅現象です。新聞によく出る、姿を消して二度と発見されない連中は――もしあなたがわたしと同じにくわしい事情をご承知になつたら……。それに、ついさつきわたしは確証を得ました。或る老宣教師からの異常な手紙です……ごく立派な老人です。その人が今朝事務所にわたしを訪ねてきます。どうでしよう、ご一緒に昼飯でもやりましよう。そうしてこの結果をお話したいんです――ごく内密に"
],
[
"ねえ、ブラウン神父、五人の男が消滅したのですぞ",
"ねえ、オープンショウ先生、消滅した者などは一人もありはしませんのじや"
],
[
"どういう意味ですか?",
"あなたはだれも姿を消すところを見ていないのです。ボートから消えた男を見たわけではありません。テントから消えた男を見たわけではありません。そこはみんなプリングルさんの話だけですが、その点はいまは論じないでおきます。したがこの点はあなたも認められるでしよう……あなたは、ご自分の事務員が姿を消してこの話が証明されるのをごらんにならなかつたら、決してプリングルさんの言葉を受け入れなかつたでしよう……ちようどマクベスにしても、コーダーの領主になるという予言が証明されなかつたら、決して信じなかつたでしようからな"
],
[
"アベコベです",
"いつたい『アベコベ』というのはどういう意味ですか?",
"つまり、決して消滅したのではないという意味です。あの男は出現したのです"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字3、1-13-23] 古書の呪い」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "059726",
"作品名": "古書の呪い",
"作品名読み": "こしょののろい",
"ソート用読み": "こしよののろい",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "THE BLAST OF THE BOOK",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-06-14T00:00:00",
"最終更新日": "2021-05-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/card59726.html",
"人物ID": "001123",
"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"校正に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "時雨",
"校正者": "sogo",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/59726_ruby_73425.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-05-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/59726_73464.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-05-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"へえそれにしんにゅうをかけたものというと、はあて",
"なに実は私にも見当がつかないんだ"
],
[
"取去られたんであって、盗み去られたんではない。いつかな、盗賊の仕業なら、こうした謎を残しては行かない、盗賊は純金製の齅煙草函を盗めば中味の煙草も何も皆んな持って行く。金の鉛筆鞘にしても中の心も何も皆な持って行く",
"そこで吾々は一個の奇妙な良心を、確かに良心に相違ない、持つ男を論じなくてはならんのじゃ。わしはその狂人のような律儀者を今朝向うの野菜畑で発見した。そして一語一什の物語りを聴いたのじゃ"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或→あ・あるい 恰も→あたかも 貴方→あなた 雖も→いえども 如何→いか 何れ→いずれ 一層→いっそう 於て→おいて 恐らく→おそらく 斯→か・こ 反って→かえって 彼処→かしこ 曽て→かつて 位→くらい 此→こ・この 極く→ごく 此処・此所・茲→ここ 是・之→こ・これ 左様→さう 然・而→しか 而かし→しかし 暫し→しばし 暫く→しばらく 直様→すぐさま 頗る→すこぶる 凡て→すべて 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 其→そ・その・それ 而→そ 其処→そこ 沢山→たくさん 唯→ただ 忽ち→たちまち 度事→たびごと 給→たま 為→ため 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと て居→てい・てお て頂→ていただ て置→てお て見→てみ 何→ど・どう 何処→どこ 兎に角→とにかく 取りわけ→とりわけ 何故→なぜ 成程→なるほど 筈→はず 程→ほど 迄→まで 又→また 寧ろ→むしろ 若→も・もし 知れない→しれない 勿論→もちろん 尤も→もっとも 貰→もら 矢張→やは・やはり 俺→わし」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本中の「グレンジル」「グレンジール」、あるいは「フランボー」「フランボウ」、「燈」「灯」の混在はそのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(加藤祐介)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年6月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042940",
"作品名": "作男・ゴーの名誉",
"作品名読み": "さくおとこ・ゴーのめいよ",
"ソート用読み": "さくおとここおのめいよ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "THE HONOUR OF ISRAEL GOW",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-07-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/card42940.html",
"人物ID": "001123",
"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚",
"底本出版社名1": "平凡社",
"底本初版発行年1": "1930(昭和5)年3月10日",
"入力に使用した版1": "1930(昭和5)年3月10日",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班",
"校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/42940_ruby_15736.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2004-06-02T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/42940_15761.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2004-06-02T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"聞えなくて幸いじゃ。馬鹿なことじゃ。どうせ君はホイスラアになるには少しお人好し過ぎるんじゃ。わしは、現物を握っていてさえが、悪心を起しはせんて、わしはしっかりしてるんじゃ",
"一たい何の事を言ってるんだ"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「有難う→ありがとう 或る→ある 如何→いか・いかが・どう 於いて・於て→おいて 於ける→おける 恐らく→おそらく 凡そ→およそ 難い→かたい 且つ→かつ 兼ねる→かねる かも知れ→かもしれ 位→くらい・ぐらい 呉れる→くれる 斯う→こう 此方→こっち 併し→しかし 然り→しかり 直ぐ→すぐ 即ち→すなわち 其→その 丈→だけ 唯→ただ 度→たび 多分→たぶん 給→たま 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと (て)居→(て)い・(て)お (て)置→(て)お (て)了→(て)しま (て)見→(て)み (て)貰→(て)もら 疾うに→とうに 何処→どこ 何の→どの 飛んでもない→とんでもない 猶→なお 勿れ→なかれ 何故→なぜ 成程→なるほど 許り→ばかり 筈→はず 程→ほど 殆んど→ほとんど 又→また 迄→まで 侭→まま 間もなく→まもなく 目出度い→めでたい 若し→もし 勿論→もちろん 以て→もって 矢張り→やはり 故→ゆえ」
※底本中の「ハンプステット」「ハムステッド」「ハンプステッド」、「燈」「灯」の混在はそのままにしました。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(荒木恵一)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2009年8月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "042932",
"作品名": "青玉の十字架",
"作品名読み": "サファイヤのじゅうじか",
"ソート用読み": "さふあいやのしゆうしか",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "THE BLUE CROSS",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2009-08-23T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-21T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/card42932.html",
"人物ID": "001123",
"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚",
"底本出版社名1": "平凡社",
"底本初版発行年1": "1930(昭和5)年3月10日",
"入力に使用した版1": "1930(昭和5)年3月10日発行",
"校正に使用した版1": "",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "京都大学電子テクスト研究会入力班",
"校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/42932_ruby_35454.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2009-08-09T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/42932_35769.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2009-08-09T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"その智慧は君から借用したんじゃ",
"エエ、私からですって"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「或→あ・ある・あるい 相不変→あいかわらず 貴方・貴女→あなた 如何→いか 何れ→いずれ 何時→いつ 所謂→いわゆる 於て→おいて 於ける→おける 凡そ→およそ 且つ→かつ 曽て→かつて 斯程→かほど 位→くらい 斯→こ 此所→ここ 此方→こっち 此→この 是れ・是→これ 然・然し→しかし 暫く→しばらく 直ぐ→すぐ 頗る→すこぶる 即ち→すなわち 折角→せっかく 是非→ぜひ 其処→そこ 其→そ 沢山→たくさん 唯→ただ 但し→ただし 為→ため 段々→だんだん 丁度→ちょうど 一寸→ちょっと 附いて→ついて て居→てい・てお て呉→てく て見→てみ 何う→どう 兎角→とかく 何処→どこ 兎に角→とにかく 猶→なお 何故→なぜ 成程→なるほど 筈→はず 程→ほど 殆ど→ほとんど 亦・又→また 迄→まで 儘→まま 間もなく→まもなく 寧ろ→むしろ 若し→もし 若くは→もしくは 勿論→もちろん 尤も→もっとも 最早→もはや 矢っ張り→やっぱり 俺→わし 僅か→わずか」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※底本中、「ステーフィン」「スティーフン」「ステフィーン」、あるいは「シシリー」「シシリア」「シシリヤ」の混在はそのままにしました。
※語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(逆凪紫)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004年6月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "043018",
"作品名": "サレーダイン公爵の罪業",
"作品名読み": "サレーダインこうしゃくのざいごう",
"ソート用読み": "されえたいんこうしやくのさいこう",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "THE SINS OF PRINCE SARADINE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2004-07-04T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/card43018.html",
"人物ID": "001123",
"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
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"校正者": "京都大学電子テクスト研究会校正班",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"それは新道徳ですか? それとも古い詭弁法ですかな。あなた方のようなイエズス会員はほんとうに殺人に賛成してるのですか?",
"わしはだれが殺したとしても問題になるまいとは言いませんでしたぞ。もちろんことによると突き刺した者が殺した者かもしれません。したがまつたく別の人間かもしれません。ともかく、これはまつたく別の時にやつたものです。あなたは刀の柄の指紋をしらべたいでしようが、それにはあまり重きをおかないようになさい。わしには別の人間が哀れな老人の体にこの短剣を突き刺したと思うだけの別の理由がいくつも思い当ります。もちろん、あまり高尚な理由ではありませんが、殺人とはまつたく別じや。あなたはもつと何本もナイフを突つこんでみなければなりますまい、そうすればわかるでしようけどな"
],
[
"つまり解剖じや……ほんとうの死因を見つけるためにな",
"ともかく、この刺し傷については、たしかにおつしやるとおりだ。われわれは医者を待たなければなりませんが、きつと医者もそう言いそうですな。あまり血が出ていません。この短剣は死後何時間もたつてから冷たくなつた死体に刺したものです。だが、なぜでしよう?"
],
[
"ぼくはまだそこまで見当をつけていませんでした。どうしてそんな気がするんですか?",
"昨日わしらが最後にこの恐ろしい部屋にはいつてきたときわしが申しあげたことじや。わしはここなら人殺しをするのに楽だろうと申しあげた。したがわしはこういうばかげた武器のことなどはいつこう考えてもみませんでした。尤もあなたにはそう思われていたらしいが、わしの考えていたのはまつたく別のことでした"
],
[
"あなたの言われるのはラグリーのグラスですか?",
"いいや、わしの言うのは主の知れないグラスです。それはあのミルクのグラスのそばに置いてあつて、ウイスキーがまだ一インチか二インチはいつていました。ホレ、あなたやわしはウイスキーを飲みませんでした。わしは偶然覚えていますが、支配人はあの元気なジュークスにおごつてもらつたとき、ジンを一杯やりました。まさかあのマホメット教徒が緑色のターバンで変装したウイスキー飲みだとか、あるいはデビッド・プライス・ジョーンズ師がうつかり気がつかずにウイスキーとミルクを一緒に飲んでしまつたなどとは思えますまい"
],
[
"あのバーテンにも会わなければならないでしようね",
"まあそうでしよう。わし自身はホテルの人間が犯人だとは思いません――いや、こいつはあれがホテルの人間に違いないように見せかけてあつたからですわい……したが、ホレ、あなたはラグリーについての報告を集めたこの書類をごらんになりましたか? ずいぶん興味の深い一生を送つた人です。わしはだれかあの人の伝説を書く人がありやすまいかと思うくらいです"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字2、1-13-22] 手早い奴」となっています。
※誤植を疑った「ジェークス」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:時雨
校正:sogo
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059727",
"作品名": "手早い奴",
"作品名読み": "てばやいやつ",
"ソート用読み": "てはやいやつ",
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"副題読み": "",
"原題": "THE QUICK ONE",
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"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-05-29T00:00:00",
"最終更新日": "2021-04-27T00:00:00",
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"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
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"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
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"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
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} |
[
[
"それを化学的にしらべるにはいくらかひまがかかるかもしれん。そして警察医がその前にここへ来るかもしれん。だからわしははつきり忠告しておきますが、それをなくさないようにすることじや。つまりもしあんたが警察医を待つつもりだとすればな",
"わたしはこの問題をとくまでここにいるつもりです"
],
[
"もちろんあなたはご存じです。でもわたしはまだこの殺人問題についてはあまりよくわからないんです",
"この殺人はとけませんのじや"
],
[
"わしは何かを調査する前に、わかるはずでしたのになあ。あんたが今朝やつてこないうちに、わかつていたはずですがなあ",
"いつたい何を言つてるんですか?"
],
[
"一つだけ小さな要点があつて、そのためにわしは大へん早く見当をつけました。あの医者がひつくりかえしていた古本の中に十七世紀の小冊子が一束ありましたが、わしは或る書名を見つけました――『スタフォード卿の裁判と処刑の真相発表』さて、スタフォードは教皇陰謀事件で処刑されましたが、あの事件の発端はサー・エドモンド・ゴドフリの死という歴史上の探偵物語の一つです。ゴドフリは溝の中で死んでいるのを発見されましたが、いかにも神秘的だつたのは、しめ殺された跡があるのに、その上自分の剣で刺しつらぬかれていたことでした。わしは、この家のだれかがこれから着想したのかもしれないと、すぐに考えました。しかし、あんなことを殺人を実行する方法として使うはずはありません。神秘を作り出す方法として使いたかつただけでしよう。そこでわしは、それがほかの残虐なこまかい点にもすべてあてはまるのに気がつきました。あれはみんな実に悪魔的でした。だが単なる悪魔の仕業ではありませんでした。多少とも許される所がありました……なぜかというと、あの神秘をできるだけ複雑な矛盾したものに見せかけて、わしらがそれをとくのにひまがかかるようにしておかねばならなかつたからです。そこで連中はきのどくな老人を臨終の床から引き出して、死体を一本足ではねさせたり、横ざまにとんぼがえりを打たせたり、実際にはできそうもないあらゆることをやらせました。われわれにとけない問題を出す必要があつたからです。連中は、細道についた自分たちの足跡を掃き清めて、箒をそのままにしておきました。運よくわれわれはその箒からやつと間に合うように見抜いたのじや",
"あなたは間に合うように見抜きましたね。わたしは奴らが残した第二の手がかりにひつかかつて、もう少しグズグズしていたかもしれません……いろんな丸薬をばらまいてありましたからね"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字8、1-13-28] とけない問題」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2021年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059728",
"作品名": "とけない問題",
"作品名読み": "とけないもんだい",
"ソート用読み": "とけないもんたい",
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"副題読み": "",
"原題": "THE INSOLUBLE PROBLEM",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2021-06-14T00:00:00",
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"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"校正に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
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[
[
"あなたは恋の伝言なら木に書くことがあつたと言いましたね。なるほど、事実、あの木にはそれがあるんです……あすこの葉の下に二通りの組合せ文字がからみ合わせてあります――ご存じでしようが、伯母は伯父と結婚するずつと前からこの地所の相続人だつたのです。そして当時すでにあのいまいましいシャレ者の秘書を知つていました。どうも二人はいつもここで会つて、おたがいの誓いを約束の木に書いていたようです。後になつてこの約束の木を別の目的に使つたらしいんです。きつと、感傷か、経済のためでしよう",
"そりや大へん恐ろしい人たちに違いありませんわい"
],
[
"この問題がほかのいろんな問題と違うのは、こういうわけです。どうやら曲者は故意に二つのまつたく違うことをやつてのけたのです……どつちか一つなら成功したかもしれませんが、そいつを両方やつたのではどつちもだめになるだけでしよう。わしの想像では、同じ犯人が過激派の殺人を思わせるような脅迫的宣言を掲示する一方、ふつうの自殺を告白する文句を木に書いたものと、確信します。さて、けつきよくあの宣言はプロレタリアの宣言で、過激な労仂者連中が雇主を殺したくなつて殺したのだとも言えましよう。たとえそれが事実だとしても、なぜその連中が――またはなぜだれかが――まるであべこべの個人的な自殺の跡を残したかという問題の秘密が残ります。したが、そりやたしかに事実ではありません。こういう労仂者連中は、どんなに冷酷でも、そんなことはしなかつたでしようからなあ。わしは連中をかなりよく知つています……彼らの指導者たちを大へんよく知つています。トム・ブルースやホーガンのような連中が、新聞で叩きつけることのできる相手を暗殺して、いろんな違つた方法で痛めつけるだろうと考えるのは、分別のある者なら狂気と名づけるたぐいの精神状態です。いやいや……憤慨した労仂者とは違う、或る男がいたのです……その男がまず最初に憤慨した労仂者の役割を演じてから、続いて自殺した雇主の役割を演じたのです。したが、実に不思議なのは、なぜか? ということです。もしその男が、そいつを自殺に見せかけてスラスラ切り抜けられると思つていたのなら、なぜ最初に殺人の脅迫を公表して自殺説をぶちこわすようなことをしたのでしようか? 殺人より騒ぎの少ない自殺の話に決めたのはあとになつての思いつきだとおつしやるかもしれません。したが殺人の話が出たあとの自殺では騒ぎがなおさら大きくなります。その男としてはみんなの頭を殺人からそらせておくのが目的のすべてであつたのに、あの脅迫状ですでにみんなの頭を殺人のほうに向けてしまつたことを知つていたに違いありません。もし自殺話があとからの思いつきとすれば、ずいぶん考えのない人間のあとからの思いつきでした。したが、わしはこの犯人は大へん考え深い人間だと思つています。これで何か見当がおつきになりますかな?",
"いいや……しかしわれわれは問題さえ見ていないのだとおつしやるあなたのお言葉の意味はわかります。問題は、単にだれがサンドを殺したかというだけじやないんですね……それは、一度ほかの者にサンド殺しの罪をなすりつけておきながら、こんどは自殺だといつてサンド自身に罪をなすりつけようとするのはなぜか、ということです"
],
[
"手短かに言えば、犯人はアパートの中の何かにあるいは何者かにおびえたのです。ときに、なぜあんたはこのアパートに住むことにしたのですか? ……それにまたついでですがヘンリ青年の話では、あんたは引越していらしたとき早朝彼に会う約束だつたそうですな。それは事実ですかな?",
"とんでもない。わたしはあの前の晩ヘンリの伯父から鍵をもらいました。わたしにはなぜヘンリがあの朝ここへ来たのか、まつたく見当がつきません"
],
[
"いつたいあなたはどこからそんなことを見つけ出したのです?",
"たつたいま思い出しましたが、わしは眠つているあいだに見つけたのです"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字7、1-13-27] ピンの先き」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2022年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059731",
"作品名": "ピンの先き",
"作品名読み": "ピンのさき",
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"副題読み": "",
"原題": "THE POINT OF A PIN",
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"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"名": "ギルバート・キース",
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"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"校正に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
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[
[
"あの人は家庭生活を外の物から守ろうとしていますが、それより家庭の中を気持よくしたほうがよくありませんかな?",
"ああ、きみが詭弁的な口実を作ろうとしているのはわかつている。たぶんあの男は細君に多少ガミガミ言つたろうさ。だが彼にしてみればそれだけの権利がある。オイ、きみはかなり食えない男らしいね。たしかにきみは口で言つてる以上にもつとよくあの男のことを知つてる。いつたいこのいまいましい土地で何がはじまろうとしているんだ? なぜきみは一晩中起きていてそれを見とどけようとしているんだね?"
],
[
"そして首のまわりの繩のかわりに繩ばしごで終るんだな……あの女は結婚している女じやないのか?",
"ああ、さようですわい"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※「ミーティア」と「ミーテイア」の混在は、底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字1、1-13-21] ブラウン神父の醜聞」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2021年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059732",
"作品名": "ブラウン神父の醜聞",
"作品名読み": "ブラウンしんぷのしゅうぶん",
"ソート用読み": "ふらうんしんふのしゆうふん",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "THE SCANDAL OF FATHER BROWN ",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-05-29T00:00:00",
"最終更新日": "2021-04-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/card59732.html",
"人物ID": "001123",
"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"校正に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "時雨",
"校正者": "sogo",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/59732_ruby_73185.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2021-04-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/59732_73225.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2021-04-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"ああおねがいですから待ってちょうだい、そしてそんな事を云うのはよしてね、一体これはどうしたの?",
"儀式の献立さ、ホープ嬢"
],
[
"じゃ――すぐに帰って来てもらわないと困るんですがなア。スミスは殺されたばかりじゃない、浚われてしまったんです",
"何ですと?"
],
[
"まアしかし、君達はわしの話を退屈に思いはしないかな。吾々は物事を抽象的の結末から始まるもので、この問題等も、外の所からではどうしてもらちが明かんのじゃ",
"あなたがたはこういう事に気がついた事がありますかな、人というものは決して吾々のきく通りのことを答えんということをな。他人は吾々の問う言葉の意味に対して答えるものでな。まあある婦人が田舎の別荘に他の婦人を訪ねて『こちらにはどなたが御滞在ですか』と訊くとするとその時一方の婦人は『はい給仕男と下男が三人小間使が一人……』などとは――たとえば小間使が客間に居ようとも、給仕男が椅子の背後に控えていようと。――決して答えはしますまい。しかし、医者が伝染病患者の診察に来て、『こちらにどなたがおいでですか?』と訊ねるなら、貴婦人は給仕や小間使やその外の者をも告げるようなものです。すべて言葉というものはそんな風に使われるもので、ほんとの返事を受ける時でさえ、問に対して、文字通りの返事を受けんものじゃ。今四人の正直な人が、建物の中へは一人もはいった者がないと答えたのもこの理窟でな、ほんとの意味で、一人もはいった者がなかった訳ではない。彼等の腹では、問題になるような疑わしい人物は一人もはいらなかったという心算じゃ。実際は一人の人間が建物の中にはいって、そして出て来たんだが、彼等はそれを心にとめなかったまでの事でな"
]
] | 底本:「世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚」平凡社
1930(昭和5)年3月10日発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「貴方→あなた 彼奴→あやつ 有難い→ありがたい 或い→あるい 居→い・お 何時→いつ 於て→おいて 凡そ→およそ か知ら→かしら かも知れ→かもしれ 位→くらい 斯う→こう 此→この 之→これ 凡て→すべて 其処→そこ 其→その・それ 其奴→そやつ 然・然し→しかし 度い→たい 丈け→だけ 唯→ただ 忽ち→たちまち 多分→たぶん 丁度→ちょうど 頂戴→ちょうだい 一寸→ちょっと 何処→どこ 兎も角→ともかく 飛んだ→とんだ 尚・猶→なお 成程→なるほど 筈→はず 殆ど→ほとんど 又・亦→また 迄→まで 間もなく→まもなく 見→み 若し→もし 以て・以って→もって 尤も→もっとも 程→ほど 俺→わし」
※底本は総ルビですが、一部を省きました。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(天野まい・大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2009年8月4日作成
2012年6月17日修正
青空文庫作成ファイル:
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| {
"作品ID": "042931",
"作品名": "見えざる人",
"作品名読み": "みえざるひと",
"ソート用読み": "みえさるひと",
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"原題": "THE INVISIBLE MAN",
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"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
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"底本名1": "世界探偵小説全集 第九卷 ブラウン奇譚",
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} |
[
[
"ぼくはそれほど個人的な秘書ではありません。提督の弁護士は、サトフォード・ハイ町のウイリス・ハードマン・アンド・ダイク事務所です。たしか遺書はそこに預けてあると思います",
"フム、なるべく早く弁護士に会うほうがよさそうだ"
],
[
"死体はどうしたんですか、警部さん?",
"ストレイカー先生がいま本署でしらべています。一時間かそこいらのうちに報告書ができるはずです"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「ロージャー・ルーク」と「ロジャー・ルーク」の混在は底本通りです。
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字4、1-13-24] 緑色の人」となっています。
入力:時雨
校正:sogo
2021年9月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059729",
"作品名": "緑色の人",
"作品名読み": "みどりいろのひと",
"ソート用読み": "みとりいろのひと",
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"原題": "THE GREEN MAN",
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"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-10-09T00:00:00",
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"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
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"入力者": "時雨",
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} |
[
[
"わたしは、ポタス・ポンドがみじめなつまらん小村にすぎないという、あの深紅色の外套を着た紳士の意見には賛成できません。しかし、たしかに大へんへんぴな人里はなれた村ですから、百年前の村のように、ごく風変りな感じがします。やもめ女(糸をつむぐ者という意味)はほんとうに糸をつむいでいます――ええくそ、あなたは連中が糸をつむいでいる姿を見ているような気がするでしよう。女たちはただの女たちではありません。淑女です……それから薬局は、薬局ではなくて薬種屋です。村では、その薬種屋の手伝いをするためにわたしのような平凡な医者の存在を認めているだけです。しかしわたしなどはむしろ若造の新米だと思われています。たつた五十七才で、あの州にたつた二十八年いただけですからな。村の弁護士はまるで二万八千年前からあの土地を知つていたような顔をしています。それから、ディケンズの揷絵そつくりの、海軍の老提督がいます……家中を水夫用の短剣や大イカでいつぱいにして、望遠鏡を備えつけています",
"そりや海岸にはいつも或る程度の数の海軍提督が余生を送つているでしようが、なぜあの連中がそんな遠い奥地に打ち上げられていることがあるのか、わしにはどうもわかりませんでしたのじや"
],
[
"ああ、村では醜聞といつても古風な芝居じみたものです。やがて牧師の息子が当面の問題になるということを申しあげておく必要はないでしようね? もし牧師の息子がごくまともだとしたら、そいつはまともじやないことになるでしようからな。わたしの見るかぎりでは、その息子はまともでないといつても、ごく無難なホンのちよつとした程度です。『青獅子亭』の表でビールを飲んでいる姿を見られたのが最初でした。ただ彼は詩人らしいのですが、詩人などというのはあの土地では密猟者と紙一重ぐらいに思われてますからね",
"まさか、いくらポタス・ポンドにしても、それだけでは大醜聞とは言えますまい"
],
[
"ところで、あの時は彼女が女優だつたというだけで十分醜聞になりました。老牧師はもちろん悲嘆に暮れています……男たらしの女優のために、死ぬまで苦労をしなきやならんと考えているのでしようからな。やもめ女たちは金切り声の合唱です。提督は、時には町の劇場へ行くことがあると認めていますが、いわば『この土地の真中』にこういうことがあつては困ると反対しています。ところで、もちろんわたしはそういうことに特別反対はしません。この女優は、シエクスピアの十四行詩に歌われている例の黒夫人のようなところがいくらかあるとしても、たしかにレデイです……青年は彼女を大へん愛しています。それにわたしはたしかにセンチメンタルなバカおやじで、『お屋敷』の附近をひそかにうろついている心得違いの若者にひそかに同情しています。そしてわたしはこの田園のロマンスにまつたく牧歌的な気分になりかけていました……するとだしぬけに晴天のヘキレキでした。それでわたしは、あの人たちに多少とも同情していた唯一の人間なので、この凶運の使者に立たされたのです",
"なるほど、するとなぜ使者に立たされたのですかな?"
],
[
"フム、そうなんですよ。父は彼女を、白粉を塗つた男たらしだ、にせ金髪の酒場女だと言つて、朝に晩に攻撃するんです。ぼくは、そんな人じやないと、言つてやります……あなたはご自分でお会いになつたので、そんな人じやないのはおわかりでしよう。ですが父は会おうともしないんです。通りがかりのところさえ見ようとしないし、窓からのぞいて見ようともしないんです。女優なんていうものは父の家をけがし、父の神聖な存在さえけがすんでしようよ。それでもし清教徒的だと言われるようなら、おれは大喜びで清教徒になると言うんですよ",
"あなたのお父さまは、たとえどんな意見にしても、ご自分の意見を尊重される資格があります……お父さまのご意見はわし自身にはよくのみこめませんけどな。したがいくらお父さまでも、自分が会つたこともない婦人について独断的な文句をならべて、その上顔を見ることさえ拒絶する資格がないのは、わしも認めます。それでは理屈に合いません",
"それが父の大へんかたくなな所です。ほんのちよつとでも会おうとしないんです。もちろん、父はぼくのそのほかの演劇趣味にも同じようにどなりつけますがね"
],
[
"この村を退屈だなんて言わないことじや。わしは保証しますが、実際ここはなかなか尋常でない村ですわい",
"わたしはいままでこの村で起つた唯一の尋常でないことをあつかつてきたところですよ。それだつてよそから来た人に起つたことです。実をいうと当局は昨夜こつそり死体を発掘しました。わたしは今朝それを解剖しました。わかりやすく言えば、われわれはまつたく毒薬をつめこんであるような死体を掘り出していたのです"
],
[
"ええ、わかると思います。それであなたがあの女優の名前を持ちだしてこられたのですな",
"さよう、つまりあの男が女優を見たくないと言つて狂信的に頑張つていたのを言いたかつたのです。したが実は奴はあの婦人を見るのを反対したのではありません。あの夫人に見られるのを反対したのじや"
]
] | 底本:「〔ブラウン神父の醜聞〕」HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房
1957(昭和32)年3月15日発行
※底本は新字新仮名づかいです。なお平仮名の拗音、促音が並につくられているのは、底本通りです。
※表題は底本では、「※[#ローマ数字9、1-13-29] 村の吸血鬼《ヴァムプ》」となっています。
※誤植を疑った「直黒」を、本文中の他の箇所の表記にそって、あらためました。
入力:時雨
校正:sogo
2022年4月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059730",
"作品名": "村の吸血鬼",
"作品名読み": "むらのヴァムプ",
"ソート用読み": "むらのうあむふ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "THE VAMPIRE OF THE VILLAGE",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 933",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-05-02T00:00:00",
"最終更新日": "2022-04-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/card59730.html",
"人物ID": "001123",
"姓": "チェスタートン",
"名": "ギルバート・キース",
"姓読み": "チェスタートン",
"名読み": "ギルバート・キース",
"姓読みソート用": "ちえすたあとん",
"名読みソート用": "きるはあときいす",
"姓ローマ字": "Chesterton",
"名ローマ字": "Gilbert Keith",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1874-05-29",
"没年月日": "1936-06-14",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "〔ブラウン神父の醜聞〕",
"底本出版社名1": "HAYAKAWA POCKET MYSTERY BOOKS、早川書房",
"底本初版発行年1": "1957(昭和32)年3月15日",
"入力に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"校正に使用した版1": "1957(昭和32)年3月15日",
"底本の親本名1": "",
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"底本出版社名2": "",
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"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "時雨",
"校正者": "sogo",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/59730_ruby_75419.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2022-04-27T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001123/files/59730_75451.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2022-04-27T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"ああ、そりゃお前は知らないかも知れぬ。お前は知らないだろう。けれども出るのは出たんだ。僕がその友達から聞いたんだから",
"いや、知らない。あなたの友達なんか、ちっとも知らない",
"いや、知らないわけはないんだ。お前は知らないんだけど。……四、五日前に、背の低い色の浅黒い、ちょっときりッとした顔の三十ばかりの人間が来たろう"
],
[
"鳥安知っているの?",
"ええ、この間初めてお客に連れていってもらった。そりゃうまかったわ"
],
[
"そりゃいつごろのこと?",
"うむ、ついこの間さ"
],
[
"あの人、好い男だろう",
"本当に好い男よ。私、あんな人大好き。着物なんか絹の物なんか着ないで、着物も羽織も久留米絣かなんかの対のを着て、さっぱりしているわ",
"何か面白い話しがあったか",
"うむ、あんまり饒舌らない人よ。そうしてじろじろ人の顔を見ながら時々口を利いて、ちっとも無駄をいわない人。私あんな人好き"
],
[
"うむ。ゆかない。もう止めだ。つまらないから。君はどうだね?",
"僕もあんまり行かないが、……その後お宮を見ないかね?"
],
[
"どこへゆこう?",
"さあ、どこでもいいが、その、君の先だって行ったところがよかないか"
],
[
"どう見ても高等淫売としか見えない",
"芸者ともどこか違うしねえ",
"そりゃ芸者と違うさ。この間鳥安に連れていった時に鳥安の女中が黙って笑っていたが、これは淫売をつれて来たなと思ったのだろう。少し眼のこえた者には誰れが見てもすぐそれと分るもの"
],
[
"歌舞伎座にもつれて行ったの?",
"うむ",
"いつ?"
],
[
"あら、あれから来たの。だって来たと言わないんだもの",
"僕は来たって、来たということを誰にもいわないもの。名なんかいやあしないもの"
],
[
"あなたの名は何という名?",
"俺には名なんかないのだ"
],
[
"ああ、僕は名なしの権兵衛",
"好い名だわねえ",
"うむ、好い名だろう"
],
[
"君は、どうもしなかったかね?",
"どうもするもんか。あんな小便臭い子供を。お宮はあんな奴を、自分の妹分だといって、あれを他の客によく勧めるんだ。だれがあんな奴を買うものがあるもんか!"
],
[
"ああ、お前はさっきからすぐそこらで買うつもりでいたの? それで私に一人で行って買って来てくれといったのか",
"そうさ! あんな物どこにだってあるよ",
"いや、そりゃいけない。どこかもっと好いところにゆこう",
"日本橋の方へ?",
"ああ",
"そう、じゃ私ちょっと自家へ帰って主婦さんにそういって来るから"
],
[
"じゃ、そっちのにするさ",
"…………",
"これも、なかなかおよろしい柄でございます"
],
[
"いんにゃ、ここでいい、もう怠儀だ",
"怠儀だって、それはあなたの勝手じゃありませんか。あなたはもうここを出て去った人です。一旦切れてしまえば、あなたと私とはもう赤の他人ですから、どこか他へ宿を取るなり、友達のところに行くなり、よそへいって泊って下さい",
"…………",
"ねえ、そうして下さい。ここは私の家です、あなたの家じゃありません。こうしていて明日老母さんに何といいます。あなた私の家の者を馬鹿にしているんだからそんなことは何とも思わないでしょうが、私が翌朝お老母さんに対して言いようがないじゃありませんか。私がすき好んでまたあなたを引き入れでもしたように思われて……",
"…………",
"ねえ、そうして下さい。どっか他へいって泊って下さい。あなたは何をいっても私の言うことなど馬鹿にしている。そうなくてさえ柳町の姉を初め自家の者は皆な私が浮気であなたとこんなことをしているように思っているんですから。あなたは、そりゃ男だし、ちゃんとお銭をかけて一人で食べてゆかれるようにしてある体ですから、浮気をしたっていいでしょうが、私は少しもそんな考えであなたと今まで一緒にいたんじゃない"
],
[
"お前さんはずるいよ、人にこんなに饒舌らしておいて。さあ、どうしてくれるんだ? 雪岡さん、今ここを出ていって下さい",
"あなたがそんなに言わなくっても出てゆくさ。しかし出てゆくには出てゆくで、私の方でも下宿するなりどうするなり、いろいろ準備をしなければならぬから"
],
[
"猫や犬じゃあるまいしそんなに早く出てゆかれるものか",
"お前さんのような道理の分らない人間は猫や犬を見たようなものだ。何だ教育があるの何のといって、人の娘を玩弄にしておいて教育が聴いて呆れらあ。……へんッお前さんなんぞのような田舎者に江戸ッ児が馬鹿にされてたまるものか"
],
[
"何だ。あの物のいい振りは。俺はあんな人間がお前の姉の亭主だと思うと厭だからいわなくとも早くどこか探して出てゆくよ",
"初めガラッと門をあけて入って来た時に、あんまり恐ろしい権幕だったから、私はどうしようかと思った。私を打ちでもするかと思った。私、あれが新さんが厭なの。そりゃ姉の亭主だから義兄さんにいさんと下手に出ていれば親切なことは親切な人なんですけれど",
"なんだ。教育がどうのこうのッて"
],
[
"自家の主婦さあ、雪岡さんのとこなら待合にゆかないでもあっち行って泊らしてもらっといでと、いっているのよ",
"そうか、じゃ僕のところに来てくれたまえ"
],
[
"お宮ちゃん内にいるのはいますが……",
"出られないでしょうか"
],
[
"さあ、どうぞ。……蒲団を……お敷きなさいまし。……雪岡さんというお名は宮ちゃんからたびたびきいています。また先日は宮ちゃんに何より結構なお品をありがとうございました。……宮ちゃん今家にいますよ。この間から少し身体が悪いといって休んでいます。宮ちゃん二階にいるだろう。雪岡さんがいらしったからおいでッて",
"宮ちゃん、汚い風をしているから行きませんて"
],
[
"じゃどこを歩くの?",
"どこってどこでも",
"そんなことをいったって仕方がない。お前はどこへ行きたいんだ",
"私はどこへも行きたかない",
"じゃ行くのが厭なの"
],
[
"そっち厭!",
"じゃどっちだい?"
],
[
"どっちでもゆくさ",
"だってお前、私のゆくという方は厭だというじゃないか"
],
[
"だれだろう? 丸髷に結っていた。……家には丸髷の人多勢いるよ",
"そうかい。いいねえ丸髷。こう背のすらりとした。よく小説本の口絵などにある、永洗という人が描いた女のように眉毛のぼうっと刷いたような顔の女さ",
"ああ、そりゃ菊ちゃんだ。あなたあんな女好き?",
"ああ好きだ。いいねえ丸髷は。宮ちゃんお前も丸髷に結うといい"
],
[
"なぜそんなにぷりぷりするんだい",
"あなた私をうっちゃってゆくんだもの",
"お前、私と一緒に歩くのがさもさも怠儀そうだから"
],
[
"ほんとにどうしたんです。私、あんな浮気な人嫌い。といっていましたよ。あなたどうかしたのでしょう",
"はははは。そうか、じゃわかった。さっきねえ、此家を出てから、私戯談に此家の菊ちゃんのことを、あの女好きな人だって、ほめたの。それでわかった",
"何だ、くだらない。二人で痴話喧嘩をしたお尻を私のところへ持って来たって、私知らないよ。雪岡さん何か奢って下さいよ。……ああそうそうお礼をいうのを忘れていました。さっきはまた子供にまで好いものを。……じゃあなに一と足さきに清月にいっていらしって下さい。あとからすぐ宮ちゃんをやりますから",
"だって歯が痛いとか、頬が脹れたとかいっているんでしょう",
"なに、昨日一日休んでいたからもう快いんですよ。わがままばかりいっているんですよ。……ほんとにあなたにお気の毒さまです。あんな女だと思ってどうぞ末永く可愛がってやって下さい"
],
[
"しばらくだったねえ",
"わたいもしばらくだわ",
"お前さっきどうしてあんなに怒ったんだい",
"あなたが、あんまり菊ちゃんのことばかりいうからさ"
],
[
"じゃ、あの松ちゃんにもこの細くけを一つ買ってやってもよくって",
"うむ",
"何かうまい物を買っていって、食べようじゃないか",
"うむ"
],
[
"僕が出してあげようか",
"出してもらったって仕方がない"
],
[
"あッもう一と足のところでした。惜しいことをした",
"どうしたのです? 誰れか来たのですか"
],
[
"じゃ、おすまでも来ましたか",
"いや、お宮さん。あなたがそこへおかえりになるちょっと前、まだ終点まで行っていられるか、いられないくらいです。お会いになるはずだがなあ。お会いにならなかったですか",
"いえ、会いません。……それで何とかいってゆきましたか"
],
[
"ああ、そうですか。何か用があるんだな",
"ええ、何か御用がありそうでしたよ。お留守ですと申しましたら、ちょっとそこに立って考えていらっしゃいましたが、これをあげますといって、包みのまま置いておかえんなさいました",
"ああ、そうですか。でもよく向うから今日は訪ねて来たな"
],
[
"ああそうですか。あれであんな商売をしているとは思われますまい",
"ほんとにそうですよ。ちっともそんな風は見えません"
],
[
"まさかねえ、蠣殻町の売女を女房にも出来ますまいが、妾にする分にはかまわない。もっとも私は妾でも女房でも同じこったから……何か用があるんだなあ",
"また明日でもおいでになりますよ。何か用がありそうでしたから"
],
[
"老婢さんは?",
"お老婢さんもただ今自分の家にいったとかでいませんです"
],
[
"ええ、……いや知らないの",
"そうじゃあなかろう",
"真実よ。知らないの。ただそうかと思ったからちょっと聞いて見たのさ"
],
[
"どうしたの……大変沈んでいるじゃないか",
"…………",
"何か心配なことでもあるの?"
],
[
"そりゃあ柳沢に逢おうと、だれに逢おうと、どうだって構わないのだが……",
"私、あなた嫌い!",
"そうか、そりゃああんまり好かれてもいないだろうが。嫌いな男のところへ無理に来てもらってお気の毒だったねえ。じゃこれから帰ってもらっても差支えないよ"
],
[
"あなた行かなけりゃ厭!",
"あなたが行かなきゃあッて。お前が自分でいって見ようと言ったんじゃないか",
"…………",
"いって来たらいいだろう。私はもう寝るから"
],
[
"うむ、どっかへ行ってしまった",
"もうどっかへ嫁づいているの?……柳沢さんそんなことをいっていたよ"
],
[
"行くなら行ったらいいじゃないか。何も私に遠慮はいらない",
"ほんとに柳沢さんのところにいってもよくって?",
"そんなにくどく私に訊く必要はないじゃないか。……私にも考えがあるから",
"じゃどうするの?",
"どうもしやあしないさ",
"私、あなた厭。何でもじきに柳沢さんにいってしまうから",
"私が何を柳沢にいった?",
"あなた何だって、私があなたに話したことを柳沢さんにいった",
"うむ、そりゃいったかも知れないが、お前と私とで話したことを話したまでで、他人の噂でもなければ悪口でもない。柳沢こそそうじゃないか、私は柳沢を友達と思っているから、お前のことばかりじゃない。もっと大切な先の妻君のことまで委しく打ち明けて話している。それを柳沢がまた他の者に笑い話しにするこそ好くないことだ。私は自身の恥辱になることをこそいえ、決して他人の迷惑になることをいやあしない"
],
[
"おかみさんも今ちょっと出ていませんよ",
"宮ちゃんは今日どこ?",
"ちょっとそこまで行っています",
"今晩は帰らないだろう",
"ええ、帰りませんでしょうなあ"
],
[
"いつから行っているの?",
"もう大分前からですよ",
"大分前からって、いつごろから?",
"そうですなあ。もう一昨日、その前の日あたりからでしょう",
"一人のお客のところへそんなにいっているの?",
"ええ、そうでしょう。私よく知らないんですよ。……あなた大変気にしているのねえ",
"気にしているというわけもないが、……どこの待合?",
"……さあどこか、私知らないのよ",
"お清さん君知らないことはないだろう。教えてくれないか",
"そりゃ言えないの",
"いえないのは知っているが、教えてくれたまえ"
],
[
"お清さん、主婦さんはどこへいったんだね。大変遅いじゃないか",
"ええ、大変遅うございますねえ、大方活動へでも行ったんでしょう",
"そうか。じゃ僕はまた来ます。お留守にお邪魔しました",
"まあ好いでしょう。お宮ちゃんがいないからって、そう早く帰らなくってもいいでしょう。今におかみさんも帰って来ますよ"
],
[
"うむ、誰れでもないの",
"誰れでもないわけはない。だれだろう。それとも君の好きな柳沢さん?",
"うむ、柳沢さんなんか来るものですか。……よく酒を飲む客。一昨日から芸者を上げて騒いでいるの"
],
[
"これこのとおり君の手紙は持っている。私のさえ返してもらえばその時これも返すから",
"私、ここにあなたの手紙なんか持って来ていないもの",
"だから今というんじゃない。君がも一度よく考えて見て、私の方に来てくれるのが厭ならば、その手紙は私の方に返して欲しいというんだ。君は柳沢さんの方にゆくんだろう",
"そりゃ考えて見るけれど、私、柳沢さんなんか、あなたの友達に身を任すなんてそんなことをする気遣いはない"
],
[
"そりゃ好いなあ。いつ?",
"いつって、今日か明日か分らない"
],
[
"ランプ掃除をしていた神楽坂の女はどうした?",
"あれは、あれっきりさ",
"だってちょっと好い女じゃないか"
],
[
"とにかくよく顔の変る女だ",
"うむ、そうだ。君もよく気のつく人間だなあ。実によく顔の変る女だ"
],
[
"もう出かけるのか",
"うむ、もう出る"
],
[
"ええ",
"じゃあねえ、私がここにいるといわずにちょっと宮ちゃんを呼んでおくれ"
],
[
"…………",
"おい、この下駄はだれの下駄?",
"それは柳沢さんの"
],
[
"じゃ手紙をお返ししますから私の家に来て下さいって。自家の主婦さんが",
"自家の主婦さんて、お前んとこの主婦さんに何も用はない"
],
[
"なに、どうもしやあしないさ。私もうお宮さんのところに来ないから、私からよこしている手紙をもらって行こうと思って",
"つまらない。どうしてそんなことをするんです?……若い人たちのすることは私にはわからない",
"そんなことはどうでもいいんだ。私もこのとおり今まで貰っていた手紙を持って来た。これを戻すんです"
]
] | 底本:「日本の文学 8 田山花袋・岩野泡鳴・近松秋江」中央公論社
1970(昭和45)年5月5日初版発行
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2001年1月30日公開
2006年1月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
[
"大分ありますって、どのくらいあるの",
"さあ、まだ千円ちかくありますやろ"
],
[
"あんたはんが、ただ自分ひとりでそうお思いやしたのどすやろ",
"私が自分ひとりでそう思った?……あんたの体を解決することを",
"ええ、そうどす",
"私が自分ひとりでそう思ったって、あんたの方でも依頼したから送る物を送っていたのじゃないか。いくら私がお前を好いていたって、そっちでも頼まないものを、どこに、自分の身を詰めてまで仕送る道理がない"
],
[
"それはようわかってます。……そやからお金をお返ししますいうてます。何ぼお返ししまよ",
"いや、私は金が返してほしいのじゃない。今お前がいうように、私がこれまでしたことが、ようわかっているなら、少しも早くその商売を止めてもらいたい"
],
[
"私は金が取り戻したいなどとは少しも思っていない。けれども、あんたが真意を打ち明けて、私のところに来てくれようという心が全くないものなら、私もあり余る金ではないから、それで済ますというわけには行かぬ。金でも返してもらうよりしかたがない",
"ほんなら何ぼお返ししまよ"
],
[
"私は金は返して欲しいとは思わない。けれどもあんたが金を返して私との約束を止めようというのなら、私は初めから上げた金を全部返してもらう",
"初めからの金て、どのくらいどす",
"それは、あんた自分でも知っているはずだ。いつかの手紙にも書いたくらいはあるだろう"
],
[
"あの娘があんな我儘いうて、あんたはんに、えらい済まんことどした",
"なに、そんなことはちっとも心配いりません。機嫌さえ直ればいいです"
],
[
"そんなによかったら、ここをあんたはんのまあにしときまひょうか",
"まあとは。……ああ間か、ああどうぞ居間にしておいてもらいたい"
],
[
"どうしていなくなったの。だれかお客さんに引かされたの?",
"さあ、わたし、そんなこと、どや、よう知りまへんけど、病気でもうとうに引かはりました",
"そして、病気で廃めて、藤村さんのおかあさんが連れて去ったの?",
"ちがいます。小父さんが来て連れていかはりました"
],
[
"なるほどそういうわけじゃしようがありませんな。そして、今どこにいるでしょう",
"さあ、その時叔父さんに伴れられて帰ったきり、どこにいるのかそれなりでちょっとも音信がないそうにおす。わたしもそれから用事で大阪の方に往てきまして、今日帰ったばかりのとこどすよって。今日も、あんたはんから訊かれる前に、お園さん、ちょっとも音信がないなあ、どないしてはるやろ言うて噂してましたところどす"
],
[
"あの人旦那なんてありゃしまへん。そりゃ本当の叔父さんどす",
"その叔父のいるところはどこでしょう。あんた知っていませんか"
],
[
"ああそうですか。五、六日前に変りましたか",
"ええ、ついこの間です。たくさんに荷物を持って。お婆さん、私にも挨拶をして下すって、今までは二階借りをしていましたけれど、今度は自分で一軒借りました。気兼ねがなくなりましたから、どうぞ遊びに来て下さいというて行かれましたけれど、私もわざわざ行く用もありませんから、まだ往っては見ませんが、なんでもすぐそこの横町の通りからちょっと入った、やっぱり路次の中だそうです"
],
[
"ほて、今、京都におらしまへんのどす",
"えッ、あそこに寝ているんじゃないんですか。そして、どこにいるんです?"
],
[
"ええ、私も付いていてやりたいは山々どすけど、今いうとおり、医者に見せることもいらん、薬も飲まないでもええ、ただ静かにしておりさえすりゃ好えのやそうにおすさかい、親類のおかみさんが、お母はん、もうちょっとも心配することはない、確かに癒してあげますよって、安心しといでやすいうてくりゃはりますので、そこへ委せてあります",
"遠い親類て、どこです?"
],
[
"二、三里の田舎じゃ、あんまり遠い家でもありません",
"私も、二、三日前にちょっと行って来たきり、こちらの御隠居さんが病院に入ろうかどうしようかいうてはりますくらいで、少しも手が引けませんよって、一遍あとの様子を見に行かんならん思うてもまだ、あんたはん、よう往かれまへんがな。私も、あんたはんがおいでやしたんで、今家を黙って出て来ましたよって、早う去なんと、年寄りの病人さんが、用事があるといけまへんさかい……"
],
[
"あんたはんもまた風邪ひかんように早う往んでお休みやす",
"お母はんもあまり心配せんと。そのうえ自分がまた患ったら困りますよ"
],
[
"そやから、病気さえ良うなったら、あんたはんにも会わせますいうてるやおまへんか",
"きっと会わせますな"
]
] | 底本:「日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江」中央公論社
1970(昭和45)年5月5日初版発行
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2001年6月4日公開
2006年1月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
"ああ、わたし。電報を読んだの?",
"ええ、今読んだとこどす",
"よく、家にいたねえ。こちらは分っているだろう",
"よう分っています",
"それじゃすぐおいで",
"ええ、いても、よろしいけど、そこの人知っとる人多うおすさかい。私顔がさすといけまへんよって。あんたはん、今日そこからどこへおいでやすのどす",
"どこへ、とは? 泊るところ?",
"ええ、そうどす",
"それは、まだ定めてない。あんたに一遍逢ってからでもいいと思って"
],
[
"私、ちょっと肥りましたやろ",
"うむ、ええ血色だ。達者で何より結構だ。そして急に話したいことがあるから来てくれと言ったのは何のことだい?"
],
[
"今まで待っていたけれどあんまり遅いから食べてしまった。まだ?",
"ええ……"
],
[
"いりません。食べんかてよろしい",
"まあ、そんなことをいわないで一緒に食べよう、待っている"
],
[
"ちがいます",
"逢う約束の人がなければ、ここにいたっていいのじゃないか。手紙でこそ月に幾度となく話はしていたけれども二年近くも逢わなかったのだから私にいろんな話したいことがあるのはあんたもようわかっているはずだ",
"そやから帰ってから、後でいいます",
"あんた、何をいっているのか、私には少しもわからない。かえってから後にいうとは。そんなら今ここでいったらいいじゃないか",
"ほんなら、私帰ってすぐあとで使いに手紙を持ってこさします",
"せっかくここへ来て、すぐまた帰るというのが私にはわからないなあ。あんた、もう私に逢わないつもりなの?",
"ちがいます。私またあとで逢います",
"なあんのことをいっているのだか、私には少しも合点がゆかぬ。しかしまあいい。それじゃお前の好きなようにおしなさい。どんなことをいってくるかあんたの手紙を持ってくるのを待っているから。必ず使いをよこすねえ",
"ええ、これから二時間ほどしてから俥屋をおこします。ほんなら待ってとくれやす"
],
[
"お風召すといけまへん。もうお床おのべ致しまひょうか。……あの、どこかちょっとおいきやしたんどすか",
"ああ、お今さんか。あんまり好い心地なのでうとうとしていた。……いや、ちょっと、もう少し待って下さい"
],
[
"おかあはん、あなたがどうしておられるか私、始終、心にかかっていたのです。手紙のたびにあなたのことを訊ねてもどこにいるのか、少しも委しいことを知らないものですから、一向不沙汰をしていました",
"滅相もない。私こそ御不沙汰してます。あんたはんが始終無事にしといやすちゅうこと、いつもあの娘から聞いていました。ほんまにいつもお世話になりまして、お礼の申しようもおへんことどす"
],
[
"わたしが二月に病気で寝ている時これを持って、見舞いに来てくれた人が、その時私を廃めさすいうてくれたんどっせ",
"へえ、そんな深い人があるの",
"深いことも何もおへんけど",
"そして引かすといった時あんたは何と言ったの",
"私、すこし都合がおすさかいいうて断りました",
"その人はどんな人? 何をする人",
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"まだ若い人?",
"若いことおへん。もうおかみさんがあって、子供の三人もある人どす",
"そんな人しかたがないじゃないか",
"そやから、どうもしいしまへん",
"でも向うではお前が好きなのだろう",
"そりゃ、どや知りまへん"
],
[
"それは、そんな商売をしていたって、全く例のないことでもないから。本当?",
"ほんまどすたら"
],
[
"お母はん、悦んではります",
"そうだろうとも。それが、いつか話したお前の病気の時廃めさすといって来た人のこと?……そしてその赤ン坊はどこにいるの? どこかへ里子にでも預けてあるの"
],
[
"こっちゃへ来てからかて、来た当座にはまだ大分持っていましたえ",
"あんたはん、この子何でも人さんに物を上げるのんが好きどすさかい、今のとこへ来た時、あんなところへ来るような人皆な困った末の人たちどすよって、ひどい人やと、それこそ着たままの人がおすさかい、なんでも好きなもんお着やすちゅうて、持ったもの皆な上げてしまいましたのどす",
"初めてそこへ来た時わたし、人が恐うおしたえ",
"それはそうだったろう。ずぶの世間知らずが、どっちを向いても性の知れない者ばかりのところへ入って来たのだから。……それでも体さえ無事でいればまた先きで好いこともある"
]
] | 底本:「日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江」中央公論社
1970(昭和45)年5月5日初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2001年6月4日公開
2006年1月25日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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[
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"私は早崎まで、すぐこの先の地方です。",
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"あゝ左樣ですか、私の老母は當年七十八歳になりますが、先年竹生島へ參詣いたしましたことを話して居りましたので、湖水の風景を觀かた〴〵是非私も參詣したいと思つて居りましたが、今囘漸く宿望を遂げました。誠に聞くに優る美しい景色の處で。",
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]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 西日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
底本の親本:「旅こそよけれ」冨山房
1939(昭和14)年7月発行
※巻末に1919(大正8)年7月記と記載有り。
入力:林 幸雄
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年9月9日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "004715",
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"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1976(昭和51)年8月1日",
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[
[
"そこにいるんなら、今会ったっていいじゃありませんか",
"今ちょっと留守どすさかい。また加減がようなったら、私の方から、あんたはんにお知らせします。もうしばらくの間待ってとくれやす"
],
[
"何か用どすかもないもんだ。用があるから呼んでいるのです。話があるからここを開けて下さい",
"開けられまへん。ここは私の家と違います"
],
[
"それじゃいけない。私を先きに出しやっておいて、ここからまた閉め出そうとするのだろう。今晩はもうその手は喰わないんだから",
"そんなことしいしまへん。あんたはん一足先きいてとくれやす。わたしちょっと遅れて往きます",
"ああそうか、たしかに来るね?",
"ええ往きます"
],
[
"それを彼女が自分で、こうだというのですか",
"ええ、姉さんそうおいいやした。……今のお母はんには何度も子供が生まれても、みんな死んでしもうて、大けうなるまで育たんので、自分はまだ三つか四つかの時分に今の親に貰われて来たのどすて。それで生みの親はどこかにあるちゅうことだけ聴いてはいるが、どこにどないしているかわからんのやそうや。それやよって、二人の間がいつも気が合わんので年中喧嘩ばかりしているけど、何でも自分の心を屈げて親のいうことに従うておらんならんいうて、姉さん今えろう泣いてはりました。私もほんまに貰い泣きをしました"
],
[
"そりゃ可愛い芸者。まだ十四どっせ",
"十四になる芸者、そんな若い芸者があるの。舞妓じゃないの",
"ちがいます。芸妓どす",
"おかしいなあ。なぜ舞妓にならないんだろう",
"さあ、そなことどうや、わたしようわけは知りまへんけど、初めから芸者で出てはります。そりゃ可愛かわい人どっせ、あんたはんに一遍招んでもろとくれやすいうて、わたし内の姐さんから頼まれていました"
],
[
"ええ此間初めて一遍会いました",
"病気はどうどす。わたしも一遍見舞いにいこういこう思うて、ねっからよういきまへん",
"病気はもう大したこともなさそうです。一体不断から病人らしい静かにしている女ですから"
],
[
"ほんまに気の毒どしたわ。皆なほかの人面白がって対手にしてはりましたけど、姐さんわたし何もよういえしまへなんだ。顔を見るさえ辛うて",
"そうやった。眼が凄いように釣り上がって、お園さんのあの細い首が抜け出たように長うなって、怖いこわい顔をして"
],
[
"どうしてです?",
"あんたはんの手紙に警察へ突き出すとか、どうとかするようなことをいうてあったと見えて、そのことをいつもよういうてました。ほかの者警察のことも巡査のことも何も言うておらんのに、お園さん、そら警察から私を連れに来た、警察が来る警察が来るいうて、警察のことばかりいうていました。よっぽどあんたはんの手紙に脅かされたものらしい"
],
[
"三野村さんのようここでお園さんが傍にいるところでいうてはった。……頼りない女や。私が京都にいるからこうしているようなものやけど、東京の方にでも往ってしまえばそれきりやいうて、始終頼りない女やいうてはりました",
"ほんとにそのとおりだ。そしてお園は傍で聴いていて何というのです",
"お園さんただ黙って笑い笑いきいているだけどす。……ほて、そんなに惚れているくせにまた二人てよう喧嘩をする。喧嘩ばかりしていた。三野村さんよう言うてはりました。姉さん、ああして私のところへ遊びに来てくれるのはええが、顔さえ見ればいつでも喧嘩や。そしてしまいにはやっぱり翌日までお花をつけることになるから来てくれるたびに金がいって叶わんいうてはりました。お園さんの方でもほんよう喧嘩をして戻ってかというのに、やっぱり戻らない、喧嘩をしながらいつまで傍についている"
]
] | 底本:「日本の文学 8 田山花袋 岩野泡鳴 近松秋江」中央公論社
1970(昭和45)年5月5日初版発行
入力:久保あきら
校正:松永正敏
2001年6月4日公開
2006年1月26日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品名": "霜凍る宵",
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[
[
"あゝ、あの雲はお天氣らしい雲だねえ。",
"左樣でございますよ。あの雲が明神ヶ岳のところをあゝ西へ上つてゆくと明日はお天氣がよろしうございます。"
]
] | 底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1918(大正7)年6月30日記の記載あり。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "004662",
"作品名": "箱根の山々",
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[
[
"うむ、雨だらう。",
"雨ぢやないよ。起きて見たまへ、雪だよ。"
]
] | 底本:「秋江隨筆」金星堂
1923(大正12)年6月25日発行
初出:「早稻田文學 第百八十二號 大正十年一月號」
1921(大正10)年1月1日発行
※誤植を疑った箇所を、初出の表記にそって、あらためました。
※「ここに」と「こゝに」の混在は、底本通りです。
入力:杉浦鳥見
校正:きりんの手紙
2021年3月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "059864",
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"初出": "「早稻田文學 第百八十二號 大正十年一月號」1921(大正10)年1月1日",
"分類番号": "NDC 914",
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"姓ローマ字": "Chikamatsu",
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[
[
"フウ、……そうだろう、お前にはそんなだらしのないこともなかったろう。他人の腹の中は割ってみなければ何とも言えないというけれど、――そりゃそうだろう。お前が本当に男の肌を知っているのは、私と先の亭主とだけだろう。こうして長くいればたいてい察しられるものだよ。……私には男だけにだいぶあるよ",
"ああ、そうそうそれからこんなことがまだありました"
],
[
"お前とはよく喧嘩をしたり、嫉妬を焼いたりしたもんだなア。あれっきりだんだんあんなことはなくなったねえ",
"ええ、あのころは、あなたが先の連合と私との事についてよくいろんなことをほじって聞いた、前の事を気味悪がり悪がり聞いた",
"ウム。いろんなことを執固く聞いては、それを焼き焼きしたねえ。それでもあの年三月家を持って、半歳ばかりそうであった、が秋になって、蒲生さんの借家に行った時分から止んだねえ",
"ええ、あの時分はあなたがもうどうせ、私とは分れるものと思って、前のことなんぞはどうでもいいと諦めてしまったから",
"だって、またこうしていっしょになっているじゃないか"
],
[
"私、あの時分のように、もう一遍あなたの泣くのが見たい",
"俺はよく泣いたねえ。一度お前を横抱きにして、お前の顔の上にハラハラ涙を落して泣いたことがあったねえ、別れなければならない、と思ったから……",
"ええ"
],
[
"俺はもう、あんなに泣けないよ",
"そうですとも、もう私をどうでもいいと思っているから",
"そうじゃない。もう何もそんなにしいて泣く必要がなくなったからじゃないか"
],
[
"お前先の人と別れた時には泣いたと言ったねえ",
"ええ、それゃ泣きましたさ",
"私ともし別れたって泣いてはくれまい",
"そりゃそうですとも。あなたと私とはもしそんなことがあればあなたが私を棄てるんだもの。……私はもうたいした慾はありません。一生どうかこうかその日に困らぬようになりさえすればいい。あなたも本当に、早くも少し気楽にならなけりゃいけません。仕事を精出してくださいよ",
"まあ、そんなことは、今言わなくったっていい。……先の別れる時に泣いた。……お前いったん戻ってからも、後になって、お前が患っているのを聞いたとかいって、見舞に来て、今までのとおりになってくれって、向うでまたそう言って頼んだんだろう"
],
[
"ええ、そう言って、たって頼みましたけれど、私どうしても聞かなかった。そりゃあなたと違って親切にゃあった。つまり親切に引かれて辛抱したようなものの、最初嫁いで行き早々『ああこれはよくない処へ来た』と自分で思ったくらいだから、何と言ったって、もう帰りゃしません",
"私も、もういつかのように、お前の先の連合のことを、私とお前とがするように、『ああもしたろう、こうもしたろう』と思い沈んで嫉くようなことはしない、……けれどもお前だって少しは思いだすこともあるだろう",
"不断は、そりゃ忘れていますさ。けれどもこんな話をすると、思いださないことはないけれど、七年にも八年にもなることだから忘れてしまった。もうそんなおさらい話を廃しにしましょう",
"まあまあ。いいじゃないか。して聞かしてくれ。……たまには、それでも会ってみたいという好奇心は起らないものかねえ"
],
[
"今日はひとつ鰻でも食おうか",
"ええ、食べましょう"
]
] | 底本:「日本文学全集14 近松秋江集」集英社
1969(昭和44)年2月12日初版
初出:「趣味」
1910(明治43)年3月
入力:住吉
校正:川山隆
2013年5月4日作成
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"作品ID": "053038",
"作品名": "雪の日",
"作品名読み": "ゆきのひ",
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"初出": "「趣味」1910(明治43)年3月",
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"名": "秋江",
"姓読み": "ちかまつ",
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"姓読みソート用": "ちかまつ",
"名読みソート用": "しゆうこう",
"姓ローマ字": "Chikamatsu",
"名ローマ字": "Shuko",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1876-05-04",
"没年月日": "1944-04-23",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本文学全集 14 近松秋江集",
"底本出版社名1": "集英社",
"底本初版発行年1": "1969(昭和44)年2月12日",
"入力に使用した版1": "1969(昭和44)年2月12日初版",
"校正に使用した版1": "1974(昭和49)年5月8日",
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} |
[
[
"そうすると、またあなたが因縁を付けるから……厭だ。",
"だって今夜だけ好いじゃないか。",
"じゃあなた、一足前に帰っていらっしゃい。私柳町に一寸寄って後から行くから。"
],
[
"名は何というの?",
"宮。",
"それが本当の名?",
"えゝ本当は下田しまというんですけれど、此処では宮と言っているんです。",
"宮とは可愛い名だね、え。……お宮さん。",
"えッ。",
"私はお前が気に入ったよ。",
"そうオ……あなたは何をなさる方?",
"さあ何をする人間のように思われるかね。言い当てゝ御覧。"
],
[
"そう……学生じゃなし、商人じゃなし、会社員じゃなし、……判りませんわ。",
"そう……判らないだろう。まあ何かする人だろう。",
"でも気になるわ。",
"そう気にしなくっても心配ない。これでも悪いことをする人間じゃないから。",
"そうじゃないけれど……本当言って御覧なさい。",
"これでも学者見たようなものだ。",
"学者! ……何学者? ……私、学者は好き。"
],
[
"そうか。……じゃ宮という名は、小説で名高い名だが、宮ちゃん、君は小説のお宮を知っているかね?",
"えゝ、あの貫一のお宮でしょう? 知っています。",
"そうか。まあ彼様なものを読む学者だ。私は。",
"じゃあなたは文学者? 小説家?",
"まあ其処等あたりと思っていれば可い。",
"私もそうかと思っていましたわ。……私、文学者とか法学者だとか、そんな人が好き。あなたの名は何というんです?",
"雪岡というんだ。"
],
[
"宮ちゃん、年は幾歳?",
"十九。"
],
[
"宮ちゃん、之れに字を書いて御覧。",
"えゝ書きます。何を?",
"何とでも可いから。",
"何かあなたそう言って下さい。",
"私が言わないったって、君が考えて何か書いたら可いだろう。",
"でもあなた言って下さい。",
"じゃ宮とでも何とでも。",
"……私書けない。",
"書けないことはなかろう、書いてごらん。",
"あなた神経質ねえ。私そんな神経質の人嫌い!",
"…………。",
"分っているから、……あなたのお考えは。あなた私に字を書かして見て何うするつもりか、ちゃんと分っているわ。ですから、後で手紙を上げますよ。あゝ私あなたに済まないことをしたの。名刺を貰ったのを、つい無くして了った。けれど住所はちゃんと憶えています。……××区××町××番地雪岡京太郎というんでしょう。"
],
[
"何ういう人の処へ行っていたの?",
"大学生の処へ行っていたの。……卒業前の法科大学生の処へ行っていたんです。"
],
[
"へえ。大学生! 大学生とは好い人の処へ行っていたものだねえ。どういうような理由から、それがまた斯様な処へ来るようになったの?",
"行って見たら他に細君があったの。"
],
[
"だって、公然、仲に立って世話でもする人はなかったの? お母さんが付いて居ながら、大事な娘の身で、そんな、もう細君のある男の処へ行くなんて。",
"そりゃ、その時は口を利く人はあったの。ですけれど此方がお母さんと二人きりだったから甘く皆なに欺されたの。"
],
[
"ひどい大学生だねえ。お母さんが――さぞ腹を立てたろう。",
"そりゃ怒りましたさ。",
"無理もない、ねえ。……が一体如何な人間だった? 本当の名を言って御覧。"
],
[
"あなた、本当に奥様は無いの?",
"あゝ",
"本当に無いの?",
"本当に無いんだよ。",
"男というものは真個に可笑いよ。細君があれば、あると言って了ったら好さそうなものに此方で、『あなた、奥様があって?』と聞くと、大抵の人があっても無いというよ。",
"じゃ私も有っても無いと言っているように思われるかい?"
],
[
"馬鹿な。別れた細君に何処に会う奴があるものかね。",
"そう……でも其の女のことは矢張し思っているでしょう。",
"そりゃ、何年か連添うた女房だもの、少しは思いもするさ。斯うしていても忘れられないこともある。けれども最早いくら思ったって仕様がないじゃないか。宮ちゃんの、その人のことだって同じことだ。",
"……私、あなたの家に遊びに行くわ。"
],
[
"ある処かね。あれば仕合せなんだが。",
"じゃ遊びに行く。",
"…………",
"奥様がなくって、じゃあなた何様な処にいるの?",
"年取った婆さんに御飯を炊いて貰って二人でいるんだから面白くもないじゃないか。宮ちゃんに遊びに来て貰いたいのは山々だけれど、その婆さんは私が細君と別れた時分のことから、知っているんだから、少しは私も年寄りの手前を慎まなければならぬのに、幾許半歳経つと言ったって、宮ちゃんのような綺麗な若い女に訪ねて来られると、一寸具合が悪いからねえ。屹度変るから変ったらお出で。"
],
[
"じゃ屹度愛想尽かさない?",
"大丈夫!",
"じゃ言う! ……私には情夫があるの!",
"へえッ……今?",
"今……",
"何時から?",
"以前から!"
],
[
"それもそうなの。けれどまだ其の前からあったの。",
"その前からあった! それは何様な人?"
],
[
"そうかい。……だって僕はそう聞かなかった。何時か、熊本と言ったのは譃か、福岡と言っていたこともあったよ。……それらは皆知った男の故郷だろう。",
"そんなことは一々覚えていない。……宇都宮が本当さ!",
"何時東京に出て来たの?",
"丁度、あれは日比谷で焼討のあった時であったから、私は十五の時だ。下谷に親類があって、其処に来ている頃、その直ぐ近くの家に其男もいて、遊びに行ったり来たりしている間に次第にそういう関係になったの。",
"その人も学校に行っていたんだろうが、その時分何処の学校に行っていたんだ?",
"さあ、よく知らないけれど、師範学校とか言っていたよ。"
],
[
"でも師範学枚の免状を見せたよ。",
"免状を見せた。じゃ高等であったか尋常であったか。",
"さあ、そんなことは何方であったか、知らない。",
"その人は国は何処なんだ。年は幾つ? 何と言うの?",
"熊本。……今二十九になるかな。名は吉村定太郎というの。……それはなか〳〵才子なの。",
"ふむ。江馬という人と何うだ?",
"そうだなあ、才子という点から言えば、そりゃ吉村の方が才子だ。",
"男振は?"
],
[
"そりゃ初めはその人の世話にも随分なるにはなったの。……あなたの処に遣った、その手紙に書いているようなことも、私がよく漢語を使うのも皆其の人が先生のように教育してくれたの。……けれど、学資が来ている間はよかったけれど、その内学校を卒業するでしょう。卒業してから学資がぴったり来なくなってから困って了って、それから何することも出来なくなったの。",
"だって可笑いなあ。君がいうように、本当に師範学校に行っていて卒業したのなら、高等の方だとすると、立派なものだ。そんな人が、何故自分の手を付けた若い娘を終に斯様な処に来なければならぬようにするか。……十五で出て来て間もなくというんだから、男を知ったのもその人が屹度初めだろう?"
],
[
"はゝゝゝ。面白いことを言うねえ。もし尋常師範ならば、成程国で卒業して、東京に出てから、ぐれるということもあるかも知れぬが、今二十九で、五年も前からだというから、年を積っても可笑しい。師範学校じゃなかろう。……お前の言うことは何うも分らない。……けれど、まあ其様な根掘り葉掘り聞く必要はないわねえ。……で、一昨日は何うして此処に来ていることが分ったの?",
"下谷に知った家があって、其処から一昨日は電話が掛かって、一寸私に来てくれと言うから、何かと思って行くと、其処に吉村が、ちゃんと来ているの。それを見ると、私ははあッと思って本当にぞっとして了った。",
"ふむ。それで何うした?"
],
[
"何うして分ったろうねえ? お前が此処にいるのが。",
"其処が才子なの。私本当に恐ろしくなるわ。方々探しても、何うしても分らなかったから、口髭なんか剃って了って、一寸見たくらいでは見違えるようにして、私の故郷に行ったの。そうすると、家の者が、皆口じゃ何処にいるか知らない、と甘く言ったけれど、田舎者のことだから間が抜けているでしょう。すると、誰れも一寸居ない間に、吉村が状差しを探して見て、その中に私が此処から遣った手紙が見付かったの。よくそう言ってあるのに、本当に田舎者は仕様がない。",
"ふむ。お前の故郷まで行って探した! じゃ余程深い仲だなあ。……そうして其の人、今何処にいるんだ? 何をしているの?"
],
[
"身装なんか、何様な風をしている?",
"そりゃ汚い身装をしているさ",
"どうも私には、まだ十分解らない処があるが、余程深い理由があるらしい。宮ちゃんも少し何うかして上げれば好い。"
],
[
"うむ〳〵。そうだ。お前の言うことも、私にはよく分っている。……じゃ二人で余程苦労もしたんだろう。",
"そりゃ苦労も随分した。米の一升買いもするし……私、終には月給取って働きに出たよ。",
"へえ、そりゃえらい。何処に?",
"上野に博覧会のあった時に、あの日本橋に山本という葉茶屋があるでしょう。彼処の出店に会計係になっても出るし、それから神保町の東京堂の店員になって出ていたこともある。……博覧会に出ていた時なんか、暑うい時分に、私は朝早くから起きて、自分で御飯を炊いて、私が一日居なくっても好いようにして出て行く。その後で、晩に遅くなって帰って見ると、家では、朝から酒ばッかり飲んで、何にもしないでいるんですもの。……",
"酒飲みじゃ仕様がない。……酒乱だな。"
],
[
"えゝ、少しゃそれに似たこともあったんですが、何うして、それがおばさんに分って?",
"ですから悪いことは出来ませんよ。……チャンと私には分ってますよ。",
"へえ! 不思議ですねえ。"
],
[
"へーえッ! 其様なことまで! 何うしてそれが分ったでしょう?",
"それから女の処から屡く手紙が来るというではありませんか。",
"へッ! 手紙の来ることまで!"
],
[
"否、お雪さんは行きゃしないが、お母さんが、お雪さんの処へ行って、そう言ったんでしょう。……そうして此の頃何だか、ひどくソワ〳〵して、一寸々々泊っても来るって。帰ると思って、戸を締めないで置くもんだから不用心で仕様が無いって。",
"へーえッ! あの婆さんが、そう言った。譃だ! 年寄に其様なことが、一々分る道理が無いもの。",
"それでも、お母さんが、そう言ったって。お母さんですよ。違やあしませんよ。……あれで矢張し吾が娘に関したことだから、幾許年を取っていても、気に掛けているんでしょうよ、……何うしても雪岡という人は駄目だから、お前も、もう其の積りでいるが好いって、お雪さんに、そう言っていたそうですよ。"
],
[
"ですからお雪さんだって、あなたの動静を遠くから、あゝして見ているんですよ。嫁いてなんかいやしませんよ。",
"そうでしょうか?"
],
[
"えゝ、そう思うには思ったんですけれど、種々都合があってねえ。……それに自家の姉さんも、まあ、も少し考えたが好いというしねえ。……あなたまた入らしって下さい。",
"あゝ、行くよ。"
],
[
"左様なら!",
"さよなら!"
],
[
"何とか言っていましたか。",
"いえ。別に何とも。……唯皆様に宜く言って下さいって。"
]
] | 底本:「黒髪・別れたる妻に送る手紙」講談社文芸文庫、講談社
1997(平成9)年6月10日第1刷発行
底本の親本:「日本現代文学全集45 近松秋江・葛西善蔵集」講談社
1965(昭和40)年10月
※作品名は底本の親本では『別れた妻に送る手紙』ですが、「本書では、単行本『別れたる妻に送る手紙』(大正二年十月南北社刊)の表記に従った。」と書かれていました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:kompass
校正:土屋隆
2004年8月11日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "004713",
"作品名": "別れたる妻に送る手紙",
"作品名読み": "わかれたるつまにおくるてがみ",
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"原題": "",
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"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"姓読み": "ちかまつ",
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"姓ローマ字": "Chikamatsu",
"名ローマ字": "Shuko",
"役割フラグ": "著者",
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"底本出版社名1": "講談社文芸文庫、講談社",
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[
[
"いゝえ。",
"もう一遍行つて見てお出。"
],
[
"馬鹿な事をお言ひなさい。",
"だつて、お父うさんの目丈があたいを見てゐて、お父うさんは動かずにゐるの。"
],
[
"どうですな。新聞に祟られた御病人は。",
"眠つてゐますが。",
"結構々々。それが一番好い。"
],
[
"いや。奥さん。ひどい寒さですね。雪が沓の下できゆつきゆと云つてゐます。かう云ふ天気が僕は好きです。列氏の十八度とは恐れ入りましたね。御病人は。",
"あの矢張休んでゐます。先程お茶とパンを一つ戴きました。右の手はまだちつとも動きません。足の方も動きませんの。それに目も片々は好く見えないと申しますが。",
"好うがす、好うがす。何もそんなに心配なさらなくても宜しい。沓がきゆつきゆと云ふには驚きましたよ。列氏十八度ですからね。"
],
[
"どうだい。蜻蜓。旨く飛べるかい。",
"あたい蜻蜓なんかぢやなくつてよ。",
"そんなら蚤だ。"
],
[
"一体外国には盛んな事がありますね。",
"あなたは外国にお出の事がありましたか。"
],
[
"おい。ホレエシヨ君。(シエエクスピイアのハムレツト中の人物。)君は厭に黙り込んでゐるね。君は我輩共と飲んで丈はくれる。だがね、それでは僕は満足しない。一つ演説を願はう。君の信仰箇条を打ち明け給へ。君の Profession de foi をね。",
"何を言へと云ふのです。",
"君のプログラムさ。我輩共の新聞に対して、君はどんな態度を取らうと思つてゐるのだ。僕は頂天立地的の好漢だ。厭に黙つてゐる奴は嫌ひだ。おい。どうだね。",
"遣り給へ。遣り給へ、プラトン・アレクセエヰツチユ君。",
"東西、東西。"
],
[
"急ぎの原稿ですね。なんにもいかゞはしいものはありますまいね。",
"ありません。"
],
[
"どうもわたくしも一々読んで見ることは出来ませんからな。一体本職の方も相応に急がしいのです。とても時間がないのです。それにあなたゞから、正直を言ひますが、わたくしはもう大ぶ年が寄つたものですから、何か少し考へると、直ぐに頭痛がしましてね。これで昔は多少教育も受けたのですが、もう何もかもすつかり忘れてしまひました。どうも此頃は健忘とでも云ふ様な事があつて、上役に挨拶をする時、間違つた事を言つてなりません。こなひだも皇族にお目通りをして、閣下と云つてしまつたですなあ。皇族ですよ。あはゝ、なんだか、折々かう精神錯乱と云ふやうな風になるのですよ。それに目も段々悪くなります。新聞なんぞは、かう云ふ風に、遠い処へ持つて行かないと、読めないですなあ。さうすると手が草臥れるです。一つ見台のやうなものを拵へさせて、その上に置いて読んで見ようかとも思ふのです。あの、それ、音楽家が譜を載せるやうなものですなあ。",
"楽譜架ですか。",
"それです、それです。"
],
[
"何か御命令がございますか。",
"なに。わたくしはあなたに命令をいたすことは出来ないですが、少し願ひたい事があるのです。どうもわたくしは好く忘れてなりませんが、あなたの方で外交の事を書いてゐるのは。",
"クリユキンです。",
"ロシアの臣民ですな。",
"何事ですか。",
"いゝえ、なに。格別な事ではありません。無論お呼び立て申したのは、少しわけがあるのですが、どうもどう申して宜しいか。兎に角、御交際は御交際、公務は公務といたさなくてはなりませんが。",
"そこでどうしたと仰やるのですか。要点丈は一寸お示し下さらなくては、わたくしの方でも判断が附きません。",
"実はそのクリユキンさんですか、其方がいつも革命々々と云ふ事をお書きになるですな。なんだかかう、その革命と云ふものを掴まへて、引つ張つて来たいと云ふ風に見えるですな。"
],
[
"いや。さうでないです。わたくしの申すことは間違つてはゐないやうですがなあ。一体これはあなたに申す筈ではないのですが、実はわたくしが読んで見て、発見いたしたのではありません。或るその筋の。",
"ふん。なる、なる。それはクリユキンの文章に革命と云ふ詞があるかも知れませんが、あつたつて差支なささうなものですがなあ。フランス革命と云ふやうな、歴史上の事実は、誰だつて言ひも書きもしますからなあ。どの新聞でも、雑誌でも御覧になるが好い。革命と云ふ字の丸で書いてないのは、一号だつてありますまい。何も差支なささうなものですが。"
],
[
"どうも全文削除となつて見ると、理由が伺ひたいのですが。",
"全文悪いです。",
"どう悪いですか。",
"実は昨日フランスの記事で。いや。詰まり、好くないです。",
"それは行けません。"
],
[
"併しあなただつてわたくしが丸で理由なしに、こんな事をし出したのだとは思はないでせうが。",
"それは御辯解が出来るなら、其筋でなさつたら好いでせう。",
"わたくしが何もフランスにしろ、外の国にしろ、余所の国に対して、どうと云ふ考のないことは、あなただつてお分かりでせうがなあ。"
],
[
"あなた、なぜそんなに宅をお困らせなさいますの。こんな年寄りを。",
"好いよ〳〵、グラツシヤア。お前なんぞが出なくても好いよ。ほんに〳〵己は気でも違はなければ好いが。",
"ねえ、あなた。ミハイル・イワノヰツチユさん。宅は新聞の事で、随分色々な目に逢つてゐますのですから、どうぞあなたまでが、そんなに仰やらないで。",
"いゝえ、奥さん、どうもそれは違ひますなあ。わたくしが御主人をおいぢめ申すのではありません。御主人がわたくし共をおいぢめになりますので。",
"あら。そんな事を仰やつたつて、わたくし本当だとは思ひません。蠅一匹殺さない宅の事でございますもの。"
],
[
"もし〳〵。あんな記事をなぜ出させるのですか。",
"あなたはどなたです。",
"鉄道課長です。",
"なんと仰やるのですか。",
"なぜ新聞にあんな記事をお出させになるかと申すので。"
],
[
"どなたです。",
"知事だがね。"
],
[
"どうも市長の事のある記事は通過させられないのです。侮辱だと云はれますからなあ。こつちがひどい目に逢ふです。いつかもあなたに話した筈ですが。",
"でも此記事には少しも市長を侮辱してゐる処はないぢやありませんか。排水工事の事が言つてある丈で。"
],
[
"いや。どうもいたし方がありません。其筋へお話をしませう。あまりひどいですから。",
"そんなら御勝手に。"
],
[
"どなたですか。",
"知事だがなあ。なぜ排水工事の記事を削除するのか。"
],
[
"なに。ちつとも聞えない。なーぜーはーいーすーゐーこーうーじーのーきーじーをーつーうーくわーさーせーなーいーかーと云ふのだがなあ。",
"余り悪く、実際より悪く書いてありますから。",
"なに。もつと大きな声で言はんか。"
]
] | 底本:「鴎外選集 第15巻」岩波書店
1980(昭和55)年1月22日第1刷発行
初出:「三田文学 二ノ七」
1911(明治44)年7月1日
入力:tatsuki
校正:山根生也
2001年12月15日公開
2006年1月3日修正
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "002071",
"作品名": "板ばさみ",
"作品名読み": "いたばさみ",
"ソート用読み": "いたはさみ",
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"原題": "Der Zensor(独訳)",
"初出": "「三田文学 二ノ七」1911(明治44)年7月1日",
"分類番号": "NDC 983",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
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"名": "オイゲン",
"姓読み": "チリコフ",
"名読み": "オイゲン",
"姓読みソート用": "ちりこふ",
"名読みソート用": "おいけん",
"姓ローマ字": "Chirikov",
"名ローマ字": "Evgenii",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864",
"没年月日": "1932",
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"底本名1": "鴎外選集 第15巻",
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} |
[
[
"なにかもつと着せてくれよ。寒くつて寒くつてたまらないよ。",
"なんだつて? 寒い? ちよッ。"
],
[
"どうしたの? こゞえちやつたんかね。鼻をほら、鼻をかくさないかよ。家へいくまでに鼻がなくなつちまふよ。みなさい、まあ、なんておまいさまの鼻、赤くなつてんだ。",
"なんだい。鼻なんかどうだつていゝぢやないか、はやくやれよ。"
],
[
"ばか、世界中でお砂糖よりおいしいものはないと思つてゐるんだね。おまい、本がよめるかい?",
"よめるよ。少しぐらゐ。",
"ぢやあ、字をかくのは?",
"字をみてかくんならできるよ。それよりもおまいさまァまだ卒業しないのかね。",
"まだだつて? もう七年、中学にゐて、それから五年大学へいくんだよ。そしてお医者になるんだよ。",
"ぢやあ、なにもかも勉強しなくちやあならないんだね。大へんだなァ。",
"おまい、町へいつたことがあるかい?",
"あるもんか。――ちよつ、はしれ、こおら、ちきしようめ。"
],
[
"あゝ神さま。もうだめだ。",
"こおら、ちきしよう。走れい。"
],
[
"なにが?",
"狼が出てくるよ。",
"狼? こんなところに狼がゐるもんか。ゐたつて、そりの鈴の音をききやあ、ふつとんで、にげちまふよ。",
"ぢやあ盗棒がきたら?"
],
[
"ふうん。",
"で、マカルをぢさんは讃美歌をうたひ出したんだと。けふぞマリヤを、つてのをよ。それをきくと、ばけものゝやつは、蠅になつてさ、蠅によ。そして、雪あらしの中をぴゆう〳〵ふつとんで、どつかへにげてしまつたんだつて。",
"うそだらう。",
"うそ? それぢやあこんな話だつてあるよ。クリスマスの前の晩には、魔法使の女が臼にのつてやつてきて、まつ黒な鬼と一しよに輪になつてをどつたり、うたつたりするんだといふよ。そして、朝お寺の鐘がなるとみんな蠅になるんだつて。",
"それだつて、うそだい。"
],
[
"ほら、あの光つてゐるの、なんだらう。",
"あれやあ火だよ。"
],
[
"村の家のあかりだよ。",
"村だつて? やァ、ばんざァい。"
],
[
"お母さん、ね、ぼくリカに乗せてきてもらつたの。",
"あら、ニキフォールぢあなかつたの?",
"えゝ。"
],
[
"あいつめ、あんな小ぞうつ子にコーリヤを送つてよこさせるなんて、ひどいやつだ。リカはどこにゐるんだ。",
"台所に。馬に乾草をやつて、じぶんはストーヴの上であたつてゐるの。"
],
[
"一たい、おまいみたいなものをよこすなんてどうしたわけだ。おまい、いくつだ。",
"おれァ赤ん坊ぢあねえよ。"
],
[
"もつと遠くへだつて一人でいくんだよ。ここまでぐらゐなんでもねえよ。",
"とちゆうで、もし、まちがひがあつたらどうするんだ。おまいにはまだ馬がじゆうにはなるまい。",
"おれに?"
],
[
"あの腰かけの上によ。",
"なんの上に?",
"腰かけの上だつていふに。",
"だつて、まくらがないよ。",
"まくらなんかいらない。坊ちやん、おれに砂糖をすこしもつてきてくんねえか。"
],
[
"お母ちやま、コーリカをつれてきてもいゝでせう。",
"どうして?",
"蓄音器をみせてやるの。"
],
[
"これ〳〵、かけるんぢやありません。それから靴はぬがせるんですよ。",
"もうぬいでるの。"
],
[
"なんだ。",
"なんでもいゝからおいでよ。",
"よし、いく。"
],
[
"ほら、この箱ね、この箱の中に魔法使がゐるんだよ。",
"うそう。",
"うそだつて?"
],
[
"まあ、なんです?",
"リカつたら、お母さん、リカつたらね、蓄音器をこはがつてるのよ。"
],
[
"もう少しゐさせてあげてよ、ね。",
"いゝえ、もうたくさんですよ。さあ、あつちへいきなさい、リカ。"
],
[
"あ、さうだつけ、おくさま、駄賃をおくれよ。",
"あげますとも。",
"ぢやァ、今すぐおくんなさい。でないとおら、あすは夜あけにいくだから。",
"あいよ、すぐ女中にもつてよこさせます。さあ、あつちへおいで。",
"おらに、ぢかに、ください。その方がまちがひがないから。夜明けにはやくいかないと父ちやんは泊るでねえつていつたんだから、しかられるといけないから。"
],
[
"なにを焼いてるの?",
"うなぎよ。",
"うふん、この家の人たちは、うなぎを食ふのかい。ふうん、おらが村のだんなは毎日鳩をくふよ。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第一〇巻」ほるぷ出版
1978(昭和53)年11月30日初刷発行
底本の親本:「鈴木三重吉童話全集 第八巻」文泉堂書店
1975(昭和50)年9月
初出:「赤い鳥」赤い鳥社
1932(昭和7)年1月~2月
入力:tatsuki
校正:noriko saito
2007年11月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045197",
"作品名": "そり(童話)",
"作品名読み": "そり(どうわ)",
"ソート用読み": "そりとうわ",
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"原題": "",
"初出": "「赤い鳥」1932(昭和7)年1月~2月",
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"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓読み": "チリコフ",
"名読み": "オイゲン",
"姓読みソート用": "ちりこふ",
"名読みソート用": "おいけん",
"姓ローマ字": "Chirikov",
"名ローマ字": "Evgenii",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1864",
"没年月日": "1932",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第一〇巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1978(昭和53)年11月30日",
"入力に使用した版1": "1978(昭和53)年11月30日初刷",
"校正に使用した版1": "1978(昭和53)年11月30日初刷",
"底本の親本名1": "鈴木三重吉童話全集 第八巻",
"底本の親本出版社名1": "文泉堂書店",
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} |
[
[
"倩さん、倩さんか",
"え、え、私よ、宙さん"
],
[
"私は、私は、貴君のことが気になって、立っても、いても、いられなくなりましたから、家を逃げだして、夢中になって走って来ました",
"倩さん、あんたの心が判った、私は伯父さんに、もう何んと思われてもかまわない、決してあなたを離さない"
],
[
"さあ、他人行儀はいらんことだ、早くあがるがいい、伯母さんもお前のことを云って待ち兼ねてる",
"ほんとに相済んことをいたしております、今日は、お詫びに帰りました",
"何のお詫びをすることがある、さあ、あがるがいい",
"そうおっしゃられると、穴へ入りたいほどでございます、倩娘もいっしょに帰って来ておりますが、伯父さんのお許しを得てからと思いまして、船へ残してまいりました"
],
[
"でも、確に、倩娘は私が蜀に往く時、私の船を追っかけて来ましたから、伯父さんには相すまんと知りつつ、いっしょに蜀へ往って、二人の小供までできました、小供もいっしょに伴れて来て、船の中に残してあります、嘘とおっしゃるなら、いっしょに往ってください",
"そんな馬鹿なことがあるものか、倩娘は確に寝てる、そんなことはない"
]
] | 底本:「書物の王国11 分身」国書刊行会
1999(平成11)年1月22日初版第1刷発行
底本の親本:「支那怪談全集」桃源社
入力:門田裕志
校正:小林繁雄
2003年9月5日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "005000",
"作品名": "倩娘",
"作品名読み": "せいじょう",
"ソート用読み": "せいしよう",
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"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC 923",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2003-10-06T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-18T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001057/card5000.html",
"人物ID": "001057",
"姓": "陳",
"名": "玄祐",
"姓読み": "ちん",
"名読み": "げんゆう",
"姓読みソート用": "ちん",
"名読みソート用": "けんゆう",
"姓ローマ字": "Chen",
"名ローマ字": "Xuanyou",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "",
"没年月日": "",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "書物の王国11 分身",
"底本出版社名1": "国書刊行会",
"底本初版発行年1": "1999(平成11)年1月22日",
"入力に使用した版1": "1999(平成11)年1月22日初版第1刷",
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"底本の親本名1": "支那怪談全集",
"底本の親本出版社名1": "桃源社",
"底本の親本初版発行年1": "1970(昭和45)年11月30日",
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"入力者": "門田裕志",
"校正者": "小林繁雄",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"これ、いくらですか。",
"百五十円です。"
],
[
"ミル爺さん、気がついたかね。",
"おやジムさん、ぜんたいどうしたんだねわしは。ボウトが恐ろしく高い波の上に放りあげられたのを知っているが、それからあとは夢のようだよ。"
],
[
"これさ。これがお爺さんのおみやげさ。",
"なんだ、卵か。つまんないな。"
]
] | 底本:「赤い鳥傑作集」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年6月25日発行
1974(昭和49)年9月10日29刷改版
1981(昭和56)年3月10日39刷
底本の親本:「赤い鳥 復刻版」日本近代文学館
1968(昭和43)年11月20日
初出:「赤い鳥 第二十一巻第五号」赤い鳥社
1928(昭和3)年11月号
※表題は底本では、「海《うみ》からきた卵《たまご》」となっています。
入力:sogo
校正:noriko saito
2017年6月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "057857",
"作品名": "海からきた卵",
"作品名読み": "うみからきたたまご",
"ソート用読み": "うみからきたたまこ",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「赤い鳥 第二十一巻第五号」赤い鳥社、1928(昭和3)年11月号",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2017-08-07T00:00:00",
"最終更新日": "2017-07-17T00:00:00",
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"姓": "塚原",
"名": "健二郎",
"姓読み": "つかはら",
"名読み": "けんじろう",
"姓読みソート用": "つかはら",
"名読みソート用": "けんしろう",
"姓ローマ字": "Tsukahara",
"名ローマ字": "Kenjiro",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-02-16",
"没年月日": "1965-08-07",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "赤い鳥傑作集",
"底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社",
"底本初版発行年1": "1955(昭和30)年6月25日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年3月10日39刷",
"校正に使用した版1": "1981(昭和56)年3月10日39刷",
"底本の親本名1": "赤い鳥 復刻版",
"底本の親本出版社名1": "日本近代文学館",
"底本の親本初版発行年1": "1968(昭和43)年11月20日",
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"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "sogo",
"校正者": "noriko saito",
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"テキストファイル最終更新日": "2017-06-25T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"おい、御山に酔ったね、しっかりしないか、見っともないぜ",
"笑談じゃない、そうじゃない雪焼けだよ、どうも頭痛がして、それに顔が火のようにほてってたまらないんだ、君は何ともないのかい",
"ははあ雪焼けですか、上品な皮膚だから、そう云やあ真紅だぜ、それで這いずるんだから、先ず蟹さね、それにしちゃ余り足が長いが"
],
[
"おい! どうした",
"何ともない、君は",
"大丈夫だ、何ともない"
],
[
"ドクター、どうだい、煙草でも喫わないか、シガー上げようか",
"シガーはいやだ、パイプがほしいんだが、アヴァランシュの騒ぎで何処かへ落しちゃった、村へ出るまで禁煙だ。ひどい目に逢ったよ、煙草はなくすし、折角撮したフィルムもすっかり落しちゃったし",
"僕は金入れをなくしてしまった。正金の信用状と現金が少しばかり入れてあったんだが、後で捜しに遣らなきゃ、村へ出ても一寸困るから……パイプはそこにあるよ"
],
[
"ヘッスラー、どうだい、痛むか",
"否、じっとしてればそんなではござりましねえ",
"山を下りたらどうする、グリンデルワルトで療治するか",
"いいえ、ウンテルゼーエンのシュピタールが一番いいだでね、山から来る衆は、みんなそこに行かっしゃるだ、一日六フランだで、そう大してはかかりましねえ",
"近藤君どうする、ベルネルホーフに行くのも気が利かないし、第一不便だから、兎に角病院に入ろうか、山から来る衆がみんな行くんなら大丈夫だろう"
],
[
"ドクター、どうだい、少しはいいのかい",
"どうも閉口したよ、君はどんなだ",
"今朝診察を受けて、レェントゲン光線で折れたところが分った、こうしていれば別に痛くはない、ドクター、この病院はなかなか居心地がいいよ、酒も飲まして呉れるし、煙草も許しを得ておいたから",
"そりゃいいや、途中散々考えたよ、窮屈なんじゃないかと思って、室も中々いいね、周りも広いし、ホテルに居るより綺麗でいいや、時にヘッスラーはどうしたい",
"彼奴は診察の度に悲鳴をあげるんでね、それにかみさんや娘がやって来て泣き出すし、うるさくっていけないから、君と同室の約束だって、さっきあっちの室にやってしまった",
"そりゃいい都合だ、君、煙草をもってないか、刻みをすっかり飲んじゃって",
"パイプをなくしたと思ったら君かい、御蔭でひどい目に逢った"
],
[
"横浜におるウォルター・ウェストンを知ってますか",
"古い友人ですよく知ってます"
]
] | 底本:「スウィス日記」平凡社ライブラリー、平凡社
1998(平成10)年2月15日初版第1刷
底本の親本:「スウィス日記」講談社文庫、講談社
1977(昭和52)年8月15日第1刷発行
初出:序「スウイス日記」横山書店
1922(大正11)年8月12日発行
「リヨン――シェネーフ」から「ラゴ・マジョーレ」まで「山岳 第十年第一号」日本山岳会
1915(大正4)年9月
「コモの湖」から「オーベル・ピンツガウ」まで「山岳 第十年第二号」日本山岳会
1915(大正4)年12月
「ベルン」から「シュピーツ」まで「山岳 第十年第三号、第十一年第二号」日本山岳会
1916(大正5)年5月、1916(大正5)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※画像は、「スウィス日記」梓書房、1936(昭和11)年6月発行からとりました。
※「中々」と「仲々」、「小供」と「子供」、「ウェイトレッス」と「ウェートレッス」、「ピラミッド」と「ピラミット」、「ギーセン・グレッチャー」と「ギーセングレッチャー」、「アイガー・ワント」と「アイガーワント」、「セガンティニ」と「セガンテイニ」、「アイガー・グレッチャー」と「アイガー・グレッチェル」、「グローセル・アレッチ・グレッチャー」と「グローセル・アレッチ・グレッチュル」、「グッギイ・グレッチャー」と「グッギー・グレッチャー」と「グッギーグレッチャー」、「グレッチェル・グラス」と「グレッチャー・グラス」と「雪除眼鏡《グレッチェルグラース》」と「グレッチェルグラス」、「ブオン・ジオルノ」と「ブォン・ジオルノ」と「ボンジオルノ」、「アイガーグラート」と「アイガー・グラート」、「ウンテラールグレッチェル」と「ウンテラール・グレッチェル」と「ウンテラール・グレッチャー」の混在は、底本通りです。
※「七葉樹」に対するルビの「ヒッポカスタノ」「ウィルトカスタニエン」「ウィルトカスタニー」は、底本通りです。
入力:富田晶子
校正:雪森
2021年8月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059445",
"作品名": "スウィス日記",
"作品名読み": "スウィスにっき",
"ソート用読み": "すういすにつき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "序「スウイス日記」横山書店、1922(大正11)年8月12日<br>「リヨン——シェネーフ」から「ラゴ・マジョーレ」まで「山岳 第十年第一号」日本山岳会、1915(大正4)年9月<br>「コモの湖」から「オーベル・ピンツガウ」まで「山岳 第十年第二号」日本山岳会、1915(大正4)年12月<br> 「ベルン」から「シュピーツ」まで「山岳 第十年第三号、第十一年第二号」日本山岳会、1916(大正5)年5月、1916(大正5)年12月",
"分類番号": "NDC 293",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2021-09-01T00:00:00",
"最終更新日": "2022-03-30T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/000277/card59445.html",
"人物ID": "000277",
"姓": "辻村",
"名": "伊助",
"姓読み": "つじむら",
"名読み": "いすけ",
"姓読みソート用": "つしむら",
"名読みソート用": "いすけ",
"姓ローマ字": "Tsujimura",
"名ローマ字": "Isuke",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1886-04-22",
"没年月日": "1923-09-01",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "スウィス日記",
"底本出版社名1": "平凡社ライブラリー、平凡社",
"底本初版発行年1": "1998(平成10)年2月15日",
"入力に使用した版1": "1998(平成10)年2月15日初版第1刷",
"校正に使用した版1": "1998(平成10)年2月15日初版第1刷",
"底本の親本名1": "スウィス日記",
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"底本の親本初版発行年1": "1977(昭和52)年8月15日",
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"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"小僧つてお寺の小僧かい。",
"何にお寺なものか、お寺ならお師匠さまがゐて可愛がつて下さるだらうが、山の小僧は木の股から生れたから、お父さんもお母さんもなしの一人ぽつちよ。",
"おばあさんもないの。",
"ああ、おばあさんもないのだよ。",
"それで小僧は着物をきてゐるのかい。",
"着物くらゐはきてゐるだらうよ。",
"誰が着物を縫つてくれるの。",
"そんなことは知らないよ。大方木の葉の衣かなんだらう。"
],
[
"小僧は山からとんできてどうするの。",
"人の家の門へ立つて、モシ〳〵火にあたらせておくんなさい、なんて云ふのだらう。",
"そして、火にあたらせてもらふの。",
"いゝえ、火になんぞあたれない。",
"なぜ。",
"小僧のいふことは、誰の耳にもきこえないのだから、いくら大きな声をしたとて聞えない。もしかすれば、今じぶんお家の門へきて立つてゐるかも知れない。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「原つぱ」古今書院
1928(昭和3)年4月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年7月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045132",
"作品名": "大寒小寒",
"作品名読み": "おおさむこさむ",
"ソート用読み": "おおさむこさむ",
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"初出": "",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-08-30T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/card45132.html",
"人物ID": "001179",
"姓": "土田",
"名": "耕平",
"姓読み": "つちだ",
"名読み": "こうへい",
"姓読みソート用": "つちた",
"名読みソート用": "こうへい",
"姓ローマ字": "Tsuchida",
"名ローマ字": "Kohei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-25",
"没年月日": "1940-08-12",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第九巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"底本の親本名1": "原つぱ",
"底本の親本出版社名1": "古今書院",
"底本の親本初版発行年1": "1928(昭和3)年4月",
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"入力者": "菅野朋子",
"校正者": "noriko saito",
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[
[
"ぢや、帰りにもらつて行くべ。馬に乗つけて――",
"あゝ柿と一しよに買つて行つておくれ。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「夕焼」古今書院
1932(昭和7)年5月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年7月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045131",
"作品名": "柿",
"作品名読み": "かき",
"ソート用読み": "かき",
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"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-08-26T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/card45131.html",
"人物ID": "001179",
"姓": "土田",
"名": "耕平",
"姓読み": "つちだ",
"名読み": "こうへい",
"姓読みソート用": "つちた",
"名読みソート用": "こうへい",
"姓ローマ字": "Tsuchida",
"名ローマ字": "Kohei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-25",
"没年月日": "1940-08-12",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第九巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"底本の親本名1": "夕焼",
"底本の親本出版社名1": "古今書院",
"底本の親本初版発行年1": "1932(昭和7)年5月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "菅野朋子",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/files/45131_ruby_43603.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2011-07-14T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/files/45131_44468.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-07-14T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"障子をあけて見ようかね、おばあさん。",
"いゝえ、外は寒いからこのまゝがいゝよ。"
],
[
"おばあさん、何か話をして!",
"まあお待ち、今考へてゐるところだよ。"
],
[
"今夜はちつと恐い話をして聞かせようぞ。",
"恐い話ならなほおもしろいや。",
"よし〳〵それでは狐に化された話をせう。",
"狐に? 誰が化されたの",
"おばあさんが。",
"おばあさんが化された? ほんたうなの?",
"ほんたうとも、まあお聞き。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「蓮の実」古今書院
1926(大正15)年10月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年10月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045135",
"作品名": "狐に化された話",
"作品名読み": "きつねにばかされたはなし",
"ソート用読み": "きつねにはかされたはなし",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2011-11-20T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/card45135.html",
"人物ID": "001179",
"姓": "土田",
"名": "耕平",
"姓読み": "つちだ",
"名読み": "こうへい",
"姓読みソート用": "つちた",
"名読みソート用": "こうへい",
"姓ローマ字": "Tsuchida",
"名ローマ字": "Kohei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-25",
"没年月日": "1940-08-12",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第九巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"底本の親本名1": "蓮の実",
"底本の親本出版社名1": "古今書院",
"底本の親本初版発行年1": "1926(大正15)年10月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "菅野朋子",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/files/45135_ruby_44729.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2011-10-10T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/files/45135_45454.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2011-10-10T00:00:00",
"XHTML/HTMLファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"親鸞さまの石ぢや。",
"しんらんさまの石?",
"ウム。親鸞さまの石ぢや。"
],
[
"イヤ、ちがふ。",
"しんらんさまつて何?"
],
[
"それが石をどうしたの。",
"親鸞さまが、ここをお通りになつた。たつといお方ぢやけど、かうして、わしのやうな遍路すがたでな。それが、おそろしく海の荒れた日で、親は子知らず、子は親知らずといふ難所ぢや、そら、あそこに見えるぢやろ。"
],
[
"だつて、お遍路さんがさういつてゐたもの。",
"まだそんなことをいつてゐる。親鸞上人はいつの人だとおもふ。七百年もむかしの人だぜ。",
"だつてお遍路さんは、ほんきにさがしてゐたもの。",
"お遍路さんなんて、何も知らないさ。ぼくのいふことが、うそだとおもふなら、学校へ行つて、先生にきいてみな。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「夕焼」古今書院
1932(昭和7)年5月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年7月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"どこへ行かうかな",
"大きくなつたら",
"海へ――空へ――遠いところへ――"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「土田耕平遺稿第二巻」古今書院
1942(昭和17)年8月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2010年12月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "045148",
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"峯はまだ遠いの?",
"もうじきだよ。あの山のかげ。"
],
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"ずいぶん寒かったな。",
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]
] | 底本:「信州・こども文学館 第5巻 語り残したおくり物 あしたへの橋」郷土出版社
2002(平成14)年7月15日初版発行
底本の親本:「土田耕平著作集 第3巻 童話集」謙光社
1985(昭和60)年12月10日
初出:「童話」コドモ社
1924(大正13)年4月
入力:林 幸雄
校正:sogo
2019年7月30日作成
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[
[
"峯はまだ遠いの?",
"もうぢきだよ。あの山のかげ。"
],
[
"ずゐぶん寒かつたな。",
"えゝ。千代子が泣いた時には、わたしも泣きたいやうでした。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「鹿の眼」古今書院
1924(大正13)年10月
初出:「童話」コドモ社
1924(大正13)年4月
入力:川山隆
校正:noriko saito
2013年11月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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"作品ID": "045137",
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[
[
"お父さん八の字の道を知つてゐるの?",
"知つてゐるとも。",
"のぼつたことがあるの?",
"あるとも。",
"いつ?",
"さうさ、いつだつたかな。おまへがまだ生れない頃だらう。"
],
[
"お父さん、こつちだろ。",
"ウム、さうだ。",
"まだ、とても遠いの?",
"ウム。"
],
[
"お父さん、この水ぬくいよ。",
"さうか。涌きだちの清水だからな。"
],
[
"八の字ゴウロだ。",
"さう、これが?",
"八の字の右の棒の、一ばん端のところだ。"
],
[
"これが八の字の右の棒だ。",
"左の棒は?",
"左の棒は、ここでは見えんな。どうだ。大きな八の字だらう。むかし、天狗さまが書いたのだ。八万八千と書くつもりなのが、八の字一つかいたら、山一ぱいになつてしまつた……",
"八万八千つて何?",
"天狗さまの年だろさ。",
"さう。"
],
[
"おべんたう、たべないか。",
"こゝで?",
"ウム。",
"もつと上へ行かないの?",
"ぢや、ゴウロのはしまで行くか。"
],
[
"お父さん、きこえる?",
"ウム。きこえる。",
"何が?",
"何がつて、川の音だろ。",
"さうだ。",
"…………",
"お父さん、ねぶたい?",
"ウム。",
"おれ、ねむたくない。",
"…………"
],
[
"お父さん、かへらうか。",
"ウム。かへらう。",
"こんどは、向うの方を――",
"よし〳〵。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「夕焼」古今書院
1932(昭和7)年5月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2011年7月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "045129",
"作品名": "八の字山",
"作品名読み": "はちのじやま",
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"名": "耕平",
"姓読み": "つちだ",
"名読み": "こうへい",
"姓読みソート用": "つちた",
"名読みソート用": "こうへい",
"姓ローマ字": "Tsuchida",
"名ローマ字": "Kohei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-25",
"没年月日": "1940-08-12",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第九巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"底本の親本名1": "夕焼",
"底本の親本出版社名1": "古今書院",
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[
[
"あツ、小さな猫。どこの猫だらうね、お母さん。",
"大方、棄て猫だらうよ。",
"棄て猫つて?",
"人が棄てたのよ。猫はたくさん子を生むから、それをみんな飼つておくわけにいかないからね。"
],
[
"お母さん、家の猫にしたらよくない。",
"えゝ、飼つてもいゝけれど、今にお父さんがおかへりになつたら話して見てね。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第九巻」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
底本の親本:「鹿の眼」古今書院
1924(大正13)年10月
入力:菅野朋子
校正:noriko saito
2013年8月8日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "045142",
"作品名": "身代り",
"作品名読み": "みがわり",
"ソート用読み": "みかわり",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字旧仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2013-09-03T00:00:00",
"最終更新日": "2014-09-16T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/card45142.html",
"人物ID": "001179",
"姓": "土田",
"名": "耕平",
"姓読み": "つちだ",
"名読み": "こうへい",
"姓読みソート用": "つちた",
"名読みソート用": "こうへい",
"姓ローマ字": "Tsuchida",
"名ローマ字": "Kohei",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1895-01-25",
"没年月日": "1940-08-12",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第九巻",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"校正に使用した版1": "1977(昭和52)年11月20日初刷",
"底本の親本名1": "鹿の眼",
"底本の親本出版社名1": "古今書院",
"底本の親本初版発行年1": "1924(大正13)年10月",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "菅野朋子",
"校正者": "noriko saito",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/files/45142_ruby_51140.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2013-08-08T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001179/files/45142_51141.html",
"XHTML/HTMLファイル最終更新日": "2013-08-08T00:00:00",
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"XHTML/HTMLファイル文字集合": "JIS X 0208",
"XHTML/HTMLファイル修正回数": "0"
} |
[
[
"きょと作じゃない子が溝い落ちるかい、きょときょとしよるさかい",
"きょときょとやこい、しやせんわい、健、克ちゃんがいつもどんなんか思て目つぶって歩いてみたら、気いつけたのに落ちたんじゃい"
],
[
"はーい",
"これどこのばあやん?"
],
[
"ほんなら、お母さんは?",
"うちで毛糸あみよる"
],
[
"みんなが何ちゃせんのに克が石ぶつけたか?",
"ん"
],
[
"ウ、メ",
"サ、ク、ラ!",
"ウメ、ウメ、ウメ、ウメエ!",
"サクラ、サクラ、サクラ――"
],
[
"克はな、一人で行きよったら危ないんじゃ、目々が悪いせに",
"ほんなら健ちゃんと手々ひいていくが"
],
[
"盲学校はおもっしょいぞ、お母さんが克ちゃんなら盲学校い行きたいな。盲学校は誰っちゃ、克をなぶったり、泣かしたりしやせん。赤いステッキくれて、それをついて歩きよったら、自動車や自転車やが突きあたらんように通ってくれる",
"どして?",
"自動車のおっさんがな、おお、あの子は赤いステッキ持っとるぞ、ははあ、目々が悪い子じゃげな。ようし、突きあたらんように横の方を走らんならん。そう思て克の横の方を通るん",
"自転車は?",
"自転車もそう思う"
],
[
"ああ、盲学校い行きたいなお母さんは――克ちゃんは幼稚園な",
"えいいん",
"ほんな、どこい行きたいん",
"盲学校行くんじゃい",
"あれっ、さっき幼稚園い行くいいよったん誰ぞいや"
]
] | 底本:「日本文学全集76 壺井栄 芝木好子集」集英社
1973(昭和48)年11月8日発行
初出:「中央公論」
1940(昭和15)年2月
入力:芝裕久
校正:koharubiyori
2020年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059830",
"作品名": "赤いステッキ",
"作品名読み": "あかいステッキ",
"ソート用読み": "あかいすてつき",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「中央公論」1940(昭和15)年2月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-08-05T00:00:00",
"最終更新日": "2020-07-27T00:00:00",
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"人物ID": "001875",
"姓": "壺井",
"名": "栄",
"姓読み": "つぼい",
"名読み": "さかえ",
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"名読みソート用": "さかえ",
"姓ローマ字": "Tsuboi",
"名ローマ字": "Sakae",
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"生年月日": "1899-08-05",
"没年月日": "1967-06-23",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本文学全集76 壺井栄 芝木好子集",
"底本出版社名1": "集英社",
"底本初版発行年1": "1973(昭和48)年11月8日",
"入力に使用した版1": "1973(昭和48)年11月8日",
"校正に使用した版1": "1976(昭和51)年10月15日第3版",
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} |
[
[
"なにせ、おじいさんは、あの橋の上で、カ子になんぼか泣かれたか知れんて、すると、伝右衛門のおばさんが出てきて、カキモチなどくれたもんじゃ。そのうちおじいさんもちえがでてきてのう、いったん橋を渡っておいてそれから、一足進んでは二足戻り、二足歩いては三足戻りして、カ子をごまかしよった。",
"どうしてさっさと歩かないの。",
"そんなこというたって、授業の途中で乳をやるわけにゃいかんもん。",
"ああそうか。"
],
[
"ありゃお前、四つ位の時じゃったぞ、それにたんぼじゃない、山じゃったよ、お前をつれてドングリの苗を植えに行った帰りじゃった。おじいさんが苗を植えよる間に、カ子はヒメユリやトラノオや、いろんな草花をそこらじゅうで一抱えほどもつんできて、持って帰りよったのう。雨がひどく降り出してきておじいさんがカルコにのせてカ子をおぶってやっても、カ子はその花を抱えていて、なんぼ捨ていというても離さんもんで、おじいさんの首筋から花のしずくが流れこんできて、おじいさんはかぜをひいてしもうた。それもおぼえとるかい。",
"そんなことおぼえとらんけんど、おじいさんの手拭で頬かぶりしたの、知っとるわ。",
"ふむそうかいな、それはおじいさんは忘れとったのう。そんなら、泳ぎに行って、おぼれかけたのはおぼえとるかい、ありゃカ子が五つか六つの夏じゃったで。",
"えっ、私がおぼれかけたの、どこで。"
],
[
"おじいさん、ミカン畑賛成じゃ、そのかはりモモの木も植えてよ。",
"ほほう、桃の木か、そりゃ面白かろうな。"
]
] | 底本:「日本児童文学大系 第二二巻 北川千代 壺井栄集」ほるぷ出版
1977(昭和52)年11月20日初刷発行
1983(昭和58)年12月20日5刷発行
底本の親本:「あんずの花の咲くころ」小峰出版
1948(昭和23)年4月15日発行
初出:「少女の友」実業之日本社
1943(昭和18)年6月
※「おじいさん」と「おぢいさん」の混在は、底本通りです。
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2021年11月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059949",
"作品名": "おるすばん",
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"ソート用読み": "おるすはん",
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"初出": "「少女の友」実業之日本社、1943(昭和18)年6月",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
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"公開日": "2021-12-17T00:00:00",
"最終更新日": "2021-11-27T00:00:00",
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"姓": "壺井",
"名": "栄",
"姓読み": "つぼい",
"名読み": "さかえ",
"姓読みソート用": "つほい",
"名読みソート用": "さかえ",
"姓ローマ字": "Tsuboi",
"名ローマ字": "Sakae",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-08-05",
"没年月日": "1967-06-23",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本児童文学大系 第二二巻 北川千代 壺井栄集",
"底本出版社名1": "ほるぷ出版",
"底本初版発行年1": "1977(昭和52)年11月20日",
"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年12月20日5刷",
"校正に使用した版1": "1991(平成3)年12月10日6刷",
"底本の親本名1": "あんずの花の咲くころ",
"底本の親本出版社名1": "小峰書店",
"底本の親本初版発行年1": "1948(昭和23)年4月15日",
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} |
[
[
"ひい、ふう、みい、よお、いつ、むう、なな……ああ、一ぱいなってるよ。",
"ああよかった。よかったね、洋ちゃん。"
],
[
"よかったね。洋ちゃん。",
"うん。",
"あんまりよくないの。",
"ううん。",
"うれしくないみたいだよ。",
"おじいさんが生きてればもっといいんだがな。",
"ほんとだ。でもしょうがないもの。柿の花、供えてあげようか。"
],
[
"ぼくは、男だと思う。",
"私は女の子よ。"
],
[
"ね、姉ちゃん、もしも男の子だったら、ぼくが勝ったんだから百円くれるね。",
"うんあげる、そのかわり女の子だったら洋ちゃんがくれるんだよ。",
"うん。",
"ゆびきり。"
],
[
"さあ、ゆびきりしたんじゃないか。百円おくれよ。いや、二人だから二百円だよ。",
"さあ、たった今、二百円おくれ。"
],
[
"いやよ。ふたごのことなんか、ゆびきりしないわ。一人なら百円あげるけど、ふたごだからあげないわよ。",
"だって、男だったじゃないか。"
],
[
"いやだよ。両方ともあげない。",
"そんなら、洋一でもいいや。",
"いやだったら。",
"ふうん、そうか。そんなけちん坊とは、あきれたね。だいたいお前んとこと、おじさんちは昔から、何でもやったりとったりしてるんだぞ。考えてみな、お前のおかあさんはおじさんちからあげたろう。そしてうちのおばさんはここからもらったろう。",
"そりゃ、女だもん、お嫁にいくのあたり前じゃないか。",
"女じゃなくても、いいじゃないか。まあ見てごらん、赤ん坊は同じ顔してるよ。二人もあるんだから、一人ぐらい、いいじゃないか。",
"いやったら、いやだよ。夏みかんや柿とちがうよ。"
],
[
"さあ、つれて帰んな、やるよ。",
"ほんと、三太郎おじさん。",
"ほんととも。山羊がいるのは、おまえんとこじゃないか。"
],
[
"おじさん、あげるよ。ぼく、あげてもいいよ。",
"そうかい。しかし、おじさんも考えたよ。新之助が大きくなってから、どういうかわからんからな。"
],
[
"柿の実はなぜ、あーおい。",
"まだしぶいから、あーおい。"
],
[
"柿の実はなぜ、あーかい。",
"甘いから、あーかい。",
"柿の葉はなぜ、あーおい。",
"青いから、あーおい。",
"ちがうよ、まだうれんからだよ。",
"ちがいませんよ、もう赤い実も、あーるよ。",
"そんなら、葉っぱだって、赤いのがあーるよ。"
],
[
"おじさん、今年の柿、小さいね。",
"ふむ。"
],
[
"あるにはあるけどもさ、まだ実が五つぐらいしかならないもん。",
"あたり前さ、はじめからたくさんはならんよ。桃栗三年柿八年といってな、何でも約束があるんだよ。この木が年よりになったのも約束さ。人間と同じだ。お前たちが大人になると、小さい柿も大きくなるよ。あ、そうだ、新之助にも一本、くれるか。"
]
] | 底本:「壺井栄童話集」新潮文庫、新潮社
1958(昭和33)年3月20日発行
1983(昭和58)年7月30日39刷
初出:「柿の木のある家」山の木書店
1949(昭和24)年4月20日発行
「海のたましひ」大日本雄辯會講談社
1944(昭和19)年6月14日初版発行
※初出時の表題は「海のたましひ」です。執筆時の表題は「柿の木のある家」でしたが、戦時中のため、出版時に改題されました。戦後、「海のたましひ」の主人公の父に関する箇所を削除、改作、本来の表題にもどして山の木書店から発行されました。
※誤植を疑った箇所を、「柿の木のある家」山の木書店、1949(昭和24)年4月20日発行の表記にそって、あらためようとしましたが、同じ表現でした。「海のたましひ」講談社発行の表記ではそれぞれ、「おしやうばんの」、「たりないのです」でした。著者の「海のたましひ」への拘りを考慮して、改作初版の「柿の木のある家」山の木書店どおりにママ注記としました。
入力:諸富千英子
校正:芝裕久
2020年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058602",
"作品名": "柿の木のある家",
"作品名読み": "かきのきのあるいえ",
"ソート用読み": "かきのきのあるいえ",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「柿の木のある家」山の木書店、1949(昭和24)年4月20日<br>「海のたましひ」大日本雄辯會講談社、1944(昭和19)年6月14日",
"分類番号": "NDC K913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
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"姓": "壺井",
"名": "栄",
"姓読み": "つぼい",
"名読み": "さかえ",
"姓読みソート用": "つほい",
"名読みソート用": "さかえ",
"姓ローマ字": "Tsuboi",
"名ローマ字": "Sakae",
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"生年月日": "1899-08-05",
"没年月日": "1967-06-23",
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"底本出版社名1": "新潮文庫、新潮社",
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"入力に使用した版1": "1983(昭和58)年7月30日39刷",
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} |
[
[
"火曜日の晩。",
"そんなら、もう一ぺん指きりじゃ。うち、迎えに出る。",
"よし、ゆびきり。"
],
[
"あら、あんた主人の妹さん!",
"はい。",
"わたしはまた、ごめんなさい、勘ちがいして。今日たのんだ女中さんが、早や来てくれたのかしらと思ったんですよ。それにしちゃあ、表から入ってくるなんて、様子がおかしいと思ったりして。失礼しました。さあさあ、寒かったでしょう。あったかいそばでも、とりましょう。"
],
[
"お貸ししますがね、御家族は?",
"あのう、夫婦ふたりなんです。"
],
[
"これまで、どちらに?",
"あのう、田舎にいまして、いまは深川の兄の家におりますけれど。",
"新婚ですか。",
"はあ。",
"お勤めですか。",
"はあ。"
],
[
"ね、わたしがいったら、昨日のあの家も貸してくれたかもしれないわ。",
"そうですよ。あんたがいかないからさ。",
"あの家、よかったわね。"
],
[
"新婚ですかって、きいたわ。",
"どういったの。",
"仕方がないでしょう。"
],
[
"でも、家へは手紙かいてくださいね。わたし、三日で帰るって出てきたんですから。",
"兄さんにも、手紙かこう。"
],
[
"渋谷までは分かってるね。玉川電車を三宿で下りて、ここが煙草屋。横丁をまっすぐいって世田谷中学、小学校、オブラート工場と。橋を渡って右へ――もう分かるでしょう。",
"分かります。わたし、さき来て掃除してますわ。"
],
[
"見物、したかい。",
"ええ。",
"銀座や浅草にもいったかい。",
"ええ。"
],
[
"ふーん。脊椎はもういいのかね。",
"ええ、あの、ハシカ以来、なおったらしいです。ウミ、出ないんですもの。",
"そりゃよかった。お前がそんな気なら、わしも心がけとくよ。嫁のほしいのは何ぼでもいるよ。しかし、わしのぐるりは商人ばっかりでな。それでもええか。"
],
[
"こんなことって、あるかしら。恥かし。",
"あたりまえですよ。",
"なんだか、へんな気もち。これでいいのかしら。",
"いいも悪いも、ないじゃないの。"
],
[
"大丈夫だよ。結婚したからにはぼく、すぐ仕事さがすからね。",
"わたしも、仕事さがしますわ。ふたりで働いて、ちゃんと暮しましょうね。"
],
[
"大家さんの質屋にいくんですか。",
"ああ。知らない質屋は、だめなんだよ。",
"でもいやですわ。しょっぱなから……",
"仕方がないさ。ちゃんと暮すためには食わずにいるわけに、ゆくまい。"
],
[
"東京って、やっぱりおもしろいと思うわ。着物と羽織と時計とで、こんなたくさん買物ができるなんて。",
"…………",
"わたし、さっき、ちょっとつらかったけれど、もう後悔していませんわ。"
],
[
"あなたの家って、やっぱり、格式ばったこというのね。わたしの家へ申しわけないなんてことないわ。あいこですもの。むしろわたしの方が押しかけてきたみたいな形ですもの。",
"押しかけ女房か。",
"そこへゆくと、わたしのうちなんて、ものわかりがいいわね。よくぞ押しかけたと喜んでるみたい。"
],
[
"まあ、どうして?",
"親不孝の、証拠品さ。"
],
[
"Nたちの晩めし、いらないよ。",
"そう。",
"なるべく、早く帰るからね。"
],
[
"帰ってきたら入れないわ。わたし、よしましょうかしら。",
"大丈夫よ。修造さんのいるところへ連れてってあげますよ。もしも会えなかったら、送ってきてあげるわ。"
],
[
"ね、多枝さん、今夜はIさんとこへ帰らないのよ。",
"へえ。どうして。",
"察しが悪いのね、あんた。"
],
[
"わたしんとこへお泊りじゃないんですか。",
"そんな気の利かんこと、わたしはしないわよ。"
],
[
"扶佐子さんに会わなかった?",
"いいや。",
"おもしろかったわ、今日。なんとかミラセチって人や、ドンさんにあったの。"
],
[
"でも、ああいうとこ、もうこりこりよ。わたしきらい。いつもあんなの。修造くんによろしくっていった人もあったわ、みんなふよごろ(口ばかり達者でごろごろしている人間)みたいですもの。小豆島ならさしずめ、みんなふよごろだといわれるわ。",
"そうだろ。ぼくも、ふよごろだろうっていうんだろ。"
],
[
"食いつめて、なんにもなくなると家へ帰るんだ。友だちの着物をかりてね。すると、おふくろが心配してね、親父や兄きにないしょで、姉とこそこそ相談しては、夏冬一通りのものをこしらえてくれるのさ。それをもって上京する。また、すってんてんになって帰る。そんなことしてたら、行李はいつのまにか八つになったんだな。もっとあったろう。置き逃げした下宿もあるからね――。",
"まあ、やっぱりいい家はちがうのね、わたしのうちだと、そんなことしてもらえないわ。",
"その方がいいんだよ。こんな恥っさらし、しなくていいもの。今になって驚いちゃったよ、ぼくも。何か入ってるのかと思って、大きいやつをあけたら、中に行李があるだろ。そいつをあけたら、また行李さ。"
],
[
"そういうぼくなんだからな。あいそつかすなら、今だよ。",
"そうね。でもわたし、行李もってきたあなたって、やっぱりおもしろいと思うわ。あいそつかすの、待とう。"
],
[
"ありゃあ借りてたんだよ。Sの一帳羅を。",
"あれが一帳羅。"
],
[
"ね、あなたの着るもの買ったら。",
"それほどの余裕あるかね。質も出さんならんし、家賃も払わんならんし。それよりも、おれ、あまったら靴買いたいんだ。"
],
[
"あんたって、ほんとに不孝者だと思われてたのね。",
"てたんじゃなくて、てるんだよ。",
"わたしもそうよ。心配のかけ通しだったわ。でも……"
],
[
"にようた(似合った)釜に、にようた蓋かもしれん。",
"われ鍋に、とじぶただろ。"
],
[
"ね、となりどうしで暮しましょうよ。いいじゃないの。森があって、わが家のごとく、人通りもなく静かで、井村さんだって勉強できるわ。別荘みたいじゃないの。",
"そうね。",
"貧乏したってさ、両方が一しょってことばかりじゃないから助けあえるわ。",
"そうね。そしたらわたしも寂しくなくていいんですけどね。修造さん、どういいますか。"
],
[
"井村さんは?",
"金策にいったんですけど。",
"そう。宅のNさんもそうなのよ。帰りにここへよると思うけど。ね奥さん、お宅ご飯ない?",
"あらあ。",
"昨日から、水ばかりなのよ。"
],
[
"ようし、あんた一銭もない?",
"一銭ぐらい、あるかしら。"
],
[
"そばかす女って、いいのよ。知ってる?",
"そうですか。"
],
[
"あんたじゃないわ。あの人たちよ。リャク、リャクって、自慢みたいにいってる人たちよ。",
"あの連中はあの連中さ。資本家に搾取されるのはごめんだというんだろ。",
"へえ、そして女は搾取してもいいの。",
"…………",
"みんな、横着な顔にみえるわ。Nさんだって、Iさんだって、女だけにいやな仕事さして、いばってるの。",
"うるさいな。"
],
[
"姉さんの手紙、みたわ。",
"…………",
"どうして、わたしにかくすの。どうしてわたしにきかないの。",
"おれには分かってたからさ。",
"分かってれば、見せたっていいでしょ。倉島さんなんて、大っきらいなのに。",
"森田の方はそうじゃないというのか。"
],
[
"幸福ですか。",
"どうしてそんなこと、きくんですか。",
"いや、ちょっと気になったのでね。",
"…………",
"彼は、花柳病をもってますよ。知ってますか。",
"知ってますわ。でも、それがどしたんですの。",
"べつにどうもしないですがね。――井村は変りましたね。茂ちゃんが変えたんだろうな。"
],
[
"困ると、ぼくにいわれても、これ、めいわくですがね。",
"ごぞんじだったんでしょう。",
"知ってましたよ、それは。荷作り手伝ったぐらいですから。しかし、まさか大家さんに無断だとは知らなかったですね。",
"ご冗談でしょう。――ところで、どつらですか、お引っこす先は。",
"さあ、まだ知らせてこないんでね。"
],
[
"ええ。",
"そんなはずが、あるでしょうか。あんなにお仲よしでしたのに。",
"…………",
"かくしてらっしゃるんでしょう。",
"いいえ。",
"おかしいですね。信じられませんわ。",
"そうですか。",
"まったく、油断がなりませんね。",
"そうですね。"
],
[
"ね、越しましょうか。年のうちに。",
"そうだね。Hの家の近所にも、借家、たくさんあるよ。しかし、年内はむりだな。講演会でもすんでからにしようよ。"
],
[
"ね、どうしてもわたし、感心しないわ。操子さんまでが、とうとうK紡績へ手紙出したのよ。",
"へえ。",
"アナキストって、なんていやらしいの。あなたも前にはあんなことしてたの。",
"ああ。",
"けいべつに価いするわ。",
"そうだよ。自分でもいやんなっちゃうよ、今じゃあ。その時としての言い分はあったがね。",
"きたないわ。そのくせ、二口目には、ボル(ボルシェヴィキ)の奴ら、ボルの奴らで、ガーン。ボルの奴らに政権とらせてなるもんかよ、なんて、まるで資本家よりもそっちの方が目の敵なのね。二円ぐらいに喜んでさ。わたしはよく分からないけれど、アナだってボルだって、貧乏人をなくする主義なんでしょ、リャクなんてしないで、堂々とやればいいのに。"
],
[
"えらいよ、お前は。",
"馬鹿にしないでよ。冗談じゃないんですもの。",
"そうさ。冗談じゃないよ。そのうち、おれもはっきりする日がくるからね。近いうちだよ、それは。",
"そうお。"
],
[
"殺されると思った。",
"Tさんも、Eさんも?"
],
[
"まるで、やくざとおなじじゃないか。俺はいっさい抵抗しなかったよ。Uの奴、なぐっておいて、『これがおれたちの運動だ! おぼえとけっ。』ていったよ。それを聞いたらおれ、すうっとしたね。勝った! と思ったよ。",
"こわいわねえ。",
"ただね、心外なことが一つある。秘密だった場所が、なぜ黒連の連中に知れたか、だよ。――Aの奴が通謀したんだよ、きっと。",
"HさんやOさんたち、知らなかったの。そして、とめてくれなかったの。",
"ああ、みんな、ぽかんとしてみてたよ。友情なんてものも、頼りないものさ。しかし、とつぜんのことだから、HもOもGもびっくりしてしまって、手が出なかったということもある。うっかりとめて、きさまも一味か、なんていわれんともかぎらんしね。黒連が引きあげてからも、しばらくは、ぽかんとしていたよ。",
"でもまあ、死ななくて、よかったわ。"
],
[
"Mたちがきてるんだって。おれの様子を見によこされたんだろ。死にそうかどうか。",
"そんなふうに思うの、よしましょうよ。操子さんは操子さんですもの。"
],
[
"なんでしょう。ひとりだと顔も見れないのね。",
"そうだよ。やつらは。",
"Mさんも、なぐったの。"
],
[
"おう、MとUが先頭だったよ。",
"そうお。でも、あの連中、ほんとにもう相手にならないことだわね。",
"そうだよ。――おれも、ずいぶんまわり道したもんだ。"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 59 前田河廣一郎 伊藤永之介 徳永直 壺井榮集」筑摩書房
1973(昭和48)年5月21日初版第1刷発行
1980(昭和55)年3月15日初版第9刷発行
初出:「文芸」
1954(昭和29)年11月
※「横町」と「横丁」、「行李」と「梱」の混在は、底本通りです。
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2022年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "060070",
"作品名": "風",
"作品名読み": "かぜ",
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"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「文芸」1954(昭和29)年11月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2022-06-23T00:00:00",
"最終更新日": "2022-05-27T00:00:00",
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"人物ID": "001875",
"姓": "壺井",
"名": "栄",
"姓読み": "つぼい",
"名読み": "さかえ",
"姓読みソート用": "つほい",
"名読みソート用": "さかえ",
"姓ローマ字": "Tsuboi",
"名ローマ字": "Sakae",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-08-05",
"没年月日": "1967-06-23",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "現代日本文學大系 59 前田河廣一郎 伊藤永之介 徳永直 壺井榮集",
"底本出版社名1": "筑摩書房",
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} |
[
[
"出しときよっ",
"はいっ"
],
[
"姉やんのように考えたら嫁さんに死なれた男は皆悪人ということにならあ、もっと考えようがあろうがいの",
"いいや、誰が何といおうとも嫁にはゆかんのじゃ、うちは男に養うてもらわいでも、みんごと食うてゆけるさかいな",
"ほんなら姉ちゃん、男に養うてもらうために嫁にゆくんかいや、誰でも",
"そうじゃ",
"ふうん"
],
[
"イセのマトヤで死んだんじゃ",
"ヒヨリヤマというとこに墓があるせになあ",
"大けになったら皆銭を儲けてな",
"墓いまいってあげよ",
"おじやん、お前の孫が来たぞよ、いうてな",
"小んまい石塔に、小豆島甚作、いうて書いてあるといや"
],
[
"何じゃごちゃごちゃしとっておばあの目にゃ分らんがいや",
"ここで、これじゃが、これが日和山、これが的矢、のう"
],
[
"チヨノさんと玉枝さんとおよねさんとおかねさんと、おますやんとかあやんとおつねさんとに一かせずつやったんじゃい",
"それだけじゃなかろう、あとはどうした?",
"みんなおすえさんに上げたい"
],
[
"カヤノ、お前太郎兵衛どんまで行てな、おすえさんに一桛だけあげるせにいうてあと貰てこい。フサエがな、売るもんを知らんとあげたんじゃせにいうてな",
"ええい"
],
[
"ほんなら八重が行てくれるか",
"ん"
],
[
"お母さん、うち、貞子さんとトミちゃんに筆あげたん、もろてこようか",
"え! 八重もひとにやったんかいや"
],
[
"おばあ、ぼた餅しておくれ",
"おばあ、やき芋しておくれ",
"おばあ、豆煎っといておくれ"
],
[
"お母さんもう帰なんか。今日は天気が快すぎる。のぼせるといかんせに帰なんか",
"そうじゃなあ、そうしょうか"
],
[
"そうじゃあるかい、夢じゃろがい",
"いいやの、夢で隼太の奴が、死んだのは嘘じゃ嘘じゃいいくさってのう"
],
[
"正昭さんは酒は好きかい",
"んんん"
],
[
"実枝よ、よう凪いどら、今夜は船は早鞆丸で、幸先えいが",
"ん"
],
[
"昨夜はなあ実枝、生れて初めて独り法師になった。あんまりえいもんじゃないな",
"えいもんじゃないなあほんまに"
],
[
"ほんまじゃのうて、姉やん落したいいよったせに",
"ふうん、おおけに。――その代り実枝の嫁入りにゃ、うちが箪笥おごらな"
],
[
"犬も食わんもんやこい食わされなよ、姉やん",
"何ぞいや、それ",
"夫婦喧嘩よれ"
],
[
"ほじゃけんどなあ実枝、考えてみるとやっぱりうち、結婚はしまいと思う",
"どして"
]
] | 底本:「日本文学全集76 壺井栄 芝木好子集」集英社
1973(昭和48)年11月8日発行
初出:「新潮」
1940(昭和15)年2月
※底本巻末の小田切進氏による注解は省略しました。
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "059896",
"作品名": "暦",
"作品名読み": "こよみ",
"ソート用読み": "こよみ",
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"副題読み": "",
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"初出": "「新潮」1940(昭和15)年2月",
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"没年月日": "1967-06-23",
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[
[
"ん、馬鹿になってもえい。",
"そうか、ほんな健は馬鹿じゃ、今ま半べのような馬鹿になる。それでも、えいなあ。",
"ん、えい。"
],
[
"健、そんなに神戸い行きたいか。",
"ん、行きたい。健、行きたい行きたいんで。船にのってな。"
],
[
"五つ。",
"克ちゃんは何ぼになったんぞいな。",
"二つ。",
"健と克ちゃんと、どっちが大けい。",
"けん。",
"ほんな、健と克ちゃんとどっちがかしこい。",
"けん!"
],
[
"健と克ちゃんと、どっちがお母さんのいうこと聞くぞいなあ。",
"けん!",
"よし! そんなら健はおばあさん家、行くなあ。"
],
[
"健、じっとしとりよ、ほら、見えるか?",
"見えん。"
],
[
"それ、健ちゃん、キャラメルで。キャラメルいらんのか。",
"いる。――キャマレル、早よおくれいの。",
"さあ、キャラメル、早よ取りいの。"
],
[
"健、かしこいせにな、ほんまに健はかしこいせにな、お母さんのいうことよう聞けよ。な、健はいま目々が見えなんだなあ。お母さんが目かくししたせに。目かくしせいでも見えなんだら、健どうする。",
"ほんなん、好かん。"
],
[
"――それから、ほら、棧橋い汽船が来ても見に行けんので。大けな大けな軍艦がいつかしらん来たなあ、ほら、沖で晩に電気いっぱいつけて、仰山仰山、ならんどったなあ、あんなんが来ても健は見えんの。――健が道歩きよって、恐ろしい恐ろしい、角の生えたこって牛が駆けつけてきても健は目々が見えんせに角で突かれる。血が出るぞ。恐ろしいなあ。健がめくらじゃったらどうする。健めくら良いか、悪いか?",
"悪い! 牛が突いたら痛いなあ!"
],
[
"痛いとも、牛に突かれたら痛いど!――ほんな健はめくら好きか、好かんか。",
"好かん!"
],
[
"なあ健、健は目々が見えてよかったなあ。克ちゃんは目々が見えんので、お母さんの顔も、健のも見えんの。克ちゃん、かわいそうなあ。",
"ん、ほんな克ちゃん牛に突かれるん?",
"そう、ほじゃせに神戸い行くん、神戸のお医者さんが痛い痛い目薬さしたら目々が見えるようになるんで、健は目々が見えるせに目薬さしに行かいでもえいん。克ちゃんは早よ行て目薬さして来にゃかわいそう、なあ。"
],
[
"お母さん、健、ほんなおばあさん家で待っちょろか。――おばあさん家の太郎さんと、秀子ちゃんと遊んで待っちょろか。――浜で遊んで待っちょろか、よう。",
"…………",
"お母さん、健泣かんと待っちょる。ようお母さん、またこんど、健がめくらになったら神戸い行くんのう。ほじゃせに健おばあさん家で待っちょろ。――克ちゃんにキャマレルやろうや。"
],
[
"来とらんがいの。",
"ほうよ、そんな仰山、みなよその手紙か。",
"はあ、よそのてまぎじゃ。"
],
[
"健ちゃん、もうせんのか、え。",
"健ちゃん、鬼んなってやるせに来い。"
],
[
"ほたって、みんなが大根の葉あがからかって、いうんじゃもん。",
"そうか、そりゃ困ったなあ。大根の葉あがからかったんかいや。"
],
[
"おばあさん、豚ん家い健も行こうか。",
"そうよなあ、大根の葉あがからかったんなら仕方がない。豚ん家いでも行きましょうかいな。",
"みんなに黙って行こうか。"
],
[
"おばあさん、豚桶、重たい重たいか。",
"重たい、重たい、と。"
],
[
"帰にしなには軽い軽いか?",
"かるい、かるい、と。",
"ほんなら帰にしなに健の手々ひいておくれよ。",
"よし、よし、と。"
],
[
"おばあさん、あれだれぞいの?",
"あれかいや、あれはのう、太郎んどんのおっさんじゃ。",
"たどんろんおっさんか――孫さんかいのう、よう似とらあ、いうたのう、おばあさん。"
],
[
"おばあさん、孫さんいうたら何?",
"孫さんいうたら健のことじゃがい。"
],
[
"孫さんじゃない健さんかいの、健さんは今日もおばあさんのお供かいの。",
"へえ、もういつまでたっても連れとよう遊ばいでなあ、何じゃろと、こうやってお婆のあとにばっかりつきまとうんじゃぞな。"
],
[
"健ちゃん、お父さんは。",
"東京にいる。",
"ふーん、東京にいるん。東京で何しよん?",
"手紙書きよん。"
],
[
"てまぎ書きよんか。てまぎどういうてくる?",
"イシダケンサマ、いうてくる。"
],
[
"えいもん買うてきたら、ばあやんにもくれるか。",
"ん、あげる。バナナあげる。んまいんで。"
],
[
"何かな、おばさん、ねんねさんは目が快うなって戻りますんかな。",
"どんなことやらなあ。"
],
[
"まだ誕生やそこらの子を、手術じゃとやら何とやらいうて、生きた目をつつき回すんじゃそうなが、そんなことしてえいことかなあ。たいがい、いまどきの若いもんは気が強いぞなあ、一ぺんでげんが見えにゃ二へんでも三べんでも仕直しするんじゃいいますがいな。ほんまに恐ろしやの、目の子の玉に針さしたりして、えい目もつぶれろぞ思いますけんど、何せ日本でも名高い医者のいうことじゃというし。――昔からそこひは直らんといわれとるせに、何かしらん直るいうのが嘘のような気がして、あれが町の医者にだまされとんじゃないかと気がもめますがいな。",
"ほんになあ、そんな生まれ子にまでそこひじゃこというたりして、かわいそうに、嫁さんも苦労しましょし、えらい金入りでござんしょうぞなあ。",
"へいな、銭のある衆はよろしいけんど、うちらのような貧乏人にゃ、たまらんぞな。",
"ま、何をおっしゃる、おばさんのような。"
],
[
"おばあさん、何見よんどいの、早よ豚に飯やらんかいの。",
"よし、よし、せわしのういうなっちゃ。"
],
[
"おばあさん、ねんねの豚は歯がないせに乳のむんのう。",
"そうとも、そうとも。健じゃって歯がないときは乳のみよったんじゃ。"
],
[
"大けになったらまた銭もうけてくれるん。――健も大けになったら偉ろなってな、銭もうけてくれよ。",
"ん、健大けになったら兄やんになって学校い行くんで。――おばあさん、豚大けになっても、どして学校行かんの。"
],
[
"おばあさん、犬も大けになったら銭もうけるんよ。",
"いいや、犬は糞にもならんわいや、鶏ごろねんがけたりしてな。",
"ふーん、ほんな犬は馬鹿やのう。――ほんな猫は、銭もうけるんよ。",
"猫かいや、猫はもうけんけんど、ネズミ取ってくれる。",
"ほんなかしこいのう。――ほんならあ、うさぎは?"
],
[
"うさぎか――ええと、そうじゃなあ。うさぎと。うさぎやどうやらもうけてくれるげな。",
"ほんなかしこい。ほんなあ、亀は。",
"こんどは亀か。ええと、亀はあ、――ん。亀はぐずまじゃ、健のようにぐずまじゃ。"
],
[
"くさいがい、くさい菜好かんがい。健、くさい菜ほん好かんがい。",
"おおそうかそうか、ちょっと待てえよ。"
],
[
"おばあさん、あの船でお母さんは戻らんかいなあ。",
"さあ、戻らんかいなあ。何しよんじゃあろになあ。"
],
[
"おしまいなさったかな。",
"へい、お帰り。"
],
[
"見える、見える、わいら、乗っとる人が見えたがいや。",
"あっ、羽に日の丸がついとるど。",
"英語書いとんも見えたど。"
],
[
"飛行機のおっさん、のせておくれえ!",
"一、二の、三! 飛行機のおっさん、のせておくれえ!"
],
[
"太郎も重たいか見て、ようお父さん。",
"秀ちゃんも。"
],
[
"さあさ、みんなご飯じゃぞえ、太郎も、健も、早よおいで。",
"わあい、ごはんじゃ、ごはんじゃ。"
],
[
"太郎一等賞っと!",
"秀子も一等賞っと。"
],
[
"太郎さんのお母さん、今日は味噌汁炊いたんよ、うまげなかざがするがい。",
"ま、この子のいうこと。"
],
[
"あ、あ、健一等ちがわい、太郎が一等じゃがい。こら、健のぐずま、健のびりっこ、びりかす、びり等賞よ、馬鹿くそよ!",
"健、ほたって草履ぬぎよったんで。"
],
[
"こら健、帰にくされいいよんのに帰なんかい! もう飯くわさんぞ!",
"ほたって健、帰んでもお母さんがおらんので、ほたらどうすん?"
],
[
"ええい、帰にくされ、ここは太郎ん家じゃがい、帰にくされ、一人で帰にくされ。",
"ほたら健、誰と寝るん?"
],
[
"こら、みんな喧嘩するんじゃないが。三人仲よく、じゃないか。",
"誰が一ばんおとなしいぞな。"
],
[
"克らの目はまだえい方でな。緑内障じゃとか、また、なかにゃ黒玉のない人や、黒玉があっても瞳さんのないもんがあるそうな、そんな人はもう手の下しようがないけんど、それに比べたら直る見込があるだけでも喜ばんならん思てな。世の中にゃ目で苦労する人も仰山ありますぞいな。",
"克のはどういうんぞいの。"
],
[
"克のは白内障いうてな、水晶体のにごりをとりのけたら見えるようになるんじゃけんど、なかなかその手術がうまいこと行かいでなあ。",
"ふむ、それで、も一ぺん手術したらかならず見えるんかいの。もし直らなんだらやっぱり銭の入れ損かいの。"
],
[
"お前、どうなるかわからんもんにそやって銭入れて、死に銭じゃがいの。それより信心でもしてみい。信心で直ったためしもあるんじゃし、そりゃ克もかわいそうじゃけれど、わが持って生まれた不仕合わせじゃ。今いうようにちっとでも見えりゃ、またあんまになってでもずぶのめくらよりえいがの。あきらめるわいの。……なあほれ、どこやらの人じゃなあ、お大師さんに信心して、お水をいただいて来て目を洗ろたら、お大師さんのお姿が現われ……",
"おばあさん!"
],
[
"ほんな健ちゃん、また来いな。",
"ん。",
"夜道じゃ、気いつけて帰になされよ。"
],
[
"健ちゃんよ、また浜で遊ばんかなあ。",
"ん。"
],
[
"健、克ちゃんがなあ、赤いべべ着せてやったら喜ぶんで。……べべを見てなあ。",
"ふーん。",
"ほて、お菓子見せたら、手々出してとりにくるんで。",
"ふーん。"
],
[
"健、克ちゃんがな、お母さんの顔見たら笑うんで。",
"ほうよ。",
"それからな、克ちゃん早よおいで、いうたら、手々出してとんでくるんで。"
],
[
"ほてな健、お母さんがこぼしたご飯つぶを克ちゃんが見つけてなあ、つまんで拾いよんで。おもしろいな。",
"ん。",
"目々のとこいお母さんが手々もって行たらなあ、恐ろしげにして、目々つぶるん。おもしろいな。",
"ん。",
"今度もう一ぺん行てきたら、克ちゃんはもっと何でも見えるようになるんで。"
]
] | 底本:「大根の葉・暦」新日本文庫、新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版
1981(昭和56)年3月20日第2刷
初出:「文芸」改造社
1938(昭和13)年9月
入力:諸富千英子
校正:芝裕久
2020年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
| {
"作品ID": "058601",
"作品名": "大根の葉",
"作品名読み": "だいこのは",
"ソート用読み": "たいこのは",
"副題": "",
"副題読み": "",
"原題": "",
"初出": "「文芸」改造社、1938(昭和13)年9月",
"分類番号": "NDC 913",
"文字遣い種別": "新字新仮名",
"作品著作権フラグ": "なし",
"公開日": "2020-06-23T00:00:00",
"最終更新日": "2020-05-27T00:00:00",
"図書カードURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001875/card58601.html",
"人物ID": "001875",
"姓": "壺井",
"名": "栄",
"姓読み": "つぼい",
"名読み": "さかえ",
"姓読みソート用": "つほい",
"名読みソート用": "さかえ",
"姓ローマ字": "Tsuboi",
"名ローマ字": "Sakae",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-08-05",
"没年月日": "1967-06-23",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "大根の葉・暦",
"底本出版社名1": "新日本文庫、新日本出版社",
"底本初版発行年1": "1980(昭和55)年1月20日",
"入力に使用した版1": "1981(昭和56)年3月20日第2刷",
"校正に使用した版1": "1980(昭和55)年1月20日初版",
"底本の親本名1": "",
"底本の親本出版社名1": "",
"底本の親本初版発行年1": "",
"底本名2": "",
"底本出版社名2": "",
"底本初版発行年2": "",
"入力に使用した版2": "",
"校正に使用した版2": "",
"底本の親本名2": "",
"底本の親本出版社名2": "",
"底本の親本初版発行年2": "",
"入力者": "諸富千英子",
"校正者": "芝裕久",
"テキストファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001875/files/58601_ruby_71106.zip",
"テキストファイル最終更新日": "2020-05-27T00:00:00",
"テキストファイル符号化方式": "ShiftJIS",
"テキストファイル文字集合": "JIS X 0208",
"テキストファイル修正回数": "0",
"XHTML/HTMLファイルURL": "https://www.aozora.gr.jp/cards/001875/files/58601_71151.html",
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[
[
"そりゃそうかもしれん。夫婦も二十年もたったら一つのからだみたいだろうからな。しかし、野村のは、ありゃ特別だね。気の小っちゃい男だから。",
"でしょう。何だかもう、みてると旦那さんに死なれた奥さんみたいに、野村さん、しょんぼりしてるんですもの。きっとしっかりした奥さんだったのね。死なれると旦那さんをうろうろさせるほど、手綱をにぎってたのね。"
],
[
"でもね、私がこういっても、これはまだ一方的な話だけで、向うで何というか分らないのだから、ダメだったらかんべんしてね。",
"もちろんよ、そんなこと。ただ私もこの頃いろいろ考えるようになったのよ。一生独りで暮すつもりでいたんだけれど、この年になるとあとあとが思いやられて、やっぱり適当な相手さえあればと思うようになってね、戦争中に、もう一人でいることにうんざりしたの。かといって人のお世話にならない限り、自分ではどうとも出来ないんですもの。"
],
[
"裁縫のできる女なんて条件を第一にしているからなのよ。私の妹なんて、平々凡々の女だけれど、そういう平凡さが野村さんにもあるでしょ。そんな気がして。",
"そうよ。だからその点では、閑子さんは打ってつけなんだけれどね。"
],
[
"私、押っつけがましくなんか、なかったわね。貞子さんに伝えてあるからっていったんですもの。断るなら断るで、貞子さんとらくに相談できるでしょ。",
"いいよそんなこと。いやにお前は卑下してるがね、閑ちゃんはあれで立派なものさ。けんそんはいいが、卑下するこたないよ。",
"だって。四十までも独りでいたってことは、考えようではひけめよ。でも野村さんて、自分で奥さんの探せないたちの人でしょ。だから、再婚となればよけい人に頼ることになるのね。その気の小っちゃさが、今度の場合、安心なのよ。閑ちゃんだってかけ引のない小気な女だから。"
],
[
"聞かれてからいうの、何だか私いやよ。わかるでしょ。",
"わかるわよ。私だって仕方がないから聞くのよ。",
"わかるわ、それも。でもね、本当はあの妹はケチンボではないのよ。どうかするとなさすぎて、困るくらいなこともある。"
],
[
"ただね、変人に見えることがあると思うの。あの時だってぷすっと黙ってるでしょ。いくら見合といっても四十にもなってさ、何か話の糸口位と思ってもそれが出来ないの。ひどく気まり悪るがりやなのよ。私の田舎ではそんなのを『ネコニカマレ』なんていうわ。へんくつね。そのくせ馴れるととても明るいのよ。大きな声で歌も歌うし、素人ピアノ位ひけるのよ。学芸会などあるでしょ。大勢の先生の中で二部がひけるのは裁縫教師の閑子なんですって。だからプログラムの終りにする先生の合唱は閑子の伴奏という風なの。そんな風に見えないでしょ。妹は取っつきは悪いけれど、だんだん味の出てくる、そんなたちの女だと、私は思うの。でも、これ肉親のひいき目もあるでしょう。だけど私、今になってこんなことをいうの、ほんとにいやなんですがね。",
"じゃ、そういってたっていいましょうよ。",
"でも取消してもいいのよ。決めなきゃならんわけではないんですもの、それもいってね。でも、そういうのもいやね。何だかかけひきみたいで。おおいやだ。",
"その通りいうわ私。"
],
[
"ほんとに大変なのよ。いきをつく間もない位なの。だって、五人の家族が、その日着る下着にも不自由してる位なんですもの。四時半に起きて四つのお弁当で送り出すことだけでも大変なの。からだがもち切れるかと思うほどよ。これまでが独りの呑気暮しだったから、なかなか馴れないのね。何しろハガキ一枚かくひまがないのよ。",
"そんなこといわずに、少し遊びなさいよ。貞子さんがいってたじゃないの。",
"わかってるわ。だけどね姉さん、家の中へ入ってごらんなさい。子供と遊ぶには一そう忙しくしなくちゃならないのよ。家政婦ね。",
"そうだろうね。永い間の不自由のあとだもの。そのかわり喜んでくれるでしょう。",
"子供たちだけは、私のすることが何もかも珍らしかったり、うれしかったりするらしいわ。",
"野村さんは?",
"さあ。"
],
[
"あら、そうですか。近くにあんまさんないんですか。",
"いや、あるにはありますがね、女だもんでこたえないというんですがね。子供たちが大分もんだりしていましたが。"
],
[
"毎日二十分でも、昼寝しなさいよ。この頃のあんたの目、疲れてきたないよ。",
"それが出来るくらいなら……",
"昼寝しないの、野村さんちは?",
"するわよみんな。しないの私だけよ。していられないのよ、その日雇いの家政婦だもん。",
"冗談じゃない。",
"でもそうなのよ。ほんとにそうなのよ。"
],
[
"さあ、髪でもゆって、そろそろ帰るわ。御飯だけ御馳走になってから。",
"あら、二晩泊りじゃないの。",
"でも、もう元気になったんですもの。その代りまた来させてもらう。"
],
[
"そうよ。だって子供たちが一しょに寝ようって聞かないんですもの。",
"野村さんそれをだまってるの。",
"何にもいわないわ。"
],
[
"それは間ちがいよ閑ちゃん。そういいなさいよ。",
"そんなこと。"
],
[
"閑子がきていてね、昨日かえったんですけど。",
"そう。"
],
[
"区役所よ、ここ。あなたが自信ありげに上ってゆくもんだから。",
"だって大会なんだから立派な石段の方だと思ったのよ。"
],
[
"閑ちゃん。",
"あら、どうしたの、今日大会でしょう。"
],
[
"種まき?",
"そう。あの、絹さやなの。"
],
[
"ちがう。うちの人たちは、どっかちがうわよ。やっぱり、くるんじゃなかったわ。",
"じゃあ出なさいよ、いつでも。――そんなものではないと、私は思うけど。"
],
[
"おすしを作ってね、大福を百円も買っといでよ。",
"あら、お肉だといったじゃないの。",
"それ中止よ。伯母ちゃんがくるだろうから。",
"あっ、そうか。"
],
[
"野村さんの気持の中には、まだ前の奥さんは生きているんですもの。そこへ閑子が坐れる筈がない。",
"困ったわね。"
],
[
"今年の秋、何だか早いわね。",
"そうね。"
],
[
"出戻りからお祝いをもらうの、ゲンが悪いというならやめるわ。",
"そんなこと、へんなふうにひがむのよしなさいよ。閑ちゃんが祝ってあげたい気持なら、そりゃあ喜ぶわよ。お祝いなんて羽織の紐一つだってうれしいものなんだから。",
"祝ってあげたいから祝うっていうのじゃないわ。わたしが姉さんたちの交際の仲間入りをしようって野心はないのよ。私ももらったんだから、お返しはしなくちゃならんでしょう。それだけよ。作家なんて偉い人たちとのおつき合いはもうこりこりよ。"
],
[
"やっぱりね、まちがっていたと思うの。あんたに無条件で野村さんを抱えこめといっても、それは無理だわ。私にすれば野村さんの日記は問題じゃないのよ。だけど、あんたにはそれは大問題さ。日記のことは別にしてもよ。毎日が夫婦のくらし方でないとしたら、そんな馬鹿なことってないじゃないの。それを野村さんはいってるのよ。",
"姉さんは、わたしの方が悪いと思うの。"
],
[
"どっちが悪いとかいいとかじゃないさ。そりゃあ、うわっつらを考えたら野村さんて人は歯がゆいさ。いつまでも死んだ人にかかずらっているなんて、人生を後ろむけに歩いてることになるもの。新しい生活をもり立てようとしないでさ。それではいつがきても前に進まない――",
"だから死にたい、死んで奥さんのところへゆきたいってかいてある。",
"まさか、いくらなんだって、それじゃあもとも子もない。",
"だってほんとだもの。私がうそをついてると思う?"
],
[
"そんな男ならよけいあきらめいいじゃないか。閑ちゃんには悪いけどもさ、もどってよかったってことになるわよきっと。だから、あきらめなさいよ。",
"もちろんよ。だから戻ってるじゃないの。今ごろは奥さんの位牌を抱いてねてるわよ。"
],
[
"野村さんが、今日あたりくると思うの。話をつけにね。",
"ふうん。"
],
[
"でも、そうでもないと思うことだってあるわ。私さえがまんすればいいんだもの。だから私、今日きたらそのこというわ。分ってくれると思うの。あすこの家は私がいなければみんな困るんだもの。第一子供たちが可哀そうよ。気ままといえば気ままな子ばかりだけど誰がお母さんお母さんといってくれようかと思うと、私、悪いことしたと思ってね。子供のためにも、かえろうと思うの。",
"そんななまやさしいところに問題はないのよ。もっと決定的なのよ。",
"決定的――",
"好きになれないっていうのよ。夫婦の感情がわかないっていうのよ。"
],
[
"どうした。",
"どうもこうもないわよ。"
],
[
"閑子にいわずにですか。今あなたがここへいらしたことも閑子はしらないんですか。",
"そうです。ぼくの日記をよんだとかいってゆうべは大分興奮していましたからね。"
],
[
"いや、いやあ。帰っちゃいやあ。",
"お父さんのばかア。",
"お母さーん。"
],
[
"さよなら。",
"いってらっしゃい。",
"迎えにゆくわね、お母さん。"
],
[
"私、いってくる。",
"よしなさい。帰ってほしければ迎えにきますよ。",
"でも、私ゆく。いって返事を聞いてくる。約束だもの。こんな筈ないわ。",
"分らないの。きれいに引き下った方がいいのよ。",
"いや。野村はどんなつもりでいるかしらないけど、私が帰れば子供たちは喜んでくれるわ。結婚式の日、母子の盃も交したんだもの。",
"よしなさいったら。まだ子供のところへかえるなんて。野村さんのところへゆくというならわかるけどもさ、あんたが野村さんに惚れてさ、どうでもこうでも誰が何といおうともというならいらっしゃい。いって自分で道をひらいてらっしゃい。あんたにはそのぐらいなことはあっていいんだわ。理屈はどうでも男と女の間にはこんなこともあるんだと納得できるならよ。ただし、私は反対なのよ。そのことはっきり野村さんにもいってちょうだい。その反対を押しきって出てきたとね。男に惚れた女は、そんなこと相談なしでやるんだから。そうなら私はひきとめたりしないわ。子供のためなんて、うそっぱちはやめとくれ。"
],
[
"だってさ、自分では選べない女はたくさんあるのよ。そういうたちの女には、やっぱりはたでお嫁の世話をしなくちゃならないじゃありませんか。甲斐性がないといえばそれまでだけど、そんな女に、はたが心を配らなかったら、いつまででもひとりなんてことになってよ。私の妹なんか、その口なんだけど。",
"それもそうね。でも、似合いってことがあるでしょう。閑子さんの場合、まるでそれが、似合っていないんだもの。妙てけれんだったわよ。ずい分へんだと思った。"
],
[
"私んとこへ、閑ちゃんを誘ってみようかしら。あれじゃあ姉さん何にもできんでしょう。",
"たのむ、三日でもいいわ。"
],
[
"だれの意見、それ?",
"千枝の意見よ。気晴しに田舎もいいわよ。"
],
[
"気晴しだって。私の気が晴れると思うの。",
"晴れるわよ。まあ一ぺんきてよ。",
"いやっ。あた恥かしい。姉のとこさえ気がねの山なのに、妹のうちへ恥さらしにゆくなんて。"
],
[
"その方が、姉さんも、くつろぐでしょう。",
"おたがいにね。"
],
[
"着物は売らないでお置きよ。どうせさきで売るにしてもそれを落ちぶれたとはいえないわ。千枝みなさい。知らん間に片っぱしから売っ払って、きれいな顔しとるじゃないの。落ちぶれてなんぞいないわ。",
"そりゃ千枝には実さんという聟もあれば、三人の子もあるもの。どっちむいてもひとりぼっちは私だけじゃないの。"
],
[
"閑ちゃんも変ったわね。ちょっとしたつまずきから意地悪になったり、いやったらしくなったりするのね。根は正直な、お人よしなのに。",
"しかし、ああなると困るね。女も四十になると何しろ嵩ばる。",
"邪魔になどしないつもりなのに、ずい分かさ高に感じるのね。わたし、薄情なのかしら。",
"くたびれるよ、何しろ。"
],
[
"こん度はそっちが大変?",
"うん。"
],
[
"あそびに?",
"いいえ、下女奉公。"
],
[
"返事出したの。",
"まだだけど、もう明日あたり立とうかと思って。",
"そう、そいじゃ、今日は送別会をやろうよ。"
],
[
"疲れたろう。",
"そうでもない。",
"ひどい顔だよ。すごいイビキだった。",
"あら、そう。"
],
[
"叔母ちゃん、イビキかくかい。",
"うん、ときどきね、でもこの頃はめったにかかないわ。",
"ほんと?",
"ほんとよ、うそなんかいわない。",
"ふーん。"
],
[
"せめて半々にすればよかったと思って。三分の二はむこうへ蒔いたのよ。惜しいわ。",
"いいよ。むこうは大ぜいだもの。"
],
[
"じょうだんじゃない。",
"いけない?",
"いけないもいけなくないもないわよ。笑われるよ。",
"だって、私のまいたえんどうなんて気色がわるいだろうと思ってさ。",
"そんなら勝手にぬくわよ。",
"そうか。"
],
[
"よしなさい。せめて花位残しといても悪くないよ。",
"だって、大事にして育ててきた花なんだもの。すてられたらいやなのよ。",
"そんなら竹子さんにたのんで、戻してもらおう。それがいいよ。"
],
[
"お母さんもよく気が立つようになったね。",
"こわいわね。脳貧血でまだよかったけれど、溢血の方だったら今ごろ中風よ。おおこわい。",
"できるだけ気を立てさせんようにしてあげようね。そしてなるべく正子がそばにいるんだね。"
],
[
"あなたが羨ましいと、いま思っているところよ。",
"そう。"
],
[
"ね、だれでもあなたを羨ましがるわね。",
"ええ。",
"すべての女にあなたのような謀反気があったら、男はぎゃふんだけれど、そして面白いんだけれど、そうはゆかないわね。",
"へえへえ。"
],
[
"経済力や強気だけでもだめでしょ。とび出してくれてやれやれと思う男だってたく山あるだろうし、それも癪だし、男だって悪いのばかりではないし。",
"ははあ。"
],
[
"たのしそうね。",
"そうよ、とにかく屋の下に女ばかり三人だからね。"
],
[
"だって、ミシンがあれば、その日からでも働けるでしょう。",
"なくたってやってゆけるわ。",
"あったら困るの。"
],
[
"困らないけど、人のもの借りるのがいやなのよ。",
"あげるっていわなくちゃならんの。"
],
[
"実用的な女ね。実用一点ばり。身を粉にして働くことだけが人間の本分だと思ってるのよ。切ないわね。",
"いないとほっとするなんて、不幸な女だね。野村のとこでもこれだったんだよ。分るね。",
"働いて、よく思われないなんて。"
],
[
"どうったって、案内されたら行かないわけにはゆかないわ。それほど気がちっちゃくないつもりですがね。それとも、出るのが変かしら、出ないと尚変じゃない? それはそれ、これはこれ。",
"そうだわね。"
],
[
"そういってやるわ。野村さん喜ぶわよ。",
"でも、ちょっとまって、案内状下さるんだったら、あなたを通してにしてもらいたいの。見つかるとやっぱりね。"
],
[
"ニュース。野村さん、結婚するんだってよ。",
"ふーん。",
"こんどは恋愛だってよ。",
"へえっ。"
],
[
"だめね。",
"だめよ。"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 59 前田河廣一郎 伊藤永之介 徳永直 壺井榮集」筑摩書房
1973(昭和48)年5月21日初版第1刷発行
1980(昭和55)年3月15日初版第9刷発行
初出:「新日本文学」
1947(昭和22)年8月、1949(昭和24)年2月~4月、7月
※「加わって」と「加って」、「玉子」と「卵」、「婿」と「聟」、「群衆」と「群集」の混在は、底本通りです。
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2022年1月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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[
[
"こんどのもまた、女学校出え出えの卵じゃいよったぞ",
"そんなら、また半人前先生か",
"どうせ、岬はいつでも半人前じゃないか",
"貧乏村なら、半人前でもしようがない"
],
[
"先生、こんどくる先生は?",
"さあ、もうそろそろ見えるでしょう",
"こんどの先生、どんな先生?",
"しらんのよ、まだ",
"また女学校出え出え?",
"さあ、ほんとにしらんの。でもみんな、性わるしたら、だめよ"
],
[
"芋女ォって、どなるか",
"芋女でなかったら、どうする",
"芋女に、きまっとると思うがな"
],
[
"せんせえ",
"おなごせんせえ"
],
[
"先生、こんどのおなご先生、きた?",
"きたわ。どうして?",
"まだ学校にいるん?",
"ああ、そのこと。舟できたのよ、今日は",
"ふうん。そいでまた、舟で去んだん?",
"そう、わたしにもいっしょに舟で帰ろうとすすめてくれたけど、先生、も一ぺんあんたらの顔みたかったから、やめた",
"わァ"
],
[
"こんどの先生、どんな先生ぞな?",
"いーい先生らしい。かわいらしい"
],
[
"芋女?",
"ちがう、ちがう。えらい先生よ、こんどの先生",
"でも、新米じゃろ"
],
[
"こんどの先生、何いう名前?",
"大石先生。でもからだは、ちっちゃあい人。小林でもわたしはのっぽだけど、ほんとに、ちっちゃあい人よ。わたしの肩ぐらい",
"わあ!"
],
[
"だけど、わたしらより、ずっとずっとえらい先生よ。わたしのように半人前ではないのよ",
"ふうん。そいで先生、舟でかようんかな?"
],
[
"舟は今日だけよ。明日からみんな会えるわ。でも、こんどの先生は泣かんよ。わたし、ちゃんといっといたもの。本校の生徒と行きし戻りに出あうけど、もしもいたずらしたら、猿が遊んでると思っときなさい。もしもなんかいってなぶったら、烏が鳴いたと思っときなさいって",
"わあ",
"わあ"
],
[
"せんせえ",
"さよならあ",
"嫁さーん",
"さよならあ"
],
[
"こんどのおなご先生は、洋服きとるど",
"こんどのおなご先生は、芋女とちがうど",
"こんどのおなご先生は、こんまい人じゃど"
],
[
"ごついな",
"おなごのくせに、自転車にのったりして",
"なまいきじゃな、ちっと"
],
[
"ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな",
"でも、モダンガールいうのは、男のように髪をここのとこで、さんぱつしとることじゃろ"
],
[
"あの先生は、ちゃんと髪ゆうとったもん",
"それでも、洋服きとるもん",
"ひょっとしたら、自転車屋の子かもしれんな。あんなきれいな自転車にのるのは。ぴかぴか光っとったもん",
"うちらも自転車にのれたらええな。この道をすうっと走りる、気色がええじゃろ"
],
[
"ちょっと、ちょっと、いま、洋服きた女が自転車にのって通ったの、あれがおなご先生かいの?",
"白いシャツきて、男みたような黒の上着きとったかいの",
"うん、そうじゃ",
"なんと、自転車でかいの"
],
[
"いる",
"じゃあ、ハイって返事するのよ。岡田磯吉くん"
],
[
"相沢仁太くんは、少しおせっかいね。声も大きすぎるわ。こんどは、よばれた人が、ちゃんと返事してね。――川本松江さん",
"ハイ",
"あんたのこと、みんなはどういうの?",
"マッちゃん",
"そう、あんたのお父さん、大工さん?"
],
[
"西口ミサ子さん",
"ハイ",
"ミキちゃんていうんでしょ"
],
[
"ミイさん、いうん",
"あら、ミイさんいうの。かわいらしいのね。――つぎは、香川マスノさん",
"ヘイ"
],
[
"木下富士子さん",
"ハイ",
"山石早苗さん",
"ハイ"
],
[
"さよなら",
"さよなら",
"さよなら"
],
[
"やあい、先生のくせに、おくれたぞォ",
"月給、ひくぞォ"
],
[
"大へんだったのね。ほかのうち、どうだったの",
"よろずやの小父さんが、屋根のかこいをしよって、屋根から落ちたん",
"まあ",
"ミイさんとこでさえ、雨戸をとばしたんで。なあミイさん"
],
[
"ゆだんしとったんじゃ。こんな雨風の日はだいじょうぶだと思うたら、今朝んなって見てみたら、ちゃんと納屋の戸があいとったん。ぬすっとの家まで、米つぶがこぼれとるかもしれんいうて、お父つぁんがさがしたけんど、こぼれとらなんだん",
"まあ、いろんなことがあったのね。――ちょっとまって、自転車おいてくるから、またあとでね"
],
[
"一本松が、折れましたな",
"え、ほんとですか"
],
[
"ね、みんなで、これから道路の砂利掃除をしようか",
"うん、うん",
"しよう、しよう"
],
[
"よいしょっと!",
"こいつめ!",
"こんちきィ"
],
[
"時化のとき、いつもこんなふうになるの?",
"はい",
"そして、みんなで石掃除するの?",
"はい"
],
[
"おなご先生、あんたいま、なにがおかしいて笑うたんですか?",
"…………",
"人が災難に会うたのが、そんなおかしいんですか。うちのお父さんは屋根から落ちましたが、それもおかしいでしょう。みんごと大した怪我は、しませなんだけんど、大怪我でもしたら、なお、おかしいでしょう",
"すみません。そんなつもりはちっとも――",
"いいえ、そんならなんで人の災難を笑うたんです。おていさいに、道掃除などしてもらいますまい。とにかく、わたしの家の前はほっといてもらいます。――なんじゃ、じぶんの自転車が走れんからやってるんじゃないか、あほくさい。そんなら、じぶんだけでやりゃあよい……"
],
[
"先生が、泣きよる",
"よろずやのばあやんが、泣かしたんど"
],
[
"骨は、折れとらんと思いますが、早く医者にかかるか、もみりょうじしたほうがよろしいで",
"もみ医者なら中町の草加がよかろう。骨つぎもするし",
"草加より、橋本外科のほうが、そりゃあよかろう"
],
[
"せんせえ",
"おなごせんせえ"
],
[
"あの先生ほど、はじめから子どもにうけた先生は、これまでになかったろうな",
"早うなおってもらわんと、こまる。岬の子どもが、先生をちんばにして、てなことになると、こまるもん。あとへ来手がなかったりすると、なおこまる",
"ちんばになんぞ、ならにゃえいがなァ。若い身空で、ちんばじゃ、なおっても、かようにこまるじゃろな"
],
[
"男先生、このごろ、おこりばっかりするようになったな",
"すかんようになったな。どうしたんじゃろな"
],
[
"わたしが生徒になりますわ",
"うん、なってくれ"
],
[
"おなご先生も、えらい苦労かけますな",
"うん。しかし、むこうにすりゃあ、もっと苦労じゃろうて",
"そうですとも、あんたのオルガンどころじゃありませんわ。足一本折られたんですもん",
"もしかしたら、大石先生はもう、もどってこんかもしれんぞ。先生よりも、あの母親のほうが、えらいけんまくだったもんな。かけがえのない娘ですさかい、二度とふたたび、そんな性わるの村へは、もうやりとうありません、いうてな",
"そうでしょうな。しかし、こられんならこられんで、代りの先生がきてくれんと困りますな"
],
[
"きっと生徒が、びっくりするぞ",
"そうですね。男先生もオルガンがひけると思うて、見なおすでしょうね",
"そうだよ。ひとつ、しゃんとした歌を教えるのも必要だからな。大石先生ときたら、あほらしくもない歌ばっかり教えとるからな。『ちんちんちどり』、だことの、『ちょっきんちょっきんちょっきんな』、だことの、まるで盆おどりの歌みたよな柔い歌ばっかりでないか",
"それでも、子どもはよろこんどりますわ",
"ふん。しかし女の子ならそれもよかろうが、男の子にはふさわしからぬ歌だな。ここらでひとつ、わしが、大和魂をふるいおこすような歌を教えるのも必要だろ。生徒は女ばっかりでないんだからな"
],
[
"ちンびきのいわは、おンもからずゥ――",
"しっ、人がきいたら、気ちがいとおもう"
],
[
"氏神さまからなら、すぐじゃった。バスがな、ぶぶうってラッパ鳴らしよって、一本松のとこ突っ走ったもん。まんじゅう一つ食うてしまわんうちじゃったど",
"うそつけえ、まんじゅう一つなら、一分間でくえらァ"
],
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"そやってぼく、氏神さまのとこで食いかけたまんじゅうが、バスをおりてもまだ、ちゃんと手に持っとったもん",
"ほんまか?",
"ほんまじゃ",
"ゆびきりじゃ、こい",
"よし、ゆびきりするがい"
],
[
"いこうや",
"うん、いこう"
],
[
"いこう、いこう。走っていって、走ってもどろ",
"そうじゃ、そうじゃ"
],
[
"波止の上は、よろずやのばあやんに見つかるとうるさいから、藪のとこぐらいにしようや",
"それがえい。みんな、畑の道とおってぬけていこう"
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"おまえら、うちのコト、知らんかいの?",
"しらんで",
"一ぺんも、今日は見んで",
"早苗さん家とちがうか"
],
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"マッちゃんもかいな。昼飯も食べんと、どこをほっつき歩きよんのかしらん",
"うちのマツは昼飯はたべにもどったがいな。箸おいて、用ありげに立っていって、すぐもどるかと思や、もどってきやせん"
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"のぼりやかんばんでも、口あけて見よるかもしれん",
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"いんま、腹へらして、足に豆こしらえて、もどってくるわいの",
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"もどったら、おこったもんかいの、おこらんほうがよかろうか",
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"おなご先生、びっくりするど",
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"せんせえ",
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"みんなでやくそくして、だまってきたん、なあ",
"一本松が、なかなか来んので、コトやんが泣きだしたところじゃった",
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],
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"ほたって、一本松、なかなかじゃったもんなあ",
"もう去のうかと思たぐらい遠かったな"
],
[
"さよならァ",
"さよならア"
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"ひどい目にあいましたな",
"はあ、でも、ずいぶんよくなりました",
"いたいですか、まだ?"
],
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"きまりました。きのうの職員会議で。いけませんかい",
"いけないなんて、それは、そんなこという権利ありませんけど、でもわたし、やっぱりこまったわ"
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[
"なにが困るんですか?",
"あの、生徒と約束したんです。また岬へもどるって",
"こりゃおどろいた。しかし、どうしてかよいますかね。お母さんのお話だと、とうぶん自転車にものれんということだったので、そうはからったんですがね"
],
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"後任の先生は、どなたでしょう",
"後藤先生です",
"あら!"
],
[
"義理がたいこというなあ、久子さん。あんたがそないに気をつかわんでも、ちょうどよかったんだから。後藤先生は、すすんで岬を希望したんだから",
"あら、どうしてですの?",
"いろいろ、あってね。老朽で来年はやめてもらう番になっていたところを、岬へいけば、三年ぐらいのびるからね。そういったら、よろこんで、承知しましたよ",
"まあ、老朽!"
],
[
"おお寒ぶ。もう袷じゃのう、おっさん",
"なに、陽があがりゃ、そうでもない。今が、いちばんえい季節じゃ。暑うなし、寒うなし"
],
[
"なんせ、ひどい目をみたのう",
"はあ",
"若いものは、骨がやらこい(やわらかい)から、折れてもなおりが早い",
"骨じゃないんで。筋ともちがう。アキレス腱、いうんじゃがのう。骨よりも、むつかしいとこで",
"ほう、そんなら、なおいかん",
"でも、ひどい目にあわすつもりでしたんじゃないさかい。怪我じゃもん、しようがない",
"そんな目に おうても わかれの あいさつとは 気のえい こっちゃい。ゆんとん、さんじゃい"
],
[
"やっぱり、おなご先生じゃア",
"おなご せんせえ",
"おなごせんせが きたどォ"
],
[
"ありがとうございます。そのせつは、お米をいただいたりしまして、すみませんでした",
"いいえ、めっそうな。ほんの心もちで"
],
[
"そう、半年ぐらいしたら、のれるかもしれん",
"そんなら、これから、船でくるん?"
],
[
"これからは、だまってやこい行ったらいかんで。ちゃんと、そういうて行かにゃ",
"そういうたら、行かしてくれへんもん",
"そうじゃなァ、ほんにそのとおりじゃ。ちがいない"
],
[
"そうお、それで夕方はまた、送ってくれるの?",
"うん、なあ"
],
[
"そう、ありがとう、でも、困ったわ。もっと早くそれがわかってたらよかったのに、先生もう、学校やめたの",
"…………",
"今日は、だからお別れにきたの。さよなら、いいに",
"…………"
],
[
"さ、指きり、マアちゃんも泣かないでね",
"はい",
"コトやんも",
"はい",
"早苗さんも",
"はい"
],
[
"せんせえ――",
"また、おいでえ",
"足がなおったら、またおいでえ",
"やくそく したぞォ",
"や く そ く し た どォ"
],
[
"ほんまに、みんな、それぞれ、えい人ばっかりでのう",
"昔から、ひちむつかしい村じゃというけんどのう",
"そうよの。そんな村は、気心がわかったとなると、むちゃくちゃに人がようてのう",
"そんなもんじゃ"
],
[
"マアちゃんも、ミイさんも、百合の花の弁当箱買うたのに、うちもはよ買うておくれいの",
"よしよし",
"ほんまに、買うてよ",
"よしよし、買うてやるとも",
"百合の花のど",
"おお、百合なと菊なと",
"そんなら、はよチリリンヤへたのんでおくれいの",
"よしよし、そうあわてるない",
"ほたって、よしよしばっかりいうんじゃもん。マッちゃん、チリリンヤへいってこうか"
],
[
"お母さん、百合の花の弁当箱、ほんまに買うてよ。いつ買うてくれるん?",
"お母さんが、起きれたら",
"おきれたら、その日に、すぐに?",
"ああ、その日に"
],
[
"小石先生のこと、知っとん?",
"なに?"
],
[
"うん",
"うん",
"こがつくとこ。んがつくとこ。ぴがつくとこ。らがつくとこ",
"わかった、こんぴらまいり",
"そう"
],
[
"小石先生、も一ぺんあいたいもんなあ",
"うーん。いつかしらん、うどん、うまかったなあ"
],
[
"かけしようか、小石先生きとるか、きとらんか",
"しよう、なにかけるん?"
],
[
"すっぺ五つなら、まけてもええわ。うち、先生きーとる",
"うちも",
"うちも"
],
[
"先生、唱歌おしえてくれるん?",
"そう。唱歌だけじゃないわ。あんたたちの受けもちよ、こんど"
],
[
"先生、仁太、どうしてこなんだか?",
"あ、それ聞こう聞こうと思ってたの。どうしたの。病気?"
],
[
"そんなことうそよ。はなたらして落第なら、みんな一年生のとき落第したわ。病気かなんかで、たくさん休んだんでしょ",
"でも、男先生がそういうた。はなたれもしだいおくりというのに、仁太は四年生になってもはなたれがなおらんから、も一ぺん四年生だって"
],
[
"せんせ",
"なあに",
"あの、あの、うちのお母さん、女の子うんだ",
"あらそう、おめでとう。なんて名前?",
"あの、まだ名前ないん。おとつい生まれたんじゃもん。あした、あさって、しあさって"
],
[
"六日ざり(名付日)。こんど、わたしがすきな名前、考えるん",
"そう、もう考えついたの?",
"まだ。さっき考えよったん"
],
[
"はいはい。なんだかうれしそうね。なあに",
"あの、お母さんが起きられるようになったら、アルマイトの弁当箱、買ってくれるん。ふたに百合の花の絵がついとる、べんと箱"
],
[
"まだ、わからんの",
"ふーん。わかりなさいよ。ユリちゃんにしなさい。ユリコ? ユリエ? 先生、ユリエのほうがすきだわ。ユリコはこのごろたくさんあるから"
],
[
"うちのねね、ユリエって名前つけるん",
"ユリエ? ふうん、ユリコのほうが気がきいとら"
],
[
"いらん、そんなもん",
"たべられるのに、せんせ",
"いやだ、そんなもんたべたら、足や手にヒゲがはえるもの"
],
[
"先生、きのうマッちゃん家へ手紙をもっていったら、知らんよその小母さんがきとった。マッちゃんおりますか、いうたら、おりませんいうたん。しかたがないから、これマッちゃんにわたして、いうて、その小母さんにたのんできたん",
"そう、どうもありがとう。マッちゃんのお父さんは?",
"知らん。見えなんだ。――その小母さん、おしろいつけて、きれい着物きとった。マッちゃん家へ嫁にきたんとちがうかって、小ツルさんがいうんで"
],
[
"タンコ、一ぴきくれなァ",
"うちにも、くれなァ",
"わたしにもな",
"やくそくど"
],
[
"うそつけえ、蟹がうまいんは、やみ夜のこっちゃ",
"うそつけえ、月夜じゃないか",
"ああ聞いた、あ聞いた。月夜の蟹はやせて、うも(うまく)ないのに"
],
[
"ああ聞いた、あ聞いた。月夜の蟹がうまいのに。ためしに食うてみる、みんなくれ",
"いや、こんな川の蟹でわかるかい。海の蟹じゃのうて"
],
[
"せんせ、月夜の蟹とやみ夜の蟹と、どっちがおいしいん?",
"せんせ月夜じゃなあ"
],
[
"先生を馬鹿じゃとい",
"ほう、タンコは先生を馬鹿じゃとい"
],
[
"ほたって先生、それにゃわけがあるんじゃもん。月夜になるとな、蟹は馬鹿じゃせに、わがの影法師をお化けかと思ってびっくりして、やせるんじゃ。やみ夜になると、影法師がうつらんさかい、安心してみがつくんじゃど。だから、月夜は蟹が網にかかっても逃がしてやるんじゃないか。かすかすで、うまないもん。やみ夜までおくと、しこしこのみがついて、うまいんじゃ。ほんまじゃのに、せんせ。うそじゃ思うなら、ためしてみるとええ",
"じゃあ、みんなでためしましょうね"
],
[
"かわいそうに、これ先生がたべるの?",
"うん、約束じゃもん",
"逃がしてやりましょうよ",
"いや、約束じゃもん"
],
[
"じゃあこうしましょう。あとで小使さんにこれをにてもらい、今日の理科の時間に研究しようじゃないの。それから、蟹っていう題で綴方も書いてくるの",
"はーい",
"はーい"
],
[
"マッちゃん?",
"はい。マッちゃん、ゆうべの船で、大阪へいったん",
"ええっ"
],
[
"しんるいの家へ、子にいったん",
"まあ",
"そいで、マッちゃん家、おっさんと男の子と残ったん",
"そう、マッちゃん、うれしそうだった?"
],
[
"片岡先生が、警察にひっぱられた",
"えっ!"
],
[
"あかだっていうの",
"あか? どうして?",
"どうしてか、しらん",
"だって、片岡先生があか? どうして?",
"しらんわよ。わたしにきいたって"
],
[
"正直にやると馬鹿みるっちゅうことだ",
"なんのこと、それ。もっと先生らしく……"
],
[
"だから、正直者が馬鹿みるんですよ。そんなこと警察に聞かれたら、大石先生だってあかにせられるよ",
"あら、へんなの。だってわたし、『草の実』の中の綴方を、感心して、うちの組に読んで聞かしたりしたわ。『麦刈り』だの、『醤油屋の煙突』なんていうの、うまかった",
"あぶない、あぶない。あんたそれ(『草の実』)稲川くんにもらったの",
"ちがう。学校あておくってきたのを見たのよ"
],
[
"それ、今どこにある?",
"わたしの教室に",
"とってきてください"
],
[
"資本家は?",
"はーい"
],
[
"金もちのこと",
"ふーん。ま、それでいいとして、じゃあね、労働者は?",
"はい",
"はい",
"はーい"
],
[
"だって、宿屋にはとまらんのですよ。朝の船で出て、晩の船でもどってくるのに",
"でも、朝の船四時だもん、船ん中でねるでしょう",
"ねるかしら、たった二時間よ。みな、ねるどころでないでしょうに。それよりマスノさんは、どうしてゆかんの",
"風邪ひくといかんさかい",
"あれあれ、大事なひとり娘",
"そのかわり、旅行のお金、倍にして貯金してもらうん",
"そうお、貯金はまたできるから、旅行にやってって、いいなさいよ",
"でも、怪我するといかんさかい",
"あら、どうして。旅行すると、風邪ひいたり怪我したりするんなら、だれもいけないわ",
"みんな、やめたらええ",
"わあ、お話にならん"
],
[
"せんせ、富士子さん家、借銭が山のようにあって旅行どころじゃないん。あんな大きな家でも、もうすぐ借銭のかたにとられてしまうん。家ん中、もう、なんちゃ売るもんもないんで",
"そんなこと、いわんものよ"
],
[
"コトやん、いくいうた",
"ほんまかいや",
"ほんま、ばあやんがおってそういうたもん"
],
[
"一生に一ぺんのことじゃ、やってやりましょいな、こんなときこそ。いつも下子の子守りばっかりさして、苦労さしとるもん",
"そりゃ、うちの小ツも同じこっちゃ。しかし、なに着せてやるんぞな?",
"うちじゃあ、思いきって、セーラー買うてやろうと思う",
"はした金じゃ、買えまいがの",
"ま、そんなこといわんと、買うてやんなされ、下子も着るがいの",
"ふーん",
"早苗さんも、そうすることにしたぞな。小ツやんにもひとつ、ふんぱつしてあげるんじゃな",
"そうかいの。早苗さんも、のう。そうなると、小ツもじっとしておれんはずじゃ。やれやれ。そんならひとつ、貧乏質におこうか"
],
[
"姉やんの、きれいな着物に腰あげして着ていくか",
"…………",
"おまえだけ着物きていくのがいやなら、やめとけ。そのかわり、洋服を買おうや。どうする?",
"…………"
],
[
"なんだか、疲れましたの。ぞくぞくしてるの",
"あら、こまりましたね。お薬は?"
],
[
"清涼でないほうがいいのね。あつういウドンでも食べると……",
"そうよ。おつきあいするわ"
],
[
"字もうまいでないか、六年生にしちゃあ",
"そう、一ばんよくできるの。師範へいくつもりのようだけど、少しおとなしすぎる。あれで先生つとまるかな"
],
[
"だけど、おまえ、久子だって六年生ぐらいまでは口数のすくない、愛嬌のない子だったよ。それがまあ、このせつはどうして、口まめらしいもの",
"そうかしら、わたし、そんなに口八丁?",
"だって、教師が口が重たかったらこまるでないか",
"そうよ。だからわたし、この山石早苗という子が、教壇に立ってものがいえるかしらと、心配なの",
"じぶんのこと忘れて。久子だって人の前じゃろくに唱歌もうたえなかったじゃないか。それでもちゃんと、一人前になったもの",
"ふーん。そうだったわ。いま唱歌すきなの、もしかしたら子どものときの反動かな",
"ひとりっ子のはにかみもあったろうがね。そのはがきの子もひとりっ子かい",
"ううん。六人ぐらいのまん中よ。姉さんは赤十字の看護婦だそうよ。じぶんは先生になりたいって、それも綴方に書いてあるの。きいたって口ではいわないくせに、綴方だと、すごいこと書くのよ。これからは女も職業をもたなくては、うちのお母さんのように、つらい目をする、なんて、よっぽどつらい目をみてるらしいの",
"おまえと同じじゃないか",
"でもわたしは、小さいときからちゃんと人にもいってたわ。先生になる、先生になるって。山石早苗ときたら、何にもいやしない。いつでもみんなのうしろにかくれているみたいなくせに、書かせるとちゃんとしてるの",
"いろいろ、たちがあるよ。こうしてはがきをよこしたりするところ、なかなかうしろにかくれちゃいないから",
"そうなの。そして、小夜奈良なんだもの、おもしろい"
],
[
"先生、だれかな、あの子?",
"先生、あのうどんやと一家(親類)かな?"
],
[
"どんな約束? だれとしたの?",
"お母さんと。六年でやめるから、修学旅行もやってくれたん",
"あら、こまったわね。先生がたのみにいっても、その約束、やぶれん"
],
[
"こんどは敏江が本校にくるんです。わたしが高等科へきたら、晩ごはんたくもんがないから、こんどはわたしが飯たき番になるんです",
"まあ、そんなら今ごろは四年生の敏江さんがごはんたき?",
"はい",
"お母さん、やっぱり漁にいくの、まい日?",
"はい、大かた毎日"
],
[
"そのかわり、えいこともあるん。さらい年敏江が六年を卒業したら、こんどはわたしをお針屋へやってくれるん。そして十八になったら大阪へ奉公にいって、月給みんな、じぶんの着物買うん。うちのお母さんもそうしたん",
"そしてお嫁にゆくの?"
],
[
"ぼくは高等科で、卒業したら兵隊にいくまで漁師だ。兵隊にいったら、下士官になって、曹長ぐらいになるから、おぼえとけ",
"あら、下士官……"
],
[
"ぼく、あととりじゃないもん。それに漁師よりよっぽど下士官のほうがえいもん",
"ふーん。竹一さんは?",
"ぼくはあととりじゃけんど、ぼくじゃって軍人のほうが米屋よりえいもん",
"そうお、そうかな。ま、よく考えなさいね"
],
[
"うん、漁師や米屋のほうがすき",
"へえーん。どうして?",
"死ぬの、おしいもん",
"よわむしじゃなあ",
"そう、よわむし"
],
[
"おかあ、さん、ちょっと",
"はいよ"
],
[
"わたし、つくづく先生いやんなった。三月でやめよかしら",
"やめる? なんでまた",
"やめて一文菓子屋でもするほうがましよ。まい日まい日忠君愛国……",
"これッ",
"なんでお母さんは、わたしを教師なんぞにならしたの、ほんとに",
"ま、ひとのことにして、おまえだってすすんでなったじゃないか。お母さんの二の舞いふみたくないって。まったく老眼鏡かけてまで、ひとさまの裁縫はしたくないよ",
"そのほうがまだましよ。一年から六年まで、わたしはわたしなりに一生けんめいやったつもりよ。ところがどうでしょう。男の子ったら半分以上軍人志望なんだもの、いやんなった",
"とき世時節じゃないか。お前が一文菓子屋になって、戦争が終るならよかろうがなあ",
"よけい、いやだわたし。しかも、お母さんにこりもせず、船乗りのお婿さんもらったりして、損した。このごろみたいに防空演習ばっかりあると、船乗りの嫁さん、いのちちぢめるわ。あらしでもないのに、どかーんとやられて未亡人なんて、ごめんだ。そいって、今のうちに船乗りやめてもらおかしら。二人で百姓でもなんでもしてみせる。せっかく子どもが生まれるのに、わたしはわたしの子にわたしの二の舞いふませたくないもん。やめてもいいわね"
],
[
"まるで、なんもかもひとのせいのようにいう子だよ、おまえは。すきできてもらった婿どのでないか。お母さんこそ、文句いいたかったのに、あのとき。わたしの二の舞いふんだらどうしょうと思って。でも、久子が気に入りの人なら仕方がないとあきらめた。それを、なんじゃ、今さら",
"すきと船乗りはべつよ。とにかくわたし、先生はもういやですからね",
"ま、すきにしなされ。今は気が立ってるんだから",
"気なんか立っていないわ"
],
[
"そんなふうにいうもんじゃないわ、小ツやん。それより、マアちゃんどうしたの?",
"ふがわるいゆうて、休んどん",
"ふなんかわるないいうて、なぐさめてあげなさい、小ツやんも早苗さんも。それより、富士子さんどうした?",
"あ、それがなア、先生、びっくりぎょうてん、たぬきのちょうちんじゃ"
],
[
"タンコさんソンキさん、キッチンくんらに、よろしくね。気がむいたら、遊びにきなさいっていってね",
"先生、わたしらは?"
],
[
"つぎのバスで帰るんです。あと十分か十五分ぐらいだから、あがられんのです",
"あらそう。そのつぎにしたら?",
"そしたら、岬へつくのが暗うなる"
],
[
"竹一さん、中学いつから?",
"あさってです"
],
[
"磯吉さん、きのう学校休んだの?",
"いいえ、ぼくもう、学校へいかんのです"
],
[
"先生、ぼく、あしたの晩、大阪へ奉公にいきます。学校は主人が夜学へやってくれます",
"あらま、ちっとも知らなかった。きゅうにきまったの?",
"はい",
"何屋さん?",
"質屋です",
"おやまあ、あんた質屋さんになるの?",
"いえ、質屋の番頭です。兵隊までつとめたら、番頭になれるといいました"
],
[
"藪入りなんかでもどったときには、きっといらっしゃいね。先生、みんなの大きくなるのが見たいんだから。なんしろ、あんたたちは先生の教えはじめの、そして教えじまいの生徒だもん。仲よくしましょうね",
"はい"
],
[
"竹一さんもよ",
"はい"
],
[
"ほんとに、いつまでも寒いことですな",
"そうです。もう彼岸じゃというのに"
],
[
"お孫さんのですか?",
"はいな",
"わたしも、息子のを買うてきました"
],
[
"きょう日のように、なんでもかでもヤミヤミと、学校のカバンまでヤミじゃあ、こまりますな",
"銭さえありゃあなんでもかでもあるそうな。甘いぜんざいでも、ようかんでも、あるとこにゃ山のようにあるそうな"
],
[
"おじいさん、どちらですか",
"わしか。わしゃ岩が鼻でさ",
"そうですか。わたしは一本松",
"ああ一本松なあ。あっこにゃ、わしの船乗り朋輩があってな。もうとうの昔に死んだけんど、大石嘉吉という名前じゃが、あんたらもう、知るまい"
],
[
"ほう、こいつはめずらしい。そうかいな。今ごろ嘉吉つぁんの娘さんにあうとはなあ。そういや似たところがある",
"そうですか。父はわたしが三つのとき死にましたから、なんにもおぼえとりませんけど、小父さん、いつごろ父といっしょでしたの"
],
[
"それで、嘉吉つぁんの嫁さんは、おたっしゃかな",
"はあ、おかげさまで"
],
[
"えらいこっちゃ。あやってにこにこしよる若いもんを、わざわざ鉄砲の玉の的にするんじゃもんなあ",
"ほんとに",
"こんなこと、大きい声じゃいうこともできん。ゆうたらこれじゃ"
],
[
"そうよなあ、十八か、九かな。二人とも大望をもってな。あわよくば外国船に乗りこんで、メリケンへ渡ろうというんじゃ。シアトルにでも行ったとき、海にとびこんで泳ぎ渡ろうという算段よ",
"まあ。でも、昔はよくあったそうですね",
"あったとも。メリケンで一もうけしてというんじゃが、じつをいうと、徴兵がいやでなあ。――今ならこれじゃ"
],
[
"とうとう目的成就しなかったわけですか?",
"そういうわけじゃ。もっともそのころは、船に乗っとりさえしたら兵隊には行かいでもすんだからな。そのうち二人とも船乗りがすきになってな。同じ船乗りなら免状もちになろうというんで、これでも勉強したもんじゃ。学校へ行っとらんもんで、わしらは五年がかりでやっと乙一の運転手になったあ。嘉吉つぁんのほうが、一年はよう試験に通ってな、わしも、なにくそと思うて、あくる年にとったのに――"
],
[
"そして小父さん、いつごろまで船に乗っておいでたん?",
"十年ほどまえよ。ようやっとこんまい船の船長になってな。――息子は学校へやって苦労させずに船乗りにしてやろうと思うたら、船乗りはいやじゃときやがる。商業学校にやって、銀行の支店に出とったけんど、とられて、死んだ",
"とられてって、戦争ですか?",
"そういな",
"まあ",
"ノモハンさあ。これは、そいつのせがれので"
],
[
"母ちゃん、なかなか、もどらんさかい、ぼく泣きそうになった",
"そうかい",
"もう泣くかと思ったら、ブブーって鳴って、みたら母ちゃんが見えたん。手えふったのに、母ちゃんこっち見ないんだもん",
"そうかい。ごめん。母ちゃんうっかりしとった。大方、一本松忘れて、つっ走るとこじゃった",
"ふーん。なにうっかりしとったん?"
],
[
"わあ、これ、ランドセルウ? ちっちゃいな",
"ちっちゃくないよ。しょってごらん"
],
[
"雨がふったら、どうする?",
"そしたら、お父さんの合羽きる",
"風の強い日は、こまるでないか",
"…………",
"あ、心配しなさんな。風の日は歩いていくよ"
],
[
"大吉、つかれないかい。手に豆ができるかもしれんな",
"豆ができたって、すぐにかたまらァ ぼく、平気だ",
"ありがたいな。でも、明日からもっと早目に出かけようか",
"どうして?",
"先生の息子が、毎日ちこくじゃあ、なにがなんでもふがわるい。そのうちお母さんも、また自転車を手にいれる算段するけども",
"へっちゃらだあ。ちゃんと理由があると、叱られんもん。船で、おくったげる"
],
[
"うまいな、櫓押すの。やっぱり海べの子じゃな。いつのまにおぼえたん",
"ひとりで、おぼえるもん。六年生なら、だれじゃって押せる",
"そうかね。お母さんもおぼえよかな",
"そんなこと、ぼくがおくってあげる",
"そうそう、森岡正という子がいてな、一年生なのに、お母さんを舟でおくってあげるっていったことがあった。昔――。もう戦死したけんど",
"ふーん。教え子?",
"そう"
],
[
"聞いたよ。でも、とにかく戦争がすんでよかったじゃないの",
"まけても",
"うん、まけても。もうこれからは戦死する人はないもの。生きてる人はもどってくる",
"一億玉砕でなかった!",
"そう。なかって、よかったな",
"お母さん、泣かんの、まけても?",
"うん",
"お母さんはうれしいん?"
],
[
"みんな元気で、大きくなれよ。大吉も並木も八津も、大きくなって、おばあさんやお母さんを大事にしてあげるんだよ。それまでには戦争もすむだろうさ",
"えっ、戦争すむの。どうして?",
"こんな、病人まで引っぱりださにゃならんとこみると――"
],
[
"たいがい、せんせど、あれ",
"ほんな、おじぎしてみるか、そしたらわかる"
],
[
"川崎覚さん",
"ハイ",
"加部芳男さん",
"ハーイ",
"元気ね。みんな、はっきりお返事ができそうですね。加部芳男さんは、加部小ツルさんのきょうだい?"
],
[
"山本克彦さん",
"ハイ",
"森岡五郎さん",
"ハイ"
],
[
"片桐マコトさん",
"ハイ",
"あんた、コトエさんの家の子"
],
[
"ううん、大工さんは、おじいさん",
"あら、そうだったの"
],
[
"松江さんて、だあれ、姉さん?",
"ううん、お母さん。大阪におるん。洋服おくってくれたん"
],
[
"先生がまた岬へおいでるというのを聞いて、わたし、うれしくて涙が出ましたの。母子二代ですもの。こんなこと、めずらしいですわ、ほんとに。でも先生、お達者で、よろしかったこと",
"おかげさまで。でも、みんな、いろんな苦労をくぐりましたね"
],
[
"そう、でしたね。よく思いだしてくれたこと",
"そりゃあ忘れませんわ。ときどき思いだしては早苗さんと話していたんですもの。わたしらのクラスは、岬に学校がひらかれていらいの変わりものの寄り集まりらしいって。ほら、あのとき、先生とこまで歩いていったりして"
],
[
"雨や風の日は、舟はむりでしょう。自転車のほうが、かえって早いでしょうに",
"ええ、でもねミサ子さん、自転車なんて、きょう日は、買うに買えないでしょ。もしも買えるとしても、ふところが承知しない"
],
[
"早苗さんと、こないだ話したんですけど、わたしらのクラスだけで、先生の歓迎会をしようかって",
"まあうれしいこと。でも、歓迎していただくほど、わたしが役だちますかどうか。ここへくるまでは、昔のまま元気なつもりでしたのにね、きてみると泣けて泣けて。泣けることばかりが思いだされましてね……"
],
[
"しかしまあ、うれしいことですわ。クラスの人、何人いますの",
"男が二人、女が三人。でも女のほうは小ツルさんやマッちゃんも呼ぼうと、いってますの",
"マッちゃんて、川本松ちゃん?",
"え、ながいこと、どこにいたやらわからなかったのが、戦争中にひょっこり、もどってきたんですの。ほんのちょっと居ただけで、またどこかへ出てゆきましたけど、マスノさんが所を知ってるそうです。マッちゃん、きれいになって先生、みちがえそうでしたわ"
],
[
"それを、気のどくだと思わないの。死にたいということは、生きる道がほかにないということよ。かわいそうに。そう思わないの",
"そりゃ、思いますとも。かわいそうですわ。なんといったって同級生ですもの。でも、だいたい、わたしたちの組はふしあわせものが多いですね、先生。五人の男子のうち三人も戦死なんて、あるでしょうか"
],
[
"ちょっと、お墓へまいりましょうか、ミサ子さん",
"え、水もらっていきましょう"
],
[
"まあ、ノッポになったことミサ子さん。あんた一ばんちっちゃかったでしょう",
"いいえ、コトやんです。そのつぎがわたしでしたわ。……先生、コトやんの墓"
],
[
"なあ、君たち、こまったことができたんだけど、あさっての日曜日、お母さん用事ができたの。八津の年忌、一週間のばそうよ",
"いやっ",
"いやだっ"
],
[
"そう。こまったな。お母さんの昔の教え子がね、歓迎会をしてくれるというのよ。歓迎会って、よろこんでむかえてくれる会よ。それをことわるわけには、いかんだろ",
"いやっ。やくそくしたもん"
],
[
"じゃあね、これはどう。八津の年忌はのばすのよ。そして、あさっては本村へピクニックとしようや。お母さんの会は水月楼よ。ほら、香川マスノって生徒のやってる料理屋。そこで、歓迎会がすむまで、おまえたち、本村の八幡さまや観音さんで遊ぶといい。お弁当は、波止場ででも食べなさいよ。そうだ、釣竿もってって波止場で釣りしたっておもしろいよ。どう?",
"わあっ、うまい、うまい"
],
[
"おそろいでどちらへ?",
"ぴくにいくんです"
],
[
"お母さん、ぼくらのピクニックのほうが早くすんだらどうしよう",
"そしたら水月の下の浜で、石でも投げてあそんどればいい",
"本村の子が、いじめにきたら",
"ふん、並木もいじめかえしてやりゃあいい",
"ぼくらより強かったら",
"かいしょうのない、大きな声でわあわあ泣くといい",
"笑われらァ",
"そうだ、笑われらァ。泣き声がきこえたら、お母さんも水月の二階から手たたいて笑ってやらァ",
"お母さんの歓迎会、浜の見える部屋?",
"たぶんそうだろう?",
"そんならときどき顔出して見てなあ",
"よしよし、見て、手をふってあげる",
"そしたら、大石先生とこの子じゃと思うて、いじめんかもしれん"
],
[
"お母さん、もしも、雨降ってきたら、どうしようか?",
"あんぽんたん。二人で考えなさい"
],
[
"めずらしい顔?",
"一ぺんにあてたら、先生を信用するわ。な、ミサ子さん"
],
[
"ああこわい。信用されるかされないか、二つに一つのわかれ道ね。さてと、めずらしいといわれると、さしずめ、ああ、ふたりでしょう、富士子さんに松ちゃん?",
"わあ、どうしよう!"
],
[
"あたったの? 二人ともきたの?",
"いいえ、ひとりです。ひとり。あてて? わあ、もうわかったわ。いるんだもん"
],
[
"あ、先生、しばらくでした",
"七年ぶりよ",
"そうですな。こんなざまになりましてな"
]
] | 底本:「二十四の瞳」角川文庫、角川書店
1961(昭和36)年9月30日初版発行
1989(平成元)年7月10日66版発行
初出:「ニューエイジ」
1952(昭和27)年2月1日~11月1日
※誤植を疑った箇所を、「二十四の瞳」角川文庫、角川書店、2007(平成19)年6月25日改版初版発行の表記にそって、あらためました。
入力:sogo
校正:みきた
2018年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "057856",
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"初出": "「ニューエイジ」1952(昭和27)年2月1日~11月1日",
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"名": "栄",
"姓読み": "つぼい",
"名読み": "さかえ",
"姓読みソート用": "つほい",
"名読みソート用": "さかえ",
"姓ローマ字": "Tsuboi",
"名ローマ字": "Sakae",
"役割フラグ": "著者",
"生年月日": "1899-08-05",
"没年月日": "1967-06-23",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "二十四の瞳",
"底本出版社名1": "角川文庫、角川書店",
"底本初版発行年1": "1961(昭和36)年9月30日",
"入力に使用した版1": "1989(平成元)年7月10日66版",
"校正に使用した版1": "1994(平成6年)6月15日第75版",
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[
[
"そりゃそうさ。うちに生れたと思えばいいんだけどね、なかなかそうは思えないからね。",
"なぜ。",
"だって、どっちの子供さ。お母さんが生んだつもりになるのかい。それとも正子かね。",
"あら、失礼ね。"
],
[
"わかったよ、わかったよ、しかしね、がみがみいうのは本当は隔てがないからいうんだがね。分らないかなア。それにお前は俺だけが口やかましいようにいうけれど、お前だっていいかげんいってるよ。",
"そりゃあ私は自分のつながりですもの、聞く方も流せるのよ。そこへゆくとあなたは謂わば義理の中よ。",
"じょうだんじゃない。二十年も一しょに暮して、義理もへちまもあるかい、愛情なんてものはね、ぜったいにそんなものじゃないよ。もしも正子がそんなふうに考えてるなら、俺ア本当に怒るよ。"
],
[
"そんなことよりもさ、大へんなんだよ正子、その右坊という子がお前普通の子ならいいけれど、発育のおくれた、手のかかる子らしいよ。",
"いいわよ。",
"いいわよというがね、子育てなんて、そんな生やさしいことじゃないのよ。正子で身にしみたからね。",
"じゃあ、ことわるっていうの。",
"そんなわけには行きそうもないから、ためいきなんだよ。",
"そんなら仕方がないじゃないの。私、弟ができたと思って可愛がってやるわ。ご恩返しにね。",
"だれのご恩返しさ。",
"お母さんのよ。",
"あ、そりゃ有りがたい。そんなら正子に頼むわね。",
"大丈夫よ。夜も抱いてねるわよ。",
"やれやれ。",
"おしめの洗濯なんて、ぜったいにお母さんの手かりないわ。朝の中にちょこちょこっとすませるからいい。",
"ああ、ああ、かんたんだね。",
"大丈夫。だって私よりも若い人が子供うんでるもの。私は子供好きですもの、ほんとに大丈夫と思う。どこの赤ちゃんでもすぐ馴つくんだもの。",
"それでは万事正子に任せて、私はおばあちゃんてことになろうかね。",
"それでいいわ。私の年で二人くらいのお母さんの人もあってよ。"
],
[
"私たちは、ほんとに姪や甥の育てぶにがあるのね。",
"生めないんだから、それぐらいのことあってもいいのかもしれんな。",
"そうかもしれない。だけどこうして無理矢理――でもないけれどとにかく強引に背負わされてさ、さあ今日からお母さんだよと宣告されても、正直なところまだ愛情よりも不憫さの方が強い感じね。それが可哀そうだと思わない?",
"ふーん。",
"これがお母さんだよなんて、ずい分越権ですよ。"
],
[
"今に可愛くなるよ。よちよち歩き出したり、片言をいい出したりするようになれば、親子の情なんて自然に湧いてくるさ。",
"それはそうよ。私が辛がってるのは今の気持なの。この出発が哀しいのよ。愛情の中に迎えられていないということ。私なんて、ずい分薄情なんだわ。"
],
[
"どうだかね。とにかく嘘でない気持なのよ。私、この子を可愛いとはまだ思えないんだもの。――でも正子で助かるわ。正子は無条件らしいから。それでかんべんしてもらおう。",
"俺たちだって、何も条件なんかないぜ。",
"あ、そうだわ。そうね。正子じゃないけど、うちに生れたと思えばそれでいいんだわ。たとえ憎くたってそれでいいんだから。",
"そうさ、ぽかっと男の子が出来るなんていいよ。",
"あんたも正子も、まるで棚の上の牡丹餅ぐらいに考えてるのね。",
"そう考えた方が楽しいよ。",
"おんぶするのは私ですからね。",
"そう深刻に考えるなよ。"
],
[
"あしたから、私がするわ。",
"ありがとう。"
],
[
"あとでね正子、右文のおべべを縫うの手伝っておくれよ。何にも着がえもってないのよ。",
"あら、なんにも? 一枚も?",
"そう、これから仕度にとりかかるという季節だったから、無理もないさ。去年のものは駄目だもの。小さくて、その上スフや人絹だものね。",
"袷なの。",
"ああ、袷もじゅばんもよ。一つ身を又縫うなんてことがあろうとは、思わなかったね。",
"これも二十年ぶり?",
"そうとも。でもね、赤ん坊の着物ってものは……"
]
] | 底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社
1994(平成6)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「壺井栄全集 第五巻」筑摩書房
1968(昭和43)年9月
入力:大久保ゆう
校正:noriko saito
2018年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "058921",
"作品名": "一つ身の着物",
"作品名読み": "ひとつみのきもの",
"ソート用読み": "ひとつみのきもの",
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"名": "栄",
"姓読み": "つぼい",
"名読み": "さかえ",
"姓読みソート用": "つほい",
"名読みソート用": "さかえ",
"姓ローマ字": "Tsuboi",
"名ローマ字": "Sakae",
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"生年月日": "1899-08-05",
"没年月日": "1967-06-23",
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"校正に使用した版1": "1994(平成6)年8月25日第1刷",
"底本の親本名1": "壺井栄全集 第五巻",
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[
[
"彼の前では、うっかり涙もこぼせないんですもの。思いつきのうそばっかりならべ立てて気休め云って――",
"少しは病気のこと、気がついてるんじゃないのかね",
"つかない筈がないわ。でも気のつかないふりをしてるんじゃないかしら",
"ふーん",
"口がくさっても、云えないものね。本人ももしやと思っても口に出せないのね"
],
[
"おこられている間が花よ",
"うん"
],
[
"出向いて行っても、なんの役にも立ちはしないけんど",
"それでも、病人にとっちゃあ顔みるだけで、うれしいかもしれないわ。私らにはあいたがっているっていうから",
"しかしなあ、顔みりゃ見たで、彼もいろいろと、辛いんじゃないか。おれはそう思う",
"私も、そうは思うけど",
"だれにも会いたくないとは云っても、さてだれも見舞ってくれないとなると、さびしかろうしな",
"だから、私らだけでも、いってやらなくちゃあ"
],
[
"じゃあおれも一しょにいこう。そうだ、ついでに蜂蜜を持ってってやろうか。唇がひどくあれとったからな",
"それいいわ。りんご酢も少し持ってってみましょうか。蜂蜜とまぜたの、ひょっとしたらのめるかもしれないわよ。口あたりいいから"
],
[
"並川文吉と、並川元子が、手をつないで歩いている。人がみたらおかしいでしょうね",
"知らんよ、だれも",
"ただのふとっちょばあさんが、ただのやせっぽちじいさんにいたわられてるおかしさだけ?",
"…………",
"詩人の並川文吉くんも、作家の並川元子さんも、元気ないわね",
"そうかね",
"そうよ。ここで若い者にどうかなられるなんてことになると、逆さごとですからね。――私やあなたが病みつくにしろ、死ぬにしろ、それは巡儀だけれど"
],
[
"そうだよ。仕事も熱心だったしね",
"去年も今年も、二月二十日に花をもってきてくれたの、山形さんだけよ",
"二月二十日? 多喜二の日じゃないか",
"ほら、あんたでさえそれでしょう",
"ああ"
],
[
"実は、私も忘れてたんだ",
"…………",
"白のフリージヤを、うんともってきてくれたのよ"
],
[
"よく、知ってたわね",
"いやあ、ひろみに、いわれたんですよ"
],
[
"今、電話かけたのよ。そしたらもうつくころだって",
"わるいの?",
"うん。しゃっくりがついて、とまらないのよ。かわいそうで",
"そう"
],
[
"でも、よくお金があったわね",
"サラリーもらった、翌日でしたからね。でなかったら、そんな無茶しませんよ。でも、その翌日が大変でしたね。折悪しく日曜なんですね。二日酔で頭ががんがんしてるのを、無理やりたたき起されましてね。さ、出かけるのよ。昨日父ちゃんが無駄づかいしただけ、今日は私がつかうのよ。――デパートのお供ですよ。坊や抱かされて、六階から地下まで、ぐるぐるぐるぐると歩いて、三百円の鍋一つ買って帰ったんですよ。まいったな。これが女の無駄づかいか。哀れなもんだなって冷かしたら、彼女、にやにやしながら、はい! ってぼくの前に包み紙を投げてよこすんですよ。あけてみたら、二千円のセーターなんです"
],
[
"あんまりせきせき見舞っても、それが気になるとすると、遠慮した方がいいのかしら",
"どうかね",
"万一の時にあとへ思いが残っても、辛いしね",
"そうなんだ",
"ひろみだって、心細いでしょう"
],
[
"めがね、知らないかね",
"しってる、めがねぐらい",
"どこだ",
"それはしらない"
],
[
"親なんてものはかわいそうね。夢中で子育てをして、少しはらくも出来ようかという時にはもう子供らはそばにいない。子供をあてにはできないとつねづね覚悟はしていても、年よって、からだがいうこときかなくなると、子供をたよりたくなるらしいわね",
"次第おくりだ。仕方がないよ"
],
[
"もしかしたら、孫のめんどうを見るようなことになるかもしれないわ。私、その覚悟なのよ",
"そうだね",
"山形をみてると、とうていこの先、三年も五年も生きられるとは思えないでしょ。子供はやっと幼稚園と、赤ん坊",
"かわいそうだよ。あれもこれも",
"山形さんみてると、私のぜんそくなんて病気の中に入らないみたい",
"そうでもないよ。おとどしから、半分は病院じゃないか",
"でも、病室に机もちこんで、仕事のできる病人ですもの。私、もう入院なんてしないわ",
"そうはいっても発作が起きりゃ、ほっとけないよ",
"発作、おこさないことにするわ。とにかくこうなっちゃあ、われわれがしゃんとしていないと、総くずれよ",
"大げさにいうね",
"そう。私このごろ、少々迷信やになったのよ。二度あることは三度なんて",
"なにが",
"姉さんと、弟のことがあるでしょう。気になる"
],
[
"たった今、やっととまったのよ",
"よかったわね",
"でも、すぐまた――"
],
[
"つい、よけいなこといっちゃって",
"それがうるさいんだっ!"
],
[
"お茶!",
"はい"
],
[
"早く",
"はいはい"
],
[
"あついっ!",
"ごめんなさい",
"わかってるじゃないか",
"すみません、あの――"
],
[
"休んでるのに、昇給してくれた礼をいいますとね、なに、もうけてるんだから気にするなって――",
"よかったわね"
],
[
"今日は、まだいいことがあったのよ。おすしを食べたのよ",
"ええ!"
],
[
"鉄火が食べたいといいだしてね、取ったのよ。四つも食べたわ",
"大丈夫?"
],
[
"久しぶりに、固いめしをくいましたよ",
"そう。うまかった?",
"うまくはないですがね",
"いいの、急にそんなことして",
"大丈夫ですよ。医者はなに食ってもいいって、まるで匙なげた病人にいうようなこといってるから、食ってみたんですよ。うまくはないけど、その気になれば食えましたよ。アイスクリームもたべたし、紅茶も二はい、かな。三杯かな"
],
[
"なんだか心配よ。気をつけなさいよ",
"そうお",
"食慾が出てきたなんて思ったら、大まちがいよ",
"わかったわ"
],
[
"あんなにしゃべって、心配だな",
"そうなのよ",
"急にすし食ったりして、大丈夫かな",
"もう、しようがないわよ。すし食う前におかゆ食えっていっても、聞く男でもないしね",
"まあ、すきにさしとくんだね。さっき、医者が匙なげたとかなんとか云ってたじゃないか。やっぱり感じて、少々やけにもなっとるのかな",
"この調子じゃあ、こっちもいつまでもとぼけてるわけに、いかなくなるわね",
"そんなことで、ひろみにぽんぽん云ってるんだろ。おれたちにあたるわけにもいかずさ",
"でも、あのぽんぽんはいいわよ。本職の附添さんには云えないもの。ひろみをつけて、よかったと思う。どっちにとっても",
"うん",
"なんとか、ふたりだけの時を、少しでもながくしてやりたいわね",
"だがね、今日、社長がきてくれたことは、ほんとにうれしかったらしいよ。それで彼、少し希望が持ててきたんじゃないかな",
"そうお",
"君は詩が好きなんだから、詩の全集の企画でも考えて、それを提出しろだの、その仕事にはだれとか君が適任だから、それと組むといいとかな、いろいろ云ってくれたんだそうだ。そいつがひどくうれしかったらしい"
],
[
"お前たちが汁粉屋へいってるときさ、いろんな話をしだしてね",
"あらそう",
"彼は、出版の仕事について、今年でちょうど二十年になるんだってね",
"そう",
"仕事の面で、ぼくは仕合せだったって――",
"…………",
"いやな思いを一度もしなかったということは、ことにつきあった限りの詩人たちが、みんないい人だったわけだし、ぼくの目にも狂いがなかったということだと思って、うれしいんですよって",
"…………",
"ぼくはねおじいちゃん、自分では詩は一行も書きませんがね、とっても詩がすきなんです。ぼくに詩のことを教えたのは松山の高等学校の、一つ上のクラスの奴でしてね、お前、伊東静雄って知ってるかねって。伊東静雄はぼくの中学の先生だったんですよ。でも詩人であることを、ぼくは知らなかった。そのうち、学内運動で松山高校を追われましてね、上京したんですよ。伊東静雄の詩集をさがしましたね。その中、朔太郎との関係がわかってくる、朔太郎と犀星とのつながりがわかってくる。更におじいちゃんたちとも近づいた。――"
],
[
"東京堂へいくと、詩集がたくさんありましてね。そこで、ぼくが、最初に買ったのが、貘さんの詩集なんですよ。山之口貘。――って、感慨ぶかそうにいうんだよ",
"そう",
"貘さんの癌と、なにか因縁でもありそうにいうんだな。それきりだまりこんでたね。おれもだまってた。しかし、なんにも云わんところに、やっぱり、なにか、思いがこもってたね",
"…………",
"それで、しばらくしてからぼそっとつぶやくんだ。たばこが、このごろ、うまくなりましてね――"
],
[
"壮ちゃんはお兄ちゃんだもん、いい子よね",
"…………",
"いい子だから、ごほうびに、いいもの、あーげる。なんだ"
],
[
"ああ、それで千咲ちゃん、ごきげんななめだったのね",
"そうなんですよ。あいにくと、ちょうど、ねんねしかかっていたところでしたの",
"そうですか。わるいところへきましたわね",
"いいえ。でもね、感心してますんですよ。ふたりとも、おとなしくしてましてね。いまはご本をみてさわぎましたけど、いちにち、むりもいわずに、じっとして、このばばと一しょに、家の中にいるんですからね"
],
[
"あのう、千咲ちゃんだけでも、私の方でお預りしましょうか",
"いいえ、せめて子供のめんどうぐらいは私がみますから、どうぞもう。さ、千咲ちゃん、おねんねしましょ"
],
[
"葉っぱじゃないよ、かえるだよ",
"蛙じゃないよ、あひるだよ",
"六月六日に 雨ざあざあ ふってェ",
"三角じょうぎに ヒビいってェ",
"あんパン二つ 豆 三つウ",
"コッペパン二つ くださいな"
],
[
"ね、千咲ちゃんが、またおきるじゃないの",
"おきたって、い、い、よ"
],
[
"いこうよ。そして、太郎兄ちゃんと一しょに、ねるのよ",
"…………",
"太郎兄ちゃんに、壮一は、アパート建ててもらうんだって"
],
[
"じゃあさ、泊りにいって、ついでにそれも、たのんでこよう",
"いやだァ",
"なぜ",
"あんな大きな家、お掃除に困るんだって",
"だれがいったの",
"お父ちゃん",
"へえ",
"お父ちゃん、団地、きらいだってさ",
"そう。どうしてかしら",
"あのね、お花やね、植木やね、植えられないんだって",
"そう",
"だからぼく、もう団地、いいんだ。だって、お父ちゃん病気で、かわいそうだもん",
"…………"
],
[
"さ、今度は壮ちゃんよ。おしっこして、おねまききかえて――",
"はーい"
]
] | 底本:「現代日本文學大系 59 前田河廣一郎 伊藤永之介 徳永直 壺井榮集」筑摩書房
1973(昭和48)年5月21日初版第1刷発行
1980(昭和55)年3月15日初版第9刷発行
初出:「群像」
1963(昭和38)年11月
入力:芝裕久
校正:入江幹夫
2022年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "060072",
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[
[
"あんまりだワ、『ヴィクトル、アレクサンドルイチ』、今別れたらまたいつ逢われるかしれないのだから、なんとか一ト言ぐらい言ッたッてよさそうなものだ、何とか一ト言ぐらい……",
"どういえばいいというんだ?",
"どういえばいいかしらないけれど……そんなこたア百も承知しているくせに……モウ今が別れだというのに一ト言も……あんまりだからいい!",
"おかしなことをいうやつだな! どういえばいいというんだ?",
"何とか一ト言くらい……"
]
] | 底本:「日本文学全集1 坪内逍遥・二葉亭四迷集」集英社
1969(昭和44)年12月25日初版
入力:j.utiyama
校正:八巻美恵
1998年7月28日公開
2006年1月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"作品ID": "000005",
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"名読み": "イワン",
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"名読みソート用": "いわん",
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"生年月日": "1818-11-09",
"没年月日": "1883-09-03",
"人物著作権フラグ": "なし",
"底本名1": "日本文学全集1 坪内逍遥・二葉亭四迷集",
"底本出版社名1": "集英社",
"底本初版発行年1": "1969(昭和44)年12月25日",
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[
"それはまた、どうしてね?",
"しごく簡単ですよ。僕は十八の年に初めて、あるとても可愛らしいお嬢さんのあとを追い回しました。ところが、その追いまわし方というのが、こんなこと僕にはさっぱり新しくも珍しくもない、といった風だったのですよ。ちょうど、あとになっていろんな女を口説いた時と、まるっきり同じだったわけです。実を言うと、僕が最初にして最後の恋をしたのは、六つの頃で、相手は自分の乳母でしたが、――なにぶんこれは大昔のことです。二人の間にあったことの細かしい点は、僕の記憶から消えうせていますし、またよしんば覚えているにしたところで、そんなことを、誰が面白がるでしょう?"
],
[
"失礼ですが、ザセーキナ公爵夫人でいらっしゃいますか?",
"ええ、わたしがザセーキナ公爵夫人です。あなたはVさんの御子息でいらっしゃるの?",
"そのとおりです。わたしは母の使いで参りました",
"さあ、お掛けなさいな。ヴォニファーチイ! わたしの鍵はどこ、お前見なかったかい?"
],
[
"で御父称は?",
"ペトローヴィチです",
"まあ! わたしの知合いに警察署長をしている方がありましたが、その人もやっぱりヴラジーミル・ペトローヴィチでしたっけ。ヴォニファーチイ! 鍵は捜さなくってもいいよ。ちゃんとわたしのポケットにあったから"
],
[
"いいえ、ちっとも",
"じゃ、毛糸をほどくお手伝いをして下さらないこと? こっちへいらっしゃいな、あたしの部屋へ"
],
[
"でも僕、そんなに長居したかい?",
"一時間の余になります"
],
[
"それが成っていないの",
"ふん。まあ、そんなことはどうでもいい。君は今、あの人の娘さんも招待したとか言ったね。誰かが言っていたっけが、とても可愛らしい、教育のある娘だそうじゃないか",
"へえ! じゃその娘さん、お母さんに似なかったわけですのね"
],
[
"お嬢さんです",
"はて、お前あの人を知ってるのかい?",
"けさ公爵夫人の所で会ったんです"
],
[
"ええ、ありがたいことにね!",
"もちろん、ありがたいことには違いないが……だが、それでどうしてあれらのことを、とやかく言えるのかね?"
],
[
"なんです?",
"意志だよ、自分自身の意志だよ。これは、権力までも与えてくれる。自由よりもっと貴い権力をね。欲する――ということができたら、自由にもなれるし、上に立つこともできるのだ"
],
[
"わたしがあの人を愛してると、あなた思っているのじゃない? 違うわ。わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃならないような人は、好きになれないの。わたしの欲しいのは、向うでこっちを征服してくれるような人。……でもね、そんな人にぶつかりっこはないわ、ありがたいことにね! わたし、誰の手にもひっかかりはしないわ、イイーだ",
"すると、決して恋をしないというわけですね"
],
[
"わからないって? そりゃますますいかん。僕は義務として、一言君に注意します。我々甲羅をへた独身ものは、ここへ来ても、さしつかえない。なんのことがあるものですか? 我々は鍛錬ができてるからびくともしないです。ところが君は、まだ皮膚が弱い。ここの空気は、君には毒ですよ――ほんとですとも、うっかりすると伝染しますぞ?",
"どうしてです?",
"どうもこうもあったものですか。いったい君は、いま健康ですか? 果してノーマルな状態にありますか? 君がいま感じていることは、君のためになりますか、いいことですか?"
],
[
"やったら、どうなるとおっしゃるの?",
"なんですって? 風邪を引いて、死ぬかもしれませんよ",
"ほんと? まさか? でも、かまやしない――それが当然だわ!"
],
[
"でも、よくって、牛みたいなのろくさしたのだったら、願い下げよ。よく申上げときますけど、わたしはギャロップで飛ばしたいのよ",
"ギャロップも結構でしょう。……でもそれは、マレーフスキイとですか? え、誰となんですか?"
],
[
"いいえ、愛してちょうだい。けれど、前のようにではなしにね",
"というと?"
],
[
"閉じ込めるです",
"で、ご自分も一緒にいるんでしょうね?",
"自分も、必ず一緒にいます",
"結構だわ。でももし、お嫁さんがそれに飽きて、あなたを裏切るようなことをしたら?",
"殺してしまうです",
"でも、お嫁さんが逃げだしたら?",
"追っかけて捕まえて、やはり殺してしまうです",
"そう。でもね、かりにこのわたしが、あなたのお嫁さんだったとしたら、どうなすって?"
],
[
"いないの。でも、ちょっと待って――やっぱり、いるわ",
"みんな不器量なんですね?",
"すばらしい美人ぞろい。でもね、男はみんな、女王に恋してるの。女王は背が高くて、すらりといい姿で、真っ黒な髪のうえに、小さな金の王冠を載せているの"
],
[
"それは、どういう意味です?",
"どういう意味? 僕は、はっきり言っているはずですがね。昼も――夜も、ですよ。昼間はまあ、なんとかなるでしょう。日の目はあるし、人目もありますからね。ところが夜というやつは、とかく災いの起りがちなものでね。まあ悪いことは言わないから、夜ぐうぐう寝てないで、一生けんめい大きな眼をあけて、見張りをするんですね。ほら、覚えているでしょう――庭、夜なか、噴水のほとり――そういう場所で待ち伏せるんですな。いまに君は、僕にありがとうを言うでしょうよ"
],
[
"ほんとに、わたし、そんな女じゃないの。わたし知っててよ、あなたがわたしのことを、悪く思ってらっしゃることぐらい",
"僕が?",
"そう、あなたが……あなたがよ"
],
[
"なんですか? 聞きませんが",
"ゆくえ不明なんです。カフカーズへ行ったという話だが、君みたいな若い人には、全くいい教訓ですな。要するに、潮時を見て引揚げること、網を破って抜け出すことが、できないからですよ。君はどうやら、無事に逃げ出したらしいが、また網に引っかからないように用心しなさいよ。じゃ、さようなら"
],
[
"ついて行けますよ。僕も拍車をつけるから",
"ふむ、まあいいだろう"
],
[
"ドーリスカヤ夫人というと?",
"おや、君は忘れたんですか? もとのザセーキナ公爵令嬢ですよ。みんなでてんでに恋していた……いや、君だってそうでしたね。覚えてるでしょう、あのネスクーチヌィ公園のそばの別荘で、ね?",
"あのひとが、ドーリスキイとやらの奥さんになったんですか?",
"そう",
"で、あの人がここに来てるんですか、この劇場に?",
"いや、ペテルブルグに来てるんですよ。二、三日前にやって来たんです。外国へ発つつもりらしい"
]
] | 底本:「はつ恋」新潮文庫、新潮社
1952(昭和27)年12月25日発行
1987(昭和62)年1月30日73刷改版
1997(平成9)年5月25日92刷
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
入力:松永佳代
校正:阿部哲也
2011年9月28日作成
2013年1月4日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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"では左様なら!",
"いや、伯父さん、貴方は結婚しない前だって一度も来て下すったことはないじゃありませんか。何故今になってそれを来て下さらない理由にするんですよ?"
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"踏み車や救貧法も十分に活用されていますか。",
"両方とも盛に活動していますよ。"
],
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"貴方は誰ですか?",
"誰であったかと訊いて貰いたいね。"
],
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"出来るよ。",
"じゃ、お掛けなさい。"
],
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"ヂン、ドン!",
"三十分過ぎ!",
"ヂン、ドン!"
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[
"変っているとでも云うのかね。",
"私達二人の約束はもう古いものです。二人とも貧乏で、しかも二人が辛抱して稼いで、何日か二人の世間的運命を開拓する日の来るまでは、それに満足していた時分に、その約束は出来たものですよ。貴方は変りました。その約束をした時分は、貴方は全然別の人でしたよ。"
],
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"私がこれまで一度でも破約を求めたことでもあるのか。",
"口ではね。いいえ、そりゃありませんわ。",
"じゃ、何で求めたのだ?"
],
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"誰ですか。",
"中てて御覧。"
],
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"親切に出される御馳走なら、どんな御馳走にも適うのじゃ、貧しい御馳走には特に適うんだね。",
"何故貧しい御馳走に特に適うので御座いますか。",
"そう云う御馳走は別けてもそれが入用じゃからね。"
],
[
"聖降誕祭の季節なら、これが順当でしょう。時に貴方は氷滑りをなさいませんでしたかね。",
"いえ、いいえ。まだ他に考えることがありますからね。左様なら!"
],
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"私達はすっかり身代限りですね?",
"いや、まだ望みはあるんだ、キャロラインよ。"
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"昨宵お前に話したあの生酔いの女が私に云ったことね、それ、私があの人に会って、一週間の延期を頼もうとした時にさ。それを私は単に私に会いたくない口実だと思ったんだが、それはまったく真実のことだったんだね。ただ病気が重いと云うだけじゃなかったんだ、その時はもう死にかけていたんだよ。",
"それで私達の借金は誰の手に移されるんでしょうね?",
"そりゃ分からないよ。だが、それまでには、こちらも金子の用意が出来るだろうよ。たとい出来ないにしても、あの人の後嗣がまたあんな無慈悲な債権者だとすれば、よっぽど運が悪いと云うものさ。何しろ今夜は心配なしにゆっくりと眠られるよ、キャロライン!"
]
] | 底本:「クリスマス・カロル」岩波文庫、岩波書店
1929(昭和4)年4月20日発行
1936(昭和11)年1月10日第10刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「惘れ→あきれ、彼処→あそこ、恰→あたか、窖→あなぐら、或→ある、吩咐け→いいつけ、雖も→いえども、如何→いか、如何→いかが、幾許→いくら、何時→いつ、毎→いつ、愈々→いよいよ、吋→インチ、泛ぶ→うかぶ、恭々しい→うやうやしい、笑靨→えくぼ、於て→おいて、晩い→おそい、彼処→かしこ、且→かつ、嘗て→かつて、廉→かど、屹度→きっと、擽られ→くすぐられ、此奴→こいつ、踰える→こえる、此処→ここ、悉く→ことごとく、此の→この、是迄→これまで、嘸→さぞ、薩張り→さっぱり、逍遥い→さまよい、併し→しかし、直き→じき、蔵う→しまう、志→シリング、殿→しんがり、掬う→すくう、即ち→すなわち、凡て→すべて、其奴→そいつ、其処→そこ、謗る→そしる、哮り→たけり、慥か→たしか、但し→ただし、忽ち→たちまち、恃んで→たのんで、些っとも→ちっとも、恰度→ちょうど、就て→ついて、就いて→ついて、即いて→ついて、突慳貪→つっけんどん、兎ある→とある、何奴→どいつ、何処→どこ、処→ところ、迚も→とても、兎に角→とにかく、乍併→ながらしかし、何卒→なにとぞ、成程→なるほど、成る程→なるほど、蔓って→はびこって、疾い→はやい、夙く→はやく、汎く→ひろく、変梃→へんてこ、殆ど→ほとんど、磅→ポンド、真逆→まさか、益々→ますます、又→また、亦→また、真個→まったく、迄→まで、侭→まま、見窄らしい→みすぼらしい、寧ろ→むしろ、簇って→むらがって、齎して→もたらして、勿論→もちろん、尤も→もっとも、八釜しい→やかましい、窶れ→やつれ、稍→やや、寛く→ゆるく、宥して→ゆるして、寛やか→ゆるやか、余つ程→よっぽど、余程→よほど、蹌け→よろけ」
以下は、章の初出にルビを補いました。
「廉《やす》い、廉《やす》くて、倫敦《ロンドン》、西班牙《スペイン》、襯衣《シャツ》」
※疑問点への対処にあたっては、改版された1938(昭和13)年2月5日13刷を参照しました。
入力:大久保ゆう
校正:松永正敏
2002年12月22日作成
2022年1月28日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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